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【種別】 用語 【用語】 思い出 【よみがな】 おもいで 【登場話】 第24話 【3つのサブタイトルキーワード】 第24話の3つのサブタイトルキーワード 「思い出と恋と海のコンボ」 人の過去の印象に残るの出来事の記憶。生きているとさまざまなことがおきてふと過去のことを思い出したりするものでありますが、思い出したくないことも人にはあるが、けっして消え去らないのが思い出であり苦かったり、甘かったり、切なかったりとかいう言い方で思い出を表現する時の言葉もある。 今回のエピソードは1億円を稼ぐためにバースの装着者になった伊達明の過去が明かされる。伊達の過去にかかわった女性で佐倉優美の思い出の部分がカザリによって欲望の糧に使われてしまいます。伊達とさくらの間には物語の中で直接明かされなかった部分もありますが、最後に救急車に乗ってさくらが搬送する時の告白の部分に2人の思い出がふわふわした形で表現されています。お互い一歩踏み出せなかった過去と恋愛にのめり込めない現在の立場のジレンマみたいなものがあり、この時のこともまた2人にとって思い出になっていく。それはどんな味で表現される思い出なのでしょうか?。 【関連するページ】 恋 用語 第24話
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思い出には早く、悔やむには遅過ぎて 作者:wikiの人◆SlKc0xXkyI 特別なドラマがあったわけではない。 ただ、失恋したという事実がある。 高嶺の花を望んだわけでもなければ、叶わぬ恋をしたわけでもない。 勇気を出した告白は受け入れられて、蜜月の日々を過ごした事もある。 だが些細な行き違いからケンカになり、そのまま別れてしまった。 どうしてだろう、と思う。 今だって、こんなにも好きなのに。 どうして別れてしまったのだろう。 あの時、素直に謝る事ができていれば。 あの時、もっと相手の話をよく聞いていれば。 あの時、――恋に落ちなければ。 こんなにも辛い思いを、しなくてよかったのだろうか? 後悔はいつだって遅過ぎる。 もう取り返しがつかなくなって、何一つ元に戻せなくなってから。 自分には何も残っていないと気付いてから、初めて後悔が襲ってくる。 あるのは虚しさと、神経が引き千切れるような胸の痛みだけ。 こうして後悔をするたび、こうして思い出すたびに、胸が軋んで血を流す。 女々しいな、と思う。 もう終わってしまったものに、いつまでもこだわっているなんて。 しかし、この痛みがある限り。 全てを思い出にするには、まだ早いのだろう。 眠れぬ夜を、あと何度越えればいいのか。 どれほどの月日があれば、全てが思い出になってくれるのだろう。 全ての、痛みが。 この、痛みが……。
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スピッツ群青 スピッツ水色の街 スピッツスカーレット スピッツ運命の人 スピッツスパイダー スピッツ涙がキラリ スピッツ楓 スピッツ正夢 スピッツ遥か スピッツ流れ星 スピッツ君が思い出になる前に スピッツ空も飛べるはず スピッツロビンソン スピッツハチミツ スピッツ魔法のコトバ スピッツ春の歌 スピッツルキンフォー スピッツチェリー スピッツ群青 スピッツ水色の街 スピッツスカーレット スピッツ運命の人 スピッツスパイダー スピッツ涙がキラリ スピッツ楓 スピッツ正夢 スピッツ遥か スピッツ流れ星 スピッツ君が思い出になる前に スピッツ空も飛べるはず スピッツロビンソン スピッツハチミツ スピッツ魔法のコトバ スピッツ春の歌 スピッツルキンフォー スピッツチェリー スピッツ群青 スピッツ水色の街 スピッツスカーレット スピッツ運命の人 スピッツスパイダー スピッツ涙がキラリ スピッツ楓 スピッツ正夢 スピッツ遥か スピッツ流れ星 スピッツ君が思い出になる前に スピッツ空も飛べるはず スピッツロビンソン スピッツハチミツ スピッツ魔法のコトバ スピッツ春の歌 スピッツルキンフォー スピッツチェリー
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「個性」とは何か? ここまで「国語教育の目的」について簡単に見てきただけですが、「国語を見れば、その国の教育の特徴が見える」と言われるだけのことはあり、この段階で既に考えられるようになったポイントが数多くあります。 その中でも、特に重要になるのが「個性」の捉え方でしょう。 日本では批判されている個性教育 日本では、「個性」は特にゆとり教育の導入に伴って注目されるようになりました。そのため、ゆとり教育の代名詞的なキーワードとなっています。 しかし、その導入時に大量の疑問が噴出しました。 個性を伸ばす教育とは、具体的にはどんな教育なのか? そもそも”個性”とは一体何なのか? このような根本的な疑問に答えることすら疎かにしてしまったので、教育に大きな混乱を招いてしまいました。これは、ゆとり教育を失敗に終わらせた大きな原因の1つとして数えられています。 その結果、「個性」という考え方そのものまで否定されるようになっていきました。 個性教育を目指した、ゆとり教育は失敗に終わった。 ↓ということは、 そもそも個性を伸ばそうとしたこと自体が間違いだったのだ。 このような経緯があるので、日本の教育においては、「個性」は未だに嫌われている概念だと言って良いでしょう。 さすがに「個性なんていらない」とまで言う人は少ないですが、それでも「個性を伸ばすのは教育の役割ではない」と考える人は大勢います。 さらには、現在の脱ゆとり教育には「ゆとり教育という”失敗した個性教育”から脱却」という側面があります。 公的なコメントにおいて批判されることこそありませんが、個性教育の大切さを主張する者はもうほとんどいないでしょう。 「個性」という概念はに未だに曖昧に誤解されたままの状態です。これから見直されるという期待もあまりできません。 個性教育の否定 ≒ 人間性教育の否定 個性についてこれから簡単に確認していきたいと思いますが、まず先に大雑把な結論を言ってしまうと個性とは人間性です。 個性 ≒ 人間性 ゆとり教育を批判する過程で「個性を伸ばすのは教育の役割ではない」といった主張まで当たり前のように普及してしまいましたが、これはそのまま「人間性の育成は教育の役割ではない」という主張に置き換えられます。 表現を少し変えただけなので、一見あまり変わらないように感じるかもしれませんが、「個性」という言葉に惑わされずに落ち着いて考えれば、この主張の問題点にはすぐに気が付くでしょう。 Q:人間性の育成は、教育の目的ではないのか? 国語教育の目的を見てきた中で「世界の教育では、国語は教育の中で最も重要な基礎とされおり、その目的は心を育てることにある」という点を確認してきました。 世界の教育では、明らかに人間性の育成を最も重要な目的にしています。 日本の教育においても、そもそも学校教育が掲げる最も基本的な理念は「全人教育」です。学校教育は、単に「勉強さえできればいい」とは考えておらず、「1人の人間として立派に成長し、幸せになって欲しい」という願いを根本に掲げているはずです。 これを踏まえて考えれば、日本の教育においても明らかに人間性の育成は最も重要な目的であるはずなのです。 Q:人間性の育成は、教育の目的ではないのか? A:人間性の育成は、教育の最も重要な目的です。 しかし、これでは矛盾してしまうでしょう? 片や個性は教育に混乱をもたらした原因とされていながら、片や人間性は教育の最重要項目とされています。 個性と人間性は違うのでしょうか? 例えば、人間性として求められている「優しさ」や「誠実さ」は、個性ではないのでしょうか? そんなはずがないでしょう。むしろ「優しさ」や「誠実さ」こそ、個性と呼ばれるべき代表例です。人間性が育っていく過程で獲得される個々の人間性が個性です。多種多様な人間性の、その1つ1つが個性です。「明るく前向き」という人間性も個性であり、「冷静で判断が的確」という人間性も個性です。個性とは人間性です。様々ある個性を、全部まとめて人間性と呼んでいるだけにすぎません。 だから、人間性を育てていれば個性は自然に身に付いていくものでり、個性を批判するならば人間性をも批判することになります。 個性と人間性は似たような概念であり、個性だけを否定して人間性だけを肯定することなどできません。少なくとも、そんなことをするためには個性と人間性を明確に区別できなければならないでしょう。しかし、現在の日本において、そんな区別はされていません。わざわざ無理に区別するメリットも無いでしょう。素直にまとめて育てる方が簡単です。 もし「個性≒人間性」という認識でありながら、それでも個性教育を批判するのであれば、それは教育において最も重要である人間性の育成をも批判することになります。 個性 ≒ 人間性 個性教育の否定 ≒ 人間性教育の否定 現在の日本の教育は、いじめや不登校などの問題に直面して「心の教育」に悩みを抱えていますが、その一方で「個性教育」への配慮はあまりしていません。これでは大きく矛盾しているのではないでしょうか。 「個性」の誤解 「個性」とは一体何なのか? この認識が既に誤解に満ちています。この誤解から簡単に見直していきましょう。 背景 日本の「個性」観が誤解されやすい原因には、それ以前の問題として、よく「日本人には個性が無い」と言われるような社会的現実が背景にあります。 まず、なぜ「日本人には個性が無い」と言われているのでしょうか。 これは、既に”常識”で挙げた通りです。 日本では周囲に合わせることが重要なので、みんな同じような発言しかしません。 しかし、あくまで「合わせているだけ」なので、自分なりの理由や根拠を持ちません。 どんな質問に対しても「みんながそう言ってるから」という答えで万能にやり過ごせます。 結果、誰1人として責任のある意見を言わないので、社会全体が無色透明に近い印象になります。 改めて確認しておくと、たとえ「みんな同じ」であっても、それ自体は別に個性が無いことにはなりません。 例えば「日本人は勤勉」と言われますが、これは個性です。「日本人らしさ」などのように、しっかりとしたチームカラーを持っていれば、それはその集団に属する人たちが共通して持っている個性ということになります。 「日本人には個性が無い」と言われがちなのは、単に「みんな同じだから」でなく、「みんな同じように自分の意見を言わないから」です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i7.png) 単純な誤解 この「周囲に流されて自分の意見を持たない」点が、個性が無いと言われる原因です。 では「個性がある」とは、どんな状態なのでしょうか。 それ考える際に、単純に反転して「個性が無い状態の反対が、個性がある状態だ」という理屈から「個性とは、周囲に流されずに、しっかりと自分の意見を言うこと」と誤解するケースが多数見られます。 誤解されている個性観 個性が無い ⇒ 他人の意見に合わせるだけ。自分の意見を持たない。 個性がある ⇒ 他人の意見に影響されない。自分の意見を押し通す。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i6.png) しかし、これも落ち着いて考えれば、おかしいことはすぐに分かるでしょう。 他人の意見を聞かないことが個性なのか? 自分の意見を無理矢理押し通すことが個性なのか? そんなはずがないでしょう。それは単なるワガママです。個性ではありません。 確かに「自分の意見を言える」ということは非常に重要です。 しかし、そのために「他人の話を聞かない」という必要は全くありません。既にコミュニケーションの中で挙げたように、「自分の意見を言えること」と「他人の話をしっかり聞くこと」は表裏一体の関係にあります。 つまり、周囲に全く流されず自分の意見を一切顧みないような姿勢では、コミュニケーションが成立しません。それでは「自分の意見」は「独り善がりの意見」にしかならないのです。 参考 この誤解が、そこからさらに他の誤解まで生んでいきます。次の2つは、よく耳にするでしょう。 「個性」とは、目立つこと。つまり、奇抜性。 「個性」とは、他者とは異なること。つまり、独自性。 例えば学園ドラマなどを参考にすると、髪を金髪に染めてみたり奇抜なファッションをしてみたりと、他者と違う要素をアピールして「これが私の個性だ」と目立とうとする例が見られますが、これは明らかに誤解です。それは単に目立っているだけです。 もう1つ例を挙げると、いわゆるキラキラネームも分かりやすい例でしょう。これは漢字を英語読みさせるなどの過剰な工夫を凝らした非常に変わった名前のことですが、その目立つ独自性から「個性的な名前」などと言われています。 しかし、これも誤解です。これも、あくまでも単なる「目立つ名前」や「変わった名前」にすぎません。 独自性があって目立っていても、それを個性とは言いません。それは単に好みの問題であり、つまりただの趣味です。 よく誤解される奇抜性や独自性は、「個性」ではなく「ユニーク性」のステータスです。 奇抜なファッションとは「個性的なファッション」ではなく「一風変わったファッション」という意味であり、キラキラネームも「個性的な名前」ではなく「一風変わった名前」のことです。 本来は目立たない個性 改めて「個性とは何か」を考える上で、その特徴を最も分かりやすく示す例が「縁の下の力持ち」です。 縁の下の力持ち 自分は表舞台には立たずに、陰ながら他人を支えるために努力しているような人のこと。 裏方として補助に徹しているので確かに外部からは目立ちませんが、身近な人たちからはとても信頼されている掛け替えのない存在と言えるでしょう。 学校で考えるなら、運動部のマネージャや給食のおばさんなどが分かりやすい例。映画を例に考えるなら、カメラマンや音響スタッフなど。基本的に外部の人間からは見えなくて当たり前の存在ですが、仲間内では非常に重要な存在です。 ここに個性があります。「縁の下の力持ち」を大切な個性の1つとして捉えることができると、「個性」の特徴が一気に見えてきます。 個性の特徴 個性は目立ちにくい 基本的に、個性は目立ちにくいものです。 目立たなくて見落とされがちな長所を、身近にいる人たちがしっかり汲み取って代弁したものが、個性の発祥です。 奇抜なファッションをするなど、外見的な特徴によって目立つことではありません。甲子園やオリンピックに出場するなど、その功績によって目立つことでもありません。 反対に、例えば「見た目は派手だけど、実は意外に根は真面目だよね」とか「レギュラーになれなかったのは残念だけど、でも、本当に頑張ってたよね」と言われるような、見えにくい内面的な特徴に注目したものが個性です。 個性は長所だけ 原則として、個性は長所だけです。 「時間にルーズ」や「卑怯」といった自分勝手な個性はありません。それは、ただの短所です。 ただし、例えば「臆病」と捉えると短所になるようなものでも、それを「慎重」と捉えると長所になるように、同じ性質でも見方次第で長所にも短所にもなり得ます。 ここに個性という概念の重要なポイントがあります。一見短所に見えるものでも安易に短所と決めつけずに、良い所を探すつもりで見直してみると、意外と簡単に長所に見えるようになることが多々あります。この反省点から、意図的に「短所」という言葉を封印して、多少強引にでも「個性」と言い直すようになりました。これが個性尊重の姿勢です。 これは決して「短所も個性」という考え方ではありません。「短所に見える中にも、長所が隠れているのではないか」という見方です。 個性は自覚しにくい 個性は、他人から指摘されるまで、自覚しにくいものです。 例えば、優しい人は、自分のことを優しいとは思っていません。他人に親切でありながらも「別に、これぐらいは普通でしょ?」と思っている場合がほとんどです。特に意識せずに誰に対しても自然に優しく接することができるような人だからこそ、周囲から「優しい人」と思われるのです。 このように、自覚していない部分にこそ個性はよく表れます。 周囲とのズレ 自覚しにくいだけでなく、自分と周囲との認識には大きなズレが頻繁に生じます。「個性とは、ほとんど誤解の塊みたいなもの」と言っても過言ではないでしょう。 例えば「縁の下の力持ち」として周囲から信頼されている人でも、本音では「別に好きで裏方をやっている訳じゃない。私だって本当は主役になって注目されたい」と思っているようなケースが多々あります。 周囲から個性として高く評価されていても、本人にとってはそれがコンプレックスになっているようなケースは珍しくありません。 自分からはアピールできない 自分の個性を説明することはできません。周囲から誤解されていると感じている場合、実はその誤解の方が自分の個性とされます。 例えば、自分から「私は天才です!」と説明しても、それは単なる「自称 天才(笑)」にすぎないでしょう。そんなものを個性とは言えません。どんなに強くアピールしても、いくら細かく説明しても、それは所詮自称です。「みんな誤解してるけど、私は本当に天才なんだよ!」と力説したところで、それは単なる妄想としてしか受け取られないでしょう。 どんなに強くアピールしても、それは自己アピールでしかありません。結局は「周囲の人からどう思われているか」が自分の個性となります。つまり、自分の個性は、周囲の人たちによって勝手に認められるものでしかないのです。自分で決めることはできません。 ちなみに、これが個性不要論の発信源です。よく見かける「子供たちの個性なんて伸ばす必要は無い」といった論理ではなく、「自分の個性は自分では分からない。それなら自分探しに一体何の意味があるだろうか」といった疑問が発端です。 独自性ではない 個性は自分が持っている人間性であり、簡単に言えば「自分らしさ」です。しかし、それは決してオンリーワンではありません。 個性は他者と簡単に重複します。別に唯一自分だけが持っている特性とは限りません。もし独自のものと仮定すると、例えば「誠実」という個性を持っていいのは自分1人だけということになってしまいます。しかし、誠実な人が大勢いても別に不思議はないのでしょう。個性を独占する必要はありません。既に挙げたように「日本人は勤勉」と言われる場合、それも立派な個性です。個性とはユニーク性ではありません。 そして、同じ個性を持つ人が大勢いても構わないなら、個性があるからといって目立つとは限らないでしょう。そのため「個性的≠目立つ」となります。 「ありのままの自分」ではない 個性は「自分らしさ」なので、よく「ありのままの自分」を肯定することだと思われがちです。しかし、これも誤解です。 単純に自分を全面肯定してしまうと、「私は弱い人間だから、弱いままでいい」ということになり、向上心を失って努力もしなくなります。それでは人として成長しなくなるので、人間性も成長しません。つまり、個性も成長しません。個性を求めたつもりが個性の成長を妨害することになるので、これは間違いなのです。 単に「ありのままの自分」を肯定することは、実は単なる怠惰にすぎません。成長にはむしろ、ある程度の自己否定が不可欠です。現状に満足せずに目標を追って努力する姿勢の中にこそ、個性は顕著に表れます。 個性の真意は「他人を認めること」 少々、周り道をした形になりましたが、「個性」には重要ポイントや誤解されている点が多々あることが見えてきたと思います。 これらを踏まえた上で、「個性とは何か」という問いに改めて簡単にひと言で答えるなら、それは「他人を認めること」だと言えるでしょう。 Q:個性とは何か? A:それは「他人を認めること」です。 「個性」と言われると、ほとんどの人が「私の個性とは何だろう?」と、すぐに自分のことを考えてしまいます。 しかし、それは間違いです。 「個性」という概念の最も重要なポイントは他人です。家族や友人など身近いる他人の意思を尊重すること、それが原点です。注目すべきは「自分の個性」ではなく「他人の個性」です。 そして、多種多様な他人の個性を認めていくと、それが自分の考え方や価値観にも影響して多様性や柔軟性をもたらします。結果として、自身の可能性を拡げて成長を促進することにも繋がります。 これが「個性」の重要なポイントなのです。 他動詞の構文:主語+目的語+述語 現在、一般的に普及している「個性」観とはかなり違うので、話が飛躍しているように感じられるかもしれません。簡単に論点を整理してみましょう。 少しテクニカルな話になってしまいますが、あえて「個性教育」から考えて、文法的に考えてしまった方が分かりやすいでしょう。 個性教育とは「個性を伸ばすことを目的とした教育」のことです。何のひねりも無くそのまんまなので、この点は問題無いと思います。 ただ、ここで注意が必要なのは「この文章の主語は誰か?」という点です。日本語は主語や目的語などを簡単に省略してしまうので、時折このような問題が発生します。主語をよくよく確認してみると文章の意味が反転してしまう場合もあることは、多くの人が経験上知っているでしょう。 これは意外なほど見落とされやすく、多くの誤解を生む原因になっています。しかし、問題としてはとても簡単なので、落ち着いて考えさえすればすぐに分かります。 Q:個性教育とは、誰が誰の個性を伸ばす教育なのか? A:それは「教師」が「生徒」の個性を伸ばす教育です。 拍子抜けするほど簡単な、当たり前の答えでしょう。 個性教育とは、教師が生徒の個性を伸ばす教育です。教師が教師自身の個性を自慢する訳ではなく、子供たちが自力で自分の個性を伸ばす訳でもありません。大人たちがサポートすることで、子供たちの個性を伸ばすのです。 つまり、自分自身の個性を伸ばすのではなく、他人の個性を伸ばすのです。それが、個性教育の基本構造です。 教師が気にかけているのは「子供たちの個性」です。自分の個性になど興味もありません。たとえ教師として自分に個性が無かったとしても、全く気になりません。 この点に気付いてしまえば、後は簡単、と言うよりそのままです。 「個性」とは「私は相手の個性を認める」という形が基本形であり、普通は「主語+目的語+述語」という他動詞を伴った文型になります。主語対象と目的語対象の2者が文法上必要になるのです。 「個性」は「コミュニケーション」と同様に、相手の存在が不可欠となる概念です。「私の個性は○○なところです」といった自分独りで納得している形の文章は、目的語対象となる相手の存在が欠けているため、文法上間違いなのです。 「他人の個性に配慮できること」が個性の大切なポイントであり、自分に個性が無くても何の問題もありません。 個性教育とは、「この子は真面目にコツコツ努力するタイプ」「こっちの子は失敗を恐れずにどんどん挑戦するタイプ」と子供たち1人1人の個性を把握して、それぞれの長所を伸ばしていこうと考えたものです。ここで重要なのは、あくまでも教師が「子供たちの個性」を認めることです。 そして、さらにその延長として、子供たちにも「友達の個性」を認められるようになって欲しいと願っています。 決して、「自分の個性」をアピールすることなど求めていません。 既に述べたように、もし子供たちが自分から「私は天才です」とアピールしてきても、それをそのまま個性として認める訳にはいきません。本当に天才の場合もあれば、単なる自信過剰の場合もあるでしょう。その違いも見極めずに、子供たちの自己申告をそのまま鵜呑みにしていては個性教育などできません。 自分の個性を求める場合 教師でさえ「自分の個性を出しなさい」と指導する人が大勢いますが、それは間違いです。 「自分の個性を出しなさい」という言葉は、要約していくと「他の人とは違う、自分だけの意見を出しなさい」と言い換えられ、差異性と独自性を求めるメッセージになります。 つまり、これは個性とユニーク性を勘違いしています。そして、ユニーク性が目標とするのは「自分らしさ」ではなく「風変わりであること」です。 他人と同じ意見を述べてはならない。 自分らしさを出さなければならない。 このように独自性を求められると、素直に他人の意見を聞けなくなってしまいます。他人の意見を真剣に聞けば聞くほど、必ずその意見から影響を受けてしまうからです。 他人に影響されたら、そこにはもう「自分だけの独自性」などあるはずがないでしょう。そのため、例えば6人の友人から意見を聞いてしまったら、その6通りの意見は選択肢から削除しなくてはなりません。「私はこの意見に賛成です」では、ユニークな回答とは言えないからです。他人の意見を参考にするほど、”自分独自の回答”の選択肢は削られていきます。 それでも尚、どうしても独自性にこだわるならば、始めから何も聞かない方が得策でしょう。そのため「他者性を排除すること」が個性のカギになります。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i11.png) これは言い換えると、ここでの「自分」とは「現時点での自分」が理論的な最大値になるということです。 何事も1度考え始めたら、それから新たに情報収集をしてはなりません。現時点で知らない情報の中に「自分らしさ」などあるはずがないからです。他人の意見を聞いてはならないのと同様に、書物などから得た情報によって自分の考え方が変わった場合も、それは「純粋な自分独自の意見」ではなく「情報に左右された意見」としてしか評価されなくなります。そこに独自性は認められません。 これは、情報を集めるほど「他人の意見の寄せ集め」と評価されてしまうことを意味するため「しっかり勉強した秀才ほど普通の考え方をするようになり、無個性になる」といった見方をされるようになります。 結果として、「自分の個性を出しなさい」と言われると、自分を外界から隔離して情報を遮断し、自分の内側に潜む"個性"を探すことになります。できる限り他人の話を聞かないこと、勉強をしないこと、情報にアクセスしないことが必要になり、「現時点で既に持っている個性」が重要になります。 しかし、それでは未熟な人ほど不利になってしまうでしょう。 特に子供たちは、まだ圧倒的に経験も知識も不足しており自分の意見を確立していない場合が多いので、はっきりと個性と呼べるものを持つことができません。そんな状況で「早く自分の個性を見つけなさい」と言われても、そのためには情報を遮断しなければならなくなるので、かえって成長を阻害されることになります。つまり、「個性」が教育の天敵になってしまうのです。 そして、大勢の人々がユニークな価値観を持った”個性溢れる社会”を作ろうとするならば、そこでは誰もが他人とのコミュニケーションを断たなくてはなりません。奇抜性や独自性を維持するためには、自己完結した価値観を持たなければならないからです。 そのため、その社会全体がコミュニケーション不全に陥ります。社会性は構築されません。1人1人がしっかりと自分独自のユニークな価値観を持っていますが、ユニークであるが故にそれは他者と共有できないため各自が孤立している社会になっていきます。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i8.png) このように、個性を奇抜性や独自性と勘違いしたまま「自分の個性」を追い求めていくと、誰もが他人とコミュニケーションをとれなくなってしまい、社会全体も衰退していきます。 他人の個性を認める場合 自分の個性を伸ばすための最大のポイントは、他人の意見をしっかり聞くことにあります。 まず、単純に考えて、人はどんな時に他人の意見を聞こうとするでしょうか? Q:他人の意見を参考にしたい時とは、どんな場合か? A:それは「自分で考えようとしている時」です。 自分なりに何か疑問を感じた時や、自分の考えをまとめようとした時などに、人は友人などに「最近、こんな風に考えているんだけど、どう思う?」と尋ねて参考意見を集めようとします。他者の視点を通して、意見を補強したり、新たな問題点を発見したりして、自分の意見をまとめ直していくのです。 このように、自分で真剣に考えようとしている時にこそ、他人の意見はありがたいものになり、しっかり聞くようになります。 そうやって他人の話を真剣に聞いた上で改めて考え直した意見は、当初の「自分独りで思い付いた意見」とは比べものにならないほど飛躍的に質の高いものになるでしょう。 この場合、もちろん、その意見はもう「自分独自の意見」とは言えません。友人の意見を数多く取り入れているので奇抜性もありません。 しかし、それはよりハッキリと明確に「自分の意見」だと言えるものになります。どこまでが元々の自分の意見で、どこからが友人から影響された意見なのか、その出所の境界は曖昧で分からなくなるかもしれません。しかし、そんな「誰が言い出した意見か」なんて重要ではありません。重要なのは、友人と意見を交わした末に辿り着いた結論です。「現時点で、私はこのように考えている」という到達点です。それが格段に明確な形になります。意見の根拠や理由をしっかり整理し、反対意見に対しての理解も深くなり、どんな欠点を残しているかも把握した上で、他者にも分かりやすく説明できるようになります。決して独り善がりにならずに、むしろ周囲の人のためにも役立てられるような価値のある「自分の意見」になります。 つまり、単なる思い付きにすぎなかった「主観的な意見」を、他人の意見を参考にすることによって「客観的な意見」にまでレベルアップさせることができるのです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i10.png) このように、他人の意見をしっかり聞いて他人の個性をしっかり認めていくと、それが結果的に「自分の意見」を作ることに繋がってがいきます。「どんな意見に自分は賛成なのか」「どんな意見に自分は反対なのか」それを確認するだけでも、意見の精度は飛躍的に向上します。 少しややこしい表現になりますが、「自分らしい考え方」は他人の意見を聞くことによって形作られていくのです。 そして、ややこしい表現ではあっても、これこそ教育の最も基本的な構造です。 簡単にプロセスを整理すると、次のようになるでしょう。 先生からはこんな風に教えられた。 でも、友達は違う考え方を言っていた。 本などで調べてみたら、他にも色んな意見があると分かった。 それらを踏まえた上で、私自身はどの意見を正しいと考えているのだろうか? 教育とは「先生の話を聞いて終わり」ではありません。聞いてから、自分なりに咀嚼して考え直してみることが重要です。これは、そのまま「他人(先生)の話をしっかり聞いて、自分なりの意見をまとめていく」というプロセスでしょう。表現としてややこしくても「他人の意見を聞くことによって、自分の意見が形作られる」というのは、教育として極めて重要で基本的な根幹なのです。 さらに、このように自分の意見をしっかり持っていると、自分とは対立する意見に対してさえ配慮できるようになっていきます。「私の考え方とは違うけど、この点に関しては確かに共感できる」とか「世の中には色々な考え方があるんだなあ」といった感覚です。 改めて「自分の個性」を求める場合を考えると、「自分の意見」と「それ以外」の二極分化の構図になっていることが分かるでしょう。「それ以外」を全て振るい落とすことで、逆説的に「最後まで残ったものが自分の意見なのだ」と捉えようとしているのです。そのため、何か少しでも気に喰わないものがあれば、それだけで全面的に否定する傾向にあります。 例えば「ゆとり教育」を批判する場合、多くの人が「ゆとり教育は悪い」といったように全部丸ごと徹頭徹尾批判してしまいます。しかし、全体として批判するにしても、1つ1つの要素をきちんと確認していけば、賛同できる部分だって少しは見つかるはずなのです。そして、それが分かると安易に全体批判するような真似は恥ずかしくてできなくなるでしょう。 これは”常識”の中で万引きを例に挙げたケースと同じです。たとえ明らかな犯罪であっても、個別に見ていくと同情や弁解の余地があるケースは少なくありません。個々の事情を知っていくと、安易に全体批判することはできなくなるでしょう。 それと同じように、相手の意見をしっかり聞いている場合、たとえ意見が真っ向から対立しても、無闇に相手を批判しなくなります。むしろ、「そんな考え方もあるのか」と、対立したままでも敬意を払うことができるようになります。 友人と意見交換して、たとえその結果対立してしまったとしても、それ自体は友人との仲を引き裂くようなものではありません。むしろ、今まで以上にその友人を理解出来るようになるでしょう。自分と友人はどんな点で違うのか。その「違い」にしっかり注目することは、決して対立ではなく、相手をより深く理解するための前進です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i9.png) このように、お互いの個性を認め合おうとすれば、そこには自然に社会が生まれます。コミュニケーションが非常に重要になり、相互協力の基で積極的に社会が構築されていきます。 この場合の”個性溢れる社会”が目指すのは、自立と協力の両立です。決して独り善がりにならない、相互理解に基づく自立と協力。それはつまり、簡単に言うと「チームワーク」のことです。他人の個性を認めていくことが自分を高めることに繋がり、それによって今度は自分なりに他人のために貢献できるようになります。この連鎖によって、社会も自分自身も成長していきます。 ユニーク性を求めれば「他人とは違う自分だけの特徴」を探すために他者を排除していきますが、反対に「誰かのために役に立つ」という目標を掲げて他者と積極的に関わっていけば、具体的な自分の役割を見つける形で成長することができます。 抽象的な表現になりますが、「誰にも影響されない自分だけの自分」ではなく「みんなと共に生きて影響し合っている自分」を獲得していきます。それが個性なのです。 ユニーク性 ⇒ 自分の個性を求める ⇒ 他者性を排除 個性 ⇒ 他人の個性を認める ⇒ 自分の役割の発見に繋がる このような「他人の個性」を認め合える社会では、必ずしも奇抜性や独自性を必要としません。 良いアイデアはすぐに他人に伝播するので、画期的な発想でも早い段階で一般に普及します。 反対に、奇抜なだけで役に立たないアイデアは誰からも評価されません。すぐに淘汰されます。 どちらにしても、奇抜性や独自性は持続しないのです。 1人1人が自分の個性を持った”個性溢れる社会”とは「各自が自分の力を最大限に活かして、みんなで貢献し合う社会」ということになります。 注意:チームワーク 日本の”チームワーク”観にも誤解がよく見られます。分かりやすいのが、次の2点でしょう。 1人ではできないことでも、みんなでやればできる チームのためには誰かが犠牲になるしかない こういった考え方が根強くありますが、どちらも間違いです。 まずは1点目の「1人ではできないことでも、みんなでやればできる」ですが、これはチームワーク以前に、「集団」として当たり前のことです。 「10人集まれば10人分の仕事ができる」というのは当たり前です。まして「30人集って15人分の仕事をする」となれば、それはとても簡単でしょう。 「人数を増やせば、その分だけ可能範囲を広げられる」というのは当然なのです。 チームワークとは「同じ人数でもより高いパフォーマンスを発揮できるように、より質の高い協力関係を築くこと」です。簡単に言えば、10人で11人分以上の仕事ができるような協力関係を指します。 反対に、10人も集めて9人分以下の仕事しかこなせないならば、それは集団になることがマイナスに働いていることになります。つまり「足の引っ張り合い」が発生していると捉えられます。 集団(基準) 10人集まれば、10人分の力 チームワーク 10人で協力し、11人分以上の力を発揮 足の引っ張り合い 10人集まっても、9人分以下の力しか出せない 日本の”チームワーク”観では、この両者の区別ができていないことが多く、足の引っ張り合いを”チームワーク”と呼んでいるケースが多々あります。それが、2点目の「チームのためには誰かが犠牲になるしかない」といった言葉に表れています。 学校で考えた場合でも、よく「みんなで話し合って決めたことだから、我慢して協力しなさい」といった多数決の押し付けが見られます。現実問題として、全体の統率をしなければならないので、多数決は合理的であり、他に方法が無いのでしょう。しかし、それでも、それとチームワークは別物です。「チームワークが大切だから、多数決を押し付けて良い」という理屈はおかしいのです。 我慢や犠牲を容認するほどチーム全体のパフォーマンスは低下するため、どんどん足の引っ張り合いになっていきます。「チームのため」のはずが、意に反してチームをダメにしてしまうのです。そのため「無理矢理押し付けなければ全体を統制できないような状況は、仕方が無いとは言え問題が山積みだ」と捉えるべきでしょう。 チームワークには「各自の長所を引き出して活かすこと」が不可欠です。 他人を犠牲を前提として考えるようなチームワークなど成立しません。 注意:「認めること」と「肯定すること」 確認のため再度注意しておきますが、「他人を認めること」とは、必ずしも「他人を肯定すること」ではありません。しっかり否定することも「認めること」の範疇です。 既に”常識”の中で述べていますが、子供の発想には「先生が言ってたから」という判断基準があります。これは「先生が言っていることは内容に構わず全て肯定する」という考え方です。 しかし、それでは本当の意味で先生を認めていることにはならないでしょう。単に考えるのが面倒だから肯定してしまっているだけで、実は先生の意見について全く吟味していません。つまり、話を聞かずに肯定しているだけなのです。それでは、とても「認めている」とは言えません。 これと同じ構造を持つのが「イエスマン」です。相手の話を聞かずに、内容に関係無く、返事は全て「イエス」。これは、確かに全てを肯定していますが、決して相手を認めてはいません。むしろ、相手を無視しているのと変わらないでしょう。 このように、相手を肯定しても、それは必ずしも相手を認めていることにはなりません。 言い換えれば、相手に反対していても、それでも認めることはできます。 相手の話をしっかり聞き、その上で「この点において、私はあなたの意見には反対です」と答えるならば、それは相手をしっかり認めているのです。意見への賛否は、あくまでも意見に対する賛否です。たとえ相手の意見を否定しても、それは意見を否定しているだけで、相手の存在や尊厳を否定していることにはなりません。 ここで重要なのは、結論としての賛否ではありません。たとえ意見が対立したとしても、それは相手の意見を真剣に聞いている結果であり、相手と真正面から向き合っている証なのです。それこそ「人として相手を認めること」に他なりません。 これはスポーツを例に考えると分かりやすいですが、本気で相手を倒そうとしている時というのは、本気で相手を認めている時なのです。敵として敬意を表することは、人として敬意を表することと大差ありません。 単に全面的に肯定するのではなく、「この部分は賛成だけど、こっちは反対」といったように相手の意見をしっかり評価することこそ、本当の意味で相手を認めることになります。 未知の道 こうして見直してみると、実は個性には一貫性が無いことに気付くでしょう。 個性とは「自分らしさ」であるため「個性とは、いつどんな時でも変わる事のない一貫した自分らしさだ」と、よく誤解されています。しかし、それは間違いです。 既に挙げたように「弱い人間」が「弱い人間のままであること」に個性など見出せないでしょう。反対に、強くなろうと努力する姿勢に、その人の個性を見出すことは容易です。 人は成長しながら、どんどん違う価値観を取り入れていきます。絶えず変化しながら成長していくのです。つまり、成長とは変化です。「個性を伸ばす」とは、成長のプロセスを指します。そのため、変わっていくことが個性なのです。 これはよく「道」に喩えられます。 ずっと歩き続けてきた後で、ふと振り返ればそこには自分が歩いてきた道筋ができているでしょう。その自分が歩いてきた道、道中で体験してきた事柄、その旅で得た思い出、それらが自分の個性として吸収されます。 個性とは、単純に「今の自分」ではなく、「今までの自分」という過去から現在へと続いている成長のプロセス全体を指します。 さらに「今までの自分」のみならず「これから自分」が重要になります。 個性を「自分が歩いてきた道筋」だとするならば、「個性を伸ばす」とは、その道筋をさらに伸ばしていくことを意味します。 当然ながら、ここで過去の道筋をいくら見直しても、それが伸びることはありません。道を伸ばすためには、さらに前へと進み続けることが必要です。 過去を振り返れば「今までの自分」の個性を確認できるかもしれませんが、それは思い出のようなものです。大切なものではありますが、思い出に浸ってばかりで努力を疎かにしていては成長できません。思い出は浸るためのものではなく、これからの努力目標を決めるための参考として活用する方が有意義でしょう。 時々後ろを振り返ることも大切なのは、「今までの自分」を確認して、それを次の進路を決める際に活かすためです。つまり、まず「今これから何をしたいか」という目標や目的があってこそ、過去の自分が活かされてくるのです。 このことから、個性は「これからの自分」という未来の可能性をも含めた概念になります。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (i12.png) もし「いつまでも全く変わらない一貫性」を求めるなら、それは「その場でじっと立ったまま、全く1歩も進まないこと」になります。前へ進まないからこそ何も経験せず、何も経験しないからこそ考え方も変わりません。「変わらないこと」とは「成長しないこと」です。 一貫性を保つためには、成長しないことが不可欠になってしまうので、それは間違いなのです。 このように変化し続けているからこそ「自分の個性」を把握することは容易ではありません。しかし、それで構わないのです。「昨日までの自分」がどんな考え方をしていたか、そこにこだわる必要はありません。今日改めてチャレンジしてみれば、きっと昨日までとは違う結果になります。無理に同じ結果にしなければならない理由など微塵もありません。考え方など変わってもいいから、これから「新たな自分」を発見していけばいいのです。 様々なことにチャレンジしていると「自分がどんな人間なのか、自分でもよく分からなってきた」と感じる機会があるでしょう。それぐらいに成長し続けている人こそ、本当の意味で個性的なのです。 その意味では、基本的に子供たちはとても個性的です。
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喜びだって 悲しみだって いつかは思い出になるから ◆/mnV9HOTlc 時刻は午後4時過ぎ。 この殺し合いが始まって、約16時間が経っていた。 ある者は図書館を目指し、頼れる仲間を探そうとしている。 ある者は強敵を倒すために常に前進している。 ある者は中心から離れた場所でいろいろやっている。 今回話すのは命がけで強敵を倒そうとした三人の対主催グループについて。 その三人はもちろん無敵で強敵のブロリーを戦ったあの三人だ。 一体彼女はあの後彼らを連れてどこに行ったのだろうか? それを今回話す事にしよう。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ 星井美希はある場所へと向かっていた。 両腕でサンレッドとベジータを引き摺りながら。 「ハァ…ハァ…ハァ…」 腕が千切れそうなくらいの痛みが彼女を襲う。 一人の成人男性を片腕ずつで持っているのだから当然のことである。 でも、彼女は諦めない。 もし諦めたら、死に物狂いでがんばった修造に申し訳ないからである。 だから、彼のためにもここはあの化け物から早く逃げるということが大事だった。 それと同時に、今彼女が持っている二人の疲労を回復する事も大事だった。 同じく命がけで戦ったこの二人のヒーローが消耗した力はとてつもなく大きい。 今は二人が無事に休める場所が必要なのだ。 『一回休憩したほうがいいのではないか?』 喋る剣、ディムロスが美希の心配をする。 さすがに何十分も二人を運ぶのはつらいと判断したためである。 そのうえ、美希の息遣いが非常に荒い。 このままでは美希も倒れてしまう可能性があるからだ。 だが当の本人は――― 「しゅーぞーさんだって、レッドさんたちだって頑張ってるの。 だからここはミキが諦めずに頑張らなくちゃいけないと思うの!」 と言い、運ぶのをやめなかった。 彼女は修造の意思を受け継いでいたのだ。 これからいくつもの辛い事などがあるかもしれない。 でも諦めなければ絶対に何とかなる。 美希はこの意思を貫いていたのだ。 だから、たとえ誰かに言われようと、彼女の意思は変わることはないのだ。 美希が二人を引き摺りながら進むこと数十分。 彼女は目的地に着いた。 「これがお屋敷…なの。」 そこは寒村はずれにある屋敷。 美希が先ほど修造に行くように言われた場所である。 『さっそく彼らを休ませるぞ。』 「わかってるの!」 館へ入り、二人が横になれそうな場所を探す。 一つ目の部屋――― そこはどうやら資料室のようだった。 本などがたくさんある。 二つ目の部屋――― そこにはたくさんの壁画があった。 なぜかは知らないが、春香の絵も飾ってある。 三つ目の部屋――― 巨大なベッドなどが置いてある寝室であった。 他にはテーブルなどがある。 「ここに寝かすという事でいいかな?」 『それが最適だ。』 自分の手を上手に使い、ベッドの上にへと運ぶ美希。 二人を横にするのが終わると、彼女はふらふらとよろめきながら椅子に座った。 「ミキ、疲れたの。」 『あんだけの距離を運んで来たのだからな。 本当に大した奴だ。』 普通ならこのままベッドに倒れてもいいのだが、彼女は大丈夫だった。 いつもの美希ならこれくらい…いやこの1/2の仕事でも疲れて動けない。 でも今回はふらふらになりながらも頑張っている。 それは多分、美希がゲーム開始時よりも精神面が強くなったからであろう。 『とりあえず今は栄養補給でもしておけ。 のちのちそれが影響してくるかもしれん。』 「わかったの!」 デイパックからペットボトル一本とおにぎりを出す。 「いただきます…なの!」 彼女は猛スピードでおにぎりを食べる。 それだけお腹が空いていたのだろう。 ものの数分で水もおにぎりもなくなった。 「ご馳走さまなの!」 『早いな。』 「なんかたくさん食べれたの!」 ペットボトルなどのごみを近くのゴミ箱に捨てると、美希はディムロスにある事を相談した。 「ねえ? 着替えに行っていいかな?」 美希は汗だくで、正直着替えたいと思っていたところであった。 『別にいいではないか。 ただ、この二人はどうするのだ? 我だけでは何もできないぞ。』 もちろんそんな事は誰にだってわかっている。 ただ、確認のために美希に聞いたのだった。 「大丈夫!ミキにはこれがあるの!」 そう言って出してきたのは紅白のボール…モンスターボールであった。 『それは一体何なのだ?』 「これはモンスターボールって言って、これには『おにぽん』とかいう幽霊が入っているの。 だからその幽霊に守ってもらうの。」 美希がそれを投げると、中からは紫色の幽霊、おにぽんが現れた。 『不思議なものだな。 それは。』 「そうだよね。」 それを見てディムロスは感心する。 と、ここで美希は何かを思いつき、デイパックから取り出す。 「このパッチをこの幽霊につけてみるの!」 そのパッチとはご存知「萌えもんパッチ」である。 普通はポケモンにつけるものなのだが…。 しかし、過去にはカービィなどがそれを使用しており、人間外ならなんでもOKとなっている。 ちなみに美希がそのパッチをつけようと思った理由は見た目が怖いから少しはかわいくさせようというよくわからない理由である。 パッチをつけるとおにぽんはむくむくと体が変態し、さきほどまでの怖い幽霊が紫色の着ぐるみのようなものを着ている女の子へと変わったのだ。 その変化を見て美希はもちろん、こう言った。 「か…かわいいの。」 『本当にここは不思議なものばかりだな。 さきほどのサンレッドの復活といい、これといい…』 彼女やディムロスにとってもこれは予想外であった。 まさかこれほどまで変わるとは思わなかったのだ。 「ただ、これ守る事ができるの? どっちかって言ったらさっきの方が強そうだとミキは思うな!」 あくまでも予定は二人を守ることであり、かわいくするためではない。 美希はその変化に感心しすぎて、忘れかけそうになっていた。 「その心配はないよ。」 と、ここで声が聞こえてくる。 「ディムロス! なんか言った?」 『この声は我ではない。 第一、こんなかわいい声などだせるわけがない。』 二人が議論していると、おにぽんがスゥーと二人の前へと来て、言う。 「私です! おにぽんです!」 何秒か沈黙が続く。 そしてその沈黙が続いた後、二人は驚く。 「なんで! なんで喋ることができるの!」 『本当に不思議だらけだな。』 そんな二人におにぽんは説明した。 普通、ポケモンというのは喋ることができない。 だが、美希がつけたパッチによってなぜか喋ることができたという。 美希は急いで説明書を見る。 めんどくさいと言って読まなかったが、そこにはちゃんと「なお、幼女となるのでこのパッチをつけたらある程度は喋ることができます。」と書いてあった。 どうやら、おにぽんは体が変わっても技が出せるということなので、美希は敵が来たら「さいみんじゅつ」で相手を眠らせておいてと命令し、外へと出た。 もちろんディムロスと自分のデイパックと一緒に。 「あれ…? なんであそこ開いてるの?」 美希が指差した方向には扉が全開の部屋があった。 『きっと誰かが以前入ったのだろう。』 「ちょっと気になるから行ってみてみるの!」 本来の目的は服を探すことだろうとつっこみたくなるディムロス。 美希が部屋をこっそりと覗く。 するとそこには――― 「大量の服があるの!」 見たこともないような服がそこらじゅうに散乱していた。 もう一度部屋の中をよく見る。 見た感じ誰もいない。 だからといって油断はできない。 ここは一応殺し合いの場。 いつ、どこで敵が襲ってくるかわからない。 美希はディムロスを両手で強く握り締めながら、じわりじわりと部屋の中へと入っていく。 もちろん部屋に入っても、数秒は周りを見ていた。 そして本当に敵がいないと判断したところで、彼女は服を探す事に決めた。 「しかし、こんだけ服があっても逆に困るの。」 どこかの大型スーパーの品揃えよりも豊富かもしれないこの部屋にはありとあらゆる服が置いてあった。 『なにかいい服は見つかったのか?』 「なかなか見つからないね…ってこれは…!」 美希が驚くのも他でもない。 なぜなら彼女が765プロにいた時代に着ていたものとそっくりの衣装があったからである。 「じゃあミキ、これにするの!」 ディムロスとデイパックを床に置く。 そして彼女はそこで着替え始めた。 着替え自体は過去に来たことがある衣装だったのでわずか数分で着替えることができた。 ちなみに美希が選んだ衣装は決して紳士用の衣装ではなく、動きにくいドレス系の衣装でもない。 彼女は軽くてシンプルな「ラフタイムスクール」、いわゆる制服みたいなものを選んだ。 そして美希は急いでサンレッドたちがいる場所へと戻る。 彼女がその寝室の扉を開けるとそこには――― 「あ、帰ってきましたね。」 さきほどと変わらない風景があった。 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆ おにぽんが言うには二人はまだ起き上がってないという事であった。 『本当に重傷みたいだな、この二人は。 でもあと少し寝れば回復はするだろう。 だから我たちにできる事はただ見守ることだ。』 「そうなの! ミキもそれが一番ベストな答えだと思うの!」 こうして美希、ディムロス、そしておにぽんは二人が回復するまで待ち続ける事にした。 ちなみに、その時の時刻は午後6時前。 あと数分で彼女にとって、そして二人にとって悲しい出来事が流れるのだ。 一つ目は美希が信頼し続けていた松岡修造の死。 二つ目はサンレッドやブロリーが必死にがんばって倒したと思われたブロリーがいまだに生きている事。 果たしてこの事を聞いて三人は一体どうなってしまうのか? それは神だけが知っている。 【F-5 寒村はずれの屋敷/一日目・夕方】 【星井美希@THE IDOLM@STER】 [状態]:ゴムゆとり、全身に擦り傷、疲労により熱血沈静化、疲労(中) [装備]:ラフタイムスクール@THE IDOLM@STER、ディムロス@テイルズオブデスティニー [道具]:支給品一式×4(二食分の食料と水一本消費)、ねるねるね3種セット@ねるねるね、鏡@ドナルド、美希の私服 [思考・状況] 1.ブロリーから逃げる。 2.今度はミキが二人を守る番なの。 3.とりえあえず放送を聴くの。 4. しゅーぞーさんが絶対に来てくれる事を信じるの。 5. 人は殺したくないの。 6.雪歩を探すの。 7.ゲームに乗らず、人を殺さずゲームを終わらせるために、首輪を外すの。 8.レッドさんの言うこともわかるの。悪い人とあったら説得できるの? 9.でぃおさんに謝ってもらうの。もし襲ってきたら…… 10.ルガールさんは良い人なの。ディムロスさんは剣なの。 11.水は怖かったの。 ※ゴムゴムの実@ワンピースを食べました。能力者になったことに少し気がつきました。 ※サンレッドをヒーロー役の俳優だと思っています ※ルガール、ディムロスと情報交換しました。 【おにぽんの思考・状況】 1 美希、サンレッド、ベジータを守る。 2 敵が来たら「さいみんじゅつ」で眠らせる。 ※「新型萌えもんパッチ@ポケットモンスターで擬人化してみた」をつけています。 ※擬人化のままでも技は使えるそうです。 ※ボールは美希のデイパックに入っています。 【サンレッド@天体戦士サンレッド】 [状態] 気絶中、脇腹に怪我(応急処置済み)、全身に重度の打撲、やや失血、 疲労(極大)、ダメージ(極大) [装備] DIOの上着、ファイアーバードフォーム@天体戦士サンレッド [道具] なし [思考・状況] 基本思考:主催者の打倒 1:(気絶中) 2:ルカ……。 3:DIOを見つけ出して殺す。 4:ゲームに乗っている参加者の排除 5:たこルカを信頼。 6:誤解されてるが・・・どうすっかな ※制限について気がつきました。 ※ブロリーを殺害したと思っています。 【ベジータ@ドラゴンボールZ】 [状態]:気絶中、疲労(極大)、ダメージ(極大)、全身に重度の打撲、ヘタレ脱却 [装備]:なし [道具]:支給品一式、パッチンロケット@つくってワクワク [思考・状況] 基本思考:ブロリーを倒し、元いた世界に帰る 1:(気絶中) 2:ブロリーに勝った! 俺がナンバー1だ!! 3:見つけたらDIOとかいう奴も殺す! 4:もし優勝したなら、言葉に借りを返すため、伊藤誠を生き返らせる 。 5:くだらんゲームなどどうでもいいが、邪魔な奴はぶっ飛ばす 。 ※参戦時期は「燃え尽きろ!!熱戦・烈戦・超激戦」でブロリーの強さに戦意喪失している頃です。 ※力が大きく制限されていることに気がつきました。 ※1マス以上離れた相手の気を探れません。 ※ニコニコ動画の影響で、テンションの高低が激しくなるときがあります。 ※ブロリーを殺害したと思っています。 ※スーパーサイヤ人への変身が制限されています ※修造の熱い言葉に感化され一時だけスーパーサイヤ人に変身できましたが、今後なれるかは不明です。 sm172 マジックvs魔法 -I m loving it !- 時系列順 sm174 Junk the Eater sm172 マジックvs魔法 -I m loving it !- 投下順 sm174 Junk the Eater sm165 WE GOTTA HOT POWER(後編) 星井美希 sm188 いかなる恐怖にも動じずブロリーを打倒 sm165 WE GOTTA HOT POWER(後編) サンレッド sm188 いかなる恐怖にも動じずブロリーを打倒 sm165 WE GOTTA HOT POWER(後編) べジータ sm188 いかなる恐怖にも動じずブロリーを打倒
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【2ch】 42 名前: 本当にあった怖い名無し Mail: 投稿日: 05/11/13(日) 13 09 02 ID: WjM/x1zE0 家内が次男を出産した日の朝のこと。 その日は予定日の1週間前で産科へ検診に行く、ということなので長男連れで出勤、しようとしてた。 ところが2歳の長男、 「とーちゃ、かあかん、一緒にあそぼ。」 とにかく俺と家内の手をひっぱって離さない。 いつもは割とききわけの良い子だから 「どうした?なんかあるの?」 って聞いたら 「とーちゃ、かあかんやっくんのじゃなくなる」 だと。 俺、首かしげながらなんとか説得して事務所に子連れ出勤した。 30分もしないうちに病院から連絡がはいった。お昼頃には生まれ そうだ、と。入院の荷物は準備してあったものの届けてやらないと ならない。おふくろに長男をまかせて病院へ行ったらもう生まれてた。 それから緊急の仕事やらで長男をひろえたのは夜8時過ぎ、面会へは 連れて行けなかったので家内に長男が会ったのは3日後だった。 それからも入院が長引いたり俺が忙しくなったりで寂しい思いをさせた。 あの朝長男が言いたかったのは 「もう、一人っ子でなくなるし2人に独占的にかまってもらえなくなるから最後に3人で遊びたい。」 だったのでは、と思う。 それにしても陣痛もおしるしもなく、産む本人が気づいてなかった弟の誕生を彼はどうやって知ったのか、今聞いても「記憶に無い」そうだ。
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まるで時間が奪い去られてしまったかのように、 生きるということを忘れてしまったかのように、 声を上げることも、逃げようとすることも、出来なかった。 「ル、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」 怪物が産声をあげた。 祝福するものはこの世界に誰一人としていない。 求めるが故に、彼は全てを捨ててしまった。 もう帰れない。 行き着く所まで行ってしまった。 さよなら――彼はそんな言葉を聞いたような気がした。 声の主は解らない。分からなくていい。わかるひつようがあるのか? 今、するべきことは唯一つ。 怪物の――クワガーモンの、スカルグレイモンの、モー・ショボーの腕が、掴めなかった者達の腕が伸びる。 怪物の中の■■が命ずる!■■■■■■が叫ぶ! 『二度と離さぬように!その腕に収めよ!』 迫る四本の絶望、メタモンはそれを大人しく受け入れることはしない。 大人しくその腕に抱かれれば、殺されることはないだろう。 だが、■■■■■■ははぐれメタルを殺し、モー・ショボーを死に至らしめた。 その理由は理解できない。 だからか?理解できないからこそ、■■■■■■は怪物になってしまったのか? いや、そんなことを考えている暇はない。 目の前の怪物と戦わなければならない。 戦わなければ、この場所で出会った友達を殺されてしまう。 嫌だ――呪殺されたドラゴンの死が、 消え去ってしまったモー・ショボーの死が、メタモンを奮い立たせる。 「へんしん」 高く、翔べ―― 四本の腕が地面へと突き刺さる。 そこにメタモンの姿はない。 「キャハハハハハ」 怪物は聞いた、聞こえるはずのない声を。 「二度も……」 怪物は見た、見るはずのない敵を。 「殺されてなんてあーげないっ!!」 誰かが、伝えなければいけない。 ドラゴンの死を、モー・ショボーの死を。 そうでなければ、彼らの友達は悲しむことすら出来なくなってしまう。 「へんしん」 「ジャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」 怪物より伸びたモー・ショボーの腕は世界最硬の金属によって弾かれる。 私は殺されない――殺させない。 「伝えなきゃいけないんだ……コイキングさんのことを」 腕の乱舞は、世界最速には届かない。 不思議に思う。私は誰に変身しているんだろう。 気づけば、涙が溢れていた。 私は知らない。 私は知りたかった。 友達になりたかった。 はぐれメタルとメタモンは一言も言葉を交わすことは出来なかった。 まるで最初から存在しなかったかのように、はぐれメタルの死は消えた。 それでも、メタモンは覚えている。 知らなくても、忘れない。 「ありがとう」 目の前の怪物は未だ、自分のチカラに慣れていない。 ただ、腕を振るうことしか出来ていない。 「へんしん」 倒すならば、今しかない。 怪物は思考する。 目の前の少女が消えてしまった、何故だ。 少女は人間ではなかったから――単純な答えを怪物は否定する。 そうであってはならない、少女は人間でなければならない。 現実と理想が食い違うのならば、現実のほうを捻じ曲げなければならない。 そうでなければ怪物は怪物ではいられない。 少女は目の前の亡霊に隠された。 亡霊を再び殺せば、少女は戻る。 答えは単純。 ならば―― 『掴み取れ!その力で!!』 変身したその巨体で、メタモンは怪物に対峙する。 「悪いが俺ァ……」 深く息を吸い込む。大丈夫だ、敗けるわけがない。 「テメェより強いぜ」 彼は私を守り切ったのだから。 「"はげしいほのお"――――ッ!!!!」 業火が怪物を嘗め尽くす だが、いつだって現実は残酷だ。 【ヒートバイパー】 炎をも切り裂いて、怪物より放たれた熱線がメタモンの巨体に風穴を開ける。 思考とも言えないような感情の羅列がメタモンの脳内で渦巻く。 血を吐いた。 視界が霞む。 傷から全身に熱と、同時に寒気が広がっていくような不気味な感覚。 痛い、熱い、痛い、寒い、苦しい。 一撃、喰らっただけでこんなに苦しいなんて。 諦めたい。 楽になりたい。 皆、こんなに苦しかったのかな。 痛い。辛い。 それでも、メタモンは立っている。 変身を崩さぬまま、怪物の目を見据えて。 「ッ……」 言葉を発そうとして、血を吐いた。 怪物の腕が迫る。 腕で固定して、熱線で確実にトドメを刺すつもりだ。 避けたい。駄目だ。呆気無くモー・ショボーの腕が肉体を貫通する。 血飛沫が舞う。肉片が飛ぶ。削れた命が消えていく。 伝えなくちゃ――そうメタモンは思う。 何を?何かを? 痛みが頭をぐちゃぐちゃに掻き回す。 それでも伝えなくちゃいけない。 「……忘れないで」 血が止まらない。 死ぬのかもしれない。 それでも言わなくちゃ。 きっと忘れてしまうから。 「モー・ショボーちゃん、ドラゴンさん、そして私はメタモン……名前を聞けなかった子もいる。 でも、皆……皆生きていたの…………だからアナタも……忘れないで…………」 【ヒートバイパー】 「■ア■■■ン」 熱線がメタモンを貫くことはなかった。 怪物の背後から狐葉楔が放たれる。 意識外からの攻撃故に、怪物に直撃する。 死にはしない、致命傷にもならない、それでも――ヒートバイパーの狙いが逸れる。 何故だ――狐葉楔を放った主であるレナモンですら、疑問に感じていた。 当てられたというのか、同情でもしたというのか、私が。 メタモンは致命傷を負っている、どう足掻こうとも死ぬ。 こんなもの延命にすらならぬ。 それでもレナモンは、メタモンを助けていた。 メタモンを庇うように、怪物に立ち向かっていた。 背後のメタモンは己の血で、全身を染め上げてしまっているというのに。 「……私も君の友になれるだろうか」 「ア゙……ッ゙」 もう、声も出ないのだろう。 ただ、枯れ果てた音を聞いただけだ。 それでも、レナモンは聞いた。 突然の状況に戸惑いつつも、はっきりと「はい」という声を。 「良かった……じゃあ、当然のことだな…………友を守るというのは」 「ニ゙……ッ゙」 「逃げて」そう言おうとしたのだろう。 ならば、こう返すのだ。 いつものように―― 「大丈夫だ、すぐに終わる」 そう言って、レナモンは守ってきたのだ。 「ああ――アイツはコイキングという名前だったんだな」 「…………」 背後で命の灯が消えた。 それでも繋がったものがある。 振り返らない、だけど―― 「君を忘れない」 【メタモン@ポケットモンスターシリーズ 死亡】 メタモンの死に、怪物は何も思わない。 レナモンの登場に、怪物は何も思わない。 ただ、未だ少女が現れないので、怪物は原因をレナモンに修正する。 「私はコイキングやメタモンになりたかった……」 一歩一歩、怪物へと距離を詰めていく。 左腕が左前足に変わる。 「だから……私は"お前"だ、私はお前になってしまったんだ……■ア■■■ン」 右腕が右前足に変わる。 「だけど、流石に"お前"になる気はない……」 左足が左後ろ足に変わる。 「私は思い出してしまったからな」 右足が右後ろ足に変わる。 ゲンカイ 「見せてみろよ、力の 果て を」 ただ、静かに進化は完了した。 「ル、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」 「 雄 鳴 雄 鳴 ッ!!」 叫びが、震わせる。 空気を、大地を、海を、空間を、世界を、何もかも、何もかも。 戦いが始まった。 一直線に怪物の下へと駆け抜ける。 もう、キュウビモンは振り返ったりしない。 「鬼火玉!」 叫びとともに九尾の先に灯された蒼い炎が怪物へと放たれる。 「壱!」「弐!」「参!」「肆!」「伍!」「陸!」「漆!」「捌!」「玖!」 九連の炎が怪物の胴に衝突する。 衝撃、熱、そして炎上。 「ォォォォオオオオオオオオオム!!!!!」 だが倒れない、崩れない。 当然のことだ、この程度で止まるほどに完全体は甘い存在ではない。 ましてや、多すぎる代価を支払ったのだ。 相応の強さを手に入れていなければならない。 【ヒートバイパー】 熱線が地面を撫ぜる。 キュウビモンの鬼火とは比較にならない程の熱量が大地を侵す。 爆炎が上がり、消滅といっても差し支えないほどに大地が抉れる。 幾度もの戦闘経験が、キュウビモンの回避行動を成功させた。 宙返りの形を取った、熱線回避はまるで曲芸のようである。 「その程度か?」 怪物の眼を見据え、キュウビモンが放つは侮蔑の言葉。浮かべるは嘲りの笑み。 限りなく薄れている怪物の理性でも理解できる。 それを厭うからこそ、■ア■■■ンは怪物に成り果てたのだ。 「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!」 曲芸師の様に避けるキュウビモンを仕留めるために怪物が選んだのは、手数を増やすことだった。 貫手突きという。 通常の突きよりも威力を一点に集中させたその技は―― 現在生存中の参加者の中でも最高位の恵体より放たれるその技は―― 三種の腕それぞれが意思を持っているかのように放たれるその技は―― 「チッ!」 降り注ぐ槍の雨、そんな馬鹿げた戯言を再現したかのように。 鋭く、ただ鋭く、地に穴を穿ち、擦ったキュウビモンに切り傷をつけ、降り注ぎ続けた。 「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」 進む。戻る。進む。戻る。進む。戻る。 それを繰り返す。 貫手の雨はキュウビモンを回避行動に集中させ、怪物への追撃を許可させない。 いや、それだけならばまだいい。 かすり傷とはいえ、キュウビモンの傷は増えていく。 キュウビモンの息が少しずつ荒くなる。 完全体と成熟期のスタミナ差など、言うまでもない。 怪物はこの乱打を繰り返すだけで、詰むことができる。 「…………!?」 キュウビモンと怪物の視線が合う。 笑いの原点を獣が牙を剥く行為に置くのならば――正しく、怪物は笑った。 雨が止んだ。 雨跡は熱線の軌道をなぞるかのようだった。 【ヒートバイパー】 雨後の静寂の中、熱線は放たれた。 つまるところ、キュウビモンは誘導されていたのである。 「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」 守れなかった者の記憶が過ぎる。 戦いの記憶が過ぎる。 今日の記憶が過ぎる。 思い出した全ては目の前にある熱線ごと死に飲み込まれて、消える。 「狐炎龍!!」 守るためには抗うしかない。 体の回転と共にキュウビモンの全身が紫の炎に覆われた。 全身を炎の鎧で包み込んだ回転しながらの突進、この必殺技を用いて熱線の威力を殺す。 出来ねば、死ぬ。 「ル、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」 「 雄 鳴 雄 鳴 ッ!!」 果てしなく白色の硬い床が続き、上を見上げればどこまで続くかわからないほど高くにやはり白色の天井があった。 壁はないが、どことなく閉塞感が有り、死後の世界というよりは牢獄のように思えた。 コイキングは相変わらずの黄金色の輝きで、暴龍と化したことが嘘であるかのようにレナモンの前で平然と佇んでいる。 「元気そうだな」 「死んだ魚の眼をした私に言うことかい?」 変わらない――何一つとして、目の前の魚は変わってはいなかった。 そのことがレナモンにとってはとても嬉しく感じられる。 「結局、私は……駄目だったな」 レナモンの口をついて出たのは、自嘲の言葉だった。 「……死人のために、戦えるメタモンが羨ましかった。 いや、死んでなおも遺るものを私は……見つけられなかった」 メタモンと言葉という言葉を交わすことは出来なかった、レナモンにとってそれは今となっても哀しい。 「……コイキング、あのはぐれメタルも……メタモンも、お前の名前を呼んでいたな。 良かったと思った。私はお前の名前を聞くことはなかったけれど、お前の名前を呼ぶ者がいて、私はお前の名前を知れて……良かったと思った。 メタモンが忘れないでと言った時、私も……忘れたくないと思った。 私は……忘れない、忘れたくない、メタモンのこともお前のことも、あの子たちのことも……だから、戦おうと思った……負けてしまったがな」 「レナモン君……君は、負けてなんかいないよ」 「慰めはやめてくれ」 本当さ――そう言って、コイキングは笑った。 レナモンは声を聞いた。 聞こえるはずのない声を。 失ったはずの、守りたかった者の声を。 「おねえちゃん……」 クラモンがいる。ココモンがいる。ジャリモンがいる。 ズルモンがいる。ゼリモンがいる。チコモンがいる。 ウパモンがいる。カプリモンがいる。ギギモンがいる。 キャロモンがいる。キュピモンがいる。キョキョモンがいる。 「がんばって!!」 「こんなにも君を応援してくれている者がいるじゃないか、これで敗けるなんて……悪い冗談だ」 「ああ……そうだ、それは悪い冗談だ」 気づけば、走りだしていた。 一歩踏み出す度に、子どもたちが力をくれる。 出口へと近づく度に、進化のイメージがレナモンの脳内を駆け巡る。 「お願いします」 メタモンの声がする。 「任せろ」 「レナモン――超 進 化 ッ!!」 【C-5/草原/一日目/夜】 【???(レナモン)@デジタルモンスターシリーズ】 [状態]:健康 ※ダメージなどは進化時に全快済 [装備]:なし [所持]:ふくろ(空) [思考・状況] 基本:君を忘れない 1:キメラモンを倒す [備考] メス。 多くの勢力が戦いを続ける激戦区の森で、幼年期クラスのデジモン達を守って生活していたが、 大規模な戦闘に巻き込まれた際、彼らを守りきれなかったことをきっかけに力を求めるようになった。 自力での進化が可能であり、キュウビモンに進化可能であることまで判明している。 無意識的にメタモンをロードしました ※エアドラモンとはぐれメタルたちの戦いの顛末を全て見聞きしていました。 ※超進化を果たしました、何になるかはお任せいたします 【キメラモン(エアドラモン)@デジタルモンスターシリーズ】 [状態]:狂乱、暗黒進化 、ダメージ(極小) [装備]:なし [所持]:なし [思考・状況] 基本:誰よりも強く―― 1:敵を倒す [備考] デジモンに性別はない。が、オス寄り。 長い不遇生活でやや後ろ向きかつ、理屈っぽい性格。 アグモンともども、少なくとも参加者のうちでシリアスなレナモンとは別の世界観出身の可能性が高い(断言はしない)。 数多のロードと莫大な経験値、デビモンならぬムーの残滓によりキメラモンへの進化ルートが開通しました。 キメラモンを構成するパーツのうち、幾つかにロードしたモンスターたちの面影が見られます。 現在、グレイモン部分にムー、エンジェモン部分にエンジェル、デビモン部分にモーショボー、メタルグレイモン部分にはぐれメタル、ガルルモン部分にピカチュウ。 ただし、逆に屍や虫、恐竜に対応するデジモンは取り込んでいないため、あくまでも完全体としてのキメラモン止まりです。 ライチュウの技の一つであるかみなりを使用可能になりました ※敵を全て倒せば少女(メタモン)が現れると思い込んでいます No.66:[~チカラ~ 投下順 No71:その心まで何マイル? No.66:~チカラ~ レナモン No70:僕たちは世界を変えることができない。 No.66:~チカラ~ エアドラモン No70:僕たちは世界を変えることができない。 No.66:~チカラ~ メタモン 死亡
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国語教育の目的(世界の場合) 確認:日本の国語 まずは、日本の国語教育について簡単にまとめ直してみましょう。 1:国語の目的は「しっかり言葉を学ぶこと」である。 これは学習指導要領を始めとして、様々な形でしっかり明記されています。 さらに、何故言葉を学ぶ必要があるのか、その目的として次のように説明されています。 説明を聞いて、その要点をしっかり抑えられるようになるため。 文章を読んで、その要旨をしっかり掴めるようになるため。 つまり、目的をできるだけ明確に把握できるようになるため。 また、それから転じて次のことも説明されています。 目的も分からないような内容では、教師としても説明のしようがない。 それでは何を勉強しているのかも分からないので、子供たちとしても勉強にならない。 2:国語は純粋な語学科目ではなく、それ以上に様々なことも学んでいる。 国語が語学科目ならば、国語の目的は「言葉のスキルの獲得と向上」に絞られるはずです。 しかし、国語では明らかに言葉のスキル以外のものも数多く学んでいます。 このことから、国語は純粋な語学科目ではないことが分かります。 3:しかし、その「言葉のスキル以外の何か」については説明が無い。 純粋な語学ではないとは言え、では「言葉のスキル以外の何か」とは具体的に何なのかとなると、それは説明されていません。 あるいは、文学や古典を読む目的さえも「より高度に言葉を学ぶため」とされています。 4:その結果、日本の国語はあくまでも「語学+α」という位置づけになる。 「1」によって「目的すら説明できないものは学びようがない」と説明されているので、説明されていない「言葉のスキル以外の何か」を国語の目的として捉えることはできません。 あるいは、「3」によって「それらも言葉を学ぶための副教材だ」と説明されているので、国語で学ぶものは全て言葉の勉強のためだと捉えることもできます。 以上のことから、日本の国語は、あくまでも「言葉を学ぶための科目」であるという結論になります。 世界の国語 日本の国語は語学科目です。 しかし、世界中どの国の教育においても、国語は単なる語学科目ではありません。 日本では説明されない「何か」についてもしっかり説明されており、目的も考え方も違います。 では、その「何か」とは一体何なのでしょうか? その答えは非常に簡単です。 Q:国語で学ぶ「それ以上の何か」とは何か? A:それは「自分たちが生活している社会についての概要」です。 世界一般の国語教育において、その非常に重要な目的とは社会の概要を学ぶことです。 日常生活における基本的なルールや文化、あるいは自然の神秘から料理や掃除の仕方まで含めたあらゆる事柄、つまり簡単に言えば「一般常識を少しずつ身に付けていくこと」が国語の目的です。 基本的な言葉使いや習慣を身に付けさせたり、ケンカや盗みは悪いことだと道徳や倫理を教えたり、歴史や文化にも簡単に触れて社会の成り立ちについて考えさせたり、宇宙のロマンを語って聞かせたり、それらを通して子供たちに「へぇ~、社会ってこんな風にできているんだ」と感じてもらうこと、それを通して「まだ知らない面白そうなことがたくさんあるんだ」と興味関心を拡げてもらうこと、それが国語の目的なのです。 もちろん、言葉も生活に欠かせない大切な常識の1つです。だから、当然しっかり学びます。世界では、国語は「言葉を学ぶ科目」ではなく「言葉も学ぶ科目」なのです。 国語は、自分たちが実際に生活している社会についての概要をざっくりと学ぶ科目であり、つまりできるだけ分かりやすく簡単に学ぶための科目です。 そのため、国語は実社会を簡略化して説明したものであり、社会の縮図のようなものと言えるでしょう。だから、「国語を見れば、その国の特徴が見える」と言われるのです。 また、社会の縮図として全体を俯瞰するため、国語は教育全体のガイドラインとしての役割も担っています。 例えば、単純に「海外旅行」をテーマに考えただけでも、飛行機はなぜ飛べるのかといった物理の疑問に繋がりますし、海外の文化や食生活の違いに注目すれば社会に繋がります。現地通貨との両替を経験すれば、算数が必要になりますし、経済や為替というシステムの奥深さを知ることにもなるでしょう。 このように社会についてほんの少し考えただけでも、驚くほど多岐に渡る学問分野が絡みあっていることが分かります。 だからこそ、まず国語で社会全体について概略的に掴んでいきます。これによって「では、次にこの点について、もっと詳しく見ていきましょう」といった形で他の科目へスムーズに移行できるようになります。 国語は「全ての科目の入り口となり、さらに科目同士を結び付ける」という、とても大切な役割を担っています。国語教育がしっかりしているほど、勉強全体の目的や構造を見渡すことができるようになります。 そのため、国語は教育全体を見渡す司令塔とも言うべき位置付けになるでしょう。これが「教育の基礎は国語」と言われる所以です。 疑問1:「国語」? それとも「社会」? 恐らく、ここで1つ疑問に感じるでしょう。 「社会の概要を学ぶのは、社会科の授業なのでは?」と。 それは半分正しく、半分勘違いです。 確かに社会について学ぶのは社会科の領分ですが、国語でも同じように社会について学びます。それぞれに違う役割があり、特に常識などは国語の担当領域です。 社会科 社会科とは、まず社会について漠然と捉えた上で「では、もっと具体的に、より正確に社会について学んでいきましょう」という形で発展させて、特化していった科目です。「何があったか」といった客観的事実を学んでいきます。 その反面、社会科では個人的な意見や感情は問われません。個人がどう思っていようが事実は変わらないからです。下手に感情を持ち込むと、どうしても事実が歪んで見えやすくなってしまいます。戦争や領土問題などを例に考えれば分かるように、誰だって自分たちに都合の良い見方をしたがることは明白でしょう。感情を持ち込むと、どうしても誤解や偏見を招きやすくなってしまいます。 もちろん、自分なりの意見を持つことが悪い訳ではありません。ただ、どんな判断をする場合であっても、判断するよりも前に、まずは正確に事実を捉えるべきでしょう。間違った認識の上では、いくら考えても正しい判断などできるはずがないからです。 この時の「まずは冷静に事実を知る」という部分を担当しているのが社会科です。考えることを否定しているのではなく、むしろ正しく考えるために、一時的に考えることを切り離して事実確認に専念している点が特徴です。 そのため、社会科では例えば戦争について数多く学びますが、実は「戦争は決して繰り返してはならない」といった価値観を教えることはありません。善悪などの判断は社会科で教えるべき内容ではないからです。 この点は、現役の教師でさえ誤解しているケースが少なくないでしょう。 国語 それに対して、考える部分を担当しているのが国語です。国語では「どう思うか」という主観的な意見や感情を中心にして社会を学んでいきます。 例えば「盗みは悪いこと」という常識を学ぶ場合、社会科では「窃盗は刑法に基づいて罰せられる」という社会のルールとして学びます。 それが国語の場合では「友達が万引きしている現場を見てしまった時、あなたならどうするか?」「直接止めに入るべきか、それともお店の人に報せるべきか」といった形になり、他者の意見を参考にしながら自分の意見をまとめていく過程が中心になります。 常識というものは、ただ「知識として知っていれば良い」というものではありません。「盗みは悪い」とただ知っていることと、本心からそれに賛同していることでは大きく違います。 常識とは、ただの知識として身に付けるものではなく、自分の価値観として身に付けていることが重要になります。ただ社会について客観的に学べばいいのではなく、自分もその社会の一員になるのだという自覚を持つことが最も重要になります。だから、知識ではなく、気持ちが重要になるのです。 簡単に言うと、次のような想いが込められています。 社会について知ることで、自分たちが暮らす社会をもっと好きになって欲しい。そして、自分も社会の一員であるという自覚と誇りを持って、できればその社会に貢献する人間に成長して欲しい。 このような想いを込めて、意思・思想・感情など心を育てることを目的としている点が国語の特徴です。 比較 簡単にひと言でまとめると、このようになります。 社会科 社会について詳しく正確に学ぶ科目 国語 自分たちの社会を好きになるための科目 教育でまず始めに学ぶべき社会の概要とは、人口やGDPのような客観的なデータではなく、文化や活気のような社会が持っている意思のことです。 社会がいかにして作られ、どのような思いで成り立っているのか。人々はどんな夢を抱きながら日々の生活しているのか。それを肌で感じることで得られる感覚的な共鳴や一種の仲間意識・連帯感、自分もその社会の一員であるという自覚と誇り、そこまで含めて身に付けることが重要です。それが「社会の概要」を学んでいく目的です。 非常に思想的・感情的であることが分かるでしょう。そのため「社会の概要」は国語の担当領域なのです。 疑問2:日本でも常識を教えている? ここまでの内容を簡単にまとめると、次のようになります。 日本では 国語教育の目的は、しっかり言葉を学ぶこと 世界では 国語教育の目的は、社会の概要(常識)を学ぶこと しかし、恐らくここで反論が出るでしょう。 「日本の教育でも常識はしっかり教えている」と。 日本の教育では、常識は国語の目的の対象にはされていません。 しかし、教育全体の目的として考えれば、当然常識も含まれているはずでしょう。そのため「あえて国語で言及されていなくても問題ない。日本の教育でも世界の教育と同じように常識を教えている」という反論が出てきます。 そこで、とりあえずこの反論を受け入れてみましょう。そうすると次のようになります。 日本では、常識を教えている。 世界でも、常識を教えている。 こうして見ると、両者はほとんど同じように見えるでしょう。 しかし、この両者の「常識」は果たして本当に同じだと言えるでしょうか? Q:常識とは何か? 日本と世界では「国語」の目的が違うように、実は「常識」が指す意味も違います。そのため「日本では教育全体を通じて常識をしっかり教えている」と言っても、それは世界一般の教育とは意味が違うのです。 常識とは何か、それを確認しておく必要があるでしょう。 「常識」とは何か? 普段から当たり前のように使われる「常識」という言葉ですが、これは非常に勘違いされやすい言葉です。 日本では、一般的に「常識=知ってて当たり前の知識」と捉えられているのではないでしょうか。だからこそ、それが転じて「知らないと恥ずかしい」といった表現が出てくるのでしょう。この場合「知っているかどうか」が争点になります。 しかし、これは勘違いです。 常識の"識"とは知識のことではありません。これは意識や認識のことです。つまり常識とは、そのまま字のごとく「通常の意識」という意味です。簡単に言えば「普通の状態」のことです。 常識=知識の場合 現在では一般的となってしまった知識を問う方の"常識"では、例えば「1万円札の肖像画で有名な"ふくざわゆきち"の名前を漢字で書きなさい」といった問題が出されます。 意外と「ゆ」の字で間違えてしまう人も多いのではないかと思いますが、これを間違えると「常識が無い」とバカにされるでしょう。 現在では、よくこのような形で”常識”が問われます。 他にも「分数ができない大学生」などが問題になることから、必ずしも「知識」だけではなく「能力」も求められることが分かりますが、簡単に言えば常識とは「これぐらいは分かって(出来て)当たり前」という水準のようなものと言えるでしょう。言わば、最低水準のレベル1の知識を指します。 そして「分かって当たり前」だからこそ、誰もわざわざ説明しないという特徴があります。このレベル1とは「全く説明されなくても分かって当たり前」のカテゴリーとされているからです。 ここで下手に説明してしまうと、それはもう「説明されれば簡単に分かる」というレベル2のカテゴリーに上がってしまいます。 そのため「本当に重要な常識は、誰も説明してはならない」という奇妙な構造を持ちます。よく言われる「勉強が大切なのは当たり前。当たり前だから説明するまでもない」という理屈は、この考え方に基づいています。 常識=意識 一方、常識を意識として捉えた場合はどうなるでしょうか。ここでも引き続き「盗み」を例にして見てみましょう。 まず、窃盗は犯罪です。これは当たり前のことでしょう。先ほどの「ふくざわゆきち」の問題と比べても、こちらの方がよほど基本的なことであり、勉強以前に人として「知らないと恥ずかしい」と言える大切な内容です。 それを踏まえた上で、ちょっとした例題です。 Q あなたは自分が働いている店でパンを万引きした少年を捕まえました。 あなたは店員として、この後どのように対処しますか? 特に難しい質問ではないでしょう。これは別にひっかけ問題でも心理テストでもありません。 単純に考えて「警察に通報する」といった回答になると思います。他にもいくつか選択肢はありますが、どれも大差はありません。 選択肢1 警察に通報して任せる。 選択肢2 しっかり説教した上で親に引き取らせる。 選択肢3 しっかり説教した上で学校に知らせ、教師に引き取らせる。 では、ここに少し条件を加えてみます。 条件 少年は両親から虐待されており、食事をまともに与えてもらえないため、空腹に耐えかねてパンを万引きした。 この条件を加えても、店員としてとるべき対応は変わらないのでしょうか。 繰り返しますが、窃盗は犯罪です。たとえどんなに空腹だったとしても、それは窃盗を正当化する理由にはなりません。それは当たり前のことです。 しかし、このような場合であれば「犯罪者の事情なんか知ったことじゃない。何が何でも警察に突き出す」という人は少ないでしょう。少年に同情して態度を変える人は大勢いるのではないでしょうか。 選択肢4 食事を与えてゆっくり休ませ、事情を説明して少年を保護してもらうために警察に相談する。 このような行動をとる人も、きっと大勢いるでしょう。 窃盗が犯罪であることは分かっている。 少年が窃盗犯であることも分かっている。 まして、自分はその被害者である。 しかし、それでも犯罪者であるその少年を助けたい。 このように考える人は大勢います。「今は万引きのことなんかどうでもいい。まずは少年の保護を最優先に考えるべきだ」と考える人が大勢いるのです。 これは別に不思議なことではないでしょう。ここにあるのが常識です。 社会の中で生活する上で、確かに「窃盗は犯罪」というルールは極めて当たり前のものです。これを知らない・理解できないとなると、それは人として非常に深刻な問題です。 しかしだからと言って、ルールを完璧に守ることが必ずしも正しいとは限りません。ただルールを守ってさえいれば、常に正しく行動できる訳ではありません。 子供たちは、よく「人のものを盗んじゃいけないって、先生が言ってた」といった言い方をするでしょう。この場合、子供たちは知識として「窃盗は犯罪」と確かに知っている訳ですが、しかし、これは大人の指示にただ従っているだけです。「なぜ、いけないのか」と、自分では考えていません。この状態では、自分の判断でルール外の行動をすることができません。「ルールを守るべきか、それとも人の命を守るべきか」という基本的なことすら、考えられてないのです。 もし常識を”知識”として捉えるならば、このような「先生が言ってた」レベルで充分ということになります。ルールさえしっかり守っていれば、困っている人を見殺しにしても構わないことになります。しかし、常識はそんなに甘くありません。 自分で判断ができる者であれば、正しく行動するために、あえてルールを無視するということがよくあります。普通の人が当たり前のように、自分の判断で責任を持ってルールを無視する。それは身近によくあることです。 ここにあるのが常識です。常識とは、自分の頭で考えられることです。 Q:常識とは何か? A:常識とは「自分で考えられる」という普通レベルの意識 「知る」と「考える」の差 普通に考えれば「例外を認めはじめたら、すぐに大量の例外で溢れて無法状態になってしまう。だから、まずは正しいルールを作り、そしてそのルールはどんな理由があっても守られなければならない」と断固としてルールを守る姿勢を貫くのか、それとも「ルールとは人を守るためにある。ルールのせいで人を助けられないとしら本末転倒だ。だから、困っている人を助けるためならルールなんかに構っていられない」と臨機応変に判断するのか、自分なりの回答が出るでしょう。これが「常識で考えれば分かる」と言われる状態です。 これは、「どちらの考え方が正しいか」という問題ではありません。回答は人によって違います。 よく「常識は国よって違う」と言われるのは、それだけ国や社会によって回答に違いや偏りがあるからです。「常識には正解など無い」という言い方もできるでしょう。常識とは「正解を知っていること」ではなく「何が正しいか、自分なりに考えられること」です。だから、常識にはバラつきがあり、その中には間違いや矛盾・対立するものも多々あります。 ただ、もし間違えてしまったとしても、それが自分なりに考えた結果であれば納得できるし、反省もできるでしょう。そのため、たとえ結果的に間違えてしまったとしても、自分の選択であれば責任を持てます。この点は非常に大切な特徴です。 自分なりに考える。 自分なりの答えを出す。 その答えに責任を持てる。 常識には、こういった自立した精神が求められます。 別に難しいことではないでしょう。必ずしも正解でなければならない訳ではなく、ただ自分なりに考えるだけなら、誰にだってできます。それは普通のことです。そんな普通に考えられる状態が通常の意識であり、即ち常識です。 こうして整理してみると分かるのは、責任という点が重要になる点から考えても、実は「常識」が求める水準はかなり高いということです。 日本の常識を「説明するまでもない最低水準のレベル1の知識」と仮定すると、世界の常識とは「自分でしっかり考えて責任を持って行動できるレベル20の精神」といったイメージになるでしょう。圧倒的に厳しい水準です。 これは具体的には、高校卒業レベルが一般的でしょう。高校を卒業したぐらいで、やっと「そろそろ常識が身に付いてきた」と判断してもらえるようになります。言い換えると、高校生のうちは「まだまだ未熟」と捉えられることが当たり前なのです。「子供=常識が無い」と言っても良いでしょう。 それぐらい、世界における「常識」は日本よりも遥かに高い水準を求められます。 注意 念のため注意しておくと、これは決して「高校を卒業すれば大人」という意味ではありません。あくまでも「高校を卒業する頃までには1人の人間として責任を持って行動できるように、しっかり学ぶ必要がある」といった意味合いです。 この1つの参考基準になるのが「結婚」でしょう。 現代の日本では「高校卒業と同時に結婚する」と聞くと、どうしても「まだまだ子供なのだから、もっと慎重に考えた方がいい」と感じてしまいます。つまり「高校卒業=まだまだ子供」と捉えられているのです。 もし、教育が「子供たちを、しっかりと一人前の大人に育てること」を目的として行われているのだとすれば、その教育をしっかり受けて立派に卒業した者を「まだまだ子供」と捉えるのはおかしな話でしょう。「まだまだ子供」の者をそのまま卒業させてしまったら、それは教育の放棄に他なりません。 教育を立派に卒業した者は、その時点ではまだ確かに未熟な点が多々あるかもしれませんが、それでも「とりあえずは大人の仲間入り」となるはずなのです。教育を卒業した者を子供扱いすることは失礼にあたります。 この時の「とりあえずは大人の仲間入り」が常識の基本ラインです。 一方、現代の日本では、高校時代にしっかり勉強して優秀な成績を修めて卒業したとしても、その後国立大学に進学したとしても、しっかり就職したとしても、「まだまだ子供」と見られるケースが多いでしょう。 つまり、それが意味しているのは、日本の教育は「子供たちを、しっかりと一人前の大人に育てること」ではなく、あくまでも「勉強を教えること」を目的としているということです。 そのため、日本での高校卒業程度では、常識の水準には届きません。 参考:常識がない例 極度の飢餓状態 怒りに我を失った興奮状態 酔っぱらって判断できない酩酊状態 緊張や恐怖で考えられない錯乱状態 他人に判断を全て任せてしまう依存状態 ただ黙って周囲の意見に合わせるだけの隷属状態 まだ自分では判断できない幼児 一方的に自分の主張をするだけで、他者の意見を聞かない子供 これらは「普通の状態」ではありません。即ち、常識が無い状態です。 日本のように常識を知識とした場合、こういった精神状態は常識とは何の関係も無いことになります。怒りに我を失っても、酔っぱらって判断力が低下しても、それでも別にその人が持っている知識力まで低下する訳ではないからです。 そのため、どんなに暴挙を働いても「知識のある大人が狂っただけ」「常識のある大人がバカなことをしているだけ」ということなります。つまり、「しっかりと常識のある犯罪者」という存在さえも、何の矛盾も無く当然のように成立することになります。たとえ殺人鬼であっても、常識人として認めることが可能です。 しかし、それはさすがにおかしな話ではないでしょうか。常識人と言えば「まともな人」のことでしょう。殺人鬼が「まともな人」のはずがありません。 では、何故まともではないのか。それは当然「精神と行動が、まともではないから」です。「知識が足りないから」ではありません。このことからも、「まとも」であるかどうかの判断基準は、知識ではなく精神にあることが分かります。どんなに頭が良くても、精神が異常な犯罪者を「まとも」とは呼べません。そのため、「犯罪者=常識が無い」という構図になります。 問われるのは知識ではなく精神です。そのため、常識は一時的な精神状態の変化にも連動します。どんなに頭が良い人でも、酔っぱらっている時は「一時的に常識を失っている状態」ということになります。 常識を教える教育とは? こうして落ち着いてに比較していけば、「日本でも"常識"を教えている」と言っても、その目的が世界の教育とは正反対であることが分かるでしょう。 知識ではなく「考える」という観点から考えた場合、日本の"常識"とは「考えないこと」になり、世界の常識では「考えること」になります。 日本の場合 ⇒「正しいこと」を教える "常識"を教え込む。子供たちに正しいことをしっかり教えて、大人が教えた通りに正しく行動できるようにさせることが目的。まず社会の価値観があり、子供たちをその社会に適応させるための考え方です。 ⇒極論を言えば、大人の指示に子供を従わせることが重要です。そのため、必ずしも子供たちの意見を聞く必要はない点が特徴になります。強制や支配も1つの方法として可能なのです。重要なのは「大人=正しい」という前提であり、それに子供を従わせることです。そのため、子供が反論することはNGであり、自分の意見を持つ必要もありません。「大人の威厳」や「厳しくて怖い先生」など、命令できる人が重宝されます。 世界の場合 ⇒「何が正しいか」を考える 自分で考える習慣を身につけさせることが目的。「自分はどう思うか」を中心とした考え方です。 ⇒「何が正しいか」を各自が自分なりに考えてみることが重要で、考え方は人それぞれ多種多様になります。それらの意見を衝突させて言い争いになるような状況も肯定的に捉えている点が特徴です。「大人たちの考え方は間違っているのでは?」といった疑問を持つことも大歓迎。また、子供の内にしっかり間違えておくことも重要と捉えます。いかに子供たちの意見を引き出すかがポイントになるので「くだらない子供の話にも真剣に向き合ってくれる大人」が重宝されます。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (I4.png) 比較 日本の"常識"は、誰にでも通じる万人に共有される知識を指します。そして、万人向けだからこそ、特徴がありません。例えば、ある"常識"が老若男女に関係無く共有されるためには、そこに「男らしさ」や「若者らしさ」などがあってはなりません。それでは女性や老人からの支持が得られないからです。全ての人に共有されるためには、あらゆる特徴は排除されなければなりません。そのため、日本の"常識"は無色透明に近い価値観になります。 一方、世界の常識では、各自の意思や意見に注目します。各自がそれぞれ自分のカラーを明確に持っいる点が重要であり、個人差が大きいことにこそ価値があります。1人1人がしっかり自分の意見を持っている、そんな個人が集まってこそ社会が作られていく、という考え方です。そのため、決して万人に共有されることはありません。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (I5.png) 例:いじめについて考える場合 日本の場合 ⇒「いじめは絶対に許されない行為だ」と徹底的に教え込む 社会のルールとして、とにかく何度でも繰り返して教えます。 教える側である大人からしてみれば、これは極めて簡単で当たり前のことを言っているだけにすぎません。難しい点は全く無いし、反論の余地も無いはずです。そのため、いくら子供であっても理解できないはずがなく「当たり前のことなんだから、これぐらい守れ」「とにかく言われた通りにしろ」といった教え方になります。 ただその一方で「では、実際にいじめを見つけた場合はどうすればいいか」といった具体的な質問には答えないことが多いでしょう。「具体的な行動はその時の状況次第だから、その場で臨機応変に対応すればいい」「細かい話はひとまず置いておくとして、ダメなものはとにかくダメだ。それだけ理解すればいい」といった回答に終始する傾向にあります。 そのため、子供たちは「言っていることは分かるけど、どうすればいいのかは分からない」という悩みによく直面します。「結局、大人は単なるキレイ事を言っているだけ」という印象になりやすいでしょう。 世界の場合 ⇒具体的な質問について、意見を出し合って考える 例えば「いじめを暴力で止めてもいいのか」「ケンカした相手を、こっちの怒りが治まるまでしばらく無視した場合、それもいじめになってしまうのか」といった様々な事案について意見を出し合います。 こういった議論を通して「いじめに万能な解決策など無いかもしれないけど、それでも自分たちにできることは色々ある」ということが少しずつ見えてきます。必ずしも正解と呼べる選択肢は無いかもしれませんが、それでも自分なりに正しいと思う方法を見つけることはできます。その方法について友達と検討することもできます。 この場合、意見は各自バラバラになり、統一的な見解を導くことは期待できません。そのため、大人でも「正しい考え方」を提示することができません。また、中には過激な意見が出てくる場合など、注意が必要な点も少なくないでしょう。 しかし、実際に行動に移せる具体的な指針を分かりやすく多数提示できる点や、実際に行動してみて成功を喜んだり失敗を反省したり、それを次回の為の新たな指針として活用できたりする点などは、非常に大きなメリットになります。 Q:日本の教育において、果たして本当に常識は教えられているのか? ここまで「日本と世界とでは常識の定義が違う」という点を確認してきた訳なので、「果たして日本でも常識は教えられているのか?」という疑問に答えるためには、まず常識の定義から考える必要があり、答えるのは少々厄介です。 ただ、どちらにしても、とりあえず言えることは「日本の教育では、子供たちは無責任になりやすい」ということです。 日本の教育においては、子供を教育に従わせることが重要です。子供のワガママを許さず、反論も許さず、無駄口も許さず、しっかりと教え込むことが重要になります。大人たちは毅然とした態度で臨み、たとえ全く教育を信用できなくても「とにかく我慢して勉強しなさい」といったメッセージを繰り返し強く与えます。 当然ながら、これでは子供たちはすぐに反論も質問もしなくなります。我慢するからです。 口を開いただけで反抗的態度と見なされ兼ねませんし、「文句があるなら、君は勉強しなくていい。教室から出て行け」と見放されてしまう危険もあります。それでは、黙って先生の指示に従うしかありません。 また、従ってさえいれば「良い子」と評価してもらえます。ただ黙って従う方が得策でしょう。 そして、あくまでも我慢して従っているだけなので、責任など持てるはずがありません。 自分では考えない。 社会のルールや大人の指示に従う。 自分の意思とは関係なく従っているだけなので、責任は持てない。 このように、常識を知識と捉えて強く教え込もうとすると、かえって考えるチャンスは失われ、結果の正否に関わらず、無責任になる可能性は高まります。自分で考えて正しいと思ったから行動するのではなく、黙って指示に従っているだけだからです。 もし悪い結果になった場合でも「悪いのは命令した大人」「大人に無理矢理従わされていただけ」という考え方になるでしょう。 このような結果、子供たちの判断基準は「先生が言ってたから」レベルに成り下がり、依存と隷属の状態に陥ります。 結果として、定義が異なるこの質問に対して、次の2通りの回答をすることができます。 日本の教育では「自分で考え責任をもって行動する」という常識は教えていない。 日本の教育では「黙って従っていれば責任もとらずに済むこと」を常識として教えている。 どちらにせよ「責任」や「自立」は教えられていません。 その意味では、やはり「世界の国語教育」と「日本の国語教育」の目的は大きく異なっているという結論になります。 世界の国語教育 国語教育の目的について確認してきた結果、簡単にまとめると次のような対比になります。 日本の国語教育は、しっかりと言葉のスキルを身に付けさせることを目的としています。 世界の国語教育は、自分で考えて判断し責任を持って行動できるように育てることを目的としています。 目的が根本から大きく異なっていることが分かるでしょう。
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学校と塾ではどこが違うのか? 勉強の基本的な目的を学力や成績だと考えると、現状では既に学校よりも塾の方が高い効果を見せている点は否定できません。また、学校教育においても成績を大きく左右する重要な鍵は各自の予習・復習にあるとされています。つまり、単に学力や成績が大切なのであれば、塾や予備校はもちろんのこと、自宅学習でも通信教育でも構わないはずなのです。 では、どうして学校は必要なのでしょうか。学校の意義とは何なのでしょうか。 学校:総合的な知性 塾 :ペーパーテスト学力 先にざっくり結論を言ってしまうと、学校が育成しているのは「総合的な知性」であり、塾が育成しているのは「ペーパーテスト学力」であるという違いがあります。 「学校は人間関係も学ぶところ」というよくある回答は× 学校と塾の違いについて質問すると、その回答として「学校は人間関係も学ぶところ」といったものがよく挙げられます。確かに、それも間違いなく学校の非常に大切な役割です。しかし、この回答は決して正しくはありません。 子供たちが訊いている「学校と塾はどこが違うの?」という質問は、「学校でも塾でも同じように勉強しているけど、どこか違いがあるの?」という意味です。さらに意訳すれば「もし同じ目的で同じ内容を学んでいるだけなら、無駄も多いしもっと工夫できると思うけど……」という内容になります。つまり、学校と塾の機能的な違いについて訊いている訳ではありません。 塾は義務教育ではないし、体育や音楽の授業もないし、給食もないし、自転車で通っても構わないなど、違いを探そうと思えばいくらでも挙げられます。しかし、子供たちはそんなことを訊いている訳ではありません。「勉強」という明らかに重複しているように感じる部分について、その差異は一体どこにあるのかとピンポイントで質問しているのです。 そのため「学校は人間関係を学ぶところだ」「だから、学校には体育祭や修学旅行などの様々な行事もある」といったように勉強以外の部分で差異を示しても、その回答は的外れです。それでは勉強については確かに重複していると認めているようなものであり、さらには「学校は人間関係を学ぶところだから、塾に比べたら勉強は疎かになっても構わない」と言っているようなものでしょう。それは学校教育が考える勉強の大切さについて説明することを放棄している発言であり、学校教育に対する侮辱だとさえ言えます。 確かに学校は人間関係を学ぶところですが、同時に勉強するところでもあります。両方とも重要なのです。それならば、両方とも説明しなくてはなりません。 子供たちが訊いている「学校と塾はどこが違うの?」という質問には、「学校における勉強の大切さと塾における勉強の大切さの相違点について」という説明で答える必要があります。 教育の方法:「経験」と「知識」 学校と塾の違いについては、教育の方法論から考え始めると分かりやすいでしょう。方法論の代表格は経験と知識です。 あまりに身近で当たり前のこの2つですが、これらは身近すぎるために改めて確認する機会が少ない要素と言えるかもしれません。 基本的に、教育は経験と知識の両立によって行われます。そこに反論する人は少ないでしょう。 しかし、そこで1歩さがって「そもそも教育とは何ですか?」と質問してみると、「それは、しっかり勉強させて確かな学力を身に付けさせることだ」と答える人が大勢います。 すぐに気が付くと思いますが、この回答は「教育=勉強させる=知識を身に付けさせる」という構図なので、経験が完全に抜け落ちています。教育における経験とは何なのか、それが意外と見落とされやすいことがここから伺えます。 簡単に比較すると、こんな感じ #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s4.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s5.jpg) あくまで一般論としてですが、基本的に勉強は知識の伝授とほとんど同じ意味です。 教科書は知識の宝庫であり、教師の話を聞くことも知識の伝達です。本から学ぶにしても、人の話から学ぶにしても、それは自分では直接経験せずに様々なことを情報として教えてもらう形になります。学校での勉強、塾での勉強、自宅での勉強、どれもこの形です。そのため、一般的な用法として「勉強」とは知識の習得や伝授を意味しています。 ここで重要になるなのは「勉強を通じて知識を与えること極めて簡単だが、反対に経験は与えられない」という点です。「経験」とは、自分で直接見たり聞いたり行動したりして、そこから様々なことを感じたり考えたりすることです。つまり、「何をしたか」ではなく、「何をして、それをどう感じたか」までを含めて経験なのです。大人が与えられるのは「経験」ではなく、「経験するための環境」までです。子供たちが自分から積極的に行動して考えてこそ経験であり、大人に命令されて嫌々やらさせれるだけで何も考えていない場合、そこからは得られるものはほとんどありません。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s10.jpg) 知識は大人から与えることができますが、経験は子供たちが自分で積み重ねる必要があります。そのため、子供が自分から行動するまで待つ姿勢も教育には不可欠になります。教育熱心になると「いかに多く勉強させるか」ばかりを考えてしまいますが、それではかえって経験を積む機会を奪ってしまうため、教育のバランスを崩してしまいます。このようにして勉強するだけ/勉強させるだけとなった状態では教育とは呼べません。 知識と経験を両立させることで学習効果は飛躍的に向上していきます。両者のバランスは極めて重要です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s17.jpg) 両立が重要なのは当然ですが、しかし現実問題としてそれは決して簡単なことではありません。知識偏重にならないように配慮すること、知識を与えればそれで終わりというような一方的な授業を行わないこと、これらの点は意識的に心がけていないと驚くほど簡単に見落とされてしまいます。 このままでは少し抽象的すぎるので、具体例として「料理」を挙げてみましょう。 経験のみ: 知識のみ: 経験+知識: こうして料理を例にして考えてみても、経験と知識の両立が重要であることは明らかでしょう。経験のみの学習、知識のみの学習、どちらかだけでは教育として充分な効果を発揮できません。両立させることで効果は飛躍的に向上していきます。 しかし、こうして述べれば当たり前に思うことでも、それを実際に教育で行うことは決して簡単ではありません。その代表例となっているのが英語の授業です。 「中学・高校の6年間もしっかり勉強して、英検だって取得した。それなのに、やっぱり英語は苦手」という人は大勢います。決して英語が嫌いなのではなく、しっかり勉強して成績も悪くはない。それにも関わらず英語力が身につかない。多くの人がそんな悩みを持っています。 この問題の大きな原因の1つが、英語の勉強方法そのものにあります。 学校での英語教育はリーディング・ライティング・ヒヤリングをベースにしています。これはつまり、知識のみの学習に陥っており、経験に相当するものが圧倒的に不足していることを意味します。料理の場合における「レシピを大量に覚えるが、実際に料理を作りはしない」という状況と同じです。 少し微妙な表現になりますが、これは決して勉強が足りない訳ではなく、勉強の仕方が間違っている訳でもありません。勉強のみに偏っている、勉強しかしていない、という点が問題なのです。そのため、さらに勉強量を増やしたり、勉強の仕方を変えてみたりしても、あまり効果は期待できません。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s8.jpg) 日本の英語教育の水準は決して低くはないでしょう。学生たちも充分真面目に勉強しています。ただ、それでも勉強するだけでは英語力は身に付き難いのです。勉強したら、それと同じ分だけ経験を積む必要があります。 では、その英語教育における経験とは何でしょうか。当然ながら、それはコミュニケーションです。 経験と言うと「実技」と勘違いして、ヒヤリングを強化したりスピーチを取り入れるようなケースが少なくありませんが、それはむしろ知識に属します。知識とは単に文字情報を覚えることではありません。耳で覚えることも、発話して覚えることも、それは「覚え方」のバリエーションを増やしているだけです。五感をフルに使って勉強しても、それは知識です。 経験とは「何をどうやって覚えるか」ではありません。「覚えた内容を自分なりにどう使うか」という自発的アクションが必要になります。 ↓補足 意外かもしれませんが、そんな英語に比べればコンピュータのプログラミング言語の方が遥かに勉強しやすいと考えられます。 英語は世界の公用語、それに対してプログラミング言語は言語とは言ってもコンピュータ用のあまりにマニアックな言語です。人間の言葉ではありません。比較するまでもなく、英語の方が遥かに身近でしょう。人間の言葉なのだから当然英語の方が覚えやすいはずです。 しかし、それでも勉強という観点で考えた場合、プログラミング言語の方が勉強しやすいと考えられます。その理由が経験です。 英語における経験とはコミュニケーションですが、ではプログラミング言語における経験は何かと言えば、それは当然プログラミングです。 コミュニケーションには相手が必要であり、その時の相手によって話題も語彙も変わります。その多様性こそコミュニケーションの本質であり、その不確定さが難しさでもあります。つまり、自分の都合で好きなように練習を重ねることが困難であり、その上相手次第で結果も変わってしまうため練習の成果が曖昧でハッキリしません。自分が間違っているのか、それとも相手が間違っているのか、そんなことさえ簡単には分かりません。 一方、プログラミングに必要なのはパソコンだけであり、正しくプログラムを組めばどのパソコンでも場所も時間も問わず正しく機能します。つまり、いつでもどこでも何度でも練習が可能であり、その成果が分かりやすくハッキリ表示されます。エラーが表示されたら自分が間違えたのであり、それを見つけて修正すれば直ります。 このように、経験の積みやすさにおいて圧倒的な差があります。単に知識として捉えるならば、英語の方が身近で親しみやすく勉強しやすいでしょう。しかし、経験という観点を加えるとプログラミング言語の方が圧倒的に勉強しやすいのです。 ↑ここまで補足 話が長くなりましたが、料理・英語・プログラミング言語を例に挙げるだけでも、教育では知識と経験の両立が重要であることが再確認できるでしょう。この考え方を教育の両立モデルと呼びます。 「両立」の形 ここまで知識と経験を単に両立することだけに絞って述べてきましたが、ひと口に「両立」といっても様々な形があります。 その中で最も基本的なものが、資源が無いから教育?の中で挙げている強者の教育です。 強者の教育 強者の教育は「幼い内は、まずたくさん経験するべきだ。その経験を土台にして、その上に積み上げてこそ知識は活きる」という考え方をしています。 ・知識の理解には、その前提として経験が必要である = 経験を重視 ・経験と知識の最適なバランスは成長に伴って変化していく = 経年変化に注目 この2点が大きな特徴です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s11.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s12.jpg) 強者の教育を例に見ても分かるよう、ひと口に「両立」といっても、それはただ単に「両立させればいい」という訳ではありません。「両立のさせ方」においても様々な考え方があります。 サイクルモデル 「経験と知識の両立のさせ方」において、両者の連携に注目した考え方があります。それがサイクルモデルです。 両立と言うと、単純に「両方あればいい」と考えてしまいがちです。先程の料理を例にした場合で言えば、 「経験:実際に調理すること」+「知識:レシピや栄養について学ぶこと」=両立 と考えてしまうでしょう。 これは単純に言うと「経験:知識=1:1」という配分で、先ほど挙げた天秤のイメージ↓になります。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s9.jpg) しかし、教育はもっと遥かに複雑です。経験と知識の関係性を考慮していくと、教育の幅は飛躍的に広がっていきます。 ・たくさんの経験を整理して知識化し、今度はその知識を様々な形に応用して経験の幅を広げる。 ・これによって経験の絶対量が増えるので、さらに知識の精度が上がる。 ・高度な知識を得ることによって、さらに難易度の高い経験を積むことができるようになる。 このように経験と知識をしっかりと循環させると、思考の集束と拡散を繰り返すようになります。これをサイクルモデルと呼びます。簡単に言ってしまうと「1つの経験から100の知識を求め、それら1つ1つの知識からまたそれぞれ100の経験を生み出していく」という考え方です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s15.jpg) これも同じように料理を例にすると、 「料理を学ぶとは単に料理だけを学ぶことではない。例えばその過程で、栄養学、衛生や発酵などの細菌学、メタボなどの健康管理、食の安全性、遺伝子の組み替え、食育、世界の食文化と歴史、貧困問題、食料問題と戦争の関係、農業と環境汚染の関係、化粧品やバイオ燃料など他分野での活用など、実に様々なことについて考えることができる。単に料理を通すだけでも、そこから学べることは膨大な量に及ぶのである。個人で料理を作っている時に、わざわざ戦争について考えている人はいないだろう。個人においては料理からは料理しか学ばない。それが普通である。しかし、料理という1つの経験から100の好奇心を引き出すことも簡単なことなのだ。それを実践するのが教育である」 となります。 1つ経験から100の知識を生み出すことも、1つの知識から100の経験を生むことも簡単です。また反対に、100の経験が1つの知識をより強固なものにし、100の知識が集まって初めて生まれるような貴重な経験もあります。このように経験と知識は「1 100」や「100 1」といった無茶苦茶な割合でも簡単に両立させることができます。重要なのは、単に「経験と知識を両立させること」ではなく、「両立させることによって、そこからさらに興味関心を広げることができる」という点にあります。 これはしっかり意識していないとなかなかできません。 ただ何となく行動しているだけでは、何度繰り返しても経験はただの経験のままで終わってしまいます。ただ何となく勉強しているだけでは、どんなに高度な知識もただの知識のままで終わってしまいます。それはあまりに勿体無いことだと言えるでしょう。 しかし、これは簡単改善することができます。自分なりにほんの少し意識するだけです。それだけで簡単に改善ができます。 いくら真面目に勉強しても、例えば、 「授業で夏目漱石について習った→しっかり覚えた」 で、終わりでは教育にはなりません。 反対に、どんなに授業がつまらなくても 「夏目漱石について習った→でも面白くなかった→面白い小説を探してみる→何となく読んでみた小説が面白くて、その中で描かれてた題材にも興味が沸いた」 と繋がっていけば、そこから得られるものはたくさんあります。 学ぶこと自体が重要なのではなく、学んだことをそこからどのように発展させていくかという点が重要だと意識するだけで、教育の価値は大幅に変わっていきます。 「ドラえもん」がきっかけで科学に興味を持った。 「ガンダム」がきっかけで宇宙が好きになった。 「スラムダンク」がきっかけでバスケを始めた。 意外かもしれませんが、教育はこれらと非常によく似ています。 これらはあくまできっかけに過ぎず、発展やサポートに結びついていないので、教育とは呼びにくいですが、 歴史を学んだだけ、 科学を学んだだけ、 修学旅行に行っただけ、 充実した学生生活を送っただけ、 といったように単に学校を卒業しただけという状況に比べたら、むしろずっと教育的です。 「何を学んだか」ではなく、 「学んだことから何を考えるか」が重要なのです。 このように経験と知識をしっかり循環させていくと、思考の範囲を飛躍的に広げ、さらにそれぞれを相互に結び付けて多角的に考えることができるようになります。これがサイクルモデルの考え方です。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s16.jpg) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (s18.jpg) 例題:「時間」とは何ですか? いきなり「時間とは何か」と問われても「時間は時間だ。それ以外に答えようが無い」と感じるでしょう。 それは決して間違いではありません。 しかし、落ち着いて考えれば「時間」にも様々な捉え方があるとすぐに気付くはずです。 例えば、次のようなものが挙げられます。 物理的な時間:客観的に計測される時間。相対性理論などの話に繋がる。 生物的な時間:寿命の長さが違う生物にとって、それぞれの時間の重みは違う。 心理的な時間:楽しい時と辛い時では時間の感じ方が違う。気持ちの問題。 ただ単に「時間は時間だ」と捉えているだけでは、心理的な時間などは簡単に見落としてしまいます。 それでは「遅刻癖を直す方法」などのテーマについて考えることができません。 このように「時間」という1つの概念に対しても様々な捉え方ができます。 「時間」とは何か、それが分からない人はいないでしょうが、 単に分かっているだけと、複合的に捉えるとでは、考える次元が違ってきます。 学校と塾の違い 話しが遠回りになりましたが、学校と塾の決定的な違いはここにあります。 塾 :知識のみに一点特化して学力UP 学校:サイクルモデルを採用して人格を育成 塾は知識に一点特化 ⇒ テスト対策 知識と経験の両立させれば様々な思考過程が生じますが、塾はあえて知識だけに特化した教育形態を採用しています。何故なら知識だけが特出して学力テストや受験などに直接影響するからです。 どんなテストでも、それを行う際に絶対に必要なものがあります。それは「正解」です。正解が無い問題でテストしても採点することができませんし、採点基準が曖昧で試験監督の気分次第で結果が変わるようではテストになりません。つまり、テストとは純粋に「正解を導き出す力」を公平に問うものでなくてはならないのです。 そんなテストによって成績が左右され、受験によって人生までもが大きく左右されるのなら、そのテスト対策として正解を効率よく学ぶための勉強が必要になるのは当然でしょう。そのニーズに応えているのが塾です。だから、塾の方が成績アップには効率的なのです。 要はテストで良い点を採ることを第一目標にした教育形態であり、この場合の学力は「受験学力」や「ペーパーテスト学力」などと呼ばれます。 学校は全体を平均的に ⇒ 単なる「学力」ではなく、考える力・生きる力を育てる これに対して、学校教育は知識だけに特化せず、知識と経験を両立させてそこから生まれる様々な思考過程を丸ごと全部重視しています。現在の教育現場ではこれがどれほど意識されているか疑問もありますが、少なくとも理念の上ではサイクルモデルを採用しています。 ただ知っているだけと、理解して感動して挑戦することでは教育の奥行きや厚みが違うでしょう。テストで良い点数を採ることと、しっかり内容を理解していることでは意味がまるで違います。この時、後者を重視してこそ教育だと言えます。テストの点数などのように単純に数値化することができない「総合的な知性」を育成することが学校教育の目的なのです。 この場合の学力は、「応用力」や「考える力」などを経て、最終的に「生きる力」という呼び方に統合されています。当然ながらテストで点数を競えば塾に劣るという欠点がありますが、反対に例えば友達と意見を出し合って協力して考えるなど、点数で競わない教育においては圧倒的なアドバンテージを誇ります。 塾が「正解」を効率よく学ぶのに対して、学校教育が本領を発揮するのはその正反対に位置する「正解が無い質問」です。その代表例は「命の授業」でしょう。簡単な例として、以下のような問題が挙げられます。 あなたは消防士です。 火事現場のマンションに到着しました。 既に火が建物全体に回っているため、救助に回る時間は僅かしかありません。 確認できた限りでは、建物の西側で2名、東側で5名の住人が助けを求めて待っています。 しかし、火の勢いから考えて、西側か東側のどちらかしか助けられません。 あなたなら、どちらに救助に向かいますか? これにどのように答えるべきでしょうか。 単純に人数が多いからという理由で、東側の5名を救助する方が正しいのか? それはつまり、命の大切さとは人数に比例するということなのか? では、もし西側の2名が自分の家族だとしても、それでも変わらずに東側に向かうだろうか? 他人よりも自分の家族を大切に思って何がいけないのだろうか? このように、この質問からは「命は大切です」と述べるだけでは済まない疑問がいくらでも出てきます。 ここから分かるように、単に「命は大切です」と教えるだけなら極めて簡単ですが、「命は大切である、とはどういうことか?」を考えることは決して簡単ではありません。命は大切であるという前提に立った上でも、では「戦争についてどう思うか」「死刑制度についてどう思うか」「脳死については」「自己犠牲については」と、そこから考えるべき内容は多岐に渡ります。そして、そのどの問いにも正解はありません。 人類が何度も戦争を繰り返してきたのは、戦争することが正しかったからではありません。積極的に参加したにせよ、仕方無かったにせよ、どんな形であれ結果的に「戦争に賛同した者」が多かったからです。日本に死刑制度があるのは、死刑制度が正しいからではありません。賛同者が多いからです。脳死についても同じです。 「何が正しいか」を学ぶだけでは、このような点を考えることができません。「何が正しいか分からなくても、その中で自分は何を正しいと信じるのか。どんな意見に賛同するのか」ということまで考える力が総合的な知性であり、それを育ててこそ教育だと考えているのが学校教育です。 極端な言い方をすると、「学校とは勉強するところだ」と考えている程度の学校には存在意義は無いと言えるでしょう。勉強するだけなら塾でも自宅学習でも充分です。勉強することが重要なのではなく、勉強することによってそこからどのように考え方を発展させていくことができるかが重要なのです。 ・国語の授業から国語を学ぶ ・数学の授業から数学を学ぶ ・音楽の授業で音楽を学ぶ ・部活で様々な経験を積む ・文化祭や修学旅行などで思い出を作る 単純な両立モデルの場合だと、これで知識と経験を両立させているので問題無いことになります。 しかし、サイクルモデルを採用する学校教育の場合では、これはまだ「教育」ではありません。ここからが教育の本題です。 教育は決して万能ではありません。僅か数年しかない教育期間で教えられることには限界があります。だからこそ「できるだけ多くのことをしっかり教えたい」と考えがちですが、どんなに内容を充実させても「教えられることを教える」だけでは「教育」とは言えません。 これでは100のことを教わっても、その100までしか学べないでしょう。子供たちがどんなに努力しても、教わること以上のことを学ぶことができないのです。 学校教育の考え方では「教えられることは限られているかもしれないが、それらを通して様々なことを考えられるようになる」というところまで繋ぐことが非常に重要になります。 国語を学ぶ理由は、漢字や熟語を覚えることや、古文や漢文を読めるようになることではありません。国語を学ぶことを通して新たな考え方を獲得することにあります。同じように数学を学んで得た視点、音楽から得た視点、部活で得た視点、文化祭で得た視点、それら様々な視点を複合することで世界をより深く理解することができるようになります。教わったことを基にして、教わってないことも考えられるようになります。これが教育です。 この場合、たとえ学校で教わる内容が100に満たなくても、それを通して見えてくる世界はその100倍を悠に超えます。 例えば、高校までの授業では経済学や法学、医学や建築学などの専門的な学問は学びません。単純な両立モデルの場合、ここで「まだ教わってないから分からない」と当然のように考えてしまいます。 しかし、たとえ直接的に教わっていなくても、「国語の授業を通して法律に興味を持った」「バスケ部での練習を通して医学の重要性を感じた」などといったように、一見無関係に見えるものでも縦横無尽に繋げていくことが可能です。こうして様々な事象・事柄を横断的に捉えていると、大学に入って初めて専門的な学問を学ぶ際にも、「初めてだから、よく分からない」なんてことはなく、「改めて考えてみれば、思い当たることが結構ある」と感じることができるようになります。高校までの経験と知識は、既に専門的な学問を学ぶ大切な土台となっているのです。 学校教育において最も大切な要素 学校教育の特徴はどこにあるのか。それが分かると学校における最も大切な要素が何かも分かってきます。子供の成長において最も有意義なものとは何でしょう。優秀で優しい先生がいれば、子供たちは安心して成長するのでしょうか。それとも、図書館に本が充実していたり、理科の実験教材が充実していたりと、学びやすい環境を整えれば子供たちは自ら成長していくのでしょうか。学校において大切な要素は非常にたくさんあります。
https://w.atwiki.jp/welovejpop/pages/633.html
テーマになっているアーティストの曲の中からマイベスト10を作って、投票してください。 集計はしません。 締め切りもありません。 みんなで出し合って楽しむだけです。 ページの一番下のコメントフォームから投票してください。 今回のテーマは、 スピッツ です。 creator-spitz.jpg 1.猫になりたい 2.ロビンソン 3.チェリー 4,君が思い出になる前に 5.涙がキラリ☆ 6.空も飛べるはず 7.魔女旅に出る 8.青い車 9.スピカ 10.楓 -- リスト係 (2013-05-30 00 50 32) 1.ロビンソン 2.空も飛べるはず 3.楓 4.運命の人 5.冷たい頬 6.青い車 7.チェリー 8.猫になりたい 9.つぐみ 10.愛のしるし -- ミツ (2013-05-30 01 02 36) 1.ロビンソン 2.渚 3.青い車 4.楓 5.正夢 6.君は太陽 7.ヒバリのこころ 8.空も飛べるはず 9.シロクマ 10.夜を駆ける 2~10は順位あまり関係ないです。 -- じょん・すみす (2013-06-01 00 15 20) 1.ロビンソン 2.渚 3.歩き出せ、クローバー 4.愛のことば 5.ハヤテ 6.冷たい頬 7.夜を駆ける 8.サンシャイン 9.俺のすべて 10.虹を越えて 次点 Y センチメンタル ありふれた人生 群青 空も飛べるはず 青い車 スパイダー ほのほ ★2000年以降も好きだけど、上位は90年代が多くなってしまう。 -- リヴィエラブルー (2013-06-16 21 52 32) 1.スカーレット 2.君が思い出になる前に 3.ロビンソン 4.渚 5.ありふれた人生 6.漣 7.チェリー 8.プール 9.若葉 10.夜を駆ける 遅れましたがやらせていただきました! -- マー (2013-07-10 22 49 20) 1.君が思い出になる前に 2.流れ星 3.青い車 4.空も飛べるはず 5.ホタル 6.楓 7.夢じゃない(Remix) 8.猫になりたい 9.スターゲイザー 10.水色の街 ええ、シングル曲ばっかりです -- ADATZ (2014-01-10 00 18 09) 名前 コメント