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この掲示板には、3DSに関する疑問、質問等わからないことを書いて下さい 。 関係ない質問は削除させていただきます。また、フレコ交換は専用ページにてお願いします。 わからないことは事前に他の人が質問していないか調べてから質問して下さい。 -- 管理人 (2012-05-12 23 18 48) 名前 コメント
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「相続問題解決ウィキ」へようこそ 相続の問題は、法律問題、税務問題などいろいろあります。 このページでは、専門家による相続の問題を解決するヒントを提供します。 管理者は、 ですので、何かございましたら、お手数ですがご連絡をいただきたいと存じます。 相続の手続 @wikiの基本操作 用途別のオススメ機能紹介 @wikiの設定/管理 おすすめ機能 気になるニュースをチェック 関連するブログ一覧を表示 その他にもいろいろな機能満載!! @wikiプラグイン @wiki便利ツール @wiki構文 @wikiプラグイン一覧 バグ・不具合を見つけたら? 要望がある場合は? お手数ですが、メールでお問い合わせください。 分からないことは? @wiki ご利用ガイド よくある質問 @wiki更新情報 @wikiへお問い合わせ 等をご活用ください その他お勧めサービスについて フォーラム型の無料掲示板は@bbをご利用ください 2ch型の無料掲示板は@chsをご利用ください お絵かき掲示板は@paintをご利用ください その他の無料掲示板は@bbsをご利用ください 無料ブログ作成は@WORDをご利用ください CGIゲームが設置できる無料ホームページ作成は@PAGESをご利用ください
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問題解決のためのザ・バイブル ③ 渉外弁護士 佐々木 満男 ■本稿は東京大学の学生・教職員・卒業生向け週刊新聞「東大新報・一九九九年六月二五日号」の原稿です。 3つの解決方法 問題の解決には三つの方法がある。「力による解決」と「知恵による解決」と「愛による解決」である。力と知恵と愛とは、バラバラなものではなく、同一のものの三つの異なる特性(面)である。すなわち、私たちは皆、この三つの特性を持っているが、問題の種類・性質に応じていずれかの特性を最も生かして、解決することになるのである。 神は私たちに、力と愛と慎み(知恵)の霊をくださったと、聖書に書かれている。(Ⅱテモテ一章七節) (1)力による解決 「鳴かなけりゃ殺してやろうホトトギス」と織田信長は歌ったと、言われている。問題を解決する最も原始的な方法は、「力による解決」である。不正なもの、不潔なもの、自分の気にいらないものを、力によって抑圧したり、排除したりするのである。薬による害虫駆除、外科手術による患部切除、体罰による教育、警察権の行使、軍隊による武力行使などが、これに当たる。 神の偉大な力天地万物の創造主の属性の1つは、言うまでもなくその偉大な力である。神が創造したこの宇宙には、現代科学によって解明されただけでも、1千億の銀河系がある。私たちの太陽系に属する銀河系には2千億の星がある。そうすると、宇宙全体では1千億×2千億の恒星が存在することになる。 秒速30万キロメートルの光が1年かかって届く距離を1光年というが、これは9兆5千億キロメートルである。宇宙全体の直径は150億光年であると言われている。 極小の世界における原子もまた、神の偉大な力によって創られたものである。原子の力は、人類を全滅させるほどの軍事力にもなり、全人類に行きわたる電力にもなる。このように、神の力は私たちの想像をはるかに絶する偉大な力である。 人間の力 神によって創られた人間にも、それぞれにふさわしい力が与えられている。この力は人が生きていくために必要なものである。聖書は、人が力によって問題を解決せざるを得ない場合があることを、必ずしも否定しない。 旧約聖書の多くの部分は、イスラエル民族の戦争の歴史である。神は、選ばれた民であるイスラエル民族に対して常に、「強くあれ。雄雄しくあれ」(ヨシュア記一章九節)と語っている。 「目には目を」「歯には歯を」(出エジプト記二一章二四節)という有名な言葉も、力による解決を肯定している。ただし、これは加害者に対する償いの限度を規定したものであり、過剰になりがちな復讐行為を公平な限度に抑制したものである。 また、甘やかして育てて矯正不能な悪人にするよりは、むちを加えても子どもを厳しく育てるようにと教えられている。(箴言一三章二四節) 信仰による力 聖書には、神を信じる者には、その信仰の度合いに応じて、特別な力が与えられることが、各所に約束されている。 例えば、「私は、私を強くしてくださる方(イエス・キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ四章十三節)という聖句である。 かつて、重度の心臓病で医師団から再起不能を宣告され、プロボクシング試合出場資格まで失ったイベンダー・ホーリィフィールドは、この聖句を心から信じることによって奇跡的なカムバックをした。 彼は、この聖句を刺繍したガウンを着てリングに立ち、マイク・タイソンを九六年と九八年に連続して二度破って、世界ヘビー級チャンピオンの座についている。 また、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ八章三一節)、「わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす」(詩篇一一八節十節)という聖句もある。 聖書ただ一冊のみを抱えてノルマンジー上陸作戦を決行したドワイト・アイゼンハワー(連合軍最高司令官)は、第二次世界大戦の「史上最大の作戦」に完全勝利した。これが連合国側の最終勝利への突破口となった。 即効パワー 一般に力による解決は即効性がある。力を行使することによって、即時に問題が解決されることが多い。この即効パワーがあるために、力による解決は安易に濫用されがちになる。 力による解決は、人間関係においては恐れを伴う。力の威嚇によって人を恐れさせて支配しようとするからである。人は心から納得しなくても、恐れのために速やかに支配されてしまう。 復讐による悪循環 しかし、時間がたつに従って本心の力が回復してきて、報復しようとする力となっていく。そのようにして、お互いに復讐によって対抗しようとする悪循環に陥ってしまう。 この悪循環を断ち切るために、新約聖書は復讐を戒めている。「自分で復讐をしないで、むしろ神の怒りに任せなさい」「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ一二章一九節、二一節) 力による解決の限界 「力による解決」は、特に人間関係については、このように大きな限界がある。武力によって猛威をふるった織田信長は、腹心の家臣・明智光秀に殺されてしまった。力によって倒す者は、力によって倒される。平家物語の「盛者必衰の理」である。イベンダー・ホーリィフィールドも、いつかは世界ヘビー級チャンピオンの座を降りなければならないであろう。神が人に特別な力を与えるのは、その人の利得のためではなく、愛と正義と公平の実現のためであるからである。 Total Hits - Today Hits -
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ここを編集 もんだいかいけつぷろふぇっしょなる 登録タグ 書名し <著者>齋藤 嘉則 新版 問題解決プロフェッショナル―思考と技術著者名等: 齋藤 嘉則 目次 学んだ読解スキル 学んだ思考スキル 学んだ表現スキル その他の学んだ知識 感想など読書のきっかけ この本を読んで興味を持った本や論文 その他の雑感他の人のレビューと、他の人のレビューへのコメント 本と著者の情報読んだ版刷 参考文献の有無: 索引の有無: フッターアクセスカウンター コメント 学んだ読解スキル 学んだ思考スキル 学んだ表現スキル その他の学んだ知識 感想など 読了日 読書のきっかけ この本を読んで興味を持った本や論文 その他の雑感 旧版を読んだ。当時はMECEなどのロジカルシンキングの概念を詳しく説明した本が本書と バーバラ ミント『考える技術・書く技術』 ぐらいしかなかった。今は、平易な表現で書かれたロジカルシンキングの本が沢山出ている。今なら「 『自分の答えのつくりかた―INDEPENDENT MIND』渡辺 健介 から先に読め」と言うなあ。 他の人のレビューと、他の人のレビューへのコメント 活字中毒日記 問題解決プロフェッショナル「思考と技術」 齋藤嘉則 グロービス - livedoor Blog(ブログ)- キアの1日1冊書評 『問題解決プロフェッショナル 思考と技術』・・・齋藤嘉則 箱入り嫁の小さな幸せ 問題解決プロフェッショナル~思考と技術~ (齋藤嘉則)|おわののブログ 本と著者の情報 読んだ版刷 参考文献の有無: 索引の有無: フッター ここを編集 アクセスカウンター 今日: - 昨日: - 累計: - コメント 名前 コメント すべてのコメントを見る
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最終更新日時2012-07-06 ■目次 問題解決の3ステップ ステップ1.何を変えるか使うツール:現状分析ツリー(原文:Current Reality Tree、略称:CRT、別訳:問題分析ツリー)目的 アウトプット ステップ2.何に変えるか対立解消図(雲)目的 アウトプット 中間目標 未来実現ツリー(未来構造ツリー)目的 アウトプット 手順 ステップ3.どのように変えるか前提条件ツリー目的: アウトプット 論理思考ツリー作成用ソフトウェア ページフッタこのページの1階層上のページ このページの1階層下のページ このページに含まれるタグ 関連するページ このページへのアクセス数 ■本文 『ザ・ゴール』で有名なゴールドラット博士による思考法。 海外の考え方なので、出てくる用語の日本語訳は、人によって少し違っている。 問題解決の3ステップ TOC思考プロセスは、次の3つのステップで問題解決をはかります。 ①何を変えるか? → ②何に変えるか? → ③どのように変えるか? 引用元: GSC TOC-思考プロセス ステップ1.何を変えるか 使うツール:現状分析ツリー(原文:Current Reality Tree、略称:CRT、別訳:問題分析ツリー) 目的 事実を因果関係で整理し、問題の全体構造を明らかにする 引用元: GSC TOC-思考プロセス 要求工学 第27回:論理思考プロセスと現状分析ツリー(要求工学:Requirements Engineering) アウトプット いくつかの根本原因(root cause)やただ1つの核心問題(core problem)を見つけ出す 引用元:『ゴールドラット博士の論理思考プロセス』p38 勉強用メモ - トップページ/問題発見・問題解決/論理思考プロセス(TOC)/現状分析ツリー(Current Reality Tree、CRT、問題分析ツリー) ステップ2.何に変えるか 対立解消図(雲) 目的 中核問題を解決するためのアイディアをひねり出す 引用元: GSC TOC-思考プロセス アウトプット 1つまたは両方の前提を置き換えるインジェクションを作る 引用元:『ゴールドラット博士の論理思考プロセス』p156 用語説明 「インジェクション」: 現在存在しない状態、環境、またはアクションで、現状に新たに「注入」しなければならないもの 引用元:『ゴールドラット博士の論理思考プロセス』p156 中間目標 対立する状況の主要な要素の関係を描きだし、その解決方法を示唆する 引用元:『ゴールドラット博士の論理思考プロセス』p142 隠れた仮定ーそれは現在正しいと受け入れられているが、実際には疑問なものーを表面化させる。 引用元:『ゴールドラット博士の論理思考プロセス』p142 未来実現ツリー(未来構造ツリー) 目的 検討したアイディアが効果的かどうかシミュレーションし、そのアイディアが「何に変えるか?」の答えであるかどうか検証 解決策によって生じうる副作用を洗い出し、それらに対する対策もここで検討 引用元: GSC TOC-思考プロセス アウトプット 手順 1.インジェクションを明確にする。 2.DE:Desired Effects (好ましい結果)を列挙する。 3.インジェクションの「好ましくない結果」を列挙する。 4.インジェクションとDE(好ましい結果)を、十分条件ロジックで関連付ける。 5.インジェクションの望ましくない結果(Negative Braches)を取り除く 6.付加的な結果を追加する。 7.再強化ループを加える。 8.FRT全体を吟味する。 参照元:思考プロセス入門(7) 未来構造ツリーの作成方法 | 飯塚革新コンサルティング 参照元:思考プロセス入門(8) ネガティブブランチとインジェクション | 飯塚革新コンサルティング ステップ3.どのように変えるか 前提条件ツリー 目的: 解決策実行のためのロードマップを作成 引用元: GSC TOC-思考プロセス アウトプット 解決策の実行計画 解決策の実行計画 論理思考ツリー作成用ソフトウェア TOC思考プロセス+UMLドローソフト kspa iマネジメント 2007 WEBは見辛いが、使えそうなソフト。 ゴールドラット博士の論理思考プロセス―TOCで最強の会社を創り出せ! ページフッタ このページの1階層上のページ このページの1階層下のページ 現状分析ツリー(Current Reality Tree、CRT、問題分析ツリー) このページに含まれるタグ 図解の技術 関連するページ トップページ/ビジネス/ビジネスモデル トップページ/問題発見・問題解決/論理思考プロセス(TOC) このページへのアクセス数 今日: - 昨日: - これまで合計: -
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渉外弁護士 佐々木 満男 ■本稿は東大新報1999年10月25日号の原稿です。 問題の解決とは 「問題の解決」には二つのケースがある。第一のケースは「問題そのものを解決する」ことである。第二のケースは「問題に対する自分の思いを解決する」ことである。第一は「問題の客観的解決」であり、第二は「問題の主観的解決」である。 病気になったら治りたい、裁判になったら勝訴したい、経済的破綻に直面したら立ち直りたい、というのが人情の常だ。そこで、なんとかして治ろう、なんとかして勝とう、なんとかして立ち直ろうと、あの手この手を尽くしてがんばるのである。 けれども、病気が治っても、裁判に勝っても、経済破綻から立ち直っても、問題はそれで尽きるわけではない。また再び、次から次へと新しい問題に直面せざるを得なくなる。だから人は一生の間、あの問題にぶつかりこの問題にぶつかって、がんばってがんばって生きていかなくてはならない。 真面目な人、責任感・正義感の強い人ほど、さまざまな問題に取り組んでいくうちに、やがては精魂尽き果ててしまう。それは「問題そのものを解決する」ことのみを、すなわち「問題の客観的解決」のみを目指して追求しつづけるからだ。 聖書は「問題そのものを解決する」ことを最も大切なこととはしていない。それよりも、「問題に対する自分の思いを解決する」ことが最も大切なのである。なぜなら、ひとたび問題に対する自分のネガティブな思いを根本的に克服することができたならば、あらゆる問題に対処していける秘訣を心得たことになるからだ。そしてそれは、「問題そのもを解決する」力にもなっていく。 いのちより大切なもの 「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と星野富弘さんは書いている。 星野さんは高校の体育の教師をしていたが、あるとき跳箱の着地に失敗して首の骨を折ってしまった。以後首から下が完全に麻痺してしまい、医学的には治る見込みは全くない。失意のどん底で何度も自殺を考えた。絶望の中で友人からもらった聖書をむさぼるように読んだ。そしてイエス・キリストと出会うことができた。その時から生きる希望を取り戻して、口で筆をくわえて心をこめて詩と絵を画き始めたのである。 今や星野さんの詩画は、日本だけでなく、世界中の人々に感動を呼び起こしている。「こんなに大きなハンディがあるのによくやっているなあ」という同情心からだけではない。星野さんの詩画をとおして、深い安らぎと生きる大きな喜びが伝わってくるからである。 彼としても治りたいという気持ちがないわけではないであろう。しかし首下不随の重度身体障害という問題に対する自分のネガティブな思いを根本的に克服して、喜んで生きているのだ。 「いのちより大切なものって、何ですか?」。多くの人が彼にこう質問してくる。その答えは、イエス・キリストを信じることによって得られる「永遠のいのち」である。「肉体のいのち」を越える「永遠のいのち」への確信は、「今あるハンディはこの世に生きている限りのものであって、この世を去り天国に迎え入れられたときには、すべてのハンディは取り除かれる」という希望を生み出すのである。 目が見えない、耳が聞こえない、口で話せない、という三重苦を負ったヘレン・ケラーも、キリストを信じて「永遠のいのち」を得た。それによって、三重苦という問題に対するネガティブな思いから完全に解放されたのである。彼女は生涯にわたって世界各国を回って、その喜びと希望を多くの人々に伝えつづけた。 「神はそのひとり子(イエス・キリスト)を賜ったほどに世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネの福音書三章十六節)と聖書に書かれている。「この一句を信じるか否かに、私たちの人生のすべてがかかっている」と言っても、言い過ぎではない。 こうして永遠の未来に対して明るい希望を持つことができるならば、私たちは直面する諸問題を乗り越えて喜んで生きていけるのだ。 永遠かこの世限りか 「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書三章十一節)と聖書にある。だから、たかだか百年足らずのこの世のいのちに人は満足できないのである。この世の短い期間内での淡い希望は、何かの障害ですぐに失望に変わってしまう。この世だけで私たちの人生のつじつまを合わせようとしても合わないのである。そこには不合理と不公平しかないように思われる。 だが、真に永遠を思うならば、本物のゆるがない希望が湧いてくる。永遠のスパン(視点)に立って、この世のつかの間の人生を見てみると、皆どんぐりの背くらべだ。元気はつらつとしたスポーツ選手もベッドに寝たきりの重度の身障の方も、大差ない。大富豪もホームレスの方も、皆同じだ。東大卒も小学校にも行けなかった方も、大して変わらない。 永遠に生きられる(生かされている)絶大な価値に比べれば、この世で何をしたか、何になったかなどは、ささいなことにすぎない。永遠への希望があるから、いかなる状況におかれても、喜びと感謝をもって今を生きられるのである。けれども、いのちをこの世限りのものと限定するならば、いつかはこの世に失望し、ついには自分に絶望せざるを得ない。 ある公立大学の某助教授は、学生たちに、「あなたの人生に一切意味はない」と教えている。「人生には強弱しかない。善悪などはない。生は全く無意味だ。だから今ここを楽しく生きればそれでよい。生きるも死ぬもあなたの勝手だ」と言って、日本の虚無的な若者たちに大いに受けているようである。これは「神は死んだ!」と叫んで神を徹底的に否定し、最後には発狂して死んだフリードリヒ・ニーチェの思想をルーツとするものである。また某氏によって出版された「完全自殺マニュアル」なる本が百万部以上も売れている。 ちなみに右の両名は東大卒である。彼らの信奉者、愛読者が自殺をしてもあまり意に介さないようだ。自殺者の一人は公務員試験に合格して大蔵省に内定していた東大の女子学生であるという。 要するに、「今ここを楽しく生きればそれでよい」という思想のベースは「この世への失望」であり、その結末は「自分への絶望」である。このような虚無的傾向は、天地万物の創造主を知らない、あるいはこれを信じようとしない現代日本の世相を端的に反映している。 問題解決の切り札 多くの人々は死があらゆる問題を解決する最後の切り札であると思っている。私たちのいのちがこの世限りのものであると考えるなら、それが当然の帰結である。刹那の楽しみのみを追い求め、人生の問題の解決に本気で正面から取り組むことを放棄し、逃げつづけようとすれば、最後には死ぬ他ないのである。また、社会の巨悪と対決し正義を貫いて生きた某元検事総長も「人は死ねばゴミになる」という本を著して世を去った。神と出会い、神の永遠のスパンで物事を見ることができなければ、誰もがこのようなむなしい結末を迎えざるを得ない。 だが、信じようが、信じまいが、永遠にして無限なる天地万物の創造主は存在する。この愛の神の存在に気づいて出会うことこそが、あっという間の人生の唯一・最大の目的(人の存在理由)である。もしこの神に出会うならば、生きることにすばらしい意味があることがわかる。私たちは、無目的、偶然、勝手に生きているのではなく、神に生かされ愛されていることがわかってくる。本当の生き甲斐(生きる意味)を発見し、希望と喜びをもって、あらゆる問題に積極的に対処していくことができるようになる。ここにあらゆる問題を解決する本物の切り札がある。 虚弱な修道女マザー・テレサは、イエス・キリストの愛に押し出されて、たった一人でカルカッタの貧民窟に入って行った。彼女はそこで飢えと病いで苦しみながら死んでいく人々を喜んで助けつづけた。同様に、キリストのいのちと結ばれている者の誰にでも、自ら問題のただ中に入っていく愛と勇気と力とが与えられてくる。 「死に至る病」を書いた実存主義哲学者セーレン・キルケゴールは、苦悩しつつ生きる意味を問いつづけた末、ついにこう結論した。 「失望したければ世の中を見よ。絶望したければ自分を見よ。希望を持ちたければキリストを見よ」 Total Hits - Today Hits -
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目次 1.聖経「甘露の法雨」の指導霊 2.無限供給の経済学とは 3.貧乏の分析 4.光明思想の効果 (1988年11月30日の霊示) 1.聖経「甘露の法雨」の指導霊 谷口雅春です。今日も引き続いて話をしていきたいと思う。前章では祈りとは何かという話をしたが、祈りと経済問題もひじょうに近いところにあるので、この機会に一緒に話をしておいたほうがよいと思う。 前章の要約は、結局、天上界にはいろいろな指導霊団がいて、地上にいる人たちのさまざまな祈りの性質によってそれを聞き分けている、ということであった。そしてそれなりの指導というものが実際にあるのだということを、私自身の例をひいて縷々(るる)語ってきたと思う。 一つ「甘露の法雨」の指導霊について、観世音菩薩ではなく…、ということだけは言ったがだれであったかを言わなかったと思うので述べておくと、私の「甘露の法雨」を指導したのは、これは龍樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)、ナーガールジュナと言われている仏教では有名な仏教の中興の祖の一人だ。これが私のひじょうに親しい友人であるのだ。親しい友人であって、天上界におって私を指導してくれたのだ。これだけを補足しておきたいと思う。 このように実に多くの友人たちが実在界に住んでいて、地上の人たちが神仏の心にかなった生活をする際には、かならず援助の手を差し伸べている。こういうふうに言ってまちがいがないと思う。 要はこうした援助を、どのように具体化するかということだと思うのだ。この具体化さえ成功すれば、この世で不可能なことはほぼ何もない。そのように言い得るであろう。そう考える。 さて、「経済問題の解決」の方法を本章では述べていきたいと思うが、なかなかこのような大切な法を一章ぐらいで、また一冊の本のみで述べるということは、出し惜しみをするわけではないが、たいへん貴重でもあり、もったいないことでもある。そういうふうに私は思う。 この谷口雅春の経済問題解決の法は、おそらくあまりにも効果があり過ぎるので、続々とこの部分だけを真似する人が出てきて、そして迷惑するやも知れん。あまりに効果があると、人はそれだけを追い求めるので、どうかこの章だけを頼りにせず、他の章に説いてある教えも十分に学んだ上で本章を実践されることを、くれぐれも願っておく。 2.無限供給の経済学とは さて、世に経済問題というのはいろいろとあろう。典型的に言うならば貧乏ということである。貧乏というのはどのように起き、またどのように解決されるべきかという根本問題がある。とはいえ、現代の日本はひじょうに豊かになってきた、という考え方もあるだろう。ひじょうに豊かになってきて貧乏な方は少なくなった。そこそこの人が中程度、あるいは中以上の生活を味わっているという実感があるかも知れない。 私も生長の家を始める前のころ、また始めたころも、経済的にはずいぶん貧乏であったと思う。私の心がそういう心であったために、私のまわりにも三界は唯心の所現でそうした経済状況が訪れていたように思う。 若いころの私という者は、やはり善悪の二元にとらわれて忌(い)み嫌う傾向、自分が値打ちを認めないものを蔑視(べっし)する傾向があったがために、どうしても逆に円満さを欠いて、経済的繁栄を享受するという結果が出なかったように思う。多くの人も経験はあると思うが、いわゆるケチだな。ケチ、出し惜しみをする性格、吟味をしてなかなか金を出し渋る性格、こういうのがいろいろあるだろう。こういう性格の人と会うと、だいたい物を与えたり、給料を与えたり、いい職を与えたりする気がなくなってくるというのが、天(あま)の邪鬼(じゃく)な人間の姿でもあると思う。 私は生長の家を始めてからは、逆に与えるということを徹底することに決めた。人にとにかく与えて与えて、無限に供給すると また自然と自ずからいろしろなものが与えられるのだ。こういう無限供給の道を説いてきたつもりだ。 これはまた違った形で「与える愛」ということを教えているようだが、これは神の世界の法則にかなっていることなのだ。神の世界においては与えた者にこそ与えられるのであって、与えられようと思った者には与えられないという、そういう循環の法則があるのだ。人に与えれば与えるほどよくなっていく、ま、そういうことがあるわけだ。 こうした私の無限供給の経済学を実際に適用して成功した方も数多くいるように思う。たとえば八百半デパートというデパートがあるが、これなども行商から身を起こして、まあ世界的……とまではいかないかも知らぬが、海外にも進出するほどの大きなデパートとなった。それらでも、いい品を安く、人びとに真心を込めて供給するということをやっていたら、自然自然と大きくなったのだ。そういうことが言えると思う。 実際これが商売の根本であって、人間一時期は人の目をごまかして高利をむさぼることができても、つねに人から奪うことを考えている人というのは、何となくその人のまわりにそうした雰囲気が漂い始めるのだ。こうした雰囲気がいったん漂い始めると、だんだん人というものはついてこなくなってくる。寄りつかなくなってくるのだ。 いろいろな繁華街で軒を並べて商売をやっているが、あるところは繁盛しあるところは繁盛しないというのも、決してその位置関係や店のデザインだけが問題ではなくて、中にいる人の出す波動、波長というのが関係あるのだ。とくに商売においては気は心とでも言うか、気立てがよい、あるいは人に好かれる性格でないと上手(うま)くいかんという法則があるのだ。これは知らねばならない。「魚心あれば水心」とも言うが、やはり似た者同士が集まる傾向があって、経済繁栄を願っている者はやはり、経済繁栄をしそうな者のところに集まってくるという法則があるのだ。 3.貧乏の分析 私はここで貧乏の分析をしておきたいと思うのだが、なにゆえに貧乏ということがあるのか。これをよくよく考えてみていただきたいと思う。 貧乏の根本は、つまりはケチで卑怯(ひきょう)で臆病な心、ここにつきると言ってもよいだろう。ケチで卑怯で臆病で、つけ加えるとすれば取り越し苦労で持ち越し苦労、こうした性格をしていればまちがいなく貧乏になる。うそだと思われる方は実践してみればよい。ケチで、そして人を信じないで、そして取り越し苦労、持ち越し苦労して、そうした臆病でまた引っ込み思案で、こうした性格を合わせ持って、これ以上ないという性格を集めて、実際に商売をやってみるといい。まず成功はしない。そういう景気の悪い人には、景気の悪い結果がかならず起きてくるようになっているのだ。 一度にすべてを説明することは難しいので、ここでいくつかの例をあげて説明してみたいと思う。 〔1〕ケチな心 まず「ケチな心」について話をしたい。このケチな心というのは、決して節約をする心のことを言わない。節約はまた一つの美徳だと私は思っている。物ごとは何でも蓄積ということが大事で、勤倹貯蓄(きんけんちょちく)ということは、いつの時代でも成功のための王道である。この意味で自分がせっせと働き、こつこつと金を貯めて、そして大成功を収めていくということは、これは王道であって、決して責められるようなことではない。 だから節約節倹に努めるということと、ケチであるということとはまた別である。これは別なものだと言ってよい。 ではケチな心とは一体何であるかと言うと言い換えるならば「難癖(なんくせ)をつける心」と言ってもよいかも知れない。人間の実相を完全円満なものだと見ないで、人間を傷物だと思う、そうぃう思いは今度は物に対してもあるだろう。物を見ても傷物だと思う。ああだ、こうだとケチをつける。要するに減点主義だな。マイナスばかりを見ていく、こういう思想の持ち主、これをケチと言ってもよいだろう。 だいたい、会えばかならず自分の欠点を指摘するような人と会いたい気がするかどうかを、諸君らも胸に手を当てて考えたらよい。だんだん人の足は遠ざかっていくものだ。 以前にも話をしたことがあるが、スイカの話か何かで言ったことがあるような記憶があるが、八百屋の店先で「うまいスイカはどれですか」と言っただけで怒るような八百屋もいる。「うちのスイカにケチをつけるのか」と言って文句をつけたり、「そんなものわかるはずがない」と言うような人もいる。このようにすぐカッときてケチをつけたがる心、こういう心がある人はまず成功しない。こういうことだ。 もちろん人の上に立って人を使っていく人は、人間の欠点もよく見えねばならないと私は思う。長所だけ見えて欠点が見えないようでは、人間はどこかでバカにされるようなことになるかも知れぬ。ただ欠点が見えても、その欠点を分析したことは胸の奥にしまっていて、その欠占を消し、そしてさらに凌駕(りょうが)するような方向にその人の長所を伸ばしてやる。こういう努力が大事なのだ。 このように誉(ほ)めて伸ばしてやる傾向のある人のところには、人も物も集まってくることになる。したがって人間神の子であるという思想を述べ伝えた生長の家は、発展に発展を続けた。それはすべての人に「お前たちは神の子なのだ。すばらしい人間なのだ。」と教えてやったから、人びとは「それは知らなかった。これはありがたい。」と思って、人も集まり物も集まるという結果となったのだ。 ところが人間罪の子を教えたらどうなるか。これはイエス・キリストという偉大な人が出ても、その法則が働いたことはみんな知っているだろう。人問罪の子を教えたイエスは最後は一人になって、十字架にかかって死んでいったではないか。弟子たちは散り散りバラバラになっていったではないか。 これは思想の効果というものがあるのだ。その罪の子の思想自体がまちがっているとも、それがナンセンスであるとも私はあえて言うつもりはない。ただ思想には思想の効果というものが必ず付随(ふずい)する。人間神の子、仏の子と教えてやれば人は喜んでついてくるが、あなた方は罪人だ、悪人だと言われていると、一人減り二人減り、次第についてくる人はいなくなり、孤高の人となることになる。 よってこれからの宗教指導者は、どちらをとるかよくよく心したほうがよい。人の欠点ばかりを暴(あば)くこと、これに重点を置いていると、ついてくる人はいなくなって会員は減り、やがて指導者は孤立していくようになってくる。人をよくするためには、もちろんその欠点を修正することも大事だが、その欠点の修正のみにとらわれていくと、やがて人を救うという本来の効能、機能を阻害するようにもなっていく。 やはり人は、この世において誉め言葉に飢えているのだ。もっともっと可愛がって欲しいという気持ちがあるのだ。そうであるならば、よいところをどんどんと認めてやっていくことがよいのだ。 宗教の話で話しをしたが商売でも同じだ。そのお店に買いに来る人のよいところを気がついたら「奥さま、よい服を着ていますね。」「奥さま、かわいいお坊ちゃんですね。」「奥さま、なかなかお似合いのハンドバッグですね。」「奥さま、ハイヒールが素敵ですね。」と、こういうひと言をつけ加えておけば、その客は必ずもう一度やってくる。そうではないだろうか。 女性の読者の諸君、胸に手を当てて考えてください。「あなたのそのコートは素敵ですね。」と言われれば、そのコートを着てもう一度行きはしないだろうか。「その髪型は素敵ですね。」とほめられたら、その髪型でまた他のパーティーに行ってみたくはないか。そこで人に喜ばれたら、またそのお店に立ち寄りたくはないか。幸先(さいさき)がよい気分がするのである。 誉め言葉の効能と言えるところは、こういうところにあるのだ。したがっていくら美しい服を着ても、まあ、そういうご婦人が来たとしても、「そんなきれいな服を着たところで、心が腐っていちゃ何にもならない。」というような気持ちで接し、口の中でぶつぶつと言っていたら、何となく嫌悪感というものが漂ってきて、そのご婦人はやがて来なくなる。そうしたものなのだ。 したがって決して人にケチをつけるような気持ち、物にケチをつけるような気持ちを持ってはならない。こういう気持ちを持つと貧乏になってゆく。 〔2〕卑怯な心 次に私が言っておきたいのは、「卑怯な心」というものについてだ。卑怯な心というものも確かにあることはある。この卑怯な心が経済の問題に出る時にはどうなるかと言うと、責任をとらないという形で現われてくることになる。 自分の仕事でミスを犯した時に、その時にもし部下のまちがいであったとしても、もし他の人のまちがいであったとしても、自分の管理が不行き届きであったならば、潔く「私のまちがいです。」と、それを認めてその責任を負うタイプの人というのは、もちろんその時に減点され、マイナスの評価をされたとしても、かならずやその人徳がその人を救って、もう一度立直る時期が来る、そういうふうになっている。 ところが人のミスというものがあって、自分が失敗した時に「これは私の失敗ではなく○○さんの失敗です」ということを言ったとするならば、もちろんそれは事実かも知れないが、ミスを指摘されたその人はよくは思わないのは当然のこと、その事実を知らされた人も「確かに事実はそうかもわからないが、この人は何か自分の責任を回避している。」こういう感じを受けて、なぜか崇高な感じや、なぜかその人を取り立ててやりたいという気持ちがなくなってくるものだ。 また八百屋の例をひいてもよいが、そこのトマトに傷が入(い)っていれば「あ、これは農協の責任です。」と説明してこれで客は納得すると思うか。よくよく考えてみなさい。傷のついたトマトを並べているのはそこの八百屋なのだ。したがって客がその傷の入ったトマトを見て「お宅のトマトは傷が入っていますね。」と言った時に、「これは私のせいではない。トラックで揺れたからこうなったのだ。」あるいは「農協で梱包(こんぽう)する時こうなったのだろう。」こんなことをその八百屋が言ったとすれば、これは卑怯な心であり、もはやプロとしての資格はないと言わざるを得ないと思う。 何事においても仕事とはこういうものだ。たとえばスポーツの選手でプロの選手という者もいるであろう。その中ではプロの選手をやっていても、ある時は調子がよく、ある時は調子の悪い時期もあるだろう。ゴルフの選手でもそう、柔道であれ、レスリングであれ、相撲であれ、調子のよい時悪い時あるであろう。その時に自分が試合に負けたら「今日は天気が悪かったからダメであった。」とか、「今日は寝不足だからダメであった。」とか、「今日は妻が、朝出がけに準備をしてくれなかったからケンカをしてこうなった。」だとか、「今日は風邪気味だからこうであった。」とか、こんな言いわけをいつもしている人は、プロとして通用する仕事を続けていくことはできなくなるということなのだ。 人間が生身(なまみ)で生きていく以上、いろいろ好調不調はあるだろう。また、当てにしていた他人の協力を得られないことだって、もちろんあるだろう。しかしながらそうした時に、それを他人の責任に帰して自分はまったく関係がない、責任がないという姿をとっていれば、やがてその人は人の信頼を失い、人の称賛を受けることができなくなってくるのだ。 よって、決して責任を回避してはならない。どのような最悪のことが起きたとしても、それは自分を磨き鍛えるために現に起きているのであって、そこまで気づかなかったのは自分の至らなかったためである。そうした至らなかった部分を気づかせていただいてありがとうございました、という気持ちです。これがなければならない。 店頭に並べたトマトに傷が入っていて、それを客に指摘されたならば、「お客さま、こういう指摘をしてくださいましてどうもありがとうございました。このままでは当店は恥をかくところでした。ほんとうにありがとうございました。すぐ取り替えます。このような物は二度と売りません。またこういうものを見かけたらご指摘ください。本日はどうもありがとうございました。こうした傷ついたトマトを並べておくということは、まことに私どもにとっては商売上の恥でございます。よくぞお教えくださいました。」と、こういうふうに言ったとしたら、その客はどうすると思うか。 「いやいや、おやじさん、そんなに気にすることはない。傷が入っていてもトマトはトマト、だれかが食べなければいけないのだから私がそのトマトを買おう。」こう、相手はたいていの場合おっしゃるのです。そうすると主人は、「いやいや、こんな傷ついたトマトを売ったとしてはうちの八百屋の恥でございますから、どうぞそれだけはご勘弁ください。」こういうことになる。 しかしこうなると客は、「いや、ぜひそのトマトが食べたい。」と言い始める。こうなってくる。「ではぜひ値引きをして売らせてください。」と、おやじが言い始める。「いや値引きはいらない。その定価通りの金を置いていくからくれ。」ということになる。こうして商売は円滑(えんかつ)、そしてその誠実さが認められて、ますます固定客が増えていくようになる。こういうものなのだ。 したがって、なかなか商売でも繁盛しなかったり、仕事上でもなかなか人の受けが悪く、引き立てがない人は、こうした卑怯な心がないかどうかを、よくよく考えてみられるとよい。 〔3〕臆病な心 次に「臆病な心」ということも言っておこう。 世の中にはずいぶんと臆病な人がいるものだ。その臆病さはたいてい劣等感から発生している。自分が過去、まったく知らないことがあって、人前でそうしたことを言ったり、そういう行為をして恥をかいた、そういう経験があるとだんだん臆病になっていく。 たとえば吃(ども)りの人などもそうだ。吃りで言葉がうまく言えない。そのために臆病になる。こういうのがある。あるいは地方出身の者で、訛(なま)りがどうしても直らない。東北の出身の者に多いが、訛りが直らなく、そしてその訛りだと自分が行きたい駅が発音できないので、もう一駅先のところまで切符を買う、こういう方も中にはいる。こういう人もだんだんと臆病になっていくだろう。 臆病なのには他にもまだある。人間関係においてもそうだ。商談が成り立ちそうになって何かの形で壊れるというのを二度三度とくり返すと、もう諦(あきら)めがちになって、最初から降りるようになる人もいる。 結婚などでもそうだ。見合いで一度二度ふられると、もうそれで自分はダメだ、という気持ちになって、見合い話がきても自分は独身主義者だと言って断る類(たぐ)いの人もいる。まあ、こうしたものだ。 こういうのを臆病な心と言ってもよい。失敗恐怖症と言ってもよい。こうした失敗恐怖症は、営業マン、あるいはセールスマンの中にはずいぶん多いと言えよう。「セールスは断られた時から始まる」という言葉もあるが、セールスをやる以上、断られることがないということはあり得ない。どんな優秀なセールスマンであっても、二度三度、あるいはそれ以上断られている。こうした時に臆病になったら、まず事業というものは成功しない。どこまでも押し強く断行するところに道というものは開けていくのだ。 したがって臆病な心の何が悪いかと言うと、その基(もとい)になっているのが劣等感であり、そして臆病な心というのはそうした劣等感による失敗体験を、追体験するのを避けるために新たな経験を拒むようになってくる。こうしたものなのだ。 中には、この臆病さを謙虚さと取り違えている者もいる。傍目(はため)に見ればたんに臆病なだけであるのに、本人はいたって謙虚な人柄だと自分のことを思っている。自分は謙虚であるから何の判断もせず、何の行動もしない、何の商売もしないで謙虚に生きている、こう思っているのだが、端目にはたいへん臆病で新たなことを恐れている、そういうふうに見えることもある。 ただ私は思うのだが、世に立って、そして事業なり、他のもので成功していこうとするならば、やはり開拓者精神というものはだいじだと思う。あるいはファイティング・スピリットと言ってもよい。戦いの気持ちはだいじだと思う。熱意を持ってやらねば道は決して開けないのだ。 だから臆病者が経済的に繁栄することは、おそらくないであろうと思う。せいぜい親の遺産を受け継いで、そしてそれをなくさないようにがんじがらめに縛って、地縛霊とやがてなっていくのがオチである。こうしたものだ。だからみずからの内に臆病さのある人は、どうかこの臆病な性質を変えてゆかねば、ほんとうに成功はないということを知っていただきたい。 臆病さから脱してゆくためには、やはり熱意というものが必要だ。熱意を持って実践している時に人から認められることがあるだろう。人から何度か認められる体験をした人は次第に自信がついてくる。その自信が、臆病さから自分をやがて救っていくようになるのだ。 人に認められるような仕事をせよ、とはよく言われるが、実際それは一つの成功体験として考えてよいであろう。そうした成功体験を積めば、人間は自信がついてくるのだ。このように言ってまちがいがないと思う。 〔4〕持ち越し苦労型 さて以上で、「ケチをつける心」「卑怯な心」「臆病な心」というものについて説明をした。さらに次に、持ち越し苦労型というのを説明しておこう。これもずいぶん多い。読者もみずからの胸に手を当てて考えてみなさい。 いつもいつも悩みごとを抱えている人はいないか。持ち越し苦労ということで、一週間前、一か月前、一年前の悩みを今も持っている人はいないか。こういうふうな持ち越し苦労型の性格だと、悩みごとは累積していくということをごぞんじであろうか。 たとえば商売で赤字が続く日もあるだろうが、今日は今日、明日は明日としてそれを切り離して考えている人にとれば、それなりにまた今日も頑張ってみようという考えがあるであろうが、その赤字の累積ばかりが気になるタイプの人であれば、人生はもうやりきれなくなってくるのではないだろうか。 「昨日もダメだった、その前もダメだった」、こうしたことばかりを考える。セールスマンでもそうだ。毎日毎日を新しい気持ちで始めないと、「昨日も断られた、一昨日も断られた、その前も断られた」、と断られた人の顔ばかり覚えていたら、いつまでたってもきりがないことになる。 恋愛においてもそうだ。失恋するのは、まあ人間としてつねであろう。しかしそれをいつまでもひきずっていて、よいことは何もない。失恋をしてもまた新たな相手を見つけて、それで幸せになればそれでよいではないか。人間はそれほど欲深くはできていないから、男性でも女性でも自分の理想のパートナーが一人いれば、それで結構満足できるのだ。 過去五人、十人失恋したとしても、五人も十人も自分の恋人にも妻にもすることはできないし、とうていそれは人間として無理な相談だと思う。そうすれば過去の十人をどうこうすることはできないが、現在一人の女性と気が合えば、それはそれで済むことではないか。昔のことは水に流せば、それはそれでよいではないか。私はそう思うのだ。そうではないだろうか。 このように、持ち越し苦労型の人生をしていると、人生は累積債務の山になるだろうと思う。そして現在の不幸の原因を「実はあの時にあれがあったからだ」、そしてその不幸の原因は、また「その前にこういうことがあったからだ」、「その前にまたこういうことがあったからだ」、こうしたことをたどっていく人はいるか、これは決して成功する性格にはならないであろうと思う。 幼少時より苦労をされた叩き上げ型の人間に、この持ち越し苦労型はひじょうに多いと言えよう。ただ、昔苦労したことは苦労したこととしても、それをどこかで断ち切ってしまわねば、その苦労性があまり表面に出てきたら、やはり経済的に成功するということはない。なぜならば、経済的に成功しようとし始めると、その人は人間に対して不信感を持ち始めるのだ。こんなにうまいことが起きるはずがないから、だれかにだまされようとしているのではないか。だれかに何か罠(わな)にはめられようとしているのではないか。こういうことを疑い始める。そうするとその結果、そうした事業に成功しなくなってゆくのだ。 こういうことで、持ち越し苦労型というのは、結局貧乏性だと言うことだ。普通は貯金には利子がついてくるものだが、この持ち越し苦労型であれば、不安やそうしたマイナスの感情が、利子がついてますます膨(ふく)らんでくるのだ。だから損だと言っているのだ。 〔5〕取り越し苦労型 次に「取り越し苦労型」というのもある。これもまた多い。取り越し苦労型の人には頭のいい方が多いことは事実ではあろうと思う。将来のいろいろな危険というものを分析して、最悪の場合でもこうはなるということを考えておくということは、まあ頭がいいという意味ではいいだろうし、一度はそうした考えも通り越さねばならないとは思う。ただ、天変地異だとか、自分が病気になるとか、自分のパートナーが病気になるだとか、こんなことばかりを心配していて何もできないということであれば、道が開けるはずはもちろんない。 将来に対しては明るい希望をつねに持っていなければ、どうしても顔はくもりがちになり、渋面をつくると人が寄りつかなくなってくる。これだけはまちがいがない。一番倒産しやすい方法は、「倒産するのではないか」と、いつも思っていることだ。自分が倒産するのではないかといつも思っていると、銀行はもちろん貸付金を引き上げたがるし、また取引先も危ないと思うので商売を遠慮するようになる。また、「あそこは倒産するらしい」という噂(うわさ)が立つと、人びとはそういうところで物を買うとあとあと心配だというので物を買わなくなる。こうしてあっと言う間に銀行の取り付け騒ぎのように、倒産の心境はその事実を引き起こすことになってくる。 まあ、そういうことで、つねに成功の気持ちを持ち、成功の言葉を発し続けるということが、何よりも大事であると私は思う。そうした気持ちを持っていなければ経済的に改善することはない。 これは、財布の中身を見てもそうだ。財布の中に千円札一枚しか入っていないとする。これをどう判断するか。心配性の人であるならばこの財布の中を見て「私は何と貧しいのだろうか。千円札一枚しかない。これではもう今日はどこにも行けないし、また一体、もし不意のことが起きたらどうしたらいいのだろうか」こういうふうに考える。 楽天的な方であれば、財布の中を見て千円札以上あれば「あ、これで昼食が食べられるな」と思って、それで終わってしまう。「家に帰ればまたお金もあるだろう。これでお昼ご飯を食べて帰ればいい」ぐらいにしか考えない。同じ千円というお金であっても、それに対する判断はいろいろだ。 私が言っておきたいことは、将来悪いことが来る、自分を罰するような事態が来るという性格は、それ自体が不幸な性格である、そう言ってまちがいがないと思うのだ。天変地異が起きたり、自分を処罰するようなことが起きるという思いは、これは不幸を呼び寄せている心なのだ。どうか失敗が続いているという人は、そうした不幸な傾向が自分にないかどうかを考えられたらいい。 4.光明思想の効果 この不幸な性格を直すのは、はっきり言って特効薬は一つしかないのだ。それは私の説く、この光明思想、これを身につけることだ。毎日毎日、すべてがよくなる、あらゆるものがよくなると思い続けることだ。クーエという心理学者が教えたように「毎日毎日あらゆる点で自分は一層よくなる」、こういう言葉を毎日寝る前、あるいは朝起きたときに言うことだ。 寝る前には「今日もまた私は知恵が湧いた。今日もまた体力が増強した。明日ももっとすばらしくなるだろう。毎日毎日あらゆる点ですべてよくなっていく。」こういうことを寝る前にも、あるいは起きてからも言うことだ。昨日子供が病気をしたとしても、その前の日には仕事上で失敗したとしても、そうしたことを反省することは大事かも知れないが、心がそれにひっかかってしまっては元も子もない。やはり、よりよき自分を創っていくために自分を励ますことが大事だ。あらゆる点で自分がますますよくなる、こう思うことだ。身体の健康もそうだ。ますますあらゆるところで自分はよくなると思うことだ。 喉(のど)が痛くて困っている人であるならば、喉が痛くなって使えなくなるのではないかなどと思っていては、そういう現象が起きて来ることになる。喉は使えば使うほど強くなる、鍛えられて筋金が入ってくる。そしてどんな状況下でも使えるりっぱな喉になるのだ。こう毎日毎日思えば、喉はそのように働いてくる。 歌手などでもそうだ。自分で「毎日十曲も二十曲も歌っていると声が出なくなるのではないか」、と恐れる歌手というものは結構多い。そしてあちこちの薬局に行ったり、また飴(あめ)を買ってきてなめたり、いろいろ心配をしているようだが、人間の喉というものはそんな柔(やわ)なものではない。ましてや天職として歌手になるように生まれてきた人であるならば、そんなことで声が出なくなるはずがない。 歌を歌うために出て来てそして声が出ないならば、それは職業を変えろという神の意思だと考えればよい。ほんとうにその歌がすばらしい歌で人びとに喜びを与えるものであるならば、声は出続けるであろう。カナリヤでさえ歌を歌うと言うではないか。人間に歌えぬはずはない。 このように、すべて天命があるならば、よくなっていくしかない。すばらしくなるしかない。このように思っていけばよい。私もときおり地上の人たちの姿を見ているが、女子のマラソンなどを見ていても、小柄な人がずいぶん一生懸命走っているではないか。あんな小さな身体でよく走れるものだと思うが、本人はどうも気にしていないらしくて一生懸命走っている。自己弁護の心を持っていないから、そうしたこともできるのだろう。 自分は小柄だから決してマラソンで優勝できないなどと思っていたら、決して優勝はできないだろう。ところが小柄であろうが何であろうが、自分はこれが好きだから、マラソンが好きだから、とにかくやるしかないのだ、人の後ろにつくのはいやだ、自分としては優勝したい、と思い続けて走っていれば、やがて優勝するようなことが出て来るであろう。 まあ、私も相撲が嫌いではないから天上界から相撲も見ておったが、このたび千代の富士というのが五十三連勝して、ついに敗れて、まあ残念ではあったがたいへんな大記録を残したようだ。この千代の富士という力士にしてみても、もし身体が小さい、体重が少ないということをいつも口癖にしてそれに逃げ込んでいれば、決して大横綱にはなれなかった。それだけはまちがいのないことだと思う。 体重の少ないところ、身体の小さいところを気力と技術力で克服しようと努力して、そして堂々たる横綱となり、横綱となったのち実績を積み上げたがゆえにその実績に自信を持ち、その自信が次つぎと並み居る強敵を打ち倒すという現実を起こすことになったのだと思う。 だからよろずマイナス的なことばかりを考えず、自分のプラスのことのみを考えて、そして実践していくことだと思う。そこにかならず道は開ける。 まあ、この私の本を読む人であっても私は言っておきたいが、この「谷口雅春の霊示集」を信じる人、疑う人いろいろいると思うが、信じて得をすると思えば信ずればよいと思う。疑って、さて何が得をするかよくよく考えればよいと思う。それが私の言うようなケチな心、卑怯な心、臆病な心によって疑っているのではないかどうか。そのようなことを考えてみることだ。 千円札を出して本書を買ったならば、この中で、まあ何でもよいから、自分のプラスになることを学んでみようと、あっけらかんと思って見ることではないかな。そこにほんとうの真理が現われると思う。 生長の家の幹部の諸君にしても、こうした本が出れば自分たちが危うくなると、そういう取り越し苦労をする人もいるかも知れないが、いかんせん生命の実相を説いた著者は光明一元の著者であるのだ。私の本が出ることによって、どこかにマイナスが出るということは決してあり得ない。すべてがよくなるしかないのである。私はそう信じて本書を書き続けているのである。その私の精神をよくよく知ってもらいたいものだと思う。
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パフォーマンス・マネジメント―問題解決のための行動分析学
https://w.atwiki.jp/saisyouhu_hankoku/pages/72.html
統合版宰相府問題解決リスト 以後はこのリストに手を入れてね 10:アピール:各国連携を見せないといけない。連携をアピールすること。(評価はなくてもよい)アピール参加国は以降の課題のうち一つだけ、連携による回避を宣言できる。(その課題は自動クリアになる) 11:事務:部隊の補給は十分だろうか。補給判定。各国22.失敗すると威信点-500 →とりあえず無人機部隊をフル稼働状態する(11) :モコヤマ300+PCのシフトで評価+8クリアを狙うor宰相府分だけクリアして、各国分はそれぞれクリアしてもらう。 ×14:偵察:神々の助言に従い術師を探す。難易40 →術士を見つける(幻影解除したい)(14:自動成功候補) →【ここで戦闘系の設問が追加で入るかもしれない】 12:偵察:進撃する巨大な何かの性質を調べる必要がある。偵察関係で評価27が必要だ。失敗するとゲームオーバーになる。 →巨大な何かの性質を調べる、術士を見つけることで避難誘導の難易度が下がらないか?(12,13) :モコヤマ250+PCのシフトで帝國分偵察は宰相府単体でいけるはず。学術は他国に頼る。 ×13:学術: 進撃する巨大な何かの性質を調べる必要がある。学術関係で評価27が必要だ。失敗するとゲームオーバーになる。 →巨大な何かの性質を調べる、術士を見つけることで避難誘導の難易度が下がらないか?(12,13) :モコヤマ250+PCのシフトで帝國分偵察は宰相府単体でいけるはず。学術は他国に頼る。 7:事務:避難民を受け入れるキャンプが必要だ。各国評価17が必要になる。失敗すると威信点-1500 →避難するための下地(キャンプ)(7) :モコヤマ250+PCのシフト。資材などを輸送だ。 × 6:事務:経済大混乱で食料配給などが怪しくなる。回避するには各国 評価27が必要だ。失敗すると威信点ー500 →稼働したモコヤマを利用して食糧配給ルートを強化する(6) :モコヤマ300(250希望)+PCのシフト。評価+8は宰相府単体だと厳しいので他国から評価底上げ要員を募る。 ×16:士気向上: デマが流れて国民が惑わされている。デマを鎮めるのは非常に難しい。各国難易27.失敗すると威信点-500の上、虐殺がはじまる。 →不安材料を減らした上でデマ封じ(16) :モコヤマ250(警察鶏でもよさそう)+PCのシフト。 2 偵察:差し当たって進路予想が必要だ。進路予想の難易は各国17である。 →不安材料をなくした上で避難誘導(2→2の結果難易度を減らして3→2の結果難易度を減らして4→5) :モコヤマ250+PCのシフト?これまでの流れで難易度減っていてほしい × 3:避難: 差し当たって進路上の避難誘導が必要だ。進路上避難の難易は各国32である。消防隊も動員できる。 →不安材料をなくした上で避難誘導(2→2の結果難易度を減らして3→2の結果難易度を減らして4→5) :モコヤマ250+PCのシフト?これまでの流れで難易度減っていてほしい 4:避難: 広域の避難誘導が必要だ。広域避難の難易は各国22である。公共輸送網は使えない。 →不安材料をなくした上で避難誘導(2→2の結果難易度を減らして3→2の結果難易度を減らして4→5) :モコヤマ250+PCのシフト?これまでの流れで難易度減っていてほしい 5:避難: 逃げ遅れた少人数の人がいる。あきらめるなら威信点-500 助けるなら 評価22 →不安材料をなくした上で避難誘導(2→2の結果難易度を減らして3→2の結果難易度を減らして4→5) :モコヤマ250+PCのシフト?これまでの流れで難易度減っていてほしい × 8:士気向上: 避難民の子供をあやす。各国難易5。失敗すると威信点-100 →避難後、避難民の不安を緩和する各種方策を取る(8,17) :8はPCでなんとか・・・。17もPCを基本に、はるの施設をシフトに。 9:士気向上: くじけそうな国民に政治的演説が必要だ。各国難易17。失敗すると威信点-500 →避難前に人心を落ち着かせる演説(9) :PC(誰がやる?大法院系かな)+何かしらのシフト。 ×17:士気向上: 避難民を慰問するための興行がいる。各国難易17.失敗すると威信点-500
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キャンペーン内でのDM裁定。 コミューンの呪文を使用する際、次の質問をDMの回答後から6秒以内に言い始めること。あくまで目安なので厳密に計ったりはしない。が、思慮時間があまりにも長いのはアウトです。予め質問を考えて、答えが違った場合の分岐も考えておく、くらいで。 《呪文威力強化》などで威力強化(変数を1.5倍する効果)された効果の処理の方法は、各PLに任せますが、DMとしては変数を(ダイスを振って)出したその値に1,5を掛けることを推奨。 チュニック・オヴ・ステディスペルキャスティング(『冒険者大全』) は、このキャンペーンでは「胴」の装備扱いで最後までいきます。 キャンペーン内での情報 キャンペーン内での伝達事項。 コミューンの呪文で得た情報。すみません、他に書けそうなところがなかったので、ここに7/19日の「9つの質問」とその返答を書きます。(byみっちゃん) 問.ブリンドルにアレイニアが紛れ込んでいるか? >否 問2.アレイニアはシンシアと名乗っていたか? >然り 問3.ブリンドルにスケイサーはいるか? >否 問4.指導部に赤い手の軍勢は入り込んでいるか? >否 問5.指導部を暗殺しようとする者が今ブリンドルに入り込んでいるか? >否 問6.赤い手の軍勢は地下を使って攻め込む予定か? >否 問7.赤い手は我々のパーティを念視しているか? >否 問8.我々が存在を認知していない、赤い手の軍勢の大型サイズ以上のトゥルードラゴンはいるか? >否 問9.赤い手は川を使って攻め込む予定か? >確かならず DMへの質問スペース とりあえず、オープンな質問スペースを設けてみました。 基本的に、最終的な解答と裁定をくだすのはDMでお願いします。 セッション中に腹心及び従者を使用しないという条件で《統率力》をとっても良いでしょうか? 素直に《迅速な偵察》を取れとい言っても良いです。 -- t-jun (2009-10-06 22 20 00) それはかまいません。あと参考までにだけど、PHB?の《耳聡い偵察兵》が強くて、エルレアンが条件満たしてる。 -- DM=leonleon (2009-10-13 23 24 44) 回答ありがとうございます。《耳聡い偵察兵》良いですね。精霊が教えてくれますたとか言い張ればキャラ性にもぴったり。 ただ……、今更ですが最適すぎる特技を見つけてしまいました。 3d6×2/ラウンドのスピリット・ジョーズ、18d6ダメージのスプリンダー・ボルト……、《呪文威力強化》。 まぁ、ロッドが買えちゃうんで後者はロッドでまかなうかもですけど。 ようやくエルレアンも戦闘でお役に立てそうです。 -- t-jun (2009-10-17 21 39 23) 名前 コメント 解決された質問 現在《フェイのたしなみ》によるチャーム・モンスターの擬似呪文能力はソーサラー的に4レベル相当で扱っていましたが、この呪文バードなら3レベル呪文のようです。 これからこのチャーム・モンスターは何レベル呪文として扱いますか?参考までに9レベルで取得可能な《フェイの血の遺産》ではディメンジョン・ドア(Wiz/Str 4,旅 4,brd4)サモンネイチャーズ・アライⅤ(drd 5Lv)、コンフュージョン(欺き;4,wiz/str 4,brd 3)の擬似呪文能力を得ます。そちらの方もコンフュージョンがの呪文レベルがややこしいので回答いただけるとありがたいです。 -- t-jun (2009-03-14 11 32 50)部屋を作成してくれてありがとう。質問に関して、ちょっと調べてみましたが、明確な指針を探すことができませんでした。しかし、モンスターマニュアルをみるとチャームモンスターの擬似呪文能力は軒並み4レベルとして処理していたので、4で問題ないかと思いました。他の呪文もそうなんだけど、基本的にバード専用呪文とかでないかぎり、呪文レベルはWiz/Strに準ずるということで裁定したいです。バードは秘術呪文に関して少し扱いが特殊なような気がします。 -- DM (2009-03-14 19 42 43)今更にも程があるけれど、MMの用語集の特殊能力の項にこの件の指針になりそうな文を発見。参考までに。 -- KBC