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登録日:2020/01/17 Fri 22 10 00 更新日:2024/03/12 Tue 23 35 48NEW! 所要時間:約 25 分で読めます ▽タグ一覧 バウ レッドウォーリア 一匹狼 三国志 三国演義 世界史 中国史 元ヤン 名門 四番目の男 庶子 曹操 汝南袁氏 盟主 群雄 華北 袁家 袁紹 袁術 金髪縦ロール 袁紹とは、後漢末期の武将・群雄。 北方圏の覇者となり、あの曹操をして正面から打倒しうる存在でありえた、おそらく最大にして最後の男。 一般的な歴史評価は低いものの、覇者としての規模や力量は劉備や孫権よりも上と評されることさえある、三国志の「四番目の男」である。 【生涯】◆出生 ◆反董卓連合 ◆河北の雄 ◆曹操との対立 ◆官渡の戦い ◆晩年 【人物】◆勢力拡張 ◆統治能力 ◆官渡決戦 ◆臣下について ◆献帝拒絶について 【三国演義の袁紹】 【各作品】 【生涯】 ◆出生 後漢中期~後期を代表する名門豪族、「四世三公」汝南袁氏の出身。 生き馬の目を抜く官界において、四代に渡って位人臣を極めた、実力・財力・組織力を備えた実力派の名門の出身である。 ちなみに、汝南郡汝陽県は現在の河南省は周口市の商水県だが、その東隣の項城市からは二千年近くのちに袁世凱が産まれる。 というといかにもボンボンの御曹司と思われるが、実際の袁紹はかなり恵まれない立場にあった。 まず、袁紹の父親がはっきりしない。 袁紹の父親の世代は(有名なのは)袁成・袁逢・袁隗の三人である。(汝南袁家については袁術の項目に) このうち、最初は袁家の当主の座は袁成が継ぐはずだったが、彼が早世したため、袁逢が当主となった。 しかし袁紹は、袁成の息子という説と、袁逢の庶子だったのをあとで袁成の養子になったという説がある。 前者の場合「本来当主になるはずだった血統の忘れ形見」、後者の場合「嫡流の兄弟を差し置いて当主になりかねない立場になった泥棒猫」、となり、 どう転んでも御家騒動を引き起こす立場である。 しかも、袁紹の母親が「卑しい身分」だったことだけは確定している。ある話では母親を「婢女」と表現して「袁家の恥・袁紹の罪」などと書かれたことさえある。 父親がはっきりせず、しかもどっちにしても危うい立場、かつ母親の身分が奴隷並み、となると、貴族社会ではかなりのハンデを背負っていたはずだ。 生まれた年すらはっきりしないのもこれが一因であろう。 とくに、袁逢の正室の息子で、自分にとっては異母弟であり従弟になる袁術からはかなり憎まれていた。 そうしたこともあって、袁紹は一族のなかでかなり浮いていた。市井に交じって遊侠を好み、ヤンチャをしていたこともあったという。 曹操ともこのころからつきあいがあり、信憑性はともかく「一緒に花嫁を奪った」話は語り草。 ただ、そうした愚連隊のなかにあっても、袁紹は名門の気品と名門らしからぬ謙虚さを忘れず、威厳と闊達さを併せ持ち、多くのひとから慕われたという。 春秋戦国時代の孟嘗君もそうだが、幼少期に苦労をしたために人情に通じるようになり、それによって人心収攬の術を磨いていったのかもしれない。 曹操と親しくなったのも、かたや「宦官の孫」、かたや「婢女の息子」という出生のレッテルに苦しんだもの同士、シンパシーを感じたからか。 二十歳のころには県令を勤め、評価も高かったのだが、母の死とその服喪を期に退役。 しかも、母の喪が済むと今度は袁成の服喪、それが済んでもなお謹慎、となぜか動かなくなる。 あの黄巾の乱にすらも沈黙を通し、徹底して後漢王朝と距離をとっていた。 ただ、専横を極めた宦官の十常侍が不審なものを感じたことや、袁隗が激怒したという話、謹慎していながら侠客仲間と深い契りを結ぶなどの逸話から、ただ引き籠もっていたわけではない様子。独自の人脈を作っていたのだろうか。 結局、袁隗の提案から、時の権力者・何進の幕僚に納まり、その後は急速に昇進。 188年には曹操や淳于瓊らとともに「西園八校尉」の一角に座っている。 ◆反董卓連合 189年に霊帝が没し、帝位を巡り権力闘争が起きると、袁紹たちは上司である何進の側について宦官と争うことになる。 袁紹は何進の幕僚として暗躍し、各地の軍閥を呼び寄せて、その軍事力で宦官たちを威圧。 何進が宦官たちに暗殺されると、袁紹はこれをすぐさま「宦官の謀反」として糾弾し、袁術・曹操とともに宮中に突撃。 問答無用で宦官とそれに阿る官僚を虐殺し、ついに長年に渡る宦官の跋扈に終止符を打った。 ところが、宦官が最後の悪足掻きで皇太子二人を連れ出してしまい、それがたまたま入朝しにきた董卓の軍団に拾われたことで、 一連の権力闘争は董卓の一人勝ちとなる。 袁紹たちは董卓への反発から、首都を脱走して冀州にて挙兵。袁紹は「反董卓連合」の盟主となった。 ところで袁紹は、故郷の汝南には向かわず、地縁のない冀州にて挙兵している。 これは董卓が袁紹を追討せず懐柔しようとし、渤海郡太守に任命したからである(後漢代の渤海郡は冀州に属していた)。挙兵したのはその任命を受けた後。 しかし出奔から懐柔目的の太守任命、そして挙兵まで三カ月という短期間、 渤海郡自体中堅程度の規模の郡であること、 更には河北での地縁もないという状態では、兵力を作ることはできず、盟主でありながら軍事力=統率力が弱かった。 というか、統率力がないからこそ諸侯に担がれたと見ることもできる。 他諸侯は袁紹よりも格上で実力を持っていた州牧・州刺史だったり(そもそも袁紹の渤海郡自体が冀州の一郡に過ぎず、連合には冀州牧の韓馥も参加している)、 袁紹と同格程度の郡太守・諸侯相(中には渤海郡よりも大きい郡の太守もいた)であったため、 少なくとも連合内で袁紹が実力で抜きん出ていたという事はまずあり得ない。 曹操や張邈など軍事力を持った昔馴染みの盟友はいたものの、曹操(+張邈の援軍)がいきなり徐栄に撃破され兵を失ったため、袁紹の統率力はあっさり限界に達する。 他方、ライバルの袁術は孫堅を支えつつ南方で雄進し、董卓は長安に逃亡。 董卓はもともと涼州を縄張りにしており、長安遷都は本拠地への接近・戦力増強を意味する。 他方、連合にとって長安は目標として遠すぎ、攻撃限界に達して追撃は不可能に。 そのうえ、もとより統率力のなかった連合の分裂はますます悪化。諸侯同士の殺し合いにまで発展して、自然消滅した。 袁紹はそのまま冀州に戻り、腰を据えて勢力拡充に勤しむようになる。 ◆河北の雄 連合を崩壊させた利害闘争がひと段落したところ、天下は大きく分けて袁紹・曹操・張邈・劉表など袁紹グループと袁術・孫堅・陶謙・公孫瓚など袁術グループに分裂していた。 ちなみに、このころの劉備・関羽・張飛は公孫瓚の遊軍といったところで、間接的に袁術グループに属した。 初手は袁術グループが大規模な攻勢を仕掛けたものの、劉表が孫堅を討ち取ったのを皮切りに、袁紹は公孫瓚を、曹操は陶謙を各個に撃破。 盟主である袁術も、袁紹と曹操のタッグが打ち負かし、戦況は袁紹側がリードした。 袁紹自身も河北にて飛躍。 上述のように袁紹は河北に地縁がなく、人脈も勢力も持たなかったため、かなり厳しいスタートになったが、 彼は策略を巡らせて冀州を奪取、反袁紹派だった冀州の幕僚・豪族たちすら口説き落として、冀州に盤石の体制を築き上げた。 当初は乏しかった軍事力も、在地の武将たちを抜擢・再編することで獲得。 百戦錬磨の猛将・公孫瓚、軍勢百万と言われた黒山賊、孔子の末裔・孔融など、錚々たるメンツを打ち破り、 また幽州に人望のある劉虞の遺族を保護する、異民族勢力を取り込むなどして剛柔合わせた政策をとり、 十年たらずのあいだに冀州のみならず、幽州・并州・青州を版図に収めた。 全盛期の兵力は十数万を数え、名実ともに当時の中国における最大最強の軍閥にのし上がる。 外交面では、曹操を陰に陽に支援。 曹操を南方の防波堤に利用するという打算もあるにせよ、陳宮の寝返り・呂布の猛攻など曹操の苦境を助けたのは間違いなく袁紹であった。 もちろん、曹操も袁紹を助けて袁術・呂布ら強敵と戦っていたのであり、この時点では両人はまさにパートナーだった。 ◆曹操との対立 しかし、やがて袁紹と曹操が周辺の敵をあらかた駆逐すると、その勢力は必然として、お互いに向かざるを得なくなった。 初めの亀裂は献帝の処遇だった。 長安からほうぼうのていで中原に逃げてきた献帝と朝臣たちを、迎え入れるか否かで、袁紹・曹操はともに悩んだ。 確かに献帝を擁立すれば皇帝の権威と大義名分を得られるが、一棲両雄の禁を犯すことになるし、権威と権力が分裂する危険を孕む(*1)。 まだ迎える前の時点でさえ、臣下のあいだで意見の対立が生じたぐらいである。 謀臣のひとり郭図について「賛成した」説と「反対した」説があることからも、混迷がうかがえる。 結局、袁紹は献帝を拒絶したのだが、曹操が擁立したため、権威において曹操が袁紹の上に立ってしまう。 この時点で曹操は袁紹と戦うつもりはなく、袁紹を大将軍に、自らは格下の車騎将軍を名乗ることで納まったが、いずれ火を吹くことは明らかだった。 そして199年、南の袁術と北の公孫瓚と東の呂布が相次いで死亡し、天下はついに袁紹と曹操の二大巨頭の決戦情勢となっていた。 どうやら袁紹は199年時点では曹操と戦うつもりはなかったようで、劉備を曹操が攻撃した際、田豊の出兵進言を拒否している。 「子供(*2)の病気」を理由とされるが、実際には199年とは幽州と并州(*3)を併合した年で、後方の安定に不安があったからだろう。 実際、199年に公孫瓚の息子・公孫続に大軍を貸した黒山賊の張燕が、いまだ勢力を残していたし、 公孫瓚が敗死したのが199年の3月で、南征の意志を固めて出陣したのが200年の2月のため、新支配地の安定化に時間を取ったと見ることができる。 しかし200年2月には、ついに総力を挙げて出陣。いわゆる「官渡の戦い」の幕が上がった。 ◆官渡の戦い 序盤は、先遣隊であった顔良・文醜が相次いで戦死したものの、袁紹直属の本隊は兵力十万以上という大軍団で正面から圧倒。 数で大きく劣る曹操軍は素早く退却し、黄河の支流が激しく入り組んだ難所、官渡一帯に展開する。 これに対して袁紹は、麾下全軍の総力を結集した猛攻で防衛線を次々突破。曹操は最終防衛ラインと言うべき官渡の砦にまで押し込まれた。 袁紹軍が発射する矢弾は雨のように降り注ぎ、曹操軍の兵は盾をかぶらなければ外を歩けなかったとまで言われる。 しかし曹操もまた必死の奮闘を繰り広げた。 袁紹が櫓をつくって射掛ければ、曹操は発石車を投入して反撃。 ならばと地下道を掘り進める袁紹軍に、曹操軍は急きょ塹壕を掘ってこれを潰す。 さらに袁紹は官渡戦線のみならず、孫策や劉表に北上を唆したり、故郷・汝南に劉備を派遣して挙兵させたりと、外交面でも活発に攻勢を掛けた。 孫策は挙兵直前に暗殺されたものの、劉備ら汝南の別働隊は逃走と来襲を繰り返し、曹操の戦力を確実に削っていた。 だが曹操もまた戦線を死守し、やがて戦況は官渡水を境として膠着化、長期戦にもつれ込む。 袁紹軍は遠征軍の常で補給が厳しく、烏巣に大規模な補給基地を作っていた。 ところがある日、袁紹の最古参の腹心だった許攸が、曹操に寝返ってしまった。 許攸は頭こそ切れるが曲者で(*4)、官渡で献策が度々遠ざけられることに不満を抱いていた上、審配から親族の汚職を弾劾され、主君を見限って逃げたのである。 最高幹部の一人だった許攸のタレコミにより、烏巣こそが最重要の補給拠点であると確信した曹操は、みずから精鋭を率いて烏巣を強襲。 袁紹も事前に淳于瓊の部隊を警護につけていた。彼もまた旗揚げからの古参であり、激しい反撃を展開。一時は曹操自身も危ういほどになった。 更には曹操軍本隊の手薄を察知した袁紹軍は数の利を活かし、烏巣の救援に快速の騎兵隊を送るとともに、手薄になった曹操本陣も重装歩兵隊に急襲させ、関ヶ原もかくやという急所の一戦が巻き起こる。 しかし、この機を逃しては勝ち目はないと確信していた曹操も火を吹くように攻撃。味方から「敵援軍が来ます! 兵を分けましょう!」と言われても「やかましい! 来てから言え!」と怒鳴りつけて攻撃に兵力を傾注し、ついに淳于瓊らを撃破。烏巣の食料をすべて焼き払ってしまった。 さらに、烏巣救援と同時に派遣していた、官渡攻撃部隊はそのまま曹軍に投降してしまう。 こちらの指揮官は張郃だったが、彼は烏巣救援を主張したのになぜか官渡攻撃を命じられる。 張郃は後々曹操軍で大活躍する名将であり、顔良・文醜を既に失っている袁紹としては重要な任務にその実力序列のまま優秀な大将を派遣したつもりだったのかもしれない。 しかし袁紹軍に他に優秀な将軍がいなかったとも思われず、その中で作戦に反対していた者を大将にするのは流石に悪手であり、張郃はいずれ責任を負わされると感じて投降したという。 + ……ただ…… ……ただ「作戦に反対していた者をその作戦の大将にする」のはどう考えても不合理なことと、この辺を証言できるのが当の張郃たちしかいない(袁紹や郭図側の証言がない)ということ、それに史書が編纂される時期の魏国における張郃の超高い権威を考えると、 張郃自身が本陣奇襲を進言して、そのまま出撃したが、突破できなかったため「袁紹の采配を見限って投降しました」と自己弁護したのが、そのまま魏国に伝わって、史書に記録された……とも考えられる。 また、この張郃の投降劇については「武帝紀」「袁紹伝」と「張郃伝」で時間軸に矛盾がみられる。これは裴松之も指摘している。 (「武帝紀」「袁紹伝」「荀攸伝」では「まず張郃らが曹操に投降し、その後袁紹本陣も敗れた」とするが、「張郃伝」では「袁紹本陣が先に崩れ、そのあと郭図の讒言があって、曹操に投降した」としている) 別に、史書に相矛盾する記録があるのは常のことだが、張郃が降伏する過程で何があったのかは歴史書からは断定しづらいところがある。 史官たちの立場で考えれば、魏晋の重鎮である張郃の権威や、その遺族を向こうに回してまで、真実を残す気にはなれなかったのかもしれない。 とにかく、食料・兵站を失い、かつまた主力級の将軍を多く失った袁紹軍は敗北を認めざるを得ず、ついに退却。 しかも追撃を掛けた曹操軍によって多くの兵が失われ、逃げ遅れた沮授が捕縛されるなど、さらなる傷を負った。 ここに、官渡の戦いは袁紹の敗北で終わったのである。 ただ敗退しただけならばともかく、最古参の大幹部だった許攸を初め、淳于瓊・顔良・文醜・張郃・高覧といった軍部の重鎮や、 冀州の大豪族で政治面を支えていた沮授を失った痛手はあまりにも大きかった。 また、この敗戦の余波で審配への讒言、田豊の処刑なども続き、河北の袁紹支配は大きく動揺。権力のゆらぎを見て取った各地の小豪族たちが反乱を繰り返した。 ◆晩年 しかし袁紹は多くの幹部を失いながらも短期間で組織を再建。 領内で起きた多数の反乱も瞬く間に鎮圧して、敗戦で揺らいだ政権の威信を立て直すことに成功する。 また、これと平行して官渡決戦の翌年、再び曹操が袁紹の倉亭の軍を襲って「倉亭の戦い」が起きている。 この倉亭の戦い、いちおう曹操が勝利したとされ、演義でも官渡には及ばないもののそれなりに重要な戦いとして描かれている。 しかし正史においては官渡と違って記述がほぼなく、実際は守備隊が一部撃破されたと言った程度のものだったようだ。 その意味では、官渡敗戦の後も、曹操は袁紹を正面から勝つのは不可能な、ちょっかいを出すのが精一杯の存在だったといえる。実際、曹操は倉亭で「勝利」を収めながらも攻勢に出ていないし、袁紹はその「敗残兵」をまとめて自領内の反乱を平定している。 大規模敗戦直後の戦争で自領土を守り抜いたという意味では、倉亭の戦いを「袁紹が戦略的な勝利を収めた」と強弁することも可能である。 そして袁紹は、その「勝利」を「実績」として、組織を立て直したと思われる。 「河北に袁紹、いまだ健在なり」の声は、敗戦で動揺した河北を締め直し政権を立て直す、政治的な資産となったはずである。 しかし袁紹はほどなくして病に掛かり、西暦202年の6月28日、吐血して没してしまう。 ただでさえ政権が大きく動揺した直後、河北を一手に束ねていたカリスマが急逝した衝撃はあまりにも大きく、 以後河北の袁家は坂を転がり落ちるように衰退していく。 【人物】 一般には「見かけだけは立派だが、優柔不断で打たれ弱い、名門出の青っちょろいボンボン」という扱いで、かなり罵倒されている。 しかし、実際の袁紹の行動をたぐると、むしろアグレッシブで決断力に優れた、行動力にあふれたカリスマ経営者だったといえる。 まず河北に割拠したことからして尋常ではない。 というのも、もともと彼の故郷は予州汝南郡であり、中国全体ではやや南より。冀州とはかなりの距離がある。 加えて、袁紹には血族を引き連れていた描写がない。 彼の政権において、袁紹の「一族」といえるのは三人の息子のほかは甥が一人だけで、 曹操における夏侯惇や曹仁、孫家における孫賁や孫静、袁術における袁胤などのような組織を支える同世代の親族がまったくいない。 つまり河北袁紹政権は、「名門袁家」の血縁や地縁がまったく及ばない、純粋に「袁紹の力」だけで運営された政権だったということである。 親族衆を中心とした統治は、勢力を集めやすく、結束を固めやすいというメリットがある。 なにせ血族である。昔からのつきあいがあるし、土地のつながりも強いし、敵に寝返る可能性も低い。 もし敵対勢力に寝返っても「やっぱりあいつの帰属先は実家だろう」と白い目で見られ続けるのである。よほどの事態がない限り、血族が敵に寝返ることはない。 また名門一族なら、子女には生まれた時から相応の学を身につけさせられる。大成する人材は限られていても、無難な人材程度は継続供給できる。 曹操が覇者としての地位を確立できたのも、優れた人材が一族に多かったのも一因だ。 しかしデメリットもある。最たるものは「当主の乗っ取り」だろう。なにせ血族である。 なにかしら血のつながりがあれば、「戦死された殿のご子息はまだ幼い、これからは一族の年長である私が束ねる」「殿もお年です。隠居なさって〇〇に当主を譲られては」となっても、そんなにおかしくはない。 実際、袁術の死後に一派を率いたのは息子の袁燿ではなく従弟の袁胤だし、馬超は息子がいるのに後事を馬岱に託した。 孫策でさえ、当主の座を従兄の孫賁と争っていた形跡がある。日本史ならば武田勝頼が、一門衆によって破滅した例だ。 曹操陣営の中では一族による乗っ取りが起きなかったが、曹操自身がカリスマで比較的長生きしており、死ぬまでに後継者の権力を確立できていたことと無関係ではないだろう。 血族は血族そのものを裏切りはしないが、血族の内部で裏切りうる。 しかし袁紹の周辺には子と甥しか一族がいない。 反董卓連合軍結成の際に中央にいた袁一族が董卓に族滅させられているのが最大の原因だろうが、袁家ほどの名族であれば相応の生存者はいたと思われる。実際袁術の周囲には袁一族を慕う者もやってきていたようだ。 袁紹が天下を握りそうな情勢にもかかわらず周囲に親族がいないとなると、近寄ってくる一族を故意に排除していたか、仮に保護しても何の力も与えず飼い殺しにしていたかもしれない。 (ほぼ)族滅状態である以上一族に生存者はいたとしても大した力はなく、そんなのを吸収しても勢力拡大にはつながらないし、却って紛争の種になりかねないからだ。(*5) それだけに、袁紹には出自を卑しんで足を引っ張り、隙あらば取って代わろうと考える、やっかいな親戚は組織にいなかった。 血族から自由になり、自分の能力とカリスマだけで権力を握れたのだ。 こうしたタイプは、三国志なら劉備や劉表が該当する。 劉備は東北の幽州の出身だが、最後は西南の益州に割拠した。現地に地縁など皆無であるし、めぼしい親族など養子くらいだ。 劉表は由緒正しい皇族だが、荊州に派遣されたときは単身赴任同然であった。 この手の君主は、自前の権力に乏しいから、へたすると実権を失ってしまう。 劉表は赴任当初、地元豪族に阻まれて荊州に入ることすらできず、そのあと蔡瑁たちに擁立されることでやっと荊州支配ができたが、 今度は彼らの傀儡となり、後継者は蔡瑁に擁立され、すぐに曹操に降伏した。 しかし逆に、劉備や劉焉のように智恵と気力さえあれば、地元豪族を束ねて活動できる。 それに権力を簒奪しようという血族がほとんどいないため、クーデターは起きにくい。 あまり聡明でない劉禅のもとでも、魏や呉のような皇族由来の政変がほとんど起きなかったのは、皇族そのものが少なく管理しやすかったというのも一因だ。 袁紹の場合、出自が卑しく、とくに袁術からは散々敵視されて生きてきた。 恐らくはその経験から、袁紹はあえて「名門袁家」を頼りとせず、自分の智恵と気力、カリスマだけで決起しようとしたのだろう。 つまり袁紹は「名門出身の御曹司」とは程遠い、「独立志向の一匹狼」だったのだ。 ◆勢力拡張 旗揚げ直後に起きた「反董卓連合」では、袁紹は盟主でありながらリーダーシップを発揮できなかった。曹操からも非難されている。 だがこれは河北逃亡から三カ月後のことであり、地縁も血縁も時間もなかった袁紹には兵を集める余裕すらなく、 主導権云々以前に「権力」そのものがなかったからである。 袁紹に決断力があろうとなかろうと、連合を動かすことは不可能だったし、だからこそ祭り上げられたとも言える。 しかしその後、袁紹は「根無し草」にもかかわらず驚異的な飛躍を見せた。 まず、策略を巡らせて冀州を制圧すると、冀州の豪族たちを瞬く間に統率。 袁紹の冀州入りに反対していた沮授たちでさえ組織に組み込み、君臨してみせた。 先述の劉表もそうだが、権力を持たない支配者は、権力を握る地元有力者の傀儡になりかねない。 袁紹は自前の軍事力はほぼない。にもかかわらず冀州の権力を完全に掌握できたのは、 単なる「出自の尊さ」だけではなく、類希なる智恵とカリスマ、政略センスがあってこそである。 加えてその後、袁紹は十年間で冀州のみならず、幽州・并州・青州に進出し、これらを統一してのけた。 「三国志」の群雄は、実のところあまり勢力拡張には熱心でなかった。一州全体まで勢力を広げるとそこで固定し、あとは守勢に回る、というパターンがほとんどだ。 群雄個人に拡張意欲があっても、実権を握る在地豪族の大多数に拡張の意欲がなければ絵に描いた餅になってしまうし、在地豪族は迂遠な天下統一より自領土の保全に関心が強く下手な拡張は負担が大きいと考えるからだろう。 劉表亡き後の荊州劉氏のように、例えトップの群雄が破れても、新たな主が現れたらさっさとそちらにつけば良い豪族は、併呑されることがさほどリスクではない。 それだけに、外征をするならば在地豪族の協力を取り付けられるだけの群雄の意欲・気力・力量は本当に桁外れなものが要求される。 一州でとどまらず、さらに進撃しようとしたのは、袁紹のほかは曹操、孫策&孫権兄弟、劉備、諸葛亮、姜維、ぐらいのものである(*6)。 しかし一地方政権にとどまるだけでは決して状況は好転しない。むしろ積極的に統一しようとする勢力が現れた場合、守勢に回り続ければいずれは滅ぼされてしまう。 諸葛亮や姜維の北伐は「国力の浪費」と批判されやすいが、「守勢に回る」というのは国力の回復どころか、主導権の喪失、ひいては戦略の放棄につながる。 戦術がいかに巧みでも、対処療法では駄目なのだ。 ところで袁紹の場合、彼は常にイニシアティブを取ろうとしてきた。 冀州制圧のためにさまざまな手を打ち、次は四方に猛攻を掛けて数年で河北を統一、さらには曹操よりも先に南征を開始した。 袁紹は終始一貫して、積極的に行動し続けていたし、それをするだけの河北豪族の支持を取り付け続けることに成功していたと考えられる。曹操を打ち破れていれば、次は天下統一を目指したと考える方が自然だろう。 袁紹には「優柔不断で決断力がない」という認識が強いが、彼の行動と結果は、袁紹の「類希なる覇気と気力」を強く印象づけている。 同時代において、これほどの覇気を持っていたのは、それこそ曹操と劉備、孫策だけだろう。 ◆統治能力 袁紹は根無し草から、ものの十年で河北を占領したわけだが、その河北の統治能力はどうだったのか。 これもまた、かなり優秀なものだったようだ。 袁紹政権は曹操に滅ぼされたため、その治績はどうしても史書「三国志」ではおとしめられてしまう。 プロパガンダ的にも「袁紹の統治からよりよい曹操の統治にシフトした」と書かないと、魏晋の正当性が立たないのだ。 しかし、それでも各史書には「袁紹は仁政を敷いていた」という記録・発言が散見される。 郭嘉や荀攸といった、袁紹と直接戦った参謀たちからも、袁紹の優れた政治について言及されているし、 袁紹の死が公表されると、河北の人民はだれもが嘆き悲しんだという。 実際の活動を見ても、官渡決戦に動員した「十万以上の大軍」は、袁紹の統治がよほどうまく行っていないとできないことである。 人々が嫌悪しているなかで無理やり十万もの大軍を編成しても、すぐに崩れてしまうというのは、袁術が証明している。 袁紹と同じく四州を制圧している曹操に至っては統治が行き届かず、官渡決戦の際にも十万にすら届いていない。 加えて、袁紹ら首脳を失いかつ内紛を起こした袁家残党が、曹操を相手に五年間も持ちこたえた事実や、 袁紹の勢力を吸収したあとの曹操政権が赤壁の敗戦でもびくともしないほどに強勢になったという事実を考えれば、 袁紹が河北において行なった統治がどれほど良かったかが察せられる。 ◆官渡決戦 「官渡の戦い」において、袁紹は曹操に敗北し、ついに覇権を失う。 この敗因は、一般には「沮授・田豊の説く持久戦を却下し、逢紀・郭図らの説く即時決戦を採用したから」とよく言われる。 沮授・田豊の説いた持久戦は、「今は我々の国内も荒れている。国内を整えた上で軽騎兵を使ってあちこちを攻め、曹操の勢力を国内ともども疲弊させよう、3年でケリは付く」というもので、短期決戦自体を前提としないものであった。 そして、策を聞いた当の曹操も、「その策で来られたら負けたのはこちらだっただろう」と評している。 短期決戦を挑んだ結果が敗北…ということであるから、持久戦策を取らなかった袁紹の失敗…ということもできなくはない。 しかし、持久戦策をとればそれは曹操にも時間や対応の余力を与えることとなる。 時間と余裕があれば曹操がどんな奇策を使ってくるか分かったものではない。 曹操以外の有力な群雄が動いてくる可能性も出てくる。 勝てるときには機を逸さず攻めるというのは当然の考え方であり、決して落ち度ではない。 曹操の評も、「持久戦でも短期決戦でもどちらでもやばい戦いだったに過ぎない」と見ることも可能である。 そして、沮授に関しては実際に決戦が開始した後にも、「我が軍は多数なれど、曹軍は精鋭揃い。しかし食糧は曹軍が少なく、我が軍に及ばない。故に我が軍は持久戦に持ちこむべきである」と、改めて持久戦を提案していた。 確かに当時の社会状況的には人口が大激減していた時代。 特に曹操の支配領域であった中原は常に戦禍や天災に見舞われており、更には孫策や劉表、馬騰といった外敵が健在し、領内も反乱が頻発するなど安定とは程遠く、かなり荒廃していた。 袁紹と同数の4つの州(兗州・豫州・司隸・徐州)を保持していながら、官渡決戦に動員した曹操の兵力は袁紹のそれと比べて僅か10分の1という少なさや、 その少なさにもかかわらず食糧事情が厳しいというのは、 これらの事情を鑑みれば理解できる事であり、沮授の指摘自体は的を射ている……ように見える。 しかし、よくよく考えると、現実に決戦を挑んでいる状況下では、『敵以上の大軍』で遠征を仕掛けている以上、袁紹軍には速攻を仕掛けるべきともいえ、持久戦はより危険になる可能性が高い。 いくら袁紹の方が兵糧事情が豊かとはいっても、 正史ですら10万と言われる大軍である袁紹軍の日毎の食糧消費量は、ざっくり考えれば曹操軍の10倍だ。 しかも領内の戦いではなく『領外遠征』である為、本国から距離がある食糧の補給線もあり、これを維持しなければならない。 史実でも袁紹軍は、曹操軍に補給線を攻撃されたことで食糧補給に難が生じ始めたとされる。 つまり戦闘が長引けば長引くほど、逆に袁紹軍にとって不利になる可能性も高く、沮授の指摘が明らかに正しい、とは断言できないのが実際のところなのである。 そして現実はどうだったか。 決戦が半年に及ぶ「長期戦」「持久戦」になった結果、曹操軍が袁紹軍の「補給基地」を攻撃し破壊した(=曹操の運をも味方につけた奇策を受けた)ことで決着したのだ。 つまり事実として、「袁紹軍は持久戦に持ち込まれた結果、曹操の奇策に敗れた」のである。 実際の戦闘面でも、袁紹は果敢に猛攻を掛けていた。 高櫓からの射撃・地下道の掘削といった正面からの攻撃に加えて、曹操軍への内通工作、孫策・劉備・汝南豪族などを利用し、あの手この手で曹操を突き崩そうとした。 結果としては持ちこたえた曹操に敗北するのだが、これは袁紹の攻め方に問題があったのではなく、 袁紹の総攻撃を捌き抜いた曹操がすごかったと言うべきだろう。 とはいえ、烏巣の焼き討ちでも曹操は淳于瓊に苦戦し、全滅さえ覚悟したという。 最初から最後まで、袁紹と曹操は全力でぶつかり、ついには曹操の粘り強さと火事場の馬鹿力が競り勝ったのである。 ただこの戦いで、本当に袁紹の致命傷となったのは、烏巣ではなく許攸の裏切りであっただろう。 許攸が寝返らなければ烏巣奇襲がない、というのもそうなのだが、それ以上に許攸は袁紹政権における、最古参の大幹部なのである。 袁紹は血族なしで旗揚げしたため、政権の幹部を自分の側近で固めざるを得なかった。 劉備なら関羽・張飛にあたる「両腕」が、袁紹の場合は逢紀と許攸なのだ。 そんな許攸の離反は、袁紹にとってはすべての機密が漏れるのみならず、政治力そのものの一大損失であった。 逆にいうと、許攸一人が寝返るだけで致命傷になるほど、袁紹には脆い点があったともいえる。 自分のカリスマを頂点として成り上がった袁紹の、一番の弱点は、側近を含めた「自分自身」であったと言えよう。 ちなみに曹操は戦後、袁紹軍が置き忘れていった部下が内応する手紙の存在を聞いた際、 「俺だって心が折れそうだった。部下たちは当然のこと。不問にするから手紙は中身を見ずに焼き捨てろ」と命じている。 内応リスクを抱えていたのは、曹操軍も同じだったのだ。 以上、官渡決戦について解説したが、それ以前の河北進出時代も、袁紹の戦争のうまさや土壇場の爆発力は散見される。 公孫瓚の騎馬隊に本陣まで攻め込まれたときには、避難を勧める田豊を突き飛ばし、 兜を投げ捨て「男たるもの、戦って死んでこそ本望だ!」と啖呵を切って兵を掌握、撃退に成功した。これは三国演義にも引用されている。 黒山賊が領内の反乱と呼応したときには、食客たちがパニックに陥るなか、顔色一つ変えずに鎮圧の指示を出したという。 盟友・曹操と同じく、軍人としても非凡な能力を持っていたようだ。 ◆臣下について 大きく分けて「袁紹側近」と「河北豪族」と「潁川名士」の三大派閥があったとよく言われる。 袁紹直属として手足となって働く、逢紀・許攸ら「側近組」。 河北出身で実際に兵力や財力を供出する、審配・沮授・田豊ら「河北豪族組」。 荀攸らの同郷で、主に知識層を形成した、淳于瓊・郭図・辛評・荀諶ら「潁川人士組」。 袁紹自体がヨソ者であるため、よけいに彼らのあいだでモメやすかったという。 また、当たり前だが一つの派閥のなかでも足の引っ張りあいが起きる。とくに田豊はわりと浮いていたようだ。 + 「派閥と豪族について」 これについては史書に間違いなくそう記されているわけではないが、状況はこれを示唆している。 まず中国は文字の表記が統一されたのだが、漢字は表意文字なので発音までは統一できない。 そのため、出身地が違うと会話ができないとは現代でもいわれるところであり、それゆえに出身地方で固まりやすい。 それでなくとも地縁・人脈は重要な繋がりである。 なにより、当時の人口問題がある。 「三国志における人口」、具体的には魏・呉・蜀の「戸籍に登録された人口」の総数は、わずかに800万だった。 この数値は後漢最盛期の6000万に比べるとたった1/7である。 疫病などで多くの死者が出たのは確かだが、それにしても異常な数値であり、 実際は「国家が直接徴税・徴兵できたのは国土の15%前後に過ぎず、まともに政権を運用したければ、実際に人間を抱えている地方豪族・各派閥の支援を受けなければ無理だった」とされる。 当時の情勢を見渡しても、荊州刺史劉表は在地豪族に拒まれて荊州入りすらできず、 豪族の蔡瑁・蒯越が擁立してくれてやっと赴任できた、というエピソードがある。蜀漢に荊州派と益州派が存在したというのもこのあたりに由来する。 日本の選挙を揶揄して、政治家に必須なのは「地盤(後援組織)・看板(知名度)・鞄(資産)」という。 これは中国も同様で、まして古代・中世ならなおのこと、「地縁」「豪族」「派閥」といった存在は大きい。 もちろん、それらはあくまで条件に過ぎず、そうした条件下でどう動くかは歴史人物個人の判断によるが、条件を軽視することもならない。 沮授についてアタリがきついのもよく言われるところ。 沮授はもともと軍権を一手に握るほどの重鎮だったが、官渡決戦の直前に、軍権を沮授・郭図・淳于瓊の三人に分割されている。当然彼は不満に思ったという。 もっとも、沮授はただでさえ冀州出身の大豪族で、河北に勢力を誇っていた。 そんな彼がいつまでも軍権を一手に握っていては、権力が沮授>袁紹となりかねず、極めて危険である。 沮授と袁紹が本気の殺し合いにならないうちに、軍権だけでも分散させるというのは、 むしろ双方の殺し合いを予防したといえそうだ(*7)。 袁紹が沮授を嫌っていたということはないようで、白馬津攻撃を顔良に専任しないよう進言したときは受け入れている(支援部隊として郭図・淳于瓊を派遣)。 沮授の死後も息子の沮鵠が幹部になっていた。 ◆献帝拒絶について 献帝を袁紹が拒み曹操が迎え、その結果曹操が外交の主導権を握れたことから、これは袁紹の敗北と見なされがちである。 ただ、袁紹は何度も述べたが、自前の権力でのし上がったのではなく、個人のカリスマと手腕で束ねたタイプである。 こんな袁紹がうかつに献帝という「君主以上の権威」を迎え入れると、かえって組織内部の権威が二分し、組織そのものが分裂しかねない。 まだ曹操の場合、献帝が来ようと夏侯惇がゆらいだりはしないだろうが(曹操が失脚すれば次は夏侯惇の番)、 袁紹の場合は、それこそ淳于瓊あたりが董承らと結託して良からぬ画策をしかねないのである。 (淳于瓊は後漢朝廷直属の官僚で、袁紹とは同格であった。そのため「献帝に仕える」形式をとって袁紹に並び立つことも理論的には可能。 ついでに彼は潁川の名門出で、実は郭図・辛評・荀諶らとは同郷でもあり、横の繋がりもあったとみられる。また、彼らは袁譚派である。 もし彼らが、献帝と袁譚を接近させて担ぎ上げ、袁紹を駆逐する、なんてことになったら大ごとになる(*8)) それでなくても袁紹は献帝を特に嫌っていたので、彼が擁立することは絶対になかっただろう。 もし宮中殴り込みの際にちゃんと二皇太子の身柄を確保できていたら、果たしてどう立ち回ったことだろうか。 【三国演義の袁紹】 三国演義では、基本的に正史準拠。 名将だった淳于瓊が酒飲みの無能にされるなど多少の脚色はあるが、ほとんど変わりない。三国演義成立過程ではかなり後期に流入したタイプなのだろう。 しかし、実際の袁紹にはかなりアクティブな面があるため、ときどき変に威勢のいい場面がある。 呂布を従えた董卓に向かって正面から罵倒し、剣を抜いてにらみつける場面は、中国の実写ドラマでもすさまじい名シーンとなった。 公孫瓚戦での啖呵も採用されている。 ただ、やっぱりというかなんというか、作中ではことあるごとに「おぼっちゃま」「優柔不断」と連呼されており、とにかく哀れな扱いとなっている。 【各作品】 正史~演義の時点で評価が安定しているうえ、そこにあるのが「金持ちのボンボン」という時代を問わず理解しやすく弄りやすいキャラ像であるため、創作でのキャライメージは大分固まっている。 とはいえそのイメージから過度に貶められたり、三国以外に興味なしの方針であえなくハブられることもしばしばではあるが。 横山三国志 原作では反董卓連合終了あたりでフェードアウトするが、アニメ版では官渡の戦いが描かれている。 曹操軍の面々から決断力に欠けるだの散々な言われようだったが、その決断力は悪い方向に発揮されることになる。 圧倒的兵力差の慢心からか、とにかく戦時中にもかかわらず酒浸りになり、重臣達からの献策・助言を悉く無視し、演義同様許攸の離反を招く。 ちなみに許攸はアニメでは清廉な人物であったことにされ、家族の汚職は彼が黒幕であったという謂れなき罪を着せられそうになったため曹操の下に奔るという展開になっていた。 袁紹が許攸を問い詰めるときのセリフはある意味語り草。 「許攸!貴様の甥が税を横領したぞ!」「貴様の指図に違いあるまい!いや、そうに決まった!」 コーエー三国志 顔グラは名門らしく金ピカ鎧に身を包んだヒゲの偉丈夫という感じで一貫している。勢力のイメージカラーは黄色。 最近ではどの能力値も70~80台、魅力があれば90台とバランスよくまとまっている。 政治は「Ⅶ」から70台安定、悪い時は「Ⅲ」~「Ⅳ」の50前後とナメられ傾向だが、全体的な評価はシリーズ通して大差ない。 そこらの凡庸な君主とは比べ物にならないが、魅力以外突き抜けることがなく特技もあまり優遇されないため、かなり優秀ではあるものの曹操には及ばない1.5流。 似たような能力傾向の劉備より少し弱いくらいのところに収まりがちで、良くも悪くも劉・曹・孫に次ぐ4番手である。 後年の作品では魅力の重要性(行動力、配下の忠誠)が高まったのでマシになっているが、能力以上に深刻なのが隠しパラメータの「相性」。 ライバルの曹操と真逆に設定されていることが多いのだが、曹魏の人物は単純に割合として多く、また曹操が身近の敵勢力という立場ゆえ、それは思った以上に痛い。 黄河を越えて中原に出ても人材が思うように揃わなかったり、たとえ揃っても多大な俸禄を要求してきたり、官渡の戦いを制しても曹操達が全然傘下に加わってくれなかったり… 臣下は一線級を擁してはいるがあまりバランスがよくない上、能力の高い人物に相性の悪い奴が多いため、後半になればなるほど苦戦しがち。 しかも袁紹の寿命は(史実の没年を参考にしているため)基本短く、後継の息子たちの能力は悲惨なので、なおのこと攻略を急ぎたいところ。 さらに、「Ⅱ」では魅力に反して、魅力と並んで忠誠や外交に関わる「人徳」のパラメータが残念なことになっているので、家臣たちの初期の忠誠が低め(ひどい場合は60台のものも)なうえに、忠誠も自然低下しやすいのでさらにきつい。重要な家臣は早いうちに褒美をやって忠誠を上げたいところだが…… ただ、幸い彼を嫌っている武将もかなり少ない(上に割とすぐ死ぬ奴らばかり)なので、戦力はあくまでも揃いにくいだけで揃わないわけではない。 しっかり袁術には嫌われてる(上に相互嫌悪)ので完全に袁家の栄光とはいかないが。 物量や攻城力に長けていることが多いので、数に物を言わせる戦略がベター。 また魏勢力との相性は悪い反面、蜀勢力とも呉勢力とも相性がいいという特徴がある。 もし近くに劉備の勢力があるなら、先に併合して関羽・張飛・趙雲を部下にする手もあり。 三国無双 詳細は袁紹(三國無双)を参照。 初期から登場。名族の誇りを連呼するお騒がしキャラ。覇気はあるが、自尊心が強すぎて打たれ弱い。 一時期はやたらと歪んだプライドを強調され「それはどちらかと言うと袁術では?」という声もあったが、 その袁術が脱モブした『8』にて路線転換し、周囲が自然にヨイショしたくなるような格好良いキャラへと変わった。一方で最近はなんだか老けてきているのが哀しい。 一番さみしいのは、未だに脱モブした部下が曹操に降伏する変態貴公子と寝取られ貴婦人しかいないことだろう。 呂布陣営には曹操に所属しない無双武将が多いので、是非とも開拓してもらいたいところ。 蒼天航路 序盤は一般的な「蒙昧な青びょうたん」という点が強調されていた。 中盤からは蒙昧さをそのままひたすら強化させた「太陽のような明るい力強さ」を発揮し、曹操とはまったく別ベクトルのカリスマの怪物と化す。 圧倒的な力と王気は曹操をして「語るすべなし、為すすべなし」といわしめ、知略の一切を放棄した「人間の力」を結集することになる。 しかし…… 白井式三国志 ほとんどモブ扱いで、先に登場した袁術の髭と冠を変えただけのコンパチキャラ。 「家族だ! 家族の為なら頑張れる」 一騎当千 一応Aランクなので弱くは無いのだが、卑怯な手も辞さない悪党。曹操の軍門にあっさり下ったことが語られるのみ。 恋姫†無双 真名は「麗羽」。美羽(袁術)は従妹。 ひたすらゴージャスな金髪縦ロールにお嬢様口調で巨乳、明るい声に仁王立ち、名門のプライドガン積みといった、いかにもな袁紹像。 もちろん能力では華琳(曹操)に大きく水をあけられている…が、スタイルでは華琳に大きく水をあけている。 実は涙もろくてお人好し。また、アホ呼ばわりされているが意外なことに学力そのものは華琳よりも高い。 十三支演義 CV 周瑜ヒャクシキ 銀髪をたなびかせた美丈夫。 一見分け隔てなく接する温厚篤実な人物に見えるが、実の所性格は最悪で、人を利用価値でしか判別できない卑劣漢。 PS版でとってつけたかのような個別ルートができた。 三国志大戦 登場は2からで袁術とともに袁勢力ごと参戦。 以降は一貫して「優秀なステータスを持ち強力な号令を扱えるカード」として参戦している。 号令持ちとしては高い武力と中程度の知力に魅力をはじめとした豊富な特技を兼ね備え、 「栄光の大号令」「大兵力の大爆進」「王者の決断」などといった一発で勝敗を決定づけるような大型号令を所持するキーカード。 主導権を握った状態で号令を使えると非常に強いが、使わされる展開になると弱い計略デザインもシリーズを通して共通。 リブート後は勢力が漢に移るものの、やはりキーカードとしての位置は揺らがない。 光魔法が使える勇者になってもそれらのせいで立ち位置がないほどに重要な位置を占めている。 でも人を惹きつける熱唱はA面B面共に良好なので結局勇者が微妙というだけの気がする。 BB戦士三国伝 演者はバウ。中の人は師匠。 家の権威を振りかざす無能なボンボンであり、劉備のような在野の侠を露骨に軽蔑している。 当初は敵から逃げようとして後ろを振り向いた瞬間、弟である袁術ズサが遥か彼方まで逃走していて呆れるといったコメディリリーフ的な側面も目立ったものの、 袁術ズサが暴走し始めた辺りからは野心家として覚醒。 彼の残した玉璽を入手した事で覇道を進み始め、遂には地獄を彷徨う弟の魂を取り込んで四本の腕を持つ異形の姿「龍飛形態」へと変貌。 最期は官渡の戦いを経て幼なじみにしてライバルである曹操ガンダムに討ち取られた。 初代のコミックワールドだと空気で、伝説の「公孫瓚憤死!」をやったのは彼では無く曹操という事になっている。 袁家復興のために追記・修正をお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 田豊の持久戦策って「決戦を挑むが持久戦で戦う」という訳じゃなくて「決戦自体挑まないで背後をかく乱させて崩壊させる」だったみたいだから、持久戦って言っても性質が違うんじゃないかな? -- 名無しさん (2020-01-17 23 01 52) 官渡の戦いで敗れた後も勢力崩壊させず維持していた所を見ると、やはり非凡な人物だったのは間違いないね。 -- 名無しさん (2020-01-17 23 09 49) 長生きしていたら再逆転して天下取れてたかな? -- 名無しさん (2020-01-18 00 46 54) なかなか読みごたえのある項目だな -- 名無しさん (2020-01-18 03 12 06) 哀れな扱いだったとしても三国志を語る上でこれまで記事が無かったのが不思議なくらいの存在感はあるからな -- 名無しさん (2020-01-18 10 30 52) 個人の器量は他の群雄と負けず劣らずだったけど部下や後継者に恵まれなかったな...特に後継者は... -- 名無しさん (2020-01-18 11 34 09) こんな主人公張れそうな人物だったのか・・・ 知らなかった -- 名無しさん (2020-01-18 12 05 22) 間違いなく実力者だったけど死後が…という点で今川義元も連想する人が結構いる -- 名無しさん (2020-01-18 12 08 00) 三国志大戦だと何気に強カードだよね。二次創作の中では一番優遇されてるんじゃないかと思う。 -- 名無しさん (2020-01-18 15 34 37) ↑4 孫権「恵まれなくても後継者はきっちり定めておかないとな」 -- 名無しさん (2020-01-18 19 32 12) 彼の参謀たちの項目もお願いします -- 名無しさん (2020-01-18 19 38 43) ↑2 劉備「君が言うなよ。」 曹操「そうそう。」 -- 名無しさん (2020-01-18 20 24 57) 董卓と公孫瓚の項目もお願いします -- 名無しさん (2020-01-18 21 18 19) 曹操や袁術の放蕩が不良とヤンチャしてたとするなら、袁紹の場合は政治犯と組んで宦官相手にテロを仕掛けると言う当局最大の敵って感じで、そら叔父さんも嘆くのも納得の危険人物よ -- 名無しさん (2020-01-18 21 40 51) 官渡のあとも立て直してたのか凄いね それでもポックリは天命尽きちゃってたのかなぁ… -- 名無しさん (2020-01-20 14 44 00) 曹操とうまくやっていく未来はなかったのかなと、ちょっと悲しく思ったり -- 名無しさん (2020-01-20 17 43 54) ↑どちらも人の下につけるタイプじゃない感じだからどう足掻いても最終的には対立しそう -- 名無しさん (2020-01-21 02 21 22) ↑決定的に反目するまではお互い、支援しあって意外といい感じで盟友にやってそうにも見えるんだけどなぁ。やっぱだめかぁ -- 名無しさん (2020-01-21 14 28 49) 麴義みたいに功臣が増長しやすい、あるいは功を誇って他の派閥を蹴り落とすって方向に行きやすい環境だったのはちょい痛かったかもな -- 名無しさん (2020-01-23 10 40 49) ↑曹操の所でいう荀攸みたいな群臣のまとめ役がいればまた違ったのかもな。 -- 名無しさん (2020-01-23 13 32 08) 何故かなかなか立たなかった・・・って程ではないかもしれないけど、なかったのはちょっと意外だなと思う項目だ -- 名無しさん (2020-01-28 20 13 55) 一番上で田豊が決戦でなく謀略戦を推した、ということであってもやはり決戦以外の手はないのでは?孫策死んだし劉表劉備(陳登)や降ったばかりの張繍辺りなんてまず動かんだろうし扇動できそうな有力者特にいないだろ -- 名無しさん (2020-01-28 20 58 47) 背後のかく乱は、あちこち「ヒット&アウェー的に攻めて対応に疲れさせる」ってことで、扇動狙いってことではない。というか決戦を挑んだ史実でもいろいろ扇動して曹操を追い詰めてるし。 -- 一番上 (2020-01-28 21 28 43) 横山三国志で官途の戦いが割愛されたのは返す返すも残念。こっちはトップの何進が謀殺されたのに構わず宮中になだれ込んで宦官を皆殺しにするなど結構な危険人物である -- 名無しさん (2020-09-30 12 29 23) 袁紹は曹操の策謀を知っていたから、裏をかく小細工なしの大軍による正攻法で攻めたんじゃないかな?曹操孟徳正伝ではそう解釈して描かれていた。 -- 名無しさん (2020-11-07 16 49 56) 陳宮に乗せられた張邈も曹操袁紹の旧友だし張邈見捨てられたことにキレて反目した臧洪は側近組だし、組織運営ってホント難しいな -- 名無しさん (2021-02-05 06 02 43) 平時の丞相とか先祖のように司徒・司空が適した器だったんだろうな。 -- 名無しさん (2021-02-05 12 04 45) 官渡の戦いの後も袁紹が優勢だったが袁紹の死によって分裂した。もし袁紹が健在であったら曹操もどうなっていたかわからない。 -- 名無しさん (2021-03-27 20 56 30) 「地縁」「豪族」「派閥」←「鎌倉殿の13人」でも思ったけど、こういうドロドロをゲーム化できないもんかなって -- 名無しさん (2022-10-20 03 44 10) 内政に関しては相当優秀だった様で河北では西晋の時代になっても「袁紹の頃は良かったなあ」と言われたいたという。 -- 名無しさん (2022-10-20 09 11 32) 一族が袁紹ではなく袁術の元に集合した辺り例え兄弟だったとしても袁術の方が嫡流と見なされていたのは確かだろうな -- 名無しさん (2023-01-22 06 42 14) 『SDガンダムワールド 三国創傑伝 蒼翔記』では少年時代からの曹操との対立と嫉妬が描かれた結果「反董卓連合結成前に曹操勢力との戦いに敗北し没落後黒幕に自らの意思すら奪われ生ける屍にされ亡骸すら残らず消滅(反董卓連合は董卓の横暴を見かねた孫堅の提案に合意した曹操と、両者の行軍中偶然出会った劉備一行の同行を孫堅の保証により曹操が認めたことで成立)」と曹操との関係性が重視された結果動向は大胆なアレンジが加えられることに。 -- 名無しさん (2023-01-22 17 53 55) ↑4 光栄の三国志6がそれに近かったけど、不評だったのかそれ以降ではそういうシステムはでてない……はず -- 名無しさん (2023-07-15 00 03 24) 袁紹はいつの間にか大勢力になっていたけど官渡であっさり負けた雑魚ボス、的に描かれることが多い しかし河北制圧して巨大勢力になるまで相当苦労している それこそ主人公になれるくらいに面白い -- 名無しさん (2023-07-15 00 06 47) 日本史の人物だと今川義元ってイメージ。 -- 名無しさん (2023-11-22 08 02 27) 名前 コメント
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本書で考察する宮廷とは、君主や大諸侯とその取り巻きたちが織りなす独特の人間社会のことを指す。一方で民衆の文化は、長らく歴史なきものと考えられてきた。それぞれに異質な二つの文化は、その後どのようにしてわれわれの知る近代文化につながってくるのだろうか。 ヨーロッパ中世においてはいくつかの輝かしい宮廷文化の事例が先駆的な例としてあげられる。しかし、ルネサンス期以前の君主はおおむね軍事的才能がものをいう戦士としての統治者であった。その意味では、まず14~15世紀のブルゴーニュ公国あるいはイタリア都市国家の宮廷に目を向けなければならない。 ブルゴーニュ公国は、フランスの現ブルゴーニュ地方を本領とし、結婚・外交政策および武力により、1384年にはフランドル、フランシュ・コンテ、アルトワ、ヌヴェール、ルテルを併せ大ブルゴーニュを形成するにいたった公領である。ブルゴーニュ公家は領地が南北に分断されていたため、領国経営のために君主は移動を余儀なくされ、宮廷もブルゴーニュ公に付き従って移動した。公に付き従う人員は、親族のほか廷臣である貴族たち、宮殿の各職務に携わる者たちだった。ブルゴーニュ公の宮廷は強固な構造を持ち、人びとは位階の定められた社会に生きていた。 この時期のブルゴーニュ宮廷は、西ヨーロッパでもっとも富み栄え、よく整えられた宮廷として知られていた。国家的イヴェントにおいて、また、公家の家としての儀式において、ブルゴーニュ公家は宮廷を舞台に威厳を示し豪華絢爛たる行事を繰り広げたが、これは、権力維持のための装置として遂行されたものである。 ブルゴーニュの君主たちは芸術を愛する心を有していた。また、遺贈や献上本、そして歴代の公自身が集めたブルゴーニュ公家の蔵書数は当時の王室を凌ぐほどだった。ブルゴーニュ公の蔵書の内容的特色は狩猟・軍事などにかんする教本や政治理論の書物を少なからず有することであり、また、歴史書・年代記に強い関心を示していることである。歴代の公は当時としては珍しく修史官を抱えてブルゴーニュ公国の年代記を編ませていた。 ブルゴーニュ公家4代100年余の歴史はシャルル突進公の短い治世で幕を下ろす。智略を用いてシャルルに勝ったフランス国王ルイ11世は簡素を好み、彼の周りには宮廷と呼べるものはまだ形成されなかった。ほぼ同時代の宮廷を語るとすれば、むしろルネサンス=イタリアの都市国家をみるべきであろう。 ウルビーノは、イタリア中部マルケ州にあり、アペニン山脈からアドリア海へおりてゆくほぼなかばの距離にある。ここに、15世紀後半から16世紀にかけて50年の短い期間であったがイタリアばかりかヨーロッパにも比類のないルネサンス文化の粋が花開いたモンテフェルトロ家二代を擁するウルビーノ公国が存在した。フェデリコ・モンテフェルトロは、教皇やナポリ、ヴェネツィア、フィレンツェなどのために戦った非常にすぐれた将軍である一方、誠実を信頼され、学問と教養に富み、芸術を熱愛し、あまねく尊敬された人物であった。フェデリコはまた、人文学者、愛書家、為政者としても抜きんでていた。彼の宮廷の大きな特徴はその蔵書にみられる。フェデリコの文庫には当時の学問の全学科が網羅され、それはヨーロッパでも比類のない文庫であった。 フェデリコは二度目の妃バッティスタとの間に嗣子グィドバルドをもうけた。幼くして両親を失ったグィドバルドは、元来聡明であり、人文教養に深い関心を寄せ、かつ、武芸一般もよくしたという。しかし彼は20歳にして痛風に冒され、武将の仕事を十分にこなすことができなくなった。さらに、チェーザレ・ボルジアの台頭はウルビーノからの亡命を余儀なくし、彼を窮乏流寓の生活に追いやる。チェーザレの失脚後、グィドバルド夫妻はウルビーノへ帰還することができ、それからおよそ5年の歳月のあいだは、典雅な宮廷生活を享受することができたという。 中世末の14~15世紀にいたり、フランス王国は混乱の二世紀をむかえることとなった。明るさがみえてくるのは15世紀なかばのことであった。このような再建の気運のなかで、フランス王権も、ふたたびその基盤を強化することが可能となった。 16世紀フランスの国王は、先に述べたブルゴーニュ公の場合と同様に、なお旅する国王であり、宮廷は移動する宮廷であった。16世紀の移動宮廷は、広大となった国土と、ヨーロッパ最大の人口をかかえたフランスにあって、不備な官僚制度と物流を補い王国の統一を強固にするひとつの手段であったと思われる。また、国王は王国と臣民をよく知らねばならず、王は臣民たちにしっかりと見られなければならない。臣民は、王を見、宮廷の豪華さを目の当たりにすることで、国家・国王への忠誠心に目覚めるのである。移動宮廷は、中央集権化・絶対王政化へと進む過渡期にあるフランス王権の宮廷の姿であるといえる。 新しいフランス文化の中心として、宮廷は大きな役割をはたすことになる。王家の役割は建築の面でも明らかであり、当時のフランスで着目すべきものは主として国王による城館の造営である。この時期には宮廷が文化の多くの面でその推進者となり、あるいは少なくとも保護者になっていたといえよう。 1661年、親政を開始したルイ14世は、父王がヴェルサイユに遺したささやかな建物を発展させて壮麗な宮殿を建てようと計画した。以後およそ20年にわたって工事は続けられ、1682年5月、ルイ14世は、改築がかなり進んだヴェルサイユに移り住んだ。王の日常はすべての行為が儀式化されており、生理的な営みから政務にいたるまで等しく衆人環視のもとにおこない、わずかな接し方の差で寵愛や不興の距離を廷臣たちに示す。ここにみられる国王は廷臣たちを思うがままに動かし思い通りに振舞っているかにみえるけれども、一方では彼自身この儀礼を外れることはできないのである。 ルイ14世は、この宮廷をとおして全フランスを統治していた。したがって、この統治の中枢を統御するだけではなく、当時2000万人といわれるフランス国民にたいしてもその姿を公開することが必要だった。戦勝や王家の慶事を祝う「テ・デウム(神への感謝・賛美)」の式、征服地ごとに建てられた銅像、太陽王のメダイユ、印刷された肖像の頒布など、多くのメディアによって国王の統治が国民に宣布されたのである。 この時代の文化を考えるとき、狭い意味でもヴェルサイユがほとんどすべて代表しているといわざるをえない。ここには当時の最高の芸術が凝縮されている。また、ルイ13世もルイ14世も読書あるいは蒐書の趣味はなかったが、王室図書の充実は歴代担当者の熱意と実力によってはかられた。公共のための一般公開も始められ、この時期になってはじめて、君主の資質や趣味とかかわりなく、システムとして王立図書館の充実と活用とが確立するにいたった。 宮廷文化としてなによりも取り上げられるべきものは、高度に発達した独特の人間観察術、礼儀作法である。宮廷内では、他人の心理を読み、状況を把握することがなによりも求められ、自分の身分と相手の序列に応じた微妙な礼儀作法をわきまえなければならなかった。 絶対多数の民衆は、15世紀以降花開いた宮廷文化とはかけ離れた生活を営んでいた。農民であれ、都市の民衆であれ、彼らの文化の大きな特徴は生活圏に密着したローカルな文化だということである。民衆の日常は怖れに満ちており、このような世界に魔女があらわれるのはごく自然なことであった。15~16世紀の民衆の祭りのほとんどはキリスト教の祝祭日としておこなわれた。この祝日がヨーロッパの四季に調和していることから、キリスト教以前の農耕社会における異教的習慣の記憶と結びついていることもしばしば言及されている。都市においても同様の祭りがおこなわれた。共同体によっておこなわれたさまざまな祭りの基本的な要素は、酒と行列と踊りであった。また、祝日に道化の王や道化の裁判官を選び出しておおいに騒ぐといったような楽しみは各地にみられる。祭りにおいて人びとは、権威の逆転を楽しみ、非日常の世界に浸ることによって現実世界のカタルシスを現出させ、現実の不安を一掃して共同体の絆を結びなおしていた。 シャリヴァリは、再婚者などにたいして通常数日間にわたって騒々しいからかい遊びを演じて「科料」をまきあげるという行為であり、若者の結婚の機会を狭め共同体の再生産に支障をきたすとみなされた婚姻形態への私的制裁であったと考えられる。 15世紀の人びとは激しい感情の起伏のなかに生きていた。激情にかられれば暴力沙汰になった。衛生状態が相当に悪く、医療技術も低かったと考えられる当時においては、ちょっとした傷が致命傷になるのであった。 いわゆる民衆本といわれるものは17世紀初頭に小型の行商本として始まった。その外見から「青本」と呼ばれた民衆本の内容は、信心書・聖人伝、中世以来の物語のリライトもの、暦、実用書などであって、民衆独自の心性が明瞭にあらわれているとはいいがたいところがある。民衆文化の基本は、なお、口頭のコミュニケーションに大きく依存していたと考えなくてはならない。しかし、生活の知恵や民話が、世代から世代へと口頭によって伝えられるのが基本であった民衆文化の世界に、文字媒体がこのようにはいりはじめたことは、注目すべき事柄である。 とりわけフランスにおいて、宮廷文化と民衆文化を接合してゆくものとしての都市文化あるいはブルジョワの文化は、この時代の非常に重要な要素である。 17世紀と18世紀の交ともなると、国王の庇護を求めない、都市の文化がはっきりと姿をあらわすにいたる。「宮廷」対「都市」の対抗軸の形成である。しだいに形式化した礼節と狭い宮廷での交際の世界は色あせてゆき、合理性の追求が価値をもつこととなる。こうして、都市文化あるいはブルジョワの文化は宮廷文化にとってかわるのであるが、このとき、宮廷で確立された礼節と情念の自己抑制をブルジョワは自らのものとして選択的に取り込んでゆくのである。われわれの知っている近代文明は、中世末から近世にかけての宮廷文化と民衆文化との二つながらを、都市ブルジョワジーの文化を媒体として統合することによって成立してきたものということができる。
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唐書巻八十三 列伝第八 諸帝公主 世祖一女 高祖十九女 太宗二十一女 高宗三女 中宗八女 睿宗十一女 玄宗二十九女 粛宗七女 代宗十八女 徳宗十一女 順宗十一女 憲宗十八女 穆宗八女 敬宗三女 文宗四女 武宗七女 宣宗十一女 懿宗八女 僖宗二女 昭宗十一女 世祖に一女があった。 同安公主は、高祖の同母妹である。隋州刺史の王裕にとついだ。貞観のとき、尊属として大長公主に進んだ。にわかに病んだが、太宗みずから訪問し、縑(かとり)五百を賜い、乳母らには皆物を賜った。永徽年間(650-655)初頭、実戸三百を賜り、年八十六で薨去した。 王裕は、隋の司徒の王柬の子で、開府儀同三司に終わった。 高祖に十九女があった。 長沙公主は、馮少師にとついだ。 襄陽公主は、竇誕にとついだ。 平陽昭公主は、太穆皇后から生まれ、柴紹にとついだ。かつて、高祖が兵を興したとき、公主は長安にいた。柴紹は、「あなたはまさに出兵して京師を鎮めようとしています。わたしも行きたいです。お願いですからお供できませんか、どうでしょうか?」といった。公主は「あなたは行きなさい。わたしは自分のはかりごとを実行します」といった。柴紹は間道を抜けて并州に逃れ、公主は鄠に逃れて、家財を発して南山の亡命者を招き、数百人をえて帝に呼応した。ここにおいて大賊である何潘仁は司竹園を根拠として行人を殺して総管と称した。公主は家奴の馬三宝を遣わして説諭してこれを降伏させて、ともに鄠県を攻めた。また別の部賊の李仲文・向善志・丘師利らをそれぞれ所領をもって旗下につかせ、よって盩厔・武功・始平を攻略してこれを降伏させた。法の遵守を部衆に誓わせ掠奪を禁止したから、遠近みな服し、兵七万となり、威は関中に振るった。帝は黄河を渡ると柴紹は数百騎で南山に並んで迎えた。公主は精兵数万人を率いて秦王(太宗)と渭北に会した。柴紹と公主はならんで幕府を設置して京師の平定にあたり、娘子軍と号した。帝が即位すると、功績によって物を賜うこと果てがなかった。 武徳六年(623)に薨去し、葬列の前後に羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。太常は議して「婦人の葬は古より鼓吹はありません」といったが、帝は従わず、「鼓吹は軍楽である。かつて公主は身に金鼓をとって、参軍して命をたすけた。古にこのようなことがあったか?だから用いるべきだ。」と言った。 高密公主は、長孫孝政にとつぎ、また段綸にとついだ。段綸は、隋の兵部尚書の段文振の子で、工部尚書・杞国公となった。永徽六年(655)に公主は薨去し、「わたしが葬られるときは必ず墓を東向きにさせ、献陵を望むようにし、孝を忘れないように願いたい」と遺命した。 長広公主は、始め桂陽に封ぜられた。趙慈景にとついだ。趙慈景は、隴西の人で、帝はその姿が美しいのとよしとし、そのため彼に娶せた。帝が決起すると、ある者は逃亡を勧めたが、答えて「母は私を命としている。どうして行こうとするのだろうか?」官吏は捕縛して獄に繋いだ。帝が京師を平定すると、開化郡公に封ぜられ、相国府文学となった。兵部侍郎に進み、華州刺史となった。堯君素に討たれて戦死し、秦州刺史を贈られ、謚を忠といった。 公主はさらに楊師道にとついだ。聡明で詩作を得意とし、豪奢な生活を自らほしいままにしたが、晩年になってようやく節制した。長寿で薨去した。 長沙公主は、始め万春に封ぜられた。豆盧寛の子の豆盧懐讓にとついだ。 房陵公主は、始め永嘉に封ぜられた。竇奉節にとつぎ、また賀蘭僧伽にとついだ。 九江公主は、執失思力にとついだ。 廬陵公主は、喬師望にとつぎ、喬師望は同州刺史となった。 南昌公主は、蘇勗にとついだ。 安平公主は、楊思敬にとついだ。 淮南公主は、封道言にとついだ。 真定公主は、崔恭礼にとついだ。 衡陽公主は、阿史那社尒にとついだ。 丹陽公主は、薛万徹にとついだ。万徹は愚かなこと甚だしく、公主は羞じて、同席しないこと数月であった。太宗はこれを聞いて笑って、酒宴を開いて他の者と万徹を召喚して従容として語り、槍を握って試合して佩刀を賭け、偽って勝てないふりをし、遂に佩刀を解いて賜わった。公主は喜び、命により同じ車に載って帰った。 臨海公主は、裴律師にとついだ。 館陶公主は、崔宣慶にとついだ。 安定公主は、始め千金に封ぜられた。温挺にとついだ。温挺が死ぬと、また鄭敬玄にとついだ。 常楽公主は趙瑰にとついだ。娘が生まれ、周王の妃となると、武后がこれを殺した。趙瑰は括州刺史に左遷され、寿州にうつされた。越王李貞がまさに挙兵しようとして、趙瑰に書を与えて教え導いた。趙瑰はこれに応じようとし、公主もまた使者に進んでいった。「私は王に感謝します。ともに進みますが、退くことはありません。もし諸王らが皆立派な男であるなら、長々と留まっていないでただちにここに来るでしょう。私は次のように聞いています。楊氏が北周を簒奪した時、尉遅迥は北周のために出兵し、なおよく突厥と連合して天下を震撼させましたと。ましてや諸王は国の親族なのですから、国家は託するところで、身を捨てずに大義をとろうなど、何をしようというのでしょうか?人臣は同じく国を憂うのを忠臣といい、憂えないのは逆臣といいます。王らは努めなければなりません。」 越王貞は敗れ、周興の弾劾により趙瑰と公主は連座となり、みな殺された。 太宗に二十一女があった。 襄城公主は、蕭鋭にとついだ。性格は親孝行で温厚であり、その行動は規則を守った。帝(太宗)は諸公主に勅してみならうように命じた。役人が別第の造営を告げたとき、「婦人は舅・姑につかえることは父母のようにしなければなりません。宮を異にすれば、できなかったり欠けたりすることがあるでしょう」と述べた。そのため造営をやめて元の邸宅のままとし、門列には二つの戟があるのみであった。蕭鋭が亡くなると、さらに姜簡にとついだ。永徽二年(651)に薨去し、高宗は命婦朝堂にて挙哀し、工部侍郎の丘行淹を遣わして逓送して弔祭し、昭陵に陪葬した。喪列が故城にいたると、帝(高宗)は楼に登って望見し、泣いて柩を見送った。 汝南公主は、早く薨去した。 南平公主は、王敬直にとつぎ、王敬直が連座して嶺南に流されると、さらに劉玄意にとついだ。 遂安公主は、竇逵にとついだ。竇逵が死ぬと、また王大礼にとついだ。 長楽公主は、長孫沖にとついだ。帝は長孫皇后から生まれたことから、勅によって役人に命令して、送別の金銭を、長公主の倍の額にしようとした。魏徴は言った、「昔、漢の明帝は諸王を封じた時、『朕の子は先帝の子と同じような領地を得られるだろうか?』と言いました。ですから長公主というのは、公主で最も尊いものです。制には等差というものがあり、どうして越えることができましょうか?」と。帝は后に語り、后は言った「陛下が魏徴を厚遇する理由はわかりませんでしたが、今その言を聞ききましたが、公主を礼義上の内におさめるというのは、社稷の臣ならではの言です。妾は陛下との間は夫婦の交わりがありますが、それでも言わなければならないことがあれば、なおも顔色を伺うのです。ましてや臣下の情は特別の待遇をへだてて、あえて厳顔をおかして忠言を述べるのです。願わくはこれを許されて、天下にこれを公けにしてください」と。帝は大いによろこび、帛四百匹・銭四十万を魏徴の家に賜った。 豫章公主は、唐義識にとついだ。 比景公主は、始め巴陵に封ぜられた。柴令武にとつぎ、房遺愛の反乱計画にともに連座して、公主も同じく死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈され、墓に廟を立てられ、四時祭では少牢(羊と豚)をお供えした。 普安公主は、史仁表にとついだ。 東陽公主は、高履行にとついだ。高宗が即位すると、大長公主に進んだ。韋正矩が誅されると、公主は婚家に連座して、排斥されて集州に徙された。また章懐太子に連座して、邑封を剥奪された。長孫無忌の舅族であったから、武后に憎まれ、垂拱年間(685-688)、二子とともに巫州に徙し置かれた。 臨川公主は、韋貴妃から生まれた。周道務にとついだ。公主は篆書・隷書にすぐれ、文章をよくした。高宗が立つと、『孝徳頌』を奉り、帝から詔を下されて褒賞にあずかった。永徽初年(650)、長公主に進み、恩賞は他より秀でていた。永淳初年(682)に薨去した。 周道務は、殿中大監・譙郡公周範の子である。はじめ周道務は乳幼児の時、功臣の子であるから宮中にて養われた。周範が卒すると、邸宅に戻り、喪に服して身が衰える様子は成人のようであった。再び宮中に戻り、十四歳の時に宮中を出た。営州都督、検校右驍衛将軍を歴任した。謚を襄という。 清河公主は、名を敬、字を徳賢といい、程懐亮にとつぎ、麟徳年間(644-645)薨去し、昭陵に陪葬された。程懐亮は、程知節の子であり、寧遠将軍に終わった。 蘭陵公主は、名を淑、字を麗貞といい、竇懐悊にとつぎ、顕慶年間(656-661)に薨去した。竇懐悊は官は兗州都督となり、太穆皇后の族子であった。 晋安公主は、韋思安にとつぎ、また楊仁輅にとついだ。 安康公主は、独孤諶にとついだ。 新興公主は、長孫曦にとついだ。 城陽公主は、杜荷にとつぎ、太子李承乾の事件に連座して杜荷が処刑されると、また薛瓘にとついだ。 はじめ公主が結婚の時、帝は占わせた。占いには「二火みな食す。始めは同じく栄え、末は同じく悲しむ。昼の暗い時に請ずれば吉である」とあった。馬周は諫めて言った、「朝謁を朝にするのは、思相が戒だからです。講習を昼にするのは、思相が成だからです。宴会を暗くなってからするのは、思相が歓だからです。婚礼を夜にするのは、思相が親だからです。だから上下には成があり、内外には親があり、動いたり休んだりするのは時があり、吉凶には儀があります。今さきにその始めを乱すようなことはしてはなりません。占いというのは疑いや迷いを決するためであって、もし礼をけがして先に乱すというのは、聖人の用いないことです」と。よって帝は止めにした。 麟徳年間(644-645)初頭、薛瓘は左奉宸衛将軍を歴任した。公主が巫蠱のことに連座したため、薛瓘も房州刺史に左遷され、公主も従った。咸亨年間(670-674)、公主は薨去して薛瓘もまた卒した。柩を並べて京師に帰った。 子の薛顗は、河東県侯・済州刺史に封じられた。琅邪王李沖が挙兵すると、顗と弟の薛紹は所領の庸・調より兵士を募り、かつこれに応じた。琅邪王沖が敗れると、都吏を殺して口封じしたが、事は露見し、獄に下されてともに死んだ。 合浦公主は、始め高陽に封ぜられた。房玄齡の子の房遺愛にとついだ。公主は帝に愛され、そのため礼は他の婿とは異なっていた。公主愛されていたから驕りたかぶっていた。房遺直は嫡子であるから銀青光禄大夫となっていたが、弟の房遺愛に譲ろうとし、帝は許さなかった。房玄齢が卒し、公主は遺愛に財産を異にさせ、かえって罵った。房遺直は自ら申し出たため、帝は叱責して公主に譲らせたため、免れることができた。これよりよそよそしくなり、公主は心が晴れ晴れしなかった。たまたま御史が盜みを弾劾し、僧弁機が金宝神枕を得て、自ら公主より賜ったと言っていた。はじめ寺院の封地にて、公主と房遺愛が猟をし、これを見て喜び、その寺に隠れては乱交にふけった。さらに二女子を房遺愛に従わせ、食糧を横流しして私すること億を数えた。ここにいたって僧は死罪となり、奴婢十余人も殺された。公主はますますうらみ、帝が崩じても哀みの顔色もなかった。 また僧智勗は迎合して禍福を占い、恵弘はよく鬼神を見、道士李晃が医術をよくし、みな密かに公主に侍った。公主は掖廷令の陳玄運をして宮省の禨祥をうかがい、星次を歩いた。永徽年間(650-651)、房遺愛と謀反し、死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈された。 金山公主は、早く薨去した。 晋陽公主は、字を明達、幼字を兕子といい、文徳皇后から生まれた。よろこびや難しげな顔色をみせず、帝は怒り叱責することがあるたびに、必ず公主の顔をみると徐々に怒りがとけたから、省中は多くその恩恵を蒙り、誉め愛されないということはなかった。后が崩じた時、公主はまだ乳幼児だったからこれを理解しなかったが、五歳になると、后と遊んだ地をみるたびに哀しみにたえなかった。帝の諸子のなかで、ただ晋王(後の高宗)と公主が最年少であったから、親しく遊び、晋王が邸宅を出るたびに公主は虔化門で見送って泣いて別れた。晋王が幼年となって、朝堂に班ぶと、公主は泣いて「お兄ちゃんは群臣と同じになっちゃって、宮中にはかえってこないの?」と言った。帝もまた涙を流した。公主は帝の飛白書を臨模したが、下々の者にはどちらが帝か公主かわからなかった。薨じたとき年十二歳であった。帝はひと月の間食事もままならず、日に数十回悲しみ、そのためやせ衰えた。群臣は励ましたが、帝は「朕がどうして悲しむことが無意味だと知らないとでもいうのだろうか?それでも悲しみがやまないのだ。私もまたその理由がわからないのだ」と言った。よって役人に詔して公主の皇族領を記録させ、仏寺のに墓を営んだ。 常山公主は、とつがないうちに、顕慶年間(656-661)に薨去した。 新城公主は、晋陽公主の同母妹である。長孫詮にとつぎ、長孫詮は罪によって巂州に徙された。さらに韋正矩に嫁し、奉冕大夫となった。韋正矩は公主に会っては礼をもってせず、突然薨去した。高宗は三司雑治に詔し、韋正矩は弁解することができなかったから、誅殺された。皇后の礼をもって昭陵の旁らに葬られた。 高宗に三女があった。 義陽公主は、蕭淑妃から生まれ、権毅にとついだ。 高安公主は、義陽公主の同母妹である。始め宣城に封ぜられた。潁州刺史の王勗にとついだ。天授年間(690-692)、王勗は武后に処刑された。神龍年間(707-710)初頭、長公主に封ぜられ、実封千戸となり、府を開いて官属を設置された。睿宗が即位すると、さらに千戸を増封された。開元(713-741)の時に薨じた。玄宗は暉政門にて哭し、鴻臚寺に持節を遣して弔問させ、京兆尹に鴻臚寺を率いさせて喪事を護衛した。 太平公主は、則天武皇后から生まれ、武后は諸公女のうちことのほか彼女を愛した。栄国夫人(武后の母)が死ぬと、皇后は公主を道士にさせ、冥福を祈らせた。儀鳳年間(676-679)に吐蕃が公主を降嫁させることを要請したが、武后は夷狄に捨て去るようなことはしたくはなく、本当に宮を築いて、方士のように薰戒させ、和親の事を拒んだ。しばらくして公主は紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけて帝の前で歌い舞った。帝と武后は大笑して「この子は武官になれなければ、いったいお前はどうするのかのか?」と言った。公主は「駙馬(公主の夫)を賜わればいいのでは?」といった。帝はその思いを知り、薛紹を娶せ、万年県を婚館とし、門には人が多く集まってしまい翟車を収容できなくなったから、役人は垣を壊して入れるようにし、興安門よりかがり火を設置したから道の並木は枯れてしまった。薛紹が死ぬと、さらに武承嗣に嫁したが、武承嗣が病気となったため、武后は武攸曁の妻を殺して、武攸曁を公主の配偶者とした。公主は額が四角く顎がひろく、陰謀を多くし、母の武后は常に「私に似ている」と言っており、公主と内に謀とともにし、外には恐れられたから、武后の世が終わるまで他に非難する者などいなかった。 永淳年間(682-683)以前、親王は実戸八百をはみ、増えても千戸止まりであり、諸公主は三百を超えなかったが、太平公主はひとりさらに戸五十を加え、聖暦年間(698-700)には三千戸に及んだ。張易之・張昌宗の誅殺に功績があり、鎮国の号を贈られ、相王(後の睿宗)とならんで五千となり、また婚家の薛・武の二家の娘もみな実封をはんだ。公主と相王・衛王・成王・長寧公主・安楽公主はみな衛士を給せられ、邸宅の周囲は十歩を一区とし、兵を持って衛らせ、ひそかに宮省にあやかった。神龍年間(705-707)には長寧公主・安楽公主・宜城公主・新都公主・定安公主・金城公主の七公主は、みな府を開いて官属を置いた。安楽公主は戸数は三千にいたり、長寧公主は二千五百、府を開いたが長史は設置しなかった。宜城公主・定安公主は韋后からの生まれではなかったから、戸は二千止まりであった。公主の三子の薛崇簡・武崇敏・武崇行はみな三品を叙位された。 韋皇后・上官昭容の変事に、謀は公主の所から出たため、功は公主に遠く及ばず、これを憚った。公主はまた自ら我慢して必ず勝てるようにしたから、ますます専横となった。ここに天下の士を推薦し、儒者は多くが貧しいからと言って、厚く金帛を持たせて謝礼とし、大議を動かしたから、遠近より多くの者が集まって靡いた。 玄宗が韋氏を誅殺しようとして、公主と秘計をともにし、公主は子の薛崇簡を遣わして従わせた。事が定まり、まさに相王(睿宗)が即位しようとしたとき、そのことを言い出そうとする者がいなかった。公主は温王(少帝)とその子をかえりみて、おどすようにして功績をたてた。温王にまみえて、「天下の事は相王に帰した。玉座は子供が座っているようなところではない」といい、温王を助けて下り、乘輿と服をとって睿宗に進めた。睿宗は即位し、公主の権はこれによって天下を震わせ、実封を加えて一万戸にもいたり、三子は王に封じられ、他は皆祭酒・九卿となった。 公主は奏事するごとに、漏刻(水時計)がしばしば時を刻んでからようやく退出したが、公主の申すところは皆従った。人物を論じて薦めると、ある者は寒門より順序を踏まず一足飛びに侍従となったから、将相はきびすをめぐらせて足を運んだ。朝廷の大政の事は関わり決しないことは下さず、謁見しない間、すなわち宰相は公主の邸宅に就いて咨判を請い、天子はほとんど裁可するだけであった。公主は武后に侍ること久しかったから、前後の策を公主が人にわずかに指示するだけで、先事はすべて適合し、あたらないことはなかった。田園はあまねく都近郊にあり、すべて肥沃な土地であった。呉・蜀・嶺嶠の市で器をつくらせて用い、州県に護送させ、道に向かい合うほどであった。天下の珍しい奇怪な物は家に満ち、宴会の歌妓は天子と等しかった。仕える侍児は白い細絹を引き摺っている者が数百、奴婢や老女が千人、隴右の牧馬は万匹を数えた。 長安の僧慧範が蓄財すること千万、権力を持つものと仲が良く、もとより張易之と親しかった。張易之が誅されると、ある者は彼が陰謀に関与した言うものもあり、上庸公に封じられ、月々俸禄を給付された。公主の乳母と密通し、奏上により抜擢されて三品御史大夫となり、御史の魏伝弓がその悪事を弾劾したため四十万を贓ったが、死刑を求刑した。中宗は赦そうと思ったが、魏伝弓は「刑や賞というのは、国の大事であって、陛下は賞をすでに妄りに加えられています。また死刑を廃そうとするのは、天下になんと言い訳すればいいのでしょうか?」と奏進したから、帝はやむをえず、銀印青綬(三品御史大夫)の階を削った。大夫の薛謙光は慧範の不法を弾劾し、公主が申理をして、そのため薛謙光らはかえって罪を得た。 玄宗が太子監国となり、宋王李憲・岐王李範に禁兵を統轄させた。公主は権力を分けられたのを恨み、乗輦(睿宗)が光範門に至ると、宰相を召喚して廃太子を申した。ここに宋璟・姚元之は喜ばず、公主を東都より出すことを請うたが、帝は許さず、詔して公主を蒲州を居らさせた。公主は大いに望んだが、太子はおそれた。奏上して宋璟・姚元之を排斥し、これで恨みを収めた。監察御史の慕容珣がまた慧範の事を弾劾したが、帝は慕容珣が骨肉離間しようとしていると疑ったから、密州司馬に左遷した。公主が都より出ていること四箇月、太子が上表したから京師に帰った。 当時の宰相の七人のうち、五人は公主の門下より出ていた。また左羽林大将軍の常元楷・知羽林軍の李慈は皆公主に私淑しており、公主は内心では太子の聡明さを嫌っていた。また宰相はみなその郎党であり、そのため逆謀した。先天二年(713)、尚書左僕射の竇懐貞・侍中の岑羲・中書令の蕭至忠と崔湜・太子少保の薛稷・雍州長史の李晋・右散騎常侍昭文館学士の賈膺福・鴻臚卿の唐晙および常元楷・李慈・慧範らが廃太子をたくらみ、常元楷・李慈をして羽林兵を挙兵させて武徳殿に突入させて太子を殺し、竇懐貞・岑羲・蕭至忠が南衙で挙兵して応じる、というものであった。すでに数日をへて、太子はそのたくらみを知って、岐王李範・薛王李業・兵部尚書の郭元振・将軍の王毛仲・殿中少監姜皎・中書侍郎の王琚・吏部侍郎の崔日用が計画を定めた。その前日、王毛仲が宮中の閑馬三百をとり、太僕少卿の李令問と王守一・内侍の高力士・果毅都尉の李守徳が虔化門を叩き、常元楷・李慈を北闕の下に梟首し、賈膺福を内客省にて拘束し、岑羲・蕭至忠を朝堂で捕らえて斬った。よって天下に大赦した。公主は変を聞き、逃亡して南山に入ったが、三日して出て来て、自邸にて死を賜った。諸子および党派の死者は数十人におよんだ。その田畑・財産を記録すると、珍宝は山のようであり、子に監督して貸与させていたが、三年たっても尽きることはなかった。 子の薛崇簡はもとより公主の謀を知っていたから諫めたが、公主は怒り、拷問して鞭打ったから、ここにいたって官爵を復し、氏は李姓を賜った。 はじめ公主は観池として楽游原をつくり、人々が盛んに集まった。公主が敗れると、寧王李憲・申王成義・岐王李範・薛王李業の四王兄弟に賜り、都の人は歳末の祓にこの地で禊した。 中宗に八女があった。 新都公主は、武延暉にとついだ。 宜城公主は、始め義安郡主に封ぜられた。裴巽にとついだ。裴巽には愛妾がおり、公主は怒って、耳をきり鼻をそぎ、かつ裴巽の髮を切った。帝は怒り、公主を排斥して県主とし、裴巽もまた左遷された。しばらくしてまた元通りに封ぜられた。神龍元年(705)、長寧公主・新寧公主・安楽公主・新平公主とともにみな進封された。 定安公主は、始め新寧郡主に封ぜられた。王同皎にとついだ。王同皎が罪をえると、神龍年間(705-707)、また韋濯にとついだ。韋濯は韋皇后の従祖弟にあたり、衛尉少卿として処刑されると、さらに太府卿の崔銑にとついだ。公主は薨去し、王同皎の子は父とともに合葬されることを請うたが、給事中の夏侯銛は「公主は王家の廟と義絶しており、恩は崔家の室となっています。逝った者は知ったならば、王同皎はまさにあの世で拒むでしょう」と言った。崔銑があるとき帝に訴えたから、そのことは沙汰止みとなったが、夏侯銛は連座して瀘州都督に左遷された。 長寧公主は、韋庶人から生まれ、楊慎交にとついだ。東都(洛陽)に邸宅を造営し、楊務廉をして造営の総監督とした。邸宅が完成すると府の財はいくばくか枯渇し、楊務廉を抜擢して将作大匠に任命した。また西京(長安)の高士廉の邸宅と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、右は都城に、左は大道にうつむき、三重の楼閣を立てて展望とし、山を築いて池を浚った。帝および韋后はしばしば臨幸し、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場をつくった。 東都が永昌県を廃すると、公主はその治を自身の府とするよう請願し、その地は洛陽に瀕しており、これに鄣(障壁か)を築き、崇台・蜚観を連ね、考えもせずに二十万もの大金を費やした。魏王李泰の旧邸は東西一坊、溜池は三百畝に及んだが、魏王李泰が薨去したため、民間に与えられた。ここによって公主は請うて魏王李泰の旧邸を得て、亭閣を築いて、偽って「西京を囲った柵」であるとした。内には母の愛をたより、寵愛は一朝を傾け、安楽公主・宜城公主の二公主、韋后の妹の郕国夫人・崇国夫人と争任の事をともにし、賄賂が飛び交った。東都の邸宅が落成したが、住むことがなく、韋后が敗亡すると、楊慎交は左遷されて絳州別駕となり、公主も共に赴き、東都の邸宅を景雲祠とすることを請い、西京の邸宅を売却したが、木石の値段の評価額は銭二十億万にも及んだ。 開元十六年(728)、楊慎交が死ぬと、公主はさらに蘇彦伯に嫁した。楊務廉がついに数十万もの坐贓(受諾収賄罪)によって終身免職となった。 永寿公主は、韋鐬にとついだ。早く薨去し、長安年間(701-705)初頭に追贈された。 永泰公主は、郡主として武延基にとついだ。大足年間(701)、張易之にさからい、武后に殺された。帝が追贈し、礼をもって改葬し、墓を号して陵とした。 安楽公主は、最も幼いむすめであった。帝が房陵に流罪となったときに公主は生まれ、衣をほどいて褓(おくるみ)としたから、名を裹児といった。眉目秀麗かつ聡明で、韋皇后が最も愛した子であった。武崇訓にとついだ。帝が復位すると、艶やかさは天下を動かし、侯王柄臣は多くその門より出た。かつて詔によって門前を塞ぐべく帝の裁可を請うたが、帝は笑って従った。また皇太女とするよう請うた。左僕射の魏元忠が諫めた。公主は「魏元忠は山東の無骨者で、カラスなんぞに国事を論ずるに足るでしょうか?武氏のお子がなお天子になったというのに、天子が女であることにいけないことなどありますか?」と言った。太平公主ら七公主とともに皆府を開いたが、安楽公主府の官属はむやみに多くいて、みな身分の低い者から出た。財産を納めた者に売官し、墨勅斜封をくだして授けた。そのため斜封官といった。 公主は邸宅と安楽仏廬を造営し、その方式は宮省を模倣し、工事は精巧でこれ以上の物はなかった。かつて昆明池を自分の沼にするよう請うたが、帝は「先帝はいままで人に与えたことはなかった」といったから公主は不機嫌となり、自ら昆池を定めて開鑿し、広げ延ばすこと数里。定まってから言上し、抗うべくただした。司農卿の趙履温が修繕して、石を重ねて肖華山とし、階段・丸木橋をかけ、渕をめぐらすこと九度、石で噴水をつくった。また宝玉の火鉢をつくり、怪獣・神禽を彫刻し、その間を螺鈿・珊瑚で飾りたてるなど、言いつくすことができないほどであった。 武崇訓が死ぬと、公主は平素より武延秀と不倫していたから、即時武延秀に嫁した。この日、后の車輅(天子の車)が宮より出て公主の邸宅に至り、帝と韋皇后は安福門に御して臨観し、雍州長史の竇懐貞に詔して礼会使とし、弘文館学士に挨拶をし、相王(後の睿宗)は車をふさいた。捐て賜わった金帛は計り知れなかった。翌日、群臣と太極殿に会し、公主は翠服を着て出て、天子に向かって再拝した。南面して公卿に拝し、公卿は皆地に伏せて稽首した。武攸曁と太平公主とともに舞って帝の寿を祝った。群臣に帛を数十万賜った。帝は承天門に出御し、大赦し、よって民に宴を賜うこと三日、内外の官に勲を賜い、礼官の属によって階・爵を兼任させた。臨川長公主の邸宅を奪って邸宅とし、その一方で民家を撤去し、怨嗟の声は傲然とした。邸宅が完成すると、宮中の金庫は尽きて空しくなり、臨時に一万もの騎仗をならべ、宮中に音楽を奏でて公主を邸宅に送り、天子は親ら行幸し、近臣と宴した。崇訓の子はわずか数歳で太常卿を拝命し、鎬国公に封ぜられ、実封は戸五百であった。公主の産後に帝と后は再度邸宅に行幸し、天下に大赦した。 公主と長寧公主・定安公主の三家の家奴は民間の子女を拉致して奴婢とし、左台侍御史の袁従一は逮捕して獄に下した。公主は入朝して訴え、帝は手ら詔して赦免した。袁従一は「陛下は公主の訴えをいれられましたが、ほしいままに家奴や平民をさらったら、どうやって天下を治めるというのでしょうか?臣は、家奴を釈放すれば禍を免れ、家奴を弾劾すれ公主は罪を得てしまうということをわかっていますが、だからといって陛下の法を曲げるには忍びないのです。私は恥を忍んで生き長らえるのです」と言ったが、受け入れられなかった。 臨淄王隆基(後の玄宗)が庶人(韋皇后)を誅殺した時、公主はまさに鏡をみながら眉をつくっていた。乱を聞いて、逃走して右延明門に至ったが、兵に追いつかれ斬首された。追貶して「悖逆庶人」と称された。睿宗が即位すると、詔して二品の礼によって葬られた。 趙履温は諂って公主に仕えかつて朝服をはいで、車を曳いたことがあった。庶人(安楽公主)が死ぬと、承天門で舞い踊って万歳と唱えたが、臨淄王隆基(後の玄宗)はこれを斬殺し、父子は同じく刑された。百姓は病気に効き目があるとして、その肉を割り取って行った。 成安公主は、字を季姜といった。始め新平に封ぜられた。韋捷にとついだ。韋捷は韋皇后の従子として処刑され、公主はのちに薨去した。 睿宗に十一女があった。 寿昌公主は、崔真にとついだ。 安興昭懐公主は、早く薨去した。 荊山公主は、薛伯陽にとついだ。 淮陽公主は、王承慶にとついだ。 代国公主は、名を華、字を華婉といい、劉皇后から生まれた。鄭万鈞にとついだ。 涼国公主は、字を華荘といい、始め仙源に封ぜられた。薛伯陽にとついだ。 薛国公主は、始め清陽に封ぜられた。王守一にとついだ。王守一が処刑されると、さらに裴巽にとついだ。 鄎国公主は、崔貴妃から生まれた。三歳のとき貴妃が薨去すると、哭泣して三日食わず、成人のようであった。始め荊山に封ぜられた。薛儆にとつぎ、また鄭孝義にとついだ。開元年間(713-741)初頭、封邑が千四百戸にいたった。 金仙公主は、始め西城県主に封ぜられた。景雲年間初頭(710-712)に進封された。太極元年(712)、玉真公主とともに道士となり、京師に道観を築き、方士の史崇玄を師とした。史崇玄はもとは寒人で、太平公主につかえて、禁中に出入りすることができ、鴻臚卿に任ぜられて、威光は重なり、道観を建造するにあたって、詔して史崇玄に監督させ、日に一万人を動員した。多くの仏僧がこれをねたみ、銭数十万で狂人の段謙を雇って承天門から乱入し、太極殿に昇って天子を自称させた。役人が逮捕すると、「崇玄をして我を来さしめた」といったが、詔して嶺南に流刑し、また僧・道士に勅して互いに争わないようにさせた。太平公主が敗れると、史崇玄は処刑された。 玉真公主は、字を持盈といい、始め崇昌県主に封ぜられた。にわかに上清玄都大洞三景師の号を進った。天宝三載(744)、上言して、「先帝は私に家を捨てることを許されました。今、公主の邸宅・食租賦をむさぼっていますが、誠に願わくば公主の称号をお返しし、食邑司を止め、これを国庫に返したいです」と言った。玄宗は許なかった。また「私は高宗の孫で、睿宗の娘で、陛下の妹で、天下に卑しからざる者です。どうして公主の号や湯沐料で名をつなぐ必要がありましょうか。それがなければ貴いとされないのでしょうか?願わくは数百家の産を入れ、功徳で十年の命を延ばしたいのです」と言い、帝はその深厚なる心を知って、これを許した。宝応年間(762-763)に薨去した。 霍国公主は、裴虚己にとついだ。 玄宗に二十九女があった。 永穆公主は、王繇にとついだ。 常芬公主は、張去奢にとついだ。 孝昌公主は、早く薨去した。 唐昌公主は、薛鏽にとついだ。 霊昌公主は、早く薨去した。 常山公主は、薛譚にとつぎ、また竇沢にとついだ。 万安公主は、天宝(742-756) のとき道士となった。 開元の新制では、長公主は封戸二千、帝の妹は戸千、率は三丁を以て限とした。皇子王は戸二千、公主はその半分であった。事情によってさらに減じられた。玄宗は「百姓の租賦は朕のあるところではなく、士は万死の功によって、賞はようやく束帛をもらえるに過ぎない。女は何の功があって多大の封戸を受けるのであろうか?倹約することも知らしめるのは、またできないことではないのだろうか?」といい、これによって公主はほとんど車服を給付されなかった。後に咸宜公主は母の愛によって封を増加されて千戸に至り、諸公主もみな増加し、これより令に著されることとなった。公主で下嫁しないものは、また千戸を封ぜられ、有司に奴婢を給されることは令の通りであった。 上仙公主は、早く薨去した。 懐思公主は、早く薨去し、台を築いて葬られ、登真と号した。 晋国公主は、始め高都に封ぜられた。崔恵童にとついだ。貞元元年(785)、衛・楚・宋・斉・宿・蕭・鄧・紀・郜国の九公主とともに同じく徙封された。 新昌公主は、蕭衡にとついだ。 臨晋公主は、皇甫淑妃から生まれた。郭潜曜にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 衛国公主は、始め建平に封ぜられた。豆盧建にとつぎ、また楊説にとついだ。貞元年間(785)に薨去した。 真陽公主は、源清にとつぎ、また蘇震にとついだ。 信成公主は、独孤明にとついだ。 楚国公主は、始め寿春に封ぜられた。呉澄江にとついだ。上皇が西宮に居るとき、ひとり公主は入侍した。興元元年(784)、請うて道士となり、詔があって裁可され、名を上善と賜った。 普康公主は、早く薨去した。咸通九年(868)に追封された。 昌楽公主は、高才人から生まれた。竇鍔にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 永寧公主は、裴斉丘にとついだ。 宋国公主は、始め平昌に封ぜられた。温西華にとつぎ、また楊徽にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 斉国公主は、始め興信に封ぜられ、寧親に徙封された。張垍にとつぎ、また裴潁にとつぎ、最後には楊敷にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 咸宜公主は、貞順皇后から生まれた。楊洄にとつぎ、また崔嵩にとついだ。興元年間(784)に薨去した。 宜春公主は、早く薨去した。 広寧公主は、董芳儀から生まれた。程昌胤にとつぎ、また蘇克貞にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 万春公主は、杜美人から生まれた。楊朏にとつぎ、また楊錡にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 太華公主は、貞順皇后から生まれた。楊錡にとついだ。天宝年間(742-756)に薨去した。 寿光公主は、郭液にとついだ。 楽城公主は、薛履謙にとつぎ、嗣岐王李珍の事件に連座して処刑された。 新平公主は、常才人から生まれた。幼いころより聡明で、習って図訓を知り、帝は賢いとした。裴玪にとつぎ、また姜慶初にとついだ。姜慶初は罪を得て、公主も禁中に幽閉された。大暦年間(766-779)に薨去した。 寿安公主は、曹野那姫から生まれた。妊娠九か月で生まれ、帝はこれを嫌って、詔して道士が着る衣羽服を与えた。代宗が広平王の時に入謁したが、帝は名前で公主を呼んで、「蟲娘よ、お前には後で名前を与えるべきだ。広平王は霊州にいるから封を願いなさい」と言った。蘇発にとついだ。 粛宗に七女があった。 宿国公主は、始め長楽に封ぜられた。豆盧湛にとついだ。 蕭国公主は、始め寧国公主に封ぜられた。鄭巽にとつぎ、また薛康衡にとついだ。乾元元年(758)、回紇(ウイグル)の英武威遠可汗に降嫁し、公主府を設置した。乾元二年(759)、帰朝した。貞元年間(785)、府属を譲ったが、さらに邑司を設置された。 和政公主は、章敬太后から生まれた。生まれて三歳、后は崩じ、韋妃に養育された。性格は聡明で、妃につかえて孝ありと称された。柳潭にとついだ。安禄山が京師を陥落させると、寧国公主(蕭国公主)は寡婦で暮らしていたから、公主は自身の三子を捨て、夫柳潭の馬を奪って寧国公主を乗せ、自身は柳潭とともに歩くこと日に百里、柳潭は水薪を背負い、公主は竈を背負い、寧国公主を守った。 それより以前、柳潭の兄の柳澄の妻は、楊貴妃の姉(秦国夫人)であり、勢いは国政を傾けるほどであったが、公主はいまだかつて私事で助けを求めたことがなかった。夫人が死ぬと、その子供を撫育することは自身が産んだ子のようであった。玄宗に従って蜀に至り、始め封を受け、柳潭も駙馬都尉に任じられた。郭千仞が反乱すると、玄宗は玄英楼に御して諭して降伏させようとしたが、聞かなかったため、柳潭は折衝の張義童らを率いてとくに死闘し、公主も弓を射当てて柳潭をたすけ、柳潭は手ずから賊を斬ること五十人で、これを平定した。 肅宗が病となると、公主はその左右に侍って看病に励んだから、詔して田を賜ったが、妹の宝章公主)がいまだに賜っていないことを理由に、固く譲ってあえて受けなかった。阿布思の妻が後宮に入れられ、帝が宴すると緑の衣を着て歌わされていた。公主は諫めて「阿布思は本当の逆人で、妻を至尊にお近くに入れてはなりません。罪なくして大勢とともに歌わせていいのでしょうか」と。帝はそのため許して宮中より出した。自ら兵を養い、財を用立てて費やし、公主は貿易によって得た利益千万をとって軍をうごかした。帝の山陵の造営するに及んでは、また食邑を奉って千万を入れた。 代宗が即位すると、しばしば人間の利病・国家の盛衰の事をのべ、天子は受け入れた。吐蕃が京師に侵入すると、公主は避難して南に逃げ、商於にいたると群盜に遭遇し、公主は禍福を諭したから、皆ひざまずいて奴となることを願った。代宗は公主が貧しいから、諸節度使に詔して贈物させたが、公主はすべて受け取らなかった。自ら裳衣の綻びを縫い合わせ、諸子にも練り絹や細かい葛の服を着せなかった。広徳年間(763-764)、吐蕃が再び入寇したとき、公主は妊娠中で、入朝して辺境への備えの計略を語ろうとし、柳潭は強くとめたが、公主は「あなただけはお兄さんがいないというのですか?」といい、内殿に入った。翌日、出産して薨去した。 郯国公主は、始め大寧に封ぜられた。張清にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 紀国公主は、始め宜寧に封ぜられた。鄭沛にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永和公主は、韋妃から生まれた。始め宝章に封ぜられた。王詮にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 郜国公主は、始め延光に封ぜられた。裴徽にとつぎ、また蕭升にとついだ。蕭升が亡くなると、公主と彭州司馬の李万は乱倫にふけり、しかも蜀州別駕の蕭鼎・澧陽令の韋惲・太子詹事の李衛はみな公主の家に私侍した。しばらくして不祥事を聞いて徳宗は怒り、公主を他邸に幽閉し、李万を杖殺し、蕭鼎・韋惲・李衛を嶺表に流した。貞元四年(788)、また巫蠱での呪詛で廃された。貞元六年(790)に薨去した。子の蕭位は巫蠱の呪詛に連座し、端州に幽閉され、蕭佩・蕭儒・蕭偲は房州に捕らえらた。前夫の間に産んだ子の駙馬都尉の裴液は錦州にとらえられた。公主の娘は皇太子妃となり、帝は妃の怨みを恐れ、まさに殺そうとしたが、発覚する前にたまたま公主は薨去したから、太子(順宗)が病となっているすきに、妃を殺して災いを除いた。謚を恵といった。 代宗に十八女があった。 霊仙公主は、早く薨去し、追封された。 真定公主は、早く薨去した。追封された。 永清公主は、裴倣にとついだ。 斉国昭懿公主は、崔貴妃から生まれた。始め升平に封ぜられた。郭曖にとついだ。大暦年間(766-779)末年、寰内の民が涇水が磑壅(水車)のために灌漑田ができないことを訴え、京兆尹の黎幹が奏請した。詔して磑を撤去して水を民に与えた。当時公主および郭曖の家ではみな磑(うす)があり、残置を請うたが、帝は「私が民草のためか、もしくは諸親戚の訴えのためにすべきなのか」といって、即日毀し、これによって廃するところは八十所に及んだ。憲宗が即位すると、女伎を献じた。帝は「太上皇(順宗)は献を受けなかったが、朕はどうして敢えて違うというのか?」といい、返却した。元和年間(806-820)に薨去した。虢国を贈り、謚を賜った。穆宗が即位するとまた贈封した。 華陽公主は、貞懿皇后から生まれた。聡明なこと人より秀で、帝はこれを愛した。帝が喜ぶところを見ると、必ずよろこんだ。嫌うところがあれば曲げても迎合した。大暦七年(772)、病のため請願して道士となり、瓊華真人と号した。病が重く、帝は指を噛んで傷けた。薨去し、追封された。 玉清公主は、早く薨去し、追封された。 嘉豊公主は、高怡にとついだ。普寧公主とともに同時に降嫁し、役人はともに光順門で冊礼したが、雨のためにできず、中止した。建中年間(780-783)に薨去した。 長林公主は、衛尉少卿の沈明にとついだ。貞元二年(786)冊礼したが、徳宗は正殿に御さず、音楽も設けず、遂にこれが故事となった。元和年間(806-820)に薨去した。 太和公主は、早く薨去し、追封された。 趙国荘懿公主は、始め武清に封ぜられた。貞元元年、嘉誠に徙封された。魏博節度使の田緒にとつぎ、徳宗は望春亭に行幸して餞とした。厭翟車(公主の車)が破れて乗ることができなかったため、金根車(皇后の車)で代用した。公主が出降すると金根車に乗る慣例は、公主のときより始まった。元和年間(806-820)に薨去し、贈封と謚があった。 玉虚公主は、早く薨去した。 普寧公主は、呉士広にとついだ。 晋陽公主は、太常少卿の裴液にとついだ。大和年間(827-835)に薨去した。 義清公主は、秘書少監の柳杲にとついだ。 寿昌公主は、光禄少卿の竇克良にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 新都公主は、貞元十二年(796)に田華にとつぎ、光順門で礼し、令で定められた五礼はこれによって廃止された。 西平公主は、早く薨去した。 章寧公主は、早く薨去した。 徳宗に十一女があった。 韓国貞穆公主は、昭徳皇后から生まれた。幼くして親孝行につとめ、帝はこれを愛した。始め唐安に封ぜられた。秘書少監の韋宥にとつぐところだったが、朱泚の乱のためかなわず、このため城固にいたって薨去し、加封と謚があった。 魏国憲穆公主は、始め義陽に封ぜられた。王士平にとついだ。公主は勝手な振舞いで法をおかし、帝は公主を禁中に幽閉した。王士平を邸宅に禁錮した。しばらくして安州刺史を拝したが、民間との交わりで連座して、賀州司戸参軍に左遷された。門下客の蔡南史・独孤申叔が公主のために「団雪散雪の辞」をつくり離別の思いの手紙とした。帝は聞いて怒り、南史らを捕らえて放逐し、しばらくして進士科を廃止した。薨去し、追封と謚があった。 鄭国荘穆公主は、始め義章に封ぜられた。張孝忠の子の張茂宗にとついだ。薨去し、加贈と謚があった。 臨真公主は、秘書少監の薛釗にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永陽公主は、殿中少監の崔諲にとついだ。 普寧公主は、早く薨去した。 文安公主は、求めて道士となった。大和年間(827-835)に薨去した。 燕国襄穆公主は、始め咸安に封ぜられた。回紇の武義成功可汗にとつぎ、公主府を設置した。元和年間(806-820)に薨去し、追封と謚があった。 義川公主は、早く薨去した。 宜都公主は、殿中少監の柳昱にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 晋平公主は、早く薨去した。 順宗に十一女があった。 漢陽公主は、名を暢といい、荘憲皇后から生まれた。始め徳陽郡主に封じられた。郭鏦にとついだ。辞して邸宅に帰るとき、涕泣してどうすることもできなかった。徳宗は「お前に足りないことでもあるか?」と聞くと、答えて「離れることを思ってで、ほかに恨みはありません」と言った。帝もまた泣いて太子をかえりみて「ほんとうの子だな」と言った。 永貞元年(805)、諸公主とともに皆進封された。時に外戚や近臣はあらそって傲慢大言したが、公主はひとり倹約し、常に鉄の簪、壁画を用い、田租を記して入れた。文宗は最も世の中が奢侈に流れるのを憎み、よって公主を入朝させ問うた、「叔母上が着ている服は、何年のものか?今の弊害は何代にしてそうなったのだろうか?」と。公主は「私は貞元の時に宮を辞してより、服するところはみな当時賜ったもので、いまだかつてあえて変えていません。元和の後、しばしば兵を用いましたが、ことごとく禁蔵の纖麗物を出して戦士の賞としました、これによって民間に流出し、内外は互いに自慢しあったので、慣れてこのような風潮となったのです。もし陛下がよしとするところを天下にお示しあれば、誰があえて変えようとするでしょうか?」と答えた。帝は喜び、宮人に詔して公主の衣の広狭のつくりをみせ、ひとえに諸公主を諭し、かつ京兆尹に勅して華美を禁じた。公主はかつて諸皇女を戒めて「亡き姑(昇平公主)が申していましたが、私もお前もみな帝の子である。えらそうにして貴顕であることを奢れば、戒めなくてはならなくても頼みとはしてくれないだろうと」と言った。開成五年(840)に薨去した。 梁国恭靖公主は、漢陽公主と母を同じく生まれた。始め咸寧郡主に封ぜられ、普安に徙封された。鄭何にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 東陽公主は、始め信安郡主に封ぜられた。崔杞にとついだ。 西河公主は、始め武陵郡主に封ぜられた。沈翬にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 雲安公主は、また漢陽公主と同じく生まれた。劉士涇にとついだ。 襄陽公主は、始め晋康県主に封ぜられた。張孝忠の子の張克礼にとついだ。公主は雄健奔放で、常に市や里にお忍びで行った。薛枢・薛渾・李元本はみな密通して侍ったが、薛渾を最も愛し、薛渾の母に会うと姑のようであった。役人は難詰しようとしたから、多くの金を与え、暴かれないようにさせたが発覚し、夫の張克礼は奏上して、穆宗は公主を禁中に幽閉した。李元本は功臣李惟簡の子であるから、死を免じて象州に流刑とし、薛枢・薛渾は崖州に流刑とした。 潯陽公主は、崔昭儀から生まれた。大和三年(829)、平恩公主・邵陽公主の二公主とともにそろって道士となり、一年に封物七百匹を賜った。 臨汝公主は、崔昭訓から生まれた。早く薨去した。 虢国公主は、始め清源郡主に封ぜられ、陽安に徙封された。王承系にとついだ。薨去し、追封された。 平恩公主は、早く薨去した。 邵陽公主は、早く薨去した。 憲宗に十八女があった。 梁国恵康公主は、始め普寧に封ぜられた。帝は特に彼女を愛した。于季友にとついだ。元和年間(806-820)に永昌にうつった。薨去し、詔により追封と謚があった。葬られるときに、度支使(財賦の調達と出納を担当した使職)が義陽公主と義章公主の葬儀に銭四千万が用いられたと上奏したので、詔によって銭千万を減らされた。 永嘉公主は、道士となった。 衡陽公主は、早く薨去した。 宣城公主は、沈𥫃にとついだ。 鄭国温儀公主は、始め汾陽に封ぜられた。韋譲にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 岐陽荘淑公主は、懿安皇后から生まれた。杜悰にとつぎ、帝は公主のために正殿に御して臨遣し、西より朝堂を出て、再び延喜門に御し、公主の車を止め、大いに賓客・従者に金銭を賜った。邸宅を昌化里に建造し、龍首池から水を水路で引き入れて沼とした。懿安皇后の家は尚父(郭子儀)で、大通里の亭を公主の別館とした。貴きことは当世を震わせた。しかし公主が舅姑に仕えることは礼を以て聞き、賜わった奴婢は自由のびのびとさせ、皆上に返却し、直接請うて自ら市場に出かけた。杜悰は澧州刺史となり、公主は共に任地に赴き、従者は二十婢を超えなかった。驢馬に乗り、肉食せず、州県には必要な事柄がそなわっているから、それ以外の物は拒んで受けなかった。姑が病となって寝たきりとなると、公主は着替えもせず、薬は自分で嘗めて確認しなければすすめなかった。開成年間(836-841)、杜悰は忠武軍より入朝したが、公主は病に侵されており、「願わくは興慶宮に入朝できれば、道に死すといえども恨みません」と言い、途中で薨去した。 陳留公主は、裴損にとついだ。裴損は太子諭徳となった。 真寧公主は、薛翃にとついだ。 南康公主は、沈汾にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 臨真公主は、始め襄城に封ぜられた。衛洙にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 普康公主は、早く薨去した。 真源公主は、始め安陵に封ぜられた。杜中立にとついだ。 永順公主は、劉弘景にとついだ。 安平公主は、劉異にとついだ。宣宗が即位すると、宰相は劉異を平盧節度使にしようとしたが、帝は「朕のただひとりの妹であり、会いたい時に彼女と会いたいのだ」といった。そこで中止した。後に異居外への赴任に従ったが、歳時には駱駝に乗って入朝することとなった。乾符年間(874-879)に薨去した。 永安公主は、長慶年間(821-825)初頭、回鶻の保義可汗に降嫁されることとなったが、たまたま可汗が死んだため、中止して行かなかった。大和年間(827-835)、求めて道士となり、詔して邑印を賜ることは、尋陽公主の故事の通りであり、かつ婚資に帰した。 義寧公主は、とつがないうちに薨去した。 定安公主は、始め太和公主に封ぜられた。回鶻の崇徳可汗にとついだ。会昌三年(843)来帰し、宗正卿の李仍叔・秘書監の李践方らに詔して景陵に報告させた。公主は次いで太原に奉ぜられ、詔して使の労をいたわり、黠衛斯(キルギス)が献ずるところの白貂皮・玉の指環をもって往賜した。京師に至り、百官に詔して迎謁再拝させた。邑司の官が命を受けて答拝する故事にならった。役人は議して「邑司の官は身分が低く、該当させるべきではない」と言った。群臣は公主の左右の上媵(おつき)に鬢の帛をつけて承拝することを請い、両襠(うちかけ)をつけて待命させた。また神策軍四百に行列させて、群臣に列班迎接させた。公主は輅(くるま)に乗って憲・穆の二廟室に謁し、涙を流してすすり泣き、退いて光順門に詣り、服をかえ、冠の宝鈿をはぎ、待罪し、自ら和親を申して書面にはしなかった。帝は中人を遣わして慰労させ、また冠の宝鈿をつけて入朝し、群臣は天子に祝賀を申し述べた。また興慶宮に詣でた。翌日、公主は太皇太后に謁し、長公主に進封し、ついに太和公主府は廃止となった。公主が始めて至った時、宣城公主以下、七公主は出迎えしなかった。武宗は怒り、絹で贖罪させた。宰相が「礼の始まりは宮中の女房部屋で、天下に行われ、王化の美です。願わくば史書に載せ、後世に示してください」と建言し、詔して裁可された。 貴郷公主は、早く薨去した。 穆宗に八女があった。 義豊公主は、武貴妃から生まれた。韋処仁にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 淮陽公主は、張昭儀から生まれた。柳正元にとついだ。 延安公主は、竇澣にとついだ。 金堂公主は、始め晋陵に封ぜられた。郭仲恭にとついだ。乾符年間(874-879)に薨去した。 清源公主は、大和年間(827-835)に薨去した。 饒陽公主は、郭仲詞にとついだ。 義昌公主は、道士となった。咸通年間(860-874)に薨去した。 安康公主は、道士となった。乾符四年(877)、公主が在外のためすこぶる人を騒がせるから、詔して永興公主・天長公主・寧国公主・興唐公主らとともに南内(興慶宮)に帰還させた。 敬宗に三女があった。 永興公主。 天長公主。 寧国公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 文宗に四女があった。 興唐公主。 西平公主。 朗寧公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 光化公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 武宗に七女があった。 昌楽公主。 寿春公主。 長寧公主は、大中年間(847-860)に薨去した。 延慶公主。 静楽公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 楽温公主。 永清公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 宣宗に十一女があった。 万寿公主は、鄭顥にとついだ。公主は帝の愛するところで、これより先に詔を下して、「先王の制礼は、貴賎がこれを共にした。万寿公主は舅姑に奉り、よろしく士人の法に従うべし」と。旧制では車輿は金銀の釦飾であった。帝は「朕は倹約をもって天下に率先しており、身近なところから始めて、金銀を銅に変える」とした。公主は進見するごとに、帝は必ず篤行を教えさとし、「田舎者の家なく、懺悔する時もなし」といい、また「太平公主・安楽公主の禍は戒めを忘れてはならない!」といった。そのため諸公主はただ恐れ、争って喜事をしようとした。帝はついに「夫婦は教化の一端である。公主・県主に子があって寡婦となった場合、再嫁してはならない」と詔した。 永福公主。 斉国恭懐公主は、始め西華に封ぜられた。厳祁にとついだ。厳祁は刑部侍郎となった。公主は大中年間(847-860)に薨去し、追贈と謚があった。 広徳公主は、于琮にとついだ。かつて于琮に永福公主を娶せようと、帝とともに食事をした際に、永福公主が怒って匙や箸を折ったから、帝は「こいつは士人の妻にして大丈夫か?」といい、あらためて于琮と広徳公主を娶せた。于琮が黄巣に殺害されると公主は泣いて、「今日まで誼みがあって一人では生きられない、賊め、私を殺せ!」と言ったが黄巣は許可しなかったから、部屋で自縊死した。 公主は家をおさめるのに礼法があり、かつて于琮が韶州に左遷されるのに従った際、侍者はわずかに数人、州県の公主への贈物をも退けた。すべて内外の冠婚葬祭は、公主がすべて自ら答労したので、親しい者もそうでない者もみな感心し、世間で賢妻として知られた。 義和公主。 饒安公主。 盛唐公主。 平原公主は、咸通年間(860-874)に薨去し、追封された。 唐陽公主。 許昌荘粛公主は、柳陟にとついだ。中和年間(881-885)に薨去した。 豊陽公主。 懿宗に八女があった。 衛国文懿公主は、郭淑妃から生まれた。始め同昌に封ぜられた。韋保衡にとついだ。咸通十年(869)に薨去した。帝はすでにもとより愛するところであり、自ら挽歌をつくり、群臣に唱和させた。また百官に許可して祭儀物として金貝・寓車・廞服をつくり、これを火中に投じたから、民が争って燃えかすから宝を取り出した。葬におよんで、帝は妃とともに延興門に座って、柩が通過するのをみて哭泣し、仗衛の列は数十里にもおよび、金を加工して俑をつくり、宝物は千を数え、実際の墓中に乳母とともに埋葬した。追封と謚があった。 安化公主。 普康公主。 昌元公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 昌寧公主。 金華公主。 仁寿公主。 永寿公主。 僖宗に二女があった。 唐興公主。 永平公主。 昭宗に十一女があった。 新安公主。 平原公主は、積善皇后から生まれた。帝は鳳翔府の李茂貞のもとにあるとき、公主を李茂貞の子の李継侃に降嫁させたが、后は不可とした。帝は「そうでなければ、私にやすんずるところがないではないか!」といい、この日、内殿で宴し、李茂貞は帝の東南に座り、公主は殿上に拝した。李継侃の族兄弟はみな西向に立ち、公主と李継侃はこれを拝した。帝が長安に帰還すると、朱全忠は李茂貞に書を送り、公主を取り返して京師に帰還させた。 信都公主。 益昌公主。 唐興公主。 徳清公主。 太康公主。 永明公主は、早く薨去した。 新興公主。 普安公主。 楽平公主。 賛にいわく、婦人は内は夫家にあるから、天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお外にあるから詳細はわからなかった。また僖宗・昭宗の時の大乱のため、文書は散逸消滅し、そのため諸帝の公主が降日・薨年は、大体その概略は得たが、失われて不十分であったから書かなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十二 列伝第七 『新唐書』巻八十三 列伝第八 巻八十四 列伝第九
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群島の、起源1310年、ローマの、ユリウス・カエサルに、出会った~。 とウルルン風にはじまりましたCiv3プレイヤーアプグレ計画。まずはカエサルと技術交換を 行いましょう。 外交について attachref 外交画面も見やすくなっています。無理なものは最初から赤字で表示されていますしね。 とりあえずCiv3と決定的に違うのは、最初は技術交換も出来ない、ということです。 Civ3では各種条約が技術によって解禁されたじゃないですか。Civ4で、序盤に文明と 接触すると、『取引をしたいのだが』という選択肢すら出ません。開戦するかしないか しか決めることが出来ないのです。 ・筆記を開発すれば相互通行条約が ・アルファベットを獲得してようやく技術交換が ・通貨を開発してやっと技術や資源を金銭で買うことが というかんじです。はじめてプレイした時には驚きましたよ。資源の交換には交易路が必要 ですし、Civ4は外交もなかなか考えるようになりました。 また、Civ4は(Civ4だけでなく"人生"というビッグゲームもそうですが)、全ての人間と仲良く するのがとても難しいです。あるAIと交易を行っていると他のAIが『交易を破棄しろ!』と 脅してきます。脅しに屈するともともと交易をしていた文明と仲が悪くなり、無視すると脅して きた文明と仲が悪くなります。満遍なく全文明と交渉していると、全部の文明がいらだって いたりして僕のような優柔不断な人間にはきついです。○○は味方、××は敵、のような はっきりとした区別をつける必要がありそうです・・・。 attachref 全体的に遅れている(というか、数が足りない)アステカの唯一のカード神授王権を使って 持っていなかった技術を回収しました。この後官史官吏(Civ3でいう、中世歩兵を解禁します。 それより驚きなのが、この技術でようやく灌漑済みの地形の隣の地形を灌漑できるようになります。 河の重要性、わかってくれます?Civ3と違い、ここまでこないと水を引っ張ってこれないんです) を開発してこれも捌き、高等技術2つで技術を6つゲット。やれることがいきなり増えて困ります。 attachref そうこうしていると次に徳川家康と遭遇。家康は特徴的なキャラです。攻撃性が高いのも特徴 ですが、見てください。これ。 attachref まったく交渉に応じるつもりがありません。家康は鎖国しているのです(もちろん日本人は、 家康が鎖国したわけではないことを知っています)。しかし鎖国してもある部分では 僕の技術を上回っています。 技術について Civ4の技術ツリーはとんでもないことになっていまして、全部自力で作るのはたいへんです。 ですが、Civ3とツリーの見方が凄く違うので注意。Civ3ではANDの意味を持っていた矢印が、 Civ4ではORの意味を持ちます。 attachref 文学と演劇、このどちらかを開発していれば音楽の研究を開始できます。文学の方がコストが 安いので、文学→音楽が鉄板・・・とはいかないんでしょうね。Civilizationシリーズなので。 一方でANDのテクノロジーもあります。これは矢印ではなく、テクノロジーツリーのテクノロジーの 名前の横にあるアイコンが表しています。 例えば文学ですが、文学の文字の横にあるアイコン。これは多神教なのですが、文学に必要な 技術は 多神教 AND アルファベットということになります。もっと複雑になると、 哲学 = (演劇 OR 法律) AND 瞑想 みたいになってきます。 線を引かれていない技術を思わぬ場所で使わなければならないことがよくあるので、せっかく 時間無制限のゲームですしこれからはよく調べてから技術開発を行うことにします。 しかししくじりましたね。群島だったら光学を目指すべきでした。光学ではじめて遠洋を走れる船 キャラベル船が作れるのです。Civ3と違い遠洋強行突破は出来ないので、他の文明と出会いを 求めるならばこれを目指すべきでした。 文化圏と通行について キャラベル船については特殊な船なので説明したいです。Civ4はCiv3と違い、デフォルトでは 相手の文化圏に侵入できません。通過したいならば相互通行条約を結ぶ必要があります。 また相互通行条約を結んでいる時に戦争になった場合、相手の領土の入っていたユニットは 外に押し出されます。理不尽な奇襲はできませんしされません。もう騎士を並べて領土を ふさぐこともないのです。 キャラベルの何が特殊か、といいますと、キャラベルは相互通行条約を結んでいなくても相手の 文化圏に入ることが出来ます。その代わり軍事ユニットや開拓者は乗せることができません。 斥候や探検家、宣教師、スパイなどを載せることができます。直接的なことは出来ませんが いやなものを載せられますね。咎められないですし。もっとも相互通行条約無しでは載せた 宣教師を降ろすこともできませんが。 相互通行条約を結べば相手の文明と交易路が出来たりもします。交易路があれば資源を 交換することが出来ます。鎖国している家康とは資源の交換すら出来ないです。 さて、家康と接触し、なーんだ、スコアでは僕が1位か・・・と思っていたのですが、ここで 恐ろしいことを思い出しました。スコアはあくまで文化値を含めたもの。文明の軍の強さが 強調されていません。右上のアイコンからグラフ→エネルギーを選択しましょう。 attachref エネルギーという訳はどう考えても意訳です。これは軍事力を意味します。おいおい・・・ 2倍近く離されているぞ。これだと問答無用で宣戦布告されるかもしれません。 宗教の組織化から神権政治へ。また、主従制に変えて強い軍事ユニットを次々と生み出し はじめました。とりあえず戦力をかさまししなければ。その後アメリカのワシントンもうちの島に やってきました。スコアは1位ですが、やはりエネルギーでは圧倒的にアステカがビリです。 attachref 頑張ってキャラベル船を作り、探索に出させると、なんと一瞬で日本領土を発見。 目と鼻の先だったんだ・・・。しかも万里の長城あるし。こりゃますます気は抜けないな、と 更なる軍拡に勤しみます。ちなみにローマは北西にありました。 attachref 神授王権からナショナリズムに入り、ルネッサンスへ。ワシントンがようやく世界地図の 交換をしてくれたのでほぼ世界が分かるように。残り4文明は全部同じ島にいました。 どうやらアメリカ、ヴァイキング、モンゴル、インドが共存しているようです。キャラベルを 向かわせようとしたら、先に向こうから接触して来ました。これで全文明が明らかになりました。 attachref 好戦的な3馬鹿がいずれもいらだっているのが問題です。 ヴァイキングがインドに宣戦したり、アメリカがモンゴルに宣戦したり、世界は混沌として きました。わがアステカはまだ軍拡中。せっかくナショナリズムを秘匿してナショナリズムに よって建てられる遺産・タージマハール(黄金時代を招来)を目指していたんですが、なんと ヴァイキングに建て逃げされました。おま、俺より技術進んでいたのか!と思ったのですが 他面子を見る限り、僕より技術後進国なのはモンゴルと日本しかいません。みーんな 科学的手法を持っています。あ、Civ4には進化論はないのであしからず。インテリジェント・ デザインの陰謀でしょうか。 進化論はありませんが、Civ4にはいくつか『一番乗りすると恩恵のあるテクノロジー』が あります。前回紹介した宗教もそれですが、例えば音楽1番乗りで偉大な芸術家を1人ゲット、 経済学で偉大な商人、自由主義で技術1個(Civ3の哲学)とイベント盛りだくさん。 しかしこればかり目指すわけにもいかない都合があったりもします。 黄金期をとり逃しましたが、うちには偉人が二人います。エジソンとなんか預言者が。彼らを 生贄にして黄金期を招来。俺のターン!を目指します。黄金期発動のタイミングは科学を 開発後。科学をゲットすると強力なグレネーダが作れるようになります。量産して質で日本を 凌駕。日本の領土を奪わないと勝利は望めない、と判断しました。 果たしてうまくいくのでしょうか。 戦争について 黄金期の間は科学を10%にしてお金を貯めつつガレオン船とグレネーダを大量生産。 ここら辺の動きはCiv3と変わりませんね。8ターンしかないのでもたもたしてられませんが。 騎兵対策に軍用象も(象牙があればインド以外の文明も作れますよ)作ります。そうそう! Civ3プレイヤーには意識を改革してもらいたいです。Civ4の戦闘ではカタパルト命!です。 カタパルトは都市の防御力を落とします。都市を落とすならば必須です。さらにカタパルトを 突撃させることで、マス上のスタックに副次的ダメージを与えることが出来ます。これは いわばCiv3の、スタック攻撃強すぎ問題に対しての回答となっています。砲撃で都市を 弱らせ、カタパルトを突撃させ(撤退確率も持っていますし)、弱った軍勢を蹴散らして制圧、 これがCiv4流戦闘術です。 海軍を整えて日本の奈良に強襲をかけます。一番落としやすそうなので。Civ3と違って 海兵隊でなくても揚陸はかけられます。が、ペナルティが課されるのでご注意。海兵隊や ベルセルクは水陸両用というボーナスがついていますが(意味は想像のとおり)。 attachref とりあえず奈良を占領。ここでCi3プレイヤーの皆さんに文化爆弾をお見せしましょう。 見れば分かるとおり、ええと、大芸術家は大作を作ることで、文化値を数千単位で 増やすミラクルを起こせます。今回はゲーム速度迅速なので文化値を一つの都市に+2680。 通常速度の場合は4000プラスされます。4000ですよ4000!! attachref ドオォーンという厳かな音とともに一気に文化圏が拡張するのは圧巻。今回は下に 徳川の都市があるので下側には伸びませんでしたが(そのせいで、いかんせん地味です) 上を見れば分かるようにこれくらいのびます。今回は敵の都市を占領した場合、 レジスタンスが暴れている間は文化圏が存在せず、、つまり収入皆無です。憲兵おいても 鎮圧できないし。そんな時に文化爆弾なのかな。 attachref しかし、この都市結局日本に奪い返されてしまいました。想像していた以上にユニットを 溜め込んでいました。エネルギー2倍だったしなあ。逆に日本に上陸される始末。 追っ払ったものの、町を略奪されてしまいました。町というのはすなわち小屋なのですが Civ4で都市でゴールドをえたいならば小屋です。道を敷いてもゴールドは入りませんから。 小屋は最初のうちは1ゴールドですが、市民を長いターン労働させるとだんだん規模が 大きくなっていきます。壊されると今までの時間が水泡に帰してしまいます。 厭戦感情に耐えられなくなったので停戦(厭戦感情はどのような政治体制でも持ちますので ご注意。軽減する社会制度や都市改善、遺産もあります)。 attachref 痛いニュースが。アメリカが抵抗を諦めてヴァイキングの属国になってしまいました。 属国というシステムはそのままの意味ですが、降伏ってことです。いろいろデメリットが あります。詳しいことの説明は省きますが、これでヴァイキングはどこかに攻める時には 必ずアメリカの協力を得られることになったのです。いいなあ。 とかやっている間にヴァイキングがアステカをスコアで上回っちゃったし! 残りは100ターンをきりました。現在のスコア順位です。 1.ヴァイキング(ヴァグナル)… 軍事力領土ともにNo.1とやばいです。なんか妙に技術もあるし 2.アステカ … 隣の徳川を切り崩せずスコアが伸びません。 3.インド(アショーカ) … 技術最先進国。ヴァイキング(とアメリカ)から攻撃を受けてます 4.日本(徳川家康) … 攻撃して以降スコアが伸びません。戦争も悪くはなかったのかも 5.ローマ(ユリウス・カエサル) … 唯一一切戦争をしていない文明。絶賛黄金期中 6.モンゴル(チンギス・ハーン) … 教育も持っていない蛮族。実は徳川より仲が悪い(^^; 7.アメリカ(ワシントン) … 技術先進国だったが戦争で負けて脱落 日本の領土を奪ってなんとしてでもスコア1位にならなければ・・・。 Civ3プレイヤーアプグレ計画(4) 自由主義競争に参加するべきか、銀行制度で偉大な商人をゲットするか、職業軍人で騎兵隊出すか・・・。 日本はやばいですよね。軍事力だけなら常にトップクラスやも。 -- やはり日本にけんかを売るべきではなかったのか・・・orz次から気をつけよ。 -- >IDの陰謀でしょうか そうかもw 技術の説明ナイスです。ただ「官史」じゃなくて「官吏(かんり)」です。 -- ありがとうございます。修正しました。そういえば、Civ3で冶金学の読み方も間違えていたなあ・・・。 -- 名前 コメント
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唐書巻二百一十五下 列伝第一百四十下 突厥下 毘伽可汗黙棘連は、もともと小殺(シャド)とよばれていた者で、生まれつき情深く、兄弟仲がよく、いま立つことができたのも自分の功ではないとして、闕特勒にゆずろうとしたが、闕特勒もどうしても受けず、けっきょく位をついだのである。開元四年(716)のことであった。闕特勒を左賢としたが、それがもっぱら軍事面をつかさどっていた。はじめ黙啜が死んだとき、闕特勒は、その要路にあった黙啜の家来をみな殺した。ただ暾欲谷は娘の婆匐が黙棘連の可敦(妻)にしていたので、かれだけ死をまぬがれ、役は廃されて自分の所領に帰っていた。そののち、突騎施の蘇禄がみずから可汗となり、突厥の国民もふた心をいだくものが多くなった。そこで黙棘連は暾欲谷を召し出し、国政に参画させたのである。年は七十余歳で、人びとはかれをひじょうに尊敬していた。 にわかに𨁂趺思太らが河曲(オルドス)から突厥に帰っていった。そのむかし、降戸が南下したとき、単于副都護の張知運は、かれらの兵器をみな没収し、連中はうらみに思い怒っていた。姜晦が巡辺使となると、弓矢を禁ぜられ、狩猟によって生きることができないと訴え出た。姜晦はそれをぜんぶ返してやった。そこで降戸たちはいっしょになって張知運を攻め、かれを生けどりにし、まさに突際に送りとどけようとした。朔方行軍総管の薛訥と将軍の郭知運とがかれらを追い、敵勢はつぶれ、張知運を釈放して逃げてしまったのである。思太らは二隊にわかれて逃げていたが、その左側のものは、王晙がまた破った。 黙棘練は、もはや降戸も手中に入ったので、南下して唐の辺境でもの取りをしたいと考えた。そのとき暾欲谷がこう言った。「よろしくない。唐の天子はりっぱな勇武の人。人民はなごやかに暮らしているし、豊作の年でもある。つけ入るすき間がない。しかもわが方の軍兵は新しく集まったばかりのものである。動くべきでない。」 黙棘連は、また都たるべきところに城を築き、仏教、道教の寺も建てたいと思った。暾欲谷はつぎのように言った。「突厥の人口は唐の百分の一にもあたらない。それでよく唐と対抗できたのは、水草を追って射猟をし、居所を一定のところにせず、武芸を身につけ、力あれば進んでもの取りをし、力のないときには逃げひそむ。唐軍がいかに多くても、手のほどこしようがないわけである。もし城市を築いてそこに居れば、戦ってひとたび敗れでもしたら、かならずや先方にとらわれの身となる。また仏教道教は人になさけ、気弱さを教えるもので、武事、強さのためのものではない。」黙棘連は、かれの考えを正当だとした。そして、使者を派遣して和平を求めてきたが、帝は、それを本心からのものではないととり、ことわりの返事をした。 そのあとすぐ、帝は突厥討伐の詔を下した。そこで、抜悉蜜の右驍衛大将軍で金山道総管たる処木昆執米啜、堅昆(キルギス)都督の右武衛大将軍たる骨篤禄毗伽可汗、契丹都督の李失活、奚都督の李大酬、突厥の黙啜の子の左賢王たる墨特勒、左威衛将軍で右賢王の阿史那毗伽特勒、燕山郡王の火抜頡利発の石阿失畢ら、蕃、漢の兵をすべて出し、ぜんぶで三十万、御史大夫の朔方道大総管王晙がそれを統括して、八年(720)の秋を期して、いっせいに落河(北モンゴリア)畔に集まること、抜悉蜜、奚、契丹は、それぞれ別の道から突厥本営を襲撃し、黙棘連を捕えること、としたのである。 黙棘連はひじょうに恐れた。すると暾欲谷はつぎのように言った。「抜悉蜜は北庭に居る。奚・契丹の両者ときわめて遠く離れている。うまく合うはずがない。また王晙と張嘉真とは不和である。二人はかならず意見がくいちがい、王晙の軍も絶対にやってくることはできないだろう。それでももし、みなが来そうになったら、こちらは敵の到着前三日に、人びとをみな北方に移動させる。かれらは来たものの食糧がなくなり、おのずとひきあげるだろう。抜悉蜜は軽薄な連中で、利ばかりおっている。かならずさきばしってやってくるだろうから、それは攻めとることができる。」まもなく抜悉蜜は、はたして軍をひきいて突厥の本営にせまってきた。しかし、王晙らが来ないのを知ってひきかえした。突厥軍はそれを攻撃しようとしたが、暾欲谷は「兵が千里もの遠くまで来ている以上、死にものぐるいで戦うものだ。それにはかなわない。追跡しかれらの出身地に近づくのを待ち、そこで攻めとる方がよい」と言った。北庭から二百里のところまで来てあとを追っていた突厥軍は兵をわけ、一隊は他の道をとってからの城を襲い占領した。そしてすぐべつの隊が抜悉軍を急襲した。かれらは北庭に逃げこもうとしたが、帰るところがなく、ぜんぶつかまえられてしまったのである。帰りみちで突厥軍は赤亭に出て、涼州で掠奪した。涼州都督の楊敬述は、部下の盧公利や元伝澄らに軍を出して討ち捕えようとさせた。暾欲谷は「もし楊敬述が城を守るなら和約を結ぼう。もし出陣してくるなら決戦しよう。かならず勝つ」と言った。元澄は全軍に「腕まくりして弓はいっぱいに引きしぼり、大きく射よ」と言っていたが、たまたまはだも裂けそうなひどい寒さで、腕まくりした兵士たちの手は弓を引けず、そのため大敗してしまった。元澄は逃走し、楊敬述は罪を問われ官位をはがれたまま、涼州の事を監理することになった。突厥はとうとうひじょうに勢威をふるうものとなり、むかしの黙啜時代の、残っていたものもすべて領有することになったのである。 翌年(721)、つよく和平を願い、また唐帝を父としてつかえたいと言ってきた。天子はそれを許した。それから連年、使者を派遣し、産物を献上した。そして縁組みを求めてきた。そのとき天子は封禅の儀を行なうため東方の泰山に巡行しようとしていた。中書令の張説が、駐屯軍を増し突厥に備えることを提案した。兵部郎中の裴光廷はそれに対して、「封禅とは、ことの成功したことを天地の神に報告するものである。しかるにもしまた軍備を強化するため人を集めたり物をとり立てたりするようでは、功成ったとは言えぬではないか。」と、言った。張説は言った。「突厥はちかごろ和平を願いはしたが、その結びつきを信用することはできない。しかも、その可汗は情深く、人を愛するので、配下の者はかれのために働く。闕特勒は戦争がうまい。暾欲谷は、落ちついていて雄々しく、老いてますます知恵も深い。李靖や李世勣のようなものである。この三人がまさに協力している以上、わが方が国をあげて東方巡行にかかわっていると知って、もしそのすきに乗じようとしたら、どうしてこれを防ぐのか。」と。そこで裴光廷は、使者を派遣してその大臣をよびよせ、親衛隊に入れることを申しでた。そのための鴻臚卿の袁振を突厥までやり、帝の意図を説明させた。黙棘連は袁振が行くと酒席を設け、可敦、闕特勒、暾欲谷といっしょに幕内に席を占め、袁振につぎのように言った。「吐蕃の先祖は犬である。しかし、唐は婚を結んでいる。奚や契丹はわが奴婢であり召使いである。やはり唐の公主を娶とっている。ただ突厥だけが前後たびたび縁組みを願っているのに許されない。どういうことか」と。袁振は、「可汗はすでに天子の子となっている。子がさらに父すなわち天子の娘と結婚してもよいものだろうか」と言った。黙棘連は「さらにこう言った。「それはちがう。奚、契丹の両国はいずれも唐帝の李姓を貰っている。それでも唐室から公主をとっている。突厥のばあいでもなにゆえいけないといえよう。しかも、公主といって も、なにも帝の娘でない。われわれはより好みしているわけではない。ただ、しばしば願っているのに果たされないのでは、諸国に笑われるではないか」と。袁振は帝にお願いすることは承認した。黙棘連は、大臣の阿史徳頡利発をつかわし、入朝し献上物をとどけ、封禅にも従行することになった。帝は詔して、諸国の首領たちを親衛隊にいれ、弓矢も持たせた。たまたま兎が帝の馬前にとび出した。帝は一発でそれをしとめた。阿史徳頡利発がその兎を捧げ持ち、ぬかずきお祝いをのべ「陛下の神わざのような武技は絶妙である。天上のことは臣も知らないが、地上の人にとってはありえないことだ」と言った。帝が「腹がへってなにか食べたいことはないか」と訊ねさせると、このような弓矢の威力を拝見すると、十日間食べなくても満腹の思いがする」と答えた。そのため帝はかれに親衛隊の中で馬を走らせながら弓を射ることをさせた。封禅に従行しおわると、手厚く御馳走もし、物も与えて帰国させた。しかし縁組みはとうとう許さなかった。 それいらい毎年、大臣をつかわして入朝してきた。吐蕃が突厥に書状を送り、手をにぎって唐の辺境地帯を侵略しようと言ったとき、黙棘連は従わず、その書状を唐に届けた。天子はそれをほめ、使者の梅録啜に紫宸殿で宴を賜わり、詔して朔方軍の西受降城で通商することを許し、年ごとに帛数十万を与えた。 十九年(731)、闕特勒が死んだ。金吾将軍の張去逸と都官郎中の呂向とに、勅書を持って弔問させ、帝は故人のために碑の銘文を書き刻ませた。また廟と像とをつくらせ、四方の壁に戦陣の様子を画かせるのに、とくに命じて、すぐれた職人六人を行かせ、精細な肖像をかかせたので、かの国ではいまだかつてないこととした。黙棘連は、それを見ては悲しみにうちひしがれぬこととてなかった。 黙棘連は、それまでに熱心に縁組みを願っていたのだが帝はそれを許可した。そこで哥解栗必をつかわしてお礼を言い、縁組みの時期についてもきめてほしいと願った。ところがまもなく、黙棘連は梅録啜に毒をもられた。死にかかったが梅録啜を殺し、その一党を平らげ、そして死んだ。帝はそのため追悼し、詔して宗正卿の李佺に弔問させ、そして廟を立て、史官の李融に命じて碑文をつくらせた。かの国の人たちは、一致して子を立てて伊然可汗とした。 伊然可汗は即位して八年で死んだ。その間に三度、使者をつかわして入朝した。その弟があとをついで即位した。これが苾伽骨咄禄可汗である。右金吾衛将軍の李質を勅使として派遣し、それを登里可汗とした。明年(741)使者の伊難如を正月の朝賀につかわした。産物を献上して「天可汗に拝礼するのは、天を拝するのと同じである。いま新年正月、天子の万寿を願い奉る」とのべた。可汗は幼く、その母の婆匐は身分の低い家来の飫斯達干と不倫をし、あげくには国政に関与して、国内諸部は協調しなかった。登里可汗の従父が、東西の軍を分担指揮し、左殺、右殺とよばれていたが、兵士の精鋭、強力なものはみなかれらに属していた。可汗は母といっしょになって、西殺を誘い出して斬り、その軍を奪った。左殺はおそれ、すぐ先手をうって登利可汗を攻め、それを殺した。 左殺は判闕特勒だった。結局、毘伽可汗の子を可汗に立てたが、すぐ骨咄葉護に殺され、その弟を立てたが、やがてまた殺された。骨咄葉護がそこでみずから可汗となった。天宝年間のはじめ(742頃)、突厥国内の大部だった回紇、葛邏禄、抜悉蜜が同時にたちあがり、骨咄葉護を攻めて殺した。かれらは抜悉蜜の長をたてて頡跌伊施可汗とした。そして、回紇、葛邏禄の長は、みずから左右葉護となり、使者を派遣して報告してきた。突厥では、その国の人は判闕特勒の子をたてて烏蘇米施可汗とし、その子の葛臘哆を西殺とした。帝は使者を派遣して言いきかせ、内附させようとしたが、烏蘇米施可汗はきかなかった。しかし配下のものはかれに同調しなかった。抜悉蜜らの三部がいっしょになって烏蘇米施可汗を攻めた。かれは逃走し、その西葉護の阿布思や葛臘哆が五千帳をひきつれて投降してきた。葛臘哆を懐恩王とした。 天宝三載(744)、抜悉蜜らは烏蘇米施可汗を殺し、首を都に送ってきた。それは帝室太祖の廟に奉献された。その弟の白眉特勒鶻隴匐があとをついて立った。白眉可汗である。ここにおいて突厥は大乱となったのである。その国のある人たちは、抜悉蜜の長を推して可汗とした。帝は詔して、朔方節度使の王忠嗣に軍をひきいてこの乱に乗じ突厥を討たせた。唐軍は薩河内山まで行き、突厥の左翼の阿波達干の十一部を攻め、破った。その右翼だけはまだ攻め下すことができなかった。そのとき回紇と葛邏禄とが、抜悉蜜の可汗を殺し、回紇の骨力裴羅を中心にその国を平定した。これが骨咄禄毗伽闕可汗である。明年(745)、かれらは白眉可汗を殺し、その首を送り献上してきた。毘伽可汗の妻の骨禄婆匐可敦が、人びとをひき連れ、自分から帰服してきた。天子は花蕚楼に行かれ、多数の臣下を招宴し、詩をつくってこのことをたたえられた。可教を賓国夫人に封じ、化粧料として銭二十万文を与えられた。 突厥は、はじめ後魏の大統年間(535-551)に国を立て、ここまで来て滅亡したわけである。こののち、ときには朝貢するものがあったが、みなもとは九姓のものだったということだ。その土地はすべて回紇のものとなってしまった。その一族が昔、国をわけたが、その西側のが西突厥といわれる。 西突厥。その祖先は訥都陸の孫の吐務で、大葉護と号した。かれの長子は土門伊利可汗、次子は室点蜜とも瑟帝米といった。瑟帝米の子供は達頭可汗といったが、のちにはまた歩迦可汗とも称した。はじめて東突厥から、かつての烏孫の領域を分離してこれを支配した。その東はほかでもなく突厥、西は雷翥海、南は疏勒、北は瀚海である。京師の北方七千里の地に当たっていて、焉耆から西北へ七日間進むとその南廷(南方の本営)に達し、北へ八日間進むとその北廷に達する。都陸・弩失畢・歌邏禄・処月・処蜜・伊吾など多くの種と雑居している。その風俗は、だいたい突厥のそれと同じであるが、言語は少し違っている。 はじめ、東突厥の木杆可汗が死ぬとき、かれは、自分の子供の大邏便をさしおいて、弟の佗鉢可汗を即位させた。佗鉢は死ぬ前に、その子供の菴羅をいましめて、自分のあとには必ず大邏便を即位させるよう言った。しかし、その国の人々は、大邏便の母が下賤の出身であったので、かれを立てるのを承知せず、ついに菴羅を即位させた。菴羅はのちに可汗の位を木杆の兄の子供、摂図に譲った。これが沙鉢略可汗である。そして大邏便はべつに阿波可汗となり、みずからその部衆を従えた。沙鉢略はかれを襲撃してその母を殺した。そこで阿波は、西方、達頭のもとへ逃走した。このとき、達頭は西面可汗(突厥の西面地域の可汗)であったが、すぐさま、阿波に十万人の兵士を与えて、東突厥と戦わせた。しかし、阿波は、ついに、沙鉢略に捕えられた。啓民可汗のときになると、達頭可汗は、連年これと交戦したが、隋はつねに啓民を援助し、このために達頭は敗れて吐谷渾のもとへ逃走した。 これよりさき、阿波が捕えられたとき、その国の人々は鞅素特勒の子供を即位させた。これが泥利可汗である。達頭が逃走し、泥利もまた敗れて死ぬと、その子供の達漫が即位した。これが泥橛処羅可汗であるが、その統治が苛酷で、かれを憎むものが多かった。大業年間(605-617)に、処羅は煬帝が高麗を征討するのに従った。帝はかれに曷薩那可汗の号を賜わり、皇室の娘をあわせ、また、その弟の闕達度設をとどめおいて会寧郡で牧畜させた。闕達度設はまもなく可汗と自称した。江都の反乱にさいし、曷薩那は宇文化及に従って黎腸に到達し、ついで長安へ逃げ帰った。唐の高祖は榻から降りて、坐をともにし、かれを帰義王に封じた。かれは大きな真珠を帝に献上したが、帝はこれを受けとらず、「朕が重要と考えるのは王の赤心であって、これは無用である」と言った。闕可汗は、馬三千頭を持ち、武徳元年(618)に唐に臣属して吐烏過抜闕可汁の号を賜わった。かれははじめ李軌と連合したが、隋の西戎使者の曹瓊が甘州に拠ってかれを誘うとたちまち寝返り、曹瓊と合流して、ともに李軌を攻撃した。しかし、その軍隊は抵抗しきれず、かれは達斗抜谷に逃走し、吐谷渾と相より相助けるにいたったが、李軌によって殺された。 さきに易薩那が隋に来朝するさい、その国の人々は、すべて、これを望まなかった。ところが、曷薩那がすでに隋にとどめられて帰れなくなってしまうと、その国の人々は一致して達頭の孫を即位させた。かれは射匱可汗と号して、廷(本営)を亀茲の北の三弥山に設け、玉門関より西方の諸国の多くはこれに服属した。こうしてかれの勢力は東突厥と相拮抗するにいたった。射匱が死ぬと、かれの弟の統葉護が継いだ。これが統葉護可汗である。 統葉護可汗は、勇敢で、謀略にたけ、戦えばそのたびごとに勝利をえた。こうして、鉄勒を併合し、波斯、罽賓を降服させ、弓を引く兵士数十万人を擁して、廷を石国の北の千泉に移し、ついに西域の支配者となった。西域諸国の王にはすべて頡利発の称号を授け、しかも、一人の吐屯に命じてそれらを監視・統理させ、貢ぎ物のとりたてを管理させた。翌年に、射匱は使者を遣わして来て、曷薩那との間に宿怨があるため、かれを殺してほしいと願い出たが帝はこれをききいれなかった。群臣は、「この一人の人間を生かしておけば、一つの国家を失うことになるでしょう。のちになって憂えのたねになるのは、きまっております。」と言った。秦王(のちの太宗)は、「いや、そうではありません。人がわれわれのもとに来て身をよせたさい、われわれがこれを殺すのはよくないことです」と言った。そこで、帝はまた、かれを殺すのをききとどけなかった。帝は御所の中で曷薩那のために宴を設け、酒盛りの最中に、かれを中書省へ行かせ、東突厥の使者のもとへ追いやって、その手でこれを殺させた。このことは公表されなかった。射匱もまた、連年つぎつぎに条支に産する大きな卵、獅子の皮革などを貢ぎ物として献上した。帝はかさねて手厚く親交を結び、ともに協力して東突厥を討つことを約束した。統葉護はその期日を決めるよう乞うた。東突厥の頡利はたいへん恐れ、そこで西突厥と和約を結んで攻撃しあわぬことにした。統葉護可汗は使者を遣わして来て、通婚を願い出た。帝は群臣とはかって、「西突厥はわが国から遠くへだたっていて、危急のさいにはこれに頼ることはできない。これと通婚すべきだろうか」と問うた。封徳彝は、「ただいまなすべき妥当な方策を思いめぐらしますに、遠い国と交わりを結んで近い国を攻めるのにこしたことはありません。どうか通婚をききとどけ、それによって北狄(東突厥)を恐れさせ、わが国が安定するのを待って、それからのちによく考えられますように」と答えた。帝はそこで通婚を許すことにし、高平王の李道立に詔して、その国へおもむかせた。統葉護可汗は喜び、真珠統俟斤を遣わして、帰国する李道立とともに来させ、一万本の釘をうち宝石で飾った黄金の帯と馬五千頭とを献上して、婚約の裏づけとした。ちょうどそのころ東突厥が連年辺境に侵入してきて、西方への道がふさがれ通れなくなった。そのうえ、頡利は人を遣わして、統葉護可汗に、「もし汝が唐の公主を迎えるのならば、どうしてもわが国内の道を通らねばならない。余はこれを拘留するであろう」と言わせた。統葉護可汗はこのことを思いわずらい、婚礼をあげることは、まだできなかった。このころ統葉護可汗は、おのれの強盛なのをたのみとして、支配下のものに恩恵を施さず、その民衆でこれを怨んでそむき去るものが多かった。そこでかれの叔父の莫賀咄がこれを殺した。帝は統葉護の死を悼み、使者に玉と帛とをたずさえて行かせ、これを焚いて祭らせようと思ったが、たまたまその国内が乱れたため、そこへ到達できなかった。 莫賀咄が即位した。これが屈利俟毘可汗である。かれは使者を遣わして来て貢ぎ物を献上した。俟毘可汗は、はじめは、西突厥を分け治め、小可汗であった。いますでに大可汗と称したが、その国の人々は、かれに心をよせなかった。弩失畢の諸部落は、自分たちだけで泥孰莫賀設を推し立てて可汗としたが、泥孰はこれを辞退して受けいれなかった。そのころ統葉護可汗の子供の咥力特勒が、莫賀咄の脅威からのがれて康居に逃げていた。泥孰はかれを迎えいれて即位させた。これが乙毘羅鉢羅肆葉護可汗である。かれは俟毘可汗とその国を分けあって統治したが、両者間の戦闘は止まず、それぞれ使者を遣わし来朝して貢ぎ物を献上した。太宗は曷薩那が罪なくして死んだのを偲び憐れんで、かれのために上柱国を贈り、礼をととのえて葬った。貞観四年(630)に、俟毘可汗は通婚を願い出たが、帝はこれをききいれず、詔を下して、「突厥は、ちょうどいま乱れていて、君臣の別が未だ明らかでない。どうして、いまあわただしく通婚することがあろうか。おのおのがその支配下のものを戒めて、侵害しあわぬようにせよ」と言った。これ以後、西域諸国はすべてこれにそむき、国内はひじょうに疲弊した。民衆はのこらず肆葉護可汗に心をよせ、俟毘の統治下のものさえもまた、しだいにかれのもとから去った。肆葉護はかれらと協力して軍隊を率い俟毘を攻撃した。俟毘は逃走して金山を保有したが、泥孰に殺された。肆葉護を推戴して大可汗とした。 肆葉護は即位すると、時をうつさず、北方の鉄勒・薛延陀を討ったが、薛延陀に敗れた。かれは生まれつき疑いぶかく片意地で、民衆を統治するのに狭量であった。乙利という小可汗がいて、国家にもっとも功績があった。肆葉護が他人の讒言を信じてかれとその一族とをすべて殺したので、民衆はみなひるみ驚いた。肆葉護はまた、泥孰をはばかり、ひそかにかれを殺そうとはかったので、泥孰は焉耆へ逃げこんだ。しばらくして没卑達干が、弩失畢諸部落の有力な首領たちとあいはかり、肆葉護を捕え退位させようとすると、肆葉護は、軽装備の馬に乗って康居へ逃走し、傷心のあまり死んだ。その国の人々は、泥孰を焉耆から迎えいれてかれを即位させた。これが咄陸可汗である。この可汗の父の莫賀設は、もともと統葉護に隷属していた人物で、武徳年間(618-626)に来朝した。太宗(当時は秦王)はかれと盟って兄弟の約束を結んだ。かれが死んで泥孰がこれに代り、また、伽那設とも呼ばれた。かれは即位すると使者を遣わして宮廷に来させ、自分があえて可汗号を帯びようとはせぬことを言わせた。帝は鴻臚少卿の劉善因に詔し、節を持って使いさせ、かれを冊立して呑阿婁抜利邲咄陸可汗と号し、鼓・纛(とう)、段綵数万段を賜わった。泥孰は使者を遣わして謝意を表した。ある日、太上皇は使者のために両儀殿で宴を設け、長孫无忌にむかい、「いま蛮夷があい率いて来り服属した。むかしにもまた、このようなことがあったろうか」と言った。長孫无忌は、太上皇の齢が千年万歳も長からんことを祝福した。太上皇は喜んで酒を帝にすすめた。帝は額を地につけて謝意を表し、これまたさかずきを奉って、太上皇の齢ながかれと祝福した。 咄陸可汗が死んで、弟の同娥設が即位した。これが沙鉢羅咥利失可汗である。かれは年ごとに三度、使節を遣わしてその地方の産物を献上し、ついに通婚を願い出た。帝はこれをいたわったが、その願いにはこたえなかった。咥利失可汗はその国土を分けて十部落とし、一人の首領に一部落を統治させた。そして各首領に一本の箭を授けて、十設と号し、また十箭とも呼んだ。これら十部落を左(東)と右(西)とに分け、左方の咄陸の五部落は、そこに五人の大啜が置かれて砕葉より東方におり、右方の弩失畢の五部落は、そこに五人の大俟斤が置かれて砕葉より西方にいた。その下の一箭を称して一部落と呼び、すべてをあわせて十姓部落と総称した。しかし咥利失可汗は民衆の心服・信頼をえず、かれの支配下の統吐屯が軍隊を率いてこれを襲撃した。咥利失は側近の兵士を率いて戦った。統吐屯は抵抗しきれずに退却したが、咥利夫は、その弟の歩利設とともに焉耆へ逃走した。弩失畢五部落の一つの首領阿悉吉闕俟斤は、統吐屯とともに、その国の人々を呼びよせ、欲谷設を即位させて大可汗に、そして咥利失を小可汗にしようとはかった。しかしたまたま統吐屯が殺され、欲谷設もまたその部下の斤に破られ、そこで咥利失は、以前の領地を回復した。のちにその国の西部の人々は、ついに自分たちだけで欲谷設を即位させて乙毘咄陸可汗とした。かれは咥利失と交戦したが、この戦闘で殺傷されたものは数えきれぬほど多かった。そこで伊列河によって諸部落を分け、河から西方は咄陸の支配をうけ、それより東方は咥利失がこれを統治することにした。これ以後、西突厥は、さらに二国に分裂するにいたった。 咄陸可汗は延(本営)を鏃曷山の西に設け、これを北廷(北方の本営)と呼んだ。駮馬・結骨の諸国は、すべてかれに臣属した。咄陸可汗はひそかに咥利失の支配下の吐屯俟利発とともに、軍隊を率いて咥利失を攻撃した。咥利失は、これを援けるものとてなく、窮迫して抜汗那に逃走し、そこで死んだ。その国の人々はかれの子供を即位させた。これが乙屈利失乙毘可汗であるが、かれはその翌年に死んだ。そこで弩失畢諸部落の大酋たちは、伽那設の子供の畢賀咄葉護を迎えいれてかれを即位させた。これが乙毘沙鉢羅葉護可汗である。太宗は左領軍将軍の張大師に詔し、節を持って使いさせ、かれを冊立して、鼓・纛を賜わった。かれは廷(本営)を雖合水の北に設け、これを南廷(南方の本営)と呼んだ。東方では伊列河に達し、亀茲・鄯善・且末・吐火羅・焉耆・石・史・何・穆・康などの諸国はみなこれに隷属した。 このころ咄陸はその軍隊がしだいに強盛になり、沙鉢羅葉護とたびたび交戦した。たまたま、この両可汗の使者がともに来朝したさい、帝は、たがいにむつまじくするよういましめ、それぞれに戦いを止めるよう勅した。しかし咄陸はこれをききいれようとはせず、石国の吐屯を遣わし葉護可汗を攻撃させてかれを殺しその国を併合した。弩失畢諸部落は咄陸に服属せずそむき去った。咄陸はまた、吐火羅を攻撃してその地を占領し、さらに伊州に入寇した。安西都護の郭孝恪は、軽装備の騎兵二千人を率い、烏骨からひそかに窺い撃ってこれを破った。咄陸は、処月・処蜜部族の軍隊によって天山県を包囲したが、失敗におわった。郭孝恪は逃げるものを追撃して、処月部族の居城を攻め陥し、さらに遏索山に到達して首級一千余級を斬り、処蜜部族を降服させて帰還した。咄陸可汗は生まれつき片意地、傲慢で、中国の使者の元孝友などを拘留して帰国させなかった。そして、「余は、唐の天子は才武にたけていると聞いている。余は、いま康居を討撃するが、なんじらは、余の才武が天子のそれと等しいかどうか、よく見ろ」と妄言し、ついに、使者を連れてともに康居を攻撃し、米国の領土内を通ってたちまちこれを襲い破り、その民衆をつなぎ捕えた。しかしそれらの戦利品・捕虜をわがものとし部下に分け与えなかった。ところがその部将の泥孰啜が、これに憤慨してそれらを奪い取ったので、咄陸はかれを斬り殺して見せしめにした。そこで泥孰啜の部将の胡禄屋は挙兵して咄陸可汗を襲撃し、多数の兵士を殺した。その国は大混乱におちいった。吐火羅に帰ってその地を保有しようとした。大臣たちはかれに、本国へ帰還するようすすめたが、かれはこれに従わず、部衆を率いて去り、葉水を渡河して石国に到達した。かれの側近のものはほとんどすべて逃げ去り、そこでかれは可賀敦城を保有した。かれは自身で、軽率にも城から出て、そむき逃げたものを呼び集めようとしたが、阿悉吉闕俟斤がこれをむかえ撃った。咄陸は敗れて、白水の胡人の城を襲撃してこれを占領し、ここに居をかまえた。弩失畢諸部落は、咄陸が可汗であるのをのぞまず、使者を遣わして宮廷に来させ、べつの可汗を即位させたいと願い出た。帝は、通事舎人の温無隠を遣わして、璽詔を持って使いし、その国の大臣たちとともに、突厥の可汗の子孫で賢明な人物を選んで、璽詔をかれに授けさせた。こうしてかれらは、乙屈利失乙毘可汗の子供を即位させた。これが乙毘射匱可汗である。 乙毘射匱は即位すると、中国の使者にあらためて宿舎を与え、かれらを一人のこらず長安に帰還させた。そしてかれは、弩失畢諸部落の首領に命じ、軍隊を率いて、白水の胡域を攻撃させた。咄陸は軍隊を率いて城内からうって出、太鼓・角笛をとどろかせてせまり戦った。弩失畢諸部落の軍隊は、屯営していることができず、戦死したもの、捕われたものは多数をきわめた。咄陸はこの勝利に乗じて、もとの支配下のものたちを呼び集めようとした。ところが、かれらはみな、「一千人もの人間を戦わせ、生きのこるのはただの一人にすぎぬ。われわれはもはや従うことはできない」と言った。咄陸は民衆が自分を憎んでいるのを自覚し、そこで、吐火羅へ逃走した。乙毘射匱は、使者を遣わしてその地方の産物を貢ぎ、そのうえ通婚を願い出た。帝は、亀茲・于闐・疏勒・朱倶波・葱嶺の五国を中国に割譲して聘礼(結納の礼物)とするよう命じたが、婚礼をあげるまでにはいたらなかった。そこで、阿史那賀魯がそむき、可汗支配下の諸部落をすべて併合するにいたった。 阿史那賀魯というのは、室点蜜可汗の五代目の子孫に当たり、曳歩利設射匱特勒の刧越の子供である。これより先に阿史那歩真が中国へ来朝して帰服すると、咄陸可汗は賀魯を葉護とし、歩真に代って多邏斯川におらせた。そこは西州の北方一千五百里の地に当たり、かれは、処月・処蜜・姑蘇・歌邏禄、および弩失畢の五姓(五部落の民衆)を統治した。咄陸が吐火羅へ逃走すると、乙毘射匱は軍隊を出して賀魯を追跡させた。そのため賀魯には一定した住地がなく、かれの部衆の多くは散り散りになって逃げてしまった。執舎地・処木昆・婆鼻という三種族があり、それらは乙毘射匱可汗のもとへおもむいて、賀魯にはなんの罪もないことを告げた。可汗は怒って執舎地などを滅ぼそうと思った。そこでこの三種族は、支配下の数千帳(天幕)すべてを率いて、賀魯とともにぜんぶが中国に臣属して来た。帝はこれらを手厚くいたわった。たまたま亀茲を征討するにさいして、賀魯は先鋒となって道案内をしようと申し出た。帝は詔を下してかれに崑丘道行軍総管を授け、嘉寿殿で宴を設け、多くのものを賜わり、自分の衣服を脱いでかれに着せた。かさねて左驍衛将軍・瑤池都督に昇進させ、その部衆を廷州の莫賀城に住まわせた。 賀魯は離散したものたちをひそかに呼び集め、その結果、かれの支配する廬幕(遊牧民の住居)の数はしだいに多くなった。ちょうど帝が崩御すると、かれはすぐさま西州・廷州を占領しようとたくらんだが、廷州刺史の駱弘義がこの事情を上奏した。高宗は通事舎人の喬宝明を遣わして、急ぎおもむきこれを慰撫させ、宝明は賀魯に命じてその子供の咥運を宿衛に入れさせた。咥運は途中で後悔したが、宝明の勢いにおびやかされて引きかえせず、右驍衛中郎将に拝せられた。帝が咥運を帰国させると、かれはすぐさま賀魯にすすめ、部衆を率いて西走させた。賀魯は咄陸可汗がかつて支配していた地域を占領して、牙(本営)を千泉に設け、みずから沙鉢羅可汗と号し、つい咄陸・弩失畢の十姓(十部落)を統治するにいたった。咄陸五部落には、五人の啜がいた。処木昆律啜・胡禄屋闕啜・摂舎提暾啜・突騎施賀邏施啜・鼠尼施処半啜というのがこれである。弩失畢五部落には五人の俟斤がいた。阿悉結闕俟斤・哥舒闕俟斤・拔塞幹暾沙鉢俟斤・阿悉結泥孰俟斤・哥舒処半俟斤というのがこれである。そして胡禄啜闕は賀魯の女婿であり、また阿悉結闕俟斤はもっとも強盛であった。精兵は数十万人に達した。賀魯は咥運を莫賀咄葉護とし、ついに、廷州に入寇してその数を荒廃させ、数千人を殺し、また捕えて去った。そこで帝は詔を下して、左武衛大将軍の梁建方、右驍衛大将軍の契苾何力を弓月道行軍総管とし、右驍衛将軍の高徳逸、右武衛将軍の薩孤呉仁をその副官として、府兵三万人を遣わし、回紇の騎兵五万人と合わせ協力して、賀魯を攻撃させた。駱弘義は計略を上奏してつぎのように言った。「中国を安んずるには信義により、夷狄をとりしまるには計略による、というふうに、臨機応変でなければなりません。賀魯は一城を保有し、今ちょうど寒くて雪が積もっているので、「唐軍はきっと来ない」と言っているということです。この機に乗じて一挙にこれを滅ぼすべきであります。もしぐずぐずして春になってしまえば、事態に変化がおこるでありましょう。たとえ賀魯が諸国を連合させないにしても、必ずや行く手はるかに逃げ去ってしまうにちがいありません。のみならず、わが軍隊がほんらい目ざすのは、賀魯を誅殺することであります。そして処蜜・処木昆などの部族もまた、それぞれこの災厄からみずからぬけ出したいと願っております。いまもし動かず進軍しなければ、かれらはふたたび賀魯と連合するでありましょう。いま厳冬で風はつよく、兵士たちはひび・あかぎれに悩んでいますけれども、そうかといって、長らく滞留して辺境の糧食を食いつぶし、賊が強力な味方を得て死期をのばすのを坐視していてはなりません。どうか処月・処蜜などの罪をゆるしてやり、もっぱら賀魯だけを誅殺されますように。災禍をのぞくにはその根本を絶つよう力をつくすべきで、それよりさきに枝葉をとりはらうべきではありません。射脾・処月・処蜜・契苾などの部族の兵士を遣わし、一ヵ月分の食糧を持って急ぎこれに迫らせ、大軍(唐軍)は憑洛水のほとりにとどめてこれを勢づけるようお願いします。これは戎狄を駆りたててを攻めるというものです。しかもその戎人ともは、唐兵をたのんでその羽翼とするでしょう。いま胡が前に出軍し、唐兵がその後を追ったならば、賀魯は進退に窮するでしょう」と。天子はこの上に賛成して、駱弘義に詔し、梁建方らを助けて、これを経略させた。処月部落の朱邪孤注なるものが軍隊を率いて賊軍がらにつき、牢山に拠った。梁建方らはこれを攻撃し、敵の軍が潰散すると、五百里にわたりこれを追跡して孤注を斬り、首級九千を上り、その首領六十人を虜にした。駱弘義の計略どおりにはゆかなかったのである。 永徽四年(653)に瑤池都督府を廃止し、処月部族のところに金満州を設置した。また左屯衛大将軍の程知節を派遣して葱山道行軍大総管とし、諸将を率いて進み賀魯を討たせた。この年(623)に、咄陸可汗が死んだ。その子供の真珠葉護は、賀魯を討ってみずから功績をたてたいと願い出たが、賀魯の抵抗にあって前進できなかった。その翌年に程知節は、歌邏禄・処月部族を攻撃して、首級一千級を斬り、馬一万頭を捕獲した。副将の周智度は処木昆部族の城を攻撃してこれを陥れ、首級三万級を斬った。前軍総管の蘇定方は、賀魯支配下の西突厥の別部、鼠尼施部族を鷹娑川に攻撃し、斬った首級、捕獲した馬はきわめて多かった。賊軍は鎧や武器を棄て、それらは戦場をおおった。たまたま副総管の王文度はあえて決戦をのぞまず、しかも怛篤城を降すとその財物を掠奪し、城を破壊して人々をみな殺しにした。程知節はこれをおさえられなかった。 顕慶年間(656-661)の初頭に蘇定方を伊麗道行軍大総管に採用し、燕然都護の任雅相、副都護の蕭嗣業、左驍衛大将軍・瀚海都督の回紇婆閏らを率いて、賀魯を徹底的に征討させた。また、右屯衛大将軍の阿史那弥射と左屯衛大将軍の阿史那歩真とに詔して、流沙道安撫大使とし、金山道から分かれて出軍させた。俟斤の嫩独禄らの一万余の天幕から成る民衆が蘇定方を迎えこれに降った。蘇定方は精鋭の騎兵を率いて曳咥河の西に到達し、処木昆部族を攻撃してこれを破った。賀魯は十姓の騎兵十万人を挙げ来って抵抗し、蘇定方は兵士一万人を率いてこれに当たった。虞軍は唐の兵士の少ないのを見て、騎兵によって唐軍を包囲した。蘇定方は歩兵に命じて平原に拠り、矛を集めつらねてすべて外に向けさせ、自身は騎兵を率いて北方に陣どった。賀魯がさきに平原上の軍隊を攻撃し、攻めること三度におよんだが、唐軍は動こうとはしなかった。蘇定方が騎兵を出撃させてそれにつけこみ攻撃すると、虜軍は大敗を喫して潰散した。唐軍は敗走するものを数十里にわたり追撃して、三万人を捕え、また斬り、その大首領である都搭達干など二百人を殺した。翌日に逃走するものをさらに追跡した。弩失畢の五部落はここですべて降服したが、咄陸の五部落は、賀魯の敗戦を聞くと南道に急ぎおもむき、歩真に降服した。蘇定方は、蕭嗣業と回紇婆閏とに命じて邪羅斯川に急ぎおもむいて虜軍を追撃させ、任雅相には、降兵を率いてこれにつづき進軍させた。たまたま大雪が降って、兵士たちが雪の晴れるの待つように願うと、蘇定方は、「いま雪が降って暗く、風はつめたい。虜軍は、われわれは出軍できまいと考えているだろう。だからかれらの不意を襲うのが良い。ぐずぐずしていたら、かれらは遠くへ逃げてしまうだろう。できるだけ短時日につぎつぎと成功を収めるのが上策である」と言った。そこで蘇定方の軍隊は昼夜兼行し、通過するところの人をすべて捕えて双河に到着し、弥真・歩真と合流した。軍隊は満ちたり、その意気はさかんであった。賀魯の牙(本営)から二百里はなれていたが、そこで陣列をととのえて進軍し、金山に到達した。賀魯の軍はたまたま狩猟に行っていた。蘇定方の兵士はその牙を思うがままに破壊して、数万人を虜にし、および武器を獲得した。賀魯は逃走して伊麗水を渡河した。蕭嗣業は千泉に達した。弥射が伊麗水にいたると、処月・処蜜諸部族はすべて降服した。弥射が双河に達したとき、賀魯は、これに先んじて歩失達干に命じ柵に拠らせておいて戦ったが、弥射はこれを攻撃して潰散させた。蘇定方は賀魯を追跡して砕葉水に到達し、その民衆をのこらず捕えた。賀魯と咥運とは、鼠耨設のもとへ逃げようとして、石国の蘇咄城まで来たが、馬は進まず、軍衆は飢えていた。それでかれらは宝物をたずさえて入城し、馬を買い求めようとした。その城主の伊涅達干はかれらを迎えたが、かれらが入城してしまうと、これを拘留して石国へ送りとどけた。たまたま弥射の子供の元爽が蕭嗣業の軍隊とともに来て、その身柄を捕えた。そこで諸部族の兵士をすべて解散させ、道路を開通させて駅を設け、野ざらしの死骸を集めて人々の悩み苦しみを聞き、また賀魯が掠奪したものを、ぜんぶ民衆にかえしてやった。こうして西域は平定されるにいたった。 賀魯は蕭嗣業にむかって、「私は敗残の捕虜にすぎない。先帝(太宗)は私を厚遇されたのに、私はこれに背いた。いま天が怒って罰をくだされたのであって、いまさら何をか言わんやである。しかも、私の聞くところによると、中国の法律では、人を殺すさいには必ず都の市でこれを行なうということだ。私の願いは昭陵において死に、わが罪を先帝に詫びることである」と言った。帝は、「先帝は賀魯に二千の天幕から成る民衆を賜い、これを統治させられた。いま罪人としてかれを捕えたが、かれを昭に献げて良いものだろうか」とたずねた。許敬宗は、これに対して、「むかし軍隊が凱旋したときには、宗廟にいたり、勝利を告げて酒を飲み、もし諸侯ならば、殺して切り取った敵兵の左耳を天子に献上したもので、陵墓に献げるということはいまもって聞いたことがありません。しかし、陛下が園寝に仕え祭られるのは、宗廟に対するのと同じであります。御意志どおり行なわれても礼にそむくことはないと存じます」とこたえた。そこで、賀魯を捕えて昭陵に献げ、その罪をゆるして誅殺しなかった。 賀魯の勢力が滅んでしまうと、かれの支配していた領域を分けて州・県とし、それぞれに諸部落を住まわせた。処木昆部落は匐延都督府、突騎施索葛莫賀部落は嗢鹿都督府、突騎施阿利施部落は絜山都督府、胡禄屋闕部落は塩泊都督府、摂舎提暾部落は双河都督府、鼠尼施処半部落は鷹娑都督府とし、さらに崑陵・濛池両都護府を設置して、これらを統轄させた。それに服属した諸国にはみな州を置き、西方は波斯にいたるまでを、すべて安西都護府の統治に服させることにした。また、阿史那弥射を興昔亡可汗とし、驃騎大将軍・崑陵都護を兼ねて咄陸五部落をとりしまらせ、阿史那歩真を継往絶可汁とし、驃騎大将軍・濛池都護を兼ねて弩失畢五部落をとりしまらせ、それぞれに帛十万段を賜わった。さらに、光禄卿の承慶を遣わして勅書をたずさえ行かせ、かれらを冊立した。賀魯が死ぬと、詔によって、かれを頡利の高墳の側に葬り、事のあらましを石にしるさせた。 阿史那弥射もまた、室点蜜可汗の五代目の子孫に当たり、その一門は代々、莫賀咄葉護であった。貞観年間(627-649)に使者を遣わし、節を持っておもむかせ、弥射を立てて奚利邲咄陸可汗とし、鼓・纛を賜わった。弥射の族兄の歩真は弥射を殺して自分が立とうとたくらんだ。弥射は国を保つことができず、ただちに、支配下の処月・処蜜などの部族を挙げて入朝し、右監門衛大将軍に拝せられた。そして歩真は、ついにみずから咄陸葉護となったが、その民衆は従わず、かれから逃げ去った。そこで歩真もまた一族とともに来朝し、左屯衛大将軍に拝せられた。弥射は、帝が高麗を征討するのに従い、功績を立てて平壌県伯に封ぜられ、右武衛大将軍にうつされた。賀魯を平定するにおよんで、弥射は歩真とともに、それぞれ可汗となり、その支配下の刺史以下の官を任命することを許された。この年(659)に弥射は、真珠葉護を双河に攻撃してかれを斬り、二人の闕啜を殺した。 弥射と歩真とは民衆を安んじ治める能力に欠け、支配下のものの多くはこれを怨んでいた。そこで思結部族の都曼は疏勒・朱俱波・喝槃陀の三国を率いて反乱をおこし、于闐を撃破した。左驍衛大将軍の蘇定方に詔してこれを征討させた。都曼の軍隊は馬頭川を保有したが、顕慶五年(660)に、蘇定方はその城に到達し、これを攻撃して陥れた。竜朔二年(662)に、弥射と歩真とは、軍隊を率い、颱海道総管の蘇海政に従って亀茲を討った。歩真は弥射にくみ、しかも弥射の部落を併合しようと思った。そこでかれは蘇海政に、弥射が謀反を企てていると讒言した。蘇海政はこれを見きわめることができず、すぐさま将帥たちを集めてあいはかり、弥射が事をおこすのにさきんじてかれを誅殺しようとした。そこで、蘇海政は、「たずさえて来たものを出して、可汗・首領たちに賜わる」という詔が下された」といつわり称した。弥射が部下をひきつれてやって来ると、蘇海政は、かれらを残らず捕えて斬った。弥射に属していた鼠尼施・抜塞幹部族はそれからそむいて逃走したが、蘇海政は、これらを追撃して平定した。歩真は乾封年間(666-668)に死んだ。 咸亨二年(671)に、西突厥の部酋の阿史那都支を左驍衛大将軍とし、匐延都督を兼ねて、その部衆の心を安んじやわらげさせた。儀鳳年間(676-679)に、都支は、みずから十姓可汗(西突厥の可汗)と号し、吐蕃と連合して安西に入寇した。吏部侍郎の裴行倹に詔してこれを討たせようとしたが、裴行険は、軍隊を出さずに計略を用いて勝利を収むべきことを願い出た。そこでただちに裴行倹に詔し、冊書をたずさえて、波斯の王子を送り帰すとともに大食を安撫させることにし、そのさい、ただ両蕃の地を通るにすぎないように思わせた。都支ははたして、これに疑いを持たず、子弟をひきつれ裴行倹に面会を求めて来たので、ついにこれを捕虜にした。裴行倹は、また諸部族の首領を呼び集めて捕え、さらに、別将の李遮匐を降服させ、これらの捕虜をひきつれて帰国した。これは調露元年(679)のことであった。西姓(西方の諸部落、西突厥)は、このときからますます衰え、そののち、二部(咄陸部と弩失部)では、人々が日ごとに離散していった。そこでついに、弥射の子供の元慶を擢用して左玉鈐衛将軍とし、歩真の子供で歩利設だった斛瑟羅を右玉鈐衛将軍とし、かれらに、それぞれの父の所領と可汗号とをすべて継承させた。元慶はかさねて、鎮国大将軍・行左威衛大将軍に拝せられた。則天武后が政権をほしいままにするようになると、この両人は諸蕃の首領を率いて、睿宗に武氏という姓を賜わるよう願い出た。また斛瑟羅をあらため号して、竭忠事主可汗と称した。長寿年間(692-694)に、元慶は皇太子に拝謁したという罪を負わされ、来俊臣の讒言をうけて腰斬の刑に処せられた。そして朝廷はかれの子供の献を振州に流した。 その翌年(694)、西突厥諸部族は、阿史那俀子を即位させて可汗とし、吐蕃とともに、武威道に入寇した。大総管の王孝傑は、これらと冷泉・大領谷で戦って撃破した。砕葉鎮守使の韓思忠は、また泥孰俟斤と突厥施質干、胡禄などとを破った。こうして吐蕃の泥熟没斯城を攻め陥れた。聖暦二年(699)に、斛瑟羅を左衛大将軍とし、平西軍大総督を兼ねて、その国の人々を鎮撫させた。このとき突騎施の烏質勒の兵力が強盛だったため、斛瑟羅はあえて帰国しようとはせず、その部六、七万人とともに中国内地に移り住むにいたり、長安で死んだ。そこでかれの子供の懐道を擢用して右武衛将軍とした。 長安年間(701-704)に、阿史那献を右驍衛大将軍とし、興昔亡可汗・安撫招慰十姓大使・北廷大都護を継承させた。長安四年(704)に懐道を十姓可汗とし、濛池都護を兼ねさせた。しばらくして、献を磧西節度使に雇擢用した。十姓(西突厥)部落の都担が反乱をおこすと、献はこれを攻撃して斬り、その首級を宮廷へ送った。かれは砕葉より西方の帳落(遊牧民部落)三万を集めて中国に属させたので、璽書を下してこれを嘉しいたわった。葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施の三部族はすでに中国に臣属していたが、これらが東突厥の黙啜の侵掠をうけたので、献を定遠道大総管とし、北廷都護の湯嘉恵などと、前後相応じてこれに当たらせた。そこで、突騎施は、この辺境での争いをひそかに利用した。このために、献は軍隊の増援を乞い、自身は入朝したいと願い出たが、玄宗はこれをききいれず、左武衛中郎将の王恵に詔し、節を持ってかれを安んじいたわらせ、また突騎施都督で車鼻施啜の称号を帯びた蘇禄を冊拝して順国公にしようとした。しかし突騎施はすでに撥換、大石城を包囲し、さらに四鎮を占領しようとしていた。たまたま湯嘉恵は安西副大都護に拝せられ、すぐさま三姓葛邏禄(三氏族から成る葛邏禄部族)の軍隊を遣わし、献と協力してこれを攻撃させた。帝は、王恵に詔し、これらと力をあわせて経略させようとした。しかし、宰相の宋璟と蘇頲とが、「突騎施がそむき、葛邏禄がそれを攻撃していますが、これは、夷狄どもがみずからたがいに傷つけ滅ぼしあっているのであって、朝廷から出たことではありません。もしかれらのうちで強大な方が傷つき、弱小な方が滅びるならば、ともにわが国にとって好都合であります。王恵がおもむいて慰撫しようとしているときにあたって、軍隊によって干渉すべきではありません」と言ったので、これを中止した。献は結局、娑葛が強気で他人の言に耳をかさず、これをおさえきれないので、かれもまた中国に帰して安で死んだ。 突厥施(突騎施)の吐火仙が敗れると、はじめて懐道の子供の昕を十姓可汗・開府儀同三司・濛池都護とし、またかれの妻、涼国夫人の李氏を冊立して交河公主とし、軍隊を遣わしてかれらを護送させた。昕は砕葉の西の倶蘭城に到達すると、突騎施の莫賀達干に殺された。交河公主はその子供の忠孝とともに逃げ帰り、忠孝は左領軍衛員外将軍を授けられた。西突の阿史那氏族は、こうしてついに滅亡してしまったのである。 突騎施の烏質勒は、西突厥の別部の首領である。賀魯の勢力が破滅してから、二部(咄陸部と弩失畢部)の可汗はともに先に入朝して天子に仕え、虜(西突厥)にははっきりした君主がいなかった。烏質勒は、はじめ斛瑟羅に隷属し、莫賀達干であった。斛瑟羅は、その政治が冷酷で、民衆はこれに心服していなかったが、これに対して烏質勒は、支配下のものをよくいつくしみ、威信があった。多くの国はかれに帰順し、またその帳落(遊牧民部落)はしだいに強盛になった。そこでかれは二十人の都督を置き、それぞれが七千人ずつの兵士を統べることにした。さきには砕葉の西北にたむろしていたが、しだいに砕葉を攻撃して占領すると、すぐさま自分の牙(本営)を移してここに居をかまえ、砕葉川を大牙と、そして弓月城・伊麗水を小牙と呼んだ。その領域は、東では北突厥、西では多くの胡国と隣接し、また東は西州・廷州の方向にあたり、斛瑟羅の支配地域をすべて併合してしまった。 聖暦二年(699)に、鳥質勒はその子供の遮弩を遣わして来朝させた。武后はこれに手厚いいたわりを示し、神竜年間(705-707)には、烏質勒を懐徳郡王に封じた。この年(706)に烏質勒が死んだ。かれの子供の嗢鹿州都督の娑葛を左驍衛大将軍とし、父の封爵を継がせた。このときかれの支配する精兵は三十万人を数えた。十姓可汗の阿史那懐道に詔し、節を持ち使いさせて、かれを冊立し、後宮の婦人四人を賜わった。景竜年間(707-710)に、娑葛は使者を遣わし入朝させて謝意を表した。中宗はそのために前殿(正殿の前にある御殿)に臨御して万騎羽林の二仗をひきつれ、使者を引見してねぎらい下賜品を賜わった。娑葛はまもなくその部将の闕啜忠節と憎みあい、たがいにはげしく戦った。娑葛は闕啜忠節の罪を朝廷に訴えて、かれを京師へつれて来るよう願い出た。闕啜忠節は大金を宰相の宗楚客などに賄賂としておくり、自分が入朝しなくてもよいように取り計ることをたのみ、また吐蕃を誘って娑葛を攻撃し報復したいと申し出た。ちょうどそのとき、宗楚客は国政を専らにしていた。そこですぐさま、かれは、御史中丞の馮嘉賓に命じて節を持って使いし、事にあたらせた。馮嘉賓は、闕啜忠節と書簡を交換したが、娑葛の巡邏兵がかれの書簡を入手した。娑葛はついに馮嘉賓を殺し、弟の遮弩に命じて、軍隊を率い辺境地域を掠奪させた。安西都護の牛師奨はこれと火焼城で戦ったが、牛師奨は敗れて戦死した。そこで娑葛は表を奉って、宗楚客の首級を要求し、見せしめにしたいと願った。大都護の郭元振は表を奉り、娑葛の行状が正しく、かれは当然赦さるべきであることを述べた。詔を下してこれをききいれ、こうして西方地域の争乱はついにおさまった。 ところで、娑葛は、弟の遮弩の支配下の部落を分け始めていたが、遮弩は自分の部衆が少ないのを恨み、兄にそむいて東突厥の黙啜に帰順し、道案内をして帰り自分の兄を攻撃することを願い出た。黙啜は遮弩をとめおき、みずから二万人の軍隊を率いて娑葛を攻撃し、かれを捕虜にした。黙啜は帰国すると、遮弩にむかって、「汝は兄弟の間で親しみあっていない。そんな状態でどうして我に心から仕えることができようか」と言い、二人とも殺してしまった。 突騎施の別種の首領で車鼻施啜の蘇禄なるものが、余衆をよせ集め、みずから可汗となった。蘇禄は支配下のものをよくいたわり従えたので、諸部族がしだいに集まってきて、その部衆は二十万人に達した。こうしてかれは、またもや西域に勢力を確立し、開元五年(717)にはじめて来朝した。かれに右武衛大将軍・突騎施都督を授け、その献上したものを受けとらなかった。武衛中郎将の王恵に命じ、節を持って使いさせ、蘇禄を左羽林大将軍・順国公に拝し、錦の上衣、鈿帯、魚袋など七つを賜わり、金方道経略大使とした。しかし蘇禄は詐計にたけて悪賢く、誠心から唐に臣属していたわけではなかった。天子はかれを唐につなぎとめておこうとし、その称号を進めて忠順可汗とした。そののち二年たって蘇禄からの使者が献上物を奉った。帝は阿史那懐道の娘を交河公主とし、かれにめあわせた。この年に、突騎施は安西で馬による交易を行なったが、そのさい、使者が公主の指令を都護の杜暹に伝えた。杜暹は怒って、「阿史那氏族の娘が、その身分をかえりみず指令をのべ伝えるとは、なにごとか」と言い、その使者を笞うって、蘇禄に告げなかった。蘇禄は怒ってひそかに吐蕃と連合し、軍隊を発して四鎮を掠奪し、安西城を包囲した。ちょうどそのとき、杜暹は帰国して国政をつかさどり、趙頤貞が代って都護になっていたが、かれは長期にわたって城壁にのぼり防戦し、城からうって出ては敗れた。蘇禄はその人畜を捕え、穀物倉のたくわえを奪い出した。しかししばらくして杜暹がすでに宰相になっていることを聞き知り、軍を引いて去った。蘇禄はまもなく、首領の葉支阿布思を遣わして来朝させた。玄宗は使者を引見し、かれのために宴を設けた。たまたま、東突厥の使者もまた来ていて、蘇禄の使者と席の上下を争い、「突騎施は、国が小さく、しかも突厥に臣属していたものだ。その使者が上席を占めるべきではない」と言った。これに対して、蘇禄の使者は、「この宴は、ほかでもない私のために張られたものである。私が下座にすわるわけにはゆかない」と言った。そこでついに東西にそれぞれまんまくを張り設けて、蘇禄の使者は西の席を占め、こうして宴を無事に終えた。 はじめ蘇禄は、その民衆をいつくしみ治め、また、生まれつき勤勉・質素で、戦闘のたびごとに捕獲したものがあれば、それらを残らず支配下のものに分け与えた。このため、諸族はかれに心服し、かれのために力をつくした。また吐蕃・東突厥と交わり通じ、これらの二国の君主は、いずれもその娘をかれにあわせた。かれはついに、三国の娘を立ててともに可敦とし、数人の子供を立てて葉護とした。こうしてかれの出費は日ごとに多くなってきたけれども、かれは平生からたくわえをしていなかった。そこで晩年には貧困を憂えてたのしまず、このために、しだいに鹵獲したものを自分の手元にとめおいて分配しなくなり、支配下のものは、ここにはじめて、かれにそむくにいたった。そのうえ、かれは中風を病んで、手足の一本がまがって役に立たなくなった。そこで、大首領の莫賀達干と都摩支との支配する二部落が強盛となり、しかもその種族の民衆で、娑葛の後裔と自称するものは黄姓、また蘇禄支配下のものは黒姓となり、これまたたがいに疑い敵視しあうことになった。 ほどなく莫賀達干と都摩支とは、蘇禄を夜襲してかれを殺した。しかし都摩支はまた、達干にそむき、蘇禄の子供の吐火仙骨啜を即位させて可汗とし、砕葉城に住まわせた。そしてかれは、黒姓の可汗の爾徴特勒を味方に引きいれて怛邏斯城を保有させ、協力して達干を攻撃した。帝は磧西節度使の蓋嘉運に命じて、突騎施と抜汗那などの西方諸国とを慰撫させた。莫賀達干は、嘉運とともに、石国の王の莫賀咄吐屯、史国の王の斯謹提を率い、協力して蘇禄の子供(吐火仙)を攻撃し、かれを砕葉城で破った。吐火仙は旗を棄てて逃走したが、蓋嘉運らはかれとその弟の葉護頓阿波とをともに捕虜にした。疏勒鎮守使の夫蒙霊詧は、精鋭の軍隊を擁して、抜汗那王とともに、怛羅斯城を急襲し、黒姓の可汗(爾微)とその弟の撥斯とを斬り、また曳建城に入って交河公主、蘇禄の可敦、および爾徴の可敦を捕えて帰った。また西方諸国の散亡した人々数万人を数えはかって、一人のこらず抜汗那王に与え、こうして諸国はすべて降服するにいたった。 処木昆部落の匐延都督府の闕律啜などの率いる諸部落は、みな書を奉り謝意を表して、つぎのように言った。「私どもは、遠い国土のはてに生をうけましたが、そこでは国は乱れ、王は薨じ、たがいに攻め殺しあっておりました。幸いにも、天子は蓋嘉運を遣わし、兵を率いて暴虐を誅し危機を救わせられました。願わくば、私どもが聖顔の御前で頭を地につけて敬礼し、部落を率いて安西に帰服し、末長く御国の外臣となれますように」。この願いはききいれられた。 翌年(740)に、闕律啜を擢用して右驍衛大将軍とし、石王に冊立し、また順義王とし、さらに加えて史王に拝して特進とし、その功績を顕彰してこれに報いた。蓋嘉運は吐火仙骨啜を捕えて太廟に献げた。天子はこれを赦して、左金吾衛員外大将軍・修義王とし、頓阿波を右武衛員外将軍とし、また阿史那懐道の子供の昕を十姓可汗として突騎施の部衆を治めさせた。莫賀達干は怒って、「蘇禄を平定したのは、わが功績である。いま昕を立てるとはなにごとか」と言い、すぐさま諸部落を誘って反乱をおこした。そこで蓋嘉運に詔してかれを招き諭させると、かれは妻子と纛官(はたもち)、首領をひきつれて降服してきた。それでついにかれに命じてその部を統べさせた。その数年して、昕をふたたび可汗とし、軍隊を遣わして護送させた。昕は倶蘭城に到達すると、莫賀咄に殺された。莫賀咄は自立して可汗となったが、安西節度使の夫蒙霊詧がかれを斬り殺し、大纛官の都摩支闕頡斤を三姓葉護とした。 天宝元年(742)に突騎施部族は、あらためて黒姓の伊里底蜜施骨咄禄毘伽を可汗とし、かれはしばしば使者を遣わして貢ぎ物を献上した。天宝十二載(753)に黒姓部落は、登里伊羅蜜施を即位させて可汗とし、これにもまた詔冊を賜わった。 至徳年間(756-758)よりのち、突騎施の勢力は衰えて、黄姓と黒姓とがともに可汗を立てて攻撃しあったが、中国では、ちょうどそのころ事が多く、これをとりしまる余裕がなかった。乾元年間(758-760)には、黒姓の可汗である阿多裴羅は、なお使者を遣わして入朝させることができた。大暦年間(766-779)よりのち、葛邏禄の勢力が盛大になって、かれらが砕葉川に移り住み、突騎施の黄・黒二姓は衰えて、ついに葛邏禄に臣属するにいたった。そして斛瑟羅に支配されていたほかの部衆は回鶻に服属した。これらが破滅するにおよんで、特庬勒なるものがいて、焉耆城に居をかまえ、葉護と称した。また、ほかの部衆は金莎領を保有した。これらの民衆は二十万に達した。 賛にいわく、隋末期、国内が有名無実となると外敵の攻撃をうけ、生ける者は道路に疲弊し、死者は原野にさらされ、天下の盗賊は共に攻めあい滅ぼしあった。まさにこの時、四夷の侵入を受け、中国は衰退して突厥は最強となった。弓をとれる者は百万と号し、華人は失職して皆行ってはこれに従った。この謀を恨み、誘敵して辺境に入らせた。そのため頡利は自ら強大なこと古今に稀であるとした。高祖が即位すると和平し、よってしばしば軍を出しては賊を討伐することを助けた。そのため偽って臣と称し、受けた贈物は数えられないほどであった。虜は利を見ては動き、また賊とも和を連ね、吏民を殺掠した。ここにおいて国をあげて入寇し、渭橋にせまり、騎兵は塵のごとく京師にせまった。太宗はみずから兵士を率い、責をあらわしては陰ながらこれと交わった。夷戎は当初内より阻んだ。三年もせずして、頡利を捕縛して北の闕下(太廟)に献じ、その国はついに壊滅した。詩経・書経の時代以来、暴を征伐して乱を排除し、敵を蔑っては帝の心はまた速かった。秦・漢の頃は浅はかであった。しかし帝はしばしばにわかに軍に労を告げず、大敵にも逃げる心などなく、よく将を任じれば必ず功があり、思うに黄帝の用兵というべきであろう。しかし突厥は失徳をもって有道にあがらい、次第に弱っていっては勃興し、運の盛衰があるとはいえ天に属することがらであって、その滅亡を信じることは理由があることなのだ! 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十五上 列伝第一百四十上 『新唐書』巻二百一十五下 列伝第一百四十下 巻二百一十六上 列伝第一百四十一上
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1.要約 本書で考察する宮廷とは、君主や大諸侯とその取り巻きたちが織りなす独特の人間社会のことを指す。一方で民衆の文化は、長らく歴史なきものと考えられてきた。それぞれに異質な二つの文化は、その後どのようにしてわれわれの知る近代文化につながってくるのだろうか。 ヨーロッパ中世においてはいくつかの輝かしい宮廷文化の事例が先駆的な例としてあげられる。しかし、ルネサンス期以前の君主はおおむね軍事的才能がものをいう戦士としての統治者であった。その意味では、まず14~15世紀のブルゴーニュ公国あるいはイタリア都市国家の宮廷に目を向けなければならない。 ブルゴーニュ公国は、フランスの現ブルゴーニュ地方を本領とし、結婚・外交政策および武力により、1384年にはフランドル、フランシュ・コンテ、アルトワ、ヌヴェール、ルテルを併せ大ブルゴーニュを形成するにいたった公領である。ブルゴーニュ公家は領地が南北に分断されていたため、領国経営のために君主は移動を余儀なくされ、宮廷もブルゴーニュ公に付き従って移動した。公に付き従う人員は、親族のほか廷臣である貴族たち、宮殿の各職務に携わる者たちだった。ブルゴーニュ公の宮廷は強固な構造を持ち、人びとは位階の定められた社会に生きていた。 この時期のブルゴーニュ宮廷は、西ヨーロッパでもっとも富み栄え、よく整えられた宮廷として知られていた。国家的イヴェントにおいて、また、公家の家としての儀式において、ブルゴーニュ公家は宮廷を舞台に威厳を示し豪華絢爛たる行事を繰り広げたが、これは、権力維持のための装置として遂行されたものである。 ブルゴーニュの君主たちは芸術を愛する心を有していた。また、遺贈や献上本、そして歴代の公自身が集めたブルゴーニュ公家の蔵書数は当時の王室を凌ぐほどだった。ブルゴーニュ公の蔵書の内容的特色は狩猟・軍事などにかんする教本や政治理論の書物を少なからず有することであり、また、歴史書・年代記に強い関心を示していることである。歴代の公は当時としては珍しく修史官を抱えてブルゴーニュ公国の年代記を編ませていた。 ブルゴーニュ公家4代100年余の歴史はシャルル突進公の短い治世で幕を下ろす。智略を用いてシャルルに勝ったフランス国王ルイ11世は簡素を好み、彼の周りには宮廷と呼べるものはまだ形成されなかった。ほぼ同時代の宮廷を語るとすれば、むしろルネサンス=イタリアの都市国家をみるべきであろう。 ウルビーノは、イタリア中部マルケ州にあり、アペニン山脈からアドリア海へおりてゆくほぼなかばの距離にある。ここに、15世紀後半から16世紀にかけて50年の短い期間であったがイタリアばかりかヨーロッパにも比類のないルネサンス文化の粋が花開いたモンテフェルトロ家二代を擁するウルビーノ公国が存在した。フェデリコ・モンテフェルトロは、教皇やナポリ、ヴェネツィア、フィレンツェなどのために戦った非常にすぐれた将軍である一方、誠実を信頼され、学問と教養に富み、芸術を熱愛し、あまねく尊敬された人物であった。フェデリコはまた、人文学者、愛書家、為政者としても抜きんでていた。彼の宮廷の大きな特徴はその蔵書にみられる。フェデリコの文庫には当時の学問の全学科が網羅され、それはヨーロッパでも比類のない文庫であった。 フェデリコは二度目の妃バッティスタとの間に嗣子グィドバルドをもうけた。幼くして両親を失ったグィドバルドは、元来聡明であり、人文教養に深い関心を寄せ、かつ、武芸一般もよくしたという。しかし彼は20歳にして痛風に冒され、武将の仕事を十分にこなすことができなくなった。さらに、チェーザレ・ボルジアの台頭はウルビーノからの亡命を余儀なくし、彼を窮乏流寓の生活に追いやる。チェーザレの失脚後、グィドバルド夫妻はウルビーノへ帰還することができ、それからおよそ5年の歳月のあいだは、典雅な宮廷生活を享受することができたという。 中世末の14~15世紀にいたり、フランス王国は混乱の二世紀をむかえることとなった。明るさがみえてくるのは15世紀なかばのことであった。このような再建の気運のなかで、フランス王権も、ふたたびその基盤を強化することが可能となった。 16世紀フランスの国王は、先に述べたブルゴーニュ公の場合と同様に、なお旅する国王であり、宮廷は移動する宮廷であった。16世紀の移動宮廷は、広大となった国土と、ヨーロッパ最大の人口をかかえたフランスにあって、不備な官僚制度と物流を補い王国の統一を強固にするひとつの手段であったと思われる。また、国王は王国と臣民をよく知らねばならず、王は臣民たちにしっかりと見られなければならない。臣民は、王を見、宮廷の豪華さを目の当たりにすることで、国家・国王への忠誠心に目覚めるのである。移動宮廷は、中央集権化・絶対王政化へと進む過渡期にあるフランス王権の宮廷の姿であるといえる。 新しいフランス文化の中心として、宮廷は大きな役割をはたすことになる。王家の役割は建築の面でも明らかであり、当時のフランスで着目すべきものは主として国王による城館の造営である。この時期には宮廷が文化の多くの面でその推進者となり、あるいは少なくとも保護者になっていたといえよう。 1661年、親政を開始したルイ14世は、父王がヴェルサイユに遺したささやかな建物を発展させて壮麗な宮殿を建てようと計画した。以後およそ20年にわたって工事は続けられ、1682年5月、ルイ14世は、改築がかなり進んだヴェルサイユに移り住んだ。王の日常はすべての行為が儀式化されており、生理的な営みから政務にいたるまで等しく衆人環視のもとにおこない、わずかな接し方の差で寵愛や不興の距離を廷臣たちに示す。ここにみられる国王は廷臣たちを思うがままに動かし思い通りに振舞っているかにみえるけれども、一方では彼自身この儀礼を外れることはできないのである。 ルイ14世は、この宮廷をとおして全フランスを統治していた。したがって、この統治の中枢を統御するだけではなく、当時2000万人といわれるフランス国民にたいしてもその姿を公開することが必要だった。戦勝や王家の慶事を祝う「テ・デウム(神への感謝・賛美)」の式、征服地ごとに建てられた銅像、太陽王のメダイユ、印刷された肖像の頒布など、多くのメディアによって国王の統治が国民に宣布されたのである。 この時代の文化を考えるとき、狭い意味でもヴェルサイユがほとんどすべて代表しているといわざるをえない。ここには当時の最高の芸術が凝縮されている。また、ルイ13世もルイ14世も読書あるいは蒐書の趣味はなかったが、王室図書の充実は歴代担当者の熱意と実力によってはかられた。公共のための一般公開も始められ、この時期になってはじめて、君主の資質や趣味とかかわりなく、システムとして王立図書館の充実と活用とが確立するにいたった。 宮廷文化としてなによりも取り上げられるべきものは、高度に発達した独特の人間観察術、礼儀作法である。宮廷内では、他人の心理を読み、状況を把握することがなによりも求められ、自分の身分と相手の序列に応じた微妙な礼儀作法をわきまえなければならなかった。 絶対多数の民衆は、15世紀以降花開いた宮廷文化とはかけ離れた生活を営んでいた。農民であれ、都市の民衆であれ、彼らの文化の大きな特徴は生活圏に密着したローカルな文化だということである。民衆の日常は怖れに満ちており、このような世界に魔女があらわれるのはごく自然なことであった。15~16世紀の民衆の祭りのほとんどはキリスト教の祝祭日としておこなわれた。この祝日がヨーロッパの四季に調和していることから、キリスト教以前の農耕社会における異教的習慣の記憶と結びついていることもしばしば言及されている。都市においても同様の祭りがおこなわれた。共同体によっておこなわれたさまざまな祭りの基本的な要素は、酒と行列と踊りであった。また、祝日に道化の王や道化の裁判官を選び出しておおいに騒ぐといったような楽しみは各地にみられる。祭りにおいて人びとは、権威の逆転を楽しみ、非日常の世界に浸ることによって現実世界のカタルシスを現出させ、現実の不安を一掃して共同体の絆を結びなおしていた。 シャリヴァリは、再婚者などにたいして通常数日間にわたって騒々しいからかい遊びを演じて「科料」をまきあげるという行為であり、若者の結婚の機会を狭め共同体の再生産に支障をきたすとみなされた婚姻形態への私的制裁であったと考えられる。 15世紀の人びとは激しい感情の起伏のなかに生きていた。激情にかられれば暴力沙汰になった。衛生状態が相当に悪く、医療技術も低かったと考えられる当時においては、ちょっとした傷が致命傷になるのであった。 いわゆる民衆本といわれるものは17世紀初頭に小型の行商本として始まった。その外見から「青本」と呼ばれた民衆本の内容は、信心書・聖人伝、中世以来の物語のリライトもの、暦、実用書などであって、民衆独自の心性が明瞭にあらわれているとはいいがたいところがある。民衆文化の基本は、なお、口頭のコミュニケーションに大きく依存していたと考えなくてはならない。しかし、生活の知恵や民話が、世代から世代へと口頭によって伝えられるのが基本であった民衆文化の世界に、文字媒体がこのようにはいりはじめたことは、注目すべき事柄である。 とりわけフランスにおいて、宮廷文化と民衆文化を接合してゆくものとしての都市文化あるいはブルジョワの文化は、この時代の非常に重要な要素である。 17世紀と18世紀の交ともなると、国王の庇護を求めない、都市の文化がはっきりと姿をあらわすにいたる。「宮廷」対「都市」の対抗軸の形成である。しだいに形式化した礼節と狭い宮廷での交際の世界は色あせてゆき、合理性の追求が価値をもつこととなる。こうして、都市文化あるいはブルジョワの文化は宮廷文化にとってかわるのであるが、このとき、宮廷で確立された礼節と情念の自己抑制をブルジョワは自らのものとして選択的に取り込んでゆくのである。われわれの知っている近代文明は、中世末から近世にかけての宮廷文化と民衆文化との二つながらを、都市ブルジョワジーの文化を媒体として統合することによって成立してきたものということができる。 2.感想・議論 筆者は本書の最後で、都市ブルジョワジー文化は宮廷文化と民衆文化の統合点であると主張している。私はこの主張にたいして、おおむねのところ納得することができた。 近代市民文化の直接の源流でもある都市ブルジョワジー文化が、宮廷文化のなかから合理的なものだけを取り出して吸収していった過程は想像に難くない。ブルジョワははじめ、法服貴族となって政治の中枢、つまり宮廷へ分け入ろうとした。その途上で宮廷式儀礼を身につけ、それを内面化する一方で、経済的・政治的に勢力をのばしていく。もはや宮廷に依存する必要性のない都市ブルジョワジーの文化は、知識人の集うサロンや先進的貴族の提供する邸宅の一角でその営みを拡大していったことだろう。また、ブルジョワジーによる宮廷文化の合理的取り込みは、かれら固有のアイデンティティの誕生と密接に結びついているように思える。かれらは当初、自らにないものへの憧れをもって、官職を購入する、武門貴族との縁組を進めるなどの手段によって宮廷の一員となろうとした。しかし、一部の人びとは、宮廷文化の取り込みを進めると同時にブルジョワジー固有のメンタリティに誇りを感じ、宮廷特有の極端な儀礼を嫌うようになったのではないだろうか、と想像することもできる。 一方で、民衆文化、とくに農村の文化とブルジョワ文化との統合性には、個人的に疑問が残った。都市ブルジョワジー文化や近代市民文化に、農民的要素の継承がみられるかときかれれば、つながりは薄いように思うと私は答えてしまうだろう。 農民文化は呪術的要素をたぶんに持ち合わせる。また、シャリヴァリに代表されるムラ意識の表出は、閉鎖的共同体としての農村の性格を色濃く表している。都市で生まれたブルジョワ文化は、フランス革命が巻き起こした普遍化の波に乗って農村地域にまで影響を及ぼしたというが、中近世にわたって引き継がれてきた農村文化の特質的な部分を自らの中に取り込んだだろうか? この場合、「統合」というよりむしろ「駆逐」という表現が合っているように感じる。 ただし、民衆文化を示す史料のひとつとしてあげられる民衆本は、口頭中心であった農村のコミュニケーションに、新たに文字というメディアが介入したことをわれわれに教えてくれる。こうした文字文化の流入が、中世からほとんど変化しなかったという農村文化のあり方を加速度的に変えていった可能性はある。 また、自然信仰や祈願の祭りなどの習俗は、地方を中心に数多く現代にのこされている。このことは、ブルジョワジー文化が農村文化を「統合」したにせよ「駆逐」したにせよ、人びとのあいだに深く根付いた洗い流しがたいメンタリティが存在していた確固たる証である。 このように、近世300年のあいだに深い裂け目を生じてしまった宮廷文化と民衆文化を再び出会わせ、われわれのよく知る近代市民文化の礎をつくった功績は、都市のブルジョワジーにみることができる。だがしかし、ブルジョワ文化がわれわれの享受する現代文化の祖先にあたる以上、それ以前の二つの異質な文化を学び、理解しようとする際には、自らのうちにある偏見と固定観念を常に疑ってかからねばならないのは自明である。われわれが都市ブルジョワジーの文化的子孫であるという事実は、近世の二つの文化にたいする分析と理解の妨げになりかねないと私は考える。
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唐書巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 澣 処誨 従讜 鄭珣瑜 覃 裔綽 朗 高郢 定 鄭絪 顥 権徳輿 璩 崔群 鄭余慶は、字は居業で、鄭州滎陽県の人であり、三代にわたって全員が顕官となった。鄭余慶は若い頃から文章をよくし、進士に及第した。厳震が山南西道節度使となると、奏上して幕府に置いた。貞元年間(785-805)初頭、朝廷に戻り、庫部郎中に抜擢され、翰林学士となり、工部侍郎知吏部選となった。僧侶の法湊が罪科によって民によって朝廷に訴えられ、御史中丞の宇文邈・刑部侍郎の張彧・大理卿の鄭雲逵に詔して三司とし、功徳判官の諸葛述とともに取り調べさせた。諸葛述は、もとは御史であったから、鄭余慶は諸葛述が卑賎の身でありながら、三司とともに職務にあたることはよくないと弾劾し、世間はその発言に同意した。 貞元十四年(798)、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)となった。奏上するたびに、多くは経書の義に付会した。普段から度支使の于䪹と親しく、概ね陳述することがあれば、必ず賛同したが、于䪹は事件によって罪とされて左遷された。またある年飢饉となり、朝廷は禁衛十軍に振給させることを朝議したが、中書省の史のために情報が漏洩した。二つの罪が積み重なったから、郴州司馬に貶された。 順宗は尚書左丞として召還し、憲宗が即位すると、そこで官を復して同中書門下平章事(宰相)を拝命した。当時、主書の滑渙が宦官の劉光琦とともに互いに助け合いながら悪事をしており、宰相が議して劉光琦の意向と異なることがあれば、滑渙が必ず派遣され、これによって四方の財貨が贈られ、弟の滑泳の官は刺史となった。杜佑・鄭絪は宰相であったが、その場しのぎで、杜佑は常に同僚のように行動して名声を落とした。鄭余慶が議すると、滑渙は傲然と諸宰相の前で指さしたから、鄭余慶は叱って去らせた。しばらくもしないうちに、宰相を罷免されて太子賓客となった。後に滑渙が収賄で失脚すると、帝は次第に叱って去らせていた事を聞いて、これをよしとした。国子祭酒に改められ、吏部尚書に遷った。 官医の崔環なる者が、淮南小将から黄州司馬に任命されたが、鄭余慶は執奏「諸道散将で功なく五品の正員を受けるのは、僥幸の道を開くことになり、よくありません」と奏上したから、権力者は喜ばず、太子少傅、兼判太常卿事に改められた。朱泚の乱から、都から天子がたびたび離れたから、太常寺では楽の練習に鼓を用いるのを禁止していた。鄭余慶は当時長らく平和であったから、旧制に戻すよう奏上した。京師から出されて山南西道節度使となった。京師に入って太子少師を拝命し、老年によって辞退を願ったが、許されなかった。 当時しばしば恩赦や叙任があり、官位は多くなっていた。また帝が親郊すると、祭祀に陪従する者に三品・五品を授け、数えられないほどであった。節度使・都督符・諸蕃の役人が、軍功によって朱紫の衣とそれに相当する官位を賜う者は十人のうち八人に及び、近臣が任官された時の謝日や、郎官が使者として派遣される際に、多くの者が賜与された。朝会ごとに、朱紫の者が朝廷に満ち溢れ、緑を着る者は少なかった。官位・服制は非常に乱れ、このような状態だったから人々は官位・服制を貴いものだとは思わず、帝もまた嫌ったから、始めて鄭余慶に詔して改定案を列挙・奏上させた。尚書左僕射に遷った。僕射はその頃は任命される者がおらず、鄭余慶が宿老であるから任命されたが、世間の論調はゆったりとして帰服した。帝は法典が乱れているのを心配し、鄭余慶は昔の事に精通しているからと言い、そこで詔して詳定使となり、参酌・訂正させた。鄭余慶は韓愈・李程を引き立てて詳定副使とし、崔郾・陳佩・楊嗣復・庾敬休を判官とし、概ね礼典の増減を、詳衷と号したのである。 にわかに鳳翔尹を拝命し、鳳翔節度使となった。再び太子少師となり、滎陽郡公に封ぜられ、判国子祭酒事を兼任した。建言して「戦争勃発してから、学校は廃止され、諸生は離散しました。今、天下は泰平です。臣は願わくば、文吏の月俸を百分の一をとって、学校修復の資財にあてたいと思っています」と述べ、詔して裁可された。穆宗が即位すると、検校司徒を加えられた。卒した時、年七十五歳であった。太保を追贈され、諡を貞という。帝は鄭余慶の家が貧しかったから、特に一月分の俸給を給付して香典とした。 鄭余慶は若い頃から勉学に研鑽し、行いは清らかであった。四朝に仕え、俸禄はすべて親しい者に施し、ある時は人の危機を助けて、自らは貧困に甘んじた。官位が昇進しても開けっ広げであり、常に人に「禄が親友に及ばないのに下僕や妾が裕福なのは、私は卑しいと思う」と語った。大抵、内外の者が婚姻するとき、その礼献はすべて自ら見ていた。弟子が謁見を願い出ると、必ず引見し、経義をよくわかるように繰り返し教えさとし、儒学を成就させた。至徳年間(756-758)以後、方鎮に任命された者は、必ず宦官を派遣して幢節を持たせて邸宅に赴かせ、宦官がやって来ると多くの金帛を贈り、それによって天子に媚び、ただ贈り物が厚くないのを恐れ、そのため一使者は数百万緡を納めるに至ったのである。憲宗は鄭余慶に命じるごとに、必ず使者を戒めて「この家は貧しいから、むやみに求め取ってはならんぞ」と言った。議する者は自分の立場を考えず名誉を求めるものであるとしたが、鄭余慶はそうする値打ちがないとした。奏上・議論などの際には古語を用い、「給付を県官に仰ぐ」・「馬万蹄」のようなものは、役人には全く何を言っているのかわからず、人々はその不適切さを避難した。従父の鄭絪とともに家は昭国坊にあり、鄭絪の邸宅はその南にあり、鄭余慶の邸宅は北にあったから、世間では「南鄭相」・「北鄭相」と言ったという。子に鄭澣がいる。 鄭澣は、本名は鄭涵で、文宗の旧名を避けて改名した。進士に及第し、累進して右補闕に遷った。直諌して遠慮がなかったから、憲宗は鄭余慶に向かって「鄭涵は、卿の令息であるが、朕の直臣でもある。さらにめでたいことだな」と言った。起居舎人・考功員外郎に遷った。当時、刺史はあるいは吏下に迫って功愛を記録し、鄭涵は観察使がその詐称を隠蔽していいるのを責めることを願った。鄭余慶が僕射となると、避けるために国子博士・史館修撰に任命された。 文宗が即位すると、翰林に入って侍講学士となった。帝は経史を蒐集させて要録とし、その博学かつ精密であることを愛され、試しに諸条をあげて質問を投げかけると、質問にしたがって直ちに返答し、答えはとどまることなかったから、そこで金紫服を賜った。尚書左丞に累進し、京師から出されて山南西道節度使となった。それより以前、鄭余慶は興元府にあって学校をつくり、鄭澣は継いで完成させ、生徒を教え、風化は大いに行われた。戸部尚書に任命されて召喚されたが、まだ就任する前に卒した。年六十四歳。尚書右僕射を追贈され、諡を宣という。 四子がおり、鄭処誨・鄭従讜が最も名を知られた。 鄭処誨は、字は廷美で、文章に抜きんでて秀でていた。仕えて刑部侍郎・浙東観察使・宣武節度使となって卒した。これより以前、李徳裕が『次柳氏旧聞』を著したたが、鄭処誨は詳しくないと言って、さらに『明皇雑録』を撰述し、そのため当時盛んに伝えられた。 鄭従讜は、字は正求である。進士に及第し、校書郎に補任され、左補闕に遷った。令狐綯・魏扶は皆父鄭澣の門下生で、そのためしばしば引き立てられて昇進し、中書舎人に遷った。咸通年間(860-874)、吏部侍郎となり、官吏の選抜任用は厳正であった。京師から出されて河東節度使となり、宣武軍節度使に遷り、その善政は最も評判がよかった。嶺南東道節度使に改められた。これより以前、林邑蛮が侵入し、天下の兵を召集して援軍を派遣しようとしたが、たまたま龐勛の乱がおき、また援軍が派遣されなかったが、北の兵は寡弱であった。鄭従讜は土豪を募り、その酋を右職に任じ、結束させて互いに防御させたから、交州・広州は安定した。 僖宗が即位すると、召喚されて刑部尚書となった。しばらくして、同中書門下平章事(宰相)に抜擢され、門下侍郎に昇進した。沙陀都督の李国昌が辺境にて多くの災難を引き起こし、侵入して振武・雲朔等の州によって、南は太谷を攻略した。河東節度使の康伝圭は大将の伊釗・張彦球・蘇弘軫を派遣して兵を率いて防御したが、戦いはしばしば負け、康伝圭は蘇弘軫を斬って全軍に布告した。張彦球は部族を率いて背き、康伝圭を攻めて殺し、府庫を掠奪して乱をおこした。朝廷は憂いとし、帝は大臣に職務権限を与え、そこで鄭従讜を検校司徒とし、宰相の秩によって再び河東節度使、兼行営招討使となり、詔して自ら補佐を選ばせた。鄭従讜はそこで上表して長安県令の王調を自身の副官とし、兵部員外郎の劉崇亀・司勲員外郎の趙崇を節度観察府判官とし、前進士の劉崇魯を推官とし、左拾遺の李渥を掌書記とし、長安県の尉の崔沢を支使とし、全員一挙に選ばれた。京師の士人は太原を小朝廷に比して、才能ある人物を多く得たと言っていた。当時、軍乱をうけ、掠奪は日に日に激しくなっていった。鄭従讜が職務にあたると、悪者は隠れようとする思いを失い、そこで反賊を逮捕し、その首謀者を誅殺した。張彦球は普段から善人であり、また才能は任命すべきものがあったから、釈放して罪を問わず、軍を付属させ、明らかに他の疑いはなかったから、そのためその死力を得ることになった。彼の凶族の大悪はあえて暴かず、暴いてもまたたちまち従わせたから、士は皆恐れて平伏した。 たまたま黄巣が京師を占領し、帝は梁・漢に留まり、鄭従讜に詔して配下の軍を北面招討副使の諸葛爽の指揮下として討伐させた。鄭従讜は団士(民兵)五千で、将の論安を派遣して諸葛爽に従わせた。しかし李克用は太原の隙に乗ずるべきだと言って、沙陀の兵を突然その地に入らせ、汾州の東に立て籠もり、賊を討伐すると釈明し、何度も煩わしく催促した。鄭従讜は酒食で軍をねぎらい、李克用は遠くから「自分はまさに南に向かおうとしているが、願わくは貴君に一言申し上げたい」と言うと、鄭従讜は城壁の上に登り、感慨深そうにして、功を立てて天子の厚恩に報いさせようと言うと、李克用は言葉につまり、再拝して去った。しかし密かにその部下を放ってほしいままに掠奪させ、そのため人心は怨みに思った。鄭従讜は論安に追撃させ、将の王蟾・高弁らとともに最後尾を攻撃させ、また振武軍の契苾通が到着して合流し、沙陀と戦い、沙陀は大敗して引き返した。そこで論安らを派遣して北百井鎮に駐屯させたが、論安は勝手に帰還したから、鄭従讜は諸将と合わせて、論安を連れてくるよう命じて、これを鞠場で斬った。中和二年(882)、朝廷は沙陀を赦し、賊を撃たせて自ら贖わせることとなったが、兵はあえて太原を通過せず、嵐州・石州より河に沿って南下し、ただ李克用のみは数百騎を従えて通過し、城下で挨拶し、鄭従讜に名馬・器幣を贈って去った。翌年、賊が平定されると、李克用に詔して鄭従讜に代わって河東節度使を領することとなった。李克用の使者がやって来て「親がいる雁門によってから赴任するから、公はゆっくりと行かれるがよい」と述べたが、鄭従讜は即日、監軍の周従寓を知兵馬留後とし、掌書記の劉崇魯を知観察留後とし、李克用が到着すると、帳簿を確認して実証し、その後鄭従讜は行った。 黄巣軍が兵糧が少なくなって掠奪を行っており、鄭従讜は間道から絳州に走ったが、並走する道は塞がって不通となっており、数か月して、召喚されて司空を拝命し、再び宰相となり、太傅兼侍中に昇進した。帝に従って興元府に到着したが、病によって骸骨(辞職)を乞い、太子太保を拝命したが、邸宅に戻って卒した。諡を文忠という。 鄭従讜はいつも礼法があり、性格は自慢したり傲慢であったりするようなことなく、冷静沈着で策謀に秀でた。汴州にいる時、兄の鄭処誨が在任中に没したが、任期が終わるまで節度使軍中で音楽を演奏しなかった。陸扆を知って弟子とし、しばしば褒め称えたが、陸扆は後に宰相の位についた。張彦球は、誠実でうまく処置し、何度も敵を破って功績があり、奏上して行軍司馬とし、後に金吾将軍に任じられた。それより以前、盗賊が中原に流れ、沙陀は強く剽悍であったが、しかしついに用いるようになったのは、思うに鄭従讜が太原の重鎮となったからであろう。当時、鄭畋は宰相の地位のまま鳳翔節度使となり、檄文を発して賊を討ち、両人の忠義は相並び、賊は最も憚り、「二鄭」と名付けたという。 鄭珣瑜は、字は元伯で、鄭州滎沢県の人である。若くして父を失い、天宝年間(742-756)の安史の乱に遭い、隠れ住んで陸渾山で耕し、母を養い、州の政務に関わらなかった。転運使の劉晏が奏上して寧陵県・宋城県の尉に補任され、山南節度使の張献誠が上表して南鄭県の丞としたが、すべて謝して応じなかった。大暦年間(766-779)、諷諌主文科を優秀な成績で及第し、大理評事を授けられ、陽翟県の丞に任じられ、抜萃科に及第して万年県の尉に任命された。崔祐甫が宰相となると、左補闕に抜擢され、京師から出されて涇原帥府判官となった。京師に入って侍御史・刑部員外郎を拝命したが、母の喪によって解職した。喪があけると、吏部に遷った。貞元年間(785-805)初頭、詔して十省の郎を選んで畿内・赤県を治めさせることとなり、鄭珣瑜は検校の本官で奉先県令を兼任した。翌年、饒州刺史に昇進した。京師に入って諌議大夫となり、四遷して吏部侍郎となった。 河南尹となった。まだ境に入って赴任する以前に、徳宗の降誕日となり、河南尹では馬を献上しようとし、吏は赴任前に河南尹の印を使い、鄭珣瑜に許可を得てから実行し、なおかつ宮廷に献上しようとした。鄭珣瑜はおもむろに「まだその官となる前ににわかに献上するようなことは、礼だといえるだろうか」と言って聴さなかった。性格は厳重で言葉は少なく、今まで私事で他人を利用したことはなく、また他人もまたあえて鄭珣瑜に面会して私事をしようとしなかった。河南に到着すると、安静となって下々への恵みとなり、価格が安いときに暴落を防ぐために買って保存しておき、価格が高くなったときに、高騰しすぎないように保存しておいたものを売ることによって物価の安定を図って民の便とした。まさにこの時、韓全義が兵を率いて蔡州を討伐し、河南は主に兵站を担い、鄭珣瑜は密かに陽翟県に蓄えをし、官軍に給付し、百姓は運送の労役を味わうはめにならなかった。おおむね勅使を送迎するのに、いつも決まった場所があり、吏は密かにその馬が数歩も用いたことがないのを知っていた。韓全義は監軍とともに別に檄文して馬を使おうとしたが、詔ではないから、鄭珣瑜は檄文を壁に掛けて馬を使わせなかった。討伐が中止になるまで、およそ数百にも及んだ。ある者が諌めて、「軍は当然機会は急を要するものであるのに、公は回答すべきではなかったのではないか」と言ったが、鄭珣瑜は、「武士は軍を率いており、多くそのことを恃んで強制してきた。いやしくもこれを罪とするであれば、尹がこれを罪とすべきである。万人をして禍いを産むことをなさないのである」と言い、そのため部下は恨み言を言う事はなかった。当時、河南尹としての治世は張延賞に匹敵すると評され、重厚堅正さについてはそれに勝るとされた。 再び吏部侍郎の職をもって召喚され、門下侍郎・同中書門下平章事(宰相)に昇進した。李実が京兆尹となり、収奪して進奉につとめたから、鄭珣瑜は表立って詰め寄って「留府の緡帛の入りは最初からあるもので、ほかは度支が担当すべきものである。今の進奉というのは、一体どういったところから出てきたものなのか」と言い、詳細にそのように奏上した。李実は当時帝の寵幸を得ていたが、どっちつかずとなり罷免された。 順宗が即位すると、そこで吏部尚書に遷った。王叔文が州吏から翰林学士・塩鉄副使となり、宮中では宦官と交わり、政務を乱した。韋執誼が宰相となり、宮中の外にあって奉行した。王叔文はある日中書省にやって来て韋執誼と面会しようとしたが、担当の吏が「宰相は会食の最中で、百官は面会できない」と言ったから、王叔文は怒り、吏を叱りつけ、吏は走って入って申し上げると、韋執誼は立ち上がり、閣にて王叔文とともに語った。鄭珣瑜と杜佑・高郢は食事を止めて待っていた。しばらくして吏が「二公は一緒に食事している」と言ったから、鄭珣瑜は歎いて「私はまたここにいるべきなのか」と言い、左右に命じて馬で帰り、家の臥って七日間出て来ず、罷免されて吏部尚書となった。またその時病となって、数か月で卒した。年六十八歳。尚書左僕射を贈位された。太常博士の徐復が諡を文献としたが、兵部侍郎の李巽が「文は、天地を治めることである。二字の諡は、『春秋』の正ではない。改めて議論することを願う」と言い、徐復は「二字の諡は、周・漢以来存在する。威烈・慎静は周代のものである。文終・文成は漢代のものである。ましてや鄭珣瑜は名臣で、二字の諡を嫌がることはなかろう」と言った。李巽は「諡は一字なのが正しいので、堯・舜がそれである。二字の諡は古の制度ではなく、法では載せられていない」と言ったが、詔して徐復の議に従った。子に鄭覃がいる。 鄭覃は、父の蔭位によって弘文校書郎に補任され、諌議大夫に抜擢された。憲宗が五人の宦官を和糴使とすると、鄭覃は上奏して罷めさせた。 穆宗は即位すると、国政を心配せずに、しばしば遊興に耽った。吐蕃が強勢となった。鄭覃と崔郾らと朝廷で「陛下が新たに即位されてから、身を入れて政務に勤められるべきですが、しかし宮中では宴に耽って喜ばれており、外では遊戯・狩猟を楽しまれています。今吐蕃が辺境にあって、中国の隙を狙っており、緊急であってもそうでなくても、臣下は陛下の所在を知らず、なにかあって敗れないことがありましょうか。金や絹の出処は、もとより民の血と汗であり、俳優がこれといった功績がないのに、むやみに賜わるようなことをすべきでしょうか。願わくば節度をもって用いられ、余剰分は辺境の防備の資とし、役人に重ねて百姓から取り立てさせるようなことがなければ、天下の幸いなのです」と言ったから、帝は喜ばず、宰相の蕭俛を振り返って、「こいつらは何者か」と尋ねると、蕭俛は「諌官です」と答え、帝は思いを理解し、そこで「朕の欠点を、下の者がよくすべて正すのは、忠である」と言い、鄭覃に勅して「宮中でとくに忠誠がなく、後で私のためであるというような者があれば、ただちに卿と延英殿で引見させよ」と言い、当時宮中での奏上は久しくなくなっていたが、ここに至って士は互いに喜びあった。 王承元が鄭滑節度使に任じられるも、現任の鎮の人たちは固く留めて出さなかった。王承元は朝廷の重臣にその軍を慰労させることを要請し、鄭覃に詔して宣諭使として、起居舎人の王璠を副使とした。それより以前、鎮の人は非常に傲慢であったが、鄭覃が詔を伝えると、大義につとめることに開眼し、軍はついに鎮まり、王承元はそこで去ることができた。 宝暦年間(825-827)初頭、京兆尹に抜擢された。文宗は召喚して翰林侍講学士とし、工部侍郎に昇進した。鄭覃は経術に該博であり、人情があつく篤実で正道を守り、帝は最も重んじた。李宗閔・牛僧孺が宰相となると、鄭覃が李徳裕と親交があり、その親近の者が助力することを嫌い、表向きは工部尚書に昇進させながら、侍講を罷免して、遠ざけようとした。帝は常に向学の人で、大変鄭覃を慕い、再び召寄せて侍講学士とした。李徳裕が宰相となると、鄭覃を御史大夫とした。帝はかつて殷侑がよく経を述べるから、その人となりを鄭覃に匹敵すると述べていた。李宗閔はみだりに「二人は本当に経に通じていますが、その議論はとるに足りません」というと、李徳裕は「鄭覃・殷侑の言うことは、他の人は聞きたいとは思わないでしょうが、ただ陛下は聞くべきなのです」と言った。にわかに李徳裕が罷免されると、李宗閔は再び用いられ、鄭覃を戸部尚書より秘書監に左遷した。李宗閔が罪を得ると、刑部尚書に遷り、尚書右僕射、判国子祭酒に昇進した。李訓が誅されると、帝は鄭覃を召寄せて詔して禁中を視させ、遂に同中書門下平章事(宰相)となり、滎陽郡公に封ぜられた。 文章を好まず、進士の浮ついた虚構を嫌い、進士科の廃止を建言した。「南北朝が収まらなかった理由は、文章の才能というのが人間の質朴さや誠実というのを上回ったからです。士が才能を用いるのに、どうして必ず文章によらなければならないのでしょうか」と述べ、また「文人の多くは軽薄です」と述べた。帝は「純情であったり酷薄であったりするのは、生まれ持った才能によるのであって、どうして進士に限ったことであろうか。またこの進士科を設置してから二百年になるが、どうして改めるべきなのか」と言うと、そこで沙汰止みとなった。帝はかつて百官が一日も怠けるべきではないと言って、そこで香炉机を指さして「これははじめ精美であったが、長らく使っているうちに輝きを失っている。磨かなければ、どうして最初のように戻ろうか」と言ったが、鄭覃は「世の中の弊害を救うにはまず根本を責めることにあります。近頃皆職務にあたらず、王夷甫(西晋の王衍)を慕うようになり、馬鹿にして職務にあたらないのです。これが治世が平和で人々が無事でのんきでいられる理由なのです」と言ったから、帝は「君に法令に慎ませる必要があるだけだな」といい、門下侍郎・弘文館大学士に昇進した。 帝は延英殿に御座して詩の良し悪しを論じ、鄭覃は「孔子が抜粋したのは、三百篇で、それが常に正しくなければ、どうして天子の道となすに足りましょうか。「国風」や「大雅」「小雅」は、すべて下の者が上の変事を風刺するもので、上が下の者を教化するためのものではありません。そのため王者は詩の内容をつかみとり、これによって風俗の得失を考えたのです。陳の後主や隋の煬帝のように、特に詩の章句をよくしましたのに、王者の治術を知らないようなものは、そのためついに反乱がおこることになったのです。詩編を少しばかりできるなどとは、願わくば陛下がご採用されませんように」と述べた。 帝は事あるごとに「順宗の事績は詳細ではないが、史臣の韓愈はどうして当時人に屈していたのだろうか。昔、漢の司馬遷は「任安に与える書」で、文章は多く怨みで答えており、そのため「武帝本紀」に多く実を失ったのだ」と言っていたらが、鄭覃は「武帝の治世中、大いに軍事を辺境でおこし、生ける者は消耗し、府庫は枯渇したので、司馬遷が述べるところは過言ではありません」と言い、李石は「鄭覃が申したところは、武帝に因んで諌めたもので、陛下には終に盛徳を究められますように」と言った。帝は「本当にそうだな。事のし始めは盛大であっても、その勢いを持続して完遂できる人は少ない」と言い、鄭覃は「陛下は書を読むのを楽しまれますが、しかし根本の意義は一・二しか理解されていません。陛下が仰せになったことはこれなのです。寝食にわたってこれを行わなければなりません」と言った。 鄭覃はすでに名儒として知られ、そのため宰相が国子祭酒を兼領した。鄭覃は太学に五経博士を置き、禄は王府の官に準じて給付することを願い出た。再び太子太師に遷った。開成三年(838)、旱魃となり、帝は多くの宮人を宮中から出したから、李珏が祝辞を述べて、「漢の制度では、八月に人を選び、晋の武帝は呉を平定すると、採用者を多くしました。仲尼(孔子)が「いまだ徳を好む(こと色を好むが如くなる)者を見みざるなり」と言いましたように、陛下は益がないものを追放しましたが、これは盛徳です」と言い、鄭覃もまた褒め称えて後押しし「晋は採用の失敗のため、天下をあげて夷狄の習俗に陥るはめになりました。陛下はこれを鑑とすべきです」と言い、帝は美点を助けるのを善とした。病によって宰相の位から去ることを願い出て、詔して太子太師のみ解任され、五日に一度中書省に入ることを聴され、政務に推し量らせた。にわかに宰相を罷免されて尚書左僕射となった。武宗が即位した当初、李徳裕が再び宰相に任用されると、鄭覃の助けを得て共に政務に当たりたいと望まれたが、固辞し、そこで司空を授けられ、致仕し、卒した。 鄭覃は清く正しく、倹約家かつ謙譲な人物であり、人に取り入ったことはなかった。位は宰相となったが、邸宅は加飾せず、内には妾や側室がいなかった。娘孫が崔皋と結婚したが、崔皋の官は九品衛佐程度で、帝は権家と婚姻しなかったことを重んじた。鄭覃が侍講となると、通常の礼節・習慣に厚く、ご機嫌取りを斥けるよう再三天子のために申し上げ、そのためについに宰相となった。しかし悪を憎んで受け入れられないことが多く、世間は大変な欠点だと思って憚った。当初、鄭覃は経籍が損壊して錯簡があるのに、博士の知識や考えが浅く狭くて正しくすることができないから、建言して、「願わくば、学識が該博な人と共に力をあわせて公刊し、漢の旧事に準じて石を削って太学に設置し、万世の法として示したく思います」と述べ、詔して裁可された。鄭覃はそこで周墀・崔球・張次宗・孔温業らと上表してその文を正し、石に刻んだ。子に鄭裔綽がいる。 鄭裔綽は、高くそびえ立っては父の風があり、一門の蔭位によって昇進し、李徳裕の知遇を得て、渭南県の尉に抜擢された。直弘文館となり、諌議大夫に遷った。宣宗の即位当初、劉潼が鄭州刺史から桂管観察使を授けられたが、鄭裔綽は「劉潼は責められてからまだ長いことたっておらず、観察使とすべきではありません」と論陣を張り、帝はすでに使者を派遣して詔を行き渡らせようとしていたが、追って取り止めとした。給事中に遷った。楊漢公は荊南節度使となると、貪欲さを罪とされて秘書監に貶されたが、ついで同州刺史を拝命した、鄭裔綽は鄭公輿とともに制書を封還した。帝は即位してから、諌臣からの規正を納れなかったことはなかった。ここに至って、楊漢公の赴任地は、遂に変えられなかった。たまたま宴を禁中で賜い、天子は撃球して、門下省にやって来たが、二人に向かって、「近ごろ楊漢公の事を論じたのは、朋党に類する者だ」と言うと、鄭裔綽は、「同州は、太宗が王地を興しました。陛下はその人の子孫となって、任命を慎重にしなければなりません。また楊漢公は罪とされて官を貶されたのに、どうして重要な地を私にするのでしょうか」と言うと、帝は顔色が変った。翌日、商州刺史に貶された。当時、衣服は緑色であったが、そこで詔して緋魚を賜った。後に秘書監から浙東観察使に遷り、太子少保で終わった。鄭覃の弟に鄭朗がいる。 鄭朗は、字は有融で、始め柳公綽の山南東道節度使の幕下に任じられ、京師に入って右拾遺に遷った。開成年間(836-840)、起居郎に抜擢された。文宗は宰相と政治を議論しており、その時鄭朗に史臣として議事録をとっていたが、鄭朗に向かって「もしかして議論の内容を記録しているのか。朕に見せてくれ」と言ったが、鄭朗は、「臣が筆をとって書いているものは史です。故事では天子は史を見ないことになっており、昔太宗が見ようとしましたが、朱子奢が、「史は善を隠さず、悪を忌むことはありません。凡庸な君主より下であれば、あるいは非を飾って失敗から自らを守ろうとして見るなら、そうすれば史官は自ら守るすべがないので、またあえて直筆しないでしょう」と言い、褚遂良もまた「史には天子の言動を記録し、非法であっても必ず書くのは、自ら戒めとされることを願うからです」と言っています」と述べたから、帝は喜び、宰相に向かって「鄭朗は故事を援用して、朕に起居註を見させなかったが、よく職を守る者というべきである。しかし人君の行いは、善も悪も必ず記し、朕は平日の言動が治礼にかなっていないために、将来の恥となるのを恐れるのである。一見したいと願うのは、自ら改めることができると思うからである」と述べたから、鄭朗は遂に史を見せた。 諌議大夫に累進し、侍講学士となった。華州刺史によって、京師に入って御史中丞・戸部侍郎を拝命した。鄂岳観察使・浙西観察使となり、義武軍節度使・宣武軍節度使の二節度使に昇進した。工部尚書判度支・御史大夫を経て、再び工部尚書・同中書門下平章事(宰相)となった。宦官の李敬寔が、鄭朗が騎乗していたのを避けずに馳せ去り、鄭朗はその事を上奏した。宣宗が李敬寔を詰問すると、自ら供奉官であるから道を避けなかったと弁明したが、帝は「我が命を伝えるのに道を閉ざして行くのが許されるというのなら、私的に出たときも、宰相を避けないのか」と言い、ただちに李敬寔を追放した。右拾遺の鄭言なる者は、もとは幕府にいたが、鄭朗は鄭言が諌臣であるから宰相らと得失を議論させようとしたが、鄭言は議論しなかったからその職を廃し、奏上して他の官に遷した。しばらくして、病によって自らの免職を願い出て、太子少師となった。卒して、司空を追贈された。 それより以前、鄭朗が進士に推挙されると、人相見が「君は貴くなるだろう。しかし進士科に及第しては駄目だ」と言ったが、にわかに役人が鄭朗を第一位に抜擢したが、再審議が行われて試験資格を失うと、人相見は「これでよし」と祝った。その後果たして宰相となった。 高郢は、字は公楚で、その先祖は渤海より衛州に移り、遂に衛州の人となった。九歳にして『春秋』に通暁し、文章を巧みにし、「語黙賦」を著し、諸儒はこれを称賛した。父の高伯祥は好畤県の尉となり、安禄山が京師を陥落させ、殺されるところであったが、高郢は幼い身で衣を脱いで身代わりとなることを願うと、賊はこれを義とし、二人とも許された。 宝応年間(762-763)初頭、進士に及第した。代宗が太后のために章敬寺を造営すると、高郢は白衣の身でありながら上書して諌めた。以下に述べる。 「陛下の大孝は心によって、天とともに極まることなく、諸々の思いは、これ以上ではありません。臣が思いますに、力を尽くして菩提を弔うことは、本当に有益なことではありますが、時を妨げて人からかすめとることは、損なわせることになってしまうのです。舎人が寺に行ったところで、何の福なぞありましょうか。昔、魯の荘公が桓公の廟を丹塗りして垂木に彫刻を施したのを、『春秋』はこれを書いて非礼としました。漢の孝恵帝・孝景帝・孝宣帝は郡国の諸侯に高祖・文帝・武帝の廟を建立させましたが、元帝の時代になると、博士・議郎とともに古礼を考察して、すべてやめさせました。廟であってもなお礼を越えて建立せず、ましてや寺は宗廟が安んじる場所ではなく、神霊がお住まいになるところでしょうか。万人の力を尽くし、一切の報いを求めても、それはできないことは明白なのです。 近頃、戦乱は非常に盛んで、生ける者をおかし、百姓は恐れおののいて、毎日心配しない日はありません。将軍を派遣して迎え撃たせましたが、尺寸の功績すら潰え、隴外の田地は、悪人どもの手に委ねられたのです。太宗が起された艱難の業は、陛下に伝えられましたが、すべては得られず、尺土は侵され、偉業がなされても、なお欠があることを恐れるのです。ましてや武力が用いられてから十三年、負傷者は救護されず、死者は収容されず、兵を補充して軍に送り込んでいるにも関わらず、今でも終わりがありません。軍をおこすこと十万、毎日の戦費は千金となり、十三年にもなり、百万人を動員しても、資材や糧食、必要消耗品は、人に満足に行き渡って、疲労を回復できるのは、十人中に一人にも満たないのです。父子兄弟は、互いに気が晴れないのを見て、口やかましく渇望して、王命に従うのです。たとえ宮中から出費して寡婦に給付することができないのでしたら、疲弊からようやく休ませて慰撫しなければなりません。敵がまだ平定されておらず、侵略された土地はいまだに回復しておらず、金革の甲冑はいまだにしまい込めず、人を疲れさせているのにいまだ慰撫せず、太倉には一年中の儲えがなく、大農家には榷酤(酒専売)の弊害があるのに、どうしてこの時に寺院造営の力役をおこそうとするのでしょうか。この頃、八月に雨は満足に降らず、豆と麦の収穫の機会を失い、老農夫は気にして、心配で満足に食べられません。もし給付されないようなことがあったならば、どうやって救えましょうか。寺がなくても問題ありませんが、人がいなくなっても問題ないといえましょうか。しかしながら土木の勤めや、役立つための費用は、府庫を消耗させていますが、どうして寺院造営を行うべきでしょうか。府庫はすでに枯渇していますが、そのためまた苛斂誅求した場合、もし人が命に耐えられなければ、盗賊が互いに支援しあって勃興し、戎狄は隙に乗じるので戦乱となりますが、陛下が深く心配せずにおれましょうか。 臣は次のように聞いております。聖人は天命を受けるや、人を主とし、いやしくも天を救う勲功によって、天と人とが協和し、そこで宗廟は福を受け、子孫は恩恵をこうむるのです。『伝(孝経)』に「徳教を民草に施し、則として背くこと無し。これを天子の孝という」とあり、また、「なんじが祖先に思いを馳せ、その徳を修むべし」「上帝の福禄を受けるや、子孫にまで及ぶ」とあり、これによって王者の孝は、天地に遵奉し、父祖を天に配して祀り、徳教に慎み、それによって万民に臨むということを知るのです。四海の内をして、喜んで祭祀に助力させ、王朝の生命を引き伸ばし、永遠にしてつきることがないようにさせるのです。仏寺を崇めて建立し、金や玉を飾り立てるのが孝行者であるとは聞いたことがありません。夏の禹王は宮殿をいやしんで、力を尽くして水利事業に勤しんだから、人々は今に至っても称賛するのです。梁の武帝は土木に尽くして、塔や廟を飾りましたが、人々からの称賛はありませんでした。陛下は費用を節減して人を愛され、夏后(夏)と名声を等しくされるべきであって、どうして必ず人を労して多くの人を動かし、梁の武帝の遺風を継ぐことがありましょうか。また建立したばかりなので、費用はまだ知れており、人々は力を図るのを貴ぶのであって、必しも完成を貴ばず、事は時と相応することを貴び、必ず成し遂げることを貴ぶということはありません。陛下がもし思慮をめぐらせ、人心に従うのなら、聖徳にして孝思ぶりは天地にいたり、千や万の幸福は前後に受けるのです。かつてこれが一寺を建立する功徳と較べられることがあったでしょうか。」 奏上してまだ返答がある前に、再び上言した。 「王者が何かをし、何か行動に出ようとする時は、必ず多くの人々の意見を聞いて人々に従うものですが、そうすれば自然の福は、求めなくてもやって来るもので、未然の禍いは、避けなくても絶えるのです。臣は以下のように聞いております。神人には功績がないというのは、功績があることを功績とはしないからであり、聖人には名誉がないというのは、名誉があるというのを名誉とはしないからです。功績があるのに功績としないのは、そのため功績は大きくはなく、名誉があるのに名誉としないのは、そのため名誉は多くはないのです。古の明王は善行を積んで福を招き、財を費やさずに福を求め、徳を修めて禍を鎮め、人に労役させずに禍を祓うのです。陛下の造営は、臣は密かに戸惑うばかりです。もし功績を以てすれば、天は万物を覆い、地は万物を載せ、陰気が散って陽気が展開し、いまだかつてできたことはありません。もし名誉を以てすれば、この上ない徳行と最も大切な道徳によって、天下を従え、いまだかつてなかったことです。もし福を招くを以てすれば、神明に通じ、四海に輝き、財産を費やすことはありません。もし禍を祓うを以てすれば、まさにその徳につとめ、天災はおこらず、人に労役させることはありません。今、造営事業は催促され、人夫は召集されて、土木事業は並行して進められ、日々一万もの工夫を動員し、食事休憩する暇もなく、笞によって痛みを訴える声が道路に充満しているのです。これによって福を望んでいるというのは、臣には恐れながらそうではないと思うのです。陛下は多難を平定され、政務に励まれ、行いは寬仁に勤められておりますことは、天下にとって幸いであると存じます。今はもとより群衆の心とは異なっており、左右の者の間違った計画にしたがっておられるのが、臣は密かに陛下のために残念に思うことです。」 受け入れられなかった。 茂才異行科に好成績で及第し、咸陽県の尉に任じられた。郭子儀が採用して朔方掌書記となった。郭子儀は判官の張曇に怒り、死にあたると奏上したが、高郢は救命に尽力したから、郭子儀の意にそむき、左遷されて猗氏県の丞に遷された。李懐光は引き立てて邠寧府を補佐させた。李懐光は河中に帰ろうとした際、高郢は乗輿を西に迎えるのにこしたことはないと勧めたが、李懐光は背いていたから怒り、許さなかった。既に李懐光はまた全軍を西に進軍させた。当時、渾瑊が孤立した軍を率いて賊に抵抗していたが、諸将は集まっていなかった。高郢は李懐光に乗じられることを恐れ、李鄘とともに固く止めた。たまたま李懐光の子の李琟に高郢は近侍していたが、高郢はそこで「あなたは天宝年間(742-756)以来、軍事行動をしてきた者を見てきたでしょうが、今誰がまた残っているでしょうか。また国家にはもとより天命があり、人間の力では預かり知れぬものです。今もし軍にたよって事を動せば、自らの行いによって天に見放されることになります。各家々のような小さな単位であっても、必ず忠や信を得られます。どうして三軍が潰走しないとでもいうのでしょうか」と脅すと、李琟は大いに恐れ、汗が流れて話すことができなかった。高郢はそこでその将軍の呂鳴岳・張延英とともに間道から帰国しようと謀ったが、事は発覚し、李懐光はまず二将を斬り、その後高郢を引っ立てて詰問したが、高郢は言われたことに逆らって恥じたり隠れたりすることなかったから、見ていた者は涙を流した。李懐光は恥じて、高郢を許した。孔巣父が殺害されると、高郢は死体を撫でてて泣いた。李懐光が誅されてから、李晟はその忠誠を上表し、馬燧は書記に任ずるよう上奏した。召喚されて主客員外郎を拝命し、中書舎人に遷った。しばらくして、礼部侍郎に昇進した。当時、四方の士は私党を結び、さらに互いに褒めて推薦しあい、これによって役人を動かし、名に従ってその実はなかった。高郢はこれを嫌い、そこで面会を求める者を謝絶し、自らの徳行を専らにした。貢部を司ることおよそ三年、孤独の中に見極め、浮ついたことを抑えたから、流行に流されるような世の中は衰えていった。太常卿に遷った。 貞元年間(785-805)末、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)に抜擢された。順宗が即位したが、病によって政治を行うことができず、王叔文の党派は朝廷を根拠とし、帝は始め皇太子に詔して監国としたが、高郢は刑部尚書に改められ宰相を罷免された。翌年、華州刺史となり、政治は真心があって鎮静した。それより以前、駱元光が華州から軍を引き連れて良原を防衛した。駱元光が卒すると、軍は神策軍に編入されたが、華州は毎年その食料を送付しており、民は輸送に困窮していたが、歴代の刺史は憚って敢えて申上する者がいなかった。高郢は奏上してこれを止めさせた。再び京師に召喚されて太常卿となり、御史大夫に任命された。数か月して兵部尚書に改められたが、固く骸骨を乞うた(辞職を求めた)から、尚書右僕射となって致仕した。卒した時、年七十二歳で、太子太保を追贈され、貞と諡された。 高郢は慎み深く、人とは交わらなかった。常に制誥を司り、家に原稿を留めることはなく、ある人がどうして前任者たちのように起草した制を文集としないのかと勧めると、「王言は私家集に納めるべきではない」と答えた。普段より家産経営を行わず、経営を勧める者がいると、「禄受けて、薄給であったとはいえ私にはあまりあるものだ。田荘をどうして取るのか」と答えた。高郢が宰相となったのは、鄭珣瑜と同時に拝命した。王叔文が専制すると、鄭珣瑜は非常に憂いて、議論したが同意を得ることができず、そこで病と称して出仕しなかったが、高郢は建白することはなく、突然鄭珣瑜とともに罷免され、そのため議論する者は鄭珣瑜が賢者であるとし、高郢を責めた。子に高定がいる。 賛にいわく、王叔文は宮中の内では女官や宦官を連れ立って、外では悪者どもを頼りとし、こうやって天子の権力を奪った。しかし当時太子はすでに成長しており、朝廷で逆らう者はいなかったから、もし鄭珣瑜・高郢と杜佑らが毅然として東宮を引き入れて監国とすれば、王叔文のような輩たちを退かせるのは、その力では難しいことではなかった。安寧を懐かしく思って目の前の安楽のために黙ってしまい、だから世間の人はどうして彼らを宰相として用いたのかと言ったのであった。鄭珣瑜は一度怒ると邸宅で不貞寝し、高郢と杜佑は宰相の位に留まったままで、二人もまた宰相としての程度を論評するほどでもなかったということである。 高定は、聡明で弁舌に優れ、七歳にして『尚書』を読み、「湯誓」の場面に到ると、跪いて高郢に「どうして臣が君を伐つのですか」と尋ね、高郢は「天の命に応じ人の願いにしたがったのだ。どうして伐つなんていうのか」と答えると、「命令に正しく従ったならば、先祖の位牌の前で恩賞を与えよう。命令に従わなければ、土地神の形代の前で死刑に処すだろう(『尚書』夏書甘誓)といいますが、これは人の願いにしたがったというのでしょうか」と言ったから、高郢は優れていると思った。小字を董二といい、世間ではその神童ぶりを重んじられ、字によって世間に通行した。成長すると王弼注『易』に長じ、図をつくって八卦を描き、上は円で、下は方形、合せると重なり、転易を演易とし、七転で六十四卦となり、六甲・八節は備っていた。仕えて京兆府参軍の地位まで到った。 鄭絪は、字は文明で、鄭余慶の従父である。幼くして文章に秀で、文章をよくつくり、交際した人たちは全員、天下の名士であった。進士・博学宏辞科を優秀な成績でk及第した。張延賞が剣南節度使となると、上奏して掌書記に任じられた。京師に入って起居郎・翰林学士となり、累進して中書舎人に遷った。 徳宗が興元府から帰還すると、六軍統軍を置いて六尚書にみさせ、これによって功臣を処遇し、除制用白麻付外。又廢宣武軍、益左右神策、以監軍為中尉。竇文場恃功、陰諷宰相進擬如統軍比。任命の制に白麻の詔書を用いて員外とした。また宣威軍を廃止し、左右神策軍に振り分け、監軍を中尉とした。竇文場は功績をたのんで、密かに宰相にほのめかして統軍と同じようにしようとした。鄭絪は制書を作成しようと奏上して、「天子が封建するときや、また宰相を任用するときに、白麻の制書で任命し、中書省・門下省に付することになっていますが、これによって中尉を任命されるのでしたら、知らずと陛下は特に竇文場を寵遇しているからでしょうか。遂には後々までの法令として著すのでしょうか」と言うと、帝は悟り、竇文場に向かって「武徳・貞観年間(618-649)の時、宦官の任用は内侍・諸衛将軍同正止まりであって、緋服を賜る者はほとんどいなかった。魚朝恩の時からは旧制に復することはなかった。朕が今お前を用いるのは私心がないとはいえないから、もし白麻の制書で宣告すれば、天下はお前が朕を脅してやったとみなすだろう」と言うと、竇文場は叩頭して謝罪した。さらに中書省に命じて詔をつくり、あわせて統軍が白麻の制書で任命することを廃止した。翌日、帝は鄭絪に引見して「宰相は宦官を拒まなかったが、卿の発言のお陰で悟ることができた」と言った。 順宗が病気となって、話すことができず、王叔文は牛美人とともに政務を行い、権力を内外に振ったが、広陵王(後の憲宗)が勇敢で聡明であるのを憚って、危害を加えようとした。帝は鄭絪を召寄せて立太子の詔を起草させたが、鄭絪は内容を聞く前にたちまちに「嫡を立てるに長を以てす」と書き、跪いて申し上げたから、帝は頷いて定まった。 憲宗が即位すると、中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、門下侍郎に遷った。それより以前、盧従史は密かに王承宗と親交を持って、詔によって潞州に帰ろうとしたが、盧従史は挨拶するとき、潞州は兵糧が乏しいから軍を山東に留めることを願った。李吉甫は密かに鄭絪が盧従史に漏らしたと誣告したから、帝は怒り、浴堂殿に座して学士の李絳を召寄せてその理由を語り、「どうしたらよいか」と言ったから、李絳は「本当にそうなのでしたら、罪は一族に及ぶでしょう。しかし誰が陛下にそのように言ったのですか」と言うと、「李吉甫が私に言ったのだ」と言い、李絳は「鄭絪は宰相に任じられてから、名節で知られ、犬畜生のように奸臣と一緒に外に通じたりはしないでしょう。恐らくは李吉甫が宰相たちの間で軋轢があって嫌い、悪口を言って陛下を怒らせようと捏造したのです」と言ったから、帝はしばらくして「危うく私は誤るところであった」と言った。 これより以前、杜黄裳は帝のために節度使を削減して王室を強化しようとし、建議して裁可されたが、決定に鄭絪を預からせず、鄭絪に黙々としていた。宰相にあること四年、罷免されて太子賓客となった。しばらくして検校礼部尚書となり、京師から出されて嶺南節度使となり、後に河中節度使に遷った。京師に入って御史大夫、検校尚書左僕射、兼太子少保となった。文宗の大和年間(827-835)、年により骸骨(辞職)を乞い、太子太傅によって致仕した。卒した時、年七十八歳で、司空を追贈され、諡を宣という。 鄭絪はもとより儒学によって昇進し、道を守って寡欲で、宰相にあっても赫々たる功績はなかったが、篤実さによって称えられた。名は学を修めることによってよく知られ、世間からは耆徳によって推された。 孫の鄭顥は、進士に推挙され、起居郎となって万寿公主を娶り、駙馬都尉を拝命した。識者たる器があった。宣宗の時、恩寵は比類する者がなかった。検校礼部尚書・河南尹で終わった。 権徳輿は、字は載之である。父の権皐は「卓行伝」にみえる。権徳輿は七歳にして父を喪い、哭法や作法が成人のようであった。加冠する前から、文章によって諸儒の間で称えられた。韓洄が河南で黜陟使となると、任命されて幕府に置かれた。また江西監察使の李兼の幕府に従って判官となり、杜佑・裴胄も交って任命された。徳宗がその逸材ぶりを聞いて、召喚して太常博士とし、左補闕に改められた。 貞元八年(792)、関東・淮南・浙西の州県で大洪水となり、家屋を破壊し、人々が溺死した。権徳輿は建言して、「江・淮の田は一たびよく実れば、それは数道もの助けになり、だから天下の大計は東南に仰ぐのです。今長雨が二ヶ月におよび、農田は開くことがなく、庸が来ずに京師への運搬が途絶えることは日に日に多くなっています。群臣で博識で通じているものを選び、持節させて慰問させ、人々が苦しんでいるところを尋ね、その租税の入りを明らかにし、軍の指揮官と連携して善後策を追求するべきです。賦税を人々から取るには、人々の根本を固めてからおさめるにこしたことはありません」と述べ、帝はそこで奚陟ら四人を派遣して慰撫に巡査させた。裴延齢は猟官に巧みであったから判度支となったが、権徳輿は上疏して過失を責め、「裴延齢は常の規定の賦税・費用で取り尽くしていないものを羨利とし、これを自分の功績として誇っています。官銭を用いて常平の雑物を売り、またその値を取り、「別貯の羨銭」と号し、そこで天子を欺き、辺境の軍は軍糧に乏しく、兵糧を受けられず、辺境に禍いを招くので、このことは些末なことではありません。陛下が流言のために疑われることがありますが、どうして新たな利益によって裴延齢をお召しになるのに、核心は本末転倒で、朝臣から選んで辺境の兵糧を査察させないのでしょうか。もし言っていることに誤りがないようでしたら、つまり国家の務めは、その人に委ねるのはよろしくありません」と上疏したが、採用されなかった。 起居舎人に遷任した。その年のうちに知制誥を兼任し、中書舎人に昇進した。当時、帝は親ら各種政務を御覧になられ、補任を重ね、だいたい朝廷で命じて、すべて掣肘下におかれた。それより以前、権徳輿は知制誥で、徐岱は給事中、高郢は舎人であった。数年を経て、徐岱は卒し、高郢は礼部をつかさどり、権徳輿は一人両省にあたった。数十日一度家に帰り、そこで上書し、「門下・中書の両省は、天子の誥命をうけたまわり、詳細に議論して調べ上げ、それぞれの所司にあたります。旧制では、両方の定員は十名で、互いに自由に行動させないよう防いでいます。大抵の事は防ぐところがありますが、そこで官吏は非常となるのです。四方で聞く者は、ある者は朝廷では士が乏しいと思うでしょう。重要な役所ですから、しばらく廃止するべきではありません」と述べた。帝は「卿の労を知らなかったわけではない。ただ卿のような者を選ぼうと思っても、いまだにそのような人を得られないだけなのだ」と言い、しばらくして礼部の貢挙の責任者となり、礼部侍郎に任命された。およそ三年して、はっきり詳細に見分けて、採用された人物は相継いで公卿・宰相となった。明経科の定員を撤廃した。 貞元十九年(803)、大旱魃となり、権徳輿はこれによって朝政の手落ちを上陳した。「陛下は昼時には心を配って膳を減らされ、百姓を思い憐れまれ、宗廟に告げて、諸天地をまつり、一つの物事でも祈るべきであれば、必ずその礼を行い、一人の士の願いがあれば、必ずその言葉を聴かれ、憂人の心はすでに至っているというべきです。臣はこのように聞いています。天災を消し去るには政術をおさめ、人心を感じる者は恵沢を流し、和気が広くゆきわたれば、つまりは祥応が至るのだと。畿内ではだいたい禿げあがった土地で望むべきこともなく、流浪の人は道路に倒れ、麦を種蒔く時期に配慮しようにも、種を蒔くことすらできないのです。経用の物の一部を留め、種を民に貸し、今この租税・賦税および税法上の債務を一切免除すべきです。施策を行っても免除しなければ、また納税の道理がなくなるので、まずこの事をはかるのにこしたことはなく、そうすれば恩沢はお上に帰するのです。貞元十四年(798)夏の旱魃では、官吏は常の賦税の通りに徴収しようとし、県令にいたっては民を殴り辱めていましたから、察すべきものがあるでしょう」また次のように述べた。「漕運はもとより関中をたすけ、もしくは東都に転じて西の道沿いの倉庫の物をことごとく京師に入らせ、江・淮から運ばれた物を率いて常数を備え、その後およそ太倉一年分の計上となります。その余りを除籍して民間に売却すれば、穀物相場は跳ね上がらずに備蓄を放出できるのです」また次のように述べた「大暦年間(766-779)、一枚の絹布の値段は銭四千であったが、今八百どまりとなっており、税の入りはもとのようであっても、民が出すものは当初の五倍になってしまっています。全国の献上はすばやく、国のために恨みを招き、軍需品の求めを広くし、兵は実態がなく帳簿上のみの者もおり、多くを剥ぎ取り、計算の才能があって精密に行えたとしても、よく功利を商うから、目先の利益を得ようとしてかえって損をし、人々を等しく困窮させることになるのです。」また次のように述べた。「この頃追放された者は、自ら無期限に拭い消されたといい、連座して匪賊となり、これによって和気を騒がすのです。しかも冬薦の官は三年を超えて任命されなければ、衣食はすでになくなるから忽然として斃れることになり、これはまた人が窮乏する一因なのです。近頃陛下は罷免・追放された者を赦免し、ある者は起用して二千石とし、その徒はさらに励み、同じような者を引き連れてまた望みとなるでしょう。思うにこれによって広めるのでしたら、人々は忠誠を尽くすでしょう」帝は大いにこれを採用した。 憲宗の元和年間(806-820)初頭、兵部侍郎に任じられたが、係累に連座して、太子賓客に遷り、すぐに前官に戻された。当時、沢潞軍(昭義軍)節度使の盧従史が詐称かつ尊大になり、次第に朝廷に従わなくなり、その父盧虔が京師で卒すると、成徳軍節度使の王承宗の父も死んで襲封を求めたが、権徳輿は諌めて、「山東を変えようとするならば、まず昭義軍の総帥を選びます。盧従史が自身の軍の将校を抜擢するのは、傲慢かつ不法で、今その喪によって、守臣を選んでこれに代えるべきです。成徳軍の習俗はすでに長い間のものであり、掣肘化に置くのは漸次すべきであるので、成徳軍の要請はただちに裁可したとしても、昭義軍も許すというのはいけないことです」と上奏したが、帝は聴さなかった。王承宗が叛くと、盧従史も策略によって王師を痛めつけ、兵は老いて功績があがらなかった。権徳輿はまた王承宗の赦免、盧従史の移動を要請した。後はすべてほぼ権徳輿が謀った通りとなった。 当時、裴垍が病となり、権徳輿は太常卿より礼部尚書・同中書門下平章事(宰相)を拝命した。王鍔が河中より入朝し、宰相を兼任することを求めたが、[[李藩]は不可を奏上し、権徳輿もまた「方鎮に並んで宰相を帯びさせるのは、必ず大忠あれば功績があるようになりますが、そうでなければ強者が従わなくなるので、やむを得ず与えてきたのです。今王鍔には功績がなく、また一時逃れをしなければならない時でもないので、一人に宰相に任命するならば、以後の人にその道を開くことになるのです。いけません」と奏上し、帝はそこで中止した。 董渓・于皋謨が運糧使の地位によって軍銭を横領し、嶺南に配流されたが、帝はその刑罰が軽かったことを悔い、中使に詔して道の半ばで殺させた。権徳輿が「董溪らは山東にて兵を用い、庫財を横領したことは、死んでも責任は償いきれません。陛下は配流が刑罰として大変軽いとして、まさに臣らの過ちを責め、詳細にその罪をただし、明らかになれば詔書を下すべきであって、衆とともに同じく棄てるようであれば、それは人々が法を恐れるのです。臣はすんでしまったことは争わないことを知っていますが、しかしながら他の時にあるいはこのようなことがあれば、是非とも役人が罪罰を議論する必要があり、罰が一つごとに勧善を百とすれば、どうしてやむにやまれぬ思いがおこりましょうか」と諌めた。帝は深くそうだと思った。かつて帝は政治の寛容さと猛々しさはどちらを優先すべきか尋ねたことがあり、「唐の王朝は隋の苛政暴虐を受けて、仁厚を優先しました。太宗皇帝は「明堂図」を見て、始めて背中に鞭打つことを禁止し、列聖はこれに従うところで、皆徳教を尊びました。ですから天宝の時に大盗賊(安史の乱)が起こっても、すぐに敵は滅んだのです。思うに本朝の教化が、人心の深きところに感じさせるところがあったからでしょう」と答えた。帝は「本当に公の言う通りだな」と言った。 権徳輿は弁論をよくし、古今の根源を開陳し、天子に悟らせた。宰相となると、寛容で細かいところまで口出しすることはなかった。李吉甫が再び宰相となると、帝はまた自ら李絳を用いて朝廷に参与させた。当時、帝は治世に切実であったから、事は巨細にことごとく宰相を責めた。李吉甫・李絳は議論しても異論を受け入れられず、帝の前で突然弁論をはじめる有様であったから、権徳輿は従容として敢えて良し悪しを言う事はなかったが、これに連座して宰相を罷免されて本官のみとなり、検校吏部尚書、留守東都となり、扶風郡公に進封された。于頔が子が殺人を犯したため、自ら蟄居閉門し、親戚もあえて門を過ぎる者はおらず、朝廷でも弁護する者がいなかった。権徳輿は転任する時に、帝に言上して、「于頔の罪は赦免されることになっておりますのにそうなっておりません。ついでの際に寛大にとりはからう詔勅を賜られますように」と言い、帝は「そうだな。卿は私のために行き過ぎを諭してくれる」と言った。また太常卿を拝命し、刑部尚書に遷任した。 それより以前、許孟容・蒋乂に詔して『元和刪定制勅』を編纂させたが、完成して上梓されたにも関わらず禁中に留め置かれていた。権徳輿はその書を出すことを願い出て、侍郎の劉伯芻とともに再度研究して、三十篇(元和格勅)を定めて奏上した。再び検校吏部尚書となり、京師から出て山南西道節度使となった。二年後、病となって帰還を願い、帰還の途上に卒した。年六十歳。尚書左僕射を贈られ、諡を文という。 権徳輿はわずか三歳にして言葉に四声の変化があることを知り、四歳にして詩を賦するのをよくし、経術に思いを重ね、把握しないものはなかった。学問をはじめてから老年に至るまで、一日たりとも書を見なかったことはなかった。かつて論を著し、漢の滅んだ理由を弁じ、西京は張禹が、東京は胡広が世を補った旨のことを書いた。その文章は雅正かつ繁密で、当時の公卿王侯で突出した者の功績・徳業の銘紀を撰したが、その数は十人中、常に七・八人にも達した。動作や静止があっても外面を飾ることはなく、風雅瀟灑で、自然を慕った。貞元・元和年間(785-820)に高貴な人々の模範となった。 子の権璩は、字は大圭で、元和年間(806-820)初頭、進士に及第した。監察御史を歴て、その美しさを称えられた。宰相の李宗閔は父の門下生で、そのため推薦されて中書舎人となった。当時、李訓が寵遇され、周易博士として翰林におり、権璩と舎人の高元裕・給事中の鄭粛・韓佽らが連名で李訓が険呑かつ覆滅しようとしていると弾劾し、また国を乱しているから、禁中に出入りさせるべきではないとしたが、聴されなかった。李宗閔が左遷されると、権璩はしばしば弁解の上表をしたが、かえって閬州刺史に左遷された。文宗はその母の病を憐れみ、鄭州に移した。李訓が誅殺されると、当時の人の多くは、権璩が禍福の大局に明るく、よくその家を伝えたとした。 崔群は、字は敦詩で、貝州武城県の人である。まだ成人となる前、進士に推挙され、陸贄は貢挙を司り、梁粛は宰相たる才能があると推薦し、甲科に選ばれ、賢良方正科に推挙され、秘書省校書郎を授けられた。累進して右補闕・翰林学士・中書舎人に遷った。しばしば直言を述べ、憲宗は喜んで受け入れ、そこで学士に詔して「概ね奏議する場合は、崔群の署名を得てから進上しなさい」と述べたが、崔群は「禁中で密奏する言を、人々が自ら述べるべきであるのは、すべて故事によっており、後にある者が悪を憎んだ正直者であったなら、他の学士は上言できなくなります」と言い、固辞したため聴された。恵昭太子が薨じると、この時、遂王(後の穆宗)が嫡子であったが、澧王が年長で、宮中の支援が多かった。帝は東宮を立てようと、崔群に詔して澧王に譲らせようとした。崔群は「おおよそ目的を果たそうとして譲らせようとしても、目的を果たすことはできません。どうして譲ることがありましょうか。今遂王は嫡子ですから、太子とすべきです」と奏上したから、帝はその建議にしたがった。魏博の田季安が五千縑を仏寺創建の助財として送ってきたが、崔群は名目のない献上であるから受けるべきではないと上奏した。そのため詔して返却した。戸部侍郎に昇進した。 元和十二年(817)、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。李師道が誅殺されると、李師古ら妻子は掖廷に入れられたが、帝は疑っており、そこで崔群に尋ねると、崔群は釈放するよう願ったから、あわせてその奴婢と財産を返還した。塩鉄院官の権長孺が収賄のため罪状は死罪に相当したが、その母が老いて、子に養わせることを願った。帝は怒りながらも赦そうとし、これについて宰相に尋ねた。崔群は「陛下は幸いにもその老人を憐れまれたのですから、ただちに使者を派遣して諭旨すべきで、正式な勅を出すのを待っていては手遅れになります」と答え、ここに死を免れた。崔群が大体奏上するようなことは、平穏で慈悲深いことはこのようであった。帝はかつて宰相に「聞いたり受けたりするのは、また難しいことではないか。この頃、詔学士が前代の世事を集めて、『弁謗略』をつくり、これによって自らの勧戒としている。その内容はどのようなものか」と語ると、崔群は「無情とは、理に合うか合わないかを論ずるのが簡単なことをいい、有情とは、欺きを審らかにすることは難しいことをいいます。そのため孔子は大勢の人が嫌う人や大勢の人が好む人についてや、次第に染み込んでいく告げ口を説いて、それが論ずるのが難しいとしたのです。もし陛下が賢者を選んで任じ、これを待つのに誠心によってし、これを糾すのに法によれば、そうすれば人は自ら正に帰して、敢えて欺むくことはありません」と答えたから、帝はその発言に同意した。 処州刺史の苗積は羨銭七百万を進上したが、崔群はこれを受けることは天下の信を失うことになるとして、返還を願ったから、処州に賜って下戸の賦税の代用とした。この時、皇甫鎛は利益について申し上げて帝の寵遇を得て、密かに左右をたのみにして宰相の地位を求めたが、崔群はしばしばその邪で人に取り入る人物であるから用いるべきではないと申し上げた。宮中に奏上すると、開元・天宝の事に及び、崔群はそこでその極を論じた。「安らかなるも危きになるも法令が出されることにあり、存亡は任命によるところにあります。昔、玄宗は若くして危機にあって、さらに民間の辛苦を味わったので、そのため姚崇・宋璟・盧懐慎の輔政を得て道徳をもってし、蘇頲・李元紘は勤勉に正を守ったので、そこで開元の治となったのです。その後に逸楽に甘んじて、正しき士を遠ざけ、小人と昵懇になり、そのため宇文融が利益によって言上し、李林甫・楊国忠が寵遇をたのんで朋党を組み、そこで天宝の乱となったのです。願わくば陛下、開元を法とし、天宝を戒めとされれば、社稷の福となるでしょう」 また述べた。「世間では安禄山が叛いたことが治乱の時代区分であると言っていますが、臣は張九齢を罷免して李林甫を宰相とした時が、治乱のもとより分岐点であったと思います」 左右の者は感動した。崔群はこれによって帝にほのめかして、そこで皇甫鎛を含意させた。帝はついに自ら皇甫鎛を宰相とした。たまたま群臣が帝号を奉り、皇甫鎛は「孝徳」を兼用して帝号にしようとしたが、崔群は一人上奏して「睿聖」とし、そこで「孝徳」と併称した。帝は聞いて喜ばなかった。当時、度支が辺境の兵士に臨時の賜与を行ったが、物は多くて弊害があり、李光顔は非常に心配して、佩刀を引き寄せて自決をはかったから、内外は皆恐れた。皇甫鎛は奏上して、「辺境は無事ですが、そこで崔群が煽動して、賄賂によって勝訴を得ようとしたから、天子を恨むに到ったのです」と述べたから、ここに宰相を罷免されて湖南観察使となった。 穆宗が即位すると、吏部侍郎によって召喚された。労われて「私が太子となったのは、卿の力だ」と言い、崔群は「これは先帝の意思です。臣に何の力なぞありましょうか。また陛下は淮西節度使となられ、臣が制書の起草し、その文言に「よく南陽の手紙を読めば、本当に東海の貴にかなう」とありますが、先帝はその通りであるとし、そこで伝達されてから久しかったのです」と言い、にわかに御史大夫を拝命した。しばらくもしないうちに検校兵部尚書となり、武寧節度使となった。崔群はその副使の王智興が兵士の心を掴んでおり、仮に節度使とするのにこしたことはないとしたが、返答はなかった。王智興が幽州・鎮州を討伐して帰還すると、兵はそれにかこつけて崔群を追放し、崔群は節度使の地位を失い、秘書監、分司東都に左遷された。華州刺史に改められ、宣歙池観察使を経て、兵部尚書に昇進し、京師から出されて荊南節度使となり、京師に召喚されて吏部尚書を拝命した。卒した時、年六十一歳で、司空を追贈された。 賛にいわく、聖人は多難を恐れず、無難を恐れる。なぜなのか。多難の世は、人々は長く心配して深謀遠慮となり、毎日心の中で恐れて、なお未だしと思うのである。「私は滅亡まで暇がないというのに、またどうして安心していられようか」と言い、そのためよく天下を挙げてこれを興隆させようとし、これを恐れるのである。禍難が平定されてしまうと、上は安らいで下は喜び、いそいそとするのがいつも通りとなり、「賢者は得がたいが、賢者はいなかったとしても、それでも治まるだろう。悪者は去るべきだが、悪者がいたとしても、乱とはならないだろう」と言い、悪者を見逃して賢者を取り逃して、たちまち傾いて支える者がなくても、安らかに自らを慰めて「私は何か失ったのか」と言い、そこでよく天下を挙げてこれを滅亡させようとすることになり、恐れないのである。常人が恐れるところは、聖人は簡単なことだとし、常人が恐れないところは、聖人は難しいとするのである。孝明皇帝をみるに、もとより中主で、変に遭遇して初めて謀をしようとし、業がなると終りを共にしようとした。崔群は李林甫が宰相となったのが治乱の時代区分であると奏上したのは、その言は信にたるのである。これは扁鵲が病を放置した桓侯をそしった理由である。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十四 列伝第八十九 『新唐書』巻一百六十五 列伝第九十 巻一百六十六 列伝第九十一
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■ 支那の歴史 / 「反日・自虐史観を排した歴史年表」より / 支那では、匈奴、鮮卑、契丹、突厥、ウイグル、モンゴル、満洲(女真)など、様々な民族によるまったく異なる王朝の出現、滅亡、戦乱の繰り返した。つまり、歴史に連続性がない。 支那の統一王朝は、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清で、このうち漢民族(支那人)の王朝は漢、宋、明の3つだけである。 +続き 複数の王朝が並立した時代も多く、「天下」はあっても「国家」はない。王朝が変わるたびに領土の範囲もまったく異なった。王朝が変わると前の文化をことごとく破壊しつくし、数千万の単位で人口が激減していた。要するに大虐殺が繰り返されたのである。 支那は有史以来トラブルの絶えない国(地域)である。易姓革命、宮廷内紛、群雄割拠、軍閥内戦、農民蜂起、天災飢餓、難民流出・・・などなど、現在(中華人民共和国)に至るまで支那史では暴力と流血は一日もやむことがない。そうしたなかで、権力者は、内部の敵から銃口を向けられないよう、どうしても外部に国民共通の敵や仮想敵を欲する。大東亜戦争終結後、朝鮮戦争、中印、中ソ、中越と対外戦争を繰り返してきたのもこのため。そして現在、ぴったりの敵として設定されたのが日本の「軍国主義」なのだ。 ■ 人々をウソにまみれた政治(人治)から開放(liberalに)したい 「縦椅子のブログ(2018年12月31日)」より / ーー以下「田中秀臣(上武大学ビジネス情報学部教授)コラム」より抜粋編集 石平著『中国五千年の虚言史』(徳間書店)より。 ネットから情報を得ているような人は、支那人が歴史を持たない人たちであることはもう常識のようになっている。 しかし、これまで、ネット環境が整備されるまでは、支那4千年の歴史などという話が大真面目に信じられていたのだった。 ーー 例えば1912年の辛亥革命によって滅びた清朝は、第一公用語を女真族の言葉・満州語としており、第二公用語をモンゴル語としていたのである。 その事実は、琉球と清との公文書が満州語(パスパ文字)で記されていることからわかる。 漢文が出現するのは、ようやく第三公用語としてだ。 ーー つまり支那大陸は、さまざまな異民族支配を受けてきた土地なのだ。 その地を異民族が立ち代わり支配し、それぞれの王朝を築いてきたのである。 連続する民族の記録(歴史)など成立するはずがなかった。 (※mono....以下略、詳細はサイト記事で) ■ 中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔 「再生日本21」より / 中国4000年の“抗争と断絶”の歴史 よく「中国4000年の歴史」という。しかしこの4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいだ。 それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。素行も説いた中国の抗争と断絶の歴史をさかのぼりながら見ていこう。 清朝は漢族ではなく満州族の王朝 +続き 例えば、今の中華人民共和国の前は、中華民国。その前は清。ここまでは誰もが知っているだろうが、この清朝はいわゆる「中国人」の主流派である漢族の王朝ではない。北方の満州族が打ち立てた王朝なのだ。前述した素行はこの点についてもきちんと指摘していた。この満州族が中国を支配していた清の時代に持ちこんだものの中には、今私たちが中国の伝統的なものと誤解しているものも少なくない。例えばチャイナドレスがそうだ。チャイナドレスは丈の長い詰め襟の衣服だが、あれは元々北方に住む満州族の防風防寒のための衣服だったのだ。 実はこの満州族の王朝である清朝により、「中国」は拡大してほぼ今の「中国」とイコールになった。それまではもっと狭い地域を指していたのだ。少し考えてみれば分かることだが、誰もが知っている世界遺産の万里の長城。あれは外敵の侵入を防ぐために造られたものなのだから、長城の向こう側は「中国」ではなかった。その「中国」ではない地域、満州において1616年に建国した後金(こうきん)国が清の前身である。後金国の首都は遼陽(りょうよう)から後に瀋陽(しんよう)(旧称奉天)に移されたが、つまり遼陽も瀋陽も当時は「中国」ではなかった、「中国」の外にあったのである。後金は1636年に国号を大清に改め、1644年に万里の長城を越えて北京に都を移す。こうして満州族の征服によって、満州から旧「中国」までを含む現「中国」が誕生したのである。 古代、「漢族」は存在しなかった 清の前は、明。明の前は元。これくらいは多くの日本人が知っている。それより前になると、あやしくなる人が多いであろうが、さかのぼって見ていこう。北に金、南に宋の両王朝が併存していたのが、平清盛が日宋貿易を行なった時代である。さらにさかのぼると北宋の時代、五代十国時代となり、その前、6世紀後半から10世紀にかけてが、遣唐使・遣隋使で馴染みのある唐や隋の時代。その前は、南北朝時代、五胡十六国時代、そして『三国志』で名高い三国時代は220年頃から300年頃。その前は、漢字や漢族という言葉の元となる漢王朝で、始まりは紀元前206年にまでさかのぼる。漢は前漢と後漢に分けられるが、前漢を起こしたのが小説や漫画で知られている劉邦である。そして、前漢の前が始皇帝で名高い秦(しん)。東アジアの大陸部に「中国」と呼んでもいい政治的統一体が完成したのは、この秦の始皇帝による統一(紀元前221年)からだ。 「中国4000年の歴史」と言われるが、まだ半分にしか達していない。秦の始皇帝による統一前、いわゆる先秦時代はどういう状態であったかと言うと、「中原(ちゅうげん)」と呼ばれる黄河中流域の平原地帯を巡って、諸族が争い攻防を繰り返していた。今、諸族と書いたが、読者は「諸族というのは漢族とその他の少数民族のこと?」と思ったかもしれない。そうではない。実は古代中国の時代には「漢族」などという種族は存在しなかったのだ。読者は「東夷(とうい)・西戎(せいじゅう)・南蛮・北狄(ほくてき)」という言葉を聞いたことがあるだろう。今、日本人に馴染みのあるのは「南蛮」くらいだが、元々は4つセットで「四夷」と呼ばれる。中国の周り、東西南北に住む野蛮人というような蔑称だ。中華思想を象徴する言葉だが、実は元々、中華に値するのは前述した黄河中流域の中原しかなかった。それ以外に住む種族は、例えば今の北京や上海に住んでいた種族もみな「夷・戎・蛮・狄」であったのである。そればかりではない。先秦時代の王朝として夏(か)・殷(いん)・周の三王朝が中原にあったが、夏は東南アジアの海洋民族(東夷)、殷は北の狩猟民族(北狄)、周は東北チベットの遊牧民(西戎)ではなかったかと言われているし、中国統一を成し遂げたした秦も西戎である。西戎のさらに西、ペルシャ系の遊牧民ではなかったかという説もある。いずれにしても、豊かな都市国家・中原を巡って、文字どおり諸族が入り乱れ、それによって誕生した混血雑種が漢族なのである。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F 征服王朝のすさまじさ 混血という意味では、日本人もそう言える。私たちも学生時代、日本史の授業において、帰化人、あるいは渡来人を学んだ。大陸から多くの血が入ってきているのは間違いない。ただ、日本人と漢族あるいは中国人とが決定的に違うのは、日本人の場合、渡来人は日本に融合していったのに対し、中国人の場合は前述した易姓革命により、抗争と征服を繰り返してきたという点だ。 先に述べた清だけではない。読者もご存知のとおり、元寇で知られる元はモンゴル族の王朝であるし、燕京(現在の北京)に都を置いた金は女真族、後の満州族につながるツングース系言語を話す半農半猟の民であった。中国史における用語として、「征服王朝」という言葉があるが、これは漢族以外の民族によって支配された王朝のことを指す。清や元、金は征服王朝である。 征服王朝のすさまじさの一例を挙げよう。1126年11月、金は宋(北宋)の首都・開封を陥れる。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼ぶ。金はおびただしい金銀財宝とともに、徽宗・欽宗以下の宋の皇族と官僚、数千人を捕らえて満州へ連行し、そこで生涯にわたって悲惨な虜囚生活を送らせた。そればかりではない。この事件で宋室の皇女達(4歳~28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族らの妾にされるか、洗衣院と呼ばれる官営売春施設に送られて娼婦とさせられたのである。 「中国」どころではなく、東アジアから東ヨーロッパまでを支配した大征服王朝の元は、南宋を滅ぼした際、金が北宋に対して行なったようなむごたらしい行為は行なわなかったが、統治においては厳しい身分制度を敷いて徹底的に民族差別を行なった。民族をモンゴル人・色目人・漢人・南人に分け、中央政府の首脳部と地方行政機関の長はモンゴル人が独占した。色目人とは色々な目の色をした人の意味で、中央アジア・西アジア出身の異民族、さらにはヨーロッパ人も含む。早くから譜代関係にあったために、モンゴル人に次いで重用され、モンゴル人とともに支配階級を形成した。支配階級であるモンゴル人と色目人を合わせて人口は約200万人で、その人口構成比は約3%に過ぎなかった。漢人は、金の支配下にあった人々の総称で、淮河以北に居住していた宋代の漢人の子孫の他に、女真人・契丹人・高麗人・渤海人などが含まれ、人口は約1000万人、人口構成比は約14%であった。そして、一番下の階級である南人は南宋の支配下にあった漢民族を指し、人口は約6000万人、人口構成比は約83%を占めた。漢人・南人は被支配者階級であり、特に人口の大部分を占める南人は最下層に置かれ徹底的に差別された。その決まりは細かく、例えばモンゴル人と漢人・南人が争ってモンゴル人が漢人・南人を殴っても、漢人・南人は殴り返してはいけないというような細かいことまで法で定められていた。また、同じ漢族でも、金の支配下にあったか南宋の支配下にあったかで差別しているが、これの基準は中国化しているかしていないかであり、徹底して中国式を抑圧した。私たち日本人からすると、元は遊牧民族が作った中国式王朝のようなイメージがあるが、実際には中国式の要素はほとんどなかった。ただ、「パスパ文字」という独自の文字とともに支配の都合上漢字も使っていたというだけなのだ。 なお、余談になるがこのパスパ文字、ハングルとそっくりである。実は、ハングルは、元の属国であった高麗(朝鮮)王朝がモンゴル化し、その時伝わったパスパ文字が基礎となって、高麗王朝に代わった李氏朝鮮の時代に作られたと言われている。このパスパ文字起源説は韓国外の学界では広く受け入れられているが、韓国内では当然、圧倒的に非主流派である。しかし韓国内においても、きちんとした学究も一部ではなされている。例えば、国語学者のチョン・クァン高麗大名誉教授がそうだ。チョン・クァン名誉教授は、次のように述べ、韓国における国粋主義的研究を糺している。「訓民正音とハングルに関する国粋主義的な研究は、この文字の制定とその原理・動機の真相を糊塗してきたと言っても過言ではない」。 http //japanese.joins.com/article/430/107430.html 尖閣はもちろん我が国固有の領土であるが、今、韓国が不法占拠している竹島も我が国固有の領土である。竹島は1952年のいわゆる「李承晩ライン」により、韓国に軍事的に侵略された領土なのである。第二次世界大戦後、日本漁業の経済水域はマッカーサー・ラインによって大きく制限されたものであったが、1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ講和条約により、翌1952年4月28日の日本主権の回復後はこの制限の撤廃が予定されていた。ところが、日本の主権回復前の隙を韓国は狙ってきたのだ。1951年7月19日、韓国政府はサンフランシスコ講和条約草案を起草中の米国政府に対し要望書を提出し、竹島、波浪島を韓国領とすること、並びにマッカーサー・ラインの継続を要求した。これに対し、アメリカは1951年8月10日に「ラスク書簡」にて回答し、この韓国政府の要求を拒否した。「ラスク書簡」の約1ヶ月後の1951年9月8日にサンフランシスコ講和条約は調印されたが、講和条約発効の約3か月前の1952年1月18日、朝鮮戦争下の韓国政府は、突如としてマッカーサー・ラインに代わる李承晩ラインという軍事境界線の宣言を行った。1965年の日韓基本条約によってラインが廃止されるまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えた。抑留者は6畳ほどの板の間に30人も押し込まれ、僅かな食料と30人がおけ1杯の水で1日を過ごさなければならないなどの劣悪な抑留生活を強いられた。このような国際法上違法であり、かつ非人道的侵略行為に対し、当時我が国政府のみならず米国も抗議しているが、米国は直接的な利害関係国ではないため積極的な介入は行なわず、それがために韓国による侵略が固定化されてしまったのである。 国策として反日愛国を強く推進している韓国という国の中で、こういった事実は全く知られていない。反日愛国に沿った虚偽が真実として異常に強調される国なのである。そういう国にあって、もし真実を伝えようとすれば、袋叩きに遭うことは間違いないだろう。しかし、中には良心に忠実に真実に向き合おうとする人もいる。例えば、先に取り上げたハングル研究におけるチョン・クァン名誉教授などがそうである。韓国にも、あるいは中国にも少数ながら存在するそういう勇気ある真っ当な人たちの声を、私たち日本人はしっかり認識し、広めていくべきだろう。 次は最後の征服王朝・清だ。1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間を屠殺する」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。 秦に見られる中国史の伝統――思想弾圧・大量殺戮・粛清 征服王朝から、もう一度初めて中国を統一した秦に戻ろう。なぜなら、ここに中国史を貫く特徴が顕著に表れているからである。その特徴とは、思想弾圧、そして大量殺戮と粛清である。思想弾圧に関しては、今さら多言を要す必要はないだろう。秦の始皇帝は歴史に名高い「焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)」を行なった。焚書・坑儒とは、「書を燃やし、儒者を坑する(儒者を生き埋めにする)」の意味である。これは多くの人が知っているが、意外と知られていないのが秦の大量殺戮と内部粛清である。『史記』の『白起列伝』には、中国統一に至る過程でのすさまじい殺戮が記述されている。例えば、紀元前293年、秦軍は韓と魏(ぎ)の連合軍を破るが、この時24万人を斬首している。その後も数万人レベルの斬首はざらで、最もすさまじかったのは紀元前260年の長平の戦いである。この時、秦軍は山西省高平県の長平で45万の大軍を擁した趙(ちょう)軍を降伏させるが、問題はその後である。45万の趙軍のうち戦闘中で命を落としたのは5万人。残りの40万人は捕虜となったが、秦の白起将軍によりこの40万人の捕虜ほぼ全員が生き埋めにされて処刑(坑殺)されたのである。 次は粛清である。紀元前210年に始皇帝は巡幸中に死亡すると、粛清の嵐が始まる。始皇帝の身辺の世話をしていた宦官・趙高(ちょうこう)と宰相・李斯(りし)は、まず始皇帝から後継指名を受けていた長男の扶蘇(ふそ)を自殺に追い込む。そして、次男の胡亥(こがい)を二世皇帝に据え、権力をほしいままにした。傀儡政権を樹立した後は、趙高と李斯以外のグループの重臣を次々に殺戮。次いで胡亥の兄弟である12名の皇子を処刑し、10名の皇女を磔にした。ところが、次はさらなる内紛と粛清である。今度やられる方に回ったのは李斯であった。趙高は権力独占のために邪魔になった李斯を追い落とすため、謀反の罪をかけ、皇帝の名において逮捕させる。そして例によって一族皆殺しである。これを「族誅(ぞくちゅう)」と言うが、族誅は中国史の伝統である。凄惨な粛清はさらに続く。趙高は、今度は二世皇帝・胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫である子嬰(しえい)を3世皇帝に立てるが(紀元前207年)、既に自らの力も国の力も衰え切っており、今度は逆に趙高一族が子嬰によって誅殺されることになる。因果である。 なお、秦は子嬰が即位した翌年、紀元前206年には滅びてしまうのであるが、滅ぼしたのが有名な項羽と劉邦である。この時、項羽がやったこともすさまじい。項羽は秦の首都・咸陽(かんよう)に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万人を穴埋めにして殺している。また、子嬰が降伏して秦が滅亡した後、項羽は子嬰一族や官吏4千人を皆殺しにし、咸陽の美女財宝を略奪して、さらに始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出している。そして殺戮と略奪の限りを尽くした後、都に火をかけ、咸陽を廃墟としたのである。 項羽と劉邦の時代の漢族は滅びた 力を合わせて秦を滅亡させた項羽と劉邦であったが、その直後から対立は始まり、楚漢戦争が勃発。紀元前202年の垓下(がいか)の戦いで劉邦は項羽をやぶり、漢(前漢)を建国する。残虐な項羽に比べて人格者のイメージの劉邦であるが、決してそうではない。きちんと中国史の伝統を受け継ぎ、天下を取った後は粛清の連続である。関ヶ原で天下を取った家康が功労のあった多くの武将に領地を与えたのと同じように、天下を取った劉邦も功労者に封土と王位を与えた。しかし、功労者は実力者であり、天下を取った後は目ざわりでしかない。楚(そ)王・韓信や梁(りょう)王・彭越(ほうえつ)ら天下統一に最も貢献した者たちは、謀反の疑いをかけられ、一族皆殺し、族誅された。 しかも、梁王・彭越は誅殺された後、塩漬けにされ、その肉は群臣に漏れなく配られた。「こういう目に遭うぞ」という恐怖政治の極みである。劉邦は紀元前195年に亡くなるが、その時には王位についているのは、ほとんど劉氏一族の者ばかりとなっていた。 高祖・劉邦が没して劉盈(恵帝)が即位すると、劉邦の妻・呂后(りょごう)は皇太后としてその後見にあたる。この呂后がまたすさまじい。まず、恵帝の有力なライバルであった高祖・劉邦の庶子である趙(ちょう)王如意(にょい)とその生母・戚(せき)夫人を殺害した。この時の呂后の殺害の仕方は、猟奇的などという次元をはるかに超えている。呂后は戚夫人を奴隷とし、趙王如意殺害後には、戚夫人の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、その上でまだ生きたまま便所に投げ入れて人彘(人豚)と呼ばせたという。呂后は我が子である劉盈(恵帝)以外のほとんどの劉邦の息子を殺し、呂氏一族を要職に付け専横をほしいままにする。しかし、これまた因果は巡るで、呂后の死後、逆に呂氏一族は族誅される側に回り、皆殺しされるのである。 漢はこの後、血気盛んに領土を拡大した武帝の時代などを経て、約200年でその時代を終える。帝室の外戚である王莽(おうもう)が、事実上国を乗っ取り、紀元8年「新」という王朝を建てる。しかし、この「新」王朝は、紀元17年に始まった反乱の全国的な拡大により、わずか15年でその幕を閉じる。 さて、この「新」王朝建国の直前、紀元2年に中国史上で最初の人口統計が現れる。『漢書』の『地理誌』にある「口、五千九百五十九万四千九百七十八」という記述である。約6000万人である。ところが前述した全国的な戦乱と飢餓の結果、23年に「新」王朝が滅んだ時には中国の人口は6000万の半分に、さらに劉秀(後漢の光武帝)によって再統一される37年までに、さらに半減したと言われている。つまり、17年から37年までの20年間で、75%も人口が減り、約1500万人になったことになる。その後の後漢の人口統計に見れば、これはほぼ事実と考えられる。『続漢書』の『郡国史』によれば、人口は57年に約2100万人、75年に約3400万人、88年に約4300万人、105年に約5300万人と推移している。これから推計すれば、37年には1500万人くらいであったろう。 戦乱と飢餓による人口の激減というのはどの国においてもあったことだが、とりわけ中国においては甚だしい。そして、戦乱・飢餓で人口が激減し衰微しきったところに、近隣の異民族が侵入してくる。それが我が国にはない中国史の特徴である(と言うより、我が国のように異民族による侵入がない方が世界に類例がないと言えるが)。「新」王朝期の人口激減は、中国史において数字が残されている最初のものである。 37年に劉秀(後漢の光武帝)による天下統一で誕生した後漢であるが、長くは続かなかった。184年に黄巾の乱、五斗米道の乱と相次いで宗教秘密結社による反乱が起こり、それがきっかけとなって各地に群雄が乱立する天下大乱の時代に突入する。『三国志』の時代の到来である。『三国志』の時代と言うと、血沸き肉踊るイメージがあるかもしれないが、現実には戦乱が打ち続く歴史上稀に見る悲惨な時代であった。黄巾の乱後、正史の記録には、「白骨山のように積み」「人は共喰」「千里に人煙を見ず」といった記述が多い。当然、人口は再び激減した。先に見たように、後漢の時代、人口は5000万人を超えるところまで増えた。それが戦乱の三国時代にどこまで減ったのか。なんと約十分の一になったと言われてる。事実上、それまでの漢族は滅びたと言ってよい。 なお、『三国志』とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争った三国時代の歴史を述べた歴史書であり、撰者は晋の陳寿である。それとは別に、歴史書『三国志』に逸話や創作を盛り込んだ小説『三国志演義』というのがあり、これは明代に成立している。私たちが横山光輝の漫画などで知っている『三国志』はこの『三国志演義』をベースにした物語である。 三国時代という内戦時代の後、一時的に晋が中国を統一するがわずか20年で瓦解し、再び戦乱と分裂の時代に突入する。「五胡十六国時代」である。五胡とは、匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・羯(けつ)・氐(てい)・羌(きょう)の五民族を意味し、十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づく表現で、実際の国の数は16を超えた。要するに、従来の漢族が内戦により自滅的に激減した状況下で、様々な民族が中国の中に入り乱れ、小国を建てる時代が到来したのである。「五胡十六国時代」は304年から439年まで続き、439年に至って従来の中華である中原から現在の北京を含む華北一帯を北魏(ほくぎ)が統一する。では、この北魏を打ち立てた民族は何だったのか。先の五胡の中の鮮卑。鮮卑とは北方の遊牧民である。それに対して、わずかに生き残った従来の漢族は南に逃れて王朝を建てた。そのためこの時代を中国における「南北朝時代」(439年~589年)と呼ぶ。南北朝時代に終止符を打ったのは隋による中国統一であるが、この隋も鮮卑による王朝であった。 「五胡十六国時代」から隋の時代にかけて、中国語は大きく変質した。鮮卑は文字を持たなかったため、話していた言語がテュルク系であったかモンゴル系であったか、正確には分からない。ただ、アルタイ系言語(北東アジア・中央アジアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語)であったことはほぼ間違いない。隋の天下統一の直後、601年に鮮卑人の陸法言という人物が、『切韻』という字典を編纂する。これは漢字を発音別に分類し、漢字の発音の標準を定めようとしたものであるが、そこにはアルタイ系発音の特徴が随所に見られる。このことからも、この時代の中国人は、すでに始皇帝や劉邦の時代、秦・漢時代の中国人の子孫ではなかったことが分かる。 なお、五胡十六国の諸国や北朝、あるいは隋・唐は、既に述べた清や元などと同じく異民族王朝であるが、明確な征服行為を欠くため「征服王朝」とは呼ばれず「浸透王朝」という用語で定義される。 繰り返された仏教の興隆と弾圧 隋の時代は長く続かず、589年から618年まで。次いで唐の時代となるが、この唐も鮮卑の王朝である。ところで、隋・唐と言えば、遣隋使・遣唐使が思い浮かぶ読者も多いであろう。そして、遣隋使・遣唐使の大きな目的の一つが仏教を学ぶことにあったことは言うまでもない。隋の時代は日本では聖徳太子の時代と重なり、聖徳太子は四天王寺の建立や仏教興隆の詔を発した。また、唐の時代には、帰日する遣唐使とともに唐の高僧・鑑真が渡日し、唐招提寺を創建するなど、日本における仏教の興隆に大きな役割を果たしたし、空海や最澄も遣唐使として唐に渡り、仏教を学んでいる。これらのことは多くの日本人が知っている。では、仏教は中国の宗教なのだろうか? 少し考えればそうではないことに誰もが気付くだろう。仏教を開いたお釈迦様はインドの生まれである(より正確には国境を少し越えた現在のネパールのルンビニに生まれた)。釈迦が生まれ、仏教が誕生したのは紀元前5世紀頃。それが中国に伝わったのは1世紀頃と推定される。ではそれ以降、仏教は順調に中国に浸透していったかと言うと、そうではない。先にも述べたが、思想・宗教の世界でも、中国史は過酷な弾圧が繰り返されているのである。 まずは、中国における仏教の興隆と弾圧の歴史を見ていこう。南北朝から隋、唐、そしてその後の五代十国時代にかけての500年余りの中国史の中で、規模も後世への影響力も大きかった4度の廃仏政策のことを、4人の皇帝の廟号や諡号をとって、「三武一宗の廃仏」または「三武一宗の法難」と呼ぶ。三武とは、南北朝時代の北魏の太武帝・同じく北周の武帝・唐の武宗を指し、一宗とは五代十国時代の後周の世宗を指す。弾圧政策の具体的内容は、寺院の破壊と財産の没収、僧の還俗、あるいは殺戮などである。 最初の北魏の太武帝による「魏武の法難」は438年の50歳以下の僧侶の還俗に始まり、446年には仏教排斥の詔に至る。以後、太武帝が殺害されるまでの7年間、僧侶は殺戮され、経典は焼き捨てられた。この時、仏教弾圧の一方で保護されたのは道教であった。次の北周の武帝による「周武の法難」は574年と577年の2回にわたり、この時は仏教のみならず道教も廃され、儒教が顕彰された。続く隋と唐の時代は、私たち日本人のイメージどおり、基本的には仏教隆盛の時代であった。隋の文帝は仏教と道教の禁制を解いて仏教の復興に取り組んだ。「隋の文帝一代二十四年の間に、得度した僧尼二三万、寺院三七九二」などという記録がある。唐代に入ると仏教はますます盛んになった。『西遊記』で有名な三蔵法師、玄奘三蔵は実在の人物であるが(602年~664年)、西域やインドへの遊学し、膨大な仏典をもたらした。ところが、840年に即位した武宗は81名もの道士を宮中に召すなど道教に傾斜して仏教を弾圧。この弾圧で廃止させられた寺院は4600以上に上ったという(この時の年号により「会昌の法難」呼ばれる)。4回目の「後周の法難」は、今までの思想・宗教的な性格のものではなく、財政的窮迫が主たる動機で、寺院の財産を没収したり還俗させて税を課した。廃寺となった寺は3300余にも上った(本筋から話はそれるが、国家は財政に窮した場合、どんな手段を使ってでも取れるところから取るという実例でもある)。 ちなみに、我が国でも明治の初めの一時期、いわゆる「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」が行なわれた。しかし、廃仏毀釈の元となった「神仏分離令」や神道を国教とする詔書「大教宣布」は、神道と仏教の分離を目的とするもので、本来仏教排斥を意図したものではなかった。しかし、時代は維新の動乱期であり、結果として廃仏毀釈運動(廃仏運動)と呼ばれる民間の運動を引き起こしてしまったのである。こうした歴史がごく一時的にはあったにせよ、日本における宗教は、教義や経典を持たない「かんながらのみち」としての神道に外来宗教である仏教が融合してきたものと言えるだろう。 日本の融合に対し、中国では思想・宗教においても激しい対立と闘いが繰り返されてきた。今まで述べてきた時代であれば、仏教と道教の抗争に時に儒教が絡んでくるという構図がお分かりいただけたであろう(ちなみに、仏教と道教、それに儒教の三つを中国三大宗教という)。王朝も宗教も中国史の特徴は抗争と断絶なのである。 売りがある寺院は破壊から一大観光スポットへ 中国の仏教は、宋・明代以後、衰退していく。読者も遣唐使以降、あまり中国仏教のイメージがないのではないだろうか。では、現在、中国の仏教はどうなっているのだろうか? ある意味では繁栄している。その一例として、1987年に仏舎利(釈迦の遺骨)が出土した古刹、法門寺の現状を見ていこう。 法門寺の歴史は1700年ほど前にさかのぼる。南北朝時代の北周以前には阿育王寺と呼ばれていたが、前述した北周の武帝の廃仏によって、一度廃毀された。隋代に再建され、618年に寺の名を法門寺と改める。その後も前述したような幾度もの法難をくぐりぬけてきて、20世紀を迎えた。そこで最大の試練を迎える。共産主義国家・中華人民共和国の誕生。そして、さらに壊滅的打撃を与えたのが文化大革命である。 「宗教はアヘン」という中国共産党が政権を奪ってから、政府は寺を壊し経典を燃やし、僧侶や尼を強制的に還俗させたほか、他の宗教施設の破壊もずっと止めなかった。60年代には、既に中国の宗教施設は壊滅的状況であった。宗教の自由を求める人達は、台湾や、英国統治下の香港に脱出して行ったので、中国仏教の伝統は、大陸よりも、台湾や、香港で維持されてきたと言える。そして文化大革命である。 念のため、文化大革命について簡単に説明しておこう。正式にはプロレタリア文化大革命。略称「文革」。中華人民共和国で1966年から1977年まで続いた「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という名目で行われた改革運動である。しかし、その内実は、政権中枢から失脚していた毛沢東が、劉少奇からの政権奪還を目的とした大規模な権力闘争であり、死者は一千万人を超え、リンチを受けたり冤罪で投獄されたりといった被害者は一億人に及んだと言われる、世界史上でも例のないおぞましい大粛清であった。 文革時、宗教は「破四旧」(思想、文化、風俗、習慣の破壊)のスローガンの下、徹底的に弾圧、破壊された。例えば、中国最初の佛教寺院は68年に建立された洛陽にある白馬寺であるが、中国共産党は革命をすると言って農民たちを白馬寺に連れて行き、千年前の遼の時代に土で造られた十八羅漢の像を壊し、二千年前にインドの僧侶が持ってきた貝葉経を燃やしただけではなく、稀世の宝とも呼ばれる玉の馬をもばらばらに壊した。法門寺も当然、破壊の対象とされた。時の住職であった良卿法師は、宝塔や伽藍を守ろうとして寺院内の真身宝塔前で抗議の焼身自殺をするが、寺は破壊されその他の僧侶らは殺戮された。 狂気の文革が終わった後、寺院は文化財として修復されるようになる。そして1987年、法門寺にとって願ってもない天佑が訪れる。真身宝塔の地下にあった地下宮殿が開かれ、稠密な彫金を施した幾重もの宝函に収められた4粒の仏舎利などの大量の貴重な文物が出土したのである。その後は、国家主導で一大観光スポットとして、建築開発が進められた。一大看板の仏舎利は、現在は2009年に新しく西隣に建立された新法門寺に納められ、毎日夕方になると自動的に地下の格納庫に収納されるシステムで大切に扱われている。この新法門寺は中国最大級の現代建築物である。広大な敷地に近代的な建物群、金ピカな仏像群に現代的オブジェ。お目当ての仏舎利塔は超巨大な現代的門をいくつもくぐったはるか先にあり、そこまでの足として有料電動カーが用意されている。下はコンクリート舗装なので、暑い季節はこの電動カーが観光客にはありがたいであろう。現在、法門寺はホームページを開設しており、中国語だけでなく、英語・ハングル、そして日本語のページもある。金ピカな仏舎利塔がトップに来るホームページには、「会社案内」の文字も見える。そう、現代中国仏教は、観光会社として一大発展を遂げているのである。 http //fms.demo.allwww.cn/Channel.aspx?ChId=5 金儲けに突き進む現代中国仏教 法門寺に限らない。今日、中国仏教は政府主導で金儲けに突き進んでいる。2012年7月3日、中国4大仏教名山の一つ普陀山の管理団体「普陀山旅遊発展」が2年以内の新規株式公開(IPO)を計画していると、中国紙チャイナ・デイリーが伝えた。上場によって7億5000万元(約94億円)の調達を計画しているという。普陀山旅遊発展は、普陀山観光センター、索道、バス会社、観光事業などの運営を行っている。この他に、九華山、五台山も積極的に株式公開の準備をしているといううわさが流れている。 ほとんどの中国の有名な観光地には寺院があるが、そうした寺院は形だけは立派に復興している。少し名が通った寺院は、どこも安くない入場料を取るだけでなく、販売商品も多彩に取り扱っている。写真や拓本、仏像、年珠、線香、置物、ペンダント等々だ。その他にも多くの高額料金のサービスがある。例えば、焼香代、鐘突き代、おみくじ代、おみくじ解説代等々。観光客に大金があれば寺は焼香をあげ、鐘を突き、様々な儀式を執り行ってくれる。一般の観光客が寺に行くと、寺の僧侶は焼香を上げるよう勧めるが、御香は外から持ってくることはできない。一応、それは不浄であるとの理由による。その焼香代は日本のように安くはない。境内では香を上げるのに最低でも200元(2500円)、最高10万元(125万円)も支払った例もあるという。しかも、一応宗教であり商売ではないから、値段交渉することもできない。値段交渉は敬虔さの欠如とみなされるのだ。ただ、支払いに現金がなくても問題はない。こういった観光寺院には、POSシステムが導入されておりカード払いもできるのだ。 焼香が終わると、僧侶は賽銭簿を持ってきて観光客にサインするよう勧める。サインするなら住職自らお経を読み、開運祈願と厄払いをしてくれるという。賽銭簿にサインして初めて住職は「サインは無料ではなくお布施が必要で、どれぐらい寄付するかはあなた次第、3でも6でも9でもよい」と言う。よくよく聞くと、3、6、9とは300元(3750円)、600元(7500円)、900元(1万1250円)、3000元(3万7500円)、6000元(7万5000円)、9000元(11万2500円)のことで、その中から選ぶというのである。 このように、今の中国では観光寺院は大いに儲けるようになったので、僧侶は公務員を越えて最も稼ぎがよく、且つ尊敬される職業となった。寺の僧侶が儲かる職業であることから、偽僧侶も増えてきた。例えば観光客におみくじの解説をするために、ある寺院では大金を払って偽僧侶を雇っている。このビジネスは利幅が大きいことから、僧侶、尼僧として雇用契約書にサインし、寺院に出勤し、毎月給料を得、退勤後は一般人に戻り、その収入はホワイトカラーを超える。住職は僧侶を指導する立場にあるから、収入は更に多い。住職の多くは結婚し子供もいて、市内に家を購入し高級車を乗り回している。 このように、現在中国において仏教は大いに栄えている。ただしそれは精神的な面においてではない。そもそも、「宗教はアヘン」とする共産主義の国で、深い宗教性が涵養されるはずもない。形骸としては残った寺院を、観光資源として金儲けにフルに活用しているのである。教えや精神は破壊されたまま。そこで拝まれているのは神仏ではなくマネーである。 明の太祖・洪武帝によるすさまじい粛清 ここまで、中国史とは抗争と断絶の歴史であることを、「征服王朝」「浸透王朝」といった言葉とともに説明してきた。また、主に仏教を中心に中国における宗教の興亡も見てきた。その最後は、狂気の弾圧と粛清である文化大革命による破壊から一転しての国家主導による拝金主義であった。 さて、中国史における大粛清と大量殺戮。これに関する史実を、もう少し補足しておこう。まずは、今まで述べてこなかった明王朝の時代(1368年~1644年)における大粛清である。 明朝の創始者である朱元璋(しゅげんしょう)は貧農の生まれで、家族は全員飢え死にし、乞食坊主となった。そこから身を起こし、秘密結社白蓮教(浄土教系)が起こした紅巾の乱に加わって頭角を現し、41歳にして天下を取った(明の太祖・洪武帝)。大変な才覚があったのは間違いない。しかしその一方で、洪武帝は後の毛沢東にも通じる恐怖政治を行なった。すさまじい粛清である。既に見てきたように、血で血を洗う抗争が中国史であるのだから、中国史において粛清自体は珍しいことではない。しかし、洪武帝が行なった粛清は、その規模、空前のものであった。 洪武帝の粛清は、1380年の胡惟庸(こいよう)の獄に始まる。胡惟庸は紅巾の乱時代から洪武帝とともに戦ってきた旧臣であった。しかし、謀叛を計画していたとされ粛清される。ここまでなら、よくある話である。すさまじいのは、この時、胡惟庸派と見なされた重臣はみな連座して虐殺され、その数実に一万五千人に上ったということである。1393年には藍玉の獄。藍玉は明建国初期に軍功を上げた武将であったが、やはり謀反の疑いで粛清された。この時も連座して処刑された者の数が半端ではない。一万五千人とも、二万人(『明史紀事本末』)とも言われ、正確な数字は不明である。 この二つを合わせて「胡藍(こらん)の獄」と呼ぶが、洪武帝の恐怖政治はまだまだこんなものではない。空印の案(1376年)、郭桓の案(1385年)、 林賢事件(1386年)、 李善長の獄(1390年)といった数々の粛清を行ない、一連の事件の犠牲者は、合わせて十数万人に及んだとも言われる。こうした粛清にはスパイによる密告が欠かせない。中国は古代からスパイ国家であるが、洪武帝は皇帝直属の秘密組織「錦衣衛(きんいえい)」を設け、この組織をフル活動させて恐怖政治を行なった(なお、中国は今でも諜報活動においては世界屈指の能力を持ち、イギリス・イスラエルとともに、世界の“3大インテリジェンス・パワー”と呼ばれている)。刑罰もすごい。身体の肉を少しずつ切り落として死に至らしめる「凌遅(りんち)刑」や「剥皮(はくひ)刑」をはじめとする様々な残虐刑を行ない、人々を恐怖で縛り上げたのだった。洪武帝は1398年に崩御する死の間際まで功臣を殺し続けた。 本当の「南京大虐殺」、太平天国の乱 先の洪武帝がのし上がるきっかけとなった白蓮教は、清朝の時代にも大きな反乱を企てる(白蓮教徒の乱1796年~1804年)。清朝末期には、こうした宗教結社による反乱が相次ぐが、中でも死者五千万人とも人口の五分の一が死亡したとも言われ、「人類史上最大の内乱」とされるのが太平天国の乱である。 太平天国の乱を起こしたのは、キリスト教系の「拝上帝会」と言う結社である(ちなみに、時期を前後してイスラム教結社の反乱である回乱も勃発しているが、当時から20世紀にかけて「洗回」と称するイスラム教徒皆殺し運動が展開され、それによる犠牲者は二千万人とも推定されている)。「天王」と称した洪秀全はキリストの弟であると宣言し、1847年に拝上帝会を創設した後、またたく間に勢力を拡大した。1850年に広西省で蜂起した洪秀全は、1853年に南京を占領、「天京」と改めて都とし、太平天国の王朝を立てた。南京を陥落させた時には、太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがり、水陸両軍を編成するまでに至っていた。 ものすごい勢いであるが、この進軍の過程で太平天国軍は、後世の毛沢東たちがやったような「一村一焼一殺」を日常的に行なっていた。歴史書の記録によると、太平天国軍が湖南省になだれ込んでからは、湖南全域において「10の村の中の7、8の村が襲撃された。いたるところで財宝が掠めとられて、地主、郷紳(素封家)の家々はことごとく皆殺しにされた。屍骸が野に横たわり、血が流れて川となった。湖南開省以来、未曾有の大災難」であったという。 しかし、この略奪・殺戮が、後に太平天国自身の悲惨な最後を招く原因を作った。太平天国軍による「湖南草刈り」の13年後の1864年、曾国藩(そうこくはん)率いる湘軍(清の正規軍ではなく漢族の軍隊。北洋軍閥の源)は太平天国の首都である天京(南京)に攻め入ったが、この時の大虐殺は報復とは言え、言語に絶するすさまじいものであった。後に「天京屠城」と称されるこの大虐殺の実態はどういうものだったのか。 天京を落城させた後に湘軍がとった行動について、曾国藩自身は朝廷への報告書でこう記している。「吾が軍は賊都の金陵(南京の別称)に攻め入ってから、街全体をいくつかのブロックにわけて包囲した上、賊軍を丹念に捜し出して即時処刑を行ないました。3日間にわたる掃蕩作戦の結果、賊軍10万人あまりを処刑しました」。3日間で10万人の処刑というだけでもすさまじいものだが、さらに常軌を逸しているのは、この殺戮が賊軍だけではなく、多くの民間人にも及んだことだ。曾国藩の死後、幕僚の一人であった趙烈文(ちょうれつぶん)は『能静居士日記』の中で、南京住民にたいする湘軍の虐殺を証言している。「わが軍が金陵に入城して数日間、民間人の老弱した者、あるいは労役に使えない者たちは悉く斬殺され、街角のあちこちに屍骸が転がった。子供たちも斬殺の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのようにしまくった。婦女となると、40歳以下の者は兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔があまりにも醜い者はほとんど、手当たり次第斬り捨てられてしまった」。こういう証言もある。湘軍と共に天京に攻め入ったある外国人の傭兵が、城内での目撃談を、英国の植民地だったインドで発行している新聞『インドタイムス』で語っている。 「私は朝廷の部隊が太平天国軍の捕虜たちを殺戮する場面をこの目で見た。彼らは本当に軍の捕虜であるかどうかは定かではない。とにかく、普段は野菜売場である町の広場に、捕虜とされる数百人の人々が集められてきた。群れの中には男もいれば女もいる。老人もいれば子供もいるのだ。歩くにも無理な老婆、生まれたばかりの嬰児、懐妊している婦人の姿も見られる。朝廷の兵士たちはまず、若い女性たちを捕虜の群れの中から引きずり出した。彼女たちをその場で凌辱した後に、周りで見物している町の破落戸(ごろつき)たちの手に渡して輪姦させるのである。その間、兵卒たちはにやにや笑っているが、輪姦が一通り終わると、全裸にされた女たちの髪の毛を掴んで一太刀で斬り殺してしまうのだ。それからが男たちの殺される番である。彼らは全員、小さな刀で全身の肉を一片一片切り取られて殺される。何のためかはよく分からないが、心臓は、一つずつ胸の中から丁寧に抉り出されて、用意された容器に入れられるのである。次に、子供たちが母親の前で殺され、母親たちも同じ運命となる」。 現在のところ、「天京屠城」で殺された住民たちの数は少なくとも10万人以上であるというのが歴史学上の定説となっている。これこそが、中国史上の本物の「南京大虐殺」なのである。 なお、太平天国が衰退した大きな理由には内紛があるが、これまた内紛というのは表面的な聞こえのいい表現であって、実質はすさまじい粛清であった。1856年9月、洪秀全はナンバー2であった楊秀清を粛正するのであるが、この時には楊秀清の一族並びに配下の兵たちとその家族約4万人が虐殺されている。既に述べてきたように、秦に始まり、漢の劉邦や呂后、明の洪武帝、太平天国の洪秀全、そして毛沢東と続くすさまじい粛清というのも、中国史の伝統と言えるだろう。 毛沢東が行なった大量殺戮と粛清に次ぐ粛清 ここまで、血で血を洗う抗争に次ぐ抗争という中国史の特徴を見てきた。より具体的に言えば、その特徴は既に述べたとおり、思想弾圧・大量殺戮・大粛清である。そして、現代中国・中華人民共和国ももちろんその性格を色濃く有している。既に「一村一焼一殺」と文化大革命については少し触れたが、本章の最後に毛沢東が行なった数々の戦慄するようなおぞましい行為について述べておこう。 毛沢東は、1928年から、湖南省・江西省・福建省・浙江省の各地に革命根拠地を拡大していくが、その時の行動方針が「一村一焼一殺、外加全没収」であった。意味は「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」である。1928年から1933年までの5年間で、「一村一焼一殺」で殺された地主の総数は、10万人に及んだという。中国共産党が政権を取ると、「一村一焼一殺」は中国全土に徹底して行なわれることとなった。全土で吊るし上げにあった地主は六百数十万人。うち二百万人程度が銃殺された。共産革命はどこの国においても大量殺戮と略奪を伴う惨たらしいものであるが、毛沢東の行動を知っていくと中国史の伝統の焼き直しにも見える。 次は粛清である。現代中国の粛清と言うと、先に述べた文化大革命が思い起こされるだろうが、実際には中国共産党が勢力を拡大して行く途上においても、数々のすさまじい粛清が行なわれている。まず、1930年から翌31年にかけての「AB団粛清事件」。これは中国共産党史上、初めての大量内部粛清であるが、この時は7万人以上を処刑している。政権を奪って権力を握ると、国家レベルで大粛清が行なわれることになった。1951年、「反革命分子鎮圧運動」である。毛沢東は「農村地帯で殺すべき反革命分子は人口の千分の一程度とすべきだが、都会での比率は人口の千分の一を超えなければならない」という殺人ノルマを課し、中国全土を反革命分子狩りの嵐が吹き荒れた。告発、即時逮捕、即時人民裁判、即時銃殺である。中国共産党の公式資料『中国共産党執政四十年(1949~1989)』によれば、「反革命分子鎮圧運動」で銃殺された人数は71万人に上るという(さらに129万人が「準革命分子」として逮捕され、終身監禁された)。粛清・虐殺はまだ終わらない。1955年には「粛清反革命分子運動」によって8万人を処刑している。 思想弾圧・粛清の流れは「反右派闘争」などこの後も続き、その流れの中に既に述べた文化大革命があるのであるが、文革のひどさはよく知られるところなので、ここではこれ以上述べない。今日ではYoutubeなどで映像も見ることができるので、ぜひご覧いただくと良いだろう。http //www.youtube.com/watch?v=p63xt5AlahY 最後に文革にもつながった「大躍進政策」について述べておこう。先に、文革は政権中枢から失脚していた毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目論んで起こした大規模な権力闘争であり大粛清であると述べたが、毛沢東の一時的失脚をもたらしたのが大躍進政策であった。1957年11月6日、ソ連共産党第一書記・フルシチョフは、ソ連が工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越せるだろうと宣言した。対抗心を燃やす毛沢東は、1958年の第二次五ヵ年計画において中国共産党指導部は、当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越す(のちには「3年」に減少)という壮大な計画を立案した。その中心に据えられた鉄鋼などは、生産量を1年間で27倍にするというあまりにも現実離れしたものであった。食糧も通常2.5億トンの年間生産高を一気に5億トンに引き上げることが決められた。しかし、何の裏付けもないまま目標だけ勇ましく掲げても、実現できるはずもない。1959年夏、共産党政治局委員で国防相の彭徳懐(ほうとくかい)が大躍進政策の再考を求めたが、毛沢東が受け入れるはずもなく、逆に「彭徳懐反党集団」として断罪され、失脚させられる(彭徳懐は、後の文革で凄まじい暴行を受け半身不随に。その後、監禁病室で下血と血便にまみれた状態のまま放置され死に至る)。これ以降、同政策に対して誰もものを言えなくなり、ノルマを達成できなかった現場指導者たちは水増しした成果を報告した。当時、全国の人民公社は穀物の生産高に応じて、政府に食糧の無料供出を割り当てられていた。「倍増」と報告された生産高によって、飢饉であるにもかかわらず、農民たちは倍の食糧を供出しなければならなくなったのである。その結果はすさまじい餓死者である。その数は、わずか3年間で2000万人とも5000万人とも言われている(中国本土では発禁となった『墓碑――中国六十年代大飢荒紀事実』によれば、人口損失は7600万人に上るとのぼるとされている)。最後は、人が人を食べるのが常態と化した。さすがに自分の子供を食べる親はいないから、親は、死んだり昏睡状態に陥った子供をよその家に持っていき、同じような状態のよその子と交換して自分の家に持ち帰り、その子を自宅で解体して食べたという。まさに、人類史上最大の人災と言えるだろう。大躍進政策の致命的な失敗により、さすがの毛沢東も責任を取らざるを得なくなり、1959年4月27日、国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなった。そこからの復讐・粛清が文化大革命なのである。 不気味な隣人との付き合いにおいて心すべきこと 私たちは何気なく「中国4000年の歴史」などと口にする。しかし、ここまで見てきたように、それは抗争と断絶の歴史であり、むしろ歴史が伝わらない国なのである。それを証明するある事実がある。老舗企業の数である。創業200年以上の老舗企業数を国別に見ていくと、我が国には3113社もあり、2位ドイツの1563社、3位フランスの331社などを大きく引き離し、ダントツで世界一である。それに対して中国はわずか64社で15位。共産主義の影響だと思うかもしれないが、149社で8位のロシアの半数にも満たない。人口わずか1000万人のチェコ(第二次大戦後、1989年まで共産党政権下にあった)が97社で10位なのだから、やはり歴史が続かないというのが「易姓革命」の国、中国の伝統なのである。 確かに昔の文物はある。しかし、それは先に見た仏教寺院のように、形骸に過ぎない。精神は断たれているのである。人によっては「中国は私たち日本人の先生なんだから」などと言うが、それは隋にしろ唐にしろ、昔のその時点での話である。日本の方がむしろ学んだものを血肉化して生かしている。 帝国データバンクが2008年に創業100年を超える老舗企業に行なったアンケート調査がある(回答企業814社)。それによれば、「老舗企業として大事なことを漢字一文字で表現すると」という問いに対し、最も多かった回答は「信」。197社からの圧倒的な支持を集めた。次いで「誠」68社。以下、「継」「心」「真」と続く。「社風を漢字一文字で表すと」という問いに対しては、「和」が158社でダントツ。次いで2位「信」63社、3位「誠」53社。以下、「真」「心」と続く。そして、「老舗の強みは何か」という問いに対しては、「信用」と答えた企業が圧倒的に多く、実に73.8%に達した。ここから見えてくることは、我が国の伝統的企業は、社内においては上下心を一つにして働き、対外的には信用を最も大切な財産と受け止め、信を守り誠を尽くす。そういう企業文化を継続することで続いてきたことが伺われる。こうした精神が仏教や儒教の教えに大きな影響を受けていることは言うまでもないが、それはもはや完全に日本のものとなっており、逆に今の中国にはないのである。 さて、抗争と断絶とともに、中国史の特徴として顕著な大量殺戮と粛清。私たちはここから大いに学ぶことがある。それは、中国という国は冤罪をでっちあげて断罪する国であるということ、そして、やれるとなれば血も涙もなく暴力を行使して徹底的にやる国だということである。中国国内で出版された『従革命到改革』という書籍によれば「文化大革命において作り出された冤罪」は実に「900万件」に上るという。文革に限らない。本章で見てきた数々の粛清は、そのほとんどがでっち上げの罪による断罪と言ってよいだろう。中国の楊潔チ外相が国連総会で「尖閣諸島は日本が盗んだ」などと演説したが、これも同様の確信犯的でっち上げである。尖閣周辺に埋蔵資源があることが分かるまでは、中国の地図でも尖閣は琉球列島に含めていたわけで、そういう事実を外相が知らないはずがない。しかし、事実がどうあれ、冤罪をでっちあげて徹底的に断罪するのが中国なのである。そして断罪した後は暴力の行使。それが中国史に見る中国の伝統である。尖閣問題への対処を考えるにあたって、私たちはこの隣人の性格をしっかり認識しておかなくてはならないだろう。 参考文献 『中華帝国の興亡』(黄文雄著・PHP研究所) 『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著・WAC) 『中国文明の歴史』(岡田英弘著・講談社現代新書) 『中国大虐殺史』(石平著・ビジネス社) 『200年企業』(日本経済新聞社著, 編集・日経ビジネス人文庫) 『百年続く企業の条件』(帝国データバンク 史料館・産業調査部 編・朝日新書) 『情報亡国の危機 』(中西輝政著・東洋経済新報社) 『毛沢東 大躍進秘録』(楊継縄著・文藝春秋) 新興国情報EMeye Bloomberg 中央日報 サーチナニュース 大紀元時報 Wikipedia .
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唐書巻一百二十六 列伝第五十一 魏知古 盧懐慎 奐 李元紘 杜暹 鴻漸 張九齢 拯 仲方 韓休 洪 滉 皋 洄 魏知古は、深州陸沢県の人である。人品は端正かつ正直で才能があり、進士に及第した。著作郎となって修国史に任じられ、累進して衛尉少卿、検校相王府司馬に遷った。神龍年間(707-710)初頭、吏部侍郎となったが、母の喪のため辞職した。服喪があけると、晋州刺史となった。睿宗が即位すると、もとの属していた官によって黄門侍郎を拝命し、修国史を兼任した。 当時、金仙観・玉真観を造営しており、盛夏にもかかわらず、工程は厳しく督促されていた。魏知古は諌めて次のように述べた。「臣は次のように聞いています。「古の人の上にたつ君主は、常に人の働くところを視ているが、人は懸命に働いても建造が出来るのは稀である。人が蓄財に勤めれば貢賦は少なくなり、人が食に勤めれば百事は廃せられるのである」(穀梁伝 荘公二十九年)。そのため、「役に立たないことをして役に立つことをおしつぶす」(尚書 周書旅獒)といい、また「百姓たちの心に逆らってまでも、御自分の意思を押し通されてはなりません」(尚書 虞書 大禹謨)とあります。『礼』に「季夏の月(六月)、樹木が盛んに茂る。みだりに木を伐らぬよう取り締まりをさせる。また土木工事はいけない」(礼記 月令)とあり、これはすべて人民への教化を興して治世をたて、政治を行って人を養う根本なのです。今、公主のために道観を造営するのは、土木工事によって福を祈っていますが、しかしながらこれらの土地は百姓の家とするところであって、突然事態が差し迫って、彼らを移転・転居させ、老人を抱えて幼児を携えて、椽を変えて瓦を変えて、道路上で阿鼻叫喚するのです。人の事にそむくことは、天の時に違うことであり、無用の造作をおこし、不急の務めを崇めることは、群臣の心を揺れ動かし、多くの口からあれこれと言いはやすことになるのです。陛下は人の父母となられ、どういった手段によって安んじようとなされるのでしょうか。また国には簡冊があり、君主が何か行えば必ず記録されることになり、言動のきざしは慎まなければなりません。願わくば明詔をお下しになられ、人の願いにしたがって土木の徭役を除かれ、この事業を晩年に行われても、その失策は遠いことではないのです」 受け入れられなかった。再び諌めて次のように述べた。「陛下が反逆者を平定して取り除き、国家を保ち定まれてからは、天下は荘重となり、朝廷に新政があると思われます。今、教化は次第に廃れていくことは日々ますます甚だしいものであり、府蔵は空しいものとなり、人力は疲弊し、造営は果てなく、官吏の人員は次第に増え、諸司の試補・員外・検校官はすでに二千人あまり、太符の帛はつきて、太倉の米は支給できなくなっています。臣は以前に金仙観・玉真観の造営をやめられるよう願いましたが、それらが終わってもまだ停止されていません。今、水害と旱魃が前後でおき、稲・黍・稷・麦・豆の五穀は育たず、この状態になっては春になると、必ず大飢饉となります。陛下はどこに賑給なされるというのでしょうか。また突厥は中国の憂いとなることは長いことになっており、その人となりは礼義や誠信によって約束すべきではありません。使者を派遣して婚姻を願っているとはいえ、恐るべきは豺狼の心をもち、自身が弱ければ伏せ従い、強ければ驕慢となって逆き、月日がたてば騎乗する馬は肥え太り、中国の飢饉に乗じてきます。講和や和親の際にも、辺境の砦を攻撃せんと狙っていますが、またどうやって防ぐというのでしょうか。」帝はその実直さをよろこび、左散騎常侍によって同中書門下三品(宰相)とした。玄宗は春宮であったとき、また左庶子を兼任した。 先天元年(712)、侍中となった。渭川の遊猟に従い、詩を献上して風刺し、手ずから制によってお褒めをいただき、あわせて賜物五十段をいただいた。翌年、梁国公に封ぜられた。竇懐貞らが謀をめぐらせて国を乱すと、魏知古は密かにその奸計を暴いたから、竇懐貞は誅殺され、封二百戸、物五百段を賜った。玄宗は以前の褒賞が手薄かったのを残念に思い、手ずから勅してさらに百戸を加え、その名節を明らかにした。この冬、詔して東都(洛陽)で吏部の選事を司り、適正な要件によって称えられ、お褒めの詔によって衣一副を賜った。これより帝の恩意は最もあつく、黄門監によって紫微令に改められた。姚元崇とあわず、工部尚書に任命されたが、宰相を罷免された。開元三年(715)卒した。年六十九歳。宋璟はこれを聞いて「叔向は古に実直さをのこし、子産は古に愛をのこした。これを兼ねた者は魏公だ」と嘆いた。幽州都督を追贈され、諡を忠という。 推薦した洹水令の呂太一、蒲州司功参軍の斉澣、右内率騎曹参軍の柳沢、密県の尉の宋遥、左補闕の袁暉、右補闕の封希顔、伊闕県の尉の陳希烈は、後に全員が当時に有名となった。 文宗の大和二年(828)、その曾孫の魏処訥を探して、湘陽県の尉を授け、魏徴・裴冕の後裔も抜擢して任命した。 盧懐慎は、滑州の人で、思うに范陽の有名な盧姓なのであろう。祖父の盧悊は、仕えて霊昌県の令となり、遂に県の人となった。盧懐慎は幼い頃からすでに非凡な人物で、父は友人で監察御史の韓思彦に「この子の器は図り難い」と嘆いた。成長すると、進士に及第し、監察御史に任じられた。神龍年間(707-710)、侍御史に遷った。中宗は武后を上陽宮に謁し、武后は帝に十日に一朝するよう詔した。盧懐慎は諌めて、「昔、漢の高帝(高祖)が天命を受けると、五日に一朝、太公と櫟陽宮にて謁し、民間から決起して皇帝位に登り、子に天下があったから、尊を父に帰し、だからこのようになったのです。今、陛下は先王以来の法と帝王の位を継承されましたが、どこの法を採用されたのでしょうか。ましてや応天門は提象門からはわずか二里の所にあり、警備の騎馬は列をつくることができず、随行車は平行することができず、ここにたびたび出入りしたとしても、愚人が万が一随行車の塵を犯すような襲撃があったところで、これを罪としたところでどういたしましょうか。臣は愚かに申し上げるところは、内朝に従って穏やかかつ清らかであるようにお過ごしになられ、出入りして煩わせるようなことがあってはならないということです。」採用されなかった。 右御史台中丞に遷った。上疏して時政を述べた。 「臣は以下のように聞いています。「善人の政治も百年つづけば、暴力をおさえ死刑もなくせる」(論語 子路第十三)。孔子は「使ってくれる人があったら、一年だけでもいいんだ。三年だと、完全だが。」(論語 子路第十三)と言っており、そのため『書』に、「三年に一度、その役目にあって成果をあげたかどうかを調べられ、三度検査されたあと、輝かしい仕事をしたものは位を上げ、みずほらしくてだめなものはその役から退けられた。」(尚書 虞書舜典)とあります。昔、子産は鄭の宰相となり、法令を改め、刑書を施行し、一年間は人に怨まれ、殺されると思うほどでしたが、三年にして人は徳としてこれを歌い継がれるようになりました。子産は賢者であったから、政治を行ってなお年を重ねてから功績がなったのに、ましてや普通程度の人材ではどうでしょうか。この頃州牧、上佐、両畿の県令はあるいは一・二年、あるいは三・五か月で転任となり、かつて考課を論ずるのに政務統治の成績が良好かどうかで判断せず、まだ戻って来ない者に対しては耳を傾けて聞くことはなく、つま先立ちして望んでいても、無闇に行動して廉潔の聞こえがなく、またどうして陛下のために風を教化して人を憐れむ余裕がありましょうか。礼義を興すことができず、戸口はますます流出し、倉庫はいよいよ乏しくなり、百姓は日に日に疲弊するのは、職はこれが原因となるだけなのです。人は吏の任期が長くないのを知っているので、その教化にしたがわず、吏は転任するまで長くないのを知っているので、その力をつくさないのです。かりそめに爵位に身を置き、これによって経歴や声望を養ったとしても、明主が天下に勤労しようとする志があったとしても、天子の寵遇を得る道を開くことになり、上も下も互いに互いに騙し合い、どうして公正をつくすことができましょうか。これは国の病なのです。賈誼がいうところの誤りというのは、小の小なる者のみなのです。これを改めなければ、平和的に緩慢であっても、なすすべもないのです。漢の宣帝を総合的に考えてみると、治世は勃興して教化がなされ、黄霸はすぐれた郡守であり、秩を加えて金を賜り、その能力をあらわしたが、終に遷任をよしとしませんでした。そのため古で吏となった場合、長きは子孫までに到ったのです。臣が願うところは、都督・刺史・上佐・両畿の県令に任じて四度の考課を得ていない場合は、転任することができないこととすることです。もし統治に最も優れたものがあれば、あるいは加えて車や衣服、秩禄を賜い、使者をくだして臨問させ、璽書によって慰撫して励まし、公卿に欠員があれば、そこで抜擢して能力がある者を励ますのです。職に適さずあるいは貪欲かつ暴虐であった場合、罷免して田舎に帰らせ、信賞必罰の信を明らかにするのです。 昔、唐・虞は古えの道にならって百の官位をたてました。夏・商では官は二倍になりましたが、やはりまたうまく治まりました。これは官を少なくしたからです。そのため「この官は必ずしも員数を揃えなくともよい、ただふさわしい人でなければならぬ」、「もろもろの官に、適当な人をつけないでいて、その官位をむなしくされてはなりません。なぜなら官職というものは、もともと天に属するものであって、天のなさる事を人間が代わってやっているからなのです。」(尚書 周書 周官)というのは、人を選ぶからなのです。今、京の諸司の員外官は数十倍となり、近年いままでなかったことです。必ずしも備わっていないというのに、余剰人員がいるということは、その代わりの仕事を求めて、多くはわずかな仕事もせず、俸給の費えは毎年巨額なものとなり、いたずらに府蔵をつきさせることになり、どうして統治なぞありましょうか。今、民力は疲弊の極みで、河州・渭州は広く運漕していますが、京師に給付されず、公も私も損耗し、辺境はいまだ静寂ではありません。ちょうど今、旱魃や水損で災いとなり、租税は減収しており、辺境で急を知らせれば、賑給する暇とてなく、どうやってこれを救えましょうか。「人事を軽々しく考えてはなりません。つらい困難なものだと知って、慎重に扱ってやって下さい。天子の位に安んじてしまってはなりません。ひたすらに恐れつつその位を保ってゆかねばならないのです」(尚書 商書 太甲下)とあるのは、謹んで慎重に取り扱わなければならないことなのです。員外の官をたずねてみると、全員が当時の重任に値する賢臣であり、選ぶ際に才能を用いながらもその用途を伝えることなく、名を尊んでいるのにその力量を任じませんでした。昔より人を用いるのに、どうしてそのようにしていたのでしょうか。臣が願うところは、才能が太守や上佐にたえる者を官職に昇らせ、力量を全国に知らしめ、考課の責めは治状で行うことです。老いや病、もしくは職にたえられない者は、すべて廃して除き、賢人や不才を確率して一貫性をもたせるのは急務なのです。 私寵や賄賂をおかし、寡婦を侮る者がいるのは、為政者を蝕むものです。ひそかに思いますに、内外の官に賄賂を贈って狼藉し、鼻削ぎして人を蒸し殺し、罪にふれて流黜したとしても、しばらくして戻ってきて、再び牧宰となり、任じるのに江淮・嶺表・磧に、だいたい懲罰的左遷を示しても、心の中では自暴自棄を懐き、貨に従って財貨を集め、終わっても改悛の心なぞありません。明主の万物においては、平分にして恩を施すのに均等ではないことはなく、吏を罪として遠方の太守とするのは、これを奸人に恵みして遠きに残すという。遠州の辺境の村々は、どうやって聖化を負って、ただその悪政を受けるのでしょうか。辺境の官吏がいる地は、異民族・漢族が雑居し、険阻や遠方であることをたのんで騒動をおこしやすく、平定も困難なのです。官はその才能でなければ、民衆は流亡し、蹶起して盗賊となるのです。これに基づいていうのなら、凡才は用いるべきではなく、ましてや狡猾な官吏はどうでしょうか。臣が願うところは、収賄によって解任を詮議された者は、除籍されてから数十年もしないうちは、再任用を賜ってはなりません。『書』に「民のよいものと悪いものをみきわめて」(尚書 周書畢命)とありますが、それは適切なことなのです。」 上疏したが、答えはなかった。 黄門侍郎、漁陽県伯に遷った。魏知古とともに東都で進士の試験を実施する責任者となった。開元元年(713)、同紫微黄門平章事(宰相)に昇進した。開元三年(715)、黄門監に改められた。薛王の叔父の王仙童は百姓に暴虐を働き、御史は捜査してその罪を検挙し、事実を列挙したから、詔が紫微・黄門に下されて審理させた。盧懐慎は姚崇とともに執奏して、「王仙童の罪状は明白で、もし御史を疑うようなことがあれば、他の人は何を信じたらよいのでしょうか」と申し上げ、これによって獄決した。盧懐慎は自ら才能は姚崇に及ばないとみなしていたから、そのため事案はすべて推して専断せず、当時の人は譏って「伴食宰相」と呼んだ。また吏部尚書を兼任し、病のため骸骨(辞職)を乞い、許された。卒すると、荊州大都督を追贈され、諡を文成という。遺言して宋璟・李傑・李朝隠・盧従願を推薦し、帝は哀悼して嘆いた。 盧懐慎は清廉で経営を行わず、服飾・器物に金玉や模様の飾がなく、身分は貴かったが妻子は寒さや飢えに瀕し、俸禄を得ると、故人や親戚に惜しむことなく、散財し尽くした。東都の貢挙を担当するため派遣されると、身に携えたものは、一つの布袋にとどまった。病となったから、宋璟・盧従願が見舞いすると、筵を覆って寝床とし、門には箔を施していなかった。風雨がくると、すべての席が妨げとなった。日が遅くなってから食事とし、豆を蒸して二つの器に盛り、菜と数杯の酒があるだけであった。別れの時がくると、二人の手をとって、「お上は治世を求めること熱心であらせられるが、しかし国を長いことみると、しばらくしてお勤めに飽きられて、奸人が間に乗じて進んでくることがあるだろう。官邸で記録しておきなさい」と言った。葬式になっても、家に貯蓄はなかった。帝は当時東都に行幸しようとすると、四門博士の張星が上言して、「盧懐慎は忠節かつ清廉で、真っ直ぐな道のまま終えられましたが、お褒めのご下賜を加えられておらず、善を勧めることができません」と言ったから、そこで制を下してその家に物百段、米粟二百斛を賜った。帝が京師に帰還すると、追い込み猟で、杜との間を行き来し、盧懐慎の家が遠望でき、小さな垣根があり、家人が何かしているようであったから、使者を走らせて尋ねてみると、戻って盧懐慎大祥(三回忌法要)をしていたと報じたから、帝はそこで縑帛を賜い、そのため狩猟をやめた。その墓に立ち寄ると、碑表がなかった。行列を止めて眺めていると、涙がはらはらと流れて泣き、官吏に詔して碑を建てさせ、中書侍郎の蘇頲に文をつくらせ、帝自ら書した。 子に盧奐・盧弈がいる。 盧奐は、若い頃から容貌に優れ、吏になると清廉であると称えられた。御史中丞を経て、京師から出されて陜州刺史となった。開元二十四年(736)、帝が西に帰還すると、陜州に立ち寄り、その優れた政治をお褒めになられ、賛を役所に次のように書いた。「太守の任は重要であるが、陝州の政治は優れている。またすでに人々を救い、忠誠の心がある。これは国の宝となり、家風をおとさない人物である。」ついで京師に召喚されて兵部侍郎となった。天宝年間(742-756)初頭、南海太守となった。南海は水陸の集積地であって、物産は怪異で、前太守の劉巨鱗・彭杲は収賄で失脚し、そのため盧奐と交替した。汚職にまみれた吏は手を縮め、宦官で市舶に携わる者もまたあえて法を違反せず、遠方の習俗は安じた。当時開元から四十年たち、治世が優れて清廉な者は、宋璟・李朝隠・盧奐の三人だけであった。尚書右丞で終わった。盧弈は「忠義伝」を見よ。 李元紘は、字は大綱で、その先祖は滑州の人であり、後世に京兆万年県に住んだ。本姓は丙氏である。曽祖父の李粲は、隋に仕えて屯衛大将軍となり、煬帝は京師の西二十四郡の盗賊を取り締まらせ、安んじ宥めて、よく兵士の心をつかんだ。高祖は李粲を厚遇し、兵が関内に入ると、多くを帰順させたから、宗正卿、応国公を授け、姓は李氏を賜った。後に左監門大将軍となり、老いたから、乗馬のまま宮中に入ることを許した。年八十歳あまりで卒し、諡を明という。祖父の李寛は、高宗の時に太常卿、隴西公となった。父の李道広は、武后の時に汴州刺史となり、善政をしいた。突厥・契丹が河北に侵攻すると、議して河南の兵で迎撃したが、百姓は震撼しており、李道広はことごとく慰めたから、人々で離散する者はいなかった。殿中監、同鳳閣鸞台平章事に遷り、金城侯に封ぜられた。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を成という。 李元紘は、若い頃から身を謹んで礼法を守り、仕官して雍州司戸参軍となった。当時、太平公主は天下に勢力を振るい、百官はその勢力に従おうとし、かつて民と公主が水車石臼の使用で争った際に、李元紘は民に帰結させた。長史の竇懐貞は非常に驚き、駆けつけて改めようとしたが、李元紘は署判の後ろに「南山に移すべし。判決は変更してはならない」としていた。好畤県の令となり、潤州司馬に遷ったが、優れた統治によって名声を得た。開元年間(713-741)初頭、万年県の令となり、賦役は公平であると称えられ、京兆少尹に抜擢された。詔によって京師付近の渠を裁決することになった。当時、諸王・公主・権勢の家はすべて渠の傍らに水車石臼を建て、溜池を堰き止めて水利権を争い、李元紘は吏に命じてすべて破却し、灌漑用の運河から分水して田に下し、民はその恩を頼った。三たび吏部侍郎に遷った。当時、戸部の楊瑒・白知慎は徴税の失敗を罪とされ、刺史に貶され、帝は代わりとなるべき者を求め、公卿の多くは李元紘を推薦した。帝は戸部尚書に抜擢しようとしたが、宰相は素質が薄いとしたから、そこで戸部侍郎となった。箇条書きにして利害および政治の得失を述べたから、帝は才能があるとし、帝王の助けとすべき者であるといい、衣一揃、絹二百匹を賜った。翌年、遂に中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)に任命され、清水県男に封ぜられた。 李元紘は宰相となると、仕事ぶりは厳しく抑圧し、突っ走る者を抑え、出し抜こうとする者は憚った。五月五日、武成殿で宴し、群臣に重ね着を賜い、特に紫服、金魚錫は李元紘と蕭嵩のみで、群臣に比較できる者はいなかった。当時、京司の職田を廃止し、議する者は屯田を置こうとした。李元紘は「軍と国は同一ではなく、内と外も制度は異なっており、もし人が手隙で戦争がなく、耕作放棄地があれば、手隙の人に耕作放棄地を耕させると、運漕の労を省き、軍糧の実となるので、そうなれば屯田することは、ますます有益なことなのです。今百官が職田を廃止することは一県だけではないので、迎合すべきではありません。百姓の私田はすべて力して自ら耕したものであるので、奪ってはなりません。もし屯田を設置すれば、公と私がそれぞれ置き換わることになり、丁夫を徴発することになります。徴発すれば業は家を廃し、庸を免除すれば賦税は国から欠乏します。内地に屯田を置くことは、古よりいまだなかったことです。恐れるところは損失を補うことができず、いたずらに費用を費やすことです。」と述べたから、遂に議は止んだ。それより以前、左庶子の呉兢が史官となり、『唐書』および『春秋』を撰述したが、完成せず、喪があけてから、後に上書してその仕事を終わらせるよう願った。詔して集賢院にて成書することを許した。張説が致仕すると、詔して自邸で史書を編纂させた。李元紘はそのため「国史は、人君の善悪や王政の損益を記録し、毀誉褒貶がつながることは、前聖が最も重んじたことです。現在、国の大典は、分散して一つではありません。また太宗が史館を禁中に別置したのは、秘密を厳重にしたからなのです。願うところは、張説に対して書によって史館につかせ、撰録に参与させることです」と述べた。詔して裁可された。 後に杜暹と合わず、しばしば帝の御前で弁論したから、帝は不快に思い、全員を罷免し、李元紘を曹州刺史とし、蒲州に遷したが、病と称して辞職した。後に戸部尚書で致仕し、再び太子詹事に起用された。卒すると、太子少傅を追贈され、諡を文忠という。 李元紘が宰相となると、清廉で節度があり、宰相となって年を重ねたが、いまだかつて邸宅を改築したことはなく、子馬は貧弱で、封物を得ても親族に散財した。宋璟はかつて「李公は宋遥の美点を引き継ぎ、劉晃の貪欲さを退け、国の宰相となっては、家に蓄えを留めることなく、季文子の徳であっても、どうしてこれに加えることができようか」と嘆いた。 杜暹は、濮州濮陽県の人である。父の杜承志は、武后の時に監察御史となった。懐州刺史の李文暕が人に告発され、杜承志に詔があって審理させたところ、無実とした。李文暕は、宗室の近族であり、ついに罪を得て、杜承志も貶されて方義県の令となり、天官員外郎に遷った。羅織の獄がおこり、病と称して辞職し、家で卒した。 高祖の時代から杜暹の時代までは、五世代が同じところに居住した。杜暹は最も慎み深く、継母につかえて孝行であった。明経化に推薦されて及第し、婺州参軍に補任され、任期満了で帰還し、吏は紙を一万枚贈ったが、杜暹は百枚のみ受け取った。皆が「昔、清吏であっても大銭を受け取ったが、なんと珍しいことだろうか」と感嘆した。鄭県の尉となり、また清廉かつ節度によって名が有名となった。華州司馬の楊孚は、公明で正直な人であり、たびたび杜暹を重んじて意見を聞いた。たまたま楊孚が大理正に遷任することになったが、杜暹もたまたま罪に連座し、楊孚は「もし人を罪にさせたら、皆にどうやって善を勧められようか」と言い、宰相に進言し、これによって大理評事に抜擢された。 開元四年(716)、監察御史となって磧(ゴビ砂漠)西に滞在した。安西副都護の郭虔瓘と西突厥可汗の阿史那献、鎮守使の劉遐慶が相互に訴え、杜暹に詔して審議させた。突騎施(テュルギシュ)の帳に入ると、証拠を探した。虜は金を杜暹に贈り、杜暹が固辞すると、左右の者が「公は絶域に使者となって来たのですから、彼ら戎の心を失ってはなりません」と言ったため、受けたが、密かに幕下に埋めた。境界から出ると、文書で命じて受け取った物を取り出させた。突厥は大いに驚き、磧を渡って追跡したが、間に合わず去った。給事中に遷ったが、母の喪に遭って辞職した。安西都護の張孝嵩が太原尹に遷ることになり、ある者が杜暹を安西に行かせると、虜はその清廉さに心服し、今なお思い慕っていると申し上げたから、そこで奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて黄門侍郎兼安西副大都護となった。翌年、于闐(ホータン)王の尉遲朓が突厥諸国と約束して叛こうとしたが、杜暹はその謀を暴き、兵を発して討伐して斬り、支党をことごとく誅殺し、さらに君長を立てて、于闐を安んじた。功によって光禄大夫を加えられた。辺境を守備すること四年、戎を撫育して兵士を訓練し、よく自ら勤め励ましたから、戎も漢人もとも心服した。 開元十四年(726)、召喚されて同中書門下平章事(宰相)となり、中使を派遣して迎えに行かせた。謁見すると、絹二百、馬一匹、邸宅一区画を賜った。李元紘とあれこれ反りが合わず、罷免されて荊州都督長史となり、魏州刺史、太原尹を歴任した。帝が北都(太原)に行幸すると、戸部尚書に昇進し、行幸の随行を許されて帰還したが、再び東に行幸すると、杜暹は京師留守となった。杜暹は当番の衛士を率いて三宮城を修繕し、池を浚ったが、監督は少しもなまけなかった。帝は聞いてお褒めのお言葉をいたただき、しばしば書を賜って労った。礼部尚書に昇進し、魏県侯に封ぜられた。 開元二十八年(740)卒し、尚書右丞相を追贈され、使者を派遣して葬列を護送させ、禁中から絹三百匹を出して賜い、太常は諡を貞粛とした。右司員外郎の劉同昇らは杜暹が忠孝を行い、諡はまだつくされていないとし、博士の裴総は杜暹が黒い喪服を着て安西への赴任の命を受け、国に勤労したとはいえ、孝を尽くすことができなかったと言った。その子は訴え、帝はさらに役人に勅して考定させ、ついに諡を貞孝とした。 杜暹は友愛のある人物で、異母弟の杜昱を非常に可愛がった。その人となりは学問が希薄で、そのため朝廷で議論すると、時々浅薄を露呈した。しかしよく公に清廉で自己保全に勤め、倦まず休まず努め励んだ。若い頃より誓って親友からの贈り物を受け取らず、こうして身を終えた。卒すると、尚書省および吏が贈り物をしたが、その子の杜孝友は一つも受け取らず、杜暹の普段の志を行ったのだという。 杜暹の族子に杜鴻漸がいる。 杜鴻漸は、字は之巽である。父の杜鵬挙は、盧蔵用とともに白鹿山に隠遁し、母の病のため、崔沔とともに同じく医術を蘭陵県の蕭亮に授けられ、遂にその術を窮めた。右拾遺に任命された。玄宗が東は河に行くと、そこで狩猟したから、賦を奉って風刺した。安州刺史で終わった。 杜鴻漸は進士に及第し、延王府参軍に任じられ、安思順は上表して朔方節度判官とした。安禄山が叛乱をおこすと、皇太子は軍を率いて平涼に行ったが、駐留に適当な場所がわからなかったから、議して蕭関道を出て豊安に赴いた。杜鴻漸は六城水運使の魏少游、節度判官の崔漪、支度判官の盧簡金、関内塩池判官の李涵と謀って、「夷どもが秩序を破壊し、長安・洛陽の二京は占領されてしまった。太子が兵を平涼で収められたが、土地が分散していて根拠地とするのは難しい。今朔方が勝利を制しようとするなら、太子を奉迎し、西は河・隴に詔し、北は回紇と手を結び、回紇は最初から国家とともに、協力な騎馬を収め、兵力を合同し、南方を鼓舞すれば社稷の恥を雪ぐのは、また簡単なことではないであろうか」と述べ、そこで兵馬召集の軍を詳細に上奏し、また軍の資材、攻城用器械、兵糧を記録し、李涵を平涼に派遣して太子に引見させると、太子は大いに喜んだ。たまたま裴冕が河西よりやって来て、また朔方に行くことを勧めた。杜鴻漸は崔漪とともに白草にやってきて迎え謁し、「朔方軍は天下の強兵で、霊州は本領発揮の地です。今、回紇は和平を願い、吐蕃は付き従っており、天下は城を並べて堅守し、王命を待っています。たとえ賊に占領されていても、日夜官軍を待ち望み、回復しようとはかっています。殿下が兵を手に入れ長駆すれば、逆胡どもを滅すことは簡単なことです」と説き、太子は喜んで「霊武は私にとっての関中だ。卿は私にとって蕭何だ」と言った。 霊武に到着すると、杜鴻漸は裴冕らとともに皇帝の位に即位することを勧め、内外の望みであるとした。六度要請し、聴された。杜鴻漸は朝廷の作法に明るく、故事通りに采配し、壇を城の南に設け、一日前にその儀式の次第を詳細にして草案を上奏した。太子は「聖皇は遠くにあらせられ、逆賊どもは結束しようとしている。壇場をやめて、他は奏上の通りとせよ」と言い、太子は即位した。これが粛宗である。杜鴻漸に兵部郎中を授け、中書舎人とした。俄に武部侍郎となり、河西節度使に遷った。長安・洛陽の両京が平定されると、また荊南節度使となった。乾元二年(759)、襄州の大将の康楚元らが叛き、刺史の王政は脱出して逃走し、康楚元は偽って南楚霸王と称し、そこで荊州を襲撃した。杜鴻漸は城をすてて逃走し、人々は皆南へ逃れ、舟を争って溺死する者が非常に多かった。澧・朗・復・郢などの州は杜鴻漸が逃れたのを聞いて、皆山谷に隠れた。にわかに商州刺史の韋倫がその叛乱を平定した。 しばらくして、杜鴻漸を召喚して尚書右丞、太常卿とし、礼儀使にあてた。泰陵・建陵の二陵の制度はすべて杜鴻漸が統括したもので、優れた成績によって、衛国公に封ぜられた。また、「『周官』に「災害時には礼を省く」(周礼 掌客)とあり、今大乱をうけ、人民は殺されたり重症を負っています。婚礼・葬送の行列は、国に大功がある者や二等の以上の場合でなければすべて許されませんように」と建言し、詔して裁可された。 代宗の広徳二年(764)、兵部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任じられた。ついで中書侍郎に昇進した。崔旰が郭英乂を殺して成都を占領し、邛州牙将の柏貞節、滬州牙将の楊子琳、剣州牙将の李昌巙が兵で崔旰を討伐し、蜀の地は大乱となった。杜鴻漸に命じて宰相の地位のまま成都尹、山南西道剣南東川副元帥、剣南西川節度副大使を兼任して鎮圧・撫育に向かわせた。杜鴻漸の性格は臆病で、他に遠大な計略はなく、晩年は仏教におぼれて殺戮を恐れた。剣門を過ぎるにあたって、張献誠が敗北したのを教訓とし、また崔旰の武勇を恐れ、先に許したから死ななかった。面会すると、礼をもって待遇し、あえて譴責せず、かえって成都の政務を委ね、毎日従事の杜亜・楊炎と宴会泥酔し、そこで崔旰を推薦して成都尹とし、柏貞節に邛州刺史、楊子琳に滬州刺史を授け、それぞれ戦闘を停止した。そこで入朝を願い出て、聴された。帝に謁見すると、盛んに崔旰の武威・知略が任じるにたえうるものであり、留後とすべきであるとした。宝器五床、羅錦(刺繍入りの錦)十五床、麝臍(ジャコウジカのへそ近くの麝香嚢から製する香料)五石を献上した。また宰相に復帰した。議論する者は乱を長引かせたことを憎んだ。門下侍郎に昇進した。大暦三年(778)、東都留守、河南淮西山南東道副元帥を兼任したが、疾と称して赴任しなかった。また山南、剣南副元帥の地位を譲り、聴された。大暦四年(779)、病が重くなり、宰相を辞任し、辞めて三日して卒した。年六十一歳。太尉を追贈され、諡を文憲という。 杜鴻漸が蜀より帰還すると、千僧供養を行い、報いがあると思ったから、貴紳たちはこれに倣った。病が重くなると、僧に頭を剃らせ、仏葬(火葬)するよう遺命し、土を盛って木を植えるような墓地をつくらなかった。 張九齢は、字を子寿といい、韶州曲江の人である。七歳で文章をつづることをおぼえた。十三歳のとき、広州の刺史であった王方慶に書簡を送った。王方慶は感心していった、「こいつはきっと出世するぞ」。ちょうど張説が嶺南地方に左遷されてきたが、一見すると彼を厚遇した。父親の喪にあって、哀しみにやつれて、その結果役所にある樹木の枝が連なりあうという瑞祥が現れるほどだった。進士に選抜され、最初校書郎に任命されたが、道侔伊呂科の試験でよい成績をあげたため、左拾遺となった。当時玄宗は即位したところで、まだ郊見をしていなかったので、張九齢は建白書を奉った。 「天は、百神の君主であって、王者は天より受命によるところです。古より帝統を継いだ主は、必ず郊祀で始祖を配祭しますが、思うに天命を敬い、受命したところに報いるからなのでしょう。恩恵がいまだに行き渡らず、一年の稔りもまだ実っていなければ、その礼を欠くのです。昔、周公旦は后稷を郊祀して天に配えたのは、成王が幼かったから自ら行ったのだといい、周公は摂政となってその礼を用いたので、廃さないことを明らかにしたのです。漢の丞相の匡衡は「帝王の事で郊祀より重いものはない」と言い、董仲舒はまた「郊祀せずに山川を祭るのは、祭祀の序列を失うことになり、礼にそむく。『春秋』はこれを謗っている」と言っています。臣は匡衡・董仲舒は古の礼を知っているというべきで、皆郊祀を先に行うべきだとしています。陛下は先聖の美業をお継ぎになって、今にいたるまで五年になりますが、まだ天を大いに報祀しておらず、これを経によって考えてみるに、義は通じていません。今、百穀はめでたく実り、鳥獣にも帝王の教化が行われ、夷狄は朝廷に帰順し、武器は使うことをやめていますが、だから天につかえることを怠るのは、後世への教訓とすべきではないと恐れています。願わくば長日(冬至)を迎えて紫壇にのぼり、美しい席をならべ、天位を定めれば、聖典の教えをあますことはないでしょう。」 また申し上げた。「失政の気は発して水害や旱魃となります。天道は遠いとはいえ、こたえることは非常に近いのです。昔、東海で孝婦が無実の罪で殺されると、天はしばらく旱となりました。一官吏の愚かさのため匹婦が非業の死を遂げたとしても、ただちに天はその無実を明らかにします。ましてや全世界の人民の多くは、県では県令に命じられ、家では刺史に生かされ、陛下はこれと共に統治するところで、もっとも人に親しい者においてはどうでしょうか。もしその任にあたいしなければ、水害や旱魃になる道は、どうしてただ一婦だけがたどるのみになるのでしょうか。今刺史や京近の雄望の郡は、まだ多少は人材が選ばれているようですが、江・淮・隴・蜀・三河の大府の外は、そのような人材ではない者もいるのです。京官より出た者は、ある者は昇進した者ですが、またある者は政務に功績がないのに州郡の長官の任に用いられた者で、これは外地の長官が追放・左遷の地となったからです。ある者は追従によって高官となり、勢力が衰えるとこれを京職とは称さないといい、出て州の刺史となったのです。武官や流外官は財産を積んでこの職を得たのであって、才能によったのではありません。刺史がそうなのですから、県令に到っては言うまでもありません。民百姓は国家の根本で、物事の根本の事柄に努力すべきつとめで、よく進上する者は軽んじられ、疲弊した民は、不才の人に遭うと騒擾となり、聖化はこれによって消沈して晴れ晴れとせず、親近の人を選ばないからこのような弊害がおこるのです。古の時代、刺史は入っては三公となり、郎官は出ては百里もの地をつかさどりました。今朝廷の士は一度入ってしまえば外地に赴任することはなく、計略を私用ではかって、かなり得意になってうぬぼれているのです。京師の衣冠を集めると、身名出るような身分の者は、京師に落ち着いて外に赴任しない理由を無理にこじつけ、外地への勤めずに出世しますが、これは大きな利益が京師の内にあるからであって、外にはないからなのです。智能の士で利を欲する心がある者は、どうして再度出て刺史・県令になることを承諾しましょか。国家は智能の士に頼って統治していますが、常に親しい人がいない者は、陛下が法を理由に改めないからなのです。臣は思いますに、治めようとするの本義は、刺史を重んじるのに他はなく、刺史が既に重きを置かれているのなら、すなわち優れた者を任命すべきです。試験してその資質を見定めるのがよいでしょう。概ね都督・刺史を歴なければ、高位の子弟であっても、侍郎・列卿に任じさせるべきではありません。県令を歴なければ、善政したとしても、台郎・給事・舎人に任じるべきではありません。都督や刺史は遠地であっても十年以上外地に任じることをさせてはなりません。このことを行わずにその失を救うようなことがあれば、恐らくは天下はまだ治まっていないようなものです。」 また申し上げた。「古の時代の士を選ぶには、思うによくその任にあたる者を採用し、これによって士は素行を修養するから、思いがけない幸せとはならず、悪巧みは自然と止み、官位はおかしなことにならないのです。今天下は必ずしも上古のように治まらず、一日の事務量は以前の倍に達しており、本当にその根本を正しくなければ、末節が虚偽を行うことになります。所謂末節というのは、吏部条章は千百人にも及んでいます。役人は文墨に溺れ、文筆に優れた悪賢い者共は、悪者によって奮うのです。臣は思うに、当初、出納簿をつくることとは備忘に備えるのみでしたが、今はかえって精密さを案牘(調査文書)に求めており、それなのに人材を求めるのに性急になっていますが、これは所謂剣を流れの中に残して、契丹で記すようなものです。おしなべて吏部で優れた者は、すなわち尉と主簿より、主簿と丞より、ここに文をとって官次を知るもので、それが賢者であろうが不肖な者であろうが論じることはないのは、どうして誤ちではないというのでしょうか。吏部尚書や侍郎というのは、賢者に授けるものですが、どうして賢者を知ることができないというのでしょうか。賢者を知ることが難しいようでしたら、十人を抜擢してうち五人を得られれば、これでよいのです。今かたく格条を用い、資質によって職を配し、官のために人を選んでも、当初からこの意がなければ、そのため時の人は品評調配の誹りを受け、役所は賢人の実を得ることができなくなります。」 「臣が申し上げます。選部(吏部)の法はおとえても変わることはありません。今、刺史・県令のようにその人を詳細に調べ上げ、そこで管内で毎年選にあたる者は、才行を選考して、流品に入るべきであれば、その後に御史台に送り、また選に加えられるのであり、多少でも用いるところは州県の役人の功過についてその上功下功を評定し、そこで州県は慎んで推挙された者で、官吏となるべき才能が多ければ、吏部はその作成された推挙文によるので、凡人がやたらめったらいるということがなくなります。今毎年選ばれるのは一万人を数え、京師の米や物が消耗していますが、どうして士が多いというのでしょうか。思うにみだりにこれがそれにあたるとしているだけなのでしょう。まさに一詩一判をもってすれば、その是非が定まり、たまたま賢人をのがし漏らしたとしても、これは当代の失政なのです。天下は広く、朝廷に人は多いとはいえ、必ず悪口と賞賛があい乱れ、聞く者も受ける者もわからなくなると、事は終わってしまうのです。もしその賢能を知り、それぞれ品第があり、官吏に一人欠員が出るごとに、次にこれを用いることをしなければ、どうしてできないというのでしょうか。もし諸司要官が、下等の者をみだりに昇進させれば、この議に高貴も卑賎もなく、ただ得るのとそうではないのがあるだけになります。そのため公正な議論はおこらず、名節はおさまらず、善士は節を守って時を失い、中人は追求して操つりやすくなるのです。朝廷はよく令名によって人を推挙し、士もまた名を修養して利を得ており、利が出ると、多くはそれに走るのです。そうでなければ小者はいやしくも求めることを得て、一変して私事におもんねることになり、大者は名分を守るのに従うことを許しながら、二変して朋党をなすのです。そのため人を用いるのには身分の高い低いで落第にすべきではなく、身分の高い低いに序列があるからといって、簡単に閑職に追いやるべきではなく、天下の士は必ず心の中で己の品徳を修養するよう刻んでいるから、政務や刑罰はおのずから清廉となり、これは興衰の大事な部分なのです。」 急に左補闕に昇任した。張九齢は人才を見抜く能力をもっていた。吏部が抜萃と被推挙者を試験する場合、いつも右拾遺の趙冬曦と席次を考査し、ゆきとどいて公平だと評判された。司勲員外郎に転任した。当時張説が宰相であったが、彼をいつくしみ大事にし、同じ張姓というので同族扱いをした。常に「わが家の若者は、文学者仲間の第一人者だ」といっていた。中書舎人内供奉に昇任し、曲江の男爵に封じられた。中書舎人に進んだ。そのころ、玄宗は泰山で封禅を行った。張説は門下省の録事と中書省の主書それに身近な部下を泰山に連れて行くために数多く抜擢した。特進して五品の位に登るものがいた。張九齢は詔勅を起草するときに、張説に向かっていった。「官位爵位というのは天下の公器で、徳義と人望を第一とし、功労と旧識を二の次とするものです。現在、泰山に登って封禅を行い天に成功を報告しようとしており、千年に一度の大典です。それなのに高潔な人々は格別の御恩から遠ざけられており、小役人の方が高官のしるしである章韍をつけるでたらめさです。詔が発布されると、四方の人々の期待を裏切ることが心配です。今、草稿をさし出すときなので、まだ変更が可能です。公はよろしく熟慮して下さい」。張説はいった。「事柄は決定ずみだ。いいかげんな議論は、気にかける必要はない」。その結果、果たして非難を受けた。御史中丞の宇文融は田法に専念していたところで、それに関連して上奏したことがあった。張説は事あるごとにそれに異議をとなえた。宇文融は彼に対しふんまんが積み重なった。張九齢はそのことについて注意したが、張説はききいれなかった。突然、宇文融に手ひどくとがめだてられ、危うく処刑されるところだった。張九齢も太常少に配置がえされ、冀州刺史として出されたが、母親が故郷を離れることを承知しないので、上表して洪州都督に変えてもらい、桂州都督に移り、嶺南按察選補使を兼任した。 以前、張説は集賢院の長だったときに、張九齢を帝の顧問となる資格があると推薦したことがあった。張説がなくなってから、天子はその言葉を思い出し、召し帰して秘書少監・集賢院学士知院事に任命した。ちょうどそのとき、渤海国王に詔勅が下されることになったが、その文書を作れるほどのものがいなかった。そこで張九齢を召してそれを作らせたが、詔を受けると直ぐに作りあげた。工部侍郎・知制誥に昇任した。度々郷里に帰って孝養をつくしたいと願い出たが、勅許されず、彼の弟の張九皋と張九章を嶺南刺史に任命し、節季ごとに馬を支給して家を見舞うことをゆるした。中書郎に昇任したが、母親の喪ため職を離れた。悲しみにたえずやつれはてた。紫芝が居間の側に生え、白鳩と白雀が庭の木に巣をかけた。その年、服喪期間をきりあげさせられ、中書侍郎同中書門下平章事(宰相)に任命された。固辞したが、許されなかった。翌年、中書令に昇進した。初めて河南に水を開くことを建議し河南稲田使を兼任させられた。年功序列の廃止とふたたび十道採訪使を設置することをした。 李林甫は学問がなかったので、張九齢が文章によって帝の知遇を受けているのを見て、心中を嫌った。たまたま范陽節度使の張守珪が可突干を斬る功績を立てたので、帝は彼を侍中にとりたてたいと思った。張九齢はいった。「宰相とは天に代わって万物を治めるものです。しかるべき人がいて、始めて任命するもので、功績のほうびとして与えるべきではありません。国家の失敗は、官吏のまちがった任命から起こります」。帝はいった。「宰相の名をかすのだが、どうかね」。答えて「名義と器物はかすべきではありません。東北の二蛮族(奚と契丹)を平定するようなことがありましたなら、陛下は侍中の上に何をつけ加えられますか」。かくて中止になった。また、涼州都督の牛仙客を尚書にとりたてようとした。張九齢はあくまでも反対した。「いけません。尚書は昔の納言です。唐朝では元大臣を起用する場合が多いのです。そうでないとしても、内外の高官を歴任しすぐれた徳義人望を有するものを、それにとりたてます。牛仙客は黄河・湟河流域の一地方官に過ぎません。大臣の一員となれば、天下はいったい何ととりざたしましょうか」。さらに実際の領地を賜与しようとした。張九齢はいった。「漢の法律では、功績があるのでなければ、領地を与えませんでした。唐が漢の法律を活用することは、太宗の定められた規則です。国境地帯の将軍が穀物絹帛を貯え、兵器具に手入れすることは、職務からいって当然のことに過ぎません。陛下がどうしても彼にほうびを授けるおつもりなら、金と帛を下賜されればよろしいことです。土地をさいて領土を与えることは、絶対によろしくありません」。帝は腹を立てていった。「牛仙客の出身が賎しいから、彼を毛嫌いするのではないか。卿は実際もとから名門だとでもいうのかね」。張九齢は頭を地につけて辞儀をしていった。「臣はさいはての地より参った孤独の身です。陛下にはうっかり文学者として臣の採用をゆるしになりました。牛仙客は小役人から抜擢されまして、書物を読んだこともございません。韓信は淮陰の一壮士でありましたが、周勃・灌嬰らと同列になったことを恥としました。陛下がどうあっても牛仙客を起用されるならば、臣は実際それを恥と考えます」。帝は不気嫌だった。翌日、李林甫が参内して申しあげた。「牛仙客は宰相の器です。それを尚書になることが無理だというのでしょうか。張九齢は文官で、古くさい道理にこだわって、本筋を見失っているのです」。帝はこの発言によって牛仙客起用を決定してためらわなかった。張九齢は帝の気持ちに逆らってからは、全く心中に危惧し、かくては李林甫に陥し入れられる結果となるのを心配した。帝が白羽扇を賜与された機会に、賦を献上して扇に託して心境を述べた。その末句に「いやしくも効用の所を得れば、身を殺すといえども何をか忌まん」とあり、また「たとい秋の気の移奪するも、ついに恩を篋の中に感ず」とあった。帝はねんごろなお言葉で答えられたが、けっきょくは尚書右丞相の資格のままで政権から退け、牛仙客を起用した。それ以後、朝廷の官僚たちは俸禄を大事にして天子の恩寵をそこなわないようにした。以前、張九齢は長安尉であった周子諒を推薦して監察御史としたことがある。周子諒は牛仙客を弾劾したが、その上奏文の中に讖緯の書を引用した部分があった。帝は怒り、政事堂において周子諒を杖で打たせたうえ、瀼州に流したが、彼は道中で死んだ。張九齢は不適当な者を推挙したかどで、荊州長史に降等された。まともな行為によって左遷されたにもかかわらず、怨みの念にとりつかれて悲しむこともなく、ただ文学歴史を楽しみとして過ごした。朝廷ではその名声を認めて、しばらくしてから始興県伯にとりたてた。彼は郷里に帰って墓守りをすることを願い出たが、病気でなくなった。六十八歳であった。荊州大都督を追贈された。諡は文献という。 張九齢はひよわな体質で、おくゆかしい人であった。慣例によると、高級官僚はみな笏を帯にはさんでから馬に乗ったが、張九齢だけはいつも人にそれを持たせていた。そのため笏袋を設けたが、それは張九齢から始まる。以後、帝が人を起用するとき、必ず「ものごし態度は張九齢みたいになれるかね」と訊ねるのが例であった。以前千秋節のとき、公・王がたはいずれも宝の鑑を献上したが、張九齢は「千秋金鑑録」と名づける事がらの鑑となるべき十章の書を献上して諷諭の意を述べた。厳挺之・袁仁敬・梁昇卿・盧怡と仲がよく、彼らが終始変わらぬ交友関係を保ったことを、世間では称賛した。宰相となると、ずけずけと発言して大臣の節義があった。その当時、帝は在位も長く、次第に政治をおろそかにしだした。従って張九齢の議論は必ず善悪を遠慮なく指摘し、推挙する人物はすべてまともな人々だった。武恵妃が皇太子李瑛を陥し入れようとたくらんだとき、張九齢はあくまでも反対した。武恵妃はひそかに宦奴の牛貴児を彼のもとにやっていわせた。「廃されるものがおれば必ず起用されるものがおります。公が加勢して下されば、宰相の位に長くおれましょう」。張九齢はどなりつけた。「奥向きのものが、どうして外に口をはさむのです」。急遽そのことを奏聞した。帝はそのため表情を変えた。おかげで張九齢が宰相である間は、皇太子に災厄は起こらなかった。安禄山が初めて范陽偏校下級士官として参内して上奏したとき、おごりたかぶった気色だった。張九齢は裴光庭に向かっていった。「幽州を乱す者は、このえびすのひよっこだ」。安禄山が奚・契丹を討伐して敗れた時、張守珪は逮捕して都に行った。張九齢はその間の事情を書き記して述べた。「司馬穰苴は出陣するとき、遅刻した荘賈を処刑しました。孫武は模擬戦のときですら、兵士として使った宮女を死刑にしました。張守珪が軍法とおり厳正に執行するならば、安禄山は死を免れるべきではありません」。帝はききいれず、安禄山をゆるした。張九齢はいった。「安禄山は狼の子で荒々しい心のままで、反逆の相があります。事件を利用して彼を処刑して、将来の禍根を絶つべきだと存じます」。帝はいった。「卿は王衍が石勒の下ごころを知っていたためしにならおうとして、忠良の人を害してはならんぞ」。けっきょく採用されなかった。帝はのちに蜀にいるとき、彼の忠義を思いかえし、彼のため涙を流した。その上、使者を韶州に派遣してお祭りをし、手厚い贈り物を送って彼の家族を慰問した。開元(713-749)以後、天下の人は曲江公と称号でよび、名まえをいわなかったという。建中元年(780)、徳宗は彼の風格を評価して、更に司徒を追贈した。 子の張拯は、父の喪にあって節行があり、後に伊闕令となった。安禄山が河州・洛州を陥落させたが、終に偽官を受けなかった。賊が平定されると太子賛善大夫に抜擢された。張九齢の弟張九皋もまた名を知られ、嶺南節度使でおわった。その曾孫に張仲方がいる。 張仲方は、生まれたときから優れており、父の友の高郢は面会して、普通の人ではないと思い、「この子は必ず国の器となるだろう。私が高官になれたら、必ず引き立てよう」と言った。貞元年間(785-805)、進士・博学宏辞科に推薦され、集賢校理となったが、母の喪に遭って辞職した。当時、高郢が御史大夫を拝命し、上表して御史となった。累進して倉部員外郎となった。 当時、呂温らが宰相の李吉甫を弾劾したが証拠はなく、罪とされて排斥され、張仲方は呂温の与党であったから、金州刺史に補任された。宦官が民間の田を奪い、張仲方は三度上疏して明らかにし、ついに民間有利の裁決となった。京師に入って度支郎中となった。李吉甫が卒すると、太常は諡を恭懿とし、博士の尉遅汾清は諡を敬憲とし、張仲方は以前の恨みをかかえてまだやむことがなかったから、そこで議を奉って「古の諡は、大節を考え、細かい行いを略し、善悪が一言で足るようになっています。李吉甫を考えてみますに、多芸多才でしたが、君側に媚び、別人に取り入って自分の安全をはかり、重ねて高官となり、信は少なく謀は安直で、事は成功しませんでした。また兵は凶器であり、こちら側から開戦すべきではありません。罪を討伐するには、迎撃して必ず功績をなすのです。内に輔臣を害する賊がおり、外に害毒を懐く災いがあるのです。兵士は野に暴れ、敵の馬は郊外で生息しています。皇帝は職務多忙のため夜食と夜着で過ごすことになり、公卿・大夫もまた恥じ入り、農民は田畝におらず、糸紡ぎ婦には桑が得られないのです」と述べた。また又言、「李吉甫は平易かつ柔和で、名は配行でありません。願うところは、蔡が平定されるのを待って、その後に議論することです」と申し上げたが、憲宗は兵を用いようとしており、発言に悪意があるのを憎んで、貶して遂州司馬とした。しばらくして河南少尹、鄭州刺史に昇進した。 敬宗が即位すると、李程が宰相となり、引き立てられて諌議大夫となった。帝は当時、王播に詔して競舟三十艘を造船させたが、半年分の運費を用いた。張仲方は延英殿で謁見し、厳しく論じたてたから、帝はそのため三分の二に減らした。また詔して華清宮に行幸することとなったが、張仲方は「万乗の君が行かれる際には、必ず儀仗の兵を備えなければなりません。簡易にすれば威重を失います」と述べた。意見に従わなかったが、慰労された。鄠県の令の崔発は宦官を辱めて獄に繋がれ、大赦となっても許されなかった。張仲方は「恩は天下にこうむると、昆虫にも流れるものですが、御前の場合は行われないのでしょうか」と言ったから、崔発はこのため死なずにすんだ。大和年間(827-835)初頭、京師から出されて福建観察使となった。召還されて、左散騎常侍に昇進した。李徳裕が宰相になると、太子賓客の地位で東都分司となった。李徳裕が罷免されると、再び常侍を拝命した。 李訓の変で、大臣はある者は誅殺され、ある者は拘禁された。翌日、群臣が宣政殿で謁見しようとしたが、宮殿は開かなかった。群臣はバラバラに朝堂に立ち、衛兵の門が開いていなかったため、しばらくすると半扉が開いたが、使者が張召仲に伝えて「詔があった。京兆尹となるべし」と言い、その後門が開き、天子がお出でになる合図があった。その説き、宰相や将軍が皆殺しとなり、頭や脚があちこちに転がっており、張仲方は密かにその死体が誰であるのか識別するために使者を派遣した。にわかに埋葬が許可されると、そのため遺体に混乱が生じなかった。すでに禁軍は横行し、多くが政治に干渉し、張仲方はこれを嫌ったが、弾劾することができなかった。宰相の鄭覃は京兆尹を薛元賞と交替させ、京師から出されて華州刺史となった。召還されて京師に入り、秘書監を授けられた。人々は鄭覃が李徳裕を助けて、張仲方を追い出して用いなかったと言った。鄭覃はそこで丞・郎に任命しようと上奏した。文宗は、「侍郎は、朝廷の花形である。彼の刺史はとくに功績もないから、任命すべきではない」と言ったが、ただ曲江県伯に封じた。卒し、七十二歳であった。礼部尚書を追贈され、諡を成という。張仲方は実直で風骨節操があったが、すでに李吉甫の諡を論駁しており、世間はその発言を修正しなかったから、ついに名声が現れなかったのだと言い、没すると、人々の多くは悲しんだ。 それより以前、高祖が隋に仕えていた時、太宗は幼くして病となったから、そのため玉像を熒陽の寺院に刻んで、毎年祈祷していたが、しばらくして削れてわからなくなってしまい、張仲方が鄭州にいたとき、吏に命じて守らせ、石を刻んで上奏し、当時広く伝わった。 韓休は、京兆長安県の人である。父の韓大智は、洛州司功参軍で、その兄の韓大敏は、武后に仕えて鳳閣舎人となった。梁州都督の李行褒は居民に謀反を告発され、詔して韓大敏に審理させた。ある人が「李行褒は李氏の一族で、武后は除きたいとの思いがあるのだろう。その冤罪をつくることなければ、恐らくはあなたに累が及ぶであろう」と言ったが、韓大敏は、「どうしてこの身を顧みて人の罪に捻じ曲げて殺すことがあろうか」と言い、そのため証拠事実のまま判決を出した。武后は怒り、御史を派遣して再審し、ついに李行褒を殺して、韓大敏は家で死を賜った。 韓休は文章を巧みにし、賢良方正科に推挙された。玄宗がまだ東宮であった時、国政の対策を箇条書きにさせ、校書郎の趙冬曦とともに成績は乙科にあたり、左補闕、判主爵員外郎に抜擢された。昇進して礼部侍郎、知制誥となった。京師から出されて虢州刺史となった。虢州は洛陽・長安の近州であり、乗輿が来る場所で、常に厩の秣が税となったから、韓休は賦を他の郡と同じくするよう願った。中書令の張説は「虢州が免除されて他州に与えられるのなら、これは刺史となった臣が私に恩恵を与えるだけになる」と言ったが、韓休は再び議論をとりあげたから、吏は宰相の意にさからうことを恐れると言った。韓休は、「刺史は幸運にも民の弊害を知ったのに救わなかったなら、どうして政務ができようか。罪を得たとしても、甘んじて罰を受けよう」と言ったが、ついに韓休の要請の通りとなった。母の喪があけ、服喪がとけると、工部侍郎、知制誥となった。尚書右丞に遷った。侍中の裴光庭が卒すると、帝は蕭嵩に勅して代わりとなる者を推薦させ、蕭嵩は韓休の志や行いを称え、遂に黄門侍郎、同中書門下平章事(宰相)を拝命した。 韓休は公正で行動につとめず、宰相となると、天下は一致してよしとした。万年県の尉の李美玉に罪があり、帝は嶺南に放逐しようとした。韓休は「尉は微官で、犯した罪は大悪ではありません。今、朝廷に大奸がいて、先にこちらを治めてください。金吾大将軍の程伯献は天子の恩寵をたのんで貪欲で、自宅に輿や馬があって法度をおかしていますので、臣は先に程伯献を、後で李美玉を裁くことを願うのです」と言ったが帝は許さず、韓休は強く争って「罪が小さいのに容赦しないのに、巨悪であったなら差し置いて問わない、陛下が程伯献を追放しないのでしたら、臣もあえて詔を奉りません」と言い、帝は韓休の考えを換えさせることができなかった。大体お堅く正直な様子はこのようであった。それより以前、蕭嵩は韓休が物腰柔らかく平易な人物であったから、推薦した。韓休は事に臨んではある時は蕭嵩を糾弾したから、蕭嵩とは不和となった。宋璟はこれを聞いて「意とせず韓休がこのようであったなら、仁者の勇だな」と言い、蕭嵩は寛容で多くを受け入れたが、韓休は厳正剛直で、時政の得失は、これを言うのに徹底しなかったことはなかった。帝はかつて苑中で狩猟し、ある時は大いに楽を演奏し、しばらく贅沢をしていると、必ず左右に向かって、「このことを韓休は知っているか」と尋ね、すでに韓休の上疏がたちまち到着していた。帝はかつて鏡の前で、黙って楽しまなかった。左右の物が「韓休が朝廷に来てから、陛下は一日も喜びがなく、どうして御自ら憂い悲しまれて、韓休を追放しないのですか」と尋ねると、帝は「私は痩せていっても、天下は肥えていく。また蕭嵩は何か言うごとに、必ず私の意見に従うが、我は退いて天下のことを思うと、不安で寝られない。韓休が政治の道を述べると、多くを議論し、私は退いて天下のことを思うと、安心して眠れるのだ。私が韓休を用いるのは、社稷の計のためなのだ」と言った。後に工部尚書で罷免された。太子少師に遷り、宜陽県子に封ぜられた。卒し、年六十八歳であった。揚州大都督を追贈され、諡を文忠という。宝応元年(762)、太子太師を追贈された。 子の韓浩・韓洽・韓洪・韓汯・韓滉・韓渾・韓洄は、全員学問があって尊ばれた。 韓浩は、万年県主簿となったが、王鉷の家が財貨を隠したのに連座したから、京兆尹の鮮于仲通に弾劾され、循州に流された。韓洪は司庫員外郎となったが、韓汯も一緒に全員連座して貶された。韓洪は後に華州長史となった。韓渾は、大理司直となった。安禄山の反乱軍が京師に侵攻すると、皆賊に捕らえられ、賊は官につくよう迫ったが、韓浩は韓洪・韓汯・韓滉・韓渾とともに出奔し、行在まで逃走しようとしたが、韓浩・韓洪・韓渾および韓洪の四子は再び賊に捕らえられて殺された。韓洪は人と交わるのをよくし、節義があり、当時最も評判が高く、見る者は涙を流した。粛宗は大臣の子で難事に死んだ者をよしとし、詔して韓浩に吏部郎中を、韓洪に太常卿、韓渾に太常少卿を追贈した。韓汯は上元年間に諌議大夫で終わった。韓洽は、殿中侍御史で終わった。 韓滉は、字は太沖で、蔭位によって左威衛騎曹参軍に補任された。至徳年間(756-758)初頭、山南に避難し、采訪使の李承昭が上表して通川郡長史とし、彭王府諮議参軍に改められた。それより以前、韓汯が知制誥となり、王璵への詔の草稿をつくるにあたって、古典よりの借言がなかったため、恨まれた。王璵が宰相となると、韓滉の兄弟は全員冗官に退けられた。王璵が罷免されると、そこで殿中侍御史に抜擢され、三遷して吏部員外郎となった。性格は強直で、吏の事務に精通し、南曹にいること五年、帳簿に最も詳しい人物となった。給事中に遷り、兵部の選抜試験の責任者となった。当時、富平県令の韋当が盗賊に殺され、賊は北軍に所属しており、魚朝恩はその凶徒に通じ、奏上して死罪を許したが、韓滉は執拗に追いかけ、ついに罪に伏した。右丞に遷った。吏部の選抜の責任者となり、戸部侍郎判度支となった。 至徳年間(756-758)より戦争が勃発してから、賦税に制限がなくなり、財務の官吏は輸送にあたって財物を横領した。韓滉は下級官吏および全国の運送を調査し、罪を犯した者は法にてらして追放とした。この数年しばしば豊作となり、軍事はやや収まり、そのため穀物や帛が山谷のように積み上がり、しばらくの間充実した。しかし公文書を再審理し、法律を厳格に適用して捜索して取り立てたから、人々はまた恨みの声をあげた。大暦十二年(777)秋、大雨により収穫への影響は十のうち八にいたり、京兆尹の黎幹が言上したが、韓滉は租税が免除されてしまうのではないかと恐れ、頑なに事実ではないと上表した。代宗は御史に命じて視察させてみると、実際には損田は三万頃あまりにのぼった。それより以前、渭南県令の劉藻が韓滉にしたがい、領内の田に損害がないと報告し、御史の趙計も査察したが、劉藻の報告の通りにし、帝がまた御史の朱敖に事実を調査させると、田の損害は三千頃であった。帝は怒って、「県令は民を養うのが職務であって、田の損害を不問としたら、どうして百姓の辛苦を心配できようか」と言い、劉藻を南浦員外尉とし、趙計もまた豊州司戸員外参軍に左遷された。まさにこの時、長雨で黄河が結界して塩池に注ぎ込んだが、韓滉は池が瑞塩を産んだと上奏した。帝は疑い、諌議大夫の蒋鎮を派遣して事由を調査させたが、蒋鎮は韓滉を恐れ、戻ってそこで帝に祝賀して、また祠を設置することを願い、詔して宝応霊慶池と名付けた。 徳宗が即位すると、韓滉が民の財物を搾り取るのを嫌って、太常卿に遷した。議論する者は満足しなかったから、そこで京師から出して晋州刺史とした。しばらくもしないうちに、浙江東西監察使に遷り、ついで検校礼部尚書として鎮海軍節度使となった。百姓を慰撫し、租・調を公平に実施すると、一年もしないうちに、領内での統治が称えられた。帝が奉天にあって、淮・汴が騒動となると、韓滉は兵卒を訓練し、兵を分けて河南を守った。帝が梁州に行くと、また縑十万匹を献上し、鎮兵三万を以て賊の討伐の助けとするよう願い出ると、お褒めの詔があり、検校尚書右僕射に昇進し、南陽郡公に封ぜられた。李希烈が汴州を陥落させると、韓滉は部将の王栖曜・李長栄・柏良器に精兵一万人を率いさせて討伐に進撃させ、睢陽に至ると、賊はすでに寧陵を攻撃しており、王栖曜らは打ち破って賊を敗走させ、運送路は塞がることなく、東南の安全を全うできたのは、韓滉の功績が大きかった。 当時、里長が有罪となると、たちまち殺されてしまい、許されることはなかった。人々はこれを怪訝に思った。韓滉は「袁晁はもともと一鞭を持った小役人にすぎなかったが、賊を捕らえては衆望をあつめ、その類を集めて叛乱をおこし、これらの輩はすべて郷県の凶徒であって、殺すにこしたことはない。年少の者を用いれば、身を惜しんで家を保つから悪事をしない」と言った。また賊は牛酒がなければ集まって盗となることができないから、牛を屠ることを禁止し、その謀を絶やした。婺州の属県で法令を犯す者がいて、誅殺は隣伍(隣組)二及び、連座で死んだのは数十数百人に及んだ。また役人を派遣して境内を分けて査察させ、罪は嫌疑がかかれば必ず誅殺し、一度の裁判でたちまち数十人にもなったから、下々の者は皆恐怖した。 京師がまだ平定されていないことを聞いて、関所と橋梁を閉鎖し、牛馬が境から出ることを禁止し、石頭の五城を築城することは京口から玉山までであった。上元県の道観・仏寺四十箇所を破壊し、壊れた城壁を修築し、建業から京峴まで城墻から望見できるようにした。朝廷に晋の永嘉南遷のような事がおこると思い、館邸数十を石頭城に設置し、井戸を掘削することすべて百尺に及んだ。部将の丘涔に命じて徭役を監督させ、毎日数千人、丘涔はその衆を虐待し、朝で命令して夕には完成し、先代の墳墓はすべて暴かれた。楼艦を建造すること三千柁、舟師(水軍)を海門で大閲兵し、申浦から帰還した。李長栄らを追って帰還し、側近の盧復を宣州刺史とし、堡塁を増設し、演習して兵器に熟達し、鐘を壊して軍器を鋳造した。陳少游は揚州にあって、兵士三千で江に臨んで大規模な閲兵を行い、韓滉もまた兵士を総指揮して金山に臨み、陳少游と会同し、金や絹を互いに贈りあった。しかし韓滉は精兵を掌握していたが、出発を延長して国難に赴かず、兵糧を徴発し朝廷を救う者と結びつきを強め、当時の人はこれを頼った。李晟は渭北に駐屯しており、韓滉は米を運送して贈り、船に十弩を設置して警備したから、賊は脅かすことができなかった。それより以前、船を操船して江に臨み、韓滉は属官に向かって、「天子が宮中を出て流浪することになったのは、臣下の恥である」と言い、そこで自ら一袋を背負い、将校も争って背負った。 貞元元年(785)、検校左僕射を、同中書門下平章事(宰相)、江淮転運使を加えられ、鄭国公に封ぜられた。石頭城を修造し、人々はかなり謀略をめぐらせていると言っており、帝であってもまたその言に惑わされた。当時、李泌が難儀しながらも弁解の訴えをしたから、帝の誤解は解けた。貞元二年(786)、晋国公に改封された。この年入朝した。韓滉は既に熟達の宿老であって、非常に志が大きくて人に高ぶり、新入りに接して用いても、その意を満足させることができず、衆はこれを恨んだ。羨銭五百万緡あまりを献上し、詔して度支諸道転運、塩鉄等使を加えられた。 右丞の元琇が判度支となると、関内の旱を調査し、江南の租米を運んで西は京師に供給するよう願った。帝は韓滉に委ねて監督を一任したが、元琇は韓滉の剛直が一緒に仕事するのが難しいことを恐れ、長江より揚子江まで、韓滉が担当し、揚子江から北は、元琇自身が担当することを願った。韓滉はこれによって元琇を愚かな人間であるとした。たまたま元琇が京師では銭重貨軽(銭納の税納者よりも物納の税納者の方が負担が大きいこと)であって、江東塩監院を出発した銭四十万緡が関中に入った。韓滉は欺いて「銭を運送して京師まで持ってくれば、費用は一万あたり千にも及ぶので、従ってはなりません」と奏上したから、帝は元琇に叱責した。元琇は「千銭はその重量は米一斗と同じで、費用は三百ほどでしょう」と言ったから、帝は韓滉を諭したが、韓滉はあくまでも反対した。ここにいたって、元劾は米を淄青の李納、河中の李懐光に贈ったと誣告された。帝は怒り、再審を行わず、元琇を降格して雷州司戸参軍とした。左丞の董晋が宰相の劉滋と斉映に向かって、「昨年、関中では軍事を援助しました。当時、蝗害や旱魃となりましたが、元琇は一賦も増税せず、戦時体制をすべて支援しました。これを労臣というべきでしょう。今罪名なく流刑とされ、刑罰はしきりで人心を恐れさせています。たとえ権臣の思い通りのままになっても、公はどうして三司の審問を要請しないのですか」と言ったが、劉滋と斉映は採用することができなかった。給事中の袁高が皇帝に直言して申し上げたが、韓滉は党派による訴えであると誣告したから、次第に用いられなくなった。 劉玄佐が入朝せず、帝は密に韓滉に詔して入朝を勧めさせた。汴州を通過すると、劉玄佐は最初から韓滉を憚り、属吏に礼で出向かえさせた。韓滉はそれには当たらないと辞退し、そこで兄弟の契を結び、劉玄佐の母親に拝礼し、酒席を設けて女楽を演奏させた。がすすむと、韓滉は、「速やかに天子に謁見すべきだ。夫人の白首と新婦や子孫を宮掖の奴とさせてはならない」と言うと、劉玄佐は泣いて悟った。韓滉は銭二十万緡を劉玄佐のための旅の準備金としてやり、また綾(あやぎぬ)二十万で軍を労った。劉玄佐が入朝すると、韓滉は辺境の軍事に任用すべきであると推薦した。当時、両河地域では兵乱がやみ、韓滉は上言して、「吐藩は河湟を長らく根拠としていましたが、近年次第に弱くなり、しかし西には大食が、北は回鶻を防ぎ、東は南詔に抗い、軍を分けて外戦し、兵は河隴にあっては五・六万を数えるに過ぎず、もし朝廷が将に命じて、十万の軍で城州・涼州・鄯州・洮州・渭州にそれぞれ兵二万を置いて防御すれば、臣が願うところは、本道の財物で軍に送り、三年の費えを給付し、その後田を営んで収穫された粟を積み上げ、耕しては戦うことです。そうすればつま先立てて待ち望んだ河隴の地の回復ができるのです」と述べ、帝はその上申をよしとし、そこで劉玄佐を訪れ、劉玄佐の行くことを願った。たまたま韓滉が重病となり、張延賞は州県の冗官を減員して、俸禄を収公し、戦士を募って西へ討伐するよう奏上した。劉玄佐は張延賞が、備蓄が減るのを物惜しみしており、また犬戎がまだ弱体化しておらず、軽々しく進撃すべきではないからと辞退し、そのため病と称した。帝は宦官を派遣して慰問し、劉玄佐は臥して命を受けた。張延賞はこのことを知って劉玄佐を用いるべきではないとしたから、沙汰止みとなった。韓滉はついで卒し、年六十五歳であった。太傅を追贈され、忠粛と諡された。 韓滉は宰相の子であったが、性格は節倹で、衣服や毛布は十年に一度変える程度であった。非常に暑くても扇をとらず、住むところは粗末で、庇で風雨を防ぐ程度であった。門には戟を並べ、父の時の邸門であったから毀すのに忍びず、そのため修復を願わなかった。堂の先とは庇で接続されておらず、の弟の韓洄がようやく増設すると、韓滉は見て即座に撤去させ、「先君が受け入れられたものは、我らが奉らなければならず、常に失墜するのではと恐れている。もし倒壊したら、修理すればすむのであるから、どうしてあえて改作して倹徳を傷つけるのか」と言った。朝廷の重職にあって、潔癖で悪を憎み、家族のために資産をなさなかった。仕官の始めから将相に至るまで、五匹の馬に乗るだけで、飼い葉桶のもとに繋ぐだけであった。鼓や琴を好み、書は張旭の筆法を得て、画は宗族の人の韓幹と双璧をなした。かつて自ら「定筆することができなければ、書画を論じるべきではない」と言い、急務ではないから、自らひた隠しにし、人に伝えなかった。よく『易』・『春秋』を修学し、『通例』および『天文事序議』各一篇を著した。はじめて判度支となると、李晟は裨將に軍事のことを上申させると、韓滉はこれに答申した。李晟は礼を加え、その子に拝礼させ、器物や鞍・馬を贈った。後に李晟は終に大功を立てた。韓滉は幼い頃からすでに名声があり、交友するところはすべて天下の豪俊であった。晚年はますます苛烈かつ残酷となり、そのため論ずる者は自身の本意が行いによって悪く言われているのは、目的のための手段ではなかったかと疑っていた。すでに志を得て、そこで独断専行するようになったのは、思うに自然とその性格の現れであったのだろう。子に韓群・韓皋がいる。 韓群は国子司業で終わった。韓皋の字は仲聞で、人格は重厚で、大臣の器があった。雲陽県の尉から賢良方正異等科に及第して、右拾遺を拝命した。累進して考功員外郎に遷った。父を喪うと、徳宗は使者を派遣して弔問し、父韓滉の行状の事を論述させ、号泣して命を承諾し、数千言の草稿を書いて進上し、帝はお褒めの言葉を賜った。喪があけると、宰相は考功郎中に任命しようとしたが、帝はさらに加えて知制誥とした。中書舎人、御史中丞、兵部侍郎に遷り、仕事ぶりを称えられた。にわかに京兆尹を拝命した。奏上して鄭鋒を倉曹参軍に任命した。鄭鋒は苛斂誅求な役人で、そこで韓皋に、徹底的に府中の雑銭を探し求め、これで強制的に粟麦三十万石を買い上げて帝に献上することを説き、韓皋は喜び、奏上して興平県令とした。貞元十四年(798)、大旱魃となり、民は租賦税の免除を願い出たが、韓皋は京兆府の金庫がすでに空っぽであったから、心の中で心配かつ恐れ、奏上してあえて事実を言わなかった。たまたま宦官が出くわした際に、百姓が道を遮って訴えたから、事案が上聞され、撫州員外司馬に貶された。しばらくもしないうちに、杭州刺史に改められ、京師に入って尚書右丞を拝命した。王叔文が政権を掌握すると、韓皋はこれを嫌い、ある人に向かって、「私は新入りで偉くなった奴なんかに仕えることはできない」と言い、それを従兄弟の韓曄が王叔文に告げたから、王叔文は怒り、京師から出されて鄂嶽蘄沔観察使となった。王叔文が失脚すると、節度使を拝命し、鎮海節度使に遷り、京師に入って戸部尚書となり、東都留守、忠武軍節度使を歴任した。大抵、簡素かつ倹約で仕事をし、至るところで実績があった。召還されて吏部尚書を拝命し、太子少傅を兼任した。荘憲太后が崩ずると、大明宮留守となった。穆宗はもと太子少傅であった恩から、検校尚書右僕射を加えられた。また左僕射に昇進した。長慶四年(824)、再び東都留守となったが、赴任の道中に卒した。年七十九歳で、太子太保を追贈され、諡を貞という。 韓皋の容貌は父に似ていたが、父を失うと、見て鑑とするものはなかった。生来音律を知り、常に、「長年、後々まで音楽を聴きたいとは願わなかった。なぜなら門内の事は多く逆にこれを知ったからだ」と言っていた。鼓・琴を聞いて、「止息」まで至ると、嘆いて、「なんと素晴らしいのだろうか。嵆康がこの曲をつくったのは、当時晋の時代になろうとしていて、魏の終焉期であったのだ。その音域は商を主調としていて、商は音が秋と一緒であり、秋は天がまさに寒々として草木が枯れ落ちていくところで、その年が終わろうとするのだ。晋は金運に乗じ、商もまた金声であり、これは魏が末期で晋がまさに代わろうとしているからなのである。その商弦を緩めると、宮音と同音になり、臣が君権を奪うという意味になり、司馬氏が簒奪しようとしているのを知るのだ。王陵・毌丘倹・文欽・諸葛誕が相次いで揚州都督となり、全員が魏を復興させようとの謀があったが、全員司馬懿父子に殺された。嵆康は揚州がもと広陵の地であり、王陵らは全員魏の大臣で、だからその曲を名付けて「広陵散」とし、魏が滅亡するのは広陵から始まるのだと言うのだ。「止息」は、晋が突然勃興しても、終にはここに止息するのを言うのだ。その哀憤、焦りと苦しみ、哀悼、逼迫の音は、ここに尽きるのだ。永嘉の乱はその兆しなのか。嵆康が晋・魏の禍いを避け、自身の身を鬼神に託したのは、後世が音を知るのを待ったからだろうか」と述べた。 韓洄は、字は幼深で、蔭位によって弘文生となり、任期が満了で、吏部侍郎に任じられ、達奚珣が家柄と声望があるから抑圧した。章懐太子陵令に任じられたが、怒りの顔色を見せなかった。安禄山が叛乱をおこすと、韓家の七人は殺害され、韓洄は難を江南に逃れ、菜食して音楽を聴かなかった。乾元年間(758-760)、睦州別駕に任命され、劉晏は上表して屯田員外郎とし、知揚子留後となった。召還されて諌議大夫を拝命し、補闕の李翰とともにしばしば奏上して得失を申し上げ、知制誥に抜擢された。元載と親しかったのに連座し、邵州司戸参軍に貶された。徳宗が即位すると、起用されて淮南黜陟使となり、再度諌議大夫となった。 劉晏が罪に伏し、天下の銭穀といった財政のことは尚書省に帰属することになったが、省司は廃止されてから久しく、綱紀はなく、その任を統括する者がいなかった。そこで韓洄を抜擢して戸部侍郎、判度支とした。韓洄は上言して、「江淮七監は、毎年銭四万五千緡を鋳造して京師に運んでおり、巧みに運送しても、運送費用は緡ごとに二千にもなり、これは元本に対して利子が二倍になるのです。今、商州の紅崖冶で銅を算出していますが、洛源監が長らく廃止されています。願うところは山を掘って銅を採取し、そこで洛源監を復活させ、十炉を設置して鋳造を行えば、毎年銭七万二千緡が得られ、費用は緡ごとに九百で、そうすれば元本を浮かすことができるでしょう。江淮七監は、願わくばすべて廃止されますように」と述べた。また上言して、「天下銅鉄の鋳造、山沢の利は、まさに王者に帰属すべきものであり、願わくばことごとく塩鉄使の所属とされますように」と述べ、これに従った。また胥史の余剰人員二千人を罷免し、米を長安県・万年県の二県にそれぞれ数十万石を積み、毎年の豊作・不作を見て出納させたから、そのため人々は食に苦しむことはなかった。 韓洄は楊炎と親しく、楊炎が罪を得ると、不安となったがどうすることもできず、韓皋が上疏して楊炎の罪をおさめたが、帝は韓洄にこれを教えたのだと思い、蜀州刺史に貶した。興元元年(784)、京師に入って兵部侍郎となり、京兆尹に転任した。貞元十年(794)、国子祭酒で終わり、戸部尚書を追贈された。 賛にいわく、人が事を立てるや、最初は巧みに行って、始めは鋭く、その半ばに至ると次第に怠り、ついには放縦となって振るわなくなるのだ。玄宗の開元年間(713-741)の治世を見ると、精力的に励んで治世を求め、元老は前時代の大物たちで、ややもすれば皇帝も憚るところであり、そのため姚元崇・宋璟の時は人の言うことに耳を傾け、全力で諌めても難なく功績がなったのである。太平の世が長引くと、左右の大臣は皆帝自ら選んだのを知っていたから、慣れて与しやすしとした。玄宗の野心と意欲が満たされて、自己満足で独りよがりとなったのである。しかし張九齢は論争しては切羽詰まったもので、申し上げてもますます聴かれなかったのである。野心と意欲が満たされると、たちまち謀略が行われるところとなり、自己満足で独りよがりとなると、柔和で円熟であるのを楽しみ、厳しい諌めを憎んだから、全力で諌めたことが多いといっても、聞き入れられることは姚崇・宋璟の時から遠く及ばないのである。ついに胡の小人どもに中華を乱され、身をもって辺境に逃れたのは、天運であるというのは違っており、また人事が要因であるというのが正解なのである。もし魏知古らが皆宰相に選ばれたのが、天宝年間(742-756)の時に当たっていたのなら、どうしてよく救うことができただろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百二十五 列伝第五十 『新唐書』巻一百二十六 列伝第五十一 巻一百二十七 列伝第五十二
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唐書巻二百二十一上 列伝第一百四十六上 西域上 泥婆羅 党項 東女 高昌 吐谷渾 焉耆 亀茲 跋禄迦 疏勒 于闐 天竺 摩掲陀 罽賓 泥婆羅(ネパール)は、吐蕃の西にある楽陵川からすぐのところにある。国土は赤銅とヤクを多く産出した。国人の風俗は翦髪で、前髪が眉にまで達している。耳には穴を穿っていた。アーチ状になった竹筒で楕円形の枠をつくり、ゆるやかに肩に至るのがよいとされた。さじと箸がないので、国人は手づかみで食べた。その国の器はみな銅製である。その家屋の板囲いに模様を描いた。牛を使用した耕作方法を知らないため、田畑が少ない。それゆえ、国人は生業として商業に習熟している。一枚の布で体を覆い、一日に数回、沐浴する。博戯を重んじ、天文学と暦術に通じていた。天神を祀るのに石を刻んで像をつくり、この像に毎日、水を浴びせ、煮た羊肉をそなえて天神を祀る。銅を鋳造して貨幣をつくる。貨幣のおもてに人のかたちを描き、裏側に牛や馬のかたちを描いた。この国の君主は、真珠、瑠璃、車渠(貝殻)、珊瑚、琥珀を身につけ、纓絡(ネックレス)をたらし、耳には金鉤・玉の耳飾りをつけ、宝剣を腰に帯びて、獅子の足の格好をした四脚寝台に座り、香を焚いて花を堂にしいた。大臣は地べたに座って敷物をしかない。左右に武器を持った兵士数百が待っている。宮中には七重の楼閣があり、その屋根は銅製の瓦で覆われていた。柱と梁はみな様々な宝石で飾られており、宮殿の四隅には銅製の水槽が置かれていた。その下には黄金の龍がおり、龍の口からは激しく水が流れ出て槽の中に注ぎ込んでいた。 初め王の那陵提婆(ナーレンドラ・デーヴァ)の父親が、叔父によって殺されたため、提婆は吐蕃に亡命した。吐蕃が提婆を受け入れたので、提婆は吐蕃に臣従した。貞観中、太宗は李義表を天竺に派遣した。李義表が泥婆羅を通過したので、提婆はたいそう喜び、使者を案内して阿耆婆池(アジーヴァ)を一緒に見学した。池の広さは数十丈、その水はいつも沸騰していた。その水は、日照りの時も大雨の時も、涸れることも溢れることもなかったと伝えられている。池の中に物を投げ込むと、たちまち煙が生じ、その上に釜をかけると、すぐに煮あがってくる。 貞観二十一年(647)、泥婆羅の使者が入朝し、波稜(ホウレン草)、酢菜、渾提葱を献上した。永徽の時(650-656)、王の尸利那連陀羅がまた使いを派遣して入貢した。 党項(タングート)は漢代の西羌の別種で、魏晋の後、次第に甚だしく衰微した。北周が宕昌、鄧至を滅ぼしたので、党項は初めて強くなりはじめた。その地は昔の析支であり、東は松州、西は葉護(西突厥)、南は春桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に隣接していた。険しい山谷に居住し、その長さは三千里にわたる。姓のちがいによって部落をなし、その一つの姓がまたさらに分かれて小部落をなし、大きいものでは万騎、小さいものでは数千の兵力を持っており、互いに相手を服属させることができないでいる。そのため、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、房当氏、米禽氏、拓拔氏があり、拓拔氏が最強で、定住し、家屋があり、ヤクの尾、羊毛を織って家を覆い、一年に一度、その毛織物を交換した。党項は武を尊び、法令も賦役もない。人々の寿命は長く、多くのものが百歳を越えた。盗みを好み、互いに略奪しあった。彼らは、復讐することを最も重んじた。復讐をいまだに果たせていないものは、蓬のように髪をふり乱し垢まみれの顔で、裸足のまま過ごし、草を食べる。復讐を遂げた後に、ようやく普通の生活に戻る。男女は、皮衣と粗い繊維の衣服を着用し、毛織物をまとった。ヤク、ウシ、ウマ、ロバ、ヒツジを牧畜して食べ、耕作はしなかった。その地は寒く、五月に草が生え八月に霜がおりた。文字はなく、草木の様子をうかがって歳時を識別した。三年に一度、互いに集まり、牛と羊を殺して天を祀った。他国から麦を得て酒を醸造した。父親の妾、伯母・叔母、兄嫁、息子や弟の妻を妻としたが、ただ同姓の女性は娶らなかった。年老いて亡くなった場合、子孫達は泣かなかった。しかし、幼くして亡くなると、天柱と称して、家族は悲しんだ。 貞観三年(629)、南会州都督の鄭元疇は使者を派遣して降服するように説得したので、党項の酋長・細封歩頼が部落を挙げて降服した。太宗が璽を押した詔を下して彼らを慰撫したので、細封歩頼はこれより入朝し、太宗から与えられる宴や賜わりものは、他とは違って別格であった。太宗は細封歩頼の領地を軌州となし、細封歩頼に刺史を授与した。細封歩頼は、兵を率いて吐谷渾を討伐したいと請願した。その後、酋長達がことごとく内属したので、その地を州、奉州、厳州、遠州の四つの州となし、首領たちを刺史に任じた。拓赤辞というものがおり、初めは吐谷渾に臣従していた。谷津の慕容伏允が、赤辞を厚遇して通婚したので、諸々の羌族はすでに唐に帰順していたにもかかわらず、赤辞だけがひとり唐に帰順してこなかった。李靖が吐谷渾を討伐した時、赤辞は狼道峡に駐屯して唐軍に抵抗した。廓州刺史の久且洛生が、赤辞を説得して降伏させようとしたが、赤辞は「吐谷渾王は私のことを腹心として遇してくれている。他のものなど知らぬ。もし速やかにこの場から立ち去らないのなら、おまえを斬り殺して私の刀を穢すことになるぞ。」と言い返してきたので、久且洛生は怒り、軽騎兵を率いて粛遠山で赤辞を撃破し、数百級を斬首して雑畜六千を捕獲した。太宗は、この勝利によって、降服すれば生命の保障をしたので、赤辞の従子・思頭は、ひそかに唐に帰順し、その部下の拓拔細豆もまた降伏した。赤辞は宗族が離反してしまったので次第に自らも帰順することを望み、岷州都督の劉師立も帰順を勧誘したので、赤辞は思頭とともに唐に内属した。そこで、太宗はこの地を懿州・嵯州・麟州・可州など三十二の州となし、松州を都督府となして、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李姓を賜わった。それ以後、党項からの朝貢が絶えることはなかった。これによって、黄河の源流にある積石山から東の地はすべて中国の領地となった。この後、吐蕃が次第に隆盛したので、拓抜は恐れて内地への移住を請願した。そこで初めて慶州に静辺などの州を設置して党項をここに住まわせた。この地が吐蕃の領土と化すと、この地に住んでいるものはみな吐蕃に従属する事となり、さらに弭薬(ミーニャク)と号するようになった。 また黒党項という部族もいた。黒党項は、赤水の西に住んでいた。その部族長は、敦善王と号し、吐谷渾の王・慕容伏が李靖の軍に敗北してこの地に逃走してきた時には、伏允は敦善王を頼ってきた。吐谷渾が唐に服従するようになると、敦善王もまた朝貢してきた。雪山に住んでいるものたちを破氏といった。 白蘭羌という部族がいた。吐蕃はこれを丁零と呼んでいた。白蘭羌は、その左の部族が党項に属し、右の部族は多弥と隣接していた。勝兵を一万人擁し、戦闘において勇敢に戦い、用兵を善くするところは、民族的に党項と同じであった。武徳六年(623)、使者が入朝した。翌年、高祖はこの地を維州と恭州の二州となした。貞観六年(632)、数十万とともに内属した。永徽年間(650-656)には、特浪の生羌の楼と大首領・凍就が部衆を率いて到来し、内属したので、その地を剣州となした。 龍朔年間(661-663)以後、白蘭、春桑、白狗羌が吐蕃の臣下となり、吐蕃に兵士を提供してその先鋒になった。白狗と東会州は隣接し、勝兵はわずかに千人であった。西北にいるもので天授年間(690-692)の間に内附したものは、戸数にして約二十万だった。唐は、その地を朝州・呉州・浮州・帰州などの十州となし、霊州と夏州の間に散居させた。至徳年間の末(757)、党項は吐蕃に誘われ、吐蕃の間諜となって辺境地帯を略奪した。しかし、彼らは急に後悔して来朝し、霊州の軍糧運送を援助したいと請願した。乾元年間(758-760)、安史の乱が原因で中国がしばしば乱れたので、党項は邠州と寧州に入寇した。粛宗は、郭子儀に詔して朔方・邠寧・鄜坊の三節度使の任務を統括させて、鄜州刺史の杜冕と邠州刺史の桑如珪に二部隊に分けて出撃させた。郭子儀が邠州・寧州に到着すると、党項は潰走した。 上元元年(760)、涇州・隴州の部落十万人が、鳳翔節度使の崔光遠のもとに来て降伏した。上元二年(761)、党項は渾・奴刺と連合して、宝鶏を襲撃し、吏民を殺害して財物を掠め取った。大散関(宝鶏の南)を焼き、鳳州に入寇して、刺史の蕭槐、節度使の李鼎がこれを追撃した。翌年、党項がまた梁州を攻撃したので、刺史の李勉は逃走した。このため党項は奉天まで進撃し、華原・同官を大いに略奪して去った。詔して、蔵希譲を李勉に代えて刺史とした。これによって、帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳のおよそ十州の部落が蔵希譲を訪れ、よしみを通じて節と印を乞うたので、詔してこれを認めた。 僕固懐恩が叛いた時(764)、懐恩は党項・渾・奴刺を誘って入寇した。僕固懐恩は数万の兵を率いて鳳翔と盩厔を略奪した。党項の大酋長の鄭廷と郝徳は同州に入寇したので、同州刺史の韋勝は逃走した。節度使の周智光は、鄭廷らを澄城で撃破した。一ヵ月後、鄭廷らがまた同州に入寇し、官庁および民間の家屋を焼き、馬蘭山に塞を築いた。郭子儀は軍勢を派遣してこれを襲撃し、退却して三堡を保った。それから、郭子儀は慕容休明を派遣して、鄭廷と郝徳を諭させて降伏させた。 郭子儀は、党項と吐谷渾の部落を塩州・慶州などの州に分散させて住まわせた。それらの地と吐蕃が非常に近く、互いに連合して脅威になりやすかったので、上表して、静辺州都督、夏州・楽容などの六つの府の党項を銀州の北、夏州の東に移動させ、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に住まわせて、引き離して唐の脅威にならないよう防いだ。静辺州の大首領、左羽林大将軍の拓拔朝光ら五人の刺史を召して入朝させ、厚く賜わりものを与えて帰還させ、各々の部族を安んじさせた。これより以前、慶州には、破丑氏族が三部族、野利氏族が五部族、把利氏族が一部族おり、おのおの吐蕃と婚姻して互いに援助しあっていたので、吐蕃の賛普は、これらを王とした。このため辺境地帯が乱れること十年餘に及んだ。郭子儀は上表し、工部尚書の路嗣恭を朔方留後、将作少監の梁進用を押党項部落使とし、行慶州を設置させた。さらに郭子儀は「党項は、ひそかに吐蕃と結んで事変を起こそうとしております。ですから党項に使者を派遣し、これを招慰して謀叛の機会を取り除くべきです。また梁進用を慶州刺史に任命し、厳しく警邏させて、党項と吐蕃との交通路を遮断すべきです」と進言した。代宗は、郭子儀の意見をもっともであるとした。また、郭子儀は上表して、静辺、芳池、相興の三州に都督と長史を置き、永平、旭定、清寧、寧保、忠順、静塞、万吉などの七つの州に都督府をそれぞれ置くよう進言した。ここに至り、破丑、野利、把利の三部族と、思楽州の刺史・拓拔乞梅らは、みな入朝し、宜定州刺史の折磨布落、芳池州の野利部は、並びに綏州、延州に移された。 大暦の末、野利禿羅都と吐蕃が結んで叛き、他の部族にも謀叛をけしかけたが、他部族はこれに呼応しなかった。郭子儀が、野利禿羅都を撃って、禿羅都を斬ったので、野利景庭、野利剛は、部族数千人を率いて雞子川において帰順した。六州の部落というのは、野利越詩、野利龍児、野利厥律、児黄、野海、野塞などで、慶州に住んでいるものを東山部と号し、夏州のものを平夏部と号した。永泰年間(765-766)の後、党項は次第に石州に移動したが、その後、永安の将・阿史那思昧による税の取立てが際限なかったので、ついに耐え切れず、党項は河西に逃走した。 元和(806-820)の時、宥州を復置して党項を護ったが、大和年間の中頃になると党項は次第に強盛になり、しばしば国境地帯を略奪した。党項は、武器や防具が鈍くて粗末なので、唐兵の武器の精強さを恐れ、良馬を売っては鎧を買い、良い羊を売っては弓矢を購入した。そこで、党項を危険視した鄜坊道軍糧使の李石が上表し、商人が、軍旗、甲冑、種々の武器を持って党項の部落に入ることを禁止した。もし密告したものがいたら、その密告者に罪人の財産を没収し、褒美として与えた。開成年間(836-840)の末になると、党項部族はいよいよ盛んになり、富裕な商人が絹織物を持ち込み、党項からヒツジ・ウマを買い入れた。藩鎮の役人はそれに便乗して、ヒツジ・ウマを無理やり売らせて代価を与えない事があった。このため党項の部族民は怒り、互いに誘いあって反乱を起こし、霊州、塩州に攻め込んだので道が不通になった。武宗は侍御史を使招定に任じ、三印に分け、邠州、寧州、延州を崔彦曽に属させ、塩州、夏州、長澤を李鄂に属させ、霊武、麟州、勝州を鄭賀に属させて、みなに緋衣と銀魚の印を賜わったが、功を奏さなかった。 宣宗の大中四年(850)、党項が邠州と寧州を略奪したので、鳳翔節度使の李業、河東節度使の李拭に詔して節度している軍勢を併せて、これを討伐するよう命令し、宰相の白敏中を都統となした。宣宗が近苑に出向いたところ、あるものが一本の竹を屋外に植えていた。見ると、その竹は、わずか一尺の高さで、宣宗から百歩ばかり遠ざかっていた。宣宗は矢の命中の成否にことよせて言った。「党羌は、いまや追いつめられた敵だが、窮地に陥りながらも、なお年ごとに唐の辺境を荒らしている。いま私は約束しよう。もし竹まん中に命中することができれば、党項はまさに、おのずから滅びるであろう。命中しなければ、私は天下の兵を求めて党項を殲滅しよう。この賊に子孫を残させないぞ」と。近臣たちが注目するなか、宣宗がひとたび矢を放つと、竹が割れ、矢が貫通したので、近臣らは万歳と叫んだ。一ヶ月もたたないうちに羌は果たして破れ滅び、残党は南山に逃亡した。 初め天宝年間(742-756)の末に、平夏部の族長、拓跋思恭が戦功を上げたので、容州刺史、天柱軍使に抜擢した。拓跋思寂の子孫の拓跋思恭が、咸通年間(860-874)の末に、ひそかに宥州を占領して刺史を自称した。黄巣が長安に侵入したので、拓跋思恭は鄜州刺史の李孝昌とともに壇を築いて犠牲を供え、賊を討伐する事を誓った。僖宗はこれを賢明な行為とし、拓跋思恭を左武衛将軍、権知夏綏銀節度事に任命した。拓跋思恭が、王橋に留まった時に黄巣に打ち破られたが、鄭畋ら四人の節度使とともに盟約して渭橋に駐屯した。中和二年(882)詔して拓跋思恭を京城西面都統、検校司空、同中書門下平章事に任命した。にわかに拓跋思恭を昇進させて、四面都統、権知京兆尹となした。黄巣が平定されると、拓跋思恭に太子太傅を兼ねさせ、夏国公に封じて、李姓を賜わった。嗣襄王李熅の乱が勃発すると、拓跋思恭に詔を下して賊を討伐させたが、軍勢が出撃する前に、拓跋思恭は亡くなった。そこで、思恭の弟の思諫を代わりに定難節度使に任じ、もう一人の弟の思考を保大節度使鄜・坊・丹・翟などの州の観察使、ならびに検校司徒、同中書門下平章事に任命した。王行瑜が抜くと、拓跋思孝を北面招討使に任命し、拓跋思諫を東北面招討使に任じた。拓跋思孝もまた、この反乱によって鄜州を取り、ついに節度使となり、累進して侍中も兼ねたが、年老いたために弟の思敬を推薦して保大軍兵馬留後となし、にわかに節度使となした。 東女国は、蘇伐刺拏瞿咀羅(スヴァルナゴトラ)ともいい、羌族の別種である。西海(インド洋)にも、女の王を戴く国があるので、区別するために「東」をつける。東は吐蕃、党項、茂州(四川省)に接し、西は三波訶国に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。八十の城を有し、女を君主に戴いている。延川に住み、険しい土地が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れている。人々は革を縫いあわせて船を造った。戸数は四万戸で、勝兵は一万人であった。王のことを「賓就」といい、官のことを「高霸黎」といったが、これは宰相に相当した。外にいる役人は、男子をこれにあてた。およそ号令は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に一度、政務をとり行った。王が亡くなると、国人は金銭数万を王族に納め、王族の中から淑女二人を求めて、そのうちの年長者を大王とし、年少者を小王となした。大王が死ぬと、小王を後継ぎに立てた。あるいは、姑が死ぬと嫁がその後を継いだ。王位の簒奪はなかった。住まいはみな重屋で、王は九層、国人は六層であった。王は、青毛の綾のスカート、青色の袍を着用したが、服の袖は地面に引きずった。冬は子羊の皮衣を着用し、文錦で飾った。小さな髪をつくり、耳にはイヤリングをたらした。足には皮靴を履いた。皮靴とは履き物のことである。この国の習俗では、男子を軽んじた。身分の高い女性はみな男を従者として有していた。侍男は、被髪で、顔面を青く塗り、ただ戦争と耕作にのみ努めた。子供は母親の姓に従った。その地は寒く、麦をよく産し、羊馬を牧畜し、黄金を産出した。風俗はだいたい天竺と同じであった。十一月を年始とした。巫者は十月に山中に詣で、酒かすと麦を敷き、まじないを言って鳥の群れを呼ぶ。にわかにやって来る鳥があって、その姿は鶏のようである。その腹を割いて腹の中を見、腹の中に穀物があれば、その年は豊作であるが、そうでなければ災厄が訪れる。それで、この占いの名を鳥といった。三年間喪に服し、衣服を変えず、くしけずる事も沐浴もしなかった。貴人が亡くなると、その皮膚を剥ぎ取り、骨を甕の中に収め、金粉を塗って、墓に埋める。王を葬る際には、殉死するものは数十人に及んだ。 武徳年間(618-626)に、王の湯滂氏が初めて遺使して入貢した。高祖はこれに対して厚く報いたが、西突厥が略奪するので通じることができなくなった。貞観年間中、使者がまたやって来たので、太宗は璽制して使者を慰撫した。顕慶の初め、遣使して、高覇黎の文と王子の三盧を来朝させたので、高宗は彼らに右監門中郎将を授与した。王の歛臂が、大臣を遣わして官号が欲しいと請願したので、則天武后は歛臂を冊立して左玉鈐衛員外将軍を授与し、瑞錦の服を下賜した。天授と開元の間、王と王子が再び来朝したので、玄宗は詔して宰相とともに長安の曲江池で宴をし、王の曳夫を封じて、帰昌王、左金吾衛大将軍となした。後には男子を王となした。 貞元九年(793)、王の湯立悉は、白狗君、及び、哥隣君の董臥庭、浦租君の鄧吉知、南水君の薛尚悉曩、弱水君の董避和、悉董君の湯息賛、清遠君の蘇唐磨、咄覇君の董藐蓬とともに、みなで剣南節度使の韋皋のもとに赴き、唐への内附を希望した。その種族は、西山、弱水に散居し、自ら王を称していたけれども、けだし小さな部落ばかりであった。吐蕃に河西隴右を奪われた後、これらの部落は尽く吐蕃の下に従属した。その部落は数千戸であったが、県令を置き、年ごとに絲(絹と綿)を吐蕃に輸出した。しかし、ここに至り、天宝の時に天子から賜わった詔勅を取り出して、韋皋に献上した。韋皋は、東女の民人を維州、覇州などに住まわせ、牛や糧食を与え、なりわいを治めさせた。湯立悉らが入朝すると、官禄を賜わったが、それには差があった。ここにおいて松州の二万口も踵を接して内附してきた。湯立悉らは刺史を与えられ、みな代々官職を世襲したが、しかし、ひそかに吐蕃に内附したので、これを両面羌と称した。 高昌(トルファン)は長安の西四千余里の所にあり、国土の面積は東西八百里、南北五百里で、およそ二十一の城を有していた。首都の交河城は、漢の車師前王国の王庭があったところである。田地城は戊己校尉の治所である。勝兵は一万いた。土壌は肥沃で、麦、稲は、二毛作であった。高昌には白畳(綿花)という名前の草があった。人々は白畳の花を摘んで織り、布を作った。この国の風俗では、弁髪にし、髪の毛をうしろに垂らした。 高昌の王麴伯雅は、隋の時、皇帝の親族字文氏の娘を妻にした。宇文氏は華容公主と号した。唐の武徳の初め、麴伯雅が亡くなり、息子の文泰が即位し、遣使して伯雅の死を告げたので、高祖は使者に命じて弔問させた。五年後の武徳七年、高昌は、身長が六寸、体長が一尺余の犬を献上した。この犬は、馬の手綱を口にくわえて先導することができ、また燭台を口にくわえることもできた。犬は払菻が原産であると言われ、中国はこれによって初めて払菻狗を有する事になった。 太宗が即位すると、黒狐の皮衣を献上したので、太宗もそのお返しに、妻の宇文氏にかんざしを一つ下賜した。これに対し、宇文氏も太宗に玉盤を献上した。およそ西域諸国の動静は、高昌が、すぐにこれを唐に奏上した。貞観四年(630)、麹文泰が来朝したので、太宗は礼賜を甚だ篤く与えた。また文泰の妻の宇文氏が李王室の皇族になりたいと申し出たので、太宗は詔して宇文氏に姓を賜わり、常楽公主に封じた。 これよりしばらくして麴文泰と西突厥が通好した。西域諸国は朝貢する際に高昌を通過したが、これ以後、使者達はみな麴文泰によって朝貢路を遮られ、唐への献上品を奪い取られた。伊吾(ハミ)は、以前西突厥に臣従していたが、唐に内属したため麴文泰と西突厥の葉護は共謀して伊吾を攻撃した。太宗は詔を下して麴文泰の背信行為を訪問し、高昌の大臣冠軍・阿史那矩を召し寄せて相談しようとしたが、麴文泰は太宗の命令にそむき、阿史那矩を唐には派遣せず、代わりに長史の麴雍を派遣して謝罪した。初め、隋の大業年間の末、中国の多くの民が東突厥に亡命したが、東突厥の頡利可汗が敗北すると、高昌に亡命するものがあった。太宗は詔を下して、中国から高昌に逃亡したものを中国に護送するように命じたが、麴文泰は彼らを高昌に拘留して中国に帰さなかった。また麴文泰は西突厥の乙毘設とともに焉耆の三つの城を撃破し、焉耆の民を捕虜にしたので、焉耆王は太宗に高昌の所業を訴えた。 太宗は、虞部郎中の李道裕を派遣して麴文泰の行状を詰問させた。麴文泰がまた遣使して太宗に謝罪したので、太宗はその使者を引見し叱責して言った。「おまえのあるじ麴文泰は、数年来、朝貢をしてこない。麴文泰には臣下としての礼がない。勝手に官職を設け、中国の百僚を僭称し、まねている。正月には万国の使者達がことごとく来朝したが、麴文泰は来なかった。かつて唐の使節が高昌を訪れたが、麴文泰は唐使に向かって横柄に言った。〝鷹が天に舞えば雉は草むらに隠れる。猫が堂で遊べば鼠は穴の中に逃げて安んじる。おのおの、その適所を得て、どうして心を楽しませないことがあろうか?〟西域の使者達が入貢しようとすると、高昌は、ことごとくこれを拘束する。また麴文泰は薛延陀に遣使して、こう言ったそうだな。〝あなたはすでに自ら可汗になった。唐の天子と同等である。なんで唐の使節に拝謁する必要があろうか?〟朕は来年、軍隊をおこして、なんじの国を虜にする。帰って、なんじのあるじに言うがよい。よく自ら図れ、とな」と。この時、薛延陀の可汗が、唐軍のために教導をしたいと請願してきた。そこで民部尚書の唐倹が薛延陀に行き、可汗とかたく約した。 太宗はまた璽書を下して麴文泰に禍福を示し、入朝を促させたが、麴文泰はついに病気を理由に入朝しなかった。そこで太宗は、侯君集を拝して交河道大総管となし、左屯衛大将軍の薛萬均、薩孤の呉仁をその副官に任命し、契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、はかりごとも思い浮かばなくなった。麴文泰は病を発して死んでしまった。息子の麴智盛が即位した。 侯君集は田地城を襲撃し、契苾何力が先鋒部隊となって死に物狂いで戦った。その夜、流れ星が城中に墜ちた。翌日、田地城は陥落し、唐軍は七千余人を捕虜にした。中郎将の辛獠児が軽騎兵を率いて夜間に高昌の都に迫ったので、麴智盛は侯君集に手紙を送って言った。「天子に対して罪を犯したのは先王の文泰です。先王の咎は深く、罪は堆積しています。智盛は位を継いでまだ日が浅い。公よ、どうか私を赦してください」と。しかし、侯君集は答えていった。「よく過ちを悔いるものは、後ろ手に縛って軍門に下るべきだ」と。智盛は答えなかった。唐軍は出撃し、濠を埋め衝車を引き、投石器から飛ばされた石が飛ぶさまは雨のようであった。城内の人々は大いに震撼した。麴智盛は、大将の麴士義に都に留まって町を守護するよう命令した上で、自身は綰曹の麴徳俊とともに唐の軍門を訪れ、改めて天子に仕えたいと懇願した。君集は、麴智盛を降伏させようと考え説得したが、麴智盛の言葉遣いが傲慢だったので、薛万均が急に顔色を変えて立ち上がり、「先に城を奪い取るべきである。小僧と話しても話しにならん」と言って、指揮旗をふるって唐兵に進撃を命令したので、麴智盛は汗を流し地に伏し、「ただ、公の命令に従います」と言い、すぐに降伏した。侯君集は軍を分け、高昌をほぼ平定した。およそ、州の数は三、県の数は五、城は二十二、戸は八千、人口は三万、馬は四千であった。これより前、高昌の人々は童謡をうたっていた。「高昌の兵は霜や雪のようなもの。唐軍は日月のようだ。日月が照れば、霜と雪はほどなく自ら溶けて消滅する」と。麴文泰は戯れ歌を歌い始めたものを捕らえようとしたが、結局、捕まえる事はできなかった。 戦勝報告が長安に届けられると、太宗はたいそう喜び群臣を宴に招いて論功行賞を行った。高昌国の支配下にあった諸都市をゆるし、高昌の地に州県制を設置して、西昌州と号した。しかし、特進の魏徴は太宗を諌めて言った。「陛下が即位なされたとき、高昌は真っ先に朝謁しました。しかしその後、高昌は商胡を劫略し、貢献を遮ったために高昌王は誅殺を加えられました。麴文泰が亡くなり、罪も止まりました。高昌の民を慰撫し、その子を高昌の王に立て、罪を討伐して民を慰める。これが道であります。いま、高昌の地を利して、常時その地に千人の兵を駐屯させ、数年に一度、駐屯兵を変えるならば、辺境に派遣される兵士は、装備や旅費を自弁で用意せねばならず、親戚と離別しなければなりません。十年もたたぬうちに隴西(甘粛省)が空虚になりましょう。陛下は結局、高昌の一粒の穀物、一尺の絹も得ることなく、中国の軍事費の助けとすることもできないでしょう。これこそまさに、有用を捨て無用に力を費やすということです」と。しかし、太宗は魏徴の意見を採用しなかった。西昌州を西州と改め、さらに安西都護府を設置した。一年に千人の兵を徴発し、罪人を送って守備兵にあてたので、黄門侍郎の褚遂良は太宗を諌めていった。「昔は中華を優先して夷狄を後回しにし、徳化を広めるように務めて、遠方のことは争いませんでした。いま高昌は誅滅され、中国の威光は四方の夷狄を動かしました。皇帝の軍隊が初めて征伐してから、河西は労役に駆り出されて、急いで米を運び、まぐさを転送して出撃の準備を整えるので、十軒のうち九軒がそうした仕事に駆り出されて貧困になり、五年たってもいまだに回復しません。いままた年に駐屯兵を送るなら、荷物は万里を行き、辺防のために去るものは、そのための費用と衣装を自分で調達するために、自分の食べ物を売り、はたを売ってまで費用を調達しなければならず、旅の途上で死亡するものも多く、その数は計り知れません。罪人は、法を犯すことに始まり、なりわいを捨てることに終わり、行いに益がありません。派遣した兵士も逃亡し、役人が逮捕して、逮捕者は芋づる式に相次いで牽かれていきます。張掖や酒泉のように、敵襲を知らせる土煙があがり、烽火があがった時に、どうして、それより更に遠い高昌の一車両一兵卒を得て救援を得られましょうか。隴右、河西から微発するだけです。たとえば、中国内地の河西を自分の腹心であるとするならば、外地の高昌は他人の手足のようなものです。どうして中華を消耗させて役に立たない事につかえるのですか。むかし陛下は東突厥の頡利可汗や吐谷渾を平定なされましたが、みな、その故地に君主を推戴しました。罪を犯せばこれを誅し、降伏すればこれを存続させる。これが、多くの蛮族が陛下の御威光を畏れ、陛下の徳を慕う理由です。いま、高昌を治めるべきものを選んで推戴し、首領達を召し出して、ことごとく故国に帰還させ、長く中国の垣根と柱になすべきです。そうすれば中国に乱れはありません」と。褚遂良はこのように言って太宗を諦めたが、この書聞は太宗によって省みられることはなかった。 初め麴文泰は黄金をもって西突厥の欲谷設に篤く贈物をし、危急の際にはお互いに表裏をなして助け合おうと約束していた。そこで、欲谷設は葉護を可汗浮図城に駐屯させた。しかし、君集の軍勢が襲来すると欲谷設は恐れて援軍を出撃させず、ついに降伏した。そこで、太宗は可汗浮図城を庭州とした。焉耆は太宗に高昌に奪われた五つの城を返し、駐屯軍を留まらせて守ってほしいと要請した。 侯君集は石に刻んで功を記させ、長安に凱旋した。麴智盛ら高昌の君臣たちは捕虜として観徳殿に献上された。皇帝による礼をつくした酒宴がとり行われ、三日間宴が開かれた。高昌の豪傑たちを中国に移し、麴智盛に左武衛将軍、金城郡公、弟の麴智湛に右武衛中郎将、天山郡公を拝した。麴氏は、国を伝えること九世代、百三十四年にして滅亡した。 麴智湛は、麟徳年間中に左驍衛大将軍から西州刺史に任じられ、亡くなった。死後、涼州都督を贈られた。麴智湛には、麴昭という息子がいた。麴昭が勉強好きなので、珍しい書物があると、母親は息子のために箱の中からお金を持ち出し、「珍しい本があれば、どうして息子のためにお金を惜しもうか」と言って、書物をことごとく買い求めてやった。麴昭は司膳卿を歴任したが、文章が非常にうまかった。その弟の麴崇裕は武芸にすぐれていたので、永徽年間中に右武衛翊府中郎将に任じられ、交河郡王に封じられた。邑は三千戸に至り鎮軍大将軍で亡くなった。武后は麴崇裕の死を悼んで美しい錦で織った衣服を贈り、弔いのための賜わりものは甚だ篤かった。麴氏の封爵は、麴崇裕の死によって断絶した。 吐谷渾は甘松山の南、洮水の西にあり、南は白蘭を隔てること数千里である。城郭はあるが、国人はその中には住まず、水と草に従って移動する。テントに住み、肉食をする。その国の官職には、長史・司馬・将軍・王・公・僕射・尚書・郎中がある。おそらく中国王朝の官職の制度をまねて、このような行政組織をつくったのであろう。この国の人々は、文字を知っている。王は、椎髷(髪を後ろにたれ、ひとたばねにしたまげ)にして黒い帽子をかぶり、王の妻は錦の袍を着、織り上げたスカートをはき、黄金の花を首に飾った。この国の男性は、裾の長い服を着用し、絹の帽子か、羃羅(べきら)を頭にかぶった。女性は弁髪にし、うしろにたらして珠や貝殻を綴って髪を飾った。この国の婚礼では、裕福な家は盛大な結婚式を行って嫁を娶るが、貧者は婚礼を挙げられないので妻を盗んだ。父親が亡くなると母親以外の父の妻を娶り、兄が死ぬと兄嫁を妻とした。喪服には規定があり、葬礼が終わるとすぐに解除した。民に対して恒常的に課される税金はなく、不足があれば、富裕商人から税を集めとり、不足分が足りれば微税をやめた。およそ、殺人と馬泥棒は死罪になった。その他の罪は、商品を献上させて贖罪させた。その地は非常に寒く、麦、菽(マメ)、栗、蕪菁(カブラ)を産し、仔馬、ヤク、銅、鉄、丹砂を産出した。青海という湖がある。青海湖の周囲は、八、九百里であった。湖の中に山があり、湖が凍結するのを待って、その上に雌馬を放牧する。翌年、仔馬を産む。この仔馬は龍種であった。吐谷渾は、むかし波斯馬を得たが、これを青海のほとりで放牧しておいたところ、驄(青白色の馬)の仔馬を産んだ。この馬は、一日に千里を歩いた。それで、人々は「青海驄」と称した。西北には、流砂が数百里も続いており、夏には熱風が吹き、旅人を傷つけた。熱風が押し寄せてくると、老いた駱駝が首をひいていななき、鼻を砂中にうずめる。人はそれによって砂嵐の到来を察知し、絨毯で鼻と口をおおって、熱風の害から免れた。 隋の時、王の慕容伏允は歩薩鉢をしていた。かつて慕容伏允が中国の辺境地帯に入寇した時、煬帝は鉄を派遣して慕容伏允を撃破した。煬帝は西平に城壁を築き、また観王雄に命じて吐谷渾を破らせた。吐谷渾の王慕容伏允は数十騎を率いて泥嶺に逃亡したが、仙頭王は男女十余万を率いて隋の軍隊に降伏した。煬帝は、吐谷渾の地に郡県と鎮戍を設置した。それから、慕容伏允の長男で、人質として長安に滞在させておいた慕容順を、逃亡した慕容伏允の代わりに王として推戴した。そして吐谷渾の余衆を治めさせるために、にわかに慕容順を故国に帰還させた。一方、慕容伏允は党項に亡命し、客人として滞在していたが、隋末の乱の折、隋の混乱に乗じて故地を回復した。 唐の高祖李淵が受命したとき、慕容順は江都から長安に帰還した。このとき李軌が涼州に拠っていたが、高祖は慕容伏允と和睦を約し、慕容伏允が李軌を撃って唐のために戦ったならば、息子の慕容順を慕容伏允のもとに護送しようと約束した。慕容伏允は喜び、兵を率いて李軌と庫門で戦い、その後、両軍は退却した。それから遣使して慕容順を帰国させてくれるよう請願した。高祖は約束どおり慕容順を吐谷渾に使わした。慕容順が帰国すると、慕容伏允はこれを大寧王となした。 太宗の時、慕容伏允は使者を遣わして入朝させたが、その使者が帰還しないうちに吐谷渾は州に入寇した。太宗は使者を派遣して慕容伏允の非を責め、慕容伏允を召し出そうとしたが、慕容伏允は病を理由に行けないと言い訳した。その上、息子の尊王のために公主の降嫁を請願し、太宗の心を試した。太宗は慕容伏允の子尊王を召して自ら歓迎したが、尊王もまた病気を口実に入朝しなかったので、太宗は詔を下して、尊王への公主の降嫁を中止にした。太宗は、中郎将の康処真を派遣して慕容伏允の説得に向かわせた。また、慕容伏允が岷州を略奪したので、太宗は都督の李道彦を派遣して吐谷渾軍を撃破し、敗走させた。唐軍は名王二人を捕虜とし、首級七百を斬った。慕容伏允は、この後、毎年名王を派遣して入貢した。しかし、にわかに吐谷渾が涼州に入寇してきたので、鄯州刺史の李玄運は「吐谷渾は青海で放牧しています。軽装の兵で、これを襲って取り囲めば、すべてを捕獲できます」と上表した。そこで、太宗は、左驍衛大将軍の段志玄、左驍衛将軍の梁洛仁に命じて、契苾・党項の兵を率いて吐谷渾を征伐させた。しかし、三十里も行かないうちに、戦いたくなかった段志玄らは陣営を築いて駐屯したので、軍の到来に気づいた吐谷渾は、放牧していた馬を駆って逃走してしまった。副将の李君は、騎兵の精鋭部隊を率いてこれを追撃し、懸水のほとりで後方から襲撃して、吐谷渾の牛羊二万を捕獲して帰還した。 この時、慕容伏允は年老いて政務を取る事ができなかったので、大臣の天柱王が政治を掌握し、太宗の使者、鴻臚丞・趙徳楷を拘束した。太宗は使者を派遣して勅命を与えること十回に及んだが、吐谷渾からは改悛の言葉は返ってこなかった。貞観九年(635)、太宗は詔し、李靖を西海道行軍大総管に、侯君集を積石道、任城王の李道宗を鄯善道、李道彦を赤水道、李大亮を且末道、高甑生を塩澤道の各々行軍総管に任命し、突厥、契芯の兵を率いて吐谷渾を討伐させた。党項に内属する羌族と、洮州羌は、みな刺史を殺害して慕容伏允に帰順した。夏四月、李道宗が慕容伏允を庫山で撃破し、捕虜・斬首は四百に及んだ。慕容伏允は、砂漠に唐軍を誘き寄せようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は食糧がなくなって多くが飢餓に苦しんだ。そのため対策を講じて李道宗は言った。「柏海は河源に近いので、昔からここに至ったものはいまだいない。慕容伏允は西に逃走したというが、その所在は今もって不明である。我が軍の馬は痩せ衰え、食糧も欠乏している。遠方に軍を進めることは難しい。鄯州に駐屯して、馬が元気になってから、再度、吐谷渾征伐を図った方がよい」と。しかし侯君集は、「それはいけない。かつて段志玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は即座に城に拠った。吐谷渾の力はまだ健在であり、むしろ民衆は命令に従った。しかしいま吐谷渾は大敗し、斥候もいない。君臣も失われた。我らは吐谷渾の難に乗じ、吐谷渾討滅という志を全うすべきである。柏海は遠いが、将兵を鼓舞して到達すべきである」と。李靖は「よし」と言うと、唐軍を二分し、李靖が李大亮、薛万均とともに一軍を率いて北に赴き、その右から出、侯君集と李道宗が一軍を率いて南に赴いて、左から出ることになった。李靖の将、薩孤呉仁は、軽騎兵を率いて曼都山で戦い、名王を斬り殺して、斬首五百級を得た。諸将は、牛心堆、赤水源で戦い、敵将の南昌王の慕容孝を捕縛して、雑畜数万を捕獲した。侯君集と李道宗は、漢哭山に登り、烏海で戦って名王の梁屈葱を捕縛した。李靖は、天柱部落を赤海で破り、雑畜二十万を捕獲した。李大亮は、名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を捕獲して、且末の西に軍を宿営した。慕容伏允は図倫磧に逃走し、于闐に逃亡しようと図ったが、薛万均は騎兵の精鋭を率いて逃げる慕容伏允を数百里にわたって追跡し、慕容伏允を打ち破った。唐軍の将兵は水が乏しくなったので、馬を刺して、その血を水の代わりに飲んだ。侯君集と李道宗は、空しく荒野二千里を進軍した。盛夏にもかかわらず霜が降り、水草は乏しく、兵士は氷をかゆ(食糧)として食べ、馬は雪をまぐさにして食べた。一ヶ月を経て星宿川に達し、柏梅の上に到達し、積石山を展望し、河源を観望できた。執失思力は、馬を馳せて、吐谷渾の輜重部隊を打ち破った。両軍は、大非川、破邏真谷で遭遇した。 慕容伏允の息子慕容順は隋に人質に出され、金紫光禄大夫に任命されていた。長男の順が人質として中国にいたので、慕容伏允は、慕容順の弟を太子にした。慕容順は帰国したが、弟に太子の位を奪われたために常に快々として楽しまなかった。慕容順は位を失ったので、功績を上げて皇帝と結びたいと希望していた。そこで、天柱王を斬り、国を挙げて唐に降伏した。慕容伏允は恐れ、千余騎を率いて磧(ゴビ砂漠)中を遁走した。しかし従う兵士達が慕容伏允を見限って次第に逃亡していったので、付き従う従者はわずか百騎だけとなり、慕容伏允の無聊は極まり、遂に自ら縊れて死んだ。国人達は慕容順を立てて吐谷渾王となし、臣を称して唐に帰順した。太宗は詔して、慕容順を西平郡王に封じ、趙胡呂烏甘豆可汗と号した。太宗は、吐谷渾がまだ十分に安定していない事を恐れ、李大亮に精鋭部隊を率いさせて、かの国に駐屯して守らせた。 慕容順が長い間、人質として中国に滞在していたために、国人達は慕容順になつかず、慕容順は臣下によって殺されてしまった。国人は、慕容順の息子、燕王の慕容諾曷鉢を擁立した。慕容諾曷鉢はまだ幼く、大臣達は権力闘争をした。太宗は侯君集に詔し、吐谷渾王のそばに付いて国を統治させたので、慕容諾曷鉢は、初めて太宗に向かって、唐の暦を分けて欲しいこと、子弟を唐に入侍させたいことを請願した。また、詔して慕容諾曷鉢を河源郡王に封じ、烏地也抜勒豆可汗とさせた。また、淮陽郡王の李道明を派遣し、節を持たせ詔書を下して、慕容諾曷鉢に鼓纛(太鼓と旗)を賜わった。慕容諾曷鉢は自ら入朝して感謝し、公主の降嫁を懇願して、馬牛羊を万匹献上した。慕容諾曷鉢が毎年入朝したので、太宗は宗室の女を弘化公主となして慕容諾曷鉢の妻とし、李道明と右武衛将軍の慕容宝に詔して、節を持って公主を吐谷渾まで送らせた。しかし吐谷渾では大臣の宣王が跋扈しており、反乱を謀って、公主を襲撃し、慕容諾曷鉢を掠め取って吐蕃に出奔しようと画策した。慕容諾曷鉢はこれを察知し、軽騎兵を率いて城に逃走した。威信王は兵を率いて慕容諾曷鉢を迎え、果毅都尉の席君買が兵を率いて威信王とともに、宣王を討伐し、兄弟三人を斬ったので、吐谷渾は大いに乱れた。太宗はまた、民部尚書の唐倹と中書舎人の馬周に詔し、節を持して吐谷渾人を慰撫した。 高宗が即位すると、公主が嫁いでいる縁故で慕容諾曷鉢は駙馬都尉を拝した。吐谷渾が名馬を献上したので、高宗が馬の種性をたずねたところ、使者はこたえて「吐谷渾で最良の馬です」と言った。高宗は「良馬は人々の惜しむものである」と言い、その馬を吐谷渾に返すよう詔を下した。弘化公主が表して入朝したいと請願したので、高宗は左驍衛将軍の鮮于匡済を派遣して公主を迎えに行かせた。十一月、慕容諾曷鉢が長安に到着したので、高宗は宗室の女、金城公主を、慕容諾曷鉢の長男の慕容蘇度摸末の妻とし、慕容蘇度摸末に左領軍衛大将軍を拝した。しかし、しばらくして慕容蘇度摸末が亡くなった。そこで弘化公主は、次男の右武衛大将軍・梁漢王・慕容闥盧摸末とともに来朝して、婚姻を請願した。高宗は、宗室の女金明公主を慕容闥盧摸末の妻とした。すでに吐谷渾と吐蕃は互いに攻めあい、高宗に上書して、お互いの善悪を訴えて唐に援軍を要請したが、高宗は双方に対して援軍派遣を許さなかった。吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の内情を告げたので、吐蕃は出兵し、不意を衝いて吐谷渾の軍勢を黄河のほとりで打ち破った。慕容諾曷鉢は国を保ちきれず、弘化公主とともに数千帳を率いて涼州に逃走した。高宗は、左武衛大将軍の蘇定方を安集大使に任命して派遣し、両国の怨みを静めさせようとした。しかし吐蕃はついに吐谷渾の地を領有した。 慕容諾曷鉢は、唐の国内に移住したいと請願した。乾封初め(666年頃)、高宗は改めて慕容諾曷鉢を青海国王に封じた。高宗は、慕容諾曷鉢の率いる吐谷暉の部衆を涼州の南山に移住させたいと考えたが、群臣の議論は意見が一致せず、高宗も南山への移住は難しいと考えた。咸亨元年(670)、高宗は右威衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の阿史那道真と、左衛将軍の郭待封を副将となし、五万の兵を統率して吐蕃を征伐させ、あわせて慕容諾曷鉢を吐谷渾の故地に帰らせようとした。しかし唐軍は大非川で敗北し、吐谷暉の地はすべて吐蕃に掌握される事となった。慕容諾曷鉢は、親近のもの数千帳とともに辛うじて逃れた。咸亨三年(672)、慕容諾曷鉢は浩亹水の南に移動した。慕容諾曷鉢は、吐蕃が強盛である事、自力では吐蕃に抵抗できない事、鄯州の土地が狭い事などが理由で、また霊州に移動した。高宗は慕容諾曷鉢のために安楽州を設置し、慕容諾曷鉢に刺史を拝して、安らかに、かつ楽しく暮らせるようにと願った。 慕容諾曷鉢が亡くなると息子の慕容忠が立ち、慕容忠が亡くなると子供の慕容宣超が立った。聖暦三年(663)、慕容宣超に左豹韜員外大将軍を拝し、かつての可汗号を襲名させた。吐谷渾の、慕容諾曷鉢が統率する以外の部族は、涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州などの州に行って投降した。宰相の張錫と、右武衛大将軍の唐休璟が議論して、これらの吐谷渾人を秦州、隴州、豊州、霊州の間に移住させるようにと言った。この地から吐谷渾を離れさせることはできなかった。涼州都督の郭元振は、次のように言った。「吐谷渾が、秦州、隴州に近づけば、監牧と雑居してしまい問題である。彼らを豊州や霊州に置いても、また突厥の勢力に近くなり、それに取り込まれやすい。仮に、彼らを中華の地に住まわせても、その習性を変えることはできないだろう。かつて王孝傑は、河源軍から耽爾乙句貴を霊州に移住させたが、耽爾乙句貴は抜いて牧坊に侵入し、群馬を略奪して州県を痛めつけた。これすなわち、異民族を中国の地に移して利益のなかったことの証拠である。また、かつて吐谷渾の大臣・素和貴が謀反して去ったが、これは唐にとって損害ではなかった。ただ吐谷暉の数十の部落が失われただけであった。どうして、耽爾乙句貴の場合と比較しないのか。いま降伏している異民族は、無理やり服従させたのではない。みな吐蕃の弓矢や刃をかいくぐり、吐蕃を捨てて来朝した。その事情に従って、これを制するべきである。甘州、粛州、瓜州、沙州に降伏したものは、その場所に置き、投降したところに住まわせれば、彼らの気持ちも安心しやすい。数州を割けば、力はおのずから分散する。彼らの気持ちに順じて、その勢力を分散すれば、人民を乱すことはない。よく夷狄の心を掌握するものと言うべきである。毎年しずめとどめるための使者を派遣して、慕容宣超の兄弟と撫護すれば、互いに侵攻略奪する事もなく、なりわいがしっかり安定する。もし叛き去るものが仮にあったとしても、中国に損害はない」と。高宗は郭元振の意見を採用した。慕容宣超が亡くなると、息子の慕容曦皓が後を継いで立った。慕容曦皓が死ぬと、息子の慕容兆が立った。吐蕃がまた安楽州を奪い取ったので、吐谷渾の残りの部族は朔方と河東に移住した。吐谷渾の名称を訛って「退渾」とした。 貞元十四年(798)、朔方節度副使、左金吾衛大将軍の慕容復を長楽都督、青海国王となし、可汗号を襲名させた。慕容復が亡くなると、後を継承するものが途絶えた。吐谷渾は、西晋の永嘉年間(307-313)から国があったが、龍朔三年(663)に吐蕃によってその地を奪われるに至って、およそ三五〇年、ここに及んで、封じる後継者が断絶した。 焉耆(カラシャール)国は、長安の西七千餘里の所にあり、東西六百里、南北四百里であった。東は高昌、西は亀茲、南は尉犂、北は烏孫であった。水路を造って田に水を注いで灌漑した。その土地は、黍、葡萄をよく産し、魚と塩の利もあった。この国の風俗は、髪を切り落とし、毛織物を着た。戸数は四千、勝兵の数は二千で、常に西突厥に役属していた。この国の風俗は娯楽を好んだ。二月には三日間、野に出て祀った。四月十五日、林で遊んだ。七月七日には祖先を祀った。十月十五日には焉耆王が初めて出遊した。一年が終わると祀りも全て終わった。 太宗の貞観六年(632)、焉耆の王、龍突騎支が初めて遺使来朝した。隋末の乱以来、磧路が塞がったので、西域諸国の朝貢はみな高昌を経由した。龍突騎支は、大磧道(大砂漠の道)を開通して旅人のために交通の便をよくしたいと請願したので、太宗はこれを許した。高昌は怒り、焉耆の周辺を大々的に略奪した。西突厥の莫賀設は、咄陸・弩失畢と仲が悪く、焉耆に逃亡してきたので、咄陸と弩失畢もまた焉耆を攻めた。そこで、龍突騎支は遺使して太宗に状況を告げ、あわせて名馬を献上した。莫賀設の次男が咥利失可汗として即位すると、焉耆とはもともと仲が良かったので、頼りとなって支援した。貞観十二年(638)、処月・処密が高昌とともに焉耆の五つの城を攻め落とし、千五百人を略奪して家を焼いた。侯君集が高昌を討伐しようとし、焉耆に使者を派遣して、焉耆と連合して高昌討伐を行ないたいと言ったので、龍突騎支は喜び、兵を率いて唐軍を支援した。高昌が唐軍に敗北すると、高昌に捕えていた焉耆の捕虜と城を焉耆に返した。焉耆は改めて唐に使者を派遣して謝恩した。 西突厥の重臣屈利啜は、弟のために龍突騎支の娘を娶った。そのため、屈利啜と龍突騎支は互いに約束して持ちつ持たれつの関係となり、龍突騎支は朝貢しなくなった。そこで安西都護の郭孝恪は太宗に焉耆討伐を請願した。たまたま焉耆王の弟の頡鼻・栗婆準・葉護ら三人が来降したので、太宗は、郭孝恪を西州道総管に任命し、軍勢を率いて銀山道から出撃して栗婆準らを道案内として焉耆を攻めるよう命令した。もともと焉耆は都にした場所の周囲三十里が四面すべて大きな山に囲まれ、海水もその外をめぐっていたので、焉耆はこの自然の要害を頼んで恐れることがなかった。郭孝格は、焉耆に向かって倍速で進軍すると、海水を船で渡り、夜のうちに、城壁の物見垣に近づき、夜明け方、大騒音とともに城壁を登った。唐軍の太鼓と角笛が轟き渡り、兵士が攻撃をしかけたので焉耆の人々は混乱して敗北し、千余人の首級が斬られて、龍突騎支は捕らえられた。唐は、栗婆準に政務を取らせた。初め、太宗は近臣に語っていった。「郭孝恪は八月十一日に焉耆に行った。二旬(二十日)で焉耆に到着し、二十二日目に焉耆を落城させるであろう。まもなく焉耆からの使者がやって来よう」と太宗が近臣に推測を語っていたところ、にわかに焉耆からの飛脚が駆け込んできて、戦勝報告を届けた。龍突騎支と、その妻子は捕らえられて洛陽に護送された。太宗の詔があって、彼らの罪は赦された。 屈利啜は軍勢を派遣して焉耆を救おうとしたが、屈利啜が焉耆に着いた時には、郭孝恪が帰還してすでに三日たっていた。屈利啜は栗婆準を捕らえ、さらに吐屯を派遣して王の代行をさせた。焉耆は唐に遺使して、この状況を告げた。太宗が「焉耆は我々が降伏させた。なんじがどうして王になったのか」と言ったので、吐屯は恐れ、焉耆の王になることができなかった。焉耆は、唐の立てた栗婆準を再び推戴したが、従兄の薛婆阿那支は自ら王となって瞎干と号し、栗婆準を捕らえて亀茲に献上した。亀茲は栗婆準を殺害した。阿史那社尓が亀茲を攻撃すると薛婆阿那支は亀茲に逃走し、東の国境地帯に城壁を築いて唐軍に抵抗した。しかし、阿史那社尓に捕らえられた。阿史那社尓は薛婆阿那支の罪を数え上げると、斬り殺して示しをつけた。龍突騎支の弟婆伽利を王となし、焉耆の地を焉耆都督府となした。 婆伽利が亡くなると、国人は前王の龍突騎支を返して欲しいと請願したので、高宗はこれを許し、龍突騎支に左衛大将軍を拝して帰国させた。龍突騎支が死ぬと、龍嬾突が即位した。武后の長安年間、焉耆の国が小さく人口も少ないので、焉耆は、この国を通過する使者や客人をもてなす労力に耐えられなかった。そこで武后は四鎮経略使に詔し、私馬を無料で微発すること、無品官のものが焉耆で肉食することを禁止した。開元七年(719)、龍嬾突が亡くなり、焉吐払延が即位した。ここにおいて、十姓可汗は砕葉に住むことを請願した。安西節度使の湯嘉恵は上表し、焉耆に四鎮を備えさせようとした。そこで玄宗は、焉耆、亀茲、疏勒、于闐に詔して、西域の商人に課税させた。諸国はそれぞれ通行税を徴収した北道を経由していた商人に対しては輪台で税をとった。焉耆は天宝年間まで常に朝貢した。 亀茲(クチャ)は、丘茲とも、屈茲ともいう。東に長安をへだてること七千余里であった。焉耆より西南に徒歩で二百里の距離であり、小山を越え大河二つを経て、さらに徒歩七百余里行って亀茲に到着する。東西の幅は千里、南北は六百里であった。その土地は、麻、麦、秔稲、葡萄をよく産し、黄金も産出した。その国の風俗は、歌と音楽、横書きの書をよくし、仏教を尊んだ。子供が生まれると、木で首をしめつけた。その国の風俗は断髪で、首のところでそろえた。ただ君主だけは髪を切らなかった。王の姓は白氏で、伊邏盧城に住んでいた。北は阿羯田山に守られていた。この山はまた白山ともいった。常に火を有していた。王は錦の帽子を頭にかぶり、錦の袍と宝石をちりばめた帯を着用した。新年の初めに羊と馬と駱駝を七日間戦わせる儀式があった。その勝負を観戦して家畜の繁殖を占った。パミール高原以東の風俗は淫行を喜んだので、亀茲と于闐は娼館を置き、売り上げ金を税として政府に納めていた。 高祖が隋から禅譲された時、亀茲王の蘇伐勃駃(スワルナプスパ)は使者を派遣して入させた。蘇伐勃駃が死ぬと、息子の蘇伐畳(スワルナデーヴァ)が即位し、時健莫賀俟利発と号した。貞観四年(630)、蘇伐畳が馬を献上したので、太宗は璽書を賜い、慰撫して等級を加えた。この後、亀茲は西突厥に臣従した。郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲は軍勢を派遣して焉耆を支援したので、これ以後、亀茲は朝貢しなくなった。 蘇伐畳が死ぬと、弟の訶黎布失畢(ハリプスパ)が即位した。貞観二十一年(647)、亀茲は二度、遣使朝貢したが、太宗は亀茲が焉耆の反乱を支援した事に怒り、亀茲討伐を議した。この夜、月が昴を食したので、太宗は詔していった。「月は陰の気であるから、これは刑罰を用いる兆しである。星は胡の運命を決める。胡(亀茲)の命運は、いままさに終わろうとしている」と。そこで太宗は阿史那社尓を崑丘道行軍大総管に任命し、契苾何力を副官となして、安西都護の郭孝恪、司農卿の楊弘礼、左武衛将軍の李海岸らを統率させて、鉄勒十三部族の兵十万を出動させて亀茲を討たせた。阿史那社尓は軍勢を五つに分け、亀茲の北方を略奪して、焉耆王の龍阿那支を捕らえたので、亀茲は非常に恐れ、酋長達はみな城を捨てて逃走した。阿史那社尓は磧石に至った。ここは亀茲の王城から三百里の場所であった。先に伊州刺史の韓威を派遣して、騎兵一千先鋒とした。右驍衛将軍の曹継叔がこれに次いだ。多褐に至り、亀茲王と遭遇し、亀茲の将軍の羯獵顛の兵五万と合戦した。韓威が偽って敗走した。亀茲王は、韓威の兵力が少ないのを見ると、指図旗で合図して軍を進め、韓威を追跡した。韓威は退却すると曹継叔と合流し、戻ってきて亀茲の軍勢と戦った。唐軍は亀茲軍を大破すると、逃げる亀茲兵を八十里も追撃した。亀茲王は城壁をめぐらして守ったが、阿史那社尓が城を取り囲もうとしたため、突騎を率いて西へ逃走した。亀茲城はついに陥落した。その後、郭孝恪が亀茲城に守備隊として残った。 沙州刺史の蘇海政、行軍長史の薛万備は、騎兵の精鋭を率いて亀茲王を追いつめること六百里に及んだ。亀茲王の計画は窮まり、撥換城を保とうとした。そこで阿史那社尓は撥換城を包囲した。一ヶ月が経過して亀茲王と将軍の羯獵顛は唐軍に捕らえられた。大臣の那利は夜間に逃亡すると、西突厥と亀茲の国人万余を率いて唐軍と戦った。この戦いで郭孝恪とその息子が戦死した。唐軍は混乱した。倉部郎中の崔義起は募兵して城中で戦い、曹継叔と韓威もこれを支援し、西突厥と亀茲の軍勢を撃破して、三千もの首級を斬った。那利は敗北したが、逃亡したり離散していた者たちを集めて次第に勢力を盛り返し、亀茲に戻って唐軍を襲撃した。しかし曹継叔はこれに乗じて八千もの首級を斬った。那利は逃走したが、その後、亀茲人によって捕らえられ、唐軍に献上された。阿史那社尓は、亀茲の五つの大城を破り、男女数万人を捕虜にした。そして、使者を派遣して小城七百余を諭して降伏させた。西域諸国は震撼し、西突厥と安国の両国は、降伏のしるしに唐軍に兵糧を献上した。阿史那社尓は、亀茲王の弟の葉護を推戴して亀茲の王となし、石に刻んで功績を記した。 戦勝報告が届けられると、太宗は喜び、群臣に向かって、ゆったりとして言った。「そもそも楽しみというものは幾つかの種類がある。朕はむかし、こう言った事がある。土の城や竹馬を得る事は童子の楽しみである。金翠羅を身に飾る事は婦人の楽しみである。その土地にあるものないものを交易することが商人の楽しみである。高官が高い秩を得る事は士大夫の楽しみである。戦って前に敵がいない事は将帥にとっての楽しみである。四海が安寧で統一されている事は、帝王にとっての楽しみである。だから朕はいま楽しいかな」と。そう言うと太宗は群臣にあまねく酒をすすめた。初め郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲にいた仏教徒で、よく未来を予言できる人が嘆息して言った。「唐はついに西域を領有した。数年もたたないうちに、わが国もまた滅ぼされるであろう」と。阿史那社尓は、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を捕らえて、太廟に献上した。太宗は捕虜達を紫微殿で受け取った。太宗が彼らを責めて言うと、亀茲の君臣はみな頭を地面に打ち付けて身を伏せた。太宗は詔して彼らの罪を赦し、捕虜の身から客人に扱いを改めて鴻臚寺に宿らせ、訶黎布失畢に左武衛中郎将を拝した。初めて亀茲の首都に安西都護を移動し、于闐、砕葉、疏勒を統させて四鎮と号した。 高宗はまた訶黎布失畢を封じて亀茲王となし、那利・羯獵顛とともに帰国させた。これからしばらくして亀茲王が来朝した。那利は、王の妻阿史那と密通したが、王はこれを禁じることができなかった。左右の近臣が王に向かって那利を殺すよう請願したので、これ以後、王は猜疑心を抱くようになった。王と那利の使者がそれぞれ遣使して高宗に状況を報告した。高宗は那利を召してこれを投獄し、王を護衛して亀茲に帰国させた。しかし羯獵顛は王の入国を拒み、使者を西突厥に派遣して阿史那賀魯に降伏した。王はあえて進まず怏々として死去した。高宗は左屯衛大将軍の楊冑に詔して兵を出動させ、羯獵顛を捕らえ、その部党を誅した。そして亀茲の地をもって亀茲都督府となした。さらに訶黎布失畢の息子素稽を王となして、右驍衛大将軍を授け、都督に任じた。この年、安西都護府を亀茲に移動させ、かつて安西都護府があった高昌を西州都督府となした。そして左驍衛大将軍・安西都護の麴智盛を都督に任じた。こうして西域諸国は平定した。高宗は使者を諸国に分散して派遣し、各国の風俗や物産を調査させ、許敬宗と史官に詔して『西域図誌』を撰文させた。 上元年間(674-676)、素稽が銀・頗羅(ガラス)・名馬を献上した。天授三年(692)、亀茲王の延田跌が来朝した。初め、儀風年間(676-679)、吐蕃が焉耆以西を攻撃したので四鎮はみな陥落した。長寿元年(692)、武威道総管の王孝傑が吐蕃を破って四鎮を回復したので、唐は安西都護府を亀茲に置き、三万の駐屯兵を置いて守備を固めた。ここに至り沙磧は荒廃し、民が資金と食糧を供給する事が甚だ苦しくなった。議者は安西の地を放棄するよう請願したが、武后はこれを認めなかった。安西都護には、政務の実績が中国と夷狄の双方において称賛されているものを選んで任命した。武后の時には田揚名、中宗の時には郭元振、開元の時には張孝嵩と杜暹が、各々安西都護を務めた。開元七年(719)、王の白莫苾が死去し、息子の多市が即位して孝節と改名した。開元十八年(730)、孝節は弟の孝義を派遣して来朝させた。 亀茲から六百余里、小さな沙漠を越えると、跋禄迦(バールカー)という小さな国があった。またの名を亟墨といった。漢代の姑墨(アクス)国である。国土は東西六百里、南北三百里であった。風俗と文字は亀茲と同じであったが、言語は少し異なった。目の細かい毛織物を産出した。西に三百里進んで石磧を越えると、凌山(ハン・テングリ)に至る。これはパミールの北の高原である。水は東に流れ、春・夏も山谷には雪が積もっていた。西北に五百里行くと素葉水(スーヤーブ)城に至る。近隣諸国の比国(ソグド)商人が商売のために来て雑居していた。素葉水以西の数十城は、みな君長を立て、西突厥に従属していた。素葉水城より羯霜那国(キシュ)に至る国は、毛織物、皮ごろも、皮や厚地の毛布を着用し、絹布で額を縛っていた。素葉水城の西に四百里進むと千泉に至る。その地はおよそ二百里四方で、南は雪山に面し、三方向には平地が広がっていた。泉や池が多いので千泉と命名した。西突厥の可汗が毎年千泉に避暑にやって来た。そこには鹿の群れが鈴や金属の環を付けられており、人によくなついていた。西におよそ百里進むと呾邏私(タラス)城があり、ここにも近隣諸国の比国(ソグド)商人が雑居していた。小さな城があり、三百余戸あった。この地の人々は、もともとは中国に住んでいたが、突厥に略奪されてきて、この地に住んでいた。彼らはいまでも中国語を話した。西南に二百余里行くと、白水(アクス)城に至る。平原湿潤で、地味は肥えていた。南に五十里進むと笯赤建(ヌージカンド)国があった。国土の広さは千里で肥沃だったので、作物がよく稔り、葡萄をたくさん産した。また二百里行くと石国であった。 疏勒(カシュガル)は佉沙とも言った。国の周囲は五千里で、長安から九千里余離れていた。砂漠が多く土壌は少なかった。疏勒の風俗は詭詐を尊び、子供が生まれると頭を両側から固定して扁平にした。この国の人々は刺青をし、瞳は青色であった。王の姓は裴氏で「阿摩」と自称し、迦師城に住んでいた。西突厥可汗は、娘を疏勒王の妻にしていた。疏勒の勝兵は二千人であった。この国は祆神(ゾロアスター教)を祀っていた。 貞観九年(635)、疏勒王は使者を派遣して名馬を献上し、四年後(639)にもまた朱倶波・甘棠とともに方物を貢いだ。太宗は房玄齡らに言った。「むかし天下を統一して四方の夷狄にも打ち勝ったのは、ただ秦の始皇帝と漢の武帝だけである。朕は三尺の剣を手に四海を定めたので、遠方の狄はおおむね服属した。二君(始皇帝と武帝)に劣らない功績である。しかし二君の末路は自らを保つことができなかった。公らは、よろしく互いに補弼しあって、へつらいの言葉を進めて危機存亡の状態に置かないでくれ」と。儀鳳年間(676-678)に吐蕃が疏勒を打ち破った。開元十六年(728)、初めて大理正の喬夢松に鴻臚少卿を兼務させて疏勒に派遣し、疏勒の君主安定を冊立して疏勒王となした。天宝十二載(753)、首領の裴国良が来朝したので折衝都尉を授け、紫袍と金魚を下賜した。 朱倶波(カルガリク)は、またの名を朱倶槃といい、漢の時の子合国であった。西夜・蒲犂・依耐・得若の四つの種族を併合していた。于闐の西千里、パミールの北三百里、西は喝盤陀、北に九百里行くと疏勒、南に三千里進むと女国であった。勝兵の数は二千人であった。浮層の法(仏教)を尊び、文字は婆羅門と同じであった。 甘棠は、海の南にあり、崑崙人であった。 喝盤陀(タシュクルガン)は、漢陀とも渇館檀とも言い、また渇羅陀とも言った。疏勒の西南より剣末谷に入り、不忍領を六百里進めばその国に至る。瓜州を隔てること四千五百里であり、朱倶波の西に隣接し、南は懸度山で隔てられ、北は疏勒、西は護密(ワハン)、西北は判汗国(フェルガナ)と境を接していた。王の治所はパミール高原の山中に存在した。都城の背後には徒多河(ヤルカンド川)が流れていた。勝兵の数は千人であった。その国の王はもともと疏勒人であり、代々王位を継承して王となった。西南には頭痛山があった。パミールはこの国の人々によって極嶷山と呼ばれ、喝盤陀の周囲を取り囲んでいた。この国の人々は強くて荒々しく、容貌と言語は于闐と同じであった。喝盤陀の法律においては、殺人と盗みを犯した者は死刑であり、それ以外の犯罪者は罪を金銭で贖った。租税として必ず服飾を納めた。王は金の長椅子に座った。北魏の太武帝の太延年間(435-439)に初めて中国に通好した。貞観九年(635)、使者を派遣して来朝させた。開元中に唐は喝盤陀を打ち破り、その地に葱嶺守捉を設置した。これが安西都護府の最果ての辺境守備隊であった。 于闐(ホータン)は、瞿薩旦那とも言い、また渙那とも屈丹とも言った。于闐の事を北狄は于遁と呼び、諸胡(ソグド人)は豁旦と呼んだ。長安を隔てること九千七百里、瓜州から四千余里離れていた。漢の戎盧・杆彌・渠勒・皮山の五国の故地を併合していた。王の居城を西山城と言い、勝兵四千人であった。この国には玉河があり、国人は夜、月の光がひときわ明るく反射するところを見て、必ず美玉を探し当てることができた。王は絵の描かれた部屋に住んでいた。人々は習性として、策略に長け、大言壮語を好んだ。また祅神(ゾロアスター教)や仏法に喜んでつかえた。しかし態度は恭しく謹直で、面会する時はみな跪いた。この国では木で筆を作り、玉で印鑑を作った。国人は書簡を得るとまず首に戴き、それから書を開封した。漢の武帝の時以来の中国の詔書や符節は、于闐の王が代々伝授して受け継いでいた。人々は歌舞を喜び、紡績に巧みであった。西には砂漠があり、その砂漠に住む鼠の大きさは蝟(ハリネズミ)と同じで、色は黄金であった。鼠の群れの長が穴から出入りする時、鼠の群れが従った。初め于闐には桑や蚕がなかったので、隣国にこれを乞うたが、隣国は桑蚕を于闐に輸出してくれなかった。そこで于闐王は隣国に求婚した。隣国が結婚を許したので、于闐王は花嫁を迎える際、花嫁に告げて言った。「わが国には絹がないので、自国から蚕を持ってきて自ら衣服を作るように」と。花嫁はこれを聞くと、綿の帽子の中に蚕を入れて関所を越えたので、関所役人もあえてこれを調べなかった。これ以後、于闐は初めて蚕を有することになった。花嫁は石の上に「蚕を殺してはならない。蚕が蛾となり、飛び去って初めてを処理してよい」という約定を刻ませた。 于闐王の姓は尉遅氏で、名は屋密と言った。もともとは西突厥の臣下であったが、貞観六年(622)、使者を派遣して入献させた。その後三年たって(635)、王は息子を派遣して入侍させた。阿史那社尓が亀茲を平定したので、于闐王の伏闍信は唐を非常に恐れ、息子を派遣して駱駝三百頭を献上した。長史の薛万備は阿史那社尓に向かって「公が亀茲を破ったので西域諸国はみな震え恐れています。願わくば軽装騎兵をお借りして于闐王を拘束し、京師に献上いたしましょう」と言ったので、阿史那社尓はこれを許した。唐の軽騎兵が于闐に到来し、唐の威霊を連ねて天子のもとに入見するよう勧めると、王の伏闍信は使者に従って長安にやって来た。たまたま高宗が即位したので、伏闍信に右衛大将軍を授け、息子の葉護玷に右驍衛将軍を授けて、袍帯と布帛六千段を下賜し、邸宅一区もあわせて授けた。高宗は于闐王をこの邸宅に数ヶ月留まらせてから于聞に帰らせてやった。王は、子弟を留めて宿衛にしてくれるよう高宗に請願した。上元年間(674-676)の初め、于闐王は自ら子弟の酋長や領主七十人を率いて来朝した。伏闍信に吐蕃討伐の功績があったので、高宗は于闐の地に毘沙都督府を設置して十州に分割し、伏闍雄に都督を授けた。伏闍雄が死去すると、武后は、その息子の璥を王に立てた。開元の時、于闐は馬・駱駝・豹を献上した。璥が死ぬと、また尉遅伏師を立てて王となした。尉伏師が死ぬと伏闇達が後を継いだので、唐はその妻の執失を冊立して妃となした。伏闍達が亡くなると尉遅珪が王位を継承したので、妻の馬を妃とした。尉遅珪が死ぬと息子の勝が即位した。至徳年間(756-758)初めは軍を率いて国を救うために赴こうと考え、宿衛として留まりたいと請願した。乾元三年(760)、勝は弟の左監門衛率葉護の曜を大僕員外卿、同四鎮節度副使、権知本国事となした。詳細は、勝の伝に記されている。 于闐の東三百里の所に建徳力河があり、七百里の所に精絶国があった。建徳力河の東には汗弥があった。汗弥の王は、達徳力城(ダンダン・ウィリク)に住んでいた。達徳力城はまた拘弥城と言った。達徳力城というのは即ち寧弥の故城である。みな小国であった。 初め徳宗が即位した時、内給事の朱如玉を安西に派遣して于闐の玉を求めさせた。朱如玉は、圭一つ、珂佩五つ、枕一つ、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、その他の珍宝などを得た。しかし朱如玉は帰国するに当たり、回紇人の領地を通過した時に回紇人に玉を奪われたと嘘を言った。久しくして事は露見し、市場で売られていた玉が得られたので、朱如玉は恩州に流刑となり、死んだ。 天竺(インド)国は漢の身毒国のことである。あるいは摩伽陀(マガダ)とも婆羅門ともいった。長安を去ること九千六百里で西域都護の治所からは二千八百里離れていた。パミールの南に位置し、その周囲は三万里であった。東・西・南・北・中の五つの天竺に分かれていた。各国は数百の城邑を有していた。南天竺は海(インド洋)にせまり、師子(ライオン)・豹(ヒョウ)・駱駝・犀・象・火斉・琅玕・氷砂糖・黒塩を産した。北天竺は雪山(ヒマラヤ山脈)によって隔てられており、山が壁のように取り巻いており、ただ南には出口があり、その谷あいを国の門戸となした。東天竺は海のほとりにあり、扶南・林邑に隣接していた。西天竺は罽賓(カピーシー)・波斯(ペルシア)と隣接していた。中天竺は四つの天竺国が会するところに位置した。都城は茶鎛和羅城(パータリプトラ)といい、迦毘黎(ガンジス)河の河岸にあった。都城以外の城が数百もあり、みな長を置いていた。また別の独立国が数十あり、そこには王を置いていた。舎衛(シュラーヴァスティー)といい、迦没路(カーマルーパ)といい、その国の戸口はみな東に向いていた。迦尸国(カーシー)というのはまた波羅奈ともいい、波羅那斯(ヴァーラーナシー)ともいった。中天竺の家畜に、稍割牛という動物がいた。黒色で角は細く、角の長は四尺あまりであった。十日に一度、角を切ってやらないと稍割牛は苦しんで死んでしまう。ある人は、この牛の血を飲むと五百歳まで寿命が延びると言っている。この牛の年も、これくらいであった。 中天竺王の姓は乞利咥(クシャトリヤ)氏で、または刹利ともいった。王は代々中天竺を支配し、簒奪や弑殺はなかった。中天竺の土地は湿気が多くて熱い。稲は一年に四度熟し、長いものは駱駝の体が没するくらいの高さであった。貝歯(子安貝)を貨幣とした。金剛石(ダイヤモンド)・栴檀・鬱金(サフラン)を産し、大秦(ローマ)・扶南・交趾と貿易した。人は裕福に暮らし、戸籍簿と地籍簿がなく、王の領地を耕作するものは税金を納めた。最高の礼としては足をねぶり踵をさすった。家ごとに奇楽を催す伎がいた。王や大臣はみな錦や毛織物を着用した。螺髻(もとどり)を頭のてっぺんで作り、あまった髪の毛は切って巻き髪にした。男性は耳を穿ってイヤリングをたらした。耳に黄金をかけるものもいた。耳たぶの垂れているものを上類とした。素足で過ごし、衣装は白を尊んだ。婦人は首に金・銀・真珠の首飾を飾った。死者は、その亡骸を焼き遺灰をとって卒塔婆を建てた。あるいは遺体は野原や河に遺棄し、鳥獣や魚・亀の餌にした。服喪の期間は定まっていない。謀反を起こしたものは幽閉して殺された。小さな犯罪を犯したものは金銭で罪を贖った。親不孝者は手足を斬り落とし、耳鼻を削ぎ、辺境地帯に移された。文字があり、歩暦(天文測算術)を善くし、「悉曇十二章」を学んだ。貝多羅に筆記して出来事をしるした。これをみだりに梵天法と言った。仏法を尊び、殺生や飲酒をしなかった。国中の所々を指し示して仏の古跡であると言っている。盟誓を信じ、禁呪を伝え、祈って龍を呼び起こすと雲がわき雨が降ると言っている。 隋の煬帝の時、裴矩を派遣して西域諸国と通好させたが、ただ天竺と払菻(ビザンツ)だけが来朝しなかったので煬帝はこれを恨みに思っていた。武徳年間(618-626)に天竺に大乱が起こった。王の尸羅逸多(シーラーディトヤ=ハルシャ・ヴァルダナ)が軍隊を統率して戦うと向かうところ敵なしの状態であった。戦象は鞍をはずさず兵士も甲冑を脱がず、四天竺を討ったので王達はみな北面して臣従した。たまたま唐の仏教僧の玄奘がその国を訪問した時、尸羅逸多はこれを召し謁見して言った。「なんじの国には聖人が出現し、秦王破陣楽という音楽を作ったというが、試みに私のために秦王(太宗)の人となりを話してくれ」と。そこで玄奘は太宗の神の如き武勇について大まかに説明し、太宗が世の乱れを平定し、四方の諸民族がして物を献上している状況を話して聞かせた。尸羅逸多は喜び、「私は東面して唐に朝貢しよう」と言った。貞観十五年(641)、尸羅逸多は自ら摩伽陀王を称して使節を派遣し、太宗に上書した。太宗は雲騎尉の梁懐璥に命じ節を持たせて派遣し、天竺を慰撫せしめた。尸羅逸多は驚き、国人に問うて言った。「いにしえより摩訶震旦(=中国)からの使いが、わが国に来た事があったか」と。みな、こたえて言った。「摩訶震旦からの使者が来た事はありません」と。夷狄は中国の事を摩訶震旦と呼んだのである。尸羅逸多は拝して太宗の詔書を受け、頭の上に勅書を戴いた。そこでまた尸羅逸多は中国使節の帰国に随行させて使者を答礼使として派遣し、唐に朝貢した。これに対し、太宗は衛尉丞の李義表を報使として天竺に遣わした。尸羅逸多は大臣を派遣して李義表を迎えさせ、都から隅まで李義表一行に自由に見学させて、道中で香を焚いて歓迎した。尸羅逸多は群臣を引き連れ、東に顔を向けて太宗からの勅書を受けた。尸羅逸多はまた使者を唐に遣わして、火珠・鬱金・菩提樹を献上した。 貞観二十二年(648)、太宗は右衛率府長史の王玄策を天竺に派遣し、蒋師仁を副使となした。しかし王玄策が天竺に到着する前に尸羅逸多は死去し、天竺国内は乱れて、大臣の帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が自ら即位し、軍隊を発動して王玄策の入国を拒んだ。このとき王玄策に従う騎兵は僅かに数十だったため、唐軍は阿羅那順に勝つことができず、兵士はみな死没し、諸国からの貢物は阿羅那順に略奪されてしまった。王玄策は遁走し、吐蕃の西の辺境地帯に奔走した。王玄策は周辺諸国に檄を飛ばして兵を徴発した。吐蕃は一千の兵を率いて王玄策のもとに至り、泥婆羅(ネパール)は七千騎を率いてやってきた。王玄策は部隊を分けて進軍し、茶鎛和羅城で阿羅那順の軍勢と戦い、三日間の戦いの後に阿羅那順の軍を打ち破って三千の首級を斬った。この戦いでの溺死者は一万人であった。阿羅那順は国を棄てて逃走し、散兵を合わせて再び陣地を築こうとしたが、蒋師仁がこれを生け捕りにした。捕虜にしたもの斬首したものは一千を数えた。阿羅那順の余衆が、王の妻と息子を奉じて乾陀衛江(ガンダキ)で抵抗したが、蒋師仁がこれを撃ち大破した。蒋師仁は王妃・王子を捕らえ、男女一万二千人を捕虜とし、雑畜三万を獲得し、五百八十の城を降した。東天竺の王の尸鳩摩は牛馬三万、兵糧として唐軍に送り、弓・刀・宝の纓絡もともに贈った。また迦没路国は珍奇なものを献上し、地図も献上して、それから太宗に向かって老子の像と道徳経を賜りたいと願した。王は、阿羅那順を捕らえて長安城に連行し太宗に献上した。役人達は王玄策の宗廟に報告した。太宗は「いったい人というものは、耳と目が(音楽と女色)を愛で、口と鼻が匂いと味を愛でる事にばかり耽るようになるのは、敗徳の源である。もしバラモン(=阿羅那順)が、わが使節を略しなければ、捕虜になることがあろうか」と。と言った。太宗は王玄策を抜擢して朝散大夫にした。 王玄策は天竺において道士の那邏邇娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)を得た。那邏邇娑婆寐は自ら年齢が二百歳であると言い、不死の術を持っていると称していた。そこで太宗は改めて住まわせ錬金術を治めさせ、兵部尚書の崔教礼に命じてあつく保護監視させた。太宗はまた中国全土に使者を派遣して、もろもろの奇薬や異石を集めさせ、使節を婆羅門の諸国にも派遣して異を収集させた。いわゆる畔茶法水という薬は、石臼の中から生じる。石人の像があり、これを守っている。水には七種類の色があり、熱くなったり冷たくなったりして、金をよく溶かすことができる。人がそれを手にのせると、たちまち爛れてしまう。そこで駱駝の髑髏を使って瓢の中に注ぐ。咀賴羅という名樹があった。その葉に似ており、奥深い山の中に崖にはえていた。その樹の前には巨大な穴を蝮が守っているため、樹のそばに近づくことができない。しかし咀賴羅の業を採取したいものが四角い鏃の矢を放つと、枝はすぐに落ち、鳥の群れがこの枝を運び去ってくれる。枝を銜えたこの鳥を射落とすと、咀賴羅の枝を入手することができた。奇怪なさまは、このようであった。この後、那邏邇娑婆寐の術に効力がなかったため、太宗は詔を出して天竺への帰国を許したが、帰ることができずに長安で亡くなった。高宗の時代、盧伽逸多というものがいた。東天竺の烏茶(ウドラ)の人で、また方術をもって昇進し、懐化大将軍を拝した。 乾封三年(668)、五天竺の使節がすべて来朝した。開元の時、中天竺は使者を三度派遣した。南天竺は一度使節を派遣し、人の言葉をよく語る五色のオウムを献上した。南天竺の王はそれから玄宗に対し、軍隊の応援を求めて大食と吐蕃を討伐したいといい、その軍隊に名をつけて欲しいと請願した。そこで玄宗は詔して懐徳軍の名を賜った。南天竺の使者が「蕃夷はただと帯をもって寵愛のしるしとなします」と言ったので、玄宗は、錦の袍、金で装飾された革帯、魚袋、七事(佩刀・刀子・火石など軍に必須の七つのもの)を賜った。北天竺の使者は一度だけ来朝した。 摩掲它(マガダ)は摩伽陀ともいう。もともと中天竺に属する国であった。周囲は五千里で、その土地は肥沃で農業をよくし、異稲巨粒(異常なイネと巨大な米つぶ)を有した。これを供大人米(大臣にのみ供給する米)といった。王は拘闍掲羅布羅城に住んだ。あるいは倶蘇摩補羅(クスマプラ)といい、波吒釐子城(パタリプトラ)ともいった。その北には伽河(ガンジス)がせまっていた。貞観二十一年(647)、初めて唐に使節を派遣して自ら太宗に通好し、波羅樹(菩提樹)を献上した。この樹は白楊と似ていた。太宗は摩伽陀に使者を派遣し、その国の熬糖法を学ばせた。それから揚州に詔して諸蔗(もろもろのサトウキビ)を献上させ、汁を圧搾して剤のようにさせた。色と味は西域産の砂糖よりも数段まさった。高宗はまた王玄策を派遣して摩訶菩提祠(マハーボディ)に行かせ碑を立てさせた。その後、徳宗は自らの銘をしるして那爛陀祠(ナーランダ寺院)に賜った。 また、那掲(ナガラハーラ)という国があった。これは摩掲它の属国であった。貞観二十年(646)、那揭は使者を派遣して万物を献上した。 烏茶(ウディヤーナ)という国は、烏伏那とも烏萇ともいい、天竺のすぐ南(正しくは西北)にあった。土地の広さは五千里で、東は勃律を隔てること六百里、西は罽賓の四百里のところにあった。山谷が互いに連なり、金・鉄・葡萄・鬱金を産した。稲は毎年熟した。人は物腰が柔らかで媚びへつらい、禁架術(方士の呪術)を善くした。この国には死刑はなく、死罪に相当するものは奥深い山に放置した。疑いのあるものには薬を飲ませ、尿の清濁を見て罪の軽重を決定した。五つの城があり、王は術曹蘖利城に住んだ。この城は瞢掲釐城(ミンゴーラ)ともいい、その東北に達麗羅(ダレル)川があった。この川はかつて烏萇の土地であった。貞観十六年(642)、王の達摩因陀訶斯が使者を派遣して龍涎香を献上したので、太宗は璽書を下して優答した。大食がこの国の東の辺境地帯に接していた。開元中に、大食がしばしば誘ったが、烏萇王と骨咄・倶位の二王は大食の臣下になることを承知しなかった。玄宗は使者を派遣し、王を冊立した。 章求抜国は章掲抜ともいい、もともとは西羌の種族であった。悉立の西南の四山の山中に住み、後に山の西に移住して東天竺と隣接するようになった。その国の衣服は東天竺と似ており、東天竺に属するようになった。そのは八、九百里あまりで兵は二千人、城郭がなく、掠奪を好んだので商旅はこれに悩まされた。貞観二十年(646)、王の羅利多菩伽が悉立国によって使者を派遣して入朝した。王玄策が中天竺を討伐した時、章求抜国の王は援軍を派遣して王玄策を支援し、功績を立てた。それ以来、朝貢は絶えなかった。 悉立国は、ちょうど吐の西南に位置した。戸数は五万戸で、城邑の多くが渓流のそばにあった。男子は絹帯で頭髪を結び、氈褐(毛織物)を着用した。婦人は短いスカートを着た。婚姻に結納がなかった。穀物・豆をよく産した。死者に葬られ、盛り土をし、木を植えて墓をつくることがなかった。この国では人々は黒衣を着用し、丸一年が過ぎると服喪の期間が終わり、黒衣を脱いだ。刑罰には刖(あしきり)と劓(はなそぎ)があった。常に吐蕃に従属した。 罽賓(カピーシー)は、隋の漕国である。罽賓はパミールの南にあり、長安をへだてること一万二千里余であった。罽賓の南三千里のところに舎衛(シュラーヴァスティー)があった。王は修鮮城で統治し、常に大月氏に属していた。その地は暑くて湿気が多く、人々は象に乗り、仏法に従って支配していた。 武徳二年(619)、使者を派遣して朝貢し、宝石で象嵌された玉帯、金の鎖、水晶製の小さな杯、小さな棗のような形をしたガラスを献上した。貞観中には名馬を献上したので、太宗は大臣に詔して言った。「朕が初めて即位した時、あるものが天子というものは兵を輝かして四方の夷狄を屈服させるものであると申したが、ただ魏徴だけは朕に向かって、文徳を修めて中華を安んじるようにと勧めたものである。中華が安んじれば、遠方の異民族も威服するであろう、と。いま天下は大いに安んじ、四方の君主達はみな来献した。これは魏徴の力によるものだ」と。そこで太宗は、果毅の何処羅抜らを派遣して篤く罽賓国に賜わりものを下し、あわせて天竺も慰撫させた。何処羅抜が罽賓に到着すると、罽賓王は東に向き、頭を地につけて再拝した。また部下を遣わして唐の使節一行を天竺まで護衛して道案内させた。貞観十六年(642)、褥特鼠(マングース)を献上してきた。この鼠は鼻がとがっていて尻尾が赤く、ヘビを取って食べた。毒に刺されたものがいると、褥特鼠はこれを嗅いで尿をかけた。すると傷がたちまち治った。 国人はみな罽賓王の始祖は馨孽(ヒンギラ)といい、曷擷支に至るまで十二代にわたって王位が継承されてきたと伝えている。顕慶三年(658)、罽賓の地を修鮮都督府となした。龍朔の初め、罽賓王を修鮮城等十一州諸軍事および脩鮮都督に任命した。開元七年(719)、罽賓は使者を派遣して天文学の書と秘法の奇薬を献上したので、玄宗は罽賓王を葛邏達支特勒に冊立した。のち烏散特勒灑が年老いて息子の払菻婆に後を継がせたいと請願してきたので玄宗はこれを許可した。天宝四載(745)、玄宗は罽賓王の息子の勃匐準を冊立し、罽賓王と烏萇王を継承させた。乾元の初め(758)、罽賓の使者が朝貢してきた。