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桑(くわ)の家(いえ) 一 涿県(たくけん)楼桑村(ろうそうそん)は、戸数二、三百戸の小駅であったが、春秋は北から南へ、南から北へと流れる旅人の多くが、この宿場で驢(ろ)を繫(つな)ぐので、酒を売る旗亭(きてい)もあれば、胡弓(こきゅう)を弾(ひ)く鄙(ひな)びた妓(おんな)などもいて相当に賑(にぎ)わっていた。 この地は又、太守(たいしゅ)劉焉(りゅうえん)の領内で、校尉(こうい)鄒靖(すうせい)という代官が役所をおいて支配していたが、なにぶん、近年の物情騒然たる黄匪(こうひ)の跳梁(ちょうりょう)に脅(おびや)かされているので、楼桑村も例に洩(も)れず、夕方になると明るいうちから村端(むらはず)れの城門をかたく閉(し)めて、旅人も居住者も、一切(いっさい)の往来は止めてしまった。 城門の鉄扉(てつび)が閉まる時刻は、大陸の西厓(さいがい)にまっ赤な太陽が沈みかける頃で、望楼の役人が、六つの鼓(こ)を叩(たた)くのが合図だった。 だから此辺(このへん)の住民は、そこの門の事を、六鼓門(ろっこもん)と呼んでいたが、羌もまた、赤い夕陽が鉄の扉(と)に映(さ)しかける頃、望楼の鼓が、もう二つ三つ四つ・・・・・・と鳴りかけていた。 「待って下さい。待って下さいっ」 彼方(かなた)から驢を飛ばして来たひとりの旅人は、危(あや)うく一足ちがいで、一夜を城門の外に明かさなければならない間際(まぎわ)だったので、手をあげながら馳(か)けて来た。 最後の鼓の一つが鳴ろうとした時、からくも旅人は、城門へ着いて、 「おねがい致します。通行をおゆるし下さいまし」 と、驢をそこで降りて、型の如(ごと)く関門(かんもん)調べを受けた。 役人は、旅人の顔を見ると、「やあ、お前は劉備(りゅうび)じゃないか」と、言った。 劉備は、ここ楼桑村の住民なので、誰(だれ)とも顔見知りだった。 「そうです。今、旅先から帰って参ったところです」 「お前なら、顔が手形(てがた)だ。何も調べはいらないが、いったい何処(どこ)へ行ったのだ。今度の旅は又、ばかに長かったじゃないか」 「はい、いつもの商用ですが、なにぶん、何処(どこ)へ行っても近頃は、黄匪(こうひ)の横行で、思うように商(あきない)もできなかったものですから」 「そうだろう。関門も通る旅人も、毎日減(へ)るばかりだ。さあ、早く通れ」 「ありがとう存じます」 再び驢に騎(の)りかけると、 「そうそう、お前の母親だろう、よく関門まで来ては、きょうもまだ息子は帰りませぬか、今日も劉備は通りませぬかと、夕方になると訊(たず)ねに来たのが、此頃(このごろ)姿が見えぬと思ったら煩病(わずら)って寝ているのだぞ。はやく帰って顔を見せてやるがよい」 「えっ。では母は、留守中に、病気で寝ておりますか」 劉備はにわかに胸(むな)さわぎを覚え、驢を急がせて、関門から城内へ馳けた。 久しく見ない町の暮色にも、眼もくれないで彼は驢を家路へ向けた。道幅の狭い、そして短い宿場町はすぐにとぎれて、道はふたたび悠長(ゆうちょう)な田園へかかる。 ゆるい小川がある。水田がある。秋なのでもう村の人々は刈り入れにかかっていた。そして所々に見える農家の方へと、田の人影も水牛(すいぎゅう)の影も戻って行く。 「ああ、わが家が見える」 劉備は驢の上から手をかざした。舂(うすづ)く陽のなかに黒くぽつんと見える一つの屋根と、そして遠方から見ると、まるで大きな車蓋(しゃがい)のように見える桑(くわ)の木。劉備の生まれた家なのである。 「どんなに自分をお待ちなされていることやら。・・・・・・思えば、わしは孝養を励(はげ)むつもりで、実は不孝ばかり重ねているようなもの。母上、済(す)みません」 彼の心を知るか、驢(ろ)も足を早めて、やがて懐(なつ)かしい桑(くわ)の大樹の下まで辿(たど)りついた。 二 この桑の大木は何百年を経(へ)たものか、村の古老でも知る者はない。 沓(くつ)や蓆(むしろ)を製(つく)る劉備の家――と訊(き)けば、あああの桑の樹の家さと指さすほど、それは村の何処(どこ)からでも見えた。 古老が言うには、 「楼桑村という地名も、この桑の木が茂る時は、まるで緑の楼台(ろうだい)のように見えるから、この樹から起こった村の名かもしれない」との事であった。 それはともかく、劉備は今、漸(ようや)く帰り着いたわが家の裏に驢を繫(つな)ぐとすぐ、 「おっ母(か)さん、今帰りました。玄徳(げんとく)です。玄徳ですよ」 と、広い家の中へ駈(か)け込(こ)むように這(は)入(い)って行った。 旧家なので、家は大きいが、何一つあるではなく、中庭は、沓を編んだり蓆を織る仕事場になっており、そこも劉備の留守中は職人も通(かよ)っていないので、荒れたままになっていた。 「オヤ、どうしたのだろう。燈火(あかり)もついていないじゃないか」 彼は召使いの老婆(としより)と、下僕(しもべ)の名を呼びたてた。 ふたり共、返辞もない。 劉備は、舌打ちしながら、 「おっ母(か)さん」 母の部屋をたたいた。 阿備(あび)か――と飛びつくように迎えてくれるであろうと思っていた母の姿も見えなかった。いや母の部屋だけにたった一つあった箪笥(たんす)も寝台も見えなかった。 「や?・・・・・・どうしたのだろう」 茫然(ぼうぜん)、胸さわぎを抱いて、佇(たたず)んでいると、暗い中庭のほうで、かたん、かたん――と蓆を織る音がするのであった。 「おや」 廊(ろう)に出てみると、そこの仕事場だけ、淡暗(うすぐら)い灯影(ほかげ)がたった一つ提(かか)げてあった。その灯の下に、白髪の母の影が後ろ向きに腰かけていた。ただ一人で、星の下に、蓆を織っているのだった。 母は、彼が帰って来たのも気がついていないらしかった。劉備は縋(すが)りつかんばかり馳(か)け寄(よ)って、 「今、帰りました」 と顔を見せると、母は、びっくりしたように起(た)って蹌(よろ)めきながら、 「オオ、阿備(あび)か、阿備か」 乳呑(ちの)み児(ご)を抱きしめるようにして、何を問うよりも先に、欣(うれ)し涙を眼にいっぱい溜(た)めたまま、暫(しば)しは、母は子の肌(はだ)を、子は母親のふところを、相擁(あいよう)して温(ぬく)め合(あ)うのみであった。 「城門の番人に、おまえの母親は病気らしいぞといわれて、気もそぞろに帰って来たのですが、おっ母(か)さん、どうしてこんな夜露の冷える外で、今頃、蓆など織っていらっしゃるのですか」 「病気?・・・・・・ああ城門の番人さんは、そう言ったかもしれないね。毎日のように関門までおまえの帰りを見に行っていたわたしが、この十日ばかりは行かないでいたから」 「では、御病気ではないんですか」 「病気などはしていられないよ、おまえ」と、母は言った。 「寝台も箪笥(たんす)もありませんが・・・・・・」 劉備が問うと、 「税吏が来て、持って行ってしまった。黄匪(こうひ)を討伐(とうばつ)するために、年々軍費が嵩(かさ)むというので、ことしは途方もなく税が上がり、おまえが用意しておいただけでは間に合わない程になったんだよ」 「婆(ばあ)やが見えませんが、婆やはどうしましたか」 「息子が、黄匪の仲間にはいっているという疑いで、縛(しば)られて行った」 「若い下僕(しもべ)は」 「兵隊にとられて行ったよ」 「――噫(ああ)!すみませんでしたおっ母さん」 劉備は、母の足もとに、ひれ伏して詫(わ)びた。 三 詫びても詫びても詫び足らないほど、劉備は母に対して済まない心地であった。けれども母は、久しぶりに旅から帰って来た我が子が、そんな自責に泣(な)き愁(かな)しむことは、かえって不愍(ふびん)やら気の毒やらで、自分の胸も傷(いた)むらしく、 「阿備(あび)や、泣いておくれでない。何を詫びることがあるものかね。お前のせいでありはしない。世の中が悪いのだよ。・・・・・・どれ粟(あわ)でも煮て、久しぶりに、ふたりして晩のお膳(ぜん)を囲もうね。さだめし疲れているだろうに、今、湯を沸(わ)かしてあげるから、汗でも拭(ふ)いたがよい」 と蓆機(むしろばた)の前から立ちかけた。 子の機嫌をとって、子の罪を責めない母のあまりなやさしさに、劉備はなおさら大愛の姿に額(ぬかず)いて、 「もったいない。私が戻りましたからには、そんな事は、玄徳がいたします。もう御不自由はさせません」 「いいえお前は又、あしたから働いておくれ。稼(かせ)ぎ人(にん)だからね、婆やも下僕も居なくなったのだから、台所の事ぐらいはわたしがしましょうよ」 「留守中、そんな事があろうとは、少しも知らず、つい旅先で長くなって、思わぬ御苦労をかけました。さあ、こんな大きな息子が居るんですから、おっ母さんは部屋に這(は)入(い)って、安楽に寝台で寝ていて下さい」と、言って劉備はむりに母の手を誘(いざな)ったが、考えてみると、その寝台も税吏に税の代わりに持って行かれてしまったので、母の部屋には、身を横たえる物もなかった。 いや、寝台や箪笥(たんす)だけではない。それから彼が灯(あか)りを持って、台所へ行ってみると、鍋(なべ)もなかった。四、五羽の鶏(にわとり)と一匹の牛もいたのであるが、そうした家畜まで、すべて領主の軍需(ぐんじゅ)と税に挑発(ちょうはつ)されて、目ぼしい物は何も残っていなかった。 「こんなに迄(まで)、領主の軍費も詰(つ)まって来たのか」 劉備は、身の生活を考えるよりも、もっと大きな意味で、暗澹(あんたん)となった。 そしてすぐ、 「これも、黄匪(こうひ)の害の一つのあらわれだ。ああどうなるのだろう?」 世の行末(ゆくすえ)を思いやると、彼はいよいよ暗い心に閉(と)ざされた。 物置をあけて、彼は夕餉(ゆうげ)にする粟(あわ)や豆の俵(たわら)を見まわした。驚いたことには、多少その中に蓄(たくわ)えておいた穀物も干肉(ほしにく)も、天井に吊(つる)しておいた乾菜(かんさい)まできれいに失(な)くなっているのだった。――もう母に訊(き)くまでもないことと、彼は又、そこで茫失(ぼうしつ)していた。 すると、むりに部屋へ入れて休ませておいた母が部屋の中で、何か小さい物音をさせていた。行って見ると、床板を上げて、土中の瓶(かめ)の中から、わずかな粟と食物を取り出している。 「・・・・・・ア。そんな所に」 劉備の声に、彼女はふり向いて、浅(あさ)ましい自分を笑うように、 「すこし隠しておいたのだよ。生きてゆくだけの物はないと困るからね」 「・・・・・・・・・・・・」 世の中は急転しているのだ。これはもう凡事(ただごと)ではない。何億もの人間が、生きながら餓鬼(がき)となりかけているのだ。反対に、一部の黄巾賊が、その血をすすり肉をくらって、不当な富貴(ふっき)と悪辣(あくらつ)な栄華(えいが)をほしいままにしているのだ。 「阿備や・・・・・・。灯りを持っておいで、粟が煮えたよ。何もないけれど、二人して喰(た)べれば、美味(おいし)かろう」 やがて、老いたる母は、貧しい卓から子を呼んでいた。 四 貧しいながら、母子は久しぶりで共にする晩の食事を楽しんだ。 「おっ母(か)さん、あしたの朝は、きっと歓(よろこ)んでいただけると思います。こんどの旅から、私はすばらしいお土産(みやげ)を持って帰って来ましたから」 「お土産を」 「ええ。おっ母さんの、大好きな物です」 「ま。何だろうね?」 「生きているうちに、もいちど味わってみたいと、いつか仰(お)っしゃった事がありましたろう。それですよ」 母を楽しませる為(ため)に、劉備も、それが洛陽(らくよう)の銘茶(めいちゃ)であるということを、暫(しばら)く明さなかった。 母は、わが子のその気持だけでも、もう眼を細くして歓んでいるのである。焦(じ)らされていると知りながら、 「織物かえ」と訊(き)いた。 「いいえ。今も言ったとおり、味わう物ですよ」 「じゃあ、食(た)べ物(もの)?」 「――に、近いものです」 「何(なん)じゃろ。わからないよ、阿備(あび)や。わたしにそんな好物(こうぶつ)があるかしら」 「望んでも、望めない物と、諦(あきら)めの中に忘れておしまいになったんでしょう。一生に一度は、とおっ母さんが何年か前に言ったことがあるので、私も、一生に一度はと、おっ母さんにその望みをかなえて上げたいと、今日まで願望に抱いておりました」 「まあ、そんなに長年、心にかけてかえ?・・・・・・なおさら、わからなくなってしもうたよ阿備。・・・・・・いったいなんだねそれは」 「おっ母さん、実は、これですよ」 錫(すず)の小さな茶壺(ちゃつぼ)を取り出して、劉備は、卓の上に置いた。 「洛陽の銘茶です。・・・・・・おっ母さんの大好きなお茶です。・・・・・・あしたの朝は、うんと早起きしましょう。そしておっ母さんは、裏の桃園(とうえん)に莚(むしろ)をお敷きなさい。私は驢(ろ)に乗って、ここから四里ほど先の鶏村(けいそん)まで行くと、とてもいい清水(しみず)の湧(わ)いている所がありますから、番人に頼んで一桶(ひとおけ)清水を汲(く)んで来ます」 「・・・・・・・・・・・・」 母は眼をまろくしたまま錫の小壺を見つめて、物も言えなかった。やや暫くしてから怖(こわ)い物でも触(さわ)るように、そっと掌(て)に乗せて、壺の横に貼(は)ってある詩箋(しせん)のような文字などを見ていた。そして大きな溜息(ためいき)をつきながら、眼を息子の顔をあげて、 「阿備や。・・・・・・お前、いったいこれは、どうしたのだえ」 声まで密(ひそ)めて訊(たず)ねるのだった。 劉備は、母が疑いの余り案じてはならないと考えて、自分の気持や、それを手に入れた事など、嚙(か)んでふくめるようにして話して聞かせた。民間では殆(ほとん)ど手に入(い)れ難(がた)い品には違いないが、自分が求めたのは、正当な手続きで購(あがな)ったのだから少しも懸念(けねん)をする必要はありません――と附け加えて言った。 「ああ、お前は!・・・・・・なんてやさしい子だろう」 母は、茶壺を置いて、わが子の劉備に掌(て)をあわせた。 劉備は、あわてて、 「おっ母さん、滅相(めっそう)もない。そんなもったいない真似はよして下さい。ただ歓んでさえ戴(いただ)ければ」 と、手を取った。そうして相擁(あいよう)したまま、劉備は自分の気もちの酬(むく)いられた欣(うれ)しさに泣き、母は子の孝心に感動の余り涙にくれていた。 翌(あく)る朝―― まだ夜も白(しら)まぬうちに起きて、劉備は驢の背に水桶を結(ゆ)いつけ、自分も騎(の)って、鶏村(けいそん)まで水を汲(く)みに行った。 五 もちろん劉備が出かけた頃、彼の母も夙(はや)く起きていた。 母はその間に、竃(かまど)の下に豆莢(まめ)がらを焚(た)いて、朝の炊(かし)ぎをしておき、やがて家の裏のほうへ出て行った。 桑(くわ)の大木の下を通って、裏へ出ると、牛のいない牛小屋があり、鶏(にわとり)のいない鶏小屋(とりごや)があり、何もかも荒れ果てて、いちめんに秋草がのびている。 だが、そこから百歩ほど歩くと這(は)うような姿をした果樹が、背を並べて、何千坪かいちめんに揃(そろ)っていた。それはみんな桃の樹(き)であった。秋の葉も落ちて淋(さび)しいが、春の花のさかりには、この先の蟠桃河(ばんとうが)が落花で紅(あか)くなるほどだったし、桃の実は市(まち)に売り出して、村の家何軒かで分け合って、それが一年の生計の重要なものになった。 「・・・・・・オオ」 彼女は、ひとりでに出たような声を洩(も)らした。桃園(とうえん)の彼方(かなた)から陽(ひ)が昇りかけたのだ。金色の日輪は、密雲を嚙(か)み破(やぶ)るように、端(はし)だけ見えていた。今や何か尊いものがこの世に生まれかけているような感銘を彼女もうけた。 「・・・・・・・・・・・・」 彼女は、跪(ひざま)ずいて、三礼を施(ほどこ)した。子どものことを禱(いの)っているらしかった。 それから、箒(ほうき)を持った。 たくさんの落葉がちらかっている。桃園は村の共有なので、日頃誰(だれ)も掃除などはしない。彼女も一部を掃(は)いただけであった。 新しい莚(むしろ)をそこへ敷(し)いた。そして一箇の土炉(どろ)と茶碗(ちゃわん)など運んだ。彼女は元々氏素性(うじすじょう)の賤(いや)しくない人の娘であったし、劉家(りゅうけ)も元来正しい家柄なので、そういう品も何処(どこ)かに何十年も使用せずに蔵(しま)ってあった。 清掃した桃園に坐(すわ)って、彼女は水を汲(く)みに行った息子が、やがて鶏村(けいそん)から帰るのを、心静かに待っていた。 桃園の梢(こずえ)の湖(うみ)を、秋の小禽(ことり)が来てさまざまな音(ね)いろを転(まろ)ばした。陽はうらうらと雲を越えて、朝霧はまだ紫(むらさき)ばんだまま大陸に澱(よど)んでいた。 「私は倖(しあわ)せ者よ」 彼女は、この一朝の満足をもって、死んでもいいような気がした。いやいや、そうでないとも思う。独(ひと)り強くそう思う。 「あの子の将来(ゆくすえ)を見とどけねば・・・・・・」 ふと彼方(かなた)を見ると、その劉備の姿が近づいて来た。水を汲んで帰って来たのである。驢(ろ)に騎(の)って、驢の鞍(くら)に小さい桶(おけ)を結(ゆ)いつけて。 「おお。おっ母(か)さん」 桃園の小道を縫(ぬ)って、劉備は間もなくそこへ来た。そして水桶を降(お)ろした。 「鶏村の水は、とてもいい水ですね。さだめし、これで茶を煮たら美味(おい)しいでしょう」 「ま。御苦労だったね。鶏村の水のことはよく聞いているけれど、彼処(あそこ)はとても恐(こわ)い谷間だというじゃないか。後で私はそれを心配していたよ」 「なあに、道なんかいくら嶮(けわ)しくても何でもありませんがね、清水には水番が居(い)まして、なかなかただはくれません。少しばかり金をやってもらって来ました」 「黄金(おうごん)の水、洛陽(らくよう)のお茶、それにお前の孝心。王侯(おうこう)の母に生まれてもこんないい思いには巡り会えないだろうよ」 「おっ母さん、お茶はどこへ置きましたか」 「そうそう、私だけが戴(いただ)いてはすまないと思い、御先祖のお仏壇へ上げておいたが」 「そうですか、盗まれたらたいへんです。すぐ取って参りましょう」 劉備は、家のほうへ馳けて、宝珠(ほうしゅ)を抱くように、茶壺を捧(ささ)げて来た。 母は、土炉(どろ)へ、火をおこしていた。その前に跪(ひざま)ずいて劉備が茶壺を差し出すと、その時、何が母の眼に映(うつ)ったのであろうか、母は手を出そうともしないで、劉備の身のまわりを改まった眸(ひとみ)でじっと見つめた。 六 劉備は、母がにわかに改まって自分の身装(みなり)を見ているので、 「どうしたのですかおっ母(か)さん」 不審(いぶか)しげに訊(き)いた。 母は、いつになく厳粛な容子(ようす)を作って、 「阿備(あび)」と、声まで、常とはちがって呼んだ。 「はい。何ですか」 「お前の佩(は)いている剣は、それは誰の剣ですか」 「わたくしのですが」 「嘘(うそ)をお言い。旅に出る前の物とはちがっている。お前の剣は、お父さんから遺物(かたみ)に戴(いただ)いた――御先祖から伝わっている剣の筈です。それを、何処(どこ)へやってしまったのです?」 「・・・・・・はい」 「はいではありません。片時(かたとき)でも肌身(はだみ)から離してはなりませぬぞと、わしからもくれぐれ言ってある筈(はず)です。どうしたのだえ、あの大事な剣は」 「実は、その・・・・・・」 劉備はさし俯(うつ)向(む)いてしまった。 母の顔は、いよいよ峻厳(しゅんげん)に変わっていた。劉備が口ごもっていると、なお追求して、 「まさか手放してしまったのではあるまいね」と念を押した。 劉備は、両手をつかえて、 「申しわけありません。実は旅から帰る途中、或者(あるもの)に礼として与えてしまいましたので」 言うと、母は、「えっ、人に与えてしまったッて。――ま!あの剣を」と、顔いろを変えた。 劉備はそこで、黄巾賊(こうきんぞく)の一群につかまって、人質になったことや、茶壺や剣も奪(と)り上(あ)げられてしまったことや、それからようやく救われて、賊の群(むれ)から脱出して来たが、再び追いつかれて黄匪(こうひ)の重囲に陥(お)ち、すでに斬死(きりじに)しようとした時、卒(そつ)の張飛(ちょうひ)という者が、一命を助けてくれたので、欣(うれ)しさの余り、何か礼を与えようと思ったが、身に持っている物は、剣と茶壺しかなかったので、やむなく剣を彼に与えたのです――と審(つぶさ)に話して、 「賊に捕(つか)まった時も、張卒(ちょうそつ)に助けられた時も、その折はもう何も要(い)らないという気持になっていたんです。・・・・・・けれど、この銘茶だけは、生命(いのち)がけでも持って帰って、おっ母さんに上げたいと思っていました。剣を手放したのは申しわけありませんが、そんなわけで、この銘茶を、生命から二番目の物として、持ち帰ったのでございます」 「・・・・・・・・・・・・」 「剣は、先祖伝来の物で、大事な物には違いありませんが、沓(くつ)や蓆(むしろ)を製(つく)って生活(くら)しているあいだは、張卒(ちょうそつ)から貰(もら)ってこれでも決して間にあわない事もありませんから・・・・・・」 母の惜(お)しがる気持を宥(なだ)めるつもりで彼がそう言うと、何思ったか劉備の母は、 「ああ――わしは、お前のお父様(とうさま)に申しわけがない。亡(な)き良人(おっ)に顔向けがなりません。――わたしは、子の育て方を過(あやま)った!」と、慟哭(どうこく)して叫んだ。 「何を仰(お)っしゃるんdねす。おっ母さん!どうしてそんな事を」 母の心を酌(く)みかねて、劉備がおろおろと言うと、母はやにわに、眼の前にあった錫(すず)の小さい茶壺を取り上げ、 「阿備、おいで!」と、きつい顔して、彼の腕を片手で引っ張った。 「何処(どこ)へです。おっ母さん。・・・・・・ど、どこへいらっしゃろうと言うんですか」 「・・・・・・・・・・・・」 彼の母は、答えもせず、劉備の腕(うで)くびを固くつかんだまま、桃園の果てへ馳け出して行った。そしてそこの蟠桃河(ばんとうが)の岸まで来ると、持っていた錫(すず)の茶壺を、河の中ほど目がけて抛(ほう)り捨(す)ててしまった。 七 「あッ。何で?」 びっくりした劉備は、われを忘れて、母の手頸(てくび)を捉(とら)えたが、母の手から投げられた茶の壺は小さい飛沫(しぶき)を見せて、もう河の底に沈んでいた。 「おっ母(か)さん!・・・・・・おっ母さん!・・・・・・いったい、何がお気に障(さわ)ったのですか。なんでせっかくの茶を、河へ捨てておしまいになったんですか」 劉備の声は、顫(ふる)えていた。母に欣(よろこ)ばれたいばかりに、百難の中を生命(いのち)がけで持って来た茶であった。 母は歓(よろこ)びの余りに、気が狂(ふ)れたのではあるまいか? 「・・・・・・何を言うのです。譟(さわ)がしい!」 母は、劉備の手を払(はら)った。 そして亡父(ちち)のような顔をした。 「・・・・・・・・・・・・」 劉備は、きびしい母の眉(まゆ)に、思わず後ろへ退(さ)がった。生まれてから初めて、母にも怖(こわ)い姿があることを知った。 「阿備(あび)。お坐(すわ)りなさい」 「・・・・・・はい」 お前が、わしを歓ばせるつもりで、はるばる苦労して持っておいでた茶を、河へ捨ててしもうた母の心がわかりますか」 「・・・・・・わかりません。おっ母さん、玄徳(げんとく)は愚鈍(ぐどん)です。どこが悪い、何が気にいらぬと、叱(しか)って下さい。仰(お)っしゃって下さい」 「いいえ!」 母は、つよく頭(こうべ)を振り、 「勘違いをおしでない。母は自分の気儘(きまま)から叱るのではありません。――大事な剣を人手に渡すようなお前を育てて来たことを、わたしは母として、御先祖にも、死んだお父さんにも、済まなく思うたからです」 「私が悪うございました」 「お黙りっ!・・・・・・そんな簡単に聞かれては、母の叱言(こごと)がおまえにわかっているとはいえません。――私が怒っているのは、お前の心根(こころね)がいつのまにやら萎(な)えしぼんで、楼桑村(ろうそうそん)の水呑(みずのみ)百姓(びゃくしょう)になりきってしもうたかと――それが口惜(くや)しいのです。残念でならないのです」 母は、子を叱るために励(はげ)ましているわれとわが声に泣いてしまって、袍(ほう)の袖(そで)を、老(おい)の眼に当てた。 「・・・・・・お忘れかえ、阿備。おまえのお父様も、お祖父(じい)様も、おまえのように沓(くつ)を作り蓆(むしろ)を織り、土民の中に埋(う)もれたままお果てなされているけれども、もっともっと先の御先祖をたずねれば、漢の中山靖王(ちゅうざんせいおう)劉勝(りゅうしょう)の正しい血筋なのですよ。おまえはまぎれもなく景帝(けいてい)の玄孫(げんそん)なのです。この中国をひと度(たび)は統一した帝王の血がおまえの体にも流れているのです。あの剣は、その印綬(いんじゅ)と言うてもよい物です」 「・・・・・・・・・・・・」 「だが、こんな事は、めったに口に出す事ではない。なぜならば、今の後漢(ごかん)の帝室は、わたし達の御先祖を亡(ほろ)ぼして立った帝王だからです。景帝の玄孫とわかれば、とうに私たちの家すじは断(た)ち絶(き)られているでしょう。・・・・・・だからというて、お前までが、土民になりきってしまってよいものか」 「・・・・・・・・・・・・」 「わたしは、そんな教育を、お前にした覚えはない。揺籃(ゆりかご)に入れて、子守唄(こもりうた)をうとうて聞かせた頃から――又、この母が膝(ひざ)に抱いて眠らせた頃から――おまえの耳へ母は御先祖のお心を血の中へ訓(おし)えこんだつもりです。――時の来ぬうちはぜひもないが、時節が来たら、世のために、又、漢の正統を再興するために、剣を把(と)って、草盧(そうろ)から起(た)たねばならぬぞと」 「・・・・・・はい」 「阿備。――その剣を人手に渡して、そなたは、生涯、蓆を織っている気か。剣よりも茶を大事とお思いか。・・・・・・そんな性根(しょうね)の子が求めて来た茶などを、歓んで飲む母とお思いか。・・・・・・わたしは腹が立つ。わたしはそれが悲しい」 と、母は慟哭(どうこく)しながら、劉備の襟(えり)をつかまえて、嬰児(えいじ)を懲(こ)らすように折檻(せっかん)した。 八 母に打ちすえられたまま、劉備は身うごきもしなかった。 打々(ちょうちょう)と、母が打つたびに、母の大きな愛が、骨身(ほねみ)に沁(し)み、さんさんと涙がとまらなかった。 「すみません」 母の手を宥(いたわ)るように、劉備はやがて、打つ手を抑(おさ)えて、自分の額(ひたい)に、押しいただいた。 「わたくしの考え違いでございました。まったく玄徳の愚(ぐ)がいたした落ち度でございます。仰(お)っしゃるとおり、玄徳もいつか、土民の中に貧窮(ひんきゅう)している為(ため)、心まで土民になりかけておりました」 「わかりましたか。阿備、そこへ気がつきましたか」 「御打擲(ごちょうちゃく)をうけて、幼少の御訓言(ごくんげん)が、骨身から喚(よ)び起(お)こされて参りました。――大事な剣を失いました事は、御先祖へも、申しわけありませんが・・・・・・御安心下さいおっ母さん・・・・・・玄徳の魂はまだ此身(ここ)にございます」 ――するとそれ迄(まで)、老(おい)の手が痺(しび)れるほど子を打っていた母の手は、やにわに阿備のからだを犇(ひし)と抱きしめて、 「おお!阿備や!・・・・・・ではお前にも、一生度民で朽(く)ち果(は)てまいと思う気もちはおありかえ。まだ忘れないで、わたしの言葉を、魂のなかにお持ちかえ」 「なんで忘れましょう。わたしが忘れても景帝の玄孫であるこの血液が忘れるわけはありません」 「よう言いなすった。・・・・・・阿備よ。それを聞いて母は安心しました。ゆるしておくれ、・・・・・・ゆるしておくれよ」 「何をなさるんです。わが子へ手をついたりして、もったいない」 「いいえ。心まで落魄(おちぶ)れ果てたかと、悲しみと怒りの余り、お前を打擲(ちょうちゃく)したりして」 「御恩です。大愛です。今の御打擲は、わたくしにとって、真の勇気を奮(ふる)いたたせる神軍(しんぐん)の鼓(つづみ)でございました。仏陀(ぶっだ)の杖(つえ)でございました。――もしきょうのお怒りを見せて下さらなければ、玄徳は何を胸に考えていても、おっ母さんが世にあるうちはと、卑怯(ひきょう)な土民を装(よそお)っていたかもしれません。いいえそのうちについ年月を過ごして、ほんとの土民になって朽(く)ちてしまったかもしれません」 「――ではお前は、何を思っても、この母が心配するのを怖(おそ)れて、母が生きているうちはただ無事に暮らしている事ばかり願っていたのだね。・・・・・ああ、そう聞けば、なおさらわたしの方が済まない気がします」 「もう私も、肚(はら)がきまりました。――でなくても、今度の旅で、諸州の乱れやら、黄匪(こうひ)の惨害(さんがい)やら、地上の民の苦しみを、眼の痛むほど見て来たのです。おっ母さん、玄徳が今の世に生まれ出たのは、天上の諸帝から、何か使命を享(う)けて世に出たような気がされます」 彼が、真実の心を吐(は)くと彼の母は、天地に黙禱(もくとう)をささげて、いつ迄も、両の腕(かいな)の中に額を埋めていた。 しかし、この日の朝の事は、どこ迄も、母子(おやこ)ふたりだけの秘(ひそ)かごとだった。 劉備の家には、相変わらず蓆機(むしろばた)を織る音が、何事もなげに、毎日、外へ洩(も)れていた。 土民の手あきの者が、職人として雇われて来て、日毎(ひごと)に中庭の作業場で、沓(くつ)を編み、蓆(むしろ)を荷造りして、それが溜(たま)ると、城内の市(いち)へ持って行って、穀物や布や、母の持薬などと交易(こうえき)して来た。 変わった事といえば、それくらいなもので、家の東南(たつみ)にある高さ五丈余の桑(くわ)の大樹に、春は禽(とり)が歌い、秋は落葉して、いつかここに三、四年の星霜(せいそう)は過ぎた。 すると浅香の一日(あるひ)。 白い山羊(やぎ)の背に、二箇の酒瓶(さけがめ)を乗せて、それを曳(ひ)いて来た旅の老人が、桑の下に立って、独(ひと)りで何やら感嘆していた。 九 誰か、のっそりと、無断で家の横から中庭に這入(はい)って来た。 劉備は、母と二人で、蓆(むしろ)を織っていた。無断といっても、土塀(どべい)は崩(くず)れたままだし、門はないし、通り抜けられても、咎(とが)めるわけにもゆかない程な家ではあったが―― 「・・・・・・おや?」 振り向いた母子(おやこ)は目をみはった。そこに立った旅の老人よりも、酒瓶を背にのせている山羊の毛の雪白な美しさに、すぐ気を奪(と)られたのである。 「御精(ごせい)が出るのう」 老人は、馴々(なれなれ)しい。 蓆機(むしろばた)のそばに腰をおろし、何か話しかけたい顔だった。 「お爺(じい)さん、何国(どこ)から来なすったね。たいそう毛のいい山羊だな」 いつ迄(まで)も黙っているので、かえって劉備から口を切ってやると、老人はさもさも何か感じたように、独りで頸を振りながら言った。 「息子さんかの。このお方は」 「はい」と、母が答えると、 「よい子を生みなすったな、わしの山羊も自慢だが、この息子には敵(かな)わない」 「お爺さんは、この山羊を曳いて、城内の市(いち)へ売りに来なすったのかね」 「なあに、この山羊は、売れない。誰にだって、売れないさ。わしの息子だものな。わしの売り物は酒じゃよ。だが道中で悪漢(わるもの)に脅(おど)されて、酒は呑(の)まれてしもうたから、瓶(かめ)は二つとも空(から)っぽじゃ。何もない。はははは」 「では、せっかく遠くから来て、おかねにも換(か)えられずに帰るんですか」 「帰ろうと思って、ここまで来たら、偉(えら)い物を見たよわしは」 「なんですか」 「お宅の桑(くわ)の樹(き)さ」 「ああ、あれですか」 「今まで、何千人、いや何万人となく、村を通る人々が、あの樹を見たろうが、誰もなんとも言った者はいないかね」 「べつに・・・・・・」 「そうかなあ」 「珍しい樹だ、桑でこんな大木はないとは、誰もみな言いますが」 「じゃあ、わしが告げよう。あの樹は霊木(れいぼく)じゃ。この家から必ず貴人が生まれる。重々(ちょうちょう)、車蓋(しゃがい)のような枝が皆、そう言ってわしへ囁(ささや)いた。・・・・・・遠くない、この春。桑の葉が青々とつく頃になると、いい友達が訪ねて来るよ。蛟龍(こうりゅう)が雲を獲(え)たように、それから此家(ここ)の主はおそらく身上(みのうえ)が変わって来る」 「お爺さんは、易者(えきしゃ)かね」 「わしは、魯(ろ)の李定(りてい)という者さ。というて年中飄飄(ひょうひょう)としておるから、故郷(くに)にいたためしはない。羊を曳(ひ)っぱって、酒に酔うて、時々、市へ行くので、皆が羊仙(ようせん)と言ったりする」 「羊仙さま。じゃあ世間の人は、あなたを仙人と思っているので?」 「はははは。迷惑なはなしさ。何しろきょうは欣(うれ)しい人とはなし、珍しい霊木を見た。この子のおっ母(か)さん」 「はい」 「この山羊を、お祝いに献上しよう」 「えっ?」 「おそらく、この子は、自分の誕生日も、祝われた事はあるまい。だが、今度は祝ってやんなさい。この瓶(かめ)に酒を買い、この山羊を屠(ほふ)って、血は神壇に捧(ささ)げ、肉は羹(あつもの)に煮て」 初めは、戯(たわむ)れであろうと、半ば笑いながら聞いていたところ、羊仙(ようせん)はほんとに山羊を置いて、立ち去ってしまった。 驚いて、桑の下まで馳(か)け出(だ)し、往来を見まわしたが、もう姿は見えなかった。
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資治通鑑巻第二十九 漢紀二十一 孝元皇帝下 永光三年(庚辰、前四一) | 1春,二月,馮奉世還京師,更爲左將軍,賜爵關内侯。 1. 春、二月、馮奉世が京師に帰還した。左将軍に更められ、関内侯の爵を賜った。 2三月,立皇子康爲濟陽王。 2. 三月、皇子の劉康を済陽王に立てた。 3夏,四月,癸未,平昌考侯王按薨。秋,七月,壬戌,以平恩侯許嘉爲大司馬、車騎將軍。 3. 夏、四月癸未、平昌考侯王接が薨じた。秋、七月壬戌、平恩侯許嘉を大司馬,車騎将軍とした。 4冬,十一月,己丑,地震,雨水。 4.冬,十一月,己丑(八日)、地震があった。雨水。 5復鹽鐵官;置博士弟子員千人。以用度不足,民多復除,無以給中外繇役故也。 5.塩鉄官制度を恢復させた。その理由は、博士弟子の定員を千人に規定してこれを設置したが、そのために朝廷の経費が増加した。かつまた 民間人の多くが繇役や賦税を免除されていたので、しいて民間を繇役に用いることができなかった。それゆえに財政不足になったからである。 四年(辛巳、前四〇) 1春,二月,赦天下。 1. 2三月,上行幸雍,祠五畤。 2. 3夏,六月,甲戌,孝宣園東闕災。 3. | 4戊寅晦,日有食之。上於是召諸前言日變在周堪、張猛者責問,皆稽首謝;因下詔稱堪之美,征詣行在所,拜爲光祿大夫,秩中二千石,領尚書事;猛復爲太中大夫、給事中。中書令石顯管尚書,尚書五人皆其黨也;堪希見得,常因顯白事,事決顯口。會堪疾喑,不能言而卒。顯誣譖猛,令自殺於公車。 4. 5初,貢禹奏言:「孝惠、孝景廟皆親盡宜毀,及郡國廟不應古禮,宜正定。」天子是其議。秋,七月,戊子,罷昭靈后、武哀王、昭哀后、衞思后、戻太子、戻后園,皆不奉祠,裁置吏卒守焉。冬,十月,乙丑,罷祖宗廟在郡國者。 5. 6諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上爲初陵。詔勿置縣邑及徙郡國民。 6. 五年(壬午、前三九) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,幸河東,祠后土。 1. 2秋,穎川水流殺人民。 2. 3冬,上幸長楊射熊館,大獵。 3. 4十二月,乙酉,毀太上皇、孝惠皇帝寢廟園,用韋玄成等之議也。 4. 5上好儒術、文辭,頗改宣帝之政。言事者多進見,人人自以爲得上意。又傅昭儀及子濟陽王康愛幸,踰於皇后、太子。太子少傅匡衡上疏曰:「臣聞治亂安危之機,在乎審所用心。蓋受命之王,務在創業垂統,傳之無窮;繼體之君,心存於承宣先王之德而褒大其功。昔者成王之嗣位,思述文、武之道以養其心,休烈盛美皆歸之二後,而不敢專其名,是以上天歆享,鬼神祐焉。陛下聖德天覆,子愛海内,然陰陽未和,姦邪未禁者,殆論議者未丕揚先帝之盛功,爭言制度不可用也,務變更之,所更或不可行而復復之,是以羣下更相是非,吏民無所信。臣竊恨國家釋樂成之業,而虚爲此紛紛也!願陛下詳覽統業之事,留神於遵制揚功,以定羣下之心。大雅曰:『無念爾祖,聿脩厥德。』蓋至德之本也。傳曰:『審好惡,理情性,而王道畢矣。』治性之道,必審己之所有餘而強其所不足,蓋聰明疏通者戒於太察,寡聞少見者戒於壅蔽,勇猛剛強者戒於太暴,仁愛温良者戒於無斷,湛靜安舒者戒於後時,廣心浩大者戒於遺忘。必審己之所當戒而齊之以義,然後中和之化應,而巧偽之徒不敢比周而望進。唯陛下戒之,所以崇聖德也! 臣又聞室家之道修,則天下之理得,故詩始國風,禮本冠、婚。始乎國風,原情性以明人倫也;本乎冠、婚,正基兆以防未然也。故聖王必愼妃後之際,別適長之位,禮之於内也。卑不踰尊,新不先故,所以統人情而理陰氣也;其尊適而卑庶也,適子冠乎阼,禮之用醴,衆子不得與列,所以貴正體而明嫌疑也。非虚加其禮文而已,乃中心與之殊異,故禮探其情而見之外也。聖人動靜游燕所親,物得其序,則海内自修,百姓從化。如當親者疏,當尊者卑,則佞巧之姦因時而動,以亂國家。故聖人愼防其端,禁於未然,不以私恩害公義。傳曰:『正家而天下定矣!』」 5. 6初,武帝既塞宣房,後河復北決於館陶,分爲屯氏河,東北入海,廣深與大河等,故因其自然,不堤塞也。是歳,河決於清河靈鳴犢口,而屯氏河絶。 6. 建昭元年(癸未、前三八) 1春,正月,戊辰,隕石于梁。 1. 2三月,上行幸雍,祠五畤。 2. 3冬,河間王元坐賊殺不辜廢,遷房陵。 3. 4罷孝文太后寢祠園。 4. 5上幸虎圈鬥獸,後宮皆坐。熊逸出圈,攀檻欲上殿,左右、貴人、傅婕妤等皆驚走。馮婕妤直前,當熊而立。左右格殺熊。上問:「人情驚懼,何故前當熊?」婕妤對曰:「猛獸得人止,妾恐熊至御坐,故以身當之。」帝嗟歎,倍敬重焉。傅婕妤慚,由是與馮婕妤有隙。馮婕妤,左將軍奉世之女也。 5. 二年(甲申、前三七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。 1. 2夏,四月,赦天下。 2. 3六月,立皇子興爲信都王。 3. 4東郡京房學易於梁人焦延壽。延壽常曰:「得我道以亡身者,京生也。」其説長於災變,分六十卦,更直日用事,以風雨寒温爲候,各有占驗。房用之尤精,以孝廉爲郎,上疏屢言災異,有驗。天子説之,數召見問。房對曰:「古帝王以功舉賢,則萬化成,瑞應著;末世以毀譽取人,故功業廢而致災異。宜令百官各試其功,災異可息。」詔使房作其事,房奏考功課吏法。上令公卿朝臣與房會議温室,皆以房言煩碎,令上下相司,不可許;上意郷之。時部刺史奏事京師,上召見諸刺史,令房曉以課事;剌史復以爲不可行。唯御史大夫鄭弘、光祿大夫周堪初言不可。後善之。 是時,中書令石顯顓權,顯友人五鹿充宗爲尚書令,二人用事。房嘗宴見,問上曰:「幽、厲之君何以危?所任者何人也?」上曰:「君不明而所任者巧佞。」房曰:「知其巧佞而用之邪,將以爲賢也?」上曰:「賢之。」房曰:「然則今何以知其不賢也?」上曰:「以其時亂而君危知之。」房曰:「若是,任賢必治,任不肖必亂,必然之道也。幽、厲何不覺寤而更求賢,曷爲卒任不肖以至於是?」上曰:「臨亂之君,各賢其臣;令皆覺寤,天下安得危亡之君!」房曰:「齊桓公、秦二世亦嘗聞此君而非笑之;然則任豎刁、趙高,政治日亂,盜賊滿山,何不以幽、厲卜之而覺寤乎?」上曰:「唯有道者能以往知來耳。」房因免冠頓首曰:「春秋紀二百四十二年災異,以示萬世之君。今陛下即位已來,日月失明,星辰逆行,山崩,泉湧,地震,石隕,夏霜,冬雷,春凋,秋榮,隕霜不殺,水,旱,螟蟲,民人饑、疫,盜賊不禁,刑人滿市,春秋所記災異盡備。陛下視今爲治邪,亂邪?」上曰:「亦極亂耳,尚何道!」房曰:「今所任用者誰與?」上曰:「然,幸其愈於彼,又以爲不在此人也。」房曰:「夫前世之君,亦皆然矣。臣恐後之視今,猶今之視前也!」上良久,乃曰:「今爲亂者誰哉?」房曰:「明主宜自知之。」上曰:「不知也。如知,何故用之!」房曰:「上最所信任,與圖事帷幄之中,進退天下之士者是矣。」房指謂石顯,上亦知之,謂房曰:「已諭。」房罷出,後上亦不能退顯也。 臣光曰:人君之德不明,則臣下雖欲竭忠,何自而入乎!觀京房之所以曉孝元,可謂明白切至矣,而終不能寤,悲夫!詩曰:「匪面命之,言提其耳。匪手攜之,言示之事。」又曰:「誨爾諄諄,聽我藐藐。」孝元之謂矣! 4. 臣司馬光曰く:人君が徳行を盛んにせずんば、臣僚が忠を尽くそうと欲したところで何ができようか!京房の孝元帝に対する誘導を観ていると、その言うところは道理にかなうこと非常に明確である。しかるに、孝元帝がついぞ悟らなかったのは悲しむべきことなり。 詩に曰く:「面と向かってこれに諭すのみにあらず言葉をもって諷する。手を携(ひ)くのみにあらず言葉をもってこれに事を示せり。」また曰く:「教え諭すこと懇切入念、しかし我聴くに気にせず頭に入らず。」とは孝元帝のような者を言ったものだろうか。 5上令房上弟子曉知考功、課吏事者,欲試用之。房上「中郎任良、姚平,願以爲刺史,試考功法;臣得通籍殿中,爲奏事,以防壅塞。」石顯、五鹿充宗皆疾房,欲遠之,建言,宜試以房爲郡守。帝於是以房爲魏郡太守,得以考功法治郡。 房自請:「歳竟,乘傳奏事。」天子許焉。房自知數以論議爲大臣所非,與石顯等有隙,不欲遠離左右,乃上封事曰:「臣出之後,恐爲用事所蔽,身死而功不成,故願歳盡乘傳奏事,蒙哀見許。乃辛已,蒙氣復乘卦,太陽侵色,此上大夫覆陽而上意疑也。己卯、庚辰之間,必有欲隔絶臣,令不得乘傳奏事者。」 房未發,上令陽平侯王鳳承製詔房止無乘傳奏事。房意愈恐。秋,房去至新豐,因郵上封事曰:「臣前以六月中言遁卦不效,法曰:『道人始去,寒湧水爲災。』至其七月,湧水出。臣弟子姚平謂臣曰:『房可謂知道,未可謂信道也。房言災異,未嘗不中。湧水已出,道人當逐死,尚復何言!』臣曰:『陛下至仁,於臣尤厚,雖言而死,臣猶言也。』平又曰:『房可謂小忠,未可謂大忠也。昔秦時趙高用事,有正先者,非刺高而死,高威自此成,故秦之亂,正先趣之。』今臣得出守郡,自詭效功,恐未效而死,惟陛下毋使臣塞湧水之異,當正先之死,爲姚平所笑。」 房至陝,復上封事曰:「臣前白願出任良試考功,臣得居内。議者知如此於身不利,臣不可蔽,故云『使弟子不若試師。』臣爲刺史,又當奏事,故復云『爲刺史,恐太守不與同心,不若以爲太守。』此其所以隔絶臣也。陛下不違其言而遂聽之,此乃蒙氣所以不解、太陽無色者也。臣去稍遠,太陽侵色益甚,唯陛下毋難還臣而易逆天意。邪説雖安於人,天氣必變,故人可欺,天不可欺也,願陛下察焉。」 房去月餘,竟征下獄。初,淮陽憲王舅張博,傾巧無行,多從王求金錢,欲爲王求入朝。博從京房學,以女妻房。房毎朝見,退輒爲博道其語。博因記房所説密語,令房爲王作求朝奏草,皆持柬與王,以爲信驗。石顯知之,告房與張博通謀,非謗政治,歸惡天子,詿誤諸侯王。皆下獄,棄市,妻子徙邊。鄭弘坐與房善,免爲庶人。 5. 6御史中丞陳咸數毀石顯,久之,坐與槐里令朱雲善,漏洩省中語,石顯微伺知之,與雲皆下獄,髡爲城旦。 石顯威權日盛,公卿以下畏顯,重足一跡。顯與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結爲黨友,諸附倚者皆得寵位,民歌之曰:「牢邪!石邪!五鹿客邪!印何纍纍,綬若若邪!」 顯内自知擅權專柄在掌握,恐天子一旦納用左右耳目以間己,乃時歸誠,取一信以爲驗。顯嘗使至諸官,有所征發,顯先自白:「恐後漏盡宮門閉,請使詔吏開門。」上許之。顯故投夜還,稱詔開門入。後果有上書告「顯顓命,矯詔開宮門」,天子聞之,笑以其書示顯。顯因泣曰:「陛下過私小臣,屬任以事,羣下無不嫉妒,欲陷害臣者,事類如此非一,唯獨明主知之。愚臣微賤,誠不能以一軀稱快萬衆,任天下之怨。臣願歸樞機職,受後宮掃除之役,死無所恨。唯陛下哀憐財幸,以此全活小臣。」天子以爲然而憐之,數勞勉顯,加厚賞賜,賞賜及賂遺訾一萬萬。初,顯聞衆人匈匈,言己殺前將軍蕭望之,恐天下學士訕己,以諫大夫貢禹明經箸節,乃使人致意,深自結納,因薦禹天子,歴位九卿,禮事之甚備。議者於是或稱顯,以爲不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免,取信人主者,皆此類也。 荀悅曰:夫佞臣之惑君主也甚矣,故孔子曰:「遠佞人。」非但不用而已,乃遠而絶之,隔塞其源,戒之極也。孔子曰:「政者,正也。」夫要道之本,正己而已矣。平直眞實者,正之主也。故德必核其眞,然後授其位;能必核其眞,然後授其事;功必核其眞,然後授其賞;罪必核其眞,然後授其刑;行必核其眞,然後貴之;言必核其眞,然後信之;物必核其眞,然後用之;事必核其眞,然後修之。故衆正積於上,萬事實於下,先王之道,如斯而已矣! 6. 荀悦曰く:それ佞臣が君主を惑わすこと甚だしきものがある。ゆえに孔子は言ったのだ。「佞人を遠ざけよ。」と。しかるに己が佞人を用いないだけではなく、遠くにやってこれと絶せねばならず、またその源をしっかり塞いで戒めること断固としなければならない。孔子は言った。「政は正しくねばならない」それ治道の要は根本にあり、己にあり、己を正すことにあるのだ。平直誠実な者、これが正しい主である。ゆえに徳が必ず真であると核心してからその官位に援(つ)け、能力が必ず真であると核心してから事を授け、功が必ず真であると核心してからその賞を授け、罪が必ず真であると核心してから刑に処し、行いが必ず真であると核心してからこれを貴び、言葉が必ず真であると核心してからこれを信じ、物が必ず真であると核心してからこれを用い、事が必ず真であると核心してからこれを修める。ゆえに上が正しいことを多く積み重ねれば、万事、下に至るまで誠実になるのだ。先王の道もかくの如しならんや! 7八月,癸亥,以光祿勳匡衡爲御史大夫。 7. 8閏月,丁酉,太皇太后上官氏崩。 8. 9冬,十一月,齊、楚地震,大雨雪,樹折,屋壞。 9. 三年(乙酉、前三六) 1夏,六月,甲辰,扶陽共侯韋玄成薨。 1. 2秋,七月,匡衡爲丞相。戊辰,衞尉李延壽爲御史大夫。 2. 3冬,使西域都護、騎都尉北地甘延壽、副校尉山陽陳湯共誅斬匈奴郅支單于於康居。 始,郅支單于自以大國,威名尊重,又乘勝驕,不爲康居王禮,怒殺康居王女及貴人、人民數百,或支解投都賴水中。發民作城,日作五百人,二歳乃已。又遣使責闔蘇、大宛諸國歳遺,不敢不予。漢遣使三輩至康居,求谷吉等死,郅支困辱使者,不肯奉詔;而因都護上書,言「居困厄,願歸計強漢,遣子入侍。」其驕嫚如此。 湯爲人沈勇,有大慮,多策略,喜奇功,與延壽謀曰:「夷狄畏服大種,其天性也。西域本屬匈奴,今郅支單于威名遠聞,侵陵烏孫、大宛,常爲康居畫計,欲降服之。如得此二國,數年之間,城郭諸國危矣。且其人剽悍,好戰伐,數取勝,久畜之,必爲西域患。雖所在絶遠,蠻夷無金城、強弩之守。如發屯田吏士,驅從烏孫衆兵,直指其城下,彼亡則無所之,守則不足自保,千載之功可一朝而成也!」延壽亦以爲然,欲奏請之。湯曰:「國家與公卿議,大策非凡所見,事必不從。」延壽猶與不聽。會其久病,湯獨矯制發城郭諸國兵、車師戊已校尉屯田吏士。延壽聞之,驚起,欲止焉。湯怒,按劍叱延壽曰:「大衆已集會,豎子欲沮衆邪!」延壽遂從之。部勒行陳,漢兵、胡兵合四萬餘人。延壽、湯上疏自劾奏矯制,陳言兵状,即日引軍分行,別爲六校:其三校從南道踰蔥領,逕大宛;其三校都護自將,發温宿國,從北道入赤谷,過烏孫,渉康居界,至闐池西。而康居副王抱闐將數千騎寇赤谷城東,殺略大昆彌千餘人,驅畜産甚多,從後與漢軍相及,頗寇盜後重。湯縱胡兵撃之,殺四百六十人,得其所略民四百七十人,還付大昆彌,其馬、牛、羊以給軍食。又捕得抱闐貴人伊奴毒。入康居東界,令軍不得爲寇。間呼其貴人屠墨見之,諭以威信,與飲、盟,遣去。徑引行,未至單于城可六十里,止營。復捕得康居貴人貝色子男開牟以爲導。貝色子,即屠墨母之弟,皆怨單于,由是具知郅支情。明日,引行,未至城三十里,止營。 單于遣使曰:「漢兵何以來?」應曰:「單于上書言:『居困厄,願歸計強漢,身入朝見,』天子哀閔單于棄大國,屈意康居,故使都護將軍來迎單于妻子。恐左右驚動,故未敢至城下。」使數往來相答報,延壽、湯因讓之:「我爲單于遠來,而至今無名王、大人見將軍受事者,何單于忽大計,失客主之禮也!兵來道遠,人畜罷極,食度且盡,恐無以自還,願單于與大臣審計策。」明日,前至郅支城都賴水上,離城三里,止營傅陳。望見單于城上立五采幡幟,數百人被甲乘城;又出百餘騎往來馳城下,歩兵百餘人夾門魚鱗陳,講習用兵。城上人更招漢軍曰:「斗來!」百餘騎馳赴營,營皆張弩持滿指之,騎引卻。頗遣吏士射城門騎、歩兵,騎、歩兵皆入。延壽、湯令軍:「聞鼓音,皆薄城下,四面圍城,各有所守,穿塹,塞門戸,鹵楯爲前,戟弩爲後,仰射城樓上人。」樓上人下走。土城外有重木城,從木城中射,頗殺傷外人。外人發薪燒木城,夜,數百騎欲出,外迎射,殺之。 初,單于聞漢兵至,欲去,疑康居怨己,爲漢内應,又聞烏孫諸國兵皆發,自以無所之。郅支已出,復還,曰:「不如堅守。漢兵遠來,不能久攻。」單于乃被甲在樓上,諸閼氏、夫人數十皆以弓射外人。外人射中單于鼻,諸夫人頗死;單于乃下。夜過半,木城穿,中人卻入土城,乘城呼。時康居兵萬餘騎,分爲十餘處,四面環城,亦與相應和。夜,數奔營,不利,輒卻。平明,四面火起,吏士喜,大呼乘之,鉦鼓聲動地。康居兵引卻;漢兵四面推鹵楯,並入土城中。單于男女百餘人走入大内。漢兵縱火,吏士爭入,單于被創死。軍候假丞杜勳斬單于首。得漢使節二及谷吉等所繼帛書。諸鹵獲以畀得者。凡斬閼氏、太子、名王以下千五百一十八級;生虜百四十五人,降虜千餘人,賦予城郭諸國所發十五王。 3. 四年(丙戌、前三五) 1春,正月,郅支首至京師。延壽、湯上疏曰:「臣聞天下之大義當混爲一,昔有唐、虞,今有強漢。匈奴呼韓邪單于已稱北籓,唯郅支單于叛逆,未伏其辜,大夏之西,以爲強漢不能臣也。郅支單于慘毒行於民,大惡通於天。臣延壽,臣湯,將義兵,行天誅,賴陛下神靈,陰陽並應,天氣精明,陷陳克敵,斬郅支首及名王以下,宜縣頭槁街蠻夷邸間,以示萬里,明犯強漢者,雖遠必誅!」丞相匡衡等以爲:「方春,掩骼、埋胔之時,宜勿縣。」詔縣十日,乃埋之。仍告祠郊廟,赦天下。羣臣上壽,置酒。 1. 2六月,甲申,中山哀王竟薨。哀王者,帝之少弟,與太子遊學相長大。及薨,太子前吊。上望見太子,感念哀王,悲不能自止。太子既至前,不哀,上大恨曰:「安有人不慈仁,而可以奉宗廟,爲民父母者乎!」是時駙馬都尉、侍中史丹護太子家,上以責謂丹,丹免冠謝曰:「臣誠見陛下哀痛中山王,至以感損。向者太子當進見,臣竊戒屬,毋涕泣,感傷陛下;罪乃在臣,當死!」上以爲然,意乃解。 2. 3藍田地震,山崩,壅霸水;安陵岸崩,壅涇水,涇水逆流。 3. 五年(丁亥、前三四) 1春,三月,赦天下。 1. 2夏,六月,庚申,復戻園。 2. 3壬申晦,日有食之。 3. 4秋,七月,庚子,復太上皇寢廟園、原廟、昭靈后、武哀王、昭哀后、衞思后園。時上寢疾,久不平。以爲祖宗譴怒,故盡復之;唯郡國廟遂廢云。 4. 5是歳,徙濟陽王康爲山陽王。 5. 6匈奴呼韓邪單于聞郅支既誅,且喜且懼;上書,願入朝見。 6. 竟寧元年(戊子、前三三) 1春,正月,匈奴呼韓邪單于來朝,自言願婿漢氏以自親。帝以後宮良家子王嬙字昭君賜單于。單于歡喜,上書「願保塞上谷以西至敦煌,傳之無窮。請罷邊備塞吏卒,以休天子人民。」天子下有司議,議者皆以爲便。郎中侯應習邊事,以爲不可許。上問状,應曰:「周、秦以來,匈奴暴桀,寇侵邊境;漢興,尤被其害。臣聞北邊塞至遼東,外有陰山,東西千餘里,草木茂盛,多禽獸,本冒頓單于依阻其中,治作弓矢,來出爲寇,是其苑囿也。至孝武世,出師征伐,斥奪此地,攘之於幕北,建塞徼,起亭隧,築外城,設屯戍以守之,然後邊境得用少安。幕北地平,少草木,多大沙,匈奴來寇,少所蔽隱;從塞以南,逕深山谷,往來差難。邊長老言:『匈奴失陰山之後,過之未嘗不哭也。』如罷備塞戍卒,示夷狄之大利,不可一也。今聖德廣被,天覆匈奴,匈奴得蒙全活之恩,稽首來臣。夫夷狄之情,困則卑順,強則驕逆,天性然也。前已罷外城,省亭隧令,裁足以候望,通烽火而已。古者安不忘危,不可復罷,二也。中國有禮義之教,刑罰之誅,愚民猶尚犯禁;又況單于,能必其衆不犯約哉!三也。自中國尚建關梁以制諸侯,所以絶臣下之覬欲也。設塞徼,置屯戍,非獨爲匈奴而已,亦爲諸屬國降民本故匈奴之人,恐其思舊逃亡,四也。近西羌保塞,與漢人交通,吏民貪利,侵盜其畜産、妻子,以此怨恨,起而背畔。今罷乘塞,則生嫚易分爭之漸,五也。往者從軍多沒不還者,子孫貧困,一旦亡出,從其親戚,六也。又邊人奴婢愁苦,欲亡者多,曰:『聞匈奴中樂,無奈候望急何!』然時有亡出塞者,七也。盜賊桀黠,羣輩犯法,如其窘急,亡走北出,則不可制,八也。起塞以來百有餘年,非皆以土垣也,或因山巖、石、木、溪谷、水門,稍稍平之,卒徒築治,功費久遠,不可勝計。臣恐議者不深慮其終始,欲以壹切省繇戍,十年之外,百歳之内,卒有它變,障塞破壞,亭隧滅絶,當更發屯繕治,累世之功不可卒復,九也。如罷戍卒,省候望,單于自以保塞守禦,必深德漢,請求無已;小失其意,則不可測。開夷狄之隙,虧中國之固,十也。非所以永持至安,威制百蠻之長策也!」對奏,天子有詔:「勿議罷邊塞事。」使車騎將軍嘉口諭單于曰:「單于上書願罷北塞吏士屯戍,子孫世世保塞。單于郷慕禮義,所以爲民計者甚厚。此長久之策也,朕甚嘉之。中國四方皆有關梁障塞,非獨以備塞外也,亦以防中國姦邪放縱,出爲寇害,故明法度以專衆心也。敬諭單于之意,朕無疑焉。爲單于怪其不罷,故使嘉曉單于。」單于謝曰:「愚不知大計,天子幸使大臣告語,甚厚!」 初,左伊秩訾爲呼韓邪畫計歸漢,竟以安定。其後或讒伊秩訾自伐其功,常鞅鞅,呼韓邪疑之;伊秩訾懼誅,將其衆千餘人降漢,漢以爲關内侯,食邑三百戸,令佩其王印綬。及呼韓邪來朝,與伊秩訾相見,謝曰:「王爲我計甚厚,令匈奴至今安寧,王之力也,德豈可忘!我失王意,使王去,不復顧留,皆我過也。今欲白天子,請王歸庭。」伊秩訾曰:「單于賴天命,自歸於漢,得以安寧,單于神靈,天子之祐也,我安得力!既已降漢,又復歸匈奴,是兩心也。願爲單于侍使於漢,不敢聽命!」單于固請,不能得而歸。 單于號王昭君爲寧胡閼氏;生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。 1. 2皇太子冠。 2. 3二月,御史大夫李延壽卒。 3. 4初,石顯見馮奉世父子爲公卿著名,女又爲昭儀在内,顯心欲附之,薦言:「昭儀兄謁者逡修敕,宜侍幄帷。」天子召見,欲以爲侍中。逡請間言事。上聞逡言顯顓權,大怒,罷逡歸郎官。及御史大夫缺,在位多舉逡兄大鴻臚野王;上使尚書選第中二千石,而野王行能第一。上以問顯,顯曰:「九卿無出野王者。然野王,親昭儀兄,臣恐後世必以陛下度越衆賢,私後宮親以爲三公。」上曰:「善,吾不見是!」因謂羣臣曰:「吾用野王爲三公,後世必謂我私後宮親屬,以野王爲比。」三月,丙寅,詔曰:「剛強堅固,確然亡欲,大鴻臚野王是也。心辨善辭,可使四方,少府五鹿充宗是也。廉潔節儉,太子少傅張譚是也。其以少傅爲御史大夫。」 4. 5河南太守九江召信臣爲少府。信臣先爲南陽太守,後遷河南,治行常第一。視民如子,好爲民興利,躬勸耕稼,開通溝瀆,戸口增倍。吏民親愛,號曰「召父」。 5. 6癸未,復孝惠皇帝寢廟園、孝文太后、孝昭太后寢園。 6. 7初,中書令石顯嘗欲以姊妻甘延壽,延壽不取。及破郅支還,丞相、御史亦惡其矯制,皆不與延壽等。陳湯素貪,所鹵獲財物入塞,多不法。司隸校尉移書道上,繋吏士,按驗之。湯上疏言:「臣與吏士共誅郅支單于,幸得禽滅,萬里振旅,宜有使者迎勞道路。今司隸反逆收繋按驗,是爲郅支報讎也!」上立出吏士,令縣、道具酒食以過軍。既至,論功,石顯、匡衡以爲:「延壽、湯擅興師矯制,幸得不誅,如復加爵土,則後奉使者爭欲乘危徼幸,生事於蠻夷,爲國招難。」帝内嘉延壽、湯功而重違衡、顯之議,久之不決。 故宗正劉向上疏曰:「郅支單于囚殺使者、吏士以百數,事暴揚外國,傷威毀重,羣臣皆閔焉。陛下赫然欲誅之,意未嘗有忘。西域都護延壽,副校尉湯,承聖指,倚神靈,總百蠻之君,攬城郭之兵,出百死,入絶域,遂蹈康居,屠三重城,搴歙侯之旗,斬郅支之首,縣旌萬里之外,揚威昆山之西,掃谷吉之恥,立昭明之功,萬夷懾伏,莫不懼震。呼韓邪單于見郅支已誅,且喜且懼,郷風馳義,稽首來賓,願守北藩,累世稱臣。立千載之功,建萬世之安,羣臣之勳莫大焉。昔周大夫方叔、吉甫爲宣王誅獫狁而百蠻從,其詩曰:『嘽□焞□,如霆如雷。顯允方叔,征伐獫狁,蠻荊來威。』易曰:『有嘉折首,獲匪其醜。』言美誅首惡之人,而諸不順者皆來從也。今延壽、湯所誅震,雖易之折首,詩之雷霆,不能及也。論大功者不録小過,舉大美者不疵細瑕。司馬法曰:『軍賞不踰月,』欲民速得爲善之利也。蓋急武功,重用人也。吉甫之歸,周厚賜之,其詩曰:『吉甫宴喜,既多受祉。來歸自鎬,我行永久。』千里之鎬猶以爲遠,況萬里之外,其勤至矣。延壽、湯既未獲受祉之報,反屈捐命之功,久挫於刀筆之前,非所以勸有功,厲戎士也。昔齊桓前有尊周之功,後有滅項之罪,君子以功覆過而爲之諱。貳師將軍李廣利,捐五萬之師,靡億萬之費,經四年之勞,而僅獲駿馬三十匹,雖斬宛王母寡之首,猶不足以復費,其私罪惡甚多;孝武以爲萬里征伐,不録其過,遂封拜兩侯、三卿、二千石百有餘人。今康居之國,強於大宛,郅支之號,重於宛王,殺使者罪,甚於留馬,而延壽、湯不煩漢士,不費斗糧,比於貳師,功德百之。且常惠隨欲撃之烏孫,鄭吉迎自來之日逐,猶皆裂土受爵。故言威武勤勞,則大於方叔、吉甫;列功覆過,則優於齊桓、貳師;近事之功,則高於安遠、長羅。而大功未著,小惡數布,臣竊痛之!宜以時解縣,通籍,除過勿治,尊寵爵位,以勸有功。」 於是天子下詔赦延壽、湯罪勿治,令公卿議封焉。議者以爲宜如軍法捕斬單于令。匡衡、石顯以爲「郅支本亡逃失國,竊號絶域,非眞單于。」帝取安遠侯鄭吉故事,封千戸;衡、顯復爭。夏,四月,戊辰,封延壽爲義成侯,賜湯爵關内侯,食邑各三百戸,加賜黄金百斤。拜延壽爲長水校尉,湯爲射聲校尉。於是杜欽上疏追訟馮奉世前破莎車功。上以先帝時事,不復録。欽,故御史大夫延年子也。 荀悅論曰:成其功義足封,追録前事可也。春秋之義,毀泉台則惡之,捨中軍則善之,各由其宜也。夫矯制之事,先王之所愼也,不得已而行之。若矯大而功小者,罪之可也;矯小而功大者,賞之可也;功過相敵,如斯而已可也。權其輕重而爲之制宜焉。 7. 8初,太子少好經書,寬博謹愼;其後幸酒,樂燕樂,上不以爲能。而山陽王康有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以山陽王爲嗣。上晩年多疾,不親政事,留好音樂;或置鼙鼓殿下,天子自臨軒檻上,□貴銅丸以擿鼓,聲中嚴鼓之節。後宮及左右習知音者莫能爲,而山陽王亦能之,上數稱其材。史丹進曰:「凡所謂材者,敏而好學,温故知新,皇太子是也。若乃器人於絲竹鼓鼙之間,則是陳惠、李微高於匡衡,可相國也!」於是上嘿然而笑。 及上寢疾,傅昭儀、山陽王康常在左右,而皇后、太子希得進見。上疾稍侵,意忽忽不平,數問尚書以景帝時立膠東王故事。是時太子長舅陽平侯王鳳爲衞尉、侍中,與皇后、太子皆憂,不知所出。史丹以親密臣得侍視疾,候上間獨寢時,丹直入臥内,頓首伏靑蒲上,涕泣而言曰:「皇太子以適長立,積十餘年,名號繋於百姓,天下莫不歸心臣子。見山陽王雅素愛幸,今者道路流言,爲國生意,以爲太子有動搖之議。審若此,公卿以下必以死爭,不奉詔。臣願先賜死以示羣臣!」天子素仁,不忍見丹涕泣,言又切至,意大感寤,喟然太息曰:「吾日困劣,而太子、兩王幼少,意中戀戀,亦何不念乎!然無有此議。且皇后謹愼,先帝又愛太子,吾豈可違指!駙馬都尉安所受此語?」丹即卻,頓首曰:「愚臣妄聞,罪當死!」上因納,謂丹曰:「吾病浸加,恐不能自還,善輔道太子,毋違我意。」丹嘘唏而起,太子由是遂定爲嗣。而右將軍、光祿大夫王商,中書令石顯亦擁佑太子,頗有力焉。夏,五月,壬辰,帝崩於未央宮。 班彪贊曰:臣外祖兄弟爲元帝侍中,語臣曰:「元帝多材藝,善史書,鼓琴瑟,吹洞簫,自度曲,被歌聲,分刌節度,窮極幼眇。少而好儒,及即位,徴用儒生,委之以政,貢、薛、韋、匡迭爲宰相。而上牽制文義,優遊不斷,孝宣之業衰焉。然寬弘盡下,出於恭儉,號令温雅,有古之風烈。」 8. 9匡衡奏言:「前以上體不平,故復諸所罷祠,卒不蒙福。案衞思后、戻太子、戻后園,親未盡。孝惠、孝景廟,親盡,宜毀。及太上皇、孝文、孝昭太后、昭靈后、昭哀后、武哀王祠,請悉罷勿奉。」奏可。 9. 10六月,己未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中、衞尉、陽平侯王鳳爲大司馬、大將軍、領尚書事。 10. 11秋,七月,丙戌,葬孝元皇帝於渭陵。 11. 12大赦天下。 12. 13丞相衡上疏曰:「陛下秉至孝,哀傷思慕,不絶於心,未有游虞弋射之宴,誠隆於愼終追遠,無窮已也。竊願陛下雖聖性得之,猶復加聖心焉!詩云:『煢煢在疚,』言成王喪畢思慕,意氣未能平也。蓋所以就文、武之業,崇大化之本也。臣又聞之師曰:『妃匹之際,生民之始,萬福之原。婚姻之禮正,然後品物遂而天命全。』孔子論詩,以關雎爲始,此綱紀之首,王教之端也。自上世已來,三代興廢,未有不由此者也。願陛下詳覽得失盛衰之效,以定大基,采有德,戒聲色,近嚴敬,遠技能。臣聞六經者,聖人所以統天地之心,著善惡之歸,明吉凶之分,通人道之正,使不悖於其本性者也。及論語、孝經,聖人言行之要,宜究其意。臣又聞聖王之自爲,動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。蓋欽翼祗栗,事天之容也;温恭敬遜,承親之禮也;正躬嚴恪,臨衆之儀也;嘉惠和説,饗下之顏也。舉錯動作,物遵其儀,故形爲仁義,動爲法則。今正月初,幸路寢,臨朝賀,置酒以饗萬方。傳曰:『君子愼始。』願陛下留神動靜之節,使羣下得望盛德休光,以立基楨,天下幸甚!」上敬納其言。 13.
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か 名前 読み 蒯越 かいえつ かいえつ 字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・蒯通の子孫。蒯良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、蒯越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。 建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。蒯越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は蒯越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。 建安19年(214年)に死去。 蒯良 かいりょう かいりょう 字は子柔。荊州南郡中盧侯国の人。同郷同姓の蒯越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。 劉表が荊州刺史として赴任した際、蒯越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談される。これに蒯良は「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は蒯良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」としたが、蒯越の進言の方をとり、荊州を統一した。 『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、その後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。 賈逵 かき かき 本名は衢、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。 司徒曹操の招きを受け、司空の掾(属官)となり、議郎となって司隷の軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操により弘農太守の代理に任命され、曹操と対面した。曹操は賈逵を気に入り、太守が皆賈逵のようであれば心配ごとはない、とまで言った。 曹丕が魏王になると、賈逵は鄴の令となり、やがて魏郡の太守に昇進した。曹丕が遠征した際は丞相主簿祭酒に任命され随行し、厳しく軍律を履行し、譙についたときに豫州刺史に任命された。賈逵は豫州の治政が緩んでいたのを見て、官吏の綱紀粛正につとめ、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。関内侯に封じられた。 豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と防備の充実に励んだ。中でも特筆すべきは二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれている。 その後、病気にかかって危篤に陥り急死した。粛侯と諡された。 華歆 かきん かきん 字は子魚。諡は敬。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。『三国志』魏志に伝がある。 華歆の政治は簡潔で公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた揚州刺史の劉繇が没すると、その家臣達は華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に任命されることは良くないとしてこれを拒絶したという。 孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知って隠士のかぶる頭巾をかぶって降伏し、孫策も華歆の声望を知っていたため彼を上客として礼遇した(具体的な経緯については『呉歴』、『譜叙』、『江表伝』)。孫策が死ぬと、孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から呼び出された。孫権は引きとめたが、華歆は孫権と曹操との国交がようやく出来たばかりだから孫権のために働かさせてくれるよう頼み込んだため、孫権は喜んで中央へ赴かさせた。出発のときは数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別にしるしを付けておき、いよいよ出発するときになって、賓客達にすべて送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆した。 曹操が孫権を征伐するときには華歆が軍師に求められた。建安21年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕(文帝)が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕が皇帝として即位すると司徒に叙せられた。 華歆は魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝はこれを賞した。 太和5年(231年)に病死し敬侯と諡された。『魏書』によると75歳であったという 賈詡 かく かく 字は文和。武威郡姑臧県の人。董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍した。 董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。献帝が長安から出ると李傕に印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨は内心で賈詡に実権を奪われることを恐れており、これを察した賈詡は、南陽にいる張繍の招きに応じ、彼に仕えることにした。 197年(建安2年)、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。この際、曹操は張繍の義理の族母(おば)を妾にし、更に張繍を暗殺しようとした。これを察知した張繍は反乱を決意した。張繍は賈詡の計略に従い、完全武装の張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらい、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた。 199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繍に使者をよこして味方に引き入れようとした。張繍がこれに応じようとすると、賈詡は袁紹からの使者を追い返し、張繍に曹操に降るよう進言した。張繍が「袁紹の方が曹操より強大だし、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ、味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操ならば個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。 曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。 220年(建安25年)、曹丕が曹操の後を継いで魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命された。曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝に即位した後も、筆頭の重臣として厚遇された。 223年(黄初4年)、77歳で病死した。 郭嘉 かくか かくか 字は奉孝。郭奕の父、頴川の人。 郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが、仕官せずに去っていった。その後、郭嘉と同じく頴川の出身だった荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。貞侯と謚された。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったが。郭嘉はわしと軍略を論じるときは、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼のことを忘れることができようか」と嘆いた。『傅子』によれば、その死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」とも言った。 郭汜 かくし かくし 郭阿多との記述もあり、幼名か字が阿多である。郭多とも郭氾とも言われることもある。董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。 192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。 裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、敗れたとされる。 献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった。」 194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。 同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争っているのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、献帝を捕らえる事は出来なかった。 その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。 郭図 かくと かくと 字は公則。豫州潁川郡の人。 建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張する。袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。 建安5年(200年)10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。一方、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃のことを讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた。 建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴した。これに対して郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が三男の袁尚を推戴し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。 次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。 曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返す。しかし、それが原因で曹操は袁譚を盟約違反と非難し、両軍は再び交戦した。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 夏侯玄 かこうげん かこうげん 字は太初。夏侯尚の子。 20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、明帝の不興を買って羽林監に左遷された。 正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。 249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。 中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。 夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという。 華陀 かだ かだ 本籍は沛国譙県(現在の河南省永城市)で、ペルシア系。字は元化(元方)。「華陀」とも書く。「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。本名は不明。 徐州で学問し、経書を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者とも言われている。 その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って、二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず、夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。 韓浩 かんこう かんこう 字は元嗣。養子は韓栄。司隷河内郡の人。 後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守であった王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じく韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。 武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。 建安20年(215年)、漢中の張魯討伐に従軍し、張魯を破った後、漢中を統括する司令官として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。 その功で近衛隊の指揮者となり、列侯に封じられた。のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだ。彼には子がなかったので、一族の韓栄が養子として後を継いだ。 簡雍 かんよう かんよう 元の本姓は“耿”だったが、幽州では“簡”と発音されていたので、改姓した[1]。 同郷出身の劉備とは若い頃からの旧知の仲であった。早い時期から常に劉備に随伴してともに各地を転々とした。劉備が荊州に入ると孫乾、糜竺とともに従事中郎となり、話し相手になったり使者を務めたりした。 劉備が益州に入ると、劉璋にその人柄を愛された。後に、劉備と劉璋が対立すると、成都で抵抗する劉璋への降伏勧告の使者となった。劉璋は説得に応じ、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に臣従した。 益州に入った劉備から昭徳将軍に任命され、糜竺の次で孫乾と並ぶ待遇を受けたという。 簡雍は傲慢で無頓着な性格で、劉備が出席する席でもだらしない振る舞いを止めず、諸葛亮達に対しても遠慮をせず、自分だけ長椅子を占領した上で寝そべったまま談笑をしたりした。一方で、機智に富んだ性格でもあり、劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、ユーモアを交えてこれを諌め、劉備を笑わせるとともに、禁令を止めさせている。 簡雍の没した時期は不明だが、219年に劉備を漢中王に推挙した群臣達の中にも、220年に劉備を皇帝に擁立した群臣達の中にも簡雍の名は見えない。 劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。 闞沢 かんたく かんたく 字は徳潤。会稽郡山陰県の人。『三国志』呉志に伝がある。 農民の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、一冊の本を書き写したときにはその内容のすべてを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。暦にも通じ、著書に『乾象暦注』がある。 孫権とは学問についてざっくばらんに語り合う仲であり、孫権に『過秦論』を読むようすすめたこともある。孫権は闞沢に子の孫和の勉強を見るよう依頼しており(「呉主五子伝」)、242年に孫和が太子になると、薛綜達と共にその教育係(太子太傅)となった。243年に死去。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかった。 謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこともせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかった(「薛綜伝」)。政治においては礼や律、和を重んじ、呂壱のような奸臣や不正を働いた役人にも厳罰で臨むことに反対した。 甘夫人 かんふじん かんふじん 劉備の側室。父母は不明。沛国の人。劉禅の母。 194年、劉備が予州刺史として小沛に移住したころ、妻とした。当時の正妻は糜夫人(糜竺・糜芳の妹)であり、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。 207年、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。208年、曹操の軍勢が南下して、劉備を追撃し当陽の長坂で追いつくと、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。そのとき武将の趙雲が劉禅を抱き、甘夫人を保護したため難を免れた。しかし甘夫人は間もなく亡くなり、南郡に埋葬された。 222年、甘夫人に皇思夫人と諡して、蜀に移葬することになった。しかし柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し、甘夫人の子である劉禅が即位したため、丞相の諸葛亮は、太常の頼恭らと諡号を検討して、甘夫人に昭烈皇后と諡し劉備と恵陵に合葬した。 なお厳密には、「昭烈」は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて「昭烈帝の皇后」という格式を表すものである。このため、自身に「穆」と諡された呉夫人は、『蜀書』において「穆皇后」と表記され、自身に諡のない甘夫人は「甘皇后」と表記されるのである。 管輅 かんろ かんろ 字は公明。平原の人。 管輅は占いによって先を見通す能力があったと言われ、そのことは『三国志』「方技伝」において記録されている。 管輅は幼少期から星を見るのが好きで、成人してからは易経などの勉学に励んだ。そのため、占師として不思議な能力が身についたと言われている。だが、素性の怪しい者と平気で付き合う一面があったため、彼を慕う人物は少なかった。ただし、彼はいつも素直な心で人に接したため、決して嫌われていたわけではなかったという。また、犯罪が起こると犯人を言い当てたため、やがて彼の回りから犯罪が絶えたという。さらに、射覆(器の中に物を入れて中身を当てさせる遊び)をするとほとんど間違いなく中身を言い当てた。 248年12月28日、曹爽の側近として羽振りをきかせていた何晏に招待された。何晏は三公に出世できるかと質問し、さらに「蠅が数十匹、鼻の頭にたかって、追っても逃げていかないという夢を見たが、何を意味しているのだろう」と問うた。管輅は「鼻はあなたの地位を表すものです。ところが、そこに蠅という醜悪なものが、寄ってまいりました。これは、険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り傲るものは滅びるという徴です」と警告した。 帰宅してから舅にこのことを話すと、舅は発言が明け透け過ぎると責めた。管輅は「死人と話をしているのに、何を恐れる必要がありましょうや」と言ったので、舅は怒り、気が狂ったのではないかと思った。ところが、年が明けて十日もしないうちに何晏たちが司馬懿に殺されたので、舅も敬服したという。『管輅別伝』によると、管輅は何晏について「彼はちっぽけな巧みさを才能にしていた」と評している。 正元2年(255年)、管辰は「大将軍(司馬昭)はあなたに厚意を持っていますから、富貴な身分が望めますね」と言った。しかし、管輅は自分の寿命が47歳か48歳のころに尽きるであろうと予言した。そして予言通り、翌256年2月、48歳のときに病死している(但し、管輅伝の本文中には「私の運勢は寅にあり、…」とも記述されており、その通りであるならば管輅は建安15年(210年)生まれであり、享年は47になると裴松之は注で述べている)。 姜維 きょうい きょうい 字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。 228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価している。汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。 253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。 姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。 262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。 降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。 橋玄 きょうげん きょうげん 字は公祖。梁国睢陽県の人。 時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。 周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。この一件で橋玄は世に名を著した。 桓帝の末期、大将軍と三公府の推挙によって度遼将軍・仮黄鉞となった。任地に至ると、諸将を率いて高句麗の伯固らを討ち破って敗走させた。三年の在職の間に辺境は安静となった。 霊帝の時代になると呼び戻されて河南尹となり、その後は九卿・三公を歴任した。光和元年(178年)、太尉となって数か月で病のために免じられ、太中大夫を拝命して自宅で医者に掛かった。光和6年(183年)に死去。享年75歳。橋玄は剛直性急で大仰な礼儀を用いなかったが、下位の士人には恭謙で、宗族の中に橋玄の地位を利用して高位に昇った者はいなかった。橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。世論はこれを称賛した。 橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。 橋瑁 きょうぼう きょうぼう 字は元偉。豫州梁国睢陽県の出身。文献によっては喬瑁と記されていることもある。『後漢書』、『三国志』にその名が散見される。 武帝紀の引く『英雄記』によると、太尉であった橋玄の一族とされるが、子の世代にあたる人物であるというのみで、続柄は明らかではない。兗州刺史を務めたことがあり、威厳と恩情を兼ね備えていたとされる。やがて東郡太守となる。 永漢元年(189年、大将軍何進は十常侍と対立すると、各地の軍を呼び寄せようとし、橋瑁にもその命令が下り、橋瑁は成皋の地に軍を駐屯させた(『後漢書』)。 何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。初平元年(190年)、董卓に反対する関東の諸侯が挙兵する(反董卓連合)と、橋瑁は孔伷や劉岱、張邈、張超、袁遺と共に参戦している。もっとも、臧洪伝によると、当初挙兵したのは橋瑁達である。 袁紹を盟主として仰いだが董卓が長安に遷都して以降は事態は進展がなく、橋瑁は酸棗に劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操と共に駐屯していた。曹操は、酸棗に駐屯する諸侯が酒宴ばかり開いて董卓と積極的に戦おうとしないことを憂い、進軍計画を立てた上で、戦をするようすすめたが、諸侯はそれに応じなかった。 やがて酸棗の軍勢は兵糧が尽きて散逸し、橋瑁は劉岱と対立し殺害された。 許靖 きょせい きょせい 字は文休。汝南平陽の人。月旦評という人物評で有名な許劭(許子将)は従弟にあたる。蜀書に独立した伝がある。若くして従弟の許劭とともに人物評価について高い評判を得ていた。許劭とは仲が良くなかった。 董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、一族で陳国の相であった許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。 袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した。交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。 214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた。 劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。 220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。劉備が皇帝になると司徒に任命された。 その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。 魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。 また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。 許攸 きょゆう 字は子遠。荊州南陽郡の人。 弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。 建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。袁紹を見限り、曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落した。 虞翻 ぐほん 耿紀 こうき 黄月英 こうげつえい 黄権 こうけん 黄皓 こうこう 孔秀 こうしゅう 黄承彦 こうしょうげん 公孫淵 こうそんえん 孔融 こうゆう 顧雍 こよう
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安倍辰麿の鉄槌の振り下ろし場所3rd このコーナーは、倭軍三代目団長だった辰麿が好き勝手に暴言を吐く(きっと)不定期連載のコラムです。 毎日更新されているように見えますが、気のせいです。 このページには暴言や不適切な表現が多数含まれています。それを踏まえて読み進めて下さい。 これを読んでの倭軍への逆恨み・報復行為はご遠慮下さいませ。 9/25(Fri) 風邪は引き始めが肝心!(挨拶) シルバーウィーク中、うちの勤務先がセールだというのでほぼ一週間連続出勤。 見事に体調崩しかけてます。安倍辰麿です。 大丈夫だ、チーズかじればきっと治るさ……! しかもセールは大空振りで店長の機嫌が三次元的にこじれちまってます。 そのあてつけがこっちにくるのはかなわんわーイナバウワー。 それではいってみよー。 カマンベールチーズ、ぅんまーい! a 本武魂に初挑戦。 本日、シルバーウィークの代替休日で終日休みになると事前にしていたため、思い切って武魂競技会へ参戦することにしました。 「飢えなきゃ」勝てないんだよ! しかし、こうもいっぱい武魂武将が居るとどのチケットを購入すれば良いか迷いますね。 本武魂(辰麿は野良との区別でこう呼んでます)はどれも魅力的なステータスボーナスがあるので、正直獲得できればなんでもいい気がしてきます。 さらに、火・水・木と一日一回、都合三枚手に入るので余計に目移ろいします。 ところで、軍団ぐるみで参加する場合、集団で同じ武将のチケットを購入するのが一般的だそうです。 頭数居ればその分だけ自軍へ武魂を引き寄せやすいということですね。 でも、本当に「飢える」のであれば、時には果敢に立ち向かうことだって必要のはずだ……! と、言うことで、初回だけあわせて、本命を第二巡に合わせてみました。 まだここでは、もったいぶってどこへ行くかは言いません(苦笑)。 現地であったときは隊列参加を許してくださいね~。 b まだまだ先は長い 精鋭兵部隊(舞姫・戟兵)の平均レベルがようやく70に届きそうです。 非課金プレイをせざるをえない状況なので、兵士4倍符など夢のまた夢。 ただただ少しでも湧きのよい放置場所を探して放浪する日々が続いてます。 「安倍さんて、何でそんなにレベル上がるの遅いの?」 よく聞かれる質問です。 「一ヶ月あればレベル5以上余裕で上がるのにwwww」 よく浴びせられる罵倒です。 真実を告げよう。 「永続放置不可、課金絶望的状況、ログイン時間平均4時間弱。これに兵営wikiの更新量を鑑みれば、それは不可能!」 二倍符あれば、今頃辰麿は軍の式神を覚えているでしょう。 兵士四倍符あれば、すぐに全部四次兵となって本体のレベルと同じくらいまで育つでしょう。 でも、できるわけないんですよ。状況がそれを許さない。 だからといって、今の状況が最悪かと聞かれたら、迷わず「No」と答えるでしょう。 生き急いでも仕方がないのですよ。 そりゃ、このゲームの仕様上、強くなるとやれることが格段に広くなりますのは分かってます。 しかし、生き急いだ先に待っているものを、皆さんは考えたことありますか? 楽しいと思った軍団員や友達とのチャット。 手に汗握る他勢力と腕を競い合う国戦。 レアドロップに一喜一憂のボス狩り。 急速に成長して一通りやりつくした後に残るのは、ただの虚無だと思ってます。 たかがゲーム、妙に達観した意見など聞きたくないという方も居るでしょう。 けど、人の命も終わりがあるように、このゲームの『飽き』という終わりもあるのも事実なのです。 辰麿はその『飽き』が怖いです。 楽しいと思えたことが楽しくなくなる。 とてもそれは、寂しくて悲しいことではないでしょうか? だから、極力辰麿は非課金で育成していたります。 少しでも長くここを楽しみたいですから。 最近、めっきり新人さんを見かけないこのゲーム。 倭軍の上位プレイヤーも、最近はなんだか諸行無常といった感じで今ひとつ覇気がなかったりします。 倭軍の一番激動の時代を支えてきた自分自身だからこそ、今の生き急ぐ空気は戸惑いを隠せません。 もう少し活気がっても良いのですけどねぇ。 肉入れての野良隊列も、1年前は結構組めたんですが……。 コレばっかりは、止められないんですかね? 9/21(mon) なんか荒らされてるのう……。 安倍辰麿です。ときどき、記入の項目が消されていたりしているのですよね。 見つけ次第修正をしているんですが……。 荒らすなら、情報を書き加えていただきたいものです。 a 葭萌関戦役 一昨日、ふと葭萌関戦役をやろうと思い立ち、参加者を呼びかけてみました。 すると、50人近い参加者が集まってくださいました。 この場を借りて、参加者の皆様には御礼申し上げます。 葭萌関戦役は大将撃破戦。 より国戦に近い先頭が楽しめます。 ターゲット捕捉修練にはもってこいの場所です。 詳細は、メニューの葭萌関戦役コンテンツにも書いてありますので、気になる方はご覧くださいね。 さて、両軍とも有名ランカーさんや実力者のそうそうたる顔ぶれに、呼びかけた張本人はちょっとビビり気味。 「こりゃ気合入れるっきゃねー!」ってことで、全強弩兵小隊にフル結界で突進。 敵影確認後、臨戦態勢に入ったそのとき、 ドガーン! 猛将の掛け合わせ必殺技が炸裂。 ターゲット捕捉する間もなく撃沈。 猛将コワイヨー! 猛将イタイヨー! 大将選出が始まると、自然と大将の周りで戦闘が始まります。 時には、大将同士の一騎打ちなんていう熱い展開も見られたりして予想以上に白熱。 後半まで撃破ポイントがシーソーゲームになる好戦となりました。 辰麿も何とか猛攻をかいくぐり、相手を集中狙撃でニ人撃破を果たせました。 まだまだ修練が足りません。 所属チームは魏国でした。 見事、今回は魏の勝利となりましたが、途中までは本当に接戦だったんですよ。 ああいった集団演習は、もっと盛んになっても良いと思います。 また機会があったら、是非皆様よろしくお願いします! b 更新予定覚書 倭軍伝、追加。 全転職令ドロップ情報、強化。 新陣形、追記。 陣形熟練の書ドロップ情報募集。またその効果を追記予定。 兵士ランキング、修羅兵部門追加予定。 まだまだ更新内容が多いなぁ……! c 新規さん、どこ行った? 最近、「群英伝の過疎化が進んできたね」と耳にします。 ちょっと残念ですよね。多々不満はある仕様ですが、他の運営会社のゲームよりかはだいぶマシなところなので頑張ってほしいです。 たまーに『ネトゲランキング』なんてものがあったりすると、最近では群英伝を見つけては投票してます。 ランキング上がれば、少しは新人さんが増える=軍団に新人が増える若しくは新勢力誕生するなどして活気が出てくるんではないでしょうか? ただ、ああいうランキングって、同一人物が何度押したかって言うのがしっかり掲示板で表示されます。 何度も押しすぎると工作や荒らしと誤解されますから、一人一回が限度でしょう。 皆さんも、気が向いたときで構いませんのでランキング投票や口コミを広めてみてはいかがでしょうか? 9/20(Sun) ぐーてんたーく!(挨拶) 仕事中、急な激しい腹痛で早退。医者へ駆け込むという一日でした。 安倍辰麿です。ここ最近、胃腸が弱くなってます。しょんぼり。 おかげで「テメェは今日の夕方シフト来なくていいッ! 死ね!」と店長にキレられ、 「上等だ、アァン!? そっちこそ死ね!」と大手を振って帰宅してきた次第です。 ボス狩り中に腹痛来たら、ボスを諦めるか脱糞するかの選択を迫られそうで嫌過ぎます。 ……いや、冗談ですよ? それではいってみよう。 兵忠誠回復には、露店販売が一番だねぇ……。 a 戦績発表 残念ながら、討ち取りは思ったほど伸びてくれませんでした。 初の武魂装着で臨んだ今回の国戦。 開始後5分で、とある蜀の実力者さんを撃破。 この勢いでスパパーンと撃破を重ねたかったのですが……。 やはり、何度も鉄槌で言及している自身の体格不足が仇となりました。 孫権さんの技って、詠唱に3秒と結構掛かるのです。 つまり、かなり無防備な状態を3秒も晒してしまうのです。 そこへ5次必殺技を重ねられたり、相手の兵士の必殺技が重複すると、もうこちらはお手上げです。 3秒あれば、国戦では本当に生死を分けるくらいの大きな差だったりするんですよねぇ。 よって、前に出るのを抑えていたわけですが、今度は抑えすぎて敵影を見失うまで下がってしまう失態。 象と馬の乗換えで行軍に遅れたり、結界法の掛け直しに手間取ったりと反省点が噴出した一戦でした。 もう少し体格を厚くして、前に出る勇気を持たねば。 結果、4人撃破にとどまりました。 それでも影からビシビシ武魂技を撃っていたせいか、相手の兵に甚大なダメージが及んだようで。 落馬回数が極端に減りました。コレは意外な発見。いつもの1/5くらいです。 ……いつもがどれくらいかは、この場での発言を拒否します。 しょんぼりしながら、倭軍恒例のバリ君ランキングチェック発表を何気なく眺めていると、 「安倍さん、ランクインしてますよ」 なんと、4人討っても獲得勲功の差でランクインできました。 復帰後、初のランクインです。凄く久々だ……! 復帰したときは、ランクインの仕様が変わっていたことに少々戸惑っていました。 統率職にとって、現行のシステムだとなかなかランクインできないんですよね。 そんな中、晴れて末席でもランクインできたのはやはり武魂パワーゆえなんでしょう。 4人で獲得勲功50って……。 相当の格上の方ばかり撃破していたってことになります。 恐るべし、武魂技! また機会があれば、軍団の野良武魂狩りに参加しないとですね。 b 何故だー? 統率職の皆さん、こんな経験ありません? ボス狩りでも、放置狩りでも、やたらと死に易い兵士いませんか? 国戦で忠誠がボロボロなのに、真っ先に放置で死ぬ兵士。 配置を変えてもやっぱり死ぬ。 「お前は何がしたいんだ?」と文句を言ってやりたくなることありませんか? 実は、一人の兵士に金子代、1Mも既に使ってますorz 兵のレベルがあがれば、こんなことないはず、はず! 他の兵士は舞姫、戦姫居なくてもピンピンしているのに……? 9/17(Thu) 今夜の白虎サーバーは国戦です(挨拶)! 団員の成長の著しさを見ると、「ああ、倭軍って成長しているんだ」と肌で感じることができます。 出来る事や倒せる敵が増える喜びは、どんなときでも大きいものだと思います。 ……大きいんですよ。本当に(前フリ)。 それではいってみよう! 四次兵ばっか引き連れてたら、精鋭兵のレベルが上がらないことに気が付いたorz a トレジャーハンター? 前回、宝箱の在り処が分からないと嘆いていた辰麿。 江州周辺でぼーっとしていたら、 銀の宝箱が江州西境に出現!! おおっ! ここだったのか! なんという偶然でしょう! 早速空けに行くべく、馬を走らせてみました。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (takara01.jpg) コレが噂の期間限定宝箱ですね。 さて、中身は何かな?(ぱこーん!) 銀の宝箱は宣威将軍安倍辰麿に空けられました! 安倍辰麿:召喚宝石を獲得! ……どうやらハズレを引いたようです。 しょんぼりして江州に戻ろうとしたそのときでした。 金の宝箱が江州に出現! ぬおおっ!? 本命が来た! 千里転送の登録地点が江州にして良かったぜ! すぐにワープすると、ほど近くに宝箱を発見! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (takara02.jpg) 銀の宝箱よりゴツい印象を受けます。 さーて、何が入っているのかなー?(ぱこーん) 金の宝箱は宣威将軍安倍辰麿に空けられました! 安倍辰麿:結界符を獲得! NOOOOOOOOO!!!! コレジャナイヨ!! ホシイノ、コレジャナイヨーォ! ……クジ運悪い辰麿です。 団員の中では、レア騎兵の転職令が出た報告も挙がっています。 過去に行ったイベントアイテムも出るそうなので、お守りや指輪などの貴重品が手に入るチャンスですね。 運良く出現したら、狙ってみてはいかがでしょうか? ちなみに、MMOステーション内のスレッドにて情報を集めている模様です。 発見した方は、書き込んでみてはいかがでしょうか? 【スレッドはこちらをクリック】 b こんぶっこんぶっこんぶ( まずはこの画像を見ていただきたいです。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (bukon01.jpg) ★ハメ込み画像ではありません。 初めての(野良だけど)武魂、ゲットだぜ! めぐり合わせというんでしょうか、今回使用することとなりました! これは孫権さんですね。個人的にお気に入りの三国武将なので、喜びもひとしおです。 でも呉の文官なのに、魏で活躍するとは……。 野良武魂はステータスアップがないんですが、武魂技は使用可能です。 孫権さんの技は『荒神魔刀』という名前だそうで。 なんだか黄巾の張角あたりが撃ってきそうな技名ですね……。 さっそくどんな技か放ってみました。 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (bukon02.jpg) ドグオォォォォーオ!! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (bukon03.jpg) ザクザクゥ! ザクザクゥッ! すげー派手なんですけど……! 馬鹿でかい刀が振ってきたと思えば、地面に刺さるなり大爆発。 爆発の衝撃で小さい刀が飛び散り、次々に突き刺さる。 思わず驚いて椅子から転げるかと思いました。 4回攻撃なんですね。攻撃の間隔は地矛刺より若干早いぐらいです。 結構まとまってダメージが出そうです。 ボスで試したところ、圧倒的に雑魚兵の殲滅速度が上がりました。 もしかしたら、国戦の討ち取りが久々に二桁行くかもしれません。 色々調べたところ、巨大隕石が落ちたり、某アニメのように黄金の蝶で敵を攻撃したりと、派手な技が多いようですね。 「飢えなきゃ」勝てない。 これからは、辰麿も「飢えて」武魂ゲット狙っていきたいですねぇ。 c 新事実? 台湾wikiの精錬のページにて、こんな一文を発見しました。 屬性加乘只增加物理傷害(普攻,必殺技)不適用於法術(武將技) 意訳:攻撃属性は、物理攻撃(通常攻撃・必殺技)に上乗せされます。武将技は適用されません。 物理攻撃(通常攻撃・必殺技)に上乗せされます。 ざわ・・・ざわ・・・。 必殺技に乗っていたのか……。 と、思ったら、既に検証していた方がいたようです。 結果は「ダメージに変動なし」だそうで……。 どうやら、台湾と日本の仕様の違いが出ているようです。 むー、残念です。 9/15(Tue) 大型アップデート来ましたね!(挨拶) 新しい陣形に陣形効果と、兵営wikiもさらに情報を追加する必要が出てきました。 修羅兵令ドロップ情報もいくつか来ているので、まとまった時間が取れたら一気に更新したいです。 話は反れますが、最近画像をいじること覚えたので、いくつか上げ始めています。 今回も画像行く点かアップしますので乞うご期待! それではいってみよう! 呂布軍の取り巻きの強さは、祝融以上、か・も? a また一人、引退 おとといの14日。また一人、軍英伝の世界から卒業していく方を見送りました。 以前は魏でともに戦い、独立国へ渡った後でも各方面との交友が盛んだった、白眉元さんの送別会です。 辰麿も以前、一緒に狩りの隊列に混ぜていただくなどして世話になった方でした。 何も聞かされていなかったので、正直驚きましたけども……! チャット部屋に招かれ、指定の場所(ch1柴桑)へ行ってみると。 こんなにもの人が集まっていました(右下のミニマップに注目)!←クリックで画像へ。戻るで鉄槌へ。 各国の有名ランカーさん勢ぞろい。 あの~……、ものすごい場違いな黒猫が一匹混ざってるんですが(冷汗)。 この画像で、白眉元さんがどれだけ人望があったかがお分かりかと思います。 50人集まっての記念撮影をしたあと、 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (bokoboko.jpg) 武魂技を集中放火してみたり、 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (fooooo.jpg) 結界法&結界符を使って、白眉元さんをライトアップしてみたり、 いい加減、白眉元さんを弄ぶ、もといふれあった後、 最後は白眉元さんの全国放送で〆と相成りました。 白眉元:みんなありがとう~!ススキノ最高! 軍英伝、関係ねェーッ! b 大きくなって戻ってきておいで 倭軍女子部の癒し担当、ちょこちゃんが一昨日付けで蜀へ修行に出ることになりました。 「見聞を広めたい。またしばらくしたら戻る」と残し、倭軍を後にしました。 『戻ってくる頃にはレベルが三桁よ!』と残したあたり、本気で100以上になってそうです、ハイ。 いっぱい外で修行して、また倭軍へ戻ってくることを待ってます。 そういえば、倭軍は結構出戻りが多い軍団でもあると思います。 やはり古巣が恋しくなるんでしょうか。 それとも、独特の変態トークができるのは倭軍だけだからでしょうか(苦笑)。 c 秋の大アップデート! 遂に来ましたね! 新陣形、兵の編成に影響が出そうですね。 かなりユニークな配置になっているので、運用の方法もだいぶ変わってくるでしょう。 辰麿が注目したのは、新陣形『雲龍の陣』。 これは、方円と魚鱗の中間の陣形といえるもので、自分を中心に円を描いて配置されます。 かなり広範囲に散らばるので、放置狩りに有効ですね。 実際、今現在使用しているのですが、兵が満遍なく攻撃に参加してくれるのがうれしいです。 他の陣形も、使用感などをまとめて後日wikiを更新したいと思います。 ちょっと残念なのが、陣形効果は、特定のアイテム取得をしないと発揮されないとのこと。 辰麿は方円、後衛、雲龍の効果取得をしたいですね。 陣形の効果は、メニューリンク内にある台湾wikiの『統率系統』⇒“陣型與指揮命令”で確認できます。 気になる方は確認してみてはいかがでしょうか? 更新中に、ch2天水東境に張遼が出現! 団員の富士山が様子を見に行ったところ、砲撃兵のほかに戦車までいるという取り巻きがうじゃうじゃ居るそうです。 軍団のエースが束にならないと対応できないかもしれません。 しかし……、期間限定の宝箱、一向に見つかりません。 まぁ、ゆっくりと探してみることにします。 9/13(Sun) 白虎サーバーの皆様、ご苦労様でした!(挨拶) 「経験値倍符でさらに倍ッ!」な状態で、倭軍団員も課金MAPで狂喜乱舞な一日でした。 そのおかげで、多くの団員のレベルがアップしたのはうれしい限り。 辰麿自身も大きく躍進できた一日でした。 その詳細はこの後すぐ! それでは行ってみよう! 結界フォオオオオオオオオオオーッ! a 悲願達成 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (73level.jpg) ついにやったぞッ! レベルが上がって、結界法習得と強弩兵8人引率が実現したッ! と、いうことで、めでたくレベルが73になりました。 これで73レベルの強弩兵を場に出せます。 晴れて、完全に弾幕系軍師の仲間入りです。 そして、露店キャラで嵐のように商品を売りさばき、自己資金を目標金額まで到達させました。 その資金でようやく、悲願の結界法を習得することができました! 譲っていただいたランカーの遠空さんには、この場を借りて再度御礼申し上げます! 早速、結界法の技能等級を5に引き上げ。 全耐性+10%になりました。だいぶコレだけでもダメージ軽減を感じてます。 特に全国武将と対峙する際、結界切れた瞬間に体力がごっそり持ってかれるのでビビります(苦笑)。 ちなみに、移動用で51%の白龍駒をゲット。 体力は下がりますが、速度と回復量増加が素敵! 戦闘は主にコレから象に跨って行うことになります。 象の耐性に結界法で、絹豆腐軍師から木綿豆腐軍師に昇格できました。 目指すは高野豆腐軍師になることです。 カッチンカチンやでっ! b MPK>< 本日15時頃、ch2の北平東境でMPKに巻き込まれました。 幸い、千里転送を連打して九死に一生を得ることができましたが……。 どうやら、ch2の北平東、同一人物によるMPKが多発しているようですね……。 性質が悪いことに、魏の所属だというんだから困ったものです。 北平を放置場所にしている白虎サーバーの皆様、くれぐれもご注意を。 9/12(Sat) さぁ、白虎サーバーは確変突入です(挨拶)! 安倍辰麿です、今週は仕事が忙しくてなかなか更新できませんでした。 楽しみにしていた方、お待たせしました! それでは早速行ってみよう! 公休日吹き飛んで、今週の休みは無くなりましたorz a 白虎サーバー接続不具合 どうやら、前回の接続不良はサーバートラブルが原因だった模様です。 ……再インストール意味無いじゃーん! 昨日も深夜帯に接続不良があって、半日レベル上げできずにいました。 ところで、夜勤のサポート員が社内にいるわけではないんですねー。 覚書にもあったかと思うんですが、24時間体制じゃないネトゲの管理って聞いた事なかったので戸惑いを隠せません。 色々とカラーがあるんですねぇ。 で、本日12日土曜日。 白虎サーバーは臨時メンテナンスを経て、終日経験値倍増補填が始まりました。 北平東の密度が徐々に増しているのが分かります。 もうすぐレベルアップ可能なので、うまくいけば今日で73レベルになれるはずです。 b 資産増大計画、進行中 手持ちの資金が20Mを突破。 しかも3日で20M、本当に稼げるとは……! 倭軍のえこさんやオーレさんの援助を受け、弘農内宮の課金MAPで資産稼ぎ。 結果、通行権6枚使い切った時点で14M獲得。 露店で戦利品を売っていまや20M。 目標金額には全然届いていないですが、今後ボスのドロップを狙っていけば、結界法が手に届く範囲まで漕ぎ着けられそうです。 また、団員のちょこちゃんから、軍の式神の書を「ツケ」で譲っていただきました! まだまだ習得できませんが、「ツケ」の返済ができる頃には習得できるんじゃないでしょうか。 倭軍ではつい最近、また一人、結界法・軍の式神・療術結界の『軍師三大技能』を覚えた“完全軍師”が誕生しました。 辰麿もこれに続けとばかりに、日々精進していきたいと思っています! 9/7(Mon) 安倍辰麿です。無事、早期復活できました(挨拶)。 結局、アンインストール&再インストールする羽目になりました。 原因はスパイウェアとかではないようだ……。 単純に回線トラブルのようなので、今後大きなラグで同じようなことが発生しないか不安です。 とりあえず、行ってみましょう。 再インストール中、何故かDS版のクロノトリガーがサクサク進むんだぜ? a またしても、ひとつの時代が…… 先週の9/3、白虎サーバー国戦22 10頃でした。 突然の楽国滅亡。 倭軍団員の驚きの声がチャットログを覆いました。 終戦後、公認スパイの虎の人によれば、 「あ……、ありのまま今起こったことを話すニダ! 『(楽が)蜀と交戦していたとおもったら、いつのまにか空の軍勢が城を占拠していた』ニダ!!」 「空国の軍勢の行軍スピードは化物か!?」という台詞が聞こえてきそうなくらいの早業だったそうです。 9/7現在では、完全に大陸が四分割されていますね。 支配都市数は魏9、呉8、蜀7、空5と、意外にも魏が頑張っています。 一時の最弱ぶりが嘘のようです。 そして土曜日9/5。 修羅の顔である帝釈天氏をはじめとする高位ランカーが、完全に群英伝から引退するという知らせが飛び込んできました。 装備や兵士などは修羅団員に配布されたようですので、これは本当にこの世界から去ってしまうことになります。 詳細は、三国群英伝 MMO-Station(メニューにリンクあり)内のギルドステーションに、帝釈天氏の今回の引退についてのコメントが日記に綴られています。 『修羅の帝釈天』といえば、群英伝白虎サーバー内ではその戦場での活躍ぶりで名が広まった御仁。 人望も厚く、自ら修羅の陣頭指揮を執るなど積極的な活動を続けてらっしゃいました。 国戦で鉢合わせしたら十中八九生きて帰れないと言わしめた、その正確なロックオンと火力と硬さは、もはや統率職の羨望の眼差しを一身に受ける存在でした。 故にそんなに国戦や戦役で粉砕されようが、ドス黒い悔しさよりも爽やかな尊敬がそこにはありました。 しかし、強さと名前の露出が多くなるにつれ、言われもない誹謗中傷・風評被害に人知れず悩まされ続けていた模様です。 それが積もり積もって、このような結論を出してしまったのかも、と思うと残念でなりません。 こうして、またひとつの時代が幕を下ろしてしまいました。 一時代を飾った男、帝釈天。 勝手ながら、その栄誉を称える意味で、倭軍伝の中に後日刻み込もうと思います。 心残りがあるとすれば、辰麿自身、帝釈天氏と言葉を交わす機会が無かったことです。 こればっかりは口惜しいです。 b 人の繋がり #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (india.jpg) 安倍辰麿、象に乗ることが出来ました! とある御仁から譲っていただいてしまいました。 本当に恐縮です。思わずスライディング土下座したくなります。 orz 三 ズサァァッ!! 「象は速度遅いし、ぶっちゃけラクダのほうがHP上がらね?」 と、お思いの方も多いのではないでしょうか? しかし、象の利点は防御耐性が付いていることです。 今乗っているのは、印度象。斬と仙の耐性が+5%付きます。 この5%がかなり大きいのです。 益漢で比べてみるとその差は歴然。 ラクダだと時々、気合多療術(一瞬、体力が100を切るのを見て、慌てて多療術のFキーを連打する様)が必要なんです。 それが象だと薬丹の減りが目に見えて違うのです。 気合多療術も要らないので、その分攻撃に手を回せます。 結果、殲滅速度が上がりました! 地味に知力が+7されているのも効いてます。 よって、移動はラクダ、戦闘は乗り換えて象で行くことにしました。 象への乗り換えによるHP減も、そこまで目を見張る差ではなかったのも理由のひとつ。 次回の国戦では、象に乗った辰麿が登場します。 ……目立つから、すぐにタゲが集まりそうだ(苦笑)。 将来は、印度白象の最速に近いもので強化回数3のものがあると良いんですけどね。 ちなみに、倭軍ではおじゃさんとディープイントさんが象に跨ってます。 象オンリーの隊列で戦闘に臨んだら、きっと迫力あるでしょうね~! 9/6(Sun) 緊急事態発生、ログインが出来なくなりました。 原因不明。定軍山を走っていたら急にチャットが受け付けられないことに気が付く。 千里転送も不可。しかもログアウトできない! 強制終了したら、今度はログインできない状態。 入れないと凄く困ることが起きるのに……。 運営側へはメールを出してみました。 早急に対応していただけるように願うばかりです。 復帰するまで、鉄槌の更新が止まってしまいます。 あ、来週まではネタが持つかなぁ……? 9/5(Sat)増刊更新 突如勃発、馬淋を探せ! こんにちわ、WHN(Wagun Headline News)の時間です。 キャスターの安倍辰麿です。サマンサ~(挨拶)。 早速、臨時ニュースが入りました。 現場と繋がっています。 現場の黒猫軍師さん、もといタツマロさん? #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (balin05.jpg) あ、はい! こちら現場です! たった今、14時ごろ、天の声により馬淋嬢がこの白虎サーバーでイベントアイテムの運天宝珠の販売をするという告知が出されました! 私も、このように大陸内を奔走しておりますが、まだ見つかっておりません! 現在、馬淋嬢本人のヒントメッセージによれば、 大都市で洛陽の近辺だということです! 新しい情報が入り次第、お伝えしたいと思います! スタジオに一端お返しいたします! ……はい。 ということで、突然の馬淋嬢の登場ということですが。 コレについて、本日のゲストコメンター、ベーア・マロ・ツッタさんに伺いたいと思います。 いかがでしょうか? ソウデスネ。 恐ラク、今回ノショボクレタいべんとヲ盛リ上ゲルタメの“てこいれ”トイウ、ヤツデショウ。 マァ、ソンナコト抜キデ、まりんカワイイヨまりん。 ご意見ありがとうございます。 ずいぶんと私情が挟まっていましたが、すべて無視します。 あと、マリンじゃなくてバリンですから。 ビキニの金髪美女じゃないですからね? おっと、ここで現場から再度中継の模様です。 タツマロさん? #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (balin04.jpg) はい、こちら現場です! たった今、官渡で馬淋嬢を発見したという情報が入り込み、私は今、官渡に来ております! しかし、どうやら運天宝珠は在庫切れの模様です。 あっと、ここで馬淋嬢が「私を倒せば、運天宝珠を差し上げます!」と宣戦布告が出ました! 倭軍団員はもとより、その場に居る友軍有志も色めき立ってます! 私も早速、全国闘技場へ向かいたいと思います! また随時お知らせします! いやぁ~……、何だか予想もしない展開になってきましたね。 やはり欲しいものは力ずくで奪ってみよ、ということなんでしょうか? ベーア・マロ・ツッタさん、依然この世は弱肉強食の世界ですね。 「欲セヨ、サスレバ与エラレン」トイウ言葉ガアリマス。 本当ニ欲シイモノヲ得ルタメニハ、強イ意志ガ必要ナノデス! 僕ノまりんチャンヘノ気持チモ、強イ意思デ何時カ必ズ……。 三億年あれば通じると思います。 そろそろ取材班が闘技場に到着する頃ではないでしょうか? タツマロさーん? #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (balin03.jpg) はい! 私は今、闘技場へ到着しました! これから戦闘に臨む馬淋嬢へ単独インタヴューをしてみたいと思います! 何か、一言お願いします! 馬淋「準備はいい? 私は出来ているわ! さぁ、しょーーーーぶ!」 おっと、いきなり場内へ猛進して行ってしまいました! 私も“倭軍の絶倫男優”こと、チョコボール白岳氏の隊列にお邪魔して、追跡取材を敢行します! チョコボール白岳「オパーーーーーイ!!」(ドグシャアァァァッ!) #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (balin02.jpg) なんということでしょうか!? 馬淋嬢に対して、チョコボール白岳氏がジョジョっぽい擬音を出しながら強烈な一撃を放ちました! その一撃にむなしく、馬淋嬢は宙を舞って落馬しています! 一瞬の出来事で、不覚にも私の肉眼では捉えることが出来ませんでした! これで、運天宝珠はチョコボール白岳氏が獲得することになりました! チョコボール白岳「2個貰ったw」 珠だけに、2個獲得した模様です。 現場からは以上です! 中継は、黒猫大好きタツマロさんでした。 ありがとうございました! それにしても、一瞬の出来事でしたね……。 あと、いつの間にチョコボールなんていう称号が……。 教団教祖に飽き足らず、今度は腰に力を入れ始めたようです。 それでは、このあたりでWHN失礼いたします。 ★この後、15時にも再登場した馬淋。30分間滞在した後、白虎サーバーを後にしました。 もう少し長くいてくれてもいい気がしましたが、面白かったですよ~。 またいつでも降臨していただきたいものです。 9/5(Sat) 今日は夏の暑さが復活するらしいですよ?(挨拶) 安倍辰麿です。好きな季節は10月頃の秋です。 もっぱら食欲の秋です。懐に余裕があれば、“課金の秋”にしたいのですがね(苦笑)。 30日経験値倍符と30日兵士経験値四倍符がほしいなぁ……。 それではいってみよう。 次の目標は、官位昇格のレベル75! a 9/3国戦 毎度ながら、友軍の手助けに心から感謝御礼申し上げます。 北平、本格的に呉による陥落作戦が始まった模様。 前回や前々回も呉の軍団が北平に仕掛けてきていましたが、この日は完全に物量戦でした。 合計4度の襲来を受け、倭軍団員はことごとく苦渋を舐めさせられてしまう結果に。 あの火力は一体どこからでてるんだろ……? 友軍の助けがなければ、今回は本当に危なかったです。 いつか、倭軍だけでも対応できる状況になると良いのですが、なんせ数があちらは約1.5倍も居たので……。 集団連携を得意とする倭軍でも、今回は完全に物量の波に飲まれた形になってしまいました。 その中でも、ニフーさんの奮戦振りには目を見張ります。 次こそは自己ベスト更新を祈っております。 辰麿自身はといえば、戦闘スタイルを変えてみていました。 ニフーさんから直々に指南を受け、統率職の兵の運用や軍師としての攻撃的防衛法などを学び取ったのです。 実際に運用してみると、前回よりも強弩兵の立ち回りが格段に良くなりました。 前回までは何も出来ずに落馬してましたが、今回は落馬する前に相手を倒せることも実証できました。 ただ、やはり体力の上限値を早急に上昇させないと、目標の二桁討ち取りは果たせそうにないです。 最高討ち取りは28人ですが、ここ最近は5人も満たない数なのです。 レベル上げをやはり急ぐべきだなぁ。 b 演義 宝箱、初めて交換できました。 銅の宝箱、中身は菊衣でした……。 まぁ、銅箱はかなり外れが多いのは知っていましたから悔しくありません。 ドロップで胴着が出たことのほうがびっくりです。 本番は阿斗救出の70等級演義。 最近良く隊列を組む方々が成長したら、一緒にいってみたいですね。 c 乱舞 倭軍に乱舞習得者が誕生です! (ここではまだ名前を控えさせていただきます) 戦場での集中砲火の危険性がありますからねぇ……。 実際に乱舞食らって見ました。 +10の槍を使って撃ってもらったところ、800強×4がわずか1秒ちょっとで連打されました。 ……強すぎる! ちなみに、倭軍はコレにて五次必殺技がコンプできました。 (砕月と散弾拾得者は同一人物) いつか、“倭軍戦隊 モウショウジャー”とかで五次必殺技すべてを、敵陣一点にぶっ放してほしいですね。 9/2(Wed) 本格的な秋へ向かいますね(挨拶)。 安倍辰麿です、ようやく仕事の休みが取れました。 ちなみに、今日TBS系列の昼の番組にて、うちの職場が紹介?されました。 店長がインタヴューに答えてました。常日頃カミカミでたどたどしい店長、編集によって色々修正されているようです(苦笑)。 普段はあんな真面目な事、絶対に言わないのに……! 閑話休題、それではいってみよう。 基本姿勢は、デスクチェアの上で体育座り! a イベント開始、運営とプレイヤーの冷静と情熱の間 新イベント、始まりましたね。 覚書にフローチャートがあるので、気になる方はそちらをご覧ください。 辰麿も今現在、狩りをしながら各地を24時間マラソンのイモトの如く奔走しています。 しかし、プレイヤーの熱の入りようの無さといったら……。 今回は基本、統率職にしか恩恵が無いイベントということもあってか、珠の貰える場所の人の少ないこと。 完全に過疎状態。交換場所で誰もすれ違わないイベントってどうなのさ? 倭軍団員でも、初日からイベント参加を放棄する面々が見られます。 正直、秋の大型アップデート前哨戦としては残念な内容といわざるを得ません。 大型アップデートで新規さんを増やすためには、もっと前から気合の入ったイベントを企画するべきだと思うのは辰麿だけでしょうか? 運営側の目玉アイテムである『武魂技札』も、消費アイテムゆえ非常に使い勝手が悪いです。 あれを使うなら、自力で多療術してたほうが断然生き残れそうです。 それでも、辰麿は兵士4倍符と精鋭兵経験値札欲しさに走り回ってはおますが。 一周30分くらいなので、放置をせずに肉狩りで時間を潰せば案外サクサク回れたりします。 移動資金が馬鹿になりませんが、そこは我慢我慢。 でも……、やっぱりもう少しグレードを上げたほうが盛り上がりますよね? そこで皆さんにご協力を呼びかけたいと思います。 来週、イベントの追加パッチが来ることを願って、現段階のイベントの不満な点を運営に意見してみませんか? 辰麿一人ではまず動かせません。 ここはひとつ、皆さんも運営側へより良い群英伝になるように訴えていきましょう! 一番の不満な点は、「じゃんけんに勝てない」ことがきついでしょう。 もう少し勝ちやすくしても良いと思います。 あいこが出た後はほぼ確実に負けてしまう気がしてなりません。 あれでイベント参加の意欲が消沈する方も多いのでは? さらに、交換アイテムももう少しグレード上げてもらえると良いんですけどね。 例えるなら、15個集めて幸運護符とか、100個集めて運天宝箱とか。 ゲットした後は、リアルラックに絡んだ品物のほうが、不公平感は少ないでしょう。 宝箱には、70~80レベルの武器・防具や技能書・火の神の祝福等が入ってると、皆の食い付きが良いかもしれません。 去年ハロウィンイベントで大失敗しているからなのか、運営側はドカンと大きい景品を持ってこないんですよね。 「ちょwwwwこんなに集められねーよバーローwwww」っていうレベルでもいいんです。 運営側には、目玉商品としてデカい景品出す勇気を持っていただきたい。 でないと、既存プレーヤーからそっぽ向かれてしまう恐れもあるんじゃないでしょうか? まったくの余談ですが、交換して手に入れる運天宝珠。 何度見ても、某ドーナツ店の『フレンチクルーラー』にしか見えない……ッ! b 演義装備 エピソード1 ~獲得者、登場~ おじゃさんが、知力型演義宝箱を昨晩開けてみました。 すると、なんと鎧が出ましたよ! オメデトーと言いたいところですが、防衛と等級が赤、強化回数は無しという有様。 しかも取引不可のため、保管場所に少々難儀していた模様です。 おじゃさん本人から鎧の性能情報の開示の許可を得ていないので、ここではまだ掲載しません。 しかし、かなり有能な基本性能であることは確かでした。 装備等級は90レベルで確定(コレくらいは明かして大丈夫かな)。 武器以外でも鎧並みの知力補正が付くとすれば、知力型の全装備揃った瞬間に知力補正が200以上跳ね上がる気がしてきました。 何気に体力補正も付いているので、HPの心配もある程度解消されそうです。 辰麿もあと一個印綬を手に入れれば、宝箱と交換できます。 引き続き、おじゃさんの引きを祈りつつ、自身も装備獲得へ強い意欲を示していきます。 ということで、今日はこんな言葉で閉めたいと思います。 (現在、辰麿の雄叫びがコレです。) 「飢えなきゃ」勝てない。 ただし、ずっとずっともっと気高く「飢え」なくては! (出展:STEEL BALL RUN ジョジョの奇妙な冒険 第7部7巻#32『3rd.STEAGE ゴール.キャノン・シティ』より抜粋) 深夜に失礼します、ちょっと覗きにきました。兵士がなぜ死にまくる現象が起こるのか、この部分でよかったら参考にして下さい。戦姫が生きている…という発言から予測しますが、ほかの兵士が弩兵で、ずばりMOBは射傷ではないでしょうか?この場合沸きが良すぎるスポットで放置すると絶えず死んでしまう場合があります。また、兵士への命令が「護衛」で放置すると、MOBと兵士がソロでやりあう機会があがってしまい、死亡する例がよく仲間内で報告されています。 -- 遠空 (2009-09-20 04 17 04) ×:軍英伝→○:群英伝 -- 名無しさん (2009-09-21 18 05 27) 遠空さん>アドバイス感謝。試行錯誤して生存率アップを図っていきます。 名無しさん>修正しました^^; -- 安倍辰麿 (2009-09-25 20 23 02) 名前 コメント
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唐書巻一百九十一 列伝第一百一十六 忠義上 夏侯端 劉感 常達 敬君弘 謝叔方 呂子臧 馬元規 王行敏 盧士叡 李玄通 羅士信 張道源 楚金 李育徳 李公逸 張善相 高叡 仲舒 安金蔵 王同皎 潜 周憬 呉保安 李憕 源 彭 盧弈 元輔 張介然 崔無詖 夫有生所甚重者、身也。得輕用者、忠與義也。後身先義、仁也。身可殺、名不可死、志也。大凡捐生以趣義者、寧豫期垂名不朽而為之?雖一世成敗、亦未必済也、要為重所與、終始一操、雖頽嵩・岱、不吾壓也。夷・斉排周存商、商不害亡、而周以興。兩人至餓死不肯屈、卒之武王蒙慚徳、而夷・斉為得仁、仲尼變色言之、不敢少損焉。故忠義者、真天下之大閑歟!姦鈇逆鼎、搏人而肆其毒、然殺一義士、則四方解情、故亂臣賊子赩然疑沮而不得逞。何哉?欲所以為彼者、而為我也。義在與在、義亡與亡、故王者常推而褒之、所以砥礪生民而窒不軌也。雖然、非烈丈夫、曷克為之?彼委靡熟、偸生自私者、真畏人也哉!故次敍夏侯端以來凡三十三人于左方。 夏侯端、寿州寿春人、梁尚書左僕射詳孫也。仕隋為大理司直。高祖微時與相友、大業中討賊河東、表端為副。端邃数術、密語高祖曰:「玉牀搖、帝坐不安。晋得歳、真人将興、安天下之亂者、其在公乎!但上性沈忌、内惡諸李、今金才已誅、次且取公、宜蚤為計。」帝感其言。義師興、端在河東、吏捕送長安。帝入京師、釋囚、引入臥内、擢秘書監。 李密之降、関東地未有所屬、端請假節招諭、乃拜大将軍、為河南道招慰使。即伝檄州県、東薄海、南揵淮、二十餘州遣使順附。次譙州、會亳・汴二州刺史已降王世充、道塞、無所歸、計窮彷徨。麾下二千人糧盡不忍委端去、端乃殺馬宴大澤中、謂衆曰:「我奉王命、義無屈。公等有妻子、徒死無益。吾丐若首、持與賊以取富貴。」衆號泣不忍視、端亦泣、欲自刎、爭持之、乃止。行五日、餓死十四三。遇賊、衆潰、從者纔三十餘人、遂東走、擷豆以食。端持節臥起、歎曰:「平生不知死地乃在此!」縱其下令去、毋倶沒。會李公逸守州、勒兵迎端。時河南地悉入世充、公逸感端之節、亦固守。世充遣人以淮南郡公・尚書少吏部印綬召端、解所服衣以贈。端曰:「吾、天子使、寧汚賊官邪!非持首去不可見。」即焚書及衣、因解節毛懐之、間道走宜陽、歴崖峭榛莽。比到、其下僅有在者、皆體髮焦、人不堪視。端入謁、自謝無功、不及危困状。帝閔之、復拜秘書監。出為梓州刺史。散禄稟周孤窮、不為子孫計。貞観元年卒。 劉感、岐州鳳泉人、後魏司徒豊生孫也。武徳初、以驃騎将軍戍涇州、為薛仁杲所圍、糧盡、殺所乘馬啖士、而煮骨自飲、至和木屑以食。城垂陷、長平王叔良救之、賊乃解。與叔良出戰、為賊執、還圍涇州、令感約城中降。感紿諾、至城下大呼曰:「賊大飢、亡在朝暮、秦王数十万衆且至、勉之無苦。」仁杲怒、執感埋其半土中、馳射之。至死、詈益甚。 賊平、高祖購得其尸、祭以少牢、贈瀛州刺史、爵平原郡公、封戸二千、謚忠壮。詔其子嗣封爵、賜田宅焉。 常達、陝州陝人。仕隋為鷹撃郎将。嘗從高祖征伐、與宋老生戰霍邑、軍敗自匿、帝意已死、久乃自歸。帝大悅、命為統軍、拜隴州刺史。 時薛舉方彊、達敗其子仁杲、斬首千級。舉遣将仵士政紿降、達不疑、厚加撫接。士政伺隙劫之、并其衆二千歸賊。舉指其妻謂達曰:「識皇后乎?」答曰:「彼癭老嫗、何所道?」舉奴張貴又曰:「亦識我否?」達瞋目曰:「若乃奴耳。」貴忿、舉笏撃其面、達不為懾、亦拔刀逐之、趙弘安為蔽捍、乃免。仁杲平、帝見達、勞曰:「君忠節、正可求之古人。」為執士政殺之、賜達布帛三百段、以達并劉感事授史臣令狐徳棻云。終隴西刺史。 敬君弘、絳州絳人、北斉尚書右僕射顯曾孫也。累功歴驃騎将軍、封黔昌侯。以屯營兵守玄武門。隠太子之死、左右解散。其車騎将軍馮立者、有材武、歎曰:「生賴其寵、死不共難、我無以見士大夫!」乃與巣王親将謝叔方率兵攻玄武門、殊死鬭。君弘挺身出、或曰:「事未可判、當按兵待變、成列而鬭可也。」不從。與中郎将呂世衡呼而進、皆戰歿。立顧其下曰:「足以報太子矣。」遂解兵走。君弘等敗、秦府兵不振。尉遲敬徳擲巣王首示叔方、叔方下馬慟、亦出奔。明日自歸、太宗曰:「義士也。」置之。俄而立又至、帝讓曰:「汝離我兄弟、罪一也。殺我将士、罪二也。何所逃死?」答曰:「出身事主、當戰之日、不知其它。」因伏地悲不自勝、帝亦勞遣之。詔贈君弘左屯衛大将軍、世衡右驍衛将軍。 立已蒙貸、歸語人曰:「上赦吾罪、吾當以死報。」未幾、突厥犯便橋、立引数百騎與虜薄、敗之咸陽。帝喜、授廣州都督。前日牧守苛肆、為蠻夷患、故数叛。立至、不事家産、衣食弗求贏。嘗見貪泉曰:「此豈隠之所酌邪?吾雖日汲、庸易吾性哉?」遂極飲去。在職不三年、有惠愛、卒于官。 叔方歴伊州刺史、善治軍、戎・華愛之。累加銀青光禄大夫、徙洪・廣二州都督。卒、謚曰勤。本万年人、從巣王征討有功、王表為屈咥真府左軍騎云。 呂子臧、蒲州河東人。剛直、健于吏。隋大業末為南陽郡丞、捕撃盜賊有功。高祖入京師、遣馬元規慰輯山南、独子臧堅守。元規遣士諷曉、子臧殺之。及煬帝已弑、帝更使其壻薛君倩齎詔、言隋所以亡、諭子臧。子臧為故君發喪訖、即送款、就拜鄧州刺史、封南陽郡公。 武徳初、朱粲新、子臧率兵與元規并力。元規軍不進、子臧曰:「乘賊新敗、上下惶沮、一戰可禽。若遷延、其衆稍集、吾食盡、致死於我、不可當也。」不納。子臧請以所部兵独進、又不許。俄而粲得衆、復張、元規嬰城、子臧扼腕曰:「謀不見用、坐公死矣。」賊圍固。會霖雨、雉堞崩剥、或勸其降、子臧曰:「我、天子方伯、且降賊乎?」乃率麾下数百人赴敵死、城亦陷、元規死之。 元規、安陸人。初以隊正從帝征伐、持節下南陽、得兵万餘、然無謀、至于敗。 王行敏、并州楽平人。隋末為盜長、高祖興、來降、拜潞州刺史、遷屯衛将軍。劉武周入并州、寇上黨、取長子・壺関。或言刺史郭子武懦不支、且失潞、帝遣行敏馳往。既至、與子武不、賊圍急、儲偫空乏、衆恫懼、行敏患之。會有告子武謀反、遂斬之。州民陳正謙者、以信義稱郷里、出粟千石済軍、由是人自奮、賊乃去。行敏又敗竇建徳兵於武陟。武徳四年、督兵徇燕・趙、與劉黒闥戰歴亭、破之。既而釋甲不設備、為黒闥所掩、縛致麾下。終不屈、賊遂斬之。且死、西向跪曰:「臣之忠、惟陛下知之。」帝聞而悼惜。 黒闥之亂、死事者又有盧士叡・李玄通。 士叡客韓城。隋亂、結納英豪。高祖與之舊、及兵興、率数百人上謁汾陰、又使兄子諭降劇賊孫華、與劉弘基敗隋将桑顯和於飲馬泉。擢累右光禄大夫、為瀛州刺史。黒闥遣輕騎破其郛、拒戰半日、士見親屬係虜、乃潰。士叡為賊擒、欲使説下城堡、不從、見殺。 玄通、藍田人。為隋鷹揚郎将、高祖入関、率所部自歸、拜定州總管。為黒闥所破、愛其才、欲以為将。玄通曰:「吾當守節以報、烏能降志賊邪?」不聽、囚之。故吏有餉飲餽者、玄通曰:「諸君見哀、吾能一醉。」遂縱飲、謂守者曰:「吾能剣舞、可借刀。」守士與之。曲終、仰天太息曰:「大丈夫撫方面、不能保所守、尚何視息邪?」乃潰腹死。帝為流涕、擢其子伏護大将軍。 羅士信、斉州歴城人。隋大業時、長白山賊王薄・左才相・孟讓攻斉郡、通守張須率兵撃賊。士信以執衣、年十四、短而悍、請自。須疑其不勝甲、少之。士信怒、被重甲、左右鞬、上馬顧眄。須許之。撃賊濰水上、陣纔列、執長矛馳入賊營、刺殺数人、取一級擲之、承以矛、戴而行、賊皆眙懼無敢亢。須乘之、大破賊。士信逐北、毎殺一賊、輒劓鼻納諸懐、曁還、驗以代級。須歎伏、遺以所乘馬。凡戰、須先登、士信副、以為常。煬帝遣使圖須・士信陣法上内史。 後須為李密所殺、士信與裴仁基歸密、署總管、俾統所部討王世充。身被重創、見獲於世充。世充愛其才、厚遇之、與同寢食。後得密将邴元真等、故士信稍稍疏斥。士信恥與伍、率所部千餘人來降高祖、拜陝州道行軍總管、因謀世充。 士信行則先鋒、反則殿、有所獲、悉散戲下有功者、或脱衣解馬賜之、士以故用命。然持法嚴、至親舊無少貸、其下亦不甚附。師次洛陽、攻千金堡、有惡言軍、士信怒、夜遣百人載嬰兒譟堡下、若自東都出奔者、既而陽悟曰:「非也、此千金堡耳。」因散去。堡兵開門追掠、士信伏入、屠之無類。賊平、授絳州總管、封郯国公。 從秦王撃劉黒闥洛水上、得一城、王君廓戍之、賊急攻、潰而出。王語諸将:「孰能守此?」士信曰:「願以守。」乃命之。士信已久、賊悉衆攻、方雨雪、救軍不得進。城陷、黒闥欲用之、不屈而死、年二十八。王隠悼、購其尸以葬、謚曰勇。初、士信為仁基所礼、及東都平、出家財斂葬北邙以報徳、且曰:「我死當墓其側。」至是、如所志。 張道源、并州祁人、名河、以字顯。年十四、居父喪、士人賢其孝、県令郭湛署所居曰復礼郷至孝里。道源嘗與客夜宿、客暴死、道源恐主人忽怖、臥尸側、至曙乃告、又徒歩護送還其家。隋末政亂、辭監察御史、歸閭里。 高祖興、署大将軍府戸曹参軍。至賈胡堡、復使守并州。京師平、遣撫慰山東、下燕・趙。有詔褒美、封累范陽郡公。淮安王神通略定山東、令守趙州、為竇建徳所執。會建徳寇河南、間遣人詣朝、請乘虚擣賊心脅。即詔諸将率兵影接。俄而賊平、還、拜大理卿。時何稠得罪、籍其家屬賜臣。道源曰:「禍福何常、安可利人之亡、取其子女自奉?仁者不為也。」更資以衣食遣之。天子見其年耆、拜綿州刺史。卒、贈工部尚書、謚曰節。道源雖官九卿、無産貲、比亡、餘粟二斛。詔賜帛三百段。 族孫楚金有至行、與兄越石皆舉進士。州欲独薦楚金、固辭、請倶罷。都督李勣歎曰:「士求才行者也。既能讓、何嫌皆取乎?」乃並薦之。累進刑部侍郎。儀鳳初、彗見東井、上疏陳得失。高宗欽納、賜物二百段。武后時、歴秋官尚書、爵南陽侯。有清、然尚文刻、當時亦少之。為酷吏所構、流死嶺表。 李育徳、趙州人。祖諤、仕隋通州刺史、為名臣。世富于財、家僮百人。天下亂、乃私完械甲、嬰武陟城自保、人多從之、遂為長。劇賊來掠、不能克。隋亡、與柳燮等歸李密、私署總管。密為王世充所破、以郡來降、即拜陟州刺史。 兄厚徳、自賊所逃歸、度河復被執。賊使招育徳、陽許之、故兄不死。賊帥段大師令裨校以兵守厚徳、陰得其驩、乃與州人賈慈行謀逐賊。慈行夜登城呼曰:「唐兵登矣!」厚徳自獄擁囚譟而出、斬長史、衆不敢動、大師縋城走。即拜殷州刺史。厚徳省親、留育徳以守、引兵拔賊河内堡三十一所。世充怒、悉鋭士攻之、城陷、猶力戰、與三弟皆歿。 時死節者又有李公逸・張善相、凡三人。 公逸者、與族弟善行居雍丘、以材雄、為衆所歸。始附王世充、策其必敗、乃獻款高祖、因其地置州、即拜總管、封陽夏郡公。以善行為刺史。世充遣其弟将徐・亳兵攻之、公逸請援、未報、因使善行守、身入朝言状。至襄城、為賊邏送洛陽。世充曰:「君越鄭臣唐、何哉?」答曰:「我於天下唯聞有唐。」賊怒斬之。善行亦死。帝悼惜、封其子襄邑県公。 善相、襄城人。大業末為里長、督兵盜、為衆附賴、乃據許州奉李密。密敗、挈州以來、詔即授伊州總管。王世充攻之、屢困賊、遣使三輩請救、朝廷未暇也。會糧盡、衆餓死、善相謂僚屬曰:「吾為唐臣、當命。君等無庸死、斬吾首以下賊可也。」衆泣不肯、曰:「與公同死、愈於独生。」城陷被執、罵賊見殺。高祖歎曰:「吾負善相、善相不負我!」乃封其子襄城郡公。 高叡、京兆万年人、隋尚書左僕射熲孫也。舉明經、稍遷通義令、有治勞、人刻石載徳。歴趙州刺史、平昌県子。聖暦初、突厥默啜入寇、叡嬰城拒、虜攻益急。長史唐波若度且陷、即與虜通。叡覺之、力不能制、即自經。不得死、為虜執、使降諭諸県、不肯應、見殺。初、虜至、有為叡計者:「突厥鋭、所向無完、公不能亢、且當下之。」答曰:「我、刺史、不戰而降、罪大矣。」武后歎惜、贈冬官尚書、謚曰節。詔誅波若、籍其家。下制暴叡忠節・波若臣賊、使天下知之。 子仲舒、通故訓学、擢明經、為相王府文学、王所欽器。開元初、宋璟・蘇頲當秉、多咨訪焉。時舍人崔琳練達政宜、璟等礼異之。常語人曰:「古事問高仲舒、時事問崔琳、何復疑?」終太子右庶子。 安金蔵、京兆長安人。在太常工籍。睿宗為皇嗣、少府監裴匪躬・中官范雲仙坐私謁皇嗣、皆殊死、自是公卿不復見、唯工優給使得進。俄有誣皇嗣異謀者、武后詔來俊臣問状、左右畏慘楚、欲引服。金蔵大呼曰:「公不信我言、請剖心以明皇嗣不反也。」引佩刀自剚腹中、腸出被地、眩而仆。后聞大驚、輿致禁中、命高醫内腸、褫桑紩之、閱夕而蘇。后臨視、歎曰:「吾有子不能自明、不如爾之忠也。」即詔停獄、睿宗乃安。當是時、朝廷士大夫翕然稱其誼、自以為弗及也。 神龍初、母喪、葬南闕口、營石墳、晝夜不息。地本卬燥、泉忽湧流廬之側、李冬有華、犬鹿相擾。本道使盧懐慎上其事、詔表闕于閭。景雲時、遷右武衛中郎将。玄宗屬其事於史官、擢右驍衛将軍、爵代国公。詔鑱其名於泰・華二山碑以為榮。卒、配饗睿宗廟廷。大暦中、贈兵部尚書、謚曰忠。以子承恩為廬州長史。中和中、又擢其遠孫敬則為太子右諭徳。 王同皎、相州安陽人、陳駙馬都尉寬曾孫也。陳亡、徙河北。長安中、尚太子女安定郡主、拜典膳郎。太子、中宗也。桓彦範等誅二張、遣同皎與李湛・李多祚即東宮迎太子、請至玄武門指授諸将。太子拒不許、同皎進曰:「逆豎反道、顯肆不軌、諸将與南衙執事刻期誅之、須殿下到以係衆望。」太子曰:「上方不豫、得無不可乎?」同皎曰:「将相毀家族以安社稷、奈何欲内之鼎鑊乎?太子能自出諭之、衆乃止。」太子猶豫、同皎即扶上馬、從至玄武門、斬関入。兵趨長生殿太后所、環侍嚴定、因奏誅易之等状。帝復位、擢右千牛将軍、封琅邪公、食實戸五百。主進封公主、拜同皎駙馬都尉、遷光禄卿。 神龍後、武三思烝濁王室、同皎惡之、與張仲之・祖延慶・周憬・李悛・冉祖雍謀、須武后靈駕發、伏弩射殺三思。會播州司兵参軍宋之愻以外妹妻延慶、延慶辭、之愻固請、乃成昏。延慶心厚之、不復疑。故之愻子曇得其實。之愻兄之問嘗舍仲之家、亦得其謀。令曇密語三思。三思遣悛上急變、且言同皎欲擁兵闕下廢皇后。帝殊不曉、大怒、斬同皎於都亭驛、籍其家。同皎且死、神色自如。仲之・延慶皆死。憬遁入比干廟自剄、将死、謂人曰:「比干、古忠臣、神而聰明、其知我乎!后・三思亂朝、虐害忠良、滅亡不久、可干吾頭国門、見其敗也。」憬、寿春人。後太子重俊誅三思、天下共傷同皎之不及見也。睿宗立、詔復官爵、謚曰忠壮。誅祖雍・悛等。 先是、許州司戸参軍燕欽融再上書斥韋后擅政、且逆節已萌。后怒、勸中宗召至廷、撲殺之。宗楚客復私令衛士極力、故死。又博陵人郎岌亦表后及楚客亂、被誅。至是、倶贈諫議大夫、備礼改葬、賜欽融一子官。 同皎子繇尚永穆公主、生子潜、字弘志。生三日、賜緋衣・銀魚。幼莊重、不喜兒弄。以帝外孫、補千牛、復選尚公主、固辭。元和中擢累将作監。吏或籍名北軍、輒驕墯不事、潜悉奏罷之、故不戒而辨。監無公食、而息錢舊皆私有、至潜、取以具食、遂為故事。 遷左散騎常侍、拜涇原節度使。憲宗與對、大悅、曰:「吾知而善職、我自用之。」潜至鎮、繕壁壘、積粟、構高屋偫兵、利而嚴。遂引師自原州踰硤石、取虜将一人、斥烽候、築歸化・潘原二壘。請復城原州、度支沮議、故原州復陷。穆宗即位、封琅邪郡公、更節度荊南。疏吏惡、榜之里閭、殺尤縱者。分射三等、課士習之。不能者罷、故無冗軍。大和初、検校尚書左僕射。卒于官、贈司空。 呉保安字永固、魏州人。氣挺特不俗。睿宗時、姚・巂蠻叛、拜李蒙為姚州都督、宰相郭元振以弟之子仲翔託蒙、蒙表為判官。時保安罷義安尉、未得調、以仲翔里人也、不介而見曰:「願因子得事李将軍可乎?」仲翔雖無雅故、哀其窮、力薦之。蒙表掌書記。保安後往、蒙已深入、與蠻戰沒、仲翔被執。蠻之俘華人、必厚責財、乃肯贖、聞仲翔貴冑也、求千縑。會元振物故、保安留巂州、營贖仲翔、苦無貲。乃力居貨十年、得縑七百。妻子客遂州、間関求保安所在、困姚州不能進。都督楊安居知状、異其故、資以行、求保安得之。引與語曰:「子棄家急朋友之患至是乎!吾請貣官貲助子之乏。」保安大喜、即委縑于蠻、得仲翔以歸。始、仲翔為蠻所奴、三逃三獲、乃轉鬻遠酋、酋嚴遇之、晝役夜囚、沒凡十五年乃還。 安居亦丞相故吏、嘉保安之誼、厚礼仲翔、遺衣服儲用、檄領近県尉。久乃調蔚州録事参軍、以優遷代州戸曹。母喪、服除、喟曰:「吾賴呉公生吾死、今親歿、可行其志。」乃求保安。于時、保安以彭山丞客死、其妻亦沒、喪不克歸。仲翔為服縗絰、囊其骨、徒跣負之、歸葬魏州、廬墓三年乃去。後為嵐州長史、迎保安子、為娶而讓以官。 李憕、并州文水人。或言其先出興聖皇帝、譜系疏晦、不復伝。父希倩、神龍初右臺監察御史。憕少秀敏、舉明經高第、授成安尉。張説罷宰相、為相州刺史、坐有善相者、説問官屬後孰當貴、工指憕及臨河尉鄭巌、説以女妻巌、而歸其甥陰於憕。會母喪免。自武功尉以政尤異遷主簿。説在并州、引憕置幕府。及執政、為長安尉。宇文融括天下田、高選官屬、多致賢以重其柄。表假憕監察御史、分道検覈。以課真拜御史。坐小累、下除晋陽令。三遷給事中。力于治、有任事稱、明簿最、下無敢紿。失李林甫意、出為河南少尹。尹蕭炅内倚權、骫法殖私、憕裁抑其謬、吏下賴之。道士孫甑生以左道幸、託祠事往來嵩・少間、干請亂吏治、憕不為應、故挾炅譖諸朝。天宝初、除清河太守。舉美政、遷廣陵長史、民為立祠賽祝、歳時不絶。以捕賊負、徙彭城太守。封酒泉県侯。連徙襄陽・河東、並兼採訪處置使。入為京兆尹。楊国忠惡之、改光禄卿・東京留守。 安禄山反、玄宗遣封常清募兵東京、憕與留臺御史中丞盧弈・河南尹達奚珣繕城壘、綏勵士卒、将遏賊西鋒。帝聞、擢礼部尚書。禄山度河、號令嚴密、候詗不能知。已陷陳留・滎陽、殺張介然・崔無詖、不数日、薄城下。常清兵皆白徒、戰不勝、輒北。憕收殘士数百、裒斷弦折矢堅守、人不堪鬭。憕約弈:「吾曹荷国重寄、雖力不敵、當死官。」部校皆夜縋去、憕坐留守府、弈守臺。城陷、禄山而入、殺数千人、矢著闕門、執憕・弈及官屬蒋清、害之。有詔贈司徒、謚曰忠懿。河・洛平、再贈太尉、拜一子五品官。 憕通左氏春秋、頗殖産伊川、占膏腴、自都至闕口、疇墅彌望、時謂「地癖」。巌仕終少府監、産利埒憕云。 憕十餘子、江・涵・渢・瀛等同遇害、唯源・彭脱。 源八歳家覆、俘為奴、轉側民間。及史朝義敗、故吏識源於洛陽者贖出之、歸其宗屬。代宗聞、授河南府参軍、遷司農主簿。以父死賊手、常悲憤、不仕不娶、絶酒葷。惠林佛祠者、憕舊墅也、源依祠居、闔戸日一食。祠殿、其先寢也、毎過必趨、未始踐階。自營墓為終制、時時偃臥中。 長慶初、年八十矣、御史中丞李徳裕表薦源、曰:「賈誼稱:守圉扞敵之臣、死城郭封疆。天宝時、士罕伏節、逆羯始興、委符組・棄城郭者不為恥、而憕約義同列、守位自如、抵刃就終、臣節之光由憕始。而源天與至孝、絶心禄仕五十餘年、常守沈默、理契深要、一辭開析、百慮洗然。抱此真節、棄於清世、臣竊為陛下惜之。」穆宗下詔曰:「昔盜起幽陵、振蕩河・洛、贈太尉憕處難居首、正色就死、兩河聞風、再固危壁、殊節卓焉、到今稱之。源有曾参之行・巣父之操、泊然無營、汔此高年。夫褒忠、所以勸臣節也。旌孝、所以激人倫也。鎮澆浮、莫如尚義。厚風俗、莫如尊老。舉是四者、大儆于時。其以源守諫議大夫、賜緋魚袋。」河南尹遣官敦諭上道、帝自遣使者持詔書袍笏即賜、又賜絹二百匹。源頓首受詔、謂使者:「伏疾年耄、不堪趨拜。」即附表謝、辭吐哀、一無受。尋卒。敬宗時、擢憕孫為河南兵曹参軍。 彭擢明經第。天宝中、選名臣子可用者、自咸寧丞遷右補闕。從天子入蜀。後憕数年卒。有孫景讓・景莊・景温、別伝。 武徳功臣十六人、貞観功臣五十三人、至徳功臣二百六十五人。徳宗即位、録武徳以來宰相及實封功臣子孫、賜一子正員官。史館考勳名特高者九十二人、以三等條奏。第一等、以其歳授官。第二等、以次年。第三等、子孫数訟於朝、有詔差為二等、增至百八十七人。毎等、武徳以來宰相為首、功臣次之、至徳以來将相又次之。大中初、又詔求李峴・王珪・戴冑・馬周・褚遂良・韓瑗・郝處俊・婁師徳・王及善・朱敬則・魏知古・陸象先・張九齢・裴寂・劉文静・張柬之・袁恕己・崔玄暐・桓彦範・劉幽求・郭元振・房琯・袁履謙・李嗣業・張巡・許遠・盧弈・南霽雲・蕭華・張鎬・李勉・張鎰・蕭復・柳渾・賈耽・馬燧・李憕三十七人畫像、續圖凌煙閣云。 司空・太子太傅・知門下省事・梁国公房玄齢 尚書右僕射・検校侍中・萊国公杜如晦 太子太保・同中書門下三品・宋国公蕭瑀 開府儀同三司・同中書門下三品・知政事・上柱国・申国公高士廉 太子太師・知政事・特進・鄭国公魏徴 侍中・永寧郡公王珪 吏部尚書・参豫朝政・道国公戴冑 中書令・江陵県子岑文本 中書令・兼太子左庶子・検校吏部尚書・高唐県公馬周 侍中・兼太子左庶子・検校吏部礼部民部尚書事・清苑県男劉洎 尚書右僕射・同中書門下三品・河南郡公褚遂良 太子太師・同中書門下三品・燕国公于志寧 尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子少傅・北平県公張行成 中書令・行侍中・兼太子少保・蓨県公高季輔 侍中・兼太子賓客・襲潁川県公韓瑗 中書令・兼太子詹事・南陽県侯來済 侍中・兼太子賓客張文瓘 侍中・甑山県公郝處俊 中書侍郎・同中書門下三品・兼太子右庶子・酒泉県公李義琰 内史・河東県侯裴炎 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・温国公蘇良嗣 内史・梁国公狄仁傑 納言・検校并州大都督府長史・天兵軍大總管・隴右諸軍大使・譙県子婁師徳 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事・石泉県公王方慶 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・襲邢国公王及善 尚書右僕射・兼中書令・知兵部尚書事・斉国公魏元忠 紫微令・梁国公姚崇 正諫大夫・同鳳閣鸞臺平章事朱敬則 尚書左僕射・同中書門下平章事・許国公蘇 吏部尚書・兼侍中・廣平郡公宋璟 黄門監・梁国公魏知古 中書侍郎・同中書門下平章事・兗国公陸象先 紫微侍郎・同紫微黄門平章事・許国公蘇頲 中書令・河東県侯張嘉貞 中書侍郎・同中書門下平章事・清水県公李元紘 黄門侍郎・同中書門下平章事・宜陽県子韓休 中書令・始興県伯張九齢 司空・河東郡公裴寂 納言・上柱国・魯国公劉文静 太尉・検校中書令・同中書門下三品・揚州大都督・趙国公長孫忌 礼部尚書・河間郡王孝恭 尚書右僕射・検校中書令・行太子左衛率・上柱国・衛国公李靖 司空・兼太子太師・英国公李勣 開府儀同三司・鄜州都督・鄂国公尉遲敬徳 左光禄大夫・洛州都督・蒋国公屈突通 陝東道大行臺・吏部尚書・鄖国公殷開山 衛尉卿・夔国公劉弘基 澤州刺史・邳国公長孫順徳 民部尚書・上柱国・莒国公唐儉 右驍衛大将軍・駙馬都尉・譙国公柴紹 右驍衛大将軍・褒国公段志玄 洪州都督・渝国公劉政會 左武候将軍・相州都督・郯国公張公謹 右武衛大将軍・盧国公程知節 左武衛大将軍・上柱国・胡国公秦叔宝 弘文館学士・秘書監・永興県公虞世南 右衛大将軍・兼太子右衛率・工部尚書・武陽県公李大亮 左武衛大将軍・邢国公蘇定方 夏官尚書・同中書門下三品・清邊道行軍總管・耿国公王孝傑 中書令・漢陽郡公張柬之 中書令・博陵郡公崔玄暐 侍中・平陽郡公敬暉 侍中・譙国公桓彦範 中書令・南陽郡公袁恕己 右武衛大将軍・同中書門下三品・韓国公張仁愿 尚書左丞相・兼黄門監・徐国公劉幽求 黄門侍郎・参知機務・脩文館学士・斉国公崔日用 兵部尚書・同中書門下三品・代国公郭元振 尚書左承相・兼中書令・集賢院学士・燕国公張説 紫微侍郎・上柱国・趙国公王琚 兵部尚書・同中書門下三品・持節朔方軍節度大使・中山郡公王晙 尚書左僕射・同中書門下平章事・兼河南江淮副元帥・東都留守・冀国公裴冕 文部尚書・同中書門下平章事・清河県公房琯 門下侍郎・同中書門下平章事・衛国公杜鴻漸 鎮西北庭行營節度使・開府儀同三司・衛尉卿・兼懐州刺史・虢国公李嗣業 平盧軍節度使・柳城郡太守劉正臣 恆州刺史・衛尉少卿・兼御史中丞顔杲卿 常山郡太守袁履謙 河南節度副使・左金吾衛将軍・検校主客郎中・兼御史中丞張巡 睢陽郡太守・兼御史中丞許遠 御史中丞・留臺東都・知武部選盧弈 睢陽郡太守・特進左金吾衛将軍南霽雲 右第一 内史令・延安郡公竇威 将作大匠・判納言・陳国公竇抗 侍中・兼太子左庶子・江国公陳叔達 納言・観国公楊恭仁 判吏部尚書・参議朝政・安吉郡公杜淹 中書令・虞国公温彦博 中書侍郎・検校刑部尚書・参知機務崔仁師 中書令・兼検校太子詹事・上柱国・安国公崔敦礼 戸部尚書・平恩県公許圉師 兵部尚書・同中書門下三品・浿江道行軍總管任雅相 度支尚書・同中書門下三品・范陽郡公盧承慶 西臺侍郎・同東西臺三品・兼弘文館学士・楚国公上官儀 右相・廣平郡公劉祥道 左侍極・兼検校左相・嘉興県子陸敦信 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・楽城県公劉仁軌 荊州大都督府長史・安平郡公李安期 尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子賓客・襲道国公戴至徳 司列少常伯・太子右中護・兼正諫大夫・同東西臺三品趙仁本 中書令・趙国公李敬玄 中書令・兼太子左庶子薛元超 中書令・同中書門下三品崔知温 侍中・同中書門下三品・襲廣平郡公劉斉賢 納言・楽平県男王徳真 地官尚書・検校納言・鉅鹿県男魏玄同 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・特進・輔国大将軍・鄧国公岑長倩 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品・臨淮県男劉禕之 納言・博昌県男韋思謙 地官尚書・同鳳閣鸞臺平章事格輔元 司礼卿・判納言事・渤海県子歐陽通 内史李昭徳 鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事陸元方 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品杜景佺 尚書右僕射・兼太子賓客・同中書門下三品・鄖国公韋安石 左散騎常侍・同中書門下三品・知東都留守・趙郡公李懐遠 中書令・逍遙公韋嗣立 守侍中・同中書門下三品・兼太子右庶子・常山県男李日知 検校黄門監・漁陽県伯盧懐慎 中書令・左丞相・兼侍中・安陽郡公源乾曜 黄門侍郎・同紫微黄門平章事・魏県侯杜暹 侍中・趙城侯裴耀卿 左武衛大将軍・開府儀同三司・淮安王神通 特進・太常卿・江夏王道宗 荊州都督・周国公武士 右屯衛大将軍・検校晋州都督總管・譙国公竇琮 少府監・葛国公劉義節 右光禄大夫・羅国公張平高 洛州都督・右衛大将軍・酇国公竇軌 夔州都督・息国公張長愻 金紫光禄大夫・夷国公李子和 左監門衛大将軍・検校右武候将軍・榮国公樊興 左監門衛大将軍・巣国公錢九隴 右驍衛大将軍・歸国公安興貴 右武衛大将軍・申国公安脩仁 殿中監・郢国公宇文士及 右武衛大将軍・沔陽郡公公孫武達 荊州都督・懐寧郡公杜君綽 右驍衛将軍・濮国公龐卿惲 代州都督・同安郡公鄭仁泰 右翊衛将軍・遂安郡公李安遠 幽州都督・歴陽郡公独孤彦雲 始州刺史・左屯衛大将軍・襄武郡公劉師立 右威衛大将軍・済東郡公李孟嘗 右監門衛大将軍・河南県公元仲文 右監門衛将軍・廬陵郡公秦師行 左領軍大将軍・新興公馬三宝 右衛大将軍・駙馬都尉・畢国公阿史那社尒 鎮軍大将軍・虢国公張士貴 左衛大将軍・琅邪郡公牛進達 鎮軍大将軍・嘉川郡公周護 陝州刺史・天水郡公丘行恭 潭州都督・呉興郡公沈叔安 散騎常侍・豊城県男姚思廉 太子少師・同中書門下三品・特進・朔方道行軍大總管、宋国公唐休璟 左羽林軍大将軍・遼陽郡王李多祚 左領軍大将軍・趙国公李湛 刑部尚書・太子賓客・魏国公楊元琰 殿中監・兼知總監・汝南郡公翟無言 冠軍大将軍・左羽林軍大将軍・光禄卿・天水県公趙承恩 将作大匠裴思諒 右羽林軍将軍・弘農郡公楊執一 左衛将軍・河東郡公薛思行 光禄卿・駙馬都尉・琅邪郡公王同皎 中書令・越国公鍾紹京 太僕卿・立節郡王薛崇簡 右金吾衛大将軍・涼国公李延昌 太子中允同正・冀国公馮道力 少府監・趙国公崔諤之 左監門衛中候・光禄卿・申国公許輔乾 左金吾大将軍・鄧国公張暐 朔方道行軍大總管・左羽林軍大将軍・平陽郡公薛訥 河南副元帥・太尉兼侍中・臨淮郡王李光弼 河東節度副大使・守司空・兼兵部尚書・霍国公王思礼 左相・豳国公韋見素 太保・韓国公苗晋卿 中書令・趙国公崔圓 太原節度使・検校尚書左僕射・同中書門下平章事・金城郡王辛雲京 河西隴右副元帥・兵部尚書・同中書門下平章事・涼国公李抱玉 太子太師・検校尚書右僕射・知省事・信都郡王田神功 四鎮北庭涇原節度使・検校尚書左僕射・知省事・扶風郡王馬璘 左羽林軍大将軍・検校戸部尚書・兼御史大夫薛景仙 右散騎常侍・検校礼部尚書・兼御史大夫尚衡 太原尹・兼御史大夫・北都留守・河東節度副大使・南陽郡公鄧景山 河東節度副使・兼雁門郡太守・光禄卿賈循 礼部尚書・東京留守・酒泉県侯李憕 東平郡太守姚誾 右第二 盧弈、黄門監懐慎少子也。疏眉目、豊下、謹重寡欲、斤斤自脩。與兄奐名相上下、而剛毅過之。天宝初為鄠令、所治輒最、積功擢給事中、拜御史中丞。自懐慎・奐及弈、三居其官、清節似之、時伝其美。俄留臺東都、兼知武部選。 安禄山陷東都、吏亡散。弈前遣妻子懐印間道走京師、自朝服坐臺。被執、将殺之、即数禄山罪、徐顧賊徒曰:「為人臣者當識逆順、我不蹈失節、死何恨?」観者恐懼。弈臨刑、西向再拜而辭、罵賊不空口、逆黨為變色。肅宗詔贈礼部尚書、下有司謚。時以為洛陽亡、操兵者任其咎、執法吏去之可也、委身寇讎、以死誰懟?博士独孤及曰:「荀息殺身於晋、不食其言也。玄冥勤其官水死、守位忘躬也。伯姬待姆而火死、先礼後身也。彼死之日、皆於事無補。然則禄山亂大於里・丕、弈廉察之任、切於玄冥之官。分命所繋、不啻保姆。逆黨兵威、烈於水火。于斯時也、能與執干戈者同其戮力、挽之不來、推之不去、全操白刃之下、孰與夫懐安偸生者同其風?請謚曰貞烈。」詔可。 子、別有伝。子元輔。 元輔字子望、少以清行聞。擢進士、補崇文校書郎。死、徳宗念之不忘、拜元輔左拾遺。歴杭・常・絳三州刺史、課當最、召授吏部郎中、進累兵部侍郎、為華州刺史、卒。 元輔端静介正、能詔其祖、故歴顯劇、而人不以之惡為累云。 張介然者、猗氏人、本名六朗。性慎愿、長計畫。始為河・隴支郡太守。王忠嗣・皇甫惟明・哥舒翰踵領節度、並署營田・支度等使。入奏稱旨、賜與良渥。介然啓曰:「臣位三品、當給棨戟。若列於京師、雖富貴、不為郷人知、願得列戟故里。」玄宗許之、別賜戟京師第門、仍賜絹五百匹、宴閭里長老。本郷得列戟、自介然始。翰薦為少府監、歴衛尉卿。 禄山反、授河南節度採訪使、守陳留。陳留據水陸劇、居民孳夥、而太平久、不知戰。介然到屯不三日、賊已度河。車騎蹂騰、煙塵漫数十里、日為奪色。士聞鉦鼓聲、皆褫氣不能授甲。凡旬六日、城陷。初、有詔購賊首而暴誅慶宗状。禄山入陳留、見詔書、拊膺大哭曰:「我何罪!吾子亦何罪、乃殺之!」即大恚憤、殺陳留降者万人以逞、血流成川。斬介然於軍門。以偽将李廷望為節度使、守陳留。 禄山已拔陳留、則鼓而前、無敢亢。中宿攻滎陽、太守崔無詖率衆乘城、聞師譟、自隊如雨、無詖與官屬皆死賊手。以偽将武令珣戍焉。 無詖者、本韋后外家、博陵舊望也。始、無詖娶蕭至忠女、至忠敗、被貶。久乃為益州司馬。素善楊国忠、既用事、引為少府監、守滎陽。有詔贈礼部尚書、謚曰毅勇。
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上自西漢-太祖高皇帝-一八五 十八史略卷之二〓大風之歌ら歌うて曰く、大風起分雲飛揚。威加海內兮歸故〓。安得猛士はいちうしふかたう分守四方。と。沛中の子弟をして、之を習歌せしめ、沛を以て湯もいふ沐の邑となす。せききてうてうわうによいりよこううと始め、戚姫寵あり。趙王如意を生む。呂后、疏んぜらる。太子、じんじやくじやうおのれはい仁弱なり。上、如意が己に類するを以て、太子を廢して、之を立てぐんしんあらそみなうあたりよこうむと欲す。群臣、之を爭へども、皆得る能はず。呂后、人をして、ちやうりやうきやうえうわくけいこうぜつ張良を彊要して、畫計せしむ。良曰く、是れ口舌を以て爭ひ難きいたとうゑんこうきなり。忖ふに、上の致す能はざる所の者四人、曰く、東園公、綺里かくわうこうかくりせんせいまんぶことさらのが季、夏黃公、角里先生。上の士を嫚侮するを以て、故に、山中に逃かんたかれ匿れ、義として、漢の臣とならず。上、この四人を高しとす。今しよつくことばひくあんしやかたよろ太子をして、書を爲り、詞を卑うし、安車、固く請はしむれば、宜きたかくときしたがにふてうしく來るべし。至らば、以て客となし、時に從へて入朝し、上をしじよて之を見せしむれば則ち一助なりと。呂后、人をして、太子の書をまねうかついよい奉じて、之を招かしむ。四人至る。帝、布を擊つて還り、愈よ太子かのちちしゆたいしヒまいを易へむと欲す。後に置酒するや、太子侍す。良の招く所の四人のものしたがしゆびこうはくい7わんはなはるじやうあやし者從ふ。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚だ偉なり。上、怪んで之をすゝこたおってせいめいいおどろ問ふ。四人前んで對へ各姓名を言ふ。上、大に驚いて曰く、吾、すうさいひとうよこしたが公を求むる數歲、公、我を避逃す。今、何に自つて、吾が兒に從つあそへいかかろよのゝして遊ぶや。四人曰く、陛下、士を輕んじ、善く罵る。臣等、義としにづかじんかうきようけいて、辱しめられず。今、太子の仁孝恭敬にして、士を愛し、天下、西漢-太祖高皇帝-一八七 十八史略卷之二天頸を延べて太子の爲に死を願はざる者なきを聞き、故に臣等來るのみ。上曰く、公を煩はさむ、幸に卒に調護せよと。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示して曰く、我之を易へむと欲するも彼の四人の者、之を輔く。羽翼旣に成る、動かし難しと。蕭何、長安地陋く、上林中に空地の棄てられしもの多きを以て、評具護膚、明明人民をして、入つて田するを得せしめむを請ふ。上、大に怒つて、何上海市药物学院を廷尉に下して之を械繫す。數日にして之を赦す。く布を擊ちし時、)上流矢に中り、病甚し。呂后問ふ。陛下百歲の後蕭相國死せば誰か之に代るべき。曰く、曹參。其次は。べあ創曰く、いる下しりめたと王陵。然れども、少しく戇なり、陳平以て之を助くべし。平智餘あるも獨り任じ難し。周勃重厚にして文少し、大尉たらしむべし。14劉氏を安んずる者は、必ず勃ならむと。復た其次を問ふ。上曰く、其後は、亦た乃の知る所に非ざるなりと。上崩ず。長陵に葬る。漢王たりしこと四年、帝たりしこと八年、凡そ十二年。太子盈立つ、之を孝惠皇帝となす。評女呂人の歷朝一【孝惠皇帝】名は盈、母は呂太后。卽位の元年、ゐ呂后、趙王如意を者な·唯鴆殺し、戚夫人の手足を斷ち、眼を去り耳を燻べ、痞藥を飮ましめ、だ色手机取る〓中に居らしむ。命づけて人〓といひ、べき帝を召して之を觀せしむ。帝、驚いて大に哭し、因つて病み、歲餘起つ能はず。二年、蕭何卒す。齊相曹參、舍人をして、趣に裝を爲さしめ、西漢-太祖高皇帝-孝惠皇帝-一八九 十八史略卷之二一九〇吾、入つて相たらむといふ。使者果して參を召し、何に代つて相國となす。一に何の約束に遵ふ。百姓、之を歌うて曰く、蕭何爲相。較若畫一。曹參代之。守而勿失。載其〓淨。民以寧一と。五年。曹参卒す。六年。王陵、右丞相となり、陳平、左丞相となる。張良卒す。周勃、大尉となる。帝、在位七年にして崩ず。子なし、呂后、他人の子を取り、以て太子となし、是に至つて、卽位す。太后、朝に臨んで、制を稱す。元年。太后、諸呂を立てて王となさむことを議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑して、盟つて曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下之〓を擊てと。平、勃以て可となす。陵相を罷む。遂に呂氏を王とす。四年。太后、少帝を廢して、之を幽殺し、恆山王義を立てて帝となし、名を弘と改む。亦た佗人の子を名づけて、惠帝の子となせしものなり八年、太后崩ず。諸呂、亂を爲さむと欲す。時に、呂祿、北軍に將たり、呂產、南軍に將たり。大尉勃、兵を主る能はず。平、勃酈寄をして祿に說き、印を解き、兵を以て勃に授けしむ。勃、軍門右祖左祖し入り、令して曰く、呂氏の爲にする者は右袒せよ、劉氏の爲にす西漢-孝惠皇帝-九九 十八史略卷之二一九二る者は左袒せよと。軍中、皆、左袒す。朱虛侯劉章を召して、卒千こと〓餘人を與へ呂產を擊つて之を殺し、分部して悉く諸呂を捕へ少長となく、皆、之を斬る。諸大臣、代王恆を迎へ立つ王、西郷して讓るもの三たび、南〓して讓るもの再び、遂に位に卽く。子弘等を殺し、天下に赦す。之を太宗孝文皇帝となす。【孝文皇帝】名は恆、母は薄氏。龍.胸に據るを夢み、遂に帝を生む。尊んで皇太后となす。元年。陳平、左丞相たり、周勃、右丞相たり。時に千里の馬を獻ずる者あり、帝曰く、鸞旗前に在り、屬車後に評言天干干し千嵐んでくの帝在り。吉行には日に五十里、師行には日に三十里。朕千里の馬に名 にりにか、乘りて、獨り先づ、安くにか之かんと。是に於て、其馬を還し、道のれ之づ言眞か安に君是か先里の費を與ふ。而して、詔を下して曰く、朕、獻を受けざるなり。其れ、四方をして來り獻ずるなからしめよと。評帝、益す國家の事に明習す。朝して、右丞相勃に問うて曰く、と平文と周り示の格式陳B3 bo第十七天下一歲の決獄幾何ぞと。勃知らずと謝す。又問ふ、一歳の錢穀を所唆す3人生出入幾何ぞと。勃、又知らずと謝す。惶愧して汗出でて背を沾す。上、左丞相平に問ふ。平曰く、主者あり。若し決獄を問へば、廷尉を責めよ。錢穀を問へば、治粟内史を責めよ。上曰く、君の主る所のものは何事ぞ。平謝して曰く、陛下、臣を宰相に待たしむ。宰相西漢-孝文皇帝-一九三 十八史略卷之二一番は、上、天子を佐け、陰陽を理め、四時を順にし、下、萬物の宜し、きを遂げ、外、四夷を鎭撫し、内、百姓を親附し、卿大夫をして、大各其職を得しむと。童、善と稱す。勃大に慙ぢ、病を謝して免ず。;)い河南の守吳公、治平、天下第一たり。召して廷尉となす。吳公、賈誼洛陽の人賈誼を薦む。年二十餘。一歲中超遷して大中大夫となる。陳平卒す。二年。天下に今年の田租の半を賜ふ。三年。張釋之、廷尉となる上中渭橋を行く。一人あり、橋下に走る。乘輿の馬驚く。捕へて廷尉に屬す。釋之、奏す。蹕を犯すは、罰金に當すと。上怒る。釋之曰く、法、此の如し。更に之を重言の延張平價多様下くすれば、是れ、法、民に信ならず。廷尉は、天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用ゆる、皆之が爲に輕重せむ。民安んぞ手足を措く所あらむやと。上、良や久しうして曰く、廷尉の當、是なりと。其後、人、高廟の玉環を盗む者あり。得たり。廷尉に下して、治せしむ。釋之、奏す、棄市に當すと。上、大に怒つて曰く、人、先帝に·の器を盜む、吾之を族に致さむと欲す。然るを、廷尉、法を以て、之を奏す。吾が宗廟に共奉する所以の意に非ざるなり。釋之曰く、宗廟の器を盜んで、之を族せば、假りに、愚民長陵一抔の土を取らば、何を以て、其れに法を加へむやと。帝、之を許す。六年。淮南の属王長謀反す。廢徒せられて死す。民、之を歌ふ者西漢-孝文皇帝-一九五 十八史略卷之二〓あり。曰く、一尺布尙可縫一斗粟尙可春。兄弟二人不相容。と。帝、聞いて、之を病み、後、其四子を封じて候となす。匈奴の冒頓死す。是より先、上、議して、賈誼を以て、公卿に位せむとす。大臣、多く之を短る。上、以て長沙王の大傅となし、梁王の大傅に徒る。せ、買誼上疏上疏して曰く、方今の事勢、爲に痛哭すべきもの一、爲に流涕すべきもの二、爲に長太息すべきもの六と。十年。帝の舅薄昭、漢の使者を殺す。童、誅するに忍びず。公卿群臣をして、往いて之を哭せしむ。昭.自殺す。十二年。民に今年の田租の半を賜ふ。ほ十三年。大倉の令淳于意。罪あり、刑に當す。少女緹榮上書して曰く、死者は復た生くべからず、刑者は復た屬ぐべからず。願はくは、沒入して官婢となり、以て父の刑を贖はむと。上其意を憐み、詔して、肉刑を除く。び此の歲、田の租稅を免ず。方士用ゐら十六年。方士新垣平、上大夫となる。ぞ後元年。平、詐を以て誅に伏す。六年。匈奴、上郡雲中に寇す。將軍周亞夫に詔して細柳に屯せしむ。劉禮は霸上に次し、徐厲は棘門に次し、以て胡に備ふ上、自ら軍を勞して、霸上及び棘門の軍に至る。直に馳せ入る。大將以下、西漢-孝文皇帝一九七 十八史略卷之二天は騎して。送迎す。旣にして、細柳に之く。入るを得ず。先驅曰く、評國家大臣天子、軍門に至らむとす。都尉曰く、軍中には、將軍の令を聞く、武人の典型天子の詔を聞かずと。上、乃ち使を使し、節を持し、將軍亞夫に詔し、乃ち言を傳へて、門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、將軍約すらく、軍中驅馳するを得ずと。上、乃ち轡を按じて徐行し、營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上曰く、嗟乎、是れ眞の將軍なり。さきの霸上棘門の軍は、兒戯のみと。七年。帝崩ず。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、增益する所なし。嘗て、露臺を作らむと欲し、匠を召して、之を計らしむ。直百金上曰く、中人十家の產なり、何ぞ臺を以て爲さむと。身に弋評君なり漢祚孝文は仁綿を衣、ご幸する所の愼夫人、衣、地を曳かず、朴を示して、天下のす文大せ四を克べの本る百し德蓋も年〓先となる。吳王、朝せず、賜ふに凡杖を以てす。張武、賂の金錢をの其とにし歸孝受く。更に賞賜を加へ、以て其心を愧ぢしむ。專ら德を以て民を化す。當時の公卿大夫、風流篤厚にして、人の過を言ふを恥ぢ、上下俗を成す。之を以て海內安寧、家給し、人足り、後世及ぶなし。霸陵に葬る。太子卽位す、之を孝景皇帝となす。【孝景皇帝】名は啓。卽位の元年、丞相申屠嘉、奏す。功は、高皇帝より大なるはなし、宜しく、帝者太祖の廟となすべし。德は、孝文皇帝より盛なるはなし、宜しく、帝者太宗の廟となすべしと。制して曰く、可と。西漢-孝文皇帝-孝景皇帝一九九 十八史略卷之二二〇〇p.帝、太子たりし時、量錯、家令たり。幸を得たり。太子の家、號して智囊といふ。帝卽位するや、錯、內史となり、數ば閒を請うて事を言ひ、輒ち聽かる。寵.九卿を傾け、法令、更定する所多し。初め、孝文の時、吳王溥の太子、入つて見え、皇太子に侍して飮評產品酒今をするを得たり。博して道を爭ひ、不恭なり。皇太子、博局を引いて時にはい軌を一にす之を提殺す。澳、疾と稱して朝せず。錯數ば吳の過、削るべきを言ふ。文帝、忍びず、帝位に卽くに及び、錯曰く、吳王、天下の亡부人を誘ひ、亂を作さむことを謀る。今、之を削るも亦た反し、削らわざはひせうざるも亦た反せむ。之を削れば、反すること亟。にして、禍小ならむ。削らざれば、反すること遲くして禍大ならむと。上、公卿列侯宗室をして、雜議せしむ。敢て難ずるなし。量錯、又言ふ、楚趙罪あり、一郡を削らむ。膠西姦あり、六郡を削らむと。吳の會稽豫章七國叛すを削るに及び書至る。吳王、遂に反す。膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙、皆、先に吳の約あり。是に至つて、同じく反す。齊王、先に諾して、後に悔ゆ。初め、文帝旦に崩ぜむとするや、太子を戒めて曰く、若し緩急あらば、周亞天、眞に將に任ずべしと。七國の反するに及び、亞夫を大尉に拜し、三十六將軍に將として、往いて吳楚を擊たしむ。量錯、え素より袁盎と善からず。盎言ふ、獨り、錯を斬つて諸侯の故地を復〓するあれば、兵、刄に血ぬることなくして罷むべしと。錯是に於西漢-孝景皇帝-二〇一 十八史略卷之二二〇二て、東市に腰斬せられ、父母妻子同產少長となく、皆棄市せらる。周亞父、大に吳楚を破り、諸反、皆平らぐ。亞父、後に相となり、是れ鞅評上の意に忤ひ、罷む。上曰く、第周いうもに父終し軍功し全か一亞條侯に封ぜらる。諫を以て、inて惜を而ずり哉せ鞅として、少主の臣に非ずと、卒に人に誣告せられ、獄に下り、血を嘔いて死す。漢興つてより、繁苛を掃除し、民と休息す。孝文、加ふるに、恭俗を儉を以てす。帝の業を遵ぐに至り、五六十載の間、風を移し、易ふ。黎民醇厚、國家無事。人給し、家足る。都鄙の廩庾皆滿ち、府庫は貲財を餘す。京師の錢、鉅萬を累ね、貫朽ちて、校すべから〓あひよす。太倉の粟陳陳相因り、充溢して、外に露積し、紅腐勝げて食ふべからず。吏たる者は、子孫を長じ、官に居る者は、以て姓號となひと〓〓じはす。故に倉氏、庫氏あり、人人自愛して、法を犯すを重かる。而〓も、罔疏にして民富み、或は驕溢に至り、兼〓の徒〓曲を武斷し、宗室有土公卿以下、奢侈度なし。物盛にして衰ふるは、素より、其變なり。帝崩ず、在位十七年。中元、後元あり。太子立つ、之を世宗孝武皇帝となす。【孝武皇帝】名は徹。卽位の元年、始めて、改元して建元といふ。年號の始年に號あるは、是に始まる。評董仲舒の賢良方正直言極諫の士を擧げて、親ら之を策問す。廣川の董仲明治三十七年料金免除の舒對して曰く、事は强勉に在るのみ。强勉して學問すれば、聞見博漢-孝景皇帝-孝武皇帝二〇三 十八史略卷之二二〇四くして、智益す明かに、强勉して道を行へば、德日に起つて大に功ありと。又曰く、人君は心を正し、以て朝廷を正し、朝廷を正し、以て百官を正し、百官を正し、以て萬民を正し、萬民を正し、以て四方を正し、四方正しくして、遠近正に一ならざるなく、而かも、邪氣の其間に奸するなし。之を以て、陰陽調ひ、風雨時あり、群生和し、萬民殖し、諸福の物之を致すべく、祥畢く至らざるなし、而して、王道畢る。陛下、行高くして恩厚く、知明かにして意美、民を愛して士を好む。然り而して、〓化立たず、萬民正しからず。例へば、琴瑟調はざる甚しき者は、必ず解いて之を更張し、乃ち鼓すべきなり。政を爲して行はれざること、甚しき者は、必ず變じて之を更化し、乃ち理むべきなり。漢天下を得てより以來、常に治を欲す。而して、今に至つて善く治すべからざるものは、當に更化すべくして、而かも更化せざればなりと。又曰く、士を養ふは、太學より大なるはなし。太學は賢士の關る所なり、〓化の本原なり。願はくは、太學を興し、明師を置き、以て天下の士を食はむと。又曰く、郡守縣令は、民の師帥、承流して、宣化せしむる所なり。宜しく、列侯郡守をして、各、其吏民の賢なる者を擇んで、歲毎に各三人を貢せしむべしと。又曰く、春秋は一統を大にするもの、天地の常經、古今の通誼なり。今、師毎に道を異にし、人每に論を異にす。臣愚、以爲へらく、諸の六藝の科、孔子の術に非ざるもの西漢-孝武皇帝-二〇五 十八史略卷之二二〇六は、皆其道を絕ち、然る後に、統紀一にすべく、法度明かにすべく、而して、民、從ふ所を知らむと。上、其對を善とし、以て江都の相となす。上使者を使し、安車蒲輪、束帛加壁を奉じて、魯の申公を迎へ正しむ。旣に至るや、治亂の事を問ふ公、年八十餘、對へて曰く、申公進言治を爲すは、多言に在らず、力行如何を顧みるのみと。三年闘越東〓を擊つ使を遣し、兵を發して、之を救ひ、其衆を江淮の間に徒す。だ帝、始めて微行をなし、上林苑を起す。五年五經博士を置くびん三つ六年。聞越、南越を擊つ。王恢等を遣して、之を擊たしむ。げんくわうぐわんねん元光元年始めて、郡國に令して、孝廉各一人を擧ぐ。上方士李少君十二年。方士李少君、上に見ゆ善く巧發奇中をなす。言ふ、竈を祠れば、物を致し、丹砂化して黄金となすべく、蓬萊の仙者、見るべし、之を見て以て封禪すれば、死せずと。上、之を信じ、始めて、;親ら竈を祠り、方士を遣し、海に入つて、蓬萊、安期生の屬を求めしむ。海上、燕齊、迂怪の士多く更る來つて神事を言ふ上大行王恢の議を用ゐ、恢等を遣し、兵に將として、馬邑の旁谷中に匿れ、聶壹をして匈奴を誘うて、塞に入れて之を擊たしむ。き單于、覺つて去る。是より、和親を絕ち、當路の塞を攻む。西漢-孝武皇帝-二〇七 十八史略卷之二二〇八唐蒙、上書して、南夷に通ぜむことを請ふ。蒙を中郞將に拜し、千人に將として、夜郞に入る。夜郞侯、約を聽く。以て犍爲郡となす。又、司馬相如を拜して中郞將となし、西夷に通ず。印筰、冉馳に郡縣を置く。西は沫若水に至り、南は特牁に至つて、微となす。吏民の、當世の務に明かに、先聖の術を習ふものを徴し、縣次とに續食して、計と偕にせしむ。菑川の公孫弘、對策して曰く、人生、上に和德あれば、百姓下に和合す。故に、心和すれば氣和し、氣和すれば形 和し、形 和すれば聲和し、聲和すれば天地の和應ずと策奏す。擢んでて第一となし、金馬門に待詔せしむ。齊人轅固、年九十餘、亦た賢良を以て徵さる。弘、目を仄てて之に事ふ。曲學阿世固曰く、公孫子、正學を務めよと。以て曲學以て世に阿るなきを云ふなり。六年。始めて、商車を算す。匈奴、上谷に寇す。將軍衞靑等を遣し、擊つて、之を卻く。元朔元年主父偃、上書して、匈奴を伐つを諫む。嚴安、亦た上書す。及び徐樂、亦た上書して云ふ、陛下、何を威してか成らざらぞむ、何を征してか服せざらむと。書奏す。上召し見て曰く、公等皆安くに在りしか、何ぞ相見るの晩きやと。皆、郞中に拜す。此の秋匈奴入寇し、二年、又入寇す。衞靑等を遣して、之を擊ち、遂西漢-孝武皇帝-二〇九 十八史略卷之二二一〇に河南の地を取り、朔方郡を置く。五年。公孫弘、丞相となり、平津候に封ぜらる。上、方に功業を興す。弘、是に於て、東閣を開いて、以て賢人を延く。匈奴、朔方に寇す。衞靑を遣し、六將軍を率ゐて之を擊たしむ。還る。靑を以て大將軍となす。匈奴、代に入る。六年。春、衞靑等六將軍を遣して、匈奴を擊たしむ。夏、再び遣るはくばうこうちやうけん元狩元年博望候張騫を遣して、西域に使し、滇國に通ず。二年。霍去病を以て、驃騎將軍となし、擊つて、匈奴を敗り、焉支祁連山を過ぎて還る。匈奴の渾邪王降る。五屬國を置いて、以て其衆を處らしむ。三年匈奴、右北平、定襄に入る。四年衞靑、霍去病を遣して、匈奴を擊たしむ。去病、狼居胥山を封じて還る元鼎二年方士文成將軍李少翁、詐を以て誅せらる。西域、始めて通ず。酒泉、武威の郡を置く五年。將軍路博德等を遣して、南越を擊たしむ。方士五利將軍欒大、詐を以て誅せらる。六年。西羌を討つて、之を平らぐ。西漢-孝武皇帝-二一一 十八史略卷之二二一二南越平らぐ、九郡を置く。E元封元年帝、長城を出でて、單于臺に上り、使を遣して、單于に〓げしめて曰く、南越王の頭、旣に漢の北關の下に懸れり。今、單于能く戰はば、天子自ら將として、邊に待たむと。帝、縦氏に如き、中嶽に登り、遂に東、海上を巡り、泰山に封じか、肅然に禪し、復た東北して、碣石に至つて還る。えきしうぐん一滇王降る、益州郡を置く。三年樓蘭を擊つて、其王を虜にし、車師を擊つて、之を敗る。朝鮮降る。樂浪、臨屯、玄菟、眞番の郡を置く。匈奴、邊に寇す。兵を遣して、朔方に屯す。五年。南、江漢を巡り、泰山に至り、封を增す。六年。昆明を擊つ太初元年帝、泰山に如く。十一月甲子朔旦、冬至、太初層をり正月を以て歲首となす。李廣利を遣して、大宛を伐つ。克たず。趙破奴を遣して、匈奴を擊たしむ。三年。匈奴大に入つて、塞外の城障を破る。大に兵を發し、李廣利に從つて、宛を伐たしむ。宛、降る。善馬數十匹を得たり。四年。匈奴の單于、使を使して來り獻ず。西漢-孝武皇帝-二一三 十八史略卷之二二一四蘇武天漢元年中郎將蘇武を遣はし匈奴に使せしむ。單于、之を降さむと欲し、大窖の中に置き、絕えて飮食せしめず、武、雪と旃毛とを齧んで、〓せて之を咽み、數日死せず、匈奴以て神となす。武を北海上、無人の處に徒し、抵を牧はしめ、曰く、抵乳せば、乃ち歸るを得せしめむと。二年李廣利を遣して、匈奴を擊たしむ。別將李陵、敗れて虜に降る上法制を以て下を御し、好んで、酷吏を尊用す。東方、盜賊、÷滋、起る。使者を遣し、繡衣を衣、斧を持して、督捕せしめ、二千石以下を斬るを得せしむ。四年。李廣利、匈奴を擊つて利あらず。太始三年帝、東瑯琊を巡り、海に浮んで還る四年。東巡して、明堂を祀り、封禪を修す。征和二年巫蠱の事作る。帝、甘泉に如き、江充を以て使者となし、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘つて云ふ、木人を得ること尤も多しと。太子據、懼れ、客をして、佯つて使者たらしめ、充を母衞皇后に白し、收捕して、之を斬り、中厩の車を發し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を發す。上、甘泉より來り、詔して、三輔の兵を發す。丞相劉屈釐、是に將たり。太子も亦制を矯めて兵を發し、丞相の軍に逢ひ、兵、合戰すること五日、死西漢-孝武皇帝-二一五 十八史略卷之二二二六くわうごうじさつたいしにこじけいする者數萬。皇后自殺す。太子亡げて、湖に至つて、自經して死かうべうしんらうでんせんしうはくとうをうす。後に、高廟の寢郞田千秋といふ者あり。上書して言ふ白頭翁しんをしろうむちうあり、臣に〓へて云ふ、子、父の兵を弄す、當に答つべしと。上、さとしんれい悟つて曰く、是れ、高廟の神靈、我に告ぐるなり、太子の罪なきをきらいばうしだいかなし望思之臺知ると。歸來望思の臺を廟に作る。天下、聞いて、之を悲む。けうどごげんしゆせんあだりくわうり三年。匈奴、五原、酒泉に寇す。李廣利を遣して、之を擊つ。廣くだ利匈奴に降る。はうししんじんこう四年。方士の神人を候する者を罷む。でんせんしうしやうふみんこうりんだいとんでんや輪臺之詔田千秋を以て相となし、富民侯に封ず。輪臺の屯田を議するを罷みことのりきわうくわいのめ詔を下して、深く旣往の悔を陳ぶ。こうげん二年2じやうさくきうみゆきやまひあつくわくくわうだいしばだいしやう孝た絕武を後九上、五柞宮に幸す。病篤し、霍光を以て、大司馬大將櫛皇どた亦且む其英大略主ゝのぐんゐせうたすかい軍となし、遺詔を受けて、太子を輔けしむ。上、在位五十四年、改風帝もり歷つる版沐に世 朝大の圖憐し放經のてのれ冠るく廣げんけんげんげんさくげんしゆげんてい元するもの十有一。曰く、建元、元光、元朔、元狩、元鼎、元封、ゆうざいたいりやくぶんけいほう太初、天漢、太始、征和、後元。上、雄材大略、文景豐富の後を受きうきよくかうていへいじやううれひのこせいじやうこうけ、武事を窮極す。嘗て謂ふ、高帝、平城の憂を遺す、齊の襄公訓鍊あだえしばしけうどせいかん九世の讐を復するが如くならむを思ふと。數ば匈奴を征し、漢の兵を世ず情恣故·ずりのて察て縱端漢せ下自せい3のがばくなんわうていうひら勢を盡す。匈奴、遠く遁れ、幕南に王庭なし。地を斥き、郡縣を立け運却じゆかうじやうせいゐきせいなんいてうせん啓衰て、受降城を置く西域に通じ、西南夷に通じ、東朝鮮を擊ち、えつきづうぐんりよとしごと內は土木どことじやうふん南粤を伐ち、軍旅歲毎に起る。を事とし、上苑を築いて南しよくはくれうだいしようろどうばん山に屬し、柏梁臺を建て、承露銅盤を作る、高さ二十丈、大さ七西漢-孝武皇帝-二一七 十八史略卷之二二一八ゐぜんにんしやうはうしこうそんけいろうきよ圍、上に仙人掌あり。方士公孫卿、神仙は樓居を好むと言ひしを以ひれんけいくわんつうてんけいだいしゆざんけんしやうきうて、蜚廉桂館、通天莖臺を作り、首山の宮を作り、建章宮を作るほうかくこけんたいえきちぜんだいほうらいはう千門萬戶。東は鳳閣、西は虎圈、北は太液池。中に漸臺、蓬萊、方ぎよくだうしんめいだい丈?えいしうれうへきもんめいくわうきう瀛洲、壺梁あり。南は玉堂、壁門、神明臺を立つ。明光宮を作しびきはしばしじゆんかうししたつとほうぜんしうこくる皆、修靡を極む數ば巡幸して、祠祀を崇び封禪を修す。國ないきふしやくきふうろくひへいはくきんつくさうこうやうこうきん內給せず、武功の爵級を賣り、鹿皮幣白金を造る。桑弘羊、孔僅のときんゆへいじゆんはふつくおこたすえんくわんおしう徒、均輸平準法を作り、利を興し、以て費を佐く。鹽官を置き、舟しやさんびんせんせうぜんたうおこりんだい車を算し、緡錢を造る。天下、蕭然たり。末年、盜起る輪臺の一せうなかかんはとしんじようしやう詔微つせば、漢幾んど秦たるを免れず。用ゆる所の丞相惟だでんふんもつばじやうけいぢよ蚜に謂つてり田蚡のみ、稍や專らにす。上、嘗て、曰く、卿吏を除っする、盡くるや未だしや、吾も亦た吏を除せむと欲すと。後は皆位みこうそんこうちうに充つるのみ。公孫弘の後、國家多事、丞相、しきりに、誅を以てこうそんがていきうあ、死す。公孫賀、相に拜せられ、涕泣して、肯て拜せざるに至る、亦こくりちやうたうてううとしうぎしようわうおんじよとた罪を以て死す。酷吏、張湯、趙禹、杜周、義縱、王溫舒の徒、皆けいはふしゆんようたうら嘗て刑法を峻用す。然れども、湯等、罪あれば亦た貸さざるなり。ぼくしきげいくわんぞくきふあんげん汲點嚴を以其閒、ト式兒寬の屬、亦た長者を以て用ゐらる。汲黯、獨り嚴をて憚らるはゞかせつかんしゆせいじやう以て憚らる。切諌して內に留まるを得ず、東海の守となり、〓淨をかふないぐわけい好み、閤內に臥して出でず、然かも、郡中大に治まる。入つて九卿ぶんがくあんとなる。上、方に文學を招く。嘗て曰く、吾、云々せむと欲す。黯いはたよくじんぎほどこいかんたうぐう曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す、奈何ぞ唐虞の治に西漢-孝武皇帝-二一九 十八史略卷之二〓三〇效はむと欲するかと。上、怒つて朝を罷む。曰く、甚しい哉、汲黯の態なるやと。他日、又曰く、古しへ社稷の臣あり。黯之に近しと。淮南王安、反を謀る。曰く、漢廷の大臣、獨り、汲黯、直諫を好む、節を守り、義に死せむ。丞相弘の如きは、之を說くこと、蒙を發くが如きのみと。黯嘗て、淮陽の守に拜せらる。曰く、臣病む、郡事に任ずる能はず。願はくは郞中となり、禁闔に出入し、過 を補ひ、遺ちたるを拾はむ。上曰く、君、淮陽を薄しとするか。吾、今、君を召す。おもふに、淮陽の吏民、相得ず、惟だ君の重きを得て、臥して之を治めよと。淮陽に至り、十歲、竟に卒す。黯甚だ上に重んぜらる大將軍衞靑、貴と雖も、上、或は厠に踞して之を見る。黯の如きは冠せざれば見ざるなり。上、天下材智の士、吾俊異の者を招選して、之を寵用す。莊助、朱買臣、丘、壽王、司馬ばいくわうしうぐんら相如、東方朔、枚皐、終軍等、左右に在り。相如、特に詞賦を以て幸を得たり。朔皐は、持論を根とせず、該諧を好む。上、俳優を以てま、之を畜ふ。朔嘗て、上の前の侏儒に語る。以爲へらく、上之を殺さむと欲すと。侏儒、泣いて命を請ふ。上、朔に問ふ。朔曰く、侏儒飽いて死なむと欲す、臣朔饑ゑて死なむと欲すと。伏日に肉を賜ふこと晏し。朔先づ肉を斫つて持して歸る。上、召して問ひ、自ら責めしむ。朔曰く、賜を受くるに詔を待たず、何ぞ無禮なるや。劍を拔いて、肉を斫る、何ぞ壯なるや。之を斫つて多からず、何ぞ西漢-孝武皇帝- 十八史略卷之二さいくんおくじんれん朔、亦廉なるや。歸つて細君に遣る、何ぞ仁なるやと。然れども、ちよくかんりせうくんしんせんた時に直諫して補益する所あり。李少君より以來、神仙を求めて已ぶんせいちうりいた上まず、文成誅せられて、五利至る。五利、文成を以て言となす。はかんくら曰く、文成、馬肝を食うて死するのみと、五利、又誅せらるるに及こうそんけいらもつとちやうしんまつねんすなはさとてんかび、公孫卿等、尤も聽信せらる末年、帝、乃ち悟つて曰く、天下せついくふあえうはうやや病評天下豈仙豈に仙人あらむや、盡く妖妄のみ、食を節し、藥を服せば、人あらんやかんおこけいていけうしよえのぞ少かるべきのみと。漢興つて、惠帝、旣に挾書の禁を除き、文帝、いうがくひろじゆがくつひと〓〓さかん旣に遊學の路を廣むと雖も、然れども、儒學、終に未だ盡く盛なとうちうじよこうそんこうしゆんじうげいらず。帝の世に至つて、董仲舒、公孫弘、皆、春秋を以て進み、兒けいじゆつりかざまたこうあんこくらくわん六寛.亦た經術を以て吏事を飾る。後、又孔安國等、出づるあり。けいへうしやうじつていはじしばしずゐしやう經を表章すること、はくりんしゆがんしはうはうてい實に帝より始まる。がくしやうつく數ば瑞祥を得たり。かうべう白麟、芝房、すぶんしやう朱鴈、寶鼎、皆、樂章を爲り、之を郊廟に薦む文章も、亦だいぶじゆた帝の世に至つて始めて盛なり。ほうれうはふむ人以て三代の風ありとなす。かうせうくわうてい帝、壽七十にして崩ず。茂陵に葬る。太子立つ、之を孝昭皇帝となす。ふつれううよく六じんてうしはら【孝昭皇帝】名は弗陵、母は釣弋夫人趙氏、うま娠んで十四月にして生ぶていなげうぼもん武帝、さうだいる。たち其門に命づけて、堯母門といふ。年七歲、體壯大にぐんしん多知なり。武帝、たくわくくわうして、ちうこうたいじにん之を立てむと欲す。群臣を察するに、唯だ霍光忠厚くわうもんしうこうせいわう霍光、忠厚、大事に任ずべし。お黃門をして、周公、成王を負う評武帝鈎弋てうゑがくわうたまて、諸侯に朝せしむるを畫いて、こうよくふじんけん以て光に賜はしむ。鈎七夫人を譴理賜夫たら人に辯死非一をせきたまいにこくかみだゆゑん死を賜うて曰く、しゆせう責し、はゝさう古しへ、國家の亂るる所以、主少、母壯に西漢-孝武皇帝-孝昭皇帝-二二三 二二四十八史略卷之二遂に卽驕淫自ら恣にするに由るなりと。明年、武帝崩ず。人之あ然情をるれして、ずはに之でに殺がど非す故も反を謀る。赦して治位す。燕王旦、長にして立つを得ざるを以て、せず。黨與誅に伏す。野始元六年、蘇武、匈奴より還る。武、初め、北海の上に徒り、ら李陵、武臥起、漢の節を持す。鼠を掘り、草實を去へて、之を食ふ。に謂つて曰く、人生は朝露の如し、何ぞ自ら苦むこと此の如きと。亦た屢ば武に降を陵、衞律と與に匈奴に降つて、皆、富貴。律も、す、匈奴、詭つて、武、勸む。終に肯んぜず。漢の使者、匈奴に至る。旣に死したりといふ。漢使、之を知り、言ふ、天子、上林中に射て匈奴、膓を得たり、足に帛書あり、云ふ、武、大澤の中に在りと。か.隱す能はず、乃ち武をして還らしむ。武、匈奴に留まること十九年、しゆはつこと〓〓初め强壯を以て出で、還るに及びて、須髮盡く白し。拜して典屬ミ國となす。左將軍上官桀の子安、電光の婿たり。女を生む。立ちて皇后となる。桀と安と、自ら后の祖父たるを以て、乃ち光が外祖を以て朝事を專制するに若はず。桀と光と權を爭ふ。時に鄂國蓋長公主、愛する所の丁外人の爲に封侯を求め、許されず、光を怨む。燕王旦、自ら帝の兄を以て、常に怨望す。御史大夫桑弘羊、子弟の爲、に官を求めしが得ず、亦た怨望す。是に於て、皆、旦と謀を通じ、詐つて、人をして、旦の爲に上書せしむ。言ふ。光出でて郞羽林を西漢ー孝昭皇帝ー二三五 十八史略卷之二三六都肆し、道上に蹕と稱し、擅 に莫府の校尉を調益し、權を專にして、自ら恣にす。疑ふらくは、非常あらむと。光の出沐の日を候うて之を奏し、桀中より其事を下し、弘羊、當に大臣と共に執つあ、て光を退かしめんと欲す。書奏す。帝、肯て下さず。明旦、光評明治三十七年四月二日發行霍名光之を聞き、畫室中に止まつて入らず。上問ふ、大將軍、安くに在然燕王、其罪を告ぐるを以て、敢て入らずと。詔し成むふぞらのれる桀曰く、の得完何あ帝て、大將軍を召す。光入り、冠を免いで、頓首して謝す。上曰く、將軍、廣明に之いて、郞を都するは、屬のみ。校尉を調して以來、以王未だ十日なる能はず。燕王、何を以て之を知るを得む。且つ將軍、正式見る公とかつ所に以如非を爲せば、尉校を須ゐずと。この時、元鳳元年、帝、年十四。尙し)昭帝年僅か書、左右、皆驚く。而して、上書せし者、果して亡ぐ。之を捕ふる十ばく父若のをに克な皇し明鑑しら帝在あ別てにる邪四上に白す、忠こと甚だ急桀等懼れ、小事なり、遂ぐるに足らずと。しの位りす去、聽かず。後に、桀の黨、光を譖する者あり。上、輙ち怒つて曰せた祚め如乃く大將軍は忠臣、先帝の屬する所、以て朕の身を輔く、敢て毀るく漢りり中し興必主者あれば、之を坐せむと。是より、敢て復た言ふなし。桀等、謀り長公主をして、置酒して、光を請はしめ、兵を伏せて、之を格殺し、因つて、帝を廢して旦を立てむと欲す。安、又謀つて、旦を誘うて至らしめて、之を誅し、帝を廢して、桀を立てむとす。會ま、其謀を知る者あり、以聞す。桀.安、弘羊等を捕へ宗族を〓せミて、盡く之を誅す。蓋主旦と皆自殺す。西漢-孝昭皇帝-二二七 十八史略卷之二元四年、傅介子、西域に使し、樓蘭主を誘うて、之を刺殺し、傳を馳せて、闕に詣る。其匈奴の爲に反閒するを以てなり。元平元年帝、二十一にして崩ず。在位十四年。元を改むる三。曰く、始元、元鳳、元平。電光、政を爲し、民と休息し、天下無事。昌邑王賀は、哀王博の子、武帝の孫なり。光、賀を迎へて、入つて位に卽かしめ、皇后を尊んで皇太后となす。賀、淫戯度なし。光、奏して、之を廢し、武帝の會孫を迎立す、之を中宗孝宣皇帝となす。【孝宣皇帝】初名は病己。後改めて詢と名づく。武帝の曾孫なり。初め、戾太子據、史良娣を納れて、史皇孫進を生み、進病己を生む。數月にして、巫蠱の事に遭ひ、皆、獄に繫がる。氣を望む者言こと〓〓ふ長安獄中に天子の氣ありと武帝、使を遣し、盡く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治す。拒んで納れず。曰く、佗人の無辜も尙ほ不可なり。況んや、皇曾孫をやと。使者還つて報ず。武帝曰く、天なりと。長ずるに及びて、高材にして學を好み、亦た游俠を得失を知る。喜び、具さに間里の姦邪、吏治の昭帝の元鳳中、泰山に大石あり、自ら起立す。上林に僵樹あり、復た起つ。蠶其葉を食うて曰く、公孫病己、立たむと。賀の廢せらるるに及び、病己年十八。光等奏す、病己、躬、節儉慈仁にして、人を愛す、以て孝昭の後を嗣ぐべしと。迎へ入れて位に卽かしむ。旣に立つて六年、霍光西漢-孝宣皇帝-二二九 十八史略卷之二二三〇卒す。始めて政を親らす。評酸更地節三年路溫舒、上書して言ふ、秦に十失あり。其一、尙ほ存を蹂躙す人 /治獄の吏、inミの弊古る今易す。是なり。俗語に曰く、地を畫して獄となすも、入ららず恐ベミき哉ざらむを議し、木に刻して吏となすも、對せざらむを期すと。是れ悲痛の辭なり。願はくは、法制を省いて、刑罪を寛にせよ、則ち太ハ平興すべしと。上、爲に廷尉平を置き獄刑號して平となす。膠東の相王成、勞來怠らず。治に異績あり。爵、關內侯を賜ふ。魏相、丞相となり、丙吉、御史太夫となる。;四年。霍氏、謀反し、誅に伏す。其族を夷し、告ぐる者、皆、列侯に封ぜらる。初め、霍氏奢縱なり。茂陵の人徐福上疏して言ふ、宜しく、時を以て、抑制して、亡に至らしむる無かれと。書三たび 評ふ直る徐 明る所福しのの上說曲疏上る、聽かず。是に至り、人徐生の爲に上書して曰く、客、主味突す人に過るあり。其竈の直突にして、傍に積薪あるを見、主人に謂ふ、更めて、曲突となし、速に其新を徒せと。主人、應ぜず。俄に失火まあり。〓里共に之を救ひ、幸にして、息むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、其〓人に謝す。人主人に謂つて曰く、さきに客の言を聽かしめば、牛酒を費さず、終に火患なからむと。今、功を論じて賞するに、曲突にして薪を徒せとする者には恩澤なく、頭を焦し額をさ爛す者を上客となすかと。上乃ち、福に帛を賜ひ、以て郞となす。帝の初めて立つて、高廟に謁するや、霍光、驂乘す。上、之を嚴西漢-孝宣皇帝-二三一 十八史略卷之二三憚して、芒刺の背に在るが如し。後に張安世、光に代つて驂乘するや、上、從容肆體、甚だ安近す。故に俗に傳ふ、霍氏の禍は驂乘に萌すと。たいしゆ〓〓いふ北海の太守朱邑、治行第一を以て、入つて、大司農となる。渤海の太守襲遂、入つて、水衡都尉となる。是より先、渤海歲饑ゑ、盜評の說用意周龔遂治邊起る。遂を選んで、太守となす。召し見て問ふ、何を以て、盜を治到といふ可むと。遂、對へて曰く、海濱遐遠、聖化に活はず。其民飢寒、然も吏恤まず。陛下の赤子をして、兵を潰池の中に盜弄せしむるのみ今、臣をして之に勝たしめむと欲するか將た之を安んぜしむるか。上曰く、賢良を選用す。素より、之を安んぜむと欲す。遂曰く、亂民を治むるは、亂繩を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは、臣を拘するに文法を以てする勿れ、便宜を得て事に從はむと。上、許す。傳に乘じて、渤海の界に至るや、郡兵を發して迎ふ。遂、皆遣し還し、書を移して、捕を罷め、諸の田器を持する者を良民となし、兵を持する者を盜となす。遂、單車にして府に至る。盜聞いて、卽時に解散す。民、刀劍を持する者あれば、劍を賣つて牛を買ひ、刀を賣つて犢を買はしむ。曰く、何すれぞ。牛を帶び犢を佩ぶるやと。勞來巡行す。郡中、皆、蓄積あり。獄訟止息す。是に至り、召されて入る。評宣帝の時け、てう良吏輩出す元康元年京兆の尹趙廣漢を殺す。初め、廣漢、頴川の太守とな西漢-孝宣皇帝-二三三 十八史略卷之二三四廣漢は其一る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、飾項筩を爲り、吏民の投書人なりを受け、相告評せしむ。姦黨散落し、盜賊發するを得ず。之に由り、入つて、京兆の尹となる。尤も善く鉤距を爲し以て其情を得。さ閭里銖兩の奸も皆知る。姦を發し、伏を摘する。神の如し。京兆、政、〓し。長老傳ふ。漢興つてより、京兆を治むる者、能く及ぶなしと。是に至つて、人、上書して言ふ、廣漢、私怨を以て、人を論殺すと。廷尉に下す。吏民、闕を守つて、號泣する者數萬人。竟に坐して要斬せらる。廣漢、廉明にして、豪强を威制し、小民職を得たり。百姓追思して之を歌ふ。す尹翁歸を以て、右扶風となす。翁歸、初め、東海の太守となり、法過ぎて、廷尉于定國に辭す。定國、邑子を託せむと欲す。語ることあ、終日竟に敢て見せしめず。曰く、是れ賢將なり。汝、事に任へざるなり又子すに私を以てすべからずと。治郡の高第を以て、遂に入つて治す。常に三輔の最となる。評魏相名言二年。上匈奴の衰弱に因り、兵を出して、其右地を擊ち、復た義兵、應兵、忿兵、貪兵驕兵の別、西域を擾さざらしめむと欲す。魏相、諫めて曰く、亂を救ひ暴をすな三り思誅する、之を義兵といふ。兵義なるものは王たり。敵己に加へ、已むを得ずして起つもの、之を應兵といふ兵應ずるものは勝つ。小故を爭ひ恨み、憤怒に忍びざるもの、之を忿兵といふ。兵忿るものは敗る。人の土地貨寶を利するもの、之を貪兵といふ兵貪るも西漢-孝宣皇帝-二三五 十八史略卷之二二三六たのしゆうほこるしのは破る。國家の大を恃み、人民の衆を矜つて、威を敵に見めさむけうへいへいおごつつけうどんんと欲するもの、之を驕兵といふ。兵驕るものは滅す。匈奴、未だ邊きやうをかだしんぐ境を犯せしことあらず。今、兵を興して其地に入らむと欲す。臣愚にして此兵、何の名たるを知らざるなり。今年、計るに、子弟、父ぜうへんさ兄を殺し、妻、夫を殺せし者、二百二十二人。是れ小變に非ず。左いううれすなはせんかいいかりゑんい右憂へず、乃ち兵を發して、纎芥の忿を遠夷に報いむと欲す。殆んこうしいはゆるそんうれひせんゆせうしやうど孔子の所謂、吾恐る、季孫の憂は、顳史に在らずして、蕭牆の內じやうしやうに在るものなりと。上相の言に從ふ。がいたいしたいふそくわう兄の子太子少傅疏受と共に、たいしせうふそじゆじやうそ三年。太子太傅疏廣、上疏して、骸こつゆるかしこうけいこじん÷だうまうとうもん祖道宴骨を乞ふ。之を許し、黄金を加賜し、公卿故人、祖道を設け、東門ぐわいきようちやうくるますうひやくりやうだうろみけん外に供張す。送る者、車數百兩道路觀る者、皆曰く、賢なるきようぐぞくじんこきうひんかく哉、二大夫と。旣に蹄るや、日に金を賣つて共具し、族人故舊賓客をあひともごらくさんげふ請うて、相與に娛樂し、子孫の爲に產業を立てず。曰く、賢にして財そのこゝろざしそんそのあやまちまか多ければ、其志を損し、愚にして財多ければ、其過を益す。且つそとみしゆううらみそのあやまちま夫れ、富は衆の怨なり。吾、其過を益して怨を生ずるを欲せずと。しんしやくぐわんねんせんれいしよきやうそむじやうこうしやうぐんてうじうこく神爵元年先零、諸美と與に畔く。上後將軍趙充國に問はしたれこたらうしんむ、誰か將たるべき者ぞと充國、年七十餘、對へて曰く、老臣にまきやうりよはかまさいくにん踰ゆるなしと。復た問ふ、將軍、羌虜を度ること如何。當に幾人をはるかはかきんじやう用ゆべき。充國曰く、兵は遙に度り難し。願はくは、金城に至り趙充國屯田はうりやくたてまついたとんでんそうたてまつ三計圖して、方略を上らむと。乃ち金城に詣り、屯田の奏を上る。西漢-孝宣皇帝-二三七 十八史略卷之二二三八いと願はくは、騎兵を罷め、歩兵萬餘を留め、分つて要害の處に屯し、田せむと。條して兵を出さず、留まつて便宜十二事。奏、上る毎に、輒ち公卿に下して議せしむ。初めは其計を是とする者什に三、中ごろは什に五、最後には什に八。魏相、其計に任じ、必ず用ゆべ、しといふ。上、之に從ふ。二年。史隸校尉蓋寛饒、封事を上る。上、以て怨謗となし、吏に下す。寬饒、自到す。三年。丞相魏相、薨ず。故事に、上書する者、皆、二封を爲り、其一に署して副といふ尙書を領する者、先づ副封を發き、言ふ所善からざれば、屏去して奏せず霍光の薨ぜしより、相卽ち白二して、副封を去り、以て雍蔽を防ぐ、相となるに及びて、好んで、漢の故事及び便宜章奏するところを觀、數漢興つてより以來、便宜の行事、及び賢臣、賈誼、晁錯、董仲舒等の言ふ所を條し、請うて之を施行す。掾史に敕して、事を郡國に案ぜしむ。及び休〓ほして、家より還つて府に至れば、輒ち四方の異聞を白し、或は逆賊風雨の災異にして、郡、上らざるあれば、相、輒ち之を奏言す。わ御史大夫丙吉と共に、心を同じうして、政を輔く。上、皆之を重くわんだい評魏相丙吉んず。是に至つて、吉、代つて丞相となる。吉、寛大を尙び、禮讓漢代の名相はあ、を好む。嘗て、出で、群鬭死傷に逢ふも問はず。牛の喘ぐに逢うて、牛を逐ふこと幾里なるかを問はしむ。或ひと、吉の問を失するを西漢-孝宣皇帝-二三九 十八史略卷之二二四〇譏る吉曰く、民の鬭ふは、京兆の當に禁ずべき所なり。宰相は、細事を親らせず。當に問ふべき所に非ざるなり。春に方つて、未だあ、熱すべからず。恐らくは、牛、暑きが故に喘ぐならむ。是れ時氣節を失するなり。三公は、陰陽を調ふ職として、當に憂ふべしと。人、以て大體を知るとなす。五鳳元年左馮翊韓延壽を殺す。延壽、吏となり、古しへの〓化を好む。潁川の太守より入つて、馮翊となる。民に昆弟相訟ふるあ〓〓り、延壽、閤を閉ぢて、過を思ふ。訟ふる者、各 悔い復た爭はず。郡中翕然として、相敕厲す。恩信周偏にして、復た詞訟あるなし。吏民、其至誠を推して、欺給するに忍びず。是に至つて、事に坐して、棄市せらる。百姓、流涕せざるなし。評吏道の極意黃霸の言大三年。丙吉、薨ず。黃霸丞相となる霸、嘗て、頴川の太守となり、吏民、神明欺くべからずと稱す。〓化を力め誅罰を後にす。長史許丞、老いて、聾を病む。督郵白して、之を遂はむと欲す。霸曰く、許丞は廉吏、老いたりと雖も、尙ほ能く拜起す、重聽するも 何ぞ傷まむ。數ば長吏を易ふれば、故を送り、新を迎ふるの費、及び姦吏因緣して簿書を絕ち、財物を盜み公私の費耗、甚だ多からむ。易ふる所の新吏、又未だ必ずしも賢ならず。或は其故に如かず、徒に相益して、亂を爲さんのみ。凡そ治道は、其太甚しき者を去るのみと。霸外寬內明を以て、吏民の心を得たり。治、天下第西漢-孝宣皇帝-一四、 十八史略卷之二三評地方長官一となす。是に至りて、吉に代る。霸の材、治民に長ず。相たるに大阪市立大学中学校及びて、功名、郡を治むる時より損す。處に般才人な考のなとミず四年。大史農耿壽昌、白す。邊郡をして、皆、倉を築かしめ、穀"大盛大賤しければ、價を增して耀し、穀貴ければ、價を減じて糶し、以て常平倉民を利せむと。名づけて常平倉といふ。前の光祿勳楊憚を殺す憚廉潔にして私なし。人、上書して、憚妖惡の言を爲すと告ぐ。免じて庶人となす。憚、家居し、產を治めて、自ら娯む。其友、孫會宗、之を戒む。憚、報じて曰く、過大にして行虧く。當に農夫となつて、以て世を沒すべし。田家作苦、歲時伏臘、羊を烹、羔を無し、斗酒自ら勞す。酒後に耳熱し、天を仰ぎ、缶を拊つて鳴鳴と呼ぶ。其詩に曰く、田 彼南山。蕪穢不治。種一頃豆。落而爲 其。人生行樂耳。須富貴何時。と淫荒度なきも、其不可を知らずと。人、上書して〓ぐ、憚、驕奢にして悔いずと。廷尉に下して案ず。會宗に與へし所の書を得たり。帝、見て之を惡む。大逆無道を以て要斬す。評甘露元年公卿奏す、京兆尹張敞は、憚の黨友なり。宜しく、位ざ亦惜完以ひ人ど兆張る止むふて易のもな敵所むべし終し怨其りはかをき得り是を職然名得もずをを買司れ京なに處らしむべからずと。上、敞の材を惜んで、其奏を寢む。敞、掾、をき得り是を職絮舜をして案驗する所あらしむ。舜、私に歸つて曰く、五日の京兆のみ、安んぞ能く復た事を案ぜむやと。敞舜の語を聞き、卽ち收めて、獄に繋ぎ、竟に、それを死に致す。後、舜の家に〓げらる。西漢-孝宣皇帝-三 十八史略卷之二一四、敞上書し、闕下より亡命すること歲餘。京師枹鼓、數ば警む。上、敞の能を思ひ、復た之を召し用ゆ。黃霸、卒す。于定國、丞相となる。定國の父于公、初め獄吏となる。東海に孝婦あり。寡居して嫁せず以て其姑を養ふ。姑年老い、婦の嫁を妨ぐるを以て、自經して死す。姑の女、婦迫つて其母を死させしむと告ぐ。婦辯ずる能はず。自ら誣伏す。于公、之を爭へども得る能はず。孝婦死す。東海枯旱すること三年後の太守來る。ミ公其故を言ふ。太守、孝婦の家を祭る。遂に雨降る。于公、獄を5治めて、陰德あり。門間を高大にし、駟馬の車を容るべからしむ。曰く、吾が後世、必ず興る者あらむと。子定國、地節元年を以て、廷尉となる。朝廷、是を稱して曰く、張釋之、廷尉となつて、天下評ら民鏡をて寃民なし。于定國、廷尉となつて、民自ら寃とせずと。是に至り御自ら獄るせんの味噌らし史大夫より霸に代る。匈奴亂る。五單于立つを爭ふ。呼韓邪單于、上書す、願はくは、た塞を欵いて、藩臣と稱せむと甘露三年、來朝す。詔して、客禮を以て之を待ち、諸侯王の上に位せしむ。国;只上、戎狄の賓服せしを以て、肱股の美を思ひ、乃ち其人を麒麟閣に圖畫す。惟だ霍光のみは名いはず、大司馬大將軍博陸候姓霍氏といふ。其次は、張安世、韓增、趙充國、魏 相、丙吉、杜延年、劉德、梁丘賀、蕭望之、蘇武、凡て十一人。皆、功德あつて、名を西漢-孝宣皇帝-二四五 十八史略卷之二二四六たうせい當世に知らる。かいげんほんしちせつげんかうしんしやくほう評宣帝中宗帝、在位、改元するもの七、曰く本始、地節、元康、神爵、五鳳、名に背かれうはふむりよえんおこずのかんろくわうりう、ほうと甘露、黄龍、凡そ二十五年崩ず。杜陵に葬る。帝、閭閻より起り、かんなんれいせいちすうきしうみつひんしきび民事の艱難を知り、属精治を爲す樞機周密にして、品式備具すしししゆしやうすなはそのでんり刺史守相を拜するに、輒ち親ら見問す。常に曰く、民の、其田里にたんそくしうこんニミルゑんうつたへをさ安んじ歎息愁恨の聲なき所以のものは、政平かに、訟理まればなりやうおた千石かと。り我と此を共にする者は、其れ惟だ良二以爲へらく、評二千宣考石帝と論のす大良しばしへんえきたみやすちべにし參太守は吏民の本、すなは數ば變易すれば、ヒしよべんれい民安からず。ちつ故に、きん二千石、たまこうけい治理の效あれば、輒ち重書を以て勉勵し、秩を增し、金を賜ふ公卿かもろへうえらかんせいりやうり缺くれば、諸の表する所を選び、次を以て用ゆ漢世の良吏、是にさかんしんしやうひつぱつめいじつそうかく於て盛なりとなす。信賞必罰、名實を綜核し、政事文學法理の士、みそののうくはそのしよくかなそのげふやすけうど咸な其能を精しくし、吏、其職に稱ひ、民、其業に安んず。匈奴のすゐらんさうちばうおそんかたるほくいのぜんう衰亂に遭値し、亡を推し、存を固くし、威を北夷に信ぶ。單于、義したけいしゆはんこうそそうひかこうえいたちうを慕ひ、稽首して藩と稱す。功、祖宗に光り、業、後裔に垂る中こうかうそうしうせんひとかう興德を高宗、周宣に伴しうすといぶべし。太子、位に卽く。之を孝げんくわうてい元皇帝となす。せきじうじんじゆせん評漢祚衰ふ元帝文弱【孝元皇帝】名は奭。初め太子たりし時、柔仁にして儒を好む。宣ていぶんばふけいはふたゞ帝の用ゆる所、多く文法の吏にして、刑法を以て下を繩すを見。嘗えんしようよういへいかけい七..はなはふかよろて燕する時、從容として謂ふ、陛下刑を持すること太だ深し。宜しじゆせいなかんかおのづかせいどく儒生を用ゆべしと。宣帝、色を作して曰く、漢家自ら制度あり。本西漢-孝宣皇帝-孝元皇帝-三四 十八史略卷之二受評時と併家と霸、とをすに法宣い知蓋在覇帝ふるしり王漢王の道を以て之を雜ゆ。奈何ぞ、純ら德〓に任して、周政をのに法用用ゐむや。且つ、俗儒は、時宜に達せず。好んで、古しへを是とし、し言務な務を今を非とし、人をして、名實に眩して、守る所を知らざらしむ。何ぞ委任するに足らむやと。乃ち歎じて白く、我が家を亂る者は太子なりと。宣帝、少にして、太子の母家許氏に依る。許后、霍氏の毒を以て死す。故に、太子を廢するに忍びず。是に至りて位に卽く初元元年皇后王氏を立つ二年。蕭望之、周堪及び宗正、劉更生を獄に下し、皆免じて庶人と評政ら内容ら内茶とな專なす。時に、史高外屬を以て、尙書の事を領し、望之、堪、之に漠さ中帝言れ適宜すの豫副たり。二人は、帝の師傅。數ば治亂を言ひ、正事を陳す。更生を給事中に選し、侍中金敞と竝に左右に拾遺たり。四人、心を同じうして謀議す。史高は、位に充つるのみ。之に由つて望之と隙あり。中書令弘恭、僕射石顯、宣帝の時より、久しく樞機を典る。帝の位に卽くに及びて、多疾なり。顯の中人にして外黨なきを以て、遂に宦官事を用ふるの始委するに政事を以てし、事、大小となく、顯に因つて白決す。貴幸朝を傾け、百僚、皆、顯に敬事す。顯巧慧にして、事に習ひ、能く 深く人主の微指を得。内、深賊にして、詭辯を持し、以て人を中傷し、高と表裏す。望之等、外戚、許、史の放縱なるを患ひ、又恭顯の權を專らにするを疾んで建白す、以爲へらく、中書は政の本、國家の樞機、宜しく通明公正を以て之を處すべし。武帝、後庭に遊宴す、西漢-孝元皇帝-二四九 十八史略卷之二二五〇くわん〓〓故に宦者を用ゆ、古制に非ざるなり。宜しく、中書の宦官を罷め、古しへの刑人を近づけざるの義に應ずべしと。上從ふ能はず。恭顯、奏す。望之、堪、更生、朋黨相稱譽し、數ば大臣を譖詐し、親戚を毀離し、以て專ら權勢を擅にして、不忠を爲さむと欲し、上を誣ひて不道なり。請ふ、謁者をして、召して、廷尉に致さしめミむと。時に、上始めて位に卽き、召して、廷尉に致すとは、獄に送ることなるを省せず、其奏を可とす。後に。上、堪更生を召テす。曰く、獄に榮けりら。上、大に驚いて曰く、惟だ廷尉の問ふのみに非ざるかと。出でて、事を視せしむ。恭顯、高をして上に說かしめ竟に罷免す。後、上、復た堪、更生を徵して中郎となし、且つ望之を以て相となさむと欲す。恭、顯許、史、皆目を側つ。望之が素より高節にして、詘辱せられざるを知り建白す。望之、過を悔いた罪に服せず。深く怨望を懷き、自ら以へらく、師傅に託して、終に坐せられず、頗る望之を獄に屈せしめ、其快快の心を塞ぐに非ざれば、聖朝以て恩厚を施すなからむと。上曰く、太傅、素より剛あ、安んぞ、肯て吏に就かむ。顯等曰く、人命は至重、望之の坐する所は語言の薄過なり。必ず憂ふる所なしと。謁者をして、望之を召さしめ、因つて、急に執金吾の軍騎を發し、馳せて、其第を圍む。望之、鴆を飮んで自殺す石〓顯え弘恭、死す。中書令となる。西漢-孝元皇帝-二五一 十八史略卷之二111.けうどしつしぜんうかうきよ五年。匈奴の郅支單于、漢の使者を殺して、西、康居に走る。えいくわうぐわんねんけうどかんやぜんうてい永光元年匈奴の呼韓邪單于、北より庭に歸す。けんせうぐんたいしゆけいばうばうえきせうえんじゆ建昭二年。魏郡の太守京房を殺す。房、易を焦延壽に學ぶ。延壽けいせいらう嘗て曰く、我が道を得て、以て身を亡ぼす者は、京生ならむと。郞さいいけんえんけんこといとなり、屢ば災異を言うて驗あり嘗て、宴見して事を言ひ、意せきけんさそういだめミ石顯を指す。顯、奏して、之を出し、尋いで、徵して、獄に下してきし棄市す。我ちいけんゐけんひゞさかんちうしよぼくやらうれうせうふごろくじうそうたういう評帝家傾く內官橫暴顯威權日に盛なり。中書僕射牢梁、少府五鹿充宗と結んで黨友もろ〓〓ふてうゐとなる諸の附倚する者、寵位を得たり。民、之を歌うて曰く、牢邪石邪。五鹿客邪。印何纍纍。綬若若邪。と。せいゐきふくかうゐちんたうせいつはかんえんじゆ三年。西域の副校尉陳湯、とコしつしぜんうかうきよしふげき制を矯つて兵を發し、都護甘延壽と共くび郅支單于を康居に襲撃して、つたに、かうがいか之を斬る。四年春、首を傳へて、京に至る藁街に懸くること十日。きやうねいぐわんねんこかんやぜんうらいてうねがかんせい王嫡字昭君竟寧元年呼韓邪單于、來朝す。願はくは、漢に婿たらむと。こうきうわうしやうあざなせうくんたま後宮の王嬌、字は昭君を以て之に賜ふ。かいげんしよげんえいくわうけんせう帝在位十六年。きやうねい改元するもの四。初元、永光、建昭、竟寧帝じゆじゆつよろこるげんせいきやうかうしやういへどしやうげふ儒術を喜び、てい韋玄成、匡衡を得て相となすと雖も、相業なし。帝、いたづらいだんかんげふおとろかうせいくわうてい徒に優遊不斷、漢業衰ふ太子位に卽く。之を孝成皇帝となす。がうかふくわん【孝成皇帝】名は驚けいしよ母は王氏。帝を甲觀に生む。少にして、經書しゆがくかうえんらくげんていときを好み、其後、酒樂を幸して燕樂すほと元帝の時、太子となつて、幾西漢-孝元皇帝-孝成皇帝-二五三 十八史略卷之二二五四はいしたんせいほていきふかんしんど廢せられむとす。史丹、靑蒲に伏して、涕泣して諫止す。是にくらゐくわうたいごうげんきうわうほう至つて、位に卽く。王氏を尊んで、皇太后となし、元舅、王鳳を以評る治禍武王人氏す政之にをはせうしよりやう因專すにて大司馬大將軍となし、けんしぐわんねんせきけん尙書の事を領せしむ。めん建始元年。石顯、罪を以て免じ歸る道にして死す。きうわうすうあんせいこうたんしやうりつこんほうじしやくくわん舅王崇を封じて、安成侯となし、譚商立根逢、時に爵關だいこうくわうむよもふさ内侯を賜ふ。黄霧四に塞がる。ハンねんしよきう河平二年悉く諸舅を封じて、列侯となす。やうさくねんわうほうわういんわうたん陽朔三年。王鳳、卒す。王音、大司馬となり、王譚、城門の兵をりやう領す。こうかねんわうたんわうしやうじやうもんりやう鴻嘉四年。王譚、卒す。王商、城門の兵を領す。えいしぐわんねんたいこうまうしんと王莽こう永始元年太后の弟の子莽を封じて、新都侯となす。くわうごうてうしひえんぢよていがふとくせふよ皇后趙氏を立つ。名は飛燕、女弟合德を婕好となす。わういんわうしやう二年。王音、卒す。王商、大司馬となるもとなんしやうゐばいふくはうこんくんめいをかしゆゐ故の南昌の尉梅福、上書して曰く、うばぐわいせき方今、へいか君命犯されて、そのかたちさつ主威奪はれ、外戚の權、そのかげ日に益す以て盛なり。けんしいらいにつしよくぢしん陛下、しゆんじう其形を察せず、願は其景を察せよ。すゐさいくはひすういんさかん建始以來、やうび日食地震、きんてつため春秋に三倍し、と水災ともに比數するなし。けいたてまつ陰盛にはう陽微に、金鐵爲に飛ぶ。是れ何の景ぞやと。書、上れども、報ぜず。わうしやうわうこん四年。王商、卒す。王根、大司馬となる。評腐儒張禹あんしやうこうちやううしごとていぎあづか漢の事を誤安昌侯張禹、帝の師傅を以て、大政ある每に必ず定議に與る。西漢-孝成皇帝-〓 十八史略卷之二〓朱雲時に吏民多く上書して言ふ、災異は王氏專政の致す所なりと。上の所謂尙方エリーノ斬馬の劍をるに禹の第に至り、左右を辟け、親ら以て禹に示す。禹自ら、年老い、(おつけつ者な子孫の弱きを見、王氏に怨まれむことを恐れ、上に謂つて曰く、春秋の日食地震は、或は諸侯相殺し、夷秋中國を侵せしが爲ならむ。災變の意、深遠にして見がたし。故に、聖人、命を言ふこと罕に、怪神を語らず。性と天道とは、子貢の屬より聞くを得ず。何ぞ況んや淺見鄙儒の言ふ所をや。新學小生、道を亂し、人を誤る、宜しく信用なかるべしと。上、雅に禹を信愛す。之に由つて王氏を疑はず故の槐里の令朱雲、上書して見るを求め、願はくは、尙方斬ほ馬の劍を以て、侫臣一人の頭を斷て以て其餘を厲まさむと。上問ふ。誰ぞや。對へて曰く、安昌侯張禹と。上、大に怒つて曰く、小臣、下に居り、師傅を廷辱す。罪、死すとも赦さずと。御史雲を率ゐて下らむとす。雲、殿檻を攀ぢ檻折る。雲、呼んで曰く、臣、T、龍逢。比干に從つて遊ぶを得ば、足れり。未だ聖朝如何を知らざるのさしやうぐんしんけいきたみと。左將軍辛慶忌、頭を叩き、血を流して之を爭ふ上の意、乃ち解く檻を治むべきに及びて、上曰く、易ふる勿れ。因つて、之を輯めて、以て直臣を旌せと。綏和元年王根、病んで免ず。王莽、大司馬となる。二年帶、崩ず。在位二十六年。改元するもの七。曰く、建始河平陽朔、鴻嘉、永始、元延、綏和帝威儀あり、朝に臨んで西漢-孝成皇帝-毫 十八史略卷之二〓神の如し。然れども、酒色に荒み、政、外家に在り。張禹、薛宣、翟方進、相となり、漢業愈よ衰ふ。太子、位に卽く。之を孝哀皇帝となす。【孝哀皇帝】名は欣、定陶恭王康の子、元帝の孫なり。祖母は傅氏。母は丁氏。成帝、子なし。故に立てて太子となす。是に至つて、卽位す。丁傅、事を用ゆ。大司馬莽を罷めて第に就かしむ。建平元年夏賀良の言を用ゆ。漢歷、中頃衰ふ當に天命を更め受くべく、宜しく、急に元を改め號を易ふべしと。乃ち太初と改元し、陳聖劉太平皇帝と更め號す。尋いで、改元更號の事を罷め、夏賀良等を誅ず。帝、董賢を幸す。元壽元年賢を以て大司馬となす。二年、帝崩ず。賢自殺す。帝、在位七年。改元するもの二。曰く建平、元壽。太皇太后、王ちうざんわう莽を以て大司馬となし、尙書の事を領せしむ。中山王を迎へて、位に卽かしむ。之を孝平皇帝となす。【孝平皇帝】名は箕子。後、名を布と更む。中山孝王興の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立つて嗣となる。太皇太后、朝に臨み、大司馬莽、政を乗る。百官、己を總べて、以て聽く。元始元年、莽を安漢公と爲す。四年。莽の女を聘して皇后となし、安漢公に號宰衡を加へ、諸侯西漢-孝哀皇帝-孝平皇帝ー堯 十八史略卷之二총う王の上に位す。たいしこうくわうせいあいいらいわざはひ五年。太師孔光、卒す。成哀以來、光等、三公となり、漢の禍をやうせいてんねいふうまうしよう養成し、證侫風を成し、上書して莽を顔する者四十八萬人に至る。しやく莽に九錫を加ふらふじつせうしゆたてまつどくお臘日、莽、椒酒を帝に上り、毒を置く、帝、崩ず、在位六年改げんしげんそんえいめ元するもの一、曰く、元始。太皇太后、詔して、宣帝の玄孫嬰を徵じゆしキうせつゐして、皇太子となし、號して、孺子嬰といふ莽、攝に居て、祚をふさんかくわうていせつくわうてい踐み、贊して假皇帝といひ、民臣は、之を攝皇帝といふ。きよせつぐわんねんりうそう【孺子嬰】嗣たるの初、之を王莽の居攝元年となす。劉崇、兵を起まうがして、莽を討つ。克たずして死す。たいしゆてきぎもとじようしやうはうしん二年。東郡の太守翟義、故の丞相方進の子なり。兵を起して、莽を討つ。克たずして死す。recordentまうしんてんししん王莽集位明治三十七莽、眞天子の位に卽き、國を新と號す。漢の太皇太后あらたしんしつぶんぽたかくわうたいごうわうまうわうまんを更め號して、新室文母太皇太后といふ王莽は、王曼の子なり。1)評孝元皇后の兄弟八人。獨り、曼、公に自早く死して侯たらず。くん莽、幼にし周詩しやうぐんしび言日)王莽て孤なり。群兄弟、皆將軍たり。五侯の子時の修靡に乘じて恭謙下士上はせかしよくいついうあひたかせつきようけんきんしん時、若使當輿馬聲色を以て佚游相高ぶる。莽、節を折つて、恭儉をなし、勤身無形電話はくがとひさじゆせいえいしゆんしよふつかつぶさ新鮮鐵道博學被服、儒生の如く、外は英俊に交り、内は諸父に事へ曲に誰知れいいしんとこうしやくゐますまたつとせつさういよいけんきよよりう禮意あり。新都侯に封ぜらる。爵位益す尊く、節操愈よ謙虛譽隆からそのしよふかたむかんせいあいていほうへいていげいりつ治、其諸父を傾け、遂に漢政を得たり。哀帝崩じて平帝を迎立し、西漢-攝子嬰-六 十八史略卷之二云五年にして、帝を弑し、位を攝する三年。竟に位を簒し、國を新と號す。始建國元年孺子嬰を廢して、定安公となす。二年漢の太皇太后王氏崩ず。だp天鳳四年。〓州、盜起る新市の人王匡之が帥たり。馬武、王綠林の賊常·成丹、往いて之に從ひ、綠林山中に藏る。五年。莽の大夫揚雄、死す。雄字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以て、郞となり、黄門に給事たり。三世、官を徒さず。莽の簒するに及び、耆老久次を以て、轉じて、大夫となる。嘗て、太玄、x法言を作る。卒章に莽の功德を稱して、伊周に比し、又劇秦美新の文を作り以て莽を頌す。劉棻、嘗て、雄に從つて奇字を學ぶ。藁事に坐して、誅せらる辭雄に連及す。時に、雄、書を天祿閣上に校す。使者、來つて、之を收めむと欲す。雄、閣上より投下す。莽詔して、問ふなからしむ。是に至つて死す。瑯邪の樊崇、東海の〓子都等の兵起る。地皇三年崇の兵、自ら赤眉と號す。綠林の兵、分れて、下江、新市の兵となる。〓州、平林の兵起るび弟秀劉續劉秀漢の宗室、劉續及共に春陵に起る。新市、平林の兵、皆之に附く。明年、諸將共に、劉玄を立てて、皇帝となす。玄は春陵西漢-焉子嬰-云 十八史略卷之二云の戴侯買の後、續秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始將軍と號す諸將、其懦弱を貪つて、之を立つ南面して立ち、群臣を朝せしむるに、手を以て席を刮し、羞愧して汗を流し、言ふ能はず大赦して、更始と改元し、宛に都す。更始元年劉秀、大に莽の兵を昆陽に破る。隗囂成紀の隗囂の兵起る。公孫述公孫述、兵を成都に起す。更始、將を遣して、武關を破る。析人鄧曄、兵を起して、長安にrn迎へ入る。衆兵莽を誅し、首を傳へて更始に詣る。莽、未だ簒せざる時、官名、及び十二州の界を更定し、罷置改易し、天下多事なな3り錯刀契刀大錢等の貨を更造す。旣に、位を簒するや、劉の字、卯金刀なるを以て、剛卯金刀の利を禁じ、錯月、契刀、五銖錢等を罷む。天下の田を更名して、王田といひ、買賣するを得ず。男口八に盈たずして、田一井に過ぐれば、餘田を分つて、九族、〓里に予ふ故に田なき者、田を受く。五均、司市、錢府の官を立て、民を)ノして、各業とする所を以つて、貢となさしめ、寶貨を更作し、金銀龜貝、錢布、五物、六名、二十八品あり。百姓潰亂寶貨行はれず。乃ち小錢大錢を行ふ。數ば更變して、信ならず盜鑄し、及び私に五銖錢を挾む者は、罪に抵る。是に於て、農商業を失ひ、食貨共に廢し、民、市道に涕泣するに至る。後、又、貨布貨泉を改西漢-孺子嬰-二六五 十八史略卷之二二六六む。一度、錢を易ふる每に、民、又、大に鑄錢法を陷犯し、檻車鎖頸傳へて長安に詣るもの、十萬を以て數ふ。死什に六七。制度を改易し、政令煩多、四方囂然として謳吟し、漢を思ふこと久し。歲旱して蝗あり。人相食み、遠近兵起る。莽五石の銅を以て、威斗を鑄、北斗の狀の如くし、以て衆兵を厭勝せむと欲し、出入に、人をして之を負うて行かしむ。漢兵の宮に入るに及び、猶ほ席を旋いらし、斗柄に隨つて坐して曰く、天、德を予に生ず。漢兵、其れ予を如何と。首を漸臺に斬る。軍人、其身を分ち、節解して、之を變す。簒より亡に至るまで、改元するもの三。曰く、始建國天鳳地皇、凡そ十五年。莽、首を傳へて、宛に至る。更始宛より都を洛陽に遷す。父老、司隸校尉の官屬を見、或は涕を垂れて曰く、圖らざりき。今日、復た漢官の威儀を見むとはと。更始元年。都を長安に遷す。赤眉、長安を攻む。明年、赤眉入る。更始、出奔す。旣にして、赤眉に降り、爲に殺さる。立つてより亡ぶるに至るまで凡そ三年。前數月、大司馬秀、旣に河北に卽位す。之を世祖光武皇帝となす。西漢-孺子嬰-二六七 譯新十八史略卷之三西紀自二五至二二〇東漢【世祖光武皇帝】名は秀、字は文 叔、長沙の定王發の後なり。景帝、發を生み、發、春陵の節侯買を生む。侯たること再三世、封を徙し、南陽の白水〓を以て春陵となし、宗族、往いて家す買の少子外、外、囘を生み、囘、南頓の令欽を生み、欽.秀を南頓に生む嘉禾一莖九穂の瑞あり、故に名づく。是より先、望氣の者あり、春陵を望んで曰く、氣佳なる哉、鬱鬱葱葱然たりと。王莽、貨を改東漢-世祖光武皇帝-二六九 十八史略卷之三三·三はくすゐしん〓〓めて、貨泉といふ。人其字を以て、白水眞人といふ。秀、竟に白評高帝は隆水より起り、隆準にして日角あり、尙書を受けて、大義に通ず。嘗準龍顏光武は隆準日て、蔡少公を過ぐ、少公、圖識を學ぶ言ふ、劉秀、當に天子たる相角ある兩り似者貌頗たべしと。或ひと曰く、國師公劉秀か秀、戯れて曰く、何に由つて、る處Bi僕に非ざるを知らむやと。新市、平林の兵起るに及び南陽騒動す。宛人李通、秀を迎へて、兵を起す。秀の兄續、字は伯升、慷慨大節〓あり常に憤憤として、社稷を復せむと欲す。平居、家人の生業を事とせず。身を傾け、產を破り、天下の雄俊に交結す。是に於て、親客を分遣して、諸縣の兵を發せしめ、續自ら春陵の子弟を發す。皆恐懼して亡げ匿る。曰く、伯升、我を殺すと。秀が絳衣大冠するを見るに及んで、驚いて曰く、謹厚なる者も亦た復た之を爲すと。乃ち自ら安んず。賓客を部署し、諸帥を招說す。新市、平林、下江の兵、皆、來り會す。兵、統一するところなく、劉氏を立てて、人望に從はむと欲す。下江の將王常、續を立てむと欲す。新市、平林の將帥、其威明を憚つて、遂に更始を立て、續を以て大司徒と秀を將軍となす。なし、秀、昆陽、定陵、〓を徇へて、皆、之を下莽、す。王邑、王尋を遣し、大に兵を發して、山東を平げしむ。長巨無霸を以て壘となし、人虎豹犀象の屬を驅り、以て兵勢を助け、百餘萬と號す。旌旗、千里絕えず。諸將、兵の盛なるを見て、皆、走つて昆陽に入り、散じ去らむと欲す。秀、郵定陵に至り盡東漢-世祖光武皇帝-モ 十八史略卷之三三しよえいぜんほうじんいく諸營の兵を發し、自ら步騎千餘に將として前鋒となる。尋、邑こしざんしゆすうきふ兵數千を遣して合戰せしむ。秀、之を奔らしむ。斬首數十級。諸將おそいさ曰く、劉將軍、平生、小敵を見るも怯る。今大敵を見て勇む。甚だ敵敵評大てれ秀勇勇大小謂見怯劉あやししりぞしよぶり所ををなむ怪むべきなりと。尋、邑の兵、却く諸部、共に之に乘じ、かんししきりすしに勝つて遂に前む。一、百に當らざるなし。秀、敢死の者三千人とくづ其中堅を衝く、尋、邑の陣、亂る。漢兵、銳に乘じて、之を崩し、こさうちうぐわいいきほひ遂に尋を昆陽に殺す。城中の守者、まう亦た鼓譟して出で、つひ中外勢をあひふさ合し、呼聲、天地を動かす。莽の兵、大に潰え、走る者相踐み、伏あめふしひやくよだいらいふううをくぐわと虎戸百餘里。みなこせん大雷風雨に遇ひ、しせんできし屋瓦飛び、雨下ること注ぐが如し。くわんちうしんきよう豹皆股戰す。滍川に溺死する者數萬關中、之を聞いて震恐す。きやうおうぼくしゆ海內の豪傑響應し、皆、莽の牧守を殺し、自ら將軍と稱し、漢のじゆんげつえんけいてい年號を用ゐ、旬月にして天下に遍し。續の兄弟、威名日に盛なりかうししうiiたちんせき更始、續を殺す。てい秀敢て喪に服せず、飮食言笑す。惟だ枕席に涕きかうしはぶしんこう泣する處あるのみ。更始慙ぢ、秀を大將軍に拜し、武信侯に封ずいくばくだいしは未だとな幾ならずして、秀を以て大司馬の事を行はしめ、河北を徇へ莽の苛政を除くまうしむ。とううさく鄧禹過ぐる所、南陽の鄧禹、策を杖いて秀を追げふほうはいもつぱ牛仔干頭ひ鄴に及ぶ。秀曰く、我、封拜を專らにするを得たり。生、遠く來ういはねがたる、寧ろ、仕へむと欲するか禹曰く、願はざるなり。但だ願はくめいこうゐうそのせきすんいたは明公の威德、四海に加はり、再、其尺寸を效すを得て、功名をちくはくたかうしじやうさいたいげふた竹帛に垂れむのみ。更始は常才、帝王は大業、任ふる所に非ず。明東漢-世祖光武皇帝-二七三 十八史略卷之三二七四公、英雄を延攬し、務めて民心を悅ばすに如くはなし。高祖の業を立て、萬民の命を救はば、天下は定むるに足らざるなりと。秀、大に悅び、禹をして、常に中に宿止せしめ、共に計議を定む。邯鄲の詐つて成帝の子子與と稱し、ト者王郞ト者王郞、邯鄲に入つて、帝と稱し、幽冀を徇下し、州郡響應す。秀、北、薊を徇ふ。上谷の太守耿況の子弇、馳せて盧奴に至つで上謁す。秀曰く、是れ我が北道の主人なりと。薊城反して、王郞に應ず。秀趣に城を出で、晨夜、南に馳て、馮異せ、蕪畫亭に至る。馮異、豆粥を上る饒陽に至つて食に乏し。下曲陽に至り、王郞の兵、後に在りと聞き、滹沱河に至る。候吏還白す、つて河水流漸す、船なければ濟るべからずと。秀王霸をして之を視せしむ。霸、衆を驚かさむことを恐れ、還つて、卽ち詭つすて曰く、氷堅くして渡るべしと。遂に前んで河に至る。氷、亦た合す。卽ち渡る。未だ畢らず、數騎にして氷解く。南宮に至り、大風雨に遇ひ、道傍の空舍に入る。馮異、薪を抱き、鄧禹、火を蒸く。秀、竈に對して衣を燎る異、復た麥飯を進む。下博城の西に至り、惶惑して、之く所を知らず。白衣の老人あり、指して曰く、努力せよ。信都は長安の爲に城守す、此を去ること八十里と。秀、卽ち馳せて、之に赴く。時に、郡縣皆旣に王郞に降る。獨り信都の太守任光、和戎の太守邳形肯んぜず。光、出でて、秀の至るを聞き、大に喜ぶ形も、亦た來り會す。旁縣を發し、精兵を得、檄を移し東漢-世祖光武皇帝-二七五 十八史略卷之三〓〓て、王郞を討つ。郡縣亦た響應す。秀、兵を引いて、廣阿を拔く。上興地の圖を披き、鄧禹に指示して曰く、天下の郡縣、斯くの如し。今、始めて其一を得たり。子、前に定むるに足らずと言ひしは何ぞや。禹曰く、方今、海內殺亂、人、明君を思ふこと、猶ほ赤子の慈母を慕ふが如し。古しへの興るものは、德の厚薄に在つて、大小に評鄧馬銘る國は在在謂漁陽の兵を以て、右すをと不者所在らざるなりと。耿弇、上谷、行く郡縣を定め、宇文明な者家蓋大德りのにし小厚座存志也薄秀に廣阿に會し、進んで、部鄲を拔いて、王郞を斬る。吏民の郞と交るの書數千章を得たり。秀諸將を會して、之を燒いて曰く、反側子をして自ら安んぜしむと。秀、吏卒を部分するや、皆言ぶ、けんたい大樹將軍願はくは、大樹將軍に屬せむと。馮異を謂ふなり。人と爲り、謙退にして伐らず。諸將、功を論ずる毎に、異、常に樹下に屏く、故に此號あり。更始、使を遣して、秀を立てて蕭王となし、兵を罷めしむ耿弇、王に說き、辭するに河北未だ平がざるを以てして、徵に就かざらしむ。王、銅馬諸賊を擊ち、悉く破つて之を降す。諸將、未だ降者を信ぜず。降者、亦た自ら安んぜず王、敕して、各營にる、歸つて、兵を勒せしめ、自ら輕騎に乘じて、諸部を案行す。降者、相語つて曰く、蕭王、赤心を推して、人の腹中に置く。安んぞ、死評輕す諸光る部武はをのた騎悉く以て諸將に分配し、行に術も雄謂案を效さざるを得むやと。南、河内を徇ふ。ふ所心英收攬赤眉、西、長安を攻む。王、將軍鄧禹等の兵をして關に入らしむ。なてり人す民にし術衆、寇恂を薦め、文武備具して、民を牧し衆を御するの才ありとい東漢-世祖光武皇帝-三七 十八史略卷之三天| -英のみふ。河內を守らしむ。王、自ら兵を引いて、燕趙を徇へ尤來、大的〓。 〓〓。 大正術た槍等の諸賊を擊つて、盡く之を破る。王、還つて、中山に至る。諸らず將、尊號を上る。許さず。南平棘に至つて固く請ふ。又許さず。耿純曰く、士大夫、親戚を捐て、土壤を棄てて、大王に矢石の間に從ふは、素より龍鱗を攀ぢ、風翼に附いて其志す所を成さむと欲するのみ。今、時を留めて、衆に逆ふ、恐らくは、望絕え、計窮まらば去歸の思あらむ。大衆一度散ずれば、復た合すべきこと難しと。馮異、亦た言ふ、宜しく衆議に從ふべしと。會ま、儒生强華、關中より赤伏符を奉じて來る。曰く、劉秀、兵を發して、不道を捕ふ。四夷雲集龍、野に鬭ふ。四七の際、火を主となすと。群臣、因つて復た請ふ。乃ち皇帝の位に部南に卽き、建武と改元す。선이赤眉の樊崇等宗室劉盆子を立てて帝となす。時に軍中に在りて、羊を牧するを主り、被髮徒跣、敝衣〓汗、衆の拜するを見れば、恐畏して、啼かむと欲す。賊長安に入る。更始、走る。帝、詔を下し、封じて淮陽王となす。宛人卓茂、嘗て、密の令となる。〓化大に行はれ、道遺ちたるを拾はず。卽位、上、先づ茂を訪求し、以て太傅となして褒德侯に封ず車駕、洛陽に入る。遂に之に都す。東漢-世祖光武皇帝-二七九 十八史略卷之三二八〇關中、未だ定まらず。鄧禹、衆を引いて西す。百萬と號す。至る處、車を停め、節を駐め、百姓を勞來す。垂髫戴白、車下に滿つ。名、關西に震ふ枸邑に至る。久しく、兵を進めず。赤眉、大に掠めて出づ。再、乃ち長安に入る。赤眉、復た入る。再.戰つて利あからずして走る。徵されて京師に還る。馮異をして、關に入らしむ。功無きを慚ぢ、再、異を要して、共に赤眉を攻めて、大に囘溪に戰つて敗績す。散卒を收めて、壁を堅うす。既にして、大に赤眉を崤底に破る。重書、異を勞して曰く、初め、翅を囘溪に垂るると雖も上可謂失之東終に能く翼を瀧池に奮ふ、之を東隅に失して、之を桑楡に收むとい隅、收之桑る、楡ふべしと。赤眉の餘衆、東宜陽に向ふ。上軍を勒して、之を待つ。樊崇、劉盆子、丞相徐宣等を以て、肉袒して降る。上、軍馬を陳し、盆子の君臣をして、之を觀しめ、謂つて曰く、降を悔ゆる;無きを得むや。眞叩頭して曰く、虎口を去つて慈母に歸す誠歡かう··鐵中之錚錚庸中之佼佼誠喜、限なし。上曰く、卿は、謂ゆる鐵中の錚錚、庸中の佼佼たるものなりと。各、田宅を賜ふ。唯陽の人、劉永を斬つて降る。劉永、更始の時に在つて、立つて梁王となる。更始亡ぶるや、永、帝と稱す。是に至つて敗る5M漁陽の太守彭寵の奴、寵を斬つて以て降る。初め、上、王郎を討つ時、寵.突騎を發し、粮を轉じて絕たず、自ら其功を負んで、意評遼東の家望甚だ高く、滿つる能はず。幽州の牧朱浮、書を與へて曰く、遼東東漢-世祖光武皇帝-元 十八史略卷之三二八二ゐのこきさけんに豕あり、子を生む、白頭なり。將に之を獻ぜむとす。道にして、たちを 失に謂覺せず、所ぐんしみなしろしえつれうとうし野して着て師 192しを大群豕に遇ふ、皆白し。子の功を以て、朝廷に謁せば、遼東の豕ならふ者てうめうたがむと。上、寵を徴す。寵自ら疑ひ、遂に反す。是に至つて敗る。りうえいたせいわうちやうほくだとうらいたいしゆ劉永立てし所の齊王張歩降る。上、初め、步を以て東萊太守となしやうぐんかうかんしばしす。旣にして、永の命を受けて、齊に王たり。將軍耿弇、屢ば戰つしゆくあせいなんりんして大に之を破る。祝阿、齊南、臨舊を拔く。車駕、臨舊に至つて、ねぎらなんやうたいさく軍を勞ふ。弇に謂つて曰く、將軍、前に南陽に在り大策を建つ。お(あがたつひ嘗て以爲へらく、落落合ひ難しと。志在るものは、事、竟に成るなせいちことんりと。歩、敗る齊地悉く平らぐしやうぐんごかんらうかいせいわうとうけんおよはんしやうほうら將軍吳漢等、擊つて、劉永立つる所の海西王董憲及び叛將龐萠等こうわいさんとうたくわいがうこうそんじゆつを斬る。江淮山東、悉く平らぐ。時に惟だ隗囂、公孫述、未だ平がまさず。上、苦を兵間に積む。諸將に謂つて曰く、しばらく、當に此兩どぐわいお子を度外に置くべきのみと。へういちやうあんにふてう馮異、長安より入朝す。上、公卿に謂つて曰く、是れ我が兵を起しゆぼけいぎよくみことのりせし時の主簿なり、吾が爲に荊棘を披いて、關中を定むと。詔しいらうさうそつぶるていとうしゆくこだかばくはんこういて、異を勞して曰く、倉卒、蕪〓亭の豆粥、濾沱河の麥飯、厚意、はう久しく報ぜずと。けんぶねんくわいがう建武八年。上、自ら將として、隗囂を征す。えいせんか、しつきんごかうじゆん寇恂潁川、盜起る。上、還つて、執金吾寇恂に謂つて曰く、頴川は京はくきんま師に迫近す。獨り卿、能く之を平げむのみ。九卿より復た出づる東漢-世祖光武皇帝-二八三 十八史略卷之三二八四さこと〓〓可ならむかと。恂上に勸めて、親征せしむ。賊悉く降る。恂竟に郡に拜せず。百姓道を遮つて曰く、願はくは、寇君を借ること一年ならむと。乃ち恂を留めて、鎭撫せしむ。大軍戰はずして還る。建武九年。隗囂、死す。囂、更始の初年、兵を起してより、建武評應述援隗とか再最描心る亂の冪公復孫馬興をのけ答間往の初めに至るまで、天水に據り、自ら西州上將軍と號す。後、嘗台灣獨家居委て、馬援を遣して、成都に往いて、公孫述を觀せしむ。援述と舊あり、當に手を握つて歡、平生の如くなるべしと謂へり。時に、述、すざ三る讀のみし所飽旣に帝と稱する四年。援旣に至る。盛に陸衞を陳して、以て援を延く。援、其屬に謂つて曰く、天下雌雄未だ定まらず公孫、哺を吐いて國士を迎へず、反つて、邊幅を修飾す、偶人の形の如し。是れと何ぞ久しく天下の士を稽むるに足らむやと。因つて辭して歸る。囂井底の蛙に謂つて曰く、子陽は井底の蛙のみ然も、妄りに自ら尊大にす。如かず、意を東方に專らにせむにはと。置、乃ち援をして、書を洛陽に奉ぜしむ初め到るや、良や久しうして引き入る。上、殿庶の下より岸情して迎へ、笑て曰く、卿二帝の間に敖遊す。今、卿を見るに、人をして、大に慚ぢしむ。援頓首して曰く、當今但だ、君、臣を擇ぶのみに非ず、臣、亦た君を擇ぶ臣、公孫述と同縣、少にして相善し。臣、前に蜀に至る。述陛戟して後に臣を進む。臣今、遠く來る。陛下、何ぞ刺客姦人に非ざるを知つて、然も簡易なること、是の如き。帝笑つて曰く、卿は刺客に非ずおもふに說客東漢-世祖光武皇帝-二八五 十八史略卷之三云云ならむのみ。援曰く、天下反覆、名字を盜む者、勝げて數ふべからず。今、陛下を見るに、恢廓大度、符を高祖に同じうす。乃ち帝王自ら眞あるを知るなりと。援歸る。書東方の事を問ふ。援曰く上、才明勇略、人の敵に非ざるなり。且つ心を開き、誠を見はして、隱伏する所なく、闇達にして大節多く、略ば高祖と同じく、評祖と馬可祖の味と高經學博覽にして、政事文辯、前世比なし。囂曰く、卿高帝に如何不可もなし。と謂ふか。援曰く、如かざるなり高帝は可もなく、と名を人しをる上手圓の上多者のみ知今上、吏事を好み、動くこと法度の如くし、又飮酒を喜ばずと。囂懌ばずして曰く、卿の言の如くなれば、反つて、復た勝れるかと。子をして入つて侍せしむ。未だ幾ならずして反す。復た、嘗て班彪に問ふに、戰國從橫の事を以てす。彪、王命論を作つて之を諷す。囂聽かず。馬援、行在に詣る。上、復た游說せしめ、仍つて、自ら囂に書を賜ふ。費、竟に公孫述に臣たり。述囂を立てて、朔寧王となす。上、囂を征す。馬援、上の前に在り、米を聚めて山谷と上なし、形勢を指畫し、軍の從る所の徑道を開示す。上曰く、虜吾が目中に在りと。遂に軍を進む。囂西城に走り、餓を病み恚憤こと〓〓して卒す。子純、降る。隴右悉く平らぐふも十二年。公孫述、亡ぶ。述は、茂陵の人、更始の時より、蜀に據つて、帝と稱し、國を成と號す。上、旣に隴右を平らぐ。曰く、人隴を得て蜀を望むは自ら足らざるに苦む。旣に隴を得て復た蜀を望むと。大司馬吳漢東漢-世祖光武皇帝-二八七 十八史略卷之三六八等をして、兵に將として、征南大將軍零彭に會して蜀を伐たしむ彭、〓門に在つて、戰艦を裝ふ。漢、之を罷めむと欲す。彭可かず上·彭に報じて曰く、大司馬、步騎を用ゆるに習うて、水戰をおせん!曉らず、〓門の事、一に惟だ征南公を重しとなすのみと。彭の戰船並に進み、向ふ所前なし。述盜をして、彭を刺さしむ。吳漢、繼いで進み、成都に至つて、撃つて、述を殺す。蜀地、悉く平らぐ。凉州の牧竇融河西、武威、張掖、酒泉、燉煌、金城、五郡の太守を以て入朝す。融建武の初より、河西に據り後、使をして、書を奉ぜしむ。上、以て牧と爲し、重書を賜うて曰く、議者、必ず任囂が尉化に〓へて七郡を制するの計あらむと。書至る河西、皆驚き、以爲へらく、天子、明、萬里の外を見ると。上、隗囂を征するや融、五郡の兵を率ゐて、大軍と會す。蜀、平らぐ。詔を奉じて朝に歸す冀州の牧に拜せらる。大将軍の印を賜坦む。に十八年代王盧芳、匈奴に死す。芳は安定の人。詐つて、武帝の曾孫劉文伯と稱す。建武の初より、安定に據る。匈奴、之を迎へ、立てて漢帝となす。數は邊郡の寇患をなす。後、來り降り、代に王たり。復た反して、匈奴に奔り、病を以て死す。二十二年匈奴、和親を求む。上使を遣して、之を許す。呼韓邪單于、成帝の時に死せしより、其後、累世、貴、漢に仕ふ。平帝の時、王莽、條を匈奴に頒つて中國に二名なしと謂ひ、單于に諷し東漢-世祖光武皇帝-二八九 十八史略卷之三二九〇て名を改めしむ。莽、漢を簒し、漢の賜ひし所の單子の重を易へて章といふ。單于、怨恨して、數ば邊に寇す。建武以來、匈奴、盧芳を助けて漢に寇す。後、又、數ば烏桓、鮮卑と兵を連ねて入寇す。是に至つて、始めて、和を請ふ。西域、都護を請ふ、許さず。遂に匈奴に附く。是より先、莎車王けんぜん〓〓賢都善王安、皆使を遣して奉獻す。賢の使、再び至る。上賢に都護の印綬を賜ふ邊郡の守、上言す、假すに、大權を以てすべからずと。詔して、收め還し、更めて大將軍の印を賜ふ。賢、恨む。猶は詐つて大都護と稱す。諸國悉く賢に服屬す。質、驕橫。西域を兼併せむと欲す。諸國懼る。凡そ十八國、子を遣して入侍せしめ願はくば、漢の都護を得むといふ。上厚く賜うて、其侍子を還さしむ。是に至つて、復た請ふ。上、復た之を却く二十四年匈奴、南邊の八部、日逐王比を立てて南單子となす。た漢塞を欵いて內附す。是に於て、分れて、南北匈奴となる。二二五五。貊人鮮卑、烏桓並に入朝す。3)二十六年南單于の庭を立て、使匈奴中郞將を置き、以て之を領せしめ、南單于を徒して、西河の美稷に居らしむ。二十七年。北匈奴、亦た使を遣して和親を求む。明年、又請ふ、之を許す。評高祖立國精神、王中元二年。上、崩ず。上兵を起せし時、年二十八、卽位の年三東漢-世祖光武皇帝-二九一 十八史略卷之三二九二上がにに紀ど,5,る進すのをとてを本代と治柔は而霸道な國道主し道を以し光混と十一。第五倫、詔書を讀む毎に、歎じて曰く、是れ聖主なり、一見てて武ゆして決せむと手書、方國に賜ふに、一札十行、細書文を成す。政體を明愼し、權綱を總攬し、時を量り、力を度る。大ゝるるれしは東しのに時本擧として過事なし。嘗て、南陽に幸し、置酒して宗室を會す。諸母相與に語つて曰通 有 べ べ た た 文 亦 法 と 館 )く,文叔、平日、人と欵曲せず、惟だ直だ柔なるのみ乃ち能く此の如しと。上、之を聞いて笑つて曰く、吾、天下を理むる、亦た柔道を以て之を行はむと欲すと。上、兵間に在つて、久しく武事を厭ふ。蜀、平らいで後、警急に非ざれば、未だ嘗て軍旅を言はず。)の恪北匈奴、衰困す。减宮、馬武、上書して、攻めて之を滅さむことを柔能じ 333に勝ち)つ能請ひ、劍を鳴らし、掌を抵つて、志を伊吾の北に馳す。よ書を報くぬさうじ、告ぐるに黄石公の包桑記を以てす。曰く、柔、能く剛に勝ち弱能く强に勝つと。之より、諸將、敢て兵を言ふなし。玉門關を閉ぢて、西域を謝絕し、功臣を保全し、復た任ずるに兵事を以てせ列侯を以て第に就かしむ。す。皆、吏事を以て三公を責め、亦た功臣を以て吏事に任ぜず。諸將、皆、功名を以て自ら終る。祭遵先つて死す。上、之を念うて己まず、來歙、要求、鋒鏑に死す。之をさ郞むこと甚だ厚し。吳漢、賈復、帝の世に終る。漢、軍に在つて、評當世世祖戰、或は利あらざるも、意氣自若たり。上、歎じて曰く、吳公、差も敵の所謂やてき一國內的や人意を强うす、隱として一敵國の如しと。師を出す毎に朝に詔機人間のでのを受けて、夕に道に就く。卒するに及び、上、臨んで言はむと欲す東漢-世祖光武皇帝-二九三 十八史略卷之三二九四る所を問ふ。漢曰く、臣愚、願はくは、陛下、愼んで赦すことなかざをらむのみと。復は、兵を起せし時より督たり。上曰く、賈督、千里を折衝するの威ありと。嘗て、戰つて傷を被る。上、驚いて曰く、吾、嘗て、其敵を輕んずるを戒む。果して然り。吾が名將を失ふ。聞く、其婦孕むるありと。子を生まむか、我が女之に嫁せしめむ。女を生まむか、我が子、之を娶らむと。其群臣を撫する、毎に此の如し。惟だ馬援死するの日、恩意頗る終へず援、嘗て曰く、大丈上夫當に馬革を以て屍を裏むべし。安んぞ、能く兒女の手に死なむやと。交趾反す。援伏波將軍を以て、之を討平す。武陵蠻反す。援、又行くを請ふ帝、其老ひたるを愍む。援甲を被り、馬に上上り、鞍に據つて顧眄し、以て用ゆべきを示す。上、笑つて曰く、矍鑠たる哉此翁やと。卽ち之を遣る。之より先、上の婿梁松、嘗て、援を候して牀下に拜す。援自ら父の友なるを以て答へず。松不ひ平なり。援、交趾に在り、嘗て、書を遣つて、其兄の子を戒めて曰く吾、汝曹、人の過を聞くこと、父母の名を聞くが如くならむことを欲す。耳には聞くべく口には言ふべからず。好んで人の長短を議論し、政法を是非する、子孫に此行在るを願はざるなり。龍伯高は、敦厚周愼、謙約節儉、吾、之を愛し、之を重んず。願はくは、汝曹、之に效へ。杜季良は、豪俠にして義を好み、人の憂を憂ひ人の樂を樂み、父の喪に客を致すや、數郡 畢く至る、吾、之東漢-世祖光武皇帝-二九五 十八史略卷之三二九六を愛し、之を重んず。汝曹の之に效ふを願はざるなり。伯高に效う鵠を刻して成らざるて得ざるも猶ほ謹敕の士とならむ、謂ゆる、大竹成線 電車 大阪すつらをにるして成てざ畫類も季良に效うて得ざれば、陷つて天下の輕狗れいす尙も、尙ほ鶩に類するなり。ら反つて狗に類するなりにばて類反成薄子とならむ。謂ゆる、虎を畫いて成らず、保を告し、と季良は杜保。保の仇人、上書して、援の書を以て證となす。保、坐して、官を免ず。松、保と遊ぶに坐して、幾んど罪を得むとし、愈よ援を恨む。是に至つて、援の軍、壺頭に至つて利あらず、軍中に卒す。松、構へて、之を陷れ、新息侯の印綬を收む。援、前に交趾に在つて、常に薏苡を餌す。身を輕くして瘴氣に勝つを以てなり。軍還る時、之を一車に載す。後に之を追讚する者あり、以爲へらく、明珠文犀なりと。上、益す怒る。朱勃、上書して、其寃を訟ふるを得て、乃ち稍や解く。上贓罪に於て貸す所なし。大司徒歐陽歙、嘗て、贓を犯す。歙の受くる所の尙書の弟子千餘人、闕を守つて求哀す。竟に免れず、獄に死す。用ゆる所の群臣、宋弘等の如き、皆、重厚正直。上の姉、湖陽公主、嘗て寡居す。意、弘に在り。弘、入つて見ゆ。主屏後に坐す。上曰く諺富んでは交を易へ、に言ふ、貴くしては妻を易ふと。人情か弘曰貧賤の交は忘るべ貧賤の交は忘るべからず、糟糠の妻は堂より下さずと。上、主ず、ず登精のを顧みて曰く、事諧はずと。主、蒼頭、人を殺して主の家に匿る下妻るあり。吏、得ること能はず。洛陽の令董宣、主の出行を候ふ。奴東漢-世祖光武皇帝-二九七 十八史略卷之三〓驂乘す。叱して、車より下して之を格殺す。主、入つて訴ふ。上大に怒り、宣を召して、之を捶殺せむと欲す。宣曰く、奴の人を殺すを縱さば、何を以て天下を治めむ。臣、捶を須たず。請ふ、自殺たせむと。卽ち頭を以て楹を叩き、血を流して面に被る。上小黃門をして、頭を叩へて、主に謝せしむ。宣兩手、地に據つて、終に肯んぜず。上、敕す、强項令出でよと。錢三十萬を賜ふ。當時州牧郡守縣州牧郡守縣令、皆、良吏たり郭仮、潁川に守たり。帝城に近し、令皆良吏上、之を勞して曰く、河、九里を潤す。京師福を蒙ると。杜詩、南陽に守たり、郡人之が爲に語して曰く、前に召父在り、後に杜母在りと。張堪漁陽に守たり。人之が爲に語して曰く、桑に附枝なく麥穗兩岐、樂支るべからずと。劉昆、江陵に令となる。火あ評劉の一叩頭して之に向へば、風を反して火を滅す。に條之個民 、のり。後に、弘農に守た語〓を然み」今り虎、北、河を渡る。上、問ふ、何の德政を行うて是に至る。昆の旨の座右進む曰く、偶然のみ。上曰く、長者の言なりと。命じて之を策に書せしむ。尤も高節を重んず。處士周黨を召す。至る。屈せず、伏して謁四重五十五せず、或ひと奏して、之を詆る。上曰く、古しへより、明王聖主は、西武士山必ず不賓の士ありと。帛を賜うて之を罷む。處士嚴光、上と共に、嘗て游學す。物色して、之を齊國に得たり。羊裘を披いて澤中に釣る。徵されて至る。亦た屈せず。上、光と臥す。足を以て、帝の腹に加ふ。明日、太史奏す、客星、御座を犯すこと甚だ急なりと。上東漢-世祖光武皇帝-二九九 十八史略卷之三三〇〇曰く、朕、故人嚴子陵と共に臥するのみと。諫議大夫に拜せらる。肯て受けず。去つて畊釣し、富春山中に隱れて終る。漢世、〓節の士多きこと、之より始まる。天下、未だ平ならざるに方つて、上既に文治に志あり。首として、大學を起し、古典を稽式し、禮樂を修明す。晩歲、明堂、靈臺、辟雍を起つ燦然たる文物述ぶべし。毎旦、朝を視、日昃いて、乃ち罷む。公卿郞將を引いて經理を講論し、夜分に乃ち寐ぬ。皇太子、聞に乘じて諫めて曰く、陛下禹湯の明あるも、黃老養性の道を失ふ。上曰く、我自ら此を樂む、疲るとなさざるなりと。在位三十三年、身、太平を致す。改元するもの二、曰く、建武、中元。書、六十二。太子立つ。之を顯宗孝明皇帝となす。【孝明皇帝】初名は陽、母は陰氏、光武、微なりし時、嘗て曰く、仕宦すれば、當に執金吾となるべし。妻を娶らば、當に陰麗華を得べしと。後、竟に之を得たり。陽を生む。幼にして、穎悟。光武、州郡に詔して、墾田戶口を檢覈す。諸郡、各、人を遣して、事を奏す。陳留の吏牘を見るに、上に書あり。之を視るに云ふ穎川弘農は、問ふべし、河南、南陽は、問ふべからずと。光武、吏に由を詰る。惟だ街上に於て、之を得たりと言ふのみ。光武、怒る。陽年十二、幄後に在り。曰く、吏、郡敕を受け、墾田を以て、相方べむと欲するのみ。河南は帝城、近臣多し。南陽は帝〓、近親多し。東漢-孝明皇帝-三〇一 十八史略卷之三三〇二せいじゆんなじ田宅、制に踰ゆ、準となすべからずと。以て、吏を詰る。吏首じざくわくくわうごうはいいんきじんめて服す。光武、大に之を奇とす。郭皇后、廢せられ、陰貴人、さう立つて后となる。陽を皇太子となし莊と改名す。是に至て卽位す。へきようのぞやうらうれいきう永平二年。辟雍に臨んで、養老の禮を行ふ。李躬を以て三老となくわんえいらうかうたんし、桓榮を五更となし、三老は東面し、五更は南面す。上、親ら袒せいさしやうとしやくいんして、牲を割き、醬を執つて饋し、爵を執つて醋す。禮畢つて、榮のぼくわんたい及び弟子を引いて、堂に升らしむ。諸儒、經を執つて問難す。冠帶しんめぐくわんちやうおくまんけい縉紳の人、橋門を圓りて觀聽する者、億萬計。うんだいおう三年。中興の功臣二十八將を南宮の雲臺に圖畫し、二十八宿に應とうはせいごかんわうれうかさちんしゆんかうかんず。鄧禹を首となし、次は馬成、吳漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、ともかうじゆんふしゆんしんはうけんじんへういわうは杜茂、しゆいうじんくわうさいじゆん寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王霸、朱祐、任光祭遵ちうけいたんばんしうがいえんひ李忠、からてうきりうしよくかうじゆん景丹、ざうきうはぶ萬修、盖延、形邳、銚期、劉植、耿純減宮、馬武、はえん劉隆。あづ惟だ、馬援のみは、皇后の父たるを以て與からず。とうへいわうさう十一年。東平王蒼、へうきしやうぐん來朝す。蒼、上の卽位の初より、驃騎將軍と1なり、五年にして、國に歸る。是に至つて、入朝す。上、問ふ、家をきういはに處つて、何を以て樂となす。蒼曰く、善を爲すこと最も樂しと。ませいゐきとぼきかうゐ十七年。かうへい復た西域都護、けうど戊己校尉を置く。初め、耿秉、匈奴を伐たむことを請ふ。ひ謂ふ、う宜しく、武帝が西域に通じて匈奴の右臂を斷ちしが如くなるべしと。とうこ上、之に從ひ、乗と竇固とを以て都尉とりやうしうたむろかははんてうなし、凉州に屯す。固、假司馬班超を西域に使せしむ。超、部善に東漢-孝明皇帝-三〇三 十八史略卷之三三〇四至る。王、之を禮すること、甚だ備はれり。匈奴の使來るや、頓かか虎穴に入らに、疎僻なり。超、吏士三十六人を會して曰く、虎穴に入らざればざれば虎子を得ず虎子を得ずと。虜營に走つて、其使及び從士三十餘級を斬る。都善の一國、震怖す。超告ぐるに、威德を以てし、復た虜と通ずるなからしむ。超、復た于寅に使す。其王、亦た虜使を斬つて、以て降る。是に於て、諸國、皆、子をして入侍せしめ、西域復た通ず。是に至つて、竇固等、車師を擊つて還り、陳睦を以て都護となし、及び耿恭を以て戊校尉となし。關龕を己校尉となし、分つて西域に屯せしむ。十八年。北匈奴、戊校尉耿恭を攻む、初め、上卽位の明年、南單于比死す。弟莫立つ。上、使をして、重緩を授けしむ。北匈奴、邊に寇す。南單于、擊つて、之を卻く。漢、北匈奴と交使す。南單干、怨んで、畔かむと欲し、密に人をして與に交通せしむ。漢度遼將軍を五京に置いて、以て之を防ぐ。旣にして、漢北匈奴を擊つ北匈奴、亦た邊に寇す。是に至つて、恭を金蒲城に攻む。恭、毒藥を以て、矢に傅け、匈奴に語つて曰く、漢家の箭は神なり、中事る者は異ありと。虜創を視れば、皆沸く。大に驚く。恭、暴風雨に乘じて、之を擊つ。殺傷甚だ衆し。匈奴、震怖して曰く、漢兵は神なり、眞に畏るべしと。乃ち解いて去る。上崩ず。在位十八年。改元するもの一曰く永平。壽四十八。上東漢-孝明皇帝-三〇五 十八史略卷之三三〇六評孝明偏察性偏察、好んで耳目を以て、隱發して、明となす。公卿大臣、數ば小慧隱發以爲す名て得たりと君に詆毀せられ、近臣尙書以下提曳せらるるに至る。嘗て、郞藥崧を怒あらずり、杖を以て、之を撞く。崧、走つて、床下に入る。上、怒ること天子穆穆諸甚しく、疾く言つて曰く、郞出でよ、郞出でよ。崧曰く、天子穆穆侯皇皇たり、諸侯皇皇たり、未だ人君自ら立つて郞を撞くを聞かずと。乃ち之を赦す。上、建武の制度を遵奉して更變するなし。后妃の家、侯に封ぜられ、政に預るを得ず。館陶公主、子の爲に郞を求む。上曰く、郞官は、上、列宿に應じ、出でては百里に宰たり苟くも其人に非ざれば、民、其 殃を受けむと。許さず當時、吏、其人を得て、民、其業を樂み、遠近畏服し、戶口滋殖す。太子立つ、是を肅宗孝章皇帝となす。【孝章皇帝】名は恒、母は賈氏。馬皇后、之を養ひ、立つてい太子となる。是に至つて卽位す。西域、都護を攻沒す北匈奴、己校尉を圍み、又、耿恭を圍む。詔して、兵を遣り都護及び戊己校の尉官を罷む。惟だ、班超上疏して、兵を請ひ、遂に西域を平げむと欲す。上、功の成るべきを知つて、之に從ふ。北匈奴の五十八部、來り降る。時に、北匈奴、衰耗し、黨衆離畔す。南部、其前を攻め、丁零、其後に寇し、鮮卑、其左を擊ち、西域其右を攻め、復た自立する能はず。乃ち、遠く引いて去る。鮮東漢-孝章皇帝-三〇七 十八史略卷之三三〇八卑、北單于を斬る。故に、部衆、來り降る者あり。上崩ず。在位十三年。改元するもの三、曰く建初、元和、章和壽三十一。上、明帝察察の後を繼で、人の苛切を厭ふを知り、事寛厚に從ひ、之に交ゆるに禮樂を以てす。嘗て、貢擧法を議す。韋彪、議して曰く、國、賢を簡ぶを以て務となす。賢は、孝行を以て忠臣氏求む首となす。忠臣を求むるは、必ず孝子の門に於てすと。上、之を然認證ず孝子の門に於りとす。廬江の毛義、行義を以て稱せらる。張奉之を候す。府檄孝て子すき毛義適ま至り、義を以て安陽の令に守たらしむ。義、檄を捧げて入り、喜顏色に動く奉、心に之を賤む。後に、義の母死するや、徵辟皆、至らず。奉、乃ち歎じて曰く、往日の喜は、親の爲に届す評元孝前漢は四孝るなりと。上、詔を下して、之を褒寵す。州郡、人を得たり。廉范十明漢太年孝は平の蜀郡に在るが如き、禁を弛めて、以て民に便す。民、之を歌うて章光あ武七孝東約曰く、廉叔度、來何暮、不禁火、民安作、昔無襦、今五袴、と。漢の祚太以長平あしり所玆に當時、皆以て、徭を平かにし、賦を簡にす。忠恕の長者、政を爲し、上の世を終るまで、民、其慶に賴る。太子立つ、是を孝和皇帝となす。【孝和皇帝】名は肇、母は梁氏、竇太后之を子とし、年十歲にして卽位す。竇后、朝に臨み、竇憲、外戚を以て侍中たり、事を用ゆ。罪あり、出でて北匈奴を擊つて、以て自ら贖はむことを求む。后石にしし之に從ひ、大に匈奴を破り、燕然山に登り功を勒して東漢-孝章皇帝-孝和皇帝ー三〇九 十八史略卷之三三一〇還る。入つて、大將軍となる。四年、父子兄弟、並に卿校となり、朝廷に充滿す。逆謀あり。上、之を知り、遂に宦者鄭衆と議を定め、兵を勒し、憲の印綬を收め、迫つて自殺せしむ。衆を以て、大宦官權を用ゆるの始長秋となし、常に與に政を議す。宦官、權を用ゆる之より始まる是より先、漢兵、北單于を擊つ。走つて死す。漢其弟を立つ。後に叛す。追うて斬つて、之を滅す。鮮卑徙つて、北匈奴の地に據る。之より、漸く盛なり。評將の典型班超は武班超を徵して、京師に還らしむ。卒す。超、書生より起り、筆を投じて、萬里外に封侯たるの志あり。相者あり謂つて曰く、生、燕頷虎頭、飛んで肉を食ふ、萬里侯の相なりと。假司馬より、西域に入り、章帝の時、西域の將兵の長史となる。上、超を以て西域の都護となす。諸國を平定す。西域に在ること三十年。功を以て、定遠侯に封ぜらる。是に至つて、年老いたるを以て、歸るを乞ひ、願はくは、生きて玉門關に入らむといふ。上之を許す任尙、代つて都護となる。〓を請ふ。超曰く、君、性嚴急なり。水〓けれ「評言東起こ)け訓ば、大魚なし。宜しく、蕩佚簡易なるべしと。尙、私に人に謂つて水れば大魚な-宜しく曰く、我班君、當に奇策あるべしと。今、言ふ所は平平たるのみ蕩迭簡易な)と尙、後、果して、邊和を失ふ。超の言の如し。後人味ふべ上在位十八年、崩ず。改元するもの二、曰く、永元、元興。太子立つ是を孝殤皇帝となす。東漢-孝和皇帝- 孝殤皇帝ー三二 十八史略卷之三三一二【孝殤皇帝】名は隆、生れて百餘日にして卽位す。延平と改元す。在位八閱月にして崩ず。時に、皇太后鄧氏、朝に臨み、郵隱と共に策を定め、嗣を立つ、是を孝安皇帝となす。【孝安皇帝】名は祐、〓河王慶の子、章帝の孫なり。未だ冠せず、迎へられて位に卽く。鄧后、尙ほ朝に臨む。鄧隱、大將軍となる。時に、邊軍多事。鄧隱、凉州を棄てて力を北邊に併さむと欲す。郞中虞調、以て不可となす。曰く、關西將を出し、關東相を出す。烈士武夫、多く凉州より出づと。衆皆、調の議に從ふ。隨謝を惡んで、之を陷れむと欲す。朝歌の賊、長吏を攻め殺して、州郡制する能はざるに會し、詡を以て、朝歌の長となす。故舊之を弔ふ(電話本局二四〇九)翻曰く、盤根錯節に遇はざれば、以て利器を別つなしと。官に至る順番地下ば傷け、其後の為に及び、壯士を募る。攻劫するものを上となし、人を偸盜するもの之に次ぐ。百餘人を收め得て、賊中に入らしめ、誘うて、劫掠せしめ、兵を伏せて、數百人を殺す。又、ひそかに、貧人の能く縫ふ者を遣して、賊衣を傭作せしめ、絲線を以て其裾を縫ひ、市里に出づる者あれば、卽ち之を禽にす。賊駭き散ず。縣境、皆平らぐ。太后、謝が將帥の略あるを知り、以て武都の太守となす。叛羌數千、謝を遮る。認.停まつて進まず。兵を請ひ、到るを須つて、乃ち發せむと宣言す。美、之を聞いて、旁縣に分鈔す。認、其散ずるに因つて、道を進む。軍士をして、各、兩竈を作らしめ、日東漢-孝殤皇帝-孝安皇帝-三一三 十八史略卷之三三一四に之を增倍す。或ひと曰く、孫牘は竈を減ず。然るに、君之を增す。兵法に、日に行くこと三十里に過ぎず。然るに、今、日に二百里ならむとするは何ぞや。翻曰く、虜の衆は多く、吾が兵は少し徐に行けば、及ばれ易く、速に進めば、彼測らず。虜吾が竈の日に增すを見れば、郡兵來り迎へしと謂はむ衆多くして、行くこと速評なれば、必ず我を追ふに憚らむ。孫臏は、弱を示す、吾、今强を示示孫るる論用す示虞し廣べこにに兵し謝ては成きとああ法ては成〓は成强功運功をしああ法てはす、勢同じからざるなりと。旣に到る。郡兵三千にして美は萬餘。赤亭を攻圍すること數十日。調、命ず、强弩を發する勿れ、ひそからりり知ざ理に小弩を發せよと羌、力弱くして到る能はずと謂ひ、兵を并せてをな急に攻む。是に於て、二十の强弩をして、共に一人を射らしむ。發すれば、中らざるなし。美、大に驚く。認、因つて、城を出でて奮擊す。明日、悉く其兵を陳し、東郭門より出でて、北郭門に入らしめ、衣服を貿易して、囘轉すること數周美、其數を知らず相さ恐動す。認、ひそかに淺水に於て、伏を設け、其走路を候ふ。美、果して大に奔る。因つて、掩擊して、大に之を破る。賊之に由つて敗散す。太后、崩ず。鄧隱、罷められて自殺す。汝南の太守王襲、才を好み、士を愛す。袁聞を以て功曹となし、黃憲陳蕃等を引進す。憲の父は牛醫、憲、年十四。潁川の荀淑く逆旅に遇ひ、竦然之を異として曰く、子は吾の師表なりと。聞を見東漢-孝安皇帝-三一五 十八史略卷之三三一六て曰く、子の國に顏子あり。聞曰く、吾が叔度を見たるかと。戴良才高し。憲を見て歸る毎に、惘然自失するが若し。其母曰く、汝、復た牛醫の兒より來るかと。陳蕃等、相謂つて曰く、時月の間も、太原の廓泰黄生を見ざれば、鄙吝の萌、復た心に存すと。太原の郭泰、闘を過ぐるに宿せず。憲に從つて、日を累ぬ。曰く、奉高の器は、之を沈5hわ?濫に譬ふ。〓しと雖も、挹み易し。叔度は、汪汪として、千頃の波のむねに、之を〓ませども〓まず、之を撓せども濁らず、量るべからざるなりと。憲初め孝廉に擧げられ又公府に辟さる。人、其仕を勸む。しばらく、京師に至つて卽ち還り、年四十八にして終る。太尉楊震自殺す太尉楊震、自殺す。震は關西の人、時人之を稱して曰く、關西の孔子は楊伯起と。生徒に〓授す。堂下に三〓を得たり。都講以爲へらく、三公の象ありと。取つて、以て進めて曰く、先生、之より升らむと。後、嘗て、郡守となる。屬邑の令、金を懷にして、之に遣天知る者あり。曰く、暮夜知る者なし。天知る、とぞ我知震曰く、子知る子ター何る地地知る、知る)我知る、る、何ぞ知るなしといはむと。令、慚ぢて退く三公とない知はるんなるに及びて、時に宦者及び上の乳母王聖事を用ゐ、皆、請託あり。震、從はず。又數ば近習を以て言となし、共に之を構へ、策して、印綬を收む。遂に死す。葬るの日、名士皆來り會す。大鳥あり、高さ丈餘、墓前に至つて俯仰し、流涕して去る。上、少にして聰明と號す。旣に位に卽いて、失政多し。在位十九東漢-孝安皇帝-三一七 十八史略卷之三三一八年にして崩ず。改元するもの五、曰く、永初、元初、永寧、建光、延光。太子、前に近習に譜せられ、坐して廢して濟陰王となる。閣皇后、朝に臨み、閻顯と共に、章帝の孫北〓侯懿を迎へて位を嗣がしむ。宦者孫程等、顯を誅し、闇后を遷して、濟陰王を迎立す、之を孝順皇帝となす。【孝順皇帝】名は保、孫程等の立つる所となる。宦官、功を以て侯に封ぜられし者十九人。尙書令左雄、奏して、郡國に令して孝廉を擧げしめ、年四十以上を限る。諸生、章句に通じ、文吏賤奏を能くすれば、乃ち選に應6 iずるを得。其茂材異等ある、顏淵、子奇の若きは、年齒に拘らざらしむ。雄公直精明にして、能く眞僞を審覈し、志を決して、之を行ふ。少年を擧げて至る者あり。雄之を詰つて曰く、顏囘は、一を聞いて十を知る。孝廉は一を聞いて幾を知るかと。之を頃くして、中外、謬擧に坐して黜免せらるる者、十餘人。惟だ、汝南の陳蕃、潁川の李膺、下邳の陳球等三十餘人、郞中に拜せらるるを得たり皇后の父梁商を以て大將軍となす。商、死す、其子冀を以て大將軍となし、不疑を河南の尹となし、使者八人を遣して、州郡を分行豺狼道に當安せしむ。張綱、獨り、其車輪を洛陽の都亭に埋めて曰く、豺狼、道問んはぞ·銀座社んに當る。安んぞ狐狸を問はむと。冀と不疑とが君を無みするの心を東漢-孝順皇帝-三一九 十八史略卷之三100効奏すること十五事。上、綱の言直なるを知れども用ゆる能はず、冀、之を中傷せむと欲す。廣陵の賊張嬰、揚徐の間を寇亂すること十餘年。乃ち、綱を以て、廣陵の太守となす。綱單車にして、徑に嬰の壘門に至り、請うて、與に相見て、之を譬曉す。嬰等、萬餘人降る。綱、壘に入つて宴し、散遣して、之く所に任かす。南州、ぶ晏然たり。郡に在つて卒す。嬰等、之が爲に服を制し、喪を行ふ。良吏蘇章時に二千石、長吏、政を能くする者あり。冀州の刺史蘇章、故人、〓河太守となるあり。章、部を行り、爲に酒を設けて、甚だ歡ぶ。守、喜んで曰く、人、皆、一天あり。我獨り二天ありと。章曰く、今日、蘇孺文、故人と飮する者は、私恩なり。明日、冀州刺史として、事を案ずるは、公法なりと。遂に、其姦贓の罪を擧正す。上在位二十年。崩ず。改元するもの五、曰く永建、陽嘉、永和、漢安、建康太子立つ、之を孝冲皇帝となす。【孝冲皇帝】名は炳、年二歲にして卽位す。三閱月にして崩ず。改元するもの一、曰く承嘉梁太后、渤海孝王の子を迎へ立つ、是を孝質皇帝となす。【孝質皇帝】名は繼、章帝の曾孫なり。年八歲にして卽位す。少にして、聰慧なり。嘗て、朝會に因つて、梁冀を目して曰く、是れ跋跋扈將軍扈將軍なりと。冀深く之を惡み、左右をして、餅中に於て毒を進めしむ。遂に崩ず。在位一年。改元するもの一、曰く、本初。冀東漢-孝順皇帝-孝冲皇帝-孝質皇帝-三 十八史略卷之三三二二蠡吾侯を迎立す、之を孝桓皇帝となす。【孝桓皇帝】名は志、章帝の曾孫なり。年十五にして卽位す。梁冀定策の功を以て、封を益す。又、其子弟を封じて皆侯とす。李固、杜喬、〓河王蒜を立てむと欲す。是に至つて、蒜、貶せられて候となり、自殺す。固、喬、獄に下つて死す。前の朗陵侯の相穎川の荀淑、少くして博學、高行あり。李固李膺等之を師宗とす。朗陵に相たるや、治、神君と稱す。子八人、時人、稱して八龍となす。其六を爽といふ、字は慈明。人言ふ。荀氏の八龍、慈明、無雙なりと。縣令、其里を命づけて陽里といふ爽、嘗て、李膺に謁し、因つて、之が爲に御す。旣に還つて、喜んで曰く、今日、乃ち李君に御するを得たりと。同郡の陳寔、淑と名を齊しうす。嘗て、淑に詣る。長子紀、字は元方、車を御し、次子諶、字は季方、驂乘し、孫群、字は長 文、尙ほ幼、車中に抱淑の家に至るや、八龍更迭して、左右に侍し、淑の孫或、字は文若、尙ほ幼、膝上に抱置す。太史奏す、德星見はる、五百里内、賢人の聚まるあらむと、寔嘗て、大丘の長となり、德を修めて〓淨なり吏民是を追思す。紀諶の子、其父の優劣を其祖に問ふ。寔難爲兄難曰く、元方は兄たり難し、季方は弟たり難しと。爲弟評一崔寔の政詔して、獨行の士を擧ぐ。涿郡の崔寔、公車に至り、對策せず以て殘を練かんとするして、退いて政論を著す。略に曰く、聖人は、能く世と推移す。俗東漢-孝桓皇帝-三二三 三二四十八史略卷之三んおけつじようやくらんしんしよざは、苦んで變を知らず、以爲へらく、結繩の約は、亂秦の〓を治をる治刑もめ以はををにと疾梁以しすを肉をててる治し大とる以は平罰のんてけいばつううまひへいじやうむべく、于羽の舞は平城の圍を解くべしと。夫れ、刑罰は亂を治むとくけうれうにくざんやくせき殘を除くむるの藥石なり、德〓は平を興すの梁肉なり。德〓を以て、味るの供藥求ふのな養石は、是れ梁肉を以て疾を治むるなり。刑罰を以て、平を治むるは、にすもておんたいおほぎよべ所りすきようやう是れ藥石を以て供養するなり。そのくつわ數世より以來、ぼとはし政くわうろけんけい恩貸多く、まさ馭は3そのたづな方に勤其轡を委て、馬は其衝を駘ぎ、けん四牡橫に犇り、あ皇路險傾すくわらんなせつそうけんしう節奏を拑し、軸を韃し、以て之を救はむとす、豈に和鸞を鳴らし、いうしいとま右趾をを〓むるに暇あらむや。むかし、文帝、肉刑を除くと雖も、きしうたわうしたう文帝、斬るに當するを棄市し、答るる者は、往往死に至る。是れ、ちうちやうとうげん其嚴を以て平を致す、寛を以つ平を致すに非ざるなりと。仲長統、つううつ書を見て曰く、凡そ、人主たらん者、宜しく、一通を寫して、之をざそくお座側に置くべしと。しゆぼくしうししいんと朱穆、冀州の刺史となる。令長、風を望み、印を解いて去る者數いたとんをそうがいくわんじやきさうぎよくかふ十人到るに及びて、貪汚を奏効す。宦者父を歸葬するに、玉匣もちあんけんそのくわんひらを用ゆる者あり。穆案驗し、其棺を剖いて、之を出す。上、聞いめていゐいただいがくせいりうたうらて、大に怒り、穆を徵して、廷尉に詣らしむ。大學生劉陶等、數千うつたちうくわんこくへいせつぢ人上書して、穆を訟ふ、謂ふ、中官、國柄を竊持し、手に玉爵をにぎてんけんさかうぜんかへりつく握り、口に天憲を街む。穆、獨り、亢然として顧みず、心を竭し、いだぼく憂を懷いて、上の爲に深く計る。臣、願はくは穆の罪に代らむと。またじやうそりよう上之を赦す。陶、又上疏して、穆及び李膺を以て、王室を輔けむ東漢-孝桓皇帝-三二五 十八史略卷之三三二六ことを乞ふ。書、奏すれども、省せず。梁冀、凶恣日に積む。外戚を以て、事を用ゆるもの二十年。威內外に行はれ、天子、手を拱するのみ。上、宦者單超等と謀り、兵を勤して、冀の印綬を收む。冀自殺す。梁氏、少長となく、皆棄市せらる。超等五人、皆、侯たり。冀の誅せられしより、天下、異政を想望す。黃瑀、首として大尉となる。陳蕃、處士徐穉、姜肱等を薦む。穉字は孺子、豫章の人。陳蕃守たりし時、特に一榻を設けて、穉を待ち、去れば之を縣く。稱、対諸公の辟に應ぜず。然れども、其死を聞けば、輙ち笈を負うて、赴ついて弔ひ、豫め一雞を炙り、酒を以て綿に漬し、暴乾して、之を裏み、家隧の外に至り、水を以て綿に漬し、白茆、飯を藉き、雞を以て前に置き、祭り畢れば、謁を留め、喪主を見ずして行く。肱は彭城の人、二弟、仲海、季江と倶に孝友なり。常に被を共にす。嘗て主盜に遇ふ。兄弟死を爭ふ。盜兩つながら之を釋す。稱肱徵さる。皆、至らず。黃瑀、卒す。四方の名士、葬に會する者七千人。穉、至る。爵を進めて哀哭し、生芻を墓前に置いて去る。諸名士曰く是れ必ず南州の高士徐孺子ならむと。陳留の茆容をして、之を追はしめ、國事を問ふ。答へず。太原の郭泰曰く、孺子、國事を答評當世其愚及ぶべへず。是れ其愚及ぶべからざるなりと。泰初め、洛陽に游ぶ。李者保して在贋與に友たり。膺、嘗て、郷里に歸る。送車數千兩贋、惟り泰東漢-孝桓皇帝-三二七 十八史略卷之三三八と舟を同じうして濟る。衆賓、之を望む者神仙の如しといふ容、年四十餘、野に畊す。雨に遇うて、樹下に避く。衆皆、箕踞す5す容、獨り、危坐して、愈よ恭し。泰見て之を異とし、遂に、勸め鉅鹿の孟敏て學ばしむ。鉅鹿の孟〓、甑を荷うて地に墜す。顧みずして去る。泰、見て之を問ふ、曰く、甑。旣に破る、之を視るも、何の益あらさ、上むと。泰亦た勸めて學ばしむ。自餘、泰の奬進に因つて、名を成す者、甚だ衆し。泰、有道に擧げらる。就かず。曰く、吾、夜は乾天の廢する所。支ふべか象を觀、晝は人事を察す、らざるなりと陳留の仇香、名は覽、年四十にして、蒲亭の長となる民に陳元といふ者あり、母元の不孝を告ぐ。香、親ら其家に至り、爲に人倫れいわうくわんを陳ぶるや、感悟して、卒に孝子となる。孝城の令王奐香を署して主籍となす。謂つて曰く、陳元、罰せずして、之を化す、鷹鶴の志を少くなきを得むや。香曰く、以爲へらく、鷹鶴は鸞鳳に若かずと奐曰く、根棘は鸞風の種む所に非ず、百里は大實の路に非ずと。乃ち、香に資して太學に入らしむ。常に自ら守る。泰房に就て、之を見るや、起つて床下に拜して曰く、君は泰の師なりと。徵辟に應ぜずして卒す。黃瑀より以來、三公、楊秉、劉寵の如き、皆人望あり。寵、嘗て會稽に守たり。郡大に治まる。徵さる。五六の老叟あり。山谷の間より出で、人每に百錢を賣して曰く、明府車を下つて以來、狗東漢-孝桓皇帝-三二九 十八史略卷之三三三〇夜吠えず、民、吏を見ず。今、當に棄て去らるべしと聞く。故に自何ぞ能く公の言に及ばむや、ら扶けて奉送す。寵曰く、吾が政、父老を勤苦すと。人每に、一大錢を選んで、之を受く。後、入つて、司空となる。秉、朝に立つて正直。河南の尹となる。時に嘗て宦官に忤ふを以て罪を得たり。後、大尉となつて、以て卒す。陳蕃、秉に繼いで大尉となる。數ば李膺を言ひ、以て司隷校尉となす。宦官之を畏れ、皆、鞠躬、氣を屏け、敢て宮省を出でず。時に、朝廷、綱紀頽弛す。麿獨り、風裁を持し、聲名を以て自ら尙ぶ。士、其登龍門容接を被る者あれば、名づけて、登龍門といふ劉寛を以て、尙書令となす。寛.嘗て三郡に歷典し、仁恕多し。吏民、過あれば、蒲鞭を以て之を罰す。初め、上、候たりし時、學を甘陵の周福に受く。位に卽くに及びて、擢でて、尙書となす。時に、同郡の房植、名あり。〓人、謠うて曰く、天下の規矩は房伯武、師に因つて印を獲たるは周仲進と二家の賓客、互に相譏揣して、隙を成す。之に由つて、甘陵に南北黨人の議部あり。黨人の議、是に始まる。汝南の太守宗資、范滂を以て功曹となし、南陽の太守成増、岑旺を以て功曹となし、皆、善を褒して惡を疾むこと讐の如し。違を糾す。滂、尤も剛勁、二郡、謠うて曰く汝南の太守は范孟博、南陽の宗資、畫諾を主る。南陽の太守は岑公孝。弘農の成増は但だ坐嘯すと。太學の諸生三萬餘人、郭泰東漢-孝桓皇帝-풀 十八史略卷之三三三二)賈彪、之が冠となり、陳蕃、李膺と更る相推重す。學中、語つて曰 天下の摸階は李元禮、强禦を畏れざるは陳仲擧と。是に於て、中外風を承け、競うて、臧否を以て相尙ぶ。會ま、成増、太原の守くわん〓〓劉項と與に、赦後に於て、宦官の黨を案殺す。徵して獄に下し、將に棄市せられむとす。山陽の守翟超張儉を以て、督郵となす。宦官の制を踰えたる家宅を破る。東海の相黃浮、亦た宦官の家屬、法を犯せる者を收めて、之を殺す。宦官、寃を訴ふ。皆、罪を得たり。蕃、屢ば之を爭ふ。上、聽かず。宦官、人をして上書せしめ、李膺が太學の遊ををひ、與に部黨をなし、朝廷を誹訓し、風俗を疑亂するを告ぐ。上、震怒し、郡國に下して、黨人を逮捕す。案、ら、三府を經。蕃、郤けて肯て署せず。上、愈よ怒り、膺等を北寺の獄に下す。辭杜密、陳寔、范滂等、二百餘人に連る。使者、追捕四出、蕃又極諫す。上、策して、之を免ず朝廷震慄、敢て復た黨人の爲に言ふ者なし。賈彪曰く、吾、西行せずむば、大難解けずと。乃ち洛陽に入り、皇后の父竇武に說き、上疏して、之を解く。膺等の獄辭、又多く宦官の子弟を引く。宦官、乃ち懼れ、上に白して、黨人二百餘人を赦して、貨、田里に歸らしめ、名を三府に書して、終身禁錮す。上、在位二十一年、改元するもの七、曰く建和、和平、元嘉、永興、永壽、延熹、永康。崩ず。竇皇后、解瀆亭侯を迎立す。之を孝靈皇帝となす。東漢-孝桓皇帝-三三三 十八史略卷之三三三評【孝靈皇帝】名は宏、章帝の玄孫なり。年十二にして卽位す。竇太る亡位冲帝所をすに以東以早是し後漢なめれて皆はりた衰卽幼和一一冲に后、朝に臨む。竇武、大將軍となり、陳蕃、太傅となる。天下の名賢を徴し、李膺、杜密等、皆、朝に列し、天下太平を想望す。蕃、ミ武、與に議し、宦官、國柄を操弄して、海內を濁亂するを以て、奏して、曹節、主甫等を誅せむとす。謀、泄る。宦者、夜、所親を召さし、血を〓つて、共に盟ひ、帝を請うて、前殿に御せしめ、詔板を作り、王甫を黄門令に拜し、其黨をして、節を持して、武等を收めしめ、誣ゆるに、大逆を以てし、先づ陳蕃を執へて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟す。太后を南宮に遷す。李膺、初め、廢錮すと雖も、士大夫、皆、其道を高しとして、朝廷を汚穢とし、更る相標榜して、稱號を爲り、竇武、陳蕃、劉淑を以て三君となす、言ふは、一世の宗とする所なり。李膺、荀昱、杜密、王暢、劉祐、魏朗.趙典、朱寓を八俊となす。言ふは人英なり。郭泰、范滂、尹勳、巴肅、宗慈、夏馥、蔡衍、羊陟を八顧となす、言ふは、能く德行を以て人を引くなり。張儉、翟超、岑晊、菀康、劉表、陳翔、孔昱1檀敷を八及となす、言ふは、能く人を導いて追宗せらるるなり。度尙、張邈、王孝、劉儒、胡母班、秦周、蕃嚮、王章を八厨となす、言ふは、能く利を以て人を救ふなり。陳蕃、竇武が事を用ゆるに及び、復た膺等を擧拔す。陳竇死し、膺等、復た廢鋼す。曹節、有司に諷して、諸の鈎黨を奏せしむ。膺.詔獄に詣つて考死す。滂、捕東漢-孝靈皇帝- IIIII 十八史略卷之三三三六にに就くや、母、與に訣れて曰く、汝、今李杜と名を齊しうするを得たり、死すとも、何ぞ憾みむと。滂、跪いて〓を受け、再拜して辭し、其子に謂つて曰く、汝をして、惡を爲さしめむとすれば、惡は爲すべからず。汝をして、善を爲さしめむとすれば、我、惡を爲さずと。聞く者、之が爲に流涕す。黨人死する者百人、其死徒廢鋼せ註て然と保は郭難し殄は世れい身所泰を邦濟もべ名明如人の云をた瘁ずをどふの謂のられし者、又六七百人。郭泰私に痛んで曰く、詩に云ふ、哲に亡ぶる。邦國殄瘁すと。漢室滅せむ。但だ、未だ鳥を瞻るに、爰に以し手止まる。誰の屋に子てするかを知らざるのみと。泰好んで、減否すふ能げんかくろん國の坐視と雖も、然も、危言覈論を爲さず、故に濁世に處して、禍 及ばず。ず批免諸儒に詔して、五經の文字を正さしむ。蔡邕に命じて古文、篆、(隸の三體を爲り、之を書して、石に刻し、太學門外に立つ。上、文學を好み、諸生の文武を能くする者を引き、並に鴻都門下に待制せしめ、太學を置立す。諸生、皆、斗管の小人なり、君子、之を恥づ。評買ふ番長18.7中人其を西邸を開いて、官を賣る。各、賈あり。崔烈、五百萬を以て、司銅が肉飯 200云々さんの徒を得たり。其子に問ふに、外議如何を以てす。子曰く、人、其銅さが肉臭を嫌ふのみと。張角鉅鹿の張角、妖術を以て〓授し、太平道と號し、符水、病を療す。弟子を遣して、四方に遊ばしめ、轉た相証誘す。十餘年間、徒衆數十萬。三十六方を置く、大方は萬餘、小方は六七千、各、渠帥を立東漢-孝靈皇帝-三三七 十八史略卷之三三三八黃巾て、一時與に起り、皆、黃巾を著け、所在燔劫す。旬月の間、天下曹操響應す。皇甫嵩等をして、黃巾を討たしむ。〓、沛國の曹操と軍を合せて、賊を破る。操の父嵩。宦者曹騰の養子となる。或は云ふ、じ夏侯氏の子なりと。操少にして機警、權數あり。任使放蕩にして、行業を治めず。汝南の許劭、從兄靖と共に、高名あり。共に〓月且評黨人物を覈論す。毎月、輙ち其題品を更む。故に汝南の俗月旦評あり。操往いて、劭に問うて曰く、我は如何なる人ぞと。劭、答評獨立派能人よす。之を劫す。乃ち曰く、子は治世の能臣、亂世の姦雄なりと。にい世世ふののし雄臣と亂べ姦操喜んで去る。是に至つて、賊を討つを以て起る。皇甫嵩、張角を討つ。角死す。嵩其弟と戰ひ、破つて之を斬る。上崩ず、在位二十二年。改元するもの四、曰く、建寧、熹平、光和中平。子辨立つ何太后、朝に臨む。后の兄大將軍何進、尙書くわん〓〓の事を錄す。袁紹、進に勸めて宦官を誅せしむ。太后、未だ肯んぜず。紹等、畫策し、四方の猛將を召し、兵を引いて、京に向はし董卓め、太后を脅し、遂に將軍董卓の兵を召す。卓、未だ至らず。進ん)室官に殺さる。紹兵を勤して、諸宦官を捕へ少長となく、皆之を殺す。凡そ二千餘人。鬚なくして、誤つて、死する者あり。卓、至る。亂の由を問ふ。辨年十四、語.了すべからず。陳留王、答へて、遺すなし。卓、廢立を欲す。紹、可かず。卓、怒る。紹出奔す。卓、遂に辨を廢す。陳留王立つ之を孝獻皇帝となす。東漢-孝靈皇帝-三元 十八史略卷之三三時○【孝獻皇帝】名は協、九歳にして董卓に立てらる。關東の州郡、兵を起して、卓を討ち、袁紹を推して、盟主となす。卓、洛陽の宮廟う)孫堅を燒いて、都を長安に遷す。長沙の太守、富春の孫堅、兵を起して、卓を討ち、南陽に至る。衆數萬。袁術と兵を合す。術、紹と同祖、皆、故の大尉袁安の玄孫なり。袁氏、四世五公、富貴、佗の公族に異なり。紹、壯健にして、威容あり。士を愛す。士輻輳す。術、亦た俠氣あり。是に至つて、皆起る。堅擊つて、卓の兵を敗荊州をる。術堅をして、圖らしむ。劉表の將黃祖の步兵に射られて死す。呂布司徒王允等、密に謀つて、卓を誅せむとす。中郞將呂布、膂力人흔に過ぐ。卓、之を信愛す。嘗て、少しく卓の意を失ふ。卓、手づから戟を布に擲つ布、避けて、免るるを得たり。允、布に結んで、內應を爲さしめ、卓の入朝するとき、勇士を北抜門に伏せて、之を刺す。卓、車より墮ち、大に呂布を呼ぶ。布曰く、詔あり、賊臣を誅すと。聲に應じて、矛を持して卓を刺し、趣に之を斬る。是よりきん〓〓き先、卓、塲を郿に築き、穀を積んで、三十年の儲をなし、金銀綺錦上奇玩、積んで丘山の如し。自ら云ふ、事成らば、天下に據らむ。成以て老いむと。らざれば、此を守つて是に至つて、屍を市に暴す。吏、"卓、素より肥えたり。大性を作つて、臍中に置いて之を燒く。光、曙に達するもの數日。卓の黨、兵を擧げて、闕を犯し、王允を東漢-孝獻皇帝-〓 十八史略卷之三三四二殺す。呂布去る。ちうざんせいわうしよう劉備涿郡の劉備、字は玄德。其先は、景帝より出づ。中山靖王勝の後關羽なり。大志あり、語言少く、喜怒色に形はれず。河東の關羽、涿郡張飛の張飛、備と相善し。備の起るや、二人、之に從ふ。孫策、孫權孫堅の子策、弟權と富春に留まり、舒に遷る。堅死する時、策年十七、往いて袁術に見え、其父の餘兵を得たり。策十餘歳の時、周瑜旣に交結して、名を知らる。舒人周瑜、策と同年、亦た英達夙成是に至つて、策に從つて起る。策東江を渡つて、轉鬪するや向ふ所、敢て其鋒に當る者なし。百姓、孫郞の至るを聞いて、皆魂魄を失ふ。至る所、一も犯す所なし、民、皆大に悅ぶ。初め、曹操、卓を討つ時より、榮陽に戰ひ、還つて河內を領し、尋いで、東郡の太守を領し、東武陽を治す。既にして、衰州に入つて、之に據り、自ら刺史を領し、使を遣して上書す。以て衰州の牧となす。上、洛陽に還る。操入朝し、上を許に遷す。操擊つて、呂布を殺す。初め、布、關中より袁術に出奔す。旣にして、又、操に攻められ、走つて劉備に歸し、旣にして、又、備はを襲うて、下邳に據る。備走つて、操に歸す。操備をして、沛に屯せしむ。布、陳登をして、操に見えしめ、徐州の牧たらむことを求む。得ず。登、還つて、布に謂つて曰く、登、曹公に見えて言ふ、將軍を養ふは、虎を養ふが如く、當に其肉に飽かしむべし、飽東漢-孝獻皇帝-三四三 十八史略卷之三三四四かざれば、人を噬まむと。公曰く、然らず、譬へば、鷹を養ふが如く饑うれば人に附き、飽けば屬り去らむと。布、復た備を攻む。備、走つて、復た操に歸す。操、布を擊つて、下邳に至る。布、屢ば戰つて皆敗れ、困迫して降る。操之を縛して曰く、虎を縛するは、急ならざるを得ずと。卒に之を縊殺す。備操に從つて、許に還る。袁術、初め、南陽に據る。旣にして、壽春に據る。識言に、漢に代るものは塗に當つて高しといへるを以て、自ら名字之に應ずといひ、遂に帝と稱す。淫侈甚し。旣にして、資實空虛、自立する能はす。袁紹に奔らむと欲す。操劉備をして、之を邀へしむ。術、走り還り、血を歐いて死す。孫策、旣に江東を定め、許を襲はむと欲す。未だ發せず。もと殺す所の吳郡の守許貢の奴、其出獵に因つて、伏して、之を射る。創評べる互孫兄江東の衆しとに氏甚し弟權を呼んで、代つて其衆を領せしめて曰く、相ふ識弟いじを擧げて、機を兩陣の間に決し、天下と衡を爭ふは、卿我に如かず。賢に任じ、能を使ひ、各其心を盡し、以て江東を保つは、我、卿に如かずと。卒す。年二十六。袁紹、冀州に據り、精兵十萬、騎一萬を簡んで、許を攻めむと欲す。沮授、諫めて曰く、曹操、天子を奉じ、以て天下に令す。今、兵を擧げて、南に向はば、義に於て違はむ。ひそかに、公の爲に、東漢-孝獻皇帝-三四五 十八史略卷之三三四六之を懼ると。紹、聽かず。操紹と官渡に相拒ぎ、襲うて、紹の輜重を破る。紹の軍、大に潰え、慚憤血を歐いて死す。車騎將軍董承密詔を受くと稱し、劉備と共に曹操を誅せむと大下の英雄す。操一日、從容として、備に謂つて曰く、今、天下の英雄、惟使君と操とみだ使君と操とのみと。備方に食し、七筋を失ふ。雷震に値ひ、詭つて曰く、聖人云ふ、迅雷風烈、必ず變ずと。まことに、以あるなりと。備旣に遺されて、袁術を邀ふ。因つて、徐州に之き、兵を起して、操を討つ。操之を擊つ。備先づ冀州に走り、兵を領して汝南に至り、汝南より〓州に奔り、劉表に歸す。嘗て、表の坐に於て、起つて〓に至り、慨然として、涕を流す。表、怪んで之を問iふ備曰く、當時、身、鞍を離れず、髀肉、皆消ゆ。今、復た騎せ髀裡肉生ずず、髀裏肉生ず。日月流るるが如く、老、將に至らむとして、功業諸葛亮建たず、之を以て悲しむのみと。瑯琊の諸葛亮襄陽の隆中に寓居し、毎に自ら管仲、樂毅に比す。備、士を司馬徽に問ふ。徽曰く伏龍鳳雛時務を識るは、俊傑に在り。此間、伏龍、鳳雛あり、諸葛孔明、龐士元なりと。徐庶、亦た備に謂つて曰く、諸葛孔明は臥龍なりと。き備、三度往いて、乃ち亮を見るを得たり。策を問ふ。亮曰く、操te百萬の衆を擁し、天子を挾み諸侯に令す、是れ誠に與に鋒を爭ふべからず。孫權、江東に據有し、國險にして民附く、與に援となすべくして圖るべからず。〓州は武を用ゆるの國、益州は險塞、沃野千東漢-孝獻皇帝-三四七 十八史略卷之三憂里、天府の土なり。若し〓益を跨有し、其巖阻を保てば、天下變ある時、〓州の軍は宛洛に向ひ、益州の衆は秦川に出でん。孰れか、上簞食壺漿、以て將軍を迎へざらむや。備曰く、善しと。亮と情好日る孤はの如のに密なり。曰く、孤の孔明あるは、猶ほ魚の水あるが如きなりと。あるが士元、名は統、龐德公の從子なり。德公、素より重名あり。亮其家に至る每に、獨り、床下に拜す。曹操、劉表を擊つ。表、卒す。子琮、〓州を擧げて操に降る。劉備.江陵に走る。操之を追ふ。備夏口に走る。操軍を江陵に進め、遂に東に下る。亮備に謂つて曰く、請ふ、救を孫將軍に求めむと。亮權を見て之に說く權大に悅ぶ。操權に書を遺つて曰く、今、水軍八十萬の衆を治す。將軍と吳に會獵せむと。權、以て群下に示す。色を失はざるなし。張昭、之を迎へむを請ふ。魯魯肅肅以て不可となし、權に勸めて周瑜を召さしむ。瑜至る。曰く、請ふ、數萬の精兵を得て、進んで夏口に往き、保して、將軍の爲に之を破らむと。權、刀を拔き、前の奏案を斬つて曰く、諸將吏、敢て操を迎へよといふ者は、此案に同じからむと。遂に瑜を以て、三と萬人を督せしめ、備と力を併せて操を逆へ進んで、赤壁に遇ふ。評定天赤ま下壁り三のし分戰まは瑜の部將黃蓋曰く、操の軍、方に進む、船艦首尾相接す。燒いて走所古古沈く詩あ戟日人らすべきなりと。乃ち蒙衝鬪艦十艘を取つて、燥荻枯紫を載せ、油折そ沙鐵半銷を其中に灌ぎ、帷幔に裏み、上に旌旗を建て、豫め走舸を備へて、東漢-孝獻皇帝-三四九 十八史略卷之三三五〇用雜誌其尾に繋ぎ、先づ書を以て操に遣り、詐つて降らむと欲すとなす。自郞東焼 肉 大 190前雀與朝銅不春周深鎖時に東南風急なり。蓋、十艘を以て、最も前に著け、中江に帆を擧牧)依二然喬杜形 村げ、餘船次を以て倶に進む。操の軍、皆、指して、蓋降るといふ。10月)此萬一浪明巳場片三郞江無長壁扼山荊前襄南故去ること二里餘。同時に火を發す。火烈しくして風猛、船往くこと東魏烏日河國秋去地鵲えん〓〓箭の如く、北船を焚き盡し、烟焔天に漲る。人馬溺燒して死するも人有大に壞陳今山分千の甚だ衆し。瑜等、輕銳を率ゐ、〓鼓して大に進む。北軍、)經百る。操走り還る。後に屢ば兵を權に加ふれども、志を得ず。操跡邊人歎息して曰く、子を生まば、孫仲謀の如くなるべし。前の劉景升の(趙翼)圓貳人三當國學 (電話軍)兒子は、豚犬のみと。薄皮終劉備、〓州、江南の諸郡を徇ふ。周瑜、權に上疏して曰く、備〓賊池上梟雄の姿あり、而して、關羽、張飛あり、熊虎の將なり。此三人を龍水竟得夜烏不紛漁流雲蛟秋江·自聚めて、疆場に在らしむれば、恐らくは、蛟龍、雲雨を得て、終に猶猶聲蕭我照渺客來〓聞鵠共紛燈池中の物に非ざるなり。宜しく、備を徒して吳に置くべしと。權寒吹靜從はず。瑜、方に北方を圖らむと議す。會ま病んで卒す。魯肅、代袁枚)さ、つて其衆を領す。肅、權に勸め、〓州を以て、劉備に借さしむ。呂あ下らの家賃た蒙に吳權之に從ふ。權の將呂蒙、初め學ばず。權蒙に勸めて、書を讀ましむ魯肅、後、蒙と論議す。大に驚いて曰く、卿は復た吳下の 阿蒙に非ず。蒙曰く、士別れて三日なれば、卽ち當に目を刮つて待つべしと。寵統劉備、初め、龐統を用ゐて、耒陽の令となす。治まらず。魯肅、東漢-孝獻皇帝-三五一 十八史略卷之三三五二備に書を遣つて曰く、士元は百里の才に非ず、治中別駕たらしむれば、乃ち驥足を展ぶるを得べきのみと。備之を用ゆ。益州を取るを勸む。備關羽を留めて、〓州を守らしめ、兵を引いて流を泝り、巴より蜀に入り、劉璋を襲ひ、成都に入る。備既に益州を得たり。孫權、人をして、備に從つて、〓州を求めしむ。備肯て還さず。旣にして、〓州を分つ。備蜀より漢中を取り、自立して、漢中王となる。漢中の將關羽、江陵より出でて、樊城を攻む。許より以南、徃徃司馬懿はるかに羽に應じ、威、華夏に震ふ。曹操、許都を徒して、以て其鋒を避けむと議するに至る。司馬懿曰く、備と權と、外親しくして內疎なり。關羽志を得る、權必ず願はざるなり。人をして、權に勸めて、其後を躡ましめ、江南を割いて、以て權に封ずるを許さしむべしと。操之に從ふ。時に、魯肅、既に死し、呂蒙、之に代樊をり、亦た權に勸めて、羽を圖る。操の師、救ひ、權の將陸遜、大又羽の後を襲ふ。羽、狼狽して走り還る。權の軍、羽を獲て、之を斬り、遂に〓州を定む。初め、曹操、兗州の牧より、入つて丞相となり、冀州の牧を領,し、魏公に封ぜらる。銅雀臺を鄴に作る。旣にして、爵を進めて王子丕を以て、となり、天子の車服を用ゐ、出入に警蹕す。王太子となす。操、卒す。丕、立つ。自ら丞相冀州の牧となる。魏の群臣、言東漢-孝獻皇帝-三五三 十八史略卷之三三五四ふ、魏當に漢に代るべしと。조、遂に帝に迫つて位を禪らしめ、評難波の2帝を以て、山陽公となす。帝、在位改元するもの三、曰く、初平、其ぶる在根相帝り本文明に興平、建安。元年より二十五年に至るまで、皆、曹操政を爲すの時以而鉄レート纖ぎ宦官進なり。共に三十一年。位を禪つて、又十四年にして卒す。漢は、高出權臣橫暴快餐で祖、元年、王となり、五年、帝となりしより、是に至つて、二十四最大誘因減たの世、四百二十六年。西紀自二二〇漢至二六五附魏吳二僭國按ずるに、曾氏云ふ。天下一統に非ざるものは、もと各自一·國に編集すべし。又初學の讀者、其時代の先後に迷はむことを恐る。今、但だ、一國の源流相接するものを以て、提頭となし、同時の國を其間に附すと。然れども、曾氏は、陳壽の舊に仍り、た魏を以て帝と稱して、漢吳を附す。刻旣に朱子綱目の義例に遵つて、少微通鑑を改正す。今、復た此書を正し、漢を以て、統を接すといふ。【昭烈皇帝】諱は備、字は玄德、漢の景帝の子、中山靖王勝の後。大志あり、言語少く、喜怒形はれず。身の丈七尺五寸、手を垂るれば、膝を下り、顧みて自ら其耳を見る。蜀中、傳へて言ふ、曹丕簒立し、帝、旣に害に遭ふと。是に於て、三國-漢-昭烈皇帝-三五五 十八史略卷之三三五六ぐ漢中王、喪を發し、服を制し、諡して孝愍皇帝といふ。夏四月、帝、位に武擔の南に卽き、大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相となし、許靖を司徒となす。宗廟を立て、高皇帝以下を袷祭す。夫人吳氏を立てて皇后となし、子禪を皇太子と爲す。魏王、名は丕、姓は曹氏、沛國譙の人なり。父操、魏王たり。丕位を嗣ぐ。始めて、九品、人を官にするの法を立て、州郡、皆、九品の中正を置き、人物を區別し其高下を第す。조、旣に漢を簒し、自立して帝となり、操を追尊して太祖武皇帝となし黃初と改元す。帝、關羽の歿せしを恥ぢ、自ら將として孫權を伐つ。權和を求むれども許さず。權使を魏に遣す。魏權を封じて、吳王となす。かっ、魏王、吳使趙咨に問うて曰く、吳王、頗る學を知れりや。咨曰く、評趙に春て謂如眞し所ん外我が出て使吳王、賢に任じ、能を使ひ、志、經略に存し、餘閒あつて書史を博者辱也しはあ···覽すと雖も、書生の尋章摘句に效はず。魏王曰く、呉、魏を難かるじか咨曰く、帶甲百萬江漢を池となす、何の難ることか之あらむ。曰く、吳、大夫の如き者幾人。咨曰く、聰明特達の者、八九十人。臣の比の如きは、車に載せ、斗にて量るも、勝げて算ふべからずと。帝、巫峡より夷陵に至るまで、數十屯を立て、吳軍と相拒ぐこと累月、吳の將陸遜、其四十餘營を連破す、帝、夜、遁る。三國-漢-昭烈皇帝-三五七 十八史略卷之三〓魏王、吳の侍子を責む。至らず。怒つて之を伐つ。吳王、黃武と改元し、江に臨んで拒守す。三年。夏四月、帝崩ず。在位三年、改元するもの一、曰く章武。證して、昭烈皇帝といふ太子禪、卽位し、亮を封じて武〓侯となす。太子、旣に立つ、是を後皇帝となす。【後皇帝】名は禪、字は公嗣、昭烈皇帝の子なり。年十七にして卽評情義昭烈客廳中遺詔位し、建興と改元す。丞相諸葛亮、遺詔を受けて政を輔く。昭烈、人製作品川終に臨んで、亮に謂つて曰く、君の才、曹丕に十倍す。必ず能く國家を安んじ、終に大事を定めむ。嗣子、輔くべくむば之を輔けよ。若し其れ不可なれば、君、自ら取るべし。亮.涕泣して曰く、臣、い敢て股肱の力を竭し、忠貞の節を效し、其れに繼ぐに死を以てせざらむやと。亮、乃ち官職を約し、法制を修め、〓を下して曰く、夫れ參署は、衆思を集め、忠益を廣むるなり。若し小嫌を遠ざけ、相さ違覆するを難からば、曠しくして闕損せむと。亮、乃ち鄧芝を遣し吳に使して好を修めしむ。芝、吳王に見えて曰く、蜀に重險の固あり、吳に三江の阻あり、共に屑齒をなさば、進んでは、天下を兼〓鼎足の計すべく、退いては、鼎足して立つべしと。吳、遂に魏に絕つて、專ら漢と和す。魏主、舟師を以て吳を擊つ。吳、艦を江に列ね、江水盛長す。魏主臨望して、歎じて曰く、我、武夫千群ありと雖も、施す所なきな三國-漢-後皇帝-三五九 十八史略卷之三三六〇りと。是に於て、師を還す。南夷、漢に畔く。丞相亮、徃いて、之を平らぐ。孟獲といふ者あり、素より、夷漢の服する所たり。亮、生き乍ら、獲を致し、營七縱七禽陣を觀しめ、縱して更に戰はしむ。七縱七禽、猶は獲を遣る。獲去らずして曰く、公は天威なり、南人復た反せずと。魏主、又舟師を以て吳に臨み、波濤の淘湧するを見て、歎じて曰く、暖房、まことに、天、南北を限る所以なりと。魏主丕、殂す。僭位七年改元するもの一、曰く黃初。證して文皇帝といふ子叡立つ。是を明帝となす。叡の母、誅せらる。조、嘗て叡と共に出でて獵し、子母の鹿を見、既に其母を射、叡をして其子を射らしむ。叡、泣いて曰く、陛下、旣に、其母を殺す、臣、其子を殺すに忍びずと。조、惻然たり。是に及びて、嗣となつて卽位す。處士管寧、字は幼安。東漢の末より、地を遼東に避くること三十七年。魏之を徵す。乃ち海に浮んで、西に歸る。官に拜すれども受けず。漢の丞相亮、諸軍を率ゐて、北、魏を伐つ。發するに臨んで、前出師表上疏して曰く、今、天下三分、益州疲弊せり。是れ危急存亡の秋なり宜しく、聖聽を開張して、忠諫の路を塞ぐべからず。宮中府中は、倶に一體たり。陟罰、减否、宜しく異同あるべからず。若し、三國-漢-後皇帝- 1/21 十八史略卷之三三六二姦を作し、科を犯し、及び忠善の者あれば、宜しく、有司に付し、其刑賞を論じて、以て平明の治を昭にすべし。賢臣を親しみ、小人を遠ざくるは、是れ先漢の興隆せし所以なり。小人を親しみ、賢臣を遠ざくるは、是れ後漢の傾頽せし所以なり。臣、もと布衣、南陽に躬耕し、性命を亂世に苟全し、·聞達を諸侯に求めず。先帝、臣の卑鄙を以てせず、猥りに自ら枉屈して、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮ふに當世の事を以てす。之に由つて感激し、先帝に許すに、驅馳を以てす。先帝、臣の謹愼を知り、崩ずるに臨み、寄するに大事を以てせり命を受けてより以來夙夜に憂懼し、付託の效あらず、以て先帝の明を傷けむことを恐る。故に、五月、濾を渡り、深く不毛に入る。今、南方、旣に定まり、兵用既に足る。當に三軍を奬率し評上海市建材工程有限公司出て、北、中原を定め、漢室を興復して、舊都に還すべし。是れ、臣が孔明先帝に報じて、陛下に忠なる所以の職分なりと。遂に漢中に屯す。初め、國民大學明年、大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整齊、號令明肅魏昭烈旣に崩じ、數歲寂然として聞く無きを以て、略ぼ備ふる所なし。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於て、天水、安定等の郡、皆、亮に應じ、關 中響震す。魏主、長安に如き、張部をして、之を拒がしむ。亮、馬駸をして、諸軍を督せしめ、街亭に戰ふ。嚴亮の節度に違ふ。部大いに之を破る。亮、乃ち漢中に還後出師表る。旣にして、復た漢帝に言つて曰く、漢と賊とは兩立せず、王業三國-漢-後皇帝-三六三 十八史略卷之三三六四偏安せず。臣、鞠躬、力を盡し、死して後に已まむ。成敗利鈍に至つては、臣の能く逆め観る所に非ざるなりと。兵を引いて、散關より出で、陳倉を圍みしが克たず。吳王孫權、自ら武昌に皇帝と稱し、父堅を追尊して武烈皇帝となし、兄策を長沙桓王となす。既にして、都を建業に遷す。蜀漢の丞相亮、又、魏を伐つて祁山を圍む。魏司馬懿をして、あ、諸軍を督して、亮を拒がしむ。懿、肯て戰はず、賈翻曰く、公、蜀を畏るること虎の如し、天下の笑を如何と。懿乃ち張郃をして亮に向はしむ。亮、逆へ戰ふ。魏兵、大に敗る。亮、糧盡くるを以て軍を退く。郃之を追ひ、亮と戰ひ、伏弩に中つて死す。亮還つさて農を勸め、武を講じ、木牛流馬を作り、邸閣を治め、民を息ひ、士を休め、三年にして後に、之を用ゆ。衆十萬を悉くして、又斜谷ニ口より魏を伐ち、進んで、渭南に軍す。魏の大將軍司馬懿、兵を引いて拒守す。亮前に、數ば出でしが、皆、運糧繼がず、己が志を伸びざらしめしを以て、乃ち兵を分ちて屯田し、耕者は渭濱居民の間に雜り、然も百姓安堵し、軍に私なし。亮數ば懿に戰を挑む。巾幗婦人の懿、出でず。乃ち遺るに巾幗、婦人の服を以てす。亮の使者、懿の服を〓る軍に至る。懿其寢食及び事の煩簡を問うて、戎事に及ばず。使者曰く、諸葛公、夙に興き、夜に寢ね、罪二十以上は、皆親ら覽る。瞰食する所は、數升に至らずと。懿人に〓げて曰く、食少く事煩三國-漢-三國漢-三六五 十八史略卷之三三六六孔明秋風五し、其れ能く久しからむやと。亮、病篤し。大星あり、赤くして芒丈忠孔原千亮、長史楊儀、評最而臣明卒す。雄先出あもしのはあり、亮の營中に墜つ。未だ幾ならずして、師り悲て典を生死滿長未日壯其型古奔〓軍を整へて還る。百姓、て、懿に〓ぐ。懿之を追ふ。姜維、死詩かへ儀をして、旗を反し、鼓を鳴らし、將に懿に向はむとするが若くせ走けせ襟使捷く英身淚死しむ。懿敢て逼らず。百姓之が爲に諺して曰く、死せる諸葛、生せらるるす仲諸葛達ける仲達を走らすと。懿笑つて曰く、吾、能く生を料るも、死を料る能はずと。亮、嘗て兵法を推演して、八陣の圖を作る。是に至つて、懿其營壘を案行し、歎じて曰く、天下の奇材なりと。亮政を爲すに私なし。馬騣、素より亮に知らる。敗軍に及びて、流涕ひして之を斬り、然も其後を郞む。李平廖立、皆、亮に廢せらる。亮の喪を聞くに及びて、皆、歎息流涕し、卒に病を發して死するに至る。史に稱す、亮、誠心を開き、公道を布き、刑法峻と雖も、然も、怨む者なし。眞に治を識るの良材なりと。然れども、其材、國を治むるに長じて、將略は所長に非ずといふは非なり。初め、丞ヘ相亮、嘗て、帝に表して曰く、臣、成都に桑八百株、薄田十五頃あり、子弟の衣食、自ら餘あり、別に生を治めて以て尺寸を長ぜず。評忠武公眞に純忠眞武臣死するの日、內に餘帛あり、外に贏財あり。以て陛下に負むかしめずと。是に至つて卒するや、其言の如し。忠武と諡す。국魏主、性、土功を好む。之より先、旣に許昌宮を治す。後、又洛陽宮を作り、長安の鐘篇、彙駝、銅人、承露盤を洛陽に徒す。盤三國-漢-後皇帝-三六七 十八史略卷之三奏折れ、聲數十里に聞こゆ。銅人、重くして、致すべからず。乃ち、大に銅を發して、銅人二を鑄て、司馬門外に列坐せしめ、號して、翁仲といひ、土山を芳林園に起し、雅木善草を植る、禽獸を捕へて、其中に致す。諫むる者、皆、納れず。魏主、疾あり。司馬懿を召して、入朝せしめ、曹爽を以て大將軍となす。魏主叡、殂す。在位十四年。改元するもの三、曰く太和、靑龍、景初。子芳立つ之を、廢帝邵陵の属公となす。芳、八歲にして、位に卽く。司馬懿、曹爽、遺詔を受けて、政を輔く。懿太赤傅となる。漢は、丞相亮既に亡せしより、蔣琬政を爲す。楊敏、琬を毀つて曰く、事を作すこと憤憤たり、前人に及ばずと。或ひと敏を推評蔣治せむを請ふ。琬曰く、吾、實に前人に如かず、すらがれ學いにて琬もざ前却ぶふ如自淡のる人てべ所から然推すべきなしと。り示劣れ是にと人しら前とか琬卒す。費褘、董允、政を爲し、公亮にして、忠を盡す。允、卒す。なをに彼し大ず姜維、費禕と並に政を爲す。魏の曹爽、驕奢にして度なし。司馬懿、之を殺す。懿魏の丞相となる。九錫を加ふれども、受けず。爽の黨夏侯霸、蜀に奔る。姜維、之に問うて曰く、懿政を得たり、復た征伐の志ありや否や。霸曰く、彼家門を營立す、未だ外事に遑らず。鍾士季といふ者あり、少と雖も、若し朝政を管すれば、吳蜀の憂なりと。魏の司馬懿卒す。其子師を以て撫軍大將軍となし、尙書の事を錄三國-漢-後皇帝-三六九 十八史略卷之三三七〇せしむ。吳王、殂す。證して、大皇帝といふ。子亮立つ。漢の費禕、汎愛にして疑はず。降人之を刺し殺す。姜維、事を用ゐ、數ば兵を出して魏を攻む。魏の李豐、數ば魏主に召さる。司馬師、其己を議するを知つて、之を殺す。魏主、不平なり。左右、師を誅するを勸む。魏主、敢て發せず。師魏主を廢す。僭位十六年、改元するもの二、曰く、正始嘉平。師高貴郷公を迎立す、之を廢帝となす。名は髦、文帝の孫、明帝の姪、年十四にして卽位す。楊州の都督母丘儉、刺吏文欽、兵を起して、司馬師を討つ。師擊つて之を敗る。師卒す。弟昭、大將となり、尙書の事を錄す。既にして、大都督となり、黃鉞を假る。揚州の都督諸葛誕、兵を起して、昭を討つ。昭、之を攻め殺す。昭、相國となり、晉公に封ぜらる。九錫を加ふれども、受けず。吳主亮、政を親らす。數ば中書に出でて、大帝の時の舊事を視る嘗て、生梅を食うて、蜜を索む。蜜中に鼠矢あり。藏吏を召して問うて曰く、黃門、爾より蜜を求めたるか。吏曰く、さきに求むぐれども、敢て與へずと。黃門、服せず。鼠矢を破らしむ。矢、中燥く、因つて、大に笑つて曰く、若し、矢、先より蜜中に在らば、中外共に濕はむ。今、外濕うて內燥く、必ず黃門の所爲ならむと。之三國-漢-後皇帝-三七一 十八史略卷之三三七二を詰れば、果して服す。左右驚慄す。大將軍孫綝、其難問する所多きを以て、疾と稱して朝せず。兵を以て、宮を圍み、亮を廢して會稽王となし、瑯琊王休を迎へ立つ。休、立つ。絲を以て、丞相となす。継又新君に無禮なり、遂に誅せらる。魏主髦、威權日に去るを見て、其怒に勝へず。曰く司馬昭の心、路人も知司馬昭の心路人も知る所なりと。殿中の宿衞、蒼頭、官僮を率ゐ、鼓譟して出せい、所なりでて昭を誅せむと欲す。昭の黨、賈充、入つて魏主と戰ふ成濟、戈を抽いて、魏主を刺して、車下に殞つ。追廢して、庶人となす。僭位七年。改元するもの二、曰く、正元、甘露。司馬昭、常道〓公璜を迎へ立つ、之を魏の元皇帝と爲す。常道〓公元皇帝、初名は璜、燕王宇の子、操の孫なり。年十五にして位に卽く。奐と改名す。姜維屢ば魏を伐つ漢の姜維、屢ば魏を伐つ。司馬昭、之を患ひ、鄧支、鍾會を遣鄧艾鍾會ミし、兵に將として、入つて寇せしむ。會は、斜谷、駱谷、子午谷より、漢中に趨き、艾は、狄道より、甘松、沓中に趨き、以て姜維を綴す。維會既に漢中に入りしと聞き、兵を引いて、沓中より還る。艾、追躡して、大に戰ふ。維、敗走し、還つて、劍閣を守り、以て會を拒ぐ。艾、進んで、陰平に至り、無人の地を行くこと七百里、山を鑿つて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深し。艾、氈を以て、自ら裏み、推轉して下る。將士、皆、木を攀ぢ、崖に緣り、魚貫して進む。江油に至る。書を以て、漢將諸葛瞻を誘ふ。瞻其國-漢-後皇帝-三七三 十八史略卷之三三七四使を斬り、陣を綿竹に列して、以て待つ。敗績す。漢の將軍諸葛瞻評諸葛氏後之に死す。瞻の子尙曰く、父子、國の重恩を荷ふ、早く黃皓を斬らありといふべしず、國を敗り、民を殄せしむ。用つて生くるも、何をか爲さむと。馬に策ち、陳を冒して死す。評後主は凡漢人、魏兵の卒に至るを意はずして、城守を爲さず。乃ち使を遣庸懦弱國を失ふ故あるし、璽綬を奉じて、艾に詣つて降る。皇子北地王諶、怒つて曰く、かな若し、理窮まり、力屈して、禍敗將に及ばむとすれば、便ち父子君臣城を枕にして一戰し、同じく社稷に死し、以て先帝に見えて可なテるべきなり。奈何ぞ降らむやと。帝聽かず。護、昭烈の廟に哭し、先づ妻子を殺し、然る後に自殺す。艾、成都に至る。帝、出でて降る。魏封じて、安樂公となす。帝、在位四十一年、改元するもの四、曰く、建興、延熙、景耀、炎興右、高帝の元年乙未より、後帝禪の炎興癸未に至るまで、凡そ二十六帝、通じて、四百六十九年にして漢亡ぶ。吳主休殂す。證して、景皇帝といふ。兄の子鳥程侯皓立つ。魏の司馬昭、之より先、旣に九錫を受く。旣にして、爵を進めて晉王となる。昭、卒す。子炎、嗣ぐ。魏主奐、僭位六年、改元するもの二、曰く、景元、咸熙。炎、魏主に迫つて、位を禪らしめ、封じて、陳留王となす。後、卒す。晉人、之を證して元といふ。魏は、曹丕より是に至るまで、凡そ五世四十六年にして亡ぶ。三國-漢-後皇帝-三七五 十八史略卷之三云漢亡びてより後、又、。甲申を歷、正統を闕くこと一年。西紀自二六西晉五至三一六だ【西晉世祖武皇帝】姓は司馬、名は炎。河內の人、昭の子、懿の孫なり。昭、晉王となり、議して、世子を立つ。議者、炎の髪立つて地に委し、手垂るれば膝を過ぎ、人臣の相に非ざるを以て、遂に立つ。旣にして、嗣いで王となり、帝位に卽くや、懿を追尊して宣皇帝となし、師を景皇帝となし、昭を文皇帝となし、大いに宗室を封そ、羊祐ず。晉、吳を滅するの志あり、羊祐を以て〓州の事を都督せしむ。陸抗吳、陸抗を以て、諸軍を都督せしむ。祐、抗と境を對し、使命常にP通ず。抗祐に酒を遺る。祐、之を飮んで疑はず。抗疾む。祐、之に成藥を與ふ。抗卽ち之を服して曰く、豈に人を鴆する羊叔子あらむやと。祐務めて、德政を修め、以て吳人を懷け、兵を交ふる毎に、日を刻して、方に戰ひ、掩襲せず、抗亦た、其邊戌に〓げて、各、分界を保するのみ、細利を求むるなからしむ。時に、吳主皓、德政を修めずして、兼井せむと欲し、術士をして、天下を取青蓋管 に;たべ洛し陽じつるるを筮せしむ。對へて曰く、庚子の歲、靑蓋、當に洛陽に入るべしすと蓋し、璧を衝むを謂ふ。然れども、皓、悟らず。諸將の謀を用ゐて數ば晉の邊を侵盜す。抗諫むれども聽かず。抗卒す。祐吳を伐つを請ふ。議者、多くは同せず。祐歎じて曰く、天下、意西晉-世祖武皇帝-三七七 十八史略卷之三三七八の如くならざる事、十常に七八と。惟だ杜預、張華其計を賛す。祐病む。入朝して、面陳せむことを求む。晉帝、祐をして、臥しながら諸將を護せしめむと欲す。祐曰く、吳を取るは、臣の行を必せず。但だ吳を平らぐるの後、當に聖慮を勞すべきのみと。祐、卒上す。杜預を以て鎭南大將軍となし、〓州の軍事を督せしむ。吳主皓淫虐、日に甚し。預表して、速に之を征せむことを請ふ表、至(る。張華適ま帝と基す。秤を推し、手を歛めて其決を賛す。帝、山濤之を許す。山濤、人に〓げて曰く、聖人に非ざるよりは、外、寧ければ、必ず内憂あり。吳を釋して、外懼となす、豈に算に非ざらむやと。時に、濤、吏部尙書たり。濤むかし、魏晉の間に在り、嵇 康、阮籍、籍の兄の子咸、向秀、王戎、劉伶と相友たり。竹林の七竹林七賢賢と號し、皆老莊虛無の學を崇尙し、禮法を輕蔑し、縱酒昏酣、世事を遺落す。士大夫、皆、之を慕效し、之を放達といふ。惟だ、濤は仍ほ意を世事に留め、是に至つて、選を典り、人物を頸拔し、(各、題目を爲つて、之を奏す。時人、之を稱して、山公の啓事となす上晉大擧して、吳を伐つ。杜預、江陵より出で、王澹、巴蜀を下る。吳人、江磧要害の處に於て、並に鐵鎻を以て、江を橫つて、之を截り、又、鐵錐を作り、長さ丈餘、暗に江中に置き、丹艦を逆拒す。濟大筏を作り、水に善き者をして、筏を以て先づ行かしめ、西晉-世祖武皇帝-三七九 十八史略卷之三三八〇錐に遇へば、輒ち筏を著けて去る。又、大炬を作り、灌ぐに麻油を以てし、鎻に遇へば之を燒く。須史に融液して斷絕す。是に於て船い礙る所なし、遂に先づ上流諸郡に克つ。預人を遣し、奇兵を率ゐて、夜、渡らしむ。吳將、懼れて曰く、北來諸軍、乃ち之を飛渡するなりと。預兵を分つて、濬と合し、武昌を攻めて、之を降す。預謂ふ、兵威、旣に振ふ、たとへば、破竹の如し、數節の後は、刄を迎へて解け、復た手を著くる所なきなりと。遂に群師に方略を指授し、徑に建業に詣る。濬の戎卒八萬、舟を方ぶること百里、帆を擧げて、直に建業を指し、鼓譟して、石頭城に入る。吳主皓、面縛し、輿襯して降る。歸命侯に封じ、遂に庚子入洛の識に符す。大帝より、是に至るまで四世、帝と稱するもの、凡そ五十二年にして亡ぶ。先に、孫策、江東を定めてより以來、通じて八十餘年。晉魏に代つて十有六年、太康元年に至つて、吳を滅し、又十年にして、帝崩ず。帝、初めて、卽位するや、嘗て、雉頭裘を太極殿前に焚き、以て儉を示す。旣にして修縱、後宮數千、常に羊車に乘こる。宮人、竹葉を門に挿み、鹽を酒いで、以て之を待ち、羊車の至とる所、卽ち留まつて酣宴す。群臣と語るに、未だ嘗て經國の遠謀あこと〓らず。吳、旣に平らいでより、天下無事なりと謂ひ、盡く州郡の武備を去る。山濤、獨り、之を憂ふ。漢魏以來、羌胡鮮卑の降る者、多く塞內諸郡に處る。郭欽、嘗て上疏して謂ふ、宜しく、吳を平ら西晉-世祖武皇帝-気 十八史略卷之三三八二評天詐漸く内郡の雜胡を邊地に徒し、四夷出入の防を以曹亦りて操に司下術ぐるの威を及ぼし、を をせんわうくわうふ、取馬氏峻にして、先王荒服の制を明かにすべしと。帝、聽かず、卒に天下傚ふりも祖而之薄帝としの患となる。帝在位、改元するもの三、曰く、泰始、咸寧、太康。稱てす炎よる世德固太子立つ、之を孝惠皇帝となす。し所安全の山集結稷る所なせりざ【孝惠皇帝】名は衷。太子たりし時、妃賈氏を納る。充の女なり。權詐多し。衞瓘、嘗て武帝に侍し、陽つて醉うて、前に跪き、手を以て床を撫して曰く、此座、惜むべしと。武帝悟り、尙書か〓しの疑事を密封し、太子をして、之を決せしむ。賈氏大に懼れ、外人を倩ひ、草を具して代つて對へ、太子をして自ら寫さしむ。武帝悅び、廢せられざるを得たり。是に至つて卽位す。賈氏、皇后となつて、政に預る。皇太后楊氏は、乃ち帝の母楊后の從妹なり。父駿、太傅たり、賈氏、駿を殺して、太后を廢し、太宰汝南王亮を殺し、太保衞瓘を殺し、楚王緯を殺し、衆望を以て張華裴頒、王戎を用ゐて機要を管せしむ。華、忠を帝室に盡す。后、凶險なりと雖も、猶ほ敬重するを知る。領と心を同じうして、政を輔く。數年の間、暗主上に在りと雖も、然も、朝野安靜なり。戎は、時と浮沈して、匡救する所なく、性、復た貪吝。田園、天下に遍く牙籌を執つて晝夜會計す。家に好李あり、人の其種を得むことを恐れ、常に其核に鑽す。凡そ賞拔する所、專ら虛名を事とす。阮咸の子瞻、嘗て、戎に見ゆ。戎曰く、聖人は名〓を貴び、老莊は自然を明かにす、其西晉-孝惠皇帝-三八三 十八史略卷之三三八四旨異同あるか。瞻曰く、將た同じきなからむやと。戎、咨嗟稍や久し、遂に之を辟す。時に三語掾と號す。此時、王衍、樂廣、皆〓評其正直著機種ときん談を善くす。衍、神情明秀。少時、山濤、之を見て曰く、何物の老嫗か、寧馨兒を生む。然れども、天下の蒼生を誤る者は、未だ必ず寧馨兒しも此人に非ずむばあらざるなりと。衍の弟澄及び阮咸、咸の從子修、胡母輔之、謝〓、畢卓等、皆、任放を以て達となし、醉裸、以て非となさず。比舍の郞の釀、熟す。卓、夜、甕間に至つて盜飮し、守者に縛せらる。旦に之を視れば、畢吏部なり。樂廣、聞いて笑つて曰く、名〓の中、自ら樂地あり、何ぞ必ずしも、乃ち爾らむと。初め、魏の時、何晏等、論を立て、以へらく、天地萬物、無をに評を毒す〓談社會以て本となすと。衍等、之を愛重す。裴顧、崇有論を著せども、救ふ能はず。太子適は賈后の生む所に非ず。后、廢して之を殺す。征西大將軍八王の亂趙王倫、詔を矯つて、兵を勒して宮に入り、后を廢して之を殺し、張華、裴顧を殺す。倫、相國となる。淮南王允、兵を率ゐて、倫を討つ。克たずして死す。倫、衞尉石崇を殺す。崇、愛妾綠珠あり。倫の嬖人孫秀、之を求むれども與へず。秀、崇を誣ひ、允を奉じて亂を爲すといひ、之を收む。崇曰く、奴輩、吾が財を利するのみ。收むる者曰く、財の禍たるを知れば、何ぞ早く之を散せざると。遂に殺さる。倫自ら九錫を加へ、帝に逼つて位を讓らしむ。黨與、西晉-孝惠皇帝-三八五 十八史略卷之三三八六皆、卿相となり、奴卒も亦た爵位を加ふ。朝會する每に、貂蟬貂足らず狗尾續く座に盈つ。時人語して曰く、貂足らず狗尾續ぐと。齊王間、許昌を鎭し、成都王頴、鄴を鎭し、河間王顒、關中を鎭す。各、兵を擧げて、倫を討つ。倫、誅に伏す。岡、政を輔く。驕奢にして、政を擅にす。〓長沙王又をして、之を殺さしむ。頴亦た功を恃んで驕奢。旣にして、〓と兵を擧げて反す。父、帝を奉じて、頴と戰ふ頴の將陸機、戰敗れて收めらる。歎じて曰く、華帝の鶴唳、復た聞くべけむやと。弟雲と共に、皆頴に殺さる。機雲は、皆、陸抗の子なり。頴兵を進めて、京師に入り、丞相となる。旣にして、鄴に還る。〓頴を表して、皇太弟となす。東海王越、帝命を奉じてに侍中〓絡頴を征す。頴、兵を遣して、蕩陰に拒戰す。乘興、敗績す。侍中嵇紹身を以て帝を衞つて殺され、血、帝衣に濺ぐ。頴帝を迎へて鄴に入る。左右、帝衣を浣はむと欲す。帝曰く、稀侍中の血、浣ふ勿れと。頴帝を奉じて、洛に歸る。願の將張方、洛に在り。帝を長安に遷す。〓太弟頴を廢し、更めて豫章王熾を立てて太弟となす。東海王越、兵を發して、西、長安に入り、帝を奉じて、洛に還る。越を以て、政を輔けしむ。成都王頴、先に洛陽に據る。旣にして、長安に走り、又、武關より新野に走り、遂に、北、河を濟り、故の將士を收む。頓丘の太守の執ふる所となる。時に、范陽王虓、鄴に據る。頴を城に送る。未だ幾な西晉-孝惠皇帝-三八七 十八史略卷之三三八八らずして殺さる。帝、麵を食ひ、毒に中つて崩ず。或は曰く、東海王越、之を鴆す評主昏國亂るなりと。帝、昏愚。天下大に饑ゆるや、帝曰く、何ぞ肉麋を食はざると。華林園に蛙鳴を聞く。帝曰く、かの鳴く者は、官の爲にするか私の爲にするか。左右、之に戯れて曰く、官地に在る者は官の爲にし、私地に在る者は私の爲にすと。賈氏の政を專らにするに方つて、時人、將に亂れむとするを知る。索靖、洛陽宮門の銅駝を必ず汝が荊指して、歎じて曰く、必ず、汝が〓棘の中に在るを見むのみと、趙棘の中に在るを見ん王倫の亂後、諸王、迭に相殘滅し、天下大に亂る。劉淵劉淵、左國城に興る。淵は、故の南匈奴の後なり。匈奴は、漢魏より以來、中國に臣たり。其先世、自ら漢の甥なるを以て、漢姓を冐す父豹、左部の帥たり、淵を產む。幼にして雋異。博く經史を習ふ。嘗て曰く、吾、隨陸が武なくして高帝に遇へども封侯の業を建つる能はず、終灌が文なくして文帝に過へども座序の〓を興す能はざるを恥づ、豈に惜からずやと。是に於て武事を兼學す。姿貌魁偉。初め、侍子となつて、洛に在り。豹、死す。武帝、淵を以て、代つて、五部の帥となし、旣にして、北部都尉となる。五部の豪傑多く之に歸す。帝の世に及びて、以て五部の大都督となす。成都王穎、表して、左賢王となす。嘗て、兵に將として、鄴に在らしむ。劉聰淵の子聰、亦た驍勇人に絕え、博く經史に渉る。善く文を屬し、弓西晉-孝惠皇帝-三八九 十八史略卷之三〓三百斤を彎く。淵の從祖宣曰く、漢亡びてより以來、我が單于、徒に虛號あつて、復た尺土なし。自餘の王侯、降つて、編戶に同じ。今、吾が衆、衰へたりと雖も、猶ほ二萬あり、奈何ぞ、手を歛めてご役を受け、奄として百年を過ごさむや。司馬氏、骨肉相殘ひ、四海ざ鼎沸。左賢王、英武世に超ゆ、呼韓邪の業を復する、是れ其時なりと。乃ち相與に謀つて、之を推す。淵、頴に說き、歸つて、五部を帥ゐて來り助けむことを請ふ。旣に、左國城に至るや、宣等、推して、大單于となす。二旬の間、衆五萬、離石に都す。胡晉の之に歸する者、愈よ衆し。乃ち國號を建てて漢といひ、漢王と稱す。淵劉曜族子曜あり。生まれて、眉白く、目に赤光あり。幼にして聰慧、膽量あり。亦た好んで書を讀み、文を屬し、射は能く鐵七寸を洞す。是に至つて淵の將となる。ミ巴西の氏李特、初め、流民を以て蜀に入る。旬月、衆二萬、廣漢つ折に據り、進んで成都を攻め、刺史羅尙の敗る所となる。其首を斬らる。弟流、代つて其衆を領し、勢、復た盛なり。流死す。弟雄代り、攻めて羅尙を走らして、成都に入る。是に至つて、成都王と稱す。鮮卑の慕容廆、武帝の時より、旣に寇を爲す。旣にして降る。以て鮮卑の都督となす。魔皝を生む。遼東より徒つて、徒河に居り、又た大棘城に徒る。帝の世に及んで、慕容部、愈よ盛なり。西晉-孝惠皇帝-元 十八史略卷之三三九二鮮卑の索頭拓跋氏、之より先、質子、晉に在るものあり。武帝、遣歸す。旣にして、拓跋力微、又、其子をして入貢せしむ。力微、死して、子悉祿官、立つ。帝の世に及びて、索頭、國を分つて三部となし、一は上谷の北に居り、祿官自ら之を統べ、一は代郡參合陂の北に居り、兄の子猗色をして之を統べしめ、一は定襄の盛樂故城に居る、猗也の弟 〓虛虛をして之を統べしむ。晉人の附く者稍や衆し、猗缶、漠を度つて北巡し、西、諸國を略す。降附するもの、三に十餘國。拓跋氏の盛なる、是に始まる。夷狄、華を亂るの禍、皆、藁を漢魏晉の間に萠し、帝の世に至つて、中國の大亂に乘じて、始よbめて四に起る。帝在位十七年、改元するもの五、曰く元康、永康、太安、永興、光熙。太弟立つ、之を孝懷皇帝となす。【孝懷皇帝】名は熾。惠帝の十五年に當り、武帝の子二十五人、兄弟相屠るの餘、存する者三人のみ。熾は其一なり。素より學を好む。故に立つて太弟となり、是に至つて卽位す。成都王李雄、帝と稱し、國を成と號す。石勒漢主劉淵、帝と稱し、徒つて平陽に都す。其子聰及び石勒等を遣ろ、して、晉の内郡を攻めしめ、以て洛陽に至る。勒は、武郷の羯人なり。之より先、嘗て、洛陽に至り、上東門に倚つて長嘯す。王衍、其異あるを識る、後、寇を爲し、旣にして漢に從ふ。西晉-孝惠皇帝-孝懷皇帝-三九三 十八史略卷之三三九四漢主淵卒す。子和立つ。聰弑して、之に代る。太傅東海王越、兵を遣して、入つて宿衞し、仍つて使を遣し、羽檄を以て、天下の兵を徵して、入つて援けしむ。越自ら兵を帥ゐて、石勒を討ち、軍に卒す。勒の兵、越の軍を敗り、太尉王衍等を執ふ。衍、自ら言ふ、少より宦情なく、世事に預らずと。勒曰く吾、天下を行ること多し、未だ此輩の人を見ず、尙ほ存すべきbか或ひと曰く、彼は皆、晉の王公、終に吾が用を爲さず。勒曰く、然りと雖も、必ず、加ふるに、鋒刄を以てすべからずと、夜、人をして、墻を排して、之を殺さしむ。漢主聰、呼延晏を遣し、兵に將として、洛陽を攻めしむ。劉曜、王彌、石勒、皆會す。遂に洛陽を陷れ、帝を執へて、平陽に送る。尋いで殺さる。帝在位六年、改元するもの一、曰く、永嘉。秦王、長安に立つ、之を孝愍皇帝となす。I【孝愍皇帝】名は業、吳王晏の子、武帝の孫なり。秦王に封ぜらる。洛陽、旣に陷るや、荀藩、王を奉じて、許昌に趨る。時に年十二。旣にして、索絲、迎へて、雍州に入る。刺史賈疋等、奉じて、皇太子となし、行臺を建つ。盜疋を殺す。麴允、雍州を領す。懷帝の凶問至る、王長安に卽位す。石勒、石虎を遣して、鄴を攻め、陷れて之に據る。西晉-孝懷皇帝-孝愍皇帝ー三九五 十八史略卷之三三九六大衣服務管理評西漢、屢ば長安に寇す。麴允、索絲、屢ば之を敗る。未だ幾ならず帝の王の)して、漢兵、しきりに諸郡を陷れて長安に逼り、先づ外城を陷る。胡十麴允、索絲、退いて小城を守り、內外斷絕、城中饑ゆること甚し。我收不能とな帝、出でて降る。漢將劉曜、平陽に送る。聰群臣を享し、帝に命じ、靑衣を著けて、酒を行ひ、爵を洗はしめ、又、蓋を執らしむ。後、害に遇ふ。帝、在位四年、改元するもの一、曰く、建興。西晉は、武帝より、是に至るまで、凡そ四世、五十二年。瑯琊王、建業に立つ、之を中宗元皇帝となす。評譯十八史略卷之四正西紀自三一六至四二〇東晉【中宗元皇帝】名は睿、瑯琊王仙の孫なり宣帝懿、仙を生み、仙觀を生む。或は曰く、睿の母、實は瑯琊の小吏牛金と通じて、睿を生むと。觀に嗣いで王となる。惠懷に於いては、再從兄弟たり。懷帝の時、睿、安東將軍となり、揚州軍事に都督たり建業に鎭す王導睿、王導を以て謀主となし、事每に咨ふ。睿、名論素より輕し。呉人初め附かず導勸めて、諸名勝を用ひしむ。顧榮、賀循、紀瞻東督-中宗元學帝-三九七 十八史略卷之四灵等、掾屬となり、新舊を撫綏す。江東心を歸す。後、又、庾亮、卡壺等百餘人を得たり、之を百六掾といふ桓彜亂を避け、江を過ぎ周顗て、睿の微弱なるを見て、之を憂ふ旣にして導を見、退いて周顫に謂つて曰く、江左に管夷吾あり、吾憂なしと。諸名士、新亭に遊宴するや、顫中坐にして歎じて曰く、風景殊ならず、目を擧ぐれば、江河の異ありと。因つて、相視て、涕を流す。導曰く、當に力を王室に戮せ、共に神州を復すべし、何ぞ楚囚と作つて、對泣す祖逖るに至らむやと。愍帝睿を以て、左丞相となす。洛陽の祖逖、少よ劉琨り大志あり。嘗て、劉現と同じく寢ぬ。中夜、鷄聲を聞き、現を蹴つて、起して曰く、是れ惡聲に非ざるなりと。因つて起つて舞ふ。是に及びて、南に渡り、兵を睿に請ふ。賓、素より北伐の志なし、逃を以て豫州の刺史となし、兵千人を與へ鎧仗を給せず。逃江を渡り、中流にして、楫を擊つて誓つて曰く、祖逖、中原を〓むる能はずして、復た濟らば、此江の如きあらむと。愍帝、又、睿を以て、丞相となし、中外の諸軍事を都督せしむ。長安、陷る。睿師を出して露次し、檄を移して北征す。實は、行かず。群臣、勸めて晉王の位に卽かしめ、明年、遂に皇帝の位に卽く。太尉劉現、死す。初め、琨祖逖と名を齊しうす。琨人に謂つ著先鞭て曰く、常に恐らくは、祖生が、吾に先つて鞭を著けむことをと。懷愍の時、〓州刺史となる。琨軍を出す。長史、叛いて、石勒に東晉-中宗元皇帝-三九九 十八史略卷之四四〇〇降る。幽州の刺史段匹彈、時に薊城に在り、人をして、現を邀へしむ。琨衆を率ゐて、薊に奔り、匹彈と血を歌つて同盟し、晉室を翼戴す。薊を襲ひ取らむと欲する者あり。書を遺つて、現に請うて內應を爲さむとす。書、邏騎に獲らる。然も、張實は知らざるなり竟に匹彈に縊らる。漢主劉聰、卒す。子粲、立つ。其臣、〓準、弑して、之に代る。石勒、準を討つ。劉曜、自立し、勒を封じて、趙公となす。曜、疑ふ勤自ら趙王と稱す。曜、亦た號を改めて趙となす。勒を後趙となす。略陽臨渭の氏會蒲洪、驍勇にして、權略あり。群氏畏れて、之に服す。劉聰、嘗て、拜して將軍となす。受けず。懷帝の世に在つて、自ら略陽公と稱す。是に至つて、趙主曜に降る。上晉の豫州の刺史祖逖、卒す、初め、逖譙城を取り、進んで、雍丘に屯す。後趙の鎭戍、逖に歸する者、甚だ多し。逖將士と甘苦すハを同じうし、勸めて、農桑を課し、新附を撫納す。帝、戴淵を以てと、將軍となし、來つて、諸軍事を督せしむ。巡、己〓棘を剪つて、河南の地を收む、而るに、淵、雍容として、一旦來つて之を統ぶるあう〓を以て、意.甚だ快快たり。又、王敦が朝廷と隙を構へて、將に內難あらむとするを聞き、大功の遂げざるを知り、感激して、病を發して卒す。豫州の士女、父母を喪ふが如し。東晉-中宗元皇帝-四〇一 十八史略卷之四四〇二鮮卑の慕容廆、之より先、嘗て使を晉に遣して、帝命を受けて、平州刺史となる。是に至つて、以て平州の牧、遼東公となす。初め、拓跋祿官死す。猗盧、三部を總攝す。劉現、猗盧と結んで兄弟となる。懷帝の時、表して、大單于となし、代公に封ぜられ、部落を帥ゐて、雲中より雁門に入る。琨與ふる」に、陛北の地を以てす。之に由つて、益す盛なり。嘗て、現の援となつて、大に劉曜の兵を晉陽に破る。猗盧、成樂に城いて、北都となし、平城を南都となす。愍帝、猗盧の爵を進めて王となし、官職を置き、代、常山の二郡を食ましむ。猗盧、少子を愛し、立てゝ嗣となさむと欲して其長子六修を出し、六修をして其弟を拜せしむ、從はずして去る。大に怒つて、之を討つ。兵、敗れて、弑に遇ふ。猗也の子普根、六修を討滅して自立す。尋いで卒す。國人猗虚が弟の子欝律を立つ是に至つて、猗色の妻、欝律を殺して、其子賀偏を立つ。欝律の子什翼犍、襁褓に在り、母、之を袴下に匿して殺されざるを得たり反王教反す晉の〓州の刺史王敦、す。初め、帝の江東に鎭するや、敦從弟導と共に、心を同じうして翼戴し、心を推して之に任じ、敦は征討を總べ、導は機政を專にして、群從子弟顯要に布列す。時人、語して曰く、王と馬と、共に天下を共にすと。敦先に揚州の刺史諸軍を都督し、を領し、征討進んで、鎭東大將軍都督江揚〓湘交廣六州諸軍事江州刺史となり、尋いで〓州を領し、功を恃んで驕恣東晉-中宗元皇帝-四〇三 十八史略卷之四四〇四なり。帝、畏れて之を惡む。乃ち劉隗、刁協を引いて腹心となし、漸く王氏の權を抑損す。導も亦た漸く疎外せらる。敦の參軍錢鳳等敦の異志あ凶狡なり。るを知つて、陰に爲に畫策す。是に至つて、敦遂に兵を武昌に擧げ、劉隗、刁協を誅するを以て名となす。隗、協、帝に勸めて、盡く王氏を誅せむとす。帝許さず。導宗評族を率ゐて、毎旦、臺に至つて罪を待つ。周顫、將に入らむとす能德は王周ず導額し勝人知のむ手間る陰じの得手導、是を呼んで曰く、伯仁、百口を以て、卿を累はさむと。顫顧のた百所みず、入つて帝に見え、導の忠誠を言ひ、申救甚だ至る。帝、其言を納る。顫、醉うて出づ導又呼ぶ。顫與に言はず、左右を顧みて曰く、今年諸賊奴を殺し、金印、斗の如く大なるを取つて、肘後に懸けむと。旣にして、出で、又表を上つて、導の罪なきを明惣かにす。導、知らずして、之を恨む。帝、召して導を見る。導、稽山のだ首して曰く、亂臣賊子、何の代か之なからむ。意はざりき、今、近く臣の族に出でむとはと。帝、跣して其手を執つて曰く、茂弘、方上やに卿に寄するに百里の命を以てすと。以て前鋒大都督となす。敦石頭城に至つて、之に據る。曰く、吾、復た盛德の事を爲すを得ずか、と協、隗等、道を分つて、出でて戰ひ、大に敗れて還る。帝、百官をして、石頭に詣つて敦を見せしむ。敦、周顫を殺す。導、救は吾と七ヘこやまたは由も殺ず。後、中書の故事を料檢し、顎の表を見、之を執つて流涕して日て死すく吾、伯仁を殺さずと雖も、伯仁、我に由つて死す。幽冥の間、東晉-中宗元皇帝-四〇五 十八史略卷之四四〇六この良友に負くと。敦、朝せずして去り、武昌に還る。帝、憂憤して疾を成して崩ず。在位六年。改元するもの三、曰く建武、大興、永昌太子立つ、之を肅宗明皇帝となす。【肅宗明皇帝】名は紹、幼にして聰慧、嘗て、使者あり、長安より長安近きか日近きか來る。元帝、紹に問うて曰く、長安、近きか、日近きか。紹曰く、長安近し。但だ人の長安より來るを聞く、人の日邊より來るを聞かずと。元帝、其對を奇とす。一日、群臣と語つて、之に及ぶ。復た以て紹に問ふ紹曰く、日近し。元帝愕然として曰く、何ぞ間者の言に異なるか紹曰く、頭を擧ぐれば日を見る、長安を見ずと元帝、益す之を奇とす。長ずるに及びて仁孝、文辭を喜び武藝を善くす。賢を好み、士を禮し、規諫を受く。庾亮、溫嶠等と布衣の交をなす。敦石頭に在り、其勇略あるを以て、誣ゆるに不孝を以てして、之を廢せむと欲す。嶠等の衆論に賴つて、其謀を沮む。是に至つて位に卽く。敦、位を簒せむことを謀り、屯を姑熟に移し、自ら揚州の牧を領す。王導を以て司徒となし、大都督を加へ諸軍を督して敦を討つ。復た反し、敦、兵を發して病む。郭璞をして、之を筮せしむ。璞曰く明公事を起せば、禍必ず久しからず。敦大に怒つて曰く、加拿大利害けぞ)卿の壽幾何ぞ。璞曰く、命、今日の日中に盡きむと。敦之を斬る。日、命今日と中に盡きむ帝、自ら出でて、敦の軍を覘ふ。敦、書日、其營を環るを夢む。東晉-肅宗明皇帝-四〇七 十八史略卷之四四〇八驚悟して曰く、黃鬚鮮卑の兒來るかと。帝の母は鮮卑の出なり。亟に、人をして、之を追はしむ、及ばず。帝、諸軍を帥ゐて、出でてつ南皇堂に屯し、夜、壯士を募つて、水を渡り、敦の兄王含の軍を掩うて大に之を破る。敦含の敗を聞いて曰く、我が兄は老婢のみ、門戶衰へ世事去ると。因つて、勢を作し、起つて自ら行かむと欲す。困乏して、復た臥す。尋いで卒す。敦の黨、悉く平らぐ。敦のau評王丼屍を發いて之を斬る。有司、王氏の兄弟を罪せむことを奏す詔を と事人親大を義滅す間して曰く、司徒導、大義を以て親を滅す、將に十世まで之を宥さむ最難のたと欲すと。悉く問ふ所なし陶侃陶侃を以て剃湘等の州の諸軍事を都督せしむ。侃少にして、孤貧なり。孝廉范達、之を過ぐ。侃の母湛氏、髪を截つて、賣つて酒食を爲る。達、侃を薦め、遂に名を知らる。初め、〓州都督劉弘に用ゐられ、義陽の叛蠻張昌を討ち、又江東の叛將陳敏を討ち破り又湘州の劇賊杜發を擊ち破る。江夏の太守より〓州の刺史とな之を疾んり、王敦、で、廣州刺史に左遷す。侃州に在つて、朝に百甓を齋外に運び、暮に齋内に運ぶ。人其故を問ふ。答へて曰く吾、方に力を中原に致さむとす、故に勞を習ふのみと。是に至つて復た〓州に鎭す。士女相慶す。侃性聰敏恭勤嘗て曰く、大禹は聖人なり、乃ち寸陰を惜む。衆人は當に分陰を惜むべしと。諸參佐こと〓〓の酒器、蒲博の具を取つて、悉く江に投じて曰く、樗蒲は牧猪奴の東營-肅宗明皇帝-四〇九 十八史略卷之四四一〇戯のみと。嘗て、船を造るや、竹頭木屑を籍して、之を掌らしむ。後、正會に雪霽れて地濕ふや、木屑を以て地に布く。後、征蜀六の師あるに及び、侃の竹頭を得て、釘を作つて船を裝す。其綜理微密なること、之に類す。帝崩ず、在位三年。改元するもの一、曰く太寧。太子立つ、之を顯宗成皇帝といふ。【顯宗成皇帝】名は衍、母は庾氏、五歲にして卽位す。司徒導、帝の舅中書令庾亮と共に政を輔く、太后、朝に臨む歷陽の內史蘇峻、反す。峻さきに臨淮に守たり。王敦、再び闕を犯せし時に、入衞して功あり。威望漸く著はる。歷陽に在るに及びて、卒銳に、器精なり。志、朝廷を輕んじて、亡命を招納す。庾亮石頭城を修め、以て之に備へ建請して、峻を徴して大司農となす。峻、兵を擧げて、姑孰を陷る。尙書令卡壺、軍を督して、峻と力戰して死す。二子之に隨ひ、亦た敵に赴いて死す。母、其屍性能力を示す。を撫して曰く、父は忠臣たり、子は孝子たり、何ぞ恨まむやと。庾獨立大學亮出奔す。峻の兵、闕を犯す。陶侃、溫嶠、入つて、峻を討つて之を斬る。後趙主石勒、大に趙兵を破り、趙主劉曜を獲たり。曜勒と、しきりに攻戰し、互に勝負あり。曜、後趙の金塘城を攻む。勤、自ら1/將として、之を救ひ、大に洛陽に戰ふ。趙兵、大に潰ゆ。曜、醉う東晉-顯宗成皇帝-四一一 十八史略卷之四四三る)、て、馬より墮ち、勒に獲られ、歸つて之を殺す。前趙亡ぶ溫嶠音の驃騎將軍溫嶠、卒す。嶠、始め、劉現に遣はされて、江東に使す。母、欲せず。嶠、裾を絕つて去る。旣に至つて、復た北に歸るを得ず、終身以て恨となす。嶠.心を晉室に盡し、敦峻の平らぐ皆嶠の力なり。後趙の石勒、天王と稱し、尋いで、帝と稱す。嘗て、大に群臣を問うて曰く、朕は古しへの何の王に方ぶべきか評或ひと曰る人 大阪石物な見胡人中人傑には饗するや、る?く漢高よりも過ぎたり。勤笑つて曰く、人、豈に自ら知らざらき月り多味其所且むや卿の言、太だ過ぎたり。若し高帝に遇はば、當に北面して之に事ふべく、韓、彭と肩を比べむのみ。若し光武に遇はば、中原に並驅すべく、未だ鹿の誰の手に死するを知らず。大丈夫、事を行ふ、5.當に〓碼落落、日月の皎然たるが如くなるべく、終に曹孟德、司馬仲達が人の孤兒、寡婦を欺いて、狐媚以て天下を取るに效はざるなりと。勤學ばずと雖も、好んで、人に書を讀ましめて之を聽き、時に其意を以て得失を論ず、聞く者悅服す。嘗て、漢書を讀むを聽き、鄙食其が勸めて、六國の後を立つるに至り、驚いて曰く、この大法當に失すべし。何を以て、遂に天下を得たると。張良の諫めしを聞くに及びて、乃ち曰く、賴に此あるのみと。後、使を遣して好を晉に修む。晉、其幣を焚く。勤卒す。子、弘立つ。自音の大尉陶侃卒す。'保八州に都督たり。威名赫然。或は謂ふ。東晉-顯宗成皇帝-四一三
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問題文 解答 補足 1世紀頃に成立したとされる南海貿易についてのギリシャ語で書かれた書物のタイトルは『○○○○○○○海案内記』? エリュトゥラー 4世紀頃の朝鮮半島の状況を知る重要な手がかりとなっている中国の吉林省集安県にある長寿王が建てた碑を何という? 高句麗好太王碑文 5~9世紀にイングランドでアングロ・サクソン人が建国した7つの王国をヘプターキーと命名した12世紀イギリスの歴史家は? ハンティングドン 5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を中心に支配していた国家「柔然」を402年に建国した人物は? 郁久閭社崙 5世紀にカスピ海からライン川に至る大帝国を建設したフン族の王といえば誰? アッティラ 5世紀に『ローマ法大全』を編纂したことで有名な東ローマ帝国の皇帝は○○○○○○○○1世? ユスティニアヌス 6世紀に東ローマ帝国で流行したペストを、当時の皇帝の名から「○○○○○○○○の斑点」といった? ユスティニアヌス 8世紀後半に活躍した、ジャワ島にあった国シャイレーンドラ朝の王で、ボロブドゥール寺院を建造させたことで知られるのは? ダルマトゥンガ 8世紀に西ヨーロッパの大部分を支配した国は? フランク王国 9世紀頃アフリカの中央部のチャド湖東岸に建国され1893年に滅亡した国の名前は○○○○○○○王国? カネム・ボルヌ 10世紀から11世紀にかけて活躍したイラン最大の詩人で叙事詩『シャー・ナーメ』で有名なのは誰? フィルダウシー 12世紀にバグダードでジラーニーが創始し、15世紀にイスラム世界に広がった最古の神秘主義教団は○○○○○○教団? カーディリー 13世紀にアナトリアのコンヤでルーミーが創始し、オスマン帝国で発展した、イスラム教の神秘主義教団は○○○○○○教団? メヴレヴィー 13世紀にハプスブルグ家と対立関係にあったボヘミア地方の王朝で、1306年に断絶したのは○○○○○○朝? プシェミスル 15世紀初めにブランデンブルク選帝侯の地位を得て、その後プロイセン王やドイツ皇帝を輩出したのは○○○○○○○○○家? ホーエンツォレルン 15世紀から19世紀にかけて神聖ローマ皇帝の皇帝を出したヨーロッパの名門は? ハプスブルク家 15世紀のドイツで活版印刷術を発明し『四十二行聖書』などを印刷した人物は? グーテンベルク 16世紀イギリスの航海者フランシス・ドレークがマゼランに次ぐ史上2番目の世界周航を果たした時の船の名前は? ゴールデンハインド 16世紀オスマン帝国でスレイマン・モスクなど多くのモスクを手がけた宮廷の主任建築家は誰? ミマール・シナン 16世紀にスペインが採用した新大陸の土地や住民の統治を植民者に任せる制度を何という? エンコミエンダ制 17世紀、私有財産を否定しクロムウェルに弾圧された「真正水平派」を何という? ディッガーズ 17世紀後半に在位しムガル帝国最大の領土を築いた第6代皇帝は? アウラングゼーブ 17世紀に起きた北方戦争の末1658年にスウェーデンとデンマークとの間に締結された講和条約の名前は? ロスキレの和約 17世紀にヨーロッパで起こった三十年戦争の講和条約の名前は○○○○○○○○条約? ウェストファリア 18世紀、イギリス領マドラスとフランス領ポンディシェリの間で争われた植民地戦争は○○○○○○○戦争? カーナティック 18世紀以後、オスマン帝国支配下のアナトリアやバルカン地方において見られた、私的大土地所有のことを何という? チフトリキ 18世紀にルイ16世がマリー・アントワネットに与えたベルサイユ宮殿の庭園にあるロココ様式の離宮は? プチ・トリアノン 19世紀後半に大統領官邸をピンク色に塗り直したというアルゼンチンの大統領はドミンゴ・○○○○○○? サルミエント 19世紀初頭のイギリスで奴隷貿易禁止法の制定や、奴隷制度廃止に尽力した政治家はウィリアム・○○○○○○○○○? ウィルバーフォース 19世紀前半のオーストリアとドイツで見られた、装飾が控えめで簡素な、市民が中心となって生まれた美術様式は? ビーダーマイヤー 19世紀前半のドイツで、神聖ローマ帝国崩壊後も、旧領地に対する司法権や行政権などの特権を認められた貴族を何という? シュタンデスヘル 19世紀にイギリスでおきた機械打ち壊し運動「ラッダイト運動」の語源とされる労働者は? ネッド・ラッド 19世紀にイタリア王国が自国領土である主張した、オーストリアの支配下にあった地域のことをイタリア・○○○○○という? イレデンタ 19世紀にヨーロッパの各地で銀行を設立し、世界の政治経済に多大な影響を与えた、国際的金融資本家一族は○○○○○○○家? ロスチャイルド 19世紀中頃にヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸横断に成功した、ビクトリア滝の命名でも知られる探検家は? リヴィングストン 79年のベスビオ火山の噴火によりボンベイなどとともに焼失した現在のイタリア・カンパニア州にあった都市は? ヘルクラネウム 132年から135年にかけてローマ帝国支配に対してユダヤ属州で起きた反乱のことを指導者の名から何という? バル・コクバの乱 304年から439年にかけて中国の華北に建てられた国々を何という? 五胡十六国 476年にオドアケルによって退位させられた、西ローマ帝国最後の皇帝はロムルス・○○○○○○○○? アウグストゥルス 642年にササン朝ペルシアが正統カリフ時代のイスラム軍に滅ぼされた戦いは○○○○○○○の戦い? ニハーヴァンド 661年にタイ北部の町ランプーンを中心にモン族が建国した国で1281年にラーンナー王朝に滅ぼされたのは○○○○○○○王国? ハリプンチャイ 830年にアッバース朝の第7代カリフ、マアムーンがバグダードに設立した「知恵の館」という意味がある図書館の名前は? バイト・アルヒクマ 916年に即位した中国・遼の初代皇帝は? 耶律阿保機 997年に即位したハンガリー王国の初代国王で、自らキリスト教に改宗し、国家の基礎を確立したのは○○○○○○○1世? イシュトバーン 1071年にセルジューク朝に東ローマ帝国が敗北した戦いで後の十字軍派遣要請へと繋がるのは○○○○○○の戦い? マラズギルト 1077年、教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した一連の事件を何という? カノッサの屈辱 1095年に開催され十字軍の派遣が決定した出来事は? クレルモン公会議 1141年にサマルカンド郊外でセルジューク朝が西遼に大敗した戦いのことを○○○○○の戦いという? カトワーン 1204年にコンスタンティノーブルが陥落した際に建国した東ローマ帝国の亡命政権で、東ローマ帝国滅亡後の1461年まであったのは? トレビゾンド帝国 1204年に東ローマ帝国の皇族が現在のトルコに建国した史上最後の東ローマ系国家は○○○○○○帝国? トレビゾンド 1212年にキリスト教連合軍がムワッヒド朝率いるイスラム軍を破った戦いは○○○○○○○○○の戦い? ナバス・デ・トロサ 1214年に大陸領土の回復を企てるイングランド王ジョンと神聖ローマ帝国皇帝オットー4世がフランスに敗北した戦いは? ブーヴィーヌの戦い 1215年、イギリスの貴族が団結しジョン王に認めさせた文書を何という? マグナ・カルタ 1241年にモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を破った戦いが行われた場所は? ワールシュタット 1245年にモンゴルに派遣されグユク・ハンの勅書を教皇インノケンティウス4世に渡したフランシスコ会の修道士は? プラノ・カルピニ 1258年のバグダードの戦いでモンゴル帝国軍に降伏して処刑された、アッバース朝最後のカリフは誰? ムスタアスィム 1271年、モンゴル帝国の国号を「元」と定めた皇帝は誰? フビライ・ハン 1278年にドイツ王ルドルフ1世がボヘミア王オタカル2世を破りハプスブルク家を飛躍させた戦いは○○○○○○○の戦い? マルヒフェルト 1282年、パレルモを中心に起こった反フランスの大規模な反乱を何という? シチリアの晩鐘 1292年にジャワ島で栄えたシンガサリ朝の最後の王クルタナガラを暗殺しシンガサリ朝を滅ぼしたのは? ジャヤカトワン 1303年にフランス王フィリップ4世に捕らえられ、救出後まもなく死去したローマ教皇は○○○○○○○○8世? ボニファティウス 1309年から77年までの間教皇庁がアヴィニヨンに移りフランスの支配下にあったことを古代の事件になぞらえ何という? 教皇のバビロン捕囚 1336年から1649年まで南インドを支配したヒンドゥー教の国は○○○○○○○○王国? ヴィジャヤナガル 1381年にイギリスで起きた大規模な農民反乱のことをその指導者の名前から○○○○○○○○の乱という? ワット・タイラー 1428年にウズベク人が建国した別名をウズベク・ハン国という中央アジアのイスラム王朝は○○○○○朝? シャイバニ 1453年にオスマン帝国に滅ぼされた東ローマ帝国最後の皇帝となった人物は○○○○○○○○○11世? コンスタンティノス 1486年にドイツ王 マクシミリアン1世により初めて編成された、ドイツ人傭兵部隊のことを何という? ランツクネヒト 1492年にドイツの天文学者マルティン・べハイムが製作した現存する最古の地球儀のことを何という? エルダプフェル 1493年にアレクサンデル6世が設定した、スペインとポルトガルを分かつ境界線を何といった? 教皇子午線 1498年、アフリカ南端の喜望峰をまわりインドのカリカットに到着したポルトガルの探検家は? バスコ・ダ・ガマ 1498年に宗教改革の先駆者サヴォナローラが処刑された、イタリアのフィレンツェにある広場は○○○○○○広場? シニョーリア 1526年にバーブルが建国し1858年まで現在のインドを支配したイスラム王朝は? ムガル帝国 1536年にスレイマン1世がはじめた、外国の商人に対して領内での居住や通商の自由を認めた特権のことを何という? カピチュレーション 1543年にスペイン王フェリペ2世が建設を命じた、マドリード郊外にある図書館・霊廟も併設された宮殿は○○○○○○○○○宮殿? エル・エスコリアル 1547年にカール5世率いる神聖ローマ帝国軍が、ドイツ諸侯のシュマルカルデン同盟に勝利した戦いは○○○○○○○の戦い? ミュールベルク 1552年に第二次辺境伯戦争を起こしたのはブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・○○○○○○○? アルキビアデス 1571年、スペイン・ベネチアを中心とする連合艦隊がオスマン帝国の海軍を撃破した戦いを何という? レパントの海戦 1587年にスコットランド女王メアリー・スチュアートがエリザベス1世の命で処刑された場所は○○○○○○○城? フォザリンゲイ 1620年、メイフラワー号に乗って新天地アメリカを目指した清教徒は○○○○○・ファーザーズ? ピルグリム 1640年から1910年までポルトガル王国を統治したポルトガル最後の王朝は? ブラガンサ王朝 1648年にフランス・スウェーデン連合軍が神聖ローマ帝国を破った戦いで、皇帝に和平を決意させたのは○○○○○○○○○の戦い? ツスマースハウゼン 1667年に反乱を起こしたロシア農民運動の指導者は? ステンカ・ラージン 1672年に始まったフランスによるオランダ侵略戦争の講和条約として1678年に結ばれたのは○○○○○○の和約? ナイメーヘン 1685年にルイ14世が発令したナントの勅令を破棄する勅令は○○○○○○○○○の勅令? フォンテーヌブロー 1689~1691年にアイルランドで起こった戦争で、アイルランドにおけるイングランドの覇権が決定的となったのは? ウィリアマイト戦争 1699年にオスマン帝国がオーストリアなどに領土を割譲することを約束した講和条約は○○○○○○○条約? カルロヴィッツ 1707年から1949年まで現在のラオスにあたる、メコン川中流域に存在したラオ族の国は○○○○○○○王国? ルアンパバーン 1713年から1946年まで現在のラオス南部にあたる地域に存在していた国は○○○○○○○○王国? チャンパーサック 1763年にプロイセン王国とオーストリアの間で結ばれた七年戦争の講和条約の名前は○○○○○○○○○条約? フベルトゥスブルク 1769年にアメリカからイギリスに連れてこられたが逃亡し、裁判の末に自由を勝ち取った奴隷はジェームズ・○○○○○○? サマーセット 1782年にタイでラーマン1世によって建国されたチャクリ朝の別名は○○○○○○○朝? ラタナコーシン 1789年に書かれフランス革命の後押しとなったパンフレット『第三身分とは何か』で有名な革命初期に活躍した聖職者は? アベ・シェイエス 1793年にフランス総裁政府転覆を図った事件の全貌を、晩年に著書『パブーフ陰謀史』で明らかにしたフランスの革命家は? ブオナロッティ 1793年にフランス革命で夫ルイ16世と共に処刑された悲劇のフランス王妃はマリー・○○○○○○○? アントワネット 1794年にフランス革命政府を支配したロベスピエールらジャコバン派の独裁に終止符が打たれた事件は○○○○○○のクーデター? テルミドール 1798年に、神聖ローマ帝国とフランス革命政府がナポレオン戦争終結を目指して開いたのは「○○○○○○会議」? ラシュタット 1805年、ナポレオンがロシア・オーストリア連合軍を撃破した戦いといえば何の戦い? アウステルリッツ 1805年。エジプト総督に就きエジプトの統一と近代化を推し進めた政治家は? ムハンマド・アリー 1806年にナポレオン率いるフランス軍がプロイセン軍を打ち破った戦いはイエナ・○○○○○○○○○の戦い? アウエルシュタット 1807年からその翌年にかけフランス占領下のベルリンでフィヒテが行なった連続講演といえば? ドイツ国民に告ぐ 1809年にスウェーデン王国がロシアにフィンランド全土を割譲することを定めた条約は○○○○○○○○○の和約? フレデリクスハムン 1817年にドイツの学生たちが結成した自由主義の同盟でオーストリア外相メッテルニヒによって弾圧されたのは? ブルシェンシャフト 1819年にオーストリア外相メッテルニヒ主導の会議で出されたブルシェンシャフト運動の弾圧を決めた決議は? カールスバート決議 1825年から1828年までアルゼンチンとブラジルが戦った戦争で、その結果ウルグアイが独立したのは? シスプラチナ戦争 1825年に世界最初の鉄道を建設した、父ジョージ、息子ロバートのイギリスの鉄道技師親子は○○○○○○○親子? スチーブンソン 1825年にはデカブリストの乱が 1905年には血の日曜日事件が起きたロシアの都市はどこ? ペテルブルク 1825年のデカブリストの乱を題材にして詩集『デカブリストの妻』を発表したロシアの詩人は誰? ネクラーソフ 1825年にイギリスのストックトン~ダーリントン間で開通した世界初の鉄道で運行された蒸気機関車の名前は? ロコモーション号 1831年にバージニア州で起こったアメリカ史上に残る大規模な奴隷反乱を、指導者の名前から○○○○○○○○の反乱という? ナット・ターナー 1847年に調印された米墨戦争のカリフォルニアでの戦いを終結させた条約といえば? カフエンガ条約 1848年にパリで起きた六月蜂起を鎮圧したフランスの軍人で政府の実権を握るも大統領選挙でルイ・ナポレオンに敗れたのは? カヴェニャック 1848年の二月革命直後にフランス政府が設けた労働者対策委員会は○○○○○○○○委員会? リュクサンブール 1848年と1863年の2度デンマークとプロイセン王国が争ったのは○○○○○○○・ホルシュタイン戦争? シュレスヴィヒ 1866年に起こった普墺戦争でプロイセン軍がオーストリア軍を破ったボヘミアの町はどこ? ケーニヒグレーツ 1866年にフランス人宣教師が処刑されたことが原因で起きた李氏朝鮮とフランスによる戦争のことを何という? 丙寅洋擾 1867年に誕生したオーストリア=ハンガリー二重帝国において主国であるオーストリア側を指して使われた言葉は? ツィスライタニア 1876年にオスマン帝国の国王となり、アジア初の近代的憲法「ミドハト憲法」を発布した人物は○○○○○○○○2世? アブデュルハミト 1899年に誕生したフィリピン第一共和国のことを首都が置かれた都市の名前から別名「○○○○共和国」という? マロロス 1905年におこった第1次モロッコ事件におけるドイツとフランスの対立を収拾するために開かれた会議は? アルへシラス会議 1914年のサラエボ事件でオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻を暗殺した人物は? プリンチップ 1916年に結ばれた英・仏・露の3ヵ国でトルコ領の分割を取り決めた秘密協定を何協定という? サイクス・ピコ 1917年に軍事クーデターで政権を握り、ポルトガル大統領となった独裁者で、1918年にリスボンで暗殺されたのは誰? シドニオ・パイス 1919年に政治集会を開いていた非武装の一般市民を、イギリスの警官隊が無差別射撃した事件を「○○○○○○○事件」という? アムリットサル 1919年にドイツで成立したワイマール憲法の草案を書いたシャイデマン内閣では内務大臣も務めた法律家は誰? フーゴー・プロイス 1922年、ファシスタ党を率いて政権を握ったイタリアの政治家といえば? ムッソリーニ 1923年のミュンヘン一揆でヒトラーが担ぎ上げて利用した第一次世界大戦の英雄はエーリヒ・○○○○○○○? ルーデンドルフ 1924年にアドルフ・ヒトラーが収監され、『我が闘争』を口述筆記したというドイツの刑務所は○○○○○○刑務所? ランツベルク 1933年にポルトガルの首相サラザールが成立を宣言したポルトガル語で「新国家」という意味がある独裁政権は? エスタド・ノヴォ 1936年からのスペイン内乱でフランコの反乱軍と戦った愛称を「ラ・パッショナリア」といった共産党の女性は? ドロレス・イバルリ 1938年に国名をシャムからタイに変更した首相で、長年にわたって首相を務め「永遠の宰相」と呼ばれたのは誰? ピブンソンクラーム 1940年8月20日にメキシコに亡命していたロシアの革命家トロツキーを暗殺した旧ソ連のスパイは? ラモン・メルカデル 1944年から1945年にかけてフィンランドとナチスドイツの間で行われた戦争は? ラップランド戦争 1945年のポツダム協定によって定められたドイツとポーランドの国境線は○○○○○○○○線? オーデル・ナイセ 1950年にアメリカで起きたユダヤ人夫妻が原爆製造の機密をソ連に売ったとされるスパイ事件は「○○○○○○○事件」? ローゼンバーグ 1953年にカンボジアがフランスから独立すると初代首相に就任した、その後も合計6度も首相を務めた政治家は誰? ペン・ヌート 1954年の「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を撃破しベトナムを独立へと導いた将軍はボー・○○○○○○○? グエン・サップ 1960年に始まったコンゴ動乱でコンゴ民主共和国からの独立を宣言したカタンガ州の臨時大統領を務めた政治家は? モイーズ・チョンベ 1962年のキューバ危機においてソ連を代表してアメリカと交渉をおこなった当時の駐米大使はアナトリー・○○○○○○? ドブルイニン 1963年にアルジェリアの初代大統領になった政治家は? ベン・ベラ 1975年にアメリカの商船がカンボジアによって拿捕され戦闘となった事件は「○○○○○○号事件」? マヤグエース 1976年にポル・ポトがシハヌークから国家元首の地位を奪うとカンボジアの大統領に当たる国家幹部会議長に就任した人物は? キュー・サムファン 1986年にフィリピン国軍改革派将校が決起してマルコスを打倒しコラソン・アキノ政権が樹立した革命のことを何という? エドゥサ革命 1986年に爆発事故を起こした旧ソ連の原子力発電所は○○○○○○○原子力発電所? チェルノブイリ 1991年に撤廃されるまで南アフリカ共和国で行われていた人種隔離政策を何という? アパルトヘイト 2004年に独立以来初となるヒンズー教徒以外の首相となったインドの政治家は? マンモハン・シン 2012年8月にグリーンランド沖の海底で発見された、1910~1912年にイギリスの探検隊が使用するも後に沈没した南極探検船は? テラ・ノヴァ号 「アメリカ」という地名の由来になったイタリア人の探検家はアメリゴ・○○○○○○? ヴェスプッチ 「イクナートン」と自称した古代エジプト第18王朝の王は? アメンホテップ4世 「インドのマキャベリ」とも呼ばれる、マウリヤ朝の初代の王チャンドラグプタ王の宰相だった紀元前4世紀頃の人物は? カウティリヤ 「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉で有名なローマ教会最盛期の教皇は○○○○○○○○○3世? インノケンティウス 「元首政」と訳される帝政ローマ前期の政治体制は? プリンキパトゥス 「国土の守護者」という意味のアケメネス朝ペルシャで王の任命する州の総督? サトラップ 「サン・ニケーズ街テロ事件」とも呼ばれる、1800年にナポレオンの馬車に爆弾が仕掛けられた暗殺未遂事件は? 地獄の仕掛け事件 「専制君主制」と訳されるディオクレティアヌス以後のローマ帝国の統治体制のことを何という? ドミナートゥス 「できることなら、私は惑星をも併合したい」という言葉を残した帝国主義時代のイギリスの植民相は誰? セシル・ローズ 「東学党の乱」とも呼ばれる1894年に朝鮮で起こった農民の反乱は? 甲午農民戦争 「奴隷は市民ではなく財産だ」と判断した、1857年のアメリカ最高裁の判決にその名を残す奴隷は? ドレッド・スコット 「人間はポリス的動物である」という名言を残した哲学者でアレクサンダー大王の家庭教師を務めたことで知られるのは? アリストテレス 「バベルの塔」の伝説のもとになったとされる、アッシリア王・ネブカドネザル2世がバビロンに建造した七層の塔は? エテメンアンキ 「半ズボンを持たない者」という意味のフランス革命で活躍した民衆を何という? サンキュロット 「人は信仰によってのみ義とされる」という名言でも知られるドイツの宗教改革者は? マルティン・ルター 「宮宰」とも呼ばれるフランク王国の行政・財政を牛耳った重職を何という? マヨル・ドムス 愛する妃のためにタージ・マハルを建立したムガル帝国の第5代皇帝は? シャー・ジャハーン アイルランド西部の沖にあるアラン島に残っている、古代ケルト人が建造した石の城のことを何という? ドゥーン・エンガス アウグストゥスから五賢帝の時代まで約200年におよぶローマ安定の時代を何という? パックスロマーナ 赤シャツ隊を率いて両シチリア王国を占領したイタリア統一運動の指導者は? ガリバルディ アッバース朝の第7代カリフ、マアムーンに仕え、代数学を確立した数学者で、「アルゴリズム」という言葉の由来となったのは? フワーリズミー アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国において、部族ごとに黒人に割り当てられた指定居住地域のことを何という? バントゥースタン アヘン戦争中の1841年に清とイギリスの間に結ばれた条約は? 川鼻仮条約 アメリカ第3代副大統領を務めた人物で、政敵のアレクサンダー・ハミルトンを決闘で殺害したことで有名なのは誰? アーロン・バー アメリカ独立戦争ではワシントンの副官として活躍したポーランドの愛国者は? コシューシコ アルゼンチン、チリ、ペルーなどの南米の国を解放したラテンアメリカ独立運動の指導者は? サン・マルティン アレクサンダー大王がダレイオス3世率いるペルシャ軍を壊滅させた戦いは? ガウガメラの戦い アレクサンダー大王東征の帰途インダス川からチグリス川までの航海を指揮した武将は? ネアルコス アレクサンドロス大王の死後に建国されたエジプトの王朝は? プトレマイオス朝 アンシャン・レジームという言葉の由来となった著書『旧体制と大革命』で有名な19世紀フランスの政治家は? トクヴィッル イギリスからの独立をめざして1905年に結成されたアイルランドの政党は? シン・フェイン党 イギリス国王ウィリアム1世が徴税のために作成した全国的な検地帳は○○○○○○○ブック? ドゥームズデー イギリスで海の英雄と呼ばれるフランシス・ドレークが、1588年スペインの無敵艦隊を破った戦いを何という? アルマダの海戦 イギリスのヘレフォード図のように、中世ヨーロッパでキリスト教の布教を目的に製作された世界地図を総称して何という? マッパ・ムンディ イギリスの元首相チャーチルの演説の言葉で「鉄のカーテンはどこからトリエステまでを覆っている」と述べている? シュテッティン イギリスの社会主義者ロバート・オーウェンがアメリカに建設を試みた理想的共同社会は? ニューハーモニー 石を用いた世界最古の神殿といわれる、「太鼓腹の丘」という意味がある、トルコにある新石器時代の遺跡は? ギョベグリ・テペ イタリア、ローマ近郊のチボリに遺跡が残る、ローマ帝国の皇帝ハドリアヌスが建造させた別荘の跡地はヴィッラ・○○○○○○? アドリアーナ イタリア統一戦争の最中の1859年に、フランスのナポレオン3世がオーストリアと結んだ単独講和条約は○○○○○○○の和約? ヴィッラフランカ イラン・イラク戦争の末期である1988年に起きた、イラク軍が化学兵器を使用して、クルド人の市民を殺害した事件を何という? ハラブジャ事件 イラン・ロシア戦争の講和条約でロシアがアゼルバイジャンを獲得したのは○○○○○○条約? ゴレスターン イラン・ロシア戦争の講和条約でロシアがアルメニアを獲得したのは○○○○○○○○○条約? トルコマンチャーイ いわゆる「冬戦争」でソ連の侵略と戦いフィンランドの独立を保った第二次大戦終結時の大統領は? マンネルヘイム イングランド南西部のサマセット州にある、12世紀末にアーサー王の墓が発見されたという小高い丘は○○○○○○○○・トー? グラストンベリー イングランドを征服したウィリアム1世が作らせた世界初の土地台帳は「○○○○○○○・ブック」? ドゥームズデイ インドネシアにあるこの遺跡は? ボロブドゥール インドの初代首相ネルーのもとで法務大臣を務め、インド憲法の草案を作成した政治家はビームラーオ・○○○○○○○? アンベードカル ヴィクトリア女王の曾孫に当たるイギリスの貴族で、最後のインド総督を務めたことで知られるのはルイス・○○○○○○○○? マウントバッテン エンゲルスやレーニンにも影響を与えた著書『戦争論』で知られるプロイセンの軍人は? クラウゼビッツ 王侯将相いずくんぞ種あらんやという言葉が有名な中国・秦の時代末期の農民反乱を一般に何という? 陳勝・呉広の乱 王妃ネフェルタリを愛しアブ・シンベル神殿を造営した古代エジプト第19王朝のファラオラムセス2世のギリシャ語名は? オジマンディアス オーストラリア大陸を周航し。オーストラリアという地名にすることを提唱したイギリス人はマシュー・○○○○○○? フリンダース オーストリア帝国第3代皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の妻エリザベートを1898年に殺害した無政府主義者は? ルイジ・ルケーニ オットー1世の戴冠で成立したドイツ国家の呼び名は? 神聖ローマ帝国 夫のジョンは内務大臣を務めていた、その美貌と知性から「ジロンド派の女王」と呼ばれたフランス革命の指導者は誰? マノン・ロラン カール大帝とイスラム軍の激闘を描く、12世紀初めに完成したフランス最古の叙事詩といえば? ローランの歌 数多くのナチス戦犯逮捕に協力し「ナチ・ハンター」の異名を取ったユダヤ系オーストリア人はサイモン・○○○○○○○○? ヴィーゼンタール 紀元前188年に共和政ローマとセレウコス朝シリアが締結したローマ・シリア戦争の講和条約は「○○○○○の和約」? アパメイア 紀元57年に倭の使者が中国に赴き光武帝から印綬をうけたことが記されている出典といえば? 後漢書東夷伝 紀元前281年にディアドコイ戦争最後のコルペディオンの戦いでシリア王セレウコスに敗れたマケドニア王国の将軍は? リュシマコス 紀元前2世紀から4世紀にかけてポーランドからウクライナに存在していた銃器時代文化を「○○○○○○○○文化」という? プシェヴォルスク 紀元前341年から紀元前290年にかけて、ローマ帝国とアペニン山脈に居住する部族との間に起こった戦争は? サムニウム戦争 紀元前のインドでジャイナ教を開いた人物は? ヴァルダマーナ 紀元前120年から紀元前115年にユトランド半島から南下してきた民族をローマ帝国が破った戦争は○○○○○○○○○戦争? キンブリ・テウトニ 紀元前153年から紀元前133年までケルティペリア人とローマ帝国が戦った戦争は○○○○○○戦争? ヌマンティア 紀元前1世紀に共和政ローマとポントス王国の間で3度に渡り行われた戦争を「○○○○○○戦争」という? ミトリダテス 紀元前1世紀の古代ローマで市民兵ではなく職業軍人を採用、武器を自費ではなく支給するなど様々な軍制改革を行った軍人は? ガイウス・マリウス 紀元前2世紀頃から普及した古代ローマ時代の大土地所有制を何という? ラティフンディウム 紀元前386年にスパルタがペルシャと結んだ屈辱的条約は○○○○○○○の和約? アンタルキダス 紀元前3世紀から1世紀にかけてローマ市内全域に建設されたテヴェレ川へと汚水を運ぶ巨大な下水システムを何という? クロアカ・マキシマ 紀元前53年にパルティアがローマ軍を破った戦いで三頭政治で有名なクラッススが戦死したのは○○○○の戦い? カルラエ 紀元前6世紀にダレイオス1世が建設したアケメネス朝ペルシャの都は? ペルセポリス 紀元前707年からニネヴェに遷都される紀元前705年までアッシリアの首都だったサルゴン2世が建設した都市は? ドゥル・シャルキン 紀元前8世紀の新アッシリアの王で、職業軍人による常備軍を作り、バビロニアを滅ぼしたのは○○○○○○○○○3世? ティグラトピレセル 紀元前287年に制定された平民会の決議は元老院の承諾なしで国法とされるという内容の古代ローマの法律は? ホルテンシウス法 紀元前480年にレオニダス率いるスパルタ軍がペルシャ軍に敗れた戦いは?ペルシャ軍に敗れた戦いは? テルモピレーの戦い 紀元前480年のサラミスの海戦でペルシャ艦隊を破ったアテネの政治家は? テミストクレス 北ヨーロッパと東アジアを結ぶ北東航路の航海に成功したスウェーデン人はアドルフ・エリク・○○○○○○○○? ノルデンショルド 旧約聖書に書かれている紀元前609年にバビロニアのネブカドネザル2世がエジプトのネコ2世と激突した戦いは? カルケミシュの戦い キリスト教の開祖であるイエス・キリストを処刑した古代ローマ帝国における第5代ユダヤ地区総督は? ポンテオ・ピラト ギリシャ語で「友愛会」という意味がある、1821年にオスマン帝国からのギリシャ独立を目指して蜂起した秘密組織は何? フィリキ・エテリア ギリシャ南部のラコニア地方にあったことに由来する、古代ギリシャの「スパルタ」の正式な呼び名は何? ラケダイモン 近世初期のプロイセンを中心に形成された大農場制度を何という? グーツヘルシャフト グスタフ2世アドルフとその娘クリスティーナ女王に仕えた、17世紀スウェーデンの名宰相は? オクセンシェルナ クリミア戦争で活躍したことから「クリミアの天使」と呼ばれたイギリスの看護婦は? ナイチンゲール グルジャラ族のナーガバタ1世が8世紀後半にインド北西部に建国した王朝で、イスラム勢力の侵攻を約300年間食い止めたのは何? プラティハーラ朝 君主であるマリク・シャーを支えて、セルジューク朝トルコの全盛期をもたらした宰相は? ニザームルムルク 軍政改革を行って職業軍人を誕生させた古代ローマの政治家は? ガイウス・マリウス 軍事協力や自由貿易を目的にイングランド王ヘンリー7世が1489年にスペインと結んだ条約は○○○○○○○○条約? メジナデルカンポ 啓蒙専制君主・フリードリヒ2世と交流のあった、『哲学書簡』で知られる思想家は? ヴォルテール 現在のイタリア、ミラノにあたる4世紀の皇帝テオドシウス1世の時代に西ローマ帝国の首都が置かれた都市はどこ? メディオラヌム 元老院などの建物が置かれ古代ローマにおける政治の中心地であった、観光地として有名なローマにある遺跡群は? フォロ・ロマーノ 現在のオランダ国歌にも歌われる、1581年にネーデルランド連邦共和国を独立に導いた総督は? オラニエ公ウィレム 国際連合の初代事務総長を務めたノルウェー人は? トリグブ・リー 古代インドの王朝「グプタ朝」を建国したのは○○○○○○○○1世? チャンドラグプタ 古代ギリシャの植民地だった現在の南イタリア、シチリアなどを総称して、ギリシャ本土に対して何と呼んだ? マグナ・グラエキア 古代ギリシャの哲学者エンペドクレスが、万物の根源であると説いた、水・空気・土・火の4つの元素を何という? リゾーマタ 古代ローマ時代にユピテルの神殿などで儀式が行われたローマの七丘で最も高い丘は○○○○○○の丘? カピトリヌス 古代ローマ帝国において、実質的には皇帝が君主の地位にあったが建前として共和政であるように振る舞っていた体制を何という? プリンキパトゥス 古代ローマ帝国において元老院が反逆者に対して行った、存在がなかったことにする重い刑は○○○○○○・メモリアエ? ダムナティオ 古代ローマ帝国で迫害を逃れたキリスト教徒が集会に利用した地下墓地は? カタコンベ 古代ローマ帝国において一騎討ちで敵の将軍を破った軍人に与えられた最高勲章のことを何という? スポリア・オピーマ 古代ローマ帝国においてディオクレティアヌスが始めた帝国領を4分割して統治した政治体制のことを何という? テトラルキア 古代ローマのハドリアヌス帝の霊廟として造られた、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞は? サンタンジェロ城 古代ギリシャとアケメネス朝が戦った「ペルシア戦争」の末に結ばれた平和条約は? カリアスの和約 古代ギリシャの歴史家クセノフォンがペルシャからの帰還を綴った戦記のタイトルは? アナバシス コンラート3世の時代から大空位時代が始まる1254年まで神聖ローマ帝国を支配した王朝は○○○○○○○朝? シュタウフェン 三位一体論を唱えたことで知られる、古代キリスト教最大の教父・思想家は? アウグスティヌス 産業革命による経済力と軍事力を背景にした、19世紀半ばから20世紀初頭までのイギリス帝国の最盛期を表した言葉は? パクス・ブリタニカ 三十年戦争中の1631年9月にスウェーデンが神聖ローマ帝国に初勝利した記念すべき戦いは○○○○○○○○○の戦い? ブライテンフェルト 三十年戦争中の第二段階にあたる1625~29年に行われた戦いは○○○○○○○○戦争? ニーダーザクセン 三十年戦争中の1634年にスウェーデン軍とハイルブロン同盟が神聖ローマ帝国とスペイン軍に敗北したのは何の戦い? ネルトリンゲン 三十年戦争中の1643年から1645年にかけて行われたスウェーデンとデンマークの戦争は○○○○○○○戦争? トルステンソン 三部会を停止しフランス学士院を創立したルイ13世時代の名宰相は誰? リシュリュー 三十年戦争に参戦したスウェーデンをフランスが支援することを定めた1631年の条約は○○○○○○○条約? ベールヴァルデ 三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約とは○○○○○○○○条約とミュンスター条約の総称? オスナブリュック 三十年戦争の最中の1634年にスウェーデンとプロテスタント諸侯の間で結ばれた同盟は○○○○○○同盟? ハイルブロン 三十年戦争中の1632年に神聖ローマ帝国と衝突したリュッツェンの戦いで戦死したスウェーデン国王は? グスタフ・アドルフ 三十年戦争中の一大転機となった1636年に神聖ローマ帝国軍がスウェーデン軍に大敗した戦いは○○○○○○○○の戦い? ヴィットストック 歯科医師だったことからポルトガル語で「歯を抜く」という意味の愛称で呼ばれた18世紀ブラジルの独立運動の先駆者は? チラデンテス 実在が確認されたメソポタミア最古の王である、シュメールのキシュ第1王朝の王は? エンメバラケシ ジャワ語で「最高の英知」という意味がある、1908年に結成されたインドネシアの民族主義団体は? ブディ・ウトモ 宗教改革で有名なルターはドイツの何大学の教授だった? ヴィッテンベルク 首都をアンティオキアに置いた紀元前312年~62年まで現在のイランを中心に栄えた王国は? セレウコス朝シリア シュマルカルデン戦争の終結のため、1555年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世がおこなった決議は○○○○○○○の和議? アウグスブルク 私有財産制を否定したフランスの社会主義者で「アナーキズム」という言葉を初めて使ったのは? プルードン 十字軍の手に落ちたコンスタンティノープルを奪回したミカエル8世が皇帝に即位した後に開いた東ローマ帝国の王朝は? パレオロゴス朝 女性社会政治同盟(WSPU)を結成し、婦人参政権の実現に尽力したイギリスの活動家といえば○○○○○○○夫人? パンクハースト シラーの戯曲のタイトルにもなった、三十年戦争で活躍した神聖ローマ帝国の将軍は? ワレンシュタイン 神聖ローマ皇帝ジギスムントの孫で、生後すぐにハプスブルク家の家督を引き継ぐが、わずか17歳で死去してしまったのは? ラディスラウス 神聖ローマ帝国がマジャール人の西方侵入を阻止するために設けた辺境伯領を何という? オストマルク スパルタを破ってテーベの覇権を確立した古代ギリシャの将軍は? エパミノンダス スペインの独裁者フランコが用いた軍総司令官の称号は? ヘネラリッシモ スペイン内乱の実態をまとめたジョージ・オーウェルのルポの題名は? カタロニア讃歌 炭を焼く作業員の扮装をしたことから名前がついたともいわれる19世紀イタリアの秘密結社を何という? カルボナリ党 西欧がイスラムの影響を受けたことを「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」と表現したベルギーの歴史学者は? アンリ・ピレンヌ 世界最古の料理書『デ・レ・コクイナリア』を残した古代ローマの美食家はマルクス・ガウィウス・○○○○○? アピキウス 世界最小の国・バチカン市国を誕生させた、1929年にイタリアとローマ教皇の間で結ばれた条約といえば? ラテラノ条約 セルジューク朝の最盛期を築いた第3代スルタンといえば誰? マリク・シャー 戦後のアメリカで行われた共産主義者の追放運動のことを当時の共和党議員の名をとって何という? マッカーシズム 戦前戦中にかけて日独伊防共協定や独ソ不可侵条約を締結しニュルンベルク裁判で死刑になったドイツの外交官は? リッベントロップ ソ連と東欧社会主義諸国の間で1949年に設立された「経済相互援助会議」のことをその頭文字から何という? COMECON ソ連に対する「封じ込め政策」を始めたといわれる、アメリカの外交官は? ジョージ・ケナン タイに存在した最初の国家とされる、7世紀にモン族が建国し10世紀頃に滅亡した国は○○○○○○○○王国? ドバーラバティー 第2次ポエニ戦争で象に乗って冬のアルプスを越えたカルタゴの英雄は? ハンニバル 第一次大戦後のドイツの国際的地位の回復に努め1926年にノーベル平和賞を受賞した政治家は誰? シュトレーゼマン 第一次大戦のタンネンベルクの戦いではドイツ軍を指揮した人物で、戦後、大統領となりヒトラーを首相に任命したのは? ヒンデンブルク 第一次大戦の武器調達に深く関与し、「死の商人」の代表格とされるトルコ生まれの商人は? バジル・ザハロフ 第一次世界大戦にアメリカが参戦するきっかけとなったドイツの外務大臣がメキシコ政府に向けて送った電報は? ツィンメルマン電報 第一次ポエニ戦争においてローマ帝国軍と戦った、ハンニバルの父であるカルタゴの将軍は誰? ハミルカル・バルカ 第一大戦末期の1918年ロシアの新政権が同盟国と結んだ講話条約はブレスト・○○○○○条約? リトフスク 第二次世界大戦後ラオスで誕生したレジスタンス組織自由ラオスの戦争部隊で、内戦を経て全土を制圧したのは? パテト・ラオ 第二次世界大戦中にフランスのリヨンで4千人以上を虐殺し「リヨンの虐殺者」と呼ばれたナチスのゲシュタボ隊長は? クラウス・バルビー 第二次世界大戦中の1941年にアメリカで制定された、イギリスなどの連合国に対して武器や物資を貸与することを定めた法律は? レンド・リース法 第二次世界大戦ではヨーロッパの連合軍最高司令官をつとめた第34代アメリカ大統領はドワイト・D・○○○○○○○? アイゼンハワー 第二次大戦後のアメリカが旧ソ連などの共産主義勢力に対してとった一連の政策を何という? 封じ込め政策 第二次世界大戦時にドイツ陸軍の長老的存在であった元帥でバルジの戦いなどを指揮したのはカール・○○○○○○○○? ルントシュテット 第二次世界大戦の東部戦線で活躍したドイツの伝統的スナイパーで公式戦果345名と、ドイツ軍の最高記録を誇っているのは? ヘッツェナウアー 第二次ユダヤ戦争とも呼ばれる132年にローマ帝国支配に対してユダヤ属州で起きた反乱のことを指導者の名をとって何という? バル・コクバの乱 第一次世界大戦で軍事的に劣勢となったドイツ軍が1917年2月に開始した作戦は? 無制限潜水艦作戦 第一次世界大戦のときに敵国ドイツの地名を嫌ってハノーヴァー朝から改称したイギリス王朝の名称は? ウィンザー朝 第二次世界大戦中の1941年にポーランドで起きたユダヤ人の大量虐殺事件のことを「○○○○○○○事件」という? イェドヴァブネ 第二次世界大戦中の1942年にロンメル率いるドイツ軍団がアフリカ戦線で大敗した戦いは○○○○○○○○の戦い? エル・アラメイン タガログ語で「抗日人民軍」という意味の言葉の略語である1942年にフィリピンの農民が組織した抗日ゲリラ組織は? フクバラハップ 父のヴィルヘルムはドイツ社会民主党創始者であった人物で、1916年にルクセンブルクと共にスパルタクス団を組織したのは? リープクネヒト 中央アジアを横断する交通路を「シルクロード」と名付けたドイツの地理学者は? リヒトホーフェン 中国・金の建国者、完顔阿骨打が始めた、女真族で編成された社会組織・軍事組織のことを総称して何という? 猛安・謀克 中国・明の遺臣鄭成功(ていせいこう)が攻略した、台湾南部にあったオランダの拠点といえばどこ? ゼーランディア城 中国からイギリスまで紅茶を運ぶ「ティークリッパー」として活躍した、19世紀に建造され当時世界最速を誇った帆船は? カティーサーク 中国で皇帝に謁見する際に行われた、頭を9回床につける礼法を何という? 三跪九叩頭 中国名を室利仏逝といったスマトラ島のパレンバンを中心に、10世紀頃最盛期を迎えた王国は? シュリーヴィジャヤ 中国四大奇書の一つ『金瓶梅』の作者といわれる正体不明の明の時代の作家は? 蘭陵笑笑生 中世の朝鮮で発行された仏教経典の集大成といえば? 高麗大蔵経版 中国・三国時代の末期に俗世間を避けて酒を飲み大いに語った阮籍や劉伶などの7人を何という? 竹林の七賢 著書『二十世紀の神話』で有名なナチスの高官として活躍したドイツの政治家はアルフレート・○○○○○○○? ローゼンベルク 著書に『女性の権利の擁護』がある、フェミニズムの先駆者である18世紀イギリスの思想家はメアリ・○○○○○○○○○? ウルストンクラフト 著書に『公教育論』があるフランス革命で活躍した数学者・政治家で、恐怖政治に反対して投獄され1794年に自殺したのは? コンドルセ 角が生えていたという伝説もあるアレクサンダー大王の愛馬は? ブーケファロス 提唱した2人の護民官の名がつけられた、紀元前367年に古代ローマで制定された法律はリキニウス・○○○○○○○法? セクスティウス テーベのエパミノンダスが戦死した、前362年に古代ギリシャのテーベとスパルタが激突した戦いは○○○○○○○の戦い? マンティネイア ドイツ国内におけるルター派への対応などを協議した、1526年と1529年に開催された議会は○○○○○○帝国議会? シュパイアー ドイツのポツダムにあるサンスーシ宮殿を設計したフリードリヒ2世の友人の建築家は? クノーベルスドルフ 当時のフランスの社会を鋭く批判している1755年のルソーの著書は? 人間不平等起源論 東方遠征を行いヘレニズム文化が生まれるきっかけを作ったマケドニアの国王は? アレクサンドロス ナチス・ドイツを包囲するために西ヨーロッパ諸国と提携を進めた1930年代のソ連の外交方針を当時の外相の名をとり何という? リトヴィノフ外交 ナチス突撃隊を組織・指導した人物で、後にヒトラーと対立し「長いナイフの夜」と呼ばれる事件によって粛清されたのは? エルンスト・レーム ナチスのメンバーだったルドルフ・ヘスの恩師としても知られるミュンヘン大学教授で地政学の大家として有名なのは? ハウスホーファー ナポレオンのエジプト遠征軍が発見した古代エジプト文学解読の鍵となった石碑は? ロゼッタストーン ナポレオンの活躍でイタリア戦役で勝利したフランスが、1797年にオーストリアと結んだ条約は○○○○○○○○○条約? カンポ・フォルミオ ナポレオンの没落後ヨーロッパ各国の代表者がオーストリアに集まり開いた会議は? ウィーン会議 南北戦争中の1862年にリンカーン大統領が制定した自営農民を増やすための法律は? ホームステッド法 ネロ帝死去後の内乱を平定し69年にローマ皇帝となった人物で75年にコロセウムの建設を開始したことで知られるのは誰? ウェスパシアヌス ノルマン朝の断絶後イギリス王ヘンリー2世が創始した王朝は何朝? プランタジネット朝 パガン朝、タウングー朝の次にビルマを統一した、コンパウン朝とも呼ばれる王朝の名前は? アラウンパヤー朝 初めて公式に「スルタン」の称号が与えられたセルジューク朝の始祖は? トゥグリル・ベク パナマ運河を中立化し、アメリカがその管理権を獲得するという内容の1901年に調印された条約はヘイ・○○○○○○○条約? ポンスフォート バヤジット1世率いるオスマン帝国が、神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント率いるヨーロッパ連合軍を破った1396年の戦いは? ニコポリスの戦い バラモン教を国教とした別名をアーンドラ朝という古代インドの王朝は○○○○○○○○朝? サータヴァーハナ 反ウィーン体制運動のひとつで1825年にロシアの自由主義貴族が起こした反乱は? デカブリストの乱 ハンガリーの独立を認める代わりに二重帝国として実質的な支配下に置いた、1867年にオーストリアが採択した政策を何という? アウスグライヒ ピアノ奏者としても有名だったポーランドの首相は? パデレフスキー 東インド会社の設立などイギリス絶対王政の絶頂期を築いた、テューダー朝の女王は? エリザベス1世 百年戦争のとき白馬にまたがりオルレアンを解放した少女といえば? ジャンヌ・ダルク 百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクが生まれたフランス・ロレーヌ地方にある村はどこ? ドンレミ村 普仏戦争中の1870年にフランス臨時政府が成立すると内相になりプロイセン軍に包囲されたパリを気球で脱出して抵抗した人物は? レオン・ガンベッタ フランクリン・ルーズベルトとトルーマン政権下で国務長官を務めた政治家で、戦後はアメリカの初代国連大使となったのは? ステティニアス フランス革命以前の社会体制を指す、「古い制度」という意味の言葉は? アンシャンレジーム フランスからオーストリアへ渡りレオポルト1世、ヨーゼフ1世、カール6世の3人の皇帝に仕えた17世紀後半から18世紀の軍人は? プリンツ・オイゲン フランス語で「なすにまかせよ」という意味がある、資本主義の前期にヨーロッパで取られた「自由放任主義」を何という? レッセ・フェール フランスと神聖ローマ帝国が争ったファルツ継承戦争の講和条約は、1697年に結ばれた○○○○○○条約? ライスワイク フランスのナポレオン3世とサルディニア王国のカブールが1858年に結んだ密約は? プロンビエール密約 フランス革命では民衆がここを襲撃して武器を持ち出しているナポレオン1世の墓があるパリにある元・軍病院は? アンヴァリッド フランス革命でマラーを暗殺したシャルロット・コルデーに心酔し彼女を讃えるパンフレットをばらまいて処刑された人物は? アダン・リュクス フランス革命期にテルミドールのクーデターの後に現れた、長髪にネクタイをして香水をつけた伊達男を何という? ミュスカダン フランス革命期にテルミドールのクーデターの後に現れた、透ける素材の服につばの広い帽子を被った伊達女を何という? メルヴェイユーズ フランス革命前期に男装の麗人として活動した女性革命家で、「自由の女戦士」と呼ばれたのは○○○○○○・ド・メリクール? テロワーニュ フリードリヒ大王が「今世紀で最も偉大な将軍の一人」と評価した、オーストリア継承戦争で活躍したプロイセンの将軍は? シュヴェリーン ベトナム民主共和国に対抗して1946年にフランスがベトナムに建国した国は? コーチシナ共和国 ボヘミア・ハンガリー戦争を終結させた、1479年に締結された和平条約は○○○○○の和約? オロモウツ ホラズム朝がモンゴル帝国の通商使節団を殺害した、チンギスハンによる西方大遠征の契機となった1218年の事件は○○○○事件? オトラル ポルトガルが黒人奴隷貿易の最初の拠点として設けたガーナの海岸に残る世界遺産の建物は○○○○要塞? エルミナ ボロブドゥール寺院と共にジャワの建築の最高傑作といわれる9世紀にインドネシアに作られた遺跡は○○○○○○寺院群? プランバナン マケドニア国王カッサンドロスによって建設され、7世紀以降ビサンツ帝国第2の都市として栄えたのは? テッサロニキ マラソンの由来となった紀元前490年のマラトンの戦いでアテナイ軍を率いてペルシア軍を破った軍人は? ミルティアデス マリー・アントワネットの寵愛を贅沢の限りを尽くすが、フランス革命で国王を見捨ててウィーンに亡命直後に急死した貴族は? ポリニャック夫人 マリー・アントワネットの母である18世紀オーストリアの女帝で、オーストリア継承戦争や七年戦争で諸外国と戦ったのは? マリア・テレジア マリー・アントワネットもここから断頭台に送られたという「ギロチン待合室」と呼ばれたパリ、シテ島にある旧牢獄は? コンシェルジュリー ミュージカルにもなったフランツ・ヨーゼフ1世の皇后エリーザベトを1898年に暗殺したイタリアの無政府主義者は? ルイジ・ルケーニ 民謡『アロハオエ』の作者としても知られるハワイ王朝の最後の女王は? リリウオカラニ メキシコのカリェス大統領による弾圧に対し、1926年にカトリック教徒が起こした革命運動のことを○○○○○戦争という? クリステロ 元々は貴族が所有する非自由民だったが、徐々に力をつけて騎士階級と同化していった中世ドイツの身分を何という? ミニステリアーレ 敗れたオーストリアがシェーンブルンの和約を結んだナポレオン最後の勝ち戦と言われる戦いは? ヴァグラムの戦い 翌年のアナーニ事件の引き金となった、1302年にローマ教皇ボニファティウス8世が出した教皇権の至上性を唱えた回勅は? ウナム・サンクタム ラオスの2000キップから10万キップの紙幣全てに肖像が描かれている同国の初代首相はカイソーン・○○○○○○○? ポムウィハーン ラテンアメリカ独立運動の指導者で、「ボリビア」という国名の由来となった人物は? シモン・ボリバル ラテン語で「新しい人」という意味がある、共和制ローマに登場した、貴族や裕福な平民以外で執政官に就任した者を何という? ノウス・ホモ ラテン語で「剣」を意味する古代ローマ軍の歩兵や剣闘士が使った刀剣は? グラディウス ルートヴィヒ4世、カール7世の2人の神聖ローマ帝国皇帝を輩出したバイエルン地方の家系は○○○○○○○○○家? ヴィッテルスバッハ ルターが新約聖書を初めてドイツ語に翻訳した際にかくまわれていた、ドイツのアイゼナハにある城は? ワルトブルク城 ルドルフ・ヘスらナチス党員の多くがその出身であった、特に第一次世界大戦以降に活躍したドイツ義勇軍のことを何という? フライコール ルネサンス期以降にヨーロッパで使用された、利き手と反対側の手に持って戦う短剣を何という? マインゴーシュ ローマ五賢帝の最後の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスは 中国では何と呼ばれた? 大秦国王安敦 ロシア空挺軍の生みの親として知られる、「赤軍の至宝」「赤いナポレオン」との異名をとったソ連の元帥は? トハチェフスキー ロシア語で「人民主義者」という意味がある、19世紀後半のロシアの革命運動の一派は何? ナロードニキ ロシアと結託してその侵攻を導き第2次ポーランド分割を引き起こした、1792年にポーランドの貴族たちが結成した連盟は? タルゴヴィツァ連盟 ワーテルローの戦いでプロイセン軍を指揮し、ナポレオン軍を倒す原動力となった軍人はアウグスト・フォン・○○○○○○? グナイゼナウ
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*資治通鑑巻第六十 ** 漢紀五十二 ** 孝獻皇帝乙 初平二年(辛未、一九一) 1.春、正月、辛丑、天下に赦令を下した。 2.関東諸将はつぎのように議した:以って朝廷が幼沖であるため、董卓に於いて迫られ、遠く(函谷)関(桃林)塞から隔てられてしまい、関塞とは、函谷関、桃林塞のことを謂う也。存否を知らない、幽州牧の劉虞は、宗室の賢であるから、共に立てて主と為そうと欲している、と。曹操曰く:「吾等が兵を挙げ而して遠近からこの響きに応じない者が莫かった所以というのは、義を以って動いたが故にほかならない也。今幼主が微弱であって、姦臣に於いて制されているが、これは昌邑が亡国之釁を有したことに非ず(同じことではない)、昌邑、昌邑王賀のことを謂う也。而して(それなのに)一旦にして改めること易ければ(易々と改めたなら)、天下は其れ孰くにか之に安んぜんか!諸君が北面しようとも、我は自ずと西に向かわん。」幽州は北に在り、長安は西に在った、故に曹操は然るように云ったのである。韓馥、袁紹は書を以って袁術に与えて曰く:「帝は孝靈の子に非ず、欲依絳、灌誅廃少主、迎立代王故事、大司馬である劉虞を奉じて帝と為そう。」袁術は陰ながら不臣之心を有していたため、国家が長君を有することは不利であるとして、乃ち外は公義に託して以って之を拒んだ。袁紹は復たも袁術に書を与えて曰く:「今西の名には幼君が有るが、血脈之属が無い、謂帝は靈帝の子に非ずと謂うことである也。(そのうえ)公卿以下は皆事を(事えることで)董卓に媚びているのだから、安んぞ復た信ず可けんや!但だ当に兵を使って往きて関要に駐屯させるべし、皆自ずと蹙死することだろう。(そうしておいて)東に聖君を立てたなら、太平は冀う可く、何ぞ疑い有る如きであろうか!又室家(我らの家)は戮に見えたのだ、子胥を念じず(#念じないではおれない?)、伍子胥が能く父兄之讎に報いたことを謂う也。復た北面す可きでないか乎?」以って袁隗等を殺した(命令)が帝に於いて出されることに為ったことをいっている。袁術は答えて曰く:「聖主は聡叡であらせられ、周(王朝)の成(王)之質がある、賊の董卓が危乱之際に因って、百寮を威服したが、此は乃ち漢家が小厄之会にあっただけのこと、それなのに乃ち今上を『無血脈之属』だと云うなど、豈に誣としないものだろうか乎!又曰く『室家は戮に見えたのだから、復た北面す可し』とは、此は董卓が為した所である、豈に国家がなしたところだろうか哉!慺慺たらんか(この我が)赤心、志は董卓を滅ぼすに在るのだ、其の他のことなど識らんわ!」韓馥、袁紹は竟に故の楽浪太守である張岐等を遣わして齎議して劉虞に尊号のことを上させた。劉虞は張岐等に見えると、厲色して之を叱して曰く:「今天下は崩乱し、主上は塵を蒙っている、吾は重恩を被っており、未だ国の恥を清め雪ぐこと能わないでいる。諸君は各々が州郡に拠っているのだから、宜しく共に力して王室に心を尽くすべきであるのに、而して反って逆しまに謀を造り以って相垢汙とするのか邪!」固く之を拒んだ。韓馥等は又劉虞に尚書事を領して、承制封拜をおこなうよう請うたが、復たも聴きいれず、匈奴に奔らんことを欲した以って自ら(彼らとの関係を)絶とうとしたのである。(そこで)袁紹等は乃ち止めた。 3.二月、丁丑、董卓を太師とし、位は諸侯王の上にあることとした。 4.孫堅は屯(営)を梁の東に移したところ、董卓の将の徐栄に敗れる所と為った、そこで復た散卒を収めると進んで陽人に駐屯した。賢曰く:梁県は、河南郡に属する、今の汝州県である。陽人聚の故城は、梁県の西に在る。董卓は東郡太守の胡軫を遣わして歩騎五千を督させ、呂布を以って騎督と為して之を撃たせた。胡軫と呂布は相得ないなか、孫堅が出撃してきて、之を大いに破ると、其の都督華雄を梟した。或るひとが袁術に謂いて曰く:「孫堅が若し雒(洛陽)を得たなら、復た制す可からず、此は狼を除いて而して虎を得るようなことを為すことです也。」袁術は之を疑い、軍糧を運ばなかった。孫堅は夜に馳せて袁術に見えると、陽人は魯陽を去ること百余里である。地に畫して校を計って曰く:「(わたしが)身は出ずるとも顧みないことの所以は、上は国家の為に賊を討ち、為、于偽翻。下は将軍の家門がおこなう私讎を慰めんとしているのです。この孫堅は董卓と骨肉之怨みが有るのではありません也、而しながら将軍は浸潤之言を受けいれ、浸潤之譖は、論語に出ている。還って相嫌疑なさっている、何ででしょう也?」袁術は踧踖すると、不自安貌。即ち(即座に)軍糧を調発した。孫堅が屯に還ったところ、董卓が将軍の李傕を遣わして孫堅を説きにきていた、与(孫堅と)和親せんと欲しており、孫堅に子弟を刺史、郡守に任じるよう(任じてもらいたい者)疏すことを令していた、之を用いるよう上表することを許したのである。孫堅は曰く:「董卓は天に逆い無道である、今汝三族を夷して四海に懸示しなければ、則ち吾は死すとも瞑目せず、豈に将に与して乃ち和親しようか邪!」乃、汝也。復た軍を大谷に進めた、雒(洛陽/雒県)から距ること九十里である。賢曰:大谷口は、故の嵩陽の西北八十五里に在る、北に出ると雒陽故城に対する、張衡の東京賦に云う「盟津は其後ろに達し、大谷は其の前を通る」とあるのが是である也。距、至也。董卓は自ら出てくると、孫堅と諸陵の間に於いて戦った、董卓は敗走すると、澠池に卻屯し、陝に於いて兵を聚めた。孫堅は進んで雒陽に至ると、呂布を撃ち、復た破って走らせた。孫堅は乃ち宗廟を掃除し、太牢を以って祠ると、城の南にある甄官の井中に於いて伝国璽を得た。甄官署の井の中である也。晉職官志では:少府に属するものに甄官令が有る、而しながら続漢志には之が無い、蓋し他の署に於いて属されたものだろう、未だ專官を置かなかったとみえる也。甄官は、琢石、陶土之事を掌る。後に建安元年に袁術が璽を奪うことに為った張本。璽、斯氏翻。兵を分けて新安、澠池の間に出ると以って董卓への要とした。董卓は長史の劉艾に謂いて曰く:「関東の軍は何度も敗れたため矣、皆孤<わたし>を畏れていて、能く為すこと無い也。惟だ孫堅のみが小戇(小癪な奴)で、頗る能く人を用いるから、当に諸将に語って、之を忌むよう知ら使めよう。語、牛倨翻。下に同じ。孤は昔周慎と金城に於いて辺章、韓遂を西征したことがあった、孤は張温に語って、求引所将兵為慎作後駐(将いる所の兵を引きつれて周慎には後駐を作らせるよう求めたが)、張温は聴きいれなかった。張温は又孤を使って先零の叛いた羌を討たせようとした、孤は其の克てないことを知っていたが而しながら止むを得ず、遂行することにし、別部司馬の劉靖に歩騎四千を将いさせて安定に駐屯させ留めたのだが以って声勢を為そうとしたのである。叛羌は(われらの)帰る道をせんと欲したが、は、即ち截字である。孤が小撃すると輒ち開けた、これは安定に兵が有るのを畏れた故であった也。虜が謂うには安定には当に数万人がいるとしていた、但だ劉靖だけとは知らなかったのである也。而して孫堅は周慎に随い行くと、周慎に求先ず万兵を将いて金城を造らんことを求め、使って周慎には二万を以って後駐を作るよう謂った。辺章、韓遂は周慎が大兵であることを畏れ、敢えて軽んじて孫堅と戦おうなどとはせず、而して孫堅の兵は以って其の運道を断つに足るものだった。兒曹が其の言を用いたなら、涼州は或いは能く定められたろう也。張温は既に孤を用いること能わず、周慎も又孫堅を用いること能わず、卒用(用を卒して)敗走したのである。孫堅は以佐軍司馬所見略与人同、固自為可。言其才可用也。但無故従諸袁兒(但たんに故無く諸袁兒に従っているからには/諸袁兒に従う故が無い)、終には亦た死すことになろう耳!」乃ち東中郎将の董越を使って澠池に駐屯させ、中郎将の段煨を華陰に駐屯させ、中郎将の牛輔を安邑に駐屯させ、姓譜では:牛(氏)は本もとは殷から(自り)のもので、周が微子を宋に於いて封じた、其の裔で司寇であった牛父が長丘に於いて狄に敗れて、之に死したため、其の子孫は王父の字を以って氏と為したのである。其の余りの諸将を諸県に布在させると、以って山東から(の攻撃を)禦がせた。牛輔は、董卓之である也。董卓は引いて長安に還った。孫堅は諸陵を脩塞する(修繕して塞ぐと)、軍を引きつれて魯陽に還った。 5.夏、四月、董卓が長安に至ると、公卿は皆車下に迎え拝した。董卓は抵手すると御史中丞の皇甫嵩に謂いて曰く:「義真よ、怖未乎?」皇甫嵩は、字を義真という。怖は、普布翻。皇甫嵩は曰く:「明公は徳を以ってして朝廷を輔け、大慶が方じて至ったのですから、何ぞ之を怖れること有りましょう!若し刑に淫することに以って逞しくするなら、将に天下の皆が懼れることになりましょうから、豈に独り嵩のみでしょうか(怖れることになりましょうか)乎!」考異に曰く:范書の皇甫嵩伝及び山陽公載記に記してある皇甫嵩の語は此とは同じでない、今は張璠漢紀に従う。董卓の党は董卓を尊ぶこと太公に比さんとして、尚父と称しようと欲した、董卓は以って蔡邕に問うと、蔡邕は曰く:「明公には威徳がありますから、誠に為すこと巍巍たるものです、然りながら之を太公に比しますと、愚かしい意ではありますが以為<おもえらく>は未だす可きことではありません、宜しく関東を須らく平定されて、車駕を旧<もと>の京に還反なさいまして、然る後に之を議すことにいたしましょう。」董卓は乃ち止めた。董卓は司隸校尉の劉囂を使って民のなか子で不孝を為したもの、臣で不忠を為したもの、吏で不清を為したもの、弟で為すに順わなかった者について吏に籍させて、皆身は誅し、財物は官に没収することにした。是に於いて更めて相誣引しあい、更、工衡翻。冤死した者は以って千を数えることになった。百姓は囂囂として、道路では以って目くばせしあった。囂、五羔翻。韋昭曰:「不敢発言、以目相眄而已。」 6.六月、丙戌、地震があった。 7.秋、七月、司空の种拂が免じられた。光禄大夫で済南出身の淳于嘉を司空とした。太尉の趙謙が罷めた。太常の馬日磾を太尉とした。 8.かつて、何進は雲中出身の張楊を遣わして并州に還して兵を募らせていた。たまたま何進が敗れたため、張楊は上党に留まると、衆を有すること数千人となった。袁紹は河内に在ったことから、張楊は往きて之に帰すと、南単于の於扶羅に与して(と)漳水に駐屯した。濁漳水は上党の長子を出て而して東に鄴を過ぎる、鄴は則ち韓馥が居った所である也。韓馥は豪傑の多くが袁紹に帰心したことを以って、之を忌むと。陰ながら其の軍糧を貶節し、其の衆を離散させ使もうと欲した。韓馥の将である麴義が叛くに会い、姓譜では:漢に平原出身の鞠譚が有った、其の子の閟が難を避けて、改めて曰く麴氏としたのである、後に遂に西平での著姓と為った。韓馥はこれと戦い而して敗れた、袁紹は因ってこれと義を相結んだ。袁紹の客だった逢紀が袁紹に謂いて曰く:「将軍は大事を挙げんとするに而して人に資給を仰いでいます、仰、牛向翻。一州に拠らなければ、以って自ら全うすること無いでしょう。」袁紹は曰く:「冀州の兵は強い、なのに吾が士は飢え乏しい、設不能辦、無所容立。」逢紀曰く:「韓馥は庸才です、可密かに公孫瓚と要し(待ち伏せし)要、読みは曰く邀。使って冀州を取らせることにします、韓馥は必ずや駭懼するでしょうから、因って弁士を遣わして禍福を陳べることを為させれば、為、于偽翻。韓馥は迫られること倉卒に於いてでありますから、必ずや遜讓せんことを肯んずることでしょう。」袁紹は之を然りとし、即ち書を以って公孫瓚に与えた。公孫瓚は遂に兵を引きつれて而して至ると、外は董卓を討つことに託しながら而して陰では韓馥を襲わんことを謀った、韓馥はこれと戦ったが不利であった。董卓が入関するに会うと、袁紹は軍を延津に還した、続漢志では、酸棗県の北に延津が有るとしている。外甥であった陳留出身の高幹及び韓馥が親しくしている所であった潁川出身の辛評、荀諶、郭図等を使って韓馥に説かせて曰く:「公孫瓚は燕、代之卒を将いて勝ちに乗じて南にやって来ました、而して諸郡は之に応じ、其の(鋭)鋒には当たる可くもありません。袁車騎は軍を引きつれて東に向かい、河内から延津に至る、為に東に向かう。其の意は未だ量る可からざるものあります也、竊いますに将軍は之に危うきを為すでしょう!」韓馥は懼れて、曰く:「然則為之柰何?」荀諶曰く:「君は自ら仁容衆を料るに天下が附く所を為すのは、袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「危うきに望んで決を吐き、吐決とは吐奇決策を謂う也。智勇は人に過ぎること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」「世に恩徳を布き、天下の家で其の恵みを受けること、又袁氏と孰れか?」韓馥曰く:「如かず也。」荀諶曰く:「袁氏は一時之傑であり、将軍の資のうち三つが如かざる勢いでありますからには、久しく其の上に処すなら、処、昌呂翻。彼は必ずや将軍の下に為ろうとしないでしょう也。夫れ冀州は、天下之重資であります也、彼が若し公孫瓚と并力して之を取らんとするならば、危亡は立って而して待つ可きものでしょう也。夫れ袁氏は、将軍之旧であります、且つ同盟を為していますからには、謂同盟討董卓。当今之計として、若し冀州を挙げて以って袁氏に譲られたなら、彼は必ずや将軍に徳を厚くすることでしょう、公孫瓚も亦た之と爭うこと能わないでしょう矣。是こそ将軍が讓賢之名を有して、而して身は泰山に於けるように安んずることです也。」韓馥は性は恇怯であったため、因って其の計を然りとしてしまった。恇、去王翻。韓馥の長史である耿武、別駕の閔純、治中(従事)の李歴は聞くや而して諫めて曰く:考異に曰く:九州春秋は「耿彧」と作る、今は范書、魏志、袁紀に従う。又范書では、騎都尉の沮授が諫めたとあり、李歴が無い、今は魏志、袁紀に従う。「冀州は帯甲百万、穀は十年を支えます。袁紹は孤客窮軍しており、我が鼻息を仰ぎますこと、鼻息、気一出入之頃也。鼻気嘘之則温、吸之則寒、故云然。醫書云:血為脈、気為息、脈息之名自是而分。呼吸者、気之橐籥。動応者、血之波瀾。其経以身寸度之、計十六丈二尺。一呼脈再動、一吸脈再動、呼吸定息脈五動、閏以大息則六動。一動一寸、故一息脈行六寸、十息六尺、百息六丈、二百息十二丈、七十息四丈二尺。計二百七十息、漏水下二刻尽十六丈二尺、営周一身。百刻之中得五十営。故曰脈行陽二十五度、行陰二十五度也。息者以呼吸定之、一日計一万三千五百息。呼吸進退既遲於脈、故一日一夜方行尽十六丈二尺経絡、而気周於一身、大会於風府。脈属陰、陰行速、猶太陰一月一周天。息属陽、陽行遲、猶太陽一歲一周天。如是則応天常度。「閏」、当作「間」。譬えるなら股掌之上に在る嬰兒の如きもの、其の哺乳を絶てば、餓え殺す可くも立てられましょう、柰<あなた>は何でまた州を以って之を与えようと欲するのです!」韓馥曰く:「吾は袁氏の故吏である、且つ才は本初に如かず、徳を度<はか>って而して讓るのは、度、徒洛翻。古人が貴ぶ所だ、諸君は独り何で(気に)病むのだ焉!」是に先んじて、韓馥の従事である趙浮、程渙は強弩万張を将いて孟津に駐屯していたが、先、悉薦翻。将、即亮翻。之を聞くや、兵を率いて馳せて還ってきた。時に袁紹は朝歌の清水に在ったが、水経に拠ると、清水は河内の脩武県を出て、獲嘉、汲県を巡って而して河に(于)入るもので、朝歌には至らない。惟だ淇水が則ち朝歌を巡るだけである耳。蓋し俗に亦た淇水を清水と為して呼ぶのであろう。九州春秋に拠れば、袁紹は時に朝歌の清水口に在った、趙浮等は孟津から東に下って、則ち両軍は皆大河を舟行して而して鄴に向かった也。清水口は即ち淇口である、南岸が即ち延津である。趙浮等は後に従って来た、船は数百艘、衆は万余人、兵を整え鼓して、夜に袁紹の営を過ぎたため、袁紹は甚だ之を惡んだ。惡、烏路翻。趙浮等は到ると、韓馥に謂いて曰く:「袁本初の軍には斗糧が無く、各々は已に離散しはじめております、張楊、於扶羅が新たに附いたと雖も、未だ肯用を為すこと肯えず、敵するに足りません也。小従事等(わたしたち従事ら)は請いますのは以って兵を見えて之を拒ましめんことです、見、賢遍翻。旬日之間には、必ずや(袁紹の軍は)土崩瓦解することでしょう。明将軍には但だ当に閤を開き枕を高くしておくだけです、枕、職任翻。何をか憂い何をか懼れるのです!」韓馥は又聴きいれなかった、乃ち避位すると、出て中常侍の趙忠の故舍に居し、子を遣わして印綬を送ると以って袁紹に讓った。袁紹が将に至らんとしたとき、従事十人が爭って韓馥を棄てると去ろうとしたが、独り耿武、閔純のみが刀を杖にして之を拒んで、禁ずること能わなかったため、乃ち止めた。袁紹は皆之を殺した。袁紹は遂に冀州牧を領すると、承制して韓馥を以って奮威将軍と為したが、而しながら将御する所無く、将、即亮翻。将御、猶言統御也。亦た官属も無かった。袁紹は広平出身の沮授を以って奮武将軍と為すと、広平県属鉅鹿郡。沮、千余翻、又音諸、姓也、黃帝史官沮誦之後。使って諸将を監護させ、寵遇すること甚だ厚かった。監、古銜翻。魏郡出身の審配、鉅鹿出身の田豊は並んで以って正直であったため不得志於韓馥に於いて、袁紹は田豊を以って別駕と為し、審配を治中と為し、及んで南陽出身の許攸、逢紀、潁川出身の荀諶を皆謀主と為した。袁紹は河内出身の朱漢を以って都官従事と為した。袁紹が都官従事を置いたのは、則ち猶も司隸校尉を領していたからである也。(ニセクロ注:後漢書百官志に拠ると都官従事と名づけられた従事はただ司隸校尉のみが置く従事職である。そのためこの注がある)朱漢は先に韓馥が(自分に)為した所が不礼であったため、且つ袁紹の意に徼迎せんと欲し、徼、一遙翻。兵を発して韓馥の第を囲守すると、拔刃して屋に登った、韓馥は走って樓に上った、上、時掌翻。(朱漢は)韓馥の大兒を収め得ると、その両脚を槌でうち折った。折、而設翻。袁紹は立って朱漢を収めると、之を殺した。(しかし)韓馥は猶も憂怖していたため、従って袁紹のところから索去し、怖、普布翻。索、山客翻。往きて張邈に依った。後に袁紹が使いを遣わして張邈に詣でさせてきたが、計議する所有って、張邈と耳語した。耳語、附耳而語也。韓馥は坐上に在ったが、坐、徂臥翻。謂為見図、何も無かったのだが、起って溷に至ると、書刀を以って自殺した。溷、戸困翻。圊とは也、廁のことである也。時に雖已に紙が有ったと雖も、猶も多くは刀筆を用いて書した、故に書刀を有していたのである。鮑信は曹操に謂いて曰く:「袁紹は盟主と為ったが、権に因って利を專らにし、将に自ら乱を生んでいる、是は復た一つ董卓があるということだ也。復、扶又翻。若し之を抑えんとしても、則ち力は制すること能わず、祗したとして以って遘難することだろう。遘、与構同。難、乃旦翻。且つは大河之南に規って以って其の変を待つ可きだ。」曹操は之にった。黒山、于毒、白繞、眭固等十余万が東郡を衆略するに会うと、王肱は禦ぐこと能わなかった。曹操は兵を引きつれて東郡に入ると、白繞を濮陽に於いて撃ち、之を破った。眭、息為翻。濮、博木翻。袁紹は因って曹操を上表して東郡太守と為すと、東武陽を治めさせた。東武陽県は、東郡に属する。応劭は曰く:県は武水之陽に在る。水経註に曰く:武水は即ち漯水である。賢曰く:故城が今の魏州莘県の南に在る。守、式又翻。 9.南単于が張楊を劫して以って袁紹に叛き、黎陽に於いて駐屯した。董卓は張楊を以って建義将軍、河内太守と為した。 10.太史が望気して、当に大臣で戮死する者が有るべしと言ったため。董卓は人を使って衛尉の張温が袁術に与して交わり通じていると誣させた、冬、十月、壬戌、市に於いて張温を笞殺し以って之に応じさせた。張温は西征之時に於いて董卓を斬ること能わずして、反って董卓の手に於いて死すことになった、哀れむ可きかな也巳。 11.青州黄巾が勃海を寇した、衆三十万は、黒山と合わさろうと欲した。公孫瓚は歩騎二万人を率いて東光の南に於いて逆撃し、之を大破した、斬首すること三万余級であった。賊は其の輜重を棄てて、重、直用翻。奔走して河を渡った。公孫瓚は其の半ばが之を済薄したことに因って、賊は復た大いに破られた、死者は数万、流れた血で水が丹となり、言水為之丹也。収め得た生口は七万余人、車甲財物は勝算す可からざるものがあり、威名は大いに震わされた。 12.劉虞の子の劉和は侍中と為っており、帝は東帰せんことを思うと、劉和を使って偽わって董卓から逃し、潛かに武関を出して劉虞に詣でさせ、兵を将いて來迎するよう令した。考異に曰く:范書の劉虞伝では、「劉虞は田疇を使って長安に使いさせた、時に劉和は侍中と為ると、因って遣わして武関に従い出させた。」魏志の公孫瓚伝を按ずるに、但だ天子が帰ろうと思ったと云っているだけで、因って田疇が至ったとは云っていない也。若爾、当に劉和に田疇と倶に還るよう令したのだとしたら、武関を出るのに応じなかったであろう。又田疇は未だ還っていないうちに、劉虞は已に死んでいたのである。劉虞が死んだのは初平四年冬に在った、界橋の戦は三年春に在った。范書は誤っている也。劉和は南陽に至ると、袁術は劉虞に利して援けと為そうとし、劉和を留めて遣わさず、兵を(あつめて)倶に西に至らんことを許し、劉和に書を為して劉虞に与えるよう令した。劉虞は書を得ると、数千騎を遣わして劉和に詣でさせた。公孫瓚は袁術に異志有ることを知っていたため、之を止めようとしたが、劉虞は聴きいれなかった。公孫瓚は袁術が聞いて而して之を怨みはしないかと恐れ、亦た其の従弟である公孫越に千騎を将いさせて遣わし袁術に詣でさせた、下同。而して陰ながら袁術に劉和を執らえて、其の兵を奪うよう教えた、是ゆえに劉虞、公孫瓚は有隙(関係が冷却することとなった)。劉虞は先に公孫瓚と有隙(関係が冷却しており)、是に至って而して隙は愈深(益々深まることになったのである)。劉和は袁術から逃れて北に来ると、復た袁紹の為に留められる所となった。是時関東の州、郡は務相兼并以自強大、袁紹、袁術も亦た自ら離貳した。袁術は孫堅を遣わして董卓を撃たせたが未だ返らなかったうちに、袁紹は会稽出身の周昂を以って豫州刺史と為し、孫堅の(いた)陽城を襲って奪った。陽城県は、潁川郡に属する。孫堅は豫州刺史を領して、陽城に駐屯した。孫堅は歎じて曰く:「同じく義兵を挙げたのは、将に社稷を救わんとしてのことであったのに、逆賊が垂破するや而して各々が此の若きこととなってしまった、吾は当に誰と戮力すべきなのか乎!」兵を引きつれて周昂を撃つと、之を走らせた。袁術は公孫越を遣わして孫堅をが周昂を攻めるのを助けさせたところ、公孫越が流矢の中る所と為って死んでしまった。中、竹仲翻。公孫瓚は怒って曰く:「余の弟が死んだのは禍が袁紹に於いて起ったからだ。」遂に出軍して磐河に駐屯した、上書して袁紹の罪惡を数えあげ、数、所具翻。兵を進めて袁紹を攻めた。冀州の諸城の多くが袁紹に叛いて公孫瓚に従った、袁紹は懼れて、以って佩びていた所の勃海太守の印綬を公孫瓚の従弟の公孫範に授けると、之を郡に遣わしたが、而しながら公孫範は遂に袁紹に背いて、勃海の兵を領すると以って公孫瓚を助けた。背、蒲妹翻。公孫瓚は乃ち自ら其の将帥の厳綱を署して冀州刺史と為し、田楷を青州刺史と為し、単経を兗州刺史と為すと、単、音、姓也。姓譜:周卿士単襄公之後。又郡、県守、令の悉くを改めて置いた。初め、涿郡出身の劉備は、中山靖王之後であった也、蜀書が云うには:劉備は、中山靖王である劉勝の子であった陸城亭侯である劉貞之後である。然るに祖父以上から、世系は攷す可からざるものであった。少なきより孤りで貧しく、母と以って履を販売して業を為した、少、詩照翻。身長は七尺五寸、手を垂らすと膝の下にき、自らを顧みると其の耳を見ることができた。言其有異相也。大志を有して、語言は少なく、喜びあるいは怒っても色に於いて形とならなかった。少、詩沼翻。嘗て公孫瓚と盧植に同じく師事した、是ゆえに往きて公孫瓚に依ったのである。公孫瓚は劉備を使って田楷に与させたところ青州を徇するのに功が有ったため、因って以って平原相と為した。劉備は少なきより河東出身の関羽、涿郡出身の張飛と相友となり。少、詩照翻。関羽、張飛を以って別部司馬と為すと、部曲を分けて統めさせた。劉備と二人は寝るにも則ち(寝室)を同じくし、恩は兄弟の若きであり、而して稠人広坐、坐、徂臥翻。終日にわたり侍立して、劉備に随って周旋し、艱險を避けなかった。常山出身の趙雲が本郡の吏兵を将いて公孫瓚に詣でた、為、于偽翻。将、即亮翻。公孫瓚曰く:「聞くと貴州の人は皆袁氏を願っているとのことだが、願下当有従字。君は何でまた独り迷って而して能く反してきたのかね乎?」趙雲は曰く:「天下は、、許容翻。衆語喧嘵之貌。未だ孰れか是なるかを知りません、民に倒県之厄が有ったため、鄙州は論議しまして、仁政が在る所に従うことにしたわけで、不為忽袁公、私明将軍也。」為、劉備は見えると而して之を奇とし、深く接納を加えたため、趙雲は遂に劉備に従って平原に至ると、劉備の為に騎兵を主<つかさど>った。劉備の事は此に始まる。 13.かつて、袁術が南陽を得るや、戸口は数百万であった、而しながら袁術は奢淫肆欲して、徴斂すること度無く、斂、力贍翻。百姓は之に苦しんで、稍稍として離散していった。既に袁紹とのあいだに隙が有り(関係が冷却しており)、各々が党援を立てて以って相謀を図った。袁術は公孫瓚と結び而して袁紹は劉表と連なり、豪傑の多くが附くこと袁紹に於いてであった。(その様子に)袁術は怒って曰く:「豎不吾従而従吾家奴乎!」袁山松書に拠ると、袁紹は、司空であった袁逢の子であり、出て伯父である袁成の後となった、故に袁術は然るように云ったのである。又公孫瓚と書して曰く:「袁紹は袁氏の子に非ず。」袁紹は聞くと大怒した。袁術は孫堅を使って劉表を撃たせ、劉表は其の将である黄祖を遣わして樊、鄧之間に於いて逆戦させた、鄧県は、南陽郡に属した。樊城は、周の仲山甫之邑である、漢水の北に在る。杜佑は曰く:樊城は、今の襄州安養県である。劉曰く:鄧城県は、漢之鄧県であり、古の樊城である也:宋は改めて安養県とした。天寶元年に改めて臨漢県と為した。貞元二十一年に県を古の鄧城に移して、乃ち改めて鄧城県と為したのである。孫堅は之を撃破して、遂に襄陽を囲んだ。劉表は夜に黄祖を遣わして潛めて兵を出発させ、黄祖は兵を将いて還らんと欲して、孫堅は逆にこれと戦って、黄祖は、竄峴山中に敗走した。峴山去襄陽十里。孫堅は勝ちに乗じて、夜に黄祖を追ったところ、黄祖の部曲の兵が竹木の間に従って孫堅を暗射して、之を殺した。孫堅が孝廉に挙げた所の長沙出身の桓階が劉表に詣でて孫堅の喪を請うたところ、劉表は義として而して之を許した。孫堅の兄の子であった孫賁が其の士(を率いて袁術に就き、袁術は復た孫賁を(上)表して豫州刺史と為した。袁術は是ゆえに劉表に勝つこと能わなかったのである。 14.かつて、董卓が入関すると、朱を留めて雒陽を守らせていた、而して朱は潜かに山東諸将と通謀し、董卓に襲われる所と為ることを懼れ、荊州に出奔した。董卓は弘農出身の楊懿を以って河南尹と為したところ。朱が復た兵を引きつれて雒に還ると、楊懿を撃ち、之を走らせた。朱は河南が殘破していて資する所無いことを以って、乃ち東して中牟に駐屯すると、書を州郡に移して、董卓を討つ帥を請うた。徐州刺史の陶謙が朱のことを行車騎将軍に上(表)して、上、時掌翻。精兵三千を遣わして之を助けさせ、余りの(他の)州郡も亦た給する所有った。陶謙は、丹陽の人である。丹陽県は、丹陽郡に属する、今の潤州県である。朝廷は以って黄巾が徐州を寇乱したため、陶謙を用いて刺史と為したのである。陶謙は至るや、黄巾を撃って、大いに破って之を走らせたため、州境は晏然となったのである。 15.劉焉は益州に在って陰ながら異計を図った。沛の人である張魯は、祖父の張陵以来より世に五斗米道を為しており、張陵が即ち今で謂う所の天師というものである也。後魏寇謙之祖其道。蜀にて客居していた。張魯の母は鬼道を以ってして常に劉焉の家を往来しており、劉焉は乃ち張魯を以って督義司馬と為し、洪氏隸釋に曰く:劉焉は蜀に在って、督義司馬、助義、褒義校尉を創置した。劉表は荊州に在って、亦た綏民校尉を置いた。漢が衰えるや、諸侯は命して、率意して各々が官属を置いたのである。張脩を以って別部司馬と為すと、これと兵を合わせて漢中太守の蘇固を掩殺して、斜谷閣を断絶し、斜谷は、漢中の西北に在る、今は興元府の西北から斜谷路に入る、鳳州界に至ること百五十里、棧閣は二千九百八十九間を有し、板閣は二千八百九十二間である。郡国志に曰く:褒城県の北に褒谷が有り、北口が曰く斜で、南口が曰く褒である、長さは四百七十里、同じ一つの谷を為している。両山は高く峻しく、中間の谷道は、褒水が流れる所で、曹操は斜谷道は五百里の石穴を為したものであるというのは此であったかと謂っている也。余りは班志に拠るが、斜水は衙嶺山から出て、北は郿に至って渭(水)に入る。褒水も亦た衙嶺を出て、南は南鄭に至って沔(水)に入る、則ち褒、斜は同じ一つの谷を為すと雖も、而しながら衙嶺で乃ち其の水を分けている処なのである也。漢の使いを殺害した。劉焉は上書して言うに「米賊が道を絶ったため、復た通じるを得ません」。又他事に託して州中の豪強である王咸、李権等十余人を殺害し、以って威刑を立てた。犍為太守の任岐及び校尉の賈龍は此ゆえに兵を起こして劉焉を攻めたが、劉焉は任岐、賈龍を撃殺した。劉焉の意は漸いに盛んとなり、乗輿車具千余乗を作るようになったため、劉表は「劉焉は子夏に似て西河に在って聖人を疑うこと有る」之論を上(表)した。礼記弓:曾子責子夏曰:吾与子事夫子於洙、泗之間、退帰老於西河之上、使西河之人疑汝於夫子、而罪一也。表蓋言焉在蜀僭擬、使蜀人疑為天子也。上、時掌翻。時に劉焉の子の劉範が左中郎将と為っており、劉誕は治書御史と為っており、続漢志に曰く:治書侍御史は二人、秩六百石である、法律に明らかな者を掌選して之に為す。凡そ天下の諸讞疑事は、掌るに法律を以ってして其の是非に当たらせる。蔡質曰く:御史を高第から選んで之を補う。胡広曰く:宣帝が宣室に御幸したおり、斉居して而して決事したが、御史二人に治書するよう令した、治書御史とは此れに起こるのである。劉璋は奉車都尉と為っていて、皆帝に従って長安に在った、惟だ小子で別部司馬の劉瑁だけが素より劉焉に随っていたのである。帝は劉璋を使って劉焉を曉喩させようとしたが、劉焉は劉璋を留めると遣わさなかった。 16.公孫度の威は海外にまで行われ、中国の人士で乱を避けてきた者の多くが之に帰すことになった、北海出身の管寧、邴原、王烈は皆往くと依ったのである焉。管寧は少なき時に華歆と友と為っていた、嘗て華歆と共に菜を鋤して、地に金が有るのを見た、管寧は揮鋤して顧りみず、瓦石(を見るの)と異ならなかった、華歆は捉えて而して之を擲った、人は是を以って其の優劣を知ったのである。邴原は遠くに遊学に行き、八九年して而して帰った、師友は以って邴原が飲酒しないため、米肉をして之を送ることに会った。邴原曰く:「本より能く飲酒するのですが、但だ以って思を荒ませ業を廃れさせるため、故に之を断っていただけです耳。今当に遠く別れるにあたるわけですから、一つ飲燕するも可でしょう。」是に於いて共に坐して飲酒したが、終日しても醉わなかった。管寧、邴原は倶に操尚を以って称えられた、公孫度は館を虚しくして以って之を候した。管寧は既に公孫度に見えると、乃ち山谷に於いて廬をむすんだが、時に難を避けてくる者の多くが郡の南に居した、而しながら管寧は独り北に居し、還る志が無いことを示した、後に漸いに來て之に従った、旬月して而して邑が成った。管寧は公孫度に見える毎に、語るのは唯だ経典のみで、世事には及ばなかった。山に還ると、詩、書を講じることを専らにし、習俎豆、非学者無見也。是ゆえに公孫度は其の賢に安んじ、民は其の徳に化した。邴原は性は剛直で、清議するに以って格物したため、格、正也。公孫度は以って下心あったため之に不安となった。管寧は邴原に謂いて曰く:「潛む龍は以って徳が成るのに見えないとか。乾:初九、潛龍勿用。孔子曰:君子以成徳為行、潛之為言也、隱而未見、行而未成、是以君子弗用。言いたいのは其の時に非ざれば、皆禍い之道を招いてしまうということだ也。」密かに邴原を遣わして逃がし帰らせた、公孫度は之を聞くと、亦た復して追わせなかった也。王烈の器業は人に過ぎ、少なき時に名は聞こえること邴原、管寧之右に在った。名声所至曰聞。於教誘、郷里に牛を盗んだ者が有り、主が之を得ると、盗(人)は罪を請うて、曰く:「刑戮是れ甘きゆえ、王彦方には知らせ使めないよう乞う也!」とした王烈は、字を彦方という。王烈は聞くと而して人を使って之に謝させると、布一端を遣わした。布帛六丈を曰く端という、一に曰く八丈が曰く端であると。按ずるに古には二丈を以って端と為した。遺、于貴翻。或るひとが其の故を問うと、王烈曰く:「盗(人)は吾が其の過ちを聞くことを懼れた、是は惡を恥じるという心が有るからだ、既に惡を恥じるのを知ったのだから、則ち心が将に生じたことだろう、故に布を与えて以ってを為さんとするのを勧めたのだ也。」後に路に於いて剣を遺した(そのままにしてしまった)老父が有って、行道一人見而守之(その盗人であった男は道を一人で行っていたため落ちている剣(剣が遺されたままなの)を見ると而して、之を(誰かがもっていかないように)守った)、暮れるに至って、老父は(用事を終えて)還ってくると、尋ねて(剣を遺したままであったことに気づいて尋ねまわり)劍を得たが、之を(男がずっと道で遺されていた剣を守っていたことを)怪しみ、事を以って王烈に告げた、王烈が使って推し求めさせたところ、推、尋也。乃ち先に牛を盗んだことがあった者であった也。諸(様々な人で)訟の曲直を争うこと有る人は将に之を王烈に於いて質そうとしていたが(このことが広まると)、質、正也。或るひとは塗に至って而して反り、或るひとは廬を望んで而して還り、皆相推すに直を以ってして、推は、移である也。前書の韓延寿伝に、以って田を相移したとある。即ち此の義(意義)である也。敢えて王烈に之を(自分たちの訴訟のことを)聞かせ使もうとはしなかった。公孫度は以って長史と為そうと欲したが、王烈は之を辞すと、商賈と為って(商売を為すと)以って自らを穢し、乃ち免れたのである。 三年(壬申、一九二) 1.春、正月、丁丑、天下に(大)赦した。 2.董卓は牛輔を遣わし兵を将いさせて陝に駐屯させた、牛輔は校尉である北地出身の李傕、張掖出身の郭汜、武威出身の張済に歩騎数万を将いさせて分遣すると中牟に於いて朱儁を撃破し、傕、古岳翻。汜、音祀、又孚梵翻。因って陳留、潁川諸県を掠し(略奪し)、過ぎる所で殺虜をおこない遺されたものなど無かった。初、荀淑には孫が有った曰く(名を)彧といい、少なくして才名を有した、少、詩照翻。何顒は見えるや而して之を異として、曰く:「王佐才である也!」天下が乱れるに及び、荀彧は父老に謂いて曰く:「潁川は四戦之地です、言其地平、四面受敵。宜しく之を亟避されんことを。」郷人は多くが土(郷里の地)を懐かしんで去ること能わなかったため、荀彧は独りで宗族を率いて去ると韓馥に依ることにした。袁紹が已に韓馥の位を奪う事態に会うと、荀彧を待するに上賓之礼を以ってしたのである。しかし荀彧は袁紹を度<はか>ってみて終に大業を定めること能わないとし、度、徒洛翻。また曹操には雄略が有ると聞いたため、乃ち袁紹のところを去って曹操に従った。曹操はかれと語ると、大いに悦び、曰く:「吾が子房だ也!」といい之を張良に比したのである。以って奮武司馬と為した。曹操は初めて兵を起こすと奮武将軍と為った、故に荀彧を以って奮武司馬と為したのである。其の郷人で留まった者は、多くが李傕、郭汜等に殺される所と為った。 3.袁紹は自ら出ると公孫瓚を拒み、公孫瓚と界橋南二十里に於いて戦った。水経では:大河が瀆に右して東北へむかい鉅鹿郡広宗県の故城の南を巡る、又東北へむかい界城亭の北を巡る、又東北へむかい信都郡武強県故城の東を巡る。此が蓋し河瀆の上に於いて橋を作ったものだろう。註は又た云うに:清河の東北は界城亭の東を巡ると、水上に大梁が有る、之を界城橋と謂う。賢曰く:今の貝州宗城県の側には古の界城が有る、此の城は枯漳水に近く、界橋は当に此の水上に在ったのだろう。杜佑曰く:界橋は貝州宗城県の東に在る。公孫瓚の兵は三万、其の鋒は甚だ鋭かった。袁紹は麴義に令して精兵八百を領させると先ず登らせ、強弩千張が之を夾んで承った。公孫瓚は其の兵が少なかったため軽んじ、騎を縦にして之に騰った。麴義の兵は楯の下に伏して動かずにおり、未だ十数歩に至らずして、一時に同じく発し、讙呼は地を動かした、讙、許元翻。公孫瓚軍は大敗した。其(公孫瓚)の所置した冀州刺史の厳綱を斬り、考異に曰く:九州春秋は「劉綱」と作る。今は范書、魏志に従う。甲首千余級を獲た。追って界橋に至ると、公孫瓚は兵を斂して戦いに還ってきたが、麴義は復た之を破り、復、扶又翻。遂に公孫瓚の営に到って、其の牙門を抜くと、賢曰く:真人水鏡経に曰く:凡そ軍が出るに始まるや、必ず堅きを完うせんよう令するものだ。若し折れること有れば、将軍は不利となる。牙門旗の竿は、軍之精である也、即ち周礼の司職に云う「軍旅会同置旌門」というのが是である也。余りの衆は皆走ってしまった。初め、兗州刺史の劉岱と袁紹、公孫瓚は連和しており、袁紹は妻子に令して劉岱の所に居らせていた、公孫瓚も亦た従事の范方に騎を将いさせて遣わすと劉岱を助けた。及公孫瓚が袁紹軍を撃破するに及び、劉岱に語って袁紹の妻子を遣わすよう令し、語、牛倨翻。別に范方へ敕して:「若し劉岱が袁紹の家を遣わしてこないなら、騎を将いて還ってこい!吾は袁紹を定めてから、将に劉岱に於いて兵を加えん。」劉岱と官属は議したが、日を連ねても決まらなかった、東郡出身の程昱が智謀を有していると(劉岱は)聞いたため、召して而して之(について)を問うた。程昱曰く:「若し袁紹という近い援けを棄てて而して公孫瓚という遠い助けを求めるなら、此は越に於いて人を仮りて以って溺れた子を救わんとする説でしょうな也。言勢不能相及也。越人習水、故以為能救溺。溺、奴歷翻。夫れ公孫瓚は袁紹之敵に非ず也、今は袁紹軍を壊したと雖も、壞、音怪。然るに終には袁紹が禽える所と為るでしょうな。」劉岱は之に従った。范方は其の騎を将いて帰ったが、未だ至らずして而して公孫瓚は敗れた。 4.曹操は頓丘に軍すると、頓丘県は、東郡に属した。師古曰く:丘名を以って県とした也。丘一成為頓丘、謂うに一頓にして而して成ったからだという也。或いは曰く:成は、重である也、一重之丘ということである也。于毒等は東武陽を攻めた。曹操は兵を引きつれて西して入山し、于毒等の本屯を攻めた。于毒等は時に魏郡を掠しており、西山にて駐屯していた。諸将は皆武陽を救わんことを請うた。曹操は曰く:「使って賊に我が西していると聞かせよう而して(賊が)還ったなら、武陽(の囲み)は自ずと解けよう也。(賊が)還らなければ、我能敗其本屯、虜不能拔武陽必矣。」とすると敗、蒲邁翻。遂に行った。于毒は之を聞くと、武陽を棄てて還った。曹操は遂に眭固及び匈奴の於扶羅を内黄に於いて撃つと、内黄県は魏郡に属す。陳留に外黄が有る、故に「内」を加えるのである。皆之を大破した。 5.董卓は其の弟の董旻を以って左将軍と為し、兄の子の董璜を中軍校尉と為すと、皆兵事を典じさせた、宗族の内外は並んで朝廷に列した。董卓に侍る妾が懷抱している中子は皆封侯され、以って金紫を玩んだ。董卓の車服は天子のそれに僭擬し、三台をも召し呼び、三台は:尚書台、御史台、符節台のことである也。晉書に曰く:漢官では:尚書が中台を為し、御史が憲台を為し、謁者が外台を為した、是が謂うところの三台である。尚書以下は皆自ら董卓の府を詣でて啓事した。又郿に於いて塢を築いた、英雄記に曰く:郿は長安を去ること二百六十里。漢書では、郿の、音は媚で、地名である。高さ厚さは皆七丈、穀を積んで三十年の儲えを為し、自ら云うには:「事が成らば、天下に雄拠せん。成らずば、此を守れば以って畢老するに足る。」董卓忍於誅殺、諸将が言い語るに蹉跌する者有れば、蹉、倉何翻。跌、徒結翻。便じて前に於いて戮させたため、人は聊生しなくなった。司徒の王允は司隸校尉の黄琬、僕射の士孫瑞、尚書の楊瓚と董卓を誅することを密謀した。中郎将の呂布は、弓馬を便じ、膂力は人に過ぎた、膂、脊骨也。董卓は自ずと以って人を遇するのに無礼となり、行止は(行動するのに)常以布自、甚だ之を愛信して、誓いをして父子と為った。然るに董卓の性は剛褊であったため、嘗つて卓の意を小失すると、董卓は手戟を抜いて呂布に擲った、手戟は、小さな戟で、便於撃刺者。呂布は拳で捷して(素早く祓って)、勇力為拳、迅疾為捷。之を避け、而して容を改めて顧謝したため、董卓の意は亦た解けた。呂布は是ゆえに陰ながら董卓を<於>怨むことになった。董卓は又呂布に中閣を守ら使めたところ、而して(呂布はその)傅婢を<於>私したため、益すます自ずと安んじなくなった。王允は素より呂布を待していたため、呂布は王允に見えると、自陳卓幾見殺之状(董卓に幾ばくもなく殺される状態になっていると自ら陳べたため)、幾、居希翻。王允は因って以って誅卓之謀(董卓を誅さんとする謀のこと)を呂布に告げ、使って内応を為させようとした。呂布曰く:「父子の如ければ何ぞ(そんなことを)できようか?」(王允)曰く:「君自らの姓は呂であって、本より骨肉に非ず。今や死を憂いて暇さない(休まる時が無い)でいるのに、何ぞまた父子と謂うのか?(董卓が)戟を擲った時には、豈に(何処に)父子の情が有っただろうか邪!」というと呂布は遂に之を許した(内応することを約束した)。夏、四月、丁巳、帝は疾が新愈すること有ったため、未央殿で大会することになった。蕫卓は朝服で乘車して而して入った、魏の祕書監である秦靜は曰く:漢氏は秦が改めた六冕之制を承り、朝服には玄冠、絳衣を倶<とも>にする而已<のみ>とした。晉名では曰く五時の朝服という。四時の朝服というのが有り、又朝服というのが有る。陳兵が夾道して、営自<よ>り宮に至り、左は歩(兵)右は騎(兵)で、に駐屯して周した、、作答翻。令呂布等扞前後。王允は士孫瑞を使って自ら詔を書くと以って呂布に授けさせ、尚書僕射に自ら詔を書かせ使むのは、其が泄れることを懼れたからである也。呂布は同郡出身で騎都尉の李肅に令し考異に曰く:袁紀では「李順」と作る、今は范書、魏志に従う。勇士の秦誼、陳等十余人と偽って士の服を著わし(着用し)、著、陟略翻。北掖門内を守りながら以って蕫卓を待った。蕫卓が入門すると、李肅は戟を以って之を刺した。刺、七亦翻。下同。蕫卓は衷甲していたため、(戟の刃は)入らず、衷甲とは、内に於いて甲を被ったうえで、而して衣を甲の上に加える(重ね着する)ことをいったのである。臂を傷つけられて、車から墮ちた、顧みて大いに呼んで曰く:呼、火故翻。「呂布よいずこに在るか!」呂布曰く:「詔が有る賊臣を討てとさ!」蕫卓は大いに罵って曰く:「庸狗めが、敢えて是の如きまねをするのか邪!」呂布は(その)声に応えて矛を持って蕫卓を刺し、兵を趣かせて之を斬った。趣、読曰促。主簿の田儀及び蕫卓の倉頭が前にでて其の尸に赴いたため、呂布は又之を殺した、凡そ殺した所は三人であった。呂布は即ち懷中の詔版を出すと以って吏士に令して曰く:「詔は蕫卓を討てというだけだ耳、余りについては皆問わない。」吏士は皆正立して動かず、大いに万歳を称えた。百姓は道に於いて歌い舞い、長安中が士女で其の珠玉や衣装を売って酒肉を市し相慶びあう者たちで、填は満ち街じゅうで肆された。弟の蕫旻、蕫璜等及び宗族の老弱なもので郿に在ったものは、皆其の下に斫射する所と為って死んだ。射、而亦翻。蕫卓の尸が市に於いて曝された、暴、薄木翻、又薄報翻。天の時<季節>は熱くなり始めており、蕫卓は素より充分肥えていたため、脂が地に於いて流れた、尸を守っていた吏が大いに炷を為すと、炷、燈也、燼所著者。蕫卓の臍の中に之を然りとして置いた、光明は曙に達し、是の如きにして日を積んだ。諸々袁(家の)門生が董氏之尸<しかばね>を聚めて、焚いて灰にすると之を路に於いて揚げてしまった(ばらまいてしまった)。塢中に有ったのは金二三万斤、銀八九万斤、錦綺奇玩は積むと丘山の如しであった。王允を以って録尚書事とし、呂布は奮威将軍と為り、仮節をえて、儀は三司に比すこととなり、奮威将軍は始めは漢の元帝に於いて用任千秋為之。沈約曰く:呂布が奮武将軍と為り、儀は三司に比した、とあるのは儀同三司の猶しということである也。温侯に封じられ、温県は、河内郡に属す、周の大夫である蘇忿が生まれた邑である。共に朝政を秉すことになった。朝、直遙翻。董卓が死すや也、左中郎将で高陽侯の蔡邕は王允の坐に在ったが、高陽県は、涿郡に属する。又陳留の圉県には高陽亭が有る。坐、徂臥翻。之を聞いて驚き歎じた。王允は勃然として、之を叱して曰く:「董卓は国の大賊であって、漢室を幾亡させんとしたのだ、幾、居希翻。君は王臣と為っているのだから、疾を同じくするを宜う所であるというのに、而して其の私遇を懐かしみ、反って相傷痛した、豈に(董卓と)共に逆しまを為していないなどとできようか哉!」即ち収めて廷尉に付けた。蔡邕は謝して曰く:「身は不忠と雖も、古今の大義について、耳は厭聞とする所です、口は常に玩ぶ所のものですから、豈に当に国に背いて而して董卓を嚮したといえましょうか也!背、蒲妹翻。願わくば黥首刖足にとどめられんことを、漢史を継ぎ成したいのです。」初め、蔡邕は朔方に徙されると、徒中から上書して、続漢書諸志を乞うた、蓋し其の学ぶ所志す所とは此に在ったのである。士大夫の多くが之を矜救しようとしたが、得ること能わなかった。太尉の馬日磾は王允に謂いて曰く:「伯喈は曠世に逸才たるものです、蔡邕は、字を伯喈という。漢事について多くを識っておりまして、当に(漢の)後史を続成すれば、一代の大典と為るべきものでしょう。而しながら坐して徴に至った所で、之を誅するのなら、無乃失人望乎!」王允曰く:「昔武帝は司馬遷を殺さず、作ら使めたため謗書(誹謗の書)が後世に於いて流布することになった。賢曰く:凡そ史官が事を記すさい、惡は必ず書くものだ。司馬遷が記した所は但だ是れ漢家不之事については、皆謗りを為しただけである也、(それは)独り武帝之身を指すに非ず、即ち高祖が家令之言、武帝が算緡榷酤之類が是であると謂う也。班固は集に云う:史遷(史祖たる司馬遷は?)は書を著して一家之言を成したが、至っては以って身は刑に陥った。故に微文譏刺して、当世を貶損したのであり、義士に非ざることである也。今を方ずるに国祚は中衰しており(中途で衰えており)、中、竹仲翻。戎馬が郊に在るのだから、佞臣に筆を執るよう令す可きではない、(その佞臣が)幼主の左右に在って既に聖徳にとって益無いことになっているのだし、復た吾が党に其の訕議を蒙らせさせ使むことになる。」復、扶又翻。馬日磾は退くと而して人に告げて曰く:「王公は其れ後が無いだろう乎!人は、国之紀というもの也。制作は、国之典というもの也。紀を滅して典を廃するなど、其れ能く久しからんか乎!」蔡邕は遂に獄中で死んだ。初め、黄門侍郎の荀攸と尚書の鄭泰、侍中の种輯等は謀して曰く:「董卓は驕忍にして親無し、強兵を資していると雖も、その実は一匹夫であるのみ耳、直ちに刺殺するも可である也。」刺、七亦翻。考異に曰く:魏志は云う、「荀攸と何顒、伍瓊は謀を同じくした。」按ずるに何顒、伍瓊は死して已に久しい、恐らくは誤りであろう。事は垂就して而して(発)覚し、荀攸は収められて獄に繋がれ、鄭泰は袁術のところへ逃奔した。荀攸は言語飲食するに自若としており、董卓が死ぬのに会って、(危機から)免れるを得たのである。 6.青州黄巾が兗州を寇したため、(刺史の)劉岱は之を撃とうと欲した、済北相の鮑信は諫めて曰く:「今賊は衆百万であって、百姓は皆震え恐いており、士卒には志が無いようすです、敵す可きではありません也。然るに賊軍には輜重が無く、唯鈔略を以って資と為しているだけ、重、直用翻。今は士衆之力を蓄えるに若かず、先ず守りを固めんことを為しましょう。彼が戦わんと欲しても得られず、攻めんとして又能わざれば、其の勢いは必ずや離散しましょう、然る後に精鋭を選び、要害に拠って之を撃てば、破ることも可(能)です也。」劉岱は従わず、遂にこれと戦ったが、果たして殺される所と為った。曹操の部将であった東郡出身の陳宮は曹操に謂いて曰く:「州には今や主が無く、而して王命は断絶しています、わたくし宮は州中の綱紀を説かんことを請います、綱紀、即謂州別駕及治中諸従事也。説、輸芮翻。下同。明府には尋ね往きて之に(州に)牧たりてから、牧之、謂為州牧。之を資として以って天下を収めましょう、此が霸王之業というものです也。」宮は因って往くと別駕、治中を説いて曰く:「今天下は分裂しており而して州には主が無い。曹東郡は、命世之才です也、若し迎えて以って州に牧たりせば、必ずや生民を寧んじることでしょう。」鮑信等も亦た以って然りと為し、乃ち州吏の万潛等と東郡に至って、曹操を迎えて兗州刺史を領させた。曹操は遂に兵を進めて黄巾を寿張の東に於いて撃ったが、利がなかった。賊の衆は精悍であり、悍、下罕翻、又侯旰翻。曹操の兵は寡なく弱かったた、曹操は撫循激勵し、賞罰を明らかにして設けると、間を承して奇を設け、間、古莧翻。晝夜会戦した、戦っては輒ち禽獲あったため、賊は遂に退走した。鮑信は戦死し、曹操は其の喪を購い求めたが得られず、乃ち木を刻んで鮑信の状の如きとし、祭って而して哭した焉。京兆出身の金尚を以って兗州刺史と為し、将之に部(するもの)を将いらせるようにと詔あったが、曹操は之を逆撃したため、金尚は袁術のところに奔った。後に為すことだが建安二年に金尚は袁術に於いて屈しなかった張本。 7.五月、大赦があった。征西将軍の皇甫嵩を以って車騎将軍と為した。 8.かつて、呂布は王允に勧めて董卓の部曲を尽く殺そうとしたが、王允曰く:「此の輩には罪は無い、不可である。」としたため呂布は董卓の財物を以って公卿、将校に班賜したいと欲したが、王允は又従わなかった。王允は素より劍客を以って呂布を遇しており、呂布は其の功労を負っていたため、多く自ずと(董卓を)伐したことを誇ることになった、既に意望を失ったため、漸いに相平らかでなくなった。王允は性が剛稜であって惡を疾んでいた、余りで稜と謂うのは、方稜ということである也。剛稜というのは、猶も剛方なことを言う。初め董卓を懼れていたため、故に之が下に節を折ったのである。董卓が既に殲滅されてしまうと、自ずと復た難を患うことは無いと謂い、自ずと頗る驕傲となった、以是下不甚附之。王允は始め士孫瑞と議したとき、特に詔を下して董卓の部曲を赦すようにしてはどうかとなった、既に而して疑って曰く:「部曲は其の主に従っただけのこと耳。(主に従ったことを罪として)今若し之を惡逆と名づけてそのうえで而して之を赦すというのでは、恐らくは自ずと疑いを深くさせ使むに適ってしまうだろうから、以って之を安んずる所に非ざるものだ也。」として乃ち止めてしまった。又悉く其の軍を罷めるよう議したところ、或るひとが王允に説いて曰く:「涼州の人は素より袁氏を憚り而して関東を畏れていました、今若し一旦兵を解いて関を開けば、必ずや人人は自ずと危うくなることでしょう。皇甫義真どのを以って将軍と為して、其の衆を就領させ、因って陝に留まらせ使めて以って之を安撫させる可きです。」王允曰く:「然らず。関東で義兵を挙げたところの者たちは、皆吾が徒である也、今若し險を距って陝に駐屯すれば、涼州は安んじると雖も、而して関東之心を疑わせてしまう、不可である也。」陝、失冉翻。時に百姓が訛言して当に涼州人は悉く誅されてしまうとしたため、董卓の故の将校らは遂に轉じて相恐れ動き(動揺し)、皆兵を擁して自ら守り、更めて相謂いあって曰く:「蔡伯喈は但たんに董公が親しく厚くしたことを以って尚も従坐したのだ。今既に我曹を赦さず而して解兵せ使めんと欲している、今日兵を解いたなら、明日には当に復た魚肉と為るべきことだろう矣。」呂布は李肅を使って陝に至らせると、詔を以って牛輔を誅するよう命じた、牛輔等は逆らって李肅と戦い、李肅は敗れて、弘農に走ったため、呂布が之を誅殺した。牛輔は恇怯して守りを失い、営中にて故も無く自ら(勝手に)驚くに会った、牛輔は走らんと欲し、左右に殺される所と為った。李傕等は(陝に)還ってくると、傕等自陳留、潁川還也。牛輔は已に死んでしまっていた、李傕等は依る所も無く、使いを遣わして長安に詣でさせると赦しを求めた。王允曰く:「一歳に再赦するのは不可である。」として許さなかった。李傕等は益々懼れ、為す所も知らず、各々解散して、間行して郷里に帰ろうと欲したところ、間、古莧翻。討虜校尉で武威出身の賈詡が曰く:「諸君が若し軍を棄てて単行するなら、則ち一亭長でも能く君を束ねることだろう矣。長、知両翻。相率いて而して西するに如かず、以って長安を攻めて、董公の為に報仇せん、為、于偽翻。事が済んだなら、国家を奉じて以って天下を正そう。若し其が合わずば、不合とは、事が済まなかったことを謂う、本々の計とは合わなかったということである也。走ったとしても未だ晩(遅い)ということにはならないだろう也。」李傕等は之を然りとすると、乃ち相与して盟を結び、軍を率いること数千、晨夜(昼夜分かたず)西行した。王允は以って胡文才、楊整脩が皆涼州の大人であったことから、賢曰く:大人とは、大家豪右のことを謂う。又曰く:大人とは、長老之称で、之を尊んだ事を言う也。召すと使って東させ、之を解釋させようとしたが、温顔を以って仮借することもなく、謂いて曰く:「関東の鼠子は、何をか為さんと欲しているのだ邪?卿らは往きて之を呼びつけたまえ!」是に於いて二人は往くや、その実は兵を召して而して還ってくることになったのである。李傕は道に随って兵を収めてきたため、比して長安に至ると、比、必寐翻、及也。已に十余万となっており、董卓の故の部曲である樊稠、李蒙等と合わさって長安城を囲んだ、城は峻しく攻めるに不可であったため、之を守ること八日となった。考異に曰く:魏志は十日と云う、今は范書に従う。呂布軍に有った叟兵が内で反して、賢曰く:叟兵とは即ち蜀兵のことである也。漢代には蜀は叟と為したと謂う。六月、戊午、李傕の衆を引きこみ城に入れた、放たれた兵は虜掠した。呂布はこれらと城中で戦ったが、勝てず、数百騎を将いて以って董卓の頭を馬の鞍に繋ぐと出て走った、青瑣門の外で馬を駐めると、瓘曰く:青瑣とは、戸の辺が青鏤であったからである也。一に曰く:天子の門内は眉格再重を有す、裏は青畫するため曰く瑣である。王允を招いて同じくして去ろうとした。王允曰く:「若し社稷之靈を蒙ったなら、上は国家を安んじるのが、吾之願いであった也。其が獲られない如きなれば、則ち身を奉って以って之に死なん。朝廷は幼少であらせられ、朝廷とは、天子のことを謂う也。我を恃んでいる而已<のみ>である、難に臨んで茍免するのは、吾の忍ばぬところである也。難、乃旦翻。力に努めたまえ関東諸公に謝してくれ、勤んで以って国家の為に念じてくれと!」太常の种拂曰く:「国の為の大臣であるからには、不能禁暴禦侮、使白刃向宮、去将安之!」遂に戦って而して死んだ。李傕、郭汜は南宮掖門に駐屯し、太僕の魯馗、馗、音逵。大鴻臚の周奐、臚、陵如翻。城門校尉の崔烈、越騎校尉の王頎を殺し、頎、音祈。吏民で死んだ者は万余人となり、狼籍は道に満ちた。王允は帝を扶<たす>けて宣平門に上り兵を避けた、三輔黄図に曰く:長安城の東面にある北頭門は宣平門と号する。上、時掌翻。李傕等は城門に於いて下がって地に伏せて叩頭したため、帝は李傕等に謂いて曰く:「卿等は兵を放って縦横しているが、何をか為さんと欲しているのだ乎?」橫、戸孟翻。李傕等は曰く:「(われらが)董卓(さま)は陛下に於いて忠でありましたのに、而しながら故無く呂布に殺される所と為りました、臣等は董卓(さま)の為に報讎せんとしているのでして、為、于偽翻。敢えて逆しまを為そうとしているのではありません也。事が畢わったなら廷尉に詣でて罪を受けんことを請います。」李傕等は門樓を囲むと、共に(上)表して司徒の王允が出てくるように請い、「太師に何ぞ罪あったか?」と問うたため王允は窮蹙して、乃ち下りて之に見えた。己未、天下に赦すと、李傕を以って揚武将軍と為し、郭汜を揚烈将軍と為し、揚武将軍は建武之初めに於いて始まった、馬成が之に為った。揚烈将軍は蓋し是時に於いて始まったのだろう。樊稠等は皆中郎将と為った。李傕等は司隸校尉の黄琬を収めると、之を殺した【章:甲十一行本「殺」上有「下獄」二字。乙十一行本同。】。初め、王允は同郡出身の宋翼を以って左馮翊と為し、王宏を右扶風と為していた、王允は、太原の人である。李傕等は王允を殺したいと欲していたが、二郡が患いを為すことを恐れて、乃ち先ず宋翼、王宏を徴した。王宏は使いを遣わして宋翼に謂いて曰く:「郭汜、李傕は我ら二人が外に在ることを以って、故に未だ王公を危うくしないでいるのだ、危、謂殺也。今日徴に就いたなら、明日には倶に族(滅)されていよう、計将安出?」宋翼曰く:「禍福は量るに難いと雖も、量、音良。然るに王命である、避けるのは得られない所だ也!」王宏曰く:「関東では義兵で鼎が沸きたつようで、董卓を誅そうと欲していた、今や董卓は已に死んでおり、其党は与易制(制するに与し易い)耳。易、以豉翻。挙兵して共に李傕等を討つにあたり、山東に与して相応じるが若きならん、此が禍を転じて福を為す計というものだろう也。」宋翼が従わなかったため、王宏は独立すること能わず、遂に倶に徴に就いた。甲子、李傕は王允及び宋翼、王宏を収めると、之を并殺した。王允の妻子も皆死んだ。王宏は命に臨んで詬して曰く:詬、許候翻、又古候翻、怒って罵しること也。「宋翼は豎儒でしかなく、大計を議すに不足だった!」賢曰:豎者とは、賤劣にして僮豎が如きを言う。李傕は王允を市に於いて尸としたが、敢えて収めようとする者とて莫かったため、故吏で平陵令であった京兆出身の趙戩が官を棄てて(王允の尸を)収めると而して之を葬った。戩、子踐翻。始め、王允は自ら董卓を討ったという労を専らにし、士孫瑞はその功を(王允に)帰して侯としなかった、故に(士孫瑞は)難に於いて免れるを得たのである。難、乃旦翻。臣光(※この資治通鑑の著者である司馬光)は曰く:易は称える「労謙君子有終吉」と、易繫辞曰:労而不伐、有功而不徳、厚之至也。語以其功下人者也。徳言盛、礼言恭。謙也者、致恭以存其位者也。程頤註曰:有労而能謙、又須君子行之、有終則吉。夫楽高喜勝、人之常情。平時能謙、固已鮮矣、況有功労可尊乎!雖使知謙之、勉而為之、若矜負之心不忘、則不能常久、欲其有終不可得也。惟君子安履謙順、故久而不変、乃所謂有終則吉也。士孫瑞は功を有するも伐せられず、以って其の身を保った、可不謂之智乎(之を智と謂わない可きであろうか)! 9.李傕等は賈詡を以って左馮翊と為し、之を侯としようと欲したが、賈詡曰く:「此は救命之計です、何の功を有するのでしょう!」として固辞して受けなかった。又以って尚書僕射と為そうとしたが、賈詡曰く:「尚書僕射は、官之師長で、長、知両翻。天下が所望するもの、この賈詡の名は素より重くないのですから、以って人が服する所に非ざることでしょう也。」として乃ち以って尚書と為った。 10.呂布は武関自り南陽に奔ると、袁術は之を待遇すること甚だ厚かった。呂布は自ずと袁氏に於いて功を有することを恃むようになり、謂殺董卓為袁氏報仇也。兵を恣にして鈔掠した。鈔、楚交翻。袁術は之に患い、呂布は自ずと安んじなくなったため、去って河内に於いて張楊に従うことになった。李傕等は呂布を購い求めること急であったため、呂布は又逃げて袁紹のところに帰した。 11.丙子、前将軍の趙謙を以って司徒と為した。 12.秋、七月、庚子、太尉の馬日磾を以って太傅と為し、録尚書事とした。磾、丁奚翻。八月、車騎将軍の皇甫嵩を以って太尉と為した。 13.詔あって太傅の馬日磾、太僕の趙岐が杖節して関東を鎮撫することになった。 14.九月、李傕を以って車騎将軍、領司隸校尉、仮節と為した。郭汜は後将軍と為り、樊稠は右将軍と為り、張済は驃騎将軍と為り、皆侯に封じられた。驃、匹妙翻。李傕、郭汜、樊稠は朝政を筦することになり、筦、与管同。張済は(外に)出て弘農に駐屯することになった。 15.司徒の趙謙が罷めた。 16.甲申、司空の淳于嘉を以って司徒と為し、光祿大夫の楊彪は司空、録尚書事と為った。 17.かつて、董卓は入関すると、韓遂、馬騰を説いてかれらと共に山東を図ろうとし、説、輸芮翻。韓遂、馬騰は衆を率いて長安に詣でた。董卓が死ぬに会うと、李傕等は以って韓遂を鎮西将軍と為して、遣わすと金城に還させ。馬騰を征西将軍と為して、遺して郿に駐屯させた。晉書の職官志に曰く:四征は漢代に於いて起った、四鎮通於柔遠。 18.冬、十月、荊州刺史の劉表が使いを遣わしてきて貢獻してきた。そこで以って劉表を鎮南将軍荊州牧と為し、成武侯に封じた。成武県は、前漢では山陽郡に属しており、後漢では済陰郡に属している。 19.十二月、太尉の皇甫嵩が免じられ、光祿大夫の周忠を以って太尉と為すと、録尚書事に参じさせた。 20.曹操は黄巾を追って済北に至ると、之を悉く降し、済、子礼翻。降、戶江翻。戎卒三十余万、男女百余万口を得たため、其の精鋭である者を収めて、青州兵と号した。降る所の者は青州黄巾であった也、故に青州兵と号したのである。曹操は陳留出身の毛玠を辟招して治中従事と為したところ、毛玠は曹操に於いて言いて曰く:「今や天下は分崩しておい、乘輿は播蕩をうけ、生民は廃業してしまい、饑饉あって流亡し、公家には経歳之儲けが無く、百姓には安固之志が無く、以って持久するに難いものあります。夫れ兵が義なる者は勝ち、魏相が嘗て引いたのは是言である。位を守るには財を以ってするものです、易大伝に曰く:何をか以って人を聚めんか、曰く財である。何をか以って位を守らんか、曰く仁である。宜しく天子を奉じて以って臣ならざるに令し、脩め耕し植えることで以って軍資を蓄える、操之所以芟雄者、在迎天子都許、屯田積穀而巳。二事乃玠発其謀也。此の如きなれば、則ち霸王之業も成る可きことでしょう也。」曹操は其の言を納れると、使いを遣わして河内太守の張楊に詣でさせた、塗<みち>を仮してもらって西して長安に至ろうと欲したのである。張楊は聴きいれなかった。定陶出身の董昭は張楊に説いて曰く:説、輸芮翻。「袁、曹は一家を為すと雖も、勢いからして久しくすることないでしょう。曹は今は弱いと雖も、然るに実に天下之英雄というものです也、当に故して之と結ぶべきです。故というのは、結交之因ということである也、事に因って而して之と結ぶことを謂う。況んや今や縁が有るわけですから、宜しく其の上事を通じさせ、上、時掌翻。下同。并表して之を薦めておきましょう、若し事が成ること有るなら、深分を永く為すことになりましょう。」分、扶問翻、契分也。張楊は是に於いて曹操の上事を通じさせ、仍ち表して(朝廷に)曹操を薦めた。董昭は曹操の為に書を作って李傕、郭汜等に与えたが、為、于偽翻。それには各々の軽重に随って殷勤を致したのである。李傕、郭汜は曹操の使いに見えると、以為<おもえらく>関東は自ら天子を立てんと欲しているのだから、今曹操が使命を有すると言えども、其は誠実に非ざるとして、使、疏吏翻。曹操の使いを留めんことを議した。黄門侍郎の鍾繇は李傕、郭汜を説いて曰く:「今を方じますに英雄が並び起ち、各々が命を矯めて制を専らにしています、唯だ曹兗州のみが乃ち王室に心よせているだけですのに、而して其の忠款にたいして逆なことをすれば、将來之望に副える所以に非ずというものです也!」李傕、郭汜は乃ち厚く加えて報答した。当に是時、董昭は河内に在り、鍾繇は長安に在って、曹操が使うこと能わざるものであった操也、而しながら各々は曹操の為に地に道した、蓋し其の雄略を聞き、先ず效用を為して以って自ら結ばんとしたのである也。鍾繇は、鍾皓の曾孫である也。鍾皓見五十三巻桓帝建和三年。 21.徐州刺史の陶謙が諸守相と共に奏記し、朱儁を推して太師と為そうとし、守、式又翻。相、悉亮翻。因って檄を牧伯に移して、以って同じくして李傕等を討ち、天子を奉迎しようと欲した。李傕は太尉の周忠、尚書の賈詡の策を用いて、朱儁を入朝するようにと徴するに会ったため、朱儁は乃ち陶謙の議を辞して而して徴に就き、太僕に復為した。 22.公孫瓚は復たも兵を遣わして袁紹を撃とうとし、龍湊に至ったところ、龍湊は、地名である、平原の界(境界線)に在る。漢晉春秋では袁紹が公孫瓚に与えた書を載せており曰く:「龍河之師、羸兵前誘、大兵未済、而足下膽破衆散、不鼓而敗。」とあるから則ち龍湊は蓋し河の津であるのだろう也。袁紹の書を詳しく味わうと、龍湊は勃海界に在ると宜べている。又袁譚は龍湊に軍したところ、曹操が之を攻めて、平原を抜いたため、走って南皮を保ったとあるから、蓋し平原界に在ったことになろう也。復、扶又翻。下同。袁紹は之を撃破した。公孫瓚は遂に幽州に還ると、敢えて復た出ようとはしなかった。 23.揚州刺史で汝南出身の陳温が卒すると、袁紹は袁遺に揚州を領せ使まそうとした。袁術が之を撃破したため、遺走して沛に至り、兵に殺される所と為った。袁術は下邳出身の陳瑀を以って揚州刺史と為した。考異に曰く:獻帝紀では、「四年、三月、袁術は陳温を殺し、淮南に拠った。」とあり魏志の袁術伝が云うには:「袁術は陳温を殺して、其の州を領した。」とある裴松之が按ずるには:英雄記では、陳温が病死していること自り、袁術に殺される所と為らなかった。九州春秋は曰く:「初平三年、揚州刺史の陳禕が死んだため、袁術は以って陳瑀に揚州を領させた。」とある蓋し陳禕は当に陳温と為すべきもので、実は以って三年に卒したのであろう、今は之に従う。 四年(癸酉、一九三) 1.春、正月、甲寅朔、日食が有った。 2.丁卯、天下に赦した。考異に曰く:袁紀では、五月丁卯に赦したとある。今は范書に従う。 連破之。術走九江、揚州剌史陳瑀拒術不納。術退保陰陵、集兵於淮北、復進向壽春。瑀懼、走歸下邳、術遂領其州、兼稱徐州伯。李傕欲結術爲援、以術爲左將軍、封陽翟侯、假節。 3.曹操は甄城に軍していた。袁術は劉表が逼る所を為したため、兵を引きつれて封丘に駐屯したところ、黒山の別部及び匈奴の於扶羅が皆之に附いた。曹操は袁術軍を撃破し、遂に封丘を囲んだ。袁術は襄邑に走り、又寧陵に走った。曹操は追撃すると、之を連破した。袁術は九江に走ったが、揚州刺史の陳瑀は袁術を拒んで納れなかった。袁術は退いて陰陵を保つと、兵を淮北に於いて集め、復た進んで寿春に向かった。陰陵、寿春の二県は、皆九江郡に属する。寿春は、揚州刺史の治所である。復、扶又翻。陳瑀は懼れ、走って下邳に帰ったため、袁術は遂に其の州を領し、徐州伯を兼称した。李傕は袁術と結んで援けと為そうと欲し、袁術を以って左将軍と為し、陽翟侯に封じて、陽翟県は、潁川郡に属する。仮節をあたえた(節を仮した)。 4.袁紹は公孫瓚が所置した青州刺史の田楷と連戦すること二年、士卒は疲れ困じ、糧食は並んで尽き、百姓を互いに掠したため、野には青草とて無かった。袁紹は其の子袁譚を以って青州刺史と為し、田楷はこれと戦ったが、勝てなかった。趙岐が関東へ和解させに来たことに会い、公孫瓚は乃ち袁紹と和親し、各々は兵を引きつれて去ることになった。 5.三月、袁紹は薄落津に在った。続漢志では、安平国の経県の西に漳水津が有って、薄落津という名になっている。鉅鹿郡の癭陶県には薄落亭が有る。水経註では、漳水は鉅鹿県の故城の西を巡る、その水には故の津が有る、之を薄落津と謂うとのことである。魏郡の兵が反して、黒山賊の于毒等数万人と共に鄴城を覆すと、其の太守を殺した。袁紹は還って斥丘に駐屯した。斥丘県は、鉅鹿郡に属する。賢曰く:故城は今の相州成安県東南に在る。十三州志に云うには:土地は斥鹵であったため、故に斥丘と云うのである。 6.夏、曹操は軍を定陶に還した。 7.徐州の治中(従事)であった東海出身の王朗及び別駕で琅邪出身の趙昱は刺史の陶謙に説いて曰く:「諸侯を求めるには勤王に如くは莫いでしょう、左伝にある晉大夫孤偃之言である。説、輸芮翻。今天子が西京に越在しておりますから、宜しく使いを遣わして奉貢されんことを。」陶謙は乃ち趙昱を遣わして章を奉じさせるため長安に至らせた。詔あって陶謙を拝して徐州牧とし、安東将軍が加えられ、溧陽侯に封じられた。溧陽県は丹陽郡に属する。以って趙昱は広陵太守と為り、王朗は会稽太守と為った。是時、徐方の百姓は殷盛であり(甚だ盛んとなっており)、古語では多くが州のことを為して方と謂った、故の八州八伯は之を方伯と謂う。書に曰く「惟此陶唐、有此冀方」、詩に曰く「徐方不庭」というのが是である也。穀は実ること差豊であったため、流民の多くが之に帰した。而して陶謙は讒邪を信用し、忠直を疏遠としたため、遠、于願翻。刑政は治まらず、是ゆえに徐州は漸乱した(次第に乱れることになった)。許劭が地を広陵に避けてきた(避難先の地として広陵にやってきた)、陶謙は之を礼すること甚だ厚かったが、許劭は其の徒に告げて曰く:「陶恭祖は外づらは声名を慕っているが、内では真には正しからず、陶謙、字恭祖。吾を待(遇)すること厚いと雖も、其の勢いは必ずや薄くならん。」として遂に之から去っていった。後に陶謙は果たして諸寓士を捕らえることになったため、人は乃ち(許劭の)其の先識(先見の明)に服したのである。 8.六月、扶風に大雨雹があった。雨、于具翻。 9.華山が崩れ裂けた。華、戶化翻。 10.太尉の周忠が免じられ、太僕の朱儁を以って太尉と為し、録尚書事とした。 11.下邳(出身)の闕宣は衆数千人を聚めると、賢曰く:風俗通に曰く:闕とは、姓である也、闕党童子之後を承ったのである。縱橫家に闕子が有り書を著した。天子を自称した。陶謙は之を撃殺した。考異に曰く:范書の陶謙伝では「閻宣」と作る。今は魏志の武紀及び陶謙伝に従う。魏武紀にも又た曰く:「陶謙と闕宣は挙兵を共にし、泰山の華、費を取って、任城を掠した。」陶謙伝も亦た云う:「陶謙は始めにこれと合従し、後には遂に之を殺して、其の衆を并した。」按ずるに陶謙は徐州を有してそれに拠っており、義に託して勤王せんとしたのだ、何でまた闕宣の数千之衆に藉して而して之に与して合従したということがあろうか!蓋し陶謙の別将が闕宣と共に曹嵩を襲ったのだろう、故に曹操は此を以って陶謙の罪と為して而して之を伐しただけである耳。 12.大雨があり、昼夜わたること二十余日、民居が漂沒することになった。 13.袁紹は出軍して朝歌の鹿腸山に入り、于毒を討った、囲み攻めること五日、之を破ると、于毒及び其の衆万余級を斬った。袁紹は遂に山を尋ねて北に行き、進んで諸賊の左髭丈八等を撃つと、皆之を斬った。又劉石、青牛角、黄龍左校、郭大賢、李大目、于氐根等を撃つと、復た斬ること数万級であり、皆其の屯壁を屠ってしまった。遂に黒山賊の張燕及び四営屠各、鴈門烏桓と常山に於いて戦った。張燕の精兵は万を数え、騎は千匹を数えた。袁紹と呂布は張燕を共撃して、連戦すること十余日、張燕の兵は死傷すること多かったと雖も、袁紹軍も亦た疲れたため、遂に倶に退くことになった。呂布の将士は多くが暴橫であったため、袁紹は之に患わされ、呂布は因って雒陽に還らんことを求めた。袁紹は承制して以って呂布をして司隸校尉を領させると、壮士を遣わして呂布を送らせ、而して陰ながら之を図った。呂布は人を使って帳の中で鼓箏させると、説文では:箏は、楽である也、鼓絃にして竹身である。十三絃であり、蒙恬が造る所である。一説には:秦人は義が薄く、父子は瑟を争って而して之を分けたため、因って以って名と為したのであるという。按ずるに箏制は瑟と同じである、瑟は二十五絃であり而して箏は十三絃である、故に然るように云ったのである。風俗通では:箏は、秦声で、五絃、筑身である。箏者は、上は天を圓象するという、下平象地、中空準六合、絃柱十二擬十二月、乃仁智之器也。今并、涼二州箏形如瑟、不知誰改也。釋名:箏、施絃高、箏箏然、音爭。密かに亡去した、送った者は夜起きると、帳<とばり>を斫<こわ>し皆壊れるを被った。明くる旦、袁紹は呂布が尚も在ることを聞き、懼れると、城を閉じて自ら守った。呂布は軍を引きつれて張楊のところに復帰した。 14前太尉曹嵩避難在琅邪、其子操令泰山太守應邵迎之。嵩輜重百餘兩、陶謙別將守陰平、士卒利嵩財寶、掩襲嵩於華、費間、殺之、並少子德。秋、操引兵撃謙、攻拔十餘城、至彭城、大戰、謙兵敗、走保郯。初、京、雒遭董卓之亂、民流移東出、多依徐土、遇操至、坑殺男女數十萬口於泗水、水爲不流。操攻郯不能克、乃去、攻取應、睢陵、夏丘、皆暑之、雞犬亦盡、墟邑無復行人。 14.前の太尉の曹嵩は難を避けて琅邪に在った、難、乃旦翻。其の子の曹操が泰山太守の応劭に之を迎えるよう令した。曹嵩の輜重は百余両となっており、陶謙の別将が陰平を守っており、士卒は曹嵩の財寶を利そうとして、曹嵩を華、費の間に於いて掩襲すると、之を殺した、曹操は兵を引きつれて陶謙を撃ち、十余城を攻め抜くと、彭城に至って、大いに戦った、陶謙の兵は敗れ、走って郯を保つことになった。初、京、雒は董卓之乱に遭って、民は流れ移ること東に出て、多くが徐土に依った、曹操が至るに遇って、男女数十万口が泗水に於いて坑殺され、水は為に流れなかった。曹操は郯を攻めたが克つこと能わず、乃ち去ると、取慮、睢陵、夏丘を攻め、三県皆属下邳国。皆之を屠ったため、雞犬も亦た尽き、墟邑(廃墟となった邑)には行きかう人が復することとて無くなったのである。 15.冬、十月、辛丑、京師に地震があった。 16.天市にて星が孛すこと有った。孛、蒲內翻。 17.司空の楊彪が免じられ。丙午、太常の趙温を以って司空と為し、録尚書事とした。 18.劉虞と公孫瓚は相能くしないこと積みましていった、公孫瓚が何度も袁紹と相攻めあったため、数、所角翻。下同。劉虞は之を禁じたが、できなかったため<不可>、而して其の稟仮を稍節した。公孫瓚は怒り、節度を屢違すると、又復たも百姓を侵犯した。劉虞は制すること能わず、乃ち驛使を遣わして章を奉じると其の暴掠之罪を陳べたため、公孫瓚も亦た劉虞が糧を稟して周しないでいる(からだ)と上(表)した。上、時掌翻。(劉虞と公孫瓚の)二奏が交馳し、互いに相毀<こわ>すこと非ざるものであったため、朝廷は違いに依った而已<のみ>であった(劉虞からの奏上には劉虞に都合よいように対応し、公孫瓚からの奏上には公孫瓚に都合よいように対応するだけとして、それぞれの利害の調整や矛盾に対処しようとはしなかった)。依違(違いに依る)とは、甲の奏上は則ち甲に依って而して乙と違えたものとし、乙の奏上は則ち乙に依って而して甲と違えたものとして、決然之是非が無いことを言う也。公孫瓚は乃ち小城を薊城の東南に築くと以って之に居したため、薊県、属広陽国、幽州牧所治也。薊、音計。劉虞は何度も会わんことを請うたが、公孫瓚は輒ち病と称して応じなかった。劉虞は其が終に乱を為すことを恐れ、乃ち所部している兵を合わせて十万人を率いると以って之を討たんとした。時に公孫瓚の部曲は放たれ散って外に在ったため、(公孫瓚は)倉卒として城の東を掘ってそこから走らんと欲した。卒、与猝同。劉虞の兵は伍を部すること無く、戦を習っていなかった、又民の廬舍を愛して、敕して焚燒することを聴きいれず、軍士を戒めて曰く:「余人は傷つけること無かれ、殺すのはただ伯珪一人而已<のみ>とせよ。」としたため公孫瓚は、字を伯珪という。(城を)攻め囲んだが下せなかった。公孫瓚は乃ち鋭い士数百人簡募すると(選り抜いて募ると)、風に因って火を縦とし、直ちに之に衝突したため、劉虞の衆は大いに潰えることになった。劉虞と官属は北して居庸に奔ったが、居庸県は、上谷郡に属する。胡嶠曰く:幽州自り西北へむかうと居庸関に入る。宋祁曰く:唐(代)の媯州懷戎県の東南五十里には居庸塞が有る、東は盧龍、碣石に連なり、西は太行、常山に属する、実に天下之險というものである。公孫瓚は之を追って攻めること、三日、城が陷ちたため、劉虞と并妻子を執らえて薊に還ったが、猶も使って州の文書を領させていた。会するに詔あって使者の段訓が遣わされてきたがそれは劉虞の封邑を増し、督六州事とすること。公孫瓚を拝して前将軍とし、易侯に封ずるということであった。易県は、前漢のころは涿郡に属していた、後漢では省かれていた。公孫瓚は乃ち劉虞は前に袁紹等に与して尊号を称そうと謀ったと誣し、段訓を脅して劉虞及び妻子を薊の市に於いて斬った(斬らせた)。故の常山相であった孫瑾、掾の張逸、張瓚等は相与して劉虞に就き、公孫瓚を罵って口を極め、然る後に死を同じくした。公孫瓚は劉虞の首を京師に於いて伝えようとしたが、故吏の尾敦が路に於いて劉虞の首を劫してきて、之を帰葬した。賢曰く:尾は、姓。敦が、名である。余が按ずるに古に尾生というものが有った。劉虞は以って恩厚かったため衆心を得ており、北州の百姓で幽州に流入してきたものや旧<もと>は籍を幽州に著していたもの(流旧)で痛惜しないものは莫かった。流というのは、他州の人で幽州に流入した者のことである也。旧というのは、旧<もと>幽州に籍を著していた者のことである也。初め、劉虞は使いを遣わして章を奉らせに長安へ詣でさせようと欲した、而しながら其の人(を得るのが)難しいところであった、衆咸が曰く:「右北平出身の田疇は、年二十二ですが、年は少ないと雖も、少、詩照翻。奇材を有していること然るものです。」劉虞は乃ち礼を備えると、以って掾と為すことで請うた。車騎を具えて将に行かせようとするに、田疇は曰く:「今道路は阻絶しており、寇虜が縱横としておりますから、官と称して使を奉じてゆけば、為衆所指。願わくば以って私行せん、期すのは於得達而已(ただ役目を達成するに於けるだけです)。」劉虞は之に従った。田疇は乃ち自ら家客二十騎を選ぶと、倶に西関を上って、塞を出ると、北山を傍らにして、傍、は歩浪翻。西関は、即ち居庸関のことである。北山とは、即ち陰山のことである。直ちに(直接)朔方へ趣き、間道を循にして長安に至って致命(命を果たした)。詔で田疇を拝して騎都尉と為した。田疇は以って天子が塵を蒙って未だ安からざるに方じているため、以って佩を荷し寵に栄する可きではないとして、荷、下可翻。固辞して受けなかった。報(劉虞からの手紙に対する返答)を得ると、馳せて還ったが、比至(もうすぐ至ろうとしたところで)、劉虞は已に死んでいたため、田疇は劉虞の墓に謁し祭すると、章表を陳べ発っし、章表、当依下文作章報。哭泣してから而して去った。公孫瓚は怒って、田疇を獲んとして購い求めて、謂いて曰く:「汝は我に報いるために章を送ろうとしなかった、何ゆえであるか也?」田疇曰く:「漢室が衰頽して、人が異心を懐くなか、唯だ劉公のみが忠節を失わなかったのです。報われた章が言わんとする所は、将軍に於いては未だ美<うま>しからず、恐らくは聞いて楽しむ所には非ざるもの、楽、音洛。故に進まなかったのです也。且つ将軍は既に無罪之君を滅ぼしているわけで、又義を讎守せんとする臣たるこの田疇は、恐らくは燕、趙之士が皆将に東海を踏んで而して死のうとも、将軍に従うこと有ることは莫い者です也。」公孫瓚は乃ち之を釋した。田疇は北して無終へ帰ると、無終県は、右北平郡に属す、春秋のころにあった無終子之国で、田疇は蓋し其の県の人なのであろう。宋白曰く:無終は、唐が薊州玉田県と為したところである。宗族及び他の附従する者数百人を率いて、地を掃いて(清め)而して盟して曰く:「君の仇に報いなかったからには、吾は以って世に(於いて)立つ可からず!」遂に徐無山中に入ると、徐無県は、右北平郡に属する、徐無山が有る。深險に営し敞地を平らげて而して居し、躬耕して以って父母を養ったため、百姓は之に帰し、数年間にして五千余家に至った。田疇は其の父老に謂いて曰く:「今都邑が衆成されたというのに、而して相統一すること莫く、又法制が無いまま以って之を治めんとすれば、治、直之翻。恐らくは久しく安んじてゆく道に非ずというもの。この田疇に愚計が有ります、願わくば諸君と共に之を施したいとおもうが、よろしいでしょうか(可)乎?」皆曰く:「可!」としたため田疇は乃ち約束を為して、相殺傷、犯盗、諍訟する者は、諍、読曰爭。晉王沈釋時論:闟茸勇敢於饕諍。韻平声。その軽重に随って罪に抵てるものとし、重い者は死に至るものとして、凡そ一十余條をつくった。又制して婚姻嫁娶之礼を為すと、学校で講授之業を与えた、衆に於いて班行すると、衆皆は之に便じ、道に至って遺されたものを拾うことなくなったのである。北辺は翕然として其の威信に服し、烏桓、鮮卑は各々が使を遣わして饋を致してきたため、田疇は悉く撫納すると、寇を為さないようにと令した。 19.十二月、辛丑、地震があった。 20.司空の趙温が免じられた。乙巳、衛尉の張喜を以って司空と為した。 翻訳者:ニセクロ
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装備品武器ダガー スピア トンファー アームストロング砲 ツインエッジ テルビューチェ パイルバンカー 神殺し アエロブレード 埋葬の呪文書 暗闇の呪文書 封印の杖 ジャマダハル ウィップ ネット ライトエネルギーセイバー エネルギーセイバー グラム バルムンク 干将莫耶 クルタナ ゲイボルグ ノートゥング コクセター写本/カタランの書/魍魎鵺鳴の書 防具生体強化装甲 ジェオライトスーツアーマー ジェオライトアーマー 騎乗用幻獣 天馬 船系 オリジンフェアリードラゴン ディスラプター アムルタート剛龍爪 闘龍のメダリオン 豪龍のメダリオン 夢守の指輪 コラプサー魔王軍 アグノアの実、エフェノスの実、カダナスの実、ネルグルの実 覇王の王錫 魔界のチェス盤 獣神の贄 ネフィリムアーマライトカスタム 封神加工 天使召喚符 車輌系 攻撃ヘリ系 戦闘機系全般 A-4スカイホーク 富嶽宇宙戦艦 斬艦刀 式札 備前三郎国宗 関孫六 テオススターファイター スターシップ マザーシップ スターフォートレス フォートレスカノン バトルポッド、ストライクポッド グランザッパー フォールトブレード フォールトマント エーシル遺跡高速宇宙船 移動宇宙要塞 ディース可変航宙機 歩行戦車トーアWT-17ライトニング MoDel02 イシス Test-CoDe.1079 アラクネII ポワティエ ウィンチユニット アシスタントクルー 軍団武器MT部隊 攻城兵器 輜重隊 農民兵 砲兵隊 遊撃騎馬隊 傭兵部隊 伝令兵 MTNMT-8106bis デルゲット MF-000 アソリュート HMT-121X デグラード XMT-9429 ファルソデウス BLK-00J アージェント・カバリエ BLK-05 デザスタ・カバリエ BLK-00ブランド・カバリエ BLK-07エピタフ・カバリエ BLK-18ユルング・カバリエ 61式MT スコーピオン ExMT-001 アフェルマ AF/E-19M エレメンタルフレーム AF/E-21M エーテルフレーム AF/E-X30 フォートレスフレーム 戦術支援AI アニマ・春姫 アニマ・クレアツール MT武装全般M230/MT 近接防御機関砲 BS-27アエログレイブ MCW-X03 大型斬艦刀 MBR-009 拡散粒子砲 グレズマシンホード ディスインテグレーター アレスティングハンド 複合金属装甲 マシンインテリジェンス プロテクションスペル メルティオン:●● 暁帝国宝具・点破旛 魯盤尺 パンデモニウムフルボーグボディ ガンターミナル マッスルオーギュメント バッジ スマートリンク フォーメーションブラスター ブレインリモデリング ソリッドステム プロセッシングガングリオン サンドブロウ砂津波の呪文書 美酒町ウルテクスーツ 装甲筋力倍加服 ガジェットサイクル フェイタルドール ロンデニオンスチームモンスター 零式艦上飛翔脚 遠隔操作型蒸気鋼人 蒸気義肢 蒸気鋼身体 アンゲロイ"ラウヴィア"超振動光子剣 アラドゥスマホロバ、リゼラーゴ 大和型戦艦 十海玉宝 滄海の水陣 ヴァイスフレアセノイ、セマンゲロフ、サンセノイ 王者の外套 ルイムニー狩猟者の大剣 陰陽の双剣 轟雷の重弩 オルファン釘抜き 一般輝く紋章 魔剣の印 水着 温泉 サウナ 冒険系クラブ 拝領名 夢見の果実 真眼の呪文書 +●魔力化 食事汁蕎麦、タッニ・ワッカ、油かす焼きそば、ツィプロ 歌敦盛 エル・レオニェーニャ ルイムニー賛歌 温泉オプションマッサージ 岩盤浴 打たせ湯 温泉卵 風呂上がりの一杯 風光明媚 装備品 武器 ダガー コスト0装備である。無限個入手可能なので文字通りの《無限の武器庫》ができる。種別:短剣なので《フェンシング》が乗り、一応射撃もできるので《魔弾の射手》にも使用できたりもする。 スピア 行動値修正、片手、値段が魅力の武器。輝く紋章と同時に装備したい。両手のロングスピアは+8だがやや高いのと両手なので注意。 トンファー 何気に片手で使える「種別:杖」。仙人で剣も使いつつ《棍法》も使いたいとか、武侠で《剣指刀掌》と《棍法》を同時に使いたいとかいう場合に便利。もっとも、アズライトブルーで本家である暁の方により便利な魯盤尺という武器が追加されてしまったのだが…まあGMが購読してないとかの理由でサプリメントのデータが使えないセッションとかもあり得るので… アームストロング砲 大火力の武器。種別 火砲なのでブドウ弾により範囲化が可能である。行動値修正が異常だがこれは行動値固定専用装備と割り切ろう。火砲陣地が基本だが、パットフットでメタビーストに乗るか、パルフォーロンでフェアリードラゴンと言う手もある。他に、その他のスロットなのでグレズで要塞形態や車両形態で使うと言う事も可能。もっともその場合も《クイックロード》がある事が望ましいだろう。 ツインエッジ 「種別:剣」としても「種別:杖」としても扱われる武器なので、これ一本で《剣仙》の効果を受けつつ《棍法》を使用できる。更に《剛腕怪力》と併用することで、《剣指刀掌》も同時に使用可能になる。 テルビューチェ 日本刀と同じ効果で、こちらの方が値段は安い。マンゴーシュや《フェンシング》と合わせることも可能。「種別:刀」を必要とせず、魔術武器が欲しい場合はこちらが良いだろう。 パイルバンカー 全武器中唯一の「ダメージの属性を変化させずに基準だけを宣言する事で変更出来る」代物である。絶対武器指定や無敵装甲の影響下であっても、【根源】属性のまま魔術属性基準で使用可能と言う反則装備。色々と面白い使い方が出来るだろう。とうとう(と言うか漸くと言うか)「基準と属性を変更させる」というエラッタが入った(2012/08/28分) なおエラッタで追加された火薬式パイルバンカーは切り札の《絶対武器》にも向いている。両手が空くので定番のウィップ&ネットで達成値を上昇できる利点もある。ウィップ等はシナリオ中で入手しても良い。 神殺し 白兵値修正が悪いが、値段からすれば非常に優れた特性を持つ武器。ダスクフレアには確実に差分値がつくが、それ以外に効く相手がでるかどうかは確実ではないので雑魚相手には差分がつかなくても構わないくらいの気で使おう。 アエロブレード 絶対武器では「神殺し」と二分するであろう強力武器。片手持ちや行動値修正、固定値を考えるとこちらの方がやや人気か。じつはミキサーブレードは同じダメージと【白兵値】修正を持ちながら、【行動値】修正が良くさらにクリティカルに修正が付くと言う代物なので、アエロ系を強化する特技を持っていないならこちらの方が良い。 埋葬の呪文書 乗り物、それも常時飛行状態のものにとっては非常にやばいアイテムである。喰らうと転倒した挙句に地中になるので、両方解除しないと効果を受けることができないからだ。転倒、地中ともに乗り物の効果を受けなくさせる効果はありません。また、飛行状態のキャラクターは地中を受けません。 暗闇の呪文書 対象:範囲のダメージを与えない呪文書。解除するにはエンゲージから離れる必要があるので便利。バッドステータス扱いなので、《歪んだ時空》などで解除することは可能。 封印の杖 《スペルドライブ》を用いれば手に装備出来る、MTに乗ったままでも使える数少ない武器。《スペルブックシェルフ》で持ち直せるので、《柳落とし》をMTで使う際は便利。《スペルブックシェルフ》は「種別:呪文書」の武器を装備していない状態で使用することはできません。 ジャマダハル 《双剣輪舞》の友。両手に装備することで攻撃力が上がるので《双剣輪舞》取得してれば合計で【肉体】×4+4d6になる。多少常備化Pがかかるが。ただしFAQによると両手に装備して攻撃力が上がるのは片方だけ。したがって《双剣輪舞》で使用しても【肉体】×3+4d6にしかならない。 しかし片方だけを邪剣化するとダメージが【肉体】×2+5d6+差分値×2となり、さらに状況に合わせて無属性か邪剣化していない方の属性(通常は【肉体】だが、おそらく【根源】に変更されているだろう)を選べると言う利点がある。 ウィップ 攻撃力よりも白兵値上昇が魅力の武器。値段も安め。 ネット 攻撃力よりも白兵値上昇が魅力の武器その2。ただし値段と行動値修正はクセがある。 ライトエネルギーセイバー 常備化ポイント5点で避けの基準を白兵値に変更できる優れもの。吸血鬼、獣鬼兵やワイルドハント、仙人といった「ミームの【社会】と白兵値が高いがリアクション能力にいささか不安が残る」PCに保険として持たせてもよいだろう。使用不能は「その武器を使用しての攻撃が出来なくなる」BSなので、例え陥ったとしても特殊効果は消えない。 エネルギーセイバー 基本ルールブックでは《謎の後援者》と《豪腕怪力》の合わせ技で入手し、ネットを装備することで、《降魔の衣》や《※ラファエル》を使っての避けの標準だったのだが、ライトエネルギーセイバーの登場により特技二枠使うよりもそっちを装備した方がよくなってしまった不遇の武器。特に《※ラファエル》は《テレパシー》を取る必要もあるわけで特技的に余裕が生まれにくいのだ。まあ、それでも行動値+10はブランチによってはそこそこ魅力。 グラム 「1シナリオに1回まで、ダメージに+差分値×3する」と言う効果は、この武器での攻撃と明言されていない。つまりどんな手段でダメージを与えても差分三倍を乗せられるトンデモ武器である。まあ当然と言うべきか、差分値3倍はこの武器での攻撃のみとなった(エラッタ2013/10/03)。とはいえ、単独で差分値3倍を出せる手段はやはり限られており、貴重である事に代わりは無い。 バルムンク 白兵修正や行動値修正が極めて劣悪だが、単純な威力は期待値で【肉体】×7と強力。《ウェポンマウント》なら装備ではないので修正は受けない。有効に活用しよう。 干将莫耶 オートで装備できる短剣。《柳落とし》してもすぐに再装備できる優れものである。 クルタナ 誰も取らない武器NO1。攻撃力も行動修正も白兵修正も向こうの方が高く常備点はこちらの方が高いデュランダルがあるのに、これは一体何に使えというのか。《※剣霊合一》にしても、別の装備を選ぶわけで。まあ、そのうち強化パッチが来るはずだ。ジェネラルやロードモナークなど【社会】基準の武器を多用するブランチにはそれなりに魅力的。常備化経験点を考えるといささか趣味的ではあるが。 漸くパッチが来てダメージに関してはデュランダルよりホンッの少しだけ有利になった。趣味的な武器であるのは相変わらずだが。 ゲイボルグ 「ブランチ:吸血鬼」の《※ハニエル》御用達武器。《※串刺し公》と《血族:カテドラル》で、1シナリオに1回武器の固定値だけで155のダメージを与えることが出来る。グラムと違って反動がこないのが良く、いざという時は80のシーン攻撃に変換できるのも強みだろう。執行者向けだ。 ノートゥング 本体性能は脆弱だったが、《※剣霊合一》した場合邪剣指定していればダメージは200増加という驚異の武器となった。 コクセター写本/カタランの書/魍魎鵺鳴の書 【LP】を失うのは「射撃攻撃(か突き返し)を行った場合」なので、《呪文書展開》で《右手の聖剣》の様な白兵攻撃を行う特技のダメージブーストに使用した場合、【LP】を失うことは無い。 防具 生体強化装甲 高いがHP修正が高く、行動値修正、特殊能力も優秀。とりあえず余裕があるなら装備しておいて損はない一品である。 ジェオライトスーツアーマー 恐るべきHP修正を誇る防具。生体強化装甲よりHPは上で少し安いが、事実上《ヘビーアーマー》があっても【肉体】12がないと着用できず、回避修正も悪いので使いにくい。……だったのだが。このたびの追加特技によって、ファイターが装備すると白兵武器のダメージが+96と言う超性能装備へと生まれ変わった。ファイター用鎧としては間違いなく最強クラスだろう。ただ、装備条件が悪いのは変わらずなので要注意。どうしても着たければ汁蕎麦を食うのもあり。 ジェオライトアーマー 廉価版ジェオライトスーツアーマー。コスト20で必要能力値が【肉体】15なので、《謎の後援者》で買え、かなり凶悪な性能を発揮する。 メイン能力値が【肉体】でないミームの場合でも《ヘビーアーマー》を使えば装備できる場合が多い。また、装備した際の修正自体は悪いものではないので単純にジェオライトスーツアーマーの下位互換とも言い切れない。 騎乗用幻獣 マイナー直前に追加で移動が可能な共通乗り物。便利だがHP修正は低いので注意。能力値が足りない時は《ヘビーアーマー》で済ませよう。エラッタで《ヘビーアーマー》では装備できなくなりました。 天馬 必要能力以外は騎乗用幻獣と全く同じ。もっとも【社会】が高いミームは【魔術】も高いか、乗り物の選択肢が多い傾向にあるので、最終的には趣味で選ぶことになるかもしれない。 船系 転倒すると効果が失われるものが多いので、《幻獣:獣族》などで転倒対策をしておくと安全。 分類:一般の装備ではあるが、攻撃力上昇とHP修正に関してはMTに匹敵する上に、《大船の詩歌》さえあればどこでも使える点が最大の魅力。 オリジン フェアリードラゴン 行動値固定20、クリティカル値10、常時飛行と三拍子そろった優良装備。単体で使ってもよし、ファイターと混ぜて《月の剣舞》、《ドラゴンチャージ》とかましてもよし、だが抜群の回避性能が特に光る。 ディスラプター 共通装備だが実質パルフォーロン専用装備なのでここにあげる。 数少ない回数無制限の無属性差分二倍射撃武器である。邪剣と違いLP消費もなく、この値段で差分二倍攻撃を撃てるのはおいしい。 アムルタート 剛龍爪 SCにおける素手の性能を大幅に引き上げた超強力装備。「素手として扱う」ので素手ダメージ変更特技を適用出来る。その上に、FAQで素手のダメージを上昇させる装備や特技は素手と剛龍爪の双方を強化する事が明言された。2013/03/15のエラッタで素手のダメージを変更させる特技の効果は受けなくなった。《マーシャルアーツ》などは相変わらず有効。 闘龍のメダリオン わずか常備化点20で差分二倍攻撃の回数が一回増えるのでプレデター聖戦士なら買いである。 豪龍のメダリオン HPを任意で消費する装備。どうせならギリギリまで消費し、残りHP1にすると同時に《アーマーパージ》を発動させよう。欠点が被っているので得した気分になれる。《アーマーパージ》が「メジャーアクション(あるいはリアクション)の直前に使用する」に変更された為、タイミングが被る様になってしまった。 夢守の指輪 「白兵(射撃)」を変えずに種別を変更する為、上手くすれば「《二丁拳銃》の効果を受けつつ、白兵攻撃を行う」と言ったことが可能になる。 コラプサー ほとんど分類:一般のものばかりだが実質コラプサー専用なのでこちらに挙げる。 魔王軍 エンシェントの軍団武器。威力がそこそこなのでサブの攻撃手段として置いておくといいだろう。魔界のチェス盤との組み合わせは凶悪。 アグノアの実、エフェノスの実、カダナスの実、ネルグルの実 それぞれ強力な追加効果がある木の実。同時に一つしか使えないので状況に応じて使い分けよう。 値段が少々張るので、買うなら《おまじない》を使うと便利。 覇王の王錫 その他に装備しているだけでダメージが増強される便利な杖。値が少々張るが、その価値はある。追加されるダメージが社会なので、魔王軍主体の場合などにどうぞ。ただ、その場合は部位がバッティングするので魔王軍を《ウェポンマウント》するなどの工夫が必要。 魔界のチェス盤 タイミングが攻撃を行う時なので、アクションを消費しない上に《契約:モー・ショボー》や《暗黒星人》、《マシンテンタクル》などのオートBS追加特技と同時に使える。どのBSを与えるかは他の特技との兼ね合いで決めよう。 獣神の贄 キマイラ専用ダメージ強化食事。安いのでお手軽である。 ネフィリム アーマライトカスタム シーン一回代償も反動も無しで差分値二倍を追加出来ると言う強力な装備。余裕があれば聖戦士のサブウエポンとして入手しても十分活躍するだろう。 封神加工 種別:銃の武器の属性だけが【魔術】になる特異な装備。《二丁拳銃》で手にした片方だけ魔術化しておけば状況に応じて属性を使い分けられる。射撃値も増えるので取っておいて損はないだろう。 これは実は種別:呪文書なので、条件さえ満たせば《スペルブック》でも買える。 天使召喚符 数少ない、ペナルティ無しに防御属性 魔術を得られる装備である。コストもアイテム取得特技を使えると考えれば安い。 呪文書なのでネフィリムのアイテムを常備化できるなら《スペルブック》で購入可能。 車輌系 車輌は振り直しやHP回復などの特殊効果が魅力。星詠みをするなら使うといいだろう。 攻撃ヘリ系 戦闘機と違って防御属性は得られず、何らかの特技の前提となるわけでもない。基本的にはVIPERが行動値修正の低いフルオート武器を使う場合や飛行状態の欲しい場合に乗るといいだろう。 戦闘機系全般 種別 射撃(爆弾)の中には実は手榴弾も含まれる。なので、爆撃機を用いる場合は余裕があればセッション中に買い込んでサブとして置いておくといいだろう。 ネチェルの《ミーティアーダンス》と酷似した特技《バレルロール》の使用に必須な、データを変更していないスターファイターにも似る装備。だが、違う点が幾つかある。戦闘機は回避値と差分二倍に優れ、ミサイル系装備の運用に長けているのに対して、スターファイターは固定値と軍団武器の運用に優れ、戦闘機が行動値固定なのに対してスターファイターは行動値が変動する。差別化を図る時はこの点に留意しよう。 A-4スカイホーク ウォーバードの項でも書いたがセッション中買える唯一の戦闘機。取りあえず乗り物が欲しいが金(常備化点)が無い時などは買ってみるのもよいかもしれない。 1シーンごとに買い込んで、クライマックスになったら《ベイルアウト》で壊し、《ドレスチェンジ》で乗り換え、《スワンソング》でまた壊し、《ホットスクランブル》で乗り換え、また《ベイルアウト》で壊し、さらに《スワンソング》《ヴィークルチャージ》で壊す……とかも可能だったりする。 富嶽 宇宙戦艦 何よりも雄弁に富嶽と言うミームを物語っている重要アイテム。常時差分値やHP50などの本体性能を始めとして優秀な装備であるが、それ以上に大事なのが富嶽の戦艦は領土であり生活空間である、と言う点なのだ。 《※超巨大戦艦》や《護衛艦隊》を取れば大大名、《改修空母》を取れば革新的な技術を取り入れる気鋭の志士、《次元潜航艦》を取って忍者の頭、《神木艦》で神官の家系、と言うふうに特技ごとで様々なキャラクターをやる事も出来る。勿論やりたいようにやれれば一番だ。 斬艦刀 威力は高いが肉体8と言う条件が厳しい。持つならマルチミームだろう。 式札 対象:範囲の呪文書。呪文書であるので、オリジンの《スペルブック》でも購入可能である。もちろん、使うなら《伝来の武具》か富嶽のミームが必要なのは注意。 備前三郎国宗 脅威の白兵値修正+5を誇る太刀。威力、コストともに申し分ない。特殊効果を期待しないならこれで。 関孫六 防具としての効果もある便利刀。MTで使えなくなるのは武器なので、防具としての効果はMT準備中でも使用可能な点を覚えておこう。降りた時用の武器にもぴったり。 MTに乗ったまま《柳落とし》をしたり、《無敵防具》に指定したりといろいろ可能な面白武器でもある。FAQの「[種別:変身]のアイテムを胴部に装備すればMTに乗っても《適格者》を使用できるか?」と言う質問に対して、「MTに乗っている状態では原則として武器を装備しているが装備していない状態として扱われるので不可」と言う回答があるので、《柳落し》のような特技も同様に使用できないと考えられる。 《※名品》に指定すればダメージとHP修正が両方上がるお得アイテムでもある。 テオス スターファイター ネチェルの根幹をなす装備と言っても過言ではない。シングル・マルチ共に火力的・達成値的に見ればデータを変更しない方が圧倒的に強いが、高いHP修正が必要な場合や軍団武器による攻撃、そして特殊能力を優先したいなら《マザーシップ》や《※スターフォートレス》でもいいだろう。ただ、データを変更したスターファイターは行動値修正がひたすらに重い(《スターシップ》で-5、《マザーシップ》で-10、《※スターフォートレス》で-20。これらは累積する)ので要注意。それぞれの注意点は下も参照して下さい。 スターシップ ダメージが+【技術】される点とHPが増える点が利点だが、単純に火力だけ見れば《ダートルショット》《※アタックターミナル》が使えなくなる分損とも言える。他の面でも色々と制限が出るので、これ単体で無理に使わなくともいいだろう。 マザーシップ 心魂値で避けを行え、遠近両用のスターフォースが魅力。攻撃力自体は低いので使うならスターシップと組み合わせよう。 スターフォートレス 防御属性 社会とフォートレスカノンがついてくる、とにかく威圧感のありそうな(そして明らかに通常のセッションではでか過ぎな。まあフレーバーだけど)装備である。防御属性を得たいだけならバールを取った方が早いので、使うなら《マザーシップ》《スターシップ》と混ぜた方がいいだろう。行動値が不安なら《※ストライクポッド》あたりをベースにデータを変更して作れば行動値は固定なので安心。エラッタによりポッド系の特技をベースにできなくなった。 フォートレスカノン 対象 シーンの大火力武器。メジャーアクションによるチャージが必要な為運用が難しいロマン武器だが、乗り物(ネチェル)に乗ってさえいれば取得者でなくても実は使えるので、味方の他のスターファイター乗りに渡して自分は再行動特技を用意、チャージ後即座に撃たせると言ったコンビ打ちも可能。 バトルポッド、ストライクポッド ネチェル系の乗り物ではポッド系が唯一の行動値固定装備である。行動値修正が悪い装備を大量に積み込むのが正しい使い方だが、本体の行動値自体は低いので《無限の一瞬》などのセットアップ行動特技で補うとよいだろう。お勧めの武器はMG34のような対象 範囲のフルオート系武器。 ストライクポッドも行動値が圧倒的に優れている事を除けば基本的にはバトルポッドと同じである。 なお、ポッド系は「データを変更していないスターファイター」として扱うので、スターファイターのデータを変更する特技を適用可能。固定の行動値に修正が入るので結果的に行動値が変化しない。巨大戦艦を作るなら頭に入れておこう。エラッタによりデータを変更する特技の効果を受けられなくなった。 なお、防御属性が肉体ではなく技術なので要注意。 グランザッパー 事実上ポッド系専用火器。残念ながらザッパーとして扱うという一文がないのでザッパー専用特技は使用不能である。部位を使用せずに装備できる点は優秀。エラッタでザッパーとして扱われるようになりました。 フォールトブレード 白兵値修正が高い装備である。ただ、ネチェル単体では白兵は使いにくいのでマルチミーム向けだろう。 フォールトマント HP+85を誇る乗り物ではない乗り物スロット防具。値段が高く使いにくい性能だがこのHPは魅力。だが何より肝心なのは、乗り物ではないのでバールの特技とバッティングしないという点。 エーシル 遺跡高速宇宙船 速度のみならず、攻撃力も移動宇宙要塞に次いで、ディース可変航宙機と2位を争う高レベル。 必要能力が【技術】5しかいらないのも、マルチミームにするのに便利。切り札あたりとマルチすると、武器も自動取得で入手出来て二度美味しい。+差分値も乗せたいので、《絶対武器》は分類:テオスの中から選ぼう。 移動宇宙要塞 単純な防御力ならば、これが一番。グレズとマルチして《フォーム:要塞形態》を選択すれば、自動取得だけでHP修正が+160(パイレーツジュストコールも着れば+185)に及ぶ。 専用特技《強行戦術》《※重粒子反応砲発射》を活用すれば、攻撃力という面でもエーシルの中で群を抜く。ただし、強行形態への変形にマイナーを一回使わなくてはいけないので、その点は考慮しよう。 ディース可変航宙機 これの一番の売りは「種別:戦闘機」である事。やはりウォーバードとのマルチミームにする事で真価を発揮する。この場合の最大の利点は、「種別:強化」の《バレルロール》が使える事だ。エーシルにもない訳ではないのだが、メジャー白兵攻撃の《海賊剣術》や、隠密状態限定の《※海賊のやり方》など、やや条件が限定される。 また、シングル(やウォーバード以外とのマルチ)でも、巡航形態+耐G宇宙服で行動値30というのは、分類:エーシルの中では最も早い。先手を取って何かしたい構成ならば考慮に入れても良いかも。そして自分の手番が来たら、中間形態や格闘形態に変形して攻撃力を増やそう。 いずれにしても《マルチプルトランスフォーム》をお忘れなき様。 歩行戦車 SCで要求される能力値が【社会】(一部【魔術】)となった。サクセシュアとVIPER双方が使えるようにした結果だろう。 行動値固定なので行動値修正の重い武器を大量に積み込んでも影響がない点が歩行戦車の魅力。 基本的に射撃面ではVIPERメインが、特技や特殊効果面ではサクセシュアメインが優位である。 「分類:一般」としても扱う、ということなので一部を除いて《謎の後援者》で入手可能。ただし、念のためキャラクター作成時でGMに確認を取っていた方が良いだろう。ただ、この方法だと常備化した際についてくる装備がもらえない。この方法で入手するなら、本体は強いが付属品がそれほどでもないガルガンチュアか大型七支刀が要らない場合の神骸あたりか。 トーアWT-17ライトニング 歩行戦車系の基本と言ってもいい装備。そこそこ早く、必要能力が低く、そして何と言っても安い。 MoDel02 イシス 本体よりも付属品の装備が豪勢な歩行戦車。むしろ必要な常備化点は付属の装備の値段だと言っても過言ではない。なので、他の強力な歩行戦車も購入し、それにイシスの装備を付けると言う使い方もある。 Test-CoDe.1079 アラクネII 戦車砲に目がいくが、ほぼ唯一の「マイナーアクションで」地中に潜ることが可能な装備。たいていの地中に潜る手段はマイナー前なのでマイナー前オートアクションとバッティングするが、この装備の場合はそれがない。 歩行戦車としては唯一行動値固定がないのも利点。エラッタで行動値修正:10*の項目が追加に 戦車砲はネフィリム装備なので、使う気ならVIPER向けか。 ポワティエ 機体性能は低い。むしろ「常備化点5点でウィンチユニットとジャイロスピナーを入手できる」と考えるべきだろう。引っぺがした兵装はこれらを持たないガルガンチュアや神骸に取り付けると良い。ちなみにグランディオーソⅡとこれらの兵装を取り付けた神骸を比べると、常備化点は「25」と「20+5」で同じ、機体性能も同じである。兵装の違いはグランディオーソⅡに射出式ハーケンがあるのに対し神骸はインジェクターが付くこと。主武装についてはラディエーションブレイカーと大型七支刀ではダメージは同じものの大型七支刀には【白兵値】+2があるので、総合すれば神骸がやや有利である。 ウィンチユニット 移動時限定で飛行状態になる素敵アイテム。敵が飛行していなければ原則移動が自由にできるので戦術の幅が広がる。 アシスタントクルー 常備化点3でダイス目を6に変えられる便利アイテム。シーン一回なのでこきつかってお使いに出す相当の買い物などにも便利。 軍団武器 ほとんどが部位を必要としないので、特技が許す限り持ち放題である。ただ、当然ながら行動値修正が悪いものの方が多いので持ちすぎに注意。 サンセットルビーにおいて、一般に「装備する軍団武器の数✕5点威力のあがる」至誠印綬が追加された。軍団武器を大量に装備することに、演出以上の意味が出来たといえる。 MT部隊 行動値修正が尋常ではないので、使うなら行動値固定の装備で使おう。水中でも使えるが、これを取るよりは水中対策をした方が早いかも。使用不能にならないのでいざと言う時は安心。 攻城兵器 威力はぱっとしないが、軽減不可という優れた特性を持つ。邪剣に指定するのもいいだろう。 輜重隊 スロットなしで行動値が10増えるという優良な軍団。余裕があるなら持っていこう。 農民兵 その他のスロットが唯一必要な軍団武器。防具としても扱うので、MTに乗ったままでも《スペルドライブ》なしで防具としての効果は受けられる。HP修正自体は30と高い。 砲兵隊 ノーリスクの軍団武器としてはトップクラスの破壊力を誇る。行動値修正もそれほど悪くはない。差分値に期待しないなら主力に据えてもいいだろう。 遊撃騎馬隊 特技によらず突き返しができる、重圧下の友。とりあえず射撃対策したい場合はこれで。 傭兵部隊 白兵攻撃に対して突き返しができるとはあるが射程については制限がない。よって、何らかの手段で射程自体を延ばせば遠隔に対しても突き返し可能である。問題はその手段がないことだが……と言うわけで今後に期待しよう。オリジン・オルタナティブにて、フェンサーの特技に「装備している白兵武器の射程を遠隔にする」特技が出た。突き返しタイミングで使えるため、問題なく扱える。 伝令兵 射程:シーンの代わりにダメージが減った輜重隊。カオスフレアで1Dは誤差なので、扱いやすさではこちらの方が上か。とはいえどちらも打点ではなく行動値修正を目当てに装備する武器なので、演出的に扱いやすい方、好きな方を取るのがよいだろう。 勿論両方装備して行動値を一気に上昇させることも出来る。 MT 乗り物の常で、水に嵌ると一部の機体を除いて悲惨な事になるので要注意。飛んでいれば安心などと思うのは大間違いである。《風の牙》で叩き落とされて水中耐性がなかったら、装備による飛行状態には復帰できない。大惨事確定。 NMT-8106bis デルゲット 安い・AF積載量が多い・性能が高いと三拍子そろった超強力MT。獣鬼兵か吸血鬼でなければ乗れないが、逆に言うとそれ以外特に制限はない。サンセットルビーで導入されたクロスミームブランチのルールにより殆どのミームで「ブランチ:吸血鬼」を選択出来る様になったので使い勝手が良くなった。 オールラウンダーに何でもこなせるが、獣鬼兵の場合は《モナドファイター》で素手戦闘をメインに据えてもいいだろう。 MF-000 アソリュート メジャー放棄が出来ない以上、毎ターンLP1点ダメージというのは、性能と比較して余りにも大きなデメリットだろう。しかしながら、これも一種のロマン装備である事を念頭において考えれば、フレアという強力なリソースを稼ぐことのできる利点へと変わるのだ。と言うのも過去の話となった。メジャーアクションを特に行わず放棄することも可能になったからだ。また、執行者のダメージ追加特技のような行動済みになる特技の効果が強化されたので、そちらをメインでするならあまり問題にならないだろう。 つまりは「これ以上戦ったら、あなたの体は、もう……!」という事だ。身を削って強力な機体を操るというのは、古今東西のロボット物にありがちな展開であるし、加えて「負けプレイ」をやるならこの上ない武器になる。忘れてはいけない。アソリュートはロマン装備であるというだけで、十二分以上に強いのだ。 因みに、GM諸氏にお勧めしておきたいのは「シナリオヒロインを乗っける」という方法である。早くダスクを倒すなり、イベントを起こすなりしないと、ヒロインのLPが削れて死んでしまうよ、と(笑) やはり暴走した機体に乗ったヒロインを助ける、というのもロボット物のお約束であるし、一度はやってみて頂きたい。 HMT-121X デグラード カオスフレア界のサイコガンダム成分とデンドロビウム成分とその他諸々のモビルアーマー成分を一挙に引き受けた巨大MT。コストからするとかなり優良な機体である。 自動で強力なビーム砲と防御属性:魔術&変形機能付きのAFが貰える豪華な機体。それらの装備がついてくる割にはHPを始め本体性能も非常に高い。 実は付属装備は他のMTにも装備可能。装備だけ剥ぎ取って他の機体にくっつけるのも悪くはない。 【魔術】属性しかダメージが増えないが、ダメージの適用される瞬間に《刻の螺旋》を乗せればダメージ増加効果を受けたまま【根源】にすることができる。既に増加効果を受けたダメージを根源化したからだ。フローライトプリズンにおける再解釈によって、「本来の属性が」魔術ならダメージ増加効果が適用できるようになった。 ダメージの増加は【魔術】属性なら攻撃や突き返しでなくても構わないので、【魔術】属性の心魂値対決でもダメージが増える。 XMT-9429 ファルソデウス 【技術】基準なのでドミニオンが乗りやすい機体。基本性能も優れているが、ファンブル値が0になるので《弱点》や《食いしん坊》を安心して取れるようになる。 BLK-00J アージェント・カバリエ 新規追加されたMTの中でも異彩を誇る一体。性能面でも「気軽に乗れるブランド・カバリエ、低価格版のエピタフ・カバリエ」というカバリエ好きには待望の機体だろう。更にフレーム装備数が1、【行動値】が最高値の30、HPが+20と単純にエピタフの下位互換言い切れない点も注目したい。ダメージ追加や基本能力の高さも相まって白兵型MTの傑作と言えるだろう。 アニマ必須と言う点もサンプルクイックの様にアエログレイブと併用するなら欠点にならず、むしろキャラを立てる長所とも言えよう。 BLK-05 デザスタ・カバリエ デグラードと違い魔術の射撃攻撃しかダメージが増えないが、その代り範囲化できる点が便利。根源化すると特殊能力が適用できなくなるので、あくまでも対雑魚用と割り切るか、ダメージ適用直前に《刻の螺旋》で根源化しよう。フローライトプリズンにおける再解釈によって、「本来の属性が」魔術ならダメージ増加効果が適用できるようになった。範囲化効果はダメージ増加効果を適用した攻撃に乗るのでこちらも適用できるように。 BLK-00ブランド・カバリエ 全MT最大の必要能力値を誇るお化けMT。とはいえ本体性能は実はそれほど無茶でもないのだが。 特技だけで必要魔術20を克服する手段が出来たので簡単に乗れるようになった。宇宙怪獣《光の巨人》か、【魔術】12スタートで《VF団》《猟犬の祈り》《契約:ピクシー》《モナドシンパサイザー》を取得すれば乗れる。とりあえず初めの方法だと防御属性的な旨みは余り無い。後ろ2つの場合は必要経験点的にもフレーバー的にも微妙である。 現在では専属メカニック、《VF団》《戒律》を利用すれば【魔術】12スタートで後ひとつ【魔術】+2の特技を習得すれば乗れるので、大分使いやすくなった。ギフト:モナドの座を用いればさらに容易になる。キナバリスリンゲージで必要能力を-5できるからだ。これと専属メカニックを組み合わせれば必要な魔術は13で、《VF団》かORDER/ドミニオンのマルチで簡単に届く。キナバリスリンゲージと専属メカニックだけで常備化ポイントが15点必要なのがネックか。 シングルミームのバガボンドが選択取得を《生来の形見》にし、これで《ワークスマシン》か《テンダーギア》を取得、2~3レベルまで上昇させる。アラドゥスの社会分と合わせれば55点に届くので、モナドフライヤーと同時に取得。セットアップで《※カフジエル》を使用した後、乗り換えればよい。 Dパスが使用できるのならば《死人の覚悟》で覚醒し《※剣の誓い》を使用、《モナドリンケージ》で装備ということができる。この方法の利点はセットアップでMTを装備でき、ORDER特技を使用できること。 《光の巨人》を除けば一番手っ取り早いのは《無敵装甲》に指定し、《無限の解放》を行ってからオートで装備する事だろう。この特技なら何時でも宣言可能。無理な点もない。多分。モナドフライヤーの登場によりこれまで不可能であった、胡然による「《異国の財貨》で入手、《※ラグエル》を使用してから乗り込む(乗り換える)」が可能になった。タイミング的にも被らない。 特技を用いない場合、12スタートからでさえ20まで上昇させるには248点もの経験点が必要である。【魔術】を上げる装備は存在しない為、上記に挙げられたいずれかの特技を使わざるを得ないだろう。 とまあいろいろ書いてきたが結局のところロマン機体はロマンがあるから乗るのであって、性能の為に乗る訳ではない。フレア稼ぎ的には非常に優れた機体である。 BLK-07エピタフ・カバリエ HP修正が0の為「リペア処理」を施しても変化が無い(残念ながら1に増えたりもしないが)。結果、20点で常備化でき、大変御得である。リペア処理で変更されるのはあくまでMT本体のHP修正なのでシールドやAFで追加されるHP修正が下がることは無い。 ただリペア処理には【技術】5が必要なので注意すること。滅多に無い事だが、コラプサーなどで作成していると4しかないこともありえる。 BLK-18ユルング・カバリエ 隠密白兵時のボーナスは一見強力に見えるが、隠密状態からの攻撃を行うブランチの特技は【技術】基準である事が殆どにも関わらず、必要能力値が【魔術】13。また、効果がうまくかみ合わない特技が殆どである。勿論それだけでこの機体の価値が決まる訳ではない。単純に達成値とダメージが増え、差分値が追加されると思えば性能は十分に高い。《※万軍撃破》する時に差分値を自力で追加出来ると思えば十分強力。 61式MT スコーピオン クルセイダー専用の面白い機体。いまいちぱっとしない性能だが【技術】で乗れ、犯罪者相手ならどんな手段で出したダメージも増えるのでダメージを与える手段が心魂値対決がメインの場合便利。 ExMT-001 アフェルマ アイテム購入特技で入手出来る装備中最大のHPとMTとしては最高クラスの心魂値を誇る、防御性能と言う一点においては間違いなく最高峰に位置するMTの一体である。《フォーム 要塞形態》に指定すればHP修正は200!性能の割には装備条件が緩い点も見逃せない。転倒と水中状態に対応していることも地味に強い。 AF/E-19M エレメンタルフレーム 事実上ORDER専用のシーン攻撃武器である。心魂値も上昇するので使った後もデッドウェイトにならない点が便利。 AF/E-21M エーテルフレーム オリジンシングルでも(そしてデイブレイクを使えばテオスシングルでも)使用可能な事実上唯一の根源武器である。もしシングルで使うなら、クレリックの《直接嘆願》を使っておくといいだろう。実の所、事"使う"だけならばテオスシングルでもデイブレイクは不要である。エラーハで作成し《レプリカント》に【魔術】を指定すれば良いだけである(【肉体】は星詠みならば要ボーナスだが、それ以外ならクリアしている)。MTに乗るのも《コピーウェポン》で引っ張ってくれば良いのでドミニオンも不要だったりする。もし《※ベイバロン》を使用するなら【技術】と【根源】を入れ替えると良いだろう。 AF/E-X30 フォートレスフレーム デグラードを買うとタダでついてくる便利フレーム。デグラード専用ではないので、これと拡散粒子砲だけ他のMTに移植して防御属性:魔術を確保すると言うのももちろんありである。流石にファレノプシスの方がコスト的にもHP的にも上だが、変形した時の行動値修正はこちらにしかない。 MBR-009 拡散粒子砲のコストをなしで常備化できるので、無数に拡散粒子砲を装備することも可能。%%データ的にはあまり意味はないが、フレア稼ぎ的には面白い。もっとも、使用不能対策には十分だが。 FAQにより、入手できるのはひとつまでとなりました。 戦術支援AI 一見地味だが常備化1点で2回振りなおし可能、オプション(強化)の中で珍しく【技術】が必要能力値、という点で有用。【魔術】の低さで他のオプションを乗せられないドミニオン等には特に便利な装備だ。 アニマ・春姫 相対的に価値が増加したアニマ。ORDERがオリジンとなったので、ORDERメインなら能力値的に最も使いやすくなった。基本的にはシールドを装備するためと、変形した場合も武器を使用できるようにするために使う。 アニマ・クレアツール 旧版からもっとも効果が変動した装備の一つ。マイナー前に水中以外のBS全てを一度に解除出来るので、いざと言う時の為に所持しておくと非常に便利。アイテムなので重圧とは関係なく使用可能である。 MT武装全般 MTを装備しなくても、実はグレズで《システムトレース:MT》さえすれば使用可能。その場合、これらの装備の行動値修正は装備しているわけではないので使っても影響を受けないことを覚えておこう。FAQにより、PC自身の【行動値】に影響するようになりました。 M230/MT 近接防御機関砲 威力は低い。だが、コスト1で同一エンゲージに対する攻撃と突き返しの達成値が1増えるので持っていても損はない。 BS-27アエログレイブ 安い、行動値修正はそこそこ、威力が高い、属性変更可能、と良い事尽くめの高性能装備である。アーマメントフレームの白兵装備を買うくらいより、アニマ・エクリシアとこれを同時に買った方が余程安くて強力だと言える。 《モナドエンフォースメント》を使って基準と属性を【肉体】に変更していても、更に攻撃属性だけを【技術】に書き換えられる優れものでもある。 MCW-X03 大型斬艦刀 実質《秘剣・稲妻重力落とし》専用装備。そのままでは能力値がかみ合わないので、《幻獣・魔剣》などで基準を魔術に変えておこう。邪剣に指定するのもあり。 MBR-009 拡散粒子砲 対象:範囲の大火力ビーム砲。値が張るが、その価値に見合った性能を発揮する。行動値修正も0と優秀。射撃戦メインなら十分な性能だろう。 デグラードを買うと無限にタダで買えるが、一応単体でも買える。 グレズ マシンホード 驚きのグレズ用軍団武器である。性能は悪くないが、能力が【社会】なのでグレズでの使用は微妙。使うならマルチミームするか、アイテムコピー特技で入手しよう。 分類:素手を除くとMTに乗ったまま使用できる唯一のグレズ武器だったりする。(そしてMTに乗ったまま使えるグレズ武器としては最強の威力でもある)言いかえればグレズ特技を使わずMTに搭乗したままグレズクリスタルを乗せられる装備である。《アクセルチャージ》も乗るので、【社会】×3+【肉体】×2+差分値……とかも可能。ミームを三つ以上持っている場合に特に有効だろう。 ディスインテグレーター アレスティングハンドと組み合わせる事により【技術】×8+5D6と言う全武器中最強クラスの固定値を叩き出す事が可能な超高性能装備。ただ、単体で使うと反動ダメージもあり厳しいので注意。行動値修正も尋常ではない。メタビースト系等の行動値固定装備かアーマースーツと組み合わせるのが基本。 アレスティングハンド 入手するだけなら《ナノファクトリー》で可能。ディスインテグレーター自体は常備化点10なので実はかなり安い買い物である。 複合金属装甲 必要【技術】が9になり、よりお手軽な装備へと変化した。部位 その他でHP修正40は凄い。 マシンインテリジェンス シングル、あるいは【技術】主体のマルチミームの場合は《人の心》など【根源】を伸ばす必要こそあるが、「種別:強化」扱いではなく達成値を上昇させられる数少ないアイテムの一つ。 問題は1シナリオ1回のみな事、と言いたいが、実は「複数個所持できない」と書かれていないので、消耗品と同じ感覚で使うことが可能。 プロテクションスペル 代償なし、使用回数無制限の「種別:防御」アイテムである。マジカルデバイスが必要だったり、能力値が【魔術】だったり条件があるものの、それをクリアできるのであれば所持する価値が有る。 メルティオン:●● それなりに強力ではあるが、基本的に浪漫装備。何せ装備するのに《マルチフォーム:●●》《鋼の兄弟》《ギガントユニゾン》と都合三つも特技が必要なのだから。少なくとも初期作成では無理筋すぎるだろう。人によってはこれらに加えて《レックレスブースト》(必要能力的な意味で)や《鋼の友》(イメージ的な意味で)が欲しい人もいるだろう。そうなると益々…。 暁帝国 宝具・点破旛 ダメージロールの際に差分値を追加する効果は他の他者差分値追加特技と同様だが、自分に対して使用することで差分値二倍攻撃も可能になった。ただ、他者差分追加の場合、3倍以上の場合でも2倍に書き換えてしまうので要注意。詳しくはFAQを参照。 また、何かの効果で他者に[差分値]×1を与えていた時に、それを[差分値]×2に変更できる。 魯盤尺 あらゆる判定のクリティカル値が下がり、しかも下限が無い。片手が空いているならとりあえず持っていて損は無い。安い上に購入可能なのでシナリオ中に入手しても良い。何気に「種別:杖」でしかも部位:片手なので、仙人の《剣仙》や武侠の《剣指刀掌》の効果を受けつつ《棍法》が使える。 パンデモニウム フルボーグボディ 部位不要の装備である。値段はやや張るが、常備化するだけで防御属性を得、HP30と素手の威力向上が見込めるので武器いらず。特に光翼騎士には便利だろう。 ガンターミナル コスト0で行動値+10と言う超優良装備だが、何故かサイバーパンクやグレズは使用禁止なのが残念なところである。また他のデーモンロード専用装備と併用不可なのでよく考えて入手しよう。 マッスルオーギュメント たった2点で【肉体】が10になるお手軽装備だが、クリティカル値変更特技をうかつに取れないデッドリーなアイテムでもある。特にサイバーパンクが取る場合は要注意。 バッジ 脅威のアイテム購入装備である。アイテムなので重圧下でも問題なく使用可能と言う便利装備。 スマートリンク 旧版と違い達成値は上昇せず、ダメージ増加に変更された。アイテムなので重圧に関係なく使用できる点は便利。 フォーメーションブラスター この装備は種別 強化ではない。これがどういう事かと言うと、他の種別 強化と同時に使って達成値を大幅に上昇させる事が可能なのだ。聖戦士は《勇気ある誓い》《虹色の希望》があるのでむしろ執行者が高達成値を叩きだすのに向いているだろう。戦闘中でもバッジを使えば補充が効くので、あらかじめ準備しておけば一戦闘二回使う事が出来る。 ブレインリモデリング ブランチ:サイバーパンク強化アイテム。 フルボーグボディの常備化コストを3(何と10分の1!)にしてくれる、というブランチ:サイバーパンクには夢の様なアイテム。これとフルボーグボディが前提となるソリッドステム(後述)、さらにソリッドステム前提のプロセッシングガングリオン(後述)と併せても常備化コストは合計たったの10、というお手軽なセット価格!併せて常備化してしまおう。 [希望]初期値が下がるのが難点、なところはそもそもギフト持ちでなければ全く問題ない。 ソリッドステム フルボーグボディとブレインリモデリング前提のブランチ:サイバーパンク強化アイテム。 サイバーパンク特技のLP代償をフレアに変換する、というブランチ特有のデッドリーさを緩和してくれる、やはりサイバーパンクには夢の様なアイテム。 プロセッシングガングリオン ブランチ:サイバーパンク強化アイテム。ソリッドステム前提。 上述の2アイテムに比べると必須というほどではないが、自動取得の《コンバットセンス》を強化してくれるのであって損はない。 サンドブロウ 砂津波の呪文書 常備化ポイント5点で魔術×4、射程シーン、自動で範囲攻撃という恐るべきコストパフォーマンスを誇る。が、前提条件《魂宿師》はデメリットも莫大であるため、よく考えて取得しよう。 美酒町 ウルテクスーツ 種別:変身なので《適格者》や《トゥルースフォーム》が乗る。素直にトランスギアを着た方が良い…とは限らない。【技術】は《レックレスブースト》で+10出来るし、何といってもこちらは自動取得でタダで入手出来る。キャラの構成に合わせて選ぶと良いだろう。特に《トゥルースフォーム》はエラッタでダメージ上昇が[【根源】×4]となったので【根源】の高い美酒町のキャラクターでは(他のキャラでも)十分に効果が望める。 装甲筋力倍加服 簡易生体強化装甲。しかし生体強化装甲に求められる性能は網羅しているので単純に劣化版とも言いがたい。他にも必要能力値が【肉体】であったり、ガジェットマスターであれば無料で入手できるなど生体強化装甲よりも使い勝手が良い面もある。【肉体】を使うマルチミーム(もしくはシングル美酒町)なら装備して損は無い。 ガジェットサイクル イニシアチブプロセスで同乗状態になる、という能力はなるべく光翼にエンゲージしておきたいこのゲームでは何気に優秀。実はこの能力、「何人を対象にするのか」が書かれていない。その内エラッタが入りそうではあるが、現状では事前にGMと意見をすり合わせておくのを推奨する。FAQにて「何人でもOK」という回答が出た。 フェイタルドール 武器そのものに達成値上昇効果がついた珍しい装備。数値も「社会+5」と高め。フェイタルドール自体は魔術なので、社会と魔術の両方が高いミームで使うと最大限活かせるだろう。もっとも美酒街単体でも社会はそれほど低くないので、《デバイスウィザード》で交換すればそれで十分かもしれない。変わったところではテオスのフラジールなどか。 ロンデニオン スチームモンスター HP+100という怪物装備。その分常備化ポイントも45点と高額装備であったが、アズライトブルーで追加されたマッドサイエンティストなら、装備条件である《狂気の天才》ごと自動取得で手に入る。 零式艦上飛翔脚 安価で買える飛翔脚。性能もそれほど見劣りしないので、他に欲しい装備が多い場合におすすめ。 遠隔操作型蒸気鋼人 ロンデニオンの項目にもあるが、まさに《プレイバック》で使うための装備と言っても過言ではない。 蒸気義肢 常備化ポイント3点で技術を指定した《VF団》と同じ効果が得られる。破格。 蒸気鋼身体 常備化ポイント5点であることを考えるとやはり破格の効果と言える。前提条件を満たしている場合は是非。 アンゲロイ "ラウヴィア"超振動光子剣 アンゲロイに多い「1シナリオに1シーン」という厄介な限定がない白兵武器の中では最も扱い装備の1つ。《天奏楽団》がなく、装備に迷う時はとりあえずこれ。 アラドゥス マホロバ、リゼラーゴ HP+50を持つアーガルマ。違いとしてはリゼラーゴの方が若干速く、支援向けであるのに対し、マホロバは与えるダメージが若干大きい。いずれにせよ光翼騎士が《リバイバル:偉業》と共に取得するアーガルマならこの2つが鉄板か(パーティによっては行動値を確保しておきたい場合もあるかもしれないが)。 大和型戦艦 社会11とアラドゥス単体では条件を満たすのが困難であったが、アズライトブルーで追加された《幽霊船との親和》を取得すると好きな能力が11あれば乗れるようになった。シングルで《VF団》などに頼りたくない場合はこちら。 十海玉宝 エクソシア専用のダメージ+差分値のついた数珠。常備化ポイントも3点ですむ。ただでさえ高い固定値の《グランフォール》《ハイドラパニッシャー》がより凶悪になるだろう。エクソシアなら必携である。 滄海の水陣 味方に迷惑をかけずに水とエンゲージしたのと同様の効果を受けることができるアイテム。発動がイニシアチブと若干遅いが、それでも幽霊船を扱うなら絶対に所持しておくべきであろう。 ヴァイスフレア セノイ、セマンゲロフ、サンセノイ 正確には一般装備だが、実質専用装備であるためここに挙げた。 ヴァイスフレアかつ《VF団》の取得が前提となる。いずれも優秀な効果を持つため、条件を満たすなら是非購入すべきだ。 王者の外套 転倒と水中を防止し、セノイと同時に装備することで不信まで打ち消す強力な装備。 ルイムニー 狩猟者の大剣 常備化点10点で係数6,というのはゲーム前提を見渡しても破格の強度。ルイムニーの宿命として防御属性が多い肉体なのが難点だが、根源化できるなら問題ない話だ。装備で迷ったらとりあえずこれ。 陰陽の双剣 属性を変えられる武器。肉体で語るミームである以上、防御属性への対応は必須。聖戦士でなく味方からの根源化が期待できない場合、自力で防御属性に対応できるこの武器は手軽な解答といえよう。地味に行動値に+があるのもよい。 轟雷の重弩 《二丁拳銃》は無理だが《剛腕怪力》の効果を受けることはできるので、もう片手に盾+輝く紋章を持つことで低くなる【回避値】と【行動値】をいくらかカバーすることができる。同様に《二刀流》は使用可能なので、もう片方に手に何か武器(ダガーでも良い)を持ってシングルルイムニーでは難しい射撃の「種別:強化」を得ることもできる。ただし《剛腕怪力》《二刀流》(出来れば《二刀流の極み》も欲しい)と特技が必要なので初期作成では難しいか。 オルファン 釘抜き コスト0なので解説にある通りいくらでも入手できる…のは良いのだが、依りにも依ってラストマンの自動習得特技《サバイバルシフト》と組み合わせることで、舞台がホームならば無限に財産点を生み出すことができるようになる。エラッタが出るとは思うが、それまではホームで冒険を行うシナリオでは「《サバイバルシフト》で財産点に変換できない」「1本しか所持できない」「ふたつ目からはコスト1に変更」などの処置を取ることをお勧めする。 一般 輝く紋章 常備化する場合、単品でも「輝く紋章+バックラー」でも同じ常備化点で入手できる。また購入する場合でも単品では目標値21なのに対し「+バックラー」では目標値17(「+ラウンドシールド」でも20)と目標値が下がる。総じて単品で入手する価値が薄いアイテムである。一応、単品で入手した場合の利点として「水中状態になった場合に防具のペナルティを受けない」などあるにはあるのだが… 魔剣の印 「種別:呪文書」の為、《スペルブック》で入手可能である。 水着 スクール水着から危ない水着まで何でも可能な便利なアイテム。水中対策としてもそれなりに優秀。常備化しようとするとけっこう重いが、購入判定なら割と気軽に買える。このアイテムを常備化する様な大惨事PCを抑止する良識的な配慮なのか、それとも「前回と同じ水着を着るな」「水着デートを演出するなら水着を買う所から始めろ」という事なのか。 残念ながら水着だけを着て《アーマーパージ》は無理だ!どうでもいいが、お前はいったい何の為に水着を着せているつもりなんだ。水着で事に及ぶのなら、最後まで水着を着たままでいるべきだろう。パージするにしても最低限、水着を着ていた痕跡はどこかに残っているべきだ。勿論、「はち切れんばかりの胸が零れそうになる」とか「肩の紐が切れて見えそうで見えない」のに敵の視線が釘付け……に決まっている。 ……まあ、どーしても「水着を着た状態で《アーマーパージ》を発動させたい!」と言うなら、バックラーなり、複合金属装甲なり、フォールトマントなり、関孫六なり(他にも多数)装備してやってくれ、これらも一応「種別 防具」だから……(もっと簡単に相当品があるが)……手段と目的が逆転しつつあるな。 温泉 一シナリオ一回になってしまったが、HP全快効果は健在。 《タイムリー》などで購入すると、戦闘中でもHPを全快できるので切り札として取っておくと非常に便利である。 サウナ LPを回復できる数少ない手段。戦闘中でも購入特技なら入手可能。 《アーマーパージ》を使う場合でも、購入特技でこれを使うこと前提ならLPが3の場合でも安心して使用できる。ただ、失敗すると即死するので注意しよう。 冒険系クラブ さりげなく振り直すダイスを限定していない、便利な振り直しアイテムである。《生死去来》や《完全治癒》のLP消費、さらにはギフトの希望消費やダスク堕ちを決めるダイスでも振り直せるので、頻繁にそれらを使用するなら《部長》で回数を増やしておこう。しかし忘れてはならない。ダイスは常にあなたを裏切ると言うことを………あくまで「判定かダメージロール」を振りなおせるアイテムなのではないだろうか?さもなくば同じような表記である《魔王の威厳》を使用して「《生死去来》で確実に1点だけLP消費」といったことが出来るようになってしまう。 そしてFAQにて「判定かダメージロールのダイスのみ」と回答された。 拝領名 1回限りとはいえ、常備化コスト0の手軽なBS対策。とりあえず持っておいて損はない。 夢見の果実 上記の冒険系クラブとほぼ同じ効果。しかもこちらは学生証がいらない分、事実上コストが半分ですむ。 しかもこちらはセッション中に購入可能なので、どうしても常備化ポイントが足りない場合も使用可能。 欠点は「判定」のダイスしか振り直せない事。もっとも《生死去来》や《完全治癒》、ギフトを使うのでもなければ大体こちらで事足りる。(まあ、要するにファンブル避けとして使うワケだ。) 真眼の呪文書 経験点5点(つまり特技1つ分)で常備化でき、いつでも使用できるうえにシーン全体の防御属性を知ることが出来る。また、呪文書なので《スペルブック》などでも入手できる。と、《鋭き眼光》を習得するのが馬鹿らしくなるほど高性能なアイテムである。一応、「《ハイテクマスター》などは使用できない」「封魔で使用できなくなる」といった欠点もあるが、ほとんど気になることは無いだろう。 +●魔力化 「+2魔力化」以上は差分値ダメージの武器の係数を上昇できる数少ない手段である。「種別:呪文書」の為、《スペルブック》等で常備化できる。+2魔力化ならばそれ程入手難易度が高くない為、「ディスラプター+2」等で容易に「差分値×3」のダメージを与えることが出来るようになる。 また、「武器でも防具でもない」「分類:一般」「種別:呪文書」のアイテムなので《イミテーションマジック》や《エミュレートマジック》等でも入手可能である。 食事 汁蕎麦、タッニ・ワッカ、油かす焼きそば、ツィプロ いずれも【肉体】に+2してくれる食事。後述のエル・レオニェーニャと併せて買うとより効果的。効果は同じだが別アイテムであるので《食いしん坊》を使ってふたつ食べることも可能。音楽も併せると【肉体】+5にできる。 歌 敦盛 光翼にとってBS:重圧は中々厄介なため、それへの耐性を付けてくれるこの歌は(他にBS対策をしていない)光翼には必須…だったのだが、より便利なマッサージという温泉オプションが登場したため、出番がなくなってしまった。《タイムリー》などの特技で戦闘中に温泉を購入する光翼騎士の場合、クライマックスまで温泉をとっておきたいため、こちらを選ぶことがあるかもしれない。 エル・レオニェーニャ 汁蕎麦などと併せて購入すれば、【肉体】に+3出来る。獣鬼兵を始めとした【肉体】で語るブランチならばこのセットで決まりだろう。 ルイムニー賛歌 詩編第68編やファヴォニウスの完全上位互換。対応する分類が多く、ダメージ上昇量も大きい。まあ、エラッタで「ミーム:ルイムニー」専用になる可能性が無きにしも非ずだが… 温泉オプション マッサージ 重圧と束縛、という光翼騎士にとってもっとも受けたくない二大BSに耐性をつけてくれる光翼垂涎の温泉オプション。 岩盤浴 事実上光翼専用の温泉オプション。とはいえ、上記のマッサージが余りにも便利なため、(星詠みの《天上の霞》なども含めた)他のBS対策が充実している時に、という事になるだろう。 打たせ湯 攻撃に「種別:強化」を使用するならば達成値自体を上昇させることになる温泉卵の方が有効。サンプルキャラクターの聖戦士などに多い「種別:強化」を持っていないキャラクター用だろう。 温泉卵 「種別:強化」を使用すればどんな判定でも効果が有るので《※大魔王》の様な汎用性の高い特技を持っていると有効的に活用できるだろう。 風呂上がりの一杯 ソフィアに合致したフレアの枚数が重要となる光翼騎士向け。フレア消費の重い特技が多く、BS対策を他でしているなら一考の余地はある。《※賛美歌》などと同様、フレア1枚支払う特技を多数使うような構成では無力な点に注意。 風光明媚 安定して効果を得られるのはやはり星詠みや執行者か。その他でも御遣いなどは代償に使用したフレアの数値が影響される特技が多いので役に立つだろう。
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登録日:2020/08/23 Sun 02 08 46 更新日:2024/03/31 Sun 10 59 47NEW! 所要時間:約 ? 分で読めます ▽タグ一覧 この世で最も成り上がった男 ブサイク 一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物 中国史 乞食坊主 名君 家族大好き 恐怖政治 明 暴君 暴君にして名君 朱元璋 残虐無比 洪武帝 独裁者 猜疑心の塊 皇帝 矛盾の塊 粛清 紅巾の乱 英雄 言葉狩り 農民 開祖 /;;;;;;;;;;;;;\ /;; \ ∈=━/,,;; .;ヽ━=∋ L ;;,__ .. ゝ //;;;; .. ̄ ̄ ̄ ̄.. ;;;ヽ / ;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l || |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 凌遅三千刀、滅九族!! r┤ ト \___/ || / \_/ ヽ . \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 朱元璋(しゅげんしょう)(大元天暦元年(1328年)~明洪武三十一年(1398年))とは、モンゴルの軛(くびき)を打ち破った英傑であり、乞食山賊上がりの素性怪しい輩であり、献策諫言を受ける度量を持つ賢人であり、文人を憎悪する無学の徒であり、 民を安んずる政策を取る聖王であり、功臣殺戮に明け暮れた邪悪であり、家族を溺愛する素朴な男である。 え?属性が矛盾している?事実なんです… 生涯果てなき地獄の底から 動乱の渦の中へ 天子への道 中華統一・北伐事業 大粛清背景事情 空印の案 胡惟庸の獄郭桓の案と林賢事件 李善長の獄 藍玉の獄 文字の獄 「御製大誥」 結果 家族 その他肖像画 農民に対する態度 後継者が遺訓を守ってくれない 明による日本侵攻 創作関連 歴史家の評価 生涯 果てなき地獄の底から 大元の天暦元年(1328年)、現在の安徽省鳳陽県の農村で朱五四(*1)と陳氏(*2)の間に末っ子として生まれる。 従兄弟も含めて八番目の子だったため、重八と名付けられた(*3)。朱五四は貧しい小作農でしかなく生活は苦しいの一語であったと思われる。 さらには大元は朱元璋が生まれた頃には大元の人材登用の弱点故に無能が多く高官についていたり、その無能らが汚職や収奪を繰り広げ民を苦しめ クビライの孫で後継者だったテムルが早逝した後は後継者候補が軍閥などを巻き込み不毛な後継者争いを繰り返し、延祐7年(1320年)からの13年に至っては7人の皇帝が立っては排除されるのを繰り返し国中が疲弊しきっていた。 折り悪く14世紀は小氷期に突入しており天候不順に見舞われ飢饉が増加しており(*4)、終いにはパクス・モンゴリカと呼ばれるユーラシア大陸の大部分にもたらされた安寧と活発な交易が仇となり 当時致命的な死の病であり、感染拡大を防ぐ術が浸透していなかったペストのパンデミックが発生しユーラシア大陸を飲み込んでいた。 13年で7人もの皇帝が立っては消えた理由は権力争いもあるが、基盤がガッタガタなのも大きな原因であろう。 上も下もドッタンバッタンユーラシア中を軋ませながら破滅に突き進む、そんな時代だった。 そんな地獄のような情勢下で父が至正4年(*5)(1344年)に黄河の氾濫に飲まれて死ぬと朱一家は「詰み」を迎えた。 飢饉に巻き込まれて重八を残し、実家に残っていた家族は全員餓死という悲惨な結果を迎えてしまったのだ。 重八はなんとか生き延び皇覚寺という寺に身を寄せるが、貧農の末っ子みたいな小僧を養う余力はあんまりなく托鉢僧として旅に出された。 体の良い追い出しに近いと言えるだろうか… しかし重八は托鉢を受け生き延び、寺で最低限の教養を身につけただの貧農の子からすると大きく見聞を広げていた。 そんな中、大元の支配は破綻を始める。まず嚆矢として海賊呼ばわりされた方国珍が浙江で蜂起。水軍を操り大元の物流網を寸断し暴れ回る。 さらには宋代に興った白蓮教が末法の世めいた世相をバックに信者を獲得し各地で蜂起し始めたのだ。 動乱の渦の中へ 方国珍は大元から招安(*6)を受け早々に離脱するが、北宋徽宗の子孫を名乗り蜂起した韓山童(*7)・韓林児親子や徐寿輝ら白蓮教勢は止まらなかった。 叛徒はみな紅い頭巾をしていたため紅巾の乱と後世呼ばれる大乱の中、皇覚寺が焼け落ち重八はまたも居場所を失ってしまう。 ここで重八は運命を占いに託した。その結果紅巾軍に身を投じるが大吉、と出たため韓林児の軍の中でも有力であった郭子興の元に馳せ参じ、英雄としての道を… 歩み始めようとしたのだが、スパイと思われて殺されそうになった。あらら。 ここで天命が尽きてもおかしくはなかったが、郭子興が顔を見た際に面構えを殊の外気に入ったため嫌疑は解け幕下に迎え入れられた。 改めてここから英雄・朱元璋(*8)の道はスタートした。 この時期に昔なじみの朋友にして後の明軍最強の将帥・功臣第一の徐達、天性の軍才を誇る猛将常遇春、謀臣李善長らを得る。 彼らとの出会いの後朱元璋は「貴方こそこの乱世を鎮める人物。然るに、同じような境遇である漢の高祖・劉邦(*9)を真似れば良いのです」という李善長から受けた指針のもとに動き、大元軍に徴兵された農民に働きかけ支持を広げ郭子興幕下でも有力な将軍として頭角を現していく。 更にこの頃、功績を認められ郭子興の養子である馬氏を娶る。後に賢夫人と呼ばれ、外付け式ストッパー兼良心として活躍する馬皇后である。 呉国公を自称し、郭子興軍の中枢として存在感を増していたがその郭子興が至正15年(1355年)に亡くなると実子の郭天叙、妻の弟の張天祐、そして娘婿の朱元璋に三分されたが その後まもなくして前者二人の軍が大元に敗れて戦死したため、結局郭子興軍を一人で吸収することとなる。 ちなみに、二人の軍は大元からの降将の言葉に乗って攻め入ったところそいつが内通者でボコボコにされたという終わり方であったが、一説によると朱元璋はその事を知りながら黙認していた つまり郭子興の実子・妻の弟という血縁面では立場が上である邪魔者を都合よく排除できる、と考え敢えて彼らを死地に追いやったという説がある。 天叙の弟である天爵もまもなくして陰謀を巡らせたとして排除されており一定の信ぴょう性はあるが証拠はない。 ともあれ、紅巾軍でも屈指の実力者となった後、「膨らんだ軍を養うには江南の富が必要である」と帰結し、当時の本拠地を半ば放棄し退路を断ち長江を渡って江南に侵入し集慶路(*10)に攻め入りこれを陥落させる。 応天府と名を改めるとここを本拠地とした。半ば山賊の群れであった朱元璋軍だったが、応天府に落ち着くと新たな国を作るための施策を取り始めた。 この政策の実施で朱元璋を見込んだ名軍師劉基らさらに人材を集めることにも成功した。 かくして荊北から江西を支配する徐寿輝の天完、別に紅巾軍とは関係ないが反旗を翻していた蘇州拠点の張士誠の周と並び立ち長江流域の覇を競うこととなったのである。 天子への道 まず戦うこととなったのは、徐寿輝配下の実力者で実権を握ると徐寿輝をハンマーで撲殺し、大漢皇帝として即位した陳友諒であった。 至正20年(1360年)、長江を大艦隊を率いて下り応天府を目指し始めたのだ。朱元璋軍は動揺し、降伏すべきとの進言すら出るほどであった。 それほどに大漢艦隊は圧倒的な勢力だったのである。 朱元璋本人もかなり弱気だったが、劉基のみが毅然と「敢えて陳友諒を応天府に引き込み、伏兵にて撃滅すべし!」と言い放ち、朱元璋もこれを容れて大漢軍を迎え撃つ覚悟を固める。 大漢軍は応天府まで猛烈な速度で進軍し、突入を図るが陳友諒の顔見知りで朱元璋軍から降伏した康茂才を全面的に信頼し、これが偽降であることを見抜けずものの見事に策にかかり、竜湾にて伏兵により壊滅的打撃を受け撤退。 その後朱元璋軍は大漢を押しまくり、陳友諒の当初の拠点であった江州(*11)などを奪い更に上流の武昌(*12)に撤退させるなど有利を築くことに成功した。 この不利を挽回するべく大漢は至正23年(1363年)に周王改め呉王を自称した張士誠の呉が朱元璋を攻める間隙を縫って再び大艦隊を興し、奪われた南昌奪還を目指す。 しかし南昌の留守居部隊が大艦隊による包囲を三ヶ月弱防ぎ続け時間を稼ぐと、朱元璋も呉を撤退させた後大船団を組織し南昌に向かう。 大漢艦隊は南昌の包囲を解き鄱陽湖に布陣し迎え撃った。 当初は巨艦を多く擁し圧倒的な威圧感を誇った大漢艦隊が朱元璋の艦隊を圧倒し、朱元璋座乗の旗艦が斬り込みを受けるなど苦戦したものの 朱元璋水軍の主力を成す兪通海率いる艦隊の火砲により鈍重な巨艦を焼き払うなど徐々にペースを取り戻し、戦闘三日目には吹き荒れた東北の風を利用し、火薬を満載させた火船七隻を決死隊が敵陣に突入させると数百隻を焼き払い無数の敵兵を屠る大戦果を挙げる。 この大火計により腹心であった弟陳友仁を失うなど士官にも大打撃を受けた大漢艦隊は撤退しようとしたが、朱元璋直率の伏兵が逃げ道を塞いでおり兵站も切られた大漢軍は瓦解。陳友諒は突破を図るが矢を受けて戦死した。 この鄱陽湖の戦いにより大漢は継戦能力を実質失い、翌年には跡を継いでいた息子の陳理が降伏。長江中流域はすべて朱元璋の手に収まることとなった。 ちなみに勘のいい読者であればお気づきになられたと思うが、この鄱陽湖の戦いは羅貫中が赤壁の戦いの描写の参考にしたとされ、巨艦を鎖でつなぎ陣にしていた点や決死隊の火船特攻、逃げようとしたところに伏兵がいたなどの描写は鄱陽湖の戦いに即したものになっている。 大漢を滅ぼすと朱元璋は呉国公から呉王に名乗りを変え、同じく呉王を名乗った張士誠との対決姿勢を鮮明にし、徐々に拠点を落とし追い詰めていく。 その進撃のさなか、大元の内紛に付け込み一時は朝鮮半島や上都や大都にも侵攻していたが、本気を出した大元の軍閥の功績稼ぎに使われズタボロにされた挙げ句、張士誠に攻め込まれて大ピンチであった紅巾軍の首領で一応名目上の首領と言える韓林児を保護することとなった。 しかし宋(*13)の龍鳳12年(1366年)、朱元璋の招聘に応え応天府に向かう途上船が転覆し溺死した。これをもって紅巾の乱は朱元璋を輩出するという成果を残し終焉した。 朱元璋が配下に指示し特に用もなくなった韓林児を処分したという説もあるが、明確な証拠は残っていない。 朱元璋は韓林児の事故死後に白蓮教を一転して弾圧しているし、勢力が大きくなればなるほど不満分子は出るし韓林児が火種になる確率は大きくもなる。なるほど排除したほうが合理的…アッハイ証拠はありません。 その後朱元璋軍は呉を追い詰め、1年弱の包囲戦の末隆平府(*14)を落とし張士誠を捕縛。 呉を滅ぼし、何度も大元に背いたり招安を受けたりして出世を重ねた末に独立勢力になっていた浙江の方国珍も朱元璋に降伏。 こうして江南を統一した朱元璋は応天府で大明の皇帝として即位。洪武元年(1368年)正月、明の誕生であった。 朱元璋は一世一元の制を敷き改元を封じたため後世洪武帝と呼ばれることとなる。 ちなみにこの明という国号は地名に由来したものではなく、白蓮教の別名明教から採ったと言われる(*15)。白蓮教は弾圧する一方でルーツは紅巾軍にあることは認めていたのかもしれない。 とにかく、この後は残された敵は長江の北、大元の皇帝及び各軍閥である。 中華統一・北伐事業 洪武帝は洪武元年の即位後すぐに徐達に大軍を預け北伐を敢行。 当時の大元で最強の軍閥を率いたココ・テムルが陝西軍閥の李思斉と交戦中であったことから華北には大きな軍事的空白があり それを突いて破竹の勢いで北上。ココ・テムルも引き返してきて明軍に当たるが敗れ北方に撤退してしまう。 同年8月には大元皇帝トゴン・テムルは大都放棄を決断。全軍民を中原から撤退させた。こうして明は華北を奪還することに成功した。 しかしその後も本拠地に帰った大元(*16)はモンゴル高原に君臨し北の災いとして明を苦しめ続けることとなる。 その後、トゴン・テムル没後皇太子アユルシリダラが即位する間隙を縫い大都の更に北方にある応昌府(*17)を奪い、 洪武4年(1371年)には徐寿輝の天完崩壊時に独立した最後の紅巾勢明玉珍が築いた明夏を滅ぼし四川を獲得するなど順調に領土拡張を進めた。 しかし洪武5年(1372年)、モンゴル高原に踏み込もうとした徐達率いる15万の軍勢が体制を立て直したココ・テムル率いる精兵に大敗。 この後アユルシリダラはココ・テムルに中原奪還作戦を託し南下させる。 一時期は山西地方北部まで盛り返すなど明を苦しめたが洪武8年(1375年)にココ・テムルが病死すると流れが変わり 再び明がモンゴル勢力に対し優越。モンゴル貴族支配下の雲南や甘粛地方、満州を奪い取る。 そして洪武21年(1388年)、ブイル・ノールの戦いでトグス・テムル(*18)の軍を散々に打ち破り圧勝。 即位から21年かけてモンゴル勢力を本拠地モンゴル高原に完全に駆逐することに成功し、かつての唐が中華として支配した領域を概ね回復することが出来た。 江南から興った政権が中華統一を果たしたのは後にも先にも明のみである。 こうして再び漢民族の栄光を取り戻した洪武帝であるが、外征のみならず内政においても尽力していた。自身が農民出身故か農本主義に基づいたかのような政策を実施。 特に小作農など下層の民に優しい統治を図った。工部の官吏や国立学校である国子監の学生を総動員して各地の堤防を修繕したりもした。 一方で魚鱗図冊や賦役黄冊を制作し戸籍や賦役、土地の状態は厳然と管理するようにしたし、衛所制や里甲制はかなりの負担となったのは事実である。 アメだけでは統治は成り立たないので仕方ないね。 さらには家族を信任し、養子に取った建国功臣が一人沐英らを重用したほか、『救荒本草』を著した周定王朱橚や北平の守りとして対モンゴル戦で活躍した晋恭王朱棡、燕王朱棣ら皇子を各地に封じ明の柱石とした。 温和な性格であった皇太子長男・懿文太子朱標が洪武25年(1392年)に急死したことは洪武帝を大いに悲しませたという。 朱標の死後は皇太孫とした朱標の子朱允炆のための体制づくりに腐心し、洪武31年(1398年)に亡くなった。 即位31年という長きにわたる治世であったが、その間に元末の荒廃から中華を立て直したと言えるに足る功績を残した。 歴代の王朝開祖と比べても十分すぎる資質を持った英雄天子といえよう。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- E〓〓〓〓 田〓〓〓〓〓〓〓〓回〓〓〓〓〓〓〓〓] iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii |∥ヾ□ / / / / /iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii ┃┃┃┃|∥ | | | | | | ┃┃┃┃┃┃┃┃ ┃┃┃┃|∥ | | | | | | ┃┃┃┃┃┃┃┃ ○○○○|∥ ニニ"◇ ̄◇ ̄◇| ○○○○○○○○ ○○○/|∥  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄U\○○○○○○○○ ○○/ /|∥ 建文帝 ○○○○○○○○ l | |∥U | | | IIIl (○) (○) U | じいちゃん…。 | |而 ( (ヽ_____/(( | じいちゃんのせいで朕の政権弱すぎなんですけど…。 ヽ | | ノ ノ \_/ノ丿 ノ ゞヽヽ ―---oo-――'" …とまあ、いままで出来る限りアレな部分は回避してきたのだが、この人を語る上で粛清を外すわけには行かないのである。 うん、決断力もあるし、部下に任せるということも出来るし、宋や大元で発達した商業本位ではなく農本主義政策を採ったこと自体も朱子学を信奉している以上そうなるのは理解の範囲内ではある。 あるいは、当時は経済も疲弊し交鈔の大暴落や銅の枯渇など通貨の発行にも困るという部分はあったので商業本位の立て直しは至難であったと言える部分もある。 故にここまで書いてきた部分は賛否あるにしても概ね賛寄りである。ただ、ここから先は否寄りの事績が多い。 大粛清 背景事情 華北から江南に根拠地を移しそこで力を蓄えて統一政権を築き上げたわけであるが、江南は華北に比べると疲弊も少なく南宋の故地であり 南宋代から続く大地主や南人(*19)官僚、知識人などが多かった。つまりはまあ、ブルジョワジィかつインテリゲンチャに担がれた訳である。 一方洪武帝という人はどういう人であったか、といえば英雄の器を持つ男であることは確かなのだが、所詮貧農の末っ子に過ぎない。 たまたま寺に行っていたため生き残り、その寺で読み書きを学び、乱世の中で英雄としての才覚を開花させたが、歯車が狂えば父のように黄河に飲まれたり餓死、病死していたような階級の生まれである。 そもそもの問題として金持ちで裕福な人生を送ってきた連中と反りが合うわけがなかったわけである。 それでも、大元、北に逃げて北元となったモンゴルの驍将ココ・テムルが健在だった頃は気に入らない連中でもしっかり利用せねば中華統一は覚束なかったため、そこまで亀裂が発生することはなかった。 そこで亀裂を起こして勢力瓦解させるようでは三流の群盗。そこはさすが洪武帝、中華帝国開祖は伊達ではなかった。 しかし洪武8年(1375年)、ココ・テムルが病死し北元の圧力が大いに減退すると、北伐よりも新国家の体制づくりが至上命題となる。この頃には中華各地から様々な人材を集められるようにもなっていた。 つまりどういうことかといえば、気に食わないやつを排除し理想の体制づくりをする好機が来たのだ。いや、来てしまった…というべきか… また、華北で決起した頃からの功臣やその功臣が推挙した者らも威光を笠にきて横暴を振るう例はままあった。 正直こういうのは王朝初期のあるあるネタの範疇であり、漢の高祖劉邦、唐の太宗李世民らも通ってきた道であるし、問題を解決するには一定程度粛清が必要だったりする場合はある。 皇帝権を高めようとするならば臣下の利益と当然ぶつかってしまう。それは仕方のないことではある。 しかし洪武帝の粛清が殊更言われるのは、その並外れた猜疑心が家族以外に誰彼構わず、時に溺愛していた家族にすら向けられたことである。 功臣第一の名将で昔なじみの友でもあった徐達や姉の子であった李文忠にすら謀殺した、あるいは自殺するよう仕向けたという疑惑すらあるほど。 馬皇后も死の床に臥せった際「私が死んでしまったら治療を失敗したと責められてあの人に粛清されてしまうかもしれない」と考えたのか、医者を寄せ付けなかったという。無茶苦茶な猜疑心である。 また、当時東シナ海や南シナ海沿岸は倭寇(わこう)と呼ばれる海賊が跋扈しており、北方のモンゴル勢力と合わせて頭痛の種となっていた。 明を通じて北虜南倭(ほくりょなんわ)」(*20)と言われ帝国を脅かし続ける事となるのだが、この頃の倭寇はいわゆる後期倭寇の倭人偽装の明人が率いる海賊団ではなく、 南北朝時代で統治が緩みっぱなしの九州の松浦党などの南朝系武士団が、元寇の復讐戦や南朝方の物資獲得を期して行っていたらしく、ガチの倭人、つまり日本人による略奪であった。 そこで周辺国に朝貢を求める使者を出していた洪武帝は日本に対してかなり強いトーンで「朝貢しろ、倭寇を取り締まれ!」と書状を出していたが 九州の覇権は当初倭寇を派遣していた、あるいは配下が倭寇をやって戦力を供給していた可能性が高い南朝の懐良親王が握っており、明の要求に100%応じられる状況ではなかった。 それどころか鎌倉幕府式のやり方で使者をぶった斬る(流石に全員ではなかったが)暴挙に出る始末であった。 その後、明の趙秩が上手いこと繕って日本が冊封に応じたという形で片付けたためとりあえず懐良親王の暴挙は大問題になることはなかった……が、冊封を受けた証である日本国王の印綬を懐良が受け取ることもなかった。 明からの使者が日本に国王印を持ってきた頃には今川了俊率いる北朝軍が北九州を制圧していたからである。そんな調子だったので倭寇は収まるわけもなし。 一応南朝と違い北朝側は明との交易を考えて倭寇を抑える意思はあったものの、肝心の統治力を巡らしきれていなかったのだ。 終いには倭寇が収まる様子もないのに、懐良名義で送り込まれる朝貢貿易で一儲けしようとする九州諸侯のニセ外交使者のあからさまなカネ狙いかつ無礼粗暴な態度に明は悩まされた。 洪武帝は大変憤激し、「あんな国とはもう交渉を持たん!」とキレていた。とはいえ格上のこっちが感情任せに切るのも…と思ったのか洪武帝は日本の悪名を利用しようと考えた。 外患誘致をでっち上げて粛清の口実を作る、そのための材料にぴったりだったのだ。 空印の案 驍将ココ・テムルの病死でモンゴル軍の組織的抵抗力が弱まった洪武9年(1376年)に洪武帝が仕掛けた粛清事件。 決算の提出の際、再計算が必要な計算ミスなど帳簿上のミスが見つかった場合一から書き直し、各地の長官に認印をもらうという形になっていたのだが 当時はコンピュータもないため、何度となく再提出となれば書き直しにも時間はかかり、その上で許可を貰い直すため仕事がどんどん溜まっていくという事になってしまう。 それを防止するために、慣例としてすでに認印を押された白紙の決算書を用意し、それに書き直して提出するのが習慣となっていた。つまり多重チェック回避策が慣例化していたのだ。押印、ヨシ! しかし洪武帝に見つかり咎められ、「こんなもん不正の温床じゃねぇか!粛清!」と宣言し各地の地方官を処刑・僻地への左遷などの厳罰に処す事としたのである。 これにより多数の官僚が殺されたり左遷されたりした。 まあなんとなく察しはつくだろうが、急に地方官(要するに、都道府県や市役所の公務員)を大量処刑したりしたらあっという間に業務が回らず帝国の統治は止まる。 しかし明はここからも安定的に統治を進めた。つまりどういうことかと言えば、代わりになる洪武帝肝いりの人材を用意した上での粛清ということである。 空印文書への追及はそのきっかけづくりにしか過ぎなかった、ということである。 行革にすら血生臭さが漂うのがなんとも、という感じはあるが、当時の官僚は土地を持っていたりするため束になって抵抗された場合帝国の屋台骨が揺らぐので、やるなら即断即決で命を断つのが最も安全。そういうものなのだ。 この結果人員は洪武帝肝いりの人材に一新、さらに元の時代から存置されていた地方行政の最高機関・行中書省が解体され、皇帝の意思を地方にダイレクトに伝える体制が完成したのであった。 胡惟庸の獄 元が残した遺制のうち、皇帝権とぶつかるものとして行政のトップにして六部を統べる中書省、その頭の左右の丞相がいた。 建国当初は親友で軍人である徐達、文人らしいいやらしさもあるが慎み深さがありあからさまにやらない李善長のコンビであったためにそこまで問題にならなかった。 しかし、洪武帝が李善長の娘婿である胡惟庸を信任し宰相につけた辺りから中書省の雲行きが怪しくなる。 端的に言えばこの胡惟庸、失脚する宰相のテンプレみたいな人材だったのである。 宰相になるくらいなので能力は舅の李善長に劣らないのだが如何せん性格が強欲、嗜虐的で俗人だった。 明史などには洪武帝の軍師であり諫臣でもあった功臣・劉基は胡惟庸が毒殺した、とあるくらいである。 ちなみに劉基は徐達らと共に胡惟庸の宰相就任に難色を示していた。んまあ怪しい。 そんな胡惟庸だったが、空印事件においては陣頭指揮を執り大いに活躍。彼が引き上げた酷吏(*21)の陳寧とともに積極的に処刑や左遷に従事した。 そのため敵はどんどん増えていった。しかしその一方中書省を胡惟庸派、後に胡党の汚名を着る配下でガッチリ固めた胡惟庸にスキはない、はずであった。 洪武12年(1379年)に占城(チャンパ)から朝貢の使者が来たという報告(*22)を洪武帝に怠るまでは、だったが。 翌洪武13年(1380年)、旧暦の正月2日という年始も年始に胡惟庸と腹心の酷吏陳寧は逮捕される。謀反という罪状であった。 もちろん、逮捕から四日後には処刑された。密告者及び一族諸共であった。あっ…(察し) 正史などには様々な理由が書き連ねられているが、まあそれっぽいのをでっち上げただけだろうというのが通説である。 洪武帝の目標は唯一つ、中書省の解体、宰相の廃止及び皇帝権の強化であった。 中書省の胡惟庸派は胡党とされ、中書省諸共に粛清された。さらにこの事件は江南の裕福な地主層、士大夫の基盤にまで延焼を起こす。 ライバルを蹴落とす口実として「アイツは胡党だ!」と言いがかりをつけて逮捕させるという手法が流行したのだ。 洪武帝はその訴えを特に吟味もせずの積極的な処刑を推奨したため犠牲者は増え続け、15000人以上とも言われる。 この粛清の嵐の只中、李善長ら功臣にもその手は伸びたのだが、そこは馬皇后と皇太子朱標が必死になって食い止めてこのときは事なきを得た。 しかし、胡党というレッテルはまだまだ毒として蔓延する事となる。 その胡党探しのために御史台を廃止し都察院に改め監察強化、さらに皇帝の目・耳として近衛軍の一部を改組し錦衣衛とし、秘密警察めいて暗躍させ恐怖政治を敷くのであった。 なお、宰相職廃止はさすがに職務が皇帝に集中しすぎて負荷が大きすぎたためか、洪武帝時代でもう秘書職として内閣大学士職が置かれ、 永楽帝期には諮問機関として内閣を作り大学士複数名を閣僚として採用するなどして地位を固め後世にはさらなる権限委譲を受け、 しまいには内閣大学士筆頭は実質大元までの宰相と同等の存在として振る舞うこととなった。 ただし洪武帝が定めた祖法には宰相に準ずる皇帝の政治代執行人の設置は禁じられており 政治の中枢に座るという意味で法的根拠はまるでなかったがため、かつての宰相ほど政治を壟断することは出来ず皇帝の気分次第で首がすげ変わる(物理)程度の存在でしかなかった。 そのため皇帝への阿諛追従に終始したり讒言であっけなく失脚もあった。 郭桓の案と林賢事件 胡惟庸の獄から五年後、洪武18年(1385年)に戸部尚書(長官)の郭桓が北平の布政司(*23)と結託して食糧を着服する事件が発生。 洪武帝は当然のごとくカンカンであった。六部は中書省解体後皇帝直属の機関として再編し皇帝の手足として働くよう改組した、はずだったからである。 当然のごとく戸部のみならず六部の長官は全員誅殺、他にも中央地方を問わず官吏、さらに官吏と結託して着服したとみなされた商人など民草も多く処断されて数万人を超える犠牲が出たという。 ストッパーの馬皇后が3年前に病死し、皇太子朱標も止めるには力が弱くこの粛清を止めようにも周囲はどうしようもなかったものと見られる。 更に翌年、貿易港寧波の責任者であった林賢が胡惟庸の「反乱計画」に関わっていた「胡党」であるとして処刑された。胡惟庸同様、一族根絶やしであったという。 その後、林賢と胡惟庸の「反乱計画」が明かされた。胡惟庸の命で林賢が日本と結び、兵を招き入れる手はずとなっていたということであった。 無論、これはでっちあげである。当時の日本に海外の反乱軍と結び外征をするような主体は存在していなかったからである。 室町幕府ならできなくはないとも言えなくはないが…南朝勢力や守護に任じた諸侯のことを考慮すればまず不可能と言っていい。 そもそも室町幕府を含めた北朝方は洪武帝の要求した倭寇の取り締まりに前向きであった。 日本の状況を把握せず、倭寇を送り込んでいる可能性のある南朝勢力が九州で強かった時期に最初の使者を送り込んだ明側のミスなのだが、まあそんな事は知る由もなかったということだろう。 前述の通りの日本国王の使者を騙るニセ使者が無礼極まりない態度でカネをたかりに来たようなことも多々あったため、貿易港のある寧波の責任者林賢を胡惟庸の「反乱計画」に通じた罪で処刑し その後日本とは一切の通交を断絶する、ということにしたかったのがこの事件の真実に近いといえよう。 つまり林賢は格下の日本相手にこっちから癇癪起こして断絶、だと体面が悪いので日本が反乱軍と結んでいたとして断交するための理由付けのために始末されたという可能性がある。なんとまあ… 胡惟庸の獄とは分けたものの、どちらの事件も胡惟庸の獄から連続した事件である。そして「胡党」探しはまだまだ続く。 李善長の獄 とまあ、ここまで官吏や士大夫層に痛撃を与えて皇帝権を固めてきた洪武帝であるが、功臣たちはまだまだ多く存在していた。 ここに至るまでにも功臣の一人である甥の李文忠を微罪で葬り去り、親友にして軍功第一の徐達にも腫れ物が出来たところに蒸したガチョウを送りつけ落ち込ませて(*24)死去させた…と史書に記された程の執念をもって功臣狩りを行っていた。 次のターゲットとなったのは胡惟庸とつながりがありながら馬皇后らの嘆願、息子の嫁が公主=洪武帝の娘ということで粛清を回避した太師李善長その人であった。 1390年(洪武23年)、弟の李存義が胡惟庸の陰謀に加担したとして逮捕され、加担したことや兄の関与を「自白」すると李善長は進退窮まることとなった。 洪武帝も李善長は処刑ではなく賜死にして自裁させることで尊厳を守るくらいの配慮はしたが、一族は当然誅滅された。 そして功臣たちも李善長に加担した、陰謀を知りながら止めなかったとして19名が弁明の機会もなく処刑となった。 さらに洪武帝の執念が及ぶ前に天命が尽き死した功臣たちすら爵位を奪われる始末であった。 さらに連座で血の嵐が再び吹き荒れて15000人程度が犠牲になったという。 1392年(洪武25年)に最後の「胡党」が処刑され、かれこれ12年以上続いた胡惟庸の獄、胡党虐殺についに終止符が打たれた。 藍玉の獄 しかし1392年に皇太子朱標が死去。洪武帝は深い悲しみに包まれてしまう。 後継者としては朱標の子、皇太孫朱允炆を立てたが柔弱と思う朱標より若く、乱世の経験も乏しく自身に比べると果てしなく弱い… 洪武帝はそう見ていた。その祖父の心遣い?がさらなる粛清劇を呼び込むこととなった。ターゲットになったのはブイル・ノールの戦いの英雄、大将軍藍玉であった。 この藍玉は常遇春・馮勝といった優れた将軍に仕えて頭角を現し、馮勝失脚後は大将軍となり対モンゴル戦の主将として戦い、ブイル・ノールの戦いで圧勝してモンゴル勢力を駆逐してみせたのであった。 その圧勝ぶりは凄まじく、トグス・テムルこそ逃したが次子ティボドや妃・公主を捕らえるなど古今まれに見る大勝利であった。 この戦いの後大元から続くクビライ系の皇統が断絶。一時的にアリクブケ(*25)系のハーンが立つものの チンギス・カンが統一したモンゴルはアリクブケ系の皇統を支持するオイラト、大元の後継者を自認するドチン・モンゴル、明に投降し衛所制の元仕えるようになったウリヤンハイ三衛と後世呼ばれた勢力に分かれ弱体化を余儀なくされた。 これにより、明建国後最初に手を付けた大業である大元討伐戦はひとまず終結。藍玉は英雄となったのであった。 このように大きな功績を残した藍玉であるが、性格には難が多く時法を守る意志も薄いところがあり、命令もないのに出撃する、勝手に部下の任免をするなど放埒な振る舞いが多かった。 それが災いしたのか真っ先に目をつけられ、1393年(洪武26年)に謀反の疑いで逮捕され速やかに処刑された。これが藍玉の獄開始の暁鐘となった。 功臣を中心に「藍党」「共謀者」が炙り出され藍玉他生存していた功臣のことごとくが弁明すら許されず殺害され、これに連座して2万人とも言われる人間の命が奪われた。 しかし藍玉は武功を誇り専横するちょっとアレな人物ではあったが、謀反を起こすような人物かどうかは微妙な線であり、やはり「藍党」「共謀者」探しからの功臣粛清が主眼であった。 洪武帝の狙いは孫の允炆、のちの建文帝のために少しでも功績があり誰かが担ぐ可能性がある功臣を減らす…そのための追加粛清こそがこの藍玉の獄であると見られる。 こうして念入りに丁寧丁寧丁寧に功臣を潰した結果、湯和・耿炳文・郭英の三人以外の功臣は全滅した。 文字の獄 この他にも文章にケチを付けて始末する文字の獄を積極的に行った。なんでかって?生まれ育ちに超コンプレックスを抱いており文人を激しく憎んでいたからである。 結局功臣粛清だとかそのへんもここにつながるので根が深い憎悪であったと言えるだろう。 例としては 「天に道あり」←道と盗は同じ読みだ!朕を盗賊流賊と謗るか!死ね! 「光天の下、天は聖人を生じ、世の為に則を作す」←光ィ!?キサマ朕が坊主だったのをバカにするか!しかも則と賊は同じ読みじゃないか!死ね! 「禿」←坊主だったのを揶揄するか!死ね! などなど、激しい文章検閲及び揚げ足取り(*26)が行われこれでも命が数多散ったという。 徳川家康「おいおい、そりゃいくら何でもコジツケだろ」 禰衡「文章も碌に読めないとか、所詮貧民出だよね~♪ これだから無教養の権力者ってタチ悪い…あっ言っちゃったw」 意外な?影響で言えば西遊記は水滸伝や三国志演義等と同様、宋から明にかけて小説として完成していく過程にあったが、当時猪八戒は朱八戒といった。 ブタの妖怪に皇帝の名字、特に苛烈な文字の獄を行う洪武帝の国姓である朱をつけるのは命取りということで自主規制した結果が猪八戒という名になったのである。 尤も、皇帝と同じ文字を用いるとは「恐れ多い」としてこれまでも敬遠されていた(*27)事であり、この件に関しては当然ともいえるが… 「御製大誥」 タイトルに有るこの書物は、胡惟庸ら「胡党」がいかなる罪を犯し、いかに苛烈に取り調べられ無残に命を散らしたかを詳述し、その上で洪武帝の訓戒を書き記し 「どんなに偉くなっても悪事がバレたら皇帝はこのように君たちを処分する、こういうことを絶対にしてはいけない、絶対の忠誠を誓え」と迫るものである。 ちなみに「御製大誥」だけでも三巻作成され、この他にも李善長の獄編ともいえる「昭示姦党録」、藍玉の獄編である「逆臣録」など多数が発刊され、官僚必読の書として読み継がれたという。 結果 念入りに皇帝専制の実現及び朱家による皇統継続のため、空印の案で行中書省、胡惟庸の獄で中書省を取り潰し、郭桓の案で六部の独立性を奪い、李善長・藍玉の獄で取って代わる可能性のある功臣を始末してきた。 その結果かどうかは定かではないが、朱元璋の子孫たちは1644年(崇禎17年)に至るまで、300年弱に渡り中華の支配者として君臨することが出来た。 しかし、洪武帝が一番守りたかったであろう朱標、その子どもたちが朱家の祭祀を継ぎ、皇統として君臨することはなかった。 北方の守りに就いていた勇将でもあった四男・燕王朱棣が皇位を狙って反乱を起こし、建文帝を打ち破って皇帝(後の永楽帝)として即位したからである。これを靖難の変と呼ぶ。 この燕賊簒位…アッ(斬首)朱棣による君側の奸を排除する戦いが結果として甥っ子の殺害にまで至ってしまった悲しい事件により、朱標の血統は皇統から外れることになった。 なぜこうなったかと言えば、建文帝側には能力不足な功臣の二世や将たる資質がない文官が多く有能な将軍不在、方や対モンゴル最前線で精兵名将を従えていた朱棣が大きく有利であった、という説がある。 さらに言えば乱世を知らず柔弱な建文帝と、将たる資質をも持つ英雄・朱棣の差があるとも言われるが、そこを埋めるのが臣下の仕事であり、その臣下が前述の通り祖父の手で殲滅されていたのだから建文帝にはどうしようもなかった可能性が高い。 つまりおじいちゃんの気遣いのはずがとんだお節介だったということである。…お節介というか積極的に建文帝の朝廷を弱体化させた、といえるだろうか。 家族思いであるがゆえに、家族の地位を脅かしかねない功臣を始末した結果、建文帝政権の基盤を枯らし、朱棣ら実子の王たちに封土や軍事力を与え、家族一丸となって明という「大きな家」を守ろうとしたのが、雄略の大器であった朱棣の野心に火を付ける事となった。 あまりにも皮肉な話である。 ついでに言うと「家族に封土を与えて国家を分割し、それぞれ治めさせる」というやり方はどう見ても周代以前の封建制そのものである。 1600年ほど前に始皇帝が封建制を全廃して、反対意見が起きた際の「皇族を分封させてもすぐに諸侯で内紛を起こすだろう」という始皇帝(李斯)の再反論に見事当てはまってしまっている。 そういえば劉邦の郡国制(封建制と郡県制の妥協システム)もすぐに内紛を経て終わっている。 1600年前に終わった封建制を持ち出したあたり、根本的に時代ズレしていたのだ。 とはいえ皇子に封土や王号を与えるのはこれまでの諸王朝においてもそう珍しいことではなかったが、洪武帝の場合軍事面での裁量など独立性を大きく与えすぎたところにミスがあったと言えるだろうか。 一応徴税権は中央政府に集約していたため、軍資金は自由にすることが不可能ではあったが… 建文帝政権は諸王取り潰し政策を行う中で一番の難物であった朱棣取り潰しに失敗して滅んだので、あまりに致命的であった。 余談になるが、永楽帝以後は領土削減などを行い諸王が反乱が出来ないような仕組みにはなった。 …が、万暦帝のように皇太子に出来なかった寵姫の産んだ依怙贔屓している子に異様に大きな封土や予算を与えて国庫を圧迫する例もあった。 そこまで可愛がっていた万暦帝の愛玩子・朱常洵さんは李自成軍に煮込み料理にされて食べられてしまいました。 また、宋代とは違い 官僚の命があまりにも軽い 言論の自由も存在しない(*28) 下手なことも出来ないため文人は恐怖し朝廷から距離を置こうとしたがそれも叶わない といったこともあって文人は怯えながら職についていた。 さらには明代は官僚の俸給が異様に安いため忠誠心や仕事意欲がかなり低く、科挙も受験者数は異様に多かったため狭き門には変わりなかったが 問題が定型文(八股文(*29))を覚えるとすぐに解けるような簡便なものになった(*30)ため、宋代よりバカ・無能(*31)でも突破しやすくなっていた。 このため国士たる気宇壮大な人材のみならず、士大夫として地盤を引き継ぎたいだけという意識の低い人材も結果的にではあるが積極的に集めてしまう事となってしまった。 これらが官僚の事なかれ主義を助長し、保身のために目立たずにいることを是とする空気で愚帝にも意見する硬骨の人材が減少することに繋がった。 それでも一条鞭法を全国に拡大適用し財政再建を成し遂げた張居正ら優秀な官僚は出ることは出たが、どちらかといえば少数派であった。 家族 主な人物のみを紹介。 馬皇后 郭子興の養女で、郭子興が朱元璋を気に入ったがために嫁がせたという。明建国後に立后された。 性格は慎み深く献身的、驕らず質素を好みしかし時には夫に諫言するような芯の強さを持つ賢夫人と称揚されるに相応しい女性であり、猜疑心の異様に強い洪武帝も彼女には心を開いて接する事ができたと伝わる。また最も信頼する「側近」ともしていた。 例えば大漢の応天府侵攻の際は彼女の発案で城に蓄えていた財産や食糧を配下や市民に配布して人心の安定を図る、前述の通り功臣粛清を阻止するのは彼女であることが常であったなど洪武帝の欠けた部分を補う活躍をみせる。 とはいえ彼女も洪武帝同様生まれは良くなく無学文盲であったが、女官から字を学び自ら歴史書を読んで皇后の心得を学ぶなど向上心にも優れていた。なんなのこの人… 洪武帝も見てくれで勝る側室はたくさんいたが、本当に心を開いて100%信頼出来たのは馬皇后以外にいなかったようで、事あるごとに彼女を称揚し、彼女はそれを鼻にかけることは一切なかったという。 1382年、洪武帝を残して病死した際には慟哭していたと伝わる。胡党・功臣虐殺は馬皇后の死を境に加速し、その後の粛清も馬皇后ほどに効果的に止められる人物はいなかったという。 洪武帝は数多の側室を持ちエネルギッシュに子を設け家族を増やしていたが、新たな皇后を立后することはなかった。 新たな立后をしないことが=愛の証明とは断言できないが、他の例を見ても深く愛していたがためにしないことが多いので、まあそういうことであろう。 残虐無道な猜疑心の塊である洪武帝が人間朱元璋…いや、小作農の末っ子朱重八としてありのままでいられたのは彼女の前だけだったのだろうか。 後述の朱標ら5人の息子と2人の娘、7人の子に恵まれた…と明史にはあるが、息子たちの母は名もなき側室とも言われる。 洪武帝が息子の血統を箔付けし確かにするために史書の記述を書き換えるように仕向けたらしい。ただし確たる証拠はない。 朱標 馬皇后との間に生まれたとされる長子。明建国後は皇太子として後継指名している。 温厚篤実な性格で、父の苛烈な粛清にNOが言える数少ない人物であったという。洪武帝はその性質を柔弱と断じてはいたが皇太子から降ろすことはなかった。(*32) また弟たちの面倒見もよく、次男秦王朱樉・三男晋王朱棡らが父に疑われた際は弁護に奔走し、厳罰を撤回させることに成功した。 しかし母である馬皇后の死から十年後、父に先立って急死した。享年38歳。懿文太子と諡された。 最後のストッパーである朱標の死は更なる大粛清・藍玉の獄の原因であり、それが巡り巡って後継指名された皇太孫朱允炆の最期をも決めてしまった。 建文帝/朱允炆(しゅいんぶん) 朱標の次男。洪武帝からすると孫。側室の子である。父の死後祖父から皇太孫として後継指名された。 靖難の変に至っても「朕に叔父殺しなんて不名誉を与えてくれるなよ?」と訓令して士気を下げたり、数少ない功臣でまともな将軍の1人である耿炳文をたった1敗であっさり更迭して朱棣に「あのジジイ更迭してどうすんだか、アレ以外なら誰が来たって楽勝じゃねぇか(意訳)」とあざ笑われたり 大敗して帰ってきた李景隆を更迭するでもなく何故か高位につけるという意味不明な行動をとって求心力を下げたりろくでもない戦争指揮能力を持ち、朱棣に敗れ燃える南京に消えた悲しき皇帝。 ただし減税路線や拷問廃止など仁政方向の政策を取っていたらしく、民からは慕われたという記録もある。乱世向きではなかったのだろう。 生存説が当時から流布されており、永楽帝の崩御後には偽物が出たこともあった。 永楽帝により明代においては「いなかったもの」として扱われ、清の乾隆帝による追号や明史の編纂過程でようやく復活することが出来た。 朱棡(しゅこう) 洪武帝の三男。馬皇后との間の子らしい。明建国後は取り戻した華北の晋王に封じられた。 才気煥発で威風堂々とした智勇兼備の逸材であったが、性格に非常に問題があり周辺から讒言されることも多く、謀反を企てたという讒言を信じた洪武帝は彼を処そうとしたが 弟のピンチに長男朱標は必死に弁護に奔走。その結果罰を回避することが出来た。その後は行動を改めて真面目に温厚に生きるようになったという。 太原に拠点を持つ晋王であるため対モンゴル最前線で戦争指揮する役割であったが、朱棣に負けない才能を見せ大活躍し武功を重ねた。 父と同じく1398年に死去。もし存命であったならば建文帝や朱棣の行動にどういう対応を見せたのだろうか… 永楽帝/朱棣(しゅてい) 洪武帝の四男。馬皇后との間の子とされる。明建国後は燕王に封じられた。 兄たちの中では朱棡に似て智勇兼備の逸材であり、対モンゴル戦で大いに活躍。企図した北伐をすべて成功させ、父より「北顧の憂いなし」と称賛されたという。 その後靖難の変を勝ち抜き帝位につき、建文帝派の官僚を無惨に葬り去る(*33)、自身の本拠地であった北平(大都)に遷都。北京と改めるなどして建文帝の即位の事実や自身の簒奪を徹底革除。(*34) 永楽帝の血統が崇禎帝まで連なったこともあり、明代には建文帝や靖難の変について論議することは不可能となった。 ある意味では洪武帝よりたちの悪い残虐無道なところもあったが、大百科事典と言える「永楽大典」や四書五経の政府見解≒科挙のベースとなった「四書大全」や「五経大全」の編纂や 鄭和に大艦隊を預け南シナ海~インド洋を股にかけ東アフリカやメッカまで朝貢を求める気宇壮大な大航海(*35)を7回決行。 さらに5度のモンゴル高原親征でただの一敗もせず全勝して見せるなど明を世界帝国にするため様々な大業を行ってみせた。まさに英雄天子であり、父の英雄成分を最もよく受け継いだ子であったと言えるだろう。 しかし、「四書大全」や「五経大全」は儒教の硬直化や科挙の難易度低下を招き、東廠設置による宦官登用開始は徐々に毒として明を蝕み 後続の皇帝たちは永楽帝の世界帝国路線と洪武帝の農本主義・恤民的な内政専念の両極端な政策の間で揺れるようになり、帝国の不安定化を招くなど功罪の多い男である。 この他に23男16女、側室は史書に記載があるだけで20人以上もいる。大家族である。 なお馬皇后に対しては深い愛情を見せた一方側室には結構酷薄で、馬皇后の死後後宮のリーダー格となった李氏や郭氏は外史(*36)によると不興を買って殺されているという。 その他 肖像画 皇帝然とした温和な老人のものと、極端にアゴがしゃくれて痘痕まみれのものが残っている。現存数は後者のタイプが多い。 郭子興軍に参加したときなど、顔にまつわるかわったエピソードや、明史にも「奇骨貫項」(*37)と記載されていることなどから温和な老人の方ではなくしゃくれ痘痕男のほうが本人に近いとされることが多い。 農民に対する態度 文人や商人など士大夫層には憎悪をむき出しにしてスキあらば文人や官僚には粛清、 大商人には財産の剥奪及び荒れ地に強制移住の上開拓を強いる、あるいは粛清など強烈な敵視政策を行った。 が、農民に対しては非常に心を砕き、肉刑(*38)禁止や、大河を抱える中国大陸では政府の一番の仕事である治水事業に非常に積極的になるなど彼らを慮る政治を取っていた。 おそらく生まれが最下層の農民であったがゆえ、立場は変われど同胞意識が非常に強かったと思われる。 また、中小農民に対する商売が中心の商人には減税という形で助け船を出すこともあった。 後継者が遺訓を守ってくれない 洪武帝は後継者にむけて残した遺訓において様々なことを禁じていた。 宦官を本来の後宮の小間使い以上に重用すること 日本との国交を持つこと 宰相やそれに準ずる職の設置 などである。 しかし、宦官の重用禁止は永楽帝が即位の際に正当性が足りなかったことから鄭和らを重用。 さらに錦衣衛の上部機関として宦官を長とする東廠を設置し、恐怖政治を推し進めたことで破られた。 この後宦官は東廠長官など重要な役職につくようになり、洪武帝が懸念したとおりに土木の変でやらかした正統帝の家庭教師・王振や天啓帝時代に明の滅亡を確定させた魏忠賢などが壟断。 宦官の跳梁跋扈と愚帝のコンボにより、明は大きく弱体化し滅びへの道を進むことになった。 洪武帝が忌み嫌った日本との国交についても建文帝が足利義満の国書を容れて勘合貿易を開始したところで破られた。 その後明はしばらく勘合貿易を続けるが、16世紀には寧波事件で大きな外交問題が起こったり、中国商人が日本商人と私貿易を行うために倭寇となり沿岸を荒らし回るなどせっかく落ち着いた倭寇が活発化するなど散々であり、 終いには豊臣秀吉(*39)が万暦帝期に朝鮮半島から明に侵攻することを企て、その通り道に選定された李氏朝鮮からの救援要請を受けて戦う羽目になってしまった。 なんとか追い払う事はできた(*40)が、国庫に大打撃を受けた上兵力を抽出した遼東方面軍が弱体化しヌルハチ率いる女真族の跋扈を許してしまう。 その結果生まれた女真族統一国家後金、のちの清に明は大いに悩まされることとなる。 守られていれば明は滅びなかったとは言わないが、宦官を重用せず日本に構わずにいたら歴史はだいぶ変わっていただろうか…。 明による日本侵攻 倭寇を取り締まるよう命令した国書を受け取った懐良親王による使者殺し及び「お前らが攻めてくるなら受けて立つぞ馬鹿野郎!(意訳)」と書かれた返書にガチギレした洪武帝は、日本侵攻を真剣に考えた事もあったという。 ただ、元寇の失敗を鑑みてそれは思いとどまったという。クビライの失敗は無駄ではなかったのであった。 創作関連 中国でも毀誉褒貶激しいが、ドラマ「大明帝国 朱元璋」は大ヒットを飛ばし日本でもCSで放送されたりした。朱元璋役はレッドクリフで趙雲役を演じた当時売れっ子であった胡軍。 小説類は…ほぼ存在しない。あの陳舜臣も計画は立てたが史料読みの時点で断念したという難物である。 2ch~5chでは妙な人気があった時期があり、その頃からあるネタスレ「朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ」は一応今でも存在する。 元ネタは暗黒TBSベイスターズ時代にその輝く頭と明るい性格でファンにほんのりと明るい光を灯した…かもしれない山下大輔監督のネタスレ「大ちゃんとともに苦難を乗り越えてゆくスレ」。 当項目冒頭の洪武帝のAAと中盤の建文帝のAAは朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ出典である。ちなみにこのAAが生まれた時期は2003~2004年ごろである。 歴史家の評価 まあ色々あるが、清代の歴史家である趙翼の評価が一番端的でわかりやすいだろうと思うので紹介する。 「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」 ……ここまで長々と書いてきたことがこれだけで十分に説明がつくのが悲しい。 追記修正は「一身において聖賢、豪傑、アニヲタを兼ねた才物」の方にお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 文字の獄って要は君臣豊楽国家安康だろ -- 名無しさん (2020-08-23 02 26 34) あちらが立てばこちらが立たず、欠点の無い統治者なんていないんだなって -- 名無しさん (2020-08-23 03 01 23) 同じ人間なのか、これ(ドン引き) -- 名無しさん (2020-08-23 06 31 05) 歴史の教科書でしつこく出てきたやつだ! -- 名無しさん (2020-08-23 08 47 25) 暴君呼ばわりされるのは自分たちの既得権益を奪われたインテリの逆恨みも入ってると思う -- 名無しさん (2020-08-23 09 37 34) 場所問わず負けた側はボロクソに言われるのが歴史の常だし、盛り過ぎな部分があったとしても偉大な功績は無視できない部分があったのは確か -- 名無しさん (2020-08-23 10 11 16) 何というか、双子座のサガが実体化したような人物だな。 -- 名無しさん (2020-08-23 10 23 40) 中国史史上でもガチでまったくの貧民、親戚無しで至尊の地位に上った男だからなー -- 名無しさん (2020-08-23 12 13 46) 同じ農民出身皇帝の劉邦もヤk…土地の顔役で、毛沢東も庄屋のお坊ちゃんでどちらも富農だったのに対し(豊臣秀吉も最近は少なくとも豪農クラスの出身だった説が出てるし)、朱元璋はガチの水飲み百姓から天下人までのし上がったのがすごい。って全員晩年の粛清劇が凄い人ですね…。 -- 名無しさん (2020-08-23 13 52 20) 信長と秀吉と家康がフュージョンした様な人だな・・・ -- 名無しさん (2020-08-23 13 54 01) ↑3その上ブサイクで家族が全員餓死ってこれ人生ナイトメアモードだろ。 -- 名無しさん (2020-08-23 14 17 25) 秀吉は中の下くらいかな金もコネも学もないけど文字読めて下働きこなせる程度の教養はあるんだし -- 名無しさん (2020-08-23 16 39 37) 馬皇后が洪武帝を -- 名無しさん (2020-08-23 17 26 28) ちなみに宦官を徴用するなっていうのも体制的に無理筋なんだよね、おまけ代わりに支えてくれる外戚もいないし… -- 名無しさん (2020-08-23 20 04 45) なんかブサメンな顔とか経歴見ているとどこぞの海賊漫画の黒炭オロチみたいだなって思えてきた… -- 名無しさん (2020-08-23 21 02 57) 宦官使うなってんならせめて代わりの官僚くらい残してクレメンス・・・(届かぬ思い) -- 名無しさん (2020-08-23 21 27 15) ↑漢方孝孺、迫真の燕賊批判 -- 名無しさん (2020-08-23 22 40 11) ↑4 劉邦の真似しろって言われたから呂稚がいるかのように功臣殺しまくっただけなのに・・・まあそれでも劉邦は文官や謀臣といった功臣は手にかけてないわけだが -- 名無しさん (2020-08-24 00 37 31) 地盤のない人物だから粛清自体は仕方ないんだが、結果的には裏目ったね。奥さんや息子が善人で、家族の絆も強そうな辺りがまた哀愁を誘う -- 名無しさん (2020-08-24 00 48 09) 洪武帝はダブる名前もないことだし、朱元璋という名も有名なのはその通りなんだけど、永楽帝のことも考えると項目名は「洪武帝」だけでもいいんじゃないかなーと思う。 -- 名無しさん (2020-08-24 00 59 31) 官僚と皇帝、更にココに有力者が絡むので清のあの人並みばりにマジキチレベルで独裁するか、宦官という個人スタッフを使って仕事するかの二択ー(皇帝は全部自分でやりたい、官僚は決まりどおり粛々と処理したい) -- 名無しさん (2020-08-24 10 58 20) 「特定の文字を元に『自分の過去への当てこすり』という言い掛かり同然の冤罪で粛清した」「とにかく数多の功臣が粛清された」とか怖い逸話ばかり聞くせいで「やっぱヨシフおじさんといい貧困層出の君主ってダメなのかな……」と思いきや、「自分が若い頃家族が死に絶えながらも、飢饉の真っ只中おそらくはその悲しみに暮れる間すらなく自分一人で生き延びる術を探さざるを得なくなる凄惨な過去があったから(主に悪い方向に出てしまったけど)、皇帝になって妻子に満足な遺産を残せるようなった後は磐石の治世を残してあげようとしたし、皇后が『治らなかったら医者が冤罪をかけられるかもしれない』とすら病床ですら案じたほど家族を喪う深い悲しみがあったからこそ新たに得た家族への愛情も家族を脅かし得るものへのへと強い警戒心もあった」と良くも悪くも「ただの人間」だったんだとわかってなんか安心した -- 名無しさん (2020-08-24 20 27 43) だから王には血筋がどうしても必要という事なんでしょう 結局王と官の線引きをするって時にじゃあ何が線になるのかと言うと血筋な訳で それだけは官一人じゃ逆立ちしても手に入らないんだから犯しようがない 時代がそうとはいえ皇帝になってしまった事が彼の不幸その物だと思う -- 名無しさん (2020-08-24 22 33 55) ↑実際組織を安定させる方法としては世襲制は未だに有効だしな -- 名無しさん (2020-08-24 23 54 37) 読みが同じで後漢の初代皇帝である光武帝(劉秀)との対比が色々と面白い。あちらが(ある程度の誇張込みとは言え)いかにも穢れを知らない、完璧超人じみていて人間離れしたエピソードが多いのに対して、こちらは皇帝の椅子に座って尚、持たざる者だったが故のコンプレックスや家族に対する甘さといった「人間らしさ」をおおよそ捨て切れていないのがなんとも -- 名無しさん (2020-08-25 09 01 45) 家康の方広寺の鐘の件、文字に関しては確かにイチャモンだがその結果求めた「淀君を人質にだし豊臣は参勤交代しろ」はそれほど理不尽な要求じゃないんだけどね(ていうかこれに従わないなら謀反企んでる扱いされてもしゃーない) -- 名無しさん (2020-09-06 19 26 56) そもそも豊臣氏は家康と天下を争うライバルだから仕方ない。家康にしてみれば小牧長久手で覇権を争った相手の妻子にいつまでも膝を屈している理由はなかろうし -- 名無しさん (2020-09-06 19 51 43) しかしこうして見ると『カイジ』の兵藤会長が慈悲の化身に見えるほどの暴君ぶりだな……民も虐げたより単純な暗君なら五代十国辺りにいくらでもいたし、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ -- 名無しさん (2020-09-06 19 54 29) 経歴だけ見ると虹の世界でも通用しそうだよな・・・ -- 名無しさん (2020-09-13 01 32 44) 馬皇后は病状が悪化しても朱元璋が寄越した医者の診察は受けなかった。理由は結果的に自分が死んだら「治せなかった」を理由に粛清されるのが分かっていたからだという -- 名無しさん (2021-03-08 22 45 06) 耿炳文も朱元璋の死後に粛清されてる。郭勛の子孫は結構後の世代まで残ったらしいが -- 名無しさん (2022-03-21 08 45 10) 極貧に加えて容姿までブサイクとか人生ハードモードにもほどがある。そこから最終的には大帝国の建国者に上り詰めるとか化け物すぎますわ。確かにこの男には人類史最大の成り上がり者という称号がふさわしいな。 -- 名無しさん (2024-03-30 22 33 34) 50歳で亡くなったらしい馬皇后が、もしもっと健康で長生きしていたら、この人の評価ももう少し変わっていたかもしれないなぁ。しかし無学のはずなのに、馬皇后はよくぞここまでの振る舞いと夫の暴走を止めるために尽力できたものだ。歴史は、時折あり得ないほどの天才を産み出すが、馬皇后もその一人だったのかもしれない。 -- 名無しさん (2024-03-31 10 59 47) 名前 コメント