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https://w.atwiki.jp/wotbksn_asia/pages/131.html
1:中国共産党 「功臣号」 2:現バージョン(8.9)でも使用可能。画質によってはぼやける恐れあり。 「功臣号」とは紅軍(中国人民解放軍)が初めて保有した戦車として知られる。第二次国共内戦において同じく接収・鹵獲された日本戦車で編成された東北戦車団で運用され、国民党相手に最前線で戦い、1949年の中華人民共和国建国宣言時の天安門広場における勝利パレードに、装甲車両群の先頭車両として参加した。 詳しくはWikipediaで検索してみよう。 3:取得方法 URLよりサイトへ進み、загрузитьをクリック。 URLhttp //drongo-lab.ru/mods-world-of-tanks-tanks-skins-type97-chi-ha-2/ 1:大日本帝国軍仕様 2:現バージョンでも使用可能。 やっぱチハは皇軍迷彩だろ!って人向けのスキン。ちゃんと3色迷彩に黄色のラインが加えられています。 マーキングの「志」はマレー進攻時の第1連隊所属車両32号車とされています。 3:取得方法 URLよりサイトへ進み、点击下载をクリック。 URLhttp //wotcn.duowan.com/tzpage/3147.html 1:海軍陸戦隊仕様 2:現バージョン(8.9)でも使用可能。 九七式中戦車は海軍陸戦隊にも供与されましたが、其の際の塗装については「陸軍と同一色であった。」「ダークグリーンに近い単一色であった」など様々な説があります。本車は其のうちの一つで、軍艦の塗装に使われる「ねずみ色」塗料をそのまま流用した説のチハとなっています。砲塔の錨と軍艦旗が海軍の証! 3取得方法 URlよりサイトへ進み、загрузитьをクリック。 URLhttp //drongo-lab.ru/world-of-tanks-tanks-skins-type-97-chi-ha/ 他にもスキンがあれば加筆求む
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世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数(16世紀以降) 戦争及び大規模紛争 時期 死者数(人) 非戦闘員の 犠牲者の割合(%) ■主要な戦争での死者数 農民戦争(ドイツ) 1524-1525 175,000 57 オランダ独立戦争(対スペイン) 1585-1604 177,000 32 30年戦争(ヨーロッパ) 1618-1648 4,000,000 50 スペイン継承戦争(ヨーロッパ) 1701-1714 1,251,000 不明 7年戦争(欧州、北米、インド) 1755-1763 1,358,000 27 フランス革命/ナポレオン戦争 1792-1815 4,899,000 41 クリミア戦争(ロシア、フランス、英国) 1854-1856 772,000 66 南北戦争(米国) 1861-1865 820,000 24 パラグアイ対ブラジル・アルゼンチン 1864-1870 1,100,000 73 普仏戦争(フランス対プロイセン) 1870-1871 250,000 25 米西戦争(米国対スペイン) 1898 200,000 95 第1次世界大戦 1914-1918 26,000,000 50 第2次世界大戦 1939-1945 53,547,000 60 ■1945年以降の大規模武力紛争による死者数 中国国共内戦 1946-50 1,000,000 50 朝鮮動乱 1950-53 3,000,000 50 ベトナム戦争(米国の介入) 1960-75 2,358,000 58 ビアフラ内戦(ナイジェリア) 1967-70 2,000,000 50 カンボジア内戦 1970-89 1,221,000 69 バングラデシュ分離 1971 1,000,000 50 アフガン内戦(ソ連の介入) 1978-92 1,500,000 67 モザンビーク内戦 1981-94 1,050,000 95 スーダン内戦(1995年現在) 1984- 1,500,000 97 (注)Ruth Leger Sivard, World Military and Social Expenditures(1991,1996)による。 (資料)レスター・R・ブラウン「地球白書1999-2000」(1999) (出所)社会実情データ図録 (資料)社会実情データ図録(http //www2.ttcn.ne.jp/honkawa/) http //www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5228.html
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中華民国の档案館について 中華民国内で、歴史档案が保存されているのは主に 中央研究院近代史研究所档案館 国史館 中国国民党党史館 の3つの施設である。 この他にも、故宮博物院や中央研究院歴史語言研究所にも 清代の宮中档案(大陸から持ち出されたもの)が収められているという。 このうち、日本人研究者によって最も利用され易いのは 中央研究院近代史研究所档案館(http //archives.sinica.edu.tw/)である。 ここで所蔵されているのは、主に外交档案 (清朝の総理衙門および外務部、中華民国北京政府時代)および、 経済関連档案(民国期から現在に至る)である。 しかし最近は、個人・団体からの寄贈档案が増加しており、 二二八事件資料関連など、国共内戦後の台湾の状況を示す資料も増えているという。 国史舘は、総統府直属の「国史」編纂機関であり、かつ歴史研究機関である。 (http //www.drnh.gov.tw/) ここには、国民党が台湾に持ち出した档案が閲覧できる。 さらに大渓档案(蒋介石・蒋経国機要档案)や、台湾総督府文書などが所蔵されており、 蒋介石関連については1949年まで公開され、目録も刊行されている。 (朱文原主編『蒋介石総統档案目録』〈第1冊・第2冊〉、国史館、1998年) この他にも戦後の史料(経済関係以外)があり、蒋経国档案なども検索することができる。 中国国民党党史館は、国民党本部にあり、本部七階が閲覧室となっている。 国防最高委員会档案、中央政治委員会档案などが、原則30年ルールで公開されているが 現用文書との関係もあり、1949年以降の文書については制約がある。 『蒋介石日記』の公開なども行った、米スタンフォード大学と提携関係にあり 文書のデジタル化などに関する共同プロジェクトが進行しているという。
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200000代はドイツキャンペーン 200100代はオーストリアキャンペーン 200200代はマーシャルプラン関係(トルーマンドクトリン→ギリシャ内戦→マーシャルプラン→資金供与→武器供与) 200300代はモロトフプラン 200400代は印パキャンペーン 200500代はローゼンバーグキャンペーン→核拡散 NuclearProliferation.txtにローゼンバーグらスパイの暗躍と逮捕のキャンペーンと核実験のイベントを収録。 核拡散イベント群中のスパイより得られる青写真をなくす。史実上ではスパイから得られた情報が画期的な効果を持ったことはなかった模様。 200600代はスターリンショックとスターリン批判 200700代はソ連崩壊 200800代は宇宙開発 200900代は東欧動乱 201000代は国共内戦 201100代はソ連キャンペーン 201200代はアメリカキャンペーン 201300代は朝鮮戦争 201400代はインドシナ戦争 201500代はインドネシア独立戦争 201600代はキューバ革命 200700-200735 ソ連崩壊から新連邦へ 201800代はスペインイベント 米西防衛協定、イフニ戦争、赤道ギニア独立、 米西防衛協定 (1953 年 9 月 23 日) 米国とスペインフランコ政権の防衛協定。この協定によりアメリカ合衆国は、スペイン領土に空軍基地と海軍基地を建設し、使用することを許可された (ロタ海軍基地、モロン空軍基地、トレホン空軍基地、サラゴサ空軍基地)。 なお本格的な軍事同盟ではないので、ゲーム的には軍の通行権という形にする。 300000代は資源開発→Resource_procurement 400001代はアメリカ選挙イベント 400100代はソ連政権交代イベント 400200代はイギリス政権交代イベント 400300代はフランス政権交代イベント 400400代は西ドイツ政権交代イベント 400500代は東ドイツ政権交代イベント 400600代はイタリア政権交代イベント 999900代は第三次世界大戦イベント 済・第三次世界大戦勃発時にスウェーデンが西側、つまりNATO入りするイベントが必要。 アメリカキャンペーン。 マッカーシー旋風等のアメリカキャンペーン。 日本キャンペーン 朝鮮特需(日本のICにマップ外のマイナス補正がかかる→朝鮮戦争遂行中の米韓の補給修理補正。)
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ウイグル問題を考える会 現在中国の新疆ウイグル自治区と呼ばれる地域は、ウイグル人をはじめとしたテュルク系民族の土地であり、東トルキスタンと呼ばれます。 シルクロードの舞台として、東西の文明の交わる地点であると同時に、独自の文化と歴史を持った地域として繁栄してきました。しかし、18世紀に清朝に征服され、19世紀には「新しい領土」を意味する「新疆」という名の一つの省として支配されました。 その後、回族の軍閥やソ連軍、新疆政権などによる騒乱を経て、「東トルキスタン」という名をつけた国が2度誕生しました。 1933年に、宗教指導者の下「東トルキスタンイスラム共和国」が誕生しますが、約半年という短い期間で終焉を迎えました。 1944年には、テュルク系諸民族が各地で武装蜂起し、「東トルキスタン共和国」が誕生します。しかし、この国も誕生してから1年少々で、ソ連と中国国民党の間で交わされたヤルタでの密約により、中国の新疆省政府に合流させられることになりました。 その後、元東トルキスタン共和国政府の指導者達は殺害され、この国は名実共に消滅することとなったのです。 現在は国共内戦を制した中国共産党による占領下に置かれています。 そして中国共産党による激しい弾圧によって、数多くの東トルキスタンの人々の命が奪われてきました。 新しいところでは2009年のウルムチの虐殺事件があります。 7月5日に首府ウルムチにてウイグル人による政府への改善要求のデモが行われました。 これは、それに先立つ6月26日に起きた広東省の玩具工場でのウイグル人虐殺事件に対して、適切に処置するよう求める平和的なデモでした。 しかし現地政府はこの平和的なデモを武力によって鎮圧し、多数の犠牲者を出しました。 この事件は東トルキスタンが中華人民共和国に併合されてから続いてきた、過酷な民族政策を象徴する出来事となりました。 詳しい内容は75ウルムチ事件についてをご覧ください。 東トルキスタンで行われている事を知り、解決を目指していきましょう。 ※私たちは世界ウイグル会議の日本での活動を支援し、連帯していきます。 お問合せはこちら
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自己紹介 2014年4月にwotを始め、5月に入学いたしました。 中国が大好きだったりします。イギリスについても、ぼちぼち研究したいと思います。 よろしくお願いします。 近況報告(7月3日) 念願のSTA-1入手。わーい自衛隊車両だ! ……Tier 8って赤字すごいですね。とりあえずは最終形態にしたいところ(主砲だけは中間砲に出来ました)。 お船は吹雪が完全体になりました。魚雷は93式のmod.2、船体はいろいろ試した結果、Bにしました。 次の陽炎型が楽しみなような怖いような(笑)。 所有車両リスト(主なもの) ()内は国籍 Tier 軽戦車 中戦車 重戦車 駆逐戦車 自走砲 1 2 3 (日)Type 97 Chi-Ha 4 (日)Type 1 Chi-He,(英)Matilda (独)Pz.Kpfw. B2 740 (f) (英)Birch Gun 5 (中)Type T-34, (日)Type 3 Chi-Nu, (独)Pz.Kpfw.IV Ausf.H 6 (英)Churchill Ⅶ 7 (中)WZ-131 (英)Black Prince,(独)Pz. Kpfw. VI Tiger (P),(独)Pz. Kpfw. VI Tiger 8 (日)STA-1 9 10 所有艦艇リスト(主なもの) ()内は国籍 Tier 駆逐艦 巡洋艦 戦艦 航空母艦 1 2 3 (日)天龍型 4 (米)アーカンソー (米)ラングレー 5 (日)古鷹型 (日)金剛型、(アルペジオ)キリシマ、(アルペジオ)ヒエイ (米)ボーグ 6 (日)扶桑型 7 (日) 初春型 (米)サイパン 8 (日)吹雪型 9 10 1/700重巡加古の写真。 wowsとwotのクランも統合したらええんに……wowsをやっている方はそちらでもよろしくお願いします。 チハ購入記念に(軍艦よりも戦車の写真貼れや! という声が聞こえた気がしたので)。 2014年春に北京に語学留学した時に撮りました。中国人民革命軍事博物館所蔵の新砲塔チハ「功臣号」です。国共内戦で活躍したことから、この名がついたとか。 この時まだwot始めてないんですよね……。ガルパンは観てたので、中国軍が鹵獲したM4シャーマンや貰い物のT-34の写真はあるんですが、中国軍の写真があんまりない……北京まで行って何してんだ私。 名前 コメント
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91 :ひゅうが:2014/06/28(土) 23 09 20 海上警備隊 特乙型警備艦「しなの」 全長:285m(元設計より艦尾延長済み) 飛行甲板長:280m 基準:6万6300トン 満載:7万5190トン 喫水10.31m 最大速力:28.1ノット 武装:12.7cm連装高角砲8基16門 25mm3連装機銃37基 25mm単装機銃40基 12cm28連装噴進砲12基 (大戦後すぐのため、武装に変化はない) 搭載機:常用72機(補用18機) 【解説】――日本海軍が生み出した世界最大の航空母艦。 もともとは大和型戦艦の3番艦として建造されていたものの、太平洋戦争勃発に伴い建造工事を停止。解体予定であったが1942年のミッドウェー海戦において空母への改装が決定。 艦隊側の強硬な主張によって当初の「搭載機をもたない浮かぶ航空基地」路線は早急に放棄され大型でバランスのとれた「超大鳳型」相当の艦として設計がまとめられた。 そのためにもとの設計から艦尾は20メートル近く延長されており、これが就役を遅らせる原因ともなった。 その最大の特徴は、戦艦として建造されていたゆえの強大な防御力と飛行甲板へと張られた装甲である。 これはミッドウェー海戦の戦訓を受けたものだが、のちに彼女の艦長となる阿部俊雄中佐と神重徳大佐らの主張を取り入れてその後の日本空母の基本となる「打たれ強い」防御力を実現すべく最大限の努力が払われている。 搭載機数は、もともとが戦艦であったうえに強力な装甲を張ったために当初予定では50機あまりとなる予定であったが、「せめて飛龍型相当の搭載機数を」という艦隊側の主張により常用補用をあわせて90機が確保された。 もっともこれは、設計で揉めつつあった中において戦争中の完成を諦め、「終戦後」の使用を考えたものであるともいう。 実際、完成予定は1944年12月であり。この頃には日本海軍は雲竜型(天城型)空母6隻と大鳳をはじめとした空母を保有しているはずであり日本海軍は大鳳と信濃にそれぞれ3隻程度の正規空母を加えた機動部隊を運用する構想であったとされる。 (つまり、ミッドウェー後時点で日本海軍は太平洋における講和追求へと方針を転換したのである。蛇足ながら近年ではいわゆる阿部―鈴木ルートといわれる宮中工作が進行していたことは定説とされる。) しかし、相次ぐ敗北に加え、マリアナ沖海戦において空母機動部隊が大被害を受けたことから一時的に資材不足に陥った日本海軍は建造予定の短縮を試みるも設計変更のためにこれは達成が不可能とされ、竣工時期を守ることが精いっぱいであったという。 そのため、レイテ沖海戦時には艤装中であり、沖縄沖海戦時には完成直後であって参加を見送られている。 そのため、1945年6月1日の終戦を舞鶴で迎えることとなった。 92 :ひゅうが:2014/06/28(土) 23 09 53 終戦後には海外への賠償艦として引き渡せる予定であり、また高いレベルでまとまった設計をもち無傷の巨大空母にアメリカ海軍は予定艦名「オキナワ」(これは日本海軍との最後の艦隊決戦に敬意を表したものである)を用意するなどの念の入れようで彼女を迎える準備を行っていた。 だが、ポツダム会談においてソ連が賠償艦として手に入れることを主張しはじめることによって(これは、あのヤマトの同型艦を手に入れたいというスターリンの強い意向であったという)海軍当局と国務省が対立。 さらには強引に進駐を実施した樺太における一般市民への蛮行から米軍武官の証言がある中で日本軍が自衛反撃を実施したことによって事態はさらなる混迷を迎える。 8月6日、いまだ存続していた海軍総司令部から脱出支援命令を受けた信濃は舞鶴から出港。 樺太大泊からのべ15回の輸送によって一般市民を脱出させたのだ。 さらに、ソ連軍による朝鮮半島南部への「進駐」を警戒した米海軍による日本海作戦の結果偶発戦闘や睨みあいが繰り返されており、進駐部隊として北海道へ展開したばかりの米陸軍第58師団のうち1個支隊が千島列島北端占守島で孤立。 ソ連潜水艦隊(未詳)による輸送船撃沈という緊張状態の中にあって「信濃」は現地へ急行し脱出の支援と潜水艦撃沈という「太平洋戦争最後の戦闘」を「米海軍の駆逐艦隊とともに」実施したのである。 とりわけ、沈没しつつあった重巡インディアナポリス乗員の救助は米海軍はもとより米市民の対日感覚を一変させるのに十分だった。 これらの結果として「好意的な」反応を勝ち取った信濃は戦後の日本において数少ない稼働艦であることから特別輸送艦に指定されて以後3年間を南方からの引き上げに従事。 ヘンリー・J・ウォレス大統領による日本再軍備への好意的な反応から横須賀において「保管艦」として「長門」や「酒匂」とともに留め置かれた。 そのため、1948年の工作船「ヴァストカヤスク」号事件や国共内戦の勃発に伴い編成された海上警備隊――実質的な新生日本海軍の象徴的な艦として米海軍の強力な後押しのもとで復帰が実現したのである。 (これは、空母ユナイテッドステーツを「撃沈」されたことへの米海軍の報復であったともいわれる) 近年の朝鮮半島南北分断線の緊張状態や、国共内戦における国府軍の壊滅的な敗北に伴い改装が検討されているが、復興のために資材を必要と考える人々も多く、呉軍港で残存する戦艦「伊勢」「日向」の去就とともに情勢は流動的である。 もっとも、最新鋭艦であるうえに樺太からの邦人脱出を支援した本艦への国民的な人気や米海軍による後押し、そして海上警備隊警備局長である阿部俊雄元少将の存在もありその保有継続は海上警備隊の最優先事項であるといわれる。
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目次 横山 宏章『中華民国―賢人支配の善政主義』(中公新書)目次 関連記事 関連リンク書評記事 横山 宏章『中華民国―賢人支配の善政主義』(中公新書) 中華民国―賢人支配の善政主義 (中公新書) 著者:横山 宏章 目次 はじめに「賢人支配の善政主義」の伝統 第1章 中華民国の誕生1.孫中山と梁啓超の「専制論」革命前夜の百家争鳴 孫中山の「三序」構想 梁啓超の「開明専制論」 2.辛亥革命と中華民国の成立清末変革運動 辛亥革命 南京臨時政府の試練 3.宋教仁の議院内閣制構想宋教仁と孫中山の確執 「中華民国臨時約法」の制定と宋教仁の「勝利」 宋教仁の議院内閣制構想の中身 宋教仁的革命への評価 第2章 群雄割拠と軍閥混戦1.袁世凱の帝制論袁世凱への期待 袁世凱の危機意識 人民観とグッドナウ・楊度の応援歌 袁世凱の帝制と蔡鍔らの護国戦争 2.孫中山の訓政独裁論中華革命党の建設 「以党治国」論の誕生と弊害 「訓政」支配の精密化 孫中山の人民観 3.軍閥混戦の戦国時代軍閥の性格規定 軍閥の北京政府支配 軍閥の全国割拠 軍閥同士の抗争・混戦 4.地方分権と聯省自治運動軍閥混戦への絶望 四人の代表的聯省自治論者 趙恆惕・陳炯明らの聯省自治運動 第3章 国民革命への道1.陳独秀・胡適と新文化運動革命主体の変革 思想革命 文学革命 その後──社会主義への道 2.大衆運動の登場第一次大戦後の世界と中国 「五・四運動」「五・三O運動」 3.中国共産党ロシア革命の影響 創立大会 政策の修正 中国共産党第二次全国大会 4.国民革命の開始と国共合作の苦悩国民革命とはなにか 国共合作と国民党改組 共産党の抵抗と国民党内部の反発 変わらない孫中山 5.北伐戦争と国民党の全国統一広州国民党の成立 蒋介石の登場 北伐戦争と武漢政府 張作霖の敗北と蒋介石の全国統一 6.革命外交と国権回復の悲願ワシントン体制と中国 クリスマス・メッセージと漢口・九江英租界回収、南京事件 南京政府の民族主義的外交方針 関税自主権の回復 第4章 南京政府と日本軍の侵略1.蒋介石の訓政支配軍政から訓政へ 蒋介石の訓政支配 胡漢民の訓政擁護論 国民政府の五院制度 2.反蒋介石派の「民主」論反蒋戦争発生 国民党三全大会の対立 北平拡大会議と「太原約法草案」 蒋胡の争いと広州非常会議 3.学術界での「民主と独裁」論争その後の陳独秀と胡適 訓政支配の独裁擁護論 胡適の民主化必要論 複数政党制について 4.満州事変と蒋介石の「安内攘外」策日本軍の侵略と中国の危機 「不抵抗主義」と「以夷制夷」策の失敗 「積極抗戦主義」策の挫折 長期戦としての「安内攘外」策 5.共産党のソヴィエト革命運動共産党の独自な道への苦悩 都市革命から農村革命へ 中華ソヴィエト共和国臨時中央政府の囲剿作戦 長征と毛沢東路線の確立 6.第二次国共合作と抗日戦争反蒋抗日から逼蒋抗日へ 西安事件と内戦の停止 盧溝橋事件と抗日戦争 汪精衛の離反と国共の亀裂 第5章 国民党から共産党へ1.戦後構想と国共の協議憲政への準備と二つの独裁論 蒋介石と毛沢東の重慶談判 国共の政治協商会議 国共の分裂と内戦の勃発 2.米中関係の変化米中関係の歴史 日本の中国侵略とアメリカ 国共調停 中国共産党の親米から反米へ 3.中華民国憲法制定と国政選挙制憲国民大会の召集 中華民国憲法の制定 国政選挙の実施と混乱 総統、副総統の選出 4.国共両党以外の諸政党の活動革命党独裁と諸党派 国共分裂後の国民党系分派政党 抗日戦争時代の国民参政会での活動 戦後の諸党派 5.国共内戦と南京政府の崩壊政治交渉の決裂と内戦の開始 北京の無血開城(和平開城)と南京の陥落 国民党はなぜ敗北したか 共産党は何故勝利したか 現代の共産党支配の本質 あとがき 中華民国の年表 関連記事 関連リンク 書評記事
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Template 中華圏の人物? 張 学良(ちょう がくりょう、簡体字:Template lang?、繁体字:Template lang?、ピンイン:Template lang?、1901年6月3日 – 2001年10月14日)は中国の軍人・政治家。字は漢卿。張作霖の長男として遼寧省に生まれた。 人物 青年時代 1901年、張学良は当時満州地方の馬賊であった張作霖の長男として生まれた。母親(趙春桂)のことはよく分からないが、張学良が10歳の時に亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。 1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。また、昭和天皇と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後述のNHKの取材で述べている。 武官時代 1920年、東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。満州の奉天軍閥、張作霖の長子として父と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年の第一次奉直戦争、1924年の第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。 奉天軍閥 1928年6月4日、関東軍の河本大作による張作霖爆殺事件により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、父の領土満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟(青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事、政治の不干渉を認めさせ所領の独立を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して説得したが、翻意させることは出来なかった。こうして日本から反感をかってしまったが決定的な対立には至らぬように工作し日本を軟化させた。1929年1月、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。 張学良は富国強兵策を採り軍事、金融、教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め1929年8月にはソビエト連邦が持っていた東中国鉄道を接収したことを切っ掛けに、武力衝突を起こして大敗したが、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸ばし河北省を接収し、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。 満州事変 1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。 満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取材で述べている。 いずれにせよ、日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった)。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したので、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。イタリアのムッソリーニやドイツのゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。 西安事件 1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年、西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。12月12日、張学良と楊虎城は西安事件を起こして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。 軟禁 翌1937年にその代償として逮捕され、軍法会議により懲役10年の刑を受けた。1938年に特赦を受けたが、実際は軟禁の身であった。1945年、第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年に台湾に逃れたが、張学良も台湾に移され、50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年にキリスト教に改宗した。 1975年の蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになり、戒厳令が解かれ中華民国(台湾)が完全に民主化を果たした後の1990年にはNHKの取材を受け大きな反響を呼んだ。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。その後1991年に釈放され、アメリカのハワイに隠棲。そのまま生涯を終えた。100歳であった。 評価 国共合作を成立させたことから、中華人民共和国では「千古の功臣」、「民族の英雄」と呼ばれ、非常に高く評価されている。逆に中華民国内では正反対の「千古の罪人」として扱われ、特に黄文雄ら親日派は激しく批判している。何より最終的に共産党に中国大陸を追われたことが、中華民国での張学良評価を厳しくしている。但し、釈放など時間の経過に伴い、再評価の動きも起きている。 参考文献 臼井勝美:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 角川書店 ISBN 4048210416、1995/5 角川文庫 ISBN 4041954029、いずれも絶版) 松本一男:『張学良と中国・西安事変立役者の運命』(サイマル出版会) 関連項目 中華民国の歴史 『中原の虹』浅田次郎の小説 外部リンク Template commons? 張学良論 原題:「張学良糊涂死了――仮英雄・仮将軍・仮基督徒」 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月11日 (土) 16 19。
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軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったものの、一般に「軍閥」とは呼ばれない。 軍事力を背景に地方に割拠する組織・集団 辛亥革命前後の中国のものが典型。例えば、辛亥革命前の代表的な軍閥領袖として李鴻章があげられる。李鴻章が私財を投じて兵を募り集め、訓練・組織化した軍閥は時の政府(清)に従順であったが、領袖の跡を袁世凱が継承してからは、次第に軍閥組織の利(ひいては軍閥領袖の意)を最優先として動く様になる(やがて孫文と裏交渉し、清政府に反目、やがては打倒勢力の中核となる)。呉佩孚、張作霖らは衝突や和解を繰り返しながら覇権を競い合った。しかし、中国国民党の北伐戦争で軍閥は打撃を受け、対日戦争や国共内戦で中国国内の状況が変わると国民党軍や中国共産党軍に編入され力を失った。 前近代の主権国家が成立する前の世界において、国家の政治体制は個々に軍事力を有した団体、あるいは地方政権の集合体であったものが多く、「国家」が後者の意味での軍閥の連合体の様相を呈することは常態であった。また、そうした場合、中央政府とはしばしば国家の全体に影響を及ぼしうる軍事集団そのものであり、これは前者の意味での軍閥に近いものであった。国民国家というのはかかる前近代を経て近代になって始めて成立した概念であり、そこから愛国心等も生まれていった。愛国心という概念は近代の産物に過ぎないのである。この意味では、日本の中世初期の武士団や中世後期の戦国大名の領国組織も、軍閥の定義には当てはまる。 近代の主権国家においては軍事力は国家の中央政府のもとに一元化されるべきものであり、また中央政府に一元化された軍事力はそれ自体が政府機関を運営する主権者ではなく、国家の主権者の命令に服するものでなくてはならない。つまり近代社会において軍閥が云々されるとは近代国家たるべき要件となる軍事力の一元化と、主権者への服従が達成されていない状態が継続していると考えてよい。 この意味での軍閥に近いものとしては、ソマリアの武装勢力や、民主カンプチア政権崩壊後のポル・ポト派、アフガニスタンの北部同盟、ムジャーヒディーン残党などが上げられる。 関連項目 世界の軍閥一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月24日 (金) 13 15。