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登録日:2009/11/14 Sat 10 28 24 更新日:2024/04/16 Tue 17 50 12NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 Fateサーヴァントネタ元項目 人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり 人物 再評価された甲陽軍鑑 同盟破りの天才 大河ドラマ主人公項目 天台座主沙門 ←自称 ←信長「ならば俺は六天魔王だ」 天才 山梨県 戦国の巨獣 戦国時代 戦国武将 日本史 武将項目 武田信玄 武田晴信 甲斐 甲斐の虎 甲陽軍鑑 風林火山 疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し ▽目次 ◆概要 ◆来歴 ◆家臣四名臣 他の家臣 ◆彼を扱った作品小説 漫画 ゲーム ◆余談 ◆概要 武田(たけだ) 信玄(しんげん)(1521〜1573)は戦国時代の武将、大名である。 「信玄」の名は出家後の法名「徳栄軒信玄」から取られたもので、本来の名は「晴信(はるのぶ)」。出家した時期には諸説あり、はっきりとは分かっていない。 ◆来歴 甲斐の守護大名武田信虎の嫡男である竹松(晴信の兄)が7歳で夭折した為、晴信は1523年に嫡男となる。 しかし、父親・信虎は晴信を嫌い、弟・信繁ばかりを大切にしたとされる。 その一方、信虎は晴信の2度の結婚に関しては一度目は扇谷上杉の姫、 その死後(*1)に再婚した二度目の結婚に関しては三条左大臣の娘と格上の家から妻を迎え、 更に朝廷に働きかけて息子に元服と二度目の結婚と同時に従五位下・大膳大夫の官位を貰っている。 一度目は、父・信虎が扇谷上杉氏との関係強化を図った事による婚姻。二度目は、今川の仲介で三条の方が嫁いでいる。 この事実を見れば信虎は跡取り息子の晴信を、最低でも公の場では自家の跡取りとして厚遇していた点が記録に残っている。 父・信虎に関して、信虎の行動は(怪しい情報はさておくと)中央集権化を意識していたのだろうと言われている(*2)。 しかし信虎と家臣との間に軋轢があった事は事実である。 信玄(晴信)以外の息子とは関係も悪くはなさそうな間柄がうかがえるため、人間性や戦国武将として異常だったから追放されたのではないと思われる。 ただし、勝山記などの記載から経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘されている。 信虎の統治時代に周辺諸国と激しく対立して四方が敵であった時期もあり 1519年に今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なり過去にない程の物価高騰が見られ 1529年にも小山田氏との対立で路次封鎖があった事により物価高騰が見られる。幾度かの路次封鎖や凶作が物価高騰や飢饉を招いたとされる。 更に1540年に甲信地方を襲った大規模水害が原因と見られる凶作の影響か 翌年に大飢饉(天文の飢饉)に陥った事により、国内の領民から信虎への反発や不満が高まり これに危機感を抱いた晴信と家臣などが信虎を追放したとする説がある。主だった重臣たちに担がれた晴信は信虎が今川家を訪ねた隙をついて国境を封鎖。 家督を得た。なお、甲斐国志によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとする説もある。 信虎はその後、娘の定恵院が嫁いだ今川家に身を寄せる事となる。今川義元は晴信に、信虎の隠居料を請求する書状を出しており、晴信もそれに応じた。 信虎の隠居費用は、武田家から隠居料が支払われ続けた。 信虎は、1543年に京都から高野山、奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。 さらに信虎は高野山引導院を参詣し(晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、奈良にも赴いている(多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している)。 信虎は奈良を遊歴の後、1558年以降は生活の拠点を京都に移して、幕府に在京奉公している。 晴信死後(父なのに息子が死ぬ翌年まで生きていた)、勝頼により信濃までは入ったが、終生甲斐には戻れなかった。 その父に可愛がられていた信繁は、戦国の世の常として晴信の家督相続を不服として後継者争いを起こす…ことはなく、 すんなりと晴信に家臣として仕え、晴信を補佐し続けた。その働きから、彼は『名将』の一人として讃えられている。 いずれにせよ、追放に際し重臣からも同盟国からも大きな非難がなかったので、信虎の追放は広く支持を得ていたようだ。 晴信はその後、甲斐の内政を充実させると隣国・信濃へと攻め込む。 諏訪氏、小笠原氏と有力豪族に対し攻撃を加えるが、小田井原城の攻城では討ち取った将兵3000の首を晒したために反感を買い、開城に失敗したり、 上田ヶ原では村上義清に敗れ、甘利、板垣と言った名臣を失う大敗北を喫するなどかなり苦戦している。 ちなみにこの頃には分国法「甲州法度之次第」を制定している。 苦戦しつつも南信濃・中信濃を治めた晴信では有ったが、砥石城では再び村上に大敗北を喫した。(砥石崩れ) この砥石城は真田幸隆の謀略で陥落し、村上は遂に、信濃を追われ、晴信は信濃を制圧する。 しかし、越後から白い悪魔、もとい毘沙門天の化身が降臨する。彼の終生の宿敵(とも)である上杉謙信である。 彼とは都合5度戦ったが、最大の激戦は4度目(1561年)の第4次川中島の戦いである。 それまでに甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた晴信は輝虎軍と激しく激突。 決定的な勝敗は付かなかったが、諸角虎清、山本勘助、そして弟・武田信繁など多くの家臣を失った。 その代わり合戦の間に征夷大将軍の足利義輝より信濃守護の名を得ており、名実ともに信濃を手に入れ戦略的には勝利している。 その後、関東に進出し、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた後は、 彼の死から8年後に駿河を、独立した徳川家康と同時期に攻めるなど、勢力を徐々に拡大。 ちなみにこの時期、信玄と長男の義信は外交方針に相違があった事が窺える史料が残っており 義信は武田と織田の同盟に反対していた。 義元を討って勢いに乗ったその信長とは、互いに敵対したくないという思惑もあって姻戚関係を結び、 さらに、駿河を巡って悪化する家康との関係も、信長が間に入る形で決定的な激突には至らなかった。 しかしその信長が比叡山の焼き討ち事件を起こすと、信玄は信長を批難し、焼き討ちされた延暦寺を自国で復興させようと画策。 これによって信長との同盟関係に亀裂が走り、同様に信長との関係が悪化していた第15代将軍・足利義昭が出した信長討伐令に応じ、 1572年には信長討伐のための「西上作戦」を開始し、上洛の途に就く。 その道中、三方ヶ原にて家康軍を撃破。後世で言うところの「三方ヶ原の戦い」である。 信玄はまず、籠城の構えを見せる家康をあえて無視して前進する様子を見せ、追ってきたところで武田軍が反転、総攻撃をかけて動揺する家康軍を大いに打ち破った。 家康を蹴散らした次は信長とばかりに軍を進める信玄だったが、ここで思わぬ事態に見舞われる。 この時、自分たちと同じように信長討伐令に応じて出兵していた朝倉義景が、積雪を理由に撤退するという(信玄目線で)有り得ない行動を起こしたのだ。 この行動に激怒した信玄は義景に強い批難の手紙を送りつけるも、朝倉軍が再度出兵してくることはなかった。 また、三方ヶ原の戦いに前後して、信玄は持病が悪化して喀血を繰り返したため、武田軍は進軍を停止。 信玄は長篠城で療養し、事態を重く見た近習たちは撤退を決断するも、1573年4月、甲斐への帰還途中に信玄は死去した。 彼は遺言で「自分の死を3年は隠せ」「(本来の跡取りである)孫の信勝が成長するまでは勝頼がその後見役となり、越後の上杉謙信を頼れ」としたが、 結局信勝に家督が引き継がれる前に「長篠の戦い」にて武田軍は信長に敗北し、また信玄の死後に武田一族・家臣団は団結力を失い、武田家は滅亡することとなった。 信玄はその華々しい戦歴から「戦国最強」と言われるほどに極めて戦上手であり、砥石崩れ以外では戦略的な敗北は無い。 更に情勢を見る目がある上に外交手腕にも優れ、時に冷徹に同盟国を切り捨てるのも富国や近隣勢力とのバランス取りの一環である。 遠く中・四国地方まで情報を探りながら的確に情勢を利用して自国の利へと利用するほどの政治力を持つ。 また、周囲を宿敵の上杉謙信を始めとした強敵に囲まれている上に、山岳地帯故に交通は不便、 海に面していないので物資(主に塩)は不足気味で、土地は貧しいのに川の氾濫などの水害がよく発生するなど、 非常に悪条件が重なっている甲斐という国を、一大強国へとのし上げた経営手腕は神憑り的ですらあった。 当時の家臣や領民にはまさしく神の如く崇拝されていたが、それだけに甲斐は「信玄だからこそ治められる」ともいえる状態になり、 その死後には後継者政策の失敗、一大勢力となった織田家との敵対、金山に依存した財政、 既に発展の限界で水害も発生しがちな本拠地(なので勝頼は家臣の反対を押し切ってでも新府城築城を断行)、 悪く言えば中途半端に敵対したり同盟を結んだり切り捨てたりを繰り返したことで敵意を持つ家臣も多いなど、 それらがまとめて大きな負の遺産になってしまった勝頼の代はいわば超ハードモードであり、それが武田家の滅亡を早めてしまった。 また、「北の上杉と敵対している状況で今川、下手をしたら北条まで敵に回すのは拙いのでは?」という長男・義信の危惧は的中しており、 果たして彼の危惧通り、信玄が北・南・東を敵国に包囲されている間に、後の宿敵である信長が勢力を大幅に広げることに成功してしまっている。 武田の遺臣が書いた甲陽軍鑑でも義信を「賢明過ぎて身を滅ぼした大将」と評しており、その賢明で人望も厚い後継者候補筆頭を粛清したのも武田家と言う勢力にとって大打撃であった。 信長と比べた場合、勢力拡張スピードにも差があった。 信玄には近隣に北条・今川・上杉と敵が多かったから……と言われるが、 それを言うなら信長も浅井・朝倉・三好・石山本願寺など四方に敵を抱えており、天下布武の道は険しかった。(*3) 信玄は生涯かけても国全土を収めたのは甲斐と信濃と駿河のみで、上野・美濃・三河・遠江・飛騨はその一部しか治められなかった。 そうするうちに信長は十か国を支配下に収め、石高では信長が三百万石、信玄が百四十万石ほどになってしまい、国力差で大きな格差ができてしまった。 結果、信長とは兵力動員数において劣っている。(*4) ただし信玄は甲斐という山地で耕作の可能な面積が少なく、幾度も氾濫しやすい川という農耕に不向きな土地や、 海が無い事で塩や海産物を得られない、限られた財源、更には風土病という厳しい環境である事に対し(*5)(*6)、 信長は父親が熱田神宮から伊勢神宮を始めとする伊勢湾一帯に大きな商業圏を獲得しており財政的には裕福だった点が大きく違う事は考慮すべき点であろう。 その代わりにというか、信長直属の尾張兵はかなり弱く、対して信玄直属の甲斐兵は戦国最強と恐れられるぐらいには差はあったが。 信長が鉄砲を生産し増産出来たのも親の代からの財を順調に増やして行けた財テクによるものである。 信玄もそれを意識しており、海に出るべく駿河国を狙っていたが、信長が上洛してすぐ堺を支配下に置いたのと比べるとやはり大きな差があったといえる。 また支配下に置いた各国も(長く治めた甲斐と信濃はともかく)影響力はまだ弱かったようで、西上作戦の時には想定したより予算が集まらなかったという記録もある。 結果、勝頼期には武田と織田の勢力差は覆しようもない格差となっていた。 あの長篠の戦において、武田軍15000に対し、織田軍は徳川の援軍含めて38000人という倍以上の戦力だったという。 ◆家臣 家督を得た後、しばらくは家臣団が纏まりなく荒れたが、紆余曲折の末に信玄の元に結集。 その為か家臣団が優秀。 四名臣 馬場信春…長篠撤退戦で殿、戦死。不死身の鬼美濃。一国を任せれるほどの才と言われた。 山県昌景…赤備第二世代。長篠では柵に突撃、破壊するも銃弾に倒れる。彼の軍団は後に、井伊直政に受け継がれた。当時で見てもちびっ子(135cm)だったと言われる(*7)。 内藤昌豊…地味。出来る男。信繁亡き後は武田の副将となる。長篠で戦死。 高坂昌信…智将。最後の生き残り。逃げ弾正のあだ名でも知られる。信玄には(男色的な意味でも)寵愛されたと言われていたが実際の手紙の相手は春日源助である。 高坂が、春日源助と名乗っていた公式の記録が無い事から、別人である可能性が高く、更に手紙が本物なのか偽物なのかすら定かではないとする説がある。(*8) 他の家臣 秋山信友…猛牛と呼ばれる猛将であり、同時に未亡人で信長の伯母である岩村殿を城ごと美味しく頂いちゃった策士。 甘利虎泰…あ~ま~り~ぃ!信虎世代での四天王。 板垣信方…いたがきぃ~!晴信の守役。後の戊辰戦争時、彼の子孫だとされる土佐の「乾」退助は甲斐を制すため「板垣」退助と改姓している。 飯富虎昌…赤備え第一世代。あの恐怖はここから始まった。 真田幸隆…チート集団真田家の爺ちゃん。グッとガッツポーズしただけで砥石城が落ちた。 武田信繁…よく出来た弟。天下の副将。秀長も手本にしたとか。通称は古典厩。なお、真田信繁(幸村)は彼に肖って同じ名前を付けられたとか。 武田信廉…(顔が)よく出来た弟。影武者。こっちが信廉、こっちが晴信…。「有名武将そっくりの弟」という創作的に美味しそうなポジションのわりにいまいち影が薄い。 原虎胤…義に厚い不死身の鬼美濃。怪我した敵将に肩を貸して敵陣まで送り届けたという、なんとも漢気溢れる逸話が伝わる。 山本勘助(晴幸)…この光を失った目には、人の心の闇が見えまする。最強軍師として有名。出典『甲陽軍鑑』故に実在を疑われていたが、現在では「山本菅助」と記された人物≒山本勘助説が有力視されている。 ◆彼を扱った作品 小説 新田次郎「武田信玄」 井上靖「風林火山」 漫画 宮下英樹「センゴク」 ゲーム 信長の野望 太閤立志伝 決戦III 戦国無双→武田信玄(戦国無双) 戦国BASARA→武田信玄(戦国BASARA) ◆余談 内政 内政に非常に力を注ぎ、川の氾濫の被害を抑えるべく作らせた「信玄堤」等が後世にも伝わっている。 そんな信玄だが、武田家の呪いともいうべき後継者問題は避けられず、長男は反逆に関する事件の二年後に病死、次男は盲目で出家、三男は夭折、と不幸が続き、 諏訪家を継がせた四男の四郎勝頼を呼び戻して(その息子である信勝が成人するまでの期間限定で)家督を相続させる事になる。 その勝頼が最後に頼った(頼りになったとは言っていない)のが、ほぼ唯一同盟を結ばなかった上杉謙信亡き後の上杉家だったのは、皮肉という他ない。 甲陽軍鑑 「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」と人の心を大切にした。 なお、このような信玄の人となりを記した『甲陽軍鑑』は、日付の不正確さから、歴史学者からは史料としての価値を疑問視され、無視されることも多かったが、 近年国語学者がその成り立ちを調べたところ、原本は文字を書けなかった信玄の部下が、信玄の死後の武田家を憂いて記憶を頼りに口述筆記にて残したものだと判明。 しかし武田氏滅亡以降、原本は傷んでいく。それを入手した小幡勘兵衛景憲(江戸時代の軍学者)は、傷んだ原本の書写に行い1621年頃に写本を作り上げた(この写本は現存していない)。 『甲陽軍鑑』は部下から見た様々なものを現代に伝える貴重な史料として再評価されると共に、 古文書の史料としての価値を判断する際に、記された日付の正確さを重んじすぎる歴史学会に一石を投じることとなった。 また『甲陽軍鑑の否定説』の論拠となっていた論文は、明治中期に当時30歳の学者が書いた、たった五ページほどの小論文だったということもあって、 史料としての「甲陽軍鑑」の価値はまた大きく変わりつつある。 本来、全23冊構成の写本である為、記述の抜けなども考慮するべきである。 ただし、のちの時代の加筆により江戸前期と江戸後期で記述に大きく差異がある事柄や人物がいる事、 また江戸時代の時点で肥前平戸藩主の松浦鎮信が書いた「武功雑記」に山本勘助に関する描写を批判する記述があったり、 湯浅常山の「常山紀談」にも、「甲陽軍鑑、虚妄多き事」と記述されている事も考慮すべきである。 風林火山 風林火山とは孫子の兵法の一文であり疾きこと〜動かざることまでのフレーズが有名だが続きが存在する。 その全文は 疾きこと風の如く 静かなること林の如く 侵略すること火の如く 動かざること山の如く 知り難きこと陰の如く 動くこと雷霆の如し 郷を掠めて衆を分かち 地をひろめて利を分かち 権を懸けて動く となっている。 意味としては「状況によって柔軟に立ち回るべき」と戒めた文章である。 また兵法は「兵は詭道なり」という一文から始まり、可能であれば外交によって戦を避けるべきと記されている。 「御旗・楯無(みはた・たてなし)も御照覧あれ」 「御旗」・「楯無」共に甲斐武田家の祖・源義光の代から伝わる家宝にして神器。 「御旗」は義光の父・源頼義が後冷泉天皇から下賜された日章旗、「楯無」は「盾も要らぬ」と称された義光の鎧にして、清和源氏が代々伝えた8種の鎧「源氏八領」のひとつを指す。 武田家では重大な決断を下す際、惣領たる信玄が「御旗・楯無も御照覧あれ!」と先祖に誓う習わしがあり、 信玄がこの言葉を発したら以降は一切の議論・反論が禁じられたという。 『信長の野望』等の創作でも信玄の専用台詞として用いられる事が多く、彼の絶対性の象徴となっている。 女性関係 信玄は(男色関連でも有名だが)多くの側室を抱えたことで有名であり、特に有名な側室としては武田勝頼の母親である諏訪姫こと諏訪御料人が挙げられる。 彼女はその名の通り諏訪氏の生まれで、この諏訪氏の当主であり、父である諏訪頼重は信玄と同盟関係にあったが、とあるきっかけで同盟を破棄した信玄が諏訪に侵攻。 頼重が死去した後、信玄は当初その息子である千代丸を諏訪家の後継者として据えようとしたが、当時の文献に「かくれなきびじん」と評される諏訪姫の美貌からか、 「諏訪姫を自身の側室として迎え、自分と彼女との間に出来た男子を諏訪家の後継者とする」という方針に転換し、かくして諏訪姫は父を死なせた男に娶られることとなった。 その後、諏訪姫は上述の通り後に武田家最後の当主となる勝頼を産み、1555年頃に若くして(25歳くらい)亡くなったとされる。 「敵方の娘」「父を殺した男に嫁ぐ」「その男の後継者となる男児を産む」「若くして亡くなった」という生涯から、彼女は現在の諏訪市の萌えキャラにされるほど有名であり、 彼女や信玄を扱ったフィクションではしばしば悲劇のヒロインとされる上、勝頼が後継者に指名されたのは信玄の諏訪姫への愛が理由であるとか、 諏訪姫を良く見せる反動として、信玄の正室である三条の方が嫉妬深い等の負の要素を付け足されたりすることがかつては多かった。 史実では信玄と三条夫人は仲が良かった。 三条夫人の人物像について、武田家と交流のあった快川和尚(快川紹喜)が記した円光院の葬儀記録によれば とても慈悲深く 民に気を配り大切にする性格や、仏への信仰心の篤さ、夫である信玄に寄り添い物事を考える内面性などが綴られており 「そして御人柄はまさに円光日の如く、あたかも春の陽ざしのように周りの者をやわらかく暖かく包む御気性であられました。」とも記され 「武田信玄公とは、比翼の契り(*9)、夫婦仲が睦まじかった」と書かれている。 また武田家の近習衆の警護等を務めていた御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ十人の家臣が三条夫人に付けられていたとされる。 『円光院寺伝』によると、信玄が臨終間際の際に馬場信春を呼び寄せ、信玄が日頃から信仰していた陣中守り本尊と刀八毘沙門及び勝軍地蔵を託して 三条夫人の墓がある円光院に納めてもらう様に伝え、更に自分の遺体も円光院に三年間密葬させるよう遺言したという。 この二体の仏像の方は遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。 ただ、史実では勝頼が後継者になったのは、三条の方の子である長男~三男までが上述の通り様々な理由で家督を継げなかったからであり、 また、勝頼には武田の通字(*10)である「信」ではなく諏訪家の通字「頼」を名乗らせていることから見ても、 信玄は当初の予定通り勝頼には諏訪家を継がせるつもりであり、彼が自身の後継者となったのは信玄にとっても予定外のことだったと思われる。 戦国最強 武田軍はとにかく強い。レート(<で約3:1、≦で約1.5:1)で表すと、 尾張<美濃≦近江<三河<甲斐≦信濃=越後 くらいの強さである。 その強さ故か、本拠地には城を立てず、館を本拠とした。 尤も、攻めたところでクソ強い信玄・武田軍と戦う上に、勝っても得られるものが金山くらいしかないので、 ハイリスク・ローリターン過ぎて好き好んで攻めようとする戦国武将はいなかったかもしれないが。 ちなみに、信玄の晩年の宿敵であった信長の率いる尾張軍は、甲斐と比べるべくもないほど弱く、 戦国時代を扱う作品では、容赦なく(有名な戦国武将の中では)「最弱」の烙印を押されることが多い。 まぁ兵の強弱と国の生産力が反比例しているだけとも見えるが。 2007年の大河ドラマ『風林火山』 この作品は、軍師の山本勘助を主軸に、信玄を始めとした武田家の隆盛を描いた作品である。 主要な役は、いわゆる「話題性に富んだイケメン俳優」を排し、実力派の役者を多く起用した為に演技にかなり力が入った作品である。 また、イケメン俳優を排する事で浮いた費用をロケに回す事でリアルで壮大な合戦を演出した。 ある意味では、イケメン俳優を多用した結果、スタジオ撮影が多くなった2009年度大河ドラマ『天地人』の対極的な作品といえるだろう。 大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流 (*11) 風林火山の如き、追記、修正宜しくお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 信長を例え倒しても 次は 一向宗との覇権争いがあったろうな -- 松永さん (2013-10-31 00 26 24) それに項目にもあるけど、同盟条約を簡単に破って周囲からの信用0だったから、結局のところこの人が天下とるのは無理。 -- 名無しさん (2013-10-31 00 28 16) てゆーか親父の信虎さんが追放後も 現役バリバリだったとは -- 松永さん (2013-10-31 00 36 30) ↑義昭の食客やっとったらしいね 自分を追放した息子の為に ロビーとは ツンデレ親父やん -- パキスタン (2013-12-01 02 08 35) ↑↑↑信玄の正妻と顕如の正妻は、三条家から嫁いでいる姉妹だよな。今東光が、信玄が権力を握った際、身延山に本願寺を移すようなことがあったと語っていたね。むしろ、問題なのは、信玄の戦争が犠牲者を比較的少なく抑え、確実に領地を広げ、領地の減少も殆ど無いが、反面、時間が掛かりする、という考察があったな。 -- 名無しさん (2014-01-20 09 18 53) ↑確か 天台座主さんにも 比叡山復活させたるとか 上手いこと言ってたが、やっぱり国力縁戚から言って本願寺優先だわな -- 名無しさん (2014-01-20 09 23 51) 徳川家康は、この人のやり方を結構気に入っていたよね。甲州流の陣構えにしても、勝海舟が甲州流の教練を八王子で見た後に、俺が学んだ西洋兵学と大差ないね、軸になる武器が違うだけで、号令や規律は同じだ、と新聞談話に残している。農村共同体を基調とした兵、西洋式軍隊に共通する色使いや企画、 -- 名無しさん (2014-03-09 13 55 33) すまん、続きです。同盟破りというけど、あれくらいなら大陸行けば、たくさんいる。 -- 名無しさん (2014-03-09 13 57 18) まあ彼のお陰で武田家は栄えたが、彼のせいで武田家は滅亡したんだよな -- 名無しさん (2014-05-24 13 59 34) 巨大すぎたが故に勝頼は現代でも軽視され続けられる -- (2014-05-24 15 31 39) センゴクの勝頼はめっちゃカッコイイ -- 名無しさん (2014-05-24 17 08 03) ↑5 結構どころか石川正数の件で徳川の戦術が丸裸にされた時、予てより信奉していた信玄にならって甲州軍法を採り入れるくらい尊敬している。武田家遺臣が止むに止まれず、三方ケ原で大敗させた徳川に仕官した際には思わぬ厚遇で迎えられ驚いたとか…… -- 名無しさん (2014-05-26 08 09 25) 存命だったら織田を蹴散らして幕府開いてた?現代の首都は甲府 -- 名無しさん (2014-07-19 23 50 52) ↑勝頼は勝頼で相当優秀で信玄が現役の時に落とせなかった城落としたりしてるんよ。つまり愚息扱いされてる息子とそこまで性能差があるとは思えないし、息子がボロボロになってたのは父親が色々やらかしてくれたツケが回ってきたからだし -- 名無しさん (2014-07-19 23 58 32) 「センゴク」での山県、馬場の最期には不覚にも泣いた。六十歳って戦国武将じゃ長生きな方なんだよね -- 名無しさん (2014-07-20 01 08 11) 投了よ -- 名無しさん (2014-07-20 02 15 05) 信玄が長生きしても天下は取れなかったかもしれないが、三方ケ原で家康が同盟していたら…と考えるとわくわくする -- 名無しさん (2014-07-25 14 58 23) ↑4 勝頼も優秀ではあるが政治面じゃ信玄に大きく劣る。信玄が色々やらざるをえなかったのは地理条件の悪さの上に、義元・氏康・謙信と戦国時代の英傑レベルの大名がご丁寧に四方囲まれてたせいもあるからな。 -- 名無しさん (2014-07-25 15 04 26) 偉大な傑物ではあると思うが、徳川家を苦しめた存在として少なからず上方修正は掛かってる気がする。甲陽軍艦の件もあるし -- 名無しさん (2014-07-25 15 45 38) 他の3名の知名度に比べて低い内藤さんについて -- 名無しさん (2014-07-25 16 36 33) というかなぜ勝頼はあの兵力差で戦闘を挑んだのか…信玄は毎回無理な戦いは挑まなかったのに。 -- 名無しさん (2014-07-25 19 40 18) ↑3 徳川が低く見られるのは明治政府の下方修正のせいもあるがな -- 名無しさん (2014-07-25 21 20 10) 家康のトラウマ -- 名無しさん (2014-08-29 07 29 08) 敵側の最初の裏切り者を処分するからどんどん周りから味方がいなくなっていった印象、勝頼の頃には敵であった上杉と北条しか味方がいなかった -- 名無しさん (2014-10-09 10 53 06) ↑4信長が兵を隠して少なく見せていたからという説がある。そもそも敵の正確な数なんて普通は分からん。 -- 名無しさん (2014-10-13 18 14 12) どうでもよくないけど項目名を武田晴信/武田信玄(戦国武将)にした方がよくない?信玄の方が一般的には有名だし -- 名無しさん (2014-11-24 18 23 01) ↑×2 創造PKの武田側での長篠の戦いで、勝頼が -- 名無しさん (2015-06-29 17 14 34) ↑(すみません、続きです)「まだ兵力差が倍で済む内に叩いておきたい」と語っていたのが、その地点での織田と武田の地力の差が現れていたなぁと思った。 まだ 倍と言うあたり、当時畿内をほぼ整圧していた織田の動員力は山国ばかりの武田とは雲泥の差だったから、イチかバチかで挑んだって感じがした。史実の結果は……あれだったけど -- 名無しさん (2015-06-29 17 20 02) 400年後にラブレターをネタにされるンゴ -- 名無しさん (2016-08-25 12 22 33) ↑ 秀吉の寧々宛ての手紙でも似たような事書いてあったし許してやれよと思うわ -- 名無しさん (2016-08-25 12 28 42) そのものズバリ、武田信玄ってFCあるよな -- 名無しさん (2016-09-09 18 03 10) ↑2 相手が男だったから・・・(震え声) -- 名無しさん (2016-09-09 19 00 52) 今年の大河ドラマじゃ誰がやるんだろう? -- 名無しさん (2017-04-16 00 59 45) 同盟国を切り捨てるも何も、武田は豪族連合盟主だから内側の事情だけを優先したとしか。信虎追放も連合盟主からワンマンへ移行しようとして反発を招いたからだし -- 名無しさん (2017-04-18 21 29 22) ヒストリアで、甲陽軍鑑の見直しと再評価の話を知ったなあ。日付以外もきちんと見なきゃいけないんだね -- 名無しさん (2018-11-09 08 11 34) 中央文化とのギャップを埋めるべくお公家さんを呼んで和歌の道にも精進、その結果詠んだのが「君恋ふる涙の数は小夜ころも重ぬる袖は今日は朽ちなん」…という風な恋歌の数々(まあ努力の無駄遣いですな)。 -- 名無しさん (2020-05-06 01 06 07) ホモなんだろ? -- 名無しさん (2020-05-10 08 12 19) ↑ぶっちゃけ戦国武将でホモじゃないの豊臣秀吉くらいだぞ -- 名無しさん (2020-05-14 06 31 02) ↑確かに美少年のお小姓をあてがわれたら「おぬしに姉ちゃんいる?美人?」って聞くぐらいだもんなあ。 -- 名無しさん (2020-05-14 23 57 41) 晩年には外交では甲相同盟の復活、経済では駿河を領国化るんだし信玄の負の遺産って実はそんなに大きくないはず -- 名無しさん (2020-05-22 04 32 22) といっても勝頼が早々にどうしようもならなくなったのは信玄の負の遺産だから上手くはいかなかったのも確か -- 名無しさん (2020-05-22 09 35 26) 「周辺国全てと中途半端に友好関係と敵対関係を築く」っていう外交としては最悪に近いことをしてるせいで最近の評価はかなり下がってると思う。あと親父の悪行も要は中央集権化だったんだっけ?それを潰して乗っ取ったから国人勢力に譲歩せざるを得ず、勝頼の時代にそれのマイナスが一気に噴出した -- 名無しさん (2020-05-22 09 40 16) 正数って誰や!? まさか、石川数正にそんな名前の影武者がっ!?(あえてボケてみる -- 名無しさん (2020-05-22 09 51 13) 信玄の問題点は勢力拡張の遅さ。というか信濃を制圧してそれで拡張がほぼストップしてる(駿河は今川義元が死んで慌てて取ったぐらいで、京都進出も病気が出てからでどう見ても手遅れ)。信長は天下取りに向けてガンガン突き進んだけど、たぶん信玄には天下を取る野心も気概も戦略もない、「天下人」じゃなく「守護大名」だった気がする。 -- 名無しさん (2020-10-25 00 57 51) 勝頼は謙信の死後御館の乱で景勝と組んで北条を敵に回したのが痛い。本来なら武田、上杉、北条による三国同盟の筈が織田と徳川に加え背後にも敵を抱えてしまった。 -- 名無しさん (2020-10-25 08 29 23) 長篠は痛いは痛いけど決定的な敗北では無かったからな。どちらかといえば外交的失策で四面楚歌に陥ったのが滅亡の原因だろうな -- 名無しさん (2021-02-01 18 17 50) 無双の信玄もBASARAの信玄もシュワちゃんを演じているのが面白い -- 名無しさん (2021-02-12 15 48 53) 武田家が滅亡したのは勝頼のせいといわれているが信玄時代のツケが回ってきただけ。勝頼の母は諏訪家の血を引いていたので家臣との軋轢もあったと思う。 -- 名無しさん (2021-02-28 11 27 55) 創作モノだと武田は必ず約束を反故するって描写があるけどマジだったんだろうか -- 名無しさん (2021-05-16 00 05 02) 現代人があの時代の甲斐にタイムスリップや転生したりして、信玄に力貸してたら、後世の悲劇は回避できてたかな……? 甲斐の生産力をチート強化したりとか…… -- 名無しさん (2021-06-19 11 11 16) ↑甲州ブドウを使ってワインを造るとかかな? -- 名無しさん (2021-08-03 05 52 39) ↑2 生産がどうにかなったところで立地の悪条件がどうにかなるわけでもないし国人が抑え込めるわけでもないから、親父の代に力を貸して信玄ごと対抗勢力皆殺しの方が目がありそう -- 名無しさん (2021-08-03 09 08 00) わあ!おっきい!ほりだしもんだヮ! -- 名無しさん (2021-08-03 10 12 06) まぁ結局あの時代どうやって生き延びるのが正解だったかと言えば、時代の勝ち組になりそうなヤツ見極めてさっさとそいつと組む、組めないにしても家だけは守れるように根回しする、だからそれができてない信玄勝頼の評価が一定以上にはならないのは当たり前だよな。北条だって小田原は無いなっても家を残すこと自体はなんとかなったわけだし。 -- 名無しさん (2021-11-01 16 00 12) ↑後に家康の息子が武田家を再興しているんでコイツが早死にしなければ家だけは残ったかもね -- 名無しさん (2021-11-02 08 19 07) ↑見性院の養子として武田を継いだはいいけど、実際には徳川に名跡乗っ取られたようなもんだし、信玄勝頼の評価に繋げることはできん話だもんなぁ。 -- 名無しさん (2021-11-08 12 39 42) 岩明均(寄生獣)が「違うこと言われてるけど、色々調べた末にやはりこうだと判断した」と原作を担当するレイリで勝頼無能描写をブチかまし。将軍としては有能だが君主としては器量に欠ける個人的な考えにも親和性あったし、信玄の負の遺産のせいとすべてを押し付けるような行き過ぎた再評価風潮は気持ち悪いから、こういう形の従来説による揺り戻しにも期待したいわ -- 名無しさん (2022-05-17 10 46 17) 勝頼が君主として有能とは言わないが、一方で無能と断言するには状況が厳しすぎるよ -- 名無しさん (2022-05-17 11 39 22) 指導力不足による失敗は間違いないが、継承経緯から正統後継者と認められない立場に置かれてたのがね。そこはどう考えても信玄のせい -- 名無しさん (2022-05-18 08 46 21) 長篠の大敗、御館の乱で外交失敗、新府城築城を強行して負担に不満爆発の3点セットだからな。やっぱ無能じゃねと言われるのも仕方ないと思う -- 名無しさん (2022-05-19 12 30 55) 長篠の戦いは撤退を選択出来ればまだ良かったが、それを安易に選べる状況ではなかった(信玄のせい)。御館の乱ももっと上手く立ち回る余地はあっただろうが織田・徳川の勢いがノリに乗って上杉共々衰退方向一直線にというのが最大の原因なので余程の幸運がなければ最終的には似たり寄ったりな結果だっただろう。新府城築城も発展性も考えると別におかしなことではない。無能っぽく見えるのは織田との和睦に拘ったところだが、それも相手が優勢を維持しつつ慎重に削ってきてる中まともに戦えないと判断したのが理由だろうからどの道詰んでた -- 名無しさん (2022-05-19 14 39 32) 家康は鳥居強右衛門の件で勝頼のような武士の忠義を粗末にする大将はいずれ家臣たちの離反を招いて滅亡する事になると断言し、勝頼の狭量な所業を厳しく批判。家康の予言通り勝頼は最終的に家臣たちの大部分から離反され、自害に追い込まれてしまった -- 名無しさん (2022-05-20 17 39 03) 信繁が父に味方せず後継争いもしなかったのは、信繁も父の信虎にうんざりしてたからかな? -- 名無しさん (2022-05-20 18 11 08) 病弱で胃癌だったかもしれないって聞いたことあるけど、本当なのかな。それとも否定されてる? -- 名無しさん (2022-06-04 21 53 44) 勝頼は結局甲陽軍鑑の「強すぎる大将」がそれ以上でもそれ以下でもないって感じ。まあ父親が偉大すぎた -- 名無しさん (2022-06-13 17 45 58) 結局破棄したとはいえ家康とも一時的とはいえ同盟組んでいた(信玄が駿河攻めている間に家康側は遠江を攻める)扱いになるのか? -- 名無しさん (2022-06-13 18 59 54) 逆に言えば本能寺の変まで終始織田側だった家康が情勢を見る目に関しては数枚上手だったともいえる -- 名無しさん (2022-12-10 08 15 46) 武田軍は本当に言うほど強かったのかなあ。村上義清にもすごい苦戦してるし、いつまでも小競り合いばかりしている気がする。上杉や北条もそうだけど、知名度が先行して実態は大したことがないんじゃなかろうか。 -- 名無しさん (2023-01-12 20 16 55) 最強までいくはともかく強いのはほぼ間違いない。なので逆に言えば最後の辺りでも油断されずに調略や小競り合いで地道に削り取られていっている -- 名無しさん (2023-02-01 13 01 13) 他の大名家みたいに大名がすべてを統括して配下である武将を動かすというシステムじゃなくて、各武将が領地や部下を持って武田家に協力するという連邦制みたいなシステムだったんだよな、だから調子のいいときはいいが周囲が勢力を伸ばしてくるとあっさり離反するものが多かった -- 名無しさん (2023-06-09 22 50 05) 勝頼は武将(軍人)としては優秀だけど大名(政治家)としては無能。多分兄の義信が早死せず諏訪勝頼のままだった方が幸せな人生を送れたと思う -- 名無しさん (2024-02-16 20 44 05) 名前 コメント
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クリア後シナリオ「信長転生」では戦国時代の武将が登場します。 名前 カナ 性別 統率 武力 知力 政治 兵科 戦法 商才 耕作 名士 兵心 練兵 収集 人脈 監視 補修 弁舌 豪傑 一騎 神速 水練 遠射 攻城 兵器 冷静 軍師 鬼謀 織田信長 男 96 84 90 93 槍兵 全軍兵撃 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 柴田勝家 男 86 88 49 63 騎兵 猛攻 ○ ○ ○ 前田利家 男 77 80 56 78 槍兵 槍防御強化 ○ ○ ○ 明智光秀 男 84 80 88 92 弓兵 攻防一体 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 羽柴秀吉 男 83 68 89 97 槍兵 速戦固守 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 斎藤道三 男 81 74 96 91 槍兵 虚誘掩殺 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 徳川家康 男 92 82 90 96 槍兵 槍軍堅守 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 本多忠勝 男 87 93 67 56 槍兵 万人敵 ○ ○ ○ ○ ○ 伊達政宗 男 92 81 88 89 騎兵 全軍猛攻 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 最上義光 男 78 72 92 84 騎兵 埋伏の毒 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 佐竹義重 男 90 81 84 85 槍兵 武力上昇 ○ ○ ○ ○ 北条氏康 男 92 74 90 98 槍兵 槍軍堅守 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 武田信玄 男 98 77 92 90 騎兵 全軍防護 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 山県昌景 男 84 89 65 59 騎兵 突破 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 真田昌幸 男 93 71 94 87 槍兵 神火計 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 真田幸村 男 94 97 85 32 騎兵 伏兵神速 ○ ○ ○ ○ ○ 上杉謙信 男 100 96 62 58 騎兵 単騎駆 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 上杉景勝 男 86 82 67 80 騎兵 突撃封印 ○ ○ ○ ○ 直江兼続 男 84 60 86 87 弓兵 弓軍強射 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 柿崎景家 男 86 91 24 60 弓兵 剛勇 ○ ○ ○ 今川義元 男 81 65 78 85 弓兵 文武低下 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 浅井長政 男 83 79 66 47 騎兵 総突撃 ○ ○ ○ 松永久秀 男 77 57 94 82 弓兵 埋伏の毒 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 毛利元就 男 89 64 98 94 弓兵 連環の計 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 黒田孝高 男 77 55 95 87 弓兵 火計 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 大友宗麟 男 75 64 74 89 弓兵 全攻城強化 ○ ○ ○ ○ ○ 島津義久 男 84 52 80 91 弓兵 鎮静 ○ ○ ○ ○ ○ 島津義弘 男 85 96 69 66 槍兵 大打撃 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 井伊直政 男 82 88 68 71 騎兵 全軍速攻 ○ ○ ○ ○ ○ 鈴木重秀 男 91 94 88 24 弓兵 遠猛射 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 福島正則 男 78 83 33 47 騎兵 全攻撃強化 ○ ○ ○ 加藤清正 男 84 87 60 67 槍兵 全防御強化 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 竹中重治 男 74 31 97 53 弓兵 八陣の法 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 立花道雪 男 97 80 82 60 槍兵 老当益壮 ○ ○ ○ ○ ○ 石田三成 男 48 26 81 95 弓兵 挑発 ○ ○ ○ ○ 大谷吉継 男 89 63 87 85 槍兵 猛射封印 ○ ○ ○ 島左近 男 86 91 70 37 騎兵 鉄壁 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 蒲生氏郷 男 81 68 77 79 弓兵 総猛射 ○ ○ ○ ○ ○ 鍋島直茂 男 86 80 87 80 弓兵 火計 ○ ○ ○ ○ ○ 片倉景綱 男 81 65 91 87 槍兵 奮迅封印 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 武田勝頼 男 85 85 52 51 騎兵 総突撃 ○ ○ ○ ○ ○ 津軽為信 男 78 67 91 89 槍兵 埋伏の毒 ○ ○ ○ ○ ○ 伊達成実 男 83 89 49 48 騎兵 総突撃 ○ ○ ○ ○ ○ 山本勘助 男 58 36 93 72 弓兵 虚誘掩殺 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 真田幸隆 男 79 55 95 80 弓兵 弓軍強射 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 立花宗茂 男 91 89 64 56 弓兵 鉄壁 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 丹羽長秀 男 65 70 69 82 槍兵 破壊力弱化 ○ ○ ○ ○ 上泉信綱 男 74 99 38 20 槍兵 強襲 ○ ○ ○ 滝川一益 男 85 76 80 50 弓兵 攻防一体 ○ ○ ○ 武田信繁 男 75 58 76 71 騎兵 騎軍神速 ○ ○ ○ ○ ○ 高坂昌信 男 83 53 80 62 槍兵 伏兵 ○ ○ 真田信幸 男 76 57 71 84 弓兵 全攻撃強化 ○ ○ ○ ○ 柳生宗厳 男 71 96 31 28 槍兵 武力上昇 ○ ○ ○ 島津家久 男 92 77 82 50 弓兵 全軍猛攻 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 島津貴久 男 75 61 83 84 弓兵 弓軍強射 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 島津忠恒 男 61 74 52 74 騎兵 攻撃強化 ○ ○ ○ ○ ○ 斎藤朝信 男 83 75 78 72 槍兵 武力低下 ○ ○ 本庄繁長 男 84 85 35 30 弓兵 速攻 ○ ○ ○ 前田慶次 男 76 91 36 28 騎兵 猛攻 ○ ○ ○ ○ ○ 南部晴政 男 84 70 37 35 騎兵 防御強化 ○ ○ 島津歳久 男 69 53 89 78 弓兵 機動力弱化 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 片倉重長 男 68 73 37 53 弓兵 突破 ○ ○ 秋山信友 男 67 73 71 54 弓兵 総猛射 ○ ○ ○ 宮本武蔵 男 65 95 49 23 槍兵 剛勇 ○ ○ ○ 片倉喜多 女 38 15 79 76 弓兵 知力上昇 ○ ○ ○ ○
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登録日:2018/11/06 Tue 20 47 54 更新日:2023/09/24 Sun 08 27 26NEW! 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 Fateサーヴァントネタ元項目 ショタ ホモ 佳人薄命 小姓 尾張 忠義 愛知県 戦国時代 戦国武将 本能寺の変 森家 森蘭丸 武将項目 織田信長 美少年 衆道 近習 森蘭丸(1565~1582)とは、安土桃山時代の人物。本名は「成利」。また「乱丸」と書かれることもある。 ぶっちゃけ、「戦国武将」と言えるほど史実において大した活躍はしていないのだが、その悲劇的な最期により高い人気を誇る。 史実における活躍 森可成の息子として尾張葉栗郡蓮台(現在の愛知県西部)に生まれ、織田信長の小姓を務める。 その後、母の妙向尼と共に石山本願寺との和睦において使者として活躍し、兄である長可が領地替えになったのに合わせて、 兄の旧領地である美濃兼山に5万石の領主として封じられる(ただし、実際には小姓として働き続けていたので領主としての仕事は行っていなかったようである)。 しかし、同年、信長と共に本能寺に逗留していた際に明智光秀による謀反が発生。 奮戦するも討ち取られる。享年18。 以上、これが確実視されている限りの蘭丸の活躍の全てである。 少なくとも信長の下で行っていた仕事は「秘書」か「事務官」といったところであり、武将としての活躍は皆無である。 若くして亡くなってしまったこともあり、純粋に活躍だけを切り取ると、「将来有望な若手」止まりなのは仕方ないだろうが……。 ぶっちゃけ父である可成の方が、信長に対する戦働きでの貢献度は遥かに高い。また、兄の長可も甲州征伐に大きな勲功があった。 にもかかわらず、知名度では間違いなく蘭丸の一人勝ちである。人間、最期の時で全てが決まる、ということだろうか。 逸話 美少年であり、信長にはその美貌と高い才覚を愛され、寵愛されていた小姓というイメージが世間一般にも広まっており、 若くして主君のために散った「薄幸の美少年」という印象が強いのも、蘭丸が人気を博している理由の一つと思われるが、 容姿に関する資料も、信長の具体的な好みに関する資料も残されていないので、本当に美少年だったのかも本当に信長とそういう関係にあったのかも謎である。 当時の資料(または父や兄の人間兵器ぶり)を見る限り、筋骨隆々の大男だった可能性も十分ある。 また、信長に気に入られていた理由はもちろん蘭丸自身によるところもあるだろうが、 一族の多くが正真正銘命を懸けて働いていた森家の奉公に報いるためというのもほぼ確実にあるだろう(*1)。 ちなみに、『美少年を寵愛する』という点で信長をホモだったのかと勘違いする方もいるかもしれないが、当時は男色はごく一般的な戦国大名の嗜みとされており、 両性愛者なのはむしろこの時代の武将では当然であった。 ※著名な戦国大名では秀吉が男色を嗜まず、女性だけを愛したと伝わっているが、これは元々生まれの関係でそういう風習に馴染みがなかったせいとも言われる。 真偽の程は不明なものの、蘭丸の忠節ぶりを示す小姓の時のエピソードなどは多く伝わっており、 重い献上品を運ぼうとした時に信長に「転ぶぞ」と注意され、信長の顔を立てるためにわざと盛大にすっころんで見せた 信長が切った爪を捨てに行こうとした際、数が一つだけ足りないことに気が付き、信長にも協力してもらって足りなかった爪を探し出し、ちゃんと全て処分した(*2) 信長が小姓たちを集めて「この刀の鞘の傷の数を当てられたらこれをやろう」という余興を始めた時、「殿が厠の時などにその刀を預かっていたから知っている」と不参加を表明し、感心した信長に刀を渡される などなど、枚挙に暇がない。仮に作り話だったとしても、そんな話が創作されるほどには有能な小姓だったということかもしれない。 記録は残っていないとはいえ、父が名将だったことを差し引いても、信長に重用されていたのは事実だったようなので、 少なくとも「顔だけの無能」ということはなかったのではないだろうか。 光秀の謀反に早期から気付き信長に警告していた……という逸話もあるが、こちらは流石に真偽不明。 少なくとも本能寺の変発生当時の信長側の対応が完全に不意打ち状態だったのは確かなので、 気付いていたとしても、そこまでの確証があって信長に警告していたわけではないだろうし、 そもそも現代から見ても光秀の謀反はかなり突然のもので予兆は特にないため、早期に気付ける要素が(現在判明している限り)ロクにない。 また、主に創作界隈では「光秀と不仲だった」「信長の寵愛を笠に着て光秀に高圧的に接していた」などと描かれることもあるが、史料的な根拠はない。 光秀とは職掌が全く違うので直接関わる機会もほとんどなかったであろうし、 光秀の功績や年齢差を考えると、いくら信長の寵愛があっても光秀に強く出ることなどなかっただろう。 全くありえないとまでは言えないが、それぐらい関係性の薄い間柄である。 フィクションにおける森蘭丸 この時代周りの人々は作品によってかなり性格に改変が加えられるのだが、蘭丸に関しては「美少年」「信長に忠実」の2点はほぼ全く外されておらず、 作品間の扱いに差異の少ない人物であると言える。 なお、よく知られる絵において蘭丸が本能寺の変で使用していた武器は「槍」なのだが、なぜかゲームに置いて槍を武器にしている蘭丸は滅多にいない。 ゲーム作品 戦国無双 森蘭丸(戦国無双)の項目も参照。 刀を武器にする信長の近習。妄信的に信長を信奉しているタイプ。 戦国BASARA 森蘭丸(戦国BASARA)の項目も参照。 こちらは弓を武器にするこまっしゃくれたガキ。 どちらかというと「無邪気であるがゆえに信長以外を信じていない」タイプで無双版とは少しキャラクターの描き方が異なる。 婆娑羅2 弾幕STGの方のバサラ。線の細いイケメンとして描かれている。ラスボスが信長なので、信長を討伐する最終面の中ボスとして登場する。 STGという事もあってか髑髏をあしらった戦闘機で出陣し、セリフは登場時の字幕のみだが撃破すると「ぐはっ!」という野太い声が聞こえる。 特筆すべき事として、弟の「坊丸」「力丸」も同じステージにネームド武将として登場する事が挙げられる。顔グラもセリフもないが 兄・長可と弟・忠政も登場するが、こちらは前田利家の配下。特に長可はワイルドなイケメンとして描かれ、拡散バズーカを持ったこれまたイケメンな人型ロボで出陣する。 モンスターストライク ピンク髪。どちらかというとイケメン度を重視しており、ちょっと珍しいタイプかもしれない。 武器は銃剣。「小姓」というよりは、「執事」をイメージしたデザインになっている。 信長の野望シリーズ 「美少年」というよりは「美青年」に近いタイプだろうか。確かに没年からすると、こっちの方が妥当かも知れない。 戦争にはあまり向いていないが、内政や外務などに高い適性を発揮するタイプ。 鬼武者シリーズ 織田信長が悪役のため、その手先として登場。 『鬼武者3』では時空を超えた未来のフランスに飛ばされ、そこで改造手術を受けて幻魔と化す。 戦国ランス 織田軍初期配置のユニットの一人。本作はエロゲーのくせに割と史実通り男性の武将もいるが、エロゲーらしくクールビューティの美女である。 しかしせっかく女体化したのに作中のエロシーンは覗きイベントだけで本番なしとわざわざ女体化した意味がよく分からないことになっている。 なお、蘭丸でなく「乱丸」という名だが史実でもこちらの方が正しいという異説もある。 漫画作品 第六天魔王織田信長 「森蘭丸が主人公」という珍しい視点の漫画。 この作品における信長は完全な暴君として描かれており、最後まで忠義を果たすのは蘭丸のみとなっている。 というか、ほぼ完全な妄信レベルになっており、かなり異常な関係に見える。 殿といっしょ 金髪のイケメン。ドS戦闘狂パイロマニアの信長とシラフで話し合えるキケンな美少年(ちなみに兄・長可は気が合いすぎて喧嘩仲間になっている始末)。 幼い頃から主君より年上の光秀を只管にいじっている。 信長の忍び 幼くして気立てがよく絶世の美貌を有する。というか、蘭丸の美男子設定が逆輸入されたため父・可成が作中一のモテ男になった。 父の壮絶な死に伴い、兄と共に信長に仕える。母親の腹の中に自制心を置き忘れてきた兄をどついてでも止めるよくできた弟。 タイムスキップ真央ちゃん 現代から精神のみが戦国時代に転移した少女・生田真央の依代となる。「乱丸」表記。兄の長可も登場する。 当初は普遍的なイメージの信長の忠臣だったが、忍者の少女・かざみとの出会いや、真央の影響を受けて徐々に変わっていき…… ※ネタバレ 紆余曲折を経て、最終的には本能寺の変を生き延び、歴史の表舞台から姿を消しながらもかざみと結ばれる結末を迎える。 なお、かざみは真央の母方の先祖である事が作中で判明しており、つまるところ乱丸もまた真央の御先祖様であった事が明示されている。 小説作品 魔界水滸伝外伝 白銀の神話 後世に伝わる程の美形ではないが、どこか儚げな少年として登場。 未来から来て信長役を務める主人公北斗多一郎(八岐大蛇の化身)の見ている「常人には見えない世界(霊的な視点)」をなぜか目視して以来彼の興味を引き、最終的に彼と相思相愛となる。 恐怖耐性は低いものの、なんだかんだと決して逃げることはなく信長に仕え続け、本能寺の戦いで前線に立つも深手を負い介錯された。 境界線上のホライゾン 蘭丸の役割を継ぐ「襲名者」で、侍女型自動人形の「森・蘭丸」。 ロボで大人っぽい女性とあまり蘭丸らしくないが、この世界の武将襲名者は秀吉等半分くらい女性なので(光秀など男性武将もいる)問題はない。 この世界にも一応兄の襲名者はいるが縁はなく、信長も女性でかつ諸事情により身動きが取れないため単なる主従関係である。 実は古代に生まれた「古式自動人形」の生き残りで、古式が住む内裏からの派遣者でもある。そのため「世界の秘密」にも詳しく、初登場時は独自の判断で主役陣営を止めるため対談に挑んだ。 だが主役陣は止まらず、光秀の代わりに本能寺に突入。止めるため奮闘するも敗れたが、自害しかけるも踏みとどまり生存。最終盤で情報提供を行った。 実写作品 仮面ライダー×仮面ライダー 鎧武 ウィザード 天下分け目の戦国MOVIE大合戦 鎧武編「戦極バトルロワイヤル!」に登場した並行世界「戦極世界」の武将の一人「ランマル」。 武神オーズと同盟を組み、京都一帯(たぶん)を支配する武将ノブナガに使える美しき…って女性じゃねえか! 二丁拳銃を武器に闘う気の強い美女。BASARA知識しかない人が見たらノウヒメだと思うだろう。 ノブナガがホンノージ教会で武神鎧武軍に討たれ、落剝していたところを武神バロンこと駆紋戒斗/仮面ライダーバロンの軍門に下る。 エピローグでは女を捨てることを捨てるという決意を示した。 劇場版 仮面ライダーゴースト 100の眼魂とゴースト運命の瞬間 究極の眼魂を創造するために用いられた100個のゴースト眼魂の一つとして森蘭丸のゴースト眼魂が登場。 デザインは一般公募されたもので、史実の蘭丸の家紋をモチーフとしている。 本能寺ホテル 演 濱田岳。イケメンといえばイケメンではあるが、どちらかというとひょうきんなイメージが強く押し出されている珍しい蘭丸である。というか初見だと秀吉と勘違いするかもしれない。 「魔王」信長に怯える小人物だったが、未来から来た主人公を自分の立場が危うくなっても守ろうとする心優しい性格。そして最後には自分たちの運命を聞かされても、逃げようとせず死に装束をまとって本能寺に残った信長と共に殉じることを選んだ忠義の士でもある。 追記・修正は最後までやり遂げる人にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] タイムスキップ真央ちゃんっていう古い漫画でこの人を知った -- 名無しさん (2018-11-06 20 54 53) ノッブ「爪切ったから捨ててきて」乱「おかのした」乱「ファッ!? 9本分しかないやんけ! 探さな!」 ノッブ「障子閉めてきて」乱「おかのした」乱「ファッ!? 閉まってるやんけ! でも閉めてこい言われたからな、閉まってたなんて言うたら主君の恥や。せや、一回開けてから閉めりゃええんや!」 そんな逸話があるくらいだからさぞ忠実だったんだろうなぁ -- 名無しさん (2018-11-06 21 06 56) 信長の忍びは父の方が活躍しているな。蘭丸はまだ顔見せ程度 -- 名無しさん (2018-11-06 21 52 30) 華奢なイケメン系の信長が受けでガチムチ森蘭丸が攻めという説すき -- 名無しさん (2018-11-06 23 14 15) 前田利家も若い頃信長と愛人関係だったしな -- 名無しさん (2018-11-07 04 34 10) 記事作成お疲れ様です。 少なくとも信長が長く重用したから執事役として有能なのは間違いないでしょうね。 -- 名無しさん (2018-11-07 11 15 27) 1度、立志伝5のこの人で(編集ありで)本能寺イベントで信長生還させたっけ その後働きまくってもなぜか城主になれずじまいだったけど -- 名無しさん (2018-11-07 17 24 26) おきらく忍伝ハンゾーでは魔王となった信長を殺した張本人。現在は若作りの腐れジジイ -- 名無しさん (2018-11-08 21 12 56) ノブナガ先生ではタイムスリップしたあと70年間信長を待ち続けて学園長になっている。しかも華奢な嫁をもらったはずなのに・・・。 -- 名無しさん (2018-11-13 09 47 35) まんがホームの漫画「転生したら蘭丸でした」ではアラフォーの会社員が転生しており何とか本能寺の変を回避しようと必死になっている。 -- 名無しさん (2018-11-13 09 54 03) 『変幻戦忍アスカ』にも出てたね。しかもラスボスとして。 -- 名無しさん (2018-11-13 10 20 41) じっさいは身の丈が高い記述があったから美青年ではあったかもしれないが、顔が濃い系の方かもしれないな -- 名無しさん (2022-01-15 21 02 20) 信長が蘭丸に啼かされてた可能性は -- 名無しさん (2022-01-15 21 03 34) それは歴史の謎にしておこう、ただ主君とそういう関係になった時に許可があっても立ちにまわれるのだろうか(自分は難しいと考えている) -- 名無しさん (2022-01-15 21 11 33) fateの謎の蘭丸Xは入れても良いものだろうか 関係性がちょっと微妙というか -- 名無しさん (2022-03-09 21 06 04) 何故か江戸時代の二次で信長よりも人気ある -- 名無しさん (2023-05-28 14 38 59) 名前 コメント
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[部分編集] 【iM@S架空戦記支援】戦国武将列伝【ニコニコ歴史戦略ゲー】 http //www.nicovideo.jp/watch/sm7409028 動画形態 教養講座動画(紙芝居型) 登場キャラ アイマス 史実武将の扱い 紙芝居には登場せず 投稿時期 2009年6月21日~ 投稿者名 ニシンP 関連タグ 【アイドルが紹介する戦国武将列伝】 マイリスト - ニコ証 - 関連動画 平行連載→アイマス×Mobile信長の野望シリーズ 備考 - [部分編集] 概要 アイマスのアイドルたちが戦国武将を紹介する動画。 制作者は「アイマス×Mobile信長の野望シリーズ」のニシンP。 1回につき3人の武将を紹介、その人物が活躍する動画もあわせて紹介している。 進行役は、亜美・真美のいずれか+1名の2名。 真美が東日本担当、亜美が西日本担当という分担になっている。 当初は「iM@S架空戦記支援」動画という形で始まったが、 第3回からは「ニコニコ歴史戦略ゲー」支援を兼ね、3本の紹介作品のうち1つを歴戦ゲ界隈から出している。 また、取り上げてほしい歴戦ゲ界隈の動画を武将リクエストとともに募集中とのこと。 第4回まで月刊ぺースで更新。 12人の武将を紹介したところでひとまずの区切りとされていたが、熱い期待に応える形で第4回から2ヵ月後、第5回が発表された。 紹介される武将がことごとく(世間一般的には)「マイナー武将」であることが特徴。 もちろん戦国ヲタ的には「十分メジャーだろ」という武将もいるが、 戦国ヲタも唸るほどの「マイナー武将」(とはいえ、「信長の野望」に登場するレベルではある)も多い。 第1回で「紹介を希望する武将」のリクエストを取っているが、 第1回の方向性で「メジャー武将はお呼びでない」という方向性が視聴者にも理解され、 見事に「マイナー武将」が出揃った。 毎回、通好みの渋い武将が取り上げられており、 「マイナー」と捨て去るにはもったいない、その魅力ある生涯に光が当てられている。 ニシンPの、愛に満ちた人物像の掘り下げもみどころ。 動画作品紹介も時間を割いて丁寧に行われている。 [部分編集] 紹介武将・紹介作品 武将紹介はおおむね次のように進行している。 紹介武将の能力値紹介(革新ベース) アイドルによる、武将紹介談義 その武将の活躍する動画作品の紹介 主紹介武将周辺の史実人物一名を取り上げてフリップ型の紹介 本作では「誰が紹介されるのだろう」「どんな作品が紹介されるのだろう」というのも楽しみの一つであり、 動画の説明文でも秘匿されているため、本解説でも隠すことにする。 第1回 +東日本編。記念すべき第一回。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル 北楯利長 ゆきまこ風雪記 新関久正 真美・千早 黒川晴氏 千早創世録 留守政景 真美・律子 横瀬成繁 アイマス公記 甲斐姫 真美・やよい 第2回 +西日本編。メジャーな大名も入れてみました? 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル 相良義陽 律子の野望 犬童頼安 亜美・あずさ 城親賢 アイドル探しの旅in戦国 赤星統家 亜美・真 淡河定範 美希の天下創世 別所吉親夫人 亜美・貴音 第3回 +東日本編。歴戦界隈からも初参戦。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル 芳賀高定 戦国アイドルマスター 結城朝勝 真美・小鳥 金上盛備 アイマス立志伝 松本氏輔 真美・雪歩 氏家定直 教授の野望 氏家光氏 真美・美希 第4回 +西日本編。「もっと評価されるべき」代表格のあの人も。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル 後藤賢豊 あずさの天下創世 山崎片家 亜美・響 毛利勝永 アイマス戦国酔夢譚 大野治房 亜美・伊織 西園寺実充 西園寺世界の逆襲 久武親信 亜美・春香 第5回 +東日本編。この回からステータスは天道のものを使用、2枠目が「変化球」枠に。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル 三木直頼 燃えよ双星 内ヶ島氏理 真美・あずさ 里見忠義 十珠伝 正木為春 真美・絵理 佐久間信盛 竹中半兵衛の憂鬱 丹羽氏勝 真美・真 第6回 +西日本編。激動する時代、交錯する人生。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル その他、作品中で紹介したもの 朽木元綱 伊織立志伝・伊織幻戦記 脇坂安治 亜美・美希 池田勝正、孫策兵法、美希は時のかなたへ 小寺政職 北方IM@S伝 楠木正虎 亜美・愛 黒田孝高、小寺頼季 木曾義在 映姫の野望 玉林 亜美・雪歩 歴戦架空taleParty弐 「戦国時代を舞台にした作品に彩りを添える動画」も紹介 糸冬Pの「戦国系馬揃え」「戦国系大物見」シリーズ( タグ検索 ) 戦国ブックガイド(戦国時代が舞台の小説・漫画紹介) 第7回 +東日本編。東北、関東、東海から1人ずつ。編集作業の一端も紹介。 主たる紹介武将 紹介作品 副次紹介人物 担当アイドル その他、作品中で紹介したもの 本多重次 あずさ立志伝 伊奈忠基 真美・貴音 築山殿 佐藤為信 奥州合戦―あずさ鏡― 木幡高清 真美・伊織 北条氏規 らきすた☆立志伝 清水康英 真美・律子 その時歴戦が動いた、架空戦記カタログ「亞州偶像奇譚総覧」 コメント欄 ここで紹介される武将はマイナーばかりだがそれ以外に周辺の武将も紹介してくれるのはありがたい。歴戦と架空戦記界隈を盛り上げてくれる動画でもある。 -- 名無しさん (2009-09-15 19 47 34) 名前 コメント
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名称:英雄欺人の戦国武将・徳川家康 レアリティ:☆9 属性 木 一覧番号 1650 入手先 入手先1:進化 徳川家康入手先2:入手先3: レベル 1(99) HP 5311(7876) 攻撃力 967(1434) 治癒力 464(688) コスト 9 売却価格 ??? 進化必要素材 (進化)徳川家康のビジュー(進化)徳川家康のビジュー(進化)徳川家康のビジュー(進化)徳川家康のビジュー(進化)徳川家康のビジュー 進化先 国王・徳川家康 必殺技:静粛杜鵑 必要ターン数 15(5) 効果(Lv1) 発動時、100%の確率でベルが成立する抽選を行う。味方全体の必殺技カウントを7減少(戦闘中1回のみ使用可能) 効果(Max) 発動時、100%の確率でベルが成立する抽選を行う。味方全体の必殺技カウントを15減少(戦闘中1回のみ使用可能) リーダースキル:英雄欺人の戦国武将 味方木属性の攻撃力が4倍、HPと治癒力が2倍。敵を倒した時、味方必殺技カウント追加で2減。敵を倒した次ターン、攻撃力+250%。
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こちらはモバゲーが提供しているゲーム「戦国武将姫MURAMASA」の晒しwikiです。 ここでは同ゲーム内で規約違反行為を行っているプレイヤーや業者マクロ等を晒す事により、 その他プレイヤーに注意を喚起するのが目的です。 そのような内容によって気分を害する恐れのある方は、速やかにお引返し下さい。 これを無視した結果による如何なる苦情も、当方では一切関知しませんので予めご留意下さい。 違反行為プレイヤー一覧 要注意プレイヤー一覧
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#blognavi 戦国武将バトン Q1、戦国ファン歴は? → Q2、あなたの戦国時代の知識源は? → Q3、好きな戦国武将をあげて下さい → Q4、上にあげた中であえて選ぶなら最も好きなのは? → Q5、逆に嫌い(好きになれない)戦国武将は? → Q6、この人にもっと長生きして欲しかったとその死を惜しみたくなる武将はいますか? → Q7、アツイと感じる合戦は? → Q8、あなたは信長、秀吉、家康の誰に一番似てると思いますか? → Q9、もし自分が戦国武将ならどんなタイプの武将? → Q10、戦国時代を全く知らない人に薦めたい書籍、マンガは? → Q11、そろそろ答えるの面倒くさくなってません? → Q12、あなたにとって「戦国時代」とは? → カテゴリ [バトン倉庫] - trackback- 2006年07月18日 00 43 43 #blognavi
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登録日:2021/05/24(月) 15 40 30 更新日:2024/02/06 Tue 02 56 07NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 三河国 備後国 刈谷藩 大名 大和国 奈良県 家康の従兄弟 広島県 愛知県 戦国武将 武将 武将項目 水野勝成 福山藩 郡山藩 水野(みずの) 勝成(かつなり)は日本の戦国武将にして狂犬のような前半生から穏やかな名君となった後半生の落差に定評のある人物。(1564-1651) ●狂犬の誕生 1564年、水野忠重の子として誕生。ちなみに彼の父と徳川家康の母は兄弟のため、家康とは従兄弟の関係にあたる。 初陣は1579年、16歳のときである。叔父の敵である岡部元信も出陣していたため士気も相当高かったようだ。 初陣にして15をの首級を取り、信長からも「なんかすげえ奴が来た」と大層驚かれたようである。 1582年の天正壬午の乱(*1)では従兄弟の家康に属して戦う。この際家康の幼馴染で関ケ原で壮絶な戦死を遂げることとなる鳥居元忠と共に出陣し、北条の大軍を森林にて少数で迎え撃つが、「俺は俺の好きなように戦わせてもらう」と言い放ち、勝手に先陣を切り、多くの首を刈り、武名を上げた。なんだこの狂犬。 結果的にはこの戦いの勝利によって真田昌幸を筆頭に周囲の小大名や土豪らが徳川に傾き、この戦は徳川有利な結果で終わった。 1584年の小牧・長久手の戦いでは、眼痛を理由に兜をかぶらず出陣。例えるならノーヘルでバイクに乗ったというところだろうか。 これを見かねた父から「もし頭を狙われたらどうするんだ、その兜は肥溜めか!」と叱責されるも、勝成は「そんときはそんときだ!」と答え、やはり勝手に敵陣に突撃したあげく多くの首級を取っては武功を稼ぐ。 なお、悪名高い森長可を討ち取ったのは彼の軍である。 その後、父の家臣と喧嘩になったためそれを殺害し、激怒した父から勘当されることとなる。 しかし、この浪人生活が後年彼の別の才能を開花させることとなる。それはまだここから約40年も後の話である。 ●浪人時代 父と喧嘩し、奉公構(*2)まで出されたため食う宛にも困っていた勝成は仕方なく上洛(*3)。 やはり町中でも大喧嘩や殺害などは日常茶飯事で、問題児だったようだ。 逃げるように「六左衛門」と名前を変え、羽柴軍に仕えてみたり、やはりそこでも問題を起こしては逃げ、各地を流浪する身に。 しかし、実力の高さを買われ、佐々成政や小西行長、黒田官兵衛といった面々に仕え、いわば傭兵のような扱いだった。 なお、他家に仕えて戦っているという情報を聞いた家康や父に追手を差し出されているのだが、悉く勝成に返り討ちにされている。 そうして戦を求め西へ西へと向かっていき、最終的には九州の戦にまで参加していた。 なお、この間に備後国に居候しており、大名である三村家の姫との間に嫡男である勝俊をもうけている。後に備後の藩主となるのは運命だったのだろうか。 ●父との和解と鬼日向 秀吉が死に、戦の気配を敏感に感じ取った勝成は帰国。15年経てばわだかまりも解消したのか、すんなり父と和解した。 しかし、和解した直後に父が惨殺されてしまう。そのため水野家の家督を相続することとなった。 父の無念を晴らすべく、勝成は大垣城を攻撃し、見事これを落とすことに成功する。 ちなみにこの大垣城は独断の攻撃であり、実は落とせていなかったらしいのだが、敵が誰も守っていなかったため結果的に落城に成功したのだとか。 家康が関ヶ原に勝ったので、勝成も官位を賜ることとなるのだが、貰った官位がまさかの日向守。あの光秀とであり、人々から忌避されていた呪いの官位である。ちなみに勝成のあだ名である「鬼日向」はここから来ている。 続く戦国時代最後の戦いである大坂の陣では、大将を任され、家康からは「いいか、先陣を切るなよ?絶対に切るなよ?」と再三釘を刺されるも…まあお察しください。勝成からはただの前フリとしか思われてなかったらしい なお、この際あの宮本武蔵と出会い、共に戦っている。 その後大和郡山に転封となる。これでようやく家康の注意が本気の戒めと言うことに気づいたようだ。 あれだけ武功を立てたのにと非常に不満気だったが、秀忠から「親父が死んだらもっといいところに行かせてあげるから」とこれを了承する。 そして1619年、福島正則の改易に併せ、勝成は備後福山に転封する。 ここでようやく鬼日向のもう一つの才能が発揮されることとなる。 ●名君と慕われた福山藩主 浪人時代に培った経験を活かし、畳の生産や水道の整備に力を入れ、福山藩を現代にまで続く都市に発展させていった。 また、浪人時代にお世話になった三村家を家老にしたり、改易された宇喜多家や福島家の人間を家臣に迎えたり家臣の福利厚生を充実させたり、非常に先進的な名君だったと言われる。 彼をはじめとした水野家が藩主の間は福山藩は反乱や一揆が一度も起きなかったため、領民からも非常に慕われていた。 出奔せざるを得なくなった家臣には推薦状を持たせ、他家に仕えさせるよう奔走したり理想の名君として皆から愛されていたようだ。 1637年、とある一報が勝成の元に届く。そう、島原の乱である。 久々に大好きな戦が出来ると喜んだ勝成は即座に出陣。このとき御年75歳である。元気だな 子と孫も引き連れ友人の宮本武蔵も誘い、勇み足で島原へ。 戦国の世を知る男は殆どが既に世を去っている中、貴重な戦国時代を知る男である彼と立花宗茂で一番槍を争ったのだとか…無理すんなジジイども 既に名君と慕われるようになって久しいこの二人だが、勝成は親子三代で首を獲りに行くわ、宗茂は宗茂で「もっと戦いたいから長く続いてほしい」と発言するなど、彼らは生粋の武士だった。 1651年、88歳と言う現在でも高齢と言われる年齢で大往生を遂げる。 戦国の世を好き勝手に渡り歩いた男だが、その最期は畳の上で安らかに生涯を終えたのだった・・・ 勝成の死後は息子である勝俊が後を継ぐことになる。この息子も父の血を色濃く受け継ぐ男で名君として慕われた。血気盛んで我先に勝手に一番槍を争いたがるところまで似てしまった また、勝俊の母、勝成にとっての妻は備後の大名であった三村家の姫であり母方の故郷に凱旋したとも言えるだろう。 なお、残念ながら福山藩の水野家は玄孫の代で無嗣断絶(*4)によって改易されることとなるが、後に曾孫が家名のみを継いで大名になり、下総結城藩主として明治まで続いているしかし戊辰戦争時旧幕府か新政府かで内乱になる羽目に。血統自体は既に養子縁組等で勝成の末裔ではなかったが。 また、天保の改革で知られる水野忠邦は彼の一族(勝成の叔父の末裔)である。 ●逸話 旅館で入浴中、刀を盗まれる。それに気付いた勝成は全裸で追跡。無事盗人を殺害し取り返す。殺害するというところが如何にも勝成らしい。 旅館で宿泊中、体調不良が原因で夜泣きしている子供に秘薬と称した自身の垢を子供に飲ませた。すると子供の夜泣きは収まり、体調も回復した。恐らくはプラシーボ効果なのだろうが、長生きしたことを鑑みるともしかしたら彼の細胞は病気を退ける何かを持っていたのだろうか 父との和解に当たっては禿頭を模した兜を作らせていたが、父が殺害された際に神社へ寄贈された。兜の件の意趣返しとして父の前でこれを被って戦う予定だったのだろうか。 いわゆるDQN四天王(代表例は伊達政宗)に勝るとも劣らぬ逸話の持ち主。しかし出奔中の事績を語るソースが自伝しかない後半生でDQNとは程遠すぎる名君ぶりを発揮したため四天王入りを逃した。善政を敷いたことがマイナス査定になっている辺りが…というか四天王は全員為政者として超優秀なので単に知名度の問題だろう 家康の母(勝成の叔母)曰く、水野家は彼以上のDQNが多かったらしい。彼女の言葉を額面通りに受け止めるなら彼はまだまともな部類らしい。 アンサイクロペディアが嘘を書けなかった男としても名高い。事実は小説より奇なりである。 大坂の陣で一番槍を挙げたのは上述のとおりだが、政宗と喧嘩になり、伊達軍の兵が水野軍の兵を殺害→逆に水野軍が伊達軍の兵を殺害し、馬も奪うという事態に発展した。 死の1年前、87歳の時には鉄砲の射撃で見事に的に命中させており、文字通り死ぬまで戦えることをアピールした。 彼を表す言葉として倫魁不羈(りんかいふき)というものがある。これは余りに傑物過ぎて誰にも縛れないと言う意味である。アニヲタ的にはミスターアンチェインと呼ばれている彼が一番近いか。 政治の先進性を顕す逸話として、一番遠くて伊勢神宮までという条件付きであるが「家臣に旅行することを許可している」というものがある。封建君主ばかりの江戸時代の旅行とは別の国を渡るも同然、旅行先でトラブルが起きれば何が返ってくるかもわからないので禁止するのは当然である。だがそれをも受け入れ旅先の話を楽しみにしていたというのが器の大きさを示している。 余りの善政ぶりに隣の岡山藩主である池田光政から「良将の中の良将」と称えられ、彼の政治を参考にした。なお、池田光政も屈指の名君である。 地元の愛知県刈谷市には彼をモチーフにしたゆるキャラの「かつなりくん」がいる。エピソードが全くゆるくないのにゆるキャラ ●創作 不遇。 あの徳川家康と血縁・あの宮本武蔵と親友・濃いエピソードの多さとネタにはこと欠かさないはずだが、ほとんどの創作で登場しない。 信長の野望では少し武勇が高いだけの三流武将であったし、なんなら出ていない作品もそれなりにあった… 大坂の陣をテーマにした「創造・戦国立志伝」でようやく能力の見直しが行われ、一流の武官となり、後半生の名君ぶりも評価され政治のステータスも上昇。しかしまだ物足りない 続く「大志」では暴れん坊ぶりが評価され武勇が90の大台を突破する。 作品によっては暴れん坊ぶりよりも晩年の名君ぶりを評価され、政治のステータスのほうが高いこともある。 戦国大戦でもアンコモンとして登場。 能力値もコスト1.5で武力5統率4と若干平均を下回るが、代わりに最大兵力(HP)が多い「軍備」特技持ち。 計略も武力ダメージを減らすという防御的な一枚に仕上がっている。 イラストは戸橋ことみ氏でイケメンよりである。が良くも悪くも無難な仕上がりの武将であり地味。 前述の通り年齢によって全く違う面を持ちながらもこのゲームに登場したのはノンレア1枚だけという、やっぱり不遇である。 しかし群雄伝では出番が多く特に大坂の陣シナリオでは活躍している。「道明寺の戦い」と「誉田の戦い」はほとんど出ずっぱりである。 また上記の政宗との喧嘩も弱冠ながら再現されている。とはいえ同士討ちになったりはせず、戦闘が終了した頃には互いの年齢の事もありなんやかんやで和解した。 なお妹の清浄院(加藤清正の継室)と養女の八十姫(加藤清正の娘)も登場しているが、全員UCである。 TCGでも登場したがそちらは高レアリティで鬼神のようなイラストで非常にかっこよく仕上がっている。 追記修正は全ての戦で勝手に一番槍を挙げながらお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 刹那的な生き方してる割に長生きし名君として没するってのは話を作りやすいと思うんだが創作に恵まれないってのは勿体ないな -- 名無しさん (2021-05-24 17 30 43) ついに作ってもらえた…地元民としてはもっと有名になって欲しいところ。 -- 名無しさん (2021-05-24 18 27 01) 戦国艶武伝で知った。18禁小説だが。 -- 名無しさん (2021-05-24 18 43 58) 息子の水野勝俊の功績までこの人の功績と纏められちゃいがちで息子可哀そう。というかこの書き方だと息子おらんように見える -- 名無しさん (2021-05-24 19 58 17) 旗本奴として知られる水野十郎左衛門はこの人の孫。血は争えないと言うべきなのだろうか -- 名無しさん (2021-05-24 20 16 31) コイツ主人公のエロラノベあったなぁ 息子つうか生んだ母親の逸話は載せないの? -- 名無しさん (2021-05-24 21 58 55) 戦国無双で無双武将に昇格して欲しい。 -- 名無しさん (2021-05-25 14 03 38) 島左近いるから徳川に勝成がいるのはおかしくないわな -- 名無しさん (2021-05-25 14 14 14) ↑8 家康関係だとまず四天王・鳥居・佐渡守で枠埋まるし、大阪の陣だと他にネームド多数だし、平和な時代の名君だとそもそもネタにしにくいし…って所じゃないかと。 -- 名無しさん (2021-05-26 14 17 32) こんな濃いエピソードの塊なのに今まで知らんかった -- 名無しさん (2021-06-05 17 45 07) 20年くらい前の三国志戦国板では最強武将の一角としてよく上がってたな -- 名無しさん (2022-01-14 20 11 58) 島原の乱での発言が爺様になっても血気盛んすぎた人だったはず -- 名無しさん (2022-01-14 20 39 49) 初陣にして15をの首級を←鬼かなにかかな -- 名無しさん (2022-01-14 20 40 42) ドリフターズの影響でネットでは島津豊久が「死に狂い」の代名詞みたいに言われてるけど、ぶっちゃけこっちのほうがよっぽど頭おかしい。ついでに言うと、堅実そうに見える親父も強情武辺で頭おかしい。つーか、伯母である於大の方が「勝成は水野一族ではまともなほう」って言うくらいだから一族全体が頭おかしい -- 名無しさん (2022-02-04 18 27 13) ↑豊久は家のために命を懸けたけれど、若かりし頃の勝成は家?なにそれおいしの??それより戦だおらああああー!!!という、やんちゃというかあれな感じ -- 名無しさん (2022-02-04 18 30 15) 名前 コメント
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登録日:2012/04/29(日) 16 40 30 更新日:2024/04/26 Fri 16 19 04NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 チート兄弟の次男坊 島津の退き口 島津義弘 戦国のオーガ 戦国武将 戦闘民族サツマ人 正解 薩人マシーン◎ 武将項目 殺人マシーン△ 薩摩 鹿児島県 島津義弘は戦国時代に活躍した武将。戦国時代屈指のチートと名高い島津四兄弟の次男。 (おそらくは関ケ原後)兄であり前当主でもある島津義久の後を継いで当主となった…と島津家の公式見解ではなっているが、最近では「便宜上後世の史料で『当主』カウントされていただけで実際は当主ではなかった」という見解が主流となっている。 コレをはじめとした伝説の数々からかフィクションでは老武将として登場する事の多い義弘だが、生まれは1535年と、 あの織田信長より一つ年下である。 戦国時代初期、傘下の領主達の台頭によって弱体化した島津家を再興すべく尽力していた貴久の子として生まれる。 戦闘民族の血ゆえか若いうちはハチャメチャが押し寄せていたようで、 初陣である岩剣城の戦いでは初陣でありながら船10艘を捉えるという活躍をし、 蒲生氏との戦いでは5本もの矢傷を受ける重傷を負いながら数千の敵をなぎ倒し敵の首をとっている。 島津家はこんなんばっかりか 蒲生氏との勝利で大隅地方を制圧した島津家であったがその前に東の強豪、伊東氏が立ちはだかった。 伊東氏の猛攻に領地を奪われた島津家は奪還に燃えるも薩摩の肝付氏や北原氏の攻撃や離反に足を引っ張られ失敗。 この事態に義弘は伊東氏との前線基地であった飯野城の城主となり伊東氏との真っ向勝負にうって出る。 1566年、飯野城攻略の為に伊東氏が築こうとしていた三ノ山城を完成前に粉砕してやろうと2万人の島津兵を引き連れて強襲する。 どっかの狸が卒倒しそうな数である。 が 城方の激しい抵抗に苦戦しその隙に駆けつけた伊東氏の援軍に挟撃されて敗走。 義弘は瀕死の重傷を負い、生死の淵をさ迷う結果となった。 2万でフルボッコのハズが未完の城にフルボッコされ返されるという醜態には心がへし折れるのが普通である。が、そこは戦闘民族サツマ人。 泣いている場合じゃないとばかりに生死の淵から生還した義弘は復讐に燃えに燃えていた。もうやだこの島津 1571年、父・貴久が没するとこれを好機とみた伊東氏は侵攻を開始。義弘もこれを好機とにらむ。 3千の伊東軍に対し義弘は最も信頼のおける将兵たった3百で飯野城に立て籠る。そして 「最前線はお前に任せるから」 「わかりましたわあなた」 自分の嫁に飯野城よりも前線の加久藤城を任せた。 釣り針でかすぎね? しかしわざと漏らしていた情報にまんまとひっかかった伊東軍は加久藤城を襲撃。 その隙をついて3百の兵と共に奇襲をかけ見事敵将首を討ち取ることに成功した。 見事に勝ちは勝った義弘であったが戦いは苛烈なもので、 義弘の首をとらんと大挙する伊東兵の前に義弘を討たせはせんと島津兵が身代わりになってはやられ身代わりになってはやられということも起きたという。 関ヶ原の伝説は起こるべくしておこったのかもしれない。 一世一代の戦に破れた伊東氏は急激に弱体化。 北の最大勢力大友家に救援を求めた。 ザビーきょ(ryキリスト教の一大理想郷を築きたかった大友宗麟はこれを快諾。 大群勢を率いて義弘と激突する。 が、キリスト教の盲信で家臣との関係に溝が深まっていた大友軍はやる気薄く。 島津名物釣り野伏せりにまんまと引っ掛かり敗走。 勢いに乗った義弘は肥後も平定するなど大きく島津家勢力拡大に貢献した。 しかし九州平定まで残すは大友のみというところで島津家最大の障壁が立ちはだかる。 大友の救援に応え20万にも及ぶ大軍勢を率い現れた天下人 豊臣秀吉である それでもその大軍勢にも恐れることなく戦いを挑み、長曽我部元親の愛息子、信親を討ち取るなど大群相手に大勝利を納めた。 が、秀吉本人が軍を率いてあらわれると途端劣勢となる。 義弘は自ら刀を抜いて敵陣に飛び込むまでのあばれっぷりをみせるも不利とみた兄、義久が降伏。 兄の必死の説得に義弘も応じ降伏し、九州平定の夢は絶たれた。 この義弘の猛戦には秀吉も惚れ込んだようで1588年、義弘が上洛した際、自身の名である羽柴と豊臣の二つを与えている。 豊臣家に下ったのちは二度に渡る朝鮮出兵に参戦。 その勇猛ぷりは朝鮮・明連合軍から震え上がられ鬼島津と恐れられた。 特に1598年の泗川の戦いでは30万の大軍をたった7千の兵で打ち破るという長い世界の戦争史においても前代未聞の大勝利を納めている。 朝鮮役中、勝手の違う環境や日本にはない寒さに日本兵は苦しめられ、士気は下がり凍死者も続出という有り様であったが、島津兵は常に士気高くやる気に満ちていたという。 もちろんどいつもこいつも戦闘民族サツマ人だからというのも答だが、義弘が部下思いだったからというのもある。 朝鮮の厳しい寒さの中、囲炉裏を焚くなどして寒さをしのいだ日本兵であったがそれは主だった主従のみで兵卒はあたることも許されなかったという。 だが義弘は兵卒も分け隔てなく共に囲炉裏を囲み共に飯を分けあったといわれている。 そのため島津軍は日本兵で唯一凍死者のような戦以外での死者はあらわれなかったといわれている。 秀吉の死とともに朝鮮からの撤退が決定すると立花宗茂らと共に殿をつとめる。 このとき孤立した小西軍を救出すべく連合軍の船団に猛攻。 苦戦をしいられるも無事に小西軍を救出し、朝鮮軍の英雄といわれた李舜臣を戦死させている。 秀吉の死後、徳川家康が台頭してくると戦国武将達は家康につくか、家康の台頭を阻もうとする石田三成らにつくかを迫られることになる。 九州平定の夢を阻まれ、朝鮮役でふりまわされと散々だった義弘は当然家康側につこうと兵を出兵。 しかしこの時、島津本家は分家が起こした内乱の対応におわれて兵を出せず、義弘の兵力はわずか1000程度であった。 これでも義弘を慕った薩摩隼人らが薩摩から走って畿内にまで駆けつけた結果である。 マラソンなんて次元じゃねぇぞ!! 求めに応じた家康から鳥居元忠の救援を頼まれ伏見城へと進軍する。 が 元忠は義弘の救援要請なんかうけちゃいないと三河武士らしい面倒くささを見事発揮。 困り果てた義弘はなし崩し的に三成率いる西軍につく事を選択する。 なお最近では義弘は初めから西軍の中心人物だったのではないかという説もあるが実際のところどうなのかは不明。 「本当は東軍に付きたかったのに嫌がらせで西軍に付かざるを得なくなったんですよ」と家康に言い訳するために死人に口無しで鳥居に責任押し付けたのでは?とも 長きに渡る島津と徳川の 因縁の始まりである が 西軍の総大将である三成は島津軍をたかだか1000程度の軍と軽視。 墨俣の戦いでは義弘軍を見捨てた上に、開戦前日に義弘が提案した奇襲策もあざ笑う始末。 これには義弘もぶちきれ、完全に戦意を喪失した義弘は、豊久と共に関ヶ原の戦いでは戦場には出るも、兵は全く動かさず静観。 戦いに苦戦し一転して助力を求めた三成であったが、遣わした使者が馬から降りもせず救援依頼したため義弘・豊久二人して大激怒し追い返している。 ただし「三成が島津が寡兵ということを気にしすぎて『戦にでなくてもいい』と言った気遣いをしてそれを誤解した」「三成の陣と島津の陣は近く、ある意味では切り札として扱いたかった」「島津としても東軍に恩があるために積極的に戦いたくはない」と言う説もあり、この辺りはどうなのかは常に議論されている。 ただ結果的に戦いは島津動くことなく西軍総崩れで東軍の大勝利で終わる。 しかし、東軍の勝どき轟く中、 静観をきめこんでいた島津軍が突如行動を開始。 あとにも先にも歴史に名を轟かす 伝説をやらかした 関ヶ原の後は義弘の戦を目の当たりにした井伊直政や福島正則ら東軍主要武将達の尽力もあって軽い処断ですむ。 結果的には義久が兵を出さなかったことが薩摩の維持に繋がった。 その後は加治木に隠居して若者の教育に尽力。85歳の天寿を全うした。 晩年は高齢から食事もままならぬこともあったが部下が鬨の声をあげると飯をかきこむ程に元気を取り戻した。とかなんとか あんた最後までサツマ人だな。 島津家はその後、兄の婿養子となった彼の息子島津忠恒 に引き継がれ、明治時代まで続くこととなる。 島津を討ち取れなかった事を家康は終生後悔しており、死に際に島津へと足を向けて葬れとまで遺言を遺している。 なおこれに関しては単なるデマである。家康が葬られた久能山東照宮に伝わる話によると、西に足を向けて葬ったのは西欧列強に対する警戒であり島津は何の関係も無い。 その恐れは、そして義弘の思いは幕末の世において実現することになる。 しかし完全に恐れを伝えられなかったのか、あるいは島津の方針が「幕府内で力を得る」であったせいか、子は出来なかったとはいえ11・13代将軍の正室に島津家の娘が就いている。ていうか薩摩は幕末に時代の流れで倒幕派になったが基本的に外様屈指の親幕派。 追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] こいつの子孫たちと謀神の子孫や弟子が手を組んだら そりゃ滅ぼされるわな~ 徳川さんの家 -- パキスタン (2013-08-31 19 59 47) 秀吉が来る前に九州平定して秀吉来襲に備えて…と考えたら島津最大の障壁は岩屋城なんじゃないかと思うの。 義弘直接関わってないけど。 -- 名無しさん (2013-09-25 10 32 27) この項目面白すぎだろw -- 名無しさん (2013-10-11 22 23 29) むしろこの一族が関わる項目は大抵面白い -- 名無しさん (2013-10-12 00 06 56) 島津家は揃いも揃って人間やめてる -- 名無しさん (2014-01-04 02 36 01) ↑戦国時代の名将はたいてい人間辞めてるから。 -- 名無しさん (2014-01-04 02 47 38) 当時の九州のパワーバランスの為、関ヶ原で見逃されたんだろうけどな。 -- 名無しさん (2014-04-09 17 05 27) 朝鮮の役のとき、朝鮮半島に留まっていた明軍が10万を越えたことはないことが研究で明らかになっている。 -- 名無しさん (2014-04-09 23 12 54) 義弘が関ヶ原のとき夜襲を提案したが、このとき東軍では根白坂で義弘の無謀な夜襲を散々に打ち破った藤堂高虎が夜襲に備えていた。 -- 名無しさん (2014-04-09 23 17 42) まあ島津にしろ徳川にしろ能力のある人物が割拠していたこの時代は面白いな。見ていて飽きない。 -- 名無しさん (2014-04-09 23 25 38) そりゃ妖怪首置いてけがコンプレックス持つ相手だもんw -- 名無しさん (2014-08-29 10 23 10) この島津を見てると本当に宗茂が西国最強なのか疑わしくなる。 -- 名無しさん (2014-10-27 11 00 55) 戦闘民族サツマ人は兵士から含めて全てが異常だ -- 名無しさん (2014-11-07 21 59 21) いい加減、日本も中国のように講談と正史(中国政府公認の歴史ではない)とを区別するべきではないかと思うのだが、日本が歴史編纂後進国である象徴ともいえる人物。 -- 名無しさん (2014-11-08 12 08 00) 九州男児といえば島津みたいに言われるなあ、どうしてうちの県にはボンクラで南蛮かぶれのアホしかいなかったんだろ -- 名無しさん (2015-11-16 19 47 35) ↑2そういう台詞はルーデル閣下の生涯を見てから言うことだ。分けるなんて考えが馬鹿馬鹿しくなるから -- 名無しさん (2015-11-16 19 49 27) ↑2 大分県の人かな?立花親子がいるし多少わね? -- 名無しさん (2016-08-14 12 39 06) 伊東氏の衰退は後継者が戦死して主君がやる気なくして勝手に没落していったことなんだよなぁ。情勢が悪くなっても遊びに興じて最後は滅んだ…と見せかけてなんだかんだで生き延びていたり -- 名無しさん (2016-08-24 11 22 53) 島津もそうだけど、その島津と戦えたりする奴らがホイホイいた日本の戦国時代って、魔界かなんかに見える。 -- 名無しさん (2016-10-09 20 48 30) 特に戦闘力というか士気が高いのが多いからなぁあの時代…四国統一だって大変だし、近畿や関東なんかも制覇するのは一苦労。島津をもってしても九州全部を統一するには立花という最後の砦がデカかったわけで…まあ道雪とか紹運とかその息子とかやっぱりチート侍ばっかだし -- 名無しさん (2016-11-03 16 34 39) たくさんご飯食べてるとはいえ、とても重い甲冑まとって暴れまわってるからなぁ……。確かに人間(少なくとも現代人)の枠から離れてると思うわw 今の薩摩人に、あれほどの人外はどれほどいるのやらw -- 名無しさん (2017-02-23 12 38 38) 大河ドラマやったら九州勢がやたら濃いメンツになりそう -- 名無しさん (2017-03-19 07 32 36) 鳥居さんがめんどくささを発揮しなければ、徳川の敵は増えなかったんじゃないんですかねぇ -- 名無しさん (2017-03-19 08 53 02) ↑2 少なくとも、島津の大河をやったら、島津の退き口が山場になるだろうなぁ。 -- 名無しさん (2017-03-19 09 28 04) ↑24謀神の子孫からは謀略力と積極性はほぼ消えていて主に部下がやる気満々だったのに、こいつの子孫は代々実力や勢いがあってさらに部下も勢いあったからなあ。 -- 名無しさん (2017-08-23 09 17 09) 大河の主役にしようとしても薩摩は西郷や篤姫など幕末がメインになりやすい。仮にできたとしても朝鮮出兵を描けるかわからない。 -- 名無しさん (2021-04-03 23 21 24) 「薩摩人の言い伝えは3割は創作・誇張されているからネットの情報を鵜呑みにしないように」というのは有名な話 3割は -- 名無しさん (2021-05-25 00 54 40) 文禄・慶長の役で明の出した兵が二回総計でようやく30万に届くか届かないか程度で、しかも両方の史書とも「明軍が主力」と書いたので、泗川の戦いは30万VS7千ではなく4.5万VS7千のほうが正しい。それでもぶっ飛んでる戦績だけど。 -- 名無しさん (2022-08-11 12 42 24) ってか30万ってどこから出てきたんだ?(戦意喪失を狙って水増しされている)明側の主張でも20万だってのに。 -- 名無しさん (2022-08-11 17 57 56) 「西に足を向けて葬ったのは西欧列強に対する警戒であり~」 これはこれで後付け感すごくて嘘くさいが。家康時代の欧州っていったら「西」じゃなくて「南蛮」では? -- 名無しさん (2022-08-11 19 24 50) 名前 コメント
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登録日:2009/10/31 Sat 11 22 29 更新日:2024/05/09 Thu 22 56 21NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 (●∀・) 67年トリオ DQN DQN四天王 DQがN龍 ずんだ餅 だってだてだて伊達ちゃんです! ついてない ギルガザムネ グルメ フリーダム ラノベ主人公 リア充 三日月 不運 人物 仙台 伊達家 伊達政宗 伊達男 地味に地獄人生 大河ドラマ主人公項目 宮城県 強運 戦国時代 戦国武将 料理上手 東北の英雄 武将項目 派手好き 燭台切光忠 独眼龍 独眼龍は伊達じゃない!! 美食家 親殺し 詩人 遅れて来た風雲児 鉄道唱歌 隻眼 馬鹿め! 馬上少年過ぐ 世平らかにして白髪多し 残躯天の許すところ 楽しまずんばこれいかん 伊達政宗(だてまさむね)(1567~1636)は戦国時代の武将・大名である。 ●概要 有力な守護大名・伊達氏(役柄は奥州探題、鎌倉時代からの名門であり一応守護大名でもある)の17代として、米沢城で最上義姫と伊達輝宗の間に生まれる。 幼名は梵天丸。 幼少時に天然痘に懸かって死にかけ、結局一命を取り留めたものの右目を失明してしまった。 眼帯をした姿は有名だが、本人もやっぱり気にはしていたようで、彼の肖像などは皆両目が健在な状態で描かれている。 右目を失った醜い容貌から母に疎んじられたが、父には厚く信頼され一流の教育を受け、後に父から家督を譲られる。 このとき、伊達家当主は5代連続で将軍からの偏諱を受けていたが、伊達家中興の祖と称えられる伊達宗家第9代当主政宗にあやかり政宗と名乗った。 しかし直後、二本松畠山義継の謀略により父を自ら見殺しにさせられる。更に四方の諸勢力を敵に回し、苦境に陥りながらも奥羽で版図を拡大する。 1590年。毒殺未遂に遭い、それを企てた母親を追放処分にし、弟の小次郎は斬殺。 しかし、確かに母親の義姫は事件後出奔しているものの、それ以降も母子間で頻繁に手紙のやり取りをしていたり、 後の朝鮮出兵の際には義姫が無事の帰国を望む気持ちを込めた和歌を送り、感激した政宗から母親の下に朝鮮木綿が送られたりと、 暗殺未遂後も、同居こそしていなかったが仲の良い親子関係だったことがうかがえる証拠が残っており、本当に義姫が首謀者だったのか疑わしいとする声もある。 どころか最近では「実は小次郎は生きていて僧となってある寺に隠遁し、政宗や義姫との仲も良好だった」という説すらある。 別に『花の慶次』や『独眼龍改-ネオドラグーン-』の話ではない この説では伊達家の家臣団の結束が諸々の事情で崩壊しかけていたのを政宗と義姫、小次郎等が極秘裏に芝居を打ち、小次郎を無礼討ちする(様に見せかける)事で 主従の上下の徹底と家臣の結束を狙ったものとされる。 小次郎を僧籍にしたのも万が一政宗が不意の事態で早逝した場合還俗して伊達家をすぐに立て直し維持し易くする為との事。 確認出来る範囲の史実でも伊達と芦名・佐竹との全面戦争は政宗が小次郎を芦名家の跡取りにゴリ押しした事が原因なので、少なくともこの時点では「弟を他の大名の名跡を継がせれば頼りになる同盟者になる」と政宗が確信する程度には兄弟仲は良好だった。 さらに同年、小田原征伐に慌ただしく参陣し秀吉の前に膝を屈した。 しかし以後も敵領内での一揆扇動疑惑等ちょくちょく怪しい動きを見せ、秀吉に殺されそうになるのはしばしばだった。 秀吉の死後は家康に接近。 関ヶ原の際は旧領の回復(その手形が通称100万石の御墨付き)を見返りに東軍につき、最上義光らなどと上杉勢と交戦。 その他に味方であるはずの南部領で客分の和賀忠親を暴れさせるなど第三勢力の拡大を目指したが、そのせいで家康からの100万石の御墨付きはパーに。 こうして彼の野望はここに潰えた。 以降は家康の六男・松平忠輝の岳父という立場(*1)もあって幕府における有力大名となり、 後に忠輝は兄・秀忠によって改易される憂き目に遭っているが、政宗は幕府及び秀忠・家光に忠実に仕えたという。 また、海外にも興味を示し、関ヶ原後には家康の許可を得てスペインに遣欧使節を送っている。 そして、1636年5月、参勤交代中に体調を崩した政宗は、21日に江戸で家光から見舞いを受けた3日後、70歳(満68歳)で死去。 遺体は防腐処理を施されて仙台に帰った後、生前の彼の指示通りに今の瑞鳳殿に埋葬された。 その死に際して将軍家から江戸・京都の人々への服喪命令が下っているが、当時、御三家以外の大名の死に対する服喪命令が下るのは異例であった。 「もう10年早く生まれていれば、地方の覇権を争い天下を窺いえた人物」(*2)とされる政宗。 晩年残した漢詩「馬上少年過ぐ」には、そんな彼の無念さが垣間見える。 「独眼竜」の初出は実は死後200年近く経った天保期であり、幕府お抱えの儒学者・頼山陽による漢詩。 その文武に長けた逸材を「三国志の英傑曹操に匹敵する」と高く評価し、 唐王朝末期に最強と称された武将・李克用の別名である独眼竜を彼に冠したのである。 ただし同じ詩において劉備の髀肉之嘆を引き合いに出しているので、この時代にはすでに晩年メタボだった事が知られていたようである ●逸話 小田原征伐に参陣した際、切腹の覚悟を示すために白装束を纏って秀吉の前に現れ、 さらに遅参の詰問に現れた前田利家らに千利休に茶の指導を受けたいと申し出て、その振る舞いで秀吉たちを感嘆させたという。 また、一揆の煽動がバレて呼び付けられた時は白装束に加え金の十字架を背負って行ったとか。はりつけの覚悟(ry 結局転封(事実上の大減封)処分で落ち着いた。 源頼朝の奥州征伐以来の領地である伊達郡・信夫郡や生まれ故郷の置賜地方は没収されたけどね。 一般的なイメージとしては「右目に刀の鍔を撒いた姿」が有名であるが、実はあれは創作で、史書にはそのような事実は無い。 実際は布の眼帯を撒いていた(佐竹氏文書)らしい。 かの有名な巨大な三日月の前立てが付いた兜が有名な鎧「黒漆五枚胴具足」は、現在国宝に認定されている。 そのデザインは海外でも人気で、『スターウォーズ』のダース・ヴェイダーのモデルにもなっており、 日本でもザンボット3やギルガザムネ、仮面ライダー鎧武等がこれを模している。 オシャレ好き・派手好きなことでも知られ「伊達者」の語源にもなった。ただし、政宗本人は派手ながらも実用的な品を好む傾向に有り 現代の「伊達者」の意味の様な「派手だが見掛け倒しの役に立たない物で着飾った者」ではない点には注意。 有能な文化財クラッシャー。掛け軸を破いたり、天目茶碗を叩き割ったり…。 仲が悪かった蒲生氏郷と前述の一揆を鎮圧する際に毒を盛るという噂を自分で流し、警戒している氏郷をお茶に誘ってとんでもなく濃いお茶を飲ませ、 氏郷が慌てて薬を飲むのを見て笑うというDQNお茶目な悪戯をした。 その後氏郷は政宗の真意を疑いつつ、道沿いを放火しながら行軍したとか。当然だね。 世情が落ち着いてからは内政に力を入れ今にも続く穀倉地帯とし、水戸の黄門様の時代には実高62万石に対し内高は百万石にも及ぶ生産体制の基礎を築いている。 また三陸海岸沿いに大々的な港を作り、江戸との交易の基礎を作る。特に石巻の港は江戸や堺にも匹敵する大港として名高かったという。 そういう観点を考慮するならば「合戦に強い兵法者というより内政・経済に強い為政者タイプだった」と言えるだろう。 家康には警戒されていたが、2代秀忠・3代家光にはその忠勤ぶりから篤く信頼され、特に家光には祖父の如く敬愛されて「伊達の親父殿」と呼ばれた他、 将軍の御前での帯刀許可・紫の馬の総の授与など御三家ですら許されなかった破格の厚遇を受けている。 家光の時代には既に戦国時代を生き残った武将のほとんどが鬼籍に入っていたため、貴重な生き証人として家光に秀吉や家康との思い出や合戦の話を請われたという。 また家光が鷹狩りに嵌っていた時には「私は外遊していた家康公の首を狙う算段ばかりしていた」と言って諌められ鷹狩りを控えたという。 アドバイスとは言え、既に徳川家で神格化されていた家康の首を狙っていたと将軍に言う辺りは元DQNならではの度胸かもしれない。 政宗が病の際には江戸城の御典医を宛がい寺社には祈祷をさせ、自らも伊達の上屋敷へと見舞いへ赴いていた。 いずれも幕府としては兎も角、家光本人からは譜代・外様どころか御三家をも超える厚遇を受けている。 2chでは戦国ちょっといい話/悪い話スレの逸話の常連。 DQN四天王の一人であり、どっちかっちゅーとやってる事が厨二病っぽい。 だが良い話スレでも逸話が出たり、まともに良い事してる時もあり、四天王ではわりと良識派である。 墓を暴かれた唯一の武将でもある。 隻眼で若輩ながら才気あふれる人間だったために優男や精悍なイケメンというイメージが定番になっているが、 骨などからの鑑定の結果とっても綺麗好きで、晩年はとってもデブだったようだ。 尤も戦国武将であり、平和な時代では身体を動かす事も減るだろうから引退した親方衆力士やプロレスラーみたいな感じだろうが。 頭蓋骨から顔が復元されたこともあり、隻眼による皮膚炎などを考慮しない場合であるが、現代基準で見てもなかなかのナイスミドルである。 なお、この遺骨は後に『独眼竜政宗』にライブラリ出演している。 まさかの本人登場である。 ちなみに相棒である片倉景綱も晩年は太り過ぎで糖尿病が原因で没している。主従揃って何やってんだか。 渡り鳥を焼いて食べてたり、母から食事に毒を盛られたという逸話もあるため、政宗は食事に関して相当なグルメだったのであろう。 実際に、晩年の趣味は料理だったという。ずんだ餅作って食ってたしね。日本で味噌の大規模な量産体制を初めて拵えたのもこの人。 「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなすことである」という、現代にも通ずる料理観も持っており、 遊びに来た秀忠に手料理を出した際、毒味をしようとするお付きに「(自分にとって秀忠が)大切な客人だからこそ自ら料理したのだ」と激怒して秀忠を感激させたという逸話も。 酒も大好きだったようで、わざわざ仙台城に醸造所を作らせたり、よその有名な杜氏を招こうと手紙を何通も書いている(そしてその手紙が現存している)。 ただ、ホントかどうかは分からないのだが、酒の飲みすぎで失敗したという逸話が意外と多い。 あまり知られてはいない話だが、真田幸村のページを見ていただくとわかるが白石城当主・片倉小十郎重永(景綱の息子)が真田幸村の家族を受け取った時、 政宗へ報告に行った際に政宗は徳川には報告せず(捕虜や身内を他国で受け取った場合は報告するのが普通だった)静かな村へ隠すことを許可した。 この時小十郎に「徳川への報告はよいのですか?」と聞かれたのに対して政宗は 政宗(現代風訳)「いいべ。どうせこんな田舎じゃバレねぇんだから。徳川嫌いだし。手紙書いても俺、字が下手くそだから読めねえってバカにされるし。 幸村もすぐ帰ってきて迎えにくるっしょー笑。それよりまだ福島から魚こないわけ?」 といい、徳川へは報告しなかった。 ●彼を扱った作品 小説 「馬上少年過ぐ」 「境界線上のホライゾン」:伊達・政宗(境界線上のホライゾン) 「織田信奈の野望」:外伝として「邪気眼龍政宗」では彼女が主役となっている。 漫画 「へうげもの」 「殿といっしょ」一応主人公だよ!一応ね。 「政宗くんと景綱くん」 「独眼竜改-ネオドラグーン-」 「烈!!!伊達先パイ」 ゲーム 「独眼竜政宗」(ナムコ) 「戦国無双」:伊達政宗(戦国無双) 「戦国BASARA」:伊達政宗(戦国BASARA) 「装甲悪鬼村正」:伊達政宗(装甲悪鬼村正) 「戦国乙女」:伊達マサムネ(戦国乙女) 「戦国大戦」 「信長の野望」 「太閤立志伝」 「決戦」 「戦極」 「モンスターストライク」 ドラマ 「独眼竜政宗」 歌 「鉄道唱歌第3集 奥州・磐城篇」:27番の後半が「伊達政宗の築きたる 城に師団は置かれたり」 曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く (*3) 追記、修正お願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 某ソシャゲアニメで一人だけ えらいアダルトな美貌武将だったなぁ -- 松永さん (2013-07-25 00 18 19) 最上との関係や、義姫自身の性格があったから、母とは険悪なイメージだけど、遺された手紙から母と子の関係自体は良好だったようだ。 -- 名無しさん (2013-12-31 03 40 40) ↑義姫とは晩年に話しをするようになり仲直りとまではいかなくても中々いい親子関係になったそうだよ 義姫は年取ってから穏やかになったとか 政宗公は当時の平均身長よりもでかいので巨漢って記されてるものもある -- 名無しさん (2013-12-31 04 30 40) 若いうちは謀略に掛かったり失敗したりのイメージがあるけど、江戸時代に入ってからの為政者としての手腕(仙台を江戸の米所にまで成長させる、徳川との関係の円滑化など)は見事の一言だと思う。 -- 名無しさん (2013-12-31 11 35 37) ハッタリかましすぎて 秀吉には全く通用しなかったりしたが ミスも補完してるってのは好感 てゆーか独眼竜は幕末の子孫たちを殴って良い -- 名無しさん (2014-01-10 16 07 59) 筆マメだったらしいね。用も無いのに家臣に「連日雨だから暇してるんじゃない?」と言う文面の手紙を送ったりしてたとか何とか。 -- 名無しさん (2014-01-10 17 23 59) なるほど いい項目だ -- 名無しさん (2014-02-20 17 07 23) 失明って単純に書かれてるけど、小学校にあった伝記?には腐った目玉が垂れ下がっていたそうな。戦でそれを掴まれて引っ張られないように、家臣の子供だかに(普通の刀で)抉り取らせたとかなんとか。 -- 名無しさん (2014-02-22 00 31 23) ↑ 抉ったのは小十郎(片倉景綱)じゃなかったっけ? -- 名無しさん (2014-02-22 01 03 56) ↑5、↑6、徳川家との関係は円滑になったし、領内の48館制度も徳川家に倣ったもの。幕末の末裔たちはよくやった方だね。先祖がスペインとの関係をチラつかせながら家康に圧力を掛けたのに対し、幕末の末裔たちもアメリカとの関係をチラつかせて、戦争したし。 -- 名無しさん (2014-03-23 12 56 03) 太ったのは多分、戦争がなくなって趣味に興じれるようになった晩年以降だろうね -- 名無しさん (2014-07-25 14 34 03) 戦国武将の中で、一番尊敬して、好きな武将だなぁ。 山岡荘八氏の歴史小説の影響だけど -- 名無しさん (2014-07-25 18 19 27) すまけいさんが葵徳川三代で演じた政宗は野心家で皮肉屋で胡散臭くて好きな政宗像だ -- (2014-08-09 16 32 41) なんだかんだで人気高いんだなぁ -- 名無しさん (2014-08-12 16 41 09) 子孫が芸人 -- 名無しさん (2014-08-12 18 36 20) 正宗豪快なイメージがあるけど、かなりバランスが取れた人物でもあるんだよな。倹約家で何事もいきすぎるのを戒めてたし。 -- 名無しさん (2014-08-18 16 01 42) あと10年早く産まれたら奥州統一してた、って話があるけど蘆名とかその他諸々が力持っていた時期だし多分無理だよね。あの時代に産まれたからこそ輝けたんじゃないかなって思う。 -- 名無しさん (2014-10-23 13 08 13) デブはもしかしたら徳川を憚って阿呆を装った別の大名と同じような理由からかもしれぬ -- 名無しさん (2016-01-22 14 35 24) 優柔不断な一面もあるし、天下統一を成し遂げられる器じゃなかったと思う。むしろ、大物に取り入ったり晩年は趣味に生きたり、身の丈に合った生き方をしたとも言える。 -- 名無しさん (2016-06-20 13 46 05) 奥さん(正室)の愛姫が、12歳だかで嫁いできたことが書いてないのう。 -- 名無しさん (2016-07-29 15 29 12) 当時はそれぐらい割とよくあるぞ、駒として使えりゃ縁故要員になるんだし一桁で婚約した例も東西問わずある -- 名無しさん (2016-08-24 14 10 37) ↑ 子孫が芸人って誰よ、ちょっと詳しくお願い。 -- 名無しさん (2016-08-24 14 15 18) 子孫の芸人ってサンドウィッチマンの伊達みきおのことやね ご先祖が政宗の弟なんだとか -- 名無しさん (2016-09-19 19 49 49) .............それ、政宗の子孫じゃなくね... -- 名無しさん (2016-09-19 20 09 21) 伊達みきおは南北朝時代に伊達家から分かれた大條家の子孫だな。幕末に大條家が伊達の苗字をもらってるからややこしいけど。大條家は伊達本家から嫁をもらったりしてるから伊達政宗の子孫というのも間違いではない。 -- 名無しさん (2016-09-19 20 19 14) なるほど。だが、なぜそこまで詳しいのだ。 -- 名無しさん (2016-09-19 20 38 37) ↑割と色んなバラエティ番組で言われてるぜw -- 名無しさん (2016-09-20 03 27 00) 伊達政宗がデブなのはデマだろ 実際には体格は普通だが割と鍛えてあったはず -- 名無しさん (2017-01-14 21 02 03) さすがに鎧からはデブというサイズではないし 少なくとも骨太でそう見えただけというか晩年太っただけだろうし -- 名無しさん (2017-10-16 12 06 06) やはり、大河を見た世代としては、政宗=ケン・ワタナベのイメージがあるなぁ。 -- 名無しさん (2017-10-16 12 16 32) ドラマ「柳生三代の剣」「天下騒乱」ではろくでもないクソジジィみたいな扱いだ・・・。 -- 名無しさん (2018-07-03 10 01 45) 「あと十年早ければ」って言われてるけど、どうだろ。だって、信長の野望やってればわかるけど、最上のすぐ隣にあの長尾上杉がいるんだぜ? -- 名無しさん (2018-07-03 14 31 59) 作品一覧にNHK大河ドラマの「独眼竜正宗」を入れよう(提案)。あれが伊達政宗の知名度を一気に押し上げたのだから。 -- 名無しさん (2018-10-25 10 36 57) 祐筆に代筆させることの多い大名の中では直筆の手紙が多い人。小十郎への私的な手紙は宛名が「かた小へ」と書いてありちょっとかわいい -- 名無しさん (2018-10-25 11 04 15) モンストではハズレキャラ(しかも上方修正すらされてない)なのだが、後にリファインされてパワーアップ しかもボス敵として登場した際には頭おかしいレベルの強敵という… -- 名無しさん (2020-05-31 17 06 31) 例を見ない「大河ドラマに本人出演(発掘された頭蓋骨登場)」という離れ業をやってのけた人物でもある。 -- 名無しさん (2020-07-02 01 39 15) 宮城県出身の山寺宏一氏に政宗公を演じて欲しい -- 名無しさん (2020-08-27 13 52 04) 伊達政宗の死因は癌だったそうだ。 -- 名無しさん (2022-02-24 14 21 44) この時代のこの身分ならば料理にこだわりがある人ならば糖尿病になってもおかしくはない -- 名無しさん (2022-08-02 13 22 13) 名前 コメント