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幻想物語 動画リンク コメント 幻想物語 何人目の幻想入りか 作者 ひとこと 主人公 動画リンク 新作 nicovideoエラー ( 正しい動画URLを入力してください. ) 一話 コメント・レビュー 名前 コメント すべてのコメントを見る ※この作品のレビューを募集しています。レビューについては、こちらをご覧下さい。
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遊佐「あの、流石にご飯は迷惑なんで帰ります」 父「そう遠慮するな」 爺「何を言っとるか大地! こんな小童に食わせる飯はねぇ!」 父「親父ィ。晶子の友達をそんなに邪険に扱っちゃ晶子が悲しむぞ」 ちなみにじいさんの名前は雷太で父の名前は大地らしい。 遊佐「あ、あの本当に帰りますから……」 雷太「ほら見てみ。本人もそう言っとるんじゃから」 大地「ふむ、それなら仕方が無いな。まあいつでも来なさい!」 背中をバンバン叩かれてよろめいてしまう。 おれは神契さんについていって玄関まで行く。 神契「ごめんね、お父さんがむちゃくちゃ言って」 遊佐「いや、誘われただけでもうれしいよ。初対面でここまでされるとは流石に思わないしね」 神契「あう、やっぱりうちの家族は変なのかなぁ」 遊佐「まぁ、変わって無いとは言えないけど、俺は素敵な家族だと思うよ」 全員が神契さんのことを本気で思ってるのは俺にもわかる。 遊佐「何よりみんな暖かいしね」 そんな気持ちが少しでも伝わればいいと思ってそういう言い方をする。 神契「……そんな風に言われたの初めて」 遊佐「あ、ごめん」 神契「ううん、うれしかったの」 本当にうれしそうな顔を俺に向けてくれる。 遊佐「あ、そ、そっか。それはよかった」 俺はいそいそと靴を履く。 遊佐「それじゃ、また」 神契「うん。また明日ね」 遊佐「明日は休みだぞ」 神契「あ、あう……。それじゃあ月曜日……」 遊佐「おう」 俺は玄関を出て神契さんに見送られながら家路についた。 遊佐「しかし、あの家族は本当に変わってる……」 いや、いい意味で。 遊佐「うーん。今日は疲れたな。さっさと寝るか」 そしてベットへ。おやすみなさい。 7/8(日) 遊佐「む……」 目が覚めてしまった。 無意識で時間を調べる。 遊佐「……」 時間は俺にとってはありえない時刻を指していた。 遊佐「……日曜日、だし」 もう一回寝……よ。 …………。 暑い。すでに布団は投げ出している。 唯一汗を吸った服の首回りが冷たい。 遊佐「……眠れん」 クーラー……つけるのもったいないし。 眠れないなら、起きるかなぁ。 シャワーあびよっと。 いつもより冷たい水を浴びる。 遊佐「くー……」 一撃で目が覚める。 遊佐「はぁー」 そしてあったかい水に変える。 シャワーから出て、冷蔵庫へ。 遊佐「しまった」 買い置きを切らしてしまった。 ご飯も炊いてないし。 遊佐「あるのは牛乳のみか」 買いに行く……のか? 朝飯抜きくらい大丈夫だけど。 どうやら俺の腹は許してくれないらしい。 近くのパン屋へ行こう。 こんな時はやっぱりパンだ。 徒歩でもそんなにかからない。 …………。 いい匂いを感じながらの帰り道。 遊佐「~♪」 ??「わわわ、止まってぇ」 遊佐「ん?」 右から聞こえてくる声は、どこか聞き覚えが。 神契「わわわー」 遊佐「……」 ひょい。 フェンリル君の突撃をかわす。 遊佐「これは俺のだ」 パンの袋を持ち上げる。 神契「び、びっくりしました」 ようやく止まれたらしい。 遊佐「大丈夫か?」 犬を引っ張り、もとい犬に引っ張られてきた神契さんは肩で息をしていた。 遊佐「どれだけ引っ張られたんだ」 神契「それが、フェンリル君が急に……」 遊佐「だろうな」 俺に体を持ち上げくっついてくるフェンリル君でわかる。 遊佐「あー、わかった。やるから。半分だぞ」 観念してパンを半分ちぎる。 神契「あ、あの。ごめんなさい」 遊佐「いいのいいの。ほらよ」 フェンリル君にパンをやる。 神契「ありがとうございます」 突然の出会い。ここは一つ人としての礼儀を忘れてはいけない。 遊佐「おはよう、神契さん」 神契「あ、あの、おはようございます」 そこまで緊張することじゃないだろう。 遊佐「今日も散歩?」 神契「はい」 遊佐「カー君はおやすみ?」 神契「今日は来てますよー」 遊佐「……どこだ?」 神契「ここですよー」 神契さんがぐるっと回れ右。 遊佐「なるほど」 肩にしがみついて寝ていた。 いや、結局寝てるじゃん。 遊佐「寝てるようだけど?」 神契「あ、あはは」 振り落とされなくてよかったな……。 神契「また会いましたね」 遊佐「偶然だな」 神契「はいー」 遊佐「にしても、休日も朝から散歩か。昼からでもいいだろう?」 神契「いえ、癖でこの時間には目が覚めちゃうんです」 遊佐「あー、わかるわかる。いつもの時間には目が覚める」 二人で歩きだして、何気ない会話。 いつのまにか勝手に散歩について行ってる自分。 こっちに行くと帰るのには遠ざかるんだけど。 ま、いいか。 遊佐「ところで」 神契「どうしました?」 遊佐「首疲れない? カー君乗せっぱなしで。」 髪の毛に半分隠れたカー君が気になってしょうがない。 神契「ちょっとだけ。でも首がふわふわするのもいいんですよー」 遊佐「マフラー?」 神契「近いかも……」 遊佐「暑くない?」 神契「平気ですよ」 遊佐「そっか」 ……話題が尽きた。 何かしゃべること……。 神契「あのー?」 遊佐「ん? あ、どうした?」 神契「このまま行くと私の家に着いちゃいますけど……」 遊佐「おっと、ついつい話してて忘れてた」 ことにしてくれ。 遊佐「んじゃ俺は帰るわ。また明日なー」 神契「はいー。また明日」 【昼~夜までカット】 7/9(月) 遊佐「うーん」 またもや早く目が覚めてしまった。 1気合を入れておきる 2再び睡眠へ 遊佐「うぉぉおおおおりゃぁあぁあ!」 俺はなんとか気合を入れて起きた。 昨日みたいに神契さんに会えるかななんて思う。 遊佐「は! 俺は何を!」 おもいっきり冷たい水で顔を洗った。 遊佐「あー、やっぱりこの落ち着いた雰囲気と空気いいな」 俺は冷めきった空気を肌で感じながら歩いた。そして遠回りをしてみる。 遊佐「お?」 あっちからぽえぽえ歩いてくる姿と黒い犬が見えてきた。 遊佐「よ、神契さん」 神契「あ、遊佐君。おはようございます」 遊佐「うん、おはよう。フェンリル君も相変わらず一緒に散歩か」 神契「あはは、フェンリル君の散歩だから当たり前ですよー」 遊佐「そりゃそうだった」 フェンリル君を撫でてやる。 遊佐「カー君はまだ寝てるのかな?」 神契「カー君は多分まだ寝てますよー」 遊佐「俺も今日は気合を入れて起きてきた。んー」 背伸びをする。 遊佐「早く起きたら会えるかななんてちょっと思ったりして」 神契「え、え、ええぇ?」 びっくりして真っ赤になる神契さん。 遊佐「フェンリル君にね」 神契「あ、そうですよね」 遊佐「うそだよ。俺が会いたかったのは神契さんだよ」 神契「…………!」 何も言葉が出ない神契さん。ぼん! って音が聞こえそうなほど真っ赤になってる。 いや、俺もきっと真っ赤になってる。 遊佐「ほら、散歩行こうぜ」 照れ隠しに言う。 神契「は、はい」 そして2人の間にフェンリル君を挟んで言葉少なげに歩く。 なんとなく気まずい。 遊佐「そういえばさ、昨日ボロ君には会わなかったな」 神契「あ、ボロ君は暗い部屋によくいるんで、昨日の部屋にはあんまりこないんです」 遊佐「目は見えないのにな……。やっぱりそういう部屋が好きなんだな」 神契「そうみたいです」 そして神契さんの家に着く。 神契「それじゃあフェンリル君、行ってくるからね。家に入ってるんだよー?」 そうやってフェンリル君を送り出す。 遊佐「じゃ、学校行こうか」 よく考えたら、自動的に一緒に学校いくことになるんだよな。 神契「はい、行きましょう」 やはり朝が早いため学校にはほとんど人が居なかった。 遊佐「相変わらず、誰も居ないね」 神契「そうですね、朝部活に来てる人くらいでほとんどいませんね」 遊佐「そういえば、神契さんって何か部活入ってるの?」 神契「いえ、私は何も。遊佐君も何も入ってませんよね」 遊佐「あぁ、流石に転入してきてからこの間に部活に入るのもね」 神契「そうですよね」 そうして時間が過ぎていった。 遊佐「それじゃ、今日は校門でな」 神契「あ、はい。お願いします」 遊佐「いやいや」 俺は自分の席に戻った。 今日もやっぱり一日中目が覚めていた。 昼休憩になって中島がごはんを食べている時。 中島「どうなってるんだ?」 中島が尋ねる。 遊佐「あん? 何が?」 中島「お前が寝ないないなんてありえないね!」 遊佐「俺だって時々はマジメにやるさ。お前もがんばれよ」 中島「俺はいつもがんばってますけどねぇ」 遊佐「俺もよくわからんが、朝早く目を覚ますと不思議と眠くならないんだ」 まぁ、朝からな……。 そうした昼休みも過ぎて放課後になる。 遊佐「よし、ここは先に校門へ行って待ってよう」 俺はホームルームが終わるとすぐにカバンを持って出る。 遊佐「じゃあな中島」 中島「今日は帰るの早いな?」 遊佐「まあな」 俺は教室を出た。 遊佐「うーん。来ない。早く来すぎたかな」 校門を通っていく生徒たちの視線が気になる。あんまり教室と変わんないなこれ……。 神契「ごめんなさーい」 神契さんが走ってやってきた。 遊佐「お、来た来た」 神契「す、すいません。お掃除の当番になってたので····。教室で言おうとしたらもう遊佐君居なくって。本当にごめんなさい」 遊佐「む、そうだったか。そりゃ俺も悪かったな。よし、そんじゃ犬に会いに行こうか」 神契「はい、行きましょう」
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幻想茶屋 動画リンク コメント・レビュー 幻想茶屋 何人目の幻想入りか 作者 ひとこと 主人公 動画リンク 新作 nicovideoエラー ( 正しい動画URLを入力してください. ) 一話 コメント・レビュー 名前 コメント すべてのコメントを見る ※この作品のレビューを募集しています。レビューについては、こちらもご覧下さい。
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ヘソがペコペコ(臍がペコペコ)~イ・ナムギョの日本語源流散歩18(機械翻訳) 古代渡来人らが日本に渡っていったことは紀元前からのことだった。それですでに先住民らの言語が確立された後に入った話らはその意味が変わったり,名士(名詞)が凍死(同社,動詞)で変形されたりもするのに,私たちのからだの各部分に対する名称もこういう変化に該当する。例をあげれば 耳 は日本語で 微々 (耳)という言葉が定着していたので キク (聞く)すなわち, 聞く という凍死(同社,動詞)に変わることになる。 同じように 口 とは 拘置 (口)があって 話す という意の イウ (言う)で, 鼻 とは 一つ (鼻)があって においをかぐ の 世帯 (嗅ぐ)で, 腹(船,梨) とは 五ナカ がいて お腹が空いた の ペコペコ (ペコペコ)で, からだ とは 行けという があって 太もも という意の 某々 に変わる。 刃物 という話も名士(名詞)が凍死(同社,動詞)に変わったことで, 妓楼 (切る)になって 切る という意だ。慶尚道(キョンサンド)放言に 二泊 という話があるのに,この言葉の意味は 上の,相談 という(のは)言葉で 二泊する ならば 相談する であるが,これが日本に渡っていって凍死(同社,動詞)の が和久 (曰く), 話す に変わる。 それで イワクツキノオンナ (いわく付きの女)といえば 言葉が付いて歩く女 を指し示して,これは何か良くない電力を持った女性を指し示す言葉で, 場所が変われば物も変わる 言葉が実感できる。 そして 坊や に日本語の愛称の 窓(ウィンドウ) (ちゃん)を加えて 坊や窓(ウィンドウ) ,すなわち子供という アカチャン (赤ちゃん)になって,赤ん坊を背負うの 漁夫見て という日本語では オウム部 (おんぶ)となる。 また子供が歩く姿を私たちは よちよち というのに,これを日本語では ヨチヨチ (よちよち)といって,歩き始める子供を私たちは ヨチヨチ歩き というのに日本は アンニョとチョ主(州,株)コロブワヘダヨ (あんにょはじょうずころぶはへたよ)という。この話のすなわち, 座れば良いだろう,ヨチヨチ歩きしてくれ なのに永い歳月を経る間に発音は似ているように残っているが,本来その意味は忘れられて 歩けば良くて倒れれば悪いです という全く違う意味になった。 そして赤ん坊をあやす時 インナインナ見て という イナイイナイバ (いないいないば)も興味ある伝来韓国語だ。古代渡来人らが大部分リーダーグループであったということは言語面でも知ることが出来るのに, ガキ大将,子供隊長 という意味の カキダイショウ (餓鬼大将)が一例だ。 カキ という(のは) 子供 で由来した話で,小学生程度の可愛い子供を指し示す私たちの故大魚なのに,この話には いたずらっ子 の活発さが隠れている。 [2009/05/06] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-18]ヘソがペコペコ(臍がペコペコ) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=19935 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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幻想に… 動画リンク コメント 幻想に… 何人目の幻想入りか 作者 ひとこと 主人公 動画リンク 一話 コメント・レビュー 名前 コメント すべてのコメントを見る ※この作品のレビューを募集しています。レビューについては、こちらをご覧下さい。
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お母さん港 イ消夏と (磯原)~イ・ナムギョの日本語源流散歩20(機械翻訳) 天気が良いときは釜山(プサン),太宗台(テジョンデ)公園で水平線遠くにとかすかに見える島があるのに,それが対馬島だ。直線距離ですればわずか50kmしかならなくて対馬から福岡までは150kmにもなる。 したがって対馬は日本からより我が国ではるかに近いところだ。ところでどうして日本土地か? 魏志東夷伝を見れば,「対馬は韓国で1千里余りの通り(距離)にあるのに,長さが400里余りで山が険しくて深い森が多くて,道路は獣が通うところのように狭くて家屋は100軒余り程度で,良い畑は一つもなくて狩猟をしながら自活している」で記録されている,ところで本当に行ってみると平たい土地という(のは)殆どなくて山勢が非常に険しくて海と触れ合った地域はほとんどみな絶壁のようになっていた。 対馬の静聴という「イソハラ・朝」(厳原町)も2次だとしかない自動車道路がすべてなので山村の小さい町内同じ印象を受けたが,ここが対馬逃走の宗氏の本拠があった所だ。‘ア,それでこちらの人々は食べることがないから海賊質をしたな 行ってみると理解できることも同じだ。 今でも対馬住民の大部分は漁業と林業で生計をたてていて,日本全体国民の所得水準よりも低い生活をしている。私が30余年前そちらに行った時案内員が言うことを,“昔にはきれいな秋夜明けに耳を傾ければ釜山(プサン)で鶏泣く声が聞こえた”とするのに,その話を信じられないがとにかくそれだけ近いという言葉だろう。 このように地理的に近くて見るから,こちらには韓国語らが原音そのままたくさん残っている。 例をあげれば,「チョコだけ」(チョコマン)という(のは)キーが小さい人をいって,「ノポ」(ノッポ)はキーが偉い人,「両班(ヤンバン)」(両班)はそのまま両班(ヤンバン),「パツル」(バチュル)は畑の草取りをするのを意味するのに,住民たちはこういう言葉をそのまま日常生活に混ぜて使っている。そして対馬を日本語では「ツシマ」(対馬)というのにこの話もやはり‘二石’という(のは)言葉が「二石→置かれますよ→ツシマ」に変わったものという。 古代に渡来人らが玄海灘の荒々しい波と戦ってこちらツシマの厳原港に無事に到着した時,お母さん懐の中のように水が穏やかなこの港がとても有難くて付けた名前が「お母さん」港であったのに,この指名に漢字を付けて「オム院」(厳原)になったし,これを日本語で読んで「イ消夏と」になったのだ。 そういえばこの港は本当に入り江がすっぽり包まれていて一年ずっと波が起こらないお母さんの中同じそのような安らかな港だ。 [2009/05/20] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-20]お母さん港 イ消夏と (磯原) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=22275 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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韓日の悪口文化、言葉で済ます韓国・刃物を使う日本~イ・ナムギョの日本語源流散歩32 日本ではののしったり争う声をなかなか聞くことができない。かなりのことをそのまま譲歩し、堪えて 他人と言い争うことを敬遠するためだ。そのためかは分からないが日本の悪口はその種類があまり に少ない。悪口だけを見れば、確かに日本は紳士淑女だけが生きている国らしい。 日本は「侍文化」のせいなのか、悪口といえばせいぜい、「バカ(パボ)なヤツ」という「バカヤロウ」、 「けもの」という「チクショウ(畜生)」、「こいつ」という「コノヤロウ」程度で、私たちの悪口文化とは量と質 のすべてで比較にならない。 多分この点は私たちの「ソンビ(士民)文化」、すなわち言葉文化の恩恵(?)かも知れない。ソンビは 刃物の代わりに言葉でみな片づけ、日本は言葉の代わりに刃物で片付けるから、誰かが韓国は「恨 (ハン)の文化」、日本は「怨(オン)の文化」といったが、これもまた韓日文化の特徴をよく表現してい るようだ。 余談だが、私が大阪韓国総領事館に勤めていた時、韓国から出張にきた血気盛んな人物が酒を飲 み過ぎたあげく日本語で「こいつら、みな殺しにしてやる」といったところ、あっという間に酒場のお客さ んらがみな消えた。後ほど分かったことだが、この人は空元気でした話なのに日本の人々はそれを本 当に恐れたためだった。実際に日本の人々は話より行動が先行し、私たちはただ話の大砲だけよく 撃つ。 それでは悪口は良いことであろうか、悪いことであろうか?私は日本のテレビ番組を見て、いつも疑 問に感じるのは「どうしてあのように毎日毎日、数十人を殺す内容を作るのだろうか」ということだった。 すべてのテレビ番組がすべて自殺、殺人、怨恨をテーマにしているのは恐らく日本の怨と何らかの相 関関係があるのではないだろうか?でなければ視聴者を意識した行き過ぎた競争が産んだ産物であ ろうか? 反対に我が国のテレビ番組は涙を流して寂しがる場面、胸がじーんとするその何かがなければ「唐辛 子が入っていないキムチ」のように気が抜けたように感じるだろう。愛して、悲しんで、懐かしがって、 切なくて、そしてハッピーエンドで終わる「冬のソナタ」のようなものだ! ところで人が生きているならば良いことばかりではない。憎いこともあり、胸が痛いことも多いが、そ れでもいくら憎くても殺しまでするのはちょっとひどいのではないか?いっそ思い切り悪口でも言って、 解いてしまう方がはるかに人間的でないだろうか?とにかくこの頃の世の中に最も力のある先生は何 といってもテレビのようだ。昔は「教育の3要素」といえば「家庭、学校、社会」だったが、現代は「学校、 テレビ、指導者の言動」ではないか? 「一匹の羊が率いる100匹のオオカミは、一匹のオオカミが率いる100匹の羊に敗れる」と言うナポレ オンの言葉を借りるまでもなく、現代社会において指導者の言動の波及効果は計り知れない。 慶一大総長・イ・ナムギョ ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩32]韓日の悪口文化.. http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=35794 yy=2009
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日本の「マツリ(祭)」の由来は「マッドゥドリ」~イ・ナムギョの日本語源流散歩22 人々は日本を「マツリ(祭)天国」とも言う。一年中日本のどこかでマツリが行われているからだ。こうい う「マツリ」は規模の大小を問わず地域の人々の心を一つにして、人生の楽しみを感じさせるうえで大 きく寄与する長所を持っている。こういう生活の楽しみを一ヶ所に集めて、人生の大きな幸福に編み 出そうとする日本人の人生の姿勢から来る「マツリ」。 怠惰になりがちな単調な毎日に変化をつけて、また人生に活力を呼び込んで村の団結を追求するに あたって、絶対に必要な「マツリ」の語源はどこからきたのだろうか? 古代には政治と祭事が同じ性質を持っていた。民を治めるということは、神に祈り、豊作になって飢え をなくし、また病気がはやく完治するように祈ること等で、これは政治をする人、すなわち天皇の最も 大きな役割だった。このため、政の漢字の意味は「祭=マツリ」を内包しており、祭と政を一緒に行う時 には必ず祭を先に書いて「祭政一致」とし、政よりも祭をさらに重視したことが分かる。したがってマツ リの起源は本来は神を楽しくさせるための一つの「祭祀儀式」であったが、これが順次変質して、人々 どうしで楽しむ祭りになったのだ。 後漢書「東夷伝」を見れば、満州一帯を支配した夫余族は毎年11月頃に各部族がみな一ヶ所に集ま って、天に祭祀を行って酒を飲んで歌う「迎鼓」という習俗があったという。「迎(ヨン)」は韓国語で「マ ッタ(合う・一致する)」」であり、「鼓(コ)」とは「プク(太鼓)」という言葉で、日本語では「ツツミ」で、日本 古代語の万葉仮名では太鼓を「トゥトゥミ」と記録している。「マッドゥドリダ(たたく)」の日本語は「タタ ク」で、これも「トゥドリギ→トゥドギ→タタク」に変わったものであり、この「トゥドリダ」の「トゥドリ」が変わ って「トゥトゥミ」になったのだ。「迎鼓」という漢字を韓国語にすれば「マッドゥドリ(合って差し上げる)」 になり、これが「マッドゥドリ→マッドゥリ→マツリ」に変形されたのだ。したがって日本のマツリに太鼓 は必需品だ。 また一つ、私たちの「マジ(迎)、マズリ(合う)」が変わった祭礼型マツリがある。これは祭りとは違って 神社で行う祭礼儀式の「マツリ」だ。昔、田舎で正月や小正月ならば小さな明かりを持って月の浮かぶ 小山に上がり、敬けんな気持ちで迎えた「月見」、田舎の若い女性の慎ましい美しさを感じさせる「春 の迎え」のような風習は私たちの古くなった美風良俗だ。 このような敬けんな意味が内包されている「マジ」は日本に行って祭りの「マツリ」ではなく、神社の「マ ツリ」、すなわち祭事の「マツリ」へと続いて、今日日本の神社でなされる厳粛な祭礼儀式になったのだ。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/column/20090602_151028000.jpg ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩22]マツリ(祭)の由来 http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=24848 yy=2009
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地名や姓氏から神の名に至るまで、古代韓国と縁がないものがない日本~イ・ナムギョの日本語源流散歩38 日本には古代渡来人らが使った言葉が地名として残っている場所もたくさんあるが、その中でも 代表的な場所が「オイソ(大磯)」だ。「オイソ(大磯)」は唐と新羅によって滅亡した高句麗の王族、ヤ ックグァン(若光)一行が日本に渡って初めて到着した場所で、神奈川県高座郡相模町にある小さ な浦の名前だ。 ここで「オイソ」というのは慶尚道(キョンサンド)方言で「いらっしゃいませ」という言葉であり、この 言葉は当時、この地方に伽揶や新羅からで渡来した人々がもう住んでいたとことを示し、彼らが新 たに渡って来た高句麗の若光一行を大歓迎したことに由来する。 オイソポ(大磯浦)をめぐる山の名前もコマサンすなわち高句麗山で、これも若光一行の到着を記 念して付けけられた地名という。この山には本来、高麗神社があったが、1897年に神社の名前を 高木神社に変えたという。そして前述の高座郡という知名も昔は高倉郡であったが、これも高句 麗人がたくさん住んだ場所に由来した言葉という。 「サガミ(相模)」という地名は当時の渡来人らが暮らした村を「サガ」と言ったことに起因し、ここか ら派生した言葉が今でもサガ(寒川)神社やサムカワ(寒川、寒河)などの地名に残っている。 福岡市の東側に「ワジロ(和白)」という地名があるが、これは新羅の和白(訳注:新羅の部落会議 に源をもつ全員一致の合議政体)からきた言葉で、古代に近隣の村長らがここに集まって、新羅 の「和白会議」と似た会議をしたことに由来したという。ここは中国から下賜されたという「倭之国 王」という金印が出たところでも有名だ。 そして日本の姓氏も韓国と関連したものが多いが、京都を初めて開いて日本の首都を奈良から 京都に遷都するのに最も功労が大きかった新羅渡来人「ハタ(秦)」氏は海を渡ってきたといい、海 (パダ)が「ハタ」に変わったもので、渡来伽揶人「アヤ(漢)」氏もやはりカヤ(伽揶)という言葉が転 じたものだ。 このハタ(秦)氏とアヤ(漢)氏は古代日本をリードした2大氏族で772年に書かれた「続日本記」の 奈良末期人口調査を見れば当時、奈良の中心地だったタケチ(高市)郡の人口の8、9割がアヤ (漢)氏とハタ(秦)氏となっている。これは当時、大和朝廷の首都である奈良の人口の大部分が渡 来人であったことを意味する。 また日本の最高神の「オオクニヌシノミコト(大国主命)」の元の名前は「オオアナヌシノミコト(大穴 主命)」で、ここで「アナ(穴)」は阿那国を言い、伽揶帝国の中の一つだ。 このように日本には地名や姓氏または神の名前に至るまで古代韓国と縁がないものがないほど、 深く関係している。 慶一大総長・イ・ナムギョ http //www.imaeil.com/news_img/2009/cul/20090922_150057000.jpg ソース:毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-38] オイソ(大磯) http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=41636 yy=2009
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種きた ~イ・ナムギョの日本語源流散歩10(機械翻訳) 紀元前4世紀頃,カヤ族によって米作が日本に伝来したという。狩猟でさまよってその日その日を生きていった土着民らにあって農作業で安定した住居生活ができるようになったことは人生の大変革だった。狩猟民族で農耕民族で,原始民族で文化民族での変わるこの時期を日本は弥生時代という。 米作で最も重要なのは 種 であるが,母国のカヤで種が到着した時 種きた という(のは)話の意味があまり大きくて,この言葉が 幸福 という意味の シアワセ (幸福)になった。 米 で 幸福 という単語を引き出したことだけ見ても,種もみを持って到来したカヤ族らを原住民らがどれくらい尊敬して尊敬したのか察してあまりあるに値する。 だから彼らを神(靴)と敬って神社(紳士)に迎えたことはもしかしたらあまりにも当然の処置ではないだろうか? 日本神社(紳士)の神々が皆到来韓国人であることはこういう歴史的な理由からだ。 私たちは日本の臣事すれば日帝強制支配期時の 神社参拝強要 という痛みのために拒否反応を起こすが,実はその神々が全部韓国人ということを分かれば少しは愉快でないだろうか? そのように見れば 懐かしがる,思慕する という意の 市(詩)ダウ (慕う)も 種甘いですよ という話で由来したというのに,これも簡単に理解できる。 そして 米 は古代韓国語で 肉 であるが,韓国語の 太る も 米 で由来したことで,日本語の 贅沢 (幸)すなわち, 幸福 という(のは)話もこの 米 から出た言葉だ。 種きた が持ってきた シアワセ (幸福), 種甘いですよ が作り出した 市(詩)ダウ (慕う)は現代を生きる欲張りな私たちに人生の幸福はそれほど高くないところにあるということを語っていることだけ同じだ。 とても忙しく東奔西走して自身を忘れて生きるあなただ! 簡素な衣食住だけ解決されることができるならばもう少し心の余裕を持って人生の幸福が何か一回ぐらい見て回って生きるということはどのようか? ヤマドリ音と渓谷の水声を聞いて流れる雲をとめどなく眺めるひまな余裕時間を設けるのも,時にはすばらしいことではないか? 愚かな者は遠いところで幸福を求めて幸せな人は足の下で幸福を育てる で誰か話したのではないか? [2009/03/11] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-10] 種きた http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=11000 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。