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日野俊光 文応元(1260)~嘉暦元(1326)年5月15日 父は日野資宣、母は賀茂神主能継の娘。文章博士から蔵人・弁官に任ず。四位の弁官であるときに伝奏になったというから、『中世朝廷訴訟制の研究』の本文では見落としてしまったが、親政を行なっていた伏見天皇の伝奏だったことになる。永仁三(1295)年に参議。翌々年権中納言。伏見院政下でも引き続き伝奏を務め、皇統が大覚寺統に移った正安三(1301)年に官を辞す。この後は伏見上皇の執権として働いたようで、まさに彼は上皇の股肱の臣であった。延慶元(1308)年、伏見院政の再開とともに再び伝奏に任じ、文保元(1317)年六月には権大納言に進んでいる。同年九月、伏見上皇が没すると問もなく辞任。この後は後伏見上皇に仕え、終生持明院統のために働いた。 (本郷和人)
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姉小路顕朝 建暦二(1212)~文永三(1268)年9月20日 父は参議姉小路宗房、母は左京大夫藤原清長の娘。父はなぜか一年で参議を辞して散位になってしまったが、彼の家は代々権中納言に進む名門であった。父の没後、暦仁元(1238)年に右少弁に。このころ九条道家に仕えている。宝治二(1248)年に参議に列し、二年後には権中納言。後嵯峨上皇に仕えて認められ、伝奏を務めるようになる。朝廷がもっとも頭を痛めた山門関係の事件は、専ら顕朝が管掌したようである。正嘉二(1258)年、二条定高女との問に生まれた忠方を右少弁に推すために権中納言を辞任。しかし後嵯峨上皇は顕朝を按察使に任じ、以前と同様に厚く遇した。弘長二(1262)年、中納言に還任。文永二(1265)年、権大納言に進む。この地位は鎌倉時代中期の実務公卿たちが等しく渇望しながら遂に昇り得なかったもので、後嵯峨上皇がいかに顕朝を信任していたかが分かるだろう。翌年病を得、職を辞し、出家して没す。 むろん権大納言への昇進自体がたいへんな恩典なのだから、同職を辞す時には子息等を挙任することはできなかった。顕朝は後嵯峨上皇の第一の側近というべき人なのだが、この時期の記録があまりないので注目されてこなかった。彼の家が次代で絶え、家の文書も焼失してしまったのが惜しまれる。 (本郷和人)
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葉室定嗣 承元二(1208)~文永九(1272)年6月26日 父は葉室光親、母は参議藤原定経の娘で、順徳上皇の乳母の経子。父母共に承久の乱と深いかかわりをもった人であった。同母兄光俊は、朝廷に関東の威を恐れる風潮があったためか、右大弁で官を辞し、以後は歌人としてのみ活動している。一方定嗣は九条道家、二条良実に仕え、仁治三(1242)年に参議。後嵯峨上皇にも厚く用いられ、院中執権を務め、吉田為経とともに伝奏に起用された。宝治二(1248)年には権中納言に昇る。光俊の行跡と比べ考えるに、定嗣は抜群の才能を有した官人だったのではないか。光俊の子高定(のち高雅)を養子に迎え、彼を右少弁に任じるために建長二(1250)年に辞任。知行国河内国も高定に譲り、出家して法名を定然といった。ところが正嘉元(1257)年ごろ、定嗣と高定は不和になる(1)。光俊が父権を主張し、高定も実父に与同したからである。後嵯峨上皇は高定を非とし、定嗣からうけつがれた伝奏の任を解いた。定嗣は上皇の措置に深く感謝したが(2)、このために彼の一流は後継者を失ったのである。 『経俊卿記』正嘉元年七月十一日 『経俊卿記』正嘉元年九月四日 (本郷和人) 朝日 日本歴史人物事典
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亀山天皇 建長1.5.27(1249)~嘉元3.9.15(1305) 鎌倉中期の天皇。名は恒仁/つねひと。父は後嵯峨天皇、母は西園寺実氏の娘の大宮院(藤原/きつし)。先代後深草天皇は同母兄。父母は病弱な兄よりも恒仁を愛し,彼に皇位を伝えたいと考えていた。ために正嘉2(1258)年,兄後深草の東宮に立ち,翌年に即位した。ただし当時の実権は父の後嵯峨上皇が一手に掌握していたため,政治的にはみるべきものがない。文永5(1268)年,皇子世仁/よひと親王を東宮とする。同9年に後嵯峨が没すると,兄をさしおいて「治天の君」となり天皇親政を開始,2年後東宮(後宇多天皇)に譲位して院政を行った。この時点では,皇統は完全に亀山の子孫(大覚寺統)に受け継がれるかにみえた。しかし後深草上皇は皇位回復をあきらめず,くり返し鎌倉幕府に働きかけてその後援をとりつけた。建治1(1275)年,幕府の提言により後深草上皇の皇子煕仁/ひろひと親王が皇太子に立った。これは近い将来,皇位が後深草の側(持明院統)に移ることを意味する。持明院統,大覚寺統の両統の迭立は,厳密にはこのときに始まる。またこのころ,摂政鷹司兼平が大きな政治力を持ち,亀山の地位を脅かすまでになった。煕仁親王立太子の一件で,幕府は間接的にせよ亀山を支持しなかった。このことと兼平の台頭とは一定の関係があると想像できる。 やがて亀山は朝政を積極的に主導することによって劣勢を挽回しようとし,やつぎ早に改革を行っていく。腹臣の伝奏/てんそう,評定衆の発言権を強化することによって兼平から実権を奪い,有能な下級官人を文殿衆/ふどのしゆうとして編成して彼らにも実務を担当させた。また『弘安礼節』を制定して廷臣や大社寺の間に秩序を確立し,弘安8(1285)年には朝廷初の本格的な訴訟の法20カ条を制定した。こうした動きは「徳政/とくせいの興行」と呼ばれ歓迎されたが,結局同10年,幕府の意向で伏見天皇が即位し,皇位も実権も持明院統に移る。失意の上皇は2年後に出家し,なおも大覚寺統への皇位の回復に尽力した。離宮亀山殿に没した。陵は京都の亀山陵。(本郷和人) 『日本歴史人物事典』(朝日新聞社)より
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何進(字:遂高) かしん蒼天何進 何皇后 かこうごう蒼天何后 蹇朔 けんさく 蹇碩 けんせき蒼天蹇碩 亶公 ぜんこう 張譲 ちょうじょう蒼天張譲 何進(字:遂高) かしん 生没:?~189年 本貫:南陽郡宛 官:大将軍 もともと屠殺業を営んでいたが、妹が宮中に入り、ときの皇帝劉宏(霊帝)の寵愛を受けたため、玉の輿のお相伴に預かった。 皇帝の寵姫の兄として順調に出世街道を歩み、黄巾の乱のおり、大将軍という最高官位に登り詰める。 その後も、外戚として宮中に重きをなしていたようだが、実際のところ、朝廷は宦官らが牛耳っており、彼自身にはそれほどの実権は無かったようだ。 それもあってか、何進は黄巾の後、急速に旧「清流」を汲む政閥に接近する。 どうにも成り上がりのバカ大将という印象の強い何進だが、清流人士の旗頭たるべく努力はしていたようで、袁紹・袁術兄弟を中心に、許攸、何顒、逢紀、荀攸ら鬼謀の士を幕僚に迎え、何進の幕府は俄に、清流党人の総本山の様相を呈していた。 清流派人士と協調して宦官勢力と対峙した外戚としては、党錮のおり陳蕃とともに闘死した大将軍竇武の例がある。何進も、カタチとしては清流派の英雄・竇武と似通った位置にあった。ひょっとしたら何進も、第二の竇武たらんと志を高く持っていたかもしれない。 ここにきて、宦官の中に蹇碩という特異な存在が顕れる。宦官のくせに骨柄雄偉で武略に優れ、皇帝の個人的な親愛を受けて西園八校尉の元帥に昇り、何進をも指揮下に納めるほどの軍権を手にしていた。彼は何進の甥の劉弁皇子ではなく、別腹の劉協皇子を擁し、何一族にとって最大の政敵、董太后(皇帝の生母)と同盟し、明確な「反何進派」を形成していた。 そんなさなか、皇帝劉宏がにわかに崩御。宦官蹇碩は、劉協皇子を新帝に立てるべく、先手をうって何進一族の誅滅に乗り出す。 が、蹇碩は巻き添えを恐れた宦官仲間たちに売られた。何進は予定のルートを通らずに朝廷に入り、甥の劉弁皇子を擁立して新帝とした。 ほどなく、蹇碩は逆に何進の手によって逮捕され、処断されてしまう。 無事に新帝が立ち、政敵蹇碩が除かれたものの、宮廷は相変わらず宦官たちの天下であった。 袁紹は、蹇碩を葬った勢いに乗じて、他の宦官達をも皆殺しにするよう何進に進言。何進もそれに同意するも、これには、宦官とズブズブの何皇后、弟の何苗が反発。おなじ何家の兄妹どうしながら、泥沼の政争に発展した。 何太后と何苗の説得を諦めた何進は、こともあろうに、天下の諸侯の兵力を掻き集めて宮廷を包囲し、軍事的な圧力をかけるという、とんでも無くアホな企画を実行してしまった。この愚策の立案者は袁紹であると言われ、さらに袁紹が勝手に実行したとも言われる。 いずれにせよ、洛陽周辺には、各方面から呼び集められた地方実力者らの軍隊が、続々と集まっていた。董卓の軍団も、その中の一つである。 そんななか、再三袁紹らが諫めたにもかかわらず、何進は愚かにも単身、宮中に参内してしまった。城外の連合軍の存在もあって、まさか己が害されることはあるまい、と高をくくっていたのかもしれない。 が、その機会を待っていた宦官らによって、じつにあっさりと殺害されてしまった。 何進は単身ではどうにも阿呆だったが、将器は備わっており、将兵たちには強く慕われていた。何進が可愛がっていた呉匡(蜀将・呉班の父)などは、何進が殺されたと知るや、ただちに仇討ちの部隊を組織。兵士らも涙を浮かべてそれに従ったという。そして呉匡隊は、宦官どもではなく、袁紹隊と共に宦官を殺戮していた何進の弟・何苗の部隊を襲撃した。何進が死んだのは何苗のせいである、と唆されたからである。不意を打たれた何苗は、為すすべもなく惨殺される。 ちなみにそう唆したのは袁紹または袁術であると言われ、まっさきに協力したのは董卓の弟・董旻である。 蒼天何進 見るからに出自の卑しそうな人相で登場。また成り上がり者らしく高慢・狭量なキャラクターとして描かれており、名門の袁紹を側近と恃み、逆に曹操を「宦官の孫」として卑しんでいたようだ。 とはいえ、袁紹ら清流派人士の旗頭として、一党を形成していた。宮中に細作をバラ撒き、内通者を確保する程度には権謀をわきまえており、皇帝崩御の報を、蹇碩の放った偽の勅使に先んじて入手している。 袁紹発案による、諸侯の軍事力をもって皇太后を締め上げるという作戦については、董卓や李儒から「想像以上に卑しい男」と嘲笑されている。 その諸侯の軍事力に慢心したか、皇太后の呼び出しという知らせにホイホイ付いていき、宮中で宦官らに取り囲まれ、数十本の剣を突き立てられて死んだ。 ちなみに、遙か後に「蒼天航路」にも登場する奇才・何晏は、この何進の孫である。 何皇后 かこうごう 生没:?~189年 本貫:南陽郡宛 官:皇太后 名前は不明。もともと屠殺屋の娘。何進から見て異母妹にあたる(父の後妻の子)。また彼女の妹は、大宦官・張譲の息子(養子?)に嫁いでいる。 よほど美人で名高かったのだろう。評判を聞きつけた同郷の宦官・郭勝(十常侍)が、おそらく宮中での権勢を得る手駒としてスカウトし、後宮入りさせたようだ。この後、郭勝は何兄妹の庇護者として何一族の面倒を見てやっている。また蹇碩による何進謀殺の案が持ち上がったとき、何進一派にそれを通報したのもこの男であるが、結局袁紹の宦官皆殺しの際に殺されたと思われる。 もっとも、何氏が郭勝にスカウトされたのではなく、逆に何氏が役人に賄賂を送って自らを売り込んだという説もある。 いずれにせよ、彼女には天性の傾国の質があったのだろう。たちまちライバルを押し退けて皇帝の寵愛を受け、皇子(劉弁)を産んだ。さらには宋皇后が廃されて後、皇后にまで登り詰める。 この宋皇后の廃立は、宦官勢力の讒言によるもので、一族や縁者も一斉に処分された(ちなみに当時23才だった曹操も、遠縁にあたるため巻き添えを喰らい、免職されている)。また嫉妬ぶかく性酷薄でもあり、自分の他に男子を産んだ后を毒殺している。 このようにガッチリと宦官に護られて皇后になったため、当然ながら宦官勢力の意のままに動く傀儡であった。 にもかかわらず、異母兄何進は清流派の士人と徒党を組み、宦官撲滅活動などを展開しているのだから、彼女にとっては冷笑するしかなく、兄というより政敵の一人というべき存在に映っていたであろう。 皇帝劉宏の死後は、実子劉弁が皇帝に即位(少帝)し、自らは皇太后・摂政となって朝政に臨む。彼女が摂政となって最初にやったことは、宿敵であった姑・長楽太后(霊帝の母・董太皇太后)勢力を朝廷から一掃することだった。程なく長楽太后は病死しており、何太后や宦官による毒殺と噂された。 このようにやりたい放題やっていた何太后だったが、ある夜、兄・何進が宦官たちによって殺され、またその宦官たちも何進の部下により皆殺しにされ、おまけに異父兄の何苗もどさくさに紛れて殺されてしまったため、一夜にして権勢の拠り所を失ってしまう。 唯一の救いは息子劉弁の存在だったが、その劉弁は、よりによって西方の怪雄・董卓によって身柄を確保されてしまった。 董卓は、皇帝劉弁の庸愚さと、何氏の影響力の大きさを憎み、あっさりと皇帝を廃立。母子ともども洛陽から追放してしまう。在位わずか5ヶ月であった。 このまま何事もなければ、あるいは地方の藩王親子として細々と生き長らえていたかもしれないが、このあと直ぐに東方で反董卓連合の動きがあったため、後方を憂いた董卓は、毒酒をもって廃帝母子を葬った。 「三国演義」では、董卓の謀臣李儒によって高楼から突き落とされ、墜死している。 蒼天何后 皇帝の后として、かなりキツめの美女として登場。後継者は劉協皇子(献帝)に…と言いかけた皇帝の口に豊満な胸を押し当てて塞ぎ、「聞こえませぬ」と空とぼけて見せた。 その劉協を擁する政敵・董太皇太后相手に、毒舌を振るい合う一騎打ちを展開し、周りの宮女たちを蒼白にさせていた。内政的な見識はともかくとして、後宮の女王としては、十分以上の胆智を備えていたようだ。 政敵を葬り、宮中の絶対権力者となった後も、兄・何進のたびたびの進言を退け、宦官らを庇っていた。 だが、彼女が女王であった期間は半年に満たなかった。何進は何太后の璽と名を騙った宦官により呼び出され、剣山のような死体と化する。この暗殺劇に、彼女自身が絡んでいたかどうかは不明。 直後、袁紹兄弟による宦官虐殺と、董卓の出現劇があり、一夜にして宮中の様相は一変する。 何太后はこのとき、意外にも我が子を思う凡庸な母の顔を見せていた。だが、董卓に自らを褒美として与えているさなか、「兄の代わりに大将軍にしてやろうぞ」などと口走ってしまった。はやばやと彼女の存在を有害と見定めたか、董卓は「安心しろ。お前の子もすぐに後を逐わせてやる」と、あっさり彼女の頸椎をへし折った。 蹇朔 けんさく 生没:?~174年? 本貫:? 官:? 有力な宦官・蹇碩の叔父という設定。正史では名は明らかでない(大宦官・張譲の弟に、張朔という悪名高い男がいるため、ここから名前が流用されたのかもしれない)。 宦官の一門ということで、相応に権勢を振るっていたと思われるが、ある日、禁令を犯して夜間外出をした際、当時洛陽北部尉だった曹操に捕らえられ、懲罰用の棒で殴り殺された。 曹操が法に峻厳だったこと、権勢に阿らなかったことを示すエピソードとして有名だが、よく考えたら曹操こそ、蹇碩なんぞ問題にならない程の大宦官曹騰の孫である。 さておき、「蒼天航路」でも、「蹇碩の叔父」は元気に登場。彼の馬車が不幸にも北門へ差し掛かったのは、おそらく曹操が着任して間もない頃だろう。 天子が夜中に呼び出す程だから、相当の大官あるいは寵臣だったのだろう。また門番の古株・宋鎰も蹇朔と見知っている。 その宋鎰らに行く手を阻まれ、激怒。曹操の掲げた高札をへし割って抗議するが、曹操の命で取り押さえられてしまう。 打擲台に拘束されると、さすがに怖気を覚えたか、慌てて宋鎰らへ愛嬌を振りまくが、スルーされる。 恐怖のあまり、最初の一打擲目でパニックに陥り、制止しようと宋鎰がのばした棒に「ちょん」と棒が背に触れた瞬間、ショックで頓死してしまう。「…部尉殿、死んでしまいました」 「ならばよし!」という伝説の名台詞が、ここで生まれた。 蹇碩 けんせき 生没:?~189年 本貫:? 官:黄門侍郎、上軍校尉 霊帝の時代に権勢を振るった宦官の一人。「三国演義」等では「十常侍」の一人と数えられる事が多いが、実際は異なる系統だったようだ。 というより、宦官としては少々変わり種だったようで、「頑健にして武略あり」というなかなかの偉丈夫だったらしく、霊帝の個人的な寵愛を受けていたという。 そのため、皇帝は中央軍とは別に、私設軍団ともいうべき「西園軍」(ミラージュ・コーアみたいなもん)を設けた際、自ら無上将軍と号して総司令官に就くと同時に、この宦官蹇碩を上軍校尉に任じ、西園軍の元帥とした。 ちなみに西園軍を率いる八人の司令官の中には、中軍校尉袁紹、左軍校尉淳于瓊、それに典軍校尉曹操などといった馴染みの名がある。また、西園八校尉の元帥たる上軍校尉蹇碩は、大将軍さえも指揮できる権限が与えられており、一時的ながら何進も蹇碩の部下であったわけである。 霊帝は次の皇帝を、何皇后の産んだ劉弁皇子ではなく、別腹の劉協皇子としたかったようだ。資質の差もあるかもしれないが、国家に有害な外戚の有無も判断基準であっただろう。あるいは14歳の時に遭った竇武のクーデター騒動で、清流派=悪という認識が刷り込まれていたのかもしれない。 そして彼が劉協を託したのが、宦官でありながら武略に優れる蹇碩だった。やたら蹇碩に軍権が集中するシステムになっていたのも、来るべき後継者争いを踏まえての事だったかもしれない。また蹇碩も、霊帝の期待に応えるべく、何進排斥の政治運動を開始する。 だが、蹇碩は宦官に売られた。多くの宦官にとっては、何兄妹に与する方が益多かったのだ。霊帝崩御に乗じ、一挙に何進一派を誅滅を目論んだ蹇碩は、仲間の密告により何進の手により逮捕され、獄中で殺された。 蒼天蹇碩 特に武張ったところもなく、十常侍の一人として登場。「自らの手で男根を切り落とし」と述懐しているので、権勢欲しさに自宮したのだろうが、途方もない勇気の持ち主である。熊の活け作りを平然とモリモリ食べてるあたり、胆力は尋常ではないだろう。 曹操に殺された叔父・蹇朔の仇討ちを恃まれるが、甥の立場としては冷然と断っていた。が、宦官蹇碩の面子が汚された事に対する報復として、曹操の殺害を決意する。 彼は皇族の亶公をけしかけ、敢えて禁を破らせ、曹操に処刑させるようし向ける。その後、皇族を殺害した大逆犯として、合法的に曹操を処刑する…という凄いのか凄くないのか判じがたい策を実行する。 が、むしろ皇族が介入するのを待ち構えていたのは曹操の方だった。曹操はその策を逆用して亶公を味方に引き入れ、宦官たちにとってタブーである「党錮の禁」について、帝へ直奏するチャンスを得てしまう。この失態により、蹇碩は上司の趙忠にビシバシ往復ビンタを打ち込まれ、さらに通りがかったボス張譲に書簡で殴られている。 などと対曹操では散々な目に遭った蹇碩だが、やはり帝の親任は厚く、伝通り劉協皇子を託され、董太后と組んで何進一派の一掃に乗り出した。まもなく霊帝が崩御すると、その事実を伏せて何進を呼びだし、誅殺しようと謀を巡らせる。 が、何進は現れず、代わりに現れた張譲に「おのれの部下も掌握できぬ者が、謀を巡らすでないわ」と言い捨てられる。張譲の左右には、蹇碩の側近であったはずの宦官たちが並んでいた。そして蹇碩が率いていた兵もまた、合図と同時に蹇碩に刃を向ける。 こうして蹇碩の首は、宦官全体に累が及ぶのを防ぐための棄て石として、何進に差し出された。 亶公 ぜんこう 生没:? 本貫:? 官:先帝の弟君 史伝に名は無い。「蒼天航路」のオリジナルキャラクターと思われる。 先帝の弟君…ということだから、蠡吾侯・劉翼の子で、桓帝・劉志の弟ということになるのだろう。桓帝の弟で有名なのは勃海王・劉悝だが、任国に赴任しているので、洛陽で「亶公」とは呼ばる可能性は低い。(しかし賄賂をケチって宦官と対立し、後に謀叛の罪を着せられ自殺させられているあたり、それっぽいと言えなくもないが) 好事家で有名らしく、派手なファッションで街路を練り歩き、洛陽を騒がす鬼の北部尉・曹操を見物に現れた。 が、ここでネタ晴らし。じつはこの鬼見物、曹操に皇族殺しの罪を着せて誅殺するという、手の込んだ罠だったのだ。無論殺される予定の亶公本人には知らされていない。 仕掛け人蹇碩の思惑通り、亶公は曹操に捕らえられ、容赦ない打擲の罰を受ける。 …のだが、曹操は逆に蹇碩を叩きのめす罠として設定し直し、見事蹇碩をやりこめた。 この亶公、最初こそアレだったが、これでなかなかの人物だったようだ。蹇朔が一撃でショック死してしまった五彩棒による打擲を五発も耐え、まだ曹操を睨み付ける気概があった。何より、曹操の激烈な批判を受け止め、「たいそう堪えた」と自省するだけの器量があった。 亶公はすっかり曹操のシンパになったようで、宦官に対抗する曹操を支持し、彼が帝に直奏できるよう手引きをしている。 直奏の結果、曹操は栄転という形で都を追放されるが、残してゆく亶公の安全が気掛かりであったらしく、腹心の張奐老人に、亶公の護衛として残るよう命じていた。 以後、物語には名前も登場せず。それからおおよそ5~10年後、故国譙に隠棲する曹操の元へ、諸国の情報収集を済ませた張奐が訪れていた。この時点で、亶公のボディガードの任を解かれていたということは、後任に引き継いだのか、亶公の身に何かあったか、のいずれかであろう。 張譲 ちょうじょう 生没:? 本貫:兗州潁川郡 官:中常侍 後漢末期に蔓延った宦官の代表格。趙忠と並んで「十常侍」の筆頭として描かれる事が多く、霊帝も「張常侍は我が父、趙常侍は我が母」と、特に二人への親任ぶりを語っている。官位でいえば先輩格の趙忠のほうが一段上にいるのだが、何かと張譲の方が目立っている。 「三国演義」等に見られる宦官の普遍的イメージどおり、皇帝の寵を恃んでやりたい放題やっていた。100%意見が通った訳ではないようだが、殆どの場合、張譲らが言うとおりに皇帝が璽を捺してしまうので、彼らにわずかでも睨まれた者は、即座に官界を追放されるか、口実を設けて逮捕され、多くの場合殺されている。 また、彼ら個人による弊害も大きいが、何よりも彼らの一門衆が刺史だの太守だのに任じられて赴任し、地方行政をムチャクチャにしたことの方が、王朝にとってダメージは大きかったかもしれない。 張譲に限った事ではないが、当時の常侍らの物欲は精神病の一種といってよく、地方へ派遣した一族連中を通じ、まるでポンプで水を吸い上げるかのように、地方の財物という財物を、人民がカラカラに枯れ果てるまで吸い上げさせ続けた。これでは謀叛を起こすなという方がおかしい状況であろう。 このように「集めるために集めた」としか思えない財が集積されている張譲の私邸は、何かとドラマになりやすかったらしい。先帝の頃、弟の張朔が不法を為して司法から逃げ込んできたときは、蔵の柱の「中」に潜伏させた(踏み込んできた司隷校尉・李膺に見破られて破壊されている)というし、後の蜀将・孟達の父にまつわるドス黒い頓知エピソードがあったのもこの門前である。また、何があったか不明だが、若き日の曹操もこの屋敷で、剣戟振り回しての大殺陣回りをやらかした記録が残されている。 そんなマイホーム運の微妙な張譲だが、どういう経緯か道教に傾倒していたらしく、太平道教の信者でもあったという。後に彼らが黄巾の乱賊となった際は、このことを豫州刺史王允にチクられ、あわや進退問題にまで発展しかけた(王允はこのことで恨まれ、別件で逮捕されている)。 その黄巾の一件のあとも、霊帝の身辺にべっとりとまとわりつき、相変わらず政務を壟断すること甚だしかったが、ここにきて、手駒の一人であった大将軍・何進が、急に反宦官派の領袖になってしまい、後宮内に嫌ぁなムードが漂っていた。 おまけに、若手の武闘派宦官・蹇碩なる者が、張譲らとは別ラインで軍事力を掌握し、皇帝の親衛軍団長のような位置に居座ってしまった。蹇碩は、皇帝とその生母董太后に個人的親任を寄せられているとあって、一強皆弱の政情に慣れている張譲らとしては、面倒な事態であったに違いない。 その蹇碩から、何進一派掃滅の相談を持ちかけられたとき、張譲ら「十常侍」はパワーバランスを考慮してか、蹇碩を何進と何太后に売った。蹇碩は捕らえられ殺された。 が、その直後、何進(というか袁紹)が宦官皆殺しの軍事行動を起こすという情報が漏れ聞こえたため、こんどは何進を何太后の名で宮中に呼びだして、これを暗殺した。 世の常であれば、このまま事態は一挙に収束したであろうが、張譲らは袁紹ら青年将校の憎悪を読み誤った。何進派残党は、無法にも武装したまま宮廷になだれ込み、手当たり次第に宦官の虐殺を始めたのだ。さすがにこの前代未聞の光景に、張譲らも肝を潰したに違いない。先代の陳蕃や竇武だって、こういうことをやりたかったのに、ついには出来なかった暴挙なのである。 張譲らは取るものも取り敢えず、天子の身柄を拉致して宮殿外へ脱出。殺戮に夢中で、かつ地理に不案内な袁紹軍の包囲網から一時は抜け出ることに成功したが、すぐに王允が派遣した盧植ら追撃軍に追いつかれ、洛陽北郊数キロの黄河河畔まで追いつめられた。 国政を我が物顔で壟断した大宦官らが、目の前で人形のように次々と斬り立てられてゆくに及んで、張譲はとうとう夜の黄河へ身を投げた。張譲の伝には「臣ら皆死に、天下は乱れましょう!陛下はご自愛ください!」と格好いいことを言って身を投げたとある。中国史上でも屈指の「お前が言うな」のシーンだ。 そして張譲の言通り、この直後現れる怪雄・董卓の手により、朝廷は未曾有の混乱に陥り、天下は群雄割拠の乱世を迎えるのである。 蒼天張譲 ピラニアのように鋭角的な雰囲気を持つ老宦官として登場。見た目通り怜悧冷酷で、凄味のある権謀家として描かれている。 宦官で、かつ老境にある身ながら、性欲は文字通り「絶倫」で、私邸の寝室に多くの妾を囲い、夜ごと乱交めいた痴宴を繰り広げていたようだ。曹操が「よりによってあの張譲」と叫ぶほど、淫猥(言うほどアブノーマルな描写はないが)ぶりで有名だったらしい。 好事家…というかマニアックな性癖でもあったのだろう。洛陽の市中に胡人(西方の異人)の女奴隷が居る、と噂を聞きつけたらしく、その胡人の女「水晶」を高値で買い取っている。一応対価を払うあたり、常識内のラインでは常識人だったようだ。 が、その「水晶」が、よりによって曹操の想い人であったのが、双方にとっての不幸であった。先に婚約を結んでいた「水晶」の返還を求め、曹操は正装して張譲の屋敷を訪れた。曹操は最初情理を以て、次第に脅迫めいた文言で張譲へ迫る。むろん張譲は返還を拒否。だが当の「水晶」が張譲に斬り付けて、顔にザックリと傷を負わせた。直後、衛兵の投槍に貫かれる「水晶」。 この流れだけでいえば、この時点で罪を問われるのは「水晶」だけであろう(いや、曹操の脅迫もか)。が、張譲は曹操の人柄尋常ならずと判断し、曹操をも殺すよう衛兵に指示。ここで、有名な「張譲の庭に手戟を舞わし、その才武絶人、害せるもの莫し」というエピソードどおりの展開となる。 曹操を取り逃がした張譲は、司法官の橋玄を訪れ、曹操に死刑判決を下すよう露骨に圧力をかける。とはいえ、かつての大先輩曹騰の脅迫すら笑殺してのける張譲であっても、この橋玄に対しては「心して掛からねば」と自戒するほどの用心ぶりである。橋玄個人、あるいは司法には宦官と拮抗するほどの不可侵権があったのかもしれない。 そして判決は(おそらく)無罪であった。この後、死を以て威されていた司法官の橋玄がどのような目に遭ったか定かではない。だが前述の通り、張譲と司法官橋玄のパワーバランスを見る限り、単なる威喝だけで済んだのかもしれない。 ちなみに曹操を「乱世の姦雄」と評したとされる橋玄であれば、実のところこの時点で既に司徒・司空を歴任する超大物官僚であり、この事件から数年後、無事に太尉に昇っている。 その後も何かと曹操の隙を探していたのであろうが、とうとう曹操が任官するまで「何も手出しできず」にいたらしい。その曹操を安易に陥れようと画策する蹇碩を、苦々しく叱責するシーンもある。案の定、曹操の罠に陥った蹇碩らの尻ぬぐいをするなど、後宮のボスも大変そうであった。 そして十年の時を経て、黄巾の乱、霊帝の崩御という変事がめまぐるしく起こる。蹇碩による何進暗殺未遂事件の際は、いち早く蹇碩を切り捨てることで何太后に泣訴し、宦官への総攻撃を思い留まらせる事に成功。 しかる後、今度は何進を呼び出して暗殺。諜報でこのことを知った曹操は「張譲は最後まで張譲だったな」と冷笑している。 どうやら并州牧(実質は涼州の独立軍閥)の董卓と密約を結んでいたらしく、天子の身柄と彼の軍事力をもって、再び朝廷を掌握するプランを立てていたようだ。この直後に勃発した宦官虐殺まで予想していたかどうかは不明だが、予定通り張譲は天子を擁し、董卓軍の陣営と合流する。 しかし、張譲は董卓という人物を完全に読み違えていた。董卓は、宦官はおろか天子の威名でさえコントロール不可能な怪物だったのだ。 董卓曰く「お前の頭から皮を剥ぎ取り、足からは一寸刻みに肉を削ぎ、長い時間をかけて死に至らせる。そしてその男根の痕跡を人目に晒し、苦と惨と悲をからめて地獄におとす!」 「この張譲も老いていたか。董卓の無法の量を見誤っておったとは」と、諦めの表情を浮かべるシーンが、大宦官・張譲の最後のシーンであった。
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日本 大和まほろば朝廷
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平宗経 平宗経の一流について (本郷和人) 鎌倉時代中期、平時継という公卿がいた。平時子・時忠らの父時信の四代の孫である。武家の清盛一門とは系統は異なるものの、やはり鎌倉時代にあっては平氏は栄達できず、彼の祖父も父も納言には昇っていない。時継は蔵人・弁官を経て参議に進み、実直に十五年その職を務めた。文永六年(1269)、「参議労十五年」を以てようやく中納言に昇り、同年のうちに辞官した。本来なら彼の廟堂生活はこれで終了する筈であったが、思わぬ好運が彼を待っていた。彼は後深草上皇に仕えていたが、弟亀山上皇の一統に皇位を奪われていたこの不遇の上皇が、弘安十年(1287)に治天の君に返り咲いたのである。時継は上皇の信任を得てにわかに政務に関与するよぅになり、院執権・伝奏・評定衆となり、大納言にも任じられた。 時継の権勢は次子経親に伝えられた。経親も後深草・伏見上皇に重く用いられ、官は大納言に進んだ。持明院統を代表し、鎌倉幕府への特使にもなっている。もちろん奉行として、伝奏として、院宣・綸旨の発給に頻繁に関わっている。 時継・経親父子は持明院統の第一の側近ともいうぺき存在であった。ところが、彼らの子孫の活動はあまり伝えられていない。建武政権を経て、皇統は持明院統に独占されるにもかかわらず。そこで私は拙著『中世朝廷訴訟制の研究』において「彼らの家が上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難く、こののち子孫は衰微していく」と書いてしまった。 一九九二年、私は茨城県新治郡・鹿島郡ほかに出張し、古文書を調査・撮影し、あわせて花押を採集した。帰京して護国院の文書を整理しでいるとき、私は「おや?」と思った。『茨城県史料 中世編1』の護国院文書十一「後光厳院綸旨案」にあたる文書の奉者「権中納言宗雅」の「権中納言」の文字が、ちょうど同時に整理していた山城長福寺文書の貞和四年七月十一日、光厳上皇院宣の奉者「権中納言(花押)」の「権中納言」の文字に酷似していたのである。 貞和四年(1348)七月に権中納言であった人物は、 平宗経・三条実継・源宗明・二条良冬・正親町忠季・一条内嗣・中御門宣明・吉田国俊・甘露寺藤長。 このうちで長福寺文書の権中納言は誰か。摂家以上の出身の者は院宣の奉者にふさわしくないから、久良親王の子の宗明、関白兼基の子の良冬、関白経通の子の内嗣を除く。花押の形状が判明していて、長福寺文書のものとは明らかに違う宣明・藤長も除く。実継・忠季は左萄門督・右衛門督を兼ねているので、兼官を以て署判し「権中納言」とは書かないだろう。とすれば、残るは平宗経と吉田国俊であるが、そこで護国院文書に注目してみよう。『茨城県史料』は「宗雅」としているが、これは「宗経」とも読めるのではないか。 もしこの推測が当たっているならば、護国院文書の「後光厳院綸旨案」は案文ではなく正文である。また宗経は貞和五年(1349)に五十六歳で没しているから、「光厳上皇院宣」の方がよいだろう。 もう一つ。護国院文書の「宗経」と全く同様にくずした署名(花押は据えずに、権中納言+署名)が、山城六波羅密寺文書に何通か見える。丹後国大内庄に関する訴訟につき、甘露寺藤長とともに奉行を務めて院宣を奉じている。貞和四年の付年号があるものもあり、史料編纂所の影写本には「定経」と朱が付してあるが、この権中納言も平宗経とみて間違いないだろう。 権中納言平宗経は、こうしてみると、それこそ死の間際まで実務公卿として活発に活動しているようである。そしてこの宗経こそは、先の平経親の子息にあたるのだ。なにが「子孫は衰微していく」であろうか。 『尊卑分脈』を開くと、宗経の子は時経一人、そして彼は正五位左少弁、と記してある。また時経以降の記載はない。これを以て「子孫は…⊥と書いたわけだが、時経で家が絶えている理由をもう一度考えてみなくてはなるまい。宗経も光厳上皇のもとで活躍していたことが判明し、この家が「上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難」いなどとは決していえないのだから。 平時経をどうやって調ぺよう。そのときにふと思い出したことがあった。やはり長福寺文書の中に、たしか時経が奉じた綸旨なり院宣があったはずである。そこで見直してみると、はたして正平八年六月二十九日、後村上天皇綸旨の奉者が時経のようである・・後村上天皇?・・そうか、時経は南朝に仕えたのだ。それで事跡が伝わらないのだ。 南朝文書と時経、といぅ視点で史料を見直すと、 ○年末詳・松尾寺文書・右少弁、 ○正平九年十一月十日・金剛寺文書・右中弁、 ○正平九年十一月十八日・金剛寺文書・右中弁、 ○年末詳・金剛寺文書・右中弁、 ○正平十年三月二十七日・毛利文書・右中弁、 ○正平十年十月一日・金剛寺文書・左中弁、 ○正平十二年九月十七日・久米尚寺文書・左中弁、 ○正平十三年・三月二十三日・東妙寺文書・左中弁 時経は以上のように後村上天皇の給旨を奉じている。すくなくとも正平九年(1354)から十三年(1358)まで、彼が南朝方の奉行として活動していることが確かめられる。 しかし依然として旋問は残る。持明院統の信任厚い家に生まれた彼が、どうして南朝に仕えるようになったのか。ヒントは彼が南朝に奔った時期にあるように思ぅ。『弁官補任』によると、「観応三年、左少弁 正五位平時経(参南方為蔵人)」とあり、彼が南朝に参じたのは観応三年(1352)であるという。右の後村上天皇綸旨の発給状況からみてもこの記述は正確であろうと思われるが、この年は有名な「正平一統」のあった年である。将軍足利尊氏は弟直義を討つために南朝に和を請い、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃された。南軍は一時的に京都を画復し、貴族たちは保身に汲々とした。時経はまさにこのとき、限前の状況にとらわれて、時局の読みを誤ったのではないか。 『系図纂要』によると、時経には経泰といぅ兄弟がいたようである。そしてあまり確度の高い史料ではないのだが、史料編纂所に架蔵されている応永三十二年(1425)の奥書を持つ『南朝公卿補任』によると、経泰は広橋を称して早くから南朝に仕え、大納言に昇った人物であるという。彼の子の経氏・泰尹は伊達行朝の娘を母とし、前者は南朝の公卿となり、後者は脇屋義助の孫の義陸とともに奥州を転戦して応永九年(1402)に戦死したといぅ。推測にすぎないが、正平一統時、時経は経泰らのとりなしによって必要以上に南朝に接近し、結果として京都を去らざるを得なくなってしまったのではないか。また時経の子や孫は、あるいは経氏のように、また泰尹のように生きたのではないか。持明院統の近臣たる平氏が消破した経緯は、およそこのようなものだと思う。 護国院文書中の一通の古文書から、平宗経の一流の足跡を追ってみた。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したこの実務の家は、吉野の山中に姿を消していった。南朝に仕え、歴史に残らなかった家はきっと他にもあることだろう。「史料編纂所員として今後このような人々の事跡の発掘に努めたいと思っております」、今年の十月に再び茨城県の常陸太田市に史料採訪に赴いた私は、西山荘の黄門様人形にかように申し上げたのだった。 (本郷和人)
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日本 大和まほろば朝廷 2016/10/28 結果 星合計 相手の星合計 勝利 150 137 プレイヤー レベル 1回目 相手No. 相手レベル 2回目 相手No. 相手レベル 防御回数 被攻撃数 シノB 178G ★★★★★ 4 163G ★★★★★ 13 145S 0 1 あいあい 167G ★★★★★ 7 153G ★★★★★ 18 119Ki 0 1 silverdevil 180G ★★★★★ 5 132S ★★★★★ 1 198G 0 1 ひでぼ 152G ★★★★★ 6 147S ★★★★★ 3 157G 0 1 わんわん 157G ★★★★★ 14 106S ★★★★★ 18 119Ki 0 1 マムー 164G ★★★★ 21 104Ki ★★★★ 20 101Ki 0 1 こうたろう 146G ★★★★★ 2 175G ★★★★★ 8 127S 0 1 ともや 140S ★★★★ 8 127S ★★★★★ 16 119Ki 1 1 黒龍☆彡 156S ★★★★★ 9 143S ★★★★★ 15 112Ki 0 1 味噌カッツ 145S ★★★★★ 19 110Ky ★★★★★ 20 101Ki 0 1 アミン 131S ★★★★★ 10 131S ★★★★★ 11 116S 0 1 ドルジ 129S ★★★★★ 26 88Ky ★★★★★ 23 106Ky 0 1 OYOSHIHIKO 141S ★★★★★ 12 140S ★★★★★ 18 119Ki 0 1 すけろん 129S ★★★ 23 106Ky - - 0 1 あいろん 120S ★★★★★ 22 108Ky ★★★★ 19 110Ky 0 1 ニッシ〜 151G ★★★★ 21 104Ki ★★★★★ 27 29Kt 0 1 こうちゃ 131Ki ★★★★★ 16 119Ki ★★★★★ 18 119Ki 0 1 garyu 132S ★★ 27 29Kt - - 0 1 高町なのは 121S ★★★★★ 25 105Ky ★★★★★ 23 106Ky 0 1 よっすん 116Ki ★★★★★ 24 101Ki - - 1 3 ちゅら 127S - - - - 0 1 waku II 95Ki ★★★★★ 17 110Ki ★★★★★ 21 104Ki 2 3 蒼大佐 主計長 104Ki ★★★★ 20 101Ki ★★ 24 101Ki 0 2 ふなべる 101Ki ★★★★★ 28 22Kt ★★★★ 27 29Kt 2 4 remon 95Ki ★★★ 27 29Kt - - 0 3 フェイト・T・ハラオウン 92Ki ★★ 27 29Kt ★★★★ 28 22Kt 0 1 よねこ 64Ky ★★★★ 28 22Kt ★★★★★ 29 39Kt 1 4 SuAshi 60Ky ★★★ 28 22Kt ★★★★★ 29 39Kt 0 2 zidane 42Ky ★★★★★ 29 39Kt - - 0 5 さぁや 37C ★★★★★ 30 24Kt ★★★★★ 29 39Kt 0 3