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唐書巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 吐蕃下 永泰(765-766)・大暦(766-779)年間に、吐蕃はふたたび使者を来させた。そこで戸部尚書の薛景仙が答礼に行った。宰相に詔を下して吐蕃の使者と会盟させたが、まもなく霊州(甘粛省霊台県)に入寇し、宜禄(陝西省長武県東南)を掠奪した。郭子儀は精兵三万を率いて涇陽を守ったが、敵は侵入して奉天にした。霊州の兵は蛮族二万を破り、首五百を挙げた。景仙は倫泣陵(ロンチリン)とともに帰り、鳳林関(甘粛省臨夏県西)国境とすることを請うた。そして路悉ら十五人がまた使者としてやってきた。大暦三年(768)、蛮族は衆十万を率いてまた霊州を攻め、邠州を略奪した。これよりさき、尚悉結(シャンギェルシグ)は宝応よりのちにしばしば辺境に入寇し功績が高かったので、辞職を願い、そして尚賛磨(シャンツェンワ)がこれに代って東面節度使となり、河西・隴右地帯を扱うことになっていた。邠寧節度使の馬璘、朔方軍の白元光は、ふたたびその衆を破り、馬・羊数千を鹵獲した。剣南の方もまた蛮族一万人を破った。尚悉摩なるものがまた来朝した。天子は、蛮族がたびたび塞に侵入するので、詔を下し、守備の施設をととのえさせ、当(四川省松潘県塁渓営西北)・悉(四川省松潘県西南)・柘(四川省恭州東一百里)・静(四川省松潘県西南)・恭(四川省茂県西北三百五十里)の五州を遷して、みな険要の地によって守らせた。 大暦八年(773)、蛮族の六万騎が霊州を侵し、人民の作物に損害を与え、進んで涇・邠に入寇した。渾瑊はこれと戦って勝たず、副将は死し、数千戸が略取された。城は、兵をととのえ、夜その営を涇原に襲い、馬璘は軍をもってこれを原(甘粛省平涼県東四十里)に攻撃した。そして豹皮を着た将を射殺したが敵は軍中悲しみ泣いて逃げ去った。馬璘は捕虜にされたわが方の兵士および男女を収容して帰還した。郭子儀はまたその衆十万を破った。 大暦九年(774)、帝は諫議大夫の呉損を遣わして和親を脩めさせ、蛮族もまた使者を送って入朝させた。いっぽう郭子儀を邠州に、李抱玉を高壁嶺(山西省霊石県東南二十五里)に、馬璘を原州に、李忠臣を涇州に、李忠誠を鳳翔に、臧希譲を渭北に屯させ、蛮族の侵入に備えた。明くる年(775)、西川節度使の崔寧は蛮族を西山に破った。蛮族は臨涇(甘粛省鎮原県)・隴州(陝西省隴県)を攻撃し、普潤(陝西省麟遊県西百二十里)に屯し、人や家畜を焚いたり掠奪したりした。そして李抱玉と義寧(甘粛省華亭県)に戦って敗れ、涇州を通過したが、馬璘はこれを追跡して百里(甘粛省霊台県東)に破った。また明くる年(776)、崔寧は、蛮族の故の洪州(四川省洪雅県)などの節度および氐・蛮・党項などの兵を破り、首一万を斬り、頭目千人を捕え、牛・羊・食糧・鎧などを非常に多量に得て、これを朝廷に献上した。吐蕃は目的を達することができなかったので、黎州(四川省清渓県)・雅州(四川省雅安県)に侵入し、掠奪した。そこで剣南の軍は南詔と合同し、ともに戦ってこれを破り、大籠官の論器然を捕虜にした。また坊州を犯し、党項の牧馬を掠奪した。崔寧は望漢城(四川省理番県東南)を攻撃してこれを破り、山南西道節度使の張献恭は岷州(甘粛省岷県)で戦い、吐蕃は逃走した。崔寧は西山の三路および邛南(邛は四川省越県)の兵を破り、首八千を斬った。大暦十三年(778)、蛮族の大頭目の馬重英は四万騎を率いて霊州に入寇し、塡漢・御史・尚書の三渠の水口を塞ぎ、屯田に損害を与えた。そして朔方留後の常謙光に追い払われたが、重英は塩州(寧夏省霊武県東南)・慶州(甘粛省慶陽県)を荒らして去った。それから南して南詔の衆二十万を合わせ、茂州を攻め、扶州(甘粛省文県西北百六十里)・文州(同じく文県)を掠奪し、ついに黎・雅の地方に侵入した。そのとき天子はすでに幽州の軍を出し、かけつけて防戦させたので、蛮族は大いに敗れ逃走した。 さきに蛮族の使者はたびたび来ていたがこれらを留めて帰さず、捕虜としたものはすべて江南地方に統率者をつけて送っていた。徳宗が即位して、まず内政では節度使たちを鎮め、年ごとに蛮族と対抗し、失ったものと得たものと相償うのを考えて、徳をもってかれらを懐柔しようと思った。そこで太常少卿の韋倫に節を持して使いとならせて、その捕虜五百人に綿衣を厚く給して帰らせ、辺境の官吏には厳しく勅して見張りの設備を守らせ、蛮族の土地を侵すことのないようにさせた。吐蕃は、捕虜の返還をはじめ聞いて信ぜず、使者が領城に入ってこれが事実なのを理解し、みな感激し畏敬した。 このとき乞立賛(チソンデツェン)が賛普となっていたが、その姓は戸盧提(オデ)氏である。かれは言った。「わたしには三つの恨みがある。天子(代宗)の喪を知らず、弔うことができなかったことが第一、山陵に供養のものを供えることができなかったことが第二、舅上の即位を知らず、兵を出して霊州を攻め、扶文に入り、灌口(四川省灌県西北二十六里にある山)を侵したことが第三である」と。そこで使者を出し、倫に従って入朝させた。帝はまた倫を遣わし、蜀の捕虜を帰らせた。蛮族は倫がふたたび来たのでひじょうに喜び、宿舎を与え、音楽を奏して慰めた。九日間留まったが、その帰りには論欽明思ら五十人を従わせ、方物を献上した。 明くる年(779)、殿中少監の崔漢衡が使いに行った。賛普はとつぜん言い出した。「わが方と唐とは舅甥の間からの国であるのに、詔書には臣礼をもってわが方をしめている」と。また、雲州の西山までを吐の境域とすることを願い、崔漢衡が天子に上奏することを求めた。そこで崔漢衡は入蛮使判官の常魯を遣わし、論悉諾邏(ロンタグラ)とともに入朝させ、賛普の言葉を述べさせた。論悉諾邏は景竜のときの詔書を引いて言った。「詔書は唐の使者が来れば、甥がまず盟し、吐蕃の使者が行けば、舅上がまた親ら盟するとあります。したがって賛普はその礼はもともと対等であると言っております」と。帝はこれを許し、「献」を「進」とし、「賜」を「寄」とし、「領取」を「領之」と訂正した。以前の宰相の楊炎が古い事実に通じなかったことをもって弁解し、同時に土地は賀蘭山までを約束した。その大相の尚悉結(シャンギェルシグ)は、人を殺すことを好み、剣南の敗戦の報復がまだできていないといって和識をすすめなかった。次相の尚結賛(シャンギェルツェン)は、智謀があり、辺境の人々を休養させることを固く願い、賛普はついに結賛を大相として和平を講ずることになった。 崔漢衡はその使の区頰賛(クゥギャツェン)とともに帰って国境で会盟することを約束した。崔漢衡を鴻臚卿に任じ、都官員外郎の樊沢を計会使とし、結賛と約束させ、かつ隴右節度使の張鎰を盟に加えることを告げた。樊沢は結賛と清水(甘粛省清水県)で会盟し、牛馬をもって犠牲とすることを約束した。張縊はその儀礼を卑いものとしようとし、結賛を欺いて言った。「唐は牛がなければ耕作することができず、吐蕃は馬がなければ戦うことはできない。牛馬ともにもったいないから犬・豚・羊を用いることを願いたい」と。結賛は承諾した。盟するときには地をはらい清めて壇をつくり、二国がおのおの二千の兵を壇垣外の窪地に列べ、従者は壇下に立つことを約束した。張鎰は幕僚の斉映・斉抗、鴻臚卿の崔漢衡、計会使の于衆・沢・魯とみな朝服を着た。結賛は論悉頰蔵(ロンギェサン)・論臧熱(ロンツェンシェル)・論利陀(ロンチデー)・論力徐(ロンチスゥ)とともに、相対して壇の上に登った。犠牲を壇の北側で殺し、その血を混ぜて会盟者にさし出した。そしてつぎのことを約束した。「唐の土地は、涇州の西は弾箏峡まで、隴州の西は清水まで、鳳州の西は同谷(成州の同谷県)まで、剣南では西山・大度水までである。吐蕃は蘭・渭・原・会に鎮守し、西は臨洮、東は成州まで、剣南の西では磨些(モソ)の諸蛮まで、大度水の西南は、大河(黄河の支流雅江)までである。北は新泉軍(会州の西北二百里)から大磧(タクラマカン砂漠)の南にいたり、賀蘭山の橐它嶺まで、その間では田を耕作しない。二国が棄てた守備の地は、兵を増すことなく、城堡を作ることもせず、辺境の田地を耕作することもしない」と。盟を終わって吐蕃は張縊に、壇の西南隅の仏を祀る帳幕に詣って誓いをすることを請うた。それから壇に上って大いに酒盃のやりとりを行ない、終わって帰還した。 帝は宰相・尚書に命じ、蛮族の使者とかさねて長安に会盟させた。清水の盟約ではその場所を決定することができなかったので、ふたたび崔漢衡を遣わし、賛普のところで決定し、盟の約束に成功したそこで宰相の李忠臣・盧𣏌・関播・崔寧、工部尚書の喬琳、御史大夫の于頎・太府卿の張献恭・司農卿の段秀実・少府監の李昌夔・京兆尹の王翃・金吾衛大将軍の渾瑊と区頰賛(クゥギャツェン)らを、首都の西郊で会盟させた。儀式次第は清水と同様であったが、二月前に太廟に告げ、祀りを行なった。三日目に関播は跪いて盟約の文書を読み、盟を終わって盛大な宴を開いて接待した。左僕射の李揆に詔を下し、入蕃会盟使と、区頰賛らを帰した。 朱泚の乱に、吐蕃は応援して賊を討伐することを願い、朝廷では左散騎常侍の于頎に詔を下し、節を持して慰撫させた。太常少卿の沈房は安西北廷宣慰使となって答礼に行った。渾瑊は論莽羅(ロンマンラ)の兵を用いて朱泚の将の韓旻を武亭川に破った。さきに蛮族は、長安を回復したならば、涇・霊など四州を与えることを約束した。ちょうど伝染病が流行し、蛮族は引き揚げていったが、朱泚の乱が平らぐと、先約によって土地を求めてきた。天子はその労苦はたいしたものでないとし、ただ詔書を賜わり、結賛と莽羅らに絹一万匹を贈った。これで蛮族は怨みを抱いたのである。 貞元二年(786)、倉部郎中の趙建に使いに行かせた。蛮族はすでに涇・隴・邠・寧を犯し、人畜を掠奪し、作物に損害を与えた。内地の州はみな城門を閉じ、敵の遊撃の兵は好畤(陝西省乾県東南四十里)まで来た。左金吾将軍の張献甫、神策の将の李昇曇らは咸陽に屯し、河中の渾瑊・華州の駱元光がこれを援助した。左監門将軍の康成を使いにやったが、尚結賛は上砦原に屯し、また論乞陀(ロンチデー)を使者としてよこし、盟を請わせた。鳳翔の李晟は部将の王佖を遣わし、鋭兵三千を率いて、夜、汧陽に入らせた。翌日その中軍に迫ったので蛮族は驚いて潰走し、結賛はやっとのことで脱れた。いっぽう蛮族の軍二万が鳳翔に侵入したので、李晟は撃ってこれを退け、摧沙堡を襲ってその蓄積した物資・馬糧を焼き払い、守備の兵を斬った。吐蕃は塩州・夏州を攻め、刺史の杜彦光、拓抜乾暉は守ることができず、その衆をぜんぶ率いて南方に逃げ、蛮族はついにその土地を取った。天子は、辺境の人々が敵手に殺傷せられたので、詔を下して正殿に出るのをやめ、みずからを責めた。また駱元光に詔を下して、塩州・夏州を経略させた。 貞元三年(787)、左庶子の崔澣・李銛に命じて、あいついで吐蕃に使いさせた。結賛は、塩州・夏州を獲得してみな兵をもってこれを守らせ、自分は鳴沙(寧夏省中衛県東南百五十里)に屯していたが、食糧を送ることにはたびたび苦しんでいた。そこで駱元光・韓游瓌は、国境の塞の側に屯し、馬燧は石州(山西省離石県)に屯し、黄河を挟んで互いに連絡させた。結賛は大いに恐れて、しばしば盟を請うたが、天子は許さなかった。そこで貴将の論頰熱(ロンギェルシェル)に、馬燧に対して厚く賄賂を送らせ、和平を乞うた。馬燧は心動かされて、みずから天子に謁見した。諸将は馬燧の入朝を見て、みな城壁を守って出戦せず、結賛はたちまちのうちに逃げ帰ることができた。馬は多く死に、兵士は歩くことができないで飢えた顔色をしていた。崔澣ははじめ鳴沙に行き、詔を伝えて、結賛が約束を破って塩州・夏州を陥れたのを責めた。結賛は答えて言った。「もともと武亭川の功績(朱泚を破った功)はまだ酬いられていないのでやってきた。また検べてみると、境界の石碑は仆れて風化しており、国境が明らかでなくなっている。ゆえに国境の上に行ったのである。涇州は城によって自衛し、鳳翔の李令(李晟)はわが使者を迎え入れなかった。康成らが来たことは来たが、みな詳しく語ることができなかった。わが方は大臣の来るのを望むと言ったが、ついに来るものがなかったので、わが方は引き返した。塩州・夏州を守備している将は、わが衆を恐れ、城をわが方に明け渡したのであり、わが方がむりに攻撃したのではない。もし天子がまた盟を許すならば、それは蛮族の願うところである。そのときは命ずるところに従い、塩州・夏州を唐に還すであろう」と。また言った。「清水の会盟には大臣が少なく、ゆえに約束は破られやすかった。こんどは宰相・元帥二十一人みな遣わして会盟することを願いたい」と。同時に言った。「雪塩節度使の杜希全、涇原節度使の李観は外蕃に信用されているので、会盟を司ることを願いたい」と。帝はまた崔澣をやって、特に答えさせて言った。「杜希全は霊州を守備して責任範囲が定まっており、境域を越えることはできない。李観はすでに他の官職にうつっているから、渾瑊を盟会使とし、五月に清水で会盟することを約束しよう。そしてまず二州を還してもらい、それで蛮族の信のほどを験そう」と。結賛は言った。「清水はめでたい土地ではない。原州の土梨樹で会盟することを願いたい。そうすれば二州を還そう」と。天子はこれに従った。 渾瑊は来朝して命を受け、崔漢衡は兵部尚書に任ぜられて渾瑊に副として付いた。渾瑊は兵二万を率いて期日を待ち、天子は駱元光に詔を下してこれを助けさせた。宰相は会盟の場所を論議したが、左神策の将の馬有鄰が建言した。「土梨樹は林が茂っており、岩が邪魔して、伏兵に欺されやすいところです。平涼は平らでまっすぐであり、この方がよいと思います。かつ涇州に近く、大事が起こっても支えることができましょう」と。そこで会盟を平涼で行なうことに定めた。渾瑊は結賛と、主客ひとしく兵三千を壇外におき、非公式の従者四百人が壇にぬかずき、游兵を互いのうちに巡邏させることを約束した。盟しようとするとき、結賛は精鋭の騎三万を西方に伏せさせ、巡邏の騎兵を放って渾瑊の軍に出入りさせた。渾瑊の将の梁奉貞もまた馬を走らせて蛮族の軍営に入った。吐蕃はひそかにこれを捕えたが、渾瑊はそのことを知らないでいた。客は渾瑊らに冠・剣をつけることを願ったので、みなは張幕に入って更衣し、ゆっくりと休息していた。たちまち蛮族は三たび太鼓を打ち、衆は喊声をあげて起ち上がった。渾瑊はどこへ出てよいかわからず、張幕のうしろに馬を見つけ、銜(はみ)をつけずに十里走り、ようやくそれをつけることができた。蛮族の追撃の矢は雨のごとく降りそそいだが、傷は受けず、駱元光の営に到着してようやく逃れることができた。部将の辛栄の兵数百は北の岡に拠り、蛮族と戦い、矢尽きて降服した。判官の韓弇と監軍の宋鳳朝は戦死した。崔漢衡と判官の鄭叔矩・路泌、掌書記の袁同直、列将の扶余準・馬寧・孟日華・李至言・楽演明・范澄・馬弇、中人の劉延邕・倶文珍・李朝清ら六十人はみな捕えられ、兵士の死するもの五百、捕虜となったもの千余人であった。崔漢衡は蛮族に言った。「私は崔尚書である。結賛は私と親しい。もし私を殺すならば、結賛もまたおまえを殺すだろう」と。これによって、殺されないですんだ。捕えられた人は、一本の木を背負い、縄で三ヵ所でこれに結わえられ、その髪を互いにつないで駆りたてられた。夜は地に枕を立て、それにつないで臥させ、上に毛織物をかけ、見張りのものはその上に寝た。はじめ結賛は杜希全・李観を掠取し、たちまちのうちに鋭兵を率いてただちに京師に赴こうとしたのであるが、うまくゆかなかった。また渾瑊らを捕え、虚を突いて入寇しようとしたが、その謀略はかれの本性そのものである。すでに引き揚げて故の原州にいたり、帳中に坐って崔漢衡らに会い、いいかげんなことを言った。「渾瑊が武功で戦えたのは、我が方の力によってである。地を割いて我が方にいることを許し、みずからその言に背いたことをした。私はすでに金の枷を作り、かならず渾瑊を捕えて賛普に見せようと思っていた。しかし、いまかれを捕えられなかったいたずらに公らをつれてきても得することはない。誰かを帰してやって報告させよう」と。さきに崔漢衡が乱に遇ったとき、従史の呂温は身をもって兵を防ぎ、そのため呂温は傷つき崔漢衡は免れた。蛮族はその義行に感嘆し、厚くこれに給与した。結賛は石門に屯し、倶文珍・馬寧・馬弇を唐に帰して、崔漢衡・鄭叔矩は河州に、辛栄は廓州に、扶余準は鄯州に囚禁した。帝はなお中人をやって詔書を持ち行かせ結賛に賜わったが、拒んで受け取らなかった。蛮族は塩州・夏州を守備し、春になって伝染病が大いに起こり、みな帰国することを考えるようになった。結賛は騎兵三千をもってこれを迎えさせ、二州の住宅を焼き払い、城の垣を壊して去った。杜希全は兵を分派してこれを保持することにした。帝は崔漢衡らが恥辱を受けるようになったのを憐れみ、詔を下して、その子に七品官を、鄭叔矩・路泌・馬弇・孟日華・辛栄・志信(李至言)・范澄・良賁・楽演明の一子に八品官を、袁同直より以下のものの一子には九品官を賜わった。唐朝では決勝軍使の唐良臣に潘原(甘粛省平涼県東四十里)に屯させ、神策の将の蘇太平に隴州に屯させた。結賛は崔漢衡・孟日華・劉延邕を呼び出して石門にいたり、五騎をつけて国境上に送った。そして使者を遣わし、表文を奉じて来させた。李観は「詔が下って、吐蕃の使者は入れないことになっている」と言って、崔漢衡らを受け取り、その使者を放還した。 結賛は、羌渾の衆を率いて潘口の傍の青石嶺(甘粛省涇川県西北七十里)に屯し、その軍を三分して、隴州・汧腸の間に赴かせた。数十里にわたって営を連ね、中軍は鳳翔を去ること一日旅程(約三十里)のところにいた。そして中国の服を着て邢君牙の軍であると欺き、呉山(陝西省隴県東南)・宝鶏(陝西省宝鶏県)に侵入して部落を焼き、牧養している家畜や青壮年を略奪し、老幼を殺し、手を切り、目を剔って去った。李晟は試みに大木を倒して安化峡(甘粛省清水県東百里)の隘処を塞いだが、蛮族はここを通過し、すべてこれを焼き払った。詔を下して神策の将の石季章に武功で防壁を作らせ、唐良臣に軍を百里城(甘粛省霊台県)に移させた。蛮族はまた汧陽・華亭(甘粛省華亭県)の男女一万人を掠取し、羌渾に奴隷として与えた。国境を出ようとするとき、東に向かって故国に別れを告げさせたが、衆は悲しみ泣いて、渓谷に身を投げて死ぬものが千をもって数えるほど出た。吐蕃はまた豊義(甘粛省鎮原県西)に侵入し、華亭を包囲し、給水の道を絶った。守将の王仙鶴は救いを隴州に求め、隴州刺史の蘇清沔は、蘇太平の兵を合わせてこれに赴いた。蛮族は迎え討ち、蘇太平は勝つことができずに引き返した。蛮族は毎日千騎を出して四方を掠奪したが、隴州の兵はあえて出て戦うことはなかった。蛮族は華亭城に薪を積んで、まさに焼き払おうとしたので、王仙鶴はやむをえず衆を率いて降服した。蘇清沔は兵を大きな象龕の中に潜ませ、夜中に城中と約束して火をあげて空を照らさせた。蛮族の衆は驚愕したので、そのとき営を襲い、これを去らせた。さらに吐蕃は連雲堡(甘粛省涇川県西)を攻めたが、飛ばした石が井戸に入り、水が溢れて井戸は空となった。そして深い谷に橋をかけて登ったので、守将の張明遠はついに蛮族に降服した。蛮族は山間に逃げた人および牛・羊およそ万をもって数えるほどを手分けして捕え、このために涇・隴・邠の地の民はまったく尽きてた。諸将は、一人の捕虜も得ることなく、ただ賊が国境の塞を出てゆくと祝詞をのべるだけであった。連雲堡は涇州の要地であり、三方が切り立って険しく、北方は高くなっていた。蛮族の動向は、狼火をあげることによって連絡しやすかった。すでにこれを失い、城下はすなわち蛮族の境域となり、収穫のたびごとにかならず兵を田野に布いたから、その時期を失することが多かった。この年(787)、三州は年越しの麦を持つことができなかった。蛮族の数千騎は長武城(陝西省長武県)を犯し、城使の韓全義はこれを防いだが、韓游瓌の兵は出て戦わず、それで蛮族は安心して邠州・涇州の間を往来した。諸屯営の西門はみな閉じ、蛮族は故の原州を支配してこれを保持した。帝は捕虜にした吐蕃の人間二百人たらずを諸市であまねく示して京師の人心を安定させた。 貞元四年(788)五月、蛮族の三万騎が涇・邠・寧(甘粛省寧県)・慶(甘粛省慶陽県)・鄜(陝西省鄜県)五州の辺邑を略奪し、役人の家や民人の家を焼き、数万人を捕えた。韓全義は陳許の兵を率いて長武で戦ったが、成功しなかった。はじめ吐蕃が国境の塞を掠奪するときは、春・夏の病気の流行をおそれてつねに盛秋にやってきたが、そのころには、唐人の捕虜を得ると、多く厚く財物を与え、その家族を人質とした。そしてそれらを使ったがゆえに盛夏でも辺境に入寇することができるようになったのである。尚悉薫星(シャントンセン)・論莽羅(ロンマンラ)らはまた寧州に侵入し、張献甫は防戦して首百級を斬った。かれらは転じて鄜坊を略奪して去った。 貞元五年(789)、韋皋は剣南の兵を率いて台登に戦い、蛮族の将の乞臧遮遮・悉多楊朱を殺し、西方面は少しく安穏になり、三年たらずでことごとく巂州の地を獲得した。しばらくして北廷の沙陀別部が吐蕃に叛き、吐蕃はこのために北廷都護府を陥れ、安西への道は途絶した。ただ西州(高昌)の人だけは、まだ唐のため守備をつづけていた。 貞元八年(792)、吐蕃は霊州に侵入し、水口を陥れて営田の渠を塞いでしまった。朝廷では河東(山西省南部)・振武(陝西省楡林地方)の兵を発し神策軍を加えてこれを撃ったので、蛮族は引還した。また涇州に入寇し屯田兵千人を掠取し、守捉使の唐朝臣は戦ったが不成功であった。山南西道節度使の厳震は、蛮族を芳州に破り、黒水壁を取り、集積した軍需品を焼いた。蛮族が塩州を取ってから、国境の防備には敵をおさえるものがなく、霊武はひとり裸のままであり、鄜坊は圧迫され、敵は日に日に驕慢となり、しばしば入寇して辺境を悩ました。そこで帝はふたたびここに城を築くことを詔し、涇原・剣南・山南の軍に、敵地に深入して徹底討伐させ、敵が兵を分遣してもっぱら東方に向かうことのないようにした。それで朔方河中晋絳邠寧兵馬副元帥の渾瑊、朔方霊塩豊夏綏銀節度都統の杜希全、邠寧節度使の張献甫、右神策軍行営節度使の邢君牙、夏綏銀節度使の韓潭、鄜坊丹延節度使の王栖曜、振武麟勝節度使の范希朝に詔を下し、その兵を合わせて三万、それに左神策将軍の胡堅、右神策将軍の張昌を塩州行営節度使とし、城を築く人夫六千人余、みな城下に陣を張った。貞元九年(793)、版築を始めてからわずかに二旬を過ぎて作業を終わったが、蛮族の兵は出てこなかった。ついに兼御史大夫の紇干遂と兼御史中丞の杜彦光にこれを守備させた。このとき韋皐の功績がもっとも大きく、堡や防壁五十余所を破り、その南道元帥の論莽熱没籠乞蓖(ロンマンシェルロンチ)を破り、また南詔とともに吐蕃を神川(金沙江上流)と鉄橋(雲南省江県西北、故巨津州北百三十里)において破った。韋皐は三万の捕虜・首級をあげ、首領の論乞髯湯没藏悉諾硉(ロンチツェンタンサンタダシェル)を降服させた。 貞元十二年(796)、慶州および華池に入寇し、官吏・人民を殺したり掠取したりした。この年、尚結賛が死んだ。明くる年(797)、賛普が死に、その子の足之煎(ムネツェンポ)が立った。邢君牙は隴州に永信城を築いて蛮族に備えた。蛮族の使者の農桑昔が来て、和親を修めることを請うた。朝廷は信頼することができないので、受けつけなかった。韋皐は新城を取った。蛮族は剣山馬嶺を支配し、進んで台登に入寇した。巂州刺史の曹高仕は撃ってこれを退け、籠官を擒にし、首三百を斬り、馬・食糧・武器数千をいけどり捕獲した。 貞元十四年(798)、韓全義は蛮族を塩州に破った。貞元十六年(800)、霊州は蛮族を烏蘭橋に破り、韋皐は末恭・顒の二城を抜いた。貞元十七年(801)、吐蕃は塩州に入寇し、麟州を陥れ、刺史の郭鋒を殺した。また城の堀をつぶし、陴(ひめがき)を落とし、居民をつなぎ、党項の諸部を掠奪して横槽烽に屯した。蛮族の将に徐舎人なるものがあり、俘虜にした仏僧の延素に語った。「私は司空英公(李勣)の子孫である。武后のときに家祖(徐敬業)が兵を挙げて王室のために働いたが、勝つことができず、子孫は遠い地方に逃げて、いまは三代を経ている。私は吐蕃の兵権を握っているとはいえ、まだいちども祖国へ帰ることを忘れてはいない。あとのことを思うてみずから抜け出せないでいるだけである」と。そしてひそかに延素を夜、逃亡させた。また言った。「私は辺境を調べ、物資食糧を求めて麟州にいたったのだが、守るものは備えがしてなかったので、ついにこれに進入したのである。郭使君(郭鋒)は勲臣の家の出であり、これを完全に保護しようと思っていたのに、不幸にして乱兵に殺されてしまった」と、話がまさに終わったとき、飛鳥使が到着し、その軍を召還したので、ついに引き去っていった。飛鳥というのは、駅伝の騎のようなものである。 韋皋は、西山に出て、蛮族と戦ってこれを破った。雅州の籠官の馬定徳は、もと蛮族のうちでは作戦を知り慮りのあるもので、山川の形勢をよく知っていた。兵を用いるごとに、つねに駅伝を使って計略をめぐらし、諸将に授けていた。毎年黎州・巂州に入寇していたが、韋皋はいつもその作戦を挫折させた。馬定徳は賛普に罰せられるのを恐れて、ついに来降し、これによって昆明の諸蛮は安定した。吐蕃その他は、しばしば叛いて大いに霊州に侵入した。このとき韋皋は維州を包囲した。論莽熱没籠乞悉蓖に松州五道節度兵馬都統群牧大使を兼ねさせ、兵十万を率いて維州を応援させた。韋皋は南詔の兵を率いて険要の地にせまり、伏兵を設定して待ち、わずか千人だけで敵を攻撃させた。乞悉蓖は兵が少ないのを見て、衆をつくしてこれを追い、伏兵の中に陥った。唐兵は四たび急攻撃をかけ、ついにかれを捕え、京師に献上し、帰還した。明くる年(802)、吐蕃の使者の論頰熱がまた来た。右竜武大将軍の薛伾が答礼に行った。 貞元二十年(804)、賛普が死んだ。工部侍郎の張薦を遣わして弔わせた。その弟が嗣いで立ち、ふたたび使者をよこして入朝させた。 順宗が立ち、左金吾衛将軍の田景度、庫部員外郎の熊執易に節を持して使者に行かせた。永貞元年(805)、論乞縷勃蔵(ロンルサン)が来て、金幣・馬・牛を献げて崇陵(徳宗陵)の祭りを助けた。詔を下して、太極殿の中で並べて展示させた。 憲宗の即位のはじめ、唐では使者を遣わして和親を修め、かつその捕虜を帰し、また順宗の喪を知らせた。吐蕃もまた論勃蔵を使としてよこし、のち毎年のように来朝した。しかし五万騎で振武の払鵜泉に侵入し、万騎は豊州の大石谷にいたり、回鶻の帰国するものを略奪した。 元和五年(810)、祠部郎中の徐復を使いに行かせ、同時に鉢闡布(ベルチェポ)に書信を賜わった。鉢闡布というのは、蛮族の仏僧で、国政に与るものであり、またの名は鉢掣逋という。徐復は鄯州まで行ってかってに帰ったが、その間の李逢は使命を賛普に伝えた。しかしまた責任を問われて左遷された。これに対して蛮族は、論思邪熱(ロンギェシェル)を入朝させて謝礼し、かつ鄭叔矩・路泌の柩を帰し、秦・原・安楽州を返還することを述べた。詔を宰相の杜佑らに下して、中書省でこのことを論議させた。論思邪熱は庭で拝し、杜佑は堂上から答礼した。また鴻臚少卿の李銛、丹王府長史の呉暈に答礼のため吐蕃に行かせたが、これより朝貢には年々やってきた。また隴州の塞に好しみを通じ、物資交換の市を請うてきたが、詔を下して許可した。 元和十二年(817)、賛普が死んだ。使者の論乞髯(ロンチチェン)が来たので、右衛将軍の烏重玘、殿中侍御史の段鈞に弔祭に行かせた。可黎可足(チツクデツェン)が立って賛普となった。烏重玘は、扶余準・李驂といっしょに帰ってきた。扶余準は東明(河北省大名県)の人で、もとは朔方の騎将であり、李驂は隴西の人で、貞元のはじめに蛮族の手に陥ったものであった。使者はかれらがいまだ死んでいないことを知り、これを探して帰ることができたのであった。詔を下して扶余準を澧王府司馬とし、李驂を喜王友とした。 吐蕃は論矩立蔵(ロンルサン)を来させた。かれがいまだ国境を出ないうちに、吐蕃は宥州(霊州城)に入寇し、霊州の兵と定遠城(寧夏省寧夏県東北六十里)に戦った。蛮族は勝たず、首二千級が斬られた。平涼鎮遏使の郝玼はまた蛮族の兵二万を破り、夏州節度使の田縉はその衆三千を破った。詔を下して矩立蔵らを留めて帰さなかった。剣南の兵は峨和城(四川省松潘県西南)・樫雞城(四川省鯀陽県の近傍)を抜いた。元和十四年(819)、矩立蔵らを帰国させた。吐蕃の節度論二摩、宰相の尚塔蔵(シャンラサン)、中書令の尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵十五万を指揮して塩州を囲み、飛梯・鵞車を作って城を攻撃した。刺史の李文悦は防戦し、城が壊れればすぐに補修し、夜はその屯営を襲い、昼は出て蛮族一万人と戦い、三旬をすぎても抜くことはできなかった。朔方の将の史敬奉は、奇襲部隊を蛮族の背後に迫らせ大いに破ったので、敵は包囲を解いて去った。 さきに沙州(甘粛省敦煌県)刺史の周鼎は、唐のために沙州を固守していた。賛普は張幕を南山(甘粛・青海両省の間の山脈)にうつし、尚綺心児にこれを攻めさせた。周鼎は救援を回鶻に請うたが、年を越えても援兵は来なかった。ついに城を焼いて衆を率いて東に逃げることを論議したが、みなこれを不可能とした。周鼎は都知兵馬使の閻朝に壮士を率いて水草の調査に行かせた。閻朝は朝がた周鼎に謁し、挨拶して出かけ、周鼎の親しい役人の周沙奴とともに弓を引きしぼって射た。謙虚に礼をしてから沙奴を射てただちに殺し、こんどは周鼎を捕えてこれを絞殺した。そしてみずから州の政事を支配し、八年間城を守備した。綾絹の一端を出して麦一斗と代えるものを募ったところ、応ずるものはひじょうに多かった。閻朝は喜んで言った。「民にはまだ食糧がある。死守せねばならない」と。二年経って、食糧・武器はみな尽きてしまった。そこで城壁に登り、大声で叫んで言った。「かりそめにも他の土地へ作るつもりはない。城をあげて降服することを願う」と。尚綺心児は承諾したので、ここで、出て降服した。城の攻撃がはじまってからこれまで、およそ十一年であった。賛普は綺心児に城を守らせたが、のち閻朝が叛をはかっているのを疑い、毒を革靴の中に入れて殺した。州の人たちはみな夷狄の服を着て蛮族の臣となったが、毎年その時期が来ると、父祖を祀り、中国の服を着て声をあげて泣き、またこれをしまった。 穆宗が即位し、秘書少監の田洎を遣わして、このことを告げさせた。吐蕃からも使者がまた来た。蛮族は兵を率いて霊武に入って屯し、霊州の兵は撃ってこれを退けた。また青塞烽を犯し、進んで州に入寇した。川の岸に屯営し、その列は五十里もずっと続いていた。はじめ田洎は吐蕃の牙帳に行ったところが、蛮族は長武で会盟することを求めた。田洎はあいまいな態度でこれに応じたが、ここにいたって吐蕃は、「田洎はわが方に会盟を許した。そのゆえにわが方はここに来たのである」と、はっきり言った。涇州まで一宿ていどのところに迫って来たのである。詔を下して、右軍中尉の梁守謙を左右神策軍京西北行営都監とし、兵を発し、八鎮の兵を合わせて涇州を援助させた。いっぽう田洎を郴州(湖南省桂陽県東)司戸参軍に左遷した。太府少卿の邵同に節を持せしめ、和好使とした。はじめ夏州の田縉は利を貪るので、党項はこれを怨んで、蛮族を導き入れて掠奪させた。郝玼はこれと戦ってその衆を多く殺し、李光顔はまた邠州の兵を率いて到着したので、敵は引き揚げた。そしてまた使者を遣わして来、南の方では雅州を略奪した。詔を方鎮に下して、蛮族と接するものは心して辺境に備えさせた。 長慶元年(821)、回鶻が唐に和親したのを聞き、青塞堡を犯し、李文悦に逐われた。そこで使者の尚綺力陀思(シャンチデー)を遣わして来朝させ、会盟を乞うた。朝廷では詔を下してこれを許可した。当時崔植・杜元穎・王播が政事を輔けていたが、太廟に告げることを考えた。しかし礼官は言った。「粛宗・代宗は、みな、かつて吐蕃と盟しましたが、太廟には告げませんでした。徳宗の建中の盟は、その盟約を価値あるものにするために、はじめて詔を下して廟に告げたのです。平涼の会にいたっては、これを告げなかったのですが、それはその価値を殺ぐためでした」と。そこで告廟のことはやめ、大理卿の劉元鼎を盟会使とし、右司郎中の劉師老がこれに副となった。宰相に詔を下し、尚書右僕射の韓皋・御史中丞の牛僧孺・吏部尚書の李絳・兵部尚書の蕭俛・戸部尚書の楊於陵・礼部尚書の韋綬・太常卿の趙宗儒・司農卿の裴武・京兆尹の柳公綽・右金吾将軍の郭鏦ともに、吐蕃の使者論訥羅と京師の西郊に会盟させた。賛普は盟いの言葉をもって、二国が互いに仇となることなく、国境で人を捕えることがあれば、事情を聞いて衣服・食糧を与えて帰すことを約束した。天子も詔を下してこれでよいとし、大臣の盟に与ったものはみな名を文書の上に書いた。盟を行なったときに、吐蕃は精壮の騎兵で魯州に屯し、霊州節度使の李進誠は大石山に戦ってこれを破った。蛮族は使者の趙国章を遣わして来たり、宰相に書信と幣物を呈した。 明くる年(822)、国境や物見台を定めることを願い、劉元鼎と論訥羅とが、その国(吐蕃)で盟を行なうことになった。勅を出して、蛮族の大臣もまた名を文書に連ねることにした。劉元鼎は成紀(甘粛省天水県)・武川を越えて黄河の広武梁にいたったが、昔の城郭はまだ崩れないで残っていた。蘭州の地はみな秔稲・桃李・楡柳が山の峯に茂り、住民はみな唐の人で、使者の麾蓋を見て、道の両側にならんで見物した。竜支城(青海省西寧市東南八十里)に到着すると、老人たち千人が挨拶をして泣き、天子の安否を問うて言った。「しばらく前に従軍して、ここで敵手に陥ってしまいました。いま子孫はまだ唐の服装を忘れることはできないでおります。朝廷では、なおこのことを思ってくださっているでしょうか。唐の軍隊は、いつやって来ますか」と。言いおわってみな泣いた。ひそかに聞くと、豊州の人であった。石堡城を通過したが、崖は険しくきり立ち、道はうねっていて、蛮族はこれを鉄刀城(カルチェグツェ)と呼んでいた。それから西の方へ数十里行くと、土石はみな赤く、蛮族はこれを赤嶺という。かつて信安王李禕、張守珪が建てた国境の碑はみな倒れ、ただ蛮族のたてた石碑だけがそのまま残っていた。赤嶺は長安から三千里余であり、思うに隴右の故の土地である。悶怛盧(メルロ)川というのがあり、邏娑川の南の百里のところにあたり、そこは臧河(ツァンポ)の流れているところである。臧河の西南の地は砥石のように平らで、肥沃な原野がひろがり、河をはさんで檉柳(かわらやなぎ)が多く、山には柏が多い。岸はみな丘墓になっており、その傍に家屋があり、赤土を塗って白虎が描いてある。みな蛮族の貴族で戦功のあるものの墓であり、生前はその(白虎の)皮を着、死んではその勇猛を表わしているのである。殉死したものは、その傍に埋葬されている。それから悉結羅識を越えるが、岩をけずって車を通しており、これが金城公主を迎えた道である。 麋谷にいたって宿舎に入ったが、ここは臧河の北方の川であり、普賛の夏の牙帳があるところである。そこは、木槍の柵をめぐらし、おおよそ十歩ごとに多くの長い槊(ほこ)を立て、中に大きな幟を置いている。三つの門を作り、その相互の距離はみな百歩で、武装の兵士が門を守っている。またそこでは鳥の冠をかぶり、虎の皮の帯をした巫祝(シャーマン)が太鼓をたたいている。入るものは身体を検査してから進む。中に高い台があり、宝楯がめぐらしてある。賛普は帳幕の中に坐し、その張幕は黄金で、蛟螭(みずち)・虎豹のかたちが縫い取りされている。賛普は身に白い褐(けごろも)を着、頭には朝霞帽をかぶり、首には金を鏤めた剣を吊っていた。鉢掣逋(ペルチェポ)はその右に立ち、宰相は台の下に並んでいた。はじめに唐の使者が到着したとき、給事中の論悉答熱(ロンタグシェル)が来て盟いのことを議定し、牙帳の西で盛大な宴を張ったが、酒飯のはこびは中国の習慣とほぼ同じであった。音楽は「秦王破陣曲」を奏し、また涼州・胡渭・録要の雑曲を奏し、多くの芸人は、みな中国人であった。 会盟の壇は、広さ十歩、高さ二尺で、使者は蛮族の大臣十余人と相対し、酋長百余人は壇下に坐った。壇上には大きな榻を設け、鉢掣逋が登って盟いを告げた。一人が傍から下のものに訳して聞かせた。みな血を啜ったが、鉢掣逋だけは啜らなかった。盟いが終わって仏像の前にかさねて誓いをし、鬱金水をとって飲み、使者と喜びの挨拶をして壇を下った。 劉元鼎が帰るとき、蛮族の元帥の尚塔蔵(シャンラサン)は、客を大夏川に宿泊させ、東方節度の諸将百余人を集めた。会盟の文書を台の上におき、ひろくこのことを諭し、かつおのおの国境を保持して互いに犯すことないように戒めた。文書には「彝泰七年」と書いてあった。尚塔蔵は劉元鼎に語った。「回鶻は小国である。私はかつてこれを討伐し、国都(カラバルガスン)から三日のところにまでいたり、回鶻はあやうく破滅するところであった。ちょうどそのとき、本国に不幸(賛普の死)があり、帰国したが、かれはわが方の敵ではないのに、唐はなにを畏れてこれを厚く遇するのか」と。劉元鼎は言った。「回鶻は国に功績(安史の乱の援軍)があり、かつ約束を守り、いまだみだりに兵をもって尺寸の土地を取るようなことはしていない。それゆえにこれを厚く遇するのである」と。尚塔蔵は沈黙してしまった。劉元鼎は湟水を越えて竜泉谷にいたったが、西北に殺胡川を望見した。ここには哥舒翰の時代の大防壁がなお多く存在していた。湟水の源は蒙谷に出て、竜泉にいたって黄河と会する。黄河上流は、洪済梁(橋)より西南に二千里行くと、河はますます狭くなり、春は徒歩で渡ることができ、夏秋には舟で行くことができる。その南三百里に三山があり、中に高くて四方に低くなっている山があって、紫山と呼ばれている。ここが大羊同国で、昔のいわゆる崑崙なるものである。蛮族は悶摩黎山と呼んでおり、東方は長安から五千里距たっている。黄河の源はその間にあり、水流は澄んでゆっくりと流れている。漸次多くの川を合わせて赤色となり、流水がますます長くなると他の川がみなそそいで濁ってくる。この湟水と黄河の存在によって、世間では西戎の土地を河湟というのである。河源の東北に莫賀延磧尾があり、長さはおおよそ五百里で、磧の幅は五十里である。北は沙州の西南から吐谷渾に入り、狭くなって終わっている。ゆえに磧尾というのである。ひそかにその地を測ってあると、だいたい剣南の西にあたるであろう。劉元鼎が見てきたところは、おおよそ以上のようなものであった。 蛮族は論悉諾息(ロンタグシグ)らを遣わして入朝して謝辞を述べた。天子は左衛大将軍の令狐通、太僕少卿の杜載に命じて答礼に行かせた。この年(822)、尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵を出して回鶻・党項を攻撃し、小相の尚設塔は三万の衆を率いて木蘭(橋)付近に馬を放牧した。毎年使者が来、金の盆、銀細工の犀川や鹿を献上し、ヤクを貢ぎ物とした。 宝暦(825-827)から大和(827-835)年間にいたるまで、ふたたび使者を遣わして入朝させた。大和五年(831)に維州の守将の悉怛謀が城をあげて降服し、剣南西川節度使の李徳裕はこれを受け入れ、符章・武器・鎧を収納した。さらに将の虞蔵倹を遣わしてこれに拠らせた。州は、南は江陽(四川省澁県)・岷山にいたり、西北は隴山を望見し、一方は崖に面し三方は江に囲まれている。蛮族はこれを無憂城と呼び、西南地方の要害の地としていた。ちょうどそのころ牛僧孺が国政を担当していたので、論議して悉怛謀を吐蕃に遷し、その城も帰した。吐蕃は、かれの一族を誅してひとりも残さず、もろもろの蛮族を恐怖させた。これより五年間、蛮族の使いが来れば、かならず答礼使を出した。貢献したものは、玉帯・金皿・獺褐(カワウソの皮で作ったかわごろも)・ヤクの尾・霞・緋毛氈・馬・羊・駱駝である。 賛普は、立ってから三十年ちかく、病気のため政事をとらず、大臣に委せきりであり、そのゆえに中国に対抗することができず、辺境の塞は安穏であった。賛普が死んで弟の達磨(ダルマ)が嗣いだが、達磨は酒飲みで、狩猟を好み、好色であった。かつ性格があらあらしくて恩政を施すことが少なく、政治はますます乱れた。 開成四年(839)、太子詹事の李景儒を吐蕃に使いさせたが、吐蕃は、論集熱を来させ、玉器・羊・馬を貢献した。これより吐蕃国内では地震が多く、川が裂け、水が吹き出し、岷山は崩れ、洮水は三日間逆流した。また鼠が作物を食い荒らし、人は飢えて、病気で死ぬものが相つぎ、鄯・廓二州の間では、夜、陣太鼓の音が聞こえ、人々は互いに驚愕した。 会昌二年(842)、賛普が死に、論賛熱(ロンツェンシェル)らが来てこのことを告げた。天子は将作監の李璟に命じて弔いに行かせた。達磨には子がなかったので、妃の綝(チム)氏の兄尚延力(シャンギェルリグ)の子の乞離胡(チウ)を賛普とした。まだ三歳であり、妃はともにその国を治めた。大相の結都那(ギェルトレ)は乞離胡を見て、あえて拝礼しないで言った。「賛普の支族はまだ多いのに、どうして綝氏の子を立てるようになったのか」と、泣いて出ていったが、政事に当たっているものは、いっしょになってかれを殺した。 別将の尚恐熱(ロンコンシェル)は落門川(甘粛省隴西県)討撃使であったが、姓は末(バー)、名は農力熱(ナンリグシェル)で、中国で郎と称するようなものである。かれは詭りが多く、よく人をたぶらかし、三部をまとめて万騎を得、鄯州節度使の尚婢婢を討った。それから土地をとり、渭州に行って、宰相の尚与思羅と薄寒山(甘粛省隴西県西南)に戦った。尚与思羅は敗けて松州にいたり、蘇毘・吐渾・羊同の兵八万を合わせ、洮河を保持してみずから守った。尚恐熱は蘇毘たちに言った。「宰相兄弟は賛普を殺したので、天神がわれに義兵を挙げて無道のものを誅殺させるのである。なんじらは、逆賊を助けて国に背くのか」と。そこで蘇毘たちは宰相の行動を疑って戦わなかった。尚恐熱は軽装の騎兵を指揮して洮河を渡らせたところ、諸部はまず降り、その衆は合わせて十余万になり、尚与思羅を捕えてこれを絞殺した。 尚婢婢は姓は没盧(ロ)、名は賛心牙、羊同国の人である。代々吐蕃の大臣となる家柄で、かれは寛大で、おおよそ文字に通じていた。賛普に直接仕えるのを好まず、国境方面に三年間官吏として勤めていた。吐蕃の国民は新賛普の立ったのを正しいものとはせず、みな叛き去ったので、尚恐熱はみずから宰相と号し、兵二十万を率いて尚婢婢を攻撃したのである。軍隊・牛・馬・駱駝は千余里に連なり、鎮西軍(河州の西百八十里)にいたったが、大風が起こり、雷電がはためいて、部将の震え死ぬものが十余人、羊・馬・駱駝もまた数百が死んだ。尚恐熱はこれを見て恐怖にとらわれ、軍を抑えて進まなかった。尚婢婢はこのことを聞いて、物を厚くし、手紙を送って和親を約束した。尚恐熱は大いに喜んで言った。「尚婢婢は書生である。どうして軍隊のことがわかろうか。わしが賛普になれば、出仕不要の宰相としてかれ処遇しよう」と。そこで退いて大夏川に営した。尚婢婢は将の厖結心、莽羅薛呂(マンラシェル)を遣わして、尚恐熱を河州の南に攻撃した。兵四万を伏せさせ、厖結心は山に拠り、手紙を射てやり、さんざん尚恐熱を罵倒した。尚恐熱はひじょうに怒り、兵をもりたて出撃させた。厖結心は偽って逃げたところ、尚恐熱は数十里これを追撃し、莽羅薛呂は伏兵を発して集中攻撃した。おりしも大風があり、河は出していたので、溺死するものがはなはだ多く、尚恐熱は単騎で逃走した。すでに目的を達しなかったので、すこぶる残忍となり、人を多く殺した。その部将の岌蔵(チソン)、豊賛はみな尚婢婢に降服し、尚婢婢は厚くこれを待遇した。 明くる年(848)、尚恐熱はまた鄯州を攻撃し、尚婢婢は兵を五道に分けて防戦した。尚恐熱は東谷山(甘粛省臨夏県東南十五里)を保持し、防壁を固めて出戦しなかったが、岌蔵は柵をいく重にもめぐらし、給水の道を断った。そこで十日ほどで尚恐熱は薄寒山に逃走し、散兵を集めてようやく数千人を得た。そして鶡鶏山に戦い、ふたたび南谷(甘粛省渭源県西二十五里)に戦ったが、みな大敗し、戦いは長びいて、年を過ぎても終わらなかった。 大中三年(849)、尚婢婢は軍を河源に屯し、尚恐熱が黄河を渡ることを企んでいるのを聞き、急にこれを攻撃し、尚恐熱に敗れた。尚婢婢は精鋭の兵を率い、橋を抑えたがまた勝たず、橋を焼いて還った。尚恐熱は間道伝いに鶏頂嶺に出、関馮硤に橋をかけ、婢婢を攻めて白土嶺(青海省西寧市南)にいたった。そしてその将の尚鐸羅榻蔵(シャンタグララサン)を破り、進んで犛牛硤(ムルウス)に戦った。尚婢婢の将の燭盧鞏力(チョグロクンリグ)は、硤を背にしてみずから固守し、尚恐熱を苦しめようとしたが、大将の磨離羆子は従わず、力は病気であると称してさきに帰ってしまった。燭盧鞏力は急に尚恐熱を攻撃したが、一戦して死んだ。尚婢婢は糧食が尽きたので、衆を率いて甘州の西の境に赴き、拓抜懐光に守備させたが、尚恐熱の配下は多くこれに降服した。 尚恐熱は鄯・廓・瓜・粛・伊・西などの州を大いに略奪したが、通過するところ、捕えたり殺したり、屍は積みかさなり、広く散乱するありさまであった。部下たちは内心これを怨み、みなかれをかたづけようと考えた。そこで唐の兵五十万に出てもらい、ともにその乱を鎮めたいと宣言した。尚恐熱は渭州を保持し賛普に冊立されることを願い、表文を奉って唐に帰服した。宣宗は太僕卿の陸躭に詔を下し、節を持して使いとなって尚恐熱を慰労し、涇原・霊武・鳳翔・那寧・振武などの軍に命じて、尚恐熱を援け迎えさせた。かれが到着したので、尚書左丞の李景譲に詔し、その希望するところを問わせたが、尚恐熱は傲慢で大きくかまえ、かつ河渭節度使とすることを求めた。帝は許可を与えず、かれは帰途咸陽橋を通って嘆じて言った。「我は大事をなしつつある。望むところは、この河を軍とともに渡って、唐と天下の境域を分け合うことだ」と。ふたたび落門川に赴き、散兵を集めて、まさに辺境に入寇しようとした。ちょうどそのとき長雨があり、食糧が途絶したので、尚恐熱は廓州に逃げ帰った。 そこで鳳翔節度使の李玭は清水を回復し、涇原節度使の康季栄は原州を回復し、石門などの六つの関を取り、数万の人畜を得た。霊武節度使の李欽は安楽州を取ったので、詔を下して威州とした。邠寧節度使の張欽緒は、蕭関・鳳翔を回復し、秦州を収めた。山南西道節度使の鄭涯は、扶州を得た。鳳翔の兵は、吐蕃と隴州に戦い、首五百級を斬った。この年(849)、河西隴右の老齢者千余人が宮殿に現われ、天子は延喜楼に出御して冠帯を賜わった。みな争って弁髪を解き、衣服をとりかえた。よって詔を下して賜わり物を与えた。四道の兵については、功労のあるものは録して官を与えた。三州七関の土地で肥沃なところは民が開墾することを許し、五年の賦役を免除した。温池は度支に委ね、その塩を専売にし、辺境に供給させた。四道の兵で田作りができるものには、耕牛や種子を給し、なお守備につくものにはその兵を倍にして与え、二年で交代させた。商人の辺境に往来するものは、関鎮がそれを留めることのないように兵で開墾しようとするものは民と同様に許した。 昔、太宗は薛仁杲を平らげて隴上(隴西)の地を得、李軌を捕虜にして涼州を得、吐谷渾・高昌を破って安西四鎮を置いた。玄宗はついで黄河・磧石・宛秀などの軍を収めたが、中国は辺境に斥候や警備のものをほとんど四十年も置かなかった。輪台・伊吾は屯田が行なわれ、穀物・豆類の田畑はますます遠く拡がった。開遠門に掲げられた送迎の額に、「西の方、道のはてまで九千九百里」と書かれたのは、辺境防備の人が万里まで行く必要のないことを示していたのである。乾元以後は、隴右・剣南・西山・三州・七関・軍・鎮・監牧などの三百ヵ所がみな失われた。憲宗は、いつも天下の地図を見、河湟のもとの領域を見ては憤り、これを経略しようと考えたが、その機会はなかった。ここにいたって群臣は宣宗に上奏した。「王者は、功を建て、業を成して、かならず世にひかり輝くものがあります。いま一兵も刃に血をぬることをせずに、河湟はおのずから帰服しました。天子に尊号を上りたいと存じます」と。帝は言った。「憲宗はかつて河湟のことを思い、その業が成就しないうちに亡くなられた。いま祖宗の功業を払めるにあたり、順宗・憲宗の二廟に謚号を奉り、後世にその名を顕示するよう議してもらいたい」と。また詔を下して言った。「朕はしばらく人民を休息させたいと思うので、その山外(西山の外側)の諸州はのちにこれを経営したい」と。 明くる年(851)、沙州の首領の張義潮は、瓜・沙・伊・粛・甘など十一州の地図を奉じて献上した。さきに張義潮はひそかに豪傑たちと結び、唐に心を帰していた。ある日、衆は武装して州城の門に喚声を挙げ、漢人はみなこれを助けた。蛮族の守備のものは驚いて逃げたので、かれはついに仮に州の政事をとり、鎧・武器を整備し、耕作しかつ戦って、ことごとく他の州を回復した。そして部将十組ほどで、みな矛をもって表文をその中に入れ、かれらは東北に向かって走って天徳城に到着した。防禦使の李丕が上聞したので、帝はその忠誠を賞讃し、使者に詔を持たせてやり、収容し慰労した。そして張義潮を沙州防禦使に抜擢したが、まもなく帰義軍と称し、ついに節度使となった。そののち、河州・渭州の蛮族の将の尚延心は、自国が亡んだのを見て、また好しみを通じ、秦州刺史の高駢は尚延心および渾末部の一万帳を誘って降服させ、ついに二州を収穫した。尚延心を武衛将軍に任じたが、高駢は鳳林関を収めたので、尚延心を河渭等州都游奕使とした。 咸通二年(861)、張義潮は涼州を奉じて来帰した。咸通七年(866)、北廷の回鶻の僕固俊は、西州(高昌)を攻撃して取り、諸部を収め、鄯州城使の張季顒は尚恐熱と戦ってこれを破り、武器・鎧を収めて献上した。吐蕃の余衆は邠・寧を犯し、節度使の薛弘宗はこれを退けた。ちょうどそのとき、僕固俊は、吐蕃と大いに戦い、尚恐熱の首を斬って京師に送ってきた。 咸通八年(867)、張義潮は入朝して右神武統軍となり、京師に邸宅と地を賜わった。族子の深に命じて帰義軍を守らせた。咸通十三年(872)、張義潮は死んだ。沙州については、長史の曹義金に州務を扱わせ、ついにかれに帰義軍節度使を授けた。のち中原には事件が多くなり、王命は甘州に及ばなくなり、回鶻に併呑されて、帰義の諸城も多くその手中に陥った。 渾末というのは、また嗢末といい、吐蕃の奴隷部落である。蛮族の規則では、軍を出すにはかならず豪族を発し、みな奴隷を従わせる。平常のときは、あちこちに散って耕作や牧畜を行なっている。尚恐熱が乱を起こしたとき、向かうべきところがなく、ともに呼びあって数千人となり、みずから嗢末と号し、甘粛・瓜・沙・河・渭・岷・廓・畳・宕諸州の間に居た。その吐蕃の牙帳に近いものがもっとも勇猛で、馬も良いといわれている。 賛にいう、唐が興ってから、四夷で従わないものがあった。みな尖鋭な部隊なので、これを他地方に移し、その牙をそぎ、その王庭をすいて田畑とするまで徹底的に征服した。ただ吐蕃と回鶻は強勢を誇り、もっとも長く中国の悩みとなった。賛普はすべて河湟を奪取し、畿内に迫ってその東の国境をおいた。京師を犯し、その近郊を掠奪し、中国人を傷つけ、首を斬った。唐はあの勇猛な軍隊を動員し、目をよくみはって作戦を計らせたが、ついに根本的解決はできなかった。晩期になって二民族はおのずから滅亡し、唐もまた衰頽した。いったい外民族を慰撫し、同時に国内を安寧にするということは、ただ聖人だけが辞退せずにやれることであろう。玄宗はすぐれた徳の持主で、領域をはなはだ大きく拡げたが、遠方の地に功績をあげることにつとめて、身の近くにある危険を見逃していた。逆賊がひとたび奮いたつと、中原は分裂し、二百年を終えるまでもとの完璧な組織にもどることができず、衰頽するにいたった。そうであるならば、すなわち、内でまずみずからを治め、そののちに四夷が外部から脅威をなすのを解決してゆくのが、国を保持発展させる良い方策であろう。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 『新唐書』巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 巻二百一十七上 列伝第一百四十二上
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唐書巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣 秦宗権 董昌 黄巣は曹州冤句の人である。代々塩の販売を行ない、資産に富んだ。剣術や馬術・弓術にたくみで、少しは書籍にも通じており、弁も立った。亡命者の面倒を見ることも喜んでやった。 咸通年間(860-874)末年、連年の飢饉で黄河以南の地には盗賊がはびこった。乾符二年(875)、濮州の名の売れた盗賊の王仙芝が長垣で叛乱を起こした。三千人の勢力で曹州・濮州の二州を荒らしまわり、一万の人間を掠め取って、ついに大勢力となった。王仙芝は不とどきにも大将軍と名のり、諸道に檄を飛ばして、官吏の貪欲、賦税の苛重、賞罰の不公平さを指弾した。宰相は恥じて王仙芝の蜂起について報告しなかったので、僖宗は何も知らなかった。王仙芝麾下の命知らずの部将に尚君長・柴存・畢師鐸・曹師雄・柳彦璋・劉漢宏・李重覇ら十余人あり、至る所で掠奪をほしいままにした。そして乱を好む黄巣も、子弟八人とともに仲間を募ると、何千人と集まったので、かくて王仙芝に呼応したのである。黄河以南十五州を転々と荒らしているうちに、とうとう何万という勢力になった。 帝は平盧節度使の宋威とその副使の曹全晸に命じて討伐させた。何度も戦って賊を破った。そこで宋威を諸道行営招討使に任命して護衛兵三千、騎兵五百をつけてやり、河南諸鎮に詔をくだしてすべて宋威の指令を受けさせた。また左散常侍の曾元裕をその副使とした。王仙芝は沂州を攻略しようとしたが、宋威は賊を城下に破った。王仙芝は逃走した。そこで宋威は賊の大頭目は死亡しましたと上奏し、勝手に麾下の兵を放して、青州に帰ってしまった。都では群臣一同参内して祝辞を述べたが、三日ほど経つと、地方の州県から賊が依然健在であることを上奏してきた。その時、軍隊は休息にはいったばかりで、詔をくだしてもう一度将兵を派遣しようとしたが、兵士たちはみな怒って叛乱を起こそうとした。賊はそのすきをうかがって郟城に向かい、十日経たないうちに八つの県を破った。帝は賊が東都(洛陽)に迫って来たのを憂慮し、諸道の兵を督励して食いとめようとした。かくて鳳翔・邠寧・涇原の兵が陝州と潼関を守り、曾元裕が東都を守り、義成と昭義の兵は東都の宮城を守護した。 王仙芝は郟城方面から転じて汝州を攻め、その地の将軍を殺した。刺史は逃走した。東都では大恐慌を来たし、百官は身ひとつで東都から逃げ出すありさまであった。賊は陽武県を破り、鄭州を囲んだが成功せず、鄧州と汝州のあいだを蟻のように群がって攻め立てた。函谷関以東の州県は大ていどこでも賊を畏れて城に立てこもって自衛した。そこでは兵を四方に放って侵略させ、郢州・復州の二州を荒らしまわった。至る所焼きはらい掠奪をつくしたので、住民はあらかたいなくなってしまった。官軍が急追すれば、物資を路にばらまいて逃げた。兵士たちはわれ先きにそれを取ろうとするので、軍は停滞してさきに進まないことが多かった。賊は転戦して申州・光州方面に入った。随州を荒らして刺史とらえ、また安州に本拠を構えて余裕綽々たるものがあった。奇襲部隊をさし向けて舒州を囲み、廬州・寿州・光州などの州を攻撃した。 当時、宋威は老齢でしかも暗愚なため作戦遂行の役に立たなかった。内々で曾元裕と相談した。「昔、龐勛が滅びると、功労のあった康承訓は早速罪を得た。われわれの場合も、たとい成功しても、禍いは免れまい。とすると賊の勢力を温存する方がよい。不幸にして賊が天子になっても、われわれは功臣にはなれるだろう」。そこで賊を追撃するのに一舎(16km)をゆくだけにして、日和見をきめこんで軍隊の自全をはかった。このことを帝も知って、あらためて陳許節度使の崔安潜を行営都統とし、宋威の代わりに前鴻臚卿の李琢を諸道行営招討草賊使に任じ、曾元裕の代りに右威衛大将軍の張自勉を副使に任じた。 賊が蘄州・黄州方面に出没すると、蘄州刺史の裴渥は、賊のために朝廷に官を請求してやり、たがいに休戦を約束した。王仙芝は黄巣らとともに裴渥のもとに出かけて酒を飲んだ。まもなく王仙芝を左神策軍押衙に任命するという詔書が下り、宦官が慰撫のために派遣されると、王仙芝は喜んだが、黄巣は恩賞が自分に及ばないのを恨んでののしった。「君は降伏して自分だけ官を手に入れたが、五千の仲間たちはこれからどうなるのだ。軍に要請して早くここを引き払え」。そういって王仙芝を殴りつけて頭に負傷させた。王仙芝は大衆の怒りをおそれて、任命を受けないまま、蘄州の兵士を連れ去った。裴渥と宦官とは逃げ出した。賊はその勢力を分け、尚君長は陳蔡地方に入り、黄巣は北方の斉魯を荒らした。黄巣の兵力は一万人あり、鄆州に入って天平節度使の薛崇を殺し、進撃して沂州を陥れた。その勢力はついに数万に達し、穎蔡地方を経て査岈山に立てこもった。 この時、柳彦璋の方も江州を取って、刺史の陶祥をとらえた。黄巣は兵をひきいてまた王仙芝と合流し、宋州を囲んだ。たまたま張自勉の援兵が到着して、賊二千人を斬った。王仙芝は囲みを解いて漢水を南に渡り、荊南を攻めた。そこで節度使の楊知温は籠城して守った。賊は火を放って楼門や城壁を焼いたが、楊知温は出て戦おうとしなかった。朝廷は詔をくだして、西川節度使の高駢に荊南節度使を代わらせた。高駢は蜀の兵一万五千をひきい、軍糧を携帯して、三十日以内に到着することを目指してやって来たが、到着したとき城はすでに陥っていた。楊知温は逃走したが、賊も江陵を守り通すことができなかった。この時、左武衛将軍の劉秉仁に詔して江州刺史に任命した。劉秉仁は部隊を配置しておき、一艘の舟に乗って賊の柵に入った。賊は大いに驚き、一同打ち揃って劉秉仁に降った。劉秉仁はついに柳彦璋を斬った。 黄巣は和州を攻めたが、まだ攻略するには至らなかった。王仙芝自身は洪州を囲んでこれを取り、徐唐莒にここを守らせた。進んで朗州・岳州を破り、ついに潭州を包囲したが、湖南観察使の崔瑾が防いでこれを撃退したので、王仙芝は転じて浙西方面に向かい、宣州・潤州を荒らしまわった。しかし要求を実現することができないので、自分自身は江西に留まり、別隊に命じて再び河南に入らせた。 帝は詔して、崔安潜を忠武軍に帰し、再度宋威と曾元裕を起用して招討使の任につかせた。そして楊復光が監軍の任に当たった。楊復光は部下の呉彦宏をやって、勅旨をもって賊を説得させた。王仙芝はそこで蔡温球・楚彦威・尚君長をつかわして降り、朝廷に赴いて裁きを受けたいと申し出た。また宋威に書簡を送って節度使の職を求めた。宋威はそれを引き受けたと見せかけ、朝廷には尚君長と戦ってこれをとりこにしたと報告した。一方、楊復光は賊は降伏してきたのだと言い張るので、朝廷は侍御史と宦官とを早馬で派遣して訊ねさせたが、実状を明らかにすることができず、とうとう尚君長らを狗脊嶺で斬ったのである。王仙芝は怒ってまた洪州を攻め、その外城へ侵入した。宋威はみずから軍をひきいて行ってこれを救い、王仙芝を黄梅で破った。賊の首級を上げること五万、王仙芝をとらえて斬り、その首を京師に送った。 ちょうどこの時、黄巣は亳州を囲んでいたが、まだ下すには至らなかった。尚君長の弟尚譲は王仙芝の残党をひきつれて黄巣に帰し、黄巣を王に推戴した。衝天大将軍と号し、官吏を任命した。そして河南・山南の民十余万を駆り立てて淮南を掠奪し、年号を建てて王覇と定めた。 曾元裕は申州で賊を破り、一万人を殺した。帝は宋威が尚君長を不法に殺し、また賊の討伐に功績を挙げないので、詔して青州に帰らせ、曾元裕を招討使とし、張自勉を副とした。黄巣は考城を破り、濮州を取った。曾元裕は荊襄方面に軍を置いていたが、兵を派遣してこれを阻んだ。朝廷は改めて張自勉を東北面行営招討使に任命し、諸軍を督励して急追させた。黄巣はそのとき裏邑と雍丘を侵略していた。朝廷は滑州節度使の李嶧に詔して原武にとりでを築かせた。黄巣は葉・陽翟を襲い、東都をねらおうとした。たまたま左神武大将軍の劉景仁が兵五千をもって東都の救援にかけつけた。河陽節度使の鄭延休は兵三千をもって、河陰にとりでを築いた。黄巣の軍隊のうち、江西で活動していた部隊は鎮海節度使の高駢に破られ、新鄭・郟・襄城・陽翟を攻撃していた部隊は、崔安潜に追われて敗走し、浙西の部隊は、鎮海節度使の裴璩のため二人の司令官を斬られて、おびただしい死者を出した。黄巣は大いに意気沮喪しておそれ、やむなく天平軍のもとに降伏を申し出た。そこで詔を下して黄巣に右衛将軍を授けたが、黄巣は藩鎮がおたがいにバラバラでこちらを押えこむだけの力はないと見て取り、そのまま叛き去り、方向をかえて浙東に攻め入り、観察使の崔璆をとらえた。そこで浙西節度使の高駢は部将の張潾と梁纘とをやって賊を討たせ、これを破った。賊は軍を撤収して江西に渡り、虔州・吉州・饒州・信州などの州を破った。つづいて山を開いて七百里の道をつけ、一気に建州に進んだ。 はじめ黄巣の軍中では、「儒者に逢いもしものことに傷つけたら、軍はきっと全滅する」という歌 がうたわれた。黄巣は福建地方に入って人民を捕虜にしたが、儒者を詐称する者はすべて釈放された。時に乾符六年三月のことである。近道をして福州を囲むと、観察使の韋岫は戦って敗れ、城を棄てて逃げた。賊は入城し、住居を焼きはらい、まるで草を刈るように人を殺した。しかし崇文館校書郎の黄璞の家を通りすぎる時には、命令を下した。「ここは儒者の家だ。焼かないようにたいまつを消せ」。また処士の周朴をさがし出して言った。「われわれに従ってくれますか」。周朴は答えた。「天子にも仕えなかったおれだ。賊などに従えるか」。黄巣は怒って周朴を斬った。この時、福建地方の諸州は全部賊の手に陥っていた。朝廷は高駢に詔して諸道行営都統に任命して、賊を防がせた。 黄巣は桂管をおとしいれ、進んで広州に攻め入った嶺南東道節度使の李迢に書を送って、上表して天平節度使を申請するよう求めた。また崔璆を脅迫して、朝廷に天平節度使授任のことを上奏させた。宰相の鄭畋はそれを許そうとしたが、盧攜と田令孜が反対した。黄巣はまた安南都護・広州節度使を要求した。その申請書が上聞に達すると、尚書右僕射(宰相)の于琮は「南海の貿易の利は莫大です。賊がこれを得るとますます資力豊かになり、そして国の財政はゆきづまってしまいます」と論じた。そこで黄巣を率府率に任命した。黄巣はその詔を見て大いにののしり、広州を急襲して李迢をとらえた。そして義軍都統と自称し、これから入関することを公開状によって布告した。そこには、宦官が朝権を握って国政をむしばんでいることを非難し、朝臣たちも宦官たちと贈収賄でぐるになり、官吏登用は不公平で才能ある者が選ばれない実状を指弾し、また刺史が財産を殖やすことを禁止し、県令で汚職を犯す者は族誅すると声明していた。これらはいずれも当時最大の悪弊であった事柄である。 天子はさきに宋威の失策を処分してこれを罷免したが、宰相の王鐸がみずから前線指揮に行きたいと願い出たので、それではと、王鐸を荊南節度使・南面行営招討都統に任命し、諸道の兵を率いて討伐させた。王鐸は江陵に駐屯したが、上表して泰寧節度使の李係を招討副使・湖南観察使に任じ、先鋒として潭州に駐屯させた。そして二つの駐屯地の間にはのろしと駅伝を列置した。たまたま賊中に病気がはびこり、十人中四人までが死んだので、ついに北方帰還にふみ切った。巨大ないかだを組み桂州から湘水(湘江)に沿って衡州、永州に下り、潭州を破った。李係は朗州にのがれ、十余万の兵は殲滅された。その腐った肉を河に投げこむと、河一杯になった。賊は進んで江陵に迫り、兵力五十万と呼号した。王鐸は兵が少ない ので、すぐ城中に立てこもった。これよりさき、劉漢宏が現地を占領して民家を焼きはらったので、人びとはみな山谷に逃げかくれた。引きつづいて李係が敗北し、その知らせがとどいたので、王鐸は城を棄てて襄陽に逃げた。官軍は混乱に乗じて掠奪をほしいままに した。 おりしも降雪があり、人びとは大方路傍で死んだ。 その十月、黄巣は荊南に拠り、李迢を脅迫して天子に答える上表文を起草させた。 李迢は「腕を切られても上表文は作れない」といったので、黄巣は怒って李迢を殺した。そして王鐸を追撃しようとしたが、たまたま江西招討使の曹全晸と山南東道節度使の劉巨容とが荊門にとりでを築いた。 そして沙陀族に命じて馬五百頭にきらびやかに飾った馬具をつけさせ、賊の陣営が見えるところまでくると、馬を放って逃げ帰らせた。賊は臆病だと思いこみ、翌日賊の諸将はそれらに乗って戦ったが、馬は沙陀族の言葉を知っているので沙陀族の言葉で呼ぶとすぐ駆けてゆき、賊の方はこれを引き留めることができない。官兵が林にひそんでいて、賊が闘って逃げる官軍を急追すると、伏兵が起こって大いに破り、賊の首領十二人をとらえた。黄巣はおそれて揚子江を渡って東方へにげたが、官軍がこれを追跡して、十人中八人を捕虜にした。王鐸は劉漢宏を招いて帰順させた。ある人が劉巨容に賊を追いつめるよう勧めると、劉巨容は答えた。「国家は往々にして人を裏切る。一大事のときは賞をおしまないが、事態が落着くと罪を受ける。賊を生かしておいた方が今後得策だ」と。そして軍を停止して追撃しなかった。そこで黄巣は再び態勢を整えることができ、鄂州を攻めて入城した。曹全晸が長江を渡ろうとすると、ちょうどその時、詔が下り、段彦謩に江西招討使を交代するよう命じたので、曹全晸は渡河を中止した。 黄巣は官軍の襲撃を畏れて、転じて江西を侵し、再び饒州・ 信州・杭州の諸州に入り、勢力も二十万に達した。臨安を攻めると、守将の董昌は無勢なので出戦をさけ、数十騎を叢の中に伏せておき、賊がやってくると、弓を仕かけて賊将を射殺させた。部下はみな敗走した。董昌は進軍して八百里という所に駐屯し、宿舎の老婆をつかまえ ていった。「後からやってくる者があれば、臨安の兵は八百里に屯しているといってくれ」。はたして 賊があとからやってきたが、その言葉を聞いた賊は、「この間はわずか数でこちらをさんざんなや ましたのに、八百里にわたって陣を張っているのか」と言っておどろき、やむなく、引き返して宣州・歙州など十五州を荒らしまわった。 広明元年(880)、淮南節度使の高駢が部将の張潾をつかわして揚子江を渡らせた。張潾は賊の隊長の王重覇を打ち破って降伏させた。黄巣はしばしば退却してようやく饒州に拠ったが、軍中に病人が多数出た。また別働隊の常宏は数万の勢力をひきいて降伏したが、あちこちで処刑されて殺された。諸軍はしばしば賊を破ったという虚偽の上奏を行なったが、朝廷はそれを信じて、いくらか安堵していた。黄巣は策略を設けて張潾を敗死させ、睦州・婺州の二州をおとしいれ、また宣州を取った。そして劉漢宏の残党も再び勢いを得て、宋州を攻め、申州・光州を侵略し、黄巣の方へやって来てこれと合流した。かれらは采石を渡って北岸の揚州を侵したが、高駢は軍を擁したまま打って出ようとはしなかった。朝廷は兗海泰寧軍節度使の斉克譲に詔して汝州に駐屯させ、曹全晸を天平節度使兼東面副都統に任命した。賊はその時、滁州と和州を守っていた。曹全晸は天平軍をひきいて戦ったが、淮河のほとりで敗北した。宰相の豆盧瑑は、援兵がまだ到着しないのを考慮して、黄巣に一時天平節度使を与えてその西進を阻み、精鋭部隊で宣武を守り、汝鄭への路を塞ぐならば、賊の首を取ることができましょうと要請した。盧攜はこの意見に頑強に反対し、諸道の兵を召して泗水の流域に布陣し、宣武節度使に総指揮をとらせていただきたい、そしたら黄巣はまたまた東南方面を侵し、浙江の山の中をうろついて生きのびるだけでしょうと申し立てた。詔して盧攜の策に従った。これよりさき、天下の兵に詔して水に集結して、賊の北進を阻止させた。それでちょうど徐州の軍隊がその途中許州を通過していたのであるが、忠武軍節度使の薛能が徐州軍を城中に泊めたので、許州の人びとは驚き、襲われるのではないかと考えた。忠武軍の部将の周岌は溵水から帰ってきて薛能を殺し、みずから留後を名のった。徐州軍はこの兵変を聞いて、その列将の時溥も兵をひきいて帰り、徐州節度使の支詳をとらえた。兗海節度使の斉克譲も部下の背反をおそれ、軍を引きつれて兗州に帰ったので、溵水に集結した軍隊はみな解散してしまった。 黄巣はこれを聞いて全軍挙げて淮河を渡り、不とどきにも率土大将軍と名のった。そして軍隊の秩序をととのえてこれまでのように掠奪を行なわず、行くさきざきで壮丁を用して兵力を増すだけであった。李罕之は申州・光州・穎州・宋州・兗州などの州を侵したが役人たちはみな逃げてしまった。黄巣はみずから部隊をひきいて汝州を攻めた。東都に迫ろうというのである。この事態に際して、天子は幼弱で、怖がって泣いてばかりいた。宰相たちはこもごも神策軍と関内各節度使の兵、合計十五万をすべて動員して潼関を守るべきだと建言した。田令孜はみずから部隊をひきいて東征したいと願い出たが、しかし内心はすっかり動転していて、あらかじめ蜀へ行幸することを帝に説いていた。帝はみずから神策軍に出かけ、左軍馬将軍の張承範を先鋒とし、右軍歩兵軍将の王師会に兵站線を司らせ、飛竜使の楊復恭を田令孜の副とした。こうして京師で兵士の募集を行なって数千人を確保した。 この時、黄巣はすでに東都を陥れ、留守の劉允章が百官を率いて賊を迎えた。黄巣は入城して市民をねぎらうだけだったので、町の人心は落着いていた。帝は田令孜を章信門に見送り、手あつい贈物を与えた。しかしながら近衛兵たちはみな長安の金持ちで、代々左右神策両軍に軍籍があって天子から賜与を受け、華美な服装で威勢よく馬を走らせては羽振りのよさをひけらかしていたが、もともと戦の仕方など知らず、選にあたったと聞いてみな家で泣き出す始末であった。こっそり金を出し、商業地区や病坊から人をやって出征兵の員数をみたしたが、かれらは武器をもつこともできない始末で、この有様を見る者はこれでどうなることかと肌の寒くなる思いをしたのであった。張承範は強弩兵三千を引きつれて潼関防衛に出かけたが、出発に臨んで言った。「安禄山は兵五万を率いて東都を陥れました。いま賊の兵力は六十万、安禄山の場合をはるかに越えております。この三千の兵だけではとても守ることはむずかしゅうございます」。帝は兵力増加を許さなかった。賊は進撃して陝州・虢州の二州を取り、潼関の守備隊に向かって檄を送った。「われわれは淮南を通るとき、あの高駢を穴の中に逃げこむ鼠のように追い払ったのだ。お前たちはわれわれに抵抗することはないぞ」。神策軍の兵士たちは華州を通過したが、三日間の食糧を携帯するだけで空腹を充たすことができず、戦意を失っていた。 十二月、黄巣は潼関を攻撃した。斉克譲はその部隊を率いて関の外で戦った。賊は少しばかり退却したが、突然、黄巣がやって来た。軍勢は大きなときの声を挙げ、そのひびきが川や谷を震わせた。その時官軍の兵士たちはひどい空腹状態にあり、こっそり斉克譲の軍営を焼き払った。斉克譲は逃走し関内に入った。張承範は金を出して軍中を説得して言った。「諸君、報国につとめよ。救援も今に来る」。兵士たちは感泣して防戦したが、賊は後続部隊が来ないと見てとって、一気に潼関を攻めた。官軍は矢が尽き、石を飛ばして敵を射た。黄巣は民衆を使って塹壕の中から関所の建物に火をつけ、すっかり焼き払った。関所の左手に大きな谷があり、かねて通行禁止にしてあったので禁谷とよばれていた。賊がやって来て、田令孜は関所に軍を集結させたが、谷から入ることができるのを忘れていた。尚譲が部隊をひきいて谷の方にやって来ると、張承範はあわてて王師会に弩隊八百をもってこれを待ち受けさせた。王師会らが到着する頃には、賊はもう侵入していて、翌日、関をはさみ討ちにして攻めた。官軍は潰滅した。王師会は自殺しようとしたが、張承範は、「われわれ二人が死んでしまえば、事情を述べる者はだれもいなくなる。それより天子に見えて実状を申し上げよう。死ぬのはそれからでもおそくはない」といって、変装して逃げた。これより先、博野と鳳翔の部隊が渭橋を通過するとき、募軍の衣服が美しく温かなのを見て「こいつらはどんな手柄を立ててもうこんな良い服装をしているのだ」と怒ったが、戦況がこうなって、こんどは賊の道案内をつとめ、賊より一足先きに長安に帰って西市を焼き払った。帝は郊外で類祭を行なって祈祷した。ちょうどそのとき張承範が到着して防ぎ切れなかった模様をつぶさに述べた。帝は宰相の盧攜を左遷した。まさに朝議を行おうとするとき、賊がやって来たという知らせが伝わってきて、百官は逃げてしまった。田令孜は神策兵五百をひきい、帝を奉じて咸陽に走った。わずかに福王・穆王・潭王・寿王(後の昭宗)の四王と一、二の妃嬪だけが随行し、宦官の西門匡範が右神策軍を統率して殿(しんがり)をつとめた。 黄巣は尚譲を平唐大将軍とし、蓋洪と費伝古をその副将とした。賊の兵士たちはみなザンバラ髪に錦の服を着ていた。大量に輜重を輸送したが、それは東都から京師まで一千里の道をとめどもなく続いた。金吾大将軍の張直方は群臣とともに賊を灞水のほとりに出迎えた。黄巣は黄金作りの輿に乗り、護衛兵はすべてを刺繍した袍と美しい幘(頭巾)をつけていた。黄巣の一味は銅製の輿に乗ってこれに従行した。およそ何十万という騎兵がその前後を行進した。京師を陥れて春明門より入城し、太極殿に升ると、数千の宮女が迎えて拝礼し、「黄王さま」とよんだ。黄巣は「ほとんど天の思召しのようだ」と喜んだ。黄巣は田令の邸宅に居を定めた。賊は貧民を見ると、銭や絹のきれを投げ与えた。尚譲はさっそく人民に向かって出たらめな告諭を行なった。「黄王はお前たちをあわれまなかった唐朝とはちがうのだ。おのおの何も恐がらず、安心しておるがよい」。しかしわずか数日にしてやはりひどい掠奪をやり出し、住民を縛ったり鞭打ったりして財貨をさがし求め、それを「淘物」といった。金持ちはみなはだしのままで追い出された。賊の首領たちは立派な邸宅を選んで住み、争って人の妻や娘を奪っては乱暴をはたらいた。官吏を捕えるとすべて斬り捨てた。家屋に放火する例は数え切れないほどで、帝室の一族や王侯は余す所なく殺した。 黄巣は太清宮で身を清め、日を占って含元殿において不とどきにも即位式を挙げ、国号を大斉と号した。衮冕を求めたが手に入らず、弋綈(厚いつむぎ)に模様を画いてその代わりとし、金石の楽器がないので、数百の太鼓を打ち、長剣大刀を列ねて儀衛とした。大赦令を発布し、元号を建てて金統とした。唐朝の官吏は三品以上の者は停任し、四品以下元通りとした。かくて自分で符命を述べたが、それは唐の年号の広明という文字からつぎのような文句を判したものであった。「廣の字は唐より丑と口を去って黄を著く。ゆえに黄が唐に取って代わるべきこと明らかなる証拠なり」。またいうには、「黄は土で、金の生みの親である。これはきっと天のみちびきにちがいない」と。その一味は黄巣に承天広運啓聖睿文宣武皇帝という尊号を上った。黄巣は妻の曹氏を皇后とし、尚譲・趙璋・崔璆・楊希古を宰相とした。鄭漢璋を御史中丞に、李儔・黄諤・尚儒を尚書に、方特を議大夫に、皮日休・沈雲翔・裴渥を翰林学士に、孟楷・蓋洪を尚書左右僕射兼軍容使に、費伝古を枢密使に、張直方を検校左僕射に、馬祥を右散騎常侍に、王璠を京兆尹に、許建・米実・劉瑭・朱温・張全・彭攢・李逵らを諸将軍・遊奕使にした。その他の者も順序にしたがって官爵を授けた。剽悍雄偉な者五百人をえらんで功臣と名づけ、林言をその使(責任者)とし、控鶴府になぞらえた。軍中に命令をくだして、むやみに人を殺すことを禁じ、武器をすべて官に差し出させた。しかしその部下はもともと盗賊なので、みな一向に服従しなかった。唐朝の官吏を召集したがやって来る者がないので、街中を大がかりに捜索した。豆盧瑑・崔沆らは永寧里の張直方の家に匿れていた。張直方という人物はもともと豪傑であったから、士人たちが多数かれに頼っていたのである。かれが亡命者をかくまっていることを賊に告げる者があり、黄巣はこれを襲ってその家を全滅させた。豆盧瑑・崔沆から高官の劉鄴・裴諗・趙濛・李溥・李湯に至るまで百人あまりの死者を出した。将作監の鄭綦、郎官の鄭係は一族を挙げて絞殺された。 この時、天子の乗輿は興元府に駐っていたが、詔を下して諸道の軍隊に京師の回復を早めるよう命じた。そして天子はとうとう成都に到着した。黄巣は朱温をやって鄧州を攻めさせ、これを陥れて荊襄方面を荒らした。また林言と尚譲に鳳翔に攻め入らせたが、鄭畋の部将の宋文通に破られ、前進できなくなった。そこで鄭を発して天下の兵を召集した。かくて詔を下して、涇原節度使の程宗楚を諸軍行営副都統とし、前朔方節度使の唐弘夫を行営司馬とした。かれらはしばしば賊を攻めて一万人もの首を斬った。邠寧の将の朱玫はいつわって賊将王玫のために兵を集めていたが、たちまち王玫を殺し、部隊をひきいて官軍に合流した。唐弘夫は進軍して渭水の北岸に駐屯し、河中の王重栄は沙苑に陣をかまえ、易定の王処存は渭橋に駐屯し、鄜延の李孝昌と夏州の拓跋思恭は武功を守った。唐弘夫は咸陽を抜き、渭水に筏を浮べて尚譲の軍を破り、勝に乗じて京師に入った。黄巣はひそかに脱出して石井まで行った。程宗楚は延秋門から入った。唐弘夫は城壁にとりついて駐屯した。都民はみんなで騒ぎ立てた。「官軍がやって来たぞ」。王処存は精兵五千をつかわし、白布で髪を束ねてお互いの目じるしとし、夜、入城して賊を殺した。都民が黄巣がすでに逃走したことを知らせたので、邠寧・涇原軍は争って首都に入ったが、諸軍は武装を解いて休息すると、これまたわれ先きに財貨・子女を掠奪した。市の無頼の少年たちもさかんに𩫹を作って、思いのままに盗みを働いた。 黄巣は郊外にひそんで城中を偵察させていたが、備えが弛むと見るや早速、孟楷に賊兵数百を率いて邠寧・涇原軍を襲わせた。都民はこれもやはり官軍だと思って歓呼して迎えた。その時官軍の兵士たちは珍しい財宝を運び切れないほど手に入れていたが、賊がやって来たと聞いて、しこたま背負いこんだので走ることができず、それでさんざん負けてしまったのであった。賊は唐弘夫をとらえて殺した。王処存は軍営に逃げこんだ。始め王璠は奉天を破り、兵数千を率いて唐弘夫に接敵し、諸将が敗れたときには一軍だけで戦い、大いに力戦したのであった。黄巣が再び京師に入ると、民衆が官軍を迎え入れたのを怒り、めちゃめちゃに斬って八万人を殺した。路の上を血が川のように流れ、「洗城」といわれた。諸軍は退却して武功を守った。このとき中和二年(882)二月であった。 その五月、昭義軍の高潯が華州を攻め、王重栄がこれに協力してここを攻略した。朱玫は涇原、岐(鳳翔)、鄜坊、夏綏銀の諸節度使の兵八万をひきいて興平に陣営をかまえた。黄巣もまた王璠をつかわして黒水に陣営をかまえた。朱玫は戦ったが勝つには至らなかった。鄭畋の部将の竇玫は夜、兵をひきいて都城の門を焼きはらい、巡邏兵を殺した。賊はおそれ慄いた。その時、畿内の民衆は山の中に柵をめぐらして自衛をはかったので耕作ができず、一斗(6L)の米が三十千銭(三十緡)にはね上った。樹皮をこまかく砕いて食ったり、柵の中の民をとらえて賊に売りつけ、賊はそれを食糧とすることさえあった。人ひとりで数十万銭になった。士人のなかには餅売りとなる者もあったが、こぞって河中に亡命した。李孝昌と拓跋思恭は移動して東渭橋に陣をかまえ、渭水北岸の塁を占領した。 数ヵ月して賊の首領の朱温と尚譲が渭水を渡って李孝昌らの軍を破った。高潯は賊の李詳を攻撃したが勝てず、賊は再び華州を取った。黄巣は即座に李詳に華州刺史を授け、朱温を同州刺史とした。賊はまた李孝昌を襲撃したので、李孝昌と拓跋思恭の両軍は撤退した。賊は陳敬瑄の兵を破り、終南山に逃走させた。斉克倹は興平に軍営をおき、賊に囲まれた。賊は河の堤防を切って水攻めにしたが、陥しいれることはできなかった。尚書省の入口に、賊は今にも亡びるだろうという誹謗の言葉を書きつけた者があり、尚譲は怒って官吏を殺し、すぐ目をくり抜いてさらしものにした。郎官や門の衛卒およそ数千人が誅された。百官は逃げ出して誰もいなくなった。 天子はあらためて王鐸を諸道行営都統とし、崔安潜を副都統、周岌・王重栄を都統左右司馬、諸葛爽・康実を左右先鋒、平師儒を後軍とした。時溥を督漕賦、王処存・李孝昌・拓跋思恭を京畿都統とし、王処存は左翼に当たり、李孝昌は北部に任じ、拓跋思恭は右翼に当たった。西門思恭は王鐸の都監となり、楊復光は行営を監し、中書舎人の盧胤征を克復制置副使とした。ここにおいて王鐸は山南・剣南の軍をひきいて霊感祠に陣取り、朱玫は岐(鳳翔)、夏綏銀の軍をひきいて興平に陣取り、王重栄と王処存は渭水の北に陣取り、楊復光は寿滄荊南の軍をひきい、周岌と合流して武功に陣取り、李孝昌は拓跋思恭と合流して渭橋に陣取り、程宗楚は京師の西方に陣取った。 朱温は兵三千をひきい、丹州・延州の南辺を荒らしまわって同州に攻めこんだ。刺史の米逢は出奔し、朱温は州を占拠してここを守った。六月、尚譲は河中に攻め入り、朱温に四関を攻めさせた。諸葛爽を打ち負かし、王重栄の数千騎を黄河のほとりで破った。諸葛爽は関所を閉じて、出戦しようとしなかった。尚譲はついに郃陽を抜き宜君塁を攻めた。一尺を越える大雪で兵士の三割が死んだ。七月、賊は鳳翔を攻め、節度使の李昌言を澇水で破った。また精鋭をつかわして武功・槐里を攻めた。涇原・邠寧の兵は退却したが、鳳翔の兵だけは堅固に守った。拓跋思恭は精兵一万八千をひきいて難に赴いたが、ぐずぐずとして進まなかった。河中の食糧を積んだ舟が三十艘、夏陽を通過しているとき、朱温が兵をやって舟を奪わせた。王重栄は兵士三万をひきいてこれを救った。朱温はおそれてその舟に穴を空けて沈めてしまった。王重栄の兵はついに朱温を包囲し、朱温は幾度となく追いつめられた。また黄巣の勢力が縮小して今にも敗北しようとするありさまであり、そのうえ孟楷が目下国政を専断していて、朱温が援兵を乞うても孟楷はそれを押えて返答しない状況を考え、朱温は突如として賊の大将の馬恭を斬って王重栄にくだった。帝は拓跋思恭の任務を進めて、京四面都統とし、朱玫に勅を下して馬嵬に駐軍させた。朱温が降ると、王重栄はかれを手厚く待遇した。そこで賊将の李詳もよしみを通じて来たが、賊はこのことを覚って李詳を赤水で斬り、その代わりに、黄巣の弟の黄思鄴を華州刺史とした。 十月、王鐸は興平の西から馬嵬に至るまで濠をさらえ、部将の薛韜にそれを管理させた。馬嵬・武功から斜谷に入って盩厔に通じる間には十四の駐屯部隊を列置し、部将の梁璩にこれを統べさせた。また沮水・七盤・三渓・木皮嶺に関所を置いて、秦隴方面との間を遮断した。左行営都統の東方逵が賊の猛将の李公迪を捕虜にし、三十のとりでを打ち破った。華州の兵士が黄思鄴を追放した。黄巣は王遇を刺史としたが、王遇は河中に降った。 明年正月、王鐸は雁門節度使の李克用をつかわして賊を渭水の南に破った。承制によって李克用を東北行営都統に任命した。たまたま王鐸と崔安潜はどちらも免官となったので、李克用だけが部隊を率いて嵐州・石州から夏陽に出て沙苑に駐屯し、黄揆の軍を破ってついに乾阬に陣を置いた。二月、河中・易定・忠武などの軍と合流して黄巣を攻撃した。黄巣は王璠・林言の軍に命じて左翼を守らせ、趙璋・尚譲の軍に右翼を守らせた。兵力およそ十万、官軍と梁田陂ではげしく戦ったが、賊は敗れ、数万人が捕虜となった。死屍が三十里にわたって横たわり、官軍はそれを収用して京観を作った。王璠と黄揆は華州を襲ってここを占拠した。王遇は逃走した。李克用は州城のまわりに濠を掘り、騎兵を割いて渭水の北岸に駐屯させ、薛志勤と康君立に命じて京師を夜襲させた。薛志勤らは倉庫に火をつけ、賊を捕虜にして帰ってきた。 黄巣は戦ってしばしば利あらず、兵糧もつきた。部下は命令に従わず、ひそかに逃亡の計画を抱いた。そこで黄巣は兵三万を発して藍田方面のルートを押え、尚譲に華州を応援させた。李克用は王重栄を率いて零口に迎え討ち、とうとう華州の州城を陥れた。黄揆は部下を率いて城を脱走した。涇原節度使の張鈞は吐谷渾を説得して、協力して賊を討つことを誓いあった。この時、諸鎮の兵が四方からやって来た。四月、李克用は部将の楊守宗をつかわし、河中の将の白志遷、忠武の将の龐従らを率いて、一番先頭に立って進み、賊を渭橋で攻撃させた。三戦して賊は三たび敗北した。そこで各節度使の兵もみな奮い立ち、後れをとる者もなく、光泰門から突入した。李克用は率先して決戦をいどみ、ときの声が天をどよもした。賊は崩れ立った。逃げるのを望春宮まで追い、昇陽殿の門内に入った。黄巣は夜中に遁走したが、兵力はなお十五万あり、徐州に赴くと宣言して、藍田を出て商山に入った。軍需品や珍貨を道に棄てたので、諸軍はわれ先きにとそれを拾い、それ以上追撃することをやめた。そこで賊は部隊を整えて撤退することができたのである。 安禄山が長安を陥れてからも、宮殿は完成された壮大なすがたを保っていた。吐蕃に焼き払われたのは、市街の民家だけであった。朱泚の乱が平定されてから百年余りの間に壮麗に修復されて、開元年間(713-741)同様になった。黄巣が敗退するに及んで、藩鎮の兵が入れかわり立ちかわり入ってきて掠奪を働き、大内に火をつけた。含元殿だけが焼け残った。火の及ばなかったのは、西内・南内および光啓宮だけであった。楊復光は四川の行在に勝利を報告した。帝は陳許・延州・鳳翔・博野の諸軍に詔して東西神策軍二万人を京師に駐屯させ、大明宮留守の王徽に命じて諸門を警護し居民を安定させた。尚書右僕射の裴璩に詔して、宮殿役所を修復し、輦輅(天子の乗輿)・仗衛(儀仗)・旧章(旗じるし)・秘籍を買い求めさせた。黄巣を破るのに預った者は、神策将横衝軍使の楊守亮、躡雲都将の高周彝、忠順都将の胡真、天徳将の顧彦朗ら七十人であった。 黄巣は東方に向かうと、孟楷に蔡州を攻撃させた。節度使の秦宗権はこれを迎え討ったが大敗し、たちまち賊に臣従して連合した。孟楷は陳州を攻撃して敗死した。黄巣はみずから陳州を囲み、鄧州・許州・孟州・洛州の諸州を取り、東進して徐州・兗州など数十州に攻め入った。人民はひどい飢餓に襲われ、城壁や塹壕にもたれたまま死んでいった。賊は人をとらえては食った。それが一日数千人に及び、大きな石礁を百個も並べて、骨や皮を臼で砕き、丸ごとこれをくらった。この時、朱全忠は宣武軍節度使となり、周岌や時溥と部隊をひきいて陳州の趙犫を救援したが、さらに太原の李克用に兵を求めた。黄巣は秦宗権をつかわして許州を攻撃させたが、勝つには至らなかった。そうした時に、食糧は尽き、木の皮、草の根までもみな無くなった。 四年二月、李克用が山西の兵を率いて、陜州より黄河を渡って東に向かった。たまたま関東の諸藩鎮は汝州に陣取っていたが、朱全忠は賊を瓦子堡に攻撃して、一万余の首を斬った。諸軍は太康で尚譲を破り、これも一万の首級を上げ、何万という武器・甲冑・馬・羊を鹵獲した。また西華において黄鄴を破った。黄鄴は夜、遁走した。黄巣は大いに恐れた。三日すると、軍の内部が動揺して、とりでを放棄して逃走した。黄巣は退却して故陽里に軍営を設けた。その五月、大雨が降り雷電がとどろいた。川も谷川も膨張し、賊のとりでは全部崩潰し、軍隊も解体してしまった。黄巣は陣を解いて去った。朱全忠は進軍して尉氏を守り、李克用は黄巣を追撃した。朱全忠は汴州に引き揚げた。 黄巣は尉氏を取り、中牟を攻めた。部隊が河の中ほどまで渡ったとき、李克用がこれを攻撃した。賊は大部分溺死した。黄巣は生き残りの兵をひいて封丘に逃げた。李克用は追撃してこれを破り、再び鄭州に陣をかまえた。黄巣は汴河を渡って北へ退却したが、夜再び大雨となり、賊はうろたえて混乱に陥った。李克用はこれを聞いていきなり黄巣を河のほとりで襲撃した。黄巣は河を渡って汴州を攻めた。朱全忠はこれを防守し、李克用が救援して、賊の暁将の李周・楊景彪らを斬った。黄巣は夜中に胙城に逃げ、冤句に入った。李克用は軍を挙げて追い迫った。賊将の李讜・楊能・霍存・葛従周・張帰霸・張帰厚は朱全忠のもとに赴いて降った。また尚譲は一万人をひきいて時溥に帰順した。黄巣はますます疑い深く怒り易くなり、しばしば主だった部将を殺した。兵をひきいて兗州に逃走したが、李克用は追跡して曹州までやってきた。黄巣兄弟は防戦したが勝てず、兗州と鄆州の境界地方に逃げこんだ。李克用は男女牛馬一万余り、乗物・器物・衣服等を鹵獲し、黄巣の愛子をとりこにした。李克用の部隊は昼夜兼行で急いだが、食糧がつきたので、黄巣をとらえることができず、やむなく引き返した。黄巣はわずか一千人の勢力で太山に逃げこんで立てこもった。 六月、時溥が部将の陳景瑜と尚譲を派遣して追わせ、狼虎谷で戦った。黄巣はもはやどうすることもできなくなって、林言にいった。「わしは国家の奸臣を討って朝廷を洗い清めようとおもったが、一旦成功して退かなかったのが、そもそも間違いであった。お前はわしの首を取って天子に献上せよ。そしたら富貴が得られよう。この機会を他人に取られるのでないぞ」。林言は、黄巣が死に就くために出てくると、どうしても討つに忍びなかった。黄巣はやむなく自分の手で首を刎ねたが、首が胴体からなかなか離れないので、林言が斬った。その他兄の存、弟の黄鄴・黄揆・黄欽・黄秉・黄万通・黄思厚およびその妻子たちもいっしょに殺して、その首をすべて箱に入れ、それをもって時溥のところに行こうとした。しかし太原・博野の軍が林言を殺し、黄巣の首といっしょに時溥に上呈した。時溥はそれを行在に献上し、天子は詔してこれを帝廟に捧げさせた。徐州の下役人の李師悦が黄巣の使ったにせの節と印璽を手に入れて献上し、湖州刺史に任命された。 黄巣の従子の黄浩は、七千の勢力で江湖の間を略奪してまわって、浪蕩軍と自称した。天復年間(901-904)初頭、湖南に拠ろうと考えて瀏陽を陥れた。殺したり掠めたりした人間はおびただしい数に上ったが、湘陰の豪族の鄧進思が壮士をひきいて山中にかくれ、黄浩を撃って殺した。 賛にいわく、広明元年(880)、黄巣が京師をぬすみ取ったとき、黄巣はわれから言い立てたものである。「廣の字は唐から丑と口を取り去って黄を著ける。ゆえに廣明とは黄が唐にとって代わることの明らかな証拠だ」と。ああ、何という世を惑わす言葉であろう。その後黄巣が死ぬと、秦宗権が勢力を拡張し始め、動乱はつぎからつぎへとつらなって天下にひろがり、朱温がとうとう唐朝の神器をぬすんで政権をわがものにしたのであるが、これらは大方みな黄巣の一味である。天がこれらの連中に託して唐朝の滅亡を天下に告知したのであろうか! 秦宗権は、蔡州上蔡の人で、許州の牙将となった。黄巣が淮河をわたると、節度使の薛能は宗権を派遣して兵を淮西で募集したが、許州で軍乱がおき、薛能は殺害された。宗権は外で軍乱を聞いて赴こうとし、そこで刺史を追放して、蔡州を根拠として叛いた。周岌が薛能に代わって節度使を掌握すると、そこで宗権に蔡州を授けて、兵一万人を有させた。そこで将を派遣して諸軍を従わせて黄巣賊を汝州で破った。楊復光はこれを朝廷に報告し、防禦使に抜擢し、その軍を奉国軍とし、本軍節度使とし、検校司空に昇進した。 黄巣が敗走して関中から出ると、宗権は同盟を結び、遂に陳州を包囲して、防壁を立てて互いに望見し、梁・宋の間を騒がせた。黄巣が死ぬと、宗権の勢力は強くなり、亡命者を呼び集め、四海を呑み込んでしまおうという思いがあった。そこで弟の秦宗言を派遣して荊南に侵攻した。秦誥は山南に出て、襄州を攻撃して陥落させ、進撃して東都(洛陽)を占領し、陝州を包囲した。秦彦に淮州・肥州を、秦賢に江南を攻略させ、秦宗衡に岳州・鄂州を蹂躙させた。賊の親玉は剽悍で惨忍な者を率いて、行くところの老人や子供を殺し、家々を焼き、城府は荒野と化した。関中より青州・斉州に迫り、南は荊州・郢州をめぐり、北は衛州・滑州にあって、皆脅えて隠れたから、千里にいたるまで家々から煙がなかった。ただ趙犫が陳州を、朱全忠が汴州を保持して、僅かに自ら全うするだけであった。しかし覇王の計略などなく、ただ戦乱をたのみとしたから、兵は出ても補給がなかったから、村々を指さして、「あそこの人を食って我が軍に食べさせよう」と言っていた。官軍が追跡すると、食用に塩漬けされた死体が入った車数十台を鹵獲した。 僖宗は朱全忠を行営都統に任命して賊を討伐させた。秦賢は宋州および曹州を攻略したから、朱全忠は書を贈って和平を約束した。秦賢は張調を派遣して地を分け、汴河より以南は蔡に帰属させることを提案し、朱全忠は心内では許諾していたが、秦賢が兵を率いて汴河を渡り、ほしいままに放火・略奪を行い、一つとして余すことがなかった。朱全忠は大いに怒り、張調を斬って死体を送り返し、「我が十将を出せば、必ずやこの賊を破るだろう」と進撃して賊と戦い、大勢を殺したり捕虜とした。宗権は許州を猛攻したたため、節度使の鹿晏弘は援軍を朱全忠に要請したが、軍が出発して到着する以前に、すでに鹿晏弘は破られ、鄭州に進攻して奪取した。河橋を攻撃してきたから、遂に河陽を守ることとなり、兵を放って汴州の西部・北部のあたりを侵攻した。 朱全忠は酸棗に立て籠もり、戦ったが勝てなかった。宗権は周囲の村々に駐屯し、秦賢に双丘に駐屯させ、板橋に進攻した。盧瑭は兵を率いて万勝に駐屯し、汴を挟んで城柵とし、橋をつくって軍を渡らせた。朱全忠は奇襲して盧瑭を殺したが、それでも宗権は全軍十五万で三十六の屯営を列べ、汴州に迫った。朱全忠は恐れ、救援を兗鄆(天平軍節度使朱宣)に求め、朱瑾・朱宣は自ら軍を率いて同じく賊を防いだ。五月、朱全忠は城を閉ざして大いに宴会し、鼓の音は郊外まで聞こえたが、声は聞こえなかった。密かに北門を開いて賊の砦を攻撃し、兵士は騒動となり、中営に逃げ、そこを兗鄆の軍は兵を整えて挟撃したから、大いに破った。宗権は怒り、鄭州を通過すると、城郭や家に放火し、民は逃げて淮西に入り、朱全忠は鄭州・許州・河陽・東都(洛陽)をその手に納めた。 ここに諸鎮の兵を合わせて上蔡に会し、五軍に分けてその地に侵入した。宗権は孫儒を召集したが、孫儒は応じなかった。宗権は当初より上蔡を守って防備の要としていたが、朱全忠はその守りを抜いたから、遂に蔡州を包囲し、城に沿って防塁を築き、弱兵で賊を誘い出し、賊は出て戦ったが、朱全忠はことごとく斬った。宗権は退いて中州を守ろうとしたが、中州に到る前に朱全忠は大将の胡元琮に包囲させ、朱全忠自身は汴州に帰還した。宗権は許州が防備されていない隙を伺って、襲撃してその州を奪取して、守将の胡元琮を捕虜とし、兵を引き返して再び許州を恢復した。 宗権が帰還すると、寵将の申叢によって捕らえられて片足を折られた。申叢は指図を待ち、朱全忠は申叢を節度留後としたが、申叢は心の中で後悔し、宗権の一族を皆殺しにした。宗権が汴州に到着すると、朱全忠は礼をもって迎えた。そして、「公は昔、許州を陥落させたとき、もし、よく兵を納めて盟を賜い、力をつくして勤王に励まれたなら、どうして今日のようなことになったでしょうか?」と言うと、宗権は、「英雄は並び立たず、天は僕を滅ぼして公を助けたのです」と奢って言い、恐れは顔色に出なかった。朱全忠は檻車を京師に送り、両神策兵が護送した。昭宗は延喜楼に御して捕虜を受け取り、京兆尹は檻車を曳かせるのは甲兵にさせ、両市で晒し者にした。首を延ばして檻車の外を見て、「この宗権をどうして謀叛人というのか!ただ忠義を行ったのに評価されなかっただけだ」と叫んだが、見ていた者は大笑するだけであった。妻の趙氏とともに独柳の下で斬られた。宗権は中和三年(883)に叛いてから、六年で誅殺された。 董昌は、杭州臨安の人である。始め土団軍(民間防衛隊)に籍を置き、軍功によって石鏡鎮の将となった。中和三年(883)、杭州刺史の路審中が任地に赴任してくるのを、昌は兵を率いて防いで入らせず、そこで自ら杭州を司った。鎮海節度使の周宝は制御することができず、そこで上表して刺史とした。昌はすでに劉漢宏を破り、兵力はますます強くなり、義勝軍節度使・検校尚書右僕射に昇進した。僖宗が京師に帰還すると、昌は越の民の裴氏の蔵書を奪って献上し、秘書の亡失を補ったから、兼諸道採訪図籍使を授けられた。 それより以前、統治は清廉かつ公平で、人は非常に安心した。この当時、天下の貢輸は朝廷に入らず、ただ昌だけは他の献納より常に三倍多く、十日に一度献納の派遣をし、五百人を率い、人に一刀を給付したから、後に誅殺すべき時になっても、朝廷はその貢納を頼っていたから、そのため累進して検校太尉・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、爵位は隴西郡王となった。詔書を見終わると、詔書に一字あるごとに一縑の絹を帰還する使節に贈った。しかし性格は心が狭く意にそぐわなくなり、次第に傲慢となり、神の託宣があったと群衆を欺いた。はじめ生祠を建て、香木を刳り貫いて身体とし、内に金玉紈素で内臓をつくり、冕服を着せて座らせ、妻媵氏も別帳に侍り、百人の倡優にその前で演奏させ、部下の兵を列べて門前を守らせた。属州に土馬を造らせて祠下に献じさせ、神饌を列べて祈請し、ある者は土馬が嘶いたり汗をかいたようだと詐称し、皆、褒賞を受けた。昌は自ら、「饗があれば、私は必ず酔うのだ」と言った。蝗が祠の傍らに集まると、人に捕えさせて鏡湖に沈めさせ、「災いとはならなかった」と告げた。客人が、「以前に呉隠之の祠に参詣したら一つの偶像に止められた」と言ったが、昌は聞いて、「私は呉隠之の比ではない!」と怒り、客を祠の前で支解(四股を断つ)にした。 それより以前、塩の専売を止めて人を喜ばせ、衣食が豊かになったが、後にだんだん苛法となり、笞刑は千百回となり、ある者は小さな過失でたちまち一族を殺され、血は刑場に流れ、地はそのために赤くなった。五千あまりの姓が族滅にあたり、昌は、「よく私に孝行すれば、死を免れる」と言ったから、全員が「わかりました」と言った。昌は厚くこれを養い、「感恩都」と称し、その臂に刻んで誓いとし、親族は号泣して別れた。およそ民事の訟えは、獄に下されることはなく、ただ賽子(さいころ)を投げて、勝たなかった者は死んだ。人を用いるのにもまた賽子で勝者を採用した。 昌は隴西郡王に封じられると、舌打ちして、「朝廷は私が担っているが、私が金帛を奉っても贖うことはなく、どうして王号を越えることを惜しんで私に与えないのか?私はまさに自らこれを取るべきだ!」と言い、部下はその暴虐を嫌がったから、そこで帝となることを勧めた。近県は騒がしく叫んで請い、昌は命令して、「時が至れば、我はまさに天に応じて人を従わせるだろう」と言い、その部下の呉繇・秦昌裕・盧勤・朱瓚・董庠・李暢・薛遼と妖人の応智・王温、巫の韓媼は皆賛成した。昌は増援を四県の城に送って自ら防いだ。山陰の老人が偽って、「天子の名を知らんと欲せば、日従って日上れば生ぜん」という謡を献上すると昌は喜び、百匹の縑を賜い、納税を免除した。方士の朱思遠に命じて壇を築いて天を祀らせ、偽って天符が夜に降り、碧色の紙で朱の文で、文意を知ることができないと言った。昌は、「讖に「兎、金牀に上る」とあるが、私は卯に産まれ、来年の干支、二月朔日の翌日は、すべて卯である。私はその時を以てまさに即位しよう」と言い、客人の倪徳儒は、「咸通年間(860-874)の末に、越中の秘記に、「羅(あみ)あって鳥を平らげ、越の禍福を主る」とありました。すると中和年間(881-885)に、鳥が呉・越で発見されました。その鳥は四つ眼の三つ足で、「羅平天冊」と鳴いており、民は祀って難を祓いました。今大王の署名は、文と鳥の類です」と言い、そこで図讖を昌に示すと、昌は大いに喜んだ。 乾寧二年(895)、偽帝の位に即位し、国号を大越羅平とし、天冊と建元し、自らを「聖人」と称し、一方が四寸の銀印を鋳造し、印文は「順天治国之印」とした。また平民が出して奉ってきた銅鉛石印十牀および鳥・獣・亀・蛇を宮廷に陳列し、これを指さして「天瑞」といった。制詔を下す際には、すべて自ら署名した。ある者が帝王は詔に書判しないと言うと、昌は、「親署しなければ、どうして我が天子であることを知るのか?」と言い、そこで南門に榜示して「天冊楼」とした。これより以前、杭州の寝殿で夜中に赤光があり、長さ十丈(3m)あまりであった。虺(まむし)の長さ一尺(30cm)あまりで、金色のものが思道亭で発見された。昌は寝殿を明光殿と名付け、亭を黄龍殿とした。自身を神とし、百官を配置し、軍と官属を監督して皆西北(長安)に向かって慟哭させ、そこで北面して昌を臣とした。ある者は近侍に任命されることを願ったが、昌は、「私は仮にこの位にいるのであって、どうして宮中・朝廷のようにできようか?」と言い、許さなかった。書を属州に下して、「某日を以て仮に即位したが、昌は天子の恩を荷なっており、死んでも敢えて国に背かない」と述べた。 それより以前、官属で昌の命令に従わない者は、節度副使の黄碣・山陰令の張遜で、皆誅殺されて死んだ。鎮海節度使の銭鏐は書簡を送って昌を責めて、「府を開いて節度を領することは、一生富貴をもたらすが、それを守ることができず、城を閉ざして天子になるなど、親族を滅ぼすようなものだ。また何を頼るというのか?願わくば王よ、謀を改められよ」と述べたが、昌は聞かなかった。銭鏐は全兵力三万で攻撃し、城を臨んで再拝して、「大王よ。位は将相におよびながら、臣となっていません。過ちを改めることができれば、説得して諸軍を返しましょう」と述べると昌は恐れ、銭鏐に銭二百万緡を献じて軍をねぎらい、応智・王温・韓媼・呉繇・秦昌裕を捕らえて銭鏐に送還し、そこで罪状の判断を待った。銭鏐はそこで帰還し、朝廷に上表したが、昌は赦すべきではないとされたから、再び討伐となり、城に沿って防塁を築いた。昌はまた朱思遠・王守真・盧勤を捕らえて銭鏐の軍に送って許しを求めた。昭宗は宦官の李重密を派遣して軍を労い、昌の官爵を除き、銭鏐に浙東道招討使を授けた。昌はそこで淮南の楊行密に救援を求め、楊行密は将軍の台濛を派遣して蘇州を包囲させ、安仁義・田頵に杭州を攻撃させて昌を救おうとした。銭鏐の将軍の顧全武等はしばしば昌の軍を破り、昌の将が多く降伏したため、遂に進撃して越州を包囲した。 側近が城外の敵軍が強いと言うと、たちまち斬って晒し者とした。欺いて銭鏐の兵が疲れていると言ったものは皆褒賞を得た。昌は自ら五雲門で閲兵し、金帛を出して銭鏐の軍をたぶらかそうとした。顧全武等はますます発奮し、昌の軍は大いに潰滅し、逃れ帰り、偽帝号を取り去って、「越人が私に勧めたから天子となったが、もとより益なく、今また節度使に戻る」と言った。顧全武は四方より攻撃したが陥落させる前に、台濛が蘇州を奪い、銭鏐は顧全武を召還した。顧全武は、「賊の根本は甌越の地にあります。今一州を失ったからといって賊への攻撃を緩めてはなりません」と言い、攻撃をますます激しくした。城中は戸口ごとに税金を取り、高貴な女性であっても全員、軍の輸送に従事した。昌の従子の董真は兵士の心を掴んだが、昌は讒言を信じて殺してしまったから、軍は始めて命令を聞かなかった。また兵糧が減ったが外軍を労おうとしたから、兵卒はいよいよ怨み、叛いて昌を攻め、昌は子城を保つだけであった。銭鏐の将の駱団が入見して、偽って、「詔を奉って公を迎えて臨安に住まわせます」と言い、昌はこれを信じたが、顧全武は昌を捕らえて送還し、西江で斬り、死体を江に投じ、首は京師に伝え、その一族を皆殺しにした。ここに偽大臣の李邈・蒋瓖ら百人あまりを斬り、昌が生前につくった墓をあばいて放火した。昌が敗れると、なお兵糧は三百万斛が積まれ、金幣はおよそ五百帑あまりあったが、兵は一万人にも及ばなかった。銭鏐は遂に鎮海・鎮東両軍節度使となったという。 賛にいわく、唐が亡んだのは、諸群盗が皆大中年間(846-859)に発生し、太宗の遺徳の余沢は民より去ってまた久しかったからである。賢臣は退けられて死に、愚か者が位にあり、税金や刑罰が重かったから、天下は憂い苦んだ。まさにこの時に、天命はまさに唐から去ろうとし、諸盗が並び出て、五姓(五代)を経て、兵は未だかつて任務から解き放たれることは少なく、宋の時代になってから天下が再び安んじたのである。漢が滅亡するや天下は大乱となり、晋の時代になってからやや安定したのである。晋が滅亡するや天下は大乱となり、唐の時代になって再び安んじたのである。治まっていることが少なく、戦乱が多いのは、古今の趨勢であるが、盛時の有徳の帝王が恐る恐る治世を求めたということは、少しもゆるがせにしてはならないのだ! 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十五中 列伝第一百五十中 『新唐書』巻二百二十五下 列伝第一百五十下 進唐書表
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唐書巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 叛臣上 僕固懐恩 周智光 梁崇義 李懐光 陳少游 李錡 僕固懐恩は、鉄勒部の人である。貞観二十年(646)、鉄勒九姓の大首領が衆を率いて降伏し、分けて瀚海・燕然・金微・幽陵などの九都督府に置き、別に蕃州をなし、僕骨歌濫抜延を右武衛大将軍・金微都督とし、訛って僕固氏とし、乙李啜を生み、乙李啜は懐恩を生み、代々都督を世襲した。 懐恩は戦闘をよくし、戎の事情に通暁し、部族には謹厳に接した。安禄山が叛くと、朔方節度使の郭子儀に従って賊を雲中に討ってこれを破った。薛忠義を背度山に破り、七千騎を殺し、薛忠義の子を捕虜とし、馬邑を下した。進軍して李光弼と合流し、常山・趙郡・沙河・嘉山で戦い、史思明を敗走させた。粛宗が即位すると、郭子儀とともに霊武に赴いた。当時、同羅(トンラ)部落が叛き、安禄山は北進して朔方を攻略したから、郭子儀は懐恩を率いて迎撃した。懐恩の子の僕固玢は戦うも敗れて敵に降伏し、しばらくして脱走して帰還したが、懐恩は怒り、叱責してこれを斬ったから、将士は震えあがり、皆ことさらに死力を尽くして戦い、遂にその敵を破り、馬・橐它・器械を鹵簿すること非常に多かった。帝はまた詔して燉煌王承寀とともに回紇に使して援軍を要請し、回紇は命を聞き入れた。至徳二載(757)、郭子儀に従って馮翊・河東を下し、賊将の崔乾祐を敗走させ、潼関を襲撃して破った。賊将の安守忠・李帰仁と苦戦すること二日、王師は敗北した。懐恩は渭水に至ったが舟がなく、馬の鬣(たてがみ)にしがみついて逃れ、敗残兵を収容して河東に帰還した。郭子儀は鳳翔に赴き、李帰仁は精兵をもって迎撃すること三度、郭子儀は懐恩をして王升・陳回光・渾釈之・李国貞の五将軍とともに白渠の下に兵を伏せ、賊は伏兵に遇って敗走した。また清渠で戦ったが不利で、引き挙げて帰還した。 当時、回紇(ウイグル)は葉護・帝得をして四千騎を援軍とし、南蛮(南詔)・大食等の兵もまた相次いで至った。帝はそこで広平王(後の代宗)に詔して元帥とし、懐恩をして回紇の兵を率いさせ、広平王に従って香積寺の北で戦った。賊は一軍を営の左に伏せたが、懐恩は馳せて急襲し、首を斬って残す者はなく、賊は気を阻まれた。合戦すると、回紇で賊を挟撃し、戦が最高潮になると、兜を脱いで矛を引っ提げて直ちに陣に突入し、十人あまりを殺し、多くは驚いて靡き、また李嗣業と合流して苦闘して全力を尽くし、賊軍は総崩れになって大敗した。たまたま日暮となり、懐恩は広平王に見えて、「賊は必ず城を棄てて逃げます。願わくは壮騎二百をお借りできれば、安守忠と李帰仁らを縛って麾下に連れて参ります」と言った。広平王は、「将軍は戦い疲れている。しばらく休まれよ。明るくなったら将軍とともにこれを計ろう」と言ったが、答えて、「安守忠らは皆天下の驍賊で、彼らはたびたび勝っていましたが、今回は敗れています。これは天が我に与えたことなのです。どうして逃がしてよいのでしょうか?また軍を再集結させてしまえば、必ずや我の患いとなります。後悔したとしても及ばないのです」と言ったが、広平王は従わなかったから固く願った。夕を通して応酬すること四五回であった。明け方、偵察が戻ってきて、安守忠らははたして逃げ去っていた。また広平王に従って賊を新店で破った。両京(長安・洛陽)を回復してとくに功ありとされ、詔して開府儀同三司・鴻臚卿を加えられ、豊国公に封じられ、封二百戸を賜った。 郭子儀に従って安太清を破り、懐州・衛州の二州を下し、相州を攻め、愁思岡で戦い、常に先鋒となり、勇ましさは軍中に冠たるものであった。乾元二年(758)、朔方行営節度使を拝し、大寧郡王に進封された。 懐恩の人となりは雄々しく重厚で寡黙であり、応対すればゆったりしているが、剛毅で決断力があって上に逆うこともあった。始め偏裨(副将)の地位であっても、意見が合わなければ、相手が主将であっても必ずくじいて詰った。その麾下は皆蕃人・漢人の強兵で、功を恃んで多く不法なことをしたが、郭子儀の軍政は寛容であった。李光弼が郭子儀に代わると、懐恩は副将となった。李光弼は河陽を守って懐州を攻め、安太清を降伏させた。また子の僕固瑒は戦いをよくし、儀同三司(懐恩)の将兵を用いて、深く侵入するごとに多くを殺し、賊はその勇を憚って、「猛将」と号した。安太清の妻は美しく、僕固瑒は奪って帷幕に拉致した。李光弼はこれを帰すよう命じたが、聞き入れず、兵士で守らせた。騎馬で走らせて七人を射殺し、妻を奪って安太清に返還した。懐恩は怒って、「閣下は賊のために官兵を殺したのですか?」と言ったが、李光弼は法を厳格に保ち、少しも耳を貸さなかった。これより以前、軍を汜水で合流させたが、朔方将の張用済が遅れて来たのを纛(旗)の下で斬った。懐恩は心に李光弼を憚り、自ら張用済を誅殺したが、常に憂えて楽しむことはなかった。李光弼が史思明と邙山で戦うと、命令を聞かず、そのため王師は敗北して潰滅した。帝はその功績を思って、召喚して工部尚書とし、寵愛して礼を殊にあつくした。代宗が即位すると、隴右節度使を拝したが、まだ任地に行く前に、朔方行営節度に改められ、郭子儀の副将となった。 それより以前、粛宗は寧国公主を毘伽闕可汗(ビルゲ・カガン)に降嫁させたが、また末子のために婚姻を求め、そのため懐恩の娘をその妻とした。その末子が即位し、登里可汗(テングリ・カガン)と号し、懐恩の娘を可敦とした。宝応元年(762)、帝は回紇の兵を招集しようとしたが、登里可汗はすでに史朝義に誘われて、軍十万を率いて国境を侵犯し、関中は大いに震えた。帝は殿中監の薬子昂を遣わしてこれを労い、可汗は懐恩およびその母の面会を請い、詔あって許可の旨を答えた。懐恩は行くのを嫌がったが、帝は鉄券を賜い、手づから詔して強いて派遣したから、行った。可汗と太原で会い、可汗は大いに喜び、遂に和を請い、史朝義を討つのを助け、即ち兵を引き上げて陝州に駐屯し、軍は出撃の時期を待った。 ここにおいて雍王(後の徳宗)は元帥として中軍を率い、懐恩は同中書門下平章事に拝して副将となり、左殺(シャド。回紇の官職名)を先鋒とした。時に諸節度使は皆兵を合流させ、黄水に進んだが、賊は防壁をつくって自ら固守した。懐恩は西原に陣を敷き、多く旗旝を立て、突騎をして回紇とともに次第に南に進出し賊の左を取り囲み、旗を挙げるに応じて、賊の壁を破り、賊の死者は数万に及んだ。史朝義は精鋭の騎兵十万を擁して援軍し、根を埋めて決戦し、短兵が接敵すると、殺したり捕虜となる者が相当の数に及んだ。魚朝恩は射生軍五百人に矢を集中射撃させ、賊は多く死んだが、陣は堅く侵入できなかった。馬璘は怒り、単騎で旗を持って直進し、二つの盾を奪うと、賊は辟易とし、大軍はこれに乗じて進入し、軍は混乱を止められず、史朝義は敗れ、斬首は一万六千級、捕虜四千人あまり、降伏する者は三万人にのぼった。石榴園・老子祠に転戦し、賊は再び敗れ、自ら互いに逃げて踏まれて死に、尚書谷を埋めて大量に満たした。史朝義は軽騎兵で逃走した。懐恩は進軍して東都・河陽を収め、府庫を封じて、私とするところはなかった。賊に置かれていた許叔冀・王伷らを釈放し、衆は皆安堵した。回紇を留めて河陽に駐屯し、僕固瑒および北庭兵馬の将の高輔成をして一万騎で北に逐い、懐恩は常に賊を圧迫して侵入した。鄭州に至って、再戦して再び勝利し、賊帥の張献誠は汴州とともに降り、滑州を下した。史朝義は衛州に至って、その党の田承嗣・李進超・李達盧とともに合流し、軍勢は四万あり、黄河によって戦った。僕固瑒は援軍して岸を上って肉薄し、賊の党は潰滅して敗走した。進んで昌楽に進出し、史朝義は逃れ、偽帥の李達盧は降伏し、薛嵩・李宝臣は相州・衛州・深州・定州などの九州を挙げて献上した。史朝義は貝州に至り、その党の薛忠義を得て、軍勢三万を率いて僕固瑒から臨清を防衛した。賊の気は盛んで、僕固瑒は兵をまとめてその先鋒を挫き、高彦崇・渾日進・李光逸をして三度伏兵を設けて待機させ、賊が半ば渡ると伏兵を発してこれを攻撃し、史朝義は敗走した。その時軽騎兵が至ると、僕固瑒は急速前進してはせ参じ、大いに下博県で戦い、賊は背水の陣を敷き、軍は急襲すると賊は大いに崩れ、死体を積んで流れを蔽って下っていった。史朝義は退いて莫州を守った。ここにおいて都知兵馬使の薛兼訓・郝廷玉、兗鄆節度使の辛雲京が軍に合流して城下に至り、史朝義と田承嗣はしばしば戦いを挑んだが勝てず、前線で偽党の敬栄が斬られた。史朝義は恐れ、残衆を率いて幽州に逃れた。王師は追撃し、史朝義はさらに平州に逃げたが、自ら縊死し、河北は平定された。懐恩と諸将は皆兵を止め、功によって尚書左僕射兼中書令・河北副元帥・朔方節度使に遷り、封戸四百を加えられた。 それより以前、帝は詔があって、ただ史朝義の罪のみ取り、その他一切を赦した。そのため薛嵩・張忠志・李懐仙・田承嗣は懐恩を見て皆叩頭し、力に効って伍することを願った。懐恩は自ら功績が高く、かつ賊は平定されて勢いが軽くなり、寵を保つことができないとみて、そこでことごとく河北を割いて大鎮に分けて授けるよう願い、密かにその心と結んで助けとなろうとしたから、薛嵩らはついに拠って患いとなったと言われる。 しばらくもしないうちに、太子少師を加えられ、戸五百、第一区を増し、一子に五品官を与えた。詔して回紇を護って帰国させ、太原を通過しようとしたが、辛雲京は心内では懐恩を嫌っており、また懐恩と回紇が親しかったから、可汗に襲わせようとしていると思い、閉関して敢えて軍を労わなかった。懐恩はすでに父子が新たに功を立て、河朔を挙げて拾遺するが如くであったから、名は諸将の遠く甚しきにも出ていて、そのため辛雲京が拒んでいるのに大いに怒り、上表してその顛末を奉った。にわかに軍を汾州に向け、配下の将の李光逸に兵で祁州を守らせ、李懐光を晋州に拠らせ、張如岳を沁州に拠らせ、高暉ら十人あまりは自身に従えた。監軍の駱奉先は辛雲京より帰るところで、辛雲京はすでにその勢力とあつく結んでおり、よって懐恩と可汗に申して状に反すること明白であることを約した。駱奉先は懐恩のもとを過ぎ、堂を昇って母を拝した。母は譲って、「もし我が子と兄弟の契りを約してくれれば、今どうして自ら辛雲京と親しくされますか?そうなのでしたら前事は勿論、今から初めのようにしてください」と言い、酒宴してたけなわとなり、懐恩は舞った。駱奉先は厚く幣を納めた。懐恩は未だ酬いるにおよばず、奉先はしばらくして辞去したが、懐恩はそこで左右の者を遣わしてその馬を隠し、駱奉先は己に謀があることを疑い、夜陰に乗じて逃げ帰り、懐恩は驚き、その馬を追跡した。駱奉先が帰還すると、具さに懐恩が反くの状を奏上し、懐恩もまた辛雲京・駱奉先の誅殺を請うたが、詔して両者を和解させた。懐恩が潞州を通過すると、李抱玉は金や馬を贈り、懐恩もこれに贈答した。にわかに李抱玉が表立って懐恩と私的結びつくことになった。 広徳年間(763-764)初頭、進んで太保を拝し、一子に三品を、一子に四品官を与え、封戸五百を増やした。僕固瑒は一子に五品官を与え、封戸百を得た。よって鉄券を賜り、名を太廟に蔵(おさ)め、肖像画を凌煙閣に描いた。また僕固瑒を検校兵部尚書・朔方行営節度使とした。しかし懐恩は晴れ晴れとせず、また性格は強固で、讒言のために屈するのをよしとせず、自ら釈明することもなかったが、そこで陳情を上書して、「臣は代々もとは夷人で、幼い頃より上皇(玄宗)に用いられました。安禄山の乱では、臣は部将として決死に難を鎮め、天の采配のおかげで神威があり、強胡に勝って滅ぼしました。史思明が謀叛を継続すると、先帝は臣に兵を委ねられ、国の仇を雪(そそ)ぐことを誓い、攻城野戦、身は士卒に先んじ、兄弟は戦陣で死に、子や一族は軍で死にました。九族の内、十人のうち一人も生き残らず、そして生き残った者も満身創痍でした。陛下は龍潜(即位以前)の時、親しく軍を統べられ、臣は麾下でお仕えし、臣は愚かながら尽くしました。この時しばしば微功がありましたが、すでに李輔国に讒言され、しばらくして家を壊されました。陛下が即位すると、誹謗されていることを知り、遂に独見の明を開かれ、多くの者たちの口をふさぎ、臣を汧州・隴州に抜擢され、臣を朔方節度使に任じられました。魂が離れても体に戻り、骨が朽ちても肉が再生しました。先日、回紇が辺境に侵入し、士人には名案が浮かばず、京師は震撼しましたが、陛下は臣に詔して太原に至らせて労問させ、臣に一切の処置を許し、よって可汗と計議することができ、道を分けて兵を用い、東都(洛陽)を回復し、燕・薊を掃蕩しました。当時可汗は洛陽にあって、魚朝恩のために疑われて阻まれ、すでに歓心を失いました。臣が回紇に護送すると、辛雲京は城を閉じて出ず、隠れて掠奪したから、蕃夷は怨んで怒り、いよいよ多種多様なことを縫い合わせ、そこで国に帰すことができました。臣は汾州に帰り、兵馬を休息させ、辛雲京はまた一つも連絡することなく、臣は弾劾奏上されることを恐れ、そのため誹謗を構え、異端を起こしました。陛下は明察を垂れられず、忠直の臣を使おうとして、讒言する邪悪の党に陥られたのは、臣が悲しみのあまり胸を打ち、血の涙を流すことになった原因です。しかし臣には罪が六つあり、死を逃れるところがありません。むかし、同羅が叛き、河曲が騒動し、兵は包囲を解かなかった時、臣は老母を顧みず、先帝を行在に従い、兵を募って賊を討ち、同羅を殲滅しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の一つめです。子の玢を斬って兵士たちに号令しましたが、天性の愛を棄てたことで、臣が国に忠ならざる、罪の二つめです。二人の娘を遠く嫁がせ、国のために和親し、合従して脅威を除きましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の三つめです。また子の瑒とともに身をもって戦陣に赴き、国家を安んじることを志しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の四つめです。河北に新たに設けた諸鎮は、皆精兵を掌握していますが、臣がこれを安定させ、叛けば平定しましたが、これは臣が国に忠ならざる、罪の五つめです。回紇と和睦し、勝って中原を定め、玄宗・粛宗の二朝にわたった国土回復は、陛下をして忠と孝をつとめて二つとも全うされましたが、これは臣が国に忠ならざる罪の六つめです」と述べた。また、「来瑱を誅殺されましたが、その罪を暴かないことは、天下が疑いをなしています。四方の奏請は、陛下は皆驃騎(程元振)と協議したといっていますが、可否は宰相から出ませんでした」と述べた。詞にはおごり很みがあり、帝は一度ならずともあきたりず、かつその後悔を欲し、そのため心を人に託して待った。宰相の裴遵慶に詔して本人に詔旨を説諭し、よってその去就を察することとした。 裴遵慶がやってくると、懐恩はその足に抱き着いて、泣いて訴えた。裴遵慶は帝が疑っていないからと言い、そこで入朝を勧めた。懐恩は許諾したが、副将の范志誠は諫めて、「互いに信じあえないようになってしまったのに、どうして何が起こるかわからない朝廷に行こうとするのですか。閣下だけ来瑱・李光弼を見ていないのですか?二臣は功が高かったのに賞されず、来瑱はすでに誅殺されてしまいました」と言った。懐恩はそこで止めとした。一子をして宿衛させようとしたが、范志誠は固く止めた。御史大夫の王翊は回紇に懐恩を戻させようとしたが、懐恩は回紇と通交しているのが漏れることを恐れて、よって留って遣さなかった。そこで僕固瑒に辛雲京を攻めさせ、辛雲京は敗れ、次に楡次を攻めた。 それより以前、帝が陝州に行幸したが、顔真卿は詔を奉って懐恩を召喚することを請うた。ここに至って、帝は往かせようとしたが、辞退して、「臣は前に行くことを請うたのは、その時であったからで、今では無意味でしょう!」と言った。帝はその理由を聞くと、「最近、陛下は狄(吐蕃)を陝州に退避されましたが、臣が懐恩を見ますに、戦い方の善悪を責めて、職務の責を問うて走らさなければ、そのために懐恩は来朝して、賊を討つのを助け、その言葉は恭順であったでしょう。今陛下は、長安を都とし、懐恩は進んで勤王せず、退いて衆にも説かず、その言葉をねじ曲げているのですから、絶対に来ないでしょう!」と答えた。「それならどうするか?」と聞くと、「今、懐恩が叛いていると言っている者は、ただ辛雲京・李抱玉・駱奉先・魚朝恩の四人だけで、ほかは盛んにそのゆがめられた真実を言っているだけです。しかし懐恩の将士は、皆郭子儀のもと部下で、陛下がもし郭子儀に代わらせれば、たとえ叛こうが従おうが、必ず互いに率いて帰ってきます」と言ったから、これに従った。 郭子儀が河中に至ると、僕固瑒は楡次を攻めたが、陥すことができないでいるうちに、兵を祁州に追撃し、その緩慢さを責めて鞭うったから衆は怒った。この夕方、副将の焦暉・白玉らが僕固瑒の首を斬り、朝廷に献上した。懐恩は聞いて母に告げると、母は、「私はお前に背いてはならないと戒めてきましたが、国家の酬いはお前には浅くはないのに、今衆は謀叛し、禍はまた私に及んでいますが、どうしてなのか?」と言ったが、懐恩は再拝して出て言ったから、母は刀を引っ提げて追って、「私は国のためにこの賊を殺し、その心を取って軍中に謝せん」と言ったから懐恩は逃げて、そこで部下三百人とともに北は黄河を渡り、霊武(寧夏省寧夏県南)に逃げた。次第に亡命してきて軍は復興した。帝はその勲功を思って、罪を加えず、詔してその母を輦車に載せて京師に帰らせ、厚く賜物をし、長生きして死んだ。また詔を下して懐恩に太保兼中書令・大寧郡王に任じたが、その他の官位は罷免した。 懐恩はもとより憎んで改めることができず、ついに吐蕃を誘って十万で辺塞に侵入し、豊州の守将は戦死した。進んで涇州・邠州を攻略し、来瑱の墓を祭った。涇水を渡り、邠寧節度使の白孝徳はこれを防いだが、その軍は潰滅し、懐恩は、「さきに皆我が子となったが、叛いたから他人のために私が死においやってしまった」と泣いた。奉天に侵入すると、郭子儀が防衛したから撤退した。永泰元年(765)、帝は天下の兵の集めて防御させた。懐恩は諸蕃を誘い合せて二十万を号して入寇し、吐蕃は北道より醴泉に迫り、奉天を動揺させた。任敷・鄭廷・郝徳は東道より奉先に入寇し、同州を窺った。羌・渾・奴剌は西道より進んで盩厔を攻略し、鳳翔に行った。京師は震撼した。詔して郭子儀を涇陽に駐屯させ、渾日進・白元光を奉天に駐屯させ、李光進を雲陽に駐屯させ、馬璘・郝廷玉を便橋に駐屯させ、董秦を東渭橋に駐屯させ、駱奉先・李日越を盩厔に駐屯させ、李抱玉を鳳翔に駐屯させ、周智光を同州に駐屯させ、杜冕を坊州に駐屯させ、帝は六軍を御して苑中に駐屯し、詔を下して親征した。懐恩は鳴沙に至ると、病が甚しくなり、帰還して霊武で死に、部下はその遺体を火葬した。部将の張韶・徐璜玉はその軍を定めることができず、皆前立って死んだ。范志誠は衆を統率して涇陽に侵入した。その時、諸駐屯地では防壁を固くし、大雨が降り、谷は流れて潰え、賊は進むことができなかった。吐蕃は既に持久戦となり、また回紇と序列を争い、さらに互いに疑い、先に進むことがかなわず、そのため家々を焼いて、男女数万を駆けて去った。周智光は澄城で迎撃してこれを破り、馬牛や軍の資材を収容すること万を数えた。回紇はそこで郭子儀に詣でて降伏し、吐蕃を攻撃して自分ら捧げることを願い出た。郭子儀は兵を分けてこれに従い、その衆を涇州で破った。任敷は敗走し、羌・渾は李抱玉に詣でて降伏した。 それより以前、懐恩が功績を立てた時、一族の内で王事に死んだ者は四十六人。命を拒むに及んで、兵士は甲冑を緩めなかったことはおよそ三年であった。帝は心に忍び、しばしば詔を下して、未だに懐恩が叛いたとは言わなかった。死んでから彼のために落胆して、「懐恩は叛いたのではない。左右のために誤っただけなのだ!」と言った。にわかに懐恩の従子の僕固名臣が千騎とともに降伏した。大暦四年(769)、懐恩の幼女を冊して崇徽公主とし、回紇に嫁がせたといわれる。 周智光は、幼い頃は卑賎の身で、その先祖・系譜は失われており、騎射をもって従軍し、兵卒より副将となった。 魚朝恩が陝州を鎮とすると、互いに昵懇となり、しばしば称えて推薦したから、累進して同州・華州の二州節度使となった。 永泰元年(765)、吐蕃・回紇・党項・羌・渾・奴剌の衆十万あまりが奉天を入寇したが、智光は澄城で迎撃して破り、駱駝・馬を得て軍費を贖うこと万を数え、北に追撃して鄜州に至った。もとより杜冕と仇敵で、当時、杜冕は坊州に駐屯していたが、家は鄜州、智光は侵入して刺史の張麟を殺し、杜冕の宗属八十人を殺害し、民家三千軒に放火して去った。朝廷は召喚したが、恐れて赴かなかった。さらに杜冕に詔して梁州に使させて仇を避けさせ、来るよう願ったが、のけぞりかえっていて命令を聴かず、不逞の徒数万を集めて、ほしいままに略奪してその欲を甘やかし、結んで固守した。陝州監軍の張志斌および前虢州刺史の龐充を殺した。それより以前、張志斌は陝州より入奏したが、智光は傲慢にも礼をなさず、張志斌はこれを責めたから、怒って、「僕固懐恩はどうして叛いたのか?皆つまらない輩が力で押さえつけようと弄んだのが禍となったのだ。私はもとより叛いていないが、今はお前のために叛こう!」と言って、ついに叱って張志斌を斬り、その肉を帳下で饗宴した。当時、崔円が淮南より方物百万を納めたが、その半ばを掠奪した。天下の奉献物や船舶で輸送した糧食は、奪って自身のもとに留めた。士で調を貢納するために西に行かなければならない者はどう責められるのかを恐れたが、間道から同州を逃げる者は、部将を派遣して捕らえて斬った。代宗はいまだその罪が暴かれていないときに、中使の余元仙に命じて詔をもって尚書左僕射に任命した。詔を受けると怒って、「私には大功があるが、お上は平章事を与えられず、かつ同州・華州の地は狭く、支えとするには足りない。もし陝州・虢州・商州・鄜州・坊州の五州を加えられれば相応だろう」と語り、よって、「私の子どもたちはみな二百斤の弓をひき、万人の敵たる者である。天子を挟んで諸侯に命令するのに、智光でなければ誰がふさわしいというのか?」といい、そこで大臣を謗って罪を並べ立てたから、余元仙は震汗した。おもむろに絹百匹を贈って遣わした。自ら生祠を立て、その部下に祈祷させた。 大暦二年(767)、帝は郭子儀に詔して密かに謀った。同州・華州の路は閉鎖され、詔書は通ることができなかったから、そこで郭子儀の婿の趙縦を召して口詔を授け、書帛を蜜壺の中に隠し、家僕を遣わして間道を走って詔を伝えた。郭子儀は詔を得ると、討伐を宣言したが、実行される前に、その衆は大いに離反し、部将の李漢恵は同州より郭子儀に降伏した。そこで智光を澧州刺史に貶し、百人を随身させることを許したが、将吏の罪は一切不問とした。ついで部下に斬首され、また子の周元耀・周元幹も斬って来献してきた。詔して首を皇城の南街にさらした。判官の邵賁・別将の蒋羅漢もともに誅殺された。勅して役人に詳細に太清宮・太廟・七陵に告げさせた。 それより以前、淮西の李忠臣が入朝して、潼関に行ったとき、智光が叛いたのを聞いて、兵を率いてこれを討った。智光が敗れると、李忠臣は華州に入って大掠奪を行い、赤水より潼関にいたるまでの畜産・財物はすべて尽きてしまい、官吏は衣服や紙を自弁し、連日食べられない事態となった。 梁崇義は、京兆長安の人である。枡で計るのを市で生業としていたが、力が強く鉄鉤を真っすぐにできた。後に羽林射生となり、来瑱に仕えた。寡言であった。来瑱が襄陽より京師に入朝すると、諸将を分けて福昌・南陽を守らせた。来瑱が誅殺されると、守兵は潰えたが、崇義は南陽より衆をまとめて襄州に帰還した。李昭と薛南陽は互いに長となるのを譲っていたが、軍衆は、「梁卿でなければ駄目だ」と言ったから、ついにその軍を統率し、李昭と薛南陽を殺し、脅して軍衆の心を制した。代宗はよって節度使に任命した。七州の兵二万を挙げて、田承嗣・李正己・薛嵩・李宝臣と互いに助け合い、首尾結託した。しかし崇義のみ地は狭く兵が少なかったため、法令は最も遵守し、時々士にあっては自ら振舞い、襄・漢の間の人は教義を知った。朝廷はしばしばあつく入朝を勧めたが、「来公(来瑱)は大功がありましたが、宦官の讒言を恐れ、逡巡してお召しを辞退しました。代宗が即位されますと、駕を待たずに入朝しましたが、そこで殺されました。私の罪は大罪ですが、どうしてお上に謁見したいと思うのでしょうか?」と返答した。 建中元年(780)、李希烈は討伐を願い、崇義は恐れて、部隊を整理した。郭昔なる者が変事を上奏したが、徳宗は示すのには信頼をもってすることとし、郭昔を遠方に流刑とし、金部員外郎の李舟に詔して諭旨させた。それより以前、劉文喜が叛くと、李舟は詔を奉って涇州に入ったが、にわかに劉文喜の部下が劉文喜を斬って奏上した。それを周囲は李舟が軍を全滅させて将を殺したと言ったため、叛いた側にいた者たちが皆これを憎んだ。李舟がやってくると、入朝を崇義に勧めたが、崇義は喜ばなかった。翌年、遣使して諸道を慰撫したが、李舟もまた崇義の所に行ったものの、ついに内に入れることをよしとせず、他の使者に代えるよう願った。さらに給事中の盧翰に命じて往かせたが、崇義はますます不安となり、跋扈すること甚しく、諫める者は多く死んだ。朝廷は疑っていないことを天下に示すため、そこで同中書門下平章事に任命し、妻と子にことごとく賞を与え、鉄券を賜い、その将の藺杲を抜擢して鄧州刺史とし、御史の張著を遣わして手詔をもって崇義を召喚した。崇義は兵士たちに弓矢をいっぱいに引き絞り、そこで命を受けた。藺杲は詔を奉ったが敢えて赴かず、崇義に詣でて自ら報告した。崇義は対面すると泣いて見せたから、遂に詔を拒んだ。 帝は李希烈に命じて諸道の兵を率いて討伐させた。崇義は先んじて江陵を攻め、黔州・嶺州と通じようとしたが、四望で敗れて帰還した。途中、李希烈が臨漢に駐屯させた兵千人あまりを殺害すると、李希烈は怒り、兵を率いて漢によって上った。崇義は翟崇暉・杜少誠に蛮水で戦わせ、敗れて北は涑口に至ったが、ここでも大敗し、二将は降伏し、李希烈はこれを厚遇したから、部下の降伏した兵に襄陽を従わせると、百姓を安堵させた。崇義は壁を閉ざしたが、守る者は関を斬って逃亡したから止めることができず、そこで妻と井戸に行って死に、首は京師に伝送された。李希烈はその親族および軍で臨漢の役に従った者三千人を誅殺した。 崇義の孫の梁叔明は、李納に養われ、後に劉悟に従って昭義将となったが、劉従諫が死ぬと、使節として派遣されたが、詔によって誅殺された。 李懐光は、渤海靺鞨の人であり、本姓は茹氏である。父の茹常は幽州に移って、朔方節度使の部将となり、多くの戦いに参加して李姓を賜り、さらに名を嘉慶とした。 懐光は軍にあって、功労を積んで開府儀同三司に至り、都虞候となった。勇猛で敢えて誅殺をし、親族であっても法を犯せば、誅殺を避けることはなかった。節度使の郭子儀は仁に厚く、軍法には親しまなかったから、綱紀を懐光に委ねたから、軍中は懐光を畏れた。たまたま母の喪となり、復帰すると邠州・寧州・慶州の都将を兼任した。徳宗が郭子儀を副元帥から罷免すると、部下の兵を諸将に分割し、そのため懐光は検校刑部尚書となり、寧州・慶州・晋州・絳州・慈州・隰州などの州節度使となった。衆を率いて長武を城とし、原州(甘粛省平涼県東四十里)によって根拠地とし、涇水に臨み、吐蕃を抑えて道を空しくし、これより敢えて南侵することはなかった。建中年間(780-783)初頭、楊炎は原州を城としたいと思い、懐光をして涇原の帥を兼任させ、その功を遂げた。原州の宿将の史抗・温儒雅らは、郭子儀の麾下であったから、かつては懐光の右にあり、その下にいると、心は鬱々としたから、懐光は罪によってこれを誅殺し、ここによって涇軍は畏れた。劉文喜は衆が懐光を恐れているため、遂に叛した。詔して朱泚とともに討伐して平定し、検校太子少師を加えられた。翌年、朔方節度使に移り、実封戸四百となり、よって邠寧を領した。 当時、馬燧・李抱真は田悦を討伐したが勝てず、懐光に詔して朔方の兵一万五千をもって力を合わせた。懐光は魏城に至ると、いまだ軍営がいたる前に、朱滔らとともに連篋山で戦い、賊のために敗れ、田悦は水を決壊させて軍に浴びせ、馬燧らは退いて魏県に駐屯した。ついで同中書門下平章事に昇進し、戸二百を増やした。朱滔らと互いに持久戦となり、しばらく戦わなかった。 帝が奉天に巡狩すると、懐光は軍を率いて命に奔走し、まさに雨降って泥濘になると、軍士を励ましてますます道を進み、蒲津より河を越えて、朱泚の軍を醴泉で破った。まさに奉天に至ろうとするとき、先に副将の張韶を遣わし蝋で上表文を隠し、賊に従って城を攻め、城塁を叩いて「私は朔方の使だ!」と呼び、縄にしがみついて登り、身に数十本の矢が当たった。その時帝は囲まれること急であり、これを聞いて喜び、そこで張韶を城の上で叫ばせ、人心は安堵した。また賊を魯店で破り、朱泚は包囲を解いて撤退した。累進して副元帥・中書令を加えられた。 懐光は人となりは荒く片意地を張っており、唱えて、「宰相(盧𣏌)は謀議して背き違っており、度支(趙賛)は重税を課し、京兆尹(王翃)は軍食に刻薄で、天下の乱は皆これによるのである。私はお上に謁見して、かつこれを誅殺することを願う」と述べた。ある者が王翃に告げ、王翃らは謀って、「李懐光に大功があり、お上はかつ訪ねて得失によってその言を入れられれば、なんと危険なことではないか!」と述べ、ついに盧𣏌に告げ、盧𣏌はそこで帝に説いて、「李懐光の兵威はすでに振っており、逆賊は肝を冷やしており、勝利に乗じて一挙に賊を滅ぼすべきです。今入朝させれば、必ず宴で労って留まらせてしまうことになり、すると賊は残党を集結させることができ、ついには何もできなくなってしまいます」と述べた。帝はその実情がわからず、よってその通りにしてしまった。そこで懐光に勅して便橋に駐屯させ、諸将を督戦して討伐に出発させた。懐光は自ら千里をめぐって艱難に赴き、姦臣のために排斥疎外されて入朝することができず、すこぶる怒って恨み、去って咸陽に駐屯した。翌日、李晟と陳涛斜で合流したが、壁累の防備が出来ていないのに、賊が大挙して押し寄せた。李晟は懐光に説いて、「賊は宮苑(長安)を保っており、これを攻撃するのは本当に難しい。今あえて窟穴(駐屯地)を離れて、公とともに肉薄して戦えば、これは天が賊を公のために賜っているようなものになるでしょう」と言ったが、懐光は、「我が軍の馬はまだ秣にありつけてなく、兵士は食事もないのに、速やかに戦うべきなのか?しばらく我が勇を養ってこれを待とう」と言ったから、李晟はやむを得ず壁を閉ざして出撃しなかった。懐光はしばしば盧𣏌らの罪を暴き、帝はそこで盧𣏌と趙賛・白志貞を左遷した。また宦官の翟文秀を弾劾奏上し、帝はまたこれを殺して懐光を慰撫した。しかしますます自ら疑い、壁を固守すること八旬(八十日)、出て戦わず、しばしば詔して進軍させようとしたが、機会を伺って解とし、密かに朱泚と連絡した。 それより以前、崔漢衡を派遣して吐蕃に援軍を求めたが、尚結賛(シャンギェルツェン)は、「我が法では、進軍するのに大臣が兵を率いるのを信としている。今、制書には李懐光の署名がないから、先に進むことはできない」と述べた。帝はそこで翰林学士の陸贄に命じて懐光のもとに赴かせて協議したが、懐光は三つの不可を述べて、「吐蕃の舎人の馬重英は長安を陥落させたが、賛普は焼き払わなかったことを責めていた。今来れば、必ず宿志をほしいままにするだろう。これが一つめの不可である。彼らは兵五万を率いると言っているが、すでにその人を用いれば、それは漢士と同じであり、もし我を迎えて賞を厚くするとすれば、どうやってこれをするというのか?二つめの不可である。虜人(吐蕃)が来たからといって、義はまず用いず、兵を収めて自ら固守することとなる。成功と失敗を見るならば、王師が勝てば功績は分かつことになり、敗ければ変乱を謀られ、狡猾で偽りが多いから信じてはならない。三つめの不可である」と言って、ついに署名するのをよしとしなかった。また陸贄を罵って「お前はどうして良いと思っていたのか?」と言った。 興元元年(784)、詔して太尉を加え、鉄券を賜ったが、懐光はかっとなって怒って、「だいたい人臣が叛くのを疑っているときは鉄券を賜っている。今懐光に授けるのは、これは叛かせたいということなのか!」と言い、地面に叩きつけた。当時、部将の韓游瓌の将兵が奉天を守っており、懐光は韓游瓌に反乱を約束し、韓游瓌はこれを上奏密告した。数日して、また密書を送ったが、門番がこれを捕らえた。また将の趙升鸞が奉天に間諜し、趙升鸞は渾瑊に密告して、「懐光は達奚承俊を遣わして乾陵に放火し、我をして内応させて、乗輿(徳宗)を脅かそうとしている」と伝えた。渾瑊はその姦計を暴き、帝に梁州への行幸が決定することを願った。帝は渾瑊に戒厳させ、未だ終わる前に、帝は西門より出て、詔して戴休顔に奉天を守らせようとした。懐光は将軍の孟廷宝・恵静寿・孫福を遣わして軽騎兵を率いて南山に走り、糧料使の張増と遭遇した。三人は謀って、「我々は属しているのは反乱側となっていると聞いているから、軍を緩めるのに越したことはない。彼が怒れば、ただ我が将ではなかったというのに過ぎないだけだ」と言い、張増をして軍をあざむかせて、「これより東は、我は糧食があるから食するべきだ」と言って、孟廷宝らは引き上げて東に行き、兵士をほしいままにさせて大いに掠奪したから、百官は遂に駱谷に入った。帝を追跡するまでには及ばなかったから、帰還して懐光に報告すると、懐光は怒って、ことごとくその兵を罷免した。懐光はそこで李建徽・陽恵元らの軍を奪い、好畤に駐屯したが、その配下はだんだん背いていった。朱泚は始めこれを憚っていたが、ここに至りついに懐光を臣下扱いしたいと思った。懐光は怒り、絶交を告げ、ますます不安となり、そこで兵を率いて涇陽・三原・富平を掠奪し、遂に河中に行き、張昕を留めて咸陽を守らせた。しかし孟渉・段威勇は兵を擁して李晟に降伏し、韓游瓌は張昕を殺して、邠州に帰還した。戴休顔は奉天より軍に「懐光が反く」と号令し、そこで城を守った。 詔があって懐光を太子太保とし、その麾下で功績が高い者一人を選んでその兵を統率させることを許した。しかし懐光は詔を奉らなかった。懐光は河中に至り、同州・絳州の二州を取り、駐屯して軍を展開させた。京師が平定されると、給事中の孔巣父・宦官の啖守盈に命じて懐光を召喚しようとしたが、皆懐光の軍中で殺害され、ここにおいて武器を修理して守りを厳しくした。帝はそこで渾瑊を派遣して討伐させた。度支はその軍への扶持米の年間給付を止めることを願ったが、帝は、「朔方軍はしばしば功がある。どうして李懐光が命を拒むからといって、軍衆が恩を被らないことがあっていいのだろうか?」と言い、役人に詔して別に貯えていた絹や銭を、事態が平定されてから給付することとした。渾瑊は同州を破り、軍を駐屯させたが進むことができず、しばしば懐光のために敗北を喫した。帝は河東節度使の馬燧を威名が明らかであるから、そこで副元帥に任命し、渾瑊および鎮国の駱元光・邠寧の韓游瓌・鄜坊の唐朝臣に兵を合流させて討伐に進発させた。馬燧は絳州を陥落させ、諸軍は遂に河中を包囲した。 貞元元年(785)八月、朔方の部将の牛名俊が懐光を斬って、首を伝送して献上した。年五十七であった。帝はその功績を思い、詔して一子に継承を許し、荘園・邸宅一区を賜い、葬礼するのを聴(ゆる)し、妻の王氏は澧州に移した。それより以前、懐光が死ぬと、その子の李琟はその弟を皆殺しにして死に、そのため懐光には後嗣がいなかった。貞元五年(789)、詔して、「昔の功績を思うことは、仁の大いなることである。興亡や継承断絶は、義の至ることである。昔、蔡叔度が周王室を乱したが、周はその子を封じている。韓信は違反したが、漢はその妻子に爵位を与えた。侯君集は従わなかったが、太宗はその祭祀を存続させた。先王の道、烈祖の教えを考えるに、皆刑罰で徳をたすけ、人をして向かうべきところに向かわせた。先に盗臣が密かにおこり、朕は近郊に巡狩し、懐光は早くから千里を駆け、君命に従って行在に奔走し、雷鳴の威を仮り、虎狼の衆を破った。守節のまま終わることなく、密かに禍根を構えた。死罪を加えるところで、自ら災禍を招き、孤魂は帰るところがなく、これを思えば落ち込み呆然とするのだ。外孫の燕に姓李氏を賜い、名を承緒とし、左衛率府冑曹参軍として懐光の後を継がせなさい」と述べた。よって銭百万を賜い、田を墓の側に置き、祭祀の備えとした。妻の王氏を帰還させ、養わせたという。 陳少游は、博州博平の人である。幼い頃より老子・荘子の書を習い、崇玄館の学生となり、諸儒の推薦で都講となった。妬む者があって大衆に答えさせ、熱心に質問して、それで少游を屈させようとした。少游が講座に上ると、音は清弁に語り、典拠には広く通じ、問者は窮まったが、少游の答えは余裕があり、大学士の陳希烈はその才能を高く評価した。進士に及第し、南平令に補され、治世に名声があった。累進して侍御史・回紇糧料使に遷り、検校職方員外郎充使を加えられ、検校郎官は少游のときより始まった。僕固懐恩が奏上して河北副元帥判官となり、晋州・鄭州の二州刺史に遷った。 少游は臨機応変にたけ、いたるところはすべて仕事が出来、権勢や寵愛の者に賄賂を贈り、このためしばしば昇進した。李抱玉が上表して沢潞節度副使となり、陳鄭節度留後となった。永泰年間(765-766)、復奏して隴右行軍司馬となり、桂管観察使に抜擢された。少游は遠く去ることを楽しまず、近くの鎮に移ろうと窺った。当時、宦官の董秀に寵があり、枢密の事を司っており、少游はそこでその郷里に宿泊し、休暇に侍って入謁し、世間話のついでに諂って董秀に、「七郎の親族はどのくらいいますか?月にどれほど費していますか?」というと、董秀は謝して、「一族は甚だ多く、年間に常に百万以上を使っています」と言った。少游は、「本当にこのようでしたら、俸給が入ってきたとしても数日の費用としても不足で、ただちに外から入ってくる分からしばしば充当しなければなりません。私は不才の身でありますが、私一人の歳入が銭五千万あります。今その半分を充て、まずここに入れさせてください」と言った。董秀は大いに喜び、少游とあつくよしみを結んだ。少游はそこで泣いて、「嶺南は猖獗の地で、生還できずお顔を拝見できなくなることを恐れています」と言った。董秀はにわかに、「公の美才は、当然遠くに出すべきではありません。少し待ってください」と言い、当時、少游はすでに賄賂を元載の子の元仲武に納め、ここにおいて内外からはさらに推薦され、宣歙池観察使に改められた。大暦五年(770)、浙東に移り、潁川県子に封じられ、淮南節度使に移った。 謀略を喜び、小さな恵みを与え、群吏を職に任じた。三度藩鎮を統率しているが、すべて天下の富裕のところであり、そのため貿易を要求して日を空しくすることはなく、財宝を積むこと億万の巨額となった。それより以前、元載と結んで、金帛を毎年だいたい十万緡を賄賂で贈った。また宦官の駱奉先・劉清潭・呉承倩および董秀に仕え、そのためよくその信任を得ることが久しかった。後に元載が過度の専横から疑われるのを見て、少游もまた疎んじた。元載の子の元伯和は揚州に流謫されたが、少游は表向きでは親しくし、陰ではその罪を奏上したから、代宗はこれを忠とした。建中年間(780-783)初頭、朝廷は経費が充当できず、始めて本道の税銭千に二百を増やし、塩一斗に税百銭を加えることを願い、度支はよって諸道も同様に増税することを願った。李納は命を拒み、少游は出兵して徐州・海州などの州を収めたが、にわかに放棄して撤退して盱眙に駐屯した。検校尚書左僕射に累進し、封戸三百を賜り、同中書門下平章事を加えられた。当時の宰相関播・盧𣏌と少游は旧友であったから、そのためにわかに高官を兼任したのである。 徳宗が奉天に行幸すると、度支汴東両税使の包佶は揚州にいて、儲えるところの財賦八百万緡をまさに京師に運ぼうとしていたが、少游の意は朱泚の勢が盛んになることであり、すみやかに平定されることではなかったから、その財を脅し取ろうと思い、判官の崔䪻をして包佶のところに就いて帳簿を求めて、二百万緡を借りようとしたが、包佶は勅命ではないから拒否した。崔䪻は怒って、「君はよく、劉長卿となることができるか、そうでなければ、崔衆となるか!」と言った。劉長卿はかつて租庸使に任じられ、呉仲孺のために囚えられた。崔衆は李光弼を侮って殺されたから、そのため崔䪻はそう言ったのである。包佶は少游に謁して、諫止しようと思ったが、語ることができず、そこで遣わし去り、ここにおいて財用はことごとく少游のために掠奪された。包佶は白沙に逃げ、少游は幕中の房孺復を遣わして包佶を召喚したが、包佶は驚いて逃げて長江を渡り、妻子を公文書の中に伏せて隠したから免れた。包佶には防御の兵三千人があり、高越・元甫をして将としていたが、少游はこれを奪った。よく包佶に随う者は、上元に至ると、また韓滉のために留められた。包佶ただ諸史を率いて江州・鄂州に行き、上表文を蝋壺の中に隠して上聞した。たまたま少游の使が至り、帝はその事を詰問すると、辞して知らないと言った。当時、禍いは激しくなって終結が難しく、帝は制することができなかったから、そこで、「少游は、国の守臣で、包佶の財を取って、他の盗みを防いだだけで、どうして傷つけられようか!」と言った。遠近の者はこれを聞いて、みな帝はその要を得たと言った。少游はこれを聞いて、はたして満足して疑わなかった。 李希烈は汴州を陥落させ、江淮を襲うと宣言したから、少游は恐れ、参謀の温述を遣わして送款して、「豪州・寿州・舒州・廬州はすでに刃をかくして鎧を巻いていて、これは君命である」と言った。また巡官の趙詵をして鄆州に行かせ、厚く李納と結んだ。李希烈は帝号を僭称し、将の楊豊を遣わして偽赦をもたらして少游に送らせた。寿州刺史の張建封は警備してこれを得て、楊豊を斬り、偽赦を行在に送った。たまたま包佶が入朝しており、具さに少游が財賦を脅したことを申し上げた。少游は恥じ、上表して取るところは軍費に充てたと言い、賠償を願った。しかし州府は敗れてしまい、賠償することができず、そこで腹心の官吏とともに重税の法を設けたから、民は皆苦んだ。劉洽が汴州を取ると、希烈の偽起居注を得て、「某月日、陳少游が上表して帰順した」と書かれていた。少游は聞いて、恥じ入りのあまり病死した。年六十一、太尉を贈られた。 賛にいわく、僕固懐恩は賊と百戦し、一族で唐のために死んだものは四十六人にもいたり、遂に燕・趙を一双して埃すらあますことなく、功績は高く、威光は重くなった。患いを防ぐことができず、誤った考えを心に根差し、その所を得ることなくたやすく発して、はたしてお上を犯した。惜しいことだ!その母は刀を抜いて賊を追っており、烈婦というべき人である。李懐光は一万人もの軍を率い、天子の難を救ったが、ただ讒言する人のために阻まれ、腹を立てて道理に背いては自ら帰ることなく、身と首は断ち切られ、しかも讒人もまた憎まれたのだから、所謂「四国交乱す(四方の国々さえも乱す)」(詩経)という者である。 李錡は、淄川王孝同の五世の孫である。父李国貞の蔭位のため鳳翔府参軍となる。貞元年間(785-805)初頭、遷って宗正少卿となった。かつて宗正卿の李幹と争い、錡は直言のため座らず、徳宗は双方留め置いた。雅王傅より出て杭州・湖州の二州刺史となった。またに李斉運に仕え、錡は賄賂でよしみを結び、居ること三年、潤州刺史・浙西観察・諸道塩鉄転運使に遷った。多くの奇宝を積み、毎年献上して、徳宗と昵懇になった。錡はそのため恩を恃んで驕り横柄となり、天下の輸送は特権を得てこれを専らにした。そのため朝廷に仕える者に錡は利を以て交わり、ほかは皆密かによしみを通じる幸運を求め、国の財政は日々損耗していった。浙西布衣の崔善貞は徳宗に上書してその罪を暴いたが、帝は崔善貞を拘束して錡に賜い、錡はあらかじめ大穴を掘って、崔善貞が来ると縛ったまま穴の中に生き埋めにしたから、聞く者は極めて憤慨した。 錡は志を得て憚るところなく、久しく安住の計略をはかり、そこでますます兵を募って、弓のうまい者を選んで一屯とし、「挽硬随身」と号し、胡・奚の雑類で大髭の者を一将とし、「蕃落健児」と号し、皆錡の腹心で、給料は十倍で、錡を号して「仮父」といい、そのため喜んでその用をなした。帝はここにおいて鎮海軍を復活し、錡を節度使とし、城鉄転運の担当から罷免した。錡は節度使となることを喜んで、その特権が失われたことを忘れていたが、にわかに驕ること日々甚だしくなり、属吏は死んでも恩賞は軍を越えることはなく、また迫って良家を汚すことになるから、幕僚は力の限り諫めたが聞かず、にわかに逃げ去った。 憲宗が即位すると、方鎮に遠慮しなかったから、頑固な者もだんだん入朝してきた。錡は不安となり、また再三入朝を願った。詔があって尚書左僕射を拝し、御史大夫の李元素がこれに代った。中使が駅路から労問し、兼ねてその軍を慰撫した。錡は判官の王澹を推薦して留後とした。しかし錡に入朝の意思はなく、病と称して引き延ばしにして行かなかった。王澹と中使がしばしば赴いたが、錡は喜ばず、王澹が政務の引継ぎ処理するのに乗じて、親兵をそそのかして王澹殺害をはかった。よって冬服を給付する日に錡は幄中に座し、挽硬随身兵・蕃落健児兵に自らを守らせ、王澹と中使が入謁すると、既に出ており、衆は刃を持って罵り、王澹を殺して食べた。監軍使遣牙将の趙琦が説諭にきたが、これもまた食べた。兵に中使の首を繋がせたが、錡は表向き驚き、つきそって縛めを解いて、そこで別館に拘禁した。蕃落健児兵は薛頡が司った。挽硬随身兵は李鈞が司った。また公孫玠・韓運が分割してほかの軍を統率した。室に五剣あって、管内の鎮将に授けて、五州の刺史を殺させようとした。別将の庾伯良に兵三千人を属させ石頭城を築城し、謀って長江の左岸に拠った。 常州刺史の顔防はその客の李雲の謀を用い、詔を偽って招討副使と称し、鎮将の李深を殺し、檄文を蘇州・杭州・湖州・睦州の四州に伝えて同じく錡を討伐させた。湖州の辛秘もまた鎮将の趙惟忠を殺した。蘇州の李素は鎮将の姚志安のために拘束され、舷上に釘打ち、錡に献上しようとしたが、錡は敗れたため免れた。 憲宗は淮南節度使の王鍔を諸道行営兵馬招討処置使とし、中官の薛尚衍を都監招討宣慰使とし、宣武・武寧・武昌・淮南・宣歙・江西・浙東の兵を発して、宣州・杭州・信州の三州より進撃、討伐した。それより以前、錡は宣州が富裕であったから、四院随身兵馬使の張子良・李奉仙・田少卿を遣わして兵三千人を領して宣州・歙州・池州に分けて下ったが、錡の甥の裴行立は謀に預かっていたとはいえ、帰順したいと思い、そのため互いに兵を撤退することを約束して錡を捕らえることとし、裴行立はまさに内応しようとした。張子良らはすでに行軍していたが、その薄暮、軍中を諭して、「僕射(李錡)が叛いた。官軍の精兵が四方から迫り、常州・湖州の鎮将は首を街路に晒され、勢いは衰えてまさに敗れて、我らはいたずらに死のうとしている。禍転じて福を願うにこしたことがない」と述べ、部衆は大いに喜び、遂に軍を返して城に向かった。裴行立は火を挙げると内外は混乱し、裴行立は牙門を攻めた。錡は大いに驚き、左右の者が「城外に兵馬が来ました」と言うと、錡は「誰なのか?」といい、「張中丞(張子良)です」と答えた。錡は怒ること甚しく、「門外の兵は誰なのか?」というと、「裴侍御(裴行立)です」といった。錡は嘆いて「裴行立もまた私に叛いたのか!」と言い、裸足で女楼の下に逃げた。李鈞は兵三百を率いて庭院に走り出て白兵戦となり、裴行立の兵もその中に突出して、李鈞を斬って、首を城下に運んだ。錡はこれ聞いて一族をあげて慟哭した。張子良は監軍の命によって日暮れに城中に道理にそむくことと従うことの良し悪しを諭し、かつ錡の身を拘束して朝廷に帰順することを呼びかけたから、左右の者は錡を捕らえて幕で包み、すがって城から出した。錡は尚書左僕射として召喚されていたが、数日して叛いたとの報告が来ると、詔を下して官爵を削り、翌日敗れて京師に送られた。神策兵は長楽駅より護衛して闕下に至り、帝は興安門に御して罪を問うたが、答えて「張子良が臣を唆して叛いたので、臣の思いではありません」と言ったが、帝は、「お前は宗室だから節度使となったのに、張子良を斬ってその後に入朝できなかったのか?」と言うと錡は答えられなかった。その日、子の李師回とともに城の西南で腰斬された。年六十七。死体は数日して、帝は黄衣を二襲出して、庶人の礼によって葬った。 張子良を抜擢して検校工部尚書・左金吾将軍とし、南陽郡王に封じ、名を奉国と賜った。田少卿を検校左散騎常侍・左羽林将軍とし、代国公に封じた。李奉仙を検校右常侍・右羽林将軍とし、邠国公に封じた。裴行立を泌州刺史とした。王澹に給事中を、趙琦に和州刺史を、崔善貞に睦州司馬を贈位した。錡の属籍を削って、従弟の宋州刺史の李銛、通事舎人の李銑、従子の李師偃を嶺南に流刑とした。 賛にいわく、『論語』に「出納の吝(やぶさ)かなる、これを有司と謂う(どうせ与えねばならぬのに、出し惜しみをするのが吝である。そしてそれが官僚というものである)」とあるが、これは賎しんでいうのである。徳宗は朱泚を平定したが、京師の府蔵は消耗して尽きてしまい、諸道は始めて経費を助け奉ることがあったので、詔書もまた往々として天下にお示しになったのである。人主が細々と理財すると、下でも有司がそれと行う事となり、天下は無事となったにもかかわらず、賦税を徴収することはなお休まざるがごとしであった。剣南の韋皋・江西の李兼は「日進」・「月進」と称し、杜亜・劉蕡・王緯および李錡が毎年進奉し、その寵愛を固め、号して「賦外の羨余」と称した。また帝の意に托して庫物を盗んだ。しかしそのうち献上したのはわずかに十のうち二や三ほどで、ほかは皆横領したのである。江南・淮南は、物力は大いにつき、人々は衰弱して生を忘れるほどであった。貞元年間(785-805)以後、宦官は物を都下で市場とし、これを「宮市」といい、符牒を持たず、口に詔命を含んで、勝手に縑を取り、紅布を嫌ってこれを紫布と交換し、その売価が倍であったら、勝手に裂いて値段に見合わせた。市の良貨は皆逃げ去って出さず、市場で商店を並べられるものは、ただ粗雑・粗悪品のみであった。また辺境より馳せて来て禁中に入る者は、つきて車輦するところで、売る者が不平をいえば、よって共に殴って笞うった。兵卒や女奴、名馬や工車、びくびくとして常に捕らえられることを恐れた。しかし徳宗は前後左右を佞臣に蔽われていたから実態を知ることがなかった。そのため崔善貞は李錡の不正を論じたものの、徳宗はついに李錡が塩鉄の利益を独占しているのを知らず、李錡は兵を養って謀叛をはかり、かつて徴税吏の吝嗇に及ばないことはるかに超えていたのだ。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 『新唐書』巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 巻二百二十四下 列伝第一百四十九下
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登録日:2020/08/23 Sun 02 08 46 更新日:2024/03/31 Sun 10 59 47NEW! 所要時間:約 ? 分で読めます ▽タグ一覧 この世で最も成り上がった男 ブサイク 一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物 中国史 乞食坊主 名君 家族大好き 恐怖政治 明 暴君 暴君にして名君 朱元璋 残虐無比 洪武帝 独裁者 猜疑心の塊 皇帝 矛盾の塊 粛清 紅巾の乱 英雄 言葉狩り 農民 開祖 /;;;;;;;;;;;;;\ /;; \ ∈=━/,,;; .;ヽ━=∋ L ;;,__ .. ゝ //;;;; .. ̄ ̄ ̄ ̄.. ;;;ヽ / ;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l || |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 凌遅三千刀、滅九族!! r┤ ト \___/ || / \_/ ヽ . \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 朱元璋(しゅげんしょう)(大元天暦元年(1328年)~明洪武三十一年(1398年))とは、モンゴルの軛(くびき)を打ち破った英傑であり、乞食山賊上がりの素性怪しい輩であり、献策諫言を受ける度量を持つ賢人であり、文人を憎悪する無学の徒であり、 民を安んずる政策を取る聖王であり、功臣殺戮に明け暮れた邪悪であり、家族を溺愛する素朴な男である。 え?属性が矛盾している?事実なんです… 生涯果てなき地獄の底から 動乱の渦の中へ 天子への道 中華統一・北伐事業 大粛清背景事情 空印の案 胡惟庸の獄郭桓の案と林賢事件 李善長の獄 藍玉の獄 文字の獄 「御製大誥」 結果 家族 その他肖像画 農民に対する態度 後継者が遺訓を守ってくれない 明による日本侵攻 創作関連 歴史家の評価 生涯 果てなき地獄の底から 大元の天暦元年(1328年)、現在の安徽省鳳陽県の農村で朱五四(*1)と陳氏(*2)の間に末っ子として生まれる。 従兄弟も含めて八番目の子だったため、重八と名付けられた(*3)。朱五四は貧しい小作農でしかなく生活は苦しいの一語であったと思われる。 さらには大元は朱元璋が生まれた頃には大元の人材登用の弱点故に無能が多く高官についていたり、その無能らが汚職や収奪を繰り広げ民を苦しめ クビライの孫で後継者だったテムルが早逝した後は後継者候補が軍閥などを巻き込み不毛な後継者争いを繰り返し、延祐7年(1320年)からの13年に至っては7人の皇帝が立っては排除されるのを繰り返し国中が疲弊しきっていた。 折り悪く14世紀は小氷期に突入しており天候不順に見舞われ飢饉が増加しており(*4)、終いにはパクス・モンゴリカと呼ばれるユーラシア大陸の大部分にもたらされた安寧と活発な交易が仇となり 当時致命的な死の病であり、感染拡大を防ぐ術が浸透していなかったペストのパンデミックが発生しユーラシア大陸を飲み込んでいた。 13年で7人もの皇帝が立っては消えた理由は権力争いもあるが、基盤がガッタガタなのも大きな原因であろう。 上も下もドッタンバッタンユーラシア中を軋ませながら破滅に突き進む、そんな時代だった。 そんな地獄のような情勢下で父が至正4年(*5)(1344年)に黄河の氾濫に飲まれて死ぬと朱一家は「詰み」を迎えた。 飢饉に巻き込まれて重八を残し、実家に残っていた家族は全員餓死という悲惨な結果を迎えてしまったのだ。 重八はなんとか生き延び皇覚寺という寺に身を寄せるが、貧農の末っ子みたいな小僧を養う余力はあんまりなく托鉢僧として旅に出された。 体の良い追い出しに近いと言えるだろうか… しかし重八は托鉢を受け生き延び、寺で最低限の教養を身につけただの貧農の子からすると大きく見聞を広げていた。 そんな中、大元の支配は破綻を始める。まず嚆矢として海賊呼ばわりされた方国珍が浙江で蜂起。水軍を操り大元の物流網を寸断し暴れ回る。 さらには宋代に興った白蓮教が末法の世めいた世相をバックに信者を獲得し各地で蜂起し始めたのだ。 動乱の渦の中へ 方国珍は大元から招安(*6)を受け早々に離脱するが、北宋徽宗の子孫を名乗り蜂起した韓山童(*7)・韓林児親子や徐寿輝ら白蓮教勢は止まらなかった。 叛徒はみな紅い頭巾をしていたため紅巾の乱と後世呼ばれる大乱の中、皇覚寺が焼け落ち重八はまたも居場所を失ってしまう。 ここで重八は運命を占いに託した。その結果紅巾軍に身を投じるが大吉、と出たため韓林児の軍の中でも有力であった郭子興の元に馳せ参じ、英雄としての道を… 歩み始めようとしたのだが、スパイと思われて殺されそうになった。あらら。 ここで天命が尽きてもおかしくはなかったが、郭子興が顔を見た際に面構えを殊の外気に入ったため嫌疑は解け幕下に迎え入れられた。 改めてここから英雄・朱元璋(*8)の道はスタートした。 この時期に昔なじみの朋友にして後の明軍最強の将帥・功臣第一の徐達、天性の軍才を誇る猛将常遇春、謀臣李善長らを得る。 彼らとの出会いの後朱元璋は「貴方こそこの乱世を鎮める人物。然るに、同じような境遇である漢の高祖・劉邦(*9)を真似れば良いのです」という李善長から受けた指針のもとに動き、大元軍に徴兵された農民に働きかけ支持を広げ郭子興幕下でも有力な将軍として頭角を現していく。 更にこの頃、功績を認められ郭子興の養子である馬氏を娶る。後に賢夫人と呼ばれ、外付け式ストッパー兼良心として活躍する馬皇后である。 呉国公を自称し、郭子興軍の中枢として存在感を増していたがその郭子興が至正15年(1355年)に亡くなると実子の郭天叙、妻の弟の張天祐、そして娘婿の朱元璋に三分されたが その後まもなくして前者二人の軍が大元に敗れて戦死したため、結局郭子興軍を一人で吸収することとなる。 ちなみに、二人の軍は大元からの降将の言葉に乗って攻め入ったところそいつが内通者でボコボコにされたという終わり方であったが、一説によると朱元璋はその事を知りながら黙認していた つまり郭子興の実子・妻の弟という血縁面では立場が上である邪魔者を都合よく排除できる、と考え敢えて彼らを死地に追いやったという説がある。 天叙の弟である天爵もまもなくして陰謀を巡らせたとして排除されており一定の信ぴょう性はあるが証拠はない。 ともあれ、紅巾軍でも屈指の実力者となった後、「膨らんだ軍を養うには江南の富が必要である」と帰結し、当時の本拠地を半ば放棄し退路を断ち長江を渡って江南に侵入し集慶路(*10)に攻め入りこれを陥落させる。 応天府と名を改めるとここを本拠地とした。半ば山賊の群れであった朱元璋軍だったが、応天府に落ち着くと新たな国を作るための施策を取り始めた。 この政策の実施で朱元璋を見込んだ名軍師劉基らさらに人材を集めることにも成功した。 かくして荊北から江西を支配する徐寿輝の天完、別に紅巾軍とは関係ないが反旗を翻していた蘇州拠点の張士誠の周と並び立ち長江流域の覇を競うこととなったのである。 天子への道 まず戦うこととなったのは、徐寿輝配下の実力者で実権を握ると徐寿輝をハンマーで撲殺し、大漢皇帝として即位した陳友諒であった。 至正20年(1360年)、長江を大艦隊を率いて下り応天府を目指し始めたのだ。朱元璋軍は動揺し、降伏すべきとの進言すら出るほどであった。 それほどに大漢艦隊は圧倒的な勢力だったのである。 朱元璋本人もかなり弱気だったが、劉基のみが毅然と「敢えて陳友諒を応天府に引き込み、伏兵にて撃滅すべし!」と言い放ち、朱元璋もこれを容れて大漢軍を迎え撃つ覚悟を固める。 大漢軍は応天府まで猛烈な速度で進軍し、突入を図るが陳友諒の顔見知りで朱元璋軍から降伏した康茂才を全面的に信頼し、これが偽降であることを見抜けずものの見事に策にかかり、竜湾にて伏兵により壊滅的打撃を受け撤退。 その後朱元璋軍は大漢を押しまくり、陳友諒の当初の拠点であった江州(*11)などを奪い更に上流の武昌(*12)に撤退させるなど有利を築くことに成功した。 この不利を挽回するべく大漢は至正23年(1363年)に周王改め呉王を自称した張士誠の呉が朱元璋を攻める間隙を縫って再び大艦隊を興し、奪われた南昌奪還を目指す。 しかし南昌の留守居部隊が大艦隊による包囲を三ヶ月弱防ぎ続け時間を稼ぐと、朱元璋も呉を撤退させた後大船団を組織し南昌に向かう。 大漢艦隊は南昌の包囲を解き鄱陽湖に布陣し迎え撃った。 当初は巨艦を多く擁し圧倒的な威圧感を誇った大漢艦隊が朱元璋の艦隊を圧倒し、朱元璋座乗の旗艦が斬り込みを受けるなど苦戦したものの 朱元璋水軍の主力を成す兪通海率いる艦隊の火砲により鈍重な巨艦を焼き払うなど徐々にペースを取り戻し、戦闘三日目には吹き荒れた東北の風を利用し、火薬を満載させた火船七隻を決死隊が敵陣に突入させると数百隻を焼き払い無数の敵兵を屠る大戦果を挙げる。 この大火計により腹心であった弟陳友仁を失うなど士官にも大打撃を受けた大漢艦隊は撤退しようとしたが、朱元璋直率の伏兵が逃げ道を塞いでおり兵站も切られた大漢軍は瓦解。陳友諒は突破を図るが矢を受けて戦死した。 この鄱陽湖の戦いにより大漢は継戦能力を実質失い、翌年には跡を継いでいた息子の陳理が降伏。長江中流域はすべて朱元璋の手に収まることとなった。 ちなみに勘のいい読者であればお気づきになられたと思うが、この鄱陽湖の戦いは羅貫中が赤壁の戦いの描写の参考にしたとされ、巨艦を鎖でつなぎ陣にしていた点や決死隊の火船特攻、逃げようとしたところに伏兵がいたなどの描写は鄱陽湖の戦いに即したものになっている。 大漢を滅ぼすと朱元璋は呉国公から呉王に名乗りを変え、同じく呉王を名乗った張士誠との対決姿勢を鮮明にし、徐々に拠点を落とし追い詰めていく。 その進撃のさなか、大元の内紛に付け込み一時は朝鮮半島や上都や大都にも侵攻していたが、本気を出した大元の軍閥の功績稼ぎに使われズタボロにされた挙げ句、張士誠に攻め込まれて大ピンチであった紅巾軍の首領で一応名目上の首領と言える韓林児を保護することとなった。 しかし宋(*13)の龍鳳12年(1366年)、朱元璋の招聘に応え応天府に向かう途上船が転覆し溺死した。これをもって紅巾の乱は朱元璋を輩出するという成果を残し終焉した。 朱元璋が配下に指示し特に用もなくなった韓林児を処分したという説もあるが、明確な証拠は残っていない。 朱元璋は韓林児の事故死後に白蓮教を一転して弾圧しているし、勢力が大きくなればなるほど不満分子は出るし韓林児が火種になる確率は大きくもなる。なるほど排除したほうが合理的…アッハイ証拠はありません。 その後朱元璋軍は呉を追い詰め、1年弱の包囲戦の末隆平府(*14)を落とし張士誠を捕縛。 呉を滅ぼし、何度も大元に背いたり招安を受けたりして出世を重ねた末に独立勢力になっていた浙江の方国珍も朱元璋に降伏。 こうして江南を統一した朱元璋は応天府で大明の皇帝として即位。洪武元年(1368年)正月、明の誕生であった。 朱元璋は一世一元の制を敷き改元を封じたため後世洪武帝と呼ばれることとなる。 ちなみにこの明という国号は地名に由来したものではなく、白蓮教の別名明教から採ったと言われる(*15)。白蓮教は弾圧する一方でルーツは紅巾軍にあることは認めていたのかもしれない。 とにかく、この後は残された敵は長江の北、大元の皇帝及び各軍閥である。 中華統一・北伐事業 洪武帝は洪武元年の即位後すぐに徐達に大軍を預け北伐を敢行。 当時の大元で最強の軍閥を率いたココ・テムルが陝西軍閥の李思斉と交戦中であったことから華北には大きな軍事的空白があり それを突いて破竹の勢いで北上。ココ・テムルも引き返してきて明軍に当たるが敗れ北方に撤退してしまう。 同年8月には大元皇帝トゴン・テムルは大都放棄を決断。全軍民を中原から撤退させた。こうして明は華北を奪還することに成功した。 しかしその後も本拠地に帰った大元(*16)はモンゴル高原に君臨し北の災いとして明を苦しめ続けることとなる。 その後、トゴン・テムル没後皇太子アユルシリダラが即位する間隙を縫い大都の更に北方にある応昌府(*17)を奪い、 洪武4年(1371年)には徐寿輝の天完崩壊時に独立した最後の紅巾勢明玉珍が築いた明夏を滅ぼし四川を獲得するなど順調に領土拡張を進めた。 しかし洪武5年(1372年)、モンゴル高原に踏み込もうとした徐達率いる15万の軍勢が体制を立て直したココ・テムル率いる精兵に大敗。 この後アユルシリダラはココ・テムルに中原奪還作戦を託し南下させる。 一時期は山西地方北部まで盛り返すなど明を苦しめたが洪武8年(1375年)にココ・テムルが病死すると流れが変わり 再び明がモンゴル勢力に対し優越。モンゴル貴族支配下の雲南や甘粛地方、満州を奪い取る。 そして洪武21年(1388年)、ブイル・ノールの戦いでトグス・テムル(*18)の軍を散々に打ち破り圧勝。 即位から21年かけてモンゴル勢力を本拠地モンゴル高原に完全に駆逐することに成功し、かつての唐が中華として支配した領域を概ね回復することが出来た。 江南から興った政権が中華統一を果たしたのは後にも先にも明のみである。 こうして再び漢民族の栄光を取り戻した洪武帝であるが、外征のみならず内政においても尽力していた。自身が農民出身故か農本主義に基づいたかのような政策を実施。 特に小作農など下層の民に優しい統治を図った。工部の官吏や国立学校である国子監の学生を総動員して各地の堤防を修繕したりもした。 一方で魚鱗図冊や賦役黄冊を制作し戸籍や賦役、土地の状態は厳然と管理するようにしたし、衛所制や里甲制はかなりの負担となったのは事実である。 アメだけでは統治は成り立たないので仕方ないね。 さらには家族を信任し、養子に取った建国功臣が一人沐英らを重用したほか、『救荒本草』を著した周定王朱橚や北平の守りとして対モンゴル戦で活躍した晋恭王朱棡、燕王朱棣ら皇子を各地に封じ明の柱石とした。 温和な性格であった皇太子長男・懿文太子朱標が洪武25年(1392年)に急死したことは洪武帝を大いに悲しませたという。 朱標の死後は皇太孫とした朱標の子朱允炆のための体制づくりに腐心し、洪武31年(1398年)に亡くなった。 即位31年という長きにわたる治世であったが、その間に元末の荒廃から中華を立て直したと言えるに足る功績を残した。 歴代の王朝開祖と比べても十分すぎる資質を持った英雄天子といえよう。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- E〓〓〓〓 田〓〓〓〓〓〓〓〓回〓〓〓〓〓〓〓〓] iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii |∥ヾ□ / / / / /iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii ┃┃┃┃|∥ | | | | | | ┃┃┃┃┃┃┃┃ ┃┃┃┃|∥ | | | | | | ┃┃┃┃┃┃┃┃ ○○○○|∥ ニニ"◇ ̄◇ ̄◇| ○○○○○○○○ ○○○/|∥  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄U\○○○○○○○○ ○○/ /|∥ 建文帝 ○○○○○○○○ l | |∥U | | | IIIl (○) (○) U | じいちゃん…。 | |而 ( (ヽ_____/(( | じいちゃんのせいで朕の政権弱すぎなんですけど…。 ヽ | | ノ ノ \_/ノ丿 ノ ゞヽヽ ―---oo-――'" …とまあ、いままで出来る限りアレな部分は回避してきたのだが、この人を語る上で粛清を外すわけには行かないのである。 うん、決断力もあるし、部下に任せるということも出来るし、宋や大元で発達した商業本位ではなく農本主義政策を採ったこと自体も朱子学を信奉している以上そうなるのは理解の範囲内ではある。 あるいは、当時は経済も疲弊し交鈔の大暴落や銅の枯渇など通貨の発行にも困るという部分はあったので商業本位の立て直しは至難であったと言える部分もある。 故にここまで書いてきた部分は賛否あるにしても概ね賛寄りである。ただ、ここから先は否寄りの事績が多い。 大粛清 背景事情 華北から江南に根拠地を移しそこで力を蓄えて統一政権を築き上げたわけであるが、江南は華北に比べると疲弊も少なく南宋の故地であり 南宋代から続く大地主や南人(*19)官僚、知識人などが多かった。つまりはまあ、ブルジョワジィかつインテリゲンチャに担がれた訳である。 一方洪武帝という人はどういう人であったか、といえば英雄の器を持つ男であることは確かなのだが、所詮貧農の末っ子に過ぎない。 たまたま寺に行っていたため生き残り、その寺で読み書きを学び、乱世の中で英雄としての才覚を開花させたが、歯車が狂えば父のように黄河に飲まれたり餓死、病死していたような階級の生まれである。 そもそもの問題として金持ちで裕福な人生を送ってきた連中と反りが合うわけがなかったわけである。 それでも、大元、北に逃げて北元となったモンゴルの驍将ココ・テムルが健在だった頃は気に入らない連中でもしっかり利用せねば中華統一は覚束なかったため、そこまで亀裂が発生することはなかった。 そこで亀裂を起こして勢力瓦解させるようでは三流の群盗。そこはさすが洪武帝、中華帝国開祖は伊達ではなかった。 しかし洪武8年(1375年)、ココ・テムルが病死し北元の圧力が大いに減退すると、北伐よりも新国家の体制づくりが至上命題となる。この頃には中華各地から様々な人材を集められるようにもなっていた。 つまりどういうことかといえば、気に食わないやつを排除し理想の体制づくりをする好機が来たのだ。いや、来てしまった…というべきか… また、華北で決起した頃からの功臣やその功臣が推挙した者らも威光を笠にきて横暴を振るう例はままあった。 正直こういうのは王朝初期のあるあるネタの範疇であり、漢の高祖劉邦、唐の太宗李世民らも通ってきた道であるし、問題を解決するには一定程度粛清が必要だったりする場合はある。 皇帝権を高めようとするならば臣下の利益と当然ぶつかってしまう。それは仕方のないことではある。 しかし洪武帝の粛清が殊更言われるのは、その並外れた猜疑心が家族以外に誰彼構わず、時に溺愛していた家族にすら向けられたことである。 功臣第一の名将で昔なじみの友でもあった徐達や姉の子であった李文忠にすら謀殺した、あるいは自殺するよう仕向けたという疑惑すらあるほど。 馬皇后も死の床に臥せった際「私が死んでしまったら治療を失敗したと責められてあの人に粛清されてしまうかもしれない」と考えたのか、医者を寄せ付けなかったという。無茶苦茶な猜疑心である。 また、当時東シナ海や南シナ海沿岸は倭寇(わこう)と呼ばれる海賊が跋扈しており、北方のモンゴル勢力と合わせて頭痛の種となっていた。 明を通じて北虜南倭(ほくりょなんわ)」(*20)と言われ帝国を脅かし続ける事となるのだが、この頃の倭寇はいわゆる後期倭寇の倭人偽装の明人が率いる海賊団ではなく、 南北朝時代で統治が緩みっぱなしの九州の松浦党などの南朝系武士団が、元寇の復讐戦や南朝方の物資獲得を期して行っていたらしく、ガチの倭人、つまり日本人による略奪であった。 そこで周辺国に朝貢を求める使者を出していた洪武帝は日本に対してかなり強いトーンで「朝貢しろ、倭寇を取り締まれ!」と書状を出していたが 九州の覇権は当初倭寇を派遣していた、あるいは配下が倭寇をやって戦力を供給していた可能性が高い南朝の懐良親王が握っており、明の要求に100%応じられる状況ではなかった。 それどころか鎌倉幕府式のやり方で使者をぶった斬る(流石に全員ではなかったが)暴挙に出る始末であった。 その後、明の趙秩が上手いこと繕って日本が冊封に応じたという形で片付けたためとりあえず懐良親王の暴挙は大問題になることはなかった……が、冊封を受けた証である日本国王の印綬を懐良が受け取ることもなかった。 明からの使者が日本に国王印を持ってきた頃には今川了俊率いる北朝軍が北九州を制圧していたからである。そんな調子だったので倭寇は収まるわけもなし。 一応南朝と違い北朝側は明との交易を考えて倭寇を抑える意思はあったものの、肝心の統治力を巡らしきれていなかったのだ。 終いには倭寇が収まる様子もないのに、懐良名義で送り込まれる朝貢貿易で一儲けしようとする九州諸侯のニセ外交使者のあからさまなカネ狙いかつ無礼粗暴な態度に明は悩まされた。 洪武帝は大変憤激し、「あんな国とはもう交渉を持たん!」とキレていた。とはいえ格上のこっちが感情任せに切るのも…と思ったのか洪武帝は日本の悪名を利用しようと考えた。 外患誘致をでっち上げて粛清の口実を作る、そのための材料にぴったりだったのだ。 空印の案 驍将ココ・テムルの病死でモンゴル軍の組織的抵抗力が弱まった洪武9年(1376年)に洪武帝が仕掛けた粛清事件。 決算の提出の際、再計算が必要な計算ミスなど帳簿上のミスが見つかった場合一から書き直し、各地の長官に認印をもらうという形になっていたのだが 当時はコンピュータもないため、何度となく再提出となれば書き直しにも時間はかかり、その上で許可を貰い直すため仕事がどんどん溜まっていくという事になってしまう。 それを防止するために、慣例としてすでに認印を押された白紙の決算書を用意し、それに書き直して提出するのが習慣となっていた。つまり多重チェック回避策が慣例化していたのだ。押印、ヨシ! しかし洪武帝に見つかり咎められ、「こんなもん不正の温床じゃねぇか!粛清!」と宣言し各地の地方官を処刑・僻地への左遷などの厳罰に処す事としたのである。 これにより多数の官僚が殺されたり左遷されたりした。 まあなんとなく察しはつくだろうが、急に地方官(要するに、都道府県や市役所の公務員)を大量処刑したりしたらあっという間に業務が回らず帝国の統治は止まる。 しかし明はここからも安定的に統治を進めた。つまりどういうことかと言えば、代わりになる洪武帝肝いりの人材を用意した上での粛清ということである。 空印文書への追及はそのきっかけづくりにしか過ぎなかった、ということである。 行革にすら血生臭さが漂うのがなんとも、という感じはあるが、当時の官僚は土地を持っていたりするため束になって抵抗された場合帝国の屋台骨が揺らぐので、やるなら即断即決で命を断つのが最も安全。そういうものなのだ。 この結果人員は洪武帝肝いりの人材に一新、さらに元の時代から存置されていた地方行政の最高機関・行中書省が解体され、皇帝の意思を地方にダイレクトに伝える体制が完成したのであった。 胡惟庸の獄 元が残した遺制のうち、皇帝権とぶつかるものとして行政のトップにして六部を統べる中書省、その頭の左右の丞相がいた。 建国当初は親友で軍人である徐達、文人らしいいやらしさもあるが慎み深さがありあからさまにやらない李善長のコンビであったためにそこまで問題にならなかった。 しかし、洪武帝が李善長の娘婿である胡惟庸を信任し宰相につけた辺りから中書省の雲行きが怪しくなる。 端的に言えばこの胡惟庸、失脚する宰相のテンプレみたいな人材だったのである。 宰相になるくらいなので能力は舅の李善長に劣らないのだが如何せん性格が強欲、嗜虐的で俗人だった。 明史などには洪武帝の軍師であり諫臣でもあった功臣・劉基は胡惟庸が毒殺した、とあるくらいである。 ちなみに劉基は徐達らと共に胡惟庸の宰相就任に難色を示していた。んまあ怪しい。 そんな胡惟庸だったが、空印事件においては陣頭指揮を執り大いに活躍。彼が引き上げた酷吏(*21)の陳寧とともに積極的に処刑や左遷に従事した。 そのため敵はどんどん増えていった。しかしその一方中書省を胡惟庸派、後に胡党の汚名を着る配下でガッチリ固めた胡惟庸にスキはない、はずであった。 洪武12年(1379年)に占城(チャンパ)から朝貢の使者が来たという報告(*22)を洪武帝に怠るまでは、だったが。 翌洪武13年(1380年)、旧暦の正月2日という年始も年始に胡惟庸と腹心の酷吏陳寧は逮捕される。謀反という罪状であった。 もちろん、逮捕から四日後には処刑された。密告者及び一族諸共であった。あっ…(察し) 正史などには様々な理由が書き連ねられているが、まあそれっぽいのをでっち上げただけだろうというのが通説である。 洪武帝の目標は唯一つ、中書省の解体、宰相の廃止及び皇帝権の強化であった。 中書省の胡惟庸派は胡党とされ、中書省諸共に粛清された。さらにこの事件は江南の裕福な地主層、士大夫の基盤にまで延焼を起こす。 ライバルを蹴落とす口実として「アイツは胡党だ!」と言いがかりをつけて逮捕させるという手法が流行したのだ。 洪武帝はその訴えを特に吟味もせずの積極的な処刑を推奨したため犠牲者は増え続け、15000人以上とも言われる。 この粛清の嵐の只中、李善長ら功臣にもその手は伸びたのだが、そこは馬皇后と皇太子朱標が必死になって食い止めてこのときは事なきを得た。 しかし、胡党というレッテルはまだまだ毒として蔓延する事となる。 その胡党探しのために御史台を廃止し都察院に改め監察強化、さらに皇帝の目・耳として近衛軍の一部を改組し錦衣衛とし、秘密警察めいて暗躍させ恐怖政治を敷くのであった。 なお、宰相職廃止はさすがに職務が皇帝に集中しすぎて負荷が大きすぎたためか、洪武帝時代でもう秘書職として内閣大学士職が置かれ、 永楽帝期には諮問機関として内閣を作り大学士複数名を閣僚として採用するなどして地位を固め後世にはさらなる権限委譲を受け、 しまいには内閣大学士筆頭は実質大元までの宰相と同等の存在として振る舞うこととなった。 ただし洪武帝が定めた祖法には宰相に準ずる皇帝の政治代執行人の設置は禁じられており 政治の中枢に座るという意味で法的根拠はまるでなかったがため、かつての宰相ほど政治を壟断することは出来ず皇帝の気分次第で首がすげ変わる(物理)程度の存在でしかなかった。 そのため皇帝への阿諛追従に終始したり讒言であっけなく失脚もあった。 郭桓の案と林賢事件 胡惟庸の獄から五年後、洪武18年(1385年)に戸部尚書(長官)の郭桓が北平の布政司(*23)と結託して食糧を着服する事件が発生。 洪武帝は当然のごとくカンカンであった。六部は中書省解体後皇帝直属の機関として再編し皇帝の手足として働くよう改組した、はずだったからである。 当然のごとく戸部のみならず六部の長官は全員誅殺、他にも中央地方を問わず官吏、さらに官吏と結託して着服したとみなされた商人など民草も多く処断されて数万人を超える犠牲が出たという。 ストッパーの馬皇后が3年前に病死し、皇太子朱標も止めるには力が弱くこの粛清を止めようにも周囲はどうしようもなかったものと見られる。 更に翌年、貿易港寧波の責任者であった林賢が胡惟庸の「反乱計画」に関わっていた「胡党」であるとして処刑された。胡惟庸同様、一族根絶やしであったという。 その後、林賢と胡惟庸の「反乱計画」が明かされた。胡惟庸の命で林賢が日本と結び、兵を招き入れる手はずとなっていたということであった。 無論、これはでっちあげである。当時の日本に海外の反乱軍と結び外征をするような主体は存在していなかったからである。 室町幕府ならできなくはないとも言えなくはないが…南朝勢力や守護に任じた諸侯のことを考慮すればまず不可能と言っていい。 そもそも室町幕府を含めた北朝方は洪武帝の要求した倭寇の取り締まりに前向きであった。 日本の状況を把握せず、倭寇を送り込んでいる可能性のある南朝勢力が九州で強かった時期に最初の使者を送り込んだ明側のミスなのだが、まあそんな事は知る由もなかったということだろう。 前述の通りの日本国王の使者を騙るニセ使者が無礼極まりない態度でカネをたかりに来たようなことも多々あったため、貿易港のある寧波の責任者林賢を胡惟庸の「反乱計画」に通じた罪で処刑し その後日本とは一切の通交を断絶する、ということにしたかったのがこの事件の真実に近いといえよう。 つまり林賢は格下の日本相手にこっちから癇癪起こして断絶、だと体面が悪いので日本が反乱軍と結んでいたとして断交するための理由付けのために始末されたという可能性がある。なんとまあ… 胡惟庸の獄とは分けたものの、どちらの事件も胡惟庸の獄から連続した事件である。そして「胡党」探しはまだまだ続く。 李善長の獄 とまあ、ここまで官吏や士大夫層に痛撃を与えて皇帝権を固めてきた洪武帝であるが、功臣たちはまだまだ多く存在していた。 ここに至るまでにも功臣の一人である甥の李文忠を微罪で葬り去り、親友にして軍功第一の徐達にも腫れ物が出来たところに蒸したガチョウを送りつけ落ち込ませて(*24)死去させた…と史書に記された程の執念をもって功臣狩りを行っていた。 次のターゲットとなったのは胡惟庸とつながりがありながら馬皇后らの嘆願、息子の嫁が公主=洪武帝の娘ということで粛清を回避した太師李善長その人であった。 1390年(洪武23年)、弟の李存義が胡惟庸の陰謀に加担したとして逮捕され、加担したことや兄の関与を「自白」すると李善長は進退窮まることとなった。 洪武帝も李善長は処刑ではなく賜死にして自裁させることで尊厳を守るくらいの配慮はしたが、一族は当然誅滅された。 そして功臣たちも李善長に加担した、陰謀を知りながら止めなかったとして19名が弁明の機会もなく処刑となった。 さらに洪武帝の執念が及ぶ前に天命が尽き死した功臣たちすら爵位を奪われる始末であった。 さらに連座で血の嵐が再び吹き荒れて15000人程度が犠牲になったという。 1392年(洪武25年)に最後の「胡党」が処刑され、かれこれ12年以上続いた胡惟庸の獄、胡党虐殺についに終止符が打たれた。 藍玉の獄 しかし1392年に皇太子朱標が死去。洪武帝は深い悲しみに包まれてしまう。 後継者としては朱標の子、皇太孫朱允炆を立てたが柔弱と思う朱標より若く、乱世の経験も乏しく自身に比べると果てしなく弱い… 洪武帝はそう見ていた。その祖父の心遣い?がさらなる粛清劇を呼び込むこととなった。ターゲットになったのはブイル・ノールの戦いの英雄、大将軍藍玉であった。 この藍玉は常遇春・馮勝といった優れた将軍に仕えて頭角を現し、馮勝失脚後は大将軍となり対モンゴル戦の主将として戦い、ブイル・ノールの戦いで圧勝してモンゴル勢力を駆逐してみせたのであった。 その圧勝ぶりは凄まじく、トグス・テムルこそ逃したが次子ティボドや妃・公主を捕らえるなど古今まれに見る大勝利であった。 この戦いの後大元から続くクビライ系の皇統が断絶。一時的にアリクブケ(*25)系のハーンが立つものの チンギス・カンが統一したモンゴルはアリクブケ系の皇統を支持するオイラト、大元の後継者を自認するドチン・モンゴル、明に投降し衛所制の元仕えるようになったウリヤンハイ三衛と後世呼ばれた勢力に分かれ弱体化を余儀なくされた。 これにより、明建国後最初に手を付けた大業である大元討伐戦はひとまず終結。藍玉は英雄となったのであった。 このように大きな功績を残した藍玉であるが、性格には難が多く時法を守る意志も薄いところがあり、命令もないのに出撃する、勝手に部下の任免をするなど放埒な振る舞いが多かった。 それが災いしたのか真っ先に目をつけられ、1393年(洪武26年)に謀反の疑いで逮捕され速やかに処刑された。これが藍玉の獄開始の暁鐘となった。 功臣を中心に「藍党」「共謀者」が炙り出され藍玉他生存していた功臣のことごとくが弁明すら許されず殺害され、これに連座して2万人とも言われる人間の命が奪われた。 しかし藍玉は武功を誇り専横するちょっとアレな人物ではあったが、謀反を起こすような人物かどうかは微妙な線であり、やはり「藍党」「共謀者」探しからの功臣粛清が主眼であった。 洪武帝の狙いは孫の允炆、のちの建文帝のために少しでも功績があり誰かが担ぐ可能性がある功臣を減らす…そのための追加粛清こそがこの藍玉の獄であると見られる。 こうして念入りに丁寧丁寧丁寧に功臣を潰した結果、湯和・耿炳文・郭英の三人以外の功臣は全滅した。 文字の獄 この他にも文章にケチを付けて始末する文字の獄を積極的に行った。なんでかって?生まれ育ちに超コンプレックスを抱いており文人を激しく憎んでいたからである。 結局功臣粛清だとかそのへんもここにつながるので根が深い憎悪であったと言えるだろう。 例としては 「天に道あり」←道と盗は同じ読みだ!朕を盗賊流賊と謗るか!死ね! 「光天の下、天は聖人を生じ、世の為に則を作す」←光ィ!?キサマ朕が坊主だったのをバカにするか!しかも則と賊は同じ読みじゃないか!死ね! 「禿」←坊主だったのを揶揄するか!死ね! などなど、激しい文章検閲及び揚げ足取り(*26)が行われこれでも命が数多散ったという。 徳川家康「おいおい、そりゃいくら何でもコジツケだろ」 禰衡「文章も碌に読めないとか、所詮貧民出だよね~♪ これだから無教養の権力者ってタチ悪い…あっ言っちゃったw」 意外な?影響で言えば西遊記は水滸伝や三国志演義等と同様、宋から明にかけて小説として完成していく過程にあったが、当時猪八戒は朱八戒といった。 ブタの妖怪に皇帝の名字、特に苛烈な文字の獄を行う洪武帝の国姓である朱をつけるのは命取りということで自主規制した結果が猪八戒という名になったのである。 尤も、皇帝と同じ文字を用いるとは「恐れ多い」としてこれまでも敬遠されていた(*27)事であり、この件に関しては当然ともいえるが… 「御製大誥」 タイトルに有るこの書物は、胡惟庸ら「胡党」がいかなる罪を犯し、いかに苛烈に取り調べられ無残に命を散らしたかを詳述し、その上で洪武帝の訓戒を書き記し 「どんなに偉くなっても悪事がバレたら皇帝はこのように君たちを処分する、こういうことを絶対にしてはいけない、絶対の忠誠を誓え」と迫るものである。 ちなみに「御製大誥」だけでも三巻作成され、この他にも李善長の獄編ともいえる「昭示姦党録」、藍玉の獄編である「逆臣録」など多数が発刊され、官僚必読の書として読み継がれたという。 結果 念入りに皇帝専制の実現及び朱家による皇統継続のため、空印の案で行中書省、胡惟庸の獄で中書省を取り潰し、郭桓の案で六部の独立性を奪い、李善長・藍玉の獄で取って代わる可能性のある功臣を始末してきた。 その結果かどうかは定かではないが、朱元璋の子孫たちは1644年(崇禎17年)に至るまで、300年弱に渡り中華の支配者として君臨することが出来た。 しかし、洪武帝が一番守りたかったであろう朱標、その子どもたちが朱家の祭祀を継ぎ、皇統として君臨することはなかった。 北方の守りに就いていた勇将でもあった四男・燕王朱棣が皇位を狙って反乱を起こし、建文帝を打ち破って皇帝(後の永楽帝)として即位したからである。これを靖難の変と呼ぶ。 この燕賊簒位…アッ(斬首)朱棣による君側の奸を排除する戦いが結果として甥っ子の殺害にまで至ってしまった悲しい事件により、朱標の血統は皇統から外れることになった。 なぜこうなったかと言えば、建文帝側には能力不足な功臣の二世や将たる資質がない文官が多く有能な将軍不在、方や対モンゴル最前線で精兵名将を従えていた朱棣が大きく有利であった、という説がある。 さらに言えば乱世を知らず柔弱な建文帝と、将たる資質をも持つ英雄・朱棣の差があるとも言われるが、そこを埋めるのが臣下の仕事であり、その臣下が前述の通り祖父の手で殲滅されていたのだから建文帝にはどうしようもなかった可能性が高い。 つまりおじいちゃんの気遣いのはずがとんだお節介だったということである。…お節介というか積極的に建文帝の朝廷を弱体化させた、といえるだろうか。 家族思いであるがゆえに、家族の地位を脅かしかねない功臣を始末した結果、建文帝政権の基盤を枯らし、朱棣ら実子の王たちに封土や軍事力を与え、家族一丸となって明という「大きな家」を守ろうとしたのが、雄略の大器であった朱棣の野心に火を付ける事となった。 あまりにも皮肉な話である。 ついでに言うと「家族に封土を与えて国家を分割し、それぞれ治めさせる」というやり方はどう見ても周代以前の封建制そのものである。 1600年ほど前に始皇帝が封建制を全廃して、反対意見が起きた際の「皇族を分封させてもすぐに諸侯で内紛を起こすだろう」という始皇帝(李斯)の再反論に見事当てはまってしまっている。 そういえば劉邦の郡国制(封建制と郡県制の妥協システム)もすぐに内紛を経て終わっている。 1600年前に終わった封建制を持ち出したあたり、根本的に時代ズレしていたのだ。 とはいえ皇子に封土や王号を与えるのはこれまでの諸王朝においてもそう珍しいことではなかったが、洪武帝の場合軍事面での裁量など独立性を大きく与えすぎたところにミスがあったと言えるだろうか。 一応徴税権は中央政府に集約していたため、軍資金は自由にすることが不可能ではあったが… 建文帝政権は諸王取り潰し政策を行う中で一番の難物であった朱棣取り潰しに失敗して滅んだので、あまりに致命的であった。 余談になるが、永楽帝以後は領土削減などを行い諸王が反乱が出来ないような仕組みにはなった。 …が、万暦帝のように皇太子に出来なかった寵姫の産んだ依怙贔屓している子に異様に大きな封土や予算を与えて国庫を圧迫する例もあった。 そこまで可愛がっていた万暦帝の愛玩子・朱常洵さんは李自成軍に煮込み料理にされて食べられてしまいました。 また、宋代とは違い 官僚の命があまりにも軽い 言論の自由も存在しない(*28) 下手なことも出来ないため文人は恐怖し朝廷から距離を置こうとしたがそれも叶わない といったこともあって文人は怯えながら職についていた。 さらには明代は官僚の俸給が異様に安いため忠誠心や仕事意欲がかなり低く、科挙も受験者数は異様に多かったため狭き門には変わりなかったが 問題が定型文(八股文(*29))を覚えるとすぐに解けるような簡便なものになった(*30)ため、宋代よりバカ・無能(*31)でも突破しやすくなっていた。 このため国士たる気宇壮大な人材のみならず、士大夫として地盤を引き継ぎたいだけという意識の低い人材も結果的にではあるが積極的に集めてしまう事となってしまった。 これらが官僚の事なかれ主義を助長し、保身のために目立たずにいることを是とする空気で愚帝にも意見する硬骨の人材が減少することに繋がった。 それでも一条鞭法を全国に拡大適用し財政再建を成し遂げた張居正ら優秀な官僚は出ることは出たが、どちらかといえば少数派であった。 家族 主な人物のみを紹介。 馬皇后 郭子興の養女で、郭子興が朱元璋を気に入ったがために嫁がせたという。明建国後に立后された。 性格は慎み深く献身的、驕らず質素を好みしかし時には夫に諫言するような芯の強さを持つ賢夫人と称揚されるに相応しい女性であり、猜疑心の異様に強い洪武帝も彼女には心を開いて接する事ができたと伝わる。また最も信頼する「側近」ともしていた。 例えば大漢の応天府侵攻の際は彼女の発案で城に蓄えていた財産や食糧を配下や市民に配布して人心の安定を図る、前述の通り功臣粛清を阻止するのは彼女であることが常であったなど洪武帝の欠けた部分を補う活躍をみせる。 とはいえ彼女も洪武帝同様生まれは良くなく無学文盲であったが、女官から字を学び自ら歴史書を読んで皇后の心得を学ぶなど向上心にも優れていた。なんなのこの人… 洪武帝も見てくれで勝る側室はたくさんいたが、本当に心を開いて100%信頼出来たのは馬皇后以外にいなかったようで、事あるごとに彼女を称揚し、彼女はそれを鼻にかけることは一切なかったという。 1382年、洪武帝を残して病死した際には慟哭していたと伝わる。胡党・功臣虐殺は馬皇后の死を境に加速し、その後の粛清も馬皇后ほどに効果的に止められる人物はいなかったという。 洪武帝は数多の側室を持ちエネルギッシュに子を設け家族を増やしていたが、新たな皇后を立后することはなかった。 新たな立后をしないことが=愛の証明とは断言できないが、他の例を見ても深く愛していたがためにしないことが多いので、まあそういうことであろう。 残虐無道な猜疑心の塊である洪武帝が人間朱元璋…いや、小作農の末っ子朱重八としてありのままでいられたのは彼女の前だけだったのだろうか。 後述の朱標ら5人の息子と2人の娘、7人の子に恵まれた…と明史にはあるが、息子たちの母は名もなき側室とも言われる。 洪武帝が息子の血統を箔付けし確かにするために史書の記述を書き換えるように仕向けたらしい。ただし確たる証拠はない。 朱標 馬皇后との間に生まれたとされる長子。明建国後は皇太子として後継指名している。 温厚篤実な性格で、父の苛烈な粛清にNOが言える数少ない人物であったという。洪武帝はその性質を柔弱と断じてはいたが皇太子から降ろすことはなかった。(*32) また弟たちの面倒見もよく、次男秦王朱樉・三男晋王朱棡らが父に疑われた際は弁護に奔走し、厳罰を撤回させることに成功した。 しかし母である馬皇后の死から十年後、父に先立って急死した。享年38歳。懿文太子と諡された。 最後のストッパーである朱標の死は更なる大粛清・藍玉の獄の原因であり、それが巡り巡って後継指名された皇太孫朱允炆の最期をも決めてしまった。 建文帝/朱允炆(しゅいんぶん) 朱標の次男。洪武帝からすると孫。側室の子である。父の死後祖父から皇太孫として後継指名された。 靖難の変に至っても「朕に叔父殺しなんて不名誉を与えてくれるなよ?」と訓令して士気を下げたり、数少ない功臣でまともな将軍の1人である耿炳文をたった1敗であっさり更迭して朱棣に「あのジジイ更迭してどうすんだか、アレ以外なら誰が来たって楽勝じゃねぇか(意訳)」とあざ笑われたり 大敗して帰ってきた李景隆を更迭するでもなく何故か高位につけるという意味不明な行動をとって求心力を下げたりろくでもない戦争指揮能力を持ち、朱棣に敗れ燃える南京に消えた悲しき皇帝。 ただし減税路線や拷問廃止など仁政方向の政策を取っていたらしく、民からは慕われたという記録もある。乱世向きではなかったのだろう。 生存説が当時から流布されており、永楽帝の崩御後には偽物が出たこともあった。 永楽帝により明代においては「いなかったもの」として扱われ、清の乾隆帝による追号や明史の編纂過程でようやく復活することが出来た。 朱棡(しゅこう) 洪武帝の三男。馬皇后との間の子らしい。明建国後は取り戻した華北の晋王に封じられた。 才気煥発で威風堂々とした智勇兼備の逸材であったが、性格に非常に問題があり周辺から讒言されることも多く、謀反を企てたという讒言を信じた洪武帝は彼を処そうとしたが 弟のピンチに長男朱標は必死に弁護に奔走。その結果罰を回避することが出来た。その後は行動を改めて真面目に温厚に生きるようになったという。 太原に拠点を持つ晋王であるため対モンゴル最前線で戦争指揮する役割であったが、朱棣に負けない才能を見せ大活躍し武功を重ねた。 父と同じく1398年に死去。もし存命であったならば建文帝や朱棣の行動にどういう対応を見せたのだろうか… 永楽帝/朱棣(しゅてい) 洪武帝の四男。馬皇后との間の子とされる。明建国後は燕王に封じられた。 兄たちの中では朱棡に似て智勇兼備の逸材であり、対モンゴル戦で大いに活躍。企図した北伐をすべて成功させ、父より「北顧の憂いなし」と称賛されたという。 その後靖難の変を勝ち抜き帝位につき、建文帝派の官僚を無惨に葬り去る(*33)、自身の本拠地であった北平(大都)に遷都。北京と改めるなどして建文帝の即位の事実や自身の簒奪を徹底革除。(*34) 永楽帝の血統が崇禎帝まで連なったこともあり、明代には建文帝や靖難の変について論議することは不可能となった。 ある意味では洪武帝よりたちの悪い残虐無道なところもあったが、大百科事典と言える「永楽大典」や四書五経の政府見解≒科挙のベースとなった「四書大全」や「五経大全」の編纂や 鄭和に大艦隊を預け南シナ海~インド洋を股にかけ東アフリカやメッカまで朝貢を求める気宇壮大な大航海(*35)を7回決行。 さらに5度のモンゴル高原親征でただの一敗もせず全勝して見せるなど明を世界帝国にするため様々な大業を行ってみせた。まさに英雄天子であり、父の英雄成分を最もよく受け継いだ子であったと言えるだろう。 しかし、「四書大全」や「五経大全」は儒教の硬直化や科挙の難易度低下を招き、東廠設置による宦官登用開始は徐々に毒として明を蝕み 後続の皇帝たちは永楽帝の世界帝国路線と洪武帝の農本主義・恤民的な内政専念の両極端な政策の間で揺れるようになり、帝国の不安定化を招くなど功罪の多い男である。 この他に23男16女、側室は史書に記載があるだけで20人以上もいる。大家族である。 なお馬皇后に対しては深い愛情を見せた一方側室には結構酷薄で、馬皇后の死後後宮のリーダー格となった李氏や郭氏は外史(*36)によると不興を買って殺されているという。 その他 肖像画 皇帝然とした温和な老人のものと、極端にアゴがしゃくれて痘痕まみれのものが残っている。現存数は後者のタイプが多い。 郭子興軍に参加したときなど、顔にまつわるかわったエピソードや、明史にも「奇骨貫項」(*37)と記載されていることなどから温和な老人の方ではなくしゃくれ痘痕男のほうが本人に近いとされることが多い。 農民に対する態度 文人や商人など士大夫層には憎悪をむき出しにしてスキあらば文人や官僚には粛清、 大商人には財産の剥奪及び荒れ地に強制移住の上開拓を強いる、あるいは粛清など強烈な敵視政策を行った。 が、農民に対しては非常に心を砕き、肉刑(*38)禁止や、大河を抱える中国大陸では政府の一番の仕事である治水事業に非常に積極的になるなど彼らを慮る政治を取っていた。 おそらく生まれが最下層の農民であったがゆえ、立場は変われど同胞意識が非常に強かったと思われる。 また、中小農民に対する商売が中心の商人には減税という形で助け船を出すこともあった。 後継者が遺訓を守ってくれない 洪武帝は後継者にむけて残した遺訓において様々なことを禁じていた。 宦官を本来の後宮の小間使い以上に重用すること 日本との国交を持つこと 宰相やそれに準ずる職の設置 などである。 しかし、宦官の重用禁止は永楽帝が即位の際に正当性が足りなかったことから鄭和らを重用。 さらに錦衣衛の上部機関として宦官を長とする東廠を設置し、恐怖政治を推し進めたことで破られた。 この後宦官は東廠長官など重要な役職につくようになり、洪武帝が懸念したとおりに土木の変でやらかした正統帝の家庭教師・王振や天啓帝時代に明の滅亡を確定させた魏忠賢などが壟断。 宦官の跳梁跋扈と愚帝のコンボにより、明は大きく弱体化し滅びへの道を進むことになった。 洪武帝が忌み嫌った日本との国交についても建文帝が足利義満の国書を容れて勘合貿易を開始したところで破られた。 その後明はしばらく勘合貿易を続けるが、16世紀には寧波事件で大きな外交問題が起こったり、中国商人が日本商人と私貿易を行うために倭寇となり沿岸を荒らし回るなどせっかく落ち着いた倭寇が活発化するなど散々であり、 終いには豊臣秀吉(*39)が万暦帝期に朝鮮半島から明に侵攻することを企て、その通り道に選定された李氏朝鮮からの救援要請を受けて戦う羽目になってしまった。 なんとか追い払う事はできた(*40)が、国庫に大打撃を受けた上兵力を抽出した遼東方面軍が弱体化しヌルハチ率いる女真族の跋扈を許してしまう。 その結果生まれた女真族統一国家後金、のちの清に明は大いに悩まされることとなる。 守られていれば明は滅びなかったとは言わないが、宦官を重用せず日本に構わずにいたら歴史はだいぶ変わっていただろうか…。 明による日本侵攻 倭寇を取り締まるよう命令した国書を受け取った懐良親王による使者殺し及び「お前らが攻めてくるなら受けて立つぞ馬鹿野郎!(意訳)」と書かれた返書にガチギレした洪武帝は、日本侵攻を真剣に考えた事もあったという。 ただ、元寇の失敗を鑑みてそれは思いとどまったという。クビライの失敗は無駄ではなかったのであった。 創作関連 中国でも毀誉褒貶激しいが、ドラマ「大明帝国 朱元璋」は大ヒットを飛ばし日本でもCSで放送されたりした。朱元璋役はレッドクリフで趙雲役を演じた当時売れっ子であった胡軍。 小説類は…ほぼ存在しない。あの陳舜臣も計画は立てたが史料読みの時点で断念したという難物である。 2ch~5chでは妙な人気があった時期があり、その頃からあるネタスレ「朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ」は一応今でも存在する。 元ネタは暗黒TBSベイスターズ時代にその輝く頭と明るい性格でファンにほんのりと明るい光を灯した…かもしれない山下大輔監督のネタスレ「大ちゃんとともに苦難を乗り越えてゆくスレ」。 当項目冒頭の洪武帝のAAと中盤の建文帝のAAは朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ出典である。ちなみにこのAAが生まれた時期は2003~2004年ごろである。 歴史家の評価 まあ色々あるが、清代の歴史家である趙翼の評価が一番端的でわかりやすいだろうと思うので紹介する。 「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」 ……ここまで長々と書いてきたことがこれだけで十分に説明がつくのが悲しい。 追記修正は「一身において聖賢、豪傑、アニヲタを兼ねた才物」の方にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 文字の獄って要は君臣豊楽国家安康だろ -- 名無しさん (2020-08-23 02 26 34) あちらが立てばこちらが立たず、欠点の無い統治者なんていないんだなって -- 名無しさん (2020-08-23 03 01 23) 同じ人間なのか、これ(ドン引き) -- 名無しさん (2020-08-23 06 31 05) 歴史の教科書でしつこく出てきたやつだ! -- 名無しさん (2020-08-23 08 47 25) 暴君呼ばわりされるのは自分たちの既得権益を奪われたインテリの逆恨みも入ってると思う -- 名無しさん (2020-08-23 09 37 34) 場所問わず負けた側はボロクソに言われるのが歴史の常だし、盛り過ぎな部分があったとしても偉大な功績は無視できない部分があったのは確か -- 名無しさん (2020-08-23 10 11 16) 何というか、双子座のサガが実体化したような人物だな。 -- 名無しさん (2020-08-23 10 23 40) 中国史史上でもガチでまったくの貧民、親戚無しで至尊の地位に上った男だからなー -- 名無しさん (2020-08-23 12 13 46) 同じ農民出身皇帝の劉邦もヤk…土地の顔役で、毛沢東も庄屋のお坊ちゃんでどちらも富農だったのに対し(豊臣秀吉も最近は少なくとも豪農クラスの出身だった説が出てるし)、朱元璋はガチの水飲み百姓から天下人までのし上がったのがすごい。って全員晩年の粛清劇が凄い人ですね…。 -- 名無しさん (2020-08-23 13 52 20) 信長と秀吉と家康がフュージョンした様な人だな・・・ -- 名無しさん (2020-08-23 13 54 01) ↑3その上ブサイクで家族が全員餓死ってこれ人生ナイトメアモードだろ。 -- 名無しさん (2020-08-23 14 17 25) 秀吉は中の下くらいかな金もコネも学もないけど文字読めて下働きこなせる程度の教養はあるんだし -- 名無しさん (2020-08-23 16 39 37) 馬皇后が洪武帝を -- 名無しさん (2020-08-23 17 26 28) ちなみに宦官を徴用するなっていうのも体制的に無理筋なんだよね、おまけ代わりに支えてくれる外戚もいないし… -- 名無しさん (2020-08-23 20 04 45) なんかブサメンな顔とか経歴見ているとどこぞの海賊漫画の黒炭オロチみたいだなって思えてきた… -- 名無しさん (2020-08-23 21 02 57) 宦官使うなってんならせめて代わりの官僚くらい残してクレメンス・・・(届かぬ思い) -- 名無しさん (2020-08-23 21 27 15) ↑漢方孝孺、迫真の燕賊批判 -- 名無しさん (2020-08-23 22 40 11) ↑4 劉邦の真似しろって言われたから呂稚がいるかのように功臣殺しまくっただけなのに・・・まあそれでも劉邦は文官や謀臣といった功臣は手にかけてないわけだが -- 名無しさん (2020-08-24 00 37 31) 地盤のない人物だから粛清自体は仕方ないんだが、結果的には裏目ったね。奥さんや息子が善人で、家族の絆も強そうな辺りがまた哀愁を誘う -- 名無しさん (2020-08-24 00 48 09) 洪武帝はダブる名前もないことだし、朱元璋という名も有名なのはその通りなんだけど、永楽帝のことも考えると項目名は「洪武帝」だけでもいいんじゃないかなーと思う。 -- 名無しさん (2020-08-24 00 59 31) 官僚と皇帝、更にココに有力者が絡むので清のあの人並みばりにマジキチレベルで独裁するか、宦官という個人スタッフを使って仕事するかの二択ー(皇帝は全部自分でやりたい、官僚は決まりどおり粛々と処理したい) -- 名無しさん (2020-08-24 10 58 20) 「特定の文字を元に『自分の過去への当てこすり』という言い掛かり同然の冤罪で粛清した」「とにかく数多の功臣が粛清された」とか怖い逸話ばかり聞くせいで「やっぱヨシフおじさんといい貧困層出の君主ってダメなのかな……」と思いきや、「自分が若い頃家族が死に絶えながらも、飢饉の真っ只中おそらくはその悲しみに暮れる間すらなく自分一人で生き延びる術を探さざるを得なくなる凄惨な過去があったから(主に悪い方向に出てしまったけど)、皇帝になって妻子に満足な遺産を残せるようなった後は磐石の治世を残してあげようとしたし、皇后が『治らなかったら医者が冤罪をかけられるかもしれない』とすら病床ですら案じたほど家族を喪う深い悲しみがあったからこそ新たに得た家族への愛情も家族を脅かし得るものへのへと強い警戒心もあった」と良くも悪くも「ただの人間」だったんだとわかってなんか安心した -- 名無しさん (2020-08-24 20 27 43) だから王には血筋がどうしても必要という事なんでしょう 結局王と官の線引きをするって時にじゃあ何が線になるのかと言うと血筋な訳で それだけは官一人じゃ逆立ちしても手に入らないんだから犯しようがない 時代がそうとはいえ皇帝になってしまった事が彼の不幸その物だと思う -- 名無しさん (2020-08-24 22 33 55) ↑実際組織を安定させる方法としては世襲制は未だに有効だしな -- 名無しさん (2020-08-24 23 54 37) 読みが同じで後漢の初代皇帝である光武帝(劉秀)との対比が色々と面白い。あちらが(ある程度の誇張込みとは言え)いかにも穢れを知らない、完璧超人じみていて人間離れしたエピソードが多いのに対して、こちらは皇帝の椅子に座って尚、持たざる者だったが故のコンプレックスや家族に対する甘さといった「人間らしさ」をおおよそ捨て切れていないのがなんとも -- 名無しさん (2020-08-25 09 01 45) 家康の方広寺の鐘の件、文字に関しては確かにイチャモンだがその結果求めた「淀君を人質にだし豊臣は参勤交代しろ」はそれほど理不尽な要求じゃないんだけどね(ていうかこれに従わないなら謀反企んでる扱いされてもしゃーない) -- 名無しさん (2020-09-06 19 26 56) そもそも豊臣氏は家康と天下を争うライバルだから仕方ない。家康にしてみれば小牧長久手で覇権を争った相手の妻子にいつまでも膝を屈している理由はなかろうし -- 名無しさん (2020-09-06 19 51 43) しかしこうして見ると『カイジ』の兵藤会長が慈悲の化身に見えるほどの暴君ぶりだな……民も虐げたより単純な暗君なら五代十国辺りにいくらでもいたし、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ -- 名無しさん (2020-09-06 19 54 29) 経歴だけ見ると虹の世界でも通用しそうだよな・・・ -- 名無しさん (2020-09-13 01 32 44) 馬皇后は病状が悪化しても朱元璋が寄越した医者の診察は受けなかった。理由は結果的に自分が死んだら「治せなかった」を理由に粛清されるのが分かっていたからだという -- 名無しさん (2021-03-08 22 45 06) 耿炳文も朱元璋の死後に粛清されてる。郭勛の子孫は結構後の世代まで残ったらしいが -- 名無しさん (2022-03-21 08 45 10) 極貧に加えて容姿までブサイクとか人生ハードモードにもほどがある。そこから最終的には大帝国の建国者に上り詰めるとか化け物すぎますわ。確かにこの男には人類史最大の成り上がり者という称号がふさわしいな。 -- 名無しさん (2024-03-30 22 33 34) 50歳で亡くなったらしい馬皇后が、もしもっと健康で長生きしていたら、この人の評価ももう少し変わっていたかもしれないなぁ。しかし無学のはずなのに、馬皇后はよくぞここまでの振る舞いと夫の暴走を止めるために尽力できたものだ。歴史は、時折あり得ないほどの天才を産み出すが、馬皇后もその一人だったのかもしれない。 -- 名無しさん (2024-03-31 10 59 47) 名前 コメント
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一心会昌新塾,西條興業,西條興業林組,石崎組,仲野組,高倉組,柏木事務所,国玲商事,関東総事務所昌新,遠山総業,馬場組富田興業,一昌興業上田組,島田組総業, 佐藤組,赤坂昌新,松村組,梅原組,池田組山口会,孝昇会,貴広会,川口総業,郁心会,大末総業,緒方総業,川村組,田口組三阪会,美尾組,陣内組,田嶋組,藤本総業, 豊田組,後藤組政竜会,後藤組,木下組,正東会,剛志会,良知組,志太宗家十代目,山健組,健竜会,誠竜会,極心連合会,極勇会,極朋会,勢道会,鷲尾実業,広心実業, 太田興業岡川総業,鷲坂組,正龍会,極勇会,正心会,姫野組結城興業,兼一会名倉組,兼成会関東梁山塾,盛力会,青山総業,奥浦組忠仁会,一会,宮腰会,小倉興業, 浅井組,昌道会,湊総業,昌誠会,昌志会,西村会,熊本組,松田組,松心連合会東京支部,健心会関本組,小西一家,堀政連合,金本会,芳菱会,多田会,大西組, 多田会,市村組,浅川会,柄澤興業,益田組,大塚組,益田組正光会,田中総業,高田組,竹内組,久保田組,正光会勝山組,佳心会永井組,水島組水島総業, 大野一家,上坂組,宗像興業,誠友会,春誠会,廣瀬組,金光会,大嶋組,醍醐組,英組廣政会,英組,廣政会,英魂塾,益田組笠原組,水島組,高瀬興業,美奈川総業, 本牧興業,朝倉組,市田総業,藤沢組,泰島組,島田組,山土井組,廣瀬組,上田会,信濃組,加納興業,山室組,高英組,岩崎組,浜尾組,小西一家,堀政連合, 溝口組,政昭会,弘道会,高山組,吉田総業,小西一家,堀政連合,つくも総業,天野組渡興業,益田組相良組,益田組中島組,山土井組内保志工業, 山健組彩興産,中西組高橋会,英組波田組,一会藤原組藤心会,奥州会津角定一家,中村組本部,中村組正龍会,中村組侠和会,中村組野澤組,水流会,道友会,一義会, 山健組太田興業谷川組川内組,金光会不動会,一心会馬場組遠山総業,小西一家堀政連合栗山組,金本会,大野一家上坂組,上坂組内榎本組,大野一家白龍会, 後藤組良知組,福政組,政竜会,益田組正光会弓田組,京極総業,山健組畑中組栗山総業,極心連合会極蛇会,繁田会高見澤総業,貴広会田口組三阪会, 豪旭会,一志会,奥州会津角定一家小野組,川内組薄井興業,川内組山晶組,平山組,貴広会関東原組,倉心会関東菊心会,倉心会柴田組,柴田会木下内矢嶋組, 弘道会東海興業下野組,小西一家関東北辰会,益田組正光会保総業,川下組幸誠会,川下組幸誠会増田組,幸誠会加藤興業,山健組吉村会,桂成総業,三鳳総業, 忠心会平山組,弘道会中政組,徳丸組内徳龍興業,小西一家堀政連合司総業,栗山組,我妻組,大城組,高久組,大沢組,川内組藤田組,後藤組忠誠会, 一心会三瓶組,小田部総業,内所組,心映興業,飯塚組,一会増田組内三代興業,誠友会春誠会,菊心会,山勝会,大杉組,佐々木組,前田組,藤原組,遠藤組,関谷組, 茶谷政一家,稲井田組,小林会,藤洋会,石堂組,村松組,藤本組,石塚組,菅原組,佐伯組,宮組,川村組,戸田組,堀組,川岸組,岡田組,田村組,十文字組,小仲組, 小仲組作田組,束田会,高尾組,青木組,川岸組,金澤組,西田組,幸誠会,柴山組,柴山組松原組,高橋組,室井組,中山組,山崎組,藤森組,山元組,山元組田中組, 高山組前田組,秋田組,西村会,間明組,畑広組,山弘組,水野組,藤原組,佐藤組,秀和会,秀心会,梅原組,坂本組,加藤組,安土組,八木橋組,小林組,佐々木組, 黒川組,松山組,川浪組,千組,旭導会稲心会,藤沢組,鈴商組,橋本組,庄谷組,泉組,大景組,岡村組,伊藤組,石川組,飯沼組,松尾組, 弘道会司道会,山田組,康和総業,大蔵組,大倉企画大倉組,小川組,正道会,吉中組,鳥海組,梅木組,小笠原一家,美田沢組,斎藤組,山健組太田興業生田組, 木村会道竜会,北竜会,不動会,藤和会,江竜会,小林興業,鉄心会,印牧組,江友会,平沢組,石川組,大森組,大芦組,高野組,北海道花田会,川村会,石川興業, 山進組,井口組,吉村組,千葉組,石政組,後藤組,飯塚組,本間組,根本組,大西組,大古場組,北海道侠友会,斉藤組,江田組,健竜会,疋田組,橋本商事, 大石組松平興業宮古組,田島組,竜門会,直心会,酒井組,小柳組,菅原組,小柳組柳下組,笹森組,直心会富田組,坂井組,竜門会,堀政連合雨宮組,征士会清水組, 池添組,貴広会北城会,松橋総業,輪島興行,小野寺組,三浦総業,加利総業,勝連合会,勝野組二代目前川組,中西組武道会福田会,浅川一家成道会, 古川組姫路義竜会関八興業,倉心会函竜会,函竜会征竜会,川下組幸誠会中野組,浅川会六代目松野会,石橋組,山健組三代目伊藤会,初代武秀会,力道会, 武道会,芳菱会盛道会,二代目山新組,小西一家小山内組,誠友会十門字組,山健組二代目誠会,高橋組,奥州松前屋,後藤組二代目星連合,中西組二代目龍誠会, 弘道会東海興業,鎌田組,小西一家堀政連合赤間興業,大司会,同志会,鹿野組,盛力会田口組,山健組吉村会今野総業,兼一会水野組,西田組山龍組,竹内組岩崎会, 巽一家,柏田組成岡組,杉組青志会,小野組,矢嶋組,紺野組,益田組佳心会,後藤組東京盛大星二代目庄子組,堀組山崎組,難波安組,難侠会,宅見組安部組, 井奥会港裕連合会笹原組,山健組兼昭会,芳菱会秋田斉藤組,盛道会泰光組,中信会,井上組,後藤組秋田山本組,潮木会三浦組,源清田会秋田早川組, 源清田会秋田早川組小野寺組,弘道会高橋興業,一心会茂木組,奥州会津角定一家英友会,川内組平山組,後藤組坂本組,阿見総業,川内組藤田組,二代目辰東会, 長谷川興業,山田組,菅組,源清田会大心会,源清田会早川組,源清田会獅堂組,金子組,光和組,佐々木組,塩原組,一会藤原組支部,貴広会國心会, 愛桜会二代目研谷荒川会,一心組,山健組伏見組健興業,竹内組菊地組,弘道会中島会,英組三代目西川会,若槻三代目櫻井組,近松組博豪会,博誠会,国田組, 浅川会桂志会,近松組博誠会,博愛会,博竜会,一会藤原組信州支部,山健組巽一家,竹内組,山健組極心連合会二代目極朋会長野支部古川興業,兼誠会梁雄一家利守会, 益田組内玉木組,倉心会二代目倉州会,美尾組原野組,地蔵組佐藤組,弘道会若林興業,正木組同心会,盛政組,盛政会盛組,芳菱会谷口組,山健組本江組, 一会北陸宮越組舎弟二代目渡一家,芳賀組,一会山昇組,川内組組長付杉田組,辰誠会,芳征会,伊井興業,山健組昭成会,小西一家山上組,宮本組大下組, 一会北陸宮越組,滝本組,松本組,増田組,天野組天龍会,弘道会北東興業,弘道会林組,川内組高木興業,月見興業,礼真会,松波総業,高嶋組,浅川総業,宝井組, 前勝組,正木組,中西組宮原組,中原組,坂本組,浜野組,貴広会田口組,貴広会西山会,小西一家宮本組大下組,山健組太成会安田興業永居総業,中村組,坂井興業, 堀田総業,近藤組,川合組,亀山連合,小川組,角谷組,坂廣組,二代目一会藤原組,秀竜総業,堀江組,弘道会田中組,高山組野内組,錠組,野口興業野口興産, 黒誠会和道会,黒誠会正木組,阿部組,石原組,正次郎一家,橘高組,長谷川総業,井川組,速水興業,盛力会高松組,貴広会西村組,愛桜会大垣岡田組,小西一家長尾組, 政道会,島本組,奥浦組木ノ下会,尾崎組香山組,後藤組良知組,佐野忠組,志太宗家,藤総業,藤友会,日高組,池田会,石川組,政和会,山勝組,国領屋一力一家,中村組, 早川組,井手組,芳菱会内藤組,小松組,國領屋下垂一家十代目,鍛冶町一家,服部会,盛道会,三室組,松下組,花井興業,山下組,多田会,尾高組,荒井組,中山組, 和田組,田中組,佐藤組,斎藤哲組,柴田組,山本康組,鮫島組,伊藤幹組,飯田組,土屋組,鈴木哲組,古山組,石川組,宮田組,大西組,桜井組,谷口組,山本一組, 石野組,御手洗組,渋田興業,中信会,生駒組,美尾組陣内組,藤本総業,田嶋組,藤本組,豊田組,大尚会,山健組健竜会,一心会黒潮興業,遠藤組, 小西一家大頭龍落合一家,弘道会稲葉地一家,池田組,高村会,水谷組,田畑組,河村一家,司興業,高山組,小島組,平野家一家,浅野会,谷誠会,誠会誠心興業, 関谷組,徳丸組,岡組,室橋組,黒岩組,導友会,佐々木組,佐々木組次六組,田中興業,浅野亭一家,芝田組,司誠会,小林組,吉岡興業,司善興業,山本組, 瀬戸一家石川組,今井組,清田組,古久根組,山下組,木村組,隆組,山田組,遠山組,藤田組,上村組,平井一家,薄葉組,平井一家井上一家,大島組,山田英組, 中嶋組,松島組,角野組,家石原組,大森組,金子組,家荒津組,柴田組,渡会組,渥川組,梶谷組,間部組,木下組,野間組,夏目組,竹内組,井澤組,都築組,篠原組, 貝本会貝本組,中谷組,貝道組,貝成組,貝城組,貝組,貝健組,貝菱組,島田組,木下組,小島組,貝鼎組,宮西組,名神会,二代目杉組,山健組松藤組,多三郎一家, 福富組,岡斧総業,兼生会,健竜会兵頭総業,西浦興業,太成会安田興業,吉村会大日総業,太田興業大和同志会,生島組篠原会,繁田会,伏見組岬組,伊勢興業, 林組,倉持組,松浦組,山田組常滑一家崎興業,貴広会永井興業,貴広会成田組,貴広会三國興業,貴広会竜仁会,松下組村瀬組,一会近藤組,田中組,坂廣組野田一家, 健心会中村組,小車誠会誠竜連合会,寺倉組,小西一家山本組,一心会一昌興業内真道会,村組堀田総業加藤組,英組白蛇会,英組渡久山連合,盛力会飯田組盛流会, 飯田興業,盛力会川崎組,名神会野村組,尾崎組佐々木組,中塚組,名徳興業,菊地組,吾代組,宮国総業,阪野総業,北斗会,阿知波会,内海組,愛桜会佐山組, 松永組,鈴木組,原組,吉田屋一家,金森組,稲見組,吉田屋一家南心会,周次郎一家,加藤組,山哲総業,大山組,郡司組,奈城組,上條組,山中組,伊勢川島一家, 伊勢小鉄一家,北勢会,中世古組,橋本組,野崎組,圓竜会,島岡組,河合組,山川組,岡組,東山組,伊勢志摩連合会,弘道会水谷一家,貴広会隅田組,島田組, 小船谷組,山川組,野崎組,小車誠会藤総業,尾崎組林興業,小林組,佐藤会,前田組内金沢組,山本組,盛力会盛嵐会,大谷組,宅見組勝勢会,一会平正組, 山健組矢倉会森島組,心腹会仲森組,一会藤原組川田組,藤原組藤川組,隆生会有賀総業,隆生会彦根支部,川内組八興会,川内組辰導会,辰導会一義会, 倉心会広心会,義美会,中村組長谷川組,地蔵組正道会,地蔵組川井組,地蔵組彦根緑会,隆生会岡澤総業,山健組鈴秀組秀幸会,八橋組,一会岩建組, 京都藤田組熊本,藤原組竹中総業,山健組金岡組,畑中組,兼國会袖岡総業,國心会,今倉組竹森組,金本組,黒誠会渡辺組,盛力会久富連合会,幸友同志社,川口興業, 山本組,岩井組,駒弘総業,武元総業,富睦会,大石組田渕組宏心会,細川組高橋組,一心会川博組,小車誠会植木組,勝野組西畑組,奥村組,中尾組,佐藤組,西組, 小松組,空建組,敬慎会,由地組,弘道会関谷組白井興業,美尾組安井組,貴広会川崎総業,山健組極心連合会,太田興業極粋会,守道会,谷川組,早崎会,秀誠会, 山内組,伏見組,瓦谷興業,田村興業,柏田組,峯総業,成田総業,波多興業,古藤組,兼一会,生島組,樺山総業,前木場組,大瀬良組,信和実業,信義塾,芳山総業, 三好一家,平澤組,矢倉会,姫野組,太成会,勢道会,勢道会鷲尾実業,鷲尾実業騎龍会,吉村会,砂子会,鈴秀組,南進会,田中興業,大河会,新井総業,忠心会, 薮田興業,牧野興業,西田組,大真会,中田組,侠友会,侠友会山昭組,健竜会三島組,宮田興業,野地組,鬼竜會,田邊総業,光龍会,大勝会,坂弘組,兼國会岸本組, 興組正勝会,村正会福原総業,英組岡村組,大川健組,玉地組,山本組,水原組,玉地組宇賀興業,堀内組,堀内組島田組,難波安組,中野組,松岡組,川下組,桂総業, 山下組,松山組,工藤組,一心会岡野組,金沢興業,一昌興業,西條興業,大昌会,馬場組,斎田組,西村組,藤生会,山田組,能塚組,川崎組,松浦組,美村組,野村組, 坂口事務所,松岡組,大野一家,澄田会,勝龍会,黒誠会,濱田組,石松総業,奥浦組,古庄組,吉川組,章友会,金城組,金城組岸上組,高橋組,盛政組,山田組,中島組, 里組,清水組,堀組,浅川会高倉組,青龍会,中西組中生会,北澤組,勝野組征竜会,武澤組,高田組,松岡組,横山組,丸山組,坂部組,伍竜会,早野会,森田組,須藤組, 須藤組上田組,丹波組,健心会秀充会,柴組,石井組,江口組,坂本組,藤龍会,東総業,桃井組,極志会,新井組,伊藤組,児玉組,大原組,共栄会,斉藤組,南一家, 土谷組角江会,輝龍会,菱心会,臥龍会,和田組,新澤興業,杉野組,小車誠会,天野組,池田組山田組,野澤組,飯田組,隆生会,飯田組中塩組,大山組,森田組, 倉心会黒竜会,天道会,里村総業,泰生会,譲心会飛鷹連合会,高成総業,貴広会船本会,三誠会,松本総業,天進会,竜政会,倭奈良組,松龍会,是木組,井奥会正司組, 樫田組,盛力会松元会,木村興業,盛和会,盛志会,秋旺会,力弘総業,東亜政経調査会,力総業,南組,盛一会,宅見組荒牧組,勝心連合, 浅井組青木総業,杉本組,侠志会,江良組,昌仁会,岡本総業,宮本総業,藤井総業,鈴験組,川内組中西会,小西一家有田組,侠友会諏訪一家司総業,杉組新生伍勇会, 葉山会,益田組益生連合会,生田連合会下高総業酒利組,古川組一極会,力心会,佐藤組松本永組,南組, 三代目山健組四代目健竜会,宮鉄組,道志会,鷲坂組,村中組,宝満組,村正会,繁田会,疋田組,深山会,今倉組,今倉組夢野会,兼國会,和田組,正心会,樫原組,池田組, 志闘会,兼誠会,西川会,一竜会,伏見組岬組,伊勢興業,林組,竹田興業,倉持組,松浦組,橘会,真鍋組仲里組,松野組緒方組,松野組井上組,上田組,五月組,古川組小山会, 琉真会,田脇会,義竜会,大平組,小西一家,岸本組,神田組,松下組,柴田会,大嶋組,細川組,侠友会,諏訪一家,侠友会諏訪一家櫻井組,司総業,播州出口組, 新友会平尾総業,川崎誠会,片目組,北組,修光会,井奥会,大西組,西田組,佐藤組,毛利組,西脇組川見組,川見組立志会,一成會,北山会,氏長組,西雷連合,和健会, 前本会,辻本組,岩井連合,一郎興業,松本会,橋本保組,橋本三組,鈴木会,秋定一家,柿野総業,水橋組,宮下組,池田組炎亮會,三浦組,竹内組,尾井組,根木組, 山田組,健心会桃井組,貴広会前田組木田会,大石組山根組,大石組牧組,宅見組勝侠同志會,松野組緒方組,尾崎組前田組,尾崎組田中組,大山組森谷興業,吉川組林組, 宅見組亜細亜総業,森口興業,健心会任道会,貴広会大和睦会,曙総業,尾野組,島岡総業,倉健会,田中組,高木組,南岡組,倉龍会,藤政興業,須ノ内組,倭会,橋野会, 小車誠会本家山尚実業,倉心会永田組,広志会,広誠会,佐々木組生導会,西導会,吉本組,春駒組,山健組紀州連合会,健竜会竜心会,紀邦会,侠和会,藤原組,竜力会, 米田企画,龍誠会,貴広会南組,小山組武心会,武功会,武菱会,武勇会,南方興業,竹之内組,吉村組,一会隆和会,松山組吉村会,倉心会倉仁会,杉組北島組,西龍会, 山健組大同会,木下会,赤坂組,神原組,大同会,井奥会細田組,港裕連合,熊本組松田組,松心連合会,岡田興業,三谷組,笠原組,伊達組,木村組,藤原組,柚木工業, 山田工業,大森組,藤健興業,健誠会,藤誠会,今田企画,岸本組,藤田組,雪上組,石心会,浅沼組,岩崎組,山健組妹尾組,物部組,妹尾組幸友会,川相組,柏野組, 英勝連合会,英心会,西田組,幸新会,南進会啓進総業,姫野組中山組岡山支部,橘会裕心連合会,東備企画,菱川組,川崎会,荒嶋総業,大石組遠部組,白川組,井上総業, 齊藤組,村上組,吉岡組田渕組,金田組,加古組,田淵組,田渕組白神総業,林組,吉冨総業,船尾組,石田組,飯尾組,景山組,佐藤組横山総業,池田組竹内興業,紀信会, 北志会,相澤組,梅原組,帝会,竹本組,睦会,宮澤組,末藤組,森次組,孝昇会,金光会木村興業,杉本組後藤組,大原組石川会,浅川一家松本組,一心会岡野組, 東正会内長井組,浅井組昌風会,貴広会前田組久戸瀬組,田口組貴裕会,小西一家栗本組植島組,英勝連合会,幸新会,北岡会長州会,山健組吉村会福田興業, 岡芹総業酒井組,山健組前木場組信康会,熊本組藤原組藤栄会,若林組藤成組,森組,吉田組,坂元組,篠原組,秋山組,高畠組,山健組中津川組岡山興業,英道会, 白井総業,白石會,元田組,英竜会,誠隆会香川支部,宝満組龍神会,一心会曽根組,曽根組誠心会,藤正会,四国昌新本部,岡野組大誠会,生西組,益田組河田組, 益田組河田組輝菱会,宅見組西岡組,小西一家栗本組,菊池総業,本多組,豪友会坂井組,銀竜会,大日本義和団連合,隆誓会,隆心会,義友会,東條組,東心塾, 攻道会,奥浦組中原組,龍司会,吉川組三谷組,中西組北澤組鬼若会,貴広会田口組三阪会紀伊一家,紀導会,心腹会,尾崎組井筒組,勝仁会,徳永組,妹尾組,東組, 森組,貴広会阿州会,健心会児玉組,益田組田村会,山健組今倉組谷川組,谷川総業,哀川興業,松山会伊藤会,矢嶋組,山田組,木村会,政風会,山健組誠隆会,山田組, 大石組加地組,白石組,山内組,仲山組,井上組,横山組,藤原組,長尾組,佐伯組,酒井組,三木組,白石興業,神野組,堀田組,渕上組,健心会秀誓会,小車誠会本家宮崎組, 永易組,山尚実業,誠竜連合会,誠武会,高場組,樋口連合会,門田組,植木組,浅井組竹内総業,豪友会大龍会,旭成会,智友連合,正友連合会,常徳一家,正誠会, 山健組安部組,姫野組中山組,鷹羽総業,金光会義勇会,鉄力会,二宮組,木村興業沖田組,荒牧組,斉健興業,浅川一家西村初代西村会,谷口組,浅川組,財津組, 杉本組,高倉総業,伊豆一家加納組,栗秋組,健誠会,池組,極竜会,高橋組,宅見組池永組,剛竜会,伊豆組安川組,田中組,田中会,三船組,原田組,紀真会,誠龍会, 原田組上野組,角田組,上田組,三合会,財木組,木原会,條東会,樋口組,合島会,有安組,藤井組,西組,塩谷組,平田組,中西組,源心会,平山会,千仁会,薄井組, 長野組,盛力会岸本会,飯田組,盛心会,紅龍会,浅井組侠志会龍守会,江良一家,杉組仁風会,西脇組宮下組九州支部小林会,陣内一家,秀虎会,河松組,勝龍会相園一家, 結城組,征道会,小松組,池見興業,宅見組石川会,伊豆組東会,浅川組中原組,伊豆一家本田会,石田組,水心会城尾組,青木組,城尾一家,永田組,水田組,吉田組, 山健組石湊会,北誠会,大門会村正組,上田組,工藤組,幸竜会,本多組,聖会,赤心隊,山健組妹尾組福田組,守道会森永総業,稲葉一家二代目島村組,中神組,國心会, 北岡会松岡組,前田一家,一連合,肥州大倉会,大村一家,一会竹原組,弘道会高己組,中村組立野会,石井一家北斗会,清山組,大友会,江口組,桜井組,幸松組, 川近総業,稲葉一家中野総業,同志会,石井一家角野組,上志会,井根組,上富会,浜砂総業,盛力会飯田組上峰組,山健組姫野組三坂組,弘道会米川組内野興業, 貴広会西村組恵伸会,<<|>>,山口組,一心会,貴広会,川口総業,五菱会,美尾組,後藤組,山健組,健竜会,健心会,極心連合会,太田興業,道志会,鷲坂組, 宝満組,正心会,伏見組,石湊組,木村会,斉藤組,妹尾組,山内組,秀誠会,村中組,村正会,侠友会,益田組,弘道会,司興業,弘道会九代目稲葉地一家, 黒岩一家,鉄心一家,豪友会,古川組,西脇組,倉心会,章友会,名神会,宅見組,盛力会,英組,臥龍会,松下会,松下組,章友会,浅井組,益田組,北菱会,小西一家, 小西組,堀政連合,大野一家,大石組,芳菱会,源清田会,誠友会,十文字一家,三道会,愛桜会,小車誠会,樋口連合会,川内組,芳征会,大平組,金光会,地蔵組, 正木組,侠友会,志道会,黒誠会,國領屋一力一家,井奥会,伊豆組, 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貸元,代貸,総長,総裁,代紋,エンブレム,金看板,金筋,プラチナ, 当代,初代,二代目,三代目,四代目,五代目,六代目,七代目,八代目,九代目,十代目,十一代目,十二代目,十三代目, 貫目,掟,仁義,手打盃,仲裁人,媒酌人,襲名披露,跡目継承,親子結縁,兄弟結縁,兄弟分,義理人情,義理掛,放免祝,若頭補佐,若中,舎弟頭,事務局長, 行動隊長,総本部長,組織本部長,常任相談役,理事長,常任理事,最高顧問,渉外局長,会長代行,組長代行,組長秘書,直参,直参組長, yakuza,893,八九三,ヤクザ,義侠心,やくざ情報局,やくざ情報,ヤクザ情報局,ヤクザ情報,やくざ列島,任侠道, 極道名鑑,極道本舗,極道人生,極道ニュース,極道事件簿,極道組織図,やくざ組織図,ヤクザ組織図,傘下,任侠界, 博徒,愚連隊,ゴロツキ,テキヤ,的屋,香具師,ダフ屋,チケット屋,関東親睦会,関東懇親会,関東二十日会,神農同志会,徒世人,稼業人,反目,破門状,絶縁状, 賭場開帳,呑み屋,呑み行為,博打野球賭博,盆ゴザ,手本引き,ホンビキ,ヤマポン,ソウダイ張り,サイ本引き,寶引,丁半,花札,コイコイ,アトサキ, バッタまき,大目小目,チョボ一,キツネチョボ一,樗蒲打ち,ヨイド,四下,ピンころがし,胴元,カジノバー,秘密カジノ,ラスベガス,ギャンブル,ギャンブラー, ポーカーゲーム,バカラ賭博,ルーレット,オンラインカジノ,トトカルチョ,ブラックジャック,チンチロリン,モーターボート連盟,競艇,競輪,競馬,オートレース, 麻雀,マージャン,パチンコ,パチスロ,スロット,公営ギャンブル,鉄火場,テラ銭,軍鶏賭博,如何様,イカサマ,チョンボ,射幸心, 義理場,抗争,抗争勃発,抗争事件,待機,定時連絡,ヒットマン,武器庫,兇状,凶状旅,縄張り,シマ,庭場,不文律,御法度,マフィア,ギャング, リース代,ケツ持ち,ケツモチ,ミカジメ料,みかじめ料,見ヶ〆,所場代,カスリ,えんそ,エンソ,用心棒代,地代,縄張り,シマ,島,地場,注連縄,しめ縄代, 会費,上納金,企業舎弟,部屋住み,書生,パシリ,チンピラ,三下,半グレ,親分,叔父貴,兄貴,舎弟,兄弟,回り兄弟,フロント企業,直若,外若,外舎弟,直営企業,客分, しのぎ,シノギ,凌ぎ,収入源,資金源,当番,定例会議,事始,ボディーガード,防弾ガラス仕様,防弾チョッキ,カチコミ,抗争勃発,抗争資金調達,一触即発, 当代,初代,二代目,三代目,四代目,五代目,六代目,七代目,八代目,九代目,十代目,十一代目,十二代目,十三代目, 貫目,掟,仁義,手打盃,仲裁人,媒酌人,見届け役,婚姻,縁組み,襲名披露,跡目継承,親子結縁,親子盃,兄弟結縁,兄弟分,義理人情,義理掛,放免祝, 若頭補佐,若中,舎弟頭,事務局長,行動隊長,総本部長,組織本部長,常任相談役,理事長,常任理事,最高顧問,渉外局長,会長代行,組長代行,組長秘書,直参,直参組長, yakuza,893,八九三,ヤクザ,義侠心,やくざ情報局,やくざ情報,ヤクザ情報局,ヤクザ情報,やくざ列島,任侠道,擬制的親族,擬制的血縁関係,仁義なき闘い, 極道名鑑,極道本舗,極道人生,極道ニュース,極道事件簿,極道組織図,やくざ組織図,ヤクザ組織図,傘下,任侠界,義理カケ, 博徒,愚連隊,ゴロツキ,テキヤ,的屋,香具師,ダフ屋,チケット屋,関東二十日会,神農同志会,徒世人,稼業人,反目,破門状,絶縁状, エンコ飛ばし,エンコ詰め,ケジメ,ホルマリン漬け,福神漬け,味噌漬け,指詰めコレクター,エンコ詰めコレクター, 賭場開帳,呑み屋,呑み行為,博打野球賭博,盆ゴザ,手本引き,ホンビキ,ヤマポン,ソウダイ張り,サイ本引き,寶引,丁半,花札,コイコイ,アトサキ, バッタまき,大目小目,チョボ一,キツネチョボ一,樗蒲打ち,ヨイド,四下,ピンころがし,胴元,カジノバー,秘密カジノ,ラスベガス,ギャンブル,ギャンブラー, ポーカーゲーム,バカラ賭博,ルーレット,オンラインカジノ,トトカルチョ,ブラックジャック,チンチロリン,モーターボート連盟,競艇,競輪,競馬,オートレース, 麻雀,マージャン,パチンコ,パチスロ,スロット,公営ギャンブル,鉄火場,テラ銭,軍鶏賭博,如何様,イカサマ,チョンボ,射幸心, 義理場,抗争,抗争勃発,抗争事件,待機,定時連絡,ヒットマン,武器庫,兇状,凶状旅,縄張り,シマ,庭場,不文律,御法度,マフィア,ギャング,鉄砲玉, リース代,ケツ持ち,ケツモチ,ミカジメ料,みかじめ料,見ヶ〆,所場代,カスリ,えんそ,エンソ,用心棒代,地代,縄張り,シマ,島,地場,注連縄,しめ縄代, 会費,上納金,企業舎弟,部屋住み,書生,パシリ,チンピラ,三下,半グレ,親分,叔父貴,兄貴,舎弟,兄弟,回り兄弟,フロント企業,直若,外若,外舎弟,直営企業, しのぎ,シノギ,凌ぎ,収入源,資金源,当番,定例会議,事始,ボディーガード,防弾ガラス仕様,防弾チョッキ,カチコミ,抗争勃発,抗争資金調達,一触即発, 侠道精神に則り国家・社会の興隆に貢献する,内を固むるに和親合一を最も尊ぶ,外は接するに愛念を持し、信義を重んず,長幼の序を弁え礼に終始す, 世に処するに己の節を守り譏を招かず,先人の経験を聞き人格の向上をはかる, 総裁,総長賭博,内部抗争,分裂,逆縁,暴力団,極道勢力図,組織図一覧表,組織綱領,極道抗争史直系組織,一和会, バイオレンス,エンコ詰め,ベラミ事件,夜桜銀次,平尾国人,鳴海清,安藤昇,花形敬,安部譲二,二率会小金井一家,銀座警察, アウトロー,マル暴,強行犯,知能犯,捜査一課,公安事件,暴力団構成員,暴力団対策法,総会屋,社会ゴロ,えせ右翼,えせ同和,部落開放同盟,整理屋,占有屋,フィクサー,
https://w.atwiki.jp/textlib/pages/83.html
民主党ですが一発やらせて http //gimpo.2ch.net/test/read.cgi/army/1222220063/l50 349 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 30 52 ID ??? ところでヨーロッパって昔は弓主体の日本と違って接近戦主体だったんだっけ? 354 名前:名無し三等兵[sage ] 投稿日:2008/09/24(水) 18 34 10 ID ??? 349 こういうのは、何時か、を指定しないと。 イングランドのロングボウアーチャーとか、フランスのクロスボウとか、いるけんね。 359 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 36 15 ID ??? 354 すまん 何故日本では手で持つ盾が廃れたのかって内容のスレでヨーロッパは接近戦主体だから盾が発達したって書き込みがあったもんだから気になったんだ 366 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 39 24 ID ??? 359 むしろ火力戦の結果が楯につながったとおもうだよもんよ まー基本ローマからの遺産だよもんが 日本で楯が廃れたのは地形的制約のほうが大きいと思われ 367 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 39 30 ID ??? 359 そりゃ重装歩兵がいなくなったからでしょ 鎌倉武士とかは世界的にも珍しい重装弓騎兵だし そこに盾を追加するのは不可能だろJK 368 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 40 33 ID ??? やっぱり盾の方向性が母衣とかに変わっただけなんかね 372 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 42 20 ID ??? 359 日本は使い捨てや即製の盾で 西洋は紋章つき看板だっていう差じゃねーかな。 あと日本だと地形のせいで盾が邪魔だ。動くにも密集するにも。 380 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 44 36 ID ??? 日本の盾っつーと固定式の盾とか大鎧とか母衣とか竹筒とか隼人の木盾とか・・・ 382 名前:本好き猫 ◆hoCa1I7DQA [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 45 12 ID ??? 368 個人装備より集団戦の方向に指向したんじゃないかなあ? 陣幕とか。 387 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 46 52 ID ??? 377 戦国時代はまた別 応仁の乱以降は、足軽という形で重装歩兵のドクトリンが復活した 390 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 47 29 ID ??? 日本じゃファランクスなんて出来る場所がないし・・・ 404 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 50 46 ID ??? 359殿 日本刀は叩き潰す洋刀と違い 引いて切り裂くものだからではありませんか? 片手では使いにくいでしょうし 410 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 52 33 ID ??? 重い盾を持って山城を攻めるのはキツイからじゃね? 411 名前:名 419 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 18 58 53 ID ??? ちなみに剣道部にいた頃 新聞紙とダンボールで剣と盾を作ってチャンバラごっこやったことがあるけれど 盾、役に立たないんだよな、ある程度訓練した打ち込みだと 盾では反応し切れなくて 真正面からだとなんとかなるけど、やや斜めから盾を持っている手首を狙われると ほとんど防げなかった。 427 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 03 50 ID ??? 419 盾の訓練してないからじゃね? というかそもそも盾の目的の半分以上は投射攻撃からの防禦だし 433 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 08 43 ID ??? 419殿 盾は手で持つのではなく腕に固定するように持たねば簡単に取り落としてしまいます 437 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 10 36 ID ??? 剣道と言えば全日本剣道連盟は組討の技法も有りにすべきだと思うんだが 438 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 11 15 ID ??? _ _ 剣道はちゃんと二刀流の流派がある件について / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ ところで 92壁の人、メール発信致しましたので宜しく r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | やっちゃったZE☆ / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 443 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 12 41 ID ??? 438 てか戦前のある時期までは二刀流もかなり多かったんだけど 試合で勝つためだけの姑息な戦法が学生剣道で横行したから禁止された 447 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 14 06 ID ??? 433 というか、接近戦での盾の最大の欠点は 頭部に打ち込みがあった時にそれを塞ごうとすると視界がふさがる事でしたね。 面を打つ振りをしてフェイントをいれると胴がら空き みたいな感じ 448 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 14 15 ID ??? 419 楯を楯としてしか使ってないからだよもんな。 楯は押し殴るものですよ? 剣はひるんだ相手の腹か首か脇をえぐるものです 455 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 17 24 ID ??? あと、楯を使うときは刃は小振りがお勧め 462 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 19 33 ID ??? ところで何で世間の連中は二刀流の剣術は武蔵が創始したとか勘違いしてやがりますか 468 名前:ミーくん ◆3Y7FF0oA1A [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 23 07 ID ??? 466 剣道の達人と居合/剣術の達人、真剣持たせて濡れた藁束切らせたらやっぱり居合/剣術の達人は ズバッと切っても剣道の達人は浅くしか切れないって話があって・・・ 474 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 24 19 ID ??? 447 というか、接近戦での盾の最大の欠点は 頭部に打ち込みがあった時にそれを塞ごうとすると視界がふさがる事でしたね。 面を打つ振りをしてフェイントをいれると胴がら空き みたいな感じ それだ! 透明な盾を作れば機動隊とかに売れるんじゃね? 480 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 26 08 ID ??? 江戸時代から剣術が剣道っぽくなったり 激しい実戦形式の稽古がけずられたりで 現代の剣術は型稽古が殆どの所が多数という始末 481 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 26 23 ID ??? 465 そりゃローマ帝国側に分が悪い 重装歩兵の天敵は、モンゴル騎兵みたいな軽装弓騎兵だから ローマの最盛期については、軍事的にはトライアヌス~ハドリアヌスの頃、 経済力的にはカラカラ帝の頃かと 486 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 28 04 ID ??? 465殿 速さのモンゴルと兵站のローマですな 指揮官がカエサルとチンギス・ハンならどちらが勝つかな? 487 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 28 13 ID ??? 小クンニとか、小ハマコーとか、酒とか、なんだか面白い内閣になったなあ。 488 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 28 56 ID ??? >剣道 半身に構えたら反則とか、足を狙う技がないとか、防具の隙間をえぐる技 がないとか、“実戦的”ではないですが、それでも剣道の有段者が棒を 持ったら普通の人じゃ敵わないんですよねぇ。 489 名前:ミーくん ◆3Y7FF0oA1A [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 29 17 ID ??? 476 叩くだけってことだったような。剣道三段の人から聞いた話しですけんども。 494 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 31 04 ID ??? モンゴルVSローマ帝国軍(五賢帝辺り?)が戦うとしても場所によるかな? ダキアとかアナトリアとか中近東辺りを想定できるか(史実でもモンゴルが進出したし) ローマ軍が中央ユーラシアへ侵攻しても勝てるとは思えないw 507 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 33 51 ID ??? 468 つか 剣術→剣道 別に相手を切断しなくても刃先を体に当てれば戦闘能力は激減でしょう 無駄に振りかぶると隙が多いし無駄でしょう。 できるだけコンパクトにして突きとか無駄なくてイカスよね 居合 刀をどこまで使いこなせるか、極めてみたいっす 元々が違いますので ハイ 江戸時代の道場では 剣術を表芸 居合いを裏芸と呼んでいたそうです 511 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 34 16 ID ??? 純粋な市民動員力なら五賢帝時代なら300万以上のはず ポエニ戦争のときにすでに75万の動員力(ハンニバルにほぼ半分に減らされたが しかしソ連のカゴテリーと同じで全動員したら経済がry 512 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 34 32 ID ??? 490 ローマの兵力が最大だったのは、多分ディオクレティアヌスの四帝制が軌道に乗った頃かと 皇帝一人頭10~20万で、ローマ全軍で5,60万位だったかな 513 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 34 39 ID ??? 504 気候と地力の差が大きいというか。 所詮は未開の地。>欧州 514 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 34 50 ID ??? ローマVSモンゴルだと、どう想像してもモンゴルが攻勢側だよなあ。 516 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 35 00 ID ??? 510 騎兵以外に、攻城部隊も持っていたりして>モンゴル 517 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 35 06 ID ??? 508 匈奴VSローマ軍・・・ モンゴルよりは可能性アリ? 518 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 35 54 ID ??? 林業やってる人間は普通に使いこなしそうだ<日本刀 相手が堅いからただ叩きつけると手が痺れます 519 名前:名無し三等兵[sage ] 投稿日:2008/09/24(水) 19 36 58 ID ??? 517 フンに踏み潰されましたな。 だいぶん後期になってからですが。 匈奴とフンは名前が似ていて馬に乗ってる以外関連性を示す証拠は無いけんど。 520 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 37 10 ID ??? ヨーロッパの学校ではアラブが世界の学問の頂点にいた時代を教えていないのだろうか 521 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 37 23 ID ??? 516 まぁモンゴルって民族ではなくて、1つの共同体ですしね~ ゲルマン民族を引き連れたモンゴル軍ガガガ その前にシリアやエジプトを席巻したら大丈夫か 523 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 37 48 ID ??? 516 チンギスハンの頃だと、モンゴルは攻城戦が物凄く苦手 524 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 38 06 ID ??? 521 ローマも帝国ですからねえ 525 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 38 25 ID ??? ローマが日本の騎馬軍団見たらどう思ったかしら 鐙の問題があるけど、完全武装で騎兵編成とか、考えてみたらアレだ 526 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 38 38 ID ??? 519 フンと言っても、ガリアやイタリアへ攻め込んだ時には、配下のゲルマン歩兵やらの方が数的に優位だったらしいですけど 527 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 38 57 ID ??? 飛び石連休、ずっと所用で出かけてたため、JK56本日入手!!123 棚にあった最後の一冊ですた。 528 名前:名無し三等兵[sage ] 投稿日:2008/09/24(水) 19 38 59 ID ??? そういえば、アフガニスタンで負けてたな>チンギス・ハーン 529 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 39 09 ID ??? モンゴル軍がゲルマニアに到達した時、 恐ろしい事が起きるような。 530 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 39 21 ID ??? 525 むしろ鎧のデザインに着目する椰子がですね・・・ 531 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 39 24 ID ??? 525 準重装甲弓騎兵、という表現を戦術となんとかの世界史で見ました。 532 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 39 44 ID ??? 523 ホラズムシャー王国の時に攻城戦を展開しているけど サマルカンドやら 第一次金侵攻の時には苦戦していたような気がするが 534 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 40 52 ID ??? 532 していました。 というか、どこかの攻城戦の結果、捕虜を動員して攻城能力を獲得した、と言う通説だったような。 536 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 41 12 ID ??? 居合い三段の俺、惨状! 二尺三寸五分、刀身重量で800gの樋入れ無しの刀を愛用しとりますが、盾持ちとかこれより重い刀は振りたくないです つーか斬れないと思う 537 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 41 43 ID ??? 武士=弓馬の道、弓取りの時代と 武士=槍働き、一番鑓の時代とあるからなあ… 538 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 41 55 ID ??? 534 華北だったかな?>攻城戦やらを初体験 539 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 42 27 ID ??? 500 つか、藁束(稲の藁)は簡単です。普通の修練に使うのは畳表を巻いたもの いわゆる巻き藁(稲の藁ではなくて材質はより丈夫なイグサです) これは格段に難しくなります。 次に難しいのは竹、これは刃筋が少しでも曲がると滑って切れません。 次に難しいのは固定されていない物、 例えば、台の上のトマトを置いてそれを横から切る 切ってもトマトを台の上から落とさない これはむずかしいです 十年単位の修行が必要です 540 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 42 41 ID ??? 533 535 世界レベルでは軽騎兵よりずっと重装備ですが、 突撃を目的とした重騎兵に比べれば劣り、 彼らは弓による射撃のあと、抜刀して突撃すると言う形態だとして、 準重装甲弓騎兵、と言えるだろう、というような。 541 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 43 06 ID ??? 508 でも積極的に攻めに出たのが武帝だけで他は大概動乱時代に火事場泥棒的に取られたのを取り返そうという国土回復運動だったり 元々長城の向こう側から来た連中だったりという点もあるのでは。 実際武帝時代の遠征でもいくら匈奴に勝ってもその見返りが少なすぎて深刻な財政危機になってしまったから、 その後の時代では長城を超えて攻めに行くのは控えようという方向になったのかも。 後一応唐の太宗も当時の匈奴的存在だった突厥を降して天可汗の称号を貰っておりますな。 545 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 45 02 ID ??? 牛股師範のように木刀で畳表を両断できるようにがんがれ 547 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 45 42 ID ??? 541 だってモンゴル高原に何もないもん 少なくとも中国内地の人々が欲しがるようなモノは 馬だって貿易すればいいし、わざわざモンゴル高原へ遠征してもムダでしょ 安全保障上の問題とかもあるけど だから武帝や永楽帝がクローズアップされるわけで 永楽帝もクビライを継ぐ・超えようとモンゴル遠征をしただけだし 550 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 47 18 ID ??? 504CB殿 戦国末期日本の重火力振り、軍の効率化はまさにチートと言えるでしょう 大平の世で花火や工業団地に化けてしまいましたが 551 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 47 44 ID ??? 542 普通の170センチくらいの身長の男性で 二尺三寸から二尺4寸の刀を使います、居合道では 厚口刀身で900g前後、薄口刀身で800g前後になります。 553 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 48 58 ID ??? 546 居合刀と重量がほとんど同じ所が面白いですね 554 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 49 21 ID ??? youtubeで居合いの動画見たけど、鞘から抜けるまで刀身の位置は変わらないんだね。 知らんかったわ。 555 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 49 25 ID ??? 宇宙をバックに木刀でぶん殴った人にひび入れるくらいの技が欲しい 556 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 49 58 ID ??? 550 そして2百年以上の太平を準備期間としつつ 19世紀中ごろより近代化を推し進めるわけで 少なくとも日本の台頭は必然に近いような 明治維新以降がすごいだけではなく、江戸時代全般がスゴイ これを無視して、明治以降で近代化を語るのは、ダメでしょうな 557 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 50 37 ID ??? >536殿 本身の刀、いつかは振ってみたいですね。 また道場通おうかな(某古流柔術)と思いつつ、全然行っていません…。 558 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 50 40 ID ??? でも薙刀最強説。 559 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 50 48 ID ??? _ _ / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ 800gと言えば拳銃で言えばサブコンパクトクラスです r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ 風魔の小次郎 `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | 風林火山とな / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 562 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 51 32 ID ??? 553 長さも多分似たようなもんじゃないかなあ? つまるとこ、人間が自由に振り回せる重さやサイズがこんなところなんでしょう 過去には長大なバットを使う選手もいましたが、現在では長くてもそこまで逸脱したものはなくなりました 563 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 51 52 ID ??? 516インペラトール 勿論です ですから「短期間」と書いたわけでして あすこで手間取ってると兵站で圧倒されるでしょう でも短期間で撃破出来れば… 高速道路が首都までまっしぐらでありますw 566 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 53 22 ID ??? 563 手間取ったあとが、想定しづらい気がしますよ。 ローマはたぶん、カルタゴと戦ったときみたいに粘り強く戦い続けるでしょうけど。 567 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 53 41 ID ??? 居合の“裏技”(各流派の秘伝に当たるモノ。“影”と表現する流派も あるとか)はエグイです。 もうほとんど騙し打ちと不意打ち(w 569 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 54 03 ID ??? む、バットは1000g前後と記憶してしまっていたようだ それでは重過ぎるのだな 571 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 55 05 ID ??? そういや幕末は外人がイメージする「サムライ、ハラキリ、カタナ」の世界そのまんまなんだよなあ 日本全国の有名流派が真剣でガチンコした唯一の時代 572 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 56 13 ID ??? 536殿 やはり和洋刀の特性の違いというわけですかな? >盾の未発達 575 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 57 05 ID ??? 当時の外人さんたちの間ではピストルで日本刀持った侍には接近戦でかなわないから 諦めろと言われてたらしい。 576 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 57 27 ID ??? >558殿 同意です。弓と槍に次ぐ武士の表道具ですからね(時代によっては 薙刀>槍ですし) 個人的には長巻が好き。長巻の模造刀、なかなかないんだよなあ…。 あっても高いし。 577 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 57 40 ID ??? 569 金属バットだと700g台 阪神の赤星でも900前半ぐらいだったかな?1k超えるのは素振り用のマスコットバットくらいですね 578 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 57 53 ID ??? 572 話は逆かもです。 楯を使用しない剣術に特化した形で刀剣の発達をみた、のかも。 卵が先か鶏が先か、ですけどね。 579 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 58 07 ID ??? 572 弓、射撃兵器とのマッチングだったという説もあるそうです。 野戦用の盾はありますけど、 手持ちの弓避けの盾は発達しなかった。 それはやはり、地形上の理由らしい、と。 580 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 58 38 ID ??? 547 一部の嗜好品以外は国内での自給自足が可能な中国圏内に比べて生活必需品の収入が不安定な匈奴は国境を越えた略奪に頼ってましたからね。 いつの時代も農耕をしない為にビタミンの補給源として必要な緑茶が主要交易品で、これのために輸入超過になる事もしばしばだったとか。 宋の時代の莫大な歳幣も殆どが交易の赤字の補填に消えてたそうですし。 581 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 59 06 ID ??? 565 思い切り単純にプチ金融危機に陥ったのが共和党政権下だから 「それでも民主党なら…民主党のオバマならきっとなんとか(AAry」 ということなんじゃなかろうか。 582 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 19 59 31 ID ??? 日本で盾使ってた頃は、西洋風の両刃の直刀じゃなかったっけ? 585 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 00 23 ID ??? 566 ハンニバルはイタリア本土を荒らして回って属州の寝返りを計ったが、 チンギスハンとその息子達なら荒らして占領して統治して動員するだろうな・・・。 586 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 00 36 ID ??? まあ刀なら腰に差せばいいけど 盾は持って歩かないしなあ 587 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 01 09 ID ??? ゲルググみたいに背中に引っ掛ければいいじゃん。 590 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 02 05 ID ??? >572 衛生兵殿 横レスですが 日本において、持ち盾が一般化しなかったのは、大鎧の左の大袖がその役目を はたしていた事と、早い時期から従者・従兵(雑兵)を使った“盾持ち”が 組織されていた事が大きいと思います。 592 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 02 29 ID ??? そういえば日本だと弓はともかく弩が全く使われていない気が。 盾が未発達だったのはそこらへんのもあるんでしょうかね。 弩が使われず弓の威力がそこまで上がらなかったから射撃武器の防御手段である盾も発達しなかったとか。 594 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 03 02 ID ??? 556殿 中世同時期にあれだけ進んだ100万都市は他には皆無だと言っても過言ではありませなんだからなw 595 名前:わいるどうぃりぃ ◆oMAb82rwS6 [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 03 06 ID ??? 585 ハンニバルの場合は下手に本拠地を持つと、ローマ軍に押しつぶされるという危機感があったですよ 596 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 03 20 ID ??? 590 うーん、すると、郎党による少数部隊の集団戦であって、 レギオンやファランクスのようなものが発達しなかったからなあ 598 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 03 57 ID ??? 562 イチローのバットが85センチ 900g イチローの身長を仮に180センチとすると それくらいの身長の人が使用する居合刀は 全長が86センチくらい(居合刀は刃渡りで寸法を出すため、目安です) 重さは9200グラムくらいかな ほとんど変わらないですね 600 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 04 11 ID ??? 592 平安時代とかはあったと聞いたことが 技術的な理由で量産されなかった(できなかった)のと、弓騎兵メインになってしまったから廃れたのでは 601 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 05 37 ID ??? ぶっちゃけ、野党と国民とマスコミの我侭に振り回されるだけの余裕がある日本 まぁ平和だな 602 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 06 31 ID ??? 566インペラトール んーむ… ・「戦力の細切れ投入」をやらかして被害を拡大する ・あっさり引き上げる のどちらかでしょうかね>手間取ったモンゴル軍 603 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 06 48 ID ??? イチローは実測175~8だっけ 180はないはず 604 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 07 39 ID ??? 602 モンゴルの場合、お決まりの後継者争いが大きな鍵かも いつも生臭い臭いがただよっているんだもん 606 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 07 55 ID ??? 蝦夷征伐してた頃は大規模戦があったから、飛び道具対策の盾が必要だった。 平安中期に律令制が崩壊してからは、大規模戦闘がなくなって盾も不要になったのかねえ? 607 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 08 04 ID ??? 603 まぁ、大体似たような長さと重さということですね バットと刀 608 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 08 08 ID ??? 595 地中海がローマの海と化していたがために、 本国から援軍が期待できなかったからなあ。 609 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 08 12 ID ??? 602 森林地帯での騎馬の機動力には制限がありますから、 北方のリメスでの、戦略レベルの機動力が、ローマ軍に対してそれほど優越するだろうか、 なんて思ったりもします。 610 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 09 38 ID ??? 608 カルタゴが第二ポエニ戦争で勝利するためには、第一次をどうにかするしか無い罠 攻めてローマと拮抗できるだけの艦隊だけでも保有することが出来ていたらなぁ 無理なアルプス越えなんかしなくていいのに 612 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 10 06 ID ??? 606 その後、武士の台頭までずっと、ローカル武力の時代だったと言えるかも知れませんね 613 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 10 12 ID ??? 両手で持って一番しっくり来る重さなんでしょうかね 614 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 10 13 ID ??? 592 日本の和弓、いわゆる長弓は信長の時代でも鉄砲よりも威力が上でしたので 盾で守るよりも刀で払い落とす技術に向かったそうですよ 615 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 11 45 ID ??? >592殿 弩は、律令国家時代には使われていたようです。 海外からの脅威に対抗するため、日本海側に、弩師(師の字が違うかも…) を置くように、という軍令がだされ、人員が配備されてます。 これは弩を専門に扱う指揮官と、兵を示したようですが、人員に対する弩の 配備比率は不明です。 律令制が崩れ、軍団制が崩壊しつつあるときに、ある部隊の装備品を調べた 史料では、弩も矛も要補修が多く、補修しても定数不足とかいう状況だった ようで、律令制だったからこそ、弩は運用できていたのではないか、と オレが読んだ本には書いてありました。 616 名前:CB400SB ◆Kb19MD/h8Y [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 11 49 ID ??? 607 結局、そこから外れるような重さや長さの物だと扱い辛くなる・・・ 佐々木小次郎の物干し竿(まあ小次郎の大部分は創作ですが)みたいな物は、個人の資質と技法に頼るところの多い異端ってことですね 618 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 12 09 ID ??? 575 今でも、熟練者の扱う日本刀なら拳銃より強いとかそんな説があるな まぁ、小銃を持ち出されたら日本刀の負け 619 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 12 15 ID ??? 558 薙刀vs剣道は毎年5月に福岡である西日本学生剣道大会の2日目に公開競技としてやってたな。今でもやってるんだろうか? 中村学園女子大or短大の薙刀vs福岡大の剣道。 当然脛も双方に有り。剣道も脛に防具付けてやってる。 621 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 13 45 ID ??? 614 日本の和弓、いわゆる長弓は信長の時代でも鉄砲よりも威力が上でしたので 盾で守るよりも刀で払い落とす技術に向かったそうですよ ああ、それで日本はミサイル防衛>光子力バリアなのね。 622 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 13 46 ID ??? 578・579殿 んーむ… 確かに我が国の地形事情は楯不要論を喚起させるに充分な感じがいたしますな 623 名前:ミーくん ◆3Y7FF0oA1A [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 14 30 ID ??? 226事件だったか激昂して至近距離から拳銃で同僚を射殺しようとした軍人さんを、別の同僚が 隣から咄嗟に腕を叩き切って返す刀で袈裟斬りにしてた記憶が蘇るのであった。 626 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 15 01 ID ??? _ _ / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ 618 r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ 英国では実際近接戦闘にて日本刀を用い拳銃強盗を返り討ちにした漢が居ます i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ その後日本刀スタイルの刃物が規制されたそうですがw || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | 余程恐ろしかったらしい / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 627 名前:名無し三等兵[sage ] 投稿日:2008/09/24(水) 20 15 30 ID ??? 602 >あっさり引き上げ て、数年後に数倍の兵力でまた来る、かな。 動員できる兵力と頭目が居れば。 629 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 16 39 ID ??? 619 そういや昔鎌倉ものがたりで一色先生が薙刀の有段者のおばあちゃんにフルボッコにされる話がありましたな。 脛防具つけてなかったからまともに歩けなくなるぐらいに脛に攻撃食らってたりして。 630 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 17 28 ID ??? 613 「水の入った1Lペットボトルは痴漢殴るのにちょうどいい」と うちの妹が言ってた。 力がないので重みで殴って即逃げるんだよ~ってことで。 もっと長時間殴りあうならも少し軽いほうがいいんだろうし、 男の力ならそれでも同等の破壊力が得られるんジャマイカ。 631 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 17 39 ID ??? 626 安倍譲二の著作によると 剣術の達人が日本刀を持つと、米軍横流しのコルガバを持った数人が 怖くてブルブル震えながら逃げ出すとか 639 名前:七猫伍長 ◆4gYfuUCcAY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 19 05 ID ??? 武術の話題、でしょうか・・・・ そういえば古武術をやっている知人がいましたが、 彼が一番便利と言っていたのは、三尺棒でした。 後、共通の知人である元自営業が、木銃を持って相手したとき、 木銃持った自営業の相手だけはしたくない、とも。 ・・・とても気のいいナイスGUYなのですが、何かと脱ぐんだよなあw 642 名前:ミーくん ◆3Y7FF0oA1A [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 19 59 ID ??? 633 んー誰だったか陸軍の施設前でやらかしてた記憶があるんですよーほんと。 何を誤解したのか何なのか。 636 パイナップルアーミーとか保険調査員物語とかでおなじみですね。 644 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 20 27 ID ??? 590ハスケ殿 袖鎧の事は失念しておりましたw 所で「楯持ち」の楯てぇのは 源平合戦絵巻に良く出て来る固定式のアレですか? アレはユニット単位で使われるものだったんですね 646 名前:ミーくん ◆3Y7FF0oA1A [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 21 11 ID ??? 639 自衛隊の官舎はときたま木銃をもったオッサン隊員が目をギラつかせながら徘徊してるのを見かけます。 648 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 21 33 ID ??? 592殿 火縄銃の存在がありますよ>飛び道具 654 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 22 41 ID ??? まあだよもんは最強の戦技で対抗するだよもん 銃術最強 664 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 25 32 ID ??? >614殿 和弓の射撃を刀で払い落すなんて、ファンタジーにしか思えません…。 まず、平安時代の武士の弓は伏竹弓か重藤弓で、室町後期の三枚打弓や 天正年間のひご弓ほど威力も射距離もありませんでしたが、そのかわり、 馬で十分に近づいて射撃します。 ある程度の遠射も可能ですが、大鎧の弓矢に対する防御力はかなり高いので、 大鎧を着用した正規の武士には、それでは有効ではないでしょう。 三枚打弓やひご弓になると、射程も威力もかなり伸びます。 払い落すなんて、まず無理ですよ。特に、野戦でそんなことやってられない です。集団戦ですし。 それに、刀はサブウエポンですので、戦場ではそこまで使いませんよ。 刀をメインに使う状況では、相手も弓より刀を使うでしょうし、逆もしかり です。 665 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 25 52 ID ??? フェイシングと日本刀で実際に戦ったら どっちが強いんだろうか 669 名前:七猫伍長 ◆4gYfuUCcAY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 26 46 ID ??? 641 「僕のカメラは美しか追究しないのさっ!」(意訳してください) 646 実際、警棒の代わりになることもあるとか。 654 元自はだよもん氏と同じ事を。 89Rで当たるのは当たり前、64Rを分結できなきゃ自営業じゃない。 違い系列会社の自営業は、あんな飛騨細工と言っていましたがーw 675 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 28 10 ID ??? 610殿 いやいや カルタゴ本国のシステムがローマに圧倒された と言うべきかもしれません やはりシステム化は大切ですよ 680 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 29 59 ID ??? 675 カルタゴは交易派と農業派で分裂すてたとか。 やはり、人の和ですのお。 681 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 30 03 ID ??? 614殿 > 日本の和弓、いわゆる長弓は信長の時代でも鉄砲よりも威力が上 それは知らなかった… しかもそれを払いのけるとは… 凄まじい動体視力ですな 683 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 30 52 ID ??? 676 あの斧は敵兵を倒すためと言うより 敵船を破壊するためのウェポンと聞いたことが。 686 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 31 20 ID ??? 667 道具としていろいろ使える斧がお気に入りだったとか。 武器専用の刀は嫌ってたとか。>バイキング 697 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 33 42 ID ??? 688おめ。 ・ローマ帝国vsモンゴル軍 ・日本ではなぜ盾が発達しなかったか ・誰がなってもやることはサボタージュ宣言by野党 705 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 34 57 ID ??? >644 そうです。「かき並べる」ので掻楯(かいだて)と呼びます。 従兵や雑兵が持って移動する事ができるので、弓射戦で有利になると、 その陣形のまま前に押し出したり、楯の間から騎兵や徒歩武者が飛び出して 追撃、というように従兵に持たせることで、柔軟に防御陣を構成する用兵を 行ったようです。 722 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 39 54 ID ??? つか、カルタゴってローマ帝国の時分にはBクラスだろ そもそも、フェニキア人の壱植民地だった訳だし アレを国として過大評価するのが分からん、ローマ帝国を持ち上げたいだけなきが、ハンニバル個人は別格だけど・・・ 738 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 47 00 ID ??? 705ハスケ殿 おお! 長年の疑問が氷解しました! 源平時代の戦闘がぐぐっと理解できた気がします しかしそうなると楷盾の未発達は 兵種別の部隊運用移行に伴う自然消滅なのかすら? 740 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 48 44 ID ??? 738 源平期末期に兵力の大動員が行われ、 主兵装が弓から長柄に変化し、 野戦築城が始まったという主張もあるそうです。 752 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 52 57 ID ??? 743 いあ、普通の装備ですよ?>日本の野戦武器 なぎなただろうが、長巻だろうが、類似の装備は世界中にありますし 762 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 55 35 ID ??? 740 ちゅうか、弓射歩兵が消滅して、歩兵の主装備が槍や長刀になったんではなかったかと で、逆に騎兵はそもそもが弓射騎兵で、南北朝のころに弓射騎兵が廃れ始めて、弓射歩兵が復活し始めたんだったかな 763 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 57 20 ID ??? 761 実際は鎧が結構、優秀なんで(スーツアーマーなんかには劣りますが)、あれぐらいでちょうど良かったんではないかと 個人的には思ってます 767 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 20 58 31 ID ??? 679 あれ闘い方が悪いという説もありまして 真正面から正直に向かっていくとフェンシグに分があるけれど 横に動きながら間合いを詰めると剣道に分があるとか 剣道の試合場は正方形だけど、フェンシングは細長いでしょう その差があるから 771 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 00 37 ID ??? 戦国の職人さんが何故クロスボウを作らなかったのか?火縄銃は作ったのに… ハスケ殿の説明にあった律令云々ではイマイチ消化不良気味であります 773 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 03 17 ID ??? 771 速射性に劣るから今一使い勝手が悪かったんでね? 後、金属加工技術が欧州に比べて低かったとか。 781 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 05 41 ID ??? 773殿 んーむ 確かにロングボウ部隊に負けてますからな… 783 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 05 53 ID ??? 771 騎射しにくいし、西洋みたいなスーツアーマーを着なかったからではないかと 日本で弓を使うって言ったら、騎兵が主体だった時期が長いし 784 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 06 23 ID ??? 771 気候とか関係あるかもね 日本は湿気とかあるし クロスボウとは関係ないけど ムガル帝国では、埃や湿気に弱いフリントロックよりも火縄銃が好まれたし アヘン戦争かアロー戦争でも、埃や湿気は問題になったハズ 785 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 06 29 ID ??? 確かに発射の手間は鉄砲とたいしてかわんなかっただろうし威力も似たようなもんだろうし あとは音ぐらいかねえ 786 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 06 41 ID ??? _ _ / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ 771 クロスボウは、その構成がマスケットと弓のハイブリッドなのですが r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ 日本に入ってきて普及した所謂堺筒は、銃床に肩当ての無いストックレススタイルだったので i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ 組み合わせてクロスボウにしようという発想は残念ながら出て来なかったようです || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l またクロスボウの大きさで適切な威力の弓を製作出来なかった技術的な問題もあり \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ 要するに実用化が困難だったので普及しなかったのでは無いでしょうか。 `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 791 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 08 53 ID ??? _ _ / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ クロスボウの類は狩猟に使う事を禁じられています r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | 矢鴨に矢猫に矢人とな / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 792 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 08 56 ID ??? 786 皇女殿下、皇女殿下 クロスボウ、つまり弩はすでに紀元前に中国で使われてます 日本に伝来しなかったとは考えにくいです 797 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 10 11 ID ??? クロスボウや短弓が日本で普及しなかったのは、素材が無かったからだったはず。 799 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 10 53 ID ??? 795 ロングボウは稀に価格面で所有者を倒すこともあるとな? 804 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 11 29 ID ??? 786殿下 平安の頃は使われてようですよ 807 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 11 56 ID ??? 弩は弓に比べて貫通力と射程で勝っているのが存在理由っしょ。 日本で徒歩歩兵大量運用されなかった鎌倉~室町の間に 弓が発達しまくっててわざわざ弩を復活させる理由がなかっただけかと 812 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 12 35 ID ??? 弩って中国にもあったよねぇ。それも紀元前から。 それがなんで日本に定着しなかったんだろね。 813 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 12 36 ID ??? 771 騎乗しての射撃戦がメインだったのと、時期的に弩が必要な時期は歩兵の大規模動員が行われる戦争が無く(平安期~室町) 戦国期だと射程面でさほど劣らない複合弓が開発されていたためでは 816 名前:名無し☆そりすと弐 ◆8.pcJpncmM [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 13 29 ID ??? 795 そうきましたかw かの獅子心王が農民にクロスボウで討たれたのです それをきっかけに、甲冑を抜くクロスボウは非人道的だと、 騎士から非難がでたことがあるんですねー 818 名前:名無し第三皇女 ◆1LxEVEeIgU [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 14 21 ID ??? _ _ / ,. -、`r― 、`ヽ、 _,イ ヤ┴┴- 、\ ヒー 、_ 792 いえいえ、言い回しがおかしかったようですね、伝来はしていたでしょうが r / / | ヽ. ヽ∨ ノYi、 { | | イ / / ヽ イ ソ 欲しいと造れるが一致しなかった事と、前出の通り製造したくても出来ないと言うのが i_∨ !(从し ー- ヽ{ソ ソ `Kゝ{ ● ● ! ゝ-イ 普及しなかった理由だと考えられます || リ⊃ 、_,、_, ⊂⊃イイ∥| /⌒ヽ|| |ヘ ゝ._) イ/⌒i∥l \l Y`||yー>、_ イァ/ _ ./ | | (~ ||//(@)\_/Y /フ i |/ `ハ | l___ __ソ 、__イ |l | / ,l|ミl ∀ `l, { | |ミ|\ 822 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 15 03 ID ??? >771 773殿の言うとおりでしょうね。 クロスボウは威力も高く、熟練者でなくても命中率が良い ですが、速射性に劣りますし、発射機構の整備も必要です。 武士は領主的性格を持ちますが、職業軍人であり、日々を生産活動 から離れ、軍事訓練に費やす事が出来ますから、クロスボウの利点が 武士には必要ないモノになるからでしょう。 個人的には、発射機構の整備の問題が大きいと思ってます。 一度使われなくなって絶えた技術みたいなモノですし。 824 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 16 43 ID ??? 812 武将は騎射 雑兵の主を占める農民は弩なんて使う余裕が無かったとか。 それでダラダラ続いて戦国まで行って「弩?連射性低いし長弓で威力十分だろ」になったんじゃないかと。 826 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 17 07 ID ??? 新紀元社の武器事典では日本では接近して弓を射る戦術が主流だったため、装填に時間がかかる弩は使い勝手が悪かったそうな。 あと、射程は長くても命中精度が悪く、生産コストが高い(当時の鎧と同じコストがかかった)ため、廃れていったらしい。 827 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 17 15 ID ??? 818 なるなる でも、ストックでないクロスボウも結構ありますな まあ、サイズの問題も大きかったんでしょうねぇ そういや、前九年だか後三年だか忘れたけど、防御へいきとして城砦に弩がすえつけられてなかったっけ? 831 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 18 17 ID ??? 813殿 するてえと やはり戦場が国内だけになったことで 必要性が薄れたというのが最大理由なのかすら? 834 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 20 25 ID ??? 831 クロスボウが生きてくる戦場って、やっぱり広大な平地でしかも大多数の兵力同士がぶつかるシチュエーションだからねぇ。 そう言う平地での戦闘があまりない日本じゃ使い勝手が悪いんでしょうなぁ。 835 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 20 26 ID ??? 762 ちゅーか、徒歩集団弓歩兵自体がいなかったような>< 831 弓術が継承されていれば、 いってみればイングランドの弓兵がいる状態ですから、 度弓への期待が小さかったのでしょう。 貫通力を必要とする重装甲の敵もいなかったですし。 836 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 20 42 ID ??? 831 国内のみというか、戦争の主体が小規模領主の小規模な土地争いだったってのが大きいかと 100人とか200人とかの戦闘だと、戦列並べてクロスボウの一斉射撃、とかいらないし むしろ、コストに見合った結果が出ませんし ついでに、クロスボウだと騎兵は敵を殺せないってのがでかいんでないかと 837 名前:名無し☆そりすと弐 ◆8.pcJpncmM [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 21 01 ID ??? そういえば、次のアニマルに藤川球児物語が載るそうで 書くのは甘詰留太 841 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 22 09 ID ??? 816そりすと☆殿 クロスボウの最大の利点は射撃に高度な訓練を必要としない所にありますからね 騎士が農奴に簡単にやられててはマズいんでしょうなw 846 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 24 20 ID ??? http //www2.bbweb-arena.com/freiherr/bow.html ここに弓の事が書いてある 847 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 24 27 ID ??? 和弓が取り回しよすぎたというのはどないです?>弩の不遇 馬上で使えるロングボウなんて他に聞いたことない。 848 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 24 41 ID ??? 816 つか、非難したのは法王庁だったような気もしたけど キリスト教徒に相応しくない武器だとか でも、異教徒相手ではたくさん使ったとか 849 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 24 47 ID ??? 843 北方征伐が終わったあと、 武士の台頭以後は、徒歩弓兵集団は無かったような気がします。 それは上の流れにあった奴でしょうけど 854 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 26 25 ID ??? 836 俺は皮や接着剤等の材料がない又は希少だったからと聞いたけど 857 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 27 50 ID ??? 849 うぃ 武士の成立後、減少しますが、南北朝辺りからまた増加を始めます>弓歩兵 戦国期になると、かなり大規模に動員され始め、最終的には火縄銃に取って代わられてた記憶 で、騎兵が指揮官かしてゆくと 858 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 28 13 ID ??? ソースは忘れたけど、和弓でもクロスボウでも射程は変わらなかったような気がしたけど 金属板で作られた鎧が存在しないからクロスボウの必要性がなかったような気が 862 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 30 16 ID ??? チョコプリンが容器の七割しか入っていない… 原材料費上がったんだなあ。 857 うーん、ソースは無いけど 西洋のような徒歩弓歩兵集団運用がなされた記憶が無いっす。 あざンクールのような、弓兵が決した戦いも。 863 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 30 30 ID ??? おっと、イシユミ(オレの携帯では変換されない…ちなみにさっきはPCから) は防御戦闘には良いけど、攻撃にはあまり向かないって律令制時代の 政治家(前出の、日本海側にドシを置け、って言った人)が言っていたのを 失念してました。 機動戦が多い戦乱の世では、ここらへんもイシユミが復活しなかった理由 でしょうね。敵拠点を攻めるときでも機動戦っぽい状況になるような戦乱の 世では、こんな兵器は使いにくいですよね。 864 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 30 35 ID ??? 854 そりは小型の騎乗弓が発達しなかった理由だと思うデス>接着剤の存在 868 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 32 02 ID ??? 858殿 射程では長弓の方が 威力でクロスボウの方が 秀でていたような… 870 名前:アークだよもん ◆V2ypPq9SqY [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 33 03 ID ??? 射程も威力も機械弓のほうがつよいだよもんよ 連射力がちがう 872 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 33 08 ID ??? 確か、平原が少なくて山が多いから 狩猟用としても横幅が広いクロスボウは使いにくいためとか そんな説も 874 名前:名無し☆そりすと弐 ◆8.pcJpncmM [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 33 37 ID ??? 848 十字軍の頃ですから、騎士から法王庁へ話が流れたのかもしれないですね 自分の知識はトリビア止まりなんで、 訂正していただけるとありがたいですorz 876 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 34 00 ID ??? 872 しかも、槍で最終的な始末をつけたような>獣猟 877 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 35 09 ID ??? 862 日本の弓兵の場合、歩兵も騎兵も弓矢だけの装備じゃないのですよ 弓矢と槍や刀、ですから射撃戦が終了すると、即座に接近戦が生起しますし また日本の場合は、比較的戦場が狭いってのと、設置式の盾みたいな防御手段があったのが、弓矢だけで決着の付く戦闘が無かった原因かと考えてます 883 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 40 30 ID ??? そいや 欧州では設置式のカイ楯みたいな防御手段て発達しなかったんかな? 中華のばやい大八車みたいなもんを防御手段に使っていたみたいですが (手元の歴史群像イラストから) 885 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 40 50 ID ??? 877 そこで、弓を装備していた率の高いのは、徒歩なのか、騎兵なのか、という争点で 承久期の文献で 「近年の武士は、弓術を軽んじている」という老武士の嘆きがあった気がします(というか、誰だかの著書で読んだのですがw いわゆる武士階層と、動乱中期以降に動員された階層では、 弓を装備している率は、武士階層のほうが高かっただろう、というのもありますが。 そして、上の流れにもあるように、動員された徒歩は長柄化してるわけですし。 その長柄集団が、まず弓による準備射撃制圧をし、 そののちに長柄で突撃した、というのならまたアレですが 883 ありますよ。 888 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 41 56 ID ??? つうか、クロスボウが普及した地域って ちうごくとか、EUとか広い平原があるところのような気がする 889 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 42 46 ID ??? 883 蒼天の官渡の戦いで雑兵に降格された夏侯惇がひっくり返した大八車で降り注ぐ敵の矢を防いでたけどあんな感じなんだろうか 900 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 47 58 ID ??? 889殿 ですね やはり長距離移動しますから車輪がついてないと不便なのでしょう 911 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 52 37 ID ??? >885 ケイレイ殿 ここらへん、なかなか難しい問題みたいです。 源平期に、既に下卒に弓を持たせて大量配備し、敵に矢の雨を~、 という記述もありますし、室町~天正は長柄足軽と弓足軽が別個に 存在し、南北朝は野伏せり戦での弓戦の描写があったりします。 個人的には常にある程度の徒歩弓兵がいつの時代にも居たと 観ています。 914 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 54 30 ID ??? 911、 あちらが矢戦を挑めば、こちらも応じ、云々なんてのもありましたし。 とはいえ、 ウリは、源平期の軍事力の中核が、地方勢力の郎党だと考えているので、 「ある程度」の数が小さいんじゃないか、と言いたいわけですよ 917 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 55 44 ID ??? 885 そういうことでしたら、源平や承久のころは、まず間違いなく騎兵の方が弓の装備率は高いと思います というか、南北朝以降、戦国期のように騎兵の指揮官化が始まらないと、徒歩弓兵は増えないのですよ 923 名前:ハスケ ◆BnyPF68LQs [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 58 08 ID ??? >895 ここは流れが速いので、後で難民の方に詳細書きますね。 簡単に言うと、鎧着ての戦国時代サバゲ(スポチャン的ルールで) ですけど。 926 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 21 58 26 ID ??? 917 騎兵と、弓の分離の時期がどのようにして、 なんてところに興味をもったりしてますよ。 馬と弓が武力階層の特徴であった時代から、なぜに展開して言ったのだろう、と。 941 名前:衛生兵 ◆/olapVmB3. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 22 04 43 ID ??? 923ハスケ殿 難民スレに遭難してしまうと困るので ヒントなどお願いいたしまする 944 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/09/24(水) 22 05 21 ID ??? 926 徒歩弓兵が増える、室町、戦国期って、中央の支配力が大幅に低下して、農民・商人階級の社会進出が 大いに促進した時期ですから、その辺と関係あるんで無いかなあ、と妄想 983 名前:∠(,,゚д゚)ケイレイ・トライアヌス ◆nbyvo04lz. [sage] 投稿日:2008/09/24(水) 22 21 13 ID ??? 944 947 弓のような鍛錬の必要な武術が普及したからだろう、とは思うんですよね。 すると、動員してすぐ弓の経験者を集めて 部隊化できたのかな、と。
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1652.html
唐書巻一百六十六 列伝第九十一 賈耽 杜佑 子式方 従郁 孫悰 慆 牧 顗 曾孫裔休 令狐楚 子緒 綯 孫滈 渙 渢 弟定 賈耽は、字は敦詩で、滄州南皮県の人である。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、臨清県の尉に補任された。論事を上書して、太平県に移された。河東節度使の王思礼に任命されて度支判官となった。汾州刺史に累進し、治めることおよそ七年、政務で優秀な成績を修めた。召還されて鴻臚卿、兼左右威遠営使となった。にわかに山南西道節度使となった。梁崇義が東道に叛くと、賈耽は屯谷城に進撃して、均州を奪取した。建中三年(782)、山南東道節度使に遷った。徳宗が梁州に移ると、賈耽は行軍司馬の樊沢に奏上を行わせた。樊沢が帰還すると、賈耽は大宴会を開いて諸将と酌み交わした。にわかに突然詔があって、樊沢を賈耽に代らせることとなり、召還されて工部尚書に任命されることとなった。賈耽は詔を懐に入れて、もとのままに飲んでいた。罷免されるとき、樊沢を呼び寄せて「詔によって君に代らせることとなった。私もただちに命令を遵守しよう」と言った。将や吏を集めて樊沢と合わせた。大将の張献甫は、「天子が巡幸されているとき、行軍(樊沢)は公の命によって行在に天子に拝謁に行き、そこで軍を指揮しようとはかって、公の土地を自分の利にかなうようにしました。これは人に仕えて不忠というべきです。軍中は納得しませんから、公のために行軍を殺させてください」と言ったが、賈耽は「何を言っているのか。朝廷の命があったから、節度使となったのだ。私は今から行在に拝謁しに行くが、君と一緒に行こう」と言って、張献甫とともに行ったから、軍中は平穏となった。 しばらくして東都留守となった。慣例では、東都留守となった者は洛陽に居住し、守って城から出ないこととなっていたが、賈耽は弓をよくしたから、特別に詔があって近郊で狩猟することを許された。義成軍節度使に遷った。淄青節度使の李納は偽王号を取り去ったとはいえ、密かに陰謀を含み、怨みを晴らしたいと思っていた。李納の兵数千は行営より帰還するため、滑州を経由したから、賈耽に向かってある者は野外に宿営させるべきだと言った。賈耽は「私と道を隣り合っているのに、どうして疑おうか。野外で野ざらしにでもさせるというのか」と言い、命じて城中に泊まらせ、役所で宴会を開き、李納や士は皆心服した。賈耽は狩猟をするごとに、数百騎を従え、たびたび李納を境内に入れた。李納は大いに喜んだが、しかし賈耽の徳を恐れて、あえて謀をしなかった。 貞元九年(793)、尚書右僕射同中書門下平章事(宰相)となり、魏国公に封ぜられた。常に節度使の将帥となるべきものが不足しており、賈耽は天子に向かって自らを節度使に任じるべきであると言ったが、もし賈耽が軍中から謀れば、下の者は後ろ向きとなってしまうから、人々に不穏な動きが出るとした。帝はそうでと思い、賈耽の案を用いなかった。順宗が即位すると、検校司空・左僕射に昇進した。当時、王叔文らが実権の握り、賈耽はこれを憎み、しばしば病と称して辞職を求めたが、許されなかった。卒し、年七十六歳であった。太傅を贈られ、諡を元靖という。 賈耽は書物を読むのを嗜み、老いてもますます勤勉で、最も地理に詳しかった。四方に使節に行った人や夷狄の使者を見かけると、必ず風俗を尋ね求め、そのため天下の土地・区域・産物・山川・険阻の地は、必ず究明して知ったのである。吐蕃が盛強になると、隴西に侵入してきたが、以前は州県の遠近を役人に伝えられていなかった。賈耽はそこで布に隴右・山南・九州を描き、かつ河が流れを図に描いて載せ、また洮州・湟州・甘州・涼州の屯鎮や人口・道や里の広狭、山の険阻や水源を『別録』六篇、『河西戎之録』四篇として進上した。詔して宝物・馬・珍器を賜った。また『海内華夷』を描き、広さ三丈、縦三丈三尺にもなり、縮尺は一寸を百里とした。あわせて『古今郡国県道四夷述』を撰し、その中国の基本は「禹貢」で、外夷の基本は班固の『漢書』で、古の郡国を墨で題し、今の州県は朱で題し、漏れ落ちたところは、多く改正した。帝はこれをよしとし、下賜物がさらに加えられた。あるいは図を指してその国の人に尋ねると、すべてその通りであった。また『貞元十道録』を著し、貞観年間(623-649)の天下の十道使、景雲年間(710-712)の按察使、開元年間(713-741)の采訪使、設置・廃止や行き来が備わっていた。陰陽・雑数も通じていないものはなかった。 賈耽の度量は広く、思うに長者であったのであろう。人物のよしあしを批判することを喜ばなかった。宰相となること十三年、安全や危険といった緊急の大事に際して対策を披露することはできなかったとはいえ、身を引き締めて決められたことを実行するのは、自ら得意とするところであった。邸宅に帰るごとに、賓客と面会しても少しも倦むところをみせず、家人や近習は、喜怒をみたことはなかった。世間ではいつも道理に従った人だといっていた。 杜佑は、字は君卿で、京兆万年県の人である。父の杜希望は、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、交際があった者は全員僅かな間に英傑となった。安陵県令となり、都督の宋慶礼はその優れた政務能力を上表した。些細な罪のため連座して官を去った。開元年間(713-741)、交河公主が突騎施(テュルギシュ)に嫁ぐことになると、杜希望に詔して和親判官とした。信安郡王李漪が上表して霊州別駕・関内道度支判官に任命した。代州都督に任じられ、召還されて京師に戻り、辺境の問題について奏上し、玄宗はその才能を優れたものとした。吐蕃が勃律(ギルギット)を攻撃し、勃律は帰順を願ったから、右相の李林甫は隴西節度使となっており、そのため杜希望を鄯州都督に任命し、隴西節度留後とした。駅伝で急ぎ隴州に向かい、烏莽部の軍を破り、千人あまりの首級をあげ、進撃して新城を陥落させ、軍を凱旋させて帰還した。鴻臚卿に抜擢された。これより鎮西軍を設置し、杜希望は軍を引き連れて塞下に分置したから、吐蕃は恐れ、書簡を送って講和を求めた。杜希望は「講和を受けるのは臣下があれこれできることではない」と答え、敵はすべて争って講和の地につこうとした。杜希望は大規模・小規模な戦いをすること数十におよび、その大酋を捕虜とし、莫門に到達して、積載された備蓄物を焼き払い、終わって城に帰還した。功績によって二子に官位を授けられた。当時、戦争がしばしば勃発し、府庫はだんだん少なくなっていったが、杜希望は鎮西軍にあること数年、備蓄された穀物や金絹は余剰が出るほどであった。宦官の牛仙童が辺境にやってきて、ある者は杜希望に誼を結ぶことを勧めたが、「金銭によってこの身を節度使のままでいようとは、私には堪えられない」と答え、牛仙童は戻って杜希望が職務を行っていないと奏上したから、恒州刺史に左遷され、西河に遷った。しかし牛仙童が諸将より金銭を受け取っていたことが漏洩し、その罪は死罪に相当し、金を送った者は全員罪となった。杜希望は文学を愛し、門下で引き立てられた者は崔顥らのように全員有名となって当代に重んじられた。 杜佑は父の蔭位のため済南参軍事・剡県の丞に補任された。かつて潤州刺史の韋元甫のもとを通過すると、韋元甫は友人の子であったから厚遇したが、杜佑自身は韋元甫に礼を加えなかった。他日、韋元甫に疑獄の案件を抱えて結審することができず、試しに杜佑に訊問させると、杜佑が述べるところは、要点がつくされていないところはなかった。韋元甫は優れた人物だと思い、司法参軍に任じ、韋元甫が浙西・淮南節度使となると、上表して幕下に任用した。京師に入って工部郎中となり、江淮青苗使に任命され、再び容管経略使に遷った。楊炎が宰相となると、金部郎中を経て水陸転運使となり、度支兼和糴使に改任された。ここに戦争が起こると、補給のことは杜佑が専決した。戸部侍郎の地位によって判度支となった。建中年間(780-783)初頭、河朔の兵は内乱となり、民は困窮して、賦は出されなかった。杜佑は弊害を救うために用途を省くにこしたことはなく、用途を省けば官員も減員するから、そこで上議して次のように述べた。 「漢の光武帝は建武年間に四百県を廃止し、吏は十分の一しか任命されず、魏の太和年間(227-233)には方々に使者を派遣して吏員を削減し、正始年間(240-249)には郡県を併合し、晋の太元年間(376-396)には官七百を廃止し、隋の開皇年間(581-600)には郡五百を廃止し、貞観年間(623-649)初頭には内官六百人を削減しました。官を設置する根本は、百姓を治めるためであって、だから古は人を数えて吏を設置し、無駄に設置することをよしとしなかったのです。漢から唐まで、戦争で困難のため吏員を削減するのは、実に弊害から救うのに合致したことなのです。 昔、咎繇(皋陶)は士となりましたが、これは今の刑部尚書・大理卿にあたるので、つまりは二人の咎繇がいることになるのです。垂は共工となりましたが、これは今の工部尚書・将作監にあたり、つまりは二人の垂がいることになるのです。契は司徒となりましたが、これは今の司徒・戸部尚書にあたるので、つまりは二人の契がいることになるのです。伯夷は秩宗となりましたが、つまりは今の礼部尚書・礼儀使にあたるので、つまりは二人の伯夷がいることになるのです。伯益は虞となりましたが、これは今の虞部郎中・都水使司にあたるので、つまりは二人の伯益がいることにあるのです。伯冏は太僕となりましたが、これは今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑厩使にあたるので、つまりは四人の伯冏がいることになるのです。昔、天子は六軍あり、漢は前後左右将軍が四人いましたが、今、十二衛・神策八軍で、だいたい将軍は六十人います。旧名を廃止せず、新たに日々加えられているのです。また漢は別駕を設置し、刺史に従って巡察しましたが、これは今の監察使の副官のようなものです。参軍は、その府軍事に従いますが、これは今の節度判官のようなものです。官名職務は、変化にあたっても同じのままであって、どうして名実一体しておりましょうか。本当に余剰について検討しなければなりません。統治しようとするのならまず名実を正すのです。神龍年間(707-710)、任官は気まま勝手で、役人は大いに集められ選ばれましたが、官職は既に欠員がなく、そこで員外官を二千人設置し、これより常態化したのです。開元・天宝年間(713-756)当時は、国の四方に敵はおらず、戸九百万あまりを数え、財庫は豊かで溢れ、余分な費用がかかったとしても、心配するほどではありませんでした。今耕作地は疲弊し、天下の戸は百三十万、陛下が使者に詔してこれを調査させましたが、わずかに三百万がいただけで、天宝年間(742-756)に比べると三分の一、とりわけ浮浪の者が五分の二おりますから、賦税を出すことができる者は段々減っているのに、禄を食む者はもとのままなのです。どうして改めないままでおれましょうか。 議論する者は、天下なお群雄が跳梁跋扈して朝廷に服していないのだから、ただ官吏を削減すれば、罷免された者が皆群雄のもとに行ってしまうとしています。これは一般的な心情を述べたものであって、正確に述べたものではありません。なおかつ才能ある者を推薦して用いるのですから、不才の者はどうして群雄のもとに行っていなくなったとて心配することがありましょうか。ましてや姻戚・財産をかえりみるでしょうか。建武年間(25-56)に公孫述と隗囂はまだ滅ぼせておらず、太和年間(227-232)・正始年間(240-249)・太元年間(376-396)に魏は呉・蜀と鼎立しており、開皇年間(581-600)に陳はまだ南に割拠しておりましたが、皆英才を捕まえ、人を失って敵に利益をもたらすとは心配しておりませんでした。今、田越のような輩は頻繁に刑罰を用いて重税を課し、軍には目をかけるものの、士人への待遇は奴婢のようで、もとより范睢が秦の遺業をならせたり、賈季(狐射姑)が狄を強くしたような恐れはありません。または長年にわたっているものをにわかに改めるべきではありません。かつ仮に別駕・参軍・司馬を削減し、州県で内官を試験し、戸ごとに尉を設置すべきです。ただちに罷めるべきなのは、行義があるとして在所から上奏されたものの、実際にはそうではなかった場合、推薦者を罪としてしまえば、人のために推薦する者がいなくなるので、常調官に任ずべきです。またどうして心配することありましょうか。魏で柱国を設けた時、当時の宿老の功業は柱国の地位にあったので、第一に尊ばれたのです。周・隋の時代には授けられる者が次第に多くなり、国家はこれをただの勲功とし、わずかに地を三十頃得るだけになったのです。また開府儀同三司・光禄大夫もまた官名でありましたが、非常に多くなったので、かえって位階の一つとなりました。時に従って制度を樹立し、弊害にあえばただちに変えるのであれば、どうして必ず順応して改めるのを憚ることがありましょうか。」 議題に上がったものの、採用されなかった。 盧𣏌が宰相となると、盧𣏌に嫌われたため、京師から出されて蘇州刺史となった。前の刺史の母の喪があけると、杜佑の母は健在であったから、辞退して行かず、饒州刺史に改められた。にわかに嶺南節度使に遷った。杜佑は大きな道路をつくり、間隔をあけた街並みとしたから、大火災にならなくなった。朱厓の民は三代にわたって要衝によって節度使に服しなかったから、杜佑は討って平定した。召還されて尚書右丞を拝命した。にわかに京師から出されて淮南節度使となったが、母の喪のため任を解かれるよう願ったが、詔して許されなかった。 徐州節度使の張建封が卒すると、軍が騒動をおこし、その子張愔を立て、承認を朝廷に願ったが、帝は許さず、そこで杜佑に詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)、徐泗節度使として討伐させた。杜佑は軍艦を配備し、部下の将の孟準を派遣して淮河を渡河して徐州を攻撃させたが、勝てずに撤退した。杜佑は軍を出兵させて変乱に対応するのを得意とはしていなかったから、そこで境を固めてあえて進撃せず、張愔に徐州節度使を授け、濠州・泗州の二州を割いて淮南に隷属させた。それより以前、杜佑は雷陂を決壊させて大規模灌溉を実施し、海に近い土地を田とし、収穫された米は五十万斛にもおよび、軍営は三十区をならべ、兵士・馬は整然とし、四隣は恐れさせた。しかし部下に寛容であったため、南宮僔・李亜・鄭元均が権力を争って政治を乱したから、帝は全員を追放した。 貞元十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事(宰相)に拝命された。徳宗が崩ずると、詔して摂冢宰とした。検校司徒、兼度支塩鉄使に昇進した。ここに王叔文が度支塩鉄副使となったが、杜佑は既に宰相であったから度支塩鉄使は自ら執り行わず、王叔文が遂に専権した。後に王叔文が母の喪によって家に帰ると、杜佑が審査決定することとしたが、郎中の陳諌が王叔文にさせるよう要請したから、杜佑は「専権させないようにするからなのか」と言い、そこで陳諌を京師から出して河中少尹とした。王叔文は東宮を動かそうとし、杜佑に助けを求めたが、杜佑は応じず、そこで謀して追放しようとしたが、まだ決する前に失脚した。杜佑はさらに李巽を推薦して自らの副官とした。憲宗が諒暗に服すると、再び摂冢宰となり、度支塩鉄使を李巽に譲った。それより以前、度支使は職務にあたっては経費を削減してきたが、職務が増加するにつれて経費が多くなっていったから、吏を任命して百司の暫時の代理とし、繁多な上に決まりがなかった。杜佑は営繕署を将作監に、木炭は司農寺に、染色を少府に帰属させ、職務を簡素化した。翌年、司徒を拝命し、岐国公に封ぜられた。 党項(タングート)が密かに吐蕃を導いて乱をおこし、諸将が功績を得ようと、討伐を請願した。杜佑はよくない辺臣が叛乱をおこすことと思い、そこで上疏して次のように述べた。 「昔、周の宣王が中興したとき、異民族の獫狁が害をなし、これを太原に追いましたが、国境に到達してから追跡を止めました。中国の弊害となることを願わず、遠夷を怒らせることになるからです。秦は兵力をたのんで、北は匈奴を防ぎ、西は諸羌を追い払いましたが、怨みをまねいて乱のきっかけとなり、実際には流謫人からなる守り人を生んだだけであった。思うに聖王が天下を治めるのは、ただ多くの人を安撫させようとすることを願うからで、西は流沙まで、東は海まで、北も南も、天子の名声を聞きその教えを被るのですが、どうして内政が疲弊しているのに外征を行おうというのでしょうか。昔、馮奉世は詔を偽って莎車王を斬り、首を京師に伝送し、威は西域に震わせたので、宣帝は爵位・封土を加えるかどうかを議論させました。蕭望之は一人詔を偽り命令を違えたことを述べて、功績があっても通例としてはならないとし、後世に使者となった者が国家のために夷狄に事件を引き起こさせるような事態を恐れたのです。近年では、突厥の黙啜が中国に侵掠し、開元年間(713-741)初頭に郝霊佺が捕えて黙啜を斬り、自らこの功績は二つと匹敵するものはないと言っていましたが、宋璟は辺境にいる臣下がこのようにして功績を得ようとするのを恐れて、ただ郎将を授けただけでした。これより開元の盛が終わるまで、再び辺境に関する議論はおこらず、中国はついに安泰となったのです。このような事情の戒めは手本とするに遠い過去のことではありません。 党項は小蕃で、中国と雑居しており、時折辺境の将が攻撃しては、その良馬や子女を己に利させ、徭役を苛斂誅求し、遂には謀反させるに到り、北狄と西戎とを互いに誘致して辺境に掠奪させたのです。伝(『論語』季氏篇)に「遠方の人が随わないなら、必ず文化力を高め、そうやって招き寄せる」とあり、管仲は「国家は勇猛の者をして辺境にいさせてはならない」と言っていますが、これは本当に聖哲が兆候を見て、その傾向や問題の本質を知覚できるということなのです。今戎どもは強くなり、辺境の防備は備わっておりません。本当に良将を慎重に選び、防備を完備させ、苛斂誅求を禁止し、真心を示し、来れば防いで懲らしめ、去れば備えるべきです。そうすれば彼らは懐柔し、奸悪の謀をするのを改めるでしょう。どうして必ずしばしば軍役をおこし、座して財力・人材を消耗する方を採用するのでしょうか。」 帝は喜んで受け入れた。 一年あまりして、致仕を願い出たが、聴されず、詔して三・五日に一度、中書・平章政事に入らせた。杜佑は進見するごとに、天子は尊んで礼遇し、呼ぶのに官名を呼んで、名前では呼ばなかった。数年後、固く骸骨(辞職)を乞い、帝はやむを得ず許した。そこで光禄大夫・守太保致仕を拝命し、毎月朔日(一日)・望日(十五日)に朝廷に出席し、宦官を派遣して賜い物は非常に厚かった。元和七年(812)卒した。年七十八歳。冊立して太傅を追贈し、諡を安簡という。 杜佑の性格は学問を嗜み、貴い身分になって、それでも夜分に読書した。これより先、劉秩は百家を拾い上げて、周の六官法を揃え、『政典』三十五篇をつくり、房琯は才能は漢の劉向を超越したと称えた。杜佑は『政典』は未だに尽くされていないと思っていたから、そこでその欠落部分を補い、『開元新礼』を参考にし、二百篇をつくって、自ら『通典』と名付けて奏上し、詔してお褒めの言葉を賜り、儒者はその書物が簡約でありながら詳細であることに感服したのである。 人となりは簡素かつ恭順な人物で、物事に背かなかったから、人は皆敬愛して重んじた。名声は漢と胡に広がり、しかも練達の文章は誰もが及ばないのである。朱坡・樊川の地には、すぐれた東屋・高台・林泉の庭園をつくり、山を穿って泉を掘り、賓客とともに酒を酌み交わすのを楽しみとした。子弟は皆朝廷に供奉することを願い、貴く盛んなことは当時の筆頭であった。能力は吏職に精勤し、統治しても苛斂誅求を行わず、しばしば税務を司り、宰相として民の利害によって差配を決めたから、議論する者は杜佑を統治・行ないに欠点はないと称えた。ただ晚年、妾を夫人としていたが、杜佑の業績からは隠れる程度といわれる。子に杜式方がいる。 杜式方は、字は考元で、父の蔭位によって揚州参軍事を授けられた。再び太常寺主簿に移り、音律を考察して定めたから、太常卿の高郢に称えられた。杜佑が宰相になると、京師から出されて昭応県令となり、太僕卿に遷った。子の杜悰は、公主を娶った。杜式方は宗室の姻戚となったから、たちまち病と称して業務を行わなかった。穆宗が即位すると、桂管観察使を授けられた。弟の杜従郁は長らく重い病に罹っており、自ら薬を与えて食事の介助をし、死ぬと泣いたから、世間ではその真心のこもった行ないを称えた。卒すると礼部尚書を追贈された。 杜従郁は、元和年間(806-820)初頭に左補闕となり、崔群らからは宰相の子であったから嫌われ、再び秘書丞に遷された。駕部員外郎で終わった。子に杜牧がいる。 杜悰は、字は永裕で、一門の蔭位のため三遷して太子司議郎となった。権徳輿が宰相となると、その婿で翰林学士の独孤郁は嫌疑を避けて自らその職を辞するよう申し上げた。憲宗は独孤郁が文章をよくするのを見て、「権徳輿に婿ありというのはまさにそなたのことだな」と歎いた。当時、岐陽公主がおり、帝はこの娘を愛していた。昔の制度では、多くは姻戚や将軍の家より選ばれたが、帝は始め宰相李吉甫に詔して大臣の子より選んだが、皆病と称して辞退し、ただ杜悰だけが選抜によって麟徳殿で召見された。婚礼が終わると、殿中少監・駙馬都尉と授けられた。大和年間(827-835)初頭、澧州刺史より召還されて京兆尹となり、鳳翔忠武節度使に遷った。京師に入って工部尚書、判度支となる。たまたま岐陽公主が薨ずると、杜悰は長らく挨拶せず、文宗は不可解に思った。戸部侍郎の李珏は「この頃駙馬都尉は皆公主の服喪は天子・父同様の斬衰三年で、だから杜悰は挨拶できなかったのです」と述べると、帝は驚き、始めて詔して服喪期間を斉衰杖期の一年とし、法令として明記させた。 会昌年間(841-846)初頭、淮南節度使となった。武宗は揚州監軍に詔して俳優の家の娘十七人を禁中に進上させ、監軍は杜悰に同じく選ばせようとし、また良家に姿形がよい者を見せようとしたから、杜悰は「私は詔を奉っていないのにたちまち共に行うのは罪である」と言ったから監軍は怒り、帝に上表した。帝は杜悰に大臣の体裁があるのを見て、そこで詔して俳優を進上させるのを廃止し、その意は杜悰を宰相にすることにあった。翌年(844)、召還されて検校尚書右僕射・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、判度支を兼任した。劉稹が平定されると、左僕射・兼門下侍郎となった。しばらくもしないうちに、宰相を罷免され、京師から出されて剣南東川節度使となり、西川節度使に移り、また淮南節度使となった。当時、旱魃となり、道路に流亡する者が溢れ出て、民は運河で運ばれてくる米を濾して自給するようになり、「聖米」と呼び、湖沼のまぐさや蒲の実を採ってすべて尽き果ててしまったにも関わらず、杜悰は上表して吉祥・災異の前触れと報告した。獄囚は数百人を数えたが、酒色におぼれて安逸に過ごしたから裁決できなかった。罷免されて、兼太子太傅、分司東都となった。翌年、起用されて東都留守となり、再び剣南西川節度使となった。召還されて右僕射、判度支、進兼門下侍郎同平章事(宰相)となった。 それより以前、宣宗の在位中、夔王李滋以下の五王を大明宮の内院に住まわせて、鄆王を十六宅に住まわせた。帝が重病となると、枢密使の王帰長・馬公儒らが遺詔によって夔王を擁立しようとしたが、左軍中尉の王宗実らが殿中に入って、以為王帰長らのために詔が偽られたとし、そこえ鄆王を迎えて即位させた。これが懿宗である。しばらくして、枢密使の楊慶を派遣して中書省にやって来たが、ただ杜悰だけが拝礼し、他の宰相の畢諴・杜審権・蒋伸はあえて進み出なかったから、杜悰に説諭して大臣にふさわしくない者を弾劾させて罪にあてようとした。杜悰はにわかに封を使者に授けて復命し、楊慶に向かって、「お上は践祚されてからまだ日が浅い。君達は権力を手中にして愛憎によって大臣を殺せば、役人の禍いは日を待たないだろう」と述べ、楊慶の顔色を失い、帝の怒りもまた解け、大臣は安泰となった。しばらくもしないうちに、司空となり、邠国公に封ぜられ、検校司徒によって鳳翔・荊南節度使となり、加えて太傅を兼任した。たまたま黔南観察使の秦匡謀は蛮を討伐しようとしたが、兵は敗れ、杜悰のもとに逃げたが、杜悰はこれを逮捕し、節義に殉じなかったことを弾劾したが、詔によって斬られてしまった。杜悰は死んでしまうとは思っていなかったから、驚きのあまり病となって卒した。年八十歳。太師を追贈された。葬送の日、宰相百官に詔して参列させた。 杜悰は大いに議論しては往々として時勢に適うところがあったが、しかし才能は適応しなかった。将軍や宰相の地位を行ったり来たりし、厚く自ら父母を孝養したが、いまだかつて在野に隠れた士を推薦したことがなく、杜佑の素風は衰えたのだった。だから当時の人は「禿角犀(角が禿げたサイ)」と呼んだ。 子の杜裔休は、懿宗の時に翰林学士・給事中を歴任したが、事件に罪とされて端州司馬に貶された。弟の杜孺休は、字は休之である。累進して給事中となった。大順年間(890-891)初頭、銭鏐が弟の銭銶を派遣し、兵を率いて徐約を蘇州で攻撃して破り、海昌都将の沈粲が刺史の業務を執行したが、昭宗が杜孺休に命じて蘇州刺史とし、沈粲を制置指揮使とした。銭鏐は喜ばず、密かに沈粲を遣わして殺害してしまった。杜孺休は攻められると、「私を殺さないでくれ。君に金をあげよう」と言ったが、沈粲は「お前を殺せば、金はどこに行くのかね」と答えた。兄の杜述休も同じく死んだ。 杜悰の弟に杜慆がいる 杜慆は、咸通年間(860-874)に泗州刺史となった。龐勛が反乱を起こすと、城を囲まれ、処士の辛讜が広陵よりやって来て杜慆に面会し、家族を城から出して、ただ身を守るよう勧めた。杜慆は「私が一族全員を逃れさせて生を求めたところで、軍心は動揺するだけだ。将兵と生死を共にするのにこしたことはない」と言い、軍は聞いて皆涙を流した。杜慆は籠城の困難を聞いて、堀を浚って城の防備を固め、籠城の器械で備わっていないものはなかった。 賊将の李円は杜慆が組みやすしとみて、勇士百人を馳せて府庫に入らせようとすると、杜慆は甘言によって礼を厚くして迎えて慰労したから、賊は杜慆の謀であると思わなかった。翌日、兵士三百名を伏兵し、球場で宴して賊を全員殲滅した。李円は怒り、曲輪を攻撃したが、杜慆は数百人を殺したから、李円は撤退して城の西に立てこもった。龐勛はそのことを聞いて、兵を増やして、書簡を城中に射て投降を促した。夜になって、杜慆は鼓を打って城壁の上から大声で叫んだから、李円の士気は削がれ、走って徐州に戻った。しばらくもしないうちに、賊は淮口を焦土とし、昼夜戦ってやむことはなく、辛讜はそこで救援を守将の郭厚本に要請し、賊は包囲を解いて去った。浙西節度使の杜審権は将を派遣して兵千人によって救援させたが、かえって李円の軍に包囲され、一軍もろとも全滅した。杜慆は人を間道によって京師に走らせると、戴可師に詔して沙陀・吐渾の援軍二万によって討伐させた。淮南節度使の令狐綯は牙将の李湘を派兵して淮口に駐屯させ、郭厚本と合流したが、李円の攻撃のため敗北し、李湘らは枕を並べて討ち死にし、ここにおいて援軍は途絶えた。賊はそこで鉄の鎖で淮河の流れを途絶えさせ、梯子と衝角で城を攻撃した。兵糧は尽きて、そのため薄い粥を支給していた。懿宗は使者を派遣して杜慆に検校右散騎常侍に任命し、防衛に努めさせた。龐勛は李円を派遣して城内に入って杜慆に面会して投降を約束させようとしたが、杜慆は怒って李円を殺してしまった。龐勛は再び書簡を送ったが、安禄山・朱泚らがついに滅亡してしまったと答書し、ひそかに龐勛の軍にあてつけた。龐勛はしばしば攻撃したが目的を遂げることができず、たまたま招討使の馬挙が兵を率いてやって来たから、遂に包囲を解いて去った。包囲されることおよそ十か月、杜慆は兵士を慰撫し、全員が命を投げ出し、辛讜は包囲を冒して出入し、援軍を集め、ついに一州を全うさせたから、当時の人は艱難さを称えた。賊が平定されると、杜慆は義成軍節度使、検校兵部尚書に遷り、卒した。 杜牧は、字が牧之で、詩文をつくることが上手であった。進士の試験に合格し、さらに賢良方正科の試験にも合格した。当時江西観察使であった沈伝師が朝廷に届けて、江西団練府巡官とした。それからこんどは牛僧孺の淮南節度府の書記の職につき、監察御史に抜擢されたのち、病気を理由にして東都(洛陽)の分司御史となった。弟の杜顗の病気が悪化したので退官し、再び宣州団練判官の職につき、殿中侍御史内供奉をさずかった。 この頃、劉従諌が沢潞節度使として、また何進滔が魏博節度使として、相当にごうまんで国の法律制度に従わなかった。杜牧は、長慶年間(821-824)初頭から朝廷の処置が方法を誤り、そのためにまたしても山東の地を失い、大きい領域をもった重要な藩鎮の処理は、天下の人が唐の政権を重く視るか軽く視るかに関係することだけに、それを世襲のように受けつかせたり、軽々しく授与したりしてはいけないのに朝廷はこれを許したことを、当時にさかのぼってとがめようとした。が、こうしたことは、すべて朝廷のきめる大事だから、自分がその地位にないのに分をこえたことを言うのは、とがめられるおそれがあり、そういうことはよくない、ということで「罪言」を作った。その文にいう、 「人々は常に戦争の惨劇に苦しみ、戦争は山東で始まって、天下に広がっていきました。山東を占領しなければ、戦争をやめることができません。山東の地は、禹が全国九土を分割して冀州(九州)といい、舜がその中でも非常に大きい部分を分割して幽州とし、并州としました。その自然条件を見てみると、河南と匹敵し、常に全国の十分の二の強さがあり、そのため山東の人は勇猛で力が強く、規律を重んじ、苦労を厭わないのです。魏晋の時代より以降、職人と織機の技術は巧妙で、ありとあらゆるものが流出し、習慣は卑俗となり、人々はますます脆弱となっていったのです。ただ山東だけが五種の穀物を種まき、兵は弓矢の道を根本として、他はゆったりしていて揺らぐことはありません。丈夫な馬を生産し、馬の下位のものでも一日に二百里を移動するから、兵は常に天下と対抗することができるのです。冀州は、その強大さをたのんで摂理に従わず、冀州が必ず弱く弱体化することを期待しましたが、敗れたとはいえ、冀州はまた強大となったのです。并州は、力は併呑するのに充分な能力があります。幽州は、幽陰(奥深く)で厳しい土地柄です。聖人はだからこの名をつけたのです。 黄帝の時、蚩尤は戦争をおこない、それより以後は帝王が多くその地にいることになりました。周が衰えて斉が覇者となりましたが、一世代もたたずに晋が強大となり、常に諸侯を使役しました。秦が三晋より強勢となると、六世代の時を経て韓を占領したため、遂に天下の背骨を折り、また趙を占領して、そこで残る諸侯を拾い上げるように征服したのです。韓信が斉を占領しましたが、だから蒯通は漢と楚のどちらが勝利するかは韓信次第であることを知っていたのです。漢の光武帝は上谷で挙兵し、鄗で帝業をなしとげました。魏の武帝は官渡で勝利して、天下三分のうち、その二が手中にあったのです。晋が乱れて胡が侵攻してくると、宋の武帝が英雄となり、蜀を占領して、関中を手中におさめましたが、黄河以南の地の大半を占領し、天下は十分の八まで得られましたが、しかし一人として黄河を渡って胡に攻め入る者はいませんでした。高斉(北斉)の政治が荒れると、宇文(北周の武帝宇文邕)が占領し、隋の文帝が陳を滅ぼし、五百年で天下が一つ家となったのです。隋の文帝は宋の武帝には敵いませんが、これは宋が山東を占領できず、隋が山東を占領したから、そのため隋は王業をなしとげ、宋は霸となるにとどまったのです。この観点からみてみると、山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです。 天宝年間(742-756)末、燕州の安禄山は反乱をおこし、成皋・函谷関・潼関の間を無人の地を行くかのように出入りしました。郭子儀・李光弼らは兵五十万を率いていましたが、鄴を越えることができませんでした。それより百あまりの城や、天下が力を尽くしても、尺寸の地すら得られず、人々は元は唐土であったこれらの土地をまるで回鶻や吐蕃を望み見るかのように扱い、あえて攻撃しようとする者はいませんでした。国家はそのため畦や河を阻塞とし、街路を封鎖しました。斉・魯・梁・蔡はそのような影響を蒙り、そのため彼らも叛徒となったのです。裏(河北)を表(河南)の後ろ盾とし、水の流れが旋回するかのように混乱状態となり、五年間常に戦っていない者はいない状態となったのです。人々は日に日に貧しくなり、四方の異民族は日に日に勢いが盛んとなり、天子はそのため陜州に逃れ、漢中に逃れ、じりじりとして七十年あまりとなりました。孝武帝のような時運に遭遇し、古着を着て一日一度だけ肉を食べ、狩猟や音楽をせず、身分の低い中から将軍や宰相を抜擢することおよそ十三年、それでもすべての河南・山西の地を征服し、改革を実行に移すことができなかったのです。山東は服属せず、また二度も攻撃しましたが、すべて勝利には到りませんでした。どうして天は人々にまだ安寧な生活をさせないのでしょうか。どうして人の謀がまだできていないのでしょうか。どうしてそんなに難しいのでしょうか。 今日、天子は聖明であらせられ、古を凌駕し、平和に治めようと努力されています。もし全国の人々を無事に過ごさせたいのなら、戦争を終わらせることが重要です。山東を得られなければ、戦争は終わりません。今、上策は自立して治まるのにこしたことはありません。なぜならば、貞元年間(785-805)に山東で燕・趙・魏の叛乱があり、河南で斉・蔡が叛乱しましたが、梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春はすべて大軍で十箇所以上防衛し、わずかに自ら治所を守るのにたる程度で、実は一人として他所にとどまることはできず、遂に我が力はほどけ勢いは緩み、反逆があっても熟視するだけで、どうすることもできなかったのです。この頃、蜀もまた叛乱をおこし、呉もまた叛乱をおこし、その他まだ叛乱をおこしていない者でも、時勢によっては上下し、信頼を保つことはできなくなりました。元和年間(806-820)初頭より今にいたるまでの二十九年間、蜀・呉・蔡・斉を占領し、郡県を回復すること二百城あまりとなり、まだ回復していないのは、ただ山東の百城だけとなりました。土地・人戸・財物・兵士は、往年の時と比べて、余裕綽々ではありませんか。また自分に統治能力があると思わせるのに充分です。しかし法令制度・条文は果たして自立できるといえるでしょうか。賢才や悪人を探し出して選んだり捨て置いたりしますが、果たして自立できるといえるでしょうか。要塞や鎮守、武器や車馬は、果たして自立できるといえるでしょうか。街や村々、穀物や財物は、果たして自立できるといえるでしょうか。もし自立できなければ、これは敵を助けて敵の為に行っているのと同じなのです。土地の周囲は三千里、叛乱が根付いてから七十年、また天下には密かにそれを支持して助ける者がいるのに、どうして回復できるのでしょうか。ですから上策は自立するにこしたことはないのです。中策は魏州の占領です。魏州は山東で最も重要な地で、河南にとっても最も重要な地です。魏州は山東にあって、趙州の障壁となる地です。朝廷はすでに魏州を越えて趙州を奪取することも、もとより趙州を越えて燕州を奪取することもできませんでした。これは燕州・趙州にとって魏州が常に重要地点であることを意味し、魏州は常に燕州・趙州の命運の握っているのです。そのため魏州は山東で最も重要な地なのです。黎陽は白馬津から三十里離れており、新郷は盟津から百五十里離れており、城塞は互いに向かい合っており、朝から晩ばで戦い、この白馬津・盟津の二津のうち、敵が一つでも破ることができれば、数日もしないうちに成皋に突入することができるのです。そのため魏州は河南で最も重要な地なのです。元和年間(806-820)、天下の兵を動員して蔡・斉を誅伐したので、五年ほどは山東からの攻撃の心配はなくなりましたが、魏州を得られたからです。先日、滄を誅伐し三年ほどは山東の攻撃の心配はなくなりましたが、これまた魏州を得られたからです。長慶年間(821-825)初頭に趙州を誅伐しましたが、一日のうちに五諸侯の軍隊は壊滅し、そのため魏州を失いました。先日、趙州を討伐しましたが、長慶の時のように魏州を失ったので失敗しました。そのため河南・山東の勝敗の要は魏州にあるのです。魏が強大なのではなく、地形がそうさせているのです。そのため魏州を奪取するのが中策なのです。最下策は軽率な作戦で、地勢を計算に入れず、攻守を分析しないことがそうです。兵士と兵糧が多く、人々を戦わせることができれば、それは防衛に有利であり、兵士と兵糧が少なく、人を自発的に戦う必要もなく、攻勢が有利となります。そのため我が軍は常に攻勢で失敗することが多く、敵は防御で悩むことが多くなるのです。山東が叛いて五世代にもなり、後世の人々が見たり聞いたりした行動は、叛乱側ではなく、物事の理はまさにそうあるべきだと思い、なじんで骨髄にまで入っており、そういではないと思わなくなっています。包囲が激しく兵糧が尽きると死体を食べてまで戦っています。これはもはや習慣となっていますが、どうして一勝一負を決することができましょうか。十年あまりにおよそ三度趙州を奪還しましたが、兵糧が尽きて撤退しました。郗士美が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、杜叔良が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、李聴が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻しました。そのため地勢を計算に入れず、攻守を分析せず、軽率な作戦を行うことは、最下策なのです。」 何度か昇進して左補闕兼史館修撰となり、その後膳部員外郎に転じた。宰相の李徳裕は、かねてより杜牧の才能を、とりわけすぐれたものであると高く評価していた。会昌年間(841-846)のことであるが、黠戛斯(キルギス)が回鶻(ウイグル)を破り、回鶻の部族は負けてばらばらになって漠南(内蒙古)にのがれて来た。その時は、次のように李徳裕に説いてすすめた。「この機をのがさずに討ち取ってしまうほうがよろしい。私が考えますのに、前後漢の匈奴討伐は、いつも秋と冬に行われましたが、この季節は、匈奴の強い弓が、膠の折れる冷気のためにより強くなっており、はらんだ馬が子を産んでじゅうぶん働けるようになっております時期で、ちょうどこの時にはりあったものですから、負けることが多く、勝つことがほとんどなかったのです。ですから、今も夏の中頃に、幽州・并州のよりすぐりの騎兵と酒泉の兵を出動させて、匈奴の意表をつきましたら、一度で殲滅できましょう。これこそ上策と存じます」李徳裕はこの策を高く評価した。ちょうどその頃、劉稹が朝廷の命令を拒否したので、天子は諸鎮の軍に詔を下してこれを討伐させた。その時にも李徳裕に意見をのべた。「私が考えますのに、河陽は、西北の方天井関からは百里(56km)あまりありますが、ここに大勢の人を使ってとりでを築いて、軍の進入口をふさぎ、守りを固めてまともに交戦してはいけません。成徳軍節度使は、代々昭義軍節度使と敵対しております。それで成徳軍節度使の王元逵は、一度仇を報いて自軍の士気を高揚したいと考えています。しかしなにぶんにも遠方のことゆえ遠い道のりを駆けてまっすぐに昭義軍の根拠地の上党を攻撃することができません。そこで、当方のぜひとも狙わねばならぬところは、賊の西の方です。今もし忠武・武寧の両軍に、青州の精鋭五千人と宣州・潤州の弩の名手二千人を加えて、絳州を通って東へ攻め入りましたら、数か月もたたぬうちにきっと敵の本拠を滅ぼすことができましょう。昭義軍の食糧は、その全部を山東に頼っておりまして、ふだん節度使はたいてい邢州に留まって生活しています。山西にいる兵は孤立して少数ですから、敵の手うすにつけこんで不意に襲撃して取るのがよいのです。こういうわけで、戦争には、拙速というのはありますが、およそ巧久(うまくて長びく)というのはまだあったためしがないのです」。まもなく沢潞は平定された。戦略は大体において杜牧のたてた方策の通りであった。黄州・池州・睦州三州刺史を歴任したのち、朝廷に入って司勛員外郎となったが、いつも歴史を編輯する官を兼任した。その後、吏部外郎に転じ、かさねて請願して湖県刺史となった。その翌年、考功郎中に進み兼ねて知制詰となり、つぎの年には中書舎人に昇進した。 杜牧は性格が剛直で、なみなみならぬ節義があり、慎重すぎて小事になずむことはせず、大胆に朝廷の大事を論じ、弊害と利益を指し示して述べたがその指摘は、とりわけ適切でゆきとどいていた。若い時から李甘・李中敏・宋邧と仲がよかった。しかし、杜牧が古代と現代の事柄に精通していて、政治やいくさの成功にも失敗にも十分にうまく処する道を知っていたことは、李甘らの及ぶところではなかった。杜牧はまた歯に衣着せぬ率直な態度がわざわいして、当時彼を助ける者がいなかった。従兄の杜悰は、将軍と宰相を歴任したが、杜牧は、官途に苦しみつまずいて調子よくのびてゆけず、相当にくさくさして不満であった。卒した時、五十歳であった。かつては、ある人が「あなたは畢(おわり)という名にすべきだ」と言った夢を見た。さらにまた自分が「曖昧たる白駒」という字を書いているのを夢見た。ある人が「これは、白馬が戸のすきまの向こうをきっと走り過ぎるということだ。死期が近いことの暗示だ」と言った。まもなく穀物を蒸す蒸し器が破裂した。杜牧は「縁起が悪い」と言った。それから自分の墓誌をつくり、今までに作った詩文をすっかり焚いてしまった。杜牧は詩において、その趣が力強くて雄々しく、人々は彼を「小杜」とよんで、杜甫と区別した。 杜顗は、字は勝之で、幼いころに眼病を患い、母は杜顗に学問することを禁じた。進士に推挙され、礼部侍郎の賈餗が人に向かって「杜顗を得られれば数百人に匹敵する」と語り、秘書省正字を授けられた。李徳裕が奏上して浙西府賓佐とした。李徳裕は尊く勢いは盛んで、賓客はあえて逆らう者はいなかったが、ただ杜顗はしばしば諌めて李徳裕を糾した。袁州に流謫されることとなると、「門下が私を愛するのに全員が杜顗のようであったなら、私は今日のようなことはなかったのに」と歎いた。大和年間(827-835)末に、召還されて咸陽県の尉、直史館となった。常に人に語って、「李訓と鄭註は必ず失脚する」と言っていたが、行って都に到着する前に、彼らが殺害されたのを聞き、上疏し病と称して辞任した。杜顗もまた文章をよくし、杜牧と評判はどちらかが上か下かというほどであった。ついに失明して卒した。 令狐楚は、字は殼士で、令狐徳棻の後裔である。生まれて五歲にして、文章をよくした。加冠の年となると、進士に推薦され、京兆尹の推薦によって第一となろうとしていたが、当時、許正倫は軽薄の士で、長安では有名な人物で、蜚語をなしていたから、令狐楚はそのような人物と争うのを嫌って、譲って自らが下とした。及第すると、桂管観察使の王拱がその才能を愛し、令狐楚を任命しようとしたが、恐れて赴くことはなく、そのためまず奏上してから、後で招いたのであった。王拱の所にいても、父が并州で官職についていて孝養できていないから、宴も楽しむことはできなかった。年季が終わって父のもとに帰った。李説・厳綬・鄭儋が相次いで太原を摂領し、いずれも令狐楚の行業を高潔なものとし、幕府に引き止め、そのため掌書記から判官となった。徳宗は文章を好み、太原からの上奏文を見るたびに、必ず令狐楚の書いた文章について語り、しばしば称賛した。鄭儋がにわかに死ぬと、後の事を行うことができる者がおらず、軍は大騒動となり、軍乱が起ころうとしていた。夜に十数騎が刃を引っ提げて令狐楚を連行し、遺奏を書かせたが、諸将が取り囲んで熟視する中、令狐楚の顔色は変わらず、筆をとるとたちまちに出来上がり、全員に示すと、士は皆感泣し、全軍が平穏となった。これによって名はますます重んじられた。親の喪が明けると召還されて右拾遺を授けられた。 憲宗の時、累進して職方員外郎、知制誥に抜擢された。作成した文章は、とくに上奏・制令が最も優れ、一篇ができるごとに、人々は皆伝え合って暗唱した。皇甫鎛は発言が憲宗の寵幸を得ており、令狐楚・蕭俛とともにかなり親しかったから、そのため帝に推薦した。帝もまた自分自身でも彼らの名声を聞いていたから、召還して翰林学士とし、中書舎人に昇進した。蔡州を討伐しようとし、まだ命令が下される前に、議論する者の多くは出兵を取り止めたいと思っていたが、帝と裴度だけは蔡を赦すことをよしとしなかった。元和十二年(817)、裴度は宰相になり、彰義節度使となり、令狐楚に制書を起草させようとしたが、その文章は趣旨とは合わないところがあり、裴度は令狐楚の心の内を知ることになった。当時、宰相の李逢吉は令狐楚と親しく、皆裴度を助けなかったから、帝は李逢吉を罷免し、令狐楚の翰林学士を停職として、ただ中書舎人のみとした。にわかに京師から出されて華州刺史となった。後に他の学士に書かせた宣旨は誰も趣旨に合わなかったから、帝は令狐楚の草稿を見て、令狐楚の才能を思わずにはいれなかった。 皇甫鎛が宰相となると、令狐楚を河陽懐節度使に抜擢して、烏重胤と交替させた。それより以前、烏重胤は滄州に移り、河陽の兵士三千を従えたが、兵士は不満を持ち、道の途中で規律は崩壊して帰り、北城を根拠とし、転進して旁州を掠奪しようとしていた。令狐楚は中潬に到着すると、数騎で自ら行って労った。軍の兵士は出てきたが、令狐楚は疑う素振りをみせず、そのため全員が降伏した。令狐楚は主犯を斬り、軍はついに平定された。裴度が太原に出されると、皇甫鎛は令狐楚を推薦して中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。穆宗が即位すると、門下侍郎に進んだ。皇甫鎛が罪を得ると、当時の人は令狐楚が皇甫鎛との縁によって昇進し、またかつて裴度を追い出したと言い、天下は皇甫鎛と令狐楚の両方を憎んでいたが、たまたま蕭俛が宰相となっていたから、あえて表立って言う者はいなかった。景陵を造営すると、令狐楚に詔して山陵使とし、親吏の韋正牧・奉天令の于翬らは造営のための雇い賃十五万緡を捻出できず、令狐楚が献上したのを羨余であるとし、怨んで訴えを道に掲げた。詔して于翬らを捕らえて獄に下して誅殺し、令狐楚を京師から出して宣歙観察使とした。にわかに衡州刺史に貶され、再び移されて、太子賓客の職を以て東都に分司となった。長慶二年(822)、陜虢観察使に抜擢されたが、諌官が議論して置かれず、令狐楚は陜州に到着して一日で再び罷免され、東都に戻った。 たまたま李逢吉が再び宰相となり、令狐楚を起用しようと奔走したが、李紳が翰林にいて令狐楚の昇進を阻んだから、起用はならなかった。敬宗が即位すると、李紳は追い出され、そこで令狐楚を河南尹とした。宣武節度使に遷った。汴軍は傲慢であるため、韓弘兄弟が職務にあたって厳しい法によって糾し治め、兵士は安逸を楽しんで、心を改めることはなかった。令狐楚が到着すると、厳しさや過酷さをとりやめ、真心をつくして勧戒・説諭したから、人々は喜び、ついに世情は好転した。京師に入って戸部尚書となり、にわかに東都留守を拝命し、天平節度使に遷った。それより以前、汴州・鄆州の藩鎮が赴任するごとに、州の銭二百万を藩鎮に私に納めることになっていたが、令狐楚一人が辞退して受け取らなかった。李師古が園地・欄干と僭称した物を破壊した。しばらくして、河東節度使に遷った。召還されて吏部尚書、検校尚書右僕射となった。慣例では、検校尚書右僕射の官は従二品の重職であり、朝儀ではその班位によることとなっていたが、楚は吏部尚書の相当官は三品であるから固辞したから、詔によってお褒めのお言葉を賜った。にわかに太常卿を兼任し、左僕射・彭陽郡公に進んだ。 李訓が乱をおこすと、将軍や宰相は全員神策軍に捕縛された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を呼んで禁中に入れ、令狐楚は、「外には三司・御史がおり、大臣の指示には従わないことになっているので、宦官は宰相を捕縛する権限はありません」と建言したから、帝は頷いた。詔を起草して、王涯・賈餗は冤罪で、その罪を指すのにそぐわないとしたから、仇士良らは恨んだ。それより以前、帝は令狐楚を宰相とするのを許可していたが、そのため果せず、さらに李石を宰相として、令狐楚を塩鉄転運使とした。これより先、鄭註が榷茶使を創設するよう奏上し、王涯もまた官が茶園を運営することを議したが、人々にとって不便であったから、令狐楚は榷茶使を廃止して旧法のままとすることを請願し、令狐楚の意見に従った。元和年間(806-820)、禁軍から武器を出して左右街使に宰相が入朝するのを建福門まで護衛させていたが、今回の乱のため廃止された。令狐楚は「藩鎮の長は初めて任命されると、必ず戎服で仗を持って尚書省に行って挨拶しました。もとより鄭註には実は乱の兆しとなり、そのため王璠・郭行余は将吏を使役して京師を血まみれにしたのです。停止すべきです」と述べ、詔して裁可された。開成元年(836)上巳、群臣に曲江の宴を賜った。令狐楚は新たに大臣が誅殺され、骸が晒されて回収おらず、怨みや禍いがからみあって解けないから、病と称して行かなかった。そこで衣服・棺の材を給付を願ったから、刑死された者の骨をおさめると、喜びの顔をみせた。当時、政治の実権は宦官にあり、しばしば上疏して位を辞することを求め、山南西道節度使を拝命した。卒したとき、年七十二歳であった。司空を追贈され、諡を文という。 令狐楚の表向きは厳重で犯しがたい雰囲気があったが、その内面は度量がひろく、士を待って礼儀をつくした。客で星歩鬼神のような占いを勧める者がいると、一度も会わなかった。政務を行っては慰撫に優れ、治世に実績があり、人は適材適所であった。病が重くなり、子供達は薬を勧めたが、口に入れるのをよしとせず、「士はもとより命に限りがあるのだ。どうしてこんな物に頼ろうか」と言った。自らの力で天子に最期の奏上をしようと、門人の李商隠を呼び寄せて、「我が魂はすでに尽きた。私を助けて完成させてくれ」と言い、その大まかな内容は、甘露の事変で誅殺された者達への怒りを解き、全員の罪を洗い清めることを願った。文章は委細をつくしたが、錯誤するとことはなかった。書き終わると、子供達に「私の一生は時勢には無益であったから、諡を賜うことを願ってはならず、葬礼用の鼓吹も願わず、ただ葬式用の布車一台で葬り、銘を書いてもらうのに高位の人を選んではならない」と言い、この日の夜、大きな星が寝室の上に落ち、その光が庭を照らした。座って家族と別れ、そこで命を終えた。詔があって行幸をやめ、その志を述べさせた。 子の令狐緒・令狐綯は、当時に名声があらわれた。 令狐緒は蔭位によって出仕し、隋州・寿州・汝州の三州刺史となり、善政があった。汝州の人は石に頌徳を刻むことを願ったが、令狐緒は弟の令狐綯が宰相であったから、固辞した。宣宗はその思いをよしとし、そこで沙汰止みとなった。 令狐綯は、字は子直で、進士に推挙され、左補闕・右司郎中に累進した。京師から出されて湖州刺史となった。 大中年間(847-860)初頭、宣宗が宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀のとき、道中で風雨に遭って、六宮の百官は全員退避したのに、一人背が高くて髭の者が梓宮で奉って去らなかったのを見たが、一体あれは誰だったのか」と言い、白敏中は「山陵使の令狐楚です」と言い、帝は「子はいるのか」と尋ねたから、「令狐緒は若い頃から関節痛で、用いるのに堪えられません。令狐綯は今湖州を守っています」と答えたから、「その人となりは宰相の器だな」と言い、そこで召還して考功郎中、知制誥とした。翰林学士となった。ある夜、呼び寄せて共に人間の病苦について論じ、帝は「金鏡」の書を取り出して、「太宗が著したものである。卿は私の為にその概要をあげよ」と言い、令狐綯は語を摘要して「治に到っていまだかつて不肖に任せず、乱に至って未だかつて賢を任ぜず。賢を任ずるは、天下の福をうく。不肖を任ずるは、天下の禍に罹る」と言い、帝は「よろしい。朕はこれを読んだのはかつて二・三回だけだった」と言うと、令狐綯は再拝して「陛下は必ず王業を興されようと願っていますが、これを棄ててどうして先んずることがありましょうか。『詩』に「徳があるからこそ、自分に似る人物を推薦できる」とあります」と述べた。中書舎人に昇進し、彭陽県男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷った。また翰林学士承旨となった。夜に禁中で話し合い、燭がつきると、帝は乗輿と金蓮華の松明で送り届けてくれたが、院吏が遠くから見て、天子が来ると思っていたのに、令狐綯がやって来るのを見て、全員が驚いた。にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、宰相となること十年であった。懿宗が即位すると、尚書左僕射・門下侍郎によって司空を拝命した。しばらくもしないうちに、検校司徒平章事に任じられ、河中節度使となった。宣武軍節度使となり、また淮南節度副大使となった。安南が平定されると、兵糧運搬の功績によって、涼国公に封ぜられた。 龐勛が桂州より戻ると、浙西白沙を通過して濁河に入り、舟を盗んで遡上した。令狐綯は聞いて、使者を派遣して慰撫し、なおかつ兵糧を送った。部下の将の李湘は「徐州の兵は勝手に帰ってきたのですから、なりゆきとして反乱となるでしょう。まだ討伐の詔が下っていないとはいえ、節度使として任にある以上すべての反乱を制するのは、我々が対処しなければなりません。今その兵は二千足らずで、軍船を展開させ、旗や幟をたて、夥しさを人に示せば、非常に我らを恐れるでしょう。高郵は崖が切り立っていて流れは狭いので、もし草を積んだ舟をその前で火を放させ、精兵をその背後から攻撃させれば、一挙に殲滅できるでしょう。そうでなければ、淮河・泗水を渡らせてしまい、徐州の不逞の徒と合流すれば、禍乱はひどいものになるでしょう」と言ったが、令狐綯は臆病でその提案を採用することができず、また詔が出ていないことを理由として、「彼らは乱暴を働いていないのだから、淮河を渡るのと許してやり、あとは私の知ったことではない」と言ったから、龐勛は戻ると、やはり徐州を掠奪し、その衆は六・七万人となった。徐州は食料が乏しく、兵を分けて滁州・和州・楚州・寿州を攻撃して陥落させ、食料が尽きると、人を食べて腹を満たした。令狐綯に詔して徐州南面招討使とした。賊が泗州を攻撃すると、杜慆は固守し、令狐綯は李湘に命じて兵五千を率いて救援に向かわせた。龐勛は令狐綯に挨拶して「何度も赦免を受けましたが、ただちに降伏できなかった理由は、一・二人の将が反対意見を述べただけであって、ここから去りたいと思っています。一身を以て命令を聞きます」と言ったから、令狐綯は喜び、そこで龐勛を節度使に任命するよう願い、そこで李湘に「賊が降伏したら、君は謹んで淮口を守り、戦ってはならない」と命じ、李湘はそこで警戒をやめて備えを解いたから、その日は龐勛の軍とともに喜んで語っていた。後に賊は隙に乗じて李湘の陣地を襲撃し、すべて捕虜として食べてしまい、李湘および監軍の郭厚本を塩漬けとした。その時、浙西節度使の杜審権が勇将の翟行約に千人の兵を率いて李湘と合流させようとしたが、到着以前に李湘は壊滅しており、賊は偽って淮南節度使の旗幟を立てて誘引し、これもまた全滅させた。 令狐綯の軍が敗北すると、そこで左衛大将軍の馬挙を令狐綯と代わらせた。太子太保となり、東都に分司した。僖宗が即位したばかりの頃、鳳翔節度使を拝命した。しばらくして、同平章事を加えられ、趙国公に移封された。卒し、年七十八歳であった。太尉を追贈された。子に令狐滈・令狐渙・令狐渢がいる。 令狐滈は父令狐綯が宰相であったため進士に挙されなかった。父は宰相の職にあって、令狐滈と鄭顥は姻戚であったから、勢力をたのんで驕慢で、賓客を通じて権勢を招き、四方の財貨を集め、皆側目であえて言うものはなかった。懿宗が即位すると、しばしば人にその事を暴かれたから、そのため令狐綯は宰相を去ることとなった。そこで令狐滈を進士たちとともに役人に試験させることを願い出て、詔して裁可され、この年に及第した。諌議大夫の崔瑄が、令狐綯が十二月に宰相の位を去ったのに、有司の解牒は十月のままで、朝廷が進士を採用する法を令狐滈の家の事に屈したと弾劾奏上し、御史に委ねてその罪の実を取り調べることを願ったが、聴されなかった。令狐滈はそこで長安県の尉の任によって集賢校理となった。しばらくして右拾遺・史館修撰に遷った。詔が下って、左拾遺の劉蛻と起居郎の張雲はそれぞれ上疏してその悪行を指弾した。「李琢を登用して安南都護とし、長となって南方を乱し、賄賂のために害となって人々は涙を流し、天下の兵士は租税を給付されませんでした。李琢は最初から賄賂を令狐滈に送り、令狐滈は人の子の立場でありながら、父の令狐綯を悪行に陥らせました。振り返ってみれば令狐滈は諌臣となるべき人物でしょうか」と述べ、また弾劾して「令狐綯は大臣で、まさに国家と調え守る根本たるべき人物でしたが、大中年間(847-860)、諌議大夫の豆盧籍と刑部侍郎の李鄴を引き立てて夔王李滋らの侍読としましたが、これは長幼の序を乱すもので、先帝の後継者についての謀を陛下に及ばさせなかったのです。かつまた令狐滈は当時にあって、「白衣の宰相」と呼ばれていました。令狐滈はまだ進士に推挙されていなかったのに、すでに理解したとも妄言し、天下をして無解の及第と言わせるような事態になったのは、天下を欺かずにすんでいるといえるでしょうか」と述べた。令狐滈はまた恐れ、他の官に換えるよう求め、詹事府司直に改められた。その当時、令狐綯は淮南節度使であって、上奏して自分への嫌疑を雪ぎ、帝はそのため張雲を興元少尹に、劉蛻を華陰令に貶した。令狐滈もまた不幸にして官職が振るわないまま死んだ。 令狐渙・令狐渢はともに進士に推挙され、令狐渙は中書舎人で終わった。 令狐定は、字は履常で、令狐楚の弟である。進士に及第した。大和年間(827-835)末、駕部郎中の職を以て弘文館直学士となった。李訓の甘露の変で、王遐休がまさにこの日に職に就いたから、令狐定は行って祝ったから、神策軍のために捕らえられ、殺されようとする者がしばしばいたが免れた。桂管観察使で終わった。 賛にいわく、賈耽・杜佑・令狐楚は皆誠実な学者で、大官高官で、廟堂に威儀をただし、古今を導き、政務を処理するのに優れていた。立派な忠節であるのに責めることは、思うに玉のような美しい石の中に玉の表面があるようなものであろうか。杜悰・令狐綯が代々宰相となったのもまた誹謗するのに充分な理由ではない。杜牧が天下の兵を論じて「上策は自立するにこしたことはない」と述べたのは何と賢いことであろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十五 列伝第九十 『新唐書』巻一百六十六 列伝第九十一 巻一百六十七 列伝第九十二
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唐書巻九十七 列伝第二十二 魏徴 魏徴字玄成、魏州曲城人。少孤、落魄、棄貲産不営、有大志、通貫書術。 隋乱、詭為道士。武陽郡丞元寶藏挙兵應李密、以徴典書檄。密得寶藏書、輒稱善、既聞徴所為、促召之。徴進十策説密、不能用。王世充攻洛口、徴見長史鄭頲曰:「魏公雖驟勝、而驍将鋭士死傷略盡。又府無見財、戦勝不賞。此二者不可以戦。若浚池峭壘、曠日持久、賊糧盡且去、我追撃之、取勝之道也。」頲曰:「老儒常語耳!」徴不謝去。 後從密來京師、久之未知名。自請安輯山東、乃擢秘書丞、馳馹至黎陽。時李勣尚為密守、徴與書曰:「始魏公起叛徒、振臂大呼、衆数十万、威之所被半天下、然而一敗不振、卒歸唐者、固知天命有所歸也。今君處必爭之地、不早自圖、則大事去矣!」勣得書、遂定計歸、而大發粟饋淮安王之軍。 會竇建徳陷黎陽、獲徴、偽拜起居舎人。建徳敗、與裴矩走入関、隠太子引為洗馬。徴見秦王功高、陰勸太子早為計。太子敗、王責謂曰:「爾吾兄弟、奈何?」答曰:「太子蚤從徴言、不死今日之禍。」王器其直、無恨意。 即位、拜諫議大夫、封鉅鹿県男。當是時、河北州県素事隠・巣者不自安、往往曹伏思乱、徴白太宗曰:「不示至公、禍不可解。」帝曰:「爾行安喩河北。」道遇太子千牛李志安・斉王護軍李思行伝送京師、徴與其副謀曰:「屬有詔、宮府旧人普原之。今復執送志安等、誰不自疑者?吾屬雖往、人不信。」即貸而後聞。使還、帝悅、日益親、或引至臥内、訪天下事。徴亦自以不世遇、乃展盡底蘊無所隠、凡二百餘奏、無不剴切當帝心者。由是拜尚書右丞、兼諫議大夫。 左右有毀徴阿黨親戚者、帝使温彦博按訊、非是。彦博曰:「徴為人臣、不能著形迹、遠嫌疑、而被飛謗、是宜責也。」帝謂彦博行讓徴。徴見帝、謝曰:「臣聞君臣同心、是謂一體、豈有置至公、事形迹?若上下共由茲路、邦之興喪未可知也。」帝矍然、曰:「吾悟之矣!」徴頓首曰:「願陛下俾臣為良臣、毋俾臣為忠臣。」帝曰:「忠・良異乎?」曰:「良臣、稷・契・咎陶也。忠臣、龍逢・比干也。良臣、身荷美名、君都顯號、子孫伝承、流祚無疆。忠臣、己嬰禍誅、君陷昏惡、喪国夷家、祗取空名。此其異也。」帝曰:「善。」因問:「為君者何道而明、何失而暗?」徴曰:「君所以明、兼聽也。所以暗、偏信也。堯・舜氏闢四門、明四目、達四聰。雖有共・、不能塞也、靖言庸違、不能惑也。秦二世隠藏其身、以信趙高、天下潰叛而不得聞。梁武帝信朱、侯景向関而不得聞。隋煬帝信虞世基、賊天下而不得聞。故曰、君能兼聽、則姦人不得壅蔽、而下情通矣。」 鄭仁基息女美而才、皇后建請為充華、典冊具。或言許聘矣。徴諫曰:「陛下處臺榭、則欲民有棟宇。食膏梁、則欲民有飽適。顧嬪御、則欲民有室家。今鄭已約昏、陛下取之、豈為人父母意!」帝痛自咎、即詔停冊。 貞観三年、以秘書監參豫朝政。高昌王麴文泰将入朝、西域諸国欲因文泰悉遣使者奉獻。帝詔文泰使人厭怛紇干迎之。徴曰:「異時文泰入朝、所過供擬不能具、今又加諸国焉、則瀕塞州県以乏致罪者衆。彼以商賈來、則邊人為之利。若賓客之、中国蕭然耗矣。漢建武時、西域請置都護・送侍子、光武不許、不以蠻夷弊中国也。」帝曰:「善。」追止其詔。 於是帝即位四年、歳斷死二十九、幾至刑措、米斗三錢。先是、帝嘗嘆曰:「今大乱之後、其難治乎?」徴曰:「大乱之易治、譬飢人之易食也。」帝曰:「古不云善人為邦百年、然後勝殘去殺邪?」答曰:「此不為聖哲論也。聖哲之治、其應如響、期月而可、蓋不其難。」封徳彝曰:「不然。三代之後、澆詭日滋。秦任法律、漢雜霸道、皆欲治不能、非能治不欲。徴書生、好虚論、徒乱国家、不可聽。」徴曰:「五帝・三王不易民以教、行帝道而帝、行王道而王、顧所行何如爾。黄帝逐蚩尤、七十戦而勝其乱、因致無為。九黎害徳、顓頊征之、已克而治。桀為乱、湯放之。紂無道、武王伐之。湯・武身及太平。若人漸澆詭、不復返朴、今當為鬼為魅、尚安得而化哉!」徳彝不能對、然心以為不可。帝納之不疑。至是、天下大治。蠻夷君長襲衣冠、帶刀宿衛。東薄海、南踰嶺、戸闔不閉、行旅不齎糧、取給於道。帝謂臣曰:「此徴勸我行仁義、既矣。惜不令封徳彝見之!」 俄検校侍中、進爵郡公。帝幸九成宮、宮御舎圍川宮下。僕射李靖・侍中王珪繼至、吏改館宮御以舎靖・珪。帝聞、怒曰:「威福由是等邪!何輕我宮人?」詔按之。徴曰:「靖・珪皆陛下腹心大臣、宮人止後宮掃除隸耳。方大臣出、官吏諮朝廷法式。歸來、陛下問人間疾苦。夫官舎、固靖等見官吏之所、吏不可不謁也。至宮人則不然、供饋之餘無所參承。以此按吏、且駭天下耳目。」帝悟、寢不問。 後宴丹霄樓、酒中謂長孫忌曰:「魏徴・王珪事隠太子・巣剌王時、誠可惡、我能棄怨用才、無羞古人。然徴毎諫我不從、我發言輒不即應、何哉?」徴曰:「臣以事有不可、故諫、若不從輒應、恐遂行之。」帝曰:「弟即應、須別陳論、顧不得?」徴曰:「昔舜戒臣:『爾無面從、退有後言。』若面從可、方別陳論、此乃後言、非稷・所以事堯・舜也。」帝大笑曰:「人言徴挙動疏慢、我但見其嫵媚耳!」徴再拜曰:「陛下導臣使言、所以敢然。若不受、臣敢数批逆鱗哉!」 七年、為侍中。尚書省滯訟不決者、詔徴平治。徴不素習法、但存大體、處事以情、人人悅服。進左光禄大夫・鄭国公。多病、辭職、帝曰:「公獨不見金在何足貴邪?善冶鍛而為器、人乃寶之。朕方自比於金、以卿為良匠而加礪焉。卿雖疾、未及衰、庸得便爾?」徴懇請、数愈牢。乃拜特進、知門下省事、詔朝章国典、參議得失、禄賜・国官・防閤並同職事。 文徳皇后既葬、帝即苑中作層観、以望昭陵、引徴同升、徴孰視曰:「臣眊、不能見。」帝指示之、徴曰:「此昭陵邪?」帝曰:「然。」徴曰:「臣以為陛下望獻陵、若昭陵、臣固見之。」帝泣、為毀観。尋以定五礼、當封一子県男、徴請封孤兄子叔慈。帝愴然曰:「此可以勵俗。」即許之。 後幸洛陽、次昭仁宮、多所譴責。徴曰:「隋惟責不獻食、或供奉不精、為此無限、而至於亡。故天命陛下代之、正當兢懼戒約、奈何令人悔為不奢。若以為足、今不啻足矣。以為不足、万此寧有足邪?」帝驚曰:「非公不聞此言。」退又上疏曰: 書稱「明徳慎罰」、「惟刑之卹」。礼曰:「為上易事、為下易知、則刑不煩。」「上多疑、則百姓惑。下難知、則君長勞。」夫上易事、下易知、君長不勞、百姓不惑、故君有一徳、臣無二心。夫刑賞之本、在乎勸善而懲惡。帝王所與、天下畫一、不以親疏貴賤而輕重者也。今之刑賞、或由喜怒、或出好惡。喜則矜刑於法中、怒則求罪於律外、好則鑽皮出羽、惡則洗垢索瘢。蓋刑濫則小人道長、賞謬則君子道消。小人之惡不懲、君子之善不勸、而望治安刑措、非所聞也。且暇豫而言、皆敦尚孔・老。至於威怒、則專法申・韓。故道徳之旨未弘、而鍥薄之風先搖。昔州上下其手而楚法以敝、張湯輕重其心而漢刑以謬、況人主而自高下乎!頃者罰人、或以供張不贍、或不能從欲、皆非致治之急也。夫貴不與驕期而驕自至、富不與奢期而奢自至、非徒語也。 且我之所代、實在有隋。以隋府藏況今之資儲、以隋甲兵況今之士馬、以隋戸口況今之百姓、挈長度大、曾何等級焉!然隋以富彊而喪、動之也。我以貧寡而安、靜之也。靜之則安、動之則乱、人皆知之、非隠而難見・微而難察也。不蹈平易之塗、而遵覆車之轍、何哉?安不思危、治不念乱、存不慮亡也。方隋未乱、自謂必無乱。未亡、自謂必不亡。所以甲兵亟動、徭役不息、以至戮辱而不悟滅亡之所由也、豈不哀哉!夫監形之美惡、必就止水。監政之安危、必取亡国。詩曰:「殷鑒不遠、在夏后之世。」臣願當今之動靜、以隋為鑒、則存亡治乱可得而知。思所以危則安矣、思所以乱則治矣、思所以亡則存矣。存亡之所在、在節嗜欲、省游畋、息靡麗、罷不急、慎偏聽、近忠厚、遠便佞而已。夫守之則易、得之實難。今既得其所難、豈不能保其所易?保之不固、驕奢淫泆有以動之也。 帝宴臣積翠池、酣楽賦詩。徴賦西漢、其卒章曰:「終藉叔孫礼、方知皇帝尊。」帝曰:「徴言未嘗不約我以礼。」它日、從容問曰:「比政治若何?」徴見久承平、帝意有所忽、因對曰:「陛下貞観之初、導人使諫。三年以後、見諫者悅而從之。比一二年、勉彊受諫、而終不平也。」帝驚曰:「公何物驗之?」對曰:「陛下初即位、論元律師死、孫伏伽諫以為法不當死、陛下賜以蘭陵公主園、直百万。或曰:『賞太厚。』答曰:『朕即位、未有諫者、所以賞之。』此導人使諫也。後柳雄妄訴隋資、有司得、劾其偽、将論死、戴冑奏罪當徒、執之四五然後赦。謂冑曰:『弟守法如此、不畏濫罰。』此悅而從諫也。近皇甫徳參上書言『修洛陽宮、勞人也。收地租、厚斂也。俗尚高髻、宮中所化也。』陛下恚曰:『是子使国家不役一人、不收一租、宮人無髮、乃稱其意。』臣奏:『人臣上書、不激切不能起人主意、激切即近訕謗。』于時、陛下雖從臣言、賞帛罷之、意終不平。此難於受諫也。」帝悟曰:「非公、無能道此者。人苦不自覺 耳!」 先是、帝作飛山宮、徴上疏曰: 隋有天下三十餘年、風行万里、威憺殊俗、一旦挙而棄之。彼煬帝者、豈惡治安・喜滅亡哉?恃其富彊、不虞後患也。驅天下、役万物、以自奉養、子女玉帛是求、宮宇臺榭是飾、徭役無時、干戈不休、外示威重、内行險忌、讒邪者進、忠正者退、上下相蒙、人不堪命、以致殞匹夫之手、為天下笑。聖哲乘機、拯其危溺。今宮観臺榭、盡居之矣。奇珍異物、盡收之矣。姫姜淑媛、盡侍於側矣。四海九州、盡為臣妾矣。若能鑒彼所以亡、念我所以得、焚寶衣、毀廣殿、安處卑宮、徳之上也。若成功不廢、即仍其旧、除其不急、徳之次也。不惟王業之艱難、謂天命可恃、因基增旧、甘心侈靡、使人不見徳而勞役是聞、斯為下矣。以暴易暴、與乱同道。夫作事不法、後無以観。人怨神怒、則災害生。災害生、則禍乱作。禍乱作、而能以身名令終者鮮矣。 是歳、大雨、穀・洛溢、毀宮寺十九、漂居人六百家。徴陳事曰: 臣聞為国基於徳礼、保於誠信。誠信立、則下無二情。徳礼形、則遠者來格。故徳礼誠信、国之大綱、不可斯須廢也。伝曰:「君使臣以礼、臣事君以忠。」「自古皆有死、民無信不立。」又曰:「同言而信、信在言前。同令而行、誠在令外。」然則言而不行、言不信也。令而不從、令無誠也。不信之言、不誠之令、君子弗為也。 自王道休明、十餘載、倉廩愈積、土地益廣、然而道徳不日博、仁義不日厚、何哉?由待下之情、未盡誠信、雖有善始之勤、而無克終之美。故便佞之徒得肆其巧、謂同心為朋黨、告訐為至公、彊直為擅權、忠讜為誹謗。謂之朋黨、雖忠信可疑。謂之至公、雖矯偽無咎。彊直者畏擅權而不得盡、忠讜者慮誹謗而不敢與之爭。熒惑視聽、鬱於大道、妨化損徳、無斯甚者。 今将致治則委之君子、得失或訪諸小人、是譽毀常在小人、而督責常加君子也。夫中智之人、豈無小惠、然慮不及遠、雖使竭力盡誠、猶未免傾敗、況内懐姦利、承顏順旨乎?故孔子曰:「君子而不仁者有矣、未有小人而仁者。」然則君子不能無小惡、惡不積無害於正。小人時有小善、善不積不足以忠。今謂之善人矣、復慮其不信、何異立直木而疑其景之曲乎?故上不信則無以使下、下不信則無以事上。信之為義大矣! 昔斉桓公問管仲曰:「吾欲使酒腐於爵、肉腐於俎、得無害霸乎?」管仲曰:「此固非其善者、然無害霸也。」公曰:「何如而害霸?」曰:「不能知人、害霸也。知而不能用、害霸也。用而不能任、害霸也。任而不能信、害霸也。既信而又使小人參之、害霸也。」晋中行穆伯攻鼓、經年而不能下、餽閒倫曰:「鼓之嗇夫、閒倫知之、請無疲士大夫、而鼓可得。」穆伯不應。左右曰:「不折一戟、不傷一卒、而鼓可得、君奚不為?」穆伯曰:「閒倫之為人也、佞而不仁。若使閒倫下之、吾不可以不賞、若賞之、是賞佞人也。佞人得志、是使晋国捨仁而為佞、雖得鼓、安用之!」夫穆伯、列国大夫、管仲、霸者之佐、猶能慎於信任、遠避佞人、況陛下之上聖乎?若欲令君子小人是非不雜、必懐之以徳、待之以信、厲之以義、節之以礼、然後善善而惡惡、審罰而明賞、無為之化何遠之有!善善而不能進、惡惡而不能去、罰不及有罪、賞不加有功、則危亡之期或未可保。 帝手詔嘉答。於是、廢明徳宮玄圃院賜遭水者。 它日、宴臣、帝曰:「貞観以前、從我定天下、間関草昧、玄齡功也。貞観之後、納忠諫、正朕違、為国家長利、徴而已。雖古名臣、亦何以加!」親解佩刀、以賜二人。帝嘗問臣:「徴與諸葛亮孰賢?」岑文本曰:「亮才兼将相、非徴可比。」帝曰:「徴蹈履仁義、以弼朕躬、欲致之堯・舜、雖亮無以抗。」時上封者衆、或不切事、帝厭之、欲加譙黜、徴曰:「古者立謗木、欲聞己過。封事、其謗木之遺乎!陛下思聞得失、當恣其所陳。言而是乎、為朝廷之益。非乎、無損於政。」帝悅、皆勞遣之。 十三年、阿史那結社率作乱、雲陽石然、自冬至五月不雨、徴上疏極言曰: 臣奉侍帷幄十餘年、陛下許臣以仁義之道、守而不失。儉約朴素、終始弗渝。徳音在耳、不敢忘也。頃年以來、寖不克終。謹用條陳、裨万分一。 陛下在貞観初、清淨寡欲、化被荒外。今万里遣使、市索駿馬、訪怪珍。昔漢文帝千里馬、晋武帝焚雉頭裘。陛下居常論議、遠輩堯・舜、今所為、更欲處漢文・晋武下乎?此不克終一漸也。子貢問治人。孔子曰:「懍乎若朽索之馭六馬。」子貢曰:「何畏哉?」對曰:「不以道導之、則吾讎也、若何不畏!」陛下在貞観初、護民之勞、煦之如子、不輕営為。頃既奢肆、思用人力、乃曰:「百姓無事則易驕、勞役則易使。」自古未有百姓逸楽而致傾敗者、何有逆畏其驕而為勞役哉?此不克終二漸也。陛下在貞観初、役己以利物、比來縱欲以勞人。雖憂人之言不絶於口、而楽身之事實切諸心。無慮営構、輒曰:「弗為此、不便我身。」推之人情、誰敢復爭?此不克終三漸也。在貞観初、親君子、斥小人。比來輕褻小人、礼重君子。重君子也、恭而遠之。輕小人也、狎而近之。近之莫見其非、遠之莫見其是。莫見其是、則不待間而疏。莫見其非、則有時而昵。昵小人、疏君子、而欲至治、非所聞也。此不克終四漸也。在貞観初、不貴異物、不作無益。而今難得之貨雜然並進、玩好之作無時而息。上奢靡而望下朴素、力役廣而冀農業興、不可得已。此不克終五漸也。貞観之初、求士如渇、賢者所挙、即信而任之、取其所長、常恐不及。比來由心好惡、以衆賢挙而用、以一人毀而棄、雖積年任而信、或一朝疑而斥。夫行有素履、事有成迹、一人之毀未必可信、積年之行不應頓虧。陛下不察其原、以為臧否、使讒佞得行、守道疏間。此不克終六漸也。在貞観初、高居深拱、無田獵畢弋之好。数年之後、志不克固、鷹犬之貢、遠及四夷、晨出夕返、馳騁為楽、變起不測、其及救乎?此不克終七漸也。在貞観初、遇下有礼、情上達。今外官奏事、顏色不接、間因所短、詰其細過、雖有忠款、而不得申。此不克終八漸也。在貞観初、孜孜治道、常若不足。比恃功業之大、負聖智之明、長縱欲、無事興兵、問罪遠裔。親狎者阿旨不肯諫、疏遠者畏威不敢言。積而不已、所損非細。此不克終九漸也。貞観初、頻年霜旱、畿内戸口並就関外、攜老扶幼、來往数年、卒無一戸亡去。此由陛下矜育撫寧、故死不攜貳也。比者疲於徭役、関中之人、勞弊尤甚。雜匠當下、顧而不遣。正兵番上、復別驅任。市物襁屬於廛、遞子背望於道。脱有一穀不收、百姓之心、恐不能如前日之怗泰。此不克終十漸也。 夫禍福無門、惟人之召、人無釁焉、妖不妄作。今旱熯之災、遠被郡国、凶醜之孽、起於轂下、此上天示戒、乃陛下恐懼憂勤之日也。千載休期、時難再得、明主可為而不為、臣所以鬱結長歎者也!疏奏、帝曰:「朕今聞過矣、願改之、以終善道。有違此言、當何施顏面與公相見哉!方以所上疏、列為屏障、庶朝夕見之、兼録付史官、使万世知君臣之義。」因賜黄金十斤、馬二匹。 高昌平、帝宴兩儀殿、歎曰:「高昌若不失徳、豈至於亡!然朕亦當自戒、不以小人之言而議君子、庶幾獲安也。」徴曰:「昔斉桓公與管仲・鮑叔牙・甯戚四人者飲、桓公請叔牙曰:『盍起為寡人壽?』叔牙奉觴而起曰:『願公無忘在莒時、使管仲無忘束縛於魯時、使甯戚無忘飯牛車下時。』桓公避席而謝曰:『寡人與二大夫能無忘夫子之言、則社稷不危矣。』」帝曰:「朕不敢忘布衣時、公不得忘叔牙之為人也。」 帝遣使者至西域立葉護可汗、未還、又遣使金帛諸国市馬。徴曰:「今立可汗未定、即詣諸国市馬、彼必以為意在馬、不在立可汗。可汗得立、必不懐恩。諸蕃聞之、以中国薄義重利、未必得馬而先失義矣。魏文帝欲求市西域大珠、蘇則以為惠及四海、則不求自至。求而得之、不足貴也。陛下可不畏蘇則言乎!」帝遂止。 是後右僕射缺、欲用徴、徴讓、得不拜。皇太子承乾與魏王泰交惡、帝曰:「當今忠謇貴重無踰徴、我遣傅皇太子、一天下之望、羽翼固矣。」即拜太子太師。徴以疾辭、詔答曰:「漢太子以四皓為助、我賴公、其義也。公雖臥、可擁全之。」 十七年、疾甚。徴家初無正寢、帝命輟小殿材為営構、五日畢。賜素褥布被、以從其尚。令中郎将宿其第、動靜輒以聞、薬膳賜遺無算、中使者綴道。帝親問疾、屏左右、語終日乃還。後復與太子至徴第、徴加朝服、扡帶。帝悲懣、拊之流涕、問所欲。對曰:「嫠不恤緯、而憂宗周之亡!」帝将以衡山公主降其子叔玉、時主亦從、帝曰:「公彊視新婦!」徴不能謝。是夕、帝夢徴若平生、及旦、薨。帝臨哭、為之慟、罷朝五日。太子挙哀西華堂。詔内外百官朝集使皆赴喪、贈司空・相州都督、謚曰文貞、給羽葆・鼓吹・班劍四十人、陪葬昭陵。将葬、其妻裴辭曰:「徴素儉約、今假一品礼、儀物褒大、非徴志。」見許、乃用素車、白布幨帷、無塗車・芻靈。帝登苑西樓、望哭盡哀。晋王奉詔致祭。帝作文于碑、遂書之。又賜家封戸九百。 帝後臨朝歎曰:「以銅為鑑、可正衣冠。以古為鑑、可知興替。以人為鑑、可明得失。朕嘗保此三鑑、内防己過。今魏徴逝、一鑑亡矣。朕比使人至其家、得書一紙、始半、其可識者曰:『天下之事、有善有惡、任善人則国安、用惡人則国弊。公卿之内、情有愛憎、憎者惟見其惡、愛者止見其善。愛憎之間、所宜詳慎。若愛而知其惡、憎而知其善、去邪勿疑、任賢勿猜、可以興矣。』其大略如此。朕顧思之、恐不免斯過。公卿侍臣可書之於笏、知而必諫也。」 徴状貌不逾中人、有志膽、毎犯顏進諫、雖逢帝甚怒、神色不徙、而天子亦為霽威。議者謂賁・育不能過。嘗上還、奏曰:「向聞陛下有関南之行、既辦而止、何也?」帝曰:「畏卿、遂停耳。」始、喪乱後、典章湮散、徴奏引諸儒校集秘書、国家圖籍粲然完整。嘗以小戴礼綜彙不倫、更作類礼二十篇、数年而成。帝美其書、録寘内府。帝本以兵定天下、雖已治、不忘經略四夷也。故徴侍宴、奏破陣武徳舞、則俛首不顧、至慶善楽、則諦玩無斁、挙有所諷切如此。 徴亡、帝思不已、登凌煙閣観畫像、賦詩悼痛。聞者媢之、毀短百為。徴嘗薦杜正倫・侯君集才任宰相、及正倫以罪黜、君集坐逆誅、孅人遂指為阿黨。又言徴嘗録前後諫爭語示史官褚遂良。帝滋不悅、乃停叔玉昏、而仆所為碑、顧其家衰矣。 遼東之役、高麗・靺鞨犯陣、李勣等力戦破之。軍還、悵然曰:「魏徴若在、吾有此行邪!」即召其家到行在、賜勞妻子、以少牢祠其墓、復立碑、恩礼加焉。 四子:叔玉・叔琬・叔璘・叔瑜。叔玉襲爵為光禄少卿。神龍初、以其子膺紹封。叔璘、礼部侍郎、武后時、為酷吏所殺。叔瑜、豫州刺史、善草隸、以筆意伝其子華及甥薛稷。世稱善書者「前有虞・褚、後有薛・魏」。華為検校太子左庶子・武陽県男。開元中、寢堂火、子孫哭三日、詔百官赴弔。 徴五世孫。 字申之。擢進士第、同州刺史楊汝士辟為長春宮巡官。文宗讀貞観政要、思徴賢、詔訪其後、汝士薦為右拾遺。姿宇魁秀、帝異之。 邕管經略使董昌齡誣殺參軍衡方厚、貶州司戸、俄徙峽州刺史。諫曰:「王者赦有罪、唯故無赦。比昌齡專殺不辜、事跡暴章、家人銜、万里投訴、獄窮罪得、特被矜貸、中外以為屈法。今又授刺史、復使治人、紊憲章、乖至治、不見其可。」有詔改洪州別駕。 御史中丞李孝本、宗室子、坐李訓事誅死、其二女沒入宮。上言:「陛下即位、不悅聲色、于今十年、未始采擇。数月以來、稍意聲伎、教坊閲選、百十未已、莊宅收市、亹亹有聞。今又取孝本女内之後宮、宗姓不育、寵幸為累、傷治道之本、速塵穢之嫌。諺曰:『止寒莫若重裘、止謗莫若自修。』惟陛下崇千載之盛徳、去一旦之玩好。」帝即出孝本女、詔曰:「乃祖在貞観時、指事直言、無所避、毎覽国史、朕與嘉之。為拾遺、屢有獻納。夫備灑埽於内、非曰聲妓、恤宗女之幼、不為漁取、然疑似之間、不可戸曉。辭深切、其惜我之失、不亦至乎?雖居位日淺、朕何愛一官、增直臣之氣、其以為右補闕。」處無過之地。」教坊有工善為新聲者、詔授揚州司馬、議者頗言司馬品高、郎官・刺史迭處、不可以授賤工、帝意右之。宰相諭諫官勿復言、獨固諫不可、工降潤州司馬。荊南監軍呂令琛縱傔卒辱江陵令、観察使韋長避不發、移内樞密使言状。劾長任察廉、知監軍侵屈官司、不以上聞、私白近臣、乱法度、請明其罰。不報。 俄為起居舎人、帝問:「卿家書詔頗有存者乎?」對:「惟故笏在。」詔令上送。鄭覃曰:「在人不在笏。」帝曰:「覃不識朕意、此笏乃今甘棠。」帝因敕曰:「事有不當、毋嫌論奏。」對:「臣頃為諫臣、故得有所陳。今則記言動、不敢侵官。」帝曰:「兩省屬皆可議朝廷事、而毋辭也!」帝索起居注、奏:「古置左・右史、書得失、以存鑒戒。陛下所為善、無畏不書。不善、天下之人亦有以記之。」帝曰:「不然。我既嘗観之。」曰:「向者取観、史氏為失職。陛下一見、則後來所書必有諱屈、善惡不實、不可以為史、且後代何信哉?」乃止。 中尉仇士良捕妖民賀蘭進興及黨與治軍中、反状具、帝自臨問、詔命斬囚以徇。御史中丞高元裕建言:「獄當與衆共之。刑部・大理、法官也、決大獄不與知、律令謂何?請歸有司。」未報。上言:「事繫軍、即推軍中。如斉民、宜付府県。今獄不在有司、法有輕重、何從而知?」帝停決、詔神策軍以官兵留仗内、餘付御史臺。臺憚士良、不敢異、卒皆誅死。擢諫議大夫、兼起居舎人・弘文館直学士、固讓不見可、乃拜。 始之進、李・楊嗣復實推引之。武宗立、坐二人黨、出為汾州刺史。俄貶信州長史。宣宗嗣位、移郢・商二州刺史。召授給事中、遷御史中丞、發駙馬都尉杜中立姦贓、權戚縮氣。俄兼戸部侍郎事、奏:「中丞、紀綱所寄、不宜雜領錢穀、乞專治戸部。」詔可。頃之、進同中書門下平章事。建言:「今天下粗治、惟東宮未立、不早以正人傅導之、非所以存副貳之重。」且泣下、帝為感動。自敬宗後、惡言儲嫡事、故公卿無敢開陳者。時帝春秋高、嫡嗣未辨、輔政、白發其端、朝議歸重。 會詹毘国獻象、以為非土性、不可畜、請還其獻。詔可。河東節度使李業殺降虜、邊部震擾、業内恃憑藉、人無敢言者、奏徙滑州。遷中書侍郎。大理卿馬曙有犀鎧数十首、懼而瘞之。奴王慶以怨告曙藏甲有異謀、按之無它状、投曙嶺外、慶免。議者謂奴訴主、法不聽。引律固爭、卒論慶死。累遷門下侍郎、兼戸部尚書。 大中十年、以平章事領劍南西川節度使。上疾求代、召拜吏部尚書、用久疾、検校尚書右僕射・太子少保。卒、年六十六、贈司徒。 為宰相、議事天子前、它相或委抑規諷、惟讜切無所回畏。宣宗嘗曰:「名臣孫、有祖風、朕心憚之。」然卒以剛正為令狐綯所忌、纔罷之。 賛曰:君臣之際、顧不難哉!以徴之忠、而太宗之睿、身歿未幾、猜譖遽行。始、徴之諫、累数十餘万言、至君子小人、未嘗不反復為帝言之、以佞邪之乱忠也。久猶不免。故曰:「皓皓者易汚、嶢嶢者難全」、自古所歎云。唐柳芳稱「徴死、知不知莫不恨惜、以為三代遺直」。諒哉!之論議挺挺、有祖風烈、詩所謂「是以似之」者歟!
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東京都のページ(暫定) ここは東京都のページです wikipedia 東京都 有名・特徴的な所(暫定) 自然・風土 日本の首都…世界最高とも言われる人口密度を誇る。東京の渋滞は世界的に有名だが、思ったほどひどくないと語る外国人も多い。だが、そんな彼らも通勤時間帯の満員電車で唖然とすることになる。 諸島部…伊豆諸島、小笠原諸島なども東京に含まれる。硫黄島や母島など一般人立ち入り禁止となっている島も少なくない。 東久留米市…武蔵野台地中央部に位置する市。映画「河童のクゥと夏休み」の舞台としても知られる。同市の河童伝承には、河童が田植えを手伝ってくれた話や村人と力石で力比べをした話、いわゆる馬の脚を引っ張って侍を落馬させた落馬橋などがあり、「河童様の神話」としてまとめられている。 産業 江戸前寿司…握りを中心とした江戸の郷土料理。一般家庭ではなく、職人が作ることが特徴である。東京湾で捕れた新鮮な魚貝類をネタとして使用する。 島寿司…小笠原諸島名物。サバなどの魚をわさびを使わず、唐辛子醤油に漬け込んで、漬け寿司として食べる。これは、小笠原ではわさびが手に入らず、唐辛子で代用したことがはじまりとされる。また、ウミガメの寿司も食べられており、魚肉のような食感に、鶏肉のような味わい。 第三次産業…東京都の総生産の9割以上は第三次産業によって占められている。特にマスコミ関係の東京都への集中は著しい。 歴史 江戸城…現在の皇居即ち江戸城は、徳川家康によって築かれたものだが、それ以前に太田道灌がこの地に江戸城を築いた。 徳川家康が築いた江戸の街をもとに発展 東京という名前は大久保利通の進言によるものであり、東京府、東京市を経て、1943年に東京都が設置された。 皇居…旧江戸城であり、明治天皇が京都から東京に東幸を行うたびに「東京城」、「皇城」と改称され、1888年明治宮殿が完成すると宮城と呼ばれた。戦後、皇居と呼ばれるようになり、今に至る。 寺社仏閣 大宮八幡宮…東京のへそとも呼ばれ、「多摩の大宮」として、武蔵国三大宮の一つとされた(残り二つは埼玉の秩父神社と氷川神社)。祭神は応神天皇、神功皇后、仲哀天皇の三柱であり、親子三神を祀る珍しい八幡宮である。源頼義が前九年の役の征討を命じられた際、この地に八条の雲がたなびき、これを八幡神の加護と見た頼義によって、反乱の鎮圧後に創建された。かつては頼義の子義家お手植えの松が茂っていたが、近年の酸性雨や害虫によって枯れ果ててしまった。 日枝神社…赤坂の高台に鎮座し、後に山王権現とも称された大山咋(オオヤマクイ)神を主祭神とする。平安時代末期に秩父平氏によって創建されたと伝えられ、徳川将軍家からも厚く信仰された。山王権現の使いとされる、赤いマントを羽織った神猿像がチャームポイント。 神田明神…江戸・東京の総鎮守。千代田区にあり、正式には神田神社という。武蔵国に入植した出雲系氏族が大己貴命を祀ったことにはじまり、後に平将門がこの近くに葬られ、疫病の流行後、これを将門の祟りであるとして、平将門を相殿神とした。明治になり、将門は逆臣であるとして、その代わりに大洗磯前神社より少彦名命が勧請されたが、今では三柱が祀られている。 水天宮…中央区にあり、久留米水天宮の分社。祭神は天御中主神、安徳帝、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)。久留米藩主有馬頼徳が江戸屋敷に勧請したのがはじまりである。後に一般にも開放され、久留米藩の副収入源ともなった。 十二社熊野神社…新宿総鎮守、正式には熊野神社。中野長者と呼ばれた紀伊国の商人鈴木九郎によって、15世紀に創建されたという。元は若一王子権現を祀っていたが、後に十二ヶ所権現をすべて祀るようになったという。 穴守稲荷神社…大田区にあり、1804年創建。鈴木新田開拓の際に伊勢から勧請された。祭神は豊受姫命。羽田空港拡張のために現在地に有志の手により移転した。その鳥居は長らく羽田空港内にあり、手をつけようとすると工事関係者に事故が相次いだという。現在は鳥居も移転された。神砂でも知られ、羽田節に、朝に参れば晩には利益を授かれると歌われるほど霊験あらたかであるという。 豪徳寺…世田谷区にある曹洞宗の寺院。招き猫で知られる。ある夏の日に井伊直孝一行が鷹狩りの帰りに通りかかると、和尚が可愛がっていた猫が手招きしていた。井伊一行が不思議に思って寺に立ち寄ったことで、雷雨を避けることが出来たという。後に井伊直孝より多額の寄進を受け、豪徳寺は井伊家の菩提寺となった。寺が栄えたのも愛猫のおかげと、和尚は猫が死ぬと丁重に葬ってその冥福を祈り、片手を挙げた招き猫が作られてという。 為朝神社…東京都八丈島にある神社であり、祭神は弓の名手であった源為朝。為朝は崇徳上皇側として保元の乱に参戦するも破れ、伊豆大島に配流された。しかし、その武力でもって伊豆諸島を制圧、そのあまりに予想外の事態にキレた朝廷が討伐軍を派遣し、為朝は自刃した。その後、八丈島の守り神とされ、疱瘡神となった。 大神山神社…小笠原諸島父島にあり、祭神は天照大御神など五柱。1675年、幕府の命を受けた鳥谷市左衛門らが宮の浜に創建した守護神社がはじまりとされる。現在は大神山の山麓にある。戦時中、米軍の攻撃によって破壊されたが、小笠原が日本に返還された後に再建された。 伝承 東京の怪談と心霊スポット(江戸落語、歌舞伎、マスメディアなどで有名なものとなる)…本所七不思議(墨田区)、番町皿屋敷(千代田区)、四谷怪談(新宿区)、王子の狐(笑い話、八王子市)、怪人赤マント、鈴ヶ守刑場(品川区)、青山墓地(港区)、羽田空港の鳥居(大田区)、東京タワーと増上寺(港区)にまつわる怪談など 大蝦蟇…年を経たカエルは人の生気を吸い取るとされ、オオガマが床下に住み着くと、その家には病人が出るとされた。 狸囃子…番町七不思議の一つで、深夜にどこからともなく太鼓の音が聞こえてくるという。 ひっぱりどん…三宅島の猫の妖怪。氏神二宮神社に出没し、人を化かし、引っ張るとされる。 野衾(ノブスマ)…神田に出たとされる妖怪。形はイタチのようだが、ウサギのような目をしており、左右に皮膚の膜があったとされる。尻尾や臭いはリスのようで猫を捕まえ、その血を吸ったと言う。ムササビのこと、あるいはそれを元にした妖怪と思われる。 ヤカン坂…豊多摩地方にあったとされる坂。不気味な場所で、夜中に一人で通るとヤカンが転がってきたという。紫さま、すっかりカップ麺にはまってしまわれて…せっかく私が毎日ご飯を作って差し上げているのに…あ、ヤカン、ちゃんと戻しておいて下さいね! 枕の怪…深川三十三間堂近くに古い家があり、そこに移り住んだ医者がほどなく病気にかかってしまった。いろいろ調べたところ、古い木枕が妖怪となっていることを突き止め、これを打ち壊して燃やすと、死体が燃えるような臭いが立ち込めたという。 姿見ずの橋…現新宿区淀橋。中野長者として知られた富豪、鈴木九郎はその財産の管理に悩み、現在の調布や小金原の辺りに下僕と共に深夜埋めていたという。その帰途、この橋の辺りまで来ると、長者は秘密を守るために毎度下僕を切り殺した。そこから姿見ずの橋と呼ばれたという。殺された下僕達の怨念は長者の娘に向かい、娘はいつの頃からか体に鱗が生じ、遂には蛇身となり、十二社熊野神社の御手洗池に入水自殺したとされる。 狢塚…葛飾区の見性寺にある。明治29年、常磐線が土浦まで敷設された頃、汽車に向かって狢の化けた汽車が正面から走って来ることがあったという。ある日、運転士がどうせ幻覚と、ブレーキをかけずに正面から来る狢の汽車に向けて走らせたところ、狢はそのまま轢かれて死んでしまったという。この狢を供養するために、見性寺に塚が作られた。 我善坊谷の猫又…元禄の頃、我善坊の質屋に麻布小町とも呼ばれたお玉という美しい娘がいたという。お玉は長次郎という男と恋仲になるが、とある古猫がお玉を見初め、夜な夜な長次郎の姿に化けてはお玉と枕を交わしていた。しかし、長年この質屋に巣食っていた大鼠がこの猫の喉笛に食らいついて殺し、お玉を救ったという。結局、麻布小町の評判は落ち、長次郎となんとか一緒にさせたものの、生まれた子供の顔は猫そっくりであったという。 つけ紐閻魔…新宿区にある太宗寺の閻魔像はその眼光の鋭さで知られ、その目玉を盗もうとした男は閃光によって気絶したとされる。ある日、赤子を連れた乳母がここを訪れ、むずがる赤子に対して「大人しくしないと閻魔様に食べられてしまう」と注意した。乳母が睡魔に襲われた後、ふと目を覚ますと赤子はおらず、閻魔像の口から赤子のつけ紐が垂れ下がっていたという。 東方に関係ありそうな事柄(暫定) 最高裁判所 日本最大の図書館である国立国会図書館がある。 教育機関…東京都の学校など教育機関の密度は非常に高く、東京六大学をはじめ、多数の国立大学、公立大学、私立大学、短期大学、高等専門学校などが本部を置いている。 合羽橋(台東区)…この地を整備した(雨具の)合羽問屋の合羽屋喜八が名前の由来(異説あり)だが、整備の折に喜八が河童に頼んで水はけをよくしたと伝わる。曹源寺に喜八の墓がある。現在は食器や調理道具の専門店が軒を連ねる。いたるとろに河童のオブジェがあり、河童が地域のマスコットになっている。 「GHQクライシス」…第一生命相互ビル(千代田区)が占領軍に接収され、総司令部本部が皇居を見下ろすかたちで置かれた。 巣鴨プリズン…東京拘置所のことで、GHQによって行われた極東国際軍事裁判の被告、いわゆる戦犯たちが収監されていた。後に、東条英機ら七名の処刑が行われた。 神田明神(千代田区外神田)、将門の首塚(千代田区大手町)…京にさらされた将門の首が東国を目指し飛行し、神田に落下したという伝説。(神田以外にも各地に同様の伝説と首塚がある。)祟りを鎮めるため当地の神田明神に三ノ宮として将門は祀られる。江戸城増築の折、神田明神は現在の場所に移され江戸の鬼門(北東)を守ることになる。 高円寺気象神社…高円寺の氷川神社にあり、八意思兼命が祀られている。陸軍気象部の構内に、昭和19年に造営された。 大國魂神社…府中市にある神社、祭神は大國魂大神。景行天皇四十一(111)年に大神の託宣に依って創立され、代々の国造が奉仕して その祭務を執り行った。後に「武蔵総社六所宮」と号したが、明治に入り、元の「大國魂神社」と称するようになった。例大祭は暗闇祭とも呼ばれる。 第六天社・胡録神社…荒川沿いを中心に東京中に分布している神社である。第六天魔王を祀ったものであるが、神仏分離後、社名、祭神が変わっている場合が多い。第六天魔王は他化自在天のことであり、一説には、仏陀の悟りを妨害した天魔マーラとも言われている。現在は、神代七代のうち、第六代面足尊(オモダルノミコト)が祭神となっている。 太田神社…文京区にあるアメノウズメノミコトを祀った神社。しかし、元々は貧乏神を祀った神社であり、貧乏な旗本に、長年世話になった礼にと、自分を祀れば福を与えると告げたという。その後、言われたとおりにした旗本は金運が向き、貧乏を免れたという。この貧乏神は弁財天の姉にあたる暗闇天女という神であった。 候補キャラ 四季映姫・ヤマザナドゥ(最高裁判所、東京裁判) パチュリー・ノーレッジ(国会図書館) 八意 永琳(八意思兼命、北斗七星) 因幡 てゐ(大國魂大神、大国主命) 宇佐見 蓮子(出身地、実家) 岡崎 夢美(大学) 河城 にとり(東久留米市) 東久留米にも河童伝説ありますよー(映画『河童のクゥと夏休み』の元ネタ) -- (名無しさん) 2012-09-27 15 38 23 名前 コメント すべてのコメントを見る
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登録日:2021/03/08 Mon 21 30 23 更新日:2024/04/23 Tue 16 01 51NEW! 所要時間:約 50 分で読めます ▽タグ一覧 Imperial examination ×科拳 エリート カンニング コメント欄ログ化項目 テスト 中国 中国史 儒教 元 勉強になる項目 南北朝 名士 君子 唐 四書五経 地獄 士大夫 学歴 宋 官僚 実力主義 役人 所要時間30分以上の項目 文化 文治主義 明 暗記 李徴 歴史 気合いの入った項目 状元 秀逸な項目 科挙 試験 詩 資格 資格試験 追記修正のハードルが高すぎる項目 進士 隋 難関 麻雀の役? 富 家 不 用 買 良 田 書 中 自 有 千 鍾 粟 ~「金持ちになりたい?なら田畑を買わなくていいよ、勉強しなさい」~ 安 居 不 用 架 高 堂 書 中 自 有 黄 金 屋 ~「いい家に住みたい?なら一等地を探さなくていいよ、勉強しなさい」~ 出 門 莫 恨 無 人 随 書 中 車 馬 多 如 簇 ~「たくさんの使用人が欲しい?なら求人を出さなくていいよ、勉強しなさい」~ 娶 妻 莫 恨 無 良 媒 書 中 有 女 顔 如 玉 ~「美人の奥さんが欲しい?なら婚活をしなくていいよ、勉強しなさい」~ 男 児 欲 遂 平 生 志 六 経 勤 向 窓 前 読 ~「要するにだ。男が何か願いを叶えたいのなら、勉強して科挙に合格しなさい」~ ※よくある誤解※ Q.「要するに暗記が全てなんでしょ?」 A.違います。 「膨大な量の文書を暗記して、初めてスタートラインに立てる」といった所です。 Q.「詩や文学の試験ばかりだったの?」 A.違います。 作詩は確かに重要な試験の一つでしたが、それが全部ではありません。 Q.「例えて言えば、東大入試や司法試験とかぐらい難しいんだよね?」 A.違います。 そういう次元じゃないぐらいの超高難易度です。 + 目次 【概要】 【試験の内容】1.「経書(けいしょ)」 2.「韻文(いんぶん)」 3.「散文(さんぶん)」 【科挙の流れ】1.「郷試」(地方試験) 2.「省試/会試」(中央試験) 3.「殿試」(御前試験) 【科挙の会場と日程】 【不正行為】<会場内での不正行為>「カンペ類持ち込み」 「他人の答案を見る」 「替え玉受験」 「答案交換」 <会場外での不正行為>「多重受験」 「関節」 「問題漏洩」 【受験資格】 【倍率ってどれぐらい?】 【なんでそこまで科挙に合格したがったの?】 【科挙の功罪】<評価点>「中央集権化に便利」 「地方の現状が中央に伝わりやすい」 「優秀な人物が要職につける」 「エリート意識が強い(いい意味で)」 「野心的な人物を国家に吸収できる」 「文民統制に有利」 「教育事業、また文化が発展する」 「平等な政治的権利がある」 「年功序列による弊害が抑えられる」 「試験が公正かつ正確」 <失敗点>「勉強がデキる人=官僚に向いた人」ではない 「エリート意識が強い(悪い意味で)」 「文民統制の弊害」 「人材の吸収にも限度がある」 「実務力に欠けがち」 「試験のための学問になっている」 「自然科学の発展を妨げた?」 「実際は貧乏人の合格は難しい」 「そもそも試験で人材の質を判断するってどうなの?」 【科挙のおおざっぱな歴史】<創設以前> <初期科挙> <中期科挙> <後期科挙> <終焉> 【文化としての科挙】 【概要】 科挙(かきょ)(英語 Imperial examination)とは、中国王朝における「身分を問わず、試験によって役人を登用する制度」の事。 ただしこの場合の「役人」とは、現代で言う町役場のお姉さんとか交番のお巡りさんの様な「公務員全般」の事ではない。 そういう「普通の公務員」に相当するのは「胥吏」と呼ばれる(非正規の)地方事務員で、科挙合格者が登用されるのはその上に立つ「官僚」である高級ゼネラリストなのである。 あえて現代で例えるなら、一般的なノンキャリア公務員に対するキャリア官僚に当たるだろうか。 また「登用する」という表現も実は正確ではなく、厳密に言うと「役人になれる身分を与える制度」とするのが正しい。 科挙に合格した人は「進士(貢士)」等と呼ばれる一種の特権身分となり、各種免税・減税措置を受けたり一般刑法の適用外になったりする等の多くの優遇措置の対象となるが、この身分が同時に官僚就任の資格でもあるのだ。 よって必ずしも「役人=科挙合格者」というわけではない。 世襲や推薦等で科挙を通らず役人になった人もいるし、また逆に科挙に合格したが役人にはならず地方に戻って学者等になった人もいる。 そして科挙とは単なる人材登用システムというだけではなく、 知的エリート層に登用という「見返り」を示す事で、自発的な国家への忠誠心・順法精神を育てる 中国全土から人員を採用する事で地方の実情を中央へ伝えさせ、政治に反映させる 各地方に対して同じテクストを使わせて同じ試験を目指させる事で、広大な国土と多くの民族の文化的同一性を維持する 等といった具合に地方と中央、社会の下と上とをつなぐ「統治システム」としての側面も持っていた。 【試験の内容】 大原則として、科挙の試験では「君子であるか否か」が問われる。 「君子」とは中国で古くから「人間としての理想像」と考えれられていた人物像の事で、 高い倫理学(主に儒教の教え)を身につけている 歴史を学んでおり、そこから教訓を得ている 文章力がある 人格円満で、正義感が強い といった、所謂「徳がある」人の事を指す。 特に倫理学を持つ事は最優先項目とされているが、これは中国の歴代王朝に受け継がれてきた「徳化(徳治主義)」という施政方針によるもの。 徳化というのは、簡単に言うと 「法を厳密に適用したり犯罪者を取り締まったりするのも大事だが、それは対症療法に過ぎない。 それより人としての”正しい在り方”を広め、国民の道徳的な質を上げる事こそが根本療法なのだ」 ……という考え方。 この考えに基づくと、国家の要職にある者には「倫理を身につけ、それを行動や文書、裁判などによって模範として国民に示せるかどうか」 つまり「優れた君子であるか否か」が何よりも重要になってくるのである。 なので君子の資格の有無を見極める為に、具体的には以下の3科目が課される。 1.「経書(けいしょ)」 「儒教の経典に精通しているか」を問う試験。率直に言えば穴埋め問題。 帖経、墨義、経義など時代によって様々なバリエーションがある。 基本的にはどの時代でも「経書(儒教や歴史のテクスト)の一節が一部隠された状態で示されるので、その部分を埋める」という感じの暗記問題である。 選択肢などといった親切なものはなく、誤字脱字も無論減点されるため、一字一句違えない完全暗記が要求される。 また試験によっては単なる穴埋めだけではなく、「その部分の意味や歴史的背景を解説する小論文」も求められる事がある。 それも「ここはこういう意味。ソースは俺(キリッ」という様な俺流スタイルはNG。歴史上の儒学者達が残した権威ある注釈本に根拠を求めつつ書かねばならない。 使用されるテクストも時代によって異なる。 初期~中期の科挙では儒教の基礎テクスト5冊、通称「五経」の中から1つ選ぶ選択制で、暗記量もせいぜい数万字程度だった。 だが制度が煮詰まった後期科挙ではどんどん増えていき、最終的に清後期に至っては「五経」+「四書」を全部になった。 これは40~60万字で、当wikiなら冒頭の所要時間が「800分~1200分で読めます」となる位の量。最低でも半日以上、最悪一日がかりじゃないか! 更に注釈本も膨大な量になって加わるため、最終的な暗記量は軽く倍以上になってしまう。 科挙に対する「暗記地獄」というイメージの主因は間違いなくこれのせい。 2.「韻文(いんぶん)」 文章力や詩才を問う試験。漢詩や賦(漢詩よりも長めの韻文)、銘文等を作る問題。 慣用句や古典等からお題が与えられ、それを詠った詩や賦を作る事が多いが、加えて音韻に対する指定等が入る事もある。 役人と詩に何の関係があるの?と思われるだろうが、「詩→文学→芸術→遊び」という様な現代的な連想を持ってくるのはちょっと違う。 中国では古来、思想や道徳を文章によって表し、またそれによって人民を教化し導く事は、君子にとって最も望ましい行いとされていた。 曹魏の文帝が「文章は国家の最重要事項である」と述べたのは有名である。 そして文章の中でも最高位にあたるのが詩とされ、「優れた君子ならば必ずその資質が、教養が、詩へと反映されるものだ」と考えられていたのである。 とはいっても現実問題として「詩を作るのが上手い人=政治が上手い人」なんて事はそうそうない。 そのため実践派の科挙官僚や皇帝からは「君子と関係ないだろこんなの」と廃止される事もあった。 が、その度に揺り戻しがあっては復活し、結局科挙の終わりまで試験項目の一つであり続けた。 3.「散文(さんぶん)」 歴史や経書から教訓を得ているか、また実際の政治にそれを活かせる見識があるかを問う論文試験。 科挙のルーツは「在野の高名な君子に、現在の政治的課題に対する意見(策)を書かせる」というシステムにあるので、まさにこれこそが科挙の基本にして極意と言える問題かも。 論、策、策問など詳細に分けると幾つか種類はあるが、 「政府内で派閥抗争が激化しているが、どう対処すればよいと思うか?」 「古典にこういう一節があるが、これに対して思う所を述べよ」 等といった時事や古典、政治理論に関する課題が出され、それについて書いた論文を作成するというもの。 当然この場合も「ソースは俺」式では駄目。 「かつて○○の時代、△△が××をした事があり、それを踏まえますと私としてはかように思うものであります」といった感じで、故事や古人の言などを根拠としつつ書かねばならない。 ……とまあ、これら3点セットがどの試験でも基本となる。 見ての通り、どの試験でも「各種儒教・文学・歴史の、深遠かつ巨細な知識」が要求される。 そのため科挙合格を目指すのならまずひたすらに膨大な書物を読み、理解し、覚える事が大前提になる。 また科目が多かった初期科挙では、これら3科目に加え 「法」……法律の試験 「算」……数学(計算)力を試す試験 「書」……書道の試験 等の科目が設けられた事もあった。 現代的な感覚からするとむしろこっちの方が役人として重要なんじゃね?と思われるかもしれないが、前述の通り科挙官僚は半ば管理職専門の高級官僚なので、現場実務力が問われる訳ではない。 また儒教の祖である孔子が「君子不器(*1)」と言った様に、君子とは特定の分野に特化するのではなく、必要に応じて何でもこなせる完璧超人である事が要求される。 つまり軍官になれば軍務と軍人を使いこなす知識を、行政官になれば政務と胥吏を使いこなす知識を、裁判官になれば法知識と法廷の運営を…… といった具合に、「今の自身の仕事に必要なものを、高い職業倫理と高遠な知識を活かして、速やかに身につけられる(つけろ)」とされていたのである。 あえて現代的に言うなら、科挙は「基礎スペックが高い人」を求める試験であり、つまり「基礎スペックが高いなら、何の仕事やったって十分にこなせるでしょ?」という様な若干モヤる感覚に近いかもしれない。 【科挙の流れ】 科挙は基本的に1回の試験ではなく、複数の段階に分かれた多段階試験である。 細部は時代によって変わるが、中期の科挙を例にとると 1.「郷試」(地方試験) 現代日本で言うと都道府県レベルで行われる地方試験。 各地方の首府に設けられた会場で試験が行われ、これに合格した者だけが次の段階に進める。 ちなみに後期科挙では、これに合格した時点で「挙人」という準官僚資格が与えられる様になり、その資格で役人になる者も増えた。 2.「省試/会試」(中央試験) 首都の中央官庁で行われる試験。いわば科挙の「本番」にあたる。 この次の試験では基本不合格が出ないので、ここが事実上の最終試験に当たる。 3.「殿試」(御前試験) 会試を突破した者だけに課される最後の試験。なんと宮殿内にて皇帝の御前で皇帝自身が試験官となり行われる。 とは言え学力は圧倒的に皇帝<<<受験生なので、実際の採点は皇帝側近の先輩官僚達が行うのが基本。 これを終えると前述した科挙受験生のアルティメットフォームこと「進士(しんし)」の身分が与えられる。 導入当初はきっちりと合否を出す文字通りの最終テストだったが、1057年に様々な理由から落第者を原則出さず順位だけを決める試験となった。 ……以上の3段階で構成されており、試験内容はどの段階でも先述の3点セットが課されていた。(殿試のみ、散文か韻文のどちらか1問) 試験の間隔は初期は不定期だったが、中期科挙からは3年に1度が基本になる。 【科挙の会場と日程】 法律により子年、卯年、午年、酉年、つまり3年ごとに行われることが定められている。ただし天子の即位など国内で大きな慶事が行われた時に「恩科」と呼ばれる臨時の試験も存在した。 試験に用いられる施設は「貢院(こういん)」と呼ばれる。 初期の頃は期間中どこかの官舎を借り切る様な事もあり、それなりに優雅でのどかな試験風景だったとか。 暗記科目以外は資料の持ち込みも許されていたし、受験生同士の接触についてもさして問題視されなかったらしい。 しかし中期以降は受験者数が増えまくった為に、専門の貢院が使われる事が増える。 この貢院、現在では観光地となっているものも多い……が、現代人が見ると「留置場かな?」「刑務所じゃん?」「いやいや公衆トイレっしょ?」「独房」等といった素敵な感想が出てくること請け合いなシロモノがほとんど。 例えば有名な南京の郷試用会場は、受験生1人に与えられる部屋は面積わずか1.1㎡。 数字で言われてもピンと来ない方も多いだろうから身近なものを挙げると、 シングルベッドが約1.9㎡ 「起きて半畳寝て一畳」なんて言われる畳一畳が約1.8㎡ 2015年以降のホームエレベーターの基準面積が1.3㎡ といった具合。閉所恐怖症だと普通に発狂しそうなレベルで狭い。 このような環境では熱中症の心配もあるため、この時代の科挙は受験生に配慮し秋が深まった9月14日頃に行われ、試験最終日には受験生が中秋の名月を眺める光景も恒例行事であった。 日程は基本的に各科目1日ずつ、合計3日間かけて行われるのが普通。だが不正防止のため受験中は外部へ出る事が許されない。 つまり食事や睡眠(*2)は、3日間全てこの貢院の小部屋内で済ませる事になる。よって布団や着替えは勿論、食料や自炊用具なども持ち込む必要がある。 部屋(?)の中には机・椅子・ベッドの様な気の利いたものは勿論なく、両側の壁の間にぴったりに収まる板が3枚程あるだけ。 これを椅子の高さに1枚、机の高さに1枚張り渡してそれぞれの代わりにするという訳だ。(寝る時は床板代わりにもなる) 現代なら確実に人権侵害で訴えられそうな会場であり、科挙は学力以前に体力や精神力も要求される試験であった。 【不正行為】 google先生に「科挙」と打ち込めば即「カンニング」とサジェストされるぐらい「科挙=カンニング」なイメージは固い。 実際、科挙の歴史はそのまま不正との戦いの歴史といっても良く、ありとあらゆる手段による不正が試みられてきた。 <会場内での不正行為> 「カンペ類持ち込み」 定番中の定番。教科書で「カンニング肌着」等を見た事がある人も多いかも。 無論それ以外にも 服や私物に紛れ込ませるカンペ 様々な所に隠せる様にしたカンニング専用の豆本 何かに偽装した本そのもの などなど、バリエーションは多彩である。 会場に入る前には「饅頭を割って中身まで調べる」と言われた程のチェックが入るが、やる側もありとあらゆる手段でこれを潜り抜けた。 具体的な手段も 工夫と根性で隠し抜く 番兵(貢院内の不正監視は兵士が行っていた)を買収する プロの「持ち込み屋」を雇う などこちらも様々。 番兵は受験生の不正を見つけると多額の報奨金が出たので全力で監視していたが、つまり報奨金以上の額を出せば買収も不可能ではないという事になる。 ただこうした番兵抱き込みの対策として、番兵には科挙官僚と対立関係にある宦官指揮下の兵士が使われる事が多かった。 「他人の答案を見る」 これまた定番。 ただしそれぞれが個室で解答している性質上、壁で阻まれた他人の回答を見るのはかなり難しい。 最大の機会はトイレに立つ時だが、この際にも「トイレに行く前と後に答案を確認される」「行った回数や時間が記録され、疑わしい事があると回答と照合される」などの多重チェックがあり、これをかいくぐるのもかなり難しかった。 ちなみにこれらのチェックは全受験生に平等に適用される為、疑いがかかるのを避けるべく最初からボトラーになってしまう受験生も多かったという。 汚ぇ!! 「替え玉受験」 この手の不正行為としては大規模なものだが、写真がなく戸籍の管理もあいまいな当時ではかなり有効な手段だった。 防止策として、 本人確認の為の身元保証人(*3) 受験票作成時に身体的特徴を記録する 回答文の最初数文字を書かせる疑似パスワード 筆跡鑑定 などがある。 またそもそも「自分で科挙は目指さないが、科挙に合格できるぐらいの学力があり、かつ犯罪も平気」な人間など当時でも極めて希少。 プロに依頼するには凄まじい金が必要であった。 「答案交換」 替え玉の変化形。模範答案を作るプロ受験者を潜り込ませ、隙を見て回答用紙を入れ替えて貰うというもの。 前述の通り受験生に対する番兵の監視は厳しいが、この場合は交換するだけなのでリスクやコストが少なくて済むのが利点。 ただし人材の確保が難しい点は替え玉と同様。 <会場外での不正行為> 「多重受験」 基本的に科挙は1度の開催につき1回、つまり一か所(一般には本籍地)でしか受験できない。 が、前述した様に当時は厳密な本人確認が難しいので戸籍をごまかす事もできなくはなかった。 「関節」 ここでは身体の節目の事ではなく、科挙の用語で「試験官を買収し不正に合格させてもらう事」を指す。 不正行為としては最強クラスの有効性を持つ必殺技で、会場外不正の代表的存在。 科挙の最初期から見られるが、その分様々な対策がとられており、 回答用紙冒頭の記名部分を糊で封印した上で切り離し、別に保管する「封彌法」 その回答用紙を更に書記が別の用紙に書き写し、コピー側を審査官に渡す事で受験者の筆跡をわからなくする「謄録法」 などで、不正合格させようにもその相手を特定できない様にされていた。 ……のだが、不正者側も「文章の冒頭に必ず特定の字を使う」とか、「詩の○行目に▽▽という字を入れる」等といった特定法を試験官と示し合わせる事で回避できた。 この為本気でやられてしまうと防ぐ方法はほぼ無かったが、その代わりこの方法はやるまでが大変だった。 試験官の任につくのは科挙官僚の中でも地位も金もある中堅クラス以上の人員が主。 更に実際にはその個人補佐官達も審査に加わるため彼ら全てを抱き込むには莫大な金、また強力なコネが要求された。 また発覚すれば当然厳罰が待っているためリスクも非常に高く、金とコネがあっても引き受けてくれるとは限らなかったのだ。 「問題漏洩」 関節のソフト版で、事前に試験官などから試験の内容を教えてもらうという不正。 入手した内容を元に、儒学者や詩人等に回答の作成を依頼しておくとなおベネ(*4)。 関節ほど強力な手段ではないが、その代わり相応にバレるリスクも低い。 対策としては、 任命直後から審査完了まで試験官を会場にカンヅメにし、外部との接触を一切断つシステム『即日入院』 試験にあたる試験官はギリギリまで発表しない 等があった。 ……などなど、多彩な不正行為&不正対策が存在していたが、実はどの不正行為も「これがあれば合格確実」と言える程の効力はなかったりする。 カンペ類の持ち込みはそれ自体では暗記の補助にしか使えない為、経書試験にしか効果がない。 関節は非常に強力だが、試験官はそれぞれの段階で別なので、全ての試験官を抱き込むというのは不可能に近い。 またインチキだけで上がっていくと、皇帝の御前で行われる公開試験で素の学力がバレてしまう。 それなりの実力がなければあまりにもリスキーと言わざるを得ない。 初期の科挙では貴族のゴリ押しがまかり通っていた時代もあったが、中期以降の科挙では「全く実力がないままに進士になる」事はほぼ不可能になった。 後期科挙にもなると3代以上続けて進士を出せた家は存在しなくなった。 ちなみにカンニング行為に対する罰則だが、時代や段階によって結構違うものの、基本現代の入試や資格試験とは比較にならない程に厳しかった。 一応受験者は「エリート予備群」として扱われる為、本来庶民向けとされる肉刑(*5)などは少なく、 一定期間(場合によっては残り一生)の科挙受験禁止 身分(場合によっては親族も)はく奪 など、割とソフト?な刑が実は一般的。まあぶっちゃけどちらも士大夫にとって死刑も同然の刑ではあるのだが…… ただしこれらの刑罰は、カンペ類持ち込みや他人との接触等の、いわば「個人的な」カンニングに関するもの。 関節など複数の人数がからむ不正だと一気に罪が重くなり、カンニングした者とカンニング関係者がまとめてごっそり死刑の上に財産没収とかも珍しく無くなってくる。 そして中期以降の科挙の場合、刑罰以前に発覚した時点で周りの受験生から私的リンチを受けてヤバい事になる可能性が割とある 現代中国でも、大学入試等で特に組織的なカンニングをした者は7年以下の実刑判決を受けることがある。 【受験資格】 一般に科挙には「誰でも受験できる平等な制度!」というイメージがある。 これはまあ間違いではないが、この場合の「誰でも」というのはあくまでも昔の常識における「誰でも」で、現代的な意味での「誰でも」ではない。 具体的に言うと試験の資格を持つのは「良民」の「男子」に限られている。 女子は当然ダメで、加えて 前科者 芸能人 商人 職人 奴隷 召使い 警察の下働き関係者 などに引っかかる者も受験禁止、またその家族や子孫何代目かまでの者も受験を禁止されていた。 ただしこの禁止規定には時代や地方によって結構差があり、色々と「裏技」による抜け道もあった為、必ずしも守られていたとは言いがたかったりする。 更にこれとは別方向の禁止規定として、良民であっても 服喪中(父母などが死んでから3年以内)の者 僧侶 などの受験も禁止されていた。 服喪中の受験が禁止なのは、儒教では両親への服喪を極めて重視しているので、その期間中はひたすら身を慎んで悲しむ事が要求されていたため。 要するに「服喪中に堂々と表に出て受験に来る様なやつは君子じゃねえ!」ということ。 僧侶に関しては、当時彼らも国家認定を受けた者であったため。 いってみれば彼らも(科挙官僚とは別の分野の)役人だったので、二足の草鞋はダメ!という観点から禁止されていた。 なお年齢は一切問わない為、70歳の老人であろうが10代前半の子供であろうが受験できたし、実際に合格例もあった。 合格時の平均年齢は36歳ほどとされ、70歳を超えたあたりから採点が甘くなり、いわば努力賞として名誉合格した老人も多かったとされるが、この場合役人の定年が70歳であるため役人にはなれない。だがそれでも進士の称号を得られるのは大変魅力的なことであった。 また外国人の受験も別に禁止されてはいなかったが、外国籍の留学生等の場合は基本的に「外国籍者向けコース」の特別な科挙があった。 どちらも受けられるなら人数が少なく競争率が低いこちらを受ける事が多く、普通の科挙に挑戦する事はあまりなかったようだ。 【倍率ってどれぐらい?】 時代や状況などによってだいぶ違う。 隋~唐辺りの初期科挙では受験の為のハードルが高かった事から、合格率も10%とか20%、低くても1%とか2%といったまぁ超難関大学の合格率くらいと言えるだろう。 だが宋代になって制度が完成すると受験者数も激烈なカーブで上がり続け、南宋の最盛期では0.01%とか0.02%等の凄まじいまでの低合格率をたたき出している。 更にこれが明~清の後期科挙になると、プレ試験過程の合格率が1~2%で、本試験の合格率が0.2%という想像を絶する世界に突入。 合計すると合格率はまさかの0.004%。10万人が受けて合格できるのが4人だけ、というありえないレベルの超絶狭き門に。 ちなみに参考までに言うと、「日本で一番難しい試験」として有名だった試験制度改革前の司法試験が合格率2%、世界有数の難関として知られるハーバード大学の合格倍率が5%前後といった所。(*6) 【なんでそこまで科挙に合格したがったの?】 中国文明においては、根本的に「人間なら徳を高めるべきで、徳の高い人間なら周囲の人に徳を及ぼすべきで、周囲に徳を及ぼせる人なら政治に関わって国全体に徳を及ぼすべき」とされている。 このため「政治家は全ての人間が目指すべき最高の職業である」と考えられており、「知性と教養がある人間ならば当然科挙合格を目的とすべきだ」というのはエリート層に共通する認識だった。 ……とはいえ、そんなイキり使命感のみで地獄の受験勉強を戦い続けられる人は当然ながら少数派。 莫大な数の人間が数十年に渡る勉強漬けに耐えていたのは、その努力に相応の「見返り」があったからなのだ。 まず一つは、当然というべきか「金」。 正規官僚の給料は(時代にもよるが)新人でも兵士の数倍~十数倍の額になったし、更にはそこに家族を含めた税金上の特権が加わる。え?兵士の給料が安すぎるだけだって? 更に地方官や中央高官といった統治権をもつ役職に就けた場合、当然の様にその権力に金が群がってくる。ストレートな意味での「賄賂」は勿論、御機嫌伺いの為の「ご挨拶」ですら莫大な額になった。 また各地方の実権を一手に握る地方官は財政上の独立性も高く、任期中は自分の財布と地方の財布が区別できなくなるのがデフォで、賄賂を一切拒否する様なマジメな地方官ですら「3年務めれば大金持ちになっている」とされるほどだった。 そしてもう一つの理由が、金と同じぐらい重要な「名誉」である。 金持ちと言うなら大商人だって同じだが、儒教、特に朱子学的価値観の下での商人は「生産者と消費者の間に割って入り、不当にマージンを得る者」と軽蔑される存在だった(*7)。別に転売ヤーの事を言ってる訳ではないぞ!本当さ! 富裕な大商人となれば当然高級官僚との付き合いも増えるが、それはつまり彼らにマウントを取られる機会が増えるという事でもあるのだ。 これに対し、科挙官僚は最も名誉ある職業とみなされており、閑職にある最下級の役人(地方の教職とか)ですら、民衆の敬意を受ける事ができた。 またその2つに劣らず重要なのが「コネ」だろう。 科挙に合格するという事はつまり「君子」となった事であり、つまりそのまま君子で構成される上流社会へのパスポートにもなった。 現代ですら「結局社会に出てものを言うのは人脈」とよく言われるが、当時にあっては尚更である。 科挙合格者という時点で「どこの誰にでも通用する万能紹介状」を持っているに等しく、粗略な扱いを受けるという事はまずない。官界だろうが経済界だろうが、人脈を築いたり「口利き」をする際などには果てしなく有利な資格となった。 【科挙の功罪】 <評価点> 「中央集権化に便利」 科挙というのは本来、西晋~南北朝にかけて発展した世襲貴族に対する対抗策として発展したもの。 試験によって選抜された官僚は、 地位を世襲できず、無制限に大きくなる心配がない 試験によってのみ選ばれるため、一族によって要職を独占する事ができない 私有地を統治する訳ではないため、地域と結びつきにくい 利害関係が国家中枢(皇帝)と概ね一致する などといった特徴を持ち、常に割拠したがる貴族を抑制して皇帝の下に権力を集中するには極めて都合のいい存在だった。 「地方の現状が中央に伝わりやすい」 科挙は中国全土で行われ、しかも各地方ごとに定員が割り振られていた為、合格者は「中央政界における、出身地の代弁者」という側面も持っていた。 科挙官僚は出身地への赴任こそ禁じられていたが、しかし生まれ育った土地とは様々な形で生涯つながりを持ち続けるのが普通だった。 よって彼らには地方の生の声が伝わりやすく、それを中央での政治に活かす事ができた。 これは現代民主国家の代議士にも通じる部分である。 「優秀な人物が要職につける」 生まれつきの身分で職が決まってしまう貴族制に比べ、人材の質が当然高くなる。 まあ必ずしも「科挙官僚=有能」とは限らないが、少なくとも「9歳の地方長官」とか「読み書きすらできない宰相」なんて人事が生まれる可能性はなくなる。 「エリート意識が強い(いい意味で)」 科挙合格者は頭脳と知識、努力によってその座をつかみ取った人であり、また儒教は「個人にとって、人間同士にとって、国家にとって正しい方法とは何か」を説いた学問である。 これらの要素が組み合わさった結果、科挙合格者は、強い問題意識と使命感を持ち、自信とプライドによってそれを支えるという、典型的なエリートタイプが多くなった。 そしてこうしたエリート意識の強さがいい方向に作用した時、優れた政治家や将軍が生まれる事になった。 「野心的な人物を国家に吸収できる」 古今東西、優れた能力と、それにふさわしい野心を持っている人物というのはあらゆる社会に常にいる。 そうした人は社会に活力を与えるが、インセンティブに乏しい(例えば身分制が厳格とか)仕組みの国家の場合、その仕組みそのものを敵とする「挑戦者」になってしまう事もよくある。 しかし合法的に国家の最上層を目指せる科挙という制度によって、そうした優れた人材を国家に吸収しつつ、同時に彼らが秩序への挑戦者となる可能性を未然に防ぐ事ができた。 「文民統制に有利」 中期以降の科挙制度では、高級軍人も「背広組」である科挙官僚の統制下に置かれ、強力な文民統制が実現していた。 中央集権体制の弱点の一つに「クーデターに弱い」というものがあるが、その解決手段としても有効だった。 「教育事業、また文化が発展する」 科挙の隆盛は、同時に塾や家庭教師、テキストや受験書の出版・流通・販売といった民間の教育ビジネスを大いに発展させた。 また膨大な数の科挙受験者は、そのまま「教養のある消費者」でもあり、彼らを支持層とした文芸の発展も促す事になる。 あと、科挙をやる過程で価値観が統一されるので、教材や創作物が売りやすくなる。 「平等な政治的権利がある」 もちろん現代の民主主義社会に比べれば不完全だが、時代を考えれば「貧乏農家の息子であっても、合法的に一国の宰相にもなれる」というのは驚異的に平等なシステムと言え、中国の歴代王朝が広大な領土を長く治める事ができた要因の一つともされる。 「年功序列による弊害が抑えられる」 儒教は本来「長幼の序」、つまり「年長者を敬わねばならない」という鉄則があり、それを素直に解釈すると極端な年功序列が生まれ、業務上様々な問題を引き起こす事がある。くそっまた儒教か!? しかし科挙とは完全に学力だけで優劣を決める制度で、合格年齢も完全にバラバラだった為、それを勝ち抜いてきた科挙官僚達は必然的に実力主義的なルールで動く事になった。 この為「個人としては年長者に敬意を欠かすべきではないが、しかし職務上ではまた別」というスタンスが科挙官僚の基本となり、年功序列がもたらす弊害を抑えていた。 「試験が公正かつ正確」 筆記試験であり、点数という公正明白な試験に身分、人格、容姿に関係なく人物を試験することができる。もちろんこの利点は現代の教育にも生きている先進的な考えである。 欧州でも、中国で布教活動をした宣教師によって科挙が伝わり、科挙をモデルとした筆記試験が行われた。 <失敗点> 「勉強がデキる人=官僚に向いた人」ではない 現代でもよく言われる事だが、「勉強がデキる人=頭がいい人」とは限らないし、「頭がいい人=仕事がデキる人」という訳でもなく、「仕事がデキる人=官僚に向いた人」と言い切るのも無理がある。 だが科挙で選ばれるのは基本「勉強がデキる人」に過ぎないため、必ずしも官僚に向いた人材が登用される訳ではなかった。 「エリート意識が強い(悪い意味で)」 エリート意識とは決して良い方向にばかり働く訳ではない。 悪い方に転じれば「強い自己確信性」「特権意識の強さ」「過剰なプライド」「協調性のなさ」「逆境に弱い」等といった欠点も当然現れてくる。 よって 汚職を働いても当然と思っている 胥吏を低学歴と馬鹿にして軽んじ、ますます実務に疎くなる プライドが高すぎて建設的な議論ができず、全否定の応酬になる といったダメ官僚も多数生んできた。 「文民統制の弊害」 文民統制は国家の安定にとって有効だが、行き過ぎると軍事力の弱体化にもつながってしまう。 古くから「入りては相、出でては将(宮廷にいる時は行政官、宮廷を出たら将軍)」と言われる通り、士たる者は文武の能力を兼ね備えていて当然とされていた。 しかし実際にそうそう上手くいく訳もなく、科挙官僚が指揮する正規軍は、叩き上げに指揮されるそれに比べてどうにも劣る事が少なくなかった。 このため異民族や反乱軍との戦闘が激化すると、結局士気の高い義勇兵や地元有力者の私兵等に頼る羽目になり、彼らが軍閥化して国家の安定を脅かす事も少なくなかった。 「人材の吸収にも限度がある」 特に後期の科挙に顕著だが、野心のある人間を吸収できるといっても、無制限に官僚を増やせる訳ではない以上、そこには物理的限界が出てくる。 倍率が上がっていくにつれて当然この傾向は強くなり、後期科挙になるともはや合格は運ゲーだった為、野心的な人間をあらかじめ飼い殺しにするという目的はもはや果たせなくなっていった。 「実務力に欠けがち」 先述の通り科挙官僚は管理&重大な決裁を専門とした職で、大型の裁判などを除けば細かな実務はほぼ胥吏の担当だった。 つまり現場実務を経験しないまま管理職に直行という事になるが、自分でやった事のない仕事を管理するのは難しいし、ましてや胥吏は長年経験を積んできた専門家である。 このため地方統治においては「官僚が胥吏を制御できてない」「官僚が胥吏と結託して、あるいは抱き込まれて汚職をやっている」等の事態が多発する事になった。 「試験のための学問になっている」 科挙の目的は本来「儒教を学んだ人材を、高い地位につける」為の物だったが、制度の発展と共に逆転し「高い地位につく為に、儒教を学ぶ」様に変わっていく。 孔子が「先行其言而後従之(*8)」と戒めた様に儒教は本来実践(徳行)をこそ重んじる学問なのだが、熾烈な受験競争の中では「実践なんかより勉強!暗記!」とならざるを得なかった。 当然真面目な官僚や儒学者からは「あの連中って受験対策やってるだけで、儒教を学んでいる訳じゃないよね」と非難されたがその流れは止まらず、ついには「勉強だけが尊い行為で、それ以外は卑しい俗事」とか本末転倒な事まで言われる程になってしまった。 「自然科学の発展を妨げた?」 所謂「世界三大発明」が全部中国生まれである事からもわかる様に、中国における科学技術の発展は13~14世紀頃までヨーロッパやイスラム世界を上回っており、世界最先端の国家であった。だが、明代に入ると急速に停滞し、以後は完全に後塵を拝する様になってしまう。 この理由に関しては様々な説が唱えられているが、その一つに「科挙に関する学問が実利に直結する様になった為、他の学問が軽んじられる様になったから」という説がある。 実際、古い時代ではどちらかというと「士大夫なら儒教以外のジャンルにも精通していて当然」と考えられていたし、数学者や科学者などを兼ねた科挙官僚も少なくなかったが、後期科挙が完成した明以降はそうした傾向が無くなり、むしろ科挙に関連しない学問全てを馬鹿にする風潮が強まっていった。 また優秀な人が科挙に吸収された結果近代的な武器や優れた戦術を開発・考案できなかったために、アヘン戦争に敗戦する遠因にもなったという説もある。 「実際は貧乏人の合格は難しい」 「親が貧乏→子供の教育に金がかけられない→子供もいい仕事に就けなくて貧乏に→その子供の教育に(ry」という「貧困の連鎖」は現代でも社会問題になっているが、同様の問題が科挙にもあった。 科挙に合格するには 膨大な量の書物 優れた教師の指導 長年勉強に集中できる環境 など様々なものが必要で、必然的にかなりの金を要した。 また受験自体は無料だったが、各種手数料や試験会場までの旅費・滞在費(この時点で明後半の場合現在日本円換算で大体600万円かかったらしい)、合格時の関係者各位へのご祝儀などは自己負担だったため、この辺りにも相当な金がかかった。 とまあそんな訳で、「誰でも」受けられる制度である事が謳われてはいても、実際の合格者はある程度の上流家庭に偏りがちだった。 とはいえ、科挙合格(予定)者は投資対象としては最優良物件で、合格が望める程デキる子だったら一族や知人等からこぞって出資を受けられるのが普通だったので、貧乏な家庭から苦学して合格した人も結構いる。 「そもそも試験で人材の質を判断するってどうなの?」 それを言っちゃあ……って感じではあるが、「テストではなく、実際の勤務態度や実績を元に人材を判定すべきでは?」とは現代の学歴社会でもよく議論される所。 実はこの問題は古くから認識されており、科挙官僚の中には「学校制度を充実させて、そこで勉強させながら時間をかけて資質を判定し、優れた者を官僚とすべきだ」と主張した人も多く、実際に何度か政策にも反映されたが、結局定着はしなかった。 【科挙のおおざっぱな歴史】 <創設以前> 中国語では平民を「庶」と呼び貴族を「士」と呼ぶが、士とは同時に「(身分は低くても)優れた人」の事も指す言葉だった。 つまり「例え王侯貴族でも、才ある人間に対しては敬意を示さねばならない」というのが、中国文明に古くから存在する「きまり」だったのである。 例えば『三国志』に登場する劉備が、職歴も官位もない在野の若者諸葛亮を三度も訪問して敬意を示した例は有名だが、他にも 春秋時代の桓公 戦国時代の信陵君 果ては儒教の祖である孔子 など、似た様な話がたくさんある。 この為中国では古くから「在野の有能な人材を登用して、官職についてもらう」という慣習があり、漢代になるとこれが整備されて「選挙」と呼ばれる人材登用システムとして完成する。 しかし当時の選挙は有力者による推薦制だった為、間もなく「位は低いが優秀な人物を世に出す」よりも「有力者の子弟がコネを使って出世する」為の手段となってしまう。 その結果、選挙による人材の質があまりにも低くなりすぎ、ついには推薦された人に対してテストを行い、本当に能力があるのか確かめるという回りくどい事が行われる様になった。 このテストつき選挙は徐々に整備されていき、南北朝時代になると推薦なしのテストのみで人材を採用するというものまで出てくる様になる。 これを「科(テストの「科」目)」による「選挙」という意味で「科挙」と呼んだのが、実質的な科挙の始まりである。 <初期科挙> 西晋以来300年ぶりに中国を統一した隋の文帝は、貴族制を支えてきた選挙専門の官僚「中正官」を廃止する。 一方で「テストつき選挙」の方は継承したため、これをして教科書などでは「隋代に科挙が始まった」とする事が多い。 この時代、つまり隋~唐にかけての初期の科挙は貴族制と同居していたという点が最大の特徴で、 科挙は就職ルートの一つに過ぎず、親の地位で任官される「資蔭(しいん)」、個人的なコネで任官される「辟召(へきしょう)」など、より強力なルートが幾つも併存していた 受験には地方長官(ほぼ貴族)の推薦が必須で、コネがない平民の受験はほぼ不可能 試験の成績だけではなく、名声や評判などでも判定される(=コネがある貴族有利) 試験以外に、売り込みや推薦などの事前工作運動が認められていた(=金とコネが〃) あくまで科挙は資格試験であり、合格後に具体的な任官を決める「吏部試(りぶし)」が課された(=吏部、つまり人事部を握る貴族達の意向に左右された) などと言った感じにまだまだ発展途上で、総じて言えば「出世の目がない下級貴族の子弟が、低くてもいいから官職を得ようと使う制度」という感じだった。 但し実際問題として、能力的には当然「単に世襲しただけの大貴族<選抜された科挙官僚」だったので、隋~唐の間に科挙官僚の地位は徐々に上昇していく。 更に唐中期に至ってかの則天武后(武側天)が台頭すると、貴族層と対立関係にあった彼女が対抗として多数の科挙官僚を引き立てた事で更なる地位を確保した。 トドメに唐末の動乱で門閥階級が一気に滅んだ事により、これ以降は「高級官僚=科挙官僚」という図式が完全に確定した。 ちなみに先にもちょっと触れたが、この時代の科挙は科目が多彩で、 経書試験を課される「明経科」 韻文の「進士科」 数学試験の「明算科」 法律試験の「明法科」 など、好きなコースで受験できた。 ちなみに一番格が上とされたのは散文試験の「秀才科」だが、これはあまりにも合格基準が厳しすぎて合格者(というか受験者)0の状態が続き、途中で廃止となってしまった。 + 初期科挙関連の有名人 「文帝(隋)」 隋の皇帝。科挙の創設者として知られる。 元は魏晋南北朝時代の北周の将軍で、国家掌握→禅譲強要→前皇帝一族皆殺しという必殺五胡十六国コンボにより隋の開祖となったが、それ故に貴族制の恐ろしさ、厄介さが身に染みていたらしい。 中国史において科挙が果たした役割の大きさを考えれば、その後の中国史を決定づけた人間の一人であると言っても大げさではないかも。 「房玄齢」 隋・唐の人。578年生まれで、595年に進士科及第。 隋代で進士科に合格し、それを簒奪した唐において本格的に活躍した怖い奥さん持ちの科挙出身者。 二代太宗の右腕として知られた人物で、彼が起こしたクーデター(玄武門の変)においても参謀として活躍している。 政治家としても優れた能力を持ち、権力奪取後は尚書左僕射(宰相的な地位)となって後世「中国史上最良の時代」と讃えられた「貞観の治」の立役者となった。 しかし「秦王府十八学士・筆頭」というキングダムにでも出てきそうな肩書を持っていた割に、彼の手がけた史書はかの「晋書」を筆頭に評価がアレなものが多い。 漢字文化圏全域で「帝王学の必須テクスト」として知られた『貞観政要』に登場するため、かつては日本での知名度も非常に高かったが、現代日本では間違いなく彼の子孫の方が有名だろう。 「武則天(則天武后)」 唐の三代高宗の皇后にして、武周の初代皇帝。 貧乏貴族の出だが、その類まれな美貌と頭脳をフル活用し、ハーレムのモブキャラから女帝にまで成り上がった中国史随一の女傑。 その特異なキャラクターから現代に至っても毀誉褒貶が入り乱れる女性だが、科挙制度について語る際には決して外せない人物である。 というのも、彼女はその権力奪取の過程から貴族層主流派と思いっきり対立しており、それ以外の層から出てきた科挙官僚を政治の中枢へと引き上げてこれに対抗したからである。 よって彼女の治世では下記の狄仁傑の他、宋璟、張説など優れた科挙出身者が国家の中枢で活躍する様になり、以後の時代における科挙の隆盛の基盤となった。 「狄仁傑」 唐の人。630年生まれで、658年に明経科及第。 武則天に重用された科挙出身者の筆頭的存在で、文と武、剛と柔、儒と法を兼ね備えてあとついでに若干自信過剰でかつ空気が読めなかった、科挙官僚の理想とでも言うべき人物。 駆け出しの頃は地方の軍事官僚として務めていたが、その有能さを評価されて中央へ召喚された……までよかったが、大貴族に正論で楯突いた事で再び地方に飛ばされる。 しかし後に彼の才能を評価していた武則天が帝位を奪うと再び中央に呼び戻され、一気に同平章事(臨時宰相)にまで引き上げられたというローエングラム朝にいそうな経歴の持ち主。 その後政治家、また将軍として国の安定に大いに貢献したが、同時にKYな正論の為に陥れられたり煙たがられたりもした。 しかし武則天からの信頼は常に篤く、謀反の疑いで収監された際も彼女の命令で助命されているほどで、後には「国老(国家の父)」とまで呼ばれて敬愛された。 現代ではオランダ人の小説家ヒューリックによる、ミステリ小説『ディー判事シリーズ』の主人公としても割と有名。 <中期科挙> そんな訳で、宋代以降の中期科挙からは科挙官僚が完全に国家の枢要を占める様になった。 他の手段で官僚になる道も閉ざされた訳ではなかったが、「国家の重職につけるのは進士のみ」というルールがこの時期に確立される。 それまでは割と区別があいまいだった胥吏と官僚もはっきりと別物として分けられる様になり、胥吏が経験や功績によって官僚に自動クラスチェンジする、という事もなくなる。 必然的に金やコネがモノを言っていた試験内容も大きく改められ、番外戦術の一切が禁止、純粋に実力のみを問う試験となった。 また貴族ではなく、皇帝のみに直属する官僚である事を強調するため、それまでは「科挙自体は礼部(文科・教育部)が行い、採用試験や配属自体は吏部が行う」というシステムだったものも、一括して礼部が担当する様に改められた。 そして科挙官僚が完全な高級官僚となった事で、試験項目もそれまでの様なスペシャリストではなくゼネラリストを求める方向に変わっていき、最終的には「君子」としての総合的な教養を試すテスト、つまり前述の3科目へと項目が絞られた。 まあまとめると、一般に言う「科挙」のイメージはおおむねこの時期に完成した感じである。 完成された制度から優れた科挙官僚が多数輩出されたのがこの時代だが、同時に前述した様な科挙の弊害も顕れ始めた。特に 試験内容がますます先鋭化し、「ふるい落とすための試験」になってきた 競争の激化で、合格者が「君子」というより「勉強が上手な人」になってきた 胥吏と高級官僚が切り離された事で、現場実務能力の低下が目立ってきた 科挙官僚の地位が上がった事で、主導権を争う派閥争いが激化してきた などといった問題は深刻で、北宋中期にはこれを憂えた王安石らによって多岐にわたる改革が進められた。 しかしそうした改革も派閥争いによって上手く進まず、一部の要素を除いて定着する事はできなかった。 + 中期科挙関連の有名人 「范仲淹」 北宋の人。989年生まれで、1015年に進士及第。 実家(母の再婚先)は裕福だったが、連れ子である彼は他の兄弟と折り合いが悪く、結局は親元を離れて無料の学校である応天府書院で苦学し、進士となった。 徐々に北宋の社会不安が表に出始めた4代仁宗の下で活躍し、率直で潔癖な人柄を度々彼から疎まれながらも、地方統治や辺境防衛で大いに功績を上げた。 名文家でもあり、彼が残した「士先二天下之憂一而憂、後二天下之楽一而楽」(士たるものは、誰よりも先に社会の問題を見つけて対策し、しかしその結果として利益を得るのは誰よりも後でなければならない)という言葉は科挙官僚の使命を顕すスローガンとなった。実行できてる人がどれだけいたかは別として。 「包拯」 北宋の人。999年生まれで、1027年に進士及第。 科挙に合格したにも関わらず、老いた両親の世話を優先して官職につかなかったという引きこもり気質親孝行な経歴の持ち主。後に仕官して以後は順調に出世コースを進み、最終的には枢密院副使(国防省次官)にまで出世した。 極めて厳格かつ道徳に厳正な人物であり、一切の賄賂を拒否して清貧を貫き、相手が高官や宦官であろうと一切法を曲げなかったため、庶民から非常に人気が高かった。 ……とまあここまでは割と一般的な科挙官僚なのだが、その真価は死後に発揮される。一言で言えば、日本の「大岡越前」とか「遠山の金さん」の様なポジションになったのである。 中国では関羽や岳飛にもならぶ庶民のヒーロー「包公」として様々な小説や演劇に登場しており、史上最も有名な科挙官僚と言ってもいいほど。 「王安石」 北宋の人。1021年生まれで、1042年に進士及第。 世界史の教科書にも確実に登場する科挙官僚きっての有名人で、国力の折り返し地点を過ぎた6代神宗の下で「王安石の改革」と呼ばれる大規模な政治改革を行った。 しかし彼の改革は法律・政治・経済・軍事などあらゆる分野に及び、ほとんど国家を根本から改造する様なレベルであったため、様々な方面から反発を受けて最終的には半端な形で終わる事となった。 その業績の詳細についてはここで語ると長くなりすぎるため、詳しくはWikipediaなりなんなりをご参照いただきたい。 「司馬光」 北宋の人。1019年生まれで、1038年に進士及第。 王安石と同時代の人で、彼を代表とする改革推進派「新法派」に対し、それの対抗勢力である「旧法派」のボスとなった。 科挙官僚のテンプレ通りに優れた歴史学者であり、その著書『資治通鑑』は長らく中国史の最高傑作として尊重されたが、同時に「学者としては優秀だが、政治家としてはアレ」というダメな方のテンプレでもあった。 新法派の失脚の後に権力を握るが、15年間に渡って少しづつ進められて来た新法を全否定し一斉に旧法に戻した事で、現場に凄まじい混乱をもたらした。 またその感情的な処置は新法派の反動的な抵抗を招き、以後の北宋では「新法・旧法の争い」と呼ばれる両者の派閥抗争がエスカレートしていき、国力を更に衰微させる結果となった。 「秦檜」 南宋の人。1091年生まれで、1115年に進士及第。 創設間もない南宋において、金との和平策を主張し、北宋領の奪還を主張する岳飛ら軍閥層と対立。 最終的に岳飛らを処刑、軍閥層を弾圧して弱体化させると共に金との和平を推進し、金に対する臣下の礼やみかじめ料の支払いを盛り込んだ和約を成立させた。 「救国の英雄」岳飛を殺して中原奪回の機会を逸し、異民族に頭を下げ屈辱的な条件によって平和を買い、自分の保身の為に忠臣を弾圧した奸臣として、死後から現代にいたるまでボロクソにののしられている。 だが見方を変えれば、強力な軍閥を解体して内乱や簒奪を未然に防止し、経済力で勝る南宋の力を活かして名より実を取り、不安定な亡命政権を安定させて南宋150年の歴史の礎を築いた名臣、との言い方もできなくはない。 「文天祥」 南宋の人。1236年生まれで、1256年に進士及第。 珍しく有名な状元(トップ成績)合格者。 モンゴル帝国の圧力で滅亡寸前の南宋に仕えるが、絶望的な戦力差を無視した主戦論を唱え続けたため、各所でウザがられ免官された。 その後復職するが、モンゴルとの和平交渉の席で華夷思想丸出しの差別的発言をして相手側を激怒させ和平はお流れ、自身も捕虜となってしまった。 とまあ政治家としての能力は正直アレだが、その不屈の忠誠心と愛国心は各地で抵抗運動を続ける宋の遺臣達の精神的支柱となった。 これに手を焼いたモンゴルは獄中の文天祥に転向を迫ったが、「生き死になど問題ではない、忠を尽くす事こそが重要なのだ」という内容の『正気歌』を詠んでこれを拒否、最終的には処刑された。 中国でもその忠誠心を評価されて人気が高かったが、後に幕末の日本でも尊王攘夷運動が活発化する中で大いに人気が集まり、藤田東湖や吉田松陰などがカバー曲を作っている。 <後期科挙> 宋の後の王朝である元(モンゴル帝国)は割とストレートな貴族制国家でありあまり科挙に熱心ではなかった(但し元後期には科挙が一部復活し、後期科挙の原型となった)が、「漢民族国家復活ッッッ!漢民族国家復活ッッッ!」を謳った明では科挙が大々的に復活する。 明もできたての頃はカンニング騒ぎや定員割れ、大規模な不正など問題が続出し、一次停止されたり推薦制に移行してみたりと混乱が続いた。 だが草創期に多数の問題を起こした事で、逆にそれを防止するためのシステムがうまく構築され、最終的には宋代のそれをしのぐほどの安定した科挙体制を作り上げる事ができた。 ただこうして完成度が高まった一方で、中期に見られた弊害もますます悪化しつつあった。 受験人口の増大によって、それまで以上にふるい落とす事が重要視される様になり、試験の内容も形式化が進んでケアレスミスによる減点をとにかく狙う傾向が強くなる。 こうした傾向を問題視する声はかなり上がっており、実際にいくらか改革も試みられた。 特に国立学校制度の改革には力が入れられ、「学校で優秀な成績を認められれば、科挙官僚よりも出世が有利」「在学していなければ、科挙を受けられない」など、一時は科挙よりも上位におかれるほどだった。 だがそれも最初だけで、結局の所は宋の様な科挙絶対制に回帰してしまう。 国立学校の学生しか受験ができないというきまり自体は残されたが、学校の授業は完全に形骸化し、単に「科挙の3段階試験の前に、国立学校の入試が3段階追加されただけ」とみなされる様になった。 つまり明朝では、科挙は入学試験3つ+本試験3つという極端な多重試験体制になり、「ミスを犯した受験者を各段階でひたすら振り落とし、数を減らす」という方向に進化?していく事になった。 こうした傾向は明の科挙制度をほぼそのまま温存した清にもバッチリ引き継がれ、更にエスカレートして国立学校での定期テスト、また「覆試」という再テストがあちこちに挟まれる様になった。 これらはぶっちゃけ人数を減らす以外のなんの目的も持っておらず、「テストのためのテストじゃねーか!」と非難を受けたが、実際そうでもしないと人数を絞り切れなかったのである。 しかしここまで倍率が上がってくると、合格者も本来望まれているはずの「儒教の天才」とか「政治の天才」とかよりも、テストでの得点力に特化した様な「受験の天才」に偏りがちになってしまう。 また試験自体の硬直化に加えて、人事面でも「合格時の成績による序列」がより重んじられる様になって、トップ合格者層とそれ以外がほぼ切り離されてしまうなど、やっぱり明らかな硬直化がみられた。 なので科挙の厳格化・高度化が進む一方、そこから上がってくる人材の質はむしろ低下の傾向もみられた。 特に高級官僚として重要な資質である倫理観の低下はひどいもので、科挙においても大臣クラスが絡んだ大規模不正が摘発されたりといった深刻な不祥事も発生している。 加えて明・清朝ともに中期以降は財政難が深刻だったため、「捐納(えんのう)」(※)で地位を金で買った官僚も混ざりまくり、全体の質の低下に拍車がかかった。 更に官僚への実質的な罰金制度(*9)である「捐復(えんぷく)」などが整備された事で拝金主義も蔓延し、いよいよもって退廃が進んだ。 ※「捐納」って何? 率直に言えば買官、つまり「金で官職などを買う事」を指す。 そんなんアリか!と思われるだろうが、理屈的にはあくまで「国家の危機なので私財を提供します!」と自主的にお金を差し出した人に対して、国が「国を想うその態度はすばらしい!徳がある!徳がある人には高い地位についてもらおう!」と感心して官職に任ずる、という形式をとっているのでセーフ…セーフ? 常時受け付けている訳ではなく、基本的に大規模災害や戦争などに際して臨時で行われる制度だが、明でも清でも財政が悪化するとほぼ常態化した。 但しこの方法で官僚になっても出世には制限がつき、どうがんばっても正規進士の様な大臣クラスまでは昇る事ができない。 + 後期科挙関連の有名人 「劉基」 元・明の人。1311年生まれで、1333年に進士及第。 明を建国した朱元璋に「我が張良」と呼ばれた希代の名軍師で、字の伯温の名で知られている。 元末の科挙に合格して官職についたが、上司と衝突して故郷に戻っていた所を朱元璋に招聘された。 朱元璋の軍師として外交から軍政、戦略戦術まで幅広い指導を行い、また時には自身で部隊も指揮して、ついに彼を皇帝の座まで登らせた。 その絶大な功績にも関わらず、謙虚で公正無私な人物であり、明の建国後は数年間王朝の基礎固めに奔走したのち、宰相職を何度も打診されながらこれを断り隠棲した。 死後も明建国のヒーローとして人気を集め、当時から現代にいたるまで小説や演劇の主人公として親しまれている。 かの三国志演義が成立したのは明の時代だが、その主要人物である諸葛孔明のキャラ造形は明らかにこの劉基を元ネタにしていると言われており、いわば孔明の「中の人」でもあったりする。 「王守仁」 明の人。1472年生まれで、1499年に進士及第。 儒教の異端ともいえる「陽明学」の創始者で、一般には王陽明として知られる。 父も科挙合格者(しかも状元)というエリートofエリートな生まれだったが、彼自身は父ほど科挙向けのタイプではなく、合格は少し遅れた上に成績も低かったので地方官からの出発となった。 その代わり、「国防問題に対処するには軍事学も必要」と武術や兵法も極めており、兵隊を集めての勉強会が趣味だった。 現場においては大いに功績をあげ、特に軍事面では科挙官僚にも拘らず明時代を通しても最強クラスの実力を有した「哲人将軍」。 1519年に勃発した10万の兵を擁した大規模反乱(寧王の乱)で少数の手勢と寄せ集めの寡兵をもって驚異的な機動戦を展開し、わずか3か月で鎮圧するなど特筆すべき戦果を挙げている。 民政面でも優秀で、反乱鎮圧後の復興や失業対策等も見事に処理している。 剛直だが誠実な人物であり、当時の朱子学が「机上の儒学」となっている事を憂いて、実践を重んじた陽明学を唱えた。 中国では邪学扱いされたが、比較的自由に学問が出来た日本では「知と行動は不可分である」「真摯に実生活を生きる事で人間が生来秘めている善性を発展させよう」という教えは大名から庶民まで受け入れられ、人気のある学者だった。 「張居正」 明の人。1525年生まれで、1547年に進士及第。 13代隆慶帝時代の末期に権謀術数を尽くして派閥抗争を制すると、自身が守役となっている14代万暦帝を即位させ、主席大学士(宰相)として実権を掌握する。 その強引な手法と露骨な権力者指向は各方面から反感を買ったが、政治家・財政家としては卓越した手腕を発揮し、多方面にわたる政治改革によって内憂外患に苦しむ明朝を見事に立て直した。 但しあまりに出来過ぎた人物であったためか、その元で育った皇帝は見事にニート化した。 「袁崇煥」 明の人。1584年生まれで、1619年に進士及第。 明代末期、17代崇禎帝の時代に国防の要となった名将。「この時代の諸葛孔明」と言われたと言えば、どんだけ高評価された人物か分かるだろう。 同じく明末期の名将孫承宗の下で経験を積み、明の北から絶えず攻撃をかけてくる後金(後の清)との戦いで活躍した。 大砲の運用や要塞防御といった大規模な戦術を得意とし、寧遠城の戦いでは清の太祖ヌルハチに生涯唯一の敗戦を味わわせた。 だが彼に手を焼いた後金が朝廷へ離間の計をしかけたため、あっさり引っかかった崇禎帝によって謀反人として処刑されるという悲劇的最期を迎えてしまう。 「畢ゲン」(ゲンは機種依存文字で、本来の表記は沅) やっぱりホモじゃないか(憤怒) 「林則徐」 清代の人。1785年生まれで、1811年に及第。 アヘン戦争の関係者として、世界史の教科書にも必ず登場する有名人。 この時代では珍しい潔癖・有能な官僚で、地方官時代にアヘンの流行を問題視して根絶に取り組み、それが評価されてアヘン密輸入を取り締まる大臣とされた。 着任後はそれまでの総督と違って商人からの賄賂を一切拒絶し、外国商人の密輸アヘンの強制処分を断行。更には外国商人に対して禁輸法の遵守、及びその誓約書の提出を命じた。 しかし鬼畜ブリカスイギリス商人だけはこの命令に従わず、マカオへ籠城して軍事力によって措置を覆そうとする。 こうして始まったアヘン戦争では、初戦の海戦で完敗を喫したものの、衰えぬ戦意で香港の戦力を増強して本格的な戦いに備えた。 だがこれを見たイギリスが優勢な海軍力を活かして首都近郊の港湾を直接制圧する手段に出たため、ビビった政府によって解任されてしまった。 「傅善祥」 清代の人。1833年生まれで、1853年に及第。 科挙の歴史において初めての女性の状元。ここまで真面目に記事を読んできた方なら「え?科挙って受けられるの男だけじゃなかった?」と思ったかもしれないが、ごあんしんください。彼女は正規政府ではなく、反乱勢力「太平天国」によって行われた「新時代の科挙」の合格者なのだ。 太平天国はキリスト教をはじめとした西欧の文化・制度に強い影響を受けた集団であり、その一環として女性にも科挙の道を開いたのである。 彼女自身は学者の家系に生まれ。高度な教育を受けたインテリであり、状元にふさわしい学識の持ち主ではあったが、同時にものすごい美人でもあったので、太平天国の裏ボスこと楊秀清が愛人として傍におくためにトップ合格させたのでは?と不名誉なうわさが立ったという。 「李鴻章」 清代の人。1823年生まれで、1840年に及第。 父を含めた親戚・縁戚に科挙合格者がずらりと並ぶエリート&お金持ちな家庭の出身。 清後期の大反乱「太平天国の乱」において師匠・曽国藩の下で民兵軍を率いて活躍し、官僚としての出世ルートに乗る。 その後は曽国藩の地位を引き継ぐ形で清の中枢を担う高官となり、西太后の信任を得て外交、軍事、政治と様々な分野で辣腕を振るった。 郷紳の出で科挙合格者という「中国的システム」の粋とも呼べる人物だが、同時にそのシステムの時代遅れっぷりも理解しており、西洋の制度や技術の取り込みを図る「洋務運動」を強力に推進した。 日本では『蒼穹の昴』に登場する超カッコイイ李鴻章が有名だが、実は現代中国では「反革命派の売国奴」という評価が長く定着していた(最近は現実的な政治家として再評価も進んでいる)。 <終焉> とまあそんな感じで長きに渡り受け継がれてきた科挙も、清末にもなると明らかに寿命が近づきつつあった。 そして西欧諸国との力の差が痛感される様になると、その文化や技術を導入しようとする「洋務運動」が活発化。 この時期に「科挙の内容を根本的に変え、西学(西欧の科学や工学)を導入しよう」という一大変革も試みられたが、周辺からの大反対で結局頓挫してしまう。 隋から数えて1300年の時間の中で科挙は中国王朝の統治システムと深く一体化していて、大規模な方向転換や廃止はあまりに難しかったのである。 結局科挙は清の末期も末期、立憲君主制に移行した1905年まで続く事になる。 前年に最後の科挙が行われ、同年9月2日に廃止が決議された。 そして科挙の代わりとして諸外国のそれを模した学校制度が導入されたが、最早そこから上がってくる人材を待つほどの体力は清にはなかった。 それどころか、科挙が廃止された事で、 科挙を目指して勉強していた各地方の受験生、つまりエリート達が将来を失い、職を求めて各地の軍閥へ合流 地方の実情が中央に伝わりにくくなって、地方の窮乏&過疎化が進行 科挙合格という中央からの「飴」が無くなった事で、地方が中央のコントロールを受け付けにくくなる などといった弊害が続々と現れ、むしろ清の寿命を更に縮める事にすらなった。 【文化としての科挙】 1300年にも渡って中国人の生活に大きく関わり続けた科挙は、中国の社会や文化に大きな影響を残している。 宋代以降の中国で、ある程度の教養がある人なら一度は科挙合格を目指すか、何らかの形でその業界に関わるのが普通だったので、「科挙合格を目指したがダメだった人」や「地方試験まで合格したけど、中央試験に合格できなかった人」はそこら中にゴロゴロしていた。 具体的には 「家庭教師・私塾経営者」 受験者人口が数十万人~数百万にも及ぶという事は、つまりそれに見合う数の教師が常に必要とされているという事で、教師の需要は常に大きかった。 「受験参考書ライター」 同様に科挙のための参考書もまた広く流通していて、これの編纂にあたるのもまた彼らである事が多かった。 「作家」 徹底した文章試験である科挙を目指していた彼らは、当然それなりの文章力を持っていた。 これを活かして小説や脚本を書く作家になる人も多く、中国における文芸史は彼らの存在抜きには語れないほど。 「医者」 意外な事に、医者というのもまたメジャーな進路の一つだった。 教養があって古書に通じているという事は、つまり医学書や薬学書なども読めるという事であり、識字率が決して高くない時代にあってはそれだけでアドバンテージとなった。 「学者」 この場合の学者とは基本的には儒学者or史学者の事だが、数学者や天文学者、暦学者や科学者などといった特殊なルートに進むものもいた。 また在野の儒学者になると、その学識がすっっごい有名になった場合国から逆指名で招聘される事もあったので、そういう意味では人生の一発逆転を賭けたルートでもあった。 「胥吏(しょり)」 下級役人である胥吏だが、性質上読み書きの能力は必須であったため、勉強で得たその技能を活かして胥吏へと転向する者も多くいた。 「官僚や軍人の私設スタッフ」 幕職、幕僚、幕友などと呼ばれる職で、地方官や軍官僚の下について、実務の補佐や下部組織との折衝にあたる「私設秘書」のお仕事もまたメジャー。 収入は時代や赴任先、また雇い主との関係などによって様々だが、運が良ければかなりの収入と名声が得られる事もあり、コネがあればこれを望む人も結構いたらしい。 「マフィア」 更にあまり大きな声では言えないが、中国における裏社会……つまり「社」「会」「幇」の様なヤクz……特殊な団体もまた有力な就職先だった。 民衆に対して公権力とはまた別の次元で大きな影響力を持っていた彼らだが、公権力とも裏で接する関係上、その身内に官僚に近いキャラを持つ者がいると色々と便利なのである。 「地方の名士」 科挙においてそれなりの所まで進めたという事自体、地方社会においては一種のステータスだった。 それだけ学識のある人物という事で市民からも尊敬を受けられたし、地元有力者にとっても後進の教育や地方官との折衝を担ってくれる貴重な人材とみなされていたのである。 また科挙官僚である地方官にとっても「輿論(よろん)」、つまり地方での評判は自身の考課に思いっきり関わってくるため、それを主導できる彼らは決して無視できない存在だった。 それに官僚予備軍だった彼らは、庶民に比べればまだ「支配者側の論理」に理解があるため、団体交渉役の相手としてはむしろ望ましい存在でもあった。 結果、彼らは各地方において「郷紳(きょうしん)」と呼ばれる階層を形成し、官と民の中間に位置する折衝役として独自の地位を占める様になっていった。 ……などなど、要するに社会のどこにでも元関係者がいたといって良い程である。 そう、科挙とは中国人にとって単なる人材登用システムではなく、立身出世の手段で、地域と中央・上と下をつなげるネットワークで、出版・受験ビジネスの中核で、学術教養の中心で、文学のフロントラインで……つまりは一つの「文化」そのものだった。 受験に縁のない様な階層の人々であっても、地元のまとめ役である郷紳やマフィア、役所手続きや裁判などを通じて、その存在は常に意識されるものだったのである。 一番身近な例としては、麻雀の役の名前とかをみると、今にまで残るその影響力がわかりやすいかも。 あえてこの存在の大きさを現代的に例えるなら、ニュースサイトのメニューに「政治」「経済」「エンタメ」「科挙」「スポーツ」の順で並ぶのが定番になるぐらい、とでも言えばいいだろうか。 ※ 追記:修正は「五経」+「四書」を全文暗記したのちにお願い致します。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 コメントログ なるほど伝説の92とかブレンパワードの時みたいなかんじなのね -- (名無しさん) 2022-07-22 23 51 58 学問の大切さを知っていながら、自然科学が発達せず西洋文明に大きく遅れをとったのは、やはりこの制度に一因があるんだろうか -- (名無しさん) 2022-07-23 15 39 44 ↑7 李徴は典型的な「エリートの中の半端者で、上見て絶望して、大人物ぶろうとして失敗した」慶応三田辺りの意識高い系みたいなもんだからな。 -- (名無しさん) 2022-07-23 15 39 46 マギの錬紅玉のお付きのアイツも独白見る限りコレ突破したらしいし本当にバケモン級のエリートだったのか…… -- (名無しさん) 2022-07-23 16 08 57 後期科挙の合格率0.004%って現代日本の宝くじで三等以上が当たる確率に相当する。要するに「無い」とほぼ同義の倍率な訳でよく受験者数自体の減少が起きなかったなとは思う。 -- (名無しさん) 2022-07-25 11 56 19 記事にも書いてあるけど途中まででも地元のちょっとした役人になるくらいは出来るから -- (名無しさん) 2022-07-25 13 20 18 んーなんか前半部分がだいぶいじられたけど、なんかトゲトゲしくなったのと削られまくったのでこれ戻してもいいかな・・・・?やっぱwikiの性質的に「予備知識がない人でも楽しく・読みやすく」しときたいんだが・・・ -- (名無しさん) 2022-07-25 21 41 00 ホモの人はその説明だけで足りるんか? -- (名無しさん) 2022-07-26 16 23 28 なんか前半部分の記述が変な削られ方して文の繋がりが不自然になってるな 前の文の方がボリューム多くて読みやすかった… -- (名無しさん) 2022-07-26 21 41 54 個人的な見解やけど前のがええと思う -- (名無しさん) 2022-07-26 21 57 10 総合相談所含め特に反対意見もなかったので、編集された方には申し訳ありませんが記事の差し戻しを行いました。今後は大きな改定を行いたい場合には掲示板やコメント欄などで相談していただけますと幸いです。 -- (名無しさん) 2022-07-27 20 00 28 「珍しく」有名な状元として挙げられる文天祥も有能だから歴史に残った訳じゃないのが無情。 -- (名無しさん) 2022-08-24 19 38 33 有名人の部分に鍾馗は…はいれない人か? -- (名無しさん) 2022-09-12 20 59 27 ↑10 -- (名無しさん) 2022-09-26 14 39 54 ↑11紅玉のお付きが受けた科挙もいつの時代の科挙がモデルなのかはわからんからな、案外唐初期くらいの簡単だった頃の科挙の可能性もある↑2鍾馗は半分伝説の人物みたいなもんだからなあ -- (名無しさん) 2022-09-26 14 44 11 なんか冒頭の難易度の例えにハーバードが入ってるけど、アメリカの一流私立大学への入学ははかなりの割合でコネか寄付金かスポーツ推薦だぞ... -- (名無しさん) 2022-12-25 20 17 58 大学共通テストで何故か科拳と誤植された -- (名無しさん) 2023-01-14 16 53 11 倫理を身に付けて云々、は素晴らしいけれどもその試験がカンニングとの戦いの歴史か…試験ってなんなんだろうか、と考えてしまう内容だった -- (名無しさん) 2023-01-16 08 43 49 ↑2そこから武科挙なるものの実在を知り民明書房感溢れる語感に圧倒された… -- (名無しさん) 2023-01-22 21 09 12 ↑「科拳」それは科挙の進士たちが自衛のために生み出した拳法が始まりと言われる中国武術であるby民明書房 -- (名無しさん) 2023-02-06 22 28 49 今でも中国の高考(大学受験共通試験)での省トップ合格者は「状元」と呼ばれるくらいには根付いた文化 -- (名無しさん) 2023-04-17 14 37 43 科挙がこれだけ詳しく書かれてると武挙の方も気になるな -- (名無しさん) 2023-05-11 16 31 20 めちゃくちゃ言いおる<追記:修正は「五経」+「四書」を全文暗記したのちにお願い致します -- (名無しさん) 2023-05-11 20 53 52 韻文で詩のセンスが問われるってのは説得力あるよう文章をまとめる力ってとこかね -- (名無しさん) 2023-05-23 20 06 41 ちなみに、今日は科挙が廃止された日 -- (名無しさん) 2023-09-02 13 42 21 試験を評価の基準にする都合上、どうしても合格者が富裕層に偏ってしまいがちだし、なんなら実務能力との剥離も起こってしまうし、不正が多発するリスクもある。とはいえ、どんなに頭が良くて学問に通じていようが家柄を理由に政治の世界から門前払いを食らってしまう、そんな中近世の封建社会的システムから脱却しようとする努力は確かに感じられたりもする。例えばうちの国だと、ご存じあの二宮尊徳(金次郎)も小田原藩の幕臣として動く際、百姓の生まれという自身の家柄に何かと足を引っ張られてたって話だし、そう言った類のしがらみを払拭するにはこういった物が必要だったんだろうなと思ったり -- (名無しさん) 2023-09-28 11 14 11 貢院ググってみたら狭過ぎて笑った。頭も体も超人じゃなきゃ無理な試験だなあ -- (名無しさん) 2023-10-31 21 05 20 唐代(奈良時代)の阿倍仲麻呂は科挙を受けたのだろうか、日本人としては何となく気になるところ -- (名無しさん) 2023-11-30 01 39 54 ↑科挙に合格した記録が残っている、唯一の日本人だったと思う 阿倍仲麻呂 -- (名無しさん) 2023-11-30 22 12 42 今回の騒動を機に久しぶりに読みに来ちゃった。SNSでバズったことがあるのも納得の面白さ。この項目に限らず中国史関連の話は良項目が多いので、何らかの形で残ってくれるといいなあ。 -- (名無しさん) 2024-03-16 15 31 22 名前 コメント すべてのコメントを見る