約 241,333 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/182.html
目次 1.宇宙人と宇宙協定 2.銀河的正法と科学の進歩 3.大宇宙の仕組みを知った上での宇宙旅行 4.平和を求める宇宙人の目的 5.人類の真の歴史に目覚める意義 6.宇宙旅行のルートとシステム 7.三次元と四次元を自由にくぐり抜ける霊的科学技術 8.力場の創造によるタイム・マシン (一九八九年三月十二日の霊示) 1.宇宙人と宇宙協定 ニュートンです。 本章では、私は宇宙の秘密について語りたいと思います。この広大な大宇宙を、これを統(す)べるものはいったい何であるのか。この宇宙に隠された秘密とは何であるのか。人類は今後どの程度まで宇宙を知ることができるのか。この宇宙の秘密は、今どこまで明らかにされたのだろうか。そして、今後どこまで明らかにされていくのだろうか。それは本書の読者が生きているうちに、どこまで明らかになるのだろうか。あるいは、死んだ後、百年後、二百年後、三百年後の、いったいどの時期に宇宙についての秘密が明らかになるのだろうか。そのようなことを考えるにつけても、興味は尽きず、関心は尽きず、無限の可能性が開けていることに気づく人が多いことだろう。 さて、私もこの限られた時間のなかで、限られたスペースのなかで、宇宙の秘密について語ってみたいと思います。 宇宙の秘密を語るにさいして、どうしても語っておかねばならないことは、宇宙人の存在ということであろう。宇宙人がはたして、ほんとうに存在するのか。生存しているとして、地球に来ているという可能性があるのか。また、彼らと話をする余地があるのか。このようなことが、地球人には大きな関心となっているだろう。ほんとうのことを言うならば、宇宙人はすでに地球には来ているし、宇宙人とすでにコンタクトしている人は、かなりの数にのぼっている。しかし、これを公開してもなかなか信じられず、公開しないままに、秘密主義で隠されていることも数多いということです。 宇宙人に関する情報を、いちばんたくさん持っているのはアメリカ合衆国です。彼らは、数多くの宇宙人情報と、宇宙人の乗り物であるUFO情報を持っていますし、それは秘密裏に軍部を使って、宇宙人の生態および目的、彼らの出身の星についての研究が進められています。それは、外に対してはオープンになっていないだけで、政府自らが力を入れて研究しています。彼らは、宇宙人の実在を突きとめています。 この地球に来ている宇宙人は、実に十数種類おります。単に一種類、二種類ではないのです。かなりの数が来ているのです。そして、彼らのなかには、ずいぶんと意識における違いがあります。きわめて人間に近い意識を持っているものもあれば、人間とはそうとう違った考え方を持っているものもおります。 ただ、彼らが地球に来るにさいしては、一定の宇宙協定がなされていて、その協定の範囲のなかで活動が許されているという現実があるのです。その協定があるということは地球人にとっては幸いです。それが宇宙人たちが地球人に対して積極的行動や、攻撃的行為をとれない理由なのです。この宇宙協定を、これを実効あらしめている宇宙における国際連合のような組織があるのです。そして、その連合に加盟している星は、その協定に従わざるをえないのです。 この宇宙協定、別名宇宙憲章とも言いますが、この内容は各宇宙人は、もし他の星に自由に行き来することができ、そこに現われることができるとしても、彼ら固有の文明・文化を破壊してはならないし、それを変化させてはならない。そういうことを明確にうたっているのです。それゆえに、地球に飛来するにしても、明確に彼らの目的を告げ、彼らの文化を告げ、地球人を変革するということは、なかなか許されないでいるのです。 この意味において、宇宙人の存在は、霊界の霊人たちの存在によく似ているというふうにも言うことができるかもしれません。 2.銀河的正法と科学の進歩 地球によく来ている宇宙人は、もちろん太陽系のなかの惑星人を名乗っていることもあります。金星人というのを名乗って来ているものもおります。ただ、彼らは、科学技術的にひじょうに高度なものを持っていて、地球人に似せて、自分たちの姿を変化させることが可能なのです。それゆえに、ほんとうに彼らの姿を見ているというようには言えないでしょう。 また、現在いちばん多く地球に来ているのはプレアデス星団からです。ここから来ているものがきわめて多く、現在目撃されているUFOたちの大部分は、この星団から来ているものです。そして、これは人類にとってもひじょうに懐かしい星たちであるのです。このプレアデスの方向には、人類の祖先たちが住んでいた星もあります。そうした星から来ている人もいますが、それ以外の星からもずいぶん来ています。 しかし、地球に来ている者たちであっても、文明の進化レベルはそうとうに違いがあります。その間、千年、二千年、三千年ぐらいの文明の落差がありましょう。ただ現在地球に飛来できるということは、少なくとも人類の文明が三十世紀近くなって到達できる点までは彼らは進んでいるということです。これを最低限として、そこまでは科学技術が進んでいるということが言えましょう。しかし、なかにはもっともっと進んでいる者たちもいるということです。 だから、地球に来ている者たちのなかでもレベル差があり、いわば後進国と先進国とがあるのです。私たちの元いた母星といわれる、そこの星の人たちの文明・文化に現在の地上のレベルで追いつくとするならば、まだ二千年や三千年はかかるでしょう。ただ、その母星よりもさらに進んだ文化を持っている星からも、来ている人たちがいます。宇宙は一種の連邦制になっていて、より高度な国のまわりに分権国はさまざまにあり、そしてそれらのなかで、その星団の星人たちが生活しているのです。 私は、今、霊実在界にあって、こうした他の宇宙空間の、惑星人たちの生活を見聞きし、そして彼らと時折、話すこともありますが、その意識はひじょうに高く、彼らと対等に話をし、彼らの思想を理解し、彼らの行動を理解するためには、人類はまだまだ科学的向上を経験しなければならない、と考えています。 私が出たのは、一千六百年代の後半ですが、それ以後、科学文明という名の近代化がきわめて強力に押し進められてきました。これらは、本来宇宙にあるこうした先達たちと地球人とが話し合える、そういう立場に、そういう土俵に立つためには、どうしても地球の科学技術をもっともっと高度にしなければならないという要請があってのことなのです。 現在ただ今において、ORらは地球レベルにおける根本法を説いておりますが、こうした時代もやがて過ぎ去り、やがて宇宙人たちとの交流のなかで、真の銀河的正法とは何なのかということが模索される時代がやがてまいります。そうしたときに、この銀河的正法、銀河的神理というものを学ぶための基礎条件として、彼らと似た科学レベルを持つということが急務になっていくのです。こうした前提条件を満たさないでは、けっしてほんとうの意味での大宇宙の秘密と、神の秘密とを知ることはできないのです。 私はいま、読者のみなさんにほんとうに申し上げたいのです。どうかもっともっと目を開いていただきたい。もっと、眼(まなこ)を開いていただきたい。小さな地球のなかで、小さな国どうしでいがみ合い、小さな国のなかで派閥をつくり、セクトをつくって争い合い、小さな会社のなかで長を争い合い、そんなことをいつまでもしている場合ではないということです。 過去、釈迦が来り、イエスが来った理由も、いちはやく地球全人類の意識を引き上げて、次なる世界へと人類を誘(いざな)うためであったのです。そして、現代という時代は、次なる時代への過渡期に当たっているのです。この過渡期において、よりいっそうの努力・精進ということが必要であると思います。 3.大宇宙の仕組みを知った上での宇宙旅行 まず、私たちはこの宇宙人たちの思想を理解するために、どうしても宇宙飛行というものを、もっと簡単なものとして体験する必要があると思います。少なくともジェット機によって、地球の裏側まで行けるようになったわれらでありますから、宇宙飛行そのものは、想像を絶するものではありません。それは想像されうるものです。 ただ、その内容たるや、格段の差があります。彼らは、地上のみなさんが、今オートマチックの自動車を運転するような、そのような気軽な気持ちで、みなさんから言えば気の遠くなるような距離を、飛行船、宇宙船に乗って渡って来ているのです。これはまったく、不思議な技術であります。彼らの円盤というものは、たとえば銀河系にあるこの星団地図というものを、レーダーの上に乗せて、今A点にいる自分が、B点に移りたい、この星座の地図のなかで、B点というものを指し示し、そしてその位置が決められたときに、そこ行きのボタンを押すというだけで、一瞬にして、その宇宙船が移動するというような、そのような装置を持っているのです。 こういう装置について、もっともっと適切なアドバイスをし、その構造について、つくり方について、みなさんに教えたいという気持ちは私にもあります。ひじょうに大いなる情熱が私のなかにあります。しかし、私はその前に、もっともっとみなさんに、真実の世界への目を開いていただきたい。こう思うのです。この大宇宙の仕組みを知るということはきわめて大切なことなのです。 この宇宙の仕組みを知るということは、すなわち神を知ると言うことでもあります。神というものは、確かにおられるのです。人間は偶然の産物として、地上に発生したものではありません。その証拠に、私たちの地球からは、何億光年もの距離を離れた、そういう星に住んでいる星人たちと会っても、地球人と同じような考え方ができ、同じような生活をしている者もいるのです。これが偶然としてありえることでしょうか。そうではないのです。 そこには、一つの大きな宇宙の計画があると、そう考えるのが正直なところではないのか、私はそういうふうに思います。 4.平和を求める宇宙人の目的 さて、この宇宙人との遭遇がすでに始まっているということを、私は述べましたが、今後、この宇宙人との交流が、どのようなかたちで展開していくか、みなさんはご存じでしょうか。すでに、人類のなかに入り込んでいる宇宙人、彼らの今後の活動はいったいどのようになっていくのでしょうか。 私は、ここに人類の未来があると感じられるのです。現在、経済国、貿易国は世界的規模において、さまざまな産品を輸入し、そして、輸出するということをくり返しているわけでありますが、この宇宙時代にはいったいどうなるかというと、地球人どうし以上に、意思の疎通の難しい宇宙人を相手に、いろいろな取引をしていくということであります。このときに、知恵の弱い地球人であっては、とうてい彼らの本心を見抜くことはできないのです。彼らはひじょうに高度な認識を持っており、高度な知能を持っていて、そして地球人の考え以上のことを考えているのです。 そして、地球人は甘く見ているかもしれないけれども、彼らは地球人についての情報はそうとう正確なところまで集めているのです。そして、必要とあれば複製人間として、地球人をつくり出すところまで、技術は発展してきています。それは、時折、空飛ぶ円盤によって、人類が誘拐されるというような事件が報告されていますが、誘拐された人たちがどうなっているかというと、彼らの生物としての基礎データをつくって、まったく同じようなものを複製するということにも、宇宙人たちはすでに成功しているのです。これほどまでに、地球人というものに対して研究を怠っていないのです。 では、彼らはいったい何のために来て、今後どうするつもりであるのか、これをお話ししたいと思います。 まず、彼らの目的は二つあります。第一は、宇宙規模での商業、あるいは経済、こういうものをつくっていきたいという気持ちがあります。この貿易の考え方はいつの時代も、どこの国でも同じです。地球にしかないものを持って帰り、彼らの星にしかないものを地球にもたらす。こういう仕事がしたいのです。そして、それは彼らにとって、ひじょうに興味のあることである、というふうに言われています。彼らの星においては、地球には、まったくいないような動植物もおりますし、この地球には彼らの星にいないような動植物もおります。それはきわめて珍しいものなのです。こうした珍しいものを、もっともっと研究してみたい、という気持ちが彼らにはあります。 それと、彼らがもう一つ、どうしても知っておきたいということがあります。それは、地球人はどれだけ精神的に目覚めることができるのだろうか、ということなのです。彼らにとって、いちばん怖いのは野蛮な地球人の存在なのです。心を開き、交流をするときに、野蛮人たちがいっぱいいたらどうなるか。かつて、白人が乗り込んで来たときのインディアンたちのように、積極果敢に彼らを攻撃してくるだけであるならば、それは大変なことになってしまいます。そうではなくて、もっともっと高度な次元において、付き合ってみたい、という気持ちがあるのです。 彼らが今、いちばんいやがっているものは何であるかというと、地球がすぐに戦争状態になりそうな、そういう雰囲気にあるということです。これに対して、たいへん悲観的な思いを持っているようです。過去の人類の歴史のなかで、宇宙人が介入して、その戦いを止めさせたことも何度かあったようです。地上人たちはわからないでしょうが、過去の大陸のなかにおいては、現在の原水爆実験のようなもの、こういう原水爆戦争のようなものもあったことはあるのです。過去、そういうものがありました。 そうした時代に、宇宙人たちはメッセンジャーとして警告を与えに、地球に降りてきたことがあります。そして、自ら悪役を買って出た。すなわち、人類の共通の敵として現われる姿をとって、彼らの争いを止めさせよう、そういうことを試みたことさえありました。そういう勇気ある宇宙人もいたのです。新たな脅威が外から出ることによって、地上の争いを止めさせようとした、そういう努力をした者もおります。 こうした者に対して、いま地球人は感謝を忘れ去っているように思います。光の天使と言われるような存在は、地球にだけ存在するのではなく、この光の天使と言われるものも、宇宙的規模における光の天使もいるということを知らねばなりません。彼らは単に一国の、あるいは一つの星の幸福だけを考えているわけではありません。宇宙全体の、銀河全体の幸福というものを考えているのです。そうした大きな心を持って生きている人たちが現にいるのです。 たとえ、地球規模でどれほど偉大な人が今いるとしても、肉体を持った悟りにおいては、地球そのものを抜けていくことはかなり困難に近いというふうに思われます。ところが、実際、この大宇宙のなかにも、銀河全体の成功、幸福、繁栄ということを希望して活動している人たちがいるのです。そうしたすばらしい人たちがいるのです。こうした人たちと、話し合いができるようになるということは、きわめてだいじなことだと思います。 この宇宙人との交信はどのように行なわれるかということですが、彼らは精神的エネルギー、マインドコントロールがかなりできるようになっておりますので、たいていの場合、テレパシーで話をするようになります。すなわち、地球人にわかるような言葉でテレパシーで訴えかけてくるようになります。それゆえに、今後、宇宙人との交流においては、テレパシー能力ということがきわめてだいじになってくるでありましょう。彼らのメッセージを素直に受け止めることができるか、そして、それに対して答えを出すことができるだろうか、こうぃうことです。これがだいじなことになるのです。 5.人類の真の歴史に目覚める意義 そして、この宇宙人たちが、地球人に最も知ってほしいと思っていることは、いったい何であるかというと、過去何億年かの人類の歴史のなかにおいて、いま地球人という名で一つに表わされているこの人類は、実はいろいろな星から移転してきた人たちの集まりであるという事実なのです。彼らはそれを知ってほしいと願っています。その魂の事実を、魂の歴史を、人類は忘れ去っているということをきわめて遺憾に思っています。もし、自分たちが、「かつてはいろいろな星から来た人間たちである」ということを悟ることができるならば、おそらく地球人と宇宙人とは手を取り合って、なかよく生きていくことができるはずなのです。 その歴史を忘れているということは、彼らのいちばん残念なことで、彼らが地球人を、万一軽んじるというふうに見えるところがあるとしたならば、それは人類が自らの歴史をわずか三千年、あるいは四千年しかないと思っていることでしょう。それは彼らにとっては、ひじょうに悲しくもあり、おかしくもある事実なのです。地球には、長く連綿とした文明・文化が続いておりましたが、わずか現代文明、この二千年、三千年の間しか文明というものがなかったかのように思っている地球人、これを宇宙人たちは哀れに思っております。 そして、ほんとうの自分の姿、自分の歴史について忘れ去っている地球人に対して、これからは新たな道を開き、そのような旧態依然とした生き方だけをしていたのでは駄目だ。これからはもっと力強く、ほんとうにすばらしい道を開いていかなければならない、ということを教えているのです。 さて、最初にみなさんが宇宙人の登場を見る日は、そう先のことではないと思います。おそらくは、今後十年以内にそういうチャンスがあるであろうと思いますし、地球に飛来している彼らは、何とかしてその姿を地球人に見せ、そして地球に今後、襲いくる危機から救いたい、地球を救いたいというふうに考えています。今のままの雲行きであれば、やがて第三次世界大戦や、そして第四次世界大戦が起きていくであろうというのが、宇宙人たちの一致した意見です。 そのさいに、彼らは何とか一役買って、地球人に無駄な血を流す行動を止めさせたいと思っています。それがまだ地上の人間にはなかなかわからないのです。その気持ちがわからないでいるのです。 この宇宙人たちが、いまどういう考え方で接近してきて、地上人たちに接しているか、接しようとしているか、ということを知ったときに、あなた方もほんとうにありがたい気持ちが湧いてくることだと思います。地球規模のことを考えるというよりも、自分の国のことを考えるというよりも、たかだか自分が勤めている会社であり、自分の家庭のことしか考えられなくなった現代人よ、あなた方はその視野の狭さの責任を、いったいどこで取るつもりか、どういうふうなかたちで取るつもりでいるのか。それはまったく言いわけにはならないのです。ほんとうのことを知らないというのは、知らない人自身に責任があるということを知らねばなりません。私はそう思います。 6.宇宙旅行のルートとシステム さて、この宇宙の秘密について、さらに話をしていくとするならば、新たな宇宙空間へ飛んでいくための機械は、おそらくこの宇宙人たちによって伝授されることになる、と思います。その結果人類は、通常人類がそのままの進化の速度を保つとするならば、まだまだ数百年かかるであろうと思えることを、わずか数十年のうちに成し遂げていくであろうと思います。宇宙人たちは、宇宙を推進するシステムと異次元の世界を通っての旅行を可能とするシステムについて、おそらく地球人に教えてくれるでありましょう。これは、ひじょうに貴重なニュースです。彼らは、そうしたことを今考えています。やがて、これは明らかになってくる時代がくるであろうと思います。 この異次元を通るというシステムを取らないかぎり宇宙旅行というものは、ほんとうにはできません。この異次元を通過するということは、いったいどういうことであるか、みなさんにわかるでしょうか。 四次元以降の世界は、心の世界というふうに理解されているはずですが、実際は四次元以降の世界であっても、地球系団とは違った四次元以降の世界は、宇宙のあちこちにあるのです。その地球人とは違った四次元空間というものは、単に霊界とだけ規定するのは不十分なのです。単に霊界とだけ規定するのではなく、この霊界ともいわれる四次元空間のなかには、きわめて三次元空間の延長上と思われる空間があるのです。 みなさんは、一概に四次元、五次元、六次元という霊界があるというふうに考えているかもしれませんが、それらの次元のなかには、また神の自己実現の揚があるのであって、そのなかにそれなりにすばらしい、新しい世界が展開しています。どうしても地球系霊団の四次元しか考えない、あるいは五次元しか考えないでしょうが、それ以外の宇宙空間の四次元、五次元というのがあって、ここを結ぶルートというものは開発されているのです。これは並々ならぬ努力によって開発されたものなのです。惑星間を結ぶルート、こうぃうものがあるのです。 それは、地球系の四次元空間のなかでも、そういうルートヘ通じる道かおり、五次元空間にもあります。これはちょうど、いうならば霊的に見た運河のようなものです。山を切り拓き、丘を切り崩して運河を開いている。このように大宇宙空間に目に見えない、実在世界の運河が張り巡らされており、その運河の中を通ることによって、まったく違った世界の中に登場することができるのです。 それはちょうど、地下水のように、伏流水のように潜って突如地上に出てくる様(さま)に似ているともいえましょうか。そのチャンネルのなかに入ったときに、他のところに忽然(こつぜん)として現われる、そういう装置が、あるいは通路ができ上がっているのです。これは、その通路を知っている人は、そう多くはありませんし、通路を知ったとしても、それをどのような方法で航行するか、通り越すかということを知るには、それだけの科学的霊作用、科学的霊能力、科学的霊認識というものが必要です。単に霊能力があるだけでは無理であって、科学的霊能力、すなわち科学と霊能力というものが十分に研究され、理解されていないと、そういう航行方法がわからないのです。 この部分が地球人に理解されるには、まだもう少し時聞がかかるように思います。しかし、現時点において、どうしてもやっておかねばならないことは、科学の進展は進展としてさらに進めねばならないし、この宗教的方面からの霊的世界の探究は探究として、進めていかねばならない。この両者がどこかで融合して、大きな一つのものを生み出さねばならない。 弁証法的に「正・反・合」という考えもあるが、この科学と宗教という、「正」と「反」、あるいは「反」と「合」が次なるものを見出していかねばならない。私はそのように思います。ですから、いま、地上にあって科学に打ち込んでいる者、地上にあって霊的世界の神秘を解明せんとする者、宗教の世界をつくっていこうとする者が、もっともっと意欲を出さねばならない。意欲を出して、すべてのものを一つにしていく道を開いてゆかねばならない。 単に霊界ということだけでは努まらない、その霊界のなかには大宇宙空間につながっていく通路があるということ、これを発見し、この通路を通る道をつくり出さねばならない。私はそのように、強く思うのです。 7.三次元と四次元を自由にくぐり抜ける霊的科学技術 さて、宇宙ということでもう一つ考えてみるならば、この宇宙人たちの一番の特徴は、この物質化現象というものを科学的に解明し尽くしているということだと思います。物質化現象というものは、今、霊的世界、宗教の世界のみに時たま起きる現象とされています。それは、物品引き寄せというような言葉で言われるように、霊界から、あるいは他の世界からいろいろな物を引き寄せて現わしたりすることがありますし、霊体が肉体を持って、肉体として現われる、というようなことがたまにあるということが報告されていますが、この宇宙人たちが、霊即肉体、肉体即霊、肉即霊、霊即肉というこの法則を十分に体得しているのです。 それはどういうことかというと、本来肉体をつくり、物質をつくっている元素の部分、この原子よりもっともっと小さい霊子の部分、この霊子による構造で実はすべてのものが成り立っているということを彼らは知っており、この霊子によるものは、もとの状態に分解され、そしてもう一度、一なる理念のもとに再統合されると、物質は現われたり消えたりするようになる、ということを彼らは知っておりますし、それを霊的能力としてだけ発現するのではなくて、科学的技術としてその方法を開発しているのです。ある種の機械を使って、地上の物体を分解し、そしてまったく違うところに出現させる。物体を霊体と変え、霊体を物体と変えるという方法を知っているのです。 実は地球に何億年か前に飛来した人たちも、そうしたことをよく知っていた人たちでした。彼らは肉体を持ちながら霊であり、霊でありながら肉体を持っているという、そういう存在でありましたが、実に宇宙人は、そういうことをよく知っています。地上の人間にとっては三次元世界の物体はひじょうに確固としたもの、揺るぎなきものと見えるが、宇宙人たちは、これらはいわゆる想念によってできあがっているものであり、ちょうどビデオの画面を見るように、あるものの理念によって、こういうものが三次元的形をとっているということを知っているのです。 したがってビデオであるならば、ビデオの電源およびフィルムによって映っているということを彼らは知っており、このフィルムを変えることによって、他の映像を映すことができるということも知っているのです。これにはかなりの霊的認識と科学能力の増進が必要ですが、この壁を乗り越えないかぎり、宇宙空間を移動するということは不可能なのです。この霊的世界を通って移動するためには、瞬時に三次元から四次元に、四次元から三次元にという翻訳能力を持っていなければなりません。 人類はこの部分に、まだまだ努力をしていかねばならないし、そのためには数多くのこのような霊的指導書を地上に送っていかねばならないと思います。もはや、人類の常識は常識ではなく、非常識と思われたものが、常識であるという現実を知っていただきたいし、スペース・ブラザーズ、宇宙の隣人たちはこのようなことは当然のこととして知っているのだ、ということを知ってください。 8.力場の創造によるタイム・マシン また、この宇宙の隣人たちが、もっと恐るべき科学技術として持っているものは、時間そのものを行き来する機械、まあ言ってみればタイム・マシンとでも言ってもいいでしよう、そうしたものを明らかに彼らは持っているということです。飛行船、あるいは宇宙船で地球に来る場合も、地球の年代を選んで来ているという事実があるのです。彼らは、地球の好きな時代に現われているのです。だから、千年前、二千年前あるいは七千年前に地上に円盤が現われたと言われていても、それらはほんとうに七千年前の円盤や宇宙人であったかどうか、定かでないのです。それはいつの時代が来ているのかはわからないのです。彼らは宇宙空間を移動するのみならず、時間の流れのなかをも移動することも可能なのです。 それがゆえに、彼らは人類の文明に手を加えないように、極力努力をしているのであって、その時間の流れのなかを遡(さかのぼ)ることも、また下ることも可能な、そういう情況にあるということを知らねばなりません。人類は、これからは時間との戦いということが大きな目標になるでしょう。この時間の壁を乗り越えるということができないかぎり、さらなる科学的発展はないのです。 この同一時間に生きておりながら、同一時間を脱するという方法、この方法をぜひとも確立しなければなりません。その方法は、実は一つのインスピレーションによって、なされることと思います。この時間の流れを変えるものがあるのです。 それは、一種の重力場の創造ということになっていくでしょう。巨大な重力、あるいは引力と言ってもよいですが、こうした巨大な重力というものは、宇宙空間を歪めることが明らかになっていますが、それと同じように巨大な重力場は、実は時間をも変化させる、そういう力を持っているということが、やがて明らかにされるでしょう。 空間を変形させるのみならず、時間を変化させる。そして、時間の流れを変えることができる、そういう力が開発されるようになるでしょう。それは光速を超える速度で移動するものによって時間の壁を越えるのではなくて、この重力装置、この巨大な電磁波装置、これをつくり出すことによって、時間と空間を歪ませ、そしてそれを乗り越える、そういう装置がやがて発明されるようになるでしょう。 これのひな形はすでに実在界において、私が開発しております。これをやがて地上に降ろしてゆくつもりです。必ず地上に降ろして開発させるつもりです。巨大な重力によって、時間も空間も変えてしまうのです。 たとえば、巨大なエネルギー磁場があれば、この直径一万キロメートル以上もある地球でさえ、ほんのそら豆ぐらいの大きさに縮めてしまうことも可能ですが、こうした空間を支配する能力は、同時に時間をも変えてしまいます。 地球の二十四時間というのは、地球上の、この地球大の大きさにおける二十四時間であって、地球そのものが、そら豆ぐらいの大きさになってしまったときに、この地球の二十四時間はもはや二十四時間ではなくなっているのです。この二十四時間はもはや数秒になってしまっています。こういう時間単位へと変わっていくのです。 すなわち、巨大な重力の下には、時間も空間も変わってしまって曲がっていくのです。これがやがて発見されるようになるでしょう。そして、この力によって、時間の壁は破られていくでしょう。私はそれを、予言して本章を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/159.html
目次 1.ナザレのイエス 2.十字架の意味 3.大調和 4.ユダについて 5.復活 6.キリストの本質 5.復活 さて、十宇架にて私は死にました。しかし、その死は決して、私の敗北を意味しませんでした。 モーゼのときに、紅海を割ってモーゼを逃がした神が、エリアのときに火の車を与えて、エリアを昇天させた神が、私のときに、その十字架というものを見ておりながら、何も答え給わず、我がゲッセマネの祈りにおいても答え結わず、何らの奇跡も起こし給わなかった。その理由は、その十字架の後に待っていたということです。 すなわち、私の人生の中において、さまざまな教えを説いたことも大事であるけれども、事実として一番大切なことは、私が病気を治したことでもなく、私がめくらの目をあけたことでもなく、私が復活をしたという、この事実であります。 私が復活をしたという事実は、何百人、何千人の人たちの目に見えたのであります。そうした、悲劇的な死に見舞われたからこそ、また、その復活というものが、非常に印象的であったということが言えると思うのです。 私は復活しました。そして、弟子たちの前に現われました。私の復活というものは、もちろん霊的な復活であります。肉体が蘇(よみがえ)ったわけではありません。霊的に復活し、そしてその肉体を、物質化現象として現わしたということです。生前そっくりの姿として現われ、弟子たちに説いて歩いたということです。 この復活があったからこそ、弟子たちは、その後、あれだけ結集し、死をも恐れぬ伝道の使徒となったわけであります。単に私が十字架に架かって、罪人と共に死んだだけであるならば、弟子たちは、散(ち)り散(ぢ)りばらばらになって、そのままで終わったでありましょう。 しかし、彼らが、ただ、散り散りになるだけではなくて、また結集して、聖典として聖書を残し、また全国各地に伝道して回ったということ自体が、これが、我が復活という行為が引き金であったと、このように思います。 パウロという人間もそうです。初期に、私を迫害していたと言われ、私が死して後も、我を信ぜず、我が弟子たちを迫害していた彼が、我が復活の以後、大いなる翻心(ほんしん)を遂げて、そして我が弟子として、全国伝道に、ローマ伝道に、ギリシャ伝道にと、活躍することになりました。 そうした、大いなる転回、百八十度の転回ということも、私が予定していたことなのです。この大きな意味のために、あえて私は十字架という苦難に、目をつぶったわけです。 今また、この復活が、別の形において行なわれんとしております。それは、高橋信次という人間の、肉体を去った人間の復活であります。現在、『霊言集』というものを用いて、彼は復活せんとしております。この復活を認める人が、やがて、全国に燎原(りょうげん)の火のごとく、広がっていくでありましょう。 これは大きな奇跡であるのです。そして、復活を通して、かつての弟子たちが、大いなる力を糾合(きゅうごう)していくということが、歴史的な事実となって、やがて大きなドラマとして、後の世に語り継がれていくのです。 その途中において、さまざまな苦難はあるでしょう。しかし、それに怯(ひる)んではいけない。これは、イエスの復活、私自身の復活と、なぞらえられることのできる、人類史上の、やがて、物語となっていくのです。その途中において、どのような苦しみがあっても、悲しみがあっても、苦難があっても、あなた方は怯んではいけない。負けてはいけない、それは、復活すべくして復活しておるのだ。 私が十字架に架かって、単に死したのみでもっては、現在のキリスト教はないと思いなさい。現在のキリスト教があったのは、我が復活があったからです。 高橋信次という人の、現在の復活も、運動も、やがてその意味が、わかってくるであろう。百年、五百年、千年たったときに、何のための復活であったかといでことが、やがてわかってくるであろう。そのドラマの途中においては、いろんな悲劇も悲しみもあるかもしれないけれども、それがやがて、大いなる統合へと、大いなる発展へと、大いなる奇跡へと、連なっていくのです。こは、間違いのない事実です。 時に、そのような復活という奇跡もあるということです。病人を治すという奇跡もあるかもしれない。盲(めくら)を目明(めあ)きにするという奇跡もあるかもしれない。 しかし、そうした奇跡は、あそこにも、ここにもある奇跡です。巷(ちまた)の神々、さまざまな霊能者たちがやっておることであります。それを現代において、もう一度繰り返すことは、かならずしも善ではないのです。 大切なことは、そうした復活ということを通して、地上に、かつて肉体を持った人間が、魂として、霊天上界に還って、法を説くという事実です。この事実の重みです。これが、大切なのです。 私は復活した後(のち)、人びとの前に姿を現わし、人びとの信仰を強めさせることはしたけれども、彼らに法を説くということはしませんでした。 今、この高橋信次という方は、復活を機縁(きえん)として、まだ天上界にあって、生きているがごとく、法を説き続けんとしているのです。こうした奇跡は、かつてなかったことであります。 マホメットにアラーの啓示(けいじ)が臨んだことがあった。モーゼにヤーヴェの声が臨んだことはあった。しかし、地上に肉体を持った人間が、天上界に還って法を説き続けたということは、かつてないことであります。天にあるという霊が、霊示を送ったということはある。しかし、地上にあった人間が天に還って、霊示を、霊訓を、そして法を説き続けたということは、かつてなかったとであります。 こうした、かつてなかった奇跡を、今、演ぜんとしているということを、この意味を知らねばならん。これが、新しい復活、新復活の本当の意味であります、これは私のときの復活と、まさしく同じく、軌(き)を一(いつ)にしておるわけであります。 6.キリストの本質 さて、さまざまに話をしてきましたが、最後に、キリストとは一体何なのか、これについて話をしておきたいと思う。 私は、イエス・キリストと呼ばれている。地上にあったときの名は、イマニエル。キリストというのは、救世主という意味です。後世において、そう呼ばれた。そして、我もまた、地上にあったときに、「我はそれなり、我はキリストなり、我は救世主なり」ということを、明確にうたいました。 このことにより、私は迫害の引き金を引いたかもしれません。ただ、これを私が言わなければ、私の名前は、現代にまで伝わってこなかったことも、事実であろうと思います。 「我は救世主なり」と宣言をしたのは、私が最初であったと思います。明らかに、高らかに、我は救世主なり」と宣言したわけです。「我は予言書の中に出てくるメシアなり」。こういうことを、私は言いました。「予言が成就(じょうじゅ)されんがために」、こういうことを言ったわけであります。 さて、こうした救世主というのは、決して一人ではない。いつの時代にも、そうした救世主はいる。 その大小は問わない。その影響力の大小は問わない。しかし、救世主というのは、いつの時代にもいる。 仏陀というのも、救世主であったであろう。あるいは、モーゼもそうであったろう。あるいは、アブラハムという人も、救世主であったかもしれぬ。救世主というのは、世を救うために出てきた、偉大なる人物という意味です。マホメットも救世主と言えたかもしれぬ。 まあ、このように、いろいろあるが、たんなる思想家でもっては、救世主とは言わないわけであります。救世主が救世主である理由は、キリストがキリストである理由は、人びとに世界の本質を教え、人間の本質を教え、真に人間を、この物質世界の生き方から目覚めさせ、精神的なる生き方へと、転換させてこそ、初めて救世主と言えるのです。 本来の人間のあり方と、魂の真実を、これを教えないで、救世主ということはあり得ない。単なる思想家や、単なる行動の人であってはあり得ない。あなた方にとって霊であるということ、霊的な本質と、霊的世界を説くことは、この地上においてはかなリ困難かもしれない。 しかし、易きに流れてはいけない。この地上にある物質を物質として説明し、この世界を世界として説明して、そが一体何になろうか。そんなことは、誰でもできることである。 あなた方にとって大事なことは、目に見えぬ世界を説明し、目に見えぬ神を信仰させるということです。そして、自らも、目に見えぬ神を信じ、目に見えぬ世界のために生きるということです。 これが、大いに価値のあることなのです。これ以上に価値のあることはないのです。 目の前にある物体を、物体として認めることに、一体何の意味がありますか。何の価値がありますか。目の前に人がいるのを見て、人がいると言って、何の意味がありますか。目の前に先生がいて、先生であると言うことに、何の意味がありますか。 目に見えぬ神を、あると信じて、この世界をよきものとして、神の創られた世界として信ずることができるからこそ、そこに大いる魂の飛躍があるのではないのですか。そこに大いなる魂の飛翔(ひしょう)があるのではないのですか。そこに大いなる魂の向上があるのではないですか、 私は決して、物質がいけないとか、お金がいけないとか、異性がいけないとか、地位や名誉がいけないとか、そういうことは言わない。それもこの世には、あることはあるであろう。必要かこてこがあ石であろう。 ただ、それに執(とら)われるということは、真実の世界に対する目を曇(くも)らせることになるということを言っておるのです。真実の世界の存在を知れ。霊の存在を知れ。神の存在を知れ。神の創られた世界であることを知れ。それを知ることが、大いなる勇気の源泉となり、大いなる知力の源泉となるということを知れ。 キリストの本質は、いつの時代も、こうした本当の世界観を人びとに教えるということ。 そして人びとを立ち上がらせるということ。真の意味において、人びとを救うということ。そして、その仕事が、同時代だけに評価されるのではなくて、後(のち)のちの数千年の人びとをも救うことになるということ。こうしたことがキリストの本質であるわけです。救世主の本質であるわけです。 さすれば、あなた方も、自分の心に、自らの心に問え、自分たちの仕事が一体何であるかを。この世の常識に迎合するをもってよしとするな。この世の知識人に歓迎されるをもってよしとするな。 真実の世界を、真実のままに伝えるということ。この世の人びとの常識が違っておるなら、断じてそれを認めてはいけない。真実の世界に生きなさい。真実のままに生きなさい。自分たちが正しいと思うがままの生き方をしなさい。 世の波風に、負けてはならん。人の悪口や雑言(ぞうごん)、あるいは批判や非難、こんなものに負けてはならん。彼らは知らんのです。神理を知らんのです。さすれば、神理を教えてあげるだけです。神理を広げていくだけです。 これから後、さまざまな困難もあるかもしれぬ。ただ、負けてはならん。あなた方は神の代理人であり、神のために働いておるのだということを忘れてはならん。 そうであるならば、力強く、力強く、進軍ラッパを吹いてゆけ、行進してゆけ、敵弾が当たるとも、生命は不滅である。不死であり、不増(ふぞう)、不滅(ふげん)である。 そういう氷遠の生命を生きておるならば、この地上の、自分の保身ということを考えずに、永遠の生命を、神のために燃焼し尽くすという生き方こそが、本当の生き方であります。 どうか、そういう生き方を大切にして、今後の人生を切り開いていってください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/333.html
目次 1.出エジプト 2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名 3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される 4.悪魔、サタンの実体 5.罪の起源、無明縁起について 6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について 7.天上界側のサタン達の取り扱いについて 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 13.アドバイス 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 善川 サタンに対する天上界のお考えが分ったような気がいたします。 次にお尋ねしたいことは、ご承知のような現代の人類でございます。その神の教えを説く側に立つ人びとの間で争いを起こしている。あなたがお出になられたイスラエルと、アラブ諸国との間に、またイラン、イラクのように、共にイスラム教同士の間においてさえ行われている宗教的な争いについて、どのようなお考えを持っておられますか。 モーゼ あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたといえるか。教えた側は出来る限りのことを教えておるが、三〇点の答案しか書けない人もおれば、七〇点の答案を書ける人もいる。彼らはあなた方の言葉でいうなら落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人たちになっておるのです。決して教えそのものから現在の混乱を導き出されるものではないのです。むしろ教えの不在であります。 善川 そういう時期に当たって彼の地に、いわゆる光の天使が顕われていないのでしょうか。 モーゼ やがて現われて来ます。 善川 彼の地にですね。 モーゼ 平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。 善川 そういう意味におきましては、今日もう少しスケールの大きい超大国、アメリカと、ソ連との間における相剋という形が現われてきておりますけれども、これもどうしても避け難い戦いとなってくるのでしょうか――。 モーゼ 私は何も語りません。 善川 こうした地球規模の破局というものが現在の国際情勢の中からは予見されるのですが、こうした中で我らの使命というものはどういうものでありましょうか――。 モーゼ 私は語ったはずです。心であります。われらの教えは心であります。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは、心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。 まず人の心の中にユートピアを築かん、とすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これはできないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 善川 私がいま一つ分らないことは、神の支配し給う神一元の世界であるにかかわらず、唯物論という世界観が台頭し、これに基づく国家が地球上の各所に形成されてきて、現在では、その勢力においては世界を二分する程に膨脹してきましたが、これも天上界における何らかのご計画によるものなのでしょうか――。 モーゼ 迷いです。 善川 たとえば近世において、彼の地にマルクス、あるいはレーニンというような、非常に強力な思想家または指導者が出現し、世界の思想史を彩ってきましたが、これもやはり単なる迷いなのでしょうか……。 モーゼ そうではないのです。彼らは彼らの使命を十分に果たさなかったし、また彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は更に誤解していたということです。 善川 こういう人達は、今そちらの世界においては地獄に陥ちているのでしょうか。 モーゼ 地獄にはおりません。マルクスもまた光の天使――。 善川 するといま、自分達が述べてきた唯物論というものに対する自己反省というものはしていないのでしょうか。 モーゼ 彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼はユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。 唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただそれが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。 ところが時代が時代で、科学が進み、物質万能の時代であります。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設はむずかしいのであります。むしろ物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい、物質は物質と認めた中において、またユートピア建設の道があるのではないかという方向で行ったのが彼の考えであります。便法なのです。唯物論というのはマルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。 善川 それに続いてのレーニンにいたしましても、かつてあなたがエジプトで、後のイスラエルの民を救った心境と同じような心境ではなかったかと、私は考えるのでありますが、この当時の帝政ロシアの残酷な人民圧迫政策から、彼ら労働者、農民を救出するためには、どうしても政治を改めねばならないという考えから、発したものであろうと思うのでありますが、その限りにおいては、彼の考えは正しかったと思うのですが、その後の経過がよくなかったということになるのでしょうか――。 モーゼ ですから、想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩をそのまま真理だと考えたところに誤りがあったのです。 それが教条となり、教条主義となっていったのでしょう。マルクスの時代には貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。 心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人びとは神の世界に入っていけるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないということ、それを理論として説いたのであります。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えばそこが誤りであります。 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 善川 いずれにいたしましても、以来物質文明というものは、急速に進歩してまいりまして、現代においては既にニューメディア、ハイ・テクノロジーなどの実用段階に入り、これに関連するすべての機械文明の進歩発展は、日進月歩ですさまじい進展を見せておりますが、ここで人間が、この機械文明を精神面でいかにコントロールし、リードしていくかということが、明日の人類の幸せにとって大きな課題と思いますが如何でしょうか。 モーゼ そういうふうになろうということであって、本質的には、どうということではないのです。環境がどのように変わるかということは、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。たとえこの時代にあなたの身の周りを恐竜が徘徊しておったとしても、あなたはまた神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたがたとえロボッ卜に囲まれようとも、同じであります。 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 善川 あなた様は神の教えの中でも特に「理(ことわり)」神の「義」というものを強く主張されたお方だと聖書の中でも伝えられておりますが、時代を下って、イエス様の時代には、神の愛という面を強く説かれたように思われますが、神の義と、神の愛とは車の両輪のようなものだと考えますが――。 モーゼ 神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけであります。慈悲を説いたのは釈迦であります。愛を説いたのはキリストであります。義を説いたのは私であります。 善川 いまわれわれの現世においては、この神の御意(みこころ)のうち、いずれの面を強くわれわれが主張しなければならないものなのでしょうか。 モーゼ やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつてわれわれは、われわれが信じた一神、エホバであり、ヤハウェを争いの神、妬みの神、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは゛義゛ということと絡(から)むのであります。正しきものは実現されなければいけないのです。 「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。 「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であります。セメントであります。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための釘であり鎹であり、粘土であり、セメントであります。これが愛です。 今日は、義が失われた時代であります。そういう意味において、今の宗教の中には、義というものがあまりありません。これも一つ考え直す点ではないでしょうか。これが行き過ぎると宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味においては旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。 善川 しかし今、旧宗教は既に凋落の時期に入っていると思うのですが、ここで真の神の義、「正法神理」を明らかにし、万教は一つであるという「証(あかし)」を打ち立てなければならぬと思いますが、これは別に、かつてのような宗教上の大きな争いになるような性質のものではないと思うのですが――。 モーゼ そうです――、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理というものが必要な時代となってきました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人びとの行動指針となったのです。 また今後、このような価値の乱れた時代においては、人びとの行動指針となるようなものが必要となってくるでありましょう。それは単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くするというようなものだけではなくて、今後の神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出していき、それが今後の人類の、文明の、文化の、発達して行く基礎となり、方向づけというものになっていかねばならないでしょう。 善川 そのような壮大な「正法神理」の体系というものは、今後あなた様方天上界の方々のご指導、ご啓示が寄せられるのか、それとも、非力ながらわれわれ自身でこの体系を組まねばならないのでしょうか――。 モーゼ いま一時にすべて私は語りませんが、やがてあなた方に、啓示という形で教えていくこともあろうし、あなた方ご自身で気づいていくこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人びとに対する贈り物を出していかねばならぬということです。 二千年、三千年先のことまで考えなさい。今、現時点どうであるということではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということであります。その折りに、モーゼという名がまだあるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の神話の人になっているかも知れません。現在はまだ実在の人と信じていますが、千年、三千年先には、モーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。 その時においてあなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。 結局のところ人間は、なぜ輪廻転生をするのかというこの法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのかというようなことを説く、このようなことに尽きるのであります。それ以上のものではないのであります。この世界は神が創られたものであり、神のご計画は、人間を現象界から天国へと、輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きていかなければならないのか、ということを悟らせること、これに尽きておるのであります。 これ以上のものではないのであります。非常に簡単なものであります。これを後の世の人びとに、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。 善川 この輪廻転生があるということの事実が、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということですね――。 モーゼ そうです。そのとおりです――。 善川 ありがとうございました。 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 善川 モーゼ様は、現在天上界での最高霊域においでの方だと存じますが、その天上界の仕組みについて少しおたずねしたいと思いますが、よろしいでしょうか。 モーゼ どういうことでしょう。 善川 天上界の構成と申しましょうか、その実像を、われわれが認識するに当たって、これを上、下という段階的な差別知と申しましょうか、そういう縦列感覚で捉えればよいのか、それとも、深い、浅い、狭い、広いという水平感覚とでも申しましょうか、そういう概念で把握すればよいのでしょうか。もちろん、実相はそういうものではなかろうと思いますが、これはあくまで、われわれ三次元に住んでいる人間が、五官知で認識し得る図式で捉えるとすれば、どういうことになるか、どう認識すればよろしいでしょうか。 モーゼ どういうことですか、もう少しはっきり言って――。 善川 例えば、われわれ地上人が理解できる天上界というものは、地上何千メートル、または、何万メートルの上までに各霊域が段階ごとにあるということと、そういう感じではなく、われわれと同一地域にあっても、その深みということの段階において、それぞれ次元を異にした霊域空間というものがある。つまり図形で描けば、渦巻状に重なっているというふうに――。 モーゼ 地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所からいわば下を見ているという形になります。 善川 そうですか、それでは現在あなたがおいでの処は、天上界のこの地球霊団としては最高の地域から下を見ておられるということになるわけですね。 モーゼ 喩えて話すならそういうことになります。 善川 天上界は、六次元、七次元、八次元とあり、それぞれの方がおられますが、あなた様はいま何次元の霊域におられますでしょうか。 モーゼ 九次元です。 善川 それでは、六次元、七次元という処においでの方では、そちらの九次元の世界へは参上できないわけですね。 モーゼ 出来ません。 善川 上部の方は下部へ降りて来ることは可能ですね。 モーゼ 可能です。 善川 立ち入ったことをお尋ねしますが、宇宙界といわれる九次元の霊域には何名ぐらいのお方がおいでなのでしょうか。 モーゼ 数名です。 善川 それから七大天使といわれる方々、<ミカ・エル><ガブリ・エル><ウリ・エル><サリ・エル><ラグ・エル><パヌ・エル><ラファ・エル>、こういう方々は――。 モーゼ 私たちの近くにおります。 善川 それから、それぞれのお役目を持たれた如来の方は――。 モーゼ 四、五百名おります。 善川 ここが八次元の霊域ですね。次が七次元の菩薩界ということになりますね。 モーゼ そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の位にあります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。 善川 あなた様方から見れば、どの次元霊域に誰がいて、どういう研究をしているかということは、一目瞭然なのでしょうか。 モーゼ ただ私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり言いたくはないのです。人間にそのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だという考えも大切であります。 たとえば、いま段階という形でとらえました、ある人よりもある人が偉いとか、下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方もできるのです。 人間の魂というものは、各人神の子であって一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにもかかわらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない――このように平等であるけれども、光の度合が違うということがある。その光の度合を譬えていうならば、如来界、菩薩界、というようなことで言っているのであって、それは魂として違うのだというようなことではないのです。 魂が違うのだ、段階が違うのだ、という考えは、一歩間違えば大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から岐れたものであり、本来、神と同一なものであります。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは霊界だというような区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出てくるのだと、このように差別心と、平等心とを融合した立場をとっていただきたい。これを間違うと、あなた方も大変な増長慢となってしまうのです。 善川 そこで一つ考えられることは、各人は皆神の子ではあるけれども、その仕事、役割においては各人分担が違うということではないでしょうか。僧侶は僧侶、医者は医者、芸術家は芸術家、エンジニアはエンジニアというふうに――。 モーゼ そういうふうに考えるのも一つであります。 善川 各段階に応じてその人に与えられた天分天職についているというように――。 モーゼ 別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達しているものもある。そういう意味で人間は平等なのであります。仕事が違うという考え方も一つ、光の違いがあるという比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。 善川 本質的に人間の職業に貴賤がないということと同じような意味ということですね。 モーゼ 貴賤もないし、七次元より、八次元が偉いというようなことでもないのです。そのような思想は一歩誤れば大変な間違いとなるので、私はあえてこう言っておくのです。 たとえて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、たとえば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではないところが発達している面とがあるわけであって、仕事の違いというふうにもとれるし、光の度合が違う、ともとれるはずです。 光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いているものも、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま、曇っているものもまた光ることができるのです。こういうことなのであります――。 善川 ただ、私が案じますには、あなた方のような最高級の指導霊のお話というものは、非常に次元の高いお話で、一般庶民の方がたでは自己の生活環境に即して理解し、日常生活の中にその高度な法をとり入れるということは、困難だと思うのです。 その意味において、通常人の精神生活に適応した、霊界、またはその上の神界程度の一般的な善悪差別の教えが、より広い範囲の人びとに理解されるという意味で、意義が広まるのではなかろうかと思われるのですが――。 モーゼ ただ、私は言っておきますが、あなた方の使命というものは、今の時期に本当の「神理」を残すということであります。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。 われわれは、いつの時代でもこうして出てくるわけではないのです。われわれが出てくる時代は、決まって激動期、ある人類の転換期であります。そういう意味において、われわれがこのような人の形を借りて語るということは、めったにないことですので、その時点において最高度の教えを残しておく必要はあるのです。 私がいま語っていることを素直に信じることができる人が、いま生きている人間の中で、いったい幾人いるでしょうか。私自身もそれは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです――。 13.アドバイス 善川 最後に、現時点における私たちの、「正法流布」に対する取り組み姿勢についてのアドバイスをお願いいたします。 モーゼ もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうかということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならないということであります。環境との戦いということに、先人たちがどれだけ苦労したということを想い起こしてごらんなさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかったところまで、登ってみせなければならないのです。 強くあって欲しい。正しい人は、神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱いところを見つけたならば反省し、もっと、もっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。 私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないかというような、そのような小さなことに負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。 あえて身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、「熱意と強さが共に必要なのです。 私は力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しいものは強く生きねばならない、正しいとは、神の義であります。゛義゛、神の義にかなった者は強くあらねばならない――、そういう考えであります。あなた方が、正しいと信ずるなら、その信念の強さは、あなた方の生き方の勇まさになってこなければいけません――。 善川 どうも長時間、いろいろとご高説をたまわりまして、まことにありがとうございました。われわれはまだまだ、これからの試練と、これからの働きの時間が与えられておりますけれど、もしまた御意を得ますなら、一つの転機、転機に私たちが立ちましたならば、またご降臨願ってご指導をお願いしたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。 本日は、真にありがとうございました。 モーゼ わかりました――。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/349.html
目次 1.唯物論と唯心論 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 4.心とは一体何なのか 5.生命の実相と正しき心の探究 6.地球人類、数億年の歴史を語る 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 (1987年6月29日の霊示) 1.唯物論と唯心論 谷口雅春です。引き続き、第2章に入っていきたいと思います。本章においては、谷口哲学の本質とも言える、「唯神実相哲学」についての話をしていきたいと思います。 これは、生前の私の説に対して、まあ、さらにこちらの世界に還ってからの研究を加えて発表をしたいものだと考えております。 さて、この世の中の成り立ちを説明する仕方としては、古くから二つの説明の仕方があると言われておりました。すなわち、唯心論と唯物論、この対立であります。唯心論というのは、心ですね。心しかないという考え方。唯物論というのは、ものしかないという考え方。この両者が対立的に、論争されてきたわけであります。 まず、唯物論の考え方としては、やはり世界というものは、現にあるものがあるのであって、現にないものをあるように言うのはおかしい、と。すなわち、目の前にあるもの、机であり、椅子であり、家であり、大地であり、草花であり、動物であり、人間の肉体でありますが、このような現に目で見、耳で聞き、手に触れられるものこそ、実在であって、これ以外のものがあるわけではない、と。こういうふうに考えるわけであります。非常に、現実主義的な考え方とも申せましょう。 しかし、唯心論の側から、これに対して、反駁(はんばく)が加えられるわけであります。宇宙があると言うのは、宇宙を、宇宙として認識しているお前の心があるからではないのか。心があってこそ初めて、地球も、宇宙も、岩も、山も、川も、海も、他の人間も、あるのではないのか。お前という者に心なくして、そのような存在が一体あり得るであろうか。唯心論者は、このように言うわけであります。 唯物論者は、これに対して、さらにまた反駁し、その心、心というお前を乗せておる地球は、お前が心を語っておる間にも、クルクルと自転をしておるのだ。すなわち、心で見るだとか、見ないだとか、そう言っておる間にも、お前が立っている大地は、動いておるのだ。これこそが実在でなくして、一体何か実在であるのか、と。まあ、こういうふうに言うわけであります。 この辺に関して、さらに突っ込んだ説明をしたうえで、私の唯神、つまり、神のみがあるという唯神実相哲学へと話を進めていきたいと思うのです。 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 そこでまず、唯物論について、今少し検討をしてみたいと思います。唯物論というのは、考え方としては、もちろん大昔からあるわけでありますが、マルクス以来、つまり、ここ百年ばかり、非常に唯物論が一世を風靡(ふうび)してきたかのごとくであります。そして、このマルクスの唯物論と、科学者のダーウィンによる人類の進化の仮説、この二つがたまたま相まって、この百年ほどは、唯物論が時代の主流を占めているかのごとき景観を呈していると思われます。 その時代の流れのなかにある人間は、ともすれば、そのことを当然だと考えがちでありますが、しかしながら、これは必ずしも当然の流れではないのであります。 たとえて言えば、川というものがあります。川の水は上から下へと流れていくのでありますが、そのところどころにおいて、流れが逆転し、逆流しておるところがある。ここがひとつの淵とか、淀(よどみ)とか言われるところであって、そういう淀の部分に流れが入ってくると逆流して、まるで水の流れが川下から川上へと流れているようにグルグルと廻っているように見えるのです。 しかし、これは、本来の川の流れではないのです。同じように、人類の思想の流れというものを見てきても、大部分は上から下へと流れてきたものではあっても、その一時期、こうした川の淵のなかに入って、水が逆流しているかのごとき現象が出ることがあります。 人間を一枚の木の葉だとするならば、この木の葉が逆流したときに、彼らは、どちらが正しい流れかがわからなくなることもあるわけです。しかし、大きな目で見れば、川は上から下へと流れている。それが、わかる。これは真実であります。 私たち宗教家の教えというものは、結局、こういうことであります。いつの時代でも、川の流れというものは、上から下へと流れていくのだ。つまり、唯一の神から人間へと、そして、地上へと降りてきておるものだ、と。いつも、このように教えているものであります。 したがって、ダーウィンの進化説だの、マルクスの唯物論などが、一世を風靡(ふうび)しておるように思っても、これは、いわゆる逆流現象にしかすぎないのではないかということを、よくよく心に留めていく必要があると思うのです。 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 日本では、現時点において、共産主義というのがそれほど人気がないがために、マルクスの思想というものが過大評価されることは少ないと言えましょう。しかし、ダーウィンのほうの進化仮説に関しては、文部省までもがテコ入れをして、全国的に普及をしておるようであります。 ただ、真実を語るとするならば、やはり進化論のなかにも、重大な誤りがあると言わざるを得ません。その重大なる誤りとは、一体何か。結局のところ、霊的なるものの存在を認めてはいないということです。これが、重大なる誤りだと言えます。進化論が扱っておるものは、結局、肉体としての生物がどう変わってきたのかを追っているにすぎません。猿が人間になったのかどうか。あるいは、魚が両棲類(りょうせいるい)となり、両棲類が爬虫類(はちゅうるい)となり、爬虫類から哺乳類が出て、哺乳類が進化して、現在の人間になったかどうか。と言うことは、結局のところ、肉体の歴史を追っておるだけなのであります。 もちろん、こちらの世界から見た霊的な歴史観から見れば、地上の動物というものも、何百万年、あるいは、それ以上の歳月のなかにおいて、さまざまにその形が変わってきたことは事実であります。しかし、形が変わってきたそのつどつどに、神が粘土をこねてそういう動物を創ったわけではないことも、また事実なのです。 鳥なら鳥というものが現われたときに、その鳥がさまざまに変化していったという、そういう変化の道筋というものが確かにあったとは言えましょう。また、人間の人体というものも、長い歴史のなかにおいて、さまざまに変化してきたことも、事実です。すなわち、それらは、やはり、この地球という環境に適応するような形に変わってきたのです。 それは、外見だけにとらわれなくても、つまり、うわべだけの人間が、二本手があり、頭がひとつで、足が二本、目が二つ、鼻がひとつ、口がひとつ、耳が二つ、というような、こういう大きな外見だけにとらわれなくても、皮膚の色ひとつを見ても、そうです。熱帯地域に住んでおる人たちは、やはり黒い色をしております。熱帯に住んでおって、白い色をしたという人はいない。 また、純粋に北方の地方に住んでおって、黒人のような色をしている人はいない。もちろん、アフリカから移住して来た場合も考えられるから、黒い色をしておる人がいないわけではない。ただ、熱帯地方の人は黒く、北方の人は白い、これは、事実であります。こうしてみると、結局、人体にも、環境による影響が現われているわけです。 洞窟のなかに住む生物とか、深海のなかに潜(ひそ)む生物は、太陽の光を受けないがために、真っ白な体をしておるようによく言われております。同じように、光の薄いところには、そうした白い肌の人たちが数多く出て、目の青い、透きとおるような目をした人が数多くおるのです。一方、直射日光を受けるところでは、あたかもサンマが火に焼かれるがごとく、皮膚の黒い人たちが数多く出ておることも事実です。 また、食べものによっても、変化がありましょう。草食民族と肉食民族とが、体型においてもかなり違っておることは、あきらかです。肉食を中心とした人種は、やはり体が大きい。逆に、草食、つまり、稲作であるとか、麦作であるとか、こうしたことを拠所(よりどころ)として生活をしてきた人たちは、全般に、やはり小柄である。こうしたことは、否めない事実であろうと私は思います。 ただ、このように、環境的変化は変化として、人体に影響を与えてはおるわけですが、そうした肉体以前に、人間という観念が宿った霊があったということ、これは、否定できないのです。ですから、人間だけの知性と理性を備えたものが、偶然にできてきたという考えがありますが、これは、まったく世界を惑(まど)わす考え方であると言わざるを得ません。 皆さん方は、本当にあの進化論を信ずることができるのでしょうか。アメーバーが何億年かしたら、本当に人類のようになってくるのでしょうか。そうしたことを信じられるでしょうか。もしアメーバーが人類になって、こうした知的遺産を残すようになるとするならば、そのアメーバーが人類になるがごとき方向に導いているエネルギーに対する敬礼脱帽というものをせざるを得なくなるのではないでしょうか。私は、そう思います。 人間というのは、魂において、やはり神から分かれてきたものなのです。神の属性を、その本来の属性として持っておるものなのです。こうした霊的側面から見るならば、進化論、あるいは、唯物論というのは、大変な間違いであると言えると思います。 4.心とは一体何なのか 日本の昔の歴史書、たとえば、古事記とか、日本書紀をひもといてみると、日本列島というのは、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)によって国づくりがされたということが記されております。雲の上から鉾(ほこ)でもってかき回して、その雫(しずく)が落ちたところが、すなわち、日本列島のさまざまな島になったというような神話が残されております。まあ、神話は神話でありますが、少なくとも、こうした日本列島のような島国をつくるに際しても、それをつくるという計画が、すでに神の国においてなされておったということは、事実であるわけであります。 このように、この地上的なものごと、こうしたものは、単に偶然にできるのではなくて、大きな計画のもとに、やはりなされておるのです。 こうしてみると、唯物論、唯心論の両方を紹介いたしましたが、どちらもまだ不十分なところがあると言わざるを得ません。 なぜならば、唯心論と言われているものも、唯心の心、これが単なる心だととらえているかぎりにおいては、まだ探究の不足が、そこにあると思われるからです。つまり、その心とは、一体何なのかということがわからない。 この心というのを、単なる知覚能力、認識能力だというふうに受け取るとするならば、これは、あきらかに間違っていると言えましょう。自分が見ることができるならば地球はあるけれども、見えなければ地球がないとか。目が見える人にとっては赤い色が実在するが、目が見えない人にとっては赤い色はないとか。こういう議論は、不毛であります。現に赤は赤としてあるわけです。それは、目が見える見えないには関係しないのであります。 また、心のなかで地球というものを認識しようがしまいが、地球というものが、一日二十四時間で自転をし、一年三百六十五日で太陽の周りを公転している、これもまた、事実であります。こうしてみると、心というのを単なる認識能力、知覚能力と考えた場合には、それのみでもって、この世界観、宇宙観を説明をするのは無理であります。 そこで、この心というものが本当の意味で何なのかということを、さらに私は検討してみたいと思うのです。 まあ、「正しき心の研究」ということを標榜(ひょうぼう)しておるようであるけれども、そもそも、この正しき心というのは一体何なのか。これを、私の実相哲学と比較して考えてみなければならぬと思うのです。 私は、あるところでは、「本来心なし」と言い切ったこともあります。これは、禅で言う「喝(かつ)」でもあるわけですけれども、宗教家の陥りやすい陥穽(かんせい)、つまり、井戸として、心、心と言って、心にとらわれすぎるところがあるんですね。 そして、いつの間にやら、それに振り回されておる。一日中思ったこと、たとえば、何かを思うと、「ああ、こうぃう思いをする自分はダメだ」とか、どうだとか。こうして、一生懸命自分自身を裁くもうひとりの自分というものを見い出したりしておるようです。心、心と言っておるうちに、自分というのが非常に惨めに、情けない存在へとなっていって、その結果、人生に希望も勇気もなくなるというような、こういうことが多々あるわけであります。 すなわち、心という言葉に、あまりにも多義的な意味が与えられすぎておるわけであります。私は、「心なし」と言ったこともありますが、「心なし」と言った理由は、そうした迷うような心は、本来ないのだということを言っておるのです。ああ思った、こう思った、失敗した、間違った、ああした、こうした、という胸のなかを去来している想(おも)いというのは、本来のものではない。心、心と思っておるけれども、こういうのは、たとえば、木炭車が走るときに出るような、スモッグ、いねば、煙であって、本来のものではないのです。 本来の人間の本質には、どのようなことがあっても動じない、迷わない、そうした金剛石のようなものがあるのです。そして、この部分は、各人、すべてに共通しているのです。そして、こうした金剛石の部分がなければ、何故(なにゆえ)に、すべての人に対して、真理だとか、正法だとかいうような、こうした普遍の原理を押しつけることができるでしょうか。 心というのが、各人の自由になるものであって、それぞれ勝手にいろんなことを思ってよいのであるならば、どうしてこれこそが真理だと言って、日本人や外国人、あるいは、いろんな地域に住んでおる者に対して、それを押しつけることができるのでしょうか。そういう安売りは、できないはずであります。 そうした押し売りができるということは、結局のところ、それぞれが得手勝手に、心、心と思って振り回しておる心の中心に、共通の一本の黄金の糸があるということを示しておるのです。 5.生命の実相と正しき心の探究 そして、この中心にある黄金の糸、心を操(あやつ)っておるところのさらに中心部分こそが、私の言う「生命の実相」の部分なわけであります。 すなわち、人類の心のなかに共通に織り込まれている黄金の糸、これが生命の実相であるということです。 私の考えによれば、私の言うこの生命の実相というのは、実は、現在、「〇〇〇〇〇」というところで言っておる正しき心の探究ということと異ならないと思うのであります。正しき心の探究とは、結局、仏性の探究であろうし、仏性というのは、結局、人間神の子の思想、すなわち、生命の実相であろうと思うのですね。 こうして見ると、人間の思い、あるいは、行動というものも、この仏性がどのように現われて展開していくという過程であり、また、この地球にある万生万物、動物や、植物や、鉱物、これらすべても、実は、仏性が自己展開していく姿にしか他ならないということができると思うのであります。 では、仏性とは一体何なのでしょうか。仏性とは、すなわち、神の意志であります。あるいは、神の光の本質であります。結局のところ、そういうことであります。唯一の神から分かれてきた人間が、そのさまざまな場面、場面、段階、段階に応じて、仏性、神性の発現のために努力精進しておるということなのです。 努力しておる人間というものが、神から分かれてきたものであるならば、この神から分かれてきた人間も、やはり神の心によって創られ、この地上において生活をしておるのです。そして、神の子が、結局、神の創られたもののなかで生きておるのですから、そこは本来、この世もあの世もない実相世界しかないとみるのが筋なわけです。 この世というものを有限の世界、限られた世界と思い、この世の法則のみをすべての法則だと思うところに、人間の悩みや苦しみの根本の原因、すなわち、無明(むみょう)というのがあるのです。 そして、この無明というのは、摧破(さいは)せねばならん。この迷いというものを、打ち破らねばならん。私が、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』のなかで語っておるように、そういう無明というものは迷いであるのだから、これは一蹴せねばならぬのです。 本来は、神の子の実相しか現われておらんのであり、本当にその神の子の本質に目覚めた目で見れば、この地上世界というものも、山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくどしつかいじょうぶつ)、すべてこれ仏性ありということです。 釈迦が悟ったとき、山も、川も、草も、木も、動物も、植物も、すべてそこに仏性、すなわち、神の子としての本質が光っておるということを悟ったと言われております。そして、そういう悟りを開いたときに、苦の世界と、苦しみの世界と思われていたこの地上が、実は輝ける黄金の世界であり、金剛石の世界であるということに気がつくわけです。 なぜならば、この地上で存在しているものすべてが何故(なにゆえ)存在しているのかを知ったときに、その本質を知ったときに、すべてが仏の生命の現われであると悟ることができるからです。 こうした見地から見ると、たとえば、昔から言う、本来悪というのがあるのか、ないのか。こうした問題は、けりがつくわけであります。 本来悪というものはないのです。悪と見えしものは、これはやはり、川の流れのなかに生じてくるうたかたの泡(あぶく)のごときものであり、また、逆巻く波のようなものであって、波は波としてあるように思うけれども、風が治(おさ)まってみれば、実は波というものはないのです。すなわち、悪というものは、本当はないのです。 神理というものは、あるいは、人間の仏性、神性というものは、春の小川のように、サラサラと流れているものなのです。とはいえ、サラサラと流れているなかに、春一番の風が吹いて、表面に小波(さざなみ)が立つように見えることがあります。 この小波のことを悪と言ったり、迷いと言ったりしておるのですが、その小波が本来あるものでないことの理由は、やがて風が止めば、そうした小波が治まり、元のサラサラと流れる春の小川となっていくことからもわかりましょう。 6.地球人類、数億年の歴史を語る まあ、そうしたことで、大まかな説明をしてまいりましたが、せっかく谷口雅春が如来界に還って、さまざまな見聞をしておるわけでありますから、この谷口哲学、唯神実相哲学というものを、実相の世界から見た考えというものの再検討というものを、もう一度してみねばならんのではないか。と、このように考えるわけであります。 そうしてみると、ここに、私はひとつの問題点があったことを認めざるを得ないと思うのであります。すなわち、それは、私が神という言葉で定義をしておったものの本質についてであります。 古事記や日本書紀に現われてくるような神というもの、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのが、根本神のひとつとして記されておりますが、私は、この天之御中主之神というものを、いわば、宇宙の中心神、根本神であるというふうに考えておりました。 ちょうど大日如来が、仏教のほうで言うと、大宇宙の神か仏であるように言われているのと同じく、天之御中主之神こそが、宇宙の根本神のように考えておりました。 しかし、こちらの世界に還って来て、どうやら事情が違うらしいということに気がついたわけであります。つまり、私は、生前、人類の歴史というものは、たかだか数千年、あるいは、数万年程度のものだと思っておったのでありますが、こちらに還って来て、人類の歴史というのは、そんな浅い歴史ではないということを知りました。 現在、人類の祖先である直立猿人であるとか、北京原人であるとか、こうしたものは、五十万年前、百万年前の存在だと学問的には言われておるそうだけれども、実際の人類の歴史というものは、もっともっとはるかに古いものだということを、私は知ったのです。まさに、気が遠くなるような古い昔から、人類というのは、実はこの地球で魂修行をしておったのだということを、私は知りました。 恐竜の時代と言われる、そういう何億年か昔の時代があったことを知っていると思いますが、その恐竜の時代に、すでに人類はひとつの文化文明を持っておったことがあきらかにわかったわけであります。すなわち、人類の起源は、地球においては、すでに数億年の歴史を持っておるということを、私はこちらの世界に来て、知ったのです。 これは、生前、私がとうてい悟り得ていないことでありました。恐竜の時代においても、やはり人類は住んでおって、恐竜たちから身を守るための文化というものを生み出しておったのです。そういう文化や技術というものを持っておったのです。 ただ、いかんせん、一億年、二億年、三億年前の話であるからして、ほとんどその痕跡が残っておらんのです。その痕跡が残っておらん理由は、さまざまな地殻変動が起きてきたからです。 現在エベレスト山のようになっておる一万メートルもあるような、ああいう高い山であっても、かつては、海底の底にあったのです。そして今、海底の底にあるものが、かつて山であったり、あるいは、大陸であったのです。過去何億年の間に、地球の表面というものは浮いたり沈んだりして、幾度かの地殻変動を繰り返してきていることを、私は知りました。 それはちょうど、古事記、日本書紀で言うところの国づくりのように、島ができたり、国引きをされたりするようなことが、現実にあったわけです。ある島が浮上して大陸となり、地続きとなったり、文明を誇っておった大陸が沈没して、海の底に横たわったり、こうしたことが数かぎりなくあった。そういうわけで、かつての文明の面影というのがほとんどなくなってしまった。また、ノアの箱舟のような現象も数多くあって、そのつど、人類はひとつの洗礼を受けて、新たな文明を再スタートするという、こういう歴史があったわけです。 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 三億年ぐらいにもなりましょうか、こうした人類の歩みというものを振り返ったときに、たかだかここ三千年ぐらいの歴史というものは、ほんの昨日、今日であります。ほんの昨日、今日にあたるわけです。人類の歴史というものを、人間の七十年という人生に比較してみるならば、私たちが人類の歴史として現在知っておるような三千年ぐらいの歴史というのは、本当に昨日のことです。昨日の日記帳を開けば書いてあるようなことであるわけですね。 そうすると、昨日の日記帳に書いてある天之御中主とか、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)であるとか、こういう神様というのは、本当に宇宙の根本神であるかと言えば、実はそうではなかったということであります。 これは、「生長の家」の信徒にとってはひとつの驚きであり、私の考えの大いなる改説であるととられるかもしれないけれども、古事記、日本書紀がつくられたのは、今から千数百年前です。ですから、ほんの千数百年前の人が宇宙開闢(かいびゃく)の神について知っていたと考えるのは、これはやはり、事実認定に誤りがあるのです。 今から二千年後、たとえば、「生長の家」総裁であった谷口雅春も、まあ、根本神か、日本の最初の神様のように言われるようになるでしょう。すなわち、人類の歴史というのは、そう古い記憶を持ってはおらんのです。 そういうものであって、奈良時代に宇宙の根本神と言われておったような神様というものは、結局、その千年か、二千年前に地上に生きて、人びとを指導しておった偉大な人であったということなのです。 三億年というひとつの大きな時間の流れを見れば、ここ二、三千年の間に現われたる神格というものは、やはり宇宙の根本神ではないということです。私は、これを知りました。ですから、古事記、日本書紀そのものを鵜呑(うの)みにしてはならんのです。もっと古い時代から人類の歴史はあったのです。 古事記や日本書紀がつくられた時代というのは、結局のところ、アラビアにおいてマホメットがコーランをつくった時代とそう変わらんわけであります。マホメットは、コーランのなかで、天地創造の神アラーのことを述べておるようですが、真理の書というのは、天地創造について述べねばならぬ義務があるために、そういうことを言っておるのだけれども、天地創造というのは、はるかなる昔に行なわれたものであって、いかんせん、人智を超えておるものなのです。 したがって、真実を語れば、天之御中主之神といい、天照大御神といい、実は、今から三千年近い昔において、日本の国に肉体を持たれた光の天使であったということなのです。その証拠は、あの古事記という書物のなかに、神々の姿があまりにも人間的に描かれているところに現われていると言えましょう。岩戸隠れをしたり、踊り狂ったりする神様方。あるいは、酒を飲み、嫉妬をする。あるいは、喧嘩をし、戦(いくさ)をする神様の存在を見たときに、これは実相の神ではないということです。 すなわち、かつてそういうような優れた方たちが地上に降りたことがあって、その伝承が伝わっておって、古事記や日本書紀にまとめられたというわけであります。 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのは、いわば日本の中心神、つまり、指導神であって、やはり光の大指導霊のひとりであるわけです。そして、日本神道系では、最高の力を持っておる方のひとりであったということです。 まあ、神武天皇という者がいたというふうに歴史のなかで言われておりますが、実際は、そういう偉大な初代の天皇の姿というのは、今から三千年近い、二千数百年前の昔に天孫降臨した、つまり、実相世界から地上へと肉を持って降り立った、そうした偉大な大指導霊の活躍を語っておるわけであります。 天之御中主之命というのは、現在の天皇家の、いわば肉体先祖にあたると言える方であり、今から二千八百年近い昔に、肉体を持たれた方なのです。 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言われる方も、天之御中主之命、この天之御中主之神が九州の地に肉体を持たれて何代か下がったときに出られた方です。天照大御神、この方も、結局、今の九州の地において、天皇家の前身である九州朝廷のなかの女神、つまり、女性の皇后であったのです。皇后という言葉は正しくないかもしれないけれども、まあ、女性の統治者であったわけです。 そして、この天照大御神と言われている方は、谷口雅春が過去世、前世は伊邪那岐大神(いざなぎおおかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)であるということについては前巻において述べておりますが、その私が伊邪那岐として地上に肉体を持ったときに、実は、私の長女として生まれた者なのです。 当時、主として南九州のほうに、天之御中主から始まる偉大な王朝というのがあったのです。そして、伊邪那岐命と言われている私は、やや南ではない、今の大分県のあたりの豪族として生まれて、そこで力を持っておったのでありますが、この南九州王朝に出た指導者のなかに、霊的能力を持っておる者がおって、その者に対して、天之御中主之神から神示が下り、「今の大分県のほうに住んでおる伊邪那岐命という者の娘に、天照という者がおる。この者を次期の女王とせよ」という神示が下った。そのため、私の娘であった者が、その朝廷の女性の統治者となったのです。こうした事実があったということです。 まあ、こういうことはにわかには信じがたいかもしれないけれども、人類の歴史というものを、たかだか三千年と考えるからそうなるわけであって、何億年もの歴史があったということを前提にするならば、こういうことも、つい昨日、一昨日のことなのです。 現在の人類が生きておるように、千年前、二千年前、三千年前の人類も、やはり生活をしておって、そのときのみに神々が降臨しておったわけではないということです。 結局、根本神と言われておるのは、それは人間が言っておるのであって、本当の根本神の姿を、人間がつかむことはできないということです。 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 したがって、天之御中主之神という方も、私のいる世界における最高に霊格の高い神霊のひとりでありますが、いまだ人格を持っておる霊であって、かつて肉体を持たれた方であるのです。 そして、「生長の家」の大神と言われていた方が、実は、この天之御中主之神その人であったということを、私は知りました。この「生長の家」の大神、すなわち、私を悟らしめ、私に、「本来肉体なし」「病なし」の教えを説かした、光明思想を説かしたその張本人が、天之御中主之神であったのです。 住吉大神(すみよしのおおかみ)こそが、「生長の家」の大神だということもずいぶん言いましたが、住吉大神というのは、実は、協力した神のひとりであって、中心神としては、天之御中主之神がおったのです。 そして、その他の「生長の家」のさまざまな活動を助けるがために、住吉大神というのが活動をしておったのです。すなわち、「生長の家」の大神と言われた方も、ひとりではなくて、数名の方がたが活躍しておったということです。 これに関して、私は、生前、明確な悟りを得ることはできていませんでした。ですから、そのことについて、本霊示集において、修正をしておきたいと思うのであります。本章は、以上で、私の唯神実相哲学の話とさせていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/89.html
目次 1.ミカエルの四条の誓い 2.法流布の誓い 3.奇跡の誓い 4.天使誕生の悲願 5.新文明構築の誓い 1.ミカエルの四条の誓い 2.法流布の誓い 3.奇跡の誓い 4.天使誕生の悲願 5.新文明構築の誓い
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/95.html
目次 1.星の誕生 2.銀河系の位置づけ 3.地球の役割 4.星団としての転生輪廻 5.宇宙人の存在 6.宇宙人とのコンタクト 1.星の誕生 本章においては、宇宙の秘密についてできる限り話をしていこうと思う。まず、星の誕生ということに関して話をしてゆきたい。星というのは夜空を見上げれば数限りなく広がっているそのひとつひとつの小さな輝きではあるけれども、それらがまた、太陽やこの地球や月のようなひとつひとつの球体であって、このなかにはさまざまな生命活動が営まれているものが無数にあるのである。こうしたことを夜空を見上げながら思い浮かべていると、その間、心のなかに神秘的なる思いが去来することであろう。 さて、現在でも星の誕生というものは、あまり明確には人びとはつかみ切っていないであろう。どのようにして星ができるのか。また、星はどのようにして消滅していくのか。こうしたことに関して話をしておきたいと思う。 まず、星の成立、あるいは生成ということであるけれども、星ができるにはいくつかの条件が要(い)ります。それはまず、この三次元空間だけではなくて、四次元以降の世界において、実際問題としては十次元空間、あるいは十一次元空間の意識存在、この存在が必要であるのです。たいてい惑星意識というのは十次元存在であるけれども、恒星意識といって太陽のような存在については十一次元意識、こうした意識が中心になっています。 そこで、まずこの十次元意識なら十次元意識というのが、星を創るということに関してひとつの決定をするわけであります。そして十次元意識のなかにおいて、ひとつの母体となる意識が選ばれます。ひとつの星を創るためには、通常、数体の意識体が協力し合うことになっています。そして、その十次元意識のなかの一体が、中心霊としてその星そのものの生命体になることを約束するわけです。こうして、この意識体というのが一種の仮死状態に陥ってゆきます。ひとつの惑星意識となる星が仮死状態になっていって、いわば混沌(こんとん)状態に入ってゆきます。そしてこの意識体が仮死状態、すなわち単に星としてこうした惑星の生命体として生きていくという決意をして、そのような状態に移行していくと、これを中心にして宇宙のなかにさまざまな波動が起きていくわけであります。 これはちょうど小さな目で見るとするならば、霊子という一点ができてそのまわりに光子であるとか、陽子であるとか、そうしたものがだんだんにできてきて、素粒子の世界が出現するという話がありますが、これを大きくしたのと同じであります。すなわち十次元空間におけるこういう惑星意識が中心点をつくって、そのまわりに星ができてくるわけです。 その星のでき方については、何種類かの方法があります。まず、いちばん簡単なでき方としては、もちろん分裂というでき方があります。これは太陽系でいえば太陽のような大きなものから、一部が分かれてくるというわけですね。これはたとえば、十一次元存在である太陽意識のうちの一部が十次元意識として独立して、これが分裂してゆくという形です。その球体を持ったまま分裂してゆく。地球などもこの形で出たものです。こういう分裂がひとつ。細胞分裂のような形での惑星の誕生です。 もうひとつ、これは、ひとつの結合体としての惑星の誕生というのがあります。こうしたエネルギー磁場がひとつ中心にできることによって、宇宙のさまざまなものをその磁場を中心に吸収してゆくという方向があるのです。たとえば宇宙に漂(ただよ)っているさまざまな塵(ちり)だとか、隕石(いんせき)であるとか、そうしたものを強力な磁場でもって、磁場を創り出して吸収してゆく過程があるのです。あたかも掃除機で吸い込むがごとく、そうしたものを強力な磁力でもって吸い寄せてゆく。すなわち中心点に意識体として磁力体ができてくる。そしてこの磁力が近くにあるさまざまなものをすべて吸い寄せてゆく。こういう形で巨大なエネルギーが働いてくると、宇宙のさまざまなものが引き寄せられていって、そこにひとつの結合体ができてくるのです。この磁力があまりにも強力であるために、岩石とかさまざまなものが砕け合って、そしてもとの原型をとどめないままにひとつの大きな塊(かたまり)ができてきます。こういう形で星ができる場合もあります。 それからもうひとつの星のでき方というのがあります。これはひとつのガス体ですね。ガス体が化学反応を起こして星になってゆく場合があるのです。化学反応のようにガス体というのが集まってきて、これに火がついたような形で火花を散らす。こういう形になってきます。こうしてそのまわりにさまざまな化学現象が起きてきます。そして無(む)から有(う)が生まれるの譬(たと)えではありませんが、空中にいろんなものが出現してくるのです。こうしてひとつのガス体のようなものであったものが、さまざまな化学反応を起こして、これが固形物になったりあるいは水分になったり、いろんなものとして空中に漂(ただよ)い始めます。そうした物質的なものが漂い始めるのです。そしてこれがひとつの渦巻きとなって固まってゆく過程、つまり相互に引き合って固まってゆく過程があるのです。これはちょうど水玉と水玉とを近づけると、くっついてひとつになるような形でそれぞれの物の持つ引力とか、磁力でもって他のものをくっつけ合っていく。こういう過程がある。こういうものを通していく途中で渦巻きのようなものが大きくできてきて、こうして一つの塊が出てくることがあるのです。惑星のなかには地球のように固まったものではなくて、巨大なガスの塊である状態の惑星もあります。そうしたものもあるのです。 このように主に、三種類程度の集まり方があるといってもよいです。そして、このなかにはひじょうに強い光を発しているものもあって、それらの場合はたいてい燃えています。このようにガスならガスというのがひじょうな濃度で結集して、そして化学反応等を通して火を噴き光を発している。こういう星もあるわけです。岩石主体で集まったような星の場合には、月のような形で死んだような星になっている場合もあります。いろいろであります。ただいえることは、どの場合にも十次元以降の意識において、そうした惑星意識というのはかならず働いているということ。そしてその惑星意識というのが何億年、何十億年という月日をかけて、そうした惑星を創り出してゆくということ。これは事実であります。 人間のように十月十日(とつきとうか)、母親がおなかのなかで子供を大きくするということがありますが、これ以外にそうした形での惑星の形成というのがあるのです。無限に近い長さです。何億、何十億という年数をかけて惑星が形成されてゆくのです。そしてそのなかで惑星がだんだん固まってくると、ここにまたさまざまな生命を生むという次の段階に入ってくるわけです。 こういう意味において、この大宇宙のなかには生命系団というのがいろいろあって、小さいものはその日のうちに生まれてその日のうちに死ぬような、かげろうのようなそういう生命もありますが、あるいは人間のように数十年の生命(いのち)を生きているようなものもあれば、そういった星の誕生と死滅というような、大きな壮大な何十億年、何百億年というスケールでの生死、これもあるのです。これは結局のところ、これもまたひとつの転生輪廻であるということなのです。惑星という生命体のまわりに三次元肉体ができる。星としての肉体です。これが現在、望遠鏡で見る惑星の姿なのです。ああいう丸い形のなかに、それを肉体として星の生命が宿っているのです。そして何十億年もの、何百億年もの生命をこの三次元で生きているわけです。そして使命が終わった時に、星は解体してゆきます。それは凍りついていって死滅したり、あるいは爆発をしたり、さまざまな形になりながら、かならずその破壊の時というのが来るのです。これはこの三次元での生命が終わる時です。こうして、十次元意識は十次元意識として、もとの世界に還ってゆくのです。 結局、こうした九次元の人霊世界とは違った十次元以降の意識においても、魂修行というのがあり得るということです。しかし彼らの場合には、もはや人霊としての魂修行はない。惑星意識として大いなる育(はぐく)むための母体として、大いなる生命修行、魂修行の場としての肉体修行があるということなのです。そうした大いなる意識ですね、意識としての三次元の活動があるということです。 こういうことで星としての魂修行があるわけですが、これをもっと拡大してみると、この三次元の宇宙空間という大宇宙の空間、これもより高次な意識の三次元的な物質化であるということがいえると思います。すなわち大宇宙というこの物質世界を創っている意識も、この大宇宙体という肉体を持つことによって、より高次な魂修行をしているらしい。そういうようにいうことが可能であると思います。それがこの大宇宙の存在の意味であります。 2.銀河系の位置づけ さて、星の誕生についての話をしましたが、この銀河系という私たちが属している星団、惑星系団の話をしてゆきたいと思います。 たしかに私の立場からいっても、この大宇宙の広大な世界のすべてをつかむことはできないし、銀河系の位置自体をたしかにつかむことも難しいと思います。ただ言えることは、この大宇宙には銀河系のようなそうした大星団が相当の数あるということ。これだけは間違いがありません。それは数百万、あるいはもっとあるかもしれません。そうした大きな銀河系集団が大宇宙にはたくさんあるということです。それぞれの銀河系集団のなかにおいて、さまざまな生命がさまざまな魂修行をしているということです。ですからこの銀河系の位置づけというものを考えてみた時に、ここに私たちはどうしても私たちの立場でしかものが見えないという点はありますが、ただこの大宇宙のなかのこの銀河系というのを見た時に、ある意味でのひとつの高度に進化した魂系団たちの修行の場であるということはいえると思います。その意味においては、大宇宙のなかにおける心臓部に近いものであるといってもよいのかもしれません。 そしてこの銀河系のなかには、地球のように人霊としての魂が修行している場所というのがかなりの数あります。それは正確には私もつかめませんが、おそらく万単位ではすまない数です。もっともっと多い数の地球のような惑星があるのです。そしてそこでいろいろな魂たちが修行しています。かつて地球に来た霊たちもそのなかにはおります。かつてそうした星のなかから地球に来たこともあるし、またやがて地球を去って他の惑星に行く霊たちもいるのです。そういうふうに大きな意味での魂修行というのは、惑星間を転生輪廻して、循環してゆくのです。 たしかにある惑星での悟りというのはありますが、それはたとえば私たちのような九次元意識があっても、九次元意識としての地球霊団での魂修行としては、ここまでが限度という部分があるわけです。しかしそれでも修行の場を変えれば、地球以外の惑星でまた魂修行をするならばそれなりの意識の磨き方というのがあります。このように私たち九次元にいる大指導霊であっても、いろいろな惑星での指導という魂の経験を得て、やがて十次元へと昇ってゆくのです。そして十次元に昇っていったあと、十次元世界において惑星形成にさまざまな助力、そういうことをしていって、やがては自分もまた惑星意識として一度星という肉体をとる。こういうふうな形をして、九次元から十次元へ、十次元から十一次元へと無限の魂の進化の過程があるということです。 今、地上に生きている人たちは、こうした無限の魂進化ということがなかなか理解ができなくて、どうして四次元の霊格の人がいたり、七次元の霊格の人がいたり九次元の霊格の人がいるのか。そういうことは不思議であると、こういうふうに考えがちでありますが、それは一定の時間という時計を止めた点での見方であるわけです。悠久(ゆうきゅう)の昔から、悠久の彼方(かなた)へと去ってゆく時間の流れのなかにおいては、どこにおいてそれを見るかということがひじょうにむずかしいわけです。大きな目で見れば今人霊をやっているあなた方であっても、やがては何十億年か、あるいはさらにもっと先には、ひとつの惑星の意識にまで高まらないという理由はないのです。あるいは人霊からもっと退化してゆくということも可能性がないわけではありません。 ただ、何十億年か前にみなさん方は少なくとも人霊という目的意識をもって、創造された魂であることはまちがいがありません。ただ、人霊として創造された魂であっても、その魂修行の過程において、それがふさわしくなくなることもあるということですね。この場合には、他の魂への変化ということもなきにしもあらずです。ただ原則は人霊は人霊として創られているし、人霊の最高指導霊としては九次元霊があるし、九次元霊はさらに惑星意識へと進化してゆく可能性があるということです。こういう大いなる経験を積まされているのだということを知らなくてはいけません。 3.地球の役割 さて、この銀河系統のなかにおける地球の役割について話をしておきたいと思います。地球そのものはまだ四十五億歳程度であります。しかし、この地球霊団のなかにいる諸霊のなかには、この地球の生命より長い霊たちもいます。私も魂の起源そのものはこの地球よりも古い魂を持っていますし、イエス・キリストといわれた方の魂もそうであります。また、それ以外では、釈迦、釈尊といわれた方の魂ももっと古い。こういうふうに古い魂というのはいくらでもあるわけです。 そしてこうした魂でありながら、この地球というところに飛来してきて、そしてここでもって指導をしているわけです。それぞれの魂が過去世において、いろいろな星においてさまざまな経験を積み、さまざまなノウハウを蓄積してきているのです。こうした者たちが地球においてこういう指導をしているわけです。ですから地球における霊指導というものも、結局、いろんなノウハウを持っている人たちが集まってきて、ひとつの地球としての理想的な状態を創り上げよう。こういう役割があるわけであります。 少なくともあなた方の目に見える世界においては、この地球というのは、人霊の住むひじょうに進化した星であることは、これは否めない事実であります。太陽系のなかには地球以外にも生物が棲(す)んでいるところがあります。それはみなさんはまだごぞんじないかもしれませんが、ひとつには金星という星です。金星という星のなかにはまだ生物は棲んでいるのです。これは必ずしも現在の人間のような形ではありませんが、生物体は棲んでいます。そして金星という星にはかつて大きな文明が栄えたこともありますし、金星という星のなかには他の惑星から前線基地のようになっている部分が相当あります。いろんな他の惑星のなかから飛来してきた人たちが、金星というところにひとつの前線基地を造ってそこにかなり住んでいます。そしてそこを拠点として地球にもかなり来ています。 また金星以外にも生物がいるところがあります。それは何という星かというと、木星という星です。木星のなかには一部生物がいるのです。木星人という名前で呼ばれることはありませんが、彼らのなかにはひじょうに変わった形態ではありますけれども、一種の生命体が棲んでいるのです。彼らのうちの大部分は、たいていの時間帯は地下において生活をしています。すなわち、地下に生活をしているそういう生命群団なんです。地上での生活に適さなくて、地下においてさまざまな生命活動を営んでいます。こういう木星人がいます。木星人の姿そのものは決して人間的なものではありません。ただ、大きさ自体は人間とそう変わらないぐらいの大きさがあります。主として地下に生活をしております。こういう者たちがおります。 また、太陽系を去ったところでも人類程度の魂の進化というものを遂げた者はいくらかおります。やがてこうした人たちとの交渉というものも始まってくるであろう。こういうふうに思われるわけであります。 こうした世界のなかにおける地球の役割とはいったい何なのであるか。これについて私は話をしておきたいと思います。地球の役割というのは結局、この銀河系のなかのひとつの優等生であるということです。優等生としての地球があるということです。今、地球のなかでもアメリカであるとか、日本であるとかがひとつの優等生であるように、この銀河のなかにおいてもひとつの優等生としての地球という星があるのです。そしてこの星がどういうふうに進化していくかということが、他の惑星の人たちにとっても今ひじょうに関心の的になっているわけです。地球という星が今後どうなってゆくのか。ほんとうに最終ユートピアができてくるのか。あるいは人類が死滅してゆくのか。こうしたことが今ひじょうに興味の対象になっています。過去、いくつかの星において科学文明が発達しすぎて、やがて滅びていった民族が数多くあるわけです。そうした惑星人たちは数多くいます。この地球という星がどういう運命をたどるのか。今これが他の星から来た人たちの注目するところとなっているのです。いったいどういう運命をたどるであろうか。 またわれら九次元の指導霊は指導霊たちで、集まって、何とかしてこの星をすばらしい状態に持っていかなければいけない、過去においてはさまざまな危機もあったけれども、われらは力を合わせてそうした危機を乗り切ってきた、どうか今回もそうした危機を何とか乗り切っていきたい、そしてまたすばらしいユートピア世界を創ってゆきたい、こうしたことを希望していて、そのためにいろんな活動を起こしているわけです。今こうした霊訓集を送っている理由も、こういうところにあるわけです。大きな活動を起こして地上を浄化していきたい。私たちはそういう純粋な気持ちでもって、この地上活動を始めているわけです。 まあそういうことで地球というのはひとつの優等生、銀河のなかの優等生としての役割を担わされている。そして太陽系団のなかにおいては、一番進化した星であって、もっともりーダー役であるということはまちかいありません。惑星の意識はもちろん火星であるとか、水星であるとか、金星であるとか、木星であるとか、地球であるとかいろいろありますが、こうした惑星意識のなかにも、やはり進化の度合があります。さまざまな惑星の生命体をやっておりますが、その惑星のなかでどのような文化を築き、どのような生命を育んでいくかということによって彼らの進化の速度が違うわけです。太陽系のなかにおいては、今太陽に次ぐものとして地球という惑星がそれだけの力を持っているわけです。いわば太陽系の惑星のなかにおけるひとつのエリートであります。そして、そういうエリートとしての地球意識というのが期待されているわけであります。 ですから地球意識もこの地球という場において、最高度のユートピアを創り高度に進化して、やがてその星としての生命を失った時に、さらに高度な十一次元存在としての恒星意識へと移り変わっていく可能性があるということです。こういうことが期待されているわけであります。 4.星団としての転生輪廻 さて、地球の役割ということを話しましたが、あと地球に来ている霊系団にも何種類もの霊系団があるという話をしました。そして大まかに分けて数種類、地球のなかにも魂系団があります。このへんの魂系団が違うところが、いろいろな宗教などの教えが違っている原因になっている。こういうことがいわれています。 地球のなかにおいて最大の勢力を持っているのは、今から三億六千万年近い昔にベー・エルダ星という星から渡ってきたアール・エル・ランティたちであります。この時に肉体先祖としての六千万人近い人たちを大船団で率いてきたのがエル・ランティという存在で、この勢力が地球人の起源になっているし、主流であることはまちがいがありません。しかしこれ以外にもさまざまな魂系団が地球に来ております。それはたとえば孔子という人が率いてきた霊系団もあります。こうした霊系団は現在でいう秩序であるとか、道であるとか、こうした秩序立ったものの考え方をすることが中心になっている霊系団です。孔子という頂点の人が地球に移って来ることによって、その後肉体としても多くの人たちが渡って来ました。こういうことがありました。 あるいは地球系団でいちばん古い魂の一つとしては、釈迦の生命体があります。この生命体自体は地球のもちろんいちばん古い、古株でありますが、以前に金星というところにおいてさまざまな生命の創造ということをやっていたということは事実であります。こうした釈迦という生命体がある。この釈迦の生命体そのものは、体系立った調和ということを中心にしております。すなわち大いなる立体感ある世界観の呈示、こういうことを得意としているわけです。縦と横の広がり、立体感のある法体系、そうした物の考え方、世界観というものを重視しているわけです。そしてそうした高度に知的な霊作用を働かせて、多くの人たちを指導している。こういうことであります。 私自身もまたある星から来た者でありますけれども、私はどちらかと言うと、正義、力、こうしたものを象徴しているわけです。すなわち正しいものが地上に行なわれるようにと、こういう力の世界ですね。すなわち神に近い者がこの地上でも繁栄するようにと、そうした力を持てるように、こういうものを主として信条としている星から渡って来た者であります。 これ以外にもいくつかの星から来た大指導霊たちがおりますし、九次元霊でなくとも八次元霊のなかにも他の惑星から直接渡ってきた者もあります。それはここ三億教千万年の人類の歴史を見ると、さまざまな形で複数、渡って来ています。星団としてやはり転生輪廻があるということです。すなわち今、九次元霊界において十人の指導霊たちが地球霊団を指導しているけれども、九次元霊界のなかには他の惑星とも通じている部分があって、そうしたなかにおいていろいろな惑星のなかで実際に指導にあずかっている霊もあれば、そうした実際の指導をしなくて無任所の形で調整役をやっている霊もいるのです。 そうした調整役をやっている指導霊が、たとえばこういう星が今こういう進化の情況にあるからここに新たな霊系団を導入する、そういうことを計画しているのです。たとえば今地球でもいろんな国が移民を受け入れたり、移民の受け入れを拒(こば)んだり、いろんな調整をしておりますが、同じようにいろんな銀河なら銀河のなかでの星の進歩、進化状態というものを点検しながら、そのようなさまざまな霊系団を率いて指導している霊がいます。そして地球系団のなかからも今地球はこういう状態にあるけれども、こうした考え方を持っている人がひじょうに多いから、これを調和する意味で新たにこういう人たちを入れたいということを考えることもあります。そうしてそのような話をするわけです。 たとえば今地球では地獄へ堕ちる人の数がひじょうに増えてきておりますが、この理由のひとつとしてひじょうにエゴの強い魂系団、自我我欲の強い魂系団が大量に入って来ているということもいえると思います。それゆえにこれの修正ということがだいじになってきているわけです。そういうことでひとつの方法として、自我のそう強くない協調性を重視する魂系団の導入が今計画されています。協調性を重視する魂系団の導入。これによって地球をもう一度調和させよう。こういう考え方があるわけです。 星のなかには個性を重視し、個の発展というものをひじょうに重視するような星もあるので、そうした魂が大量に入って来ると地上が混乱するわけです。特に現在ひじょうに地上人口が増えておりますが、このなかにはあまり地上で肉体生活を送ったことのない魂が大量に生まれている。そういうことがいえると思います。それはかならずしも肉体舟として円盤に乗って地球に来たわけではなくて、霊団として大量に飛来して来ている、地球霊団に飛来して来ている魂があって、彼らも地球での生まれ変わりのプロセスのなかに組み込まれているということです。そういう意味において大量の新しい霊が地上に肉体を持ち、地球人として初めての生命活動を行なっているがために、地上の雰囲気がだいぶ変わってきているわけです。 これはいつの時代にもいえることです。すなわち同時代のなかにおいて過去、現在、未来が入り混ざっている。こういうことがいえるわけですね。二十世紀においてもそうで、将来の人類の姿を現わしているような地域もあれば、原始時代のような生活をしている人も同時代に現にあるわけです。南方系であるとか、あるいはインディアンの世界であるとかには、人類が何千年、何万年前に住んでいたような、そういう様式をしているところもあります。すなわち同時代に、過去、現在、未来というのが一緒になっているわけです。なぜそうなるのか。なぜ同じようなレベルにならないのか。これをいうと、それぞれの魂の段階が違うからです。まだそうした原始的な生活を経験しなければ魂が磨けない人たちもいれば、高度に発展した文明でなければ魂が磨けない、そういう魂霊団もあるのです。こういうふうにやはりいろいろな魂の系統というのかあるということです。 したがって同時代であっても魂の進化の速度は違い、そのためのさまざまな修行の場があるということです。そうしていろいろに時代が現在ただ今のなかにあるけれども、それぞれが独自のユートピアを創るために最高度に霊的に進化していくということが願われているわけであり、望まれているわけであります。 具体的な国名はあげられないけれども、たとえばアフリカであるとか、中国、インドであるとか、こういうふうな大量に人口が増えているようなところには、やはり初めての魂修行をしている人たちも数多くいるということは事実であります。それは決して人種による蔑視(べっし)とかそういうことではありません。そうした魂の系団があるということです。こうしたことを事実として知らねばなりません。 やがて宇宙とのコンタクトが始まってゆき、地球人の一部は他の惑星へと出て行きますけれども、このなかには、この地球での文明のなかでの魂の修行、これを終えた魂、高度に発達した魂たちの一部が肉体を持ったまま、やがて西暦三十世紀、つまり三千年ごろ、地球というものを去ってゆくことがあります。そして何段階かに分かれて出てゆくでありましょう。新たな人たちが入ってくるということは古い人たちが去ってゆくということです。 こういう大きな霊的進化の磁場としての惑星があるということ。また、星団としての転生輪廻があるということ。ひとつの星団がこの地上で修行を終えたら、次の星団へと、また次の惑星へと移っていくことがあるということ。こういうことですね。ただ、ある星団が連れて来た魂群団であっても、地上で何億年も生活しているうちに魂の質が変わってきて、別のグループに組み替えられていくことは十分あり得ます。それはこの地上においてその魂が別な経路を選んだということです。そういうことも十分あるということです。そうした大きな学校としての役割を惑星というのが果たしている。こういう事実を知っていただきたい。このように思います。 5.宇宙人の存在 さて、先ほどから宇宙人の存在についての話をしています。宇宙人が存在するかしないかというと、存在するというのは事実であります。これは百パーセント存在するのです。現に存在しているのです。その宇宙人がどういう種類のものであるかということは、これは今の段階ではかならずしも明瞭にはできませんが、やがて明らかになるでありましょう。 先ほども述べたように、地球に来ている宇宙人の大部分は金星というところを足場にして来ているということは事実です。彼らのなかにはみずからを金星人だと名乗っている者もおりますが、本当の姿は金星というところを足場にして住んでいる惑星人たちであって、彼らがもともと金星に住んでいるというのではありません。金星人そのものはかつての文明のなかでかなり発達したこともあるけれども、現在では廃(すた)れてきております。 宇宙人というのはたしかに存在していて、その宇宙人の種類というものは私が見る限りもう二十数種類ぐらい来ております。そのくらい、いろいろな宇宙人がいるのです。こうした人たちの来ている理由には、たとえば大きく分けていうならば三種類あります。 第一の種類は、単なる調査、探検、興味という段階で来ている者です。科学技術が発達して、そして宇宙空間を自由に飛べるようになった者たちが、やはり他の高度に発達した人たちを観察するために来ている。こういう意味での調査、探検という意味での宇宙人の存在、これがあります。 第二の種類の宇宙人は、今後の魂修行の場としての地球というものを検討に来ている宇宙人たちです。惑星系団としてそこから地球に移って来てもよいのかどうか。こういうものを実地見聞している。こういう宇宙人たちもいます。 第三種類の霊としては何かというと、これは昔の私たちの仲間が来ていることがあるのです。さてその昔の仲間たちというのがいったい何であるかというと、これはたとえば私が来た星からも来ているし、あるいは先ほど言ったエル・ランティという人が分かれてきたベーター星というようなところから見に来ている者もある。すなわち母星からその後の進化速度をチェックに来ている。こういうところもあるということです。 それと、今地上においては宇宙人による地球への侵略があるかどうか、こういうことがいろいろ検討されたりしているようだけれども、現時点ではそういう心配はほとんどないと考えてよいと思います。地球侵略というものを考えている者はいない。少なくとも地球に来ている者たちは、地球のレベルよりは優れた知能と、優れた文明を持っている方たちであります。ですからそういう意味での侵略とか、こういうインディアンの行為のようなことをするためには来てはいません。あくまでも地球は地球としての立場を尊重しながら、今後どうしてゆくかということを考えているのです。 私たちは地球においてはまだ宇宙の仲間入りをしていませんが、宇宙人たちのなかにおいては、すでにそうした大きな取り決めというのがあるのです。地球においては国と国との間に条約というのがあって、その取り決めに基づいてさまざまな国交が行なわれているように、宇宙においては宇宙の取り決めというのがあって、おたがいにそれぞれの領土は侵さないとか、発展のためだけに協力し合うとか、こういうさまざまな取り決めというのがあって、この宇宙協定に基づいて、いろいろな星の人たちも地球に来ているのです。ですからその宇宙協定、宇宙憲章のなかに、決してその星団の人たちを害してはならないという条項が入っているために、宇宙人たちが数多く地球に飛来してもこれに害を与えるようなことはできないのです。そういう状況が現にあるわけです。 6.宇宙人とのコンタクト さて、それでは本章を閉じるにあたって、以後に宇宙人とのコンタクトについて、その可能性、今後のあり方ということについて話をしておきたいと思います。 これはアダムスキーという人がいて、宇宙人との交渉についてずいぶん発表しましたし写真も残しました。しかしなかなか世界の大勢の人がまだ認めるには至っていないと思います。ただこうしたこともはしりであって、今後宇宙人とのコンタクトというのはひじょうに多く出て来ます。特にニ十一世紀以降は煩瑣(はんさ)になってきますし、彼らの実在ということはもう否定し難くなってきます。彼らも少しずつその正体を明らかにしようとしているのです。やがていろんな国にも宇宙人の、たとえば残留基地のようなものができてくるでしょう。今、たとえばアメリカ軍の基地が日本にあったり他の国にあったりするように、宇宙人たちの基地というものも、やはりいろんな国にできてくるでありましょうし、その前段階としてのさまざまな友好的な交渉というのがあると思います。 おそらくこれはごく近い時期に始まるであろうと思うし、本書の読者の大部分は宇宙人との交渉ということを目(ま)のあたりにされることがあるであろうと思います。やがてテレビのニュースとか、新聞のニュースのなかにその宇宙人との交渉というのが第一面の記事に載(の)ったり、あるいは画面に出たりするようなことがあるでありましょう。 宇宙人たちが今、やはりいちばん関心を持っているのはアメリカという国です。この国の自由な雰囲気というのにひじょうに関心を持っておりますし、多様な価値観を受け入れる余地があるこの国に関心があるわけです。したがって、おそらく最初の段階で主として宇宙人とのコンタクトが始まってゆくのはこのアメリカという国であろうと思います。ここでひじょうに大きな未知との遭遇というのが始まってゆくであろうと思います。このあと予定されているのがおそらくアジアです。アジアのほうで次にそうしたコンタクトというのがなされてゆくでありましょう。ただ、その動きはここ二十年ほどはそう大きな動きとはならないでしょう。やはり来世紀以降、大きなコンタクトというのが始まってきます。 地球人は今後数十年の間にさまざまなやはり恥ずべき行為、あるいは大混乱、大災害、こうしたものに見舞われますが、こうしたものを通り越したあとにやがて宇宙人と一体となり仲間となってゆく、そういう新たな宇宙文明が開けてきます。そのためには地球全体がもう一度、統一されてゆく必要があるのです。地球全体が統一される、その統一の前の混乱というのがここ数十年の間に起きてきます。いろいろな混乱が起き、戦争もいろんなところで起きますが、やがてそうしたことが過ぎ去った時に地球レベルでの統一、こういうことがなされてゆくでしょう。この時に次なる宇宙文明への幕開けが始まっていくのです。宇宙人たちとの交渉、すなわち地球人がひとつにまとまって宇宙人たちと交渉をする。また交遊をする。こういう時代が始まってくるでありましょう。 今、貿易というのがあって外国からいろいろなものを輸入し、また輸出したり、そういう貿易形態というのがありますが、今後、宇宙人との交易というようなこともおそらく始まってゆくでありましょう。未知の天体から未知のものを運んでくる。そのかわり地球の珍しいものを彼らも持って帰る。こういう宇宙人との交易というようなこともおそらく始まってゆくでしょう。その宇宙人たちが持ち来らすもののなかには、もちろん見たこともないような宝石の類もありますが、新たなエネルギー原料、こうしたものもあるでしょう。ウランに代わるような新たなエネルギー原料、こういうものがあると思います。特殊な鉱石であって、それを使えばひじょうに長い間動力源として使えるようなものが持ち来らされるであろうと、こういうふうに思います。 もう一つ宇宙人が持ち来らすものはやはり航空技術です。航空技術としてひじょうに高度に発達したそうした手法、技術的なるものというのを持ち来らすようになるでしょう。そして彼らの援助によって、地球人たちの宇宙空間への進出というのはひじょうに発達するようになります。どういう原理でもって宇宙空間を動いているのか。こうしたことが彼らの技術移入ということによって教えられるようになるでしょう。 そして宇宙人とのコンタクトにおいて、たいせつな役割を果たすであろうというのがおそらく霊能者たちなのです。宇宙語を勉強した人というのはいないわけですが、霊能者たちというのは念の世界で心が読み合える、テレパシーの世界でおたがいの心は読み合えるので、こうした霊能者たち、宇宙人とのコンタクトという面での霊能者の出現、こういうことが数多くあるであろう思われます。 こういうことかだいたい今後の宇宙人とのコンタクトの予想でありますが、おそらくは地上に生きているみなさんがまだ存命中にこうしたことを見聞されるであろうし、そのようなことに関して、今後どういうふうに接していったらいいのか、そういう指導を私も続けてゆきたいと思います。以上が第四章、「星の章」ということになります。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/190.html
目次 1.科学の目的は人間生活に便利さを提供することにある 2.人生の幸福は新たな経験や環境の転換によって得られる 3.霊界との通信機現在研究中、実現は百年後か 4.霊界テレビも幽界、地獄界では適用不能 5.幽体のエクトプラズム化は、実は天地創造の秘密 6.霊界には、恐竜もドラゴンも生きている 7.イエスのパンの奇蹟は霊天上界から届けられた 8.宇宙旅行は高速度化か、空間距離の圧縮化により可能 9.物質の根源は「霊子」から゛光子゛゛陽子゛゛原子゛となる 10.三十世紀まで科学の進歩は続けられる 11.私は努力する才能において天才であった 12.科学者への精神的アドバイス 13.白銀に輝くのが科学者グループ (一九八五年十二月三十日の霊示) 1.科学の目的は人間生活に便利さを提供することにある ― トマス・エジソンの招霊をおこなう。 エジソン ― トマス・エジソンデス ― 。 善川 エジソン先生ですか。 エジソン エジソンです。 善川 日本語でお願いできましょうか。 エジソン またしばらく英語が続く ― 。 善川 はじめてお招きしたのですが、先生はアメリカにお生まれになられて、非常なご努力の末、今日の全世界の人類に対し、科学文明の灯を点して頂いた偉大な光の指導霊として尊敬しておりますが、私共の計画しております仕事に関し、ご協力、ご指導願えましょうか。 エジソン よろしい。 善川 私どもは、科学の問題につきましては全くの素人でございますが、今日科学が非常な勢いで発展してまいりまして、特に自然科学が今日、および将来の人類の生存上の問題に大きな関係と申しますか、そのおよぼす力は非常なものになってきたと思います。この意味において先生には、現代および将来の科学と人間、またはわれわれの魂との関わりということについて、お尋ねしてよろしいですか。 エジソン ― どうぞ ― 。 善川 まあ私達は、科学については専門的な知識はありませず、先生のような高名なお方をお招きしてお尋ねするなど、まことにおこがましい次第ですが、私達が現在および将来にわたって「法」を説いていく上におきまして……。 エジソン ― ホウ、とは何ですか。 善川 ああ、これは「神理」、神の教えをですね、これを説く方法です。これを説く上におきまして、宇宙の理法というものを抜きにしまして、宗教だけを説いていたのでは現代社会の人々は、なかなか納得がいかないという段階でありまして、人々にある程度、科学と宗教との関係についての認識を深めて頂きたいという私達の思いから…。 エジソン 要するに科学と宗教について、関わりあいを説き明かしたいということですね 善川 はい、そういうことです。 エジソン だんだんに語れると思いますので、どうぞどんどん続けて下さい ― 。最初、質問のような形になってよいと思いますが、そのうちに私、語れると思います。 善川 それでは、もちろん科学といえども、人間が行なうことでありまして、いろんな人間の幸せということ、「幸福」ということを眼目においた、それを目的とした思考の産物であるということであろうと思います。そういう意味において先生は、科学によって人々に幸福をもたらしたということにおいて、人類への大いなる貢献をなされた方だと思い、敬意を表しております。 そこで、私達は今後、科学をも含めて、人の心の正しい持ち方ということによって、私達の最終目的である地上ユートピア建設に貢献したいと思っているのでありますが、今日においては最早、科学および科学者の正しい考えや、正しい方向を抜きにしては果たされないものであると考えられます。言うならば、科学および科学者が、神のみ意(こころ)に沿った方向で努力し、発展していかねばならぬものと考えます。神のみこころとしては、恐らく、科学は人間の福祉のためにのみ使われ発展させるべきものとお考えであろうと思いますが、そういう根源的な神の御意志というところから、現代科学の諸問題についてお話願えれば幸いとぞんじますが。 エジソン まず、科学の目的とは何であるか、というところからはじめたいと思いますけど、科学とは、結局のところ如何に便利になるかということなんです。如何に便利になるかということです。便利になるということは、人間達にとって或る面での幸福を保証するものだということです。今まで人類の大部分の歴史は、他のものにとって代われるような労力の消費に使われていたはずです。 朝から晩まで畑仕事していたならば、なかなか幸福を感じるのはむつかしいと思います。機械がやってくれるようになると、その時間を他のものに使えるようになってきます。これは便利さということによって、一つの機械を提供するということによって、新たな可能性を開くということです。つまり科学というものは、便利さということを追求することによって人類に新たな可能性を提供したということが、その意義であったわけであります。たとえば、あなた方は、いま私と、あなたとの会話を、このようなテープレコーダーという機械によって録音することができます。これを繰り返し聴くこともできるし、これをまた原稿に起こすこともできます。こういうことがあるために、あなたも安心して私と話に熱中することができますが、たとえばこういうことがでぎないと、あなたは、私と話をしたことをすべて記憶しなければいけないか、一生懸命ペンを走らせてメモをとらなければいけません。その意味では、この機械が発明されたということは、すくなくともあなたにとって新たなる可能性が開けたということではないでしょうか。 科学が人類に提供するものは、新たなる可能性であり、省エネルギー化を許すことによって、精神的な余裕を与えるということでもあるが、いま、あなた方は日本国の端から端まで行くのに一日あれば行けます。ところが、これが一昔前であったなら幾日もかかったわけです。すくなくともその便利さという面においては、あなた方は月日を無駄にしなくて済むようになったわけです。そうするならば、原始時代において、六十年、七十年生きて来た人の人生は、あなた方にとっては僅か十年や五年に圧縮することができるということです。で、残りの時間は、他の可能性の追求のために費やせるということです。 私はいまあなた方に言っておきたいのですが、あなた方の一日二十四時間は、非常に密度の濃い時間であるということなのです。千年前、二千年前、一万年前の二十四時間と、今のあなた方の二十四時間は、同じではないのです。あなた方は非常に密度の濃い時間を生きているのです。密度の濃い時間を生きられる秘訣は結局、科学が提供した使利さにもとづいているのです。 例えばあなた方は、この部屋をいま暖房しています。電気というもので暖房しています。まあこれも、もともとは私の、私が起源であるといえば言えるわけです。そのような電気の使用ということ、またここに蛍光灯スタンドがあります。これも、もともとは私に原因しているものです。こういうものがあるために、たとえばあなた方は、薪を採りに行って、薪ですか、柴ですか、私はよく知りませんが、そのような木切れを集めてきてですね、冬の寒い目にそのような木切れを集めてきて、それを燃やすというような無駄な労力はいらなくなったわけです。ランプの下でやる必要もなくなって来たのです。 こういうふうに、あなた方はいわゆる密度の濃い時間を生きているということです。もし、このようなことができるとしても、あなた方が山からですね、木を集めて来て焚火をして部屋を暖めてから、このような「交霊会」をやらねぱならぬのであるならば、あなたのもう半日以上は終わってしまっているのです。それをしなくて済むということです。ですから私は今あなた方、これはあなた方個人ではなくて、人類の皆さんに言いたいことですけれども、いまこの二十世紀の後半においては、かつてないような密度の濃い時間を皆さんは生きておられるということです。だからこそ、この時代に多くの人達が生まれて来たいと希(ねが)って、生まれているということなのです。このような密度の濃い時間の中で、人生修行ができるからこそ、人々は競っていまの時代に生まれて来ているのです。人口がなぜ増えたか。動物学的に増えたのではないのです。人間は動物のようには増えないのです。生まれたいと思って生まれてくるのです。時代が悪ければ人口が増えないのです。なぜなら生まれて来たいという人が少ないからです。このような密度の濃い時間であるからこそ、新たな人生修行ができるために、人々が先を競って今の時代に生まれて来ようとしているのです。 農業国の時代に、狩猟時代において経験できないような、密度の濃い経験ができるということがこのような人口増加の基礎にあるのです。人々はかつてない、何万年に一回しかないようなチャンスがいま来ているからこそ、この地上に数多く競って生まれて来ているのです。先を競って生まれて来ているのです。この機会を逃がせばまたまた原始的な時代が来るかも知れないし、そういった時には魂の修行が出来ないし、この三次元に魅力がないのです。現象界が魅力的な時代を迎えると、多くの霊達が競って生まれてくるのです。 あなた方のところにいろんな、なんですか、宗教家達、仏教や、キリスト教の霊達がたくさん出て来ておられるようですけども、ただその霊達の中には、私がいま言ったような、便利さ、生活の便利さということを、言う方は少ないと思うのです。けれどもね、われらの言葉が、このように意味を持っているというのは、人々の生活が便利になって、こころに余裕が、ゆとりが、できるからなのです。もちろん手段にふり廻されて、本来の世界を忘れている人も居ますが、やはり生活が便利になるということは大切なことです。 ですからあなた方も、ユートピア建設などと考えておられるようですけれども、ユートピアは決して心の世界だけのことではないのです。やはりそこの時間の中に生きている人間、百年以上生きる人は少ないのです。同じ長さの中でどれだけ多くの経験、素晴らしい経験を積めるかということです。ユートピアという意味の中には、個人個人が限られた人生の中で、どれだけ素晴らしい経験を積めるかということが入っているのです。 ですからその基礎にあるものは、生活の便利さということです。便利な生活になって欲しいと思います。 2.人生の幸福は新たな経験や環境の転換によって得られる たとえばいまあなた方は、月の世界に行こうとすれば行けます。けれども、月へのロケットは、まだ段階的な試用段階であって、まだ一般のあなた方が行ける段階ではありません。けれどもですよ、例えばいまあなた方が、東京なら東京という都市へ行けるような具合に、たとえば一万円か二万円出して月旅行ができるようになったなら、これは非常に大きな経験ですわね。これがやはり、あなたにとっては新たな幸福ではないでしょうか。幸福というものはね、停滞の中にはないのです。幸福というのは進歩発展の中にこそあるのです。幸福というめは新たな経験に対する悦びの中にあるのです。今まで経験できなかったような新たな経験をする中に幸福というものはあるのです。停滞の中ではありません。進歩であり発展であります。進歩や発展、新たな経験、人生観の百八十度の転換の中にこそ幸福はあるのです。 たとえば、月世界へ旅行できるようになって、あなたは月世界に降り立ったとしましょう。その月からあなたは、゛青い地球゛を眺めているとしましょう。あれが私達の地球だ。あの中にいろんな民族が生きている。黒い人も居れば白い人も居る。黄色い人も居る。褐い人も居る。さまざまな民族があの青い地球の中で、さまざまな人生経験を経て居るのだなあと思った時、あなたの心の中にはふつふつと或る感情が浮かび上がってくるはずです。新たな世界観の獲得です。新たな世界観の認識です。これもまた一つの幸福のあり方です。幸福の中には新しい世界観を得るという幸福もあります。これを或る人はたとえば神の世界に目覚めた時に、霊の世界に目覚めた時に、幸福を得ることもあるでしょう。これとは別に、たとえば月に立って地球を観た時に、地球人類の命、使命、時代というものを考え直すという機会を与えられて、ふつふつと幸福感を得るということもあります。このように、これも科学の便利さがもたらす幸福感なのです。人間は単調な世界の中においては進歩も発展もないのです。 科学は人間の環境に、進歩と発展を与えるものなのです。数多くの霊達が、新たな経験を踏まえるためには環境における変化が必要なのです。神は人間に種々な経験を与えるために四季、シーズンというものを与えました。春があり、夏があり、秋があり、冬があり、雨があり、雪があり、晴れがあり、風の日があり、凪いだ日があり、湿気の多い目があり、乾燥した日があり、こういったような環境の変化を神は与えられて、そのような季節や天候の変わり行く中で、人間にいろんな人生経験を味わってもらおうと思ったのです。けれどもね、そうした生活も何千年、何万年と続けてくると、人々はそこから新たなものを学びとっていくことが段々に少なくなっていくのです。すると、では環境を変えるものは何であろうか。それは人間の知識、知恵によって新たなものを自ら作り出していくことによって環境を変えていくということです。そして新たな環境の中でさまざまな人生経験ができるということです。 ですから先程言いましたように、同じ地域でも四季、季節というのがあって、さまざまな経験ができるという以外に、たとえば、いろんな地域に時代を変えて生まれ直して、転生輪廻して、また今まで経験しなかったような風土での人生を経験するという方法もありますが、それ以外に、科学によって変わった環境の中で新たな経験を積むという時代がいま与えられているのです。 3.霊界との通信機現在研究中、実現は百年後か まあ私はいま肉体を持っておりませんから、新たな発明が出来ないですけれども、いまね、もし、今の時代にあなた方が活動しておられる今の時代に、私が生まれて、じゃあお前は今度、何を発明するかと言われたら、私はおそらく「霊界通信の可能な機械」の発明に没頭したと思います。 電波というものがあり、電磁波というものがあり、このようなものがラジオになり、テレビになるならば、霊界からのまた霊波というものもあるはずです。これがたとえば、「この方」、ここに居る人の器官を通して、いま私が話しているように話すことができるならば、この霊波を感知する機械を発明すれば、それを声に換えることは可能なことです。同じくエネルギー波であるならば、必ずそれを機械によってキャッチし、この三次元に翻訳して、放送することは可能です。ですからいま「この方」を通して特殊なケースで、いまあなたは私と話ができますが、やがてそう遠くない将来、ここ百年後と申しあげます。機械が発明されて、霊達と、他次元の人間と、三次元の人間が交信できるようになることを私は予言いたします。いま私が話しているような言葉が、或る機械を通じて声となって伝わるような、そういった機械がやがて出来るであろうことを、私は予言します。 その前には、この霊世界の研究が必要です。それは、物理学者がもっと研究を進めて、四次元以降の多次元の世界の仕組みがもっと解ることが一つですし、もう一つは、このエネルギー、エネルギー波の捉え方を、徹底的に研究して新たな機械を生み出すという方法があります。 いま世界各地でこういった超能力の研究が進んでいます。ESPの研究が進んでいます。こういったものの行き先がどこにあるかというと、生きながらにして、死んだ方々といろんな交信ができるようになるという機械の発明ということです。私もいまそういった機械をやがて発明する科学者のために、今後指導していきたいと思っています。 これはね、一つ別なことを言うと、こういうことになるのです。いまあなた方はいろんな霊的現象を起こしてですね、地獄に堕ちている人なんかにお会いになっていると思うんです。彼らは苦しんでいます。また天上界(五次元)に行ってもですね、まだ悟りの浅い方がたくさん居るはずです。こういった方々に対してですね、例えば、この地上とコンタクト出来る機械があればですよ、逆に私達の世界からね、そういった人達に対して、いろんなことを情報を流すこともできるし、彼とすればね、例えば「いま、自分は地獄で苦しんでいます。どうしたらいいのですか」という霊波を放射すればですね、その機械がキャッチする。いま例えば「……このような地獄で苦しんでいる人があなたの身内に居ますよ、どうしますか ―」というような相談が来るわけです。そうすると、例えばその時代のね、あなた方のようなやはり光の指導霊達が、専門家達が、「その霊は、こういったところが生前間違っていたために、いま地獄で苦しんでいるんですよ」というような゛処方箋゛を与えるわけです。そしてその機械を通じてですね、またその霊達に伝えるわけです。 ― 「あなた、生きていた時にここが間違っていたために、いま地獄に居るんですよ」 ― こういったことを機械を通じて伝えるのです。それによって彼らは勉強できます。学習できます。そして救われていくことも可能なはずです。ですから、こういった機械が発明されると、特殊な能力を持った人間だけが、人を救う、霊を救うといっているけれども、それがもっと効率のいい形で実現できるようになるだろうし、残された家族の人達が、死んで行った人達と話をすることもできるようになれば、これは非常に便利だと思います。 これが出来ないからね、いま、たとえば憑依現象なんていって苦しんでいる人が多いですね。これは死んだ人が迷っていてね、子孫に何かを伝えたいと思っているんですが、それを伝える方法がないためにね、いつも、くっついているとさまざまな障害が起きて、不幸が起きているわけです。要するに通信したいんです。話がしたいんですが、話が出来ないんです。ただこういった機械がね、出来たとするならば ― 「じゃあおじいちゃん、いま迷っているのですね」 ― と孫が話ができるわけです。で、孫と話している時に、いろいろと反省することもできて、 ― 「ああ、そうであったか ― 」と、「俺はいま地獄に居るんだなあ」と、「自分が死んだ後、家族ではこんな話がされているんだな、遺産はこんなふうに分けられたんだな ― 」そういったことがですね、話ができるようになれば、霊達も憑依(ひょうい)はしなくなってくるのです。 そうですね、やがてはね、一家に一台ずつ〔霊界通信機械〕が置けるような時代が来ると、私は予言しておきます。そうするなら先祖とまた話ができるようになるでしょう。 そうしてね、先祖と話ができるけれども、一般の人々は、たとえば彼らを十分に救うことはできない。それでそういった専門家がまた活躍するようになってくる。「霊界の専門家」がですよ、いまあなた方がこういった特殊なケースですけれど、その時代にはね、各地に今の医者の代わりにですよ、医者とか、或いはかつての宗教家の代わりに、そういったアドバイスをする「アドバイザー」が出て来ます。そして問題、霊達の質問があればですね、それを例えばテープに録音(とっ)ておいて、― 「こうした悩みがあるらしいのですが、どうしますか ― 」と、いう家族の相談があるわけです。そうしたらその専門家が、アドバイスをする。そのアドバイスにもとづいてですね、処方箋にもとづいて、またあの世の霊達に指導する。こういったことが起きてくるわけです。 こういった世界が、ここ百年、或いは二百年以内に生まれてくると思います。 ですからね、その時代になったら、今あなた方は力んで正法の伝道なんて言っているけれども、またあなた方の手段も幼稚な手段であった、と言われるようになってくるわけです。時代遅れになって来ます。 善川 そういう時代が来るということは、もう決まっているようなことなのでしょうか。 エジソン まあ決まっているといえば決まっているようなものです。そういった時代は来るし、あなた、ちょっと運命論的に考え過ぎますが、これからの私、たとえば私エジソンの努力の方向が、そういうことにあるということです。いま私達の世界でもね、科学者達の、光の天使達の、集まりがあるわけです。私達、科学者達は科学者達でそうした装置を一生懸命考えているんですけれどね。それはまた三次元との交信でもあるし、私の居る世界から他の世界ね、霊界の他の世界への十分な交信ができるような装置もいま考えつつあるのです。 霊界での次元が違うと、上の世界へ行けて話ができるようになるには、修業してその修業が或る程度できたら、いつのまにか上の次元へ上がるようになっていますね。また指導霊達に守られて上の次元へ上がるようになっていますが、今後は、私達がいま考案している霊界の機械によって、例えば、五次元から四次元へのそういった機械の通信が可能になるならば、四次元の人達の相談を五次元の人達が受けられるようにする。また六次元の人が、五次元の人の相談を受けられるようにする。そういったふうに、テレビか何かでも観ているように、そういった相談ができるようにしたいものだと思っています。 4.霊界テレビも幽界、地獄界では適用不能 善川 これは、そちらの次元ではもう既に出来ているのではないのですか。 エジソン まだまだ原始的な方法をとっています。 善川 まあ三次元はこういうことですが、四次元、五次元、六次元とそちらの高次元の方ではかなり違いがあり、あなた方の世界では容易なのではないですか。 エジソン まだまだむずかしいのです。例えばあなた方の次元においてですね、霊界など無いというような人が多いし、神様を信じないという人が多いでしょう。同じように、四次元においてもね、余りにも、どろどろとした人間的な世界があってね。彼らはもう死んでいるんだけれども、自分達が死んで、肉体を去ったと思っていない霊がほとんどなのです。四次元の世界というのは、そういった段階にあるからね。そういったテレビというようなもので、私達と交信できて話が出来るというようなことも、なかなかむずかしいことなのです。 要するにね、この現象世界がそういった狩猟民族や、農耕民族を経て、やがて中世になり、近代になり、科学文明が発達したように、四次元の世界もそういった生きている人達のね、レベルが段々に上がって来なければ、むずかしいということです。 四次元の世界が、たとえば、今の時代の人ばかりになるならば、そうした機械についての認識もできるし、理解もできるけれどもね。まだ四次元世界ではね、未だに槍を持って人を追っかけているとかね、弓矢で射っている人だとかね、そんな人がいっぱい居るんです。何百年もね、千年も、二千年も四次元に居る人が居るんです。その人達はみんな自分が、ほとんど自分が死んだ時のね、段階のままに止まっているんです。いまだにね、侍(さむらい)の世界をやっている人も居るんです。いまだに、悔しい、くやしいと言ってやっている人も居るしね。いろんな時代のままにね、そのままに生きていて、その中でさまざまな日常生活を経験しているのです。四次元というのは、さまざまな時代が一緒くたになっているような次元の世界なのです。 地獄にしてもそうですね。昔は、あなた方の時代には、大昔では針の山とか、血の池地獄だとかいわれていましたね。これが現代ではもっと進んだ地獄になっていて(苦笑する……)機械化したりですね。例えば殺される。その殺され方も昔であるならば刀で斬られたり、槍で突き刺されたものがですね、そういう方もまだ居るには居るが、最近では地獄の中でもマシンガンで殺されたりですね、或いは、ロケットといいますか、ミサイルのようなもので殺されたりですね、そういうような戦争やっている地獄もあるのです。そういう意味では進歩もして来ているのですがね、やはり古色蒼然とした世界もあるのです。こういうふうに四次元そのものがね、或る程度意識化して、機械、科学に慣れてくるような、時代に慣れて来ないと出来ないのです。 5.幽体のエクトプラズム化は、実は天地創造の秘密 善川 まあこの地上界では、心霊現象として、いま行なっているような霊言、霊聴というようなものの他に、物理現象というものがありまして、いわゆるエクトプラズムで人体の像を造り出すというようなことをやって居ますけれども、これらの原理につきまして、これも科学的に進んだ装置手法が考案されて、容易に現出することができるようになりましょうか。 エジソン まあ装置が考案されるということはむずかしいですが、これはね、結局はそういうことによって、<天地創造>の秘密が明らかになってくるのです。結局ね、霊というのは、念いの念波であり、エネルギー波ですね。゛神゛のエネルギー波でありますが、例えばいま仰ったエクトプラズムというようなもので、これが物質化するということです。こういったことが行なわれているのです。これの奥にあるのは何かというと、<天地創造>がこの奥にあるのです。つまり念いですね、神の念いによって現象が表われるということなんです。物質が現われるということなんです。物質という世界の中において、この三次元の完結した世界の中において、物質が物質を生むという循環をあなた方は経験しておられるわけですけれど、本当の世界というものは、゛心゛゛念゛でもって物が現われるという世界なのです。現にこれらはわれらの世界においては起きていることなのです。 今、あなたの眼の前の卓上に蜜柑というものが置かれております。これはね、今のこの三次元世界においては、蜜柑の木を植えて、肥料をやって、水をやって蜜柑の実がなって、取って食べられるわけです。けれども、われらの世界においては、蜜柑を思えば、蜜柑を念ずれば、蜜柑が現われるのです。こういった世界なのです。゛念い゛が現象化する世界なのです。この法則が働いて本来この三次元のものも、神の念いによって出来てきたわけです。 今、あなた方が悩んでおられるというか、問題にしておられることの中に、人類は果たしてアミーバから進化して来たのかどうか、猿が人間になったかどうか、というようなことがあると思うのです。これはね、そういった物質化ということを知らない人達の議論なのです。三次元の完結した世界の中において、或るものから或るものへと移っていくとしか考えられられない人の議論なのです。私達の世界、蜜柑を念えば蜜柑が出てくるような世界でもってすればですね、この世界の中において、゛神゛が人間を生みたいと思えば人間が物質化するのです。これは、あなた方に分かるように言えば、エクトプラズムですね。神の念いが或る種のエクトプラズムとなり、そして現象化して、物質となって、人間が出来てきたのです。神が犬を欲しいなと思うと、それがエクトプラズムとなり、物質化し、犬が出来たのです。同じように猿が出来たのです。ですからね、決して猿が人間になってくる必要はないのです。まあそれは遺跡とかね、そういったものを見て、遺跡とか、或いは遺骨とか、そういったものを見て、猿から人間になっていると見る人が居るかも知れないけれども、結局人間が必要と思う時に、人間が現われてくるのです。 6.霊界には、恐竜もドラゴンも生きている そうしたことは簡単なことなのです。あなた方の世界においても、物を引き寄せたり、現象化して現わしたりすることができる人がいるはずです。人間でも出来るのです。まして神ならば、念いを持っただけでこの地上に人間を出すことなど簡単に出来るのです。いま地上に棲んでいない生物で、かつて生きていた生物がいっぱい居るのです。その時代にはね、神がその生物が必要だと思ったから、念ったら出て来るのです。恐竜が必要な時代は恐竜が居たのです。これはいまみんな霊界には居ります。恐竜というのはちゃんと居るのです。伝説でいうドラゴソ、或いは龍というようなものもみんな居るんです。そういったものもいまは霊としてちゃんと霊界には居るんです。それもかつてはね、神が、ドラゴンが必要だと思ったら地上に現われたのです。必要でなくなった時に彼らは、肉体はありませんが、霊そのものはちゃんと生きているということです。いろんな生物が居るんです。それは必ずしも進化ではないのです。進化というものはね、その時代の流れをみて、今は神がこういう動物が必要だなと思われた時に、それが現われたのです。地表が煮えたぎっている時には、神は、人間が必要だとは思わないのです。 地表が煮えたぎってね、火山が噴火しているような時にですね、高等動物が欲しいとは思わないのです。そういった時代が来て、植物が繁って欲しいなと思えば、植物が出てくるんです。そろそろ生き物が欲しいなと思うと、生き物が出てくるのです。もう人間が出て来る環境だなと思うと、人間が出てくるのです。 こういったものはね、まあ聖書の中には、一週間で神が天地を、六日ですか、まあ一週間ほどで神が天地を創造したといわれていますけれど、実際可能なことなのです。念えば直ぐに出てくるのです。これはつまらない幽霊達が、エクトプラズムとして物質化することが出来るのですから、それから推測ていってでも、神の<天地創造>も簡単に想像がつくはずです。すべてそのようにして生まれたのです。そういう形でまず、いろんな植物や動物が生まれて、人間が生まれて来たんです。これも神の計画だったのです。そして人間が生まれてから、人間はさまざまな文明の循環していく中で、その時その時に゛核゛になる光の指導霊達を出して、新たな文明を創りました。そしてもうその文明が行きづまり、必要ないと思うと、海中に没したりして、新たな文明を創って来ました。それぞれの文明の特色が異うのです。また違う科学文明も栄えました。そんなことをして、いろんな新しいものを創って来たのです。 ですから先程あなたのご質問では、そのエクトプラズムの物質化ということを言いましたが、ああいった実験をしている人はね、まだその段階、興味本位の段階でしかないのですが、その窮極にあるものは<天地創造>です。心の現象化です。ですからね、あなた方は、この地球というものの上で生きていると思うけれど、この地球は、神が地球あれ、と思っていろからあるのです。地球はいらない、と思えば忽然と無くなるものなのです。そのような不安定なものなのです、実は。 7.イエスのパンの奇蹟は霊天上界から届けられた 善川 お尋ねしますけれども、例えばエネルギーの不滅則という原理がございますけれども、一例ですが、これは先般イエス様がこの席へ見えられたその節お尋ねしたことなのですが、あの方はいろんな奇蹟を起こされました。その中で、五千人の聴衆にパンを分け与えられたという奇蹟で、これは聖書にもありますけれど、私は、これは不可思議なことであるということからして、イエス様にお尋ねしたのでありますが、これは事実あったことで、これは歴史上の事実であると、イエス様は申されたのですが、それに類する行為は、もっともっと下、下のものさえ結構行なっているのだと。ましてや私においてこのくらいのことが出来ても不思議ではない、といっておられました。それはそうでありましょうと思ったのでありますが、ここで私が感じた点は、ここに現物のパンが五千人分出現したとしたならば、これはいずれかで同等質と量の物質が減少しているのではないでしょうか。それがその加工されたパンという物体が、何処かの場所において消えたのか、或いは穀物の中から製造されたのか、その瞬間の出来事のメカニズムというものはどんなものなのでしょうか。 エジソン そうではないのです。この地上にあるものはすべて霊界に在るのです。霊界には麦もあるのです。パンもあるんです。何もかもあるのです。この三次元にあって四次元以上の世界に無いものなど何一つ無いのです。テープレコーダー、電熱器、こういう機械が発明された時には、同時に霊界には同じようなものがあるのです。電気スタンドが地上に出た時には霊界にも電気スタンドは出ているのです。よろしいですか、そういった世界なのです。ですからこの地上に在るものはすべて在るのです。 イエスの時だけではありません。モーゼの時にも、神はモーゼの引率(ひきい)た民達が飢えて苫しんでいた時に、天からマナという食物を降らせたはずです。さまざまな木の上に、マナというものが、食べ物ですね、当時の。これは、゛繭゛のような白いものの塊(かたま)りです。けれどこれは食べ物ですね、これがいろんな木につきました。これを採って人々は食べたのです。これは゛マナ゛というものです。こういう奇蹟はイエスの前にも起きて居るのです。 こういったものはすべて霊界に在るのです。ですから、イエスが引き寄せたというより、霊界に居る人達、イエスの以前の弟子達、さまざまの霊達、こういったものたちの協力でこれを現象化しようとすればするんです。それだけのことです。別に何処かからのパン屋から持って来たわけでも、何処かの小麦を使って造ったわけでもないのです。この地上にあるものはすべてあの世には在ると思って下さい。 善川 そういうわけでしたか。私はまた、三次元世界の何処かにある物質を転移、または加工させたものかと思っておりました。ですから一方で増えると、一方において減少するものと考えておりました。 エジソン 実際は今あなたが使っている、こういうテープレコーダーという機械もありますが、これが地上において発明される前に、もう霊界にはこれに当たるべきものが出来ているのです。まず霊として出来て、或る人が生まれて、考え考えて作って、造ったものはそれがやっと霊界から降ってくるという形なのです。すべてあるのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/146.html
目次 1.神について 2.神のお心 3.大調和 4.限りなき時 5.宇宙の本源 6.真実の心 5.宇宙の本源 さて、宇宙ということに関して、話をしていきたいと思います。これは、長年にわたって、人類が追究してきたテーマであります。古代の人間、二千年前の人間も、四千年前の人間も、一万年前の人間も、すべて、宇宙とは一体何であるうかと、こうしたことを考えてきたようであります。 宇宙、それは神秘です。人間の目に映る限りの空、星、太陽、月、こうしたものを眺めながら人間は長い間、自分たちの存在、これを確かめてきたのでありますが、いかんせん、それを最終的に判断することはできませんでした。古い時代の人にとっては、プラネタリウムのように、天にドームがかかっていて、その上を、その中を星が動いたり、月が動いたりしているように思ったこともありました。また、地球が自転しているということがわかったのは、つい数百年前のことではなかったでしょうか。地球が、太陽の周りを回転しているということを知ったのも、つい先頃のことではなかったでしょうか。 この地上で生きている人間にとっては、太陽は地球よりも大きいということは、なかなか認識ができません。太陽と月とどちらが大きいかも、なかなか認識ができません。ましてや、月が地球の周りを回り、地球が太陽の周りを回っているというような複雑なことが、どうしてわかり得ましようか。素直な心でもって見れば、地球の周りを月が回り、地球の周りを太陽が回り、地球の周りを星が回っているように見えるはずであります。しかし、そうした人間の認識というものが、誤りであるということを科学は証明してきました。 こうしたことのように、あなた方が当然と思っていることが、当然ではないということになる、そのように証明される時というのが、もう近づいているということであります。あなた方は、地球を離れて他の天体に飛んでいくためには、宇宙船に乗って、逞かなる距離を、遙かなるかなたへと、膨天な時間を使って飛んでいかねばならんと思っているでしょう。しかし、我らが世界においては、すでに宇宙は一つとなっているのです。 この地球という霊的磁場においては、四次元空間、五次元空間、天次元空間というふうに、さまざまな空間が、その周りを取り巻いています。こうした、低級霊域においては、地球における完結した霊的磁場にしか過ぎませんが、我らが世界、高次元世界においては、この磁場は地球だけに止まらず、全宇宙にと広がっているのです。すなわち、我らと同じ程度に、進化した他の天体があれば、その天体と我らが星の世界のこの霊的次元とは、つながっているということです。 これはちょうど、あなた方は、二つの歯車、二つの輸の周りに通された、ベルトコンベヤーのようなものを考えればよろしいでしょう。それぞれ、大きさの違った二つの輪があって、それが回転をしていますが、その周りにゴムのチューブというか、ゴムのベルトがつけられていて、そしてそれが回転しているのです。 ですから、その二つの輪の中には、幾層にも構造ができているわけですが、その外側には一つの大きな帯がかかっている、こうした世界なわけです。そして、このようなゴムベルトのようなものが、いくつかの輪にそれぞれかかっておって、エネルギーを伝え合っているのです。これが私たちの世界の本当の姿であります。 こうしてみると、全宇宙は、そこにある星は、天体は、それぞれ個別に生活をしていて、個別の発展を満契しているようにみえるかもしれないけれども、より高次な面においては、それぞれにつながっているということが言えると思います。 さすれば、私たちはあなた方に、霊言という形で、さまざまな霊的真実をお教えしていますが、本当の意味においての世界の秘密、神秘ということを十分に説き得ていないと思うのであります。 本当は、私がいる世界は、他の天体ともつながっているのであります。そして他の天体へとつながるこの世界は、あなた方のように、宇宙船によって、移勤しなければならないような遙かなる距離ではないのであります。我われにとっては、つい隣近所のような距離で、動いていくことができるのです、こうした世界にいるのです。ところがあなた方にとっては、それは無限の距離のように感じるのであります。そうした認識の相対観があるということを、知らなくてはなりません。 我らは、他の星の人たちともよく話をしております。そして、お互いの霊的進化について、協議をし合っております。また、彼らの特徴とするところであって、我らがまだ、取り入れておらぬところがあるならば、それについて、日夜検討をしているわけであります。 他の惑星の中には、我われが想像もつかないような偉大な星もあります。蟻や、あるいは犬や猫や、そうした動物たちが、人間の生活の全体を理解できないように、宇宙の中においては、さまざまな進化速度のある霊系団があるということなのです。 我らは高度に発達した地球にいるけれども、地球もまた、他の天体の者から見れば、未発達の発展途上の星であるようにみえることもあり、また、別の星から見れば、非常に高度に進化した星のようにみえることもあります。我らは、そうした星の進化ということに関する、統一的な見解と、基準というものも設けねばならなくなってきております。 今、私が、こちらの世界にあって、主として他の天体の者たちから吸収している知識として、一つだけ言っておいてよいことかあると思います。それは、地上のあなた方が、まったく思っていないような価値尺度の発達した世界もあるということであります。 たとえば、地上であなた方が、人の上下を決めるときに、一体何でもって決めているでしょうか。それは、肩書きというもので決めたり、あるいは、金銭で決めたり、いろんなことで決めております。しかし、ある星に行くと、違った基準がまた、あるのです。 そこへ行くと、どれだけ美的感覚をもっているか、ということが、人の上に立つ条件であるというような星もあるのです。必ずしもその人が、画家である必要はありません。あるいは彫利水であったり、あるいはピアニストであったりする必要はないのでありますが、その人のもっている美的感覚が、すなわち、その世界においては、魂の上下を分ける基準として使われている。こういう世界もあるのです。 そうしたところで、日本のように、総理大臣のようなものをぶとするならば、一番美的感覚の優れておる者が人の上に立つということになってきます。そして、その国の倫理基準として、人の魂の中にある美しさを最大に発見できる者こそが、人の上に立つことができるという正法が説かれているのです。これもまた、一つの真理でありましょう。しかし、地球においてはまだ、そうした真理は成り立っておりません、それは、ごく少数の芸術家のダループの中においてだけ、通用しているちのであります。 また、別の星の人たちと会うと、こうした価値基準をもっている者がおります。その星においては、どれだけ多くのものを創造、すなわち創り出すことができたかということが、その人間の進化を計る基準となっていることがあるのです。一生の間において、どれだけ多くの創造、自分の主体的努力によって何かを生み出し得たかということが、その基準になっていることがあります。 こうしたところへ行くと、船をつくった人であるとか、建物をつくった人であるとか、飛行機をつくった人であるとか、あるいは、作物をつくった人でもよいですが、こういう何かを創った人というものは、非常に尊敬をされるわけであります。しかし、日本の社会におけるような、こういう会社というところに勤めて、書類仕事をした者にとっては、これは、あるいは彼らの目から見れば、いわゆる奴隷階級にあたるのです。こうした、何の生産もしないで、こうして代替業、代替作業、人でもって代われるような仕事をしている人というのは、一段と低い階級であることもあります。その逆に、何かを自分の手で創った人が素晴らしい。そして、一生の間にどれだけの物をつくリ出し、どれだけの量をつくったかによって、その人の魂の進化が計られる。こういう世界もあるのです。 こうした基準でみてみると、この地上における人びとの、序列というのはまた変わってくるでありましょう。すなわち、一万人の会社を率いる大会社の社長よりも、小さな詩集を一つつくった詩人の方が、上だということになります。また、自分で、花瓶を一つつくった人の方が、上ということになっていきます こうした世界観もあるということです。 あるいは、私はまた、他の天体の人と話をすることがあります。その天体の人たちと話をしていると、彼らはこういうことを言います。その星において、一番尊敬される人は、より多く友達をもっている人である、と。こういうように言っているわけです。そうすると、そこで一番人の上で評価される人は、結局、交際範囲の広い人ということになります。なぜ、そういう人が評価されるかと言うと、多くの人に影響を与えたからだ、という答えが返ってくるわけであります。 こうしてみると、一人でわび住まいをしている人よりも、何百人、何千人の人と付き合っている人の方が偉いということになります。あるいは、もっと有名な人になればなるほど、偉いということになってきます。交際の範囲と、接する人の数、人脈の範囲が多い人ほど偉いという世界がある。それだけ多くのパーソナリティを他の人によって、確認されたという意味であります。その意味において偉いということ、彼らから言えば、この地上に生きている以上、他の人びととの関わりが本当の大事な仕事であって、他の人びとに影響を与えないような生命であるならば、あえてこの地上に生まれてくる必要はなかったと、こういうふうに言っているわけです。 そうすると、ここの星の人たちは、自分が進歩し、出世しようと思えば、一人でも多くの人と毎日会う必要があるわけです、できるだけ多くの人と会い、できるだけ多くの人に感化を与えようとします。そういう意味において、大変忙しい毎日を送っております。今日は何人の人と話をして、どういう発展的な仕事ができたということで、やっているわけです。 そして、勲章のようなものを付けておって、私はすでに、三十歳のときに一万人の人と話をした。あるいは、四十歳のときにはもう、十万人の人と接した。こうしたことを勲章のように肩のところに付けて、喜んでいる人たちもおります。 また、私は、あるところの星の人たちと合うと、ここはまた、別の世界観をもっております。ここでは、結局、一番価値のあるものは、人間の生命であるということになっております。そうすると、ここで一番尊敬される人たちはどういう人かと言うと、できるだけ多く子供を創った人たちということになるのです。これが一番生産的で、創造的な仕事だと信じられているからです。 手でつくったもの、たとえば、陶器にしても、機械にしても、自動車にしても、船にしても、やがては壊れてゆくものです。そうしたものですが、人間を創るという仕事は、神聖な仕事であって、そして、その子供を生むという作業は、さらにその子供が子供を生み、孫を生み、曾孫を生みというふうに、連綿と続いていく大事業であるから、これこそ一番神聖な仕事であると言われています。自動車が自動車を生むということは、聞いたことがありません。また、飛行機が飛行機を生むということを聞いたことがありません。しかし、人間は人間を生んでいくことができます。そういうことにおいて、一番多くの人間を創った人たちが、一番尊敬されるということになります。 そうしてみると、一番多くの子供の父親となった人が、国王となったり、あるいは、そうした組織の長となったりして、一番多くの子供を生んだ女性が、また女王となったりするような、そうした世界もあります。 まあこうした形は、ある意味においては、蜜蜂の世界においてもそうでしょう。多くの働き蜂を生むことができる蜂が、女王蜂として生きております。まあこうした世界ですね。人間を創ることこそが、最高の進化の証明である、仕事である、と言っている人たちもいるということです。 また、私は別の世界の人たちと話をすることかあります。彼らを見てみると、結局、こういう価値観をもっています。心の平静こそが、最大の価値であると言っている人たちがいるのです。心乱されずに生きた人が、一番の賢人である。こういうことを言っている人たちがいます。こういう国へ行くと、今度は、できるだけ多くの人と交際することが値打があるという価値基準とは別になってきて、人と会わなくともよくなってきます。とにかく、心が一日のうちで乱れなければよい。 この国の人たちは、心臓の鼓動を計る機械ではありませんが、心の波長を計る機械というものを胸に付けておって、一日どういう心の状態であったかということを、毎日、日記のかわりにデーターにとっているのです。そして、一日二十四時間なら二十四時間の心の波長というのが、そのグラフ用紙の中に打ち出されます。一番心乱れずに生きた人が、一番能力のある人ということになってきます。そうするとここでは、心乱れずに生きるということが最高の価値であって、乱されない生活、こういうことが重要視されます。まあ、この話を聞けば、老荘思想というものの起源が、どうやらこの辺にあるらしいということを、あなた方は感じ取るでしょう。 今、さまぎまな星の話をしてまいりましたが、そのさまざまな星に、もといた人たちも、また多数、この地球というところに生まれてきておって、彼らは彼らの価値基準を説いているのです。そうしたさまざまな価値基準が混ざり合って、地球という星において、一つの統一的な価値、その支配原理というものが、できてきたと言うことができます。 私は、今、こちらの九次元世界において、こうした他の惑星のさまざまな者たちの行動原理、価値原理というものを研究しながら、この地球において一体どのような法を説いていくのが、本当に人類の貢献のためになるのか、また、地球人にふさわしい生き方となるのか、こうしたことを、日夜、研究しているのであります。 地球には、地球における真理があってよいということは、すべての人が認めるところであります。 しかし、他の星には、そのようなさまざまな価値原埋かあります。どの価値原理からどれだけのものを取り入れて、そして地球的なるものにしていくか。こうしたところが、非常に難しいものであると言うことができます。 ちょうどこれは、三次元における国と国との関係にも似ていましょうか。日本という国において、かつて鎖国ということをしたこともありました。しかし、鎖国を終えて開国をしたときに、ヨーロッパの文明、文化というものが、日本に流れ込んできたはずです。その中から、どれを取り入れてどれを取り入れないか、そうしたことが大きな仕事となったのではないでしょうか。 結局、日本には日本の独自の文化、文明の基盤というものが必要であって、日本に合ったものが取り入れられ、それが消化され、日本独自のものと変わってきたのではないでしょうか。 これがもっと大きなスケールにおいて、我らの世界において、行なわれているのです。我らもまた、学ぶべきところは、もちろん高次元の霊たちの指導も受けているけれども、他の惑星の霊系団の中において、さまざまな魂たちと接しながら、この新たな地球というところにおける、ユートピアの原理というものを、日夜、探究しているのです。 6.真実の心 このように、この大宇宙は、いろんな法則と、いろんな価値原理で貫かれておりますが、その中で、ただ一つだけ言い得ることは何かと言うと、結局、真実の心でもって、生きるということを、みな旨としているということです。そして、その真実の心、真実なるものは何かということを、それぞれの者たちが、努力して求めているということです。いろんな星において、何が真実であるかということを、探究しているということです。一体何が真実で、何が偽りであるのか、それをそれぞれの個性でもって、それぞれの角度から探究しているということです。 真実というのは、ちょうど宝の山のようなものであって、どの角度から、どの部分から掘っていってもさまざまな宝石が出てくるのです。どの宝石をもって、あなた方が満足するか。ルビーの指輪をもって満足するか。ダイヤの首輪をもって満足するか。あるいは、珊瑚礁のかんざしをもって満足するか。真珠のネックレスをもってよしとするか。いろんな宝があるわけです。ただ、これが宝の山であることは事実であって、真珠を取るか、ダイヤモンドを取るか、サファイアを取るか、ルビーを取るか、こうした選択の余地がありますが、宝石であるということにおいて、一致しているわけであります。 宝石が宝石であるところは一体何かというと、宝、すなわち値打あるものであるということです。また、多くの人たちの憧れの的であるということが言えると思います。それが、宝石の宝石たるゆえんであると思います。 これから、地上的なさまざまな教えが説かれていくでありましょう。目的としては、結局のところ、そうした宝の山というものを教えんとしているのです。そして、その宝の山の中で、一体何を選び取っていくかというところにおいて、まだ、選択の余地を残しているのです。 こうした大きな観点に立ちながら、しかして、一つの貫くものがある。各人の心を貫くものがある。各人の行動を貫くものがある。それが何かというと、結局、真実の心の探求ということであります。いかに人生を真実一路で生きていくか、いかに人生を真なるものを求めて生きていくか、魂の真実とは一体何であるか、そうしたことを探究していくということ。これが、人間に課せられた義務でもあるわけです。 あなた方は、こうした宇宙の中の一つの星としての地球、地球の中の、いろいろな教えの中の一つの教え、こうした位置づけというものをしっかりと学んで、そして、大きなものを創っていかねばなりません。結局は、そうした宇宙観、世界観の中で、日々、努力精進していくということ、自らの心を磨いていくということが、神の愛に応えていくということなのです。 神が、これだけ素晴らしい宇宙を創られ、大宇宙の原理を創られ、さまざまな宝石を散りばめられているのです。こうした宝石の山があちこちにあるのです。こうした宝の山の中にあなた方があることを知ったならば、そうした宝を見つけていくことです。それが神の愛に報いることではないでしょうか。 たとえば、ご両親が、素晴らしい御馳走をつくられていたとしても、子供がそれに気がつかなければ、そのご両親の愛は無駄になってしまいます。同じです。神が素晴らしい料理を食卓に並べておられるのだから、あなた方子供は、これを一生懸命食べればよいのです。それがやがて血となり、肉となり、あなた方の健康となり、繁栄となっていくのです。 そうした大きな神の愛に、見事に応えていくような、あなた方であれ。この言葉をもって、今日の私の話の終わりとしよう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/139.html
第一章 我が人生観 エマニュエル・スウェーデンボルグです。読者のみなさんの多くは私の名をどこかで耳にされたことがあるでしょう。北欧の霊能者ということで有名でもありましょうし、また、あの哲学者カントに影響を与えた、神秘の思想家としても知られている私です。 私はもう今から二百年以上も前の古い人間です。その意味で現代のあなたがたから見れば、そのヨーロッパの何百年か前の霊人が、今この時期の日本にいったいいかほどの用があるかと思われることでしょう。 ただ、最近ではこの日本でも、私の生前の著作が数多く翻訳され、出版されているのを知り、我が心の底から喜びといたす次第です。 この現代の日本の心霊ブームの奥には、私の存在もなんらかの力を果たしているということをわかっていただければ、なにゆえに私が今復活をし、声を伝えんとしているのかがおわかりであろうと思う。私自身、かつてスウェーデンの地に生まれてさまざまな仕事をなしたものでありますが、年代は離れてはいても、近代に生きた人間の一人として、他の多くの高級霊が霊言を地に送らんとする現在に、我が一書もまた連らねてみんと、心の底から願うものです。 さて、読者の多くは、本書を手にされたという以上、私の名はすでに知っておられるし、どのような人間であるかはご存じであるかもしれません。私の生前の仕事はさまざまでありましたが、鉱山関係の技師をやっていたこともありましたし、それ以外にも医学的な業績や、生物学的な業績、また科学的な業績など数多くのものをあげました。そしてそれらの多くは、時代を百年から二百年先取りしていたと今日ではいわれているようであります。 しかし、私にとってたいせつなことは、単にそうしたことではありませんでした。私は老境といいましょうか、壮年期といいましょうか、通常の人であれば定年退職をする歳を間近にして、異常な世界へと入っていったのです。この世的にはさまざまな業績をあげ、今日であればノーベル賞をいくつももらってもおかしくないような私であったと思いますが、その私に最後の務めとして、偉大な使命が下ってきたのです。 それは、神理の使徒としての使命でありました。もちろん若い時分より、霊感的なものはずいぶん私にはあったと思います。さまざまなインスピレーションにも恵まれて、いろいろな発明や発見をしてきました。そうしたことがあったし、書物を書くにあたってもインスピレーションが降りてくるということはよくありましたので、まったくの人生の転換とはいいかねるものもあったと思います。 しかし、自然科学者として、技師として、夢を馳せていた私、そしてそれなりの成功をおさめていた私が、まさか神の使徒となってゆくとはいったいだれが予想したでしょうか。私自身もそのようなことを予想したことはありませんでした。 その後、私の著述は膨大なものとなってゆきました。おそらく、百数十冊にのぼる心霊関係の著述が遺されたと思います。それらの多くは、主として我が霊界見聞録から成り立つものでした。私は近代においては、本格的に初めて霊界というものを探訪し、くまなく見てき、これを地上に報告した者であります。その意味では先駆者的な役割を担っていた一人であります。 ここで、まず私の本来の業績といいましょうか、霊界探訪、霊能力の世界について語る前に、神が私に与えた五十数年のその前半生は、いったいいかなる意味があったのかを考えてみたいと思います。 こうしてみると、神は私に神理の使徒となる前に、この世的なるある程度の業績をあげさせるということを、まず最優先させられました。そして、次には私をして、その北欧の地では第一人者としての文化人、教養人、あるいは科学者たらしめました。そうして、そうした私の名がヨーロッパにもかなり有名になっておりました。 このように自分づくりというものが終わった段諧で、もうある程度人生の先行きが見えてしまった段階で、思いもよらぬ世界が展開してきたわけです。私がそれまで全力を捧げてきた、科学的研究がまったく吹き飛んでしまうような、それはそれは大きな衝撃でありました。くわしい年代がいつであったか、私の記憶は定かではありません。しかし、まだ六十歳にはなっていなかった、五十代のことであったと記憶しております。 その日はちょうど、この収録をなしているころと同じころでありました。木の葉もほば舞い散り、夕暮れはいつもより早く、寒い風が吹き始めていました。私は、はやばやと夕食を終えると、いつものとおり自室に閉じこもって、そして内側から鍵をかけ、執筆に励もうと思っていたのです。 その特に、私は不思議な声が聞こえてくるのを感じました。それは初めは、はるかに遠いところから、小さな小さな音として聞こえてきましたが、やがてそれが、トナカイに乗ったサンタクロースでも近づいてくるように、小さな鈴の音が大きく大きく響いてき始めたときに、何らかのキリスト教的なる神秘が我が身に臨んでくるという直観を得ました。 そしてその鈴の音はやがて私の近くまでくると、ぴたりと止まりました。そのあと私は、これは大変なことが起きるということを直感いたしました。私は近くにある安楽椅子に居場所を移して、そして、目を半眼にして来たるべきものを待ち受けました。 やがて次なる出来事が、私のまわりに起き始めました。それは、鈴の音ではなく、一面に起きてくるラップ現象とでもいうべきものでした。机の上、床、天井いろんなところで物音がしました。叩くような音です。そしてこれは、なんらかの霊の仕業だなというように感じました。しかし、これらはまだ初歩の出来事であったと思います。 やがて、そうした時間が通りすぎたあと、私は見てはならないものを見てしまったのです。それは、窓を突き技けて現れてくる、一人の神秘的な神々しい方のお姿でありました。その方は痩せて、背も高く、顎髭があって、そして、聖なる輝きに満ちておりました。 そして、その方の上げた右手のひらを見たときに、そこに釘を打ちこんだ跡がありました。「ああ、これがあのイエス・キリストその人なのか」と思ったときに、私の全身に戦慄が駆け技けてゆきました。そのあと、目を凝らしてみると、そのまばゆく光るイエスは、頭に王冠をかぶっていることがわかりました。その王冠を両手ではずすと、イエスは私のほうに歩み寄り、そして私の頭の上に王冠をかけようとするではないですか。 私は驚きました。いったい何事が身のまわりに起きるのかといぶかりました。しかし、イエスはその王冠を私の頭の上に載せると、一歩あとずさり、そして静かな微笑みを浮かべました。そうして、ほんの二秒か五秒の時間であったと思いますが、慈愛に満ちたまなざしで、私の顔をじっと見られました。しかし、もうまったく息が止まってしまって身動きができなかったので、私にとっては、そのごくわずかな時開か一時間もあったかに思えました。 そしてしばらく私を眺めたあと、イエスは私にこうおっしやられたのです。そのおごそかな口をひらいて、「エマニュエル・スウェーデンボルグよ。お前の人生は今日で終わった。お前の前半生は終わったのである。お前は今日死に、また今日よみがえりの時を迎えたのである。今日からお前は新生しなさい。そうして、残りの人生を私のために費やしなさい。我がために生きなさい。 我が肉体の復活はもはやないが、我が魂がかつて復活したように、お前も前半の人生はもはや終わったと思い、本日ただいま死を迎え、そしてまた新たに生まれ変わればよい。お前の生まれ変わりによって多くの人びとが、魂の蘇生を知るであろう。そうして永遠の命を得るであろう。 スウェーデンボルグよ。我がために行なえ。我がしもべとして働け。余生をどのようにあざ笑われようとも、どのように苦しいものが待ち受けようとも、ただひたすらに、歩んでゆけけ。」 これが、イエスが私に語られた言葉でありました。イエスの目は慈愛に満ち、光に満ち、愛に満ち、そうして悲しみに満ちているように見えました。その目を見つめた私は、彼を襲ったと同じ運命が、我が身にもおよぶものであるという予感がいたしました。 やがてイエスの姿は次第しだいに遠のいて、見えなくなってゆきました。 こうして最初の奇跡の時が終わりました。私はこの感動をどのように表現してよいのか、それに苦しみました。ただ、教会の人びとに話をしたところで、私がイエス・キリストと直接対面したと言ったところで、決して、決して信じられることはないだろうと思いました。 また、当時の私の名声はヨーロッパに広がっており、私としては、もはやこのような晩年において、このような大胆なことが、あるいは自己犠牲をともなう決断と行動が、ほんとうに私の人生にとって、ふさわしいものであるのかどうか考えるにいたって、ずいぶんと逡巡いたしました。 しかし、私は避けられない運命であるならば、受け入れるしかないであろうと思いました。どうせ避けえない運命であるならば、そして、事の性質からいって、その重大さからいって、私はこの運命のなかからふたたび出られる可能性はゼロに等しいことを感じていました。そうであるならば、運命のなかで運命の人として、生きてゆこう。そのように思いました。 それからまもなく、私にはさまざまな不思議な能力が授かるようになってまいりました。第一に授かったのは、これは霊視能力とでもいうべきものであったでしょう。家のなかにいながら遠くの物を見ることができたり、ある人の遺書が家族のだれもが知らない秘密の隠し場所に置かれているのが霊視できたり、そうしたことがありました。 そしてその後、私を有名にさせたものの一つとして、何百マイルも離れたストックホルムの火事を霊視したときの話があります。 パーティーの最中であったでしょうか。あるいはちがったときであったでしょうか。もう記憶は定かではありませんが、ストックホルムで火事が起きているということを、私は語ったことがあります。この大火事でたいへんな災害が出るであろうということを語りました。ちょうどその同じ時刻に、ストックホルムが大火事になりました。それを一日遅れで新聞が伝えて、たいへんな評判となったことがありました。 このようなことは、次つぎと話をすれば枚挙にいとまがありません。こういう霊視能力を身につけてしまったということです。それが遠くにある物でも、まるで現在ただいま目の前のテレビでも見るように見えてくる能力でした。 私はそれを、単に視覚的にのみ見ているものだと、ながらく思っておりましたが、実はそうでもないということを知るにいたりました。それは、のちほど身についた幽体離脱という能力からすれば、私の魂の一部が、はるかなる距離を越えてさまざまな事件を見てきたのではないかと思えるのです。 こうした霊視能力に加えて、霊聴能力というものもついてきました。霊の声を聞く能力です。この霊聴能力はさまざまな精霊の声となって私のもとを訪れてきました。それは、昼も夜もです。私はほんとうにどうしたらいいのか、自分が気が狂ってしまうのではないかと恐れました。そして、やはりこれもひとつの運命として、やがて受け入れざるをえない気持ちになってまいりました。 さらに、私が授かった能力は、予知の能力でありました。先に起きる出来事がわかってしまう、そういう能力を授かったのです。 たとえば知り合いの人と夕食をしていると、急にその人の工場で火が燃え、火事になるのが見えたりしたことがありました。そしてその人に注意を促して、すぐさま帰るようにと言ったところが、馬に乗って家にたどり着いてみると、ちょうど工場では火花がスパークして、まさに火事になりかけんとする前であった。そうしたこともありました。 さらに、私の名を有名にしたのは、宮廷に参内して、そして私は霊人と話ができるということを実証したことではないかと思います。王妃が私に、亡くなられた知り合いの言葉を所望いたしました。その方と王妃だけの秘密であって、他の方にはまったく知られていない事実が、そのとき霊を通して私に教えられたので、その通りに申し上げたところ、たいへんな驚きとなりました。 そして、その方の顔立ち、衣装、その他について申し上げたところが、生前のお姿、ご愛用であったもの、そのものであったことが知れ、それがまた、私の評判を高めましだ。いわゆる霊界と交流する男、霊と話をする男ということです。 こうした霊能力は、他の霊能者にもある程度は備わっているものですが、私にとってもっとも破天荒であった事実は、幽体離脱という能力でありました。これは一種のテレポーテイションといってもよいでしょう。生きながら肉体から魂が抜けて、そして霊界を探訪してくるという実験です。この実験のために、私の余生のほとんどが費やされたといっても過言ではないでしょう。 たいてい、その幽体離脱は睡眠中に行なわれました。夕方から床に入り、そして、身体から魂が抜けてゆくのを待ちました。そうして、横たわって、しばらくすると、自分の身体が小刻みに振動し、やがてセミが殼を脱ぐように、もう一人の自分自身が肉体から抜けてゆくのを感じました。 このようにして、霊界でさまざまな経験をして、明け方ごろ、あるいは正午ごろ、還ってくることが多かったのです。場合によっては三日、あるいは一週間幽体離脱したままになることもありました。私は召使いを一人おいていたので、この奇妙な病気が始まる前には召使いを呼んで、どんなことがあっても、だれも近づけてはいけない、部屋のなかに入れてはいけないと 命じておきました。なにしろ私が幽体離脱をしている間、他の人にその姿を見られたとするならば、私はまったく死んだ人間同様であったからです。魂の抜け殼そのものであって、ベッドに横たわった死人のようであったからです。もし違いがあるとするならば、顔にはまだ赤みが残っていたということだけではないでしょうか。 こうした姿で私は霊界探訪を始め、そして霊界の記録を克明につけ始めるようになってゆきました。こうして私が霊界を見てきた、この事実の報告が膨大な書物となって、何十巻、あるいは百巻を越える記述となっていったのです。 それはまったく先駆的な仕事であったと思います。生きながらにしてあの世に出入りする人間も、過去何人かはいたでしょうが、私のような霊界の真実をすべて明かすという、そうした使命をおびて霊界に出入りしていた人は数少なかったと思うのです。私はまったく自然科学者の目で、自分の実体験してきたことを書き綴ってきました。 自分が実際に霊界で会った人の話を、また見た経験を、さまざまな角度から書き綴ってゆきました。それゆえに私が書いたものは、あまり体系だってはいないかもしれませんし、多分に不思議な感覚を与える描写が続いているかもしれません。 特に私は地上に戻って来てから、その覚えていたことを書いているわけですが、これを書くに際して、私の手が勝手にペンを持って走ってゆくというかたちになっていました。これを今の人は「自動書記」という言葉でおそらく呼ぶのだろうと思いますが、私の原稿の書き方は、自動書記そのものであったと思います。 さて、私はこうして霊界と地上をまたにかける人生を送ることとなってゆきました。そして、そういう一生を終え、今こちらに還ってこちらの住人となっているわけです。 こういう人生を送った人間として、私はいま、地上に○川○○という人が出て、霊界の真実を明かすという偉大な仕事を開始されたことを、とても、とてもうれしく思います。おそらくは私が成し遂げた仕事の数十倍、数百倍にもあたる仕事をされることだと思います。 また、私の霊界探検物語も、そうした風景としてずいぶん書き綴ってまいりましたが、いかんせんまだ知識としても十分でなく、霊的現象について十二分に説明をすることができなかったために、奇々怪々な解説もあちこちに散見されることと思います。私はそういう事実を知って、ここでもうひとつ体系的に、もっと現在の私の視点から真実を捉えなおしてみたいという思いにかられはじめたのです。 そうした衝動から逃れることができないでいるのです。こうしてまた地上にいる人びとの手を煩わせて、かつて私がそうしたように、そうされたように、霊人となった今、私が地上にいる人に霊的指導をなして、霊界の真実を明かしてみたいと思うのです。 私が現在居住している空間は、あなた方が如来界と呼んでいる世界だと思います。八次元という言い方でも呼ばれているでしょう。そうした世界に住んでおります。そして、私が現在どのような仕事をしているか、あなた方はご存じかどうかわかりませんが、この十八世紀から、十九世紀、二十世紀にかけて、世界各国で心霊ブーム、霊界通信ブームというものが起きてきましたが、こうした霊界通信ブームの中心的役割をやっているのが私なのです。 もちろん、こちらの世界でも仕事はありますが、私は生前の仕事のそのひき続きとして、この霊的世界の真相を、地上にいる人たちに送り続けたいと考えてきました。そういう考えもあって、私たち高級霊界から、次つぎと、古代でいえば預言者にあたるような人びとを地上に出して、彼らを指導してきました。 今そうした運動の、心霊通信ものの最右翼といいましょうか、あるいは最終版といいましょうか、もっとも前進した姿といいましょうか、こうしたもののひとつとして、日本という地に私たちの念願であった霊界通信を送る ことができるようになったのです。 この霊界通信もののブームそのものは、イギリスでもずいぶん前からありましたし、またアメリカでも千八百年代以降有名になりました。南米でも信じる人は数多くいますし、スペイン、ポルトガルのほうでも、かなりの人がこうした真実の霊界通信を読んでいます。 けれども私の世界から見ていて、今いちばん不満に思い、かつ必要に迫られているのが、日本という国での心霊思想の普及です。この東洋の国は、二十世紀、あるいは二十一世紀の覇者たるべき資格を持っている小さな大帝国でありますが、残念ながら、西洋文明のなかの病的なものだけを取り入れて、そして、神理、あるいは心霊思想というものを拒絶し、否定し、嘲笑することをもって、知識的である、知識人的であるというように考えがちであります。これはたいへん、たいへん惜しむべきことであり、残念なことでもあると思います。今、ここ数十年の間に、日本という国は世界のりーダーとなってゆくのです。世界のリーダーとなるがゆえに、日本という国で起きる事態は、全世界の注目の的となるのです。 こうした時代に、こうした国において、偉大な奇跡が起きないはずはないと、私は思うのです。 いや、起きないはずはないなどという、他所事のような話をしてはいけないでしょう。 かつて世界の各地で心霊ブームを起こしてきた私たちが、日本でなんらの仕事もしないはずがないといいかえてもよいのだと思います。私たちはいま、焦点をこの日本の国にしぼりました。そしてこの国を中心として、さまざまな神理の実証、霊界の実証、神の実証を重ねてゆきたいと思うのです。 この運動に際し、この試みに際して、私たちは単なる宗派の軋轢や、いさかいや、境目というものを超越することを約束し合いました。私がスウェーデンボルグ派といわれる、神秘主義的キリスト教を創始したともいわれておりますが、私はもはや一宗派にのみ属して、みずからの考えを広めるという考えはもう持ってはおりません。 すべての偉人たちや、高級霊たちや、光の天使たちが、神のしもべとしてそれぞれに活躍したという事実を知ってしまった今となっては、はや、一つのリーダーの考え方のみに依拠して自分を縛るということが、どれほど不毛であるか、それは私自身が十二分に知っていることでもあります。 私はこうした現状をかえりみて、この現代の日本で心霊ブームを起こし、そして霊界通信ブームを興すつもりですが、これにひじように知的な役割を与えたいと願っている者の一人です。 この新たな心霊ブームに無知と蒙昧と、あるいは前文明的なにおいを漂わすのではなく、この心霊ブームのなかに知性と教養と理性と、そしてきらめくばかりの感性を輝かせたいと、そう願っているのです。そうした願いをこめて、この本を書き綴ってゆきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/374.html
目次 1.出口王仁三郎の大降臨は、一回きりしかない 2.宗教の使命は、総じてこの世のお立て直し 3.宗教の使命の第一番目は、人間存在の意義の教え 4.宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を与えること 5.宗教の使命の第三番目は、生かし合う幸福感を与えること 6.宗教の使命の第四番目は、魂の過去、現在、未来を示す教え 7.イエスの教え、左の頬(ほお)も出せとはどんな意味か 8.右の頬を殴られてハッと感じる人間修行の各段階人 9.出口王仁三郎の心境は、上(じょう)の中(ちゅう)ぐらい 10.イエス様の心境は、馬鹿も徹底した 神 の姿 11.神仏は、すべてを許されている慈悲深いお方 12.お立て直しのときがきた 13.お立て直しの第一番目は、あの世があることを知らすこと 14.お立て直しの第二番目は、価値基準を教えること 15.お立て直しの第三番目は、ユートピア建設に身命を賭して努めること (1987年2月26日の霊示) 1.出口王仁三郎の大降臨は、一回きりしかない 出口です。まあ、いろいろと、言うてきたけれども、どうやらわしの本も、でき上がりじゃのう。第8章、今日は、「お立て直し」というところまで、どうやらこうやら、やっと、漕ぎつけてきた。 戦前、戦中、大本数で、一番わしがやりたかったことは何かと言えば、まあ、はっきり言えば、お立て直しじゃ。この世のお立て直し、これがわしの理想じゃった。まあ、そのために、大本ならぬ根本から、ごっそりやられてしもうた。そういう残念なことがあったわけじゃ。 まあ、じゃから、この世の勢力というのも、けっこう無視はできん。この世には、この世の、やはり法則もあれば、この世の人間の考えもあるし、この世の人間の妨害もあるし、また、協力もあるし、いろんなことがあるから、なかなか、あの世で思うたとおりにはいかん。わしも、地上に生まれる前には、このお立て直しということを中心に、やはり日本の大改革を、やろうと思って出て来たんじゃ。じゃけれども、大本の神様と天皇陛下の神様とは、どうも合わんかった。おかけでまあ、こういうふうな仕儀(しぎ)になったわけじゃ。まあ、それで今日は、このお立て直しの意味を話した上で、お前さん方へのアドバイスをいくつかして、そしてきれいさっぱり、あの世で成仏しようと思っとるんじゃ。 わしは、未練がましゅうないからのう。一冊しゃべったら、もう終わりじゃ。もう二度と、王仁三郎の声は聴こえんぞー。どんなに大本の信者とか、どんなに日本の熱心な読者が、王仁三郎さんもう一回出てくれ、なんて言ったって、わしゃあ、聴かんぞ。そう何回も出たんじゃあ、格が下がるからのう。王仁三郎は、後にも先にも一回きりじゃ。一回大降臨すれば、もう終わりじゃ。そういうことでのう、名残り惜しいけれども、もう出んぞー。出んと思うて、皆んな、しっかり聴かにゃあいかん。 2.宗教の使命は、総じてこの世のお立て直し まあ、宗教の使命というのは何かと言えばのう、結局、宗教というのは、この世ならざるものをこの世に持ってくるんだから、そういう意味では、まあ、この世のお立て直しということは、宗教ということ自体のなかに、もうすでにあるということじゃのう。宗教ということ自体のなかにあるんじゃ。お立て直しということはのう、すでにある。そこでじゃ、最初に、簡単に、まあ、大先生みたいに、大法螺(おおぼら)吹いては申しわけないけれども、宗教の使命ということで、いくつか話をしておこうと思うんじゃ。宗教の使命というものを、そうじゃのう、わしは、五つぐらいに大きく分けられるんじゃないかと思うとる。 3.宗教の使命の第一番目は、人間存在の意義の教え 宗教の使命の、一番目は何かと言うと、これはのう、まず人間に、自分たちの存在とは何かということを教える。こういう役割じゃのう。むずかしく言えば、哲学は哲学じゃ。ものごとの追究、探究をしないで、何となくその日暮ししとれる人間は、それでいい。太陽が、なぜ東から上がって、西に沈むか、全然気にならん人もおる。 何で昼と夜があるか、気にならんでも、一生は終われるんじゃ。こういやあ、笑ってしまう人もおるじゃろうが、日本のうちの半分以上は、そうじゃぞー。理科か何かで習った以外は、太陽がどうして昇るじゃの、昼と夜がどうしてあるんじゃの、何も考えんと過ごしとるのじゃ。 何で春夏秋冬があるか、何も考えとらん。何で星が瞬(またた)いておるのか、何で月があるのか、どうして海があるのか、山があるのか、谷があるのか、川があるのか、のう、樹木は緑なのか、なぜあれが緑なのか。茶色でのうて、葉っぱが緑なのか、まあ、いろいろあろう。なぜ海が青いのか、いろんな神秘がある。こうした人間の身の回りのことを、不思議に思う目を持っとるのなら、そもそも人間とは何じゃということにさえ、やはり目がいかんようじゃ、困るわけじゃ。 まあしかし、学校の先生でも今、人間とは何じゃと、教えられる人はおらんのじゃ。のう、これが問題なわけじゃ。教えられる人がおらん、大学の先生でも、教えられん。ああ、人間は考えられる動物じゃ、と言ったところで、そんなものでは、定義になっておらんのじゃ。動物は考えておるか、どうなのかは、わからんもんのう。動物に聞いてみにぁ、聞いてみても返事が戻ってこん。ワンワンとか、キャンキャンとか言いよるから、結局、わからんわけじゃ。お前、考えとるかちゅうても、ワンワンとか、モウモウとか言うとるから、わからんわけじゃ。 そういうことで、動物が考えているかどうかは、わからん。じゃあ、人間は人間として、自分は一体何者じゃということを考えにゃいかん。つまり、人間存在についての、まあ、追究じゃのう。これをやらざるを得ん。この解答を与えてくれるのが、ひとつは宗教じゃ。じゃが、宗教のなかには摩訶(まか)不思議なものが多うて、なかなかすんなりとはいかん。学問のように答えてくれん。学問のほうでは、何万何十万年前に直立猿人が出たじゃの、何じゃのかんじゃの言うてのう、原人じゃの言うて、人間がおったじゃとか言うて、骨を発掘したりして調べておるけれども、まあ、宗教のほうでは、未だに、わからんのじゃ。 たとえば、キリスト教が、二千年前から、進歩しておるかどうかじゃ。これは、進歩しておると言える人はおらんじゃろう、おそらく。やはり、イエスの時代が最高であって、あとは下がってきたんではないのか。下ってきて、何度も何度も、垢(あか)落としをしたり、立て直しをしたりしたのが、キリスト教じゃないかのう。今のクリスチャンで、「私は、イエス様のことを説いとります」と言える人がおるかおらんかじゃ。学問の世界で、二千年も経ったら、こんなことはあり得んこっちゃのう。今、十年経ったら、十年前の学者の説など、もう一笑(いっしょう)に付せられとる。 ところが、宗教の世界では、そうはいかん。二千年前の人、偉い人は偉い人であって、イエスがどう思ったかということを、未だに連綿と、皆んなが研究しとるわけじゃ。 まあ、ブッダでも、そうじゃのう。二千五、六百年前の、ブッダの思想、これより高い思想を、今の仏教家が持っておるかどうかじゃ。お寺の坊さんに、マイクつきつけて、聞いてみい。どうじゃ、お前はお釈迦様よりも悟っておるか。お釈迦様以上の説法ができるか。してみい、と言うたら、まあ、百人が九十九・九人、逃げ出すわ。そりゃ、無理だと言う。まあ、仏教は二千五百年進んどらんのじゃ、結局。堕落していっては、まあ、その垢落としばかりをしておるというのが、筋(すじ)じゃのう。 こうして見ると、人間とは何かという存在を、宗教は教えるわけじゃけれども、この宗教の難点というのは、こういうふうに時代が進んだからといって、進まんということじゃ。時代とは別々に、それぞれの、高いところがあってのう。偉い人が出たら、それが頂になって、それから下ってくるというのが宗教じゃ。そして、宗教のなかでも偉人というのは、ほんと、何百年、何千年経っても、そそり立っておるのじゃのう。 鎌倉時代には日蓮おり、親鸞おり、道元おり、栄西おり、ということじゃったけれども、それ以後に、そうした先生方以上の人が出とるかっちゅうと、疑問なわけじゃ。まあ、こうして見ると、宗教家というのは、どれも一代限りじゃということが、ようわかる。一代限りで、ボーンと突き出て、あと、下ってくる。下ってきたときに、また、ボーンと出る。そういうこっちゃのう。 まあ、○○学会も何千万と人がおる。けれども、それは、その信徒の数は、日蓮さんが教えたときよりは多かろうが、じゃあ、○○学会の指導者が日蓮さん以上かと言えば、まあ、そういうことはないじゃろうし、はた目にも、そう認めんじゃろうし、自分たちでも認めんじゃろう。自分たちでも、日蓮さん以上に教えられるとは思うとらんじゃろう。やはり先生以上には、ゆけんのじゃ。八百年経っても、ゆけんのじゃ。ゆけんもんはゆけんのじゃ。まあ、こうしたもんじゃ。 じゃから、宗教とは、人間の本質とかのう、存在論について教えてくれるもんじゃけれども、そういう師以上のことを知ることができんという欠陥があるんじゃ。まあ、そういうことで、偉大な、何と言うかのう、指導者が生まれたときに生まれ合わした人は、幸せじゃ。じゃが、時代を、これひとつ逃がすと、そういう人にはもう会えん。これは悲しいことじゃのう。まあ、仏教徒が何回生まれ変わってきたところで、釈尊がおるとき以外に出たんでは、結局、それ以上のことは聴けんわけじゃ。 今の坊さんで、釈迦以上のことを言える人はひとりもおらんじゃろう。まあ、間違いない。今のクリスチャンで、イエス様以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。今のマホメット教徒で、マホメッ卜以上のことを言える人もひとりもおらんじゃろう。これも、間違いない。まあ、こういうことで、宗教ということを教えるものじゃけれども、まあ、限界として、不確かさがあるし、時代的制約がある。そうした偉人が出て来たとき以外にはわからんという、制約があるちゅうことじゃのう。 4.宗教の使命の第二番目は、新たな世界観を与えること まあ、今のこととも関連するけれども、宗教の使命の第二番目というものは、新たな世界観を人間たちに与えるということじゃ。新たな世界観というのは何かと言うとのう、先程、人間の本質ということを言うたけれども、これは、わしらが住んでおる世界の様相じゃのう。これをどうやって伝えるかっちゅうことじゃ。まあ、そうじゃのう、ちょうどこの世におる人間が、あの世の世界のことを教えるちゅうのは、まあ、池に映った雲を指してのう、あれが雲じゃ、あれが空じゃ、と言うとるのと一緒なんじゃ。これだけむずかしいんじゃ。 ほんとうに雲じゃの、空じゃのを見える人がおれば、あれが空じゃ、雲じゃと思うんじゃが、まあ比喩(ひゆ)的に言えばのう、この世の人間というのは、空を見上げることはできんのじゃ。空っちゅうのは、天国じゃのう。天上界と言うてもええ、これを見ることはできんのじゃ。みな俯(うつむ)いとるんじゃのう、まあいねば、地面しか見とらん。ちゅうことは、物質ということしか見ておらん、ちゅうことじゃ。そして、下しか見えんということになる。 そのなかに、上を見れる人がひとりぐらい、おるんじゃのう、宗教家には。そして、空とか雲とかを知っとるわけじゃ。それで、地上人に、お前たちは土ばかり見ておるが、ほんとうは上のほうには空とか雲とかがあるんじゃと、教えとるんじゃが、まあ、聴いた人はわからんわけじゃのう、下しか見えんのじゃ。だから、そんなもの信じられんと言うとる。 それでは、わしについて来いと言うんで、とことこついて行って、行けば、池か何かに連れて来てのう、これ見てみろと、下の池見たら、水面に、雲じゃの、空じゃのが映っとるわけじゃ。あれが雲じゃ、あれが空じゃというわけじゃけれども、まあ、それを見て、ああなるほど、これは他の面が反射しとるのじゃから、上にこんなもんもあるに違いないと、認める人もおる。こういう人も、何十パーセントかおる。しかし、そんなものは、まやかしじゃ、と。あれは、水中に何かしかけがあって、あんなもの幻燈(げんとう)みたいに映しとるに違いないと、まあ、こう言うてるものもおるんじゃ。こういうむずかしさじゃのう。 池の面を見せながら、あの世を語っているようなもんじゃ、こういうむずかしさがある。これは、大指導霊が出ても、皆一緒じゃ。それを見せるわけにはいかんのじゃ。どうしてものう。じゃから、まあ、できるだけ正しい世界観、とまで言えんから、この世ならざる世界観を教えることじゃのう。そして、他を指して、これが雲じゃ、空じゃと、教えるのが宗教家の使命じゃ。ただ、全容を確信させることは、なかなかできん。 5.宗教の使命の第三番目は、生かし合う幸福感を与えること 宗教の使命の三番目はのう、人間を幸せにするこっちゃ。まあ、皆んな、小学校や、あるいは、中学校から、いろんなことを教わっておるんじゃが、今日では、すたれてしもうたけれども、道徳というのがあってのう。友だちとは仲ようせねばいかん。友情が大事じゃ。親子の愛情が大事じゃ。そういうことを、いろいろ教わる。あるいは、親切ということはよいことじゃ、奉仕ということはええことじゃ、と教わる。じゃが、こうしたことはのう、なかなか教わらんとわからんのじゃ。 人間、やはり放し飼いにしとるとのう、野蛮人みたいになってしまうんじゃ。そりゃのう、ジャングルか何かに育ったら、わからんぞ。まあ、ジャングルか何かに育ってのう、二十年経って、そこへ探検隊の人でも出て来てみろ。そりゃ、人間を見たら、化けものじゃと思うて逃げるか、害を加えるか、どっちかじゃ。愛し合うということは、まずわからん。恐怖心しかない。恐怖心と、自分を守るということじゃのう。したがって、何も教育せんと放っとけば、要するに、人間というのは、自分を守るという気持ちと他に対する恐怖心、これを持って生きるようになってしまうのじゃ。 今、お前さん方、道を歩いておっても、恐怖心は感じんじゃろう。まあ、車がくれば恐怖心を感じるが、まあ、通常、道を歩いておって、何かをされることはないわけじゃ。ところが、本能のままに人間がのう、勝手勝手に生きておったら、たとえば、買いものひとつできんのじゃ。買いものして、肉でもネギでもええが、それを買いものかごに入れて下げとるのを通りがかった人が見て、こんないいものがあると思えば、サァーっと持って行くのじゃ。 そりゃあ、当然じゃ。これは教わっておらんからじゃ。盗んだらいかんということを教われば、それはいかんと思うけれども、知らんかったら、肉がほしいと思えば、それを取って逃げる。卵がほしいと思えば、取って食べる。当然のこっちゃのう。で、憎い人間がおれば、殺してしまう。まあ、憎けりゃ殺すのは当然と思うておるのう、こういうところがあるわけじゃのう。 じゃから、まあ、道徳じゃとか、いろんな学問じゃとか、まあ、家庭教育じゃとか、いろいろ、あるけれども、そうしたものは、人間を何と言うかのう、助け合う存在として、生かしめようとする。この根源は何かと言うと、結局、宗教にあるわけじゃのう。宗教ちゅうのは何かちゅうと、要するに、神仏、まあ、神仏と言っちゃあ、あれじゃけれども、神仏に近い、高級霊から受けた、啓示じゃのう。 こういうのを元に、いろんなものがつくられたわけじゃのう、教えが。じゃから、わしの本を読む読者も、まあ、同時代じゃから、王仁三郎がしゃべっておるわと思うて、のほほんと生きて、読み飛ばしとるじゃろうが、これが五百年、千年経てば、王仁三郎の霊示集などというと、これは大変なことじゃ。本に赤鉛筆の線を引くのさえ、畏(おそ)れ多いことじゃ。祟(たた)りがあるんじゃないかと思われるぐらいじゃのう。 そういうことで、五百年もすりゃあ、これが、皆に暗誦(あんしょう)されたりするんじゃろうとわしは思うんじゃ。同時代にはわからんじゃろうが、根源はやはり、あの世の霊たちなんじゃのう。じゃから、あの世のほうが、よくものごとがわかるから、それで教えるということじゃのう。そういうことで、宗教の、まあ三番目の使命ちゅうのは、そういうあの世の知識を元にして、この世の人間に、生きるべきすべをのう、人間としての正しい人生観、まあ、愛と慈悲と言うてもええ、助け合いと言うてもいい、まあ、そういう生き方を教える。これが三番目じゃ。 6.宗教の使命の第四番目は、魂の過去、現在、未来を示す教え 四番目に、宗教の使命というのをあげるとするなら、まあ、一番目の人間とは何かということにも関係するんじゃけれど、人間は何かと言うんで、まあ、神仏の子と言うてもええ。人間が永遠の転生輪廻をやっとる、生きものじゃと思ってもいいし、まあ、そういう定義がいろいろあるのう。じゃが、四番目で、宗教の使命と言うと、そうじゃのう、まあ、これは一番目とも非常に関係しとるんじゃけれども、魂の事実、歴史についての解明じゃのう。 一番目のが、人間が霊的存在だということに気がつくことだと言えば、四番目ちゅうのは、霊的存在ちゅうことで、止まらずにのう、魂ちゅうのは一体どんな性質を持っていて、どんなふうに生きてきとるのか、そして、どういうふうに今後いくのか、まあ、こういう魂の行方じゃのう。来し方、行く末、性質、まあ、そういうことじゃ。あるいは、これを魂と言わずに、心と言うてもええ、もっと一般的に。人間の心についての、神秘を語るのが、宗教であろう。 まあ、そんなことは宗教でやらないでも、心理学でやるじゃろう、と言う人もおるじゃろう。じゃが、心理学では、やはりわかっておらん。心理学は、まあ、いろんなのがあるわのう、モルモット相手に、条件反射ばっかり調べておる心理学もあれば、あるいは、犯罪人ばっかり相手に、犯罪心理学やっているような者もおる。じゃが、心理学の一番いかんのは、要するに、まともな人間相手の心理学がないこっちゃのう。異常心理学ばかりやっとるわけじゃ。気狂いさんじゃの、変な、何ちゅうかのう、犯罪人じゃの、そんな心理学ばかりやっとる。 あとは動物じゃのう。動物の心理ばかりやっとる。モルモットはメスのモルモットのところに近寄るのと、餌を食べるのと、どっちが好きかとのう。こんなことを、一生懸命調べとるんじゃ。そして、やっぱり餌のほうが好きらしい、と思うとるのかのう。こんなことを調べたりして、だから、人間もそうなんじゃろうとか、こういうことをやっとる。 まあ、これはちょっと方法が違うんじゃのう。結論に基づいて、何ちゅうかのう、ものごとを考えるとんじゃ。そういう動物、モルモットじゃの、人間じゃの、これは、結果なんじゃのう、想像の結果なんじゃ。結果に基づいて、あれこれ言うとるけれども、結果を見たんじゃ、いかんのじゃ。原因を見にゃあ、いかんのじゃ。どういうふうにつくられたのかが、そもそも問題なわけじゃのう。じゃから、心理学で、ほんとうの意味での心はわからん。 霊の世界がないと言っているうちは、まあ、こういうのは、偽者じゃのう。こういう心理学者は、そうじゃのう、皆んなに詫びてもらわにゃいかんのう。お金もらっちゃあ、いかんわ。さらに言えば、その、心の秘密じゃのう。これをいろいろと説き明かしていかにゃあいかん。心ちゅうのは、ひとつには、善悪の問題があるけれどものう、善悪の思い、善の思いと悪の思い、というのが心の面、魂の面で、一体どういう役割をはたしておるかじゃ。この傾き、これを学ばにゃあいかん。じゃ、悪いことを思えば、それがどうなるのかちゅうことじゃ。いいこと思えば、どうなるのか、これを勉強させるのが宗教じゃのう。これは地上の学問では、まあ、ちょっと無理じゃ。 7.イエスの教え、左の頬(ほお)も出せとはどんな意味か これはのう、地上の学問ちゅうのは、まあ、言うてみりゃあ、イエス様が言うとる、右の頬っぺた殴られたら左の頬っぺたを出せなんて言われたら、ナンセンス、まあ、こうじゃのう。上着取られたら、下着も差し出せ、なぞと言うとるのも、こんなの見たら、まあ、法律学者が見れば、こんなのナンセンスじゃろう。こんなんでは、犯罪人が増える一方で、全然取り締りができん。やはり、上着を取られたら、早う取り返さなきゃいかん。取り返せなかったら、賠償(ばいしょう)を請求せねばいかん。これがほんとうのあり方で、下着まで与えるなど、そんな馬鹿なことあり得ないと、まあ、こういうことじゃのう。 そういうことで、イエスの姿は、慈悲魔としてしか映らんじゃろう。ところが、イエスは、心の世界を知っとったわけじゃのう。心の世界を知っとったわけじゃ。心の世界というのを知ってしまうと、彼が言うとる意味がようわかるんじゃ。たとえば、右の頬っぺた殴られたから、じゃあ、相手の右の頬っぺた殴り返したら、これはどうなるかじゃのう。この世的には、五分五分じゃ。殴られたから殴り返したんで、まあ、帳消しじゃのう。これで気がすんだから、まあ、これで止めようじゃないか、と。しかし、あとで殴られた人が痛いぐらいじゃとのう。前に殴られた人が、もう痛みがやわらいでおるけれども、あとで殴られた人が痛かったと、まあ、こういう不平不満はあるかも知らん。じゃが、この世的には、右を殴られたら、右を殴り返しゃ、終わりじゃ。 8.右の頬を殴られてハッと感じる人間修行の各段階人 じゃが、心の世界では、そうはいかん。右の頬っぺたを殴られても、要するに、いろいろ段階があるわけじゃのう。その殴られたあと、カーッときて殴り返す。まあ、これは最低じゃのう。これは動物と一緒じゃ。 あるいは、殴られたら泣き出す、まあ、こういうのもあるわのう。あるいは、殴られたら逃げ出す、というのがあるじゃろう。まあ、この辺は、ほとんど動物と一緒じゃのう。変わらぬ、全然。あえて人間として生まれただけの、価値がないちゅうわけじゃ。殴られたら殴り返す、殴られたら泣く、殴られたら逃げる。まあ、これでは、人間として、心の修行をしとる意味がないちゅうわけじゃ、全然のう。 じゃあ、どの辺が修行かと言うとのう、殴られてカーッと腹が立つけれど、まあ、一生懸命自制するちゅうタイプがある。まあこれは、今の三つよりは、ちょっとましじゃ。殴られたけど、自制する。ジェントルマンがそうじゃのう。ステッキついて、金ぶちのメガネかけて、シルクハットだか何だか知らんのをかぶって、エンビ服着て歩いとるとき、殴られたからといって殴り返しとったら、そりゃあ、暴力団みたいになる。じゃから、紳士は、頬っぺたが赤くなっても、ジィーっとがまんして、この野郎と思いながら、今にみてろ、警察を呼んでやる、なんてね、まあ、思うくらいじゃろう。こういうグーッとがまんするという段階は、まあ、前の三つよりはちょっとましじゃけれども、まだ、今ひとつじゃのう。 次の段階は何かちゅうと、殴られて、それで、それに対して、何ちゅうかのう、自分を守るか、相手を害するかというんじゃなくて、相手を見る人じゃの、次は。なぜこの人はわしを殴ったんじゃろうか、とこう見る人が次におるんじゃ。そして、いろいろ考えてみると、確かにこれは、わしが眼付(がんつ)けしたのが悪かったんかも知らん、確かに、あいつの眼線(めせん)を切ったかもわからん。やくざさんなら、そりゃ怒ったじゃろう。こりゃあ、失礼した。やくざにはやくざの世界の生き方がある。眼付けをしたのはわしの間違いじゃった、と。こういうようなことを考える人も、おる。 あるいは、相手はよっぽど腹の虫の居どころが悪かったに違いない。もしかしたら、朝めしを食うとらんかもわからん。あるいは、借金して、サラ金か何かにやられて、もう頭がいっぱいなのかもわからん。あるいは、家族のなかに自殺者が出て、夜寝とらんのかも知らん。ムシャクシャしとるんかもわからん。あるいは、新品の服着とったけれども、曲がり角で車に泥んこを跳ねられて、頭にきとるんかもわからん。まあ、相手の人にもいろいろ事情があるやろう。よっぽど虫の居どころが悪かったのかも知らん、と。 まあ、こういうふうに自分の内を見、相手の内を斟酌(しんしゃく)するという段階は、まあ、もうひとつ上じゃ。先程のちょっとがまんするというよりものう。腹立ったけどがまんするというより、もう一歩上じゃ。相手の内と自分の内を見る。まあ、ここまでくれば、そうだのう、中等より上じゃ。もう、中の上はきとるわ、人間として見てのう。 まあ、読者の皆さんも、同じことやられて、どう思うか、自分がどう反応するか、まあ、考えてみることじゃ。殴り返すか、泣くか、逃げるか、怒るけど我慢するか。それとも、相手の立場を考えて、自分に非がないかどうか振り返るか。どれに値するかどうか、よう考えてみい。最後までくれば、まあ、中の上じゃと思うてもよい。上等とまではいかんが、中の上ぐらいじゃのう。松、竹、梅の竹ぐらいまではいっとるわけじゃ。じゃがまだ、これよりもっと上の人がおるのう。 まあ、今までの人は、そうじゃのう、最後の人は、心の段階が高こうて、相手を見るだけの余裕があるけれども、もっと大きな人が出てくるんじゃのう。つまり、そうじゃのう、愛の塊と言うてもいい。慈悲の塊とも言うてもよい。縁があって、人生の途上で、自分と出会う人を、何とかしてよくしてやりたいと、思うてる人じゃのう。こういう人がある。まあ、生来の教育家じゃのう。何とかして相手を向上させたいと思うておる人がある。まあ、こういう人なら、怒るでもなく、泣くでもなく、相手を、人につかみかかって殴るような人を、どうすればもっと立派な人にできるか、いろいろと斟酌(しんしゃく)するじゃろう。 そして、相手を見て、これは注意をしたほうがいいと思えば注意をするし、たしなめたほうがいいと思えばたしなめるし、黙っておいてやったほうがいいと思えば黙っておる。あるいは、場所を変えて話をする、というような人もおる。まあ、相手をよくしてやろうと思うタイプじゃのう。先程の、一日に何かあったかもわからんと思ったり、自分に非があったかもわからんと思ったりする人と、相手をもっと向上させようと思っとる人となると、まあ、これでまた、心の段階がちょっと違うんじゃのう。この辺までくると、まあ、そうじゃのう、上の下はきとるじゃろう。 9.出口王仁三郎の心境は、上(じょう)の中(ちゅう)ぐらい もっとすごいのがおるのじゃ。まあ、上の中ぐらいじゃのう。王仁三郎ぐらいか、まあ、王仁三郎じゃったらどうしたかじゃ。そもそも、わしが殴られるようなことはなかろうが、まあしかし、警官隊に殴られたわけじゃから、まあ、似たようなもんじゃのう。で、王仁三郎じゃったらどうかちゅうと、殴られてどうなるかちゅうと、まあ、大本が潰(つぶ)されとるわけじゃのう、ダイナマイト千五百本でぶっ飛ばされたわけじゃから、そりゃ、頬っぺた殴られるよりは痛いぞよ。ダイナマイトで、大本の本部全部、ぶっ飛ばされたんじゃから。これは、頬っぺた殴られるよりは、だいぶ痛かったぞ。わしも、監獄にもぶちこまれたからの、これは。頬っぺたよりも、よっぽど痛かったのう。 そこで、わしはどうしたかじゃのう。まあ、わしの場合だと、やはり真実は、真実、ほんものは曲げられん。この世的な結果は、神仏の御心(みこころ)のままにと、まあ、こういう心境じゃ。真実は真実、わしが間違っていなかったのは、間違っておらん。しかし、この世的には、いろいろあるじゃろ。この世的に、どう顕われるかは、神仏の御心のままじゃ。心乱されては、いかん。真実は真実。しかし、御心のままに、と。この程度の心境じゃろうのう。まあ、上の中ぐらいじゃのう。先程の教育家よりは、ちょっと上なわけじゃのう。 教育家はいっぱいおるのじゃ。町の教育委員なんかつかまえれば、まあ、間違いないわ。で、そのような殴り方をすれば、風紀を乱すなどと言うのがいっぱいおる。じゃが、もっと神仏を知った人間になると、それだけの判断はせぬ。まあ、ダイナマイトでぶっ飛ばされても、それを怨むでもなく、謗るでもなく、真実は真実じゃ、と。わしは、そう思う。じゃが、この世的に、それが、その真実がどう顕われるか。真実の顕われ方が、阻まれるか、それは、御心のままじゃ。これはやむを得ない、というのが、わしぐらいの考えじゃのう。 まあ、イエス様もわしも、そう変わらんと思うが、そうじゃのう、一般の常識人から言えば、わしよりは、ちょっとだけ偉いじゃろう、イエス様のほうがのう。じゃが、イエスじゃったらどうかちゅうことじゃのう。わしの場合は、ダイナマイト千五百本ぐらいで大本をぶっ飛ばされたが、まあ、あとは、悠々自適で余生を送ったわけじゃが、イエス様は、もっといったのう。十字架じゃ。 10.イエス様の心境は、馬鹿も徹底した "神" の姿 殴られるどころじゃないのう。殴られとるぞ、十字架の前に、十字架に架(か)けられる前には、殴られとるんじゃ。頬っぺたに唾をかけられとる。茨(いばら)の冠もかけられた。殴られた人がどうなったかと言うと、殴られた上に、さらに十字架につるされて、手に釘(くぎ)を打ち込まれて、わき腹を突きさされて死んだんじゃ。したがって、どうなったかと言うと、結局、右を殴られたら、それ以上のことをされたわけじゃのう。 イエスは、頬っぺた、右を殴られたら、左も差し出しなさいと言うたけれども、まあ、それが彼の人生じゃのう。頬っぺた、左どころじゃないのう。右の頬っぺた殴られた上、唾をかけられて、茨の冠を被(かぶ)されて、そして、罪人と一緒に引きずられて、十字架を負わされて、最後には、殺されてしまうちゅうんじゃから、ええこと、何もなしじゃ。もう徹底的じゃのう。上着も取られたら、下着も取られるちゅうことだが、そのとおりになっておるわけじゃな、下着どころではないわのう、命までも取られたわけじゃ。 じゃから、こう見ると、先程の法律家の嘲笑(あざわら)いじゃないが、右殴られたら左出すちゅう馬鹿かと言うけれども、もっと馬鹿なわけじゃのう。イエス様ちゅうのは、徹底的な馬鹿なわけじゃ。頬っぺた殴る人に、頬っぺただけで気がすむのか、のう、右も左も殴らしてやる、と。それでダメなら、足蹴りでもいいぞ。それで嫌なら、わしの生命をやろう。お前がそれはどこの世が辛(つら)いんなら、お前がそんなに迷うとるのなら、わしの体で、生命で、いいのなら、わしの生命をやろう、と。これはイエス様じゃのう。王仁三郎は、生命までやろうとは思わんかったのう。そこまではやっぱり思わんかった。 まあ、イエス様の考えは、そういうとこじゃ。じゃから、右殴られたら左までとは言わんけれども、もっとじゃのう、生命までじゃのう。で、自分は、要するに、神理を説いただけじゃ。神の心を説いただけで、何にも得とらん。すべてを出したわけじゃのう。まあ、自己犠牲の最たるもんじゃ。 まあ、普通はここまではいけんわ、のう。結局、頬っぺた殴られた人に、家ごと、財産ごと、全部やって、そのあと、自分の生命までやってしもうたわけじゃ、イエスちゅうのは。そこまでやったんじゃ。財産も、生命も、すべてやる。それで、お前たちは、目覚めなさいちゅうことじゃ。まあ、神様の独(ひと)り子かどうかは、わしは知らんが、それほど偉い人が出て来て、自らの生命を捨ててまで、気づかそうとしたわけじゃのう。 まあ、そこまでやらなければ、人類は自分らの罪深さを気づかんちゅうことじゃ。イエス様が、頬っぺた殴られたぐらいで、要するに、槍を振り回してのう、周りの人を五、六人殺して、それで最後、戦の末に斬り伏せられて死んだちゅうなら、のう、わかるぞ。じゃが、そうじゃなかったわけじゃ。徹底的に全部奪われたわけじゃ。そして、奪われたなかに、すべてを与えたわけじゃのう。すべてを与えて、目覚めの機会を与えようとした。 まあ、これなどは、先程の教育家どころじゃないわのう、もっとすごいわ。要するに、自分というのが、もうないわけしゃ。まあ、上の下の教育家ぐらいだと、まだ自分があるのう、自分は教育者としての立場があるから、人を指導せにゃいかんと思うとる。王仁二郎じゃ、行雲流水(こううんりゅうすい)で、まあ、余生を悠々自適、やるだけのことはやったと思うていくのが、わしじゃ。イエス様は、ダイナマイトで、神殿ふっ飛ばされただけでなくて、肉体までふっ飛ばされるところまでいかんかったら、要するに、愛と慈悲の活動を止(や)めん人じゃ。そこまで行く人もおる。 じゃが、これは普通の人は真似しちゃあいかんぞ、こんなころへは行けんのじゃから普通はのう。まあ、こういうふうに、人間の心ちゅうものを、ひとつ取っても、やっぱりいろんな状態もあるし、まあ、仕組み、作用、段階、いっぱいあるわけじゃ。これは、やはり、偉大な人が出て来んと、なかなかわからんのじゃ。まあ、そのままの人間に聞きゃあのう、十人に聞けば、九人以上は右の頬を殴られたら、左の頬を殴られたいと思う人は、絶対におらん。上着取られて、下衣というかのう。下着まで取られていいと思う人おらんじゃろう。 11.神仏は、すべてを許されている慈悲深いお方 まあじゃが、そういうことを教えることによって、神の世界というものを、感ずる人はおるんじゃ。イエス様の話をしたけれども、神様ちゅうのかのう、神仏ちゅうのは、ちょうど、一緒なんじゃ。神仏ちゅうのはのう、右傾を打たれるときには、左の頬を、先に出しとるばっかりじゃ。わかるかのう、人間は神の子じゃ。神が創って、幸せにしようと思って創った者同士が、戦争してみたりのう、犯罪をしたり、他の宗教を迫害したりしとるわけじゃ。同じ神様が創った宗教じゃのに、他の宗教家を迫害したりしとる、こんなのはもう、結局、神様自身が汚されておるのと一緒じゃ。自分が創ったもんで、自分が汚されておるんじゃ。ちゅうことは、どういうことかと言うとのう、神様という人は、よっぽどお人好しなんじゃ。これは間違いない。 お人好しでなけりゃ、そういうのを許せんと思うのう。間違った宗教家じゃの、軍人じゃのいうのは、神様が、もう潰(つぶ)してしまえばええんじゃ。すりこぎみたいのでゴシゴシとやって、潰してしまえば終わりなんじゃ。しかし、潰さんじゃろう。何で潰さんかじゃ。なすがままにされるということじゃのう。これは、イエス様の考えと一緒じゃ、右の頬っぺた出されても、祇抗しちゃあいかん。悪に抗するなかれ、左の頬っぺたも出す。 イエス様の態度ちゅうのは、神様と一緒なわけじゃ。神様は、この世の中を見ればのう、そのまま見ればのう、もうこれは閉じてしまいたいと思うぞ。わしは、地球なんか風呂敷か何かで、くるっと、くるんでのう、宇宙のどっかゴミ捨て場か何かでのう、ポッと捨てると一番ええと思うぞ、わしが神様じゃったら、そうするのう。こんなうっとおしい人間が五十億もおって、ろくな人間はおらん。まあ、心ある人はもうちょっとだけじゃ。わしの話を聴いたり、わしの本を読む人だけじゃ。心ある人はのう。あとは、皆んなおかしいのばっかりじゃ。こんなのもう、地球丸ごと、風呂敷に包んで、どっかブラックホールでも何でもええが、ポンと捨てちゃえばいい。まあ、捨ててやりたいのう、そんな気持ちになる。 しかし、それを神様は、されん。だから、どれだけ、要するに、神様がお人好しかじゃのう。お人好しちゅうんじゃなくて、まあ、はっきり言えば、慈悲深いわけじゃ。それだけのう。それだけの慈悲じゃ。まあ、大仏さんの慈悲どころじゃない。もっと大きいんじゃ。まあ、そういうことじゃ。そういういろいろな話をしてきた。宗教の使命ということでのう。