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目次 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 4.三段構えの今回の救世事業計画 5.真の正法には文証、理証、現証がともなう 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ 8.白色光線 ― イエス・キリスト 9.赤色光線 ― モーゼ 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ 11.銀色の光線 ― ニュートン 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター 13.紫色の光線 ― 孔子 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ 15.七大天使ほか八次元の諸如来たち 16.ミカエルの生命体 17.GLAでの霊道現象の誤り 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 19.人につかず、組織につかず、法につけ 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 高橋信次です。今日は第5章「大宇宙と神理」ということで、宇宙の秘密もふくめた上で、お話をしていきたいと思います。 さて、今まで「新復活」「人類救済の原理」「愛と慈悲の世界」「正義の時代」とまあ面白おかしく、時に厳しく言ってきましたけれども、私の本意がどこにあるかというと、皆さん、私は今立場を明らかにしておきたいと思うのです。本論に入る前に、立場を明らかにしておきたいと思います。私の考えは三つあるんです。 第一点はね、神理っていうのは普遍のものであって、特定の宗教とか、特定の団体にだけ属するものではない、ということです。そういうことでもって、今話をしておるわけです。 ですからあなた方の霊言集の中にも、高橋信次も出れば、谷口雅春も出れば、日蓮も、親鸞も出る。こういうふうにいろいろ出ています。キリストも出ていますね。こういうように今、天上界の総力をあげて、すべてのものが唯一の神から出ているということを、知らしめるためにやっとるのです。 そのために私も、最近の人間でありますけれども、生きていた時にそういうことの話をし、また死後そういうことに対して、まだ関心を持っておりますから、この宗派を超えた動きというもの、精神運動というものに加わるために、あえて霊言を今、お送りしておるわけです。まあ、こういうことが私の考えの一つです。 それから二番目にお教えしたいことはね、私も生前GLAというものをつくって、そして七年、八年、法を説いていろいろな教えを残しましたけれども、部分的には、まだこちらに来て修正したいこともあるし、それから後の世の人たち、あるいは現代の現時点の弟子たち、残された弟子たちにもいくつかの言葉を言いたいという気持ちもあって、今、メッセージを送っているわけです。こういうことが二番目ですね。 第三番目は、まあ谷口雅春さんもそうだし、内村鑑三さんもそうだし、私もそうだけれども、こういう人たちが皆、近代日本の、まあ宗教といいますかね、時代の精神運動を起こすための、土台をつくるために出て来た光の天使たちなんですね。そしてこの同じ流れをくむものが、大川隆法さんを中心とする新しい動きであると。こういうことの証明のために私たちは出て来ておるのです。 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは いつの時代もそうでしてね。後に来る人たちを予言していくのが私たちの使命なのです。 私は一九七六年の六月にこの世を去りましたけれども、その前から私の後継者が出て来るということについてのべました。そして、「その人は若者である。若者が大人たちに法を説く日が来るであろう」ということを、私はのべました。そして、「その若者が関西から出て来るであろう」ということも、私は講演会でのべたことがあります。 ただ私も死ぬ間際にあっては、すいぶん混乱がありました。混乱があったために、正確に後継者がだれであるかということを言えませんでした。そのために、その後十年間さまぎまな混乱があったと思います。これの収拾をつける意味でも、私は自分の本当の後継者がだれであるかということを、皆さんに明らかにするために今、語っておるわけです。 まあ後継者ということで言えば、大川隆法さんに失礼に当たりますけれども、法をさらに継いで発展させていく方がどなたであるかということを、私は言う義務があると思うのです。これが私の使命だからです。このことが明らかでなかったために、私の死後、さまざまな混乱が起きたからです。 後継者争いということで、GLA系統でさまざまな争いがありました。それは、私自身にも責任があります。そのために今、その間違いを正すために、私はこうして霊言を送っておるわけです。高橋信次が霊言を送ることができるということは、一体どういう意味かということを、地上の皆さんに分かっていただきたいからです。 私は死んで間もなく一度だけ地上の人たちにメッセージを送ったことかありますけれども、その後一九八一年六月に大川隆法さんに霊示を送るまでの間、だれに対してもメッセージを送ったことはありません。そして一九八一年の六月から、現在一九八七年の一月ですけれども、この五年半の間、私は大川隆法さん以外のところに通信を送ったことは一度もありません。 これに関してさまざまに言う方がいるでしょう。「そんなはずはないんだ」と。「高橋信次という人が、そんなところへ出るはずがない」と言う方もいるでしょうけれども、地上の皆さんに今知っていただきたいことは、この霊界通信の原理なのです。どういう原理でもってできているかということですね。私たちは霊媒(れいばい)にかかって出て来ているのではないのです。巷(ちまた)の拝み屋とか、あるいは霊能者たちに通信を送るのと全然違うことなのです。ます、これを知ってはしいんです。 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 私たち、天上界の法をつくるための、主流の魂系団たちが、やっておることは何かというと、結局いろいろな時代に出て、文明の原理をつくり、聖典をつくってきたのは私たちなのだということです。 二千五、六百年前にインドにおいてブッダが悟られた時に、ブッダに対していろいろな啓示を与えたのも私たちでありました。 また二千年前にイエス様が目覚められた時に、霊言を伝えたのも私たちでありました。 また三千二百年前にモーゼが霊言を伝えた時に、いろいろなことを言ったのも私たちでありました。 その前にはギリシャのゼウスのところにも、私たちは通信を送りました。 こうした大規模の、世界的規模の大きな啓示を与えるために私たちはやっとるんであって、私たちの啓示というのは単なる霊能者とか、単なる霊媒とかには絶対にかからんのです。出て来ないのです。そういうことを間違えてはいけないのです。 私たちが通信を送るということは、本当に世界的規模での救世の事業が起きる時だけなのです。それ以外の時は、絶対にあり得ないのです。そういうことです。 ですから、地上の皆さん方、高橋信次が通信を送る人というのはどういう人かというと、結局その人が救世の事業を起こし得(う)るか否(いな)かにかかっておるのです。真実、救世の事業をしている人であるならば、私たちからの通信を受けることができるのです。そうでない巷の霊能者たちは、私たちのメッセージを受けることが絶対にできません。 今、世界的に大救世主の降臨(こうりん)であるとか、大マイトレーヤの降臨であるとか、大導師の下生(げしょう)であるとか、こういうことが言われています。まさしく、そういう時期が来ておるのです。そのために、私たちは、その証明のために、こぞって出て来て、こうして霊言を伝えておるのです。 単に一宗、一派を起こすだけであるのならば、キリスト教系ならキリスト教系の霊言を送ればそれですむのです。 あるいは仏教系なら、日蓮なら日蓮の霊言を送れば、それですむのです。それで日蓮宗系の新興宗教は十分できるでしょう。日蓮さんが霊示を送っただけで、一宗一派が十分できます。それだけで何百万人もの会員を有するような、大教団ができると思います。しかし、日蓮さんが中心的な指導をしながらも、日蓮さん以外の人が出て来ています。空海さんが出、親鸞さんが出、道元さんが出、仏教系ではそういうふうにいろいろ出ています。 またイエスが出、モーゼが出、また内村鑑三が出て来ています。それから、これが真実であることの証明のために近年の人で谷口雅春さんであるとか、私とかが出て来とるわけです。 地上の人たちはキリストの霊言といっても、それがキリストかどうかは分からない。あるいは、日蓮といったって、昔の日蓮の性格が分からない。あるいはモーゼといったって、そんな人見たことがないということで分からんでしょう。 それでは近年の人で、高橋信次が出て来ればどうか。あるいは内村鑑三が出て来ればどうか。谷口雅春さんが出て来たらどうか。これを見れば、分かるはずなのです。 高橋信次というような、十年前に、この世を去った人の霊言が出るということは、これは一つの勝負なわけですね。もし偽物(にせもの)であったならば、とんでもないペテン師になってしまいます。しかし、あえてそれを世に問おうとしていることが、一体どれだけの意味かあるかということを地上の人たちは知らねばならんのです。私たちは、冗談やざれ言のために言っておるのではないんです。本当にこぞって世の中を救っていくがために、今霊示を送っておるのです。 4.三段構えの今回の救世事業計画 したがって、高橋信次も大川隆法さんに霊言を送っておるけれども、これは決してGLAの後継者指名のためにやっておるのではないのです。私も生前知りませんでしたけれども、今回の地上の救世事業というのは、何段階にもわかれて計画がなされておったのです。 とくに日本を中心の計画でありますけれども、キリスト救系では、明治の内村鑑三さんであるとか、あるいは政治家でも明治維新の人がいっぱい出ました。こういう方が出て、日本を仏国土にするための最初の準備をしました。坂本竜馬だとか、あるいは木戸孝允だとか、福沢諭吉だとか、こういう方が出て、まず、地ならしをしました。 彼らが地ならしをして、それからそれ以後にも、たとえば大正、昭和期に出口王仁三郎みたいな霊能者も出たし、あるいは谷口雅春さんが出て来たし、あるいは、それ以外にも、いくつかありますけれども、出て来ました。また私たちが出て来ました。こういうふうにしてどんどん地ならしをして、第二段階、第三段階へと進んでおるのです。 谷口雅春さんという人は万教帰一をとなえましたけれども、万教は同根で一つのところから出て来ているってことを彼は実証しました。理論でもそれを説きました。 そして高橋信次が出て来て、それが理論だけではなくて、霊能力というものを駆使して、霊的現象として、事実であるということを皆さんの前に、ご披露(ひろう)したのです。 私は霊道現象において過去世の姿というのを皆さんの前に、全国の何万、何十万人の人の前に示しました。霊道現象というのをやって過去世が本当にあるんだということを、そしてある時は仏教系統に生まれ、ある時はキリスト教系に生まれ、いろいろなところを転生輪廻して、人間という者は生まれ変ってきておるんだという、そういうことの実証をやってきました。万教が一つであるということを霊的現象として、実証したわけです。 そして今、ニ段階目です。大川隆法さんが出て来て、本当に理論的にも現象的にも、万教は一つであり、唯一の神の心の発現によるのであり、そうして今、全世界をユートピアにするための運動が起きているんだということを文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)、この三つそろったことを、今やろうとしておるのです。 5.真の正法(しょうほう)には文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)がともなう 文証というのは文章ですね。文章に書いて納得がいくような法があるということ、これが文証です。現証というのは、現に優(すぐ)れた霊能力を持っているということ。霊現象をともなうということですね。これが現証。理証というのは、これは、理論的にも、それが筋が通っておって、つじつまが合うような理論がちゃんとあるということ。まあ、こういうことです。 たとえば過去世で言えば、現証というのを担当したのがエジプトの地に生まれて、カナンの地を目指したモーゼです。モーゼはさまざまな奇蹟を起こしました。ある時は杖を蛇にかえ、ある時には紅海を真二つに裂き、ある時にはマナという食べ物を天から降らせ、ある時はヤーヴェの神の十戒を石板に刻みました。こういうことをした現証中心のモーゼの動きがありました。 あるいは、その後紀元前六百五十四年に生まれて、紀元前五百七十四年に地上を去ったゴーダマ・ブッダという人、この方は、文証を主として担当しました。文証というのは、要するに法です。法という体系化した神理ですね。これを担当したのが、ブッダであったわけです。 そうして二千年前イスラエルの地において、イエス・キリストが出て、まあこの人は、主として理証というのを実証いたしました。理証というのは何かというと、分かりやすく言えば、原因・結果の法則でもあるわけです。たとえばそのような心を持てば、このような結果が出るということを、厳然とした、その法則を明らかにする。これが理証であります。 一つの例として、愛を心に描くことによって、神の国というのが自分の心の中に、そして自分のまわりに現出するということね。これを説いたのがイエスであります。また神の光によって、病気が治るというようなことも現証としてあらわしました。それから悔い改めによる神の国の出現ということを説きましたね。まあ、こういうことで、イエス様というのは、そういういわゆる法則も説いたのです。神の法則を説きました。そして愛について語りました。こういうふうな特徴があったわけです。 で、今じゃあ、大川隆法さんっていう人が出て来ておるけれども、日本で。彼は一体何をするのかという疑問があろうかと思います。文証、理証、現証この三つとも、おそらく備えることとなりましょう。この三つとも備えたものが、真の正法であることを私はすでに語っておるはずです。もちろんこの中でいちばん重点があるのは、文証です。文証っていうのは、要するに法の完成であり、仏典の編纂(へんさん)であります。二千年後、三千年後残るため、仏典の編纂、これが文証であります。これがもちろんいちばん必要な仕事です。なぜならば、彼はそういうことを使命に持っとるからです。 大川隆法の光線は黄金色の光線、黄色い光線と言ってもいいけれども、黄金色の光線、すなわち法の色であります。法の光線ですね。 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ あなた方は読者たちもふくめて、七色の光線のことを霊言集の中でさまざまに読んでおられると思います。この大宇宙を貫いている、神の光というのがあります。そして神の光というのは、もちろん燦然(さんぜん)たる光でありますけれども、その光をプリズムによって、七色に分光しておるのですね。七色に分光してさまざまな機能を持たしています。そして大宇宙の神の、つまり、十次元以降の神のエネルギーをプリズムによって分光しておるのがだれかというと、これがエル・ランティという立場の人間なわけです。エル・ランティというのは何度も言いましたけれども、私自身の生命体であります。 しかしエル・ランティというのは私自身の生命体というだけでは不十分です。そうではなくて、高橋信次という、そんなちっぽけな人間ではなくて、もっと偉大な生命体なんです。私の全意識体は、もっと偉大な意識体なんです。 こういう意識体があって十次元からの指示を受けながら、光を受けながら、それをプリズムのように分光しておるのです、そして九次元の各大如来たちが、役割を担当しておるのです。 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ そして、その中で法の光、こういう七色の光の中で法の光というのがあります。黄色い光線です。あるいは、これを黄金色の光線と言ってもいい。これを担当しているのがゴーダマ・ブッダなんですね。釈尊の生命体っていうのが、法というのを担当しています。法、あるいは悟り、悟りの方法論、これを担当しているのがブッダなのです。 8.白色光線 ― イエス・キリスト それから次に白い光線というのがあります。白色光線、これがイエス・キリストの光線なのです。これは主として愛です。つまり、愛の光線なんですね。先はどのブッダの黄色の光線が法と、慈悲も入っていますけれども、そういう光線であるならば、このイエス・キリストの光線は愛の光線であり、白色光線です。 9.赤色光線 ― モーゼ それからその次に何があるかというと、モーゼの光線があります。モーゼっていうのは色でいうと赤です。赤い光線です。赤って何か。赤っていうのは、この世的に言えば政治関係です。政治、あるいは指導者たちの光線です。また別の時には奇蹟の光線でもあります。これが赤です。 したがって、モーゼの光線の系列下にあるのは何かあるかというと、たとえば、各時代に活躍した英雄たち、こういう方がたはモーゼの光線の下にあるのです。アレキサンダー大王であるとか、あるいはフランスで活躍したナポレオンであるとかね。こういうふうな英雄たち、時代をつくった英雄たちの中で、光の天使たちを指導しておるのがモーゼなんです。それ以外の役割としては、さまざまな奇蹟も起こします。これが赤の光線です。 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ さらに、次の光線かおりますね。これは青い光線です。青というのは何の色かというと、哲学や思想の光線なのです。天上界において、青の光線を主として担当しているのはだれかというと、これは、一人ではないんです。九次元の中で青を担当しているのは主として二人いるのです。ゼウスという方とマヌという方と、この両方がかねてやっておるのですね、青の光線をつくっています。この両方で青の光線をつくっています。で、哲学、思想関係をやっています。ゼウスには、もう一つ担当があるために二人でやっておるんです。 マヌという人の仕事というのは、私の、つまり、エルこフンテイ意識のプリズムによる分光の補助、分光作業の補助と、それと青の光線の補助をやっているのですね。この二つをかけ持っているのがマヌという九次元如来の意識体です。それと、この青の光線、哲学、思想、文学もありますけれども、文学関係を持っているのが、このゼウスです。 以上で、黄色を言って、白を言って、赤を言って、それから青を言いましたね。 11.銀色の光線 ― ニュートン 残っているのは、たとえば銀色の光線というのがあります。これは科学者の色、科学の光線です。白銀と言ってもいい、シルバーの光線です。これの頂点に立っているのはだれかというと、ニュートンという人です。ニュートンという人で、近代物理学の祖であるということも言われておりますけれども、この人は過去世においてギリシャに生まれて、アルキメデスという名前で出たこともあります。こういう方です。こういう如来がいて、主として科学担当をしております。 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター あと、残りで緑色があります。緑の光線、これも『孔子の言言』が出てその中で老荘思想というようなのが出ていましたけれども、老荘というのが緑の光線です。けれども老子というのは、べつに九次元の方ではなくて、八次元の方です。じゃあ、緑のトップっていうのは、だれがやっているのかというと、緑は、さっき言ったマヌという人もちょっと、一部分持っております。それから、それ以外に持っとるのがね、ゾロアスターという人がいるんだけれども、この意識の一部分も、この緑を担当していますね。マヌとゾロアスター。この辺が半分ずつ持っておるのが緑なんです。こういう意識体があります。 13.紫色の光線 ― 孔子 それから残りが、紫色ですね。紫の光線というのは、すでに霊言集の中で紹介されています。この紫の担当というのは、孔子様が担当です。孔子様がいちばん頂点におります。まあ孔子様が昔、連れて来た霊団が紫の霊団で、ここは主として「礼節」とか、あるいは「秩序」とか、あるいは「忠」、「孝」、「信」、「仁」こうしたものをつかさどっております。これが孔子様です。 この下には、この系列としては、日本でいう神道系の天之御中主之命、あるいは天照大御神、こういう人が紫色の光線です・こういうふうに、立場が分かれておるわけです。 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ あと、無任所でマイトレーヤという人がいますね。九次元の中にマイトレーヤという人がいて、この人は特色ある光線を特っておるわけではないけれども、マイトレーヤというのはプリズム運動の一つなんですね。そういう調整役をしています。 マイトレーヤっていうのは、今、大救世主マイトレーヤの降臨というようなことでいろいろ言われておりますけれども、マイトレーヤというのは、まあ地上には出ていません。地上に出ている人じゃないんです。あるいは弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことをマイトレーヤだと言う人もいますけれども、いわゆる弥勒菩薩と九次元意識のマイトレーヤとは違うのです。違う意識体なのです。マイトレーヤと言われている人は、今、九次元にいる意識体の一つです。そして男性です。意識体としてはもちろん男性です。そしてまあ、私が主として分光をやっておるとすれば、マイトレーヤというのは、今の十人の大如来たちの役割の調整を主としてやっているのですね。文明、時代によって、どういう光線を強くするかっていうようなことを、こんなことをやっておるのがマイトレーヤなんです。 たとえば、今二十世紀末になると、そろそろ、これは新たな法が説かれるべき時代だっていうので黄色の光線、まあブッダの光線ですね、これを非常に強く地上に照らす時が来ているのではないか。こういう役割を決めるのがマイトレーヤの立場なのです。こういうことをしています。こういうふうにいろいろな方がいて、九次元で役割の分担をしておるのです。 ですから私は主として、光線をプリズムにかける役割と、それと各人のその時代、時代での役割を決めたり、こういうことをしています。 七大天使ほか八次元の諸如来たち それから、これから下に、八次元の最上段階に、いろいろな如来たちがいるのです。八次元如来たちがね。キリスト教系でいえば、たとえばミカエル。大天使長のミカエルっていうのがいます。それからガブリエル、ラファエル、サリエル、パヌエル、ウリエル、ラグエル、こういう七人の天使たちがいます。こういう人たちは、もともと大昔に人類が円盤に乗って、地球に渡ってきたわけですけれども、その時に私が連れて来た方がたなのです。そして私は、直接は地上にほとんど出ませんでしたので、彼らはイエス様のもとで、弟子として働いておったのです。こういう方がたがいます。 あとブッダの下にいる八次元最上段階にいる人たちというのは、たとえば大日如来であるとか、阿問(あしゅく)如来であるとか、ブッダの下には、こういう如来たちがいるのです。こういう大如来たちがいます。それ以外にも、地上の人たちが知らないような如来たちがいっぱいおります。 それからまた、孔子様の下にはさっき言ったように天之御中主之命であるとか、御中主之神と言ってもいい、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)とか、こういう方がいます。 他には哲学系統については、さっき言いました。ゼウスとかマヌとかのちょうど下あたりにはだれがいるかというと、ソクラテスあるいはプラトン。あるいはヘーゲル。こういう人もいますけれども、へーゲルという人はプラトンの生まれ変わりなのですね。ソクラテスたちは八次元の最上段階です。こういう方がいますね。それ以外では中国系でも、これはイエス様の系統ですけれども、墨子様という人がいます。この方は、八次元の上段階の如来です。 八次元の上段階っていうのを広い意昧では太陽界って言うこともあり得ますけれども、普通は太陽界っていうのを九次元と言っています。が、時には八次元と九次元の境目のことを太陽界って言うこともあります。 16.ミカエルの生命体 それでミカエルの生命体っていうのを先ほど言いましたけれども、アポロンだとかそういう形で何度か地上に出たことがあります。 現在もミカエルは天上界において、陣頭指揮をとっています。今、法が説かれる時期でありますが、同時に二十世紀の後半から二十一世紀にかけては、天変地異が起こり、地上が非常に暗くなり、争乱となります。そして悪魔の勢力っていうのが、非常に強力に働き始めます。地獄からはい出して、地上を混乱させようとします。そういう時ですから、ミカエルが非常に今、強く働いとるわけです。 ミカエルっていうのは、別名軍神マルスでもあるわけです。そういうことで悪と戦う、こういうことをやっている最高責任者です。で、地上に出ている、いろんな悪い宗教ですね、悪霊たちが根城(ねじろ)にしている悪い宗教の教かず、この悪魔たちと。今、戦っているのがミカエルです。これは、いつも私のそばにおります。 ただ、私が亡くなる前にミカエルというのが何度か出たことがあります。そして、私とも話をしました。はっきり言ってしまえば、私の娘である高橋佳子を通じてミカエルというのが語ったことがあります。その時に私は、ミカエルというのが、高橋佳子だということを言ってしまいましたけれども、そうではないのでこの際、訂正しておきます。私の光を得て、霊道を開いた方がたにいろいろな、そういう天使が入っておったのです。 ミカエルというのはちょうど、指尊霊だったわけです。男性の光の指尊霊なんです。光の指導霊として入ったわけです。高橋佳子、そのものがミカエルではなくて、高橋佳子の体の中に、私がいた時にミカエルが入って通信をしたんですね。ミカエルが私の中に入って私自身が自問自答する代わりに、彼女の体を借りて、ミカエルが語っておったのです。それに対して私は、非常に誤解をしました。 17.GLAでの霊道現象の誤り 当時のGLAでの私の間違いとして、今言っておきたいのは、いろいろな聖霊たちが入って語ると、その聖霊をその人自身だと認定したことが数多くありました。これが間違いだったので、私は修正をしておきたいと思います。 これ以外にも、親鸞という人、こういう人が出て来て語ったことがあります。私の身近にいる人のロを通して語ったことかありますけれども、親鸞が出て来て、その人の口を通して語ったということは、その人が親鸞とは違う方であるということです。これは私は、はっきりしておきたいと思います。 まあこういうことは、GLAにいる人たちにとってはおそらくショッキングなことであろうと思うけれども、事実は事実ですので、私ははっきりしておく必要があると思うのです。またそれはね、あなた方自身がおかしいというのではなくて、高橋信次自身が間違っておったことでもあるから、それを修正せねばならぬと思うのです。 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 私自身が、自分を釈迦だと思っていた時がありました。そして『人間・釈迦』も書いたし、霊道現象においても釈迦の意識として、ずいぶんいろんな人たちの病気を治したり、あるいは現象を起こしました。そのために、私自身が自分の過去世を釈迦だと思いました。そう思っていました、何年かの間。 そのために釈迦弟子というのがいっぱい出て来てね、いろいろ話をしました。現象の中で。その中で、間違いがずいぶん多くありました。高橋信次が釈迦なのではなくて、要するに高橋信次を助けるために釈迦の意識体の一部が高橋信次を指導しておったということです、当時ね。そして過去世のことを教えたり、あるいは他の聖霊たちとインドのことの話をしておったのです。 私自身は、現在エル・ランテイという名前でも呼ばれているし、あるいは西の方の地では、エホバだとか、ヤーヴェだとか言われている人間でありました。けれども、私自身が最近地上に出て、肉体を持ったことがなかったがために、私自身の過去世というのがなかったわけです。 しかし過去世がない人間が、人間には過去世があるということを一生懸命説いているわけですから、こういうのは非常に具合が悪いわけであったのです。それでは困るということで、とりあえす釈迦の意識を使って、インドの時の模様などを一生懸命語っておったわけです。しかし、これは誤解であったわけです。 人間には皆過去世があるから、自分にも過去世があると私は思っておったのです。ですから、過去世がないと困るから、そういうことで釈迦の意識体を借りてきて過去世を一生懸命しゃべっておったわけです。それで釈迦弟子なんて出ておったから、「なつかしい、なつかしい」といって涙を流して語っておったんですけれど、これは高橋信次の過去世が、皆さんの知っている文明の中にはないことが分かって、今、非常にしまったと思っておるところです。 ただ、残されてしまった人たちはそれを聞いて、「そりゃあ、嘘つきじゃないか」と。「そんな、ペテンをやったな、お前は。どうやって責任を取るんだ」と。「それで天上界におるなんておかしい。そんな嘘をやった人間は地獄におって当然だ」と言うかもしれないけれども、まあ皆さん、私の言葉をよく聞いて下さい。生まれて初めて悟って霊道を開いて、自分自身が過去世でエホバの神であったなんて、もし言い出したなら、一体だれがあなた信じますか。エホバの神なんて地上に生まれたことありません。天上界におると言われて、イエス様が父だと言ったり、モーゼが唯一の神だと言った人です。それが自分自身だなんて、言えるわけがないんです、絶対に。そういうことなんです。 しかし、私も地上では神理伝道の使命がありますから、過去、自分が何かを一生懸命説いたはずだと思っていましたからね。過去説いたことがあるとすれば、仏教に違いないということで一生懸命しゃべっとったわけです。ま、これもやらされとったということですね。 私自身も最近めずらしく肉体を持ったので、それで釈迦のハ正道を現代に復活させるという、そういう第一段階の使命を持って、教えを説きました。そして自分自身も肉体を持つことによって、高橋信次という個性を得ることができたわけです。それによって地上の皆さんと、今、こうして話ができるというわけです。 これが皆さん、ヤーヴエの神が今、出て来て話したとしたら信じられません。ところが高橋信次がしゃべっているから信じられるのです。高橋信次というのがGLAにおってしゃべっとったから、その記憶を持った人がいっぱいいます。だから信じられるのです。それでいいのです。そのために出たのですね。 だから私が今世、生まれた目的というのは、そういう釈迦仏教の露払い、ゴミ落としと、自分自身の個性を得るという、こうぃう使命と目的のために出たわけです。そうして、これから本当の仏法が、説かれていくための準備をしたわけです。そういう意味があったのです。 だから今回は何重にも構造されて、今回の事業が絶対に失敗のないように、計画をされておるのです。これを私は、はっきり言っておきます。絶対に失敗はないのです。そのためにダブルで出て来ているのです。九次元の大マイトレーヤ、大如来が二人も出て来ているのです。こういうことがあるわけですね。 19.人につかず、組織につかず、法につけ ですから私は今、GLAの人たち、あるいは私の過去の教えを学んだ人たちにも言っておきたいけれども、あなた方は組織にとらわれてはならん。高橋信次がつくった組織にとらわれて、これが真実だ、あれが真実だ、我こそは正しい後継団体だと、こんなことを言い争ってはならんです。人につかず、組織につかず、法につくことです。真実の法をつくり、残していくことが本当のやり方であり、本当の使命であって、それ以外にどういう団体を創ったから、それを守っていくとか、これが本物、これが偽物とか、そういうことは、どうでもいいんです。 ですから私も、高橋信次として出て、地上でつくった団体、これを要するに、はっきり言えば、解消してしまう目的のために私は今、語っておるのです。そういう団体は、どうでもいいのです。真実のものが伝わればいいんです。法が伝わればいいんです。法をつくることが今、大事なんです。 GLAであるとか、あるいはGLAの流れをくむいろいろな団体がいっぱいあります。私の弟子たちがやっています。こんな組織そのものを守ることは、どうでもいいのです。そんなことは意味ないんです。彼らには、この地上を救う力がないんです。そんなことはどうでもいいのであって、高橋信次は義理だてしないのです。GLAだろうが、私のかつての弟子たちがやっている団体であろうが、義理だてしないのです。全然関係のないところへ出て来て、今しやべっておるんです。 その理由は、一日も早く正しい法を残して、全世界の人びとを救わねばならんからです。そういう使命のもとに出ておるのです。一宗一派は、どうでもいいのです。 ですから過去において、私の教えを学んだ者たちも、もう一度、心を白紙にして、真実の法を学ぼうと、今、決意してほしいと思います。そのために私が、出て来てしゃべっておるのです。これは一宗一派じゃないんです。神仏の意志を体して、地上に本当の法を残すための運動が今、起きておるのです。これを、地上の皆さんは知ってほしいと思います。 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 まあ大宇宙には、非常に高い次元の意識があります。今、私たちは九次元というところにおりますけれども、九次元以上の十次元にも意識があります。十次元には、「地球意識」とか、「大日意識」とか、あるいは「月意識」とかいうような、三つの大きな意識体があります。惑星意識であります。さらにこれ以上に、たとえば十一次元に「太陽系意識」、十二次元に「銀河系意識」ってものがあります。こんなのは、もう人間ではありません。もっと上の意識もあります。そういうふうに十一次元、十二次元、十三次元、十四次元とこんなふうにいっぱい上の次元があるのです。 そして本当の神様って何次元か絶対に分からないのです。私のところにいてもね。あるいは九次元っていうのは、もしかして富士山の裾野(すその)の方かもしれないのです。神様ってのは二十次元にいるか、五十次元にいるのか分からないのです。 けれども高次元に行けば行くほど、だんだん神の実体とは何かが感じ取れるのですね。神様ってどうやら光であるってことは、もう明らかなのです。一つの光であり、エネルギーであリ波動であり、また愛と慈悲の流れであり、すべてを生かしめる大調和のエネルギー体であり、本源であるってこと、これだけは明らかなことです。 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ そうした大調和の世界の姿をつくるために私たちは今、いろいろな人格をとって、役割分担をして、天上界および地上界を治めているのです。この地上を地ならしし、そして天上界の人びとを統制し、統治しとるのは、その唯一の神から出ている力なのです。そのために私たちは人格をもって、いろんなことをやっておるのです。 私たちは時どき、神様と呼ばれることかありますけれども、本当の意昧での神様ではありません。私たちが神であるというのは、上下(かみしも)の上(かみ)であり、人格神です。 だから本当の神っていうのは、宇宙本源の神っていうのは分かりません。もっと高いところにあります。こういう宇宙の構造があるのです。この中で、私たちは生きておるのです。 ですから皆さん、そういう無限の世界かおるということを知りながら、その中で自分の現在置かれている小さな立場、三次元にある立場というものをよく考えて、一日も早く、そのことを悟り、そして真実の生き方に目覚めることですね。これが大事なことです。 そういうことで、今日は、「大宇宙と神理」ということについて、お話をしましたけれども、まあこうした話は、これからまだまだ続いていきます。皆さんの理解の程度に合わせて、私は何度も話をしていこうと思います。ありがとうございました。
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依頼主 ナビィ 出現条件 2013/1/7 18 00以降 クリア条件 1/10 12 00 までに 以下のモンスターを討伐する鵺:12 成功報酬 豪華鯛の贅沢焼きめでたくお正月を迎えるために、一匹丸ごと焼いた鯛。親密度2500上昇。 依頼時 大変です!日本神社の鵺が大暴れしています!鵺をいっぱい倒してください♪ クリア時 ???
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依頼主 ナビィ 出現条件 2013/1/4 19 05以降 クリア条件 1/7 18 00 までに 以下のモンスターを討伐するダイダラボッチ:15匹 成功報酬 紅白の門松不思議と壊れない門松。門松に巻きついた白い大蛇が、持ち主の身を守ってくれるとか。攻撃力411、防御力517アップ! 依頼時 大変です!日本神社のダイダラボッチが大暴れしています!ダイダラボッチをいっぱい倒してください♪ クリア時 ???
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依頼主 ナビィ 出現条件 2013/03/15 17 30以降 クリア条件 3/18 12 00 までに 以下のアイテムを持ってくる甘酒:100 成功報酬 エリクサー(行動力回復)行動力が完全に回復する薬。味は良くないが効果は抜群。冒険者の必須アイテム。 依頼時 オオクニヌシ様の勇気を称えて、弁財天様が宴会を催すそうですよ~!ナビィは甘酒を集める役なので、持っていたら分けてくれませんか~? クリア時 ありがとうございます!ナビィからのお礼、受け取ってください!宴会にもぜひいらしてくださいね♪
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目次 1.新しき時代の前ぶれ 2.感性の文明とは 3.文明で変わる価値観 4.ゴンダアナ文明と霊文化 5.ミュートラム文明と食文化 6.地球意識による極移動 7.大日意識による文明光線の調整 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 9.レムリア文明と芸術 10.ムー文明の興隆 11.アトランティス文明と光 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ 13.現文明への流れ 14.百万年の歴史をふり返って 6.地球意識による極移動 このミュートラムの大陸は極移動で寒帯入りをしました。極移動は、もしかすると、私たちが生きているときにも、またあるかもしれないと予言されています。なぜこの極移動があるのか、不思議といえば不思議なことですが、結論をはっきり申しますと、これはひとつの新陳代謝なのです。地球は生き物なのです。あるところは寒帯になり、あるところは熱帯になっていて、いつも同じように身体を太陽にさらしているわけです。 たとえば今、私が日なたぼっこをして光を浴びているとします。すると陽の光があたっている側は暖かいのですが、陰になっている下のほうは寒いのです。そうやっていつも同じ格好でいますと、熱いところは熱く、寒いところは寒く、ひじょうにアンバランスになってきます。そこで、どうするかといいますと、急に向きを変えたくなるわけなのです。 それと同じような感じで、生命体としての地球も、やはりある周期でブルブルッとくるときがあるのです。これが、どのくらいの周期で起きるかは私にもよくわかりませんが、ただ、十次元意識としての地球意識が、やはり時どき変革をしたいという気持ちを起こすのは確かです。そのときに、このような極移動が起こることがあるのです。自分というこの地球上でいろいろな生命が育まれているけれども、現在の状況を変えたいという気持ち、また違った環境を創ってみたいという気持ちが起きることがあるのです。その一つの方法が極移動なのです。極移動によって、温帯と冷帯が入れ替わったり、熱帯と寒帯が入れ替わったりします。 もう一つの方法としては大陸の、浮上、沈没というやり方もあります。噴火とともに隆起してきたり、大地震で沈没したり分裂したりという地表の動きです。 このように活動して何をしているのかといいますと、地球意識も何もしないでじっとしていれば退屈するということです。彼らもやはり一つの芸術家であり、何億年もかけて、いろいろな環境を創ることを意図しているのです。どのような環境を創れば地球がいちばん繁栄するか、人類の進化に役立ち、繁茂している植物あるいは動物たちの進化・繁栄に役立つか、このようなことをやはり意図しているわけで、そのためにいろいろな環境を創出するのです。 いつも同じであれば停滞してしまいます。ところが温帯や寒帯が入れ替わりすることによって、植物もまた新しく違ったものが出ることができるのです。そして、いろいろと変わった植物が発生し繁茂していきます。その後に、それを食物としている動物もまた変化してきたり、いろいろなことがあるからおもしろいのです。 7.大日意識による文明光線の調整 同じように大日意識という積極性の意識は、太陽神霊の光線を引いているわけでありますが、やはりどういう光線を強くしていくかをいつも調整しています。文明が変わっていく理由は、ひとつに、この大日意識の調整によるということです。これが光度を上げて九次元をプリズム化して調整しているわけですが、この光の強度も変えたりするのです。強弱を調節したり、あるいは光の質を変えてゆきます。そしてこの時代ではどのような光線を強くしようかということを大日意識が意図すると、その方面の光線が強くなるのです。するとそれが地上に反映されてきて文明の特徴が現われてくるのです。そしてその時代が過ぎると、また次の光線を強めていくのです。 このように十次元のなかでも大日意識は、そうした光線によって調整をかけ、地球意識では環境を芸術的に変化させることで調整をかけながら、いろいろな影響を与え歴史を創ってきています。その間で人格を持った高級諸霊たちががんばって天国創りに励み、ユートピア創りのために活躍している、このような環境であることを知ってください。 8.魂修行のためにある時代・環境の変化 このようなことは、スケールがひじょうに大きいので私たちからはよくわかりませんが、彼らにしてみればこうした何十万年、何百万年ぐらいの間での地殻変動等であれば、意外にそう悠久のことではないという感じであると思います。そのような雄大なスケールの時間の流れのなかで私たちは手の平にのせられて魂修行をしているということを知らなければならないのです。 ですから、このようなことを単なる幸・不幸の感覚でとらえるならば、みなさんは勉強不足ということになってしまいます。このように過去においていろいろな文明が生まれ、栄え、そして滅びたということを繰り返してきたけれども、そのたびに人類はいろいろな魂学習をしてきたという事実があるのです。 この現文明においても同じようなことがあるかもしれませんが、またこれも、そのような流れのなかにあるということです。収穫逓減の法則というものが経済学にありますが、それと同じように一つの大陸で一つの文明が栄えて固まってくると、魂修行の値打ちがだんだんと低減していって、生まれ変わってもそんなに魂的に学ぶことがなくなってくるのです。 そうしますとやはり、どうしても環境を変える必要が出てくるのです。そのためには何か地球自体の環境を少し変えるか、あるいは違った光線を強くしていって文明の価値観を変えるのです。光線の色が変わってくると、それにつれて、人類の価値観が変わり、新しい文明が興ってくるのです。こういうことが言えるのです。 9.レムリア文明と芸術 ミュートラム文明が滅びたのは、水上に顔を出したボールが、くるっと一回転するというような地軸の変化によるものでした。ミュートラムの首府ラ・ミュートという都市もすっかり大雪で凍りついてしまって、ほとんど全滅してしまったのです。しかし、ごく一部の人びとは船で逃れて次なる大陸に行くことができました。 それが次なるレムリアです。このレムリアの歴史のなかでは、ゼウスの前身でエレマリアという人がひじょうに有名です。このエレマリアは文学芸術の全般にわたる万能の天才で、このエレマリアの名前の由来もレムリアに降りたる神の光という意味のエル・レムリアという言葉から発しているというほどに偉大な方であったのです。したがって、前のミュートラム文明は食生活文明でありましたが、レムリアは芸術中心の文明になってきたのです。そして大聖エレマリアは、芸術を通して人びとに生きる歓びと神の栄光を教えていきました。現代でも芸術方面に優れた才能を発揮している人は、この時代に勉強した人が多く、読者のなかにも思いあたる方もいるのではないかと思います。 ①マルガリットの芸術至上主義 このエレマリアの後にレムリアに巨大な光をもたらしたのが、マヌと呼ばれている人です。今から二万九千年ほど前のその時には、名前をマルガリットと呼ばれていました。大師マルガリットと尊称されていましたが、マルガリットとは、「競い立てる者」という意味であり、これには二義があります。一つは全能の神と崇められたエレマリアと競い立つという意味で、もう一つは芸術を通して各部族を競わせるという意味です。ここに現在の民主主義に近い考えが出てきたわけです。 芸術に競争原理を持ち込んだということですが、民族を音楽、絵画、文学、建築、加工技術の分野に分けて、それぞれに最高のものを追究させ、そして三年ごとに最高の芸術を決める競技会を開催して最優秀となった部族を支配階級として、三年間治めさせました。そしてまた三年たったのちに競技会を開くというようにしていたわけです。現在アメリカでも大統領の任期が四年ということになっていますが、それと同じような意味で洗礼を三年ごとにやっていたわけです。 芸術性を発揮するということは、この当時は神に近づくことでしたから、最高度に神に近づいた部族が支配階級になって治める権利が与えられ、その代わり修行や勉強を怠って芸術性が落ちると、三年後に転落するわけです。そして次の支配階級が出てくるということを考えたのです。 芸術という限られた領域ではありましたが、公平に競争させて、勝者を統治者にするという考えは、競争主義の先駆けとも言えるでしょう。同時に祭政一致という考えでもあるということです。競争させる対象を神に近づいていくということにもっていったわけです。ここが現在の競争原理と違うわけで、単なる得票だけで表わすことはなかったのです。 ②新しい時代の神政民主主義 現在であればいろいろな政党がありますが、この考え方をとり入れるとするならば、どの政党の主義主張、あるいは実践してきたことが神の心にいちばん近いかという基準をもうけるのです。それで過去三年間の実績を出されるのです。その政党の過去三年間の主義主張、活動、これが神理にどれだけ近いかということではかられて、その三年間の実績でいちばん神の心に近いと思われる活動をしたところが与党になるわけです。そして政権を与えられて国政をまかされるということになるのです。 このように考えてみますと、現在の民主主義的な考え方を活かしながら、この祭政一致をとるという方法論が、具体性を帯びて浮かんでくるのではないでしょうか。従来は民主主義のあり方と祭政一致主義とは両立しえないものと考えられてきましたし、霊言集のなかでもそのような見解がずいぶん出ています。日本神道系の考え方と、リンカーンの考え方ではかなり違いがあります。 どちらがほんとうによいのかということになると、デモクラシーがやはりいいという考え方があれば、一方においてはそれは最悪を防ぐ制度でしかなく、最高のものではない、徳治主義こそ最高だという考え方もあるのです。しかし、徳治主義は腐敗しやすく、一代限りになって、あとが続かないことも往々にしてあります。 このあたりをどのように調整するかという観点から判断すると、ある程度のコンペティション(競争)をしながら、そのなかからもっとも神理にのっとり、神の子に近い主張を持って活動をしているところを選ぶという方式を採用するようにすれば、いちばん神理にかなうわけです。 したがって、このような方法を活かすとすれば、現在の選挙制度の方法である得票のあり方を多少変えていく必要があると思います。たとえば単なる得票の数ではなくて、地上ユートピア建設へどの程度貢献しているかということを、選挙や国民投票の得票あるいは間接選挙などの方法で競わせたならばどうでしょうか。その政党がどれほど神理に近いか、どれほど活動において、菩薩行としての社会に対する実績があるかということを、得点化して競わせるならば、ひじょうに理想の政治に近づくということです。このように、いろいろと過去に学ぶことによっても、知恵は湧いてくるのです。 10.ムー文明の興隆 ①レムリヤからムー大陸へ このレムリヤの最期は、二万七千年前ほどでありますが、あっという間でした。暑い暑い夏の日の午後、人びとが音楽に酔いしれているときに突如、大陸が陥没していったのです。まず、大陸の東端から沈んでいって、午後四時ごろには半分ほどになりました。そして翌朝の七時には、大陸は見る影もなく、そこには朝日がきらきらと青い海原を照らしているだけでした。 レムリヤ大陸に住んでいた二百五十万人くらいの人も、全員海の底へ沈んでいったのです。ただ、このときも植民地があって、そこだけが残っていました。この植民地の名がモア大陸、のちにムー大陸と呼ばれる大陸です。現在のインドネシアのあたりにあったのですが、オーストラリアの約二倍ほどの面積がありました。 レムリヤの人びとは帆船で大軍団を組んで、二万八千年くらい前から、この大陸の諸都市を植民地化し始めていました。そして、一部を奴隷化して、レムリヤにつれてきて奴隷階級をつくりました。そして、生活に必要な仕事を奴隷にやらせ、自分たちは、当時もっとも神に近いと思われていた音楽、芸術に酔いしれていて、生産的なことにはいっさいたずさわりませんでした。 この非生産的な傾向が、だんだん狂いを生じさせる原因となって、レムリヤの人びとは驕(おご)り、酔いしれるようになり、次第に神の心から離れていきました。そして、その悪想念が巨大化し、それに対する反作用が起きて、大陸の陥没という最悪の事態になっていったのです。 ②光の文明 さて、ムーでも二万年くらいまえから、大きな文明の盛り上がりがありました。このときにゾロアスターの前身があらわれて、その。名をエスカレントといいました。このエスカレントという名前は、現在の英語のエクセレントの語源となった言葉で「すばらしい」という意味を持っています。 そして、この大聖エスカレントは太陽科学エネルギーをひじょ与に重要視しました。そして光を、まず第一としては、「聖なるもの」、すなわち、神の栄光を表わすものとして位置づけしました。第二には「有用なるもの」としての位置づけをしました。 最初の、光は聖なるものということから、太陽や月の光に対して、両手をあわせておじぎをするという、そのようなしきたりが生まれました。これは東洋の礼儀の源流になっています。ですから、二万年くらい前に東洋の礼儀作法の源流があるわけです。 第二は光のパワーを科学的に利用する方法が研究されていました。エスカレントは、クートフーミー、後にアルキメデスやニュートンと呼ばれる人の指導や、またエルランティの科学的指導を受けて、光パワーの増幅ということを中心に注力していたわけです。 ここで、この太陽の光エネルギーを使った発電装置についての説明をしてみましょう。都市の中心部には、一辺が三十メートルくらいの正三角形でできたピラミッドがあって、銀色に輝いておりました。そしてそれが各町の中心にある一辺が一〇メートルくらいのピラミッドに放射されて、それから各家庭の屋上にある一辺の長さ一メートルの小ピラミッドにつながるという方法でした。もちろん電線は使いませんでした。 この装置は巨大ピラミッドのようなもので、銀色に光っていたのですが、これは光を浴びているからそのように銀色に見えるのであって、材質そのものの色は銀色ではなく、近寄って見るとガラスのように透明なものでできていました。 そして、そのなかに金属でできた一つの原子炉のように見えるものが入っていました。それは、透明なものでありましたが、遠くから見ると銀色に光って見えました。これが太陽エネルギーを入れる装置で、ピラミッドパワーとよく言われています。私もくわしくはわからないのですが、どうやらピラミッドの形には、ひじょうに特殊な意味があるようで、光を蓄えたり増幅したりする力があるらしいのです。 この太陽エネルギーの巨大増幅装置をつくって、太陽光線を集めると、その内部にどうやらこの光エネルギーを溜めることができたようです。そして、そのなかからアンテナのようなものを通して、小さなピラミッドにそのエネルギーを放射する装置があったのです。 このような装置によって、現在のような電信柱や電線というものがなくてもエネルギーの転送ができたわけです。その代わりこの中心部のピラミッドは、小高い所にできていたことが多かったようです。それより高い建物を建てるとやはり邪魔になりますので、小高いところに建てて、次から次へと太陽エネルギーを放射していったのです。これは、ちょうど、昔はのろしなどを上げて次々に合図を送っていったりするのと同じような考えの方法でエネルギーを送っていきました。このピラミッドパワーは、アトランティスにも引き継がれています。 ③ラ・ムーの宗教政治 さてラ・ムーの時代です。一九八八年の十月の講演会「反省の原理」のなかでもラ・ムーの反省法の話を少しさせていただきました。本書ではラ・ムーの教えの中心として、第一に、太陽のごときものを神と考えるという考え。そして第二に、人間は神の子であるから太陽のごとく光を放ちながら、愛と慈悲に生きなければならない。第三番目に、すべてのムー人は向上を人生の目標としなければならない、ということをあげておきたいと思います。 この三番目の教えにある向上とは武芸、学業だけに適用されるのではなくて、いかに霊性を高めるかというところがポイントだということで、これは、釈迦の教えの源流にひじょうに近い考え方です。何度も言っておりますが、ラ・ムーの考え方と生涯そのものについては、やがてまた書に著わしたいと思っています。 この時代も政治と宗教の一致がだいぶ問われていて、政治をする人はやはり神近き人でなければなりませんでした。その意味でいつの時代でも大宗教家は政治家にならなければ、話が合わないということです。ところが、現在は政治もだいぷ技術的な部分、専門的な部分が増えてまいりまして、かなり難しくなってきたことは事実です。 ですから官僚組織のようなもので、専門的な部分をしっかりさせて、政治家は大きな判断のほうを主としてやっていくようにすれぱよいのではないかと思います。大宗教家が政治家になる時代が、やがて日本にもやってきます。今後何十年か、かかりますが、必ず国政をになう大人物が登場してきます。 このようにしてある意味での祭政一致、つまり地上において国のトップにたつ人が神理を悟っていることはだいじなことなのです。それを知っていて施政方針や本年度の方針などの話をされればよいのです。神理を語ってくださればこんなによいことはありません。新聞にも全部載りますし、テレビにも出ます。ラ・ムーの時代のように、神理を悟った人が国民の前で神理を話す、やはり、これを目指さないという手はないのです。 政教分離などと言っておりますが、そのような条項は四十数年前のアメリカ人と日本人の憲法学者が話して決めただけのことですから、必ずしも神理とは言えないのです。浅い知恵で見れば、宗教と政治がいっしょになればおかしくなると考えることができます。そして、そのような例が過去にあったということもあります。しかし、正しい時代には、神理と政治が一致していた時期が確かにあったのです。間違ったところばかりをとらえていたのでは、性悪論になってしまいます。 この政教分離の考え方のなかに、宗教をいかがわしいものと思っている考え方が明らかにあります。それが、戦後の宗教の地位低下を確かに招いています。今の日本では制度的に宗教が存在悪ととらえられているのです。やはり、これは何とかしなければいけない問題であると考えます。 ラ・ムーによって、その最盛期を迎えた、ムー文明もレムリヤの最期と同じように今からおよそ一万五千三百年前の大陸の沈下によって滅びてしまいました。 11.アトランティス文明と光 ①生命エネルギー転換法 アトランティスとは大西洋にあった大陸の名前です。この時代には、クートフーミーという名の偉大な科学者が生まれました。そして、植物の生命のなかの神秘の力に気づきこれを利用することに成功したのです。これも、おもしろい発見でありますが、ようするに、生命エネルギーを私たちの活動エネルギーに変えるという、エネルギトの質的変換の方法を発見したわけです。たとえば花の蕾(つぼみ)が花瓶などにさしておくと、水だけで花が開きますが、これは実に不思議なことなのです。小さな白い蕾などが、真っ赤な花を咲かせるのは、いったいどこにそのようなエネルギーを秘めているのでしょうか。 この生長と活動のエネルギーに、エジソンなどの発明家が着目し、ずっと眺めていると、何かに使えるのではないかと思うわけです。そしてこの生命エネルギーをなにか他のエネルギーに転化しようと考えても不思議はありません。 この時代には、植物のこの旺盛なる生命エネルギーが、生活のためのものすごいエネルギー源になることが発見されていたわけです。そうすると、自宅に球根をおいておくだけで、それさえあれば、その球根が発芽していくエネルギーを転換して、家の必要とするエネルギーをほとんどまかなえるという方式がありました。 今後このようなエネルギーが、発見される可能性はあります。ウランから取り出す原子力エネルギーも原子核分裂の連鎖反応で生じる大量のエネルギーをとり出すことに成功したものです。水素爆弾は、水素のなかでも特殊な水素が核融合してヘリウムに変換するときの核エネルギーを使うわけです。そういう物質の根源的な質的変換の反応のエネルギーには、ものすごい力が実はあるのです。花なども匂いが漂ってきて、そこには化学反応が起きているわけですけれども、それ以外に根源的な「生命エネルギー反応」というものがあるわけです。生物学が好きな人は、ぜひこの分野で研究してみてください。必ず何かできるはずです。 ②クザーヌスの理神論 ムー大陸が沈み、その末裔が、アトランティスに落ちのびて、ムー文明のピラミッドパワーを、アトランティス人に授けたころ、またマイトレーヤー如来という方があらわれました。その名はクザーヌスと呼ばれ、ピラミッドパワーと太陽信仰をあわせた「理神論」と言う信仰を説きはじめました。 この思想は、理性的なるもの、科学的なるものは、すなわちそれは神の心にかない、また神の心は、理性的、科学的なものを欲するということであり、そしてその最たるものとして、太陽の光をあげた思想なのです。 太陽というのは、よく信仰や崇拝の対象にされますが、その太陽は、そうした信仰の対象であると同時に、私たちに実際の恩恵を与えてくれている、つまり科学的に見てもそうとうのエネルギーを供給して私たちを養い、導いているものであり、これが神の存在そのものではないかという考えです。ほんとうにすばらしい信仰は、科学的な有用性に裏付けられているという考え方であり、これが一世を風靡(ふうび)しました。 このような考え方は、後のヘーゲルなどの考え方にもあるようです。「理性的なるものが現実的であり、現実的なるものが理性的である。」という言葉でありますが、それを思わせるような感じがします。太陽エネルギーについてはこれはこれで、そのとおりの発見なのですが、ほかのところにもってきますと、もちろん違ってくることもあるわけです。それゆえに考え方のうえにおいて、後々の宗教家たちを縛ることにもなっていきました。 つまり、科学的に証明ができないようなことは、おかしいというような現代によくある考え方です。クザーヌスという人は理性的なものが神の心にかなうのだと言っているのだから、それに反する理性的でないものは、すべてまやかしだ、インチキだという、宗教狩り、悪魔狩りにつながっていく危険性を含んでいたわけです。 アトランティスの時代の飛行船や、船についていたシンボルのシャチは、この当時アトランティスの象徴であり、このことは『太陽の法』に、くわしく説明されています。これは『高橋信次霊訓集』にも触れられています。船の形や長さが多少違うことを言っているかもしれませんが、描写している時代が違うためのようであります。 12.宗教政治家アガシャーに学ぶ さらにアガシャーの時代に入ります。これは、アトランティス末期に出られたひじょうに有名な方です。アトランティスの首都にポンティスというところがありました。このポンティスという都市は、現在のスペインのマドリッドから西南の沖のほう、距離にしてマドリッドから一五〇キロくらいの位置にありました。その当時は人ロ七〇万人の都市で、そこには代々王族が住んでいてその名をアマンダ族といいます。 アガシャーは、このアマンダ族の王子に生まれて、幼名をアモンと呼ばれておりました。そして二四才で名をアガシャーと変え、その名の意味は「叡智を秘蔵せる者」というものでありました。これは、イエス・キリストの生命体です。イエス・キリストもアガシャー系団の一人なのですが、どちらかといいますとアガシャーというほうが本体に近い部分で、そうとう大きな力をもっています。またなんらかの形でこの人の考え方なり、力というものを紹介してみたいと思ってます。 アガシャーは、ラ・ムー同様に政治家兼宗教家でした。彼の治政での特徴は、毎月一回一〇万人以上収容できる大広場に市民を集めて説法したということです。そのころにもワイヤレスマイクのようなものがあったようです。そして愛の説法を主として説いておりました。 前節でも日本の宗教政治家の出現について触れましたように、このようにアガシャーのような人があらわれて毎月、国民を集め、説法をすることは大切なことなのです。 これがほんとうに人々を心から神の御心に帰依させ帰順させることになり、彼らが生きていくためにひじょうによい結果をもたらすことができるのです。国を治める人がそのような生き方を指導することが一番よいのです。 ですから、このあたりが、現在の政治制度に欠けていると言わざるをえない点であると思います。やはり、心の教えを説いてほしいのです。このような愛の教えや、隣人愛、そして一日に一度は一人で静かに祈り、守護・指導霊と対話する時間を持つことの大切さ。また、人の偉さは愛の量ではなく質ではかられるということ。このようなことを政治家が話をするのならば聞きに行くこともできるのですが、実際は、票集め演説や、他党の批判ばかりをしていて肝心の中身がありません。ですから、ほんとうは選挙のための演説をするのならば、神理の話をどんどんしてくだされば聞くほうも、話すほうも身になります。あるいは、町長さんや村長さん市長さんがいて、時どき人々を集めて神理の話をしてくだされば、どれほど住民の心が潤うかわかりません。 したがって、このような人たちが、表に出ていけるような時代風潮を創らなければならないと思っています。その前提としてやはり今、この逆になっている価値観をもう一度ひっくり返すことが必要なのです。逆ピラミッドをひっくり返すということです。 いちばん頂点に立ち、立派であるべきものが、今いちばん底辺におかれている状況でありますから、このピラミッドをもう一度ひっくり返すためにいろいろな時代背景のなかでそのような風潮を創っていく必要があります。それゆえに値打ちのあるものを創ろうという点でいろいろな努力を現在しているわけです。 これがあやしげな団体と言われないように、あるいは、評判の悪い団体にならないで、評判のよい団体になるように、一人一人がすばらしくなるように、できればそのような感じに持っていきたいと思っています。そうでないとこの状況は変わらないのです。絶対に変わりません。 13.現文明への流れ さて、聖クザーヌス派とアガシャー派が対立して、最後はアガシャー派が生き埋めにされてしまうのですが、このアガシャーの長男のアモンニ世は、逃れることができました。これが、『キリストの霊言』に出ているアモンです。 彼は飛行船で逃れてエジプトに行きました。そしてエジプトで太陽信仰のような教えを説きました。アトランティスの信仰をエジプトに持っていったのです。このエジプトから次にギリシャ、ギリシャからヨーロッパヘと文明がまわっているのです。 東洋文明の源流はムーにあります。ムーの文明が東洋に広がり、西洋はアトランティス文明からはじまっています。おもしろいと思います。 ここで釈迦の生命体の転生を少し説明すると、クラウド、ヘルメス、ブッタ、トス、ラ・ムー、あとは、オフェアリスという魂がおり、ギリシャでヘルメスの前に出ています。彼はいまからちょうど六五〇〇年前に出ています。これがヘルメスの前身として出てギリシャ的精神の礎(いしずえ)を創りました。そして、その後四二〇〇~四三〇〇年前にヘルメスが出ました。だんだんこのあたりの秘密は明らかにしていきたいと思っています。そしてゼウス、モーゼ、イエスと時代は下っていくわけです。 14.百万年の歴史をふり返って この章の最後に、けっきょく何が言いたかったかということを整理してみましょう。 (1) 文明には、必ず栄枯盛衰がある。 (2) 神は、必ず各文明に、偉大な光の指導霊を出している。 (3) 文明が最盛期を迎え、最後の光が輝いているころ、魔が競い立ち、暗い想念エネルギーの雲に人類がおおわれるようになると、地軸の変化とか、大陸の陥没という大異変が必ず起きている。 (4) 新しい文明は、古い文明の流れを受け継ぎながらも、必ず異なった価値尺度を求める。 (5) しかし、どのような文明であろうとも、魂の修行のために転生輪廻の過程で必要な修行の場であったという事実にはかわりない。 ということです。 以上に書かれたことは、いったい何を意味しているのでしょうか。この五項目は、なんのためにあるかというと、これからは危機の時代が来るかもしれないが、過去においてもそのようなものがあった、そのつど人類は、その危機を切り抜けてよりいっそう高い魂の境地を目指して努力していたのだということです。 この過去の文明、ここに生きていたのは、他人ではなくてみなさんご自身なのだということです。みなさん方はいろいろな時代に生きたのです。そして現代にも生まれ変わってきているのです。ですから、その過去の時代を無駄にするなということ、今世だけが末法であるとか末世であるとかと思うなということです。それは、次なる時代が始まるということなのです。これを知っていただきたいのです。 ですからこの、いったん沈んだ神理の太陽がまた昇る、というところに救世の書『太陽の法』ならびに本書『太陽のメッセージ』のメイン・テーマはあるのです。過去に昇っていた太陽が今また昇っているのだということをみなさんにお教えしているのです。これがひとつの大きなテーマなのです。
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女 「ふえぇ~ん、アマテラ姉さんがヒキニートになっちゃったよぉ~」 男A「あの人休んでたら俺らもにっちもさっちも行かなくなっちゃうぜ」 男B「参ったなぁ……」 男C[そんなことより見てくれ!俺の大胸筋をどう思う?」 男B「すごく……おおきいです」 男A「死んでくれ!!」 男C「小さな悩みなんか、俺の筋肉で吹き飛ばしてくれるわ!!」 男B「タジやんかっこE!!」 男A「乗せんな。ヤローの身体見て何が面白いんだよ。見るなら女の……」 女 「………………」 男A「……………………」 女 「……………………………」 男A「………………………………よし、ウズメ」 女 「ヤです!!!!」 男A「なんで言う前に拒否するんだよ!!」 女 「わたし脱ぎませんよ!そんな!!売れなくなったアイドルじゃあるまいし!!」 男B「ウズメちゃんははじめっから鳴かず飛ばずじゃ」 女 「トェェェェェェェェェイ!!」 男B「ナイス裏拳!!」 男A「まあ聞け。いいか、アマテラ姉さんは知ってのとおりミーハーだ。 きっと俺らが表で騒いでたら、気になって出てくるに違いないさ」 女 「う、的確にあの人の性格を読んだ発言。で、でもぉ~、それって本当に脱ぐことないんじゃ」 男A「バッキャロォォォイ!!てめーは舞台ってもんをわかっちゃいねぇ!! いいか、舞台の上じゃウソついちゃいけないって演劇部ン時先輩に教わっただろうがよ!!」 女 「知りませんよ!!!!!」 男A「いいから脱げ!脱げ!脱げ!脱げ!!」 男B「あそっれウズメちゃんの、いいとっころ、ぁ見てみたい!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ! 脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!」 男C「そんなことより見てくれ、俺の上腕二頭筋をどう思う?」 男AB「「死ね!!」」 女 「うぅ……」 男AB「「脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!脱ーげ!」」 女 「ううぅぅう……………!!」 天照「………………………」ジー 女 「!!『ちょ、ちょっと!オモカネさん!!』」 男A「あンだよ、さっさと脱げよスポーンとよォ」 男B「見られても別に減るモンじゃねェだろーがよォ」 女 『そ、それよりホラ、アマテラ姉さん見てますよコッチ!今がチャンスです!!』 男A「タジ」 男C「マッスル扉封じ!!」 ズズーン 女 「ええぇぇぇぇ~~~~~~!!!?な、なんで閉めちゃうんですかぁぁぁ!!?」 男A「 裸が!! 見たいからに!! 決まっておろうが!! 」 男B「オモイちゃんカッコE!!」 女 「か………漢だ!!」 男C[そんなことより見てくれ、俺の大殿筋をどう思う?」 一同「「「 お 前 は 脱 ぐ な ! ! ! ! 」」 大殿筋……ケツ筋のこと。大殿筋を鍛えないとだるだるのお尻になってしまうのだ!! 姉「お、いたいた。おーい、ヨミー」 男「ん、なんだ。姉貴か。何?今から俺メシ食おうと思ってんだけど」 姉「そりゃ丁度よかった。このコがアンタに渡したいものがあるんだってサ」 女「せ、先輩!これ、よかったら食べてください!!」 男「べ、弁当……?お、お、俺に?」 姉「よかったねー。地味なアンタにもようやく春が来たねー♪」 男「う、うるせーよヒキニート!」 姉「ハイハイ、声裏返ってますよ~セ・ン・パ・イ?」 男「ぐ……!」 女「先輩……」 男「あ、いや、その………あ、ありがとう………///」 女「………はい///」 姉(ニヤニヤ) 女「ありがとうございました!アマテラ先輩!」 姉「なんのなんの、可愛い後輩のために一肌脱ぐのは当然のことですよ♪」 女「わたし、あのお弁当、今日一生懸命早起きして作ったんですよ! わたしのオリジナルの味付けを考えて……。どうやったら気持ちが伝わるかなって頑張って……。 ツキ先輩が今あれを食べてると思うと、わたし感激です!」 姉(この娘はもぉ……チクショー我が弟にゃもったいないくらいいい子だねェ~) 女「お口に合うかわかりませんけど……これでわたしとツキ先輩はずっと一緒です! 一心同体です!恋人同士です!同じ墓です!ハァハァ……ハァハァ!」 姉「………あれ?ウケモっちゃん?なんか息荒くない?」 女「ハァハァ……考えただけで……身体が熱く…ハァハァ…! ………すいません、ちょっと保健室で慰めてきます……」 姉「慰める!?何を!?」 女「自らを」 姉「自らを慰めると書いてGィィーーーーッッ!!」 男「はー……地味地味と言われ続けて幾星霜……女のコの手作り弁当なんて初めてだよ…… なんかアンモニア臭がすごいけど隠し味ってやつかなって隠しきれてNEEEEEEEEEE!!!! むしろゴリ押しじゃねぇッスカーーーー!!スカーーーーー!!!!」 ルナティック流奥義☆ムーンサルトちゃぶ台返し!!!!
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目次 第1問 太陽界の秘密 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 2.九次元世界には十個の意識がある 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち 第2問 本体と分身の関係 1.本体・分身の正しいとらえ方 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 6.魂の組み替えについて 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である 第3問 運命と宿命 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 3・後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である 第1問 太陽界の秘密 (問) あなたがおられる太陽界とは、どのような世界なのですか。太陽界の秘密についてお差し支えなければ御教え下さい。 (答) 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 先日、太陽界のこともお話はしましたが、今日は質問ということでありますので、特別に、また話をしたいと思います。太陽界、あるいは宇宙界とも言います。九次元世界のことです。これは如来界、八次元の如来界の上にこの太陽界、九次元世界というのがありまして、これは全地球的なレベルで地球系霊団の役割、使命、あるいは進歩、向上、こういうことを計っている霊団なんです。 これが九次元世界にて行われています。まあ調整役ですね。如来たちっていうのは、八次元の如来というのは、それぞれの教えの大体トップになるような頭なんですよ。八次元如来界というのは、それぞれの大先生たちなんです。 ところが、私たちは、そういう教えだけでなくて、地球系霊団の全体の調整をやっているところなんです。そして、そろそろこういう教えの流れに変えなければいけないとか、こういうことをやっているのが私たち九次元の霊たちなんです。それで詳しいことは、また別途お話しする機会があると思いますが、九次元の世界についてお話ししたいと思います。 九次元と言っても、もう肉体的な人間が住んでいるかというとそんなことはないんであって、九次元というのは、意識の世界なんです。ただ意識の世界の中で翻訳すると、たとえば、イエス様のように出てくるとか、お釈迦様のように出てくるとか、こういう形になります。それでそういう巨大な意識体があるんです。 だから私たちからすれば、大会議場に入ってみんなで、地球をどうするかというような会議をしてるような姿をとっても、あなた方の世界から見れば、お星さまが集まって、瞬(またた)いているような感じかも分からない。あるいはガスのかたまりが集まっているような感じかも分からない。そういう形で、あくまでも人間的に翻訳すれば、こういう人がいるということであって、ほんとうは意識だけ、あるいはエネルギー体だけしかないんです。特色があるエネルギー体だから、そのエネルギー体が思ったことを、三次元的に声を出して言えば、こういう形になるということなんです。 2.九次元世界には十個の意識がある それで九次元には、人間的単位で言えば、約十名の方がいらっしやいます。そして十名の方がそれぞれの役割を担っておられます。しかしこの十名というのも、個人として十名いるんではなくて、意識体として数えれば十人ということで、一つの特色あるパイがあって、何人かに分かれて出ることができるんです。そのような名前をいっぱい持っていて、まあペンネームまたは役割をいっぱい持っているようなもんなんです。 たとえばあなた方でも、二足のわらじとか、三足のわらじとか言って、昼間仕事をしながら夜は作家であるとか、こういうことがありますよね。そういう感じで彼らもいろんな役割を持っているんです。そして地上に生まれる時に意識体の全部が出るわけでなく一部が出るんです。何分の一かが出るんです。四分の一、五分の一、六分の一、こういう一部が出るんで、それで還って来たときにそういう意識をまとうわけです。 たとえば、イエス様、イエスの意識というのがありますが、九次元にいらっしゃるイエス様の意識体と、ナザレのイエスと言われているパレスチナに二千年前に生まれたイエス様の意識、これはまったく同じではありません。部分という言い方は非常に物体的で分かりにくいんですが、そういう意識を持っているということなんです。だからこの三次元的に霊言現象をすれば、ナザレのイエスとしてしゃべりますけれど、それはイエス様の意識のすべてじゃないです。あくまでも、個性を持ったイエス様の部分なんです。 ですから今、高橋信次という名前で私が語っていますけれど、これは人間として生きた高橋信次の意識の部分が今しゃべっているんであって、本来すべてじゃないんです。ヒトデでいえば、ヒトデの一本の足みたいなのがしゃべっているんです。こういう部分なんです。 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について それで九次元世界の秘密ということで、お話をしたいんですが、まあ役割分担とか、こういうことを言いますが、私が近年、高橋信次という名前で地上に生まれました。私の九次元での別の名前、よく使われている名前は、エル・ランテイと言います。また神智学系統では、サナート・クメラと言われているのは、私です。 そういうことで、私は主として九次元世界で、役割分担の取りまとめをやっておりました。 あと、有名な人ではブッダですね。ゴーダマ・ブッダ、こういうブッダ意識があります。この人もブッダとして、インド時代に生まれた意識というのは、この人の全意識の中の五分の一か、六分の一なんです。ですからブッダという名前で呼ばれていますが、ゴーダマ・ブッダ意識と九次元のブッダの意識とは違います。九次元の巨大な意識のことを、「エル・カンターレ意識」と言います。だから必要とあれば、そういうインド時代の意識が出て来るだけであって、全部がその意識ではありません。 ブッダの意識というのは、今から一万五千年ぐらい前にムー大陸の大王でラ・ムーという名前で生まれたことがあります。その後、今から一万二千年から三千年ぐらい前、アトランティス大陸に生まれて、トスという名前で呼ばれています。神智学では有名な方です。それから今から七千年くらい前アンデスに生まれましてリエント・アール・クラウドという名前で呼ばれています。その後また転生しまして、今から四千数百年くらい前ギリシャでヘルメスという名前で呼ばれています。その後、今から二千五百有余年前、インドに生まれてゴーダマ・ブッダと言われ、またその意識体の一部がその後また出て来ているということです。このような転生輪廻をしています。 また、イエス様の意識は、今からちょうど一万年くらい前にアトランティスの末期、アガシャー大王として生まれました。その後今から約七千年から八千年前、インドに生まれてクリシュナという名で知られています。その後今から四千年ぐらい前、エジプトにクラリオという名で生まれました。そして、さらに西歴0年ですね、二千年前にナザレのイエスという形で生まれました。 この意識は、イエス様の全意識すなわち、「アガシャー意識」の四分の一か五分の一くらいが出た形なんです。この一部分、外郭部分を使って、如来界から出たレベルとしては八次元レベルで出た人が、今から二千四、五百年前に出た中国の墨子(ぼくし)という人です。この人はイエスの九次元意識ではなく、八次元意識で出た人です。こういう人がいます。 また九次元には、イエス、ブッダと同格くらいでモーゼという方がいます。今から三千数百年前に生まれた方で、有名な「出エジプト」された方、モーゼです。この方は私が生きていた時、私の指導霊もしていました。この人が神智学で言うモリヤ大師です。また神智学では、別名ミラレパ、こういう名前でも呼ばれています。この人も肉体を持ったことはあるんですが、これ以外名前が残っていないので、モーゼかモリヤかミラレパ、こういう名前しかありません。これ以外もありますが、あなた方に言っても名前が残っていないので分かりません。今、四人言いました。 その次にマイトレーヤという有名な方がいます。マイトレーヤがイエスじゃないかと言われていますが、マイトレーヤというのは一つの意識でして、マイトレーヤ意識というのがありまして、マイトレーヤ自身が、マイトレーヤ如来として地上に生まれることは滅多にないんです。マイトレーヤは、たとえばブッダとか、イエスとか、こういう人が地上におりだ時に、ブッダやイエスをオーバーシャドーといって天上界から、光を与えてオーラで包んで指導をするんです。ですから今マイトレーヤの降臨とか、いろいろ言われてますが、マイトレーヤ自体が生まれるわけではなくて、そういう力が加わってくる時なんです。 マイトレーヤというのはこの世で生まれた名前は、残念ながら他に残っていません。しかし、神智学系統でダイアン・チョーハン、あるいはマハ・チョーハンと呼ばれているのがマイトレーヤのことです。 基本的には、私がいて、つまりエル・ランテイ意識があって、これは一応人事関係のとりまとめをやってまして、ブッダ、イエス、モーゼというのはだいたい同格です。これとちょっと離れた感じでマイトレーヤという意識があります。これはまた、調整役なんです。このブッダ、イエス、モーゼの三つの意識の役割分担なんかを多少調整したりする意識です。格としては、ほぼ同じぐらいなんですけど、ちょっと違う役割をしています。 これ以外に今から二千四、五百年前に中国に生まれた、孔子様という方がいます。この人はアトランティスに生まれたことかありまして、今から一万一千年くらい前アトランティス時代に、オシリスという名前で生まれました。 孔子様は、主として学問の神様なんです。学問的なものをつかさどっておられます。 それから七番目にマヌという人がいます。『マヌの法典』で知られている人のことです。近年で体を待ったのはマヌしかいないんで、それ以外名前がありませんが、神智学ではサナーカという名前で呼ばれている方でもあります。この人がマヌです。 それから八番目、ゾロアスターという人がいます。この人は拝火教の教祖で、今から六千年ぐらい前でしょうか(注 紀元前六世紀という説もある)。ペルシャに生まれた人なんですが、その後また、同じく中近東に生まれましてマニという名前で出ています。ゾロアスターの時は拝火教で、善悪の二元論を説いた方なんですが、マニとして生まれた時もマニ教といってこれは紀元二、三百年ぐらいでしたかね、私の記憶がはっきりしていませんが、善悪の二元論を説いたんです。二元論が正しいかどうかは別として、そういう考え方だったということです。この人は神智学系統ではサーナンダナという名前でも呼ばれています。 九番目の人ですが、クート・フーミーという名前で神智学では言われている方がいます。この人は、主として科学関係をつかさどっている方です。クート・フーミーは神智学系統では別名チョハン・ヒラリオンという名前でも呼ばれています。近年では二千五百年くらい前にギリシャに生まれて、ピタゴラスという名前で生まれましたが、ピタゴラスの意識は九次元意識ではないんです。イエス様の時の墨子様みたいなもので、クート・フーミーの一部分が出て、八次元意識ぐらいで出たのがピタゴラスという人です。(注 これ以外に、アルキメデス、ニュートンという九次元意識で出ている)。もともとは、九次元ぐらいで出なければいけないのですが、悟りが浅かったという考えもありますし、いろいろです。 あと十番目の方です。この方はギリシャのゼウスという神様で今から三、四千年ぐらい前の方です。この方は神智学系統ではチョハン・セラピスという名前で呼ばれています。この人も近代ではゼウス以外では生まれていないんで、またもっと前にいっぱい生まれているんですが、名前が残っていません。こういうふうに、九次元世界の構成というのはエル・ランティ、ブッダ、イエス、モーゼ、孔子、マヌ、ゾロアスター、マイトレーヤ、クート・フーミー、ゼウスと十人出ています。 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち これに次ぐ者としては、日本神道系で言えば天之御中主之神様のような人もいるし、キリスト教で言えばミカエルのような意識、ミカエルというのはジュピターという名前で呼ばれたりいろいろされていますが、ミカエル意識というのがあります。これに似たような力を持った人は他にもいますが、あと七大天使たちがこれに続いています。こういう構成になっています。 第2問 本体と分身の関係 (問) あなたは、御著書の中で本体と分身の関係を説かれておられますが、もう一度分かりやすく説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.本体・分身の正しいとらえ方 本体・分身というのは大変難しくて、私の著書『心の発見』の中で人間は本体一、分身五の組み合わせでできている。こういうことで、本体一、分身五が順番に生まれ変ってくる。そして次に生まれ変ってくる人がその守護霊をしていると、こういうふうに説明しています。 ただ これは説明が物理的な説明で、原子核構造みたいな説明をしているんです。陽子と原子みたいな感じでしているんですが、正確に言えば、ああいう物理学的なものではありません。 皆さんあれを読むと、物体として六人いていちばん偉い人が本体で、六人いるという感じがしますけど、必すしもそういうのでなくて、霊言集の中でカントなんかも言っているようですが、一即多、多即一というようなとらえ方もありまして、必ずしも物体的なものではありません。一人なんですが、一人のいろんな面が出てくるということなんです。 あれで皆さん、何人もいるというふうに考えてはいけないんです。ですから基本的にああいう出方をするということであって、それ以外の現れ方も、もちろんあります。そういうような不自由なものではありません。 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である それで本体、分身もいろいろな意識レベルがありまして、たとえば今、九次元の話をしましたが、九次元のような意識ではそういう九次元意識というのがあって、その部分が出てくるんです。ですから全体の中の一部分だけ出てくるのであって、これは何人かで構成されているわけではありません。一人なんですが、一人の部分が出てくるんです。こういうのは本体・分身というのは当たっていません。ただ意識の出方がいろいろあって、たいていの場合、部分的に出てくる。 イエス様の例で言いましたが、イエス様の部分が出てきたとか、あるいはクート・フーミーの一部分が出てきてピタゴラスになって、これはクート・フーミーのパイの五分の一だけの力を持っていなかったというようなことを説明しましたが、そういう出方もあります。 ですから、九次元の本体・分身というのは自由自在です。正月のお餅みたいなもので、つきたてのお餅の部分が出てくるようなもので、何個でできているというわけではありません。臼の中へもどれば一つですね、こういう形です。 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 私が著書の中で釈迦の本体・分身について本体ゴーダマ・シッタルダ、あと分身で天台智覬(てんだいちぎ)、不空三蔵(ふくうさんぞう)、伝教、空教、木戸孝允と書きましたがこれは間違っています。これは訂正しておきたいと思います。 九次元意識というのは、やはり九次元の間でいろいろな出方をしているのであって、菩薩や如来と一緒になって出てくることはありません。彼らは、また関連ある魂ということで、本体・分身とは別なんです。 今このついでに話しておくと、それぞれの魂の系統というのがありまして、九次元で世話役が三人いまして、それ以外に七つの光線があって七つの光線をみな引いて、八次元如来界に四、五百人いますが、それぞれいろいろな系統を引いてまして、四、五十人か五、六十人ぐらいで一つの光線の流れの中にあるんです。孔子様の紫の光線を例にとれば紫の光線の中に、如来界の何十人かの人がいるんです。如来界の紫の光線からまた、菩薩界へ投影が出て、菩薩界へそのラインが出てくるんです。 こういうふうに本体・分身とは別に魂の系統というのがあります。こういう縦割りがあります。横割りでなくて、そういう意味でブッダの意識と天台智頭とか、不空三蔵とか、こういう意識は縦の流れの中には一緒にあるのです。こういうことは言えるのですが、本体・分身、ではありません。こういうふうに非常に難しいんです、縦のラインもあるし横のラインもあるんです。 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている あと菩薩界、如来界というのがありますが、如来というのは本体・分身というのではなくて魂のグループなんです。本体・分身ではなくて魂の兄弟と言われてますが、魂の兄弟として四、五人ぐらいが組になって、一つの目的を果たすために組になっています。 だいたい同じ目的のために出て来ている如来がおりまして、たとえばイエス様の愛を説くために、愛ばかりを主として説く如来が八次元にいるんです。こういう方たちは組を成しています。これは数名です。四、五名あるいはもう少しおりますが、いくつかの組を成しています。これは本体一、分身五というような形ではありません。これもグループです。魂の兄弟と言われています。 菩薩界を見ますと、菩薩界にも組があります。それぞれ組があるし、転生輪廻の過程でいろいろな組み合わせを作って、だいたい五、六人ぐらいで組をつくっています。ですから菩薩以上つまり七次元以上は、それぞれの目的に合わせた作り方をしています。 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 六次元、神界以下が一つのまた、まとまりがありまして、本体・分身の形というのは神界以下なんです。基本的にはそういう組み合わせでして、神界以下の人間、いちばん霊格の高い人が中心になりまして、これは一人であとはそうでない五人が一組になっています。そういう意味で本体・分身というのではないのですが、中核の霊があって六人組をつくっているんです。そしていちばん霊格の高い、神界の上段階くらいの人がその中心になっていて、あと五人をまとめているんです。それで順番に転生輪廻してくるんですが、その時に、最上段階の霊が、つまり、本体と言われている部分が主として守護神、指導霊の役割をして、他の者が守護霊の役割をしているという形で、普通はこの六人というのは組が決まっていますが、ただ何万年、何十万年の転生輪廻を繰り返していると、だんだん魂の質がずれてくるんです。 そうすると、上段階、菩薩界、如来界の指導でもって組み替えがあります。遺伝子の組み替えもありますが、魂の組み替えももちろんあるんです。ですから、その時どきで、調整しまして組み替えをしています。そういう魂の調整をしている人がいるんです。組み替えています。ただ何千年か単位で見ると、六人で一体になっていて、そのグループで修行をやっています。そういう互助制度というか、たいてい六人組でやっています。これは順番に出てきます。そういう意味で本体・分身というのは合っています。 6.魂の組み替えについて ただ、これは長い年月の間で組み替えがあります。その組み替えをやっているのが如来界、菩薩界の人で、私もそれに関係しています。 たとえば菩薩界の人から報告が来るわけです。書類が上がってきて、「この魂のグループがあって六人組をやっているけど、ちょっとバラバラになって、三人ぐらい地獄に入ってしまって、もう出てこない。どうしようもないので組み替えたいんです」と言ってくると、「ああ、しょうがないな」と言って上位にある者が判を押すんです。 また他のグループで組み替えをする、こういうことをします。今、地獄に堕ちる人が多くてその六人組がどんどん崩れているんです。地獄から何百年も、千年も上がってこないと次の人が出られないから、これじゃいけないんでその六人を解消して、また新たな組をつくったりしています。「地獄で千年ぐらい住むのは君の自由だが、僕たちはもっと進化していくから他の人と組むよ」と、こういうことで新しい六人組をつくっていきます。だって地獄の人をあなた、千年も待っていられませんよ。修行ができませんから。基本的には六人組の中の一人が、地獄に堕ちたら、その人が成仏できるまで他の人が協力するんですが、あんまり長いこと地獄におられるとたまらんから、もう切ります。 こういう時は切って新しい組をつくります。これもまた、人事関係の天使が相談を受けて決定をやっています。こういうことを私も一緒にやっているんです。ですから以上が、本体・分身の本当の意味です。 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である ですから皆さん、私の本を読んで、物理的な魂の兄弟と思ったかもしれませんが、そうじゃなくて、次元の差によって現れ方がありますから、その部分をこの際訂正したいと思います。 イエス様にしても、先般の質問で、イエス様の転生輪廻を話しましたけれど、イエス様の意識は原則として九次元意識でありまして、イエス様がもう少し低い意識で出ることはありません。ですから私は、イエス様の意識がナザレのイエス以降にも出ていると書きました。フィリピンに出ているとか、あるいはイギリスに出ているとか言っていますが、あれは間違っています。フィリピンで心霊治療やっているぐらいの人がイエス・キリストと同レベルではないんです。九次元意識じゃないんです。フィリピンで心霊治療をして、一生終わるようなことはありません。 第3問 運命と宿命 (問) あなたのお説の中で、運命とは自ら切り開いていくものであるというお言葉がありますが、運命と宿命について分かりやすく御説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる これがけっこう難しいんですが、どうしてもあの世の魂の世界ということを知ると、どうも運命というのがあるらしい、ということで、だんだん運命論者になっていって、あるいは霊能者なんかに頼ってしまって、私はこの人と結婚すべきでしょうか、私は何歳で死ぬんでしょうか、この病気はもう治らないんでしょうか、この会社に入るべきでしょうか止めるべきでしょうか、給料は来年上がりますでしょうか、とかいろいろなことを聞くようになります。 これはあまり頼り過ぎちゃいけないんで、運命と自力という問題について話しますと、あなた方も運命というのは決まっているのか、あるいは自力があるのか、こういうことで非常に悩むと思いますので、比喩(ひゆ)を使って話をしたいと思います。 これは道元禅師が、ある本の中で言っていることを使わせていただくんですが、道元さんは、「人間の人生は舟に乗っている人のようなもんだ」というようなことを書いています。確かにそのたとえは当たっていまして、人生というのは一つの川を小舟に乗って、自分でオールを漕(こ)ぐ手こぎの舟に乗っているようなもんなんです。人間の魂というのが舵をとる人です。これが乗っているわけです。 舟というのは肉体でもいいですけれど、川というのが運命とか宿命と言われているのです。これはどういうことかと言うと、舟に乗っていてオールで漕いだりして方向を変えたり、もちろんできますね。あるいは岸に途中で寄ったり、途中で上陸して休んで、お弁当食べてまた舟にのって川を下ったりできます。こういうふうにオールによって自由に舟の方向を変えることができる。そして、あっちで休んだり、こっちで休んだりすることができる。だから、これは自由意志でできるんです。 ところが、川の流れというのがあります。この流れというのが実は、上から下へ流れている。これが実を言うと運命なんです。だから運命というのは、あなたの道筋は決まっているんですね。そういう川の流れなんです。上から下へ流れるんです。だからこの川の中で自力で、ある程度、舟を漕げるんですが、自力には限リがありまして、やはり川の流れというのを計算に入れて自力があります。 ですから極度に自分を修行して、悟った方というのは相当運命を変えていきます。ですから川を遡(さかのぼ)っていくというような人もいます。これが極度に悟った人です。悟って運命を乗り越えていく人です。これが川を遡っていく人です。オールを漕いで遡っていく立派な人でず。まあこうぃう人は普通、稀(まれ)でありまして、たいていは川の流れに勝てなくて、上から下へ流されていきます。流されていきながら、その中で途中で休んだり、多少方向を変えたりしているのが人間の普通の姿なんです。ところが、その船頭さんが力をつけて、能力が出てくると、いろんな方向に、上流に向かってだって漕いでいけるようになるんです。これが運命と自力との関係なんです。ですから運命としては、川の流れがあります。 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 宿命というのがあります。宿命というのは結局、舟というのは川の中しか動けないということなんです。これが宿命なんですよ。舟で陸には上がれないんです。 運命というのは、川の流れのように上から下へ流れていくもんですから、まあ普通はそのままだったら流されてしまうけれど、頑張れば遡(さかのぼ)ることもできるし、川の水にある程度抵抗して、いろんな方向に泳いでいくことができます。だから、運命はそういう意味でオールの楷(かい)のかき方、あるいは帆のあげ方で、ある程度変えていくことができます。 しかし宿命は、変えられません。宿命というのは、舟というのは川の中しか動けないんです。陸には上がれないんです。残念ながら、こういうことなんです。 これはどういうことかというと、宿命というのは、川から逃げられないということは、川というのをよく見てみると、あなたの人生航路の大きな流れなんですね。この幅が、ある程度の幅があるんです。川幅が百メートルだったり、一キロだったり、中にはアマゾン川みたいなのもありますよ。たいてい川幅があって、川の流れている方向、北から南へ流れたり、あるいは曲がりくねったりしているけれど、川の形があります。ここから逃げられないということです。だから、この川の形の中ではかなり動けるんですが、結局この川の流れからは逃げられないんです、川の大きな位置からは。陸の上では舟は漕げません、これが宿命です。 ですから宿命というのは、たとえば、ある人が女であったり、男であったりすること、男で生まれたら女としては生きられないです。まあ性転換なんてありますが、こんなのは例外でして、男は男、女は女として生まれます。あるいは、ある貧しい家に生まれました。貧しい家に生まれたということは、もう変えようがないことです。男に生まれた、貧しい家に生まれた、子だくさんの家に生まれた、あるいは両親が早く死んだ、こういうことは変えようがないんです。両親が寿命で早く死んでしまったのですから、変えようがないんです。そういう環境、与えられた環境、どういうところに生まれて、どういう立場で生まれたかというようなこと、こういうことは変えようがないんです。 3.後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である あとは両親が決まれば、だいたい頭の程度も知れているんです。種と畑が分かれば、あなたスイカは大体分かるんですよ。どういう種で、どういう畑かを見れば。ただそういう種と畑であっても、スイカを作るときに努力すれば、いいスイカができることもあります。だから両親を見て、俺の父ちゃん、母ちゃん見れば、俺の頭も知れたものと思うけれど、そういう知れた頭でも、努力すれば秀才になることはあり得ます、大天才にはなれなくても。これが運命と、自力の問題なんです。 宿命というのは、そういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたということは、宿命なんです。ただそういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたから賢い頭じゃない、賢くない普通ぐらいの頭で生まれた、これは宿命です。 ところが、運命は一生懸命勉強することによって、その頭を後天的に鍛(きた)えていくことができます。ですから、運命というのは後天的にある程度、変えていけます。しかし宿命は、後天的に変えられないんです。ですから、後天的に変えられるものが運命で、後天的に変えられないものが宿命です。 宿命というのは、さっき言ったように大きな川の流れみたいなもので、これはしようがないんですよ。どんなに動きたくたってアマゾン川は南アメリカの川なんですから、アマゾン川は日本に流れません。どうしようもないんです。アマゾン川は、たとえば南アメリカが男であり、日本が女とすれば、男に生まれたらもう女にはどうしてもなれないんです。子供は産めないんです。アマゾン川がどれだけ大きくて、自由自在に泳げても、男なんだから子供は産めないと、こういうもんなんです。こういう意味なんです。 ですから、どんな人にも宿命はあります。これは如来であろうと宿命はあります。それは、そういう環境を選んで生まれたということです。そして運命というのは、たとえば如来が地上に生まれて仏法を説く、という人生が運命です。仏法を説く人生を持って生まれています。ただ、仏法の中身をどうするかが自力の問題です。 ですから人生というのは、ある程度そういう幅があるんです。幅があって上下があるんです。上限と下限が決まっています。人生には下限というのは地獄へ行くくらいのところまでの下限もありますが、普通はそれほど、ブレません。けれども末法の世の中では、物質に翻弄(ほんろう)されて、上限下限の間の下限に行く人が多いんですが、正しく反省して精進して、守護、指導霊の指導を受ければ、その上限に限りなく近づいていけるということです。それが運命、宿命です。
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目次 1.出発点 2.神を知る手がかり 3.釈迦の「存在と時間」 4.変化するもののうちにある不変の理念 5.空即是色とイデア説 6.個性ある意識体 7.人間の認識力の限界 8.洞察力と知能の差 9.真に開かれた社会とは 10.プラトンによる実在界の説明 11.次元構造の究明 12.釈迦の次元分析 13.四次元世界と時間との関係 14.高次元世界の成り立ち 15.一千億年の孤独 16.地球人霊の誕生 17.地球人類最初の歴史 1.出発点 基本的な考え方として、神理というものが、唯一のものから出てきているということを前提にしています。諸教、諸宗派、その形は違っても、出ている源は一つであって、その現われ方が時代と地域によって変わっているのだという前提を出しているわけです。このことは、かなりの数の本を読まれた方がたは、もはや当然と思っておられるかもしれません。しかしながら、ほかのいくつかの団体や教えに属している人から見れば、これは当然のことではないのです。むしろ、意外な感じを受けていると言ってもよいと思います。 地上に降りた人間の認識力というものはきわめて低いものであり、自分の見える範囲、聞ける範囲、接することができる範囲でしか世界をつかむことができないという悲しい現実があるのです。トータルで神理というものをとらえ、仏教も、。キリスト教も、他の宗教も、元をただせば根源なる意志が、さまざまな人格的な高級霊を通して現われてきている姿にすぎないという考え方は、世界的に見たならば、ごくごく少数派であると考えてよいと思います。このような考え方自体が、一般的には受け入れられるものではないのです。 霊的なものを信ずる人が、日本人のうちに五〇%いるとして、それらの人が何らかの団体に所属しているとしても、このような考え方をストレートに受け入れられるかどうかといえば、やはりひじょうに難しいと言ってよいでしょう。したがって、みなさんが神理の縁に触れられて、この神理というものが唯一のものから出てきているという前提を常識と考えられて、これを当然だと思い、他の人に押しつけようと思っても、なかなかそう簡単に通るものではないということであります。 たとえば、キリスト教関係の方にこのような話をしたとしても、まずこの最初の前提からして納得がいかないと思います。彼らは、イエス様を通して述べられた教えこそが神理であって、歴史において他によいものもあったのかもしれないけれども、それは教えとして認められていない、ということで頑固に頑張られるのがその筋であろうと思います。 また仏教の方においても似たような考え方はありましょう。仏教で僧侶をしておられるご本職の方が、もしこのような考え方を公式に持っておられるとするならば、やはり僧侶としての仕事がやりづらいというのが現状であると思います。 しかし、神理は神理であります。世のみなさま方が、あるいは過去の人々が認めようが認めまいが真実は真実であります。ここに私たちの立脚点、およびその出発点があるということを確認していただきたいと思います。 また「神や仏があるというならば、なにゆえに宗教があれほど醜い姿をさらしているのか、争いが絶えないのか。」という無神論者、あるいは知識人たちの批判に応えるとするならば、「真実はそうではなかった。一時期、太陽が雲の間に隠れることはあったとしても、けっして消えたことはなかった。その証明として、過去いろいろな光の天使たちが現実に地上に降りてさまざまな教えを説き、数多くの偉業をなしてきたのだ。」と、言うことができます。この光の天使たちの活躍の詳しい説明は『黄金の法』のなかに述べられているとおりであります。 したがって、世界が光を欲しているときに、神理の太陽が昇らないことはなく、また、神は人びとが欲しているときに救いの手を伸ばさなかったことはない。このような前提があるということをまず押さえていただきたいと思います。 2.神を知る手がかり 神とは何かということについて述べてみたいと思います。いわゆる神の存在証明の問題についてであります。これも世の知識人あるいは、このような考え方について批判的な人々に対する、反批判あるいは強烈な一撃として出された考え方です。 無神論者たちの考えは「神などといっても、その存在証明ができた人はいないではないか。見たこともないものを、どうやって信じることができるのか。」というものであります。神理に触れられた方の多くも、いろいろな人に神理を説こうとして、まったく同じ壁にぶつかってこられたのではないでしょうか。 さて、このような考え方に対しての答えがここに一つあります。それは、「確かに直接証明として神の存在を説き、そして世に納得せしめた人はいないかもしれない。それはそのとおりであろう。しかし、神の間接証明に成功した人はかなりの数いるのです。」ということであります。 その間接証明とは、全智全能の神の存在があって、それにそば近き人間であればやはり、その神の能力に近き能力を発揮することができたという事実です。たとえば「現象」がそうです。霊的現象を示してきた人は過去に数多くおりましたし、現在も数多くおります。私自身もそのような「現象」をお見せしていることにもなっていると思います。 そして、もう一つ、どうしても否定しがたい事実があります。釈迦、キリスト、モーゼというような三人の偉人が人類史のなかにおりますが、彼らはけっしてまだ伝説の人とはなっていないということです。ギリシャ神話の時代になれば、伝説の人だと思う方も多いかもしれませんが、この釈迦とキリストとモーゼは明らかに実在の人であったわけです。もちろん、あと二千年もすれば、キリストらも架空の人、伝説の人になるかもしれませんが、現時点で明らかに実在の人であったと信じられているということです。 そして、この実在の人であった三人の巨人が、いずれも神、あるいは仏と、言葉は違えども根源なるものを信じ、そしてそれを証明しようとして努力されてきました。このように数十年の人生を確かに生き、死んでいったという現実があるのです。釈迦やキリストやモーゼのような人類史の偉人たちが、今、神や仏のことを話す方がたを馬鹿にしたり冷笑したりする人たちよりも、劣るような人かどうかをよくよく考えていただきたいと思うのです。 神や仏の実在を否定するような人たちに、「あなたは、イエス・キリスト以上の人格をお持ちですか。あるいは釈尊以上の知恵をお持ちでしょうか。もしそうならば、その証明をしていただきたい。できましょうか。」と問いかけたならば、納得がいくような説明ができる方はいらっしゃらないでしょう。逆に問いかけられれば、説明することができないわけです。人間として生きて、釈迦以上の知恵を持っていること、イエス以上の人格者であることを、証明することはできません。 なかには「イエスは頭が狂っていて、神がいるなどという思想にとりつかれて、気違いじみたことをやったにすぎない。」と言う方もいるかもしれません。このような人には「それでは聖書のなかに語られているこのイエスの語った言葉、これを見てあなたはどう思われますか。これがほんとうの絵空事だと思えるでしょうか。この言っていることに間違いがあるでしょうか。神とか霊とかいう言葉をはずしたとしても、その愛の教えのなかに間違いがはたしてあるでしょうか。また、釈迦が説き来り説き去った言葉、すでに二千数百年の歴史を経ておりますが、その言っている内容に、何か常識人が見て、ほんとうに違っているということがありましょうか。思想家として見て、これ以上の思想家が出ていたでしょうか。どうでしょうか。」と問いかけることができるのです。 したがって、霊とか神とかいうものが信じられず、馬鹿馬鹿しいと言う方は、「釈迦、キリスト、モーゼといった歴史上の偉人たちは霊や神を信じていたけれども、かくいうあなた自身は、彼ら以上の認識力と知恵をお持ちであるということを証明でき、彼らを裁けるだけの人間であるということをほんとうに証明できましょうか。」と問われたときに、沈黙をせざるをえないのであります。 なぜならば、歴史の風雪に耐えた偉人の業績というものは、燦然(さんぜん)たるものであって、少々の人びとの批判では動かないからです。このような実績をつくるにふさわしい努力もまた、彼ら自身してこられたわけであります。 したがってまず、自称、無神論者、あるいは科学的と自認する人に対して問うとするならば、「歴史のなかにどれだけ偉大な人物がいたかということを知っていますか。歴史のなかの偉人たちのなかで、ほんとうに神仏を信じていた人はいくらでもいましたし、偉人の歴史を調べてみれば、その八割以上の人がやはり、なんらかのかたちで神というものとの遭遇を経験しているのです。そして、神を信じていた人は多いのです。そうした人たちが、ほんとうに物笑いにされるような人たちであったでしょうか。もしそうであるならば、人類の歴史そのものにいったい何の値打ちがあったのですか。その歴史そのものを疑ってかからねばなりません。そうではないでしょうか。」ということが言えると思います。 ですから、こういった人はまず謙虚になる必要があります。過去の歴史において、現在の自分以上の知者も、現在の自分以上の人格者もいたという事実、これをまず素直に認めなければいけないのです。そのような人がいて、そして神を信じているという事実がある以上、その事実について、あるいは彼らの思想について、もっと虚心坦懐(きょしんたんかい)に学んでみるべきではないでしょうか。学んでみて、学び尽くして、はじめて批判するのはよいのですが、学んでもいないのに批判するのは甘いということであります。 「人生の探究は、どこかで必ず神の存在にぶつからざるをえません。神を知る手がかりは人生の随所に散りばめられています。」と『太陽の法』に書きましたが、そのとおりです。やはり、この問題と遭遇(そうぐう)しないでは、ほんとうに人生を生き切ったとはいえないのです。そこで私は、本書全体を通じて、この「神とは何か。神は何を考えておられるのか。神は何を意図しておられるのか。」ということを説明してみたいと思います。 3.釈迦の「存在と時間」 「存在と時間」についての基本的な考え方を述べてみたいと思います。 「存在と時間」と言いますと、きわめて現代的な響きでありますが、これが仏教の教説そのものなのであります。釈迦が説いていた教えは実はこういうことであったというと驚かれるかもしれませんが、実際に釈迦は、「存在と時間」について語っていたのです。これについての詳しい説明は、『釈迦の本心』のなかにも述べてありますが(『釈迦の本心』第5章)、業の思想、縁起の思想、こうしたものは実はこの「存在と時間」にかかわる思想であったわけです。そして、この人類、あるいは地上に住んでいる他の生きとし生けるもの、すべてにあてはまる法則があり、その法則こそ生々流転(せいせいるてん)の法則であり、それは普遍の法則であるということを説いています。 この生々流転の法則は、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、微生物であれ、すべてそのルールのもとにあります。この地上のものには、誕生のときがあり、生長のときがあり、衰退のときがあり、そして消滅のときがあるということです。人間にしても、誕生のときがあり、そして成人していく過程があり、老化する過程があり、そして必ず死去せざるをえません。物でもそうです。自動車でも、造られるときがあり、それがいろいろな人の使用に供されることもあり、そうして、やがて故障して、その姿を消していくのです。スクラップになって、ほかのものにまた変わっていくでしょう。 このような循環の法則があるということなのです。これが人生を貫き、またこの地上のさまざまな生物、すべての存在に対して、あてはまる法則であるわけです。別の言葉で言うならば、この三次元現象の存在はすべて変転の時間を内包しているということです。これはきわめて難しい哲学的な議論でありますが、存在のなかに時間が内包されている、変転の時間が内包されているということを言っているわけです。けっして静止した存在ではなく、すべてのものは変転を前提として存在することが許されているのです。 この「存在と時間」に関する考え方は、ドイツの哲学者のハイデッガーという人も出しています。彼についても、『黄金の法』では述べておりますが、やはりこのハイデッガーに対して、インスピレーションはかなり降りていたわけで、そのインスピレーションを出していたもとはひとつで、同じ源から出ているのです。 このように、存在の定義としては、流転するという性質があり、時間を内包しているということ、このことを述べたいと思います。 4.変化するもののうちにある不変の理念 この「存在と時間」から霊魂の存在を推定させる説明が続いていくのであります。 たとえば、私自身の肉体、これを構成している細胞の数は、何十兆という莫大な数であるといわれております。その細胞の一つ一つは、何十日か何百日かたてば、すべて死滅して新しいものに代わっています。しかし、一年たとうが二年たとうが、私は私の個性として、実体として存在し続けております。この実体を存在させているものがいったい何であるかということなのです。何十兆もの細胞があって、それぞれが勝手に点滅するランプのようにできたり消えたりしているわけです。しかしながら、どのようなことがあっても、私自身は、私の個性として存在している。これはいったいどのようなことなのだろうかということです。 植物にしてもそうです。一本の花を花たらしめているものは、いったい何でしょうか。毎日毎日、植物は伸びてゆき、やがては花が開いてゆきます。その姿は変化していきますが、やはり菊の花は菊の花として、水仙の花は水仙の花として、チューリップはチューリップとして、存在しているのであります。昨日と今日とでは姿が違っても同じ存在なのです。ここを統一しているものはいったい何なのでしょうか。 動物でもそうであります。いろいろと変化していきますが、その個性を統一しているものがあるのです。この個性を統一しているものこそ、魂といわれているものの正体であるということなのです。 5.空即是色とイデア説 変化するもののなかにあって、逆に今度は変化しない何かがあるというわけです。この地上のものはすべて変転していくという法則のもとにある。変転していく法則のもとにあって、生命あるものは変転しない何かを確かに持っているのです。姿は変わってゆくのにもかかわらず、統一体として存在しているということ、だれが見てもその花はその花、この人間はこの人間として存在しているということは、いかなることか。そこには、それを統一させるものがある。この統一するもの、このイデア、理念、これこそが実は魂といわれる存在そのものであるといえるのであります。 「色即是空、空即是色」という仏教の言葉がありますが、これも、けっきょくのところ、プラトンのイデア説と変わらないということであります。理念があって地上に存在が許されているということなのです。この理念というべきものがなければ、変転する法則、変化の法則のもとにある地上の物体、物質は、すべて姿・形なきものになっていくのみです。ところが、それが消滅と生成をくりかえしながらでも、統一体を維持しているということは、そこにそれを統一しているイデア、理念といった、かたちが何かあるということなのです。 ここで、変化の法則から説明を続けてきて、今度は変化しないものに説明が移りゆくわけです。『太陽の法』においては、「人間の本質は、時間の流れのなかで変転してゆくはかない存在ではなく、永遠に不変の実在なのです。この不変の実在こそ、生命(いのち)であり、魂であり、霊であります。」と書いております。 霊という言葉を特殊なものとして、摩訶不思議なものとして私は言っているのではなく、この不変の実在、イデアのことを言っているのであります。 6.個性ある意識体 私は、「肉体人間を支配している個性ある知性。肉体人間を存在せしめている個性ある意識体、これらが人間の本質なのですから、霊という言葉に対して、世人がいかなる印象を持とうが持つまいが、真実は一つなのです。すなわち、花には花の生命体があり、人間には人間の生命体があるということです。」と言い切ってよいと思います。事実であるから、否定のしようがないのです。そのとおりだからです。はっきり言ってしまえば、議論の余地はないのであります。 確かに霊というものの存在証明はひじょうに難しいのです。みなさんも、これをなそうとされるならば困難をきわめることとなりましょう。しかし、これは霊というものが実際に存在するということを実体験し、感じてしまえば、これは信じる・信じないの問題ではなく、あるものはあるとしか表現しようがないのです。現実にあるからです。実際に私は毎日いろいろな諸霊と話をしています。現にいるのです。いるものはいるのでどうしようもないのです。それは否定のしようがありません。またそれはデータによっても確かめられることでもないのです。現にいるのです。同じ個性が存在しているのであります。このことは否定しがたいのです。 たとえば、『高橋信次霊言集』という本が出版されています。このシリーズは、すでに一〇冊を超えていますが、何回刊行しても同じものがあります。どれをとっても、内容は全部違いますが個性は同じです。読まれた方もそう感じておられることと思います。第一冊を出してからもう二年以上もたっていますが、どの霊示集においても個性は変わりません。どの部分をとってみても同じです。このようなものではないでしょうか。違う人になれば明らかに違ってくるはずです。 谷口雅春氏の霊示集も何冊も出して、内容がそれぞれ違っても、やはりどこを切ってもいっしょです。谷口雅春氏の個性は個性です。たとえて言えば、栗ようかんは栗ようかん、小豆ようかんは小豆ようかんで、どこの切りロをとっても味は変わりません。例がよくないかもしれませんが、簡単にいうとそういうことです。 7.人間の認識力の限界 有限と無限について考えてみたいと思います。ここに一つのたとえ話があります。ある亀の話です。 昔、大きな亀がいて、右足を出すのに一〇分、左足を出すのに一〇分、後ろ足をそれぞれ出すのにまた一〇分、つまり体をひとまず動かすのに四〇分もかかる亀がおりました。あるとき、この亀は砂浜の海岸に行きつくところがあるかどうか不思議に思って、自分の住んでいる島の探検に出てゆきました。 その島というのは亀にとってはまさしく全世界そのものであったわけです。そして、世界探検にこの亀は乗り出します。体一つ動かすのに四〇分かかる速度で乗り出したのです。見渡すかぎりの海岸線をハッタと見すえ、よし世界探検に出るぞということで勢いこんでスタートし、そして全力で歩きはじめました。そして、自分がどこを踏破したかわからないと困るので、自分の歩いた足跡がしっかりついているかどうかを見ながら歩いていたのです。「足跡さえ見ておけば自分が通ったところがわかるはずだ。こうして、この時間を計っておればおそらく世界がどの程度の広さかわかるだろう。」こう考えてこの亀は歩いていったのです。 しかし、いくら歩けども歩けども、海岸線は終わることなく、ある日、亀は力尽きて死んでしまいました。自分が全世界の半分くらいは踏破したと信じながら生涯を終えました。あくる日に島の漁師がやって来て、その亀を引きずって島の反対側へ持って行って食べてしまいました。島の反対側まで行くのに大変な時間がかかったのかといえば、漁師の足で行けばわずか一〇分ですみました。 哀れな亀は、太平洋の波が非情にも自分の足跡を洗っていたとも知らずに、小さな島の砂浜をグルグルと回っていただけであったのです。自分が確かめようとしていた足跡は波で消されていたのです。それとも知らずにグルグルと小さな島を回っていただけであったのです。 これは、いうなれば、認識力のたとえ話です。有限と無限を考えるときに、どうしてもこの話が出てくるのです。この話は、実在界でよく使われているたとえ話なのです。私も、如来の説法、菩薩の説法をずいぶん聞いておりますが、彼らはたとえ話がひじょうに上手です。そしていろいろな比喩を出してきます。 仏陀の説法のいちばんの特色もたとえ話でした。キリストも実際たとえ話がひじょうにうまかったのです。やはり、そのようなたとえ話を使わないと当時の人々にはなかなかわからなかったからです。このようなことで、やはり菩薩や如来といわれる方はみな、たとえ話がひじょうに上手です。哲学的な話だけではなくて、やはり、それをどのように説明すればわかるように話ができるのかということが大切なわけです。そしてそのなかに普遍的な神理があるのです。 このたとえ話のなかの亀と漁師の違いはどこにあるのでしょうか。歩く速さは、もちろん違うでしょうし、体の大きさももちろん違うでありましょう。あるいは経験量の差、これももちろん違うでしょう。いろいろな要素はありますが、しかし、根本的な差異は認識力の差にあったのではないかということです。わかる者とわからない者の差が明らかにあるわけです。 亀の目的や努力、そして熱意は見上げたものだけれども、その結末においてひじょうに悲しいものが漂っています。悲壮感が漂い、ペーソスにあふれています。これはいったい何なのでしょうか。つくづく考えてみますとけっきょく、認識できないということに対する悲しさです。 8.洞察力と知能の差 神が人間をどのように見ておられるのかを、このたとえ話で考えてみていただければよいのです。このように見えるということなのです。現代の知識人といわれるような方々も、神の目から見れば、この認識力のない亀のようなものなのです。かわいそうです。わからないのです。彼らは一生懸命歩いているのです。この亀と同じように、鼻に汗を浮かべ、脂汗をにじませながらやっているのです。一生懸命、自分の足で歩いて、世界を測量しようとしているのです。それで足跡を残していけば、必ずわかると考えているのです。地上の人間の認識力はこのような段階なのです。 このたとえ話において、ちょうどこの漁師くらいにあたるのが、高級諸霊といってもよいでしょう。また、悟った方といってもよいでしょう。そういう悟った人から見れば、悟っていない人がこの亀のように見えるということなのです。ここに認識力の絶対的で、質的な差があることを知らなければならないと思います。 また、このたとえ話を無神論者と有神論者に言い換えたらどうでしょうか。たいていの無神論者は、「われわれは亀ではない。」と言ってきっと怒るでしょう。しかし、人生が六〇年、七〇年で有限であると思っている人は、まさしくこの亀そのものです。本人が気づくと気づかないにかかわらず、事実はこのとおりなのです。 たいへん気の毒なことでありますが、これは知能指数とは関係がないのです。知能指数の差にかかわる認識の差ではなく、知能指数がいくら高くても、わからない人にはわからないのです。知能指数ではかられるような認識とは違うのです。 これはやはり、魂の奥底から出てくる能力でもありましょう。洞察力にも似たものだと思います。いくら頭がよくても、わからない人はわからないのですから、ほんとうにかわいそうです。 私ももう一〇年近く前にもなりましょうか、東大在学中に、法哲学という授業に出席しておりました。その授業の教授は無神論者でありました。法哲学ということで、過去の哲学を法律的な側面から説いておられる人です。彼の研究する哲学的思想が記された書物は、本来いろいろな光の天使たちが書いたものでありますが、そのような光の天使たちが書いた文献を研究していても、かわいそうですけれど、わからないのです。それでも、東大の教授にはなれるのです。よく文献を調べて、鋭い論文を書けばなれるのでしょうが、本質がわかっていないのです。まったくわかってないといってよいのです。光の天使の書いたものを勉強して、いろいろとやってはいるのだけれども、まことに残念だと思います。 その人が最高レベルの学問であると思っているのは、やはり、私たちが見れば神界レべルを最高の考え方だと思っているのです。そうしたものが最高だと思っていて、そしてご自分の悟りがどのあたりにあるかというと、明らかに四次元幽界から地獄界の間を行ったり来たりしているのです。本人には気の毒ですが、おかしかったです。 そのころ、私はまだ霊道は開けていなかったのですが、多少その前兆があったのでしょうか、人の姿を見ていると、いろいろとそのオーラに近いものがわかるような感じがしていました。そして、その教授を見ておりましたけれど、頭の回りがやはり薄らぼんやりとしているのです。何かをかぶってるような感じでした。あとから考えれば、まあ完全にあれだろうなと思うのですが。 講義のときに学生との質疑応答がありまして、その先生は神とか霊とかを絶対に信じないということを一生懸命にいっているので、そのときに、ある学生が「先生は来世が大変ですね。」と逆に質問していたのです。その先生は「後生恐るべしですね。」などと一生懸命に答え、心のなかでヘヘンと思っているのがわかったのですが、ほんとうに大変だろうなあと思って、私も見ていました。そういう方も最高学府で教えているのです。 私は、卒業の前であったと思いますが、その先生に提出する答案があって、法哲学の試験問題ではありましたが、まったくそれに関係なく、高橋信次先生の『心の発見』の科学編を読んだその感想を答案に全部書いたのです。無神論者で霊を信じていない人に対して、徹底的に霊を信じる立場で書いたのです。私は全般的に成績はよかったのですけれども、その結果は、珍しく「良」ということでありました。それでも不合格ではなかったので安心しました。「不可」かなと思ったのですが、「良」ぐらいはいただいていたようでした。 まあ、あまり唯物論的な講義を聞いていますと、そのように書きたくなることもあります。税金を使って教えているわけですから、やはり許せないという感じでした。言っていることが間違っているのですから、やはりいけないと思います。税金から給料をもらって、それで嘘を教えていたらやはり許されないのです。いくらインテリであって大学の先生であっても、間違っていることは、神理の立場から見ればはっきりしているのです。 このような人は知能指数は高いであろうし、ペーパーテストを受ければ、さぞかしできることでありましょうが、根本が間違っているのですからしようがないのです。まさに後生恐るべしです。ほんとうに学生に言われているとおりなのです。本人は気がついてないのです。もうあと一〇年くらいであろうと思いますが、気の毒です。東大で哲学を教えていた教授などといって、あの世に還っても、自分は絶対偉いと当然ながら思っています。あの世に還って、実際にまわりの世界が暗かったらどうするのでしょうか。困ると思います。 なかなかこのようなタイプの人は救うことができません。ほんとうに救いがたいのです。なぜ救えないかといいますと、頭でっかちになっていますから、あの世でお坊さんのような人が説得に行っても、このタイプだけは説得できないのです。「私はあれだけ知性的に詰めて勉強してきて、絶対これで真理だと思っている。だから間違いない」の一点張りで考えを変えることができないのです。 9.真に開かれた社会とは 『黄金の法』のなかでも少し批判しておりますが、「プラトンの呪縛」という内容に関して著わしているカール・ポパーという有名な哲学者がおります。彼の代表作の一つは、「開かれた世界とその論敵」という題の本で、原書が「The open Society And lt s Enemy」というタイトルです。英文でも読んでみました。かなりの大著であるため、そうとうな時間をかけて書かれたものだと思います。おそらく何年もかかっていると思いますが、やはり間違っているのです。現在、そうとう有名になっておりますけれども、根本が違うところはどうしようもないのです。 学派を興してずいぶん弟子筋もあるのですが、けっきょく、彼の考えでゆくと、「ソクラテスのあとプラトンが出て、"イデアの世界" と称しながら、実際は霊界の世界を哲学のなかに持ち込んでいる。そして、あの世があるようなことを言っている。」ということになるわけです。 このプラトンの呪縛によって世界は暗くされたと、このポパーという人は批判しているのです。そしてこのプラトンの呪縛によって、その後西洋世界がどれほど呪術的になり、暗くなったか。開かれた世界が、プラトンの呪縛によって閉じ込められたようなものだ。このような陰湿な古代のアニミズムと言うか、精霊信仰のような世界に、哲学という優れた学問が押し込められてしまった。このプラトンの呪縛から人類は二千数百年、逃れられないでいるのである。 だから自分は今、自分の哲学によって新たな地平を開いてプラトンの呪縛からみんなを解放させてやるのだ。そして閉じられた世界から、開かれた世界へ導くのだ。このようなことを書いているのです。 ところが事実は逆なのです。プラトンは、四次元以降に広がる世界のことを知っていたのです。そして、それについて、どのようにしてみんなに教えようかと努力して、あのようなイデアの説などをいろいろ出して説明しているのです。この開かれた世界のことを説いたプラトンの哲学を三次元世界のなかに閉じ込めたのが、このカール・ポパーという人なのです。つまり、逆にポパーが閉じ込めたのです。そして、これこそが開かれた社会だと言っているのです。 八〇〇ページくらいにわたる本ですが、まあ内容としてはO点です。まさにO点です。論点がまったく外れているのですから、読む価値はありません。お金を返してもらいたいくらいです。これで、世界的に有名な学者になれるのですから、間違っていると言うのです。 このような考え方がどれほど世界に害悪を及ぼしているかと考えると、はなはだしいと思います。ですから、私も今、霊的なもの、宗数的なものをだいぶ出していますが、もう少し基礎が固まってくれば、このような思想界の方をもっと斬(き)っていきたいと思っています。間違っていますから、私に言わせれば問題にならないのです。真実を知るということは、難しいことでありますが、ほんとうにだいじなことであります。 10.プラトンによる実在界の説明 プラトンも実在の世界、霊的世界のことを説明するのに、ひじょうに難しいと感じていたのでしょう。「洞窟の比喩」をつかって、おもしろい説明をしています。このたとえ話を学ばれた方もいらっしゃると思いますが、プラトンが説明しているのは、このイデアの世界、つまり、実相の世界を知っている人と、そうでない人の説明をしているわけです。 このプラトンの説によると、人間というのは囚(とら)われの存在なのです。人間が洞窟のなかにいるとします。外から光が入っているのですが、その人は、洞窟のなかで手も足も鎖で縛られているために光が入ってくる後ろのほうは見えないのです。そして前方に洞窟の壁面があって、ここに映る彭だけが見えるわけです。 外には道路か土手のようなものがあるらしくて、そこを通行人が行ったり来たり、どうもしてるらしいのです。そうすると、通行人が行ったり来たりするときだけ、その影らしきものが映って見えるのです。このような世界を説明しています。 この比喩で実は、実相世界と現象界の説明をプラトンはしているのです。実際に人間というのは縛られていて、この縛りこそ、実は肉体を意味しているのです。肉体という縛りです。これによって一つの方向しか見えない。つまり、これは三次元の世界しか見えないということです。 ところが、この実在世界における存在が時どき土手の上を行ったり来たりしていて、光があたるものですから、影だけが映るのです。そして、この人間はこの影だけを見て、いったいこれは何であろうかと推定するのです。この程度の世界だと言っているわけなのです。まさしく彼は知っていたと言えましょう。 このような説明は、私たちから見れば、何を意味しているのか、全部わかってしまいます。私たちには、プラトンが何を考えていたのか、直観的にわかるのですが、プラトン以降、後世の哲学者たちはこのようなことを一生懸命勉強して、「プラトンは宇宙人でもあるまいにどうして映画の原理がわかったんだろうか。」などと考えているのです。映画のスクリーンの原理と同じですから、映画のことを知っていたのだろうか、などと議論しているわけです。 これでわかるように、プラトンも「実在の世界」について説明をしているわけですが、彼も苦労しているのです。高級諸霊がこの世に出てきても、なかなかうまく説明ができないという苦労があるわけです。 11.次元構造の究明 多次元宇宙についての説明に入ってゆきます。多次元の宇宙を、人体にたとえてみましょう。三次元宇宙とは裸の肉体人間、四次元宇宙とは肉体を包む下着、五次元宇宙とは下着の上のワイシャツ、六次元とはワイシャツの上のセーター、七次元とはセーターの上にはおるスーツ、八次元とは全身をおおうコート、そして九次元とは頭の上の帽子のようなものだという説明ができます。 このようにほんとうは多次元宇宙や、高次元宇宙といっても、全然別の世界ではなくて、実は同じところにオーバーラップするように存在しているのだということを理解することが大切です。 この多次元の宇宙については、みなさんそうとうなご関心があることでありましょう。しかし、説明はいろいろなところで行なってまいりました。たとえば一九八七年の三月の講演会「知の原理」の質疑応答でもお話ししましたし、それ以外の本のなかでも、この次元についての話は何度か出してきております。 ここで、物理学者的に見た次元構造が、多次元的な宇宙の構造に引き当てられるということがなぜわかるのかという疑問があるでしょう。私も実際に、次元という言葉で表わすのが適当かどうかはわかりません。しかしながら、あの世の世界には確かに、階層の明らかに違った世界があり、それはアインシュタインやエジソンなどの科学者の高級霊たちに聞いてみても、だいたい私がいろいろと詰めてきた結論と同じであります。 私たちが菩薩界と呼んでいる世界が、七次元世界にあたり、神界というのは六次元にあたる。八次元には如来界が相当する。このような結論です。これは、科学者の霊と宗教家の霊が考えているところを全部つき詰めて整合した結果、このようになるということであります。 もちろん多次元宇宙の構造について、この世的にすべてを明らかに説明ができるかというと、かなり難しい面はあるでしょう。けれども、現実に霊層そのものは分かれておりますので、それをどのように呼ぶかは自由であるということもあると思います。 『天照大神の霊言』という本のなかで天之御中主之神が一九八四年二月第一回目に降臨されたときに、善川顧問が「何次元におられますか。」と聞くと天之御中主之神はわかりませんでした。そのあたりのいきさつが明らかに出ています。顧問に説明を求めているわけです。それで、相手の心のなかに浮かんだ説明を読んで、だいたいこのような引き当てをしているのかと思い、たぶん八次元というところだろう、というふうに答えているのです。 日本の神様であれば、何次元に自分が住んでいるかなどということは、考えたこともないのでわからないのです。そのようなものなのです。ですからあくまでもこれは現代的に言い換えればこのような表現になるということです。 「実在の世界」を三次元から九次元、十次元まで分けておりますが、実際、「実在の世界」の構造はもっともっと細かく分かれています。なぜ分かれているかといいますと、この世界は私たちのような物質の世界ではないからなのです。 もし、いまここで、ニメートルくらいのところまでが三次元で、この上から違う人が住んでいるというのであれば、みんな気持ちが悪くてしようがないでありましょう。透明の膜のようなしきりがあって、その上を人が行ったり来たりしていたら、とても住んでいられないと思います。 しかし、実際はこのようなものではないのです。肉体は存在しない世界なのです。物質の世界ではなくて、実質はやはり波長の世界、波動の世界といわれるように、違った存在形態なのです。私たち地上にいる人間にわかりやすいように、やはり地上的な風景、あるいは人間のかたちによって説明してはいますが、実際はそのようなものではないということです。 一九八八年の十月の講演会「反省の原理」で、最後の質問のときに、私が如来界あたりを見てきた話を少ししましたが、それもあくまでもそのようなかたちに翻訳されている姿であるのです。これは翻訳が可能なのです。英語と日本語が翻訳できるように、霊的世界の言葉、あるいは存在というものが、三次元的に翻訳されるのです。 また霊人たちを見ていても、人間的属性がひじょうに強い場合は、人間的に見えるのです。けれども、ほんとうに霊的な悟りが進んでいる場合は、霊人であってもそうは見えなくなってくるのです。今度は、ほんとうのその人の姿が見えてくるのです。ですから、同じものを見ていても同じではないのです。これはなかなかわかりにくいのですが、何重にも、ほんとうは姿があるのです。 これ以外の説明としては、スウェーデンボルグという人がいますが、このスウェーデンボルグという人は一五〇冊ほどの霊界探訪系統の本を書いた方です。この人の霊言も最近出しましたので、読まれた方もあると思います。 彼も霊界へ行って見てきてはいるのですが、スウェーデンボルグが見てきた世界は、だいたい八次元くらいまでのようです。そのくらいまでは行っているのですが、八次元の上段階まで行っているかというと、そのあたりで頭打ちになっているようです。そして、彼が見てきたものは、やはり人間的に翻訳されたかたちでの霊的世界を見てきているのです。 もし彼の悟りが、もう一段高ければ、ほんとうは違ったものが見えたはずです。如来界に行って、如来の姿が人間の姿で見えて帰ってくるということは、まだ向こう側から合わされているのです。こちらの人間のレベルに合わせて、向こう側がそのように見せているだけなのです。 ですから、たとえば谷口雅春先生の帰天報告の描写では日本建築の家に住んでいて池には鯉が泳いでいるという感じに映るわけですが、これは人間的に翻訳するとそのような気分でいるということなのです。それでは実際にその本質を見ればどうかといいますと、やはりそれは光として存在しているのです。
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依頼主 ナビィ 出現条件 2013/05/08 18 00以降 クリア条件 5/10 12 00 までに 以下のモンスターを討伐するダイダラボッチ:2 成功報酬 豪華ジャガイモの盛り合せほくほくして美味しそうなジャガイモ盛り合わせ。みんなで熱々のうちに楽しく食べよう。親密度が1500も上がります! 依頼時 大変です!日本神社のダイダラボッチが、大きいからだでコロボックル様を怖がらせています!コロボックル様を安心させてあげるため、討伐しに行きましょう~! クリア時 ???
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目次 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 2.われらは何をなすべきか 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 4.新時代に向かっての伝道方法について 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 善川 今後正法流布に当ってどういう方式、態勢で当っていくのがよろしいか。 日蓮 あなた方が団体を造っていくのではないのです。人びとが集まってくるのです。それを誤ってはいけない、あなた方が組織を造るのではないのです。あなた方はほっとくのです。法を広めるのであります。ただ結果的に人が集まってくるのです。人を集めんがために法を説くのであるなら、今の株式会社のようなものと変わりないではないですか、利益を与えてくれるから人が集まるのであるなら会社組織と変わらないではないですか、そうではないのです。"法" そのものを説けばよいのです。それが広がっていけばよいのです。広がる、広がらないはまかせておけばよいのです。本物であれば確かに広がっていきます。本物を目指すべきです。本物は人から人へと、人びとの良心から良心へと伝わっていきます。 善川 私たちが核となって天上界の皆様方のお教えを述べ伝えねばならぬと思いますが、とりあえず、これらのお言葉を紹介させていただいてよろしいか。 日蓮 これも一つの方便であります。病気を治したり、奇蹟を起こしたりするという方便がありますが、私たちの言葉を伝えるという、これも一つの方便だということであります。かつてこのような形で明確に現象が起きたことも、あまりなかったはずです。このように記録にとり、これを文章に起こす、私たちと対談した言葉が残る、ひじょうに稀なケースであります。これも一つの方便であります。あなた方にとっての方便なのです。誰とでも、天上界の誰とでも、呼び出して話ができる。このようなことが実際にできますか、できるようなことではありません。通常にできることではないのです。今、呼び出そうとして、呼び出せない霊がありますか、ないのであります。このようなことはあり得ないことなのです。これが方便なのです。しかして最後にはあなた方独自で新たな法を造成していかなければならないのです。私たちの言葉を伝えるということ、聞き書き――そのようなものだけではいけないのです。ただこれも、人びとに法が説かれるための方便なのです。これが最初の方便なのです。やがてはあなた方が考え行動することが、"法" となるのです。はじめは手引きがいります。手引書がいります。導きがいります。アドバイスがいります。そのために私たちは語っているのです。しかしやがてはあなた方が頭で、自らの頭で判断し、語り、行勤したことが、またそのものが「法」として後世に残っていくことになるのです。 後の世の人びとにとっては、この二十世紀の後半に「日蓮」が出てきて喋ったということは、大したことではありません。あなた方自身が更に今後、未来世における「日蓮」であり、他の宗教者でなければならぬのです。伝え聞きではなく、あなた方自身が、そのような本来そのもの、といいますか、本物そのものにならなければいけないのです。 あなたは今、われわれからの "正法" の流布という自らの任務に、驚きと戸惑いとを感じているようですが、何も心配はいらないのです。これも、あなた方も当然考えておられると思うけれども、既にすべてが予定された約束事であります。心配はないのです。ただ、あなた方は団体を造ろうと思ってはいけない。そういうことを思うと我が出、欲が出てきます。そうではなく、あなた方は真理を広めるのです。神理を広めればよいのです。宗団は出来ようが、出来まいがそんなことは問題ではありません。一人でも多くの人びとに神理が伝わればそれでよいではありませんか。宗団を造ろう、教団を造ろう、教祖となろう、このような考えは持たないことです。 このようなことは、自然に人がそう言い、そうなってくるものであって、それを目指していけば大変な間違いになります。それもまた旧来の行き方にひじょうにとらわれている行き方です。自らの教団造りに奔走して、教団の勢力を広げることに奔走するようでは今までの既成の新興宗教と一体どこが違うのですか、そんなものではないはずです。あなた方が対象にしている人たちは、今後、五百年、一千年、一千五百年、二千年後に出てくる人たちです。それらの人びとを今教団に入れることはできないでありましょう。今教団などというものは、現に今生きている人たちだけの話であります。そのようなものは、大きくとも小さくともよいのです。本当のものを残すということであります。 2.われらは何をなすべきか 日蓮 私たちは、まだまだ大きな眼で見ております。毎日、毎日あなた方に、毎日決まりきったレールの上を走ってもらおうとは思ってはいないのです。究極的に歩んでもらうべき道、それは既に示しました。そして最終的にそこまで行ってほしいというわれわれの希望も持っております。しかし、その目的地と、現在地の間を一体いかにして歩むかということは、あなたがたご自身の修行ということともからんでいるのですから、私たちは、こまごまと小さなことは申しません。ただ、あなた方が間違った方向に歩んだとき、或いは気力をなくした時、或いは失意に沈んだとき、私たちが何らかの言葉を述べ、あなた方に勇気を奮い起こしてもらう必要があるのでばないかと考えています。 善川 まず私たちができることは何でしょう。 日蓮 まず、あなた方一人ひとりが、自らできる最善のこと、自らに与えられた機会、環境、そのような中において、自らできる最善のことを志すべきです。現に何をせよ、と私は申しません。今あなたに何ができるであろうか、ということを考えていただきたい。人それぞれに考えるべきであります。あなたは、あなたで、いかなることをなすことが、今のあなたにとって一番大切であるかということを考えねばならないのです。各人、各様で結構です。自らの最善を尽くすということであります。 その各人、各様の動きが、やがて総合された大きなうねり、大きな動きとなってくるのです。人のことを特に考える前にあなたはあなたのできることをしてください。 善川 ここ四年間は、日蓮聖人が主体となって「正法」をお説きくださってきたのですが、これを今の世で同じく法を求める者に語り継ぎたいと思うのですが、その方法と申しましょうか、形態と申しましょうか、この聖人様のお言葉を、書物という表現形式によって表わすことについては、お許し願えましょうか、重ねてお伺い申します。 日蓮 間違っておりません。やがてすべては白日のもとに晒(さら)されることになりましょう。しかし、ものごとには段階があります。今現在、こうして私と話しているあなたも、三年前、四年にもなりますか、こういう現象が起きたときは、あなたも信じていなかったはずです。あなたが信じないようなことであるなら、一般の人はどうして信じることができましょうか。彼らを信じさせるところに行くまでにさまざまな段階が必要です。その段階、段階においてやはりついてこれない人が出てくるでありましょう。しかしながら、たとえ一握りの人であろうと、最後の段階まで導いてこなければならない人がいるのです。彼らがどうやったらついてこれるか、彼らの立場に立ってあなたは考えていきなさい。 ☆ ☆ ☆ 日蓮 まず具体的な方針、或いは何らかの計画、そのようなものをあなたは私から聴き出したいのだと思います。多分そうでありましょう。私から何かの言葉を聞き出したいと思っておられるのでしょう。何かは言わねばならぬと思います。 まず、あなたは、まもなく自由な時間を得ましょう。以後の行動であります。当座の間と申しますか、暫くの期間と申しますか、手が放れる。或いはあなたにとって、自由の時間ができてくると思います。しかし、やがてこれは自由な時間ではなくなってきます。やがて仕事になってくるわけです。いそがしい時期がやってまいります。そう遠い将来ではありません。忙しい時期がまいります。それまでの間、これは天から与えられたあなたに対する時間であります。あなたの宝物であります。時間は宝物であります。天から与えられた機会だと思って、この期間にあなたができることをやっていきなさい。その手がかりはもうあるはずです。私たちの言葉であり、あなた自身の考えであります。あなた自身の経験であります。あるはずです。そしていかなるものを残していくかということは、いかなるものを残すことがそれに接する人たちにとって有難いか、その接する人たちにとって素晴らしいものになるかという観点から考えて、あなたはなすべきことをなしていきなさい。 単に名を上げるとか、自分の遣り甲斐を見つけるとか、名を得るとか、そういうことではないのです。あなたが今考えていることは、どのような意味を持っているのか、どのような使命に基づいたものなのか、それを今後現わしていこうと思うものに、接する人の立場に立ってよくお考えください。 善川 私のような非力なものに、私一人でどれ程のことを人びとに訴えることができようかと思えば、前途にまだ自信が持てないのです。 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 日蓮 今世紀から来世紀にかけて、人類は第二のルネッサンスを迎えることになりましょう。それは、東西の文化が交流し、新しい時代にふさわしい文化が建設されることになりましょう。 あなたも以前にこんなことを聴いたでしょう。「花一輪では花壇はできません。色とりどりの何輪もの花が咲いてはじめて花壇となるのではないですか。」 この話は、かつてレオナルド・ダ・ビンチとして世に出られたガブリエルに聴いたはずです。あなたもこれから咲く一輪の花であります。あなたは、あなたの花を咲かせなさい。チューリップの花か、カーネーションか、牡丹か、他の花か、或いはタンポポの花か、菫(すみれ)か、それはあなたご自身が、やがて悟ることであります。あなたが一体何の花であるか、それはあなた自身がまだ充分に掴(つか)んでいないかも知れませんが、花は花としての使命があります。チューリップは、菫の花を咲かすことはできません。菫はチューリップの花を咲かせることはできません。あなたには、あなたの花があります。しかし、どのような花であってもよいのです。花壇が出来るのであります。花一輪では花壇になりません。その訓えを、いま想い起こしてほしいのです。ですから誰もあなたに全能といいますか、オールマイティといいますか、すべての法を説けと言っている人もいなければ、すべての人を救えと言っているわけでもないし、すべての人の指導者になれと言っているわけでもなく、古今東西を通じた完璧の書物を書け、と言っているわけでもないのです。あなたはあなたの、できるだけの、花を咲かせればよいのです。そうではありませんか――。 4.新時代に向かっての伝道方法について 日蓮 私たち天上界のものたちの話を聴いて、もうあなたは知っていることなんです。けれども忘れているだけです。そういう私たちの話を聴いて勉強することから始めるとよろしいです。けれども、やがてあなたご自身のお考えなり、思想なりというものをまとめていかなければいけません。 さて、伝道の方法ですが、心配はいりません。一人の人間が三人、五人の人を知っているのです。百人が三百人になり、五百人になるのは、もし内容があるものであれば、アッという間です。伝道というのは、いつの時代でもそのような形をとってきたものです。まず身近なものに説かれて、それを聴いたものが、これこそ本物だと、思い至った時に、それを多くの人たちに広めていったのです。 これからの伝道形式としては、文章による啓蒙の方向をとっていく、この方向が賢明です。あまり「現象」をやり始めると、「現象」のみを求める人たちが後を絶たなくなってきます。それはきりがないことです。 私どもの、こういった話を誰にでもできるわけではありません。そういった話が出てくると、何といいますか、われらを試そうという人が次々と出てくるのです。果たしてこれが本当に「日蓮」かどうか、ということを、詐術ではないのかと、あれこれと調べたくなる人が出てきます。私たちにとっては悩ましいことです。できれば私たちの言葉の内容を見て判断してくださるのが、一番幸せです。われわれの証明について、これが本当の何々の神か、本当の何々という人が言っている言葉なのかどうかと、根掘り葉掘り、或いはジャーナリスト、或いは、科学者というような人に調べられるために、私たちは出てきているのではありません。そうした方向に行くと、道はだんだんと外れていきます。 あくまで中身で勝負する、できれば「現象」など見なくて信ずる人たちが増える方が、幸せです。"拝み屋" のようになっていかないこと、「現象」を用いると、いろんな方々が、次々と問題を持ち込んできます。いろんな方々の、それに笞えている私たちは、結局は "拝み屋" 的な行為をやってしまうことになってしまうのです。 彼らは、更に証(しるし)、を求めてくるようになるでしょう。真に「日蓮」であるなら、病気を治してみよ。真に「日蓮」であるなら、来年の何月に何がどうなるか言ってみよ。彼らは、こういうふうにして私たちを試してくるようになるでしょう。もしそれが当ったら、お前を信じよう。そういったことになってきます。それは、私たちの意図しているところではありません。 私たちは、今、いろんな形であなた方を指導しております。 あなた方は、自分の信念なり、自分の心に浮かんだこと、これは、良い、と思ったことは信ずることです。ただ、その判断をするときに、自分の心の中に名誉心や、自己保存や、我欲や、そのようなものがないかどうかを、いちど、踏み留まって考えてから判断してください。 今の日本という国には、宗教を悪く言う人もいるけれども、半数近くの人は、何らかの宗教にかかわっているし、信仰深い人たちの中にも、素晴らしい人たちは、たくさんいます。男性だけではなく、女性もまた然りです。全く心配ありません。そんな心配する問があったら、自分自身の思想をその間に磨いてください。 宗教というものは、おかしいものだと思っている人は、少数です。宗教を信ずる人の中にも "狂" という感じを受ける人たちもおれば、素晴らしい人もいるというふうに、分けて考えられるのが一般おとなの人たちです。要は、あなた方が、狂ったおかしな人びとでないことです。 あなた方が真理に則した立派な人生を生き、立派な人柄を持ち、立派なことを語り、立派なことを書くのであれば、心ある人たちは、あなた方を信ずるでありましょう。その方がたは、あなた方を、決して非難したり責めたりしないはずです。むしろ、あなた方を尊敬したり、あなた方の教えを乞いにやってきます。 要は、あなた方の中身であり、人格です。 現在のあなた方の考えに、試行錯誤はありません。なぜなら、既にわれわれの力という一つの歯車が回り始めているからです。試行錯誤はない――。 善川 しかし、私たちはすくなくとも志を一つにする同志というものがなければ、ことは運ばないと思いますが。 日蓮 同志というのは必要でありましょう。ただ慎重に相手を選んでいきなさい。事を運ぶに、ひじょうに賢くありなさい。少しでも自己宣伝や、或いは我欲、そういったものが入ってくれば、間違った人たちを引き込んでしまうことになります。どうか純粋な気持を忘れないでください。 それともう一つは、新しい宗教を興すという気持は当面の間持たないことが、安全です。そうではなくて、もっと別な形があるでしょう。「精神科学」と申しますか、或いは「幸福哲学」と申しますか、要するに、この世の中の仕組み、この宇宙の仕組み、この宇宙を統べている「法」、この「神の理法」を明らかにすること、その神の理法の中に生きている人間たちに、幸せへの道は、どこにあるか、ということを教えることです。 そういう意味において、あなた方の教えも、一つには科学であり、宇宙科学、神霊科学であり、いま一つには幸福学であり、幸福哲学であるということです。宗教を興すという考えを持っていると、間違った方向に行く可能性があります。 幸福科学の研究をしているとでも思ったらいいのです。宗教を興せば、巷の神々の一人になってしまいます。また新興宗教が出来たか、ということになってしまうのです。その辺は時代の要請というものを見誤らないようにしなければなりません。 宗教を、新興宗教と銘うって出て、それで集まる人たちは、病気の人たちや、年とった人たちばかりになりがちです。しかしあなた方がねらうべき人たちは、これからの日本を背負っていく世代です。若者であり、インテリ層なのです。そういう人たちには新興宗教が一つ出来たといって訴えても、だめでしょう。そうでしょう、宗教でなくてもいいのです。要は世界の仕祖みを知らせ、そこに住んでいを人びとが幸福になれば、それでいいのです。これは幸福科学であり、幸福への哲学であります。 日蓮がこう言ったからこうした、というのはできるだけ避けたいのです。根本的な精神論、規範論については、意見を申しましょう。けれどもあなた方の行動について、いちいち私が具体的な指針を出すことは、これは避けるに越したことはありません。これは三年以上前から、私がもう既に言っていることです。そうしないとあなた方は、木偶(でく)の坊、になってしまうのです。神代の時代のト占(ぼくせん)によって、政事(まつりごと)を決めたような時代に還ってしまうのです。