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十八史略卷之四四一四侃.嘗て、夢に八翼を生じて天門に上り、八重に至り、左翼を折つ陶侃折翼のて下る。力能く跋扈するも、折翼の夢を思ふ毎に、輒ち自ら制す。夢は、軍に在ること四十一年、明毅善く斷ず。人欺く能はず南陵より白帝に至るまで、數千里、路、遺ちたるを拾はず。そ後趙の石虎、其主弘を殺して、自立して趙の天王となり、勒の種の二を殺して遺すなし。成、國號を改めて漢といふ。李雄、兄の子班を以て太子となす。雄、卒す。班、立つ。雄の子越、班を殺して、其弟期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて、外に屯せしむ。壽、還り襲うて、期を弑して自立す。什翼犍代王什翼腱立つ。之より先、代王賀侮卒す、弟紇那嗣ぐ。紇那、出奔す。欝律の子、翳槐立つ。紇那、復た還る。翳槐、趙に奔る。趙、翳槐を代に納る。翳槐、卒するに臨み、諸大人に命じて、弟什翼犍を立てしむ。猗虚の死せしより國に內難多く、部落離散す。什翼腱、雄勇にして智略あり、能く祖業を修む。始めて、百官を制뫃し、號令明白、政事〓簡、百姓之に安んず。是に於て、東は減貊より西は破落那に及び、南は陰山を距て、北は沙漠に盡くるまで、さ率ね皆歸服す。衆數十萬人あり。拓跋氏、之より愈よ大なり。晉の丞相王導、卒す。初め、帝、位に卽いて沖幼、導を見る毎に、必ず拜す、旣に、冠するも、猶ほ然り。政を導に委す。導、門東晉-顯宗成皇帝-四一五 十八史略卷之四四一六地を以て、王述を掾となす。述未だ名を知られず、人之を痴といふ。旣に見るや、江東の米價を問ふ。述目を張つて答へず。導ず王掾痴なら曰く、王掾、痴ならずと。導、言を發する每に、一座賛歎せざるな?し述色を正しうして曰く、人堯舜に非ず、何ぞ每事善を盡すを得むと。導容を改めて、之を謝す。導、性寬厚、委任する所の諸將、多く法を奉ぜず。大臣、之を患ふ。庾亮、兵を起して導を廢すせむと欲す。或ひと、導に勸めて密に備へしむ。導曰く、吾、元規と休戚、是れ同じ。元規、若し來らば、吾、則ち、角巾して第に歸らむ、復た何ぞ懼れむやと。亮、外鎭に居ると雖も、然も、はるかに朝權を執り、上流に據つて强兵を擁し、勢に趨く者多く之に歸す。국導、內平なる能はず。嘗て、西風に遇ふて塵起るや、扇を擧げて、くわよ〓自ら蔽ひ、徐に曰く、元規の塵、人を汚すと。導、簡素寡欲、善く;事に因つて功を就す。日用の益なじと雖も、然も、歲計は餘あり。ちよこ〓は、三世に輔相として、倉に儲穀なく、衣、帛を重ねず。晉の司空庾亮卒す。初め、蘇峻の亂、亮之を激するなり。峻; 平らぐや、亮、泥首して罪を謝し、外鎭を求めて、自ら致す。後、と江〓等の州の諸軍事を都督す。殷浩を辟して、參軍となす。浩、褚哀と、皆、識度〓遠、善く老、易を談じ、名を江東に擅にす。而して、浩、尤も風流の爲に宗とせらる。亮、中原を開復せむと欲す。上疏して、大衆を率ゐ、移つて石城に鎭し、諸軍を遣はして、江汚東晉-顯宗成皇帝-四一七 十八史略卷之四四一八に羅布せしめて、趙を伐つの規を爲さむを請ふ。蔡謨曰く、大江を以て蘇 峻を禦ぐこと能はず、安んぞ能く沔水を以て石虎を禦がむと。乃ち亮に詔して、鎭を移すを聽さず。是に至つて武昌に卒す。晉、慕容皝を封じて燕王となす。旣の父、遼東公となつてより、旣を立てて世子となす。雄毅にして權略多く、經術を喜ぶ。魔卒すす。皝立つ。其下、勸めて、王と稱せしむ。皝晉に謂はしむ、遂に之を封ず。と、帝在位十八年、頗る勤儉の德あり。改元するもの二、曰く、咸和咸康。崩ず。二子丕、奕、襁褓に在り、帝の母弟瑯琊王立つ、これを康皇帝となす。【康皇帝】名は嶽、成帝崩ずるに臨んで、嶽を以て嗣となす。遂に卽位す。一.庾翼都督〓江等の州の軍事庚翼、人と爲り慷慨、功名を喜んで、浮華を尙ばず。殷浩、才名、世に冠たり。翼、之を重んぜずして曰く、この輩、宜しく、之を高閣に束ね、天下太平を俟つて、徐に其任を議すべきのみと。時人、浩を管葛に擬し、其出處を伺うて、以て興亡をトす。曰く、淵源出でざれば、當に蒼生を如何すべきと。翼、浩を請うて、司馬となす。應ぜず。翼王夷甫を以て、之を嘲る。す桓溫瑯琊の内史桓溫、豪爽にして風〓あり。翼、嘗て之を薦めて曰く、英雄の才、宜しく委ぬるに方召の任を以てすべしと。是に至つて、東晉-康皇帝-四一九 十八史略卷之四四二〇〓翼、胡を滅し、蜀を取るを以て己の任となし、衆を悉くして、北伐せむと欲し、移つて、襄陽に鎭す。翼に詔して、征討諸軍を都督せしむ。翼溫を以て、前鋒の督となす。漢主李壽、卒す。子勢立つ。帝在位三年、崩ず。改元するもの一曰く、建元。太子立つ、之を孝宗穆皇帝となす。총【孝宗穆皇帝】名は聃、三歲にして卽位す。會稽王昱、政を輔く。庾翼、卒す。桓溫を以て、〓梁等の州の軍事を都督せしむ。翼ヘ初め其子を表して〓州を領せしむ。何充曰く、〓楚は國の西門、豈に白面の少年を以て之に當つべけむや。桓溫は、英略人に過ぐ、西溫が不臣の志あるを知り、任、溫に出づる者なしと。丹陽の尹劉惔、昱に謂つて曰く、溫は形勝の地に居らしむべからずと、昱聽かず。竟に溫を以て、翼に代ふ。漢主李勢、驕淫にして、國事を恤ひず。桓溫、師を師ゐて、漢を伐つ。拜表して、卽ち行く。進んで成都に至るや、勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。燕王慕容就、卒す。子雋立つ。;·趙天王石虎、帝と稱す。尋いで卒す。子世、立つ。(其兄遵、之を弑して自立す。趙、亂る。晉の征討都督褚哀、表して、趙を伐つをそ請ふ朝野以爲へらく、中原期を指して復すべしと。蔡謨、獨り以東晉-孝宗穆皇帝-四二一 十八史略卷之四四二二評爲へらく、を捜査 (電話力を量るに若くはなし、は急ずり所德を度り、謂德ら度の分表を經營すれば、哀5,カ恐らくは、憂、朝廷に及ばむと。將を遣す。果して敗沒す。燥して敗る焦進する者必ず趙の蒲洪、使を遣して、晉に降る。洪、趙に事ふる累世。是に至つて、石閔、趙主遵に言つて曰く、蒲洪は人傑なり。今、關中に鎭す。恐らくは秦雍、國家の有に非ざらむと。遵洪の都督を罷む。洪、怒つて、枋頭に歸り、遂に晉に通ず。凉州の張重華、自ら凉王と稱す。初め、惠帝の世、張軌、凉州刺史となり、威西土に著はる。懷帝の陷沒するや、軌兵を遣して、愍帝を長安に助く。帝、軌を以て、凉州の牧西平公となす。軌卒す。子寔、立つ。寔、妖賊の爲めに殺さる。弟茂、立つ。趙主劉曜、茂を擊つ。茂趙に降る。茂、卒す。寔の子駿、立つ。茂、終に臨んで、駿に語る、必ず晉に奉ぜよ、失ふべからずと。駿復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ぢ、成帝の時、道を蜀に假り、以て晉に通ず。駿、卒す。子重華、立つ。晉使を遣し、仍つて、西平公に拜す。重華、自ら王となる。後趙の石鑑、其主遵を弑して、自立す。石閔、又鑑を幽し、之をこと〓〓殺して自立し、國號を改めて魏といひ、虎の三十八孫を殺し、盡さく石氏を滅す。閔、姓は冉、石氏に養はる。是に至つて、其姓に復す。後、燕に破られ、執へて之を殺す。蒲洪、自ら三秦王と稱し、姓を苻と改む。洪、先に趙將麻秋を擒東晉-孝宗穆皇帝-四二三 十八史略卷之四四二回にす。殺さずして、其言を用ゐ、宴するに因つて、秋に鴆せらる。千萬元秋を斬り、代つて、洪の衆を領す。健、長安に入り、自ら秦天王と稱し、旣にして、帝と稱す。燕王雋、帝と稱す。趙の姚襄、晉に歸し、復た叛す。襄の父弋仲は、南安赤亭の羌曾なり。懷帝の末、戎夏、襁負して、之に從ふ者數萬、自ら扶風公と稱す。其後前趙の劉曜に服し、又、後趙の石勒、石虎に事ふ。虎、甚だ之を重んじ、以て冠軍大將軍となす。虎死し、趙亂る。冉閔、趙を滅すに至つて、七仲、使を遣して、晉に降る。七仲、卒す。寒、其衆を率ゐて、晉に來る。襄に詔して、誰城に屯せしし)む。後、歷陽に屯す。揚豫州の都督般浩、壽春に在り。襄の强盛を1惡み、將をして之を襲はしむ。襄に斬らる。之より先、朝廷、中原大に亂ると聞き、復た進取を謀る。浩.任を受け、連年北伐して功なし。是に至つて、諸軍を率ゐて、再擧す。襄、甲を伏せて、之を邀ふ。浩、山桑に至る。襄縱擊す。浩、大に敗れて走る。凉の張重華卒す。子曜靈立つ。其下、之を廢して張祚を立つ。晉の桓溫、殷浩の敗に因つて、請うて、浩を廢し、免じて庶人となす。朝廷、初め、浩を以て溫に抗す。浩、廢す。是より、內外の大權、一に溫に歸す。浩、愁怨すと雖も、辭色に形はさず、嘗て、とつ!さ、空に書して、咄咄怪事の字を作る。之に久しうして、郗超、溫に勸東營-孝宗穆皇帝-四二五 十八史略卷之四四二六評を誤殷非非非たて空十慮あ浩數つら答所亦を囘てん書め、浩をして、令僕に處らしめ、書を以て、之に〓ぐ。浩、欣然た似似似亡達竟開事にり。答書、誤あらむことを慮つて、開閉すること十數、竟に空函而而而びしに閉英る身函を達す。溫、大に怒つて、遂に絕つ。謫所に卒す。學者雄桓溫、師を師ゐて、秦を伐ち、大に秦兵を藍田に敗り、轉戰して國士を暴灞上に至る。秦主苻健、長安の小城を閉ぢて、自ら守り、三輔、皆と露のいす眞ふる相べし來り降る。溫、居民を撫諭して、安堵せしむ。民、爭つて、牛酒を持して迎勞し、男女路を夾んで之を觀、耆老泣を垂るる者あり、日く圖らざりき、今日復た官軍を觀むとはと。北海の王猛、字は景王猛虱を捫談ず旁若無つて當世を略個儻にして大志あり、華陰に隱居す。溫の關に入るを聞いて、人褐を披いて、之に謁し、虱を捫つて、當世の務を談ず、旁に人なき評が若し。之を異とし、猛に問うて曰く、吾、命を奉じて、殘賊る桓天失遂の溫に明人溫、く見王なを猛ふてを下ひを併を除く、然るに、三秦の豪傑、未だ至る者あらざるは、何ぞや。猛失せは曰く、公、數千里を遠しとせず、深く敵境に入る。今、長安は咫尺なり。而して、滿水を渡らず、百姓未だ公の心を知らず、至らざる所以なりと。溫、默然として以て應ずるなし。溫、秦兵と白鹿原に戰ふ、利あらず。秦人、野を〓む。溫の軍、食に乏し。猛と倶に還らむと欲す、猛、就かず。秦主健、卒す。子生、立つ。凉の張祚、淫虐にして弑せらる。子玄觀立つ。上姚襄、燕に降り、北、許昌に據り、又洛陽を攻む。桓溫、諸軍を東膏-孝宗穆皇帝-四二七 十八史略卷之四四二八督して、襄を討ち、進んで河上に至り、寮屬と共に平乘樓に登り、北、中原を望んで歎じて曰く、神州をして陸沈せしむる百年、王夷甫諸人、其責に任ぜざるを得ずと。伊水に至る。襄、戰つて、頻りに敗れて走る。溫、金墉に屯し、諸陵に謁し、鎭戍を置いて歸る。襄將に、西、關中を圖らむと欲す。秦、兵を遣し、拒ぎ擊つて、襄を斬る。襄の弟 長、衆を以て秦に降る。秦の苻堅、其君生を弑し、自立して、秦の天王となる。王猛を堅に薦むる者あり、一見、舊の如し。自ら謂ふ、玄德の孔明に於ける苻堅王猛一見如舊が如しと。一歲中、五たび官を遷す。異才を擧げ、廢職を修め、農桑を課し、困窮を恤む。秦民大に悅ぶ。燕主慕容雋、卒す。子障立つ。晉の桓溫、謝安を以て征西司馬となす。安、少にして重名あり、前後徵辟、皆、就かず。士大夫、相謂つて曰く安石出でずむば、蒼生を如何と。年四十餘、乃ち出づ。帝在位十七年、崩ず。改元するもの二、曰く、承和、升平嗣なし成帝の子瑯琊王立つ。之を哀皇帝となす。【哀皇帝】名は不、卽位二年にして疾に寢ね、又一年にして崩ず。改元するもの二、曰く、隆和、興寧。弟瑯琊王立つ、之を帝奕となす。【帝奕】名は奕、成帝の幼子なり。旣に位に卽き、會稽王昱を以て東菅-孝宗穆皇帝-哀皇帝-帝奕-ニ元 十八史略卷之四四三〇じようしやう丞相となす。くわんをんだいしはせうしよ桓溫、哀帝の時より、大司馬となり、中外諸軍事を都督し、尙書ろくやうしうBillう。こじゆくちんうてうの事を錄し、揚州の牧を加へられ、移つて、姑孰に鎭す。郗超を以髯參軍短主わうじゆんしゆほぜんさんぐんたんしゆ簿て參軍となし、王珣を主簿となす。人、語して曰く、髯參軍、短主ぼ上こうよろこいか簿能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむと。えんじんらくやうせおとしいじゆしやうをんしひき燕人、洛陽を攻め陷る。戌將、之に死す。溫、師を率ゐて、燕をうばうとうやぶかへ桓溫枋頭の伐ち、枋頭に戰ひ、大に敗れて還る。敗えんぼようすゐしんぐんげきはゐめいひ燕の慕容垂、旣に晉軍を擊破し、威名日に盛なり。燕王、之を忌すゐしんはしむ。垂、秦に奔る。わうまうしよぐんとえんうげふかこ、しんしゆふけん秦の王猛、諸軍を督して、燕を伐ち、遂に鄴を圍む。秦主苻堅、えんしゆぼようゐS鄴に入り、燕主慕容暐を執へて、以て歸る。しんくわんをんふしんたくはまくらたんだん評桓溫述懷晉の桓溫、不臣の志を蓄ふ。嘗て、枕を撫して、歎じて曰く、男の一語なが"text "〓〓じはうまさしうばんねんのこ男兒、芳を百世に流す能はざれば、亦た當に臭を萬年に遺すべしと。野にんる然一年亦心しもにの丈は當しやくばうとうゐ先づ功を立て、還つて九錫を受けむと欲す。枋頭の敗に及びて、威めいとみくじちてうをんす、いくわくだいゐけんもに名頓に挫く、郗超、溫を勸めて、伊霍の事を行ひ、以て大威權を立家て亦止るを後往またいこうにくはいしてしむ。溫、遂に入朝し、太后に白して、帝を廢す。在位六年、改くわいけいわうたかんぶんくわうていのらあし元するもの一、曰く、太和。會稽王立つ、之を簡文皇帝となす。りむいくせいきよくわよくよ【簡文皇帝】名は昱、元帝の子なり。〓虛寡欲、尤も玄談に善し。くわんをんむか桓溫、迎へて位に卽かしむ。九閱月にして不豫なり。急に桓溫を召たすしよかつぶニわうじようしやうこじして、入つて輔けしめ、諸葛武侯、王丞相の故事の如くす。溫東菅-帝奕-簡文皇帝-四三一 十八史略卷之四豐帝の終に臨んで位を禪り、然らざれば、卽ち攝に居らむを望みしが望む所に副はず。時に、謝安、王坦之、朝に在り。溫、坦之と安と、其事を沮みしを疑ひ、心甚だ之を衝む。帝在位、改元するもの一、曰く减安。太子立つ、之を烈宗孝武皇帝となす。【烈宗孝武皇帝】名は昌明、年十歲にして卽位す。し 、桓溫來朝す。謝安、王坦之に詔新亭に迎へしむ。都下恟恟云ふ。王謝を誅し、因つて晉祚を移さむと。坦之、甚だ懼る。安、神色變せず。百官道側に拜す。溫、大に兵衞を陳して、朝士諸侯道あれを延見す。坦之、汗を流して衣を沾し、倒に手板を執る。安、從容ば守四隣に在りとして、席に就き、溫に謂つて曰く、安聞く、諸侯道あれば、守、四隣に在りと。明公、何ぞ、壁後に人を置くを須ゐむや。溫笑つて曰く、正に自ら爾らざる能はずと。遂に命じて之を撤せしめ、安とこ笑語して日を移す。都超、帳中に臥して、其言を聽く、風動いて帳入幕の賓開く。安、笑つて曰く、都生は、入幕の賓といふべしと。溫、疾あずつて、姑孰に還る。疾篤し。諷して、九錫を求む。安、坦之、さらに其事を緩うす。尋いで卒す。秦の丞相王猛卒す。秦主堅、之を哭して曰く、天、吾をして六合を平一せしむるを欲せざるか、何ぞ吾が景略を奪ふの速なるやと猛、終に臨んで、堅に謂つて曰く、骨、江南に僻處すと雖も、然れども、正朔相承け、上下安和。臣沒するの後、願はくは、晉を東晉-烈宗孝武皇帝-四三三 十八史略卷之四詈以て圖となす勿れ。鮮卑、西羌は、我が仇敵、終に人の患を爲さむ。宜しく漸く之を除いて、以て社稷を安んずべしと。凉秦に降る。是より先、張玄靚の叔父天錫、玄觀を殺して自立す。天錫、酒色に荒み、政亂る。秦、之を伐ち、兵、姑臧に至る。天錫、面縛して出づ。長安に送る。代王拓跋什翼犍の世子寔、早く卒す。繼嗣未だ定まらず庶長子遂、其諸弟を殺し、〓せて、什翼犍を殺す。秦兵の代を擊つに會して部衆逃散し、國中大に亂る。秦主苻堅、代を分つて二部と爲し、河より以東は、代の南部大人劉庫仁に屬し、河より以西は、匈奴の劉衞辰に屬し、其衆を統べしむ。代の世子寔の子珪、尙ほ幼なり。母賀氏、珪を以て、走つて賀訥に依り、旣にして、庫仁に依る。庫乞、珪を奉じて恩謹、廢興を以て意を易へず。ちんぎれ晉秦人の强盛なるを以て憂となし、詔して、良將の北方を鎭禦兄の子玄を以て詔に應ず。に玄謝壓をての子すべき者を求む。謝安、郗超、之を歎じて曰く、安の明、乃ち能く衆に違うて親を擧ぐ。玄の才、擧ぐる所に負かず。吾、嘗て、其才を使ふを見るに、展履の間と雖も、未だ嘗て其任を得ずむばあらずと。玄、廣陵に鎭す。劉牢之を得て、參軍となす。戰つて、捷たざるはなく、北府兵と號す。敵人、之を畏る。秦兵を遣し、道を分つて、晉に寇し、諸郡を陷れ、襄陽の刺史東晉-烈宗孝武皇帝-四三五 十八史略卷之四四三六評大家認定食朱序を執へて、大擧を議す。りせのつを妄訓慢以て歸る。既にして、或は曰く、晉に用りを王長江の險在り。堅曰く、吾の衆を以てすれば、鞭を江に投ずるも、所收集中 -其流を斷つべしと。時に中外皆諫む。惟だ慕容垂、姚萇、其黌に乘し失能以をざき所ぜむと欲して、之を勸めて南伐せしむ。堅、遂に長安の戍卒六十餘と、萬、騎二十七萬を發す。晉、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を-前鋒都督となし、衆八萬を率ゐて之を防がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛瀾に趨き、直に水を渡つて、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸繼いで進む。堅、壽陽城に登つて望み見るに、晉兵、部陣嚴整なり。又、八公山の草木を望み見て、皆、以て晉兵となし、憮然として懼るる色あり。晉兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して、すこしく却け、我が兵をして渡るを得しめよ。以て勝負を決する、可ならむかと。堅晉兵に聽して、半ば渡る時、之を蹙めむと欲し、兵を摩いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在り、呼んで曰く、秦兵敗ると。遂に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗る。走る者、風聲鶴唳を聞いて、貴、以て晉兵至るとなす。堅狼狽して長安に還る。慕容垂、秦に叛き、河内に起り、自ら燕王と稱す。姚萇、秦に叛き、北地に起り、自ら秦王と稱す。是を後秦となす。慕容冲、秦に叛き、兵を平陽に起して、帝と稱す。之を西燕とな東管-烈宗孝武皇帝-四三七 十八史略卷之四翼す。長安を攻む。秦主苻堅、出奔す。後秦王萇、執へて、之れを弑す。評謂治國の能謝安は所晉の太保謝安、卒す。安、文雅、王導に過ぐ。德量あり、秦寇の臣なり至るに方つて、朝野震動す。安、夷然として、碁を圍んで、墅を賭石ゆにす。捷書至る、安、方に客と碁す。覽畢つて、坐側に實き、喜色なし。客、之を問ふ。徐に曰く、小兒輩、遂に賊を破ると。客、去産る。安、戶に入り、喜ぶこと甚しく、履齒の折るるを覺えず。其情を矯め物を鎭すること、此の如し。秦主苻堅の子丕、帝を晉陽に稱す。拓拔珪、復た立つて代王となる。之より先、劉庫仁、其下に殺され、弟頭眷、代つて其衆を領す。庫仁の子顯、頭眷を殺して自立又珪を殺す。さむと欲す。珪、賀蘭部に奔つて、其舅に依る。諸部せいら、の大人、珪を推して主となし、遂に王位に卽く。徒つて、盛樂に居魏る。後、改めて魏と稱す。燕王垂、帝を中山に稱す。西燕の人、其主冲を弑して、段隨を立つ。又、隨を殺して慕容忠を立つ。又、忠を殺して慕容永を立つ。永、秦主苻不を擊つ。조、敗れて南走し、晉の將軍に邀へ擊たれて殺さる。慕容永、帝を長子に稱す。秦の疏族持登、帝を南安に稱す。東晉-烈宗孝武皇帝-四三九 十八史略卷之四圏後秦の姚長、是より先、旣に、長安に入つて、帝と稱す。苻登、兵を引いて、數ば後秦と戰ふ。互に勝負あり。後秦の主姚萇卒す。子興立つ。登を擊つて之を殺す。燕主垂、西燕を擊つて、長子を拔き、西燕主永を殺す。燕主垂卒す。子寶立つ。苻堅の敗れてより、中原大に亂る。其大なるもの慕容氏、姚氏、迭に大號を擧ぐ。其時に乘じて起る者、秦の故臣呂光の如き、凉州きつぷ!に據つて、凉天王と稱す。鮮卑の乞伏國仁、隴右に據つて西秦王とと稱す。國仁卒し、弟乾歸、之に繼ぐ。又、鮮卑の禿髪烏孤あり、南凉河西に起り、南涼と號す。晉、秦を敗つてより以後、江左無事會稽王道子、政を爲す。帝評底直ちやうせいあら、にご希望酒を嗜んで、·流連するのみ。長星見はる。帝、酒を擧げて、之に向ばんこ挿話む端る 。ほつて曰く、長星、汝に一杯の酒を勸む。世、豈に萬年の天子あらむの前らら國ずずんやと。張貴人、年三十、寵、後宮に冠たり。醉中之に戯れて曰く、汝、年を以てすれば亦た當に廢すべしと。貴人、婢をして其面を蒙はしめて、之を弑す。在位十五年。改元するもの二、曰く寧康、太元太子立つ、之を安皇帝となす。け【安皇帝】名は德宗、幼にして不慧、口言ふ能はず、寒暑飢飽、辨ぜず、飮食寢興、皆己より出づるに非ず。既に、位に卽くや、會稽東晉-烈宗孝武皇帝-安皇帝-圖 十八史略卷之四圖王、太傅を以て政を輔く。魏王拓拔珪、連歲燕を攻め、進んで中山を圍む。燕主慕容寶、出奔す。後、其下に弑せらる。燕の慕容祥、帝と稱す。慕容麟、襲うて祥を殺して自立す。魏王理麟を破つて、之を走らしむ。麟、慕容德に奔り、德の爲に殺さ南燕る。德往いて、廣固に據り、後、帝と稱す。是を南燕となす。北燕燕の慕容盛、帝を龍城に稱す。是を北燕となす。魏王珪、帝と稱し、平城に都す。北涼凉の段業、凉王と稱し、張掖に據る。是を北凉となす。しんせいみだ晉の會稽王道子、專ら政事を以て世子元顯に委す。晉政亂る。東土囂然たり。妖賊孫恩、民心の騒動するに因つて、海島より出でて;劉裕亂を爲す。劉裕、恩を討つて功あるに因つて起る。北凉の沮渠蒙遜、段業を弑して自立す。蒙遜は、匈奴の種なり。後、姑臧に遷る。凉王呂光、卒す。子紹立つ。庶兄纂、弑して之に代る。呂超、し、又纂を弑して、其兄隆を立つ。隆、後、秦に降り、凉亡ぶ。西凉隴西の李暠、燉煌に據る。是を西凉となす。後、酒泉に徒る。柔然、漠北より起り、高車の地を奪つて、之に居り、諸部を呑併す。士馬繁盛、北方に雄たり。其地、西、焉耆に至り、東、朝鮮にん、接し、南、大漠に臨み、旁の小國、皆覊屬し、魏と敵となる東晉-安皇帝-圖 十八史略卷之四■晉の盜孫恩、數ば劉裕等に敗られ、海に赴いて死す。其黨廬循、 徐道覆、復た起る。桓玄反す晉の桓玄、反す。初め、玄、父溫に嗣いで南郡公となる其才地を負み、雄豪を以て自ら處る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、評桓玄豪語父は九州の伯たり、子は五湖の長たりと。官を棄てて國に歸る。後3층江州の刺史となり、尋いで、〓江等八州の軍事を都督し、江陵に據大多數據のを身自すを大る過ぼ失ににずも家て郞る。是に至つて、兵を擧げて、建康に入り、元顯を殺し、又道子をぎすひに亡殺す。玄、相國となつて楚王に封ぜられ、九錫を加ふ。既にして、帝に迫つて、位を禪らしむ。劉裕、兵を京口に起して玄を討ち、玄の兵と戰ひ、大に之を破る。玄、出走す。首を江陵に斬る。帝、位に復す。劉裕、京口に鎭す。かくれんぽつ!秦の赫連勃勃、秦に叛いて、朔方に據り、自ら大夏天王と稱す。勃勃は、故の匈奴の劉衞辰の子なり。晉、南燕を伐つ。之より先、南燕主慕容德卒し、兄の子超立ち、晉邊を侵略す。劉裕、抗表して之を伐つ。専りて北燕、其臣馮跋の爲に滅ぼさる。之より先、北燕主盛、其下に弑せられ、叔父熙立つ。跋罪を熙に得、之を弑して、熙の養子高雲を立つ。未だ幾ならずして、又雲を弑して自立す。魏主、人の夫を殺して其妻を納れ、之と子紹を生む。兒狼無賴。け、珪を弑す。齊王嗣、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と諡し、廟を烈東晉-安皇帝-國立五 十八史略卷之四四四六祖と號す。管の劉裕、廣固を拔き、慕容超を執へ、建康に送つて之を斬る。南燕亡ぶ。盧循、劉裕の北伐に乘じて、番禺より出で、直に下つて建康を襲ふ劉裕、徵されて急に還る。諸軍力戰す。循乃ち退く。裕追うて、之を破る。循交州に走り、刺史の爲に敗らる。首を斬つて建康に送る。西秦の乞伏韓歸、其下の爲に弑せらる。子熾盤立つ。西秦、襲うて南涼を滅す。之より先、南凉主禿髪烏孤、卒す。弟利鹿孤、立つ。卒す。弟侮檀、立つ。是に至つて、乞伏熾盤の爲に襲はる。侮檀を以て歸つて之を殺す。南凉亡ぶ。後秦主姚興、卒す。子泓、立つ。晉の大尉劉裕、之を伐つて、彭城を發し、洛陽より武關、潼關に道して長安に入る。泓敗れて、出でて降る。建康に送つて、之を斬る。後秦亡ぶ。て米干しゆぼつ·夏主勃勃、裕の秦を擊つを聞いて曰く、裕必ず關中を取らむ。然れども、久しく留まる能はず。若し子弟諸將を以て之を守らしめば、吾、之を取ること、芥を拾ふが如きのみと。是に至つて、三秦の父老、裕の將に還らむとするを聞き、門に詣つて流涕して曰く、ひと〓〓殘民、王化に霑はず、今に於て百年。始めて、衣冠を觀、人人相賀す。公、之を捨てて、何に之かむと欲するかと。裕彭城に還る。東賣-安皇帝-麗 十八史略卷之四四四八勃勃、長安を陷れて、帝と稱し、統萬に歸る。晉、裕を以て相國宋公となし、九錫を加ふ。裕識に昌明の後尙は三帝ありと云ふを以て、乃ち人をして音帝を繼らしあて、之を弑す。在位二十三年。改元するもの一一、曰く、隆安、義熙。義熙元年より十四年に至るまでは、乃ち劉裕政を爲すの日なり。弟瑯琊王立つ之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は德、卽位の明年、劉裕、爵を進めて宋王となり、彭だ城より移つて壽陽に鎭す。又明年、裕建康に還る。帝、在位改元するもの一、曰く、元熙。位を裕に禪る。旣にして、弑せらる。東晉は、元皇帝より、是に至るまで、凡そ十一世、一百四年。西晉、東晉、通じて、一百五十六年にして亡ぶ。南北朝南朝は、晉より以て之を宋に傳へ、宋、之を齊に傳へ、齊、梁に傳へ、梁陳に傳ふ。北朝は、諸國、魏に併せられてより魏後、分れて西魏、東魏となり、東魏は北齊に傳へ西魏は後周に傳へ、後周は北齊を併せて、之を隨に傅へ隨陳を滅し、然る後に、南北、混じて一となる。今、南を以て提頭となして、北を其間に附す。東晉-恭皇帝-南北朝國四九 十八史略卷之四四五〇西紀自四二宋○至四七八丁一南を日せ、【宋高祖武皇帝】姓は劉氏、名は裕、彭城の人なり。相傳へて、楚の元王交の後となす。裕生まれて、母死す。父、京口に僑居し、將に之を棄てむとす。從母、救うて、之を乳す。長ずるに及びて、勇健大志あり、わづかに、字を識る小字は寄奴、嘗て行いて 大蛇に遇ひ、擊つて、之を傷く。後、其所に至り、群兒の藥を擣くあらるを見る。裕、問ふ、何をか爲す。答へて曰く、吾が王、劉寄奴に傷けらる。裕曰く、何ぞ之を殺さざる。兒曰く、寄奴は王者なり、死せずと。裕之を叱す、卽ち散じて見えず。初め、劉牢之の軍事に參たり。嘗て、賊を覘はしむ。賊數千人に遇ふ。裕長刀を奮つすて、獨り、之を驅る。衆軍、因つて、勢に乘じて、進み擊つて、大に之を破る。裕、之に因つて、名を知らる。其後、將相たること、二十餘年。桓玄を誅し、孫恩、盧循を平らげ、南燕、後秦を滅して卒に晉の禪を受く。西凉の李暠、卒す。諡して、武昭王といふ。子歌立つて、數年、是に至つて、北涼の沮渠蒙遜に誘はれ、與に戰つて、之に殺さる西凉亡ぶ。宋主在位三年、改元するもの一、曰く永初、殂す。太子立つ、之を廢帝榮陽王となす。南北朝宋WIN 十八史略卷之四豐【廢帝榮陽王】名は義符。年十七にして卽位す。喪に居て禮なく、遊〓度なし。太子立魏主嗣、殂す。明元皇帝と證し、廟を太宗と號す。子燾立つ。宋主主位改元するもの一、曰く、景平。徐羨之、傅亮、謝にひ晦廢して、之を弑す。宜都王立つ、之を太宗文皇帝となす。【文皇帝】名は義隆、素より令望あり。少帝の廢せらるるや、迎へ入れられて位に卽く。夏主勃勃、殂す。子昌、立つ。陶淵明晉の徵士陶潜卒す。潜字は淵明、潯陽の人、侃の會孫なり。少そにして、高趣あり嘗て彭澤の令となる。八十日にして、郡の督郵至る。吏曰く、束帶して之に見ゆべしと。潜歎じて曰く、我、豈に五斗米の爲に、腰を折つて、〓里の小兒に向はむと。卽日、印綬を解いて去り、歸去來辭を賦す。五柳先生傳を著す。徵せども就かず。先世、晉の臣たりしを以て、宋の高祖、王業漸く盛なるより、復た肯て仕へず。是に至つて、世を終る靖節先生と號す。魏數ば夏と戰ふ。是に至つて、其主昌を執へて歸る。夏の赫連定、帝を平凉に稱す。西秦の主乞伏熾盤、卒す。子暮木、立つ。北燕の馮跋、殂す。弟弘立つ。夏主定、西秦を擊ち、暮木を以て歸り之を殺す。西秦亡ぶ。定南北朝宋四五三 十八史略卷之四署うばとよくこん又北凉を擊つて、其地を奪はむと欲す。吐谷渾、其軍を襲ひ、定をとらかとよくこんぼようしべつしゆ執へて、魏に送る。夏、亡ぶ。吐谷渾は、慕容氏の別種なり。ほくりやうそきよまうそんぼくけん北涼の沮渠蒙遜、卒す。子牧犍、立つ。そうしやれいうんちうさんたく評謝靈運は宋の謝靈運、罪を以て誅せらる。靈運、好んで山澤の遊をなす。狂風な國語のみちひらひやくしやうきやうぜうそのいし從者數百人、木を伐つて、徑を開く。百姓驚擾す。或は、其異志りんせんないしいうしこれをさあるを表す。臨川の内史となる有司之を糾し、收めらる。靈運、おこたういつしはうふる兵を興して逃逸し、詩を作つて曰く、韓、亡びて子房奮ひ、秦帝ろれんはつひたうとりこくわうしううつとなつて魯連耻づと。追討して、之を擒にし、廣州に徒す。旣にしきて、棄市せらる。小児えんへうこうかうらいはし魏燕を伐つ。馮弘、高麗に奔る。而して殺さる。燕亡ぶりやうこざうつひぼくけん魏凉を伐つ。姑臧潰ゆ。牧犍降る。後、殺さる。北凉亡ぶ。そのしとさいかうめいげんはうしん暴露して殺崔浩國惡をさる輒ち功あり。すなは魏其司徒崔浩を殺す。道士寇謙之を信じ、だうしこうけんし浩、明元の時より、魏主に勸めて崇奉せしめ、しゆさ旣に謀臣となつて、すうほう天師道てんしだうぢやうぶつゆふ5/4しやもんちうぶつざうぶつしよこぼ場を立つ然も、最も佛法を惡み、沙門を誅し、佛像佛書を毀つかうこくしをさせんせいみなじつ魏主、浩に命じて、國史を修めしむ。先世の事を書するに、皆實をつまびらかかんろたふんけいかう石に刊して、こくあく詳にし、之を衢路に立つ。北人、忿恚し、浩が國惡はくやうしんいかあんそのぞくを暴揚するを譜す。魏帝、大に怒つて、遂に案じて之を誅し、其族を夷す。坐畊は奴に問そうぎれんねんたがひあひしんぱつわうげんぽすたいきよちんけいおいしふ織は宋魏、連年互に相侵伐す。王玄謨、宋に勸めて大擧せしむ。沈慶時間ベしいさかうまさどしよくまさひとし之、諫めて曰く、畊は當に奴に問ふべく、織は當に婢に問ふべし。南北朝宋四五五 十八史略卷之四〓かんはくめんしよはかそうつひ今、國を伐たむと欲す、奈何ぞ、白面の書生と之を謀ると。宋竟げんぼしかうがうくわつだいかこに玄謨をして師を出さしめて硫磁を取り、進んで滑臺を圍む。之よしゆそうかなんわれり先、魏主、宋の河南を取りしを聞き、怒つて曰く、我生れて、はついまかはかなんこ髪未だ乾かざるに、旣に、河南は是れ我が地なるを聞く、今、天時なねつじゆをさかひやうがつまてつき尙ほ熱、しばらく、戌を歛めて北歸し、河氷の合するを俟ち、鐵騎しゆみづかしやうかはわたを以て之を蹂まむと。冬に至つて、魏主自ら將として、河を渡りがうへいここゑふるげんぽおそじんつひ衆百萬と號す。韓鼓の聲、天地に震ふ玄謨、懼れて去る。魏人追げんぼはいそうひなんかくわほニ擊し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、、直に瓜步に至の、江せいげんけんかうしんくかたんそうを渡らむと欲すと聲言す。建康震懼し、民、皆、荷擔して立つ宋しゆせきとうじやうほくぼうだんだうさいあ主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、檀道濟、若し在らば、豈は だうさいニぜんてうに胡馬をして此に至らしめむやと。道濟、功を前朝に立て、兵を用ざんをさもくくわうきよさく卽ち汝が萬ゆるに老いたり。之より先、讒を以て收めらる。目光炬の如く、情だつとう里の長城をばんりちやうじやう··壞るを脫して、地に投じて曰く、乃ち汝が萬里の長城を壞ると。旣にごしはいまはばかた誅せらるるや。魏人、之を聞いて喜んで曰く、吳子輩復た憚るに足ちやうくふせそうじんげんぼらずと是に至つて長驅す。能く禦ぐ者なし。宋人、或は玄謨を斬ちんけいしとぶつりゐふるこうちむと欲す。沈慶之、之を止めて曰く、佛狸、威天下に震ふ控げんひやくまんあげんぽあたせんしやう弦百萬豈に玄謨の能く當る所ならむや。戰將を殺して、以て自らよぎしかへさつりやくあはか評弱むるは、得慘一中春て狀語に燕盡を戰葉歸禍ふて計にあらざるなりと。魏師、還る殺掠、勝げて計るべのの林ていさうえいじざんせつさくじやうつらぬばんぶからず。丁壯の者は、嬰兒を斬截し、槊上に貫いて盤舞す。過ぐるせ云おかえりないりひしゆんえんか、りんちうそうしゆくらゐ原作獨春燕、歸つて林中に巢ふ宋主位に卽いてより二十八年の南北朝宋署名 十八史略卷之四四五八間、號して小康となす。是に至つて、兵革の後、邑里蕭條、元嘉の政衰ふ。魏の中常侍宗愛、東宮の官屬を譖し、多く坐して誅死す。太子晃憂を以て卒す。魏主、追悼して巳まず。愛、懼れて主を弑す。後證して、太武皇帝といひ、廟を世祖と號す。晃の子濬、立つ。ら、愛を討つて之を誅す宋の太子劭、巫蠱呪咀す、事覺はる。宋主、之を廢せむと擬す。劭、主を弑して自立す。在位三十年、改元するもの一、曰く元嘉。ん武陵王、兵を擧げて劭を誅す王立つ、之を世祖孝武皇帝となす【孝武皇帝】名は駿、位に卽いて十二年にして殂す。改元するもの二、曰く、孝建、大明。太子立つ、之を廢帝となす。【廢帝】名は子業、位に卽き喪に居るや、傲惰にして、戚容なし。孝武、骨肉を疎忌して、多く誅殺す。是に至つて、尤も甚し魏帝溶、殂す。諡して文成皇帝といひ、廟を高宗と號す。初め、太武、四方を經營し、國、頗る虛耗す。文成、嗣いで以て鎭靜し、中外を懷集す。人心復た安し。子弘、立つ。宋主、諸父湘東王等を畏忌し、殿內に幽して捶曳し、復た人理なく恣に不道を爲す。中外騷然たり。宋人、之を弑す。王、在位二年、改元するもの一曰く、景和。湘東王立つ、之を太宗明皇帝となす南北朝宋四五九 十八史略卷之四四六〇た【明皇帝】名は或、卽位八年にして殂す。改元するもの一、曰く泰か肅道成始。帝の初より、蕭道成、兵に將として、征討功あり。尋いで、淮陰に鎭し、豪俊を收養し、賓客始めて盛なり。旣にして、南充州の、刺史となる。是に至つて、褚淵、薦めて右衞將軍となし、顧命の大臣と共に機事を掌る。太子立つ、之を後廢帝となす。【後廢帝】名は昱、明帝、子なし。昱、實は嬖人李道兒の子なり。明帝、之を子とするや、諸王十五六人を殺し、惟だ昱の立たざるを休範、桂陽王恐る。十歲にして位に卽く。兵を擧げて反し、建康を攻む。蕭道成、擊つて之を斬る。道成、中領軍となる。之より先、魏の獻文帝、位を太子宏に傳へ、自ら太上皇帝と稱10「す。宏の幼なるを以て、仍ほ萬機を總ぶ。太上、聰睿夙成、剛毅にして斷あり、然も、黃老浮屠の學を好む、故に常に遺世の意あり。幸する所の李奕と其母馮太后、いふ者あり、太上に誅せらる。馮太后、怒つて、遂に之を弑して、制を稱す。宋主、驕恣にして殺を嗜み、中外憂 惶す。蕭道成、袁粲、褚淵と廢立を謀る。粲可かず。淵之に賛す。遂に之を弑す。在位六年、改元するもの一、曰く、元徽。安成王立つ。之を順皇帝となす。【順皇帝】名は準、桂陽王休範の子なり。明帝、之を子とす。是に至つて卽位す。南北朝宋要 十八史略卷之四四六二そうゑんさんせうだうせいちよえんそのはかりごと宋の袁粲、蕭道成を殺さむことを謀る。褚淵、其謀を以て、道せきとうじやうかなし城成に〓ぐ。粲、父子共に石頭城に殺さる。百姓、之を哀んで曰く、寧可爲憐褚袁石淵粲頭生死あはれゑんさんちよえん不作憐むべし石頭城、寧ろ袁粲となつて死するも、褚淵となつて生きずちんいうしこうれうあだうせいぐんつひ60沈攸之、亦た兵を江陵に擧げて、道成を討ち、軍潰ゆるや、走ししやうこくせいこうしやくしやくつて縊死す。道成、相國齊公となり、九錫を加へ、旣にして、爵を·しやうあいせい進めて、王となる。宋主在位三年、改元するもの一、曰く昇明齊ゆつだんしこうしんよまてんわうに禪る。泣いて、彈指して曰く、願はくは、後身世世、復た天王のせいそのぞくめつそう評家に生まるるなからむと齊、之を弑して、其族を滅す。宋、高祖天子の種数子様にに王世情國勿|より、是に至るまで、八世、凡そ五十九年にして亡ぶ。盡家くの西紀自四七齊九至五〇二せうしだうせいらんれうあひつた【齊太祖高皇帝】姓は蕭氏、名は道成、蘭陵の人なり。相傳へて、しやうこくかのちしんちんたいりやうはくがくしよく漢の相國何の後となす。深沈にして大量あり、博學にして文を屬かたせきしじつげつじやうす。肩に赤誌あり、日月の狀の如し。宋の時、軍中に在ること久みんかんそのいさうるを言ふ。うたが蕭道成異相し民閒、或は、其異相あ宋、之を疑ふ。而かも、殺すつひせい〓〓けんつねをさ能はず。竟に宋に代皇性〓儉、毎に曰く、我をして天下を治むるまさわうごんあたひおなこと、十年ならしむれば、當に黃金をして土の價に同じからしむべけん〓〓しと。在位四年にして殂す。改元するもの一、曰く、建元。太子立せいそぶくわうていつ、之を世祖武皇帝となす。南北朝齊四六三 十八史略卷之四四六四ちく、【武皇帝】名は噴、位に卽いて十一年にして殂す。改元するもの一曰く、永明。太子長懋、旣に卒す。太孫立つ。之を廢帝鬱林王となす。【廢帝欝林玉名は路業位に卽いて一年、改元して隆昌といふ。西昌侯鸞、之を弑す。新安王立つ。之を廢帝海陵王となす。【廢帝海陵王】名は昭文、鸞の爲に立てらる。延興と改元す。鷺自ら宣城王となる、帝、卽位、未だ四月ならず、廢して、之を弑す。宣城王自立す、之を高宗明皇帝となす。【明皇帝】名は鸞、高帝の兄の子なり。高帝、之を愛すること、(の子に過ぎたり。而して、武帝の太子長懋、最も之を惡む。志を得るに及びて、高武の子孫を殺して、遺類なし。位に卽いて、五年にはい、して殂す。改元するもの二、曰く、建武、永泰。太子立つ、之を廢帝東昏侯となす。【廢帝東昏侯】名は寶卷東宮に在りし時より、學を好まず、嬉戯度なし。既に位に卽くや、朝士に接せず、惟た嬖倖を親信するのみ。屢ば大臣を殺す。だ魏主宏、殂す。在位二十七年。仁孝恭儉、禮を制し、樂を作し、蔚然として、太平の風あり。胡服胡語を禁じ、姓を元氏と改む。都を洛陽に遷す。魏の盛德の主たるが爲に、諡して孝文皇帝といひ、廟を高祖と號す。太子恪、立つ。南北朝齊四六五 十八史略卷之四四六六こんいんきやうしかうはんびきんれんくわつく齊主、昏淫狂恣なり。幸する所の潘妃、金を以て蓮花を爲り、地てうほほほれんくわ上に貼して、之を歩せしめて曰く、是れ步步蓮花を生ずるなりと。さいうことぞくぎやくひたいゐちんけんたつけんかう左右事を用ゐて、賊虐日に甚し。大尉陳顯達、先づ兵を擧げて建康おそはいししやうぐんさいけい!はんしうを襲ふ敗死す。將軍崔慧景、命を受けて出でて叛州を討つ。兵をか、けんかうせまなんよしうししせうい還して、建康に逼る。時に南豫州の刺史蕭懿、兵に將として、近きせいしゆきふめたすけいに在り。齊主、急に召し、入つて援けしむ。慧景、敗死す。懿を以せうしよおとうとなんようしうししえんさて尙書となす。懿の弟南雍州の刺史衍、人をして、懿に勸めて、いくわくこじすみやかれきやうかへ伊霍の故事を行はしめ、爾らざれば亟に歷陽に還れといふ。懿つひたまじやうやうだ、用ゆる能はず、竟に死を賜ふ衍兵を襄陽に起し、引いて、東けんかうかこえんむか建康を圍む。齊人、主を弑して、衍を迎ふ。主、在位三年。改元すえいげんくわくわうているもの一、曰く、永元。時に南康王、先に旣に自立す。之を和皇帝となす。其後ひろ。はうゆうとうこんすゑはうゆうこうれう1(00)【和皇帝】名は寶融。東昏の末、寶融、兵を江陵に起し、旣にしてちうこうとうきせいたいこうせい帝と稱す。改元して、中興といふ。未だ東歸に及ばず、齊太后、制せうえんれうこうしやくっを稱し、蕭衍を以て相國となし、梁公に封じ、九錫を加へ尋いでしやくすしこじゆくいたみことのりれうゆづ爵を進めて、王となす。齊王、姑孰に至る。詔して、梁に禪る。しい位に卽いて、わづかに三年にして弑せらる。齊は、高帝より、是に至るまで、七世、凡そ二十三年にして亡ぶ。四世五五年梁南北朝齊梁四六七 十八史略卷之四髮在位四八年【梁高祖武皇帝】姓は蕭氏、名は術、齊の疎族なり。母張氏、菖(西紀五〇三要800蒲、花を生ずるを見る。旁人は皆見ず。之を呑み、旣にして、衍を生む英達にして文學あり。東昏の初、術襄陽に鎭す。齊の將に亂れむとするを知つて、乃ち密に武備を修む。驍勇を聚むること萬を以て數ふ。材を伐つて、檀溪に沈め、茆を積むこと岡阜の如くす。兄懿、死す。衍牙を建てて衆を集め、檀溪の竹木を出して、艦を裝ひ、之を葺くに茆を以てす。事、皆立どころに辨ず。兵起つて一年餘、遂に建康に入り、禪を受けて帝位に卽く。J魏主恪在位魏主恪、殂す。證して宣武皇帝といふ。廟を世宗と號す。子謝、一六年年五五〇〇立つ甫めて六歲。母胡氏、制を稱す。魏主、既に長ずるに及び六) ()遊騁を好んで、親ら朝を視ず。而して、胡后、方に淫亂、魏の政、始めて亂る。將軍張彜の子仲瑀、封事を上り、武人を排抑す喧こ諺、路に盈つ。榜を大巷に立て、期を尅して、會集して、其家を屠らむとす。彝父子、以て意となさず。是に至つて、羽林虎賁、千人に近く、相率ゐて、尙書省に至り、訴罵して、瓦石を以て省門を擊あPつ。上下懾懼して敢て禁討せず。遂に彜の第に至り、其舍を焚き、彝父子を曳いて、毆擊して火中に投ず。仲瑀、重傷、走つて免る。彝、死す。遠近震駭す。胡后、其免强八人を收めて、之を斬り、餘3は復た治めず、大赦、以て之を安んず。懷朔鎭の凾使高歡、洛陽に至り、張彜の死を見、家に歸り、貲を傾けて以て客に結ぶ。或ひと、南北朝梁四六九 十八史略卷之四四七〇評其故を問ふ、宿衞相率ゐて、大臣の第を焚き、朝廷懼れてて宿焚大衞事てき臣相傾高知問朝の率歡曰く、歡るは廷邸ゐを問はず。政を爲すこと、此の如し、事知るべし、財物、豈に常に守てがべず懼ふ故客費し れ費しるべけむやと。歡先世より、法に坐して、北邊に徒り、遂に鮮卑べあををの俗に習ふ。沈深にして大志あり。候景等と相友とし善し、任俠をけしり結とぶい亦以て〓里に雄たり魏の胡太后、朝に臨んで以來、嬖倖事を用ゐ、政事縱弛盜賊蜂起し、封疆日に蹙まる、魏主謝、漸く長ず。太后、自ら爲す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽をなし、母子嫌隙日に深し。時に、六さ州大都督秀容の曾長爾朱榮、兵强し。高歡榮を見、卽ち勸めて、兵を擧げて、君側を〓めしむ。會ま魏主殂す。胡太后、之を鴆するなり。後、諡して孝明皇帝といふ。爾朱榮、兵を擧げ、孝文の姪長か、樂王子攸を立て胡后を河に鎭む。榮を太原王に封ず晉陽に還る。北海王顎、梁に奔る。梁、之を立て、將をして、送つて、洛陽に入らしむ。子攸、出奔す。爾朱榮、河を渡つて、來り救ふ。顯、走つて死す。子攸、歸り、榮に天柱大將軍を加ふ。榮不臣の志を蓄ふ。魏主、陰に榮を誅せむことを謀る。榮入る。手づから、之を刺す。爾朱世隆、爾朱兆と宗室長廣王曄を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇ふ。後、證して、孝莊皇帝といふ、世隆、又曄の疎遠なるを以て、之を廢して、孝文の孫廣陵王恭を立つ。高歡、兵を起して爾朱氏を誅して、洛陽に入り、恭を廢して、孝文の孫平陽王修南北朝梁里 十八史略卷之四四七二せつびんくわうていを立つ。修、恭を弑す。後、證して、節闘皇帝といふ高歡、大丞y相となり、府を晉陽に建てて、之に居る。魏主、歡を畏れ、晉陽を伐たむと謀る。歡兵を擁して來る。魏主、長安に奔り、關西大都督宇文泰に依り、泰を以て、大丞相となす。歡魏主を追ふ。及ばせいしす。遂に〓河王の世子善見を洛陽に立て、鄴に遷る。魏は、道武より、是に至るまで、十二世、凡を一百四十九年にして、分れて東魏、西紀五三四西魏となる。之より先、焚惑、南斗に入る。梁主曰く、焚惑、南斗に入れば、天子、殿を下つて走ると。乃ち跣して、殿を下り、之を禳ふ。修の出奔を聞くに及び、慙ぢて曰く、虜も亦た天象に應ずるかと。修、長安に至り、半年を踰ゆ。又泰と隙あり。泰之を鴆す。後、諡して、孝武皇帝といふ。孝武、旣に弑に遇ふ。秦、南陽王寶炬を立?。歡泰と連年相攻戰し、互に勝負あり。歡、卒す。遺言して、其子澄に屬して曰く、侯景は飛揚跋扈の志あり、汝の能く御する所に非ず。景に敵するに堪へたるは、惟だ慕容紹宗のみと。景果して、河南を以て、西魏に降り、未だ幾ならずして、復た梁に附く梁、景を封じて河南王となす。景の使、梁に至るや、梁の群臣、皆我國家如金甌納るるを欲せず、梁主、亦た自ら謂ふ、我が國家は、金甌の如く、一の傷缺なし、恐らくは、景を納るれば、因つて、以て、事を生ぜさむと。惟だ朱昇、力め勸めて、之を納る。東魏、慕容紹宗をして、南北朝梁四七三 十八史略卷之四四七四〓景を擊たしむ。景、敗れて南走し、梁の壽春を襲ふて、之に據り、命を請ふ。梁、就いて以て、南豫州の牧となす。旣にして、東魏、成を梁に求め、意.景を得むと欲す。景梁の東魏に通ずるを恨み遂に壽陽に反し、兵を引いて、南に渡り、建康を圍む。梁主、位に卽いてより以來、江左久しく無事、惟だ佛法を崇んで、屢ば身を佛寺に捨て、上下之に化す。景が臺城に逼るに及びて、援兵至る者、景に敗らる。梁主、人をして景と盟はしめ、以て大 相 相丞相となす臺城、圍を受くること五月にして陷る。景入つて見ゆ、引いて、(う評부なを磨梁以と武ての帝有對は三公の位に就く。梁主、神色變ぜず、景に謂つて曰く、卿軍中に名話達、其在ること久し、乃ち勞たるなからむやと。景、敢て仰ぎ視ず、汗をiiてるは仰を叛とを達其所ざぎし逆すに磨道ばの悟深心 ら見て兒る及氏流して、對ふる能はず。景退いて、人に謂つて曰く、吾、常に鞍ずせきこも〓〓くだに跨り、陣に對し、矢石交下るも、了に怖るる心なし。今、蕭公る流侯も·能汗景おのづかを見るに、人をして、自ら畏れしむ、豈に天威犯し難きに非ずや、し亦以む吾以て復た此人を見るべからずと。梁主、景に制せられ、飮膳も亦べざ鍊淺見か神るら修のをた裁損せられ、憂憤、疾を成す、口苦くして蜜を索むれども得ず。しる再び、荷荷といつて、遂に殂す。在位四十八年。改元するもの七、曰く天監、普通、大通、中大通、大同、中大同、太〓。壽八十六。之より先、太子統、仁明孝儉、學を好んで文あり、東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を捨てて別子を立つ。是に至つて、位に卽く、之を太宗簡文皇帝となす。南北朝梁四七五 十八史略卷之四ナミ【簡文皇帝】名は綱、東宮に在ること十八年、然る後、侯景の亂に遇ひ、既に立つも、制を景に受くるのみ。湘東王繹、江陵に鎭し、自ら假黃鉞大都督中外諸軍承制と稱す。岳陽王警は昭明太子統の第三子なり。襄陽に鎭し、繹と相攻む。賛使を遣して、西魏に降り、以て救を求む。あゆた東魏の大將軍渤海王澄、之より先、其下の爲に殺され、弟洋丞相となり、齊王に封ぜられ、東魏主に逼つて、位を禪らしめ、尋いで、之を弑す。諡して、孝靜皇帝といふ。東魏、國を建つる、一十七年にして亡ぶ。西魏、梁の蕭警を立てて梁主となす。コ西魏主寶炬殂す。諡して文皇帝といふ。太子欽立つ。候景、自立して、漢王となる。梁主を廢して之を弑す。尸位三年に及ばず。改元するもの一、曰く、大寶。景、豫章王棟を立つ。旣にして、位を簒す。之より先、始興の太守陳霸先、兵を起して、景を討つ。湘東王、王僧辨をして、景を討たしむ。景、簒して數月、僧辨、霸先に敗られ、亡げて、吳に走り、海を渡らむと欲し、其下の爲に斬らる。尸を建康に送り、首を江陵に傳へ、其手足を截つて、北齊に送る。湘東王立つ、之を元皇帝とす。【元皇帝】名は繹、一目眇、性殘忍なり。江陵に卽位す。侯景の亂せ、より、州郡、大半、西魏に入り、蜀も亦た魏に有せられ、梁は巴陵南北朝梁七七 十八史略卷之四天人より以下、建康に至るまで、長江を以て限となす。突厥、柔然を攻む。北齊、突厥を擊つて、柔然を遷す。この時、柔然衰へ突厥始めて强大なり。西魏の宇文泰、其主欽を廢して其弟 廓を立つ。欽弑に遇ふ。梁主焚書西魏、柱國于謹を遣し、梁を伐つて、江陵に入る。梁主、古今の圖書十四萬卷を焚いて曰く、文武の道、今夜盡くと。乃ち出でて評我的時刻。讀書萬卷降る。或ひと問ふ、何の意あつて書を焚く。曰く、讀書萬卷、猶(昭和4年)、ほ今日ありと。尋いで殺さる。在位三年、改元するもの一曰く、承聖西魏、襄陽を取り、梁王誉を江陵に徒して、帝と稱せしむ。兵を屯して、之を守る。之を後梁となす。西魏に臣たり。王僧辨、陳霸先、晉安王を奉じて、制を建康に稱す。貞陽侯淵明、之より先、北齊に獲らる。是に至つて、兵を以て、之を納る。王僧辨、奉じて、建康に歸つて、帝と稱す。陳霸先、僧辨を殺し、淵明を廢して、晉安王を立つ、之を敬皇帝となす。【敬皇帝】名は方智、元帝の子なり。年十三にして位に卽く。陳霸先、丞相たり。西魏の太師大家宰安定公字文泰、卒す。世子覺、嗣ぐ、年十五。字文護、之に輔たり。未だ幾ならずして、覺を以て周公となす。西魏主廓、周に禪る。廓弑に遇ふ。後、證して恭皇帝といふ。南北朝梁四七九 十八史略卷之四四八西魏は、國を建つること、四世、二十四年にして亡ぶ。覺周天王と稱す。性剛果、護の專なるを惡む。護、之を弑す。後諡して孝閔皇帝といふ泰の長子毓を立つ。梁の丞相陳霸先、相國となり、陳公に封ぜられ、九錫を加へ、尋きいで、爵を進めて王となる。梁主、改元するもの二、曰く紹泰、曰く太平。尸位、未だ三年ならずして、陳に禪り、尋いで弑に遇ふ。梁は、高祖武帝より、是に至るまで、四世、凡そ五十六年にして亡ぶ。自西紀五七陳七至五八九2【陳高祖武皇帝】姓は陳、名は霸先、吳興の人なり。梁の武帝の大同中、廣州參事となる。廣に亂あり、討つて之を平らぐ。功を以て將軍となる。尋いで、交州司馬西江都護高要太守となり、七郡の諸督し、霸ム軍を屢ば寇亂を平らぐ。侯景の臺城を陷るるや、先、時に始興に守たり。郡中の豪傑に結び、兵を起して、景を討つ。先づ廣州を取り、州の刺史となる。諸軍を會し、卒に以て景を平らぐ。遂に梁に將相となり、以て禪を受くるに至る。位に卽いて三年にして殂す。改元するもの一、曰く永定。子二人、昌、項皆、江陵陷るの時を以て長安に沒入す。臨川王立つ、之を世祖文皇帝となす。【文皇帝】名は蒨、武帝の兄の子なり。武帝、梁の亂を平らぐる時南北朝陳只 十八史略卷之四四八二に在つて、旣に功あり。是に至つて位に卽く。周王毓、帝と稱す。北齊主洋、盡く元氏の族を滅す。洋、殂す。諡して文宣皇帝といふ、周の宇文護、周帝の明敏にして識量あるを憚り、毒を進めて、之5/4を弑す。證して、明皇帝といふ。毓の弟邕立つ。北齊文宣帝の母弟常山王演、其主殷を廢して自立す。尋いで、殷を弑す。演、立つて、一年にして殂す。證して、孝昭皇帝といふ。母弟長廣王湛、又演の子百年を廢して自立す。後、百年を殺す。後梁主警殂す。太子歸立つ。北齊主湛、位を太子緯に傳へ、自ら太上皇帝と稱す。陳主、〓難より起り、民の疾苦を知る。性、明察にして儉勤なり。在位八年にして殂す。改元するもの二、曰く天嘉、曰く天康。太子立つ、之を廢帝臨海工となす。【廢帝臨海王】名は伯宗。在位三年、改元するもの一、曰く廣大安成王項の爲に廢せらる。北齊の上皇湛、殂す。證して、武成皇帝といふ。陳の安成王、自立す、之を高宗宣皇帝となす。【宣皇帝】名は項、初め長安に陷入す。文帝の時、周人、項を送つて、陳に還す。是に至つて、位に卽く。南北朝陳四八三 十八史略卷之四四八四周主邕、宇文護を誅し、始めて、政を親らす。北齊の後主緯、嬖寵多し、政亂る。周、齊を伐つて、鄴に入る。北齊亡ぶ緯を執へ、歸つて之を殺し、其族を夷す。北齊は國を建つる五世、三十年にして亡ぶ。北周武帝周主邕、深沈にして遠識あり、政事嚴明、稱して、賢主となす。西紀五六一齊を滅して、一年にして殂す。壽三十六。證して、武皇帝といふ。隋公楊堅太子贇立つ。皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用ゐて、上柱國大司馬となる。賛太子たりし時より、好んで、小人を昵近す。立つて、未だ一年ならずして、位を子闡に傳へ、自ら天元皇帝と稱し、驕侈彌よ甚し。未だ一年ならずして殂す。證して、宣皇帝といふ。楊堅自ら大丞相となり、相國隋王に進み、九錫を加ふ。未だ幾ならずして、周主闡、位を隋に禪る。尋いで弑せらる。隋主、盡く宇文氏の族を滅す。周は、帝と稱してより、是に至るまで、五周亡ぶ世、二十五年にして亡ぶ。陳主在位十四年、改元するもの一、曰く大建。殂す。太子立つ之を後主長城場公となす。【後主長城場公】名は叔寶太子たりしより、詹事江摠と共に、長夜の飮をなす。位に卽いて、未だ幾ならず。臨春、結綺、望仙の閣を起し、各高さ數十丈、連延數十間、皆、沈檀を以て之を爲り、金玉珠翠、之が飾となし、珠簾寶帳、服玩魂麗、近古未だ有らず。南北朝陳四八五 十八史略卷之四四八六其下、石を積んで山となし、水を引いて池となし、花卉を雜植す。陳主は、臨春閣に居り、貴妃張麗華は、結綺に居り、襲孔の二貴嬪は、望仙に居り、複道より往來す。江摠、宰輔となり、政事を親らせず。。日に孔範等文士と後庭に侍宴し、之を狎客といひ、諸貴嬪を評玉樹の曲、して、客と唱和せしむ。其曲に玉樹後庭花等あり。君臣酣歌し、タ後庭花長曲くわん〓〓きんじふ宦官近習貨賂公行す。窮し夜極ての而宗威縱橫、孔るざす土飮しより旦に達す。内外連結、1ん國を而)木範貴嬪と結んで兄弟となる。範自ら謂ふ、文武の才能、擧朝及んと亡やすび得ぶなしと。將帥微しく過失あれば、卽ち兵權を奪ふ。之に由つて、文武解體し、以て覆滅に至る。後梁主歸、殂す。太子琮、立つ。隋主、廢して、之を滅す。營、後梁亡ぶ帝を江陵に稱してより、西魏、周、隋に臣とし、統ぶる所は、數郡のみ。凡そ、三十三年にして亡ぶ。隋、晉王廣を以て元帥となし、師を師ゐて陳を伐たしむ。楊素、韓擒虎、賀若弼、道を分つて出づ。高額、元帥の長史となり、薛道衡に問ふ、江東克つべきか。對へて曰く、之に克たむ。郭璞の言に、江東分れて主たること三百年にして、中國と合す、といふこの數、將に周からむとすと。陳主、隋兵ありと聞き、近臣に謂つて曰く、王氣是に在り。彼何する者ぞ。孔範曰く、長江は天塹、豈に能く飛渡せむや。臣、毎に官の卑きを患ふ。虜若し江を渡らば11定めて大尉公と作らむと。陳主、以て然りとなし、伎を奏し、酒を南北朝陳四八七 十八史略卷之四要縱にし、詩を賦して輟まず。賀若弼、廣漢より江を濟り、韓擒虎、§橫江より宵に釆石に濟る。守者、皆、醉ふ。擒虎、遂に新林より進んで、直に朱雀門に入る。陳主、自ら景陽の井中に投ず。軍人、井を窺ひ、將に右を下さむとす。乃ち叫ぶ。繩を以て、之を引けば、わ張麗華孔貴嬪と同じく束ねて上る。俘へて以て歸る。後主、在位と七年、改元するもの二、曰く至德、曰く禎明。陳は、高祖武帝より是に至るまで五世、凡そ二十二年にして亡ぶ。西紀自五八隋一至六一八【隋高祖文皇帝】姓は楊氏、名は堅、弘農の人なり。相傳へて、東漢の太尉震の後となす。父忠、魏及び周に仕へ、功を以て、隋公に封ぜらる。堅、爵を襲ぐ。堅、生まれて異あり。宅旁に尼寺あり、一尼拘き歸つて、自ら之を鞠ふ。一日、尼出づるや、其母に付して自ら抱かしむ。角出で、鱗起る。母、太に驚いて、之を地に墜す。尼、心動き、亟に還つて之を見て曰く、我が兒を驚かし、晩く天下を得しむるを致すと。長ずるに及びて、相表奇異。周人、嘗て武帝に〓げ、普六茹堅、反相ありといふ堅、之を聞いて、深く自ら晦し)匿す。女、周の宣帝の后となる。周の靜帝、立つ。堅、太后の父を以て政を秉り、遂に周祚を移す。位に卽いて九年、陳を平らげて、天下一となる。開皇二十年、太子勇を廢して、庶人となす。初め、南北朝隋四八九 十八史略卷之四四九〇帝、勇をして政事を參決せしむ、時に損益あり。勇、性寬厚率意にして矯飾なし。帝は性節儉、勇は服用修れり。恩寵始めて衰ふ。勇、內寵多く、妃寵なくして死して、庶子多し。獨孤皇后、深く之を惡む。晉王廣、彌よ自ら矯飾して、嫡を奪ふの計を爲す。后、帝を贊して、勇を廢せしめ、而して廣を立てて太子となす。龍門の王通、闕に詣つて、太平の十二策を獻ず。帝、用ゆる能は龍門の王通表示は、す。罷めて歸る。河汾の間に〓授す。弟子、遠きより至る者、甚だ製作所獻衆し。仁壽四年、帝、不豫なり。太子を召し、入つて殿中に居る。太子p豫め帝の不諱後の事を擬し、書を爲り、僕射楊素に問うて、報を得せしむ。宮人、誤つて、帝の所に送る。帝、之を覽て、大に恚る。帝の寵する所の陳夫人、出でて更衣す。太子に逼られ、之を拒んで、免るるを得たり。帝、其神色の異あるを怪んで、故を問評ふ夫人、法然として曰く、太子無禮なり。帝、恚つて、床を抵つにとにんのての之不畜を其と妾妄情を豫煬生殺父しをりな憂に帝なすと又犯にくふ乘父遂さ父却るじのて曰く、畜生、何ぞ大事を付するに足らむ、獨孤、我を誤ると。將に故の太子勇を召さむとす。廣、之を聞いて、右庶子張衡をして、入つて、疾に侍せしめ、因つて、帝を弑し、人をして、勇を縊り殺り眞兄さしむ。帝、性嚴重、政事に勤め、令行はれ、禁止む。財に嗇なりと雖も、功を賞して吝ならず。百姓を愛養し、農桑を勸課し、徭を輕くし、賦を薄くし、自ら奉ずること、儉薄なり。天下之に化す南北朝隋四九一 十八史略卷之四四九二受禪の初、民戶四百萬に滿たず、末年には、八百萬に踰ゆ。然れども、詐力を以て天下を得、猜忌苛察にして、讒言を信受し、功臣故舊、終始保全する者なし。在位二十四年、改元するもの二、曰く、開皇、仁壽。太子立つ、之を煬皇帝となす。【煬皇帝】名は廣開皇の末、立つて太子となる。この日、天下地震ふ位に卽いて、首として、洛陽の顯仁宮を營み、江嶺の奇材異石を發し、又海內の嘉木異草珍禽奇獸を求め、以て苑囿に實たし、又通濟渠を開き、長安の西苑より穀洛の水を引いて河に達し、河を引いて汴に入り、汴を引いて泗に入れ、以て淮に達す。又民を發し邦溝を開いて江に入れ、傍に御道を築き、樹うるに柳を以てし、長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十餘所。人を遣して、江南に徃いて龍舟及び雜舟數萬艘を造らしめ、以て遊幸の用に{備ふ西苑は周二百里、其內に海を爲る。周十餘里、蓬萊、方丈(だいくわんきうでん5瀛洲の諸山を爲り、高さ百餘尺、臺觀宮殿山上に羅絡す。海北に渠あり、榮紆して、海に注ぎ、渠に緣つて十六院を作り、門、皆〓渠に臨み、華麗を窮極す宮樹凋落すれば、剪綵して、花葉を爲つて、之を綴り、沼內も亦た剪綵して、荷芝菱茨を爲り、色渝れば、新しきものに易ふ。好んで、月夜を以て、宮女數十騎を從へて、西〓夜遊の曲苑に遊び、〓夜遊の曲を作つて、馬上に之を奏す。後、又、永濟渠を開き、沁水を引いて、南.河に達し、北、涿郡南北朝隋四九三 十八史略卷之四四九四上に通ず。又、汾陽宮を營み、又、江南の河を穿つ、京口より、餘杭に至るまで、八百餘里。洛口倉を鞏の東南の原上に置く、城は周二十餘里、三千窖を穿評脫むには 大阪府県の荒後主然三百害を穿つ。窖は皆のど過其氣つ興洛倉を洛陽の北に置く、城は周十里、ほくじゆん。似漢所て帝のに偉八千石を容る。帝、或は洛陽に如き、或は江都に如き、或は北巡したのる孝てし以文も武極を蓄のあ·て、楡林、金河に至り、或は五原に如き、長城を巡り、或は河右を傾積儉りけせ素巡り、營造巡遊、虛歲なし。天下の鷹師を徵す。至る者萬餘人。天窮便に民設就木せの生々河土下の散樂を徵す。諸蕃來朝するや、百戯を端門に陳す。絲竹を執るは中殘大衆偶運り利活庶開者萬八千人、終月にして罷む、費巨萬。歲毎に、以て常となす。を至大高麗王を徵して、入朝せしむ。至らず。大業七年、帝、自ら將として高麗を擊ち、天下の兵を徴して泳郡に會せしめ、河南、淮南江南に敕して、戎車五萬乘を造らしめて、衣甲等を供載し、河南河北の民夫を發して、軍須に供し、江淮以南の民夫は、船を以て、黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫千里、徃還常に數十萬人、晝夜絕えず、死者相枕す。天下騒動、百姓窮困し、始めて、相聚まつて盜を爲す。實建德漳南寳建德の兵起る。帝、徵す所の四方の兵、皆、涿郡に集まり、一百一十三萬。餽運上する者は、之に倍す。首尾千餘里に亙る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず。諸軍、大に敗れて還る。明年、再び兵を徵し、自ら將南北朝隋四九五 十八史略卷之四四九六として之を擊つ。楚公楊玄感、朝政の日に紊るるを見て、潜に亂を作さむを謀る。是に至つて、黎陽に督運して遂に反す。帝、軍を引いて還り、將を遣して、之を擊つ。玄感、洛陽より兵を引いて、潼關に趨り、兵敗れ、走つて死す。帝、又、涿郡に如いて、高麗を伐つ。高麗、使を遣して、降を請ふ。帝、長安に還る。旣にして、洛陽に如き、汾陽に如き、江都に如き、巡遊、仍ほ虛歲なし。李密蒲山公李密の兵起る。密、少にして才略あり、志氣雄達、財を輕んじ、士を好む。嘗て、黃牛に乘じ、漢書を以て牛角に掛けて、之を讀む。楚公楊素、遇うて、之を奇とし、之に因つて、素の子玄感と遊ぶ。初め、玄感に從つて、兵を起す。玄感敗る。密、姓名を變じげじて、匿る。時人皆云ふ、楊氏將に滅びむとし、李氏將に起らむとすと。又、民謠あり、歌うて曰く、桃李子。皇后走楊州。宛轉花園裏。勿浪語。誰道許。と。桃李子といふは、逃亡李氏の子なり。勿浪語、唯道許とは、密にするなり。密、遂に群盗程讓等と起つて榮陽を攻めて之を下し、牙を建て、諸部を統べ、西行して、說いて諸城を下して、大に獲たり。や) ;鄙陽の賊帥林士弘、楚帝と稱して、江南に據る。杜伏威、歷陽に據る。南北朝隋四九七 十八史略卷之四四九八竇建德、長樂王と稱す。おの〓〓んん馬邑の校尉劉武周、朔方の郞將梁師都、各郡に據つて兵を起す。二·李密、興洛倉に據り、河南諸郡を略取して、魏公と稱す。突厥、劉武周を立てて、定陽可汗となし、樓煩、定襄、雁門の諸郡を取る。梁師都、雕陰、弘化、延安等の郡を取り、自ら梁帝と稱す。金城の校尉薜擧、兵を隴西に起し、自ら西秦の霸王と稱す。武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら凉王と稱す。薜擧、自ら秦帝と稱し、徒つで天水に據る。蕭銑、兵を巴陵に起し、自ら梁王と稱す。唐公李淵唐公李淵、兵を太原に起し、諸郡に克つて、長安に入る。時に、隋の大業十二年。帝、江都に在り、淵、はるかに尊んで、太上皇となして、代王を立つ、之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は侑、煬帝の孫なり。年十三にして李淵の爲に立てらひる。大業十三年を改めて、義寧となし、淵を大丞相となし、唐王に封ず。煬帝、江都に在り、淫虐日に甚しく、酒扈口を離さず。中原か、の已に亂れしを見て、北歸に心なし。從駕、關中の人多く、歸るを思うて遂に謀叛し、許公宇文化及を以て主となし、夜兵を引いて、3)宮に入つて煬帝を縊り殺す。宗室、少長となく、皆死す。惟だ、秦王浩を存して、之を立て、而して、自ら大丞相となり、衆を擁し南北朝隋四九九 十八史略卷之四五〇〇て西す。梁の蕭銑、帝を江陵に稱す。隋帝侑、位に卽いて、半年にして唐に禪る。隋は、高祖より、是に至るまで、三世、凡そ三十七年にして亡ぶ。譯新十八史略卷之五西紀自六八至九〇七一唐ろうぜい!〓【唐高祖神堯皇帝】姓は李氏、名は淵、隴西成紀の人なり。西凉の武昭王暠の後。祖虎、西魏に仕へて功あり、隴西公に封ぜらる。父昞周の世に於て、唐公に封ぜらる。隋の煬帝、淵を以て、弘化の留守となす。衆を御すること寬簡、人多く之に附く。煬帝、淵の相表奇異にして、名、圖識に應ずるを以て之を忌む。淵、懼れ、酒を恣にし、賂を納れて、以て自ら晦ます。天下、盜起る。淵を以て、唐-高祖神堯皇帝-五〇一 十八史略卷之五五〇一山西河東の撫慰大使となす。制を承けて黜陟し、群盜を討捕して、多く捷つ。突厥、邊に寇す。淵に詔して、之を擊たしむ。淵の次子世民有安天世民、聰明勇決識量人に過ぐ。隋室の方に亂るるを見て、陰に天下下之志を安んずるの志あり。晉陽の宮監裴寂、晉陽の令劉文靜と相結ぶ。文靜、世民に謂つて曰く、今、主上、南巡し、群盜萬數、この際に當つて、眞主あつて、驅駕して之を用ゆれば、天下を取ること掌か、を反すが如きのみ。太原の百姓、收拾すれば、十萬人を得べく、尊ー)天公、將たる所の兵復た數萬、之を以て、虛に乘じて關に入つて、下を號令すれば、半年に過ぎずして、帝業成らむ。世民、笑つて日く君の言、正に我が意に合へりと。乃ち陰に部署す。然も、淵は知らざるなり。淵の兵、突厥を拒いで利あらず、罪を獲むことを恐るるに會し、世民、閒に乘じて淵に說き、民心に順つて義兵を興せば、禍を轉じて福となさむといふ。淵.大に驚いて曰く、汝、安んぞ此言を爲すを得む。吾、今、汝を執へて縣官に〓げむ。世民、徐に曰く、世民、天時人事を觀るに、此の如し。故に敢て言を發す、必ず執へて〓ぐるとも、敢て死を辭せず。淵曰く、吾、豈に〓ぐるに忍びむや。汝、愼んで口より出すなかれと。明日、復た說いて曰く人、皆、傳ふ、李氏當に圖識に應ずべしと。故に、李金才、故上なくして族滅せらる。大人、能く賊を盡せば、功高くして賞せられず、身益す危からむ。惟だ昨日の言、以て禍を救ふべし。是れ萬全唐-高祖神堯皇帝-五〇三 十八史略卷之五五〇四の策、願はくは疑ふ勿れ。淵、歎じて曰く、吾、一ク、汝の言を思ふに、亦た大に理あり。今日、家を破り身を亡すも、亦た汝に由らむ。家を化し國となすも、亦た汝に由らむと。之より先、裴寂、私に晉陽の宮人を以て淵に侍せしむ。淵、寂に從つて飮む。酒酣なる時、寂曰く、二郞、陰に士馬を養ひ、大事を擧げむと欲す。正に寂が宮人を以て公に侍せしめ、事覺はるれば、併せて誅せられむを恐るるが爲のみと、會ま場帝、淵が寇を禦ぐ能はざるを以て、使者をして、執へて江都に詣らしむ。世民、寂等と復た說いて曰く、事旣に迫れり。宜しく、急に計を定むべし。且つ、晉陽は士馬精强、だいわう六うちうだ、宮監の蓄積巨萬、代王幼沖、關中の豪傑、並に起る。公、若し鼓行して西し、撫して之を有すれば囊中の物を探るが如きのみと。淵乃ち召募して、兵を起す。遠近赴き集まる。仍つて、使を遣して、兵を突厥に借る。世民、兵を引いて、西河を擊つて、之を拔き、郡P丞高德儒を斬り、之を數めて曰く、汝、野鳥を指して以て鸞となんだし、以て人主を欺く。吾、義兵を興す、正に侫人を誅するが爲のみと。兵を進めて、霍邑を取り、臨汾、絳郡に克つて、韓城を下し、馮翊を降す。淵、兵を留めて、河東を圍み、自ら兵を引いて西し、世子建成をして潼關を守らしむ。世民、渭北を徇ふ。關中の豪傑、悉く淵に降る。諸軍を合せて、長安を圍んで、之に克ち、恭帝を立て、淵、大丞相唐王となり九錫を加ふ。尋いで、禪を受け、子建唐-高祖神堯皇帝-五〇五 十八史略卷之五五〇六せいくわうたいししんわうげんきつせいわう成を立てて皇太子となし、世民を秦王となし、元吉を齊王となす。ずゐとうとりうしゆゑつわうどうそんしゆう隋の東都の留守越王侗は、煬帝の孫なり、亦た衆に立てられ、帝らくやうを洛陽に稱す。しんしゆせつきよこじんかう秦主薛擧、卒す。子仁杲、立つ。ニみつずゐへいたゝかたいはいたうくだ魏公李密、隋兵と戰ひ、大敗して、唐に降る。うぶんくわきふしゆかうしいきよてい宇文化及、其立つる所の主浩を弑して、自ら許帝と稱す。りやうわうりき凉王李軌、帝と稱す。しんわうせいみんしんわうせつじんかうちやうあんいち唐の秦王世民、秦を破る。秦王薛仁杲、降る。長安に送つて、市きに斬る。みつきうきやう李密の將徐世勣しやうじよせいせきよ徐世動密の舊境に據つて唐に降り、姓李を賜ふ。とうけんとくかほくしよしうかわう竇建德、河北の諸州を取つて、自ら夏王と稱す。そむたうじんとら李密、唐に叛く。唐人、獲へて之を斬る。かしゆとうけんとくうぶんくわきふちう夏主竇建德、宇文化及を破つて、之を誅す。ずゐしゆどうわうせいじうはいじりつていてい隋主伺、立つて一年。王世充、之を廢し、自立して鄭帝となり、つどうしい尋いで伺を弑す。たうしやうりやうしゆりきおそとらから唐、將を遣して、凉主李軌を襲ひ、執へ歸つて、之を殺し、河西たひ平らぐ。ちんはふこうひれうれうわう沈法興、毗陵に梁王と稱す。しつうこうとごてい李子通、江都に吳帝と稱す。とふくゐ杜伏威、唐に降る。唐-高祖神堯皇帝-五〇七 十八史略卷之五五〇八唐の秦王世民、定陽の將宋金剛を擊つて、之を破る。定陽の可汗劉武周、及び金剛、皆、走つて死す。唐の秦王世民、諸軍を督して鄭を伐つ。吳王李子通、梁を襲ふ。梁王沈法興、走つて死す。夏主寶建德、鄭を救ふ。唐の秦王世民、大に破つて之を擒にす。鄭主王世充降る。世民、長安に至り、黃金の甲を被り、二十五將、建德を市に斬と、其後に從ひ、鐵騎萬匹、甲士三萬、俘を太廟に獻じ、り、世充を赦す。尋いで、人をして、潜に之を殺さしむ。竇建德の故將劉黑闥、始めて、兵を漳南に起す。唐、將李靖を遣して、梁を伐たしむ。梁主蕭銑降る。長安に送つて、之を斬る。杜伏威、吳主李子通を擊ち、執へて長安に送り、誅に伏す。劉黑闥、自ら漢東王と稱す。楚主林士弘、卒す。其衆、遂に散ず。漢東の將、黑闥を執へて、唐に降る。之を斬る。唐の淮南道の行臺僕射輔公祏、丹陽に反す。唐將、擊つて、之を斬る。慶州の都督楊文幹、反す。秦王世民を遣して、之を討平せしむ。突厥、入寇す。秦王世民を遣して、之を禦がしむ。豳州に遇ふ。世民、騎を帥ゐ、馳せて虜陣に詣り、之に告げて曰く、我は秦王な唐-高祖神堯皇帝-五〇九 十八史略卷之五五一〇りと。虜、敢て戰はず。盟を受けて退く。唐、興つて七年。僭僞皆亡び、天下旣に定まる。此歲、始めて、州縣の郷學を置き、帝、親ら國子學に詣つて先聖、先師に釋奠し、に·始めて官制始めて、官制を定め、新律令を頒つ。均田租庸調の法を定む。丁中東京市小石川區西江篤疾は十の六を減じ、令を知りの民、田一頃を給し、寡妻妾は七を減じ、皆一丁毎に歲に租粟二石十の二を以て世業となし、八を口分となし、を入れ、調は土地の宜しき所に隨ひ、綾絹純布、歲役二旬、役せざれば、其傭を收むる日に三尺。事あつて役を加ふる者は、旬有五日にして、其調を免じ、三旬なれば租調共に免ず。水旱蟲霜、十にして四以上を損すれば、租を免じ、六以上を損すれば調を免じ、七以上を損すれば、課役共に免ず。民の質業は、九等に分ち、百戶を里となし、五里を〓となし、四家を鄰となし、四鄰を保となし、城邑に在る者を坊となし、田野の者は村となす。祿を食むの家は、民と利を爭ふを得るなく、工商雜類は、士伍に預るなし。男女、始めて黄、小、中、生まるるを黃となし、四歲を小となし、十六を中となし、二十を丁T)老となし、六十を老となす。歲每に計帳を造り、三歲に戶籍を造る。初め、唐の晉陽に起る、皆、世民の謀なり。帝、世民を以て、儲嗣となさむと欲す。世民、固辭して止む。太子建成、酒色遊〓を喜び、齊王元吉、過失多し。而して、世民、功名日に盛なり。建成、乃ち元吉と謀を協せて、世民を傾けむとし、意を曲げて、諸唐-高祖神堯皇帝-五二 十八史略卷之五五三妃嬪に謂事す。世民、獨り、之を事とせず。之に由つて、左右、皆建成、元吉を譽めて、世民を短る。武德九年六月、太白、天に經り、秦の分に見はる。建成、元吉、世民を殺さむと欲す。秦府の僚屬、王に勸めて周公の事を行はしむ。力め請うて、乃ち決す。是に於て、密奏す。兄弟專ら臣を殺さむと欲し、世充、建德の爲に響を報ぜむとするに似たりと。明日、兵玄武門の變を師ゐて、玄武門に伏す。建成、元吉、入つて變あるを覺り還らむと欲す。世民、追うて、建成を射て之を殺し、尉遲敬德、元吉を射殺す。遂に世民を立てて太子となし、軍國の事、悉く太子に委し魏徴て處決せしめ、然る後に聞奏す。初め、東宮の官屬魏徵、屢ば建成さに勸めて、世民を除かむとす。是に及びて、世民、徵を召し、責む3)るに兄弟を離開するを以てす。徵擧止自若、對へて屈せず。世民之を禮す。王珪も、亦た、嘗て建成の爲に謀る。皆、以て諫議大夫となす。帝、自ら稱して、太上皇帝といひ、詔して、位を太子に傳ふ。之を太宗文武皇帝となす。【太宗文武皇帝】名は世民。幼なりし日、書生あり、之を見て曰く、〓評秦王世民龍鳳の姿、天日の表、其年、冠に幾くして、必ず能く世を濟ひ、民相貌特異英人り最を安んぜんと。高祖、人をして之を追はしむ。見えず、乃ち其語を而る 安其成採つて名となす。李密、始めて高長謂邁と果年十八、義兵を擧ぐ。唐に降り、もを所服神祖に見え、色、尙ほ傲れり。秦王を見るに及びて、敢て仰ぎ視ず。唐-高祖神堯皇帝-太宗文武皇帝-五一三 十八史略卷之五五一四に記載して退いて、歎じて曰く、眞の英主なりと。高祖、秦王の功高きを以て降李仰王てるえ時唐是て秦り傲見のがと,特に天策上將を置く。位王公の上に在り。秦王を以て之となす。電して、の色祖ま府を開き、屬を置き、館を開き、以て文學の士を延く。杜如晦、房玄齡、虞世南、褚亮、姚志廉、李玄道、蔡允恭、薛元敬、顏相時十りり見遇なざぎにあ後りにあめり唯を 明、 文 斯 にて那以は蘇〓顯ねし于志寧、李守素、だ致し朝支所蘇世長、薛收、陸德明、孔穎達、葢文達、二許敬宗を文學館の學士となす。分つて三番となし、日を更へて直宿し宗中高ち者し太創てあ頃祖初あ者平業漢乃三せてす。王の暇日には、輒ち館中に至つて、文籍を討論し、或は夜分に至る。唐りに閣立本をして、像を圖せしめ、褚亮をして賛を爲らしめ、十宗宋而太八學士と號す。士大夫、其選に預るを得るもの時人、之を登瀛洲太祖といふ。時に府僚多く外に補せられ、如晦亦た出づ。玄齡曰く、餘人は惜むに足らず、如晦は王佐の才、大王、四方を經營せむと欲太宗と絕はふのに所謂い代眞とベ英し主せば、如晦に非ざれば、不可なりと。王、卽ち奏して、之を留め、帷幄に參謀せしむ。剖決流るるが如し。玄齡、入つて事を奏する每に、高祖曰く、玄齡、吾が子の爲に事を謀る。千里を隔つと雖も、對面して語るが如しと。秦王の功、天下を葢ひ、身、幾んど危し。房玄齡杜如玄齡、如晦に賴つて、策を決す。是に至つて、位に卽く。首として、晦宮女三千餘人を放つ。突厥の頡利、突利の二可汗、十餘萬騎を合はせて入寇し、進んで渭水便橋の北に至る。上、自ら房玄齡等六騎と、徑に渭水の上に詣やり、頡利と水を隔てて語り、責むるに、約に負くを以てす。突厥、唐-太宗文武皇帝-五一五 十八史略卷之五五一六大に驚き、皆、馬を下つて羅拜す。俄にして、諸軍、繼いで至り、旗甲野を蔽ふ。頡利懼れ、盟を請うて退く。弘文館を置き、四部二十餘萬を聚む。天下文學の士を選び、虞世南等、本官を以て、學士を兼ね朝を聽くの隙、內殿に引き入れ、前言往行を講論し、政事を商權し、或は夜分にして、乃ち罷む。三品以上の子孫を取つて、弘文館學士に充つ。上書して侫臣を去らむことを請ふ者あり。曰く、願はくは、陽り評怒つて、以て之を試みよ。理を執つて屈せざる者は直臣なり威をしの政所這銘家訓個との中太外宗お べ右爲の畏れて旨に順ふ者は侫臣なりと。上曰く、吾、自ら詐をなせば、何す座を以て臣下の直を責めむや。朕、方に至誠を以て天下を治めむと。或ひと法を重くして盜を禁ぜむことを請ふ。上曰く、當に奢を去つて費を省き、徭を輕くし、賦を薄くし、廉吏を選用し、民の衣食をして餘あらしむれば、自ら盜を爲さず。安んぞ、重法を用ゐむやと。之より數年の後、路、遺ちたるを拾はず。商旅野宿す。上、嘗て曰く、君は國に依り、國は民に依る。民を刻して、以て君に奉ずた、るは、猶ほ肉を割いて以て腹を充たすが如く、腹飽けども身斃れ、君、富めども國亡びむと。又嘗て侍臣に謂つて曰く、聞く、西域の賈胡、美珠を得れば、身を剖いて之を藏むと。是れ有りや。曰く、之あり。曰く、吏の賊を受けて、法に抵ると、帝王の奢欲に狗ひて國を亡すと、何を以て、此胡の笑ふべきに異ならむやと。魏徵曰く、唐-太宗文武皇帝-五一七 十八史略卷之五五一八宅むかし、魯の哀公、孔子に謂つて曰く、人好く忘るるものあり、またはな〓〓を徒して其妻を忘る。孔子曰く、又甚しきものあり、桀紂は、乃ち其身を忘ると。亦た猶ほ是の如きなりと。張蘊古大賣張蘊古、大寶箴を獻ず。曰へるあり、一人を以て天下を治む、天箴を獻ず下を以て一人に奉ぜずと。又曰く、九重を内に壯にすれども、居る所は、膝を容るるに過ぎず。かの昏にして知らざるは、其臺を瑤にし其室を瑀にす。八珍を前に羅ぬれども、食ふ所は口に適ふに過ぎず。惟れ狂にして念ふなきは、其糟を丘にして、其酒を池にすと。ら又曰く、沒沒として闇きこと勿れ、察察として明なること勿れ冕旒目を蔽ふと雖も、無形に視よ。〓續耳を塞ぐと雖も、無聲に聽けと。上、其言を嘉す。天下を分つて十道となす、山川の形便に因る。曰く關內、河南、河東、河北、山南、隴右、淮南、江南、劍南、嶺南將を遣して、梁師都を討つ。其下、之を殺して以て降る。其地を以て夏州となす。太常祖孝孫、唐の雅樂を奏す。貞觀二年、又、宮女三千餘人を出す。軍國の大事は、故事、中書舍人、各所見を雜署し、之を五花判事といひ、中書侍郞、中書令、之を省審し、給事中、黃門侍郞、之を駁正す。上王珪に謂つて曰く、國家、もと中書門下を置いて以て唐-太宗文武皇帝-五一九 十八史略卷之五五二〇相檢察す。卿曹、雷同すること勿れと。時に、珪、侍中たり。房玄評反女齡杜齡杜如晦、僕射たり。魏徵、祕書監に守たり。朝政に參預す。如明治3年間唐初三名玄齡、事を謀る、必ず曰く、如晦に非ざれば決する能はずと。如臣な異忠りの魏徵の臣相ずたきる臣良晦至るに及びて、卒に玄齡の策を用ゆ。蓋し、玄齡善く謀り、如晦のに味論ら々如やる滋あ深善く斷ず。二人、心を同じうして、國に徇ふ。故に、唐の世、賢相を稱する、房杜を推す。魏徵、嘗て上に告げて曰く、願はくは、臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむる勿れ。上曰く、忠良異なれりや。徵曰く、稷契、皐陶、君臣心を協せて、共に尊榮を享く、謂ゆる良臣なり。龍逢、比干、面接廷爭、身誅せられ、國亡ぶ、謂ゆる忠臣なりと。上、悅ぶ。5初め、突厥、旣に强く、敕勒諸部、分散し、薛延陀、囘紇等の十五部あり。皆、磧北に居る。額利、政亂れ、薛延陀、囘紘等之に叛く加ふるに、民、大に飢ゑ、羊馬多く死す。使を奉ずる者還り、及び邊帥、皆、突厥取るべきの狀を言ふ。詔して、李靖を以て、定襄道の行軍總管となし、諸軍を統べて、之を討たしむ。靖、突厥を陰山に襲ひ破る。頡利可汗、遁れ走る。唐將、之を擒にして以て獻ず。時に、突利可汗、先に己に入朝す。上、突厥の降衆を處するに、東は幽州より西は靈州に至らしむ。突利の地を分つて四州となし、頡利の地を分つて六州となし、左に定襄都督を置き、右に雲中都督を置き、以て其衆を統べ、突利を以て順州都督となし、額利を唐-太宗文武皇帝-至二 十八史略卷之五五二二右衞大將軍となす。林邑、使を遣して入貢す。伊吾、來り降る。伊西州を置く。高昌王麴文泰入朝す。評之より先、四夷の君長、闕に詣り、帝に天可汗とならむを請ふ。何行可子は太ぞは汗た大宗壯んのり唐言又のふる言を下天我事上曰く、我は大唐の天子たり、又、下、可汗の事を行はむかと。群な乎臣及び四夷、皆萬歲と稱す。之より後、璽書、西北の君長に賜ふには、皆、天可汗と稱す。蔡公如晦卒貞觀四年、蔡公如晦、卒す。上語、及べば、必ず涕を流す。す此歲、大に年あり。上、初め位に卽くや、常に群臣と語つて、〓化に及ぶ。曰く、大亂の後、それ治め難きか。魏徵、對へて曰く、〓12饑ゆる者は食を爲し易く、渴する者は飮を爲し易し。封德彝曰く、三代以還、人漸く澆訛、故に秦は法律に任じ、漢は霸道を雜ふ。蓋し、化せむと欲するも能はざればなり、豈に之を能くして、然も欲せざらむや。徵曰く、五帝三王、民を易へずして化す。湯武は、皆評國民大學大亂の後に乘じて、身、太平を致し、帝道を行うて帝たり、王道をふ)行うて王たり。行ふ所、如何を顧るのみと。上卒に徵の言に從ふ.元年、關中饑ゆ、斗米、絹一匹に直る。二年、天下蝗あり。三鑑道一加土り蓋著工具り、年、大水あり。上、勤めて、之を撫す、未だ嘗て嗟怨せず。是に至じつて、天下、大に稔る。米、斗、三四錢。終歲、死刑を斷ずる、わ唐-太宗文武皇帝-五二三 十八史略卷之五五二四づかに十九人。東海に至り、南.五嶺に及ぶまで、皆、外戶閉ぢす、ず、行旅糧を齎らさず、給を道路に取る。上曰く、魏徵、我に勸めて、仁義を行はしむ。今、旣に效あり。惜むらくは、封德彜をして之を見せしめずと。盖し、德彜は、元年六月に死せり。五年。林邑、新羅、入貢す。黨項、內附す。其地を開いて、十六州となす。支店内七銀丸功の安七年。春、玄武門に宴し、七德九功の舞を奏す。徵上が武を偃舞せ文を修めむことを欲す。宴に侍する每に、七德の舞を見ては輒一)ち首を俛して視ず。七德の舞は、秦王破陣の曲なり。九功の舞を見れば則ち之を諦觀す。王珪、罷む。徵侍中となる。る評の事後世論太宗縱囚上親ら囚徒を錄し、死に應ずる者を見て、之を憫み、縱つて、議ある所な家に歸らしめ、期するに、來秋を以てして死に就かしむ。仍つて、)今省採世り三者のの轉向用事件天下の死囚に敕して、皆、縱ち遣り、期に至つて、京師に來り詣らせししむ。是に至つて、皆期の如く、自ら朝堂に詣る。上、皆之を赦す。凡そ三百九十人。上太上皇を奉じて、未央宮に置酒す。上皇、頡利可汗に命じて古起つて舞はしむ。馮智戴、詩を詠ず。笑つて曰く、胡越一家、しへより未だ有らざるなりと。八年。吐蕃、使を遣して入貢す。高祖崩ず九年。太上皇、崩ず。上皇、卽位九年にして位を禪り、是に至る唐-太宗文武皇帝-五二五 十八史略卷之五五二六まで又九年。吐谷渾、之より先、凉州に入寇す。李靖を以て諸軍に帥たらしめ、討つて之を破る。十年。吐谷渾、子を遣して入侍せしむ。治書侍御史權萬紀言ふ、宣饒、銀、大に發す。之を采らば、歲毎に、數百萬を得べしと。上曰く、卿未だ嘗て一賢才を進めず、然も專ら銀の利を言ふ。むかし、堯舜、壁を山に抛ち、珠を谷に投じ、漢の桓靈、乃ち錢を聚めて私藏となす。卿桓靈を以て我を俟たむとするかと。之を黜く。府兵を定む、凡そ十道。府を置く、六百三十四。而して、關内はす二百六十一、皆、諸衞及び東宮六率に隸し、上府の兵は凡そ千二百中府は千人、人下府は八百人。三百人を團となし、團に校尉あり、ちやう、五十人を隊となし、隊に正あり、十人を火となし、火に長あり、人毎に兵甲粮裝、各 數あり。之を庫に輸し、征行には之を給す。二十なにして兵となり、六十にして免す。能く騎射する者は越騎となし、其餘は、步兵となす。統軍別將を更命して、折衝果毅都尉となし、歲の季毎に、各折衝都尉、帥ゐて以て戰を〓へ當に馬を給すべき者には、官より直を與へ當に宿衞すべき者は、番上し、兵部は遠とほき·そ近を以て番を給し、遠は疎、近は數皆、一月にして更る。十三年。夏、旱す。五品以上に詔 して、事を言はしむ。魏徵、唐-太宗文武皇帝-五二七 十八史略卷之五五二八言ふ、陛下、貞觀の初に比して漸く終を克くせざるもの十條と。上、深く賞歎す。十四年。上國子監に詣り、親ら釋奠す。この時、大に天下の名儒を徵して學官となし、屢ば國子監に幸し、之をして講論せしむ。學は能く一經已上に明かなる者は、皆官に補するを得。學舍を增築すること、千二百間、學生を增して、三千二百六十員に滿たしむ。屯營飛騎よりしても、亦た博士を給して經を授け、能く經に通ずる者あれば貢擧を得るを聽す。是に於て、四方の學者、京師に雲集し、乃ち高麗、百濟、新羅、高昌、吐蕃の諸會長に至るまで、亦た子弟を遣し、請うて、國學に入らしめ、講筵に昇る者八千餘人に至る。上、師說多門にして、章句繁雜なるを以て、孔頴達に命じて、諸儒と共に五經の疏を定めしむ。之を正義といふ。高昌王麴文泰、之より先、西域の朝貢を遏絕し、及び中國の人を拘留す。侯君集を以て交河大總管となし、兵に將として、之を擊たしむ。是に至つて、高昌を滅ぼし、其地を以て西州となす。十五年。吐蕃、婚を求む。文成公主を以て之に嫁せしむ。鄭公魏徵卒十七年。鄭公魏徵、卒す。上曰く、銅を以て鏡となせば、衣冠をすた古しへを以て鏡となせば、評魏徵は謀正すべく、興替を見るべく、人を以て鏡者氏乃木真んもとなせば、得失を知るべし。徵沒して、朕、一鏡を亡ふと。徵·はふむ葬るや、上、自ら碑を製して石に書す。唐-太宗文武皇帝-五二九 十八史略卷之五五三〇功臣を凌烟功臣長孫無忌、趙郡王孝恭、杜如晦、魏徵、房玄齡、高士廉、尉閣に圖畫す遲敬德、李靖、蕭瑀、段志玄、劉弘基、屈突通、殷開山、柴紹、長孫順德、張亮、侯君集、張公謹、程知節、虞世南、劉政會唐儉、李勣、秦叔寶等を凌煙閣に圖畫す。太子承乾、不才なり。魏王泰、多能にして寵あり、潜に嫡を奪ふ(うの志あり。侯君集、功を負んで、怨望し、承乾の暗劣を以て釁に乘さぜむと欲し、因つて之に反を勸む。事覺はる。廢して庶人となし、君集坐して誅せらる。泰も、亦た險詐を以ててられず。晉王治をす立てて太子となす。魏徵、嘗て君集を薦む。上、初め、徵の阿黨するを疑ふ。又、徵自ら前後の諫辭を錄して、起居郞褚遂良に示すといふ者あり。上、愈よ悅ばず。徵、終に臨む時、上、公主を面指して、其子叔玉に妻はさむと欲す。是に至つて、其婚を停め、立つる所の碑を踏す。十八年。上、親ら高麗を征す。之より先、高麗の泉蓋蘇文、其君を弑し、新羅、又、使を遣して言ふ、百濟、高麗と兵を連ねて、新い羅入貢の路を絕たむを謀る。乞ふ兵をもつて救援せよと。上、遂に之を討たむとし、先づ洛陽に如く。十九年。上、洛陽を發して、定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を拔き、白巖城を降し、安市城を攻め、大に其救兵を城下に破る。安市城、險にして兵精、堅守して下らず、議者、烏唐-太滑文武皇帝-垂 十八史略卷之五五三二骨城を拔き、鴨綠水を渡り、直に平壤を取らむとし、其本根を覆さば、餘は戰はずして降すべしといふ。或ひと又謂ふ、親征は諸將と異なり、危きに乘ずべからずと。上、遼左早寒、草枯れ水凍つて、士卒久しく留め難く、且つ粮將に盡きむとするを以て、敕して、師を班す。この行、十城を拔き、戶口七萬を徒し、三たび大戰して、斬首四萬餘級。然れども、戰士死する者、幾んど三千人、戰馬の死13する、什に七八、功を成す能はず。深く之を悔い、歎じて曰く、魏徵若し在らば、我をして、此行あらしめざるなりと。命じて、騎を馳せ、徵を祀るに少牢を以てし、復た製する所の碑を立つ。二十年上靈州に行く。李世勣をして、薛延陀を擊たしめ、破つて之を降し、敕勒の諸部を詔諭す。囘乾等十一姓、各、使を遣しわ、て、命に歸し、官司を置かむを乞ふ。詔して曰く、朕聊か偏師に命じて顏利を逐擒し、始めて、廟略を弘む。旣に、延陀を滅し、鐵動百餘萬戶、請うて州郡となる。混元以來、殊に未だ前聞せず。大家上評百詩王|宜しく、禮を備へて廟に〓ぐべしと。仍つて、天下に頒示す。上雪(さ除詩を爲つて曰く、耻を雪いで百王に酬い兇を除いて千古に報ず意氣爽なと石を靈州に刻す。司空房玄齡卒す二十二年、司空梁公房玄齡、卒す。上悲んで、自ら勝へず。玄評スキ房相當國齡上を佐けて、天下を定め、相位に終るに及ぶまで三十二年、號けんしや·之原子しやったして賢相となす。然れども、跡の尋ぬべきものなし。上、禍亂を定唐-太宗文武皇帝-五三三 十八史略卷之五五三四5上な。然も房杜功を言はず。王魏善く諫諍す。然も房杜其賢を讓る。英衞善く兵に將たり。然も房杜其道を行ふ。理、太平を致し、善人主に歸す。唐の宗臣たり。二十三年。上、疾あり。太子に謂つて曰く、李世勣、才知、餘あり。然れども、汝、之に恩なし。我、今、之を黜けむ。我死せば、用ゐて僕射となして、之に親任せよ。若し徘徊顧望すれば、則ち當きに之を殺すべきのみと。乃ち疊州都督に左遷す。詔を受くるや、家に至らずして去る。太宗言行上崩ず。在位二十四年。改元するもの一曰く貞觀上、武功を以て、禍亂を定むと雖も、終に文德を以て海內を綏んず。常に自ら驕侈を以て懼となす。嘗て曰く、人主惟だ一心、之を攻むる者衆し。或は勇力を以てし、或は辯口を以てし、或は諂諛を以てし、或は姦詐を以てし、或は嗜欲を以てし、輻輳して、各、自ら售らむことを求む。人主少しく解つて、其一を受くれば、危亡之に隨ふ、是れ難き所以なりと。嘗て、侍臣に問ふ、創業守成、孰れか難き。玄齡曰く、草味の初群雄並び起り、力を角して後に、之を臣とす、創業難し。魏徵曰く、古しへより、帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失はざるはなし、守成難し。上曰く、玄齡、吾と共に天下を取り百死を出でて一生を得たり、故に創業の難きを知る。徵吾と1/3共に天下を安んじ、常に驕奢は富貴に生じ、禍亂は忽にする所に生唐-太宗文武皇帝-五三五 十八史略卷之五五三六ずるを恐る、故に守成の難きを知る。然れども創業の難は、往けり、守成の難は、方に諸公と之を愼まむと。自ら神采の臣下に畏れらるるを知り、常に溫顏にして群臣に接し、人を導いて諫めしめ、諫むる者を賞し、以て之を來す。惟だ末年東征の役、褚遂良、嘗て諫むれども聽かず、太子立つ、之を高宗皇帝となす。【高宗皇帝】名は治、母は長孫皇后。承乾の廢せらるるや、長孫さ、無忌、力めて太宗に勸めて治を立つ。東宮に在ること七年。太宗、こと〓〓帝範十二篇嘗て帝範十二篇を作つて、以て賜うて曰く、修身治國、盡く其中に在り。一旦不諱更に言なしと。是に至つて卽位す。長孫無忌、褚せ七遂良、先帝の遺詔を受けて、政を輔け、李勣を以て左僕射となし、尋いで、司空となす。業大夫お宗る次儀才でと人赤水焼永徽五年。太宗の才人武氏を以て昭儀となす。)后とな六年。上、皇后王氏を廢して、武昭儀を立てて后となさむとす。以て李勣に問ふ。許敬宗、李義府、之を賛す。褚遂良、可かず。勣曰く、是れ陛下の家事、何ぞ必ずしも、更に外人に問はむと。事、義府-李猫遂に決す。褚遂良、貶せられ、義府、參知政事たり。義府、貌溫ミ評多し當世李猫恭なるが若く、人と嬉怡し、然も、狡險忌克。人謂ふ、笑中刀あり、柔にして物を害す、之を李猫といふと。武后、長孫無忌が己を助けざりしを以て、深く之を怨み、顯慶四官を削つて、年、無忌の黔州に安置す。遂良、先つこと一年にして唐-高宗皇帝-五三七 十八史略卷之五五三八卒す。是に至つて、無忌、初の議者、柳奭、韓瑗と共に皆殺さる。だじやうげん〓〓乾封元年上、泰山に封じ、毫州に至り、老君を尊んで太上玄元皇帝となす。李勣を以て遼東大總管となし、高麗を伐つ。總章元年李勣、平壤を拔き、其王を降し、高麗悉く平らぐ。安東都護府を置く。上元元年。帝、天皇と稱し、后、天后と稱す。二)は初め、帝、賤妾の子忠を以て太子となす。武后、之を廢して、后の子弘を立つ。弘、仁孝、中外心を屬す。后の意に忤ふ。之を鴆す。其次を立つ、賢といふ。又、事を以て之を廢して、其次哲を立つ。上、在位改元するもの十三、曰く、永徽、顯慶、龍朔、麟德、乾じやうげん封總章咸享、上元儀凰、永隆、開耀、永淳、弘道、凡そ三十四年。而して、政、中宮に在るもの三十年。褚遂良等、死せしより後、群臣敢て諫むる者なし。李善感、嘗て、事に因つて、一たび諫む。人、以て、鳳朝陽に鳴くとなす。上、崩ず。太子哲、位に卽く之を中宗皇帝となす。【中宗皇帝】初名は顯、哲と改名す。旣に位に卽き、韋妃を立てて)3后となし、改元して嗣聖といふ。明年、武后、帝を廢して廬陵王となして、其弟旦を立つ。旦、虛器を擁するもの七年、改元して垂唐-高宗皇帝-中宗皇帝ー五三九 十八史略卷之五五四〇撰といひ、永昌といふ。太后、旦を廢して皇嗣となして帝と稱す。之を則天武氏となす。C則天武氏則天武氏は、故の〓州都督武士護の女なり。太原の人。年十四。太宗、其美を聞き、召して、後宮に入れ、貞觀十一年を以て、才人さとなる。時に、天下の歌曲を斌媚娘と名づく。旣に識を成す。貞觀の末、太白屢ば晝現はる。太史、占して云ふ、女主昌ならむと。又秘記を傳ふ、唐三世の後、女主武王、代つて天下を有たむと。太宗、之を惡む。嘗て、群臣と宴するや、各をして小名を言はしむ。武衞將軍李君羨、官稱封邑、皆武の字あり。而して、小名は五娘。太宗、愕いて曰く、何物の女子ぞ乃ち爾かく健なるかと。或ひと奏す、君羨、不軌を謀ると。遂に之を誅す。密に太史李淳風に問ふ。對へて曰く、臣、仰いで天象を觀、俯して曆數を察するに、其人、旣に陛下の宮中に在り、三十年を過ぎずして、當に天下に王たるべく唐の子孫を殺して、殆んど盡きむ、其兆、旣に成れりと。太宗崩ず。才人年二十四、尼となる。高宗、寺に幸す、之を見て泣く。時に、さ王皇后、蕭淑妃と寵を爭ふ。密に髪を長くせしめ、高宗に勸めて之を納る。·既に入つて、后と淑妃と、皆寵を失ふ。武氏、年三父士護に十二、遂に昭儀より后となり、王、蕭、皆殺さる。周國公を尋いで、太原王を加贈す。贈り、高宗、風眩に苦んで、百司の奏事せいめいびんを視る能はず。或は皇后をして、之を決せしむ。后、性明敏、文史唐-中宗皇帝-雷 十八史略卷之五五四二政事を涉獵し、事を處して、皆、旨に稱ふ。之に由つて、委するにを以てし、權人主に伴しく、人、之を二聖といふ。高宗の世に在一)子哲位つて、后、自ら子弘を殺し、子賢を廢す。高宗、旣に崩じ、に卽くや、廢して廬陵王となして、子旦を立つ。后、朝に臨んで、ま制を稱し、武氏の七廟を立つ。一抔の土、未だ英公李敬業、兵を起して、之を討つ。檄に曰く、六尺孤安く乾かず、六尺の孤、安にか在る。又曰く、試に今日の域中を觀よ、にか在る擊つて之を殺す。越竟に是れ誰が家の天下ぞと。太后、將を遣し、遂に大に唐の王貞、又兵を擧げて匡復す、克たずして死す。太后、宗室を殺し、自ら墨と名づけ、皇帝と稱し、國を周と號し、旦を以て皇嗣となし、姓を武と改む。時に塁年六十七。初め、僧懷義を寵し、後に張易之、張昌宗を寵し、兄弟中に居て、事を用ゆ。易之は五郞、昌宗は六郞侫者曰く、人は言ふ、六郞は蓮花に似たり。吾は謂ふ。蓮花は六郞に似たるのみと。墨、人心の服せざるを知り且つ內行正しからず、人の己を議せむことを畏れて、盛に〓密の門を開き、酷吏侯思止、索元禮、周興、來俊臣、吉項等を用ゐて、鍛鍊羅織し、率ね反逆を以て、人を誣ひ、誅殺勝げて紀すべからず。之を用ゐて、天下を拑制す。然れども、權數あつて善く人を用ゐ、に賢才も、亦た之が爲に用ゐらるるを樂む。徐有功、仁恕にして、法;)を執る。嬰、毎に意を屈して、之に從ふ。將相、多く人を得たり。唐-中宗皇帝-五四三 十八史略卷之五魏元忠、婁師德、狄仁傑、姚元崇皆名相宋環、亦た朝に顯はる。と、くわんこうせいしん師德、寬厚〓愼犯せども校せず。弟代州の刺史に除せらる。師1/5德謂ふ。兄弟、榮寵過盛なるは、人の惡む所なり何を以て、之を免れむ。弟曰く、今より、人某の面に唾すと雖も、之を拭はむのみ師德、愀然として曰く、是れ吾が憂たる所以なり。人、汝の面に唾するは、汝を怒らしめむとするなり。然るに之を拭はば、其意に逆つて其怒を重ねむ。唾は拭はざるも、自ら乾く、當に笑つて之き···を受くべきのみと。師德、每に仁傑を薦む、然も、仁傑、毎に師德せを毀る。墨、仁傑に語つて曰く、朕、卿を用ゐしは、師德の薦むる所なりと。仁傑退いて歎じて曰く、婁公盛德、我容れらるること久しと。武承嗣、三思、太子たらむを營求す。仁傑、從容として塁に言つて曰く、太宗、櫛風沐雨、親ら鋒鏑を冐し、以て天下を定ためて之を子孫に傳へ太帝二子を以て陛下に托す。今乃ち之を他族に移さむと欲す。乃ち天意に非ざるなきか。姑姪と母子と、孰れか親しき。陛下、子を立つれば、則ち千秋萬歲の後太廟に配食せむ。一姪を立つれば、則ち未だ、姪、天子となつて、姑を廟に祔する者を聞さかざるなりと。嬰、やや悟る。旣にして、又力めて勸む。遂に房州よか、り廬陵王を召して、都に還らしめ、立てて皇太子となし、子旦を以て相王となす。仁傑、最も信重せられ、面折廷爭を好む。嬰、常に屈從し、稱して、國老となして、名いはず。仁傑、卒す、嬰、泣い唐-中宗皇帝-五四五 十八史略卷之五五四六げんかうちうはくがくたつうきかんおほて數ず。元行冲、博學多通なり。仁傑、之を重んず。行冲、規諫多めいこうちんみおほやくぶつまつそなし。曰く、明公の門には、珍味多し、請ふ藥物の末を備へむ。仁傑やくらうちうえうげん笑つて曰く、吾が藥籠中の物、何ぞ一日も無かるべけむやと。姚元すうとうす、たうり崇等、數十人、皆仁傑が薦むる所。或は曰く、天下の桃李、悉く公けんすの門に在り。仁傑曰く、賢を薦むるは、國の爲にして、私の爲にすせうかしるに非ざるなりと。嬰、嘗て仁傑に問ひ、一佳士を得て、之を用ゐちやうかんしむと欲すといふ。仁傑曰く、張東之といふ者あり、老いたりと雖もさいしやうつひかんししやうやまひい宰相の才ありと。後、竟に東之を用ゐて、相となす。墨、疾に寝ねはなはだかんしさいげんきけいきくわんげんはんゑんじよきうりんしやうぐんりて甚し。東之、崔玄暉、敬暉、桓彥範袁恕己と共に、羽林將軍李たそらひきあないらんとうきうむかくわん多祚等を率ゐ、兵を擧げて、內亂を討ち、太子を東宮に迎へ、關をえきししやうそうかせうじやうやうきううつそんがう斬つて入り、易之、昌宗を庶下に斬り、塁を上陽宮に遷し、尊號をそくてんだいせいくわうていそか武后殂す上つて、則天大聖皇帝といふ。この冬、殂す、年八十二。唐を易へ(西紀七〇五)かいげんてんじゆじよいて周となすもの、十有六年。改元するもの十、曰く、天授、如意、ちやうじゆえんさいばんさいつうてんじんこうせいれさきうしたいそくちやうあん長壽、延載。曰く萬歲通天。曰く神功、聖曆、久視、大足、長安ちやうあんくらゐさがうはい長安の五年、帝、位に復す、唐と號す。帝、卽位二月にして廢せきんしうばうしうかへられ、均州に居る者一年、房州に居る者十三年、還つて太子となるせいかへゐしじやうばうれう者又八年、然る後に、正に反り、韋氏復た皇后となる。上、房陵にじさつごとこうつねとじひそかちか評武在つて、自殺せむと欲する毎に、后每に之を止む。六共に私に誓を送禍り氏本でのいじさいわひまてんじつたほつきん氏のふ異時幸に復た天日を見ば、唯だ欲するままにして禁ぜずと。是てうのぞごとゐまんほどこでんじやうてうせいに至つて、朝に臨む每に、后、必ず帷幔を施し、殿上に坐して朝政唐-中宗皇帝-五四七 十八史略卷之五五四八を預り聞くこと、武氏の高宗の世に在るが如し。上の女安樂公主武三思の子に適く。三思、之を以て、宮禁に入るを得て、韋后に通ず。后、三思と雙陸す。而して上、爲に點籌す。土、遂に三思とちやうかんしとう政事を圖議す。張東之等、皆、制を受く。五人、·黄王爵を賜うてい政を罷む。旣にして、遠く貶して之を殺す。安樂公主等、勢に依つて事を用ゐ、請謁賊を受け、墨敕を降して、官に除し、斜封して中書に付す、時に之を斜封官といふ。凡そ數千人。人、上言するあり、皇后淫亂なりと。土、之を面詰す。其人、抗言して撓まず。せ、中書令宗楚客、制を矯めて之を撲殺す。上の意、快々たり。后及び其黨、始めて懼る。馬秦客、楊均、皆、后に幸せらる。事の泄れむ;)ことを恐れ、安樂公主も、亦た后が朝に臨み、己を以て皇太女となささむを欲し、乃ち相與に餅餤の中に於て、毒を進む。上、位に復して改元するもの二、曰く、神龍、景龍。景龍四年にして、弑に遇ふ。 溫王重茂を立て、后、攝政す。相王の子隆基、兵を起して亂を討ち、后及び安樂公主を斬り、其黨を併せて、皆之を誅し、重茂を廢し、相王を奉じて、之を立つ、之を睿宗皇帝となす。【虐宗皇帝】名は旦。初め高宗崩じ、中宗廢せらるるや、武氏、旦を立つ。帝たる者七年、然も廢せられて、周の皇嗣となる者九年、相王に改封せらるる者十年。是に至つて、復た帝となる。隆基を立てて太子となす。宋環、姚元之、政を爲す。二人心を協せて、弊政唐-中宗皇帝-睿宗皇帝ー五四九 十八史略卷之五五五〇あらたちうりやうふせうしりぞしやうばつこうつくせいたくおこなを革め、忠良を進め、不肖を退け、賞罰公を盡し、請托行はれず、者こうしうきよたうじきふぜんしゆくきんめいら〓んうまひ八風の舞紀綱修擧す。當時翕然たり。祝欽明等を貶す。欽明、嘗て八風の舞つくけいちはらを爲る。人曰ぐ、五經地を掃ふと。いもうとたいへいこうしゆちやうちうゐし帝の妹太平公主、二張を誅し、韋氏を誅する時に於て、皆、力しばしたいこういきほひそんちようともあり。既に屢ば大功を立て勢あつて尊重せらる。上、嘗て、與にけんじんしゆかたむえいぶはゞか政を議し、權人主を傾け、其門、市の如し。太子の英武を憚つてかろあんせきぞうえいちやうせつえうげんしらじやうかんご之を易へむと欲す。韋安布、宋環、張說姚元之等、上の意を感悟しよぶんまするに賴つて、政事、皆太子の處分を取る。よ復た帝となつてけいうんたいきよくより、改元するもの二、曰く、景雲、太極是に至つて三年、自らだじやうくわうしようつたげんそうめいくわうてい太上皇と稱し、位を太子に傳ふ、之を玄宋明皇帝となす。りんしわうゐしちんひそかさい西紀自七一二至七五六ゆう【玄宗明皇帝】名は隆基。あつひそかきやうふく初め、はか臨淄王となる。げうゆう韋氏の亂、えら陰に才ひやくき勇の士を聚めて、密に匡復を謀る。太宗、初め驍勇を選んで、百騎ぶこうませんきさいううりんれいはんきとなし、武后增して千騎となし、左右羽林に隸す。中宗、之を萬騎しおりやうりうきみなあつそのがうけつむすといひ、使を置いて、之を領せしむ。隆基、皆厚く其豪傑に結び、つひえいそうほうへいわうまさ卒に韋氏を誅し、睿宗を奉ず。封ぜられて、平王となる。睿宗、將ちよしちやうしせいきいうこうつとに儲嗣を立てむとす。長子成器、平王の有功なるを以て、力めて之ゆづゆづりに讓り、遂に太子となり、尋いで、禪を受く。かいげんぐわんねんかうりきしいうかんもんしやうぐんないじせにら開元元年高力士、右監門將軍となり、内侍省事に知たり。初せいほんくわんくわういりんしよくめ、太宗、制を定め、內侍省には三品官を置かず、黃衣廩食、門をめいつたほんしやうぐんじよやうや守り、命を傳ふるのみ。是に至つて、三品將軍に敍する者、漸く多唐-玄宗明皇帝-堊 十八史略卷之五五五二くわん〓〓ま堂官增して三千人に至る。内侍の盛なる、是に始まる。姚崇、紫微令となる二年太常、俗樂を併典すべからざるを以て、左右〓坊を置き、之を皇帝梨園の弟子といふ。珠玉錦繡を殿前に焚く。興慶宮を作り、樓を置き、西を花蕚相輝といひ、南を勤政務本といひ、宋王成器等の宅、其側を環る。三年虚懷愼、黃門監となる懷愼、〓謹儉素、妻子、饑寒を免れず。居る所、風雨を蔽はず。姚崇、嘗て謁〓すること十餘日、政{事委積す。懷愼、決する能はず。崇、出づ。須臾に裁決し盡す。顧みて、齊澣に謂つて曰く、我、相たる如何。澣曰く、時を救ふの相といふべしと。懷愼、才の及ばざるを知り、事毎に崇を推す。時に盧懷愼伴食之を伴食宰相といふ宰相四年姚崇、罷む。宋環、黄門監となる。環相となるや、務め顔を犯て人を擇び、百官、各其職を得たり。好んで、して正諫す。え上、甚だ之を敬憚す。環姚崇と相繼いで政を爲す、崇は善く變に應じ、環は善く文を守り、志操同じからず、然れども、心を協せて輔佐し、賦役をして寛平ならしめ、刑罰〓省、百姓富庶。唐世のま、施工匠杜後正姚房宋賢相前には房杜を稱し、後には姚宋を稱し、佗は比するを得るなし二人進見する每に、上輙ち之が爲に起ち、去れば、軒に臨んで唐-玄宗明皇帝-五五三 十八史略卷之五五五四之を送る。八年。宋環、罷む。うぶんゆうここうたういこうぎはなは九年。宇文融、言ふ、天下の戶口逃移し、巧僞甚だ多し、請ふ、けんくわつどうへいしやうじげんけんえうさんせいゆうくわんのう評勸農使誅檢括を加へむと。同平章事、源乾曜、之を賛成す。融を以て、勸農求の具となしくわんのうはんくわんにんぶんかうきそる善政酷吏使となし、奏して、勸農判官十人を置く。天下を分行して、競う好せに例らスポのルる〓イこくきうしうけんふううらうぜうひやくしやうこれくるして刻急をなし、州縣風を承けて勞擾し、百姓之に苦む。どうほんちやうぜつせうぼじゆんじつせいへいまん同三品張說、建議し、壯士を召募して、旬日、精兵十三萬を得たしよゑいぶんれいかうばんじやうげへいのう50諸衞に分隸し、更番上下す。兵農の分るる、是に始まる。ちやうじうしゆくゑいあらたなくわうき十三年。長從宿衞を更め命づけて壙騎となす。かんきうどうへいしやうじひとなせうちよくえん二十一年。韓休、同平章事たり。休、人と爲り峭直。上、或は宴いうせうくわすなはいかんきうげんをは遊小過あれば、輒ち左右に謂つて曰く、韓休、知るや否やと。言終かんそへいかミきうつて、諫疏、旣に至る。左右曰く、休、相となり、陛下殊に舊よりやたんも瘠せたり。土、歎じて曰く、吾は瘠せたりと雖も、天下は肥えむきうやもやうきうれいつと休罷む。張九齡、之に繼ぐ。ちうしよれいりりんほじう評に李て甫柔二十二年。九齡、中書令となり、李林甫、同三品たり。林甫、柔侫其多 Cafe狡ねいかうすうおほくわんくわんおよひひんむすどうせいうか亦數多電壓侫にして狡數多く、深く宦官及び妃嬪の家に結び、上の動靜を伺そうたに旨に稱ふ。かなひ、之を知らざるなし。之に由つて、奏對する每に常いうしうせつどしちやうしゆけいはいぐんしやうあんろくざんとらけいし安祿山二十四年、幽州の節度使張守珪敗軍の將安祿山を執へて、京師ちやうきうれいひぐんれいに送る張九齡、批して曰く、守珪の軍令、若し行はるれば、祿山よろまぬかそのさいゆうをしゆる宜しく死を免るべからずと。上、其才勇を惜んで、之を赦す。九唐-玄宗明皇帝-五五五 十八史略卷之五五五六齡、力爭して曰く、祿山、反相あり、誅せざれば、必ず後患をなさ무む。上曰く、卿王夷甫が石勒を識るを以て、枉げて忠良を害する勿れと。竟に誅せず。祿山はもと營州の雜胡なり。初名は阿犖山。の母、再び安氏に適く。故に其姓を冒す。部落破散して、逃れ來る。狡點にして、守珪に愛せらる。又、史翠子といふ者あり、祿山と里閉を同じうし、又驍勇なり。守珪、入つて、事を奏せしむ。上、名ゆ史思明を思明と賜ふ千秋節に、群臣、皆、寶鏡を獻ず。九齡、前世の興廢を述べて、張九齡千秋千秋金鑑錄五卷を爲つて、之を上る。金金像を上九齡、罷む。李林甫、中書令を兼ぬ。上、在位久しく、漸く奢欲を肆にす。林甫、遂に政を專らにするを得たり。二十六年、忠王を立てて太子となす。二十九年。安祿山を以て營州都督となす。祿山、傾巧にして、善く人に事ふ。上の左右、平盧に至れば皆厚く賄ふ。歸つて、之を譽む。上、益す以て賢となす。天寶元年祿山を以て平盧節度使となす。二年。祿山、入朝す。三年。年を改めて、載と曰ふ。祿山を以て、范陽節度使を兼ねしむ。楊貴妃四載楊太眞を以て、貴妃となす。故の蜀州司戶玄琰の女なり。唐-玄宗明皇帝-五五七 十八史略卷之五〓評上の子壽王の妃たること十年。上、其美を見て、自ら其意を以て乞倫配方配玄超市 其實且つ壽王の爲に別に要り、然る後に之を納れ、凡唐人うて女官たらしめ、禍て朝女な鑑闇のりみ門遂に寵を專らにす。發きす六載。祿山を以て、御史大夫を兼ねしむ。祿山、請うて、楊貴妃の兒となる。九載。祿山に爵を東平郡王と賜ひ、河北道採訪處置使を兼ねしむ。祿山入朝す。楊釗、兄弟姉妹、皆戲水に往いて之を迎ふ釗は貴妃の從祖兄なり。禁中に出入するを得たり。之より先、判度支、屢ば帑藏充物すと奏す。上、群臣を師ゐて、之を觀る。之ミに由つて、金帛を視ること糞土の如く、賞賜限なし。釗に名を國忠と賜ふ。十載。安祿山の爲に第を起し、華麗を窮極す。上、日に諸楊を遣し、之と遊ばしむ。祿山、體肥大上、嘗て、其腹を指して曰く、此胡の腹中、何の有る所ぞ。對へて曰く、赤心あるのみと。祿山、禁中に入るや、先づ貴妃を拜す。上、其故を問ふ。曰く、胡人、母上を先にして父を後にすと。祿山の生日、賜予甚だ厚し。後三日召(し入れ、貴妃、錦繡を以て大〓褓を爲り、宮人をして、綵興を以て之を昇かしむ。上、聞いて歡笑して、故を問ふ。左右、貴妃、祿兒?を洗ふを以て對ふ。上、妃に浴兒の金銀錢を賜ひ、歡を盡して罷む。之より宮掖に出入し、通宵出でず、頗る醜聲あり、外に聞こゆ;)るも、上、亦た疑ばず。又、祿山を以て河東節度使を兼ねしむ。李唐-玄宗明皇帝-五五九 十八史略卷之五五六〇林甫、祿山と語り、毎に其情を描り知つて先づ之を言ふ。祿山、驚服し、見る毎に盛冬にも必ず汗す。林甫を謂つて、十郞となす。旣に范陽に歸るや、其下、長安より歸れば、必ず問ふ十郞何をか言ひしと。美言を得れば則ち喜ぶ。或は但だ云ふ、安大夫に語れ、須らく好く點檢すべしと。卽ち曰く、噫嘻、我死なむと。李林甫、十一載。卒す。林甫、上の左右に媚事して、上の意を迎合して以て寵を固うす。言路を杜絕し、聰明を掩蔽す。嘗て、諸御李林甫曰く史に語つて曰く、仗に立つの馬を見ずや、一たび鳴けば、輒ち斥け加藤兒香芋焼およびせい去らると。賢を妬み能を嫉み、己に勝る者を排抑し、性陰險なり。人以て、口に蜜あり腹に劍ありとなす。毎夜、偃月堂に獨坐し、深思する所あれば、明日必ず誅殺あり。屢ば大獄を起す。太子より以下、皆、之を畏る。相位に在ること十九年、天下の亂を養成し、然も、土、悟らず。然れども、祿山、林甫の術數を畏る。故に、其世て反せず。を終るまで、未だ敢この歲、國忠、相となる。祿山、必ず反せむといひ、且つ曰く、試に召せ、必ず來らずと。十三載。祿山、召を聞いて卽ち至る。上、之に由つて、國忠の言を信ぜず。祿山に、左僕射を加へて歸らしむ。十四載。祿山、蕃將を以て、漢將に代へむと請ふ。上、猶は疑はす。表して、馬三千匹を獻じ、毎匹、二人、鞋を執り、二十二の將部をもつて河南に送らんと請ふ。上、始めて、之を疑ひ、使を遣して唐-玄宗明皇帝-五六一 十八史略卷之五五六二其獻を止む。祿山、床に踞して、拜せずして曰く、馬、獻ぜざるもき)亦た可なり、十月當に京師に詣るべしと。使還る亦た表なし。この安祿山遂に冬、祿山、遂に反し、所部の兵及び奚契丹を發し、凡そ十五萬、范陽反すを發し、引いて南す。步騎精銳、煙塵千里。時に承平久しく、百姓、額眞卿兵革を識らず、州縣、皆、風を望んで瓦解す。進んで、東京を陷る。評文天歲平日天然天あの平原の太守顏眞卿、兵を起して賊を討つ。上、初め、河北、賊に守り誠原は子卿不從ふと聞き、歎じて曰く、二十四郡嘗て一人の義士なきかと。眞卿く 知長し斯 名安の奏至るに及び、大に喜んで曰く、朕、眞卿何の狀たるを識らず、の紊如れしるらてく國と乃ち能く此の如しと。ん欲やす得常山の太守顏杲卿、兵を起して賊を討つ。河北諸郡、貨之に應ず。十五載。安祿山、僭號して大燕皇帝と稱す。賊將史思明、常山を陷れ、顏杲卿を執へて、洛陽に送る。祿山、其己に反するを責む。呆卿曰く、我、國の爲に賊を討つ。恨むらくは、汝を斬らず、何ぞ反といふや。臊羯狗、何ぞ速に我を殺さざる20祿山、大に怒り、縛して、之を咼す。死する比まで、罵つて、口を絕たず。げん、ヘ張巡眞源の令張巡、吏民を帥ゐて、玄元皇帝の廟に哭し、兵を雍丘に起して賊を討つ。郭子儀、李光弼朔方節度使郭子儀、河北節度使李光弼、賊將史思明と戰ひ、大に唐-玄宗明皇帝-番 十八史略卷之五番〓之を破り、首として、河北の數郡を復す。副元帥哥舒翰、賊と戰つて、大に敗る。麾下、翰を執へて、賊に降る。賊遂に關に入る。上、出奔して、馬嵬に次す。將士飢疲して、皆、憤怒し、楊國忠等〓を殺し、及び上に逼つて、貴妃を縊殺し、然る後に發す。父老道をと遮つて留まらむことを請ふ。上、太子に命じて、之を慰撫せしむ。父老、太子の馬を擁して、復た行くを得ざらしむ。皇孫俶をして、上に白せしむ。上曰く、天なりと。太子に喩さしめて曰く、汝、之を勉めよ。西北の諸胡、吾、之を撫すること、素より厚し、必ず其馬嵬の勅力を得むと。且つ、宣旨、位を傳へむと欲す。太子、平凉に至る。朔方の留後杜鴻漸、靈武に迎へ入れ、馬嵬の命に遵はむことを請ふ。牋五たび上る、乃ち許す。上を尊んで、上皇天帝となす。上在位四十五年、改元するもの三、曰く、先天、開元、天寶。太子立つ、之を肅宗皇帝となす。西紀自七五六至七六二【肅宗皇帝】初 名は瑣亨と改名す。忠王として太子となつてより、二十年にして、祿山の亂に遇ひ、是に至つて、位に卽く。京兆の李泌、幼より才敏を以て聞こゆ。上、東宮に在るや、嘗て、泌と布衣の交をなす。使を遣して、之を召し、靈武に謁見し、事、大小となく、之と謀る上皇、成都に至り、冊寶を遣して、靈武に行かしむ。使を遣して、兵を囘紇に徵す。唐-玄宗明皇帝-肅宗皇帝-五六五 十八史略卷之五五六六評招討節度使房琯、大に敗陳家孟を邪甫ず大軍賊と陳濤邪に戰ふ。陳濤杜詠の官琯、車戰を用ゐて、囘都仍歸日四天中血郡日敗死萬〓水作良く戰る冬十子陶澤至德二載。安慶〓、祿山を殺す。祿山、兵を起してより以來、目軍戰野同聲曠義無昏し、是に至つて、復た物を見ず。又疽を病で、躁暴なり。嬖妾の切北京歌詞號第一號人飮箭胡、子を以て、慶〓に代へて嗣となさむと欲す。慶〓、人をして、之を唱來夷雪し、首市、、弑せしめて自立す。祿山僭號、わづかに一年餘。日夜只上、鳳翔に至る。囘紇、子葉護を遣し、精兵四千人に將として至軍至安祿山殺さらしむ。天下兵馬都元帥廣平王俶、副元帥郭子儀、朔方等の軍及び囘紘、西域の衆を將ゐて、鳳翔を發し、長安に至つて賊を擊つ。と賊大に潰ゆ。大軍、西京に入る。俶留まつて鎭撫すること三日、軍を引いて、東に出でて、洛陽に至り、囘紇と夾擊す。賊、大ぶたに敗れ、遂に東京を復す。安慶〓、走つて、鄴を保つ。唯陽城陷り賊將尹子奇、唯陽を陷る。張巡許遠、之に死す。巡、さきに雍張貼許遠文化財丘を守る。軍を寧陵に移し、屢ば賊を破る。旣にして唯陽に入り、遠と共に守つて、屢ば賊を却く。食盡く。或は城を棄てむと欲す。巡遠謀つて曰く、唯陽は、江淮の保障なり。若し之を棄つれば、賊、必ず長驅せむ。是れ江淮なきなり。如かず、堅守して、以て救〓を待たむにはと。茶紙を食ふ。盡く。遂に馬を食ふ。馬盡く。雀を羅し、鼠を取る。雀鼠、又盡く。巡愛妾を殺し、以て士に食はしむ。四萬人、わづかに四百を餘すのみ、終に叛く者なし。賊城に唐-肅宗皇帝-五六七 、十八史略卷之五奏登る。將士、困病して、戰ふ能はず。巡西向再拜して曰く、臣、な力竭く。生きては、旣に以て陛下に報ずるなし。死しては、當に属鬼となつて以て賊を殺すべしと。城遂に陷る、巡遠、執へらる。南霽雲、雷萬春等、三十六人、皆殺さる。上皇蜀郡を發して、西京に還る。乾元元年郭子儀等、九節度に命じて、安慶〓を討たしむ。二年史思明、兵を引いて慶〓を救ふ。九節度の兵、鄴に潰ゆら思明、慶〓を殺し、范陽に還つて僭號す。李光弼、郭子儀に代つて、朔方節度使兵馬元帥となる。光弼、號令嚴整。初め至るや、號令一たび施せば、士卒壁壘、旗幟精明、皆變ず。史思明と戰つて、屢ば之を敗る。上元元年太僕卿李輔國、上皇を西內に遷す。上皇、興慶宮を愛し、蜀より歸るや、卽ち之に居る。多く樓に御す。父老、過ぐるわう·〓〓せんはい者、往往瞻拜して萬歲と呼ぶ。上皇、常に樓下に於て、賜ふに酒食を以てす。又、嘗て、將軍郭英又等を召して、樓に上らしめて、宴を賜ふ。輔國言ふ、上皇、興慶に居り、日に外人と交通し、陳玄上に不利ならむことを謀ると、じ禮高力士、數ば上に啓して、之を遷さむとす。許さず。上、不豫、衆を率ゐて劫遷す。上皇、日に以て懌ばず。因つて革を茹はず、穀を避け、寝く以て疾を成す。二年。史朝義、史思明を殺す。思明、少子を愛して朝義を惡み、唐-肅宗皇帝-五六九 十八史略卷之五五七〇其敗軍に因つて、之を斬らむと欲す。朝義、人をして、思明を射殺せしめて自立す。李光弼、大尉となり、八道の行營を統べ、臨淮に鎭す。寶應元年郭子儀、諸道節度行營に知とし、興平、定國等の軍の副元帥を兼ね、復た朔方に入る。上皇、西內に崩ず。位を傳へし後、七年なり。壽七十八。に上、疾に寢す。上皇の登退を聞いて、轉た劇しく、遂に崩ず。在位七年改元するもの四、曰く、至德、乾元、上元、寶應。初め、ミ張皇后、李輔國と相表裏し、權を專らにし、事を用ゆ。晩に更に隙あり。上、疾篤し。后、太子を召し、謂つて曰く、輔國、久しく禁兵を典り、陰に亂を作さむことを謀る、誅せざるべからずと。太子、上の體を震驚せむことを恐れて可かず。輔國、其謀を聞く。上、崩ずるや、后を殺して而して後に太子を引いて之を立つ、之を代宗皇帝となす。【代宗皇帝】初名は俶。廣平王に封ぜらる。元帥となつて、兩京を定め、楚王に封ぜられ、成王に改められ、旣にして太子となり、豫と改名す。是に至つて位に卽き、李輔國を誅す。雍王适を以て、天下兵馬元帥となし、諸將及び囘紇の援兵を率ゐて、史朝義を討たしめ、大に之を敗る。賊將李懷仙、朝義を斬つて以て降る賊將張志忠を以て成德軍を鎭せしめ、姓名を李寶臣と賜ふ。薛蒿、相衞邢唐-肅宗皇帝-代宗皇帝-毛 十八史略卷之五毛い洛貝、磁等の州を鎭し、田承嗣は魏博、德、滄、瀛等の州を鎭し、李懷仙は盧龍を鎭す。朝廷、兵革を厭苦し、無事を苟冀し、因つて、之に授く諸鎭、自ら黨援をなし、河朔、敢て朝命に抗する、是に始まる。廣德元年吐蕃、入寇す。上、陝州に出奔す。吐蕃、長安に入る關內副元帥郭子儀、之を擊つ吐蕃、遁れ走る。くわんじやていげんしん二年宦者程元振を流す。元振、初め、李輔國に附く。輔國、死するや、元振、權を專らにし、自ら恣にすること最も甚しく、諸將の大功ある者を忌んで、皆、之を害せむと欲す。吐蕃、入る。元振掩蔽して、時を以て奏せず、上の狼狽を致す。中外切齒す。是に至つて、湊州に流さる。臨淮王李光弼、卒す。上の陝に幸するや、光弼至らず、上、之を撫すること、厚きを加ふ。素より子儀と名を齊しうす。徐州に在るに及びて、兵を擁して朝せず。麾下の諸大將、復た尊畏せず、光弼愧恨疾を成して死す。え永泰元年平盧の將李懷玉、節度使侯希逸を逐うて、自ら留後に知たり詔して、因つて之に授け、名を正己と賜ふ。百を取にんしやう?叛將僕固懷恩囘紇吐蕃を誘うて入寇す。郭子儀を召して、涇陽に屯せしむ。懷恩、道に死す。二虜、長を爭うて睦しからず。子儀、人をして、囘紇に說かしめ、共に吐蕃を擊たむと欲す。之より先、懷恩、囘乾を欺いて、子儀旣に死せりといふ。使至る。囘紇、唐-代宗皇帝-五七三 十八史略卷之五毛信ぜずして曰く、郭公在らば、見るを得べきかと、使、還り報す。子儀、數騎と出で、人をして、傳呼せしめて曰く、令公來ると。囘紇、大に驚き、藥葛羅、弓矢を執つて陣前に立つ。子儀、冑を免ぎ甲を釋いて進む。諸會長相顧みて曰く、是れなりと。皆、馬を下つて羅拜す。子儀、亦た馬を下り、手を執つて之と語り、酒を取つん·て相與に誓約して還る。吐蕃、之を聞いて、夜遁る。諸軍囘紇と共に追ひ、大に之を破る、三年。幽州の將朱希彩、李懷仙を殺す。詔して、因つて、希彩を以て鎭を移さしむ。大阪府社宦者魚朝恩を誅す。朝恩、肅宗の時に在つて、觀軍容使となる。軍容の名、是に始まる。九節度相州の敗は、其時なり天下觀軍容宣慰廣德の初に至り、處置使となり、專ら禁兵を總べ、焼勢、朝野を傾く大曆の初、國子監に判たり座に升り、鼎餗;を覆すを講じ、以て宰相を譏る王増は怒り、元載は怡然たり朝恩曰く、怒る者は常情、笑ふ者は測るべからざるなりと。朝政、預らざる者あれば、輒ち怒つて曰く、天下の事、我に由らざるものありやと。上、之を聞いて懌ばず。載閒に乘じて、其專恣不軌を奏す、遂に之を誅す七年。盧龍の將、朱希彩を殺して、朱泚を以て鎭を領せしむ。詔して、因つて之を授く。唐-代宗皇帝-五七五 十八史略卷之五五七六九年。朱泚、弟滔を以て、鎭を領せしめて入朝す。十二年元載不軌を圖ると告ぐる者あり案問して死を賜ふ胡椒八百斛に至り、ミ其家を籍す。他物、是に稱ふ。楊縮、常衰を以て、同平章事となす。縮素より〓儉。制下るや、郭子儀、方に宴し、坐中の聲樂五分の四を減す。京兆尹黎韓止だ十騎を存す。驅從甚だ盛なり卽日、之を省き縮相たること三月にして卒す。上、之を痛悼して曰く天なるか朕の太平を致すを欲せず、何ぞ朕が楊縮を奪ふの速なるやと十四年田承嗣卒す。姪悅、之に代る淮西の將李希烈、節度使を逐ふ。詔して、因つて、鎭を以て希烈に授く。上在位十八年。改元するもの三、曰く廣德、永泰大曆。崩ず。太子立つ、之を德宗皇帝となす。【德宗皇帝】名は适雍王より太子となる。是に至つて卽位すじゃうこん欺罔を以て貶せらる。常衰崔祐甫、同平章事たり。祐甫、時望を收めむと欲す未だ二百日ならず、官に除する者、八百人。上曰卿の用ゆる所、く人多く親故に涉るを謗るは何ぞや。對へて曰評言親祐KTB陛下の爲に人を擇ぶ、ず所く臣、敢て愼まずむばあらず、故に非親に非ず、四季的肉麵を故に非ざれば、何を以て、其才行を諳んじて之を用ゐむと。用ん其じ者四十四溜靑の李正己、ゐ上の威名を畏れ、表して、錢三十萬緡を獻ず。崔唐-代宗皇帝-德宗皇帝-五七七 十八史略卷之五美とんい云とよふわべ名し言祐甫、請うて、使をして溜靑の將士を慰勞せしめ、因つて、以て之航れ往を賜ふ、正己、慚服す。天下、以爲へらく、太平、庶幾はくは望む比にて黨々れ周し弊朋を免ずのべしと。むはあほR튀上方に精を勵まし、治を求め、不次に人を用ゆ。祐甫、楊炎をす、薦む、司馬より除せられて同平章事となる。旣にして、祐甫、病んで、事を視ずい直防止けんちうぐわんねん。財制稅制を建中元年始めて、兩稅法を作る。唐初賦歛の法、田あれば租あ整理すり身あれば庸あり戶あれば調あり。玄宗の末、版籍漸く壞る。至德兵起り所在の賦歛、迫趣して取辨し、復た常準なし。下戸、困弊に勝へず率ゐて皆逃れ徒る。是に至つて、楊炎、建議し、先出を計りて入を制すづ州縣毎歲用ゆる所、及び上供の數を計つて、人に賦し、出を量り、以て入を制す。戶に主客なく、見居を以て簿となし、人は丁中とな特貧富を以て差となし、行商をなす者は在所の州縣三十の一を稅し居人の稅は、秋夏に之を兩徵し、其租庸調雜徭は、悉く省く。打千萬崔祐甫、卒す。天下の忠州刺史劉晏を殺す。晏、善く財計を治む。肅宗、代宗より以來身)有戶部度支鑄錢鹽鐵轉運等の事を領し、同平章事を以て、使に充つ轉運を通じ鹽利を幹し、百貨の低昂を制し、軍國の用、賴つて以て充足す。然れども、久しく、利權を典り、衆頗る之を疾む。又楊炎と相悅ばず竟に忠州に貶せらる。人、炎の旨を希ひ、晏唐-德宗皇帝-乳 十八史略卷之五五八〇の怨望を〓ぐ。上、人を遣して之を縊らしむ。ia二二。成德の李寶臣卒す。子惟嶽、自ら軍務を領す。後、王武俊、斬つて之に代る。評盧杞藍面楊炎、盧杞、同平章事たり。炎、未だ幾ならずして罷む。杞藍鬼色好惡酷薄の相なり面鬼色、口辯あり。上、之を悅ぶ。郭子儀卒す尙父大尉中書令汾陽忠武王郭子儀卒す。子儀、身を以て、天下の安危をなすもの、三十年功、天下を蓋ふ。然も、主、疑はず。は評子儀は位人臣を極む、然も、衆疾まず。嘗て、使をして、魏博に至らと處理ふのみし者しむ。田承嗣、西望して之を拜して曰く、此膝、人に屈せざること久し。今、公の爲に拜すと。中書令を校する、凡そ二十四考、家人こと〓〓三千人、八子六婿皆顯はる。諸孫數十人、安を問ふ毎に、盡く辯ずる能はず、之を額するのみ。年八十三にして終る。せいき平盧の李正己卒す。子納自ら鎭を領す。朱滔、田悅、王武俊、李"納、先後して皆反す。三年。四人、皆自ら王と稱す。李希烈、反す。兩河、兵を用ゆ。府庫支へざること數月。先づ富商の錢を括し、諸道の稅を增し、四年、稅間架を行ひ、陌錢等の法を除く。李希烈、襄城に寇す。詔して、淫原等の道の兵を發して、之を救ふ淫原の節度使姚令言、兵を率ゐて、京師を過ぐ、師を犒ふに、唐-德宗皇帝-五八一 十八史略卷之五五八二惟だ糖食菜燄のみ。衆怒つて亂をなして城に入る。上、出奔す。朱泚亂兵、太尉朱泚を奉じて、主となす。司農卿段秀實。泚を誅せむことを謀る。克たず。泚衆を召して帝と稱せむことを議す。秀實、た其面に唾し、大に罵り、笏を以て泚の額を擊つ血、地に濃ぐ、洲、之を殺し、遂に大秦皇帝と僭號す。之より先、術士桑道茂といふ者あり言ふ、數年の後、宮を離るるの厄あらむ、奉天に天子の氣あり、其城を高大にし、以て非常に備ふべしと、上、之に從ふ。是に至つて遂に奉天に奔る泚奉天を犯す李最兵を率ゐて、赴き援く。渾瑊、批を擊つて之を破る。奉天圍解く、李懷光、難に赴き、亦た批の兵を破つて、奉天に至る。入つて、盧杞の姦を白せむと欲す。杞、之を隔て、入つて見るを得ずして行く。表を上つて、杞の惡を暴す。衆論、亦た喧騰して、杞を咎む。上、已むを得ずして、之を遠貶す。興元元年大赦す。陸贄、上に勸め、己を罪して、以て天下に謝せしむ。奉天より下す所の書詔、驕將悍卒も、之を聞いて、感激して涕を揮はざるなし。王武俊、田悅、李納、表を上つて罪を謝す。李希烈、大楚皇帝と僭號す。ごになる瓊林の大盈庫を行宮に置く。陸贄、諫めて、其榜を去らしむ。李懷光、反す。上、梁州に走る。魏博の田〓、田悅を殺し、自ら軍府を領す。唐-德宗皇帝-五八三 十八史略卷之五五百李晟、長安を克服す。朱泚、走る。其將、之を斬つて以て降る。晟、露布し、行在に至つて曰く、臣、旣に宮禁を肅〓し、寢園に祗謁し、鐘簾移らず、廟貌故の如しと。上、之を覽て、泣いて曰く、天、李晟を生じ以て稷の爲にす、朕の爲にするに非ざるなりと。車駕、長安に還る。ま顏眞〓殺さ顏眞卿李希烈に殺さる之より先、眞卿、盧杞に陷れられ、使を希烈の所に奉ぜしむ。人、言ふ一元老を失ふ。國家の爲に羞づとと賊中に至る之を留むる、將に二歲ならむとす。屈せず。竟に賊に縊らる。貞元元年盧杞、量移せられ、將に再び入らむとして卒す。幽州の朱滔、卒す。書籍廣告馬燧及び諸軍、河中を平らぐ。縊れて死す。二年。淮西の將陳仙奇、李希烈を殺して、以て降る。吳少誠、仙奇を殺す。朝廷、因つて、少誠を以て鎭を領せしむ。中三年。張延賞、同平章事たり。之より先、吐蕃の尙結賛、鹽夏州に據る李晟、嘗て、其一堡を破る渾城馬燧、各、兵を擧げて、之に臨む。懼れて、和を請ふ。辭を卑くし、禮を厚くして、馬燧に求む。燧信じて、朝に請ふ。最曰く、戎狄信なし、之を擊つに如かずと。延賞、晟と隙あり、數ば和を便なりといふ渾瑊をして、吐蕃と平梁に盟はしむ。吐蕃、盟を切 す。瑊走り免る。吐唐-德宗皇帝-五八五 十八史略卷之五五八六蕃、晟、燧城を畏る。曰く、此三人を去れば、唐は圖るべきなりカと是に於て晟を離間し、燧に因つて、以て盟を求め、城を執へ、以て燧を賣り、併せて、罪を得せしめ、因つて、兵を縱つて、直に長安を犯さむと欲す。會ま、瑊を失して止む。李泌、同平章事たり。上、泌と、從容として、卽位以來の宰相を評李泌論じ、人盧杞を姦邪といふも、朕殊に覺らずといふ泌曰く、是しり道杞と破許お迎えください。れ乃ち姦邪たる所以なり。若し、之を覺らば、豈に建中の亂あらむやと泌、謀略あり、然も、好んで神仙を談じて詭誕なり。故に世に輕んぜらる。相たること、未だ三歲ならずして卒す。八年陸贄、同平章事たり。九年。太尉中書令西平忠武王李晟、卒す。十年。陸贄、罷む。〓十一年。贊を忠州別駕に貶す。賛、奉天より以來、力を宣ぶること最も多く、事に隨つて論諫し、百奏を劃切にす。帝、言を盡くせしを追仇す。夏縣の陽城又譖せらる。故に貶せらる初め、夏縣の陽城、處士を以て、徵されて諫議太夫となる。皆風采を想望す。職に在るこはんたくし はいえんれいと七年にして諫めず。韓愈、爭臣論を作つて之を譏る。是に於て、判度支裴延齡、贄を譖す。城諸諫官を率ゐ、闕を守つて、延齡の姦邪、贄の無罪を論ず。時に朝廷、延齡を相とせむとす。城曰く、若し延齡を以て相となせば、當に白麻を取つて之を壞るべしと。庭唐-德宗皇帝-五八七 十八史略卷之五天八どうこくはぐこくししさせんだうしうしに働哭す。遂に沮む。城、國子司業に左遷せられ、後、又、道州刺しへんそのかう史に貶せらる。民を治むる、家を治むるが如し。自ら其考に書してぶじこころらうさいくわせいせつかう曰く、撫字心勞し、催科は政拙、考は下の下と。わいさいごせうせはん十四年。淮西の吳少誠、叛す。けんちう二十一年。上崩ず。在位二十七年。改元するもの三、曰く建中、こうげんていげんまつりごとせいめいものさいうきもちはん興元、貞元。初め、政〓明なる者二歲にして、盧杞用ゐられ、叛じゆんそうくわうていらんあひつ末年は姑息のみ。まつ亂相繼ぎ、太子立つ、之を順宗皇帝となす。しようわうひ【順宗皇帝】名は誦太子たりし時、書を善くする者王伾、棋を善ものわうしゆくぶんごヒばうしやうくする者王叔文あり。共に、出入して娯侍す。因つて言ふ、某は相しやういじつこれひそかがくしんとすべく、某は將とすべく、幸に異日之を用ゐんと。密に、學士韋しつぎおよてうしそくしんりくじゆんりよおんけいけん執誼及び朝士の有名にして速進を求むる者、り陸淳、呂溫、李景儉、かんえふかんたいちんかんりうそうげんりううしやくらむすしいう韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等に結び、定めて死友となし、と0いうしよしようせききひそのたんげん日に與に游處し、縱跡詭祕、其端倪を知る者あるなし。德宗崩じ、ふうしつおんうしなえつげつひしゆく太子位に卽く。之より先、風疾あり、音を失ふこと五閱月。任、叔ぶんら文等、事を用ゆ。りくしやうじやう陸贄、陽城を追うて、京に赴かしむ。未だ至らずして卒す。じやうざいゐえいていだじやうくわう上在位、改元して永貞といふ。僅かに八月、自ら太上皇と稱し、つたけんそうしやうぶくわうてい位を太子に傳ふ、之を憲宗章武皇帝となす。じゆんかんこく【憲宗皇帝】名は純年二十八、太子となつて監國たり。尋いで、わうひわうしゆくぶんへんそのたう位に卽き、王伾、王叔文を貶す。伾病んで死す。其黨、皆遠く貶唐-順宗皇帝-意宗皇帝ー五八九 十八史略卷之五五九〇せらる、す、元和元年。西川の節度使劉闢〓す。同平章事杜黃裳、高崇文を薦めで、之を討たしむ。夏州の留後楊惠琳、朝命を拒む。詔して、之を討つ。兵馬使に斬らる。高崇文、成都に克ち、劉闢を擒にす。京師に送つて、之を斬る。二年。鎭海節度使李錡反す。詔して、之を討つ。兵馬使、錡を執へ京師に送つて之を斬る。三年。沙陀の朱邪盡忠、其子執宜と來り降る。沙陀、勁勇、諸胡に冠たり。吐蕃、戰ふ毎に、以て前鋒となす。後、其囘體に貳あるを疑ひ、之を河外に遷さむと欲す。懼れて、唐に歸す。之を靈州に置く。用ゐて征討するや、皆捷つ。杜黃裳より以後、相繼いで、相たる者、武元衡、李吉甫、裴均、李藩、李絳、皆、賢相たり。塩、嘗て、李吉甫の爲に人才を疏する?三十餘、數月に用ゐ盡す。翕然として、稱して人を得たりとなす。じん〓〓あえ塩、器局峻整、人人敢て干すに私を以てせず。藩、嘗て、給事中と制敕不可なるものあれば、なる、卽ち之を批す。吏、更に素紙を連ねむことを請ふ。藩曰く、かくの如くすれば狀なり、何ぞ批敕と名·1づけむと、垣、之を薦めて相となす。知つて言はざるなし。絳〓直、吉甫は善く逢迎す。絳、與に上の前に爭論する每に、上多く絡を唐-憲宗皇帝- -晃 五九二十八史略卷之五讜讜として直。直とす。時に、在朝、崔群、白居易等の如き、皆、元和の世、朝廷〓明なること、此を以てなり。以て節度七年。魏博の兵馬使田興、吏を請うて奉貢す、詔して、使となし、裴度を遣して宣慰し、錢百五十萬緡を賜ひ其軍を犒ふ。六州の百姓。皆、給復すること一年軍賜を受けて、歡聲、雷の如し。成德、衰、〓、諸鎭の使者、之を見て、相顧みて色を失ふ。(うう興に名を弘歎じて曰く、倔强なる者、果して、何の益かあらむと。正と賜ふ。初め、彰義節度使吳少誠死し、弟少陽、自ら軍府を領す。少陽、陰に亡命を養ふ。少陽、死す。子元濟、自ら軍府を領し、兵を縱つて、侵掠して、東畿に及ぶ。詔して、十六道の兵を發して、之を討つ。平盧節度使李師道、元濟を赦さむことを請ふ。許さず、裴度、淮西の行營を宣慰す。還つて曰ふ、淮西、決して取るべしと。上、悉く兵事を以て、同平章事武元衡に委す。師道、素より、刺客姦人を養ふ。客請ふ、密に往いて元衡を刺さば、他相は必ず爭うて、天子に勸めて、兵を罷めむと。元衡、入朝す。賊暗に之を射殺し。文、度を擊つて、首を傷つく。上、怒る。賊を討つ、愈よ急なり。度を以て、同平章事とす。上曰く、吾、度一人に倚つて、賊を破るに足れりと。度に命じて、彰義節度使を兼ねしめ、淮西宣慰招討使に充て、諸軍を督して進討す。唐郵節度使李愬、先づ賊將丁士良、唐-憲宗皇帝-五九三 十八史略卷之五五九四吳秀琳、李祐を擒にし、釋して、之を用ふ。祐の計を用ゐ、雪夜七十里、兵を引いて蔡州城に入り、鵝鴨池を擊つて、軍聲を混じ、上鷄鳴、入つて元濟の外宅に據る。元濟、牙城に登つて拒戰す。旣にして、擒に就く、檻して、京師に送つて、之を斬る。叛より誅に及ぶまで、凡そ兵を用ゆること二歲。時に元和十二年なり。淮西、旣に平らぐ。上、寝や驕侈なり。之より先二歲、既に、李逢吉を用ゐて、同平章事とし、十三年に至つて、又度支使皇甫簿を用ゆ。鹽鐵す使程昇、羨餘を進めて寵あり。並に同平章事たり。朝野駭愕す。元和の政、非なり。十四年。風翔法門寺の塔の佛指骨を迎へて、京師に至らしめ、禁中に留むる三日、諸寺に歷送す。王公士民、瞻奉捨施して、惟だ及韓愈佛骨表ばざるを恐る。侍郞韓愈、上表極諫し、以て之を水火に投ぜむこを奉るとを乞ふ。上、大に怒り、潮州刺史に貶す。平盧の將、李師道を執へ斬る裴度、罷む。十五年。上、暴に崩ず。上、金丹を服して多躁、左右罪を獲て死する者あり。人人、自から危む。宦者陳弘志、弑逆す。其黨、之を諱んで、但だ藥發すといふ。在位十二年改元するもの一、曰く元和太子立つ、之を穆宗皇帝となす。【穆宗皇帝】名は恆位に卽き、改元して、長慶といふ。四年にし唐-憲宗皇帝-穆宗皇帝ー五九五 十八史略卷之五五九六て崩ず太子立つ、之を敬宗皇帝といふ。【敬宗皇帝】名は湛。位に卽いて、荒淫なり。嬖倖事を用ゆ。ずの李六條線を得る李德裕、丹展の六箴を獻ず一に曰く宵衣、二に曰く正服、三になふくわい曰く罷獻、四に曰く納誨五に曰く辨邪、六に曰く防微と。上遊戯度なく、性復た褊急。宦官、動もすれば捶撻に遭ひ、皆怨む。夜獵して宮に還り、酒酣なる時、宦者劉克明に弑せらる。在位三年。改元するもの一曰く寶曆江王立つ。之を文宗皇帝となす。【文宗皇帝】名は涵、穆宗の子なり。宦者王守澄に立てらる。後、〓と改名す。太和二年、親ら策して、人を制擧す。官者益す橫、天子を建置する、其掌握に在り、權人主の右に出づ。人、敢て言ふなし。賢良方正劉貰、對策して、之を極言す。考官、皆歎服す。か然も敢て取らず、第に中る者は、裴休、李郃、杜牧、崔愼由等、二十二人。皆、官に除す。物論囂然として、屈と稱す。部曰く、劉黃下第し、我輩登科す。能く顏厚なるなからむやと。上疏して、授くる所の官を黃に囘さむと乞ふ。報ぜず。太和五年。上、同平章事宋申錫と共に宣官を誅せむことを謀る。克たず申錫貶死す。九年。上、李訓、鄭注等と宦官を誅せむことを謀る。克たず。注は、もと宦者王守澄の引く所。訓、本の名は仲言、又注に引かれて守唐-敬宗皇帝-文宗皇帝-五九七 十八史略卷之五五九八す、澄に見るを得たり。守澄、上に薦む。個儻にして氣を尙び、文辭口辯あり。權數多し。上、之を悅ぶ。訓、注、上の意を揣り知り、數ば徵言を以て、上を動かす。上、其大事を謀るべきを意ひ、誠を以て之を告ぐ。訓注、遂に宦者を誅するを以て、己の任となす。訓旣に注と勢位共に盛なり。頗る注を忌み、託するに中外勢を協すを以てし、注を出して、鳳翔を鎭せしめ、宦者仇士良を進擢し、以て王守澄の權を分つ。訓、同平章事たり。守澄を除かむことを請ひ、中使をして、之を鴆殺せしむ。注初め、訓と謀つて鎭に至り、壯評ず其げふ小得て人少ず功功を仍つて、ら今遂爭か古を士數百をして、入つて守澄の葬を護せしめ、請うて、內官例こと〓〓をして盡く送らしめ、然る後、之を殺さば、遺類なからむといふ。訓、心に以爲へらく、かくの如くすれば、功、專ら注に歸せむと。乃ち先づ發せむことを謀り、人をして、金吾廳事後の石榴に甘露あす。りと奏せしめ、宰相百官を師ゐて拜賀し、後、上に勸めて往いて觀せしむ。上、宰相をして、先づ往いて視せしむ。訓陽つて言しよくわん〓〓ふ、眞に非ずと。上、仇士良を顧み、諸宦官を師ゐて、往いて見せき、しむ。士良等、旣に至り、風幕を吹いて起し、兵を執る者無數なるを見、驚き走つて、變を告ぐ。訓、金吾の衞士等を呼んで、殿に上らしめ、僅かに擊つて、宦者十餘人を死傷し、事の濟らざるを知つて走る。士良等、神策兵に命じて、金吾の吏卒を殺さしめ、宰相王涯、賈鍊、舒元輿等を執へて、誣ふるに、謀反を以てして、之を唐-文宗皇帝-五九九 十八史略卷之五六〇〇腰斬す。訓の謀、惟だ元興、之を知るのみ。他相は、實に知らざるなり。之より、天下の事、皆、北司に決し、宰相は、文書を行ふのみ。李訓、人に殺されて、首を傳へ鄭注も亦た風翔監軍の宦者の爲に殺さる。開成三年、司徒中書令晉公裴度、卒す。度、憲宗の時、相を罷めてより後、世事に意なく、園池を治め、綠野堂、子午橋等、別墅の勝あり、詩人と觴詠して、自ら娛む。穆宗。敬宗の時、皆嘗て一へいしやうぐん」)くちやうじ度、入つて政を輔け、上の世に至つて、亦た嘗て平章軍國重 事たり時と浮沈するのみ。然れども、四朝の將相、威望遠く四夷に達たす。四夷、唐使を見れば、輙ち度の安否を問ふ。身を以て國家の輕重に繋ぎ、郭子儀の如き者二十餘年。五年。上、崩ず。上、卽位の初、精を勵まし、治を求め、奢を去り、儉に從ひ、中外、翕然として、太平冀ふべしといふ。然れども,宦寺に制せられ、竟に爲すある能はず。嘗て、宰相に問ふ何の時か、太平ならむと。牛僧孺、答ふるに太平家なきを以てす。末年、嘗て近臣に問ふ。朕は周赧、漢獻に如何と。對ふる者、憮然たり。上曰く、赧獻は制を强臣に受く、今、朕は制を家奴に受く。殆んど如かざるなりと。在位十五年。改元するもの二、曰く、太和、開成。弟潁王立つ。之を武宗皇帝となす。【武宗皇帝】名は瀝、穆宗の子なり。文宗、嘗て敬宗の子成美を立唐-文宗皇帝-武宗皇帝-六〇一 十八史略卷之五六〇二てて太子となす。崩ずるに臨み、成美を以て、國を監せしめむと欲す宦者、以爲へらく、立つこと己に由らずと。之を廢して、渥を立てて太弟となし、遂に成美を殺して位に卽く。後に炎と改名す。李德裕を以て同平章事とす。德裕、穆宗の初に在つて學士となり、た李宗閔といふ者嘗て制策に對して、其父吉甫を議切せしを以て、之を恨み、宗閔を構陷す。之より、各、朋黨を分つて更る相排軋朋黨の弊する者四十年にんとす。文宗の時に在つて、德裕、侍郞たり。表度、其相となるべきを薦む。宗閔、宦官の助あつて、遂に相たり。德裕の己に逼るを惡んで、之を出し、且つ牛僧孺を引いて並に相とし、相與に德裕の黨を排擯す。尋いで、德裕を以て、西川を鎭せしむ。德裕、籌邊樓を作つて蜀の地形を圖し、南、南詔に入り、西、吐蕃に達す。日に軍旅に老い邊事に習ふ者を召して、訪ふに、險易遠近を以てし、皆、身歷するが如くす。士卒を練り、堡障を葺し、以て邊に備ふ。吐蕃の將悉怛謀維州を以て來降す。維州は、もと漢地兵を入るの路、吐蕃之を得、號して無憂城といふ。德裕、極め5て此州を得るを以て便となす。牛僧孺、以て納るべからずとなし、か、牛李の怨城を以て、叛將に併せて歸す。吐蕃、之を境上に誅し、慘酷を極む。河北の賊を牛李の怨、之より愈よ深し。僧孺等、尋いで罷む。德裕、入つて相しを朝去るのはは朋易く延る黨たり。宗閔、亦た罷む。宗関、再び相たり。德裕又罷む。二黨互に去難ほ、相擠援す。文宗、毎に歎じて曰く、河北の賊を去るは易く、朝廷の唐-武宗皇帝-六〇三 十八史略卷之五六〇四朋黨を去るは難しと。德裕、しきりに貶黜せらる。上の立つに及びて、德裕を召して之を相とす。德裕、上に言つて曰く正人は邪人を指して邪人となし、邪人も亦た正人を指して邪となす、人主の之を辨するに在りと。上、嘉納す。德裕、維州の事を追論し、悉怛謀に褒贈を加ふ。〓昭義節度使劉從諫、卒す。姪稹、自ら軍府を領す。德裕謂ふ、澤潞の事體、河朔三鎭と同じからず、河朔は亂に習ふこと、旣に久しく累朝之を度外に置く、澤潞は、近く心腹に在り、若し又、因つて之に授くれば、威令復た諸鎭に行はれずと。上、問ふ、何を以て之を制せむ。曰く、稱の恃む所のものは三鎭。惟だ鎭魏之と同せざるを得ば、槇能く爲すなきなり。重臣を遣し、鎭魏に諭して、之を討たむと。詔して曰く、澤澤の一鎭、卿が事體と同じからず子孫の謀をなして輔車の勢を存せしむる勿れと。鎭魏、悚息して、命を聽く。二鎭の兵、朝廷遣す所の行營の將王宰、石雄と各進討す。河東の都將楊弁、亂を作し、節度使を逐ふ。中使馬元實をして曉諭し、且つ之を覗はしむ。元實、賂を受けて還り、衆中に大言す、相公須らく早く之に節を與ふべし、牙門より柳子に至るまで、十五里に列し、地に光明甲を曳く、之を如何にして、之を取らむと。i德裕、之を詰る。辭届す。奏す、微賊決して恕すべからず、若し國力支へざれば、寧ろ、劉稹を捨てむと。河東の兵出でて成る者、朝唐-武宗皇帝-六〇五 十八史略卷之五六〇六延、客軍をして、太原を取らしむるを聞き、妻孥の屠られむことを恐れ、乃ち歸つて、弁を擒にして、京師に送り、之を斬る。未だ幾澤潞ならずして、劉稹、勢窮蹙す。潞人、稘を殺して以て降り、平らぐ。德裕に、太尉衞國公を加へ、牛僧需を貶して循州長史となし、李宗閔を封州に流す。士良致仕之より先、評一良の宦者仇士良の官爵を削り、其家を籍沒す。訣壟、金金、印象、斷る主し秘を內し、其黨、歸るを送る、士良之に〓へて曰く、天子は、閒ならしむべからず、常に宜しく、奢靡を以て、之を娛ますべく、他事に及ぶ書を讀み、儒生を親近せしに暇なからしめよ。愼んで、之をして、疏斥せらむる勿れ。前代の興亡を見て、心に憂懼を知らば、吾輩、れむと。天下の佛寺を毀ち、僧尼は勤して歸俗せしむ。會昌六年、上、崩ず。在位七年。改元するもの一、曰く會昌。光王立つ、之を宣宗皇帝となす。【宣宗皇帝】名は怡憲宗の子なり。幼にして不慧と號し、太和の後、益す自ら韜匿す。文宗、好んで其言を誘うて、以て笑となす。武宗豪邁、尤も之を禮せず、名づけて光叔となす。武宗、疾篤し、子幼なり。宦官、策を禁中に定め、決して、怡を立てて皇太叔となし、更めて忱と名づけ、權に軍國の事を勾當せしむ、裁決、咸な理に當る。人始めて、其隱德を知る。尋いで卽位す。唐-武宗皇帝-宣宗皇帝-六〇七 十八史略卷之五六〇八李德裕、罷む。僧孺、宗関等、北遷す。德裕、三たび貶せられ、崖州司戶に至つて死す。令狐綯、同平章事たり。之より先、絢學士たり。上、嘗て、太宗撰する所の金鏡錄を以て、編に授けて之を讀ましめ、又、貞觀政要を屏風に書するや、毎に色を正しうし、拱手して讀む。嘗て、學士畢誠と邊事を論ずるや、誠具に方略を陳ぶ。上曰く、意はざBilりき、頗牧、吾が禁中に在らむとはと。卽ち用ゐて邊帥となす。果して、其任に稱ふ。上、聰察强記なり。嘗て、密に學士章澳をして處分語州縣の境土風物及び諸利害を纂次せしめ、號して、處分語といふ。刺史、入つて謝して出づる者あれば、曰く、上、本州の事を處分して、人を驚かすと、建州の刺史、入つて辭す。上、問ふ、建州、京師を去ること幾何ぞ。曰く、八千里。上曰く、卿彼に到つて、政此階前は萬里なりをなす。朕、皆之を知れり。遠しといふ勿れ。此階前は、萬里なりと。令狐綯、奏して、李遠を杭州の刺史に擬す。上曰く、吾聞く、長日惟だ消す一局の碁と、遠の詩に云ふ、安んぞ能く人を理めむ。絢曰く、詩人、この高興に托す、未だ必ずしも實に然らずと嘗て詔す、刺史、外より徒るを得るなく、必ず京に至つて察せしめよと綯嘗て、故人を徒して鄰州となし、便道より官に之かしむ。上之に問うて曰く、詔命、旣に行はる。直に廢格して用ゐず、宰相は權ありといふべしと。時方に寒、絢汗、重裘に透る。上、朝唐-宣宗皇帝-六〇九 十八史略卷之五六一〇に臨んで、群臣に對するに、未だ嘗て惰容あらず。宰相、事を奏する毎に、旁に一人なく、威嚴、仰視すべからず。事を奏して畢れば、忽ち怡然として聞語すること、一刻ばかり、徐に復た容を整へ上て曰く、卿輩、善く之を爲せ。常に恐らくは、卿輩、朕に背いて、再び相見るを得ざるをと。綯嘗て、人に謂つて曰く、吾、十年政を秉り、最も恩遇を承く。延英に事を奏する每に、未だ嘗て、汗、衣を沾さずむばあらざるなりと。嘗て、學士章澳を召し、左右を屏けて、之に問うて曰く、近日內侍の權勢如何。對へて曰く、陛下の威斷、前朝の比に非ず。上、目を閉ぢ、首を搖かして曰く、全くは未だし、全くは未だし、尙ほ之を畏るること在りと。又、嘗て、綯と謀つて、盡く宦官を誅せむとし、濫して無辜に及ぶを恐る。絢。評謂令蛋糕的所(電車密に奏して曰く、但だ罪あらば捨るす勿れ、缺あるも補ふ勿れ。自て自もればらた整啻云る耗勿あすあんる理に々にしれる勿れま法のにんく消ふ缺、然消耗して、盡くるに至らむと。宦臣、ひそかに其奏を見る。之に止妙官豈ら盡然補由つて、益す朝士と相惡み、南北司、水火の如し。やにの官は至大中十三年上、崩ず。在位十四年。改元するもの一。長子立つ、之を懿宗皇帝となす。【懿宗皇帝】初名は溫、〓王に封ぜらる。寵なきを以て、太子たるを得ず。宣宗崩ず、宦者之を立つ、更めて灌と名づく。浙東の賊裘甫起る。聲中原に振ふ觀察使王式、討つて、之を斬る唐-宣宗皇帝-懿宗皇帝六二 十八史略卷之五六一二九年。徐州の賊龐動起る。之より先、南詔、大理皇帝と稱し、兵を擧げて入寇し、播邕交趾を陷る徐酒の兵に敕して、桂州に戌せしむ。期を過ぎて代らず。遂に亂を作す。助粮料判官となる。戍卒、推して、以て主となし、兵を擁して、北に還り過ぐる所、剽掠す。徐州に至り、因つて節度使を殺し、諸郡を陷る。招討使康ん承訓、之を擊ち、沙陀の朱邪赤心を以て前鋒となす。訓、敗死す。李國昌赤心に、姓名を李國昌と賜ひ、大同軍節度使となし、又、振武節度使となす。こ咸通十四年、上、崩ず。在位十五年。改元するもの一子晉王立つ、之を僖宗皇帝となす。【僖宗皇帝】名は優。懿宗の少子なり。年十三、宦官に立てらる。懿宗より以來、奢侈日に甚しく、兵を用ゐて息まず。歛賦愈よ急水旱實を以て聞せず。百姓流殍控訴する所なく、所在相聚まつて黃集盜をなす。濮州の人王仙芝、起る。曹州寃句の人黃巢、之に應ず。巢騎射を善くし、任侠を喜ぶ。嘗て、進士に擧げられて第せず。仙芝と共に私鹽を販る。是に至つて、衆を聚めて、州縣を攻剽す。窮民、之に歸する、數月に數萬。仙芝、汝鄭唐郵を攻陷し、鄂州に寇し、安州を陷れ、〓南に寇す。招討曹元裕と申州に戰つて大敗す。又黃梅に大敗す。之を斬る。黃巢鄲沂濮を陷れ、宋汴を掠む。南に渡つて、洪虔吉饒信を陷る。宣州に寇し、浙東に入る。鎭海節唐-僖宗皇帝-六二三 十八史略卷之五六一四度使高駢に破らる。遂に廣南に趨り、廣州を陷る。潭州に出で、北に渡つて襄陽に向ふ。〓門に敗れ、復た引いて南し、宣州を陷る。釆石より江を渡る。旣にして、淮を渡り、申州を陷れ、穎宋徐衰の境に入る。東都を陷れ、引いて西し、潼關に入り長安に入る。上、蜀に出奔す。巢大齊皇帝と僭號す。諸道、兵を發して赴き援く。國昌の子李之より先、沙陀李國昌の子克用、兵馬使となり、蔚州大同の軍を戌克用る、諸將、謀つて曰く、今、天下大に亂れ、朝廷の號令、復た四方に行はれず。是れ乃ち英雄功名富貴の秋なり。李振武、名、天下に聞こえ、其子、勇、諸軍に冠たり。若し輔けて以て事を擧ぐれば、代北は平らぐるに足らざるなりと。人をして、潛に蔚州に詣つて、克用に說かしむ。克用、雲州に趨いて、之を取る。河東の招義、之を討つて大敗す。克用忻代に寇し、晉陽に逼る。旣にして、大に盧龍の兵の爲に敗らる。蔚朔の兵も亦た討つて其父國昌を敗る。父子、亡げて達旦に走る。朝廷、其罪を赦し、其兵を召して、賊を討鴉軍たしむ。克用、沙陀を將ゐて來る。賊.之を憚つて曰く、鴉軍至るさと。しきりに、賊を破つて、長安を復す。巢宮室を焚いて遁れ、蔡州に至る。節度秦宗權、之に降る。巢、汴州に趨く。克用等、追擊して、大に之を破る。未だ幾ならずして、賊黨、巢を斬つて、以て降る。朱全忠克用の汴州に至るや、朱全忠之を襲ふ。全忠は巢の將朱溫なり。唐-僖宗皇帝-六一五 十八史略卷之五六一六先に巢に遣されて、同華を攻陷し、尋いで、華州を以て降り、名を全忠と賜ひ、宣武節度使となる。克用を館して、甚だ恭し。克用、酒に乘じて、頗る之を侵す。全忠、不平なり。兵を發して、驛を圍んで之を攻む。克用醉ふ。左右、水を以て、其面に沃いで之に告ぐ。克用、乃ち目を張り、弓を援つて、起つて走る。大雷雨晦冥なるに會し、醉を扶け、電光に乘じ、城に縋して出づ。汴人、橋をくわた扼す。從者力戰して度るを得て免る。克用、晉陽に還り、甲兵を治め、表して全忠を討たむことを乞ふ。詔して之を和解す。聽かず上、成都を發して、長安に還る。秦宗權、僭號す。上の蜀に奔るや、宦者田令孜、實に之を挾む、自ら以て功となし、權、己より出づ。河中の王重榮前に亂を作して自立す。令玫、朱玫等を遣して、之を攻む。重榮、救を克用に求む。克用、方に朝廷の全忠を罪せざるを怨む。上言す。攻等、全忠と相表裏して、共に臣を滅せむと欲すと。兵を引いて、河中に赴く京師震恐す。令孜、上を劫して、鳳翔に奔る。朱攻、追ひ逼れども及ばず。肅宗の玄孫裏王熅を立てて帝となす。攻の將王行瑜、玫を斬る。爆河中に奔る。王重榮、首を斬つて、行在に送る。上、長安に還る。上在位十五年。改元するもの五、曰く乾符、廣明、中和、光啓文德。日に宦官と相處るのみ。天下大亂、盜賊蜂起、豪傑因つて其唐-僖宗皇帝-六一七 十八史略卷之五六一八閒に起り、互に相呑噬す。朝廷制する能はず。上崩ず、壽王立つ之を昭宗皇帝となす。【昭宗皇帝】名は傑、僖宗の弟なり。信宗大漸、室者之を立てて太弟となし、遂に位に卽く。後、名を曄と更む。帝、明粹にして英氣あり。文學を喜ぶ。信宗の威令振はず、朝廷日に卑きを以て、前烈を恢復するの志あり。踐祚の初、中外忻忻たり。然れども、内、宦寺に制せられ、外に强鎭あり、初志竟に遂げず。越州の董昌僭號す。昌、さきに杭州に據る。錢鏐、兵馬使たり朝廷、昌に命じて、漸東に帥たらしむ。鏐、杭州を領す。是に至つて、昌、帝を越に稱するや、鏐に詔して之を討つ。す三鎭闕を犯鳳翔の李茂貞、華州の韓建、那州の王行瑜、三鎭、兵を擧げて闕を犯し、宰相を殺し廢立を謀る。李克用、來り討つと聞き、乃ち去る克用、邪州を攻めて行瑜を斬り、將に兵を岐華に移さむとす。貴近、沙陀の甚だ盛なるを恐れて、之を止む。克用、隴西郡王より爵を晉王に進む。兵を引いて晉陽に還る。錢鏐越州に克つ。董昌、誅に伏す。初め、李克用、渭北に屯す。李茂貞、韓建、之を憚り、朝廷に事ふること、甚だ恭し。克用去る。二鎭、復た驕慢なり。茂貞、兵を擧げて闕を犯す。上、華州に出奔す。克用、援を遣す。又、朱全忠六·が洛陽に營して駕を迎へむとするを聞ぎ、茂貞、建と皆懼れ、上を唐-昭宗皇帝-六一九 十八史略卷之五층)奉じて、長安に還る。之より先、嘗て、諸王をして、兵に將として巡警せしめ、又四方に出して、藩鎭を撫慰せしめむと欲す。南北司、事を用ゆる者、其己に利あらざるを恐れ、交も諫めて以て不可くわん〓〓となす。上、已むを得ずして、之を罷む。上、華に在りし時、宦官劉季述、諸王十一人を圍殺す。是に至つて、季述、上を少陽院に幽して、太子裕を立つ。同平章事崔胤、神策の將に說いて、季述を討之誅し、土、位に復す。宦官、胤を去らむことを謀る。時に朱全忠、天子を挾んで諸侯に令するの意あり。胤書を以て、之を召す。全忠兵を擧げて來る。室者韓全誨等、上を却して、鳳翔に如かしむ。全忠、之を圍む。李茂貞、遂に全誨等を殺し、上を奉じて、長こと〓〓安に還らしむ。全忠、兵を以て、宦官を驅つて、盡く之を殺す。其出でて諸方に使する者は、所在に詔して、之を誅せしめ、黄衣幼弱評三十人を存して、洒掃に備ふ。宦官は、文宗より已後、武而唐氏し代則百廢置、加る官漸次以て三其掌遂到女天年で降握に在り、定策國老、門生天子の號あるに至る。是に至つて、大に相にり禍くか、宦事誅殺せらる。全忠、東平王より爵を梁王に進められ、汴に還る。を用ゆふを致し、全忠、威、天下に震ひ、纂奪の志あり。胤懼れて、之が爲に備白芝麻雀湯獨立て行くり難3.0全忠、表して、胤を除かむことを請ひ、密に其黨をして之を殺至れさしめ、遂に上に請うて東京に遷都せしめ、百官を促して東行し、士民を驅り徒す。上、侍臣に謂つて曰く、鄙語に云ふ、紇于山頭、雀を凍殺す。何ぞ飛び去つて生處に樂まざると。朕、今、漂泊して、唐-昭宗皇帝-〓三 十八史略卷之五六三竟に何の所に落つるを知らずと。泣下つて、巾を沾す。上、洛陽に至る。李茂貞等、檄を移し、興復を以て辭となす。全忠、將に西討せむとし、上の英氣あるを以て變を生ぜむことを恐れ、人を遣し、洛に入つて、之を弑せしむ。上、位に卽いてより、賢豪を夢想せざるに非ざるも、卒に之を用3評作宰歌ゐず。嘗て、朝士鄭緊といふ者あり、該諧を好み、歇後の詩を爲つ可知て、時事を嘲る。上、其所蘊あるを意ひ、手づから班簿に注して以皮鄭國肉緊命絕頂て相となす。堂吏、走つて告ぐれども信ぜず。旣にして賀客至る。見頽る勢が如綮、首を搔いて曰く。歇後の鄭五宰相となる。時事知るべしと。上、在位十七年。改元するもの七、曰く、龍紀、大順、景福、乾む寧光化、天復、天祐。子立つ、之を哀皇帝となす。【哀皇帝】初名は祚。昭宗、廢太子裕あり、既に壯。全忠、之を惡む。祚、幼を以て立つを得たり。名を祝と更む。全忠、裕等九人を殺す、皆、昭宗の子なり。全忠、相國となり、九錫を加ふ。帝、在位、仍ほ天祐と稱す。四年ならずして梁に禪り、尋いで弑せらる。唐は高祖より、是に至るまで、二十世、凡そ二百九十年。唐-昭宗皇帝-哀皇帝-六二三 評譯十八史略卷之六五代梁西紀自九〇【梁太祖皇帝】初名は溫、姓は朱氏、陽山の人、朱五經の子なり。七至九二三少にして無賴、黃巢に從つて、盜をなし、唐に降つて、名を全忠と賜ふ。初め、汴に鎭し、徐州、兗州、〓州を攻併し、河北、河東の諸郡を攻め、屢ば李克用と兵を交へ尋いで河中、晉、絳を取り、兵を華岐に用ゐ、東、靑州を降し、南、〓襄を取り、諸鎭の間を橫五代-梁六二五 十八史略卷之六六二六「(行し、唐都を洛に劫遷し、遂に唐を簒し、名を晃と更む。其兄全昱評製造販売、を封じて、王となす。嘗て、之を罵つて曰く、朱三、汝、天子とな天子おねえの 赤か云々全昱るか汝、黄巢に從つて、賊を作す。天子、汝を用ゐて、四鎭節度しします溫をな評遺憾使となす、何をか汝に負く。奈何ぞ、唐家三百年の社稷を滅して、自〓くようら帝王となるや、行く當に族滅すべしと。此時、李克用、晉に王たり。李茂貞、岐に王たり。楊行密、吳王となつて、淮南に王たり。行密、旣に卒す。子渥、之に代る。王健、蜀に王たり。錢鏐、兩浙に王たり。王潮、聞に據る。旣に卒す。弟審知、之に代る。馬殷、湖南に據る。劉隱、廣に據る。皆、唐末より以來、諸州に割據す。梁主、馬殷を以て楚王となす。蜀主王健、帝と稱す。克用、晉王李卒す。初め、克用、養子あり、存孝といふ。最も驍ゆう。(1勇にして功あり。養子存信、疾んで、之を讃す。存孝、禍を懼れて叛す。克用、討つて獲て、囚へ歸り、其才を惜み、意に刑に臨み、必ず之が爲に請ふ者あらむを意ふ、諸將、其能を疾み、竟に一人の言ふなく、遂に死す。又、薛阿檀といふ者あり、亦た勇、密に存孝と通じ、事の泄るるを恐れて自殺す。之より、克用の兵勢、寝く弱し。唐末、數ば汁人に攻められて、數州を失ふ。汴兵、直に晉陽城下に抵る。克用、城に登つて備禦し、寢食に遑あらず。後に、汴か兵、再び晉陽を圍み、疫を以て還る。克用、幾んど走らむと欲す。五代-梁六二七 十八史略卷之六奈人h汴兵の去るに會して止む。克用、汴人と爭ふ能はざるもの累年、悒い存勗悒以て卒するに至る。子存勗立つ。時に、梁兵、晉を侵して、潞州を圍む。晉の李嗣昭、城を開ぢ、固守して年を踰ゆ。梁夾寨を築いて、之を守る。存勗、諸將と謀つて曰く、朱溫の憚る所のものは先王のみ。吾が新に立つを聞かば、以て童子となして、必ず驕怠の心あらむ。もし精兵を簡び、道を倍して、之に趨き、其不意に出づれば、威を取り、覇を定むる、この一擧に在り、失ふべからざるすなりと。兵を師ゐて晉陽を發し、三垂岡下に伏し、旦に大霧に乘じて、直に夾寒に抵り、塹を塡め、鼓譟して入る。梁兵、大に潰ゆ遂に潞の圍を解く淮南の將張頴、徐溫、楊渥を弑す。溫、復た顎を殺す。將吏、楊隆演を推立す。徐溫、自ら昇州を領し、養子徐知誥を以て、往いて之を治めしむ。梁、王審知を以て聞王となす。梁、劉守光を以て燕王となす。守光は、盧龍節度使仁恭の子なり。之より先、其父を囚へて、自ら軍府を領す。梁の夏州亂る。節度李彝昌を殺し、其族父仁福を以て、之に代らしむ。夏州の李氏、本姓は拓跋、上世、唐より姓を賜ひ、鎭を領すること久し。廣州の劉隱、卒す。弟巖、之に代る。五代-梁六二九 十八史略卷之六六三〇劉守光、燕帝と稱す。鎭州の王鎔、定州の王處直、晉王を推して、盟主となす。梁、鎭州を攻め、諸郡を襲ひ取る。晉王、其兵を柏〓に伐つて、大に之を破る。晉、二鎭を帥ゐて燕を伐つ。梁主、之を救ひ、大に敗れて、走り歸る。之より先、梁主、旣に疾あり。是に至つて、慙憤して曰太原の遺孽 我、天下を經營すること三十年、意はざりき、太原の遺孽更に昌熾、かくの如くならむとは。吾、其志を觀るに、小ならず。我死せば、諸兒、彼の敵に非ざるなり。吾、葬地なからむと。疾愈よ劇且つ課怒を加ふ。假子、友文の妻を愛し、將に友文を立てて嗣となさむとす。遂に其子友珪に私せらる。在位六年。改元するもの二、曰く、開平、乾化。初め、汴州を以て東都開封府となし、洛陽を西都となし、遷つて洛陽に都するもの凡そ四年。友珪、自立す。尋いで、誅に伏す。均王立つ。【均王】名は友貞、初め東都指揮使たり。友珪の簒弑するや、兵を起して、之を誅して、汴に卽位し、名を塡と更む。晉王、幽州に入り、燕の劉仁恭及び守光を執へ、歸つて之を斬る梁、荊南節度使高季昌に爵を賜うて王となす。保契丹の阿保機は、古しへの東胡の種なり。其國、の機契大阪府中央局さきに橫山の南り遼に在り、もと鮮卑の舊地、元魏の時、自ら契丹と號す、初め、太賀五代-梁六三一 十八史略卷之六六三二氏、八子あり、八部太人と號す。一人を推して主となし、三歲一たび代る。唐の開元中、邵固といふ者あり、衆を統ぶ。詔して、襲いで王たるを許す。是に至つて、諸部、耶律斡里の少子阿保機を以阿保二九機西至紀九自六一は六て主となす。奚、渤海を並せ、始めて、元を建て、復た代を受けす。國人、之を天皇王といふ。廣州の劉巖、越王と稱す。既にして、帝と稱し、國號を改めて、漢といふ。後、また、名を襲と更む。な吳の徐溫、徒つて昇州に治し、徐知詰を以て入つて吳政を輔けしむ。蜀主王建、殂す。子宗衍、立つ。吳主楊隆演、卒す。弟博普、立つ。梁錢鏐を以て吳越國王となす。晉、梁と連歲兵を交ふ。梁の魏州、晉に降る。晉王、魏に入つて德州、澶州を拔く。梁の劉郭、晉陽を襲ひ、克たずして還る。鎭定の營を攻むるや、晉師、之を敗る。鄂魏州を攻む。晉王、又之を敗る。梁、又兵を遣して晉陽を襲ふ。晉人、擊つて之を郤く。晉、5衞、磁、洛、相邢、滄、貝の州に克ち。濮鄲を掠む。梁人、河を決して、以て晉を限る。晉王、攻めて其四寨を拔く。既にして、3大擧して、梁を伐ち、胡柳に戰ふ。晉の周德威、敗死す。晉王、兵を收めて、復た戰ひ、大に梁軍を敗る。晉、德勝南北の兩城を築五代-梁六三三 十八史略卷之六六三四かせふたうわうさんしんかく。梁、之を攻む、克たず。梁の招討王瓚、晉の爲に敗られ、梁の河ちうしんてうわうよう中晉に降る。鎭州の將、趙王王鎔を弑す。晉王、討つて之を平らぐ。ごしよくしばしさ之より先、吳蜀、數ば書を以て、晉王に勸めて、帝と稱せしむ。晉いせんわうゐげんまさつとたうしやしよくふく王、自ら謂ふ、先王遺言あり。當に務めて唐の社稷を復すべしとでんこくほうしううしやうしみながくわんしん旣にして、傳國の寶を魏州に得、將士皆賀し、勸進して己まず、遂ていゐたうげん李嗣源を遣して、しうんしうに帝位に魏に卽いて、國を唐と號し、梁の〓州をれうわうげんしやうもつせうたうとくしやう襲ひ取らしむ。梁、王彥章を以て招討となす。唐主、德勝の守者をいましわうてつさうゆうけつつゝし王鐵槍は勇決なり戒めて曰く、王鐵槍は勇決なり、しよさいやうりう之を謹めと。りよくこう彥章果して、か南城を拔き、進んで諸寨を拔き、楊劉に至つて力攻す。克たずして退く。うんたうしゆ梁、彥章をして鄲を攻めしむ。唐主、之を救ふ。梁、敗れ、彥章死しげんぜんぱうたいれうな評弟み主屋 を し て も て て つ てす。唐、嗣源を以て、前鋒となし、五日、大梁に入る。梁主、猶ほに所兄臨梁尙しよきやうだいあやふじようおもんほかこと〓〓殺す諸世諸兄弟危きに乘じて亂を謀らむを慮つて、盡く之を殺し、尋いおのれで、其下に命じて、己を殺さしむ。在位十一年。改元するもの二、一個大正貳年ていめいりようとくたいそていべし曰く、貞明、龍德。梁は、太祖帝と稱せしより、是に至るまで、二世一十七年にして亡ぶ。唐そんきよくしやだしゆやせんせい【唐莊宗皇帝】名は存勗、沙陀の人なり。本姓は朱邪、先世、功をちゝこくようゆうりやくもくびべうどくがんりう立てて姓李を賜ふ。父克用、勇略あり、一目微眇、獨眼龍と號す。たうくわうさうたひたいこうしゆしあだ唐の爲に、黄巢を平らげ、大功を立て、晉に王たり。朱氏と仇とな五代-梁-唐六三五 十八史略卷之六六三六る.暮年頗る爲に蹙められ、憂、色に形はる存勗、幼にして進言して曰く、朱氏、凶を窮め、暴を極む。人怨み、神怒る。極めて將に斃いとれむとす。至此一、世、忠貞を襲ぬ。大人、當に遵養時晦、以て其かろ〓〓衰を待つべし。奈何ぞ、輕しく、沮喪を爲し、群下をして望を失はミしめむやと。克用說ぶ。終に臨んで、立てて嗣となし、其下に謂つて曰く、この子、志氣遠大、必ず能く吾が事を爲さむと。年十七、晉王の位を嗣ぎ、卽ち兵を擧げて、梁を破り、潞の圍を解き、之よしば梁祖、子を生まば、當に李亞子の如の當子如にをく 李生歎じて曰く、大吾な亞まり、連りに勝つ。子酒店、のがるくなるべし。吾が兒は、豚犬のみと。存勗、東、幽州を併せ、北、ペはし豚み兒契丹を郤け、南、梁と河を夾んで百戰す。之より先、晉陽の監軍張せつおうと!?承業晉王の爲に財賦を招拾し、兵馬を召補す。攻戰連年、接應乏さしからざるは、皆承業の力なり。承業の意は、唐の宗社を復するに在り。王の將に帝と稱せむとするを聞き、力諫す。止むべからざるを知るや、慟哭して曰く、諸侯血戰、もと唐家の爲にす。今、王、自ら之を取り、老奴を誤ると。悒悒、疾を成して卒す。王、位に卽き、音を改めて唐となし、唐の祀を奉ず。汴に入り、梁を滅し、大梁に都し、旣にして、洛陽に遷る。侍中郭崇韜、謀略あり、是に至(か、つて、權內外を兼ね、謀猷規益、忠を竭して隱すなく、人物を薦引す。他相は成を受くるのみ。〓南の高季興、入朝す。季興は、季昌の改名なり。唐、以て南平五代-唐毫 十八史略卷之六六三八わう王となす。しよくしゆわうえんはんゆういんめんたうおこくわうしけいきふくわくすうたう蜀主王術、盤遊淫酒、國亂れ、盜起る。唐、皇子繼岌と郭崇韜とほろぼそのぞくせきけいきふを遣し、之を伐つて遂に蜀を滅す、行、降る。其族を赤す、繼岌、ざんすうたうかへ讒を信じ、崇韜を殺して還る。孟知祥を以て西節度使となす。まうちしせいせんせつどし唐、かやうやおごはじめれいじん唐帝、梁に克つてより後、漸く驕り、首に伶人を以て、刺史となえうおんりつならふんぼくいうじんす。帝、幼より、音律を習ひ、或は時に粉墨を傅けて、優人と共に李天下たはむいうめいてんかりてんか戯る。優名を李天下といふ。嘗て、自ら呼んで、李天下、李天下というじんけいしんまにはかすそのほゝうしんきいぶ。優人敬新磨、遽に前んで其類を批つ。帝、色を失ふ。新磨、おもむろおさなたれ徐に曰く、天下を理むるは、只だ一人なり。尙ほ誰をか呼ぶやと。よろこしよれいきうえきしんろうふんしつ帝、悅ぶ。諸伶、宮掖に出入し、指紳を侮弄す。群臣、憤疾するもあひぶあへて相附託し、くわてん敢て氣を出す者なく、亦た反つ貨を納れ、展轉して、おんたくもとせいほしひまゝざんとく以て恩澤を干むる者あり、政を〓し、人を害し、恣に讒慝をなす。しゆくしやうあはれしばしいうれうじうせん帝、宿將を疎忌し、軍士を恤まず、數ば出でて遊獵し、民田を蹂踐じやうかしゑんyはくしやうぐわけうましまとし、上下咨怨す。魏博の將、瓦橋を成る。代つて歸るや、復た留まばいしうてうざいれいほうげふとつて貝州に屯せしむ。遂に亂をなし、趙在禮を奉じ、入つて、鄴都しやうりしげんじやうかぐんしに據る。唐、將李嗣源をして之を討たしむ。城下に至る。軍士、大さわせんに課いで曰く、將士、主上に從ひ、十年百戰、以て天下を得たり。ばいしうじゆそつしゆじやうゆるじうばちよくすうそつけんきやう今、貝州の成卒、歸るを思ふ、主上赦さず、從馬直の數卒、喧競すにはかそのぞくわがはいはんしんるも、遽に其族を誅せむと欲す。我輩、初めより、叛心なし、惟だ五代-唐亮元 十八史略卷之六六四〇死を畏るるのみ。今、城中と勢を合せむと欲すと。白刄を拔き、嗣源を擁して城中に入る。城中、外兵を受けず、之を逆へ擊つ。皆、潰ゆ。嗣源、詭辭して、出づるを得たり。將に兵を召して亂者を攻めむとす。安重誨曰く、公、元帥たり。不幸にして、凶人に劫かさる。若かず、星行して、闕に詣つて、天子に見えむには庶はくは、自ら明かにすべしと。嗣源、乃ち、南相州に趨る。譜者奏す、嗣源、既に叛すと。嗣源上章して、自ら理す。遏めて、通ずるを得ず。始めて、疑懼す。石敬塘曰く、安んぞ、上將、叛卒と共に城に入つて、佗日恙なきを保するを得る者あらむや。大梁は、天下の都會。願はくは、先づ往いて、之を取れ。始めて、自ら全うすべし。康義誠曰く、主上無道、軍民怨望す。公、衆に從へば生きむ、節を守れば必ず死せむと。嗣源、乃ち敬塘を以て先鋒となし、李從珂を殿となし、兵を引いて、大梁に入る。唐主、關東に如き、嗣源、既に大梁に據つて諸軍離叛すと聞き、神色沮喪、歎じて曰か、く吾、濟らずと。卽ち命じて師を旋す。從馬直郭從謙、兵を帥ゐて帝を氾水に攻む。唐主、流矢に中つて殂す。帝と稱する、わづかに三歲にして弑に遇ふ。改元するもの一、曰く同光伶人、樂器を歛め、屍を覆うて、之を焚く。嗣源、之を聞いて痛哭す。乃ち、洛陽に入る。百官、牋を上つて、勸進すれども許さず。又三たび、嗣源に請うて國を監せしむ。乃ち之を許す。繼岌、蜀より歸り、途に內五代-唐査 十八史略卷之六六四二なんじさつかんこくためいそうくわうてい難を聞き、長安に至つて自殺す。監國立つ、之を明宗皇帝となす。じんばくきつれつしんわうこくようしげん【明宗皇帝】もと胡人選佶烈なり。晉主克用の養子となり、嗣源とさうそうほろぼちうしよれいばんかんばほ名づく。莊宗、梁を滅すや、嗣源、功、最も高し。中書令蕃漢馬步そうくわんげふはんそつげふ總管となり、令を受けて、鄴を討ち、叛卒の推す所となる。鄴よりべんおもむらくたん汴に趨き、洛に入り、遂に位に卽く。名を壹と改む。きつたんあはうきしゆつとくくわうた契丹の阿保機卒す。子德光立つ。リ塗裝大大正師のなしゆつえんかんたけういんざんばうしいそのびんわうしんち子延輸立つ。閩王王審知卒す。驕淫殘暴、其下、之を弑して、其おとうとえんきんりんあらた弟延鈞を立つ。後、帝と稱す。、名を璘と更む。ごわうやうふ吳王楊溥、帝と稱す。なんへいわうかうきこうこしようくわいた南平王高季興卒す。子從誨立つ。せいたのちきはんた楚王馬殷卒す。子希聲立つ。後、希聲卒す。希範立つ。こゑつわうせんりうしゆつこげんくわんた吳越王錢鏐卒す。子元瓘立つ。かしうじんふくしゆつこいてうつ夏州の李仁福卒す。子彝超嗣ぐ。せいせんまうちしやうあはしよくわう西川の孟知祥、東川を併す。知祥を以て蜀王となす。しんわうしようえいけうこんじろんし唐の秦王從榮驕狠なり。自ら時論の與みせざるを知り、常に嗣おそたうしゆやまひしんにはかがないひきたんたるを得ざるを懼る。唐主、疾に寢す。遽に牙兵千人を率ゐて、端もんきんゑいしようえいへいつひ門の下に至り、將に入らむとす。禁衞、之を討つ。從榮の兵潰ゆ。くわうじやうしたうしゆひがいやまひはげそ走つて、府に歸る皇城使、之を斬る。唐主悲駭、疾劇し、遂に殂さいききそとうきよくす。唐主、性、猜忌せず、物と競ふなし。登極の年、旣に六十を踰かうたしゆくばうじん毎夕、宮中に於て、香を焚いて天に祝して曰く、某は胡人、亂五代-唐六四三 十八史略卷之六資しゆうたねがせいじんしやうせいみんしゆに因つて衆に推さる。願はくは、天、早く聖人を生じて、生民の主てんせいちやうこうせいとなせと。在位八年。改元するもの二、曰く、天成、長興。內に聲しよくいうでんくわん〓〓にんうちざうこはいれんりしやう評外に遊〓なく、藏庫を廢し、廉吏を賞唐なじ亂宗の君通離明色なく、宦官に任ぜず、内、の記憶ざうとあんがふねんこくしばしし、贓盡を治す。書を知らずと雖も、行ふ所、道に暗合し、年穀屢Dreamゆたかへいかくもちまれsほぜうかうば豊に、兵革用ゆる罕なり。五代に校ぶるに、粗ば小康となす。子そうわうたびんてい宋王立つ、之を関帝となす。じうこうめいそうじしちこころざし【閔帝】名は從厚、明宗の次子なり。位に卽いて、治を爲すに志そのえうくわんじうだんすくなあり。然れども、其要を知らず、寛柔にして斷少し。まうちしやう蜀の孟知祥、帝と稱す。ろわうほうしやうはんちやうくらくやうびんてい唐の潞王、鳳翔に反す。兵を擧げ、長驅して洛陽に至る。閔帝、しゆつぼんおうじゆんかいげんろわうた出奔す。位に在つて、應順と改元す。潞王立つ。しようかほんせいわうしめいそう【潞王】名は從珂、本姓は王氏、明宗の養子なり。少にして、明宗せいばつこうみやうしゆうしん5に從ひ、征伐して功名あり、衆心を得たり。事を用ゆる者、之を忌ほうしやうちんびんていかとううつしやうさおむ。從珂、鳳翔に鎭す。閔帝、命じて、鎭を河東に移す。將佐、以はなまつたげきりんだううつ爲へらく、鎭を離るれば必ず全き理なしと。乃ち檄を鄰道に移し、ていそくきよせんむか兵を起して入りて、帝側を〓む。從珂、陝に至る。諸軍、皆、迎へくだらくさいしやうへうどうとうひやくくわんはんけい降る。洛に至る。宰相馬道等、百官班迎し、遂に位に卽き、人をゑいしうちんさつ遣して、関帝を衞州に鴆殺す。しよくしゆまうちしやうそこちやうた蜀主孟知祥殂す。子昶立つ。てうしゆつあにいじん夏州の李舜超卒す。い兄彜殷、之に代る。五代-唐六四五 十八史略卷之六六四六聞人、其王璘を殺して、其子繼鵬を立て、名を昶と更む。石敬塘唐主、初め、河東節度使石敬塘と、素より相悅ばず。唐主立つ。敬塘、己むを得ずして入朝し、尋いで、鎭に歸り、陰に自全の計を評石唐主、る聯蔣にに權敬勢塘なす。之を移す。援を契丹に求む。契丹、唐兵を同依石むをのが遂に反し、る契爲自所丹め家援敗り、敬塘を立てて晉帝となす。兵を引いて、洛陽に向ふ。唐主、とに介求自ら焚いて死す。在位三年ならず、改元するもの一、曰く〓泰。唐一賴が賴轍すソは、莊宗より、是に至るまで、四主、凡そ一十四年。晉【警高祖皇帝】姓は石氏、名は敬塘、沙陀の人、唐の明宗の婿なり。ふ初め、從珂と共に、皆、勇力あつて善く鬭ふ。明宗に事へて、皆功あり、內相忌む。從珂、帝と稱す。敬塘、河東より來朝す。將佐、と皆勸めて、之を留めしむ。時に久しく病んで骨立す。唐主、以て虞となさず、遂に鎭に歸るを得たり。公主、洛陽に在り、辭して歸るや、唐主、醉うて曰く、何ぞ、暫らく留まらずして、遽に歸るや。石郞と反せむと欲するかと。敬塘、之を聞いて益す懼る。尋いで、命じて、移つて、鄲州を鎭せしむ。敬塘、命を拒む。唐主、兵を發石敬塘表しして、之を討つ。桑維翰、敬塘の爲に、表を草して、契丹に臣と稱て契丹に臣事すし、事ふるに、父の禮を以てし、約す、事捷たば、地を割かむと。劉知遠、以爲へらく、太だ過ぎたり、厚く金帛を賂はば、其兵を致五代-唐六四七
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十八史略 漢の太祖劉邦 2009-09-15 17 05 15 | Weblog 西漢 漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。 漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ 鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。 晦冥 2009-09-17 13 43 14 | Weblog 前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。 晦 かい ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち ②くらいこと「-冥」 ③くらますこと「-渋」「韜-」 冥 めい(呉音はミョウ) ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」 ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」 ③奥深いこと「-想」 ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン) ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。 ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり 十八史略 大丈夫當如此矣 2009-09-17 13 49 17 | Weblog 願わくは箕帚の妾と為さん 及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。 單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。 壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。 單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。 壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。 単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。 泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。 単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う 十八史略 劉氏の冠 2009-09-19 08 50 01 | Weblog 劉氏の冠 秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。 秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。 秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。 劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。 厭当 押さえつけて防ぐこと 十八史略 劉季兵を沛に起こす。 2009-09-22 16 57 35 | Weblog 劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。 劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。 十八史略 劉季兵を沛に起こす 2009-09-24 14 40 26 | Weblog 彼岸過ぎての麦の肥 土用過ぎての稲の肥 三十過ぎての男に意見 以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。 では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。 驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。 白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを 剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。 十八史略 法三章のみ 2009-09-26 09 20 40 | Weblog 白文 楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。 訓読文 楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。 通釈 楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。 謂って曰く 方針を発表する 覇上 陜西省にある、覇水のほとり 十八史略 2009-09-29 17 02 48 | Weblog 項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。 項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。 項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。 十八史略 張良と項伯 2009-10-01 17 42 25 | Weblog 羽季父項伯、素善張良。夜馳至沛公軍、告良呼與倶去。良曰、臣從沛公、有急亡不義。入具告、因要伯入見。沛公奉巵酒爲壽、約爲婚姻。曰、吾入關、秋毫不敢有所近。籍吏民、封府庫、而待將軍。所以守關者、備他盗也。願伯具言臣之不敢倍。伯許諾曰、且日不可不蚤自來謝。伯去具以告羽、且曰、人有大功、撃之不義。不如因善遇之。 羽の季父項伯、素より張良と善し。夜馳せて沛公の軍に至り、良に告げ呼んで与に倶に去らんとす。良曰く、臣、沛公に従い、急有って亡(に)ぐるは不義なり、と。入って具(つぶさ)に告げ、因(よ)って伯を要して入り見(まみ)えしむ。沛公巵酒(ししゅ)を奉じて寿を為し、約して婚姻を為す。曰く、吾、関に入って、秋毫も敢えて近づくる所有らず。吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。関を守る所以の者は、他の盗に備うるなり。願わくは伯、具に臣の徳に倍(そむ)かざるを言え、と。伯、許諾して曰く、旦日蚤(はや)く自ら来たって謝せざる可からず、と。伯去って具に以て羽に告げ、且つ曰く、人大功有り、之を撃つは不義なり。因って善く之を遇するに如かず、と。 通釈は次回にしてください。 十八史略 張良と項伯 通釈 2009-10-06 10 26 51 | Weblog 項羽の叔父項伯は、かねてから張良と親しかった。その夜馬を駆って沛公の軍に至り、張良に急を告げて共に逃げるよう勧めた。張良は「私は沛公に臣として従う身、危急が迫ったからと逃げ去るのは道義に反します」と承知せず、帷幕に入り沛公に仔細を告げた。やがて張良は項伯を沛公に会見させた。 沛公は大杯を捧げて項伯の長命を寿ぎ、子の婚姻を約束した。その上で、「自分は関中に入ってからは、毛ほども私欲を近づけたことはございません。役人や民の数を記帳し、庫を封印して項羽将軍をお待ちしておりました。函谷関を閉じていた訳は、よその盗賊に備えていたからです。あなたにどうかお願いします、私が将軍の徳にそむく気持ちの毛頭ないことをお伝えください」と言った。項伯は承知して「明朝早くご自身が謝罪に出向かわなければなりません」と言って覇上を去った。戻った項伯は詳しく項羽に事情を報告し、そして言うには「このように大功ある人を撃つことは道義に反します、篤く対応して心服させるに越したことはありません」と。 秋毫 秋に抜け代わる獣の毛は細いので、ごく僅かなこと。 十八史略 鴻門の会 2009-10-08 08 20 15 | Weblog 鴻門の会 沛公旦從百餘騎、見羽鴻門。謝曰、臣與將軍、戮力而攻秦。將軍戰河北、臣戰河南。不自意、先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有隙。羽曰、此沛公左司馬曹無傷之言。羽留沛公與飮。范數目羽、擧所佩玉玦者三。羽不應。出使項莊入、前爲壽、請以劒舞、因撃沛公。項伯亦抜劒起舞、常以身翼蔽沛公。莊不得撃。張良出告樊噲以事急。 沛公旦(あした)に百余騎を従えて、羽を鴻門に見る。謝して曰く、臣、将軍と力を戮(あわせ)て秦を攻む。将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。自ら意(おも)わざりき、先ず関に入って秦を破り、復将軍に此に見(まみ)ゆるを得んとは。今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と隙有らしむ、と。羽曰く、此れ沛公の左司馬曹無傷の言なり、と。羽、沛公を留めて与に飲む。范数々(しばしば)羽に目もく)し、佩(お) ぶるところの玉玦(ぎょっけつ)を挙ぐるもの三たび。羽、応ぜず。出でて、項荘をして入り、前(すす)んで寿を為し、剣を以って舞わんと請い、因って沛公を撃たしむ。項伯も亦剣を抜いて起って舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。荘、撃つことを得ず。張良出でて樊噲(はんかい)に告ぐるに事の急なるを以てす。 十八史略 鴻門の会 2009-10-10 16 26 21 | Weblog 通釈文 沛公は翌朝、百余騎の部下を従えて鴻門に行って項羽と会見した。先ず謝罪して言うには「私は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦われ、私は河南で戦いました。まさか自分が先に関中に入って秦を滅ぼし、再び将軍とこの地でお会いできるとは思っても見ませんでした。ただつまらぬ者が将軍と私を仲違いさせようとしたようです」と。項羽は「そなたの部下の左司馬、曹無傷から聞いたことだ」と言った。 項羽は沛公を留めて酒盛りをした。席上范はしばしば項羽に目くばせして、腰に佩びていた玉玦(ぎょっけつ)を三度も挙げて決行を促したが、項羽は応じなかった。范は席を外し、項荘を席に入らせて沛公の前に進んで健康を祝し、剣舞を披露したいと申し出て、沛公を撃たせようとした。それを見て項伯もまた剣を抜いて起ち、常に沛公を庇い舞ったので項荘は撃つことができなかった。張良は外に出て、樊噲(はんかい)に事の差し迫っていることを知らせた。 玉玦 玉製の腰につける装飾品、玦は決に通じる。 項荘 項羽の従弟 翼蔽 親鳥が翼でひなをかばうように守る事。 十八史略 樊噲 2009-10-13 09 10 45 | Weblog 樊噲目を瞋(いから)して項羽を視る 噲擁盾直入、瞋目視羽。頭髪上指、目眦盡裂。羽曰、壯士、賜之巵酒則與斗巵酒。賜之彘肩。則生彘肩。噲立飮、抜劒切肉啗之。羽曰、能復飮乎。噲曰、臣死且不避。巵酒安足辭。沛公先破秦入咸陽。勞苦而功高如此、未有封爵之賞。而將軍聽細人之説、欲誅有功之人。此亡秦之續耳。切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲從良坐。 噲、盾を擁して直ちに入り、目を瞋(いから)して羽を視る。頭髪上指(じょうし)し、目眦(まなじり)尽く裂く。羽曰く、壮士なり、之に巵酒(ししゅ)を賜え、と。則ち斗巵酒を与う。之に彘肩(ていけん)を賜えと。則ち生彘肩なり。噲立って飲み、剣を抜き、肉を切って之を啗(くら)う。羽曰く、能(よ)く復た飲むか、と。噲曰く、臣、死すら且つ避けず。巵酒安(いずく)んぞ辞するに足らんや。沛公先づ秦を破って咸陽に入る。労苦して功高きこと此の如くなるに、未だ封爵の賞有らず。而も将軍、細人の説を聴き、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。切(ひそ)かに将軍の為に取らざるなり、と。羽曰く坐せよ、と。噲、良に従って坐す。 十八史略 樊かい 2009-10-15 08 39 15 | Weblog 先ずお詫びを 前回の白文を読み返していたらとんでもないミスを発見しましたので訂正をいたします。 最初の行の終わりから四字目、則の前に句点 。を付けて下さい。次に最終行の、羽曰、坐のあと噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。までが重複していました。 では通釈を・・ 樊噲は盾を抱えたまま宴席に入り、目をつりあげて項羽を睨みつけた。頭髪は天を衝き、まなじりは裂けていた。項羽は壮士なり、大杯を与えよ、と言って一斗の酒を勧めた。項羽はまた豚の肩肉を与えよと言った。それで生の豚肉が出された。樊噲は立ったまま酒を飲み干し、剣を抜き肉をきって食った。項羽がまだ飲めるかと聞くと、樊噲は「私めは死ぬことさえもなんとも思っておりません、一杯の酒ぐらいなんで厭いましょう。恐れながら申し上げます、我が主人は真っ先に秦を破って咸陽に入りました、苦労をして大功をたてられたのに、まだ領地も爵位もありません。それどころか、小人の言葉を取り上げて、手柄のある人を殺そうとしておられます。これでは秦の二の舞でございます。ひそかに将軍のため思うのでございます」と申し上げた。項羽は「まあ坐れ」といった。樊噲は張良の次の席に坐った。 目眦 まなじり 斗巵酒 一斗(約一升)入る酒つぼ 彘肩(ていけん)彘は子豚 十八史略 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 2009-10-20 08 37 18 | Weblog 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。 使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。 須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。 沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。 10/20 間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。 一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。 須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-22 09 10 48 | Weblog 沐猴にして冠す 居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。 居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-24 09 01 59 | Weblog 居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。 十八史略 項羽西楚の覇王となる 2009-10-27 09 20 04 | Weblog 巴・蜀も亦關中の地なり 羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。 羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり 巴蜀も亦関中の地なり 2009-10-29 08 39 32 | Weblog 項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。 十八史略 韓信と漂母 2009-10-31 09 03 45 | Weblog 韓信と漂母 漢元年、五星聚東井。 初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。 漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。 初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。 漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。 それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。 五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。 東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性 韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。 王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200910 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200911/1 十八史略 韓信胯をくぐる 2009-11-03 20 52 39 | Weblog 韓信の胯くぐり 淮陰屠中少年、有侮信者。因衆辱之曰、若雖長大好帶劔、中情怯耳。脳死刺我。不能出我胯下。信熟視之、俛出胯下蒲伏。一市人皆笑信怯。 淮陰の屠中の少年に、信を侮る者有り。衆に因(よ)って之を辱かしめて曰く、若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖(いえど)も、中情は怯なるのみ。能く死せば我を刺せ。能(あた)わずんば我が胯下(こか)を出でよ、と。信、之を熟視し、俛(ふ)して胯下より出でて蒲伏(ほふく)す。一市の人、皆、信が怯(きょう)を笑う。 その後淮陰の場の若者で、韓信を見くびる者があった。仲間が多いのを嵩にかかって、恥をかかそうとこう言った。「お前さん、図体ばかりでかくて、剣なぞぶらさげているが本当は臆病者だろう、なんならこの俺を刺してみろよ、どうだ出来るか、出来なきゃおれの股の下をくぐれ」と。韓信はじっと若者を視ていたが、うつぶして股の下から腹ばい出た。町中の人は、韓信を嘲り笑った。 蒲伏 匍匐に同じ 十八史略 國士無雙Ⅰ 2009-11-05 09 23 33 | Weblog 蕭何、韓信を追う 項梁渡淮、信從之。又數以策干項羽。不用。亡歸漢、爲治粟都尉。數與蕭何話。何奇之。王至南鄭。將士皆謳歌思歸、多道亡。信度、何已數言、王不用。即亡去。何自追之。人曰、丞相何亡。王怒、如失左右手。 項梁淮(わい)を渡るとき、信、之に従う。又しばしば策を以て項羽に干(もと)む。用いられず。亡(に)げて漢に帰(き)し、治粟都尉(ちぞくとい)と為る。数々(しばしば) 蕭何と語る。何、之を奇とす。王、南鄭(なんてい)に至る。将士、皆謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡(に)ぐ。信度(はか)るに、何(か)、已(すで)に数々(しばしば)言いしも、王用いざるなりと。即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡ぐ、と。王怒る、左右の手を失うが如し。 項梁が秦との戦で淮(わい)水を渡る時、韓信は従軍した。又たびたび項羽に献策したが用いられなかった。そこで逃げ出して漢王につき、糧食をつかさどる治粟都尉(ちぞくとい)という官に就いた。しばしば蕭何と語った。蕭何は韓信の非凡を知った。漢王は関中の都南鄭に赴任したが部下の将士たちは故郷をたたえる歌をうたい、帰りたいと多く逃げ去った。韓信は蕭何がたびたび自分を推挙しているのに漢王はとりたててくれないと、たちまち逃げ出した。蕭何は何とか引き止めようと自ら後を追った。ある人が丞相の蕭何までも逃げました、と王に告げた。漢王は怒った、と同時に両腕をもがれたかのように落胆した。 十八史略 国士無双2 2009-11-07 08 42 19 | Weblog 國士無雙2 何來謁。王罵曰、若亡何也。何曰、追韓信。王曰、諸將亡以十數。公無所追。追信詐也。何曰、諸將易得耳。信國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無可與計事者。王曰、吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎。何曰、計必東、能用信。信即留。不然信終亡耳。 何(か)来たり謁す。王罵(ののし)って曰く、若(なんじ)、亡(に)げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追う、と。王曰く、諸将の亡ぐるもの十を数う。公追う所無し。信を追うとは詐(いつわ)りならん、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を爭わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る可き者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ。安(いづ)くんぞ能(よ)く鬱鬱として久しく此(ここ)に居らん乎(や)と。何曰く、必ず東せんと計らば、能く信を用いよ。信即ち留まらん。然(しか)らずんば信終(つい)に亡げんのみ、と。 蕭何が帰って王に謁見すると、王が罵って言うに「お前までにげるとは何事か」と。蕭何は答えて「韓信を追ったのです」と言った。王は「将のにげたものは、何十人と居るのに、今まで一人も追いかけたことがない、なのに韓信だけを追うとは合点がゆかぬ、嘘であろう」と。蕭何は「他の将はいくらでも補充出来ますが、韓信は二人と得られぬ国士です、漢王がいつまでも漢中の王でいたいと思われるならば、韓信を引き留めることに苦心することはありませんが、是非にも天下を争おうとお考えなら、韓信でなければともに大事を計る者は居りません」王は「わしも東に向って、天下を争う心算でいる。だれがこんな所で鬱うつとしておられようか」何は「是非とも東に出ようとのお考えならば、心して韓信を重用することです。そうすれば信はここに留まりましょう、でなければ結局信は逃げてしまいますよ」と言った。 以十數 十の単位で数えることが出来る。つまり ン十人の意。 無所事信 事はコトトスと読み、努め励むこと。全てにレ点がつく。 非信無可與計事者 非②信①無⑧可⑥與③計⑤事④者⑦の順に読む 十八史略 韓信大将軍となる 2009-11-10 08 46 48 | Weblog 全国吟剣詩舞道大会が8日無事終了しました。今年は天気に恵まれ助かりました。 終了後広島の中村さんほかお客様をお迎えして懇親の席を設けました。とても楽しいひと時でしたが、少々しゃべり過ぎました、寡黙堂の看板を返上しなければと考えています。では十八史略のつづきです。 王曰、吾爲公以爲將。何曰、不留也。王曰、以爲大將。何曰、幸甚。王素慢無禮。拝大將如呼小児。此信所以去。乃設壇場、具禮。諸將皆喜、人人自以爲得大將。至拝乃韓信也。一軍皆驚。 王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり。王素(もと)より慢(まん)にして礼無し。大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以(ゆえん)なり、と。乃ち壇場を設け、礼を具(そな)う。諸将皆喜び、人々自から以為(おも)えらく、大将を得んと。拝するに至って乃ち韓信なり。一軍皆驚く。 漢王が言うに「貴公の顔を立てて韓信を将に取り立てよう」と。蕭何は「それでは留まらないでしょう」と答えた。王は「それでは大将にしよう」何は「それは幸いに存じます。ところで大王には平素から人を見下して、礼に欠けるところがございます。大将を任命されるにも子供を呼びつけるようですが、それこそ韓信が逃げ出す理由です」と。そこで王は大将軍任命の式場を設け、威儀を整えた。将軍達は皆喜び、各々自分こそ大将では、と内心思っていた。 いよいよ任命の段になって指名されたのは韓信だったので将軍達をはじめ一同大いに驚いた。 十八史略 韓信三王を滅ぼす 2009-11-12 13 31 04 | Weblog 中野の杉山公園は只今改修中です。残念なのはフェンスにつるを張っていた、テイカカズラと真っ赤な実をつけるヒヨドリジョウゴが抜かれてしまった事です。 王遂用信計、部署諸將、留蕭何、収巴・蜀租、給軍粮食。信引兵從故道出、襲雍王章邯。邯敗死。塞王司馬欣・翟王菫翳皆降。 王遂に信の計を用いて、諸将を部署し、蕭何を留めて巴・蜀の租(そ)を収め、軍の粮食(りょうしょく)を給せしむ。信、兵を引いて故道より出で、雍王章邯(ようおうしょうかん)を襲う。邯敗死す。塞王司馬欣(さいおうしばきん)・翟王菫翳(てきおうとうえい)皆降る 漢王は遂に韓信の計を用い、諸将をそれぞれ配置した。蕭何は関中に留めて、巴・蜀の租税を取り立て、軍の糧食の手当とした。韓信は兵を率いて故道県から打って出て雍王章邯を敗死させた。塞王司馬欣と翟王菫翳はともに降伏した。 雍王章邯・塞王司馬欣・翟王菫翳は秦の降将で漢の地を扼するため項羽が王にした三人(巴・蜀も亦関中なり参照) 十八史略 嗟乎、使平得宰天下 2009-11-17 09 09 50 | Weblog 漢二年、項籍弑義帝於江中。 初陽武人陳平、家貧、好讀書。里中の社、平爲宰、分肉甚均。父老曰、善、陳孺子之爲宰。平曰、嗟乎、使平得宰天下、亦如此肉矣。初事魏王咎、不用。去事項羽、得罪亡。因魏無知求見漢王。拝爲都尉參乘典護軍。 漢の二年、項籍、義帝を江中に弑す。 初め陽武の人陳平、家貧にして、書を読むことを好む。里中の社に、平、宰(さい)と為り、肉を分つこと甚だ均し。父老の曰く、善し、陳孺子の宰たること、と。平曰く、嗟乎(ああ)、平をして天下に宰たるを得しめば、亦此の肉の如くならん、と。 初め魏王咎(きゅう)に事(つか)えて、用いられず。去って項羽に事え、罪を得て亡(に)ぐ。魏無知に因(よ)って漢王に見(まみ)えんことを求む。拝して都尉参乗典護軍と為す。 漢の二年、項籍が義帝を揚子江で殺す。 さかのぼって、陽武の人で陳平というものが居た。家は貧しかったが書を読むのが好きだった。村の社の祭日に陳平が差配して、祭りの後の肉の分配に大変公平だったので、村の老人たちは「まことに善かった。陳君のきりもりは」と言うと、陳平が言うには「ああ、もし私に天下の切り盛りをさせてくれたなら、この肉のように公平に裁いてみせるのに」と。 初め陳平は魏王の咎につかえたが、用いられなかった。去って項羽につかえたが罪を犯して逃げ出した。魏無知の紹介によって漢王に謁見を求めた。漢王は都尉参乗典護軍に任じた。 十八史略 陳平 2009-11-19 09 02 55 | 十八史略 陳平 周勃言於王曰、平雖美如冠玉、其中未必有也。臣聞、平居家盗其嫂、事魏不容、亡歸楚、又不容、亡歸漢。今大王令護軍、受諸將金。願王察之。王讓魏無知。無知曰、臣所言者能也。大王所問者行也。今有尾生・孝己之行、而無成敗之數、大王何暇用之乎。王拝平護軍中尉、盡護諸將。諸將乃不敢復言。 周勃、王に言いて曰く、平は美なること冠玉の如しと雖も、其の中、未だ必ずしも有らざるなり。臣聞く、平、家に居っては其の嫂(あによめ)を盗み、魏に事(つか)えては容れられず、亡(に)げて楚に帰し、又容れられず、亡げて漢に帰すと。今、大王、軍を護(ご)せしめしに、諸将の金を受けたり。願わくは王之を察せよ、と。王、魏無知を讓(せ)む。無知の曰く、臣の言う所の者は能なり。大王の問う所の者は行いなり。今尾生(びせい)・孝己(こうき)の行い有りとも、成敗の数に益無くんば、大王何の暇(いとま)あってか之を用いんや、と。 王、平を護軍中尉に拝し、尽く諸将を護せしむ。諸将乃ち敢えて復言わず。 十八史略 陳平2 2009-11-21 09 48 19 | 十八史略 昨夜早く目覚めたのでNHKラジオをつけたら深夜便の歌が流れた。 いい歌だなーとしみじみ聞き入った、大川栄策の声で題名は「昭和ロマン第二章」と言っていました。 では前回の通釈です。 周勃が王に向って言うには「陳平は風采の立派なことは玉(ぎょく)で飾った冠のようですが、その中身は必ずしも伴っているとは言えません。私の聞くところでは陳平がまだ官につかず家にいるとき、あによめと関係をもち、魏に仕えて用いられず、逃げて楚に身を寄せたが容れられずして、また逃げてわが漢にたどり着いた、ということです。今、大王はこのような人物に軍を監督せられましたから、あやつは諸将から賄賂を受けています。どうかよくよくお考えください」と。そこで王は魏無知を責めた。無知が申すのに「私がお引き合わせしたのは、彼の能力を見ていただきたいのです。大王の問うところは品行のことです。今日、尾生や孝己のような立派な行いがあったとして、天下の帰趨になんらの益もなければ、大王にはどうしてそんな意見を用いられるいとまがおありでしょうか」と。 王は陳平を護軍中尉に任じて、すべて諸将を監督させた。そこでもう陳平のことを言う者が居なくなった。 護 もともと統率する、監督するの意がある。 譲む 譲はゆずる、の意の他に責める意味がある。 尾生 女と橋の下で逢う約束を守って、増水した川でおぼれたばか正直な男。 孝己 一夜に五度も親の安否を気づかったといわれる、殷の高宗の子。 拝 官を授ける、また授かるのどちらにも使う。ここでは前者。 十八詩略 徳に順うものは昌え、逆らうものは亡ぶ 2009-11-24 13 34 36 | 十八史略 大川栄策の昭和ロマン第二章は「昭和浪漫第二章」でした。 漢王至洛陽。新城三老菫公遮説曰、順徳者昌、逆者亡。兵出無名。事故不成。明其爲賊、敵乃可服。項羽無道、放弑其主。天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力。大王宜率三軍之衆、爲之素服、以告諸侯而伐之。於是漢王爲義帝發喪、告諸侯曰、天下共立義帝。今項羽放弑之。寡人悉發關中兵、収三河之士、南浮江漢而下、願從諸侯王、撃楚之弑義帝者。 漢王、洛陽に至る。新城の三老菫公(とうこう)、遮(さえぎ)り説いて曰く、徳に順(したが)うものは昌(さか)え、徳に逆らう者は亡ぶ。兵、出づるに名無し。事、故に成らず。其の賊たるを明かにせば、敵乃ち服す可し。項羽無道にして、其の主を放弑(ほうし)す。天下の賊なり。夫(そ)れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず。大王宜しく三軍の衆を率い、之が為に素服し、以って諸侯に告げて之を伐つべし、と。是に於いて漢王、義帝の為に喪を発し、諸侯に告げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽之を放弑す。寡人悉く関中の兵を発し、三河(さんか)の士を収め、南のかた江漢に浮かんで下り、願わくは諸侯王に従い、楚の義帝を弑(しい)する者を撃たん、と。 十八史略 2009-11-26 08 32 31 | 十八史略 順徳者昌、逆者亡 通釈です 漢王はすでに、洛陽に至った。新城というところの三老の役をしていた菫(とう)なにがしという者が、道を遮り、漢王に説いて言うには「道徳に従って行動する者が栄え、道徳に逆らう者は亡びるものです。兵を出すのに名目が無ければ、事は成就しません。もし相手が逆賊であることを明らかにすれば、敵は屈服するものです。項羽は道徳にそむいて、主君である義帝を追放したうえ殺してしまいました。まさに天下の逆賊です。 そもそも仁を行うには勇は不用です、義を行うには力を必要としません。大王には宜しく三軍の兵を率いて、義帝のために喪服を着て、諸侯に項羽の非道を告げて、これを討伐されるべきです」と。 そこで漢王は義帝のために喪を発して諸侯に告げてこう言った「さきに諸侯相ともに義帝を立てて天子に戴いた。ところが項羽は義帝を追放して、殺してしまった。よって私は関中の兵を出し、河南、河東、河内の兵を集め、南方の江水、漢水を舟で下る、どうか諸侯、私に従って欲しい。義帝を殺した楚の賊を撃ち懲らしたいのだ」と。 三老 官名、その地の長老で教化をつかさどった。 三軍 周代の兵制で天子は六軍、諸侯の大国が三軍を出した。三万七千五百人の兵。 素服 白地の服、喪の時に用いた。 十八史略 2009-11-28 08 42 52 | 十八史略 漢王率五諸侯兵五十六萬、伐楚入彭城、収其寶貨・美人、置酒高會。項羽方撃齊。聞之、自以精兵三萬還撃漢、大破漢軍於睢水上。死者二十萬人。水爲之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起、折木發屋、揚沙石、晝晦。王乃得與數十騎遁。審食其從太公・呂氏行、遇楚軍、爲楚所獲。常置軍中爲質。漢王至滎陽。諸敗軍皆會蕭何亦發關中老弱悉詣滎陽。漢軍復大振。 漢王、五諸侯の兵五十六萬を率い、楚を伐って彭城(ぼうじょう)に入り、其の宝貨・美人を収めて、置酒高会(ちしゅこうかい)す。項羽方(まさ)に齊を撃つ。之を聞き、自ら精兵三万を以(ひき)いて還って漢を撃ち、大いに漢軍を睢水(すいすい)の上(ほとり)に破る。死する者二十万人。水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝(そう)。会ゝ(たまたま)大風、西北より起こり、木を折り屋を発(あば)き、沙石を揚げ、昼晦(くら)し。王乃ち数十騎と遁(のが)るるを得たり。審食其(しんいき) 太公・呂氏に従って間行し、楚軍に遭い、楚の得る所と為る。常に軍中に置いて質(ち)と為す。漢王、滎陽(けいよう)に至る。諸敗軍皆会す。蕭何も亦関中の老弱を発し、悉(ことごと)く滎陽に詣(いた)らしむ。漢軍復た大いに振るう。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200912/2 十八史略 死者二十万人水之が為に流れず 2009-12-01 08 57 02 | Weblog 漢王は、五諸侯の兵五十六萬を率いて楚をうって彭城に攻め入り、宝貨、美人を奪って酒宴を開いた。項羽はちょうど斉を攻めていた時で、急を聞きすぐさま自身で三万の選りすぐった兵を率いて戻り、漢軍を睢水のほとりに大敗させた。死者二十万人、その死体で睢水の流れも止まるほどであった。項羽は彭城の漢王を三重に取り囲んだ。おりしも大風が西北より吹き起こり、木を折り屋根を剥いで砂石を飛ばして昼にもかかわらず、あたりは暗くなった。天の助けとばかり漢王は数十騎の部下と逃げおおせた。審食其という者が漢王の父と夫人の呂氏の共をして、間道を抜けて逃げようとしたが、楚軍に遭って捕らえられてしまった。項羽は二人を常に陣中に置き人質とした。漢王が滎陽まで来たとき、ちりぢりになっていた部下達も集まった。そのうえ蕭何もまた関中の老人から年少者までも徴用して滎陽にかけつけた。漢軍は再び勢力を盛り返した。 五諸侯 常山王張耳・河南王申陽・韓王鄭昌・魏王豹・殷王邛(きょう)の五侯 置酒高会 置酒は酒宴さかもり、高会は盛大に会合する。 三匝 匝は取り巻く、三めぐり 十八史略 是れ口尚乳臭なり 2009-12-03 16 58 10 | 十八史略 蕭何守關中、立宗廟・社稷・縣邑、事便宜施行、計關中戸口、轉漕調兵、未嘗乏絶。 魏王豹叛。漢王遣韓信撃之。豹以柏直爲大將。王曰、是口尚乳臭。安能當韓信。信伏兵、從夏陽以木罌渡軍、襲安邑虜豹。信既定魏、請兵三萬人、願以北擧燕・趙、東撃齊、南絶楚糧道、西與大王會滎陽。王遣張耳與倶。 蕭何、関中を守り、宗廟・社稷・県邑を立て、事、便宜に施行して、関中の戸口を計り、転漕、兵を調し、未だ嘗て亡絶せず。 魏王豹叛す。漢王、韓信を遣わして之を撃たしむ。豹、柏直を以って大将と為す。王曰く、是れ口尚乳臭なり。安くんぞ能く韓信に当たらん、と。信、兵を伏せ、夏陽より木罌(ぼくおう)を以て軍を渡し、安邑を襲って豹を虜にす。信、既に魏を定め、兵三万人を請い、願わくは、以って北のかた、燕・趙を挙げ、東のかた、齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽に会せんという。王、張耳を遣わして與に倶にせしむ。 十八史略 是口尚乳臭 2009-12-08 15 54 53 | 十八史略 蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。 魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。 宗廟 先祖のみたまや 社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと 木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。 十八史略 陳餘、奇計を用いず 2009-12-10 11 32 56 | 十八史略 三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。 餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。 三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。 餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。 十八史略 陳餘奇計を用いず 2009-12-12 10 21 47 | 十八史略 漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。 ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-15 12 04 59 | Weblog 背水の陣(一) 未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。 未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。 韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。 平旦 夜明け 殊死 決死 鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること 佯 見せかける、ふりをする 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-17 12 50 51 | 十八史略 陥之死地而後生 趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。 趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。 趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。 韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。 倍 背に同じ、背にする 十八史略 黥布 2009-12-19 08 47 28 | 十八史略 随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。 随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。 随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。 黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。 畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反 十八史略 豎儒幾ど乃公の事を敗らんとす 2009-12-22 16 12 58 | 十八史略 酈食其説漢王、立六國後。王曰、趣刻印。張良來謁。王方食。具告良。良曰、請借前箸、爲大王籌之。遂發八難。其七曰、天下游士、離親戚、棄墳墓、從大王游者、徒欲望尺寸之地。今復立六國後、游士各歸事其主。大王誰與取天下乎。且楚惟無彊。六國復撓而從之、大王焉得而臣之乎。誠用客謀、大事去矣。漢王輟食吐哺、罵曰、豎儒幾敗乃公事。令趣銷印。 酈食其(れいいき)漢王に説く、六国(りっこく)の後を立てんと。王曰く、趣(すみや)かに印を刻せよ、と。張良来たり謁す。王方(まさ)に食す。具(つぶさ)に良に告ぐ。良曰く、請う、前箸(ぜんちょ)を借りて、大王の為に之を籌せん、と。遂に八難を発す。其の七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄てて、大王に従い游ぶ者は、徒(いたずら)に尺寸(せきすん)の地を望まんと欲す。今復六国の後を立てば、游士各ゝ帰って其の主に事(つか)えん。大王誰と与に天下を取らんや。且つ楚より惟(こ)れ彊(つよ)きは無し。六国復撓(たわ)んで之に従わば、大王焉(いず)くんぞ得て之を臣とせんや。誠に客の謀(はかりごと)を用いなば、大事去らん、と。漢王、食を輟(や)めて哺を吐き、罵って曰く、豎儒(じゅじゅ)、幾(ほとん)ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす、と。趣かに印を銷(しょう)せしむ 十八史略 ほとんど乃公の事を敗らんとす 2009-12-24 17 17 48 | 十八史略 通釈文 酈食其は漢王に六国の跡目を立てて諸侯にするよう説くと、漢王は「ではすぐに印章を作らせよ。」と言った。張良が来て王に謁した。王は食事中であったが、委細を張良に話した。張良は「お手近の箸をお借りして大王の為にはかりごとを献じましょう」と言って八つの懸案を提示した。その七番目には「今、天下の遊説の士が親戚と別れ、先祖のまつりを置いて大王に従っているのは、ただただ、僅かな土地を望んでいるからでございます。今また六国の跡目を立てれば、遊説者たちは帰ってその諸侯に仕えるでしょう。そうなったら大王は誰と組んで天下を取るおつもりですか。その上、今楚より強い国はありません。六国がまた屈服して楚に従ったら、大王はどうやって臣従させることが出来ましょう。この客人のはかりごとを用いたならば大王の大事も潰(つい)えることになりましょう」漢王は食事を止め、口中の食物を吐き出して、「くされ儒者めがあやうくわしの大事業を潰すところであったわい」と罵って六国の印を鋳潰させた。 六国 楚・韓・魏・燕・趙・齊。 趣 おもむき のほかに、すみやかにの意味がある。籌 はかりごと 輟食てつしょく 食事を途中で止める 乃公 乃はなんじ、公は君、汝の君主とは、臣下にむかって自分のことを尊大に言う。乃公出でずんば(このおれさまが出ないで、他の誰にできようか) 十八史略 骸骨を請う 2009-12-26 08 48 27 | 十八史略 骸骨を請う 楚圍漢王於滎陽。漢王謂陳平曰、天下紛々。何時定乎。平曰、項王骨鯁之臣、亜父輩數人耳。行以疑其心、破楚必矣。王與平黄金四萬斤、不問其出入。平多縦反。羽大疑亜父。請骸骨歸。疽發背死。 楚、漢王を滎陽(けいよう)に囲む。漢王、陳平に謂って曰く、天下紛々たり、何れの時か定まらん、と。平曰く、項王骨鯁(こっこう)の臣、亜父の輩数人耳(のみ)。間を行うて以て其の心を疑わしめば、楚を破ること必(ひっ)せり、と。王、平に黄金四萬斤を与え、其の出入を問わず。平、多く反間を縦(はな)つ。羽、大いに亜父を疑う。骸骨を請うて帰る。疽背に発して死す。 楚が漢王を滎陽に囲んだ。漢王は陳平に「天下乱れて紛々、いつになったら平定するのだろうか」と言った。陳平は答えた「項羽の剛毅直言の臣は亜父范増たち数人に過ぎません。間者を放って彼等の間で疑心を起こさせたら、楚を破ること必定でございます」と。漢王は陳平に黄金四万斤を与えて、その出入りを問わなかった。平は多くの間者を放ったので、項羽は大いに范増を疑った。范増は暇を請い国に帰ったが腫れ物が背中にできて死んだ。 骨鯁の臣 直言の臣、鯁は骨が喉につかえることから君主の機嫌をそこねることを敢えて進言する臣。 骸骨を請う 主君に辞職を願う 仕官して捧げたわが身の残骸を乞い受ける 十八史略 紀信、楚をあざむく 2009-12-29 11 04 09 | 十八史略 紀信、楚をあざむく 楚圍漢王急。紀信曰、事急矣。請誑楚。乃乗漢王車、出東門。曰、食盡漢王出降。楚人皆之城東観。漢王乃得出西門去。項羽焼殺紀信。 楚、漢王を囲むこと益々急なり。紀信曰く、事急なり、請う楚を誑(あざむ)かんと。乃ち漢王の車に乗り、東門より出づ。曰く、食尽き漢王出で降る、と。楚人、皆城東に之(ゆ)いて観る。漢王乃ち西門より出でて去ることを得たり。項羽、紀信を焼殺す。 楚は一層厳しく漢王を取り囲んだ。紀信が漢王に「事は差し迫っております、ここはひとつ楚軍をだましてやりましょう」と申し出て、漢王の車に乗って滎陽城の東門から出て、「食糧が尽きたから降伏する」と呼ばわった。楚軍は東門につめかけて見物した。その隙に漢王はまんまと西門から脱出した。怒った項羽は紀信を焼き殺した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001/2 十八史略 王、韓信の兵を奪う 2010-01-05 08 36 14 | 十八史略 新年おめでとうございます。 今年も多難な一年となることが予想されますが、2200年ほど前の中国では変わらぬ戦乱の世はつづきます。 漢王軍成皐。羽圍之。王逃去、北渡河、晨入趙壁、奪韓信軍、令信収趙兵撃齊。 酈食其説王、収滎陽、據敖倉粟、塞成皐之險。王從之。 漢王成皐(せいこう)に軍す。羽之を囲む。王逃れ去り、北のかた河を渡り、晨(あした)に趙の壁に入り、韓信の軍を奪い、信をして趙兵を収めて齊を撃たしむ。 酈食其(れいいき)王に説き、滎陽(けいよう)を収め、敖倉(ごうそう)の粟(ぞく)に據(よ)って成皐の険を塞(ふさ)がんとす。王之に従う。 漢王は成皐に布陣した。項羽がこれを囲んだので漢王は逃げて北の黄河を渡り、早朝趙の城内に入り、そこに陣を布いていた韓信の兵を手中にし、韓信には趙の兵を集めて斉を攻撃させた。 酈食其が王に説いて、滎陽城を手に入れて、敖倉山の食糧に頼って、成皐の要所を固めようと言った。王はこの説に従った。 韓信の兵を奪い 漢王といえども兵符が無ければ兵を自由にできなかったので、早朝、韓信の眠っているうちに兵符を奪った。 十八史略 一豎儒の功に如(し)かざるか 2010-01-07 17 43 23 | 十八史略 酈食其爲漢王、説齊王下之。蒯徹説韓信曰、將軍撃齊。而漢獨發使下之。寧有詔止將軍止乎。酈生伏軾、掉三寸舌、下七十余城。將軍爲將數歳、反不如一豎儒之功乎。 四年.信襲破齊。齊王烹食其而走。 酈食其(れきいき)漢王の為に、斉王に説いて之を下す。 蒯徹(かいてつ)、韓信に説いて曰く、将軍斉を撃つ。而(しか)るに漢独り間使を発して之を下せり。寧ろ詔(みことのり)有って将軍を止めしか。酈生(れきせい)軾に伏して三寸の舌を掉(ふる)い、七十余城を下せり。将軍、将たること数歳、反(かえ)って一豎儒(じゅじゅ)の功に如(し)かざるか、と。 四年、信襲うて斉を破る。斉王、食其(いき)を烹(に)て走る。 酈食其は漢王の為に、斉王に説いて降伏させた。 蒯徹という者が韓信に説いて言った。「将軍が斉を攻撃しようとしておられるのに、漢王は密使を送って降伏させてしまいました。それより何より漢王から将軍に、止まるようにと詔勅がありましたか?あの酈食其は車の横木に寄りかかったままで舌先三寸、斉の七十余城を降しました。将軍は将として数年、一介の青二才儒者に及ばないのでしょうか」と。 四年、韓信は斉を急襲して撃ち破った。斉王は酈食其を煮殺して逃げた 十八史略 我に一杯の羹を分かて 2010-01-09 11 04 30 | 十八史略 漢與楚皆軍廣武。羽爲高俎、置太公其上、告漢王曰、不急下、吾烹太公。王曰、吾與若倶北面事懐王、約爲兄弟。吾翁即若翁。必欲烹而翁、幸分我一杯羹。 羽願與王挑戰。王曰、吾寧鬭智。不鬭力。因數羽十罪。羽大怒、伏弩射王傷胸。 漢と楚皆広武に軍す。羽、高俎(こうそ)を為(つく)り、其の上に太公を置き、漢王に告げて曰く、急に下らずんば、吾太公を烹(に)ん、と。王曰く、吾と若(なんじ)と倶(とも)に北面して懐王に事(つか)え、約して兄弟(けいてい)と為る。吾が翁は即ち若(なんじ)が翁なり。必ず而が翁を烹(に)んと欲せば、幸いに我に一杯の羹(あつもの)を分かて、と。 羽、王と挑戦せんと願う。王曰く、吾寧ろ智を闘わさん。力を闘わさず、と。因(よ)って羽の十罪を数う。羽、大いに怒り、弩を伏せ王を射て胸を傷つく。 漢と楚の軍はみな広武に布陣していた。項羽は高い俎板をつくり、かねて捕えていた漢王の父の太公をその上に据え、漢王に言った「急いで降参しなければ、釜茹でにするぞ」と。漢王は「私とお前とはともに北面して懐王に仕え、約束して兄弟になった。私の父はすなわちお前の父だ、是非にもお前の父を煮るというなら、一杯の肉汁を分けて貰いたいものだ」とやりかえした。 つぎに項羽は、漢王と一騎打ちをしかけたが、王は「私は、智恵比べなら応ずるが、力比べはごめん被る」と答えた。そのうえで項羽の十か条の罪状を数え上げた。項羽は怒って、いしゆみを密かに射かけ漢王の胸を傷つけた。 幸い我に一杯の・・ 幸 ねがうの意 十八史略 韓信龍且を破る 2010-01-12 09 20 01 | 十八史略 韓信、濰水を決壊す 楚使龍且救齊。龍且曰、韓信易與耳。寄食於漂母、無資身之策、受辱於股下、無兼人之勇。進與信夾濰水而陣。信夜使人嚢沙壅水上流、旦渡撃且、佯敗還走。且追之。信使決水。且軍大半不得渡。急撃殺且 楚、龍且(りょうしょ)をして斉を救わしむ。龍且曰く、韓信与(くみ)し易きのみ。漂母に寄食して、身を資(たす)くるの策無く、辱めを股下に受けて、人に兼ぬるの勇無し、と。進んで濰水(いすい)を夾(はさ)んで陣す。信、夜人をして沙を嚢(ふくろ)にして水の上流を壅(ふさ)がしめ、旦(あした)に渡って且を撃ち、佯(いつわ)り敗れて還り走る。且、之を追う。信、水を決せしむ。且の軍大半渡るを得ず。急に撃って且を殺す。 楚の項羽は龍且を将として斉を救わせた。龍且は言った「韓信は恐れるに足りません。洗濯ばあさんに食わせて貰って身を立てる術もなく、人の股をくぐる恥を受けても平気で、人にすぐれた勇気も持ち合わせていない」と。進んで濰水を挟んで韓信と対陣した。韓信は夜ひそかに人をやって砂を袋に入れて上流を堰きとめさせ、翌早朝、川を渡って龍且を撃ち、負けた振りをして逃げた。龍且はそれとは知らず追撃する。韓信が堰を切ったので、龍且の軍勢は大半が渡ることが出来ない。そこを急襲して龍且を討ち取った。 人に兼ぬるの勇 人に勝る勇気 十八史略 韓信仮に齊王たらんとす 2010-01-14 09 32 06 | 十八史略 信使人言之漢王,請爲請假王以鎮齊。漢王大怒罵之。張良・陳平躡足附耳語。王悟、復罵曰、大丈夫、定諸侯、即爲眞王耳。何以假爲。遣印立信爲齊王。 信、人をして之を漢王に言わしめ、仮王と為り以て斉を鎮せんと請う。漢王大いに怒って之を罵る。張良・陳平、足を躡(ふ)み、耳に附けて語る。王悟り、復た罵って曰く、大丈夫、諸侯を定めば即ち真王たらんのみ。何ぞ仮を以て為さん、と。印を遣わし、信を立てて斉王と為す。 韓信は使者を遣わして、戦勝を伝え、なお自分が仮に斉王となって斉の地を安堵したい旨請うた。漢王は大いに怒って罵った。張良と陳平とが韓信を敵にすることを恐れ、王の足を踏んで、耳に口を寄せて許してやりなさいと囁いたので、漢王はハッと気がつき、また罵って言った。「大丈夫たる者が、諸侯を平定したら真の王になるだけのことではないか、仮になどと言うことはない」と。早速印章を遣わして斉王に立てた。 十八史略 韓信節を枉げず 2010-01-16 13 06 04 | Weblog 項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。 漢立黥布、爲淮南王。 項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。 漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。 項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。 漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001 十八史略 虎を養うて患を遺す 2010-01-19 21 29 46 | 十八史略 養虎自遺患也 項王少助食盡。韓信又進兵撃之。羽乃與漢約、中分天下、鴻溝以西爲漢、以東爲楚。歸太公・呂后、解而東歸。漢王亦欲西歸。張良・陳平曰、漢有天下大半。楚兵饑疲。今釋不撃、此養虎自遺患也。王從之。 項王、助け少なく、食尽く。韓信、又兵を進めて之を撃つ。羽、乃ち漢と約す、天下を中分し、鴻溝(こうこう)以西を漢と為し、以東を楚と為さんと。太公・呂后を帰し、解いて東に帰る。漢王も亦西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、漢天下の大半を有(たも)つ。楚の兵飢疲す。今釈(ゆる)して撃たずんば、此れ虎を養うて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり、と。王、之に従う。 項王は援兵少なく食糧も尽きてきた。さらに韓信もまた兵を進めてこれを攻めた。項羽はしかたなく漢と約束して鴻溝で二分し、西方を漢の領土とし東を楚の領土とした。そして人質にしていた太公と呂后を帰して、戦闘態勢を解いて東に帰った。漢王もまた西に帰還しようとしたところ、張良と陳平が止めて言った。「漢は天下の大半を領有しており、楚の兵は飢え疲れはてています。ここでこのままゆるして撃たなければ、虎を育てて患いを遺すというものです」と。漢王はこの進言に従った。 十八史略 四面楚歌 2010-01-21 15 39 41 | Weblog 四面皆楚歌 五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。 五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。 漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 2010-01-23 11 28 53 | 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 起飮帳中、命虞美人起舞。悲歌慷慨泣數行下。其歌曰、力抜山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。騅者羽平日所乘駿馬也。左右皆泣、莫敢仰視。 起って帳中に飲し、虞美人に命じて起って舞わしむ。悲歌慷慨、泣(なみだ)数行下る。その歌に曰く、 力山を抜き、気は世を蓋う。 時、利あらず 騅(すい)逝かず 騅逝かざるを奈何(いかん)せん 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん 騅とは羽が平日乗るところの駿馬なり。左右皆泣き、敢えて仰ぎ視るもの莫(な)し。 やがて立ち上がって陣中のとばりの中で酒を酌み交わし、虞美人に舞わせた。歌は悲壮に、嘆きは増して、さすがの項羽も涙が幾筋も頬をつたわった。その歌は、 力は山をも引き抜き、気概は天下をも蓋う 天の時は味方せず、愛馬の騅も前に進まぬ 騅の進まぬをいかんせん ああそれよりも 虞よ虞よなんじをいかんせん 左右の臣は皆泣き、項羽の顔を仰ぎ視る者は誰一人居なかった。 兮 調子を整えるために置く助字 音はケイ 奈何 如何におなじ 虞美人 項羽の愛妾、ひなげしにその名をとどめる 十八史略 此れ天我を亡ぼすなり 2010-01-26 17 51 07 | 十八史略 今年に入ってどうも体調が芳しくない。予定を早めて女子医大の南先生に診てもらうことにした。 羽乃夜從八百餘騎、潰圍南出、渡淮、迷失道、陥大澤中。漢追及之。至東城。乃有二十八騎。羽謂其騎曰、吾起兵八歳、七十餘戰、未嘗敗也。今卒困此。此天亡我。非戰之罪。今日固決死。願爲諸君決戰、必潰圍斬將、令諸君知之。皆如其言。於是欲東渡烏江。 羽乃(すなわ)ち世八百余騎を従え、囲みを潰(ついや)して南に出で、淮(わい)を渡り、迷うて道を失い、大沢(だいたく)の中に陥る。漢追うて之に及ぶ。東城に至る。乃ち二十八騎有り。羽、その騎に謂って曰く、吾、兵を起こしてより八歳、七十余戦、未だ嘗て破れざるなり。今卒(つい)に此に困しむ。此れ天我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ず。今日固(もと)より死を決す。願わくは諸君の為に決戦し、必ず囲みを潰(ついや)し将を斬り、諸君をして之を知らしめんと。皆其の言の如くす。是に於いて東のかた烏江を渡らんと欲す。 項羽は夜になるや八百余騎を従えて、敵の包囲を突き破って南に逃れたが、淮水を渡ったところで道に迷い、湿地帯に踏み込んでしまった。漢軍に追いつかれ、また逃げ延びて東城(安徽省の地名)にたどりついたときは、二十八騎になっていた。羽は彼等に向って「わしは兵を挙げて八年、七十余たび戦ったが敗れたことがなかった。今ここで追い詰められてしまったのは、天がわしを亡ぼすのであって、戦の上手下手ではない。もちろん今日生き残れるはずもないが、諸君の目の前で決戦して囲みを破って、敵将を斬りその証をたてたいと思う」と。そしてすべてその通りやってのけた。こうして項羽は東にのがれ烏江を渡ろうとした 十八史略 我何の面目あって復た見ん 2010-01-28 15 29 41 | 十八史略 亭長艤船待。曰、江東雖小、亦足以王。願急渡。羽曰、藉與江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。縱江東父兄、憐而王我、我何面目復見。獨不愧於心乎。乃刎而死。 亭長船を艤(ぎ)して待つ。曰く、江東、小なりと雖も、亦以て王たるに足る。願わくは急に渡れと。羽曰く、籍、江東の子弟八千人と、江を渡って西す。今一人の還るもの無し。縦(たとい)江東の父兄、憐れんで我を王とすとも、我、何の面目あって復見ん。独り心に愧(は)ぢざらんや、と。乃ち刎(くびは)ねて死す。 烏江の亭長が船出の用意を整えて待っていた。そして「江東は小なりとはいえ、それでも王として治めるには充分です。どうか急いで渡ってください」と言った。項羽はハッと気付き「わしはかつて江東の子弟八千と共に、この長江を渡って西に向ったが、今一人として連れ還るものもない。たとい父兄がわしに同情して王にしてくれてもなんの面目あって顔を合わすことができよう。わしとて心に羞じずにおられようか」と自ら首をかき切って死んだ。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201002/2 十八史略 漢の高祖 2010-02-02 09 20 31 | 十八史略 楚地悉定。獨魯不下。王欲屠之。至城下、猶聞絃踊之聲。爲其守禮義之國、爲主死節、持羽頭示之。乃降。王還、馳入齊王信壁、奪其軍、立信爲楚王、彭越爲梁王。漢王即皇帝位。 楚の地悉(ことごと)く定まる。独り魯のみ下らず。王之を屠(ほふ)らんと欲し、城下に至れば猶絃踊(げんしょう)の声を聞く。其の礼義を守るの国にして、主の為に節に死するが為に、羽の頭を持して之に示す。乃(すなわ)ち降る。王還り、馳せて齊王信の壁に入り、其の軍を奪い、信を立てて楚王と為し、彭越(ほうえつ)を梁王と為す。漢王、皇帝の位に即(つ)く かくして楚の地はすべて平定したが、ただ魯だけが降らない。漢王は根絶やしにしようと城下にせまると、城内からは楽器にあわせて詩を歌う声が聞こえてくる。漢王は、魯が礼節を守る国で、旧主項羽へ忠節をたてて死ぬ覚悟と見たので、項羽の首を持ってきて魯の人々に示した。それでようやく降伏した。漢王は軍を返し急遽斉王韓信の城壁に入ってその軍隊を自分のものにした。やがて韓信を楚王にし、彭越を梁王にした。そして漢王は皇帝の位に就いた(前202)高租である 主の為に節に死する 項羽はかつて魯公に封ぜられた 十八史略 吾の天下を得たる所以は何ぞ 2010-02-04 16 54 20 | 十八史略 置酒洛陽南宮。上曰、徹侯諸將、皆言、吾所以得天下者何、項氏所以失天下者何。高起・王陵對曰、陛下使人攻城掠地、因而與之、與天下同其利。項羽不然。有効者害之、賢者疑之、戰勝而不予人功、得地而不與人利。 洛陽の南宮に置酒(ちしゅ)す。上(しょう)曰く、徹侯(てっこう)諸将、皆言え、吾の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ、項氏の天下を失いし所以は何ぞ、と。高起・王陵対(こた)えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしむれば、因って之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず。功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝って人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。 洛陽の南宮で宴会を催した時、高祖が言った、「列侯・諸将たちよ、皆言ってみよ。予が天下を得たわけは何か、項羽が天下を失った理由は何であるか」と。すると高起と王陵が対(こた)えて言った、「陛下は部下に城を攻め、土地を取らせられますと、功によって部下に与えて、天下の人と利益を共にされました。項羽はそうではありません。功ある者は痛めつけ、賢者は疑ってかかりました。戦争に勝っても、部下に功賞を与えず、土地を得ても人に与えませんでした。それで天下を失ったのです」と。 徹侯 秦代の爵位、後に通侯、列侯といった 十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う 2010-02-06 10 19 41 | Weblog 上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。 上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。 十八史略 2010-02-09 16 47 13 | 十八史略 高祖は言った。「貴公らはその一面を知って、他の面を知らない。そもそも帷幕の中で作戦をめぐらし、千里も離れて勝利を導くは子房(張良)に及ばない。国家を安定させ人民をいつくしみ食糧を確保し補給を絶やさぬ能力は蕭何にかなわない。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る腕前は、韓信に及ばぬ。この三人は傑出した者たちだ。わしはこの三人をよく使いこなした。これがわしが天下を取ったわけだ。ところが項羽には一人范がいたが、使いこなすことができなかった。これがあやつがわしにしてやられたゆえんだ」と。群臣みな感じいった。 籌 はかる 数をかぞえる竹の棒から、はかりごと、計略 餽餉 食糧 人傑 能力の衆人にすぐれた人。 十八史略 田横自頸す 2010-02-13 11 04 01 | 十八史略 故齊田横、與其徒五百餘人入海島。上召之曰、横來。大者王。小者侯。不來、且擧兵誅。横與二客乘傳、至洛陽尸郷自剄。以王禮葬之。二客自剄客從之。五百人在島中者、聞之自殺。 故(もと)の斉の田横(でんこう)其の徒五百人と海島に入る。上(しょう)之を召して曰く、横来たれ。大なる者は王とせん。小なる者は侯とせん。来たらずんば、且(まさ)に兵を挙げて誅(ちゅう)せんとす、と。横、二客(じかく)と伝に乗り、洛陽の尸郷(しきょう)に至って自剄(じけい)す。王の礼を以て之を葬る。二客自剄して之に従う。五百人島中に在る者、之を聞いて自殺す。 もと斉の田横は、その徒党五百人余りと海上の島に逃れて立てこもった。高祖はこれを召すべく、「田横よ来い。重くは王に、軽くとも侯に取り立てよう。もし来なければ、兵を派遣して誅するぞ」と使者に伝えさせた。田横は二人の客と共に、宿継ぎをしながら洛陽に向かい、すぐ手前の尸郷まで来たところで、みずから首をはねた。高祖は王の礼をもって田横を葬った。二人の客もみずから首をきって後を追った。島に残っていた五百人もこれを聞いてすべて自決して殉じた。 十八史略 季布髠鉗(こんけん)して奴と為り朱家に売る 2010-02-16 17 58 57 | 十八史略 初季布爲項羽將、數窘帝。羽滅、帝購求布。敢匿者罪三族。布乃髠鉗爲奴、自賣於魯朱家。朱家心知其布也、之洛陽見滕公曰、季布何罪。臣各爲其主耳。以布之賢、漢求之急、不北走胡、南走越耳。此棄壯士資敵國也。 滕公言於上。乃赦布、召拝郎中。 初め季布、項羽の将と為り、数々(しばしば)帝を窘(くる)しむ。羽滅んで、帝、布を購求す。敢えて匿(かく)す者は三族を罪せんと。布乃ち髠鉗(こんけん)して奴(ど)と為り、自ら魯の朱家に売る。朱家、心に其の布なるを知るや、洛陽に之(ゆ)き滕公(とうこう)に見(まみ)えて曰く、季布、何の罪かある。臣は各々其の主の為にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なるときは、北のかた胡に走らずんば、南のかた越に走らんのみ。此れ壮士を棄てて敵国を資(たす)くるなり、と。滕公、上(しょう)に言う。乃ち布を赦し、召して郎中に拝す。 以前季布は項羽の将軍として度々高祖を苦しめた。そこで項羽が滅びると、賞金を懸けて捜し求め、もしかくまう者があったら、本人はもとより父母、妻の一族までも罰するぞと布告した。季布は髪を剃り首枷(かせ)をはめて自ら奴隷に身を落として魯の朱家に売った。朱は季布の正体を感づくと、洛陽に赴き、滕公(夏公嬰)に会見してこう言った。「季布に何の罪がありましょう、臣下はそれぞれの主君のために力を尽くすのがつとめ、ここで季布ほどの賢人を厳しく探索したなら、北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。これこそ壮士を見捨てて敵国を利することになりましょう」と。滕公はそれを高祖に申し上げた。高祖は早速季布を赦し、召して郎中に任じた。 窘(くる)しむ 閉じ込める、苦しめる。 購求 懸賞金をかけて捜し求める。 髠鉗(こんけん) 頭髪を剃り、鉄枷を首に施すこと。 郎中 宮中の宿直の役。 十八史略 丁公、臣と為って不忠なり 2010-02-18 18 04 57 | 十八史略 丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。 丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。 丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。 丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに 厄 阨に同じ、苦しみ困ること。 十八史略 西安遷都 2010-02-23 17 40 14 | 十八史略 齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。 斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。 斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。 案 安堵におなじ、その所に落ち着いている 亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ 十八史略 赤松子に従って遊ばん 2010-02-25 18 13 35 | 十八史略 留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。 留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。 留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。 赤松子 上古の仙人の名 十八史略 張良、橋上に老人と会う 2010-02-27 11 29 45 | 十八史略 孺子教うべし 良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。 良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。 張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201003/2 十八史略 張良太公望の兵書を授かる 2010-03-02 18 03 14 | 十八史略 及往、老人又先在。怒復約五日。良半夜往。老人至。乃喜、授以一編書。曰、讀此可爲帝者師。異日見濟北穀城山下黄石、即我也。旦視之、乃太公兵法。良異之、晝夜習讀。既佐上定天下。封功臣、使良自擇齊三萬戸。良曰、臣始與陛下遇於留。此天以臣授陛下。封留足矣。後經穀城、果得黄石焉。奉祠之。 往くに及んで、老人又先ず在り。怒って復五日を約す。良半夜に往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに一編の書を以ってす。曰く、此れを読まば帝者の師と為るべし。異日、濟北(さいほく)の穀城(こくじょう)山下の黄石を見ば、即ち我なり、と。旦(あした)に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良、之を異とし、昼夜習読す。既にして上(しょう)を佐(たす)けて天下を定む。功臣を封ずるとき、良をして自ら斉の三万戸を択ばしむ。良曰く、臣始め陛下と留に遇(あ)う。此れ天、臣を以って陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば足れり、と。後、穀城を経しに、果して黄石を得たり。之を奉祠す。 五日後に行ってみると老人が先に来ていて叱り付け、さらに五日後に行くことを約束した。張良は今度は遅れまいと夜中から待った。やがて老人が来て、会うと喜んで一編の書を授けてこう告げた「これを読めば帝王の軍師となれよう。後日、済北の穀城山下で黄色の石を見かけたらそれがわしじゃ」と。朝になってその書を見ると太公望の兵法書であった。張良はこれを奇遇と喜び、昼夜の別なく読み習ったのであった。 やがて張良は高祖をたすけて天下を平定し、功臣を封ずるとき、高祖は斉のうちで三万戸の領地を選び取らせようとしたところ張良はこう言って辞退した「私は陛下に留でお目にかかりました。それは天が私を陛下に授けたものと思っております。ですから留の地をいただければ充分でございます。」 その後穀城山を通ったとき、果して黄石をみつけたので、祠に祀ったのであった。 十八史略 狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる 2010-03-04 18 08 33 | 十八史略 六年、人有上書告楚王韓信反。諸將曰、發兵坑孺子耳。上問陳平。平危之曰、古有巡守會諸侯。陛下第出僞遊雲夢、會諸侯於陳、因禽之、一力士之事耳。上從之、告諸侯、會陳、吾將遊雲夢。至陳。信上謁。命武士縛信、載後車。信曰、果若人言。狡兎死走狗烹、飛鳥盡良弓蔵。敵國破謀臣亡。天下已定。臣固當烹。遂械繋以歸。赦爲淮陰侯。 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已(すで)に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文は次回に 十八史略 狡兎死して走狗烹らる 2010-03-06 09 09 57 | Weblog 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文 漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」 とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。 十八史略 善く将に将たり 2010-03-09 13 56 03 | 十八史略 多々益々辦(べん)ず 上嘗從容問信諸將能將兵多少。上曰、如我能將幾何。信曰、陛下不過十萬。上曰、於君如何。曰、臣多多益辦。上笑曰、多多益辦、何以爲我禽。曰、陛下不能將兵、而善將將。此信所以爲陛下禽。且陛下所謂天授、力也。 上(しょう)嘗て従容(しょうよう)として信に諸将の能(よ)く兵に将たるの多少を問う。上曰く、我の如きは能く幾何(いくばく)に将たらんか、と。信曰く、陛下は十万に将たるに過ぎず、と。上曰く、君に於いては如何(いかん)、と。曰く、臣は多々益々辦(べん)ず、と。上笑って曰く、多々益々辦ぜば、何を以って我が禽(とりこ)に為れる、と。曰く、陛下は兵に将たること能(あた)わざれども、而(しか)も善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以(ゆえん)なり。且つ陛下は所謂(いわゆる)天授にして、人力に非ざるなり、と。 高祖はあるとき、くつろいだ様子で韓信に将軍達がそれぞれどの位の兵を統率する能力があるだろうかと聞いたことがあった。そして最後に高祖は「わしはどれほどの兵を使いこなせるだろうか」と問うた。すると韓信は「陛下は十万位いでしょう」と答えた。高祖は「ではお前はどうだ」と尋ねると、「私は多ければ多いほど指揮がさえます」と事もなげに言った。高祖は笑って「多ければ多いほどうまくやれると言うそなたがなぜわしの虜になったのだ?」韓信は「陛下は兵に将たるには向きませんが、将に将たる才がおありになります。これが私が虜になった所以です。その上、陛下は天から授かった人に君たる運勢をお持ちです。人の力では及びもつきません。」と。 辦 つとめる。処理する。さばく。 よく似た字がありますので参考のため列挙しました。 辨(弁)わかつ 弁別。わきまえる 分別。つぐなう 弁償。用にあてる弁当。 辧(弁)辨の本字。 辯(弁)言うこと、言い開きすること 弁護士の弁 瓣(弁)はなびら、花弁。瓜の種の周りのやわらかな部分 辮 編む 辮髪(べんぱつ)中国清朝の男子の髪型。(蒼穹の昴でおなじみ) 十八史略 狗の功と人の功 2010-03-11 18 14 31 | 十八史略 剖符封功臣。酇侯蕭何、食邑獨多。功臣皆曰、臣等被堅執鋭、多者百餘戰、少者數十合。蕭何未嘗有汗馬之勞、徒持文墨議論、顧反居臣等上何也。上曰、諸君知獵乎。逐殺獸者狗也。發縱指示者人也。諸君徒能得走獸耳。功狗也。至如蕭何、功人也。羣臣皆莫敢言。 符を剖(さ)き功臣を封ず。酇侯(さんこう)蕭何、食邑(しょくゆう)独り多し。功臣皆曰く、臣等、堅を被(き)鋭を執(と)り、多き者は百余戦、少なき者も数十合。 蕭何は、未だ嘗て汗馬の労あらず、徒(た)だ文墨(ぶんぼく)を持して議論し、顧反して臣等の上に居るは何ぞや、と。上曰く、諸君、猟を知れるか。獣を逐殺する者は狗なり。発従(はっしょう)して指示する者は人なり。諸君は徒(ただ)能く走獣を得たるのみ。功は狗なり。蕭何の如きに至っては、功は人なり、と。群臣、皆敢えて言う者莫(な)し。 高祖は割符を分け授けて功績のあった家臣に領地を与えた。その中で酇侯の蕭何だけ特に多かったから、他の功臣は皆「我々は身に堅いよろいをつけ、矛や刀を執って、多い者は百余回、少ない者でも数十合の戦をしています。ところが蕭何は一度も馬に鞭をあてた事も無く、ただ筆と墨を持って議論していただけではありませんか。それが却って自分たちより上というのはどういうことでしょうか。」と言った。すると高祖は「諸君は猟を知っているか。獣を追いかけて殺すのは犬であり、犬の綱を解いて指図するのは人間の役である。諸君はただ獣を捕えただけであるから、いわば犬の功である。蕭何は諸君を指図したのだから、その功は人の功である」と言った。これには群臣誰一人一言もなかった。 剖符 符を割くこと その一片を与えて証とする 酇侯 湖北省の地名蕭何が封じられた。 汗馬の労 馬が汗をかくほどの骨折り、実戦の苦労。 顧反(こはん) かえって。 発縦 犬を繋いだ綱を解き放つこと 十八史略 雍齒すら且つ侯たり 2010-03-16 14 29 30 | 十八史略 上已封大功臣。餘爭功不決。上從複道上望見、諸將往坐沙中、相與語。上問張良。良曰、陛下以此屬取天下。今所封皆故人親愛、所誅皆平生仇怨。此屬畏不能盡封、又恐見疑平生過失及誅。故相聚謀反耳。 上(しょう)、すでに大功臣を封(ほう)ず。余(よ)は功を争うて決せず。上、複道の上より望み見るに、諸将、往々沙中に坐して、相与(とも)に語る。上、張良に問う。良曰く、陛下、此の属を以って天下を取る。今、封ずる所は、皆故人親愛にして、誅する所は、皆平生の仇怨(きゅうえん)なり。此の属、尽くは封ぜらるる能わざるをおそれ、又平生の過失を疑われて誅に及ばんことを恐る。故に相聚(あつ)まって反を謀(はか)るのみ、と。 高祖はすでに大きな功労を立てた者にだけは領地を与たえ終ったが、残りの者は功績の大小を言いつのって決まらなかった。高祖が二重廊下の上から見下ろすと、諸将があちこちと砂の上に座って何やら話し合っている。張良に尋ねると「陛下はあの者たちの力によって天下を取られましたが、今のところ領地を与えられた者は、皆古くからの知り合いか、目をかけられた者たちです。また、誅殺された者は、皆陛下が常日頃憎んでいた者ばかりです。ですからあの連中は皆が皆領地をもらえないのではないかと心配し、一方わずかの落ち度でも、疑われて殺されるかと恐れているのです。それでああして集まって、いっそ謀反を起こそうかと相談しているのです」と答えた。つづく 十八史略 つづき 2010-03-18 17 40 51 | 十八史略 承前 上曰、奈何。良曰、陛下平生所憎、羣臣所共知、誰最甚者。上曰、雍齒。良曰、急先封齒。於是封齒爲什方侯。而急趣丞相・御史、定功行封。羣臣皆喜曰、雍齒且侯、吾屬無患矣。詔定元功十八人位次、賜丞相何、劔履上殿、入朝不趨。 尊太公爲太上皇。 上曰く、奈何(いかん)せん、と。良曰く、陛下平生憎む所にして、群臣の共に知るところは、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒(ようし)なり、と。良曰く、急に先ず齒を封ぜよ、と。是に於いて齒を封じて什方侯と為す。而(しか)して急に丞相・御史を趣(うなが)して、功を定め封を行う。群臣皆喜んで曰く、雍齒すら且つ侯たり、吾が属、患い無けん、と。 詔(みことのり)して元功十八人の位次(いじ)を定め、丞相何に賜い、剣履(けんり)して殿(でん)に上り、入朝して趨(はし)らざらしむ。 太公を尊んで太上皇と為す。 高祖は「どうすればよかろう」と尋ねると、張良は「陛下が平生憎んでおられて、なおかつ群臣がそれを知っている、その最たる者は誰でしょうか」高祖は「雍齒だろう」張良は「では真っ先に雍齒に領地をお与えください」そこで雍齒を什方(じゅうほう)侯に取り立てた。そうしておいて丞相や御史を督促して、諸将の功績を定めて領地を決めることにした。群臣は皆喜んで言った。「あの疎まれていた雍齒すら侯に取り立てられたのだから、我々は何の心配も無いだろう」と。 詔(みことのり)によって大功ある者十八人の席次を定め、丞相の蕭何には剣をつけ履(くつ)をはいて殿上にのぼることを許し、朝廷に入っても小走りしなくとも良いという恩典を賜った。 高祖は父の太公を尊んで太上皇(たいじょうこう)という尊号を奉った。 元功 元は頭、最上、第一の意味がある。 十八史略 叔孫通 2010-03-20 10 35 35 | 十八史略 與に成を守るべし 帝懲秦苛法、爲簡易。羣臣飮酒争功、酔或妄呼、抜劍撃柱。叔孫通説上曰、儒者難與進取、可與守成。願懲魯諸生、共起朝儀。上從之。魯有兩生。不肯行曰、禮樂積、而後可興也。通與所徴及上左右、與弟子百餘人、爲緜蕝野外習之。 帝、秦の苛法に懲りて簡易を為す。群臣酒を飲んで功を争い、酔うて或いは妄呼(もうこ)し、剣を抜いて柱を撃つ。叔孫通(しゅくそんとう)、上(しょう)に説いて曰く、儒者は与(とも)に進んで取り難く、ともに成を守るべし。願はくは魯の諸生を徴(ちょう)して、共に朝儀を起こさん、と。上之に従う。魯に両生有り。行くを肯(がえ)んぜずして曰く、礼楽は徳を積んで、後に興すべきなり、と。通(とう)、徴(め)す所のもの及び上の左右と、弟子(ていし)百余人と、緜蕝(めんぜつ)を野外に為(つく)って之を習わす。ー通釈は次回にー 十八史略 2010-03-23 08 20 26 | 十八史略 高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。 緜蕝(めんぜつ) 緜は木綿糸、蕝は茅 十八史略 叔孫通太常となる 2010-03-25 17 48 27 | 十八史略 七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 十八史略 叔孫通 太常となる 2010-03-27 13 49 23 | 十八史略 前回のつづき 読み下し文から 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。 法酒 儀礼の酒 諠譁 騒がしいこと、喧嘩 太常 神祇官、 十八史略 陳平匈奴と和睦す 2010-03-30 18 25 02 | 十八史略 匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。 九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。 匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。 九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。 匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。 九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。 梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族 梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。 梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。 十八史略 安くんぞ詩書を事とせん 2010-04-08 15 38 05 | 十八史略 前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、 帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。 遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。 陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。 高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。 南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。 乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。 十八史略 陸賈新語 2010-04-10 12 16 57 | 十八史略 承前 賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。 賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。 つづき 陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。 新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語) 十八史略 大風起こって雲飛揚す 2010-04-13 18 21 26 | 十八史略 淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。 十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、 大風起雲飛揚。 威加海内兮歸故郷。 安得猛士兮守四方。 令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。 淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。 十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、 大風起って雲飛揚(ひよう)す。 威、海内に加わって故郷に帰る。 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。 沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。 淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。 十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。 かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。 過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。 太牢 たいそう立派なご馳走。 十八史略 高祖、太子盈を廃せんと欲す 2010-04-20 16 33 42 | 十八史略 初戚姫有寵。生趙王如意。呂后見疏。太子仁弱。上以如意類己、欲廃太子而立之。羣臣争之、皆不能得。呂后使人彊要張良畫計。良曰、此難以口舌争也。顧上所不能致者四人。東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生。以上嫚侮士故、逃匿山中、義不爲漢臣。上高此四人。今令太子爲書卑詞、安車固請、宜来。至以爲客、時從入朝、令上見之、則一助也。 初め戚姫(せきき) 寵(ちょう)有り。趙王如意(じょい)を生む。呂后疏(うと)んぜらる。太子仁弱(じんじゃく)なり。上(しょう)、如意の己に類するを以って、太子を廃して之を立てんと欲す。群臣之を争えども、皆得ること能(あた)わず。呂后、人をして張良を彊要(きょうよう)して画計せしむ。良曰く、此れ口舌(こうぜつ)を以って争いがたきなり。顧(おも)うに上(しょう)の致すこと能わざる所の者四人あり。東園公・綺里季(きりき)・夏黄(かこう)公・甪里(ろくり)先生と曰う。上、士を嫚侮(まんぶ)する故を以って、逃れて山中に匿(かく)れ、義として漢の臣と為らず。上、此の四人を高しとす。今、太子をして書を為(つく)り詞(ことば)を卑(ひく)うし、安車(あんしゃ)もて固く請わしめば、宜しく来るべし。至らば以って客と為し、時々に従えて入朝し、上をして之を見しめば、則ち一助なり、と。 初め戚姫が帝に寵愛されて、趙王如意(じょい)を生んだので、呂后は疎んぜられた。そのうえ呂后の生んだ太子(盈)は慈悲深くはあったが身体が弱かった。帝は如意の気性が自分に似ていたので、盈を廃して如意を立てようとした。群臣は諌めたけれども、どれも聞き入れられなかった。そこで呂后は使者を張良に遣わして強いて太子の安泰を画策させた。張良はこれに答えて、「これは口先で諌めてもどうなるものでもありません。それがしが思うに、帝が招聘(しょうへい)しようとしてもどうにもならない人物が四人居ります、東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生といいますが、彼等は帝が士をあなどり軽んずるのを見て山中に隠れ、義を貫いて臣になりません。帝はこの四人を見識の高い者だと思っておられます。今太子が手紙を書き、言葉を丁寧にして、乗り心地の良い車で是非にと請えば、彼等はきっと太子のもとにやって来るでしょう。参りましたならば、彼等を賓客として遇し、折にふれて伴って帝のお目にかけるようになされますならば、一つの助けになりましょう」と言った。 彊要 強要と同じ。 嫚侮 嫚も侮もあなどる、ばかにすること。 甪里先生 角里とも書く。 十八史略 羽翼已に成れり。動かし難し 2010-04-24 08 35 45 | 十八史略 呂后使人奉太子書招之。四人至。帝撃布還、愈欲易太子。後置酒。太子侍。良所招四人者從。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。上怪問之。四人前對、各言姓名。上大驚曰、吾求公數歳、公避逃我。今何自從吾兒游乎。 四人曰、陛下輕士善罵。臣等義不辱。今聞太子仁孝・恭敬愛士、天下莫不延頸願爲太子死者。故臣等來耳。上曰、煩公。幸卒調護。四人出。上召戚夫人、指示之曰、我欲易之、彼四人者、輔之。羽翼已成。難動矣。 呂后人をして太子の書を奉じて之を招かしむ。四人至る。帝、布を撃って還り、愈々太子を易(か)えんと欲す。後、置酒(ちしゅ)す。太子侍す。良の招く所の四人の者従う。年皆八十余、鬚眉皓白(しゅびこうはく)、衣冠甚だ偉なり。上(しょう)、怪しんで之を問う。四人前(すす)んで対(こた)え、各々姓名を言う。上、大いに驚いて曰く、吾、公を求むること数歳なれども、公、我を避逃(ひとう)せり。今何に自(よ)って吾が児に従って游(あそ)ぶかと。 四人曰く、陛下士を軽んじて善く罵(ののし)る。臣等、義として辱(はず)かしめられず。今、太子、仁孝・恭敬にして士を愛し、天下頸(くび)を延べて太子の為に死するを願わざる者莫(な)しと聞く。故に臣等来れるのみ、と。上曰く、公を煩わさん。幸に卒(つい)に調護せよ、と。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示(しし)して曰く、我之を易えんと欲すれども、彼(か)の四人の者之を輔(たす)く。羽翼已に成れり。動かし難し、と。 呂后は使者をつかわして太子の書状を奉じて四人を招かせた。四人は都にやって来た。高祖は黥布を伐って帰り、いよいよ太子を易えようと思った。 その後宮中で酒宴が開かれた。太子も侍(はべ)っていたが、張良の献策で招かれた四人も付き従っていた。年齢は皆八十以上、ひげも眉も真っ白で衣冠をつけた姿がたいへん立派であった。帝は不思議に思い、名を尋ねると四人とも前に出て姓名を名乗った。帝は大いに驚き「余は貴公たちを何年も求めたが、その度に避け、逃げた。それが今どうして吾が子に従って客となっておられるのか」と問うた。四人は口をそろえて「陛下は士を軽んじてよく罵倒なさいます。臣らは義を重んじておりますゆえ辱めを受けてまで仕える気はございません。ところが太子は慈悲深く、孝心がお有りで、うやうやしく敬(つつし)んでよく士を愛されますので、天下の人びとで太子のために首をさし延ばして死ぬことを厭わない者はないと聞きおよんでいます。私どもが来たのはそのためでございます」と答えた。帝は「貴公たちの力を借りよう、どうかわが子を助けもり立てて下されよ」と頼んだ。帝は戚夫人を呼び、四人を指し示して「わしは太子を替えようと思ったがあの四人の者が太子を補佐している、ひな鳥に羽や翼が備わったも同然、もう動かすことは出来なくなった」と言った。 十八史略 乃(なんじ)の知る所に非ざるなり 2010-04-27 11 52 44 | 十八史略 蕭何以長安地陿、上林中多空地棄、請令民得入田。上大怒、下何廷尉、械繋之、數日而赦之。 上撃布中流矢、疾甚。呂后問、陛下百歳後、蕭相國死。誰可代之。曰、曹參。其次。曰、王陵。然少戇。陳平可以助之。平智有餘。然難獨任。周勃重厚少文、可令爲太尉。安劉氏者必勃也。復問其次。上曰、此後亦非乃所知也。 蕭何、長安の地陿(せま)くして、上林の中(うち)に空地の棄てられたるもの多きを以って、民をして入って田(でん)することを得しめんと請う。上大いに怒り何を廷尉に下(くだ)して、之を械繋(かいけい)せしが、数日にして之を赦(ゆる)せり。 上、布を撃つや流矢に中(あた)って疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后問う、陛下百歳の後、蕭相國死せば、誰か之に代るべき、と。曰く、曹參なり、と。其の次は。曰く、王陵なり、然れども少しく戇(とう)なり。陳平以って之を助くべし。平の智は余りあり。然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なく、太尉(たいい)たらしむべし。劉氏を安んぜん者は必ず勃ならん、と。復其の次を問う。上曰く、此の後は亦乃(なんじ)の知る所に非ざるなり。 蕭何が、長安の地は狭いのに、帝の御料場の中には空地のままうち棄てられたままになっている所があるので、民が林に入って耕作できるように願い出た。帝は大変怒って、蕭何を獄吏の手に下して、手かせをして牢に繋いだが数日経って赦した。 帝は黥布を征伐した時、流れ矢にあたったが、其の傷がもとで病が重くなった。そこで呂后が問うた「陛下に万一の事態が起こったとき、相国の蕭何がもし死んだら誰を代りに任用したらよろしうございましょう」帝は「曹参がよい」と答えた。更に「その次は」と問うと「王陵である、が少し愚直であるから陳平に補佐させるようにせよ。陳平は知略は充分にあるが一人では任せがたい。周勃は重厚な人物であるが、飾り気がないから太尉とするがよい。将来劉氏を安泰に保つ者は周勃であろう」と言った。呂后がまたその次を問うと、帝は「それから先のことはそなたの知ったことではなかろう」と言った。 上林 天子の庭園、狩猟などを行った。 田 耕すこと 廷尉 刑罰をつかさどる官名 械繋 械は手かせ足かせ 戇 愚直、がんこ 文少なく 文は模様、飾り 太尉 軍事長官、丞相に次ぐ位 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/103 十八史略 人豚 2010-04-29 12 36 49 | 十八史略 上崩。葬長陵。爲漢王者四年、爲帝者八年、凡十二年。太子盈立。是爲孝惠皇帝。 孝惠皇帝名盈。母呂太后。即位之元年、呂后鴆殺趙王如意、斷戚夫人手足、去眼耳、飮瘖藥、使居廁中。命曰人彘、召帝觀之。帝驚大哭、因病,歳餘不能起。 上(しょう)崩ず。長陵に葬る。漢王たること四年、帝たること八年、凡(すべ)て十二年なり。太子盈立つ。是を孝惠皇帝と為す。 孝惠皇帝名は盈(えい)、母は呂太后なり。位に即くの元年、呂后、趙王如意(じょい)を鴆殺(ちんさつ)し、戚夫人の手足(しゅそく)を断ち、眼を去り、耳を(ふす)べ、瘖薬(いんやく)を飲ましめ、厠中(しちゅう)に居(お)らしむ。命じて人彘(じんてい)と曰い、帝を召して之を観(み)しむ。帝驚いて大いに哭し、因(よ)って病み、歳余起(た)つこと能(あた)わず。 高祖が崩御し(前195年)、長陵に葬られた。漢王であること四年、天子であること八年、あわせて十二年間であった。二代皇帝に太子の盈が就いた。これを孝恵皇帝(恵帝)といった。 孝恵皇帝、名は盈という、母は呂太后である。即位の年、呂后は趙王如意を鴆毒(ちんどく)で殺し、戚夫人の手足を斬り、眼球をえぐり取り、耳を燻(いぶ)してふさぎ、瘖薬を飲ませて声を奪ったうえで厠(かわや)に閉じ込めた。これを「ひとぶた」と呼ばせて、恵帝にこれを見せた。恵帝は驚いて声をあげて哭(な)き叫んだ。とうとうこれがもとで病気になり、一年余りも起き上がれなかった。 鴆毒 マムシを食った鴆という鳥の羽を浸した酒という 瘖薬 ひとを唖にする薬 人彘 彘は猪子 十八史略 蕭何卒し曹参代って相国となる。 2010-05-01 09 27 21 | 十八史略 二年、蕭何卒。齊相曹參、令舎人趣爲裝。吾且入相。使者果召參。代何爲相國、一遵何約束。百姓歌之曰、 蕭何爲相、 較若畫一。 曹參代之、 守而勿失、 載其淨、 民以寧壹。 五年、曹參卒。 六年、王陵、爲右丞相、陳平爲左丞相。張良卒。周勃爲太尉。 二年、蕭何卒す。齊の相曹參、舎人をして趣(すみや)かに装を為さしむ。吾且(まさ)に入って相たらんとす、と。使者果たして参を召す。何に代って相国と為り、一(いつ)に何の約束に遵(したが)う。百姓(ひゃくせい)之を歌って曰く、 蕭何、相(しょう)と為り、 較(こう)として一を画(かく)するが若(ごと)し 曹参之に代り、 守って失うこと勿(な)く 載(こと)其れ清浄にして、 民以って寧壱(ねいいつ)なり 五年、曹参卒す。 六年、王陵、右丞相と為り、陳平、左丞相と為る。張良卒す。周勃、太尉と為る。 恵帝の二年に蕭何が死んだ。この時斉の大臣の曹参は、召使いに急いで旅装を命じた。そして自分はこれから朝廷に入って宰相になるのだといったが、果たしてその通り、使者が来て曹参を召した。入朝した曹参は蕭何に代って宰相になり、蕭何のとりきめに従った。人々はこれを讃えて歌って言うには、 蕭何さまの、まつりごと、その法すっきり一の文字 曹参さまがひきついで、なに変わることなきありがたさ すべてが清廉潔白で、おかげでわしらは安泰じゃ 五年にその曹参が死んだ。 六年に王陵が右丞相となり、陳平が左丞相となった。 同年張良が死に、周勃が太尉となった。 十八史略 劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て 2010-05-07 11 22 11 | 十八史略 太后、朝に臨み制を称す 帝在位七年崩。無子。呂太后、取他人子、以爲太子。至是即位。太后臨朝稱制。 元年、太后議立諸呂爲王。王陵曰、高帝刑白馬、盟曰、非劉氏而王、天下共撃之。平・勃以爲可。陵罷相。遂王呂氏。 四年、太后廢少帝幽殺之、立恆山王義爲帝。改名弘。亦名佗人子、爲惠帝子者也。 帝、位に在ること七年にして崩ず。子無し。呂太后、他人の子を取って、以って太子と為す。是(ここ)に至って位に即(つ)く。太后、朝に臨み制を称す。 元年、太后、諸呂を立てて王と為さんと議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑(けい)し、盟(ちか)って曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て、と。平・勃以って可と為す。陵、相を罷(や)む。遂に呂氏を王とす。 四年、太后、少帝を廃して之を幽殺し、恒山王、義を立てて帝と為す。名を弘(こう)と改む。亦佗人の子を名づけて、恵帝の子と為しし者なり。 恵帝は在位七年で崩御した。帝に子は無かった。呂太后は他人の子を奪って太子としていたが、恵帝が亡くなったので、この太子が位についた(少帝恭という)そして呂太后は朝廷にあって自身の命令を制と称して天子のみことのりと同列にしてしまった。 少帝の元年、太后が一族の呂氏の面々を王に就かせようと朝議に諮った。右丞相王陵が敢然と「高祖皇帝は白馬をいけにえに捧げて、わが劉氏でない者が王となったなら、天下こぞってこれを撃つべしと、盟いを立てられました」と反対した。しかし陳平と周勃が賛成したので王陵は宰相を辞め、結局呂氏が王になった。 四年、呂后は少帝を廃して幽閉したうえで殺し、恒山王の義を立て名を弘と改めて帝とした(少帝弘)。これも他人の子を恵帝の子としておいたものである。 白馬を刑し 刑は殺すこと、いけにえにしてその血をすすって誓いをたてる。 少帝を廃し 呂后は太子恭の実母を殺して奪った。それを知った少帝が呂后を恨むようになったからという。 十八史略 朕は献を受けざるなり 2010-05-13 10 41 25 | 十八史略 孝文皇帝名恆、母薄氏。夢龍據胸、遂生帝。帝立、尊爲皇太后。 元年、陳平爲左丞相、周勃爲右丞相。 時有獻千里馬者。帝曰、鸞旗在前、屬車在後、吉行日五十里、師行日三十里。朕乗千里馬、獨先安之。於是還其馬、與道里費、而下詔曰、朕不受獻也。其令四方毋來獻。 孝文皇帝名は恒(こう)、母は薄氏(はくし)なり。龍胸に拠(よ)ると夢みて、遂に帝を生む。帝立ち、尊んで皇太后と為す。 元年、陳平左丞相と為り、周勃右丞相と為る。 時に千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、鸞旗(らんき)前に在り、属車後ろに在って、吉行(きっこう)には日に五十里、師行には日に三十里なり。朕、千里の馬に乗るとも、独り先だって安(いづ)くにか之(ゆ)かん、と。是(ここ)に於いて其の馬を還(かえ)し、道里の費を与え、而(しか)して詔(みことのり)を下して曰く、朕は献を受けざるなり。其れ四方をして来献すること毋(な)からしめよ、と。 孝文皇帝名は恒といい、母は薄氏である。龍が胸に棲む夢をみて身ごもり、文帝を生んだ。帝は位につくと、母をうやまって皇太后と称した。 元年に、陳平は左丞相となり、周勃が右丞相となった。 ときに、一日に千里をも走るという名馬を献上する者がいた。しかし文帝は「天子の旗を前に、供奉(ぐぶ)の車を従えて、巡狩(じゅんしゅ)には一日五十里、征伐のときには一日三十里進む決まりであるのに、千里の馬に乗ったところでわし一人が一体どこに行こうというのか」と言った。そこでその馬と道中の費用を渡して返した。そうしてみことのりを下した。「朕は一切献上を受けぬ、国中に来献することの無いようはからえ」と。 鸞旗 天子の旗、鸞は瑞鳥で鳳凰に似る。 吉行 狩など、平和の時に出かける。師行の師はいくさ 十八史略 惶愧して汗出で背を沾す 2010-05-18 09 46 26 | 十八史略 周勃職を免ぜらる 帝明修國家事。朝而問右丞相勃曰、天下一歳決獄幾何。勃謝不知。又問、一歳錢穀出入幾何。勃又謝不知。惶愧汗出沾背。上問左丞相平。平曰、有主者。即問決獄責廷尉。問錢穀責治粟内史。上曰、君所主者何事。平謝曰、陛下使待罪宰相。宰相者、上佐天子、理陰陽、順四時、下遂萬物の宜、外鎭撫四夷、内親附百姓、使卿大夫各得其職焉。帝稱善。勃大慚、謝病免。 帝益々国家の事を明修す。朝(ちょう)にて右丞相勃に問うて曰く、天下一歳の決獄(けつごく)幾何(いくばく)ぞ、と。勃知らずと謝す。又問う、一歳の銭穀の出入幾何ぞ、と。勃又知らずと謝す。惶愧(こうき)して汗出で背を沾(うるお)す。上(しょう)、左丞相平に問う。平曰く、主者(しゅしゃ)有り。即(も)し決獄を問うには廷尉を責められよ。銭穀を問うには治粟内史(ちぞくないし)を責められよ、と。上曰く、君の主(つかさど)る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上(かみ)、天子を佐(たす)け、陰陽を理し、四時(しじ)を順にし、下(しも)万物の宜(よろ)しきを遂げ、外、四夷(しい)を鎮撫し、内、百姓(ひゃくせい)を親附(しんぷ)し、卿大夫をして各々其の職を得しむるものなり、と。帝、善しと称す。勃大いに慚(は)じ、病と謝して免ぜらる。 文帝は益々国のまつりごとに通暁しようと務めた。ある時、朝廷で右丞相の周勃に下問した。「一年に裁判の数はいかほどか」と。周勃は「存じません」と恐縮して答えた。帝は又、「一年に金銭・穀物の出入りはいかほどか」と問うた。周勃は又「存じません」と答えたが、恐れ恥じ入って冷や汗で背中がぐっしょりになった。帝は左丞相の陳平に同じことを問うた。陳平が答えて「それぞれ管掌というものがあります。裁判についてのご下問は廷尉に糺して下さい。また金銭、穀物のことは治粟内史にお尋ねください」と言った。帝は「それではそちは何を司っておるのか」と訊くと、陳平は「私は宰相として至りませず、陛下から罰せられるのを待っている身でありますが、そもそも宰相の職務は上は天子を補佐し、陰陽を整え、春夏秋冬を順調ならしめ、下は万物のよろしきを得て、外は四方の蛮夷を鎮め、内は人民を親しみなつかせ、卿大夫にはそれぞれふさわしい職務を得させること、でございます」と申し上げた。帝は「もっともである」といわれた。周勃は大いに恥じいって、病と申し出て、職を免ぜられた。 決獄 嫌疑のある事件を決裁すること。 惶愧 惶はおそれる、愧ははじる。 廷尉 裁判を掌る長官。 治粟内史 銭穀を掌る長官。 陛下、罪を宰相に待たしむ 宰相の重責ありながら何の功績もなく、ただ陛下から罪の来るのを待っているの意、宰相の謙辞。 陰陽を理し、四時を順にし 正しく政治を行えば天変地異が無く、四時が順調に推移するという思想があったから。 十八史略 廷尉は天下の平なり 2010-05-20 08 16 47 | 十八史略 河南守呉公、治平爲天下第一。召爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼。年二十餘。一歳中、超遷爲大中大夫。 陳平卒。 二年、賜天下今年田租之半。 三年、張釋之爲廷尉。上行中渭橋。有一人、橋下走。乘輿馬驚。捕屬廷尉。釋之奏、犯蹕當罰金。上怒。釋之曰、法如是。更重之、是法不信於民。廷尉天下之平也。一傾、天下用法、皆爲之輕重。民安所措手足乎。上良久曰、廷尉當、是也。 河南の守(しゅ)呉公、治平天下第一たり。召して廷尉と為す。呉公、洛陽の人賈誼(かぎ)を薦(すす)む。年二十余。一歳のうち、超遷(ちょうせん)して大中大夫と為る。 陳平、卒す。 二年、天下に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 三年、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為る。上(しょう)中渭橋(ちゅういきょう)を行く。一人(いちにん)有り、橋下より走る。乗輿(じょうよ)の馬驚く。捕えて廷尉に属す。釈之奏す、蹕(ひつ)を犯すは罰金に当(とう)す、と。上怒る。釈之曰く、法是(かく)の如し。更に之を重くせば、是れ法、民に信ならず。廷尉は天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用うるもの、皆之が為に軽重(けいじゅう)せん。民安(いづ)くにか手足(しゅそく)を措(お)く所あらんや、と。上、良々(やや)久しうして曰く、廷尉の当、是なり、と。 河南の大守呉公は、政治の公平なこと天下第一であったので召して廷尉とした。呉公は洛陽の人賈誼を推薦した。賈誼はその時二十歳あまりであったが、一年のうちに、一足飛びに出世して大中大夫となった。 この年、陳平が死んだ。 文帝の二年、天下中に今年の年貢の半分が免除された。 三年、張釋之が廷尉になった。ある日、文帝が中渭橋を通りかかると、橋の下から走り出した者がいて、帝の馬が驚いて棹立ちになった。すぐさま捕えて廷尉に引き渡した。釈之が「行幸を騒がせたのは罰金に相当いたします」と奏上した。帝は処分の軽さに立腹したが、釈之はひるまず「法ではそのように決まっております。もしこれより重く致しますと、法が民に信用されなくなります。廷尉の職は天下の公平を司ることにあります。一たび傾きますと天下の法に携わる者が、これにならって、勝手に軽重を決めるでしょう。そうなれば民はどうして手足を伸ばせましょうか」と申し上げた。帝はしばらく思案の後、口を開いた「廷尉の処置はもっともである」と。 超遷 飛び越えて昇進すること。 大中大夫 論議を掌る官。 蹕 天子の行列のさきばらい、行きは警といい、帰りを蹕という。 十八史略 一尺の布も尚縫うべし 2010-05-25 16 27 10 | 十八史略 六年、淮南王長謀反、廢徙死。民有歌之者。曰、一尺布尚可縫。一斗粟尚可舂。兄弟二人不相容。帝聞而病之、後封其四子爲侯。 匈奴冒頓死。 先是、上議以賈誼位公卿。大臣多短之。上以爲長沙王大傅。徙梁王大傅。上疏曰、方今時埶、可爲痛哭者一。可爲流涕者二。可爲長大息者六。 十年、帝舅薄昭、殺漢使者。帝不忍誅、使公卿羣臣往哭之。昭自殺。 六年、淮南(わいなん)の王(れいおう)長、謀反(ぼうはん)し、廃徒(はいし)せられて死す。民之を歌う者あり、曰く、 一尺(せき)の布も尚縫うべし。 一斗の粟(ぞく)もなお舂(うすづ)くべし。 兄弟(けいてい)二人(ににん)相容れず。と 帝聞いて之を病(うれ)え、後其の四子(しし)を封(ほう)じて侯と為せり。 匈奴の冒頓(ぼくとつ)死す。 是より先、上(しょう)、賈誼(かぎ)を以って公卿(こうきょう)に位せしめんと議す。大臣多く之を短(そし)る。上以って長沙王の大傅(たいふ)と為す。梁王の大傅に徒(うつ)る。上疏(じょうそ)して曰く、方今(ほうこん)の時埶(じせい)、為(ため)に痛哭すべき者一。為に流涕すべき者二。為に長大息すべき者六あり、と。 十年、帝の舅(きゅう)薄昭、漢の使者を殺す。帝、誅するに忍びず、公卿羣臣をして往(ゆ)いて之を哭せしむ。昭自殺す。 六年に文帝の弟で淮南の王(れいおう)長が謀反を企てたが発覚して、王位を廃され、他所に移される途中で死んだ。痛ましく思った民の歌が広まった。 わずかな布も縫って仲良く着られる。僅かな粟も搗いて一緒に食べられる。なのにどうして兄弟二人許し合えぬ。 文帝はこの歌を聞いてひどく気に病み、王の四人の遺児を侯に封じた。 この年、匈奴の冒頓が死んだ。 これより以前、帝は賈誼を公卿に取り立てようと朝議にかけたが、大臣の多くは短所をあげて非難した。そのため帝は賈誼を長沙王の大傅にしたが、間もなく梁王の大傅に移した。ある時、賈誼は上疏して「現今の時勢を見ますに、悲しみ嘆くべきものが一つ、涙を流すべきものが二つ、ため息をつくものが六つあります。」と申しあげた。 十年に、文帝の叔父の薄昭が朝廷の使者を殺した。帝は薄昭を誅殺するに忍びず公卿、群臣を薄昭の邸で使者の死を悲しみ泣かせた。薄昭は罪が軽くないことを悟って自殺した。 大傅 王を補佐、養育する役。 上疏 天子に奉る意見書 一尺の布・・・頼山陽の静御前の詩にみえる 十八史略 以って父の刑を贖(あがな)わしめよ 2010-05-29 15 48 09 | 十八史略 十二年、賜民今年田租半。 十三年、太倉令淳于意、有罪當刑。少女緹縈上書曰、死者不可復生。刑者不可復屬、願没入爲官婢、以贖父刑。上憐其意、詔除肉刑。 是歳、除田租税 十六年、方士新垣平爲上大夫。 後元年、平以詐伏誅。 十二年、民に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 十三年、太倉の令淳于意(じゅんうい)、罪有って刑に当る。少女緹縈(ていえい)上書して曰く、死者は復(また)生く可からず。刑者は復属す可からず、願わくは没入して官婢と為し、以って父の刑を贖(あがな)わしめよ、と。上(しょう)其の意を憐れみ、詔(みことのり)して肉刑を除く。 十六年、方士新垣平(しんえんぺい)上大夫と為る。 後の元年、平、詐(さ)を以って誅に伏す。 十二年、民に今年の田租の半分を免除した。 十三年、太倉令の淳于意が肉体の一部を切る肉刑に相当する罪を犯した。娘の緹縈が上書して言うには「死んだ者は生き返りません、肉体を切られた者は再び元に戻せません。どうか私の身体をお取り上げになって召使にすることで、父の刑をあがなうことをお許し下さい」と。帝は少女の心根を憐れみ、詔を下して以後肉刑を廃止した。 十六年、方士の新垣平なる者が一計を案じて上大夫となった。 のちの元年、新垣平のいつわりが露見して殺された。 太倉の令 朝廷の米倉を管理する長官。 肉刑 刺青、鼻そぎ、足切、宮刑など。 方士 仙術を行う者。 後の元年 新垣平の計略によって瑞兆が顕われたことを喜んだ文帝が十七年を後の元年とした。 十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ 2010-06-01 10 10 51 | 十八史略 将軍の令を聞いて天子の詔を聞かず 六年、匈奴寇上郡・雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上・棘門軍兒戲耳。 六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備えしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。大将以下、騎して送迎す。已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。乃ち言を伝えて門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。群臣皆驚く。上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。 文帝の後の六年に匈奴が上郡や雲中を侵した。文帝は詔を下して、将軍の周亜夫は細柳に駐屯し、劉禮は覇上に、徐は棘門に宿営して匈奴に備えさせた。文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴いた。馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下、騎馬で送迎した。その後細柳に行くと門を入ることが出来ない。先駆の者が「天子さまがお着きになる開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」と。帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせた。そして将軍の命によって門を開かせたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言った。帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげた。群臣は皆あきれたが、帝はすっかり感服して、「これこそ真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言った。 寇 倭寇、元寇の寇、領土を侵すこと。上郡 陜西省の地名。 雲中 山西省の地名。周亞夫 周勃の子。 細柳・覇上・棘門 陜西省の地名長安近郊。 屯・次 ともに留まって守備をすること。 且に 将に同じ、再読文字「まさに・・・す」と読む。 轡(ひ)を按(あん)じ くつわを引いて馬をおさえること。 向者 二字でさきと読む向は以前のこと、者は「・・・は」覇上と棘門を指す 十八史略 風流篤厚 2010-06-03 18 01 50 | 十八史略 文帝崩ず 七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。 七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。 後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。 太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。 弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること 十八史略 孝景皇帝 2010-06-05 09 30 46 | 十八史略 孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。 帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請 言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。 初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。 孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。 帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。 初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず 十八史略 孝景皇帝 2010-06-08 08 33 24 | 十八史略 孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。 景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。 以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。 内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ 十八史略 呉楚七国の乱 2010-06-10 08 26 59 | 十八史略 及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。 帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。 景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。 十八史略 周亜夫、血を吐きて死す。 2010-06-12 14 18 58 | 十八史略 初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。 初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。 鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。 緩急 危急の場合 太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。 鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと 以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。 ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。 一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ 十八史略 2010-06-15 08 32 52 | 十八史略 自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。 漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、 黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。 漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく 黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。 廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉 十八史略 物盛んにして衰うる 2010-06-17 08 42 38 | 十八史略 爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。 吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。 帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。 官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。 すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。 景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。 重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。 十八史略 始めて改元して建元という 2010-06-19 08 05 52 | 十八史略 孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。 擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。 孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。 賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。 孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。 武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。 十八史略 董仲舒の対 2010-06-22 17 56 07 | 十八史略 又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。 又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。 また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく 極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。 十八史略 董仲舒の対 2 2010-06-24 17 29 44 | 十八史略 今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。 十八史略董仲舒の続きです。 陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。 陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。 陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。 漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。 然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。 更張 張り替えること。 更化 改め変えること。 十八史略 董仲舒の対 3 2010-06-26 11 52 01 | 十八史略 太學 又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。 又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。 又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。 董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」 又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。 太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること 十八史略 董仲舒の対 4 2010-06-29 13 47 59 | 十八史略 又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。 又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。 また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。 春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。 十八史略 力行如何(いかん)を顧みるのみ 2010-07-01 14 04 46 | 十八史略 上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。 三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。 帝始爲微行、起上林苑。 五年、置五經博士。 六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。 元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。 上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。 三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。 帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。 五年、五経博士を置く。 六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。 元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。 武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。 三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。 武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。 五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。 六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。 年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。 安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。 十八史略 武帝神仙を求む。 2010-07-06 13 35 20 | 十八史略 二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。 二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。 元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。 丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者 十八史略 司馬相如 2010-07-08 13 50 35 | 十八史略 上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。 唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。 又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。 上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。 唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。 又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。 武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。 唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。 また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。 大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。 十八史略 曲学阿世 2010-07-10 15 53 05 | 十八史略 曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ 徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。 六年、初算商車。 吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。 六年、初めて商車を算す。 武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。 元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。 菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問 十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや 2010-07-13 08 27 32 | 十八史略 匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。 元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。 匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。 元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。 匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。 元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。 この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。 上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。 十八史略 張騫を西域に遣わす 2010-07-15 11 51 44 | 十八史略 五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。 匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。 六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。 元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。 五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。 匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。 還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。 六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。 元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。 元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。 匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。 衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。 匈奴が代郡に攻め入った。 六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。 元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。 代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族 十八史略 霍去病、西域を平ぐ 2010-07-17 12 16 10 | 十八史略 二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。 匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。 三年、匈奴入右北平・定襄。 四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。 二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。 匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。 三年、匈奴、右北平・定襄に入る。 四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。 元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。 匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。 三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。 元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。 十八史略 衛青と霍去病 2010-07-20 18 17 08 | 十八史略 元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。 西域始通。置酒泉・武威郡。 五年、遣將軍路博等撃南越。 方士五利將軍欒大、以詐誅。 六年、討西羌平之。 南越平。置九郡。 元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。 西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。 五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。 方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。 六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。 南越平らぐ。九郡を置く 元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。 西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。 五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。 六年、西羌国を討伐してこれを平定した。 南越も平定したので、九郡を置いた。 文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。 衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没 霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/98 十八史略 泰山に封じ、粛然山に禅す。 2010-07-22 10 16 14 | 十八史略 元封元年、帝出長城、登單于臺、遣使告單于曰、南越王頭、已懸於漢北闕下。今單于能戰、天子自將待邊。 帝如緱氏、登中嶽、遂東巡海上、求神仙、封泰山、禪粛然、復東北至碣石而還。 滇王降。置益州郡。 三年、撃楼蘭虜其王、撃車師破之。 朝鮮降。置樂浪・臨屯・玄莬・眞蕃郡。 匈奴寇邊。遣兵屯朔方。 五年、南巡江漢、至泰山増封。 六年、撃昆明。 元封元年、帝、長城を出で、単于台に登り、使いを遣わし単于に告げて曰く、南越王の頭(こうべ)はすでに漢の北闕(ほっけつ)の下(もと)に懸かれり。今、単于能(よ)く戦わば、天子自ら将として辺に待たん、と。 帝、緱氏(こうし)に如(ゆ)き、中嶽に登り、遂に東のかた海上を巡り、神仙を求め、泰山に封じ、粛然(しゅくぜん)に禅し、復東北して碣石(けっせき)に至って還る。 滇王(てんおう)降る。益州郡を置く。 三年、楼蘭を撃って其の王を虜にし、車師を撃って之を破る。 朝鮮降る。楽浪・臨屯(りんとん)・玄莬(げんと)・眞蕃郡(しんばんぐん)を置く。 匈奴、辺に寇す。兵を遣わして朔方に屯せしむ。 五年、南のかた江漢を巡(めぐ)り、泰山に至って封(ほう)を増す。 六年、昆明を撃つ。 元封元年に、武帝は長城を越えて冒頓単于の築いた台に登り、使者を遣わして、単于に告げて、「南越王の頭(こうべ)は漢宮の北門に懸かっている。それでも汝が漢と戦うというのなら、わしが自ら大将軍となって国境で待っていてやるが、どうだ」と威した。 武帝は緱氏県に行き、嵩山(すうざん)に登り、更に東の海上を巡り神仙を捜し求めた。それから泰山に登り、天を祀る封の儀式を、麓の粛然山で地を祀る禅の儀式を執り行って、さらに東北に行き、碣石山に至って帰還した。 滇王が降伏したので、益州郡を置いた。 元封三年に楼蘭国に攻め入り、王を虜にした。さらに車師国を撃ち破った。 朝鮮が降伏したので、楽浪・臨屯・玄莬・眞蕃の四郡を置いた。 匈奴は辺境を侵犯したので、兵を派遣して朔方郡に駐屯させた。 五年に、南の揚子江、漢水の地方を巡幸し、泰山に登って、土檀を増築して祀った。 六年に、昆明を攻めた。 北闕 漢の未央宮では北門を正門とした。 緱氏 河南省の県。 中岳 五岳の一、嵩高山、太室山とも。 粛然 泰山の麓にある山の名。 封と禅 封は土を盛って天をまつり、禅は地を清めて山川をまつること。 碣石山 河北省にある山名。 楼蘭・車師 ともに新疆地区にあった国名。 昆明 雲南地方の族名。 十八史略 太初暦を制定す 2010-07-27 14 12 53 | 十八史略 太初元年、帝如泰山。十一月甲子、朔旦冬至、作太初暦、以正月爲歳首。 遣李廣利伐大宛。不克。 遣趙破奴撃匈奴。敗没。 三年、匈奴大入、破塞外城障。 大發兵、從李廣利伐宛。宛降。得善馬數十匹。 四年、匈奴單于、使使來獻。 太初(たいしょ)元年、帝泰山に如(ゆ)く。十一月甲子、朔旦(さくたん)冬至、太初暦を作り、正月を以って歳首と為す。 李廣利(りこうり)を遣わして大宛(だいえん)を伐たしむ。克(か)たず。 趙破奴(ちょうはど)を遣わして匈奴を伐たしむ。敗没す。 三年、匈奴大いに入って、塞外の城障(じょうしょう)を破る。 大いに兵を発し、李廣利に従って宛を伐たしむ。宛降る。善馬数十匹を得たり。 四年、匈奴の単于、使いをして来献せしむ。 太初元年(前104年)、武帝は泰山に行き、封の儀式を行った。この年の十一月甲子の日は一日(ついたち)で冬至でもあったので、暦法を改めて太初暦を制定して、この日を正月元日とし、歳のはじめとした。 李広利を派遣して大宛国を撃たせたが、勝つことができなかった。 趙破奴を派遣して匈奴を撃たせたが、敗れて趙破奴は捕虜になった。 三年に、匈奴が大挙して侵入し砦の外の城壁を破った。 大部隊を動員して李広利の指揮で宛の討伐に向わせた。宛は降伏し、駿馬数十匹を得て帰った。 太初四年に匈奴の単于が使者を送って、貢物を献上した。 甲子 干支のそれぞれ第一番目、きのえね。ちなみにこの年は丁丑直近では1997年で35回還暦を迎えたことになる。 朔旦 一日の朝。 大宛国 西域の代表国、イラン系の国で汗血馬の産地。 敗没 戦に敗れて捕虜になること。 十八史略 蘇武 2010-07-29 10 35 32 | 十八史略 天漢元年、遣中郎將蘇武使匈奴。單于欲降之、幽武置大窖中、絶不飮食。武齧雪與旃毛、并咽之。數日不死。匈奴以爲神、徙武北海上、無人處。使牧羝曰、羝乳乃得歸。 二年、遣李廣利撃匈奴。別將李陵敗降虜。 上以法制御下、好尊用酷吏。東方盗賊滋起。遣使者、衣繍衣、持斧督捕、得斬二千石以下。 四年、李廣利撃匈奴。不利。 太始三年、帝東巡瑯琊、浮海而還。 四年、東巡祀明堂、修封禪。 天漢元年、中郎將蘇武(そぶ)を遣わし匈奴に使いせしむ。単于(ぜんう)之を降(くだ)さんと欲し、武を幽(ゆう)して大窖(たいこう)中に置き、絶えて飲食せしめず。武、雪と旃毛(せんもう)とを齧(か)み、併せて之を咽(の)む。数日死せず。匈奴以って神(しん)と為し、武を北海の上(ほとり)、無人の処に徙(うつ)す。羝(てい)を牧せしめて曰く、羝、乳(にゅう)せば乃(すなわ)ち帰るを得ん、と。 二年、李廣利を遣わして匈奴を撃たしむ。別将李陵敗れて虜(りょ)に降る。 上(しょう)、法制を以って下(しも)を御し、好んで酷吏を尊用す。東方に盗賊滋々(しばしば)起こる。使者を遣わして、繍衣(しゅうい)を衣(き)、斧(ふ)を持して督捕(とくほ)せしめ、二千石以下を斬ることを得しむ。 四年、李広利匈奴を撃つ。利あらず。 太始三年、帝、東のかた瑯琊を巡り、海に浮んで還る。 四年、東巡して明堂を祀り、封禅を修(しゅう)す。 天漢元年、中郎将の蘇武を匈奴に使いとして遣わした。単于は蘇武を虜にして匈奴に仕えさせようとしたが拒絶したので、あなぐらに幽閉し、飲食を絶った。蘇武は織物の毛と雪とをあわせて呑み下して、数日生き延びた。匈奴たちは、その生命力を神がかりであるとして、蘇武を北海の無人の岸辺に移し、牡羊を飼わせて、もし子を産んだら還してやろう。と言った。 天漢二年に李広利を遣わして匈奴を撃たせた。そのとき別軍の将の李陵は敗れて降伏した。 武帝は、法や制度で人民を統治し、冷徹な役人を好んで重く用いた。しかし東方では盗賊が多く出没した。そこで武帝は、使者を送り、その使者に立派な刺繍の衣を着せ、斧を持たせて、賊を取り締まり、捕えさせた。地方長官以下で、悪事を働く者を独断で処刑できるようにした。 四年に、李広利が匈奴を攻めたが、失敗に終った。 太始三年になると武帝は東方の瑯琊郡を巡り、海路船で帰った。 四年に、東方を巡視して、泰山の明堂で諸侯を引見して、天を祀り、地を祓って封禅の儀式を行った。 中郎將 帝を護衛する武官の長。 蘇武 匈奴に捕えられ19年節を守って降らず、昭帝の時代に還った。 北海 バイカル湖。 衣繍衣持斧 天子の代理であることを示すため錦の刺繍の服を着せ、天子が出征の将軍に持たせる斧を授けた。 二千石以下 郡の太守の年俸に等しい。 十八史略 巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る 2010-08-17 13 40 24 | 十八史略 目まぐるしく元号が交替したので、ここで一度整理をしてみます。武帝が始めて年号を制定した建元から昭帝即位までの年号を西暦に対比して掲げてみます。 建元元年 前140年 2150年前 元光 前134年 2144年前 元朔 前128年 2138年前 元狩 前122年 2132年前 元鼎 前116年 2126年前 元封 前110年 2120年前 太初 前104年 2114年前 天漢 前100年 2114年前 太始 前96年 2106年前 征和 前92年 2102年前 後元 前88年 2098年前 征和二年、巫蠱事作。帝如甘泉、以江充爲使者、治巫蠱獄。掘太子宮云、得木人尤多。太子據懼、使客佯爲使者、収捕充斬之、白母衞皇后、發中厩車、載射士、出武庫兵、發長樂宮衞卒。 征和二年、巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る。帝、甘泉に如(ゆ)き、江充を以って使者と為し、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘って云う、木人を得ること尤(もっと)も多し、と。太子據(きょ) 懼(おそ)れ、客をして佯(いつわ)って使者と為し、充を収捕して之を斬らしめ、母衛皇后に白(もう)し、中厩の車を発し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を発す。 征和二年に巫蠱の事件が起こった。帝は甘泉宮に保養に行っていたので、江充を使者に遣わして事件の処断を任せた。かねてより太子と不仲の江充は太子の宮殿を掘り返したら、多くの呪詛の木人が出て来ましたと、嘘の報告をした。 太子の據は江充のわなに陥ったことを知り、恐れて食客の一人を武帝の使者と偽って、江充を捕えて切り殺した。そして母の衛皇后にいきさつを告げて宮中の厩から、兵車を引き出し、射手を乗り込ませ、武器庫から武器を持ち出して長楽宮の護衛兵を出動させた。 十八史略 巫蠱の事 2010-08-19 09 52 19 | 十八史略 上從甘泉宮來、詔發三輔兵。丞相劉屈氂將之。太子亦矯制發兵、逢丞相軍。兵合戰五日、死者數萬。皇后自殺、太子亡至湖、自經死。後有高廟寢郎、田千秋。上書言、有白頭翁、教臣云、子弄父兵、罪當笞。上悟曰、此高廟神靈、告我也。知太子無罪。作歸來望思之臺於湖。天下聞而悲之。 上(しょう)、甘泉宮より来たり、みことのりして三輔の兵を発す。丞相劉屈氂(りゅうくつり)之に将たり。太子も亦制を矯(いつわ)り兵を発し、丞相の軍に逢う。兵、合戦すること五日、死する者数万なり。皇后自殺し、太子亡(に)げて湖(こ)に至り、自頸して死す。 後、高廟の寢郎、田千秋というもの有り。上書して言う、白頭翁有り、臣に教えて云わく、子、父の兵を弄するは、罪笞(ち)に当(とう)す、と。上、悟って曰く、此れ高廟の神霊、我に告ぐるなり。太子の罪無きを知る、と。帰来望思の台を湖に作る。天下、聞いて之を悲しむ。 武帝は急ぎ甘泉宮より戻り、詔勅を発して三輔の兵を出動させた。丞相の劉屈氂が率いた。太子もまた帝の詔勅といつわって兵を繰り出し丞相の軍と対峙した。合戦は五日に及び、死者数万人にも及んだ。太子は敗れ、母の衛皇后は自殺、太子は逃げて湖県に行き、そこで首をくくって死んだ。 後に、高祖の御霊屋(みたまや)の司で田千秋という者が、武帝に書をたてまつって言うには「白頭の翁が現れまして臣に向って、子たる者が、父の兵を勝手に動かすのは笞打ちの刑に相当するのみである。と告げました」と。 武帝はそこで「高祖の霊が我に太子には罪がないことを示されたに違いない」と気づき、湖県に帰来望思台を作った。人々はこれを聞いて大いに悲しんだ。 巫蠱 巫は巫女、蠱は人を惑わし害すること。 三輔の兵 都長安の周囲三郡の兵。 湖 河南省湖県 十八史略 武帝霍光に後を託す。 2010-08-21 09 29 39 | 十八史略 三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。 四年、罷方士候神人者。 以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。 後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。 三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。 四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。 田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。 後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。 征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。 四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。 田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。 後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。 輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟 十八史略 武帝の事跡(一) 2010-08-24 16 29 37 | 十八史略 上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。 上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。 武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。 平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。 十八史略 武帝の事跡二 2010-08-26 14 59 40 | 十八史略 漢、幾んど秦たるを免れず 以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。 方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。 方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。 均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。 十八史略 武帝の事跡 2010-08-28 13 55 24 | 十八史略 丞相連(しき)りに誅を以って死す。 所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。 用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。 武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。 十八史略 武帝の事跡四 2010-08-31 17 35 03 | 十八史略 汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。 汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。 群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。 切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。 十八史略 武帝の事跡 汲黯 2010-09-02 13 32 29 | 十八史略 黯の如きは冠せざれば見ざるなり 淮南王安謀反。曰、漢廷大臣、獨汲黯好直諌、守節死義。如丞相弘等、説之如發蒙耳。黯嘗拝淮陽守。曰、臣病、不能任郡事。願爲郎中、出入禁闥、補過拾遺。上曰、君薄淮陽邪。吾今召君矣。顧淮陽吏民不相得。徒得君之重、臥而治之。至淮陽、十歳竟卒。黯甚爲上所重。大將軍衞雖貴、上或踞廁見之。如黯不冠、不見也。 淮南王(わいなんおう)安、反を謀(はか)る。曰く、「漢廷の大臣、独り汲黯(きゅうあん)、直諌を好み、節を守って義に死す。丞相弘等の如きは、之を説くこと蒙を発(ひら)くがごとき耳(のみ)」と。黯、嘗て淮陽(わいよう)の守に拝せらる。曰く、臣病んで郡事に任ずる能(あた)わず。願わくは郎中と為り、禁闥(きんたつ)に出入し、過を補い遺(い)を拾わん、と。上曰く、君、淮陽を薄(うす)んずるか。吾今、君を召さん。顧(おも)うに淮陽の吏民、相得ず。徒(ただ)君の重きを得て、臥して之を治めんと。淮陽に至り、十歳にして竟(つい)に卒(しゅっ)す。黯、甚(はなは)だ上の重んずる所と為る。大将軍衞、貴しと雖も、上、或いは廁(しょく)に踞(きょ)して之を見る。黯の如きは、冠せざれば見ざるなり。 淮南王の安が謀反を企ててこう言った。「漢の朝廷の重臣の中で、汲黯だけが憚ることなく天子を諌め、節義を守るために命を投げ出す人物だ。丞相の公孫弘などの連中は、いかようにも言いくるめられる。まるで何かの蓋をつまんで取るようなものだ」と。 汲黯は嘗て、河南の淮陽の太守に任命されたとき、「私めは病気がちで、お役目を果たすことが出来そうもありません。できることなら郎中にしていただいて、宮中に出入りし、陛下の過失をおぎない、お見落としを拾っていきたいと思います」と申し上げた。武帝は「そなたは淮陽を軽んじていないか。どうにもいやだと言うなら、すぐにも呼び戻してやるから暫く行ってくれ。役人と人民との間がうまくいっていない、そなたの徳の重みで寝たままで良いから治めてくれ」と言った。汲黯は結局淮陽に赴任し、十年後、ついにその地で歿した。 汲黯は、武帝にたいそう信任された。大将軍の衛青さえ、武帝は時として寝台に腰掛けたまま引見することがあったが、汲黯に対してだけは、冠をつけなければ決して会わなかった。 淮南王安 高祖の孫、謀反したが自殺した。 蒙を発く おおいを取り去る。 禁闥 禁は禁裏、闥は小門。 拾遺 もれているものを拾い補うこと、あるいは君主の過失をいさめる官名。 踞廁 廁は普通シ、かわやを指すが、ここではショクで寝台の側。 十八史略 東方朔 2010-09-07 16 44 32 | 十八史略 上、招選天下材智士、俊異者、寵用之。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍等、在左右。相如特以詩賦得幸。朔・皋不根持論、好詼諧。上以俳優畜之。朔嘗語上前侏儒、以爲上欲殺之。侏儒泣請命。上問朔。朔曰、侏儒飽欲死、臣朔饑欲死。伏日賜肉晏。朔先斫肉持歸。上召問、令自責。朔曰、受賜不待詔、何無禮也。抜劔斫肉、何壯也。斫之不多、何廉也。歸遺細君、又何仁也。然朔亦時直諌、有所補。 上、天下材智の士、俊異の者を招選(しょうせん)して、之を寵用す。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如(しばしょうじょ)・東方朔(とうほうさく)・枚皋(ばいこう)・終軍等左右に在り。相如は特に詩賦(しふ)を以って幸を得たり。朔・皋は持論を根(こん)とせず、詼諧(かいかい)を好む。上、俳優を以って之を畜(やしな)う。朔、嘗て上の前の侏儒に語り、以って上之を殺さんと欲すと為す。侏儒泣いて命を請う。上、朔に問う。朔曰く、侏儒は飽(あ)いて死せんと欲し、臣朔は饑えて死せんと欲す、と。伏日に肉を賜うこと晏(おそ)し。朔、先ず肉を斫(き)って持ち帰る。上、召して問い、自ら責めしむ。朔曰く、賜(たまもの)を受けて詔を待たず、何ぞ礼無きや。剣を抜いて肉を斫る、何ぞ壮なるや。之を斫って多からず、何ぞ廉(れん)なるや。帰って細君に遺(おく)る、又何ぞ仁なるや、と。然れども朔も亦時に直諌(ちょっかん)して、補益(ほえき)するする所有り。 武帝は天下の逸材智者、異能の士を選び招き、寵愛して用いた。荘助・朱買臣・ 吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが側近に仕えた。司馬相如は詩賦によって目をかけられていた。東方朔・枚皋はこれといった見識はなく、諧謔、滑稽の才によって、役者、芸人として禄を得ていた。あるとき東方朔は武帝の前に仕えている小人に「帝はお前の命を所望しているようだ」と耳うちした。小人は驚いて泣いて助命を請うた。武帝は訳が解らず、東方朔に尋ねた。朔はすかさず、「こびとは賜りものがあまりに多いので食べ過ぎて死にそうだと訴えているのです。ところで私めは飢えて死にそうなのでございます」と答えた。 盛夏三伏の日には諸役人に肉を下賜するならわしがあったが、このときは遅くなった。朔は真っ先に肉を切って持ち帰ってしまった。武帝は東方朔を呼び、、どう責めを負うつもりかと、詰問した。朔はすまして「賜りものを頂くのにお言葉も待たぬとは何と無礼な。剣を抜いて肉を切る、なんという勇ましさじゃ。肉を切っても多く取らぬとは何と無欲なことか。しかも持って帰って細君に渡すとはなんと仁者じゃ」と言った。 しかし朔もまた時に帝に直言して、過ちを補いたすけたことがあった。 侏儒 こびと 十八史略 武帝の事績(七) 2010-09-09 15 47 31 | 十八史略 神仙 自李少君以來、求神仙不已。文成誅而五利至。五利以文成爲言。上曰、文成食馬肝死耳。及五利又誅、公孫卿等、尤見聽信。末年、帝乃悟曰、天下豈有仙人、盡妖妄耳。節食服藥、差可少病而已。 李少君より以来、神仙を求めて已(や)まず。文成誅せられて五利至る。五利文成を以って言を為す。上曰く、文成は馬肝(ばかん)を食(くら)いて死せしのみ、と。五利又誅せらるるに及び、公孫卿等、尤も聴信(ちょうしん)せらる。末年、帝乃ち悟って曰く、天下豈仙人有らんや、尽く妖妄(ようもう)のみ。食を節し薬を服せば、差(やや)病を少うすべきのみ、と。 方士の李少君の説を信じてからこのかた、武帝は神仙を求めてやまなかった。文成将軍李少君は帝を詐(いつわ)ったとして殺された。五利将軍欒大(らんだい)が後をうけて朝廷に入ったが文成将軍の前例に恐れをなして、神仙の術を言わなかった。そこで武帝は文成将軍は馬の肝にあたって死んだのだと言いくるめて、促がした。やがて五利将軍も誅殺されてしまった。その後公孫卿等の言説が信用された。晩年になって、武帝はやっと醒めて「この世に仙人などいない、みなまやかしに過ぎぬ、食物を控えめに、薬を用いれば少しは病が少なくなるばかりだ」と言った。 十八史略 武帝の事績 三代の風あり 2010-09-12 07 51 03 | 十八史略 武帝崩ず 漢興、雖自惠帝已除挾書之禁、文帝已廣游學の路、然儒學終末盡盛。至帝世、董仲舒・公孫弘、皆以春秋進兒寛亦以經術飾吏事。後又有孔安國等出。表章六經、實自帝始。數獲瑞。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆爲樂章、薦之郊廟。文章亦帝世始盛。人以爲有三代之風焉。 帝壽七十而崩。葬茂陵。太子立。是爲孝昭皇帝。 漢興り、恵帝より已(すで)に挟書之禁を除き、文帝已に游学の路を広むと雖も、然れども儒学終に未だ尽くは盛んならず。帝の世に至り、董仲舒・公孫弘、皆春秋を以って進み、兒寛(げいかん)も亦経術を以って吏事を飾る。後又、孔安国等の出づる有り。六経(りくけい)を表章するは、実に帝より始まる。数々祥瑞を獲(え)たり。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆楽章を為(つく)って、之を郊廟に薦(すす)む。文章も亦帝の世に至って始めて盛んなり。人以って三代の風有りと為す。帝、寿七十にして崩ず。茂陵(もりょう)に葬る。太子立つ。是を孝昭皇帝と為す。 武帝の事績(八) 漢が興ってから恵帝の時になって蔵書の禁が解かれ、文帝の時に自由に遊学する道が開けたが儒学はいまだ十分に盛んになるにはいたらなかった。武帝の世になってから董仲舒・公孫弘は「春秋」に精通しているというので官位を与えられ、兒寛も経書の学術を以って職務を輝かせた。後にはまた孔安国が出て、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を天下に明らかにしたのは実に武帝の時に始まったのである。また度々瑞祥があらわれた。白い麒麟、赤い雁、霊芝、宝鼎、これ等は皆音楽をつくって、天や祖先の祭りに奏した。文章も武帝の時に盛んになった。そこで人々は武帝の世を、夏・殷・周の遺風があると讃えた。帝は齢七十で崩じ茂陵に葬られた。あとを継いで太子が即位した。孝昭皇帝(昭帝)という。 挟書之禁 秦の焚書を引き継いだもので書をわきばさむこと禁ずるの意、禁書の制。 孔安国 孔子の子孫で、おたまじゃくしの様な蝌蚪(かと)文字を研究し解読した。 表章 世に出して広く知らせること。 十八史略 昭帝立つ 2010-09-14 09 11 37 | 十八史略 孝昭皇帝名弗陵。母鉤弋夫人、趙氏。娠十四月而生。武帝、命其門曰堯母門。年七歳、體壯大多知。武帝欲立之。察羣臣、惟霍光忠厚、可任大事。使黄門畫周公負成王朝諸侯、以賜光。譴責鉤弋夫人賜死。曰、古、國家所以亂、由主少母壯、驕淫自恣也。明年武帝崩。遂即位。燕王旦、以長不得立謀反。赦弗治。黨與伏誅。 孝昭皇帝名は弗陵(ふつりょう)。母は鉤弋(こうよく)夫人、趙氏なり。娠(はら)んで十四月(げつ)にして生まる。武帝其の門に命じて堯母門(ぎょうぼもん)と曰う。年七歳、体壮大にして多知なり。武帝之を立てんと欲す。群臣を察するに、惟(た)だ霍光(かくこう)のみ忠厚にして、大事を任ず可し。黄門をして周公、成王を負(お)って諸侯を朝(ちょう)せしむるを画き、以って光に賜わしむ。鉤弋夫人を譴責(けんせき)して死を賜う。曰く、いにしえ、国家の乱るる所以は、主少(わか)く母壮(そう)にして驕淫自恣(きょういんじし)なるに由(よ)る、と。明年武帝崩ず。遂に位に即く。燕王旦、長にして立つを得ざるを以って反を謀(はか)る。赦して治(ち)せず。党与誅に伏す。 孝昭皇帝、名は弗陵という。母は鉤弋夫人、趙氏である。懐妊して十四ヶ月で生まれたので、武帝はやはり十四ヶ月で生まれた堯帝にあやかって、その宮殿の門を堯母門と名づけた。弗陵は年七歳で身体は大きく、知能も優れていたので、武帝は弗陵を後継ぎに立てようとした。群臣をじっと観察してみると霍光のみ忠実で情に厚いとみて、太子の補佐の大任を果たさせようとした。侍従に、幼い成王が周公旦に背負われて諸侯の拝謁をうけている絵を描かせて、それを霍光に下賜して意を伝えた。その後、鉤弋夫人の過失をせめて、死を命じた。側近には「昔から国の乱れは君主が幼少、その母が若く、驕りと不品行でわがままなことで起こるものだ」ともらした。 その翌年武帝は崩じ、弗陵が位についた。燕王の旦が年長にも拘わらず帝位につくことができなかったので謀反を企てた。しかし昭帝は、旦を赦して罪に問わず、与(くみ)した者たちを誅殺した。 十八史略 雁書 2010-09-16 15 06 32 | 十八史略 前回漏れたので、遅れ馳せながら付け加えます。赦弗治 赦して治せず 弗は不に同じ、治は取り調べる意。 蘇武帰還す 始元六年、蘇武還自匈奴。武初徒北海上、堀野鼠、去草實而食之、臥起持漢節。李陵謂武曰、人生如朝露。何自苦如此。陵與衞律降匈奴、皆富貴。律亦屢勸武降。終不肯。漢使者至匈奴。匈奴詭言、武已死。漢使知之、言、天子射上林中、得鴈。足有帛書。言、武在大澤中。匈奴不能隠。乃遣武還。武留匈奴十九年。始以強壯出。及還、須髪盡白。拝爲典屬國。 始元六年、蘇武匈奴より還る。武、初め北海の上(ほとり)に徒(うつ)り、野鼠を掘り、草実を去(おさ)めて、之を食らい、臥起(がき)に漢の節を持す。李陵、武に謂って曰く、人生朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き、と。陵と衛律(えいりつ)とは匈奴に降(くだ)って、皆富貴なり。律も亦屡しば武に降(こう)を勧む。終に肯(がえ)んぜず。漢の使者、匈奴に至る。匈奴詭(いつわ)り言う、武、已に死す、と。漢の使之を知り、言う、天子、上林の中に射て、雁を得たり。足に帛書有り。言く、武は大澤の中(うち)に在り、と。匈奴隠すこと能わず。乃(すなわ)ち武を遣(や)って還す。武、匈奴に留まること十九年。始め強壮を以って出ず。還るに及んで須髪尽く白し。拝して典属国と為す。 始元六年に蘇武が匈奴より還って来た。蘇武はバイカル湖のほとりに流されたが、野鼠を捕り、草の実を貯めてこれを食い、寝起きするに漢の符節を身から離さなかった。さきに匈奴に降った李陵が蘇武に向って「人の一生は朝の露のようにはかないもの、どうして自らこんなに苦しんでいるのだ」と言った。李陵と衛律とは匈奴に降服して、富貴に暮らしていた。衛律もたびたび蘇武に降服を勧めたが最後まで承知しなかった。 その後、漢の使者が匈奴に来て蘇武の返還をせまった折、匈奴は偽って蘇武はもう死んだと告げた。漢の使者は偽りを見抜き、「近頃、天子が上林で狩をしていたとき、雁を射止められたところ足に手紙がつけてあり、武は大きな沢のほとりにいる。と書いてあったぞ、どう説明するのだ」と迫った。匈奴は隠しきれず、蘇武を還した。匈奴の地に留まること十九年、漢を出るときは頑強で壮んであったが、帰ったときは鬚も髪も真っ白になっていた。漢は蘇武を典属国の長官に任命した。 草実を去(おさ)め 去はしまうの意。 節 使者の印しとして天子が授けた旗。 帛書 帛は絹、これに書かれた手紙。須髪 須は鬚、あごひげ。 典属国 降服した異民族のことを司る官。 十八史略 霍光排斥の陰謀 2010-09-18 12 00 54 | 十八史略 左将軍上官桀子安、爲霍光婿。生女。立爲皇后。桀與安自以、后之祖・父、乃不若光以外祖專制朝事。桀與光爭權。時鄂國蓋長公主、爲所愛丁外人求封侯。不許。怨光。燕王旦自以帝兄常怨望。御史大夫桑弘羊爲子弟求官。不得。亦怨望。於是皆與旦通謀、詐令人爲旦上書言、光出都肄郎・羽林、道上稱蹕擅調莫府校尉、專權自恣。疑有非常。候光出沐日奏之。桀欲從中下其事、弘羊當與大臣共執退光。 左将軍上官桀(けつ)の子安(あん)は、霍光の婿たり。女を生む。立って皇后と為る。桀と安と自ら以(おも)えらく、后の祖・父なるに、乃ち光の外祖を以って朝事を専制するに若かず、と。桀、光と権を争う。時に鄂国(がくこく)蓋(こう)長公主(ちょうこうしゅ)は、愛するところの丁外人の為に封侯を求む。許されず。光を怨む。燕王旦は自ら帝の兄を以って常に怨望(えんぼう)す。御史大夫桑弘羊は子弟の為に官を求む。得ず。亦怨望す。 是に於いて皆旦と謀(はかりごと)を通じ詐(いつわ)って、人をして旦の為に書を上(たてまつ)らしめて言う、光、出でて郎・羽林を都肄(とい)せしとき、道上に蹕(ひつ)を称し、擅(ほしいまま)に莫府(ばくふ)の校尉(こうい)を調益(ちょうえき)し、権を専(もっぱら)にして自らほしいままにす。疑うらくは非常有らん、と。光の出沐(しゅつもく)の日を候(うかが)うて之を奏す。桀、中(うち)より其の事を下し、弘羊をして大臣と共に、執(と)って光を退くるに当らしめんと欲す。 左将軍上官桀の子の安は、霍光の婿となり、娘が生まれた。やがて娘は昭帝の皇后となった。桀と安が思うに、皇后の祖父でありまた父である我等が、皇后の外祖父で、朝事を専らにしている霍光に及ばぬ、と不満に思っていた。それで桀は次第に霍光と権力を争うようになった。この頃、昭帝の一番上の姉で、鄂国の蓋侯夫人は寵愛する丁外人を諸侯に取り立ててくれるよう頼んだが、許されず霍光を怨んでいた。燕王旦は自分が昭帝の兄であるのに天子になれなかったので、かねてから怨んでいた。また御史大夫の桑弘羊も自分の子供のために官職を与えられるよう頼んだが、得られず、これまた怨んでいた。 ここに至ってみな燕王旦と通じて、ある者をして旦の名で上書して「霍光は都を出て、郎軍や羽林軍を調練するとき、街道で天子と同じ格の先払いをさせ、勝手に幕府の将校を増やし選び権勢をもっぱらにし、ほしいままに振舞っております。あるいは重大な事態に至るやもしれません」と言わせた。この上奏文は霍光が参朝しない日をうかがって差し出された。上官桀は宮中にいてこの件を直ちに審議に付し、桑弘羊には大臣と共に強く主張して霍光を失脚させる役目を担わせる計画だった。 都肄 都は試みる、肄は習うで演習。 郎・羽林 郎は侍従武官、羽林は近衛兵。 蹕 天子の行列の先払い。 出沐日 休日、沐浴するために役所を出て休日としたから。 十八史略 昭帝霍光の窮地を救う 2010-09-23 10 43 21 | 十八史略 書奏。帝不肯下。明旦、光聞之、止畫室中不入。上問、大將軍安在。桀曰、以燕王告其罪、不敢入。詔召大將軍。光入。免冠頓首謝。上曰、將軍之廣明都郎、屬耳。調校尉以來、未能十日。燕王何以得知之。且將軍爲非、不須校尉。是時元鳳元年、帝年十四。尚書左右皆驚。而上書果亡。捕之甚急。 書奏す。帝肯(あえ)て下さず。明旦、光之を聞き、画室中に止まって入らず。上(しょう)問う、大将軍安(いづ)くにか在る、と。桀曰く、燕王、其の罪を告ぐるを以って、敢えて入らず、と。詔(みことのり)して大将軍を召す。光入る。冠を免(ぬ)ぎ頓首して謝す。上曰く、将軍、廣明に之(ゆ)いて郎を都(と)せしは属(このごろ)のみ。校尉を調して以来、未だ十日なる能(あた)わず。燕王何を以って之を知るを得ん。且つ将軍非を為さんとせば、校尉を須(ま)たざらん、と。是の時元鳳元年(前80年)にして帝年十四なり。尚書左右皆驚く。而して書を上(たてまつる)者果たして亡(に)ぐ。之を捕うること甚だ急なり。 訴状が奏上されたが、昭帝は自分の手元に留めおいた。翌朝霍光がこの事を聞くと画室に籠って入廷しなかった。帝が「大将軍はどこにいるか」と問うと、桀が答えて「燕王が光の罪を奏上したので入るのを憚っているのでしょう」と。昭帝はみことのりを下して大将軍を召した。霍光は参内すると冠をぬぎ、額を地につけて詫びた。昭帝は告げた「将軍が広明亭に行って郎軍を調練したのは、まだ最近のことだ。将校を選任してからは十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう、それにもし将軍が何か事を起こそうと思ったとしても、将校などあてにするはずがなかろう」と。この時は元鳳元年、昭帝はまだ十四歳であった。尚書や左右の側近は皆帝の聡明さに驚いた。そして上書した者は姿をくらました。帝は逮捕せよと厳しく命じた。 十八史略 2010-09-25 10 37 27 | 十八史略 桀等懼白上、小事不足遂。上不聽。後、桀黨有譖光者。上輒怒曰、大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身。敢有毀者坐之。自是無敢復言。桀等謀令長公主置酒請光、伏兵挌殺之、因廢帝而立旦。安又謀誘旦、至誅之、廢帝而立桀。會有知其謀者、以聞。捕桀・安・弘羊等、并宗族盡誅之。蓋主與旦皆自殺。 桀等懼れて上(しょう)に白(もう)す、小事遂ぐるに足らず、と。上聴かず。後、桀の党に光を譖(しん)する者有り。上、輒(すなわ)ち怒って曰く、大将軍は忠臣、先帝の属(しょく)して以って朕が身を輔(たす)けしむる所なり。敢えて毀(そし)る者有らば之を坐せしめん、と。是より敢えて復言うもの無し。桀等、長公主をして酒を置いて光を請わしめ、兵を伏せて之を挌殺(かくさつ)し、因(よ)って帝を廃して旦を立てんと謀(はか)る。安、又、旦を誘(いざな)い、至らば之を誅し、帝を廃して桀を立てんと謀る。会々(たまたま)其の謀を知る者有り、以って聞(ぶん)す。桀・安・弘羊等を捕え、宗族を併せて尽く之を誅す。蓋主(こうしゅ)と旦と皆自殺す。 上官桀等は企みの露見を恐れて、昭帝に「些細なことです、厳しく追及することでもないでしょう」と申し上げたが、帝は承知しなかった。その後桀の仲間から霍光を讒言する者があった。昭帝は怒って、「大将軍は忠臣ゆえ、先帝が朕を補佐するよう遺言しておかれたものだ、それでもそしるならば罪に問うであろう」と言った。以後霍光をそしる者はなくなった。桀等は次に長公主に、酒宴を開いて霍光を招待させ、兵を伏せておいて打ち殺し、それに乗じて昭帝を廃し、旦を立てようと謀った。上官安はさらに旦をも招きよせてこれを殺し、父の桀を立てようと謀った。たまたまそのたくらみを知った者がいて、昭帝の耳に入れたので、帝は上官桀・安父子と桑弘羊らを捕え、その一族をも尽く誅殺した。蓋公主と燕王旦はともに自害した。 坐 罰する、連座の坐 十八史略 昭帝崩ず 2010-09-28 12 54 11 | 十八史略 四年、傅介子使西域、誘樓蘭王刺殺之、馳傳詣闕。以其爲匈奴反也。 元平元年、帝年二十一而崩。在位十四年。改元者三、曰始元・元鳳・元平。霍光爲政、與民休息、天下無事。昌邑王賀、哀王髆之子、武帝孫也。光迎賀入即位。尊皇后爲皇太后。賀淫戲無度。光奏廢之、迎立武帝曾孫。是爲中宗孝宣皇帝。 四年、傅介子(ふかいし)、西域に使いし、楼蘭王を誘(いざな)うて之を刺殺し、伝を馳せて闕(けつ)に詣(いた)る。其の匈奴の為に反間するを以ってなり。 元平元年、帝、二十一にして崩ず。在位十四年。改元すること三、始元・元鳳・元平と曰(い)う。霍光、政を為し、民と休息し、天下無事なり。昌邑王(しょうゆうおう)賀は哀王髆(はく)の子にして、武帝の孫なり。光、賀を迎え、入れて位に即(つ)かしむ。皇后を尊んで皇太后と為す。賀、淫戲(いんぎ)度無し。光、奏して之を廃し、武帝の曾孫を迎立(げいりつ)す。是を中宗孝宣皇帝と為す。 元鳳四年(前77年)に、傅介子という者が、西域に使者となって行き、楼蘭王を誘い出して刺殺し、駅馬を乗り継いで朝廷に駆けつけた。楼蘭王が匈奴と通じて離間をはかったからである。 元平元年(前74年)、昭帝が二十一歳で崩御した。帝位に在ること十四年改元すること三度、すなわち、始元・元鳳・元平である。その間、霍光が政務をとり、人々とやすらぎを共にしたので、天下は平らかであった。 昌邑王の賀は哀王髆の子で武帝の孫であった。霍光はその賀を朝廷に迎え入れて、即位させた。そして昭帝の皇后を皇太后として尊んだ。ところが賀は女色に耽ってとめどが無かったので、霍光は皇太后に奏上して、賀を廃し、武帝の曾孫を迎えて立てた。これが中宗孝宣皇帝(宣帝)である。 伝 駅伝。 闕 宮城の門。 反間 敵国同士の仲をさく計略をめぐらすこと 十八史略 獄中に天子の気あり 2010-09-30 15 38 39 | 十八史略 無辜なるも尚不可なり況や皇曾孫をや 孝宣皇帝初名病已。後改名詢。武帝之曾孫也。初戻太子據、納史良娣、生史皇孫進。進生病已。數月遭巫蠱事、皆繋獄。望氣者言。長安獄中、有天子氣。武帝遣使、令盡殺獄中人。丙吉時治獄。拒不納。曰、侘人無辜尚不可。況皇曾孫乎。使者還報。武帝曰、天也。 孝宣皇帝、初め名は病已(へいい)。後名を詢(じゅん)と改む。武帝の曾孫(そうそん)なり。初め戻太子拠(きょ)、史良娣(りょうてい)を納れ、史皇孫進を生む。進、病已を生む。数月にして巫蠱(ふこ)の事に遭い、皆獄に繋がる。気を望む者言う、「長安の獄中に、天子の気有り」と。武帝、使を遣わして、尽く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治む。拒んで納れず。曰く、「侘人(たにん)の無辜(むこ)なるも尚不可なり。況(いわん)や皇曾孫をや」と。使者還り報ず。武帝曰く、「天なり」と。 孝宣皇帝、もとの名は病已、後に詢と改めた。武帝のひ孫である。かつて武帝の太子であった戻太子拠が史氏のむすめを良娣として納れて、皇孫史進を生ませた。その子が病已である。病已の生後数ヶ月に巫蠱の事件に出遭い、連坐して係累すべて牢獄に繋がれた。 雲気を眺めて吉凶を占う者が、「長安の獄中に天子の雲気が見えます」と言った。武帝は使者を遣わして、獄中の者をことごとく殺させようとした。この時丙吉という者が牢獄を取り締まっていたが、使者を拒んで聞き入れず、「たとい誰であろうと、無実の人を殺すことはできません。まして帝の曾孫などもってのほかです」と言った。使者が還ってこの事を告げると武帝は「天命というべきか」と言っただけであった。 良娣 女官の官名、太子妃に次ぐ側室。 戻太子 宣帝が即位後に贈った諡(おくりな) 侘人 他人に同じ。 無辜 辜は罪。 十八史略 2010-10-07 08 06 29 | 十八史略 地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。 膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。 魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。 地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。 膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。 魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。 地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。 膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。 魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。 治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。 十八史略 霍氏滅ぶ。 2010-11-18 16 15 50 | 十八史略 四年、霍氏謀反、伏誅。夷其族。告者皆封列侯。初霍氏奢縦。茂陵徐福上疏言、宜以時抑制、無使至亡。書三上。不聽。至是人爲徐生上書曰、客有過主人。見其竈直突、傍有積薪、謂主人、更爲曲突、速徒其薪。主人不應。俄失火。郷里共救之、幸而得息。殺牛置酒、謝其郷人。人謂主人曰、郷使聽客之言、不費牛酒、終無火患。今論功而賞、曲突徒薪無恩澤、焦頭燗額爲上客邪。上乃賜福帛、以爲郎。 四年、霍氏謀反し、誅に伏(ふく)す。その族を夷(たい)らぐ。告ぐる者、皆列侯に封ぜらる。初め霍氏、奢縦(しゃしょう)なり。茂陵の徐福、上疏(じょうそ)して言う、「宜しく時を以って抑制し、亡に至らしむること無かるべし」と。書三たび上(たてまつ)る。聴かず。是に至って人、徐生の為に上書して曰く、「客、主人を過(よぎ)るもの有り。その竈(かまど)の直突にして、傍らに積薪(せきしん)有るを見、主人に謂う、更めて曲突(きょくとつ)を為(つく)り、速やかにその薪を徒(うつ)せと。主人応ぜず。俄(にわ)かに火を失す。郷里共に之を救い、幸いにして息(や)むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、その郷人に謝す。人、主人に謂って曰く、郷(さき)に客の言を聴(き)かしめば、牛酒を費やさず、終(つい)に火の患無かりしならん。今、功を論じて賞するに、曲突薪を徒せというものに恩沢無くして、頭を焦がし額を燗(ただ)らすものを上客となすかと」と。上乃ち福に帛(はく)を賜い、以って郎と為す。 地節四年に、霍氏一族が謀反をはかり、誅せられて皆殺しにされた。謀反を告発した者を皆列侯に封じた。以前より霍氏一門はおごりたかぶっていたので、茂陵の徐福というものが「今のうちに霍氏を抑えつけて、滅亡にまで至らないようにするべきでしょう」と書をたてまつった。上書は三度に及んだが、聴き入れられなかった。こうして霍氏の謀反が誅せられるに及んで、ある人が徐福の為にこう上書した「ある家を訪れたものが、竈の煙突がまっすぐで、傍に薪が積んであるのを見て主人に、新たに曲がった煙突に造り直し、薪を他所に移さないと火事になりますよ。と忠告したところ、主人は応じませんでした。やがてその竈から失火しましたが、村人たちの協力を得て消し止めることができた。主人は喜んで牛を殺し、酒を用意して村人たちに振るまい、感謝しました。ある人が主人に向って“先に客人の忠告を聴き入れていれば、牛や酒の用意も、火事の災いも無かったでしょう。ところが今、謝礼をする段になって、煙突を曲げなさい、薪を移しなさいと言ったものには何の音沙汰もなく、頭を焦がし、額を爛れさせた者だけをありがたがるとはどうしたことでしょう”と申したそうでございます」と。宣帝はその意を悟って徐福に絹を下賜し、さらに郎官に取り立てた。 曲突 火の粉がすくないからか。 過る おとずれるの意。 郷に 以前の意。 十八史略 霍氏の禍い驂乗にきざす 2010-11-24 08 47 45 | 十八史略 帝初立謁高廟、霍光驂乗。上嚴憚之。若有芒刺在背。後、張安世代光參乗。上從容肆體、甚安近焉。故俗傳、霍氏之禍、萌於驂乗。 帝、初めて立って高廟に謁するや、霍光驂乗(さんじょう)す。上(しょう)之を厳憚(げんたん)す。芒刺(ぼうし)の背に在るが若(ごと)し。後、張安世光に代って参乗す。上、従容肆体(しょうようしたい)甚だ安近す。故に俗伝う、霍氏の禍い驂乗に萌(きざ)す、と。 宣帝が即位した初め、高祖の廟に参拝のとき、霍光が陪乗したが、帝は心休まらず、まるで背中に棘がささったようであった。後に張安世光に代って陪乗するようになると、くつろいでなごやかに、近づき易くなった。それで世間では「霍氏一門の禍は、陪乗のときにきざしていたのだ」とうわさしあった。 十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(1) 2010-11-25 08 30 44 | 十八史略 北海太守朱邑、以治行第一、入爲大司農、渤海太守龔遂入爲水衡都尉。先是渤海歳饑、盗起。選遂爲太守召見問、何以治盗。遂對曰、海濱遐遠、不沾聖化。其民飢寒、而吏不恤。使陛下赤子、盗弄兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪。將安之也。上曰、選用賢良、固欲安之。遂曰、治亂民、如治亂縄。不可急也。願無拘臣以文法、得便宜從事。上許焉。 北海の太守朱邑、治行第一を以って、入(い)って大司農(だいしのう)と為り、渤海の太守龔遂(きょうすい)、入って水衡都尉(すいこうとい)と為る。是より先、渤海(ぼっかい)歳饑(う)え、盗起こる。遂を選んで太守と為す。召見(しょうけん)して問う、何を以って盗を治むると。遂対(こた)えて曰く、海浜、遐遠(かえん)にして、聖化に沾(うるお)わず。其の民飢寒(きかん)して、吏(り) 恤(あわれ)まず。陛下の赤子(せきし)をして、兵を潢池(こうち)の中に盗弄(とうろう)せしむるのみ。今臣をして之に勝たしめんと欲するか、将(はた)之を安(やす)んぜんかと。上曰く、賢良を選用するは、固(もと)より之を安んぜんと欲するなり、と。遂曰く、乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは臣を拘するに文法を以ってすること無く、便宜事に従うを得しめよ、と。上、焉(これ)を許す。 北海郡(山東省)の太守の朱邑は、治績徳行とも第一であるとして、朝廷に入って大司農となり、渤海(河北省)の太守龔遂は、朝廷に入って水衡都尉になった。これというのは、渤海郡は年々飢饉に見舞われ盗賊が増えたので宣帝は龔遂を選んで太守に任命した。そこで遂を召して聞いた「どうやって盗賊を取り締まるつもりか」と。すると遂は「渤海は海辺の僻地で陛下の徳に浴しておりません。民が飢えても役人が救おうともせず、いわば陛下の赤子が溜池の中で刃物を振り回すようにしむけているようなものです。陛下は私に武力で鎮圧するのをお望みでしょうか、それとも安撫するのをお望みでしょうか」と問うた。宣帝は「わざわざ優れた人材を登用するのは安撫することを望めばこそだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのはもつれた縄を解くようなもので、性急であってはなりません。どうか私を煩わしい法規でしばることなく、一存で取り計らえるようにしていただきたい」と申し上げた。宣帝はこれを許した。 水衡都尉 河川の水路灌漑、宮中の御苑を管理する官。 遐遠 遐も遠もとおいこと。兵 武器。 潢池 水溜り、渤海湾にたとえる。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/93 十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人 2010-11-30 17 06 11 | 十八史略 趙廣漢腰斬さる 元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。 元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。 是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。 京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。 以下次回に 元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。 広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。 十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず 2011-01-11 08 31 51 | 十八史略 以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。 尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。 尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。 右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。 邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。 十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり 2011-01-13 17 50 58 | 十八史略 二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。 今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。 二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。 今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 2011-01-15 13 38 26 | 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。 ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。 右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。 論語 季氏篇 2011-01-15 13 40 51 | 十八史略 論語 季氏篇 ―前略―丘は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患うと。蓋し均しきときはまずしきこと無く、和すれば寡きこと無く、安んずれば傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざるときは則ち文徳を修めて以ってこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離折(ぶんぽうりせき)すれどもまもること能わず。而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり 私はこう聞いている。「国を保ち家をまもる者は人民の少ないことを心配せずに平等でないことを心配し、貧しいことを心配しないで、安らかでないことを心配する」と。均しいときは貧しいということが無く、平和であれば、人が少ないと気にかけることも無い。安らかであれば国も家も傾くことが無いのである。であるから遠くの属国が服従しないときは、徳を以って来朝するように仕向け、来たときには安らかに接するべきである。いま、由(字は子路、姓は仲、名が由)と求(字は子由、姓が冉、名が求)は夫子(季孫氏)を補佐する身でありながら顓臾が服さないときも来朝させることができず、魯国が分裂の危機にあっても守ることができない、その上兵を出そうとさえしている。私が恐れているのは季孫氏の危機は遠い属国にあるのではなく、本当は身近な垣根の内側にあるのだ。 十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う 2011-01-18 08 23 43 | 十八史略 子孫の為に産業を立てず。 三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。 三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。 元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。 二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。 太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。 十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し 2011-01-20 08 27 30 | 十八史略 神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。 二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。 神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。 二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。 神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。 神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。 先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職