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迷惑をかけない~イ・ナムギョの日本語源流散歩7(機械翻訳) 優しい子供と迷惑をかけない子供. 韓国と日本教育はその出発点から大きな差があるということを発見する。 すなわち,両国教育の裏面目標が全く違う所を指向していることだ。 我が国は 優しい子供になれ で教えるのに,日本は 他人に迷惑をかけない子供になれ で教える。 韓国校長先生の訓話の核心の 優しい子供になれ というどんな子供をいうのか? ご両親お言葉をよく聞いて,先生お言葉よく聞いて熱心に勉強する子供ではないだろうか? 言い替えれば私たちの教育は 親孝行死傷(史上,思想) を一番の徳性で打っていることだ。 それで日本が強調する 他人に迷惑をかけない子供 という(のは)何を意味するか? それは一言で社会性だ。 人間が生きていくのに一番重要なのは何よりも人を配慮することができる共同体意識,事理分別だ。 日本人たちは自分より人をさらに意識して,他人に対する細心な配慮の習慣は幼いころから徹底して注入させて,たとえ夫婦といってもお互いを丁寧に尊重して礼儀を守って買う。 そうするうちにまあまあなのはこらえることになって,このような忍耐が限界に至れば火山の噴火口のように恐ろしく爆発してしまう。 一言でけりをつけることだ。 ところで私たちはどうなのか? 親孝行精神は自分の家族,同僚,知っている人,すなわち私たちから出発するから他人に対しては理解の心が少なくて非常に排他的だ。 よく分からない人には疎かにしたりむやみにしても大丈夫だという意識が何時の間にか隠れていて,時々他人にご迷惑をかけたり不そんな態度を見せる若者たちを道路でたびたび見る。 自分がよく分かる友人の両親や近い隣だったら全く想像もできない無礼もはばからないことに胸が痛かった記憶を,韓国に住むこれらは誰でも1,2回ずつは経験して分かるだろう。 しかしこのような短所もあるが,ヒョは情(本当に)から出発するからその土台には愛がある。 反対に他人に対する配慮すなわち,社会性は私利(事理)判断の論理を土台にする知(紙)から出発するから,感情を抑制して自制する忍耐を美徳でここは分別力がある。このような両国の裏面教育が 理知的な日本人 と 感性的な韓国人 を作り出すのではないだろうか? [2009/02/18] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-7]迷惑をかけない http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=7571 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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お母さん港 イ消夏と (磯原)~イ・ナムギョの日本語源流散歩20(機械翻訳) 天気が良いときは釜山(プサン),太宗台(テジョンデ)公園で水平線遠くにとかすかに見える島があるのに,それが対馬島だ。直線距離ですればわずか50kmしかならなくて対馬から福岡までは150kmにもなる。 したがって対馬は日本からより我が国ではるかに近いところだ。ところでどうして日本土地か? 魏志東夷伝を見れば,「対馬は韓国で1千里余りの通り(距離)にあるのに,長さが400里余りで山が険しくて深い森が多くて,道路は獣が通うところのように狭くて家屋は100軒余り程度で,良い畑は一つもなくて狩猟をしながら自活している」で記録されている,ところで本当に行ってみると平たい土地という(のは)殆どなくて山勢が非常に険しくて海と触れ合った地域はほとんどみな絶壁のようになっていた。 対馬の静聴という「イソハラ・朝」(厳原町)も2次だとしかない自動車道路がすべてなので山村の小さい町内同じ印象を受けたが,ここが対馬逃走の宗氏の本拠があった所だ。‘ア,それでこちらの人々は食べることがないから海賊質をしたな 行ってみると理解できることも同じだ。 今でも対馬住民の大部分は漁業と林業で生計をたてていて,日本全体国民の所得水準よりも低い生活をしている。私が30余年前そちらに行った時案内員が言うことを,“昔にはきれいな秋夜明けに耳を傾ければ釜山(プサン)で鶏泣く声が聞こえた”とするのに,その話を信じられないがとにかくそれだけ近いという言葉だろう。 このように地理的に近くて見るから,こちらには韓国語らが原音そのままたくさん残っている。 例をあげれば,「チョコだけ」(チョコマン)という(のは)キーが小さい人をいって,「ノポ」(ノッポ)はキーが偉い人,「両班(ヤンバン)」(両班)はそのまま両班(ヤンバン),「パツル」(バチュル)は畑の草取りをするのを意味するのに,住民たちはこういう言葉をそのまま日常生活に混ぜて使っている。そして対馬を日本語では「ツシマ」(対馬)というのにこの話もやはり‘二石’という(のは)言葉が「二石→置かれますよ→ツシマ」に変わったものという。 古代に渡来人らが玄海灘の荒々しい波と戦ってこちらツシマの厳原港に無事に到着した時,お母さん懐の中のように水が穏やかなこの港がとても有難くて付けた名前が「お母さん」港であったのに,この指名に漢字を付けて「オム院」(厳原)になったし,これを日本語で読んで「イ消夏と」になったのだ。 そういえばこの港は本当に入り江がすっぽり包まれていて一年ずっと波が起こらないお母さんの中同じそのような安らかな港だ。 [2009/05/20] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-20]お母さん港 イ消夏と (磯原) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=22275 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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韓日の悪口文化、言葉で済ます韓国・刃物を使う日本~イ・ナムギョの日本語源流散歩32 日本ではののしったり争う声をなかなか聞くことができない。かなりのことをそのまま譲歩し、堪えて 他人と言い争うことを敬遠するためだ。そのためかは分からないが日本の悪口はその種類があまり に少ない。悪口だけを見れば、確かに日本は紳士淑女だけが生きている国らしい。 日本は「侍文化」のせいなのか、悪口といえばせいぜい、「バカ(パボ)なヤツ」という「バカヤロウ」、 「けもの」という「チクショウ(畜生)」、「こいつ」という「コノヤロウ」程度で、私たちの悪口文化とは量と質 のすべてで比較にならない。 多分この点は私たちの「ソンビ(士民)文化」、すなわち言葉文化の恩恵(?)かも知れない。ソンビは 刃物の代わりに言葉でみな片づけ、日本は言葉の代わりに刃物で片付けるから、誰かが韓国は「恨 (ハン)の文化」、日本は「怨(オン)の文化」といったが、これもまた韓日文化の特徴をよく表現してい るようだ。 余談だが、私が大阪韓国総領事館に勤めていた時、韓国から出張にきた血気盛んな人物が酒を飲 み過ぎたあげく日本語で「こいつら、みな殺しにしてやる」といったところ、あっという間に酒場のお客さ んらがみな消えた。後ほど分かったことだが、この人は空元気でした話なのに日本の人々はそれを本 当に恐れたためだった。実際に日本の人々は話より行動が先行し、私たちはただ話の大砲だけよく 撃つ。 それでは悪口は良いことであろうか、悪いことであろうか?私は日本のテレビ番組を見て、いつも疑 問に感じるのは「どうしてあのように毎日毎日、数十人を殺す内容を作るのだろうか」ということだった。 すべてのテレビ番組がすべて自殺、殺人、怨恨をテーマにしているのは恐らく日本の怨と何らかの相 関関係があるのではないだろうか?でなければ視聴者を意識した行き過ぎた競争が産んだ産物であ ろうか? 反対に我が国のテレビ番組は涙を流して寂しがる場面、胸がじーんとするその何かがなければ「唐辛 子が入っていないキムチ」のように気が抜けたように感じるだろう。愛して、悲しんで、懐かしがって、 切なくて、そしてハッピーエンドで終わる「冬のソナタ」のようなものだ! ところで人が生きているならば良いことばかりではない。憎いこともあり、胸が痛いことも多いが、そ れでもいくら憎くても殺しまでするのはちょっとひどいのではないか?いっそ思い切り悪口でも言って、 解いてしまう方がはるかに人間的でないだろうか?とにかくこの頃の世の中に最も力のある先生は何 といってもテレビのようだ。昔は「教育の3要素」といえば「家庭、学校、社会」だったが、現代は「学校、 テレビ、指導者の言動」ではないか? 「一匹の羊が率いる100匹のオオカミは、一匹のオオカミが率いる100匹の羊に敗れる」と言うナポレ オンの言葉を借りるまでもなく、現代社会において指導者の言動の波及効果は計り知れない。 慶一大総長・イ・ナムギョ ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩32]韓日の悪口文化.. http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=35794 yy=2009
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右他家ウォッシュ(疑わしい)~イ・ナムギョの日本語源流散歩30(機械翻訳) 結婚をしなくて独身で過ごす男を未婚の男性というのに,日本語ではこれを‘銃架’(チョンガ)という。結婚したとしても地方(脂肪)に一人で勤めればこれもやはり未婚の男性というのに,例えば博多(博多=福岡)に短信(単身)赴任した人ならば‘ハカチョン’すなわち,博多未婚の男性だと呼ぶ。 娘未婚の男性を媒酌(見合い、仲買)するのは日本も私たちと同じことだが,我が国は大体の身上明細だけ知らせて二人に会うようにした後に互いに良ければ,その時から両家の家庭に対して詳しく調べてみることが慣例なのに,日本はこれと正反対に先に詳細なのを全部調査した後に合えばその時になって見合いする方式を選ぶ。 韓国式は‘なるかも知れないのをあらかじめ詳しく調査する必要が何があるのか?’という合理性にあって,日本式は見合いして合う場合‘その時になって問題が生ずれば相手方に損傷を与えられる場合があるので’とする細心な配慮でだ。そしてその根底には他人に対する‘信頼と疑い’という互いに違う両面性がかくれていることだ。 例をあげれば,どんな商店と取り引きをするといおう。 韓国の人ならば一二度してみて信じるだけのことはあったと思えば全面的に任せて疑わない。それで失敗することがたびたびある。 ところで日本人は絶対にそのようにしない。一例で,とても大きなスーパーマーケットで小さい在日同胞食料品店にキムチ取り引きをしようという依頼がきて大きく好んだが,最初の月に500gの注文がきた。 それも貸金(代金)支払いは45日後で与えることだ。 とんでもなかったがそのまま我慢して数ヶ月を継続したところ,その次には1kgに上がってこのようにして3年になって1ヶ月に1,000kgを納品する主要取引先になったという話を聞いた。これを見て日本の人々は先にこの人が‘どうなのか’と試験してみるのを分かることができる。 ‘どうなのかと思うだろう’を慶尚道(キョンサンド)放言ですれば‘右震えるのかと思うだろう’であるが,この話を日本語で‘右他家ウォッシュ’(疑わしい)で,‘疑わしい’という話だ。 日本でどんなことに成功しようとするならこの‘右他家ウォッシュ’テストに必ず合格しなければならない。 そしてひとまず合格すれば相手方の信頼を得ることになって,彼で日本での事業は半分以上成功したのと違わない。 [2009/07/29] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-30]右他家ウォッシュ(疑わしい) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=33820 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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二四とタンチュー(イネとダンポポ)~イ・ナムギョの日本語源流散歩9(機械翻訳) 農耕文化を持った古代渡来人(カヤイン)らの日本移住で日本列島は急速に狩猟生活で農耕生活に変わって一定の地域に定住することになるのに,この時期を弥生(生)時代という。そしてその時代に使った農耕用語らは今日までほとんど変わらないでそのまま残っている。 例をあげれば‘米の飯’を私たちは今でも田舎では‘白いご飯’というのに,ここで‘この’は日本語の‘この’(稲)すなわち‘稲’のような意味の話だ。それで‘稲すなわち二四がある家’を日本語で‘このナカ’(田舎)というのに,これは農村という意味だ。 韓国語‘血’は稲と似た雑草で,古代には‘ヒ’だといったのに日本語では‘ヒに’(稗)という。 また‘マ’の私たちの故大魚は‘某’,日本語は‘叔母’(薯)であり,‘キュウリ’の私たちの故大魚は‘鴨’,日本語は‘私たちの’(瓜)だ。 そして栽培する時の`屋’と‘クワ’は故大魚では‘再起’と‘クェイ’,日本語では‘スキー’(犁)と‘九と’ (金秋)であり,‘シャベル’は‘サヒ’(銷)または‘スキー’(鋤),‘鎌’は‘私だ’(鎌),‘コと’は‘九老(クロ)’(畔),‘肥料’は‘コ子’ (肥),‘束’は‘みなバー’(束),‘ナムル’は‘私’(菜),‘技量’は‘基肥’(黍)等で,数え上げれば終わりがない。 田舎に行けば新芽が出てくるのを‘芽生える’というのにこの‘ウム’は日本語で‘雨霧’(生む),すなわち‘生まれる’という話だ。そして‘我が家’は減らして‘愚痴’(内)になるのにこの話(言葉)はその用途が大きく拡張されて次の4種類の意で使われる。 最初はチプ′ガジョン 家族 夫などを現わして,二番目は中(案) 内部 胸中 範囲,三番目は間 間,四番目は私たちなどで前後話によりその時ごとに他の意味で使われる。その中でも興味深いのは‘タンポポ’という言葉が‘タンチュー’(たんぽぽ)なのに,これは韓国語の‘みな選んで’で由来した言葉だ。 農家においてタンポポは可愛くもなく美しくもない花なのに,その繁殖力だけはとても強くて根の末が少しだけ残っていても1週間だけ過ぎれば即座に育ってまた花を咲かせる。綿毛のようなタンポポ種は風が吹く時ごとに飛ばしてそのまま置いておけば即座に畑全体がタンポポだらけになるはずだが,それで出てきた話が‘みな選んで’だ。 根元まで選んでしまえとのこの言葉がそのままタンポポの名前がなったので,私たちが見る‘タンポポ胞子なって’のタンポポは美しいタンポポだが,古代人らがみたタンポポはどれくらい憎いプリオットンガを実感することができる。 [2009/03/04] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-9]二四とタンチュー(イネとダンポポ) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=9866 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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日本語の「ステキ(素敵)」は渡来人歓迎の意、「天神通り」は渡来人の住居跡~イ・ナムギョの日本語源流散歩23 古代に日本に向かう大部分の渡来人はひとまず対馬に立ち寄って、いくらかの休息を取って、水、食 料などを補充した後、再び日本本土に出港したものとみられる。 アメリカ新大陸に移住した清教徒らよりも1千数百年も早く始まった渡来人らの航海は、粗末なイカダ の帆かけ船に木の実やいくらかの穀類などをのせて海流と風に頼りながら、現れた敵は全部撃破す るという悲壮な決意と覚悟で出発しただろう。しかし、死ぬ覚悟で渡航した彼らの前に現れたものは意 外であった。彼らは何の武器も持たなかっただけでなく、敵対どころかむしろ両手を挙げて歓迎したの ではないか?そこで出てきた言葉が「ステキ」(素敵)すなわち、「素手の敵」という意味だ。 この焼き肉の名前と同じ「ステキ」という言葉は、日本人たちが最も好んで使う人気ナンバーワンの単 語で、「すてきだ、すばらしい、ものすごい」等の意味を持っている。いつも敵を意識して生きてきた渡 来人らは武器を持っていなかったからこそ安心できる気の抜ける相手に深い安堵感を与えただろう。 そのため、この言葉が順次変わって「すばらしくてすてきなこと」という意味の「ステキ」という言葉に発 展したが、「素晴らしいこと」を「敵」に比喩したのがサムライの国らしい。 聞けば気持ち良い話の「美しい」は「ウツクシイ(美しい)」、「きれいですばらしい」とは「キレイ(綺麗)」と いうが、こうした言葉よりも一層さらに上品で幸せになる最上級の言葉がまさに「ステキ」という言葉だ。 古代渡来人らは先住民らの不意の襲撃に徹底的に備えて生きていた。米作などの先進文化を持って 海を渡ってきた渡来人らは当時、強力な武器であった鉄製刃物と機動性ある馬もあったが、夜間には こういう武器がすべて無用の長物だったからいつも万全の準備をしていた。そのため、家の周りに堀 を深く掘って水を入れ、簡単に接近できないようにし、渡来人の居住地域を「天から降りた神々が住む 所」と命名して、出入りを禁じるようにしたが、このような名残りが今日、日本各都市の中心地に残っ ている「テンジンドーリ(天神通り)」という地名だ。 「テンジンドーリ(天神通り)」この言葉は文字そのまま「天の神が生きる通り」という言葉で、古代渡来 人らが生きた住居地を示した言葉に由来したのだ。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/column/20090609_145324000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩23]ステキ(素敵) ※ソース不明
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花郎道と侍~「サムライの語源は、言うまでもなくサウラビ」イ・ナムギョの日本語源流散歩24 「天の下、人はみな平等だ」とする私たちの人乃天思想(訳注:人が即ち天であるという考え方)が日 本では全く合わない。いやむしろ日本は君と私は同じ人でないという認識がさらに深い。 日本人たちはお互いの間に越えられない線があって、階段があって、壁があると考える。金持ちなら ば金持ちらしく生きて、貧しければ貧しいように生きなければなければならないと考える。そのためか、 彼らは人が良い暮らしをしても、腹を痛がったりねたましく思わない。 終戦後、日本が困難だった時、池田首相は「貧しい者は麦飯を食べろ」と言ったが、日本人たちはこ の言葉に反発どころか当たり前であるお言葉として、首相の「名言録」に登録までした。昔は侍が通 り過ぎる時、見えるようにお辞儀をしなかったり何かの誤りがある時は容赦なく刀で切ってしまう厳格 な「サムライ・ルール」があった。 それなら平民はどうして屈従の歴史を黙々と耐えて今日に至ったのだろうか?そこにはもう一つの奇 妙な「サムライ法則」がある。それは名誉と富と権力を共に持たないという暗黙のルールで「サムライ は名誉、君主は権力、商人は富」を重視してこれらを兼ねて持たないという分離の法則だ。権力を持 った者は名誉とお金を決して追求せず、サムライも刀で平民らの財産を収奪しない。 「武士は食わぬと高楊子」ということわざのように、サムライらは名誉を自分の生命よりさらに大切にし たのだ。 それならこの「サムライ(侍)」という言葉はどこからきたのだろうか?それは言うまでもなく韓国語「サ ウラビ(戦う親父)」が変化した言葉だ。「戦う」を日本語で表現すれば「タダカウ」(争う)と言い、これは 「タダク」(叩く)すなわち、太鼓を「たたく」から派生した言葉だ。従って「たたく」は殴ることで、これは戦 いが上手なことを意味し、そのような子供を「サウル・アイ(争う子供)」というが、これが「サウラビ(戦 う親父)⇒侍」になったのだ。 ところでこのようなサムライの精神は新羅の花郎道(ファランド)精神に起因した点が大きい。花郎道 の「花郎五戒」とは事君以忠、事親以孝、朋友有信、臨戦無退、殺生有択で主君に仕えることにおい ては忠、父母には孝、友人と交わることには信、戦いに出れば退かず、殺生は選別をするという言葉 だ。このような花郎精神は道徳が緩んだ今日、私たちの社会がもう一度吟味して実践しなければなら ない生活の徳性ではないだろうか。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/column/20090616_140931000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩24]花郎道(ファランド)と侍 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=27135 yy=2009
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乞食、ごろつき、欲張り、馬鹿など・・・日本語は全て韓国語に根がある~イ・ナムギョの日本語源流散歩34 「嘘(コジンマル)」とは「乞食(コジ)の言葉(マル)」から始まったというが、「乞食(コジ)」は日本語で 「乞食(こじき)」、「偽り(コジン)」は「コジスケ(こじつけ)」で「無理に取ってつける」という意味だ。乞食が あてもなしに行ったり来たりすることを「コロンコロンハンダ」と言うが、これから「コロンイ、コロンベン イ」という言葉が派生した。この「コロンイ」も日本に渡っていって「コロスキ(ころつき)」になった。 古代渡来人の上層は日本史の中枢に位置する皇室をはじめとする上層文化を形成した反面、その 当時はまともに適応できずにさまよったジプシー類もいたことは明らかだ。ところでおもしろいのは、同 じ乞食と言っても韓国と日本の乞食は大きく異なることだ。 韓国は乞食といえば人々にもの乞いして誰かの同情心によって生きていく人々をいうが、日本の乞食 は絶対に他人の助け求めたりせず、クズ拾いをしたりごみ箱をあさって自ら食べ物の問題を解決する。 「ホームレス」と呼ばれる彼らはたいてい駅構内や公園などで生活をするが、それでも各々自分の生 計のために自分で何時間かは仕事をする。 市内歓楽街などの場所を歩き回ってあき缶を集めたり、捨てられた家電製品を分解して銅などを収集 して売るのだ。単に公園などの電信柱から電気を無料で取ったり、食べ物を暖めたりという程度であ って、自分の努力もなしにむやみに助けてくれと行き交う人々に手を差し出すことは絶対にしない。こ れも情に厚い韓国人と冷淡な日本人が作り出した「乞食像」ではないだろうか? とにかくお金儲けできずに物乞いになるのが乞食だが、お金を「儲ける(ポルダ)」という言葉は日本語 では「モウケル(儲る)」で、「ポルダ」と「モウケル」の二つの言葉が合わさって「いっぱい儲ける」という 意味の「ポルモウケ(金儲け)」という言葉が生じた。また、執拗なことを私たちは「貪欲(アクパリ)」とい うが、これが日本に渡って「ヨクバリ(欲ばり)」になり、「馬鹿(パボ)」は「パー(パぁ)」または「アホ(阿 保)」という言葉になる。物心がつかないで「分別がない(チョロプタ)」は「チョロイ(ちょろい)」、「間抜け (オルカニ)」は「オロカ(愚か)」で残っている。 日本の人々が純日本語と勘違いする「ケシカラン(けしからん)」もやはり韓国語の「不届きだ(クゥエシ ムハダ)」からできたことなど、日本語の語源はその全ての根を韓国語に置いていることが分かる。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/column/20090825_141749000.jpg ソース:(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-34] 乞食(こじき) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=37595 yy=2009
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日本の「マツリ(祭)」の由来は「マッドゥドリ」~イ・ナムギョの日本語源流散歩22 人々は日本を「マツリ(祭)天国」とも言う。一年中日本のどこかでマツリが行われているからだ。こうい う「マツリ」は規模の大小を問わず地域の人々の心を一つにして、人生の楽しみを感じさせるうえで大 きく寄与する長所を持っている。こういう生活の楽しみを一ヶ所に集めて、人生の大きな幸福に編み 出そうとする日本人の人生の姿勢から来る「マツリ」。 怠惰になりがちな単調な毎日に変化をつけて、また人生に活力を呼び込んで村の団結を追求するに あたって、絶対に必要な「マツリ」の語源はどこからきたのだろうか? 古代には政治と祭事が同じ性質を持っていた。民を治めるということは、神に祈り、豊作になって飢え をなくし、また病気がはやく完治するように祈ること等で、これは政治をする人、すなわち天皇の最も 大きな役割だった。このため、政の漢字の意味は「祭=マツリ」を内包しており、祭と政を一緒に行う時 には必ず祭を先に書いて「祭政一致」とし、政よりも祭をさらに重視したことが分かる。したがってマツ リの起源は本来は神を楽しくさせるための一つの「祭祀儀式」であったが、これが順次変質して、人々 どうしで楽しむ祭りになったのだ。 後漢書「東夷伝」を見れば、満州一帯を支配した夫余族は毎年11月頃に各部族がみな一ヶ所に集ま って、天に祭祀を行って酒を飲んで歌う「迎鼓」という習俗があったという。「迎(ヨン)」は韓国語で「マ ッタ(合う・一致する)」」であり、「鼓(コ)」とは「プク(太鼓)」という言葉で、日本語では「ツツミ」で、日本 古代語の万葉仮名では太鼓を「トゥトゥミ」と記録している。「マッドゥドリダ(たたく)」の日本語は「タタ ク」で、これも「トゥドリギ→トゥドギ→タタク」に変わったものであり、この「トゥドリダ」の「トゥドリ」が変わ って「トゥトゥミ」になったのだ。「迎鼓」という漢字を韓国語にすれば「マッドゥドリ(合って差し上げる)」 になり、これが「マッドゥドリ→マッドゥリ→マツリ」に変形されたのだ。したがって日本のマツリに太鼓 は必需品だ。 また一つ、私たちの「マジ(迎)、マズリ(合う)」が変わった祭礼型マツリがある。これは祭りとは違って 神社で行う祭礼儀式の「マツリ」だ。昔、田舎で正月や小正月ならば小さな明かりを持って月の浮かぶ 小山に上がり、敬けんな気持ちで迎えた「月見」、田舎の若い女性の慎ましい美しさを感じさせる「春 の迎え」のような風習は私たちの古くなった美風良俗だ。 このような敬けんな意味が内包されている「マジ」は日本に行って祭りの「マツリ」ではなく、神社の「マ ツリ」、すなわち祭事の「マツリ」へと続いて、今日日本の神社でなされる厳粛な祭礼儀式になったのだ。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/column/20090602_151028000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩22]マツリ(祭)の由来 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=24848 yy=2009
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地名や姓氏から神の名に至るまで、古代韓国と縁がないものがない日本~イ・ナムギョの日本語源流散歩38 日本には古代渡来人らが使った言葉が地名として残っている場所もたくさんあるが、その中でも 代表的な場所が「オイソ(大磯)」だ。「オイソ(大磯)」は唐と新羅によって滅亡した高句麗の王族、ヤ ックグァン(若光)一行が日本に渡って初めて到着した場所で、神奈川県高座郡相模町にある小さ な浦の名前だ。 ここで「オイソ」というのは慶尚道(キョンサンド)方言で「いらっしゃいませ」という言葉であり、この 言葉は当時、この地方に伽揶や新羅からで渡来した人々がもう住んでいたとことを示し、彼らが新 たに渡って来た高句麗の若光一行を大歓迎したことに由来する。 オイソポ(大磯浦)をめぐる山の名前もコマサンすなわち高句麗山で、これも若光一行の到着を記 念して付けけられた地名という。この山には本来、高麗神社があったが、1897年に神社の名前を 高木神社に変えたという。そして前述の高座郡という知名も昔は高倉郡であったが、これも高句 麗人がたくさん住んだ場所に由来した言葉という。 「サガミ(相模)」という地名は当時の渡来人らが暮らした村を「サガ」と言ったことに起因し、ここか ら派生した言葉が今でもサガ(寒川)神社やサムカワ(寒川、寒河)などの地名に残っている。 福岡市の東側に「ワジロ(和白)」という地名があるが、これは新羅の和白(訳注:新羅の部落会議 に源をもつ全員一致の合議政体)からきた言葉で、古代に近隣の村長らがここに集まって、新羅 の「和白会議」と似た会議をしたことに由来したという。ここは中国から下賜されたという「倭之国 王」という金印が出たところでも有名だ。 そして日本の姓氏も韓国と関連したものが多いが、京都を初めて開いて日本の首都を奈良から 京都に遷都するのに最も功労が大きかった新羅渡来人「ハタ(秦)」氏は海を渡ってきたといい、海 (パダ)が「ハタ」に変わったもので、渡来伽揶人「アヤ(漢)」氏もやはりカヤ(伽揶)という言葉が転 じたものだ。 このハタ(秦)氏とアヤ(漢)氏は古代日本をリードした2大氏族で772年に書かれた「続日本記」の 奈良末期人口調査を見れば当時、奈良の中心地だったタケチ(高市)郡の人口の8、9割がアヤ (漢)氏とハタ(秦)氏となっている。これは当時、大和朝廷の首都である奈良の人口の大部分が渡 来人であったことを意味する。 また日本の最高神の「オオクニヌシノミコト(大国主命)」の元の名前は「オオアナヌシノミコト(大穴 主命)」で、ここで「アナ(穴)」は阿那国を言い、伽揶帝国の中の一つだ。 このように日本には地名や姓氏または神の名前に至るまで古代韓国と縁がないものがないほど、 深く関係している。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20090922_150057000.jpg ソース:毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-38] オイソ(大磯) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=41636 yy=2009