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目次 1.やる気の人生 2.意識変革の時代 3.宗教心の復興 4.日本の遺産 5.ユートピアヘの運動 (1989年1月4日の霊示) 1.やる気の人生 高橋信次です。新年あけましておめでとうございます。 えー、ミカエルの三部作が入っちゃったりして私の本がすこし間があいたもんだから、私がもう病気で寝込んでいるんじゃないかと思って、みなさん心配しているんじゃないでしょうか。そんなことはないんで、元気いっぱいだということを証明したくて新春早々また出てまいりました。 ほんとうは私の出番じゃなかったんですけどね。『ニュートンの霊示集』なんか録っていたんだけど、割り込んじゃったんですよ。そして、また読者はね、私の本を待っているだろう、こう思っているんです。 先般、『愛の讃歌』を出しましたけど、これはたいへん好評でしてね、続々需要が出てきてまして、「新しい局面を見た。高橋信次の素顔を見た。」あるいは「高橋信次の裏側を見た。」いろいろな意見があって、そして「もっともっと読みたい。」という声がずいぶん来たんですよ。 そこでまあ、ぼくもいろいろ考えて、何を次に世に問おうかなと思って九次元の法なんてのも考えたけど、まだまだ出すの早いなあと思うし、去年の末(まつ)だったかねえ、〇〇先生の『現代成功哲学』なんていう本が出ましたんで、なかなかカッコいいなと思いましてね。私流の成功哲学というか、まあ哲学というほどじゃあないねえ、成功への心構えというかね、そういうふうなものを書いてみようかなあと思っているんですね。 特に今年は、こういう成功論がもっともっと必要なんじゃないかな。特にね、本書を読むような読者というのは、あの世のことには興味が多いでしょうけど、あの世のことに興味の多い人っていうのは、ほんと幸福になれない症候群で、この世が不幸なもんだからどっか逃げたくてしようがないんですよね。で、そういう人が多いと思うが、逆にこの世でね、けっこう成功することによって幸福になってね、そしてなんとなく明るくなったりして、そして地獄へ行かなくなったりして、地獄も人ロ滅っちゃったりして、天国の人口増えちゃったりして、世の中が明るくなることもあるんですよ。だからこの世で、ほんとうの意味での幸福な人がいっぱい増えることっていうのは、いいことなんですよね。まあ、これはわかってくれるでしょうか。 じゃあ、この世で幸福な人、やる気のある人をね、人生が楽しい人、これを続々つくるにはいったいどうすりゃあいいか。まあ、これが考えられなきゃいけないわけですね。本章はやる気こそがすべてだ、というふうに考えてみましたけど、そうだと思いますよ。 特に今、一九八九年の初頭にあたって、これを収録しているわけです。去年の今ごろは、ぼくは『高橋信次のUFOと宇宙』を収録していたんですけど、ずいぶん私の法も進んできたなあと思います。もうマクロからミクロまで行ったり来たりしながらやっていますが、今、私の心がけていることは何かっていうと、法の具体化ですね。 法の具体化、あるいは役に立つ法、これをみなさんに教えたいんだよね。実践っていうか、日常生活に使える法が欲しいなあと思ってね、空理空論だけではやっぱり十分じゃないんで、現実にみなさんの実践に使えて、そしてハンドブックになるような、そういう本をつくりたいと念願しています。 ですから、これは人生のハンドブック・シリーズなんですね。ハンドブックというかハンバーガーみたいなもんですよ。ぼくのなんかほんと、マクドナルドのハンバーガーですから、パクパク食べてくれたらいいんですよ、この本をね。パクパク食べるようなつもりで読んでくれたらいいと思うし、電車のなかででもどこでも読めるように、そういうふうに手軽に書いているし、気取らず気さくにやっていますから、どのページからでも、どの章からでも読んでいただいてけっこうだと思います。 ぼくはねえ今、まあ君たちはもう知っているだろうが、いちおう九次元というところに還っているんですけども、死後十何年たったかね、十三年かねえ。もう十三年たったけど、霊人たち見ています。いろいろ見てて、指導営団もいっぱい見ているんだけど、ウーン、まあぼくほどやる気のある人はいねえんじゃあないかなあ。まあそう思うね。あんまりやる気ないんですよ、みなさんね。やっぱり神様然としているところあってね、そんなに小回りもきかないし、何ていうかね、これでもかこれでもかというふうにがんばるところまではいかないように思うんですね。 ぼくはね、けっこうタフなんですよ。いろいろなことあるけど、地上の人にも受け入れられることもあれば、批判されることもあるし、蹴られることもあれば、喜ばれることもあるし、いろんなことあって、霊としては若干ね、いろいろ気疲れなことも多いんだけど。 でも、やっぱりねえ、人生のねえ、道を切り拓いていくっていうのは、ぼくは「やる気」だと思うよ。そしてそのやる気はいったいどこから出てくるか。これをみんな考えたことあるかい? やる気がいったいどこから出てくるか。これは決してね、お天気がいいときにやる気出てくるとか、こんなもんであっちゃいけないんだよ。それは雨の日や、雪の日、曇りの日よりは、お天気のいい日は気分はいいし、やる気は出るかもしれない。仕事だってそうだし、散歩だってそうだし、ゴルフだってそうかもしれない。 まあ、そういう気持ちはあるだろうけど、ただね、そうした外部環境っていうかね、そういうふうに与えられた条件がよければやる気が出るっていうようなの待っていたら、人間いつまでたったってやる気が出ないんですよ。そうじゃないでしょうか。 たとえば、晩ごはんがおいしかったら、やる気が出る、って言ったら何か誤解されるけど、ウーン………仕事ですね、仕事のやる気が出るとか、朝ごはんがおいしかったらやる気が出るとか、朝、電車で座れたら仕事のやる気が出るとかね、そういう人はいろいろいるでしょうが、ただそれであってはひじょうに何ていうかね、運命と申しますか、環境と申しますか、そうした人まかせの人生である、と言えると思うんだね。 ぼくはね、そういう人まかせの人生というのはほんとうの勝利者になるためには、ふさわしくないと思うんだ。だから、新春にあたって、みんなに言っておきたいこと、ひと言、言っておきたいことはね、人まかせの人生、運まかせの人生、お天気まかせの人生、こういうものから今年は決別しようよ。こういうものを今年は考えないでね、どんな状況下であっても自分の人生を切り拓けるような、そういう生き方をしてみようよ。 ぼくはこれを全天候型っていうんだよね、全天候型。高橋信次そのものが全天候型だと思うんだよね。生前であっても、私は自分のコンディションというのを言いわけにしたことはあまりなかったと思う、ほとんどね。どんなコンディションであっても、どんな状況であっても、いつもエネルギッシュによく働いていたように思う。 まあ、〇〇さんなんかも見ていても、去年なんかもう三十冊近い本を出しましたけど、それでも私の目から見たら多少波があるんですね。意欲的にやっているときと、やる気がなくなって、もう、まあいいや高橋信次でも出そうかなんて言っているときと、けっこう波があるんですよ。そして調子のいいときは理論書の難しいのつくっていますが、調子が悪くなってくると、高橋信次モノとかこんなんでしばらく繋(つな)いでいたりしているんですよ。まあ、そういうふうに波があるもんなんですよね。 だからぼくは、よく彼に「そんなんじゃいけないよ。もう、いつもいつもやはり一定の調子でやらなきゃ。」なんて説教をよくしているんですけど、ぼくなんかはね、〇〇さんが健康であろうが、何であろうが、調子がよかろうが悪かろうが、いつでもこういう本を出す用意があるんですね。でも、神様によっては、やっぱり地上の人の調子が悪かったり、機嫌が悪かったりすると出たくない人のほうが多いですね。これは主流です。やっぱり神社へ行けば、ああいうふうにしめ縄を括(くく)ってね、なんだあれは、みかんか、だいだいか、だいだい祭っちゃって、えー、何だか知らんけど横綱のなんだ、あの金隠しみたいなのがチラチラチラチラ白くぶらさがっているじゃないか。ああいうふうな感じで、なんていうかね、聖域をつくらないとできない神様もけっこう多いと思うし、ウーン、それは言ってみれば主流だとぼくは思います。 高級霊というのはひじょうに高い意識を持っているんでね。この高い意識というのは地上の意識とひじょうにギャップがあるんですよ。このギャップがあるということを翻訳しなおすとどうなるかというと、そういう、なんていうか、神社とか、あるいは特別な祭壇だとか、こういう特殊な風景、あるいは様式というのをつくらないとその高級な感じが翻訳できないんですね。そして、自分がやっている感じがしないわけなんですよ。 2.意識変革の時代 たとえば、私が車の運転がうまいとしよう。でA級のレーサーだとしようね。レーシングカーに乗れるようなドライバーだとしよう。その私がたとえば、あなたトヨタじゃねえや、クボタか、クボタのトラクターか何かで、あなた運転しているの考えてごらんなさいよ。私が、いくらふかしたって力出ない。こういう感じになるでしょう。どうでしょうかね。 私は本物の飛行機乗りだったけども、これがプラモデルか何かで遊んでいたら、こんなの面白くないよね。リモコンのグライダーか何かで遊んでいたってこんなの面白くない。まあこうしたもんで高級霊っていうんであっても、やはり自分の世界をなるべく表現したいんですね。自分の感覚を出したい。こういう気持ちがあります。 ただねえ、今はぼくは、その高級霊たちも意識の変革の時期が来ているんじゃあないかなあと思う。自分たちの立場ばかり考えていたんじゃいけないんであって、地上の人たちの立場に身を置いてね、もっともっと考えてやらなきゃいかんと思う。そんな意味でまず考えねばならんことは、高級霊たちが、自分たちがほんとうに高級霊であるという立場を理解してほしいというような願いだね。これは一種の執着だよ、これをまあ捨てることだと思うんだ。だから偉いかどうかなんてことを気にしないで、ほんとうに地上の人に役に立つ言葉を送ってやることだと思うんだよね。 ぼくだって格調高い話をしようと思ったらいくらでもできます。できますと言いながらしないだけですが、一度もしていないかもしれませんけども、ぼくの考え方は違ったところにあります。これだけの速度で本を次つぎ出しているわけですから、どれもこれもが剛速球ばかりだったらまいってしまいます。やはり、スローカーブもあったりね、山なりの球があったり、ど真ん中があったりしてね、バッターもたまにヒットが出るもんだから、うれしいんですよ。高橋信次のシリーズだけはよくわかったとかね。これでぼくはいいと思うし、ウーン、ぼくが考えている対象は、やっぱり上は八十歳、九十歳から下はだいたい小学校の四、五年ぐらいまで対象としては考えています。十歳から九十歳まで、八十歳ぐらいの間の読者を魅きつけたいというふうに思っています。 今、たとえば本屋なんかに行くとマンガブームだよね。マンガっていったっていわゆるギャグマンガじゃなくて、難しいものがマンガになっているね。経済だとかあるいは科学だとか、まあそんな従来、堅い本で、一般の人が手が届かなかったような内容が、マンガにされて出されています。 また、宗教書もそうですね。最近は、釈迦物語とかいっぱいマンガになっていますね。そしてけっこう売れているように聞いています。そのうち高橋信次物語なんてマンガになるんじゃないかと思って希望しているんですが、読者のなかにマンガ家いたらどうですか、名乗りをあげてはいかがですか。高橋信次のドラマ、マンガになりますよ。生前そして復活、これはもうイエス様を超えるギャダマンガになりますよ。ほんとうに面白いと思います。だれかマンガにでもしてくれたら、もっとこれがわかりやすくなるなあと思うんですが。 そのように今は、英語で言うならマーケットトレンドですね。市場の動向はどこにあるかというと、「高級な内容をね、手近にわかりやすく、お茶の間に」と、これが一つの流れなんですよ。あるいは「高級な内容をね、混んでいる満員の電車のなかでも読めるように」これが一つのトレンドであると私は見抜いているんです。 だから、これはね、神理というものをね、もっともっと身近に、みなさんの手のなかに、お茶の間に、喫茶店に、食堂に、家庭の会話に持ち出す必要があるんです。こうしなければ、ほんとうの意味で何といいますかね、世の中を変えることはできないと思うんです。 ところが神理というのが、今までね、特殊な特権階級のものにされすぎていた。ぼくはそう思いますよ。 まあ、『般若心経』なんていうの人気あるけど、あんなもんでねえ、ほんとうに神理がわかっているかどうかね、みんなどう思う? 『般若心経』を読んで悟れるかい。たとえば『法華経』を読んで悟れるかい、どうだい。あんな物を読んでわかるためには特殊な訓練が要るんだよね。それは、お寺へ入って勉強したり、あるいはお寺りの坊さんが書いた解説を読んだりね。まあ、こういうことがあるわけです。 もちろんお経そのものに、ぼくは無駄があるとは言わないよ。お経はお経で永年親しんできたものだし、内容はいいことを書いていると思いますよ。だから、生前ちょっとお経の攻撃をしすぎたかもしれないけど、ぼくはその内容自体を否定しているわけじゃありません。ただね、もっと親しみのあるもんでなきゃあいけない。 というのは、ほんとうに神様が今願っておられることは何かっていうと、本来の世界をすべての人に知ってほしいってことだよね。そのためには、神理というものはやさしくなければいけない。わかりやすくなければいけないんです。読めなきゃいけないんです。決して大学を出たり、あるいは専門の勉強をした人でなきゃわからないようなもの、これだけが神理じゃあない。 仏陀の教えなんていうのは、今から二千五百有余年前にね、無学文盲のインドの衆生に説かれたんです。そして、彼らは理解ができたんです。そんな大学の宗教学科卒業しなきゃわからんような、そんな内容を言ったわけではないんです。そしてたとえ話をたいへん多く使いながら話をしたわけですね。 今、神理というのをたとえ話を用いて使うということはどういうことかと言うと、まあ、わかりやすく面白く話をするということになるわけですね。だからぼくはね、こういう姿勢というのを、みんなにわかってほしいなあと思います。 3.宗教心の復興 そしてね、いちばんぼくがみんなに知ってほしいことはね、一番目、これは私は十数冊目の本になりますが、霊がほんとうにあるということ、もうこれ認めてよ、とお願いする。これだけうるさく言っているんだから、「もうわかったよ。もう認めるよ、もうギブアップだ。」と言ってほしいんです。ぼくは最初の本のときに、最初のころにね、五冊、十冊、二十冊出すって言ったけど、いつのまにかもう二十冊というのがチラチラ見えてきたじゃないかねえ、もう十冊なんか超えちゃいました。二十冊見えてきてね、それだけ勤勉に働いているんです。 だから、、まずね、「もう霊があるのはわかった。もうわかったわかった。もうわかった。面白いのも、何を言おうが、もうだれが何を言おうがもうわかった。マスコミが批判しようがわかった。もう霊はあるんだ。あるんだよ、もう耳にタコができたからわかった。」と、まず、これを認めてほしいんですよ。今年もいろいろとやっていくつもりだけど、基本的にこれをまず知ってほしいんだよね。日本国中で常識にしてほしいんだよ。 今の日本人、はずかしいですよ。たとえばインドなんかへ行きゃあねえ、日本から見りゃあインドは文化的に劣等国だと思っているかもしれない。文化的にとは言えないかもしれないが、工業的に、あるいは産業的に、商業的に劣位にあると思っているだろうが、インドの人なんて神様をみんな信じてますよ。霊魂なんか知らない人、一人もいませんよ。進んでいますよ、魂においてね。 今の日本人はどうだあ、正月三が日だけ何百万人も初詣でするけど、あとはどうなっているんだということだね。ひじょうに情けない、これはねえ、何が原因かというと、国が今骨抜きにされているんですよ、骨抜きに。みなさん、ほんとうに目覚めなきゃだめですよ。 えー、今から四十数年前に太平洋戦争が終わりました。日本ではそれを終戦と言っています。しかし、実際は敗戦でした。敗戦によってどうなったかっていうことですが、いくつかの変遷がありました。 一つは主権在民ということになって、天皇は象徴になりましたね。明治憲法では天皇は、権力者あるいは主権天皇でしたね。ところが象徴になっちゃいました。これも大きな変化でしたね。それから政教分離ということが行なわれました。政治と宗教を分離するということですね。宗教は政治に口を出しちゃあいけない。また、政治は宗教に手を出しちゃあいけない。この両方ですね。これをつくり出しました。 それから次にやったことというのはいったい何かというと、まあ軍隊ですね。軍備の放棄と、まあこういうことでしたね。こういうふうにやって、こういう憲法をマッカーサー下でつくったわけですね。これはいったい何を意味しているかを四十年たって、もうふり返って考えねばいけない。そう、ぼくは思います。 マッカーサーはじめアメリカの進駐軍だね、進駐軍たちの幹部は考えたんです。この太平洋戦争下の日本の怖さはいったいどこにあったのか。日本というのは恐ろしく怖かったんですね。資源もないし、弱小国のはずなのにやたら怖かったんです。あの神風特攻隊、怖かったんです。なぜこういうふうになったか、彼らは議論したんです。そうした結果、まず、あの宗教がいちばん怖いっていうわけですね。日本の宗教が怖い。宗教のなかで特に怖いのがあの天皇制だ。日本神道糸の宗教は、あれは恐ろしい。国民が一丸になってしまうので、まずこれをやっつけてしまわなければ、日本を弱小国にできない。ということで、天皇制の分断を図ったわけですね。 で、天皇陛下を死刑にしちゃうと国中から内乱が起きて、革命が起きるからね、そして進駐軍のところをゲリラに襲われるんで、命を奪うことはやめた。けど実質上の権力をなくした。まず、こうしたね。それと、政治が宗教に介入して国民をあおりたてる、これをナチズムと同じように考えたわけだ、彼らはね。これも怖いんで、これも政治とも切り離させた。これもあります。それから軍隊を持たれると、また戦いを起こすといけないんで、軍隊を持たせない。こういうふうに考えたわけですね。 この結果どういうふうになったかということなんですが、結果はひょうたんから駒で日本はひじょうに繁栄いたしました。この結果がよかったので、国民はそうした占領軍下の憲法で行なったことに、それほど悪い感情を持っていないんですね。最近よく知られてきたように、軍隊を持っちゃいけない、戦争をしちゃあいけないという条項があるために、軍事費が増大しなかったんで、経済的繁栄があったこと。それに比してアメリカやソ連は巨大な軍事力を抱えたために、ひじょうに国家財政が逼迫(ひっぱく)していて苦しいんですね。これは事実として多くの人たちに、現在知られるようになってきました。日本の繁栄の一つは軍事力に力を注がなかったことですね。これがあります。 またもう一つ、ただそれはプラスの面かもしれませんが、マイナスの面も出てきましたね。宗教に対する考え方ですね。これがひじょうに極端から極端にきました。今までいちばんすばらしいことであったのが、今度はもういちばんいけないこと、諸悪の根源のようになりましたね。 ちょっと前にも中曽根前首相の靖国神社参拝問題っていうのがありましたね。首相が靖国神社に行くこと自体は、特定の宗教を支持することになるし、国民感情としては許されないという、野党の批判がありましたね。そういう感情もありました。これなども霊的な目で見たらどうかということですが、やはり言っていること自体は私はおかしいと思っています。まず、宗教の考え方が根底から違いますね。 ぼくたちが言っている宗教っていうのは、各国にあるいろいろな民族宗教というのは、時代と環境を変えてね、神理がいろんな形で顕現したにすぎない。現われてきたにすぎない、まあこういう考え方でしたね。だから日本神道といい、仏教といい、キリスト教といい、これはまったく別なものではないのだと、違った形で現われているけれども、根本においては一つにつながるものなんだという考えが基本なんですね。だから、特定の方式でやれば、ほかの宗教の迫害になるという考え方はね、これは違っているわけですよ。これは一つの間違いです。 それと、何ていうかね、「アツモノに懲(こ)りてナマスを吹く」っていうことわざがあるけれども、とにかく、天皇主義でやって戦争であれだけ被害が出たから、とにかくもう宗教の宗の字もいやだというようなことで、宗教行為をしちゃあいけない、もう政府の首脳は信仰を持っちゃあいけない、宗数的行為は何もしちゃあいけない。こんなんであっても、やっぱりぼくはおかしいと思うよ。これ、何かひじょうに変形した怨念だよ。そう思いますね。 むしろ、ぼくたちが今めざしていることはね、国の中枢(ちゅうすう)にいる人たち、政治家たち、もっともっと宗教心のある人であってほしい。国の中軸にね、精神的なものを持ってこなきゃあ、やっぱりだめですよ。そんな票集めや、金集めだけで政治をやることに対する批判が集まっているんでしょう。何がいけないんだっていうと、根本の精神が問題なわけだ。だから戦前、天皇制信仰で問題があったとすれば、それを変革していけばいいじゃあないか、修正していけばいいじゃあないか。もっと大きな意味で、宗教なんか超えるような大きな宗教を持ってもいいじゃあないか。 だから、今の憲法下は逆に政治家たちの宗教行為をひじょうに狭めています。国のリーダーになるような人っちゅうのは信仰心、けっこうあるんですよ。彼らも持ってるんだ。持っているんだけど、ウーン出せないでいるんだね。ひじょうに残念なことだと思います。ぼくは、総理大臣とかそういう人にどんどんこういう神理の本を読んでほしいし、読んでそれを国政に取り入れてほしいしね、演説とかそういうもののなかにも引用してほしいと思うんだよ。そうすればいちばん速く国が変わっていくからね、そう思う。 4.日本の遺産 だからこのへんにね、国の屋台骨としての精神論が今、必要だと思います。この精神論がなければね、日本の国は今、経済的にだけ繁栄してるけど、クラゲみたいなもんなんだよ。水ぶくれだ。水に入って広がっているけれども、ほんとうの意味で偉大となって、成長していくことはできませんよ。骨組みがだいじです、国としてのね。 アメリカという国は急成長、急発展しましたが、一つの国としてのスピリットがあったと思う。それは何かというとフロンティアスピリット、開拓者精神ということだと思うんだね。それから、アメリカンドリームっていうのがあって、何か夢を実現するんだね。マンハッタン島なんていうのもそうですね。夢を実現するための街ですね。こういうアメリカンドリーム、あるいはフロンティアスピリットっていうのがあるね。 だから日本人が昔から勤勉に働いてね、そしてお国のために、人のために役に立とうという精神は、これはある意味では日本流のフロンティアスピリットだし、日本流の何ていうかね、ジャパ二ーズドリームだったんだよね。ところがこれを否定された。 今、アメリカ人つかまえてね、「お前たちの考え方間違っている。」と言ってごらん、「フロンティアスピリットは間違いだ。それでインディアンを迫害して、インディアンがアメリカからいなくなったじゃないか。お前たちは他所(よそ)から来たくせに、インディアン狩りをして、インディアンを追いやって、そして西部劇をやってインディアンたちはとうとう絶滅の危機にさらされたじゃないか。それを深く反省せよ。だからフロンティアスピリットなんか、開拓者精神なんか捨てちゃえ。マンハッタン島なんて、あんなの二束三文みたいな金で買った島じゃねえかってね。そんな全部原住民から取り上げた島じゃあないか。そこで繁栄しようなんてとんでもねえやつだ。」なんてね、言い方はいくらでもあるんですよ。だから、アメリカ人もそんなことを言われちゃあ黙っちゃいられないでしょう。そうしたら「何言っているんだ、この精神こそ私たちの伝統的な精神なんだ。これを捨てたらやっていけない。」こう言うでしょうね。 だから日本人も、日本人としてね、別に天皇制だけにこだわる必要はないけれども、これがおれたち日本人の生き方だっていうのは、はっきり出す必要があるんですよ。ぼくはそうだと思う。これ出さにゃあいかんし、これからの日本人が、世界の中心になり注目を集めている今、日本人としての生き方、日本人の精神というのを明らかに訴える必要がある。 今、精神的なことはね、なんか罪悪のように思いすぎているんじゃないか。ぼくはそう思うね。それで、精神的なことを言わずに経済に逃げているだろう。どうだあ、売上だとか、数字だとか、信仰に何も関係ない、精神に何も関係ないところね。利益の数字だとか、貿易黒字だとか、こんなところに逃げ込んで満足させているんだね、優越感を。 しかし、そうした経済の数字の上での優越感を満足させる時期はもう終わった。ぼくはそう思います。そんなんじゃだめだ。これからはね、精神的優越、精神主義ですよ。日本人の考え方というのを世界に教えていく必要がある。先進国として発展途上国たちを教えていく時期がきていると思う。この先輩を見習っているんだ。東南アジアの国でも、ルック・イーストといって、日本に見習えといってやっているでしょう。それは、経済的なことだけを見習わしちゃあいけないよ。そうじゃあなくて、日本人のもっと立派な精神態度、考え方、これを学ばさなきゃいけない。 だから、今はクラゲのように肥大化しているけども、もう骨をつくりなさい、骨をね。骨をつくらなければいけない。日本人ていうのはいったいどういう骨を持って生きている動物か、生き物か、これをはっきりさせなきゃいけないとぼくは思います。それがなきゃあいけない。 そのために、第一に言ったように霊的世界だね、霊があるというのをはっきり知ってもらうことがまず第一だし、第二番目はね、人間というのは、永遠の転生輪廻をしながら各国を移り歩いている存在なんだよ。そしていろいろなところで国造りをし、文化の高みをつくっているんだよ。そういう歴史の流れのなかから見たら、今の日本というのはひじょうに繁栄してきているんですよ。 近代でいえばね、二十世紀前半から発展したアメリカ、それからその前へいくと十九世紀の後半から二十世紀のはじめのイギリスの繁栄がありましたね。そのイギリスの前はどこでしたか。イギリスの前はドイツですね。ドイツの十七、八世紀、それからフランスですね。ドイツ、フランスというのは十六、七、八世紀、ひじょうに繁栄しましたね。それからイギリスに来ました。その前はどこでしたか。ドイツ、フランスの前、栄えていたのはどこでしたか。それはイタリアでしょう、ちがいますか。ルネッサンスのとき十三、十四、十五世紀、このころにイタリアが栄えましたね。光の天使がいっぱい出ました。そうでしょう。そして、その前はどこですか、十三世紀ごろからのイタリアの前に繁栄していたのは、いったいどこでしょうか。これを考えてみると、たとえば東洋だと中国ですね。中国では唐の都というのがあって、世界の最大の繁栄を誇っていましたね、ちがいますか。七、八、九、十世紀、このころでしょう。唐というところは世界一でした。そして西洋圏ではどこかというとイスラム圏でしたね。イスラム圈、マホメットのころです。七世紀、八世紀、このころがひじょうに文化的に高かったんではないでしょうか。 まあ、そういうように文化というのはどんどん移ってきているんです。その前はどこかというと、ギリシャなんかもそうですね。あるいはエジプトですね。エジプト、紀元前前後は、エジプトやあるいはイスラエル、このへんがひじょうに繁栄していましたね。その前がギリシャですね。こうぃうふうに文化というのは北上したり、東進したり、西進したりしながらいろいろ移ってきて、それぞれの国の高みがありました。そうではないですか。 ですから、ギリシャからローマそれからイスラム、イスラエルですね。こういうところから流行ってきてフランス、ドイツ、イギリスと北上してきて、それからそれがアメリカヘと来ましたね。そして、アメリカをまわって日本にやって来た。もう一つの流れはどこかっていうと、インドに発祥して、それから中国、中国から韓国、朝鮮ですね、それから日本へ来た。この東洋の文明、西と東の両方から回ってきたのが、今二十世紀に日本という国に集中してきているんですね。これは大きな神理国家がここでできるということなんです。 だから、今の時代に日本に生まれたということは、たいへんな使命を持っているんであって、同時代人のリーダーであると同時に、後世の人びとに対する模範なんですね。後世の人びとに日本という国の繁栄を見せなければいけない。のちのちの人たちが模範として見るなら、今のような経済的な数字だけでね、車を何台売り込んで、どれだけ儲けたかというような数字、こんなのだけでほんとうにみなさん満足ですか。のこしたいですか、車なんてやがてすたれていきますよ。やがて、空を飛ぶ乗り物ばっかりになりますよ。もう地面なんか、あんなの這(は)っているような乗り物なんか、なくなりますよ。もうすぐですよ、こんなの。みんな空飛びますよ、空を飛ぶし、その自家用機はね、もっと安定的で事故なんかぜったい起きないやつです。 今、リニヤモーターカーといって宙に何十センチか浮いて走る電車の開発が考えられていますが、ああいうような形でね、空飛ぶ円盤じゃあないけど、自家用飛行機がいっぱい飛びますよ。そうしてそれは決して墜落しないです。引力のバランスをとりながら飛ぶやつですから、引力に反発する、そういう反重力の制御装置を持った乗り物ですから、フワフワフワフワ浮いていて、絶対落ちないです。そして事故も起きません。他の飛行機とぶつかりそうになると、お互いにフワッと避けるようになっているんです。ちょうど磁石の同じ極どうしがくっつかないようにね。衝突しそうになるとフワッと逃げるようにできているんですね。そうぃう乗り物がもうすぐできます。 そしたら自動車で儲けた利益なんて、こんなの過去のものになります。牛車とか馬車ぐらいのレベルにやがてなっていくんです。あんな危険な乗り物によく乗ったなあ、一年間に一万人も人が死ぬという、そんなバカな乗り物によく乗ったなあ、そんな物を売ってよく大儲けした自動車会社があったなあ、なんてみんな感心してしまいますよ。後世の人は驚きますよ。 あのころ日本は繁栄したといって、一年間に一万人以上の人が死んでいたんだって、ケガした人はもっと、もう何万、十万ぐらいいたらしい。これは毎年毎年戦争を続けているのとまったくおんなじだった。同じぐらいの死者が出ていた。こういうことだね。これは恥ずかしいです。それで儲かったなんて喜んでいて。これはやがてそういうことはゼロになります。これは、私は保証しますね。 5.ユートピアヘの運動 そうするとね、後世の人にのこしたいのはやはり現代の日本精神ですよ。日本人の精神主義ですね。これを訴えなきゃいけない。だからやはり、ユートピア創りということをね、三番目にこれを全面に出さなきゃだめですよ。 だから、やる気こそすべてだというのはね、ぼくはそういう歴史の流れを見たなかで、今かれらは何をなすべきか、これは真剣に考えなきゃあいけない。それは、最高の国を今つくることですよ。国自体をユートピアに変えることですよ。それによって同時代の宇宙船地球号のこの同時代の乗組員たちですね、ほかの人たちを導くこと、これが一つ。 また後世の人たちに影響を与えること、これが一つです。かつてのローマやギリシャあるいはフランスやドイツ、イギリスこういう国が人類の進化のために役に立って、そして遺産をのこしてきたように、私たち日本人も遺産をのこさねばいけないんですよ。この遺産の最たるものは何かというと、今私たちが問うているこの神理です。これこそが遺産の最大のものなんですよ。だから、こうした神理を積み重ねて、これを広げることです。 そして、日本だけではなくて、世界各国に輸出していくことです。車の輸出はもう十分です。そうではなくて神理の輸出をしてください。この日本を拠点として現われてきた神理ですね。これを輸出したいんですよ、ぼくたちは。日本がね、最高度に進化することによって、この日本で現われた新たな精神主義がね、この精神世界が、世界各国に輸出され、また輸入されるということを願っているんですよ。どうせ一生を生きるなら、数十年の人生を生きるなら、この新たな運動のためにみんな身を投じようじゃありませんか。 特に私はね、必要だと思うのは、このやる気の革命で必要なのは三種類の人間だと思います。 まず、老人たちがんばりなさい。六十過ぎて定年退職迎えて、もうあと死を待つばかりなんてのんびりやっている人たちね、あなた方だって一流会社で社長やったり部長やったりしてたんでしょう。そういう人は力が余っているんだよねえ。その神理の運動のために生きなさい。特に年金などをもらっている人は楽ですよね。もう食うために働かなくたっていいんだから、もうやりなさいよ無料奉仕で。年寄たちは、まず人生のリーダーとしてがんばらなきゃいけない。 もう一つがんばらなきゃいかんのは主婦だ。お父ちゃん帰ってこないで、もうブラブラして、ゴロゴロ昼寝ばっかりしているんだったら、昼間は奉仕団として働きなさい。神理を広げるためにがんばりなさい。あなた方は今、有閑階級ですよ。有閑階級というのは昔の貴族ですよ。エジプトの有閑階級っていったら、あなたはもう神官ですよ。神主さんたちですよ。こういう貴族階級だということを主婦は知りなさい。自分は貴族だということを。働かないでテレビ見てゴロゴロできるんですから貴族です。貴族こそが今、文化の継承者です。伝道をする人たちです。 三番目は若者です。若者はすることがない。戦争でもあったら軍隊で機関銃で人を打ち殺したりして遊べるんだけど、戦争もないし、もうエネルギーが余って余ってもう、暴走族になってみたり、もういろんな悪いことばっかりして遊んでいる。このエネルギーですね。この若者のエネルギー、これも吸収したい。 だから、この救世のエネルギーがほんとうに成就していくためにはね、老人パワーと主婦パワーと若者パワー、この三つはどうしても必要です。そののち、のんびりと中堅パワー、中年パワーやっていきなさい。忙しいんでしようから、稼ぎ手ですから、経済日本をつくっているんでしょうから、後からでもいいけど、とにかくこの三つのパワー、期待しているよ。これが新年早々ぼくの言いたいことだ。大いにがんばろうじゃないか。
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目次 1.転生輪廻の軌跡 2.人生は歩くのが目的でない、一休みし空を眺めよ 3.幸福は目標だけにあるのではない、悩みの中にこそ本当の幸せの花が咲く 4.悩みを抱きしめよ、悪魔は変じて女神となって輝こう 5.深い悩みは幸せの証拠 6.霊障に悩む人、悪霊を溶解(とか)す術(すべ) 7.運命から逃げるのではなく、運命を抱きしめること 8.釈迦の中道の悟りは歩みを止めた時の悟り 9.あなただけの人生を愛しなさい 10.発展の中での静止観、その論理が命題 11.理想郷(ユートピア)は現在ただ今の各人の心の中に築け 12.原始時代に心の王国が築けなかった者は文明社会においても理想郷(ユートピア)は創れない 13.弁証法的発展とは新陳代謝、衣更えです 14.唯物論は三次元世界の外科手術に使われた 15.自由主義、共産主義に代る「合」の霊知主義の到来 16.今、最終の「救世法」を説く時 10.発展の中での静止観、その論理が命題 ―― ただあなたがご在世当時の時代と現代の時代の思潮というものが大分変わっておることも事実でありますので、こういう大きな思想の潮の流れの中で、あなたのおっしゃる思想を果たしてどのように伝え述べるかということは、なかなか困難な問題が横だわっておるように思いますけれども、いずれにしても、現代の科学文明もこれからまだまだ、発達していこうとしている。人々は発展の世界を目指していくというのが大方の考え方でありますので、その中で発展の行く先の目的、その幸福だけを願うのではなしに発展過程の現時点の環境の中に、輝かしい煌きがあるんだという教えを説くということは、非常にこれは重要なことで、発展の思想もそういう意味での深い裏打ちのある思想となることが望ましいように思えるのですけれども、この辺の論理の展開というものが、なかなか骨のある課題であろうかと思います。 荘子 ですからね、昔のキリスト教ならば罪の子ですか。人間を罪の子として指摘してそのままじゃいけない、キリストによって救われねばならないと、こういう指摘があったと思うんですね、それはマイナスのあなた、マイナスじゃいけないから何とか立ち直りなさいと、いう指摘であったでしょう。それからあなた方が今説こうとしている発展の思想は零のままではいけない、プラスを生み出して行かねばいけないということですね。それはそれで大切なことです。ただ現状から、逃れよう逃れようとする心の中には、また新たな苦しみを作っていくということなんです。 地球は住みにくいから宇宙に逃れたら人々は幸せになるかといえば、そんなことはないんです。そこには新たな苦しみが出てくるでありましょう。ですからこの地球上では幸せになれない人は宇宙空間に出ても幸せにはなれないということなんです。いいですか。この地上は住みにくいから、あるいはこの日本という国は住みにくいから、月に新たな楽園をつくれば、そこが住みやすくなるかと言えば、そうはならないということなのです。現在自分がある会社に勤めていると、その中でうまく行かないと、じゃあ辞めて独立すれば、全てうまく行くかと思うと、そうではないということなんです。会社勤めをしていながら、その中で、他の人とうまくやっていけない人であるならば、独立して自分で事業を興しても、またうまくいかないんです。結局そうなんです。彼岸の地カナソの地があるわけではないんです。そこ、ここにカナソの地はあるのです。彼岸の地はここにあるのです。現在ただ今の中にあるということです。ですから現在ただ今の中でね、たとえば今私は転職ということを申し上げました。会社の中で素晴しく生きている人であるからこそ、他の人々とうまくいっている方々であるからこそ、また転職するなり、独立するとうまくいくのです。 よろしいか、私は今別のたとえ話をしているんですよ。発展ということに関して言っているんです。会社の中で歯車の一つとして生きているのに虚しさを感じて一国一城の主になりたいと思っておられる方は現代には多いのです。その中で、会社に勤めているということ自体が不満で不満でしょうがない人は、それから飛び出して一国一城の主になったとしても仕事はうまくはやっていけないということなんです。それはまた新たな苦悩となっていくでしょう。しかし現在ただ今いる会社の中で成功しながら、更に自分を磨くために一段上の新世界を求めて独立していく方々、このような方々はまた新たな地でも素晴しい生活環境を築いていかれるでありましょう。ですから発展ということも、こういうことなんです、逃避に基づく発展ではいけないということなんです。いいですか。現状が悪いから良いものを求めての発展ではないのです。現状も素晴しいんです。現状も素晴しいけれどもまた見方の違った素晴しさを求めようとする気持ちがあるならば、発展の思想は正しいのです。間違っておりません。よろしいですか、そういうことなんですよ。 現在ただ今の中にね、人間が「心の王国」を築くことができて、更にこれ以上のものを求めることはいいのです。現在ただ今の中に「心の地獄」を築いておりながら、別のことをすれば全く素晴しい新世界が開けるかといえば開けないんです。そういうことなんです。たとえば宗教においても、キリスト教とか、仏教とか、神道とか、いろんなものがあります。キリスト教を勉強しながら、その中で満足できない人がいます。そして仏教に行きます。仏教でも満足できません。新興宗教を次から次へと遍歴しています。放浪しています。どこでも悟ることはできないし、どこでも満足できない。けれども、じゃあその人は本当にどこかで素晴しいものに出会って一躍悟りの世界に入れるかといえばそうではないんです。キリスト教の中においてもある程度の悟りを得ることはできるんです。当然です。キリストを信じながらその中で素晴らしい人間になることはできるんです。わかりますか。キリスト教徒として素晴しい人間になれる人です。そして更に一段の高いものを求めて他のものを求めるということは正しいことなんです。ただキリスト教をやってもこんなものでは何にもならない。人間は良くならない、と捨ててしまって、何の役にもならないとして仏教をやり、また、こんなもので自分の生活は改善できない。仏教を分っても自分は救われない。自分の病気はなおらない。家族の悩みがなおらない、キリスト教をやっても治らない。新興宗教に走る。ご利益宗教がある、これで治るだろうか、家内安全を祈願する、一家が幸福になることを祈願する。どんどん、どんどん教祖にすがりついていく。けれどもほとんど幸福にならないで周りがどんどん悪くなっていく。こうしたことを繰り返している人が多いのです。それはどこかにすがりついたら一躍悟れると思っているんですね。けれどもその人は不幸だと思っているかもしれないけれど、キリスト教の中においても、その人は幸福になる道はあるのです。仏教の中においても幸福になる道はあるのです。程度の問題はあるでしょう。そうしたものなんです。ですから、現在ただ今の中において、最高度に自分を発揮できた人であるからこそ他のものを求めていっても、もっと素晴しいものを創っていけるんです。ここにも幸せはない、あそこにも幸せはないと、次つぎ捨てていったところで本当のものは得られないのです。 それは中国の昔にこんな譬(たとえ)話があります。猿が木の世話をする喩(たとえ)話です。ある王様が、山に木を植えたんですね、苗木を。それで王様が旅行することになったんです。一週間ほどね。そこに賢い猿がいたんです。王様はその家来の猿に命じて、お前、この苗木に水をやってくれよと、しかし水は多すぎてもいけないし少なすぎてもいけない、毎日ほどよく水をやってくれよと。王様はこの猿にこう命じたのです。猿は「分りました王様。私は賢いですから、水は適量の水をいつも与えます。多すぎもしない、少なすぎもしない水を与えてちゃんと木を守ってみせます」とこう語ったのです、王様は旅に出かけました。猿はバケツに水をくんできて山に植えた木に水をやったわけですね。ところが本当にそれが根まで届いているか心配でしょうがありません。ですから水をやってはその苗木をひっこ抜いて見ています「あ、根まで水が達している。よかった、よかった。」とこれでまた木を戻します。そしてまた他のところに水をやっては、根まで適当な水がいっているかどうかを苗木を抜いてまた見ます。こうして水をどんどんやっていくのですが、とうとう苗木は全部枯れてしまいました。こうしたものなんですね。結局、適量の水を与えることは難しくて、何が適量かということが、猿には分りません。けれども何が適量かということが分らないためにね、木をひっこ抜いて根を一々調べていると木は全部枯れてしまいます。結局こういうことなんです。適量の水というのが本当の意味での悟りであり、本当の意味での救いだと思うんですね。それがはっきり分らないためにいちいち根をひっこ抜いて見たがる、これが猿ならぬ人間なのです。 キリスト教の中においても、その適量の水というものが分らない。だから自分は少し救われたような気がするけど本当かなと思って根をひっこ抜いてみる。そうしているうちに枯れてしまうんですね。次に仏教の苗、これに水をやるんだけれど適当の水かどうか分らない猿知恵です。猿知恵で引っこ抜いて見てみます。で元に戻します。ああ丁度よかった、しめりが足りなかったらもうちょっと水をやってみる。そして元へ戻す。こんなことをやっているんです。苗木は全部枯れていくんです。こんなことが多いんです、人間にはね。猿知恵です。これは古い中国の譬話であります。けれども、こんなことをしている人がいるんです。キリスト教の根をおろしても、それを抜いてみる人がいる。仏教の根をおろしても抜いてみる。新興宗教に入っても根まで水が入っているか抜いてみる人がいる。そして全部枯れていくんです。こんなバカなことをやる人がいるということです。身につまされるような話であろうと思います。 ―― それは、例えばそれぞれの置かれた環境、その立場に深く浸透してその理を解するということでしょうか。 荘子 少なくとも現状の中において、最高度の自分を発揮できない人は、別な環境においても一躍素晴しい世界に入れるわけではないということなんです。現状の中において最高度の自分を発揮しようとしている人であるからこそ、発展を求めて素晴しいんです。いいですか。地球で素晴しく住んでいける人類であるからこそ、宇宙空間に出て行ってもまた素晴しい経験を積むことができるのです。 ―― そうですね。 荘子 地球の人間といがみあっている人間がね。地球から脱出しようとして宇宙間に逃れたところで、そこにはユートピアはできないということです。ですから逃亡という意味、逃避という意味での発展ではならないということです。 11.理想郷(ユートピア)は現在ただ今の各人の心の中に築け 荘子 ですからユートピア理想郷というものははるか彼方にあるんじゃないんです。理想的な環境ができたら人類が幸せになるんではないんです。理想郷は現在ただ今の中にあるんです。現在ただ今の中に理想郷を築ける人であるからこそ、さらに一層発展した理想郷を造っていけるということなんです。よいですか。現在ただ今、物質的には必ずしも恵まれていないかもしれない。健康も恵まれていないかもしれない。けれどもこの中において、理想郷を営める、理想郷を創り出せるからこそ、さらに素晴しい宇宙時代の理想郷を創っていくことができるんです。そういうことです。環境が整えばそういうふうになるんじゃないんです。 ―― なるほど。そういうふうに解釈する人もおりますけれどね。環境が整わなければ、実際の理想郷は実現しないんだというふうなことを言う人もおります。環境が整わなかったら。理想郷は実現しないということで…… 荘子 そういう人は、例えば地獄にいる人は皆んなそうなんです。そういうことなんです。自分が悪いなんて思っている人は一人もいないんです。環境が悪いと思っているんです。周りが悪いと思っているんです。神様が悪いと思っているんです。これは皆んな地獄にいる人たちです。自分が悪くて地獄におちているなんて思っている人は地獄にはいないんです。自分はいい人だったのに、自分は一生懸命真剣だったのに、神様が悪い。あの人が悪い、環境が悪かった。病気をしたからだ。あるいは、あれで、手形が不渡りになったからだ。あの時殺されたからだ。こんな人のせい、環境のせいにして恨み心でいる人が地獄にいるんです。どのような環境にあろうともその中で理想郷をつくろうと志した人たちは、絶対に地獄になんかいないんです。環境も大事です。環境のせいも大事ですが、ともすれば人間は周囲のせいにしていくんです。自分ということを忘れて。地獄にいる人の中にも、たとえば成仏したい、天国に行きたいと思う人がいるでしょう。ただ自分はそう思っているけれどもああいう悪魔の手先たちがいて、邪魔をするから自分は天国へ行けない。そう思っている人が一杯いるんです。実際、現象としてはその通りです。悪魔の手先たちが来て彼らを苦しめています。で、天国へ行けないようにしています。けれども、人のせいであると思っているうちは、決して彼らは成仏することはできないんです。自らのうちに非があったからこそ、自らのうちに間違いがあったからこそ、今、地獄に置かれているんです。 12.原始時代に心の王国が築けなかった者は文明社会においても理想郷(ユートピア)は創れない ―― いま一つお伺いしたいんですが、ユートピアの問題ですけれど、果たして穴居時代、原始時代、その中でユートピアがあるだろうか。この物質文明の発達した世界の中においてこそ、真のユートピアというものが実現するのではないか。人間のその生活経験の深くなった複雑な現象世界、濃密な人生を味わうことができる近代社会においてこそ真のすばらしいユートピアが実現し、それを味わうことができるのではなかろうかということですが、これは比較の問題なんですか、あなたのお考えとしましてはユートピア理想郷というものはこれは等質、等量のものとお考えなんでしょうか。 荘子 少なくとも穴居時代にユートピアを築けないような人であるならば、文明が発達した時代においてもユートピアは築けないということです。お分かりですか、そうした狩猟生活、洞穴生活の中に調和の生活、大調和の世界を創りあげて、それなりのユートピアを創った人が今の時代に出てきて、ユートピア建設をしてこそ意味があるんです。彼らはそうした前の役割を卒業したからこそ、新たな環境の中ですばらしいユートピアを創ろうとしているんです。ですから洞窟時代、狩猟生活時代にユートピアを築けなくて殺戮(さつりく)の世界に行っていた人たちは、現代に生きたらもっとひどい殺戮の世界を繰り広げていくんです。それはあなた方が目のあたりにしているはずです。どのような環境にあっても、素朴な環境においても、ユートピアを造ることはできるんです。そうしたことに成功した人がはじめて更に素晴しい環境の中において、もっと大いなるユートピアを築くことができるということです。その基本の原型はいつも一つだと言うことです。 ―― 要するに、ユートピアというのは現在ただ今の各人の心の世界にあるということに尽きるということですね。 荘子 心の世界にあり、心と心のつながりの世界の中にあるということです。 ―― それが環境を変えても環境が変わった世界で同じような形で現われるということですね。 荘子 しかし、その心の中において先程も申し上げましたけれども、人生は経験であるということを申し上げましたけれども、あらたな経験を得るということが、また一層ユートピアに彩(いろ)どりを与えるということなんです。ユートビアはユートピアなんです。ただ彩(いろ)どりが変わってくるということなんですね。鮮(あざや)かなものになっていくということです。より壮大なものになっていくだろうということです。ユートピアというのは決して理想的な国家の建設ではないんです。心の王国の建設なんです。一人一人の、人の心の中に王国が築かれてはじめて神の国ができあがっていくんです。神の国は心の中にあるんです。人の心の中に神の王国はあるんです。地上的にあるんじゃないんです。人の心の中、心の中に王国ができてはじめてこの世界、この世の中、この三次元世界が神の王国となっていくのです。これを間違えてはいけないんです。 13.弁証法的発展とは新陳代謝、衣更えです ―― いま一つお伺いしたいことは、いずれの考え方に致しましても時代は進んでいきますが、いずれの考え方にしましてもその考えが永遠には続くものではない、弁証法的な発展を遂げていくのだという考え方が一つあるわけですが、正反合、正反合というこの弁証法の方式通り全て時代というものは変わっていくものだという考え方があるんですが。この弁証法的発展の法則というものに対する考えはいかがでしょうか。 荘子 それは新陳代謝という意味ですね。弁証法という言葉で言うから難しく感じるのであって新陳代謝ということなんです。同じ法であっても、同じ神の法であっても、同じ環境がいつまでも続くならば、それに倦(う)んでしまうんです。飽きてしまうんです。分らなくなるんです。そういう意味で新たな環境が出てきて新たな教えが出てくる。ですから弁証法と言ってもいいですけれど、それはある意味では、新陳代謝ということですね。 それはそうでしょう。木々にだって春があり、夏があり、秋があり、冬がある。若芽が芽吹(めぶ)いて、若葉が出てくる。そして繁り、そして秋になって紅葉(こうよう)し、冬になって落葉する。また春が巡ってきて若い芽が吹いてき、そして葉になり繁ってくるんでしよう。神様は一本の木でさえそのように仕組んでおられるのです。一本の木でさえそのような化粧をさせていらっしゃるのです。ましてや人間が生きていく上でそうした様々な教えの中で、いろんな彩(いろど)りを与えて下さるのは当然です。 ―― まあそういうことがありうるということは肯定されるべきですね。 荘子 そうです。 ―― たとえば孔子様のお考えに対する孟子様のお考えというのも、これ彩(いろど)りとして考えてよろしいのですか――。 荘子 そうです。 ―― 間違いがあったというわけではなくて…… 荘子 間違いではありません。 ―― そしてあなた様のお考えも老手様のお考えを更に発展させたというふうな考え方でよろしいのですか。 荘子 ま、いろんな教えはあっていいと思うんです。それはそうでしょう。あなた方の世界にはスーパーもあり、デパートもあります。デパートには、例えばいろんな衣料品も売っています。ネクタイというものも、何百種類何千種類売っています。ネクタイはネクタイという意味において一つです。これは神の法、神の法をネクタイという言葉で表すとするならば、ネクタイは機能としては一つですね。一つなんです。それはワイシャツにしめつけて、飾りにしているわけですね、それだけのことです。ただ何百種類ものネクタイがあります。いろんなネクタイがあるから、また日々が楽しいんじゃないでしょうか。毎日毎日同じ紺色のネクタイをぶら下げているなら人生は味けないものなんです。ですからネクタイをしめるということにおいては同じなんです。ただいろんなネクタイが用意されているということなんです。それは孔子様の教えもあれば老子様の教えもあるということなんです。で、ネクタイの好みというものは人によって違いますでしょう。ある人は赤いネクタイをいいと言っています。けれども、またある人は紺のネクタイがいいと言っています。ある人はまだらのネクタイ、ある人は格子縞(じま)のネクタイがいいといっています。この趣味は決められないですね。決してこの赤のネクタイが一番いいとは言えないんです。そうでしょう。決して紺色のネクタイがいいとはいえないと思うんです。それに、人のそれなりの好みがあるということですね。どれが一番素晴しいとはいえないんです。いいようがないんです。 孔子様的な教えに共感される方は、その方はその方でよろしいと思います。ただ私どもの教えもまた一つの教えとして考えてみてほしいということです。いろんな人にはいろんな悟り方があります。ですから悟りにもいろんな入口があっていいと思うんです。ですからね、神の光にもいろんな役割があって病気の人はまず治してしまうというやり方もあると思うんです。癒(なお)してしまえば健康体になります。――神様ありがとうございました。これから私は世の中の役に立ちます――。こういうふうな導き方もあると思うんです。これも一つの方法です。ただ病の中においても悟ることはできるという教えもあります。教え方はちがいます。ただ、そういったいろんな教えが必要だということです。その人にとって、すべて心霊治療によって病気をなおすわけにはいかないんです。 14.唯物論は三次元世界の外科手術に使われた ―― いま一つお伺いしたいんですけれども、その彩(いろど)りということは分るんですが、ここに一つの、現代の大きなイデオロギー、が思潮として表れた唯物論ですね。勿論これは誰の考えでもなくて神様の考えから発したお考えであろうと思いますが。こういう唯物論哲学というものが現れて、そしてそれが政治的な思想となって、そういう体制が生まれて、そしてそういう経済機構が敷かれるようになったということにつきまして、これはどういう神のお考えがあったんでしょうか。 荘子 その質問には、私は必ずしも適任ではないだろうとは思います。それはそうした唯物論を説いた方々と話をされた方がむしろいいのかもしれませんが、ただ唯物論自体が間違っているということは確かです。ただ、この三次元世界の中において、この三次元世界をうまく工夫することによって、すばらしい世界をつくろうとした。その試み自体は私は評価されるべきだと思っています。唯物論は間違っています。これは、はっきりと間違っています。唯物ではありません。霊的なるものです。この世界もまた。ただ三次元の中にね、あなた方宗教家たちというのは、四次元以上の力によって三次元を変えていこうとしておられますね。 そういう試みが大部分であったということです。宗教においては、他次元、高次元の人々の力を借りてこの三次元を浄化し、良くしていこうというのがその試みであったでしょう。ただそうしたことは非常に頼りにならないことが多い。いまこうして、OOOOの口を借りて私は明確に語っていますけれども、たとえば荘子なら荘子という人間の言葉なら、誰の口を借りて喋っても、――もっとも私は他には出ませんが――だが私の名を騙(かた)って出る霊だっているわけです。だから非常に不明確なものです。そうした不明確な高次元のものたちの声によって、この世を左右されるよりは、三次元の中でうまく工夫することによって、素晴しい世界を築いていこうじゃないかと、こういう考えが出るのは、至極当然なことです。ただ神が無いとかね、霊的なものがないというのは間違っています、しかし三次元の中で工夫をされることは間違っていません。それはそれで結構なことです。まあ、いわば外科ですね、外科手術のようなものだと思います。 ―― そうですね。 荘子 唯物論というのは外科手術です。外科によって治していこうとすることですね。メスを入れてなおしていくということです。 ―― これはまあ、現代において一つの試みとして終わったのでしょうか。大局としては。 荘子 どういうことでしょうか。 ―― この主義なり、政治体制、経済制度、というものは現段階においては一応試みとしては終わったということでしょうか。 荘子 とはいい切れません。ただね、共産主義が全て悪いわけではないんですよ。共産主義が本当に悪いものであるならば、その中に住んでいる人はとっくに反乱を起こして心しているんです。しかしその中にいる人はこれで「是(よ)し」と思っている人も多いんです。何故でしようか……何らかの真理はやはりあるのです。その中において。やはり彼らから見るならば、自由主義諸国の中の一部の人間が、繁栄していくような姿、他の多くの弱い人間が虐(しいた)げられているような姿を彼らは見ているんです。それよりは、やはり平等な世界の方がいいと、思っておられるんです。これは自由と平等の問題です。どちらをとろか。どちらも大切です。平等も大切、自由も大切です。そういう意味においては自由主義社会の中においても、いわゆる共産主義的な考えも出てきています。共産主義の中にも、自由主義的なものが入っています。そして、そういった世界観がいま一つの方向へと動いていることは確かです。たとえばあなた方、今、自由主義社会を満喫しているように言っているけれど、あなた方の世界の中に、組合というものがあるでしょう。労働組合というものが、あるじゃないですか。なぜこんな唯物的な考えがあるのでしょう。なぜこんな共産主義的な考えがあるんでしょう。それが認められていますね。法規によって認められて現にあるんです。そういう意味においては共産主義はね。現在あなた方の体制の中でも生きているということです。また共産主義社会の中においても、彼らが反省する材料はどこにあるかというと、結局自由主義社会の中にあるということですね。ともに相補完するものがあるということです。ただどちらが神の意に沿っているかという結論はあるんです。それはあるんですが、ただ完全に間違っているものではありません。 ―― まあ、互いに切磋琢磨(せっさたくま)する材料として提示されておるともいえますね。 15.自由主義、共産主義に代る「合」の霊知主義の到来 荘子 そういうことです。ですから自由主義においても決して神的なるもの、霊的なるものを認めているとはいえません。共産主義においても、神的なるもの霊的なるものを認めていません。こうした二つの体制があって競いあって、やがてこの後にですね、神的な国、政治体制、霊的な政治体制が生まれてくるんです。そういう意味においてあなたの言う、弁証法的発展ということも正しいんです。こういうものが出てきて、また新たな違うもの、その共産主義と自由主義を融合する立揚が出てくるんです。これは「神の国」という概念ですね。自由主義国家体制と共産主義国家体制、これを止揚(しよう)して、新たに統一するものは何か、それは「神の国」ということです。ユートピアということです。ユートピアという概念こそがこの両体制を統合していくものです。ともに共産主義国家も自由主義国家も、ユートピアを目指しているんです。その試み、方法論の違いなのです、ですからユートピアという概念において、新たな政治体制がまたできてくるでしょう。ただそれもいつまでも続くもんじゃありません。新陳代謝が必要だと私は申しました。新たなものが出てくるでしょう。少くともあなた方は現段階において、この時代に生きている以上はそうしたユートピア、共産主義、自由主義を、包摂(ほうせつ)するようなユートピアをつくっていかねばいかんということです。 ―― 我々の時間帯における任務というものは、その点にあるわけですね。 荘子 そうです。共産主義というイデオロギーがあります。また自由主義というイデオロギーがあります。これと違った新たなイデオロギーが出てきます。これは何かというとこれがいわば「霊知主義」です。霊を知るということですね。霊的な知識に基づくという、「霊知主流」というようなイデオロギーがこれから出てくるでありましょう。霊知主義に基づいて政治もなさねばならない。教育もなさればならない。こういった世界になってくるでありましょう。これからはそういう意味で「雲知の時代」であります。これから地上に神の国を創るというような大きな事業ですから、これはもう大変なことです。頑張ってほしいと思います。 ―― これはしかし、大変な作業であって、とてもではないけれども、これは一人やニ人の仕事ではできる問題ではないと思いますけれども。 荘子 ただいつの時代においても核というのは少数の人間であったということです。これはまちがいのないことです。 ―― 今後このような事業に向かって私たちは一歩一歩前進していかなければならないのですが、これ、私たちの後に更に私たちを補佐し、あるいは補完していくような人々が現われてきましょうか。 荘子 というよりもあなた方が「核」となって、これからまた七色の光が出てくると思います。 16.今、最終の「救世法」を説く時 荘子 つまりあなた方の教えを「核」として、さらにそれを゛政治゛の方向に生かしていく人たち、゛経済゛の方向に生かしていく人たち、゛芸術゛の方向に生かしていく人たち、゛医療゛の方向に生かしていく人たち゛道徳゛の方向に生かしていく人たち、こうした専門家たちがいろいろと出てくるということです。 ―― そうですか。 荘子 あなたも今、そういう意味では総合的な時代、全てのものを一つに統合する時代に生まれているということです。あなたが学んだ儒教も、あるいはキリスト教も、仏教も、すべて渾然(こんぜん)一体となった、そういった世の中に生まれて、渾然一体とした法を説こうとしておられるのです。 ―― いろいろなご指導頂きましてありがとうございました。 荘子 まだまだあなた方は自覚が足りません。あなた方が説いている法というものは、これは、いわゆる、宗教の一分派ではないということです。これは「大いなる救世の法」だということです。いいですか。救世の法だということです、その規模において、その質において、かつてなかった最大のものを今、創(つく)ろうとしているんです。マホメットにおいても、その地域的な制約がありました。キリスト教においてもそうです。仏教においてもそうです。それらを全てを摂取(とりい)れた上で地球的な宗教をいま創ろうとしているんです。これは最終的な「救世の法」であります。 ―― まあ、しかし最終ではなかろうと思いますけれども。また、これも弁証法にかけられることであろうと思いますけれども。とりあえず現代においては「合」の立場に入っておるわけですね。 荘子 現在においてあらゆる宗教の形態としては最終のものだということです。また環境は変わるかもしれません。宇宙時代が起きてくるでしょう。ただ現代、地球の発展してきた、地球の時代における現代においてはこれが最終の姿だということです。 ―― その意味では、われわれは最終のチャンスに立っているということですね。 荘子 そうです。 ―― これはまだ、この姿はもっと、もっと発展させなければならないという機会に立っているということですね。 荘子 宗教というのは今はもう片隅(かたすみ)に迫いやられているんです。書店に行けば様々な本が並んでいます。宗教のコーナーというのは片隅に追いやられているんです。これが本来の源なんですよ。それが今は片隅です。 ―― そうですね。 荘子 特に好きな人だけがそういったものを読むというような片隅に迫いやられているんです。この片隅に追いやられているものを中心にもってくるということです。これがあなた方の仕事です。本来、科学するということは宗教するということであり、哲学するということも宗教することにある。政治するということも経済をするということも、皆な宗教をするということなんです。それが人々には分かっていないのです。 ―― 現象学ばかりに捉われているということですね……。 荘子 そうです。 ―― いや全く長時間にわたって、深遠な真理を比喩をまじえながらやさしく、しかも友愛の情をこめてお説き下さってまことにありがとうございました。また機(おり)あらばなお種々の問題についてご示教願いたいと思っております。荘子先生、本日は大変どうもありがとうございました。
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目次 1.黎明の時代 2.奇跡の真実 3.万人のための真理の書 4.新・生命の実相 (1988年11月29日の霊示) 1.黎明の時代 谷口雅春です。前回『谷口雅春の大復活』を出して、もう半年あまりの月日が流れたと思います。さて、いよいよ私も第四集を問うべき時が来たと感じられるのです。それはまさしく、今こそ地上には光が求められていると思うからなのです。 私はみなさまがすでにごぞんじのように、光一元の光明思想を説き来たり説き去って九十二年の生涯を終え、今こちらに還って、さらにこの光明思想を推し進めんとしている者です。 私のこの収録に先立って、七大天使の一人のミカエルという者が『大天使ミカエルの降臨』という霊示集を出していたようである。もちろんキリスト数的に言えば、そうした考え方は一片の真理を含んでいるものではあろう。またキリスト教における天使長と言われる者が、そうした考えを持っているということを知ることは、たいへん参考にもなろう。そしてその教えを読んで、何ほどかの悟りを得る者もあろう。いくばくかの喜びを得る者もあろう。 されど谷口雅春は、あえて地上の諸君らに言う。考え方は自由であるし、どのような選択をするかは地上の人間の自由に任されていることではあるが、地上の人間がどのような選択をするかによって、その人の人生の幸・不幸が分かれるということ自体は、高級霊の考えを離れた大宇宙の真理であり、これをねじ曲げることはだれもできないということだ。したがって私は、宗教の本質をこそ、今あなた方は知らねばならんと思うのである。 宗教の本質とは一体何であるか。それは人びとに対する救いではないか。人びとを救うのが宗教の使命ではないか。さすればその教えを受け取ることによって、その教えを学び実践することによって、どれほどその人が幸せになり得るかということこそ、目的とされるべきではないだろうか。 たしかに地上界や、あるいは地上を去った世界に悪霊などと言われるものも、姿としては迷いの姿として見えぬことはない。けれども、そうしたものは本来的なものでは決してない。言ってみれば、酒に酔って暴れている、そうした酔っぱらいの類(たぐい)と考えればよい。彼らも酒の酔いから醒(さ)めたならば、普通の社会人として家路につき、また会社に出てくることができるのだ。 そのように悪霊だ、悪魔だと言うようなものに、ほんとうの意味で怯(おび)えてはならない。それは一時期理性を失った人霊の姿であり、やがてその酔いが醒めていった時に彼らもめざめるのである。 したがって私は、諸君らに強く強く言っておきたい。諸君らはまず光を信ぜよ。光を信じて生きて行け。光を胸に抱き、光を手の中につかみ、光の内を歩め。光とともに歩め。それが大事であるのだ。 決して恐怖してはならない。決して恐れおののいてはならない。決して心配してはならない。決して取り越し苦労をしてはならない。 私は実相としての光を、今、全身に浴びている。実相としての光を全身に浴びるとともに、また私が実相としての光そのものであるということを、強く感じるのです。それが真実であるのです。真実であるということは、それこそが許されるべき生命の実相の姿であるのである、ということなのです。 生命の実相とは、本来ゆがみなく、くもりなく、伸び伸びと豊かに神の光をたたえ、神の光そのものであるのです。そして私たち霊人の実相も、光そのものであるのです。光の権化(ごんげ)でもあるのです。私たちはこうした実相を、片時なりとも疑ってはならんと思うのです。 私は長年に亘り、さまざまなことを学び、研究してまいりました。そしてそれは、今回日本に降りて谷口雅春として悟ったこと、学び実践したことのみがすべてではないのです。むしろ今、霊天上界にあって、私はみずからの過去世の姿を知り、過去世の考えを知り、一層大きな思想を身にまとい復活せんとしているのだ。 すでに語ったように、私はローマ時代の流出説という新プラトン派の哲学を創始したプロティノスという名で生まれたことがあります。これは一元思想のはしりとも言ってもよい哲学的見解であったと思います。プラトンの教えを、そのイデア説を、一層推し進めたものとして知られている考えであります。 さらに今から二千数百年前、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)として日本の九州に肉体を持ったことがあります。伊邪那岐として生まれた時に、この日本国草創の神の一人として私は地上に降りたち、そして国造りに励んだのです。 その時にも私が説き、教え、述べ伝えた内容は同じ、人間の本質は光であり、その実相はまばゆく輝くばかりの神の姿そのものである、ということであったのです。 諸君らは、ときたま古事記や日本書紀をひもとくことがあるであろう。その際に、神々がじつに人間的に描かれていることを不思議に思ったこともあるであろう。しかし、私はあえて言っておく。神々が人間に似ているのではない。人間そのものが、その本質において神なのだということを知って欲しいのだ。その生命の実相は、神そのものでもあるということを、神の一部分であるということを、そして人間の本質は生き通しの神の姿そのものでもあるということを知って欲しいのだ。 古事記、日本書紀の世界の中で、神々が光輝くばかりの活躍をしておるが、これは過去世の伊邪那岐の時代に、こうした教えを私が説いたことにも影響しているのである。 今私は、日本という国が新たな黎明(れいめい)の時代を迎えんとしていることを、たいへんうれしく思う。谷口雅春がまたこの黎明の時代に復活をなし、地上に啓示を送ることができることをうれしく思う。生前、そして死後、貫く生命の真実を語り続けることができることを、とてもとてもうれしく思う。 2.奇跡の真実 私は今、もう一つの真実をこの際に明らかにしておこうと思う。その真実とは一体何であるかということだが、この私の創始し、そして運営してきた生長の家という団体が、一体どのような団体であったかということだ。 まず私は過去世に伊邪那岐という名を持っているが、私の妻であった、いや現に妻であると言ってもよい谷口輝子は、やはりその過去世において伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)と呼ばれた時代があったのだ。そうした過去を持っているのだ。夫婦の縁というものはそうしたものなのだ。私が伊邪那美を祭る神社を建てたことは、生長の家の諸君にもまだ記憶に新しいであろう。このように歴史の真実というものは、くり返しくり返し現われてくるものなのだ。 また生長の家の二代目総裁をしている谷口清超の過去世の名は、これは現在猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)として知られている方であるのだ。こうした偉大な方が、私のあとを受けて生長の家という団体を大きくしているのだ。こうした大きな諸神霊の力を得て、今我が教えが燎原(りょうげん)の火のごとく日本に、そして海外に広がっていったのだ。 この我が教えの道筋はすなわち、日本神道の神々の教えが東洋を越えて全世界へと広がっていくという道筋そのものでもあったのだ。逆に読者の多くは、さまざまな霊示集によって、西洋の神々がどのような考えを持ち、日本にどのような教えを持ちきたらさんとしたか、それを学んでいるであろう。それらの思想は多少なりとも違ったところはあると言えよう。 その教えの違いについては、私自身も帰天してこの方、二、三年に亘ってつぶさに学んできたつもりである。されどもやはり、なにゆえに天上界においても考え方が違うかと言えば、人類救済の情熱は同じであるけれども、そのために手懸けてきた方法論が違うにすぎない、そう感じるのです。そうして私が研究してきた結果によるならば、やはり至高の教え、最高の教えとは一体何であるかと言うと、この光一元の光明思想であると思うのだ。 たしかにこの光一元の光明思想は、実態面としては弱い面もあるであろう。それは霊界の構造を反映していないという観点もあるし、それ以外にも悪霊や地獄霊のことについて触れていないということを述べる人もいるであろう。また、悩みや病(やまい)などに目をつぶる教えであると言う人もあるであろう。 しかし、私はあえて言っておく。われらの目標は人類の光明化にある。人類をすばらしくしていくところにある。されば闇を捨て、光につけ。光のみを信じ、どこまでも光に向いて行け。その時に、闇というものはもはや目には入らんということが、どれほどの真実であるかということをあなた方は知るに違いないのだ。 私は数多くの病の人を治してきた実績がある。ガンが治った例など数知れない。医学的にはまったく、そうしたことは奇跡以外の何物でもないのだが、私の書物を読み心がクラリと光明に一転した結果、レントゲンを撮(と)ってもガン細胞が消滅したという人が数多く出てきたのだ。これは歴史上の事実であると思う。 私は今キリストが地上に生まれたとしたならば、私がなした業(わざ)と同じことをおそらくするであろうと思うのだ。キリストが生まれたならば、おそらく現代病に悩む人たちを見るに見かね、愛の思いで彼らの病を治したであろう。ガンに悩む人びとにはガンを治し、またその他の難病奇病で悩む人たちを癒(いや)したに違いないと思うのだ。それは愛の質において、谷口雅春もイエス・キリストも変わらないことを意味していると思うのだ。 あえて違うところをあげるとするならば、私は文書伝道という形でこうした奇跡を日本国中に、そして海外に広げ得たということだと思う。イエスの奇跡は個人的にイエスを信じた人のまわりに起きたが、私の奇跡は私の個人的面識には関わりなく、我が書きし書物を読みし人びとにことごとく起きていったのだ。 私は本書の読者の多くにも言おう。この谷口雅春の復活の書の第四巻『谷口雅春・光はここに』という本は、実相世界から谷口雅春の光明思念が込められているのだ。私は本書を手に取る一人びとりの不幸が消え、病が消えることを強く強く祈念する。肉体を持った谷口雅春が書いた書物でさえ、あれだけ多くのガンを消し去ったではないか。ましてや実相世界に還って、そして啓示を伝えている私の本が奇跡を起こさないはずはないのだ。 私の書を読んで奇跡が現われたならば、どうかその奇跡を報告して欲しいと思う。 おそらく読者の中からは難病奇病が治る、ガンが消え、そして眼鏡がとれ、立たなかった足が立ち、出なかった声が出、聞こえなかった耳が聞こえ、見えなかった目が見え、知能の遅れし者は知能が元通りになり、そうして身体に異常なものがあった者はその異常が消える。そうした奇跡が起きると思う。それだけの光を込めて私は語っているのだ。 本書を手に取りしすべての人よ。あなた方の病をことごとく治したいという気持ちで私は本書を語っている。この本を三回も五回も十回も読んで欲しい。かならずあなたの病は癒(い)えると私は思う。それは肉体を持ちし谷口雅春の実績から言ってもそうであるが、その数倍数十倍の力を今の私は持っているからだ。 私の言葉を信ずる者は幸いである。その信じ始めた時よりあなた方に奇跡が起きるであろう。信仰ということにおいて条件を付けてはならない。信仰ということにおいて限定を付けてはならない。百パーセントの信仰がなければ決して奇跡が起きないということを、私はあなた方に言っておく。この谷口雅春の言葉を百パーセントの信仰を持って読む時に、あなた方は禍(わざわい)から逃れ新生することができるのだ。 奇跡とはそのようなものだ。奇跡はいつの時代にも信仰に恵まれてきた。信仰があるところにかならず奇跡が起きた。また信仰のないところに奇跡は起きなかった。 イエスは言ったではないか。奇跡を求めてきた人に対して言ったではないか。「汝、我を信ずるか。」と。そして「主よ、信じます。」と言った時に、答えた時に、「汝が信ずるがごとき汝となれ。」と、かならず答えたではないか。「汝の信仰が汝を救うであろう。」と答えたではないか。 人びとよ、今眼前にくり広げられている、この奇跡の真実を知れ。この奇跡の重さを知りなさい。谷口雅春が復活するということが、このようなことがあろうか。あり得ることであろうか。いくら私の復活を信じる者であっても、あれだけの奇跡を起こした谷口雅春なら当然であると思いつつも、一片の疑いを挟(はさ)むのが常識ではないであろうか。 あの死せるラザロを甦(よみがえ)らせたキリスト、そしてキリスト自身も復活をした。そうした復活が今もまた、このような形で起きているということ。これは私が大いなる救世の使命のために地上に降りたということを、雄弁に物語っているとは思えないだろうか。 私は諸君らに言う。私が今復活をしているのは大いなる愛のためである。人類の唯物思想を打ち砕くためである。生命の実相が永遠であるということを教えんがためである。この教えにおいて限界はないのである。この希望において限界はないのである。 私は日本国中の諸君に対して、生命が永遠であるということを教えたいと思う。そして生命の実相が神そのものでもあるということを悟った時に、どれほど多くの福音がもたらされるかということを教えたいと思う。 私の書を読む人は幸いである。光明に満たされるであろう。悲しんでいる者はなぐさめられるであろう。また疲れている者は、ふたたび元気を取り戻すであろう。苦しみの中にある者は苦しみから解き放たれるであろう。また肉親の死に遭って悲しんでいる者であっても、喜びが満ちてくるであろう。生命の実相を悟った時に、生き通しの我というものが甦(よみがえ)ってくるのだ。生き通しの我とは久遠の実在であり、キリストである。その身そのままがキリストであるということを知った時に、そこに大いなる奇跡が現われてくるのだ。現成(げんじょう)してくるのだ。 人びとよ、我が声を信じよ。この声の来たるほうに進め。これは復活の声。これは救世の声。これは神の声でもあるのだ。地上に在りし時、私は神のラッパとして神の教えを説き伝えてきたが、今、実相世界においても神のラッパとして我が教えを説き続けたいのだ。地上のあなた方に説き伝えたいのだ。 この私の真理の書が、一人でも多くの人の手に渡るように、一人でも多くの人の目に触れるように、一人でも多くの人に喜びと驚きを持って迎えられるように、多くの人びとの力を望みたい。 3.万人のための真理の書 かつて我が教えを受けた人は数百万人にのぼるであろう。私の講演会は、あるいは講習会は二千数百回にのぼったと思われる。その二千数百回の我が教えに接した人は数百万人にのぼったであろうと思う。また我が書き記せし書物を読んで学んだ人は、延べ数千万人にのぼるであろうと思われる。 それらの人びとに、今、私は言いたい。私が天上界からこうして語り続ける書物は、これは新しき『生命の実相』そのものであるということを。私の霊言、霊示集は『新・生命の実相』であるということを。生命の実相とは、特定の出版社から出された書籍のことを言うのではないのだ。生命の実相とは久遠のキリストから、そして永遠の神から与えられた教えを体系づけた、その思想をこそ言うのだ。 したがって『生命の実相』の発行所は神である。発行人は神である。この思想は神から来ているのである。この思想は、著作者は神そのものである。谷口雅春の著作でもない。思想でもない。私を通じて流れ出している教えである。この著作者は神なのだ。この私の復活の書を谷口雅春を通じて語らせている者も久遠のキリストであり、神そのものなのだということを、あなた方は知らなくてはならない。 私が去ってこのかた、我が思想も新しきものが出なくなったがために、特定の個人の思想のように思われて、そうして著作権だ、何だという議論が出ていることを、私はたいへん悲しく思っている。私は生前も言ったはずだが、ほんとうの真理には著作権者という者はいないのだ。真理は模倣されるためにある。真の理は多くの人びとのためにある。生長の家の真理は生長の家だけの真理ではない。それを大いに万民に使っていただいて結構なのだ。 そのために真理中の真理を書物の形で私は公開したのではないか。そしてそうした真理を書物の形で公開したのは、谷口雅春が偉いからではない。そうではなくて、私が書いてきた真理は、それは私を通じて働いている神の御心そのものであるからだ。神の御心を思想として著わしたのであって、私個人の思想ではないのだ。それゆえに私は、何なりと我が思想を使って欲しいと、つねに言っていたはずだ。 谷口雅春の思想は日本だけに現われたのではない。アメリカにおいてもニューソートとしてりっぱに現われたのであり、また過去釈迦が説き、キリストが説いた教えも、我が教えと根本において同一であるということを、私はつねづね説いていたはずである。 このようにほんとうの真理は、万人によって共有されねばならないものなのです。特定の個人のものではないのです。したがってこの私の霊示集も、多くの人に真理として学んでいただきたいと思う。宗派を越え、教団を越え、国籍を越えて読んでいただきたいと思う。 最近は私の復活の書『谷口雅春霊言集』、また『谷口雅春霊示集』『谷口雅春の大復活』などが、ハワイやブラジルやアメリカで読まれているということを知って、とてもとても私はうれしく思う。そうした事実に接してとてもとてもうれしい、幸いである、そう思うのだ。 この事実に接した時に、私の感激はひとしおではない。あの、かつて私が巡錫(じゅんしゃく)して歩いたブラジルにおいても我が書が読まれているということを知って、感激に涙する私である。 またハワイの地において、この私の復活の書が日本人あるいは日系のアメリカ人にも読まれていると聞いて、感激し涙する私である。またアメリカでも読まれ始めているということを聞いて、たいへんうれしく思う。真理の書とは、そのような形でいつも読まれなければならないのだ。 4.新・生命の実相 諸君よ、谷口雅春が小さな了見からこのような霊示を送っていると思うな。このような霊界からのメッセージを小さな了見で送っていると思うな。特定の集団や教派のために送っていると思うな。この我が復活の声は、全世界のための復活の声である。そして我が人類光明化の運動が、現代における一大救世運動であったことを証明せんがためにやっているのだ。 たまたま〇〇〇〇〇という団体の主宰者を通じて私の声を伝えているが、これはともに天上界において、かつて知り合いであり、友人であり、ともに教え、ともに学んできた仲であるということによって、そうした友誼(ゆうぎ)を得て、今こうしたことがなされているのだ。 決して友人関係、知人関係というのは、地上界にのみあるものではない。実在界においてもあるのだ。ともに法のために学んできた仲間という者はいるのだ。それは地上における団体の名を問わない。それらを超えたものとして現にあるのだ。 私が最近知ったところによれば、あのエマソンという人を指導した霊人の一人は、やはり我が日本神道系の最高指導神であられた天之御中主之大神(あめのみなかぬしのおおかみ)であった。そういうことを私は知った。 この生長の家を、私たちを指導した、生長の家の親神とも言える、生長の家の大神の正体であった天之御中主之神が、ニューソートをもアメリカで指導しておられたということを知った。これほどまで広範な指導というものがなされているのだ。地上では国々はバラバラになっているかも知れない。実在界においてもやはり霊団はそれぞれに住み分けてはいるか、しかしながら、そうした地域を越えた教えとして、真実のものは今広がりつつあるのだ。 諸君よ、谷口雅春の復活を、この小さな狭い日本だけのものとしてくれるな。どうか、我がこの真実の復活に接したならば、海外にもこの復活の福音を伝えて欲しい。海外の、かつて我が思想を学んだ人たちにも、日本の谷口雅春か「生命の実相」を書き終わり、そして地上を去った後に天上界よりふたたび復活をし、『新・生命の実相』を地上に送り続けているということを伝えて欲しい。 私は諸君らにそれを望む。私のこの声の真実を知って欲しい。この情熱を知って欲しい。私は〇〇〇〇〇という特定の団体の利益のためにこうしたことをやっているのではない。ましてや生長の家に不満があり、批判があってやっているのでもない。復活を通して大救世運動を遂行(すいこう)し、完遂(かんすい)したいと願っているのだ。この私の真実の姿を、声を知ったならば、諸君らもかならずや心を動かしてくれるものだと信ずる。 これが本章の私の考えだが、これから何章かに亘って、この『新・生命の実相』とも言える書物を書き続けることができることを、とてもうれしく思う。
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目次 1.高級霊たちは、一つの時代の境目に大きな事業を起こす 2.帰天後十年、法の足りざるを知る 3.霊道を開くという、釈迦の奇蹟の再現 4.反省的瞑想による釈尊の悟り 5.わが教えで心の窓を開いた人びとへの警告 6.霊能力者の多くが転落しやすい理由 7.転落防止法の第一点―謙虚に努力する姿勢があるかどうか 8.自分の心がガラス張りだと思ってはじめて反省ができる 9.光の大指導霊であっても、一歩間違えば地獄に堕ちる 10.転落防止法の第二点―他人への愛があるかどうか 11.転落防止法の第三点―人格が高まっているかどうか 12.偉大な霊能力を持ちながら、高い人格者として生きていくことを目指しなさい 13.ニュートン、スエーデンボルグ、ダ・ビンチの漏尽通力 14.霊道を開き人格者となった人びとが各界で活躍することが、救世の原理につながる 1.高級霊たちは、一つの時代の境目に大きな事業を起こす 今日は第2章「人類救済の原理」ということでお話をしたいと思います。私たちがなぜあの世、すなわち高級霊界より地上の皆様にこういうメッセージを送っているかというと、結局のところ人類の救済です。これをしたいがためにやっておるのです。じゃ神様とか、高級霊たちは、特定の時代にしか仕事をしていないのかと、こんな時代だけ、まとめてやるのかと言うような方がいるでしょう。それじゃちょっと怠け過ぎるんじゃないか、横着じゃないかと言われる方もいらっしゃるかもしれません。 けれどもね、やはり私たちは、一つの時代の境目に大きな事業を起こすのです。これが神様のご計画だからです。本来ならば地上の皆様の生活、あるいは文化や文明、こうしたものは私たちが逐一(ちくいち)指導して、やっていってもいいですけれども、それだけであっては地上の皆様方の努力、精進ということがなおざりになってしまうんです。 そういうことで私たちは常日頃は、地上の人たちを救いたい、あるいは指導したいという気持ちがないわけではないんですけれども、あまりそれをやると、地上の人たちの、自主独立の気運、あるいは独立独歩の生き方、これを阻害するためにできないのです。そういうことで時おり、何千年かに一回、大挙(たいきょ)して、指導霊たちが地上に出て、また天上界にある私たちの言葉を直接受け取って、そうして、この世の中を変えていこうという、そういう大きな運動というのを起こしていくのです。 これがたいていの場合、一つの文明の終りの時であるし、また一つの文明の始まりの時であります。そういう時に、私たちは頑張るんです。あの世からも、あるいはこの世に出ても、頑張るわけです。 2.帰天後十年、法の足りざるを知る さて私も地上を去って十年、その間あの世で禅定していたわけではありませんけれども、いろいろなことを考えてきました。地上にいた時に、四十代に入ってから四十八歳までに、いろいろな活動をして世の人びとを導いてきたつもりですけれども、あの世に還ってからも、自分の生きてきた間のことをいろいろと考えてみました。また私の指導の仕方、そうしたものが本当に神仏の心に適(かな)ったものであったかどうか、そういうことについて、いちいち反省をしてみたわけです。 そして思いついたことですが、まだまだ私は十分言い足りてないということに結論が達したわけです。地上にいた時は、私はある程度のところまで、十分に法は説いたと思いました。法は説いたけれども、後、これを広めるという点においてまだ不十分であるとこういうふうに考えておったのです。法としては十分に説いたけれども、後は、これを全国各地に、そして世界各地に広げていくだけの時間的余裕がない。その点においては不十分で、残念な点があるけれども、私としては救世の法を十分説いたつもりであったわけです。 しかし今、こちらに還って来て、じっくりと十年間考えてみますと、まだまだという気持ちがするのです。やはり法というのは、固定化したものがあるわけではなくて、人間の数だけの法があると言われるように、時、ところ、場合、そうしたものに合わせて人びとの何と言いますか、性格の違い、気質の違い、あるいは風土における環境の違いに応じてさまざまな説き方をされねばならないのです。 そういうことで法というのは、これだけ説いたから完全だということはあり得ないのです。今までも完全にすべてを説いた法というのは地上に出たこともありませんし、また今後も出ることはありません。したがって私たちは完全なる法を目指して日々精進し、一歩一歩近づいていく以外に方法がないのです。それしか道がないのです。 3.霊道を開くという、釈迦の奇蹟の再現 そこで今日は、「人類救済の原理」という題で、お話をしますから、まあ私が生前、生前と言っても、今だって生きているつもりでいるんですけれども、地上の人たちから見れば、あの世に行ったことになっているから残念ですが、生前、説いたことの反省もかねて、足りざるところこれを補って、人類救済の方法について述べていきたいと思います。 まあ私が七年、あるいは八年にわたって説いてきたことは、二千五、六百年前にインドにおいて釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、ゴーダマ・ブッダが説いた法の復活が中心であったわけですね。これを私は教えの中軸にすえました。 仏教学者がいくらいても釈迦の本心、釈迦の教えというのがどこにあるかが分からない。また悟りというものも非常に抽象化した議論となって、禅宗とか、そういう中でいろいろなことが言われておるけれども、本当に悟りというものが何かということが地上の人たちにはもう分からなくなってきた。 それで私は、その塵(ちり)や垢(あか)を取りのぞいて、本来の仏教の姿、釈尊が今から二千数百年前に、インドにおいて説いた本当の仏法の姿というものを皆さんに、もう一度復原(ふくげん)して見せたのです。そういうことをしました。そうしたところが、さまざまな奇蹟が起きたわけです。 まあいちばん大きな奇蹟というのは何かと言いますと、まず霊道を開くというような、奇蹟だったと思います。 私は反省的瞑想(めいそう)というものを、ずいぶん教えたつもりです。つまり、禅定(ぜんじょう)して心の曇りを一つ一つ晴らしていく。言いかえれば自分の心の中の間違いを、一つ一つ反省していくと、心の中の曇り、霧というものがだんだん、さーっと晴れていく。そして視界が開けていく。こういうふうになっていく。そして、どうなるかというと、あの世の世界との通信が可能になる。したがって、自分の守護、指導霊と話ができるようになってくる。 まあ、こういうことを説いて、実際その通りの現象が起きてきたわけです。それも、一人や二人ではなくて、何百人という人が心の窓を開いて、自らの守護、指導霊と対話ができるようになったわけです。これは一つの奇蹟だったわけですね。 4.反省的瞑想による釈尊の悟り 実際は釈尊が今から二千数百年前に、インドの地において言ったことも、これと同じであったわけです。釈迦の悟りというのは何かというと、結局のところ彼自身六年間、出家をしてから六年間、道を求めて努力したわけですが、その間に、彼はずいぶん反省的瞑想ということをやりました。自分が生まれ育ってから二十九歳までの間に、はたして曇りをつくったか否(いな)か。はたして自分は間違いをしなかったかどうか。はたして自分は他人を生かしえたかどうか。こういうことを釈尊は二十九歳から三十五歳まで、あるいは三十六歳と言ってもいいけれども、それまで一つ一つ反省していったわけです。 そして彼は、そうした反省を重ねていくとともに、次第に自分の心の中が澄んできて、そして霊的な眼がだんだんに開けてくることを、感じ取ったのです。そしてだんだんとあの世の霊たちの通信というものを受けやすくなってきたのです。 しかし、ある時はあの世の霊たちの話を受けることはできても、また別の日には受け取ることができない。こういうことがあったわけです。なぜそうなったか。それは、悟りというものが、一挙に手に入れられるものではなかったからです。いったん悟り得たと思ったものであっても、また日々の生活の中に、一日二十四時間の中にさまざまな人との出会いがあり、さまざまな葛藤(かっとう)があれば、それでまた、心に曇りをつくっていく愚かな存在が人間であるからです。 そういうことで、釈尊といえども出家して六年の間、過去を振り返りました。しかも現在の中にもさまざまな苦悩があり、その中において日々自らを正していくという必要があったわけであります。それが彼の修行でありました。そして彼は、やがて自分自身の過去の誤り、過ちというものを一切合財(いっさいがっさい)清算して、一切の執着から離れて、いわゆるブッダ、悟りたる者となったのです。私が生きていた時に、皆さん方に教えたことも、この釈迦の悟りの現代版であったわけです。 ところが一人一人の人が、釈迦のような、やはりそれだけ高い霊格を備えた方ではありませんから、いったん霊道を開いても、その後いろんな形で、おかしくなっていった方が多いと思います。 私がいた時に霊道を開いて、守護、指導霊と通信できた者であっても、私が地上を去って十年間、今だに正しい心でもって、守護、指導霊と交信を続けていられる方というのは、非常に稀(まれ)であろうと思います。それだけ厳しいんですね。 というのも私自身、生前はどうやって心の曇りを晴らして、あの世の人たちと話ができるようになるかということは教えたんですけれども、その維持、あるいはその心の発展、悟りの発展ということに関して、まだ十分でない点があったからです。それについて、さらにそれを詰めて話をしていく必要があると感じている現在です。 5.わが教えで心の窓を開いた人びとへの警告 さて、いったんある程度の悟りを得て、その結果心の窓を開いて、パーニャ・パラミタ、すなわち心の奥底にある宝庫、宝の蔵を開いた方がたであっても、その後、十年の間でなぜおかしくなっていったか。この点について私は自分がやったことの責任をとる意味でも、正しいやり方というのを教えていかねばならぬと思うのです。 まず、いったん心の窓を開いて霊的な能力を持った方でいちばん危険なのは、自分は特殊な人間だと思うことです。自分が優れた人間だと思うことです。あるいは、すぐさま自分が神仏の使者であると思い、あるいは教祖のように自分自身を高く思ってしまうという危険があるということです。 まあ実際平凡な人から見れば、心の窓が開いてあの世の霊たちと話ができるような状態というのは、まさしく奇蹟であり、あるいは釈迦かキリストかと思うような面もあろうかと思います。 しかし、これが一般人にとっていちばん危険な落とし穴なのです。まず心の窓を開くまで、反省的瞑想を行って自分の心の中の間違いを正していくでしょう。 たとえば、怒りや、妬(ねた)み、嫉(そね)み、愚痴(ぐち)、足ることを知らない欲望、異性への間違った執着。あるいは金銭、金銀財宝への飽くなき欲望。立身出世欲。こうしたものでもっては、本当の意味で悟ることができないということに気づき、こうした間違いを一つ一つ、取りのぞき反省したとしても、それで一定の心の境地、「アラハン」と言いますけれども、アラハンの境地に達したとしても、人間は、これより先に一歩進めることが非常に難しいわけです。一歩進めるよりも、むしろ転落することを防ぐという方法自体が非常に難しいということなのです。 6.霊能力者の多くが転落しやすい理由 なぜなら、あの世の霊たちと話をするようになると、だんだんに人間はその霊たちの声を信じ、盲信、狂信をしていくようになるからです。あの世の霊たちといっても、さまざまな生き物があの世には住んでいるのです。そして、私が今いるような九次元世界というものは、この地上をはるかに去った、高い次元であって、あなた方地上に生きている人たちの、日々の生活に対して、あれこれと話をするということは、ごく稀(まれ)なわけであります。 しかし四次元世界、つまりあの世の世界でも、低次元の世界の住人たちというのは、まだまだ、このあなた方が今生きている三次元世界に対する執着というものが、十分なくなっておらんのです。 そういうことで、三次元の中の人間に、あの世のことについて非常に関心、興味のある人を見い出したならば、彼らにちょっかいを出して、何とかして彼らを思うがままに操(あやつ)りたいという欲望を持っておる人間が、うじゃうじゃとおるのです。 ですから、いったん心の窓を開いた方も、あの世のよからぬ霊たちに十中八九惑(まど)わされていくのが常であるわけです。それは単なる平凡人だけのたどる道ではありません。如来(にょらい)や菩薩(ぼさつ)と言われるような方であっても、この地上に生まれると、そうした危険があるのです。たいていの新興宗教の教祖たちはそうです。 心清きままで、あの世に還ってきた人もいるけれども、大部分の人たちは自分が心の窓を開いて、あの世の霊たちと話をしているうちにだんだん増上慢(ぞうじょうまん)になり、うぬぼれて、そして転落していくのが常であります。 ましてや教祖になるまでもない通常人にとっては、いわんやということです。 したがって、まず心の窓を開いた場合の正しい心境維持、あるいは転落しないための防止法というのが必要であろうと思います。それは次にあげる三つの点です。これを地上の人たちは、とくに注意していただきたい。 7.転落防止法の第一点―謙虚に努力する姿勢があるかどうか 第一点は自分を偉い、偉いと思う方向に、その霊たちが心の中に語りかけたり、導いておるのか。それともお前はもっともっと、まだまだ謙虚に自分を磨いていかねばならんという方向にあの世の霊たちが指導しておるかどうか。これをよくよく見極めなさい。これが第一点です。 すなわち日々謙虚に自分を磨いていくという姿勢、これを失わないということです。これは毎日毎日のことです。自分が偉くなったと思わずに、如来や菩薩になったと思わずに、毎日毎日、目が開(あ)いたら、その時に自分が生まれたのだと思って、毎日毎日、新しい自分の人生を始めていくことなのです。 私は生前、あの世の階層についてずいぶん話をしました。この地上を去った世界には、ヒエラルキーといいますが、明らかに霊的な階層があります。それは事実です。厳然たる事実であります。 四次元には幽界という世界があり、五次元には狭義の霊界という世界があります。六次元には神界つまり、神様と言われるような優(すぐ)れた高級霊の世界があり、また七次元には、さらに大きな使命を持った方がたのいる菩薩界という愛と慈悲の世界がある。あるいは八次元には如来界という地上のりーダーたち、あの世のりーダーたちの世界があり、九次元には太陽界あるいは宇宙界という、要するに枚世主(メシア)たちの世界があるということを、私は説いてきました。しかし、こういう世界かあるということは、生まれてくる前のあの世の地位が、この世でそのまま通用するということではないんです。 たとえば、自分が如来界から生まれてきたからといって、人生の現時点において、如来の悟りに達しているかといえば、そんなことはない。そういうことはあり得ないことです。昔がどうだったとか、未来がどうだとか言う前に、現時点の自分の悟りが、如来の悟りか、菩薩の悟りか、神界の悟りか、これによって人間は違うのです。 たとい如来の悟りであるとしても、今日一日いろいろな人と諍(いさかい)を起こし、心に乱れをつくった以上は、もはや如来ではないのです。 こういうふうに一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬の悟りであるのです。それほど人間の心というものは揺れていくものです。心の針というのはそういうふうに、あの世のどちらの世界へも向いていくものなのです。これを一念三千(いちねんさんぜん)といいます。天台大師が昔中国で説いた教えです。人の心は一念三千、思えばすなわちいろいろな世界へ通じていきます。良い方へも悪い方へも通じていきます。 8.自分の心がガラス張りだと思ってはじめて反省ができる よく自分自身の心に手を当てて考えてみなさい。一日のうちにどれだけ悪いことを考えてきたか、どれだけ地獄の方へ心が向いてきたかということを、よくよく考えてみなさい。たいていの人は、恥すかしくなるはずです。 この意味が分からなければ、自分の心をガラス張りだと思って、自分の心の中をすべて人に読まれているとして、恥ずかしくない自分であるかどうかを自問自答してみなさい。それが反省の基準です。 反省というのは結局、自分の心がガラス張りだとして、他人様から全部見られているとして、そして今日一日を振り返った時に、恥ずかしくない自分であるかどうかです。それが反省なんです。私は生前あなた方に、毎日反省せよと言いました。反省の基準は何か。結局、ガラス張りの箱に入った自分の心というものを見つめて、すべての人から見られて恥すかしくない自分かどうかをよく考えてみることです。その点を忘れないことです。 ガラス箱の中のように自分の心が見えるということが、善意なる第三者の立場に立つて、自分自身を見つめるということなんですね。まあこういうことで、まずいちばん大事なことは、日々自分を磨いていこうという姿勢、これを失った時に転落が始まります。偉い偉いという方向に自分が行ってはいけないということです。たとい本当に偉くとも、本当に如来や救世主のような悟りを持った人であっても、それを日々続けなければ意味がないのです。 9.光の大指導霊であっても、一歩間違えば地獄に堕ちる かつてルシフェルという七大天使の一人が、天上界にいたのです。彼が地上にサタンという名で生まれ、そして欲望のままにこの世を生きていって、死んであの世で地獄に堕ち、そして地獄の魔王になりました。そうした強大な力を持った光の大指導霊であっても、一歩間違えば地獄に堕ちてしまうような厳しい試練の揚が、この三次元世界であるのです。 そうした方でも地獄に堕ちるのですから、ましてや平凡な人たちは、心の窓を開いて自分の守護霊と話ができるようになったくらいで、有頂天(うちょうてん)になってはならんのです。こういうことです。有頂天にならず、日々自分を磨いていくことです。 10.転落防止法の第二点―他人への愛があるかどうか 二番目の注意点は何かというと、結局自己愛でなくて、他人への愛があるかどうかです。まあ自己愛といって自分自身を大切にすることはもちろん、大事ですよ。ただ、たいていの人間はね、一日のうち自分のことばかりしか考えておらんのです。真に他人のことを考えていないのです。他人のことを考えるといっても、人の噂話(うわさばはし)とか、ゴシップであるとか、だれそれが失敗したとか、偉くなったとか、こんなことばかりを考えておるのです。 そうではなくて、縁あって人生の途上で自分に出会う人たちに、どれだけの愛を投げかけることができるか。どれだけの慈悲を与えることができるか。どれだけ彼らを導き、彼らを救うことができるか。彼らを生かすことができるか。こういう観点で見ていくことが真の愛なのです。 ですから二番目の注意点は、その愛でもって日々生きている自分かどうかということをよーく考えること。これが二番目です。第一番に謙虚に努力する姿勢。二番目に他人に対する愛というものを失っていないかどうかです。 11.転落防止法の第三点―人格が高まっているかどうか 三番目の基準があります。この三番目の基準というのは、人間として要するに人格が高まっているかどうかです。霊的な世界にどっぶり浸(つ)かっていた人は、ともすればだんだんおかしくなっていきます。 私が死んだ後にもさまざまな混乱がありました。GLAの中で、霊能者が数多く出たわけですが、霊能だけ持ってしまって、そのコントロールをできない人たちがいろいろな混乱をつくっていきました。そしてお互いに罵(ののし)り合うようになりました。「あいつにはサタンが入っている」とか、「いや、サタンが入っているのはお前自身だ」とか、いろんなことを言い合いました。自分に都合が悪いのは、皆サタンになってしまいました。 なかにはサタンが入っている者同士が、お互いを攻め合って「おまえがサタンだ」、「いやおぬしこそサタンだ」と、こういう馬鹿なことを言い合って権力争いをしておりました。まあこれは、地獄であるのです。 実際の地獄でもサタン同士で「わしの方が偉い」と言ったり、「お前は偽物(にせもの)で、わしこそ本物のサタンだ」と言って、威張(いば)り散らしておるようなサタンがいっぱいおりますけれども、こういうのが生きている人間に入ると、わしこそ本物と言って、争うわけです。 まあそういう人を常識人の目で見ていると、言っていることと行っていることがおかしいのです。 あるいは天上界から啓示を受けたとかいって全員でカナダに移住してみたり、そんなことをする馬鹿がいる。あるいは富士山が大爆発するから逃れよと言いだしたり、こんなことを言う馬鹿な人間がいます。また別の人は、昨日もUFOに乗って他の天体に行ってきたところだとか、こんなことを言うのが出て来ます。盲信、狂信です。大変ひどいものです。 12.偉大な霊能力を持ちながら、高い人格者として生きていくことを目指しなさい ですから、とくに霊的能力に目覚めた方がたというのは、一歩下がって自分自身を見詰める必要があるので、自分はそうした霊的な能力というのを否定し去っても、何か後に残るかということですね。それを否定し去り、のぞき去った時に健全なる人間として、生きていけるかどうかです。あるいは社会人としてまともに仕事をしているかどうか。こういう基準があります。これをとくに気をつけなさい。 まあ神通力(じんつうりき)と普通言われているもの、霊的能力の中にも神通力と称されるものがあります。これは私も『人間・釈迦』の中で説きましたけれども、神通力の中にはいろいろなのがあって、たとえば、「天眼通(てんがんつう)」といって霊眼ですが、霊視ができるようになる。あるいは「天耳通(てんじつう)」といって、霊聴ができる。あるいは「他心通(たいしんつう)」といって、読心力ですね、人の心が読める。また、「神足(しんそく)」といって、神様のように、あっちこっち飛んで歩ける。つまりテレポーションですね。幽体離脱(ゆうたいりだつ)ができる能力もあります。あるいは「宿命通(しゅくめいつう)」といって、人の過去・現在・未来を見通す力、こういうものがあります。 こうした五大神通力の上に「漏尽通力(ろうじんつうりき)」というのがあります。これは、この世の中で通常人とともに生活することができる能力。偉大な霊能力を持ちながら、通常人と同様に仕事をし、偉大なる常識人としても、生きることができる能力。これが漏尽通力です。これがいちばん難しいのです。霊視ができたり、霊聴ができることはたやすいことなのです。これより、もっと難しいのが、要するにこの漏尽通力なのです。 この偉大な能力を持ちつつ、常識人として、偉大な人間として、高い人格者として生きていけるかどうかということです。これが努力の目標なのです。 13.ニュートン、スエーデンボルグ、ダ・ビンチの漏尽通力 では漏尽通力を持つ人は、どのような人がいますか。考えてごらんなさい。 たとえばニュートンがいます。物理学者であり、天文学者でもありました。科学者です。近代の、このニュートンという人が、今、九次元にいられる方で、たとえばクート・フーミーという名でも呼ばれている方でもありますけれども、この人自身、もともとは救世主的素質を持った方なのです。そして科学者として生きた以外に、彼はずいぶん霊的な体験もし、霊的な研究もしておりました。けれども、そうしたことにはまったく無頓着(むとんちゃく)のように装(よそお)いながら、この世的に立派に成功した方です。物理学者として超一流、科学者としても一流、そして彼は勤めもしておったですね。造幣局(ぞうへいきょく)の長官というような仕事、お役人までしておりました。それでも平気でしたね。これは漏尽通力の最たるものです。 スエーデンボルグという人もいました。まあこの人も五十何歳になってから後、霊界探訪記をいっぱい書いていますけれども、それ以前にも本当は彼は霊的能力を持っていたんです。ただ、この世的にはそうしたことを発揮しないで、彼は万能の天才の如く生きていきました。こういう能力ですね。これも漏尽通力です。 あるいはルネッサンス期の天才、レオナルド・ダ・ピンチのような人がいます。彼も霊能力は持っていたんです。そして、あの世の霊たち、つまり私たちと話をすることができたのです。けれども彼は、絵画を描き、さまざまな設計図を描き、さまざまな発明もした万能の天才です。偉大なる常識人であり、だれが見ても、そういう人でもあったのです。こういう能力を持ちながら、また私たちと話をしておったのです。ダ・ピンチというのはガブリエル、大天使ガブリエルの生命体の一部です。そういう人が出ました。これだけの力を持っているのです。 ですから皆さん、霊的能力を持って、それに振り回されてはいかんのです。それを振り回すことが大事であって、うまーく使うのです。こういうことをやっていかねばいけない。 14.霊道を開き人格者となった人びとが各界で活躍することが、救世の原理につながる まあ本日は、救世の原理ということですから、人類救済の原理についてまとめますと、私はこうした心の曇りを取りのぞいて、反省して、真実の霊能力を持った人びとが、より多く出ることが必要だと思います。そして、あの世の守護、指導霊たちと交信ができるようになることが重要です。あの世があり、それを知ることによって正しい人間の生き方というものを、本当に学ばなければいけないということを知らす意味で必要なことと思います。 ですから心の曇りを晴らして、そして霊道を開き、しかも人間としても向上していくような、今、言ったような諸点を十分反省しながら、生きていくような人が数多く出ることが、やがて救世の原理につながると思うのです。一人、二人では足りません。いろいろな方が出ることが大事です。それが一つの原理だからです。法則だからです。 そして、そうした人たちが霊的におかしくなってしまわないで、偉大なる人物として各界で活躍することが、すなわちニュートンや、スエーデンボルグや、あるいはダ・ピンチのように活躍することが、一つの大きな救世運動となっていくと思うのです。それはあなたにも、あなた方一人一人に、また読者の一人一人にとっても可能なことなのです。可能な道なのです。そういうことを実証していきましょう。まず実証することが大事です。そしてより多くの人たちを目覚めさせていくことです。 まあ、そういうことを中心に今日は話しましたけれども、やはりあの世との通信が確かにあるんだということを、皆さんに体験してほしいと思います。それは可能なことなのです。程度の差はありますが、だれにも可能なことなのです。その正しいやり方を、どうか学んでいってほしいと思います。以上で、今日の私の話を終えます。
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目次 1.この百年を振り返る 2.私たちの霊界通信は、全世界に広がってゆく 3.二十一世紀の霊文明をつくるため、今後、花壇のごとく宗教の花が咲こう 4.あなた方は、向日葵のような大輪の花を咲かせなさい 5.第一の警鐘 ― 霊的世紀の出現 6.第二の警鐘 ― 今後二十年間の世界的戦乱 7.第三の警鐘 ― 結婚制度の危機 8.新しき時代に、新たな結婚観の確立が必要である 9.イエスが、もし結婚していたならば、ペテロの立場に立ったかもしれない 10.第四の警鐘 ― 日本一の秀才が心の教えを説く時代の到来 11.第五の警鐘 ― 政党制度の崩壊と宗教政治家の出現 12.今後、宗教政治家たちが時代の主流を成していくようになる (一九八六年十二月十七日の霊示) 1.この百年を振り返る 今日は第5章ということで、「新しき時代への警鐘」というテーマで、お話をしたいと思います。今、まさに時代は、二十世紀がまもなく終わらんとしています。私が霊言をしている今日は、一九八六年十二月の十七日ですが、まもなく一九八七年になり、そして、すぐに一九九〇年、二〇〇〇年となっていきます。私の書物を読む読者の多くは、おそらく二〇〇〇年という二十一世紀への扉を開ける音を聞くことになるであろうと思います。 多くの人たちは、二〇〇〇年以降、二十一世紀にどのような世界が開けていくかということに対して、ひとつの不安と、ひとつの希望を抱いていることでしょう。だれもが、まだ経験したことのない世界ですから、そういう気持ちを持つのはあたりまえだと言えます。 二十世紀という時代は、目まぐるしく移り変わってきました。たとえば、今世紀のはじめには、飛行機といっても、まだ、プロペラをつけたグライダーのようなものが飛んでいたにすぎません。そんな時代であって、まあ、ある意味では平和な時代であったと思います。それがいつしか、超音速のジェット旅客機が飛び、月へ、また、他の星へと人類が旅行する時代となった。一方では、コンピューターが花盛りの世界です。あるいはまた、戦争ということを例にとっても、かつてなかったような潜水艦のなかにミサイルが埋め込まれて、全世界を航行しています。地球の周りは人工衛星が飛び交っている。その数がいくつかも知れないという。こういう時代なのです。 この百年間には、こうした時代的風景、背景があります。ですから、この百年間の移り変わりの激しさを見れば、今後の百年に一体どのような世界が開けてくるか。まさに、人びとの想像を絶するものがあろうと思います。しかし、私の書物の読者となる皆さんの子供たち、孫たちは、必ず、そうした時代に突入していくのです。 さて、一八八六年という百年前を振り返って見るならば、どういう時代であったでしょうか。日本では、明治 ― 明治も半ばになっていたでしょうか。大日本帝国憲法が発布されて、内閣制度が発足した頃であっただろうと思います。明治天皇の名のもとに、日本国民が古い封建制を脱して、新たな時代を築いていこうとする、そういう時代でありました。一方、アメリカでは、その二十年前には、南北戦争が終わり、平和な合衆国づくりということで、人びとが力をあわせていった頃でありましょう。 また、ちょうど百年前頃というのは、近代のスピリチャリズム、心霊主義というものが、かなり出てきた頃でもあります。すなわち、さまざまな形での霊界通信のようなものが、アメリカ、あるいは、イギリスなどで行なわれはじめ、そうしたことが、ジワジワと人びとの間に知られはじめました。そこで、近代科学の台頭と時期を同じくして、スピリチャリズム、心霊主義が芽を出してきたという、その奇妙な一致というものに、人びとは目を向けねばならぬと思います。 2.私たちの霊界通信は、全世界に広がってゆく かつて、外国でもたくさんの諸霊たちが通信を送って、それが、現代の日本にも翻訳によって伝えられてきてはおります。現在、日本で、さまざまな形で伝えられている霊界通信の仕事というものは、やがて全世界に広がっていくでありましょう。それはすなわち、二十世紀の後半の日本というものが、世界の霊的磁場の核となっていくからだと言えます。中核だからです。こういう中核のところに、中核の時代に、まさしく私たちが、たたみかけるような形で通信を送っているわけです。 現代の人びとは、まだこの通信の意味をほんとうには理解していないでしょう。単にあの世という世界があって、そういう世界から、こういう世界があるんだよということを、生きている人たちに伝えているだけのように感じるかもしれません。しかし、この時代に私たちが送り続けているメッセージは、そうした現代というような時代を通り越して、五百年後、千年後、二千年後の人びとに対するメッセージでもあるわけです。 私たちの仕事は、やはり現代という時代を無視しては進むことはできないのです。現代及び、ここ十年、二十年という近い未来の人びとをまず救えなくて、千年後、二千年後の人びとだけを救うということは、あり得ません。現代において埋もれてしまう仕事が、後の世の人びとに残ることはないのです。 イエス・キリストのように、マイクもなく、テープレコーダーもなく、テレビもなく、印刷技術もない時代に神理を説いた人間の言葉が、二千年後も残っております。まして、あなた方は、このような印刷時代に生まれ、マイクも、テープもあり、さまざまな形で後の世に残せるような現代に生きているのです。ですから、私たちの教えというものも、いろいろな形になって、かつてなかったような正確な形でもって、後世の人びとに残されていくはずだと、私は信じております。 さて、そうした視点に立って、今、霊天上界にある内村鑑三が、地上の皆様にお伝えせねばならぬこととは、一体何でありましょうか。私は今日、この新しい時代への警鐘ということに関して、五つの柱を立てて、お話をしたいと思います。これから順番に、その五つについて述べていこうと思います。 3.二十一世紀の霊文明をつくるため、今後、花壇のごとく宗教の花が咲こう まず、新しき時代への警鐘の第一番目の柱となるものについて、お話しましょう。先ほど、私が簡単に述べたこととも関係しますけれども、これからの二十一世紀は、まさしく霊文明の時代となるということです。ちょうど昭和六十一年の現代日本を見ると、マスコミのなかで、さまざまな霊的なことがらが取沙汰されていることもあり、静かに霊界ブームが起きつつあると言えます。 いろいろな出版社から、「霊」に関してたくさんの出版物が出されています。ところが、人びとは、まだそのほんとうの意味を知りません。あなた方、神理伝道の旗手である皆さんでさえ、さまざまな人たちが、いろいろな霊現象、霊的なことを書き、それが確かなブームを起こしているということを、まるでよそごとか何かのように見ているようです。しかし、これは、決してよそごとではないのです。 ある人が以前にたとえ話をしたようですけれども、ひとつの時代というものは、たとえて言えば、大きなひとつの「花壇」のようなものだと言えます。ひとつの時代をつくるためには、花一輪ではつくりえないのです。 花壇をつくるためには、いくら素晴らしい花があったとしても、それ一輪だけでは花壇になりません。花壇は、いろいろな種類の花がたくさん寄せ集まってはじめて、できるのです。コスモスの花もあれば、芍薬(しゃくやく)の花もある。鳳仙花(ほうせんか)があれば、蒲公英(たんぽぽ)もある。向日葵(ひまわり)もあり、董(すみれ)もあり、たくさんの花が集まってはじめて、花壇になるのです。花壇として、ひとつのまとまりというものができていくのです。 時代をつくるということも、花壇と同じです。現代という時代、これからの未来、すなわち、ニ十一世紀をつくっていくにあたり、その時代環境をつくりあげるために、さまざまな花が必要となります。そのなかには、花でない雑草も咲きましょう。このように霊文明がだんだん発展してきている時代であるならば、花ではない雑草や毒草も混じるのはあたりまえです。すでに、そうした雑草や毒草が咲きはじめているとも言えます。 しかし、あなた方は、そうした毒草を、善悪の「悪」として、決めつける必要はありません。むしろ、そうした雑草たちは、あなた方の花がほんとうに素晴らしいものであることを証明するために出ている反面教師だと思うべきなのです。 すべての人が霊的なことを語って、それがすべて正しいことで百人百様であったならば、人びとは、何がほんとうで、何がちがうのかがわかりません。何がいちばん高くて、何が高くないのかもわかりません。すなわち、そのために、雑草や毒草があるのです。非常に偉大な芸術として、時代をつくる芸術として、さまざまな工夫が凝(こ)らされているのです。 ですから、雑草も生(は)えましょう。毒草も生えましょう。しかし、そうしたものは、ひと夏過ぎれば、やがては、枯れていくのです。神様というものは、花壇に雑草が咲いたからといって、それをすぐ取り除こうとはされません。それでもやはり、雑草は、やがて枯れていくでしょう。それを、神様は、見ておられるようです。あなた方の花が、たとえば、向日葵のようにニメートル、三メートルにもなるような偉大な花であるならば、雑草のことを気にしなくても、きっとあなた方は立派にやっていけるはずです。 4.あなた方は、向日葵のような大輪の花を咲かせなさい ですから、今の時代環境というものを眺めた場合に、雑草とか、毒草にとらわれずに、大切なのは、向日葵(ひまわり)のような大輪の花を咲かせることです。あなた方には、そのために、注力してほしいと思うのです。丈が三メートルもある向日葵。その直径が三十センチもあるような大きな向日葵の花を咲かせてごらんなさい。どこから見たって、見えます。人びとが、その向日葵を見たときに、その下に生えている小さな雑草のことなどを気にするでしょうか。気にしないはずです。まさしく、そういうことでいいと思います。 現代のこうした時代のなかには、まちがった宗教が百花繚乱のごとく蔓(はびこ)っているようです。あなた方からすれば、なぜ、そうしたまちがった宗教が、何十万人もの会員を集めたり、場合によっては、何百万人もの会員を集めるのか、不思議でしかたがないと思います。しかし、それとて、ある意味では、あなた方を目立たせるために仕組まれたことでもあるのです。すなわち、雑草の生い茂っているなかに、しきりに大きな向日葵が咲くからこそ、人びとは、時代を突出したあなた方の教えの大きさというものがわかってくるのです。そういうことなのです。ですから、悪しき宗教が蔓(はびこ)ってはいても、彼らは彼らなりに、反面教師として、時代をつくっているのだということを忘れてはいけません。 雑草が生い茂るというのは、だいたいが夏なんです。夏を示している。冬には、雑草は生えません。もちろん、いい花も咲きません。夏には、素晴らしい花が咲きますけれども、同時に雑草も蔓るのです。そこで雑草、雑草ということにとらわれずに、ひとつの夏という情景をかもし出すために雑草もまた、生えているのだと考えてごらんなさい。コオロギが鳴きはじめる頃になれば、やがて陰を潜めていくはずです。 5.第一の警鐘 ― 霊的世紀の出現 これからの日本を見るに、今後百年間、宗教ブームの心霊の時代、霊的な時代というものが開けてきます。かつてなかった規模で、かつてなかった質で、霊的時代が幕を開けてくるはずです。新しい時代への第一の警鐘ということで、そのことを預言しておきます。そうしたなかで、人びとは、一時期、混乱をするでしょう。真実の教えと、そうでない教え。そのどちらにつくかということで、混乱するはずです。すなわち、あなた方が説いていく教えと、ほかの新興宗教が説いている教えのなかにちがいがあるため、どちらが正しく、どちらに付くべきかがわからなくなることもあるでしょう。 しかし、恐れることはないのです。向日葵のように、どんどん背を高くしていきなさい。そうすれば、どこから見てもわかるような、あなた方の教えとなっていくはずです。雑草と同じくらいの背丈であればこそ彼らがいると困るのです。ですから、そうではなくて、雑草にとらわれずに、もっともっと大きく伸びていくことです。それが大事です。 6.第二の警鐘 ― 今後二十年間の世界的戦乱 第二番目の警鐘です。今の霊的な時代ということとは裏腹に、とくにこれからの二十年間ぐらいの世界というものは、全世界的に戦乱の渦のなかに巻き込まれていくでありましょう。この戦乱の背後にあるのは、もちろん、米ソという二大強大帝国、こういった二大の勢力が背後にあります。しかし、主としてこの大きな勢力ということ以外に、思想、信仰、宗教、イデオロギー、こうしたもののちがいというものが、徹底的に争われる時代が、これからやって来るでありましょう。そして、宗教というものを中心として、ひとつの坩堝(るつぼ)のような現象、時代現象というものが起きると思います。 これから、二十年間、全世界にさまざまな戦乱が起きていくわけですが、その背後には、必す宗教があります。はっきりとした争乱が起きるのは、まず中近東です。ここには、現在マホメットの教えがありますが、すでに、さまざまにその教えが、形骸化しておかしくなってきています。この中近東あたりで争乱が起き、また、キリスト教国と共産王義国、唯物論の国との間に争乱が起きていくでしょう。このように、宗教というものをひとつの基点として、大きな混乱が起きていくはずです。 しかし、私は、世の人びとに知ってほしい。そうした争乱を見て、人びとは、宗教とは何と恐ろしいものだろうと深く胸に刻むことになりましょう。しかし、これは、宗教の怖さを知らしめるために、そうした戦争が起きていくのではないのです。 すなわち、そうした時代の坩堝のなかに、宗教というものを投げ込むことによって、やがて精錬した素晴らしい金属というものを取り出すために、純金を取り出すために、坩堝のなかにいろいろな宗教が投げ込まれるのです。そのことを、あなた方に知っておいてもらいたいのです。 今、私たちの世界から霊的な目でもって、この地上を見ると、大きな、大きな神の坩堝というのが見えます。直径が何百キロも、何千キロもあるような大きな坩堝。霊的な坩堝が見えます。その下に、たくさんの薪がくべられています。神の使いがそこへ行って、ふいごで、一生懸命息を吹きかけて、火を燃やしています。そして、この坩堝のなかに、やがてさまざまな宗教が投げ込まれていきます。回教、つまり、マホメット教もある。かつての仏教も投げ込まれています。ユダヤ教も、儒教も、すべて投げ込まれていきます。それから、ここ百年ぐらいに起きた、いろいろな新興宗教も、すべてこの坩堝のなかに投げ込まれていくんです。 なぜ、そんなことをするのか。もろもろの金属は融けて流れてしまっても、純金だけは残るからです。すなわち、純金を残すために、今、こうした宗教の坩堝のなかに神様が投げ込もうとしているのです。 ですから、今後二十年近く、宗教を基点として、世の中にさまざまな争乱というものが起きていきます。けれども、この争乱ということを、あまり重視してはいけません。これは今、坩堝のなかで、グツグツと煮られて、真なるもののみが残るように、今、焚きしめられている、煮込められているのだと、こう考えねばなりません。これが、私の二番目の警鐘であります。 7.第三の警鐘 ― 結婚制度の危機 三番目の警鐘です。これからの時代というものは、男女のモラルというものを、もう一度取り戻す時代がやってきます。 今、日本でもそうでありますが、とくにアメリカのような、自由の国でもそうです。男女のモラルというものが、非常に失われて、性道徳の乱れがあります。それだけではなく、健全な家族生活を送っていくということでさえ、むずかしくなってきています。結婚したカップルの二組に一組は離婚するとも言われています。 いろんな人が離婚し、そしてまた、再婚する。くっつき、離れ、さまざまなことをしています。これは自由主義の国アメリカだけにかぎらず、日本はもちろんのこと、広く世界各国に見られてきた現象です。無神論者の国ソヴィエト連邦においても、やはり離婚の率は急増しています。 また、日本においても、私が、最近聞いたところによると、五組に一組ぐらいが、カップルを解消すると言います。いずれアメリカのようになっていくとすれば、西暦二千年頃には、二組に一組ぐらいが、家庭生活が崩壊していくような形になっていくのではないかと思います。 こうした背景を考えるに、結婚ということの持つ聖なる意味、そういうものが失われてきたからだと言えましょう。どこの民族でも、結婚に際しては、神仏、あるいは、神の前で、誓いあうという儀式が残っております。ところが、信仰心が根こそぎに揺すぶられているわけですから、こうした神の前で誓うということが意味をなさなくなってきているわけです。 ところで、新約聖書のなかで、イエス様は、一体どう言っているのかを、人びとは知っているのでしょうか。「神があわしたものは、何人(なんぴと)も、これをひき裂いてはならぬ」と、こういうことを、イエス様は言っておられます。つまり、結婚というものは、生まれてくる以前から決められているものであって、共に魂の半身なのだ、片割れなのだという考えですね。こういう考えがあったわけです。 ところが、人間は、そうした神聖なものの考えというのを忘れてしまった。この世で受けた教育とか、いろんな食生活とか、家庭環境に流されてしまったために、自分の本来の魂の片割れというものと一緒に生活することが、だんだんにできなくなってきた。相手を単なる物質的のものと見るようになって、自分の欲望の対象としてしか見なくなってきている。つまり、人間は、獣的なるものへと堕落しているということですね。こうした現象を見ている神様が、神の似姿としてつくられた人間が、獣のようになっていることを喜ばれるはずはないのです。 ですから、今のままでいくと、二十一世紀には、結婚制度そのものの存続というものが危ぶまれるでしょう。これは、どういうことかと言うと、すなわち、健全なる子孫の繁栄ということが危ぶまれるということです。 すなわち、子供というものは、健全な両親による家庭環境があってはじめて、満足に育っていくものなのです。それなくして、子供の未来、将来というものはないのです。私たちは子孫が繁栄していくことを祈って、この地上に文明、文化を営んでおるのです。ところが、子孫が先細りになっていくのなら、何のために鋭意努力しているのか、これがわからなくなってくるのです。 8.新しき時代に、新たな結婚観の確立が必要である これからの新しき時代においては、結婚というものが、もう一度、神聖なる意味を持つようになってくるでしょう。結婚の持つ神聖な意味での、その意味づけをするのは、まさしく新しい時代の精神主義運動であり、ひとつの宗教革新であろうと思います。すなわち、それは、新たな結婚観の確立であり、提唱であろうと思うのです。 結婚し、夫婦となり、子供を持ち、家庭をつくっていく。これは、どういうことかというと、ひとつの小さなユートピアをつくっていくという考えであると思います。夫婦相和し、子供と一緒に素晴らしい家庭をつくるということは、万人が持っているユートピア建設への義務なのです。 地上の人たちは、概して、結婚というのを権利だと考えがちです。しかし、結婚し、家庭を持って、そのなかで素晴らしい繁栄をつくっていく。これは、権利ではなくて、義務なのです。人間としての義務なのです。家庭が調和されなければ、社会というものは調和されていきません。その意味からも、結婚ということは、ユートピアづくりのための大事な礎石であり、基礎石なのです。土台づくりなのです。こうした観点から、説いていかなければならないと思います。 もうひとつ、今のことに関連して述べるとするならば、今後の時代においては、夫婦の離婚もずいぶん多くなるでしょうが、それ以外にも、独身者の増加というものが予想されます。 元来、独身者というものは、二つに分類できたと言えます。ひとつは、まあ、はっきり言って、相手の異性から結婚の対象として見られないような、そうした男女の存在が一部にはあった。たとえば、生まれもっての不具であるとか、どこかに肉体的な欠陥があるとか、そういうこともあったでしょうが、こうした流れがひとつです。もうひとつの結婚しない流れとは、神理に一身を投げ出す人たちの流れだと思うのですね。こうした流れがあったと思います。 9.イエスが、もし結婚していたならば、ペテロの立場に立ったかもしれない たとえぱ、イエス・キリストは、独身で一生を送りました。そして、三十三歳で亡くなっかこと、十字架で亡くなったことは、皆さんご存知のとおりです。しかし、今、私が言ったように結婚というのは、ユートピアづくりの一歩なのだとすると、イエスはなぜ結婚しないのか、結婚すればよかったではないか、と。まあ、こうした疑問を持つ方がいるでしょう。日本で言えば、ほとんどの人は、二十七、八歳で結婚します。では、あの当時、イエスが、二十八歳で結婚していたとしましょう。しかし、彼は、三十三歳で亡くなった。この五年間、イエスが家庭生活を送ったことによって、人類は、一体どれだけの利益を、どれだけの恩恵を受けたであろうか。この点をよく考えていただきたいのです。 イエスが五年間、二十八から三十三歳までのわずか五年間、世間の常識に従って結婚していたら、どうなったかを、仮定して考えていただきたい。五年間生活をしていれば子供の二人も生まれたでしょう。イエスは、父親となるわけです。父親となれば、どうなるかということです。子供たちを養わねばならない。また、妻を食べさせていかねばならない。そのためには、当然、経済的な自立が必要です。もちろん、家も持たねばならない。家族と共に生活もしなければならない。はたして、これで人類は幸せであったかどうかです。 イエスが家庭を持っていたとすれば、彼は、十字架にかかるわけにはいかないから、この世と妥協したかもしれない。だから、「あなたは、ユダヤ人の王であるか、あなたは預言されているキリストであるか」と言われたとき、イエスは、「いや、そうした者ではありません。私はそうではなくて、単に人びとに、自分の思ったことを教えているだけです。単なるひとりの一教師です」と言っていたかもしれません。そして、もしイエスが、そういう生き方をしていたとしたら、これはどうでしょうかね。いわゆるペテロの立場に、イエス・キリストが立つことになるかもしれない。 ペテロという人が、師が最後に十字架にかかる前に、捕まりました。そのときに、十二弟子は、蜘蛛の子を散らすように逃げました。しかし、いったん逃げたペテロは、やはり心が痛んで、キリストが捕われているピラトの官廷へと忍び込んでいきます。ペテロが、篝火(かがりび)を浴(あ)びて様子を見ているときに、ペテロを見たことがある人は、「お前は、あの人と一緒にいた。イエスと一緒にいた人だ」と詰めよった。しかし、ペテロは、「イエスなど知らない」と言った。三度まで、「知らない」と言ったのです。 実は、イエスは、そのことを事前に、預言していたのです。「ペテロよ、お前は、鶏(にわとり)が二度、ときを告げる前に、三度、私のことを知らぬと言うであろう」と。イエスは、そう預言していた。しかし、ペテロは、「先生、たとえだれか他の人が、あなたを裏切ることがあっても、私には、絶対、そうしたことはあり得ません。一命を投げ捨てても、そんなことはあり得ません」と言い切っていたのです。ところが、ペテロは、やはり鶏が、ときの声を告げる前に、三度、イエスを知らぬと言った。 ペテロは、後になって、そのことで、後悔の涙を流した。実在界に還って来てからも、ペテ口は、主を知らぬと言った自分の不信仰を、ずいぶん長い間、悔いておりました。何で、あんな馬鹿のことをして、歴史に汚名を残したのか、と。ペテロよ汝、呪われん。主を知らぬと言って、自分の生命が、わずか助かるぐらいであるならば、あのとき、ひと思いに捕まって、イエスと共に十字架にかかって死ねばよかった。さずれば、我が名は、永遠に汚れることはなかったのに」と、ペテロは、私たちの世界に還ってから、ずいぶん後悔しました。 「主よ、だれがあなたを裏切ろうとも、私は絶対あなたについて行きます。あなたを裏切りません。あなたの盾となって、あなたを守ります」と言い張ったペテロが、たかだか人びとに、「お前は、あの人と一緒にいた」と言われて、舌の根も乾かぬうちに、「そんな人は知らん」と否定してしまった。そうした人間、肉を持った人間としての弱さを、ペテロは持っていたのです。 しかし、イエスといえども、もし家庭を持ったならば、そのペテロと同じことを、あるいはやったのではないか。そういうことも、考えられるわけです。ところが、イエスは、妻と子供、三人を救う代わりに、全人類を救ったわけです。すなわち、神仏の道に仕える者というのは、独身者であるということが、またひとつの、これは十字架であるのです。独身者であったがために、一身を投げ捨てることになる場合もある。そういう意味で、いつの時代にも、こうしたものはなくならなかった。仏教においても、独身の僧侶がいたし、クリスチャンにおいても、牧師は、そういう人が多かった。あるいはシスターあり、あるいは、尼さんありということであったと思います。いつの時代にも、一定の、こういう人たちがいたことも、また、事実です。 そして、そういう人たちがいることによって、この時代というものが、どこかでバランスがとれているのですね。この世的な人ばかりいる以外に、そうした人里離れたところで、瞑想と祈りの生活をしている人たちがいるということによって、時代が支えられているのです。 ただ、今後予定されている独身者の群れというものは、おそらく性的な楽しみということを結婚を通さずしても得ることができるがために、結婚しないという人たちが増えていくのだと思います。しかし、こうした人たちに対して、結婚の素晴らしさということを説く必要というものが出てくるだろうと思います。これが三つ目の私の預言です。 10.第四の警鐘 ― 日本一の秀才が心の教えを説く時代の到来 四番目の警鐘としてあげたいのは、社会的な制度の変革です。これからの時代において、宗教家のみとは言いませんが、人を導く人たちの地位が、だんだんに向上していくでしょう。今の世の中では、高級官僚、政治家、医者、裁判官といった職業を持つ人びとが、社会的地位があると言われています。実際、そうした人たちは、尊敬を集めています。 しかし、これからの時代には、人びとを導く、心の教えをする人たちが、最高に尊敬される時代となってくるはずです。現在は、まだ、宗教家というと、何か変な目で見られる。新興宗教の教祖というと、変な目で見られる。 こういう時代ですけれども、これからやってくる時代は、そうではない。人びとに、あの世のことを教え、生きる道を教える人たちがほんとうに世の人びとの尊敬を受ける。そういう時代がやってまいります。 ここ数年、たとえば、日本というところを見れば、医者になりたいというひとつのブームがありました。医者になりたい、医者になりたいということで、医者のブームがあって、それで医師の数を増やさねばならなかった。そのために、医者がだんだん過剰になってきて、今や、医師の数を滅らさねばならぬというようなことが検討されているほどです。 そこで、今度は、宗教家になりたい人が増え、それがブームになってくるでしょう。それも、ここ数十年の間に、そういうブームが起きるはずです。 宗教家になりたがる。これは、ある意味では、昔でいうところの出家者ですね。家を捨てて、出家するという形はとらないにしても、宗教で道を歩んでいこう、生計を立てていこうとする人が、今後、つぎつぎに増えてきます。ある意味では、それはありがたいことでありますが、ある意味では、危険なことだとも言えます。 しかし、職業としての宗教家というものが、非常に尊ばれる、貴(たっと)ばれる時代がやってきます。かつて、医者のブームがあったように、我も、我もと宗教家になりがる人が出て来る。現在のあやしげな宗教がいろいろとあるだけではなくて、職業としての宗教家を目指す人が出て来る、数多く出て来る。こういう時代になるでしょう。こういうことが予想されます。 こうしたことも、正しい方向に導くことさえ忘れなければ、大変にありがたいことです。互いに競いあって、そのなかから優れた宗教指導者が出ることは、ありがたいことだし、この世の中に生まれて来た人のなかでも、能力があり、優秀な方がたが神の道を求めるということは、立派なことです。 今までの時代を振り返って見るに、優秀な人が憎侶になったり、優秀な人が牧師になったりということは、数少なかったと言えます。しかし、これからの時代においては、優秀な牧師、優秀な憎侶がつぎつぎに出て来るはずです。これは、ひとつの夜明けであり、ひとつの素晴らしいことではあろうと思います。 今は、たとえば、日本一の秀才は、要するに、官僚になるか、政治家になるか、あるいは、医者になるか、そういうことを競っているようです。しかし、日本一の秀才が、ほんとうに人びとを導く心の教えを説くような、そういう時代が必ずくると思います。そして、あなた方が、まずその先駆けとなっていくでしょう。 ですから、あなた方の動きが、まずその先鞭をつけていくべきだと思います。これが四番目の警鐘です。 11.第五の警鐘 ― 政党制度の崩壊と宗教政治家の出現 新しき時代への警鐘の五番目とは何か。これが最後になりますけれども、何かと言うと、政党制度です。 現在の政治制度のなかには、政党制度というのがあります。日本にも、いろいろな政党がありますけれども、政党制度というのがそうです。こうした政党制度が、ここ二十年ぐらいで崩れていくだろうと思います。こういうアメリカ的な競争主義というのが、ついには、崩れていくはずです。 そして、どちらかというと、先ほど述べた宗数的な人たちがたくさん出て来て、むしろ宗教政治家が台頭してくるでしょう。その宗教政治家の台頭は、グループを組んでやるというよりも、そういう優れた人たちが輩出していって、これからの日本の時代というものをリードしていくようになるはずです。 とにかく、これからの出て来る人材、つまり、日本に出て来る逸材、優秀な人たちは、宗教政治家です。政治的能力を持ち、かつ宗数的神理を知っている人たちが、数多く出て来ます。 ですから、日本のこれからの時代においては、一種の哲人政治となっていくでしょう。すなわち、哲学者、哲人ですね。そういった人たちによる哲人政治というものが成されていくと思います。これは、かつてギリシャの時代に、今から二千数百年前になりますが、プラトンという哲学者によって構想されたことでもあります。プラトンは、哲人王による政治支配と、もっとも聡明な人による政治支配ということ、これが一番まちがいないと言いました。 当時においても、もちろん、民主制度はありました。しかし、プラトンは、そうしたものは、ある意味では、愚民政治であると言った。愚かな人たちが集まって話をするよりは、やはり賢明な人がひとり、指揮命令してやったほうがいいということを言ったわけですが、まさしく、そうした哲人王の政治、それが、今後、はじまっていきます。 長い時代の流れを見れば、哲人王の政治というものは何回もあったのですけれども、どれも長続きしなかったという欠点がありました。その結果として、民主主義制度というようなことが起きたのでしょう。 しかし、これからは、宗教政治家のなかに優れた人が出て来て、かなりの時代、それが続いていきます。そして、そうした彼らが、ほんとうに素晴らしい政治をしていくでしょう。また、実際、それが、ほんとうの意味でのもっとも効率のいい神理の伝道でもあるわけです。 現在、一国の政治の指導者、総理大臣になるには、要するに人気投票であって、得票を集めさえすればなれるといっても言いすぎではないでしょう。すなわち、組織力のある人が、そういうものになっていく。しかし、そうではなくて、ほんとうに神理を知っている人が一国の宰相となっていくべきなのです。そうすれば、世の中、日本全体は、必ず変わっていきます。このように、数多くの宗教政治家たちを輩出していく時代、それが二十世紀後半から二十一世紀にかけての日本を中心とした動きとなっていくと、私は思います。 12.今後、宗教政治家たちが時代の主流を成していくようになる こうしたスタイルが、やがては、諸外国にも及んでいくはずです。すなわち、諸外国にも、宗教政治家たちが、だんだんに出て来るでしょう。そして、これからの百年、二百年の間、それがひとつの時代の主流をなしていくようになるだろうと思います。賢人による政治ですね、これも大事なことなのです。 イエスの時代においても、地上の権力、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に」というように二分して考えたのです。ほんとうは、イエス・キリストのような人が、神の福音を述べながら、この地上を治めれば、それに優ることはないのです。ですから、そういう意味でも、宗教的な素質を持った人が、やがて政治家として立っていくようになるはずです。 あなた方も、やがて、そうした人たちが、マイクを手に、神理の演説をしながら、国政していく姿を見ていくでしょう。それか国単位の指導者でないとしても、地方自治体、県知事であるとか、そうした人たちのなかに、神理を悟った人が出ることによって、世の中は、必ず変わっていきます。世の中全体が変わっていきます。私は、そうしたことを新しい時代の警鐘とします。 新しい時代の警鐘として、五つあげたわけですが、これが、これからの時代であろうし、また、こういう時代がくるということに関して、私が鳴らし得る現時点での警鐘でもあります。
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目次 1.物質文明を軽ろんじてはならぬ 2.心の世界のみ説くなら地上に生まれる要はない 3.カースト制度の廃止のためにも社会改革が必要 4.日本は既に精神革命、インドは未だ社会革命の時期 5.新文明圈はやがてアジアに移動する 6.中国は強力な指導者により革命が起きる 7.私は天上界からインスピレーションを受けていた 8.新たな政治、社会の指導理念を研究課題とせよ (1984年4月30日の霊示) 1.物質文明を軽ろんじてはならぬ ―― マハトマ・ガンジーの招霊を行なう。―― ―― 訛(なま)りのあるインド語らしい言葉で自己紹介がはじまる。――暫時続く――。 善川 マハトマ・ガンジー先生ですか――。 ガンジー ティ――。 善川 突然お招きいたしまして大変失礼だと恐縮しておりますが、あなた様は、近年におけるインドの最も偉大なる指導者として、インドの地におきましても非暴力主義を唱えられ、かつて、イギリスの支配下におかれていたあの苦境の中でも、その信念を曲げることなく、闘い通したという偉大な方でありますが、いま現在、天上界にあられて、どのような霊域でどのようなお仕事をされておられますか。 ガンジー ワタクシハ、イマ、テンジョウカイデ、ヤハリ、シドウシャトシテ、イロイロナヒトビトト、シドウスルマイニチヲ、オクッテイマス。 善川 あなたのお出でになるところでは、どういうお知り合いのお方がおられますか。歴史上に名の残っている方ではどういうお方がお出になられますか。 ガンジー 私の友達は、たとえば、――たとえば、日本の方で言えば、しょうとくたいし、といわれた方、あるいは、あるいは、きんねんではきんねんでは、――ふくざわゆきちといわれた方、あるいは、あるいは、――うえき、えもりといわれた方、なかえ、ちょうみんといわれた方、このように国造りのために働いた人々が私の仲間です。 善川 それは非常に高い霊域でお仕事されていると拝察されますが、あなた様ご在世中に唱えられました非暴力主義という立場ですが、これはあなたの宗教信条から出たご思想ですか。 ガンジー そうです。とともに当時の時勢からいって、武力を持って大イギリス帝国に歯向かう力はわれわれにはありませんでしたので、安易な武力闘争が起きたならば、われわれの、われわれの小勢力は一度で潰されてしまうことも目にみえておりましたので、わたくしは、そういった闘い方を支持しました。 善川 ご承知とは思いますが、日本はアメリカおよび英国と戦争をしてインドの地まで戦禍が延び、かの地がかなり荒廃化したことをどのようにお考えでしょうか。 ガンジー 過ぎ去ったことを、とやかく言うつもりはありませんし、かならずしも日本の方のすべての意でもなかったはずです。やむを得ずして時の流れ、時勢というものもあったでしょうから、だからといって日本がどうということを私は申しません。 善川 当時の日本は゛八紘一宇゛と申しまして大東亜共栄圈の確立ということが大きなスローガンで、アジア民族は一つであるという崇高な理想を挙げたことでありましたが、結局のところ、アメリカの武力のもとに、その夢も現実も撃破されたという結果に終わりましたが、これは、武力をもって戦おうとするものは武力で滅びる、という原理が生かされたというふうに考えるべきでしょうか。 ガンジー 武力で戦ったものが武力で亡びるというよりも、それぞれの国は、それぞれの文化があり歴史があり伝統がありますから、それは守らなければいけないし、そのようなものを破壊してしまうということは、神の眼からみても決して正しいことではありません。許されないことです。 善川 今あなたはインドの政情をご覧になって、今のままでよいとお考えでしょうか。それとも政治については、もうご関心はおありにならないのでしょうか。 ガンジー インドは、インドはまだまだ貧しい国です。私達も努力しましたけれど、まだまだ貧しい国です。あなた方近国の、隣国の人達の援助を受け、もっともっと発展していかなければ、五億の民は救われません。彼らが幸いに、平和に生きていけるように、平和に幸せに、豊かに生きていけるように、物質も――人は物質を軽んじますけれども、特に宗数的なことをする人達は物を軽んじ、さまざまなことを軽んじますけれども、人間は人間としてこの地上に生きている間は、物質なしでは生きていけないのです。そういう意味においてこの地上界を豊かにすること、楽園とすることもまた神の意に適ったことであります。貧しくとも心は豊かであることも一つではありますが、心がさらに豊かになるためには、物質的なくびきによって、われわれが余りにも心を奪われてしまってはいけないのです。そういう意味において、あなた方はいま、新しい「法」を説かれようとしておられますけれども、ただ単に精神的なものだけではいけないのです。それぞれの時代において新しい政治、新しい国家、新しい文化、新しい社会、このような環境の整備なくしては新たな精神文化も生まれて来ないのです。 2.心の世界のみ説くなら地上に生まれる要はない ガンジー あなた方に伝える他の霊達は、心の世界の大切さを説かれるでしょう。しかしながら、心の世界の大切さはもちろん重要ですけれども、心の悟りだけならば、われわれはこの地上に出てくる前に、天上界に居た時に、既に悟った存在でありますから、心清くするためだけならば、この地上に生まれてくる必要はないのです。われわれは悟った生活をしております。天上界で悟った生活をして居ります。そうであるならば、あえてこの地上に生まれてくる必要はないのです。われわれがこの地上に生まれてきた以上は、この地上という環境の美しいものを、素晴しいものを、素晴らしい楽園にしないで一体何の役割がありましょうか。私はあなた方の志しているもの、目指しているものを知っております。ただ言いたいことは、二千数百年前に釈迦が説いたような心の教えを説く、或いはイエスの説いた教えを説く心の教えだけではなくて、今この二十世紀の後半にあなたが生き、また同時代人がこの地球上に生きているという現状を見て、何かをなさねばならぬことも大切です。心の教えは大切です。忘れた時には説かねばなりません。しかしそれ以上に、あなた方の考えておられるユートピアというものは心だけではないのです。 今後、人々は新たな政治のあり方、新たな文化のあり方、新たな社会機構のあり方が分からなくなって居ります。今後の世界、今後の日本、インド、このような国々が如何なる指導原理のもとに、如何なる社会生活を営んでいくのが多くの人々を幸せに、豊かに導いていけるかということ、このようなことを抜きにしては真実の正法はあり得ないのです。ただ悟りだけならば、仏教者や、宗教家達がいくらでもおります。私のなしたことを思って下さい。私がガンジー主義といわれ、私の教えも一つの聖書といいますか、ガンジーの聖書のような形で私の言葉や考えたこと、書き留めたことを信ずる人は多いですけれども、単に精神主義者として、宗数的に人々を指導することだけなら楽なことでありますけれども、私は敢えてこの地上界にユートピア建設、具体的ユートピア建設のために立ち上がった。どちらがよりむずかしいかということを考えて頂きたいのです。単に心の教えだけならぱ、あなたのこんな小さな家に篭って教えを説いていれば良いのです。けれどもそれではいけないのです。あなた方の時代の要請を読みとりなさい。今後の未来の社会、どのような社会を作っていくか人々に教え、自らも行動して欲しい。私の希(ねが)いです。 3.カースト制度の廃止のためにも社会改革が必要 善川 現在インドにおきましてはご承知のように、古いカースト制というものが未だに持続していて、古い仏教なり、古いヒンズー教なり、その他の古い教えがそのまま伝わっているということ、そういう習慣なり、非近代的な風習というものを打ち破らなければ、インドは新しい近代国家として生まれ変われないのではないかと思うのですけれども、それについてのご意見は如何でしょうか。 ガンジー そうです。釈迦の教えによれば、転生輪廻というものがあって、善因、善果、悪因、悪果と申しますか、カースト制度においても現在、貧民階級にいる人達は、かつては悪いことをした、或いは上の方に居て下の人を見くだしたために、今そのカルマを刈り取るために貧民に生まれた。だからこの地上での生まれは必然的なもの、運命的なものだから、それ受け入れようという考えがあるかも知れませんが、考えてもごらんなさい。前世と今世との因果関係からみれば、そういうことは言えるかも知れません。今世においてこのようなカースト制度があるということによって、また来世、今後の世界のために、悪しき因縁の種が蒔かれるということもあるのではないでしょうか。貧民に生まれて魂のカルマを摘み取るということもいいけれども、貧民という階層があるために、新たな魂のカルマをいっぱい生み出している方もまた数え切れないはずであります。 そうではないでしょうか。このような輪廻を断ち切るためには、この地上生活において素晴らしいもの、社会を創っていく。みんなが一致団結して素晴らしい世界を造ったならば、そのような悪しき輪廻も無くなっていくはずなのです。 善川 私達の考えますには、行く行くはもう国家間の枠を外して、共存協和の世界を築いていかねばならぬのではないかと思うのですが、こういう考え方は如何でしょうか。 ガンジー 大切なことです。そして先程語ったことをもう少しつけ加えておきます。仏教の真理によれば、確かに悪いことした人はそれだけの返報(むくい)はくるし、転生輪廻という形においては確かに現在苦しんでいる人達は、過去世の何かを償わされているのかも知れないけれど、それは事実としてそうであるかも知れないということであって、だからあなた方は苦しめというような、そんな冷たい突き放した心持ちであってはいけません。すべての人が、全体がより幸せに、より皆が幸福に近づいていけるように、すべての人が向上できるようにと思うことが本当の神の心であって、単に昔あったことの償(つぐな)いを今せよ、というような発展性のない、単にプラス、マイナス零(ゼロ)、の人生を人間は送ればよいのではないのです。すべてを引き上げていかなければいけないのです。そこを思って欲しいのです。現世において迷っている人も居る。釈迦の転生輪廻もそこに問題があると思うのです。確かに原因があり結果があるのです。作用、反作用という法則も聴いております。けれども、それにおいてプラス、マイナス、零(ゼロ)、の人生をトータルにおいて送ればいいのではないのです。皆がプラスの人生を送れるように、すべての人が、最大多数がより豊かに生きていける方向に持っていくことこそが、真実の人間の生き方でないでしょうか。お前達は悪いことをしたから反省せよ。それでプラス、マイナス帳消しなんだというような小さな教えに止まってはいけないということです。 4.日本は既に精神革命、インドは未だ社会革命の時期 善川 お教えを頂いて非常に有難いのですが、そのためには日本におきましては、明治維新という一つの政治革命の時期がありました。また第二次大戦後におきましても、敗戦によって民主主義がとり入れられたというような大きな変動期を通して発展してきましたが、インドにおきましては、現在の段階において革命的な状況が生まれなければ、この古い制度、古い考え方というものから脱却できないのでしょうか。 ガンジー 神はさまざまな計画をしておられます。このままにはして置かれません。しかし、インドに住んでいる人達の人間的努力というものは大切です。何がどう起こるかということは私は申しません。インドというような地において、地上天国、環境――物質的に、社会的に、国家としての天国を造る道はどういうことかということを、あの地に生まれている人達は、いま体験していかねばならない。そして一歩進んだあなた方の国においては、現に国家はユートピアに近づいてきております。このような国においては、精神的なものをさらに深めていくということも大事でしょう。それぞれの地域によって発展の段階も違います。いろいろな段階があります。 善川 あなた様は現在のインドの政情に対し、誰かその要路にある方に対して、アドバイスをされているようなことはございませんか。 ガンジー そのようなことは、私はしておりません。私はまたこの私たちの世界において新たなことをしておりますし、私達は私達でさまざまなことを学び、またこちらの世界の人々を指導して居ります。 善川 しかし過去世においてインドの地で生を送られたということからして、インドを懐(おも)うということにおいては変わりはないのではないでしょうか。 ガンジー 懐う心はあります。必要とあれば、われらの仲間をまたインドの地に送り込みます。 善川 ご承知のように、日本においては諸派の宗教が入って来て居りますが、宗旨宗派によって人々の日常生活にも、また政治にも拘束力は持っていませんが、インドにおいては、特殊な宗教によって政治形態というものが左右されているのではないでしょうか。 ガンジー それだけではないのです。日本がいま栄えているのは、それだけの人がいま出ているからなのです。それだけの優れた人達が日本を造るために出て来ておるのです。過去世においてさまざまな修行を経た立派な方々がいま日本の地に数多く出ておられるからこそ、これだけ発展しているのです。われらの世界、インドの世界においても、それらの人々が出て来て活躍できるだけの基盤作りをしておかなければいけないのです。そういう優れた魂の方々は、自らが活躍できる揚というものを必ず探すのです。そのような場が出来てきだからこそ、彼らはいま日本にたくさん生まれて来ているのです。彼らはやはり地上の遅々とした進歩を見ながら、漸く進歩してきた頃を見計らい、また生まれてもいいかなと思った頃に出て来るのです。単純に大昔に経験したような社会には生まれては来ないのです。 5.新文明圈はやがてアジアに移動する 善川 そういう意味では中国はじめインド、東南アジア諸国にも新しい光の指導霊が現われて来る可能性もあるのですね。 ガンジー あります。その前には環境づくりをしておかねばなりません。 善川 そのお手伝いを日本はすることになると考えてよろしいか。 ガンジー しなければなりません。やがて文明はアジアに移って来ます。アジアが一大文明圈を作っていきます。その時に日本だけでなく、韓国も、中国も、インドもセイロンも、インドネシアも、マレーシアもすべての国の人達が一つの大きな理想のもとに文化を発展させていかねばなりません。そういう時期がいま、来つつあるのです。 善川 ところがいま、ご承知のように中国では、唯物論の共産主義思想をもったグループが政権を取っておりますが、これらは将来どういうことになりましょうか。 6.中国は強力な指導者により革命が起きる ガンジー やがて新たな政治勢力によって、とって変わられるはずです。そのようになっております。 善川 その時点では、神仏を信ずることを自由とする政治形態が生まれてくるわけでしょうか。 ガンジー 新たに強力な指導者が出て来ます。中国にも出て来ます。そう遠いことではありません。あのような強固な指導体制を作ったのは強力な指導者でした。そしてまたあのような体制を変えていくのも強力な指導者です。そういうものは生まれつきそういう指導者として出て来るのです。新たな計画を持った人が出て来ます。中国の共産主義も無駄ではないのです。あの偉大で広大な土地、何十種族もの人民を糾合するという意味において、非常に大きな役割を果たしたのです。あれは第一段階です。第二段階が出て来なければいけないのです。統一国家には、新しい器(うつわ)には、新しいものが盛られるのです。 善川 インドにも偉大な指導者が現われてくるというご計画がございますか。 ガンジー まず、インドにはさまざまな文化の交流が必要です。文化の交流というのは、文化が栄えるということです。まず文化的にもっともっと高まって行く必要があります。やがて政治がついて来ます。そういう意味において、文化的に優れた人達が多く輩出していくこととなりましょう。 7.私は天上界からインスピレーションを受けていた 善川 あなたのご生前の思想というものは、あなたの環境なり境遇なりから自力で開発されたお考えでしたか。 ガンジー と言うよりも、私を指導していた方々がインスピレーションという形で私を指導しておりました。 善川 仏教はインドで発祥しましたが、今後インドに仏教が真の姿を取り戻して帰ってくることはないでしょうか。 ガンジー 仏教はもうその時代は終わりました。仏教はもう教えの時代が終わらんとしております。 善川 キリスト教については如何でしょうか。 ガンジー キリスト教も今世紀を最後に、新しい教えに移っていくでありましょう。 8.新たな政治、社会の指導理念を研究課題とせよ ガンジー 今日私が申しあげたかったことの一つは、あなたは心の教えを説いて行かれるでしょうけれども、時代の変革期においては、新たな政治、社会の指導理念というもの、そういうものも必要なんですよ、ということを言いたかったのです。それを念頭に置いておいて頂きたいのです。理想的な新たな政治形態、理念というものを、どうか忘れずに勉強して、考えていって頂きたいのです。それも一つの「正法」なんです。すくなくともその方面に゛志(こころざし)”を持っていなければ道は開けませんので、たえず心の底に置いといてほしいのです。 善川 本日は突然にお招きして非常に有意義なお教えを伺うことが出来、まことにありがとうございました。また国づくりに関しまして、折りあらばご指導下さいますようお願い申し上げます。
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目次 1.病気とは何か 2.ガ ン 3.心臓病 4.胃腸病 5.神経症 6.皮膚病 7.婦人病 8.老人性痴呆症 9.肥満症 10.アレルギー 11.アルコール中毒 12.頭 痛 8.老人性痴呆症 現代に多い問題の一つとして、老人の問題があります。いわゆる「ボケ老人」の問題と言ってもよいでしょう。こうしたボケ老人の問題で、いろんなところにさまざまな社会的なひずみが出ているように思います。 老人性痴呆症の原因の一つは、実は高齢化現象と関係があるのです。もう少し早く人間の寿命が尽きていたころには、ボケ老人という問題はありえませんでした。というのは、頭脳的に健康である時に、亡くなるというかたちであれば、「ボケ」ということはありえなかったからです。ところが、社会福祉が進むにつれて、少しずつ老人の寿命が伸びてゆくようになりました。つまり、この頭脳の機能の衰えが、この老人性痴呆症を呼びこむことになっているようです。 これに対する解決の方法は、やはり六十歳以降の老人に適した仕事をふやす、これ以外に手がないと思います。彼らが価値を感ずるような何らかの仕事をふやしてゆく必要かあるということです。特に、五十代後半まで忙しくビジネスの第一線で働いてきて、部長、役員というような役職について、高度な判断能力を要求されるような仕事をしてきた人たちが、退職後急にボケていくという傾向が非常に多くみられます。退職後の環境のあまりの激変のため、生活環境の激変のために、その環境のギャップに耐えられなくなってしまうのです。 したがって、これを解決するためには、やはり年をとってからでもできるような仕事を早めに見つけておくことが一つです。つまり、ただ単に組織社会のなかで生きるだけでなく、そのなかで生きている間に、六十歳以降にする仕事を先に考えておき、早目に何か手に職をつけておく、技能をつけておく、特殊な技能をもっておくということがたいせつです。それはたとえば語学でもよいし、設計でもよいし、他のものでもよいですが、六十歳以降、何か頭脳を使えるような仕事を早めに用意しておくということが、何よりも老人ボケとならないよい方法になります。 それ以外に老人ボケを一般的に解決する方法の一つとしては、やはり、核家族化をなくしていくという考え方が一つだと思います。 ボケが多くなった原因は、老後の仕事がないということもその一つですが、近年孤独な老人がふえてきており、愛情というものに接する場が足りないという面もあるようです。今までは、愛情というものを何かに対して感してそれに注いでいたり、また自分もたとえば子供を育てるというようなこと、あるいは実社会に奉仕するということによって、愛情を返されていたことがあったにもかかわらず、孤独な老人となり、もう自分は役に立たなくなったという感じが非常に強くなると、ボケが起きてくるのです。 したがって、年寄りの生きがいという面から見てみると、さきほどの仕事ということも解決の一つですが、やはり老人にとっては、どうしても孫たちといっしょに遊ぶというようなことも大きな生きがいになっており、これが都市の空間問題、あるいは経済的問題とからまって、大きな社会問題となっているように思います。 できれば、自分の内孫がいいのですが、そうしたことができないのであるならば年寄りの方々のお仕事として、小さな子供たちの面倒を見れるような、そうした社会制度をつくってあげればよいと思います。年寄りの方たちでもできる仕事、たとえばベビーシッターであるとか、そうした小さな子供の一時あずかりであるとか、そのような仕事がふえてくると、またそれなりの生きがいになってくることも多いと思います。 いずれにせよだいじなことは、「生きがいの造出」「頭脳を使い続けるということ」、それから何らかの愛情を受けたいと思っているのだから、「愛情を受けられるようなことを何かしてあげるということ」、こうしたことがたいせつだと思います。 9.肥満症 この肥満症というものも、現代文明特有のものです。肥満で悩む方は、現代人には非常に多いようです。その原因には、もちろんカロリーの取り過ぎということがあります。最近は、食生活がとてもよくなってきているということです。もしこれが戦争中であり、そのような食糧不足の時であれば、肥満したくてもできないというのが実際のところであるので、明らかにこれには物質的な原因があるということが事実だと思います。 この文明病とどう対決するか、また、肥満というのは病気の根元であるとも言われますが、これが果たして事実なのかどうか。そういった問題があると思います。 肥満ということに関しては、私は適度な肥満はそれなりに効能があると見ています。というのは、そのことによって体の新陳代謝が激しくなるために、活動能力が増し、バイタリティーが増加するという効能があるからです。したがって、本当は標準的と言われている体型よりもやや太っているというぐらいが、活動的で精力的に仕事ができるということになると思います。 問題は、標準と言われているところよりも十キロ、二十キロ、三十キロと太っている方の場合です。これもその仕事によっては、適・不適がありますから、一概には結論は言えない面があるでしょう。しかし、概して言うならば、極度に肥満をしてくると生活のテンポが落ちてきて、たいてい寝ている時間がふえてくる傾向があるようです。そして、活動能力が鈍ってきて、まるで冬眼中の熊のようになってくるというのが現状のようです。そうすると、今度は逆に肥満が毎日のバイタリティーを阻害するようになり、鈍い人間となってゆくことがあります。しかも、肉体のさまざまなところに負担がかかるために、内臓を圧迫し、内臓系統の病気の根元にもなりやすくなります。そのようなことがあるのです。 また、肥満ということを機縁として、精神的な面でもいろいろと劣等感などをつくり、それがメンタリティーの面においてマイナスに働くことが多いようです。したがって、この肥満ということはさまざまな精神障害にもつながっていきかねないところがあります。 肥満の原因は以上のようなところにあるのですから、これはもう食餌(しょくじ)療法と運動というのがいちばん効果的であることは明らかです。これは、本人がやる気があるかないかということだけだと思います。高カロリーのものをひかえ、運動量をふやしていくということです。特に現代人は、運動不足の傾向が強くなっているので、もう少し運動量をふやしていくということがたいせつです。 運動といっても、週に一回ゴルフしたりするようなことがサラリーマンの運動であるかのようになっておりますが、ゴルフのような運動では、まだまだ運動量として足りないのであり、もっと短い時間でもよいですから、一時間、二時間、激しく体を動かすようなものを取り入れていく必要があると思います。 特に現代人は、非常に運動不足になっており、私が考えるところではできるならば毎日三十分から一時間は運動していただきたいのです。どうしてもそうしたことができないのであるならば、週のうち三日は、できれば一時間の運動時間を確保していただきたいと、そのように思います。これは、努力によって確保できる時間であると思います。会社の帰りに一時間ほどなんらかのスポーツをするというようなこと、あるいは朝一時間早く起きて散歩をするということ、庭で運動をするというようなこと、これは可能なことです。 週に三回、一時間ずつ何らかの運動をとることによって、おそらく平均的な人であるならば、寿命は五年以上伸びると思ってまちがいありません。週三回、各一時間の運動を確保できたら、五年以上長生きができるはすです。そして、長く知的な活動をしていくことも可能となります。こうした時間をとるかとらないか、それは各自の問題ですが、おそらくその人の老後がどうなるかということに深く関わってくると思います。 老人は、たいていの場合足から弱ってくることが多いので、こういった運動をしておくということが特にたいせつです。こういう運動というのは、だいたい子供のころはよくしているものなのですが、それがおおよそ三十を過ぎたあたりから運動不足が急速に進み、四十、五十と体のいろんな機能障害を引き起こしていくのです。したがって、三十を過ぎたあたりから意図的に何らかの運動というものを各自の生活のなかに取りこんでいくという考え方が、とてもたいせつだと思います。 10.アレルギー さて、これ以外にもアレルギー体質というものがあり、さまざまなものにアレルギーを感じる人がいるようです。たとえば、鯖(さば)という魚に対するアレルギー、卵の黄味に対するアレルギー、あるいは最近有名なものでは、花粉に対するアレルギー、こうしたものがあります。 アレルギーの原因は、実は霊的なるものが多いというのが本当のところのようです。たとえば、食物に関するアレルギーの場合は、多くの場合、過去世の体験が影響しているのです。過去世、そうした食べ物によって、非常な重病になったり、あるいは食中毒によって亡くなったりした場合には、そうした食べ物を見ただけで本能的に嫌になることがあるのです。 魚でアレルギーをおこす人は、おそらく魚を過去世で食べた時に、それがわざわいして亡くなったり、あるいは重病になったりした経験があって、魚というものに対して潜在的に強い嫌悪を持っているということが多いのです。そうすると、やはり魚を食べなくなっていきます。また、肉についてもそうです。肉を食べると蕁麻疹(じんましん)が出るというような方もいますが、こうした場合も、やはり過去世からの肉に関して何らかのアレルギーを持つ理由があることが多いのです。 この肉や魚のなかにある霊的なものが、それを食べる人間の体のなかに入る時に、その人の霊の記憶と反発し合うことによって、そのようなアレルギーとして出るのです。こういう時には、やはり感謝の心を持って食事をすることによって、そのアレルギーが治まっていくということがあります。 これ以外に、最近多い「花粉症」というアレルギーについて、特別に話をしておきたいと思います。 杉の花粉が飛び始めるころに、よく鼻水が出るようになり、風邪をひいたような症状になることがあります。この原因が長らくわかっていなかったのだけれども、どうもこれは杉の花粉が飛び始めるにつれて、そのようなことが起きるのではないかということがわかってきたようです。 これはいったい何であるかということですが、杉の花粉というのは一つの原因であって、実は杉の花粉に含まれている霊的な要素の影響というものがあるのです。これは、自然霊の一つなのですが、この自然霊の一つが人体に刺激を与えると、そのような異変が起きるようになっているのです。 この異変の原因は、いったいどこにあるかと言うと、それは現代の多くの人たちが大自然に対する感謝の念というものを忘れているというところにあるのです。すなわち、文明生活の中にあまりにもドップリとつかり過ぎていて、このような大自然に対する感謝の念を忘れているということなのです。そうした生き方をしている人に対して、この自然の霊により、そのような警告がなされているのです。 人びとが大自然と共に調和して生活している時には、花粉症などというものはありませんでした。それが現代出てきているということは、その自然に対する感謝、これがないということなのです。 もう一つの原因を言うとするならば、自然破壊ということに対する警告がなされているのです。自然破壊に対する警告というのはいったい何か。それは、そういった植物群、たとえば山の木々でるとかその他さまざまな植物たちには、それぞれ自然霊という妖精に近いものが宿っているのですが、こうしたものたちは、「これ以上、自然を破壊してほしくない」という思いでいっぱいになっているのです。 本々は切り倒され、山々は荒らされ、ブルドーザーがどんどん入ってくるという、こうした状況になってきています。そのようにして、ブルドーザーが入ってきて山を崩されたりすると、そこに住んでいた妖精たち、本の精たちは非常に大きな悲しみと苦痛に満たされるのです。このように住む場所がなくなった妖精たちはいったいどこに行けばよいのかと、彼らの多くが現代の文明人たちに警告を発しているのです。 これは、ひと昔前で言うならば、山の神のたたりということ、あるいは障(さわ)りということになると思いますが、そういったことが起きているのです。自然破壊をもうやめていただきたいという警告を、彼らがしているのであり、このことがわからなければいつまで経ってもこの文明病は治らないでしょう。 彼ら妖精たちに対する感謝をなし、自然に対する感謝をなし、自然を守ろうという愛に満ちた優しい気持ちを持った時に、そうした花粉症というものはおそらく消えていくでありましょう。これは、自然からの警告であると受けとめていただきたいと思います。 11.アルコール中毒 現代における文明の病相の一つとして、アルコール中毒というものも上げられると思います。この原因はもちろんさきほどからよく出ているように、いわゆる「ストレス」から来ています。現代のような高度な管理社会で働いているなかで、自分の職場の人以外とほとんどつきあいがないような現在の会社制度であれば、どこかで憂(う)さ晴(ば)らしをしないといられないという面があるのは事実です。そしてそれが、毎日毎晩のアルコール漬けということになっていくことかあるのです。 その結果どうなるかというと、結局肝臓を傷(いた)めることになります。また、睡眠不足になっていきます。そして、アルコールを飲むことによって、過食ということが起きてくるのです。アルコールは、体の血管を膨らませ、また消化吸収をよくする働きがあるために、多くの食物を食べる、食が進むという現象が出てきます。それゆえに、これは肥満の原因ともなってくるのです。アルコールをとり、そして睡眠不足となり、肝臓の機能が低下し、そして肥満する。これは、現代における中間管理職のサラリーマンたちの典型となっているようです。 このアルコール中毒から逃れるためには、三つの方法があると思います。 一つは、仕事以外の場において、自分が熱中できるものを持つということです。何らかの精神的価値を持つもの、仕事以外の領域でそうしたものを持つということが、仕事のストレスを解消していくよい方法となるのです。仕事以外には生きがいがないがために、そこでストレスがたまった時にアルコールの世界に誘われるのです。それゆえに、仕事以外に何らかの生きがいを見出すということ、これが一つです。 もう一つは、アルコール中毒の原因には、家庭の不和があるということです。あるいは、夫婦の性格の不一致というものがあるようです。この場合には、たいてい奥様の性格があまりよくないということが多いのです。これは、「どちらが卵か鶏(にわとり)か」という議論でもあるので、一概には言えないのですが、夫をアルコール中毒にする妻というのは、たいていの場合はヒステリー症であることが多いようです。つまり、その妻である女性の感情の起伏が激しく、夫の欠点や落ち度というものを厳しく攻め苛(さいな)む傾向が強いというのが、ほとんどの場合なのです。それゆえに、そういうタイプの妻を持った男性は、どこかで憂さを晴らしたいという気持ちを持つようになり、アルコールの場を求めるようになります。また、夜の酒場の商売女性によるお世辞というものを好んで求めるようになっていくのです。 したがって、夫のアルコール中毒をやめさせたいと思うのならば、逆に夫を徹底的にほめることがたいせつです。妻がほめることです。そして、傷ついている夫の心を癒やしてあげることです。夫はその心が傷つき痛んでいるがために、その苦しみをアルコールでなんとか紛らわそうとしているのです。現実からどうにかして逃れたいという気持ちがあるということなのです。 このように、第一は、仕事以外のところで生きがいを見出し、やりがいを見出すということ。第二は、家庭問題の解決ということ。特に妻の協力というものが、どうしても必要です。これなくして、アルコール中毒は治ることはないと言ってもよいでしょう。 第三は、これはかなり難しいことですが、スポーツマン型に切り換えていくことなのです。スポーツを愛する人は、アルコール中毒にはなっていかないのです。なぜかというと、スポーツマン型になると体というものがまた別なものを欲するようになっていくからなのです。スポーツに適した体、そうした躍動感のある体であれば、アルコールを大量に摂取してそれによって肉体機能が衰えていくというパターンは、内部矛盾を起こすために次第にできなくなっていくのです。 それゆえに、アルコール中毒から脱するためには、「行動型」「活動型に切り換えていって、そして何らかの運動やスポーツを取り入れていくことです。これがとてもたいせつです。スポーツをすることによって内臓諸器官の活動も非常によくなり、そしてアルコールの誘惑が弱まっていくのです。 また、もう一つ注意すべき点として、アルコール中毒の場合には、たいてい悪霊の影響というものを受けています。地獄の亡者たちの影響というのがでていることが多いのです。したがって、こうした地獄霊の霊的作用から逃れるためには、やはり健全な生活、これを取り戻すということ、これ以外に方法はないのです。 したがって、精神的な向上、家庭が相和しているということ、また、体が健康であるということ。こういったことが必要となってくると思います。 12.頭 痛 さて最後に、現代人の多くが苦しんでいる「頭痛」ということについて、お話をしておきたいと思います。 頭痛には、もちろん物理的な原因というものがあることもありますが、本当は頭痛の大部分は「霊的な作用」であることが多いのです。 というのは、頭というところはこれは特殊な器官であって、非常に霊的に敏感になっているからなのです。これは、体全体の指令塔のようなところであって、非常に霊的に敏感なのであり、また放送局のように電波を発信し受信しているようなところなのです。これが人体における「頭」というところなので、ここは当然ながら非常に霊的影響を受けやすいところなのです。 したがって、頭痛の七割かハ割は、何らかの憑依霊によるものであることが多いようです。頭痛がし始めた時にその原因を考えてみると、いわゆる雑踏のなかであるとか、あるいは職場のなかだとか、いろんなところでたいていの場合心がムカムカとしてきて、不愉快になったそのあと頭痛が起きてきたことが多いはずです。これは、実はそうしたことをきっかけに悪霊に憑依されたということが多いのです。 したがって、頭痛を癒すためには、まず安静ということがもちろん求められます。自分を安静という状態のなかにまず置き、そうすることによって神経を休ませ、気力、体力を回復させるということがたいせつです。 もう一つは、頭痛の原因としては、血行障害ということがあります。頭の血行が悪くなっているということです。これは一つには、たとえば酸素の供給が不足しているところで長時間仕事をしたり、寝ていたりすると、このような頭痛の原因になることがあります。 したがって、血行をよくし、また血液のなかの疲労素を出していくということが、物理的に言えば頭痛の解決策となっていきます。したがって、酸素を充分に補給する、たとえば、戸外に出て深く呼吸をする、こうしたことも一つです。呼吸による頭痛の解消というものもあります。 もう一つは、意外なところに原因がある場合があります。頭痛、頭痛と言っているけれども、体の組織というのは実際はいろんなところで相互につながっているものです。順につながっているところと言えば、たとえば首、それから背骨、それから足の裏まで、これらがつながっています。したがって、頭以外のところに実は悪いところがある場合があるのです。たとえば首の骨がズレていたり、背骨がズレていたり、あるいは足のところに何か問題があったりした時に、頭痛が起きることがあるのです。頭ではないところにこうしたコリとか、そうした骨のズレとかがあって、これが頭痛になることがあります。したがって、こういう場合には、全身をもう一度よく点検してみる必要があります。 しかし考えてみると、大抵の場合は、頭痛の原因は血行の障害、脳のなかの毛細血管の中での血行の障害、あるいは酸素の補給不足ということが原因であるので、心を常に快活にし、明朗な人生観を持って生きていくということがたいせつです、したがって、鬱(うつ)血しやすい関節器官などを、よく運動によって常々ほぐしておくことがたいせつです。頭痛がする時には、新鮮な酸素を吸って体を動かしてみることです。準備体操のようなものでもよいでしょう。そしてあとは神経をじゅうぶんに休めることです、こうしたことが、頭痛を治す秘訣です。 また、その原因として霊的な問題もありますが、これらも結局、精神的に疲労状態にあるときにいちばん起きやすいのであり、この精神を治療するためには逆に肉体を使うという方法もあります。肉体面を補強することによって精神を強くしていく。そのような方法もあるので、肉体の管理ということを常々怠らないようにしていただきたいと思います。 いずれにせよ、頭痛というものは、特に特徴的な文明病てありますので、これには肉体の管理ということをよく考えて対処していただきたいものです。
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目次 1.病気とは何か 2.ガ ン 3.心臓病 4.胃腸病 5.神経症 6.皮膚病 7.婦人病 8.老人性痴呆症 9.肥満症 10.アレルギー 11.アルコール中毒 12.頭 痛 (一九八八年七月二日の霊示) 1.病気とは何か エドガー・ケイシーです。さて、本章では、「治病の原理」について話をしていきたいと思います。 まず最初に、「病気とは何か」という問題について、答えておきたいと思います。宗教の中には、病気が実在するかしないか、本来神がそれを予定しているのかいないのか、こうしたことを問題にする人もいますが、病気とは結局心身のバランスが崩れたことであり、故障の一種と考えてよいでしょう。 もちろん、自動車を作る時に、故障させるつもりで作る人はいないでしょうが、実際上自動車を運転して何万キロも走っていると、エンジントラブルが起きたり、バッテリーが上がったりというように、いろんなことが起きます、病気とはそうしたものと考えてよいと思います。 したがって、もちろん病気は神が創ったものではないのですが、これは心身の不調和による故障と考えてよいと思うし、この三次元の世界において生きていく過程においては、そうしたことも避けては通れないと考えてもよいでしょう それは、必ずしも病気が実在するものという考えではありませんが、私たち医療系団の霊人が現にこのように指導をし、活動して、さまざまなことをやっているということは、そうした病気というものもやはり「ある」ということを前提にしているということは、否めないであろうと思います。 もちろん、精神の面だけで病気は治せるということもありえますが、それは万人に通用するような方法ではないために、いろんな問題があるわけです。したがって、私たち医療系団の人間としては、できるだけ客観性のある見解、客観性のある考え方、こうしたものを重視してゆきたいと思うのです。 そこで、病気の総論について話をしていくわけですが、やはり、病気において精神の影響というのは無視し難いものがあります。体の故障がある時には、必ず精神の方でどこかに異常があるということは、これは事実です。何らかの精神的な障害があったり、心の中のバランスが崩れているということが多いように思います。 また、もちろん外傷によってそうしたことが起きるということもあります。精神的には何でもなかった者が、たとえば野球をやっていて、ボールが体に当たったとか、そういうような事故、怪我(けが)というものもありますので、一概には言えませんが、主として精神が主流で起きていくことが病気の中の七割を占めており、残りの三割ぐらいがだいたい物質面、肉体面から始まっていくということが多いように思います。 ただ、肉体面の管理ということも広い意味では精神の作用の一つと考えられるので、そういう意味では何らかの精神作用が関係していない病気というのはないと言ってよいでしょう。「風邪(かぜ)」のようなものでも、結局は精神的な疲労が原因になっていることが多いのであって、やはり心の緩(ゆる)み、そうした点が何らかの肉体の異常として現われてくると言ってもよいでしょう。 肉体の姿は、いろんな形をとってその人の精神のありかたを示している、そう考えていいと思いますし、肉体は精神を表現するための道具として存在していると、そう思うことが可能でありましょう。 さて、このような病気、その全般についてですが、結局のところ病気はやはり避け難いものと考えるとするならば、いかにこれを予防し、あるいはかりに予防しえなかった場合には、どのようにそこから回復を図(はか)るか、こうした問題が専門家の立場として要求されるわけです。 以下、いろんな病気について、十分には語れないかもしれませんが、私の立場から、また医療系団の立場に立って意見を述べてゆきたいと思います。 2.ガ ン ガンの問題は、今欧米でも日本でもとても大きな問題となっており、先端的な医学者はすべてこのガンをどうするか、それに対しどう取り組むか、そうしたガンの治療に命を賭けているというのが事実であると思います。 ガンは、もちろん肉体細胞の中に巣食う病巣(びょうそう)であり、そうした異物が体のなかに出来るということをもって、ガンと言っています。細胞のなかに異変が起きるわけです。いわゆる特殊な細胞が出来、それが変化するわけです。病巣部が変化してくる、こういうものをガンと言っています。 このガンですが、これについては発ガン性物質というものがあって、それがもとでガンになるというようなことがよく言われています。さて、ではそういうことが現実にあるかどうかということですが、たしかに物質としてガンを促進するような物質があることは事実です。薬品のなか、あるいはいろんな化学物質のなかには、ガンを促進するようなものがあることも事実です。しかしながら、それはガンを促進することはあっても、ガンの原因を創ることはないのです。物質にはガンの原因をつくるだけの力はないのです。それはガンを触発し、促すための触媒作用を果たすことはあっても、ガンそのものにはならないのです。 ガンというのは、まさしくこれは精神の病念が現象化してきたものと言ってよいでしょう。したがって、ガンは非常に現代的な病気ですが、これは現代という文明、高度管理社会のもたらした病気であると言ってまちがいありません。想念の曇りが肉体に反映し、その内部に反映してきているのです。 そのガンの発生原因の一つは、人間の心のなかの葛藤(かっとう)、鬱屈(うつくつ)したもの、それらが原因になっています。ガンにかかる方は、たいてい内部に葛藤があります。心の葛藤がしがらみとなって、その病念が異質な細胞をつくっていくのです。もちろん、そのきっかけはいろいろあります。 さて、それではガンの治療法として、いかなるものがよいのでしょうか。それはやはり物質的治療、精神的治療、これら両面からあるでしょうが、何が本当に効くのかということが、そのたいせつな検討課題となりましょう。 ここで私は、二つのことを言っておきたいと思います。 第一に、このガンの原因は、「過度のストレス」であることが根本なので、まず実際の人生のなかのしがらみをどう解決するか、これをやることかだいじです。たいてい何らかのしがらみを持っていますから、これをまず片付ける。これが一つです。 もう一つは、こうしたガンをつくりやすい人というのは、非常に念が強いという傾向を持っています。その念いが一点に集中して、肉体を変化させるまでの力を持っているわけです。そして、結局自己処罰の概念というものがガン細胞をつくっていくことが多いということです。したがって、念が強く、その念が自分を裁く方向に働いているということが言えるのです。自分を裁くという念、自分を処罰するという念がガン細胞をつくっていることが多い、これは、現代社会に蔓延(まんえん)している自己否定的感情、「自分はダメなんだ」ということを、日々確認させられているという現状、これが原因となり、そうした病念となっていることが多いのです。 したがって、結局はその念を開放し、明るい方向に向けていくということがどうしても必要なように思います。それゆえに、ガンの特効薬というものはまだあるわけではありませんが、その方法の一つとしては、心を開放するもの、そういった働きを持つ食事をとるということがだいじです。 では、心を開放させる食事とはいったい何でしょうか。これを考えてみると、人間の心を開放的にするものですから、これは、一つにはカルシウム分というのがやはり重要だと思います。カルシウムをとることによって、神経の過敏さを収めることができます。そうした効果があります。 あとは、植物性のものをよくとるということです。植物のなかに、実はガン細胞の発育を阻止するものが含まれているのです。植物のなかでも特に重要なのが、緑色の濃い植物です。この葉緑素のなかに、実はガンの発育を妨げる要累が入っているのです。これはやがて医学的に発見されるでしょうが、このなかにはそうした要素が入っています。植物の葉緑素のなかに、そうした物質が入っているのです。この理由は、植物のように伸びやかに生きていく、そうしたものを助長している物質ですから、それが体に効くわけなのです。 ですから、ガンの患者には、カルシウム分の摂取量を増やすこと、またそうした葉緑素の多い植物をとること、これらをお勧めしておきたいと思います。 3.心臓病 さて、ガンに続いて現代人に多い病気に、心臓病というものがあります。心臓病は、もちろん心臓の負担が過大であることによって起きるものであり、その結果、血管に負担がかかり、また脳に異常が起きることが多くあります。脳のなかにはさまぎまな毛細血管があり、これがパンクをして脳内出血となったり、いろんなことが起きることもあります。また、心臓そのものが病気になるということもあります。 この心臓病は、結局これもガンと同じで、何らかのストレスが原因になって起きるものです。現代人にとってどうしても避け難いものとしてあるのは、これが時間との競争です。この時間との競争が、どうしても心臓に負担をかけることになってしまいます。 まずこの心臓が表わしている心の部位はいったい何かということを考えてみましょう。するとこの心臓というのは体の内臓器官の中心部分でありますから、ここに欠陥があるというのはどういうことかというと、実はその人の活力、バイタリティーと関係があるのです。その人の人生観の中心において、問題があることが多いということなのです。また、家庭問題のなかに何らかのひっかかりがある人が多いのです。こういう時に、心臓の病気になることが多いように思われます。 まず、心臓というのは、とにかくいちばんいけないのが「ドキッ」とすることです。すなわち、心臓を緊張させ驚かせること、こうしたことがいちばん問題なのです。したがって、心臓病になる方は、不安感が非常に強く、また取り越し苦労型、心配症型であることが多いのです。これは事実です。兎(うさぎ)のごとき心臓を持っていると言ってもよいでしょう。そうした方が非常に多いと思います。 従って、こういった心臓病を持った人というのは、自分だけで治癒(ちゆ)するのはなかなか難しい面があります。それはなぜかというと、こういう方は外部から何か害を与えられるのではないかという、いわゆる被害妄想的観念が強いからです。これは、やはり家族に問題があることが多いのです。つまり、病人そのものというよりも、むしろ家族の方が、その病人に対してそういう圧迫観念を与えていることが多いようですので、そうした悩みを持たないでいいように、病人が悩みを持たないでいいように、心配しないでいいように、明るく朗(ほが)らかな環境をつくってあげること、そしてそういった心的負担感を減らしてあげることがたいせつです。 同時に、あるいは同時期に、二つ以上の問題を起こさないこと、課さないことです。一つ一つ小さな問題として解決していけるようにしむけてあげること、これがだいしです。二つ三つの悩みごとを同時に抱えていると、それが心臓を圧迫し、だんだん立てないようになっていくのです。したがって、これに対しては現実的にまわりの環境が明るくなっていくことが必要であり、まわりの人たちがその方の心の重荷を引き上げてあげるという必要があると思います。 では次に、物質の面から言って、心臓病をよくするものは何かと言えば、これは二つあります。 一つは、これは塩分のとり過ぎを防ぐということです。この塩分が、どうしても血液系統、血管系統への刺激となることが多いので、こうした心臓病の方は、薄めの食事、薄味の食事をとるということをお勤めしておきたいと思います。 もう一つ心臓に大きく影響するものとしては、これは鉄分です。鉄分の問題があります。鉄分というのは、現代の食事のなかでは非常にとりにくくなってきつつあるのです。したがって、現代人は鉄分の吸収が少し不足していることが多いようです。鉄分というのは、これは血液をつくる上でどうしても欠き難いものなのです。この原因の一つとしては、鉄製による食器具が最近非常に滅ってきており、代わって他の合金製のものや、あるいはプラスチック製の食器類がふえているために、むかしは食事の調理の時に入っていた鉄分がだんだん入らなくなってきているように思います。 したがって、鉄分を多めに含んだ食事をとるように心がけることです。野菜のなかにも鉄分を含んでいる野菜がありますので、そうしたものを中心にとられるように、少し多めにとられるように工夫していただきたいと思います。 4.胃腸病 胃腸病も、現代非常に蔓延(まんえん)している病気の一つであると思います。胃と腸、これは別々のものであるようにも言われますが、本当は本来一つのものなのです。通じているものなのです。両方とも消化ということを担当しておりますが、この胃腸が弱っている理由もまた二つあります。 第一の理由は、これは過度の食事が多いということです。文明の進歩の結果、人間は快楽を求める傾向が強くなり、それが美食の傾向となって現在現われてきています。したがって、胃腸障害の一つはこの美食にあるのです、美食、大食(たいしょく)というのが、いちばん胃腸を害しているのです。しかも、それは高カロリーをとり過ぎているということと、もう一つには飲酒というものがあります。後ほどにも話をしたいと思いますが、アルコールによって、胃酸あるいは腸での消化液、こうしたものが害されているということが多いのです。 したがって、まず胃腸を治そうとするならば、摂生がだいじです。節度ある毎日を送ることです。「食事は腹八分目」という昔からの諺(ことわざ)を守り、そして過度のアルコール、あるいは過度の水分などをとることを控え、あとは運動を適度に取り入れて、そして毎日を規則正しく送ること。これが胃腸を冶すための前提になります。 胃腸を治すための第二は、これは物質的な方面から言っておきたいと思いますが、やはり、牛乳、ハチミツ、こうした幼いころからなじんできたような食物が胃腸には非常によい影響を与えます。またそれ以外でも、野菜のなかでも非常に柔らかく煮た野菜、こうしたものが胃腸にたいへんよい影響を与えます。よく煮込んで柔らかくした薄味の野菜、消化のよいもの、そうしたものを送り込んでいく必要があります。 それと、胃揚が弱っている時には、当然のことながら「油もの」を押さえるということがだいじです。やはり油ものが、胃腸をかなり苦しめることになります。 そしてできうるならば、胃腸の弱い方は、どちらかというと少量ずつ分散して食べるほうがよいと思います。食事の回数を一回や二回に集中しないで、少量ずつに分散して食べたほうがむしろ胃腸はよくなると思います。できるならば、すこし少なめの食事を一定の期間を置いて食べたほうがよいのです。そのためには、一日の活動を始める時間を早めにしておくことです。早めに始めて、そして何度か食事をとるのがよいのではないかと思います。 現代、勤めをしておられる方の生活パターンにおいては、非常に難しい面がありますが、理想としては、胃腸の弱いような方は朝は六時ごろに起きて、六時半ごろに軽いスープ系統の食事をとり、そして十一時半ごろに最初の昼食をとり、そうして午後四時半ごろに夕食をとり、あとは八時か九時ごろに軽く負担のないものをとる。このように、四回に分けて少量を食べるというのが、本当は胃腸を治す意味では非常によいのです。 胃腸というものも、一日中目覚めている意識ではありますが、彼らが仕事を与えられるのは、一日のある時に集中してドッサリと与えられることが多いので、それで働きが弱っていることが多いのです。したがって彼らも一日二十四時間働いておりますから、少しずつ分散して働かせてもらえるのがいちばんいいのです。これは、ちょうど生徒たちが宿題を一度に山のようにもらっても、それができないということと同じであって、少しずつ少しずつ仕事を与えるということがだいじなことであると言えましょう。 5.神経症 この神経症は、現代におけるほとんどの病気の発生原因ともなるようなものであろうと思います。神経というものが人体のなかにあって、それがさまざまな人間の感覚作用をつかさどっているということがわかったのは、そう昔のことではありません。そして、この神経という言葉でもって、多くの人がさまざまな説明をつけていることがあります。 「それは神経質だからだ」とか、「神経のせいだ」あるいは「神経過敏だ」というふうに、神経というもので多くを説明しているようです。 実際、人体のなかには、神経細胞というものがあり、それがすみずみまで伸びているわけですが、神経というものは、それほど主体的な作用を持っているものではないのです。それはあくまでも連絡回路であり連絡回線なのであって、神経そのものが人間を害したり、人間をいじめたりするようなことがあるかと言えば、それはないと言ってよいのです。 そうではなく、神経と密接につながっているのは、実は霊的感覚なのです。霊的感覚、魂の面の感覚が、実は神経と言われるものに影響していると言ってよいのです。 したがって、神経質になりやすい方、神経症の方は、霊的に過敏であるということが言えるのです。この霊的過敏症をいかにして克服するか、ここに問題があると言えましょう。それゆえに、神経質の方に関しては、私がのちほど述べる肥満症の方に対してとはまた別の見解になるかもしれませんが、少し太めになられることをお勧めしたいと思うのです。 痩(や)せている方は、だいたい神経質、神経症であることが多いのですが、実は痩せているということ自体が、霊的パワーが落ちているということを意味しているのです。ある程度霊的パワーは肉体と不二一体(ふじいったい)になっているために、肉体的な力がないとやはり霊的なパワーが出ないことが多いのです。 したがって、神経症の人にお勧めしたいことは、運動量を増やして、筋肉質の体をつくるということが一つです。それと、筋肉質であっても、体重が多少増加するぐらいが望ましい。こういうことなのです。 おそらく、筋肉質の方の体重が二、三キロ増加すると、神経症の大部分、つまり八割以上は治ることになると思います。これが単なる贅肉(ぜいにく)だけであってはいけないのですが、運動を伴って筋肉がつくことによって二、三キロも体重が増加すると、心がおおらかになってくるはずです。それはなぜかというと、霊的なパワーがついてくるために、霊的神経過敏というのが逆に少なくなってくるからなのです。 現代の医者はどちらかというと体重を減らすことばかりを勧めているようですが、体重が増えることによって、逆に病気が治ることもあるのです。この神経の病気がある場合は、ほとんど原因はここにあると言ってよいでしょう。 したがって、こうした人に対する特効薬としては、医者としてのアドバイスは「あなたは体重を三キロ増やしなさい。とにかく三キロ増やしなさい。そのためには、よいものを食べて、しっかり眠ること。そして、できれば体重の増加は筋肉で増加させたいので、よく運動をとること。」こういうことになります。 こうした「食べ」「眠り」「運動する」という三つの要素によって、神経症が克服されるのです。そのためには、やはり多少の体重の増加を覚悟していただきたいと思います。 6.皮膚病 さて、皮膚病についてもいろいろと難しい問題があって、医学会でもなかなか解決はついていないようです。皮膚病のなかにもやはり難病、奇病といわれるものがずいぶんあります。なかには、ただれたようになったり、膿(うみ)がでたり、あるいは疥癬(かいせん)のごとくカリカリと取れるものなど、さまざまなものがあります。 これは、物質的な原因、この世的な原因がかなり大きいことも事実です。皮膚病の原囚は、ほとんどがウィルスです。このウィルスは、この大気中、あるいは地上にいろんなかたちで住んでおりますので、彼らはその生活の場を求めているわけです。 ところが、人間の皮膚というものは、常に汗をかいておりますので、一定の湿気を持っています また、肉体からの老廃物が出るために、それが栄養分になるのです。一定の湿気と栄養分という条件が与えられ、こうした皮膚病の発生原因が当然出てくるわけです。これは、彼らにとって、そうした徽菌(ばいきん)たちにとって非常に住みやすいところなのです。その結果、皮膚の表面にいろんな異常な現象が起きてくることになります。 この皮膚病については、もちろんよく効く薬がさまざまに開発されているようです。 この皮膚病に関して、私は主として物質的な療法でもって話をしておきたいと思います。その根本は二つです。一つは、常に清潔にしておくということです。これは鉄則です。いろんな衣類を着るというのは、これは人間独特のものです。ところが、どういう衣類をつけるかということは、人間が肉体として出来た時に、十分想定されていなかったために、どのような衣類を着けるかということはそれぞれの地域の習慣に任されています。どういう湿気とどういう温度のところで、どういう衣類を着るかは、それぞれの文化文明に任されているので、その衣類によって外のほこりやゴミを防げる反面、内部にはそうした湿気が発生し、また老廃物がたまるということが多くなっていると思います。 したがって、皮膚病の方というのは清潔が第一ですので、体が少しでも汚れたり、あるいは体がベトベト汗をかいたりした場合には、シャワーでもよいからそれを洗い落とすこと、できれば一日三回ぐらいはシャワーを浴びていただきたいと思います。だから、そうしたウィルスがつくや否やすぐ流しておくということです。このように清潔を保つということが第一です。 第二の問題は、あとは適度な乾燥ということです。湿気をなくしてしまうと、こうしたウィルスの発生の原因はほとんどなくなっていきます。したがって、適度な乾燥ということかだいじです。 これについては、現在の通勤ラッシュであるとか、あるいは革靴(かわぐつ)をはいてオフィスで仕事をしたりすることと関係しているようです。夏になると、サラリーマンの七割、八割の人は水虫になります。それは、あの革靴というスタイルが、実は日本の気候風土にあまり合っていないからなのです。こうした湿気の多いところでは、革靴をはくというのはこれはもう危険そのものであり、冒険そのものなのです。西洋のように、湿気が少ないところであっては、革靴というものは非常によいはきものなのですが、日本のように高温多湿のところでは、これは「皮膚病になれ」ということを強制しているのとほとんど同じであると言ってよいでしょう。 できるならば、通勤の時は止むを得ないにしても、オフィスなどではもっと風通しのよいスリッパのようなものにはき替える慣習をつくっていただきたい。そういうふうに思います。勤めに出たら、職場では乾燥したきれいなスリッパか何かにはき替える。そして、靴下などは取る。そのようにして欲しいと思いますし、また、肉体的な皮膚の病気についても、通勤の時にぐっしょりと汗をかくようであるならば、できればこれからの会社というのは、各職員のためにシャワー室ぐらいは設けてあげる必要があると思います。その程度の設備を用意することは、これは会社側の義務であると思います。 日本のように交通が混雑し、そして高温多湿のところで皮膚病にならないためには、やはり清潔にする必要があるのであって、それは仕事の能率にもたいへん影響するでありましょう。たとえば一日のうちの三十分くらいは、シャワーの時間がとれるぐらいのそうした職場規則になってもよいと思います。そこで清潔なものに着替えをする。そしてリフレッシュして仕事をする。そうしたことかだいじではないでしょうか。この点について、非常に研究がなおざりにされているので、私は非常に不満を惑じます。特に日本のような環境のなかにある社会において、職場で革靴をはいて仕事をするという慣習は、もう早くやめられたほうがよいと思います。 また、女性にしても、ハイヒールというものが現在非常に好かれているようで、これは一応外見はいいけれども、これについてもやはり問題があると思います。長い目で見た時に、ハイヒールというのは実は非常に体によくないのです。ハイヒールをはくことによって、足が異常な形となるために、これが神経に強い刺激を与え、だんだんと背骨のほうに影響が出てくるものなのです。 その結果どうなるかと言うと、筋肉痛になったり、腰が重い、肩がだるい、あるいは頭が痛いということにつながっていくのです。女性の頭痛持ち、めまい持ちの方の多くは、その原因がハイヒールにあるということを知らないでいるのです。あのようなものをはいているために、そうしたことになるのです。 7.婦人病 さて、ご婦人の病気もたいへん多いようです。それは大きく分けて、「生理不順」「子宮の病気」というような系統の病気と、あとは「血行障害」「便秘症」、それから、「頭痛」「イライラ」――そうした感情のブレといったものがあると思います。 さて、ご婦人は、男性と比較して、やはり生物学的に見てかなり機能上に違いがあります。その機能上の違いが、やはりそうしたひずみとなって病気になることが多いように思います。 たとえば、「生理」の問題であっても、結局、現代において女性の生理不順、生理痛、こうしたものが増えている理由は、実は女性の立ち仕事が増えていることと関係しているのです。子宮というものはお腹のなかに収まっているものですが、これはあまり立ち仕事には向かないように出来ているのです。昔から、「女性は家庭に入る」と言いますが、家のなかにいるということは、座ったり、横になったり、そうしたくつろぎの時間をとるということが、非常に多かったのです。 それが現在では、若いうちから男性と同じように学校に通って勉強し、そして職場に出て働くということが多くなり、これが子宮に悪い影響を与えていて、生理不順の原因となっているようです。 本来、女性の肉体的構造からいくと、やはり長時間、根(こん)をつめて働くというふうには出来ていないのです。それゆえに、適度にくつろぎ休むということがだいじになっています。職場において、イスに座って長い時間仕事をするということも、これも子宮に悪い影響を与えているようです。女性は、やはり時おり体をくずし、くつろぐようにもともとつくられているので、その意味でこれは現代病と言えなくもありません。また、もちろん生理不順の原因のなかには、ストレス過剰ということもあるので、これも同様の問題として解決できると思います。 もう一つは、「便秘症」という問題がありますが、これも生理とある程度関係しております。女性は、男性に比較して水分の排泄(はいせつ)量が多くなるように出来ているのです。それは生理の時もそうであるし、それ以外の小用のほうにおいても、男性よりも女性のほうがトイレが近いと言われています。それは、女性の肉体器官の構造上、そうなりやすい点も一つにはあります。また、そうしたことによって、水分の吸収、排泄ということが男性よりも活発であるために、どうしても便秘がちになってくることがあるのです。 これに対する解決方法の一つとしては、この便秘症の原因として「冷え」も関係しているので、やはりどうしても下半身を暖める必要があります。特にご婦人は、世界共通してスカートのようなものをはく傾向があるので、その分、下半身が冷えやすいということがあり、その冷えがまた水分の排泄機能が多いことと相まって、便秘症を増進、促進していることが多いように思います。したがって、下半身を暖めておくということもたいせつです。 このように、婦人病の原因は、結局、現代女性のファッション指向化、あるいは仕事指向化というようなものが招いた肉体的な問題であり、それに対する女性の本来的な生理機能からの反抗が、肉体的なものとして起きているのだと言えましょう。特に、ハイヒール、さきほども申し上げたハイヒールの常用ということ、それと短いスカートの着用、あるいはオフィスにおけるクーラーの使用、また長時間にわたる根をつめた仕事によるストレス、こうしたものは本来くつろぎを求めるようになっている女性の性格と相反しているがために、さまざまな肉体上の欠陥、障害として現われてきているのです。 こういったことを解決するためには、やはり、そのような男性的な仕事をあくまでも生きがいとするのか、あるいは女性は女性にふさわしいもののなかで生きがいを見出していくのか、ということを考えねばならぬ上よに思います。
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目次 1.人間の本性は真、善、美の三位一体 2.真、善、美の魂の本質確認が基本要件 3.地獄霊は生まれ変わって来ない 4.堕落は無知と悪魔の誘惑 5.地獄に堕ちる宗教家の大借金 6.ユートピア観と、私の王道国家論 7.新時代には文明観が二分、三分と岐れる 8.とりあえずは宇宙時代のユートピアを考えて行け 9.エデンの桃源郷論者を迫害してはならない 10.健全な霊知識に立脚したユートピア論を築くべきである 11.神題伝道計画の中には既に伝達経路が織り込まれている 12.今後二十年以内に中国に文化大革命が起きる 13.「孔子の霊言」が「毛沢東語録」に代わって読まれよう 8.とりあえずは宇宙時代のユートピアを考えて行け 孟子 宇宙的宗教となってまた、他の惑星へ、天体へと移っていく人たちも出てくるでしょう。彼らにとって必要なものもあるし、また地上に踏みとどまって新たに生きていこうとしている人たちに対しても、大切な教えもあるのです。 ですからユートピアといっても、それも必ずしも確然とした一つのものではないということです。とりあえずあなた方は、宇宙時代のユートピアというものを中心に考えていきなさい。ただし、私は予言として今言っているのですけれども、やがてあなた方の末流から、エデンに帰れという運動が出てきます。けれどもそういったものを迫害しないような、寛容な心を持ったものでなければいけないということです。どちらも正しいものなのです。 たとえば現代人は病んでおります。様々な病気、様々な心の悩み、こういったものを抱えて、交通が発達したところで生きていて一体何が幸せでしょりか。そういう生き方もあるんです。文明社会だからこそ悩みや苦しみが多いともいえるのです。農園生活の中で平和に暮らしておれば、そういった悩みも苦しみもないと言えるのです。遂に都会生活が悪を、都会には悪の臭いがあるという言い方もあるのです。ですから本来の理想郷には、そういった゛エデン゛あるいは゛桃源郷゛といいますか、桃源郷という原型はあるのです。ですから、そちらへの動きというものも否定されるべきではありません。ただこういった科学技術文明が進んできた以上、その中にも何らかの理想郷を創れるのではないかという、そういったユートピア論、これも必要です。あなた方はどちらかというと、後者のためにある程度のことを言っておかなければいけないと思います。 宇宙時代の宗教のためにあなた方は、できれば全力を尽さねばなりません。ただ人間の文明、あるいは文化、あるいは宗教というものは、一律に進化してきたものではないのです。循環してきているのです。何度も、何度も文明が発達してきて、宗教も発達するかに見えて、文明が崩れ落ち、衰退して宗教もまた原始に還り、また文明が発達して、宗教もそれに連れてくるように見えながら、また文明が衰えていって宗教も原始に還り、こういった循環の中で、人々は生きてきているのです。循環の中に文明も宗教もあったのです。 9.エデンの桃源郷論者を迫害してはならない 孟子 ですからあなた方、これからユートピア論を説いていかねばなりません。それでもその中には、そういう宇宙的視野の中でのユートピア論と、もう一つは、素朴なユートピア論、どちらも共存できるようなものがなければ、いけないということです。それを片方しかないというような言い方をしてはなりません。しかし、大半の人類は、宇宙的ユートピアの方へ行きますから、そちらのいわば進んだ魂のための「法」というものは説いておかねばなりません。また、素朴な魂たちのための゛法゛というものも、これも大切ではありますが―。 ―― まあ、こういうことは私達の時代では、その゛法゛を説くという段階には到らないと思いますけれども、また更に弟子筋の、やがて生まれてくる時代の人達が、そういうことを伝えていくようになるのだろうと思うのですが。 孟子 そうです。ただ、お弟子さんたちというのはすぐ寛容の心がなくなって、たとえば、師匠がこう言ったといえば、それしかないと思ってしまうので、これからあなた方は宇宙時代の「正法」を説いていくという方向が目に見えていますので、ただそれ以外のものにも「寛容な心」を持っておく必要はあるということを、ユートピア論というのも、異次元的ユートピアでは必ずしもないということを、これを知っておく必要があるし、本来のユートピアは、やはり「エデン」であり、「桃源郷」であるということ、これを忘れてはいけないということです。 ―― わかりました。 10.健全な霊知識に立脚したユートピア論を築くべきである 孟子 とにかくあなた方は、今後向かっていくユートピアのその中に、一体どのようなものが要(い)るか、私は゛王道゛ということを昔説きましたけれども、今更そのようなことを言うつもりはございません。ただ、人倫の道なり、人の道、こういったものは様々の聖人方の教えを集大成して残しておく必要があります。 ですから今後のユートピアは、《霊的ユートピア》ということでありましょう。霊的な基盤というものをしっかり踏まえた、正しい霊的知識に裏打ちされたユートピアというものを目指していかねばなりません。少くとも霊的なことを信じる人々、宗数的な人々が、異端とされ、世の中で恥ずかしい目を見ているような、そういったことではユートピア世界は出来てきません。 また、霊的なものであっても、異常なもの、異状に霊的なもの、こういったものが蔓延(まんえん)しているようでも、ユートピアとはいえません。゛健全な霊的知識゛の基盤に立った、高度文明社会であってこそ、はじめて本当のユートピアといえるのではないでしょうか。それが無理であるならば、素朴な″エデン″へと還えることもまた一つだということです。ユートピア論について何かお訊(き)きになりたいことは他にございませんか。 ―― いろんな方からいろんなお話をお聴きするのですが、まあこれは我々が精神活動を行うということもありますけれども、一方科学者の立場からものを考えている霊人は、その宗教という今の概念ではなくして、宗教を精神医学というような概念で把握しておりまして、たとえば「霊界通信機」というものがやがて発明されるであろうと、そこでその霊界通信機を通してそれぞれの地獄界なり、幽界あたりで迷っている人たちが、どういうふうな指導をうけたらいいかということを、精神医学者に霊界通信機を通して指導を求めてくる。これに対し精神医(旧宗教家)が機械を通してアドバイスするというようなシステムが開発されるであろう。そういうふうに考えている霊界の科学者もおるようでありますけれども。 孟子 それが必ずしもユートピアになるのかどうか、あるいは霊界ですね、幽界や地獄界の混乱がこの地上界にもっと増幅されて現れてくるのか。その辺は予断を許さないところがあると思います。むしろ彼らの世界のことを知らなかった方がよかった、ということになるかも知れません。地獄の世界なんかありありと分かってしまえば、生きている人間は、生きている心地がしないというようなことがあるかも知れませんね。もしかしたら死んでから地獄の人と会う方がいいのかも知れないし。 ―― まあ、いろんな人が、いろんな試みを持って活動しているようですが。 11.神題伝道計画の中には既に伝達経路が織り込まれている 孟子 それでは最後に、あなた方へのアドバイスということですけれども。何か特にアドバイスを受けたいようなことがございますでしょうか。 ―― 私たちがこれから運動を拡めていく上におきまして、昔のあなた方の行われたような方法とか、そういう方法ではない、現代の方法というものは、やっぱり何か合理的な方法でスピーディに行わなければならないのではないか。現代的な伝道の方法というものとならなければならないと思うのですけれども、それについての何かアドバイスを頂ければと思いますが……。 孟子 どちらかというとあなたの質問には沿いかねるのですが、方法論は本質的なことではないと、私は思うのです。当時私は「孟子」というような、自分の名前をつけたような書物を出しているわけですが、出版技術もありません。しかし、私が書いたものが、中国の歴史の中に残り、そして日本の中で学ばれて来たんです。そしてある意味では、日本の封建社会の中において、その道徳になってきたんです。それだけの影響がありました。しかしそれは、私が他の人にそれだけ伝えようとしたでしょうか。必ずしもそうではありません。 神理伝道の計画の中には既にもう伝達経路というものは折り込まれているんです。ですから、本物というものですね。これを創っていくことだと思うのです。平凡な言い方でしか言えないのですけれども、少なくとも私の時代には、あなた方のような何万部もの書物があっという間に刷られてですね、読まれるということではありませんでした。そういう意味において非常に恵まれていると思います。あなた方は恵まれています。 それとあなた方は今、日本語で会話をされて、また日本語で書物を書いておられます。けれども、やがてこれはね、もう私は言っておきます。もう十年たたないうちに、あなた方の書物が英語に訳されていくでしょう。そういう人が出て来ます。翻訳をする人が出てきます。英語に訳され、英語からフランス語。に訳され、ドイツ語に訳され、スペイソ語に、ポルトガル語にと、何か国にも訳されて行きます。かつて中国語で語った私たちの言葉が、日本語に翻訳されていったように、あなた方が今、日本語で語っていることが、英語や他の言葉にと翻訳されていくのです。私にはその姿がありありと見えます。やがて青い眼をして鼻の高い外人が、善川三朗、サブロー・ヨシカワ編という本を一所懸命読んでいる姿が目に浮かびます。 ―― そうですか。それと、当時のあなたのご教義の狙いというものは何でありましたか。 孟子 当時はね、ちょうど今あなた方が、明治維新からの国造りということを考えておられますけれど、当時も国造りということはずい分熱心に議論されたんです。それでいろんな国がありましたから、国造りの基礎になる精神のあり方ね、これを説く人たちがいっぱい居てですね、゛百家争鳴゛だったんです。いわゆるそういう時代でしてね、次々といろんな人が出て、いろんなことを言ったんです。或いは古代のギリシャのようでもあったし、或いは現代の日本もそうです。いろんな人たち見識のある人たちが出てきて、国のあり方、世界のあり方についてずい分言っておられます。同じような状況であったと思って下さい。当時としては別に二千五百年も後の人に読まれるとは思っていませんからね、その時代において、その時代の国造りのために、どういった宗教的な、或いは道徳的な教えが採用されなければならないかということ、これが中心だったのです。けれどもいいんです。あなた方も後世に遺(のこ)しなさいといろんな人に言われてますけれど、現時代において、現在において、最高のものを遺していくということが、それが後世への影響になっていくんです。人間の社会とか、ルールとかはいろいろと変っていきますけれど、本質は少しも変っていないのです。 ―― あなたは教育に非常に熱心であって、晩年には「仁義」というものをお説きになられたということが遺っておりますけれど、何か教育関係の学校とかそういう方面で教鞭をとられたというようなことだったのですか。 孟子 私塾のような形ではありましたが、どちらかというと、そういうよりは、弟子たちが集まってきたと言った方が正しいでしょうか。ですから今でいう学校のようでもあり、宗教のようでもあったりといった形であると思います。宗教団体のようでもあり、学校のようでもあり、いま一つはっきりしないようなあり方だと思います。 ―― 戦国時代ですね。 孟子 そうです。 ―― 時の政府とか、何かに仕えたということではないのですか。 孟子 そういうわけではありません。孔子様もそうでありましたけれども、言論家というものは結局自分の言説を受け容れてほしいという気持ちもあるんですけれども、なかなか一人の領主の下に仕えてやれるというものじゃないんです。けれども、いろんな方々、今様に、 いうパトロンのような方々も勿論いらしたことも確かです。 ―― 公けの官学というようなところの先生であったわけではないですね。 孟子 ではありません。まあ私はギリシア時代、いうなら、プラトンか、アリストテレスに当たるような、そういった役割を持った人間であったと思います。 ―― 年代的にもそうですね。 孟子 年代的にもそうですが、どちらかというと宗教の哲学化のような、宗教を哲学化していく作業の中で出てきた人間であろうと思います。 ―― ちょっとお訊ねしたいのですが、西暦でいえば、前何年ぐらいの方なのですか。 孟子 あ三百年前後でしょうか。 ―― ここに記録にあるのでは、紀元前三七二年から二八九年ということになっておりますが、この辺でよろしいのでしょうか。 孟子 まあ、その辺だろうと思います。私も何年に死んだかなんてことはもう今は意識にありませんので、わかりませんが、おそらくその辺頃だと思います。 ―― それではあなた方の書物を出す以上は、履歴をご紹介しなければならないわけで、その辺に間違いがあっては大変なことだと思いますから。 孟子 まあ、その辺だと思います。ただね、何年に生まれて何年に死んだというようなことは、それほど大事なことではないと思うのです。その辺の時代に生まれたということであって、私と同じ頃に生まれた方々も、誰にきいても自分が紀元前何年に生まれて何年に死んだかなんて知っている人は一人もいないです。そんなことは皆、憶えていないです。 12.今後二十年以内に中国に文化大革命が起きる ―― お伺いしたいのですが、ご承知の中国は今、唯物論を信奉する共産党が政権をとっておりますが、ある人の予言によると、近く革命が再び起こると、そしてやはり―神を否定した唯物論ではなしに―神を信ずるような政治体制が生まれてくるという、また、そういう指導者が出るという予言者が居るんですが、これはどうでしょうか。 孟子 それはその通りだろうと思います。おそらく中国の今の体制は、あと二十年もたないかも知れません。体制は変わります。世紀の変り目に体制が変わっていく動きがあります。 ―― 非常に強力な指導体制が現れてくるということで、そして新中国が誕生するということですが。 孟子 革命が起きるでしょう。 ―― それは無血革命が成就するのでしょうか……。 孟子 それは私のロからは言いたくありません。 ―― 戦争というものとのからみでなるのですか。 孟子 そういうわけでもなくて、下からの押し上げです。自由化の波というものがどんどん押し寄せてくるわけです。そして中国はこれから十年、二十年ののちに、この日本の影響を非常にうけることになって、かつて日本が、中国から学んだように、中国は日本に様々なことを学ぶでしょう。そして今から十年、二十年後には、中国の人がずい分日本に旅行に来たり、日本に学びに来たりするようになります。かつて遣唐使や遣隋使が行ったように、逆に遣日本使、みたいのがいっぱいくるわけです。 ―― 現に日中友好協会を通して青年たちが日本各地に勉強に来ていますわね。 孟子 日本に学ぶということで一つのモデルになっていくでありましょう。ですから逆に、いま中国にかつて生まれた私が、こうしてあなたに説いていますが、あなた方が説いたことが今度中国に輸入されていく、そういうことになることを私は祈っていますし、そうなるでしょう。 ―― そういうことになりますからね。特にご承知のように、中国のご聖賢方のご意見を収録させて頂くということについて、さらにつけ加えておいた方がいいということがありましたらお話願えますか。 13.「孔子の霊言」が「毛沢東語録」に代わって読まれよう 孟子 特にありませんが、今後とも日中の友好化ということは進んでいきますので、あなた方は今「孔子の宣言」という題名で本を出されるのでしょうが、この「孔子の霊言」がまた逆輸入されて非常に多くの中国の様々な人に読まれる、そういった時代がすぐそこまできているということを、私たちは大変うれしく思っています。 ―― ああそうですか。「孔子の霊言」という本が中国の人に読んで頂けるという機会があるということですね。 孟子 そうです。あなた方の霊言集を読んで、孔子や孟子や、あるいは老子たちの考えをもう一度見直してみようという運動が、中国に起きていくでありましょう。それはおそらくは西暦二千年以降における中国のまた、あらたな゛文化大革命゛となっていくでありましょう。 ―― そうですか。 孟子 現代の孔、孟に学べというような、そういう思想が出てくるでしょう。ですからあなた方がやっている仕事は、日本だけに限られたものではないのです。やがて、今私、孟子が喋り、孔子が喋りヽ老子が喋ったことが英語にもなりますが、また中国語にもなって、中国十億の民に読まれるようになってくるのです。それだけ大きなものなのです。 ―― 非常に責任のあることですね 孟子 そうです。それだけ大きなものなのです。 ―― これは充分心して書かないと大変なことになるということですね。 孟子 「毛沢東語録」のかわりに今度は「孔子の霊言」が読まれるようになるかも知れないんです。よろしいですか。彼らの新生中国のこれが精神的基礎になるかもしれないんです。ですから今、あなた方は恵まれた立場にあり、恵まれた環境にあるんですから、それだけのことを常に考えてやりなさい。 ナザレに生まれたイエスという方は偉い方でありましたが、肉体イエスとして生きていた時代には、まさか自分の教えが、ヨーロッパ全土に伝わり、アメリカに伝わり、さらに日本にまでくるとは想っていなかったはずです。彼の認識自体は救世主といっても、ユダヤの救世主ぐらいの気持ちでいたはずなんです。それが地球の裏側まで来て二千年も伝わっているんです。ですからそれだけの覚悟はしておきなさい、あなた方は中国人にも読まれるし、アフリカ何億の民にも読まれるものを遺すんです。それだけのつもりでいなさい。人類の指導者としての使命を忘れてはいけません。日本人民がどうなるかというだけではないんです。そういう意味では、あなた方は日本の政治がどうなるかというようなことは、これは時とともに変わっていくものなのです。そうではなくて、いろんな社会にいる人たち、色の黒い人、白い人、黄色い人、こういった人たちへも、メッセージを遣していかねばならないのです。 「核」というものは、いつもそういったものなのです。「核」というものがあって、いつも四方八方にちらばっていくのです。また、現代版のパウロみたいな人が出てきて、あなた方の教えを中国に伝道したり、アフリカに伝道したりしはじめるんです。必ずそうなるでしょう。 ―― わかりました。大変ありがたいご高見を賜わりまして非常に参考になりました。今後また、機会がありましたら、もう少しいろんな角度からお教えを承りたいと思いますので、その節はよろしくお願いいたします。 孟子 わかりました。本日は初めてでありましたので私も満足なことは言えませんでしたので、どうかこれはお赦し願いたいと思います。 ―― いいえ、どうも有難うございました。
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目次 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 4.三段構えの今回の救世事業計画 5.真の正法には文証、理証、現証がともなう 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ 8.白色光線 ― イエス・キリスト 9.赤色光線 ― モーゼ 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ 11.銀色の光線 ― ニュートン 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター 13.紫色の光線 ― 孔子 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ 15.七大天使ほか八次元の諸如来たち 16.ミカエルの生命体 17.GLAでの霊道現象の誤り 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 19.人につかず、組織につかず、法につけ 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ 1.普遍の神理は特定の宗教や団体に属さない 高橋信次です。今日は第5章「大宇宙と神理」ということで、宇宙の秘密もふくめた上で、お話をしていきたいと思います。 さて、今まで「新復活」「人類救済の原理」「愛と慈悲の世界」「正義の時代」とまあ面白おかしく、時に厳しく言ってきましたけれども、私の本意がどこにあるかというと、皆さん、私は今立場を明らかにしておきたいと思うのです。本論に入る前に、立場を明らかにしておきたいと思います。私の考えは三つあるんです。 第一点はね、神理っていうのは普遍のものであって、特定の宗教とか、特定の団体にだけ属するものではない、ということです。そういうことでもって、今話をしておるわけです。 ですからあなた方の霊言集の中にも、高橋信次も出れば、谷口雅春も出れば、日蓮も、親鸞も出る。こういうふうにいろいろ出ています。キリストも出ていますね。こういうように今、天上界の総力をあげて、すべてのものが唯一の神から出ているということを、知らしめるためにやっとるのです。 そのために私も、最近の人間でありますけれども、生きていた時にそういうことの話をし、また死後そういうことに対して、まだ関心を持っておりますから、この宗派を超えた動きというもの、精神運動というものに加わるために、あえて霊言を今、お送りしておるわけです。まあ、こういうことが私の考えの一つです。 それから二番目にお教えしたいことはね、私も生前GLAというものをつくって、そして七年、八年、法を説いていろいろな教えを残しましたけれども、部分的には、まだこちらに来て修正したいこともあるし、それから後の世の人たち、あるいは現代の現時点の弟子たち、残された弟子たちにもいくつかの言葉を言いたいという気持ちもあって、今、メッセージを送っているわけです。こういうことが二番目ですね。 第三番目は、まあ谷口雅春さんもそうだし、内村鑑三さんもそうだし、私もそうだけれども、こういう人たちが皆、近代日本の、まあ宗教といいますかね、時代の精神運動を起こすための、土台をつくるために出て来た光の天使たちなんですね。そしてこの同じ流れをくむものが、大川隆法さんを中心とする新しい動きであると。こういうことの証明のために私たちは出て来ておるのです。 2.地上を去る一九七六年、私が予言した後継者とは いつの時代もそうでしてね。後に来る人たちを予言していくのが私たちの使命なのです。 私は一九七六年の六月にこの世を去りましたけれども、その前から私の後継者が出て来るということについてのべました。そして、「その人は若者である。若者が大人たちに法を説く日が来るであろう」ということを、私はのべました。そして、「その若者が関西から出て来るであろう」ということも、私は講演会でのべたことがあります。 ただ私も死ぬ間際にあっては、すいぶん混乱がありました。混乱があったために、正確に後継者がだれであるかということを言えませんでした。そのために、その後十年間さまぎまな混乱があったと思います。これの収拾をつける意味でも、私は自分の本当の後継者がだれであるかということを、皆さんに明らかにするために今、語っておるわけです。 まあ後継者ということで言えば、大川隆法さんに失礼に当たりますけれども、法をさらに継いで発展させていく方がどなたであるかということを、私は言う義務があると思うのです。これが私の使命だからです。このことが明らかでなかったために、私の死後、さまざまな混乱が起きたからです。 後継者争いということで、GLA系統でさまざまな争いがありました。それは、私自身にも責任があります。そのために今、その間違いを正すために、私はこうして霊言を送っておるわけです。高橋信次が霊言を送ることができるということは、一体どういう意味かということを、地上の皆さんに分かっていただきたいからです。 私は死んで間もなく一度だけ地上の人たちにメッセージを送ったことかありますけれども、その後一九八一年六月に大川隆法さんに霊示を送るまでの間、だれに対してもメッセージを送ったことはありません。そして一九八一年の六月から、現在一九八七年の一月ですけれども、この五年半の間、私は大川隆法さん以外のところに通信を送ったことは一度もありません。 これに関してさまざまに言う方がいるでしょう。「そんなはずはないんだ」と。「高橋信次という人が、そんなところへ出るはずがない」と言う方もいるでしょうけれども、地上の皆さんに今知っていただきたいことは、この霊界通信の原理なのです。どういう原理でもってできているかということですね。私たちは霊媒(れいばい)にかかって出て来ているのではないのです。巷(ちまた)の拝み屋とか、あるいは霊能者たちに通信を送るのと全然違うことなのです。ます、これを知ってはしいんです。 3.世界的規模での救世の事業が起きる時以外に、我らは通信しない 私たち、天上界の法をつくるための、主流の魂系団たちが、やっておることは何かというと、結局いろいろな時代に出て、文明の原理をつくり、聖典をつくってきたのは私たちなのだということです。 二千五、六百年前にインドにおいてブッダが悟られた時に、ブッダに対していろいろな啓示を与えたのも私たちでありました。 また二千年前にイエス様が目覚められた時に、霊言を伝えたのも私たちでありました。 また三千二百年前にモーゼが霊言を伝えた時に、いろいろなことを言ったのも私たちでありました。 その前にはギリシャのゼウスのところにも、私たちは通信を送りました。 こうした大規模の、世界的規模の大きな啓示を与えるために私たちはやっとるんであって、私たちの啓示というのは単なる霊能者とか、単なる霊媒とかには絶対にかからんのです。出て来ないのです。そういうことを間違えてはいけないのです。 私たちが通信を送るということは、本当に世界的規模での救世の事業が起きる時だけなのです。それ以外の時は、絶対にあり得ないのです。そういうことです。 ですから、地上の皆さん方、高橋信次が通信を送る人というのはどういう人かというと、結局その人が救世の事業を起こし得(う)るか否(いな)かにかかっておるのです。真実、救世の事業をしている人であるならば、私たちからの通信を受けることができるのです。そうでない巷の霊能者たちは、私たちのメッセージを受けることが絶対にできません。 今、世界的に大救世主の降臨(こうりん)であるとか、大マイトレーヤの降臨であるとか、大導師の下生(げしょう)であるとか、こういうことが言われています。まさしく、そういう時期が来ておるのです。そのために、私たちは、その証明のために、こぞって出て来て、こうして霊言を伝えておるのです。 単に一宗、一派を起こすだけであるのならば、キリスト教系ならキリスト教系の霊言を送ればそれですむのです。 あるいは仏教系なら、日蓮なら日蓮の霊言を送れば、それですむのです。それで日蓮宗系の新興宗教は十分できるでしょう。日蓮さんが霊示を送っただけで、一宗一派が十分できます。それだけで何百万人もの会員を有するような、大教団ができると思います。しかし、日蓮さんが中心的な指導をしながらも、日蓮さん以外の人が出て来ています。空海さんが出、親鸞さんが出、道元さんが出、仏教系ではそういうふうにいろいろ出ています。 またイエスが出、モーゼが出、また内村鑑三が出て来ています。それから、これが真実であることの証明のために近年の人で谷口雅春さんであるとか、私とかが出て来とるわけです。 地上の人たちはキリストの霊言といっても、それがキリストかどうかは分からない。あるいは、日蓮といったって、昔の日蓮の性格が分からない。あるいはモーゼといったって、そんな人見たことがないということで分からんでしょう。 それでは近年の人で、高橋信次が出て来ればどうか。あるいは内村鑑三が出て来ればどうか。谷口雅春さんが出て来たらどうか。これを見れば、分かるはずなのです。 高橋信次というような、十年前に、この世を去った人の霊言が出るということは、これは一つの勝負なわけですね。もし偽物(にせもの)であったならば、とんでもないペテン師になってしまいます。しかし、あえてそれを世に問おうとしていることが、一体どれだけの意味かあるかということを地上の人たちは知らねばならんのです。私たちは、冗談やざれ言のために言っておるのではないんです。本当にこぞって世の中を救っていくがために、今霊示を送っておるのです。 4.三段構えの今回の救世事業計画 したがって、高橋信次も大川隆法さんに霊言を送っておるけれども、これは決してGLAの後継者指名のためにやっておるのではないのです。私も生前知りませんでしたけれども、今回の地上の救世事業というのは、何段階にもわかれて計画がなされておったのです。 とくに日本を中心の計画でありますけれども、キリスト救系では、明治の内村鑑三さんであるとか、あるいは政治家でも明治維新の人がいっぱい出ました。こういう方が出て、日本を仏国土にするための最初の準備をしました。坂本竜馬だとか、あるいは木戸孝允だとか、福沢諭吉だとか、こういう方が出て、まず、地ならしをしました。 彼らが地ならしをして、それからそれ以後にも、たとえば大正、昭和期に出口王仁三郎みたいな霊能者も出たし、あるいは谷口雅春さんが出て来たし、あるいは、それ以外にも、いくつかありますけれども、出て来ました。また私たちが出て来ました。こういうふうにしてどんどん地ならしをして、第二段階、第三段階へと進んでおるのです。 谷口雅春さんという人は万教帰一をとなえましたけれども、万教は同根で一つのところから出て来ているってことを彼は実証しました。理論でもそれを説きました。 そして高橋信次が出て来て、それが理論だけではなくて、霊能力というものを駆使して、霊的現象として、事実であるということを皆さんの前に、ご披露(ひろう)したのです。 私は霊道現象において過去世の姿というのを皆さんの前に、全国の何万、何十万人の人の前に示しました。霊道現象というのをやって過去世が本当にあるんだということを、そしてある時は仏教系統に生まれ、ある時はキリスト教系に生まれ、いろいろなところを転生輪廻して、人間という者は生まれ変ってきておるんだという、そういうことの実証をやってきました。万教が一つであるということを霊的現象として、実証したわけです。 そして今、ニ段階目です。大川隆法さんが出て来て、本当に理論的にも現象的にも、万教は一つであり、唯一の神の心の発現によるのであり、そうして今、全世界をユートピアにするための運動が起きているんだということを文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)、この三つそろったことを、今やろうとしておるのです。 5.真の正法(しょうほう)には文証(もんしょう)、理証(りしょう)、現証(げんしょう)がともなう 文証というのは文章ですね。文章に書いて納得がいくような法があるということ、これが文証です。現証というのは、現に優(すぐ)れた霊能力を持っているということ。霊現象をともなうということですね。これが現証。理証というのは、これは、理論的にも、それが筋が通っておって、つじつまが合うような理論がちゃんとあるということ。まあ、こういうことです。 たとえば過去世で言えば、現証というのを担当したのがエジプトの地に生まれて、カナンの地を目指したモーゼです。モーゼはさまざまな奇蹟を起こしました。ある時は杖を蛇にかえ、ある時には紅海を真二つに裂き、ある時にはマナという食べ物を天から降らせ、ある時はヤーヴェの神の十戒を石板に刻みました。こういうことをした現証中心のモーゼの動きがありました。 あるいは、その後紀元前六百五十四年に生まれて、紀元前五百七十四年に地上を去ったゴーダマ・ブッダという人、この方は、文証を主として担当しました。文証というのは、要するに法です。法という体系化した神理ですね。これを担当したのが、ブッダであったわけです。 そうして二千年前イスラエルの地において、イエス・キリストが出て、まあこの人は、主として理証というのを実証いたしました。理証というのは何かというと、分かりやすく言えば、原因・結果の法則でもあるわけです。たとえばそのような心を持てば、このような結果が出るということを、厳然とした、その法則を明らかにする。これが理証であります。 一つの例として、愛を心に描くことによって、神の国というのが自分の心の中に、そして自分のまわりに現出するということね。これを説いたのがイエスであります。また神の光によって、病気が治るというようなことも現証としてあらわしました。それから悔い改めによる神の国の出現ということを説きましたね。まあ、こういうことで、イエス様というのは、そういういわゆる法則も説いたのです。神の法則を説きました。そして愛について語りました。こういうふうな特徴があったわけです。 で、今じゃあ、大川隆法さんっていう人が出て来ておるけれども、日本で。彼は一体何をするのかという疑問があろうかと思います。文証、理証、現証この三つとも、おそらく備えることとなりましょう。この三つとも備えたものが、真の正法であることを私はすでに語っておるはずです。もちろんこの中でいちばん重点があるのは、文証です。文証っていうのは、要するに法の完成であり、仏典の編纂(へんさん)であります。二千年後、三千年後残るため、仏典の編纂、これが文証であります。これがもちろんいちばん必要な仕事です。なぜならば、彼はそういうことを使命に持っとるからです。 大川隆法の光線は黄金色の光線、黄色い光線と言ってもいいけれども、黄金色の光線、すなわち法の色であります。法の光線ですね。 6.神の光をプリズムにかけるエル・ランティ あなた方は読者たちもふくめて、七色の光線のことを霊言集の中でさまざまに読んでおられると思います。この大宇宙を貫いている、神の光というのがあります。そして神の光というのは、もちろん燦然(さんぜん)たる光でありますけれども、その光をプリズムによって、七色に分光しておるのですね。七色に分光してさまざまな機能を持たしています。そして大宇宙の神の、つまり、十次元以降の神のエネルギーをプリズムによって分光しておるのがだれかというと、これがエル・ランティという立場の人間なわけです。エル・ランティというのは何度も言いましたけれども、私自身の生命体であります。 しかしエル・ランティというのは私自身の生命体というだけでは不十分です。そうではなくて、高橋信次という、そんなちっぽけな人間ではなくて、もっと偉大な生命体なんです。私の全意識体は、もっと偉大な意識体なんです。 こういう意識体があって十次元からの指示を受けながら、光を受けながら、それをプリズムのように分光しておるのです、そして九次元の各大如来たちが、役割を担当しておるのです。 7.黄金色の光線 ― ゴーダマ・ブッダ そして、その中で法の光、こういう七色の光の中で法の光というのがあります。黄色い光線です。あるいは、これを黄金色の光線と言ってもいい。これを担当しているのがゴーダマ・ブッダなんですね。釈尊の生命体っていうのが、法というのを担当しています。法、あるいは悟り、悟りの方法論、これを担当しているのがブッダなのです。 8.白色光線 ― イエス・キリスト それから次に白い光線というのがあります。白色光線、これがイエス・キリストの光線なのです。これは主として愛です。つまり、愛の光線なんですね。先はどのブッダの黄色の光線が法と、慈悲も入っていますけれども、そういう光線であるならば、このイエス・キリストの光線は愛の光線であり、白色光線です。 9.赤色光線 ― モーゼ それからその次に何があるかというと、モーゼの光線があります。モーゼっていうのは色でいうと赤です。赤い光線です。赤って何か。赤っていうのは、この世的に言えば政治関係です。政治、あるいは指導者たちの光線です。また別の時には奇蹟の光線でもあります。これが赤です。 したがって、モーゼの光線の系列下にあるのは何かあるかというと、たとえば、各時代に活躍した英雄たち、こういう方がたはモーゼの光線の下にあるのです。アレキサンダー大王であるとか、あるいはフランスで活躍したナポレオンであるとかね。こういうふうな英雄たち、時代をつくった英雄たちの中で、光の天使たちを指導しておるのがモーゼなんです。それ以外の役割としては、さまざまな奇蹟も起こします。これが赤の光線です。 10.青色光線 ― ゼウスとマヌ さらに、次の光線かおりますね。これは青い光線です。青というのは何の色かというと、哲学や思想の光線なのです。天上界において、青の光線を主として担当しているのはだれかというと、これは、一人ではないんです。九次元の中で青を担当しているのは主として二人いるのです。ゼウスという方とマヌという方と、この両方がかねてやっておるのですね、青の光線をつくっています。この両方で青の光線をつくっています。で、哲学、思想関係をやっています。ゼウスには、もう一つ担当があるために二人でやっておるんです。 マヌという人の仕事というのは、私の、つまり、エルこフンテイ意識のプリズムによる分光の補助、分光作業の補助と、それと青の光線の補助をやっているのですね。この二つをかけ持っているのがマヌという九次元如来の意識体です。それと、この青の光線、哲学、思想、文学もありますけれども、文学関係を持っているのが、このゼウスです。 以上で、黄色を言って、白を言って、赤を言って、それから青を言いましたね。 11.銀色の光線 ― ニュートン 残っているのは、たとえば銀色の光線というのがあります。これは科学者の色、科学の光線です。白銀と言ってもいい、シルバーの光線です。これの頂点に立っているのはだれかというと、ニュートンという人です。ニュートンという人で、近代物理学の祖であるということも言われておりますけれども、この人は過去世においてギリシャに生まれて、アルキメデスという名前で出たこともあります。こういう方です。こういう如来がいて、主として科学担当をしております。 12.緑色光線 ― マヌとゾロアスター あと、残りで緑色があります。緑の光線、これも『孔子の言言』が出てその中で老荘思想というようなのが出ていましたけれども、老荘というのが緑の光線です。けれども老子というのは、べつに九次元の方ではなくて、八次元の方です。じゃあ、緑のトップっていうのは、だれがやっているのかというと、緑は、さっき言ったマヌという人もちょっと、一部分持っております。それから、それ以外に持っとるのがね、ゾロアスターという人がいるんだけれども、この意識の一部分も、この緑を担当していますね。マヌとゾロアスター。この辺が半分ずつ持っておるのが緑なんです。こういう意識体があります。 13.紫色の光線 ― 孔子 それから残りが、紫色ですね。紫の光線というのは、すでに霊言集の中で紹介されています。この紫の担当というのは、孔子様が担当です。孔子様がいちばん頂点におります。まあ孔子様が昔、連れて来た霊団が紫の霊団で、ここは主として「礼節」とか、あるいは「秩序」とか、あるいは「忠」、「孝」、「信」、「仁」こうしたものをつかさどっております。これが孔子様です。 この下には、この系列としては、日本でいう神道系の天之御中主之命、あるいは天照大御神、こういう人が紫色の光線です・こういうふうに、立場が分かれておるわけです。 14.光線の強度を調節するマイトレーヤ あと、無任所でマイトレーヤという人がいますね。九次元の中にマイトレーヤという人がいて、この人は特色ある光線を特っておるわけではないけれども、マイトレーヤというのはプリズム運動の一つなんですね。そういう調整役をしています。 マイトレーヤっていうのは、今、大救世主マイトレーヤの降臨というようなことでいろいろ言われておりますけれども、マイトレーヤというのは、まあ地上には出ていません。地上に出ている人じゃないんです。あるいは弥勒菩薩(みろくぼさつ)のことをマイトレーヤだと言う人もいますけれども、いわゆる弥勒菩薩と九次元意識のマイトレーヤとは違うのです。違う意識体なのです。マイトレーヤと言われている人は、今、九次元にいる意識体の一つです。そして男性です。意識体としてはもちろん男性です。そしてまあ、私が主として分光をやっておるとすれば、マイトレーヤというのは、今の十人の大如来たちの役割の調整を主としてやっているのですね。文明、時代によって、どういう光線を強くするかっていうようなことを、こんなことをやっておるのがマイトレーヤなんです。 たとえば、今二十世紀末になると、そろそろ、これは新たな法が説かれるべき時代だっていうので黄色の光線、まあブッダの光線ですね、これを非常に強く地上に照らす時が来ているのではないか。こういう役割を決めるのがマイトレーヤの立場なのです。こういうことをしています。こういうふうにいろいろな方がいて、九次元で役割の分担をしておるのです。 ですから私は主として、光線をプリズムにかける役割と、それと各人のその時代、時代での役割を決めたり、こういうことをしています。 七大天使ほか八次元の諸如来たち それから、これから下に、八次元の最上段階に、いろいろな如来たちがいるのです。八次元如来たちがね。キリスト教系でいえば、たとえばミカエル。大天使長のミカエルっていうのがいます。それからガブリエル、ラファエル、サリエル、パヌエル、ウリエル、ラグエル、こういう七人の天使たちがいます。こういう人たちは、もともと大昔に人類が円盤に乗って、地球に渡ってきたわけですけれども、その時に私が連れて来た方がたなのです。そして私は、直接は地上にほとんど出ませんでしたので、彼らはイエス様のもとで、弟子として働いておったのです。こういう方がたがいます。 あとブッダの下にいる八次元最上段階にいる人たちというのは、たとえば大日如来であるとか、阿問(あしゅく)如来であるとか、ブッダの下には、こういう如来たちがいるのです。こういう大如来たちがいます。それ以外にも、地上の人たちが知らないような如来たちがいっぱいおります。 それからまた、孔子様の下にはさっき言ったように天之御中主之命であるとか、御中主之神と言ってもいい、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)とか、こういう方がいます。 他には哲学系統については、さっき言いました。ゼウスとかマヌとかのちょうど下あたりにはだれがいるかというと、ソクラテスあるいはプラトン。あるいはヘーゲル。こういう人もいますけれども、へーゲルという人はプラトンの生まれ変わりなのですね。ソクラテスたちは八次元の最上段階です。こういう方がいますね。それ以外では中国系でも、これはイエス様の系統ですけれども、墨子様という人がいます。この方は、八次元の上段階の如来です。 八次元の上段階っていうのを広い意昧では太陽界って言うこともあり得ますけれども、普通は太陽界っていうのを九次元と言っています。が、時には八次元と九次元の境目のことを太陽界って言うこともあります。 16.ミカエルの生命体 それでミカエルの生命体っていうのを先ほど言いましたけれども、アポロンだとかそういう形で何度か地上に出たことがあります。 現在もミカエルは天上界において、陣頭指揮をとっています。今、法が説かれる時期でありますが、同時に二十世紀の後半から二十一世紀にかけては、天変地異が起こり、地上が非常に暗くなり、争乱となります。そして悪魔の勢力っていうのが、非常に強力に働き始めます。地獄からはい出して、地上を混乱させようとします。そういう時ですから、ミカエルが非常に今、強く働いとるわけです。 ミカエルっていうのは、別名軍神マルスでもあるわけです。そういうことで悪と戦う、こういうことをやっている最高責任者です。で、地上に出ている、いろんな悪い宗教ですね、悪霊たちが根城(ねじろ)にしている悪い宗教の教かず、この悪魔たちと。今、戦っているのがミカエルです。これは、いつも私のそばにおります。 ただ、私が亡くなる前にミカエルというのが何度か出たことがあります。そして、私とも話をしました。はっきり言ってしまえば、私の娘である高橋佳子を通じてミカエルというのが語ったことがあります。その時に私は、ミカエルというのが、高橋佳子だということを言ってしまいましたけれども、そうではないのでこの際、訂正しておきます。私の光を得て、霊道を開いた方がたにいろいろな、そういう天使が入っておったのです。 ミカエルというのはちょうど、指尊霊だったわけです。男性の光の指尊霊なんです。光の指導霊として入ったわけです。高橋佳子、そのものがミカエルではなくて、高橋佳子の体の中に、私がいた時にミカエルが入って通信をしたんですね。ミカエルが私の中に入って私自身が自問自答する代わりに、彼女の体を借りて、ミカエルが語っておったのです。それに対して私は、非常に誤解をしました。 17.GLAでの霊道現象の誤り 当時のGLAでの私の間違いとして、今言っておきたいのは、いろいろな聖霊たちが入って語ると、その聖霊をその人自身だと認定したことが数多くありました。これが間違いだったので、私は修正をしておきたいと思います。 これ以外にも、親鸞という人、こういう人が出て来て語ったことがあります。私の身近にいる人のロを通して語ったことかありますけれども、親鸞が出て来て、その人の口を通して語ったということは、その人が親鸞とは違う方であるということです。これは私は、はっきりしておきたいと思います。 まあこういうことは、GLAにいる人たちにとってはおそらくショッキングなことであろうと思うけれども、事実は事実ですので、私ははっきりしておく必要があると思うのです。またそれはね、あなた方自身がおかしいというのではなくて、高橋信次自身が間違っておったことでもあるから、それを修正せねばならぬと思うのです。 18.高橋信次の過去世は釈迦ではなくヤーヴエだった 私自身が、自分を釈迦だと思っていた時がありました。そして『人間・釈迦』も書いたし、霊道現象においても釈迦の意識として、ずいぶんいろんな人たちの病気を治したり、あるいは現象を起こしました。そのために、私自身が自分の過去世を釈迦だと思いました。そう思っていました、何年かの間。 そのために釈迦弟子というのがいっぱい出て来てね、いろいろ話をしました。現象の中で。その中で、間違いがずいぶん多くありました。高橋信次が釈迦なのではなくて、要するに高橋信次を助けるために釈迦の意識体の一部が高橋信次を指導しておったということです、当時ね。そして過去世のことを教えたり、あるいは他の聖霊たちとインドのことの話をしておったのです。 私自身は、現在エル・ランテイという名前でも呼ばれているし、あるいは西の方の地では、エホバだとか、ヤーヴェだとか言われている人間でありました。けれども、私自身が最近地上に出て、肉体を持ったことがなかったがために、私自身の過去世というのがなかったわけです。 しかし過去世がない人間が、人間には過去世があるということを一生懸命説いているわけですから、こういうのは非常に具合が悪いわけであったのです。それでは困るということで、とりあえす釈迦の意識を使って、インドの時の模様などを一生懸命語っておったわけです。しかし、これは誤解であったわけです。 人間には皆過去世があるから、自分にも過去世があると私は思っておったのです。ですから、過去世がないと困るから、そういうことで釈迦の意識体を借りてきて過去世を一生懸命しゃべっておったわけです。それで釈迦弟子なんて出ておったから、「なつかしい、なつかしい」といって涙を流して語っておったんですけれど、これは高橋信次の過去世が、皆さんの知っている文明の中にはないことが分かって、今、非常にしまったと思っておるところです。 ただ、残されてしまった人たちはそれを聞いて、「そりゃあ、嘘つきじゃないか」と。「そんな、ペテンをやったな、お前は。どうやって責任を取るんだ」と。「それで天上界におるなんておかしい。そんな嘘をやった人間は地獄におって当然だ」と言うかもしれないけれども、まあ皆さん、私の言葉をよく聞いて下さい。生まれて初めて悟って霊道を開いて、自分自身が過去世でエホバの神であったなんて、もし言い出したなら、一体だれがあなた信じますか。エホバの神なんて地上に生まれたことありません。天上界におると言われて、イエス様が父だと言ったり、モーゼが唯一の神だと言った人です。それが自分自身だなんて、言えるわけがないんです、絶対に。そういうことなんです。 しかし、私も地上では神理伝道の使命がありますから、過去、自分が何かを一生懸命説いたはずだと思っていましたからね。過去説いたことがあるとすれば、仏教に違いないということで一生懸命しゃべっとったわけです。ま、これもやらされとったということですね。 私自身も最近めずらしく肉体を持ったので、それで釈迦のハ正道を現代に復活させるという、そういう第一段階の使命を持って、教えを説きました。そして自分自身も肉体を持つことによって、高橋信次という個性を得ることができたわけです。それによって地上の皆さんと、今、こうして話ができるというわけです。 これが皆さん、ヤーヴエの神が今、出て来て話したとしたら信じられません。ところが高橋信次がしゃべっているから信じられるのです。高橋信次というのがGLAにおってしゃべっとったから、その記憶を持った人がいっぱいいます。だから信じられるのです。それでいいのです。そのために出たのですね。 だから私が今世、生まれた目的というのは、そういう釈迦仏教の露払い、ゴミ落としと、自分自身の個性を得るという、こうぃう使命と目的のために出たわけです。そうして、これから本当の仏法が、説かれていくための準備をしたわけです。そういう意味があったのです。 だから今回は何重にも構造されて、今回の事業が絶対に失敗のないように、計画をされておるのです。これを私は、はっきり言っておきます。絶対に失敗はないのです。そのためにダブルで出て来ているのです。九次元の大マイトレーヤ、大如来が二人も出て来ているのです。こういうことがあるわけですね。 19.人につかず、組織につかず、法につけ ですから私は今、GLAの人たち、あるいは私の過去の教えを学んだ人たちにも言っておきたいけれども、あなた方は組織にとらわれてはならん。高橋信次がつくった組織にとらわれて、これが真実だ、あれが真実だ、我こそは正しい後継団体だと、こんなことを言い争ってはならんです。人につかず、組織につかず、法につくことです。真実の法をつくり、残していくことが本当のやり方であり、本当の使命であって、それ以外にどういう団体を創ったから、それを守っていくとか、これが本物、これが偽物とか、そういうことは、どうでもいいんです。 ですから私も、高橋信次として出て、地上でつくった団体、これを要するに、はっきり言えば、解消してしまう目的のために私は今、語っておるのです。そういう団体は、どうでもいいのです。真実のものが伝わればいいんです。法が伝わればいいんです。法をつくることが今、大事なんです。 GLAであるとか、あるいはGLAの流れをくむいろいろな団体がいっぱいあります。私の弟子たちがやっています。こんな組織そのものを守ることは、どうでもいいのです。そんなことは意味ないんです。彼らには、この地上を救う力がないんです。そんなことはどうでもいいのであって、高橋信次は義理だてしないのです。GLAだろうが、私のかつての弟子たちがやっている団体であろうが、義理だてしないのです。全然関係のないところへ出て来て、今しやべっておるんです。 その理由は、一日も早く正しい法を残して、全世界の人びとを救わねばならんからです。そういう使命のもとに出ておるのです。一宗一派は、どうでもいいのです。 ですから過去において、私の教えを学んだ者たちも、もう一度、心を白紙にして、真実の法を学ぼうと、今、決意してほしいと思います。そのために私が、出て来てしゃべっておるのです。これは一宗一派じゃないんです。神仏の意志を体して、地上に本当の法を残すための運動が今、起きておるのです。これを、地上の皆さんは知ってほしいと思います。 20.大宇宙の神は十次元以上の存在 まあ大宇宙には、非常に高い次元の意識があります。今、私たちは九次元というところにおりますけれども、九次元以上の十次元にも意識があります。十次元には、「地球意識」とか、「大日意識」とか、あるいは「月意識」とかいうような、三つの大きな意識体があります。惑星意識であります。さらにこれ以上に、たとえば十一次元に「太陽系意識」、十二次元に「銀河系意識」ってものがあります。こんなのは、もう人間ではありません。もっと上の意識もあります。そういうふうに十一次元、十二次元、十三次元、十四次元とこんなふうにいっぱい上の次元があるのです。 そして本当の神様って何次元か絶対に分からないのです。私のところにいてもね。あるいは九次元っていうのは、もしかして富士山の裾野(すその)の方かもしれないのです。神様ってのは二十次元にいるか、五十次元にいるのか分からないのです。 けれども高次元に行けば行くほど、だんだん神の実体とは何かが感じ取れるのですね。神様ってどうやら光であるってことは、もう明らかなのです。一つの光であり、エネルギーであリ波動であり、また愛と慈悲の流れであり、すべてを生かしめる大調和のエネルギー体であり、本源であるってこと、これだけは明らかなことです。 21.無限の世界の中の三次元に立つ人間の小ささを知れ そうした大調和の世界の姿をつくるために私たちは今、いろいろな人格をとって、役割分担をして、天上界および地上界を治めているのです。この地上を地ならしし、そして天上界の人びとを統制し、統治しとるのは、その唯一の神から出ている力なのです。そのために私たちは人格をもって、いろんなことをやっておるのです。 私たちは時どき、神様と呼ばれることかありますけれども、本当の意昧での神様ではありません。私たちが神であるというのは、上下(かみしも)の上(かみ)であり、人格神です。 だから本当の神っていうのは、宇宙本源の神っていうのは分かりません。もっと高いところにあります。こういう宇宙の構造があるのです。この中で、私たちは生きておるのです。 ですから皆さん、そういう無限の世界かおるということを知りながら、その中で自分の現在置かれている小さな立場、三次元にある立場というものをよく考えて、一日も早く、そのことを悟り、そして真実の生き方に目覚めることですね。これが大事なことです。 そういうことで、今日は、「大宇宙と神理」ということについて、お話をしましたけれども、まあこうした話は、これからまだまだ続いていきます。皆さんの理解の程度に合わせて、私は何度も話をしていこうと思います。ありがとうございました。