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登録日:2015/07/20 (月) 23 37 30 更新日:2022/01/09 Sun 13 02 20NEW! 所要時間:約 8 分で読めます ▽タグ一覧 ZB26 お値段以上 チェコスロバキア マスターピース 傑作 安くて軽くて強い 機関銃 軽機関銃 銃 ZB26とは、旧チェコスロバキアのブルーノ造兵廠で開発された軽機関銃である。 型番は“Zbrojovka Brno vz.26”の略であり、「1926年式・ブルーノ造兵廠設計」を表す。 チェコ軍制式名称は“LK vz.26”(LKが“Lehky Kulomet”の略で軽機関銃の意)、日本語訳すると「26年式軽機関銃」となる。 性能諸元 種別:軽機関銃 口径:7.92mm 銃身長:503mm 使用弾薬:7.92×57mmマウザー 装弾数:20/30発箱型弾倉 作動方式:ガス圧作動方式 全長:1130mm 重量:9.6kg 発射速度:550発/分 前史――機関銃と歩兵戦概略―― 第一次世界大戦における、戦死者数の爆発的増加の最大の原因は機関銃だった。 それもまぁ当然の話で、強固に防御され、備蓄の続く限り小銃弾をアホみたくぶち撒けるのが機関銃陣地というものだ。 そんなところに歩兵に追従する支援火力もなしに突っ込もうものなら、そりゃもうブラッドバス一丁上がり、ってなもので。 それを避けるためにやたらグネグネした塹壕を掘りまくったり、塹壕の争奪戦に発展したり、 英国紳士が英国面こじらせて塹壕突破用装甲付きトラクター、もとい戦車のアーキタイプを開発したり、 近接遭遇戦で散弾銃だのSMGだのシャベルだのがヒャッハーしたが、これもだいたい機関銃のせいだ。 で、軽機関銃についてである。軽、というからには軽い。少なくとも歩兵一人で持ち運べるし撃てる機関銃となる。 前の段落使って説明したのは定点防御用の重機関銃の話だから、そこんとこ間違えないように。 まあ、重機関銃というカテゴリー自体、軽機関銃の登場以降、固定式の機関銃を相対的に表したものが始まりなのだが。 ともかく、軽いのはいいのだが、登場当時の軽機関銃は「重機関銃の劣化品」という扱いだった。 なぜか?簡単な話である。人間が持てるようにしたら、発射速度だの耐久性だのがガタ落ちしたのだ。 これまた当然の話で、当時機関銃は人が持って歩くものではなく、機関銃陣地に据え付ける前提だから頑丈で強力なのだ。 まあ、そんなわけで、第一次大戦当時の軽機関銃というと、性能的にはろくなモンじゃなかった。 元祖ザクマシンガンことルイスやら、量産性以外は全領域産業廃棄物なショーシャなんかいい例だろう。 ただ、歩兵に常に随伴可能で、ポジショニングも容易な軽機関銃の登場が切望されていた、というのも事実だった。 そのため大戦終結後、各国は競うように軽機関銃を設計・開発していく。 それは、崩壊したオーストリア=ハンガリー帝国から分離独立したチェコでも変わらなかった。 ああ、ようやく解説に移れる…… 開発経緯 紆余曲折を経て独立し、国軍の早急な近代化を余儀なくされたチェコだったが、同時に重大な問題も抱えていた。 言うまでもなく予算、あるいはマネー、もしくは現ナマである。 ある人曰く「金がないのは首がないのと一緒」。名言だし事実だ。 ともかく、自国で使う兵器が強力でないと困るし、それを他所に売れれば外貨も稼げて万々歳。 輸出した国とはWin-Winな関係を築いて殺られなきゃいいよね、という具合で、 ブルーノ造兵廠のヴァーツラフ・ホレク技師を中心に、国産軽機関銃の開発が始まった。 幸運なことに、チェコは独立以前からの重工業地帯であり、優秀な兵器の開発/生産基盤はバッチリだった。 プロトタイプの製作はトントン拍子に進み、1926年にチェコ陸軍が正式採用。 国軍への充当後、予備を除く余剰品は順次海外輸出され、購入諸国からは好評をもって迎えられた。 その後も評判を聞きつけた国からの購入オファーが続き、チェコは大いに潤ったという。 性能 武器、特に近現代戦で求められる銃器の前提条件とはなんだろうか。 威力?連射速度?そりゃあるに越したことはないが、制御できないほどの反動がつきまとうのは要らん。 じゃあ何が一番大事なんだよという話だが、そりゃもう“壊れにくさ”。これに尽きる。 どんなに高性能でも、撃つたびにイカれたり不具合が出たりするようでは、持ってないのと変わらないどころか「無い方がマシ」とまで言われかねない。 本銃最大の特長もまさにそれで、当時最強の小銃弾である7.92mmマウザー弾の威力もさることながら、 シンプルなシステム構成と精緻で鳴らした工作精度から、どんな悪環境でも動くと大評判。 さらに、当時の軽機関銃では画期的だったキャリングハンドルのバレル直付により、 過熱した銃身を素手でサクッと交換し、迅速に再射撃できるという至れり尽くせりっぷり。 おまけに全備重量が10kgを切るという軽量さである。お得ってレベルじゃないですわよ奥さん。 装弾数はベルトリンク式に比べて少ないが、当時の主力歩兵銃はボルトアクションで、 そいつらの頭を抑えるのであれば弾倉式でも問題はなかった。 トップローディング式なので、アイアンサイトを中心からずらさなければならなかったが、 伏射時に再装填をスムーズに行えるので、特に問題とはされなかったらしい。 何より、ベルトリンク給弾よりも安くてシンプルかつ頑丈に作れるし。 そんなわけで、シンプルで頑丈、軽くて高威力、安価かつ高い環境耐性と、抜群の性能を見せたZB26は、 戦間期に開発された軽機関銃のマスターピースとして今なお有名なのである。 どこぞの「言うこと聞かん銃、ない方がマシンガン」にはぜひ見習ってもらいたかった…… バリエーション ○ZB26 最初期型。チェコ陸軍に配備後、予備を除く余剰品は順次海外輸出された。 ○ZB27 国内向けの改良型。銃身やボルト周りの単純化と、ガスシステムの改良が施されている。 ○ZB30 海外輸出前提のモデル。モンキーモデルかと思いきや別にそんなことはなかった。 銃身が短縮されているのが外見上の特徴。輸入国でも盛んにライセンス生産された。 ○MG26(t) ナチス・ドイツのチェコ占領時に鹵獲されたものの、ドイツ側コード。 時期的に考えて、たぶん大半はZB27。 ○MG146(j) ナチス・ドイツのユーゴスラビア占領時にry 何で呼び名変えるん?とは思わなくもないが、ユーゴ産なので若干仕様が違ったのだろうか? ○Vz52、Vz52/57 戦後に改修が行われた最終生産前期型。独自規格の7.62×45mm弾仕様。何年採用かは言うまでもなかろう。 赤い熊さんから圧力でもかかったのか、さらなる改修型の52/57ではこいつと同じ弾薬を使用する。 ベルトリンクに対応したが、この頃はまだマガジン装弾も行えた。 ○Vz59 最終生産後期型。たぶんこいつで最後だろう。使用弾薬はSVDなどと同じ7.62×54mmR弾。 部品交換で各種用途に使用可能な汎用機関銃となっている。ちなみにベルトリンク特化。 戦歴 順調に輸出され、先々で好評を得たZB26は、その性能から積極的にライセンス生産されていった。 有名なのはユーゴや中華民国で製造されたものや、イギリスで制式採用されたブレンガン。 ブレンガンはZB30をベースに英国制式弾への適合改修を行い、不具合の解消を行ったものだ。 旧英領諸国では今なお現役だったりするから凄い。 チェコやユーゴがナチスに占領されると、弾薬が同じマウザーだったこともあり、MG34の代用として使用された。 あれ、高性能なのはいいけど、生産性にお察しレベルで難があったしなぁ…… 特に武装親衛隊など、名前が勇ましい割に慢性的な装備不足だったようで、一部のエリート連中を除けば、 第二次大戦を通じて使用していたようだ。まあ、鹵獲品ってのを我慢すれば高性能だし。 あのアーリア人 ドイッチュマンセーなSSの連中が、精神・心情の面で耐えられたかどうかは少々疑問だが…… 中華民国にも輸出されたものも、日中戦争では多大な戦果を挙げ、帝国陸軍を恐怖のどん底に叩き込んだ。 なにせこちら、ただでさえデリケートなせいで、黄砂の舞う中国では故障頻発の十一年式軽機関銃。 あちら、同世代最高峰の抗環境耐性を持つ“無故障機関銃”。 ろくに撃てないポンコツ小口径機銃と、換えの弾と銃身さえあれば撃ち放題の“無故障機関銃”では、 撃ち合ってどちらが勝つかなんぞ言うまでもない。国府軍の圧勝でフィニッシュです。 そんなもんだから、中華戦線で生き残った兵士は国府軍の使っていた機関銃をひっくるめて“チェッコ機銃”と呼んでいたらしい。 それだけZB26がトラウマになってたことの証左なのだが、ホチキス機銃なんかはさすがに外観違いすぎじゃない? ZB26を生産していた太沽造兵廠などの国府軍の生産拠点を占領した時なぞ、嬉々として準制式にするくらいだったから、 上層部にも相当な脅威として認識されていたようだ。 日中戦争は総体としては割と帝国軍が押しまくっていたし、首都南京も陥落させてはいるのだが、 それまでの戦死傷者は計4万人にも上る。その苦戦の一端がZB26ではない、とは誰にも言い切れまい。 第二次大戦終結後もZB26は相変わらず現役で、国共内戦では両軍がこぞって主力火器として奪い合い、 共産党経由で北朝鮮に流れたものは朝鮮戦争でも使用されたという。 まあ、使用弾薬がソ連の支援品とは違うので、使い捨てだったとも考えられるが。 同じく共産党の支援を受けていたベトミン(後のベトコン)にも供給され、第一次インドシナ戦争に投入されたが、 これは国共内戦後の在庫処分だったようで、配るだけ配って予備部品無供給だったこともあり、 これまた使い捨てだったらしい。もったいねぇ…… 現在は最終生産型のVz59とブレンガンが現役であるのみ(基礎設計が80年前だからそれでも十分凄い)だが、 第二次大戦後にイランがライセンス生産していたものか、あるいはドサマギでどこかから横流しされたのか、 中東のゲリラを撮った写真にたまに見ることができる。 砂塵の舞う中東で、ろくな予備部品もないまま酷使され続けたためか、表層の青色塗装が剥げ落ちており、 使い込まれた兵器ならではの凄み(と渋み)を見せつけてくれる。 登場作品 ほとんどないし登場したとしてもちょい役がいいところ。あまりの古さ故か傑作機関銃なのにこのハブられっぷり、解せぬ。 小説だと「傭兵たちの挽歌」、映画だと「ワンス・アンド・フォーエバー」あたりが有名どころか。 後は「ストライクウィッチーズ零」にちょろっとだけ出てたりするが、ほとんどワンカットだし…… 追記・修正は伏射しながらお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 名前 コメント
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783: 名無しさん :2021/12/30(木) 20 23 18 HOST sp1-79-83-18.msb.spmode.ne.jp 近似世界 日本包囲網と思わぬ情勢 「まさか、そうなるとはねぇ……」 2020年代、日本を挟むように存在する太平洋の両岸には、十分に大国と言ってもいい3か国が存在する。 アメリカ、中国、そしてロシアだ。 事態は60年代の第二次国共内戦終結後まで遡る。 中国……中華人民共和国は、共産党の元、米国傀儡の民国政府を打ち倒してほぼ全土を統一したのは良いものの、その後に勃発した中ソ国境紛争やスターリン批判問題でソ連との関係が悪化。 南側では日本陣営に近い明との間で明中国境紛争が発生し、日本との関係も冷えきっていた。 この情勢下で中国は、アメリカとの関係を急速に改善していく。 アメリカとしても、ソ連の背後を脅かし日本陣営に楔を打ち込める位置に存在し、なおかつ失った筈の大人口市場が戻ってくるとあって中国を歓迎した。 その後も貿易自由化が進展するにつれ、日本陣営の巨大経済圏に対抗する為の安価な中国人労働者が欠かせない存在となっていった。 こうしてアメリカの製造業などは人件費の安い中国へと進出し、中国もまたそれを受け入れて経済を発展させていく。 90年代にソ連が崩壊して太平洋方面での影響力がほぼ消失した頃には、米中関係は蜜月と言ってもいい程だった。 しかし、その後。 イラクのサウジアラビア侵攻から始まった湾岸戦争を奇貨に、中東における日本の影響力に対抗する為にサウジアラビア駐留を始めたアメリカ。 それに対し、メッカとメディナという二大聖地がある地に異教徒の軍が居座る事を良しとしない組織は、過激派となって反欧米テロを繰り返した。 そして、2001年のアメリカ同時多発テロをきっかけに、アメリカは中東という泥沼に嵌まり込んでいくこととなる。 そんな中で、発展を続けた中国は、これまで育てた自国資本の放出先を海外に求め始めた。 しかし、近場は全て日本陣営によって固められているか、人口希薄のシベリアだった。 そこで目をつけたのが、南米。 特にアルゼンチンは、フォークランド紛争の際に中国がアルゼンチン寄りだった為、両者は急速に経済的繋がりを強めていった。 また、資源を求めてアフリカにも借款等で経済進出を進めていく。 しかし、南米において中国の影響力が高まることは、南米を自らの裏庭とするアメリカにとっては看過できない事だった。 アフリカにおいても、企業の進出にて影響力を確保していた欧州諸国との摩擦が高まっていった。 アルゼンチンが中国へと接近していく中、隣国であるブラジルはアメリカ寄りの態度を取り始める。 それに伴い、これまでの利害関係によって南米のブロック分けが始まった。 経済的な摩擦は政治的問題にも飛び火し、関税障壁や輸入停止といった措置は、人権問題等まで巻き込んで両者の対立に火を着けていった。 もはや、状況は「米中新冷戦」といっても過言ではない。 立ち直り始めたロシアも、ウクライナへの対応を始めとした東欧や黒海沿岸での対外進出や威圧的資源外交を強めていく。 アルメニア・アゼルバイジャン紛争に強く反応したトルコを始めとして、西欧諸国も中露の人権問題をしきりに政治問題化し、ピリピリし始めていた。 そして……日本は見事に盤外の存在と化した。 「いや、まさかね……米中の日本挟撃で太平洋新冷戦が起こるとは考えたけど……そうなる前に人の頭上飛び越して睨み合いが始まるとは思ってもみなかったよ」 中国は言う。 『かつて世界中を植民地として支配し、今でも自らの価値観で他国を塗り潰そうとする傲慢な西洋諸国へと対抗する為には、東洋の大国である我が国と太平洋の盟主である日本の連帯が必要なことなのです』 アメリカもこちらに手を伸ばす。 『日本とアメリカ、自由と民主主義という共通の価値観を有する我々が連携すればこそ、強権的・独裁的な政治で世界を覆わんとする国々に対抗できる。我々には日本の協力が必要だ』 ロシアはほどほどにビジネスしつつなるべくこちらに関わり合いたくないといった雰囲気で、欧州はたまに非政府のリベラル勢がうるさいだけで、国としては何事も無く付き合うだけ。 「で、どうする?」 「まぁ、焦って結論を出す必要も無いでしょ。ウチは単独でやっていけるし」 『JAXAの発表では本日、小惑星イトカワでのクラスターイオンエンジンによる軌道変更実験が成功─────将来的な隕石落下を回避する技術への期待─────』 『月面有人基地稼働にむけて、運び込まれた小型原子炉が発電を開始───月軌道プラットホームではお祝いのパーティーが───将来的な探査にむけて火星地表に設置された「酸素・メタン無人生成装置」の────』 キナ臭さを増していく世界を尻目に、日本は今日も平和だった。 784: 名無しさん :2021/12/30(木) 20 26 05 HOST sp1-79-83-18.msb.spmode.ne.jp 多少短めですが以上です。 とくに大きな戦争はありませんでしたのでそこそこ平和です()
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180:加賀:2022/12/25(日) 10 09 21 HOST softbank060088119166.bbtec.net 「取り敢えずの上海からの戦火拡大は今のところはありませんね」 「泥沼化はしたくないからな……」 「予算はどうなるんですかね……」 「それでも大陸の動きは怪しいですから……」 「……やっぱ可能性はあるよなぁ」 「ところでまだ名前を決めてないのかね?」 「……皆、思い思いの名前を付けようとするんで……」 「シンタロー!? 名前はパンジャンドラムでどうだろうか!?」 「いや、此処はカチューシャにしよう!!」 『………………………』 「こういうわけなんです」 第二次上海事件は何とか終息に向かっていた。しかし、中国軍は上海のみで動いてはいなかった。 「何!? 中国軍が太原に向かっているだと!?」 実は北支那方面軍でも上海と相互に太原を攻略しようとしていたが畑らが抑えていたので攻略は破棄されていた。しかし、中国軍は6個集団軍を主力に太原を抑えて日本陸軍第五師団が占領した大同を奪い返す勢いだった。 「直ぐに援軍を要請!! 第五師団は大同で中国軍を迎え撃つ!!」 第五師団長の板垣中将はそう決断をし北支那方面軍に援軍要請を出した。方面軍も直ぐに関東軍チャハル派遣兵団と第20師団を派遣したのである。 この戦闘辺りから中国軍は対戦車砲(3.7ミリPak36)を使用し始め参加していた村井戦車隊に大損害を与えこの戦訓が日本陸軍の戦車開発に大きく影響を与えたのである。 それはさておき、内地の参謀本部では戦闘不拡大で一致しておりこれ以上の占領地域を拡げる事は禁止すると各方面軍に通達した。 「これで何とか不拡大になってくれたら良いが……」 「最悪は陛下の不満とでも言っておきましょう。アホの奴等にはそれが一番効きますから」 だが、大陸の日本軍が止まったのは事実でありそれ以上の進撃はなかった。しかし、蒋介石は南京にいたものの直ぐに首都を漢口、重慶へと移転させ日本軍への徹底抗戦を主張したのである。 これに対して大本営は陸海軍共同での重慶爆撃を企図した。しかし、陸海軍とも最大の発進基地は上海近郊でありそこから中攻隊が出撃しても戦闘機隊は余裕で航続距離は無く、中攻隊も重慶に届いても敵戦闘機隊に迎撃されて爆撃が失敗するのは目に見えていた。 その為、陸海軍とも武漢を爆撃して蒋介石を釣り出す『百一号作戦』を立案して爆撃するも然程の効果は無く結局翌年1938年6月までは実施されそれ以降は中止された。 だが、陸海軍ともに長距離戦闘機の開発が指示されたのは何かの運命なのかもしれない。 それはさておき、華北方面では山東省の済寧を占領したところで停止した。これにより遼河油田を守備する名目も出来た。 「まぁ油が供給されるから心配に越した事はないがな」 「それに兵器の開発も急がせませんとね……」 「例の新型共通機銃は?」 「開発は完了しました。海軍では94式艦戦23型から搭載します」 陸海軍は弾薬共通の為航空機関銃から共同開発を始めていた。それが陸軍名が『ホ103 97式13.2ミリ固定機関砲』と海軍名が『97式13ミリ固定機銃』であった。本銃はアメリカのブローニングM2重機関銃をコピーして製作されていた。弾薬については陸海軍とも使用していたホ式十三ミリ高射機関砲と九三式十三ミリ機銃の13.2×96ミリ弾である。 なお、弾薬は後々に炸裂弾であるマ弾(当初は機械式信管で後に空気式信管に変更)を搭載するのである。 「これで共通弾薬の一つは解決する事になりました」 「ウム」 そして本日の会合は終了となり橋本も自宅となっている霞ヶ関離宮に戻ると玄関を掃除していた妙高が出迎えてくれた。 「会合お疲れ様です提督」 「ん。まぁいつもの報告会だからね。皆は?」 「夕食前ですからそろそろ食堂に集まると思います」 妙高に促されコートを廊下に掛けて食堂に向かうとネルソンや伊勢達が夕食の準備をしていた。 「おぅ、お疲れだなシンタロー」 「うん」 なお、今日はネルソンが赤ちゃんーー上海で保護した赤子ーーをおんぶしていた。 「今日は珍しくマリサも愚図る事はなかったぞ」 「腕が上がっている証拠だな」 「フハハハハハハ。だろう? シンタローもそう思うだろう?」 直ぐに調子に乗るネルソンだがマリサーー魔梨沙はぐずりだしたのである。慌てるネルソンに橋本は溜め息を吐きながらも交代して魔梨沙をあやすのであった。その光景は何処の家庭にでもあるような光景だったのである。 181:加賀:2022/12/25(日) 10 12 02 HOST softbank060088119166.bbtec.net 短いながらも最新話投下。 取り敢えずは航空機関銃からの機銃弾薬共通化へ。 大陸戦線も一先ずの停止に移行。その後は再度国共内戦ですかな。 名前についてはあれで合ってます。(旧作)
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335: ひゅうが :2017/02/28(火) 03 09 05 ――神崎島ネタSS 元帥の憂鬱 ――1937(昭和12)年9月20日 上海 「またか!」 そろそろこのデスクももたないな… そんなことを思いながら、ドワイト・アイゼンハワー大佐は正面の自信過剰な男が垂れ流す怒りを受け流していた。 拳を避けることができないマホガニーの領事執務机よりははるかにマシ、と自分に言い聞かせつつ。 「今月に入って襲撃は17度!わが民間人への襲撃、殺戮にいたっては数えきれないくらいだ! 領事連中は?!」 「相変わらず、防衛要請をよこすだけです。」 「二言目には日本軍は…というのだろう!」 このやりとりも数えきれないな。とアイゼンハワーはつとめて鉄面皮で飛んでくる唾を気にしないようにした。 わが陸軍がシャンハイに地歩を記して3か月あまり。 展開している兵力は当初の4万あまりから、2万ほどに減少している。 ルーズベルト政権は、今年中にこれを1万程度に縮小すると表明しているものの、それがなされたときに何が起こるのかアイゼンハワーは考えたくもなかった。 目の前の男――上海派遣軍総司令官 ダグラス・マッカーサー元帥もそれがわかっているのだろう。 そして、この黄色い大地の住人たちも。 あの第二次上海事変から1か月あまりにわたった徹底的な掃討作戦は、無数の同士討ちや誤認をはらみつつ終了した。 だが、それがもたらしたのは何だろうか? 決まっている。 怨恨だ。 ただでさえ、アヘン戦争以来傲慢極まりない欧米勢力やその尻馬に乗った東夷の蛮族への恨みをつのらせ、それが満州事変以後本格化した反日宣伝で爆発的に増幅しているのだ。 それを、航空機による軍艦撃沈という史上初の成果を引っさげた上海総攻撃で爆発させたところの中華の民はさらなる暴力で叩き潰されていた。 おまけに、上海に投入された兵力はフィリピン・コモンウェルス軍。 アメリカによる植民地支配を受ける東洋人と現地白人の混成集団だ。 彼らにしてみれば、「東夷の日帝を追いだしたのに、そこへしゃしゃり出てきた悪の植民地帝国主義者」なのだ。 それが、中国人の区別をつけられず便衣兵化した兵隊たちを狩出していったものだからたまらない。 これまでは東夷の日本人が座っていた中華に近い場所にいる怨敵の座に、わが陸軍がついたのも当然であろう… そんな、正誤ともに含んだ理解をアイゼンハワーはしていた。 実際、海外特派員やメディア経由で「虐殺」やら「テロを阻止できない事実」をさんざん非難されては神経も参る。 これまで満州事変以後の日本を好きにいっていたものの一員であるという事実は彼をはじめ、派兵された特に米本土出身の士官や兵たちを苛んでいた。 336: ひゅうが :2017/02/28(火) 03 09 37 「敵は、人海に紛れて無差別的なハラスメント攻撃を仕掛けてきております。」 アイゼンハワーはいった。 「もはや国民党軍か、共産党軍か、それともどこぞの軍閥かはわかりませんが、武威を示すことはできないのでしょうか?」 「わかっていっているだろう。」 マッカーサーは、すでに自明のことを指摘されたことで冷静になり、軽くアイゼンハワーから目をそらした。 傲慢に見えるが、これが彼なりの謝罪なのだ。 「それはできない。忌々しい『政令線』があるからな!」 旧日本領事館を転用した司令部の壁にかけられた上海周辺の地図をマッカーサーは睨みつけた。 上海市街地から20キロほど先には、直線的に引かれた赤線が描かれている。 合衆国政府から通達された、進撃限界、それを示した「政令線」である。 中華民国首都南京や国際社会への配慮を示す必要から、派遣軍はこれ以上先への侵攻を禁止されていた。 明らかにそこには、完全装備の国民革命軍がおり、そこに少なからぬ「民間人」が出入りしているというのに。 悪夢だった。 つまり、上海の平和を回復するために乗り込んできた派遣軍は、手と足を縛られたままで戦わざるを得ないのだ。 それを明らかに知っていて、下手人たちはイヤガラセを続けている。 耐え切れなくなって自分達が撤収するのを彼らは待っているのだ。 「あれさえなければ、あの国民革命軍とやらを武装解除して襲撃の根をもとから絶つことができるものを…」 「そしてわが軍は無害に見えるチャイナの人々からの悪罵と国際社会の非難を浴びるのですな…」 マッカーサーは、何もいわずパイプに葉をつめはじめた。 どうしようもないのだ。 すでに、この上海という「突破口」からチャイナへ進出した米国企業は両手の指では数えきれない。 彼らは、すでに独占の気配をみせつつあるドイツ国や、再開した国共内戦のもう片方とがっちり組んでいるソ連への対抗上、互いにドルの額を競ってこの大地へばらまいていた。 一部では技術をばらまくことすらはじまっている。 そうしないと、中華民国政府はドイツの方を向いてしまうからだった。 「まるで、たちのわるいゲイシャに入れあげるみたいですな。わが国は。」 「そのゲイシャも裸足で逃げ出すような悪女だよ。まったく付け上がりやがって!」 アイゼンハワーは肯定も否定もしなかった。 337: ひゅうが :2017/02/28(火) 03 11 21 【あとがき】――欧米なんてこわくない。だってパネー号も沈めることができたし。
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愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、満洲語名:アイシンギョロ - 満洲語の本名を名付けていない、簡体字:Template lang?、漢語拼音:Àixīnjuéluó Pǔyí=アイシンジュエルオ・プーイー、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝の第12代皇帝宣統帝(せんとうてい、1908年 - 1912年)。「最後の皇帝」として広く知られる。清朝崩壊後に日本政府および軍の支援を受け、満洲国の執政、満洲国が帝政に移行すると皇帝として即位、康徳帝(1934年 - 1945年)を名乗る。字(あざな)を「浩然」あるいは「耀之」という。 廟号は恭宗(2004年に与えられたが、公式ではない)。また、辛亥革命後の呼称としては、廃帝と国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。 略歴 Template 中国の歴史? 1906年:醇親王載灃の子として北京に生まれる 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位 1912年:退位し「大清皇帝」となる 1917年:張勲の復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位 1919年:レジナルド・ジョンストンを帝師として招聘 1922年:正妻の婉容、側室の文繍と結婚 1924年:クーデターにより紫禁城から退去 1925年:天津市内張園の日本租界に移転 1931年:側室の文繍と離婚 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問 1937年:関東軍の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とする 1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後ソ連軍の捕虜になる、婉容死去 1946年:東京裁判にソ連の証人として出廷させられる 1950年:中華人民共和国に身柄を移され政治犯収容所に収容される 1959年:模範囚として釈放され、その後北京文史資料研究委員会に勤務 1962年:李淑賢と再婚 1964年:中国共産党政治協商会議全国委員に選出される 1967年:北京で死去 経歴 生誕 1906年に、清朝の第11代皇帝光緒帝の弟である醇親王載灃と、光緒帝の従兄弟で、西太后の母方の甥の栄禄の娘である幼蘭の子として、清国(大清帝国)の首都である北京に生まれる。 第12代清朝皇帝 1900年に発生した義和団の乱を乗り越え、当時強い権力を持っていた西太后が周囲の強硬な反対意見を押し切り自ら推薦することで、1908年12月にわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝となった。即位式は紫禁城太和殿で行われ、その後溥儀は多くの宦官とともに紫禁城で暮らすこととなる。 溥儀が即位すると西太后は、醇親王を監国摂政王に任命して政治の実権を委ね、実質的な院政を敷いたものの、その甲斐もなく同年11月14日に光緒帝が崩御した翌日に74歳で崩御した。 なお、西太后と光緒帝の死亡時期が近いため、「自分の最期を悟った西太后が、当初は自らが皇帝に即位させたものの、その後は端郡王載漪の子の溥儁を大阿哥に擁立してまで廃帝に追い込もうとしたことのある光緒帝を、自分よりも長生きさせないために毒薬投与により暗殺した」とする説がある(2007年に行われた調査では、光緒帝の遺髪から大量の砒素が検出され、この説を裏附けることとなった)。 清朝崩壊と退位 その翌年の1909年初めに醇親王は、兄である光緒帝の戊戌変法を潰したとして憎んでいた、北洋大臣兼直隷総督で西太后の信頼が高かった袁世凱を失脚させ、さらに袁世凱を殺害しようとしたが、内部情報を得た袁世凱はかろうじて北京を逃れ河南省彰徳に蟄居することとなった。 その後袁世凱は、清国政府による民間資本鉄道の国有化とその反対運動をきっかけに起きた1911年10月の辛亥革命において、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で起こした反乱(武昌起義)の鎮圧を目的に、清国政府の第2代内閣総理大臣と湖広総督に任命されたものの、清国政府の不利を確信した後に孫文から自らの臨時大総統就任の言質を取るや寝返り、清国政府の要路者に政権の交代をうながし清朝を崩壊に導く。 清朝崩壊を受けて1912年1月には孫文を臨時大総統に中華民国臨時政府が成立し、同年2月に袁世凱は孫文に代わり自らを大総統とする共和制国家の中華民国(北洋軍閥政府)を設立した。これを受け溥儀は、同月に隆裕皇后と袁世凱の間で交わされた清帝退位詔書を受けて退位することとなるものの、袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」に基づき「大清皇帝」の尊号を名乗ることになり、また、引き続き隆裕皇后や多くの宦官とともに紫禁城(と頤和園)で生活することが許された。またこの頃、弟の溥傑と初対面を果たす。 その後、袁世凱は溥儀に代わり自らが「皇帝」となるべく奔走し、1915年12月12日に帝政復活を宣言して皇帝に即位した。その後1916年1月1日より年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めた。たが、北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により即位直後の同年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。 張勲復辟事件 袁世凱が死去した翌年の1917年に、対ドイツ問題で黎元洪大総統と政敵の段祺瑞の確執が激化し、同年5月23日には黎元洪大総統が段祺瑞を罷免に追い込んだものの、民国期になっても辮髪を止めないほどの保守派で、革命後も清朝に忠節を尽す張勲が、この政治的空白時に乗じて王政復古によって政権を奪還しようと、中華民国の立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、すでに退位していた溥儀を再び即位させて7月1日に帝政の復古を宣言。いわゆる「張勲復辟事件」に発展した。 張勲は幼少の溥儀を擁して自ら議政大臣と直隷総督兼北洋大臣となり、国会及び憲法を破棄し、共和制廃止と清朝の復辟を成し遂げるも、仲間割れから段祺瑞に敗れオランダ公使館に避難。最終的に溥儀の復辟は13日間で挫折した。その後中国大陸は馮玉祥や蒋介石、張作霖などの軍閥による勢力争いという、混沌とした状況を迎えることとなる。 ジョンストンとの出会い その後、溥儀の後見役的立場になっていた醇親王載灃と、西太后の側近であった李鴻章の息子で、清国の欽差全権大臣を務め、駐イギリス特命全権大使でもあった李經方の勧めによって、1919年5月から1924年までの間、紫禁城内にイギリス拓務省の役人で、中国語に堪能であったスコットランド人のレジナルド・フレミング・ジョンストンを帝師(家庭教師)として招聘し、近代的な西洋風の教育と英語の教育を受けた。 当初は溥儀は見ず知らずの外国人であるジョンストンを受け入れることを拒否していたものの、ジョンストンとの初対面時にその語学力と博学ぶりに感心し一転して受け入れることを決断した。その後ジョンストンより洋服や自転車、電話などのヨーロッパの最新の輸入品を与えられ、「洋服には似合わない」との理由で辮髪を切るなど、紫禁城内で生活をしながらも、ジョンストンがもたらしたヨーロッパ(イギリス)風の生活様式の影響を受けることとなる。 なおこの頃溥儀はキリスト教徒のジョンストンより、「ヘンリー(Henry)」というクリスチャン・ネームを与えられ、その後もこの名前を好んで使用した。なお溥儀はクリスチャン・ネームを持ったものの、クリスチャン・ネームを持つ多くの中国人と同じくキリスト教徒にはならなかった。 結婚 その後の1922年には、満洲の上流貴族の娘に生まれた婉容を正妻に、側室として文繍と結婚し、紫禁城において盛大な結婚式を挙げる。結婚後に婉容の家庭教師として北京生まれのアメリカ人のイザベル・イングラムが就任した。なお、結婚後婉容にはイングラムより「エリザベス(Elizabeth)」のクリスチャン・ネームが与えられた。 この頃溥儀はジョンストンや、清国の大阪総領事や総理衙門章京、湖南布政使等を歴任した後に1924年に総理内務府大臣(教育掛)となった鄭孝胥の薦めを受けて、紫禁城内の経費削減と近代化を推し進めるとともに、宦官の汚職や紫禁城内の美術品の横領を一掃するために、中華民国政府の力を借りて約1,200名いた宦官のほとんどを一斉解雇し、女官を追放するなどの紫禁城内の近代化を図り議論を呼んだりした。しかし、溥儀自身は中華民国内の混沌とした政情の中にあって正妻と側近、残された宦官らとともに紫禁城の中で平穏な日々を過ごした。 紫禁城追放と日本との接近 その後も中国の武力統一を図る軍閥同士の戦闘はますます活発化し、1924年10月には馮玉祥と孫岳が起こした第二次奉直戦争に伴うクーデター(北京政変)が発生し、直隷派の曹錕が監禁され馮玉祥と孫岳が北京を支配することとなった。この結果、もはや過去の人物となった袁世凱との間に交わされた「清帝退位優待条件」は反故にされ、軍閥にとって利用価値のなくなった溥儀とその一族は長年住み慣れた紫禁城を追われることとなった。 当初溥儀は醇親王の王宮である北府へ一時的に身を寄せ、その後ジョンストンが総理内務府大臣の鄭孝胥と陳宝琛の意向を受けて上海租界や天津租界内のイギリス公館やオランダ公館に庇護を申し出たものの、ジョンストンの母国であるイギリス公館からは内政干渉となることを恐れ受け入れを拒否された。しかし、日本の芳沢謙吉公使は即座に受け入れを表明し、すぐに北京の日本公使館の庇護を受けることになった。 翌1925年に鄭孝胥と日本の支那駐屯軍、駐天津日本国総領事館の仲介で、溥儀一行の身柄の受け入れを表明した日本政府の勧めにより天津市内張園の日本租界に移ることとなる。この事をきっかけに、1905年の日露戦争の勝利によるロシア権益の移譲以降、中国大陸への本格進出の機会を狙っていた日本陸軍(関東軍)と緊密な関係を持ち始める。 その後溥儀と別れたジョンストンは天津港よりP Oの汽船でイギリスに帰国した。帰国後はロンドン大学の東洋学及び中国語教授に就任し、溥儀の家庭教師時代を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:『Twilight in the Forbidden City』)を著した後、イギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任したが、すでに日本と密接な関係を持っていた溥儀との再会は果たせなかった。 国共内戦 なお、この頃も中華民国国内の状況は混とんとしたままで、1927年4月には上海において「上海クーデター」が勃発し、蒋介石率いる中国国民党右派が対立する中国共産党を弾圧した。その後蒋介石は南京にて「南京国民政府」を設立し、党および中華民国政府の実権を掌握するものの、同年7月に国共合作を破棄したことで、ソビエト連邦からの支援を受けた中国共産党の残党が反発し国共内戦がはじまる。 また、溥儀を紫禁城から追放するきっかけとなった北京政変後の1926年に政権を掌握した張作霖の政権も磐石なものではなかった。張作霖は、孫文の没後にその後を継いだ中国国民党右派の蒋介石が1928年に開始した「北伐」により、からくも北京より脱出したものの、その後、黒龍江省や吉林省も含めた東三省全域(いずれもその後の満洲国一帯)を影響下に入れようとしていた張作霖を排除しようと考えた関東軍が同年6月に奉天で引き起こした「満州某重大事件」により命を落とすことになった。その後張作霖の息子の張学良は蒋介石に降伏し、その後両者は中華民国領土への野望をあらわにしてきた関東軍との対決を深めることになった。 文繍との離婚 溥儀の住んでいた天津は、この頃の国共内戦の主な戦闘地域から離れていたことや、日本やイギリス、フランスなどの列強をはじめとする外国租界が多かったため両軍が諸外国に刺激を与えることを恐れたこと、さらに「満洲某重大事件」により張作霖が暗殺されて以降、急速に関東軍の支配が強まっていたこともあり、国共内戦の影響を受けることはなかった。このため溥儀はその後も天津の日本租界、さらに協昌里の静園で婉容と文繍、鄭孝胥をはじめとする少数の側近らとともに静かに暮らしていた。 しかし、正妻の婉容との確執が深まった側室の文繍と別居の末に、1931年に離婚することとなる。このことにより溥儀は中国の歴史上初の離婚歴を持つ皇帝となった。離婚後文繍は溥儀に対して慰謝料を求めて告訴した上で、溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露し話題を呼んだ。この事を受けて文繍は離婚後すべての位を剥奪され平民となり、小学校の教師として1950年に一生を終える。 満洲事変 right|220px|thumb|満洲事変で[[中華民国軍と戦う日本陸軍]] 1931年9月18日に、中華民国の領土内を含む中国大陸に展開する関東軍を含む日本陸軍が、中華民国の奉天郊外の柳条湖で発生した南満州鉄道の線路の爆破事件を、「張学良ら東北軍による破壊工作」と断定し(いわゆる「柳条湖事件」。実際には、爆破は関東軍の虎石台独立守備隊の一小隊が行ったものであり、つまり関東軍の自作自演であった)、これを口実に日本陸軍が中華民国軍との間の戦い、いわゆる「満州事変」を開始した。 すぐさま関東軍は奉天や長春、営口などの近隣都市を占領したばかりか、その後21日に、林銑十郎中将の率いる朝鮮駐屯軍が独断で越境し中華民国の満洲地域一帯に侵攻した上、関東軍は軍司令官本庄繁を押し切ったばかりか、不拡大方針を進めようとした日本政府の決定を無視して、「自衛のため」と称して戦線を拡大する。その後関東軍はわずか5ヶ月の間に全満洲地域を占領したが、張学良は蒋介石率いる中華民国政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲地域から撤退し、間もなく満洲一帯は関東軍の支配下に入った。 その後関東軍は、国際世論の批判を避けるため、満洲地域に対して永続的な武力占領や植民地化ではなく、日本の影響力を残した傀儡国家の樹立を目論み、親日的な軍閥による共和国の設立などを画策した。しかしこの様な形での共和国の設立は正当性に乏しく、新国家の国民のみならず国際連盟加盟国をはじめとする国際社会の支持を得にくいと判断したことから、国家に正当性を持たせるために清朝の皇帝で満洲民族出身であった溥儀を「皇帝」に擁くことを画策した。 満洲国建国 この様な目論みを受けて、関東軍の特務機関長であった土肥原賢二が同年11月2日に溥儀の説得にかかった。土肥原ら関東軍による「清朝の復辟」を条件に満洲国皇帝への即位を同意した溥儀は、天津の「自宅」を出て湯崗子温泉を経て11月13日に営口に到着、旅順のヤマトホテルに留まった。なお溥儀が旅順へ向かった後、粛親王善耆第十四王女で、「東洋のマタ・ハリ」、「男装の麗人」と呼ばれ、当時関東軍のスパイとして働いていた川島芳子が、天津に残された婉容を連れ出すことを関東軍から依頼され、実際に婉容を天津から旅順へ護送する任務を行っている。 その後、遼寧(当時は奉天省)、吉林、黒竜江省の要人が関東軍との協議を開始し、1932年2月18日に、後に満洲国の国務院総理となる張景恵を委員長とする東北行政委員会が蒋介石率いる中国国民党政府からの分離独立を宣言し、「大同」元年(1932年)3月1日に、新京に首都を置く満洲国が建国された。なおこの建国に至る協議に溥儀は参加しなかったばかりか、その内容さえも伝えられることはなかった。 「執政」就任 満洲国の建国を受け溥儀は同年3月9日に満洲国の「執政」に就任した。この際に溥儀は、かつて皇帝であったこともあり、格下である「執政」への就任を嫌がり、あくまで皇帝への即位を主張するが、関東軍から「時期尚早」として撥ねつけられてしまう。なお、「執政」となった溥儀は、関東軍の日本人将校から、皇帝へ対する敬称である「陛下」ではなく、執政に対する呼び方である「閣下」と呼ばれ激怒したと伝えられている。 なお、溥儀が「執政」に就任した直後の3月に、国際連盟から柳条湖事件及び満洲事変と満洲国、および日本の調査のために派遣されたイギリスのヴィクター・リットン卿率いる、いわゆる「リットン調査団」が満洲国を訪問し、5月には溥儀にも調査の一環として調査団を謁見した。 皇帝即位 その後1934年3月1日には満洲国皇帝の座に就き、康徳帝となる。なお、溥儀の皇帝即位に併せて正式国名が満洲帝国に改名され、元号も「康徳」に変更された(満洲国側によって当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更を余儀なくされた)。また、同時に紫禁城時代からの教育掛で総理内務府大臣でもあり、溥儀と日本陸軍との間を取り持った鄭孝胥が国務院総理に就任した。 なお、同日に新京市内で行われた皇帝即位式の際に溥儀は、満洲国のスローガンの1つである「日、朝、滿、蒙、漢」の「五族協調」を掲げる上で、満洲族の民族色を出すことを嫌った関東軍からの強い勧めで満洲国軍の軍服(大総帥服)着用で行われたが、溥儀の強い依頼により、新京市内の順天広場に置かれた特設会場にて、即位式に先立って即位を清朝の先祖に報告する儀式である「告天礼」が行われ、この際に溥儀は満洲族の民族衣装である龍袍を着用した。しかし同時に満洲帝国政府からは「これは清朝の復辟を意味しない」旨の声明が出されていた。 溥儀の皇宮は「執政」当時と同様に満洲国の首都の新京(現在の長春)中心部に置かれた。当初溥儀夫妻は内廷の緝煕楼(しゅうきろう)に住んでいたが、「皇宮とするには狭く威厳が足りない」と考えた満洲国政府により、1938年に新たに同徳殿(どうとくでん)が皇宮として建てられた。しかし、関東軍による盗聴を恐れて溥儀自身は一度も皇宮として利用しなかった。 傀儡 関東軍の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲帝国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。実際に、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上日本の(というより関東軍の)傀儡政権であった。 また、国体に関わるような重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、関東軍の影響力は大きかった。 1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で「念書」が交わされ、「満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ満州帝国と溥儀「歴史群像シリーズ 満州帝国」学研、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになって行ったと言われている。 さらに、1940年7月に溥儀が2度目の訪日を行い伊勢神宮を訪れた後には、満洲帝国内に「建国新廟」が作られ、神体として天照大神が祀られ満洲帝国の国民は東方遙拝や天照大神への崇拝が強制されることとなった。 なお、満洲国建国に際しても溥儀と一緒に満洲入りし、満洲国の初代国務院総理として溥儀を支えた鄭孝胥は「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、溥儀の皇帝即位のわずか1年後の1935年5月に辞任に追い込まれた。また、1937年に関東軍の薦めで譚玉齢と李玉琴を側室とするが、その後関東軍に対して反抗的な行動を取った譚玉齢は1942年に死去した。なお溥儀はこの死について東京裁判において「関東軍による暗殺」と証言したが、遺族はそれを戦後否定している。 日本国皇室との関係 満洲国において日本(というより関東軍)との関係はこの様な状況ではあったものの、日満友好を促進する狙いと、満洲国並びに溥儀の威信を高めることを目的として、1935年4月に溥儀が昭和天皇の招待により日本を公式訪問する。 この様な両者の親しい関係を表すように、溥儀が初訪日した際には昭和天皇自らが東京駅まで溥儀を迎えに行くという、日本の歴史上無い異例の歓待を行なった。なお、溥儀の訪日を記念して日本政府は記念切手を4種発行したほか、訪日中は新聞やラジオ、雑誌やニュース映画など日本中のマスコミが溥儀の行動や発言を逐一報道し、いわゆる「追っかけ」も発生するなど、溥儀自身の人柄もあいまって日本の皇室や指導者層のみならず日本国民からも高い人気を集める。1940年6月に皇紀2600年記念行事が東京で行われた際にも、タイ王国や南京国民政府(汪兆銘政府)などの日本の友好国の首脳陣同様に奉祝のために再び訪日し、満洲国から横浜港に到着した際に高松宮宣仁親王の出迎えを受けた後、再度昭和天皇と会見している。 なお、溥儀が初来日から帰国した際には「もし満洲国皇帝に不忠であれば、それは日本天皇に不忠であり、日本天皇に不忠であれば満洲皇帝に不忠となる」と満洲国政府首脳部に対して訓示を行った他、2度目の訪日の際に伊勢神宮を訪問した際には「日満一神一崇」を表明するなど、日本国の皇室との親しい関係を、自らに対して軽視する態度を持つ関東軍に対する牽制のために利用したとも評されている。なお溥儀は、1935年と1940年の2回の訪日ともに、この頃より病気が伝えられた婉容を同伴せず単独で訪日を行った。 また、1937年には、当時日本の陸軍士官学校を卒業し千葉県に住んでいた溥傑と、嵯峨侯爵家の令嬢で天皇家の親戚(先代侯爵嵯峨公勝の夫人仲子は、明治天皇生母中山慶子実弟・忠光の娘)に当たる嵯峨浩の縁談が関東軍の主導で進められ、1938年2月6日に駐日満洲国大使館の発表で2人の結婚が内定し、同年4月3日に東京の軍人会館で挙式が行われ大きな話題を呼んだ。 来日時に面会した貞明皇太后は溥儀を「満州殿」と呼び、我が子のように接した。当時の溥儀は昭和天皇の兄弟分であるという気持ちが強かったとされている。 日中戦争と第二次世界大戦 溥儀が皇帝に就任した4年後の1937年7月7日に、北京西南の盧溝橋で起きた盧溝橋事件を契機として日本軍と中華民国軍の間で日中戦争(支那事変)が勃発した。その後、内戦状態にあった中国国民党と中国共産党は、日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である国共合作(第二次国共合作)を構築した。 その後の1941年12月7日の大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦により、日本が連合国と交戦状態に入ると、満洲帝国も日本に併せて連合国各国に対し宣戦布告をし、事実上枢軸国の1員として第二次世界大戦に参戦することとなった。しかし、日本軍とイギリス軍やアメリカ軍、中華民国軍との戦闘地域から離れていることや、満洲帝国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間に日ソ中立条約が存在することから、中華民国軍や中国共産党軍によるゲリラ攻撃がたびたび行われていたものの、戦争状態にはならず平静が続いた。 1943年には溥傑が日本陸軍大学校の教官として配属されたため、溥傑とその一家は東京に居を移すこととなった。この頃日本軍は同年頭頃まで破竹の勢いを保っていたものの、事実上1国だけでイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国と対峙していたこともあり、1944年に入ると各地で次第に敗戦の色を濃くしてゆく。なお、同年溥傑は学習院に入学した長女の慧生ら家族を東京に残し単身で新京に戻った。 1945年に入ると、満洲国内の工業地帯や軍の基地などが、イギリス領インド経由で中華民国内陸部の成都基地から飛来したアメリカ軍の爆撃機などの攻撃をたびたび受けるようになってゆく。 満洲国解体と退位 その後1945年8月8日に、先立って行われたヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府はモスクワの佐藤尚武駐ソ連日本特命全権大使に対して1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約の破棄を通告し、まもなくソ連軍の大部隊が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及び北東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面の3方向からソ満国境を越えて、ソ連が国家として承認していなかった(日本の占領地とみなしていた)満洲帝国に侵攻した。 日ソ中立条約の存在に頼り1942年以降増強が中止され、主力を南方戦線にとられていた関東軍は、同年5月のドイツの敗北以降、対日満開戦に備えてソ満国境付近に集結していたソ連軍に対して一方的に敗走し、溥儀やその家族、満洲国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連軍の進撃が進むと8月10日に首都の新京の放棄を決定し、8月13日に朝鮮との国境に程近い通化省臨江県の大栗子に特別列車で避難していた。 しかし、事実上1国で連合国と戦っていた日本が8月15日に連合国に対して降伏したことにより、その2日後の8月17日に国務院が満洲帝国の解体を決定、8月18日未明に大栗子で満洲帝国解体を自ら宣言するとともに満洲帝国皇帝を退位した。 ソ連への抑留 満洲帝国皇帝を退位した溥儀は、日本政府より日本への亡命を打診されたこともあり、 8月19日朝に満洲軍の輸送機で大栗子から奉天へ向かい、奉天の飛行場で岐阜基地からソウル、平壌経由で送られてくる日本陸軍の救援機(四式重爆撃機)を待機していた「溥儀幻の救出劇」中日新聞2003年8月4日。しかし同日昼に、日本陸軍の救援機の到着に先立ち奉天に進軍して来たソ連軍の空挺部隊に捕らえられた。その後溥儀や溥傑、毓嶦及び吉岡ら満洲帝国宮中一行は直ちにソ連領内に移送され、さらにソ連極東部のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。 なお、日本への逃亡の際に当初は平壌へ直行する予定だったのを、より早いタイミングでソ連軍の侵攻を受ける可能性が高い奉天経由に急に変更したことから、この急な変更は「用無しになり、足手まといとなった溥儀をソ連へ引き渡すために、関東軍が故意に行ったものであった」という説を唱える歴史研究家もいる。 なお婉容や嵯峨浩は溥儀や溥傑の日本への亡命に同行せず、わずかな親族や従者と共に満洲国内に取り残された。その後婉容は侵攻して来た中国共産党軍に逮捕され各地を転々連れまわされた後、吉林省延吉の監獄内でアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のために孤独の内に死亡したといわれるが、詳細な死去時期や場所は今なお不明である。 東京裁判 ソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人として出廷させられ、(中華民国政府ではなく)ソ連に有利な証言を強要された。その際、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」ことを主張した。 溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の羅振玉は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満洲を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした」と証言した。 それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに、満洲問題に関する責任は全て日本にあると強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満洲国建国当時の南次郎陸相に送られた、日満提携を認める「宣統帝新書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。 後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。 戦犯 その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国の中国共産党政府へ身柄を移された。 その後、裁判で裁かれる事すらないままに、第二次世界大戦当時には存在すらしていなかった同国の「戦犯」として、撫順の政治犯収容所(「戦犯管理所」と称される)に弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、さらに1000人を超える日本軍の捕虜らとともに収監され、「再教育(中国共産党による共産主義の洗脳教育)」を受けることとなった。その後同年10月にハルビンの政治犯収容所に移動させられ、1954年には再び撫順の政治犯収容所に移動させられた。なお収監中の溥儀は「模範囚」と言われるような礼儀正しい言動を行っていたと伝えられている。 一市民へ 1959年12月4日に、当時の劉少奇国家主席の出した「戦争犯罪人」に対する特赦令を受け、12月9日に模範囚として特赦された。なお、溥儀とともに収容所に収監されていた溥傑も1960年11月20日に釈放された。 釈放後の1960年1月26日に、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も溥儀に対して何かと便宜を図っていた周恩来首相と中南海で会談し、釈放後の将来について話し合った結果、周恩来の薦めで中国科学院が運営する北京植物園での庭師としての勤務を行うこととなった人民中国「溥傑氏と浩夫人への周総理の配慮」。なおその後の1962年には看護婦をしていた一般人の李淑賢と再婚したものの、育った環境があまりにも違うこともあり、その仲は円満ではなかったと言われている。 政治協商会議全国委員 1964年には、政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員になり文史資料研究を行う傍ら、多民族国家となった中華人民共和国内において、満洲族と漢族の民族間の調和を目指す周恩来の計らいで、満洲族の代表として中国人民政治協商会議全国委員に選出された。 なお、毛沢東や多くの中国共産党幹部らと違って教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった周恩来は、清朝皇帝であった溥儀に対して常に同情的だったと言われている。 死去 しかしその後、1960年代半ばに発生した中国共産党内部の権力闘争に端を発する「文化大革命」の波が中華人民共和国全土を吹き荒れる中、癌の治療を「元皇帝である」との理由で受けられなかったことにより、1967年に北京の病院で死去した。 死ぬ間際には、好物である「日本のチキンラーメンを食べたい」と言っていたことが弟、溥傑の夫人である浩の伝記により伝えられている。清朝皇帝という「反革命的」な出自であったことから「文化大革命により粛清された」という説も存在しており、実際に末期症状により病院に搬送されたものの、「反革命」とのレッテルを紅衛兵たちに張られることを恐れた医師らが、積極的に溥儀の治療行為を行わなかったという証言もある。 死後 墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると、改革開放の時代の空気と相俟って、1995年に「皇帝」として改葬することになった。現在の墓所は北京郊外の易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある清西陵の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。 それに関連して2004年に「愍皇帝」の謚号と「恭宗」の廟号が贈られた。ただし、これらは公式に認められたものではなく、愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。 家族 正妻である婉容と側室である文繍と1922年に結婚するが、後に文繍と離婚、その後アヘン中毒になった婉容とも満洲国崩壊を受け逃亡する中生き別れになる。なお、満洲国時代に北京出身の譚玉齢(他他拉氏、祥貴人)、長春出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、それぞれ死別、離婚している。 1959年に特赦された後、1962年に看護婦をしていた李淑賢(1924年 - 1996年)と再婚し、その後の生涯を沿い遂げることになる。しかし生涯で子はもうけていない。また、宮中の召使いの少年を寵愛するなど、同性愛傾向があったとも言われている。 自伝 『我が半生』(原題:我的前半生、英語題:The former half of my life)は、唯一の自伝である。執筆は、1957年後半から1年余りをかけて、20万字の初稿を完成させた。その後内容のいくつかの部分において専門家の意見が分かれるなどし、第一稿、第二稿が作られたのち、最終的に1964年3月に正式出版された。日本でも翻訳本が出版されている。その内容は十分な文献批判が必要ではあるが、当時の状況を自ら語った第一級の資料である。また、残された日記の断片が『溥儀日記』として出版されている。 2007年、同書が中華人民共和国において大幅に加筆した完全版として出版されることとなった。極東国際軍事裁判での偽証を謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと後に反省したことなど、1964年版当時に削除された16万字近い部分が今回盛り込まれている。 中華人民共和国国内での報道によると、今回1964年版前の第一稿、二稿から、序言≪Template lang?(中国人の誇り)≫、Template lang?(第6章「満州国14年」の第1節“もう一人を同時に演じる ― 一参加者の記述より引用する”)≫、Template lang?(第7章「ソ連の5年」の第4節 “極東国際軍事法廷”)≫、Template lang?(第10章「新しい一章」の第4節“離婚”)≫、などを含んでいる。 なお、溥儀には継承者がおらず死去した際にも遺言書もなかったため、版元の群衆出版社から北京市の西城裁判所へ、同書を「相続人のない財産」とする認定請求を提出した。 愛新覚羅溥儀を題材にした諸作品 映画 『悲劇の皇后 ラストエンプレス』(1985年、中華人民共和国・香港合作) 溥儀の皇后婉容を主人公として、満州国時代を描いている。 『ラストエンペラー』(1987年、イタリア・中華人民共和国・イギリス合作) ベルナルド・ベルトルッチ監督。1987年度のアカデミー賞で、ノミネートされた9部門(作品賞、監督賞、撮影賞、脚色賞、編集賞、録音賞、衣裳デザイン賞、美術賞、作曲賞)全ての受賞を達成した。この映画は、幾つかの脚色された要素を含んでいる。 『火龍』(1987年 中華人民共和国・香港合作) 収容所から出所してから病院で亡くなるまでの溥儀と再婚した李淑賢夫人との生活を描いている。 テレビドラマ 『末代皇帝』(1988年、中華人民共和国) 溥儀の誕生から、辛亥革命、満洲国皇帝時代を経て、東京裁判にいたるまでを描いた連続ドラマ。 『流転の王妃・最後の皇弟』(2003年、日本、テレビ朝日系列にて放送) 弟である愛新覚羅溥傑とその妻・嵯峨浩の視点から描かれた。 宝塚歌劇 『紫禁城の落日』 書籍 『皇帝溥儀:私は日本を裏切ったか』(1952年、世界社 ISBN B000JBBCCK、絶版) 実際に溥儀に仕え信任厚かった工藤忠による回想録、歴史的価値が高い。 脚注 Template 脚注ヘルプ? _ 参考図書 李淑賢『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』(学習社、1997)ISBN 978-4-311-60326-6 (4-311-60326-6) 『A級戦犯―戦勝国は日本をいかに裁いたか』(新人物往来社、2005年)ISBN 978-4-404-03323-9 (4-404-03323-0) レジナルド・ジョンストン『紫禁城の黄昏―完訳』(祥伝社、2005)ISBN 978-4-396-65032-2 (4-396-65032-9) 入江曜子『溥儀』(岩波新書、2006年)ISBN 978-4-00-431027-3 (4-00-431027-X) レジナルド・ジョンストン『新訳 紫禁城の黄昏』(本の風景社、2007)ISBN 978-4-939154-04-1 太平洋戦争研究会『秘録東京裁判の100人』(ビジネス社、2007年)ISBN 978-4-8284-1337-2 関連項目 愛新覚羅氏 日中戦争 徳王 第二次世界大戦 張作霖爆殺事件 張学良 蒋介石 川島芳子 南満洲鉄道 立命館大学 現在の京都衣笠キャンパスの用地は溥儀の寄付による。当時のお金で50万円という巨額の寄付を受けた。そのうち20万円で、衣笠の6万坪の土地を購入し、校舎を建て、さらに学生向けの奨学金の基金も創設できた。 外部リンク 系図でみる近現代 第23回 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月26日 (金) 12 09。
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登録日:2011/07/03(日) 10 00 40 更新日:2021/05/27 Thu 21 38 43 所要時間:約 4 分で読めます ▽タグ一覧 ストライカー式 ハンマーレス マイナー マイナー? 俺の嫁…ごめん無理っす… 兵器 十四年式拳銃 南部銃製造所 南部麒次郎 拳銃 日本 軍事 軍服娘の項目ではありません 銃 カタログデータ 口径 8mm×21 使用弾薬 8mm南部弾 銃身長 120mm 全長 230mm 重量 890g 装弾数 8+1発 銃口初速 325m/s 有効(最大)射程 50m(1600m) 製造 南部銃製造所(日本) 日本陸軍の南部麒次郎が退役後に設立した「南部銃製造所」で開発された拳銃。 南部麒次郎が以前に開発した南部式自動拳銃をベースに、問題点であった高コストと耐久性を解決する為に構造の簡略化と基本システムや外観が変更された。 三八式歩兵銃と並んで旧日本軍を代表する存在である。 ○どんな銃?(1) ハンマーの無いストライカー式。弾薬の雷管を叩く撃針(ファイアリングピン)に強いバネを付けた構造。ハンマーを付けるより構造が簡単で命中精度も高い。 グリップも小さく出来るので手が小さい日本人でも握りやすい。引鉄のキレも良いそうだ。 安全装置は銃左側面についており180度回転し、レバーを前側に倒せば解除、射手方向に倒せば作動する。右手で触れないので不便と言えば不便。 作動はショートリコイルで、反動によって銃身とボルトがわずかに後退すると、内部のロッキングブロックが揺動することでロックが解かれ、ボルトだけが後退するしくみ。 外見はルガーP08、機構はマウザーC96に近く、拳銃開発で先行していた欧州製品を参考にした跡が窺える。 参考というかパクリ? ○どんな銃?(2) ストライカー式ならではの大きな問題点もある。 スライドを引いて薬室に弾薬を入れた後は、バネは撃針を弾こうと身構えている状態なのである。 安全装置がかかっていてもぶつけたり、落としたりした衝撃で暴発はあり得る。 そもそもストライカー式の信頼性が… 射撃中は弾倉の固定が甘く振動で「ぽろり」することも。改良したものの、弾倉を抜くには更に力がいるようになった。 ホールドオープン機能も弾倉内部の底部にある板(マガジンフォロワー)が直接ボルトに絡むことでくぱぁするので弾倉が抜きにくい。 くぱぁ状態で弾倉を引き抜くとボルトも前進してしまう為、弾倉を交換したら改めてボルトを引いて初弾を装填しなくてはいけない。 ○どんな銃?(3) 8mmの中途半端な弾の初活力は9mmの350 ft-lbsに対し半分強の190 ft-lbs程度と言われている。 トリガーガードは初期型ではただの○で手袋をすると指が入らない。つまり清楚なまんまんよりきついということ。 (当時の日本兵が手袋を二枚重ねにしたなど開発時に想定されていなかったことをした、というのもある) 昭和13年以降に製造された物は改良され大きくなっている。 その他にも何度か改良が施されており、旧型でも工場に持っていけば改良してくれるのだが、改造費は自己負担で殆ど実施されなかった。 ○敗戦後 武装解除により連合国側へ押収されたが、治安維持の為に返還を要請した。その為1946年から一部が警察への支給品として返還され、1948年まで使われた。 東南アジアや中国大陸では独立戦争や国共内戦で他の銃火器と共に使用され、朝鮮戦争では朝鮮人民軍の将校用拳銃として使用されていた。 機構・性能ともに当時の自動式拳銃としては一般的(必要最低限?)なもので、南部麒次郎も回想録で「この拳銃には特に誇張すべきことはない」と述べている。 ○登場作品 映画『ローレライ』 紺碧の艦隊 旭日の艦隊 バイオハザード ガンサバイバー ゴジラ(第一作)…巡視船の海上保安官が装備 ワイルド7 ジパング(かわぐちかいじ) ストライクウィッチーズ…アニメ第2期の第2話で土方兵曹が使用。 怪奇大作戦…24話で牧史郎が使用。 Call of Duty World at War…「Nambu」という名称で登場。 他にも旧軍を題材にした作品なら登場するかも。時代も古く性能も光るものがないのでメディアへの露出は多くない銃である。 ○普通の画像と補足 よく南部十四年式拳銃と呼ばれるが、南部麒次郎自身は開発に加わっておらず、アメリカ軍の誤解含みの名前広まったもので制式名はあくまでも十四年式拳銃である。 トリガーガードが狭い物は初期型、広くなった物を後期型と呼ぶ。資料によってはさらに「末期型」という分類もある。 末期型は「遊底の作りが雑」「グリップの作りが雑」ということらしい。 後期型(画像募集中) 末期型(〃) 確かに|=|=|と[ ]では違う気もする。では上の「普通の画像」は末期型で軍服娘のは後期型なのだろうか。(グリップ云々は不明だが) 追記・修正よろしくお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] ダブルカアラムマガジンを採用するプランもあったが、「サイドアームにそこまで装弾数は必要ない」という理由でボツったそうな。当時の日本人の体格では、握りづらさばっかり目立ったのかも。 -- 名無しさん (2014-04-22 21 22 12) 宇宙戦艦ヤマトの14年式コスモガンの元ネタ兼デザインベースでもある。戦士の銃コスモドラグーンといい、今なら別の意味で無理だよなもろなデザイン。 -- 名無しさん (2021-02-11 00 14 16) 名前 コメント
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―1953年 横浜 私たちは本当ならここに居ないはずの存在。私は、8年前の夏に、あの子は5年前の夏に、この世から居なくなってしまった。 戦没艦。だけれど、色々あってまたこの世界に生み出され、こうして生きている。 終戦後、英国政府も日本政府も対応にこまねいていた。居ないはずのものが居るのだから。 結局、両政府の諜報機関の協力によって、居ないはずの人間としての戸籍を与えられ、私たちは日本へ"帰って"きた。 いつの間にやら"保安庁広報課"の人間になっていた後野さんには大変な迷惑をかけてしまった。 彼女からは、兄弟姉妹にわざわざ会いに行くような真似はやめてほしいと釘を差されている。 もちろん、私たちは居ないはずだからだ。もし知られようものなら、大騒ぎになる。 私達自身、お互いが一緒に過ごせればそれ以上は望まないと思っていた。 ……思っていた、のだけど。世の中そうは、上手く行かないみたいだ。 私たちは後野さんの紹介で、横浜中華街の中華飯店"麒麟"というお店で働き、生活費を稼ぐことになった。 このお店のオーナーは、中華民国海軍戦艦だったイェンチュイという女性だった。 軍から失踪した後、中国の国共内戦で何か言えないようなことをしていて、それが終わったからこうして趣味の店を開いているそうだ。 相当滅茶苦茶なことをしてそうだけど、後野さんには詳しいことを聞くことはできなかったし、本人に訊いて機嫌を損ねるのも恐ろしいので気にしないことにしている。 数日間仕事を仕込んでもらったけど、ちょっと口調が荒くて短気なのを気にしなければ信頼はできそうな人だと思う。 ある日の朝。私たちはイェンチュイと一緒に開店準備をしていた。 すると、裏口から来客があった。 私は対応するために裏口の扉を開けると、そこには背の高い、色白で長い黒髪の少女が微笑んで立っていた。 「あーえっと……おはようございます、何か御用ですか?」 私は声をかけるが、少女は返事をしないし、表情も変わらない。代わりに、彼女の足元に置いてある、何か重たげな木箱を指差す。 「えっと……?」 私が対応に困っていると、店の奥から声が近付いてくる。 「姉さん、どうかしたの………うぇっ!?」 声の主は毒雨だった。そして、何か妙に驚いている。 「どうしたのよ?」 「いや……ソイツは……」 「この子は?」 「臘雪(ろうせつ)…だよ」 「うん?」 「……あぁ、姉さんは知らないのか。雨氷型の、59番艦の、臘雪なんだ」 「へぇ~この子が……は?」 唐突な姉妹艦の来訪に私たちは慌ててしまう。どうしよう。 いや、でも、大丈夫なはずだ。私の事を彼女は知らないはずだし、毒雨は当時と違って女の子なのだ。 そんなやりとりをしていると、目の前の少女……臘雪は、メモ帳を取り出し何かを書きはじめる。 書き終わると、丸く可愛らしい文字で"毒雨"と書かれたメモをこちらに見せ、もう片方の手は毒雨を指差し、首を傾げている。 ……完全にバレている。 「察しの良い妹は困るねェ」 「女の子だからセーフと思ったのは慢心だったわね」 「まぁ姉さんにも一発でバレたし……きゃっ!?」 いつの間にか臘雪は毒雨の後ろに立っており、毒雨を嬉しそうにハグする。 「あーあーうんうんそうだな久しぶりだな……あの日はお前も一緒に出撃してたんだっけ………お前そんなんだったっけ……?」 「あなたには言われたくないんじゃない?」 「それもそっかー」 気が済んだのかハグをやめた臘雪は私を指差し首を傾げている。 「そうね、自己紹介がまだだったわね。私は雨打。雨氷型の26番艦……だったわ。初めまして」 言い終えると、臘雪は私に向かって深々とお辞儀をする。 「えっとね。私たちがここでこうしていることは……」 言い終えないうちに、臘雪は口に指を立てるジェスチャーをしながら首を傾げる。 「そう、ね。それでお願い。……随分出来の良い妹じゃない?」 「まぁ、そう、だな……」 臘雪は嬉しそうにニコニコしている。 「おいィ、開店前だっつーのになんだか騒がしいじゃねえか、どうしたんだ?」 オーナーだ。 「なんだ魚屋のネーちゃんじゃねえか、オッス。売りに来たのか?」 「魚屋?」 「そうだぞ?アタシは前にコイツが港で魚を釣ってるのを見かけて取引を始めたんだ。その魚をウチで使わせてくれってな」 「へぇーそうなんすね」 「お前ら随分仲良さそうだが何だ?知り合いなのか?」 「彼女は臘雪、私たちの姉妹艦なの。尤も、私は初めて会ったんだけど……」 「はーん、ソイツは奇妙な縁もあったもんだな。ってかローセツって名前なんだな、初めて知ったぜ!」 相変わらず臘雪はニコニコしているが、思い出したように木箱を運び入れてきて、開けてオーナーに見せる。中には氷と新鮮な魚が詰まっていた。 「おうおう上等じゃねえか。お代持ってくるから待ってろよ」 一度カウンターに潜り、再び戻ってきたオーナーは臘雪に小袋を渡す。臘雪は受け取るとニコッと笑い、オーナーに軽く会釈をする。 「ウチの魚料理は評判がいいんだぜ?ローセツサマサマよ。もちろんアタシの腕あってこそだけどな!ギャハハ!」 オーナーのちょっと下品な笑いが炸裂する。 「そういやお前らはまだアタシの魚料理食ったこと無かったっけな?良い機会だからアタシの腕前にひれ伏せよ。二度と立ち上がれなくしてやるぜ」 「マジで?やった!」 「二人は待ってる間に開店準備進めとけ!ローセツは今から客人だ、客席で待ってろ」 「はいはーい」 中華飯店"麒麟"の朝はまだ、始まったばかりだ。 (おわり)
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中印関係 / カシミール ● 中印国境紛争〔Wikipedia〕 かつての中華民国と長年イギリスの植民地であったインドは、途中にネパールとブータンを挟んで長く国境を接していた。ほぼ全域がヒマラヤ山脈といった高山地帯であり、正確な国境はあいまいであったものの、事実上独立しダライラマ政権の統治下にあったチベットに中華民国の実効支配が及ばなかったこともあり、両国間の国境紛争は、1914年のシムラ会談の決裂以来、沙汰止みになっていた。その後、国共内戦を経て1949年に建国され、中華民国に代わり中国大陸を支配し、1950年にはチベットを侵攻するなどの強硬姿勢を示した中華人民共和国とインドは、両国の国境の解釈をめぐって対立した。中国共産党は、清がロシアその他の列強に領土を奪われた経験から、軍事的実力のない時期に国境線を画定してはならないという考え方を持っており、そのため中国国内が安定し、周恩来とネルーの平和五原則の締結により、インドが中国に対し警戒感を有していない機会を捉えようとしていたとの見方がある 中国軍、インドとの国境係争地から撤退開始=インド政府筋🧐よしGOGOモディ,GOGOインド💪圧勝。米ロ欧が裏で軍事支援してるんだからひとたまりもない。これはインドが次の時代の主役ということだ。#Modhiinladakhhttps //t.co/bOyABBKqr9 — Jack Hikuma 米国 CA州 ロサンゼルス在住(日本人) (@jack_hikuma) July 6, 2020 ★ 中国が対印姿勢硬化、テント増設 カシミール 「msn.産経ニュース(2013.4.30)」より +記事 【ニューデリー=岩田智雄】中国軍がカシミール地方の中印の実効支配線を越えてインド側に駐屯地を設置したとされる問題で、中国がテントを増設していたことが分かった。30日付のインド各紙が伝えた。インドは話し合いによる解決を模索しているが、中国は態度をより硬化させている。 タイムズ・オブ・インディア紙によると、4つあったテントは4月29日までに5つに増えた。中国兵は「お前たちは中国側にいる」と書かれた横断幕を振っている。インド側が中国軍の越境に抗議する横断幕を立てたことに対抗したもようだ。 この問題では、インドのシン首相が同月27日、「状況を大きく扱いたくない。この地域の限定的な問題だ」などとする声明を発表したが、開会中のインド下院では同月29日、連立与党に閣外協力している社会党から「政府は臆病になっている。中国は最大の敵だ」との声が上がった。 ーーーーーーーーーー ★ インド外相、中国との軍事衝突激化の可能性を否定 「Voice of Russia(2013.5.1)」より +記事 インド外務省のサルマン・フルシド大臣は「コメルサント」紙のインタビューに答えた中で、先日中国軍が国境紛争地帯に侵入したことについて、「軍事紛争に発展するというシナリオはあり得ない」とした。 インドのメディア報道によれば、4月15日、中国軍の部隊がカシミール地方のダウラト・ベク・オルディ地区に侵入した。中印国境紛争が争われている地帯である。これまでのケースと異なり、今回は、中国軍は撤退せず、境界線から10km奥へ入ったところにキャンプを設営した。また同日、中国軍のヘリコプターも境界線を越えた。中国側は、インド領内への侵入という事実を否定している。 両陣営の軍部による会談が既に2度行われているが、何らの成果も得られていない。中国側が当該地区におけるインドの「強硬な立場」を撤回するよう求めたのに対し、インド側がこれを拒否したためである。インド国防省のアントニー大臣は30日、「事件を平和的に解決するべく、様々なレベルで交渉が進められている」と述べた。 ■ 東京kitty、インド政府に対して再度クルシド外相の更迭を主張 「東京kitty(2013.4.30)」より / インドのクルシド外務大臣が、中国の新体制を歓迎し、また安倍首相がインドにも提唱している「中国包囲網」に対して消極的姿勢を表明したため、3月22日の記事でインド政府に対して同外相の更迭を主張した(@w荒 参考1 果たしてその後中国はカシミールに50人程度の部隊が越境、そして現在はテントを増設し、更なる越境部隊の増援が行われる様である(@w荒 ヲレが危惧した通りの事態になった訳だな(@wぷ 参考2 参考2の記事によればシン首相は当該事案を大げさにしたくないとのことだが、とんでもないことである。相当数の派兵を断固として行い、国境の脅威を除去すべきである(@w荒 そして閣内における容中派を排除し、自らの不明を国民に詫びるべきであろう。即ちヲレはクルシド外相の更迭を再度主張する(@w荒 ーーーーーーーーーー ■ 中国、インドのカシミールを侵攻「中印国境紛争」激化の懸念 「ウワサZ(2013.4.21)」より / 日本では「中国軍がインド側に越境」等と報道されているが軍により越境するのは明らかに武力行為である。インド側はことを荒立てずに解決することを模索している最中なのでインドに配慮すべきではあろうが中国への配慮の行き過ぎる日本の売国マスコミの報道姿勢には正直呆れ果てる。報道機関等とテレビ局や新聞社が図々しく今も名乗るのであれば、さっさとカシミール州に取材に出かけるべきだ。ネットを見て記事を書いたり、番組を作るのであればウワサZとやっていることは同じである。尖閣諸島の問題を取りあげるまでも無く、両国とも核兵器保有国である。国際社会において決して見過ごせる話では無い。 ★ 中国軍がインド側に越境、両者がにらみ合う カシミール地方 「msn.産経ニュース(2013.4.20 15 46)」より / 【ニューデリー=岩田智雄】インドのPTI通信は19日夜、情報筋の話として、インドと中国、パキスタンが領有権を争うカシミール地方で中国軍が中印の実効支配線を越えて駐屯地を設置したと伝えた。20日付のインド主要紙も同様の内容を報じた。 PTIによれば、中国軍の小隊が15日、印北部ジャム・カシミール州の中印実効支配線を越えてインド側に約10キロ侵入し、テントを設営した。インドも国境警備隊が中国軍の駐屯地から約300メートルの場所に野営地を設置し、両者がにらみ合う形になった。インドは中国に協議を呼びかけているが、19日時点で返答はないという。 インド軍報道官は、「実効支配線の認識の違いによるものだ」と説明し、「手順にのっとり、平和的に解決される」と述べた。 .
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エドガー・スノー(Edgar Snow、1905年7月17日 - 1972年2月15日)はアメリカのジャーナリスト。中国大陸の近代事情、特に親しかった中国共産党に関する作品により著名である。 来歴 250px|thumb|right|左からスノー、[[周恩来、鄧穎超]] エドガー・スノーはミズーリ州カンザスシティで生まれた。ミズーリ大学コロンビア校でジャーナリズムを専攻したが、父の学費負担を苦痛に感じて1年で退学、ニューヨークの兄のもとに移り、コロンビア大学に入学した。その後、広告代理店勤務を経てルーズベルト汽船(セオドア・ルーズベルトの息子が経営)の船のデッキボーイになり、1928年から世界一周の旅に出かけ、日本に密航したりした。同年、世界恐慌前の中華民国へ渡り、蒋介石ら国民党幹部らに会って記事を書く。 1929年には「コンソリデーティッド・プレス・アソシエーション (Consolidated Press Association) 」の上海記者となってアジア各国を精力的に取材して回った。1932年にはジャーナリスト志望のアメリカ人女性ヘレン・フォスターと東京のアメリカ大使館で結婚した。彼女はのちに、スノーが考えたニム・ウェールズというペンネームで『アリランの歌』を著している。アジアへの進行旅行の最中にH・G・ウェルズやバーナード・ショーらのフェビアン主義に触れ、欧米の帝国主義および日本の帝国主義・軍国主義に反感を抱く。 1933年には北京に行き、パール・バックやジョン・フェアバンクと交流。1935年の日本による中華民国北部侵攻に反感を抱き、「抗日戦線の鍵は中国共産党にあり」、と考えて党本部への取材を求める。1936年にスノーは宋慶齢から紹介状をもらい、長征後の共産党が本拠としていた保安に向かった。長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東との利害とが一致し、スノーはついに毛沢東ら幹部と出会う。 1941年に中華民国を離れるまで、ジャーナリストとして数多くの記事を書き、本を執筆している。この間、北京の中華民国政府にも仕え、燕京大学(後に北京大学に吸収)で教鞭を執ったりした。1937年に彼は後に有名となる作品『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』を出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。 日中戦争が激しさを増した1941年にスノーはアメリカへ帰国し、『アジアの戦争 (The Battle for Asia) 』を出版。『赤い星』の愛読者だったフランクリン・ルーズベルトは、1942年に面会した後にスノーを非公式な情報提供者に任命。しかし、『赤い星』はソ連・コミンテルン、中華民国にいた共産党シンパの欧米人やスターリニストだった宋慶齢らから非難を浴びた。 戦後になり、1949年に離婚して女優ロイス・ウィーラーと再婚。マッカーシズムが盛んな1950年代には、ロイスの女優業が挫折したこともありアメリカを出国し、スイスに移り住んだ。その後1960年に、国共内戦の結果1949年に中国共産党により設立された中華人民共和国へと渡り毛沢東、周恩来と会談した。そのときの記録『今日の赤い中国 (Red China Today) 』では、大躍進による大飢饉を否定するなど、毛沢東の言うがままを書いたに過ぎないと批判され、スノー自身も自らの無知を認めている。 その後1964年から1965年にも訪中したが、そのとき毛沢東は「ベトナム戦争へのアメリカ介入を国内の団結に役立っている」と評価し、中国大陸における中国共産党による赤化革命成功には、「(彼らの敵であった)蒋介石だけでなく、日本の8年にわたる侵略が必要だった」と語っている。 1970年から1971年、妻を伴った最後の中国大陸への旅では、リチャード・ニクソン大統領は公私どちらの訪問であっても歓迎されるだろう、と述べている。しかしこの時、毛沢東の個人崇拝の強制(毛沢東は、スノーに「個人崇拝は政治的に必要であり、中国には皇帝崇拝の伝統がある」と言った)や、革命に参加した友人の息子が中華人民共和国で逮捕・拷問された(周恩来の介入で彼は生還できた)ことなどにより、中国共産党率いる中華人民共和国に対して幻滅の感を持つにいたる。 一方で、唐聞生(ナンシー・タン)を通訳とした毛沢東との会談で、毛沢東が自分のことを「和尚打傘(=無髪無天wú fā wú tiān≒無法無天wú fǎ wú tiān=「やりたい放題」というシャレ)」と言ったのを、文字通りの「傘を手に歩む孤独な行脚僧」と誤解して、毛沢東の意外な一面としてアメリカの雑誌ライフに紹介している高島俊男 『お言葉ですが・・・7』、2006年、文春文庫、ISBN 4-16-759808-6。 スノーは1972年にジュネーヴで癌で死亡した。その62時間後にリチャード・ニクソン大統領の中華人民共和国訪問が行われている。遺灰の一部はアメリカ、そしてかつて教鞭を執った北京大学に埋葬された。 評価 当時中国における小勢力にすぎなかった共産党に注目し、その詳細なレポートを行ったスノーの著作は現代中国史における古典的な作品とされている。 スノーは共産主義者ではなかったが、中国共産党を紹介する彼の著作物は、彼の死後も中国政府によってプロパガンダとして利用されている。中国では「スメドレー・ストロング・スノー協会」が組織されており、プロパガンダ映画も作られている。また、共産党に都合よく改竄した『赤い星』が出版されている。ロイス夫人は2006年のインタビューで、「彼は今日の中国の姿を決して是認しなかったでしょう」と語り、中国政府のやり方を批判している。 スノーは中国共産党に出合う前から、満州事変などに直面して日本に反感を持っており、1934年の処女作『極東戦線 (Far Eastern Front) 』では、田中上奏文に触れて、日本政府や犬養毅が田中上奏文を偽造したことを紹介したのち、次のように満州事変頃の日本の侵略性について述べている。 「もしにせものづくりがこの覚書をデッチあげたのだとすれば、彼はすべてを知りつくしていたことになる。この文書がはじめて世界に出たのは一九二八年だったが、それは最近数年間の日本帝国主義の進出にとってまちがいない手引き書となったのである。」(『エドガー・スノー著作集1』筑摩書房、p.36) その後、『アジアの戦争』において日中戦争における日本を批判的に取り上げたが、南京安全区国際委員会の委員長であったジョン・ラーベが示した算定として南京大虐殺において「日本軍は南京だけで少なくとも4万2千人を虐殺した」、「10歳から70歳までのものはすべて強姦された」と記し(『エドガー・スノー著作集3』筑摩書房、pp.53~57)、成都で会ったL・C・スマイスが編纂した『南京地区における戦争による損害』を引用して日本軍による暴行を告発していた。「南京大虐殺」の元ネタはこの本ではないか、と鈴木明は主張している(『新「南京大虐殺」のまぼろし』、飛鳥新社、1999年)。 参考資料 『夫、エドガー・スノーは毛沢東に騙されていた スノー未亡人の告白』(『諸君!』2006年6月号、池原麻里子著) 著作 (松岡洋子訳)『中国の赤い星上下』(ちくま学芸文庫、1995年)ISBN 4480081925、ISBN 4480081933 (松岡洋子訳)『目ざめへの旅—エドガー・スノー自伝』(筑摩叢書、1988年 絶版)ISBN 4480013229 他に 『アジアの戦争』 『極東戦線 一九三一~三四 満州事変・上海事変から満州国まで』 各(筑摩叢書、絶版) なお筑摩書房では著作集7巻が出されていた。 ロイス・ホイーラー・スノー編 『抗日解放の中国 エドガー・スノーの革命アルバム 』 (サイマル出版会、絶版) 注釈、出典 外部リンク カンザス州立大学内のスノー関連文書アーカイブ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年12月4日 (木) 03 23。