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昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-005 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 2 原審の判断及び不服申立て (判決本文p5~) 2 原審の判断及び不服申立て(1) (原審の判断)* (2) (不服申立て)* (3) (請求の拡張及び減縮)* (1) (原審の判断)* 原審は, 次のように判断して, 控訴人らの各請求を棄却した。 ア 「沖縄ノート」は, 座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ控訴人梅澤及び赤松大尉であると明示していないが, 引用された文献, 新聞報道等でその同定は可能であり, 本件各書籍の各記載は, 控訴人梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから, 控訴人梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。 イ 「太平洋戦争」は, 太平洋戦争を評価, 研究する歴史研究書であり, 「沖縄ノート」は, 日本人とは何かを見つめ, 戦後民主主義を問い直した書籍であって, 控訴人梅澤及び赤松大尉に関する上記各記述を掲載した本件各書籍は, 公共の利害に関する事実に係り, もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。 ウ 控訴人らは, 梅澤命令説及び赤松命令説は集団自決について戦傷病者戦没者遺族等援護法(「援護法」)の適用を受けるための捏造であると主張する。 しかしながら, 複数の誤記があるとは認められるものの, 戦時下の住民の動き, 非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料的価値を有する沖縄タイムス社編「鉄の暴風」, 米軍の「慶良間列島作戦報告書」などが援護法の適用が意識される以前から存在しており, 捏造に関する主張には疑問がある。控訴人らの主張に沿う照屋昇雄の発言や宮村幸延の「証言」と題する書面は採用できない。 工 [1]座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが, 多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること, [2]沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており, 捕虜になることを禁じ, 渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遺い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか, 米軍に庇護された少年2名, 投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと, 米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること, [3]慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され, 食糧や武器の補給が困難な状況のもとで, 第一, 第三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であったところ, 自決にはこれが使用されていること, [4]沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており, 日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると, 集団自決については日本軍が深く関わったものと認められる。そして, それぞれの島では控訴人梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織があったことからすると, それぞれの島における集団自決に控訴人梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる。しかしながら, 自決命令の伝達経路等が判然としないため, 本件各書籍にあるような各自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。 オ 控訴人梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え, 平成17年度までの教科書検定の対応, 集団自決に関する学説の状況, 判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断, 家永三郎及び被控訴人大江の取材状況等を踏まえると, 控訴人梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても, その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる。したがって, 本件各書籍の各発行時において, 家永三郎及び被控訴人らが本件各記述が真実であると信ずるについて相当の理由があろたものと認めるのが相当である。そのことは原審口頭弁論終結時(平成19年12月21日)においても径庭はない。 カ 「沖縄ノート」には赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが, 沖縄ノートの主題等に照らして, 被控訴人大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。 キ したがって, 被控訴人らによる控訴人梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず, それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の出版等の差止請求も理由がない。 (2) (不服申立て)* そこで, 控訴人らは, 上記判断を不服として, 事実認定及び法律判断の誤りを主張して控訴した。 (3) (請求の拡張及び減縮)* なお, 控訴人らは, 原審では, 被控訴人岩波書店に対して, 慰謝料として各1000万円(控訴人梅澤は「太平洋戦争」の出版等によるものとして500万円, 「沖縄ノート」の出版等によるものとして500万円, 控訴人赤松は, 「沖縄問題二十年」の出版等によるものとして500万円, 「沖縄ノート」の出版等によるものとして500万円)及びこれに対する平成17年9月11日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を, 被控訴人大江に対して, 慰謝料として各500万円(「沖縄ノート」の出版等によるもの)及びこれに対する前同様の遅延損害金の支払を求めていた。 しかし, 控訴人らは, 当審において, 平成19年12月に, 軍命令が確認できないとする文部科学省の平成18年度の教科書検定意見が維持され, かつ, 梅澤命令説及び赤松命令説に真実性が認められないとした原判決が言い渡された後も, 被控訴人らが本件各書籍の出版, 販売を継続し, 特に「沖縄ノート」については増刷を重ねている(平成20年4月24日に第58刷, 同年5月7日には第59刷)として, 請求を拡張し, 新たに, 上記出版, 販売継続に係る慰謝料として, 控訴人梅澤は, 被控訴人岩波書店に対し, 1000万円(「太平洋戦争」と「沖縄ノート」の各出版, 販売継続によるもの)及びこれに対する平成20年6月25日(当審第1回口頭弁論期期日)から支払済みまで年5分の割合による損害賠償金の支払請求を, 控訴人らは, 被控訴人大江に対し, 各500万円(「沖縄ノート」の出版, 販売継続によるもの)及びこれに対する前同日から支払済みまでの遅延損害金の支払請求を付加した。 他方で, 控訴人赤松は, 原審で請求していた被控訴人岩波書店に対する「沖縄問題二十年」の出版, 販売に係る慰謝料の500万円及びこれに対する遅延損害金の請求を取り下げるとして, 同金額について被控訴人岩波書店に対する請求を減縮した。 目次 戻る 通2-005 次へ 通巻
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http //www.okinawatimes.co.jp/news/2008-11-12-M_1-025-1_003.html 2008年11月12日【朝刊】 社会 元戦隊長側が上告/「集団自決」訴訟 太平洋戦争末期の沖縄戦で旧日本軍が「集団自決(強制集団死)」を命じたとする作家大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、慶良間諸島の当時の戦隊長らが出版差し止めなどを求めた訴訟で、元隊長ら側は十一日、一審に続き訴えを退けた大阪高裁判決を不服として上告した。 上告について、元隊長ら側弁護団は「控訴審判決は一定評価できるものの、名誉棄損の最高裁判例を変え、人格権を著しく後退させた」と説明した。 一方、大江さんは弁護士を通じて「この訴訟が、高校教科書から『軍の強制』が削除されるきっかけとなった。最高裁判決が元に戻す力となることを信じる」とのコメントを出した。 沖縄戦ニュース
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『「慰安婦」問題調査報告・1999』 日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告― 山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン ソース:http //www.awf.or.jp/pdf/0062_p107_141.pdf 【目次】 注 12 セレベス(現スラウェシ) この地域の売春に関する資料は数点保存されている。戦争中のオランダ軍情報局[NEFIS]資料は、原住民71)組織がマッカサル(現ウジュンパンダン)にいた日本人に協力して「日本人売春用」に、女性を集めるため助力した記述がある72)。他の報告書には若い女性達に、東京へ留学させると騙し、ケンダリやポマラアの慰安所へ連れていった。ポマラアとコラカの慰安所を目撃したという個人からの情報も入っていた73)。 注へ 次へ 【目次】
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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』 平成19年12月25日 教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会 http //www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授沖縄戦における「集団自決」の認識についての私見1 太平洋戦争における沖縄戦の位置づけ 2 沖縄戦状況下における日本軍と住民の関わり 3 「集団自決」が起こった原因と背景 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1) 大城将保沖縄県史編集委員 我部政男山梨学院大学教授 我部政男山梨学院大学教授(つづき) 高良倉吉琉球大学教授 沖縄戦における「集団自決」の認識についての私見 高良倉吉(琉球大学・琉球史) 私は沖縄戦をテーマとする専門研究者ではありませんが、琉球(沖縄)史を総合的に捉えたいと希う立場から、求めにより、表記のテーマに関し若干の意見を述べたいと思います。 1 太平洋戦争における沖縄戦の位置づけ ①短期決戦で作戦遂行を目指す米軍と時間稼ぎをしたい日本軍とが、本土上陸戦を睨んで沖縄を戦場に行った戦闘。圧倒的兵力と物量を投じ短期の沖縄制圧を図る米軍と、劣弱な迎撃態勢を補完するために「一木一草に至るまで戦力」化を企図し「出血作戦」により抵抗した日本軍とのあいだで行われた戦闘。 ②沖縄住民の側から見ると、生活の場が戦場となり、軍民雑居の状態下で米軍による砲煙弾雨に晒されるという苛酷な状況が出現した。 2 沖縄戦状況下における日本軍と住民の関わり ①沖縄県庁は機能停止状態にあり、日本軍(第三十二軍)が統治上の権力を把握。 ②長期にわたる戦争により日本軍組織は質・量ともに劣悪な状態にあった。 ③日本軍は組織的な戦闘能力を失ったとしても、本土上陸戦を阻止するために沖縄で時間稼ぎをすることを至上課題としていた。 ④その課題を遂行するために日本軍は幾多の戦時動員を行い、手段を選ばず沖縄の「戦力」化を目指した。 ⑤沖縄の多くの地域において軍民雑居状態が存在したが、住民のほとんどは「友軍」に対する奉仕の意識を持ち、「戦力」化への期待を受け入れていた。 ⑥住民の「友軍」への奉仕意識、「戦力」化に応ずる志向はそれ以前の教育内容やプロパガンダが原因であるが、戦時・戦場下における切迫した事態を加味する必要がある。 3 「集団自決」が起こった原因と背景 ①「集団自決」は沖縄各地において多様な形で起こっており、その原因および背景については個々の事例ごとの綿密な検証が必要である。その課題に関しては、住民証言の聞取り調査等により数多くの状況認識が蓄積されており、その成果を尊重すべきである。 ②「集団自決」事件に通底する背景として重視すべき点の一つは沖縄戦の特質であり、時間稼ぎのための「戦力」化志向において、目前の住民=国民の生死よりも作戦遂行を至上とした日本軍側の論理である。軍と民を分離する統治能力を発揮することよりも、軍民雑居状態を放置することを通じて作戦遂行に邁進した日本軍のあり方が検討されるべきである。 ③問題となっている慶良間諸島における「集団自決」については、直接的な「軍命」の存在を確実に実証できる資料は得られていないが、その事件に関する日本軍の結果責任は明らかであり、軍側の論理の関与を否定できる根拠は見出せない。具体的な誰が「集団自決」を命じたかを詮索することにも一定の意味はあると思うが、それよりも沖縄戦においてなぜそのような事件が惹起したのか、そのことの意味を歴史像の根幹として検討することのほうがより重要である。 ④沖縄戦当時の日本軍側の論理や特質を抜きに「集団自決」事件を説明することは不可能であり、そのことを特筆しつつ歴史としての沖縄戦を提示することが求められているのだと考える。 (2007年11月18日記) 秦郁彦現代史家 林博史関東学院大学教授 原剛防衛研究所戦史部客員研究員 外間守善沖縄学研究所所長 山室建德帝京大学講師 戻る
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通063 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 ア 座間味島について(ア)(梅澤命令説記載文献) j 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集(ha) j 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集(ha)(a)(史料価値)* (b)(自決命令に関する記述)* (c)(誤記訂正の目的も)* (a)(史料価値)* 「沖縄県史第10巻」は,「沖縄県史第8巻」と同様の沖縄の公式な歴史書の一部であり,昭和49年3月31日に発行され,「沖縄戦記録2」に当たる。 沖縄県史の作成に関与した安仁屋政昭は,沖縄県史の資料価値等について 「これは,客観性のある,極めて科学性のあるものだと思います。それはどういうことかと言いますと,戦争体験者の証言を語ったとおりに記載するという,そういう手法は採っておりません。私どもは,証言の客観性を高めるために,行政記録,外交資料,軍事記録,報道記録,第三者の証言などを突き合わせて,その客観性を高める努力をし,また一つの事件についても一人から聞取りをするということだけでなくて,場合によっては関係者の座談会などを開きまして,これを四方八方から光を当ててその客観性を保証できる,そういう証言をつくってきたつもりであります。」 「で,多くの証言者―私自身について言いますと,おそらく一万人近い証言に接しております。それは私の個人の話でありまして,私のようなことをやっているのが」「百数十名,そういう努力を重ねてきている,集団討議を重ねてきている,ということです。」 と語っている(乙11・28頁) (b)(自決命令に関する記述)* 「沖縄県史第10巻」には, 「午後十時ごろ,梅沢隊長から軍命がもたらされた。『住民は男女を問わず軍の戦闘に協カし老人子供は村の忠魂碑の前に集合,玉砕すぺし』というものだった。役場の書記がこの命令を各壕をまわって伝えた。」 「ここでは部隊長から自決命令が出されたことが多くの証言からほぼ確認できるのである。」 との記述がある(乙9・698,699頁)。 (c)(誤記訂正の目的も)* 「沖縄県史第10巻」には,大城将保の記載として,初枝らの自決について,前記「沖縄戦史」及び「秘録沖縄戦史」に誤記があり,前記「鉄の暴風」にも原告梅澤の死亡についての誤記があると指摘した上で, 「このように,慶良間諸島の戦争記録のなかには,渡嘉敷島の集団自決の記述なども含めて,誤記と欠落が少なくない。本編の証言がそれらを訂正する資料ともなれば幸いである。」 とし,後記1のとおり,集団自決の体験者の体験談が記載されている。 <被告らの読みとり> <原告らの読みとり> 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
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http //mainichi.jp/area/okinawa/news/20090927rky00m040004000c.html 歴史教科書:日本兵が「死になさい」 山城さんが証言 真実、後世に願い 文部科学省の教科書検定で、高校歴史教科書の沖縄戦「集団自決(強制集団死)」の日本軍強制記述が削除・修正されたのを受け、2007年に開かれた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(同実行委主催)から約2年。民主党主導の政権誕生を機に、検定意見撤回と記述回復など当時の大会決議実現を目指し「9・29県民大会決議を実現させる県民集会」(9・29県民大会決議を実現させる会主催)が29日午後6時から県庁前広場で開かれる。「集団自決」の現場から一命を取り留めた元住民は体験を語り記述回復の願いを集会に託す。主催関係者は「運動を前進させたい」と再び闘いに挑む。 「ここで死になさいね」。山城功さん=当時(12)=の義理の伯母ヨシさんは1945年3月25日夜、座間味島の軍本部の壕(ごう)内で、少尉から手榴弾(しゅりゅうだん)を渡された。「使い方が分からないなら輪になりなさい。自分がやるから、心配ないから」とヨシさんや山城さん、姉の千代枝さん=当時(15)、功さんのいとこに指示した。「その中心に手榴弾を放るつもりだったんだろう」。しかし、猛烈に抵抗する千代枝さんの姿を見たヨシさんは、少尉に頼み込み、手榴弾を返した。「姉が必死に抵抗していなかったら、あそこで死んでいたかもしれない」。山城さん(76)は振り返り、宙を見つめる。 山城さんの妻、美枝子さん(68)は沖縄戦当時、座間味村の助役だった宮里盛秀さんの次女だ。夫婦とも同村出身だが、結婚以来、戦争当時の村の状況が話題に上ることはなかった。「あれだけの人数を巻きこんだ『集団自決』があった村の、助役だった父の立場もあり言葉が出なかった」(美枝子さん) 変わったのは、教科書検定問題を知ってからだ。 「何があったか現実をしっかり見てもらい、戦争がどういうものか考えてほしい」。思いを強くし、夫婦間で話すようになり聞き取りにも応じるようになった。 座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、両島に駐留していた日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの本の記述は誤りだとして、元戦隊長らが提訴した大江・岩波訴訟。原告側は、父の盛秀さんが「自決命令」を出したと主張していたが、1審でも控訴審でも訴えは棄却された。「訴訟も教科書検定問題も同じ問題だ。現実に何があったかをきちんと残さないと、同じことが繰り返されてしまう」と危機感を強くする。 「沖縄戦で何があったかを子や孫に知ってもらうためにも、教科書の記述は回復されるべきだ」。美枝子さんは29日の県民集会に思いを託した。 (当銘寿夫) (琉球新報)2009年9月27日 沖縄戦ニュース
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http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20080328-OYT1T00220.htm 沖縄ノート訴訟、集団自決「軍深く関与」…大江さんら勝訴 沖縄戦で住民に集団自決を命じたと著書で虚偽の記述をされ、名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の元少佐らが作家の大江健三郎さん(73)と岩波書店(東京)に出版差し止めと2000万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が28日、大阪地裁であった。 深見敏正裁判長は「集団自決には旧日本軍が深くかかわった。元少佐らの関与も推認できる」と指摘。自決命令があったかどうかは断定を避けたが、「記述には合理的な根拠があり、真実と信じる相当な理由があった」として名誉棄損の成立を否定、原告の請求をすべて棄却した。原告側は控訴する。 訴えていたのは、座間味島の守備隊長だった元少佐・梅沢裕さん(91)と、渡嘉敷島の守備隊長だった元大尉・赤松嘉次さん(故人)の弟秀一さん(75)。 問題とされた著作は、大江さんの随想記「沖縄ノート」(1970年出版、約30万部発行)と、家永三郎氏の歴史研究書「太平洋戦争」(68年出版、約18万部発行)。沖縄ノートは他の文献を引用する形で集団自決を「日本人の軍隊の命令」とし、梅沢さんと赤松さんの名前を伏せ、「事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていない」などと記述した。太平洋戦争は梅沢さんの実名を出し、「自決せよと命令した」と記した。 深見裁判長はまず旧日本軍の関与について検討。〈1〉軍から、自決用の手榴(しゅりゅう)弾を受け取ったとする住民らの証言が多数ある〈2〉沖縄で集団自決が発生したすべての場所に軍が駐屯し、軍のいない島では自決がなかった――などから「軍が深くかかわった」と認定。梅沢さんと赤松さんについても、「島では原告らを頂点とした上意下達の組織が築かれ、関与は推認できる」と指摘した。 しかし、原告らが命令を出したかについては、命令の伝達経路などがはっきりしないため、「命令したと認定するには躊躇(ちゅうちょ)を覚える」とした。 そのうえで、「記述は原告らの社会的評価を低下させるが、集団自決に関する学説の状況、文献の存在などを踏まえると、真実と信じる相当の理由があった」と結論づけた。 原告側は「原告らによる自決命令は住民の遺族が戦後に補償を受けるため捏造(ねつぞう)された虚構」と主張したが、深見裁判長は「捏造は認められない」と述べた。 この訴訟は、2006年度の教科書検定で「軍による強制」の記述に意見がつく理由の一つとなり、判決が注目されていた。 (2008年3月28日10時29分 読売新聞)
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http //kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20090223-OYS1T00283.htm ひめゆり学徒隊員の校章、悲劇から64年経て見つかる yomiuri 発見されたひめゆり学徒隊員の校章。中央に白い花があしらってある http //kyushu.yomiuri.co.jp/zoom/20090223-OYS9I00278.htm 太平洋戦争末期の沖縄戦で主に傷病兵の看護にあたった「ひめゆり学徒隊」の女学生の校章が、隊員が集団自決した沖縄県糸満市の荒崎海岸で発見された。犠牲となった隊員の校章が確認されたのは初めて。 白いユリをあしらった校章は64年前の隊員の悲劇を静かに物語っており、6月、同市の「ひめゆり平和祈念資料館」に展示される。 荒崎海岸は1945年6月21日、学徒隊を構成していた県立第一高等女学校(一高女)の隊員7人、教頭1人ら10人が米軍に追いつめられて手榴(しゅりゅう)弾で集団自決した場所。将来ある女学生が命を失った悲劇を象徴する地として、同校同窓生らが「学徒隊散華(さんげ)の跡」と記した慰霊碑を建てた。 校章が見つかった荒崎海岸の岩場(沖縄県糸満市束里で) 発見したのは、沖縄戦犠牲者の遺骨収集に取り組む市民団体「ガマフヤー」(那覇市)の具志堅隆松代表(54)。昨年12月31日、荒崎海岸の別の場所に遺骨収集に向かう途中、岩場の陰に落ちていたという。 校章はひし形で縦2・2センチ、横1・6センチ。中央に白いユリの花、右上に「高女」の2文字があしらわれている。具志堅代表は「最初は砲弾のかけらと思って拾った。付着していた土をこすると、『高女』の文字が出てきたので校章と気付いた」と発見時の様子を話す。その後、資料館で一高女の校章と確認。7人のうちの誰のものかは分かっていない。 元隊員で資料館証言員の宮城喜久子さん(80)によると、隊員は自決を決めた直後、未練を断ち切るために家族の写真などを入れた救急カバンを捨てたという。宮城さんは集団自決した7人とともに米軍に追い込まれたが、7人とは別の岩陰に逃げ込んで助かった。「64年もたって見つかるなんて……。ひめゆりの誇りである校章だけは最後まで肌身離さず持っていた人がいたんですね」と語った。 校章が見つかった荒崎海岸の岩場(沖縄県糸満市束里で) http //kyushu.yomiuri.co.jp/zoom/20090223-OYS9I00277.htm 戦後64年がたち、当時を知る元隊員は少なくなっている。資料館の普天間朝佳(ちょうけい)・学芸課長(49)は「戦争体験者がいなくなる時、校章は隊員の無念さを伝える何よりの資料になる」と話している。 (2009年2月23日 読売新聞) 沖縄戦ニュース
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http //teanotwar.blogtribe.org/entry-ad00ef440487f75582f35ad7b52fbdff.html フレシェット弾が使われているかも:Raed Jarrarさんウェブログより Raed Jarrarさんウェブログより,11月9日と10日の記事。抜粋です。といってもあんまり削ってませんが,全文はRaed in the Japanese Languageでお読みください。 http //raedinthejapaneselang.blogspot.com/2004_11_07_raedinthejapaneselang_archive.html 2004年11月9日(火)の記事 http //raedinthemiddle.blogspot.com/ Tuesday, November 09, 2004 米兵が36人+イラク兵が103人 あまり信頼できないメディアで,こういうことは既に何度も聞いたり読んだりしていたのだけれども ヨルダンの地元紙(アラビア語です),"Ad-Dustour"【訳注:サイトもアラビア語のみ】やいくつかの中国のサイト【訳注:リンク先は新華社英語版。今見たら「米兵35人」とありました】を読んでたら,同じニュースが掲載されていたので。 報道によると,ファルージャの中心的モスクのひとつであるFurqanモスクが,今日,ファルージャの戦士たちが米兵を36人と,それに加えてイラク兵を103人捕えたと発表した。また,モスクは米兵9人を殺害し,ヘリを2機と無人偵察機1機を撃ち落とし,戦車とAPC(装甲兵員輸送車)を2台ずつ,さらにハンヴィーを3台やった,と発表した。 米軍は今日の米軍の死者は10人ということは発表している。 これらの数字が誇張されたものなのか,本当なのかは誰にもわからない。 Posted by Raed Jarrar / 11 34 PM (47) comments translated by nofrills, 11 November 2004 ファルージャ,そしてヤサー・アラファトについて,再度 死んでる,生きてる,死んでる,生きてる,死んでる,生きてる・・・ ロイターは死亡したと言う。 AFPは生きていると言う。 死んだ,生き返った,昏睡状態だ,意識が戻った。 パレスチナ自治政府のトップ4人が今日パリへ行き,病院のアラファトを訪ねた。 ファルージャは「地獄」だ。あの小さな町の住民のひとりが今日そう言っていた。ファルージャの住民数は25万から30万。報道記事やニュースのほとんどは,およそ20万人がファルージャを離れ,ラマディやバグダード,それからハバニヤ湖の近くのテントに住んでいると言っている。ファルージャ内部にいる人の数は,5万から10万。戦士の数は推定1万5千から2万5千。ファルージャの小ささと比較すれば,実に大人数だ。 米軍はファルージャで,「ネイル・ボム」【訳注:テロリストが空き缶に釘を詰めて手作りする釘爆弾ではなく,「フレシェット弾」のこと。参考=P-navi info】や「クラスター爆弾」を使用している。テレビで昨晩の攻撃を見ていたら,A-10戦闘機が映っていたが,これは地上軍に対して空から緊密な援護をするために特別に設計された,最初の空軍機だ。これがファルージャの市街を爆弾で攻撃している。爆弾は空中で炸裂し,雨のように降り注いでいる。 占領戦争の間,イラク南部ナシリヤにネイル・ボムの攻撃があって,僕はそれを目撃したし,ネイル【訳注:フレシェット弾に入っている金属片】をいくつか保存してもいる。南部では何ヶ月か,人々にUXO(不発弾)やクラスター爆弾の不発の子爆弾の危険性について知らせる活動をした。クラスター爆弾の子爆弾をおもちゃだと思ったために怪我をした子供たちを何十人も僕は見ている。【訳注:IRAQI CIVILIAN WAR CASUALTIESのサイトを参照。】 これがイラク版のToys r US-(bombs) (「トイざラス(米国の爆弾)」) クラスター爆弾やネイル・ボムの使用は違法だが,4月のファルージャ攻撃でも使用されていた。でもまあ,この戦争に何か合法的なものがあるなんていうことはそもそもないわけで。 日本での原爆の使用は合法的だったのか? あるいはヴェトナムでのナパーム弾やエージェント・オレンジは? どんな戦争であっても,合法的なんてことがありうるのか? ああそうか,それが,エヘン,解放の戦争でない限りはね。むろん,この戦争はそうさ。 ファルージャでの戦闘についてのニュースはあまりはっきりしていない。しかし,米軍が町境の鉄道駅(この画像の45番)を押さえたことは確かだ。ほかのニュースでは,米軍が市の中心部に近付きつつあると言っている(ファルージャの中心部は,鉄道駅から1マイルのところだ)。 ロイターの報道によると,ファルージャのレジスタンスはヘリを1機撃墜した。【訳注:リンク先はシドニー・モーニング・ヘラルドで,閲覧には登録が必要】 ファルージャにいるアルアラビヤの特派員は,米軍の戦車4台が燃えていると言っていた。 他方,中部と西部の都市は全面戦争となっていて,政府はバグダードに夜間外出禁止令を出した。家族に電話をして状況がどうなっているかを確認したが,家族の話では,バグダード中で爆弾や攻撃がある,こんなにひどかったことは今までにない,ということだ。バクバやキルクークでの警察署への攻撃は止んでいない。このビデオは今日ラマディであった米軍の戦車への自爆攻撃を写したもの。AFPは,ラマディ中心部からは米軍は撤退して,レジスタンス戦士が掌握していると伝えている。 政治的にうまく立ち回る主要なスンニ派の政党,Al-Hizb Al-Eslamiは,今日,イラク「政府」から脱退した。これでまた,いわゆる「政府」の棺おけに釘が打ちこまれたことになる。 下の写真は,イラク南部の3つの都市で,1年前に撮影したもの。 Posted by Raed Jarrar / 7 05 PM (58) comments translated by nofrills, 11 November 2004 2004年11月10日(水)の記事 http //raedinthemiddle.blogspot.com/ http //raedinthemiddle.blogspot.com/2004_11_10_archive.html Wednesday, November 10, 2004 爆撃された病院,白燐榴弾,そしてファルージャ 今日はひどい頭痛がしていますが,いくつか興味深いニュースがあったので。ファルージャにおける米軍の解放の軍事行動(efforts)について,ネットならどこでも読めるというわけではない記事です。 米軍が白燐榴弾を使っているとの報道 ワシントン・ポストの報道によると,米軍は白燐榴弾を使い始めている。白燐榴弾は着火すると水で消火することができない。イラク人医師たちは,病院に運び込まれている死体の皮膚が溶けていると報告している――白燐榴弾の火傷と一致する反応である。 【訳注:ワシントン・ポストのサイトにももちろん記事があるのですが,登録しないと読めないので,登録しなくても読める記事を探してみました。→San Francisco Chronicle なお,white phosphorousは検索をして「白燐(榴弾)」という訳語を見つけたのですが,『リーダーズ英和辞典』では「黄燐」となってました。訳語の確定をしている時間的余裕がないので,こういうかたちで付記しておきます。】 報道:診療所爆撃で医療関係者20人が死亡 ファルージャの医療システムはめちゃくちゃになっている。中国の通信社,新華社通信(英語版)は,医療関係者20人を含むイラク人数十人が,昨日の米軍の診療所爆撃で殺された,と伝えている。この診療所は,月曜日に米軍に制圧された大病院の代わりとなるようにと立てられたばかりだった。医師のひとりはロイターに,「ファルージャには外科医がひとりもいなくなってしまった。救急車は米軍に撃たれるし,医者は怪我をしている。自宅にいるままの民間人負傷者が何十人もいるのに,動かすことができない。13歳の子どもが私の手の中で死んだ」と語っている。 【訳注:ロイターに答えたこの医師は,Sami al-Jumaili医師。往診に行った負傷者の家で電話で答えたとのことです。この名前は何度も見たような気がするのだけれど,情報量が多すぎてわかんなくなってしまいました。】 赤十字がファルージャでの軍事行動について警告 国際赤十字委員会が,ファルージャについて声明を出した。一部を抜粋すると,「国際赤十字委員会は,交戦当事者に対し,敵であれ味方であれ,そのようなケアを必要とするすべての人々が,医療機関にアクセスできるように確実にしておくよう,要求する。また,医療従事者と医療関係車両が,いかなる場合においても,障害なく活動できることを確実にしておくよう,要求する」。攻撃開始後数日で,米軍は病院を1軒破壊し,1軒を制圧し,さらに医療サプライ品センターを破壊し,救急診療所を爆撃した。 スンニ派指導者たちが,選挙ボイコットを呼びかけ 影響力あるスンニ派指導者たちが,火曜日に,イラク人に対し,反乱者が押さえる都市ファルージャに対する米国主導の攻撃に抗議して,数十年ぶりの民主的選挙をボイコットするよう,呼びかけた。【訳注:この文,記事は「デモクラシー・ナウ!」のものだけど,激しくBBCあるいはロイターくさい用語です。これら以外でもこういう用語法のメディアはあるかと思いますが,要するにメインストリームってことで。】 イラク・イスラム聖職者(法学者)協会(Iraq s Muslim Clerics Association)は,過去においてファルージャでの停戦の交渉を手助けしてきたが,イラクに米軍が駐留していることに対する反乱(revolt・・・revolutionじゃないのね)の最前線のスンニ派たちに呼びかけ,1月27日に予定されている選挙の信頼性を揺るがすことができるだろう。【訳注:仮定法の文。訳がぎこちないです。】 「聖職者(法学者)たちはイラクの栄誉ある人々に対し,予定されている選挙のボイコットを呼びかける。この選挙は,彼らが,ファルージャなどのイラクの都市の死者の躯や負傷者の血の上において行なおうとしているものである」と,同協会トップのハリス・アル=ダーリ師は述べた。 「(選挙は)イラクの占領当局,および彼らに協力する諸機関の目的を達するために行なわれるものである。」 Posted by Raed Jarrar / 10 11 PM translated by nofrills, 11 November 2004 コメント欄より,有益な情報: 白燐榴弾を人のいるところに投げているとは常軌を逸している。火器というよりは化学兵器になってしまう。米軍が使っているであろうM-15白燐榴弾は,爆発半径は17メートルあって,燃焼温度は5000度だ。身体に付着した破片を取り去ると,空気に触れて自然発火する。だから取り去る前に怪我をした箇所を水につけなければならない。破片はすぐに水にひたさなければならない。白燐(黄燐)は酸素の少ない水に触れるとホスフィンを出すが,これがおそろしいのガスだ。煙を吸入すれば,「phossy jaw」と呼ばれる症状が起きる。口に傷ができるがそれは治ることなく,顎の骨自体が砕けてしまうこともある。白燐(黄燐)は少量(小匙1杯未満)摂るだけで,吐き気,嘔吐,肝臓障害,心臓障害,腎臓障害,ひどい眠気をもよおすし,時には死に至ることもある。 かつては花火にごく少量入っていたけれど,あまりに多くの人がそれで怪我をしたり病気になったりしたので,花火への使用はやめなければならなかった。 M-15白燐榴弾は,こんな物質が15オンス(約425グラム)入っている。 どうかしてるよ・・・ # posted by Rei 11 30 PM 白燐榴弾使用との情報,ほかにもありました。 http //www.iht.com/slideshows/2004/11/10/africa/falluja.php # posted by Anonymous 12 28 AM http //raedinthemiddle.blogspot.com/2004_11_10_archive.html では、archiveのためコメント欄は閉鎖
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【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって 【転載歓迎】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』全内容文字起し 文字起し:夕刻の備忘録 http //jif.blog65.fc2.com/ より転載 一部修正 【転載歓迎】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』全内容文字起しPart.1★オープニング プロローグ:2枚の写真 最初の植民地 台湾領有 1895年 樟脳をめぐって Part.2統治の改革 後藤新平 1898年 公学校開設 台湾人子弟在席事件 樟脳産業の立て直し 日英博覧会「人間動物園」 1910年 Part.3台湾議会設置誓願運動 1921年 原敬の同化政策 台北一中時代の差別 皇太子の台湾行啓 1923年 Part.4台湾議会設置の直訴計画 日中戦争勃発 皇民化政策 1937年 「改姓名」 宗教弾圧 1938年 太平洋戦争勃発 1941年 エピローグ:台湾人元日本兵 Part.1 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-104.html %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% ★オープニング JAPANデビュー 未来を見通す鍵は歴史の中にある 世界の連鎖が歴史をつくってきた 150年前 世界にデビューした日本 私たちはどう生きた そしてどう生きる NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー 第一回 アジアの“一等国” %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% プロローグ:2枚の写真 ★今の横浜港の風景 語り・男声: ――今から150年前、西暦1859年、ここ横浜の港から、日本は世界の荒海に船出しました。長年の鎖国を解き、自由貿易を開始、西洋列強を目標に、日本は近代化の道を歩み始めます。 1859年、ジャパン、世界デビュー。 それから60年後、第一次世界大戦で戦勝国となった日本は、世界の一等国に登り詰めます。しかし、1945年、太平洋戦争に敗れ、日本は焦土と化しました。日本は何故坂を転がり落ちていったのか。開港から敗戦までの変遷を辿るシリーズ、「JAPANデビュー」第一回のテーマはアジアです。 ――日本の南西に位置する台湾。ここは日本の最初の植民地と成った場所です。近代日本とアジアの関わり、その原点はこの地にあります。毎年秋に行われる道教の祭り、台湾の住民のほとんどは中国大陸から移り住んだ「漢民族」です。日本は太平洋戦争の敗戦まで、50年間に渡り台湾を支配しました。台北市の公園に、日本の統治時代を生きた台湾の人々が居ました。 ★公園の風景 「当時の大日本帝国軍人。一万二千八百部隊×××宜しくお願いします(敬礼)。死に損なった日本兵ですよ。あのですね……」 ――太平洋戦争当時、台湾の青年達は日本軍の兵士として、戦場に駆り出されました。 「日本男児と生まれ来て、戦の場(にわ)に立つからは名をこそ惜しめ武士(つわもの)よ、ハハハ……」 「守るも攻めるもくろがねの浮かべる城ぞたのみなる(以降、数名で合唱)。仇なす国を攻めよかし」 ――日本は台湾の統治に力を注ぎ、この島を足がかりに、アジアへと勢力を拡大しました。半世紀に及ぶ統治で、日本は台湾の人々に、日本語をはじめ、日本精神を叩き込んでいきました。そして、太平洋戦争中、およそ21万の台湾人を、日本軍に入隊させ、次々と戦場に送り込みます。 台湾は日本のアジア支配、大東亜共栄圏の基点となっていきます。日本の傀儡国家、満州国、ここに五千人を越す台湾人が移り住みました。台湾の人々は、満州国の役人や技術者となり、日本の支配を支えました。太平洋戦争勃発後、日本が占領したインドネシア、台湾での統治経験を活かし、人々に日本精神の体得を強制していきます。 ★授業中の風景(少年の声) 「私たちはどんな苦しいことでも我慢して力一杯働いています。あのアメリカやイギリスや、オランダに負けてはいけないと思うと、どんなことでも苦しくありません」 語り・女声: ――日本のアジア支配の原点となった台湾。そこから近代日本とアジアとの関係が見えてきます。50年間の日本の台湾統治を象徴する、二枚の写真です。 「人間動物園」、そして「台北第一中学校の生徒達」。 ――台湾の先住民族です。およそ100年前、日本は彼等をロンドンに連れて行き、博覧会の見せ物として展示しました。この写真には世界にデビューした日本が、一等国へと登り詰めるまでの歴史が秘められています。 最初の植民地 台湾領有 1895年 語り・男声: ――日本が開港して間もない19世紀後半。西洋列強が注目していたのは、台湾でした。当時、イギリスやフランスなど列強は、アジアに狙いを定め、競い合って植民地を獲得していました。台湾は列強にとって地理的に重要な場所でした。台湾を基点に中国大陸へ勢力を拡大しようと目論んでいたのです。フランス外務省に残された資料(1895)です。 「イギリスやドイツが台湾を獲得しようとする動きがある。彼らが台湾を侵略するのなら、フランスは何らかの行動をとる」 ――列強の植民地奪い合いの最前線となった台湾。その台湾を領有したのはジャパン、日本でした。日清戦争に勝利した日本は、台湾を獲得します。この台湾領有の背景には、列強のアジア進出に関する日本の危機感がありました。世界の植民地を研究しているパスカル・ブランシャールさんです。 フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「日本を開港させたのは、アメリカの軍艦でした。またフランスは東南アジアのベトナム、カンボジア、ラオスを植民地化し、中国南部にも勢力を拡げていました。フランスの軍部では、日本の植民地化も議論されていたほどです。そこで日本は植民地化されない国になるため、欧米列強に倣い、自ら植民地を持つべきだと考えたのです」 ――明治政府が外交上の指針としたのは、西洋列強の間で定められていた国際法、萬國公法です。ここには国のランクが示されています。世界の国々は、一等国、二等国、三等国に分かれている。一等国とは、イギリスやフランスなど、ヨーロッパの五大国である。三等国は他国の意のままになる。日本はこうした世界観を持つ西洋列強と向き合わねばなりませんでした。 日本は防衛ラインを拡げるため、アジアへと進出、日清戦争に勝利した1895年、南の要として台湾を獲得したのです。同じアジアである台湾を、最初の植民地としました。現地統治機関、台湾総督府を置きます。当時の首相、伊藤博文は、台湾の統治が一等国を目指す日本の命運を握っていると考えていました。 「台湾の統治に失敗すれば、日の丸の御旗の光が失墜する(伊藤博文)」 ――初めての植民地を、日本はどのように統治したのか。その詳細を知る手掛かりがあります。台湾総督府文書です。日本内地の行政文書は、太平洋戦争の終結直前に、多くが焼却されています。台湾総督府文書は、統治の実態を明らかにする貴重な資料です。台湾領有から敗戦までの50年間の記録は、二万六千冊に及びます。 総督府は、衛生、教育、軍事、民生、警察など最大でおよそ二万七千人の官僚を抱える巨大な組織でした。日本は統治に力を注ぎます。しかし、領有直後から問題が噴出します。 漢民族としての伝統や誇りを持つ台湾人が、日本の支配に対して激しい抵抗運動を起こしたのです。台湾中部、雲林に暮らす邸順意(74)さん。邸さんは親類達から、住民が武器を取って日本軍と戦った様子を伝え聞いています。 「(字幕)日本軍は川の下流から来ました。台湾人は川の両岸で待ち構えていました。山の中にも潜んでいました。日本軍を取り囲んで射撃したのです。しかし日本軍の攻撃はすさまじく恐ろしかったと聞いています。このあたりの川は、死者の血で真っ赤に染まったといいます」 ――武力で制圧しようとする日本軍に対し、台湾人の抵抗は激しさを増していきます。戦いは全土に拡がり、後に「日台戦争(1895)」と呼ばれる規模へと拡大していきました。戦いによって、台湾の宝といわれる重要な産物が被害を受けます。クスノキから作られる「樟脳」という物質です。台湾の樟脳は、世界のシェアのおよそ七割を占め、西洋列強から注目されていました。 樟脳をめぐって 語り・女声: ――19世紀後半、イギリスでは樟脳を使ってある製品が作られていました。当時、新しい素材として爆発的に普及していたセルロイドです。様々な生活用品に使われる万能の合成樹脂でした。 科学博物館学芸員: 「セルロイドは美しい素材としてとても人気がありました。真珠の代わりとしても使われました。これはビクトリア女王の即位75周年に使用されたものです」 ――樟脳は軍事面でも需要がありました。スウェーデンの科学者、アルフレッド・ノーベルです。1887年、ノーベルは樟脳を使い新しい火薬を発明しました。煙の少ない無煙火薬です。無煙火薬は相手に居場所を探られにくいことから、世界中の軍隊で使われるようになります。世界に広く輸出されていた台湾の樟脳。しかし、混乱する日本の統治下、樟脳工場は次々と操業を停止していきます。 ★背景・旧イギリス領事館(台湾) 語り・男声: ――行き詰まる日本の統治を、台湾のイギリス領事館は冷徹に観察し、本国に報告していました。日本が台湾を領有した翌年、1896年の報告です。 「数ヶ月前には価値のある重要だった樟脳の産地が、日本の統治によって永遠に廃墟になってしまった」 ――フランスもまた、日本に厳しい評価を下していました。 「非常に素晴らしい島が、まったくの未経験者に支配された。極めて残念なことだ」 ――日本の台湾統治を研究してきたマーク・ピ-ティー(スタンフォード大学客員教授)さんです。 「日本は自らの植民地統治を、未熟だと認識していました。しかし一方で、ヨーロッパの植民地大国であるイギリスやフランスに、自分達には統治能力があることを示したいと考えていました。ですから、台湾統治の結果は、日本にとって大変重要でした。日本は台湾を自らの能力を見せるためのショーケースにしたかったのです」 ――台湾統治を成功させ、一等国を目指す日本。しかし、統治の方法を巡り、政府内で大きな混乱が起きていました。原因の一つは、明治政府が作った憲法にありました。台湾領有の六年前に発布されたこの憲法には、植民地の規定が記されていなかったのです。明治憲法の下では、日本の領土に生きる人は、みな天皇の臣民であるとされました。これに従えば、日本が領土とした台湾の人も、天皇の臣民となります。しかし、民族も習慣も異なる台湾人を、臣民として日本人と同様に扱うべきか、議論が起きます。 ――日本は世界の二大植民地大国、フランスとイギリスを参考にします。フランスがアルジェリアの統治で掲げたのは、同化政策でした。フランス国内と同じ法律をアルジェリアにも適用し、フランス国民として生きるよう求めました。 一方、イギリスの植民地、インドの統治は対照的なものでした。イギリスは、イギリス人とインド人を明確に区別し、現地のみに通用する法律、特別法によって統治しました。 日本の下した結論は、いわば、フランスとイギリスの折衷案でした。台湾人を、日本人と同じ天皇の臣民と位置付けながら、台湾のみに通用する特別法を定めたのです。 Part.2 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-103.html 統治の改革 後藤新平 1898年 ――台湾領有から三年後、一人の官僚が台湾に着任し、統治の改革に乗り出します。総督府ナンバー2の民生局長、後藤新平です。後藤は、台湾全土の調査を行います。臣民と位置付けられた台湾人の実態を、把握するためでした。 台湾には漢民族の他に、パイワン族をはじめ、14の先住民族が暮らしています。先住民族が暮らす山あいの地域は、樟脳の産地に近いことから、治安の安定が一きわ重要でした。後藤は、先住民族の村々に自ら足を運びます。そして、日本からは、人類学者や法律の専門家が入り調査をします。台湾総督府文書の中に、先住民族の調査報告書が残されています。 国史館台湾文献館研究員・陳文添: 「(字幕)これは当時、台東地域で生活していた先住民族です。顔の入れ墨や使用していた武器もきめ細かく描かれています。この民族には首狩りの習慣がありました」 ――後藤が語った言葉があります。 「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。台湾人を日本人に変えることは難しい」 ――風習や文化が異なる台湾人を、臣民として日本人と同じ法律で統治していくことは、困難であると判断します。後藤は、台湾のみに適用される法律、特別法を駆使していきます。先ず手を着けたのは、住民の抵抗運動を抑えることでした。後藤が考え出した条令、匪徒刑罰令です。日本内地ではあり得ない厳しいものでした。略奪、殺傷のみならず、建物や標識、田畑を破壊した者は死刑。未遂であっても同罪とする。総督府警察が、匪徒、犯罪者と見倣せば、たとえ未遂でも死刑に処せられました。 ――匪徒刑罰令によって死刑となった台湾の人々です。条令施行後の五年間で、三千人に達しました。日本統治への抵抗を根絶させるため、後藤は台湾人の協力者を取り込んでいきます。柯(か)徳三さん、87歳。柯さんの祖父は、日本の統治に協力した一人でした。祖父・秋潔さんです。一家は中国福建省から移り住んで来た漢民族でした。秋潔さんは逸早く日本語を学び、日本の統治下で生きていく決意をします。 柯徳三(日本語で語る): 「金の無い貧乏の農民として、私の祖先ですね。渡って来たその祖先達はね、この土地で経営して、田畑を植えて生活しているのに、いまさら大陸に戻ったら何も出来ない。びた一文無い。だから結局、帰れない」 ――地区のまとめ役だった秋潔さんは、住民を監視し総督府に報告する役割を担わされました。後藤は、秋潔さんのような人物を組織化していきました。 柯徳三(日本語で語る): 「あの住んでいる住民達をね、一人でも漏らさないようにコントロール出来る訳だ」 NHKスタッフの声:「周りの人達からどう思われていたんですかね?」 「周りの人達は恐らく、僕ら少年の時は、ああいうこと、分かりません。大人になってから後で考えたらね、恐らくあんたは、日本人の走狗(手先)だ、日本人の人に使われとった奴隷だ、そういう考え方やっとったかもしれませんね、ああ」 公学校開設 台湾人子弟在席事件 ――後藤は、日本人児童が通う小学校とは別に、台湾人児童が通う公学校を開設、統治に必要な日本語の初等教育を始めます。柯秋潔さんは、公学校の日本語教師も務めます。日本の統治に協力してきた秋潔さんは、息子の文徳さんを、日本人が通う小学校に入学させます。それまでの功績から、通学が認められると考えたのです。しかし、このことが総督府で大問題となります。台湾総督府文書に、小学校校長の報告書が残されていました。 「台湾人子弟在席の事件、柯文徳という台湾人が、学校内にいることを発見しました。 誠に恐縮なことでありまして、直ちに退学を命じました」 ――後藤は全ての学校に通達を出します。 「台湾人の児童と日本人の児童は教育の目的が異なる。こうした規則が徹底されなければ、統治の目的は永久に達せられない」 ――退学させられた、柯文徳さんは、徳三さんの父親です。 柯徳三(日本語で語る): 「もしこれを許せば、総督府がこれを許せば、小学校にどんどん台湾人が入るかもしらんと恐れたんでしょ、つまり、化外の民である台湾人を日本語教育するために、公学校というのをこしらえたんだから、おまえらしゃべることに事欠かず、普通の生活に事欠かない程度の日本語を覚えればそれでいいんだ、そういうつもりなんでしょ」 樟脳産業の立て直し ――後藤は、統治の基礎を固めながら、台湾の宝である樟脳産業の立て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底します。 元樟脳工場労働者・許雲集(91): 「(字幕)一カ所でクスノキを切り終わったら、すぐ別の場所で働けと命じられました」 ★キールンの風景 ――樟脳貿易の拠点となった港、キールン(基隆)。後藤は、自ら陣頭指揮を執り、小さな入り江だったキールンを、大型船が入れる港に作り替えました。さらに南北400キロを結ぶ縦貫鉄道を建設、樟脳の輸送ルートを確保しました。 総督府は、樟脳の販売を独占します。後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになります。 「台湾十年間の進歩」、後藤の時代に台湾総督府が出版した欧米向けのパンフレットです。そこでは、台湾が金のなる島になったことをアピールしています。台湾を急速に発展させた日本には、一等国の資格があることを強調したのです。イギリスの商社にとって、台湾の樟脳は重要な貿易商品でした。後藤の改革により、樟脳が安定的に供給されるようになったことを、イギリスは歓迎します。 「日本の政策によって我が国にも多大な利益がもたらされることになる。今後半世紀にわたり台湾の樟脳は、世界中に供給されるであらう」 日英博覧会「人間動物園」 1910年 ――台湾領有から15年後の1910年。日本は、統治の成果を世界に示す絶好の機会を得ます。ロンドンで開かれた日英博覧会。日本とイギリスの友好関係を祝う催しでした。近代国家として坂を駆けのぼってきたジャパン。会場では日本の産業や文化が幅広く紹介されました。訪れた観客はおよそ800万人。特に人気を集めたコーナーがありました。台湾の先住民族、パイワン族。日本は、会場内にパイワンの人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物としたのです。 ――日英博覧会のガイドブックです。そこには、台湾の人々が、客の前で戦いの踊りをし、戦闘の真似事をすると記されています。当時、イギリスやフランスは、博覧会などで植民地の人々を盛んに見せ物にしていました。人を展示する、人間動物園と呼ばれました。日本はそれを真似たのです。 フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方がありました。植民地の人間は野蛮な劣った人間であり、ヨーロッパの人々は彼らを文明化させる良いことをしている、と信じていました。それを宣伝する場が、人間動物園だったという訳です。その時代、日本もまた、世界には民族の違いに基づいて、階層があると考えるようになりました。そして、自分達は階層の頂点にあり、その下にアジアの他民族がいる、そうした世界観がハッキリと根付いていったのです」 ★台湾南部、高士村の風景 ――台湾南部、高士村。パイワン族が暮らす村です。およそ100年前、日英博覧会に連れて行かれたのは、この村の出身者でした。 ――博覧会の会場で売られていたパイワンの人々の写真です。裏には、高士村から来た、と記されていました。展示された青年の息子、許進貴(85)さん。そして娘の高許月(79)さんです。父親の名は、チャバイバイ・プリャルヤン。チャバイバイさんは生前、博覧会について子供達に語ることはありませんでした。 (高許月(妹)さん、パイワン語で語り) 「・・・・・・・・・」 (そこに日本語字幕) 「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」 (高許月(妹)さんにクローズアップすると、通訳の声(日本語): 「話しきれないそうだ。悲しいね、この話の重さね、話しきれないそうだ」 語り・女声: ――ヒラメの目をタイの目に変えることはできない。後藤新平は、独自の法律で抵抗運動を抑え、樟脳産業を立て直しました。日本は、台湾統治の成功を誇示し、世界に一等国入りをアピールしました。その後の台湾統治を象徴する一枚の写真。「台北第一中学校の生徒達」。この写真には、台湾人に日本の文化を叩き込み、民族性まで奪っていった歴史が秘められています。 Part.3 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-102.html 台湾議会設置誓願運動 1921年 語り・男声: ――1914年、日本の台湾統治に大きな影響を及ぼす戦争が起こります。第一次世界大戦です。日本はこの時、イギリス側に立って参戦、戦勝国の一員となります。1919年、パリ。第一次世界大戦の戦後処理を話し合う、パリ講和会議が開かれました。日本は、この国際会議に、イギリスやフランスなどと並んで、初めて五大国の一つとして招かれます。64人の大代表団を送り込んだ日本。ジャパンは、遂に列強から一等国と認められたのです。この時、アメリカ大統領ウィルソンの発言が、世界の植民地に大きな影響を及ぼしていました。民族自決主義、それぞれの民族が、自らの運命を決定する権利を持つという考え方です。 語り・女声: ――ヨーロッパでは、民族自決主義に基づいて、ポーランドやチェコスロバキアなどが独立を果たしていきます。民族自決主義は、アジアの植民地にも火を点けます。民衆に呼び掛けるインドの指導者ガンジーです。ガンジーは、イギリスの統治に対抗し、非暴力不服従運動を展開していました。フランス統治下のベトナムでも、民衆の抵抗運動が始まります。そうしたうねりは、ホーチミンでの武装闘争に発展していきます。 日本が統治していた朝鮮でも、独立を求める激しい抗議行動が起きます。「三・一運動」です。市民がデモを繰り返し、朝鮮総督府の警察部隊と衝突、多数の死傷者が出ました。そして台湾でも、日本の統治に異議を唱える運動が始まります。 語り・男声: ――蒋松輝さん、96歳。蒋さんの父親は、民族運動を率いた一人でした。当時は、病院を経営する医者でした。 蒋松輝(日本語で語る): 「向こうに見える義美というお菓子屋。あそこは親父の病院、大安病院の跡です。上は初めは病室だったけど、後は全部、自覚運動の運動の集会場になった。だからまあ、あの当時の民族、自覚運動の本拠地だったんです」 ――父・蒋渭水です。蒋は、武装闘争ではなく、出版や講演会などの言論を通じ、民衆に民族意識に目覚めるよう呼び掛けました。 蒋松輝(日本語で語る): 「警察は民衆の中に入って、入り込んでいるから、誰がどういう思想を持っているか、一目瞭然だ。だから、できる、できるはずはない。武装闘争できるはずない」 ――台湾議会設置誓願運動。台湾住民から成る議会を設置し、法律と予算を審議する権利を要求しました。いわば台湾人の自治を求めたのです。1921年、日本の国会に台湾議会設置のための請願書が提出されます。この時、日本は世界の民族自決の潮流と逆行します。首相・原敬は、議会で自らの統治方針を語りました。 原敬の同化政策 「台湾の全ての程度に応じて内地の法律を施行する」 ――原が進めようとしたのは、同化政策です。法律上、台湾を内地と同様に扱うことで、民族運動を収めようとしたのです。原が示した方針に対し、議員から疑問が投げ掛けられます。 「フランスでは同化政策を採用していたが、次第に廃棄している。今これから日本だけが同化政策を採るのか」。 ――この頃、フランスはアルジェリアの同化政策を放棄していました。住民の反対運動が激しさを増し、植民地を同じ法律で統治することの限界が露呈していました。しかし、原は答えます。 「他の国がどうであるからと言って、日本にもそれを敷くわけにはいかない。他の国の植民地と日本の植民地は違う。現にここに内地同然になった例がある。琉球だ」 ――明治維新の11年後、琉球は沖縄県として日本に組み込まれます。沖縄には、内地の様々な法律が次第に導入されていきました。参政権が認められ、税制や徴兵制が布かれました。その結果、日露戦争では二千人の沖縄出身者が、日本の兵士として戦場に立ちました。原は、台湾議会の設置を認めませんでした。台湾人が、明治憲法下で、同じ臣民であると定められている以上、沖縄のように同化することを求めたのです。 ――台湾の同化政策で先ず重視されたのが、教育でした。それまで台湾人は、日本人と別々の学校に通っていました。同化政策によって、同じ小学校に通えるようになります。さらに、日本人しか通うことの出来なかった中学校への進学も許可されました。 台北一中時代の差別 ★同窓会の風景 ――かつて父親が日本人小学校を退学させられた、柯徳三さんです。 柯さんは同化政策によって、日本人と同じ小学校を卒業し、中学校に進学しました。柯さんが通った旧制中学校、台北第一中学校を卒業した台湾の人々です。78歳から96歳までの卒業生が一堂に会した同窓会です。台北一中時代の柯徳三さんです。クラスメイトは50人。その中、台湾人の生徒は二人だけ。他はみな日本人です。同化政策の実態は、台湾人にとって厳しい制限付きのものでした。 卒業生(日本語で語る): 「それでね、一中なんかね、あんたね、台湾人は3%しか、3%ぐらい」 卒業生(日本語で語る): 「台北一中を受けるために、日本人より勉強しないと受からない」 柯徳三(日本語で語る): 「日本人になりたい、小さい時は日本人になりたい、どうして台湾人というものに生まれたかなんて考えたけどね、小さい時、小学校の頃ね」 ――狭き門を潜り抜け、中学校に入学した台湾の生徒達。しかし、日本人が大多数を占める中で、より多くの偏見や差別に苦しめられることになります。 柯徳三(日本語で語る): 「台湾人の豚肉の角煮ね、ローバーだな。ああいうものを弁当に持っていってるでしょ、そうすると笑われるんだ。笑われるから。特に豚の尻尾なんか持っていったら笑われる。あれなんだ、豚の尻尾だ。台湾人は豚の尻尾食うのか、わいわいわい騒ぎ立てるんだね。そういうことだから、だから家に帰って、母に文句言ったんです。弁当のおかずを日本式にしてくれ、卵焼きとかね、たらことかね、ああいうものをやってね、そして、なるだけ台湾食を無くしてくれって、要求したんです。私の母も随分苦労したよ。さくら干しとか、みりん干しとか、ああいうものね、おかずにして持って行く。そしたら弁当の蓋を開けるのも、堂々と開けられるね、台湾式のおかず持って行ったら隠さんといかん。恥ずかしくて、笑われるから、あれ、子供の時代、年取って大人の……」 ――台北一中を卒業した台湾人生徒達は、日本人の生徒と同様に、高校や大学に進学しました。社会に出ると、さらに露骨な差別を受けることになります。 卒業生(日本語で語る): 「僕の親父は一番下の判任官(役人)になっていたけど、あんたね、一月ね、百円貰って、同じ判任官でも僕の親父は百円で、内地人は百六十円貰えるんだ」 「同じ職場で、同じクラスで」「そうそう」 「父も華南銀行におったんですが、台湾人だと伸びないんですよ。だからみんなお医者になるって。お医者になったら技術次第だからね」 柯徳三(日本語で語る): 「私の従兄弟の姉さんが、日本人の嫁になって、日本へ行ったけどね、戸籍が入らん。あれが差別。こういうのが差別でしょう。ええ、それで随分苦労したって。最後の最後まで、台湾人である身分を隠さんといかん」 卒業生(日本語で語る): 「台湾においては一等国民は内地人で、二等国民が琉球だ。三番目が台湾人だ」 ――台湾には当時、およそ一万人の沖縄出身者が暮らしていました。とりわけ多かったのが教育関係者でした。日本は、既に同化が進んだ沖縄の人々を台湾に送り込み、指導に当たらせていました。 テロップ:「日本時代をどう思いますか?」 卒業生(日本語で語る): 「もう嫌だな、嫌だ。差別、馬鹿にしよって」 皇太子の台湾行啓 1923年 ――1923年、台湾総督府で大きな計画が持ち上がります。皇太子を台湾に招く、行啓です。総督府がまとめた、「台湾行啓記録」には、その目的が記されています。 「我が国皇道の博大なる仁愛を示し、遠く離れた台湾の民に、すがるべき主君を知らしめる」 ――皇太子を招くことで、台湾人に日本人と同じ臣民であることを、実感させようとしたのです。 皇太子を迎える予行演習。並んでいるのは先住民族です。演習に参加した先住民族の言葉が、残されています。 先住民族の言葉: 「困ったのは不動の姿勢というやつだ。背中から汗が流れるが、拭くことも出来ない。のみならず、目の玉さえ動かすことがならぬ。それは自分らには、生まれて初めての大苦痛であった」 ――1923年4月。皇太子、後の昭和天皇が台湾に到着。当時、皇太子は、病気だった天皇に代わり公務を担っていました。皇太子は12日間に渡り、台湾各地を回りました。視察したのは、統治によって日本化されていく台湾の姿でした。皇太子は、学校や工場など、およそ百カ所を訪ねました。そして訪れた先々で、台湾の人々に姿を見せました。台湾行啓記録の文章です。 「台湾人は日のいづる国の民という自覚に歓喜している。彼らは今や朝廷忠良の民となった」 Part.4 http //jif.blog65.fc2.com/blog-entry-101.html 台湾議会設置の直訴計画 ――皇太子の行啓を、千載一遇の機会と捉えた人物がいます。台湾議会設置運動の指導者、蒋渭水です。蒋は、皇太子の一行が、自分の病院の前を通過することを知ります。考え出したのは、皇太子に直接、台湾議会の設置を訴えることでした。 蒋松輝(日本語で語る): 「親父はそのコースを狙って、大きなのぼりを作った」 ――恭しくお迎え致します、台湾議会誓願団。のぼりに書かれた言葉です。 スタッフの声:歓迎しますっていうんですね? 「目的は悪くない。目的はただ、台湾人がこういうことをやっていることを摂政宮(皇太子)に知らせたかった。ていうのはあれ、雲の上の人でしょ。みな知らないよね。台湾人がそういうことをやっていることを、全然知らない。だから知らせようと思って、これを作った」 ――蒋渭水の病院前を通過する皇太子の一行です。しかし、そこに蒋の姿はありませんでした。実行直前に警察に見付かり、拘留されたのです。台湾議会の誓願は、14年間続けられましたが、認められることはありませんでした。台湾の民族運動を研究してきた歴史学者の周婉窈さんです。 周婉窈(台湾大学歴史学系教授): 「この時、台湾人は日本からの独立を求めていたわけではありません。日本の統治を認めた上で、自治を求めていたのです。ですから日本が台湾人の訴えに応えて、自治を許していたら、日本はアジアで新たな世界を創り上げることになったはずです。そうすれば、今日でもアジアの人々の支持を得ることが出来たでしょう。しかし、日本はこの分岐点に差し掛かった時、そうした行動を取ることはありませんでした。台湾人の自治を認めることは無かったんです」 日中戦争勃発 皇民化政策 1937年 ――1937年、日中戦争が勃発。台湾統治が新たな局面を迎えることになります。当時台湾には、およそ500万人の漢民族がいました。日本は、自らの領土内に敵と同じ民族を抱え込むことになります。当時の台湾総督、小林躋造です。小林は、軍人出身者として17年ぶりに台湾総督となりました。軍との結び付きを強めた総督府は、新たな統治方針を打ち出します。 「現下の情勢に鑑み、五百万島民が打って一丸となり、等しく皇国民たる資質を体得するを要す」 ――小林は、皇民化というスローガンを掲げます。皇民化とは、天皇中心の国家主義のもと、台湾人を強制的に日本人へと変える政策でした。学校や新聞などで、中国語を禁止し、日本語の使用を強要します。当時、台湾総督府の官僚だった、田宮良策さんです。田宮さんは、軍部の強い要請の下、皇民化政策を担うことになります。 元台湾総督府官僚・田宮良策(98): 「日本語を話せない人は御遠慮下さい、ということで、バスは乗せなかったですね。しかし、人間の数からしたら、日本人は微々たるものなんですから、その台湾人同士で、こう話す時には、平気でね(中国語)を話す。いや、それは、こっちは(軍の幹部に)実情を話しながら、もう少し方法を変えて貰えないかとかね、いくと、お前は非国民だっつうんだ。軍刀を抜かれたことはないけど、ここ(腰の刀に手をかける仕草)、こうやられたことはありますな」 「改姓名」 ――皇民化政策は、人の名前の変更にまで及びました。同じ時期、朝鮮半島では、新たに氏を創る「創氏改名」が行われ、台湾では「改姓名」が始まりました。 ★先の同窓会の風景 卒業生(日本語で語る): 「私、林(りん)です。それで、僕のお父さんは林(はやし)という名前で改姓名したかった。それは許可出ない。台湾の林ていう姓は必ず、中林(なかばやし)だとか大林(おおばやし)とか中林(なかばやし)とか小林(こばやし)という、もう一字付け加えないといけない」 卒業生(日本語で語る): 「私は黄(こう)で、廣内ね。この字(黄)を残すように、自分の考えをね、それが多いんです」 NHKスタッフの声:「それはどういう思いからなんですか?」 「昔の姓を残したい、昔の自分の姓を残したい、改姓名は結局、公務員の方ね。職場に就いている人は、あのね、改姓名すると、昇級の、あの条件になってしまうんです。それで仕方なしに、みな改姓名するんです」 ――皇民化政策は、台湾人の心の中にまで踏み込んでいきます。台湾全島に、日本の神社を次々に建て、人々に参拝を強制します。 宗教弾圧 1938年 ★背景・開復廟 ――そして、台湾人が拠り所にしてきた宗教への弾圧が始まります。道教寺院や廟の参拝を制限、建物の取り壊しも始めます。この廟を管理する鄭啓松さんは、少年時代の出来事を克明に覚えています。1938年、地域の寺院や廟に奉られていた神々の像が集められ、全て焼かれました。 鄭啓松(80): 「(字幕)神様を、掛け布団の中に隠した人もいれば、台所に隠した人もいました。それでも日本人は、神様を郡の役所に持ってくるよう命じました。従わない者は29日間も刑務所に入れられるのですよ」 ――新たに作られた日本の神社には、破壊した台湾の寺院や、廟の木材も使われました。そして、建築には近隣の台湾人が駆り出されました。皇民化政策によって、台湾の人々は、台湾人であるという意識を大きく変えられていきます。 ★先の同窓会風景 柯徳三(日本語で語る): 「酒を呑むのも日本酒で、こういう人間に誰が育てた、日本だ。そして、しゃべるのも日本語、台湾語でこういう演説を出来ない」 卒業生(日本語で語る): 「自称知識人と言いながら、ね、中国文で今言ったような言葉書けないよ、書こうと思ったら日文ですよ。そっから見れば、果たして幸福かどうか」 柯徳三(日本語で語る): 「書けないよ、あんた書けますか、中国語で」 卒業生(日本語で語る): 「僕は書けないね」 柯徳三(日本語で語る): 「頭のコンピュータが既に日本化されてしまっているから、あの20何年間の教育というのは、実に恐ろしいね。こういうの、頭が全部ブレーンウオッシュされているからね。だから日本式にものを考えたり、日本式に日本語をしゃべったり、そういうことする」 ――近年、日本統治時代を記録したフィルムが発見されました。ここには、皇民化政策が行き着いた先が、映し出されていました。戦時下、台湾青年を集めた訓練所が、各地に作られていきます。そこでは、皇民化政策によって、日本人としての精神が叩き込まれました。台湾の青年達は、天皇の兵士として日本軍に加わり、国のために命を捧げることになります。担ったのは日本の政策「南方進出」でした。 元台湾総督府官僚・田宮良策(98): 「軍の考え方じゃ、やっぱり(台湾を)南進基地にしたいと、そうすっと、こりゃ、あの住民はね敵国になるような人を向こうに回しちゃ拙いから、結局、そりゃ、自分の方の同胞にひっつけておいた方がいいと、日本人にした方が、将来、所謂南方の海洋国家にね、なっていくのには、あそこ(台湾)を根拠地にするのは、一つの、軍部としては、そう考えたんじゃないでしょうか」 太平洋戦争勃発 1941年 ――1941年12月、太平洋戦争が勃発。日本は、戦争の目的を、欧米列強からアジアの植民地を解放することである、としました。 総督府前を行進する「台湾人日本兵」です。太平洋戦争期間中、およそ21万の台湾人が、日本軍に入隊します。そして、中国や南方戦線へと送られていきました。台北一中を卒業した柯徳三さんは、この頃、台北帝国大学の医学部に進学していました。1945年4月、柯さんは日本海軍に入隊します。訓練中、アメリカ軍の大空襲を受け、多くの台湾人兵士が命を落としました。さらに親族も犠牲になります。 柯徳三(日本語で語る): 「それだから、上御一人のためとか、喜んで天皇陛下のために死んでいってるよ。死んだ、死んだ奴こそ災難だよ、ほんと。戦争で犠牲になってね、叔父は海軍の軍属で、マラリアに罹って海軍病院に入っとった。それで帰れるかと思ったら帰れない、死んでる。死んで、どういう病気、マラリアで死んだのか、殺されたのか、どうされたのか、分かりません、全然。未だに分かりません。もちろん骨もありません」 ――1945年8月、敗戦。日本は50年に渡って統治した台湾を手放します。ジャパン、アジアの一等国の終焉でした。 エピローグ:台湾人元日本兵 ★最初の公園の風景 群衆の一人、日本語で歌う: 「太平洋の空遠く、輝く南十字星……」 ――戦場に赴いた、元台湾人日本兵です。太平洋戦争中、三万人を越す台湾人が、戦場で命を落としました。 群衆の一人、日本語で歌う: 「守りは我ら台湾軍、ああ厳として台湾軍。台湾軍の歌、台湾軍の歌」 群衆の一人、日本語で語る: 「あの、教育勅語ね、教育勅語。今ほとんど皆、分かりますよ。暗唱しちゃいましょうか」 「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ……」 ――戦後、台湾を統治したのは蒋介石率いる中国国民党でした。日本兵として中国と戦った台湾人は、かつての敵の下で暮らすことになります。台湾人は、日本人の奴隷になったと非難され、国民党と衝突、多くの人々が処刑されていきました。 ★再び公園の風景 群衆の一人、日本語で語る: 「孤児(みなしご)になって捨てられたみたいですよ。人を馬鹿にしているんだ、日本は。そういうとね、間違ってるか?本当のことだろう。間違ってるか?本当のことだろう。これ嘘じゃない、帰ったらね、日本の若い連中には分からないけど、年寄りの80歳以上の人に、まあ、宣伝して下さい。台湾の、台湾の当時の若い青年は、如何にして、日本の民と協力して、尽くしたか、心を察して貰いたい。ハハハ、分かりますか。そうでしょ、命を掛けて国のために尽くしたんだよ、命のため、それなのに……」 ★同窓会の風景。台北一中、パイワン人の写真など フランス歴史学者・パスカル・ブランシャール: 「私たちは、他者と共有できる歴史を探り当てなくてはなりません。他者の歴史を知ることは、自分自身を知ることでもあります。私たちは最早、正しく優れているのは自分で、間違って劣っているのは相手だ、と考えることは出来ません。世界に目を向け、何故世界の人々が、日本をこのように見るのか、理解しなければならないのです」 ★渋谷?界隈の夜景 ――親日的とも言われる台湾に、今も残る日本統治の深い傷。それは今後、アジアの中で生きていく日本が、分かち合わなければならない現実です。過去と向き合う中から見えてくる未来。150年前に世界にデビューしたジャパンの歴史が、私たち、一人一人の明日を問い掛けています。 %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% ★エンドロール NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー 第一回 アジアの“一等国” 資料等協力(略) %%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%%% 【資料】NHK JAPANデビュー第1回『アジアの“一等国”』をめぐって