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imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (k32.gif) Step1 計算技法のウソ 分数計算のできない高校生や大学生がおおぜいいます。 だから、どこでも補修授業をやっています。 しかし、成功した話を聞いたことがありません。 従来の指導法の誤りに気づいていないのです。 だから、最初からやり直しても、努力が無駄になります。 過ちの繰り返しになるからです。 交換法則:従来の交換法則とは全く違います。 小学3年生でも、整数の四則計算をしているうち、自然と 分数計算や中学数学の b 負数計算 /b を習得します。 計算を簡単にするための法則ですから3年生でもできるのです。 例1:3-6-(2-8) これは中学生の問題です。 ところが、小学校の3年生にもできるのです。 なぜなら、(3+8-6-2=3)となるからです。 例2:3÷6÷(2÷8) 上記の引き算を割り算に変えた問題です。 普通は、これは分数計算の知識がなければ無理とされます。 ところが、分数の知識のない3年生でもできるのです。 なぜなら、(3×8÷6÷2=2)となるからです。 新・交換法則によって、簡単な式に直せるのです。 例1:最終的に(2-3)となれば、(-1)とします。 例2:(2÷3)となれば、(2/3)と分数にします。 違いは、それだけです。 要するに、交換法則によって途中の計算を簡単にするのです。 負数の計算も分数の計算も、整数の四則計算に直すのです。 だから、3年生でもできるのです。 これは、計算技法だけの問題ではありません。 文章題の指導も同じです。 従来の算数や数学の指導法は間違っていたのです。 しかし、生徒たちはウソとは知らずに、学習に励みます。 成績が上がらなければ、全て自分の責任と思い込みます。 ところが、全て指導陣の無知によるものだったのです。 信じられない方は、これからの話を読む必要はありません。 - A href="http //don.jp/ezform107/4215/form.cgi " 問い合わせ /A ←httpをクリックしてください。
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「メタメタの日」a×b=b×a―交換法則について(3) 3×4=4×3 上の式を見たら、たいていの人はあたりまえだと思う。 何故イコールが成り立つのかと理由を問われたら、だって両辺が(という用語を使うか、左も右も、と言うかの違いはあっても)どっちも12じゃないかと答えるか、かけ算では交換法則(という専門用語を忘れていなければ)が成り立つから、と答えるだろう。 さらに、左辺の3と右辺の3は同じか、と問われたら、同じに決まっているじゃないかと答えつつ、何か落とし穴があるのか、だから数学は嫌なんだと不審感を顔に浮かべるだろう。 確かに、3×4=4×3であるように、3=3であり、4=4である。 しかし、×の左(前)にある左辺の3は「かけられる数」と言い、×の右(後)にある右辺の3は「かける数」と言う(同様に、左辺の4は「かける数」、右辺の4は「かけられる数」)と、小学2年の秋に教わったことになっているが、覚えている人は少ないだろう。(「かけられる数」は、後に「被乗数」、「かける数」は「乗数」と教わる。) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 しかし、「かける数」という言葉はまだしも、「かけられる数」という言葉は、たいていの人は忘れているだろうし、言葉は忘れていなくても、3×4のいったいどっちが「かけられる数」で「かける数」かは途惑うだろう。 「掛ける」という言葉を「掛け算」の意味で使うことは昔からあったが、「かけられる数」という言葉は、明治時代にmultiplicandの訳として「被乗数」という用語が作られてから教科書や学校では使われるようになった。しかし日常生活では馴染みがない。おまけに「掛ける」とはどういう動作かわからない。(私の解釈は「「掛ける」のココロ」) そんな事情があるから、3×4=4×3の左辺の3と右辺の3には、「かけられる数(被乗数)」と「かける数(乗数)」という違いがあると言われてもピンとこないのは当然だと思う。 しかし、かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。 つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。 左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 そう言われて、3×4=4×3という式を見直しても、やはり左右の3や4にそんな違いがあるとは思えない。どう見ても同じ3であり、4である。 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。(「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号) そして、現在の日本の算数教科書のかけ算の導入は、遠山の考えの線に沿っている。 被乗数・乗数という用語は、×記号の左右の数の単なる呼び名としか思えない場合もある。ところが、×の左右のどちらを被乗数・乗数とするかは、19世紀の欧米では、左を被乗数、右を乗数とする解釈が大勢であったが、20世紀になると逆の解釈が大勢になったという変化があった(日本では、19世紀後半に欧米から教わった通りに、今でも×の左が被乗数、右が乗数だが)。 詰まるところ、被乗数・乗数の区別は、乗法が同数累加の簡便算として生れた母斑かもしれないと思えてくる。 被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。 30=2×3×5 のように、素因数が3つ以上ある場合に、因数を被乗数・乗数に区別することは無意味である。であるならば、 6=2×3 と素因数が2つの場合にも、被乗数・乗数を区別することは無意味であろう。 かけ算の2つの数について、被乗数・乗数という意味を捨象して、因数×因数と理解する行き方がある。かけ算は、被乗数を乗数回累加することではなく、2つの因数から1つの積を決定する演算と理解する(2つの因数から積の数値の決まり方は、2つの因数の数だけ縦横2次元にドットを並べたアレイ図のドット数となる)。 現代中国の小学数学(日本の算数)のいくつかの教科書がこの方式である。(掲載したのは、人民教育出版社小学教室編著『九年義務教育六年制小学教科書 数学第三冊』17,18頁、2001年) つまり、 3×4=4×3 の交換法則の理解は、次の2通りとなろう。 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 (同数3×累加数4=同数4×累加数3) 乗数3×被乗数4=乗数4×被乗数3 (累加数3×同数4=累加数4×同数3) (2)因数3×因数4=因数4×因数3 (1)の左右の辺は異なる事態を表しているが、結果(積)が等しいから、等号が成立している。 (2)式の数は、(1)式の数の被乗数・乗数の意味を捨象して、数をさらに抽象化している。左右の辺で表された事態は同一の事態であり、表記の仕方が異なるだけである(結果は当然等しい)。 つまり、伝統的な(1)の交換法則の式を抽象化したのが(2)式ということになるが、逆に(1)を具象化すると、次の(3)式になる。 (3)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 (3)は、遠山啓らの数学教育協議会が1950年代後半から提唱した「量の理論」に基づく式である。「数」についての交換法則ではなく、具体的な「量」についての交換法則だから、例えば、以下のようになる。 1人あたり3個×4人分=1人あたり4個×3人分 3km/h×4h=4km/h×3h 単価10円×500個=単価500円×10個 1匹あたり8本×3匹=1匹あたり3本×8匹 いずれも左右の辺が表している事態は異なるが、かけ算の結果(積)が等しいから、等号が成立している。 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 ●●● 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●●=●●● ●●● ●●● ●●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●●=●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。 しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(さやえんどう型で、さやの外枠を外すことができないから、アレイ図のようにさやの数と1つのさやの中の豆の数を交換して見ることができないということになる。)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年) つまり銀林さんは、「1人あたり3個×4人分」の式の数量を入れ替えて、「1人あたり4個×3人分」と書くと違った状況になるから、量のかけ算では交換法則は認められないと考えるようだ。 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出) つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。 遠山さんは数教協の実質的な初代委員長(小倉金之助さんが発足時の委員長)、銀林さんは2代目委員長で、去年まで委員長だったのが小林道正さんだが、小林さんの考えはずっと鮮明である。 3個/皿×4皿=12個 4皿×3個/皿=12個 上のどちらの式も正しいとする。(小林道正『数とは何か』46頁、2012年、ベレ出版) この考え方は、私たちがネットでずっと言い続けてきたものだ。 社会では、 「単価×個数」の式も、「個数×単価」の式も、 「速さ×時間」の式も、「時間×速さ」の式も、 「密度×体積」の式も、「体積×密度」の式も、 両方の式が使われている。 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 (乗数3×被乗数4=乗数4×被乗数3) だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 ここまでブログ本体。
https://w.atwiki.jp/proper/pages/39.html
「メタメタの日」a×b=b×a―交換法則について(3) 3×4=4×3 上の式を見たら、たいていの人はあたりまえだと思う。 何故イコールが成り立つのかと理由を問われたら、だって両辺が(という用語を使うか、左も右も、と言うかの違いはあっても)どっちも12じゃないかと答えるか、かけ算では交換法則(という専門用語を忘れていなければ)が成り立つから、と答えるだろう。 さらに、左辺の3と右辺の3は同じか、と問われたら、同じに決まっているじゃないかと答えつつ、何か落とし穴があるのか、だから数学は嫌なんだと不審感を顔に浮かべるだろう。 確かに、3×4=4×3であるように、3=3であり、4=4である。 しかし、×の左(前)にある左辺の3は「かけられる数」と言い、×の右(後)にある右辺の3は「かける数」と言う(同様に、左辺の4は「かける数」、右辺の4は「かけられる数」)と、小学2年の秋に教わったことになっているが、覚えている人は少ないだろう。(「かけられる数」は、後に「被乗数」、「かける数」は「乗数」と教わる。) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 しかし、「かける数」という言葉はまだしも、「かけられる数」という言葉は、たいていの人は忘れているだろうし、言葉は忘れていなくても、3×4のいったいどっちが「かけられる数」で「かける数」かは途惑うだろう。 「掛ける」という言葉を「掛け算」の意味で使うことは昔からあったが、「かけられる数」という言葉は、明治時代にmultiplicandの訳として「被乗数」という用語が作られてから教科書や学校では使われるようになった。しかし日常生活では馴染みがない。おまけに「掛ける」とはどういう動作かわからない。(私の解釈は「「掛ける」のココロ」) そんな事情があるから、3×4=4×3の左辺の3と右辺の3には、「かけられる数(被乗数)」と「かける数(乗数)」という違いがあると言われてもピンとこないのは当然だと思う。 しかし、かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。 つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。 左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 そう言われて、3×4=4×3という式を見直しても、やはり左右の3や4にそんな違いがあるとは思えない。どう見ても同じ3であり、4である。 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。(「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号) そして、現在の日本の算数教科書のかけ算の導入は、遠山の考えの線に沿っている。 被乗数・乗数という用語は、×記号の左右の数の単なる呼び名としか思えない場合もある。ところが、×の左右のどちらを被乗数・乗数とするかは、19世紀の欧米では、左を被乗数、右を乗数とする解釈が大勢であったが、20世紀になると逆の解釈が大勢になったという変化があった(日本では、19世紀後半に欧米から教わった通りに、今でも×の左が被乗数、右が乗数だが)。 詰まるところ、被乗数・乗数の区別は、乗法が同数累加の簡便算として生れた母斑かもしれないと思えてくる。 被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。 30=2×3×5 のように、素因数が3つ以上ある場合に、因数を被乗数・乗数に区別することは無意味である。であるならば、 6=2×3 と素因数が2つの場合にも、被乗数・乗数を区別することは無意味であろう。 かけ算の2つの数について、被乗数・乗数という意味を捨象して、因数×因数と理解する行き方がある。かけ算は、被乗数を乗数回累加することではなく、2つの因数から1つの積を決定する演算と理解する(2つの因数から積の数値の決まり方は、2つの因数の数だけ縦横2次元にドットを並べたアレイ図のドット数となる)。 現代中国の小学数学(日本の算数)のいくつかの教科書がこの方式である。(掲載したのは、人民教育出版社小学教室編著『九年義務教育六年制小学教科書 数学第三冊』17,18頁、2001年) つまり、 3×4=4×3 の交換法則の理解は、次の2通りとなろう。 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 (同数3×累加数4=同数4×累加数3) 乗数3×被乗数4=乗数4×被乗数3 (累加数3×同数4=累加数4×同数3) (2)因数3×因数4=因数4×因数3 (1)の左右の辺は異なる事態を表しているが、結果(積)が等しいから、等号が成立している。 (2)式の数は、(1)式の数の被乗数・乗数の意味を捨象して、数をさらに抽象化している。左右の辺で表された事態は同一の事態であり、表記の仕方が異なるだけである(結果は当然等しい)。 つまり、伝統的な(1)の交換法則の式を抽象化したのが(2)式ということになるが、逆に(1)を具象化すると、次の(3)式になる。 (3)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 (3)は、遠山啓らの数学教育協議会が1950年代後半から提唱した「量の理論」に基づく式である。「数」についての交換法則ではなく、具体的な「量」についての交換法則だから、例えば、以下のようになる。 1人あたり3個×4人分=1人あたり4個×3人分 3km/h×4h=4km/h×3h 単価10円×500個=単価500円×10個 1匹あたり8本×3匹=1匹あたり3本×8匹 いずれも左右の辺が表している事態は異なるが、かけ算の結果(積)が等しいから、等号が成立している。 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 ●●● 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●●=●●● ●●● ●●● ●●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●●=●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。 しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(さやえんどう型で、さやの外枠を外すことができないから、アレイ図のようにさやの数と1つのさやの中の豆の数を交換して見ることができないということになる。)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年) つまり銀林さんは、「1人あたり3個×4人分」の式の数量を入れ替えて、「1人あたり4個×3人分」と書くと違った状況になるから、量のかけ算では交換法則は認められないと考えるようだ。 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出) つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。 遠山さんは数教協の実質的な初代委員長(小倉金之助さんが発足時の委員長)、銀林さんは2代目委員長で、去年まで委員長だったのが小林道正さんだが、小林さんの考えはずっと鮮明である。 3個/皿×4皿=12個 4皿×3個/皿=12個 上のどちらの式も正しいとする。(小林道正『数とは何か』46頁、2012年、ベレ出版) この考え方は、私たちがネットでずっと言い続けてきたものだ。 社会では、 「単価×個数」の式も、「個数×単価」の式も、 「速さ×時間」の式も、「時間×速さ」の式も、 「密度×体積」の式も、「体積×密度」の式も、 両方の式が使われている。 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 (乗数3×被乗数4=乗数4×被乗数3) だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 ここまでブログ本体。
https://w.atwiki.jp/learnfromx/pages/77.html
「形式不易の原理」とは 自然数で成り立つ性質・法則が、より広い範囲でも成り立つよう、数や演算を構成することをいいます。 小学校での学習 4年で、交換法則・結合法則・分配法則を、□や△や○といった記号の式で表すとき、それぞれの記号に入る値には、制限があります。例えば、かけ算を含む場合、かける数は整数に限られます。 5年で、小数の乗法を学習したら、4年で学習した3つの法則の式に立ち返って、成り立つことを確認します。分数の乗法(6年)も、同様です。 それと別に、演算決定を行う際の根拠にも、形式不易の原理が利用されることがあります。それは、小数や分数を含む文章題で見られます。「1mが80円のテープを2.3m買ったときの代金は、何円になりますか」という問題に対して、「2m買った」だったら、80×2と立式できます。問題文は「2.3m買った」なので、80×2.3とします。 このように、整数でも小数でも同じとしていいのは、「1mのねだん×長さ=代金」という言葉の式で表されるからです。この例は演算の意味と形式不易の原理|算数用語集によりますが、量に対して使うべきではないという批判もあります(数学教育 数と量)。 算数を超えると 交換法則・結合法則・分配法則がすべて成り立つのは、複素数までです。 複素数の拡張により構成した、ハミルトンの四元数は、交換法則が成り立ちません。またケーリーの八元数は、結合法則も不成立となります。
https://w.atwiki.jp/proper/pages/25.html
メタメタさんのblog「メタメタの日」より 「a×b=b×a―交換法則について(3)」から関係部分だけ抜粋 http //ameblo.jp/metameta7/entry-11800156726.html かけ算のイメージ(第12回) 3×4=4×3 上の式を見たら、たいていの人はあたりまえだと思う。何故イコールが成り立つのかと理由を問われたら、だって両辺が(という用語を使うか、左も右も、と言うかの違いはあっても)どっちも12じゃないかと答えるか、かけ算では交換法則(という専門用語を忘れていなければ)が成り立つから、と答えるだろう。さらに、左辺の3と右辺の3は同じか、と問われたら、同じに決まっているじゃないかと答えつつ、何か落とし穴があるのか、だから数学は嫌なんだと不審感を顔に浮かべるだろう。 確かに、3×4=4×3であるように、3=3であり、4=4である。 しかし、×の左(前)にある左辺の3は「かけられる数」と言い、×の右(後)にある右辺の3は「かける数」と言う(同様に、左辺の4は「かける数」、右辺の4は「かけられる数」)と、小学2年の秋に教わったことになっているが、覚えている人は少ないだろう。(「かけられる数」は、後に「被乗数」、「かける数」は「乗数」と教わる。) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 (中略) かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 (数行略) 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。(「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号)そして、現在の日本の算数教科書のかけ算の導入は、遠山の考えの線に沿っている。 (中略) 3×4=4×3 の交換法則の理解は、次の2通りとなろう。 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3(同数3×累加数4=同数4×累加数3) (2)因数3×因数4=因数4×因数3 (1)の左右の辺は異なる事態を表しているが、結果(積)が等しいから、等号が成立している。 (2)式の数は、(1)式の数の被乗数・乗数の意味を捨象して、数をさらに抽象化している。左右の辺で表された事態は同一の事態であり、表記の仕方が異なるだけである(結果は当然等しい)。 (中略)逆に(1)を具象化すると、次の(3)式になる。 (3)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 (3)は、遠山啓らの数学教育協議会が1950年代後半から提唱した「量の理論」に基づく式である。「数」についての交換法則ではなく、具体的な「量」についての交換法則だから、(中略) いずれも左右の辺が表している事態は異なるが、かけ算の結果(積)が等しいから、等号が成立している。 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●● =●●● ●●● ●●● ●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●● =●●●● ●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。 しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(中略)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年)つまり銀林さんは、「1人あたり3個×4人分」の式の数量を入れ替えて、「1人あたり4個×3人分」と書くと違った状況になるから、量のかけ算では交換法則は認められないと考えるようだ。 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出)つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。(中略) 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 (ここまでblog記事の引用) 以下関係するコメントから重要な論点を引用。 http //ameblo.jp/metameta7/entry-11800156726.html#cbox 2 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono1) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 正しい。 しかし、「かける数」という言葉はまだしも、「かけられる数」という言葉は、たいていの人は忘れているだろうし、言葉は忘れていなくても、3×4のいったいどっちが「かけられる数」で「かける数」かは途惑うだろう。 当たり前。ただ「3×4」と書いただけでは「どちらが乗数でどちらが被乗数かは明らかでない」。 小学校で算数を習ったときは「被乗数×乗数」としただけのこと。 【重要】だからといって「3×4も4×3もどちらも同じ。」というのはトンデモ。 然様なことを主張する思考停止した連中には以下の質問をしたい。 1)「どちらも同じ」の「同じ」とは如何いう意味か? 2)3×4や4×3と同数累加の関係はどう付けるか? 注)ひとつの数式表現に2つ以上の意味を付与することは(敢えてそう断らない限り)してはならない。 このことは数学または広く自然科学の議論をするときの原則である。 これがお分かりにならない方は「掛け算の順序」について意見を述べる資格はない。 かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 まったく正しい。 そう言われて、3×4=4×3という式を見直しても、やはり左右の3や4にそんな違いがあるとは思えない。どう見ても同じ3であり、4である。 指摘が非論理的である。「違いがあると思えない。」という根拠が書かれていない。 3と4の順序が異なるではないか。「そんな違い」がある。 nomisuke 2014-03-20 20 29 38 3 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono2) (上の続き) 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。 (「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号) これがまったく事実であるなら、確かに遠山はおかしなことをしたのだと思う。 ただ好意的に言うならば「一つ分×いくら分」という言い方によって「一つ分」に対する「いくら分」をハタラキの数と(そのハタラキを数学的に明示せずに)意識したかったのではないか。これは想像である。 被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。 30=2×3×5 のように、素因数が3つ以上ある場合に、因数を被乗数・乗数に区別することは無意味である。であるならば、 6=2×3 と素因数が2つの場合にも、被乗数・乗数を区別することは無意味であろう。 当たり前。ただし貴殿の書き方はおかしい(又は意図的に過ぎる)。 「被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。」 ではなく 「被乗数・乗数という概念が不要な場合があることは、素因数分解の場合にはっきりする。」 とすべきだろう。もし貴殿のような言い方をすれば 「被乗数・乗数という概念がいかなる場合にも必要であることは、饅頭3個5皿の場合にはっきりする。」 という非論理的言い方も許されることになる。これは 「被乗数・乗数という概念が必要な場合があることは、饅頭3個5皿の場合にはっきりする。」 とすべきなのは言うまでもない。(続く) nomisuke 2014-03-20 20 31 32 5 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono4) (上の続き) 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●● =●●● ●●● ●●● ●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●● =●●●● ●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(さやえんどう型で、さやの外枠を外すことができないから、アレイ図のようにさやの数と1つのさやの中の豆の数を交換して見ることができないということになる。)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年) これは(何処かに明記された)銀林の考えか?メタメタさんの考えか? 何れにしろ意義がある。要するに「(1)も(3)も左右の辺の表わす「事態」は異なるが、(1)はアレイ図の合同という説明がつくのに対して、(3)は「然ういう」簡便な説明が思いつかない。其れ故に~」という議論ではないか。これは「思いつかないから」ちがう。と言っているに過ぎない。非科学的である。(続く) nomisuke 2014-03-20 20 36 01 6 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono5) (上の続き)【今回のコメントの中心的部分】 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出)つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。 これは正に小生が上に書いた批判に答えたのではないか。「正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。」というのは理解が浅い。きちんと論理的な道筋に沿った議論だ。そう理解しないと遠山がトランプ配りを持ち出した理由は理解出来ないだろう。斯く言う小生も「今回の貴殿の解説」を読んでやっと「遠山が何故トランプ配りなどという屁理屈を持ち出したのか」が理解できた。貴殿が今回書かれたこういう文脈で持ち出したのであるのだから「屁理屈」でも「こんな面倒なこと」でもない。筋が通っている。また、「貴殿が今回書かれたこういう文脈で持ち出したのであるのだから」遠山のトランプ配りにそれ以上の意味を探してはならない。(それ以上の意味に用いる=「掛け算順序否定派」の連中がやっていること。) 分かったこと:遠山が「トランプ配り」を持ち出した正しい文脈。掛け算順序否定派の連中はその文脈を無視して単に何処かで読んで知ったこととして「トランプ配り」を持ち出しているだけだから「ハナシが通じない」。思考停止しとるから当然のこと。 nomisuke 2014-03-20 20 39 58 7 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono6) (上の続き) (中略) 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 駄目だ。根拠なしである。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 駄目だ。根拠なしである。 nomisuke 2014-03-20 20 42 27 8 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 これが正しく「論理的」な考え方。これ以外は非論理的であろう。 nomisuke 2014-03-20 21 11 37 11 ■Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) nomisukeさん 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 すると、タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くと、 3本/匹×8匹 と解するということですか。 メタメタ 2014-03-20 22 49 58 18 ■Re Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) メタメタさん 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 すると、タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くと、3本/匹×8匹 と解するということですか。 小生は、貴殿の「提案」 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 とすればよい。」 には何の「数学的根拠」もない故採用する必要なし。正しい交換法則は 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 である。と述べたまで。 「タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くとき」どう解釈するかというハナシはしていない。が。貴殿がお望みなので解説する。タコ3匹の足の数は 1当り量=8本 いくら分(ハタラキの数)=3 で 8×3 だ。交換法則を使うと 8×3=3×8 もしどうしても右辺を量の演算と思いたければ 8本×3=3本×8 でよい。ただし3本はタコの足ではない。単に3本という「本数」だ。コレこそ貴殿等の好きな「抽象化」であるよ。タコのことは忘れ給え。笑。 nomisuke 2014-03-20 23 25 19 28 ■Re Re Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) nomisukeさん 「3本はタコの足ではない」 了解です。 朝日新聞の「ハナマル先生」で、3×8の式を書いたら生徒がいたら、黒板に3本足のタコの絵を書いた先生は間違っているということで意見が一致しました。 次は、3×8の式を書いた生徒は、3匹×8本/匹の意味で書いたのであり、この式を数学的に間違いだとする理由はどこにあるのか、と議論に入れます。 3×8=24 でタコの足の総数を24本とする計算のどこにも数学的な不都合はありません。 メタメタ 2014-03-21 01 28 08 32 ■蛸の足 次は、3×8の式を書いた生徒は、3匹×8本/匹の意味で書いたのであり、この式を数学的に間違いだとする理由はどこにあるのか、と議論に入れます。 いや入れないな。其の前に まづ3×8がどういう意味で書かれたのかはその式からは推測出来ないことは承知していることをお断りする。したがって「3×8だけを見て」「この式を数学的に間違いだとする」かどうかの議論は(少なくとも小生にとっては)無意味である。 んで。3匹×8本/匹について議論する前に 8本×3 等について正しい結論を出すべきだね。 トランプ配りのように数え方を変えて議論するのも意味無し。以下蛸の足8本をセットとして数える場合の式について述べる。 小生の意見(=正しい結論)は以下の通り。 8本×3 ◯ 3本×8 ❌ 8×3本 ❌ 3×8本 △(m×3=m+m+mとしたのなら❌)(3×m=m+m+mとしたのなら◯) 四番目のものは◯の場合があるから◯とは言えない。 これ以上付け加えることはないが、上の意味の掛け算において3×8も8×3もどちらでも同じ(阿呆な連中故「どっちでも同じ」という言葉遣いをする(笑))というのはトンデモであることはしつこく言っておく。 nomisuke 2014-03-21 18 09 10 77 ■Re Re 奇妙な算数限定ルール Sparrowhawkさん 小学校でも中学でも一般社会でも ☆:かけ算とは1あたりからいくら分を求める計算であるとし,(その計算を)「1あたり×いくら分」と表記するとき「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い まったくその通り。(詰まらんケチのつかんように表現を勝手に改めたが御容赦いただきたい)。 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではないと主張する「掛け算順序否定派」の連中の論拠は、これまで観察した所 1)「1あたり×いくら分」と表記するのはローカルルールだから。 又は 2)数学の仕組みとして、「2×8本」も「8本×2」もどちらも同じであるから。 のどちらかであろう。 1)はそもそも☆で言っている事を「論理的に」理解していない。 そう反論されると2)を持ち出す。ところが「2)が正しく☆は間違い」とする事自体「数学の仕組み」に則っていない。 即ち1)を主張するのは「非論理的」なことと「論理的」なことの区別のつかぬ連中。2)を主張するのは「数学の仕組み」における論理性が理解できぬ連中。どちらもどうしょうもない。 「教師が考えた「小学生のためのルール」を全小学生に強制している。」 というシュプレヒコールだけが空っぽの空間に谺する。 nomisuke 2014-03-24 07 59 17 78 ■Re Re Re 奇妙な算数限定ルール nomisukeさん もうひとつあります。 「1あたり」は「1匹あたり」と解釈しないことも可能である。いわゆる「トランプ配り」と言ってきたものです。 nomisukeさんもコメント18でこの考え方をご理解いただけたものと、私がコメント28で朝日新聞報道のハナマル先生の教え方の間違いについて「意見の一致」をみたと書いたものです。 この観点を落とされたのは、単なるミスなのか、今までの数年間の議論をきちんとフォロウされていないのかのどちらかでしょう。 (以下略) メタメタ 2014-03-24 13 30 01 79 ■Re メタメタさん メタメタさん 「この観点を落とされたのは、単なるミスなのか、今までの数年間の議論をきちんとフォロウされていないのかのどちらかでしょう。」 小生が(貴殿との対話が始まった時点で)その観点に引導を渡したことをお忘れか?貴殿もそれを諾としたではないか。 1)以上に「明後日の方向」を向いた観点故すっかり忘れておった。というのが正直な所。 「掛け算順序否定派」の連中のチマチマした「非論理的」論拠を網羅的に分類して承知するほど酔狂ではない。「今までの数年間の議論」といっても1)と2)そして今回御指摘のあった3)の繰り返しだろうがな。こちらから見ればその繰り返しに過ぎん。 それはさておき。「もうひとつあります。」という以上これで全部だろうな? 文句が出んように、付け加える。御指摘に感謝する。 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではないと主張する「掛け算順序否定派」の連中の論拠は、これまで観察した所 1)又は 2) 又は 3)トランプ配りとして考え「1当り」を「蛸一匹当り」と考えない場合は「2本×8」となる。 の何れかであろう。 これでよろしいか。文句はないかな?笑。 んで。この3)も1)と同様☆で言っている事を「論理的に」理解していないだけ。3)を主張するのも「非論理的」なことと「論理的」なことの区別のつかぬ連中である。よおく御覧なさい。☆では 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い と言っているのである。 nomisuke 2014-03-25 01 17 04 80 ■追記(ホソク説明) ホントに分からんのかもしれんと心配になった。(メタメタ氏以外の読者もおられるかもしれん)。 よろしいか。☆では 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い と言っているのである。トランプ配りをして蛸の足を切って配り直しても 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではない とどうして言える?以前はお分かりであった(左様なお返事をいただいた)ハズであるが、今回は(笑)お分かりにならんのか? 小学生でも分かる理屈(ロンリ)であるゾ。 お分かりであれば「分かった」 お分かりでなければ「分からん」 間違っていると思うのであれば「何処がどう間違っているか」お返事いただきたい。 nomisuke 2014-03-25 01 25 18 82 ■トランプ配り フォロウしとらんワケではない所か、そんじょそこらの「掛け算順序否定派」より余程「トランプ配り」の意味が分かっていることを書いておく。もっともこれは貴殿に御教示いただいたことだ。 2×3=3×2 はアレイ図で説明できるが 2本×3=3本×2 を直接「一つ分×いくつ分」の意味で説明するのは難しかった。銀林はできないと思っていた。そこで遠山が「トランプ配り」を考えれば 上の交換法則も「一つ分×いくつ分」の意味で説明できるとした。もっとも「直接的説明」とは遠山も言っていなかった。しかしアレイ図に書かなくても説明できるとした。 「トランプ配り」の位置付けはこうであった。 それを分かりもしない連中が「トランプ配りで考えると」 2×3 も 3×2 もそもそも同じ事(笑)それ故 2本×3 も 3×2本 もそもそも同じ事(笑)などとトンデモ解釈に誤用し始めた。これが「掛け算順序否定派」の現状。まったく非論理的。まったくのトンデモである。 nomisuke 2014-03-25 01 58 17
https://w.atwiki.jp/learnfromx/pages/125.html
文献情報 Chapin, S. H., O Connor, C. and Anderson, N. C. Classroom Discussions―Using Math Talk to Help Students Learn, Grades K-6, Second Edition, Math Solutions (2009). http //www.amazon.co.jp/dp/1935099019/ http //books.google.co.jp/books?id=2NX4I6mekq8C(「書籍のプレビュー」で本文が読めます) 乗法の交換法則をめぐる討論 3-4頁に書かれているのは、乗法の交換法則に関する、小学校3年生の授業です。先生は「かけ算の式における数の順序は答えに影響を及ぼすか?」と質問し、子どもたちの出す例をもとに、「どちらの数が先にあっても、答えは同じ」を導きます。 討論の中で、2つの意見が出ました。Eddieの意見は、「5つの袋にリンゴが2つずつ」と「5つの袋にリンゴが2つずつ」を比べると、順序に意味があるという主張になります。それに対しTiffanyは、それら2つの場面は別だけれど、答え(リンゴの総数)は同じであり、順序は重要ではないと主張します。 教師は2人の意見をそれぞれ整理し、この討論をまとめています。その際、「2つの式(5×2と2×5)は、違った場面を表すのに使えないっていうの?」とTiffanyに質問しています。この発問から、交換法則により5×2=2×5あるいは□×△=△×□が成り立つとしても、ある場面を表す式が、□×△でも△×□でもいいとする考え方は、先生の持つねらいでも、クラスで共有したい内容でもないことが伺えます。 外部リンク かけ算の順序を授業にすると~イランとアメリカ かけ算の順序を問う授業
https://w.atwiki.jp/laneldwiki/pages/34.html
FAFS) 母音を変換(アプラウトする)ことで反対語を作ることができる AIUEO→IEAUOで反対語が作れる Lua) 例えば? FAFS) MI(私)→Me(あなた)とか Lua) 嘘!! FAFS) だから母音変換法では一単語にウマなんですよ まぁTaでもMeでもんですね
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web ページから目についたものを少しづつコピーして収集してコメントする。 交換法則 3×4=4×3 に意味があるのは,右辺と左辺で式の意味が異なるからこそである。(左辺は3+3+3+3を表す掛け算の式で,右辺は4+4+4を表す掛け算の式(反対でもよい))。これを理解しておるのかおらんのか判然とせぬが「どっちも同じ」と主張して「上のような理解は子供を正しいやり方・考え方から遠ざける」とネゴトを言うものも在れば,一方でこれが理解できずにタワゴトと批判のための批判を繰り返す連中も在る。 1 黒木玄 Gen Kuroki @genkuroki 2014年4月18日 例の「小二で掛算の交換法則を教えるのに、 掛算の順序を強制する教え方」は子供を正しいやり方・考え方から遠ざける教え方わかりやすい典型例として有用。小学校の算数を利用した非科学的なやり方の強制はものすごくたくさんある感じ。何がどうなっているんだか。 掛け算に順序を考えない限り交換法則には意味がない。それを「非科学的なやり方の強制」というお粗末。もし「強制」しているという事実があるのであれば、「強制している」という点のみにおいて批判すべきこと。掛け算順序とは何の関係も無い。わかっていて書いているとしたらこの者は数学的考え方に慣れていない善良なひとたちを騙しているコトになる。 2 積分定数 @sekibunnteisuu 2014年5月10日 画像は、日本数学教育学会 基礎・基本をおさえた算数科授業づくりのポイント小学校2年 p132 格子状にならべて3×4も4×3も同じになることが視覚的に明白に分かる図を書きながらあくまで両者を区別するあほらしさ。 pic.twitter.com/agoFItddGA 画像は 3×4=4×3 という(それぞれの計算結果として与えられる両辺の数が等しいという)交換法則が明白に分かる図を書いたというだけのこと。 3×4=4×3の右辺と左辺の区別がないなら「交換法則」ということばも要らない。つまり3×4と4×3を区別して「はじめて」交換法則ということばに意味がある。 交換法則ということばを用いながらあくまで両者を明白に同じものだとするあほらしさ。 (注)掛け算順序批判派の大半はこれと同じ「あほらしい」まちがいを犯して気付いていないだけ。 3 黒木玄 Gen Kuroki@genkuroki 2013年11月19日 #掛算 【再】掛算の順序にこだわる教え方を擁護するような人達には画像のような教え方(実在!)を小学校六年生相手にすることへの賛否を明確に述べてもらいたいです。この情報の拡散と賛否を明らかにさせる方向への誘導に御協力をお願い致します。 pic.twitter.com/mxBd2Pn6K1 掛け算の順序に関わるのは,画像の文章中 「ただし,x×8 が 8×x になっている場合は「8円のノートが x 冊」という意味になってしまうので問題文とは合わない。」 という部分のみ。ツイート主の挑発に乗って,それ以外の部分について「「画像のような教え方を小学校六年生相手にすることへの賛否を」述べる必要は無い。「掛け算順序」憎しから「怪しからん」「おかしい」と言いたくなった人たちには「どの部分がそうなのか」を明確に述べてもらいたいですな。 (以下はあるブログからの引用)。 なお当ブログ筆者は,関数関係を y=f(x) と書く事が慣例となっていることから y=x×8 を推奨したい。しかし「画像にもはっきり書かれているとおり」x×8=y でも y=x×8 でもよいだろう。 あと、黒木ちゃんにも下のような教え方(架空!)を小学校六年生相手にすることへの賛否を明確に述べてもらいたいです。 数量関係を表す式を立てるとき,左辺と右辺が反対になっている児童がよくいる。それを正しいと考えている児童もいれば,間違いだと考えている児童もいるため,その扱いにきちんと触れておきたい。1のアでいえば,x×8=y でも y=x×8 でも正しいが,「1冊 x 円のノートを 8 冊買い,代金が y 円であるときの関係式」という文章の流れからいけば,x×8=y を推奨したい。また x+x+x では x が一つ分,3 がいくつ分にあたるため,それを x×3と表しても 3×x と表しても同じであるから, 8×x=y でも y=8×x でも正しい。したがって,1冊 x 円のノートを 8 冊,1冊 y 円のノートを 3 冊買ったときの代金を z 円として,x と y と z の関係を式に表すときは z=x×8+3×y も文句なく非の打ち所が無い式と考えるべきである。 4 黒木玄 Gen Kuroki@genkuroki 2014年6月1日 黒木玄 Gen Kuroki @genkuroki #掛算 要するに、私は、子供達が「4×3=3×4などがなりたつので、4人に3個ずつ配るときの正しい式が4×3か3×4のどちらであるかなんてどうでもよいことである。だから、その点に関しては先生の話を聞かなくても良い」と論理的かつ合理的に考えることを擁護したいと思っています。(2014年6月1日) 「4×3=3×4などがなりたつので、4人に3個ずつ配るときの正しい式が4×3か3×4のどちらであるかなんてどうでもよいことである。だから、その点に関しては先生の話を聞かなくても良い」 というのは決して論理的でも合理的でもない。騙されんように。 「4×3=3×4などがなりたつので、4人に3個ずつ配るときの正しい式が4×3か3×4のどちらであるかなんて結果を出す上ではどうでもよいことである。だけど、その点に関しては先生の話を聞いていたら、そもそも4×3=3×4などがなりたつことを示すときに4人に3個ずつ配るときの正しい式を4×3か3×4のどちらかにしないと意味のない説明になることに気づいた」 というのが論理的かつ合理的に考えるひとの認識だ。「4×3=3×4などがなりたつので、4人に3個ずつ配るときの正しい式が4×3か3×4のどちらであるかなんてどうでもよいこと。だから、その点に関しては先生の話を聞かなくても良い」なんて考えて合理的だと思っているのは昔からよくいる「考えの足りない」チンピラマセガキだけである。このツイート主はそういう子どもを擁護することでヒーローになりたいのではないか。困ったものだ。 ツイート主には上のどちらが論理的かつ合理的に考えることに当たるのかを明確に答えてもらいたいです。 5 黒木玄 Gen Kuroki @genkuroki 2014年6月10日 #掛算 明確にかつ論外にトンデモである「x円のノート8冊の代金を8×xと書くと8円のノートがx冊の意味になる」とか「2×8ならタコ2本足」ような教え方を否定しているだけ。これらは否定されて当然。 ここに書いていることはいたってまともで正しい。このようにバッサリ切り捨てているのがカッコウイイと感じるひとも中にはいよう。しかしこの人物の論理展開はときどきズルい。 上のような発言で「論外にトンデモである〜のような教え方を否定しているだけ」とするのがゴマカシであって,〜の部分には「明らかにトンデモ」なもの(たとえば上のツイートのような例)を書いておく。そして(その良し悪しは別として)「まともな考え方」たとえば x円のノート8冊の代金をx×8と書くとき,y円のノート8冊の代金はy×8と書くのがふつうで当然。(あえて8×yと書く理由はまったくない)。xやyが数値のときは混乱するから、どちらでもよいとしないほうがよいし、一般社会でもそうしている。 というような考え方についても「論外にトンデモ」とであると切り捨てる。その理由はコメントしない。「ぼくが前から何度も書いているように〜」と書いて胡麻化す。正面からの議論はしない(論理的にできないから)。そういう意味で発言に注意が必要なツイート主である。ああ言えばジョーユウみたいに弁が立つだけに余計注意が必要。上のツイートの場合は 「x円のノート8冊の代金を8×xと書くと8円のノートがx冊の意味になる」とか「2×8ならタコ2本足」ような教え方を否定しているだけ。 というところだけ「文字通りに」読んでおけば実害はない。またこの部分はまともな内容である。
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小学校教師は、「かけ算順序問題」に関する数学クラスタの批判に耳を傾ける必要はない Makoto Natsume @Batesonian 氏による一連のツイート。 いつもの暴論。数学クラスタからの反論には、(面倒くさいから)応じない可能性あり。 とのことだが、コメントしたい。数学クラスタからではないが反論を含む。 2012-12-18 00 05 56 なぜ数学クラスタが「かけ算の順序」問題に強くこだわるのか、私も疑問に思った。RT @gorotaku コメント欄がものすごい。皆なんでこの問題にそんなに食いつくものか、そっちの方が僕には興味あるhttp //t.co/wFFiOe5D http //t.co/pDiiuk5i 半数はモンペみたいなもん。もう半数は中二病の遅れた発症者。昔から(たぶん今でも)中学生や高校生のころ「先生の言うことはおかしいです」って噛みついて悦に入る「数学が得意な」ませたガキがいる。大抵は目立ちたがりだけのませガキ(中二病患者)なだけだが。それにしてもそういうコトが堂々とできるには数学が学年でずばぬけてなくては恥ずかしい。そういうことがしたくて堪らなかったのに(高校時代はあんま数学の成績がよろしくなくて)機会を逸し大人になって発病した連中だ。genkurokiってーのが一応大学のスーガクのセンセエで噛みつき犬だもんでその威を借りて大きな声を出しているという連中も多い。 2012-12-18 00 26 00 1)数学とはその原理にさえ忠実であれば何をしても許される学問であり、その自由が独特の「美」を生み出す。そして(芸術と同じく)その「美」を感じることができる少数者と、できない多数者が存在する。数学クラスタとは、この「美」を感じ愛することができる、幸運な少数者を指す。 そんなに不当に持ち上げる必要はない。そりゃあ「数学に楽しさをまったく感じない」人々も多いし、それが大多数だろう。そういう人々に比すれば数学がちょっとはトクイな連中だ。なかには数学愛好家もいるかもな。そんでも数学者から見ると所詮井底の蛙。「自分は数学に美を感じられる」選ばれた少数者だと思い込んどる(または思い込みたい)連中に過ぎない。単なる中二病。数学を愛好するのは結構。「自分は数学に美を感じる」と思うのも結構(数学者から見ると恥ずかしい台詞)。問題なのは連中のエリート意識(小学校や中学校の先生より「自分が上」という意識)だ。 2012-12-18 00 35 44 2)数学クラスタは数学美を深く愛している人たちなので、この「美」を損なうであろう(いかなる)措置も生理的に嫌悪してしまう。乗法の交換法則は数学的自由(および数学美)を保障する重要な原理であるため、この法則を制限しようとする試みを、数学クラスタは(ほとんど本能的に)攻撃し続ける。 ちがう。連中は「交換法則」の意味が分かっとらんのだよ。(交換法則を習っていようがいなかろうが事実として)交換するからどっちでもええちゅうのが連中の考え。つまりは数学の基本的な「美しさ」が分かっていない。 2012-12-18 00 44 27 3) かけ算順序問題に発言している数学クラスタの態度に「ストーカー的激烈さ」を感じるのは、彼らの(数学美に対する)盲愛ゆえであろう。だから彼らの発言には(理性的な彼らにしては珍しく)感情的な表現が目立つ。 これもちがう。(数学美に対する)盲愛からじゃあないね。数学美を理解しとる(つもりの)自分カワイサからでもない。単なる中二病。 2012-12-18 00 53 40 4) 数学クラスタにとって数学は「美」であるなら、(数学に美を感じない)非数学クラスタにとって数学は何だろう?当然「実」である。良い学校や良い企業に入るには数学技術の取得が必要とされている。だから学校や企業といった「実」を手に入れるために、多くの人は退屈だと思いながら数学を学ぶ。 2012-12-18 01 04 07 5) 生活レベルでも数学知識がないと不便な事は多い。例えば「15%引き」の意味が分からなければ、スーパーで賢く買い物できない。10年ほど前、その当時勤めていた会社のOLに仕事を依頼した時のこと。「エクセルの表に前年比の項目を追加して、%で表示しておいてね」と私は気軽に頼んだ。 2012-12-18 01 11 37 6) すると彼女は「パーセントって何ですか?」と訊いてきた。「え、君たしか経済学部出身だったよね。それでパーセントが分からない、、、」と私が驚いた時の、彼女の(消え入るようなほど)恥ずかしそうな素振りが今も忘れられない。 2012-12-18 01 20 20 7) その後彼女はサラ金の会社に転職したと聞いたが、「%」すら理解できないまま、「%がすべて」の世界で働くのはさぞつらいだろう、と同情してしまう。実際彼女のように、小学校高学年で習う「比/割合」を理解できず、中学以降の数学に挫折する子供は非常に多く、全体の3−4割を占めるようだ。 初耳。勉強になった。 2012-12-18 01 31 46 8)だから「比/割合」でつまづく子供を減らすことは、良き労働者や良き生活者を育成する上で最重要課題の一つであり、算数/数学教育でもここ半世紀、様々な解決方法が導入されてきた。かけ算の順序を固定するのもその一環。 「かけ算の順序を固定するのもその一環」ちゅうのが本当かどうかわしゃワカラン。それに「順序を固定するのは社会的非常識であって「算数でつまづく」人々にウソを教えることである」と連中は叫んでいるのだよ。強く言うておきたいのはそういう「社会で困る・困らない」の話ではないちゅうこと。小学校二年生であればすべての子供がサンスウも「ちゃんと教えてもらって分かりたい」はず。はじめから「掛け算は2×3も3×2も同じだからどっちでもいい」なんて教わってわかるはずがない。それは「ソコソコ計算が得意な程度にサンスウがトクイなつもりでいる」(下らんドリルで先取り学習した)中二病予備軍にだけ通じるインチキな説明。そんな説明を純真な論理的思考力を失っていない子たちに強制してはならないのだね。 2012-12-18 01 41 26 9) 「比/割合」における主役は割り算だが、割り算には交換法則は適用できない。「割られるもの」と「割るもの」の位置は交換できない。数学的センスの劣る子供が(乗法で適用可能な)交換法則を除法に適用するのを防ぐために、「かけ算の順序規則」が便宜的に導入された、と私は推測している。 2012-12-18 01 48 31 10) なぜ「比/割合」でつまづく子供がこうも多いのだろうか?私の考えは単純で「論理階梯が異なるから」というもの。つまり、小学校中学年までの算数は「数を操作すること」であったが、「比/割合」は「数と数との関係を操作すること」であり、それまでより論理階梯が一段階上なのである。 2012-12-18 01 56 58 11) 「数の操作」から「数の関係の操作」への論理階梯ジャンプは、数学的センスに恵まれた者には大きな壁とはならないが、センスに恵まれない子供には(「悟り」にも似た)飛躍的進歩を必要とする。このジャンプを成功させるためには、ある程度の便宜的措置は許容されるべきではないか、と思う。 便宜的措置ではない。数学クラスタサイドから言うと、「一つ分の数×いくつ分」で全体の数をあらわすという教科書の記述は数学的に自然な考え方で教えようと言うだけのこと。これが「一つ分の数×いくつ分」でも「いくつ分×一つ分の数」でもどちらも全体の数をあらわすなんてオカシイではないか。件の「%を知らなかった」彼女もこんな教え方をされたら混乱するだろう。はじめて教わったときには「答えがちがうことはないんですか?」と訊くだろう。掛け算順序強制否定派の連中はどう説明するつもりか。「どっちでも同じだからだいじょうぶ」と上から目線で答えるにちがいない。それこそが中二病の連中のしたかったコト。 2012-12-18 02 04 45 12) だから、現場教師たちの反対がない限り、数学クラスタが何を言おうと、現行の交換法則規制を続ければ良いと思う。確かに才能ある数学クラスタのやる気を削ぐという批判は当たっているだろうが、そんな連中は10人に1人。10人に3−4人いる「落ちこぼれ」を救う方が急務だろう。(了) ちがう。以下のように訂正してもらおう。 だから、現場教師たちの反対がない限り、中二病の数学クラスタが何を言おうと、現行の交換法則規制を続ければ良いと思う。確かに才能ある(と他人から思われたい)中二病数学クラスタ予備軍のやる気を削ぐという批判は当たっているだろうが、そんな連中は10人に1人でしかもオッチョコチョイの考えなしである。(天才はもっと先までわかっている)。10人に9人いるふつうに正しく考える子供たち(たいてい理解はおそい(オッチョコチョイでないから))の正しい理解を中二病数学クラスタ発症のトンデモ思考法から守ってやる方が無論大切だろう。きちんと教えることがオッチョコチョイの子どもたちにも反省の機会を与えることになるのだ。(了)
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メタメタさんのblog「メタメタの日」より 「a×b=b×a―交換法則について(3)」から関係部分だけ抜粋 http //ameblo.jp/metameta7/entry-11800156726.html かけ算のイメージ(第12回) 3×4=4×3 上の式を見たら、たいていの人はあたりまえだと思う。何故イコールが成り立つのかと理由を問われたら、だって両辺が(という用語を使うか、左も右も、と言うかの違いはあっても)どっちも12じゃないかと答えるか、かけ算では交換法則(という専門用語を忘れていなければ)が成り立つから、と答えるだろう。さらに、左辺の3と右辺の3は同じか、と問われたら、同じに決まっているじゃないかと答えつつ、何か落とし穴があるのか、だから数学は嫌なんだと不審感を顔に浮かべるだろう。 確かに、3×4=4×3であるように、3=3であり、4=4である。 しかし、×の左(前)にある左辺の3は「かけられる数」と言い、×の右(後)にある右辺の3は「かける数」と言う(同様に、左辺の4は「かける数」、右辺の4は「かけられる数」)と、小学2年の秋に教わったことになっているが、覚えている人は少ないだろう。(「かけられる数」は、後に「被乗数」、「かける数」は「乗数」と教わる。) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 (中略) かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 (数行略) 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。(「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号)そして、現在の日本の算数教科書のかけ算の導入は、遠山の考えの線に沿っている。 (中略) 3×4=4×3 の交換法則の理解は、次の2通りとなろう。 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3(同数3×累加数4=同数4×累加数3) (2)因数3×因数4=因数4×因数3 (1)の左右の辺は異なる事態を表しているが、結果(積)が等しいから、等号が成立している。 (2)式の数は、(1)式の数の被乗数・乗数の意味を捨象して、数をさらに抽象化している。左右の辺で表された事態は同一の事態であり、表記の仕方が異なるだけである(結果は当然等しい)。 (中略)逆に(1)を具象化すると、次の(3)式になる。 (3)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 (3)は、遠山啓らの数学教育協議会が1950年代後半から提唱した「量の理論」に基づく式である。「数」についての交換法則ではなく、具体的な「量」についての交換法則だから、(中略) いずれも左右の辺が表している事態は異なるが、かけ算の結果(積)が等しいから、等号が成立している。 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●● =●●● ●●● ●●● ●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●● =●●●● ●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。 しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(中略)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年)つまり銀林さんは、「1人あたり3個×4人分」の式の数量を入れ替えて、「1人あたり4個×3人分」と書くと違った状況になるから、量のかけ算では交換法則は認められないと考えるようだ。 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出)つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。(中略) 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 (ここまでblog記事の引用) 以下関係するコメントから重要な論点を引用。 http //ameblo.jp/metameta7/entry-11800156726.html#cbox 2 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono1) つまり、3×4=4×3 の式は、3と4の数の意味も明記すれば、 被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 となる。 正しい。 しかし、「かける数」という言葉はまだしも、「かけられる数」という言葉は、たいていの人は忘れているだろうし、言葉は忘れていなくても、3×4のいったいどっちが「かけられる数」で「かける数」かは途惑うだろう。 当たり前。ただ「3×4」と書いただけでは「どちらが乗数でどちらが被乗数かは明らかでない」。 小学校で算数を習ったときは「被乗数×乗数」としただけのこと。 【重要】だからといって「3×4も4×3もどちらも同じ。」というのはトンデモ。 然様なことを主張する思考停止した連中には以下の質問をしたい。 1)「どちらも同じ」の「同じ」とは如何いう意味か? 2)3×4や4×3と同数累加の関係はどう付けるか? 注)ひとつの数式表現に2つ以上の意味を付与することは(敢えてそう断らない限り)してはならない。 このことは数学または広く自然科学の議論をするときの原則である。 これがお分かりにならない方は「掛け算の順序」について意見を述べる資格はない。 かけ算を「同数累加」で教えていた時代(1980年代半ばまで)は、被乗数は同数累加の「同数」、乗数は「累加数」であった。つまり、 3×4=3+3+3+3=●●●+●●●+●●●+●●● 4×3=4+4+4=●●●●+●●●●+●●●● ということだった。左辺の3は、●●●というモノの個数であり、右辺の3は、●●●●というモノを加えるハタラキの回数となる。モノとハタラキでは大変な違いがある。しかも、乗数(かける数)は倍数のことだから、3×4は「3の4倍」、4×3は「4の3倍」となり、明らかに左辺と右辺の意味は違う。 まったく正しい。 そう言われて、3×4=4×3という式を見直しても、やはり左右の3や4にそんな違いがあるとは思えない。どう見ても同じ3であり、4である。 指摘が非論理的である。「違いがあると思えない。」という根拠が書かれていない。 3と4の順序が異なるではないか。「そんな違い」がある。 nomisuke 2014-03-20 20 29 38 3 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono2) (上の続き) 日本の算数教育では、遠山啓が、かけ算を同数累加で「定義」することに反対し、3×4の答えを「3+3+3+3」で求めても「4+4+4」で求めてもよいと、同数累加をかけ算の答の求め方の一つにまで貶めた。 (「6×4、4×6論争にひそむ意味」『遠山啓著作集・数学教育論シリーズ5』114~121頁、初出は『科学朝日』1972年5月号) これがまったく事実であるなら、確かに遠山はおかしなことをしたのだと思う。 ただ好意的に言うならば「一つ分×いくら分」という言い方によって「一つ分」に対する「いくら分」をハタラキの数と(そのハタラキを数学的に明示せずに)意識したかったのではないか。これは想像である。 被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。 30=2×3×5 のように、素因数が3つ以上ある場合に、因数を被乗数・乗数に区別することは無意味である。であるならば、 6=2×3 と素因数が2つの場合にも、被乗数・乗数を区別することは無意味であろう。 当たり前。ただし貴殿の書き方はおかしい(又は意図的に過ぎる)。 「被乗数・乗数という概念が不要であることは、素因数分解の場合にはっきりする。」 ではなく 「被乗数・乗数という概念が不要な場合があることは、素因数分解の場合にはっきりする。」 とすべきだろう。もし貴殿のような言い方をすれば 「被乗数・乗数という概念がいかなる場合にも必要であることは、饅頭3個5皿の場合にはっきりする。」 という非論理的言い方も許されることになる。これは 「被乗数・乗数という概念が必要な場合があることは、饅頭3個5皿の場合にはっきりする。」 とすべきなのは言うまでもない。(続く) nomisuke 2014-03-20 20 31 32 5 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono4) (上の続き) 左右の辺が表している事態が異なるということでは、(1)の場合と同様だが、(1)は抽象的な数の式だから、 被乗数3×乗数4=●●●+●●●+●●●+●●● =●●● ●●● ●●● ●●● 被乗数4×乗数3=●●●●+●●●●+●●●● =●●●● ●●●● ●●●● と、合同なアレイ図でイメージすることができ、同一のアレイ図に対する分節(見方)の違いと解釈することが可能となる。つまり、被乗数を乗数に、乗数を被乗数に交換できるから交換法則が成り立つという理屈になる。しかし、(3)式は、具体的な量の式だから、左辺と右辺の異なる事態はどこまでいっても異なる事態のままで同一の事態にはならない。「1あたり量」の数値を「いくら分の量」の数値に、「いくら分の量」の数値を「1あたり量」の数値に交換することはできない。(さやえんどう型で、さやの外枠を外すことができないから、アレイ図のようにさやの数と1つのさやの中の豆の数を交換して見ることができないということになる。)こういう理屈から、銀林さんは、「1あたり量×いくら分」の乗法では「交換法則は成り立たない」と言った。(『算数の本質がわかる授業②かけ算とわり算』11頁、2008年) これは(何処かに明記された)銀林の考えか?メタメタさんの考えか? 何れにしろ意義がある。要するに「(1)も(3)も左右の辺の表わす「事態」は異なるが、(1)はアレイ図の合同という説明がつくのに対して、(3)は「然ういう」簡便な説明が思いつかない。其れ故に~」という議論ではないか。これは「思いつかないから」ちがう。と言っているに過ぎない。非科学的である。(続く) nomisuke 2014-03-20 20 36 01 6 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono5) (上の続き)【今回のコメントの中心的部分】 しかし、銀林さんの師の遠山啓は、「1人あたり3個×4人分」の状況でも「トランプ配り」を考えて「1回あたり4個×3回」と書けば「1あたり量4×いくら分の量3」の式を表せることを示した。(前掲論文、1972年初出)つまり、 1人あたり3個×4人分=1回あたり4個×3回 という形で、 1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 という「量についての交換法則」が成り立つとしたわけだが、正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。 これは正に小生が上に書いた批判に答えたのではないか。「正直なぜこんな面倒なことをしなければならないのかと思ってしまう。」というのは理解が浅い。きちんと論理的な道筋に沿った議論だ。そう理解しないと遠山がトランプ配りを持ち出した理由は理解出来ないだろう。斯く言う小生も「今回の貴殿の解説」を読んでやっと「遠山が何故トランプ配りなどという屁理屈を持ち出したのか」が理解できた。貴殿が今回書かれたこういう文脈で持ち出したのであるのだから「屁理屈」でも「こんな面倒なこと」でもない。筋が通っている。また、「貴殿が今回書かれたこういう文脈で持ち出したのであるのだから」遠山のトランプ配りにそれ以上の意味を探してはならない。(それ以上の意味に用いる=「掛け算順序否定派」の連中がやっていること。) 分かったこと:遠山が「トランプ配り」を持ち出した正しい文脈。掛け算順序否定派の連中はその文脈を無視して単に何処かで読んで知ったこととして「トランプ配り」を持ち出しているだけだから「ハナシが通じない」。思考停止しとるから当然のこと。 nomisuke 2014-03-20 20 39 58 7 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono6) (上の続き) (中略) 量についての交換法則は、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 で、良いではないか。 駄目だ。根拠なしである。 つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 でいいのではないか。 駄目だ。根拠なしである。 nomisuke 2014-03-20 20 42 27 8 ■論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) つまり、3×4=4×3 のかけ算の交換法則の伝統的な理解は、 (1)被乗数3×乗数4=被乗数4×乗数3 だが、数については、 (2)因数3×因数4=因数4×因数3 量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3 これが正しく「論理的」な考え方。これ以外は非論理的であろう。 nomisuke 2014-03-20 21 11 37 11 ■Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) nomisukeさん 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 すると、タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くと、 3本/匹×8匹 と解するということですか。 メタメタ 2014-03-20 22 49 58 18 ■Re Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) メタメタさん 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 すると、タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くと、3本/匹×8匹 と解するということですか。 小生は、貴殿の「提案」 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=いくら分の量4×1あたり量3 とすればよい。」 には何の「数学的根拠」もない故採用する必要なし。正しい交換法則は 「量については、 (4)1あたり量3×いくら分の量4=1あたり量4×いくら分の量3」 である。と述べたまで。 「タコ3匹の足の数について、3×8の式を書くとき」どう解釈するかというハナシはしていない。が。貴殿がお望みなので解説する。タコ3匹の足の数は 1当り量=8本 いくら分(ハタラキの数)=3 で 8×3 だ。交換法則を使うと 8×3=3×8 もしどうしても右辺を量の演算と思いたければ 8本×3=3本×8 でよい。ただし3本はタコの足ではない。単に3本という「本数」だ。コレこそ貴殿等の好きな「抽象化」であるよ。タコのことは忘れ給え。笑。 nomisuke 2014-03-20 23 25 19 28 ■Re Re Re 論理飛躍満載に見えるが。。。(sono7) nomisukeさん 「3本はタコの足ではない」 了解です。 朝日新聞の「ハナマル先生」で、3×8の式を書いたら生徒がいたら、黒板に3本足のタコの絵を書いた先生は間違っているということで意見が一致しました。 次は、3×8の式を書いた生徒は、3匹×8本/匹の意味で書いたのであり、この式を数学的に間違いだとする理由はどこにあるのか、と議論に入れます。 3×8=24 でタコの足の総数を24本とする計算のどこにも数学的な不都合はありません。 メタメタ 2014-03-21 01 28 08 32 ■蛸の足 次は、3×8の式を書いた生徒は、3匹×8本/匹の意味で書いたのであり、この式を数学的に間違いだとする理由はどこにあるのか、と議論に入れます。 いや入れないな。其の前に まづ3×8がどういう意味で書かれたのかはその式からは推測出来ないことは承知していることをお断りする。したがって「3×8だけを見て」「この式を数学的に間違いだとする」かどうかの議論は(少なくとも小生にとっては)無意味である。 んで。3匹×8本/匹について議論する前に 8本×3 等について正しい結論を出すべきだね。 トランプ配りのように数え方を変えて議論するのも意味無し。以下蛸の足8本をセットとして数える場合の式について述べる。 小生の意見(=正しい結論)は以下の通り。 8本×3 ◯ 3本×8 ❌ 8×3本 ❌ 3×8本 △(m×3=m+m+mとしたのなら❌)(3×m=m+m+mとしたのなら◯) 四番目のものは◯の場合があるから◯とは言えない。 これ以上付け加えることはないが、上の意味の掛け算において3×8も8×3もどちらでも同じ(阿呆な連中故「どっちでも同じ」という言葉遣いをする(笑))というのはトンデモであることはしつこく言っておく。 nomisuke 2014-03-21 18 09 10 77 ■Re Re 奇妙な算数限定ルール Sparrowhawkさん 小学校でも中学でも一般社会でも ☆:かけ算とは1あたりからいくら分を求める計算であるとし,(その計算を)「1あたり×いくら分」と表記するとき「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い まったくその通り。(詰まらんケチのつかんように表現を勝手に改めたが御容赦いただきたい)。 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではないと主張する「掛け算順序否定派」の連中の論拠は、これまで観察した所 1)「1あたり×いくら分」と表記するのはローカルルールだから。 又は 2)数学の仕組みとして、「2×8本」も「8本×2」もどちらも同じであるから。 のどちらかであろう。 1)はそもそも☆で言っている事を「論理的に」理解していない。 そう反論されると2)を持ち出す。ところが「2)が正しく☆は間違い」とする事自体「数学の仕組み」に則っていない。 即ち1)を主張するのは「非論理的」なことと「論理的」なことの区別のつかぬ連中。2)を主張するのは「数学の仕組み」における論理性が理解できぬ連中。どちらもどうしょうもない。 「教師が考えた「小学生のためのルール」を全小学生に強制している。」 というシュプレヒコールだけが空っぽの空間に谺する。 nomisuke 2014-03-24 07 59 17 78 ■Re Re Re 奇妙な算数限定ルール nomisukeさん もうひとつあります。 「1あたり」は「1匹あたり」と解釈しないことも可能である。いわゆる「トランプ配り」と言ってきたものです。 nomisukeさんもコメント18でこの考え方をご理解いただけたものと、私がコメント28で朝日新聞報道のハナマル先生の教え方の間違いについて「意見の一致」をみたと書いたものです。 この観点を落とされたのは、単なるミスなのか、今までの数年間の議論をきちんとフォロウされていないのかのどちらかでしょう。 (以下略) メタメタ 2014-03-24 13 30 01 79 ■Re メタメタさん メタメタさん 「この観点を落とされたのは、単なるミスなのか、今までの数年間の議論をきちんとフォロウされていないのかのどちらかでしょう。」 小生が(貴殿との対話が始まった時点で)その観点に引導を渡したことをお忘れか?貴殿もそれを諾としたではないか。 1)以上に「明後日の方向」を向いた観点故すっかり忘れておった。というのが正直な所。 「掛け算順序否定派」の連中のチマチマした「非論理的」論拠を網羅的に分類して承知するほど酔狂ではない。「今までの数年間の議論」といっても1)と2)そして今回御指摘のあった3)の繰り返しだろうがな。こちらから見ればその繰り返しに過ぎん。 それはさておき。「もうひとつあります。」という以上これで全部だろうな? 文句が出んように、付け加える。御指摘に感謝する。 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではないと主張する「掛け算順序否定派」の連中の論拠は、これまで観察した所 1)又は 2) 又は 3)トランプ配りとして考え「1当り」を「蛸一匹当り」と考えない場合は「2本×8」となる。 の何れかであろう。 これでよろしいか。文句はないかな?笑。 んで。この3)も1)と同様☆で言っている事を「論理的に」理解していないだけ。3)を主張するのも「非論理的」なことと「論理的」なことの区別のつかぬ連中である。よおく御覧なさい。☆では 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い と言っているのである。 nomisuke 2014-03-25 01 17 04 80 ■追記(ホソク説明) ホントに分からんのかもしれんと心配になった。(メタメタ氏以外の読者もおられるかもしれん)。 よろしいか。☆では 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違い と言っているのである。トランプ配りをして蛸の足を切って配り直しても 「1匹あたり8本の2匹分の足を2×8本と書く」のは間違いではない とどうして言える?以前はお分かりであった(左様なお返事をいただいた)ハズであるが、今回は(笑)お分かりにならんのか? 小学生でも分かる理屈(ロンリ)であるゾ。 お分かりであれば「分かった」 お分かりでなければ「分からん」 間違っていると思うのであれば「何処がどう間違っているか」お返事いただきたい。 nomisuke 2014-03-25 01 25 18 82 ■トランプ配り フォロウしとらんワケではない所か、そんじょそこらの「掛け算順序否定派」より余程「トランプ配り」の意味が分かっていることを書いておく。もっともこれは貴殿に御教示いただいたことだ。 2×3=3×2 はアレイ図で説明できるが 2本×3=3本×2 を直接「一つ分×いくつ分」の意味で説明するのは難しかった。銀林はできないと思っていた。そこで遠山が「トランプ配り」を考えれば 上の交換法則も「一つ分×いくつ分」の意味で説明できるとした。もっとも「直接的説明」とは遠山も言っていなかった。しかしアレイ図に書かなくても説明できるとした。 「トランプ配り」の位置付けはこうであった。 それを分かりもしない連中が「トランプ配りで考えると」 2×3 も 3×2 もそもそも同じ事(笑)それ故 2本×3 も 3×2本 もそもそも同じ事(笑)などとトンデモ解釈に誤用し始めた。これが「掛け算順序否定派」の現状。まったく非論理的。まったくのトンデモである。 nomisuke 2014-03-25 01 58 17