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か 名前 読み 蒯越 かいえつ かいえつ 字は異度。荊州南郡中廬侯国の人。楚漢戦争期の説客・蒯通の子孫。蒯良は同郷同姓の人物で一族の可能性は高いが、関係は不明である。 最初は何進に東曹掾として仕え、宦官殺害を進言するものの何進は決断できなかった。その後、蒯越は自ら望んで汝陽の令として荊州に赴き、劉表配下の大将となった。初平年間に、蒯越は謀略と弁舌を駆使して、荊州で劉表に対立していた地方官や豪族を次々と滅ぼし、あるいは降伏させ、劉表の荊州統一に大きく貢献している。後に、献帝の詔勅により、蒯越は章陵太守に任命され、樊亭侯に封じられた。 建安13年(208年)、劉表が死去して劉琮が後継すると、曹操が荊州進攻を図る。蒯越は、同僚の韓嵩や傅巽と共に曹操への降伏を劉琮に進言し、劉琮もこれを受け入れた。曹操は蒯越を列侯に封じ、光禄勲に任命した。曹操は荀彧への手紙の中で、「荊州を手に入れたことは嬉しくないが、蒯異度を手に入れたことは嬉しい」と書いている。 建安19年(214年)に死去。 蒯良 かいりょう かいりょう 字は子柔。荊州南郡中盧侯国の人。同郷同姓の蒯越とは一族の可能性が高いが、関係は不明である。 劉表が荊州刺史として赴任した際、蒯越・蔡瑁と共に招かれ、服従しない豪族への対処法について相談される。これに蒯良は「仁愛と信義をもって人民を労わるように」と進言し、蒯越は「利で誘った上で無道の者を誅し、残りは安撫すべき」と進言した。劉表は蒯良の進言を「(仁義を尊んだ晋の)雍季の議論と同じである」としたが、蒯越の進言の方をとり、荊州を統一した。 『世説新語』の注に引く『晋陽秋』によると、その後(恐らく曹操に仕え)吏部尚書にまでなった。 賈逵 かき かき 本名は衢、字は梁道。河東郡襄陵(山西省臨汾市襄汾県)の人。 司徒曹操の招きを受け、司空の掾(属官)となり、議郎となって司隷の軍事を担った。馬超征伐のとき、賈逵は曹操により弘農太守の代理に任命され、曹操と対面した。曹操は賈逵を気に入り、太守が皆賈逵のようであれば心配ごとはない、とまで言った。 曹丕が魏王になると、賈逵は鄴の令となり、やがて魏郡の太守に昇進した。曹丕が遠征した際は丞相主簿祭酒に任命され随行し、厳しく軍律を履行し、譙についたときに豫州刺史に任命された。賈逵は豫州の治政が緩んでいたのを見て、官吏の綱紀粛正につとめ、他の州治の手本となるほどの治績を挙げた。関内侯に封じられた。 豫州は呉と国境を接していたため、軍備の整備と防備の充実に励んだ。中でも特筆すべきは二百里にも及ぶ大運河を築き上げたことであり、この大運河は『賈侯渠』と呼ばれている。 その後、病気にかかって危篤に陥り急死した。粛侯と諡された。 華歆 かきん かきん 字は子魚。諡は敬。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。『三国志』魏志に伝がある。 華歆の政治は簡潔で公正であったので、官民はこれを幸いとし、彼に敬意を表した。『魏略』によると、孫策に追われ近隣に駐屯していた揚州刺史の劉繇が没すると、その家臣達は華歆を頼ろうとしたが、華歆は勝手に任命されることは良くないとしてこれを拒絶したという。 孫策が豫章に攻め込むと、華歆は孫策が用兵に巧であることを知って隠士のかぶる頭巾をかぶって降伏し、孫策も華歆の声望を知っていたため彼を上客として礼遇した(具体的な経緯については『呉歴』、『譜叙』、『江表伝』)。孫策が死ぬと、孫権に仕えたが、間もなく官渡にいた曹操から呼び出された。孫権は引きとめたが、華歆は孫権と曹操との国交がようやく出来たばかりだから孫権のために働かさせてくれるよう頼み込んだため、孫権は喜んで中央へ赴かさせた。出発のときは数千人の賓客達に見送られ、餞別も多額に上ったが、華歆は餞別にしるしを付けておき、いよいよ出発するときになって、賓客達にすべて送り返した。賓客達は華歆の徳義に感嘆した。 曹操が孫権を征伐するときには華歆が軍師に求められた。建安21年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕(文帝)が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕が皇帝として即位すると司徒に叙せられた。 華歆は魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝はこれを賞した。 太和5年(231年)に病死し敬侯と諡された。『魏書』によると75歳であったという 賈詡 かく かく 字は文和。武威郡姑臧県の人。董卓、李傕、段煨、張繍に仕えた後、曹操の配下となり、曹魏2代にわたり重臣として活躍した。 董卓の校尉となり、董卓が呂布、王允らに殺されると、李傕らに策を授けて長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。献帝が長安から出ると李傕に印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨は内心で賈詡に実権を奪われることを恐れており、これを察した賈詡は、南陽にいる張繍の招きに応じ、彼に仕えることにした。 197年(建安2年)、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。この際、曹操は張繍の義理の族母(おば)を妾にし、更に張繍を暗殺しようとした。これを察知した張繍は反乱を決意した。張繍は賈詡の計略に従い、完全武装の張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらい、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹操の長子曹昂と曹操直下の猛将典韋を戦死させた。 199年(建安4年)、曹操と袁紹が官渡で対峙すると、袁紹は張繍に使者をよこして味方に引き入れようとした。張繍がこれに応じようとすると、賈詡は袁紹からの使者を追い返し、張繍に曹操に降るよう進言した。張繍が「袁紹の方が曹操より強大だし、その上曹操とは仇敵の間柄ではないか」と渋ると、賈詡は曹操が天子を擁していること、弱小である曹操だからこそ、味方になる勢力を必ず厚遇してくれること、天下を狙う曹操ならば個人的な怨恨を水に流すことで、自分の徳を内外に知らしめようとするに違いないこと、を理由に挙げた。張繍が賈詡の意見に従い曹操に降伏すると、曹操は彼らを礼遇した。賈詡は曹操の上奏により執金吾に、次いで冀州牧・参司空軍事に任じられ、以後は曹操の参謀として働いた。 曹操の後継者を選ぶにあたって、家臣の間では嫡子である曹丕派と、文才優れた曹植派とに分かれ、盛んに議論が起きていた。曹操から諮問を受けた賈詡は即答せず、ただ「袁紹と劉表のことを考えておりました」とだけ答え、袁・劉両家が強大な勢力を誇りながらも、長子以外を後継者にしたことで国を分裂・混乱させ、その結果、外敵(曹操)に滅ぼされたことを暗に示唆した。賈詡の助言を聞いた曹操は大笑いし、かくして嫡子の曹丕を太子とした。 220年(建安25年)、曹丕が曹操の後を継いで魏王となると、賈詡は三公の一つである太尉に任命された。曹丕が献帝から禅譲を受けて皇帝に即位した後も、筆頭の重臣として厚遇された。 223年(黄初4年)、77歳で病死した。 郭嘉 かくか かくか 字は奉孝。郭奕の父、頴川の人。 郭嘉は世に出るに当たって、まず袁紹のもとを訪れたが、仕官せずに去っていった。その後、郭嘉と同じく頴川の出身だった荀彧が戯志才の後継者として曹操に郭嘉を推挙した。曹操のもとに召しだされた郭嘉は天下のことを議論した。曹操は「わしの大業を成就させてくれるのは、この男をおいて他にいない」と高く評価し、一方郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。そして曹操に軍師(役職は軍祭酒)として仕え、数々の助言を行った。 38歳の時、柳城から帰還の後、病を得てそのまま死去した。貞侯と謚された。曹操は郭嘉の死を大変悲しみ、荀攸らに向かって「諸君はみな、わしと同年代だ。郭嘉ひとりがとび抜けて若かった。天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだったが。郭嘉はわしと軍略を論じるときは、南方は疫病が多いためきっと自分は生きて帰れないだろうと言いながらも、天下を得るためには先に荊州を得るのが妥当と主張しておった。彼の計略は真心から出たものではなく、命を棄ててまで功業を打ち立てようという考えからなのだ。それほどの心で仕えていたのに、どうして彼のことを忘れることができようか」と嘆いた。『傅子』によれば、その死に際し曹操は「哀哉奉孝、痛哉奉孝、惜哉奉孝(哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝)」とも言った。 郭汜 かくし かくし 郭阿多との記述もあり、幼名か字が阿多である。郭多とも郭氾とも言われることもある。董卓の娘婿に当たる中郎将牛輔の部曲として史書に登場する。董卓が洛陽を放棄すると東方諸侯に備える一角を担い、李傕らと共に中牟で朱儁を破った。 192年、董卓が王允らによって暗殺された際、李傕・郭汜らは東方にあったが、賈詡の進言を容れて董卓の報復に乗り出し、諸軍を集めて長安を奪回した。 裴松之が三国志の注に引く『英雄記』によると、この攻防戦の際に呂布に一騎討ちを挑まれて応じ、敗れたとされる。 献帝を擁して王允を殺すと後将軍の地位に昇り、李傕、樊稠らと朝廷を支配した。この専横の間、兵を放って城邑を略奪させたため、三輔の民衆は飢餓に陥り「二年の間にことごとく食らいあった。」 194年、馬騰が李傕に私的な交際を求めたが断られたため、韓遂らと結託し長安を攻撃。郭汜は樊稠と共に出撃し、馬騰軍一万あまりを斬った。さらに、馬騰に協力していた羌族も撃破している。 同僚で幼馴染の李傕とは酒宴を開いたり、お互いの陣営に宿泊する仲であった。しかし、李傕が郭汜に妾を与えているのではないかと疑った妻に謀られ対立、抗争を繰り広げるようになる。この二人が争っているのを見て、張済は二人の争いを仲裁し、献帝を洛陽に送ることとなった。だが、郭汜は献帝の護衛中に変心して官軍に対して攻撃を仕掛ける。李傕、張済を巻き込んで官軍を壊滅状態に追い込んだが、献帝を捕らえる事は出来なかった。 その後、錦の御旗を失った郭汜は衰退し、197年、曹操が派遣した謁射僕射の裴茂に長安を追われ、部下の伍習に裏切られて郿で殺された。その首は曹操のもとへ送られた。 郭図 かくと かくと 字は公則。豫州潁川郡の人。 建安4年(199年)、沮授と田豊が、曹操と対抗する上で持久戦略の採用を主張したのに対し、郭図は審配と共に短期決戦戦略の採用を主張する。袁紹は郭図・審配を支持した。さらに郭図は、監軍(袁紹軍総司令官の地位に当たる)の地位に在った沮授について、その勢威が強大すぎると袁紹に讒言した。これにより、監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。 建安5年(200年)10月、袁紹は淳于瓊に命じて、烏巣で兵糧を守備させたが、曹操はこれを攻撃しようと図る。この時、郭図は、この隙に曹操軍の本陣を急襲することを主張した。一方、袁紹の部将張郃は、本陣は堅固であるだろうから、全力で直ちに烏巣へ救援に向かうべきであると反論した。結局袁紹は、軽騎兵を烏巣に向かわせ、重装備の兵で本陣を攻撃するという中途半端な選択をした。曹操は淳于瓊らを打ち破り、袁紹軍は崩壊した。このとき郭図は、責任追及を恐れて張郃のことを讒言し、張郃は曹操への降伏をやむなくされた。 建安7年(202年)に袁紹が死去すると、郭図は辛評と共に長男の袁譚を後継者に推戴した。これに対して郭図・辛評と不仲の審配・逢紀が三男の袁尚を推戴し、これが袁氏の内紛につながってしまう。建安8年(203年)、郭図と辛評は、袁譚に助言・後押しをして、袁尚に先制攻撃を仕掛けさせた。しかし袁尚の反撃に敗北して平原に追い込まれ苦境に陥った。 次の手として郭図は、曹操への一時降伏を袁譚に薦め、受け入れられる。袁譚は辛毗を派遣して、曹操と同盟を結んだ。そして曹操は袁尚を攻撃し、鄴を攻め落とし、審配を処刑した。 曹操と袁尚が戦っている隙に、袁譚と郭図は一度は勢力を盛り返す。しかし、それが原因で曹操は袁譚を盟約違反と非難し、両軍は再び交戦した。建安10年(205年)春、袁譚と郭図は南皮に追い込まれて最終的に敗北し、郭図は袁譚と共に殺された。『後漢書』袁紹伝によると、この時捕まった郭図の妻子も一緒に処刑されたという。 夏侯玄 かこうげん かこうげん 字は太初。夏侯尚の子。 20歳の若さで散騎侍郎・黄門侍郎に任じられる。曹叡(明帝)に目通りした際、毛皇后の弟である毛曾と同席させられたことに対して嫌悪感を露わにしたため、明帝の不興を買って羽林監に左遷された。 正始年間初期、幼帝曹芳(斉王)の治世下で曹爽が政治の実権を握ると、曹爽の縁戚である夏侯玄も出世し、散騎常侍・中護軍に昇進した。 249年、司馬懿のクーデター(正始政変)により曹爽が処刑されると、夏侯玄も中央に召し返されて大鴻臚となり、数年後には太常に転任した。このとき、夏侯覇に、ともに蜀に亡命するよう誘われたが、断ったともいう(『魏氏春秋』)。 中書令の李豊は、大将軍の司馬師に信任されていたにも関わらず、夏侯玄に心を寄せ、司馬師を誅殺して夏侯玄を大将軍とし、政権を握らせようと考え、曹芳の皇后の父の光禄大夫張緝らと計画をめぐらした。しかし、計画は事前に露見し、司馬師に機先を制されて、夏侯玄らは捕らえられ、廷尉の鍾毓の元に送られた。鍾毓の取調べのときにも夏侯玄は堂々としており、鍾毓が作成した供述書を涙を流しながら見せると、夏侯玄は黙って頷いたという(『世語』)。結局、夏侯玄は李豊らとともに大逆の罪に問われ、刑法により三族皆殺しとなった。46歳であった。斬刑の場に臨んでも、夏侯玄は顔色一つ変えず、堂々とした様子だったという。 夏侯玄は学者としても秀でており、「楽毅論」、「張良論」、「本無肉刑論」を著した。その文章は筋が通っており、世間に広く伝わったという。 華陀 かだ かだ 本籍は沛国譙県(現在の河南省永城市)で、ペルシア系。字は元化(元方)。「華陀」とも書く。「華佗」とは「先生」を意味する尊称 xwaday が人名として用いられたもの。本名は不明。 徐州で学問し、経書を学んだ。陳珪により孝廉に推挙されたが、出仕しなかった。養性の術に通暁しており、当時の人々は彼の年がもう百歳になるはずだとしたが、見たところは若々しかった。また、華佗は医術や薬の処方に詳しく、麻酔を最初に発明したのは華佗とされており、麻沸散と呼ばれる麻酔薬を使って腹部切開手術を行ったという。そのため、民衆から「神医」と呼ばれた。また、屠蘇や「五禽戯」と呼ばれる体操健康法の発明者とも言われている。 その評判を聴いた曹操の典医となり、持病であった頭痛の治療に当たっていた。しかし、華佗は自分が士大夫として待遇されず、医者としてしか見られないことを残念に思っていた。これは当時の医者の社会的地位が低かったためである。そこで、帰郷の念が募って、医書を取りにゆくといって故郷に戻って、二度と曹操の下に戻って来ようとはしなかった。そのため、曹操はこれに怒って華佗を投獄し、荀彧の命乞いも聴かず、拷問の末に殺してしまった。曹操は名医で頭痛を治せる唯一の人物であった華佗を殺してしまったこと、またそのことにより庶子ながら、その才気煥発な面を愛していた曹沖を治療することができず、夭折させてしまったことを、後々まで後悔したと言われている。 韓浩 かんこう かんこう 字は元嗣。養子は韓栄。司隷河内郡の人。 後漢末の乱の中で人を集めて盗賊から自衛し、河内郡の太守であった王匡の従事となった。董卓が舅の杜陽を人質にして、韓浩を招いたが彼は応じなかった。これを聞いて袁術が彼を騎都尉とした。その後、同じく韓浩のことを伝え聞いた夏侯惇に見出され、曹操に従い兵を率いるようになった。 武勇に優れ、呂布との戦いなどで活躍した。夏侯惇が人質となった際には、主のいない軍をまとめ、かつ人質を取った者に対し人質を気にせず厳しい態度で臨んで事態を収拾し、結果として夏侯惇も助かっている。政治的にも優れ、曹操に対して屯田を行なうように提言している。護軍(後に中護軍)となって曹操軍の中核を担っている。智勇に優れ、多くの功績を挙げた韓浩は曹操から大いに信任された。 建安20年(215年)、漢中の張魯討伐に従軍し、張魯を破った後、漢中を統括する司令官として韓浩を推す声が強かったが、曹操は「護軍無しにはできない」と難色を示し、夏侯淵が守将となった。 その功で近衛隊の指揮者となり、列侯に封じられた。のち病死した。韓浩が死んだとき、曹操はその死を惜しんだ。彼には子がなかったので、一族の韓栄が養子として後を継いだ。 簡雍 かんよう かんよう 元の本姓は“耿”だったが、幽州では“簡”と発音されていたので、改姓した[1]。 同郷出身の劉備とは若い頃からの旧知の仲であった。早い時期から常に劉備に随伴してともに各地を転々とした。劉備が荊州に入ると孫乾、糜竺とともに従事中郎となり、話し相手になったり使者を務めたりした。 劉備が益州に入ると、劉璋にその人柄を愛された。後に、劉備と劉璋が対立すると、成都で抵抗する劉璋への降伏勧告の使者となった。劉璋は説得に応じ、簡雍と同じ輿に乗って城を出て、劉備に臣従した。 益州に入った劉備から昭徳将軍に任命され、糜竺の次で孫乾と並ぶ待遇を受けたという。 簡雍は傲慢で無頓着な性格で、劉備が出席する席でもだらしない振る舞いを止めず、諸葛亮達に対しても遠慮をせず、自分だけ長椅子を占領した上で寝そべったまま談笑をしたりした。一方で、機智に富んだ性格でもあり、劉備が厳しすぎる禁酒令を出した時は、ユーモアを交えてこれを諌め、劉備を笑わせるとともに、禁令を止めさせている。 簡雍の没した時期は不明だが、219年に劉備を漢中王に推挙した群臣達の中にも、220年に劉備を皇帝に擁立した群臣達の中にも簡雍の名は見えない。 劉備が禁酒令を出した際、酒造の器具を所有しているとして告発された者がいた。簡雍が劉備と共に成都の市街を歩いていた時のことである。簡雍は若い男女を見て、劉備に向かって「これは淫行に及ぶから取り締るように…」と言った。劉備が「何故か?」と訳を尋ねると簡雍は「あの2人は淫行の道具を持っておるから」と答えた。劉備は笑い出し、酒造器具の所有者を赦す事にしたという。 闞沢 かんたく かんたく 字は徳潤。会稽郡山陰県の人。『三国志』呉志に伝がある。 農民の出身で貧乏であったが、勉学に励み、学資稼ぎのため書籍の書写仕事を請け負い、一冊の本を書き写したときにはその内容のすべてを暗誦するほどであった。こうして学識を深め、師事する人物を求めて議論を多くし、多くの書籍に目を通した。郷里でも博識の人物と高く評価された。暦にも通じ、著書に『乾象暦注』がある。 孫権とは学問についてざっくばらんに語り合う仲であり、孫権に『過秦論』を読むようすすめたこともある。孫権は闞沢に子の孫和の勉強を見るよう依頼しており(「呉主五子伝」)、242年に孫和が太子になると、薛綜達と共にその教育係(太子太傅)となった。243年に死去。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかった。 謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、他人の欠点をあしざまに指摘するようなこともせず、呉における人望は厚かった。容貌に威厳はなかったが、知識の広さは群を抜いていた。弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかった(「薛綜伝」)。政治においては礼や律、和を重んじ、呂壱のような奸臣や不正を働いた役人にも厳罰で臨むことに反対した。 甘夫人 かんふじん かんふじん 劉備の側室。父母は不明。沛国の人。劉禅の母。 194年、劉備が予州刺史として小沛に移住したころ、妻とした。当時の正妻は糜夫人(糜竺・糜芳の妹)であり、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、彼女が奥向きのことを取り仕切っていた。 207年、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。208年、曹操の軍勢が南下して、劉備を追撃し当陽の長坂で追いつくと、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。そのとき武将の趙雲が劉禅を抱き、甘夫人を保護したため難を免れた。しかし甘夫人は間もなく亡くなり、南郡に埋葬された。 222年、甘夫人に皇思夫人と諡して、蜀に移葬することになった。しかし柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し、甘夫人の子である劉禅が即位したため、丞相の諸葛亮は、太常の頼恭らと諡号を検討して、甘夫人に昭烈皇后と諡し劉備と恵陵に合葬した。 なお厳密には、「昭烈」は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて「昭烈帝の皇后」という格式を表すものである。このため、自身に「穆」と諡された呉夫人は、『蜀書』において「穆皇后」と表記され、自身に諡のない甘夫人は「甘皇后」と表記されるのである。 管輅 かんろ かんろ 字は公明。平原の人。 管輅は占いによって先を見通す能力があったと言われ、そのことは『三国志』「方技伝」において記録されている。 管輅は幼少期から星を見るのが好きで、成人してからは易経などの勉学に励んだ。そのため、占師として不思議な能力が身についたと言われている。だが、素性の怪しい者と平気で付き合う一面があったため、彼を慕う人物は少なかった。ただし、彼はいつも素直な心で人に接したため、決して嫌われていたわけではなかったという。また、犯罪が起こると犯人を言い当てたため、やがて彼の回りから犯罪が絶えたという。さらに、射覆(器の中に物を入れて中身を当てさせる遊び)をするとほとんど間違いなく中身を言い当てた。 248年12月28日、曹爽の側近として羽振りをきかせていた何晏に招待された。何晏は三公に出世できるかと質問し、さらに「蠅が数十匹、鼻の頭にたかって、追っても逃げていかないという夢を見たが、何を意味しているのだろう」と問うた。管輅は「鼻はあなたの地位を表すものです。ところが、そこに蠅という醜悪なものが、寄ってまいりました。これは、険しい所に位置を占める者は転がり落ち、他人を侮り傲るものは滅びるという徴です」と警告した。 帰宅してから舅にこのことを話すと、舅は発言が明け透け過ぎると責めた。管輅は「死人と話をしているのに、何を恐れる必要がありましょうや」と言ったので、舅は怒り、気が狂ったのではないかと思った。ところが、年が明けて十日もしないうちに何晏たちが司馬懿に殺されたので、舅も敬服したという。『管輅別伝』によると、管輅は何晏について「彼はちっぽけな巧みさを才能にしていた」と評している。 正元2年(255年)、管辰は「大将軍(司馬昭)はあなたに厚意を持っていますから、富貴な身分が望めますね」と言った。しかし、管輅は自分の寿命が47歳か48歳のころに尽きるであろうと予言した。そして予言通り、翌256年2月、48歳のときに病死している(但し、管輅伝の本文中には「私の運勢は寅にあり、…」とも記述されており、その通りであるならば管輅は建安15年(210年)生まれであり、享年は47になると裴松之は注で述べている)。 姜維 きょうい きょうい 字は伯約(はくやく)。天水郡冀県の出身。 228年、蜀の諸葛亮が北伐を開始して接近した際、天水太守の馬遵とともにその偵察に赴いた。ところが各県の降伏を耳にした馬遵は、配下の姜維達も諸葛亮と内通しているのではないかと疑い、上邽に逃亡した。姜維らは彼を追ったが城内に入ることを許されなかった。冀県に戻ったがそこでも受け入れられず、取り残された姜維は行き場を失い蜀に降伏した。街亭の戦いで蜀軍が敗北すると、諸葛亮は西県の1000余家と姜維らを引き連れて帰還した。そのため姜維は以後、魏に残った母と生き別れとなった。諸葛亮は「姜維は仕事を忠実に勤め、思慮精密である。姜維は涼州で最高の人物だろう」「姜維は用兵に秀で、度胸があり、兵の気持ちを深く理解している」などと評するほど姜維の才を高く評価している。汶山での異民族の反乱を制圧すると、隴西(現在の甘粛省南東)に進出して郭淮、夏侯覇らと戦い、この地の異民族を味方に付けた。姜維は西方の風俗に通じていることや自らの才能と武勇をたのみ、大規模な北伐の軍を起こして諸葛亮の遺志を遂げたいと願っていた。だが大将軍である費禕(禕は示へんに韋)は賛同せず、姜維に一万以上の兵を与えることはなかった。 253年、費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は費禕の後を受け軍権を握り、数万の兵を率いて北伐を敢行した。254年、魏の狄道県長李簡の寝返りに乗じて三県を制圧し、徐質を討ち取った。翌年には夏侯覇らとともに魏の雍州刺史王経を洮水の西で大破した。王経軍の死者は数万人に及んだ。この功績により翌256年に大将軍に昇進する。しかし同年、鎮西大将軍の胡済が約束を破り後詰に現れなかったため、段谷で魏将鄧艾に大敗し(段谷の戦い)、蜀の国力を大いに疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例に倣って、自らを後将軍・行大将軍事へと降格することで敗戦の責任を取っている。257年、諸葛誕が反乱を起こしたのに乗じて魏を攻めたが勝つことができなかった。 姜維は長年軍事に力を注ぎ内政を顧みなかった。皇帝の劉禅は宦官の黄皓を重用して酒色に溺れ、蜀の国政は混乱した。また涼州出身の姜維は、蜀の朝廷内では孤立しがちであった。黄皓が閻宇と結託し姜維の追放を画策した際には、当時蜀漢の朝政を担っていた諸葛瞻や董厥までが黄皓の意見に同調したほどであった。姜維もまた黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず、身の危険を感じた姜維は、これ以後成都に戻る事が出来なくなった。 262年、魏を攻めたが鄧艾に撃退された。263年、魏の司馬昭の命を受けた鄧艾と鍾会が蜀に侵攻してきた。姜維は剣閣で鍾会の軍に抵抗した。しかし姜維と鍾会が対峙している間、鄧艾が陰平から迂回して蜀に進入し、綿竹で諸葛瞻を討ち取った。この知らせを聞いた劉禅は成都を攻められる前に鄧艾に降伏した。劉禅降伏の報を受けた姜維は、残念に思いながら鍾会に降伏した。 降伏後の姜維は、鍾会が魏に反逆する意図を抱いていることを見抜き、鍾会に接近して魏に反逆するように提案した。その目的は、まず鍾会を魏から独立させ、機会を見て鍾会と魏の将兵を殺害し、劉禅を迎え入れて蜀を復興させようというものであった。鍾会は姜維の進言に従い、遠征に従軍した将軍たちを幽閉して反乱を準備した。だが将軍らが生命の危機を感じて暴動を起こしたため計画は失敗し、姜維は鍾会および妻子と共に殺された。享年63。 橋玄 きょうげん きょうげん 字は公祖。梁国睢陽県の人。 時の豫州刺史周景が梁国に至ったとき、橋玄は周景に面会すると地に伏して陳国相羊昌の罪悪を申し述べ、自分を陳国従事に任命して徹底的に取り調べさせてくれるように乞うた。 周景は橋玄の決意を壮として、従事に任じると陳国へ派遣した。橋玄は羊昌の賓客をことごとく収監し、臧罪(贈収賄罪)の罪状で取り調べた。大将軍梁冀は日ごろから羊昌と親交があり、檄を発して橋玄を召喚しようとしたが、橋玄は取調べをますます厳しくして、遂に羊昌を檻車で洛陽へ送った。この一件で橋玄は世に名を著した。 桓帝の末期、大将軍と三公府の推挙によって度遼将軍・仮黄鉞となった。任地に至ると、諸将を率いて高句麗の伯固らを討ち破って敗走させた。三年の在職の間に辺境は安静となった。 霊帝の時代になると呼び戻されて河南尹となり、その後は九卿・三公を歴任した。光和元年(178年)、太尉となって数か月で病のために免じられ、太中大夫を拝命して自宅で医者に掛かった。光和6年(183年)に死去。享年75歳。橋玄は剛直性急で大仰な礼儀を用いなかったが、下位の士人には恭謙で、宗族の中に橋玄の地位を利用して高位に昇った者はいなかった。橋玄が死ぬと家には生業が無くなり、喪中に殯も行われなかった。世論はこれを称賛した。 橋玄は、洛陽に召されて間もなく無名の曹操の訪問を受けてその様子に感嘆し、「私は天下の名士を多く見てきたが、君のような者はいなかった。君は善く自らを持せよ。私は老いた、願わくば妻子を託したいものだ」と語っている。このため曹操の名は知れ渡ることになった。建安7年(202年)、曹操が軍を率いて橋玄の墓の傍を通ったとき、人をやって太牢の儀礼でもって橋玄を祀り、自ら祭祀の文を奉げている。 橋瑁 きょうぼう きょうぼう 字は元偉。豫州梁国睢陽県の出身。文献によっては喬瑁と記されていることもある。『後漢書』、『三国志』にその名が散見される。 武帝紀の引く『英雄記』によると、太尉であった橋玄の一族とされるが、子の世代にあたる人物であるというのみで、続柄は明らかではない。兗州刺史を務めたことがあり、威厳と恩情を兼ね備えていたとされる。やがて東郡太守となる。 永漢元年(189年、大将軍何進は十常侍と対立すると、各地の軍を呼び寄せようとし、橋瑁にもその命令が下り、橋瑁は成皋の地に軍を駐屯させた(『後漢書』)。 何進と十常侍が共に滅び、董卓が朝廷の実権を握ると、橋瑁は三公の公文書を偽造し、董卓に対する挙兵を呼びかける檄文を作った(『後漢書』)。初平元年(190年)、董卓に反対する関東の諸侯が挙兵する(反董卓連合)と、橋瑁は孔伷や劉岱、張邈、張超、袁遺と共に参戦している。もっとも、臧洪伝によると、当初挙兵したのは橋瑁達である。 袁紹を盟主として仰いだが董卓が長安に遷都して以降は事態は進展がなく、橋瑁は酸棗に劉岱、張邈、袁遺、鮑信、曹操と共に駐屯していた。曹操は、酸棗に駐屯する諸侯が酒宴ばかり開いて董卓と積極的に戦おうとしないことを憂い、進軍計画を立てた上で、戦をするようすすめたが、諸侯はそれに応じなかった。 やがて酸棗の軍勢は兵糧が尽きて散逸し、橋瑁は劉岱と対立し殺害された。 許靖 きょせい きょせい 字は文休。汝南平陽の人。月旦評という人物評で有名な許劭(許子将)は従弟にあたる。蜀書に独立した伝がある。若くして従弟の許劭とともに人物評価について高い評判を得ていた。許劭とは仲が良くなかった。 董卓が朝廷を牛耳るようになると、董卓は吏部尚書周毖と共に許靖に人事を管轄させた。許靖は汚職をした者を追放する一方、、荀爽・韓融・陳紀・韓馥・孔伷・張邈・劉岱らを中央の要職や地方の長官に任命した。許靖自身も巴郡太守に任命されたが任地に赴かず、朝廷にとどまり、御史中丞となった。韓馥らが後に董卓に謀反を起こすと、その責を問われ周毖が董卓に処刑された。許靖は難を逃れるため朝廷を離れ、一族で陳国の相であった許湯を頼り、豫州刺史となっていた孔伷の下に身を寄せた。孔伷が死去すると、揚州刺史の陳禕(陳温)に身を寄せ、陳禕が死ぬと、旧交のあった呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗を頼り江東に渡った。 袁術の支援を受けた孫策が揚州を席捲し、会稽の王朗を攻撃すると許靖は交州に難を避け、このとき一族の多くが餓死した。交州を支配していた士燮には礼をもって遇され、同じく交州に逃れていた袁徽は荀彧に手紙を送り許靖の人物を賞賛したが、曹操が交州に派遣した使者の張翔は許靖を強引に招聘しようとし許靖に忌避され、腹いせに許靖の出した手紙をすべて捨てた。後に益州の劉璋に招聘されて巴郡・広漢郡の太守に任命された。211年、王商が死去すると許靖が後任の蜀郡太守に転任した。 214年、劉備が劉璋を攻め成都を包囲すると、許靖は劉璋を見捨て成都城を脱出しようとしたが発覚し捕らえられた。劉璋は許靖を咎めず、処刑しなかったものの、後に劉備が蜀(益州)を支配すると劉備は許靖を嫌い任用しようとしなかった。しかし、「許靖の高名は天下に聞こえ渡っており、許靖を任用しないのなら多くの人は公(劉備)が君子を軽んじていると思うことになります」と法正が劉備に説いたので、左将軍長史に任じられた。 劉備が漢中王になった際は、鎮軍将軍の職にあり、王への推挙の群臣の中に名を連ね、王に就任した後は劉備により太子の劉禅の補佐役(太傅)を任された。 220年に後漢が魏への禅譲により滅亡した。その後、献帝が殺害されたという誤報が蜀にもたらされると、221年、群臣と共に劉備に漢の皇帝として即位することを勧めた。劉備が皇帝になると司徒に任命された。 その頃70歳を過ぎていたが、人材を重んじ、脱世の議論を好んだといわれる。222年に没した。 魏の重臣となった華歆、王朗や陳紀の子である陳羣らとの親交は生涯を通して続き、手紙のやり取りをして旧交を温めたという。あるとき、王朗は劉備が没したことを知り、許靖に手紙を送って、劉禅、諸葛亮の魏への帰順を促そうとしたが、許靖は既に没していた(『魏略』)。 また、許靖は親類縁者や同郷の人を引き取って育て養育したという。 許攸 きょゆう 字は子遠。荊州南陽郡の人。 弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王芬と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称される袁紹陣営の参謀となっている。しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭に強欲な所があったことなどから、進言が袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている。 建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまう。袁紹を見限り、曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言する。これが成功して烏巣は陥落した。 虞翻 ぐほん 耿紀 こうき 黄月英 こうげつえい 黄権 こうけん 黄皓 こうこう 孔秀 こうしゅう 黄承彦 こうしょうげん 公孫淵 こうそんえん 孔融 こうゆう 顧雍 こよう
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73/801-900 803 :マロン名無しさん:2012/01/29(日) 21 38 43.17 ID ??? 600 :名無しステーション :2012/01/15(日) 22 49 58.72 ID jap@n2000 ささくれって地方語だそうですよ 662 :名無しステーション :2012/01/15(日) 22 50 41.72 ID ch/na4000 . 600 パンダがよく言うある 805 :マロン名無しさん:2012/01/29(日) 22 57 23.49 ID ??? ご注意:ハンガリータイムあり。リンク先は個人さまが作成された曲であり動画です。 234: 以下、名無しにかわりまして貴族様がお送りします : 2011/12/29(木) 1 先日友人Nさんの国へ訪問した際、テレビから流れてきたある音楽の一節が妙に耳に残り 帰国後そのフレーズを使いピアノソナタを作ってみました。 旅行中で聞かせられかったHや、皆様に聞いていただけるよう隣国がネットにあげてくれました ttp //youtu.be/Ip3lc8tDogU 258: 以下、名無しにかわりましてmkmkさんがお送りします : 2011/12/29(木) うまくアップロードできていたようでよかった 278: 以下、名無しにかわりましてお爺さんがお送りします : 2011/12/29(木) なんとも・・・光栄のきわみです、有難うございます。 299: 以下、名無しにかわりましてお姐さんがお送りします : 2011/12/29(木) / ! ━━┓┃┃ ‐ ―ニ二二二二ニ>ヽ、 ┃ ━━━━━━━━ ァ /,,ィ=-;;,,, , ,,_ ト-、 ) ┃ ┃┃┃ Y ー==j 〈,,二,゙ ! ) 。 ┛ ゝ. {、 - ,. ヾ "^ } } ゚ 。 ) ,. ‘-,, ≦ 三 ゞ, ∧ヾ ゝ ゚ ≦ 三 ゚。 ゚ =-/ ヽ゚ 。≧ 三 ==- / |ヽ \-ァ, ≧=- 。 ! \ イレ,、 >三 。゚ ・ ゚ | >≦`Vヾ ヾ ≧ 〉 ,く 。゚ /。・イハ 、、 `ミ 。 ゚ 。 ・ 310: 以下、名無しにかわりましておヒゲさんがお送りします : 2011/12/29(木) お兄さん、299が何を想像したかちょっとわかっちゃった ζリ*´点`) 809 :マロン名無しさん:2012/01/29(日) 23 47 25.48 ID ??? 1 名前:しんぶん君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 43 19.48 ID ???0 28日、世界経済フォーラムの年次総会(ダボス会議)が開かれているスイスのダボスで、 上半身裸の抗議を行い、逮捕されるウクライナの女性。 上半身には「おまえらのせいで貧しい」などのスローガンが書かれていた。 【EPA=時事】 ソース 時事通信 http //www.jiji.com/jc/p?id=20120129095645-2045499 n=1 2 名前:お髭君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 44 59.48 ID ???F いつでもお兄さんを頼っていいんだぜ? 3 名前:亡国君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 45 03.48 ID ???P ちょっと用事ができた 4 名前:島国君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 45 39.41 ID ???E 軍隊少ないんだろ?加勢してやるよ 5 名前:筋肉君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 47 10.18 ID ???D 隣国のよしみだ、手を貸そう 6 名前:ヘタレ君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 48 32.02 ID ???E ちょっと通るだけだよ?何もしないから、通るだけだってば~~ 7 名前:大国君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 49 49.49 ID ???R 来ないでエエエエエエエええぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!! 8 名前:中立君★[] 投稿日:2012/01/29(日) 13 51 00.48 ID ???S . 2-6 ダショーンダショーンダショーンダショーンダショーン ・・・. 7なんだ・・・と? 813 :マロン名無しさん:2012/01/29(日) 23 57 29.17 ID ??? 168: 以下、チーズにかわりまして部下がお送りします : 2011/05/16(瑞) 23 19 27 今日の会議のために昨日泊まり込みの作業をした 早朝にヘリっぽい音が聞こえてきた(近くに基地があるからだと思う) そうしたら横で仮眠をとってる祖国の妹が起きたんだ。 妹「何の音です…?∞リ-ω-`リ 」 オレ「ヘリだと思いますよ?」 妹「……撃たれます?∞リ-ω-`;リ」 オレ「…いや、大丈夫ですよ」 妹「良かったです…∞リ-ω-リzzz」 可愛さを半分も表現できてないけど、寝ぼけ方とオレの手を握りながら(多分祖国と間違えた)一瞬で再び眠りに落ちていくのが可愛すぎた。 そこへトイレに行っていた祖国が戻ってきて俺の髪の毛を弾丸がかすったんだけどな。 169: 以下、マカロンにかわりまして全裸がお送りします : 2011/05/16(仏) 23 21 59 . 168 結局撃たれちゃったのかww 816 :1/2:2012/01/30(月) 01 22 27.70 ID ??? . 813 当たり前だがスイスは一般人には威嚇射撃なのかw 一部フランスタイム いろんなことわざを一人称に入れ替えると 1 名前:既にその塩鮭は禁止されています[] 投稿日:2011/12/21(日) 20 46 41.40 ID 2honOTAK 私の上からぼたもち 15 名前:既にその国家は失われています[] 投稿日:2011/12/21(普) 20 57 21.53 ID FBNkeses 俺は投げられた 17 名前:既にその薔薇は使われています[] 投稿日:2011/12/21(仏) 20 59 11.71 ID ZNRrosen かわいい俺には旅をさせろ 18 名前:既にその味覚は失われています[] 投稿日:2011/12/21(英) 20 59 47.59 ID MesiMayu . 17 勝手に行ってこいよw 26 名前:既にそのトマトは熟しています[] 投稿日:2011/12/21(西) 21 04 23.70 ID TomatBun 少年よ、俺を抱け 逆やんなぁ 27 名前:既にその国家は失われています[] 投稿日:2011/12/21(普) 21 04 43.34 ID FBNkeses 二階から俺 53 名前:既にその味覚は失われています[] 投稿日:2011/12/21(英) 21 12 42.70 ID MesiMayu 俺は外 服は内 64 名前:既にそのちぎーは怠けています[] 投稿日:2011/12/21(伊) 21 16 15.35 ID Tigiroma 海老で俺を釣る 149 名前:既にその国家は失われています[] 投稿日:2011/12/21(普) 22 56 16.73 ID FBNkeses 俺の川流れ 322 名前:既にその薔薇は使われています[] 投稿日:2011/12/22(仏) 11 06 50.05 ID ZNRrosen 七転び俺おっき 476 名前:既にそのヘタレは逃げています[] 投稿日:2011/12/22(伊) 20 14 22.64 ID PastaVee 敵に俺を送る 872 名前:既にその胸は揺れまくっています[] 投稿日:2011/12/23(烏) 22 40 18.55 ID BoinBain 貧乏人の私沢山(どいーん) 916 名前:既にそのMoiは言われています[] 投稿日:2011/12/24(芬) 10 15 14.84 ID SantaMoi 下手な鉄砲も僕射ちゃ当たる 821 :マロン名無しさん:2012/01/30(月) 21 02 33.21 ID ??? 史実ネタ、方言適当 823 名前:しおさばくわえた名無しさん [sage] 投稿日: 2012/01/29(日) 21 33 55.24 ID ji1/ch40 私が引き籠っていて、オランダさん位しか付き合っていなかった頃。 オランダさんがお医者様を連れて来られたんですが その方実はドイツさんのところの方だったんです。 当時の通訳の人って、口伝えに代々受け継いでいく家業でしたので 文字は読めないんですがその代わりに発音や発声に凄く精通されていたんですよね。 それで、そのお医者様の喋るオランダ語がなんだか違うんじゃないかって尋ねたんです。 そうしたらオランダさん、何と仰ったか。 「ああ、こいつは山地出身の高地オランダ人だからの、」 オランダさんが干拓で堤防に囲まれた平地の国だと知ったのは、開国した後でした。 824 :マロン名無しさん:2012/01/31(火) 01 07 01.55 ID ??? 526 飲茶くわえた名無しさん [sage] 2012/01/22(香) 17 04 01.53 ID jN2+z3As Be エレベーター乗って…行先階じゃなく乗った階のボタン押すなんて ちゃめしごと的な? 533 肉饅くわえた名無しさん [sage] 2012/01/22(中) 19 12 04.31 ID SaPcBaOU Be 乗ってくる人のために開けようとして閉めるもよくやるある 562 おさかなくわえた名無しさん [sage] 2012/01/23(台) 13 55 16.46 ID F3/IjepY Be . 533 あああああああああそれ日本さんにやって悲しそうな顔されたあああああああ 誤解だヨオオオオオオオオオオオオオオオオオオ 827 :マロン名無しさん:2012/01/31(火) 21 15 14.14 ID ??? 118 バーガー名無しさん 2012/01/31(米) 07 48 22 ID fat/fat 血沸き、肉躍るような残虐なシーンもあるけれど 最後には何かを得る、そんな映画が見たいんだぞ!! 何かおすすめはないかい? 119 ヴルスト名無しさん 2012/01/31(独) 08 01 36 ID whip/whip つ「いのちの食べ方」 829 :マロン名無しさん:2012/01/31(火) 23 55 49.24 ID ??? 方言・年号は適当 916 名前 名無しの親分さん[sage] 投稿日:1565/01/28(西) 15 26 59.36 最近帰りが遅くて、子分が寝てから帰宅、起きる前に出勤が続いてた。 10時過ぎに帰宅して、食事の後にソファで寝っ転がってたら 子分がノソノソ起きてきた。 「どしたん?」と聞くと「小便…」、なのにキッチンへ向かう子分。 もしかして寝ぼけたのか??と後を付いていくと 半開きの目で俺の食器にパエリア(夕飯の残り)をてんこもりにしている。 そして「おい親分…、ちゃんと飯喰えよ…」と言って差し出してくれたん。 一緒に住んでるBが子分をトイレに誘導していったんやけど、もう疲れもなにも吹っ飛んで 泣きながら飯食ったよ。 親分なんて一回も呼んでもらったことなんてないのに。 お風呂にも一緒に入ってもらえへんのに。 「最近どうや?」なんて聞いても「別にふつーだぞこんにゃろー」なんてそっけない事言うのにな。 「最近忙しくて遊びに連れて行ってやれないなぁ」って言ったら 「お前と遊ぶより、Bと遊んでる方が楽しいぞ」なんて言ってたのにな。 すっかり嫌われちゃったんだろうって思ってたのになぁ。 832 :マロン名無しさん:2012/02/01(水) 22 43 44.01 ID ??? 354 :まゆげでいいとも![]:2012/01/28(英) 22 12 13.01 ID bEE0fNyv [3/5] DQN 355 :メタボでいいとも![sage]:2012/01/28(米) 22 12 10.34 ID ddW0bP8y [1/2] ↑の最初3文字と ↓の最初2文字とって新しいコテにするんだぞ([∂]ω[∂]) 356 :とまとでいいとも![sage]:2012/01/28(西) 22 12 13.77 ID Z3GUpKHX [1/2] デブだけど綺麗な顔やなあ母ちゃん 痩せてて男やったらめっちゃイケメン 576 :DQNデブ[sage]:2012/01/28(米) 22 13 44.86 ID ddW0bP8y [2/2] よろしく(´[∂]ω[∂]`) 834 : 忍法帖【Lv=21,xxxPT】 :2012/02/02(木) 05 10 24.00 ID ??? . 832 顔がwwそんな無理しなくてもwww 525 名前:メイク国家ななしさん[sage] 投稿日:2011/07/14(洪) 18 04 16 ID HUngaRy0 ∩ ∫*リ゚ワ゚)/ ⊂ ノ イヤッッホォォォオオォオウ! (つ ノ アイシャドウの秋の新色予約しちゃいました! (ノ .. . ∬ ストン. __ |||... ||| リ/ヨミヽλ . . .  ̄ ̄ ̄ ̄(ノ ̄ヽ) ̄ いくつアイシャドウ持ってりゃ気が済むの、私。orz 目は2つしかないし、このあと100年あっても使い切れない位あるよ。 大体私じゃブラウン系は疲れたインドさんみたいな顔になっちゃうでしょ… 526 名前:メイク国家ななしさん[sage] 投稿日:2011/07/14(白) 18 16 51 ID bE1giUMO 疲れたインドさんwww 836 :マロン名無しさん:2012/02/02(木) 18 36 08.19 ID ??? 544 :塩鮭さん@英語勉強中:2012/02/01(水) 19 36 26.31 「情けは人のためならず」に相当する英語の言い回しはありますか? 545 :爆竹さん@英語改造中:2012/02/01(水) 19 39 16.17 . 544 か…勘違いすんなよっ!俺のためだからな!お…お前のためなんかじゃないんだからな! 839 :マロン名無しさん:2012/02/02(木) 20 21 22.89 ID ??? コピペ改変 957 国民名無しさん [sage] 2012/01/30(月) 21 39 15.77 ID jpn/ippan 昨日の朝、早く目が覚めて、日曜だったし朝の散歩に行ってみたんだ。 6時過ぎくらいで、まだ薄暗かったんだが、冷たい空気が非常に気持ちよくて、 誰もいないのを確かめてから、徒歩3分の近所の公園まで腰に手を当ててスキップしてみた。 公園手前の十字路の角を小気味いいステップでヒャッフー!とスキップ&ターンして、 曲がってすぐの場所にある公園の入口にスキップで駆け込んだんだ。 久しぶりに跳ね飛んで息が切れたわー、と思いながら入口付近でゼーハーしてたんだが、 少しして顔を上げたら、公園のベンチで朝マック喰ってた白人のメタボさんと目が合った。 メタボさんは真っ白な歯を見せてすんげー笑顔で、 d([∂]ω[∂]) 「グモルニン!いいスキップだ!ご機嫌なのかい?」 みたいな事を言ってめっちゃサムズアップしてた。 恥ずかしくて死にそうだったが、なんでもない風を装って、 d( A`)「日曜日だから・・・」 ってサムズアップを返したら、メタボさんも上機嫌になって二人で公園を2周ほどスキップするはめになった。 外人ってフレンドリーだよな・・・。 840 :1/2:2012/02/02(木) 20 28 25.46 ID ??? 国として終わったと思った瞬間 136 :不憫歴774年:2012/01/13(普) 20 25 47.67 ハナホン(鼻にイヤホン)。 ライブさながらの音質と、好きなアーティストの声が自分の口から発せられる人間スピーカー状態に興奮してアルバム一周した時。 137 :親分歴774年:2012/01/13(西) 20 49 19.79 ID U19YOBl0 . 136 何しとん自分www 138 :全裸歴774年:2012/01/13(金) 21 22 33.06 . 136 やべえええええええええええ え、本当にそんな事出来ちゃうワケ!??!?今すぐやるわ 139 :不憫歴774年:2012/01/13(普) 21 39 56.23 . 138 音量マックスにして鼻に入れんだよ 耳抜きしたり欠伸するみたいに大口あけると超高音質になるぜw 140 :ヘタレ歴774年:2012/01/13(伊) 21 48 40.02 . 139 俺耳に入れるタイプのイヤホンはすぐに取れちゃうから良いこと聞いたwwありがとう早速やってみるよ! 141 :腐女子歴774年:2012/01/13(洪) 22 11 24.84 ハwwwナwwwホwwwンwww 142 :紳士歴774年:2012/01/13(英) 22 16 06.84 ワロタ やってみたいがハマりそうで怖いなwww 143 :オタク歴774年:2012/01/13(日) 22 23 58.21 やってみたい・・・!やってみたいのですが やってしまったら何かを失う気がします・・・ 144 :猫歴774年:2012/01/13(希) 22 30 17.75 ん………ハナホン、これは流行る…! 145 :貴族歴774年:2012/01/13(墺) 22 45 09.02 鼻に入りませんよお馬鹿さんが! 146 :筋肉歴774年:2012/01/13(独) 22 52 00.37 試したのかwwwwwww 843 :1/2:2012/02/03(金) 00 35 21.78 ID ??? 211 名前:名無しんぼ@パスタいっぱい[sage] 投稿日:2012/01/20(伊) 23 52 24.63 ID pMBfLRW10 イギリスの飯っていつから不味いの?素材が不味いってんなら大英帝国時代はうまかったの? もしかしてその頃から不味かったの?世界中から何でも持ってきてた時代に 飯が不味いってもうどういうことなの? 212 名前:名無しんぼ@筋肉いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/20(独) 23 56 54.36 ID 8azmZfbJ0 まずいからこそいろんなとこ侵略して飯を持ってきたと聞いた 水が硬水で料理に向かないうえ土地が痩せててまともに作物が育たないとか何とか 221 名前:名無しんぼ@塩分いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/21(日) 00 28 25.35 ID i3EKwoWN0 私は紅茶美味しいと思いましたけどねぇ。 まあ酒ばっか飲んでましたけど。 222 名前:名無しんぼ@肌色いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/21(仏) 00 29 28.82 ID 7W0fFriTO 紅茶の美味い不味いはあれだ、日本みたいに軟水で淹れた紅茶に慣れてると 硬水で淹れた紅茶は何か違う、微妙だと感じるらしい なんつーか他人の家のカレーみたいなもんだ しかし島国なんだから海産系の料理発達しても良さそうなのに 何でフィッシュ チップスに鰻ゼリーなんだよあの国は… 218 名前:名無しんぼ@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/21(米) 00 14 49.94 ID DBa397MQO 違うんだ、イギリス料理は美味しいんだ、イギリス料理はイギリスが作るから不味いんだぞ 223 名前:名無しんぼ@塩分いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/21(日) 00 37 08.85 ID rLU/G/Od0 . 218 日本人留学生が寮でイギリス人がフィッシュ&チップス作ってるのを見て、 なんとなしに参加させてもらったら美味くできて満足していたら 「なんて残酷な事をしてくれるんだ! 同じ料理でも美味いものができるだなんて…」 と説教食らった話がありましたね 251 名前:名無しんぼ@紅茶いっぱい[sage] 投稿日:2012/01/21(日) 00 51 17.13 ID sNu249it お前ら、今度食事に招いてやるよ 846 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 04 09 46.24 ID ??? 断る日本注意 28:以下、名無しにかわりましてJPNがお送りします:20xx/xx/xx(日) xx xx xx.xxID SIo/jiJI 以前、中国さんがやってるラーメン屋っていうか中華料理屋に行きました 店長(中国さん)以下バイトも、台湾さんや香港さんといった御近所の方 で、いざ注文 私「ラーメンと唐揚げを」 中国さん「ラーメン…と、唐揚げ…杏仁豆腐アルか」 私「いや、杏仁豆腐は結構です」 中国さん「何故アルか?旨いアルよ?」 俺「えぇ、でも今日はいいです」 店員「そうアルか、じゃあラーメンと唐揚げ、杏仁豆腐アルな」 俺「いや、ラーメンと唐揚げだけで…」 店員「残念、わかったアルー」 もちろん杏仁豆腐は出てきました 848 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 19 50 46.05 ID ??? ※一般人 68 名前:お塩国民歴774年[] 投稿日:2012/01/08(日) 10 42 06.81 自分ふりかけの名前だし古臭くて嫌だから将来子供出来たら今風で可愛い名前にしたいよ 69 名前:国家歴774年[sage] 投稿日:2012/01/08(芬) 10 46 28.84 ID [1/2] . 68 のりたまですか? 素敵な名前じゃないですか ちょっとシンプルだけど 70 名前:サーモン恋人歴774年[sage] 投稿日:2012/01/08(諾) 10 59 33.36 ID 「ゆかり」じゃね? 71 名前:パフィンうまうま歴774年[sage] 投稿日:2012/01/08(氷) 11 03 08.88 ID . 69 何故のりたまだと思ったの?ww 75 名前:69[sage] 投稿日:2012/01/08(芬) 12 49 47.79 ID [2/2] . 70. 71 あ、そうか。ゆかりさんか。 のりたましか浮かばなかったのは、のりたまが好きだからですww 850 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 19 58 02.78 ID ??? 221 :がんばろうプロイセン一人! :2012/01/10(普) 16 13 47 ID 今駅の南口ロータリーで取締役やってんぜ!一時停止気をつけろよ! 222 :がんばろうオーストリア人! :sage :2012/01/10(墺) 16 15 43 ID wEwDcWww . 221 それはだいぶ出世しましたね 851 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 20 07 44.79 ID ??? 594 名前:威圧感国民歴774年[sage] 投稿日:2012/01/26(木) 23 36 14.58 ID 夕方の電車内で男子2人。 A「昨日スーと口喧嘩したら今日の弁当、二段とも竹輪だった」 B「マジですか?竹輪だけww?」 A「竹輪10本、上の段にチーズ入った竹輪、下の段きゅうり入った竹輪だった」 B「優しいですねwww」 A「シナモンロール買って帰って謝るわー」 852 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 20 58 46.30 ID ??? コピペ改変。 そろそろこんな季節ですね。 896 名前:名無し国民さん[sage] 投稿日:2012/02/01(水) 12 35 03.83 今日はうちの地域、高校の合格発表だったみたい。 駅前のバス停行ったらベンチで祖国と男子中学生が話ししてた。 祖「合格したんですか?よかったですねえ」 中「ありあーっす!」 祖「部活動は何にするんです?」 中「あ、サッカー部なんで・・・」 なんて会話を聞いてたら駅前通路(2F)から 「ヒロキ(仮名)ーーーーーーーー!」の声。 鈴なりになった男子中学生がこっちに手ふってる。 中校生はヒロキだったらしい。 ヒロキが「お前らどうよーーーーー!」と叫ぶと 全員が腕でマル!のポーズ。 祖国がうれしそうに拍手しててなごんた。 854 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 21 51 32.12 ID ??? 51 :かわいい親分:2009/03/25(西) 20 42 06.20 ID ??? きみにもーひとーつあげる♪ 52 :かわいいお兄さん:2009/03/25(仏) 20 45 23.27 ID ??? きれいなのひとーつあげる♪ 53 :かわいいおちゃめさん:2009/03/25(北) 20 48 03.59 ID ??? おーいしートマート食べてぼくと踊ろう♪ 54 :かわいい爺さん:2009/03/25(日) 20 53 46.31 ID ??? あ・そーれ! 55 :かわいいお子分:2009/03/25(南) 20 58 42.18 ID ??? . 54 . 54 . 54 856 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 22 50 50.10 ID ??? 620 名前:塩好き国家さん[sage] 投稿日:2012/02/03(日) 18 22 18.55 恵方巻きも豆まきもやりますし鬼もやりますよ。 ドンキとかで売ってそうなリアルな鬼のお面をかぶって 黒のロングコート、2キロの本物の斧を持って近所の子供たちのところをまわります。 「悪い子はいねえかぁぁ」 って鬼ではなくなっていますがw 1.さりげなくカーテンを開けると自分でライトアップ(懐中電灯使用)した鬼出現。 2.大きい子供には「来ちゃった///」的な演出。 3.トイレなどに子が部屋を出ると暗い廊下にうずくまる自分でライトアップしたry という感じでやります。 子ども達は「いいこになるぅぅぅ」と号泣。 どんなに小さな子でも鬼に豆を投げるまでは容赦しません。 最後は「いい子になる!」と約束し、和解します。 たまに和解のしるしに子供から飴を貰えますw しばらくの間、親が「鬼がくるよ!」って言ってイイコになるそうです。 始めは隣近所2・3件だったのですが年々頼まれる家が増えてきます。 鬼とナマハゲ、ハロウィンが混ざってるけど気にしないw 節分の日の私の楽しみです。 さて、そろそろ行ってきますね。 858 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 23 22 48.06 ID ??? 79 :饅頭くわえた国家さん:201x/xx/xx(日) xx xx xx.xx ID JPN/Gch ([∂]ω) 「日本のマンジューおいしいんだぞ!」 (言Д言) 「なんじゃそりゃ?」 ([∂]ω) 「コンビニで売ってるぞ!マンジュー」 (言Д言) 「ひょっとして、”豚まん”とか?」 ([∂]ω) 「色々あるぞ!餡のマンジュー、 カリーマンジュー、ビザ?マンジュー」 (言Д言) 「そういえば、最近太ったな?」 ([∂]ω) (腹を指さしながら) 「ここは豚マンジュー、ここは餡マンジュー、ここはカリー・・・」 (言Д言) 「判ったわかった、で…今日も食べたのか?」 ([∂]ω) 「イェーイ、7個食べたぞ。おいしいんだぞ!」 (言Д言) 「7個!!!」 (´[∂]ω)「7個しか無かったんだ…ちょっと足りないんだぞ…」 (言Д言;) 「買い占めたのか!!」 ここらで耐えきれずにお茶吹きました 859 :マロン名無しさん:2012/02/03(金) 23 25 59.04 ID ivKQ6g8O . 858 スライム肉まんだったら、8個食べて腹の中でキングスライム誕生させてたんだろうなw 862 :1/4:2012/02/04(土) 00 17 34.19 ID ??? 虫グロ注意 自分に狂気を感じたこと(犯罪禁止) 1:以下、名無しにかわりましてENGがお送りします:2012/01/30(英) 10 38 14.20 ID ow9EfeId0 夜中にゴキブリ発見して殺虫剤かけたあと 新聞広告で包んで更に足で潰して それに向かって「ばぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁか!!」と叫んだ時 2:以下、名無しにかわりましてITAがお送りします:2012/01/30(伊) 10 39 23.06 ID fcFrY56q0 こないだ電車の中で2ch見ながら思わず「ヴェーーーwwwwwwww」って爆笑しちゃってちょっと恥ずかしかった 12:以下、名無しにかわりましてRSAがお送りします:2012/01/30(露) 10 43 42.88 ID FAmpz3l/0 朝起きたらベッド脇の壁一面に爪跡がびっしりついてた きっと疲れてたんだな… 13:以下、名無しにかわりましてFRAがお送りします:2012/01/30(仏) 10 44 42.07 ID ow9EfeId0 . 12 怖いって 14:以下、名無しにかわりましてGERがお送りします:2012/01/30(独) 10 45 20.24 ID Ubn988u30 . 12 はやく病院に行け 20:以下、名無しにかわりましてRSAがお送りします:2012/01/30(露) 10 48 06.92 ID 89d1yZvBO もういっこ。 蚊を殺したと思ったら生きてた。でも動きが鈍いからいたずらしてやろう、と思い。 全ての足を修正液で固定し、必死で抜け出そうとするのをあざ笑い、羽をもぎ取って遊んだことかな 24:以下、名無しにかわりましてLATがお送りします:2012/01/30(拉) 10 49 43.04 ID ow9EfeId0 . 20 怖いです 一人だけ内容が浮いてるのに気付かず平気で書きこんじゃうところが 46:以下、名無しにかわりましてESTがお送りします:2012/01/30(愛) 11 06 00.95 ID +janbNMz0 . 24んんんんんんんんん!!!! グロ耐性ないのに HEPのグロ画像スレ見続けちゃうとき 49:以下、名無しにかわりましてLITがお送りします:2012/01/30(立) 11 07 50.50 ID dTUuV7/W0 高速運転中にハンドルを思いっきり切りたい時 61:以下、名無しにかわりましてROMがお送りします:2012/01/30(伊) 11 16 24.51 ID RtwZUXiX0 俺の誕生日に、死んだ祖父が 俺が寝てる時に呻き声をあげながら 来たとき 63:以下、名無しにかわりましてPRSがお送りします:2012/01/30(普) 11 17 26.52 ID ow9EfeId0 . 61 心霊?こえーよ あ、でも祝いにきたのか 68:以下、名無しにかわりましてROMがお送りします:2012/01/30(伊) 11 21 31.38 ID RtwZUXiX0 . 63 いや、死んで数日たったときに来た 次はさらに一ヶ月後ぐらいに来た その数ヶ月後に病気で寝込んでたんだが いろいろ怖え 62:以下、名無しにかわりましてDITがお送りします:2012/01/30(独) 11 17 01.84 ID UuZBHlGs0 タンポポを一心不乱に食べてるとこを鏡でみたとき 65:以下、名無しにかわりましてFRAがお送りします:2012/01/30(仏) 11 18 41.85 ID BX5FmWlS0 前後ろ逆かな?と思って着直したらやっぱり逆っぽくて 再度着直したら逆だったので破いて捨てた 78:以下、名無しにかわりましてJPNがお送りします:2012/01/30(日) 11 41 20.52 ID oRNRtohK0 ラノベ時代からあたためてきた二次元の長門との同棲生活の妄想がだんだんリアルになってきて 外出るときに「じゃあ行って来ますね~」って声に出たときですかね 83:以下、名無しにかわりましてPRSがお送りします:2012/01/30(普) 11 45 25.43 ID foKvCApWO プレステ2の溝の埃を必死で掃除してた時 ちょっと笑ってた 91:以下、名無しにかわりましてUSAがお送りします:2012/01/30(米) 11 45 25.43 ID s4aHh5ib 君たちトゥースキュアリーすぎるよ… 869 :マロン名無しさん:2012/02/04(土) 15 32 17.54 ID ??? 260 :彼女いない歴774年 :sage :2012/01/28(伊) 14 17 10.00 ID XREY0qfz 今日、大発見した。 みかんの皮を剥いて2房くっついたまま取って、綺麗に白いのを取ると、クチビルそっくりになる。 しばらく、甘いキスの味を味わってた。ちぎー。 871 :1/3:2012/02/04(土) 18 16 31.52 ID ??? フランスタイム 1 名前:しんぶん君 ★[] 投稿日:2012/02/02(紙) 13 49 16.93 ID ???0 小惑星エロス(EROS)が前月31日、過去37年間で地球に最も接近した。幅約34キロのエロスは、 地球から約2670万キロメートルの地点を通過、夜空のしし座、六分儀座、うみへび座を横切った。 エロスがこれほどまでに接近したのは、1975年以来。次回は2056年になる。 米航空宇宙局(NASA)は、NEAR(Near Earth Asteroid Rendezvous)ミッションの一環として、 スピッツァー宇宙望遠鏡(Spitzer Space Telescope)でエロスを含む多数の地球近傍小惑星を観測し、 その大きさや組成などについて調べている。(c)AFP (URL省略) 3 名前:ドケチさん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(蘭) 13 49 29.98 ID 6TkFT7O60 小学生エロス 4 名前:チョコさん@12周年[] 投稿日:2012/02/02(白) 13 50 14.83 ID Lo9nt9uQ0 . 3 おまわりさんこいつやで 5 名前:ことりさん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(普) 13 50 23.95 ID rAORgcYm0 どうりで悶々としてたわけだ 6 名前:露出狂さん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(仏) 13 50 29.29 ID bJDgDBfpO 通りで最近ビンビンなんだな 7 名前:まゆげさん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(英) 13 50 31.31 ID U7PMTpqi0 名前だけじゃなく形もエロイな流石だ 8 名前:おじいさん@12周年[] 投稿日:2012/02/02(日) 13 50 47.34 ID bsgqnRlM0 今年はエロスが猛威をふるう年ですか、HDDが熱くなりますね。 9 名前:おいもさん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(独) 13 51 17.97 ID vTrNPRfz0 どおりで最近はエロスを見かけなかったわけだ 10 名前:パスタさん@12周年[] 投稿日:2012/02/02(伊) 13 53 21.65 ID CtPscy3b0 ,, ゚ ,,, o" < オーイ / / ○ < エロスだよー / / ",, / / / ,," ,/ ヽ" / l^ω^ l / ヽ_ノ" < 童貞ども、今年はがんばれよぉ~ / / ○ < がんばれよぉぉぉ~ ,,, o" < ジャーネー ,, ゚ 11 名前:トマトさん@12周年[sage] 投稿日:2012/02/02(伊) 13 51 57.25 ID rd7FcXFt0 . 16 ジャーネーじゃねーよ 874 :マロン名無しさん:2012/02/04(土) 23 35 42.84 ID ??? 126:以下、名無しにかわりましてHEROがお送りします:2010/11/01(米) 23 46 05.40 ID MEtaBo/HeRO 全く君達 俺を誰だと思ってるんだい 回るお寿司を1レーン全部食いつくして回らなくした男だぞ ちょっと位お腹に入れて行かないと… 俺の方が略奪者(バイキング) 扱いされちゃうじゃないかXDDDD 878 :マロン名無しさん:2012/02/05(日) 11 46 52.82 ID ??? 818 :サロン・ド・ロンドン:1812/06/xx(英) 23 15 28 ID ??? ちょw元弟が俺の植民地侵略してんだけどww こっちが髭野郎のせいで死ぬほど忙しいってのによw 「悪のイギリス支配から助け出すんだぞ!!」ってwwwこのクソヤンキーwww つーかお前どんだけ自信満々なんだよww カナダが自分側につくのは確定事項かよww いや、俺もそう思うけどな!!! カナダまで独立とかwwww俺オワタ\(^0^)/ 819 :サロン・ド・オタワ:1812/06/xx(加) 23 16 19 ID ??? こっちは徹底抗戦してるんですよ!! くだらないこと言ってるヒマがあるなら助けに来てください!!! 881 :マロン名無しさん:2012/02/05(日) 22 33 03.70 ID ??? 怖いかも 14:以下、名無しにかわりましてJPNがお送りします:2012/01/04(日) 23 06 41.84 ID S5HOKl1u0 Dさんと同盟組んでから初めて家に遊びに行ったときの話なんですが 二階のDさんの部屋に上がる前にリビングがあって チラッと覗いたらカーテンに男の子がくるまってこっちを見ていたので挨拶したんです それでDさんの部屋に入ってから Dさん、弟さんがいたんですねと言ったんですがDさん末っ子でした 882 :マロン名無しさん:2012/02/06(月) 00 44 01.06 ID ??? コピペ改変 304 名前:お塩くわえた国家さん[sage] 投稿日:2012/01/30(日) 11 19 15.67 フランスの友人に会うと 日本はクジラを食べるんだろうと言われます。 ヨーロッパの諺に 人の皿を笑うな というのがあるそうで 文化や風習がちがうひとが食べているモノを ばかにしちゃいけないという事です ベトナムは犬もカエルも食べますけれど 食文化なのでオモシロおかしく言ってはいけませんし、 アメリカ人はバッファローを食べ尽くしましたし フランス人はエスカルゴを食べますもんね そしてイギリス人は、 お母さんが作ったモノを食べます これはジョークなので笑っていいですよ 305 名前:バーガーくわえた国家さん[sage] 投稿日:2012/01/30(米) 11 27 24.12 . 304 君、イギリスと喧嘩でもしたのかい? 887 :マロン名無しさん:2012/02/06(月) 03 40 40.76 ID ??? .>フランスの友人 この時点で嫌味だったのか 888 :マロン名無しさん:2012/02/06(月) 07 37 57.00 ID ??? . 887 ……!! 885 :マロン名無しさん:2012/02/06(月) 03 03 12.86 ID ??? 304 名前:ポテト魂ななしさん[sage] 投稿日:2012/01/17(火) 22 38 41.75 ID potetooO 兄貴が使って締めたはずのケチャップビンの蓋部分を持って勢い良く持ち上げたら 締まってなかった…時のリビングの惨状は筆舌に尽くしがたかった。 891 :マロン名無しさん:2012/02/06(月) 22 08 55.19 ID ??? スペインの黒歴史 374 名前:けしずみくわえた名無しさん 投稿日:2011/10/27(英) 00 58 22.74 ID MayuMayu 「インカを滅ぼしたのは何人か?」 なんぴと … フランシスコ・ピサロ なにじん … スペイン人 なんにん … ピサロと180人の部下 日本語って面白いよな。 375 名前:ぱえりあくわえた名無しさん 投稿日:2011/10/27(西) 00 58 56.23 ID Conquista せやな 896 :マロン名無しさん:2012/02/07(火) 00 05 40.17 ID ??? 方言は適当 83 名前:以下、名無しにかわりましてSPNがお送りします[] 投稿日:2011/01/25(西) 10 12 14.62 ID TrTe7JCJ0 四葉のクローバーを見つけるために、 三つ葉のクローバーを踏みにじったらあかん。 幸せはそんな風に探すもんとちゃうで 183 名前:以下、名無しにかわりましてBELがお送りします[] 投稿日:2011/01/25(白) 11 40 35.31 ID CyroF4LH0 . 83 これ好きや 186 名前:以下、名無しにかわりましてNEDがお送りします[] 投稿日:2011/01/25(蘭) 11 46 03.37 ID hWGs/8xY0 . 183 四葉のクローバーはクローバーが若葉の時に出来なった傷から四葉になるんや 踏みにじって探す奴がえんと四葉のクローバーは生まれてこない 188 名前:以下、名無しにかわりましてROMがお送りします[] 投稿日:2011/01/25(伊) 11 49 40.50 ID ZFJmaXgi0 . 186 なんか知ってはいけないこの世の闇に触れた気分だチクショー 897 :マロン名無しさん:2012/02/07(火) 00 35 25.19 ID ??? 612 名前:パスタくわえた名無しさん [sage] 投稿日: 2012/01/25(伊) 16 25 16.86 仕事暇なので投下。 自分が直接やった武勇伝じゃないけど・・・ この前、夜に友達の家に集まった帰り、軽トラが道の脇に横転してんだ。 多分雪でハンドル取られちゃって道路脇に高く積んである雪に乗り上げそのまま横転したんじゃないかな。 俺の車の前に3台走ってたんだけど、みんな見事にスルー。 運転手と思われる60後半くらいのじいちゃんが一人で必死に起こそうとしてたんだ。 みんな薄情だなーと思いつつ止まって、起こすのを手伝ったんだ。 けどじいちゃんと二人、しかも道路は圧雪でツルッツル、踏ん張りも利かず、 持ち上げられそうになかったので助けを呼ぶことにしたよ。 幸い友達の家からまだそんなに離れてなかったから友達に電話で状況を話したらすぐ来てくれるとのこと。 待つこと10分、きっちり並んで綺麗に揃った駆け足で友人含む3名が颯爽と軍服姿で登場した。 到着から2?3分の早業で軽トラは救助され、じいちゃんがすごい感謝してお礼を言いながら 謝礼?かなにか渡そうと財布を手に取った瞬間、Hさんが「状況終了!」と一言。 友人とその兄が「ラジャー!」と言ってまた綺麗に揃った駆け足で帰っていった。 じいちゃん最初は呆然と見送ってたんだけど、気づいたら直立不動の敬礼してたよ。 俺もなんか渡されそうになったんで「いいからいいから、気をつけてねー」と言いつつ逃げるように帰ったよ~。 やっぱDもPもHさんも頼りになるなぁ。 助けてくれたお礼に美味しいパスタを今度ごちそうするね。 613 名前:フライパンくわえた名無しさん [sage] 投稿日: 2012/01/25(洪) 16 29 11.17 . 612 ありがとう。だけど私たちの帰りを家を温めて待っていてくれたAさんの事も忘れないでください。 614 名前:ビールくわえた名無しさん [sage] 投稿日: 2012/01/25(普) 16 32 09.57 . 613 家出るときに「迷子になると困るので待っていて下さい」て言われて置いて行かれただけだろ 73スレ目次 次
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十八史略卷之四四一四侃.嘗て、夢に八翼を生じて天門に上り、八重に至り、左翼を折つ陶侃折翼のて下る。力能く跋扈するも、折翼の夢を思ふ毎に、輒ち自ら制す。夢は、軍に在ること四十一年、明毅善く斷ず。人欺く能はず南陵より白帝に至るまで、數千里、路、遺ちたるを拾はず。そ後趙の石虎、其主弘を殺して、自立して趙の天王となり、勒の種の二を殺して遺すなし。成、國號を改めて漢といふ。李雄、兄の子班を以て太子となす。雄、卒す。班、立つ。雄の子越、班を殺して、其弟期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて、外に屯せしむ。壽、還り襲うて、期を弑して自立す。什翼犍代王什翼腱立つ。之より先、代王賀侮卒す、弟紇那嗣ぐ。紇那、出奔す。欝律の子、翳槐立つ。紇那、復た還る。翳槐、趙に奔る。趙、翳槐を代に納る。翳槐、卒するに臨み、諸大人に命じて、弟什翼犍を立てしむ。猗虚の死せしより國に內難多く、部落離散す。什翼腱、雄勇にして智略あり、能く祖業を修む。始めて、百官を制뫃し、號令明白、政事〓簡、百姓之に安んず。是に於て、東は減貊より西は破落那に及び、南は陰山を距て、北は沙漠に盡くるまで、さ率ね皆歸服す。衆數十萬人あり。拓跋氏、之より愈よ大なり。晉の丞相王導、卒す。初め、帝、位に卽いて沖幼、導を見る毎に、必ず拜す、旣に、冠するも、猶ほ然り。政を導に委す。導、門東晉-顯宗成皇帝-四一五 十八史略卷之四四一六地を以て、王述を掾となす。述未だ名を知られず、人之を痴といふ。旣に見るや、江東の米價を問ふ。述目を張つて答へず。導ず王掾痴なら曰く、王掾、痴ならずと。導、言を發する每に、一座賛歎せざるな?し述色を正しうして曰く、人堯舜に非ず、何ぞ每事善を盡すを得むと。導容を改めて、之を謝す。導、性寬厚、委任する所の諸將、多く法を奉ぜず。大臣、之を患ふ。庾亮、兵を起して導を廢すせむと欲す。或ひと、導に勸めて密に備へしむ。導曰く、吾、元規と休戚、是れ同じ。元規、若し來らば、吾、則ち、角巾して第に歸らむ、復た何ぞ懼れむやと。亮、外鎭に居ると雖も、然も、はるかに朝權を執り、上流に據つて强兵を擁し、勢に趨く者多く之に歸す。국導、內平なる能はず。嘗て、西風に遇ふて塵起るや、扇を擧げて、くわよ〓自ら蔽ひ、徐に曰く、元規の塵、人を汚すと。導、簡素寡欲、善く;事に因つて功を就す。日用の益なじと雖も、然も、歲計は餘あり。ちよこ〓は、三世に輔相として、倉に儲穀なく、衣、帛を重ねず。晉の司空庾亮卒す。初め、蘇峻の亂、亮之を激するなり。峻; 平らぐや、亮、泥首して罪を謝し、外鎭を求めて、自ら致す。後、と江〓等の州の諸軍事を都督す。殷浩を辟して、參軍となす。浩、褚哀と、皆、識度〓遠、善く老、易を談じ、名を江東に擅にす。而して、浩、尤も風流の爲に宗とせらる。亮、中原を開復せむと欲す。上疏して、大衆を率ゐ、移つて石城に鎭し、諸軍を遣はして、江汚東晉-顯宗成皇帝-四一七 十八史略卷之四四一八に羅布せしめて、趙を伐つの規を爲さむを請ふ。蔡謨曰く、大江を以て蘇 峻を禦ぐこと能はず、安んぞ能く沔水を以て石虎を禦がむと。乃ち亮に詔して、鎭を移すを聽さず。是に至つて武昌に卒す。晉、慕容皝を封じて燕王となす。旣の父、遼東公となつてより、旣を立てて世子となす。雄毅にして權略多く、經術を喜ぶ。魔卒すす。皝立つ。其下、勸めて、王と稱せしむ。皝晉に謂はしむ、遂に之を封ず。と、帝在位十八年、頗る勤儉の德あり。改元するもの二、曰く、咸和咸康。崩ず。二子丕、奕、襁褓に在り、帝の母弟瑯琊王立つ、これを康皇帝となす。【康皇帝】名は嶽、成帝崩ずるに臨んで、嶽を以て嗣となす。遂に卽位す。一.庾翼都督〓江等の州の軍事庚翼、人と爲り慷慨、功名を喜んで、浮華を尙ばず。殷浩、才名、世に冠たり。翼、之を重んぜずして曰く、この輩、宜しく、之を高閣に束ね、天下太平を俟つて、徐に其任を議すべきのみと。時人、浩を管葛に擬し、其出處を伺うて、以て興亡をトす。曰く、淵源出でざれば、當に蒼生を如何すべきと。翼、浩を請うて、司馬となす。應ぜず。翼王夷甫を以て、之を嘲る。す桓溫瑯琊の内史桓溫、豪爽にして風〓あり。翼、嘗て之を薦めて曰く、英雄の才、宜しく委ぬるに方召の任を以てすべしと。是に至つて、東晉-康皇帝-四一九 十八史略卷之四四二〇〓翼、胡を滅し、蜀を取るを以て己の任となし、衆を悉くして、北伐せむと欲し、移つて、襄陽に鎭す。翼に詔して、征討諸軍を都督せしむ。翼溫を以て、前鋒の督となす。漢主李壽、卒す。子勢立つ。帝在位三年、崩ず。改元するもの一曰く、建元。太子立つ、之を孝宗穆皇帝となす。총【孝宗穆皇帝】名は聃、三歲にして卽位す。會稽王昱、政を輔く。庾翼、卒す。桓溫を以て、〓梁等の州の軍事を都督せしむ。翼ヘ初め其子を表して〓州を領せしむ。何充曰く、〓楚は國の西門、豈に白面の少年を以て之に當つべけむや。桓溫は、英略人に過ぐ、西溫が不臣の志あるを知り、任、溫に出づる者なしと。丹陽の尹劉惔、昱に謂つて曰く、溫は形勝の地に居らしむべからずと、昱聽かず。竟に溫を以て、翼に代ふ。漢主李勢、驕淫にして、國事を恤ひず。桓溫、師を師ゐて、漢を伐つ。拜表して、卽ち行く。進んで成都に至るや、勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。燕王慕容就、卒す。子雋立つ。;·趙天王石虎、帝と稱す。尋いで卒す。子世、立つ。(其兄遵、之を弑して自立す。趙、亂る。晉の征討都督褚哀、表して、趙を伐つをそ請ふ朝野以爲へらく、中原期を指して復すべしと。蔡謨、獨り以東晉-孝宗穆皇帝-四二一 十八史略卷之四四二二評爲へらく、を捜査 (電話力を量るに若くはなし、は急ずり所德を度り、謂德ら度の分表を經營すれば、哀5,カ恐らくは、憂、朝廷に及ばむと。將を遣す。果して敗沒す。燥して敗る焦進する者必ず趙の蒲洪、使を遣して、晉に降る。洪、趙に事ふる累世。是に至つて、石閔、趙主遵に言つて曰く、蒲洪は人傑なり。今、關中に鎭す。恐らくは秦雍、國家の有に非ざらむと。遵洪の都督を罷む。洪、怒つて、枋頭に歸り、遂に晉に通ず。凉州の張重華、自ら凉王と稱す。初め、惠帝の世、張軌、凉州刺史となり、威西土に著はる。懷帝の陷沒するや、軌兵を遣して、愍帝を長安に助く。帝、軌を以て、凉州の牧西平公となす。軌卒す。子寔、立つ。寔、妖賊の爲めに殺さる。弟茂、立つ。趙主劉曜、茂を擊つ。茂趙に降る。茂、卒す。寔の子駿、立つ。茂、終に臨んで、駿に語る、必ず晉に奉ぜよ、失ふべからずと。駿復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ぢ、成帝の時、道を蜀に假り、以て晉に通ず。駿、卒す。子重華、立つ。晉使を遣し、仍つて、西平公に拜す。重華、自ら王となる。後趙の石鑑、其主遵を弑して、自立す。石閔、又鑑を幽し、之をこと〓〓殺して自立し、國號を改めて魏といひ、虎の三十八孫を殺し、盡さく石氏を滅す。閔、姓は冉、石氏に養はる。是に至つて、其姓に復す。後、燕に破られ、執へて之を殺す。蒲洪、自ら三秦王と稱し、姓を苻と改む。洪、先に趙將麻秋を擒東晉-孝宗穆皇帝-四二三 十八史略卷之四四二回にす。殺さずして、其言を用ゐ、宴するに因つて、秋に鴆せらる。千萬元秋を斬り、代つて、洪の衆を領す。健、長安に入り、自ら秦天王と稱し、旣にして、帝と稱す。燕王雋、帝と稱す。趙の姚襄、晉に歸し、復た叛す。襄の父弋仲は、南安赤亭の羌曾なり。懷帝の末、戎夏、襁負して、之に從ふ者數萬、自ら扶風公と稱す。其後前趙の劉曜に服し、又、後趙の石勒、石虎に事ふ。虎、甚だ之を重んじ、以て冠軍大將軍となす。虎死し、趙亂る。冉閔、趙を滅すに至つて、七仲、使を遣して、晉に降る。七仲、卒す。寒、其衆を率ゐて、晉に來る。襄に詔して、誰城に屯せしし)む。後、歷陽に屯す。揚豫州の都督般浩、壽春に在り。襄の强盛を1惡み、將をして之を襲はしむ。襄に斬らる。之より先、朝廷、中原大に亂ると聞き、復た進取を謀る。浩.任を受け、連年北伐して功なし。是に至つて、諸軍を率ゐて、再擧す。襄、甲を伏せて、之を邀ふ。浩、山桑に至る。襄縱擊す。浩、大に敗れて走る。凉の張重華卒す。子曜靈立つ。其下、之を廢して張祚を立つ。晉の桓溫、殷浩の敗に因つて、請うて、浩を廢し、免じて庶人となす。朝廷、初め、浩を以て溫に抗す。浩、廢す。是より、內外の大權、一に溫に歸す。浩、愁怨すと雖も、辭色に形はさず、嘗て、とつ!さ、空に書して、咄咄怪事の字を作る。之に久しうして、郗超、溫に勸東營-孝宗穆皇帝-四二五 十八史略卷之四四二六評を誤殷非非非たて空十慮あ浩數つら答所亦を囘てん書め、浩をして、令僕に處らしめ、書を以て、之に〓ぐ。浩、欣然た似似似亡達竟開事にり。答書、誤あらむことを慮つて、開閉すること十數、竟に空函而而而びしに閉英る身函を達す。溫、大に怒つて、遂に絕つ。謫所に卒す。學者雄桓溫、師を師ゐて、秦を伐ち、大に秦兵を藍田に敗り、轉戰して國士を暴灞上に至る。秦主苻健、長安の小城を閉ぢて、自ら守り、三輔、皆と露のいす眞ふる相べし來り降る。溫、居民を撫諭して、安堵せしむ。民、爭つて、牛酒を持して迎勞し、男女路を夾んで之を觀、耆老泣を垂るる者あり、日く圖らざりき、今日復た官軍を觀むとはと。北海の王猛、字は景王猛虱を捫談ず旁若無つて當世を略個儻にして大志あり、華陰に隱居す。溫の關に入るを聞いて、人褐を披いて、之に謁し、虱を捫つて、當世の務を談ず、旁に人なき評が若し。之を異とし、猛に問うて曰く、吾、命を奉じて、殘賊る桓天失遂の溫に明人溫、く見王なを猛ふてを下ひを併を除く、然るに、三秦の豪傑、未だ至る者あらざるは、何ぞや。猛失せは曰く、公、數千里を遠しとせず、深く敵境に入る。今、長安は咫尺なり。而して、滿水を渡らず、百姓未だ公の心を知らず、至らざる所以なりと。溫、默然として以て應ずるなし。溫、秦兵と白鹿原に戰ふ、利あらず。秦人、野を〓む。溫の軍、食に乏し。猛と倶に還らむと欲す、猛、就かず。秦主健、卒す。子生、立つ。凉の張祚、淫虐にして弑せらる。子玄觀立つ。上姚襄、燕に降り、北、許昌に據り、又洛陽を攻む。桓溫、諸軍を東膏-孝宗穆皇帝-四二七 十八史略卷之四四二八督して、襄を討ち、進んで河上に至り、寮屬と共に平乘樓に登り、北、中原を望んで歎じて曰く、神州をして陸沈せしむる百年、王夷甫諸人、其責に任ぜざるを得ずと。伊水に至る。襄、戰つて、頻りに敗れて走る。溫、金墉に屯し、諸陵に謁し、鎭戍を置いて歸る。襄將に、西、關中を圖らむと欲す。秦、兵を遣し、拒ぎ擊つて、襄を斬る。襄の弟 長、衆を以て秦に降る。秦の苻堅、其君生を弑し、自立して、秦の天王となる。王猛を堅に薦むる者あり、一見、舊の如し。自ら謂ふ、玄德の孔明に於ける苻堅王猛一見如舊が如しと。一歲中、五たび官を遷す。異才を擧げ、廢職を修め、農桑を課し、困窮を恤む。秦民大に悅ぶ。燕主慕容雋、卒す。子障立つ。晉の桓溫、謝安を以て征西司馬となす。安、少にして重名あり、前後徵辟、皆、就かず。士大夫、相謂つて曰く安石出でずむば、蒼生を如何と。年四十餘、乃ち出づ。帝在位十七年、崩ず。改元するもの二、曰く、承和、升平嗣なし成帝の子瑯琊王立つ。之を哀皇帝となす。【哀皇帝】名は不、卽位二年にして疾に寢ね、又一年にして崩ず。改元するもの二、曰く、隆和、興寧。弟瑯琊王立つ、之を帝奕となす。【帝奕】名は奕、成帝の幼子なり。旣に位に卽き、會稽王昱を以て東菅-孝宗穆皇帝-哀皇帝-帝奕-ニ元 十八史略卷之四四三〇じようしやう丞相となす。くわんをんだいしはせうしよ桓溫、哀帝の時より、大司馬となり、中外諸軍事を都督し、尙書ろくやうしうBillう。こじゆくちんうてうの事を錄し、揚州の牧を加へられ、移つて、姑孰に鎭す。郗超を以髯參軍短主わうじゆんしゆほぜんさんぐんたんしゆ簿て參軍となし、王珣を主簿となす。人、語して曰く、髯參軍、短主ぼ上こうよろこいか簿能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむと。えんじんらくやうせおとしいじゆしやうをんしひき燕人、洛陽を攻め陷る。戌將、之に死す。溫、師を率ゐて、燕をうばうとうやぶかへ桓溫枋頭の伐ち、枋頭に戰ひ、大に敗れて還る。敗えんぼようすゐしんぐんげきはゐめいひ燕の慕容垂、旣に晉軍を擊破し、威名日に盛なり。燕王、之を忌すゐしんはしむ。垂、秦に奔る。わうまうしよぐんとえんうげふかこ、しんしゆふけん秦の王猛、諸軍を督して、燕を伐ち、遂に鄴を圍む。秦主苻堅、えんしゆぼようゐS鄴に入り、燕主慕容暐を執へて、以て歸る。しんくわんをんふしんたくはまくらたんだん評桓溫述懷晉の桓溫、不臣の志を蓄ふ。嘗て、枕を撫して、歎じて曰く、男の一語なが"text "〓〓じはうまさしうばんねんのこ男兒、芳を百世に流す能はざれば、亦た當に臭を萬年に遺すべしと。野にんる然一年亦心しもにの丈は當しやくばうとうゐ先づ功を立て、還つて九錫を受けむと欲す。枋頭の敗に及びて、威めいとみくじちてうをんす、いくわくだいゐけんもに名頓に挫く、郗超、溫を勸めて、伊霍の事を行ひ、以て大威權を立家て亦止るを後往またいこうにくはいしてしむ。溫、遂に入朝し、太后に白して、帝を廢す。在位六年、改くわいけいわうたかんぶんくわうていのらあし元するもの一、曰く、太和。會稽王立つ、之を簡文皇帝となす。りむいくせいきよくわよくよ【簡文皇帝】名は昱、元帝の子なり。〓虛寡欲、尤も玄談に善し。くわんをんむか桓溫、迎へて位に卽かしむ。九閱月にして不豫なり。急に桓溫を召たすしよかつぶニわうじようしやうこじして、入つて輔けしめ、諸葛武侯、王丞相の故事の如くす。溫東菅-帝奕-簡文皇帝-四三一 十八史略卷之四豐帝の終に臨んで位を禪り、然らざれば、卽ち攝に居らむを望みしが望む所に副はず。時に、謝安、王坦之、朝に在り。溫、坦之と安と、其事を沮みしを疑ひ、心甚だ之を衝む。帝在位、改元するもの一、曰く减安。太子立つ、之を烈宗孝武皇帝となす。【烈宗孝武皇帝】名は昌明、年十歲にして卽位す。し 、桓溫來朝す。謝安、王坦之に詔新亭に迎へしむ。都下恟恟云ふ。王謝を誅し、因つて晉祚を移さむと。坦之、甚だ懼る。安、神色變せず。百官道側に拜す。溫、大に兵衞を陳して、朝士諸侯道あれを延見す。坦之、汗を流して衣を沾し、倒に手板を執る。安、從容ば守四隣に在りとして、席に就き、溫に謂つて曰く、安聞く、諸侯道あれば、守、四隣に在りと。明公、何ぞ、壁後に人を置くを須ゐむや。溫笑つて曰く、正に自ら爾らざる能はずと。遂に命じて之を撤せしめ、安とこ笑語して日を移す。都超、帳中に臥して、其言を聽く、風動いて帳入幕の賓開く。安、笑つて曰く、都生は、入幕の賓といふべしと。溫、疾あずつて、姑孰に還る。疾篤し。諷して、九錫を求む。安、坦之、さらに其事を緩うす。尋いで卒す。秦の丞相王猛卒す。秦主堅、之を哭して曰く、天、吾をして六合を平一せしむるを欲せざるか、何ぞ吾が景略を奪ふの速なるやと猛、終に臨んで、堅に謂つて曰く、骨、江南に僻處すと雖も、然れども、正朔相承け、上下安和。臣沒するの後、願はくは、晉を東晉-烈宗孝武皇帝-四三三 十八史略卷之四詈以て圖となす勿れ。鮮卑、西羌は、我が仇敵、終に人の患を爲さむ。宜しく漸く之を除いて、以て社稷を安んずべしと。凉秦に降る。是より先、張玄靚の叔父天錫、玄觀を殺して自立す。天錫、酒色に荒み、政亂る。秦、之を伐ち、兵、姑臧に至る。天錫、面縛して出づ。長安に送る。代王拓跋什翼犍の世子寔、早く卒す。繼嗣未だ定まらず庶長子遂、其諸弟を殺し、〓せて、什翼犍を殺す。秦兵の代を擊つに會して部衆逃散し、國中大に亂る。秦主苻堅、代を分つて二部と爲し、河より以東は、代の南部大人劉庫仁に屬し、河より以西は、匈奴の劉衞辰に屬し、其衆を統べしむ。代の世子寔の子珪、尙ほ幼なり。母賀氏、珪を以て、走つて賀訥に依り、旣にして、庫仁に依る。庫乞、珪を奉じて恩謹、廢興を以て意を易へず。ちんぎれ晉秦人の强盛なるを以て憂となし、詔して、良將の北方を鎭禦兄の子玄を以て詔に應ず。に玄謝壓をての子すべき者を求む。謝安、郗超、之を歎じて曰く、安の明、乃ち能く衆に違うて親を擧ぐ。玄の才、擧ぐる所に負かず。吾、嘗て、其才を使ふを見るに、展履の間と雖も、未だ嘗て其任を得ずむばあらずと。玄、廣陵に鎭す。劉牢之を得て、參軍となす。戰つて、捷たざるはなく、北府兵と號す。敵人、之を畏る。秦兵を遣し、道を分つて、晉に寇し、諸郡を陷れ、襄陽の刺史東晉-烈宗孝武皇帝-四三五 十八史略卷之四四三六評大家認定食朱序を執へて、大擧を議す。りせのつを妄訓慢以て歸る。既にして、或は曰く、晉に用りを王長江の險在り。堅曰く、吾の衆を以てすれば、鞭を江に投ずるも、所收集中 -其流を斷つべしと。時に中外皆諫む。惟だ慕容垂、姚萇、其黌に乘し失能以をざき所ぜむと欲して、之を勸めて南伐せしむ。堅、遂に長安の戍卒六十餘と、萬、騎二十七萬を發す。晉、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を-前鋒都督となし、衆八萬を率ゐて之を防がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛瀾に趨き、直に水を渡つて、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸繼いで進む。堅、壽陽城に登つて望み見るに、晉兵、部陣嚴整なり。又、八公山の草木を望み見て、皆、以て晉兵となし、憮然として懼るる色あり。晉兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して、すこしく却け、我が兵をして渡るを得しめよ。以て勝負を決する、可ならむかと。堅晉兵に聽して、半ば渡る時、之を蹙めむと欲し、兵を摩いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在り、呼んで曰く、秦兵敗ると。遂に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗る。走る者、風聲鶴唳を聞いて、貴、以て晉兵至るとなす。堅狼狽して長安に還る。慕容垂、秦に叛き、河内に起り、自ら燕王と稱す。姚萇、秦に叛き、北地に起り、自ら秦王と稱す。是を後秦となす。慕容冲、秦に叛き、兵を平陽に起して、帝と稱す。之を西燕とな東管-烈宗孝武皇帝-四三七 十八史略卷之四翼す。長安を攻む。秦主苻堅、出奔す。後秦王萇、執へて、之れを弑す。評謂治國の能謝安は所晉の太保謝安、卒す。安、文雅、王導に過ぐ。德量あり、秦寇の臣なり至るに方つて、朝野震動す。安、夷然として、碁を圍んで、墅を賭石ゆにす。捷書至る、安、方に客と碁す。覽畢つて、坐側に實き、喜色なし。客、之を問ふ。徐に曰く、小兒輩、遂に賊を破ると。客、去産る。安、戶に入り、喜ぶこと甚しく、履齒の折るるを覺えず。其情を矯め物を鎭すること、此の如し。秦主苻堅の子丕、帝を晉陽に稱す。拓拔珪、復た立つて代王となる。之より先、劉庫仁、其下に殺され、弟頭眷、代つて其衆を領す。庫仁の子顯、頭眷を殺して自立又珪を殺す。さむと欲す。珪、賀蘭部に奔つて、其舅に依る。諸部せいら、の大人、珪を推して主となし、遂に王位に卽く。徒つて、盛樂に居魏る。後、改めて魏と稱す。燕王垂、帝を中山に稱す。西燕の人、其主冲を弑して、段隨を立つ。又、隨を殺して慕容忠を立つ。又、忠を殺して慕容永を立つ。永、秦主苻不を擊つ。조、敗れて南走し、晉の將軍に邀へ擊たれて殺さる。慕容永、帝を長子に稱す。秦の疏族持登、帝を南安に稱す。東晉-烈宗孝武皇帝-四三九 十八史略卷之四圏後秦の姚長、是より先、旣に、長安に入つて、帝と稱す。苻登、兵を引いて、數ば後秦と戰ふ。互に勝負あり。後秦の主姚萇卒す。子興立つ。登を擊つて之を殺す。燕主垂、西燕を擊つて、長子を拔き、西燕主永を殺す。燕主垂卒す。子寶立つ。苻堅の敗れてより、中原大に亂る。其大なるもの慕容氏、姚氏、迭に大號を擧ぐ。其時に乘じて起る者、秦の故臣呂光の如き、凉州きつぷ!に據つて、凉天王と稱す。鮮卑の乞伏國仁、隴右に據つて西秦王とと稱す。國仁卒し、弟乾歸、之に繼ぐ。又、鮮卑の禿髪烏孤あり、南凉河西に起り、南涼と號す。晉、秦を敗つてより以後、江左無事會稽王道子、政を爲す。帝評底直ちやうせいあら、にご希望酒を嗜んで、·流連するのみ。長星見はる。帝、酒を擧げて、之に向ばんこ挿話む端る 。ほつて曰く、長星、汝に一杯の酒を勸む。世、豈に萬年の天子あらむの前らら國ずずんやと。張貴人、年三十、寵、後宮に冠たり。醉中之に戯れて曰く、汝、年を以てすれば亦た當に廢すべしと。貴人、婢をして其面を蒙はしめて、之を弑す。在位十五年。改元するもの二、曰く寧康、太元太子立つ、之を安皇帝となす。け【安皇帝】名は德宗、幼にして不慧、口言ふ能はず、寒暑飢飽、辨ぜず、飮食寢興、皆己より出づるに非ず。既に、位に卽くや、會稽東晉-烈宗孝武皇帝-安皇帝-圖 十八史略卷之四圖王、太傅を以て政を輔く。魏王拓拔珪、連歲燕を攻め、進んで中山を圍む。燕主慕容寶、出奔す。後、其下に弑せらる。燕の慕容祥、帝と稱す。慕容麟、襲うて祥を殺して自立す。魏王理麟を破つて、之を走らしむ。麟、慕容德に奔り、德の爲に殺さ南燕る。德往いて、廣固に據り、後、帝と稱す。是を南燕となす。北燕燕の慕容盛、帝を龍城に稱す。是を北燕となす。魏王珪、帝と稱し、平城に都す。北涼凉の段業、凉王と稱し、張掖に據る。是を北凉となす。しんせいみだ晉の會稽王道子、專ら政事を以て世子元顯に委す。晉政亂る。東土囂然たり。妖賊孫恩、民心の騒動するに因つて、海島より出でて;劉裕亂を爲す。劉裕、恩を討つて功あるに因つて起る。北凉の沮渠蒙遜、段業を弑して自立す。蒙遜は、匈奴の種なり。後、姑臧に遷る。凉王呂光、卒す。子紹立つ。庶兄纂、弑して之に代る。呂超、し、又纂を弑して、其兄隆を立つ。隆、後、秦に降り、凉亡ぶ。西凉隴西の李暠、燉煌に據る。是を西凉となす。後、酒泉に徒る。柔然、漠北より起り、高車の地を奪つて、之に居り、諸部を呑併す。士馬繁盛、北方に雄たり。其地、西、焉耆に至り、東、朝鮮にん、接し、南、大漠に臨み、旁の小國、皆覊屬し、魏と敵となる東晉-安皇帝-圖 十八史略卷之四■晉の盜孫恩、數ば劉裕等に敗られ、海に赴いて死す。其黨廬循、 徐道覆、復た起る。桓玄反す晉の桓玄、反す。初め、玄、父溫に嗣いで南郡公となる其才地を負み、雄豪を以て自ら處る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、評桓玄豪語父は九州の伯たり、子は五湖の長たりと。官を棄てて國に歸る。後3층江州の刺史となり、尋いで、〓江等八州の軍事を都督し、江陵に據大多數據のを身自すを大る過ぼ失ににずも家て郞る。是に至つて、兵を擧げて、建康に入り、元顯を殺し、又道子をぎすひに亡殺す。玄、相國となつて楚王に封ぜられ、九錫を加ふ。既にして、帝に迫つて、位を禪らしむ。劉裕、兵を京口に起して玄を討ち、玄の兵と戰ひ、大に之を破る。玄、出走す。首を江陵に斬る。帝、位に復す。劉裕、京口に鎭す。かくれんぽつ!秦の赫連勃勃、秦に叛いて、朔方に據り、自ら大夏天王と稱す。勃勃は、故の匈奴の劉衞辰の子なり。晉、南燕を伐つ。之より先、南燕主慕容德卒し、兄の子超立ち、晉邊を侵略す。劉裕、抗表して之を伐つ。専りて北燕、其臣馮跋の爲に滅ぼさる。之より先、北燕主盛、其下に弑せられ、叔父熙立つ。跋罪を熙に得、之を弑して、熙の養子高雲を立つ。未だ幾ならずして、又雲を弑して自立す。魏主、人の夫を殺して其妻を納れ、之と子紹を生む。兒狼無賴。け、珪を弑す。齊王嗣、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と諡し、廟を烈東晉-安皇帝-國立五 十八史略卷之四四四六祖と號す。管の劉裕、廣固を拔き、慕容超を執へ、建康に送つて之を斬る。南燕亡ぶ。盧循、劉裕の北伐に乘じて、番禺より出で、直に下つて建康を襲ふ劉裕、徵されて急に還る。諸軍力戰す。循乃ち退く。裕追うて、之を破る。循交州に走り、刺史の爲に敗らる。首を斬つて建康に送る。西秦の乞伏韓歸、其下の爲に弑せらる。子熾盤立つ。西秦、襲うて南涼を滅す。之より先、南凉主禿髪烏孤、卒す。弟利鹿孤、立つ。卒す。弟侮檀、立つ。是に至つて、乞伏熾盤の爲に襲はる。侮檀を以て歸つて之を殺す。南凉亡ぶ。後秦主姚興、卒す。子泓、立つ。晉の大尉劉裕、之を伐つて、彭城を發し、洛陽より武關、潼關に道して長安に入る。泓敗れて、出でて降る。建康に送つて、之を斬る。後秦亡ぶ。て米干しゆぼつ·夏主勃勃、裕の秦を擊つを聞いて曰く、裕必ず關中を取らむ。然れども、久しく留まる能はず。若し子弟諸將を以て之を守らしめば、吾、之を取ること、芥を拾ふが如きのみと。是に至つて、三秦の父老、裕の將に還らむとするを聞き、門に詣つて流涕して曰く、ひと〓〓殘民、王化に霑はず、今に於て百年。始めて、衣冠を觀、人人相賀す。公、之を捨てて、何に之かむと欲するかと。裕彭城に還る。東賣-安皇帝-麗 十八史略卷之四四四八勃勃、長安を陷れて、帝と稱し、統萬に歸る。晉、裕を以て相國宋公となし、九錫を加ふ。裕識に昌明の後尙は三帝ありと云ふを以て、乃ち人をして音帝を繼らしあて、之を弑す。在位二十三年。改元するもの一一、曰く、隆安、義熙。義熙元年より十四年に至るまでは、乃ち劉裕政を爲すの日なり。弟瑯琊王立つ之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は德、卽位の明年、劉裕、爵を進めて宋王となり、彭だ城より移つて壽陽に鎭す。又明年、裕建康に還る。帝、在位改元するもの一、曰く、元熙。位を裕に禪る。旣にして、弑せらる。東晉は、元皇帝より、是に至るまで、凡そ十一世、一百四年。西晉、東晉、通じて、一百五十六年にして亡ぶ。南北朝南朝は、晉より以て之を宋に傳へ、宋、之を齊に傳へ、齊、梁に傳へ、梁陳に傳ふ。北朝は、諸國、魏に併せられてより魏後、分れて西魏、東魏となり、東魏は北齊に傳へ西魏は後周に傳へ、後周は北齊を併せて、之を隨に傅へ隨陳を滅し、然る後に、南北、混じて一となる。今、南を以て提頭となして、北を其間に附す。東晉-恭皇帝-南北朝國四九 十八史略卷之四四五〇西紀自四二宋○至四七八丁一南を日せ、【宋高祖武皇帝】姓は劉氏、名は裕、彭城の人なり。相傳へて、楚の元王交の後となす。裕生まれて、母死す。父、京口に僑居し、將に之を棄てむとす。從母、救うて、之を乳す。長ずるに及びて、勇健大志あり、わづかに、字を識る小字は寄奴、嘗て行いて 大蛇に遇ひ、擊つて、之を傷く。後、其所に至り、群兒の藥を擣くあらるを見る。裕、問ふ、何をか爲す。答へて曰く、吾が王、劉寄奴に傷けらる。裕曰く、何ぞ之を殺さざる。兒曰く、寄奴は王者なり、死せずと。裕之を叱す、卽ち散じて見えず。初め、劉牢之の軍事に參たり。嘗て、賊を覘はしむ。賊數千人に遇ふ。裕長刀を奮つすて、獨り、之を驅る。衆軍、因つて、勢に乘じて、進み擊つて、大に之を破る。裕、之に因つて、名を知らる。其後、將相たること、二十餘年。桓玄を誅し、孫恩、盧循を平らげ、南燕、後秦を滅して卒に晉の禪を受く。西凉の李暠、卒す。諡して、武昭王といふ。子歌立つて、數年、是に至つて、北涼の沮渠蒙遜に誘はれ、與に戰つて、之に殺さる西凉亡ぶ。宋主在位三年、改元するもの一、曰く永初、殂す。太子立つ、之を廢帝榮陽王となす。南北朝宋WIN 十八史略卷之四豐【廢帝榮陽王】名は義符。年十七にして卽位す。喪に居て禮なく、遊〓度なし。太子立魏主嗣、殂す。明元皇帝と證し、廟を太宗と號す。子燾立つ。宋主主位改元するもの一、曰く、景平。徐羨之、傅亮、謝にひ晦廢して、之を弑す。宜都王立つ、之を太宗文皇帝となす。【文皇帝】名は義隆、素より令望あり。少帝の廢せらるるや、迎へ入れられて位に卽く。夏主勃勃、殂す。子昌、立つ。陶淵明晉の徵士陶潜卒す。潜字は淵明、潯陽の人、侃の會孫なり。少そにして、高趣あり嘗て彭澤の令となる。八十日にして、郡の督郵至る。吏曰く、束帶して之に見ゆべしと。潜歎じて曰く、我、豈に五斗米の爲に、腰を折つて、〓里の小兒に向はむと。卽日、印綬を解いて去り、歸去來辭を賦す。五柳先生傳を著す。徵せども就かず。先世、晉の臣たりしを以て、宋の高祖、王業漸く盛なるより、復た肯て仕へず。是に至つて、世を終る靖節先生と號す。魏數ば夏と戰ふ。是に至つて、其主昌を執へて歸る。夏の赫連定、帝を平凉に稱す。西秦の主乞伏熾盤、卒す。子暮木、立つ。北燕の馮跋、殂す。弟弘立つ。夏主定、西秦を擊ち、暮木を以て歸り之を殺す。西秦亡ぶ。定南北朝宋四五三 十八史略卷之四署うばとよくこん又北凉を擊つて、其地を奪はむと欲す。吐谷渾、其軍を襲ひ、定をとらかとよくこんぼようしべつしゆ執へて、魏に送る。夏、亡ぶ。吐谷渾は、慕容氏の別種なり。ほくりやうそきよまうそんぼくけん北涼の沮渠蒙遜、卒す。子牧犍、立つ。そうしやれいうんちうさんたく評謝靈運は宋の謝靈運、罪を以て誅せらる。靈運、好んで山澤の遊をなす。狂風な國語のみちひらひやくしやうきやうぜうそのいし從者數百人、木を伐つて、徑を開く。百姓驚擾す。或は、其異志りんせんないしいうしこれをさあるを表す。臨川の内史となる有司之を糾し、收めらる。靈運、おこたういつしはうふる兵を興して逃逸し、詩を作つて曰く、韓、亡びて子房奮ひ、秦帝ろれんはつひたうとりこくわうしううつとなつて魯連耻づと。追討して、之を擒にし、廣州に徒す。旣にしきて、棄市せらる。小児えんへうこうかうらいはし魏燕を伐つ。馮弘、高麗に奔る。而して殺さる。燕亡ぶりやうこざうつひぼくけん魏凉を伐つ。姑臧潰ゆ。牧犍降る。後、殺さる。北凉亡ぶ。そのしとさいかうめいげんはうしん暴露して殺崔浩國惡をさる輒ち功あり。すなは魏其司徒崔浩を殺す。道士寇謙之を信じ、だうしこうけんし浩、明元の時より、魏主に勸めて崇奉せしめ、しゆさ旣に謀臣となつて、すうほう天師道てんしだうぢやうぶつゆふ5/4しやもんちうぶつざうぶつしよこぼ場を立つ然も、最も佛法を惡み、沙門を誅し、佛像佛書を毀つかうこくしをさせんせいみなじつ魏主、浩に命じて、國史を修めしむ。先世の事を書するに、皆實をつまびらかかんろたふんけいかう石に刊して、こくあく詳にし、之を衢路に立つ。北人、忿恚し、浩が國惡はくやうしんいかあんそのぞくを暴揚するを譜す。魏帝、大に怒つて、遂に案じて之を誅し、其族を夷す。坐畊は奴に問そうぎれんねんたがひあひしんぱつわうげんぽすたいきよちんけいおいしふ織は宋魏、連年互に相侵伐す。王玄謨、宋に勸めて大擧せしむ。沈慶時間ベしいさかうまさどしよくまさひとし之、諫めて曰く、畊は當に奴に問ふべく、織は當に婢に問ふべし。南北朝宋四五五 十八史略卷之四〓かんはくめんしよはかそうつひ今、國を伐たむと欲す、奈何ぞ、白面の書生と之を謀ると。宋竟げんぼしかうがうくわつだいかこに玄謨をして師を出さしめて硫磁を取り、進んで滑臺を圍む。之よしゆそうかなんわれり先、魏主、宋の河南を取りしを聞き、怒つて曰く、我生れて、はついまかはかなんこ髪未だ乾かざるに、旣に、河南は是れ我が地なるを聞く、今、天時なねつじゆをさかひやうがつまてつき尙ほ熱、しばらく、戌を歛めて北歸し、河氷の合するを俟ち、鐵騎しゆみづかしやうかはわたを以て之を蹂まむと。冬に至つて、魏主自ら將として、河を渡りがうへいここゑふるげんぽおそじんつひ衆百萬と號す。韓鼓の聲、天地に震ふ玄謨、懼れて去る。魏人追げんぼはいそうひなんかくわほニ擊し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、、直に瓜步に至の、江せいげんけんかうしんくかたんそうを渡らむと欲すと聲言す。建康震懼し、民、皆、荷擔して立つ宋しゆせきとうじやうほくぼうだんだうさいあ主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、檀道濟、若し在らば、豈は だうさいニぜんてうに胡馬をして此に至らしめむやと。道濟、功を前朝に立て、兵を用ざんをさもくくわうきよさく卽ち汝が萬ゆるに老いたり。之より先、讒を以て收めらる。目光炬の如く、情だつとう里の長城をばんりちやうじやう··壞るを脫して、地に投じて曰く、乃ち汝が萬里の長城を壞ると。旣にごしはいまはばかた誅せらるるや。魏人、之を聞いて喜んで曰く、吳子輩復た憚るに足ちやうくふせそうじんげんぼらずと是に至つて長驅す。能く禦ぐ者なし。宋人、或は玄謨を斬ちんけいしとぶつりゐふるこうちむと欲す。沈慶之、之を止めて曰く、佛狸、威天下に震ふ控げんひやくまんあげんぽあたせんしやう弦百萬豈に玄謨の能く當る所ならむや。戰將を殺して、以て自らよぎしかへさつりやくあはか評弱むるは、得慘一中春て狀語に燕盡を戰葉歸禍ふて計にあらざるなりと。魏師、還る殺掠、勝げて計るべのの林ていさうえいじざんせつさくじやうつらぬばんぶからず。丁壯の者は、嬰兒を斬截し、槊上に貫いて盤舞す。過ぐるせ云おかえりないりひしゆんえんか、りんちうそうしゆくらゐ原作獨春燕、歸つて林中に巢ふ宋主位に卽いてより二十八年の南北朝宋署名 十八史略卷之四四五八間、號して小康となす。是に至つて、兵革の後、邑里蕭條、元嘉の政衰ふ。魏の中常侍宗愛、東宮の官屬を譖し、多く坐して誅死す。太子晃憂を以て卒す。魏主、追悼して巳まず。愛、懼れて主を弑す。後證して、太武皇帝といひ、廟を世祖と號す。晃の子濬、立つ。ら、愛を討つて之を誅す宋の太子劭、巫蠱呪咀す、事覺はる。宋主、之を廢せむと擬す。劭、主を弑して自立す。在位三十年、改元するもの一、曰く元嘉。ん武陵王、兵を擧げて劭を誅す王立つ、之を世祖孝武皇帝となす【孝武皇帝】名は駿、位に卽いて十二年にして殂す。改元するもの二、曰く、孝建、大明。太子立つ、之を廢帝となす。【廢帝】名は子業、位に卽き喪に居るや、傲惰にして、戚容なし。孝武、骨肉を疎忌して、多く誅殺す。是に至つて、尤も甚し魏帝溶、殂す。諡して文成皇帝といひ、廟を高宗と號す。初め、太武、四方を經營し、國、頗る虛耗す。文成、嗣いで以て鎭靜し、中外を懷集す。人心復た安し。子弘、立つ。宋主、諸父湘東王等を畏忌し、殿內に幽して捶曳し、復た人理なく恣に不道を爲す。中外騷然たり。宋人、之を弑す。王、在位二年、改元するもの一曰く、景和。湘東王立つ、之を太宗明皇帝となす南北朝宋四五九 十八史略卷之四四六〇た【明皇帝】名は或、卽位八年にして殂す。改元するもの一、曰く泰か肅道成始。帝の初より、蕭道成、兵に將として、征討功あり。尋いで、淮陰に鎭し、豪俊を收養し、賓客始めて盛なり。旣にして、南充州の、刺史となる。是に至つて、褚淵、薦めて右衞將軍となし、顧命の大臣と共に機事を掌る。太子立つ、之を後廢帝となす。【後廢帝】名は昱、明帝、子なし。昱、實は嬖人李道兒の子なり。明帝、之を子とするや、諸王十五六人を殺し、惟だ昱の立たざるを休範、桂陽王恐る。十歲にして位に卽く。兵を擧げて反し、建康を攻む。蕭道成、擊つて之を斬る。道成、中領軍となる。之より先、魏の獻文帝、位を太子宏に傳へ、自ら太上皇帝と稱10「す。宏の幼なるを以て、仍ほ萬機を總ぶ。太上、聰睿夙成、剛毅にして斷あり、然も、黃老浮屠の學を好む、故に常に遺世の意あり。幸する所の李奕と其母馮太后、いふ者あり、太上に誅せらる。馮太后、怒つて、遂に之を弑して、制を稱す。宋主、驕恣にして殺を嗜み、中外憂 惶す。蕭道成、袁粲、褚淵と廢立を謀る。粲可かず。淵之に賛す。遂に之を弑す。在位六年、改元するもの一、曰く、元徽。安成王立つ。之を順皇帝となす。【順皇帝】名は準、桂陽王休範の子なり。明帝、之を子とす。是に至つて卽位す。南北朝宋要 十八史略卷之四四六二そうゑんさんせうだうせいちよえんそのはかりごと宋の袁粲、蕭道成を殺さむことを謀る。褚淵、其謀を以て、道せきとうじやうかなし城成に〓ぐ。粲、父子共に石頭城に殺さる。百姓、之を哀んで曰く、寧可爲憐褚袁石淵粲頭生死あはれゑんさんちよえん不作憐むべし石頭城、寧ろ袁粲となつて死するも、褚淵となつて生きずちんいうしこうれうあだうせいぐんつひ60沈攸之、亦た兵を江陵に擧げて、道成を討ち、軍潰ゆるや、走ししやうこくせいこうしやくしやくつて縊死す。道成、相國齊公となり、九錫を加へ、旣にして、爵を·しやうあいせい進めて、王となる。宋主在位三年、改元するもの一、曰く昇明齊ゆつだんしこうしんよまてんわうに禪る。泣いて、彈指して曰く、願はくは、後身世世、復た天王のせいそのぞくめつそう評家に生まるるなからむと齊、之を弑して、其族を滅す。宋、高祖天子の種数子様にに王世情國勿|より、是に至るまで、八世、凡そ五十九年にして亡ぶ。盡家くの西紀自四七齊九至五〇二せうしだうせいらんれうあひつた【齊太祖高皇帝】姓は蕭氏、名は道成、蘭陵の人なり。相傳へて、しやうこくかのちしんちんたいりやうはくがくしよく漢の相國何の後となす。深沈にして大量あり、博學にして文を屬かたせきしじつげつじやうす。肩に赤誌あり、日月の狀の如し。宋の時、軍中に在ること久みんかんそのいさうるを言ふ。うたが蕭道成異相し民閒、或は、其異相あ宋、之を疑ふ。而かも、殺すつひせい〓〓けんつねをさ能はず。竟に宋に代皇性〓儉、毎に曰く、我をして天下を治むるまさわうごんあたひおなこと、十年ならしむれば、當に黃金をして土の價に同じからしむべけん〓〓しと。在位四年にして殂す。改元するもの一、曰く、建元。太子立せいそぶくわうていつ、之を世祖武皇帝となす。南北朝齊四六三 十八史略卷之四四六四ちく、【武皇帝】名は噴、位に卽いて十一年にして殂す。改元するもの一曰く、永明。太子長懋、旣に卒す。太孫立つ。之を廢帝鬱林王となす。【廢帝欝林玉名は路業位に卽いて一年、改元して隆昌といふ。西昌侯鸞、之を弑す。新安王立つ。之を廢帝海陵王となす。【廢帝海陵王】名は昭文、鸞の爲に立てらる。延興と改元す。鷺自ら宣城王となる、帝、卽位、未だ四月ならず、廢して、之を弑す。宣城王自立す、之を高宗明皇帝となす。【明皇帝】名は鸞、高帝の兄の子なり。高帝、之を愛すること、(の子に過ぎたり。而して、武帝の太子長懋、最も之を惡む。志を得るに及びて、高武の子孫を殺して、遺類なし。位に卽いて、五年にはい、して殂す。改元するもの二、曰く、建武、永泰。太子立つ、之を廢帝東昏侯となす。【廢帝東昏侯】名は寶卷東宮に在りし時より、學を好まず、嬉戯度なし。既に位に卽くや、朝士に接せず、惟た嬖倖を親信するのみ。屢ば大臣を殺す。だ魏主宏、殂す。在位二十七年。仁孝恭儉、禮を制し、樂を作し、蔚然として、太平の風あり。胡服胡語を禁じ、姓を元氏と改む。都を洛陽に遷す。魏の盛德の主たるが爲に、諡して孝文皇帝といひ、廟を高祖と號す。太子恪、立つ。南北朝齊四六五 十八史略卷之四四六六こんいんきやうしかうはんびきんれんくわつく齊主、昏淫狂恣なり。幸する所の潘妃、金を以て蓮花を爲り、地てうほほほれんくわ上に貼して、之を歩せしめて曰く、是れ步步蓮花を生ずるなりと。さいうことぞくぎやくひたいゐちんけんたつけんかう左右事を用ゐて、賊虐日に甚し。大尉陳顯達、先づ兵を擧げて建康おそはいししやうぐんさいけい!はんしうを襲ふ敗死す。將軍崔慧景、命を受けて出でて叛州を討つ。兵をか、けんかうせまなんよしうししせうい還して、建康に逼る。時に南豫州の刺史蕭懿、兵に將として、近きせいしゆきふめたすけいに在り。齊主、急に召し、入つて援けしむ。慧景、敗死す。懿を以せうしよおとうとなんようしうししえんさて尙書となす。懿の弟南雍州の刺史衍、人をして、懿に勸めて、いくわくこじすみやかれきやうかへ伊霍の故事を行はしめ、爾らざれば亟に歷陽に還れといふ。懿つひたまじやうやうだ、用ゆる能はず、竟に死を賜ふ衍兵を襄陽に起し、引いて、東けんかうかこえんむか建康を圍む。齊人、主を弑して、衍を迎ふ。主、在位三年。改元すえいげんくわくわうているもの一、曰く、永元。時に南康王、先に旣に自立す。之を和皇帝となす。其後ひろ。はうゆうとうこんすゑはうゆうこうれう1(00)【和皇帝】名は寶融。東昏の末、寶融、兵を江陵に起し、旣にしてちうこうとうきせいたいこうせい帝と稱す。改元して、中興といふ。未だ東歸に及ばず、齊太后、制せうえんれうこうしやくっを稱し、蕭衍を以て相國となし、梁公に封じ、九錫を加へ尋いでしやくすしこじゆくいたみことのりれうゆづ爵を進めて、王となす。齊王、姑孰に至る。詔して、梁に禪る。しい位に卽いて、わづかに三年にして弑せらる。齊は、高帝より、是に至るまで、七世、凡そ二十三年にして亡ぶ。四世五五年梁南北朝齊梁四六七 十八史略卷之四髮在位四八年【梁高祖武皇帝】姓は蕭氏、名は術、齊の疎族なり。母張氏、菖(西紀五〇三要800蒲、花を生ずるを見る。旁人は皆見ず。之を呑み、旣にして、衍を生む英達にして文學あり。東昏の初、術襄陽に鎭す。齊の將に亂れむとするを知つて、乃ち密に武備を修む。驍勇を聚むること萬を以て數ふ。材を伐つて、檀溪に沈め、茆を積むこと岡阜の如くす。兄懿、死す。衍牙を建てて衆を集め、檀溪の竹木を出して、艦を裝ひ、之を葺くに茆を以てす。事、皆立どころに辨ず。兵起つて一年餘、遂に建康に入り、禪を受けて帝位に卽く。J魏主恪在位魏主恪、殂す。證して宣武皇帝といふ。廟を世宗と號す。子謝、一六年年五五〇〇立つ甫めて六歲。母胡氏、制を稱す。魏主、既に長ずるに及び六) ()遊騁を好んで、親ら朝を視ず。而して、胡后、方に淫亂、魏の政、始めて亂る。將軍張彜の子仲瑀、封事を上り、武人を排抑す喧こ諺、路に盈つ。榜を大巷に立て、期を尅して、會集して、其家を屠らむとす。彝父子、以て意となさず。是に至つて、羽林虎賁、千人に近く、相率ゐて、尙書省に至り、訴罵して、瓦石を以て省門を擊あPつ。上下懾懼して敢て禁討せず。遂に彜の第に至り、其舍を焚き、彝父子を曳いて、毆擊して火中に投ず。仲瑀、重傷、走つて免る。彝、死す。遠近震駭す。胡后、其免强八人を收めて、之を斬り、餘3は復た治めず、大赦、以て之を安んず。懷朔鎭の凾使高歡、洛陽に至り、張彜の死を見、家に歸り、貲を傾けて以て客に結ぶ。或ひと、南北朝梁四六九 十八史略卷之四四七〇評其故を問ふ、宿衞相率ゐて、大臣の第を焚き、朝廷懼れてて宿焚大衞事てき臣相傾高知問朝の率歡曰く、歡るは廷邸ゐを問はず。政を爲すこと、此の如し、事知るべし、財物、豈に常に守てがべず懼ふ故客費し れ費しるべけむやと。歡先世より、法に坐して、北邊に徒り、遂に鮮卑べあををの俗に習ふ。沈深にして大志あり。候景等と相友とし善し、任俠をけしり結とぶい亦以て〓里に雄たり魏の胡太后、朝に臨んで以來、嬖倖事を用ゐ、政事縱弛盜賊蜂起し、封疆日に蹙まる、魏主謝、漸く長ず。太后、自ら爲す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽をなし、母子嫌隙日に深し。時に、六さ州大都督秀容の曾長爾朱榮、兵强し。高歡榮を見、卽ち勸めて、兵を擧げて、君側を〓めしむ。會ま魏主殂す。胡太后、之を鴆するなり。後、諡して孝明皇帝といふ。爾朱榮、兵を擧げ、孝文の姪長か、樂王子攸を立て胡后を河に鎭む。榮を太原王に封ず晉陽に還る。北海王顎、梁に奔る。梁、之を立て、將をして、送つて、洛陽に入らしむ。子攸、出奔す。爾朱榮、河を渡つて、來り救ふ。顯、走つて死す。子攸、歸り、榮に天柱大將軍を加ふ。榮不臣の志を蓄ふ。魏主、陰に榮を誅せむことを謀る。榮入る。手づから、之を刺す。爾朱世隆、爾朱兆と宗室長廣王曄を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇ふ。後、證して、孝莊皇帝といふ、世隆、又曄の疎遠なるを以て、之を廢して、孝文の孫廣陵王恭を立つ。高歡、兵を起して爾朱氏を誅して、洛陽に入り、恭を廢して、孝文の孫平陽王修南北朝梁里 十八史略卷之四四七二せつびんくわうていを立つ。修、恭を弑す。後、證して、節闘皇帝といふ高歡、大丞y相となり、府を晉陽に建てて、之に居る。魏主、歡を畏れ、晉陽を伐たむと謀る。歡兵を擁して來る。魏主、長安に奔り、關西大都督宇文泰に依り、泰を以て、大丞相となす。歡魏主を追ふ。及ばせいしす。遂に〓河王の世子善見を洛陽に立て、鄴に遷る。魏は、道武より、是に至るまで、十二世、凡を一百四十九年にして、分れて東魏、西紀五三四西魏となる。之より先、焚惑、南斗に入る。梁主曰く、焚惑、南斗に入れば、天子、殿を下つて走ると。乃ち跣して、殿を下り、之を禳ふ。修の出奔を聞くに及び、慙ぢて曰く、虜も亦た天象に應ずるかと。修、長安に至り、半年を踰ゆ。又泰と隙あり。泰之を鴆す。後、諡して、孝武皇帝といふ。孝武、旣に弑に遇ふ。秦、南陽王寶炬を立?。歡泰と連年相攻戰し、互に勝負あり。歡、卒す。遺言して、其子澄に屬して曰く、侯景は飛揚跋扈の志あり、汝の能く御する所に非ず。景に敵するに堪へたるは、惟だ慕容紹宗のみと。景果して、河南を以て、西魏に降り、未だ幾ならずして、復た梁に附く梁、景を封じて河南王となす。景の使、梁に至るや、梁の群臣、皆我國家如金甌納るるを欲せず、梁主、亦た自ら謂ふ、我が國家は、金甌の如く、一の傷缺なし、恐らくは、景を納るれば、因つて、以て、事を生ぜさむと。惟だ朱昇、力め勸めて、之を納る。東魏、慕容紹宗をして、南北朝梁四七三 十八史略卷之四四七四〓景を擊たしむ。景、敗れて南走し、梁の壽春を襲ふて、之に據り、命を請ふ。梁、就いて以て、南豫州の牧となす。旣にして、東魏、成を梁に求め、意.景を得むと欲す。景梁の東魏に通ずるを恨み遂に壽陽に反し、兵を引いて、南に渡り、建康を圍む。梁主、位に卽いてより以來、江左久しく無事、惟だ佛法を崇んで、屢ば身を佛寺に捨て、上下之に化す。景が臺城に逼るに及びて、援兵至る者、景に敗らる。梁主、人をして景と盟はしめ、以て大 相 相丞相となす臺城、圍を受くること五月にして陷る。景入つて見ゆ、引いて、(う評부なを磨梁以と武ての帝有對は三公の位に就く。梁主、神色變ぜず、景に謂つて曰く、卿軍中に名話達、其在ること久し、乃ち勞たるなからむやと。景、敢て仰ぎ視ず、汗をiiてるは仰を叛とを達其所ざぎし逆すに磨道ばの悟深心 ら見て兒る及氏流して、對ふる能はず。景退いて、人に謂つて曰く、吾、常に鞍ずせきこも〓〓くだに跨り、陣に對し、矢石交下るも、了に怖るる心なし。今、蕭公る流侯も·能汗景おのづかを見るに、人をして、自ら畏れしむ、豈に天威犯し難きに非ずや、し亦以む吾以て復た此人を見るべからずと。梁主、景に制せられ、飮膳も亦べざ鍊淺見か神るら修のをた裁損せられ、憂憤、疾を成す、口苦くして蜜を索むれども得ず。しる再び、荷荷といつて、遂に殂す。在位四十八年。改元するもの七、曰く天監、普通、大通、中大通、大同、中大同、太〓。壽八十六。之より先、太子統、仁明孝儉、學を好んで文あり、東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を捨てて別子を立つ。是に至つて、位に卽く、之を太宗簡文皇帝となす。南北朝梁四七五 十八史略卷之四ナミ【簡文皇帝】名は綱、東宮に在ること十八年、然る後、侯景の亂に遇ひ、既に立つも、制を景に受くるのみ。湘東王繹、江陵に鎭し、自ら假黃鉞大都督中外諸軍承制と稱す。岳陽王警は昭明太子統の第三子なり。襄陽に鎭し、繹と相攻む。賛使を遣して、西魏に降り、以て救を求む。あゆた東魏の大將軍渤海王澄、之より先、其下の爲に殺され、弟洋丞相となり、齊王に封ぜられ、東魏主に逼つて、位を禪らしめ、尋いで、之を弑す。諡して、孝靜皇帝といふ。東魏、國を建つる、一十七年にして亡ぶ。西魏、梁の蕭警を立てて梁主となす。コ西魏主寶炬殂す。諡して文皇帝といふ。太子欽立つ。候景、自立して、漢王となる。梁主を廢して之を弑す。尸位三年に及ばず。改元するもの一、曰く、大寶。景、豫章王棟を立つ。旣にして、位を簒す。之より先、始興の太守陳霸先、兵を起して、景を討つ。湘東王、王僧辨をして、景を討たしむ。景、簒して數月、僧辨、霸先に敗られ、亡げて、吳に走り、海を渡らむと欲し、其下の爲に斬らる。尸を建康に送り、首を江陵に傳へ、其手足を截つて、北齊に送る。湘東王立つ、之を元皇帝とす。【元皇帝】名は繹、一目眇、性殘忍なり。江陵に卽位す。侯景の亂せ、より、州郡、大半、西魏に入り、蜀も亦た魏に有せられ、梁は巴陵南北朝梁七七 十八史略卷之四天人より以下、建康に至るまで、長江を以て限となす。突厥、柔然を攻む。北齊、突厥を擊つて、柔然を遷す。この時、柔然衰へ突厥始めて强大なり。西魏の宇文泰、其主欽を廢して其弟 廓を立つ。欽弑に遇ふ。梁主焚書西魏、柱國于謹を遣し、梁を伐つて、江陵に入る。梁主、古今の圖書十四萬卷を焚いて曰く、文武の道、今夜盡くと。乃ち出でて評我的時刻。讀書萬卷降る。或ひと問ふ、何の意あつて書を焚く。曰く、讀書萬卷、猶(昭和4年)、ほ今日ありと。尋いで殺さる。在位三年、改元するもの一曰く、承聖西魏、襄陽を取り、梁王誉を江陵に徒して、帝と稱せしむ。兵を屯して、之を守る。之を後梁となす。西魏に臣たり。王僧辨、陳霸先、晉安王を奉じて、制を建康に稱す。貞陽侯淵明、之より先、北齊に獲らる。是に至つて、兵を以て、之を納る。王僧辨、奉じて、建康に歸つて、帝と稱す。陳霸先、僧辨を殺し、淵明を廢して、晉安王を立つ、之を敬皇帝となす。【敬皇帝】名は方智、元帝の子なり。年十三にして位に卽く。陳霸先、丞相たり。西魏の太師大家宰安定公字文泰、卒す。世子覺、嗣ぐ、年十五。字文護、之に輔たり。未だ幾ならずして、覺を以て周公となす。西魏主廓、周に禪る。廓弑に遇ふ。後、證して恭皇帝といふ。南北朝梁四七九 十八史略卷之四四八西魏は、國を建つること、四世、二十四年にして亡ぶ。覺周天王と稱す。性剛果、護の專なるを惡む。護、之を弑す。後諡して孝閔皇帝といふ泰の長子毓を立つ。梁の丞相陳霸先、相國となり、陳公に封ぜられ、九錫を加へ、尋きいで、爵を進めて王となる。梁主、改元するもの二、曰く紹泰、曰く太平。尸位、未だ三年ならずして、陳に禪り、尋いで弑に遇ふ。梁は、高祖武帝より、是に至るまで、四世、凡そ五十六年にして亡ぶ。自西紀五七陳七至五八九2【陳高祖武皇帝】姓は陳、名は霸先、吳興の人なり。梁の武帝の大同中、廣州參事となる。廣に亂あり、討つて之を平らぐ。功を以て將軍となる。尋いで、交州司馬西江都護高要太守となり、七郡の諸督し、霸ム軍を屢ば寇亂を平らぐ。侯景の臺城を陷るるや、先、時に始興に守たり。郡中の豪傑に結び、兵を起して、景を討つ。先づ廣州を取り、州の刺史となる。諸軍を會し、卒に以て景を平らぐ。遂に梁に將相となり、以て禪を受くるに至る。位に卽いて三年にして殂す。改元するもの一、曰く永定。子二人、昌、項皆、江陵陷るの時を以て長安に沒入す。臨川王立つ、之を世祖文皇帝となす。【文皇帝】名は蒨、武帝の兄の子なり。武帝、梁の亂を平らぐる時南北朝陳只 十八史略卷之四四八二に在つて、旣に功あり。是に至つて位に卽く。周王毓、帝と稱す。北齊主洋、盡く元氏の族を滅す。洋、殂す。諡して文宣皇帝といふ、周の宇文護、周帝の明敏にして識量あるを憚り、毒を進めて、之5/4を弑す。證して、明皇帝といふ。毓の弟邕立つ。北齊文宣帝の母弟常山王演、其主殷を廢して自立す。尋いで、殷を弑す。演、立つて、一年にして殂す。證して、孝昭皇帝といふ。母弟長廣王湛、又演の子百年を廢して自立す。後、百年を殺す。後梁主警殂す。太子歸立つ。北齊主湛、位を太子緯に傳へ、自ら太上皇帝と稱す。陳主、〓難より起り、民の疾苦を知る。性、明察にして儉勤なり。在位八年にして殂す。改元するもの二、曰く天嘉、曰く天康。太子立つ、之を廢帝臨海工となす。【廢帝臨海王】名は伯宗。在位三年、改元するもの一、曰く廣大安成王項の爲に廢せらる。北齊の上皇湛、殂す。證して、武成皇帝といふ。陳の安成王、自立す、之を高宗宣皇帝となす。【宣皇帝】名は項、初め長安に陷入す。文帝の時、周人、項を送つて、陳に還す。是に至つて、位に卽く。南北朝陳四八三 十八史略卷之四四八四周主邕、宇文護を誅し、始めて、政を親らす。北齊の後主緯、嬖寵多し、政亂る。周、齊を伐つて、鄴に入る。北齊亡ぶ緯を執へ、歸つて之を殺し、其族を夷す。北齊は國を建つる五世、三十年にして亡ぶ。北周武帝周主邕、深沈にして遠識あり、政事嚴明、稱して、賢主となす。西紀五六一齊を滅して、一年にして殂す。壽三十六。證して、武皇帝といふ。隋公楊堅太子贇立つ。皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用ゐて、上柱國大司馬となる。賛太子たりし時より、好んで、小人を昵近す。立つて、未だ一年ならずして、位を子闡に傳へ、自ら天元皇帝と稱し、驕侈彌よ甚し。未だ一年ならずして殂す。證して、宣皇帝といふ。楊堅自ら大丞相となり、相國隋王に進み、九錫を加ふ。未だ幾ならずして、周主闡、位を隋に禪る。尋いで弑せらる。隋主、盡く宇文氏の族を滅す。周は、帝と稱してより、是に至るまで、五周亡ぶ世、二十五年にして亡ぶ。陳主在位十四年、改元するもの一、曰く大建。殂す。太子立つ之を後主長城場公となす。【後主長城場公】名は叔寶太子たりしより、詹事江摠と共に、長夜の飮をなす。位に卽いて、未だ幾ならず。臨春、結綺、望仙の閣を起し、各高さ數十丈、連延數十間、皆、沈檀を以て之を爲り、金玉珠翠、之が飾となし、珠簾寶帳、服玩魂麗、近古未だ有らず。南北朝陳四八五 十八史略卷之四四八六其下、石を積んで山となし、水を引いて池となし、花卉を雜植す。陳主は、臨春閣に居り、貴妃張麗華は、結綺に居り、襲孔の二貴嬪は、望仙に居り、複道より往來す。江摠、宰輔となり、政事を親らせず。。日に孔範等文士と後庭に侍宴し、之を狎客といひ、諸貴嬪を評玉樹の曲、して、客と唱和せしむ。其曲に玉樹後庭花等あり。君臣酣歌し、タ後庭花長曲くわん〓〓きんじふ宦官近習貨賂公行す。窮し夜極ての而宗威縱橫、孔るざす土飮しより旦に達す。内外連結、1ん國を而)木範貴嬪と結んで兄弟となる。範自ら謂ふ、文武の才能、擧朝及んと亡やすび得ぶなしと。將帥微しく過失あれば、卽ち兵權を奪ふ。之に由つて、文武解體し、以て覆滅に至る。後梁主歸、殂す。太子琮、立つ。隋主、廢して、之を滅す。營、後梁亡ぶ帝を江陵に稱してより、西魏、周、隋に臣とし、統ぶる所は、數郡のみ。凡そ、三十三年にして亡ぶ。隋、晉王廣を以て元帥となし、師を師ゐて陳を伐たしむ。楊素、韓擒虎、賀若弼、道を分つて出づ。高額、元帥の長史となり、薛道衡に問ふ、江東克つべきか。對へて曰く、之に克たむ。郭璞の言に、江東分れて主たること三百年にして、中國と合す、といふこの數、將に周からむとすと。陳主、隋兵ありと聞き、近臣に謂つて曰く、王氣是に在り。彼何する者ぞ。孔範曰く、長江は天塹、豈に能く飛渡せむや。臣、毎に官の卑きを患ふ。虜若し江を渡らば11定めて大尉公と作らむと。陳主、以て然りとなし、伎を奏し、酒を南北朝陳四八七 十八史略卷之四要縱にし、詩を賦して輟まず。賀若弼、廣漢より江を濟り、韓擒虎、§橫江より宵に釆石に濟る。守者、皆、醉ふ。擒虎、遂に新林より進んで、直に朱雀門に入る。陳主、自ら景陽の井中に投ず。軍人、井を窺ひ、將に右を下さむとす。乃ち叫ぶ。繩を以て、之を引けば、わ張麗華孔貴嬪と同じく束ねて上る。俘へて以て歸る。後主、在位と七年、改元するもの二、曰く至德、曰く禎明。陳は、高祖武帝より是に至るまで五世、凡そ二十二年にして亡ぶ。西紀自五八隋一至六一八【隋高祖文皇帝】姓は楊氏、名は堅、弘農の人なり。相傳へて、東漢の太尉震の後となす。父忠、魏及び周に仕へ、功を以て、隋公に封ぜらる。堅、爵を襲ぐ。堅、生まれて異あり。宅旁に尼寺あり、一尼拘き歸つて、自ら之を鞠ふ。一日、尼出づるや、其母に付して自ら抱かしむ。角出で、鱗起る。母、太に驚いて、之を地に墜す。尼、心動き、亟に還つて之を見て曰く、我が兒を驚かし、晩く天下を得しむるを致すと。長ずるに及びて、相表奇異。周人、嘗て武帝に〓げ、普六茹堅、反相ありといふ堅、之を聞いて、深く自ら晦し)匿す。女、周の宣帝の后となる。周の靜帝、立つ。堅、太后の父を以て政を秉り、遂に周祚を移す。位に卽いて九年、陳を平らげて、天下一となる。開皇二十年、太子勇を廢して、庶人となす。初め、南北朝隋四八九 十八史略卷之四四九〇帝、勇をして政事を參決せしむ、時に損益あり。勇、性寬厚率意にして矯飾なし。帝は性節儉、勇は服用修れり。恩寵始めて衰ふ。勇、內寵多く、妃寵なくして死して、庶子多し。獨孤皇后、深く之を惡む。晉王廣、彌よ自ら矯飾して、嫡を奪ふの計を爲す。后、帝を贊して、勇を廢せしめ、而して廣を立てて太子となす。龍門の王通、闕に詣つて、太平の十二策を獻ず。帝、用ゆる能は龍門の王通表示は、す。罷めて歸る。河汾の間に〓授す。弟子、遠きより至る者、甚だ製作所獻衆し。仁壽四年、帝、不豫なり。太子を召し、入つて殿中に居る。太子p豫め帝の不諱後の事を擬し、書を爲り、僕射楊素に問うて、報を得せしむ。宮人、誤つて、帝の所に送る。帝、之を覽て、大に恚る。帝の寵する所の陳夫人、出でて更衣す。太子に逼られ、之を拒んで、免るるを得たり。帝、其神色の異あるを怪んで、故を問評ふ夫人、法然として曰く、太子無禮なり。帝、恚つて、床を抵つにとにんのての之不畜を其と妾妄情を豫煬生殺父しをりな憂に帝なすと又犯にくふ乘父遂さ父却るじのて曰く、畜生、何ぞ大事を付するに足らむ、獨孤、我を誤ると。將に故の太子勇を召さむとす。廣、之を聞いて、右庶子張衡をして、入つて、疾に侍せしめ、因つて、帝を弑し、人をして、勇を縊り殺り眞兄さしむ。帝、性嚴重、政事に勤め、令行はれ、禁止む。財に嗇なりと雖も、功を賞して吝ならず。百姓を愛養し、農桑を勸課し、徭を輕くし、賦を薄くし、自ら奉ずること、儉薄なり。天下之に化す南北朝隋四九一 十八史略卷之四四九二受禪の初、民戶四百萬に滿たず、末年には、八百萬に踰ゆ。然れども、詐力を以て天下を得、猜忌苛察にして、讒言を信受し、功臣故舊、終始保全する者なし。在位二十四年、改元するもの二、曰く、開皇、仁壽。太子立つ、之を煬皇帝となす。【煬皇帝】名は廣開皇の末、立つて太子となる。この日、天下地震ふ位に卽いて、首として、洛陽の顯仁宮を營み、江嶺の奇材異石を發し、又海內の嘉木異草珍禽奇獸を求め、以て苑囿に實たし、又通濟渠を開き、長安の西苑より穀洛の水を引いて河に達し、河を引いて汴に入り、汴を引いて泗に入れ、以て淮に達す。又民を發し邦溝を開いて江に入れ、傍に御道を築き、樹うるに柳を以てし、長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十餘所。人を遣して、江南に徃いて龍舟及び雜舟數萬艘を造らしめ、以て遊幸の用に{備ふ西苑は周二百里、其內に海を爲る。周十餘里、蓬萊、方丈(だいくわんきうでん5瀛洲の諸山を爲り、高さ百餘尺、臺觀宮殿山上に羅絡す。海北に渠あり、榮紆して、海に注ぎ、渠に緣つて十六院を作り、門、皆〓渠に臨み、華麗を窮極す宮樹凋落すれば、剪綵して、花葉を爲つて、之を綴り、沼內も亦た剪綵して、荷芝菱茨を爲り、色渝れば、新しきものに易ふ。好んで、月夜を以て、宮女數十騎を從へて、西〓夜遊の曲苑に遊び、〓夜遊の曲を作つて、馬上に之を奏す。後、又、永濟渠を開き、沁水を引いて、南.河に達し、北、涿郡南北朝隋四九三 十八史略卷之四四九四上に通ず。又、汾陽宮を營み、又、江南の河を穿つ、京口より、餘杭に至るまで、八百餘里。洛口倉を鞏の東南の原上に置く、城は周二十餘里、三千窖を穿評脫むには 大阪府県の荒後主然三百害を穿つ。窖は皆のど過其氣つ興洛倉を洛陽の北に置く、城は周十里、ほくじゆん。似漢所て帝のに偉八千石を容る。帝、或は洛陽に如き、或は江都に如き、或は北巡したのる孝てし以文も武極を蓄のあ·て、楡林、金河に至り、或は五原に如き、長城を巡り、或は河右を傾積儉りけせ素巡り、營造巡遊、虛歲なし。天下の鷹師を徵す。至る者萬餘人。天窮便に民設就木せの生々河土下の散樂を徵す。諸蕃來朝するや、百戯を端門に陳す。絲竹を執るは中殘大衆偶運り利活庶開者萬八千人、終月にして罷む、費巨萬。歲毎に、以て常となす。を至大高麗王を徵して、入朝せしむ。至らず。大業七年、帝、自ら將として高麗を擊ち、天下の兵を徴して泳郡に會せしめ、河南、淮南江南に敕して、戎車五萬乘を造らしめて、衣甲等を供載し、河南河北の民夫を發して、軍須に供し、江淮以南の民夫は、船を以て、黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫千里、徃還常に數十萬人、晝夜絕えず、死者相枕す。天下騒動、百姓窮困し、始めて、相聚まつて盜を爲す。實建德漳南寳建德の兵起る。帝、徵す所の四方の兵、皆、涿郡に集まり、一百一十三萬。餽運上する者は、之に倍す。首尾千餘里に亙る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず。諸軍、大に敗れて還る。明年、再び兵を徵し、自ら將南北朝隋四九五 十八史略卷之四四九六として之を擊つ。楚公楊玄感、朝政の日に紊るるを見て、潜に亂を作さむを謀る。是に至つて、黎陽に督運して遂に反す。帝、軍を引いて還り、將を遣して、之を擊つ。玄感、洛陽より兵を引いて、潼關に趨り、兵敗れ、走つて死す。帝、又、涿郡に如いて、高麗を伐つ。高麗、使を遣して、降を請ふ。帝、長安に還る。旣にして、洛陽に如き、汾陽に如き、江都に如き、巡遊、仍ほ虛歲なし。李密蒲山公李密の兵起る。密、少にして才略あり、志氣雄達、財を輕んじ、士を好む。嘗て、黃牛に乘じ、漢書を以て牛角に掛けて、之を讀む。楚公楊素、遇うて、之を奇とし、之に因つて、素の子玄感と遊ぶ。初め、玄感に從つて、兵を起す。玄感敗る。密、姓名を變じげじて、匿る。時人皆云ふ、楊氏將に滅びむとし、李氏將に起らむとすと。又、民謠あり、歌うて曰く、桃李子。皇后走楊州。宛轉花園裏。勿浪語。誰道許。と。桃李子といふは、逃亡李氏の子なり。勿浪語、唯道許とは、密にするなり。密、遂に群盗程讓等と起つて榮陽を攻めて之を下し、牙を建て、諸部を統べ、西行して、說いて諸城を下して、大に獲たり。や) ;鄙陽の賊帥林士弘、楚帝と稱して、江南に據る。杜伏威、歷陽に據る。南北朝隋四九七 十八史略卷之四四九八竇建德、長樂王と稱す。おの〓〓んん馬邑の校尉劉武周、朔方の郞將梁師都、各郡に據つて兵を起す。二·李密、興洛倉に據り、河南諸郡を略取して、魏公と稱す。突厥、劉武周を立てて、定陽可汗となし、樓煩、定襄、雁門の諸郡を取る。梁師都、雕陰、弘化、延安等の郡を取り、自ら梁帝と稱す。金城の校尉薜擧、兵を隴西に起し、自ら西秦の霸王と稱す。武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら凉王と稱す。薜擧、自ら秦帝と稱し、徒つで天水に據る。蕭銑、兵を巴陵に起し、自ら梁王と稱す。唐公李淵唐公李淵、兵を太原に起し、諸郡に克つて、長安に入る。時に、隋の大業十二年。帝、江都に在り、淵、はるかに尊んで、太上皇となして、代王を立つ、之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は侑、煬帝の孫なり。年十三にして李淵の爲に立てらひる。大業十三年を改めて、義寧となし、淵を大丞相となし、唐王に封ず。煬帝、江都に在り、淫虐日に甚しく、酒扈口を離さず。中原か、の已に亂れしを見て、北歸に心なし。從駕、關中の人多く、歸るを思うて遂に謀叛し、許公宇文化及を以て主となし、夜兵を引いて、3)宮に入つて煬帝を縊り殺す。宗室、少長となく、皆死す。惟だ、秦王浩を存して、之を立て、而して、自ら大丞相となり、衆を擁し南北朝隋四九九 十八史略卷之四五〇〇て西す。梁の蕭銑、帝を江陵に稱す。隋帝侑、位に卽いて、半年にして唐に禪る。隋は、高祖より、是に至るまで、三世、凡そ三十七年にして亡ぶ。譯新十八史略卷之五西紀自六八至九〇七一唐ろうぜい!〓【唐高祖神堯皇帝】姓は李氏、名は淵、隴西成紀の人なり。西凉の武昭王暠の後。祖虎、西魏に仕へて功あり、隴西公に封ぜらる。父昞周の世に於て、唐公に封ぜらる。隋の煬帝、淵を以て、弘化の留守となす。衆を御すること寬簡、人多く之に附く。煬帝、淵の相表奇異にして、名、圖識に應ずるを以て之を忌む。淵、懼れ、酒を恣にし、賂を納れて、以て自ら晦ます。天下、盜起る。淵を以て、唐-高祖神堯皇帝-五〇一 十八史略卷之五五〇一山西河東の撫慰大使となす。制を承けて黜陟し、群盜を討捕して、多く捷つ。突厥、邊に寇す。淵に詔して、之を擊たしむ。淵の次子世民有安天世民、聰明勇決識量人に過ぐ。隋室の方に亂るるを見て、陰に天下下之志を安んずるの志あり。晉陽の宮監裴寂、晉陽の令劉文靜と相結ぶ。文靜、世民に謂つて曰く、今、主上、南巡し、群盜萬數、この際に當つて、眞主あつて、驅駕して之を用ゆれば、天下を取ること掌か、を反すが如きのみ。太原の百姓、收拾すれば、十萬人を得べく、尊ー)天公、將たる所の兵復た數萬、之を以て、虛に乘じて關に入つて、下を號令すれば、半年に過ぎずして、帝業成らむ。世民、笑つて日く君の言、正に我が意に合へりと。乃ち陰に部署す。然も、淵は知らざるなり。淵の兵、突厥を拒いで利あらず、罪を獲むことを恐るるに會し、世民、閒に乘じて淵に說き、民心に順つて義兵を興せば、禍を轉じて福となさむといふ。淵.大に驚いて曰く、汝、安んぞ此言を爲すを得む。吾、今、汝を執へて縣官に〓げむ。世民、徐に曰く、世民、天時人事を觀るに、此の如し。故に敢て言を發す、必ず執へて〓ぐるとも、敢て死を辭せず。淵曰く、吾、豈に〓ぐるに忍びむや。汝、愼んで口より出すなかれと。明日、復た說いて曰く人、皆、傳ふ、李氏當に圖識に應ずべしと。故に、李金才、故上なくして族滅せらる。大人、能く賊を盡せば、功高くして賞せられず、身益す危からむ。惟だ昨日の言、以て禍を救ふべし。是れ萬全唐-高祖神堯皇帝-五〇三 十八史略卷之五五〇四の策、願はくは疑ふ勿れ。淵、歎じて曰く、吾、一ク、汝の言を思ふに、亦た大に理あり。今日、家を破り身を亡すも、亦た汝に由らむ。家を化し國となすも、亦た汝に由らむと。之より先、裴寂、私に晉陽の宮人を以て淵に侍せしむ。淵、寂に從つて飮む。酒酣なる時、寂曰く、二郞、陰に士馬を養ひ、大事を擧げむと欲す。正に寂が宮人を以て公に侍せしめ、事覺はるれば、併せて誅せられむを恐るるが爲のみと、會ま場帝、淵が寇を禦ぐ能はざるを以て、使者をして、執へて江都に詣らしむ。世民、寂等と復た說いて曰く、事旣に迫れり。宜しく、急に計を定むべし。且つ、晉陽は士馬精强、だいわう六うちうだ、宮監の蓄積巨萬、代王幼沖、關中の豪傑、並に起る。公、若し鼓行して西し、撫して之を有すれば囊中の物を探るが如きのみと。淵乃ち召募して、兵を起す。遠近赴き集まる。仍つて、使を遣して、兵を突厥に借る。世民、兵を引いて、西河を擊つて、之を拔き、郡P丞高德儒を斬り、之を數めて曰く、汝、野鳥を指して以て鸞となんだし、以て人主を欺く。吾、義兵を興す、正に侫人を誅するが爲のみと。兵を進めて、霍邑を取り、臨汾、絳郡に克つて、韓城を下し、馮翊を降す。淵、兵を留めて、河東を圍み、自ら兵を引いて西し、世子建成をして潼關を守らしむ。世民、渭北を徇ふ。關中の豪傑、悉く淵に降る。諸軍を合せて、長安を圍んで、之に克ち、恭帝を立て、淵、大丞相唐王となり九錫を加ふ。尋いで、禪を受け、子建唐-高祖神堯皇帝-五〇五 十八史略卷之五五〇六せいくわうたいししんわうげんきつせいわう成を立てて皇太子となし、世民を秦王となし、元吉を齊王となす。ずゐとうとりうしゆゑつわうどうそんしゆう隋の東都の留守越王侗は、煬帝の孫なり、亦た衆に立てられ、帝らくやうを洛陽に稱す。しんしゆせつきよこじんかう秦主薛擧、卒す。子仁杲、立つ。ニみつずゐへいたゝかたいはいたうくだ魏公李密、隋兵と戰ひ、大敗して、唐に降る。うぶんくわきふしゆかうしいきよてい宇文化及、其立つる所の主浩を弑して、自ら許帝と稱す。りやうわうりき凉王李軌、帝と稱す。しんわうせいみんしんわうせつじんかうちやうあんいち唐の秦王世民、秦を破る。秦王薛仁杲、降る。長安に送つて、市きに斬る。みつきうきやう李密の將徐世勣しやうじよせいせきよ徐世動密の舊境に據つて唐に降り、姓李を賜ふ。とうけんとくかほくしよしうかわう竇建德、河北の諸州を取つて、自ら夏王と稱す。そむたうじんとら李密、唐に叛く。唐人、獲へて之を斬る。かしゆとうけんとくうぶんくわきふちう夏主竇建德、宇文化及を破つて、之を誅す。ずゐしゆどうわうせいじうはいじりつていてい隋主伺、立つて一年。王世充、之を廢し、自立して鄭帝となり、つどうしい尋いで伺を弑す。たうしやうりやうしゆりきおそとらから唐、將を遣して、凉主李軌を襲ひ、執へ歸つて、之を殺し、河西たひ平らぐ。ちんはふこうひれうれうわう沈法興、毗陵に梁王と稱す。しつうこうとごてい李子通、江都に吳帝と稱す。とふくゐ杜伏威、唐に降る。唐-高祖神堯皇帝-五〇七 十八史略卷之五五〇八唐の秦王世民、定陽の將宋金剛を擊つて、之を破る。定陽の可汗劉武周、及び金剛、皆、走つて死す。唐の秦王世民、諸軍を督して鄭を伐つ。吳王李子通、梁を襲ふ。梁王沈法興、走つて死す。夏主寶建德、鄭を救ふ。唐の秦王世民、大に破つて之を擒にす。鄭主王世充降る。世民、長安に至り、黃金の甲を被り、二十五將、建德を市に斬と、其後に從ひ、鐵騎萬匹、甲士三萬、俘を太廟に獻じ、り、世充を赦す。尋いで、人をして、潜に之を殺さしむ。竇建德の故將劉黑闥、始めて、兵を漳南に起す。唐、將李靖を遣して、梁を伐たしむ。梁主蕭銑降る。長安に送つて、之を斬る。杜伏威、吳主李子通を擊ち、執へて長安に送り、誅に伏す。劉黑闥、自ら漢東王と稱す。楚主林士弘、卒す。其衆、遂に散ず。漢東の將、黑闥を執へて、唐に降る。之を斬る。唐の淮南道の行臺僕射輔公祏、丹陽に反す。唐將、擊つて、之を斬る。慶州の都督楊文幹、反す。秦王世民を遣して、之を討平せしむ。突厥、入寇す。秦王世民を遣して、之を禦がしむ。豳州に遇ふ。世民、騎を帥ゐ、馳せて虜陣に詣り、之に告げて曰く、我は秦王な唐-高祖神堯皇帝-五〇九 十八史略卷之五五一〇りと。虜、敢て戰はず。盟を受けて退く。唐、興つて七年。僭僞皆亡び、天下旣に定まる。此歲、始めて、州縣の郷學を置き、帝、親ら國子學に詣つて先聖、先師に釋奠し、に·始めて官制始めて、官制を定め、新律令を頒つ。均田租庸調の法を定む。丁中東京市小石川區西江篤疾は十の六を減じ、令を知りの民、田一頃を給し、寡妻妾は七を減じ、皆一丁毎に歲に租粟二石十の二を以て世業となし、八を口分となし、を入れ、調は土地の宜しき所に隨ひ、綾絹純布、歲役二旬、役せざれば、其傭を收むる日に三尺。事あつて役を加ふる者は、旬有五日にして、其調を免じ、三旬なれば租調共に免ず。水旱蟲霜、十にして四以上を損すれば、租を免じ、六以上を損すれば調を免じ、七以上を損すれば、課役共に免ず。民の質業は、九等に分ち、百戶を里となし、五里を〓となし、四家を鄰となし、四鄰を保となし、城邑に在る者を坊となし、田野の者は村となす。祿を食むの家は、民と利を爭ふを得るなく、工商雜類は、士伍に預るなし。男女、始めて黄、小、中、生まるるを黃となし、四歲を小となし、十六を中となし、二十を丁T)老となし、六十を老となす。歲每に計帳を造り、三歲に戶籍を造る。初め、唐の晉陽に起る、皆、世民の謀なり。帝、世民を以て、儲嗣となさむと欲す。世民、固辭して止む。太子建成、酒色遊〓を喜び、齊王元吉、過失多し。而して、世民、功名日に盛なり。建成、乃ち元吉と謀を協せて、世民を傾けむとし、意を曲げて、諸唐-高祖神堯皇帝-五二 十八史略卷之五五三妃嬪に謂事す。世民、獨り、之を事とせず。之に由つて、左右、皆建成、元吉を譽めて、世民を短る。武德九年六月、太白、天に經り、秦の分に見はる。建成、元吉、世民を殺さむと欲す。秦府の僚屬、王に勸めて周公の事を行はしむ。力め請うて、乃ち決す。是に於て、密奏す。兄弟專ら臣を殺さむと欲し、世充、建德の爲に響を報ぜむとするに似たりと。明日、兵玄武門の變を師ゐて、玄武門に伏す。建成、元吉、入つて變あるを覺り還らむと欲す。世民、追うて、建成を射て之を殺し、尉遲敬德、元吉を射殺す。遂に世民を立てて太子となし、軍國の事、悉く太子に委し魏徴て處決せしめ、然る後に聞奏す。初め、東宮の官屬魏徵、屢ば建成さに勸めて、世民を除かむとす。是に及びて、世民、徵を召し、責む3)るに兄弟を離開するを以てす。徵擧止自若、對へて屈せず。世民之を禮す。王珪も、亦た、嘗て建成の爲に謀る。皆、以て諫議大夫となす。帝、自ら稱して、太上皇帝といひ、詔して、位を太子に傳ふ。之を太宗文武皇帝となす。【太宗文武皇帝】名は世民。幼なりし日、書生あり、之を見て曰く、〓評秦王世民龍鳳の姿、天日の表、其年、冠に幾くして、必ず能く世を濟ひ、民相貌特異英人り最を安んぜんと。高祖、人をして之を追はしむ。見えず、乃ち其語を而る 安其成採つて名となす。李密、始めて高長謂邁と果年十八、義兵を擧ぐ。唐に降り、もを所服神祖に見え、色、尙ほ傲れり。秦王を見るに及びて、敢て仰ぎ視ず。唐-高祖神堯皇帝-太宗文武皇帝-五一三 十八史略卷之五五一四に記載して退いて、歎じて曰く、眞の英主なりと。高祖、秦王の功高きを以て降李仰王てるえ時唐是て秦り傲見のがと,特に天策上將を置く。位王公の上に在り。秦王を以て之となす。電して、の色祖ま府を開き、屬を置き、館を開き、以て文學の士を延く。杜如晦、房玄齡、虞世南、褚亮、姚志廉、李玄道、蔡允恭、薛元敬、顏相時十りり見遇なざぎにあ後りにあめり唯を 明、 文 斯 にて那以は蘇〓顯ねし于志寧、李守素、だ致し朝支所蘇世長、薛收、陸德明、孔穎達、葢文達、二許敬宗を文學館の學士となす。分つて三番となし、日を更へて直宿し宗中高ち者し太創てあ頃祖初あ者平業漢乃三せてす。王の暇日には、輒ち館中に至つて、文籍を討論し、或は夜分に至る。唐りに閣立本をして、像を圖せしめ、褚亮をして賛を爲らしめ、十宗宋而太八學士と號す。士大夫、其選に預るを得るもの時人、之を登瀛洲太祖といふ。時に府僚多く外に補せられ、如晦亦た出づ。玄齡曰く、餘人は惜むに足らず、如晦は王佐の才、大王、四方を經營せむと欲太宗と絕はふのに所謂い代眞とベ英し主せば、如晦に非ざれば、不可なりと。王、卽ち奏して、之を留め、帷幄に參謀せしむ。剖決流るるが如し。玄齡、入つて事を奏する每に、高祖曰く、玄齡、吾が子の爲に事を謀る。千里を隔つと雖も、對面して語るが如しと。秦王の功、天下を葢ひ、身、幾んど危し。房玄齡杜如玄齡、如晦に賴つて、策を決す。是に至つて、位に卽く。首として、晦宮女三千餘人を放つ。突厥の頡利、突利の二可汗、十餘萬騎を合はせて入寇し、進んで渭水便橋の北に至る。上、自ら房玄齡等六騎と、徑に渭水の上に詣やり、頡利と水を隔てて語り、責むるに、約に負くを以てす。突厥、唐-太宗文武皇帝-五一五 十八史略卷之五五一六大に驚き、皆、馬を下つて羅拜す。俄にして、諸軍、繼いで至り、旗甲野を蔽ふ。頡利懼れ、盟を請うて退く。弘文館を置き、四部二十餘萬を聚む。天下文學の士を選び、虞世南等、本官を以て、學士を兼ね朝を聽くの隙、內殿に引き入れ、前言往行を講論し、政事を商權し、或は夜分にして、乃ち罷む。三品以上の子孫を取つて、弘文館學士に充つ。上書して侫臣を去らむことを請ふ者あり。曰く、願はくは、陽り評怒つて、以て之を試みよ。理を執つて屈せざる者は直臣なり威をしの政所這銘家訓個との中太外宗お べ右爲の畏れて旨に順ふ者は侫臣なりと。上曰く、吾、自ら詐をなせば、何す座を以て臣下の直を責めむや。朕、方に至誠を以て天下を治めむと。或ひと法を重くして盜を禁ぜむことを請ふ。上曰く、當に奢を去つて費を省き、徭を輕くし、賦を薄くし、廉吏を選用し、民の衣食をして餘あらしむれば、自ら盜を爲さず。安んぞ、重法を用ゐむやと。之より數年の後、路、遺ちたるを拾はず。商旅野宿す。上、嘗て曰く、君は國に依り、國は民に依る。民を刻して、以て君に奉ずた、るは、猶ほ肉を割いて以て腹を充たすが如く、腹飽けども身斃れ、君、富めども國亡びむと。又嘗て侍臣に謂つて曰く、聞く、西域の賈胡、美珠を得れば、身を剖いて之を藏むと。是れ有りや。曰く、之あり。曰く、吏の賊を受けて、法に抵ると、帝王の奢欲に狗ひて國を亡すと、何を以て、此胡の笑ふべきに異ならむやと。魏徵曰く、唐-太宗文武皇帝-五一七 十八史略卷之五五一八宅むかし、魯の哀公、孔子に謂つて曰く、人好く忘るるものあり、またはな〓〓を徒して其妻を忘る。孔子曰く、又甚しきものあり、桀紂は、乃ち其身を忘ると。亦た猶ほ是の如きなりと。張蘊古大賣張蘊古、大寶箴を獻ず。曰へるあり、一人を以て天下を治む、天箴を獻ず下を以て一人に奉ぜずと。又曰く、九重を内に壯にすれども、居る所は、膝を容るるに過ぎず。かの昏にして知らざるは、其臺を瑤にし其室を瑀にす。八珍を前に羅ぬれども、食ふ所は口に適ふに過ぎず。惟れ狂にして念ふなきは、其糟を丘にして、其酒を池にすと。ら又曰く、沒沒として闇きこと勿れ、察察として明なること勿れ冕旒目を蔽ふと雖も、無形に視よ。〓續耳を塞ぐと雖も、無聲に聽けと。上、其言を嘉す。天下を分つて十道となす、山川の形便に因る。曰く關內、河南、河東、河北、山南、隴右、淮南、江南、劍南、嶺南將を遣して、梁師都を討つ。其下、之を殺して以て降る。其地を以て夏州となす。太常祖孝孫、唐の雅樂を奏す。貞觀二年、又、宮女三千餘人を出す。軍國の大事は、故事、中書舍人、各所見を雜署し、之を五花判事といひ、中書侍郞、中書令、之を省審し、給事中、黃門侍郞、之を駁正す。上王珪に謂つて曰く、國家、もと中書門下を置いて以て唐-太宗文武皇帝-五一九 十八史略卷之五五二〇相檢察す。卿曹、雷同すること勿れと。時に、珪、侍中たり。房玄評反女齡杜齡杜如晦、僕射たり。魏徵、祕書監に守たり。朝政に參預す。如明治3年間唐初三名玄齡、事を謀る、必ず曰く、如晦に非ざれば決する能はずと。如臣な異忠りの魏徵の臣相ずたきる臣良晦至るに及びて、卒に玄齡の策を用ゆ。蓋し、玄齡善く謀り、如晦のに味論ら々如やる滋あ深善く斷ず。二人、心を同じうして、國に徇ふ。故に、唐の世、賢相を稱する、房杜を推す。魏徵、嘗て上に告げて曰く、願はくは、臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむる勿れ。上曰く、忠良異なれりや。徵曰く、稷契、皐陶、君臣心を協せて、共に尊榮を享く、謂ゆる良臣なり。龍逢、比干、面接廷爭、身誅せられ、國亡ぶ、謂ゆる忠臣なりと。上、悅ぶ。5初め、突厥、旣に强く、敕勒諸部、分散し、薛延陀、囘紇等の十五部あり。皆、磧北に居る。額利、政亂れ、薛延陀、囘紘等之に叛く加ふるに、民、大に飢ゑ、羊馬多く死す。使を奉ずる者還り、及び邊帥、皆、突厥取るべきの狀を言ふ。詔して、李靖を以て、定襄道の行軍總管となし、諸軍を統べて、之を討たしむ。靖、突厥を陰山に襲ひ破る。頡利可汗、遁れ走る。唐將、之を擒にして以て獻ず。時に、突利可汗、先に己に入朝す。上、突厥の降衆を處するに、東は幽州より西は靈州に至らしむ。突利の地を分つて四州となし、頡利の地を分つて六州となし、左に定襄都督を置き、右に雲中都督を置き、以て其衆を統べ、突利を以て順州都督となし、額利を唐-太宗文武皇帝-至二 十八史略卷之五五二二右衞大將軍となす。林邑、使を遣して入貢す。伊吾、來り降る。伊西州を置く。高昌王麴文泰入朝す。評之より先、四夷の君長、闕に詣り、帝に天可汗とならむを請ふ。何行可子は太ぞは汗た大宗壯んのり唐言又のふる言を下天我事上曰く、我は大唐の天子たり、又、下、可汗の事を行はむかと。群な乎臣及び四夷、皆萬歲と稱す。之より後、璽書、西北の君長に賜ふには、皆、天可汗と稱す。蔡公如晦卒貞觀四年、蔡公如晦、卒す。上語、及べば、必ず涕を流す。す此歲、大に年あり。上、初め位に卽くや、常に群臣と語つて、〓化に及ぶ。曰く、大亂の後、それ治め難きか。魏徵、對へて曰く、〓12饑ゆる者は食を爲し易く、渴する者は飮を爲し易し。封德彝曰く、三代以還、人漸く澆訛、故に秦は法律に任じ、漢は霸道を雜ふ。蓋し、化せむと欲するも能はざればなり、豈に之を能くして、然も欲せざらむや。徵曰く、五帝三王、民を易へずして化す。湯武は、皆評國民大學大亂の後に乘じて、身、太平を致し、帝道を行うて帝たり、王道をふ)行うて王たり。行ふ所、如何を顧るのみと。上卒に徵の言に從ふ.元年、關中饑ゆ、斗米、絹一匹に直る。二年、天下蝗あり。三鑑道一加土り蓋著工具り、年、大水あり。上、勤めて、之を撫す、未だ嘗て嗟怨せず。是に至じつて、天下、大に稔る。米、斗、三四錢。終歲、死刑を斷ずる、わ唐-太宗文武皇帝-五二三 十八史略卷之五五二四づかに十九人。東海に至り、南.五嶺に及ぶまで、皆、外戶閉ぢす、ず、行旅糧を齎らさず、給を道路に取る。上曰く、魏徵、我に勸めて、仁義を行はしむ。今、旣に效あり。惜むらくは、封德彜をして之を見せしめずと。盖し、德彜は、元年六月に死せり。五年。林邑、新羅、入貢す。黨項、內附す。其地を開いて、十六州となす。支店内七銀丸功の安七年。春、玄武門に宴し、七德九功の舞を奏す。徵上が武を偃舞せ文を修めむことを欲す。宴に侍する每に、七德の舞を見ては輒一)ち首を俛して視ず。七德の舞は、秦王破陣の曲なり。九功の舞を見れば則ち之を諦觀す。王珪、罷む。徵侍中となる。る評の事後世論太宗縱囚上親ら囚徒を錄し、死に應ずる者を見て、之を憫み、縱つて、議ある所な家に歸らしめ、期するに、來秋を以てして死に就かしむ。仍つて、)今省採世り三者のの轉向用事件天下の死囚に敕して、皆、縱ち遣り、期に至つて、京師に來り詣らせししむ。是に至つて、皆期の如く、自ら朝堂に詣る。上、皆之を赦す。凡そ三百九十人。上太上皇を奉じて、未央宮に置酒す。上皇、頡利可汗に命じて古起つて舞はしむ。馮智戴、詩を詠ず。笑つて曰く、胡越一家、しへより未だ有らざるなりと。八年。吐蕃、使を遣して入貢す。高祖崩ず九年。太上皇、崩ず。上皇、卽位九年にして位を禪り、是に至る唐-太宗文武皇帝-五二五 十八史略卷之五五二六まで又九年。吐谷渾、之より先、凉州に入寇す。李靖を以て諸軍に帥たらしめ、討つて之を破る。十年。吐谷渾、子を遣して入侍せしむ。治書侍御史權萬紀言ふ、宣饒、銀、大に發す。之を采らば、歲毎に、數百萬を得べしと。上曰く、卿未だ嘗て一賢才を進めず、然も專ら銀の利を言ふ。むかし、堯舜、壁を山に抛ち、珠を谷に投じ、漢の桓靈、乃ち錢を聚めて私藏となす。卿桓靈を以て我を俟たむとするかと。之を黜く。府兵を定む、凡そ十道。府を置く、六百三十四。而して、關内はす二百六十一、皆、諸衞及び東宮六率に隸し、上府の兵は凡そ千二百中府は千人、人下府は八百人。三百人を團となし、團に校尉あり、ちやう、五十人を隊となし、隊に正あり、十人を火となし、火に長あり、人毎に兵甲粮裝、各 數あり。之を庫に輸し、征行には之を給す。二十なにして兵となり、六十にして免す。能く騎射する者は越騎となし、其餘は、步兵となす。統軍別將を更命して、折衝果毅都尉となし、歲の季毎に、各折衝都尉、帥ゐて以て戰を〓へ當に馬を給すべき者には、官より直を與へ當に宿衞すべき者は、番上し、兵部は遠とほき·そ近を以て番を給し、遠は疎、近は數皆、一月にして更る。十三年。夏、旱す。五品以上に詔 して、事を言はしむ。魏徵、唐-太宗文武皇帝-五二七 十八史略卷之五五二八言ふ、陛下、貞觀の初に比して漸く終を克くせざるもの十條と。上、深く賞歎す。十四年。上國子監に詣り、親ら釋奠す。この時、大に天下の名儒を徵して學官となし、屢ば國子監に幸し、之をして講論せしむ。學は能く一經已上に明かなる者は、皆官に補するを得。學舍を增築すること、千二百間、學生を增して、三千二百六十員に滿たしむ。屯營飛騎よりしても、亦た博士を給して經を授け、能く經に通ずる者あれば貢擧を得るを聽す。是に於て、四方の學者、京師に雲集し、乃ち高麗、百濟、新羅、高昌、吐蕃の諸會長に至るまで、亦た子弟を遣し、請うて、國學に入らしめ、講筵に昇る者八千餘人に至る。上、師說多門にして、章句繁雜なるを以て、孔頴達に命じて、諸儒と共に五經の疏を定めしむ。之を正義といふ。高昌王麴文泰、之より先、西域の朝貢を遏絕し、及び中國の人を拘留す。侯君集を以て交河大總管となし、兵に將として、之を擊たしむ。是に至つて、高昌を滅ぼし、其地を以て西州となす。十五年。吐蕃、婚を求む。文成公主を以て之に嫁せしむ。鄭公魏徵卒十七年。鄭公魏徵、卒す。上曰く、銅を以て鏡となせば、衣冠をすた古しへを以て鏡となせば、評魏徵は謀正すべく、興替を見るべく、人を以て鏡者氏乃木真んもとなせば、得失を知るべし。徵沒して、朕、一鏡を亡ふと。徵·はふむ葬るや、上、自ら碑を製して石に書す。唐-太宗文武皇帝-五二九 十八史略卷之五五三〇功臣を凌烟功臣長孫無忌、趙郡王孝恭、杜如晦、魏徵、房玄齡、高士廉、尉閣に圖畫す遲敬德、李靖、蕭瑀、段志玄、劉弘基、屈突通、殷開山、柴紹、長孫順德、張亮、侯君集、張公謹、程知節、虞世南、劉政會唐儉、李勣、秦叔寶等を凌煙閣に圖畫す。太子承乾、不才なり。魏王泰、多能にして寵あり、潜に嫡を奪ふ(うの志あり。侯君集、功を負んで、怨望し、承乾の暗劣を以て釁に乘さぜむと欲し、因つて之に反を勸む。事覺はる。廢して庶人となし、君集坐して誅せらる。泰も、亦た險詐を以ててられず。晉王治をす立てて太子となす。魏徵、嘗て君集を薦む。上、初め、徵の阿黨するを疑ふ。又、徵自ら前後の諫辭を錄して、起居郞褚遂良に示すといふ者あり。上、愈よ悅ばず。徵、終に臨む時、上、公主を面指して、其子叔玉に妻はさむと欲す。是に至つて、其婚を停め、立つる所の碑を踏す。十八年。上、親ら高麗を征す。之より先、高麗の泉蓋蘇文、其君を弑し、新羅、又、使を遣して言ふ、百濟、高麗と兵を連ねて、新い羅入貢の路を絕たむを謀る。乞ふ兵をもつて救援せよと。上、遂に之を討たむとし、先づ洛陽に如く。十九年。上、洛陽を發して、定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を拔き、白巖城を降し、安市城を攻め、大に其救兵を城下に破る。安市城、險にして兵精、堅守して下らず、議者、烏唐-太滑文武皇帝-垂 十八史略卷之五五三二骨城を拔き、鴨綠水を渡り、直に平壤を取らむとし、其本根を覆さば、餘は戰はずして降すべしといふ。或ひと又謂ふ、親征は諸將と異なり、危きに乘ずべからずと。上、遼左早寒、草枯れ水凍つて、士卒久しく留め難く、且つ粮將に盡きむとするを以て、敕して、師を班す。この行、十城を拔き、戶口七萬を徒し、三たび大戰して、斬首四萬餘級。然れども、戰士死する者、幾んど三千人、戰馬の死13する、什に七八、功を成す能はず。深く之を悔い、歎じて曰く、魏徵若し在らば、我をして、此行あらしめざるなりと。命じて、騎を馳せ、徵を祀るに少牢を以てし、復た製する所の碑を立つ。二十年上靈州に行く。李世勣をして、薛延陀を擊たしめ、破つて之を降し、敕勒の諸部を詔諭す。囘乾等十一姓、各、使を遣しわ、て、命に歸し、官司を置かむを乞ふ。詔して曰く、朕聊か偏師に命じて顏利を逐擒し、始めて、廟略を弘む。旣に、延陀を滅し、鐵動百餘萬戶、請うて州郡となる。混元以來、殊に未だ前聞せず。大家上評百詩王|宜しく、禮を備へて廟に〓ぐべしと。仍つて、天下に頒示す。上雪(さ除詩を爲つて曰く、耻を雪いで百王に酬い兇を除いて千古に報ず意氣爽なと石を靈州に刻す。司空房玄齡卒す二十二年、司空梁公房玄齡、卒す。上悲んで、自ら勝へず。玄評スキ房相當國齡上を佐けて、天下を定め、相位に終るに及ぶまで三十二年、號けんしや·之原子しやったして賢相となす。然れども、跡の尋ぬべきものなし。上、禍亂を定唐-太宗文武皇帝-五三三 十八史略卷之五五三四5上な。然も房杜功を言はず。王魏善く諫諍す。然も房杜其賢を讓る。英衞善く兵に將たり。然も房杜其道を行ふ。理、太平を致し、善人主に歸す。唐の宗臣たり。二十三年。上、疾あり。太子に謂つて曰く、李世勣、才知、餘あり。然れども、汝、之に恩なし。我、今、之を黜けむ。我死せば、用ゐて僕射となして、之に親任せよ。若し徘徊顧望すれば、則ち當きに之を殺すべきのみと。乃ち疊州都督に左遷す。詔を受くるや、家に至らずして去る。太宗言行上崩ず。在位二十四年。改元するもの一曰く貞觀上、武功を以て、禍亂を定むと雖も、終に文德を以て海內を綏んず。常に自ら驕侈を以て懼となす。嘗て曰く、人主惟だ一心、之を攻むる者衆し。或は勇力を以てし、或は辯口を以てし、或は諂諛を以てし、或は姦詐を以てし、或は嗜欲を以てし、輻輳して、各、自ら售らむことを求む。人主少しく解つて、其一を受くれば、危亡之に隨ふ、是れ難き所以なりと。嘗て、侍臣に問ふ、創業守成、孰れか難き。玄齡曰く、草味の初群雄並び起り、力を角して後に、之を臣とす、創業難し。魏徵曰く、古しへより、帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失はざるはなし、守成難し。上曰く、玄齡、吾と共に天下を取り百死を出でて一生を得たり、故に創業の難きを知る。徵吾と1/3共に天下を安んじ、常に驕奢は富貴に生じ、禍亂は忽にする所に生唐-太宗文武皇帝-五三五 十八史略卷之五五三六ずるを恐る、故に守成の難きを知る。然れども創業の難は、往けり、守成の難は、方に諸公と之を愼まむと。自ら神采の臣下に畏れらるるを知り、常に溫顏にして群臣に接し、人を導いて諫めしめ、諫むる者を賞し、以て之を來す。惟だ末年東征の役、褚遂良、嘗て諫むれども聽かず、太子立つ、之を高宗皇帝となす。【高宗皇帝】名は治、母は長孫皇后。承乾の廢せらるるや、長孫さ、無忌、力めて太宗に勸めて治を立つ。東宮に在ること七年。太宗、こと〓〓帝範十二篇嘗て帝範十二篇を作つて、以て賜うて曰く、修身治國、盡く其中に在り。一旦不諱更に言なしと。是に至つて卽位す。長孫無忌、褚せ七遂良、先帝の遺詔を受けて、政を輔け、李勣を以て左僕射となし、尋いで、司空となす。業大夫お宗る次儀才でと人赤水焼永徽五年。太宗の才人武氏を以て昭儀となす。)后とな六年。上、皇后王氏を廢して、武昭儀を立てて后となさむとす。以て李勣に問ふ。許敬宗、李義府、之を賛す。褚遂良、可かず。勣曰く、是れ陛下の家事、何ぞ必ずしも、更に外人に問はむと。事、義府-李猫遂に決す。褚遂良、貶せられ、義府、參知政事たり。義府、貌溫ミ評多し當世李猫恭なるが若く、人と嬉怡し、然も、狡險忌克。人謂ふ、笑中刀あり、柔にして物を害す、之を李猫といふと。武后、長孫無忌が己を助けざりしを以て、深く之を怨み、顯慶四官を削つて、年、無忌の黔州に安置す。遂良、先つこと一年にして唐-高宗皇帝-五三七 十八史略卷之五五三八卒す。是に至つて、無忌、初の議者、柳奭、韓瑗と共に皆殺さる。だじやうげん〓〓乾封元年上、泰山に封じ、毫州に至り、老君を尊んで太上玄元皇帝となす。李勣を以て遼東大總管となし、高麗を伐つ。總章元年李勣、平壤を拔き、其王を降し、高麗悉く平らぐ。安東都護府を置く。上元元年。帝、天皇と稱し、后、天后と稱す。二)は初め、帝、賤妾の子忠を以て太子となす。武后、之を廢して、后の子弘を立つ。弘、仁孝、中外心を屬す。后の意に忤ふ。之を鴆す。其次を立つ、賢といふ。又、事を以て之を廢して、其次哲を立つ。上、在位改元するもの十三、曰く、永徽、顯慶、龍朔、麟德、乾じやうげん封總章咸享、上元儀凰、永隆、開耀、永淳、弘道、凡そ三十四年。而して、政、中宮に在るもの三十年。褚遂良等、死せしより後、群臣敢て諫むる者なし。李善感、嘗て、事に因つて、一たび諫む。人、以て、鳳朝陽に鳴くとなす。上、崩ず。太子哲、位に卽く之を中宗皇帝となす。【中宗皇帝】初名は顯、哲と改名す。旣に位に卽き、韋妃を立てて)3后となし、改元して嗣聖といふ。明年、武后、帝を廢して廬陵王となして、其弟旦を立つ。旦、虛器を擁するもの七年、改元して垂唐-高宗皇帝-中宗皇帝ー五三九 十八史略卷之五五四〇撰といひ、永昌といふ。太后、旦を廢して皇嗣となして帝と稱す。之を則天武氏となす。C則天武氏則天武氏は、故の〓州都督武士護の女なり。太原の人。年十四。太宗、其美を聞き、召して、後宮に入れ、貞觀十一年を以て、才人さとなる。時に、天下の歌曲を斌媚娘と名づく。旣に識を成す。貞觀の末、太白屢ば晝現はる。太史、占して云ふ、女主昌ならむと。又秘記を傳ふ、唐三世の後、女主武王、代つて天下を有たむと。太宗、之を惡む。嘗て、群臣と宴するや、各をして小名を言はしむ。武衞將軍李君羨、官稱封邑、皆武の字あり。而して、小名は五娘。太宗、愕いて曰く、何物の女子ぞ乃ち爾かく健なるかと。或ひと奏す、君羨、不軌を謀ると。遂に之を誅す。密に太史李淳風に問ふ。對へて曰く、臣、仰いで天象を觀、俯して曆數を察するに、其人、旣に陛下の宮中に在り、三十年を過ぎずして、當に天下に王たるべく唐の子孫を殺して、殆んど盡きむ、其兆、旣に成れりと。太宗崩ず。才人年二十四、尼となる。高宗、寺に幸す、之を見て泣く。時に、さ王皇后、蕭淑妃と寵を爭ふ。密に髪を長くせしめ、高宗に勸めて之を納る。·既に入つて、后と淑妃と、皆寵を失ふ。武氏、年三父士護に十二、遂に昭儀より后となり、王、蕭、皆殺さる。周國公を尋いで、太原王を加贈す。贈り、高宗、風眩に苦んで、百司の奏事せいめいびんを視る能はず。或は皇后をして、之を決せしむ。后、性明敏、文史唐-中宗皇帝-雷 十八史略卷之五五四二政事を涉獵し、事を處して、皆、旨に稱ふ。之に由つて、委するにを以てし、權人主に伴しく、人、之を二聖といふ。高宗の世に在一)子哲位つて、后、自ら子弘を殺し、子賢を廢す。高宗、旣に崩じ、に卽くや、廢して廬陵王となして、子旦を立つ。后、朝に臨んで、ま制を稱し、武氏の七廟を立つ。一抔の土、未だ英公李敬業、兵を起して、之を討つ。檄に曰く、六尺孤安く乾かず、六尺の孤、安にか在る。又曰く、試に今日の域中を觀よ、にか在る擊つて之を殺す。越竟に是れ誰が家の天下ぞと。太后、將を遣し、遂に大に唐の王貞、又兵を擧げて匡復す、克たずして死す。太后、宗室を殺し、自ら墨と名づけ、皇帝と稱し、國を周と號し、旦を以て皇嗣となし、姓を武と改む。時に塁年六十七。初め、僧懷義を寵し、後に張易之、張昌宗を寵し、兄弟中に居て、事を用ゆ。易之は五郞、昌宗は六郞侫者曰く、人は言ふ、六郞は蓮花に似たり。吾は謂ふ。蓮花は六郞に似たるのみと。墨、人心の服せざるを知り且つ內行正しからず、人の己を議せむことを畏れて、盛に〓密の門を開き、酷吏侯思止、索元禮、周興、來俊臣、吉項等を用ゐて、鍛鍊羅織し、率ね反逆を以て、人を誣ひ、誅殺勝げて紀すべからず。之を用ゐて、天下を拑制す。然れども、權數あつて善く人を用ゐ、に賢才も、亦た之が爲に用ゐらるるを樂む。徐有功、仁恕にして、法;)を執る。嬰、毎に意を屈して、之に從ふ。將相、多く人を得たり。唐-中宗皇帝-五四三 十八史略卷之五魏元忠、婁師德、狄仁傑、姚元崇皆名相宋環、亦た朝に顯はる。と、くわんこうせいしん師德、寬厚〓愼犯せども校せず。弟代州の刺史に除せらる。師1/5德謂ふ。兄弟、榮寵過盛なるは、人の惡む所なり何を以て、之を免れむ。弟曰く、今より、人某の面に唾すと雖も、之を拭はむのみ師德、愀然として曰く、是れ吾が憂たる所以なり。人、汝の面に唾するは、汝を怒らしめむとするなり。然るに之を拭はば、其意に逆つて其怒を重ねむ。唾は拭はざるも、自ら乾く、當に笑つて之き···を受くべきのみと。師德、每に仁傑を薦む、然も、仁傑、毎に師德せを毀る。墨、仁傑に語つて曰く、朕、卿を用ゐしは、師德の薦むる所なりと。仁傑退いて歎じて曰く、婁公盛德、我容れらるること久しと。武承嗣、三思、太子たらむを營求す。仁傑、從容として塁に言つて曰く、太宗、櫛風沐雨、親ら鋒鏑を冐し、以て天下を定ためて之を子孫に傳へ太帝二子を以て陛下に托す。今乃ち之を他族に移さむと欲す。乃ち天意に非ざるなきか。姑姪と母子と、孰れか親しき。陛下、子を立つれば、則ち千秋萬歲の後太廟に配食せむ。一姪を立つれば、則ち未だ、姪、天子となつて、姑を廟に祔する者を聞さかざるなりと。嬰、やや悟る。旣にして、又力めて勸む。遂に房州よか、り廬陵王を召して、都に還らしめ、立てて皇太子となし、子旦を以て相王となす。仁傑、最も信重せられ、面折廷爭を好む。嬰、常に屈從し、稱して、國老となして、名いはず。仁傑、卒す、嬰、泣い唐-中宗皇帝-五四五 十八史略卷之五五四六げんかうちうはくがくたつうきかんおほて數ず。元行冲、博學多通なり。仁傑、之を重んず。行冲、規諫多めいこうちんみおほやくぶつまつそなし。曰く、明公の門には、珍味多し、請ふ藥物の末を備へむ。仁傑やくらうちうえうげん笑つて曰く、吾が藥籠中の物、何ぞ一日も無かるべけむやと。姚元すうとうす、たうり崇等、數十人、皆仁傑が薦むる所。或は曰く、天下の桃李、悉く公けんすの門に在り。仁傑曰く、賢を薦むるは、國の爲にして、私の爲にすせうかしるに非ざるなりと。嬰、嘗て仁傑に問ひ、一佳士を得て、之を用ゐちやうかんしむと欲すといふ。仁傑曰く、張東之といふ者あり、老いたりと雖もさいしやうつひかんししやうやまひい宰相の才ありと。後、竟に東之を用ゐて、相となす。墨、疾に寝ねはなはだかんしさいげんきけいきくわんげんはんゑんじよきうりんしやうぐんりて甚し。東之、崔玄暉、敬暉、桓彥範袁恕己と共に、羽林將軍李たそらひきあないらんとうきうむかくわん多祚等を率ゐ、兵を擧げて、內亂を討ち、太子を東宮に迎へ、關をえきししやうそうかせうじやうやうきううつそんがう斬つて入り、易之、昌宗を庶下に斬り、塁を上陽宮に遷し、尊號をそくてんだいせいくわうていそか武后殂す上つて、則天大聖皇帝といふ。この冬、殂す、年八十二。唐を易へ(西紀七〇五)かいげんてんじゆじよいて周となすもの、十有六年。改元するもの十、曰く、天授、如意、ちやうじゆえんさいばんさいつうてんじんこうせいれさきうしたいそくちやうあん長壽、延載。曰く萬歲通天。曰く神功、聖曆、久視、大足、長安ちやうあんくらゐさがうはい長安の五年、帝、位に復す、唐と號す。帝、卽位二月にして廢せきんしうばうしうかへられ、均州に居る者一年、房州に居る者十三年、還つて太子となるせいかへゐしじやうばうれう者又八年、然る後に、正に反り、韋氏復た皇后となる。上、房陵にじさつごとこうつねとじひそかちか評武在つて、自殺せむと欲する毎に、后每に之を止む。六共に私に誓を送禍り氏本でのいじさいわひまてんじつたほつきん氏のふ異時幸に復た天日を見ば、唯だ欲するままにして禁ぜずと。是てうのぞごとゐまんほどこでんじやうてうせいに至つて、朝に臨む每に、后、必ず帷幔を施し、殿上に坐して朝政唐-中宗皇帝-五四七 十八史略卷之五五四八を預り聞くこと、武氏の高宗の世に在るが如し。上の女安樂公主武三思の子に適く。三思、之を以て、宮禁に入るを得て、韋后に通ず。后、三思と雙陸す。而して上、爲に點籌す。土、遂に三思とちやうかんしとう政事を圖議す。張東之等、皆、制を受く。五人、·黄王爵を賜うてい政を罷む。旣にして、遠く貶して之を殺す。安樂公主等、勢に依つて事を用ゐ、請謁賊を受け、墨敕を降して、官に除し、斜封して中書に付す、時に之を斜封官といふ。凡そ數千人。人、上言するあり、皇后淫亂なりと。土、之を面詰す。其人、抗言して撓まず。せ、中書令宗楚客、制を矯めて之を撲殺す。上の意、快々たり。后及び其黨、始めて懼る。馬秦客、楊均、皆、后に幸せらる。事の泄れむ;)ことを恐れ、安樂公主も、亦た后が朝に臨み、己を以て皇太女となささむを欲し、乃ち相與に餅餤の中に於て、毒を進む。上、位に復して改元するもの二、曰く、神龍、景龍。景龍四年にして、弑に遇ふ。 溫王重茂を立て、后、攝政す。相王の子隆基、兵を起して亂を討ち、后及び安樂公主を斬り、其黨を併せて、皆之を誅し、重茂を廢し、相王を奉じて、之を立つ、之を睿宗皇帝となす。【虐宗皇帝】名は旦。初め高宗崩じ、中宗廢せらるるや、武氏、旦を立つ。帝たる者七年、然も廢せられて、周の皇嗣となる者九年、相王に改封せらるる者十年。是に至つて、復た帝となる。隆基を立てて太子となす。宋環、姚元之、政を爲す。二人心を協せて、弊政唐-中宗皇帝-睿宗皇帝ー五四九 十八史略卷之五五五〇あらたちうりやうふせうしりぞしやうばつこうつくせいたくおこなを革め、忠良を進め、不肖を退け、賞罰公を盡し、請托行はれず、者こうしうきよたうじきふぜんしゆくきんめいら〓んうまひ八風の舞紀綱修擧す。當時翕然たり。祝欽明等を貶す。欽明、嘗て八風の舞つくけいちはらを爲る。人曰ぐ、五經地を掃ふと。いもうとたいへいこうしゆちやうちうゐし帝の妹太平公主、二張を誅し、韋氏を誅する時に於て、皆、力しばしたいこういきほひそんちようともあり。既に屢ば大功を立て勢あつて尊重せらる。上、嘗て、與にけんじんしゆかたむえいぶはゞか政を議し、權人主を傾け、其門、市の如し。太子の英武を憚つてかろあんせきぞうえいちやうせつえうげんしらじやうかんご之を易へむと欲す。韋安布、宋環、張說姚元之等、上の意を感悟しよぶんまするに賴つて、政事、皆太子の處分を取る。よ復た帝となつてけいうんたいきよくより、改元するもの二、曰く、景雲、太極是に至つて三年、自らだじやうくわうしようつたげんそうめいくわうてい太上皇と稱し、位を太子に傳ふ、之を玄宋明皇帝となす。りんしわうゐしちんひそかさい西紀自七一二至七五六ゆう【玄宗明皇帝】名は隆基。あつひそかきやうふく初め、はか臨淄王となる。げうゆう韋氏の亂、えら陰に才ひやくき勇の士を聚めて、密に匡復を謀る。太宗、初め驍勇を選んで、百騎ぶこうませんきさいううりんれいはんきとなし、武后增して千騎となし、左右羽林に隸す。中宗、之を萬騎しおりやうりうきみなあつそのがうけつむすといひ、使を置いて、之を領せしむ。隆基、皆厚く其豪傑に結び、つひえいそうほうへいわうまさ卒に韋氏を誅し、睿宗を奉ず。封ぜられて、平王となる。睿宗、將ちよしちやうしせいきいうこうつとに儲嗣を立てむとす。長子成器、平王の有功なるを以て、力めて之ゆづゆづりに讓り、遂に太子となり、尋いで、禪を受く。かいげんぐわんねんかうりきしいうかんもんしやうぐんないじせにら開元元年高力士、右監門將軍となり、内侍省事に知たり。初せいほんくわんくわういりんしよくめ、太宗、制を定め、內侍省には三品官を置かず、黃衣廩食、門をめいつたほんしやうぐんじよやうや守り、命を傳ふるのみ。是に至つて、三品將軍に敍する者、漸く多唐-玄宗明皇帝-堊 十八史略卷之五五五二くわん〓〓ま堂官增して三千人に至る。内侍の盛なる、是に始まる。姚崇、紫微令となる二年太常、俗樂を併典すべからざるを以て、左右〓坊を置き、之を皇帝梨園の弟子といふ。珠玉錦繡を殿前に焚く。興慶宮を作り、樓を置き、西を花蕚相輝といひ、南を勤政務本といひ、宋王成器等の宅、其側を環る。三年虚懷愼、黃門監となる懷愼、〓謹儉素、妻子、饑寒を免れず。居る所、風雨を蔽はず。姚崇、嘗て謁〓すること十餘日、政{事委積す。懷愼、決する能はず。崇、出づ。須臾に裁決し盡す。顧みて、齊澣に謂つて曰く、我、相たる如何。澣曰く、時を救ふの相といふべしと。懷愼、才の及ばざるを知り、事毎に崇を推す。時に盧懷愼伴食之を伴食宰相といふ宰相四年姚崇、罷む。宋環、黄門監となる。環相となるや、務め顔を犯て人を擇び、百官、各其職を得たり。好んで、して正諫す。え上、甚だ之を敬憚す。環姚崇と相繼いで政を爲す、崇は善く變に應じ、環は善く文を守り、志操同じからず、然れども、心を協せて輔佐し、賦役をして寛平ならしめ、刑罰〓省、百姓富庶。唐世のま、施工匠杜後正姚房宋賢相前には房杜を稱し、後には姚宋を稱し、佗は比するを得るなし二人進見する每に、上輙ち之が爲に起ち、去れば、軒に臨んで唐-玄宗明皇帝-五五三 十八史略卷之五五五四之を送る。八年。宋環、罷む。うぶんゆうここうたういこうぎはなは九年。宇文融、言ふ、天下の戶口逃移し、巧僞甚だ多し、請ふ、けんくわつどうへいしやうじげんけんえうさんせいゆうくわんのう評勸農使誅檢括を加へむと。同平章事、源乾曜、之を賛成す。融を以て、勸農求の具となしくわんのうはんくわんにんぶんかうきそる善政酷吏使となし、奏して、勸農判官十人を置く。天下を分行して、競う好せに例らスポのルる〓イこくきうしうけんふううらうぜうひやくしやうこれくるして刻急をなし、州縣風を承けて勞擾し、百姓之に苦む。どうほんちやうぜつせうぼじゆんじつせいへいまん同三品張說、建議し、壯士を召募して、旬日、精兵十三萬を得たしよゑいぶんれいかうばんじやうげへいのう50諸衞に分隸し、更番上下す。兵農の分るる、是に始まる。ちやうじうしゆくゑいあらたなくわうき十三年。長從宿衞を更め命づけて壙騎となす。かんきうどうへいしやうじひとなせうちよくえん二十一年。韓休、同平章事たり。休、人と爲り峭直。上、或は宴いうせうくわすなはいかんきうげんをは遊小過あれば、輒ち左右に謂つて曰く、韓休、知るや否やと。言終かんそへいかミきうつて、諫疏、旣に至る。左右曰く、休、相となり、陛下殊に舊よりやたんも瘠せたり。土、歎じて曰く、吾は瘠せたりと雖も、天下は肥えむきうやもやうきうれいつと休罷む。張九齡、之に繼ぐ。ちうしよれいりりんほじう評に李て甫柔二十二年。九齡、中書令となり、李林甫、同三品たり。林甫、柔侫其多 Cafe狡ねいかうすうおほくわんくわんおよひひんむすどうせいうか亦數多電壓侫にして狡數多く、深く宦官及び妃嬪の家に結び、上の動靜を伺そうたに旨に稱ふ。かなひ、之を知らざるなし。之に由つて、奏對する每に常いうしうせつどしちやうしゆけいはいぐんしやうあんろくざんとらけいし安祿山二十四年、幽州の節度使張守珪敗軍の將安祿山を執へて、京師ちやうきうれいひぐんれいに送る張九齡、批して曰く、守珪の軍令、若し行はるれば、祿山よろまぬかそのさいゆうをしゆる宜しく死を免るべからずと。上、其才勇を惜んで、之を赦す。九唐-玄宗明皇帝-五五五 十八史略卷之五五五六齡、力爭して曰く、祿山、反相あり、誅せざれば、必ず後患をなさ무む。上曰く、卿王夷甫が石勒を識るを以て、枉げて忠良を害する勿れと。竟に誅せず。祿山はもと營州の雜胡なり。初名は阿犖山。の母、再び安氏に適く。故に其姓を冒す。部落破散して、逃れ來る。狡點にして、守珪に愛せらる。又、史翠子といふ者あり、祿山と里閉を同じうし、又驍勇なり。守珪、入つて、事を奏せしむ。上、名ゆ史思明を思明と賜ふ千秋節に、群臣、皆、寶鏡を獻ず。九齡、前世の興廢を述べて、張九齡千秋千秋金鑑錄五卷を爲つて、之を上る。金金像を上九齡、罷む。李林甫、中書令を兼ぬ。上、在位久しく、漸く奢欲を肆にす。林甫、遂に政を專らにするを得たり。二十六年、忠王を立てて太子となす。二十九年。安祿山を以て營州都督となす。祿山、傾巧にして、善く人に事ふ。上の左右、平盧に至れば皆厚く賄ふ。歸つて、之を譽む。上、益す以て賢となす。天寶元年祿山を以て平盧節度使となす。二年。祿山、入朝す。三年。年を改めて、載と曰ふ。祿山を以て、范陽節度使を兼ねしむ。楊貴妃四載楊太眞を以て、貴妃となす。故の蜀州司戶玄琰の女なり。唐-玄宗明皇帝-五五七 十八史略卷之五〓評上の子壽王の妃たること十年。上、其美を見て、自ら其意を以て乞倫配方配玄超市 其實且つ壽王の爲に別に要り、然る後に之を納れ、凡唐人うて女官たらしめ、禍て朝女な鑑闇のりみ門遂に寵を專らにす。發きす六載。祿山を以て、御史大夫を兼ねしむ。祿山、請うて、楊貴妃の兒となる。九載。祿山に爵を東平郡王と賜ひ、河北道採訪處置使を兼ねしむ。祿山入朝す。楊釗、兄弟姉妹、皆戲水に往いて之を迎ふ釗は貴妃の從祖兄なり。禁中に出入するを得たり。之より先、判度支、屢ば帑藏充物すと奏す。上、群臣を師ゐて、之を觀る。之ミに由つて、金帛を視ること糞土の如く、賞賜限なし。釗に名を國忠と賜ふ。十載。安祿山の爲に第を起し、華麗を窮極す。上、日に諸楊を遣し、之と遊ばしむ。祿山、體肥大上、嘗て、其腹を指して曰く、此胡の腹中、何の有る所ぞ。對へて曰く、赤心あるのみと。祿山、禁中に入るや、先づ貴妃を拜す。上、其故を問ふ。曰く、胡人、母上を先にして父を後にすと。祿山の生日、賜予甚だ厚し。後三日召(し入れ、貴妃、錦繡を以て大〓褓を爲り、宮人をして、綵興を以て之を昇かしむ。上、聞いて歡笑して、故を問ふ。左右、貴妃、祿兒?を洗ふを以て對ふ。上、妃に浴兒の金銀錢を賜ひ、歡を盡して罷む。之より宮掖に出入し、通宵出でず、頗る醜聲あり、外に聞こゆ;)るも、上、亦た疑ばず。又、祿山を以て河東節度使を兼ねしむ。李唐-玄宗明皇帝-五五九 十八史略卷之五五六〇林甫、祿山と語り、毎に其情を描り知つて先づ之を言ふ。祿山、驚服し、見る毎に盛冬にも必ず汗す。林甫を謂つて、十郞となす。旣に范陽に歸るや、其下、長安より歸れば、必ず問ふ十郞何をか言ひしと。美言を得れば則ち喜ぶ。或は但だ云ふ、安大夫に語れ、須らく好く點檢すべしと。卽ち曰く、噫嘻、我死なむと。李林甫、十一載。卒す。林甫、上の左右に媚事して、上の意を迎合して以て寵を固うす。言路を杜絕し、聰明を掩蔽す。嘗て、諸御李林甫曰く史に語つて曰く、仗に立つの馬を見ずや、一たび鳴けば、輒ち斥け加藤兒香芋焼およびせい去らると。賢を妬み能を嫉み、己に勝る者を排抑し、性陰險なり。人以て、口に蜜あり腹に劍ありとなす。毎夜、偃月堂に獨坐し、深思する所あれば、明日必ず誅殺あり。屢ば大獄を起す。太子より以下、皆、之を畏る。相位に在ること十九年、天下の亂を養成し、然も、土、悟らず。然れども、祿山、林甫の術數を畏る。故に、其世て反せず。を終るまで、未だ敢この歲、國忠、相となる。祿山、必ず反せむといひ、且つ曰く、試に召せ、必ず來らずと。十三載。祿山、召を聞いて卽ち至る。上、之に由つて、國忠の言を信ぜず。祿山に、左僕射を加へて歸らしむ。十四載。祿山、蕃將を以て、漢將に代へむと請ふ。上、猶は疑はす。表して、馬三千匹を獻じ、毎匹、二人、鞋を執り、二十二の將部をもつて河南に送らんと請ふ。上、始めて、之を疑ひ、使を遣して唐-玄宗明皇帝-五六一 十八史略卷之五五六二其獻を止む。祿山、床に踞して、拜せずして曰く、馬、獻ぜざるもき)亦た可なり、十月當に京師に詣るべしと。使還る亦た表なし。この安祿山遂に冬、祿山、遂に反し、所部の兵及び奚契丹を發し、凡そ十五萬、范陽反すを發し、引いて南す。步騎精銳、煙塵千里。時に承平久しく、百姓、額眞卿兵革を識らず、州縣、皆、風を望んで瓦解す。進んで、東京を陷る。評文天歲平日天然天あの平原の太守顏眞卿、兵を起して賊を討つ。上、初め、河北、賊に守り誠原は子卿不從ふと聞き、歎じて曰く、二十四郡嘗て一人の義士なきかと。眞卿く 知長し斯 名安の奏至るに及び、大に喜んで曰く、朕、眞卿何の狀たるを識らず、の紊如れしるらてく國と乃ち能く此の如しと。ん欲やす得常山の太守顏杲卿、兵を起して賊を討つ。河北諸郡、貨之に應ず。十五載。安祿山、僭號して大燕皇帝と稱す。賊將史思明、常山を陷れ、顏杲卿を執へて、洛陽に送る。祿山、其己に反するを責む。呆卿曰く、我、國の爲に賊を討つ。恨むらくは、汝を斬らず、何ぞ反といふや。臊羯狗、何ぞ速に我を殺さざる20祿山、大に怒り、縛して、之を咼す。死する比まで、罵つて、口を絕たず。げん、ヘ張巡眞源の令張巡、吏民を帥ゐて、玄元皇帝の廟に哭し、兵を雍丘に起して賊を討つ。郭子儀、李光弼朔方節度使郭子儀、河北節度使李光弼、賊將史思明と戰ひ、大に唐-玄宗明皇帝-番 十八史略卷之五番〓之を破り、首として、河北の數郡を復す。副元帥哥舒翰、賊と戰つて、大に敗る。麾下、翰を執へて、賊に降る。賊遂に關に入る。上、出奔して、馬嵬に次す。將士飢疲して、皆、憤怒し、楊國忠等〓を殺し、及び上に逼つて、貴妃を縊殺し、然る後に發す。父老道をと遮つて留まらむことを請ふ。上、太子に命じて、之を慰撫せしむ。父老、太子の馬を擁して、復た行くを得ざらしむ。皇孫俶をして、上に白せしむ。上曰く、天なりと。太子に喩さしめて曰く、汝、之を勉めよ。西北の諸胡、吾、之を撫すること、素より厚し、必ず其馬嵬の勅力を得むと。且つ、宣旨、位を傳へむと欲す。太子、平凉に至る。朔方の留後杜鴻漸、靈武に迎へ入れ、馬嵬の命に遵はむことを請ふ。牋五たび上る、乃ち許す。上を尊んで、上皇天帝となす。上在位四十五年、改元するもの三、曰く、先天、開元、天寶。太子立つ、之を肅宗皇帝となす。西紀自七五六至七六二【肅宗皇帝】初 名は瑣亨と改名す。忠王として太子となつてより、二十年にして、祿山の亂に遇ひ、是に至つて、位に卽く。京兆の李泌、幼より才敏を以て聞こゆ。上、東宮に在るや、嘗て、泌と布衣の交をなす。使を遣して、之を召し、靈武に謁見し、事、大小となく、之と謀る上皇、成都に至り、冊寶を遣して、靈武に行かしむ。使を遣して、兵を囘紇に徵す。唐-玄宗明皇帝-肅宗皇帝-五六五 十八史略卷之五五六六評招討節度使房琯、大に敗陳家孟を邪甫ず大軍賊と陳濤邪に戰ふ。陳濤杜詠の官琯、車戰を用ゐて、囘都仍歸日四天中血郡日敗死萬〓水作良く戰る冬十子陶澤至德二載。安慶〓、祿山を殺す。祿山、兵を起してより以來、目軍戰野同聲曠義無昏し、是に至つて、復た物を見ず。又疽を病で、躁暴なり。嬖妾の切北京歌詞號第一號人飮箭胡、子を以て、慶〓に代へて嗣となさむと欲す。慶〓、人をして、之を唱來夷雪し、首市、、弑せしめて自立す。祿山僭號、わづかに一年餘。日夜只上、鳳翔に至る。囘紇、子葉護を遣し、精兵四千人に將として至軍至安祿山殺さらしむ。天下兵馬都元帥廣平王俶、副元帥郭子儀、朔方等の軍及び囘紘、西域の衆を將ゐて、鳳翔を發し、長安に至つて賊を擊つ。と賊大に潰ゆ。大軍、西京に入る。俶留まつて鎭撫すること三日、軍を引いて、東に出でて、洛陽に至り、囘紇と夾擊す。賊、大ぶたに敗れ、遂に東京を復す。安慶〓、走つて、鄴を保つ。唯陽城陷り賊將尹子奇、唯陽を陷る。張巡許遠、之に死す。巡、さきに雍張貼許遠文化財丘を守る。軍を寧陵に移し、屢ば賊を破る。旣にして唯陽に入り、遠と共に守つて、屢ば賊を却く。食盡く。或は城を棄てむと欲す。巡遠謀つて曰く、唯陽は、江淮の保障なり。若し之を棄つれば、賊、必ず長驅せむ。是れ江淮なきなり。如かず、堅守して、以て救〓を待たむにはと。茶紙を食ふ。盡く。遂に馬を食ふ。馬盡く。雀を羅し、鼠を取る。雀鼠、又盡く。巡愛妾を殺し、以て士に食はしむ。四萬人、わづかに四百を餘すのみ、終に叛く者なし。賊城に唐-肅宗皇帝-五六七 、十八史略卷之五奏登る。將士、困病して、戰ふ能はず。巡西向再拜して曰く、臣、な力竭く。生きては、旣に以て陛下に報ずるなし。死しては、當に属鬼となつて以て賊を殺すべしと。城遂に陷る、巡遠、執へらる。南霽雲、雷萬春等、三十六人、皆殺さる。上皇蜀郡を發して、西京に還る。乾元元年郭子儀等、九節度に命じて、安慶〓を討たしむ。二年史思明、兵を引いて慶〓を救ふ。九節度の兵、鄴に潰ゆら思明、慶〓を殺し、范陽に還つて僭號す。李光弼、郭子儀に代つて、朔方節度使兵馬元帥となる。光弼、號令嚴整。初め至るや、號令一たび施せば、士卒壁壘、旗幟精明、皆變ず。史思明と戰つて、屢ば之を敗る。上元元年太僕卿李輔國、上皇を西內に遷す。上皇、興慶宮を愛し、蜀より歸るや、卽ち之に居る。多く樓に御す。父老、過ぐるわう·〓〓せんはい者、往往瞻拜して萬歲と呼ぶ。上皇、常に樓下に於て、賜ふに酒食を以てす。又、嘗て、將軍郭英又等を召して、樓に上らしめて、宴を賜ふ。輔國言ふ、上皇、興慶に居り、日に外人と交通し、陳玄上に不利ならむことを謀ると、じ禮高力士、數ば上に啓して、之を遷さむとす。許さず。上、不豫、衆を率ゐて劫遷す。上皇、日に以て懌ばず。因つて革を茹はず、穀を避け、寝く以て疾を成す。二年。史朝義、史思明を殺す。思明、少子を愛して朝義を惡み、唐-肅宗皇帝-五六九 十八史略卷之五五七〇其敗軍に因つて、之を斬らむと欲す。朝義、人をして、思明を射殺せしめて自立す。李光弼、大尉となり、八道の行營を統べ、臨淮に鎭す。寶應元年郭子儀、諸道節度行營に知とし、興平、定國等の軍の副元帥を兼ね、復た朔方に入る。上皇、西內に崩ず。位を傳へし後、七年なり。壽七十八。に上、疾に寢す。上皇の登退を聞いて、轉た劇しく、遂に崩ず。在位七年改元するもの四、曰く、至德、乾元、上元、寶應。初め、ミ張皇后、李輔國と相表裏し、權を專らにし、事を用ゆ。晩に更に隙あり。上、疾篤し。后、太子を召し、謂つて曰く、輔國、久しく禁兵を典り、陰に亂を作さむことを謀る、誅せざるべからずと。太子、上の體を震驚せむことを恐れて可かず。輔國、其謀を聞く。上、崩ずるや、后を殺して而して後に太子を引いて之を立つ、之を代宗皇帝となす。【代宗皇帝】初名は俶。廣平王に封ぜらる。元帥となつて、兩京を定め、楚王に封ぜられ、成王に改められ、旣にして太子となり、豫と改名す。是に至つて位に卽き、李輔國を誅す。雍王适を以て、天下兵馬元帥となし、諸將及び囘紇の援兵を率ゐて、史朝義を討たしめ、大に之を敗る。賊將李懷仙、朝義を斬つて以て降る賊將張志忠を以て成德軍を鎭せしめ、姓名を李寶臣と賜ふ。薛蒿、相衞邢唐-肅宗皇帝-代宗皇帝-毛 十八史略卷之五毛い洛貝、磁等の州を鎭し、田承嗣は魏博、德、滄、瀛等の州を鎭し、李懷仙は盧龍を鎭す。朝廷、兵革を厭苦し、無事を苟冀し、因つて、之に授く諸鎭、自ら黨援をなし、河朔、敢て朝命に抗する、是に始まる。廣德元年吐蕃、入寇す。上、陝州に出奔す。吐蕃、長安に入る關內副元帥郭子儀、之を擊つ吐蕃、遁れ走る。くわんじやていげんしん二年宦者程元振を流す。元振、初め、李輔國に附く。輔國、死するや、元振、權を專らにし、自ら恣にすること最も甚しく、諸將の大功ある者を忌んで、皆、之を害せむと欲す。吐蕃、入る。元振掩蔽して、時を以て奏せず、上の狼狽を致す。中外切齒す。是に至つて、湊州に流さる。臨淮王李光弼、卒す。上の陝に幸するや、光弼至らず、上、之を撫すること、厚きを加ふ。素より子儀と名を齊しうす。徐州に在るに及びて、兵を擁して朝せず。麾下の諸大將、復た尊畏せず、光弼愧恨疾を成して死す。え永泰元年平盧の將李懷玉、節度使侯希逸を逐うて、自ら留後に知たり詔して、因つて之に授け、名を正己と賜ふ。百を取にんしやう?叛將僕固懷恩囘紇吐蕃を誘うて入寇す。郭子儀を召して、涇陽に屯せしむ。懷恩、道に死す。二虜、長を爭うて睦しからず。子儀、人をして、囘紇に說かしめ、共に吐蕃を擊たむと欲す。之より先、懷恩、囘乾を欺いて、子儀旣に死せりといふ。使至る。囘紇、唐-代宗皇帝-五七三 十八史略卷之五毛信ぜずして曰く、郭公在らば、見るを得べきかと、使、還り報す。子儀、數騎と出で、人をして、傳呼せしめて曰く、令公來ると。囘紇、大に驚き、藥葛羅、弓矢を執つて陣前に立つ。子儀、冑を免ぎ甲を釋いて進む。諸會長相顧みて曰く、是れなりと。皆、馬を下つて羅拜す。子儀、亦た馬を下り、手を執つて之と語り、酒を取つん·て相與に誓約して還る。吐蕃、之を聞いて、夜遁る。諸軍囘紇と共に追ひ、大に之を破る、三年。幽州の將朱希彩、李懷仙を殺す。詔して、因つて、希彩を以て鎭を移さしむ。大阪府社宦者魚朝恩を誅す。朝恩、肅宗の時に在つて、觀軍容使となる。軍容の名、是に始まる。九節度相州の敗は、其時なり天下觀軍容宣慰廣德の初に至り、處置使となり、專ら禁兵を總べ、焼勢、朝野を傾く大曆の初、國子監に判たり座に升り、鼎餗;を覆すを講じ、以て宰相を譏る王増は怒り、元載は怡然たり朝恩曰く、怒る者は常情、笑ふ者は測るべからざるなりと。朝政、預らざる者あれば、輒ち怒つて曰く、天下の事、我に由らざるものありやと。上、之を聞いて懌ばず。載閒に乘じて、其專恣不軌を奏す、遂に之を誅す七年。盧龍の將、朱希彩を殺して、朱泚を以て鎭を領せしむ。詔して、因つて之を授く。唐-代宗皇帝-五七五 十八史略卷之五五七六九年。朱泚、弟滔を以て、鎭を領せしめて入朝す。十二年元載不軌を圖ると告ぐる者あり案問して死を賜ふ胡椒八百斛に至り、ミ其家を籍す。他物、是に稱ふ。楊縮、常衰を以て、同平章事となす。縮素より〓儉。制下るや、郭子儀、方に宴し、坐中の聲樂五分の四を減す。京兆尹黎韓止だ十騎を存す。驅從甚だ盛なり卽日、之を省き縮相たること三月にして卒す。上、之を痛悼して曰く天なるか朕の太平を致すを欲せず、何ぞ朕が楊縮を奪ふの速なるやと十四年田承嗣卒す。姪悅、之に代る淮西の將李希烈、節度使を逐ふ。詔して、因つて、鎭を以て希烈に授く。上在位十八年。改元するもの三、曰く廣德、永泰大曆。崩ず。太子立つ、之を德宗皇帝となす。【德宗皇帝】名は适雍王より太子となる。是に至つて卽位すじゃうこん欺罔を以て貶せらる。常衰崔祐甫、同平章事たり。祐甫、時望を收めむと欲す未だ二百日ならず、官に除する者、八百人。上曰卿の用ゆる所、く人多く親故に涉るを謗るは何ぞや。對へて曰評言親祐KTB陛下の爲に人を擇ぶ、ず所く臣、敢て愼まずむばあらず、故に非親に非ず、四季的肉麵を故に非ざれば、何を以て、其才行を諳んじて之を用ゐむと。用ん其じ者四十四溜靑の李正己、ゐ上の威名を畏れ、表して、錢三十萬緡を獻ず。崔唐-代宗皇帝-德宗皇帝-五七七 十八史略卷之五美とんい云とよふわべ名し言祐甫、請うて、使をして溜靑の將士を慰勞せしめ、因つて、以て之航れ往を賜ふ、正己、慚服す。天下、以爲へらく、太平、庶幾はくは望む比にて黨々れ周し弊朋を免ずのべしと。むはあほR튀上方に精を勵まし、治を求め、不次に人を用ゆ。祐甫、楊炎をす、薦む、司馬より除せられて同平章事となる。旣にして、祐甫、病んで、事を視ずい直防止けんちうぐわんねん。財制稅制を建中元年始めて、兩稅法を作る。唐初賦歛の法、田あれば租あ整理すり身あれば庸あり戶あれば調あり。玄宗の末、版籍漸く壞る。至德兵起り所在の賦歛、迫趣して取辨し、復た常準なし。下戸、困弊に勝へず率ゐて皆逃れ徒る。是に至つて、楊炎、建議し、先出を計りて入を制すづ州縣毎歲用ゆる所、及び上供の數を計つて、人に賦し、出を量り、以て入を制す。戶に主客なく、見居を以て簿となし、人は丁中とな特貧富を以て差となし、行商をなす者は在所の州縣三十の一を稅し居人の稅は、秋夏に之を兩徵し、其租庸調雜徭は、悉く省く。打千萬崔祐甫、卒す。天下の忠州刺史劉晏を殺す。晏、善く財計を治む。肅宗、代宗より以來身)有戶部度支鑄錢鹽鐵轉運等の事を領し、同平章事を以て、使に充つ轉運を通じ鹽利を幹し、百貨の低昂を制し、軍國の用、賴つて以て充足す。然れども、久しく、利權を典り、衆頗る之を疾む。又楊炎と相悅ばず竟に忠州に貶せらる。人、炎の旨を希ひ、晏唐-德宗皇帝-乳 十八史略卷之五五八〇の怨望を〓ぐ。上、人を遣して之を縊らしむ。ia二二。成德の李寶臣卒す。子惟嶽、自ら軍務を領す。後、王武俊、斬つて之に代る。評盧杞藍面楊炎、盧杞、同平章事たり。炎、未だ幾ならずして罷む。杞藍鬼色好惡酷薄の相なり面鬼色、口辯あり。上、之を悅ぶ。郭子儀卒す尙父大尉中書令汾陽忠武王郭子儀卒す。子儀、身を以て、天下の安危をなすもの、三十年功、天下を蓋ふ。然も、主、疑はず。は評子儀は位人臣を極む、然も、衆疾まず。嘗て、使をして、魏博に至らと處理ふのみし者しむ。田承嗣、西望して之を拜して曰く、此膝、人に屈せざること久し。今、公の爲に拜すと。中書令を校する、凡そ二十四考、家人こと〓〓三千人、八子六婿皆顯はる。諸孫數十人、安を問ふ毎に、盡く辯ずる能はず、之を額するのみ。年八十三にして終る。せいき平盧の李正己卒す。子納自ら鎭を領す。朱滔、田悅、王武俊、李"納、先後して皆反す。三年。四人、皆自ら王と稱す。李希烈、反す。兩河、兵を用ゆ。府庫支へざること數月。先づ富商の錢を括し、諸道の稅を增し、四年、稅間架を行ひ、陌錢等の法を除く。李希烈、襄城に寇す。詔して、淫原等の道の兵を發して、之を救ふ淫原の節度使姚令言、兵を率ゐて、京師を過ぐ、師を犒ふに、唐-德宗皇帝-五八一 十八史略卷之五五八二惟だ糖食菜燄のみ。衆怒つて亂をなして城に入る。上、出奔す。朱泚亂兵、太尉朱泚を奉じて、主となす。司農卿段秀實。泚を誅せむことを謀る。克たず。泚衆を召して帝と稱せむことを議す。秀實、た其面に唾し、大に罵り、笏を以て泚の額を擊つ血、地に濃ぐ、洲、之を殺し、遂に大秦皇帝と僭號す。之より先、術士桑道茂といふ者あり言ふ、數年の後、宮を離るるの厄あらむ、奉天に天子の氣あり、其城を高大にし、以て非常に備ふべしと、上、之に從ふ。是に至つて遂に奉天に奔る泚奉天を犯す李最兵を率ゐて、赴き援く。渾瑊、批を擊つて之を破る。奉天圍解く、李懷光、難に赴き、亦た批の兵を破つて、奉天に至る。入つて、盧杞の姦を白せむと欲す。杞、之を隔て、入つて見るを得ずして行く。表を上つて、杞の惡を暴す。衆論、亦た喧騰して、杞を咎む。上、已むを得ずして、之を遠貶す。興元元年大赦す。陸贄、上に勸め、己を罪して、以て天下に謝せしむ。奉天より下す所の書詔、驕將悍卒も、之を聞いて、感激して涕を揮はざるなし。王武俊、田悅、李納、表を上つて罪を謝す。李希烈、大楚皇帝と僭號す。ごになる瓊林の大盈庫を行宮に置く。陸贄、諫めて、其榜を去らしむ。李懷光、反す。上、梁州に走る。魏博の田〓、田悅を殺し、自ら軍府を領す。唐-德宗皇帝-五八三 十八史略卷之五五百李晟、長安を克服す。朱泚、走る。其將、之を斬つて以て降る。晟、露布し、行在に至つて曰く、臣、旣に宮禁を肅〓し、寢園に祗謁し、鐘簾移らず、廟貌故の如しと。上、之を覽て、泣いて曰く、天、李晟を生じ以て稷の爲にす、朕の爲にするに非ざるなりと。車駕、長安に還る。ま顏眞〓殺さ顏眞卿李希烈に殺さる之より先、眞卿、盧杞に陷れられ、使を希烈の所に奉ぜしむ。人、言ふ一元老を失ふ。國家の爲に羞づとと賊中に至る之を留むる、將に二歲ならむとす。屈せず。竟に賊に縊らる。貞元元年盧杞、量移せられ、將に再び入らむとして卒す。幽州の朱滔、卒す。書籍廣告馬燧及び諸軍、河中を平らぐ。縊れて死す。二年。淮西の將陳仙奇、李希烈を殺して、以て降る。吳少誠、仙奇を殺す。朝廷、因つて、少誠を以て鎭を領せしむ。中三年。張延賞、同平章事たり。之より先、吐蕃の尙結賛、鹽夏州に據る李晟、嘗て、其一堡を破る渾城馬燧、各、兵を擧げて、之に臨む。懼れて、和を請ふ。辭を卑くし、禮を厚くして、馬燧に求む。燧信じて、朝に請ふ。最曰く、戎狄信なし、之を擊つに如かずと。延賞、晟と隙あり、數ば和を便なりといふ渾瑊をして、吐蕃と平梁に盟はしむ。吐蕃、盟を切 す。瑊走り免る。吐唐-德宗皇帝-五八五 十八史略卷之五五八六蕃、晟、燧城を畏る。曰く、此三人を去れば、唐は圖るべきなりカと是に於て晟を離間し、燧に因つて、以て盟を求め、城を執へ、以て燧を賣り、併せて、罪を得せしめ、因つて、兵を縱つて、直に長安を犯さむと欲す。會ま、瑊を失して止む。李泌、同平章事たり。上、泌と、從容として、卽位以來の宰相を評李泌論じ、人盧杞を姦邪といふも、朕殊に覺らずといふ泌曰く、是しり道杞と破許お迎えください。れ乃ち姦邪たる所以なり。若し、之を覺らば、豈に建中の亂あらむやと泌、謀略あり、然も、好んで神仙を談じて詭誕なり。故に世に輕んぜらる。相たること、未だ三歲ならずして卒す。八年陸贄、同平章事たり。九年。太尉中書令西平忠武王李晟、卒す。十年。陸贄、罷む。〓十一年。贊を忠州別駕に貶す。賛、奉天より以來、力を宣ぶること最も多く、事に隨つて論諫し、百奏を劃切にす。帝、言を盡くせしを追仇す。夏縣の陽城又譖せらる。故に貶せらる初め、夏縣の陽城、處士を以て、徵されて諫議太夫となる。皆風采を想望す。職に在るこはんたくし はいえんれいと七年にして諫めず。韓愈、爭臣論を作つて之を譏る。是に於て、判度支裴延齡、贄を譖す。城諸諫官を率ゐ、闕を守つて、延齡の姦邪、贄の無罪を論ず。時に朝廷、延齡を相とせむとす。城曰く、若し延齡を以て相となせば、當に白麻を取つて之を壞るべしと。庭唐-德宗皇帝-五八七 十八史略卷之五天八どうこくはぐこくししさせんだうしうしに働哭す。遂に沮む。城、國子司業に左遷せられ、後、又、道州刺しへんそのかう史に貶せらる。民を治むる、家を治むるが如し。自ら其考に書してぶじこころらうさいくわせいせつかう曰く、撫字心勞し、催科は政拙、考は下の下と。わいさいごせうせはん十四年。淮西の吳少誠、叛す。けんちう二十一年。上崩ず。在位二十七年。改元するもの三、曰く建中、こうげんていげんまつりごとせいめいものさいうきもちはん興元、貞元。初め、政〓明なる者二歲にして、盧杞用ゐられ、叛じゆんそうくわうていらんあひつ末年は姑息のみ。まつ亂相繼ぎ、太子立つ、之を順宗皇帝となす。しようわうひ【順宗皇帝】名は誦太子たりし時、書を善くする者王伾、棋を善ものわうしゆくぶんごヒばうしやうくする者王叔文あり。共に、出入して娯侍す。因つて言ふ、某は相しやういじつこれひそかがくしんとすべく、某は將とすべく、幸に異日之を用ゐんと。密に、學士韋しつぎおよてうしそくしんりくじゆんりよおんけいけん執誼及び朝士の有名にして速進を求むる者、り陸淳、呂溫、李景儉、かんえふかんたいちんかんりうそうげんりううしやくらむすしいう韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等に結び、定めて死友となし、と0いうしよしようせききひそのたんげん日に與に游處し、縱跡詭祕、其端倪を知る者あるなし。德宗崩じ、ふうしつおんうしなえつげつひしゆく太子位に卽く。之より先、風疾あり、音を失ふこと五閱月。任、叔ぶんら文等、事を用ゆ。りくしやうじやう陸贄、陽城を追うて、京に赴かしむ。未だ至らずして卒す。じやうざいゐえいていだじやうくわう上在位、改元して永貞といふ。僅かに八月、自ら太上皇と稱し、つたけんそうしやうぶくわうてい位を太子に傳ふ、之を憲宗章武皇帝となす。じゆんかんこく【憲宗皇帝】名は純年二十八、太子となつて監國たり。尋いで、わうひわうしゆくぶんへんそのたう位に卽き、王伾、王叔文を貶す。伾病んで死す。其黨、皆遠く貶唐-順宗皇帝-意宗皇帝ー五八九 十八史略卷之五五九〇せらる、す、元和元年。西川の節度使劉闢〓す。同平章事杜黃裳、高崇文を薦めで、之を討たしむ。夏州の留後楊惠琳、朝命を拒む。詔して、之を討つ。兵馬使に斬らる。高崇文、成都に克ち、劉闢を擒にす。京師に送つて、之を斬る。二年。鎭海節度使李錡反す。詔して、之を討つ。兵馬使、錡を執へ京師に送つて之を斬る。三年。沙陀の朱邪盡忠、其子執宜と來り降る。沙陀、勁勇、諸胡に冠たり。吐蕃、戰ふ毎に、以て前鋒となす。後、其囘體に貳あるを疑ひ、之を河外に遷さむと欲す。懼れて、唐に歸す。之を靈州に置く。用ゐて征討するや、皆捷つ。杜黃裳より以後、相繼いで、相たる者、武元衡、李吉甫、裴均、李藩、李絳、皆、賢相たり。塩、嘗て、李吉甫の爲に人才を疏する?三十餘、數月に用ゐ盡す。翕然として、稱して人を得たりとなす。じん〓〓あえ塩、器局峻整、人人敢て干すに私を以てせず。藩、嘗て、給事中と制敕不可なるものあれば、なる、卽ち之を批す。吏、更に素紙を連ねむことを請ふ。藩曰く、かくの如くすれば狀なり、何ぞ批敕と名·1づけむと、垣、之を薦めて相となす。知つて言はざるなし。絳〓直、吉甫は善く逢迎す。絳、與に上の前に爭論する每に、上多く絡を唐-憲宗皇帝- -晃 五九二十八史略卷之五讜讜として直。直とす。時に、在朝、崔群、白居易等の如き、皆、元和の世、朝廷〓明なること、此を以てなり。以て節度七年。魏博の兵馬使田興、吏を請うて奉貢す、詔して、使となし、裴度を遣して宣慰し、錢百五十萬緡を賜ひ其軍を犒ふ。六州の百姓。皆、給復すること一年軍賜を受けて、歡聲、雷の如し。成德、衰、〓、諸鎭の使者、之を見て、相顧みて色を失ふ。(うう興に名を弘歎じて曰く、倔强なる者、果して、何の益かあらむと。正と賜ふ。初め、彰義節度使吳少誠死し、弟少陽、自ら軍府を領す。少陽、陰に亡命を養ふ。少陽、死す。子元濟、自ら軍府を領し、兵を縱つて、侵掠して、東畿に及ぶ。詔して、十六道の兵を發して、之を討つ。平盧節度使李師道、元濟を赦さむことを請ふ。許さず、裴度、淮西の行營を宣慰す。還つて曰ふ、淮西、決して取るべしと。上、悉く兵事を以て、同平章事武元衡に委す。師道、素より、刺客姦人を養ふ。客請ふ、密に往いて元衡を刺さば、他相は必ず爭うて、天子に勸めて、兵を罷めむと。元衡、入朝す。賊暗に之を射殺し。文、度を擊つて、首を傷つく。上、怒る。賊を討つ、愈よ急なり。度を以て、同平章事とす。上曰く、吾、度一人に倚つて、賊を破るに足れりと。度に命じて、彰義節度使を兼ねしめ、淮西宣慰招討使に充て、諸軍を督して進討す。唐郵節度使李愬、先づ賊將丁士良、唐-憲宗皇帝-五九三 十八史略卷之五五九四吳秀琳、李祐を擒にし、釋して、之を用ふ。祐の計を用ゐ、雪夜七十里、兵を引いて蔡州城に入り、鵝鴨池を擊つて、軍聲を混じ、上鷄鳴、入つて元濟の外宅に據る。元濟、牙城に登つて拒戰す。旣にして、擒に就く、檻して、京師に送つて、之を斬る。叛より誅に及ぶまで、凡そ兵を用ゆること二歲。時に元和十二年なり。淮西、旣に平らぐ。上、寝や驕侈なり。之より先二歲、既に、李逢吉を用ゐて、同平章事とし、十三年に至つて、又度支使皇甫簿を用ゆ。鹽鐵す使程昇、羨餘を進めて寵あり。並に同平章事たり。朝野駭愕す。元和の政、非なり。十四年。風翔法門寺の塔の佛指骨を迎へて、京師に至らしめ、禁中に留むる三日、諸寺に歷送す。王公士民、瞻奉捨施して、惟だ及韓愈佛骨表ばざるを恐る。侍郞韓愈、上表極諫し、以て之を水火に投ぜむこを奉るとを乞ふ。上、大に怒り、潮州刺史に貶す。平盧の將、李師道を執へ斬る裴度、罷む。十五年。上、暴に崩ず。上、金丹を服して多躁、左右罪を獲て死する者あり。人人、自から危む。宦者陳弘志、弑逆す。其黨、之を諱んで、但だ藥發すといふ。在位十二年改元するもの一、曰く元和太子立つ、之を穆宗皇帝となす。【穆宗皇帝】名は恆位に卽き、改元して、長慶といふ。四年にし唐-憲宗皇帝-穆宗皇帝ー五九五 十八史略卷之五五九六て崩ず太子立つ、之を敬宗皇帝といふ。【敬宗皇帝】名は湛。位に卽いて、荒淫なり。嬖倖事を用ゆ。ずの李六條線を得る李德裕、丹展の六箴を獻ず一に曰く宵衣、二に曰く正服、三になふくわい曰く罷獻、四に曰く納誨五に曰く辨邪、六に曰く防微と。上遊戯度なく、性復た褊急。宦官、動もすれば捶撻に遭ひ、皆怨む。夜獵して宮に還り、酒酣なる時、宦者劉克明に弑せらる。在位三年。改元するもの一曰く寶曆江王立つ。之を文宗皇帝となす。【文宗皇帝】名は涵、穆宗の子なり。宦者王守澄に立てらる。後、〓と改名す。太和二年、親ら策して、人を制擧す。官者益す橫、天子を建置する、其掌握に在り、權人主の右に出づ。人、敢て言ふなし。賢良方正劉貰、對策して、之を極言す。考官、皆歎服す。か然も敢て取らず、第に中る者は、裴休、李郃、杜牧、崔愼由等、二十二人。皆、官に除す。物論囂然として、屈と稱す。部曰く、劉黃下第し、我輩登科す。能く顏厚なるなからむやと。上疏して、授くる所の官を黃に囘さむと乞ふ。報ぜず。太和五年。上、同平章事宋申錫と共に宣官を誅せむことを謀る。克たず申錫貶死す。九年。上、李訓、鄭注等と宦官を誅せむことを謀る。克たず。注は、もと宦者王守澄の引く所。訓、本の名は仲言、又注に引かれて守唐-敬宗皇帝-文宗皇帝-五九七 十八史略卷之五五九八す、澄に見るを得たり。守澄、上に薦む。個儻にして氣を尙び、文辭口辯あり。權數多し。上、之を悅ぶ。訓、注、上の意を揣り知り、數ば徵言を以て、上を動かす。上、其大事を謀るべきを意ひ、誠を以て之を告ぐ。訓注、遂に宦者を誅するを以て、己の任となす。訓旣に注と勢位共に盛なり。頗る注を忌み、託するに中外勢を協すを以てし、注を出して、鳳翔を鎭せしめ、宦者仇士良を進擢し、以て王守澄の權を分つ。訓、同平章事たり。守澄を除かむことを請ひ、中使をして、之を鴆殺せしむ。注初め、訓と謀つて鎭に至り、壯評ず其げふ小得て人少ず功功を仍つて、ら今遂爭か古を士數百をして、入つて守澄の葬を護せしめ、請うて、內官例こと〓〓をして盡く送らしめ、然る後、之を殺さば、遺類なからむといふ。訓、心に以爲へらく、かくの如くすれば、功、專ら注に歸せむと。乃ち先づ發せむことを謀り、人をして、金吾廳事後の石榴に甘露あす。りと奏せしめ、宰相百官を師ゐて拜賀し、後、上に勸めて往いて觀せしむ。上、宰相をして、先づ往いて視せしむ。訓陽つて言しよくわん〓〓ふ、眞に非ずと。上、仇士良を顧み、諸宦官を師ゐて、往いて見せき、しむ。士良等、旣に至り、風幕を吹いて起し、兵を執る者無數なるを見、驚き走つて、變を告ぐ。訓、金吾の衞士等を呼んで、殿に上らしめ、僅かに擊つて、宦者十餘人を死傷し、事の濟らざるを知つて走る。士良等、神策兵に命じて、金吾の吏卒を殺さしめ、宰相王涯、賈鍊、舒元輿等を執へて、誣ふるに、謀反を以てして、之を唐-文宗皇帝-五九九 十八史略卷之五六〇〇腰斬す。訓の謀、惟だ元興、之を知るのみ。他相は、實に知らざるなり。之より、天下の事、皆、北司に決し、宰相は、文書を行ふのみ。李訓、人に殺されて、首を傳へ鄭注も亦た風翔監軍の宦者の爲に殺さる。開成三年、司徒中書令晉公裴度、卒す。度、憲宗の時、相を罷めてより後、世事に意なく、園池を治め、綠野堂、子午橋等、別墅の勝あり、詩人と觴詠して、自ら娛む。穆宗。敬宗の時、皆嘗て一へいしやうぐん」)くちやうじ度、入つて政を輔け、上の世に至つて、亦た嘗て平章軍國重 事たり時と浮沈するのみ。然れども、四朝の將相、威望遠く四夷に達たす。四夷、唐使を見れば、輙ち度の安否を問ふ。身を以て國家の輕重に繋ぎ、郭子儀の如き者二十餘年。五年。上、崩ず。上、卽位の初、精を勵まし、治を求め、奢を去り、儉に從ひ、中外、翕然として、太平冀ふべしといふ。然れども,宦寺に制せられ、竟に爲すある能はず。嘗て、宰相に問ふ何の時か、太平ならむと。牛僧孺、答ふるに太平家なきを以てす。末年、嘗て近臣に問ふ。朕は周赧、漢獻に如何と。對ふる者、憮然たり。上曰く、赧獻は制を强臣に受く、今、朕は制を家奴に受く。殆んど如かざるなりと。在位十五年。改元するもの二、曰く、太和、開成。弟潁王立つ。之を武宗皇帝となす。【武宗皇帝】名は瀝、穆宗の子なり。文宗、嘗て敬宗の子成美を立唐-文宗皇帝-武宗皇帝-六〇一 十八史略卷之五六〇二てて太子となす。崩ずるに臨み、成美を以て、國を監せしめむと欲す宦者、以爲へらく、立つこと己に由らずと。之を廢して、渥を立てて太弟となし、遂に成美を殺して位に卽く。後に炎と改名す。李德裕を以て同平章事とす。德裕、穆宗の初に在つて學士となり、た李宗閔といふ者嘗て制策に對して、其父吉甫を議切せしを以て、之を恨み、宗閔を構陷す。之より、各、朋黨を分つて更る相排軋朋黨の弊する者四十年にんとす。文宗の時に在つて、德裕、侍郞たり。表度、其相となるべきを薦む。宗閔、宦官の助あつて、遂に相たり。德裕の己に逼るを惡んで、之を出し、且つ牛僧孺を引いて並に相とし、相與に德裕の黨を排擯す。尋いで、德裕を以て、西川を鎭せしむ。德裕、籌邊樓を作つて蜀の地形を圖し、南、南詔に入り、西、吐蕃に達す。日に軍旅に老い邊事に習ふ者を召して、訪ふに、險易遠近を以てし、皆、身歷するが如くす。士卒を練り、堡障を葺し、以て邊に備ふ。吐蕃の將悉怛謀維州を以て來降す。維州は、もと漢地兵を入るの路、吐蕃之を得、號して無憂城といふ。德裕、極め5て此州を得るを以て便となす。牛僧孺、以て納るべからずとなし、か、牛李の怨城を以て、叛將に併せて歸す。吐蕃、之を境上に誅し、慘酷を極む。河北の賊を牛李の怨、之より愈よ深し。僧孺等、尋いで罷む。德裕、入つて相しを朝去るのはは朋易く延る黨たり。宗閔、亦た罷む。宗関、再び相たり。德裕又罷む。二黨互に去難ほ、相擠援す。文宗、毎に歎じて曰く、河北の賊を去るは易く、朝廷の唐-武宗皇帝-六〇三 十八史略卷之五六〇四朋黨を去るは難しと。德裕、しきりに貶黜せらる。上の立つに及びて、德裕を召して之を相とす。德裕、上に言つて曰く正人は邪人を指して邪人となし、邪人も亦た正人を指して邪となす、人主の之を辨するに在りと。上、嘉納す。德裕、維州の事を追論し、悉怛謀に褒贈を加ふ。〓昭義節度使劉從諫、卒す。姪稹、自ら軍府を領す。德裕謂ふ、澤潞の事體、河朔三鎭と同じからず、河朔は亂に習ふこと、旣に久しく累朝之を度外に置く、澤潞は、近く心腹に在り、若し又、因つて之に授くれば、威令復た諸鎭に行はれずと。上、問ふ、何を以て之を制せむ。曰く、稱の恃む所のものは三鎭。惟だ鎭魏之と同せざるを得ば、槇能く爲すなきなり。重臣を遣し、鎭魏に諭して、之を討たむと。詔して曰く、澤澤の一鎭、卿が事體と同じからず子孫の謀をなして輔車の勢を存せしむる勿れと。鎭魏、悚息して、命を聽く。二鎭の兵、朝廷遣す所の行營の將王宰、石雄と各進討す。河東の都將楊弁、亂を作し、節度使を逐ふ。中使馬元實をして曉諭し、且つ之を覗はしむ。元實、賂を受けて還り、衆中に大言す、相公須らく早く之に節を與ふべし、牙門より柳子に至るまで、十五里に列し、地に光明甲を曳く、之を如何にして、之を取らむと。i德裕、之を詰る。辭届す。奏す、微賊決して恕すべからず、若し國力支へざれば、寧ろ、劉稹を捨てむと。河東の兵出でて成る者、朝唐-武宗皇帝-六〇五 十八史略卷之五六〇六延、客軍をして、太原を取らしむるを聞き、妻孥の屠られむことを恐れ、乃ち歸つて、弁を擒にして、京師に送り、之を斬る。未だ幾澤潞ならずして、劉稹、勢窮蹙す。潞人、稘を殺して以て降り、平らぐ。德裕に、太尉衞國公を加へ、牛僧需を貶して循州長史となし、李宗閔を封州に流す。士良致仕之より先、評一良の宦者仇士良の官爵を削り、其家を籍沒す。訣壟、金金、印象、斷る主し秘を內し、其黨、歸るを送る、士良之に〓へて曰く、天子は、閒ならしむべからず、常に宜しく、奢靡を以て、之を娛ますべく、他事に及ぶ書を讀み、儒生を親近せしに暇なからしめよ。愼んで、之をして、疏斥せらむる勿れ。前代の興亡を見て、心に憂懼を知らば、吾輩、れむと。天下の佛寺を毀ち、僧尼は勤して歸俗せしむ。會昌六年、上、崩ず。在位七年。改元するもの一、曰く會昌。光王立つ、之を宣宗皇帝となす。【宣宗皇帝】名は怡憲宗の子なり。幼にして不慧と號し、太和の後、益す自ら韜匿す。文宗、好んで其言を誘うて、以て笑となす。武宗豪邁、尤も之を禮せず、名づけて光叔となす。武宗、疾篤し、子幼なり。宦官、策を禁中に定め、決して、怡を立てて皇太叔となし、更めて忱と名づけ、權に軍國の事を勾當せしむ、裁決、咸な理に當る。人始めて、其隱德を知る。尋いで卽位す。唐-武宗皇帝-宣宗皇帝-六〇七 十八史略卷之五六〇八李德裕、罷む。僧孺、宗関等、北遷す。德裕、三たび貶せられ、崖州司戶に至つて死す。令狐綯、同平章事たり。之より先、絢學士たり。上、嘗て、太宗撰する所の金鏡錄を以て、編に授けて之を讀ましめ、又、貞觀政要を屏風に書するや、毎に色を正しうし、拱手して讀む。嘗て、學士畢誠と邊事を論ずるや、誠具に方略を陳ぶ。上曰く、意はざBilりき、頗牧、吾が禁中に在らむとはと。卽ち用ゐて邊帥となす。果して、其任に稱ふ。上、聰察强記なり。嘗て、密に學士章澳をして處分語州縣の境土風物及び諸利害を纂次せしめ、號して、處分語といふ。刺史、入つて謝して出づる者あれば、曰く、上、本州の事を處分して、人を驚かすと、建州の刺史、入つて辭す。上、問ふ、建州、京師を去ること幾何ぞ。曰く、八千里。上曰く、卿彼に到つて、政此階前は萬里なりをなす。朕、皆之を知れり。遠しといふ勿れ。此階前は、萬里なりと。令狐綯、奏して、李遠を杭州の刺史に擬す。上曰く、吾聞く、長日惟だ消す一局の碁と、遠の詩に云ふ、安んぞ能く人を理めむ。絢曰く、詩人、この高興に托す、未だ必ずしも實に然らずと嘗て詔す、刺史、外より徒るを得るなく、必ず京に至つて察せしめよと綯嘗て、故人を徒して鄰州となし、便道より官に之かしむ。上之に問うて曰く、詔命、旣に行はる。直に廢格して用ゐず、宰相は權ありといふべしと。時方に寒、絢汗、重裘に透る。上、朝唐-宣宗皇帝-六〇九 十八史略卷之五六一〇に臨んで、群臣に對するに、未だ嘗て惰容あらず。宰相、事を奏する毎に、旁に一人なく、威嚴、仰視すべからず。事を奏して畢れば、忽ち怡然として聞語すること、一刻ばかり、徐に復た容を整へ上て曰く、卿輩、善く之を爲せ。常に恐らくは、卿輩、朕に背いて、再び相見るを得ざるをと。綯嘗て、人に謂つて曰く、吾、十年政を秉り、最も恩遇を承く。延英に事を奏する每に、未だ嘗て、汗、衣を沾さずむばあらざるなりと。嘗て、學士章澳を召し、左右を屏けて、之に問うて曰く、近日內侍の權勢如何。對へて曰く、陛下の威斷、前朝の比に非ず。上、目を閉ぢ、首を搖かして曰く、全くは未だし、全くは未だし、尙ほ之を畏るること在りと。又、嘗て、綯と謀つて、盡く宦官を誅せむとし、濫して無辜に及ぶを恐る。絢。評謂令蛋糕的所(電車密に奏して曰く、但だ罪あらば捨るす勿れ、缺あるも補ふ勿れ。自て自もればらた整啻云る耗勿あすあんる理に々にしれる勿れま法のにんく消ふ缺、然消耗して、盡くるに至らむと。宦臣、ひそかに其奏を見る。之に止妙官豈ら盡然補由つて、益す朝士と相惡み、南北司、水火の如し。やにの官は至大中十三年上、崩ず。在位十四年。改元するもの一。長子立つ、之を懿宗皇帝となす。【懿宗皇帝】初名は溫、〓王に封ぜらる。寵なきを以て、太子たるを得ず。宣宗崩ず、宦者之を立つ、更めて灌と名づく。浙東の賊裘甫起る。聲中原に振ふ觀察使王式、討つて、之を斬る唐-宣宗皇帝-懿宗皇帝六二 十八史略卷之五六一二九年。徐州の賊龐動起る。之より先、南詔、大理皇帝と稱し、兵を擧げて入寇し、播邕交趾を陷る徐酒の兵に敕して、桂州に戌せしむ。期を過ぎて代らず。遂に亂を作す。助粮料判官となる。戍卒、推して、以て主となし、兵を擁して、北に還り過ぐる所、剽掠す。徐州に至り、因つて節度使を殺し、諸郡を陷る。招討使康ん承訓、之を擊ち、沙陀の朱邪赤心を以て前鋒となす。訓、敗死す。李國昌赤心に、姓名を李國昌と賜ひ、大同軍節度使となし、又、振武節度使となす。こ咸通十四年、上、崩ず。在位十五年。改元するもの一子晉王立つ、之を僖宗皇帝となす。【僖宗皇帝】名は優。懿宗の少子なり。年十三、宦官に立てらる。懿宗より以來、奢侈日に甚しく、兵を用ゐて息まず。歛賦愈よ急水旱實を以て聞せず。百姓流殍控訴する所なく、所在相聚まつて黃集盜をなす。濮州の人王仙芝、起る。曹州寃句の人黃巢、之に應ず。巢騎射を善くし、任侠を喜ぶ。嘗て、進士に擧げられて第せず。仙芝と共に私鹽を販る。是に至つて、衆を聚めて、州縣を攻剽す。窮民、之に歸する、數月に數萬。仙芝、汝鄭唐郵を攻陷し、鄂州に寇し、安州を陷れ、〓南に寇す。招討曹元裕と申州に戰つて大敗す。又黃梅に大敗す。之を斬る。黃巢鄲沂濮を陷れ、宋汴を掠む。南に渡つて、洪虔吉饒信を陷る。宣州に寇し、浙東に入る。鎭海節唐-僖宗皇帝-六二三 十八史略卷之五六一四度使高駢に破らる。遂に廣南に趨り、廣州を陷る。潭州に出で、北に渡つて襄陽に向ふ。〓門に敗れ、復た引いて南し、宣州を陷る。釆石より江を渡る。旣にして、淮を渡り、申州を陷れ、穎宋徐衰の境に入る。東都を陷れ、引いて西し、潼關に入り長安に入る。上、蜀に出奔す。巢大齊皇帝と僭號す。諸道、兵を發して赴き援く。國昌の子李之より先、沙陀李國昌の子克用、兵馬使となり、蔚州大同の軍を戌克用る、諸將、謀つて曰く、今、天下大に亂れ、朝廷の號令、復た四方に行はれず。是れ乃ち英雄功名富貴の秋なり。李振武、名、天下に聞こえ、其子、勇、諸軍に冠たり。若し輔けて以て事を擧ぐれば、代北は平らぐるに足らざるなりと。人をして、潛に蔚州に詣つて、克用に說かしむ。克用、雲州に趨いて、之を取る。河東の招義、之を討つて大敗す。克用忻代に寇し、晉陽に逼る。旣にして、大に盧龍の兵の爲に敗らる。蔚朔の兵も亦た討つて其父國昌を敗る。父子、亡げて達旦に走る。朝廷、其罪を赦し、其兵を召して、賊を討鴉軍たしむ。克用、沙陀を將ゐて來る。賊.之を憚つて曰く、鴉軍至るさと。しきりに、賊を破つて、長安を復す。巢宮室を焚いて遁れ、蔡州に至る。節度秦宗權、之に降る。巢、汴州に趨く。克用等、追擊して、大に之を破る。未だ幾ならずして、賊黨、巢を斬つて、以て降る。朱全忠克用の汴州に至るや、朱全忠之を襲ふ。全忠は巢の將朱溫なり。唐-僖宗皇帝-六一五 十八史略卷之五六一六先に巢に遣されて、同華を攻陷し、尋いで、華州を以て降り、名を全忠と賜ひ、宣武節度使となる。克用を館して、甚だ恭し。克用、酒に乘じて、頗る之を侵す。全忠、不平なり。兵を發して、驛を圍んで之を攻む。克用醉ふ。左右、水を以て、其面に沃いで之に告ぐ。克用、乃ち目を張り、弓を援つて、起つて走る。大雷雨晦冥なるに會し、醉を扶け、電光に乘じ、城に縋して出づ。汴人、橋をくわた扼す。從者力戰して度るを得て免る。克用、晉陽に還り、甲兵を治め、表して全忠を討たむことを乞ふ。詔して之を和解す。聽かず上、成都を發して、長安に還る。秦宗權、僭號す。上の蜀に奔るや、宦者田令孜、實に之を挾む、自ら以て功となし、權、己より出づ。河中の王重榮前に亂を作して自立す。令玫、朱玫等を遣して、之を攻む。重榮、救を克用に求む。克用、方に朝廷の全忠を罪せざるを怨む。上言す。攻等、全忠と相表裏して、共に臣を滅せむと欲すと。兵を引いて、河中に赴く京師震恐す。令孜、上を劫して、鳳翔に奔る。朱攻、追ひ逼れども及ばず。肅宗の玄孫裏王熅を立てて帝となす。攻の將王行瑜、玫を斬る。爆河中に奔る。王重榮、首を斬つて、行在に送る。上、長安に還る。上在位十五年。改元するもの五、曰く乾符、廣明、中和、光啓文德。日に宦官と相處るのみ。天下大亂、盜賊蜂起、豪傑因つて其唐-僖宗皇帝-六一七 十八史略卷之五六一八閒に起り、互に相呑噬す。朝廷制する能はず。上崩ず、壽王立つ之を昭宗皇帝となす。【昭宗皇帝】名は傑、僖宗の弟なり。信宗大漸、室者之を立てて太弟となし、遂に位に卽く。後、名を曄と更む。帝、明粹にして英氣あり。文學を喜ぶ。信宗の威令振はず、朝廷日に卑きを以て、前烈を恢復するの志あり。踐祚の初、中外忻忻たり。然れども、内、宦寺に制せられ、外に强鎭あり、初志竟に遂げず。越州の董昌僭號す。昌、さきに杭州に據る。錢鏐、兵馬使たり朝廷、昌に命じて、漸東に帥たらしむ。鏐、杭州を領す。是に至つて、昌、帝を越に稱するや、鏐に詔して之を討つ。す三鎭闕を犯鳳翔の李茂貞、華州の韓建、那州の王行瑜、三鎭、兵を擧げて闕を犯し、宰相を殺し廢立を謀る。李克用、來り討つと聞き、乃ち去る克用、邪州を攻めて行瑜を斬り、將に兵を岐華に移さむとす。貴近、沙陀の甚だ盛なるを恐れて、之を止む。克用、隴西郡王より爵を晉王に進む。兵を引いて晉陽に還る。錢鏐越州に克つ。董昌、誅に伏す。初め、李克用、渭北に屯す。李茂貞、韓建、之を憚り、朝廷に事ふること、甚だ恭し。克用去る。二鎭、復た驕慢なり。茂貞、兵を擧げて闕を犯す。上、華州に出奔す。克用、援を遣す。又、朱全忠六·が洛陽に營して駕を迎へむとするを聞ぎ、茂貞、建と皆懼れ、上を唐-昭宗皇帝-六一九 十八史略卷之五층)奉じて、長安に還る。之より先、嘗て、諸王をして、兵に將として巡警せしめ、又四方に出して、藩鎭を撫慰せしめむと欲す。南北司、事を用ゆる者、其己に利あらざるを恐れ、交も諫めて以て不可くわん〓〓となす。上、已むを得ずして、之を罷む。上、華に在りし時、宦官劉季述、諸王十一人を圍殺す。是に至つて、季述、上を少陽院に幽して、太子裕を立つ。同平章事崔胤、神策の將に說いて、季述を討之誅し、土、位に復す。宦官、胤を去らむことを謀る。時に朱全忠、天子を挾んで諸侯に令するの意あり。胤書を以て、之を召す。全忠兵を擧げて來る。室者韓全誨等、上を却して、鳳翔に如かしむ。全忠、之を圍む。李茂貞、遂に全誨等を殺し、上を奉じて、長こと〓〓安に還らしむ。全忠、兵を以て、宦官を驅つて、盡く之を殺す。其出でて諸方に使する者は、所在に詔して、之を誅せしめ、黄衣幼弱評三十人を存して、洒掃に備ふ。宦官は、文宗より已後、武而唐氏し代則百廢置、加る官漸次以て三其掌遂到女天年で降握に在り、定策國老、門生天子の號あるに至る。是に至つて、大に相にり禍くか、宦事誅殺せらる。全忠、東平王より爵を梁王に進められ、汴に還る。を用ゆふを致し、全忠、威、天下に震ひ、纂奪の志あり。胤懼れて、之が爲に備白芝麻雀湯獨立て行くり難3.0全忠、表して、胤を除かむことを請ひ、密に其黨をして之を殺至れさしめ、遂に上に請うて東京に遷都せしめ、百官を促して東行し、士民を驅り徒す。上、侍臣に謂つて曰く、鄙語に云ふ、紇于山頭、雀を凍殺す。何ぞ飛び去つて生處に樂まざると。朕、今、漂泊して、唐-昭宗皇帝-〓三 十八史略卷之五六三竟に何の所に落つるを知らずと。泣下つて、巾を沾す。上、洛陽に至る。李茂貞等、檄を移し、興復を以て辭となす。全忠、將に西討せむとし、上の英氣あるを以て變を生ぜむことを恐れ、人を遣し、洛に入つて、之を弑せしむ。上、位に卽いてより、賢豪を夢想せざるに非ざるも、卒に之を用3評作宰歌ゐず。嘗て、朝士鄭緊といふ者あり、該諧を好み、歇後の詩を爲つ可知て、時事を嘲る。上、其所蘊あるを意ひ、手づから班簿に注して以皮鄭國肉緊命絕頂て相となす。堂吏、走つて告ぐれども信ぜず。旣にして賀客至る。見頽る勢が如綮、首を搔いて曰く。歇後の鄭五宰相となる。時事知るべしと。上、在位十七年。改元するもの七、曰く、龍紀、大順、景福、乾む寧光化、天復、天祐。子立つ、之を哀皇帝となす。【哀皇帝】初名は祚。昭宗、廢太子裕あり、既に壯。全忠、之を惡む。祚、幼を以て立つを得たり。名を祝と更む。全忠、裕等九人を殺す、皆、昭宗の子なり。全忠、相國となり、九錫を加ふ。帝、在位、仍ほ天祐と稱す。四年ならずして梁に禪り、尋いで弑せらる。唐は高祖より、是に至るまで、二十世、凡そ二百九十年。唐-昭宗皇帝-哀皇帝-六二三 評譯十八史略卷之六五代梁西紀自九〇【梁太祖皇帝】初名は溫、姓は朱氏、陽山の人、朱五經の子なり。七至九二三少にして無賴、黃巢に從つて、盜をなし、唐に降つて、名を全忠と賜ふ。初め、汴に鎭し、徐州、兗州、〓州を攻併し、河北、河東の諸郡を攻め、屢ば李克用と兵を交へ尋いで河中、晉、絳を取り、兵を華岐に用ゐ、東、靑州を降し、南、〓襄を取り、諸鎭の間を橫五代-梁六二五 十八史略卷之六六二六「(行し、唐都を洛に劫遷し、遂に唐を簒し、名を晃と更む。其兄全昱評製造販売、を封じて、王となす。嘗て、之を罵つて曰く、朱三、汝、天子とな天子おねえの 赤か云々全昱るか汝、黄巢に從つて、賊を作す。天子、汝を用ゐて、四鎭節度しします溫をな評遺憾使となす、何をか汝に負く。奈何ぞ、唐家三百年の社稷を滅して、自〓くようら帝王となるや、行く當に族滅すべしと。此時、李克用、晉に王たり。李茂貞、岐に王たり。楊行密、吳王となつて、淮南に王たり。行密、旣に卒す。子渥、之に代る。王健、蜀に王たり。錢鏐、兩浙に王たり。王潮、聞に據る。旣に卒す。弟審知、之に代る。馬殷、湖南に據る。劉隱、廣に據る。皆、唐末より以來、諸州に割據す。梁主、馬殷を以て楚王となす。蜀主王健、帝と稱す。克用、晉王李卒す。初め、克用、養子あり、存孝といふ。最も驍ゆう。(1勇にして功あり。養子存信、疾んで、之を讃す。存孝、禍を懼れて叛す。克用、討つて獲て、囚へ歸り、其才を惜み、意に刑に臨み、必ず之が爲に請ふ者あらむを意ふ、諸將、其能を疾み、竟に一人の言ふなく、遂に死す。又、薛阿檀といふ者あり、亦た勇、密に存孝と通じ、事の泄るるを恐れて自殺す。之より、克用の兵勢、寝く弱し。唐末、數ば汁人に攻められて、數州を失ふ。汴兵、直に晉陽城下に抵る。克用、城に登つて備禦し、寢食に遑あらず。後に、汴か兵、再び晉陽を圍み、疫を以て還る。克用、幾んど走らむと欲す。五代-梁六二七 十八史略卷之六奈人h汴兵の去るに會して止む。克用、汴人と爭ふ能はざるもの累年、悒い存勗悒以て卒するに至る。子存勗立つ。時に、梁兵、晉を侵して、潞州を圍む。晉の李嗣昭、城を開ぢ、固守して年を踰ゆ。梁夾寨を築いて、之を守る。存勗、諸將と謀つて曰く、朱溫の憚る所のものは先王のみ。吾が新に立つを聞かば、以て童子となして、必ず驕怠の心あらむ。もし精兵を簡び、道を倍して、之に趨き、其不意に出づれば、威を取り、覇を定むる、この一擧に在り、失ふべからざるすなりと。兵を師ゐて晉陽を發し、三垂岡下に伏し、旦に大霧に乘じて、直に夾寒に抵り、塹を塡め、鼓譟して入る。梁兵、大に潰ゆ遂に潞の圍を解く淮南の將張頴、徐溫、楊渥を弑す。溫、復た顎を殺す。將吏、楊隆演を推立す。徐溫、自ら昇州を領し、養子徐知誥を以て、往いて之を治めしむ。梁、王審知を以て聞王となす。梁、劉守光を以て燕王となす。守光は、盧龍節度使仁恭の子なり。之より先、其父を囚へて、自ら軍府を領す。梁の夏州亂る。節度李彝昌を殺し、其族父仁福を以て、之に代らしむ。夏州の李氏、本姓は拓跋、上世、唐より姓を賜ひ、鎭を領すること久し。廣州の劉隱、卒す。弟巖、之に代る。五代-梁六二九 十八史略卷之六六三〇劉守光、燕帝と稱す。鎭州の王鎔、定州の王處直、晉王を推して、盟主となす。梁、鎭州を攻め、諸郡を襲ひ取る。晉王、其兵を柏〓に伐つて、大に之を破る。晉、二鎭を帥ゐて燕を伐つ。梁主、之を救ひ、大に敗れて、走り歸る。之より先、梁主、旣に疾あり。是に至つて、慙憤して曰太原の遺孽 我、天下を經營すること三十年、意はざりき、太原の遺孽更に昌熾、かくの如くならむとは。吾、其志を觀るに、小ならず。我死せば、諸兒、彼の敵に非ざるなり。吾、葬地なからむと。疾愈よ劇且つ課怒を加ふ。假子、友文の妻を愛し、將に友文を立てて嗣となさむとす。遂に其子友珪に私せらる。在位六年。改元するもの二、曰く、開平、乾化。初め、汴州を以て東都開封府となし、洛陽を西都となし、遷つて洛陽に都するもの凡そ四年。友珪、自立す。尋いで、誅に伏す。均王立つ。【均王】名は友貞、初め東都指揮使たり。友珪の簒弑するや、兵を起して、之を誅して、汴に卽位し、名を塡と更む。晉王、幽州に入り、燕の劉仁恭及び守光を執へ、歸つて之を斬る梁、荊南節度使高季昌に爵を賜うて王となす。保契丹の阿保機は、古しへの東胡の種なり。其國、の機契大阪府中央局さきに橫山の南り遼に在り、もと鮮卑の舊地、元魏の時、自ら契丹と號す、初め、太賀五代-梁六三一 十八史略卷之六六三二氏、八子あり、八部太人と號す。一人を推して主となし、三歲一たび代る。唐の開元中、邵固といふ者あり、衆を統ぶ。詔して、襲いで王たるを許す。是に至つて、諸部、耶律斡里の少子阿保機を以阿保二九機西至紀九自六一は六て主となす。奚、渤海を並せ、始めて、元を建て、復た代を受けす。國人、之を天皇王といふ。廣州の劉巖、越王と稱す。既にして、帝と稱し、國號を改めて、漢といふ。後、また、名を襲と更む。な吳の徐溫、徒つて昇州に治し、徐知詰を以て入つて吳政を輔けしむ。蜀主王建、殂す。子宗衍、立つ。吳主楊隆演、卒す。弟博普、立つ。梁錢鏐を以て吳越國王となす。晉、梁と連歲兵を交ふ。梁の魏州、晉に降る。晉王、魏に入つて德州、澶州を拔く。梁の劉郭、晉陽を襲ひ、克たずして還る。鎭定の營を攻むるや、晉師、之を敗る。鄂魏州を攻む。晉王、又之を敗る。梁、又兵を遣して晉陽を襲ふ。晉人、擊つて之を郤く。晉、5衞、磁、洛、相邢、滄、貝の州に克ち。濮鄲を掠む。梁人、河を決して、以て晉を限る。晉王、攻めて其四寨を拔く。既にして、3大擧して、梁を伐ち、胡柳に戰ふ。晉の周德威、敗死す。晉王、兵を收めて、復た戰ひ、大に梁軍を敗る。晉、德勝南北の兩城を築五代-梁六三三 十八史略卷之六六三四かせふたうわうさんしんかく。梁、之を攻む、克たず。梁の招討王瓚、晉の爲に敗られ、梁の河ちうしんてうわうよう中晉に降る。鎭州の將、趙王王鎔を弑す。晉王、討つて之を平らぐ。ごしよくしばしさ之より先、吳蜀、數ば書を以て、晉王に勸めて、帝と稱せしむ。晉いせんわうゐげんまさつとたうしやしよくふく王、自ら謂ふ、先王遺言あり。當に務めて唐の社稷を復すべしとでんこくほうしううしやうしみながくわんしん旣にして、傳國の寶を魏州に得、將士皆賀し、勸進して己まず、遂ていゐたうげん李嗣源を遣して、しうんしうに帝位に魏に卽いて、國を唐と號し、梁の〓州をれうわうげんしやうもつせうたうとくしやう襲ひ取らしむ。梁、王彥章を以て招討となす。唐主、德勝の守者をいましわうてつさうゆうけつつゝし王鐵槍は勇決なり戒めて曰く、王鐵槍は勇決なり、しよさいやうりう之を謹めと。りよくこう彥章果して、か南城を拔き、進んで諸寨を拔き、楊劉に至つて力攻す。克たずして退く。うんたうしゆ梁、彥章をして鄲を攻めしむ。唐主、之を救ふ。梁、敗れ、彥章死しげんぜんぱうたいれうな評弟み主屋 を し て も て て つ てす。唐、嗣源を以て、前鋒となし、五日、大梁に入る。梁主、猶ほに所兄臨梁尙しよきやうだいあやふじようおもんほかこと〓〓殺す諸世諸兄弟危きに乘じて亂を謀らむを慮つて、盡く之を殺し、尋いおのれで、其下に命じて、己を殺さしむ。在位十一年。改元するもの二、一個大正貳年ていめいりようとくたいそていべし曰く、貞明、龍德。梁は、太祖帝と稱せしより、是に至るまで、二世一十七年にして亡ぶ。唐そんきよくしやだしゆやせんせい【唐莊宗皇帝】名は存勗、沙陀の人なり。本姓は朱邪、先世、功をちゝこくようゆうりやくもくびべうどくがんりう立てて姓李を賜ふ。父克用、勇略あり、一目微眇、獨眼龍と號す。たうくわうさうたひたいこうしゆしあだ唐の爲に、黄巢を平らげ、大功を立て、晉に王たり。朱氏と仇とな五代-梁-唐六三五 十八史略卷之六六三六る.暮年頗る爲に蹙められ、憂、色に形はる存勗、幼にして進言して曰く、朱氏、凶を窮め、暴を極む。人怨み、神怒る。極めて將に斃いとれむとす。至此一、世、忠貞を襲ぬ。大人、當に遵養時晦、以て其かろ〓〓衰を待つべし。奈何ぞ、輕しく、沮喪を爲し、群下をして望を失はミしめむやと。克用說ぶ。終に臨んで、立てて嗣となし、其下に謂つて曰く、この子、志氣遠大、必ず能く吾が事を爲さむと。年十七、晉王の位を嗣ぎ、卽ち兵を擧げて、梁を破り、潞の圍を解き、之よしば梁祖、子を生まば、當に李亞子の如の當子如にをく 李生歎じて曰く、大吾な亞まり、連りに勝つ。子酒店、のがるくなるべし。吾が兒は、豚犬のみと。存勗、東、幽州を併せ、北、ペはし豚み兒契丹を郤け、南、梁と河を夾んで百戰す。之より先、晉陽の監軍張せつおうと!?承業晉王の爲に財賦を招拾し、兵馬を召補す。攻戰連年、接應乏さしからざるは、皆承業の力なり。承業の意は、唐の宗社を復するに在り。王の將に帝と稱せむとするを聞き、力諫す。止むべからざるを知るや、慟哭して曰く、諸侯血戰、もと唐家の爲にす。今、王、自ら之を取り、老奴を誤ると。悒悒、疾を成して卒す。王、位に卽き、音を改めて唐となし、唐の祀を奉ず。汴に入り、梁を滅し、大梁に都し、旣にして、洛陽に遷る。侍中郭崇韜、謀略あり、是に至(か、つて、權內外を兼ね、謀猷規益、忠を竭して隱すなく、人物を薦引す。他相は成を受くるのみ。〓南の高季興、入朝す。季興は、季昌の改名なり。唐、以て南平五代-唐毫 十八史略卷之六六三八わう王となす。しよくしゆわうえんはんゆういんめんたうおこくわうしけいきふくわくすうたう蜀主王術、盤遊淫酒、國亂れ、盜起る。唐、皇子繼岌と郭崇韜とほろぼそのぞくせきけいきふを遣し、之を伐つて遂に蜀を滅す、行、降る。其族を赤す、繼岌、ざんすうたうかへ讒を信じ、崇韜を殺して還る。孟知祥を以て西節度使となす。まうちしせいせんせつどし唐、かやうやおごはじめれいじん唐帝、梁に克つてより後、漸く驕り、首に伶人を以て、刺史となえうおんりつならふんぼくいうじんす。帝、幼より、音律を習ひ、或は時に粉墨を傅けて、優人と共に李天下たはむいうめいてんかりてんか戯る。優名を李天下といふ。嘗て、自ら呼んで、李天下、李天下というじんけいしんまにはかすそのほゝうしんきいぶ。優人敬新磨、遽に前んで其類を批つ。帝、色を失ふ。新磨、おもむろおさなたれ徐に曰く、天下を理むるは、只だ一人なり。尙ほ誰をか呼ぶやと。よろこしよれいきうえきしんろうふんしつ帝、悅ぶ。諸伶、宮掖に出入し、指紳を侮弄す。群臣、憤疾するもあひぶあへて相附託し、くわてん敢て氣を出す者なく、亦た反つ貨を納れ、展轉して、おんたくもとせいほしひまゝざんとく以て恩澤を干むる者あり、政を〓し、人を害し、恣に讒慝をなす。しゆくしやうあはれしばしいうれうじうせん帝、宿將を疎忌し、軍士を恤まず、數ば出でて遊獵し、民田を蹂踐じやうかしゑんyはくしやうぐわけうましまとし、上下咨怨す。魏博の將、瓦橋を成る。代つて歸るや、復た留まばいしうてうざいれいほうげふとつて貝州に屯せしむ。遂に亂をなし、趙在禮を奉じ、入つて、鄴都しやうりしげんじやうかぐんしに據る。唐、將李嗣源をして之を討たしむ。城下に至る。軍士、大さわせんに課いで曰く、將士、主上に從ひ、十年百戰、以て天下を得たり。ばいしうじゆそつしゆじやうゆるじうばちよくすうそつけんきやう今、貝州の成卒、歸るを思ふ、主上赦さず、從馬直の數卒、喧競すにはかそのぞくわがはいはんしんるも、遽に其族を誅せむと欲す。我輩、初めより、叛心なし、惟だ五代-唐亮元 十八史略卷之六六四〇死を畏るるのみ。今、城中と勢を合せむと欲すと。白刄を拔き、嗣源を擁して城中に入る。城中、外兵を受けず、之を逆へ擊つ。皆、潰ゆ。嗣源、詭辭して、出づるを得たり。將に兵を召して亂者を攻めむとす。安重誨曰く、公、元帥たり。不幸にして、凶人に劫かさる。若かず、星行して、闕に詣つて、天子に見えむには庶はくは、自ら明かにすべしと。嗣源、乃ち、南相州に趨る。譜者奏す、嗣源、既に叛すと。嗣源上章して、自ら理す。遏めて、通ずるを得ず。始めて、疑懼す。石敬塘曰く、安んぞ、上將、叛卒と共に城に入つて、佗日恙なきを保するを得る者あらむや。大梁は、天下の都會。願はくは、先づ往いて、之を取れ。始めて、自ら全うすべし。康義誠曰く、主上無道、軍民怨望す。公、衆に從へば生きむ、節を守れば必ず死せむと。嗣源、乃ち敬塘を以て先鋒となし、李從珂を殿となし、兵を引いて、大梁に入る。唐主、關東に如き、嗣源、既に大梁に據つて諸軍離叛すと聞き、神色沮喪、歎じて曰か、く吾、濟らずと。卽ち命じて師を旋す。從馬直郭從謙、兵を帥ゐて帝を氾水に攻む。唐主、流矢に中つて殂す。帝と稱する、わづかに三歲にして弑に遇ふ。改元するもの一、曰く同光伶人、樂器を歛め、屍を覆うて、之を焚く。嗣源、之を聞いて痛哭す。乃ち、洛陽に入る。百官、牋を上つて、勸進すれども許さず。又三たび、嗣源に請うて國を監せしむ。乃ち之を許す。繼岌、蜀より歸り、途に內五代-唐査 十八史略卷之六六四二なんじさつかんこくためいそうくわうてい難を聞き、長安に至つて自殺す。監國立つ、之を明宗皇帝となす。じんばくきつれつしんわうこくようしげん【明宗皇帝】もと胡人選佶烈なり。晉主克用の養子となり、嗣源とさうそうほろぼちうしよれいばんかんばほ名づく。莊宗、梁を滅すや、嗣源、功、最も高し。中書令蕃漢馬步そうくわんげふはんそつげふ總管となり、令を受けて、鄴を討ち、叛卒の推す所となる。鄴よりべんおもむらくたん汴に趨き、洛に入り、遂に位に卽く。名を壹と改む。きつたんあはうきしゆつとくくわうた契丹の阿保機卒す。子德光立つ。リ塗裝大大正師のなしゆつえんかんたけういんざんばうしいそのびんわうしんち子延輸立つ。閩王王審知卒す。驕淫殘暴、其下、之を弑して、其おとうとえんきんりんあらた弟延鈞を立つ。後、帝と稱す。、名を璘と更む。ごわうやうふ吳王楊溥、帝と稱す。なんへいわうかうきこうこしようくわいた南平王高季興卒す。子從誨立つ。せいたのちきはんた楚王馬殷卒す。子希聲立つ。後、希聲卒す。希範立つ。こゑつわうせんりうしゆつこげんくわんた吳越王錢鏐卒す。子元瓘立つ。かしうじんふくしゆつこいてうつ夏州の李仁福卒す。子彝超嗣ぐ。せいせんまうちしやうあはしよくわう西川の孟知祥、東川を併す。知祥を以て蜀王となす。しんわうしようえいけうこんじろんし唐の秦王從榮驕狠なり。自ら時論の與みせざるを知り、常に嗣おそたうしゆやまひしんにはかがないひきたんたるを得ざるを懼る。唐主、疾に寢す。遽に牙兵千人を率ゐて、端もんきんゑいしようえいへいつひ門の下に至り、將に入らむとす。禁衞、之を討つ。從榮の兵潰ゆ。くわうじやうしたうしゆひがいやまひはげそ走つて、府に歸る皇城使、之を斬る。唐主悲駭、疾劇し、遂に殂さいききそとうきよくす。唐主、性、猜忌せず、物と競ふなし。登極の年、旣に六十を踰かうたしゆくばうじん毎夕、宮中に於て、香を焚いて天に祝して曰く、某は胡人、亂五代-唐六四三 十八史略卷之六資しゆうたねがせいじんしやうせいみんしゆに因つて衆に推さる。願はくは、天、早く聖人を生じて、生民の主てんせいちやうこうせいとなせと。在位八年。改元するもの二、曰く、天成、長興。內に聲しよくいうでんくわん〓〓にんうちざうこはいれんりしやう評外に遊〓なく、藏庫を廢し、廉吏を賞唐なじ亂宗の君通離明色なく、宦官に任ぜず、内、の記憶ざうとあんがふねんこくしばしし、贓盡を治す。書を知らずと雖も、行ふ所、道に暗合し、年穀屢Dreamゆたかへいかくもちまれsほぜうかうば豊に、兵革用ゆる罕なり。五代に校ぶるに、粗ば小康となす。子そうわうたびんてい宋王立つ、之を関帝となす。じうこうめいそうじしちこころざし【閔帝】名は從厚、明宗の次子なり。位に卽いて、治を爲すに志そのえうくわんじうだんすくなあり。然れども、其要を知らず、寛柔にして斷少し。まうちしやう蜀の孟知祥、帝と稱す。ろわうほうしやうはんちやうくらくやうびんてい唐の潞王、鳳翔に反す。兵を擧げ、長驅して洛陽に至る。閔帝、しゆつぼんおうじゆんかいげんろわうた出奔す。位に在つて、應順と改元す。潞王立つ。しようかほんせいわうしめいそう【潞王】名は從珂、本姓は王氏、明宗の養子なり。少にして、明宗せいばつこうみやうしゆうしん5に從ひ、征伐して功名あり、衆心を得たり。事を用ゆる者、之を忌ほうしやうちんびんていかとううつしやうさおむ。從珂、鳳翔に鎭す。閔帝、命じて、鎭を河東に移す。將佐、以はなまつたげきりんだううつ爲へらく、鎭を離るれば必ず全き理なしと。乃ち檄を鄰道に移し、ていそくきよせんむか兵を起して入りて、帝側を〓む。從珂、陝に至る。諸軍、皆、迎へくだらくさいしやうへうどうとうひやくくわんはんけい降る。洛に至る。宰相馬道等、百官班迎し、遂に位に卽き、人をゑいしうちんさつ遣して、関帝を衞州に鴆殺す。しよくしゆまうちしやうそこちやうた蜀主孟知祥殂す。子昶立つ。てうしゆつあにいじん夏州の李舜超卒す。い兄彜殷、之に代る。五代-唐六四五 十八史略卷之六六四六聞人、其王璘を殺して、其子繼鵬を立て、名を昶と更む。石敬塘唐主、初め、河東節度使石敬塘と、素より相悅ばず。唐主立つ。敬塘、己むを得ずして入朝し、尋いで、鎭に歸り、陰に自全の計を評石唐主、る聯蔣にに權敬勢塘なす。之を移す。援を契丹に求む。契丹、唐兵を同依石むをのが遂に反し、る契爲自所丹め家援敗り、敬塘を立てて晉帝となす。兵を引いて、洛陽に向ふ。唐主、とに介求自ら焚いて死す。在位三年ならず、改元するもの一、曰く〓泰。唐一賴が賴轍すソは、莊宗より、是に至るまで、四主、凡そ一十四年。晉【警高祖皇帝】姓は石氏、名は敬塘、沙陀の人、唐の明宗の婿なり。ふ初め、從珂と共に、皆、勇力あつて善く鬭ふ。明宗に事へて、皆功あり、內相忌む。從珂、帝と稱す。敬塘、河東より來朝す。將佐、と皆勸めて、之を留めしむ。時に久しく病んで骨立す。唐主、以て虞となさず、遂に鎭に歸るを得たり。公主、洛陽に在り、辭して歸るや、唐主、醉うて曰く、何ぞ、暫らく留まらずして、遽に歸るや。石郞と反せむと欲するかと。敬塘、之を聞いて益す懼る。尋いで、命じて、移つて、鄲州を鎭せしむ。敬塘、命を拒む。唐主、兵を發石敬塘表しして、之を討つ。桑維翰、敬塘の爲に、表を草して、契丹に臣と稱て契丹に臣事すし、事ふるに、父の禮を以てし、約す、事捷たば、地を割かむと。劉知遠、以爲へらく、太だ過ぎたり、厚く金帛を賂はば、其兵を致五代-唐六四七
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唐書巻二百二十五中 列伝第一百五十中 逆臣中 李希烈 朱泚 李希烈は、燕州遼西の人である。幼くして平盧軍に軍籍があり、李忠臣に従って海に浮かんで河北で戦って軍功があった。李忠臣が淮西に移動となると副官となり、光禄卿に任じられ、軍中ではますますその才能の名声が高まった。たまたま李忠臣が荒淫のためその命令に服さず、軍が怒る間を取り持って、李忠臣を追放して上奏した。代宗は忻王に詔して節度副大使とし、希烈を専ら留後とし、また滑亳節度使の李勉に詔して州の所領を兼任させた。徳宗が即位すると、御史大夫に任じられ、そこで節度使に拝命し、その軍を名付けて淮寧とし、重んじられた。梁崇義が叛くと、諸道に勅して討伐に進発させ、詔して希烈を南平郡王・漢南北招討処置使に昇進させ、また諸軍都統を拝命した。梁崇義を平定するのに功績が多く、兵を擁してその地を領有したいと願っており、たまたま山南節度使の李承が後任となったため、なれなかったことから大いに略奪して去った。功績によって検校尚書右僕射・同中書門下平章事に任じられた。 李納が叛くと、検校司空兼淄青節度使としてこれを討伐した。希烈は軍勢三万を擁して許州に行ったが進まず、李苣を遣わして李納と攻守同盟を結び、密かに汴州を奪取しようと計画し、そこで李勉に説いて道を借りた。李勉は検討した結果問題ないとし、出て陳留に蓄え、梁を治め道を除いて待った。希烈は計画を知って、そこで李勉を漫罵し、李勉は備えを厳重にして守った。李納は遊兵を派遣して希烈を導き、汴州への糧道を絶ち、李勉は蔡渠(陳留の渠水の一部)を治め、東南に引いて贈り物した。希烈は使者を派遣して河北の朱滔・田悦らと同盟を約束し、凶悪な気炎が燃え上がった。にわかに朱滔らは自らを互いに王とし、使者を派遣して書簡を送りあい、希烈もまた自ら建興王・天下都元帥と号し、五賊は株を連ねて天下を半ばとした。 建中四年(783)正月、諸節度使に兵で挟撃・討伐するよう詔し、唐漢臣・高秉哲は兵一万人で汝州に駐屯した。到達する前に、賊将は霧に乗じて進み、王師が戻ってくると、賊は汝州を奪い、李元平を捕虜とし、兵を西に向けたから、東都は大いに震撼し、兵士は皆河陽・崤州・澠州に逃げた。留守の鄭叔則は西苑に立てこもり、賊は兵を抑えとしただけで進まなかった。帝は盧𣏌の計略を聴き入れ、太子太師の顔真卿に賊を説諭するよう詔した。すでに派遣されたにも関わらず、また左龍武大将軍の哥舒曜を派遣してこれを討伐させた。希烈は顔真卿に面会して、傲慢にも臣と称さず、左右に勅して朝政を侮蔑し、そこで北は汴州に侵入し、南は鄂州を攻略した。詔があって江西節度使の嗣曹王皋に攻撃させ、蘄州・黄州の両州を陥落させ、賊将の李良・韓霜露を白巌を攻撃して、二将は敗走した。 それより以前、希烈は襄陽から帰還すると、姚憺を留めて鄧州を守らせ、賊はまた汝州を奪い、そこで武関への交通路は遮断させた。帝は陝虢観察使の姚明敭に上津の道を治めさせ、館を設置して南方に通じて財貨を貢納させた。希烈は董待名・韓霜露・劉敬宗・陳質・翟崇暉を派遣し、分けて州県を寇掠させ、官軍はしばしば敗れた。哥舒曜は再度汝州を奪取し、希烈は周曾・呂従賁・ 康琳を派遣して哥舒曜を防がせた。襄城に行くと、王玢・姚憺・韋清が共同で希烈を襲おうと謀ったが、失敗して皆死に、韋清は劉洽のもとに逃げた。希烈は恐れて蔡州に帰還し、上疏して罪を周曾らに被せた。帝は赦さず、詔して希烈を斬る者は、四品以上はその官を得て、五品以下は戸四百を与え、民には三年間の免税を賜うこととした。神策将の劉徳信を派遣して節度・観察・団練の子弟を率いて兵を陽翟に駐屯して力をあわせた。李勉を淮西招討使とし、哥舒曜を副とした。荊南節度使の張伯儀を淮西応援招討使とし、山南節度使の賈耽と李皋を副とした。劉徳信は陽翟から去って汝州に入って立てこもり、賊は陽翟を奪って、張伯儀の軍を壊滅させた。哥舒曜の戦況は不利で、襄城に駐屯し、希烈はその強勢をたのんで、軍三万を挙げて哥舒曜を包囲した。その当時、帝は西(奉天)に巡狩しており、軍の士気は火が消えたようになって抵抗することが出来ず、城は遂に陥落し、哥舒曜は東都に逃走した。希烈は人となりが残忍で、戦陣に臨んでは人を殺し、血が目前に流れていても、飲食して自若としていた。そのため人は恐れて服属し、死力を尽くした。襄城の勝利に乗じて、汴州に侵攻して入城し、土や木を運んで道を修造しようとしたが、出来ないのに怒り、壕を埋めさせ、「溼梢」と号した。李勉は宋州に逃走した。 希烈はすでに汴州を根拠とすると、僭称して皇帝に即位し、国号を楚とし、武成を建元した。張鸞子・李綬・李元平を宰相とし、鄭賁を侍中とし、孫広を中書令とした。その地を分けて四節度使を置き、汴州を大梁府として統治し、安州を南関とした。石を染めて璽をつくった。また上蔡・襄城にて折れた車の車軸受けを獲得して、奉って瑞兆としその配下を惑わした。そのため江淮を窺い、兵力を結集して襄邑を攻撃し、守将の高翼は戦死した。ここに汴滑副都統の劉洽は、曲環・李克信の軍十万あまりを率いて白塔に戦うも不利で、劉洽は引き返し、兵卒の柏少清は轡を取って、「公はわずかな不利で北に拠ろうとしていますが、どうしてですか?」と言ったが、劉洽は聞き入れず、夜に宋州に入った。 賊はしばしば勝利し、ただちに寧陵に迫り、舟に乗っては続々と進み、七十里にわたった。その時、劉洽の将の高彦昭・劉昌は共に砦を取り巻いて守り、賊は妖人に風を祈らせ、戦棚(城壁上の防御施設)に放火して燃やし尽くし、濠や塀を登ろうとした。高彦昭は剣を持って塀の上の乗り、兵士を発奮させ、風もまた戻った。劉昌は衆に計って、「兵法では敵の数が倍ならば戦わないのが常道である。賊はやたらに多く、我らは寡兵だ。退いて賊を驕らせるのにこしたことはない。宋州から精鋭を出して、不意をつけば、功はなるだろう」と計った。高彦昭は謝して、「君はしばらく待たれよ。力を尽くしてほしい」と言い、そこで城に登って衆に誓って、「中丞は弱きを示そうとしており、全滅してこうなったら、本当によいのだろう。だが私は防衛のためにいるのであり、勝敗は城主にある。今兵士で重症の者は供養を待っており、棄てて城を去るようなものだ。そこで負傷者は中で死に、逃げる者は外で死ぬ。我が軍は全滅するのだ!」と言い、兵士は皆泣いて、そして拝礼して、「公がここにあるのなら、誰があえて退きましょうか!」と言い、劉昌は大いに恥じた。高彦昭は家牛を殺して軍にねぎらい、兵士は奮戦し、斬首三千級を得た。援軍を劉洽に請い、その部下に手紙を書き、城が危いことを述べた。高彦昭は見て、「君は私を軽んじているのか?」と言い、紙を出して自ら手紙を書いた。劉洽は手紙を得て、喜んで、「勇将は西にあり。私は何を憂うのだ」と言い、兵八百人を選抜し、夜深くに侵入したが、賊は知らなかった。後詰して早朝に城を救援し、兵士は発奮して出撃した。希烈は大敗し、その旗を取られ、斬首は一万を数え、北に追撃して襄邑に到り、賊の兵糧を収容して帰還した。劉洽はその功績を上表し、高彦昭は御史大夫を拝命し、実封百五十戸に封じられた。 希烈はすでに阻まれて退き、寿州刺史の張建封もまた固始に駐屯し、その両翼を広げて包囲の姿勢をみせた。希烈は恐れ、汴州に戻り、翟崇暉に精兵で陳州を襲撃させたが、再び劉洽に敗れ、損害は捕虜三万で、翟崇暉も捕らえられた。進撃して汴州を陥落させ、鄭賁・劉敬宗・張伯元・呂子巌・李達干を捕虜とし、希烈は逃れて蔡州に帰った。賊の守将の孫液が鄭州を引っ提げて降伏し、帝はそこで孫液を刺史とした。貞元二年(786)、杜文朝を派遣して襄州に侵攻したが、樊沢のために破られ、杜文朝は捕虜となった。その時李皋・張建封・曲環および李澄は四方面からその地を攻略し、勢いは日に日に弱まり、希烈は気鬱となったが敢えて揺らがなかった。牛肉を食べて病となり、親将の陳仙奇が密かに医者に毒を盛らせて死んだ。 それより以前、希烈が汴州に入ると、戸曹参軍の竇良の娘が美しいのを聞いて、無理やりこれを奪った。娘は振り返って、「心配しないで。私は賊を滅ぼすから」と言い、後に寵愛があり、賊と秘謀を共にし、行動を共にした。陳仙奇が忠勇で用いるべきだと言い、その妻もまた竇姓であったから、義姉妹となることを願い、その夫を囲い込むため、希烈は許諾した。暇に乗じて陳仙奇の妻に、「賊は強いとはいえ、ついには必ず敗れるもの。どうですか?」と言い、竇氏もしばらくして悟った。希烈が死ぬと、子は喪を発せず、諸将を皆殺しにして自立したいと思い、まだ決行していなかった。献上された品物に桃があり、竇氏は陳仙奇の妻に分け与えることを願い、許された。そこで蝋紙を雑果の中に丸めて、謀略を外に出した。陳仙奇は大いに驚き、薛育とともに兵を率いて騒々しく侵入した。子は出てきてただ礼拝して、「帝号を取り去って、淄青の故事のようにしたいと思います」と言ったが、語り終わると斬られ、希烈と妻子の七首を箱詰めして天子に献上し、希烈の死体を市に晒した。帝は陳仙奇の忠節により、淮西節度使に任命し、百姓は二年間免税とした。にわかに呉少誠のために殺され、詔があって太子太保を贈られた。竇氏もまた死んだ。 朱泚は、幽州昌平の人である。父の懐珪は、安禄山・史思明の二賊に仕え、偽の柳城使に任じられた。泚の人となりは偉丈夫で、腰腹周りは十囲で、表向きは穏やかであったが、心内では実は悪虐であった。若くして父の蔭位で推薦され、軍籍にあり、弟の朱滔とならんで李懐仙の部将となった。財を軽んじて施しを好み、だいたい戦って得た者は、必ず配下の兵士に分配したから、兵士の心を動かし、心内に道に背いた悪い心が芽生えた。朱希彩が節度使となると、大変信任された。 大暦七年(772)、朱希彩が配下に殺されると、軍はいまだ所属が定まらず、泚は境域外に駐屯して、朱滔は牙兵を司り、もっともずるく嘘つきで、そこで密かに数十人に告げて大に軍門で、「指揮官は朱公でないとだめだ!」と叫ばせ、軍は驚いて目を見張り、そこで共に泚に詣で、推薦して留後を司らせ、使者を派遣して京師に到って命を聴いた。詔があって、検校左散騎常侍となり、そこで盧龍節度留後を拝任した。にわかに節度使に移り、懐寧郡王に封ぜられ、実封戸二百を得た。泚は上書して謝し、朱滔の将兵を派遣して西を防御させた。代宗は喜び、手ずから詔して褒賞した。 その地位にあること三年、入朝を求めた。幽州は始めから逆乱の地であり、李懐仙以来、表向きは臣下として従ったが、しかし入朝して拝謁しなかった。しかし泚は諸鎮に倡し、騎馬三千とともに自ら入衛し、詔があって邸宅を建造して来るのを待った。出発するとたまたま病となり、ある者は帰還を勧めたが、泚は、「私の死体を輿で運ぶことになったとしても、それでもなお京師に行かなければならない」といい、将や官吏はそこで敢えて言わなかった。当時、四方は無事で、天子は日が傾いても政務を取っていた。泚は日があるうちに到り、内殿にて謁見し、車馬二台、軍馬十匹、金綵を非常に多く賜り、士卒は皆賜物があり、宴や賜物は優遇された。泚が来ると、朱滔は後務を司り、徐々に泚の牙軍での影響は削ぎ落とされ、泚は自らが失権したことを知り、朱滔のために売られ、志を得ず、そこで京師に留まることを願った。帝はそのため朱滔に節度留後を授け、そこで防備の兵を分け、それぞれ河陽・永平の兵を分割統治させ、郭子儀が統率した。決勝・楊猷の兵は、李抱玉が統率した。淮西・鳳翔の兵は、馬璘が統率した。汴宋・淄青の兵は、泚が統率した。同中書門下平章事(宰相)に昇進し、出で奉天に駐屯し、禁中の兵を賜り寵遇を受けた。検校司空に移り、李抱玉に代わって隴右節度副大使となり、そこで河西・沢潞行営兵馬事を司った。翌年、遂寧王に封じられた。徳宗が即位すると、鎮所を鳳翔に改め、封戸三百を得た。 建中年間(780-783)初頭、李懐光を段秀実に代わって涇原節度使を兼任させ、移って原州に駐屯した。李懐光が節度使の任に就く前に、泚と崔寧が兵を領して継進していた。涇州の兵士はもとより李懐光の暴虐を聞いていたから、互いに恐れ、劉文喜はそこで軍を偽って反乱し、段秀実を節度使に留任させるか、または泚に所属することを願った。詔して泚は李懐光と交代した。劉文喜は兵二万を合わせて城を乗っ取り、その部将の劉海賓は陳情のために入った。劉海賓は、「仮に劉文喜を節度使に任じれば、臣はその首を斬りましょう」と言ったが、帝は、「お前は誠忠だが、我が節を与えられない」と言い、帰還させ、泚・李懐光に詔してこれを攻撃させ、帝は太官の酒肴を減らして軍に給付した。劉文喜はなおも立て籠もって吐蕃に救援を求めた。吐蕃は軍をおこし、泚と李懐光は回避しようとしたが、別将の韓游瓌が、「戎がもし来たならば、涇州の人は必ず反乱するでしょう。誰が反賊のために身を敵に没することを受け入れる者があるでしょうか。しばらく待ちましょう」と言い、にわかに吐蕃の斥候が高いところに登って涇州の人を招いた。衆は、「始め我らは劉文喜のために節度使を求めたが、天子は討伐して罪を帰すことになった。どうして顔を赤く塗って異俗とすることができようか!」と言い、劉海賓は果たしてその徒とともに劉文喜を殺し、泚の軍を入れた。泚は一人も殺すことなく、このため涇州の人は泚を徳の人とした。詔して中書令を加えられ、駐屯地に戻り、昇進して太尉を拝命した。 朱滔は田悦に同調して叛き、密かに人を派遣して泚と連絡を取り合ったが、河東の馬燧がその書簡を鹵獲し、帝は泚を召してこれを示すと、泚は恐れて死を請うた。帝は、「千里も離れているのに謀が同じなわけはない。卿はどうして謝するのか?」と慰めたが、さらに張鎰を鳳翔の節度使とし、泚を京師に帰還させ、実封千戸を加えたが、入朝させず、宦官が邸宅を監視した。 李希烈が哥舒曜を襄城で包囲すると、涇原節度使の姚令言に詔して鎮兵五千を率いて哥舒曜を救援のため東行させた。宮中を過ぎ、軍は滻水に行き、京兆尹の王翃は役人に軍に供給させたが、粗末な野菜や魚を食べさせるのみで、軍は怒って食べることをよしとせず、群がって、「我らは父母妻子を棄てて敵前で死のうとするところなのに、そこでこのような食事で、どうして身をもって白刃にさらすことができようか?今瓊林・大盈にある倉庫では財宝は山のようにある、なおもどうしてそこに行かないのか?」と言い、そこで甲兵すべてが反旗を翻して呼応した。帝は聞いて、宦官に命じて賜物を持たせて往かせ、一人あたり二縑とした。兵士はいよいよ悖み、宦官を射たが、宦官は逃げ帰った。当時、姚令言はなおも兵と禁中で論じていたが、すでに朝廷に謀反が起こったことを告げられると、そこで馳せて長楽坂に到り、兵に遭遇して引き返し、全兵を引いて姚令言に向かった。姚令言は大いに、「東に向かえば、富貴となるだろう。どうして計を失って族滅の事をするのか?」と叫んだが、衆は姚令言を脅して西に行った。帝はまた使者を派遣して説諭したが、賊すでに通化門に陣を敷き、使者を殺した。帝は普王と学士の姜公輔を派遣して金綵を載せて慰撫した。賊は丹鳳門に迫り、詔して六軍を集めたが、来る者はいなかった。これより先、関東・河北の戦いは不利で、禁兵はことごとく東に向かったから、衛士は宮中からいなくなり、しかし神策軍使の白志貞は市井の人を軍籍に入れて兵としたが、市井にいることを許し、密かに税を取って自らの懐に入れたから、そのため急迫しても皆来なかった。 帝は苑北門を出て、護衛はわずかに数十人、普王が先導し、皇太子・王・韋の二妃・唐安公主および宦官百騎あまりが従い、右龍武軍使の令狐建が数百人で殿(しんがり)とした。夜に咸陽に到り、食事はわずかに数匙のみであった。賊はすでに厳重に諸門で誰何し、士人は古着を着て危険を冒して出て、盧𣏌・関播・李竦は皆垣を越えて逃げ、劉従一・趙賛・王翃・陸贄・呉通微らは帝を追って咸陽に到った。郭曙と童奴は数十人とともに苑中で狩猟していたが、警蹕の声を聞いて、道の左に謁し、帝はこれを労い、従うことを懇望したから許した。朝遅くに奉天に到着したが、官吏は恐懼して門で謁した。渾瑊は数十騎で城に混じり入って宮中に入り、兵を集めて賊を討伐しようとしたが、乗輿が出たのを聞いて、遂に奉天に奔った。ここに人は未だに帝の所在を知らず、三日たって、諸王・群臣は徐々に間道より到ったのである。 それより以前、姚令言は五門に陣を敷き、衛兵は出ることなく、遂に含元殿に突入し、周囲に、「天子は出ていった。今日は共に富貴をとろう!」と叫び、騒がしく進み、宜春苑を略奪し、諸宮に入った。姦人は乱に乗じて密かに内府に入って財宝を盗み、終夜絶えることはなかった。道路ではさらに強奪し、居人は警備を厳にして自衛した。賊は率いる者がおらず、恐れて少しの間も耐えられず、その昔、泚が涇州で恩があり、かつ軍権を失って久しかったから、用いて反乱しようと思い、そこで謀って、「太尉(朱泚)はまさに囚われているが、もし迎えれば、仕えて助けとなるだろう」と言い、姚令言は百騎あまりを率いて泚に面会した。泚は偽って謙譲して答えず、使者を留めて酒を酌み交わし、軍衆の心を観察した。夜に数百騎がまた行き、泚は軍衆の心を知って偽るのをやめ、そこで軍徒を擁して宮殿に向かい、松明の火は家々を連なって絶えることはなく、観る者は一万人を数えた。前殿に宿り、六軍を統轄した。翌日命令を下して、「国家の有事は東方にあり、涇の人は難に赴こうとしたが、朝廷の礼儀作法に習熟しておらず、乗輿を驚かせてしまった。百官は三日以内に行在に赴くか、留まる者は本司を守れ。命令に違えば誅殺する」と述べ、逆徒は白華殿にいた。ある者が泚に天子を迎えるよう説いたが、泚は振り向いては驚いてみせた。光禄卿の源休が来ると、時間があるときに謁見を願い、臣と称さず、詭って符命(皇帝)を称するよう教えた。泚は喜んだ。張光晟・李忠臣は職を失って怨みを懐いていたから、また皇帝になるよう勧めた。鳳翔大将の張廷芝・涇将の段誠諫は敗軍三千を率いて襄城からやって来たから、泚は自ら人の助けを得たと言い、謀反の志をかたく決めた。そこで源休を京兆尹・判度支に、李忠臣を皇城使に任じた。また段秀実が軍を失い、恨んでいると疑い、起用して謀を委ねようとした。段秀実と劉海賓は憤り、前に進み出て賊を撃ったが、李忠臣が泚を守ったから、わずかに顔を怪我しただけで、死なずにすんだ。 翌日、大いに旗章・金石を宮廷に並べ、宗室の王を立てて監国にすると伝言し、士庶は競って見に行ったが、泚が皇帝を僭称して宣政殿で即位し、国号を大秦とし、応天と建元した。侍衛は皆卒伍(分隊)とし、諸臣で職にある者はわずかに十人あまりであり、太常卿の樊系に迫って冊書をつくらせ、冊書ができると薬を仰いで死んだ。泚は詔を下して「幽囚の中、神器が自ら至った」と称し、天命を受けたことを示した。そこで姚令言は侍中・関内副元帥を、李忠臣は司空兼侍中を、源休は中書侍郎を、蒋鎮は門下侍郎、並同中書門下平章事(宰相)を拝命した。蒋諫(蒋錬)を御史中丞とし、敬釭を御史大夫とし、許季常を京兆尹とし、洪経綸を太常少卿とし、彭偃を中書舎人とし、裴揆・崔幼真を給事中とし、張廷芝・張光晟・段誠諫・崔宣・張宝・何望之・杜如江らを並んで偽節度使に任じた。兄の子の朱遂を太子とし、朱滔を冀王・太尉・尚書令とし、皇太弟と号した。 帝は高重傑をして梁山に駐屯させて賊を防がせたが、賊将の李日月は高重傑を殺した。帝は死体にすがりついて泣いて哀悼をつくし、蒲を結んで首をつくって葬った。泚も首を得て、また群賊を集めて、「忠臣だ!」と言って泣き、また三品の葬礼によって葬った。泚はすでに勝利したとして、そこで都の人に、「奉天の残党は一日もしないうちに平定されるだろう」と言わせた。李日月の軍の勢いはすさまじく、自ら敵が前にいないというほどで、そこで陵廟を焼き、御物を鹵獲したから、帝は憂いた。渾瑊は兵を漠谷に伏せ、数十騎を率いて長安を急襲したから、泚は大いに驚き、榻(いす)の前で倒れた。渾瑊は引き上げると、李日月は追尾し、伏兵に遭遇して戦ったものの、李日月は射殺された。泚は痛恨であったが、李日月の母は泣かず、「奚の奴め、天子に背くとは何事だ?死んでも遅いんだよ!」と罵った。 泚は自ら将となって奉天にせまると、密かに乗輿の物を自らほしいままにした。姚令言を上将とし、張光晟を副将とし、李忠臣を留守とし、蒋錬・李子平を宰相とした。ここに渾瑊は韓游瓌を率いて泚の攻撃を防ぎ、泚は大敗し、死者は一万人を数え、三里退いて屯営した。攻城具を修理し、家々を壊して百尺の楼車をつくり、その上から下の城中を見た。その時杜希全の兵が漠谷で敗れたため、賊の勢力はますます伸長した。また劉徳信・高秉哲が汝州より沙苑の馬五百匹を奪って昭応に立て籠もり、思子陵の西で戦い、三度賊に敗れ、東渭橋に行き、斥候の軍を出して都城に迫った。李忠臣の兵はしばしば敗れて救援を要請したから、泚はそこで城を猛攻し、民を使役して塹壕を埋め、雲梯を造り、壮士を上におらせ、物見垣に接近したから、守備兵は震撼した。渾瑊はそこで侯仲荘・韓澄に地道を掘らせ、隧道の梁を落として、火を放って焼き払い、城上より油を撒き散らして流すこと数百歩、泚の軍は混乱して騒然となり、城中から兵を出し、皇太子は督戦すると、賊は大敗した。しかし賊はその軍に敗北しながらも、遂に長期間包囲し、百挺の弩を城中に射て、帝の御座から三歩の手前のところまで届いた。城はますます危急となり、帝は群臣を召して、「朕は宗廟を担い、固守しなければならない。公らの家は賊の地にあり、まず降伏して親族を全うしなさい」と言ったが、衆は涙を流して、「臣らは死んでも二心はありません」と言ったから、帝はまた嘆息して咽び泣いた。城は包囲されること三十六日にして、李懐光が兵五万でやって来て、賊を魯店で破り、遂に城下で夜明けから日暮れまで戦い、賊は潰滅した。帝は下りて戦いを見ていたが、詔を伝令して、「賊衆もまた朕の赤子(せきし)である。多く殺してはならない!」と言ったから、聞く者は感激した。この夜、泚は引き上げた。それより以前、帝は奉天に到り、ある者が賊はすでに朱泚を擁立したから、必ず来攻するとして、防備の備えを願った。宰相の盧𣏌は、「朱泚は大臣である。どうしてその謀反を疑うのか?」と言ったが、泚が城を包囲するに及んでも、帝はついにその発言を詰問しなかった。 泚が帰還すると、姚令言はまさに攻城具を修理しようとし、李忠臣は各坊の防備を団結させたから、人は皆怨嗟の声をあげた。泚はすべてこれを止めて、「攻守は私が自弁する」と言った。賊はかつて兵士を駆けさせて、「奉天が陥落した!」と言わせたから、百姓は互いに振り返って泣き、市は無人となり、台省の役人は役人がまばらとなり、郎官が一・二人いるだけであった。 李懐光は九子沢に立て籠もり、李晟は白馬津より来て東渭橋に屯営し、尚可孤は襄州・鄧州の兵五千で藍田に行き、駱元光は昭応を守り、馬燧は子の馬彙に兵三千で中渭橋に駐屯させた。 それより以前、奉天の包囲が長引き、食料は尽きると、芦を帝の馬の秣とし、太官は糲米二斛だけであった。包囲が解けると、父老は争って壺を献上して餅餌を飽んだ。剣南節度使の張延賞は帛数十駄を献上し、諸方の貢物は踵を継いで到着した。そこで大いに軍中に賜い、殿中侍御史の万俟著に詔して金・商の道を治めさせ、仮に運送を通じさせた。群臣で家が城中にある者は、賊はなお俸禄を給付しており、宦官の朱重曜が賊のために謀って、「その家の者を捕らえて士大夫を招き、来なかった者は殺しましょう」と言ったが、孫知古は惑わして、「陛下は柔をもって人を心服させています。もしその妻子を殺せば、嚮化の意が絶えることになります。また義士が自身を殺してまでしているのに、どうして家を顧みることがありましょうか?」と言ったから、そこで沙汰止みとなった。 興元元年(784)、泚は本の封地が遂寧で、漢の地であるから、国号を改めて漢とし、天皇と改元した。ある者が、「王師(唐軍)は密かに京城の四隅の垣を壊して侵入しようとしています」と言ったから泚は恐れ、金吾に詔して兵士を巷にあまねく配置し、官吏は五本の松明を設けて夜を防備し、城の隅には百歩ごとに一楼を建て、監視を厳にした。おおむね祠や廟舎にはすべて甲兵を配置し、「軍が来ればただちに四面から撃て」と戒めた。太倉の食料は尽き、賊は官吏に寺観を探させて余米一万斛を得て、鞭打ちして引き離したが、それでも兵士は次第に飢えていき、神策六軍は行在および哥舒曜・李晟の兵となって従っているにも関わらず、兵士の家は皆泚より受給していて絶えることはなかったから、ある者が給付の停止を願ったが、泚は、「兵士は外にあって、内にいる弱者や幼い者は食が絶えれば死んでしまう。どうしてそれが我が心なのだろうか!」と言い、そこで厚く居人に納めた。許季常は、「一旦急があれば、宦官・公侯の三千の一族より徴収すれば、財力とするのに足ります」と言った。ある者が泚に、「陛下はすでに天命を受けられていますが、唐の九廟諸陵はまだ存続しています。よろしくないのでは」と言ったが、泚は、「朕はかつて北面して唐に仕えていた。どうしてこれを忍べというのか!」と言った。また、「官は多く欠員があり、才能がある者を択んでこれを授け、脅かすのに兵をもってすれば、辞退できないのではないのでしょうか」と言ったが、泚は、「強制して授けても人は恐れるだけで、ただ仕えたいと思う者にこれを与えるべきだ。どうして戸を叩いて官を拝命することができようか?」と言った。奉天は赦令を下し、概ね賊から偽官を受けた者は、賊が敗れる日にすべて緩めて不問とするとし、官軍は密かに諸道に立て札した。泚はまさに未央宮に宿しようとしたが、涇原の兵士は互いに謀って泚を殺そうとし、泚はこれを知って、直ちに他の処に移ったから、衆の謀はまた止んだ。 張光晟と李懐光は向かい合って立て籠もり、李希倩は精鋭の騎兵五百で攻撃を願い出たが、張光晟は許さず、「西軍はまさに強く、軽率なことをして敗北してはならない」と言った。日が暮れると両軍は退いた。李希倩は泚に謁見して、「張光晟には異心があって、西軍を見ると戦いません。臣に攻撃させてください」と言ったが許されず、張光晟を斬るのを願ったが、また許されなかった。泚が「彼は善将で、戦わない理由は、思うにまだ戦うべきではないと知っているからだ!」と言うと、李希倩は怒って、「臣は心を尽くしてあなたに仕えていますが、信じられないのなら、願わくば淮西に帰らせてください」と言い、泚は許諾し、馬十匹・綾絹や錦が百で、「これで東に帰りなさい」と言ったから、李希倩は恥じて、また入って、「臣が愚かで心が狭かったのでした。罪は死に当たります。願わくば戦場で死なせてください」と言い、泚はまた許した。張光晟は泚に謁見して、「臣は敢えて叛きません」と言って再拝したから、泚は張光晟を鼓舞した。 官軍は龍首・香積の二堤防を破壊して、決壊させて流し、城中は水が絶えたから、泚は数百人を使役して修理した。東は灞水に出撃して王師と戦ったが、大敗して戻り、都城の門を閉ざし、兵士は皆甲冑を着て待機したが、しばらくして罷めた。李子平は攻城具を修理して李懐光を襲撃しようと思い、苑中六街の大木を伐って衝車をつくったが、労役は非常に苦しく、人は堪えられなかった。また居人の夜行を禁止し、三人以上が集まって飲食できず、上も下も恐懼した。賊が用いたところはただ盧龍軍・神策軍・団練兵であって、涇原軍は驕って制することができなかったから、ただ略奪品を守るのを全うしただけで出て戦わなかった。そのため泚はしばしば敗北し、憂い甚しく、出て逃げようと思った。術家が争って、「陛下が宮から出なければ、西軍が入ったとしても、また自ら変事があるでしょう」と言ったから、泚はこれによって自分自身で安心させた。 その時、李懐光が帝に二心を懐き、泚を平定しようとは思わなくなり、軍を留めて傍観した。帝は咸陽に行幸したいと思い、諸将を赴かせて賊を捕らえさせようとしたが、李懐光は罵詈雑言を言って、そこで戴休顔に詔して奉天を守らせ、尚可孤に灞上を守らせ、駱元光に渭橋を守らせた。進んで梁州に巡狩し、渭陽に行き、深く嘆息して、「朕がここに行けば、まさに永嘉の乱のように南遷することにならないか?」と言うと、渾瑊は、「大難に臨んで恐れない者は、聖人の勇です。陛下はどうしてこれを過ちだと言うのですか?」と言った。李懐光はついに泚と和を結んだ。京師では帝がますます西に行ったことを知って、二人の謀叛が合わせ固り、乱がまたなったと言い、出て賊の官を受ける者は十人中八人に及んだ。これより以前、泚は多く金を出して、李懐光を兄として仕えた、関中が平定されたならば、地を割いて互いに隣国となるよう約束し、そのため李懐光は謀叛を決意し、そこで陽恵元・李建徽の軍を併合した。泚は李懐光が叛いたことが明白であることを知り、そこで詔を賜って待遇を臣下の礼とし、その兵の入衛を促した。李懐光は欺かれたのを恥じ、その軍を率いて東は河中を保持した。泚はしばしば人を遣わして涇原の馮河清を誘ったが、馮河清は従わなかった。またその将の田希鑑と結び、遂に馮河清を殺害して賊に内応させ、泚はそこで馮河清に代わって、吐蕃と結ばせた。 李晟らの兵は次第に強くなり、兵士はますます付き従い、渾瑊もまた賊将の韓旻・宋帰朝を武亭川で撃破し、斬首一万級を数え、宋帰朝は李懐光のもとに逃げた。李晟は渾瑊・駱元光・尚可孤を率いて全軍で賊を攻め、李晟は光泰門に迫って、賊将の張廷芝・李希倩を破り、賊は門を放棄して泣いて白華を保持した。李晟は軍を引き上げ、三日いて再度戦い、大いに破った。そこで分けて道に入った。泚の将の段誠諫は草むらで伏兵にあい、王伉に捕らえられた。姚令言・張廷芝は李晟と遭遇し、十回戦ったがすべて敗北し、遂に白華に到った。 それより以前、張光晟は精兵で九曲に立て籠もり、東渭橋と十里を隔っており、李晟に降伏すると密約した。李晟が入ってくると、張光晟は泚らに出奔を勧め、そこで泚は姚令言・張廷芝・源休・李子平・朱遂を擁して残軍を率いて西に逃げ、張光晟は出て李晟に詣でて降伏した。 泚は道がわからなくなり、野人に聞いた。答えて、「朱太尉か?」と聞くと、源休は「漢の皇帝だ」と言ったから、「天網恢恢、逃げたところで安楽の地なんかあるか?」と返され、泚は怒って殺そうとしたが、逃げ去った。泚は涇州の長武城に到ったが、田希鑑は拒んだ。泚は、「お前の節は私が授けたんだ。どうして私を拒むのか?」と言い、その門に火をつけた。田希鑑は節を炎の中に投げ入れて、「お前の節を返す!」と言ったから、泚は軍を挙げて泣き、城中の人もその子弟を望見してまた泣いた。宋膺は、「某の妻器、斬る!」と言ったから、衆は泣くのを止めた。泚はさらに宿所に留まって、梁廷芬を遣わして田希鑑に入見して、「公は一人の節度使を殺したが、唐の天子は必ず容れることはない。どうして朱公を受け入れずに大事がなるのか?」と言い、田希鑑は心内ではそうだと思った。梁廷芬は出て報告すると、泚は喜んだ。梁廷芬は宰相の地位を願ったが得られなかったから、そこで再び入見しなかった。泚はなおも范陽の兵卒三千あまりと、北は駅馬関に走り、寧州刺史の夏侯英が門を開いて陣を敷いて待っていたが、泚はあえて入らず、そこで彭原西城を保持した。梁廷芬と泚の腹心の朱惟孝は夜に泚を射て、穴の中に落とし、韓旻・薛綸・高幽喦・武震・朱進卿・董希芝は泚とともに斬られ、宋膺をして首を伝えて献上した。泚の死んだ年は四十三であった。姚令言は涇州に逃げ、源休・李子平は鳳翔に逃げたが、皆斬首された。泚の婿の金吾将軍の馬悦は党項(タングート)に逃げ、幽州に入ることができた。朱重曜は、泚に仕えること最も昵懇で、泚は呼んで兄とした。たまたま冬に大雨となると、泚は攘災のため鴆毒で朱重曜を殺し、王の礼を以て葬った。賊が平定されると、その死体を出して干し肉とした。李希倩ら諸将も皆相継いで殺され滅された。 それより以前、源休は京兆尹となって、回紇への使者となり、帰還しようとするとき、盧𣏌はその弁舌がよく主恩を結びつけるのを恐れて、太原に行かせ、奏上して光禄卿とした。源休は怨みを懐き、そのため泚に皇帝の僭号へと導き、兵の食を整え、百官を任命し、事は一々謀った。当時、その泚に謀叛を定めようと、脅して大臣を辱め、多く宗室の子孫を殺し、王師が不利となるごとに、喜んで笑顔となった。姚令言とともに泚に奉天を包囲することを勧め、昼夜賊のために謀し、二人は争って自らを蕭何と比したが、源休は姚令言に振り返って、「秦の統一では、私に相当する者はいない。私が蕭何だとすれば、あなたは曹参にあたるだろう」と言った。図書・典籍を収容し、府庫を蓄えたが、誰に相当するかは、人は皆笑って、「火迫酇侯」と言った。もとは相州の人である。 姚令言は、河中の人である。始め軍に応募し、涇原節度使の馬璘の府に属した。孟暤が留後となると、厳粛ぶりを表して将軍の任に堪え得る者とみなされ、遂に節度使となった。朱泚を擁立して叛乱すると、すこぶる尽力した。 彭偃は、進取の器質に優れ、自らを宰相を抑えられる人物とし、鬱々として現職では飽き足りなかった。泚が叛くと、田家に隠れたが、結局登用され、辞令はすべてその手から出ており、その文辞は傲慢不敬であった。 李晟は張光晟の才能を愛し、上表して死を許されることを請い、軍中に置いたが、駱元光は怒って、「私は反虜と同座することはできない」と言い、衣を払って去ったから、李晟は張光晟を殺した。李懐光は宋帰朝を朝廷に献じて斬った。ただ李日月の母のみ許された。泚が敗北する以前、その邸宅を潜龍宮と号し、珍宝を移してこれを実のようにしたが、人は「潜龍用いるなかれ(『易経』乾為天 初九)」と言って、滅亡の予兆とした。 李晟は田希鑑の反逆を憎み、事に乗じて誅殺したいと思っていた。その時吐蕃が涇州に侵攻し、李晟はまさに涇原を率いていたから、そのため田希鑑は救援を求め、李晟は史万歳に騎兵三千をつけて派遣し、李晟は辺境の巡邏を願った。田希鑑が来謁したが、その妻の李氏は、父が李晟に仕えていたから、李晟はしばしば宴を開き、まさに軍を返そうとする時、田希鑑に、「私はしばらくここに留まるが、諸将は皆旧友だ。私は酒を置いて別れとしたいと思う。軍営で飲んで過ごそう」と言ったから、田希鑑らは軍営にやって来た。酒が出される前に、李晟は、「諸君と互いに往来してきたが、姓名・爵位・郷里を述べられよ」と言い、諸将は順番に言っていき、無罪の者は座ったままでお構いなしであったが、有罪の者は李晟が責め質し、一兵卒が引き出して、斬って埋めた。田希鑑は李晟のもとに座っていたが、死にあたるかどうか知らなかった。李晟は振り返って、「田郎は無罪にはできないな」と言うと左右の者は田希鑑を捕らえ、李晟は、「天子を流亡させる憂き目にあわせ、節度使を殺し、賊の節を受けたのに、今日何の面目があって私に見えるのか?」と言うと、田希鑑は答えることができなかった。李晟は、「田郎は老いたな。寝台に座られよ」と言い、そこで幕中で縊り殺し、李観を代って節度使とした。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十五上 列伝第一百五十上 『新唐書』巻二百二十五中 列伝第一百五十中 巻二百二十五下 列伝第一百五十下
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資治通鑑巻第二百二十八 唐紀四十四 徳宗神武聖文皇帝三 建中四年(七八三) 1.春,正月,丁亥,隴右節度使張鎰與吐蕃尚結贊盟於清水。 1.春正月丁亥、隴右節度使の張鎰と吐蕃の尚結贊が清水で会盟した。 2.庚寅,李希烈遣其將李克誠襲陷汝州,執別駕李元平。元平,本湖南判官,薄有才藝,性疏傲,敢大言,好論兵。中書侍郎關播奇之,薦於上,以為將相之器,以汝州距許州最近,擢元平為汝州別駕,知州事。元平至州,即募工徒治城。希烈陰使壯士往應募執役,入數百人,元平不之覺。希烈遣克誠將數百騎突至城下,應募者應之於內,縛元平馳去。元平為人眇小,無須,見希烈恐懼,便液污地。希烈罵之曰:「盲宰相以汝當我,何相輕也!」以判官周晃為汝州刺史,又遣別將董待名等四出抄掠,取尉氏,圍鄭州,官軍數為所敗。邏騎西至彭婆,東都士民震駭,竄匿山谷。留守鄭叔則入保西苑。 2.庚寅、李希烈はその将李克誠を派遣して汝州を陥落させ、別駕の李元平を捕虜とした。李元平は、もとは湖南の判官で、才芸は薄かったが、性格は荒く傲慢で、大言を敢えてし、用兵を論じるのを好んだ。中書侍郎の関播はこれを優れた人物とし、将相の器たるをもってお上に推薦し、汝州が許州と隔つこと最も近いことから、李元平を抜擢して汝州別駕とし、州の事を司らせた。李元平は州に来ると、そこで工人を募って城を修繕した。李希烈は密かに勇士に往かせて募集に応じて工役にかかり、数百人を入らせたが、李元平に発覚することはなかった。李希烈は李克誠を派遣して数百騎を率いて城下に突入させ、応募者はこれに内応し、李元平を縛って馳せ去った。李元平は人となりは小男で髭がなく、李希烈を見ると恐れのあまり、大小便で地を汚した。李希烈はこれを「宰相は見る目がなくお前で私に当たらせようとしたが、なんと宰相の地位とは軽いものなのだろうか!」と罵った。判官の周晃を汝州刺史とし、また別将の董待名ら四人を派遣して掠め取らせ、尉氏州を奪取し、鄭州を包囲し、官軍はしばしば敗北した。偵察の騎兵は西は彭婆に到り、東都の士民は震駭し、ひそかに山谷に隠れた。留守の鄭叔則は西苑に入って防衛した。 上問計於盧杞,對曰:「希烈年少驍將,恃功驕慢,將佐莫敢諫止。誠得儒雅重臣,奉宣聖澤,為陳逆順禍福,希烈必革心悔過,可不勞軍旅而服。顏真卿三朝舊臣,忠直剛決,名重海內,人所信服,真其人也!」上以為然。甲午,命真卿詣許州宣慰希烈。詔下,舉朝失色。 お上は計略を盧杞に問い、盧杞は「李希烈は若い頃から驍将で、功をたのんで驕慢で、将軍や補佐があえて諫止することはありません。誠に儒雅の重臣を得て、皇帝の勅書を奉って、彼の為に逆順の禍福を述べれば、李希烈は必ず心を改めて悔い改め、軍事を労せず服属するでしょう。顔真卿は三朝の旧臣で、忠直かつ剛決で、名は海内に重んじられ、人が心服するところは、真にその人なのです!」と答えた。お上はそうだと思った。甲午、顔真卿に命じて許州にて李希烈の慰撫を命じた。朝廷をあげて顔色がかわった。 真卿乘驛至東都,鄭叔則曰:「往必不免,宜少留,須後命。」真卿曰:「君命也,將焉避之!」遂行。李勉表言:「失一元老,為國家羞,請留之。」又使人邀真卿於道,不及。真卿與其子書,但敕以「奉家廟,撫諸孤」而已。至許州,欲宣詔旨,希烈使其養子千餘人環繞慢罵,拔刃擬之,為將剸啖之勢。真卿足不移,色不變。希烈遽以身蔽之,麾衆令退,館真卿而禮之。希烈欲遣真卿還,會李元平在座,真卿責之,元平慚而起,以密啟白希烈。希烈意遂變,留真卿不遣。 顔真卿は駅路にて東都に到り、鄭叔則は、「行けば絶対に免れません。しばらく留まって、後命を待つべきです」と言ったが、顔真卿は、「君命です。どうしてこれを避けられましょうか!」と言い、ついに行った。李勉は上表して、「一元老を失えば、国家の恥となります。留めることを願います」と述べた。また人をつかわして顔真卿を道に迎えたが、及ばなかった。顔真卿とそのに書して、ただ勅があるから、「家廟を奉って、孤児たちを養育しなさい」とあるだけであった。許州に到り、詔旨を宣り給おうとしたが、李希烈はその養子千人あまりに囲ませて慢罵させ、刃を抜いておどし、まさに唾を吐こうとする勢があった。顔真卿は移動せず、顔色は変わらなかった。李希烈はにわかに身をもってかばい、軍に指示して退かせ、顔真卿に館を与えて礼遇した。李希烈は顔真卿を帰還させようとしたが、たまたま李元平が同座しており、顔真卿は責めたから、李元平は恥じて席をたち、密かに李希烈に申し上げた。李希烈の遂に心変わりし、顔真卿を留めて帰還させなかった。 朱滔、王武俊、田悅、李納各遣使詣希烈,上表稱臣,勸進。使者拜舞於希烈前,説希烈曰:「朝廷誅滅功臣,失信天下。都統英武自天,功烈蓋世,已為朝廷所猜忌,將有韓、白之禍,願亟稱尊號,使四海臣民知有所歸。」希烈召顏真卿示之曰:「今四王遣使見推,不謀而同,太師觀此事勢,豈吾獨為朝廷所忌無所自容邪!」真卿曰:「此乃四凶,何謂四王!相公不自保功業,為唐忠臣,乃與亂臣賊子相從,求與之同覆滅邪!」希烈不悅,扶真卿出。他日,又與四使同宴,四使曰:「久聞太師重望,今都統將稱大號而太師適至,是天以宰相賜都統也。」真卿叱之曰:「何謂宰相!汝知有罵安祿山而死者顏杲卿乎?乃吾兄也。吾年八十,知守節而死耳,豈受汝曹誘脅乎!」四使不敢復言。希烈乃使甲士十人守真卿於館舍,掘坎於庭,云欲坑之。真卿怡然,見希烈曰:「死生已定,何必多端!亟以一劍相與,豈不快公心事邪!」希烈乃謝之。 朱滔・王武俊・田悦・李納はそれぞれ使者を派遣して李希烈のもとに到り、上表して臣と称し、励まし促した。使者は李希烈の前で拝舞し、李希烈に、「朝廷は功臣を誅滅し、天下の信を失いました。都統(李希烈)は英武なこと天をおおい、功績は当代を圧倒していますが、すでに朝廷の猜忌のために、名将でありながら誅殺された韓信・白起の禍を受けようとしています。願わくばしばらく尊号を称され、四海の臣民をして知らしめば帰順するところとなりましょう」と説き、李希烈は顔真卿を召してこれを示して、「今、四王が使者を派遣してすすめてきたが、謀らずも同じことを言っている。太師はこの事勢をみて、どうして私一人が朝廷のために嫌われて自らを受け入れるところがないのだろうか!」と言うと、顔真卿は、「この四凶をどうして四王と言うのか!相公は自ら功業を保たず、唐忠臣となったのに、乱臣・賊子とともに互いに従い、これとともに同じく覆滅を求めないのか!」と言ったから、李希烈は喜ばず、顔真卿を助け起こして出した。他日、また四使とともに宴し、四使は、「久しく太師の重望を聞いていますが、今、都統はまさに大号を称して太師が適所に至れば、天が宰相を都統に賜ったということになります」と言ったが、顔真卿はこれを叱って、「どうして宰相というのか!お前は安禄山を罵って死んだ顔杲卿を知っているか?私の兄だ。私は年八十だが、守節を知って死ぬのみだ。どうしてお前の脅し誘いなんぞ受けようか!」と言い、四使はあえて二言を告げなかった。李希烈はそこで甲士十人をして顔真卿を館舎で守らせ、穴を庭に掘り、穴埋めしようと言わせた。顔真卿は喜んで、李希烈を見て、「死生すでに定まった。どうしてせかせかしようか!しばらく一剣にまみえれば、どうして公の心の事を不快としようか!」と言ったから、李希烈は謝った。 3.戊戌,以左龍武大將軍哥舒曜為東都、汝州節度使,將鳳翔、邠寧、涇原、奉天、好畤行營兵萬餘人討希烈,又詔諸道共討之。曜行至郟城,遇希烈前鋒將陳利貞,撃破之。希烈勢小沮。曜,翰之子也。 3.戊戌、左龍武大将軍の哥舒曜を東都・汝州節度使とし、鳳翔・邠寧・涇原・奉天を率いさせ、好畤行営兵一万人あまりで李希烈を撃たせた。また諸道に詔して共にこれを討たせた。哥舒曜は郟城に行き、李希烈の先鋒の将軍の陳利貞に遭遇し、これを撃破し、李希烈の勢はやや阻まれた。哥舒曜は哥舒翰の子である。 希烈使其將封有麟據鄧州,南路遂絕,貢獻、商旅皆不通。壬寅,詔治上津山路,置郵驛。 李希烈はその将の封有麟に鄧州を守らせ、南路は遂に途絶し、貢献・商旅はすべて不通となった。壬寅、詔して上津山路を治めさせ、郵駅を設置した。 4.二月,戊申朔,命鴻臚卿崔漢衡送區頰贊還吐蕃。 4.二月戊申朔、鴻臚卿の崔漢衡に命じて区頬賛を吐蕃に送還させた。 5.丙寅,以河陽三城、懷、衛州為河陽軍。 5.丙寅、河陽三城と懐州・衛州を河陽軍とした。 6.丁卯,哥舒曜克汝州,擒周晃。 6.丁卯、哥舒曜が汝州にて勝利し、周晃を捕虜とした。 7.三月,戊寅,江西節度使曹王皋敗李希烈將韓霜露於黄梅,斬之。辛卯,拔黄州。時希烈兵柵蔡山,險不可攻。皋聲言西取蘄州,引舟師溯江而上,希烈之將引兵循江隨戰。去蔡山三百餘里,皋乃復放舟順流而下,急攻蔡山,拔之。希烈兵還救之,不及而敗。皋遂進拔蘄州,表伊慎為蘄州刺史,王鍔為江州刺史。 7,三月戊寅、江西節度使の曹王李皋が李希烈の将韓霜露を黄梅で破ってこれを斬った。辛卯、黄州を陥落させた。その時、李希烈の兵は蔡山を砦とし、険難で攻めることができなかった。李皋は西は蘄州を奪取すると声明し、水軍を率いて江を遡上し、李希烈の将も兵を率いて江にしたがって戦った。蔡山を去ること三百里あまり、李皋はそこでまた舟を放って流れにしたがって下り、蔡山を急襲してこれを陥落させた。李希烈の兵は戻って救援したが、及ばず敗れた。李皋は遂に進撃して蘄州を陥落させ、上表して伊慎を蘄州刺史とし、王鍔を江州刺史とした。 8.淮寧都虞侯周曾、鎮遏兵馬使王玢、押牙姚憺、韋清密輸款於李勉。李希烈遣曾與十將康秀琳將兵三萬攻哥舒曜,至襄城,曾等密謀還軍襲希烈,奉顏真卿為節度使,使玢、憺、清為內應。希烈知之,遣別將李克誠將騾軍三千人襲曾等,殺之,並殺玢、憺及其黨。甲午,詔贈曾等官。始。韋清與曾等約,事洩不相引,故獨得免。清恐終及禍,説希烈請詣朱滔乞師,希烈遣之,行至襄邑,逃奔劉洽。希烈聞周曾等有變,閉壁數日。其黨寇尉氏、鄭州者聞之,亦遁歸。希烈乃上表歸咎於周曾等,引兵還蔡州,外示悔過從順,實待朱滔等之援也。置顏真卿於龍興寺。丁酉,荊南節度使張伯儀與淮寧兵戰於安州,官軍大敗,伯儀僅以身免,亡其所持節。希烈使人以其節及俘馘示顏真卿。真卿號慟投地,絕而復甦,自是不復與人言。 8.淮寧都虞侯の周曾、鎮遏兵馬使の王玢、押牙の姚憺、韋清は密かに書簡を李勉に送った。李希烈は周曾と十将の康秀琳を派遣して兵三万を率いて哥舒曜を攻撃し、襄城に到ったが、周曾らは密かに謀って軍を返して希烈を襲撃し、顔真卿を節度使にし、王玢・姚憺・韋清は内応した。李希烈はこれを知って、別将の李克誠を派遣して騎兵三千人を率いて周曾らを襲撃して殺し、あわせて王玢・姚憺およびその余党を殺した。甲午、詔して周曾らに官を贈った。それより以前、韋清と周曾らは盟約し、事が洩れても引っ張り合いをせず、そのため一人だけ免れた。韋清は禍が及ぶことを恐れ,李希烈を説得して朱滔の援軍を要請することを願ったから、李希烈は派遣した。行って襄邑まで到ると、劉洽のもとに逃走した。李希烈は周曾ら変をおこそうとしたのを聞いて、数日引き篭もった。その余党は尉氏州を攻撃したが、鄭州の者はこれを聞いて、また逃げ帰った。李希烈はそこで上表して咎を周曾らになすりつけ、兵を率いて蔡州に帰還した。外部には悔過従順を示したが、実は朱滔らの援軍を待っていた。顔真卿を龍興寺に置いた。丁酉、荊南節度使の張伯儀と淮寧の兵が安州で戦い、官軍は大敗し、張伯儀はわずかに身をもって免れ、その所有していた持節を失った。李希烈は人を遣わしてその持節および捕虜や首級を顔真卿に見せた。顔真卿は慟哭して身を地に投げ、息絶えたがまた甦り、これより人に言を与えなかった。 9.夏,四月,上以神策軍使白志貞為京城召募使,募禁兵以討李希烈。志貞請諸嘗為節度、觀察、都團練使者,不問存沒,並勒其子弟帥奴馬自備資裝從軍,授以五品官。貧者甚苦之,人心始搖。 9.夏四月、お上は神策軍使白志貞を京城召募使とし、禁軍兵を募って李希烈を討伐させた。白志貞はおよそかつて節度、観察、都団練使であった者で、生き死にを問わず、あわせてその子を記録して奴や馬を率いて自ら軍資や装備を備えて従軍させ、五品官を授けた。貧者は非常にこれに苦み、人心は初めて揺らいだ。 10.上命宰相、尚書與吐蕃區頰贊盟於豐邑裡,區頰贊以清水之盟,疆場未定,不果盟。己未,命崔漢衡入吐蕃,決於贊普。 10.お上は宰相に命じて、尚書と吐蕃区頰賛で豊邑の中で会盟させた。区頰賛は清水の盟で、境界が定まっていないから会盟は果たせなかった。己未、崔漢衡に命じて吐蕃に入らせ、賛普と会盟を決した。 11.庚申,加永平、宣武、河陽都統李免淮西招討使,東都、汝州節度使哥舒曜為之副,以荊南節度使張伯儀為淮西應援招討使,山南東道節度使賈耽、江西節度使曹王皋為之副。上督哥舒曜進兵,曜至穎橋,遇大雨,還保襄城。李希烈遣其將李光輝攻襄城,曜撃卻之。 11.庚申、永平・宣武・河陽都統の李免に淮西招討使を加え、東都・汝州節度使の哥舒曜を副とし、荊南節度使の張伯儀を淮西応援招討使とし、山南東道節度使の賈耽、江西節度使の曹王李皋を副とした。上は哥舒曜を催促して兵を進ませ、哥舒曜は穎橋に至ったが、大雨にあい、戻って襄城を防衛した。李希烈はその将李光輝を経県して襄城を攻撃したが、哥舒曜は迎撃して撃退した。 12.五月,乙酉,穎王璬薨。 12.五月乙酉、穎王璬が薨じた。 13.乙未,以宣武節度使劉洽兼淄青招討使。 13.乙未、宣武節度使の劉洽に淄青招討使を兼任させた。 14.李晟謀取涿、莫二州,以絕幽、魏往來之路,與張孝忠之子升雲圍朱滔所署易州刺史鄭景濟於清苑,累月不下。滔以其司武尚書馬寔為留守,將歩騎萬餘守魏營,自將歩騎萬五千救清苑。李晟軍大敗,退保易州。滔還軍瀛州,張升雲奔滿城。會晟病甚,引軍還保定州。 14.李晟は涿州・莫州の二州を奪取しようとし、幽州・魏州への往来の道を断絶し、張孝忠の子の張升雲とともに朱滔を包囲し、易州刺史の鄭景を任命して清苑を助けたが、数ヶ月しても降せなかった。朱滔はその司武尚書の馬寔を留守とし、歩騎一万人あまりを率いて魏営を守り、自ら歩騎一万五千人を率いて清苑を救援した。李晟の軍は大敗し、退却して易州を防衛した。朱滔は軍を瀛州に戻し、張升雲は満城に逃げた。たまたま李晟は病が重く、軍を引き返して定州を防衛した。 王武俊以滔既破李晟,留屯瀛州,未還魏橋,遣其給事中宋端趣之。端見滔,言頗不遜,滔怒,使謂武俊曰:「滔以熱疾,暫未南還,大王二兄遽有云云。滔以救魏博之故,叛君棄兄,如脫屣耳。二兄必相疑,惟二兄所為!」端還報,武俊自辨於馬寔,寔以状白滔,言:「趙王知宋端無禮於大王,深加責讓,實無他志。」武俊亦遣承令官鄭和隨寔使者見滔,謝之。滔乃悅,相待如初。然武俊以是益恨滔矣。 王武俊は朱滔がすでに李晟を破ったから、留って瀛州に駐屯し、いまだ魏橋に戻らなかった。その給事中の宋端を派遣して赴かせた。宋端は朱滔に謁見すると、言葉はかなり不遜であったから朱滔は怒り、使者に王武俊に対して、「朱滔は熱病であり、しばらく南に帰還しないが、大王は二兄のせいだと言ってます。朱滔は魏博を救援するため、君に叛き兄を棄てることは履物を脱ぎ捨てるようでした。二兄は必ず互いに疑っていますが、これは二兄のせいであると!」宋端は戻って報告し、王武俊は自ら馬寔に弁解し、馬寔を介して始末を朱滔に申し立てた。「趙王は宋端の大王への無礼を知り、深く譴責を加えています。本当に他意はありません」と言い、王武俊はまた承令官の鄭和を派遣して馬寔の使者に従って朱滔に謁見して謝罪した。朱滔はそこで喜び、応対ははじめのようであった。しかし王武俊はこのためますます朱滔を恨んだ。 六月,李抱真使參謀賈林詣武俊壁詐降。武俊見之。林曰:「林來奉詔,非降也。」武俊色動,問其故,林曰:「天子知大夫宿著誠效,及登壇之日,撫膺顧左右曰:『我本徇忠義,天子不察。』諸將亦嘗共表大夫之志。天子語使者曰:『朕前事誠誤,悔之無及。朋友失意,尚可謝,況朕為四海之主乎。』」武俊曰:「僕胡人也,為將尚知愛百姓,況天子,豈專以殺人為事乎!今山東連兵,暴骨如莽,就使克捷,與誰守之!僕不憚歸國,但已與諸鎮結盟。胡人性直,不欲使曲在己。天子誠能下詔赦諸鎮之罪,僕當首唱從化。諸鎮有不從者,請奉辭伐之。如此,則上不負天子,下不負同列,不過五旬,河朔定矣。」使林還報抱真,陰相約結。 六月、李抱真は参謀の賈林に王武俊が立て籠もっているところに派遣して偽って降伏させた。王武俊は謁見すると、賈林は「賈林は詔を奉って来たのであって、降伏に来たのではありません」と言った。王武俊は顔色が変わり、その理由を聞いた。賈林は、「天子は大夫が心に忠誠心を宿していて、登壇の日に嘆息して左右の者を顧みて、「私はもとは忠義を唱えているが、天子は察しない」と言っていたのを知り、諸将もまたかつて共に大夫の志を上表しました。天子は使者に、「朕は前に誠心を誤り、これを悔いても悔いきれない。朋友は心を失い、なお謝らなければならない。ましてや朕は四海の主なのだから」語っています」王武俊は、「僕は胡人である。将軍となってもなお百姓を愛することを知っている。ましてや天子は、どうして殺人によって仕えるのだろうか!今、山東は交戦して、骨があらわれることは草むらのようであり、勝利をおさめたところで、誰がこれを守るのだろうか!僕は憚らずに帰国したが、ただすでに諸鎮と盟を結んでいる。胡人は性格が実直で、物事を曲げてでも己に私有することを欲しない。天子は本当に詔を下して諸鎮の罪を赦すことができれば、僕はただちに先頭にたって帰順するよう唱えよう。諸鎮で従わない者がいれば、上表して討伐を願い出よう。このように、上は天子を負わず、下は同列に負わず、五十日もしないうちに河朔を平定するだろう」と言い、賈林に戻らせて李抱真に報告させ、密かに互いに盟約を結んだ。 15.庚戌,初行稅間架、除陌錢法。時河東、澤潞、河陽、朔方四軍屯魏縣,神策、永平、宣武、淮南、浙西、荊南、江泗、沔鄂、湖南、黔中、劍南、嶺南諸軍環淮寧之境。舊制,諸道軍出境,則仰給度支。上優恤士卒,毎出境,加給酒肉,本道糧仍給其家。一人兼三人之給,故將士利之。各出軍才逾境而止,月費錢百三十餘萬緡,常賦不能供。判度支趙贊乃奏行二法:所謂稅間架者,毎屋兩架為間,上屋稅錢二千,中稅千,下稅五百,吏執筆握算,入人室廬計其數。或有宅屋多而無它資者,出錢動數百緡。敢匿一間,杖六十,賞告者錢五十緡。所謂除陌錢者,公私給與及賣買,毎緡官留五十錢,給它物及相貿易者,約錢為率。敢隱錢百,杖六十,罰錢二千,賞告者錢十緡,其賞錢皆出坐事之家。於是愁怨之聲,盈於遠近。 15.庚戌、はじめて間架税・除陌銭の法を行った。当時、河東・沢潞・河陽・朔方の四軍は魏県に駐屯し、神策・永平・宣武・淮南・浙西・荊南・江泗・沔鄂・湖南・黔中・剣南・嶺南の諸軍は淮寧の境を取り巻いた。旧制では、諸道の軍が境を出れば、度支の給付を申請した。お上は士卒に賜い、境を出るごとに、酒肉の給付を加えられ、本道の糧食はその家に給付された。一人は三人の給を兼ね、そのため将兵はこれに利益を得た。それぞれ軍が出ればわずかに境を越えるだけで停止し、月費は銭百三十万緡あまりとなり、常賦は供給することができなかった。判度支の趙賛はそこで奏上して二法を行い、所謂間架税は、家ごとの二架の間をはかって、上屋は税銭二千、中は税千、下は税五百とし、官吏が筆を持って計算し、人の家の中に入ってその数を数えた。あるいは家屋が多くあって、他に資財がない者は、銭を数百緡出させた。一間を隠すごとに杖六十とし、密告者には賞として銭五十緡を与えた。いわゆる除陌銭は、公私の給付および売買において、一緡ごとに官に五十銭を税とし、他の物および相互の貿易においては、銭を一定の率を約した。銭百を隠す者は杖六十とし、罰銭二千とし、密告者には賞として銭十緡を与え、その賞銭はすべて事に連座した家から出させたから、ここに怨嗟の声が遠近にあふれた。 16.丁卯,徙郴王逾為丹王,鄜王遘為簡王。 16.丁卯、郴王逾を移して丹王とし、鄜王遘を簡王とした。 17.庚午,答蕃判官監察御史於于頔吐蕃使者論剌沒藏至自青海,言疆場已定,請遣區頰贊歸國。秋,七月,甲申,以禮部尚書李揆為入蕃會盟使。壬辰,詔諸將相與區頰贊盟於城西。李揆有才望,盧杞惡之,故使之入吐蕃。揆言於上曰:「臣不憚遠行,恐死於道路,不能達詔命!」上為之惻然,謂杞曰:「揆無乃太老!」對曰:「使遠夷,非諳練朝廷故事者不可。且揆行,則自今年少於揆者,不敢辭遠使矣。」 17.庚午、答蕃判官監察御史の于頔と吐蕃使者の論剌没蔵は青海より到り、境界がすでに定ったことを言い、区頬賛の派遣を願って帰国した。秋七月甲申、礼部尚書の李揆を入蕃会盟使とした。壬辰、諸将に詔して区頬賛と城西で会盟した。李揆は才望があり、盧杞はこれを憎んだ。そのため使が吐蕃に入った。李揆はお上に、「臣は遠くに行くことははばかりませんが、おそらく道路で死んで、詔命を達することができないでしょう!」お上は溜め息をついて、盧杞に「李揆は太老でないのか!」と言ったが、「遠く夷に使するのに、朝廷の故事に慣れて諳んじられないものは駄目です。また李揆が行けば、これからは李揆より年少の者は、あえて遠使を辞退することはないでしょう」と答えた。 18.八月,丁未,李希烈將兵三萬圍哥舒曜於襄城,詔李勉及神策將劉德信將兵救之。乙卯,希烈將曹季昌以隨州降,尋復為其將康叔夜所殺。 18.八月丁未、李希烈は兵三万を率いて哥舒曜を襄城で包囲した。李勉および神策将の劉徳信に詔して兵を率いて救援させた。乙卯、李希烈は曹季昌を率いて随州とともに降伏し、ついでまたその将の康叔夜を殺害した。 19.初,上在東宮,聞監察御史嘉興陸贄名,即位,召為翰林學士,數問以得失。時兩河用兵久不決,賦役日滋,贄以兵窮民困,恐別生內變,乃上奏,其略曰:「克敵之要,在乎將得其人;馭將之方,在乎操得其柄。將非其人者,兵雖衆不足恃;操失其柄者,將雖材不為用。」又曰:「將不能使兵,國不能馭將,非止費財玩寇之弊,亦有不戢自焚之災。」又曰:「今兩河、淮西為叛亂之帥者,獨四五凶人而已。尚恐其中或傍遭詿誤,內蓄危疑。蒼黄失圖,勢不得止。況其餘衆,蓋並脅從,苟知全生,豈願為惡!」又曰:「無紓目前之虞,或興意外之患。人者,邦之本也。財者,人之心也。其心傷則其本傷,其本傷則枝幹顛瘁矣。」又曰:「人搖不寧,事變難測,是以兵貴拙速,不尚巧遲。若不靖於本而務救於末,則救之所為,乃禍之所起也。」又論關中形勢,以為:「王者蓄威以昭德,偏廢則危;居重以馭輕,倒持則悖。王畿者,四方之本也。太宗列置府兵,分隸禁衛,大凡諸府八百餘所,而在關中者殆五百焉。舉天下不敵關中之半,則居重馭輕之意明矣。承平漸久,武備浸微,雖府衛具存而卒乘罕習。故祿山竊倒持之柄,乘外重之資,一舉滔天,兩京不守。尚賴西邊有兵,諸牧有馬,毎州有糧,故肅宗得以中興。乾元之後,繼有外虞,悉師東討,邊備既弛,禁戒亦空,吐蕃乘虚,深入為寇,故先皇帝莫與為御,避之東遊。是皆失居重馭輕之權,忘深根固柢之慮。內寇則汧、函失險,外侵則汧、渭為戎。於斯之時,雖有四方之師,寧救一朝之患,陛下追想及此,豈不為之寒心哉!今朔方、太原之衆,遠在山東;神策六軍之兵,繼出關外。儻有賊臣啖寇,黠虜覷邊,伺隙乘虚,微犯亭障,此愚臣所竊憂也。未審陛下其何以御之!側聞伐叛之初,議者多易其事,僉謂有征無戰,役不逾時,計兵未甚多,度費未甚廣,於事為無擾,於人為不勞;曾不料兵連禍拏,變故難測,日引月長,漸乖始圖。往歲為天下所患,鹹謂除之則可致昇平者,李正己、李寶臣、梁崇義、田悅是也。往歲謂國家所信,鹹謂任之則可除禍亂者,朱滔、李希烈是也。既而正己死,李納繼之;寶臣死,惟岳繼之;崇義卒,希烈叛;惟岳戮,朱滔攜。然則往歲之所患者,四去其三矣,而患竟不衰;往歲之所信者,今則自叛矣,而餘又難保。是知立國之安危在勢,任事之濟否在人。勢苟安,則異類同心也;勢苟危,則舟中敵國也。陛下豈可不追鑒往事,惟新令圖,修偏廢這柄以靖人,復倒持之權以固國!而乃孜孜汲汲,報思勞神,徇無巳之求,望難必之效乎!今關輔之間,征發已甚,宮苑之內,備衛不全。萬一將帥之中,又如朱滔、希烈,或負固邊壘,誘致豺狼,或竊發郊畿,驚犯城闕,此亦愚臣所竊為憂者也,夫審陛下復何以備之!陛下儻過聽愚計,所遣神策六軍李晟等及節將子弟,悉可追還。明敕涇、隴、邠,寧,但令嚴備封守,仍雲更不征發,使知各保安居。又降德音,罷京城及畿縣間架等雜稅,則冀已輸者弭怨,見處者獲寧,人心不搖,邦本自固。」上不能用。 20.壬戌,以汴西運使崔縱兼魏州四節度都糧料使。縱,渙之子也。 20.壬戌、汴西運使の崔縦を魏州四節度都糧料使に兼任させた。崔縦は崔渙の子である。 21九月,丙戌,神策将劉徳信、宣武将唐漢臣與淮寧将李克誠戦,敗於滬澗。時李勉遣漢臣將兵萬人救襄城,上遣徳信帥諸将家應募者三千人助之。勉奏:「李希烈精兵皆在襄城,許州空虚,若襲許州,則襄城圍自解。」遣二将趣許州,未至數十里,上遣中使責其違詔,二将狼狽而返,無復斥候。克誠伏兵邀之,殺傷大半。漢臣奔大梁,德信奔汝州。希烈遊兵剽掠至伊闕。勉復遣其将李堅帥四千人助守東都,希烈以兵絶其後,堅軍不得還。汴軍由是不振,襄城益危。 21.九月、丙戌、神策軍の将の劉徳信、宣武軍の唐漢臣と淮寧軍の将李克誠が戦い、滬澗に敗れた。当時李勉は唐漢臣の将兵一万人を派遣して襄城を救援させた。お上は劉徳信を派遣して諸将家を率いて応募した者三千人で救援させた。李勉は上奏して、「李希烈の精兵はすべて襄城にあり、許州は空っぽです。もし許州を襲撃すれば、襄城の包囲は自然と解けるでしょう」二将を派遣して許州に赴かせたが、数十里も至らないうちに、お上は中使を派遣してその違詔を責めたから、二将は狼狽して引き返し、再度斥候を出さなかった。李克誠は伏兵でこれを迎撃し、大半を殺傷した。唐漢臣は大梁に逃げ、劉徳信は汝州に逃げた。李希烈の遊兵は掠め取って伊闕に至った。李勉はまたその将李堅を派遣して四千人を率いて東都を救援させ、李希烈は兵でその背後を絶って、軍を固めて帰還させなかった。汴軍はそのため不利となり、襄城はますます危くなった。 22上以諸軍討淮寧者不相統壹,庚子,以舒王謨為荊襄等道行營都元帥,更名誼。以戸部尚書蕭復為長史,右庶子孔巣父為左司馬,諫議大夫樊澤為右司馬,自餘將佐皆選中外之望。未行,會涇師作亂而止。復,嵩之也;巣父,孔子三十七世孫也。 22.お上は諸軍で淮寧を討伐させたが、互いに統一していなかった。庚子、舒王謨を荊襄等道行営都元帥とし、さらに誼と名づけた。戸部尚書の蕭復を長史とし、右庶子の孔巣父を左司馬とし、諫議大夫の樊沢を右司馬とし、そのほかの将佐はみな皆選中外の衆望がある者を選んだ。いまだ行われる前に、涇州の軍が反乱を起こしたから止んだ。蕭復は蕭嵩の孫であり、孔巣父は孔子の三十七世の孫である。 23.上發涇原等諸道兵救襄城。冬,十月,丙午,涇原節度使姚令言將兵五千至京師。軍士冒雨,寒甚,多攜子弟而來,冀得厚賜遺其家,既至,一無所賜。丁未,發至滻水,詔京兆尹王滻犒師,惟糲食菜啖。衆怒,蹴而覆之,因揚言曰:「吾輩將死於敵,而食且不飽,安能以微命拒白刃邪!聞瓊林、大盈二庫,金帛盈溢,不如相與取之。」乃擐甲張旗鼓噪,還趣京城。令言入辭,尚在禁中,聞之,馳至長樂阪,遇之。軍士射令言,令言抱馬鬣突入亂兵,呼曰:「諸君失計!東征立功,何患不富貴,乃為族滅之計乎!」軍士不聽,以兵擁令言而西。上遽命賜帛,人二匹。衆益怒,射中使。又命中使宣慰,賊已至通化門外,中使出門,賊殺之。又命出金帛二十車賜之。賊已入城,喧聲浩浩,不復可遏。百姓狼狽駭走,賊大呼告之曰:「汝曹勿恐,不奪汝商貨僦質矣!不稅汝間架陌錢矣!」上遣普王誼、翰林學士姜公輔出慰諭之。賊已陳於丹鳳門外,小民聚觀者以萬計。 23.お上は涇原等の諸道兵を発して襄城を救援させることとした。冬十月丙午、涇原節度使の姚令言は兵五千を率いて京師に到った。兵士は雨をおかして寒さは厳しかった。多くが子弟とともに来て、厚い賜物を得てその家に残すことを願ったが、すでに来たにも関わらず、一つも賜うところはなかった。丁未、出発して滻水に到り、京兆尹の王滻に詔して軍を労わせたが、ただ粗食を食わせただけだった。軍は怒り、蹴って引っくり返し、そこで声を大にして、「我らはまさに敵地に死なんとしているが、食は満足ではない。どうして卑しい命で白刃を防ぐことができようか!聞けば瓊林・大盈の二倉庫は、金や絹が溢れているというが、相互に奪うにこしたことがない」と述べ、そこで甲冑を着て旗を立て鼓を鳴らし、戻って京城に赴いた。姚令言は辞を述べようと、なおも禁中にいたが、これを聞いて、馳せて長楽阪に到ってこれと遇った。兵士は姚令言を射て、姚令言は馬のたてがみに抱きついて乱兵に突入し、「諸君らは計を失った!東征して功を立てるのに、何の患いがあって富貴とならず、族滅の計となるのか!」と叫んだが、兵士は聞かず、兵は姚令言を擁して西行した。上はにわかに一人二匹の帛を賜うよう命じた。衆はますます怒り、中使を射た。また中使に命じて宣慰させたが、賊はすでに通化門外に到っており、中使は門を出ると賊に殺された。また命じて金帛二十車を出してこれを賜った。賊すでに入城し、喧騒が広がって、再び留めることができなかった。百姓は狼狽して逃げ走ったが、賊は大いに叫んで、「お前たちは恐れてはならない。お前たちの商売や就業を奪わない!不稅お前たちに間架・陌銭を税としない!」と言い、上は普王誼・翰林学士の姜公輔を遣わして出て説諭した。賊はすでに丹鳳門外に陣をはり、小民で集まって見る者は一万人を数えた。 初,神策軍使白志貞掌召募禁兵,東征死亡者志貞皆隱不以聞,但受市井富兒賂而補之,名在軍籍受給賜,而身居市廛為販鬻。司農卿段秀實上言:「禁兵不精,其數全少,卒有患難,將何待之!」不聽。至是,上召禁兵以御賊,竟無一人至者。賊已斬關而入,上乃與王貴妃、韋淑妃、太子、諸王、唐安公主自苑北門出,王貴妃以傳國寶系衣中以從。後宮諸王、公主不及從者什七八。 それより以前、神策軍使の白志貞は禁兵の応募をつかさどり、東征の死亡者は白志貞が皆隠して上聞しなかったが、ただし市井の富児の賄賂を受けてこれを補い、名は軍籍にあって給付を受け、身は市井にあって商いをしていた。司農卿の段秀実は上言して、「禁兵に精なく、その数は全くもって少なく、ついに艱難となり、まさにどうしてこれを待つのでしょうか!」と言ったが、聴き入れられず、ここに到って、お上は禁兵を召して賊を御そうとしたが、ついに一人も来る者がなかった。賊はすでに関を切って入り、お上はそこで王貴妃、韋淑妃、太子、諸王、唐安公主とともに苑北の門より出て、王貴妃は伝国の宝を衣の中に縫って従った。後宮・諸王、公主で従わなかった者は十人中、七・八人に及んだ。 初,魚朝恩既誅,宦官不復典兵,有竇文場、霍仙鳴者,嘗事上於東宮,至是,帥宦官左右僅百人以從,使普王誼前驅,太子執兵以殿。司農卿郭曙以部曲數十人獵苑中,聞蹕,謁道左,遂以其衆從。曙,曖之弟也。右龍武軍使令狐建方教射於軍中,聞之,帥麾下四百人從,乃使建居後為殿。 それより以前、魚朝恩はすでに誅殺され、宦官は再び兵を司ることはなかった。竇文場・霍仙鳴は、かつてお上が東宮時代に仕えたが、ここに到って、宦官の左右僅か百人ばかりを率いて従い、普王誼をして前駆させ、太子は兵を率いて殿(しんがり)となった。司農卿の郭曙は部曲数十人で苑中に猟し、警蹕の声を聞いて、道を左に謁し、ついにその衆とともに従った。郭曙は郭曖の弟である。右龍武軍使の令狐建は弓を軍中に教えるところであったが、これを聞いて、麾下四百人を率いて従い、そこで令狐建の住居の背後を宮殿とした。 姜公輔叩馬言曰:「朱訿嘗為涇帥,坐弟滔之故,廢處京師,心嘗怏怏。臣嘗謂陛下既不能推心待之,則不如殺之,毋貽後患。今亂兵若奉以為主,則難制矣。請召使從行。」上倉猝不暇用其言,曰:「無及矣!」遂行。夜至咸陽,飯數匕而過。時事出非意,群臣皆不知乘輿所之。盧杞、關播逾中書垣而出。白志貞、王翃及御史大夫於頎、中丞劉從一、戸部侍郎趙贊、翰林學士陸贄、吳通微等追及上於咸陽。頎,□之從父兄弟;從一,齊賢之從孫也。 姜公輔が馬を叩いて、「朱訿はかつて涇州の帥であったが、弟の朱滔に連座したため、廃されて京師に移され、心は怏怏として楽しまなかった。臣はかつて陛下に、すでに心を強くもって待つことができず、だから殺してしまうのにこしたことがなく、後の患いを残してはなりません、と言った。今兵乱で、もし主となって奉るようであり、だから制することが難しいのだ。使を召して行くのに従わせましょう」と言ったが、お上は慌ただしく、その言を用いることができず、そこで「するに及ばない!」と言い、ついに行った。夜に咸陽に到り、食事は数杯の匙に過ぎなかった。その時々で自身の思いではないところに出て、群臣は皆乘輿の居場所を知らなかった。盧杞・関播はいよいよ中書垣に出た。白志貞・王翃および御史大夫于頎、中丞の劉従一、戸部侍郎の趙賛、翰林学士の陸贄、呉通微らはお上を咸陽に追求した。于頎は于□の従父兄弟であり、劉従一は斎賢の従孫である。 賊入宮,登含元殿,大呼曰:「天子已出,宜人自求富!」遂歡噪,爭入府庫,運金帛,極力而止。小民因之,亦入宮盜庫物,出而復入,通夕不已。其不能入者,剽奪於路。諸坊居民各相帥自守。姚令言與亂兵謀曰:「今衆無主,不能持久,朱太尉閒居私第,請相與奉之。」衆許諾。乃遣數百騎迎泚於晉昌裡第。夜半,泚按轡列炬,傳呼入宮,居含元殿,設警嚴,自稱權知六軍。戊申旦,泚徙居白華殿,出榜於外,稱:「涇原將士久處邊陲,不閒朝禮,輒入宮闕,致驚乘輿,西出巡幸。太尉已權臨六軍,應神策等軍士及文武百官凡有祿食者,悉詣行在。不能往者,即詣本司。若出三日,檢勘彼此無名者,皆斬!」於是百官出見泚。或勸迎乘輿,泚不悅,百官稍稍遁去。 賊が宮殿に入ると、含元殿に登り、大いに、「天子はもう出ていった。人は自ら富を求めよ!」と叫んで、遂に歓声とともに争って府庫に入り、金帛を運び、力を極めて止んだ。小民はこれによって、また宮殿に入って庫物を盗み、出てはまた入り、夜通し止むことはなかった。入ることができなかった者は、路上で強奪した。諸坊の居民はそれぞれ率いて自衛した。姚令言は乱兵とともに謀って、「今軍は主なく、長く保つことはできない。朱太尉(朱泚)が私第に閑居しているから、共にお迎えにあがろう」と言い、衆は許諾した。そこで数百騎を派遣して朱泚を晋昌坊中の邸宅に迎えた。夜半、朱泚は手綱を引いて炬を並べ、伝えて宮殿に入ったと布告し、含元殿にあって、警備を厳にし、自ら権知六軍と称した。戊申の早朝、朱泚は白華殿に移り、立て札を外に出して、「涇原の将兵は久しく辺境にあって、朝礼に拝礼する暇などなかった。たちまち宮闕に入るや、乗輿を驚かせてしまい、西に巡幸に出られてしまった。太尉はすでに仮に六軍に臨み、およそ神策等の軍士および文武百官で禄を食む者はただちにすべて行在に詣でよ。往くことができない者は、ただちに本司に詣でよ。もし三日たって、調べてどこにも名が無い者は皆斬る!」とし、ここに百官は出て朱泚に謁見した。ある者は乗輿を迎えるように勧めたが、朱泚は喜ばず、百官は少しづつ逃げ去っていった。 源休以使回紇還,賞薄,怨朝廷,入見泚,屏人密語移時,為泚陳成敗,引符命,勸之僭逆。泚喜,然猶未決。宿衛諸軍舉白幡降者,列於闕前甚衆。泚夜於苑門出兵,旦自通化門入,駱驛不絕,張弓露刃,欲以威衆。 源休は回紇の使節から帰還したが、褒賞は薄く、朝廷を怨み、朱泚に入見し、人を退けて密かに語って時間がたち、朱泚のために今後の方策を述べ、符命を引いて、皇帝を僭称するよう勧めた。朱泚は喜び、しかしまだ決することができなかった。宿衛諸軍は白旗をあげて降る者は、宮殿前に整列させると非常に多かった。朱泚は夜に苑門に出兵し、早朝に通化門より入り、人馬の往来は絶えず、弓を張って刃を露出し、衆を脅そうとした。 上思桑道茂之言,自咸陽幸奉天。縣僚聞車駕猝至,欲逃匿山谷,主簿蘇弁止之。弁,良嗣之兄孫也。文武之臣稍稍繼至。己酉,左金吾大將軍渾瑊至奉天。瑊素有威望,衆心恃之稍安。 お上は桑道茂の言葉を思い出し、咸陽より奉天に行幸した。奉天県の官僚は車駕が突然やって来たのを聞いて、逃げて山谷に隠れようとしたが、主簿の蘇弁がこれを止めた。蘇弁は蘇良嗣の兄の孫である。文武の臣少しづつやって来た。己酉、左金吾大将軍の渾瑊が奉天に到った。渾瑊はもとより威望があり、軍の士気はこれをたのみとしてようやく落ち着いた。 庚戌,源休勸朱泚禁十城門,毋得出朝士,朝士往往易服為傭僕潛出。休又為泚説誘文武之士,使之附泚。檢校司空、同平章事李忠臣久失兵柄,太僕卿張光晟自負其才,皆鬱鬱不得志,泚悉起而用之。工部侍郎蔣鎮出亡,墜馬傷足,為泚所得。先是,休以才能,光晟以節義,鎮以清素,都官員外郎彭偃以文學,太常卿敬釭以勇略,皆為時人所重,至是皆為泚用。 庚戌、源休は朱泚に勧めて十城門を閉鎖し、朝士が出ることができないようにした。朝士は往々として服を変えて下僕に扮して密かに脱出した。源休もまた朱泚のために文武の士を誘致し、朱泚に仕えさせた。検校司空同平章事(宰相)の李忠臣も久しく兵権を失い、太僕卿の張光晟はその才能を自負しながら、皆鬱々として志を得なかったから、朱泚はすべて起用した。工部侍郎の蒋鎮は出て逃亡したが、馬から落ちて足を怪我し、朱泚に捕らえられた。これより以前、源休は才能によって、張光晟は節義によって、蒋鎮は清素によって、都官員外郎の彭偃は文学によって、太常卿の敬釭は勇略によって、皆当時の人より重じられていたが、ここに到って皆朱泚のために用いられた。 鳳翔、涇原將張廷芝、段誠諫將數千人救襄城,未出潼關,聞朱泚據長安,殺其大將隴右兵馬使戴蘭,潰歸於泚。泚於是自謂衆心所歸,反謀遂定,以源休為京兆尹、判度支,李忠臣為皇城使。百司供億,六軍宿門,咸擬乘輿。 鳳翔・涇原の将の張廷芝・段誠諫は数千人を率いて襄城の救援に向かったが、まだ潼関を出る前に、朱泚が長安によったのを聞いて、その大将の隴右兵馬使の戴蘭を殺し、潰えて朱泚に帰順した。朱泚はここに衆心が帰したからと言って、謀反が遂に定まった。源休を京兆尹・判度支とし、李忠臣を皇城使とした。百司に施し、六軍に宿衛させ、すべて皇帝に擬した。 辛亥,以渾瑊為京畿、渭北節度使,行在都虞候白志貞為都知兵馬使,令狐建為中軍鼓角使,以神策都虞候侯仲莊為左衛將軍兼奉天防城使。 辛亥、渾瑊を京畿渭北節度使とし、行在都虞候の白志貞を都知兵馬使とし、令狐建を中軍鼓角使とし、神策都虞候の侯仲荘を左衛将軍兼奉天防城使とした。 朱泚以司農卿段秀實久失兵柄,意其必怏怏,遣數十騎召之。秀實閉門拒之,騎士逾垣入,劫之以兵。秀實自度不免,乃謂子弟曰:「國家有患,吾於何避之,當以死徇社稷;汝曹宜人自求生。」乃往見泚。泚喜曰:「段公來,吾事濟矣。」延坐問計。秀實説之曰:「公本以忠義著聞天下,今涇軍以犒賜不豐,遽有披猩,使乘輿播越。夫犒賜不豐,有司之過也,天子安得知之!公宜以此開諭將士,示以禍福,奉迎乘輿,復歸宮闕,此莫大之功也!」泚默然不悅,然以秀實與己皆為朝廷所廢,遂推心委之。左驍衛將軍劉海賓、涇原都虞候何明禮、孔目官岐靈岳,皆秀實素所厚也,秀實密與之謀誅泚,迎乘輿。 朱泚は司農卿の段秀実が久しく兵権を失って、思いは必ず鬱々としていることから、数十騎を派遣して招いた。段秀実は閉門して拒否したが、騎士は垣を越えて侵入し、兵で恫喝した。段秀実は免れないと考え、そこで子弟に、「国家に患いがあり、私はどうしてこれを避けることがあろうか。まさに死をもって社稷にしたがわなければならない。お前たちは自分で生を求めなさい」と言った。そこで行って朱泚に見えた。朱泚は喜んで、「段公が来たのなら、我が事は救われた」と言い、座るよう勧めて計略を問うた。段秀実は、「公はもとは忠義を以て天下に名が聞こえていました。今、涇軍は賜物が豊かではなかったから、にわかに怒り狂い、乗輿を流離わせました。そもそも賜物が豊かではなかったのは、役人の責任で、天子はどうして知り得ることができたのでしょうか!公はこれを明らかにて将兵を説諭し、禍福を示すべきで、乗輿を迎え奉り、宮殿に復帰させれば、これは莫大な功績となるでしょう!」と説いたが、朱泚は黙ったままで喜ばず、しかし段秀実を自身に与してすべて朝廷を廃させようとしたため、遂に心を推してこれを委ねた。左驍衛将軍の劉海賓、涇原都虞候の何明礼、孔目官の岐霊岳は、皆段秀実がもとより厚遇した者であり、段秀実は密に彼らと朱泚を誅殺せんと謀り、乗輿を迎えようとした。 上初至奉天,詔征近道兵入援。有上言:「朱泚為亂兵所立,且來攻城,宜早修守備。」盧杞切齒言曰:「朱泚忠貞,群臣莫及,奈何言其從亂,傷大臣心!臣請以百口保其不反。」上亦以為然。又聞群臣勸泚奉迎,乃詔諸道援兵至者皆營於三十里外。姜公輔諫曰:「今宿衛單寡,防慮不可不深,若泚竭忠奉迎,何憚於兵多;如其不然,有備無患。」上乃悉召援兵入城。盧杞及白志貞言於上曰:「臣觀朱泚心跡,必不至為逆,願擇大臣入京城宣慰以察之。」上以問從臣皆畏憚,莫敢行。金吾將軍吳漵獨請行,上悅。漵退而告人曰:「食其祿而違其難,何以為臣!吾幸托肺附,非不知往必死,但舉朝無蹈難之臣,使聖情慊慊耳!」遂奉詔詣泚。泚反謀已決,雖陽為受命,館漵於客省,尋殺之。漵,湊之兄也。 お上ははじめ奉天に到ると、詔して近くの道の兵で援軍させた。「朱泚は乱兵のために擁立され、かつ城を攻めに来ます。早く守りを備えるべきです」という上言があったが、盧杞は切歯して、「朱泚は忠貞で、群臣で及ぶ者はおらず、どうして彼が乱に従うというのでしょうか。大臣の心を傷つけるだけです!臣は百口を与えて彼が反しないよう保つことを願います」と言い、お上もまたそうだと思った。また群臣が朱泚に迎え奉ることを勧めているのを聞いて、そこで諸道の援兵で来たものに詔して、すべて三十里の外に駐屯させた。姜公輔は、「今宿衛は少なく、懸念は大したことはないとは思ってはなりません。もし朱泚が忠義をつくして迎え奉るなら、どうして兵が多ければ憚り、それがそうでなければ、備えあれば患い無しです」と諫め、お上はそこでことごとく援兵を召して城に入らせた。盧杞と白志貞はお上に、「臣は朱泚の心の跡を見ると、必ずしも逆賊になるまでに至らず、大臣を択んで京城に入らせて慰撫して査察するよう願います」と言い、お上がそれに従う臣を問うたが皆恐れ憚って、敢えて行く者がいなかった。金吾将軍の呉漵がただ一人行くことを願い、お上は喜んだ。呉漵は退いて人に告げて、「その禄を食んでその難を違えば、どうして臣となったのであろうか!私は幸いにも五臓六腑があり、行ったからといって必ず死ぬことを知らないわけではないが、ただ朝廷をあげて艱難に立ち向かう臣下がいないなら、聖情をして心を満ち足りなくさせるだけだ!」と言い、遂に詔を奉って朱泚に詣でた。朱泚は謀反することをすでに決めていたから、表向きは命を受けるようにしながらも、呉漵を客省に館に住まわせ、ついでこれを殺した。呉漵は呉湊の兄である。 泚遣涇原兵馬使韓旻將銳兵三千,聲言迎大駕,實襲奉天。時奉天守備單弱,段秀實謂岐靈岳曰:「事急矣!」使靈岳詐為姚令言符,令旻且還,當與大軍俱發。竊令言印未至,秀實倒用司農印印符,募善走者追之。旻至駱驛,得符而還。秀實謂同謀曰:「旻來,吾屬無類矣!我當直搏泚殺之,不克則死,終不能為之臣也!」乃令劉海賓、何明禮陰結軍中之士,欲使應之於外。旻兵至,泚、令言大驚。岐靈岳獨承其罪而死,不以及秀實等。 朱泚は涇原兵馬使の韓旻を派遣して精兵三千を率いて、大駕を迎えると声明し、実際には奉天を襲撃しようとした。当時、奉天の守備は弱く、段秀実は岐霊岳に向かって、「事は急だ!」と言って、岐霊岳に偽って姚令言の符をつくらせ、韓旻を帰らせ、まさに大軍とともに出発すべきとした。密かに姚令言の印がまだ来る前に、段秀実は司農印の印符を代用して、よく走る者を募ってこれを追わせた。韓旻は続いて到り、符を得て帰還した。段秀実は同じく謀って、「韓旻が来れば、我が部下で対抗できない!私は直ちに朱泚を捕らえてこれを殺さなくてはならないが、できなければ死ぬだけだ。そのために朱泚の臣となることはできない!」と言い、そこで劉海賓・何明礼に密かに軍中の兵士と結ばせ、これを外に内応させようとした。韓旻の兵が帰還すると、朱泚と姚令言は大いに驚いた。岐霊岳は一人その罪を受けて死に、段秀実らに及ばせなかった。 是日,泚召李忠臣、源休、姚令言及秀實等議稱帝事。秀實勃然起,奪休象笏,前唾泚面,大罵曰:「狂賊!吾恨不斬汝萬段,豈從汝反邪!」因以笏撃泚,泚舉手扞之,才中其額,濺血灑地。泚與秀實相搏忷忷,左右猝愕,不知所為。海賓不敢進,乘亂而逸。忠臣前助泚,泚得匍匐脫走。秀實知事不成,謂泚黨曰:「我不同汝反,何不殺我!」衆爭前殺之。泚一手承血,一手止其衆曰:「義士也,勿殺。」秀實已死,泚哭之甚哀,以三品禮葬之,海賓縗服而逃,後二日,捕得,殺之。亦不引何明禮。明禮從泚攻奉天,復謀殺泚,亦死。上聞秀實死,恨委用不至,涕泗久之。 この日、朱泚は李忠臣・源休・姚令言および段秀実らを召して帝を称する事について議した。段秀実は忽然として立ち上がり、源休の象笏を奪い、唾を朱泚の顔に吐き、大いに罵って、「狂賊め!私はお前を斬って切り刻まなかったのを恨む。どうしてお前に従って叛くことがあろうか!」と言い、そこで笏で朱泚を撃った。朱泚は手をあげて防いだが、角がその額にあたり、血が吹き出して地を濡らせた。朱泚は段秀実と掴み合い、左右の者は突然のことで驚き、なすところを知らなかった。劉海賓はあえて進まず、混乱に乗じて逃げた。李忠臣は前で朱泚を助けたから、朱泚は匍匐して逃れることができた。段秀実は事がならなかったのを知り、朱泚の郎党に向かって、「私はお前と一緒に叛かない。どうして私を殺さないのか!」と言い、衆は争って前に行き段秀実を殺した。朱泚は片手で血を受け止め、もう片手でその衆を止めて、「義士だ。殺すな」と言ったが、段秀実はすでに死んでおり、朱泚は泣いて非常に悲しみ、三品の礼によって葬った。劉海賓は喪服で逃げ、その後二日して捕えられ、殺された。また何明礼は連座しなかった。何明礼は朱泚に従って奉天を攻めたが、再度朱泚を殺そうと謀り、また死んだ。お上は段秀実が死んだのを聞いて、委ね用いたのに至らなかったのを怨み、涙と鼻水をしばらく流し続けた。 24.壬子,以少府監李昌巙為京畿、渭南節度使。 24.壬子、少府監の李昌巙を京畿渭南節度使に任じた。 25.鳳翔節度使、同平章事張鎰,性儒緩,好修飾邊幅,不習軍事,聞上在奉天,欲迎大駕,具服用貨財,獻於行在。後營將李楚琳,為人剽悍,軍中畏之,嘗事朱泚,為泚所厚。行軍司馬齊映與同幕齊抗言於鎰曰:「不去楚琳,必為亂首。」鎰命楚琳出屯隴州。楚琳托事不時發。鎰方以迎駕為憂,謂楚琳已去矣。楚琳夜與其黨作亂,鎰縋城而走,賊追及,殺之,判官王沼等皆死。映自水竇出,抗為傭保負荷而逃,皆免。 始,上以奉天迫隘,欲幸鳳翔。戸部尚書蕭復聞之,遽請見曰:「陛下大誤,鳳翔將卒皆朱泚故部曲,其中必有與之同惡者。臣尚憂張鎰不能久,豈得以鑾輿蹈不測之淵乎!」上曰:「吾行計已決,試為卿留一日。」明日,聞鳳翔亂,乃止。 齊映、齊抗皆詣奉天,以映為御史中丞,抗為侍御史。楚琳自為節度使,降於朱泚。隴州刺史郝通奔於楚琳。 25.鳳翔節度使、同平章事の張鎰は、性格は柔弱で、外面を飾るのを好み、軍事を習わず、お上が奉天にいるのを聞いて、大駕を迎えようと思い、多くの財貨を用いて、行在に献上した。後営将の李楚琳は、人となりは剽悍で、軍中で恐れられ、かつて朱泚に仕え、朱泚に厚遇された。行軍司馬の斉映と同幕の斉抗は張鎰に向かって、「李楚琳を外に出さなければ、必ず乱の首謀者となります」と言い、張鎰は李楚琳に命じて出て隴州を守らせようとしたが、李楚琳は理由をつけて出発しなかった。張鎰はまさに車駕(皇帝)を迎えるのに憂いとなっていたから、李楚琳に去るように言った。李楚琳は夜にその与党とともに乱を起こし、張鎰は城にすがって逃げたが、賊は追及して、殺された。判官の王沼らは皆死んだ。斉映は水竇から出て、斉抗は人を雇って背負われて逃げたから、皆免れた。 それより以前、お上は奉天が狭小であったから、鳳翔に行幸したいと思っていた。戸部尚書の蕭復はこれを聞いて、にわかに謁見を願って、「陛下は大いに誤っています。鳳翔の将兵は皆朱泚のもと部下で、その中には必ずこれを与する悪事仲間がいるでしょう。臣はなお張鎰が長らえないことを心配しています。どうして行幸して不測の事態に陥る縁を踏むことができましょうか!」と言ったから、お上は、「私は行くことはすでに決めているが、試しに卿のために一日延期してみよう」と言うと、翌日鳳翔の乱を聞いて、そこで止んだ。 斉映・斉抗は皆奉天にも詣で、斉映は御史中丞となり、斉抗は侍御史となった。李楚琳は自ら節度使となり、朱泚に降伏した。隴州刺史の郝通は李楚琳を破った。 26.商州團練兵殺其刺史謝良輔。 26.商州団練の兵がその刺史の謝良輔を殺した。 27.朱泚自白華殿入宣政殿,自稱大秦皇帝,改元應天。癸丑,泚以姚令言為侍中、關內元帥,李忠臣為司空兼侍中,源休為中書侍郎、同平章事、判度支,蔣鎮為吏部侍郎,樊系為禮部侍郎,彭偃為中書舍人,自餘張光晟等各拜官有差。立弟滔為皇大弟。姚令言與源休共掌朝政,凡泚之謀畫、遷除、軍旅、資糧,皆稟示休。休勸泚誅翦宗室在京城者以絕人望,殺郡王、王子、王孫凡七十七人。尋又以蔣鎮為門下侍郎,李子平為諫議大夫,並同平章事。鎮憂懼,毎懷刀欲自殺,又欲亡竄,然性怯,竟不果。源休勸泚誅朝士之竄匿者以脅其餘,鎮力救之,賴以全者甚衆。樊系為泚撰冊文,既成,仰藥而死。大理卿膠水蔣沇詣行在,為賊所得,逼以官,沇絕食稱病,潛竄得免。 27.朱泚は白華殿より宣政殿に入り大秦皇帝と自称し、応天と改元した。癸丑、朱泚は姚令言を侍中・関内元帥とし、李忠臣を司空兼侍中とし、源休を中書侍郎・同平章事・判度支とし、蒋鎮を吏部侍郎とし、樊系を礼部侍郎とし、彭偃を中書舎人とし、そのほか張光晟らはそれぞれ官職を拝命すること差があった。弟の朱滔を立てて皇大弟とした。姚令言と源休は共に朝政を司り、およそ朱泚の謀略・叙任・軍事・糧食はすべて源休が提示したことを受けて行った。源休は朱泚に宗室で京城にあって人望があるものを殺し尽くすことを勧め、郡王・王子・王孫が約七十七人殺害された。ついでまた蒋鎮を門下侍郎とし、李子平を諫議大夫とし、二人とも同平章事とした。蒋鎮は憂い恐れ、事あるごとに刀を懐にして自殺しようとし、また逃亡しようとしたが、しかし性格が臆病であったから、ついに果たせなかった。源休は朱泚に朝士を匿う者を殺し、その他を脅すよう勧めたが、蒋鎮はこれを救うのに尽力し、頼って全うする者がとても多かった。樊系は朱泚のために冊文を撰述し、それができると毒薬を仰いで死んだ。大理卿膠水の蒋沇は行在に詣でようとしたが、賊のために捕らえられ、無理やり官職につかされが、蒋沇は食を絶って病と称し、隠れ逃げて免れた。 28.哥舒曜食盡,棄襄城奔洛陽。李希烈陷襄城。 28.哥舒曜は食が尽きたため、襄城を棄てて洛陽に逃げた。李希烈は襄城を陥落させた。 29.右龍武將軍李觀將衛兵千餘人從上於奉天,上委之召募,數日,得五千餘人,列之通衢,旗鼓嚴整,城人為之增氣。 姚令言之東出也,以兵馬使京兆馮河清為涇原留後,判官河中姚況知涇州事。河清、況聞上幸奉天,集將士大哭,激以忠義,發甲兵、器械百餘車,通夕輸行在。城中方苦無甲兵,得之,士氣大振。詔以河清為四鎮、北庭行營、涇原節度使,況為行軍司馬。 29.右龍武将軍の李観が衛兵千人あまりを率いてお上を奉天に従い、お上は李観に募兵を委ね、数日して五千人あまりを得た。これを往来に整列させ、旗や鼓は厳粛に整い、城の人はそのため士気があがった。 姚令言が東に進出してくるや、兵馬使京兆の馮河清を涇原留後とし、判官河中の姚況に涇州の事を司らせた。馮河清と姚況はお上が奉天に行幸した有様を聞いて、将兵を集めて大いに慟哭し、激励して忠義を奮い起こし、甲兵を発して、器械は百車あまり、夜通し行在に運んだ。城中は甲兵がいないため苦しんでいたが、これを得て、士気は大いに振った。詔して馮河清を四鎮北庭行営・涇原節度使とし、姚況を行軍司馬とした。 30.上至奉天數日,右僕射、同平章事崔寧始至,上喜甚,撫勞有加。寧退,謂所親曰:「主上聰明英武,從善如流,但為盧杞所惑,以至於此!」因潸然出涕。杞聞之,與王翃謀陷之。翃言於上曰:「臣與寧俱出京城,寧數下馬便液,久之不至,有顧望意。」會朱泚下詔,以左丞柳渾同平章事,寧為中書令。渾,襄陽人也,時亡在山谷。翃使盩厔尉康湛詐為寧遺朱泚書,獻之。杞因譖寧與朱泚結盟,約為內應,故獨後至。乙卯,上遣中使引寧就幕下,云宣密旨,二力士自後縊殺之,中外皆稱其冤。上聞之,乃赦其家。 30.お上は奉天に到ってより数日して、右僕射同平章事の崔寧がやって来た。お上は大変喜び、慰労して褒賞を加えた。崔寧は退くと、親しい者に語って、「主上は聡明かつ英武で、善に従えば流れるがごときである。ただ盧杞のために惑わされたから、このような事態になったのだ!」と言い、潸然として涙を流した。盧杞はこれを聞いて、王翃と謀ってこれを陥れた。王翃はお上に語って、「臣と崔寧はともに京城を出て、崔寧はしばしば馬を降りて大小便をしており、しばらくたっても来ませんでしたが、思えば迎合していたのではないのでしょうか」と言った。たまたま朱泚は詔を下して、左丞の柳渾を同平章事とし、崔寧を中書令とした。柳渾は襄陽の人で、当時逃亡して山谷にいた。王翃は盩厔尉の康湛に、崔寧が朱泚に送った書簡を偽造させ献上した。盧杞はそこで崔寧と朱泚が盟を結び、内応を約束しているから、一人で後から来たのだと讒言した。乙卯、お上は中使を派遣して崔寧をひっ捕らえて幕下につかせ、密旨を読み上げ、二力士は後ろから絞殺させた。内も外も皆その冤罪を訴えた。お上はこれを聞いて、そこでその家を赦した。 31.朱泚遣使遺朱滔書,稱:「三秦之地,指日克平;大河之北,委卿除殄,當與卿會於洛陽。」滔得書,西向舞蹈宣示軍府,移牒諸道,以自誇大。 31.朱泚は使者を派遣して朱滔に書簡を送り、「三秦の地は日に日に平定されていく。大河の北は、卿に委ねてすべて除外し、まさに卿と洛陽で会盟しよう」と述べ、朱滔は書簡を受け取ると、西に向かって舞い踊って軍府に示し、牒を諸道に送り、自ら大なると誇示した。 32.上遣中使告難於魏縣行營,諸將相與慟哭。李懷光帥衆赴長安,馬燧、李艽各引兵歸鎮,李抱真退屯臨洺。 32.お上は中使を派遣して難を魏県行営に告げた。諸将は互いに慟哭した。李懐光は軍を率いて長安に赴き、馬燧・李艽はそれぞれ兵を率いて鎮に帰り、李抱真は屯営に退いて洺州に臨んだ。 33.丁巳,以戸部尚書蕭復為吏部尚書,吏部郎中劉從一為刑部侍郎,翰林學士姜公輔為諫議大夫,並同平章事。 33.丁巳、戸部尚書の蕭復を吏部尚書とし、吏部郎中の劉従一を刑部侍郎とし、翰林学士の姜公輔を諫議大夫・並同平章事とした。 34.朱泚自將逼奉天,軍勢甚盛。以姚令言為元帥,張光晟副之,以李忠臣為京兆尹、皇城留守,仇敬忠為同、華等州節度使、拓東王,以扞關東之師,李日月為西道先鋒經略使。 34.朱泚は自ら率いて奉天に迫り、軍の勢いは甚だ盛んであった。姚令言を元帥とし、張光晟を副官とし、李忠臣を京兆尹として皇城を留守させ、仇敬忠を同・華等州節度使・拓東王とし、関東を守る軍とし、李日月を西道先鋒経略使とした。 邠寧留後韓游瑰,慶州刺史論惟明,監軍翟文秀,受詔將兵三千拒泚於便橋,與泚遇於醴泉。游瑰欲還趣奉天,文秀曰:「我向奉天,賊亦隨至,是引賊以迫天子也。不若留壁於此,賊必不敢越我向奉天。若不顧而過,則與奉天夾攻之。」游瑰曰:「賊強我弱,若賊分軍以綴我,直趣奉天,奉天兵亦弱,何夾攻之有!我今急趣奉天,所以衛天子也。且吾士卒饑寒而賊多財,彼以利誘吾卒,吾不能禁也。」遂引兵入奉天,泚亦隨至。官軍出戰,不利,泚兵爭門,欲入。渾瑊與游瑰血戰竟日。門內有草車數乘,瑊使虞候高固帥甲士以長刀斫賊,皆一當百,曳車塞門,縱火焚之。衆軍乘火撃賊,賊乃退。會夜,泚營於城東三里,撃柝張火,布滿原野,使西明寺僧法堅造攻具,毀佛寺以為梯沖。韓游瑰曰:「寺材皆乾薪,但具火以待之。」固,侃之玄孫也。泚自是日來攻城,瑊、游瑰等晝夜力戰。幽州兵救襄城者聞泚反,突入潼關,歸泚於奉天,普潤戍卒亦歸之,有衆數萬。 邠寧留後の韓游瑰、慶州刺史の論惟明、監軍の翟文秀は、詔を受けて兵三千を率いて朱泚を便橋に防ぎ、朱泚と醴泉で遭遇した。韓游瑰は戻って奉天に行こうとしたが、翟文秀は、「我らが奉天に向かえば、賊もまた一緒に来ます。これは賊を引き連れて天子に迫ることになります。留まってここで立てこもるにこしたことはありません。賊は必ず敢えて我らを通り過ぎて奉天に向かうことはありません。もし顧みずに通過したならば、そこで奉天とともに挟撃してこれを攻めるのです」と言った。韓游瑰は、「賊は強く我らは弱い。もし賊が軍を分けて我らを拘束して、直ちに奉天に向かえば、奉天の兵もまた弱いから、どうして挟撃なぞできようか!我らは今急いで奉天に向かえば、天子を護ることができるのだ。また我らの士卒は飢えて寒さにふるえているが賊は財が多く、賊が利で我が兵を誘えば、我らは禁ずることができなくなってしまう」と言い、遂に兵を率いて奉天に入ったが、朱泚もまた一緒に到着した。官軍が出て戦ったが不利で、朱泚の兵は門で戦って入ろうとした。渾瑊と韓游瑰は終日死闘し、門内に草車数台があり、渾瑊は虞候の高固に甲士を率いさせて長刀で賊を斬り、皆一人で百人にあたり、車を引いて門を塞ぎ、火を放って燃やした。軍は火に乗じて賊を攻撃して、賊は退いた。夜となり、朱泚は城の東三里のところに野営し、木を打ち鳴らして火を掲げ、原野に充満した。西明寺の僧法堅に攻城具をつくらせ、仏寺を壊して雲梯・衝車をつくった。韓游瑰は、「寺の材は皆乾いた薪で、ただ火を用意して待ちましょう」と言った。高固は高侃の玄孫である。朱泚はこの日より城攻めに来て、渾瑊・韓游瑰ら昼夜力戦した。幽州の兵で襄城を救援した者は朱泚が反乱したのを聞いて、潼関に突入して朱泚がいる奉天に帰順した。普潤戍卒(神策兵)もまた朱泚に帰順し、軍は数万となった。 上與陸贄語及亂故,深自克責。贄曰:「致今日之患,皆群臣之罪也。」上曰:「此亦天命,非由人事。」贄退,上疏,以為:「陛下志壹區宇,四征不庭,凶渠稽誅,逆將繼亂,兵連禍結,行及三年,征師日滋,賦斂日重,內自京邑,外洎邊陲,行者有鋒刃之憂,居者有誅求之困。是以叛亂繼起,怨讟並興,非常之虞,億兆同慮,唯陛下穆然凝邃,獨不得聞,至使凶卒鼓行,白晝犯闕,豈不以乘我間隙,因人攜離哉!陛下有股肱之臣,有耳目之任,有諫諍之列,有備衛之司,見危不能竭其誠,臨難不能效其死。臣所謂致今日之患,群臣之罪者,豈徒言歟!聖旨又以國家興衰,皆有天命。臣聞天所視聽,皆因於人。故祖伊責紂之辭曰:『我生不有命在天!』武王數紂之罪曰:『乃曰吾有命,罔懲其侮。』此又舍人事而推天命必不可之理也!《易》曰:『視履考祥。』又曰:『吉凶者,失得之象。』此乃天命由人,其義明矣。然則聖哲之意,《六經》會通,皆謂禍福由人,不言盛衰有命。蓋人事理而天命降亂者,未之有也;人事亂而天命降康者,亦未之有也。自頃征討頗頻,刑網稍密,物力耗竭,人心驚疑,如居風濤,洶洶靡定。上自朝列,下達蒸黎,日夕族黨聚謀,咸憂必有變故,旋屬涇原叛卒,果如衆庶所虞。京師之人,動逾億計,固非悉知算術,皆曉占書,則明致寇之由,未必盡關天命。臣聞理或生亂,亂或資理,有以無難而失守,有因多難而興邦。今生亂失守之事,則既往不可復追矣;其資理興邦之業,在陛下克勵而謹修之。何憂乎亂人,何畏乎厄運!勤勵不息,足致昇平,豈止蕩滌祆氛,旋復宮闕而已!」 お上と陸贄が乱の原因について語って、深く自責の念があった。陸贄は、「今日の患いとなったのは、すべて群臣の罪です」と言ったが、お上は、「これもまた天命であって、人の事によるのではない」と言った。陸贄は退いて、以下のように上疏した。「陛下の志は一つの天下で、四方を征伐して庭としないものはなく、凶徒の誅殺はとどこおり、逆将は反乱を継続し、兵は連なって禍いを結ぶこと三年に及び、征伐の出兵は日に日に多くなり、賦税は日に日に重くなり、内は京師より外は辺境まで、行く者には鋒刃の憂いがあり、居る者も苛斂誅求の困難があります。そのため叛乱は相継いで起こり、怨言は並んでおこり、非常の恐れは億兆の民も同じく思っており、ただ陛下だけが宮中の奥深くで和らいでおり、一人聞くことができず、凶徒の兵が鼓とともに行進させるに到り、白昼宮殿をおかしました。どうして我らの間隙に乗ずることしなければ、人心が離れることがあったでしょうか!陛下には股肱の臣があり、耳目の任があり、諫諍の列があり、備衛の司がありますが、見るにその誠をつくすことができず、艱難に臨んでその死を効すことができないことが危ういのです。臣は今日の患いに到ったのは群臣の罪というべきであって、どうして嘘を申しましょうか!聖旨はまた国家の興衰で、すべては天命にあります。臣は天が見聞きするところはすべて人によると聞いています。そのため祖伊は紂を責める文に、「私の寿命は天によって定められているのだ!」とあり、武王は紂の罪を数えて、「そこで私に天命があるからだ、などと言うておる。その人もなげなふるまいを懲らすものもない」といい、これまた人事を捨てて天命をはかるのは必ず不可の理なのです!易に、「履むところを見て祥(吉祥不祥)を考える」とあり、また、「吉凶とは天地人の道に適っているか天地人の道に背いているかの言葉である」とあり、ここに天命は人によるのであって、その意味は明らかなのです。だからこそ聖哲の心は、六経に通じていると、皆禍福は人によるとあり、盛衰は天命にあるとは言わないのです。思うに人事の理にして天命が乱をくだす者は、いまだあったことはなく、人事乱れて天命が康をくだすこともまた、いまだあったことはないのです。近頃征討のことが大変頻繁であり、刑罰もやや多く、物力は消耗して尽き、人心は驚き疑い、居ても風や波濤と受けるようであり、轟々と流れにまかせるのです。上は朝臣の列より,下は百姓に達し、朝も夜も族党は集まって謀し、皆必ず変があるかと心配するため、めぐって涇原の叛卒に与し、果して衆庶が心配するところなるのです。京師の人は、ややもすれば憶測をこえ、もとよりすべての算術を知るわけではなく、皆占書に通暁し、そこで侵攻があった理由を明らかとし、いまだ必ずしもすべて天命に関わっているわけではありません。臣は理はあるいは乱がおこり、乱はあるいは理をたすけ、難なきをもって守を失うことあり、難多きによって邦を起こすことがあると聞いています。今、乱がおこって守を失うの事は、すなわち既に往ってまた追うことができないのです。その資理・興邦の業は、陛下がよく励んで謹んでこれを修めることです。どうして人が乱するのを心配することがありましょうか。どうして厄運を恐れることがありましょうか!勤め励んで休まず、平和となれば、どうして凶災を洗いすすぐことを止め、また宮殿に復帰するのみとなりましょうか!」 35.田悅説王武俊,使與馬寔共撃李抱真於臨洺,抱真復遣賈林説武俊曰:「臨洺兵精而有備,未易輕也。今戰勝得地,則利歸魏博;不勝,則恆冀大傷。易、定、滄、趙,皆大夫之故地也,不如先取之。」武俊乃辭悅,與馬寔北歸,壬戌,悅送武俊於館陶,執手泣別,下至將士,贈遺甚厚。 35.田悦が王武俊に説いて、馬寔とともに李抱真を臨洺で撃たせた。李抱真もまた賈林を派遣して、王武俊に説いて、「臨洺の兵は精兵で備えがあり、いまだに簡単に軽んじてはなりません。今、戦いに勝って地を得れば、利は魏博に帰します。勝たなければ恒冀が大いに傷つきます。易州・定州・滄州・趙州はすべて大夫の故地です。先に奪うにこしたことはありません」と述べた。王武俊はそこで田悦のもとを辞し、馬寔とともに北に帰った。壬戌、田悦は王武俊を館陶で送迎し、手をとって別れを泣いた。下は将兵にいたるまで、贈り物は非常に厚かった。 先是,武俊召回紇兵,使絕李懷光等糧道,懷光等已西去,而回紇達干將回紇千人、雜虜二千人適至幽州北境。朱滔因説之,欲與俱詣河南取東都,應接朱泚,許以河南子女、金帛賂之。滔娶回紇女為側室,回紇謂之朱郎,且利其俘掠,許之。 これより以前、王武俊は回紇の兵を召集して、李懐光らの糧道を断たせた。李懐光らはすでに西に去って、回紇の達干は回紇千人、雑虜二千人を率いて、たまたま幽州の北境に到った。朱滔はそのためこれを説得して、ともに河南に行って東都(洛陽)を奪い、朱泚に接しようとした。河南の子女、金帛を贈った。朱滔は回紇の女を娶って側室とし、回紇はこれを「朱郎」と言った。かつ捕獲・略奪に便宜をはかったから、これを許した。 賈林復説武俊曰:「自古國家有患,未必不因之更興。況主上九葉天子,聰明英武,天下誰肯捨之共事朱泚乎!滔自為盟主以來,輕蔑同列,河朔古無冀國,冀乃大夫之封域也。今滔稱冀王,又西倚其兄,北引回紇,其志欲盡吞河朔而王之,大夫雖欲為之臣,不可得矣。且大夫雄勇善戰,非滔之比。又本以忠義手誅叛臣,當時宰相處置失宜,為滔所誑誘,故蹉跌至此,不若與昭義並力取滔,其勢必獲。滔既亡,則泚自破矣。此不世之功,轉禍為福之道也。今諸道輻湊攻泚,不日當平。天下已定,大夫乃悔而歸國,則已晩矣!」時武俊已與滔有隙,因攘袂作色曰:「二百年天子吾不能臣,豈能臣此田舍兒乎!」遂密與抱真及馬燧相結,約為兄弟。然猶外事滔,禮甚謹,與田悅各遣使見滔於河間,賀朱泚稱尊號,且請馬寔之兵共攻康日知於趙州。 賈林はまた王武俊に説いて、「古より国家に患いがありますが、必ずしも患いによってさらに勃興する勢力があるわけではありません。ましてや主上は九葉の天子で、聡明かつ英武で、天下の誰がこれを捨てて共に朱泚に仕えるのを受け入れる者がありましょうか!朱滔は自ら盟主となって以来、同列の者を蔑視して軽んじ、河朔は古えには冀なる国号の国はなく、しかも冀は大夫(王武俊)の封域です。今、朱滔は冀王を称し、また西はその兄(朱泚)が居座り、北は回紇を引き連れ、その志はことごとごく河朔を呑み込んでその王になろうとしています。大夫はこれの臣下になろうとしていますが、その機会を得られるわけではありません。かつ大夫は雄勇かつ戦をよくすることは、朱滔の比ではありません。またもとより忠義のために手ずから叛臣(李惟岳)を誅殺しましたが、今の宰相の処置は適当ではなく、朱滔のためにたぶらかされ、そのため失敗はここに到るのです。昭義軍とともに力をあわせて朱滔を攻撃するのにこしたことはなく、その勢いは必ずや獲られます。朱滔が滅んでしまえば、朱泚も自ら敗れます。これは世に比類なき功績であって、禍転じて福となすの道です。今諸道が集結して朱泚を攻めれば、数日もしないうちに平定されるでしょう。天下が平定されてしまえば、大夫はそこで過去を悔い改めて帰国したとしても、もう遅いのです!」と言った。当時、王武俊はすでに朱滔と仲が悪くなり、そこで袂をはらって顔色を変えて、「二百年間、天子はわれらを臣下と出来なかった。どうしてこの田舎小僧を臣下とできようか!」と言い、ついに密かに李抱真および馬燧と互いに結び、兄弟と約した。しかしなお表向きは朱滔に仕え、礼は甚だ謹んだ。田悦ととともにそれぞれ使者を派遣して朱滔を河間に謁見し、朱泚が尊号を称したのを賀し、かつ馬寔の兵と共に康日知を趙州に攻めることを願った。 汝、鄭應援使劉德信將子弟軍在汝州,聞難,引兵入援,與泚衆戰於見子陵,破之。以東渭橋有轉輸積粟,癸亥,進屯東渭橋。 汝州・鄭州は応援して劉徳信をして子弟の軍を率いさせて汝州にあった。難を聞いて、兵を率いいて援軍として入り、朱泚の軍と見子陵で戦い、破った。東渭橋に輸送して粟を積んだ。癸亥、進軍して東渭橋に駐屯した。 37.朱泚夜攻奉天東、西、南三面。甲子,渾瑊力戰卻之。左龍武大將軍呂希倩戰死。乙丑,泚復攻城,將軍高重捷與泚將李日月戰於梁山之隅,破之。乘勝逐北,身先士卒,賊伏兵擒之。其麾下十餘人奮不顧死,追奪之。賊不能拒,乃斬其首,棄其身而去。麾下收之入城,上親撫而哭之盡哀,結莆為首而葬之,贈司空。朱泚見其首,亦哭之曰:「忠臣也!」束蒲為身而葬之。李日月,泚之驍將也,戰死於奉天城下。泚歸其屍於長安,厚葬之。其母竟不哭,罵曰:「奚奴!國家何負於汝而反?死已晩矣!」及泚敗,賊黨皆族誅,獨日月之母不坐。 37.朱泚は夜に奉天の東・西・南の三面を攻撃した。甲子、渾瑊は奮戦してこれを撃退した。左龍武大将軍の呂希倩が戦死した。乙丑、朱泚は再度城を攻撃し、将軍の高重捷と朱泚の将軍の李日月が梁山の隅で戦い、これを破った。勝に乗じて北に追い払い、自ら兵卒の先頭に立ったが、賊の伏兵が捕虜とした。その麾下十人あまりが奮戦して死を顧みず、追って奪おうとした。賊は防ぐことができず、そこでその首を斬って、胴体を棄てて去った。麾下はこれを収容して城に入り、お上は自ら撫でて慟哭して悲しんだ。芒を結んで首を作って葬り、司空を贈った。朱泚はその首を見てまた哭泣して、「忠臣である!」と言って、蒲を束ねて身を作って葬った。李日月は、朱泚の驍将であり、奉天城下で戦死した。朱泚はその遺体を長安に帰し、厚く葬った。その母はついに泣かず、「奚の奴め!国家はどうしてお前を負って反したのか?死んでも遅いんだよ!」と罵った。朱泚が敗れると、賊党は全員誅殺されたが、一人李日月の母のみ連座しなかった。 己巳,加渾瑊京畿、渭南、北、金商節度使。 己巳、渾瑊に京畿渭南北金商節度使を加えた。 38.壬申,王武俊與馬寔至趙州城下。 38.壬申、王武俊と馬寔が趙州城下に到った。 39.初,朱泚鎮鳳翔,遣其將牛雲光將幽州兵五百人戍隴州,以隴右營田判官韋皋領隴右留後。及郝通奔鳳翔,牛雲光詐疾,欲俟皋至,伏兵執之以應泚,事洩,帥其衆奔泚。至汧陽,遇泚遣中使蘇玉繼詔書加皋中丞,玉説雲光曰:「韋皋,書生也。君不如與我俱之隴州,皋幸而受命,乃吾人也。不受命,君以兵誅之,如取孤犬屯耳!」雲光從之。皋從城上問雲光曰:「曏者不告而行,今而復來,何也?」雲光曰:「曏者未知公心,今公有新命,故復來,願托腹心。」皋乃先納蘇玉,受其詔書,謂雲光曰:「大使苟無異心,請悉納甲兵,使城中無疑,衆乃可入。」雲光以皋書生,易之,乃悉以甲兵輸之而入。明日,皋宴玉、雲光及其卒於郡舎,伏甲誅之。築壇,盟將士曰:「李楚琳賊虐本使,既不事上,安能恤下,宜相與討之!」遣兄平、弇詣奉天,復遣使求援於吐蕃。 39.それより以前、朱泚は鳳翔を鎮すると、その将軍の牛雲光を派遣して幽州の兵五百人を率いて隴州を守り、隴右営田判官の韋皋は隴右留後を領した。郝通が鳳翔に逃げると、牛雲光は病と偽って、韋皋が到るのを待って、伏兵でこれを捕らえて朱泚に内応しようとしたが、事は漏洩して、その衆を率いて朱泚のもとに走った。汧陽に到ると、たまたま朱泚が中使の蘇玉を派遣して詔書をもたらして韋皋に中丞を加えようとしているのに遭遇し、蘇玉は牛雲光に説いて、「韋皋は書生である。君は私と一緒に隴州をともにするにこしたことはない。韋皋が幸いにも命を受ければ、我が方の人である。命を受けなければ、君は兵で誅殺しなさい。たむろしている犬を一匹とるようなものだ!」と言い、牛雲光はこれに従った。韋皋は城の上から牛雲光に、「以前には告げてもいないのに行って、今また来たのはどうしてですか?」と問うと、牛雲光は、「以前には公の心を知らなかった。今、公に新命があり、そのためまた来たのだ。願わくは心の内を託されよ」と言ったから、韋皋はそこでまず蘇玉を受け入れ、その詔書を受け、牛雲光に、「大使はいやいしくも異心がなく、すべて甲兵を入れて、城中に疑いがなければ、軍はそこで入られよ」と言ったから、牛雲光は韋皋が書生であるから組みやすしとし、そこでことごとく甲兵をここに運んで入れた。翌日、韋皋は蘇玉・牛雲光およびその兵卒と郡の官舎で宴し、甲兵を伏せてこれを誅殺した。壇を築いて、将兵と盟して、「李楚琳は本使(張鎰)を殺害し、すでにお上に仕えていないのに、どうして下を憐れむことができようか。ともにこれを討伐するのだ!」と言い、兄の韋平・韋弇を派遣して奉天に詣で、また使者を派遣して吐蕃に援軍を求めた。
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唐書巻二百五 列伝第一百三十 列女 李徳武妻裴淑英 楊慶妻王 房玄齢妻盧 独孤師仁姆王蘭英 楊三安妻李 樊会仁母敬 衛孝女無忌 鄭義宗妻盧 劉寂妻夏侯碎金 于敏直妻張 楚王霊龜妃上官 楊紹宗妻王 賈孝女 李氏妻王阿足 樊彦琛妻魏 李畬母 汴女李 崔繪妻盧 堅貞節婦李 符鳳妻玉英 高叡妻秦 王琳妻韋 盧惟清妻徐 饒娥 竇伯女仲女 盧甫妻李 鄒待徴妻薄 金節婦 高愍女 楊烈婦 賈直言妻董 李孝女妙法 李湍妻 董昌齢母楊 王孝女和子 段居貞妻謝 楊含妻蕭 韋雍妻蕭 衡方厚妻程 鄭孝女 李廷節妻崔 殷保晦妻封絢 竇烈婦 李拯妻盧 山陽女趙 周迪妻 朱延壽妻王 女性の道とは、親に対して孝行であること、妻にとって節を守ること、母にとって義(ただ)しく慈しみ深いこと、これらに尽きる。中古以前は、書に后妃や夫人の記録が載っていて、天下の女性は教化されていた。のちに女性の史官職が廃止されて、婦人の教えや、乳母のきまりは家庭に及ばず、そのため賢女として記されるべき者も千年の間に数が少なくなって、あい望まれるようになっていた。唐が興って、教化が行われて数百年、名誉ある家の立派な姓を持つしとやかな淑女たちは、大きな困難にのぞんでも、礼節を守り、あたかも抜き身の刃を移すことができないように、しぜんと哲人烈士たちと不朽の名を争って、まるで寒中の霜雪のようであった。また貴ぶべきではないか。今もっとも著名なものを取りあげて、もって父、子、夫、妻たちの賞讃すべきところを尋ねただすものである。 李徳武の妻の裴氏は、字を淑英といい、安邑公の裴矩のむすめであって、孝行であることで、村里に聞こえていた。夫の徳武は隋にあって、事件に連座して嶺南に左遷された。ときに嫁いでちょうど一年を越えていなかったので、父の裴矩はむすめを離婚させた。 徳武が裴氏に述べていうことには、 「わたしはちょうどおとしめられ、本道に帰れない。君はぜひほかの者とつれあいとなって、長い道をまっとうなさい」 裴氏が答えていうことには、 「それは天命ということでしょう。めぐりあわせにそむくことができましょうか?願わくはほかのところへ行くことなく死にたいものです」 彼女は耳を割いて誓おうとしたが、守役の女性がまもって許さなかった。既婚の女性のように、歳月を重ねても裴氏はただただ礼節を守ってつつしんだ。家にいて香りつやを用いようとはしなかった。『列女伝』を読み、再婚せず節を全うした伝記が述べられているのを見て、人にいうことには、 「ふたつの庭を踏まないのは、婦人の常の道です。何がこの書物に載っていることと異なりましょう?」 のち十年たっても、徳武はまだ帰ることができず、裴矩はむすめを別に嫁がせることに決めた。裴氏は髪を切って食事を絶ったので、裴矩はむすめの志を奪うことができないことを知って、これを聞きいれた。李徳武はさらに爾朱氏をめとっていたが、大赦にあって帰るとき、中途で裴氏が節義を全うしていることを聞き、そこで後妻を遣わして彼女を迎え、もとのように夫婦となった。 楊慶の妻の王氏は、鄭主の王世充の兄のむすめにあたる。楊慶は唐の河間王李孝恭の子を郇王として擁し、滎陽を守っていたが、王世充に陥されて鄭に降伏した。そのため世充は王氏を楊慶にめあわせて、管州刺史として用いたのだった。太宗(李世民)が洛陽を攻めると、楊慶は王氏とともに唐に帰順しようとはかった。王氏が夫に謝っていうことには、 「鄭はわたしを妻とし、あなたの心をつなぎとめ、恩義にそむかせています。もとより謀りごとをなす身の私は、どうすべきでしょうか?長安にいたったなら、わたしはあなたの家の婢(はしため)となるのみです。そうなる前に願わくは私を東都(洛陽)に送りかえしてください」 楊慶は聞き入れなかった。王氏が左右に言うことには、 「唐が勝つことはすなわち鄭が滅ぶこと、鄭が安んじることはすなわちわが夫が死ぬこと、こういうことなら生きていて何の益があるだろうか?」 こうして彼女は毒を飲んで死んだ。楊慶は唐に入朝して、官は宜州刺史となった。 房玄齢の妻の盧氏は、その出身経歴が伝わらない。 玄齢の身分が低かったころ、病にかかって瀕死の状態になったことがあった。玄齢はこれにかこつけて言った。 「わたしの病気がいよいよとなったら、君はまだ年も若いことだし、ひとり住まいをさせるわけにいかない。よい人をみつけて再婚しなさい」 盧氏は泣いてとばりの中に入り、片目をえぐって玄齢に示し、よそに嫁ぐ道のないことを明らかにした。たまたま玄齢の病は快方に向かったので、夫婦の道は終身のものとなった。 王蘭英は、独孤師仁の乳母である。独孤師仁の父の武都が唐に帰順しようとはかったため、王世充は武都を殺した。 師仁はこのとき三歳で、死を免じられて禁錮とされた。蘭英はかれを養うために髪を剃り首枷をはめて仕えることを願い出て、許された。ときに隋末唐初の争乱にあって、餓死者が多々散らばっているような食糧事情の悪いなかであったが、師仁には優先的に食べさせて道路に遊ばせ、彼女自身は土を食らい水を飲んで耐えた。 のちに薪を取りにいくといつわって王世充のもとから脱出し、ひそかに師仁を京師(長安、つまり唐)に帰順させた。高祖(李淵)は彼女の義をたたえて、詔により蘭英を永寿郷君に封じた。 楊三安の妻の李氏は、京兆高陵の人である。 舅と姑が亡くなり、三安もまた死に、子は幼く、ひとり貧苦し、昼は田畑に出て、夜は機を紡いだ。およそ三年で、舅姑および夫と兄弟ことごとく七回の葬喪をおこない、遠きも近きも同情の涙を流した。 太宗(李世民)は、この話を聞いて普通でないと思い、帛三百段を賜い、州県に安否を問わせ、その夫役を免じた。 樊会仁の母の敬氏は、蒲州河東の人であり、字を象子という。成人して会仁を生んだ。夫が死んで、舅や姑につかえて忌みあけにしたがった。 家は彼女がまだ若く、再婚させたかったので、ひそかに里の人に対して結婚の約束を結んだ。時が来ると母が病気であるといつわって、敬氏を実家に看病に帰させた。 敬氏はやってきて、あざむかれていたことを知ったが、外づらでは知らないふりをして、こっそりと会仁に告げて言うことには、 「わたしはやもめだが、母が老いていて子であるおまえも幼いものだから、まだ死ぬわけにいかない。ところが舅がいま私の志を奪おうとしている。おまえはどうしようか?」 会仁は泣きだしたが、敬氏は言うことには、 「我が子よ、泣いてはいけない!」 敬氏は隙を見て再嫁先から逃げ去った。家は彼女を追及したが、中途で断念した。というのも、彼女が死をもって自分の志を守ったからである。 ときに会仁はまだ成人しないうちに亡くなり、ときに敬氏の母もまた亡くなって葬られたので、彼女が身内に告げて言うことには、 「母が死んで子も亡くなって、何の生き甲斐があるだろうか!」 絶食して数日して死に、聞いた者はこれをあわれんだという。 衛孝女は、絳州夏の人で、字を無忌という。彼女の父は郷里の衛長則という人に殺されたが、無忌はやっと六歳になったばかりで、頼りになる兄弟もおらず、母もやむなく再婚してしまった。無忌は成長するにおよんで、父の仇に報ずることを志とした。 あるとき、たまたまおじに引き合わされた客のなかに仇の長則がいたので、無忌は瓦をうちつけてこれを殺した。父のうらみに報じたと称して役人のもとに出頭し、刑罰を受けられるように頼んだ。 巡察使の褚遂良が奏聞したので、太宗(李世民)はその罪を免じ、彼女に宿場を給して雍州に移し、田宅を賜った。州県は彼女に敬意をはらって嫁ぎ先を世話した。 鄭義宗の妻の盧氏は、范陽の士族である。五経や史書を広く読み、舅や姑につかえてうやうやしくしたがっていた。 ある夜、盗賊が武装して彼女の家を襲ったことがあった。家人はみな逃げ隠れたのに、姑だけが逃げ遅れてしまった。盧氏は姑のそばに立って刃に立ち向かい、賊にむち打たれてあやうく死ぬところであった。 賊が去ったので、ある人がなぜ恐れなかったのかと彼女に尋ねると、答えていうことには、 「人が鳥や獣と異なっているのは、仁義の心をもっているからです。今もし隣の村で急な難事が起こったら、お互い助けに行こうとするでしょう。それが姑のことであるならなおさら捨てておくことなどできましょうか?もし万が一にも姑の身になにかあったら、わたしひとり生きているなんてことはできません」 姑が言うには、 「季節が寒くなってから松や柏がしおれているのを知ると言いますが、私はいまごろになって貴女の心意気というものに気づきましたよ」 劉寂の妻の夏侯氏は、滑州胙城の人で、字を碎金といった。父の夏侯長雲は塩城の丞となったが、失明してしまった。ときに劉家ではすでにふたりの娘が生まれていたが、彼女は劉家と絶縁を求めて、実家に帰って父を看病した。また継母につかえて孝行と称された。五年して父が亡くなると、悲しみのため衰弱し、服喪に耐えないほどであったが、ざんばら髪に裸足で歩き、みずから土を背負って墓塚を作り、その左に庵を結んで、寒くても綿を着ず、一日一食を三年つづけた。 詔により二十段の織物と粟十石を賜り、彼女の行為を村里の門に掲示して表彰させた。 のちにその娘も、母の喪にあってまた母の行いのとおりであったので、官はまた粟帛を賜り、門に掲示して表彰した。 于敏直の妻の張氏は、皖城公の張倹のむすめである。生まれ三歳にして、父母が病になるたびに、昼夜かいがいしく世話を焼き、その容貌はあたかも成人のようであった。成長すると、ますます父母にうやうやしく従い、優しく孝行であった。張倹の病が重くなり、これを聞くと、号泣して幾度も絶叫した。張倹が死ぬと、ひどく嘆き悲しんでついに亡くなった。高宗はその行いをたたえて、百段の織物を賜り、なりゆきを史官に文章につづらせた。 楚王李霊亀の妃の上官氏は、下邽の士族である。霊亀が哀王(高祖李淵の子の李智雲)のあとを継いだ後、舅や姑がいたので、妃は朝から夕までそばに仕えて、たいへん慎み深かった。およそ珍美な食べ物があると、先に毒味をせずに献じるということがなかった。 霊亀が亡くなったので、葬られることとなったが、霊亀の亡くなった前の妃に近しい一族がおらず後ろ盾がなかったので、葬儀の段取りを議論する者たちは(今の妃の上官氏に遠慮して)取りあげようとしなかった。しかし妃が言うことには、 「亡くなった人を知る人がいるのに、魂を託さないことができましょうか?」 そこで礼を備えたかたちで霊亀と前の妃が合葬された。聞いた者は賛嘆を禁じえなかった。服喪の期間が終わったので、兄弟たちがともに妃をさとして言うには、 「妃は年若く、また子もいない。再婚する準備をしないことがあろうか」 彼女は泣いて言うことには、 「りっぱな男性は義をもって、りっぱな女性は節をもって殉ずると言われています。私はいまだに困難な境遇に殉ずることができないのに、なお化粧やつやを利用して、他の男性に祭肉をささげなければならないのですか?」 自ら鼻削ぎ耳を落とそうとしたので、人々はついにあえて強いようとしなかった。 楊紹宗の妻の王氏は、華州華陰の人である。赤ん坊のころに母が亡くなったので、継母がたいせつに彼女を養育した。父は高句麗遠征で亡くなって(遺体がもどらず)、継母もまた亡くなった。 王氏は年が十五だったが、ふたりの母の棺を出し、父をかたどった人形を立てて、死者の魂を呼び返してとむらい葬った。彼女は草廬を墓のそばに建てて喪に服した。 高宗の永徽年間(650-655)に詔が出されて、 「楊氏の夫人が隋にあったとき、その父が遼西で戦没したが、夫人はうまく招魂してとむらいかつ葬った。祖父母の墓の隧道にいたっては、みずからその板築仕事をおこなったので、哀情が道を動かしたのである」 このため織物と粟を賜り、彼女の行為を宮殿の門に掲示して表彰させた。 賈孝女は、濮州鄄城の人である。年が十五のとき、父が族人の玄基に殺されてしまった。孝女の弟の彊仁はまだ幼かったので、孝女はよそに嫁ぐことを承知せず、みずから弟を育てた。彊仁が自立できるようになると、玄基をねらって殺させ、仇を討ったことを父の墓に告げた。彊仁は県の役所に出頭して仇討ちのありさまを自白したので、役人は死刑の判決を下した。孝女は宮殿に出頭して弟の代わりに死罪を受けられるよう請願した。 高宗は彼女らをあわれんで、詔によりふたりともに罪を免じて、ひそかに洛陽に移させた。 李氏の妻の王阿足は、深州鹿城の人である。早くから孤児となり、兄弟もいなかった。 李氏にとついで数年で、夫が死んで子もなかったが、やもめの姉が高年で養うものもなかったので、放ったまま再婚するのも気がとがめて耐えられなかった。昼は耕し夜は機織りをして、よくつとめて仕えること二十年あまり。姉はかくして亡くなり、葬送は儀礼にしたがっておこなった。 村人はその節義に感服し、あらそって妻女を遣わして、その精神に学ばせようとした。彼女は家において長寿をまっとうした。 樊彦琛の妻の魏氏は、揚州の人である。彦琛が病になったので、魏氏が言うことには、 「あなたは病がいよいよ重くなってしまいましたが、あなたをひとり死なせることはできません」 彦琛が言うことには、 「人の死ぬ生きるは、世の常のことだ。さいわいなことに養っていた多くの孤児たちを一人前にさせることができたし、夫婦があい従って死ぬなどというのは、わたしの取るところではないよ」 彦琛は亡くなったが、ちょうど徐敬業の乱にあって、魏氏は兵乱の中におちいってしまった。彼女が音楽に通じていることが徐敬業らの耳に入り、琴や太鼓を演奏させようとした。魏氏が言うには、 「夫が亡くなったのにわたしは死なずにいる。音楽を演奏するようにわたしにせまられるというのは、禍がわたしの不義により発しているからだろう」 その指を刀で引いて斬り落とした。徐敬業の軍隊の者たちは彼女を無理強いしてめとりたいと思ったが、彼女は固く拒んで従わなかった。そこで刃を彼女の頸に当てて言うには、 「おれに従えば死なずにすむだろう」 魏氏が激昂して言うには、 「狗盜めが、おまえがひとを辱めたいというなら、いますぐに死ぬことがわたしの願いだ!」 かくして害され、聞いた者は彼女を悼んだ. 李畬の母は、その姓氏が伝わらない。彼女は深い見識をもっていた。李畬が監察御史となると、扶持米を得て、量ると三斛にあまったので、記録官に問いただしたところ、官はいった。 「御史の扶持米を量るのに、ますをならしていません」 また李畬が車引きの雇い人が何人いるのかたずねたところ、官はいった。 「御史は賃金を支払っていません」 母はそれを聞いて怒って、余りの米を返却させ、雇い人にも賃金を払うよういましめ、李畬を厳しく叱った。李畬はそこで倉官を弾劾し、自らそのありさまを言上すると、御史たちはこれを聞き、恥じ入るようすをみせた。 汴州の女性の李氏は、年が八歳のときに父を亡くし、御堂に遺体を安置して十年、朝に夕に棺にとりすがって泣いた。成人の年を迎えて、李氏の母は彼女をよそに嫁がせようとした。彼女は髪を切って、終身まで供養しつづけることを婉曲に示した。 母の喪中にあっても、泣き叫ぶありさまは尋常ではなかった。自ら葬具をととのえ、州里の人千人あまりが墓地まで送って埋葬した。墓地に庵をむすび、髪は乱れ放題にし、はだしで足を汚して、墓苑を完成させるため、数百本の松を植えかえた。 武后のとき、按察使の薛季昶がこのことを上表したので、詔して村里の門に台を建てて掲示し表彰させた。 崔絵の妻の盧氏は、鸞台侍郎の盧献のむすめである。盧献は美名があって世に知られていた。崔絵が亡くなると、盧氏はまだ年少であったので、家は彼女を再婚させようとした。しかし盧氏は病と称して許さなかった。 盧氏の姉が、工部侍郎の李思沖にとついでいたが、早くに亡くなっていた。思沖はちょうど貴い身分であったので、上表して盧氏を後妻に求めたところ、詔により許された。家の内外はみな、結婚するものだと思っていた。思沖は、ぬさ三百と輿を贈ったが、盧氏は拒絶していった。 「わたしがどうして再び二夫に辱められましょうか?むしろ死ぬまで端女(はしため)となったほうがよい」 この夕方、実家を出た。糞や汚血で顔面を汚し、崔家に帰って、断髪して自らに誓った。思沖がこのことを奏聞したところ、武后も彼女の志を奪うことはできないだろうと、尼僧となって生涯を全うするよう詔した。 堅貞節婦の李氏は、年が十七のときに、嫁いで鄭廉の妻となった。 その年を越えないうちに鄭廉が亡くなったので、いつも粗末な服をきて質素な食事をして身を慎んでいた。夜うつろな夢のなかに男子があらわれて妻にしたいと求められた。初めはそれほどでもなかったが、後にはしばしばこれを夢みた。 李氏は容貌がまだ衰え醜くなっていないので召されるのだと自ら思案し、ただちに髪を切り、麻の着物に着替え、香も焚きしめず、垢まみれの顔に塵まみれの肌にすると、これによって再び夢みることはなくなった。 刺史の白大威は、彼女が心がけをつつしんでいるので、堅貞節婦と号させ、上表して宮中の門に掲示して顕彰し、住所を名づけて節婦里と言わせた。 符鳳の妻の某氏は、字を玉英といい、とりわけあでやかで美しかった。符鳳は、罪によって儋州に移され、南海にいたった。符鳳は獠の賊に殺され、賊は玉英を私しようと脅したので、彼女は答えていった。 「ひとりの婦人は多くの男子につかえることはできません。年長の人に譲られるようお願いします」 賊はこれを了承した。そこで着替えさせてくれるよう願い出て、わずかの間に、晴れ着で舟の上に立ち、ののしっていった。 「賊に辱めを受けたら、死ぬしかないのよ!」 彼女は自ら海に身を沈めた。 高叡の妻の秦氏。高叡は趙州刺史となったが、黙啜の軍に攻撃された。趙州が陥落したので、高叡は毒薬をあおったが死ななかった。黙啜のところに連行され、宝飾の帯と異俗の上着を示していった。 「おれに降伏しろ。おまえに官を賜おう。降伏しなければ、死ぬだけだ」 高叡は秦氏を見つめたので、秦氏は言った。 「あなたは天子の恩を受けました。死をもって報いるべきで、賊の一品官がどうしてその栄誉に足りましょうか?」 ここからふたりは目をつむって語らなかった。黙啜は屈服させることができないと知ったので、高叡を殺した。 王琳の妻の韋氏は、士族の出身である。 王琳が眉州司功参軍となり、世の風俗が身にすぎてぜいたくに装飾が盛んになるなかで、韋氏はかんざしや耳飾りがあるのも知らなかった。二子の堅と冰におきてがあるのを説いて、後にふたりは名声をえた。 王琳が亡くなったとき、韋氏は年が二十五だったので、家は彼女を再婚させようとしたが、韋氏は固く拒んだ。音楽を聴かず、一室にとじこもり、終日食べないこともあった。 享年は七十五で、生前に『女訓』を著して世に行われた。 盧惟清の妻の徐氏は、淄州の人であったが、代々陳留に住んでいた。盧惟清は役人となって校書郎となった。 徐氏の姉の夫の李宜得が罪をえて官をしりぞけられたので、盧惟清は身内の役人として連座して、播川の尉に左遷された。徐氏は郷里に帰って、玄米を食べ、化粧をやめ、派手で高級な布を使わなかった。おりしも大赦があって、徐氏は惟清を迎えようとけわしい道をたどった。荊州にいたったところ、惟清が死んだのを聞いた。 ふたりのひげ男が徐氏をさらって下江に連れ帰ろうとした。徐氏はこれを知り、その罪を数えたので、男たちはあえて迫ることをせず、彼女の財貨だけを奪って去った。徐氏は道を急いで播川にいたったので、足にできたまめから血が流れていた。惟清の死体を引き取ると、喪を守って帰途につき、歳月をかけて洛陽にいたった。葬ったのち、子どもがなかったので、服喪を終えると陳留の実家に帰った。汴州刺史の斉澣は、彼女の節義が高いのをたたえて、詩に詠んだ。 饒娥は字を瓊真といい、饒州楽平の人である。ちっぽけな家に生まれて、機織りして働くうちに、人格態度がけっこうおのずと形よく整っていた。 あるとき父の饒勣が、江へ漁にでて、嵐にあって舟が転覆したため、死体があがらなかった。そのとき饒娥は年が十四で、水上で慟哭し、三日間絶食して死んだ。突然の雷が大いに震わし、水の生き物たちが多く死に、父の死体が浮かび出た。 郷里の人々はこれを奇妙に思って、死者への贈り物をささげ、礼儀にのっとって、父と饒娥とを鄱水の南の地に葬った。県令の魏仲光がその墓に石碑を建てた。 建中年間(780-783)初頭に、黜陟使の鄭淑則が村里の門に掲示して表彰し、河東の柳宗元がここに彼女の石碑を建てて顕彰した。 竇伯女と竇仲女は、京兆奉天の人である。 永泰年間(765-766)中に、賊に遭遇して道をおびやかしたので、二女は自ら山谷に隠れた。賊が彼女らを得ようと後をたどり、私しようと迫ってきた。 行く手に大きな谷をのぞんで、伯女は言った。 「わたしがどうして賊の汚れを受けたりいたしましょうか!」 みずから下に身を投げたので、賊はおおいに驚いた。にわかに仲女も身を躍らせて墜死した。 京兆尹の第五琦が彼女らの烈行を上表したので、詔して村里の門に掲示して表彰し、その家の夫役を免じ、官葬がおこなわれた。 盧甫の妻の李氏は、秦州成紀の人である。父の李瀾は、永泰年間(755-756)初年に蘄県の令となった。 梁、宋の地に兵乱が起こると、李瀾は勢いさかんな賊数千人に降伏するようをさとした。刺史の曹昇が賊を襲い、賊を破った。賊は李瀾が自分たちをだましたのではないかと疑い、李瀾とその弟の李渤を捕らえたところ、兄弟はおたがいに身代わりに死ぬことを争った。 李氏は父が捕らえられたのを見て、これまた父の身代わりになることを頼んで、ついにみな害にあってしまった。 また王泛の妻に裴氏という人がいて、また賊中に捕らえられて、けがさそうになった。ののしって言うことには、 「私は貴人の子だ。どうして命を惜しんでけがれを受けることがあろうか!」 賊は武器をもって脅したが、裴氏がののしることをやめなかったので、そこで両手両足を切りはなして殺した。 宣慰使の李季卿がそのなりゆきを奏聞したので、詔によって李氏に孝昌県君の位が、裴氏に河東県君の位が贈られ、李瀾、李渤もともに官位を贈られた。 鄒待徴の妻の薄氏は、夫の待徴の赴任に従って江陰にいた。袁晁の乱のとき、薄氏は賊軍に拉致され、いまにも身が汚されそうになったのを拒んだ。家の召使いの老婆に託して待徴に報告させたことには、 「私の節義ははずかしめられなかった」 すなわち水に身を投げて死んだのである。賊が去ると、彼女の屍が上がった。彼女の節義の評判は江南じゅうにとどろいた。 この話を聞いた李華は、「節婦を哀しむ賦」を作ってささげた。 金節婦は、安南の賊の将軍の陶斉亮の母である。 いつも斉亮に忠義をさとし教えていたが、斉亮はかたくなに受けつけなかったので、ついにこれと絶縁した。自ら田を耕して食し、糸を紡いで衣としていたので、州里の人々は彼女を模範として法をうやまった。 大暦年間(766-779)初年に、帝が詔してふたりの壮丁を賜って彼女のそばに仕えて養わせ、本道の使が彼女の終身の間たびたび安否を問わせた。 高愍女は名を妹妹といい、父の高彦昭は李正己に仕えていた。李正己の子の李納は命令を拒まないよう、彦昭の妻子を人質として、濮陽を守らせていた。建中二年(781)、高彦昭は城をひっさげて河南都統の劉玄佐に帰順したので、李納はその家族を処刑した。ときに愍女は七歳だったので、母の李氏は彼女が幼いのを憐れみ、死を免じて端女(はしため)とするよう願い出て、これを許された。愍女は納得せずいった。 「母と兄がみな死を免れないのに、どうして人に頼って生きられましょう?」 母と兄がいまにも処刑されようというとき、四方すべてを拝んだ。愍女が理由を尋ねたので、答えていった。 「神は祈るべきものなのです」 愍女はいった。 「我が家は忠義のために殺されようとしています。神がまたどうして拝んでいることを知るものでしょうか!」 父のいる場所を尋ねると、西にむかって声を上げて泣き、重ねて拝礼して死についた。徳宗は驚き感心して、太常に詔して謚を愍といった。諸儒は争って彼女のために生前の徳行をたたえた。 高彦昭は劉玄佐に従って寧陵を救い、汴州を恢復し、功績をかさねて潁州刺史を授かった。朝廷はその忠義ぶりを品定めして、州に居させること二十年も移さず、亡くなると陝州都督を贈った。 楊烈婦は、李侃の妻である。建中年間(780-783)の末年、李希烈が汴州を陥れ、謀って陳州を襲った。李侃はこのとき項城の県令であった。李希烈は兵数千を分かって諸県を攻略平定しようとした。李侃の籠もる城は小さく、賊の軍が精強であるので、逃げ去ろうとしていた。そこで烈婦は言った。 「敵がいたって守るにあたり、力が不足していて、県城は死に瀕しています。あなたが逃げたりすれば、誰が守るのでしょう?」 李侃は言った。 「兵が少なく財が乏しいのに、どうしろというのだ?」 烈婦は言った。 「県を守らなければ、この地は賊の土地となります。倉廩と府庫はみな賊のものとなり、百姓もみな賊の戦士となります。そうなれば国家に何が残るでしょうか?賞与を重ねて決死の武士を募ってくだされば、救うこともできましょう」 李侃は官民を召し出し、県の役所に入って言った。 「辺令誠のような者が県令であったなら、任期が過ぎれば去ってしまうのだが、それは吏民のようにこの土地で生まれ育って先祖の墳墓があるからではないからである。ともに死守しなければならない。身を失うのと惜しんで賊に北面して臣と称することができようか」 人々は泣いて、承知した。そこで布告していった。 「瓦や石をもって賊を撃つ者は、賞として千銭を取らせる。刀や矢をもって賊を殺す者には、万銭を取らせる」 こうして数百人の義兵を得ることができた。李侃はかれらを率いて城に乗り込んだ。烈婦は自ら炊飯して人々に供した。報を知って賊は言った。 「項城の父老は賊の下風に立たないのを義とするのだという。やつらはわが城を得るのに威とするに足りないし、とっとと追い出してしまおう。いたずらに利を失って、無益なことだ」 賊は大いに笑った。李侃は流れ矢に当たって、家に帰ってきた。烈婦は夫を責めて言った。 「あなたがいなければ、誰が城を固めたりいたしましょうか?外において死ぬのも、床の上で傷を治すのも同じことです」 李侃は急いで登城した。ちょうど賊将が矢に当たって死んだので、ついに賊軍は引き揚げていったので、県城を守りぬくことができた。詔により李侃は太平の県令に遷された。 これに先だって万歳通天の初年(696)、契丹が平州に進攻した。鄒保英が刺史となり、城が落とされそうになったが、妻の奚氏が家僮女丁を率いて城に乗り込み、賊に下らなかったので、詔により誠節夫人に封ぜられた。黙啜が飛狐を攻めたとき、県令の古玄応の妻の高氏がよく堅守し、胡人が引き揚げて去ると、詔により徇忠県君に封ぜられた。史思明の叛乱が起こると、衛州の女子侯氏、滑州の女子唐氏、青州の女子王氏は、互いに血をすすって誓い、軍営に赴いて賊を討伐したから、滑濮節度使の許叔冀が彼女たちの忠義を上表して、みなの勇気と決断力にむくいた。 賈直言の妻の董氏。賈直言は事件に連座して、嶺南に左遷された。妻が幼かったので、別れようといった。 「生還は期しがたい。私がいなくってしばらくしたら他に嫁して、待ってはならない」 董氏は答えず、縄を引いて髪を束ね、帛で封をして、直言に次のように書かせた。 「あなたの手でなければ解きません」 賈直言は左遷されてから二十年して返り咲いたので、書かせた帛はそのままであった。湯沐みしたが、髪を下ろそうとしても固まって下りてこなかった。 李孝女は、名を妙法といい、瀛州博野の人である。安禄山の乱のとき、拉致されて他の州の移された。父が亡くなったのを聞いて、間道から喪にかけつけようとしたが、一人っ子は母がいなくなるのが我慢できなかったから、片方の乳を切り裂いて留めてから行った。到着すると、父はすでに葬られており、泣いて父の墓を開けて見せるよう願ったが、宗族は許さなかった。また刀を持って心をさしたから、そのため開けられた。棺をみると、舌から塵を取り除いて、髪を調えて拭いた。墓の左に庵を結び、手ずから松や柏を植えると、珍しい鳥がやってきた。後に母が病となると、飲食せず、李孝女は終日匙や箸をとらなかった。母が亡くなると、刺して母の肘に血書して葬り、墓に庵をたてて終身つかえた。 李湍の妻の某氏。李湍は呉元済の軍に籍を置いていた。元和年間(806-820)中に、自ら抜け出して烏重胤に帰順した。妻は賊に縛られてずたずたにされて、今にも死のうというとき、なおもあえぎながら叫んでいった。 「烏僕射によく仕えてください!」 見る者は感嘆して泣いた。烏重胤はそのことを史官につづらせるよう願い出て、詔により許可された。 董昌齢の母の楊氏は、代々蔡に住んでいる家柄の出身だった。董昌齢は呉少陽に仕えて、呉元済の代にいたった時、呉房の県令となった。母の楊氏はいつもひそかに戒めていっていた。 「逆に順がっていいのか悪いのか、お前はこれを考えなければなりません」 董昌齢がいまだに決することができないうちに、郾城にうつったので、楊氏はまたいった。 「逆賊が天を欺くのは、神の祝福しないところです。逆賊は降伏するべきですが、わたしに累は及びません。子どもが忠臣となるなら、わたしは死んでもいといません」 おりしも王師が郾城に迫ったので、昌齢はそこで降伏した。憲宗は喜び、すぐさま郾城令に任じて、監察御史を兼ねさせた。昌齢が拝謝していうには、 「母の教えに従っただけです。臣ごときに何ができましょうか!」 帝は嗟嘆した。呉元済が楊氏を捕らえ、殺そうとしたことはしばしばあった。蔡が平定されると母が健在であり、陳許節度使の李遜がこのことを上表したので、彼女は北平郡太君に封ぜられた。 王孝女は、徐州の人で、字を和子といった。元和年間(806-820)に、父兄はみな涇州に駐屯して夷狄を防いでいたが、吐蕃が辺境に侵攻したので、そろって戦死してしまった。和子はこのとき年が十七で、単身で髪をふりみだし、徒歩素足に喪服ともすその姿で、涇州の駐屯地にいたった。日々ほどこしを請うて、ふたりの喪をまもって帰還し、郷里において葬儀をおこない、松や柏を植え、髮を切ってすがたを変え、墓所にいおりを建てて住んだ。節度使の王智興がそのことを帝に申し上げたので、詔してその善行を掲示して表彰させた。 段居貞の妻の謝氏は、字を小娥といい、洪州豫章の人である。段居貞はもとは歴陽のやくざな少年で、気骨を重んじた。謝氏を娶って一年あまりが経ち、謝氏の父とともに川と湖の上で商売していたとき、そろって盗賊のために殺されてしまった。小娥は川におもむいて流され、頭を傷つけ足を折ったが、人に救われて命が助かった。しばらくして乞食をしながら上元に到着すると、父と夫を殺したものの名を夢に見たが、その文をバラバラにして十二言をつくり、内外の縁戚に尋ねたが、わかる者はいなかった。隴西の李公佐がひそかにその意味するところを占っていった。 「おまえの父を殺した者は必ず申蘭であり、おまえの夫を殺したのは必ず申春である。ためしに探してみるとよい。」 小娥は泣いて礼を言った。ふたりの申氏は、名だたる盗賊で亡命者だった。小娥は服をいつわって男子のふりをし、雇われ人として雑用した。物色すること一年余り、申蘭を江州で、申春を独樹浦でみつけた。申蘭と申春は、従兄弟であった。小娥は申蘭の家に雇われ、毎日謹んで誠をつくしたから、申蘭は側で眠るようになり、賄賂があっても委ねないものはなかった。小娥は段居貞・謝氏の持ち物を盗んでいたところを見ていたから、ますます夢で知ったことを疑わなかった。二年ほどすして、隙を伺っていた。ある日、申蘭がことごとく群盗を集めて酒を分配し、申蘭と申春は酔い、家で寝ていた。小娥は戸を閉めて、佩刀を抜いて申蘭の首を斬り、大声で「賊を捕らえた」と叫ぶと、村人はかけつけ、申春を捕らえ、盗んだ品物千万とその仲間数十人を得た。小娥がすべてをその人の上官に申し上げると、全員が死罪にあたり、そこで始めて自ら言状した。 刺史の張錫嘉は彼女の烈行をよみして、観察使に申し上げたが、命乞いをしなかった。豫章に帰ると、人は争って彼女をめとろうとしたが、彼女は許さなかった。髪を短く切って仏の道につかえ、垢で汚れた衣に玄米を食して一生を終えた。 楊含の妻の蕭氏。父の蕭歴は撫州長史となったが、在職中に没し、母もまた亡くなった。蕭氏は年が十六で、妹がいて二人とも美しかったが、美顔を傷つけ、二人を載せて郷里に帰ろうとしたが、貧しいため舟を雇うことができなかったから、宣州に行くと鳥山で戦闘があったから、舟子は柩を置いて去った。蕭氏は家を水辺につくり、婢(はしため)とともに穴を掘って納棺して墳墓をつくり、松柏を種まき、朝夕に詣で、カラスやシマウサギやきのこが慣れ親しんだ瑞兆があった。長老たちは蕭氏のために家をつくってやり、毎年粟やかとりを進上した。喪が明けるころになっても喪服を脱がず、人々はその行いを貴いものとした。ある人が結婚を願い出たが、彼女はいった。 「私は弱く北に還ることができません。あなたが本当に私のために二人の柩を故郷に葬ってくれるのでしたら、あなたにお仕えしたいと思います」 ここに楊含は高安県の尉となって帰ることになったので、結婚を申し出たが、また今まで通りに願った。蕭氏は親がまだ葬られていないから、一緒に載せることになり、その村を去った。葬られると、そこで喪服を脱いで楊含と結婚したのだという。 韋雍の妻の蕭氏。張弘靖が幽州に鎮していたので、韋雍はその幕府にいた。 朱克融が乱を起こすと、韋雍は身柄を拉致された。蕭氏は難を聞いて、韋雍とともに皆出てきて、左右がこれを止めたが、退かなかった。韋雍が斬られるのに臨んで、蕭氏は呼んでいった。 「わたしはもはや生きていても無益です。願わくは今日あなたの前で死にましょう」 刑はかれの臂を断ち、そして韋雍を殺した。蕭氏の心かたちは静かに落ちついたようすで、見たものは悲しみ嘆いた。彼女はこの夕方に死んだ。 大和年間(827-835)に、楊志誠が彼女を烈婦として上表したので、詔によって彼女に蘭陵県君の位を追贈された。 韋雍は字を和叔といい、進士に及第しえらばれていた。 衡方厚の妻の程氏。大和年間(827-835)に、衡方厚は邕州録事参軍となった。招討使の董昌齢は統治がでたらめであったので、衡方厚はしばしばいさめて争った。董昌齢は怒って、かれを捕らえて裁判に付そうとした。病を理由に辞職したが、許されないので、死んだと告げて、棺の中で寝転がっていた。董昌齢はこれを知って、棺にふたをして頑丈に閉じこめさせた。衡方厚は閉じこめられること長く、爪で棺を引っかいたので、爪はすべてなくなって絶命してしまった。程氏はともに死ぬことを恐れて、あえて声を上げて泣くことをしなかった。董昌齢は静かなのを疑わず、厚くその喪をとむらわせた。程氏は徒歩で宮城までいたり、右銀台の門を叩いて、自ら耳を切って夫の冤罪を述べた。御史に下して事実を取り調べさせると、董昌齢はそこで罪をえた。文宗は詔して程氏を武昌県君に封じ、一子に九品正員官を賜った。 鄭孝女は、兗州瑕丘の人である。父の神佐は、官軍の兵となり、慶州で戦死した。ときに母はすでに亡く、また兄弟もなく、孝女はこのとき年が二十四であったが、すぐに髪を切って服をぼろぼろにし、父の遺体を守って郷里に連れ帰り、母とともに合葬した。墓のそばに庵を建てて、手ずから松や柏の木を植えて林を作った。かつて、牙兵の李玄慶を許嫁としていたが、このときになって、謝絶して嫁がなかった。大中年間に、兗州節度使の蕭俶が朝廷に報告したので、詔が下って村里の門に掲示して表彰された。 李廷節の妻の崔氏。 乾符年間(874-879)中に、廷節は郟城の尉となった。 王仙芝が汝州を攻めたとき、廷節は捕らえられた。賊は崔氏がみめよく美しいのを見て、いまにも彼女をめとろうとした。彼女がののしって言うことには、 「私は士人の妻です。どうして命を惜しんで賊のけがれを受けたりしましょうか?」 賊は怒って、彼女の心臓をえぐって食べた。 殷保晦の妻の封氏は、封敖の孫であり、名を絢、字を景文といった。文章や草書・隸書をよくした。保晦は校書郎などを歴任していた。黄巣が長安に入ると、夫婦はともに蘭陵里に隠れた。次の日、保晦は逃げ、封氏は賊の手に落ちた。 賊は封氏の容色をよろこんで、彼女を欲しがったが、封氏は固く拒んだ。賊は言葉をつくして説いて誘ったが、答えなかった。 賊は怒って、顔色を変えて言うことには、 「従えば生かしておいてやるが、そうでなければ、まさに我が剣のサビにしてくれよう!」 封氏はののしって言うことには、 「私は公卿の子です。正道を守って死ぬことはあっても、生きるために逆賊の手に辱められることは絶対にありません!」 このためついに害せられてしまった。保晦が帰ってくると、左右のものが言うことには、 「夫人は死んでしまいました!」 保晦は号泣した。 竇烈婦は、河南の人であり、朝邑令の畢某の妻である。かつて、同州の軍が乱を起こして、節度使の李瑭を追って河中に敗走させ、望仙里に匿わせたが、匿われた家が仇敵の家であることを知らず、夜半に盗賊が侵入し、令の首を引っ張り、これを殺そうとしたので、竇氏は泣いて身で蔽って守り、無理やり賊の袂を掴んだが、刀にあたってもふり解かなかったから、脱走することができて死なず、賊はまた去っていった。京兆ではこれを聞いて、酒帛・医薬を与え、ほとんど死ぬところであったが治癒した。 李拯の妻の盧氏は、美形で、文章をつくるのがうまかった。李拯は字を昌時といい、咸通年間(860-874)末年に進士にえらばれ、累進して考功郎中に上った。黄巣の乱が起こると、乱を避けて平陽にうつったが、僖宗に召されて翰林学士となった。帝が宝鶏に出ると、嗣襄王李熅に落とされた。熅が敗れると、李拯は死に、盧氏は屍体の上に伏して声を上げて泣いた。王行瑜の兵が彼女に迫ったが、従わなかった。刃で脅しつけたところ、片ひじを断って死んだ。 山陽のむすめの趙氏は、父が塩を盗み、死刑に相当すると論告されたので、むすめは官を訪れて訴えていった。 「飢えに迫られて盗みをし、死を救っただけです。情状は酌量されるべきで、許すことはできませんか?できないならともに死ねるようお願いします」 役人はこれを義とし、父の死を許して減刑した。むすめはいった。 「身はいま官の賜ったところとなりましたが、願わくは服を粗末なものに変え、仏法に従ってご恩に報いようと思います」 そこで耳を切って自ら言ったとおりにし、父の病床にはべって、嫁がないまま亡くなった。 周迪の妻の某氏。周迪は商売をよくし、広陵地方を往来した。あるとき畢師鐸の乱に遭遇して、人々が食物を掠奪していった。このため周迪は飢えて今にも息絶えんばかりであった。そこで妻は言った。 「いま帰ろうとしても、ふたりともに無事ではおれません。あなたには親があり、二人ともに死ぬわけにはいきません。私を売ってあなたが行くのを助けとしてください」 周迪は承服できなかったが、妻が頑なに一緒に市に行って、自分自身を売って数千銭を得て夫に与えた。周迪が城門に行くと、門番が怪しんで尋問し、欺いているのだと疑ったから、周迪とともに市に行って真相を問い詰めてみると、妻の首はすでにまな板の上にあるのを発見した。周迪は残りの体を包んで帰って葬った。 朱延寿の妻の王氏。楊行密が勢力を持っていたころ、朱延寿は楊行密に仕えて寿州刺史となった。かれは楊行密が唐朝の臣としての道を尽くさないのをにくみ、寧国節度使の田頵とともに謀って楊行密との関係を絶って唐に帰順しようとした。事は楊行密の側に洩れていて、楊行密は一計を案じて朱延寿を召しだし、揚州をあずけたいと伝えた。延寿はこれを信じた。今にも行こうとしたので、王氏は言った。 「いまもし揚州を得て宿志がなったとしても、この興衰は時勢にあるのであって、家につながるわけではありません。ですが願わくば一日待って試してください」 それが聴されたが、楊行密に殺された時、一日もたっておらず、王氏は言った。 「事敗れたり」 そこで部下や家僕に兵器を授けた。扉を閉ざしたが捕騎がやって来ると、遂に私財をなげうって民に施し、あちこちに火を放って牙軍の家を焼き払い、天の名を呼んで言った。 「わたしは仇の辱めを受けないことを誓う!」 彼女は火の中に飛び込んで死んだ。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百四 列伝第一百二十九 『新唐書』巻二百五 列伝第一百三十 巻二百六 列伝第一百三十一
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資治通鑑巻第二百二十六 唐紀四十一 代宗睿文孝武皇帝下 代宗睿文孝武皇帝下大歴十四年(己未、七七九年) 1.八月,甲辰,以道州司馬楊炎為門下侍郎,懷州刺史喬琳為御史大夫,並同平章事。上方勵精求治,不次用人,卜相於崔祐甫,祐甫薦炎器業,上亦素聞其名,故自遷謫中用之。琳,太原人,性粗率,喜詼諧,無他長,與張涉善,涉稱其才可大用,上信涉言而用之;聞者無不駭愕。 2.代宗之世,吐蕃數遣使求和,而寇盜不息,代宗悉留其使者,前後八輩,有至老死不得歸者;俘獲其人,皆配江、嶺。上欲以德懷之,乙巳,以隨州司馬韋倫為太常少卿,使於吐蕃,悉集其俘五百人,各賜襲衣而遣之。 3.協律郎沈既濟上選舉議,以為:「選用之法,三科而已:曰德也、才也、勞也。今選曹皆不及焉;考校之法,皆在書判、簿歷、言詞、俯仰而已。夫安行徐言,非德也;麗藻芳翰,非才也;累資積考,非勞也。執此以求天下之士,固未盡矣。今人未土著,不可本於鄉閭;鑒不獨明,不可專於吏部。臣謹詳酌古今,謂五品以上及群司長官,宜令宰臣進敘,吏部、兵部得參議焉。其六品以下或僚佐之屬,許州、府辟用,其牧守、將帥或選用非公,則吏部、兵部得察而舉之,罪其私冒。不慎舉者,小加譴黜,大正刑典。責成授任,誰敢不勉!夫如是,則賢者不獎而自進,不肖者不抑而自退,眾才咸得而官無不治矣。今選法皆擇才於吏部,試職於州郡。若才職不稱,紊亂無任,責於刺史,則曰命官出於吏曹,不敢廢也;責於侍郎,則曰量書判、資考而授之,不保其往也;責於令史,則曰按由歷、出入而行之,不知其他也。黎庶徒弊,誰任其咎!若牧守自用,則罪將焉逃!必州郡之濫,獨換一刺史則革矣。如吏部之濫,雖更其侍郎無益也。蓋人物浩浩,不可得而知,法使之然,非主司之過。今諸道節度、都團練、觀察、租庸等使,自判官、副將以下,皆使自擇,縱其間或有情故,大舉其例,十猶七全。則辟吏之法,已試於今,但未及於州縣耳。利害之理,較然可觀。曏令諸使僚佐盡受於選曹,則安能鎮方隅之重,理財賦之殷乎!」既濟,吳人也。 4.初,衡州刺史曹王皋有治行,湖南觀察使辛京杲疾之,陷以法,貶潮州刺史。時楊炎在道州,知其直,及入相,復擢為衡州刺史。始,皋之遭誣在治,念太妃老,將驚而戚,出則囚服就辨,入則擁笏垂魚,即貶於潮,以遷入賀;及是,然後跪謝告實。皋,明之玄孫也。 5.朔方、邠寧節度使李懷光既代郭子儀,邠府宿將史抗、溫儒雅、龐仙鶴、張獻明、李光逸功名素出懷光右,皆怏怏不服。懷光發兵防秋,屯長武城,軍期進退,不時應令。監軍翟文秀勸懷光奏令宿衛,懷光遣之,既離營,使人追捕,誣以它罪,且曰:「黃萯之敗,職爾之由!」盡殺之。 6.九月甲戌、淮西を改めて淮寧とした。 7.西川節度使、同平章事崔寧,在蜀十餘年,恃地險兵強,恣為淫侈,朝廷患之而不能易。至是,入朝,加司空,兼山陵使。 南詔王閣羅鳳卒,子鳳迦異前死,孫異牟尋立。冬,十月,丁酉朔,吐蕃與南詔合兵十萬,三道入寇,一出茂州,一出扶、文,一出黎、雅,曰:「吾欲取蜀以為東府。」崔寧在京師,所留諸將不能御,虜連陷州、縣,刺史棄城走,士民竄匿山谷。上憂之,趣寧歸鎮。寧已辭,楊炎言於上曰:「蜀地富饒,寧據有之,朝廷失其外府,十四年矣。寧雖入朝,全師尚守其後,貢賦不入,與無蜀同。且寧本與諸將等夷,因亂得位,威令不行。今雖遣之,必恐無功;若其有功,則義不可奪。是蜀地敗固失之,勝亦不得也。願陛下熟察。」上曰:「然則奈何?」對曰:「請留寧,發朱泚所領范陽戍兵數千人,雜禁兵往擊之,何憂不克!因而得內親兵於其腹中,蜀將必不敢動,然後更授他帥,使千里沃壤復為國有,是因小害而收大利也。」上曰:「善。」遂留寧。 初,馬璘忌涇原都知兵馬使李晟功名,遣入宿衛,為右神策都將。上發禁兵四千人,使晟將之,發邠、隴、范陽兵五千,使金吾大將軍安邑曲環將之,以救蜀。東川出軍,自江油趣白壩,與山南兵合擊吐蕃、南詔,破之。范陽兵追及於七盤,又破之,遂克維、茂二州。李晟追擊於大度河外,又破之。吐蕃、南詔饑寒隕於崖谷死者八九萬人。吐蕃悔怒,殺誘導使之來者。異牟尋懼,築苴咩城,延袤十五里,徙居之。吐蕃封之為日東王。 7.西川節度使、同平章事の崔寧は、蜀にあること十年あまり、地が険しく兵が強いのをたのんで、ほしいままに淫行奢侈を行い、朝廷は患いたが易えることができなかった。ここにいたって入朝し、司空を加え、山陵使を兼任させた。 南詔王の閣羅鳳が卒した。子の鳳迦異はそれ以前に死に、孫の異牟尋が即位した。冬十月丁酉朔、吐蕃と南詔が兵を合わせて十万で三道に侵入し、一隊は茂州に出現し、一隊は扶州・文州に出現し、一隊は黎州・雅州に出現し、「我らは蜀を奪取して東府としたいと思う」と言った。崔寧は京師にあって、留守の諸将では防御することができず、敵は連続で州・県を陥落させ、刺史は城を棄てて逃走し、兵士・民衆は山谷に隠れた。お上はこれを憂い、崔寧を赴かせて帰還させようとした。崔寧はすでに固辞し、楊炎はお上に言上して、「蜀の地は富裕で、崔寧が根拠としてしまうと、朝廷はその外府を失うこと十四年になりました。崔寧が入朝したとはいえ、全軍はなおその背後を守備し、貢賦は入らず、蜀が存在しないのと同じです。かつ崔寧はもとは諸将らと同じく夷であって、戦乱によって今の地位を得て、威令は行われず、今派遣したからといって、必ず功績がないのを恐れ、もし功績があったとしても、地位を奪うことができません。蜀の地が敗れて失われても、勝ってもまた得られないのです。願わくは陛下、熟察くださりますように」と述べた。お上は、「そうならどうするか?」と言い、答えて、「崔寧を留めてください。朱泚の所領の范陽の守兵数千人を発して、禁兵と合同で行ってこれを攻撃させれば、何を心配することができましょうか!よって禁軍をその腹中に得て、蜀将は必ずあえて動かないものはおらず、その後にさらに他の将に替任し、千里の肥沃な地が再度国有となり、これによって小害にして大利を収めるのです」と述べた。お上は「よし」と言い、遂に崔寧を留めた。 それより以前、馬璘が涇原都知兵馬使の李晟の功名を嫌って、宿衛に入り、右神策都将となった。お上は禁軍の兵四千人を発し、李晟に率いさせ、邠州・隴州・范陽兵五千を発し、金吾大将軍安邑の曲環に率いさせ、蜀を救援させた。東川に出軍し、江油より白壩に急行し、山南の兵とともに合同で吐蕃・南詔を攻撃させてこれを破った。范陽の兵は追撃して七盤に及び、またこれを破り、遂に維州・茂州の二州に勝った。李晟は大度河外に追撃し、またこれを破った。吐蕃・南詔は飢えや寒さで崖谷に落ち、死者八・九万人となった。吐蕃は怒り、誘導使の来る者を殺した。異牟尋は恐れ、苴咩城を築き、長さ十五里に延ばし、移してここを根拠とした。吐蕃はこれを封じて日東王とした。 8.上用法嚴,百官震悚。以山陵近,禁人屠宰;郭子儀之隸人潛殺羊,載以入城,右金吾將軍裴諝奏之。或謂諝曰:「郭公有社稷大功,君獨不為之地乎?」諝曰:「此乃吾所以為之地也。郭公勳高望重,上新即位,以為群臣附之者眾,吾故發其小過,以明郭公威權不足畏也。如此,上尊天子,下安大臣,不亦可乎!」 9.己酉,葬睿文孝武皇帝於元陵;廟號代宗。將發引,上送之,見轀輬車不當馳道,稍指丁未之間,問其故,有司對曰:「陛下本命在午,不敢沖也。」上哭曰:「安有枉靈駕而謀身利乎!」命改轅直午而行。肅宗、代宗皆喜陰陽鬼神,事無大小,必謀之卜祝,故王嶼、黎幹以左道得進。上雅不之信,山陵但取七月之期,事集而發,不復擇日。 10.十一月,丁丑,以晉州刺史韓滉為蘇州刺史、浙江東、西觀察使。 11.喬琳衰老耳聵,上或時訪問,應對失次,所謀議復疏闊。壬午,以琳為工部尚書,罷政事。上由是疏張涉。 12.楊炎既留崔寧,二人由是交惡。炎托以北邊須大臣鎮撫,癸巳,以京畿觀察使崔寧為單于、鎮北大都護、朔方節度使,鎮坊州。以荊南節度使張延賞為西川節度使。又以靈鹽節度都虞侯醴泉杜希全知靈、鹽州留後;代州刺史張光晟知單于、振武等城、綏、銀、麟、勝州留後;延州刺史李建徽知鄜、坊、丹州留後。時寧既出鎮,不當更置留後,炎欲奪寧權,且窺其所為,令三人皆得自奏事,仍諷之使伺寧過失。 13.十二月,乙卯,立宣王誦為皇太子。 14.舊制,天下金帛皆貯於左藏,太府四時上其數,比部覆其出入。及第五琦為度支、鹽鐵使,時京師多豪將,求取無節,琦不能制,乃奏盡貯於大盈內庫,使宦官掌之,天子亦以取給為便,故久不出。由是以天下公賦為人君私藏,有司不復得窺其多少,校其贏縮,殆二十年。宦官領其事者三百餘員,皆蠶食其中,蟠結根據,牢不可動。楊炎頓首於上前曰:「財賦者,國之大本,生民之命,重輕安危,靡不由之,是以前世皆使重臣掌其事,猶或耗亂不集。今獨使中人出入盈虛,大臣皆不得知,政之蠹敝,莫甚於此。請出之以歸有司。度宮中歲用幾何,量數奉入,不敢有乏。如此,然後可以為政。」上即日下詔:「凡財賦皆歸左藏,一用舊式,歲於數中擇精好者三、五千匹,進入大盈。」炎以片言移人主意,議者稱之。 15.丙寅晦,日有食之。 16.湖南賊帥王國良阻山為盜,上遣都官員外郎關播招撫之。辭行,上問以為政之要,對曰:「為政之本,必求有道賢人與之為理。」上曰:「朕比以下詔求賢,又遣使臣廣加搜訪,庶幾可以為理乎!」對曰:「下詔所求及使者所薦,惟得文詞干進之士耳,安有有道賢人肯隨牒舉選乎!」上悅。 17.崔祐甫有疾,上令肩輿入中書,或休假在第,大事令中使咨決。 徳宗神武孝文皇帝一(庚申、七八〇年) 1.春,正月,丁卯朔,改元。群臣上尊號曰聖神文武皇帝;赦天下。始用楊炎議,命黜陟使與觀察使、刺史「約百姓丁產,定等級,作兩稅法。比來新舊征科色目,一切罷之;二稅外輒率一錢者,以枉法論。」唐初,賦斂之法曰租、庸、調,有田則有租,有身則有庸,有戶則有調。玄宗之末,版籍浸壞,多非其實。及至德兵起,所在賦斂,迫趣取辦,無復常准。賦斂之司增數而莫相統攝,各隨意增科,自立色目,新故相仍,不知紀極。民富者丁多,率為官、為僧以免課役,而貧者丁多,無所伏匿,故上戶優而下戶勞。吏因緣蠶食,民旬輸月送,不勝困弊,率皆逃徙為浮戶,其土著百無四五。至是,炎建議作兩稅法,先計州縣每歲所應費用及上供之數而賦於人,量出以制入。戶無主、客,以見居為簿;人無丁、中,以貧富為差;為行商者,在所州縣稅三十之一,使與居者均,無僥利。居人之稅,秋、夏兩征之。其租、庸、調雜徭悉省,皆總統於度支。上用其言,因赦令行之。 2.初,左僕射劉晏為吏部尚書,楊炎為侍郎,不相悅。元載之死,晏有力焉。及上即位,晏久典利權,眾頗疾之,多上言轉運使可罷;又有風言晏嘗密表勸代宗立獨孤妃為皇后者。楊炎為宰相,欲為元載報仇,因為上流涕言:「晏與黎幹、劉忠翼同謀,臣為宰相不能討,罪當萬死!」崔祐甫言:「茲事暖昧,陛下已曠然大赦,不當復究尋虛語。」炎乃建言:「尚書省,國政之本,比置諸使,分奪其權,今宜復舊。」上從之。甲子,詔天下錢穀皆歸金部、倉部,罷晏轉運、租庸、青苗、鹽鐵等使。 3.二月,丙申朔,命黜陟使十一人分巡天下。先是,魏博節度使田悅事朝廷猶恭順,河北黜陟使洪經綸,不曉時務,聞悅軍七萬人,符下,罷其四萬,令還農。悅陽順命,如符罷之。既而集應罷者,激怒之曰:「汝曹久在軍中,有父母妻子,今一旦為黜陟使所罷,將何資以自衣食乎!」眾大哭。悅乃出家財以賜之,使各還部伍。於是軍士皆德悅而怨朝廷。 4.崔祐甫以疾,多不視事。楊炎獨任大政,專以復恩仇為事,奏用元載遺策城原州,又欲發兩京、關內丁夫浚豐州陵陽渠,以興屯田。上遣中使詣涇原節度使段秀實,訪以利害,秀實以為:「今邊備尚虛,未宜興事以召寇。」炎怒,以為沮已,征秀實為司農卿。丁未,邠寧節度使李懷光兼四鎮、北庭行營、涇原節度使,使移軍原州,以四鎮、北庭留後劉文喜為別駕。京兆尹嚴郢奏:「案朔方五城,舊屯沃饒之地,自喪亂以來,人功不及,因致荒廢,十不耕一。若力可墾辟,不俟浚渠。今發兩京、關輔人於豐州浚渠營田,計所得不補所費,而關輔之人不免流散,是虛畿甸而無益軍儲也。」疏奏,不報。既而陵陽渠竟不成,棄之。 5.上用楊炎之言,托以奏事不實,己酉,貶劉晏為忠州刺史。 6.癸丑,以澤潞留後李抱真為節度使。 6.癸丑、澤潞留後の李抱真を節度使とした。 7.楊炎欲城原州以復秦、原,命李懷光居前督作,朱泚、崔寧各將萬人翼其後。詔下涇州為城具,涇之將士怒曰:「吾屬為國家西門之屏,十餘年矣。始居邠州,甫營耕桑,有地著之安。徙屯涇州,披荊榛,立軍府;坐席未暖,又投之塞外。吾屬何罪而至此乎!」李懷光始為邠寧帥,即誅溫儒雅等,軍令嚴峻。及兼涇原,諸將皆懼,曰:「彼五將何罪而為戮?今又來此,吾屬能無憂乎!」劉文喜因眾心不安,據涇州,不受詔,上疏復求段秀實為帥,不則朱泚。癸亥,以朱泚兼四鎮、北庭行軍、涇原節度使,代懷光。 7.楊炎は原州に築城して秦州・原州を復したいと思い、李懐光に命じて前進して築城を監督させ、朱泚・崔寧にそれぞれ一万人を率いてその後に翼とした。詔して涇州に下し城のための具えとしたが、涇州の将兵は怒って、「我らは国家のために西門の屏に属して十年あまりだ。始めは邠州におり、はじめは農耕養桑を営み、一所に定住して安住した。移って涇州に駐屯し、茨を開き、軍府を立てたが、座席はまだ温まっておらず、またこれを塞外に投じた。我らは何の罪があってここにいたったのか!」と言い、李懐光は始め邠寧の帥となり、そこで温儒雅らを誅殺し、軍令は厳峻であった。涇原を兼任すると、諸将は皆恐れ、「かの五将は何の罪があって殺されたのか?今またここに来ると、我らは心配しないなんてことができようか!」と言った。劉文喜は衆の心の不安によって、涇州を根拠とし、詔を受けず、上疏して再び段秀実を帥とすることを求め、そうでなければ朱泚がよいとした。癸亥、朱泚に四鎮北庭行軍涇原節度使を兼任させ、李懐光と代わらせた。 8.三月,翰林學士、左散騎常侍張涉受前湖南觀察使辛京杲金,事覺;上怒,欲置於法。時李忠臣以檢校司空、同平章事、奉朝請,言於上曰:「陛下貴為天子,而先生以乏財犯法,以臣愚觀之,非先生之過也。」上意解,辛未,放涉歸田裡。辛京杲以私忿杖殺部曲,有司奏京杲罪當死,上將從之。李忠臣曰:「京杲當死久矣!」上問其故。忠臣曰:「京杲諸父兄弟皆戰死,獨京杲至今尚存,臣故以為當死久矣。」上憫然,左遷京杲諸王傅。忠臣乘機救人,多此類。 9.楊炎罷度支、轉運使,命金部、倉部代之。既而省職久廢,耳目不相接,莫能振舉,天下錢穀無所總領。癸巳,復以諫議大夫韓洄為戶部侍郎、判度支,以金部郎中萬年杜佑權江、淮水陸轉運使,皆如舊制。 10.劉文喜又不受詔,欲自邀旌節;夏,四月,乙未朔,據涇州叛,遣其子質於吐蕃以求援。上命朱泚、李懷光討之,又命神策軍使張巨濟將禁兵二千助之。 10.劉文喜はまた詔を受けず、自ら旌節を迎えようと思った。夏四月乙未朔、涇州によって叛き、その子を遣わして吐蕃の人質とし救援を求めた。お上は朱泚・李懐光に命じてこれを討伐させ、また神策軍使の張巨済に命じて禁軍の兵二千を率いて援軍させた。 11.吐蕃始聞韋倫歸其俘,不之信,及俘入境,各還部落,稱:「新天子出宮人,放禽獸,英威聖德,洽於中國。」吐蕃大悅,除道迎倫。贊普即發使隨倫入貢,且致賻贈。癸卯,至京師,上禮接之。既而蜀將上言:「吐蕃豺狼,所獲俘不可歸。」上曰:「戎狄犯塞則擊之,服則歸之。擊以示威,歸以示信。威信不立,何以懷遠!」悉命歸之。 12.代宗之世,每元日、冬至、端午、生日,州府於常賦之外競為貢獻,貢獻多者則悅之。武將、奸吏,緣此侵漁下民。癸丑,上生日,四方貢獻皆不受。李正己、田悅各獻縑三萬匹,上悉歸之度支以代租賦。 13.五月,戊辰,以韋倫為太常卿。乙酉,復遣倫使吐蕃。倫請上自為載書,與吐蕃盟。楊炎以為非敵,請與郭子儀輩為載書以聞,令上畫可而已,從之。 14.朱泚等圍劉文喜於涇州,杜其出入,而閉壁不與戰,久之不拔。天方旱,征發饋運,内外騷然,朝臣上書請赦文喜以蘇疲人者,不可勝紀。上皆不聽,曰:「微孽不除,何以令天下!」文喜使其將劉海賓入奏,海賓言於上曰:「臣乃陛下籓邸部曲,豈肯附叛人,必為陛下梟其首以獻。但文喜今所求者節而已,願陛下姑與之,文喜必怠,則臣計得施矣。上曰:「名器不可假人,爾能立效固善,我節不可得也。」使海賓歸以告文喜,而攻之如初。減御膳以給軍士,城中將士當受春服者,賜予如故。於是眾知上意不可移。時吐蕃方睦於唐,不為發兵,城中勢窮。庚寅,海賓與諸將共殺文喜,傳首,而原州竟不果城。自上即位,李正己内不自安,遣參佐入奏事;會涇州捷奏至,上使觀文喜之首而歸。正己益懼。 14.朱泚らが劉文喜を涇州で包囲し、その出入りを塞いだが、城壁に閉じこもって戦わなかったから、しばらくしても陥落できず、天は旱になろうとし、民間に糧食を運送させ、内外は騒然とし、朝臣は上書して、劉文喜を赦して疲弊を回復させるよう願う者が、枚挙に遑なかった。お上はすべて許さず、「僅かな災いでも除かなかったら、どうして天下に号令できようか!」と言い、劉文喜はその将劉海賓を入奏させ、劉海賓はお上に言上して、「臣はすなわち陛下の藩邸部曲で、どうして叛人に付されるのを受け入れられましょうか。必や陛下のためにその首を梟首して献上します。ただし文喜が今求めているのはただ節だけなのです。願わくは陛下、しばらくこれを与えられれば、劉文喜は必ず怠け、そこで臣が計略を行うことができるのです」と言った。お上は、「名器は人に貸すべきではない。お前はよく功績を立て善行を保持しなさい。我が節は得るべきではない」と言い、劉海賓を帰して劉文喜に告げさせて、これを攻撃することははじめのようであった。御膳を減らして軍士に給付し、城中の将兵で春服を給付すべき者は、賜い物はもとの通りであった。ここに衆はお上の意が移すべきではないということを知り、当時、吐蕃が唐と和睦しようおしており、兵を発しなかったから、城中の勢いは窮まった。庚寅、劉海賓と諸将は共に劉文喜を殺し、首を伝えて、原州はついに城を果たすことがなかった。お上が即位してから、李正己の心内は不安で、部下を遣して上奏を行ったが、たまたま涇州の勝利の上奏が来たから、お上は劉文喜の首を見させてから帰らせた。李正己はますます恐れた。 15.六月,甲午朔,門下侍郎、同平章事崔祐甫薨。 15.六月甲午朔、門下侍郎同平章事の崔祐甫が薨去した。 16.術士桑道茂上言:「陛下不出數年,暫有離宮之厄。臣望奉天有天子氣,宜高大其城以備非常。」辛丑,命京兆發丁夫數千,雜六軍之士,築奉天城。 16.術士の桑道茂が、「陛下は数年もしないうちに、しばらく宮殿を離れる厄災にあいます。臣が奉天を望むに天子の気があります。その城の城壁を高くして非常時に備えるべきです」と上言した。辛丑、京兆に命じて工夫数千人、六軍の兵士を発し、奉天城を築城した。 17.初,回紇風俗樸厚,君臣之等不甚異,故眾志專一,勁健無敵。及有功於唐,唐賜遺甚厚,登裡可汗始自尊大,築宮殿以居,婦人有粉黛文繡之飾。中國為之虛耗,而虜俗亦壞。及代宗崩,上遣中使梁文秀往告哀,登裡驕不為禮。九姓胡附回紇者,說登裡以中國富饒,今乘喪伐之,可有大利。登裡從之,欲舉國入寇。其相頓莫賀達干,登裡之從父兄也,諫曰:「唐,大國也,無負於我,吾前年侵太原,獲羊馬數萬,可謂大捷,而道遠糧乏,比歸,士卒多徒行者。今舉國深入,萬一不捷,將安歸乎!」登裡不聽。頓莫賀乘人心之不欲南寇也,舉兵擊殺之,並九姓胡二千人,自立為合骨咄祿毘伽可汗,遣其臣聿達干與梁文秀俱入見,願為籓臣,垂發不翦,以待冊命。乙卯,命京兆少尹臨漳源休冊頓莫賀為武義成功可汗。 18.秋,七月,丙寅,邵州賊帥王國良降。國良本湖南牙將,觀察使辛京杲使戍武岡,以扞西原蠻。京杲貪暴,國良家富,京杲以死罪加之。國良懼,據縣叛,與西原蠻合,聚眾千人,侵掠州縣,瀕湖千里,咸被其害。詔荊、黔、洪、桂諸道合兵討之,連年不能克。及曹王皋為湖南觀察使,曰:「驅疲□,誅反仄,非策之得者也。」乃遺國良書,言:「將軍非敢為逆,欲救死耳。我與將軍俱為辛京杲所構,我已蒙聖朝湔洗,何心復加兵刃於將軍乎!將軍遇我,不速降,後悔無及!」國良且喜且懼,遣使乞降,猶疑未決。皋乃假為使者,從一騎,越五百里,抵國良壁,鞭其門,大呼曰:「我曹王也,來受降!」舉軍大驚。國良趨出,迎拜請罪。皋執其手,約為兄弟,盡焚攻守之具,散其眾,使還農。詔赦國良罪,賜名惟新。 19.辛巳,遙尊上母沈氏為皇太后。 20.荊南節度使庾准希楊炎指,奏忠州刺史劉晏與朱泚書求營救,辭多怨望,又奏召補州兵,欲拒朝命,炎證成之。上密遣中使就忠州縊殺之,己丑,乃下詔賜死。天下冤之。 初,安、史之亂,數年間,天下戶口什亡八九,州縣多為籓鎮所據,貢賦不入,朝廷府庫耗竭,中國多故,戎狄每歲犯邊,所在宿重兵,仰給縣官,所費不貲,皆倚辦於晏。晏初為轉運使,獨領陝東諸道,陝西皆度支領之,末年兼領,未幾而罷。晏有精力,多機智,變通有無,曲盡其妙。常以厚直募善走者,置遞相望,覘報四方物價,雖遠方,不數日皆達使司,食貨輕重之權,悉制在掌握,國家獲利,而天下無甚貴甚賤之憂。常以為:「辦集眾務,在於得人,故必擇通敏、精悍、廉勤之士而用之;至於句檢簿書、出納錢穀,事雖至細,必委之士類;吏惟書符牒,不得輕出一言。」常言:「士陷贓賄,則淪棄於時,名重於利,故士多清修;吏雖潔廉,終無顯榮,利重於名,故吏多貪污。」然惟晏能行之,它人效者終莫能逮。其屬官雖居數千里外,奉教令如在目前,起居語言,無敢欺紿。當時權貴,或以親故屬之者,晏亦應之,使俸給多少,遷次緩速,皆如其志,然無得親職事。其場院要劇之官,必盡一時之選。故晏沒之後,掌財賦有聲者,多晏之故吏也。晏又以為戶口滋多,則賦稅自廣,故其理財常以養民為先。諸道各置知院官,每旬月,具州縣雨雪豐歉之狀白使司,豐則貴糴,歉則賤糶,或以谷易雜貨供官用,及於豐處賣之。知院官始見不稔之端,先申,至某月須如干蠲免,某月須如干救助,及期,晏不俟州縣申請,即奏行之,應民之急,未嘗失時,不待其困弊、流亡、餓殍,然後賑之也。由是民得安其居業,戶口蕃息。晏始為轉運使,時天下見戶不過二百萬,其季年乃三百餘萬;在晏所統則增,非晏所統則不增也。其初財賦歲入不過四百萬緡,季年乃千餘萬緡。晏專用榷鹽法充軍國之用。時自許、汝、鄭、鄧之西,皆食河東池鹽,度支主之;汴、滑、唐、蔡之東,皆食海鹽,晏主之。晏以為官多則民擾,故但於出鹽之鄉置鹽官,收鹽戶所煮之鹽轉鬻於商人,任其所之,自餘州縣不復置官。其江嶺間去鹽鄉遠者,轉官鹽於彼貯之。或商絕鹽貴,則減價鬻之,謂之常平鹽,官獲其利而民不乏鹽。其始江、淮鹽利不過四十萬緡,季年乃六百餘萬緡,由是國用充足而民不困弊。其河東鹽利,不過八十萬緡,而價復貴於海鹽。先是,運關東谷入長安者,以河流湍悍,率一斛得八斗至者,則為成勞,受優賞。晏以為江、汴、河、渭,水力不同,各隨便宜,造運船,教漕卒,江船達揚州,汴船達河陰,河船達渭口,渭船達太倉,其間緣水置倉,轉相受給。自是每歲運谷或至百餘萬斛,無斗升沉覆者。船十艘為一綱,使軍將領之,十運無失,授優勞,官其人。數運之後,無不斑白者。晏於揚子置十場造船,每艘給錢千緡。或言「所用實不及半,虛費太多。」晏曰:「不然,論大計者固不可惜小費,凡事必為永久之慮。今始置船場,執事者至多,當先使之私用無窘,則官物堅牢矣。若遽與之屑屑校計錙銖,安能久行乎!異日必有患吾所給多而減之者;減半以下猶可也,過此則不能運矣。」其後五十年,有司果減其半。及咸通中,有司計費而給之,無復羨餘,船益脆薄易壞,漕運遂廢矣。晏為人勤力,事無閒劇,必於一日中決之,不使留宿,後來言財利者皆莫能及之。 21.八月,甲午,振武留後張光晟殺回紇使者突董等九百餘人。突董者,武義可汗之叔父也。代宗之世,九姓胡常冒回紇之名,雜居京師,殖貨縱暴,與回紇共為公私之患。上即位,命突董盡帥其徒歸國,輜重甚盛。至振武,留數月,厚求資給,日食肉千斤,他物稱是,縱樵牧者暴踐果稼,振武人苦之。光晟欲殺回紇,取其輜重,而畏其眾強,未敢發。九姓胡聞其種族為新可汗所誅,多道亡,突董防之甚急。九姓胡不得亡,又不敢歸,乃密獻策於光晟,請殺回紇。光晟喜其黨類自離,許之。上以陝州之辱,心恨回紇。光晟知上旨,乃奏稱:「回紇本種非多,所輔以強者,群胡耳。今聞其自相魚肉,頓莫賀新立,移地健有孽子,及國相、梅金錄各擁兵數千人相攻,國未定。彼無財則不能使其眾,陛下不乘此際除之,乃歸其人,與之財,正所謂借寇兵繼盜糧者也。請殺之。」三奏,上不許。光晟乃使副將過其館門,故不為禮;突董怒,執而鞭之數十。光晟勒兵掩擊,並群胡盡殺之,聚為京觀。獨留二胡,使歸國為證,曰:「回紇鞭辱大將,且謀襲據振武,故先事誅之。」上征光晟為右金吾將軍,遣中使王嘉祥征致信幣。回紇請得專殺者以復仇,上為之貶光晟為睦王傅以慰其意。 22.丁未,加盧龍、隴右、涇原節度使朱泚兼中書令,盧龍、隴右節度如故。以舒王謨為四鎮、北庭行軍、涇原節度大使,以涇州牙前兵馬使河中姚令言為留後。謨,邈之子也,早孤,上子之。 22.丁未、加盧龍隴右涇原節度使の朱泚を加えて中書令を兼任させた。盧龍隴右節度使はもとの通りであった。舒王謨を四鎮北庭行軍涇原節度大使とし、涇州牙前兵馬使河中の姚令言を留後とした。舒王謨は邈の子である。早くに孤児となったから、お上が子として養った。 23.癸丑,詔贈太后父、祖、兄、弟官,及自餘宗族男女拜官封邑者告第告身,凡百二十有七通;中使以馬負而賜之。 24.九月,壬午,將作奏宣政殿廊壞,十月魁岡,未可修。上曰:「但不妨公害人,則吉矣。安問時日!」即命修之。 大歷以前,賦斂出納俸給皆無法,長吏得專之;重以元、王秉政,貨賂公行,天下不按贓吏者殆二十年。惟江西觀察使路嗣恭案虔州刺史源敷翰,流之。上以宣歙觀察使薛邕,文雅舊臣,徵為左丞。邕去宣州,盜隱官物以巨萬計,殿中侍御史員□發之。 冬,十月,己亥,貶連山尉。於是州縣始畏朝典,不敢放縱。 上初即位,疏斥宦官,親任朝士,而張涉以儒學入侍,薛邕以文雅登朝,繼以贓敗。宦官武將得以借口,曰:「南牙文臣贓動至巨萬,而謂我曹濁亂天下,豈非期罔邪!」於是上心始疑,不知所倚杖矣。 中書舍人高參請分遣諸沈訪求太后,庚寅,以睦王述為奉迎使,工部尚書喬琳副之,又命諸沈四人為判官,與中使分行諸道求之。 十一月,初令待制官外,更引朝集使二人,訪以時政得失,遠人疾苦。 先是,公主下嫁者,舅姑拜之,婦不答。上命禮官定公主拜見舅、姑及婿之諸父、兄、姊之儀,舅、姑坐受於中堂,諸父、兄、姊立受於東序,如家人禮。有縣主將嫁,擇用丁丑。是日,上之從父妹卒,命罷之。有司奏:「供張已備,且殤服不足廢事。」上曰:「爾愛其費,我愛其禮。」卒罷之。至德以來,國家多事,公主、郡、縣主多不以時嫁。有華發者,雖居禁中,或十年不見天子。上始引見諸宗女,尊者致敬,卑者存慰,悉命嫁之。所繼小大之物,必經心目。己卯、庚辰二日,嫁岳陽等凡十一縣主。 吐蕃見韋倫再至,益喜。十二月,辛卯朔,倫還,吐蕃遣其相論飲明思等入貢。 是歲,冊太子母王氏為淑妃。 天下稅戶三百八萬五千七十六,籍後七十六萬八千餘人,稅錢一千八十九萬八千餘緡,谷二百一十五萬七千餘斛。 代宗睿文孝武皇帝下建中二年(辛酉、七八一年) 春,正月,戊辰,成德節度使李寶臣薨。寶臣欲以軍府傳其子行軍司馬惟岳,以其年少闇弱,豫誅諸將之難制者深州刺史張獻誠等,至有十餘人同日死者。寶臣召易州刺史張孝忠,孝忠不往,使其弟孝節召之。孝忠使孝節謂寶臣曰:「諸將何罪,連頸受戮!孝忠懼死,不敢往,亦不敢叛,正如公不入朝之意耳。」孝節泣曰:「如此,孝節必死。」孝忠曰:「往則並命,我在此,必不敢殺汝。」遂歸,寶臣亦不之罪也。兵馬使王武俊,位卑而有勇,故寶臣特親愛之,以女妻其子士真,士真復厚結其左右。故孝忠、武俊獨得全。及薨,孔目官胡震,家僮王它奴勸惟岳匿喪二十餘日,詐為寶臣表,求令惟岳繼襲,上不許。遣給事中汲人班宏往問寶臣疾,且諭之。惟岳厚賂宏,宏不受,還報。惟岳乃發喪,自為留後,使將佐共奏求旌節,上又不許。初,寶臣與李正己、田承嗣、梁崇義相結,期以土地傳之子孫。故承嗣之死,寶臣力為之請於朝,使以節授田悅;代宗從之。悅初襲位,事朝廷禮甚恭,河東節度使馬燧表其必反,請先為備。至是悅屢為惟岳請繼襲,上欲革前弊,不許。或諫曰:「惟岳己據父業,不因而命之,必為亂。」上曰:「賊本無資以為亂,皆藉我土地,假我位號,以聚其眾耳。曏日因其所欲而命之多矣,而亂益滋。是爵命不足以已亂而適足以長亂也。然則惟岳必為亂,命與不命等耳。」竟不許。悅乃與李正己各遣使詣惟岳,潛謀勒兵拒命。 魏博節度副使田庭玠謂悅曰:「爾藉伯父遺業,但謹事朝廷,坐享富貴,不亦善乎!奈何無故與恆、鄆共為叛臣!爾觀兵興以來,逆亂者誰能保其家乎?必欲行爾之志,可先殺我,無使我見田氏之族滅也。」因稱病臥家。悅自往謝之,庭玠閉門不內,竟以憂卒。 成德判官邵真聞李惟岳之謀,泣諫曰:「先相公受國厚恩,大夫衰絰之中,遽欲負國,此甚不可。」勸惟岳執李正己使者送京師,且請討之,曰:「如此,朝廷嘉大夫之忠,則旄節庶幾可得。」惟岳然之,使真草奏。長史畢華曰:「先公與二道結好二十餘年,奈何一旦棄之!且雖執其使,朝廷未必見信。正己忽來襲我,孤軍無援,何以待之!」惟岳又從之。 前定州刺史谷從政,惟岳之舅也,有膽略,頗讀書,王武俊等皆敬憚之,為寶臣所忌,從政乃稱病杜門。憔岳亦忌之,不與圖事,日夜獨與胡震、王他奴等計議,多散金帛以悅將士。從政往見憔岳曰:「今海內無事,自上國來者,皆言天子聰明英武,志欲致太平,深不欲諸侯子孫專地。爾今首違詔命,天子必遣諸道致討。將士受賞之際,皆言為大夫盡死。苟一戰不勝,各惜其生,誰不離心!大將有權者,乘危伺便,咸思取爾以自為功矣。且先相公所殺高班大將,殆以百數,撓敗之際,其子弟欲復仇者,庸可數乎!又,相公與幽州有隙,朱滔兄弟常切齒於我,今天子必以為將。滔與吾擊析相聞,計其聞命疾驅,若虎狼之得獸也,何以當之!昔田承嗣從安、史父子同反,身經百戰,凶悍聞於天下,違詔舉兵,自謂無敵。及盧子期就擒,吳希光歸國,承嗣指天垂泣,身無所措。賴先相公按兵不進,且為之祈請,先帝寬仁,赦而不誅,不然,田氏豈有種乎!況爾生長富貴,齒發尚少,不更艱危,乃信左右之言,欲效承嗣所為乎!為爾之計,不若辭謝將佐,使惟誠攝領軍府,身自入朝,乞留宿衛,因言惟誠且令攝事。恩命決於聖志,上必悅爾忠義,縱無大位,不失榮祿,永無憂矣。不然,大禍將至,悔之何及。吾亦知爾素疏忌我,顧以舅甥之情,事急,不得不言耳!」惟岳及左右見其言切,益惡之。從政乃復歸,杜門稱病。惟誠者,惟岳之庶兄也,謙厚好書,得眾心,其母妹為李正己子婦。是日,惟岳送惟誠於正己,正己使復姓張,遂仕淄青。惟岳遣王它奴詣從政家,察其起居,從政飲藥而卒;且死,曰:「吾不憚死,哀張氏今族滅矣!」 劉文喜之死也,李正己、田悅等皆不自安;劉晏死,正己等益懼,相謂曰:「我輩罪惡,豈得與劉晏比乎!」會汴州城隘,廣之,東方人訛言:「上欲東封,故城汴州。」正己懼,發兵萬人屯曹州。田悅亦完聚為備,與梁崇義、李惟岳遙相應助,河南士民騷然驚駭。 永平軍舊領汴、宋、滑、亳、陳、穎、泗七州,丙子,分宋、亳、穎別為節度使,以宋州刺史劉洽為之;以泗州隸淮南;又以東都留守路嗣恭為懷、鄭、汝、陝四州、河陽三城節度使。旬日,又以永平節度使李勉都統洽、嗣恭二道,仍割鄭州隸之,選嘗為將者為諸州刺史,以備正己等。 初,高力士有養女嫠居東京,頗能言宮中事,女官李真一意其為沈太后,詣使者具言其狀。上聞之,驚喜。時沈氏故老已盡,無識太后者,上遣宦官、宮人征驗視之,年狀頗同,宦官、宮人不審識太后,皆言是。高氏辭稱實非太后,驗視者益疑之,強迎入居上陽宮。上發宮女百餘人,繼乘輿御物就上陽宮供奉。左右誘諭百方,高氏心動,乃自言是。驗視者走馬入奏,上大喜。二月,辛卯,上以偶日御殿,群臣皆入賀。詔有司草儀奉迎。高氏弟承悅在長安,恐不言,久獲罪,遽自言本末。上命力士養孫樊景超往覆視,景超見高氏居內殿,以太后自處,左右侍衛甚嚴。景超謂高氏曰:「姑何自置身於俎上!」左右叱景超使下,景超抗聲曰:「有詔,太后詐偽,左右可下。」左右皆下殿。高氏乃曰:「吾為人所強,非己出也。」以牛車載還其家。上恐後人不復敢言太后,皆不之罪,曰:「吾寧受百欺,庶幾得之。」自是四方稱得太后者數四,皆非是,而真太后竟不知所之。 御史中丞盧杞,弈之子也,貌醜,色如藍,有口辯。上悅之,丁未,擢為大夫,領京畿觀察使。郭子儀每見賓客,姬妾不離側。杞嘗往問疾,子儀悉屏侍妾,獨隱几待之。或問其故,子儀曰:「杞貌陋而心險,婦人輩見之必笑,他日杞得志,吾族無類矣!」 楊炎既殺劉晏,朝野側目,李正己累表請晏罪,譏斥朝廷。炎懼,遣腹心分詣諸道,以宣慰為名,實使之密諭節度使云:「晏昔附奸邪,請立獨孤后,上自惡而殺之。」上聞而惡之,由是有誅炎之志,隱而未發。乙巳,遷炎中書侍郎,擢盧杞為門下侍郎,並同平章事,不專任炎矣。杞蕞陋,無文學,炎輕之,多托疾不與會食;杞亦恨之。杞陰狡,欲起勢立威,小不附者必欲置之死地,引太常博士裴延齡為集賢殿直學士,親任之。 丙午,更汴宋軍名曰宣武。 振武節度使彭令芳苛虐,監軍劉惠光貪婪。乙卯,軍士共殺之。 發京西防秋兵萬二千人戍關東。上御望春樓宴勞將士,神策將士獨不飲,上使詰之,其將楊惠元對曰:「臣等發奉天,軍帥張巨濟戒之曰:『此行大建功名,凱旋之日,相與為歡。苟未捷,勿飲酒。』故不敢奉詔。」及行,有司緣道設酒食,獨惠元所部瓶罌不發。上深歎美,賜書勞之。惠元,平州人也。 三月,置殷州於郾城。 辛巳,以汾州刺史王翃為振武軍使、鎮北、綏、銀等州留後。 遣殿中少監崔漢衡使於吐蕃。 梁崇義雖與李正己等連結,兵勢寡弱,禮數最恭。或勸其入朝,崇義曰:「來公有大功於國,上元中為閹宦所讒,遷延稽命,及代宗嗣位,不俟駕入朝,猶不免族誅。吾歲久釁積,何可往也!」淮寧節度使李希烈屢請討之,崇義懼,益修武備。流人郭昔告崇義為變,崇義聞之,請罪,上為之杖昔,遠流之;使金部員外郎李舟詣襄州諭旨以安之。舟嘗奉使詣劉文喜,為陳禍福,文喜囚之,會帳下殺文喜以降,諸道跋扈者聞之,謂舟能覆城殺將。至襄州,崇義惡之。舟又勸崇義入朝,言頗切直,崇義益不悅。及遣使宣慰諸道,舟復指襄州,崇義拒境不內,上言「軍中疑懼,請易以它使。」時兩河諸鎮方猜阻,上欲示恩信以安之,夏,四月,庚寅,加崇義同平章事,妻子悉加封賞,賜以鐵券;遣御史張著繼手詔征之,仍以其裨將藺杲為鄧州刺史。 五月,丙寅,以軍興,增商稅為什一。 田悅卒與李正己、李惟岳定計,連兵拒命,遣兵馬使孟祐將步騎五千北助惟岳。薛嵩之死也,田承嗣盜據洺、相二州,朝廷獨得邢、磁二州及臨洺縣。悅欲阻山為境,曰:「邢、磁如兩眼,在吾腹中,不可不取。」乃遣兵馬使康愔將八千人圍邢州,別將楊朝光將五千人柵於邯鄲西北,以斷昭義救兵,悅自將兵數萬圍臨洺。邢州刺史李共、臨洺將張伾堅壁拒守。貝州刺史邢曹俊,田承嗣舊將也,老而有謀,悅寵信牙官扈崿而疏之。及攻臨洺,召曹俊問計。曹俊曰:「兵法十圍五攻;尚書以逆犯順,勢更不侔。今頓兵堅城之下,糧竭卒盡,自亡之道也。不若置萬兵於崞口以遏西師,則河北二十四州皆為尚書有矣。」諸將惡其異己,共毀之,悅不用其策。
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唐書巻二百一十九 列伝第一百四十四 北狄 契丹 奚 室韋 黒水靺鞨 渤海 契丹はもと東胡種族で、その先祖は匈奴に破られて鮮卑山を保守した。魏の青竜年中(233-236) に部酋の比能がやや悪賢いため幽州刺史王雄に殺され、ついに部衆が微力になり、シラ・ムレンの南、黄竜(営州)の北に逃れひそんだ。北魏になって自ら契丹と号した。その地は長安の東北五千里あまりにあたり、東は高麗、西は奚、南は営州、北は靺鞨・室韋と接し、冷陘山をへだてて自ら固めていた。射猟し常居せず、君長の大賀氏は精兵四万を有し、八部にわかれて突厥に臣属し、俟斤(イルギン)の官に任じられた。おしなべて調発や攻戦を行なうには、諸部がみな集まって、射猟を行なうには各部が自由行動をとった。奚と仲がわるく、戦闘して不利になると、逃れて鮮卑山を保守した。その風俗は突厥とほぼ同じく、死んでも墓に葬らず、馬車に屍をのせて山に入り、樹上に置いた。子孫が死ぬと、その父母は朝夕哭くが、父母が死んでも哭かない。また服喪期間がない。 武徳年間(618-623)、その大酋の孫敖曹と靺鞨の長突地稽とともに遣使来朝した。しかも君長はときに辺境に小規模な入寇を企てた。のち二年、君長が使者を遣わし、名馬や良質の貂を献上した。貞観二年(628) 、摩会が来降した。突厥の頡利可汗は外夷と唐朝とが合するのを欲しないので、梁師都の身柄を唐に返還する代償に、契丹君長摩会の来降を唐が拒むよう要請した。太宗曰く、「契丹と突厥は同類ではない。いますでにわが朝に降ってきたのに、なお(身柄)をもとめることができようか。梁師都はもともと唐の民であるのに、わが州部を盗んだのを突厥は援助した。わが方ではかれを捕らえねばならぬ。情誼上、契丹 の摩会と梁師都とをとりかえることはできない」と。明くる年、摩会は再び入朝したので、鼓纛(君長 を象徴するとさしもの)を賜わった。以後常貢した。太宗が高麗征討するや、契丹のすべての酋長と奚の首領とを発して従軍させた。太宗が帰還の際、営州を通過するとき、その君長の窟哥および老人たちを召し、それぞれ分に応じて繒采(いろぎぬ)を賜い、窟哥を左武衛将軍とした。 大酋の辱紇主の曲拠また部衆をひきいて来帰したので、その部落を玄州とし、曲拠を刺史に拝し、玄州を営州都督府に属させた。いくばくもなく窟哥も部落をあげて内属したので、松漠都督府を置き、窟哥を使持節十州諸軍事松漠都督とし、無極男に封じ、国姓李氏を賜わった。(八部の)達稽部を峭落州、紇便部を弾汗州、独活部を無逢州、芬問部を羽陵州、突便部を日連州、芮奚部を徒河州、墜斤部を万丹州、伏部を匹黎・赤山二州となし、ともに松漠府に附させ、辱紇主を刺史とした。 窟哥が死ぬと奚と連合して唐朝に叛いた。行軍総管阿史徳枢賓らは、松漠都督の阿ト固を執えて東都(洛陽)に献じた。窟哥に二人の孫があり、枯莫離は左衛将軍・弾汗州刺史となり、帰順郡王に封じられた。尽忠は武衛大将軍・松漠都督となった。そして孫敖曹にも孫があって万栄といったが、万栄は帰誠州刺史となった。このとき営州都督の趙文翽が驕りむさぼり、しばしば部下を侵侮したので、李尽忠らはみな怨望した。孫万栄はもと侍子として入していたので、中国の形勢を知り、乱心をいだいて疑わず、尽忠と万栄とはともに兵を挙げて文翽を殺し営州を占拠して叛した。李尽忠は自ら無上可汗と号し、孫万栄を大将とし兵を従って四方を攻略させたところ、兵の向かう所たちまち下ったので、旬日にして兵数万に達したが、十万と妄言した。崇州を攻めて討撃副使許欽寂を執えた。 武后は怒り詔して、鷹揚将軍曹仁師、金吾大将軍張玄遇、右武威大将軍李多祚、司農少卿麻仁節ら二十八将をして討撃させ、梁王武三思を楡関道安撫大使、納言の姚疇をその副使とした。あらため万栄を万斬、尽忠を尽滅と号した。唐軍の諸将は西破石・黄谷に戦って敗績し、玄遇・仁節はみ捕虜となった。進んで平州を攻めたが克たず、敗戦の報告を聞くと武后は、右武衛大将軍建安王武攸宜を清辺道大総管として契丹を撃つべく奴隷のうち勇者を募り、そのものを官が主人から買い取って兵に仕立てて征討軍に加えた。孫万栄は馬に枚をふくませ、檀州を夜襲した。清辺道副総管の張九節は決死のもの数百を募り、肉薄して戦ったので、万栄は敗れて山に走った。にわかに尽忠が死ぬと、突厥黙啜可汗はその部衆を襲破した。孫万栄は散兵を収容して ふたたび勢力を振るい、別将の駱務整・何阿小をして冀州に侵入させ、刺史の陸宝積を殺し、民数千人を掠めた。 武后は尽忠の死を聞くと、更めて詔して夏官尚書王孝傑・羽林衛将軍蘇宏暉に兵十七万をひきいて契丹を攻撃させたが、官軍は東硤石に戦って敗れ、孝傑は戦死し、万栄は勝に乗じてついに幽州に居った。武攸宜は将を遣わして討たせたが、克つことができなかったので、右金吾衛大将軍河内郡王武懿宗を神兵道大総管、右粛政台御史大夫婁師徳を清辺道大総管、右武威衛大将軍沙吒忠義を清辺中道前軍総管と為し、兵二十万をもって賊を討たせた。万栄は鋭く勇をふるって南進し、高州(河北省) 河間の県を荒らし、はばかるところなく掠奪をほしいままにした。ここにおいて神兵道総管楊玄基は奚軍を率いてその背後をおそったので、契丹軍は大敗し、部将の何阿小を捕虜とし、別将李楷固・駱務整を降し、没収した兵器は積み上げるほどであった。万栄は軍をすてて敗走し、その残兵はふたたび合して奚と戦ったが、奚は四面から攻囲して大いに潰滅させた。万栄は東に走ったので、張九節は三たび伏兵をもってうかがった。万栄は力窮まり家奴と身軽に軽馬で潞河の東に走ったが、ひどく疲れて林の中に臥したところを家奴に首を斬られた。張九節はその首を洛陽に伝えたので、余衆は潰え、武攸宜は凱旋帰還した。武后は喜んで天下に赦し、神功と改元した。 契丹は自立することができず、ついに突厥に付属した。久視元年(700)詔して左玉鈐衛大将軍李楷固・右武威衛将軍駱務整に契丹を討たしめ、これを破った。この両人はみな捕虜であって勇将である。かつては辺を犯してしばしば官軍を苦しめたものであるが、こうして功をたてた。 開元二年(714) 李尽忠の従父弟の都督李失活は 黙啜可汗の政が衰えたので、部落をひきいて頡利発の伊健啜と来帰した。 玄宗はかれらに丹書鉄券を賜与した。のち二年、奚の長李大酺らとみな来朝したので、詔して復び松漠府を置き、失活を都督とし松漠郡王に封じ左金吾衛大将軍を授けた。そしてその府(松府)に静析軍を置き、失活を経略大使とし、所部の八部長はそれぞれ刺史に抜擢した。詔して将軍薛泰を押蕃落使とし、軍を督戦して鎮撫させた。玄宗は東平王李韶の外孫楊元嗣の女を永楽公主として失活に降嫁した。明くる年、失活が死んだので特進を贈り、遣使して弔祠させ、その弟の中郎将娑固に封冊および所領をつがせた。明くる年、娑固は公主と来朝し、宴・資を受けた。 可笑于なる者が静析軍副使であったが、かれは勇をたのんで衆に人望があった。娑固はかれを殺そうとしてまだ心が決しないうちに可突于が反して娑固を攻めたので、娑固は営州に奔った。営州都督許欽澹は州の武兵五百をもって、奚の長李大酺の兵とを連合して可突于を攻めたが勝たず、娑固・大酺はみな死んだ。欽澹はおそれて軍を移して楡関に入った。可突于は娑固の従父弟の鬱于を奉じて君長とし、遣使して謝罪した。そこで話して鬱于を松漠郡王に拝して可突于の罪を赦した。鬱于が来朝したので率更令を授け、宗室の慕容の女を燕郡公主として降嫁した。可突于もまた来朝したので、左羽林衛将軍に抜擢した。鬱于が死んで弟の吐于がいたが、可突于との仲が悪く、部下もうまく統べることができず、燕郡公主をつれて来奔したので、遼陽郡王に封じて宿衛に留めることとした。可突于は李尽忠の弟邵固を奉じ部を統べさせたので、王(松漠郡王)を襲ぐことを許した。玄宗が封禅(泰山で天を祀る) の礼を行なうや、邵固は諸藩の部長らとみな従行して行在所に詣でた。翌年、左羽林衛大将軍を拝し広化郡王に封じられ、宗室陳氏の女を東華公主として邵固に妻わせた。詔してその部の百余人にも官職を授けた。邵固はその子を侍子とした。 可突于もふたたび来朝したが、宰相(中書侍郎)の李元紘が礼遇しなかったので、不平の思いで去った。張説が曰く、「かれは獣心で、ただ利によって動くものであるが、契丹の国政を左右し部衆をひきつけている。もしかれを礼遇しなければ、来朝しないであろう」と。のち三年、可突于は邵固を殺して屈烈を立てて王とし、奚の部衆を脅やかしてともに突厥に降った。東華公主は平盧軍(営州城)に走った。詔して幽州長史・知范陽節度事趙含章にこれを撃たしめ、中書舎人裴寛と給事中の薛儼を遣わして壮士を募り、忠王浚(後の粛宗)を河北道行軍元帥、御史大夫の李朝隠と京兆尹裴伷先を副とし、程伯献・張文儼・宋之悌・李東蒙・趙万功・郭英傑ら八総管の兵 を率いて契丹を撃たせた。すでにまた忠王に河東道諸軍元帥を兼任させたが、王は行かなかったので、礼部尚書の信安郡王李禕を持節河北道軍副元帥とし、趙含章と塞を出て敵を捕え大いにこれを破った。可突于は逃走し、奚の部衆は投降したので、王(信安王)は二蕃(契丹・奚)の俘虜と首級を諸廟に報告した。 明くる年、可突于は辺に侵寇したので、幽州長史薛楚玉・副総管郭英傑・呉克勤・烏知義・羅守忠は万騎および奚をひきいてこれを撃ち都山の下に戦った。可突于は突厥兵をもって来攻したので、奚はおそれてどちらにもつかず、部衆は走って険に拠った。烏知義・羅守忠は敗れ、郭英傑と呉克勤とは戦死し、唐兵万人が殺された。玄宗は張守珪を幽州長史とし経略させた。守珪はすでに善将としてとどろき、可突于はおそれて、表では臣属せんことを願い、西北にはしって突厥にたよった。衙官の李過折は内心可突于に不平を懐いていたので、張守珪は客の王悔をしてひそかに可突于を迎え、兵をもって可突于を囲んだところ、過折はその夜可突于・屈烈およびその支党数十人を斬って降ったので、守珪は李過折に契丹部衆を統べさせ、可突于らの首級を函詰めにして洛陽に伝えた。李過折を北平郡王に拝し松漠都督とした。可突于らの残党が過折を撃殺してその一家を屠ったので、一子の刺乾は遼陽の安東に走り、左驍衛将軍に拝せられた。 開元二十五年(737)、張守珪は契丹を討伐して再びこれを破った。以後戦功があれば必ず廟に報告するよう詔があった。 天宝四載(745) 、契丹の大酋李懐秀が降ったので、松漠都督に任じて崇順王に封じ、宗室の女独孤氏を静楽公主として降嫁した。この歳公主を殺して叛き去ったので、范陽節度使の安禄山は討ってこれを破った。更めてその酋長の楷落を恭仁王に封じ、代って松漠都督とした。安禄山は玄宗の行幸にあたり、帝の意をむかえようとして、表を上り契丹の討伐を乞うた。幽州・雲中・平盧・河東の兵十余万人を発し、奚の部衆を郷導として大いにシラ・ムレンの南に戦ったが敗北し、死者数千人を出した。 これより安禄山は契丹と互いに侵掠して、かれが反乱を起こすまで解けなかった。 契丹は、玄宗の開元・天宝年間(713-754)には使者を朝献させることおよそ二十度。もとは范陽節度使を押奚・契丹使としたが、粛宗の至徳年間(756-758)以後は藩鎮が所領を勝手にして自分たちの平和維持のみに務め、防衛やものみを厳にして、辺事の生じないようますます謹んだ。契丹もまた入寇することがなく、毎歳数十人を選んで長安に朝会させ、つねに天子に召見されて物品を賜わり、官秩を与えられた。 部下数百人をひきいてきて、みな幽州の館に駐留した。至徳から宝応(756-763)まで再度朝献し、大暦年中(766-773)に十三回、貞元年間(785-804)に三回、元和年中 (806-820)に七回、大和・開成年間(827-840)に四回、遣使朝貢した。しかし天子はかれらが裏では回鶻に附隷するのをにくんで、契丹の酋長に官爵を復さなかった。会昌二年(742)、回鶻が破れて契丹酋長屈戍がはじめてふたたび内附したので、雲麾将軍・右武衛将軍を拝した。そこで幽州節度使の張仲武はかつて回鶻が契丹に与えた旧印にかえて、唐朝の新印を契丹に賜与し、この印を「奉国契丹之印」といった。 咸通年間(860-874)に、契丹王の習爾之は再度遺使して入した。その部落はようやく強くなり、習爾之の死後その族人の欽徳が嗣いだ。光啓時代(885-887) 天下に盗(群雄)が興り、北辺が多事となった。契丹は室韋・奚などの小部種をかすめてみな役服し、幽・薊に入寇した。劉仁恭は全軍をひいて星山をこえて討伐し、毎年のように塞下の牧草を焼いて、かれらが駐牧できないようにしたため牧馬が多く死亡した。そこで契丹盟約を乞い、良馬を献じて牧地を求めた。仁恭はその乞いを許したが、かれらはふたたび盟約にそむいて入寇した。劉守光(仁恭の子)は平州を守成していたが、契丹が万騎をもって入寇したので、守光はいつわって和睦し、天幕中で宴飲した。そのとき伏兵がおこって契丹の大将をとらえた。契丹部民は嘆いて馬五千匹を納めて大将の身柄を贖わんことを願ったが、守光は許さなかった。欽徳は莫大な賂を出してこれを求めたので、十年間辺境に近づかないことを条件に盟約した。 欽徳は、晩年その政治がおとろえた。契丹の慣習法として、八部大人(部長) はつねに三年ごとに代る。ときに耶律阿保機が部長の象徴である鼓旗を建てて新しく一部をつくり、三年経ても代ることを承知せず、自ら王と号して国を有したので大賀氏はついに亡んだ。 奚もまた東胡種である。匈奴に破られて烏丸山を保守した。漢の曹操はその帥蹋頓を斬ったが、かれらはその後裔であろう。元魏(北魏)のとき自ら庫真奚と号し鮮卑の故地に居た。長安の東北四千里にあたる。その地は東北は契丹に接し、西は突厥、南は白狼河、北は霫に接し、突厥と同俗である。水草を逐うて畜牧し、フェルトのテントを住居とし、車を環らして陣営とする。その君長は、つねに五百人の武装兵で本陣をまもる。余の部衆は山谷の間に散居する。賦税による収入がない。部民は射猟をもって生活の資とし、黒黍をつくり、収穫すると山下の穴蔵に貯える。木をきって臼とし、瓦鼎 (すやきの器)に濃い粥をつくり、寒水をまぜて食す。戦闘を喜ぶ。兵は五部あり、各部には一人の俟斤がいてこれを司どる。その国は、西は大洛泊(タール・ノール)にいたる。回紇の本牙を隔たること三千里、多く土護真水(老哈河)流域による。その馬は登攀に善く、その羊は黒色である。盛夏には必ず移動して冷陘山を保つ。山は媯州の西北にあたる。隋代に始めて庫真の二字を去ってただ奚とした。 唐の武徳年中(618-626)に高開道がその兵をひきいて再度幽州に入寇した。長史の王詵がこれを撃破した。太宗の貞観三年(629)に始めて来朝し、十七年間に四回来朝した。太宗が高麗征討するにあたって大酋の蘇支が従軍して戦功を立てた。数年ならずしてその酋長の可度者が内附した。太宗はそのために饒楽都督府を置き、可度者を使持節六州諸軍事・饒楽都督となし、楼煩県公に封じて李氏を賜わった。阿会部を弱水州、処和部を祁黎州、奥失部を洛壊州、度稽部 を太魯州、元俟俊部を渇野州とし、各酋長の主を刺史として饒府に隷属させた。東夷都護府を営州に復置し、兼ねて松漠・饒楽の地を統べさせ、東夷校尉を置いた。 高宗の顕慶年間(656-660)に可度者が死ぬと、奚がついに反した。五年に定襄都督阿史徳枢賓・左武候将軍延陀梯真・居延州都督李含珠を冷陘道行軍総管とし、明くる年、詔して尚書右丞崔余慶に節を持し定襄等の三都督を総護してこれを討伐させた。奚は懼れて降伏したので、その王の匹帝を斬った。万歳通天年間(696)に契丹が反くと、奚もまた叛した。奚は突厥ととも に相表裏(服従したり背いたり)したので、両蕃と号した。 延和元年(712)に、左羽林衛大将軍幽州都督孫佺・左驍衛将軍李楷洛・左威衛将軍周以悌に兵十二万をひきいさせて三軍とし、 奚を襲撃させ、冷陘山に次したところ、前鋒軍の李楷洛は奚の大酺と戦って不利に陥った。孫佺は懼れて軍をおさめ、大酺を詐わって曰く、「自分は詔を奉じてをするために来たのに、李楷洛が軍の節度にそむいて戦いをしかけたが、それは天子の御意志ではない。楷洛を誅戮して軍中に布告しよう」と。大酺がいうよう、「誠に自分を慰撫するためなら賜与の品があるでしょう」と。孫佺は軍中にあった繒帛・帯などを出して与えた。大酺はこれを謝し孫佺に軍を還すよう要請したので、全軍は戦線から脱退することができたが、兵士たちは先を争って隊伍を乱して退いた。大酺の兵は追い討ちをかけたので、ついに唐軍は大敗し、殺傷するもの数万、孫佺と周以悌はみな捕虜となって突厥の黙啜可汗のもとに送られて殺害された。唐朝は国家多事で、奚部を討つ余裕がなかった。 玄宗の開元二年(714) 、奥蘇悔落を遣使して降伏を乞うたので、饒楽郡王・左金吾衛大将軍・饒楽都督に封じ、詔して宗室出身の女、辛氏を固安公主として大酺の妻とした。明くる年入朝して婚姻を結んだので、始めて営州都督府を復し、右領軍将軍李済を天子の使節として大酺を護送させた。のちに契丹の可笑于と闘って戦死したので、弟の魯蘇が奚部を領し、王をついだ。詔して保塞軍経略大使を兼任させた。牙官塞黙掲が抜いたが、公主は酒宴にかこつけてこれを誘殺した。玄宗はその功を嘉し、公主に数万のものを賜与した。公主はその母とたがいに相論告し合い罪をえたので、更めて成安公主の女韋氏を東光公主として妻わした。のち三年、魯蘇を奉誠郡王・右羽林衛将軍に封じ、その部下の首領たちおよそ二百人を抜擢してみな郎将を授けた。 しばらくして契丹の可突于が反すと、奚の部衆を脅やかして突厥に降ったが、魯蘇はこれを制することができずにのがれ走り、公主は平盧に奔った。幽州長史趙含章は清夷軍を発してこれを討ち破ったので、一部の部衆は帰降した。明年、信安王禕は笑色の李詩・鎖高らの部落五千帳を降し、その地を帰義州とした。そこで王の李詩を左羽林軍大将軍・本州都督とし、帛十万を賜わって、その部を幽州の一隅に置いた。 李詩が死に、子の延寵が嗣ぐと、契丹とともにまた叛したが、幽州張守珪にせめられて延寵は降伏し、再び饒楽都督・懐信王を拝し、宗室出の女楊氏を宜芳公主として降嫁された。延寵は公主を殺して再び叛したので、詔して他の酋婆固を立てて昭信王・饒楽都督として奚部衆を定めさせた。安禄山が范陽節度使になると、辺功を詭りたびたび苦戦をしては盛んに戦功を飾り、俘虜を献じた。その君の李日越を誅し、俘虜の壮者をえらんで雲南の戍兵とした。玄宗の一代にはすべて八回入朝貢献し、至徳・大暦年間に十二回であった。 貞元四年(788)、室韋とともに振武を攻めた。のち七年、幽州節度使はその部衆六万をやぶった。徳宗のとき二回朝献した。元和元年(806)君長の梅落が入したので、検校司空・帰誠郡王を拝し、部酋の索氐を左威衛将軍・檀薊州遊兵馬使に、没辱孤を平州游弈兵馬使とし、みな国姓李氏を賜わった。しかしひそかに回鶻・室韋の兵士と連合して西城・振武を犯した。憲宗の世にすべて四回朝献した。 大和四年(830)ふたたび辺に盗したので、盧竜軍の李載義が破って大将以下二百余人を執え、その首帥の茹羯を捕縛して来献した。文宗は李載義の戦功を賞して、冠帯を賜い、右驍衛将軍を授けた。のち五年、大首領匿舎朗が来朝した。宣宗の大中元年(847) 、北部諸山の奚が悉く叛したので、盧竜の張仲武は有力部長を捕らえて帳落二十万を焼き払い、その刺史以下の面耳三百、羊牛七万、輜貯五百乗を取って京師に献じた。咸通九年(868) その王の突董蘇が大都督薩葛を遣わして入朝した。 その後は契丹が強くなり、奚は敢えて抗せず部衆を挙げて契丹に服属したが、契丹の政治は苛烈で、奚はこれを怨み、その酋去諸は別部をひきいて唐朝に内附し、媯州の北山によって、ついに東奚・西奚となった。 室韋は契丹の別種で、東胡の北辺にいた。けだし丁零(トルコ族)の苗である。その地は黄竜の北、傍峱越河畔にあたっており、京師の東北七千里にあたる。東は黒水靺鞨、西は突厥、南は契丹、北は海にのぞむ。その国には君長はなく、ただ大酋長はみな莫賀咄と号し、その部を管轄して突厥に附する。小部は千戸、大部は数千戸、川谷にそって散居し、水草を逐って生活す る。徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった。木を切って犂をつくり、人がそれを挽いて田を耕すので収穫は甚だすくない。その気候は寒くて夏は霧や雨、冬は霜や霰が多い。その風俗は、富人は五色の珠をもって顔に垂れる。結婚すれば男子がまず女子の家で役し、 三年たつと家産を分与され、妻とともに家産を車載して鼓舞して還る。夫が死ぬと妻は再婚しない。部ごとに大棚をつくり、死する者の屍はその上におく。喪期は三年である。土地には金・鉄がすくなく、多く高麗に資材を仰ぐ。武器には角弓・矢があり、人びとは弓射をよくする。つねに夏はむし暑い。西は貣勃山・次対山の二山を保守する。山には草木・鳥獣が多い。しかしブヨに苦しむので、巣居して避ける。酋長が死ぬとその子弟が継ぎ、子弟がいなければ部内の豪傑者を推し立てる。多くの人びとは牛車に乗り、蘧蒢(アンペラ)をもって部屋をつくる。水をわたるには薪を束ねて桴(いかだ)とし、あるいは皮(かわぶくろ)をもって舟をつくる。馬の下鞍はみな草で、手綱も草を編んでつくる。住居はあるいは皮で部屋をおおうか、あるいは木をまげて蘧蒢(アンペラ)でおおう。移動するときはそれらを車載して行く。その家畜は、羊はおらず、馬も少なく、牛はいても使わない。大豚がいて、人びとはこれを食す。その皮をして服や座ぶとんをつくる。その言語は靺鞨語である。 部落は、すべてで二十余にわかれ、嶺西部・山北部・黄頭部は強い部である。大如者部・小如者部・婆萵部・訥北部・駱丹部は、みな柳城(営州)の東北におり、近いものは三千、遠いものは六千里以上である。最西に烏素固部があり、回紇と接し、倶倫泊の西南にあたる。泊(湖)から東に塞没部がある。やや東に塞曷支部があり、最強の部である。啜河の南に居る。河はまた燕支河ともいう。さらに東して和解部・烏羅護部・那礼部・嶺西部がある。北にあるのを訥比支部という。北に大山あり、山のかなたのものを大室韋といい、室建河畔にいる。河は倶倫泊から発源し、めぐって東流する。河の南に蒙瓦部がある。その北は落坦部である。河は東流して那河(東松花江)・忽汗河(牡丹江)に合する。また東して黒水靺鞨部を貫流する。ゆえに靺鞨は河を跨いで南部と北部にわかれる。河は東して海(日本海)に注ぐ。峱越河は東南流してまた那河と合する。その北に東室韋がある。 けだし烏丸東南隅の余人である。 貞観五年(631)に、始めて来朝して良質の貂を貢した。のち再び入朝した。長寿二年(693)に叛したので、将軍李多祚が撃ってこれを平定した。景初年間(707) 再び朝献して突厥征討を援助しようと請うた。開元・天宝年間(713-756)にすべて十回朝献した。大暦年間(766-779)に十一回、貞元四年(788)、奚とともに振武軍に入寇した。節度使唐朝臣は、ちょうど勅使をねぎらっていたが、驚いて敗走した。室韋は勅使を捕らえて大いに殺掠して去った。翌年、使者が来謝した。大和年間(827-835)に三回朝献し、大中年間(847-860)中に一回来朝した。咸通年間(860-874)に大酋の怛烈とがみな遣使して長安に来た。しかし名の知れた夷でなかったので、後のことは史書より失伝した。 黒水靺鞨は粛慎の地に居り、これはまた挹婁ともいい、元魏では勿吉といった。長安の東北六千里のところに位置し、東は海に瀕し、西は突厥に属し、南は高麗、東は室韋と接し、数十部に分かれ、酋長がそれぞれ治めている。その中で顕著なものを粟末部というが、これは最も南に居て、太白山、また徒太山とも呼ばれる、にあたり高麗と接し、粟末水に沿って居住している。この河は太白山に源を発し、西北して它漏河(兆児河)に注ぐ。栗末部のやや東北を汨咄部といい、さらにその次を安居骨部といい、ますます東を払涅部という。安居骨の西北を黒水部といい、粟末の東を白山部という。各部の間隔は遠くて三、四百里、近くて二百里である。 白山はもと高麗に属していたが、唐の軍隊が平壌を取ると、その部衆は多く唐の治下に入った。汨咄・安居骨らは皆逃げ散じ、しだいに衰弱してわからなくなり、遺民は逃げて治下に入った。ただ黒水だけは完全で強く、十六の部落に分かれて南と北とに対立している。思うに、これは最も北方に居るものである。その人は勁健で、歩兵戦をよくし、常に他の部を恐れさせている。風俗は、編髪で、猪の牙を綴り雉の尾を挿して冠の飾りとし、おのずから他の諸部と異なっている。性質は残忍精悍で、射猟を善くし、心労がない。壮者を貴び老人をいやしむ。住居には家屋がなく、山川に沿って土地を掘り、その上に木の梁をわたして土を覆い、 家のようである。夏は穴から出て水や草を追い求め、冬は穴に入って暮らす。尿で顔を洗い、夷狄の中で最も不潔である。死者は埋めるが、棺桶がなく、生前乗っていた馬を殺して祭る。その酋長を大莫払瞞咄といい、代々継承して長となる。文字がないその矢は石鏃で、長さが二寸であり、恐らく桔矢石塔の遺法である。 家畜には豚が多く、牛羊がない。車・馬があり、田は耕し、車は歩いて推す。 粟麦があり、土地には貂鼠・白兎・白鷹が多い。塩泉があり、水気が蒸発して、塩が樹上で凝固する。 武徳五年(622) 酋長の阿固郎は始めて来朝し、太宗の貞観二年(628) 臣附し、常に貢献した。地を燕州とした。皇帝が高麗を伐つと、その北部は反し、高麗と合同した。高恵真らが部衆を率いて安市を助けたが、戦うごとに靺鞨は常に前方に居た。帝は安市を破り、恵真を執え、靺鞨の兵三千余を捕らえて、悉くこれを穴埋めにした。 開元十年(722) その酋長の倪属利が来朝すると、玄宗は直ぐ勃利州刺史に任じた。そこで安東都護薛泰は、黒水府を置き、部長を都督・刺史とすることを請うた。朝廷はそのため長史を置いてこれを監督し、府都督に李氏の姓を賜わり、献誠と名づけ、雲麾将軍の位をもって黒水経略使を兼任し、幽州都督に隷属させた。帝の末年まで十五回来朝し、大暦年間(766-779)に凡そ七回、貞元年間(785-805)に一回、元和年間(806-820)に二回来朝した。 初め黒水の西北に思慕部があり、さらに北に十日行くと郡利部があり、東北に十日行くと窟設部があった。これはまた屈設とも号した。それからやや東南に十日行くと莫曳皆部があった。また払涅・鉄利・虞婁・越喜などの部があった。その地は、南は渤海を踊り、北と東は海に際まり、西は室韋にあたる。南北の長さは二千里で、東西は千里である。払涅・鉄利・虞婁・越喜はときどき中国に通じたが、郡利・屈設・莫曳は自ら通ずることが出来なかった。いまその京師に来朝しているものを左に附記する。 払涅はまた大払涅とも称し、開元(713-741)、天宝(742-756)年間に八回来て、鯨睛(鯨の眼球の水晶体)・貂鼠・白兎の皮を献じた。 鉄利は開元年間(713-741)に六回、越喜は同年間に七回、貞元年間(785-805)に一回、虞婁は貞観(627-649)年間に二回、貞元年間(785-805)に一回来た。その後、渤海が盛んとなり靺鞨は皆これに付属したので、ふたたび会同して朝献しなかった。 渤海は、もとの粟末で、高麗に付属していた。姓は大氏である。高麗が滅亡すると、その民を引き連れて挹婁の東牟山を確保した。この地域は営州から東方二千里離れた所にあり、南北は泥河を境にし新羅と相対している。東は海で、西は契丹と境を接し、城郭を築いて守りを固めていた。高麗の亡命者は、しだいにこの地にやって来た。 万歳通天年間(696)に、契丹の李尽忠は営州都督の趙に反逆して彼を殺した。舎利の乞乞仲象は靺鞨の酋長の乞四比羽や高麗の遺民たちとともに東に移り、遼水(遼河)を渡って太白山(長白山)の東北を確保した。この地は奧婁河 (牡丹江)に遮られ、壁を築き、守りをしっかり固めていた。武后は乞四比羽を許国公に、乞乞仲象を震国公に、それぞれ封じることによってその罪を許そうとした。しかし、比羽はその命を拒否したため、武后は玉鈐衛大将軍の李楷固と中郎将の索仇にして比羽を殺させてしまった。この時、仲象は既に死んでおり、その子祚栄は残った者を引き連れて遁げ去った。楷固は祚栄の後を追って天門嶺を越えたが祚栄は高麗と靺鞨の兵をあげて楷固の軍隊に攻撃をかけたので、楷固は敗れて引き揚げていった。この時、契丹が突厥に付いたので、唐軍の道は断たれてしまい、討ち克つことができなかった。祚栄は比羽に従う民を組み入れた。その地が唐から遠く離れているのを幸いに、国を建て、祚栄はみずから震国王と名告り、また使者を遣わして突厥と国交を結んだ。震国の面積は五千里四方で、戸数は十余万、精兵は数万人、非常に書物を知っていた。扶餘・沃祖・弁韓・朝鮮海北のそれぞれの故地にあった諸国は、すべて震国の領土になった。中宗の代に、侍御史張行岌を使者として遣わされ、祚栄を招撫したところ、祚栄はその子に入侍させた。睿宗の先天年間(712)に使を遣わして祚栄を左驍衛大将軍・渤海郡王とし、その支配領域は忽汗州として、祚栄を忽汗州都督に任じた。この時以来、靺鞨の名称は使わず、渤海と称するようになった。 玄宗の開元七年(719)、祚栄が死ぬと、その国では私に高王の諡号を付けた。子の武藝が王位に就くと、彼はおおいに領土を開拓し、東北の諸夷は畏れて服従した。また独自に年号をつくり、はじめに仁安とした。帝(玄宗)は武藝を冊立し、王位とその所領を継承させた。それから間もなく、黒水靺陽の使者が入朝したので、帝はその地を黒水州と定め、長史を派遣して総督させた。武藝は部下を召集して謀議した。「黒水は、はじめわが領域を通過して唐と通交していた。また往時、突厥に吐屯の官を乞うた時もあったが、いずれの場合もまずわが国に報告してから事を運んでいた。しかるに今、唐の官僚になることを請い、それをわが国に告げようともしない。このことはまさに唐と謀って、両方から自分を攻めようとするものであろう。」と言った。そこで弟の門藝と舅の任雅相に命じて兵を徴発させ、黒水を攻撃させようとした。しかし門藝はかつて人質として唐の京師で滞留していたことがあったため、出兵することの利害を充分知っていたので、武藝を諌め、「黒水が唐の臣下にならんと願い出ている矢先に、わが国がこれを攻撃しようとする ことは、唐に背くことです。唐は大国であり、兵の数もわが国の万倍も備わっております。ここで唐朝の怨みを買うことは、すなわちわが身の滅亡を待つだけです。昔、高麗がその全盛時代に、兵士三十万をもって唐を相手に戦いました。はたして、この行為が雄強だと謂えたでしょうか。唐兵は、ひとたび戦いに臨んだだけで、かの地をことごとく一掃してしまったではありませんか。今、わが国の兵数は、その高麗の兵の三分の一にすぎません。王が私の諫言を聞きとどけないなら、よくない事態を招来しましょう」と言ったが、武藝はこれに従わず兵を唐の国境まで送った。その地で門藝は再び武藝に書を送り、出兵を固く読めた。ところが武藝はますます怒り、従兄の壱夏を代将としてその国境へ送り、門藝を召還して殺そうと企てた。この全てを知った門藝は、身に危険を感じたので、みずから唐に投降した。そこで玄宗は門藝に左驍衛将軍の官位を授けた。武藝は使者を派遣して、門藝の罪状の一部始終を報告させ、門藝を処刑したいと願い出た。ところが玄宗は門藝を安西に移すように、という詔を下しながら、武藝にうまく知らせた。「門藝は進退窮ってついに我が国に投降して来たのであるから、これを殺してしまうわけにはいかない。それに、今はすでに悪地に流してあるので、ここにはもう居ない。」という内容であった。そして武藝の使者を留めて帰そうとせず、その代りに鴻臚少卿李道邃と源復に命じて、この詔を武藝に知らせた。しかし武藝は、本当のところ大門藝が悪地に移されていないということを聞き知ったので、上書し、「陛下におかれましては、不当にも過をもって天下に示しておられます。」といい、必ず門藝を殺そうとした。帝は、道邃と復が国家の機密を漏言してしまったことに立腹し、二人を左遷してしまった。また、表面的には門藝を斥けるそぶりをし、そうして武藝に対しては偽りの報告をさせた。 十年後、武藝は、大将の張文休に命令を下し、海賊を率いて登州を攻撃させた。帝は、急拠門藝に命令を下し、幽州の兵をあげて武藝の軍を攻撃させた。太僕卿の金思蘭を新羅に帰し、新羅の兵を進めて渤海の南辺を撃たせた。たまたま大寒に見舞われ、雪がうず高く積もり、半数以上も兵士が凍死したため、なんらの成果もあげられずに引き返さざるをえなかった。武藝は、弟の門藝を討つため刺客を募って東都に侵入させ、路上で大門藝を狙い刺そうと謀ったが殺せなかった。河南府は、この刺客を捕えてすべて殺してしまった。 武藝が死ぬと、その国では私に武王と謚をした。その子欽茂が位に就くと、改元して大興とした。詔して欽茂に王位と所領とを継承させた。これにより欽茂は国内を大赦した。天宝年間 (742-756)の末頃、欽茂は首都を上京(竜泉府)に遷した。ここは旧国から三百里離れた所で、忽干河の東側にある。玄宗帝の時代に二十九回朝貢使を派遣した。宝応元年(762)、詔して渤海(を渤海)国に昇格させ、また欽茂を王に進めて、検校・太尉の位も授けた。大暦年間(766-779)には二十五回の朝貢使が派遣され、ある時は日本の舞女十一人が献じられた。貞元年間(785-804)に、都を上京の東南方の東京(竜原府)に遷した。欽茂が死ぬと、文王と諡された。その子宏臨は早死のため、族弟の元義が即位したが、一年で猜疑と怨念のため国人に殺され、宏臨の子華璵を推して王位につけ、再び上京(竜泉府)に都を遷した。また改元して中興とした。華璵が死ぬと、成王と諡された。 欽茂の末子嵩鄰が即位し、正暦と改元した。詔して右驍衛大将軍とし、王位を継がせた。建中年間(720-783)から貞元年間(785-805)にかけて、四度使者が派遣された。嵩鄰が死ぬと、康王と諡された。その子元瑜が即位すると、永徳と改元した。死ぬと、定王と諡された。弟言義が即位し、朱雀と改元し、また王位を継ぎ、その他の称号も以前の通りであった。死ぬと僖王と諡された。 ついでその弟明忠が即位して、太始と改元した。一年で死に、簡王と諡された。つぎに従父仁秀が即位すると、建興と改 元した。四世の祖にあたる野勃は、祚栄の弟である。仁秀は、海北の諸部族を討ち倒して、領土の拡大に成功した。詔して検校司空に任命し、仁秀を王位に就かせた。元和(806-820)年間に、使者がおよそ十六度朝貢に来た。長慶年間(821-824)は四度、宝暦年(825-827)は二度の朝貢であった。大和四年(830)に仁秀が死ぬと、宣王と諡された。その子新徳は早死のため、孫の彝震が即位し、年号を成和と改めた。翌年詔して位を継がせた。文宗代には使者が十二回も来朝し、会昌年間(841-847)には四回遣わされてきた。彝震が死ぬと弟の虔晃が即位し、死ぬと、玄錫が王位を継いだ。咸通年間(860-874) には三度朝貢使が派遣された。 はじめ学生が京師にある大学にしばしば派遣され、古今の制度を習得させ、ここにいたって海東の盛国へと発展を遂げた。行政区画は五京・十五府・六十二州である。粛慎の故地は上京と定め、竜泉府と名付けられ、竜・湖・渤の三州を治めた。南方を中京とし、顕徳府と名付けられ、盧・顕・鉄・湯・栄・興の六州を治めた。かい貊の故地は東京と定め、竜原府とした。これはまた柵城府とも呼ばれ、慶・塩・穆・賀の四州を治めた。沃沮の故地は南京と定め、南海府として沃・睛・椒の三州 を治めた。高麗の故地は西京と定め、鴨淥府とし神・桓・豊・正の四州を治めた。長嶺府は瑕・河二州を治めた。扶餘の故地には扶餘府を置き、常に強兵を配備して契丹に備え、また扶・仙二州を治めた。鄚頡府は鄚・高二州を治めた。挹婁の故地は定理府とし、定・潘二州を置き、安辺府は安・瓊二州を置いた。率賓の故地は率賓とし、華・益・建三州を治めた。払涅の故地は東平府とし、伊・蒙・沱・黒・比の五州を置いた。鉄利の故地は鉄利府とし、広・汾・蒲・海・義・帰の六州を置いた。越喜の故地は懐遠府とし、達・越・懐・紀・富・美・福・邪・芝の九州を置いた。安遠府には寧・郿・慕・常の四州を置いた。また郢・銅・涑の三州は独奏州とした。涑州の近辺に涑沫江(北流松花江)が流れ、それ思うにいわゆる粟末水であろう。竜原府東南の沿海は、日本道である。南海府には新羅道が、鴨淥府には朝貢道が、長嶺府には営州道が、扶餘府には契丹道が、それぞれあった。 俗称では王を可毒夫、あるいは聖主、あるいは基下といった。王の命令を教という。王の父は老王、母は太妃、妻は貴妃、長子は副王、諸子は王子と呼ばれた。官職は、道には左相長官・左平章事・侍中・左常侍・諫議がこれに属す。中臺省には右相・右平章事・内史・詔誥・舎人がこれに属す。政堂省では大内相一人が左右相の上に置かれ、左右司政が各一人、左右平事の下に配置される。これは唐制の左右僕射に相当する。左右允は(唐の)二丞に当たり、左六司は忠・仁・義部の三部を統率し、おのおの一人の卿が属され、これは司政の下に置かれた。その支司に爵・倉・膳の部があって、部の長官は郎中で、員外もあった。右六司は智・礼・信の部を統率し、その支司に戎・計・水の部があり、その卿郎は左に準ずるもので、いずれも六官に相当する。中正臺には大中正が一人置かれ、御史大夫に相当し、司政の下に配置され、少正一人が置かれた。また殿中寺・宗属寺には大令がいた。文籍院は監令といい、監にはすべて少監が属していた。太常寺・ 司賓寺・大農寺は卿である。司蔵寺・司膳寺は令で、(次官は)丞といった。冑子監は監長といわれた。また、巷伯局には常侍の官があった。 武員には、左右の猛賁衛・熊衛・罷衛と、南左衛・南右衛と北左衛・北右衛があり、それぞれ大将軍一人、将軍一人が置かれた。手本がたいてい中国の制度に倣ったものであるというのは、かくのごとしである。官位の秩序形式は、三秩以上の服色は紫色で、牙笏と金魚袋をもつ。五秩以上の場合は緋色で、牙笏と銀魚をもつ。六秩・七秩は浅緋衣で、八秩は緑衣で、それぞれ木笏である。 珍重されるものは、太白山(長白山)の兎、南海の昆布、柵城の豉、扶餘の鹿、鄚頡の豕、率賓の馬、顕州の布、沃州の綿毛、龍州の紬、位城の鉄、盧城の稲、湄沱湖の鯽と、果実では九都の李、楽游の梨である。 その他の風俗は、高麗・契丹とほぼ同じである。幽州の節度府と互いに使者を派遣しあっていた。(幽州の節度のある)営平から唐の都まではほぼ八千里もあり、遠くて、その後朝貢があったかどうか、史家は伝を失い、反乱を起こしたのか、臣附していたかはわからない。 賛にいう、唐の徳の偉大なるかな!領土の際は天の覆うところを、ことごとく臣下として所蔵させた。海辺にいたるまでの広大な地の内外は、州県としないところはなかった。遂に天子を尊んで「天可汗」といった。三皇五帝以来、いまだこのようなことはなかった。辺境の酋長らは唐の印璽や旗印をまって国を治め、すべて賓客としないということはなく、外敵は簡単に捕らえられ、南蛮・東夷の財宝はあいついで朝廷に運び込まれた。衰えるのはきわめて激しく、その禍いは内に移り、天宝年間以降、天下は衰退し、唐軍は北は黄河を越えることなく、西は秦・邠の地でとどまった。外敵を凌ぐこと百年、ついに滅亡した。顧みるに痛ましいかな!そのためにいう、「自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化する、これは聖人がよくすることである」と。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十八 列伝第一百四十三 『新唐書』巻二百一十九 列伝第一百四十四 巻二百二十 列伝第一百四十五
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唐書巻八十一 列伝第六 三宗諸子 燕王忠 沢王上金 許王素節 褒信王璆 孝敬皇帝弘 裴居道 章懐太子賢 邠王守礼 広武王承宏 燉煌王承寀 懿徳太子重潤 譙王重福 節愍太子重俊 讓皇帝憲 汝陽王璡 漢中王瑀 景倹 恵荘太子撝 恵文太子範 嗣岐王珍 恵宣太子業 嗣薛王知柔 高宗に八子があった。後宮の劉氏は李忠を生み、鄭氏は李孝を生み、楊氏は李上金を生み、蕭淑妃は李素節を生み、武后は李弘・李賢・中宗皇帝・睿宗皇帝を生んだ。 燕王李忠は、字を正本といった。帝(高宗)は始めて太子となったとき忠が産まれ、宮中で宴会を開いた。突然太宗の臨幸があり、宮臣に詔していうには、「朕始めて孫ができた。共に楽しみたい」 酔っぱらって帝(高宗)は立ち上がって舞い、群臣もならい、席次にあるものは皆舞い、下賜品には差があった。貞観二十年(646)、始め陳王となり、永徽年間(650~655)初頭、雍州の牧を拝受した。王皇后には子がなく、后の舅の柳奭は王皇后を説得して、忠を母とすれば、これを立てて必ず自身の親とするだろうとした。后は承諾し、帝に請うた。またと褚遂良・韓瑗・長孫无忌・于志寧らも相継いで請うた。遂いに立てて皇太子とした。王皇后が廃后となると、武后の子の李弘は年三歳であり、許敬宗は后の旨をこいねがい、建言して「国には正嫡があります。太子は漢の劉彊の故事と同じくすべきです。」と言った。帝は敬宗を召見していった「嫡を立てるにはどのようにする?」 答えていう「正のもとはすなわち万事治まることです。太子は国のもとです。しばらく東宮を微し出せば、今正嫡があることを知るでしょう。自ら安じなけらば。位をうかがって自ら安ぜず、社稷のはかりごとではありません。」 帝は言った「忠はもとより謙譲だ。」 敬宗が言った「よく太伯のようになれば、またよくないことなどありましょうか?」 ここに降して梁王・梁州都督に封じ、甲第、封戸二千、物二万段を賜い、にわかに房州刺史にうつした。忠は寝ても恐れて安心して生活することができず、婦人の衣を着て刺客に備え、しばしば妖夢があり、かつて自ら占った。事は露見し、廃されて庶人となり、黔州の李承乾の故宅に幽閉された。 麟徳年間(664-665)初頭、宦官の王伏勝が武后に罪を得たが、許敬宗はすなわち忠と上官儀と伏勝の謀反を誣告し、死を賜った。年二十二歳。子はなかった。翌年、太子李弘が表を奉って収葬を願ったから、これを許した。神龍年間(705-707)初頭、追封し、また贈太尉・揚州大都督とした。 原悼王李孝は、永徽元年(650)に始めて許王となり、𣏌王李上金・雍王李素節の二王とともに同じく封ぜられた。早く薨去した。神龍年間(707-710)初頭、追封および謚があった。 沢王李上金は、始め𣏌王となった。永徽三年(652)、益州大都督を遙領した。鄜・寿の二州の刺史を歴任した。武后そはその母を憎み、そのため役人が誣奏し、封邑を削り、うつして澧州に置いた。しばらくして武后は表向きは喜んでいるかのようにしており、𣏌王上金・鄱陽王李素節に表して朝集を聴かしめ、義陽公主・宣城公主の二公主にそれぞれ夫秩を増加した。これによって上金を沔州刺史に、素節を岳州刺史としたが、しかしついに朝廷に参与することはなかった。高宗が崩じたが、上金・素節・二公主に詔して哀に赴かせた。文明元年(684)、王を畢王とし、またうつして沢王とした。五州の刺史を歴任した。載初年間(690)、武承嗣は周興をそそのかして上金・素節の謀反を誣告し、召して御史の獄に繋がれた。上金は素節がすでに殺されたことを聞いて、即ち縊死した。七人の子はあわせて顕州に流刑となり、あるいは死んだ。神龍年間(705-707)初頭、追って官爵を戻し、子の李義珣に王を嗣がせた。 李義珣は、始め流謫され、身を匿して雇われ人となっていた。許王李瓘を継いでその爵邑を受け、義珣に告げて仮の継承としたが、再度嶺外に流された。開元年間(713-741)初頭、素節の子李璆を許王李瓘の後継としたが、玉真公主が義珣が実は上金の子であると上表したから、すなわち璆の爵を奪い、再度義珣をして王を継がせ、率更令に任じられた。薨去し、子の潓が嗣いだ。 許王李素節は、始め雍王となり、雍州牧を授けられた。まさに童子の頃から、即ち日に千言を読んだ。徐斉聃に師事し、自らつとめ励ました。帝はこれを愛し、岐州刺史に転じて、さらに郇王とした。母が殺され、素節を地方に出して申州刺史とした。乾封年間(666-668)初頭、素節に詔して病により入朝を免じたが、実際には病んでおらず、忠孝論を著して自らの意見を明らかとしたからであった。倉曹参軍の張柬之が上奏すると、帝はその誣告を取り上げないようにしようとしたが、武后はますます喜ばなかったから、収賄に連座して鄱陽王に降格し、封戸什七を削り、移して袁州に置き、終身禁錮とした。儀鳳三年(679)、岳州刺史とし、さらに葛王とし、また王を移して三州の刺史とした。李上金とともに同じく追捕されて都に赴き、道中葬送の列で哭する者を聞いて、左右に言った、「病死なぞ何の得るところがあろうか。当然哭するべきだというのか?」 龍門駅にいたって絞殺された。年四十三歳。葬礼は庶人の礼をもって行われた。子の瑛等九人はすべて誅殺されたが、ただ李琳・李瓘・李璆・李欽古はまだ幼なかったので、長く雷州に幽閉された。 中宗が復位すると、追ってもとの封とし、また開府儀同三司・許州刺史を贈位し、乾陵に陪葬された。李瓘に詔して王を継がせ、実封戸四百とした。開元年間(713~741)初頭、李琳を封じて越王を継がせ、李璆に沢王を継がせた。琳は右監門衛将軍に至り、子の李随は夔国公に封じれた。李瓘は衛尉卿となり、上金の子に抑えられて封を得ず、鄂州別駕に貶された。よって詔して継嗣王より外れた者は皆宗室に帰し、すなわち嗣江王李禕を信安王とし、嗣蜀王䄖を広漢王とし、嗣密王徹を濮陽王とし、嗣曹王臻を済国公とし、嗣趙王琚を中山王とし、武陽王継宗を澧国公とした。瓘は累遷して太子詹事となった。薨去し、蜀郡大都督を贈位した。二子の李解・李需は皆幼なく、璆の子李益に継がせた。天宝十四載(755)、李解に始めて王を継がせた。 李璆は、初めは嗣沢王を継ぎ、降されて郢国公、官宗正・光禄卿となったが、累進して褒信王に封ぜられた。初め張九齢が龍池頌を撰し、興慶宮に石碑としたが、宗室の子女が盛徳をなさないため、さらに璆に命じて頌をつくらせ、花萼楼の北に建てた。天宝年間(742-756)初頭、再度宗正卿を拝命した。性格は友弟には聡敏で、宗室の子女に一善あれば、推薦しないことはなかった。そのため宗室で宮中にある者の多くは璆に申し上げた。薨ずると、江陵郡大都督を贈位された。二子があった。李謙は郢国公・梓州刺史となり、李巽は汝南郡公となった。 李欽古は巴国公に封じられ、子の李賁が継いだ。 孝敬皇帝李弘は、永徽六年(655)に始めて代王となり、潞王とともに同じく封ぜられた。顕慶元年(656)、立てられて皇太子となった。春秋左氏伝を率更令の郭瑜より受学し、楚の世子商臣がその君を弑殺する場面に至ると、嘆いて書を閉じて「聖人の垂訓はどうしてこのような邪悪を書くのだろうか?」といった。郭瑜は「孔子が春秋をつくったのは、善悪を必ず書き、褒善を推奨するためで、悪を貶しめて誡めとするためです。だから商臣の罪は千年たっていてもなお消えることはないのです。」と言った。李弘は「それならば聞くに忍びないところは、願わくはその書を読もう。」と言った。郭瑜は拝して言う、「里に勝母と名付ければ曾子は足を踏み入れなかったといいます。殿下生まれつき孝行者で、不道徳の道を退け、見聞きすることはありません。臣はこのように聞いています。君主の地位を安定させ、人民をよく統治するには、人民に礼儀を教えるのが最もよいと。だからこそ孔子は『礼を学ばないと、ひとり立ちしてやっていけない』と言ったのです。願わくば改めて礼を受学して下さい。」 太子は「よし」と言った。顕慶四年(659)、元服した。また賓客の許敬宗・右庶子の許圉師・中書侍郎の上官儀・中舎人の楊思倹に命じて、即ち文思殿で古今の文章を抽出して『瑤山玉彩』と名付けた。およそ五百篇。書を奏じて、帝は賜物三万段、ほかの臣には賜うことそれぞれ差があった。また詔して五日に一度は光順門に赴き決事させた。総章元年(668)、国学にて釈采(八月の上の丁の日に行なう孔子の祭)し、顔回に太子少師を、曾参に太子少保を贈位することを請い、制可された。 たまたま有司が遼東に遠征する兵士が亡命したり、亡命して原隊に戻らない者を、身は死刑とし、家族は没官とした。李弘は諫めておもうようは、「兵士は病となってもどうなるかわからず、あるいは被虜、もしくは溺死・圧死しても、軍法は戦死でなければ、則ち隊を同じくする者は全員連座します。法家が亡命と判断すれば、家族は本当に亡命した者と同様に没官となります。伝(書経 大禹謨)には「罪のない人間を殺すよりは、むしろ法律に合わないことがあってもこれを許すほうがよい」といいます。臣請うらくはその科(とが)を条別し、全て一緒にすることが無いことを。」 詔して裁可した。帝は東都に行幸し、詔して監国となった。時に関中が飢饉となり、李弘は廡下の兵で楡皮・蓬の実を食べる者を見て、うちしおれて家令に命じて寺に米を給付せしめた。 義陽公主・宣城公主の二公主は母の故をもって掖廷に幽閉され、四十になっても結婚していなかった。李弘は聞いて見るにたえず、建言して降嫁されることを願い出た。武后は怒り、即ち当上の衛士に結婚させ、このために寵愛を失った。また同州の沙苑を貧民に分けることを請うた。たまたま妃裴と結婚したが、有司が贄用の白雁をたまたま苑中で捕獲したこと奏上した。帝は喜んで「漢は朱雁を獲て楽府の歌とつくった。今白雁を得て結婚の贄となった。結婚はすなわち人倫の首である。我には恥じることなどない。」と言い、礼がおわると、法を曲げて岐州に大赦した。 帝はかつて侍臣に語って「弘は仁孝で、大臣に賓礼していまだかつて過はなかった。」と言ったが、武后はまさに志を伸さんとして、李弘の奏請はしばしば武后の意向に違うた。上元二年(674)、合璧宮の行幸に従って、鴆毒を盛られて薨去した。年二十四。天下はこれを嘆かない者はいなかった。詔して「太子は若くして病気となり、朕はその回復を待って、まさに位を譲ろうとした。心は広く真心篤く、すでに命をうけ心はのびやかとなったが、病は日に日に重くなり、臨終を迎えてしまった。謚を孝敬皇帝とする。」といった。緱氏に葬り、墓号は恭陵、制度はすべて天子の礼を用い、百官は権制に従って三十六日服喪した。帝は自ら睿徳紀を製り、石を陵の側に刻んだ。陵を造営すること巨費を費し、人民は厭いてこれに苦しんだ。投石して所部の官司を傷つけ、官吏を殺傷した。妃は薨去し、謚して哀皇后といった。子なく、永昌年間初頭(689)、楚王隆基(後の玄宗)を後嗣とした。中宗が即位すると、詔して主を太廟に合祀し、義宗と号した。開元年間(713~741)、有司が奏じて「孝敬皇帝、よろしく廟を東都洛陽に建てるべきで、諡を廟の名としましょう。」と言った。詔して裁可され、ここに義宗の号を廃止した。 妃は裴居道の娘で、婦徳があったが、父・裴居道は妃のために内史納言に任命され、太子少保・翼国公を歴任した。酷吏のために貶められ、獄死した。 章懐太子李賢は、字を明允といった。容姿端麗で、幼い頃より高宗に愛された。年数歳にして、一度読書すればたやすく忘れず、論語の「賢を賢として色を易(かろん)ず」に至り、一二度これを読んだ。高宗が理由を問うと、答えて「性実はこれを愛す。」と言った。高宗は李勣に語って、早熟であると称した。始め潞王となり、幽州都督・雍州牧を歴任した。沛王に移り、揚州大都督・右衛大将軍に累進し、名を徳に改めた。雍王に移り、よって雍州牧・涼州大都督を領し、実封千戸となった。上元年間(674-676)にまた名を賢に戻した。 この時、皇太子が薨去し、その六月、李賢を立てて皇太子とした。にわかに監国とする詔があり、李賢に決裁させたところ最も明審であり、朝廷は讃えた。高宗は手ら勅して褒賜した。李賢はまた諸儒を招集し、左庶子の張大安・洗馬の劉訥言・洛州司戸参軍事の格希玄・学士の許叔牙・成玄一・史蔵諸・周宝寧らとともに范曄の『後漢書』の注釈書をつくり、上奏した。高宗はよしとして段物数万を賜った。 時に正諫大夫の明崇儼は左道をもって武后のために信ずるところとなり、崇儼は英王(中宗)は太宗に類し、相王(睿宗)は貴しとした。李賢はこれを聞いて憎み、宮人はあるいは李賢が武后の姉・韓国夫人の所生であると伝えたから、李賢はますます疑った。武后は『少陽政範』・『孝子伝』を撰述して李賢に賜り、何度も書簡を送ったが、かえっていろいろ不安になった。調露年間(679-680)、高宗は東都(洛陽)にあって、崇儼は強盗のために殺された。武后は李賢の謀と疑い、人を遣わして太子の陰謀をあばき、薛元超・裴炎・高智周に詔してこれをまじわりおさめ、甲冑数百領を東宮で発見した。高宗はもとより李賢を愛し、その罪は軽いとしたが、武后は「賢は心に反逆があり、大義は親を滅ぼすことにありました。赦してはなりません。」といったから、廃太子となり庶人におとされた。甲冑は天津橋で焼却処分とし、大安普州刺史に貶し、劉訥言を振州に配流し、連座して流罪となる者は十数人に及んだ。開耀元年(681)、李賢を巴州に移した。 武后が政権を獲得すると、左金吾将軍の丘神勣に詔して李賢の邸宅を捜索し、迫って自殺させた。年三十四歳。武功は顕福門に挙哀し、丘神勣を畳州刺史に左遷した。追ってもとの王号に復した。神龍年間(705-707)初頭、司徒を贈号し、使を遣わして亡骸を移し、乾陵に陪葬した。睿宗が即位すると、皇太子および謚を追号した。三子があった。李光順・李守礼・李守義。 李光順は楽安王となり、義豊王に移された、誅殺された。李守義は犍王となり、桂陽に徙封され、薨去した。先天年間(712-713)、光順に莒王を、守義に畢王を追封した。 李守礼、王を嗣ぎ、始め名を光仁と称し、太子洗馬に任じられた。武后が武周革命をし、宗室は自由を失った。守礼は父のために罪を得て、睿宗の諸子とともに宮中に幽閉されること十余年におよんだ。睿宗が相王に封ぜられ、許されて外邸に出た。ここにおいて守礼らも始めて外に居住し、改めて司議郎となった。中宗が即位すると、またもとの封に戻り、光禄卿を拝受し、実封戸五百を得た。唐隆元年(710)、邠王に封じられた。睿宗が即位すると、検校左金吾衛大将軍を兼任し、出て幽州刺史となり、単于大都護を兼任し、司空となった。開元年間(713-741)初頭、累進して為州刺史となった。その時寧王・申王・岐王・薛王も同じく刺史となり、皆幕僚を選任してはじめ綱紀を保った。守礼はひとり狩猟・飲酒をし、領事しなかった、そのため源乾曜・袁嘉祚・潘好礼は皆、邠府長史・州佐となって、監督した。後に諸王が京師に戻ると、守礼以外は支えて王となり、特に才能がなくても多く寵愛したから、子は六十余人、称すべき者はなかった。常に息銭数百万の負債があった。ある者は少子を勧めたが、守礼は「どうして天子の兄を葬むる者がないのだろうか?」といった。諸王はにわかに高貴となるたびに歓喜するのであった。岐王はかつて守礼が雨晴を予測できることを上奏した。帝はなぜかと問うと、答えて「臣には何があるわけでもありません。天后(武后)の時、太子が罪を被り、臣は宮中に幽閉されました。その時勅によって杖刑を受けること約四三、皮膚に傷跡が出来、雨の前になると(痛みに)悶え、晴れになるとよくなります。だから知ることができるのです。」といって涙を流し、帝もあわれに思って心をいためた。薨去し、年七十、太尉を贈位した。子は李承宏・李承寧・李承寀が記すべき者である。 李承宏は、広武王に封ぜられたが、当人ではないのに連座して、房州別駕に貶しめられた。戻って宗正卿となった。広徳元年(763)、吐蕃が京師に入り、天子は陝西に逃亡した。虜(吐蕃)宰相の馬重英(タクラ・ルコン)が承宏を立てて皇帝とし、翰林学士の于可封・霍瓌を宰相とした。賊(吐蕃)が退くと、詔して承宏を華州に追放し、死んだ。 李承寧は封じられて邠王を継承した。 李承寀、燉煌王となり、宗正卿を拝受した。僕固懐恩とともに回紇に使して和親し、即ちその娘を結納して妃とし、毘伽公主に封じられた。薨去し、司空を贈位された。 唐制に、郡王を嗣ぐ者は四品の階を加え、親王・王子は緋を服す、とある。開元年間(713-741)、張九齢が「寧王・薛王および邠王の三子は王でありますが賜紫となっており、ほかは皆緋を服しています。官は六局の郎を越えず、王府の掾・属はよって員外に置かれています。」と奏上した。後に帝は蜀に到ってから皆紫を服させた。 中宗に四子があった。韋庶人が李重潤を生み、後宮が李重福・李重俊・殤帝を生んだ。 懿徳太子李重潤は、もとの名を重照といい、武后の諱を避けて改名した。帝(中宗)が皇太子のとき、東宮で産まれ、高宗は喜ぶこと甚だしく、乳月が満つと、天下に大赦し、永淳と改元した。この年、立てて皇太孫とし、開府して官属を設置した。帝は吏部侍郎の裴敬彝・郎中の王方慶にどうか問うた。答えて「礼に嫡子はありますが、嫡孫はありません。漢・魏に太子があって、子はただ王に封じています。晋に愍懐太子を皇太孫に立て、斉は文恵太子の子を立てて皇太孫としましたが、みな東宮にありました。今太子があって、また太孫を立てるのは、古よりあったことはありません」と答えた。帝は「自ら作るがどうか?」と言うと、「礼記に「君子は孫を抱いて子を抱かず」というのは、孫は王の父のかたしろを(祭祀の際にもつのは)、昭穆が同じだからです。陛下ははじめて皇孫を建てました。もとより千億の慶の支えとなるでしょう。」と答えた。帝は喜び、議官属に詔して。敬彝ら奏上して、師・傅・友・文学・祭酒・左右長史・東西曹掾・主簿・管記・司録・六曹等の官を設置し、王府一級を加えたが、士卒を補充することはなかった。まさに嵩山に封禅しようとして、太子(中宗)を東都(洛陽)に赴かせ、太孫に京師(長安)を留守させた。 中宗が廃位されると、太孫府も廃され、庶人に貶され、別に囚われとなった。中宗が(皇太子に)復位すると、郡王に封じられた。大足年間(701)、張易之兄弟が武后の寵愛を得ると、重潤とその妹の永泰公主とその夫武延基とともに秘かに謀議を行ったと誣告され、武后は怒り、杖殺した。年十九歳。 重潤は容貌・行いに秀で、孝行で愛され、罪によらず誅殺されたから、人は皆涙を流した。神龍年間初頭(705-707)、皇太子および謚を追贈し、乾陵に陪葬し、墓を号して陵とし、主を贈って公主とした。 譙王李重福は、高宗の時、唐昌郡王に封ぜられ、平恩に移封された。長安年間(701-704)末年に王に進んだ。神龍年間(705-707)初頭、韋庶人が張易之兄弟と謗って重潤を陥れ、濮州員外刺史に貶しめ、合・均二州に移ったが、二州を領事することはなかった。景龍三年(703)、中宗が親ら南郊に祀し、天下に大赦した。十悪はみな許し、流人は帰ることができた。重福は帰ることができず、自ら「人民は皆自ら新しくなっても、一子が棄て去られた。天下は平らかとなったが、もとよりこのようになるのか」と言ったが、答えはなかった。 韋后が政権を握り、左屯衛大将軍の趙承恩・薛思簡に詔して兵をもって護衛させた。睿宗が即位すると集州に移されることになったが、まだ行かないうちに、洛陽の男子の張霊均が重福に説いて、「大王は嫡長でおられて、まさに天子となるべきです。相王(玄宗)は大難を平らげたとはいえ、どうして天子の位に越えて即位することがありましょうか?昔、漢は呂氏を誅殺して東より代王(文帝)を迎えました。今、百官士庶は皆、王が来ることを願っています。王がもし秘かに東都(洛陽)に行幸し、留守を殺し、兵を擁して西に陝西を拠点とすれば、河南・河北はしたがい、天下は得られるでしょう」と言った。重福はまた霊均とその党の鄭愔を遣わして策謀をし、鄭愔はまた密かに重福を招いて天子とし、あらかじめ睿宗を称して皇季叔とし、李重茂を皇太弟とし、中元克復元年と称した。鄭愔は自ら左丞相と署名し、内外文武の事を司り、霊均を右丞相・天柱大将軍とし、出征の事を司り、そのほかは職次によって官位を除目した。重福は均州より霊均と早馬に乗って東都(洛陽)に走り、駙馬の裴巽の家を宿とした。洛陽令の候巽は、重福に驚いてあわてて逃げたから、左右の屯営兵を奪おうとした、天津橋に到って、従うことを願った者は数百人となった。侍御史の李邕はこれに遭遇し、まず走って右屯営に到り、「譙王は先帝より罪を得た罪人なのに、勝手に都に入って反乱しようとしている。お前たちは努めて功績を立てて富貴を取れ」と言った。ようやく皇城の諸門が閉じられて重福を拒んだ。重福は右営に触れ回ったが動かすことができず、左掖門に走ったが、すでに閉鎖されていたから、怒って放火してこれを焼いた。左営兵はひたせまり、衆は遂に壊滅し、重福は山谷に走った。翌日、留守の裴談が全兵を以て大捜索したため、漕渠に身を投げて死んだ。年三十一歳。その死体を磔とした。帝は詔して三品の礼をもって葬った。 節愍太子李重俊は、聖暦三年(700)に義興王となった。神龍年間(705-707)初頭に衛王となり、洛州牧を拝し、実封千戸に封じられた。にわかに揚州大都督に任じられ。翌年皇太子となった。太后(武后)の喪とともに、皇太子の冊礼を減らされ、詔して在藩の食封となり、東宮に歳納した。給事中の盧粲が、「太子と列国と同じく封ずることは法ではありません。」と上言したため、詔してこれを止めた。 重俊は性格は明るく華やかであったが、掟を守ることが少なった。既に楊璬・武崇訓を賓客とし、二人は寵愛をたのんで教養がなかった。ただ狩猟や蹴鞠で互いに遊び仲間というだけであった。左庶子の姚珽がしばしば上疏して諫め導き、右庶子の平貞慎がまた孝経議・養徳などの伝を献上したが、太子は受け入れたとみえつつ用いることはなかった。武三思は韋皇后の勢力と迎合し、まさに反逆を謀ろうとし、内心太子を嫌っていた。武崇訓と武三思の子は、安楽公主をたっとび、常に公主をそそのかして重俊を辱め、韋皇后が産んだ子でなかったから、罵倒して奴だと言った。しばしば皇太子位の廃位を願い、自ら皇太女となろうとした。 神龍三年(707)七月、重俊は怒り、遂に李多祚を率い、左羽林将軍の李思沖・李承況・独孤禕之・沙吒忠義と、偽って左羽林および千騎の兵を発して武三思・武崇訓、その郎党十余人を殺害し、左金吾大将軍の成王李千里をして宮城を守らせ、自らは兵を率いて粛章門にはしり、門を破壊して関に入り、韋后・安楽公主・昭容上官の所在を探した。韋后は帝を抱えて玄武門に登り、宰相楊再思・蘇瓌・李嶠および宗楚客・紀処訥は兵二千余人を率いて太極殿を守り、帝は右羽林将軍の劉仁景らを召喚して留軍の飛騎百人を率いて防御した。李多祚の兵は進むことができず。帝は欄干に掴って重俊についた千騎に語って「お前たちは我が爪牙である。どうしてたちまち反乱をするのか?よく賊を斬った者には褒賞があろう」といったから、ここにおいて士卒は戈をかえして李多祚を斬り、ほかの郎党は壊滅した。重俊は逃亡して終南山に入り、突厥に逃げようとしたが、宗楚客が果毅の趙思慎を遣わしてこれを追撃し、重俊は野で休憩しているところを左右の者に殺された。詔して首級を朝堂にあげ太廟に献じ、あわせて武三思・武崇訓の柩に告げた。睿宗が即位すると、加えて謚され、定陵に陪葬された。 初め、重俊が殺害されると、官属はあえて顧みる者はなかった。ただ永和県の丞の寧嘉勗が号哭し、衣を解いてその首級を包んだ。当時の人はこれを義とした。宗楚客は怒り、獄に下して平興県の丞に降格し、卒した。ここ(睿宗の即位)にいたってまた永和県の県令を追贈された。 重俊の子の李宗暉は、景雲三年(709)に湖陽郡王に封じられた。天宝年間(742-756)、太常員外卿にいたり、薨去した。 睿宗に六子があった。粛明劉皇后は李憲を生み、宮人柳氏は李撝を生み、昭成竇皇后は玄宗皇帝を生み、崔孺人は李範を生み、王徳妃は李業を生み、後宮は李隆悌を生んだ。 譲皇帝李憲は、始め永平王となった。文明元年、武后は睿宗を皇帝としたから、憲を立てて皇太子とした。睿宗が(廃位され)皇嗣に降格されると、(李憲も)さらに皇孫に冊され、諸王とともにみな宮中から出て、開府して官属が置かれた。長寿二年(693)、寿春王に降格され、衡陽・巴陵・彭城の三王とともに同封とされた。また詔があって宮中に入った。中宗が即位すると改めて蔡王とされたが、固辞して受けなかった。唐隆元年(710)に宋王に進封された。 睿宗(が復位すると)東宮を立てようとした。憲が嫡子長男であり、またかつて太子であったが、弟の楚王(玄宗)に大功がありそのため久しく定められなかった。憲は辞退して「儲君は(皇帝の)副であり、天下の公器です。平時であれば正嫡が先んじ、国難であれば功績が先んじるのが、社稷の重きとするところです。付授が適正でなければ、天下は失望します。臣死を以て請うとことです。」といって涕泣して固辞した。時の大臣もまた楚王に社稷を定めるの功があると言い、また貴賤を問わず嫡子(であるからといって皇太子にすることに)抵抗し、朝議が紛糾した。帝は憲が譲ったことをよしとし、遂にこれを許し、楚王を立てて皇太子とした。憲を雍州牧・揚州大都督・太子太師とし、実封は二千戸に及び、甲第・物段五千・良馬二十・奴婢十房・上田三十頃を賜った。尚書左僕射に進み、また司徒を兼任した。司徒は辞退し、さらに太子賓客となった。 時に太平公主に謀があり、姚元崇・宋璟は帝に申して、請いて憲および申王李成義を出して刺史とし、謀は雲散した。すなわち司徒兼蒲州刺史となり、司空に進んだ。玄宗が蕭至忠・岑羲の難を鎮めると、憲(の官職を)進めて太尉とし、千戸を増戸したが、固辞した。さらに開府儀同三司を授け、太尉・揚州大都督を解任した。寧王となり、また太常卿を兼任した。開元十四年(726)、太常卿を辞し、しばらくしてまた太尉に復した。沢・岐・涇の三州の刺史を歴任し、累進して封は五千五百戸に到った。二十九年(741)に薨去した。 初め、睿宗の五子は邸宅を東都(洛陽)積善坊にならべて、「五王子宅」と号した。邸宅を上都(長安)隆慶坊に賜うにおよんで、また「五王宅」と号した。玄宗は太子となって、かつて大衾で長枕をつくり、諸王とともにこれを共にしようとした。睿宗は知って喜ぶこと甚しかった。先天年間に到って、隆慶坊の旧邸を興慶宮とし、憲および薛王に勝業坊に邸宅を、申・岐二王に安興坊に邸宅を賜い、興慶宮の側に環状に列べ、興慶宮の西・南に楼を設置し、その西には「花萼相輝之楼」と書き、南には「勤政務本之楼」と書いた。玄宗は時々これに登って、諸王が楽を奏でるのを聞いて、必ずしばしば召喚して楼に登らせ、ともに同じく榻(いす)に座り、あるいは邸宅に行幸して、詩を詩して大いに嬉び、金帛を賜いともに喜んだ。諸王は朝に側門から帰り、つぶさに楽んでほしいままに痛飲し、撃毬・闘鶏・鷹や犬をはしらせて楽しみ、このようにして歳月は絶えず、いたるところにたやすく勅使の労があいつづき、世に天子友悌といい、古えにはなかったことであった。帝が情愛厚いのはおもう天性のものだろうか、讒言してその関係を乱そうとしても、ついに揺るぐことはなかった。ある時、鶺鴒数千匹が麟徳殿の廷樹に集まり、翔棲をひとめぐりした。左清道率府長史の魏光乗が頌をつくり、天子友悌の祥(しるし)とした。帝は喜んだから、また頌をつくった。 憲は最も慎重な人で、未だかつて政治に干渉したり人と交わったことがなかったから、帝はますます信に重きを置いた。書を憲らに賜って、「魏の文帝の詩に『西山一に何ぞ高し、高高して殊に極る無し。上に両仙童有り、飲まずまた食わず。我に一丸薬を与う。光耀五色あり。これを服すること四五日、身体羽翼を生ぜり』とあるが、朕は服薬して羽翼を求めるたびに言っている、どうして兄弟も天生の羽翼のようにしなかったのか、と。陳思王(文帝の弟曹植)の才は、国を経営するに充分であったが、その朝廷に謁見することが絶え、ついに憂死し、魏は天下を統一する前に司馬氏に簒奪されてしまった。どうして神丸の効き目などあろうか?虞舜は聖人だったが、驕りを捨て去って九族と和親し、九族はすでに睦じく、百姓に分かち明らかにした。今数千年がすぎ、天下は善に帰している。これは朕が寝食を忘れて慕い感嘆するところである。この頃余暇のため、仙人の記録を撰述して神方への道を得たが、これを食べると必ず長寿であるという。今この薬を持っているが、願わくば兄弟に与えてともに長齢に到り、いつまでも果てしないだろう」と。後に申王らが相継いで薨去し、ただ憲のみが健在であった。帝は親しく接することますます厚かった。誕生日のたびに必ずその邸宅に行幸して寿ぎ、往々として邸宅に泊まった。日常でも毎日賜わり物がない日はなかったが、尚食総監やあちこちより進献された酒・酪および珍しい食事などはすべて分け与えた。憲はかつて歳尽録を請い、史官を目付に賜り、数百紙に及んだ。のちに病となり、医者が付ききりとなり膳を、大勢の医者が騎乗してきて互いの顔を見合うほどであった。僧の崇一なるものが治療すると、やや治り、帝は喜ぶことはなはだしく、緋袍・銀魚を賜った。そのうちに重病となり、薨去した。年六十三。帝は声を失うほど慟哭し、左右の者も皆涙を流した。 帝は、憲が実際に天下に推戴され、世の行いは高かったのに、大号を称さなかったから、追謚して譲皇帝とし、尚書左丞相の裴耀卿・太常卿の韋縚を遣して持節奉冊した。その子の李璡は上表して、憲が平素より謙譲であったことを述べ、あえて大号にはあたらないとした。制(みことのり)して許されなかった。葬儀の時、天子の服一揃を出して、右監門大将軍の高力士に詔して、帝自ら手書した位牌を置き、妃の元氏に恭皇后の号を贈り、橋陵の旁らに葬られた。葬るにあたって、中使に勅して璡らを諭し、死出の具を与え、衆をしてこれを見させ、倹約を示した。担当役人が諸陵のようにするよう請い、千味の食を墳中に設けたが、監護使の裴耀卿が建言して「食料は水陸千余種もいるようであり、馬・牛・驢馬・小牛・鹿・鵞鳥・鴨・魚・雁など肉、および薬酒三十名は、盛夏の育てるものであり、多く殺すべきものではありません。礼の典拠を探してみましたが、依拠できるところはありません。陛下が譲皇帝の志を述べるごとに、つとめは質素倹約にあります。願わくば取り省いて折衷されますように」と。詔して裁可されたが、葬列はすでに出発しており、大雨で、慶王李潭らに詔して塗泥(内装工事)を実行させた。葬列の歩みは十里に及び、墓を号して恵陵といった。 憲はかつて帝に従って万歳楼で舞ったが、帝が複道の上より衛士がすでに食事して、その余りを溝中に投棄したのを見て、帝は怒り、高力士に詔してこれを杖殺させようとしたが、憲は従容として「複道の上より人を窺っていれば、士を恐れさせて不安になり、かつ大体を失います。どうして生命をその食べ残しより軽んじるのでしょうか?」といい、帝はよって中止し、高力士に「王は私の難を救ったというべきであろう。そうでなければ、誤まって士を殺すところであった」と言った。また涼州が新曲を献じ、帝は別室に御し、諸王を召してこれを観覧した。憲は、「曲は良いのですが、しかしながら宮殿より離れて属さず、商は乱れて暴政となり、君主の卑しいこと下にせまり、臣下は僭って上を犯します。音楽が弱くはじまって次第に音声が形となっています。詠歌をひもとき人事を見るに、臣はいつの日か遠くをさすらうの禍があることを恐れます」といい、帝は押し黙ってしまった。安史の乱が勃発すると、世上は憲が音楽を審かにしていったのを思い起こした。 李憲はもとの名を成器といい、昭成太后の諡を避けて、申王李成義とともに改めて今の名とした。憲の子は十九人、その聞えたる者は、李璡・李嗣荘・李琳・李瑀がいる。 李璡は容貌が優れて整っており、性格は心が清く無私品行で、弓を射るのをよくし、帝はこれを愛した。汝陽王に封じられ、太僕卿を歴任した。賀知章・褚庭誨・梁渉らと親しかった。薨去し、太子太師を贈位された。 李嗣荘は、幼くして令名があり、太子左諭徳となり、済陰王に封じられた。薨去し、幽州大都督を贈られた。 李琳は、秘書監・嗣寧王となり、天子が蜀に行幸するのに従った。薨去した。 李瑀は、早くより優れた人材との声望があり、偉丈夫であった。始め隴西郡公に封じられた。帝が蜀に行幸するのに従い、河池に到り漢中王に封じられ、山南西道防禦使となった。乾元年間(758-760)初頭、蕭国公主が回紇に降嫁すると、瑀に詔して特進・太常卿・持節冊となり回紇の威遠可汗に謁した。瑀はまた音楽に詳しく、かつて早朝に永興里を過ぎると笛の音が聞こえた。周囲に「これは太常寺の笛工か?」と聞き、「そうです」との返答があった。ある日面識があり、「何故寝ながら吹いたのか?」と聞き、笛工は驚いて謝った。また康崑崙が琵琶を演奏するのを聞いて、「琵の音が多く、琶の音が少ない、これではまだ五十四絲の大絃を弾くべきではないな」と言った。楽家は自分より下の逆鼓を琵といい、自分より上の順鼓を琶といった。粛宗が詔して群臣の馬を収公して戦さの助けとしたが、瑀と魏少游はともに所有したままで手放さなかった。帝は怒り、蓬州長史に左遷した。薨去し、太子太師を贈られ、謚を宣とした。孫に李景倹がいる。 李景倹は、字は寛中。進士に及第した。博覧強記で、よく古えの王・覇者の成敗の大略をいい、自負が高く士大夫に屈するところがなかった。王叔文らは更にこれを褒め、管仲・諸葛亮に比するとした。王叔文が失脚・賜死したが、景倹は母の喪に服していたため連座を免れた。韋夏卿が東都を守ると、幕下に招かれた。竇群が中丞に任じられると、引き上られて監察御史となり、竇群が左遷されると、景倹もまた江陵戸曹参軍となった。累進して忠州刺史に抜擢された。元和年間(806-820)末、入朝したが用られず、また澧州刺史となった。もとより元稹・李紳と親しく、二人は翰林にあっては、景倹の才を述べていた。延英殿にて帝の言葉を奉るに及んで、景倹は自ら感情を抑えて知見を述べた。穆宗はこれを憐れんで、追って詔して倉部員外郎としたが遣されなかった。翌月、諫議大夫を拝した。性格は横柄で、酒を飲んでは気をほしいままにし、語っては宰相を攻撃したから、蕭俛・段文昌は帝に訴え、建州刺史に左遷された。元稹は君を得て、これを助けとするためにまた諌議大夫に復任した。馮宿・楊嗣復・温造・李肇らとともに史官独孤朗所にあり、景倹は酔って、中書省にいたって宰相の王播・崔植・杜元穎を慢罵し、官吏は言をしりぞけてあつく謝罪して去らせたが、結局漳州刺史に左遷された。馮宿らもみな放逐されてしまった。漳州に到着する前に、元稹が輔政し、楚州刺史に改められた。議する者は、景倹が丞相を辱め、左遷されて未だ任地に至る前に任を変更するのはよくない、といった。元稹は恐れ、少府少監に改め、馮宿らもことごとく還した。景倹は不幸にして志を得ずに卒した。しかしその人となりは財を軽んじ、義に篤かったから、没して後、士は悲嘆にくれた。 恵荘太子李撝は、もとの名を成義といった。生まれた時、武后は母親が賎しい身分であったから、他の子と同列にせず、僧万回に示したところ、万回は詭って「これは西土の樹神であり、よろしく兄弟とすべきです」と言ったから、武后は喜んで養った。垂拱三年(685-688)、始めて恒王となり、衛・趙二王と同じく封ぜられた。にわかに衡陽王に改められた。睿宗が即位すると、申王に進められ、岐・薛と二王同じく封ぜられた。累進して右衛・金吾二大将軍となり、実封は千戸に至った。司徒に進み、益州大都督を兼任し、四州の刺史となった。開元八年(720)、刺史を停め、また司徒となった。薨去し、冊書して太子位および謚を贈られ、橋陵に陪葬された。 李撝は性格は寛容で、容儀は優れて重々しかった。後嗣がなく、詔して譲皇帝(李憲)の子の李珣を後嗣とし、懐寧王とし、移して同安に封ぜられた。薨去した。天宝年間(742-756)、また譲皇帝の子の李璹を後嗣とした。 恵文太子李範は、始めの名を隆範といった。玄宗が即位すると、薛王隆業とともに帝の諱を避けて二名(隆字)を撤去した。初め鄭王となり、改めて衛王に封ぜられた。にわかに巴陵王に降封されたが、岐王に進み、太常卿・并州大都督・左羽林大将軍となった。玄宗が太平公主を誅すると、功によって封を賜り、薛王業とともに並んで五千戸となった。為州刺史を歴て、太子太傅に遷った。開元十四年(726)に薨去し、冊書して太子位および謚を贈られ、橋陵に陪葬された。帝は慟哭して、毎日の食事を下げさせること数十日に至り、群臣がしいて請うたからようやく復した。 李範は好学で、書を巧みにし、儒士を愛し、貴賎分け隔てることなく礼を尽した。閻朝隠・劉廷琦・張諤・鄭繇らとともに善くし、常に飲酒して詩を賦し互いに楽しんだ。また書画を蒐集し、皆世間に珍しいものとした。初め、隋が亡ぶと、禁内の図書は湮放し、唐が興ると募り訪れ、ようやくにしてまた出てきて秘府に納めた。長安年間(701-705)初頭、張易之が奏して天下の名工や表装職人に、密かに肖像画を模写させたが、ほとんど分けずに秘かに家に隠した。誅殺されると、ことごとく薛稷が取り出して持ち去ったが、薛稷もまた敗死すると、範がこれを入手した。後についに火事によって焼失してしまった。駙馬都尉の裴虚己は讖緯をよくし,密かに範とともに讖緯を弄んだことに連座して、嶺南に流された。劉廷琦は雅州司戸に左遷され、張諤は山茌丞となった。しかしながら帝と範の間には少しの間隙などなかった。周囲に言って「兄弟の情は天が至ったもので、我においてはどうして違うというのだろうか!争っては強いて結び付けようとしても、我はついに讖緯の助けなどいらないのだ」と。時に王毛仲らが卑賎より身分を起こしてにわかに貴族となり、諸王は見れば必ず礼を加えたが、ひとり範のみは接してももとのままであった。子の李瑾が嗣いだ。 李瑾は落ちぶれて名誉や礼法に飾らず、酒色に沈んだ。太僕卿を歴て、河東王に封じられたが、にわかに薨去し、太子少師を贈られた。天宝年間(742-756)、また薛王李業の子、略陽公李珍を嗣岐王とした。 李珍は、容貌は立派な偉丈夫で、宗正員外卿となり、蔚州鎮将の朱融と親しかった。朱融かつて珍が上皇に似ていると言ったから、そのため陰謀となり、金吾将軍の邢済のところに行って、「関外の敵は間近となったが、京師は騒々しくなっている、どうするか?」と言ったが、邢済は「私は金吾であり、天子の押衙(護衛長)である。死生をもって従うから、どうして自分だけ逃れるというのだろうか?」と言うと、朱融は「嗣岐王にまみえても深謀遠慮などないのか」と言ったから、邢済は上聞し、粛宗は詔して珍を廃して庶人とし、死を賜った。朱融の郎党は皆誅殺され、邢済は抜擢されて桂管防禦使となった。 恵宣太子李業は、始め趙王となり、中山王に降封され、都水使を授けられた。彭城にうつり、陳州別駕を兼ねた。薛王に遷り、羽林大将軍・荊州大都督となった。好学であったから秘書監を授けられた。開元年間(713-741)初頭、太子少保に進められ、太保を拝し、歴州刺史に累進した。 初め、母が早くに亡くなり、従母(ままはは)の賢妃が養った。開元八年(720)、賢妃を外邸に迎え、これに仕えるにはなはだ謹厳であった。その妹の淮陽公主・涼国公主もまた早くに卒したが、妹らの遺児の甥と自身の子を均しく育てたから、帝はますます愛した。かつて病にかかり、帝は自ら鬼神を祀って除災した。病が癒えるとその邸宅に行幸し、酒を置き詩を賦してはじめて生きる喜びとした。帝がかつて病となると、業の妃の弟の内直郎の韋賓と殿中監の皇甫恂が吉凶の事を妄言したから、韋賓は連座して死罪となり、皇甫恂は錦州刺史に左遷された。妃は恐れて、降服して罪を待ったが、業はまたあえて入謁することもなかったから、帝は聞いて、すみやかにこれを召すと、業は殿下に伏して罪を請うた。帝は走っていってその手を取って「私が兄弟を疑うようなことがあれば、天地がともにこれを咎めるだろう!」といい、ついに兄弟間の友愛に復し、よって妃を諭して復位した。にわかに司徒に進んだ。開元二十二年(734)、業は病となり、帝はこれを憂いて、一昔の容髪が一変し、よって仮眠程度となり、快方を夢見て、目覚めると業の病が少しだけよくなっていた。邠王李守礼らは請うてこの事を史官に記録させた。薨去すると、帝は悲しみのあまり食事ができなかった。冊書して加贈および謚し、橋陵に陪葬された。 十一子があり、その聞こえたる者は李瑗・李瑒・李琄がいる。帝は後に追って李業を思い、瑗らを引見しこれを慰め、詔を下して共に実封千戸を賜った。瑗を楽安王、瑒を滎陽王・宗正卿、琄を嗣薛王、鴻臚卿とした。天宝年間(742-756)、琄の舅の韋堅が李林甫のために弾劾され、連座して夷陵別駕に左遷され、夜郎・南浦に移し置かれた。安禄山の乱がおこると、京師に帰還した。 曾孫の李知柔は、王を嗣ぎ、再び宗正卿となった。しばらくして京兆尹に抜擢された。はじめ、鄭国渠・白渠がふさがり、民は年を越せなかった。知柔は長安近郊を調査し、治めて旧道を回復し、灌漑できるようになることは昔のようであり、ついに旱魃の恐れはなくなった。民は宮中に詣でて石碑を建てて功績を記すことを請うたが、知柔が固辞したから固讓どうしようもなかった。加えて検校司徒・同中書門下平章事に累進した。また詔して太廟を修造し、判度支・充諸道塩鉄転運使となった。昭宗が莎城に出ると、ひとり知柔のみが従い、乗輿の器物・料理などにわかにすべて司り、大いに細やかにすべて備わった。性格は倹約で、位は貴顕に通じていたが、邸宅に居住することがなかった。しばらくもしないうちに出て清海軍節度使に拝せられ、鎮にあっては清廉で、貢献の時に入朝し、検校太傅となり、侍中を兼ねた。仕えることおよそ四紀(48年)、常に宗室の鏡となった。鎮にて卒した。 隋王李隆悌は、始め汝南王に封ぜられた。早く薨去し、睿宗は追王し、荊州大都督を贈ったが、爵位は伝わらなかった。 賛にいわく、中宗は失道し、身は母のために廃位され、妻に弑殺され、四子もみなその終わりをよくせず、後嗣もまた伝わらなかった。ほとんど天がその徳を穢して絶やしたようなものであったが、なぜなのか?彼はもとより自ら天を絶ったに他ならないのだ。睿宗は聖子があり、一人は天命を受けて天子となり、一人は帝号を追号され、三人は太子号を贈られた。天はこの報いを与え、福は無窮に流れた。盛んなるかな! 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十 列伝第五 『新唐書』巻八十一 列伝第六 巻八十二 列伝第七
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資治通鑑巻第二百二十九 唐紀四十五 徳宗神武聖文皇帝四 建中四年(七八三) 1.十一月,丁亥,以隴州為奉義軍,擢皋為節度使。泚又使中使劉海廣許皋鳳翔節度使。皋斬之。 1.十一月丁亥、隴州を奉義軍とし、韋皋を節度使とした。朱泚はまた中使の劉海広をして韋皋の鳳翔節度使となるのを許したが、韋皋はこれを斬った。 2.靈武留後杜希全、鹽州刺史戴休顏、夏州刺史時常春會渭北節度使李建徽,合兵萬人入援,將至奉天,上召將相議道所從出。關播、渾瑊曰:「漠谷道險狹,恐為賊所邀。不若自乾陵北過,附柏城而行,營於城東北雞子堆,與城中掎角相應,且分賊勢。」盧杞曰:「漠谷路近,若為賊所邀,則城中出兵應接可也。倘出乾陵,恐驚陵寢。」瑊曰:「自泚圍城,斬乾陵松柏,以夜繼晝,其驚多矣。今城中危急,諸道救兵未至,惟希全等來,所繫非輕,若得營據要地,則泚可破也。」杞曰:「陛下行師,豈比逆賊!若令希全等過之,是自驚陵寢。」上乃命希全等自漠谷進。丙子,希全等軍至漠谷,果為賊所邀,乘高以大弩、巨石擊之,死傷甚眾。城中出兵應接,為賊所敗。是夕,四軍潰,退保邠州。泚閱其輜重於城下,從官相視失色。休顏,夏州人也。泚攻城益急,穿塹環之。泚移帳於乾陵,下視城中,動靜皆見之。時遣使環城招誘士民,笑其不識天命。 2.霊武の留後の杜希全、塩州刺史の戴休顔、夏州刺史の時常春は渭北節度使の李建徽と会し、兵を合わせて一万人で援軍に入り、奉天に入ろうとしたが、お上は将軍・宰相を召して通過すべきところを協議した。関播・渾瑊は、「漠谷は道は険しく狭く、賊に迎撃されることを恐れます。乾陵より北に通過するのにこしたことはありません。柏城に近づいて行けば、城の東北の鶏子堆に宿営し、城中と挟み撃ちにしてたがいに呼応すれば、また賊の勢いを分断することができます」と言ったが、盧杞は、「漠谷の道は近く、もし賊に迎撃されたとしても、ただちに城中から出兵すれば接敵することができます。もしも乾陵に出たならば、陵寝(帝陵と寝殿)を驚かしてしまうことを恐れます」と言った。渾瑊は、「朱泚が城を包囲すれば、乾陵の松や柏を切って、昼夜相次ぐから、陵寝を驚かすことはもっと多くなります。今城中は危急で、諸道の救兵はまだ来ていません。思うに杜希全らが来れば、将兵の士気を繋ぎ止めるに重く、もし駐屯を要衝によることができれば、ただちに朱泚を破ることができるでしょう」と言った。盧杞は、「陛下が軍と行くのに、どうして逆賊と比較することができようか!もし杜希全らが通過すれば、これより陵寝を驚かしてしまう」と言い、お上はそこで杜希全らに命じて漠谷より進ませた。丙子、杜希全らの軍は漠谷に到達したが、果たして賊に迎撃され、高いところから大弩・巨石で攻撃され、死傷者は非常に多かった。城中から出兵して接敵したが、賊に敗北した。この夜、四軍は壊滅し、退却して邠州を防衛した。朱泚はその輜重を城下で閲兵し、官吏は顔色を失った。戴休顔は夏州の人である。朱泚は攻城することますます厳しく、塹壕を掘ってこれを取り囲んだ。朱泚は本陣を乾陵に移し、上から城中を見下ろしたから、城中の動静はすべて見えた。当時、包囲下の城に使者を派遣して兵士・民衆の投降を誘ったが、笑ってその天命を知ることはなかった。 3.神策河北行營節度使李晟疾愈,聞上幸奉天,帥眾將奔命。張孝忠迫於朱滔、王武俊,倚晟為援,不欲晟行,數沮止之。晟乃留其子憑,使娶孝忠女為婦,又解玉帶賂孝忠親信,使說之。孝忠乃聽晟西歸,遣大將楊榮國將銳兵六百與晟俱。晟引兵出飛狐道,晝夜兼行,至代州。丁丑,加晟神策行營節度使。 3.神策河北行営節度使の李晟の病が癒え、お上が奉天に行幸したのを聞いて、軍を率いてまさに出動しようとした。張孝忠は朱滔・王武俊に迫って、李晟を頼って援軍としようと、李晟を行かせないように思い、しばしば行くことを阻止した。李晟はそこでその子の李憑を留めて、張孝忠の娘を娶って夫人とさせ、また玉帯をといて張孝忠に贈って信頼の証とし、これを説得させた。張孝忠はそこで李晟が西に帰ることを許し、大将の楊栄国を派遣して精兵六百を李晟とともに同行させた。李晟は兵を率いて飛狐道に出て、昼夜兼行して代州に到った。丁丑、李晟に神策行営節度使を加えた。 4.王武俊、馬寔攻趙州不克。辛巳,寔歸瀛州,武俊送之五里,犒贈甚厚。武俊亦歸恆州。 4.王武俊・馬寔は趙州を攻撃したが勝てなかった。辛巳、馬寔は瀛州に帰還し、王武俊はこれを送ること五里、贈り物は非常に厚かった。王武俊もまた恒州に帰還した。 5.上之出幸奉天也,陝虢觀察使姚明敭以軍事委都防禦副使張勸,去詣行在。勸募兵得數萬人。甲申,以勸為陝虢節度使。 5.お上が出て奉天に行幸すると、陝虢観察使の姚明敭は軍事委都防禦副使の張勧に去らせて行在に行かせた。募兵して数万人を得た。甲申、張勧を陝虢節度使とした。 6.朱泚攻圍奉天經月,城中資糧俱盡。上嘗遣健步出城覘賊,其人懇以苦寒為辭,跪奏乞一襦褲誇。上為之尋求不獲,竟憫默而遣之。時供御纔有糲米二斛,每伺賊之休息,夜,縋人於城外,采蕪菁根而進之。上召公卿將吏謂曰:「朕以不德,自陷危亡,固其宜也。公輩無罪,宜早降,以救室家。」群臣皆頓首流涕,期盡死力,故將士雖困急而銳氣不衰。 6.朱泚が奉天を攻囲すること一ヶ月、城中の資財・兵糧はともに尽きた。お上はかつて飛脚を遣わして城を出て賊を偵察させた。その人は心から寒さに苦しいことを述べて、跪いて奏じて一短衣を願った。お上はこのためにたずね求めたが得られなかったが、ついにその寒さを哀れんだが要求に答えられないままに遣わした。当時、お上の食事はわずかに糲米二斛だけで、賊が攻撃を休むのをうかがうごとに、夜に人を城外におろして、蕪菁根(大根)をとって進上した。お上は公卿・将吏を召して、「朕は不徳によって自ら危亡に陥ったが、もとよりいやはやもっともである。公らには罪はなく、よろしく速やかに降って室家を救え」と言うと、群臣は皆頓首して涙を流し、死力を尽くすことを期し、そのため将兵は困難であっても士気は衰えなかった。 上之幸奉天也,糧料使崔縱勸李懷光令入援,懷光從之。縱悉斂軍資與懷光皆來。懷光晝夜倍道,至河中,力疲,休兵三日。河中尹李齊運傾力犒宴,軍士尚欲遷延。崔縱先輦貨財渡河,謂眾曰:「至河西,悉以分賜。」眾利之,西屯蒲城,有眾五萬。齊運,惲之孫也。 お上が奉天に行幸するや、糧料使の崔縦が李懐光に勧めて援軍させた。李懐光はこれに従った。崔縦はことごとく軍資をおさめて李懐光とともに来た。李懐光は昼夜兼行して河中に到り、疲弊のため兵を三日休ませた。河中尹の李斉運は力をつくして労いの宴をしたが、軍の兵士は進軍しようと願った。崔縦はまず財貨の車を渡河させようとし、軍に、「河西に至ればすべて分配しよう」と言ったから、軍はこれに利そうとし、西は蒲城に駐屯し、軍は五万となった。李斉運は李惲の孫である。 李晟行且收兵,亦自蒲津濟,軍於東渭橋。其始有卒四千,晟善於撫御,與士卒同甘苦,人樂從之,旬月間至萬餘人。 李晟は行って兵を収め、また蒲津済より東渭橋に進軍した。最初は兵四千であったが、李晟はよく撫育し、兵士と甘苦を同じくし、人は喜んでこれ従ったから、十日ほどで一万人になった。 神策兵馬使尚可孤討李希烈,將三千人在襄陽,自武關入援,軍於七盤,敗泚將仇敬,遂取藍田。可孤,宇文部之別種也。 神策兵馬使の尚可孤は李希烈を攻撃し、三千人を率いて襄陽にあり、武関より援軍に入り、七盤に進軍したが、朱泚の将軍の仇敬忠を破り、遂に藍田を奪取した。尚可孤は宇文部の別種である。 鎮國軍副使駱元光,其先安息人,駱奉先養以為子,將兵守潼關近十年,為眾所服。朱泚遣其將何望之襲華州,刺史董晉棄州走行在。望之據其城,將聚兵以絕東道。元光引關下兵襲望之,走還長安。元光遂軍華州,召募士卒,數日,得萬餘人。泚數遣兵攻元光,元光皆擊卻之,賊由是不能東出。上即以元光為鎮國軍節度使,元光乃將兵二千西屯昭應。 鎮国軍副使の駱元光は、その先祖は安息(パルティア)の人で、駱奉先は養子とした。兵を率いて潼関を守ること十年近くとなり、そのため軍は心服していた。朱泚はその将軍の何望之を派遣して華州を襲撃し、刺史の董晋は州を棄てて行在に逃走した。何望之はその城によって、集めた兵を率いて東道を途絶させた。駱元光は潼関の兵を率いて何望之を襲撃し、長安に逃げ帰らせた。駱元光は遂に華州に進軍し、兵士を応募し、数日して一万人あまりとなった。朱泚はしばしば兵を派遣して駱元光を攻撃したが、駱元光はすべて撃退した。賊はそのため東に出ることができなくなった。お上はそこで駱元光を鎮国軍節度使とし、駱元光はそこで兵二千を率いて西は昭応に駐屯した。 馬燧遣其行軍司馬王權及其子匯將兵五千人入援,屯中渭橋。 馬燧は行軍司馬の王権、およびその子の王匯を派遣して兵五千人を率いて援軍に入らせ、中渭橋に駐屯した。 於是泚黨所據惟長安而已,援軍游騎時至望春樓下。李忠臣等屢出兵皆敗,求救於泚,泚恐民間乘弊抄之,所遣兵皆晝伏夜行。泚內以長安為憂,乃急攻奉天,使僧法堅造雲梯,高廣各數丈,裹以兕革,下施巨輪,上容壯士五百人。城中望之忷懼。上以問群臣,渾瑊、侯仲莊對曰:「臣觀雲梯勢甚重,重則易陷。臣請迎其所來鑿地道,積薪蓄火以待之。」神武軍使韓澄曰:「雲梯小伎,不足上勞聖慮,臣請御之。」乃度梯之所傃,廣城東北隅三十步,多儲膏油松脂薪葦於其上。丁亥,泚盛兵鼓噪攻南城,韓游瑰曰:「此欲分吾力也。」乃引兵嚴備東北。戊子,北風甚迅,泚推雲梯,上施濕氈,懸水囊,載壯士攻城,翼以轒轀,置人其下,抱薪負土填塹而前,矢石火炬所不能傷。賊並兵攻城東北隅,矢石如雨,城中死傷者不可勝數。賊已有登城者,上與渾瑊對泣,群臣惟仰首祝天。上以無名告身自御史大夫、實食五百戶以下千餘通授瑊,使募敢死士御之,仍賜御筆,使視其功之大小書名給之,告身不足則書其身,且曰:「今便與卿別。」瑊俯伏流涕,上拊其背,歔欷不自勝。時士卒凍餒,又乏甲冑,瑊撫諭,激以忠義,皆鼓噪力戰。瑊中流矢,進戰不輟,初不言痛。會雲梯輾地道,一輪偏陷,不能前卻,火從地中出,風勢亦回,城上人投葦炬,散松脂,沃以膏油,歡呼震地。須臾,雲梯及梯上人皆為灰燼,臭聞數里,賊乃引退。於是三門皆出兵,太子親督戰,賊徒大敗,死者數千人。將士傷者,太子親為裹瘡。入夜,泚復來攻城,矢及御前三步而墜,上大驚。 ここに朱泚の党はただ長安にのみ根拠とするだけになり、援軍の騎兵が時折望春楼下に到った。李忠臣らはしばしば兵を出したがすべて敗れ、朱泚に救援を求めた。朱泚は民間がこれに乗じて掠め取ることを恐れ、兵を派遣して昼は伏せて夜に進ませた。朱泚は心内では長安を心配の種としていたから、そこで奉天を猛攻し、僧法堅に雲梯を造らせ、高さ、幅がそれぞれ数丈、牛革で覆い、下には巨大な車輪をつくり、上には壮士五百人を収容した。城中はこれを見て恐れ慄いた。お上は群臣に対策を問うと、渾瑊・侯仲荘が、「臣が雲梯を見るに勢いは非常に重く、重いということは陷りやすいのです。臣はその来るところを迎えて道に穴掘り、薪を積んで火をつけて待ち伏せします」と答えた。神武軍使の韓澄は、「雲梯は小細工であって、聖慮を煩わすほどのものではありません。臣は防いでみせましょう」と言い、そこで雲梯が来そうなところにわたって、城の東北隅の三十歩を広げて、多くの膏油・松脂・薪葦をその上に蓄えた。丁亥、朱泚は兵を太鼓や歓声で士気を盛り上げて南城を攻撃した。韓游瑰は、「これは私の力をわけようと思う」と言い、そこで兵を率いて東北を厳重に備えた。戊子、北風が猛烈に吹き、朱泚は雲梯を押して、上は湿らせた毛布を施し、水袋を懸け、壮士を乗せて城を攻め、左右には轒轀(装甲車)を配置し、人をその下に置き、薪や土を背負って塹壕を埋めて前進し、矢・石・火・松明では傷つけることができなかった。賊は兵を列べて城の東北隅を攻撃し、矢や石は雨のようで、城中の死傷者は数えられなかった。賊にはすでに城に登る者がいて、上と渾瑊は向かい合って泣き、群臣はただ首を仰いで天を呪った。お上は無名告身で御史大夫より実食五百戸以下の千通あまりを渾瑊に授け、募集した決死隊を率いさせ、そこで御筆を賜い、その功績の大小を見て名を書いてこれを給付し、告身が足りなければただちに書いた。そして「今は卿との別れだな」と言い、渾瑊は俯いて涙を流した。お上はその背中をなで、悲しみの泣き声を自分ではどうすることもできなかった。当時、将兵は凍えて飢え、また甲冑は乏しく、渾瑊は説諭し、忠義を演説し、みな太鼓・歓声をあげて力戦した。渾瑊は流矢があたり、戦いを進めてやめず、痛いと言わなかった。雲梯が地道に転がると一つの車輪が炎上し、進むことも退くこともできず、火は地中から出て、風で火の勢いがまわり、城上の人も松明を投げ、松脂を散らし、膏油を浴びせ、歓呼が地を震った。しばらくの間、雲梯とその上の人はすべて灰燼と化し、臭いや音が数里にわたり、賊はそこで撤退した。ここに三門からすべて兵を出し、太子は自ら督戦し、賊徒は大いに敗れ、死者数千人となった。将兵で傷ついだ者は、太子が親ら包帯した。夜になると朱泚はまた攻城に来て、矢が御前の三歩前で落ち、お上は大いに驚いた。 李懷光自蒲城引兵趣涇陽,並北山而西,先遣兵馬使張韶微服間行詣行在,藏表於蠟丸。韶至奉天,值賊方攻城,見韶,以為賤人,驅之使與民俱填塹。韶得間,逾塹抵城下呼曰:「我朔方軍使者也。」城上人下繩引之,比登,身中數十矢,得表於衣中而進之。上大喜,舁韶以徇城,四隅歡聲如雷。癸巳,懷光敗泚兵於澧泉。泚聞之懼,引兵遁歸長安。眾以為懷光復三日不至,則城不守矣。 李懐光は蒲城より兵を率いて涇陽に行き、北山に列んで西にいたった。兵馬使の張韶を密かに服を変えて行在に先発させ、上表を蝋で丸めて隠した。張韶が奉天に来ると、賊がまさに城を攻めようとしているのに出会い、張韶を見て、賎人だと思って、これを使役して他の民衆とともに塹壕を埋めさせた。張韶が隙きを見て、塹壕を越えて城下に到って、「私は朔方軍の使者だ」と叫び、城上の人は縄をおろしてこれを引っ張り上げた。登る時、身に数十の矢があたり、上表を衣の中から出して進上した。お上は大いに喜び、張韶を担いで城を巡らせ、四隅に歓声がおきることは雷のようであった。癸巳、李懐光は朱泚の兵を澧泉で破った。朱泚はこれを聞いて恐れ、兵を撤退して長安に逃げ帰った。軍は李懐光のために二・三日しても至らず、そこで城は守りを解いた。 泚既退,從臣皆賀。汴滑行營兵馬使賈隱林進言曰:「陛下性太急,不能容物,若此性未改,雖朱泚敗亡,憂未艾也!」上不以為忤,甚稱之。侍御史万俟著開金、商運路,重圍既解,諸道貢賦繼至,用度始振。 朱泚が退却すると、群臣は皆祝賀した。汴滑行営兵馬使の賈隠林は、「陛下は性格が非常に性急で、器量が大きくすることができません。もしこの性格が改まらなければ、朱泚が敗れ滅んだとしても、憂いは未だに収まらないのです!」と進言し、上はさからわず、非常にこれを称えた。侍御史の万俟著が金州・商州の運路を開き、重囲がすでに解囲したから、諸道の貢賦は相継いで到り、費用ははじめて振った。 朱泚至長安,但為城守之計,時遣人自城外來,周走呼曰:「奉天破矣!」欲以惑眾。泚既據府庫之富,不愛金帛以悅將士,公卿家屬在城者皆給月俸。神策及六軍從車駕及哥舒曜、李晟者,泚皆給其家糧。加以繕完器械,日費甚廣。及長安平,府庫尚有餘蓄,見者皆追怨有司之暴斂焉。 朱泚が長安に到ると、城を守る計略のため、当時人を城の外より遣わして来て、周囲を走って、「奉天を破ったぞ!」と叫ばせ、衆を惑せようとした。朱泚はすでに府庫の富によっていたが、金帛を愛さずに将兵を喜ばせることに用い、公卿の家属で城にいる者は皆月俸を給付した。神策および六軍で車駕および哥舒曜・李晟に従う者は、朱泚が皆その家の食料を給付した。それだけではなく攻城用の器械を建造・修築し、日々の費えは非常に多かった。長安が平定されると、府庫にはなおも余剰の備蓄があったが、見る者は皆追って役人の苛斂誅求があることを恨んだ。 或謂泚曰:「陛下既受命,唐之陵庫不宜復存。」泚曰:「朕嘗北面事唐,豈忍為此!」又曰:「百官多缺,請以兵脅士人補之。」泚曰:「強授之則人懼。但欲仕者則與之,何必叩戶拜官邪!」所用者惟范陽、神策團練兵。涇原卒驕,皆不為用,但守其所掠資貨,不肯出戰。又密謀殺泚,不果而止。 ある者が朱泚に、「陛下はすでに天命を受けられました。唐の陵庫は存在させておくべきではありません」と言ったが、朱泚は、「朕はかつて北面して唐に仕えたから、どうしてこのようなことができようか!」と言った。また、「百官は欠員が多く、兵で士人を脅して補充しましょう」と言ったが、朱泚は、「強制してこれを授けても人は恐れるだけだ。ただ仕えたいと思う者にこれを与えよう。どうして必ず戸を叩いて官を拝命することがあろうか!」と言った。用いた者はただ范陽・神策団練兵であった。涇原の兵卒は驕慢で、すべて用いなかった。ただその略奪した財貨を守るだけで、戦いに出ることをよしとしなかった。また密かに朱泚を謀殺しようとし、果さずに止めた。 李懷光性粗疏,自山東來赴難,數與人言盧杞、趙贊、白志貞之奸佞,且曰:「天下之亂,皆此曹所為也!吾見上,當請誅之。」既解奉天之圍,自矜其功,謂上必接以殊禮。或說王翃、趙贊曰:「懷光緣道憤歎,以為宰相謀議乖方,度支賦斂煩重,京尹犒賜刻薄。致乘輿播遷者,三臣之罪也。今懷光新立大功,上必披襟布誠,詢訪得失,使其言入,豈不殆哉!」翃、贊以告盧杞。杞懼,從容言於上曰:「懷光勳業,社稷是賴,賊徒破膽,皆無守心,若使之乘勝取長安,則一舉可以滅賊,此破竹之勢也,今聽其入朝,必當賜宴,留連累日,使賊入京城,得從容成備,恐難圖矣!」上以為然。詔懷光直引軍屯便橋,與李建徽、李晟及神策兵馬使楊惠元刻期共取長安。懷光自以數千里竭誠赴難,破朱泚,解重圍,而咫尺不得見天子,意殊怏怏,曰:「吾今已為奸臣所排,事可知矣!」遂引兵去,至魯店,留二日乃行。 懐光は人となりは荒く片意地を張っており、山東よりやって来て難に赴いたが、しばしば人と盧杞・趙賛・白志貞の奸佞を言って、また「天下が乱れたのはすべて小奴らのせいである!私がお上に謁見したら、ただちに誅殺を願い出よう」と言っていた。すでに奉天の包囲が解かれると、自らその功績をたのみ、お上が必ずや接して礼をあつくされると言っていた。ある者が王翃・趙賛に、「李懐光は憤慨を言っており、宰相の謀議は方策にそむき、度支の納税は煩わしく、京兆尹の贈り物は刻薄である。乘輿をさまよわせたのは、三臣の罪である。今李懐光は新たに大功を立て、お上は必ずや襟をひらいて誠を述べさせ、得失を尋ねられるから、その言を入れられれば、なんと危ういことだろうか!」と説いて、王翃・趙賛はそのことを盧杞に告げた。盧杞は恐れ、従容としてお上に、「李懐光の勲功の業績は、社稷が頼りとすることころで、賊徒は肝を破り、皆心を守ることはできません。もし李懐光に勝利の乗じて長安を奪取させれば、一挙に賊を滅ぼすことができます。これは破竹の勢いです。今その入朝を聴せば、必ずや賜宴となり、連日留まって、賊を京城に入れさせ、防備させてしまいます。そうすればついには何もできなくなってしまいます!」と言い、お上もそうだと思った。李懐光に詔して、直ちに軍を引き返して便橋に駐屯させ、李建徽・李晟および神策兵馬使の楊恵元とともに急いで共に長安を奪取させようとした。李懐光は自ら数千里を進み誠をつくして艱難に赴き、朱泚を破り、重囲を解いたのに、すぐ近くにいるのに天子に謁見できず、意はことさらに怏々とし、「私は今もう奸臣のために排斥された。この事は知るべきだ!」と言い、遂に兵を引き上げて去り、魯店に到って、二日留まってから行った。 7.劍南西山兵馬使張朏以所部兵作亂,入成都,西川節度使張延賞棄城奔漢州。鹿頭戍將叱干遂等討之,斬朏及其黨,延賞復歸成都。 7.剣南西山兵馬使の張朏が配下の兵に擁立されて反乱を起こし、成都に入った。西川節度使の張延賞は城を棄てて漢州に逃げた。鹿頭の守将の叱干遂らはこれを討伐し、張朏およびその与党を斬り、張延賞は再び成都に帰った。 8.淮南節度使陳少游將兵討李希烈,屯盱眙,聞朱泚作亂,歸廣陵,修塹壘,繕甲兵。浙江東、西節度使韓滉閉關梁,禁馬牛出境,築石頭城,穿井近百所,繕館第數十,修塢壁,起建業,抵京峴,樓堞相屬,以備車駕渡江,且自固也。少游發兵三千大閱於江北。滉亦發舟師三千曜武於京江以應之。 8.淮南節度使の陳少游は兵を率いて李希烈を討伐し、盱眙に駐屯した。朱泚が反乱したのを聞いて、広陵に戻り、塹壕・堡塁を修造し、甲兵を整えた。浙江東西節度使の韓滉が関梁を閉鎖し、馬牛が境を出るのを禁じ、石頭城を築城し、井を近くに百箇所掘り、邸宅数十を修繕し、塢壁を修造し、建業より京峴山まで、楼・姫垣が続き、車駕が江を渡るのに備えて、また自ら守りを固めた。陳少游は兵三千を発して大いに江北で閲兵した。韓滉もまた水軍三千を発して京江で威武してこれに応じた。 鹽鐵使包佶有錢帛八百萬、將輸京師。陳少游以為賊據長安,未期收復,欲強取之。佶不可,少游欲殺之。佶懼,匿妻子於案牘中,急濟江。少游悉收其錢帛。佶有守財卒三千,少游亦奪之。佶纔與數十人俱至上元,復為韓滉所奪。 塩鉄使の包佶は銭帛八百万を京師に運ぼうとした。陳少游は賊が長安によっていて、いまだ納めるべき時ではないとして、これを強奪しようとした。佶は拒んだから、陳少游は殺そうとした。包佶は恐れ、妻子を公文書の中に隠し、急いで江を渡った。陳少游はことごとくその銭帛を収容した。包佶は財を守る兵三千いたが、陳少游はまたこれも奪った。包佶はわずかに数十人とともに上元に到ったが、また韓滉に奪われた。 時南方籓鎮各閉境自守,惟曹王皋數遣使開道貢獻。李希烈攻逼汴、鄭,江、淮路絕,朝貢皆自宣、饒、荊、襄趣武關。皋治郵驛,平道路,由是往來之使,通行無阻。 当時、南方の藩鎮はそれぞれ境を閉ざして自ら守り、ただ曹王皋のみがしばしば使者を派遣して道を開いて貢献した。李希烈は攻めて汴州・鄭州・江州・淮州の路を閉ざし、朝貢はすべて宣州・饒州・荊州・襄州より武関に赴いた。曹王皋は郵駅を治め、道路を平らげたから、これより往来の使は、通行が阻まれることはなかった。 9.上問陸贄以當今切務。贄以曏日致亂,由上下之情不通,勸上接下從諫,乃上疏,其略曰:「臣謂當今急務,在於審察群情,若群情之所甚欲者,陛下先行之;所甚惡者,陛下先去之。欲惡與天下同而天下不歸者,自古及今,未之有也。未理亂之本,繫於人心,況乎當變故動搖之時,在危疑向背之際,人之所歸則植,人之所在則傾,陛下安可不審察群情,同其欲惡,使億兆歸趣,以靖邦家乎!此誠當今之所急也。」又曰:「頃者竊聞輿議,頗究群情,四方則患於中外意乖,百辟又患於君臣道隔。郡國之志不達於朝廷,朝廷之誠不升於軒陛。上澤闕於下布,下情壅於上聞,實事不必知,知事不必實,上下否隔於其際,真偽雜糅於其間,聚怨囂囂,騰謗籍籍,欲無疑阻,其可得乎!」又曰:「總天下之智以助聰明,順天下之心以施教令,則君臣同志,何有不從!遠邇歸心,孰與為亂!」又曰:「慮有愚而近道,事有要而似迂。」疏奏旬日,上無所施行,亦不詰問。贄又上疏,其略曰:「臣聞立國之本,在乎得眾,得眾之要,在乎見情。故仲尼以謂人情者聖王之田,言理道所生也。」又曰:「《易》,乾下坤上曰泰,坤下乾上曰否,損上益下曰益,損下益上曰損。夫天在下而地處上,於位乖矣,而反謂之泰者,上下交故也。君在上而臣處下,於義順矣,而反謂之否者,上下不交故也。上約己而裕於人,人必悅而奉上矣,豈不謂之益乎!上蔑人而肆諸己,人必怨而叛上矣,豈不謂之損乎!」又曰:「舟即君道,水即人情。舟順水之道乃浮,違則沒;君得人之情乃固,失則危。是以古先聖王之居人上也,必以其欲從天下之心,而不敢以天下之人從其欲。」又曰:「陛下憤習俗以妨理,任削平而在躬,以明威照臨,以嚴法制斷,流弊自久,浚恆太深。遠者驚疑而阻命逃死之亂作,近者畏懾而偷容避罪之態生。君臣意乖,上下情隔,君務致理,而下防誅夷,臣將納忠,又上慮欺誕,故睿誠不佈於群物,物情不達於睿聰。臣於往年曾任御史,獲奉朝謁,僅欲半年,陛下嚴邃高居,未嘗降旨臨問,群臣跼蹐趨退,亦不列事奏陳。軒墀之間,且未相諭,宇宙之廣,何由自通!雖復例對使臣,別延宰輔,既殊師錫,且異公言。未行者則戒以樞密勿論,已行者又謂之遂事不諫,漸生拘礙,動涉猜嫌,由是人各隱情,以言為諱,至於變亂將起,億兆同憂,獨陛下恬然不知,方謂太平可致。陛下以今日之所睹驗往時之所聞,孰真孰虛,何得何失,則事之通塞備詳之矣!人之情偽盡知之矣!」 上乃遣中使諭之曰:「朕本性甚好推誠,亦能納諫。將謂君臣一體,全不堤防,緣推誠信不疑,多被奸人賣弄。今所致患害,朕思亦無它,其失反在推誠。又,諫官論事,少能慎密,例自矜衒,歸過於朕以自取名。朕從即位以來,見奏對論事者甚多,大抵皆是雷同,道聽塗說,試加質問,遽即辭窮。若有奇才異能,在朕豈惜拔擢?朕見從前已來,事只如此,所以近來不多取次對人,亦非倦於接納。卿宜深悉此意。」贄以人君臨下,當以誠信為本。諫者雖辭情鄙拙,亦當優容以開言路,若震之以威,折之以辯,則臣下何敢盡言,乃復上疏,其略曰:「天子之道,與天同方,天不以地有惡木而廢發生,天子不以時有小人而廢聽納。」又曰:「唯信與誠,有失無補。一不誠則心莫之保,一不信則言莫之行。陛下所謂失於誠信以致患害者,臣竊以斯言為過矣。」又曰:「馭之以智則人詐,示之以疑則人偷。上行之則下從之,上施之則下報之。若誠不盡於己而望盡於人,眾必怠而不從矣。不誠於前而曰誠於後,眾心疑而不信矣。是知誠信之道,不可斯須而去身。願陛下慎守而行之有加,恐非所以為悔者也!」又曰:「臣聞仲虺讚揚成湯,不稱其無過而稱其改過;吉甫歌誦周宣,不美其無闕而美其補闕。是則聖賢之意較然著明,惟以改過為能,不以無過為貴。蓋為人之行己,必有過差,上智下愚,俱所不免,智者改過而遷善,愚者恥過而遂非;遷善則其德日新,遂非則其惡彌積。」又曰:「諫官不密自矜,信非忠厚,其於聖德固亦無虧。陛下若納諫不違,則傳之適足增美;陛下若違諫不納,又安能禁之勿傳!」又曰:「侈言無驗不必用,質言當理不必違。辭拙而效速者不必愚,言甘而利重者不必智。是皆考之以實,慮之以終,其用無它,唯善所在。」又曰:「陛下所謂『比見奏對論事皆是雷同道聽塗說者』。臣竊以眾多之議,足見人情,必有可行,亦有可畏,恐不宜一概輕侮而莫之省納也。陛下又謂『試加質問,即便辭窮』者,臣但以陛下雖窮其辭而未窮其理,能服其口而未服其心。」又曰:「為下者莫不願忠,為上者莫不求理。然而下每苦上之不理,上每苦下之不忠。若是者何?兩情不通故也。下之情莫不願達於上,上之情莫不求知於下,然而下恆苦上之難達,上恆苦下之難知。若是者何?九弊不去故也。所謂九弊者,上有其六而下有其三:好勝人,恥聞過,騁辯給,眩聰明,厲威嚴,恣強愎,此六者,君上之弊也;諂諛,顧望,畏心耎,此三者,臣下之弊也。上好勝必甘於佞辭,上恥過必忌於直諫,如是則下之諂諛者順旨而忠實之語不聞矣。上騁辯必剿說而折人以言,上眩明必臆度而虞人以詐,如是則下之顧望者自便而切磨之辭不盡矣。上厲威必不能降情以接物,上恣愎必不能引咎以受規,如是則下之畏心耎者避辜而情理之說不申矣。夫以區域之廣大,生靈之眾多,宮闕之重深,高卑之限隔,自黎獻而上,獲睹至尊之光景者,逾億兆而無一焉;就獲睹之中得接言議者,又千萬不一;幸而得接者,猶有九弊居其間,則上下之情所通鮮矣。上情不通於下則人惑,下情不通於上則君疑。疑則不納其誠,惑則不從其令。誠而不見納則應之以悖,令而不見從則加之以刑。下悖上刑,不敗何待!是使亂多理少,從古以然。」又曰:「昔趙武吶吶而為晉賢臣,絳侯木訥而為漢元輔。然則口給者事或非信,辭屈者理或未窮。人之難知,堯、舜所病,胡可以一洲一詰而謂盡其能哉!以此察天下之情,固多失實,以此輕天下之士,必有遺才。」又曰:「諫者多,表我之能好;諫者直,示我之能容;諫者之狂誣,明我之能恕;諫者之漏洩,彰我之能從。有一於斯,皆為盛德。是則人君之與諫者交相益之道也。諫者有爵賞之利,君亦有理安之利;諫者得獻替之名,君亦得採納之名。然猶諫者有失中而君無不美,唯恐讜言之不切,天下之不聞,如此則納諫之德光矣。」上頗採用其言。 10.李懷光頓兵不進,數上表暴揚盧杞等罪惡。眾論喧騰,亦咎杞等。上不得已,十二月,壬戌,貶杞為新州司馬,白志貞為恩州司馬,趙贊為播州司馬。宦者翟文秀,上所信任也,懷光又言其罪,上亦為殺之。 10.李懐光はにわかに兵を進ませず、しばしば上表して盧杞らの罪悪を暴いた。衆は論争して喧々諤々となり、また盧杞らを咎めた。お上はやむをえず、十二月壬戌、盧杞を新州司馬に、白志貞を恩州司馬に、趙賛を播州司馬に左遷した。宦官の翟文秀はお上の信任されるところであったが、李懐光がまたその罪を言上したから、お上はまた翟文秀を殺した。 11.乙丑,以翰林學士、祠部員外郎陸贄為考功郎中,金部員外郎吳通微為職方郎中。贄上奏,辭以「初到奉天,扈從將吏例加兩階,今翰林獨遷官。夫行罰先貴近而後卑遠,則令不犯;行賞先卑遠而後貴近,則功不遺。望先錄大勞,次遍群品,則臣亦不敢獨辭。」上不許。 12.上在奉天,使人說田悅、王武俊、李納,赦其罪,厚賂以官爵。悅等皆密歸款,而猶未敢絕朱滔,各稱王如故。滔使其虎牙將軍王郅說悅曰:「日者八郎有急,滔與趙王不敢愛其死,竭力赴救,幸而解圍。今太尉三兄受命關中,滔欲與回紇共往助之,願八郎治兵,與滔渡河共取大梁。」悅心不欲行而未忍絕滔,乃許之。滔復遣其內史舍人李琯見悅,審其可否,悅猶豫不決,密召扈崿等議之。司武侍郎許士則曰:「朱滔昔事李懷仙為牙將,與兄泚及朱希彩共殺懷仙而立希彩。希彩所以寵信其兄弟至矣,滔又與判官李子瑗謀殺希彩而立泚。泚既為帥,滔乃勸泚入朝而自為留後,雖勸以忠義,實奪之權也。平生與之同謀共功如李子瑗之徒,負而殺之者二十餘人。今又與泚東西相應,使滔得志,泚亦不為所容,況同盟乎!滔為人如此。大王何從得其肺腑而信之邪!彼引幽陵回紇十萬之兵屯於郊坰,大王出迎,則成擒矣。彼囚大王,兼魏國之兵,南向渡河,與關中相應,天下其孰能當之!大王於時悔之無及。為大王計,不若陽許偕行而陰為之備,厚加迎勞,至則托以它故,遣將分兵而隨之,如此,大王外不失報德之名而內無倉猝之憂矣。」扈崿等皆以為然。王武俊聞李琯適魏,遣其司刑員外郎田秀馳見悅曰:「武俊曏以宰相處事失宜,恐禍及身,又八郎困於重圍,故與滔合兵救之。今天子方在隱憂,以德綏我,我曹何得不悔過而歸之邪!捨九葉天子不事而事泚及滔乎!且泚未稱帝之時,滔與我曹比肩為王,固已輕我曹矣。況使之南平汴、洛,與泚連衡,吾屬皆為虜矣!八郎慎勿與之俱南,但閉城拒守。武俊請伺其隙,連昭義之兵,擊而滅之,與八郎再清河朔,復為節度使,共事天子,不亦善乎!」悅意遂決,紿滔云:「從行,必如前約。」丁卯,滔將范陽步騎五萬人,私從者復萬餘人,回紇三千人,發河間而南,輜重首尾四十里。 12.お上は奉天にいて、使者に田悦・王武俊・李納を説得してその罪を赦し、あつく官爵を贈った。田悦らは皆密かに帰順を約束したが、なおいまだに朱滔とは関係を断たず、それぞれが王号を称することはもとのようであった。朱滔はその虎牙将軍の王郅をして田悦に説いて、「日頃は八郎(田悦)に急事があれば、滔と趙王はあえてその死をよしとせず、力をつくして救援に赴き、幸いにも解囲された。今、太尉三兄(朱泚)は関中で受命し、滔は回紇とともに行ってこれを助けようと思ったが、八郎が兵を治めることを願ったから、滔とともに河を渡って共に大梁を取ろうではないか」と言った。田悦は内心では行こうとは思わなかったが、未だに朱滔との関係を断つのに忍びず、そこでこれを許した。朱滔はまたその内史舎人の李琯を遣わして田悦に会見させ、その可否を詳らかにさせた。田悦はなお躊躇して決めなかった。密かに扈崿らを召してこれを議した。司武侍郎の許士則は、「朱滔は昔、李懐仙に仕えて牙将となり、兄の朱泚および朱希彩とともに李懐仙を殺して朱希彩を擁立しました。朱希彩はだからその兄弟を寵信するに到ったのです。朱滔はまた判官の李子瑗とともに朱希彩を謀殺して朱泚を擁立し、朱泚が帥となりましたが、朱滔はそこで朱泚に入朝を勧めて自身は留後となり、忠義を勧めたとはいえ、その実は権力を奪ったのです。平生より朱滔と謀を同じくして功績を共にしても李子瑗の徒のようになり、負けてこれを殺す者は二十人あまり。今また朱泚と東西で相互し、朱滔をして志を得れば、朱泚もまた入れるところではありません。ましてや同盟なんてことならどうでしょうか!朱滔の人となりはこのようなのです。大王はどうしてその心服を得てからこれを信じるのに従うことができましょうか!彼は幽陵・回紇の十万の兵を率いて郊坰に駐屯し、大王が出迎えると、そこで捕虜となるでしょう。彼は大王を捕らえ、魏国の兵を兼ね、南は渡河に向かい、関中とともに相互して、天下それに対してどうしてこれに対応することができましょうか!大王その時にこれを悔やんでも遅いのです。大王の計として、表向きは共に行くことを許して、裏ではこれに備えとするのにこしたことはなく、厚く送迎を行い、至ればそこで他の理由をつけて、将軍を派遣して兵を分割して従います。このようにすれば、大王は外部からは徳に報いるの名声を失わず、しかし内では争乱の心配がなくなります」と言い、扈崿らは皆そうだと思った。王武俊は李琯が魏に行ったのを聞いて、その司刑員外郎の田秀を派遣して急いで田悦に会見して、「王武俊は前に宰相のせいで信任を失い、禍が身に及ぶことを恐れて、また八郎は重囲に悩み、そのため朱滔と兵を合わせてこれを救いました。今、天子はまさに隠れ憂いのため、徳によって我らを安んじましたが、私とあなたはどうして悔い改めずに帰順することができましょうか!九葉の天子を捨てて仕えず、朱泚および朱滔に仕えるのですか!かつ朱泚がまだ帝を称していない時に、朱滔と我らは比肩して王となり、もとよりすでに私とあなたは軽んじられています。ましてや南は汴州・洛州を平らげて朱泚と連衡すれば、私とあなたは捕虜となるでしょう!八郎は慎んでこれとともに南を領有することなく、かつ城を閉ざして守りを防ぎます。王武俊はその隙を窺うようお願います。昭義の兵を引き連れて、攻撃してこれを滅ぼせば、八郎とともに再び河朔を清めて河朔を極めて南に行き、再び節度使となり、共に天子に仕えるのは、良いことではないのでしょうか不亦善乎!」田悦は遂に意を決し、朱滔を欺いて、「行くのに従います。必ず前の約束の通りとしましょう」と言った。丁卯、朱滔は范陽の歩騎五万人を率いて、私の従者二万人あまり、回紇三千人を率いて、河間に到ってから南に行き、輜重は最初から最後まで四十里であった。 李希烈攻李勉於汴州,驅民運土木,築壘道,以攻城。忿其未就,並人填之,謂之濕薪。勉城守累月,外救不至,將其眾萬餘人奔宋州。庚午,希烈陷大梁。滑州刺史李澄以城降希烈,希烈以澄為尚書令兼永平節度使。勉上表請罪,上謂其使者曰:「朕猶失守宗廟,勉宜自安。」待之如初。 劉洽遣其將高翼將精兵五千保襄邑,希烈攻拔之,翼赴水死。希烈乘勝攻寧陵,江、淮大震。陳少游遣參謀溫述送款於希烈曰:「濠、壽、舒、廬,已令馳備,韜戈卷甲,伏俟指麾。」又遣巡官趙詵結李納於鄆州。 中書侍郎、同平章事關播罷為刑部尚書。 以給事中孔巢父為淄青宣慰使,國子祭酒董晉為河北宣慰使。 陸贄言於上曰:「今盜遍天下,輿駕播遷,陛下宜痛自引過以感人心。昔成湯以罪己勃興,楚昭以善言復國。陛下誠能不吝改過,以言射天下,使書詔開所避忌,臣雖愚陋,可以仰副聖情,庶令反側之徒革心向化。」上然之,故奉天所下書詔,雖驕將悍卒聞之,無不感激揮涕。 術者上言:「國家厄運,宜有變更以應時數。」群臣請更加尊號一二字。上以問陸贄,贄上奏,以為不可,其略曰:「尊號之興,本非古制。行於安泰之日,已累謙沖,襲乎喪亂之時,尤傷事體。」又曰:「贏秦德衰,兼皇與帝,始總稱之。流及後代,昏僻之君,乃有聖劉、天元之號。是知人主輕重,不在名稱。損之有謙光稽古之善,崇之獲矜能納諂之譏。」又曰:「必也俯稽術數,須有變更,與其增美稱而失人心,不若黜舊號以祗天戒。」上納其言,但改年號而已。上又以中書所撰赦文示贄,贄上言,以為:「動人以言,所感已淺,言又不切,人誰肯懷!今茲德音,悔過之意不得不深,引咎之辭不得不盡,洗刷疵垢,宣暢鬱堙,使人人各得所欲,則何有不從者乎!應須改革事條,謹具別狀同進。捨此之外,尚有所虞。竊以知過非難,改過為難;言善非難,行善為難。假使赦文至精,止於知過言善,猶願聖慮更思所難。」上然之。 徳宗神武聖文皇帝四 興元元年(甲子、七八四年) 1.春,正月,癸酉朔,赦天下,改元。制曰:「致理興化,必在推誠;忘己濟人,不吝改過。朕嗣服丕構,君臨萬邦,失守宗祧,越在草莽。不念率德,誠莫追於既往;永言思咎,期有復於將來。明征其義,以示天下。 「小子懼德不嗣,罔敢怠荒,然以長於深宮之中,暗於經國之務,積習易溺,居安忘危,不知稼穡之艱難,不恤征戍之勞苦,澤靡下究,情未上通,事既擁隔,人懷疑阻。猶昧省己,遂用興戎,征師四方,轉餉千里,賦車籍馬,遠近騷然,行繼居送,眾庶勞止,或一日屢交鋒刃,或連年不解甲冑。祀奠乏主,室家靡依,死生流離,怨氣凝結,力役不息,田萊多荒。暴令峻於誅求,疲□空於杼軸,轉死溝壑,離去鄉閭,邑裡丘墟,人煙斷絕。天譴於上而朕不寤,人怨於下而朕不知,馴致亂階,變興都邑,萬品失序,九廟震驚,上累於祖宗,下負於蒸庶,痛心靦貌,罪實在予,永言愧悼,若墜泉谷。自今中外所上書奏,不得更言『聖神文武』之號。「李希烈、田悅、王武俊、李納等,鹹以勳舊,各守籓維,聯撫馭乖方,致其疑懼;皆由上失其道而下罹其災,朕實不君,人則何罪!宜並所管將吏等一切待之如初。 「朱滔雖緣朱泚連坐,路遠必不同謀,念其舊勳,務在弘貸,如能效順,亦與惟新。 「朱泚反易天常,盜竊名器,暴犯陵寢,所不忍言,獲罪祖宗,朕不敢赦。其脅從將吏百姓等,但官軍未到京城以前,去逆效順並散歸本道、本軍者,並從赦例。 「諸軍、諸道應赴奉天及進收京城將士,並賜名奉天定難功臣。其所加墊陌錢、稅間架、竹、木、茶、漆、榷鐵之類,悉宜停罷。」 赦下,四方人心大悅。及上還長安明年,李抱真入朝為上言:「山東宣佈赦書,士卒皆感泣,臣見人情如此,知賊不足平也!」 2.命兵部員外郎李充為恆冀宣慰使。 3.朱泚更國號曰漢,自稱漢元天皇,改元天皇。 3.朱泚は国号を改めて漢といい、自ら漢元天皇と称し、天皇と改元した。 4.王武俊、田悅、李納見赦令,皆去王號,上表謝罪。惟李希烈自恃兵強財富,遂謀稱帝,遣人問儀於顏真卿,真卿曰:「老夫嘗為禮官,所記惟諸侯朝天子禮耳!」希烈遂即皇帝位,國號大楚,改元武成。置百官,以其黨鄭賁為侍中,孫廣為中書令,李緩、李元平同平章事。以汴州為在梁府,分其境內為四節度。希烈遣其將辛景臻謂顏真卿曰:「不能屈節,當自焚!」積薪灌油於其庭。真卿趨赴火,景臻遽止之。 希烈又遣其將楊峰繼赦賜陳少游及壽州刺史張建封。建封執峰徇於軍,腰斬於市,少游聞之駭懼。建封具以少游與希烈交通之狀聞,上悅,以建封為濠、壽、廬三州都團練使。希烈乃以其將杜少誠為淮南節度使,使將步騎萬餘人先取壽州,後之江都,建封遣其將賀蘭元均、邵怡守霍丘秋柵。少誠竟不能過,遂南寇蘄、黃,欲斷江路,時上命包佶自督江、淮財賦,溯江詣行在。至蘄口,遇少誠入寇。曹王皋遣蘄州刺史伊慎將兵七千拒之,戰於永安戍,大破之,少誠脫身走,斬首萬級,包佶乃得前。後佶入朝,具奏陳少游奪財賦事。少游懼,厚斂所部以償之。李希烈以夏口上流要地,使其驍將董侍募死士七千人襲鄂州,刺史李兼偃旗臥鼓閉門以待之。侍撤屋材以焚門,兼帥士卒出戰,大破之。上以兼為鄂、岳、沔都團練使。於是希烈東畏曹王皋,西畏李兼,不敢復有窺江、淮之志矣。 5.朱滔引兵入趙境,王武俊大具犒享。入魏境,田悅供承倍豐,使者迎候,相望於道。丁丑,滔至永濟,遣王郅見悅,約會館陶,偕行渡河。悅見郅曰:「悅固願從五兄南行,昨日將出軍,將士勒兵不聽悅出,曰:國兵新破,戰守逾年,資儲竭矣。今將士不免凍餒,何以全軍遠征!大王日自撫循,猶不能安,若捨城邑而去,朝出,暮必有變!』悅之志非敢有貳也,如將士何!已令孟祐備步騎五千,從五兄供芻牧之役。」因遣其司禮侍郎裴抗等往謝滔。滔聞之,大怒曰:「田悅逆賊,曏在重圍,命如絲發,使我叛君棄兄,發兵晝夜赴之,幸而得存。許我貝州,我辭不取;尊我為天子,我辭不受,今乃負恩,誤我遠來,飾辭不出!」即日,遣馬寔攻宗城、經城,楊榮國攻冠氏,皆拔之。又縱回紇掠館陶頓幄帟、器皿、車、牛以去。悅閉城自守。壬午,滔遣裴抗等還,分兵置吏守平恩、永濟。 6.丙戌,以吏部侍郎盧翰為兵部侍郎、同平章事。翰,義僖之七世孫也。 7.朱滔引兵北圍貝州,引水環之,刺史刑曹俊嬰城拒守。縱范陽及回紇兵大掠諸縣,又拔武城,通德、棣二州,使給軍食。遣馬寔將步騎五千屯冠氏以逼魏州。 8.以給事中杜黃裳為江淮宣慰副使。 9.上於行宮廡下貯諸道貢獻之物,榜曰瓊林大盈庫。陸贄以為戰守之功,賞賚未行而遽私別庫,則士卒怨望,無復鬥志,上疏諫,其略曰:「天子與天同德,以四海為家,何必橈廢公方,崇聚私貨!降至尊而代有司之守,辱萬乘以效匹夫之藏,虧法失人,誘姦聚怨,以斯制事,豈不過哉!」又曰:「頃者六師初降,百物無儲,外扞兇徒,內防危堞,晝夜不息,迨將五旬,凍餒交侵,死傷相枕,畢命同力,竟夷大艱。良以陛下不厚其身,不私其欲,絕甘以同卒伍,輟食以啖功勞。無猛制而人不攜,懷所感也;無厚賞而人不怨,悉所無也。今者攻圍已解,衣食已豐,而謠讟方興,軍情稍阻,豈不以勇夫恆性,嗜利矜功,其患難既與之同憂,而好樂不與之同利,苟異恬默,能無怨咨!」又曰:「陛下誠能近想重圍之殷憂,追戒平居之專欲,凡在二庫貨賄,盡令出賜有功,每獲珍華,先給軍賞,如此,則亂必靖,賊必平,徐駕六龍,旋復都邑,天子之貴,豈當憂貧!是乃散其小儲而成其大儲,損其小寶而固其大寶也。」上即命去其榜。 10.蕭復嘗言於上曰:「宦官自艱難以來,多為監軍,恃恩縱橫。此屬但應掌宮掖之事,不宜委以兵權國政。」上不悅。又嘗言:「陛下踐祚之初,聖德光被,自用楊炎、盧杞黷亂朝政,以致今日。陛下誠能變更睿志,臣敢不竭力?倘使臣依阿苟免,臣實不能。」又嘗與盧杞同奏事,杞順上旨,復正色曰:「盧杞言不正!」上愕然,退,謂左右曰:「蕭復輕朕!」戊子,命復棄山南東、西、荊湖、淮南、江西、鄂岳、浙江東、西、福建、嶺南等道宣慰、安撫使,實疏之也。既而劉從一及朝士往往奏留復,上謂陸贄曰:「朕思遷幸以來,江、淮遠方,或傳聞過實,欲遣重臣宣慰,謀於宰相及朝士,僉謂宜然。今乃反覆如是,朕為之悵恨累日。意復悔行,使之論奏邪?卿知蕭復如何人?其不欲行,意趣安在?」贄上奏,以為:「復痛自修勵,慕為清貞,用雖不周,行則可保。至於輕詐如此,復必不為。借使復欲逗留,從一安肯附會!今所言矛楯,願陛下明加辯詰。若蕭復有所請求,則從一何容為隱!若從一自有回互,則蕭復不當受疑。陛下何憚而不辯明,乃直為此悵恨也!夫明則罔惑,辨則罔冤。惑莫甚於逆詐而不與明,冤莫痛於見疑而不與辯。是使情偽相糅,忠邪靡分。茲實居上御下之要樞,惟陛下留意。」上亦竟不復辯也。 11.辛卯,以王武俊為恆、冀、深、趙節度使,壬辰,加李抱真、張孝忠並同平章事。丙申,加田悅檢校右僕射。以山南東道行軍司馬樊澤為本道節度使,前深、趙觀察使康日知為同州刺史、奉誠軍節度使,曹州刺史李納為鄆州刺史、平盧節度使。 12.戊戌,加劉洽汴、滑、宋、亳都統副使,知都統事,李勉悉以其眾授之。 13.辛丑,六軍各置統軍,秩從三品,以寵勳臣。 14.吐蕃尚結贊請出兵助唐收京城。庚子,遣秘書監崔漢衡使吐蕃,發其兵。