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前航空幕僚長:憲法改正論にまで踏み込む「田母神論文」の危うさ 前航空幕僚長:憲法改正論にまで踏み込む「田母神論文」の危うさ(1) 無視された5月の「警告」◇文民統制への挑戦状 ◇石破茂元防衛相「憲法の精神に反する」 (2) 現代史家・秦さん「低レベルで不快」◇現代史家・秦郁彦さん「低レベルで不快」 (3止) 山口大・纐纈さん「制服組の欲求?」◇山口大教授・纐纈厚さん「制服組の欲求?単独プレーで片付けられない」 (1) 無視された5月の「警告」 http //mainichi.jp/select/jiken/news/20081113mog00m040019000c.html ◇文民統制への挑戦状 懸賞論文でゆがんだ歴史認識を披露し、今なお自説の正しさを声高に主張する田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長。参考人として招致された11日の参院外交防衛委員会では、憲法改正にまで踏み込んで発言してみせた。これまでの制服組による問題発言とは根本的に異なる、不穏な空気も漂う。【遠藤拓】 ◇石破茂元防衛相「憲法の精神に反する」 「今年5月のことです。田母神さんに言いました。『いいですか。あなたは一個人、田母神俊雄ではありません。私の幕僚です。政府見解や大臣見解と異なることを言ってはいけません。いいですね』と」 そんな秘話を明かすのは、当時の防衛相で現農相の石破茂さんだ。東大の学園祭で田母神氏が講演することを知り、注意を促したという。当然であろう。田母神氏はその直前の4月、自衛隊のイラク派遣を一部違憲とした名古屋高裁判決に「そんなの関係ねえ」と言い放った。つまり、要注意人物だったわけである。石破さんの注意が功を奏したのだろう、講演会は無事に済んだ。しかし、皮肉なことに、今回問題となった論文の募集は始まっていた。 かつての“上官”として、今回の問題をどう見ているのか。自民党きっての防衛政策通としても知られる石破さんはこう指摘する。 「政治家が自衛隊のトップになっているのは、選挙によって国民の負託を受けた政治家が、責任を負っているからです。自衛官が自らの思想信条で政治をただそうというのは、憲法の精神に真っ向から反しています」 制服組に理解があると言われる石破さんの目にも、今回の田母神論文はシビリアンコントロール(文民統制)への挑戦と映ったようだ。 「日本は侵略国家であったのか」と題した田母神論文は「我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない」などと、現行の防衛政策に対する不満を強くにじませているのも特徴だ。それゆえに、問題発覚の直後、石破さんはこう発言している。「政治が何もしてないかのように言うなら旧陸軍将校によるクーデター『2・26事件』(1936年)と何も変わらない」(本紙11月1日付朝刊)。日本の現代史上最大のクーデター事件と同列の視座で語っているところに、石破さんの強い危機感がにじむ。同事件は陸軍の青年将校を中心に引き起こされ、時の閣僚らを殺害した。反乱そのものは鎮圧されたが、それ以降、日本は軍国主義への道を加速させた。 2008年11月13日 (2) 現代史家・秦さん「低レベルで不快」 http //mainichi.jp/select/jiken/news/20081113mog00m040020000c.html ◇現代史家・秦郁彦さん「低レベルで不快」 さて、その田母神論文の概要を改めて紹介しよう。日中戦争、太平洋戦争は当時の国際共産主義運動を担ったコミンテルン(1919年創設の国際組織)によって引き起こされたとする“陰謀史観”を披露。旧満州や朝鮮半島の植民地支配について、「我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ」と主張し、集団的自衛権行使や武器使用の制限を念頭に「自衛隊は雁字搦(がんじがら)めで身動きできない。(戦争責任をすべて日本に押しつけようとした)マインドコントロールから解放」されなくてはならない、と説いている。政府として近隣諸国の植民地支配と侵略を謝罪した95年の「村山談話」を真っ向から否定する内容である。それどころか田母神氏は11日、「村山談話は言論弾圧の道具」と言い切ってみせた。 現代史家の秦郁彦さんはこの日の発言を踏まえ、あきれたように話す。 「マンガ的な低レベルのやりとりで不快でした。肝心の国防について、『これでは国を守れないから困る』といった注文が出ているわけでもない。戦争を巡るコミンテルン陰謀説は、徳川埋蔵金があるとかないとかいったレベルの話です。懸賞論文で最優秀賞を取ったのが不思議でならない。『村山談話』への挑戦とも言われているが、論文には『む』の字もない。本人は『そんな談話あったかな』といった程度の認識でしかないのでしょう」 要は内容が稚拙すぎるというのだ。けれども、秦さんは過剰な反応を戒める。 「戦前の日本のシステムと比べれば、今は抑えが利く状態。二、三十年前まで聞かれたクーデターへの不安の声も今はない。総司令官である総理大臣と防衛大臣がしっかりすれば、自衛隊が独走し政治権力を握ることはないだろう」 2008年11月13日 (3止) 山口大・纐纈さん「制服組の欲求?」 http //mainichi.jp/select/jiken/news/20081113mog00m040021000c.html ◇山口大教授・纐纈厚さん「制服組の欲求?単独プレーで片付けられない」 これに対して、「制服組がこれだけ赤裸々に誤った歴史認識を表明した例はなかった」と危機感を募らせる研究者もいる。「文民統制 自衛隊はどこへ行くのか」(岩波書店)などの著書がある山口大教授(日本近現代史専攻)、纐纈(こうけつ)厚さんもその一人だ。 実は、現役の制服組幹部による「問題発言」は今回が初めてではない。別表をご覧いただきたい。これまで波紋を呼んだ制服組幹部の発言というのは、法制上の問題点に関してのものがほとんどで、歴史認識を直截(ちょくせつ)的に論じたのは今回が初めてといっても過言ではない。それだけに、纐纈さんの危機感はぬぐえない。 「論文後段は、いつまでも米国の従属軍的な立場でなく、自律的な立場を取り戻さねばという趣旨で書かれています。戦前の日本を縛った『アジア・モンロー主義』とも重なる。アジアで日本が単独覇権を握るため、米英に依存せず、自前の軍装備や資源供給地を確保しなければならないという考え方で、政財界にも広がり戦争への道を切り開く一因となった。今の制服組にもそうした欲求があるのかもと思うとぞっとします」 田母神論文には秘められた狙いがある、とも言う。 「国会でもメディアでも、彼はとにかく自説を説きたいんですよ。批判も多いが、共感もあると踏んでいる。いずれ自衛隊内外から『よくやった』との反応もあるでしょう。推測の域を出ないが、これは彼の単独プレーでは片付けられない気がしますね」 作家、半藤一利さんのベストセラー「昭和史 1926-1945」(平凡社)。33(昭和8)年に大阪で起きた兵隊の交通違反をめぐって警察と軍が激しく対立した「ゴーストップ事件」を論じた個所で、半藤さんはこう記す。<日本は決して一気に軍国主義化したのではなく、この昭和八年ぐらいまでは少なくとも軍と四つに組んで大相撲を取るだけのことができたといえます。ただし、軍にたてついて大勝負をかけた事件はこれをもって最後となり……軍が「ノー」と言ったことはできない国家になりはじめる> 田母神論文の書かれた2008年を、後世の歴史家はどう位置づけるだろう。今のこの国に“いつか来た道”の再現を拒む力は残っているか。問いは田母神氏ではなく、私たちに突きつけられている。 2008年11月13日 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
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通120 | 戻る | (別紙2) 謝罪広告 家永三郎著「太平洋戦争」(岩波書店刊)において,慶良間列島の座間味島でいわゆる「部隊長命令で,島民を集団自決させた」ことが真実であり,梅澤裕少佐が集団自決命令をくだした旨記載しましたが,これは事実に反するものです。これにより貴殿の名誉を著しく毀損したことを認め,深くお詫ぴ申し上げます。 平成年月日 株式会社 岩波書店 梅澤 裕 殿 掲載条件 大きさ 二段抜き 左右 7センチメートル 子持掛囲み 見出し 二倍明朝体 本文 一倍明朝体 掲載場所 全国版 朝刊 社会面 戻る | 別紙一覧 読める判決「集団自決」
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毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る 琉球新報2007.6.21 【写真】「歴史は正しく語り継がなければ」と強調する仲里利信県議会議長=南風原町の自宅 「弟が目の前で死んでも悲しんでいる余裕さえもなかった。父も沖縄戦で死んだ。歴史を風化させないために正しく語り継いでいかなければならない」。22日の県議会意見書可決を前に、仲里利信議長(70)が自身の沖縄戦体験について告白し、全会一致への決意を新たにした。仲里議長は19日の県議会文教厚生委員会でも戦争の現実を訴えた。 1945年2月の夜、通信隊に入っていた父・利吉さんが、ふいに現れた。「今度の戦は負け戦に間違いない。ここにいると駄目だから、すぐにやんばるに行け」。父が手配していた友軍(日本軍)の車で家族9人、宜野座へ避難した。 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。 後は別れた家族を捜して、何も口にせずに何日も山を歩いた。母の母乳も出なくなり、弟が弱っていった。恩納村、宜野座と回り、金武で残りの家族と再会できたが、そこにも食糧はなく、弟は満1歳で衰弱死した。「(1年前の)生まれた日の生まれた時間だ」と母が静かに言った。死体は金武に埋めて、戦後掘りに行ったが、捜しきれなかった。 自身の体験と重ね合わせながら仲里議長は「歴史を風化させたら、また戦争への道を歩んでしまう」と危機感を募らせる。「平和を願う気持ちは全県民一緒だよ。この問題は保守革新も関係ない。県議会も全会一致でまとめることに重みがある」。仲里議長の静かな口調に強い決意がにじんだ。(深沢友紀) (6/21 9 50)
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通006 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 第2 事案の概要 第2・2 前提となる事実 第2・2(2) 第二次世界大戦における沖縄戦と座間味島及び渡嘉敷島における集団自決 昭和16年12月に始まった太平洋戦争は,昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ,昭和19年7月にはサイパン島が陥落し,昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し,次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。 昭和19年3月,南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され,同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し,この沖縄守備軍・第三二軍は「球部隊」と呼ばれていた。 昭和20年3月23日から,沖縄は米軍の激しい空襲に見舞われ,同月24日からは艦砲射撃も加わった。慶良間海峡は島々によって各方向の風を防ぎ,補給をする船舶にとっては最適の投錨地であったことから,米軍の最初の目標は,沖縄本島の西55キロメートルに位置する慶良聞列島の確保であった。米軍の慶良間列島攻撃部隊は,アンドリュー・D・ブルース少将の率いる第77歩兵旅団であり,空母の護衛のもと,上陸作戦に臨んだ。 慶良間列島には,座間味島,渡嘉敷島,阿嘉島などがあるところ,昭和19年9月,座間味島には原告梅澤が指揮する海上挺進隊第一戦隊(以下「第一戦隊」ともいう。)が,渡嘉敷島には赤松大尉が指揮する海上挺進隊第三戦隊(以下「第三戦隊」ともいう。)が配備された。海上挺進隊は,当初、小型船艇に爆雷を装着し,敵艦隊に体当たり攻撃をして自爆することが計画されていたが,結局出撃の機会はなく,前記船艇を自沈させた後は,海上挺進隊はそれぞれ駐屯する島の守備隊となった。 原告梅澤の守備する座間味島と,赤松大尉の守備する渡嘉敷島では,米軍の攻撃を受けた昭和20年3月25日から同月28日にかけて,それぞれ島民の多くが集団自決による凄惨な最期を遂げた(なお,以下では,原告梅澤が座間味島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「梅澤命令説」といい,赤松大尉が渡嘉敷島において住民に集団自決を命じたことを肯定する見解を「赤松命令説」という。)。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」 <語彙>集団自決,太平洋戦争,ミッドウェー沖海戦,サイパン島,硫黄島,南西諸島,西部軍,第三二軍,球部隊,アンドリュー・D・ブルース少将,第77歩兵旅団,阿嘉島,海上挺進隊第一戦隊,海上挺進隊第三戦隊,守備隊,梅澤命令説,赤松命令説
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ソース:チャンネル桜 http //www.ch-sakura.jp/topix/1054.html 訴状;http //www.ch-sakura.jp/sakura/NHK_lawsuitcomplaint.pdf 代理人目録:http //www.ch-sakura.jp/sakura/NHK_lawsuit_proceduralattorney.pdf 訴状の構成 以下に私が読み取った訴状の構成をメモします。詳しい内容は原文をあたってください。 1、8389万円の「損害賠償等請求事件」だそうです。 2、被告は、放送法第7条にもとづく日本放送協会 (ちなみにチャンネル桜は、今月1日スカパー復帰しましたから、同法第52条の13に基づき認定された委託放送事業者です。下記の放送法第3条を遵守する義務は、NHKと同様にあるはずです) 3、訴えた原告は、NHKに受信料を払ってる人(原告資格A)と、払ったことはないが払えといわれそうな人(原告資格B)の2種類だそうです。 4、番組「アジアの一等国」の場面やせりふには放送法第3条の2の第1項に違反するところがあるから、原告らと被告との受信契約に違反しているばかりか、前項の内容の本件番組を放送する被告との契約を強制されることで精神的に損害を受けている。 5、よって、不法行為として損害賠償を請求することができる。 といっています。 番組が放送法違反だという根拠として 6、番組が明治28年の台湾領有に焦点を当て、存在しなかった事実をあったかのように事実を捏造し、誤った事実に基づいて批判し、我が国の努力を不公平な態度で嘲笑している。50年間、いかに台湾人を弾圧し、虐待し、差別し、利用したかを延々と述べる。インタービューに登場したほとんどすべての台湾人がインタービューの一方的な放送に怒りの声をあげている と述べ特に問題になることとして (1)人間動物園 (2)後藤新平の取扱 (3)日台戦争 (4)やらせ、歪曲取材 という事項を挙げている。訴状は続けて 7、「抗議の声にNHKが誠実に対応してない」との非難を述べている 8、原告らの損害は1万円をくだらない と述べている。 まとめのところが訴状の肝だと思いますので、それを引用します。 ~~~~~~~(引用開始) 第8 原告らの損害 (原告資格A) 1 原告らは、被告と受信契約を締結させられているが、原告らが契約締結に応じたのは、被告が本件義務(引用者注=放送法を守る)を果した番組を放送することを期待したからである。 2 被告はその期待に反したばかりか、逆に本件義務に反した番組を反していないと居直っている。被告が原告らの期待に反した本件番組を放送したことにより、原告らが受けた精神的損害は、各自1万円を下らない。 (原告資格B) 3 また、受信契約を締結していない原告らは、本件義務に反した番組を放送する被告との受信契約を強制されるのではないかという精神的不安をかかえている。その不安についての慰謝料は各自1万円を下らない。 ~~~~~~(引用終了) 8000余人の「白紙委任状原告」というのも異様ですが、 この訴訟内容も異様に思えます。 法律に詳しい方の論評を待ちたいと思います。 補足 チャンネル桜がWEBで配布している委任状の文面サンプルはまさしく白紙委任状です。 http //www.ch-sakura.jp/topix/1054.html 訴状の構成 訴状当事者の表示 損害賠償等請求事件 請求の趣旨 請求の原因第1 当事者 第2 被告作成及び放映の番組「JAPAN デビュー」の第1回「アジアの“一等国”」について 第3 放送法により被告に課せられた義務 第4 原告と被告との関係(受信契約)及び受信契約の内容 第5 被告の放送法違反、受信契約違反、及び不法行為 第6 本件番組の内容1 総論 2 人間動物園 3 後藤新平の取扱 4 日台戦争 5 やらせ、歪曲取材 第7 被告に対する抗議とその対応 第8 原告らの損害 第9 結論 添付書類 代理人目録 訴状 平成21年6月25日 東京地方裁判所御中 原告ら訴訟代理人 弁護士高池勝彦 弁護士荒木田修 弁護士尾崎幸廣 弁護士田中禎人 弁護士溝呂木雄浩 弁護士山口達視 別紙原告訴訟代理人目録記載のとおり 当事者の表示 原告ら別紙原告目録のとおり 被告150-0041 東京都渋谷区神南二丁目2番1号 日本放送協会 代表者会長福地茂雄 損害賠償等請求事件 訴訟物の価額金8389万円 貼用印紙額金27万2000円 予納郵券金6400円 請求の趣旨 1 被告日本放送協会は、原告らに対し、それぞれ金1万円及びこれに対する本訴状送達の日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2 訴訟費用は被告の負担とする。 との判決並びに第1項につき仮執行の宣言を求める。 請求の原因 第1 当事者 1 被告は、放送法第7条の目的を達成するため同法の規定に基づき設立された法人である。 2 原告らは、同法第32条の第1項の規定により、被告と受信契約を締結した者及び契約締結を法律上強制されている者である。 第2 被告作成及び放映の番組「JAPAN デビュー」の第1回「アジアの“一等国”」について 1 被告は、平成21年4月5日、シリーズものの番組「JAPAN デビュー」の第1回として「アジアの“一等国”」を放映した(以下、本件番組という)。その中に、別紙1のような場面やせりふが含まれている。 2 その場面やせりふには後述の問題点があり、原告らの契約上の権利を侵害するものである。 第3 放送法により被告に課せられた義務 1 放送法第3条の2の第1項は、次のように定めている。規定中の放送事業者に被告が含まれることは当然である。 放送事業者は、国内放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。 二 政治的に公平であること。 三 報道は事実をまげないですること。 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。 2 同法第44条第1項には、特に被告に課せられた義務として次の規定がある。規定中の協会は、被告をさす。 協会は、国内放送の放送番組の編集及び放送又は受託国内放送の放送番組の編集及び放送の委託に当たつては、第三条の二第一項に定めるところによるほか、次の各号の定めるところによらなければならない。 一 豊かで、かつ、良い放送番組を放送し又は委託して放送させることによつて公衆の要望を満たすとともに文化水準の向上に寄与するように、最大の努力を払うこと。 二 (略) 三 我が国の過去の優れた文化の保存並びに新たな文化の育成及び普及に役立つようにすること。 3 以上を総合すると、被告には、政治的に公平で、事実に即し、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、良い放送番組によって文化水準の向上に寄与するものであり、我が国の過去の優れた文化の保存並びに新たな文化の育成及び普及に役立つような番組を制作放送する義務(本件義務)がある。 第4 原告と被告との関係(受信契約)及び受信契約の内容 1 放送法第32条第1項には次の規定がある。 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。(以下略) 2 原告らは上記規定により被告と受信契約を締結している者及び締結を強制されている者である。 3 受信契約により、原告らが受信する放送は、放送法に適合したものでなければならない。いいかえると、被告が放送法に適合しない番組を放送した場合には、原告らは被告に対し、契約違反として、または不法行為として損害賠償を請求することができる。 第5 被告の放送法違反、受信契約違反、及び不法行為 1 本件番組は、次に述べるように、事実に反するばかりか、一方的ないわゆる「やらせ」取材をし、虚偽の事実を捏造し、極めて悪質で偏向したものである。 2 本件番組は放送法に違反するとともに、原告らと被告との受信契約に違反しているばかりか、前項の内容の本件番組を放送する被告との契約を強制されることで精神的に損害を受けている。 第6 本件番組の内容 1 総論 本件番組は、日本が明治開国以後、一等国になろうとして努力した内容を取り上げたものである。明治27年(1894年)から翌年の日清戦争、明治37年(1904年)から翌年の日露戦争から大正3年(1914年)の第一次世界大戦にかけて、一等国二等国三等国という考え方があり、我が国は一等国になろうと必死に努力したのである。本件番組は、明治28年の台湾領有に焦点を当て、その我が国の努力を、存在しなかった事実をあったかのように事実を捏造し、誤った事実に基づいて批判し、不公平な態度で嘲笑している。多くの台湾人のインタービューを登場させ、明治28年から昭和20年(1945年)までの50年間、我が国がいかに台湾人を弾圧し、虐待し、差別し、利用したかを延々と述べる。インタービューに登場したほとんどすべての台湾人がインタービューの一方的な放送に怒りの声をあげ、訂正を要求する抗議書を作り署名しているほどである。特に問題となるのは次のとおりである。 2 人間動物園 明治35年(1902年)締結された日英同盟のもと、日露戦争に勝利した我が国は、日英の一層の経済交流を図るべく、明治43年(1910年)、英国政府と共催で、ロンドンにおいて日英博覧会を開催した。この博覧会において、公式展示とは別に余興区画がつくられ、力士団による相撲、日本人農民による農村風景を描いて米俵製作の実演など日本の伝統的な農村風景を紹介、アイヌや台湾原住民のパイワン族による生活状況を見せた。日英博覧会は、5月14日から10月29日の開催期間内に835万人の入場者があるなど大成功をおさめた。本件番組は、パイワン族による実演を「人間動物園」と表現した(別紙1、10 頁)。 日本政府が、パイワン族による実演を「人間動物園」と呼んだことはない。本件番組は、当時、イギリスやフランスは、博覧会で植民地の人々を盛んに見せ物にし、それを人間動物園と呼んだから、日本はそれを真似たのだというのである(別紙1、13 頁)。これは悪意に満ちた曲解である。イギリスやフランスによる植民地の人々による見世物が人間動物園と呼ばれたのか実証されておらず、人間動物園と呼ばれたかもしれないが(しかも当時「人間動物園」の言葉そのものが使用されたことがなく、後に作られた言葉である可能性が高いのである)、日英博覧会におけるパイワン族によるによる民族舞踊等の実演はそのようなものではなく、我が国の風俗民族産業の実情を紹介する一環であることは明らかであるのに、そのように番組のナレーションは解説した。我が国が、展示内容の品位に留意していたことは当時の公式記録にもある。 さらに日英博覧会に出演したパイワン族の子孫である労兄妹に、人間動物園の説明もなく、出演した父親の写真を見せた。妹の女性は、父親の写真を見て日本語で、「かなしいね」と日本語で言い、パイワン語で「非常にこのことは言葉に言えない」と言った。また、男の声で、女性の顔の画面に「かなしいね、語りきれないそうだ。かなしいね、この重さね、話しきれないそうだ」と日本語の声が流れてくる。本件番組では、人間動物園の説明をして、この女性とその兄の画面で、字幕に「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」と出しているのである(別紙1、14 頁)。本件番組を見た者は、あたかも、このパイワン族の老兄妹が、父親の人間動物園出演を嘆いて「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない。」と言ったと思わせているのである。その後の調査で、パイワン族の人々が日本語で「かなしい」というのは、「なつかしい、せつない」という意味であることが明らかとなった。要するに亡くなってもういない父親の写真を見て、懐かしいせつないと感嘆の声を上げただけなのである。しかも、男の声の、「かなしいね、語りきれないそうだ。かなしいね、この重さね、話しきれないそうだ」は画面に登場している兄の発言ではなく、画面に登場していない別の隣家の男の初言であることも明らかとなった。 3 後藤新平の取扱 明治31年(1897年)、台湾総督府に民生局長(総督に次ぐ地位)として赴任した後藤新平は、自身医者でもあったので、当時瘴癘の地といわれ、マラリアその他の疫病が蔓延していた台湾に衛生観念や設備を導入し、台北市をはじめ多くの都市計画を立案した。現在の台湾の大都市は後藤の都市計画が基礎になっている。また、台湾の発展のために有能な人材の登用にも力をつくした。 代表的な人物として、後に国際連盟の事務次長となって国際的に活躍した新渡戸稲造を総督府の殖産局長に招聘して、活躍させ、糖業発展に大きな成果を残した。その後藤を、本件番組は、台湾人の弾圧差別の首謀者としてのみ描いている(別紙1、10頁以下)。後藤が台湾人を弾圧するために特別に立法し、それによって3千人を死刑したという。後藤の功績について樟脳事業の立て直しについてだけであり、その樟脳事業のために基隆港を大型化し台湾の縦貫鉄道を敷設したかのように描いている。台湾における農業の基幹となる米やサトウキビの増産などへの貢献についてはまったくふれていない。 4 日台戦争 台湾併合直後、台湾人によるいくつかの暴動が起きて日本軍により鎮圧された。本件番組では、この暴動と鎮圧をさして、「日台戦争」と呼んでいる(別紙1、10 頁)。 「日台戦争」などという用語は、ごく少数の偏向した学者が使っている特殊な用語である。日本が領台直後に直面した台湾人などによる武装抵抗は確かに激しいものではあったが、宣戦布告もなく、台北や台南入場に際しては城内の台湾人や外国人などが一致して日本軍を場内に招き入れていることからも、これは日清戦争後における治安維持のための戦闘であり、決して新たな戦争ではなく、「日台戦争」などと呼ばれるべき性質のものではない。また、この治安維持については、台湾放棄を徹底しなかった清国政府にも責任があるものである。本件番組はそのような特殊な用語を使うことによって日本軍の弾圧がいかに厳しいものであったかということを印象付けようとしたのである。台湾の番組出演者のほとんどが、この事実歪曲の訂正を要求し抗議書に署名している。 5 やらせ、歪曲取材 番組のナレーションで語られる柯徳三さん一家の家族情報は、NHK取材班が柯徳三さんの自宅を訪れ、教えるまで、柯徳三さんは知らなかったにもかかわらず、NHK製作スタッフは、自分たちの狙っている製作意図を柯徳三さんにしゃべらせて、証言者自身から出た言葉であったかのように撮影し、編集し、放送している。柯さんはその情報を聞いて、コメントをさせられたのである。これはテレビ製作者としてはやおってはいけない「やらせ」取材であり、完全な放送法の違反である。 第7 被告に対する抗議とその対応 1 原告らの一部を含む多数の国民は、本件番組があまりに事実を歪曲し、我が国を不当に貶めていることに抗議して、被告に対して、東京では、平成21年5月16日、30日、6月20日と抗議デモが行われ、それぞれ1000人以上が参加した。東京以外では、大阪、名古屋をはじめ全国各地で被告の支局に対して同様の抗議デモが行われ、台湾の台北でも行われた。 2 平成21年6月11日には、「公共放送のあり方について考える議員の会」が発足し、衆参両院議員60名以上が加入して、本件番組が「日本の統治がひどかったという一方的な内容にしている」との観点から、有識者や被告の管轄官庁である総務省担当者などにも出席を要請して公共放送の在り方を議論している。 3 放送法第2条3号の2の放送事業者である株式会社日本文化チャンネル桜の調査によると、本件番組に登場したほとんど全部の台湾人は、自分の発言が一方的に放送されていたり、公平でなかったりしたことを抗議している。さらに、被告が材料を提供して自分の好みに合わせた発言をさせたいわゆるやらせ発言であることまで判明している。 4 原告らの一部や、上記議員の一部が被告に対して、本件番組について、抗議したが、被告は、本件番組は公平であるとして、誠意ある対応をしない。 5、被告は台湾人出演者から抗議はないと、NHKのホームページや議員の会への回答書で繰り返し明言しているが、出演した台湾人のほとんどが訂正と抗議の書類に署名捺印している。また、台湾人の日本語世代の代表的な会である「友愛会」も80名の署名とともに抗議書を原告団に送付している。 第8 原告らの損害 1 原告らは、被告と受信契約を締結させられているが、原告らが契約締結に応じたのは、被告が本件義務を果した番組を放送することを期待したからである。 2 被告はその期待に反したばかりか、逆に本件義務に反した番組を反していないと居直っている。被告が原告らの期待に反した本件番組を放送したことにより、原告らが受けた精神的損害は、各自1万円を下らない。 3 また、受信契約を締結していない原告らは、本件義務に反した番組を放送する被告との受信契約を強制されるのではないかという精神的不安をかかえている。その不安についての慰謝料は各自1万円を下らない。 第9 結論 よって、原告らは被告に対し、本件受信契約違反に基づく慰謝料として各々1万円、およびこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みに至るまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める。 添付書類 1 資格証明1通 2 訴訟委任状8389通 (別紙1)「アジアの“一等国”」書き起こし 代理人目録 弁護士 髙池勝彦 弁護士 青山定聖 弁護士 荒木田修 弁護士 内田智 弁護士 尾崎幸廣 弁護士 小沢俊夫 弁護士 勝俣幸洋 弁護士 神崎敬直 弁護士 田中平八 弁護士 田中禎人 弁護士 田辺善彦 弁護士 玉置健 弁護士 中島繁樹 弁護士 馬場正裕 弁護士 羽原真二 弁護士 浜田正夫 弁護士 藤野義昭 弁護士 二村豈則 弁護士 牧野芳樹 弁護士 松本藤一 弁護士 溝呂木雄浩 弁護士 三ツ角直正 弁護士 森統一 弁護士 山口達視 弁護士 山崎和成 〒102-0093 東京都千代田区平河町二丁目16番5号 クレール平河町302号髙池法律事務所(送達場所) 電話03(3263)6041 ファックス03(3263)6042 弁護士 髙池勝彦 〒860-0078 熊本県熊本市京町二丁目1番17号 青山定聖法律事務所 電話096(352)1167 ファックス096(352)1168 弁護士 青山定聖 〒104-0061 東京都中央区銀座六丁目12番2号 東京銀座ビル3階荒木田修法律事務所 電話03(3572)5175 ファックス03(3572)5176 弁護士 荒木田修 〒100-0006 東京都千代田区有楽町一丁目13番1 号 第1生命館内山近・矢作法律事務所 電話03(3216)3822 ファックス03(3215)5400 弁護士 内田智 〒154-0022 東京都世田谷区梅丘一丁目22番4-203号 菊水法律事務所 電話03(6240)8277 ファックス03(6240)8278 弁護士 尾崎幸廣 〒183-0023 東京都府中市宮町一丁目23番3号 關口ビル5階小沢俊夫法律事務所 電話042(336)6701 ファックス042(336)6702 弁護士 小沢俊夫 〒101-0021 東京都千代田区外神田二丁目18番20号 ナカウラ第五ビル4階勝俣幸洋法律事務所 電話03(5297)3755 ファックス03(5297)3756 弁護士 勝俣幸洋 〒100-0014 東京都千代田区永田町二丁目14番3号 赤坂東急ビル8階赤坂山王法律事務所 電話03(3591)6070 ファックス03(3591)6071 弁護士 神崎敬直 〒105-0004 東京都港区新橋四丁目29番6号 寺田ビル4階402号室 電話03(3436)6595 ファックス03(5472)4087 弁護士 田中平八 〒105-0004 東京都港区新橋四丁目29番6号 寺田ビル4階402号室 電話03(3436)6595 ファックス03(5472)4087 弁護士 田中禎人 〒640-8144 和歌山県和歌山市四番丁26―2 田辺法律事務所 電話073(431)2801 ファックス073(433)2299 弁護士 田辺善彦 〒640-8117 和歌山県和歌山市南細工町12 玉置・石倉法律特許事務所 電話073(436)1520 ファックス073(436)3087 弁護士 玉置健 〒810-0073 福岡市中央区舞鶴三丁目8番1号 まいづる中央ビル206号中島法律事務所 電話092(721)4312 ファックス092(761)3976 弁護士 中島繁樹 〒850-0033 長崎県長崎市万才町10―16 パーキングビル川上2階馬場法律事務所 電話095(821)1632 ファックス095(821)1685 弁護士 馬場正裕 〒700-0811 岡山県岡山市北区番町一丁目7番26号 羽原真二法律事務所 電話086(221)6464 ファックス086(221)6460 弁護士 羽原真二 〒107-0062 東京都港区南青山五丁目9番15号 新青山共同ビル521 浜田正夫法律事務所 電話03(3498)3435 ファックス03(3498)3439 弁護士 浜田正夫 〒060-0005 札幌市中央区北五条西6丁目1―23 北海道通信ビル5階藤野法律事務所 電話011(241)8141 ファックス011(241)8142 弁護士 藤野義昭 〒450-0002 名古屋市中村区名驛五丁目3番21号 いとうビル2階二村法律事務所 電話052(586)0567 ファックス052(586)0564 弁護士 二村豈則 〒100-0014 東京都千代田区永田町二丁目14番3号 赤坂東急ビル8階赤坂山王法律事務所 電話03(3591)6070 ファックス03(3591)6071 弁護士 牧野芳樹 〒541-0041 大阪府大阪市中央区北浜二丁目3番6号 北浜山本ビル3階松本藤一法律事務所 電話06(4707)8518 ファックス06(4707)0038 弁護士 松本藤一 〒101-0052 東京都千代田区神田小川町一丁目1番 山城ビル2階溝呂木法律事務所 電話03(3518)4766 ファックス03(3518)4767 弁護士 溝呂木雄浩 〒810-0073 福岡県福岡市中央区舞鶴三丁目3番1号 三ツ角法律事務所 電話092(715)4101 ファックス092(715)4066 弁護士 三ツ角直正 〒810-0041 福岡市中央区大名二丁目4 番30号 西鉄赤坂ビル3階森統一法律事務所 電話092(725)8763 ファックス092(725)8764 弁護士 森統一 〒160-0023 東京都新宿区西新宿七丁目10番12号 KKDビル401 山口達視法律事務所 電話03(3365)5121 ファックス03(3365)5123 弁護士 山口達視 〒640-8152 和歌山県和歌山市十番丁12番地 公園前法律事務所 電話073(427)2204 ファックス073(427)2205 弁護士 山崎和成 提訴騒動
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1986.3 沖縄史料編集所紀要11 座間味島集団自決事件に関する隊長手記 大城将保 座間味島集団自決事件に関する隊長手記一、隊長命令説"について 二、手記「戦斗記録」 一、隊長命令説"について 沖縄戦下、座間味島(座間味村・慶良間諸島)で発生した住民の集団自決については、数多の戦記に記述が見られるが、「鉄の暴風』(沖縄タイムス社・一九五〇年)以来現在に至るまで、集団自決は隊長の命令によるものである、という見解が通説になっていた。 ところが、昭和六〇年七月三〇日付『神戸新聞』は、当時の海上挺進隊第一戦隊長(少佐)・梅澤裕氏はじめ関係者の談話を基に、「日本軍の命令はなかった」というサブタイトルをつけて、いわゆる"隊長命令説"に疑問を提示した。 筆者(大城)は、『沖縄県史』に"隊長命令説"に基づく解説記事を執筆した責任上、この新説を無視するわけにはいかず、直接梅澤氏に書簡および電話で連絡をとり、ご本人の意向を確かめたうえ、より詳細で正確な事実関係を把握すべく手記の執筆を要望したところ、早速同氏から次節に掲載する「戦斗記録」の原稿を寄せていただいた。 まず、同手記を紹介するにあたって、従来の"隊長命令説"の経緯を、筆者の関わる範囲内であらかじめ明らかにしておきたい。 "隊長命令説"には二種類の原資料が考えられる。 最も早いのは沖縄タイムス社『鉄の暴風』(一九五〇年)であるが、同書の記述では、「米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた」(四一ぺージ)とあるのみで、具体的な命令内容はみられない。 ところが、山川泰邦『秘録・沖縄戦史』(一九五八年)には、「艦砲のあとは上陸だと、住民がおそれおののいているとき、梅沢少佐から突然、次のような命令が発せられた。『働き得るものは全員男女を問わず戦闘に参加し、老人子どもは、全員村の忠魂碑前で自決せよ』」(二二九ぺージ)とあり、はじめて命令内容が明記されている。 『沖縄県史』第8巻・沖縄戦通史(一九七二年)では同書を参考にして命令内容が引用されており、おなじく『沖縄県史』第10巻・沖縄戦記録2では「座間味村」の項で筆者(大城)が次のように「解説」を書いた。 「午後十時ごろ、梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』というものだった/役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた」「ここでは、部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言から確認できるのである」(六九八~六九九ぺージ)。 最新の出版物では『沖縄大百科事典』(沖縄タイムス杜・一九八三年)が「座間味島集団自決」の項で『沖縄県史』10巻の記述を引用している。 ところで、『沖縄県史』10巻の該記述は、下谷修久『沖縄戦秘録・悲劇の座間味島』(昭和四三年)に収録されている現地在住の宮城初枝氏の手記「血ぬられた座間味島・沖縄緒戦死闘の体験手記」を参考にして書いたものである。「午後十時頃梅沢隊長から次の軍命令がもたらされた/『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし』云々」(三八べージ)とある。この原資料には座間味村当局が琉球政府および日本政府に提出した『座間味戦記』(タイプ印刷、八ぺージ)と題する文書がある。「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問はず若き者は全貫軍の戦斗に参加して最後まで闘い、又老人、子供は全員村の忠魂碑の前に於て玉砕する様にとの事であった」。宮城氏の手記はこの部分の引用である。 山川氏の記述も、おそらく座間味村から琉球政府に提出された援護関係文書に拠ったものと思われるが、要するに、"隊長命令説"は村当局の公式見解になっていたのである。 以上述べた通り、"隊長命令説"には二種の根拠資料が存在するのであるが、後者の場合は、隊長自ら自決現場に立ち会って命令を下したとは書いてない。そして、多くの住民証言から、役場の書記が「忠魂碑前に集合して玉砕するよう」伝達してまわった事実は確認されている。そこで、問題になるのは、村当局と軍との間に集団自決について事前の通達、ないし協議がなかったかどうか、ということである。この点について筆者は梅澤氏に電話で質問したのであるが、「そういうことはなかった」と否定した。ただし、軍には他に勤務隊、整備隊等の集団があって、もし、事前協議等があったとすれば他部隊の可能性も否定できないが、集団自決が村当局の自発的な方針によるものか、あるいは何らかの形で軍の意向がはたらいていたのか、村三役以下役場幹部のことごとくが組合壕で自決を遂げた後となっては、その真相を確かめるのは容易でない。 いずれにしても、従来の"隊長命令説"は現地住民の証言記録を資料として記述されてきたのである。これに対し、一方の当事者である梅澤氏から"異議申立て"がある以上、われわれはこれを真撃に受け止め、史実を解明する資料として役立てたいと考えるものである。以下に同氏の手記を掲載させていただき、筆者の当面の責をはたしたいと思う。 なお、手記は後半に「戦後の苦悩」と題をあらためて、戦後、同問題をめぐって氏の周辺で起きた事柄の経緯を述べているが、紙幅の関係と、また論点を明確にする上でも、「戦斗記録」のみに絞って、後半部は割愛させていただいた。 二、手記「戦斗記録」 (梅澤裕) 私は昭和十四年九月より戦争に参加し、大陸(北支)を転戦したが、最後は沖縄県慶良間の座間味島で死闘を演じた。そして二十一年一月負傷の身を米軍の手厚い取扱により病院船で浦賀に復員したのである。 元来軍人を志し正規教育を受け、任官後長期間戦陣に明け暮れた次第だが、此の戦争は不可解なりと感じ始めたのは太平洋戦争頃であった。騎兵戦車兵として大陸で行動したが、十九年一月何と船舶兵に転科させられ、宇品の船舶司令部に派遣され、船の運用を練習した。之は破局を迎えつつあった、南方の島伝いに軍需資材を急送する特殊艇の要員であったのだ。それが結局その船も資材難で出来ず、ベニヤのモーターボートを爆装し敵輸送船に体当りする特攻艇要員になった。瀬戸内で夜間の猛訓練の後十九年九月、海上挺進第一戦隊の長となり座間味に進駐したのだ。 私は既に戦争の前途は大体予見して居た。若し米軍上陸となれば国土内の戦争になり悲惨の極だろう。こんな特攻艇にどれ程の効果を期待出来るのか。その後比島戦が始まりその経過を見乍ら、統帥部はいつも決戦を呼号するが、果して決戦をやるのか、見殺しではないか等、若い将校や村民が案じられてならなかった。大陸で数多くの戦斗を経験して居たので戦争の悲惨は熟知して居た。中央はいつ迄こんな事をさせるのだと先が案じられた。果して大変な事になった。敵は大挙上陸、反撃も一瞬に吹き飛び、そして無残な村民の自決。これは戦争なんてものではない、奴等の言うジャップハンティング、即ち嬲り殺しの様なものだった。弾薬無く食糧なく数日を出ずして、蹌踉と唯山林をさ迷う部隊を見て、正に国敗れんとして、軍の崩壊せんとする地獄のさ中私は負傷し力尽きた。そして戦後になり何たる事、村民の自決は私の命令によるものとされ、爾来三十年間汚名に泣くこととなった。以下座間味進駐以後の経過を記述する。 一、座間味島進駐(19・9) 九月十日輸送船より上陸した。戦隊は私以下百数名、装備は艇百隻、武器は三十年式軍刀、拳銃(旧式輪動式)自動短銃約十挺、五十㎏爆雷二百五十個位。之を支援する基地隊は○少佐以下約八百名であった。島民は当時沖縄で最も愛国的な村民で誠心誠意の人達であった。皆一致団結して協力して戴いたので大いに感謝し私以下部隊は親睦に留意し非違行為は一件もなかった。 十九年十月十日沖縄大空襲あり、私は前日より首里の司令部に出頭して居た。空襲は米機のみ乱舞し那覇は壊滅した。 その後本鳥に配備されていた第九師団を比島に増強する問題が発生、結局台湾に足止めの愚挙があった。之が為基地隊長以下主カがその穴埋めの為本島に移動した。行く者は喜び残置された者はショックであったが運命は彼等が全滅の途を歩んだのだった。 私は残留約二百八十名を指揮下に入れた。不足労力を補う為朝鮮人軍夫百人が来援した。間もなく比島戦始まる。リンガエン上陸戦にて我等と同種戦隊が出撃したが殆ど不成功でこの秘部隊は米軍の知る処となる。※1 (当時この戦隊は全国に三十あり、ケラマは座間味、阿嘉、渡嘉敷に各一、本島に三ケその他は此島、内地にあつた)。私は比島の事で米軍は沖縄の戦隊を調査する。我企図は察知されるだろうと判断した。果してそれから米機の偵察が始まり写真撮影が行われたのだ。その後空襲が二、三回あり兵舎の学校も焼失、我々は村落内に舎営し分散した。之が為老人婦人達は若い兵を息子の様に大事にして戴き双方食い物を頒ち合い甘味品を分け合ったものである。空襲で優秀な鰹舟が煙を発したのを見て隊員は危険の中を飛び込み消し止めた。之も村民に対する感謝の気持の現れだった。舟はその後崖下に秘匿し戦後も活躍した由である。軍司令部は若い将兵を思ってか女傑の店主の引率する五人の可憐な朝鮮慰安婦を送って来た。若い将校は始めて青春を知ったのだ。 ※1 これは『戦史叢書』1968刊などを読んで知ったことであろう。1945年時の"判断材料"にはならない。 島の青年は殆ど出征して居り、若者は女性が主であり女子青年団が出来て軍属の様に働いて居た。此の頃夜間、山の上で燈火信号の如きものが散見された。沖縄人は米国へ出稼者が多い故スパイ活動ではないかと部下や村民間に噂が流れた。斥候を出して調べたが不明だった。疑わしき者ありとの報告もあったが証拠もなし、又考える処ありて私は押さえた※2 。之で良かった。他島は処刑の話が多い。 ※2 沖縄軍が「防諜」「防諜」と号令をかけている中で、極秘基地がそれでいいのか? 比島戦は終熄した。今度は沖縄だろう。大勢は極めて不利、部下、村民の運命如何にと案じつつ訓練に励んだ。之を推進する基地隊は三百名足らず。その装傭は機関銃一、軽機関銃数挺、擲弾筒二、後は小銃のみ、村民は約八百、老幼婦女子の他青壮年若干、之を指導する者は村長、助役、収入役等役場の幹部そして校長先生警察官等であった。敵上陸の一ケ月位前に指導者が集まり、敵の鬼畜の如き扱いを受けるより軍の足手まといにならぬ様、又食糧保全の為死のうと語し合った由、生残りの老人談がある(当時の郵便局長石川さん)。何という事だ。戦国の落城悲話の如き心情がケラマにあったのだ。 二、米軍上陸・死闘(20・3・23以降) 二十三日本島に先がけザマミに空襲始まる。直ちに戦斗配置につき壕に退避厳に秘匿し応射せず。折しもザマミには沖縄船舶団長大町茂大佐一行が視察の為来島し訓示の最中であった。当日夜一行は渡嘉敷の第三戦隊へ移られた。二十四日猛爆。二十五日は戦艦級以下海峡に侵入し来り爆撃と艦砲射撃で島は鳴動した。そして舟艇秘匿壕は落盤や直撃により使用不能となった。当夜より軍司令部からは敵の輸送船の位置が知らされて出撃するのが計画であったが、数百の島を取巻く艦船が無電妨害によりガーガーと雑音ばかりで受信不能、又出撃の基地そのものが襲撃されては特攻なぞ一片の夢と化した。よしんば出撃してもすぐ沖に取巻く装甲艦により瞬時に撃滅されてしまったであろう。 二十五日夜二十二時頃戦備に忙殺されて居た本部壕へ村の幹部が来訪して来た。助役宮里盛秀氏、収入役宮平正次郎氏、校長玉城政助氏、吏員宮平恵達氏及び女子青年団長宮平初枝さん(現在宮城姓)の五名。 その用件は次の通りであった。 いよいよ最後の時が来た。お別れの挨拶を申し上げます。 老幼婦女子は予ての決心の通り軍の足手纒いにならぬ様、又食糧を残す為自決します。 就きましては一思いに死ねる様、村民一同忠魂碑前に集合するから中で爆薬を破裂させて下さい。それが駄目なら手榴弾を下さい。役場に小銃が少しあるから実弾を下さい。以上聞き届けて下さい。 私は情然とした。今時この島の人々は戦国落城にも似た心底であったか。 私は答えた。 決して自決するでない。軍は陸戦の止むなきに至った。我々は持久戦により持ちこたえる。村民も壕を掘り食糧を運んであるではないか。壕や勝手知った山林で生き延びて下さい。共にがんばりましょう。※3 弾薬は渡せない。 ※3 宮城初枝氏はそうは聞いていない=『母の残したもの』 しかし、彼等は三十分程も動かず懇願し私はホトホト困った。折しも艦砲射撃が再開し忠魂碑近くに落下したので彼等は急いで帰って行った。 これで良かったとホッとしたが翌二十六日から三日位にわたり、先ず助役さんが率先自決し村民は壕に集められ次々と悲惨な最期を遂げた由である。 この五人も宮城初枝さんだけ生存し他は皆自決された。私は戦斗間村民が数多く亡くなったと報告を受けたがこんなことが行われたとは知らなかった。昭和三十三年頃マスコミの沖縄報道が盛になり始めて知った。 三、上陸戦(3・26) (1)二十六日九時頃より爆撃開始 西方沖合は舷々相接する輸送船群の為水平線は全部埋まって居た。見事という他なかった。夫より上陸用舟艇や水陸用戦車が泛水開始、そして整備調整か円運動を行う。果して敵はどの島に来るか、ああ遂に来るべきものが来た。運命や如何にと台地に立ちて待機した。 午前十時彼等は一斉に白波を蹴立ててザマミに向って来た。斯くして本島に先立つ事六日前我戦隊は沖縄の戦端を開いた。 この米軍はアンドリュー師団、ブルース少将の77師団の由でLST32、LIS40その他の輸送船一四を主体とする陣容であった。我隊は戦隊の他約二百八十名、機関銃一挺の水際反撃は何十門の戦車で一瞬ふっとび後退し、村を取囲むコの字状丘、台地に拠って抵抗した。奴等は我々をなめた様に散開し、中腰になって前進するのを斜射、側射で撃ちまくったらコロコロ倒れた。そしてすぐ退却し空地連絡してグラマンを呼ぷ、戦車が交代反撃してくる。之で一日が終った。 (2)夜戦 島一番の高台番所山に敵が上ったので夜九時頃本部基地隊の主力で夜襲を決心し突込んだが敵はすぐ後退し夜襲は中断した。然るに、離れて阿佐海岸に待機中の戦隊第一、第二中隊、といっても六十名がそのすぐ裏山に進入した敵の機関銃陣地に独断で斬込んだ。丁度十時頃我々主力が位置した番所山西方稜線から遥か東方に猛烈な敵の機関銃音が起こった。そして数分にして終った。この若武者等は出撃不能の無念、この裏山の機関銃陣地が翌朝より及ぼす影響を判断し叩こうとした。本部とは離れ、敵が中間各処に進入したので連絡困難、斯くして連絡とらざる儘独断斬込んだ。右の谷に沿い伊藤少尉の第一中隊、左山道に沿い阿部第二中隊、銃座を取囲み折重なって倒れて居た。敵陣地は一時奪取し奪った機銃で第二線を撃ったが逆襲でやられた。敵黒人射手は銃と鎖でつながれ、その脳天を阿部少尉の軍刀が二つに割り共に折重なって倒れて居た。生残る者四名。私は一瞬にして最も精鋭な現役部下の三分の二を失い落胆の極に達した。状況把握が遅かった。連絡報告さえあれば止められたものをと残念の至である。 (3)二十七日より月末頃迄 之より連日圧倒的に優勢な空、陸、海の包囲攻撃で逐次斃され、収容に由なく、弾薬尽き、加ふるに敵に降った村民より聞き出し、彼等は糧秣の秘匿壕を黄燐弾で焼き払ったので飢餓状態となった。村民は次々と投降したが止めなかった。しかし民間防衛隊、女子青年団はよく協カした。基地隊の朝鮮人軍夫百名は壕や陣地構築によく働いたが、敵上陸前夜動揺甚しとの報告を受けた。彼等なりに情報があった様で、日本の敗戦近しとして投降の徴がある、処刑すべきかとの報告があったが、日本人でもない彼等は既に戦力にはならぬ、処刑不可、追放せよと命じた。彼等はすぐ逃げて行った。前記慰安婦にも軍夫を放すから自由にせよと伝えた。既に日本兵と懇になった者もあり淋し相であった。すぐ米軍に行かず山林中を暫くさ迷った後四名が投降した由。一名が重傷の将校を看取ると云って離れず後二人で手榴弾で自決した。※4 ※4 このことが間違って伝わり、『鉄の暴風』初版の梅澤死亡説になったと思われる。 哀話ではないか。女傑の主人は本部と行動すると云い去らず将校軍服を着用して看護に炊事に大いに働いた。後私が負傷後はつき切りで看護してくれた。 古座間味海岸の戦隊壕の津村第三中隊は度々本部主力と合流せんと行動したが包囲を脱することが出来ず海岸よりの戦車の攻撃に潰滅した。津村少尉は本部違絡の途上重囲に陥り哀れ戦死した。 主力は敵の攻撃をかわして夜間行動し東の阿真山中へ又翌日は東北の阿佐山中へと食糧なき儘蹌踉として戦斗を続けた。 (4)私の負傷(4・12)と以後の状況 東北部阿佐山中へ圧迫された主力は軍用犬により発見包囲された。地隙により辛ふじて撃退したが私は左膝関節盲貫破片創を受けた。村民は更に後方に分散避難して居たが逐次投降して行った。防衛隊も離れた、女子青年団も負傷者が出たので降りて行った。私は止めなかった。 本部は私以下副官、当番兵、負傷兵及び前記女性が残った。軍医は散在する負傷兵の手当の為山中、林と衛生兵と共に廻り時々私の治療に来る。しかし薬材無く、米軍の落す衛生材料は貴重品であった。私はつくづく考えた。これは戦争ではない、奴等が云うジャツプハンティングだ。これ以上嬲り殺されてたまるか、皆を集めて命令した。「全員数名以下に分散し山林中に隠忍せよ、止むを得ざる場合の他反撃するな。死ぬな」。 この頃敵の掃討も漸やく納まったので情勢の推移を待つ事とした。敗残の部下達は何を食べて居たか。漂着する敵艦船群の食糧残滓、米軍糧秣集積所より奪うレーション、焼却された食糧壕の焼け米、それ等を芋の葉、蔓、大豆の葉で雑炊を作りすすって居た。 (5)六月上旬頃迄 私の傷は激痛が始まり化膿が進んだ。折からの梅雨で兵の作る雨除けも役立たず、連日ビショ濡れ、飢えと寒さで苦しんだ。加ふるに骨髄がやられ高熱が続き朦朧として過した。皆洗濯板のような胸になり夜が明けると横の負傷兵が冷たくなって居たりする。しかし私は助けられた。食糧は元気な兵が手に入れる度に細かく分けて届けてくれた。それを細かく切っては雑炊にする。その頃米粒は一日一人マッチ箱一つ分だった。又投降した防衛隊の学校の先生等が米軍給与等を持って度々夜間尋ねて呉れた。そして敵状、本島の戦況、米軍の内地空襲の状況をその写真と共に知ることが出来た。和平交渉が始まって居ることも判った。※5 座間味島では歩哨線を設けなかったのか? 昼間敵の揚陸艇が私の隠れて居るすぐ下の浜迄来て放送する。「隊長に告げます。戦争は終りつつある。日本は和平交渉に応じて居る。之以上の無駄な戦斗を止めよう。部下救出の途を考えなさい」と。そして賑やかな音楽をボリュームを上げてコーヒータイム、水兵が甲板に坐って何か食って居ると歩哨が報告する。彼等は村民から私の位置を聞き私の症状衰弱の様子を熟知して居たのだ。 (6)私の捕獲(救出)作戦 基地隊の兵に東大出の異色の学徒兵が居た。その名はI君。彼は始めからこの戦争は不可なりとし予て期する所があった。よく事態を把握して居たというぺきだろう※7。敵上陸後彼は一人で秘かに投降した。その後負傷収容された兵や防衛隊員そして米兵と協力して山林中に倒れる負傷兵、餓死迫る兵等を収容して廻った。そして又縷々反抗、狙撃され危険の為作業が進まない。その結果負傷衰弱して居る私他本部のものを捕えよく情勢を認識させ戦隊長自身に救出行動を起して貰おうと決した由である。I君は私に食糧を届けて呉れた防衛隊の人等と協力、或る早暁米軍と共に私等を急襲し、本部は私以下一瞬にして捕われた。すぐ舟艇で村の米軍本部に連れて行かれ連隊長たるハプターン中佐と会った。彼日く「戦はすぐ終る我々はもう敵同志ではない、これから貴官の部下を一緒に救出しよう」と云って握手する。そしてナイフでジュース缶を切り開き私に奨めるのだ。私の思考は大転回した。戦争は敗れたりと痛感した。そしてフランクな米指揮官の態度に感じ入った次第だ。ウエストポイント出の将校だった。 ※7 I中尉は渡嘉敷島にも投稿勧告にいったが、赤松大尉は会ったものの投降には応じなかった。また赤松大尉は、伊江島島民や渡嘉敷島民の少年2人のように投降勧告に来たことを理由にI中尉を斬ることはなかった。 それからすぐ手術、膿が溢れ出た。約一週間の医療生活で大分元気が出た。事態を把握した私は覚悟をきめ部下に告ぐ書を綴り救出作業を開始した。山中の部下達は私の指示書を読み逐次下山して集った。 この間の我が部下、村民の好意努力は申す迄もなく米軍将兵の好意好遇は終生忘却出来ぬ思い出である。私は部下米軍に後事を託し設備の良い本島の病院に移って行った。三回の手術で腐骨が除かれやっとギブスがとれ左足を切らず済んだ。コロンビア大の外科医マッコリイ少佐他看護兵、看護婦の敵味方を隔てぬ友愛精神には感謝の言葉もない。私他多くの負傷兵が焦土と化した内地に帰還したのは二十一年一月以降、私は病院船で浦賀に上陸した。 猶終戦の一ケ月程前私は再ぴ揚陸艇でザマミに連れて行かれハプターン中佐と会った。彼日く阿嘉島の野田少佐の戦隊が往来する米船を撃ってくるので損害が出て困る。彼の頼みは終戦を目前にし掃討作戦をすれば双方に犠牲が出るので私に一緒に阿嘉に行き情況を説明し反抗を止める様説得してくれとの事であった。私は喜んで応じた。担架で阿嘉島へ行き放送したら戦隊長以下奇麗な服でゾロゾロ降りて来た。そして私にすがって無事を喜び合った。斯くして第二戦隊は無事終戦を迎えた。阿嘉は上陸掃討戦が無かったから損害は少なかった。私は浦賀で入院加療をすすめられたが、振り切る様に家路を急いだ。母は八月終戦の二十九日に病で亡くなって居た。 以上により座間味島の「軍命令による集団自決」の通説は村当局が厚生省に対する援護申請の為作成した「座間味戦記」及び宮城初枝氏の「血ぬられた座間味島の手記」が諸説の根源となって居ることがわかる。現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明して居る。(戦記終わり) ここまでが梅澤氏による手記である。原告弁護士徳永信一氏が正論9月号で、原告準備書面(2)(7)(8)で、最後の段落を「大城主任専門員は『現在宮城初枝氏は真相は梅沢氏の手記の通りであると言明している」と書き添えた」と主張するがこれはウソである。(『沖縄戦の真実と歪曲』大城将保p56)
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2766年、当時辺境最大の国家であったリムワールド共和国の領主ステファン・アマリスは、数年がかりの血なまぐさいクーデターで若きリチャード・キャメロン第一君主とその一族を殺害した;突如として勃発した辺境全体の反乱を鎮圧するため、SLDFはテラから誘い出されたが、リムワールド軍はその隙をついてテラン・ヘゲモニーを迅速に掌握、粉砕し、最終的にスターリーグの司令官アレクサンドル・ケレンスキーに長く血なまぐさい解放戦争を強いることになったのである。7年後、ケレンスキーは最終的に勝利を収めたが、彼が守るため戦ってきたスターリーグは、キャメロン家が失った王位の継承権を主張する大貴族たちによって引き裂かれた。 ケレンスキーは来る争いを避けるため、スターリーグ防衛軍の大部分を率いて未知の宇宙に向かった。そのことが原因で、インナースフィアはおよそ300年にわたる絶え間ない戦乱に見舞われることになった。 継承権戦争と呼ばれるようになったこの戦争は、事実上アレス条約を無効にした。各継承王家はあらゆる武器でお互いを切り裂いた。世界全体が化学兵器、核兵器、生物兵器によって一掃され、敵のインフラを破壊するためにジャンプシップやあらゆる種類の工場が標的にされた。 恒星間帝国の存続に不可欠な、特殊な工場や部品が生み出すテクノロジーは急速に失われ、ほとんど忘れ去られようとしていたアレス条約が支持するような低強度戦争への回帰を余儀なくされた。 この変化によりインナースフィアは事実上の膠着状態に陥った;3028年にシュタイナー家とダヴィオン家が同盟を結び、カペラ大連邦国をほぼ二分する壊滅的な第四次継承権戦争を開始するまでは。3030年までに、シュタイナーとダヴィオンの支配者の結婚によって導かれた単一の強大な帝国はインナースフィアのほぼ半分をその旗の下にまとめた。 第四次継承権戦争 ローニン戦争 3039年にドラコ連合を征服しようとして敗北を喫したものの、最終的にはシュタイナーとダヴィオンによるインナースフィア全体の征服はほぼ確実と思われた。 3039年戦争 しかし、3040年代の終わりに新たな敵が現れた…。
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台湾統治巡る番組「偏向」 8389人、NHKを提訴 2009年6月25日21時21分 日本の台湾統治をめぐるNHKの番組「アジアの“一等国”」が偏向し、公正さなどを期待した視聴者が精神的損害を受けたとして、小田村四郎・元拓大総長ら8389人が25日、NHKに対し、1人当たり1万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。 訴状によると原告は、番組は「日台戦争」といった言葉を誤って使い、日本の統治時代に台湾の人が不当な扱いを受けたかのように偏って伝えた、などと主張している。原告はインターネットなどでの呼びかけを通じて集まった。 提訴に対し、NHKは「番組の内容には問題がなかったと考えている」との談話を出した。 提訴騒動
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http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2008_06_saiban_igi.html 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義 大阪歴史教育者協議会委員長 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長 小 牧 薫 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 4.政府・文科省の対応 5.沖縄戦をどうとらえるか 6.最後に 1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2008年3月28日、大阪地裁民事第9部の深見裁判長は、家永三郎『太平洋戦争』、大江健三郎『沖縄ノート』の記述は真実相当性があるとして、原告の訴えをすべて退けた。それだけでなく、「日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」とまで判示した。 《資料(1) 判決要旨》 沖縄ノートは,座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ原告梅澤及び赤松大尉であると明示していないが,引用された文献,新聞報道等でその同定は可能であり,本件各書籍の各記載は,原告梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから,原告梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。 「太平洋戦争」は,太平洋戦争を評価,研究する歴史研究書であり,沖縄ノートは,日本人とは何かを見つめ,戦後民主主義を問い直した書籍であって,原告梅澤及び赤松大尉に関する本件各記述を掲載した本件各書籍は公共の利害に関する事実に係わり,もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。 原告らは,梅澤命令及び赤松命令説は集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であると主張するが,複数の誤記があると認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料価値を有する「鉄の暴風」,米軍の「慶良間列島作戦報告書」が援護法の適用が意識される以前から存在しており,ねつ造に関する主張には疑問があり,原告らの主張に沿う照屋昇雄の発言はその経歴等に照らし,また宮村幸延の「証言」と題する書面も同人が戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして採用できず,「母の遺したもの」によってもねつ造を認めることはできない。 座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが,多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること,沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており,渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遣い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか,米軍に庇護された二少年,投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと,米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること,第一,三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であり,慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され,食糧や武器の補給が困難であったこと,沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども,自決命令の伝達経路等が判然としないため,本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。原告梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え,平成17年度までの教科書検定の対応,集団自決に関する学説の状況,判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断,家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると,原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても,その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから,本件各書籍の各発行時において,家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があったものと認めるのが相当であり,それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。したがって,被告らによる原告梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず,それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の差し止め請求も理由がない。 沖縄ノートには赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが,沖縄ノートの主題等に照らして,被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 皇民化政策と愛国心教育 「戦陣訓」(生きて虜囚の辱めを受けず)の徹底 日本軍の駐留-「軍官民共生共死体制」、「合囲地境」の状況 手榴弾の配布、米軍の攻撃、艦砲射撃、上陸後の戦闘 日本軍の命令・強制・誘導・指示による強制集団死(資料(2)産業組合の壕〈宮平春子さんの証言〉 (3)金城重明さんの証言) 強制集団死(「集団自決」)のおこらなかった島々 → 宮城島の例 資料(2) 体験者の証言 産業組合の壕(5) (沖縄タイムス9月1日朝刊から編集) 「国の命令であの世に」壕内に大人たちの号泣 響く 兵事主任の宮里盛秀の家族は25日の夜、軍命を受け、マチャンの浜から集落奥の内川山の壕へと戻った。父親、盛永が専務だった農業会の壕(通称・産業組合の壕)近くに、連絡がとりやすいように作った壕に、親族約30人で入った。 夜10時ごろだったか。どこかへ行っていた盛秀が戻り、壕奥にいた父・盛永と話すのを、盛秀の妹、宮平春子(80)が聞いた。盛秀は思い詰めた様子だった。「明日か、あさってに上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」壕内部でも照明弾で空が明るくなり、島中の山が燃えている様子が分かる。米軍上陸が目前なのは明らかだった。 盛秀の言葉に対して盛永は黙りこんでいた。「軍からだったらしょうがない」。しばらくし、納得し難いように答えた。 当時33歳の盛秀には長男英樹=当時(7)、長女郁子(6)、二女美枝子(3)、11カ月の三女ヒロ子、四人の子がおりかわいがっていた。子どもたちをそばに引き寄せた。「今までずっと育ててきたのにね、この手にかけて玉砕するのか。生まれてこなければよかったね。許してね。手をかけることは、とても苦しいことではあるが、お父さんもついているから、一緒だから、怖がらないでね」。盛秀はついに、ぼろぼろと泣きだした。「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは…」。震えながら、きつく子どもたちを抱きしめた。年長の英樹は意味も分からず、大きな瞳でまばたきするばかりだった。 厳格な長兄の盛秀が、なりふり構わず家族の面前で泣き崩れている。軍の指示を住民に伝える兵事主任という役割と、子どもたちへの愛情の間で、板挟みになって慟哭する兄。兄のつらさが春子には痛いほど分かった。壕内には、盛秀の号泣と春子やほかの大人たちの泣き声が響き続けた。 時は迫り、壕では死への準備が始まった。子どもたちに晴れ着が着せられた。田んぼの水で米を炊き、おにぎりを最期の食事にした。作りたての温かく真っ白なおにぎり。子どもたちは小さな手でおいしそうに平らげた。死のための食事は、大人は食べることができなかった。「食べられるだけ、食べさせなさい」。何も知らない子どもたちだけが、無心にほお張った。 (編集委員・謝花直美) 資料(3) 体験者・金城重明さんの証言(2007年6月8日付「沖縄タイムス」) (1)北山(にしやま)への集結命令について 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。 27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。 (2)軍の自決命令について 北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。 (3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について 米軍上陸1週間くらい前に兵器軍曹が役場に青年団や職員を集め、手榴弾を1人2個ずつ渡し「1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。 (4)「集団自決」の状況について 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて「集団自決」が行われた。手榴弾は不発の物が多く手榴弾による死傷者は多くなく、これが悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟が姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。 (5)「集団自決」後の状況について 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、玉砕したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年2人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。 (6)「集団自決」が起こった理由について 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第1段階だった。3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなけれはならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。 これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書において、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない。 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 文科省は、2006年度の高校日本史教科書の検定において、沖縄戦「集団自決」に関わる日本軍の命令、強制を認めず、書き直させた。その行政処分に対する沖縄県民の対応が、冒頭の昨年9月29日に開かれた11万人集会、「教科書検定意見撤回、記述回復を求める沖縄県民大会」である(資料(4) 教科書検定による記述の書き換え、(5)県民大会での高校生の発言)。 ※ 文科省による検定のねらいは? 自由主義史観研究会・「つくる会」の三点セット(南京・慰安婦・沖縄)の削除 「つくる会」・右翼・右翼政治家・文科省の一部による合作 政治的圧力による教科書書きかえ → すでに、中学・高校でもっとも多く使われている教科書では、「集団自決」も「住民殺害」も記述がない → 彼らのねらいは、すべての教科書から日本軍による「住民殺害」を削除すること 「軍隊は住民を守らない」の教訓を抹消し、軍隊にすすんで協力する国民づくりのために 資料(4) 東京書籍『日本史A 現代からの歴史』 申請図書の記述 (06年4月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や集団で「自決」を強いられたものもあった。 (1)沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。わたしたち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました。 見本本の記述 (07年3月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、「集団自決」に追いやられたり、日本軍によってスパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。(脚注・囲み資料はそのまま) 訂正申請で認められた記述 (07年12月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍によって「集団自決」(2)においこまれたり(3)、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。 【側注】(1) 沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 (2) これを「強制集団死」とよぶことがある。 (3) 敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) ・・・・・日本軍はすでに三月二十日ごろには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の捕虜になる危険性が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。・・・・・よいよ二十八日の運命の日がやってきました。 およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。 私たち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました. 【追加】 また、国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の「集団自決」に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(4)。 【側注】 (4)沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見の撤回を求める意見書が決議され、どう年9月には大規模な県民大会が開催された。 ↑本文・側注で、丸つき数字は(数字)に置き換えました(JIS外のため) 資料(5) 9.29沖縄県民大会での高校生の発言 津嘉山拡大(こうだい)くん 「沖縄戦での集団自決に日本軍の強制があったという記述は、沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現である」 ある日の朝、私の目に飛び込んできたこの新聞記事。 私は“誤解”という検定意見書の言葉に目を奪われました。この記述を無くそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじいやおばあ達が嘘をついていると言いたいのでしょうか。それとも思い違いだったと言いたいのでしょうか。 私たちは戦争を知りません。ですが、一緒に住むおじいおばあ達の話を聞いたり、戦跡を巡ったりして沖縄戦について学んできました。おじいおばあ達は重い口を開き、苦しい過去を教えてくれました。死体の山を越え、誰が敵で誰が味方はわからなくなる恐ろしさ、大事な人を目の前で失う悲しさ、そして悲惨な集団自決があったことを。 なぜ沖縄戦で自ら命を絶ったり、肉親同士が命を奪い合うという残酷なことが起こったのでしょうか。住民は事前に「敵に捕まるくらいなら死を選べ」「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は乱暴され殺される」という教育や指示を受けていたと言います。さらに手榴弾が配布されました。極限状態に置かれた住民達はどう感じたでしょうか。 手榴弾を配った日本軍は明らかに自決を強制していると思います。 私たちが住んでいる読谷村には、集団自決が起こった「チビチリガマ」があります。ガマの中は、窒息死のために火をつけた布団の煙が充満し、死を求める住民が毒の入った注射器の前に列をなしました。母がわが子に手をかけたり、互いを刃物で刺しあい80人以上もの尊い命が奪われました。その中には年寄りから5歳にもならない子どもまでもがいました。」 照屋奈津実さん 集団自決や教科書検定のことは私たち高校生の話題にも上がります。「教科書から集団自決の真相が消されるなんて考えられない」「たくさんの犠牲者が実際に出てるのにどうしてそんなことをするんだろう」私たちは集団自決に軍の関与があったということは、明らかな事実だと考えています。なぜ、戦後60年以上をすぎた今になって、記述内容を変える必要があるのでしょうか。実際にガマの中にいた人たちや、肉親を失った人たちの証言を、否定できるのでしょうか。 私は将来高校で日本史を教える教師になりたいと思い勉強しています。このまま検定意見が通れば、私が歴史を教える立場になったとき、教科書の記述通り事実ではないことを教えなければ行けません。分厚い教科書のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります。二度と戦争は繰り返してはいけないという沖縄県民の強いも思いがあるのです。教科書から集団自決の本当の記述がなくなれば、次は日本軍による住民虐殺の記述まで消されてしまう心配があります。 嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子ども達に真実を伝えたいのです。」 津嘉山くん 「教科書から軍の関与を消さないでください。あの醜い戦争を美化しないでください。」 二人 「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい。」 4.政府・文科省の対応 政府・文科省は、教科書検定には、政治介入できないとして検定意見撤回を拒否(もともとが「政治介入」なのに) → 検定の最終権限は文科大臣にある 首相・文科相が「沖縄県民の気持ちは重く受けとめる」(教科書会社による訂正申請には応じる)としたが、訂正申請で責任を出版社・執筆者に押しつけ 訂正申請でも、密室検定で、調査官による強要があり、「命令」「強制」は復活せず 5.沖縄戦をどうとらえるか (誤)1945年4月1日にはじまった。日本での唯一の地上戦。本土決戦の捨て石作戦。集団自決は殉国死。沖縄戦終結は6月23日。日本兵のなかには住民を守ろうとした者もいた。 (正) 1945年3月26日の座間味島上陸ではじまった。全住民をまきこんだ日本での最大の地上戦。「国体護持」のための捨て石。強制集団死であり住民殺害。沖縄戦終結は9月7日。軍隊は住民(国民)を守らなかった。 6.最後に 裁判で明らかになった新証拠、資料をもとに教科書検定意見を撤回させ、記述を回復させる 大阪高等裁判所に、直ちに控訴棄却を言い渡し、第一審判決を維持するよう要請する 沖縄戦の真実を明らかにし、沖縄の心をすべての人のものに 詳しくは、支援連絡会のHPをご覧ください http //okinawasen.web5.jp/ 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1065.html
沖縄タイムス:「集団自決」訴訟判決(要旨) 2008年3月29日(土) 朝刊 1・10面 「検定意見の根拠否定/執筆者ら再訂正へ」 http //www.okinawatimes.co.jp/day/200803291300_01.htmlより 読める判決「集団自決」へ戻る contents 沖縄タイムス:「集団自決」訴訟判決(要旨)検定意見の根拠否定/執筆者ら再訂正へ「集団自決」訴訟判決/元隊長陳述「信用性疑問」 「集団自決」訴訟判決(要旨)太平洋戦争時の沖縄の状況 日本軍による住民加害 援護法の適用 梅澤命令説 渡嘉敷島の「集団自決」 文献の評価 皆本証言 梅澤証言 赤松手記 体験者証言 検定意見の根拠否定/執筆者ら再訂正へ 「集団自決」訴訟判決/元隊長陳述「信用性疑問」 慶良間諸島の「集団自決(強制集団死)」は戦隊長が命じたとする本の記述をめぐる大阪地裁の「集団自決」訴訟で二十八日に言い渡された判決は、原告の元戦隊長の梅澤裕氏(91)の陳述書について「信用性に疑問があるというほかない」と否定した。文部科学省は、この陳述書などを根拠に「集団自決」への軍の強制を削除する検定意見を出していた。陳述書が判決で否定されたことで、被告側の支援者らは「根拠が崩れた。検定意見を撤回させたい」との姿勢で、来月に文科省へ要請行動をする意向を示した。 梅澤氏の陳述書は、「集団自決」は同氏の命令したものではなく、村幹部が懇願して手榴弾を要求したと主張。しかし、判決は「戦隊長の了解なしに部下が手榴弾を交付したというのは不自然」と指摘。当時、島の補給路が断たれ、装備が不十分な環境だったことを踏まえ「部下の行動を知らなかったというのは、極めて不自然である」とした。 地裁での判決後、大阪市内で開かれた被告側の支援者による報告集会でも、判決を評価した上で、検定意見撤回に正当性があるとする声が相次いだ。 教科書執筆者の石山久男氏は「陳述書の信用性は完全に否定されたといっていい。これに基づき検定意見を言い渡した文科省はこれを深く反省し、検定意見を直ちに撤回しなければならないと思う」と述べ、来年四月から使われる教科書の記述について、今年七月ごろをめどに再度訂正申請したい考えを示した。 同じく執筆者の一人の坂本昇氏は「判決は、軍が駐屯していた所で『集団自決』が起き、駐屯していない所ではなかった、ということまで触れて軍の強い関与があったことを明らかにした。歴史研究の成果が取り入れられた」と評価。他の執筆者や教科書会社と相談しながら再訂正申請に向け取り組むとした。 ◇ ◇ ◇ 「集団自決」訴訟判決(要旨) 「沖縄ノート」の各記述は著書である被告大江健三郎(以下、大江)が沖縄戦における「集団自決(強制集団死)」の問題を本土の日本人の問題としてとらえ返そうとしたものである。 各記述には、慶良間諸島の「集団自決」の原因について、日本人の軍隊の部隊の行動を妨げずに食糧を部隊に提供するために自決せよとの命令が発せられるとの記載や渡嘉敷島で住民に「集団自決」を強要させたと記憶される男である守備隊長との趣旨の記述などがあり、渡嘉敷島における「集団自決」を命じたのが、当時の守備隊長であることが前提となっている。 また「この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷島のむごたらしい現場」との記載があり、大江自身、本人尋問で「沖縄ノート」が原告梅澤裕(以下、梅澤)をも対象にしたことを自認している。 渡嘉敷島、座間味島で「集団自決」が行われた際に、故赤松嘉次(以下、赤松)が渡嘉敷島の、梅澤が座間味島の守備隊長もしくは軍隊の長であることを示す書籍は多数存在するなど、「沖縄ノート」の各記述内容が赤松、梅澤に関する記述であると特定し得ることは否定できない。 以上、特定性ないし同定可能性の有無について被告らの主張は、理由がないというべきである。 判決本文参照第4・2 争点1(特定性ないし同定可能性の有無)について 家永三郎(以下、家永)著の「太平洋戦争」の記述には「座間味島の梅澤隊長は、老人・こどもは村の忠魂碑前で自決せよと命令した」などとの記述があり、梅澤が部隊の食糧を確保するために、本来、保護してしかるべきである老幼者に対して無慈悲に自決することを命じた冷酷な人物であるとの印象を与え、梅澤の社会的評価を低下させる記述であることは明らかである。 「沖縄ノート」の記述では、座間味島、渡嘉敷島を含む慶良間諸島での「集団自決」が日本軍の命令によるものであるとし、「集団自決」の責任者の存在を示唆している。ほかの記述と併せて読めば、座間味島および渡嘉敷島の守備隊長である梅澤、赤松が「集団自決」の責任者であることをうかがわせる。したがって、「沖縄ノート」の記述は「集団自決」という平時ではあり得ない残虐な行為を命じたものとして、梅澤および赤松の社会的評価を低下させるものと認められる。 判決本文参照第4・3 争点2(名誉毀損性の有無)について 名誉棄損が違法性がないと判断されるために、「太平洋戦争」、「沖縄ノート」の執筆、出版を含む表現行為の主な動機が公益を図る目的であるかを見る。 「太平洋戦争」は、歴史研究書であり、その記述は公共の利害に関するものであること、公益を図る目的を併せ持ってなされたものであることには当事者間の争いがない。 家永は多数の歴史的資料、文献等を調査した上で執筆したことが認められる。「太平洋戦争」の記述の主な目的は戦争体験者として、また、日本史の研究者として太平洋戦争を評価、研究することにあったと認められ、それが公益を図るものであることは明らかだ。 「沖縄ノート」は、大江が沖縄が本土のために犠牲にされ続けてきたことを指摘。日本人とは何かを見つめ、戦後民主主義を問い直したものであること、各記述は、沖縄戦における「集団自決」の問題を本土日本人の問題としてとらえ返そうとしたものであることが認められる。 これらの事実および、梅澤、赤松が公務員に相当する地位にあったことを考えると、「沖縄ノート」の記述の主な目的は、日本人の在り方を考え、読者にも反省を促すことにあったものと認められ、公益を図るものであることは明らかだ。 以上によれば、「太平洋戦争」、「沖縄ノート」の各記述に関する表現行為の目的がもっぱら公益を図る目的であると認められる。 判決本文参照第4・4 争点3(目的の公益性の有無)について 太平洋戦争時の沖縄の状況 1944年6月ごろから、三二軍が沖縄に駐屯を開始した。三二軍司令官の牛島満は、沖縄着任の際、沖縄における全軍に対し、「防諜ニ厳ニ注意スヘシ」と訓示を発した。 このように沖縄において防諜対策は、日本軍の基本的かつ重要な方針だった。三二軍司令部の基本方針を受け、各部隊では民間人に対する防諜対策が講じられた。 軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁じ、沖縄語を使用する者をスパイとみなし処分する旨の命令や、島しょにおける作戦では原住民がスパイ行為をするから気を許してはならない旨の訓令などが出された。 また、三二軍は同11月18日、県民を含めた総力戦体制への移行を急速に推進し、「軍官民共生共死の一体化」を具現するとの方針を発表した。 慶良間諸島には同9月、陸軍海上挺進戦隊が配備され、座間味島に梅澤が隊長を務める第一戦隊、阿嘉島・慶留間島に野田隊長(以下、野田)の第二戦隊、渡嘉敷島に赤松が隊長を務める第三戦隊が駐留した。 45年3月の米軍侵攻当時、慶良間諸島に駐屯していた守備隊はこれらの戦隊のみであった。「集団自決」発生当時、米軍の空襲や艦砲射撃のため、沖縄本島など周囲の島との連絡が遮断されており、食糧や武器の補給が困難な状況にあった。 海上挺進戦隊は、もともと特攻部隊としての役割を与えられていたことから、米軍に発見されないよう、特攻船艇の管理は厳重で、そのほかの武器一般の管理も同様であった。 渡嘉敷島は44年10月10日の空襲以降、それまで徴用され陣地構築作業をしていた男子77人があらためて召集され、兵隊とともに国民学校に宿営することになった。 判決本文参照 第4・5(1)(前提となる事実)ア 太平洋戦争当時の沖縄の状況、体制等 座間味島は45年3月23日から25日まで空襲を受けた。住民は壕に避難するなどしていたが、同25日夜、伝令役が住民に忠魂碑前に集合するよう伝えて回った。その後、同26日、多数の住民が手榴弾を使用するなどして集団で死亡した。 同27日午前、米軍が渡嘉敷島に上陸した。赤松は、米軍の上陸前、巡査に「住民は西山陣地北方の盆地に集合するよう」指示し、巡査は防衛隊員とともに住民に集合を促した。住民は同28日、防衛隊員らから配布された手榴弾を用いるなどして、集団で死亡した。 慶留間島では、45年2月8日、野田が住民に対し「敵の上陸は必至。敵上陸の暁には全員玉砕あるのみ」と訓示し、同3月26日、米軍上陸の際、「集団自決」が発生した。 以上の「集団自決」が発生した場所すべてに日本軍が駐屯しており、日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、「集団自決」は発生しなかった。 判決本文参照 第4・5(1)(前提となる事実)イ 集団自決の発生 日本軍による住民加害 元大本営参謀で厚生省引揚援護局の厚生事務官馬淵新治(以下、馬淵)の調査によれば、日本軍の住民に対する加害行為は各地で行われていた。 例えば、馬淵は「将兵の一部が勝手に住民の壕に立ち入り、必要もないのに『軍の作戦遂行上の至上命令である。立ち退かないものは非国民、通敵者として厳罰に処する』等の言辞を敢えてして、住民を威嚇強制のうえ壕からの立ち退きを命じて己の身の安全を図ったもの」。 「ただでさえ貧弱極まりない住民個人の非常用食糧を『徴発』と称して略奪するもの、住民の壕に一身の保身から無断進入した兵士の一団が無心に泣き叫ぶ赤児に対して『此のまま放置すれば米軍に発見される』とその母親を強制して殺害させたもの」などがあったとしている。 また「敵上陸以後、いわゆる『スパイ』嫌疑で処刑された住民は十指に余る事例を聞いている」としている。 日本軍は、渡嘉敷島において防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が身寄りのない身重の婦人や子どもの安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀する恐れがあるとして、これを処刑した。 また、赤松は「集団自決」でけがをして米軍に保護され治療を受けた2人の少年が米軍の庇護のもとから戻ったところ、米軍に通じたとして殺害した。さらに米軍の捕虜となり、米軍の指示で投降勧告にきた伊江島の住民6人に、自決を勧告し、処刑したこともあった。 そのほか、沖縄では、スパイ容疑で軍に殺された者など、多数の軍による住民加害があった。 判決本文参照 第4・5(1)(前提となる事実)ウ 日本軍による住民加害 援護法の適用 梅澤命令説および赤松命令説は、沖縄で援護法の適用が意識される以前から存在していたことが認められる。援護法適用のために捏造されたものであるとの主張には疑問が生ずる。 また、隊長命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ、梅澤命令説および赤松命令説を捏造する必要があったのか直ちには肯定し難い。 宮村幸延が作成したとされる「証言」と題する親書の記載内容は、「昭和二十年三月二十六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼助役の宮里盛秀の命令で行われた」との部分も含めて措信しがたい。これに関連する原告梅澤の陳述書も措信し難い。 「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば、「集団自決」に援護法を適用するために原告梅澤の自決命令が不可欠であったことや、「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援護法適用のために自決命令の捏造を直ちにうかがわせるものではない。 沖縄において、住民が「集団自決」について援護法が適用されるよう強く求めていたことは認められるものの、そのために梅澤命令説および赤松命令説が捏造されたとまで認めることはできない。 判決本文参照 第4・5(3) 援護法の適用問題について 梅澤命令説 「集団自決」の体験者の供述から、原告梅澤による自決命令の伝達経路等は判然とせず、梅澤の言辞を直接聞いた体験者を全証拠から認められない。取材源が明示されていない「鉄の暴風」「秘録 沖縄戦史」「沖縄戦史」等から、直ちに「太平洋戦争」にあるような「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」との梅澤の命令それ自体までは認定することには躊躇を禁じ得ない。 しかしながら、梅澤が座間味島における「集団自決」に関与したものと推認できることに加え、少なくとも2005年度の教科書検定までは、高校の教科書に日本軍によって「集団自決」に追い込まれた住民がいたと記載されていた。布村審議官は、座間味島および渡嘉敷島の「集団自決」について、日本軍の隊長が住民に自決命令を出したとするのが通説であったと発言していた。 学説の状況、諸文献の存在、その信用性に関する認定、判断、家永および大江の取材状況等を踏まえると、梅澤が座間味島の住人に対し「太平洋戦争」の内容の自決命令を発したことを直ちに真実と断定できないとしても、合理的資料もしくは根拠があると評価できる。 各書籍の発行時において、家永や被告らが事実を真実であると信じるについての相当の理由があるものと認めるのが相当である。 判決本文参照 第4・5(8) 文献等に基づく集団自決の理解イ 座間味島における集団自決について 渡嘉敷島の「集団自決」 体験者らの体験談は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性、信用性を有することができる。 渡嘉敷島における「集団自決」は、1945年3月27日に渡嘉敷島に上陸した翌日の28日に赤松大尉に西山陣地北方の盆地への集合命令の後に発生している。赤松大尉率いる第三戦隊の渡嘉敷島の住民らに対する加害行為を考えると、赤松大尉が上陸した米軍に渡嘉敷島の住民が捕虜となり、日本軍の情報が漏えいすることを恐れて自決命令を発したことがあり得ることは、容易に想像できる。 赤松大尉は防衛隊員であった国民学校の大城徳安訓導が、身重の夫人や子供の安否を気遣い、数回部隊を離れたため、敵と通謀する恐れがあるとして処刑している。 米軍の上陸後、手榴弾を持った防衛隊員が西山陣地北方の盆地へ集合している住民のもとへ赴いた行動を赤松大尉が容認したとすれば、自決命令を発したことが一因ではないかと考えざるを得ない。 第三戦隊に属していた皆本義博証人が手榴弾の交付について「恐らく戦隊長の了解なしに勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言していることは、先に判示している通り。手榴弾が「集団自決」に使用されている以上、赤松大尉が「集団自決」に関与していることは、強く推認される。 沖縄県で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐屯し、駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では、「集団自決」は発生しなかったことを考えると、「集団自決」は日本軍が深くかかわったものと認めるのが相当である。 沖縄では、第三二軍が駐屯し、その司令部を最高機関として各部隊が配置され、渡嘉敷島では赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったと認められる。渡嘉敷島における「集団自決」に赤松大尉が関与したことは十分に推認できる。 渡嘉敷島の「集団自決」の体験者の体験談等から赤松大尉による自決命令の伝達経路は判然とせず、命令を直接聞いた体験者を全証拠から認められない。取材源などは明示されていない。「鉄の暴風」「秘録 沖縄戦史」「沖縄戦史」等から「沖縄ノート」にある記述のような赤松大尉の命令の内容それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。 しかしながら、合理的資料もしくは根拠があると評価できるから、「沖縄ノート」の発行時に、被告らが事実を真実と信じるについて相当の理由があったと認めるのが相当である。 判決本文参照 第4・5(8) 文献等に基づく集団自決の理解ウ 渡嘉敷島における集団自決について 被告らによる梅澤および赤松大尉に対する名誉棄損は成立せず、したがって、その余の点について判断するまでもなく、これを前提とする損害賠償、出版の差し止めに理由はない。 判決本文参照 第4・5(8) 文献等に基づく集団自決の理解エ (結論:名誉毀損は成立せず) 文献の評価 「鉄の暴風」には、初版における梅澤の不審死の記載、渡嘉敷島への米軍の上陸日時に関し、誤記が認められるものの、戦時下の住民の動き、非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として、資料価値を有するものと認める。 「母の遺したもの」には木崎軍曹が住民に「途中で万一のことがあった場合は、日本女性として立派な死に方をしなさいよ」と手榴弾一個が渡されたとのエピソードも記載され、日本軍関係者が米軍の捕虜になるような場合には自決を促していたことを示す記載としての意味を有する。梅澤命令説を肯定する間接事実となり得る。 「ある神話の背景」に、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。家永教科書検定第三次訴訟第一審の証言で、「ある神話の背景」の執筆に当たっては、富山兵事主任に取材をしなかったと証言しているが、それが事実であれば、取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる。 「ある神話の背景」は、命令の伝達経路が明らかになっていないなど、赤松命令説を否定する見解の有力な根拠となり得るものの、客観的な根拠を示して覆すものとも、渡嘉敷島の「集団自決」に関して軍の関与を否定するものともいえない。 米軍の「慶良間列島作戦報告書」で、原告が主張するように訳したとしても、日本軍の兵士たちが慶留間の島民に対して米軍が上陸した際には自決するよう促していたことに変わりはなく、その訳の差異が本訴請求の当否を左右するものとは理解されない。 赤松大尉は、大城徳安や米軍の庇護から戻った2少年、伊江島の住民男女6人を正規の手続きを踏むこなく、処刑したことに関与した。住民への加害行為を行っているのであって、こうした人物を立派な人だった、悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。(「沖縄戦ショウダウン」) 判決本文参照第4・5(4) 集団自決に関する文献等の評価について 知念朝睦証人は、陳述書に「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍にいた」と記載しているが、西山陣地への集結指示については、聞いていない、知らない旨証言。「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした」と記載している。 いずれにしても赤松大尉の自決命令を「聞いていない」「知らない」という知念証人の証言から自決命令の存在を否定することは困難である。 判決本文参照第4・5(5)ア 知念証人の証言について 皆本証言 赤松大尉のそばに常にいたわけではないことが認められ、赤松大尉の言動を把握できる立場になかった。赤松大尉の言動についての証言の評価に当たっては、この点を重視する必要がある。 皆本義博証人の証言は、手榴弾を交付した目的を明示する陳述書の内容と食い違い、手榴弾に関する陳述書の記載およびその証言には疑問を禁じ得ない。 判決本文参照第4・5(5)イ 皆本証人の証言について 梅澤証言 梅澤は本人尋問で、手榴弾を防衛隊員に配ったことも、手榴弾を住民に渡すことも許可していなかったと供述する。 一方で木崎軍曹が手榴弾を交付したことについて、木崎軍曹が住民の身の上を心配して行ったのではないかと供述する。 慶良間諸島は沖縄本島などと連絡が遮断されていたから、食糧や武器の補給が困難な状況にあったと認められ、装備品の殺傷能力を検討すると手榴弾は極めて貴重な武器であったと認められる。 軍の装備が不十分で、補給路が断たれていたことについては、梅澤自身も、村民に渡せる武器、弾薬はなかったと供述している。 そうした状況で、戦隊長である梅澤の了解なしに木崎軍曹が(住民の)身の上を心配して手榴弾を交付したというのは、不自然である。 貧しい装備の戦隊長である梅澤が、そうした部下である兵士の行動を知らなかったというのは極めて不自然であるというべきである。 梅澤作成の陳述書と本人尋問の結果は、信用性に疑問がある。 判決本文参照第4・5(5)ウ 原告梅澤の供述等について 赤松手記 赤松手記は、自己への批判を踏まえ、自己弁護の傾向が強く、手記、取材ごとにニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できない。全面的に信用することは困難である。 判決本文参照第4・5(5)エ 赤松大尉の手記等について 体験者証言 本件訴訟を契機に、宮平春子、上洲幸子、宮里育江の体験談が新聞報道されたり、本訴に陳述書として提出されたりしている。沖縄戦の体験者らの体験談は、いずれも自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえる。 また多数の体験者らの供述が、1945年3月25日の夜に忠魂碑前に集合して玉砕することになったという点で合致しているから、その信用性を相互に補完し合うものといえる。 こうした体験談の多くに共通するものとして、日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった場合には自決を促され、そのための手段として手榴弾を渡されたことを認めることができる。 判決本文参照第4・5(8) 文献等に基づく集団自決の理解 読める判決「集団自決」