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唐書巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 回鶻上 回紇。その先祖は匈奴である。その風習として、高輪の車に乗るものが多い。かれらは元魏の時代には高車部とも号し、あるいは敕勒ともいい、訛って鉄勒ともいった。その部落を袁紇・薛延陀・契苾羽・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫といい、およそ十五種があって、みな砂漠の北方に散居している。というのは、また烏護・烏彩ともいい、隋の時代になると韋紇と呼ばれた。その人々は強くて勇ましい。かれらには最初は酋長がおらず、水草を追って転々として移動し、騎射が上手で、掠奪を好んだ。 鉄勒は突厥に臣属したが、突厥はかれらの財力を利用して、北方の荒野において強大となった。大業年間(605-616)に、突厥の処羅可汗は鉄部を攻め脅やかし、かれらの財物を奪い集めた。そのうちに処羅可汗はまた、かれら鉄勒部の怨みを恐れ、鉄勒部の数百人の頭目を集めて、これをことごとく穴に埋めて殺した。そこで韋紇の首長は僕骨、同羅、抜野古を併合して離叛し、みずから俟斤となり、部族名を回紇と称した。回紇の姓は薬羅葛氏という。回紇は薛延陀部族の北、娑陵水のほとりに居住した。この地は京師から七千里距てたところであって、人口は十万人を算し、兵力はその半ばを数えた。土地は砂漠性の荒地であって、家畜は大足羊(短足の大羊の意)が多い。回紇に時健俟斤という者がいて、大衆ははじめてかれを推挙して君長となした。その子を菩薩といった。菩薩は勇敢な人物で、謀りごとにすぐれ、狩猟と騎射を好み、戦いがあると必ずみずから先頭に立ち、向かうところの敵をみな打ち砕いて破った。それゆえ、部下はみな畏れて菩薩に服従したので、これを嫉んだ父の時健俟斤に逐われてしまった。時健が死ぬと、部人は菩薩が賢いと見てとって、主君として立てた。菩薩の母を烏羅渾といい、その性格は厳格公明であって、よく部内の事件をとり戴いた。回紇はこれよりようやく盛んとなり、薛延陀とともに突厥の北辺を攻めた。突厥の頡利可汗は欲谷設を派遣し、十万の騎兵をもって、これを討たせた。菩薩はみずから五千騎を率いてこれ(欲谷設)を馬鬣山で破り、逃げるのを追うて天山にいたり、大いにその部人をとりことした。その評判は北方を震わした。これより回紇は薛延陀に付き従い、お互いに親密な間柄となった。菩薩は活頡利発という称号をとり、本営を独楽水のほとりに設けた。 貞観三年(629)に回紇はじめて唐に来朝して貢ぎ物を献上した。突厥はもうすでに滅んでいたので、回紇と薛延陀だけがもっとも強力となった。菩薩が死んだのち、回紇の酋長の胡禄俟利発吐迷度は、諸部族とともに薛延陀を攻めてこれを滅ぼし、その領地を併合し、ついに南の方、賀蘭山を越えて、黄河に臨んだ。吐迷度は使者を派遣し、唐に帰順したいという誠意を申しいれた。太宗はそのために霊州に行幸し、涇腸にいたって、その功をうけた。ここにおいて鉄勒の十一部はみな来朝して、「薛延陀は大国に仕えず、みずから滅びました。その支配下にあったノロはおどろき、鳥は散じて、どこへ行けばよいかわかりません。いま、われわれはそれぞれ分地を持っておりますが、願わくば天子に帰順し、唐の官吏をわれわれの地方に置いてくださるよう請いたてまつります」と言った。そこで太宗は詔をくだし、盛大な酒宴を開き、おもな酋長たちを引見して、これらの者に唐の官職を授けたが、その数はすべて数千人にのぼった。 明くる年(647)に、回紇および鉄勒諸部がふたたび入朝した。そこで回紇部を瀚海となし、多覧葛部を燕然となし、僕骨部を金微となし、抜野古部を幽陵となし、同羅部を亀林となし、思結部を盧山となし、それぞれを都督府ととなえさせた。また渾を皋蘭となし、斛薛を高闕州となし、阿跌を雞田州となし、契苾羽を楡渓州となし、奚結を雞鹿州となし、思結別部を蹛林州となし、白霫を窴顔州となし、その西北の結骨部を堅昆府となし、北の骨利幹を玄闕州となし、東北の倶羅勃を燭龍州、それぞれの酋長をもって都督・刺史・長史・司馬となし、もとの単于台の場所(帰化城の南)に燕然都護府を置いて、これらすべてを統治させた。六都督と七州はみな、熊然都護府に隷属し、李素立をもって燕然都護となし、その都督・刺史には玄金の魚符を下付し、黄金で文字を銘した。 天子は遠方の人を招いていつくしむに際し、絳黄色の瑞錦の文袍、宝刀、珍器を作って、かれらに賜わった。帝は奥深い宮殿のなかに坐し、十部楽を陳ね、御殿の前に高い坫(土製の高台)を設け、朱色の提瓶をその上に置いた。また潜泉に満たされた酒は左の閤(小門)より坫のあしもとに通じていて、この酒を瓶に注ぎ、これから転じて百斛を銀の盎(はち)に受けるのである。数千人の回紇は飲みおわってなお、半分も平らげることができなかった。また帝は文武の五品官以上の者に詔して、尚書省のなかで送別の酒宴をおこなわせた。大頭目たちはこぞって帝に申しあげて、「われわれは荒涼たる汚ない土地に生まれましたが、いま身は聖化に帰しました。天の至尊はわれわれに官爵を賜わりました。われわれはともに百姓となり、唐を父母のように頼っております。そこで回紇、突厥部に大きな道路を造り、天至尊への参道と号し、世々われわれは唐の臣となるよう御願いします」と言った。そこで帝は詔して南の鷿鵜泉の南に六十八ヵ所の駅亭を置き、多くの馬と乳、肉を備えて、使者を待った。また回紇らは毎年、貂の皮を納めて貢賦とした。そこで唐は吐迷度を拝して懐化大将軍・瀚海都督にしたが、しかし吐迷度はひそかにみずから可汗と号し、自国の官吏を任命したことは、まったく、突厥の場合と似ていた。すなわち吐迷度の官吏として外宰相が六人、内宰相が三人おり、また都督・将軍・司馬の称号もあった。帝はさらに詔し、時健俟斤の別部を祁連州となし、霊州都督に隷属させ、白霫の別部を居延州となした。 吐迷度の兄の子である烏紇は、吐迷度の妻と私通し、ついに俱陸莫賀達干の倶羅勃とともに反乱を謀って、車鼻可汗のもとへ走って従属した。この二人はともに車鼻可汗の婿であった。そこで烏紇は、騎兵を従え、夜中に吐迷度を襲撃して、これを殺した。燕然副都護の元礼臣は烏紇へ使者を派遣して、「烏紇が都督になりたいと奏上することを許す」とあざむいて言った。烏紇はこれを疑わず、そこでさっそく出むいていって御礼を言上した。そこで元礼臣は烏紇を斬って、見せしめにした。帝は諸部が離反することを心配し、兵部尚書の崔敦礼に命じて、節を持ってその地方に赴かせ、なだめすかした。唐は吐迷度に左衛大将軍の官号を贈り、その弔祭はひじょうにていねいで手厚かった。唐はその子の婆閏を左驍衛大将軍に抜擢し、父の所領を継承させた。倶羅勃もすでに入したが、帝はかれを捕えたまま、送り帰さなかった。阿史那賀魯が北庭に侵入するや、婆閏は五万騎を率いて、契苾何力らを助けて、阿史那賀魯を破り、北廷を占領し、また伊麗道行軍総管任雅相らに従って、ふたたび阿史那賀魯を金山において破った。婆閏右衛大将軍の地位にうつり、唐の高麗征伐に従って功績をたてた。 婆閏が死んで、その子の比栗が嗣いだ。竜朔の年間(661-663)に、唐は燕然都督府をもって回紇を統治し、さらに瀚海都護府と号し、砂漠をもって境界となし、砂漠の北にいる諸族はことごとくこれ(瀚海都護府)に隷属した。比栗(比粟毒)が死んで、その子の独解支が嗣いだ。武后(690-705)の時代に、突厥の黙啜はまさに強力となり、鉄勒のもといた地方を取ったので、回紇は契苾・思結・渾の三部とともに砂漠を渡って甘州と涼州との間に移動した。しかし、唐はつねにその回紇の強い騎兵を徴発して、赤水軍を助けさせたという。独解支が死んで、その子の伏帝匐が立った。明くる年に、伏帝匐は唐を助けて黙啜を攻め殺した。ここにおいて別部の移植頡利発は、同羅・霫などとともにみな来降したので、帝は詔してその部を大武軍の北に置いた。伏帝匐が死んで、その子の承宗が立った。涼州都督の王君㚟は無実のことを皇帝に奏上して承宗の罪をあばき、承宗を瀼州に流して死なせた。この時期に際して回紇はいくらか従わなくなった。承宗の一族の子で瀚海府司馬であった護輸は、部衆の怨みに乗じて、ともに王君㚟を殺し、安西諸国が唐に朝貢する道路を絶ちふさいだが、それから久しくたって、護輸は突厥に逃走して死んだ。 子の骨力裴羅が立った。たまたま突厥が乱れたが、天宝(742-755)の初めに、骨力裴羅は葛邏禄とともにみずから左右葉護と称し、抜悉蜜を助けて突厥の烏蘇可汗を襲って逃走せしめた。三年ののち骨力裴羅は抜悉蜜を襲って破り、頡跌伊施可汗を斬り、使者を唐に遣し、書をたてまつり、みずから骨咄禄毘伽闕可汗と称した。天子はかれを奉義王となした。骨力裴羅は南の方、突厥のもといた地方にいたが、ついで本営を烏徳韃山と昆河との間に移した。ここは南の方、西城から千七百里はなれたところであって、西城とは漢代の高闕塞で、北の磧口の三百里のはてにある。骨力裴羅は九姓の地をことごとく支配するにいたった。九姓回紇とは薬羅葛・胡咄葛咄葛・啒羅勿・貊歌息訖・阿忽嘀・葛薩・斛嗢素・薬勿葛・奚邪勿をいう。薬羅葛は回紇可汗家の姓である。僕骨・渾・抜野古・同羅・思結・契苾の六種族は回紇と同輩の蕃族であって、これらは九姓回紇のなかには数えられない。のちに回紇は抜悉蜜・葛邏禄を破ってこれを併合し、ぜんぶで十一姓となり、みなそれぞれに都督を置いて十一部落と称した。こののち戦争の場合には回紇はつねに抜悉蜜・葛邏禄の二隷属部族をもって先鋒にあてた。さて帝は詔をくだし、骨力裴羅を拝して骨咄禄毘伽闕懐仁可汗となし、殿の前に儀仗兵を整列させ、中書令が先導役となり、使者に冊を授けた。ついで、使者は門を出て輅(天子の車)に乗り、皇城の門のところへ来て降り、そこで馬に乗ったが、幡節(のぼり)が一行を導いた。およそ唐が可汗を冊する際には、だいたいこの儀式をおこなった。明くる年(745)、骨力裴羅はまた、突厥の白眉可汗を攻めて殺し、頓啜羅達干を派遣してきて、功名を奏上した。そこで唐は骨力裴羅を拝して左驍衛員外大将軍とした。骨力裴羅は領土をますます広く開拓し、東は室韋、西は金山(アルタイ)に達し、南は大砂漠を控え、このようにして古代の匈奴の領地をことごとく獲た。骨力裴羅が死んで、その子の磨延啜が立ち、葛勒可汗と号した。かれはすばしこく、あらあらしい人物で、兵を用いることが巧みであった。かれは毎年使者を派遣して入朝した。 粛宗が即位すると、回紇の使者が来て、唐を援助して安禄山を討ちたいと請うた。帝は燉煌郡王李承寀に詔して、ともに約束させ、僕固懐恩をして王を回紇へ派遣させ、そのようにして回紇の軍隊を招くことにした。可汗は喜んで、可敦の妹を王女として、李承寀の妻とし、ついで頭目を派遣してきて、和親を請うた。帝はその回紇の心を固めようと欲し、虜(回紇)の王女を封じ毘伽公主となした。ここにおいて可汗はみずから将となり、朔方節度使郭子儀と合流して、叛軍の同羅などの諸蕃を討ち、これを黄河のほとりに破り、郭子儀と呼延谷において会見した。可汗は自分が強力であることをたのみ、武器を陳ねて、郭子儀を面前へ呼びつけ、狼の飾を頭につけた纛(旗の意)を拝礼させてから会見した。帝は彭原に駐屯したが、回紇の使者の葛羅支は、帝に謁見した際に末席に列なったのを恥じた。帝は使者が不平な様子であるのを放置できず、殿に升らせ慰めて送り帰した。にわかに回紇の大将軍多攬らが入朝し、また回紇太子の葉護がみずから四千騎を率いてきて、帝の命ずるところに従ったので、帝はよって毘伽公主を冊して燉煌王妃となし、承寀を宗正卿に抜擢した。そこで可汗もまた承寀を封じて葉護となし、四つの節を給し、かれを葉護太子とともに将軍とした。帝は広平王(後の代宗)に命じて葉護に会わせ、約して兄弟とさせた。葉護は大いに喜び、首領の達干らをして、まず扶風に赴いて郭子儀に会わせた。郭子儀はねぎらいの酒宴を三日間開こうとしたが、葉護はこれを辞退して、「国家に危難が多いというので、私は逆賊の討伐をお助けするのです。どうして宴を開いておれましょうか」と言った。郭子儀は固く命じて「葉護をひきとめた。そのうちに葉護は出発したが、唐は毎日、半四十角、羊八百蹄、米四十を葉護に賜わった。 香積寺の戦いにおいて、唐軍は灃上のほとりに陣どった。賊軍は策略をめぐらし、王師の左方に伏兵を配置して、まさにわが軍を襲撃しようとしたので、僕固懐恩は回紇軍をさしまねき、伏兵に対して馳せ向かわせ、これをことごとく倒した。そこで唐軍は賊の背後に出て、鎮西北廷節度使李嗣業とともに、夾み撃ちして、これを包囲した。賊は大敗したので、唐軍は進んで長安を占領した。懐恩は回紇・南蛮・大食の部隊を率いて都をとりまき、南して滻水の東に砦を築き、さらに進んで陝州の西にいたり新店で戦った。最初、回紇は山西の曲沃にいたり、葉護は将軍の鼻施吐撥裴羅をして南山に沿うて東に出て、賊が谷の中に伏しているのを探してこれを全滅させて、山の北側に駐営した。郭子儀らは賊と戦い、全軍を挙げて敵軍の逃げるのを逐うたが、しかし乱戦となって退却した。回紇はこれを望見して、西嶺を越えて旗をなびかせ、賊軍の方へ進みより、その背後に出た。賊軍はその背後を攻められて、ついに大敗を喫した。回紇軍は数十里も追撃したが、賊軍の人馬はあいかさなり、ふみにじりあい、そのため死者の数は覚えきれなかった。回紇軍の獲得した武器は、小山のように積みあげられた。厳荘は安慶緒を小脇に抱えるようにして逃げ、東京(洛陽)を棄てて、北の方、黄河を渡った。回紇は三日間、東都(洛陽)を大いに掠奪した。姦悪な人々が回紇を府庫(宮廷の財物庫)に案内したので、府庫の財物は尽きて、空になった。広平王(後の代宗)がこれを制止しようとしたが効果がなかったので、長老たちが繒錦万匹を賄賂として回紇に贈った。そこで回紇はやめて、掠奪しなかった。葉護は京師に還った。帝はもろもろの臣下を派遣してかれを長楽駅でねぎらった。帝は前殿に坐し、葉護を召して階を升らせ、他の頭目たちを階下にすわらせ、宴を開いてねぎらった。また帝は一同の者に錦繍繒器を賜わった。葉護は頭をさげぬかずいて、「兵を沙苑に留め、臣は霊夏に帰って馬を数え、そのうえで范陽を占領し、残盗を除きはらいます」と奏上した。帝は、「朕のために義勇をつくし、大事を成就したのは、自らの力である」と言った。ついで帝は詔して、「葉護を司空に進め、忠義王の位を授け、さらに毎年、絹二万匹を給することとし、朔方軍へ来て賜わり物を受けとらせることとした。 乾元元年(758)に、回紇の使者の多彦阿波は黒衣大食の使者である閣之らとともに入朝し、参内の先頭順位を争ったが、役人はべつべつの門から並んで進ませた。また使者は唐と回紇との婚姻を請うたので、帝はこれを許し、幼女の寧国公主を降嫁させることにした。すなわち帝は、磨延啜を冊して英武威遠毘伽可汗となし、詔をくだして漢中郡王李瑀に御史大夫を兼ねさせて冊命使にあて、宗子の右司郎中巽を御史中丞に兼ねて礼会使にあて、あわせて瑀の副使とした。尚書右射裴冕は、これを国境まで見送ることになった。帝は公主の別れを送るため、咸陽に行幸し、いくどもかさねて公主を慰め励ました。公主は泣いて「国家はまさに多事です。死んでも恨ません」と言った。さて瑀は虜(回紇)のところへ到着した。可汗は胡帽と赭色のを身につけ、帳幕のなかに坐し、その儀礼や護衛のありさまはおごそかであった。可汗はを引きつれて来て、帳幕の外に立たせて、問うて「王は天可汗のどういう親戚か」と言った。瑀は「従兄弟であります」と言った。そのときに、中人の雷霊俊は瑀の上手に立っていた。そこで可汗は「王の上手に立っている者は誰か」と、また問うたので瑀は「中人であります」と答えた。可汗は「中人は召使いである。なんじは逆に主人の上手に立つのか」と言った。雷霊俊は下手に引きさがった。ここにおいて可汗は瑀を引いて帳内へはいらせたが、瑀は可汗に拝礼しなかった。可汗は「国の主君にみえるのに、礼儀として拝礼しないということはあるまい」と言った。瑀はこれに対して、「唐の天子は、可汗が功績を樹てたことを顧みて、愛女を降させて誼みを結ぶのです。このごろ中国は夷狄と通婚しますが、降嫁するのはみな、宗室の女であります。しかるに、いま寧国公主はすなわち帝の生んだ女でありまして、徳と容貌を備えており、万里の遠い地方へ来て降嫁するのです。可汗は天子の婿にあたるのであるから、まさに礼儀をもっておめにかかるべきであります。どうして腰をおろしたまま詔を受けてよいでしょうか」と言った。可汗は恥じて、そこで立ちあがって詔を受け、冊を拝受した。可汗は翌日、公主を尊んで可敦となした。瑀がもたらした賜わり物を可汗はことごとく宮廷内の頭目たちに与えた。瑀が帰国するに際して可汗は馬五百匹、貂の裘、白い毛氈などを唐に献上した。そこで回紇の可汗は王子の骨啜特勒、宰相の帝徳らをして三千の騎兵を率いて賊を討つのを助けさせた。帝はよって僕固懐恩に命じ、この軍隊を指揮させた。また回紇は大首領の蓋将軍と三人婦人を派遣し、降嫁の御礼を言上し、ならびに回紇が堅昆を破った手柄を報告した。 明くる年、骨啜特勒は九人の節度使とともに、相川の城下で戦ったが、王師は戦いに敗れて潰え、帝徳らは京師に逃げこんだので、帝は厚く賜わり物をしてその心を慰めた。そこでかれらは帰った。にわかに可汗が死んだ。回紇国人は寧国公主を殉死させようと欲した。公主は、「中国では婿が死ぬと、妻は朝晩、喪に服し、三年を期間として服をつとめて終えるのです。回紇が万里もはなれている遠国唐と婚姻関係を結ぶのは、もとより、中国を慕うからです。わたしは殉死すべきではありません」と言った。そこで公主は殉死することはやめたが、しかし、その習俗に従って顔に切傷をつけて泣いたという。その後、公主は子がなかったという理由で、唐に帰ることができた。 ところで、葉護太子は、以前に罪があって殺されていたので、前可汗の次子の移地健が即位して牟羽可汗と号した。その妻は僕固懐恩の娘であった。はじめ、前可汗は少子(移地健)のために、唐に対して婚姻を請うたので、帝は僕固懐思の娘をこれに妻せたのであったが、こうなってきて、彼女は可敦となったのである。明くる年に牟羽可汗は大臣の倶録莫賀達干らをして入朝させ、ならびに寧国公主の御機嫌伺いをした。使者たちは、延英殿において謁見した。 代宗が即位したが、史朝義がまだ滅んでいなかったので、代宗は中人の劉清潭を回紇へ派遣して、好みを結び、かつ、その兵を出動するよう、ふたたび頼んだ。その使者が回紇へ到達するころ、回紇はすでに史朝義から、「唐にはしきりに大喪があり、国には主君がなく、かつ乱れているから、回紇が侵入して府庫を掠奪するようお勧めする。その富は莫大である」と言われて、誘惑されていたので、可汗はすなわち兵を率いて南方へ出発していたのである。これは宝応元年(762)八月のことであった。さて劉清潭はこのことを知らないで、詔をもたらして、その回紇可汗の帳営に到着した。可汗は「人々は唐がすでに滅んだと言っている。どうして天子の使者などがありえようか」と言った。劉清潭はこれに対して、「先帝(粛宗)は天下を棄てたけれども、広平王(代宗)はすでに天子の位に即きました。その仁聖英式な人柄は先帝に似ております。ゆえに広平王は葉護とともに二京(長安と洛陽)を奪回し安慶緒を破ったのです。このように広平王は可汗とは平素より、親密な間柄です。また、他方では、毎年、回紇に繒絹を給しています。どうしてこのことを忘れているのですか」と言った。しかしこの時には、回紇の軍隊はすでに三城を越えており、唐の州県が荒れてて、烽障に守備兵がいないのを見て、唐を軽視する様子があった。そこで回紇は使者を派遣して、北の方の単于府兵の倉庫を占領し、またしばしば劉清潭を侮辱する言葉を吐いた。劉清潭は内密に帝に「回紇の十万の兵が塞に向かって進軍しております」と奏上した。朝廷はふるえ驚き、殿中監の薬子昂を派遣して、回紇の兵を出迎えて、ねぎらわせ、一方ではその軍を視察させた。薬子昂は太原で回紇の軍と遭遇したが、かれはその兵が四千人、非戦闘員が一万人余、馬が四万匹と見つもることができ、また回紇の可汗が可敦とともに来ていることをひそかに知った。帝は僕固懐思に命令して、回紇と会わせた。回紇はよって使者を派遣し、書を奉り、天子を助けて賊を討ちたいと請うた。回紇は関にはいって沙苑を経由して東へ進軍しようと欲した。これに対して薬子昂は説いて、逆賊が叛乱してから、州県は荒廃して空虚となり、物資を供給する見込みがない。一方では賊は東京を占拠している。もしわが軍が井陘に入って邢・洺・衛・懐の諸州を占取し、賊の財物を奪取し、そこで大いに奮起して南へ進むのがよい方策である」と言ったが、回紇は聴きいれなかった。そこで薬子昂は「それなら、懐、太行道におもむき、南の方、河陽を占領して賊の要地を抑えよう」と言ったが、回紇はまた聴きいれなかった。薬子昂は、「太原倉の穀物を食糧とし、右へ進んで陝州に駐屯し、沢・潞・河南・懐・鄭の兵と合流しよう」と言った。回紇はこの言に従った。 そこで帝は詔して、雍王(後の徳宗)を天下兵馬元帥となし、薬子昂を昇進させて御史中丞を兼ねさせ、右羽林衛将軍魏琚とともに、左右廂兵馬使となし、中書舎人の韋少華を元帥判官となし、御史中丞の李進を行軍司馬となし、東方へ赴いて回紇と会わせることにした。帝は元帥雍王に勅して諸軍の先鋒となし、節度使と陝州で会合させた。そのころ可汗は陝州の北に砦を築いていたので、雍王はそこへ赴いて、これに会見した。可汗は雍王が蹈舞の礼(足をふんで喜び舞う礼)をしないことを責めた。薬子昂は弁解して、「王は嫡皇孫であり、二帝の遺骸は殯殿に祭られていますから、蹈舞するわけにはいりません」と言った。回紇はこれをなじって「可汗は唐の天子の弟にあたり、王にとっては叔父の関係となる。蹈舞の礼をしないのを容認できようか」と言った。薬子昂は固く拒んで「元帥は唐の太子です。まさに中国の君主となろうとする人が、蹈舞の礼をして可汗に会うことができようか」と言った。回紇の君主と臣下たちは、これを屈服させることができないと推察し、薬子昂を引きつれてきて、韋少華・魏琚を前に出して、百回棒で打ったところ、韋少華と魏琚は一晩たって死んだ。雍王は軍営に還ったが、官軍は雍王が辱しめられたため、まさに合して回紇を誅討しようとした。しかし雍王は賊がまだ滅んでいないからと言って、これをひきとめた。 ここにおいて、僕固懐恩は、すなわち回紇の左殺とともに先鋒となった。史朝義は間諜を使ったが、左殺はこれを捕えて献上し、諸将とともに賊を攻撃し、横水において戦って、これを逃走させ、さらに進軍して東都を占領した。可汗は抜賀那をして天子に慶賀の言葉を言上させ、史朝義の旗や財物を献上した。雍王は霊宝に還り、可汗は河陽に駐屯し、三ヵ月間在留した。駐屯地の近傍の人は、掠奪や凌辱に遭って苦しんだ。僕固瑒は回紇兵を率いて史朝義と格闘して戦い、二千里も血を踏み歩き、その首を斬って梟し、このようにして河北はことごとく平定した。僕固懐恩は、相州の西山の崞口に道をとり、還って駐屯し、可汗は沢州・潞州より出て、僕固懐恩と会い、太原へ道を取って去った。 これより以前の事件であるが、回紇が東京に来た時に、回紇は兵を放って盗みや掠奪をおこない、人々はみな逃げて、聖善寺と白馬寺にたてこもってこれを避けた。回紇は怒って仏寺に火をつけ、一万余人をほふり殺した。現在になって回紇はますます横暴となり、官吏をののしり、いためつけ、そのあげくは夜中に兵をもって、皇城の含光門を切り崩して、鴻臚寺に侵入した。この時にあたって、陝州節度使郭英乂は東都を留守していたが、魚朝恩および朔方軍とともに、おごりたかぶり、かって気ままにふるまった。そのため回紇は横暴となり、またも汝州・鄭州の間を掠奪し、郷村には完全な家屋はなく、人々はみな紙をからだに蔽って衣服とするありさまであった。実にこのように人々は賊にしいたげられたのである。 代宗は、韋少華らの死を悼み、韋少華に左散騎常侍の官を、魏琚には揚州大都督の官をそれぞれ追贈し、その一子に六品の官を賜わった。ここにおいて帝は、牟羽可汗を冊して、頡咄登里骨啜蜜施合倶録英義建功毘伽可汗と称した。また可敦を娑墨光親麗華毘伽可敦と称した。帝は左散騎常侍の王翊を派遣し、回紇可汗の本営に赴いて冊命を行なわせ、可汗より宰相にいたるまでみな、実封二万戸を賜わった。また唐は左殺を雄朔王となし、右殺を寧朔王となし、胡禄都督を金河王となし、抜覧将軍を静漠王となし、都督をみな、国公となした。 永泰のはじめ(765)に、僕固懐恩が叛き、回紇と吐蕃を誘って侵入してきたが、にわかに僕固懐恩が死に、二つの虜(回紇と吐蕃)は指導権を争った。回紇の首領はひそかに涇陽を訪れて、郭子儀に会見し、あやまちを改めたいと請うた。郭子儀は、麾下の兵士を率いて回紇の幕営を訪れた。回紇は「願わくば令公に会いたい」と言ったので、郭子儀は旗をかかげた門を出た。回紇は「甲(よろい)をはずしていただきたい」と言ったので、郭子儀は服をとりかえた。頭目らはたがいに目をくぼらせて「これはほんとうに令公である」と言った。その時、李光進と路嗣恭は馬に軍装してかたわらにいたが、郭子儀は頭目たちに示して、「これは渭北節度使の某であり、これは朔方軍糧使の某である」と紹介した。頭目たちは馬からおりて拝礼し、郭子儀もまた馬からおりると、頭目たちとまみえた。数百人の虜(回紇)は、これをとりまいて見守った。郭子儀の麾下もまたちかづいてきた。郭子儀は、左右の者をなびかせて退かせ、他方で酒の用意を命じ、回紇とともに飲み、纒頭の綵(いろぎぬ)を三千疋贈った。郭子儀は可汗の弟の合胡禄らを召し、その手を握り、そこで責めて、「帝は回紇の功績を強く念頭に思い、なんじにはまことに厚く報いているのに、どうして背いてきたのか。いま、こうなっては、なんじと一戦交えるしかない。どうしてすぐ、なんじに降伏するものか。わたしはただひとりでなんじの陣営に突入しよう。なんじがわたしを殺しても、わが将士は必ずやなんじを討つことができるのだ」と言った。頭目たちはおそれいって、「僕固懐恩がわれわれをだまして「唐の天子は南方に逃げ、令公も罷免された」と言ったので、われわれはやってきたのである。いま、天可汗は帝位についており、令公もつつがないことがわかった。われわれは、願わくば、吐蕃を攻撃して、もって唐の厚い恩に報いたい。しかし、僕固懐恩の子は可敦の弟であるから、願わくば死を赦免していただきたい」と言った。ここにおいて、郭子儀は酒杯を持ち、合胡禄は誓盟することを請うて酒を飲んだ。郭子儀は、「唐の天子は万歳、回紇可汗もまた万歳、両国の将軍と宰相も然りである。もし、われわれが誓盟に背くことがあれば、その人の身は戦場で死し、その家族はほふり殺されるであろう」と言った。この時にあたり、回紇の宰相の磨咄、莫賀達干頓らは、その言を聞いて、みな肝を奪われた。酒杯がかれらのところに廻ってくると、すぐ「公の誓約に背くことはしません」と言った。これより以前のことであるが、虜(回紇)に二人の巫術師がいて、「こんどの出征では、回紇はかならず戦わないであろう。まさに大人に会って還るであろう」と予言したが、いま、こうなって見ると、回紇はたがいに顧みて笑って「あの巫術師はわれわれをだまさなかったのだ」と言った。 朔方先鋒兵馬使の白元光は、回紇の兵と霊において合流したが、折しも雪と雰がきびしく降り、暗くなった。そこで吐蕃は、幕営を閉じ、備えを撤したので、唐軍は思うままにこれを攻撃して、首五万級を斬り、一万人を生けどりにし、馬、駱駝、牛、羊を捕獲し、唐戸五千を捕虜とし、また、僕固名臣は降服した。ついで合胡禄都督ら二百人はみな来朝したが、唐が与えた賜わり物は数えきれぬほどであった郭子儀は僕固名臣を帝にまみえさせた。僕固名臣は、僕固懐恩の兄の子であって、武勇の将であった。 大暦三年(768)に、光親可敦が死んだので、帝は右散騎常侍蕭昕を派遣し、節を持って祠を弔わせた。明くる年、帝は僕固懐恩の幼女を崇徽公主となし、英義建功可汗の後妻とした。兵部侍郎李涵は節を持ち、可敦を冊拝し、繒綵二万疋を賜わった。この時唐の財政が窮乏し、公卿の馬や駱駝に税を課して降嫁の費用をまかなった。宰相は渭水の中溝橋まで出かけていって餞した。 京師に留まっていた回紇は、徒党を組んで、市内で女子を掠め、馬に乗って皇城の含光門を侵犯したので、皇城の諸門はみな閉じられた。帝は劉清潭に詔し、これらの回紇をなだめてやめさせたが、回紇はふたたび、市場の物品を掠奪し、長安令の邵説の馬を奪う行動に出たが、役人は敢えてなにも詰問しなかった。乾元(758)の後より、回紇はますます功名をたのみ、馬一匹を唐に納入するごとにその代価として四十疋の絹を受けとり、その結果毎年、数万匹の馬で絹を買うことを求め、使者はあいついで来て、鴻臚寺に宿泊して滞在した。回紇の劣悪で弱い馬は使用に堪えなかったが、帝は手厚い賜わり物をして、このことを恥じいらせようとした。しかし、回紇はこのことを理解せず、またも一万匹の馬をもたらしてきたが、帝はかさねて民を煩わすに忍びず、賞として六千疋を与えた。大暦十年(775)に在京の回紇は人を殺して横暴を働いた。京兆尹の黎幹はこの回紇を逮捕したが、帝は詔して「見逃して、これを難詰するな」と言った。回紇はまた、東市で人を刺したので、役人はこれを縛って万年獄に送ったが、回紇の首領は囚人を奪い返し、獄をいたみつけて去った。このように都の人は、回紇のために苦しみ悩まされたのであった。 大暦十三年(778)に、回紇は振武軍を襲い、東陘を攻め、太原に入寇し、河東節度使の鮑防と陽曲において戦ったが、鮑防は敗戦し、その部下の一万人が殺された。代州都督の張光晟はまた、羊虎谷において戦い、これを破ったので、そこで虜(回紇)は去った。 徳宗が即位すると、中人をして先帝の喪を回紇可汗に告げさせ、一方で好みを修めようとした。そのとき、九姓胡は可汗に、唐への侵入を勧めた。可汗は、軍隊を総動員して塞に進軍しようと欲したので、唐の使節と会見しても礼儀をつくさなかった。宰相の頓莫賀達干は、「唐は大国であり、わが国に背くことはなかった。以前にわれわれは太原に侵入して数万の羊馬を奪った。本国へ引きあげるころになって、損傷と疲弊がはなはだしかったのであります。いまわれわれが国をあげて遠征して、もし勝たなければ、どんな結果になりましょうか」と言った。しかし可汗はこれを聴きいれなかったので、頓莫賀達干は怒って、そこで可汗を撃って殺し、同時にその徒党および九姓胡を二千人ばかり、ほふり殺した。そこで頓莫賀達干は、みずから即位して、合骨咄禄毘伽可汗となり、頭目の建達干に命じて、唐の使者に随行して入朝させた。建中元年(780)に、帝は京兆少尹の源休に詔して、節を持って、頓真賀を押して武義成功可汗となした。 これより以前から、回紇が中国に来たときには、かれらは、つねに九姓胡を一行のなかにまじえ、これまで京師に留まる者は千人に達し、商売を営み、財貨を積んで、莫大な資産をふやしていた。たまたま酋長の突董翳蜜施、大小の梅録らが自国に帰るに際して袋をしつらえて、莫大な輜重をもって出発し、振武軍に三ヵ月間、滞留した。その食事は、皇帝の御馳走になぞらい、費用ははかり知れなかった。振武軍使の張光晟がひそかにその様子を窺うと、かれらはみな、袋に女子をいれていたので、張光晟は駅吏をして長い錐でこれを刺させ、しかるのちにこの事実を曝露した。そのうちに九姓胡は、頓莫賀が新たに即位して、多くの九姓胡人を殺したことを聞き、これを恐れて、あえて帰国しようとせず、しばしば逃亡した。突董はこれをひじょうに厳しく監視した。多くの胡人は張光晟に計略をたてまつり、回紇をことごとく斬ることを請うた。張光晟はこれを許し、そこで上奏して、「回紇は、がんらい強いのではありません。これを助ける者は九姓胡のみです。いまその国は乱れたがいに戦争しあおうとしています。しかして(回紇)は、利があれば往き、財があれば集合します。財と利とが無ければ、かれらはひとたび乱れると振いません。この時をもってこれに乗じなければ、かれらの手中に落ちた人と財幣をとり返すことができるでしょうか。これは兵の力を借りて糧を盗むことに役立たせることを意味します」と言った。そこで張光晟は、裨校(副将)をして、わざと無礼なことをさせた。突董は、はたして怒ってこれに鞭打った。張光晟はそこで兵を整え、回紇と多くの胡人をことごとく殺し、数千頭の駱駝と馬、十万疋の絹と錦を没収し、一方で告げて「回紇は大将に鞭打ち、かつ振武軍を取ることを謀った。謹んで、まずこれを誅したのである」と言い、女子を長安に送り還した。帝は張光晟を召還し、彭令芳をもってこれに代え、中人を派遣し、回紇の使者の聿達干とともに回紇へ行かせて、事のしだいを告げた。そこで帝は虜(回紇)と絶交しようと欲し、源休に勅して、太原において命令を待たせた。明くる年、源休は出発し、突董らの四つの枢を送り届けた。突董は可汗の諸父(おじ)であった。源休が来ると、可汗は大臣に命令して車馬を用意して出迎えさせた。その大相である頡干迦斯は、腰をかけたままで、源休らが突董を殺したことを責めた。源休は「かれ自身が張光晟と格闘して死んだのであって、天子の命令で殺したのではありません」と言った。可汗はまた「使者はみな死罪を負うているのに唐朝がみずからの手でこれを殺さず、どうしてわれわれに手を借りるのか」と言って、ひじょうに長い間、責めたのち、やめて立ち去った。源休らはほとんど死にそうになった。源休は五十日間も留められたが、ついに可汗に謁見できなかった。可汗は源休に伝言して、「わが国人はみな、なんじの死を欲しているが、わたしだけはそうでない。突董らはすでに死んだが、いままた、なんじを殺すことは、血で血を洗うようなもので、いたずらに自分を汚すだけのこととなる。水をもって血を洗うのもまた、よいことではないか。わたしに代って、唐の役人にこう言え。「負債たる馬の値段として、百八十万疋の絹を、速やかにわれわれに償うべし」と」と言った。可汗は散支将軍康赤心らを派遣し、源休に随行して来させた。帝は隠忍自重して、黄金と繒を賜わった。 その三年後(787)に、回紇は使者を派遣して方物を献上し、和親を請うた。帝(さきの雍王)は、以前の怒りを心に残していて、心中平らかではなく、宰相の李泌に、「和親のことは、子孫の時代を待って計れ。朕はできないのだ」と言った。李泌は、「陛下は、どうして陜州の事件のことを遺憾に思っておられるのですか」と言った。帝は、「然り。朕は天下の多難に際し、いまだ報いることができない。しばらく和睦を議するなかれ」と言った。李泌は言うに、「韋少華らを辱しめたのは、牟羽可汗であります。牟羽可汗は、陛下が即位すると、陛下が必ず怨みを晴らすであろうことを知り、そこでまず、辺境を苦しめようと謀ったのでありましたが、しかし、かれは兵を出さぬうちに現在の可汗に殺されたのであります。いま可汗ははじめて即位して、使者を派遣し、「髪を垂れて切らず、天子の命を待ちます」と告げました。しかして張光晟は、突董らを殺しました。可汗は使者を捕えましたが、しかし使者はついに無事で、帰国すると無罪となりました」と。帝は「卿の言葉はもっともである。朕は、顧るに、韋少華らに背くことはできぬ。どうしたらよいか」と言った。李泌は言うに、「臣は、陛下が韋少華には背いていませんが、韋少章が陛下に背いた、と申し上げます。一方では、北虜の君長は自分自身で戦争に赴いたのですが、陛下は藩邸に住んでいる身分で、年がなおまだ壮年でないのに、軽々しく黄河を渡って、その回紇営にはいられました。これはいわゆる虎のいる危険な場所にふみいることを意味します。韋少華らが計略をたてるには、まさにまず会見の礼を定むべきでありました。臣はそれでもなお、このことを危ぶんでおりましたのに、陛下はどうして独りぼっちで赴かれたのですか。臣はむかし先帝(代宗)の行軍司馬でありました。葉護が援兵として来た際に、先帝は府において宴会を開かせただけであって、征討のことを議するにあたっては、会見しなかったのであります。葉護は臣を迎えて、その営に来させようとしましたが、先帝は許さず、「主は客をいたわるべきであるのに、客がかえって主をいたわることはありますまい」とていねいに返答させました。唐軍が東の方京師を奪還して、そこで回紇と約束して、「土地と人衆はわが唐のものであり、玉帛子女は回紇に与える」と言いました。戦いに勝った葉護は、大いに掠奪しようと欲しました。代宗は馬をおりてこれ(葉護)に拝礼したので、回紇は東の方、洛陽にむかいました。臣は代宗皇帝が元帥の身をもって葉護を馬前で拝したことをなお恨みと思い、これを左右ののあやまちと考えました。しかし先帝は、雍王は仁孝であって、朕の事を弁理するに十分である」と言い、詔をくだして、慰め励ましました。葉護はすなわち牟羽可汗の諸父であります。牟羽可汗が来たとき、陛下は天子の嫡子であるという理由でもって、帳のほとりで拝礼しませんでした。しかも牟羽可汗はあえて陛下に少しの過失があるとは考えなかったのです。すなわち陛下はいまだかつて屈服したのではなかったのです。先帝は葉護に拝礼して京城を保全しましたが、陛下は拝礼しておりません。可汗はがんらい、舅(回紇)のあいだにおいて威光を示しております。どうして恨むことがありましょうか。しかし、香積と陝州のことを計りますに、おのれを屈するのをもって是としますか、それとも、威を伸ばすのをもって是としますか。もし韋少華らをして陛下を可汗に会見させたとしますと、五日間、塁壁を閉ざして陛下と宴飲したでありましょう。天下の人々が、どうして心配しないことがありましょうか。しかして天の神は、豺狼(回紇)をして馴服させました。牟羽可汗の母は、陛下に貂の皮ごろもを捧呈しましたが、左右の者を叱り促して騎兵に命じ、身みずから送って営を出させました。これは韋少華らが陛下に背いたことになります。たとい牟羽可汗に罪ありとしましても、すなわち、いまの可汗はすでにこれを殺しました。即位した者はすなわち牟羽可汗の従父兄であります。これは功があるといえます。どうしてこれを忘れることができましょうか。また一方では、回紇可汗は石に銘し、国の門のところに石碑を立てて、「唐の使者が来れば、まさにわが前後の功を知らしむべし云々」と言っております。いま回紇は和平を請うていますが、かれらは部をあげて南方に期待の念をかけていると思います。陛下がこれに答えなければ、その怨みは必ず深いと存じます。願わくば婚姻を許可して、開元時代の先例を用いるように約束してください。突厥の可汗のごときは、臣を称しましたが、その使者の来た数は二百人にすぎず、交易した馬は千匹にすぎませんでした。唐の人をして塞より出させねば、不可ということはないと存じます。」帝は「よし」と言い、そこで公主を降嫁させることを許した。回紇もまた約のごとくすることを請うたので、咸安公主に詔して降嫁させ、また、使者の合闕達干に詔して麟徳殿で公主に謁見させた。帝はまた、中謁者をして公主の画図をもたらせしめ、可汗に賜わった。 明年(788)、可汗は宰相の𨁂跌都督ら千余人の部衆を派遣し、ならびにその妹の骨咄禄毘伽公主を派遣し、大頭目の妻五十人を率いて、公主を迎えさせ、かつ結納を贈った。𨁂跌は振武軍にいたったが、室韋族に襲われて戦死した。帝は詔してその部下の七百人にみな、入朝を許し、鴻臚寺に宿泊させた。帝は延喜門に出御して使者に謁見した。この時の可汗の奉った国書はひじょうに丁重であって、「唐と回紇との間柄はむかしは兄弟であったが、いまは婿すなわち半子である。もし、陛下が西戎に悩まされているなら、子のわたしは兵をもってこれを除くことを申し出たい」と述べてあった。また、可汗は回紇という字を変えて回鶻としたいと請うたが、この字義は鶻(はやぶさ)のようなすばやい猛禽という意である。帝は回鶻の公主のために宴を催そうとしたので、帝は李泌に礼法を問うた。李泌は答えて、「粛宗は燉煌王李承寀にとって従祖兄でありました。回鶻は女をこれに妻せました。この女は彭原において帝にまみえましたが、ひとりで廷下で拝礼しました。帝は彼女を婦と呼び、嫂(あによめ)とは呼びませんでした。国家の艱難な時期に際して、粛宗は回鶻の力を借りねばならず、あたかも臣としてこれに仕えるような態度をとりました。ましてやこんにちにおいては、われわれは当然、そのように振舞うべきであります」と言った。ここにおいて李泌は回鶻の公主を案内して銀台門にはいった。長公主三人が内部でこれに侍った。訳史(つうやく)が公主を導き、拝礼を受ければ必ずこれに答礼し、ともに進んだ。帝は奥深い宮殿に出御し、長公主がまず入侍し、回鶻の公主はなかにはいって帝に拝謁した。すでに内司が案内して長公主のところへ行かせた。また訳史は伝問し、ともにはいって宴席へいたった。女官は階をおりて、回鶻の公主が賢妃を拝礼するのを待って答礼した。公主はまた拝礼して、召された。すでに西の階より昇り、そこで腰をおろし、賜わり物があれば、階を降りて拝礼した。帝の賜わり物でなければ、席を避けて、妃を拝した。公主はみな答拝して、おわってから帰った。そして、ふたたび宴が催された。帝はまた咸安公主の官属をことごとく設け、これを王府に準ずるものとし、嗣滕王李湛然を昏礼使となし、右僕射の関播が一行を護送し、一方では冊書を持って行かせ、可汗を拝して汨咄禄長寿天親毘伽可汗となし、公主を智恵端正長寿孝順可敦とした。 貞元五年(789)に汨咄禄長寿天親毘伽可汗が死んで、子の多邏斯が即位したが、回鶻国人はこれを泮官特勒と呼んだ。唐朝は鴻臚卿の郭鋒に命令して節を持って派遣し、多邏斯を愛登里邏汨没蜜施倶録毘伽忠貞可汗として冊拝した。 これより先、安西と北廷は、天宝(742-756)の末年に関隴が失陥してより、唐への朝貢の通路が隔てられ、伊西北廷節度使の李元忠、四鎮節度留後の郭昕はしばしば唐朝へ使者を派遣して表を奉ったが、みな唐朝へ到達することができなかった。しかし、貞元二年(786)に、李元忠の派遣した使者は道を回鶻の領域に借りたので、そこで長安に到達することができた。帝は李元忠を昇進させて北廷大都護となし、郭昕を安西大都護となした。こののち、道路は通じたけれども、回鶻は徴発を要求して限りがなかった。沙陀別部の六千帳は、北廷とたがいに依存し、また、虜(回鶻)の苛酷な搾取を嫌った。平素から回鶻に臣属していた三葛邏禄、白眼突厥はもっとも怨み苦しみ、みなひそかに吐蕃に附従した。ゆえに吐蕃は沙陀に頼って、ともに北廷に侵入し、頡于迦斯はこれと戦ったが勝てず、北廷は陥落した。ここにおいて北廷都護の楊襲古は、兵を引いて西州に逃走した。回鶻は壮卒数万をもって楊襲古を召還し、まさに北廷を取りかえそうとしたが、吐蕃に攻撃されて大敗し、その士卒の大半は死んだ。頡于迦斯はあわてて逃げ帰った。楊襲古は残余の衆を率いて、まさに西州に入城しようとした。頡于迦斯はあざむいて、「ただ、わたしといっしょに帰ってくださったら、あなたを唐へ御帰してします」と言った。楊襲古がかれの帳舎に赴いて来ると、頡于迦斯はこれを殺した。また、浮図川を占領したので、回鶻は大いに恐れ、その部落を南へ移動させて、これを避けた。 この年(790)、忠貞可汗は少可敦の葉公主によって毒殺された。少可敦もまた、僕固懐恩の孫であって、僕固懐恩の子は回鶻の葉護であったから、彼女は葉公主と号したといわれる。前の可汗の弟がそこでみずから即位した。この時に頡于迦斯はまさに吐蕃を攻めていたが、その大臣は、国人を率いて、ともに簒奪者を殺し、前の可汗の幼子の阿啜を後嗣となした。頡于迦斯が出征から帰還すると、可汗たちは出迎えて頡于伽斯をいたわり、みな眼を伏せて可汗廃立の実状を述べ、「ただ大相(頡于伽斯)がわれわれの生死を御きめください」と言い、郭鋒が賜わったところの器幣をことごとくさし出して、頡于迦斯に贈った。可汗は拝礼し、泣いて「いま幸いに、絶えた位を継ぐことができました。食を父から仰ぎたいと存じます」と言った。頡于迦斯は、かれが謙譲であるのを見て、そこで抱きあって泣き、ついにこれ(可汗)に臣として仕えることになり、器幣をことごとく将士に与え、まったく私物としなかった。このようにしてその国はついに安らかとなった。回鶻可汗は達北特勒、梅録将軍を派遣し、唐へ来て可汗の即位を報告し、一方では命令に従った。唐は鴻臚少卿の庾鋋に詔して、阿啜をして奉誠可汗となした。にわかに回鶻は律支達干をして来させ、少寧国公主の喪を報告した。この公主は栄王の娘である。これよりさき、寧国公主が降嫁したとき、唐朝はこれに侍女を付き添わせた。寧国公主はのちに唐に帰ったので、その侍女は回鶻のなかに留まって可敦となり、少寧国公主と号し、英武・英義の両可汗にあい継いで配偶者となった。天親可汗の時代になって、少寧国公主ははじめて宮廷の外に住み、彼女が英義可汗の配偶者として生んだ二子は、ともに天親可汗に殺された。この年(790)、回鶻は吐蕃・葛邏禄を北廷に攻撃して、これに勝ち、一方で俘虜を唐に献上した。明くる(791)に、回鶻は薬羅葛炅を来朝させた。薬羅葛炅は、がんらい唐の人で呂氏といい、可汗の養子となり、ついに可汗の姓、薬羅葛を名のったのである。帝は、かれが事に役立つと考えて、賜わり物をとくに厚くしてもてなし、検校尚書右僕射に拝した。 貞元十一年(795)に奉誠可汗は死んだが、子がいなかったので、国人は、その相の骨咄禄を立てて可汗となし、使者を唐へ派遣した。唐朝は秘書監の張薦に詔して、節を持って行かせ、骨咄禄を愛縢里邏羽録没蜜施合胡禄毘伽懐信可汗に冊拝した。骨咄禄はがんらい𨁂跌氏の出身であって、かれは幼時に親に死別し、大首領の手もとで養育された。かれは弁舌に巧みで、さとく、武勇な人材であった。天親可汗の時代に、しばしば軍隊を指揮したので、もろもろの頭目たちはかれを尊敬したのであった。このようにして、可汗となった骨咄禄は薬羅葛氏が代々の功績があったことにかんがみて、あえて自分自身の姓を名のらず、薬羅葛氏を名のり、そして天親可汗以前の子孫をことごとく召し取って、これらを唐の朝廷に奉納した。 永貞元年(805)に、懐信可汗は死んだので、唐朝は鴻臚少卿の孫杲に詔して回鶻の宮廷に臨んで、後嗣を冊拝させ、滕里野合倶録毘伽可汗となした。 元和のはじめ(806)に、回鶻はふたたび入朝して貢ぎ物を献じた。回鶻は最初摩尼を派遣した。その戒律として、摩尼は晩になると食事し、水を飲み、臭味のある菜をゆで、湩酪をしりぞける。摩尼は可汗がつねにこれと協力して国を維持した人々である。摩尼は京師に来て、毎年往来しており、西市の商人はかれらとともに、ひそかに姦悪・不正をおこなっている。元和三年(808)に、回鶻の使者が来て、咸安公主の喪を報告した。咸安公主は、四代の可汗にあいついで配偶者となり、およそ二十一年の間、回鶻のなかにいたのである。まもなくして可汗もまもなく死んだ。憲宗は宗正少卿の李孝誠をして後嗣の愛登里羅汩没蜜施合毘伽保義可汗を冊拝させた。三年を経て、回鶻の使者がふたたび入朝し、伊難珠を派遣して、ふたたび唐朝との婚姻を請うた。唐朝がまだ返事をしないうちに、可汗は三千騎を率いて鷿鵜泉に到着した。 ここにおいて振武軍は兵を黒山に駐屯させ、天徳城を根拠地として虜に備えた。礼部尚書の李絳が奏してつぎのように言った。「回鶻は盛んで強力です。わが北辺の守りは空っぽであり、ひとたび風塵がおきますと、弱卒は敵に対抗できるますらおではなく、孤城は守りえない地であります。もし、陛下がこのことを念頭におかれて、武装兵を増し城塁を警備されれば、中国にとって良い方策であり、生きている人々にとって大きな幸福であります。臣はこんにちの処置を観察しますのに、その処置はまだ要を得ておりません。辺境の不安な点が五つありますので、これを一つずつ述べさせていただきたく存じます。北狄は貪慾でありまして、利のみを見ます。しかし北狄が馬をもたらして来て、その代価を手にいれれば、一歳に二度とはやってまいりません。こういうわけですからどうして繒帛を用いるという利点をいとうことがありましょうか。そうしないと、風高く馬肥える時になって、北狄はほしいままに侵入しようとするにちがいありません。ゆえに外敵を撃退し、国内に備えることは、必ず朝廷を煩わすことになります。第一に憂うべきことは、兵力がまだ完全でなく、斥候がまだ明らかではなく、兵器がまだ備わらず、城がまだ堅固でないことであります。唐が天徳城の守備を固めれば、虜は必ず疑い、西城を空にすれば、砂漠の道路は頼るものがありません。第二に憂うべきことは、城は要害を保ち、攻守の険易はまさに辺将に謀るべきであるのに、唐朝はいまはすなわち河塞の外のことを計るにあたって、朝廷のなかで裁いております。虜がにわかに塞に侵入しましても、唐朝はその応接に便宜を失しています。第三に憂うべきことは、唐朝と回鶻とが好みを修めてより以来、虜は唐朝の山川の形勝、兵備の厚薄をことごとくくわしく知っております。賊が侵略しますと、諸州からの兵員微発は、十日間を必要とします。辺塞の外は人畜がつながっていて、かれらは一日にして侵入できます。王師が到着したころには、虜はすでに引きあげています。侵寇が能く久しければ、民が役に留まることもまた転じて広いのです。第四に憂うべきことは、北狄と西戎とは平素より攻めあっており、ゆえに辺境に不安はないのですが、回鶻が唐に馬を売れなくなって、そこで吐蕃と手を結んで和解することになりますと、唐将と臣はとりでにとじこもり、戦うことをはばかり、したがって辺境の人々は手をこまねいたまま、禍いをうけることになるということです。第五に憂うべきことは、また淮西の呉少陽は死にかけておりますが、その変に乗じて諸道で反乱がおきると、ほとんど十倍になるかもしれません。臣はよろしく回鶻との婚姻をゆるし、族の礼を守らせるべきであると申し上げます。これにはいわゆる三つの利点があります。和親すれば、のろし台はもはや侵入に驚くことはなくなります。またわれわれは城堞を治めることができ、兵を盛んにし、これによって力を蓄え、粟を積み、もって軍を堅固にできることが第一の利点であります。このようにして北方を警戒するという憂いがなくなりますから、われわれは南方の右地方の処理にあたり、ほとんど滅びようとしている寇敵に命令を伸ばすことができます。これが第二の利点であります。北虜(回鶻)は唐と親戚であることを頼みにしますから、西戎の怨みはいよいよ深くなり、内では自分の国家を安んずることができません。そこで唐は坐して安心でき、侵略は永久にやむのであります。これが第三の利点であります。いま、三つの利点を捨てて五つの憂いを取ることは、甚だまずい方法であります。公主を降嫁させる費用は多いと言う者もあるでしょう。しかし臣はそのようには思いません。わたしは、天下の賦を三分し、一をもって辺境にあてます。いま東南の大県の賦は毎年二十万緡であります。一県の賦をもって婚資にあてることは、損少なく利益は大ではありませんか。いまわれわれが婚資を惜しんで与えず、かりにもし王師が北征すれば、その兵は三万、騎兵は五千ではすみますまい。しかもこの兵力をもってしても敵を防ぎ、また逃走させることもできません。また、かりにわれわれが十全の勝利を保つことができても、一年にしてその兵糧はなくなります。いわんや、食糧と給与は一県の賦の額にとどまるでしょうか。」 しかし、帝はこの言を聴きいれなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 『新唐書』巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 巻巻二百一十七下 列伝第一百四十二下
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唐書巻八十三 列伝第八 諸帝公主 世祖一女 高祖十九女 太宗二十一女 高宗三女 中宗八女 睿宗十一女 玄宗二十九女 粛宗七女 代宗十八女 徳宗十一女 順宗十一女 憲宗十八女 穆宗八女 敬宗三女 文宗四女 武宗七女 宣宗十一女 懿宗八女 僖宗二女 昭宗十一女 世祖に一女があった。 同安公主は、高祖の同母妹である。隋州刺史の王裕にとついだ。貞観のとき、尊属として大長公主に進んだ。にわかに病んだが、太宗みずから訪問し、縑(かとり)五百を賜い、乳母らには皆物を賜った。永徽年間(650-655)初頭、実戸三百を賜り、年八十六で薨去した。 王裕は、隋の司徒の王柬の子で、開府儀同三司に終わった。 高祖に十九女があった。 長沙公主は、馮少師にとついだ。 襄陽公主は、竇誕にとついだ。 平陽昭公主は、太穆皇后から生まれ、柴紹にとついだ。かつて、高祖が兵を興したとき、公主は長安にいた。柴紹は、「あなたはまさに出兵して京師を鎮めようとしています。わたしも行きたいです。お願いですからお供できませんか、どうでしょうか?」といった。公主は「あなたは行きなさい。わたしは自分のはかりごとを実行します」といった。柴紹は間道を抜けて并州に逃れ、公主は鄠に逃れて、家財を発して南山の亡命者を招き、数百人をえて帝に呼応した。ここにおいて大賊である何潘仁は司竹園を根拠として行人を殺して総管と称した。公主は家奴の馬三宝を遣わして説諭してこれを降伏させて、ともに鄠県を攻めた。また別の部賊の李仲文・向善志・丘師利らをそれぞれ所領をもって旗下につかせ、よって盩厔・武功・始平を攻略してこれを降伏させた。法の遵守を部衆に誓わせ掠奪を禁止したから、遠近みな服し、兵七万となり、威は関中に振るった。帝は黄河を渡ると柴紹は数百騎で南山に並んで迎えた。公主は精兵数万人を率いて秦王(太宗)と渭北に会した。柴紹と公主はならんで幕府を設置して京師の平定にあたり、娘子軍と号した。帝が即位すると、功績によって物を賜うこと果てがなかった。 武徳六年(623)に薨去し、葬列の前後に羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。太常は議して「婦人の葬は古より鼓吹はありません」といったが、帝は従わず、「鼓吹は軍楽である。かつて公主は身に金鼓をとって、参軍して命をたすけた。古にこのようなことがあったか?だから用いるべきだ。」と言った。 高密公主は、長孫孝政にとつぎ、また段綸にとついだ。段綸は、隋の兵部尚書の段文振の子で、工部尚書・杞国公となった。永徽六年(655)に公主は薨去し、「わたしが葬られるときは必ず墓を東向きにさせ、献陵を望むようにし、孝を忘れないように願いたい」と遺命した。 長広公主は、始め桂陽に封ぜられた。趙慈景にとついだ。趙慈景は、隴西の人で、帝はその姿が美しいのとよしとし、そのため彼に娶せた。帝が決起すると、ある者は逃亡を勧めたが、答えて「母は私を命としている。どうして行こうとするのだろうか?」官吏は捕縛して獄に繋いだ。帝が京師を平定すると、開化郡公に封ぜられ、相国府文学となった。兵部侍郎に進み、華州刺史となった。堯君素に討たれて戦死し、秦州刺史を贈られ、謚を忠といった。 公主はさらに楊師道にとついだ。聡明で詩作を得意とし、豪奢な生活を自らほしいままにしたが、晩年になってようやく節制した。長寿で薨去した。 長沙公主は、始め万春に封ぜられた。豆盧寛の子の豆盧懐讓にとついだ。 房陵公主は、始め永嘉に封ぜられた。竇奉節にとつぎ、また賀蘭僧伽にとついだ。 九江公主は、執失思力にとついだ。 廬陵公主は、喬師望にとつぎ、喬師望は同州刺史となった。 南昌公主は、蘇勗にとついだ。 安平公主は、楊思敬にとついだ。 淮南公主は、封道言にとついだ。 真定公主は、崔恭礼にとついだ。 衡陽公主は、阿史那社尒にとついだ。 丹陽公主は、薛万徹にとついだ。万徹は愚かなこと甚だしく、公主は羞じて、同席しないこと数月であった。太宗はこれを聞いて笑って、酒宴を開いて他の者と万徹を召喚して従容として語り、槍を握って試合して佩刀を賭け、偽って勝てないふりをし、遂に佩刀を解いて賜わった。公主は喜び、命により同じ車に載って帰った。 臨海公主は、裴律師にとついだ。 館陶公主は、崔宣慶にとついだ。 安定公主は、始め千金に封ぜられた。温挺にとついだ。温挺が死ぬと、また鄭敬玄にとついだ。 常楽公主は趙瑰にとついだ。娘が生まれ、周王の妃となると、武后がこれを殺した。趙瑰は括州刺史に左遷され、寿州にうつされた。越王李貞がまさに挙兵しようとして、趙瑰に書を与えて教え導いた。趙瑰はこれに応じようとし、公主もまた使者に進んでいった。「私は王に感謝します。ともに進みますが、退くことはありません。もし諸王らが皆立派な男であるなら、長々と留まっていないでただちにここに来るでしょう。私は次のように聞いています。楊氏が北周を簒奪した時、尉遅迥は北周のために出兵し、なおよく突厥と連合して天下を震撼させましたと。ましてや諸王は国の親族なのですから、国家は託するところで、身を捨てずに大義をとろうなど、何をしようというのでしょうか?人臣は同じく国を憂うのを忠臣といい、憂えないのは逆臣といいます。王らは努めなければなりません。」 越王貞は敗れ、周興の弾劾により趙瑰と公主は連座となり、みな殺された。 太宗に二十一女があった。 襄城公主は、蕭鋭にとついだ。性格は親孝行で温厚であり、その行動は規則を守った。帝(太宗)は諸公主に勅してみならうように命じた。役人が別第の造営を告げたとき、「婦人は舅・姑につかえることは父母のようにしなければなりません。宮を異にすれば、できなかったり欠けたりすることがあるでしょう」と述べた。そのため造営をやめて元の邸宅のままとし、門列には二つの戟があるのみであった。蕭鋭が亡くなると、さらに姜簡にとついだ。永徽二年(651)に薨去し、高宗は命婦朝堂にて挙哀し、工部侍郎の丘行淹を遣わして逓送して弔祭し、昭陵に陪葬した。喪列が故城にいたると、帝(高宗)は楼に登って望見し、泣いて柩を見送った。 汝南公主は、早く薨去した。 南平公主は、王敬直にとつぎ、王敬直が連座して嶺南に流されると、さらに劉玄意にとついだ。 遂安公主は、竇逵にとついだ。竇逵が死ぬと、また王大礼にとついだ。 長楽公主は、長孫沖にとついだ。帝は長孫皇后から生まれたことから、勅によって役人に命令して、送別の金銭を、長公主の倍の額にしようとした。魏徴は言った、「昔、漢の明帝は諸王を封じた時、『朕の子は先帝の子と同じような領地を得られるだろうか?』と言いました。ですから長公主というのは、公主で最も尊いものです。制には等差というものがあり、どうして越えることができましょうか?」と。帝は后に語り、后は言った「陛下が魏徴を厚遇する理由はわかりませんでしたが、今その言を聞ききましたが、公主を礼義上の内におさめるというのは、社稷の臣ならではの言です。妾は陛下との間は夫婦の交わりがありますが、それでも言わなければならないことがあれば、なおも顔色を伺うのです。ましてや臣下の情は特別の待遇をへだてて、あえて厳顔をおかして忠言を述べるのです。願わくはこれを許されて、天下にこれを公けにしてください」と。帝は大いによろこび、帛四百匹・銭四十万を魏徴の家に賜った。 豫章公主は、唐義識にとついだ。 比景公主は、始め巴陵に封ぜられた。柴令武にとつぎ、房遺愛の反乱計画にともに連座して、公主も同じく死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈され、墓に廟を立てられ、四時祭では少牢(羊と豚)をお供えした。 普安公主は、史仁表にとついだ。 東陽公主は、高履行にとついだ。高宗が即位すると、大長公主に進んだ。韋正矩が誅されると、公主は婚家に連座して、排斥されて集州に徙された。また章懐太子に連座して、邑封を剥奪された。長孫無忌の舅族であったから、武后に憎まれ、垂拱年間(685-688)、二子とともに巫州に徙し置かれた。 臨川公主は、韋貴妃から生まれた。周道務にとついだ。公主は篆書・隷書にすぐれ、文章をよくした。高宗が立つと、『孝徳頌』を奉り、帝から詔を下されて褒賞にあずかった。永徽初年(650)、長公主に進み、恩賞は他より秀でていた。永淳初年(682)に薨去した。 周道務は、殿中大監・譙郡公周範の子である。はじめ周道務は乳幼児の時、功臣の子であるから宮中にて養われた。周範が卒すると、邸宅に戻り、喪に服して身が衰える様子は成人のようであった。再び宮中に戻り、十四歳の時に宮中を出た。営州都督、検校右驍衛将軍を歴任した。謚を襄という。 清河公主は、名を敬、字を徳賢といい、程懐亮にとつぎ、麟徳年間(644-645)薨去し、昭陵に陪葬された。程懐亮は、程知節の子であり、寧遠将軍に終わった。 蘭陵公主は、名を淑、字を麗貞といい、竇懐悊にとつぎ、顕慶年間(656-661)に薨去した。竇懐悊は官は兗州都督となり、太穆皇后の族子であった。 晋安公主は、韋思安にとつぎ、また楊仁輅にとついだ。 安康公主は、独孤諶にとついだ。 新興公主は、長孫曦にとついだ。 城陽公主は、杜荷にとつぎ、太子李承乾の事件に連座して杜荷が処刑されると、また薛瓘にとついだ。 はじめ公主が結婚の時、帝は占わせた。占いには「二火みな食す。始めは同じく栄え、末は同じく悲しむ。昼の暗い時に請ずれば吉である」とあった。馬周は諫めて言った、「朝謁を朝にするのは、思相が戒だからです。講習を昼にするのは、思相が成だからです。宴会を暗くなってからするのは、思相が歓だからです。婚礼を夜にするのは、思相が親だからです。だから上下には成があり、内外には親があり、動いたり休んだりするのは時があり、吉凶には儀があります。今さきにその始めを乱すようなことはしてはなりません。占いというのは疑いや迷いを決するためであって、もし礼をけがして先に乱すというのは、聖人の用いないことです」と。よって帝は止めにした。 麟徳年間(644-645)初頭、薛瓘は左奉宸衛将軍を歴任した。公主が巫蠱のことに連座したため、薛瓘も房州刺史に左遷され、公主も従った。咸亨年間(670-674)、公主は薨去して薛瓘もまた卒した。柩を並べて京師に帰った。 子の薛顗は、河東県侯・済州刺史に封じられた。琅邪王李沖が挙兵すると、顗と弟の薛紹は所領の庸・調より兵士を募り、かつこれに応じた。琅邪王沖が敗れると、都吏を殺して口封じしたが、事は露見し、獄に下されてともに死んだ。 合浦公主は、始め高陽に封ぜられた。房玄齡の子の房遺愛にとついだ。公主は帝に愛され、そのため礼は他の婿とは異なっていた。公主愛されていたから驕りたかぶっていた。房遺直は嫡子であるから銀青光禄大夫となっていたが、弟の房遺愛に譲ろうとし、帝は許さなかった。房玄齢が卒し、公主は遺愛に財産を異にさせ、かえって罵った。房遺直は自ら申し出たため、帝は叱責して公主に譲らせたため、免れることができた。これよりよそよそしくなり、公主は心が晴れ晴れしなかった。たまたま御史が盜みを弾劾し、僧弁機が金宝神枕を得て、自ら公主より賜ったと言っていた。はじめ寺院の封地にて、公主と房遺愛が猟をし、これを見て喜び、その寺に隠れては乱交にふけった。さらに二女子を房遺愛に従わせ、食糧を横流しして私すること億を数えた。ここにいたって僧は死罪となり、奴婢十余人も殺された。公主はますますうらみ、帝が崩じても哀みの顔色もなかった。 また僧智勗は迎合して禍福を占い、恵弘はよく鬼神を見、道士李晃が医術をよくし、みな密かに公主に侍った。公主は掖廷令の陳玄運をして宮省の禨祥をうかがい、星次を歩いた。永徽年間(650-651)、房遺愛と謀反し、死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈された。 金山公主は、早く薨去した。 晋陽公主は、字を明達、幼字を兕子といい、文徳皇后から生まれた。よろこびや難しげな顔色をみせず、帝は怒り叱責することがあるたびに、必ず公主の顔をみると徐々に怒りがとけたから、省中は多くその恩恵を蒙り、誉め愛されないということはなかった。后が崩じた時、公主はまだ乳幼児だったからこれを理解しなかったが、五歳になると、后と遊んだ地をみるたびに哀しみにたえなかった。帝の諸子のなかで、ただ晋王(後の高宗)と公主が最年少であったから、親しく遊び、晋王が邸宅を出るたびに公主は虔化門で見送って泣いて別れた。晋王が幼年となって、朝堂に班ぶと、公主は泣いて「お兄ちゃんは群臣と同じになっちゃって、宮中にはかえってこないの?」と言った。帝もまた涙を流した。公主は帝の飛白書を臨模したが、下々の者にはどちらが帝か公主かわからなかった。薨じたとき年十二歳であった。帝はひと月の間食事もままならず、日に数十回悲しみ、そのためやせ衰えた。群臣は励ましたが、帝は「朕がどうして悲しむことが無意味だと知らないとでもいうのだろうか?それでも悲しみがやまないのだ。私もまたその理由がわからないのだ」と言った。よって役人に詔して公主の皇族領を記録させ、仏寺のに墓を営んだ。 常山公主は、とつがないうちに、顕慶年間(656-661)に薨去した。 新城公主は、晋陽公主の同母妹である。長孫詮にとつぎ、長孫詮は罪によって巂州に徙された。さらに韋正矩に嫁し、奉冕大夫となった。韋正矩は公主に会っては礼をもってせず、突然薨去した。高宗は三司雑治に詔し、韋正矩は弁解することができなかったから、誅殺された。皇后の礼をもって昭陵の旁らに葬られた。 高宗に三女があった。 義陽公主は、蕭淑妃から生まれ、権毅にとついだ。 高安公主は、義陽公主の同母妹である。始め宣城に封ぜられた。潁州刺史の王勗にとついだ。天授年間(690-692)、王勗は武后に処刑された。神龍年間(707-710)初頭、長公主に封ぜられ、実封千戸となり、府を開いて官属を設置された。睿宗が即位すると、さらに千戸を増封された。開元(713-741)の時に薨じた。玄宗は暉政門にて哭し、鴻臚寺に持節を遣して弔問させ、京兆尹に鴻臚寺を率いさせて喪事を護衛した。 太平公主は、則天武皇后から生まれ、武后は諸公女のうちことのほか彼女を愛した。栄国夫人(武后の母)が死ぬと、皇后は公主を道士にさせ、冥福を祈らせた。儀鳳年間(676-679)に吐蕃が公主を降嫁させることを要請したが、武后は夷狄に捨て去るようなことはしたくはなく、本当に宮を築いて、方士のように薰戒させ、和親の事を拒んだ。しばらくして公主は紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけて帝の前で歌い舞った。帝と武后は大笑して「この子は武官になれなければ、いったいお前はどうするのかのか?」と言った。公主は「駙馬(公主の夫)を賜わればいいのでは?」といった。帝はその思いを知り、薛紹を娶せ、万年県を婚館とし、門には人が多く集まってしまい翟車を収容できなくなったから、役人は垣を壊して入れるようにし、興安門よりかがり火を設置したから道の並木は枯れてしまった。薛紹が死ぬと、さらに武承嗣に嫁したが、武承嗣が病気となったため、武后は武攸曁の妻を殺して、武攸曁を公主の配偶者とした。公主は額が四角く顎がひろく、陰謀を多くし、母の武后は常に「私に似ている」と言っており、公主と内に謀とともにし、外には恐れられたから、武后の世が終わるまで他に非難する者などいなかった。 永淳年間(682-683)以前、親王は実戸八百をはみ、増えても千戸止まりであり、諸公主は三百を超えなかったが、太平公主はひとりさらに戸五十を加え、聖暦年間(698-700)には三千戸に及んだ。張易之・張昌宗の誅殺に功績があり、鎮国の号を贈られ、相王(後の睿宗)とならんで五千となり、また婚家の薛・武の二家の娘もみな実封をはんだ。公主と相王・衛王・成王・長寧公主・安楽公主はみな衛士を給せられ、邸宅の周囲は十歩を一区とし、兵を持って衛らせ、ひそかに宮省にあやかった。神龍年間(705-707)には長寧公主・安楽公主・宜城公主・新都公主・定安公主・金城公主の七公主は、みな府を開いて官属を置いた。安楽公主は戸数は三千にいたり、長寧公主は二千五百、府を開いたが長史は設置しなかった。宜城公主・定安公主は韋后からの生まれではなかったから、戸は二千止まりであった。公主の三子の薛崇簡・武崇敏・武崇行はみな三品を叙位された。 韋皇后・上官昭容の変事に、謀は公主の所から出たため、功は公主に遠く及ばず、これを憚った。公主はまた自ら我慢して必ず勝てるようにしたから、ますます専横となった。ここに天下の士を推薦し、儒者は多くが貧しいからと言って、厚く金帛を持たせて謝礼とし、大議を動かしたから、遠近より多くの者が集まって靡いた。 玄宗が韋氏を誅殺しようとして、公主と秘計をともにし、公主は子の薛崇簡を遣わして従わせた。事が定まり、まさに相王(睿宗)が即位しようとしたとき、そのことを言い出そうとする者がいなかった。公主は温王(少帝)とその子をかえりみて、おどすようにして功績をたてた。温王にまみえて、「天下の事は相王に帰した。玉座は子供が座っているようなところではない」といい、温王を助けて下り、乘輿と服をとって睿宗に進めた。睿宗は即位し、公主の権はこれによって天下を震わせ、実封を加えて一万戸にもいたり、三子は王に封じられ、他は皆祭酒・九卿となった。 公主は奏事するごとに、漏刻(水時計)がしばしば時を刻んでからようやく退出したが、公主の申すところは皆従った。人物を論じて薦めると、ある者は寒門より順序を踏まず一足飛びに侍従となったから、将相はきびすをめぐらせて足を運んだ。朝廷の大政の事は関わり決しないことは下さず、謁見しない間、すなわち宰相は公主の邸宅に就いて咨判を請い、天子はほとんど裁可するだけであった。公主は武后に侍ること久しかったから、前後の策を公主が人にわずかに指示するだけで、先事はすべて適合し、あたらないことはなかった。田園はあまねく都近郊にあり、すべて肥沃な土地であった。呉・蜀・嶺嶠の市で器をつくらせて用い、州県に護送させ、道に向かい合うほどであった。天下の珍しい奇怪な物は家に満ち、宴会の歌妓は天子と等しかった。仕える侍児は白い細絹を引き摺っている者が数百、奴婢や老女が千人、隴右の牧馬は万匹を数えた。 長安の僧慧範が蓄財すること千万、権力を持つものと仲が良く、もとより張易之と親しかった。張易之が誅されると、ある者は彼が陰謀に関与した言うものもあり、上庸公に封じられ、月々俸禄を給付された。公主の乳母と密通し、奏上により抜擢されて三品御史大夫となり、御史の魏伝弓がその悪事を弾劾したため四十万を贓ったが、死刑を求刑した。中宗は赦そうと思ったが、魏伝弓は「刑や賞というのは、国の大事であって、陛下は賞をすでに妄りに加えられています。また死刑を廃そうとするのは、天下になんと言い訳すればいいのでしょうか?」と奏進したから、帝はやむをえず、銀印青綬(三品御史大夫)の階を削った。大夫の薛謙光は慧範の不法を弾劾し、公主が申理をして、そのため薛謙光らはかえって罪を得た。 玄宗が太子監国となり、宋王李憲・岐王李範に禁兵を統轄させた。公主は権力を分けられたのを恨み、乗輦(睿宗)が光範門に至ると、宰相を召喚して廃太子を申した。ここに宋璟・姚元之は喜ばず、公主を東都より出すことを請うたが、帝は許さず、詔して公主を蒲州を居らさせた。公主は大いに望んだが、太子はおそれた。奏上して宋璟・姚元之を排斥し、これで恨みを収めた。監察御史の慕容珣がまた慧範の事を弾劾したが、帝は慕容珣が骨肉離間しようとしていると疑ったから、密州司馬に左遷した。公主が都より出ていること四箇月、太子が上表したから京師に帰った。 当時の宰相の七人のうち、五人は公主の門下より出ていた。また左羽林大将軍の常元楷・知羽林軍の李慈は皆公主に私淑しており、公主は内心では太子の聡明さを嫌っていた。また宰相はみなその郎党であり、そのため逆謀した。先天二年(713)、尚書左僕射の竇懐貞・侍中の岑羲・中書令の蕭至忠と崔湜・太子少保の薛稷・雍州長史の李晋・右散騎常侍昭文館学士の賈膺福・鴻臚卿の唐晙および常元楷・李慈・慧範らが廃太子をたくらみ、常元楷・李慈をして羽林兵を挙兵させて武徳殿に突入させて太子を殺し、竇懐貞・岑羲・蕭至忠が南衙で挙兵して応じる、というものであった。すでに数日をへて、太子はそのたくらみを知って、岐王李範・薛王李業・兵部尚書の郭元振・将軍の王毛仲・殿中少監姜皎・中書侍郎の王琚・吏部侍郎の崔日用が計画を定めた。その前日、王毛仲が宮中の閑馬三百をとり、太僕少卿の李令問と王守一・内侍の高力士・果毅都尉の李守徳が虔化門を叩き、常元楷・李慈を北闕の下に梟首し、賈膺福を内客省にて拘束し、岑羲・蕭至忠を朝堂で捕らえて斬った。よって天下に大赦した。公主は変を聞き、逃亡して南山に入ったが、三日して出て来て、自邸にて死を賜った。諸子および党派の死者は数十人におよんだ。その田畑・財産を記録すると、珍宝は山のようであり、子に監督して貸与させていたが、三年たっても尽きることはなかった。 子の薛崇簡はもとより公主の謀を知っていたから諫めたが、公主は怒り、拷問して鞭打ったから、ここにいたって官爵を復し、氏は李姓を賜った。 はじめ公主は観池として楽游原をつくり、人々が盛んに集まった。公主が敗れると、寧王李憲・申王成義・岐王李範・薛王李業の四王兄弟に賜り、都の人は歳末の祓にこの地で禊した。 中宗に八女があった。 新都公主は、武延暉にとついだ。 宜城公主は、始め義安郡主に封ぜられた。裴巽にとついだ。裴巽には愛妾がおり、公主は怒って、耳をきり鼻をそぎ、かつ裴巽の髮を切った。帝は怒り、公主を排斥して県主とし、裴巽もまた左遷された。しばらくしてまた元通りに封ぜられた。神龍元年(705)、長寧公主・新寧公主・安楽公主・新平公主とともにみな進封された。 定安公主は、始め新寧郡主に封ぜられた。王同皎にとついだ。王同皎が罪をえると、神龍年間(705-707)、また韋濯にとついだ。韋濯は韋皇后の従祖弟にあたり、衛尉少卿として処刑されると、さらに太府卿の崔銑にとついだ。公主は薨去し、王同皎の子は父とともに合葬されることを請うたが、給事中の夏侯銛は「公主は王家の廟と義絶しており、恩は崔家の室となっています。逝った者は知ったならば、王同皎はまさにあの世で拒むでしょう」と言った。崔銑があるとき帝に訴えたから、そのことは沙汰止みとなったが、夏侯銛は連座して瀘州都督に左遷された。 長寧公主は、韋庶人から生まれ、楊慎交にとついだ。東都(洛陽)に邸宅を造営し、楊務廉をして造営の総監督とした。邸宅が完成すると府の財はいくばくか枯渇し、楊務廉を抜擢して将作大匠に任命した。また西京(長安)の高士廉の邸宅と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、右は都城に、左は大道にうつむき、三重の楼閣を立てて展望とし、山を築いて池を浚った。帝および韋后はしばしば臨幸し、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場をつくった。 東都が永昌県を廃すると、公主はその治を自身の府とするよう請願し、その地は洛陽に瀕しており、これに鄣(障壁か)を築き、崇台・蜚観を連ね、考えもせずに二十万もの大金を費やした。魏王李泰の旧邸は東西一坊、溜池は三百畝に及んだが、魏王李泰が薨去したため、民間に与えられた。ここによって公主は請うて魏王李泰の旧邸を得て、亭閣を築いて、偽って「西京を囲った柵」であるとした。内には母の愛をたより、寵愛は一朝を傾け、安楽公主・宜城公主の二公主、韋后の妹の郕国夫人・崇国夫人と争任の事をともにし、賄賂が飛び交った。東都の邸宅が落成したが、住むことがなく、韋后が敗亡すると、楊慎交は左遷されて絳州別駕となり、公主も共に赴き、東都の邸宅を景雲祠とすることを請い、西京の邸宅を売却したが、木石の値段の評価額は銭二十億万にも及んだ。 開元十六年(728)、楊慎交が死ぬと、公主はさらに蘇彦伯に嫁した。楊務廉がついに数十万もの坐贓(受諾収賄罪)によって終身免職となった。 永寿公主は、韋鐬にとついだ。早く薨去し、長安年間(701-705)初頭に追贈された。 永泰公主は、郡主として武延基にとついだ。大足年間(701)、張易之にさからい、武后に殺された。帝が追贈し、礼をもって改葬し、墓を号して陵とした。 安楽公主は、最も幼いむすめであった。帝が房陵に流罪となったときに公主は生まれ、衣をほどいて褓(おくるみ)としたから、名を裹児といった。眉目秀麗かつ聡明で、韋皇后が最も愛した子であった。武崇訓にとついだ。帝が復位すると、艶やかさは天下を動かし、侯王柄臣は多くその門より出た。かつて詔によって門前を塞ぐべく帝の裁可を請うたが、帝は笑って従った。また皇太女とするよう請うた。左僕射の魏元忠が諫めた。公主は「魏元忠は山東の無骨者で、カラスなんぞに国事を論ずるに足るでしょうか?武氏のお子がなお天子になったというのに、天子が女であることにいけないことなどありますか?」と言った。太平公主ら七公主とともに皆府を開いたが、安楽公主府の官属はむやみに多くいて、みな身分の低い者から出た。財産を納めた者に売官し、墨勅斜封をくだして授けた。そのため斜封官といった。 公主は邸宅と安楽仏廬を造営し、その方式は宮省を模倣し、工事は精巧でこれ以上の物はなかった。かつて昆明池を自分の沼にするよう請うたが、帝は「先帝はいままで人に与えたことはなかった」といったから公主は不機嫌となり、自ら昆池を定めて開鑿し、広げ延ばすこと数里。定まってから言上し、抗うべくただした。司農卿の趙履温が修繕して、石を重ねて肖華山とし、階段・丸木橋をかけ、渕をめぐらすこと九度、石で噴水をつくった。また宝玉の火鉢をつくり、怪獣・神禽を彫刻し、その間を螺鈿・珊瑚で飾りたてるなど、言いつくすことができないほどであった。 武崇訓が死ぬと、公主は平素より武延秀と不倫していたから、即時武延秀に嫁した。この日、后の車輅(天子の車)が宮より出て公主の邸宅に至り、帝と韋皇后は安福門に御して臨観し、雍州長史の竇懐貞に詔して礼会使とし、弘文館学士に挨拶をし、相王(後の睿宗)は車をふさいた。捐て賜わった金帛は計り知れなかった。翌日、群臣と太極殿に会し、公主は翠服を着て出て、天子に向かって再拝した。南面して公卿に拝し、公卿は皆地に伏せて稽首した。武攸曁と太平公主とともに舞って帝の寿を祝った。群臣に帛を数十万賜った。帝は承天門に出御し、大赦し、よって民に宴を賜うこと三日、内外の官に勲を賜い、礼官の属によって階・爵を兼任させた。臨川長公主の邸宅を奪って邸宅とし、その一方で民家を撤去し、怨嗟の声は傲然とした。邸宅が完成すると、宮中の金庫は尽きて空しくなり、臨時に一万もの騎仗をならべ、宮中に音楽を奏でて公主を邸宅に送り、天子は親ら行幸し、近臣と宴した。崇訓の子はわずか数歳で太常卿を拝命し、鎬国公に封ぜられ、実封は戸五百であった。公主の産後に帝と后は再度邸宅に行幸し、天下に大赦した。 公主と長寧公主・定安公主の三家の家奴は民間の子女を拉致して奴婢とし、左台侍御史の袁従一は逮捕して獄に下した。公主は入朝して訴え、帝は手ら詔して赦免した。袁従一は「陛下は公主の訴えをいれられましたが、ほしいままに家奴や平民をさらったら、どうやって天下を治めるというのでしょうか?臣は、家奴を釈放すれば禍を免れ、家奴を弾劾すれ公主は罪を得てしまうということをわかっていますが、だからといって陛下の法を曲げるには忍びないのです。私は恥を忍んで生き長らえるのです」と言ったが、受け入れられなかった。 臨淄王隆基(後の玄宗)が庶人(韋皇后)を誅殺した時、公主はまさに鏡をみながら眉をつくっていた。乱を聞いて、逃走して右延明門に至ったが、兵に追いつかれ斬首された。追貶して「悖逆庶人」と称された。睿宗が即位すると、詔して二品の礼によって葬られた。 趙履温は諂って公主に仕えかつて朝服をはいで、車を曳いたことがあった。庶人(安楽公主)が死ぬと、承天門で舞い踊って万歳と唱えたが、臨淄王隆基(後の玄宗)はこれを斬殺し、父子は同じく刑された。百姓は病気に効き目があるとして、その肉を割り取って行った。 成安公主は、字を季姜といった。始め新平に封ぜられた。韋捷にとついだ。韋捷は韋皇后の従子として処刑され、公主はのちに薨去した。 睿宗に十一女があった。 寿昌公主は、崔真にとついだ。 安興昭懐公主は、早く薨去した。 荊山公主は、薛伯陽にとついだ。 淮陽公主は、王承慶にとついだ。 代国公主は、名を華、字を華婉といい、劉皇后から生まれた。鄭万鈞にとついだ。 涼国公主は、字を華荘といい、始め仙源に封ぜられた。薛伯陽にとついだ。 薛国公主は、始め清陽に封ぜられた。王守一にとついだ。王守一が処刑されると、さらに裴巽にとついだ。 鄎国公主は、崔貴妃から生まれた。三歳のとき貴妃が薨去すると、哭泣して三日食わず、成人のようであった。始め荊山に封ぜられた。薛儆にとつぎ、また鄭孝義にとついだ。開元年間(713-741)初頭、封邑が千四百戸にいたった。 金仙公主は、始め西城県主に封ぜられた。景雲年間初頭(710-712)に進封された。太極元年(712)、玉真公主とともに道士となり、京師に道観を築き、方士の史崇玄を師とした。史崇玄はもとは寒人で、太平公主につかえて、禁中に出入りすることができ、鴻臚卿に任ぜられて、威光は重なり、道観を建造するにあたって、詔して史崇玄に監督させ、日に一万人を動員した。多くの仏僧がこれをねたみ、銭数十万で狂人の段謙を雇って承天門から乱入し、太極殿に昇って天子を自称させた。役人が逮捕すると、「崇玄をして我を来さしめた」といったが、詔して嶺南に流刑し、また僧・道士に勅して互いに争わないようにさせた。太平公主が敗れると、史崇玄は処刑された。 玉真公主は、字を持盈といい、始め崇昌県主に封ぜられた。にわかに上清玄都大洞三景師の号を進った。天宝三載(744)、上言して、「先帝は私に家を捨てることを許されました。今、公主の邸宅・食租賦をむさぼっていますが、誠に願わくば公主の称号をお返しし、食邑司を止め、これを国庫に返したいです」と言った。玄宗は許なかった。また「私は高宗の孫で、睿宗の娘で、陛下の妹で、天下に卑しからざる者です。どうして公主の号や湯沐料で名をつなぐ必要がありましょうか。それがなければ貴いとされないのでしょうか?願わくは数百家の産を入れ、功徳で十年の命を延ばしたいのです」と言い、帝はその深厚なる心を知って、これを許した。宝応年間(762-763)に薨去した。 霍国公主は、裴虚己にとついだ。 玄宗に二十九女があった。 永穆公主は、王繇にとついだ。 常芬公主は、張去奢にとついだ。 孝昌公主は、早く薨去した。 唐昌公主は、薛鏽にとついだ。 霊昌公主は、早く薨去した。 常山公主は、薛譚にとつぎ、また竇沢にとついだ。 万安公主は、天宝(742-756) のとき道士となった。 開元の新制では、長公主は封戸二千、帝の妹は戸千、率は三丁を以て限とした。皇子王は戸二千、公主はその半分であった。事情によってさらに減じられた。玄宗は「百姓の租賦は朕のあるところではなく、士は万死の功によって、賞はようやく束帛をもらえるに過ぎない。女は何の功があって多大の封戸を受けるのであろうか?倹約することも知らしめるのは、またできないことではないのだろうか?」といい、これによって公主はほとんど車服を給付されなかった。後に咸宜公主は母の愛によって封を増加されて千戸に至り、諸公主もみな増加し、これより令に著されることとなった。公主で下嫁しないものは、また千戸を封ぜられ、有司に奴婢を給されることは令の通りであった。 上仙公主は、早く薨去した。 懐思公主は、早く薨去し、台を築いて葬られ、登真と号した。 晋国公主は、始め高都に封ぜられた。崔恵童にとついだ。貞元元年(785)、衛・楚・宋・斉・宿・蕭・鄧・紀・郜国の九公主とともに同じく徙封された。 新昌公主は、蕭衡にとついだ。 臨晋公主は、皇甫淑妃から生まれた。郭潜曜にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 衛国公主は、始め建平に封ぜられた。豆盧建にとつぎ、また楊説にとついだ。貞元年間(785)に薨去した。 真陽公主は、源清にとつぎ、また蘇震にとついだ。 信成公主は、独孤明にとついだ。 楚国公主は、始め寿春に封ぜられた。呉澄江にとついだ。上皇が西宮に居るとき、ひとり公主は入侍した。興元元年(784)、請うて道士となり、詔があって裁可され、名を上善と賜った。 普康公主は、早く薨去した。咸通九年(868)に追封された。 昌楽公主は、高才人から生まれた。竇鍔にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 永寧公主は、裴斉丘にとついだ。 宋国公主は、始め平昌に封ぜられた。温西華にとつぎ、また楊徽にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 斉国公主は、始め興信に封ぜられ、寧親に徙封された。張垍にとつぎ、また裴潁にとつぎ、最後には楊敷にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 咸宜公主は、貞順皇后から生まれた。楊洄にとつぎ、また崔嵩にとついだ。興元年間(784)に薨去した。 宜春公主は、早く薨去した。 広寧公主は、董芳儀から生まれた。程昌胤にとつぎ、また蘇克貞にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 万春公主は、杜美人から生まれた。楊朏にとつぎ、また楊錡にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 太華公主は、貞順皇后から生まれた。楊錡にとついだ。天宝年間(742-756)に薨去した。 寿光公主は、郭液にとついだ。 楽城公主は、薛履謙にとつぎ、嗣岐王李珍の事件に連座して処刑された。 新平公主は、常才人から生まれた。幼いころより聡明で、習って図訓を知り、帝は賢いとした。裴玪にとつぎ、また姜慶初にとついだ。姜慶初は罪を得て、公主も禁中に幽閉された。大暦年間(766-779)に薨去した。 寿安公主は、曹野那姫から生まれた。妊娠九か月で生まれ、帝はこれを嫌って、詔して道士が着る衣羽服を与えた。代宗が広平王の時に入謁したが、帝は名前で公主を呼んで、「蟲娘よ、お前には後で名前を与えるべきだ。広平王は霊州にいるから封を願いなさい」と言った。蘇発にとついだ。 粛宗に七女があった。 宿国公主は、始め長楽に封ぜられた。豆盧湛にとついだ。 蕭国公主は、始め寧国公主に封ぜられた。鄭巽にとつぎ、また薛康衡にとついだ。乾元元年(758)、回紇(ウイグル)の英武威遠可汗に降嫁し、公主府を設置した。乾元二年(759)、帰朝した。貞元年間(785)、府属を譲ったが、さらに邑司を設置された。 和政公主は、章敬太后から生まれた。生まれて三歳、后は崩じ、韋妃に養育された。性格は聡明で、妃につかえて孝ありと称された。柳潭にとついだ。安禄山が京師を陥落させると、寧国公主(蕭国公主)は寡婦で暮らしていたから、公主は自身の三子を捨て、夫柳潭の馬を奪って寧国公主を乗せ、自身は柳潭とともに歩くこと日に百里、柳潭は水薪を背負い、公主は竈を背負い、寧国公主を守った。 それより以前、柳潭の兄の柳澄の妻は、楊貴妃の姉(秦国夫人)であり、勢いは国政を傾けるほどであったが、公主はいまだかつて私事で助けを求めたことがなかった。夫人が死ぬと、その子供を撫育することは自身が産んだ子のようであった。玄宗に従って蜀に至り、始め封を受け、柳潭も駙馬都尉に任じられた。郭千仞が反乱すると、玄宗は玄英楼に御して諭して降伏させようとしたが、聞かなかったため、柳潭は折衝の張義童らを率いてとくに死闘し、公主も弓を射当てて柳潭をたすけ、柳潭は手ずから賊を斬ること五十人で、これを平定した。 肅宗が病となると、公主はその左右に侍って看病に励んだから、詔して田を賜ったが、妹の宝章公主)がいまだに賜っていないことを理由に、固く譲ってあえて受けなかった。阿布思の妻が後宮に入れられ、帝が宴すると緑の衣を着て歌わされていた。公主は諫めて「阿布思は本当の逆人で、妻を至尊にお近くに入れてはなりません。罪なくして大勢とともに歌わせていいのでしょうか」と。帝はそのため許して宮中より出した。自ら兵を養い、財を用立てて費やし、公主は貿易によって得た利益千万をとって軍をうごかした。帝の山陵の造営するに及んでは、また食邑を奉って千万を入れた。 代宗が即位すると、しばしば人間の利病・国家の盛衰の事をのべ、天子は受け入れた。吐蕃が京師に侵入すると、公主は避難して南に逃げ、商於にいたると群盜に遭遇し、公主は禍福を諭したから、皆ひざまずいて奴となることを願った。代宗は公主が貧しいから、諸節度使に詔して贈物させたが、公主はすべて受け取らなかった。自ら裳衣の綻びを縫い合わせ、諸子にも練り絹や細かい葛の服を着せなかった。広徳年間(763-764)、吐蕃が再び入寇したとき、公主は妊娠中で、入朝して辺境への備えの計略を語ろうとし、柳潭は強くとめたが、公主は「あなただけはお兄さんがいないというのですか?」といい、内殿に入った。翌日、出産して薨去した。 郯国公主は、始め大寧に封ぜられた。張清にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 紀国公主は、始め宜寧に封ぜられた。鄭沛にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永和公主は、韋妃から生まれた。始め宝章に封ぜられた。王詮にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 郜国公主は、始め延光に封ぜられた。裴徽にとつぎ、また蕭升にとついだ。蕭升が亡くなると、公主と彭州司馬の李万は乱倫にふけり、しかも蜀州別駕の蕭鼎・澧陽令の韋惲・太子詹事の李衛はみな公主の家に私侍した。しばらくして不祥事を聞いて徳宗は怒り、公主を他邸に幽閉し、李万を杖殺し、蕭鼎・韋惲・李衛を嶺表に流した。貞元四年(788)、また巫蠱での呪詛で廃された。貞元六年(790)に薨去した。子の蕭位は巫蠱の呪詛に連座し、端州に幽閉され、蕭佩・蕭儒・蕭偲は房州に捕らえらた。前夫の間に産んだ子の駙馬都尉の裴液は錦州にとらえられた。公主の娘は皇太子妃となり、帝は妃の怨みを恐れ、まさに殺そうとしたが、発覚する前にたまたま公主は薨去したから、太子(順宗)が病となっているすきに、妃を殺して災いを除いた。謚を恵といった。 代宗に十八女があった。 霊仙公主は、早く薨去し、追封された。 真定公主は、早く薨去した。追封された。 永清公主は、裴倣にとついだ。 斉国昭懿公主は、崔貴妃から生まれた。始め升平に封ぜられた。郭曖にとついだ。大暦年間(766-779)末年、寰内の民が涇水が磑壅(水車)のために灌漑田ができないことを訴え、京兆尹の黎幹が奏請した。詔して磑を撤去して水を民に与えた。当時公主および郭曖の家ではみな磑(うす)があり、残置を請うたが、帝は「私が民草のためか、もしくは諸親戚の訴えのためにすべきなのか」といって、即日毀し、これによって廃するところは八十所に及んだ。憲宗が即位すると、女伎を献じた。帝は「太上皇(順宗)は献を受けなかったが、朕はどうして敢えて違うというのか?」といい、返却した。元和年間(806-820)に薨去した。虢国を贈り、謚を賜った。穆宗が即位するとまた贈封した。 華陽公主は、貞懿皇后から生まれた。聡明なこと人より秀で、帝はこれを愛した。帝が喜ぶところを見ると、必ずよろこんだ。嫌うところがあれば曲げても迎合した。大暦七年(772)、病のため請願して道士となり、瓊華真人と号した。病が重く、帝は指を噛んで傷けた。薨去し、追封された。 玉清公主は、早く薨去し、追封された。 嘉豊公主は、高怡にとついだ。普寧公主とともに同時に降嫁し、役人はともに光順門で冊礼したが、雨のためにできず、中止した。建中年間(780-783)に薨去した。 長林公主は、衛尉少卿の沈明にとついだ。貞元二年(786)冊礼したが、徳宗は正殿に御さず、音楽も設けず、遂にこれが故事となった。元和年間(806-820)に薨去した。 太和公主は、早く薨去し、追封された。 趙国荘懿公主は、始め武清に封ぜられた。貞元元年、嘉誠に徙封された。魏博節度使の田緒にとつぎ、徳宗は望春亭に行幸して餞とした。厭翟車(公主の車)が破れて乗ることができなかったため、金根車(皇后の車)で代用した。公主が出降すると金根車に乗る慣例は、公主のときより始まった。元和年間(806-820)に薨去し、贈封と謚があった。 玉虚公主は、早く薨去した。 普寧公主は、呉士広にとついだ。 晋陽公主は、太常少卿の裴液にとついだ。大和年間(827-835)に薨去した。 義清公主は、秘書少監の柳杲にとついだ。 寿昌公主は、光禄少卿の竇克良にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 新都公主は、貞元十二年(796)に田華にとつぎ、光順門で礼し、令で定められた五礼はこれによって廃止された。 西平公主は、早く薨去した。 章寧公主は、早く薨去した。 徳宗に十一女があった。 韓国貞穆公主は、昭徳皇后から生まれた。幼くして親孝行につとめ、帝はこれを愛した。始め唐安に封ぜられた。秘書少監の韋宥にとつぐところだったが、朱泚の乱のためかなわず、このため城固にいたって薨去し、加封と謚があった。 魏国憲穆公主は、始め義陽に封ぜられた。王士平にとついだ。公主は勝手な振舞いで法をおかし、帝は公主を禁中に幽閉した。王士平を邸宅に禁錮した。しばらくして安州刺史を拝したが、民間との交わりで連座して、賀州司戸参軍に左遷された。門下客の蔡南史・独孤申叔が公主のために「団雪散雪の辞」をつくり離別の思いの手紙とした。帝は聞いて怒り、南史らを捕らえて放逐し、しばらくして進士科を廃止した。薨去し、追封と謚があった。 鄭国荘穆公主は、始め義章に封ぜられた。張孝忠の子の張茂宗にとついだ。薨去し、加贈と謚があった。 臨真公主は、秘書少監の薛釗にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永陽公主は、殿中少監の崔諲にとついだ。 普寧公主は、早く薨去した。 文安公主は、求めて道士となった。大和年間(827-835)に薨去した。 燕国襄穆公主は、始め咸安に封ぜられた。回紇の武義成功可汗にとつぎ、公主府を設置した。元和年間(806-820)に薨去し、追封と謚があった。 義川公主は、早く薨去した。 宜都公主は、殿中少監の柳昱にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 晋平公主は、早く薨去した。 順宗に十一女があった。 漢陽公主は、名を暢といい、荘憲皇后から生まれた。始め徳陽郡主に封じられた。郭鏦にとついだ。辞して邸宅に帰るとき、涕泣してどうすることもできなかった。徳宗は「お前に足りないことでもあるか?」と聞くと、答えて「離れることを思ってで、ほかに恨みはありません」と言った。帝もまた泣いて太子をかえりみて「ほんとうの子だな」と言った。 永貞元年(805)、諸公主とともに皆進封された。時に外戚や近臣はあらそって傲慢大言したが、公主はひとり倹約し、常に鉄の簪、壁画を用い、田租を記して入れた。文宗は最も世の中が奢侈に流れるのを憎み、よって公主を入朝させ問うた、「叔母上が着ている服は、何年のものか?今の弊害は何代にしてそうなったのだろうか?」と。公主は「私は貞元の時に宮を辞してより、服するところはみな当時賜ったもので、いまだかつてあえて変えていません。元和の後、しばしば兵を用いましたが、ことごとく禁蔵の纖麗物を出して戦士の賞としました、これによって民間に流出し、内外は互いに自慢しあったので、慣れてこのような風潮となったのです。もし陛下がよしとするところを天下にお示しあれば、誰があえて変えようとするでしょうか?」と答えた。帝は喜び、宮人に詔して公主の衣の広狭のつくりをみせ、ひとえに諸公主を諭し、かつ京兆尹に勅して華美を禁じた。公主はかつて諸皇女を戒めて「亡き姑(昇平公主)が申していましたが、私もお前もみな帝の子である。えらそうにして貴顕であることを奢れば、戒めなくてはならなくても頼みとはしてくれないだろうと」と言った。開成五年(840)に薨去した。 梁国恭靖公主は、漢陽公主と母を同じく生まれた。始め咸寧郡主に封ぜられ、普安に徙封された。鄭何にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 東陽公主は、始め信安郡主に封ぜられた。崔杞にとついだ。 西河公主は、始め武陵郡主に封ぜられた。沈翬にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 雲安公主は、また漢陽公主と同じく生まれた。劉士涇にとついだ。 襄陽公主は、始め晋康県主に封ぜられた。張孝忠の子の張克礼にとついだ。公主は雄健奔放で、常に市や里にお忍びで行った。薛枢・薛渾・李元本はみな密通して侍ったが、薛渾を最も愛し、薛渾の母に会うと姑のようであった。役人は難詰しようとしたから、多くの金を与え、暴かれないようにさせたが発覚し、夫の張克礼は奏上して、穆宗は公主を禁中に幽閉した。李元本は功臣李惟簡の子であるから、死を免じて象州に流刑とし、薛枢・薛渾は崖州に流刑とした。 潯陽公主は、崔昭儀から生まれた。大和三年(829)、平恩公主・邵陽公主の二公主とともにそろって道士となり、一年に封物七百匹を賜った。 臨汝公主は、崔昭訓から生まれた。早く薨去した。 虢国公主は、始め清源郡主に封ぜられ、陽安に徙封された。王承系にとついだ。薨去し、追封された。 平恩公主は、早く薨去した。 邵陽公主は、早く薨去した。 憲宗に十八女があった。 梁国恵康公主は、始め普寧に封ぜられた。帝は特に彼女を愛した。于季友にとついだ。元和年間(806-820)に永昌にうつった。薨去し、詔により追封と謚があった。葬られるときに、度支使(財賦の調達と出納を担当した使職)が義陽公主と義章公主の葬儀に銭四千万が用いられたと上奏したので、詔によって銭千万を減らされた。 永嘉公主は、道士となった。 衡陽公主は、早く薨去した。 宣城公主は、沈𥫃にとついだ。 鄭国温儀公主は、始め汾陽に封ぜられた。韋譲にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 岐陽荘淑公主は、懿安皇后から生まれた。杜悰にとつぎ、帝は公主のために正殿に御して臨遣し、西より朝堂を出て、再び延喜門に御し、公主の車を止め、大いに賓客・従者に金銭を賜った。邸宅を昌化里に建造し、龍首池から水を水路で引き入れて沼とした。懿安皇后の家は尚父(郭子儀)で、大通里の亭を公主の別館とした。貴きことは当世を震わせた。しかし公主が舅姑に仕えることは礼を以て聞き、賜わった奴婢は自由のびのびとさせ、皆上に返却し、直接請うて自ら市場に出かけた。杜悰は澧州刺史となり、公主は共に任地に赴き、従者は二十婢を超えなかった。驢馬に乗り、肉食せず、州県には必要な事柄がそなわっているから、それ以外の物は拒んで受けなかった。姑が病となって寝たきりとなると、公主は着替えもせず、薬は自分で嘗めて確認しなければすすめなかった。開成年間(836-841)、杜悰は忠武軍より入朝したが、公主は病に侵されており、「願わくは興慶宮に入朝できれば、道に死すといえども恨みません」と言い、途中で薨去した。 陳留公主は、裴損にとついだ。裴損は太子諭徳となった。 真寧公主は、薛翃にとついだ。 南康公主は、沈汾にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 臨真公主は、始め襄城に封ぜられた。衛洙にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 普康公主は、早く薨去した。 真源公主は、始め安陵に封ぜられた。杜中立にとついだ。 永順公主は、劉弘景にとついだ。 安平公主は、劉異にとついだ。宣宗が即位すると、宰相は劉異を平盧節度使にしようとしたが、帝は「朕のただひとりの妹であり、会いたい時に彼女と会いたいのだ」といった。そこで中止した。後に異居外への赴任に従ったが、歳時には駱駝に乗って入朝することとなった。乾符年間(874-879)に薨去した。 永安公主は、長慶年間(821-825)初頭、回鶻の保義可汗に降嫁されることとなったが、たまたま可汗が死んだため、中止して行かなかった。大和年間(827-835)、求めて道士となり、詔して邑印を賜ることは、尋陽公主の故事の通りであり、かつ婚資に帰した。 義寧公主は、とつがないうちに薨去した。 定安公主は、始め太和公主に封ぜられた。回鶻の崇徳可汗にとついだ。会昌三年(843)来帰し、宗正卿の李仍叔・秘書監の李践方らに詔して景陵に報告させた。公主は次いで太原に奉ぜられ、詔して使の労をいたわり、黠衛斯(キルギス)が献ずるところの白貂皮・玉の指環をもって往賜した。京師に至り、百官に詔して迎謁再拝させた。邑司の官が命を受けて答拝する故事にならった。役人は議して「邑司の官は身分が低く、該当させるべきではない」と言った。群臣は公主の左右の上媵(おつき)に鬢の帛をつけて承拝することを請い、両襠(うちかけ)をつけて待命させた。また神策軍四百に行列させて、群臣に列班迎接させた。公主は輅(くるま)に乗って憲・穆の二廟室に謁し、涙を流してすすり泣き、退いて光順門に詣り、服をかえ、冠の宝鈿をはぎ、待罪し、自ら和親を申して書面にはしなかった。帝は中人を遣わして慰労させ、また冠の宝鈿をつけて入朝し、群臣は天子に祝賀を申し述べた。また興慶宮に詣でた。翌日、公主は太皇太后に謁し、長公主に進封し、ついに太和公主府は廃止となった。公主が始めて至った時、宣城公主以下、七公主は出迎えしなかった。武宗は怒り、絹で贖罪させた。宰相が「礼の始まりは宮中の女房部屋で、天下に行われ、王化の美です。願わくば史書に載せ、後世に示してください」と建言し、詔して裁可された。 貴郷公主は、早く薨去した。 穆宗に八女があった。 義豊公主は、武貴妃から生まれた。韋処仁にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 淮陽公主は、張昭儀から生まれた。柳正元にとついだ。 延安公主は、竇澣にとついだ。 金堂公主は、始め晋陵に封ぜられた。郭仲恭にとついだ。乾符年間(874-879)に薨去した。 清源公主は、大和年間(827-835)に薨去した。 饒陽公主は、郭仲詞にとついだ。 義昌公主は、道士となった。咸通年間(860-874)に薨去した。 安康公主は、道士となった。乾符四年(877)、公主が在外のためすこぶる人を騒がせるから、詔して永興公主・天長公主・寧国公主・興唐公主らとともに南内(興慶宮)に帰還させた。 敬宗に三女があった。 永興公主。 天長公主。 寧国公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 文宗に四女があった。 興唐公主。 西平公主。 朗寧公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 光化公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 武宗に七女があった。 昌楽公主。 寿春公主。 長寧公主は、大中年間(847-860)に薨去した。 延慶公主。 静楽公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 楽温公主。 永清公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 宣宗に十一女があった。 万寿公主は、鄭顥にとついだ。公主は帝の愛するところで、これより先に詔を下して、「先王の制礼は、貴賎がこれを共にした。万寿公主は舅姑に奉り、よろしく士人の法に従うべし」と。旧制では車輿は金銀の釦飾であった。帝は「朕は倹約をもって天下に率先しており、身近なところから始めて、金銀を銅に変える」とした。公主は進見するごとに、帝は必ず篤行を教えさとし、「田舎者の家なく、懺悔する時もなし」といい、また「太平公主・安楽公主の禍は戒めを忘れてはならない!」といった。そのため諸公主はただ恐れ、争って喜事をしようとした。帝はついに「夫婦は教化の一端である。公主・県主に子があって寡婦となった場合、再嫁してはならない」と詔した。 永福公主。 斉国恭懐公主は、始め西華に封ぜられた。厳祁にとついだ。厳祁は刑部侍郎となった。公主は大中年間(847-860)に薨去し、追贈と謚があった。 広徳公主は、于琮にとついだ。かつて于琮に永福公主を娶せようと、帝とともに食事をした際に、永福公主が怒って匙や箸を折ったから、帝は「こいつは士人の妻にして大丈夫か?」といい、あらためて于琮と広徳公主を娶せた。于琮が黄巣に殺害されると公主は泣いて、「今日まで誼みがあって一人では生きられない、賊め、私を殺せ!」と言ったが黄巣は許可しなかったから、部屋で自縊死した。 公主は家をおさめるのに礼法があり、かつて于琮が韶州に左遷されるのに従った際、侍者はわずかに数人、州県の公主への贈物をも退けた。すべて内外の冠婚葬祭は、公主がすべて自ら答労したので、親しい者もそうでない者もみな感心し、世間で賢妻として知られた。 義和公主。 饒安公主。 盛唐公主。 平原公主は、咸通年間(860-874)に薨去し、追封された。 唐陽公主。 許昌荘粛公主は、柳陟にとついだ。中和年間(881-885)に薨去した。 豊陽公主。 懿宗に八女があった。 衛国文懿公主は、郭淑妃から生まれた。始め同昌に封ぜられた。韋保衡にとついだ。咸通十年(869)に薨去した。帝はすでにもとより愛するところであり、自ら挽歌をつくり、群臣に唱和させた。また百官に許可して祭儀物として金貝・寓車・廞服をつくり、これを火中に投じたから、民が争って燃えかすから宝を取り出した。葬におよんで、帝は妃とともに延興門に座って、柩が通過するのをみて哭泣し、仗衛の列は数十里にもおよび、金を加工して俑をつくり、宝物は千を数え、実際の墓中に乳母とともに埋葬した。追封と謚があった。 安化公主。 普康公主。 昌元公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 昌寧公主。 金華公主。 仁寿公主。 永寿公主。 僖宗に二女があった。 唐興公主。 永平公主。 昭宗に十一女があった。 新安公主。 平原公主は、積善皇后から生まれた。帝は鳳翔府の李茂貞のもとにあるとき、公主を李茂貞の子の李継侃に降嫁させたが、后は不可とした。帝は「そうでなければ、私にやすんずるところがないではないか!」といい、この日、内殿で宴し、李茂貞は帝の東南に座り、公主は殿上に拝した。李継侃の族兄弟はみな西向に立ち、公主と李継侃はこれを拝した。帝が長安に帰還すると、朱全忠は李茂貞に書を送り、公主を取り返して京師に帰還させた。 信都公主。 益昌公主。 唐興公主。 徳清公主。 太康公主。 永明公主は、早く薨去した。 新興公主。 普安公主。 楽平公主。 賛にいわく、婦人は内は夫家にあるから、天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお外にあるから詳細はわからなかった。また僖宗・昭宗の時の大乱のため、文書は散逸消滅し、そのため諸帝の公主が降日・薨年は、大体その概略は得たが、失われて不十分であったから書かなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十二 列伝第七 『新唐書』巻八十三 列伝第八 巻八十四 列伝第九
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資治通鑑巻第二十八 漢紀二十 孝元皇帝上 初元元年(癸酉、前四八) 1春,正月,辛丑,葬孝宣皇帝於杜陵;赦天下。 1. 正月辛丑 2三月,丙午,立皇后王氏,封后父禁爲陽平候。 2. 3以三輔、太常、郡國公田及苑可省者振業貧民;貲不滿千錢者,賦貸種、食。 3. 4封外祖父平恩戴侯同産弟子中常侍許嘉爲平恩侯。 4. 5夏,六月,以民疾疫,令太官損膳,減樂府員,省苑馬,以振困乏。 5. 6關東郡、國十一大水,饑,或人相食;轉旁郡錢谷以相救。 6. 7上素聞琅邪王吉、貢禹皆明經潔行,遣使者征之。吉道病卒。禹至,拜爲諫大夫。上數虚已問以政事,禹奏言:「古者人君節儉,什一而税,亡它賦役,故家給人足。高祖、孝文、孝景皇帝,宮女不過十餘人,厩馬百餘匹。後世爭爲奢侈,轉轉益甚;臣下亦相放效。臣愚以爲如太古難,宜少放古以自節焉。方今宮室已定,無可奈何矣;其餘盡可減損。故時齊三服官,輸物不過十笥;方今齊三服官,作工各數千人,一歳費數巨萬,厩馬食粟將萬匹。武帝時,又多取好女至數千人,以填後宮。及棄天下,多藏金錢、財物,鳥獸、魚鱉凡百九十物;又皆以後宮女置於園陵。至孝宣皇帝時,陛下惡有所言,羣臣亦隨故事,甚可痛也!故使天下承化,取女皆大過度,諸侯妻妾或至數百人,豪富吏民畜歌者至數十人,是以内多怨女,外多曠夫。及衆庶葬埋,皆虚地上以實地下。其過自上生,皆在大臣循故事之罪也。唯陛下深察古道,從其儉者。大減損乘輿服御器物,三分去二;擇後宮賢者,留二十人,餘悉歸之,及諸陵園女無子者,宜悉遣;厩馬可無過數十匹,獨捨長安城南苑地,以爲田獵之囿。方今天下饑饉,可無大自損減以救之稱天意乎!天生聖人,蓋爲萬民,非獨使自娯樂而已也。」天子納善其言,下詔,令諸宮館希御幸者勿繕治;太僕減谷食馬;水衡省肉食獸。 臣光曰:忠臣之事君也,責其所難,則其易者不勞而正;補其所短,則其長者不勸而遂。孝元踐位之初,虚心以問禹,禹宜先其所急,後其所緩。然則優遊不斷,讒佞用權,當時之大患也,而禹不以爲言;恭謹節儉,孝元之素志也,而禹孜孜而言之,何哉!使禹之智足不以知,烏得爲賢!知而不言,爲罪愈大矣! 7. 8匈奴呼韓邪單于復上書,言民衆困乏。詔雲中、五原郡轉谷二萬斛以給之。 8. 9是歳,初置戊己校尉,使屯田車師故地。 9. 二年(甲戌、前四七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。樂陵侯史高以外屬領尚書事,前將軍蕭望之、光祿大夫周堪爲之副。望之名儒,與堪皆以師傅舊恩,天子任之,數宴見,言治亂,陳王事。望之選白宗室明經有行散騎、諫大夫劉更生給事中,與侍中金敞並拾遺左右。四人同心謀議,勸導上以古制,多所欲匡正;上甚郷納之。史高充位而已,由此與望之有隙。 中書令弘恭、僕射石顯,自宣帝時久典樞機,明習文法;帝即位多疾,以顯久典事,中人無外黨,精專可信任,遂委以政,事無小大,因顯白決,貴幸傾朝,百僚皆敬事顯。顯爲人巧慧習事,能深得人主微指,内深賊,持詭辯,以中傷人,忤恨睚眥,輒被以危法;亦與車騎將軍高爲表里,議論常獨持故事,不從望之等。 望之等患苦許、史放縱,又疾恭、顯擅權,建白以爲:「中書政本,國家樞機,宜以通明公正處之。武帝游宴後庭,故用宦者,非古制也。宜罷中書宦官,應古不近刑人之義。」由是大與高、恭、顯忤。上初即位,謙讓,重改作,議久不定,出劉更生爲宗正。 望之、堪數薦名儒、茂材以備諫官,會稽鄭朋陰欲附望之,上書言車騎將軍高遣客爲姦利郡國,及言許、史弟子罪過。章視周堪,堪白:「令朋待詔金馬門。」朋奏記望之曰:「今將軍規撫,雲若管、晏而休,遂行日昃,至周、召乃留乎?若管、晏而休,則下走將歸延陵之皋,沒齒而已矣。如將軍興周、召之遺業,親日昊之兼聽,則下走其庶幾願竭區區奉萬分之一!」望之始見朋,接待以意;後知其傾邪,絶不與通。朋,楚士,怨恨,更求入許、史,推所言許、史事,曰:「皆周堪、劉更生教我;我關東人,何以知此!」於是侍中許章白見朋。朋出,揚言曰:「我見言前將軍小過五,大罪一。」待詔華龍行汚穢,欲入堪等,堪等不納,亦與朋相結。 恭、顯令二人告望之等謀欲罷車騎將軍,疏退許、史状,候望之出休日,令朋、龍上之。事下弘恭問状,望之對曰:「外戚在位多奢淫,欲以匡正國家,非爲邪也。」恭、顯奏:「望之、堪、更生朋黨相稱舉,數譖訴大臣,毀離親戚,欲以專擅權勢。爲臣不忠,誣上不道,請謁者召致廷尉。」時上初即位,不省召致廷尉爲下獄也,可其奏。後上召堪、更生,曰:「繋獄。」上大驚曰:「非但廷尉問邪!」以責恭、顯,皆叩頭謝。上曰:「令出視事。」恭、顯因使史高言:「上新即位,未以德化聞於天下,而先驗師傅。即下九卿、大夫獄,宜因決免。」於是制詔丞相、御史:「前將軍望之,傅朕八年,無它罪過。今事久遠,識忘難明,其赦望之罪,收前將軍、光祿勳印綬;及堪、更生皆免爲庶人。」 1. 2二月,丁巳,立弟竟爲清河王。 2. 3戊午,隴西地震,敗城郭、屋室,壓殺人衆。 3. 4三月,立廣陵厲王子霸爲王。 4. 5詔罷黄門乘輿狗馬,水衡禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、嚴□池田假與貧民。又詔赦天下,舉茂材異等、直言極諫之士。 5. 6夏,四月,丁巳,立子驁爲皇太子。待詔鄭朋薦太原太守張敞,先帝名臣,宜傅輔皇太子。上以問蕭望之,望之以爲敞能吏,任治煩亂,材輕,非師傅之器。天子使使者征敞,欲以爲左馮翊,會病卒。 6. 7詔賜蕭望之爵關内侯,給事中,朝朔望。 7. 8關東饑,齊地人相食。 8. 9秋,七月,己酉,地復震。 9. 10上復征周堪、劉更生,欲以爲諫大夫;弘恭、石顯白,皆以爲中郎。 上器重蕭望之不已,欲倚以爲相;恭、顯及許、史子弟、侍中、諸曹皆側目於望之等。更生乃使其外親上變事,言「地震殆爲恭等,不爲三獨夫動。臣愚以爲宜退恭、顯以章蔽善之罰,進望之等以通賢者之路。如此,則太平之門開,災異之願塞矣。」書奏,恭、顯疑其更生所爲,白請考姦詐,辭果服;遂逮更生繋獄,免爲庶人。 會望之子散騎、中郎人及亦上書訟望之前事,事下有司,復奏:「望之前所坐明白,無譖訴者,而教子上書,稱引亡辜之詩,失大臣體,不敬,請逮捕。」弘恭、石顯等知望之素高節,不詘辱,建白:「望之前幸得不坐,復賜爵邑,不悔過服罪,深懷怨望,教子上書,歸非於上,自以托師傅,終必不坐,非頗屈望之於牢獄,塞其怏怏心,則聖朝無以施恩厚。」上曰:「蕭太傅素剛,安肯就吏!」顯等曰:「人命至重,望之所坐,語言薄罪,必無所憂。」上乃可其奏。冬,十二月,顯等封詔以付謁者,敕令召望之手付。因令太常急發執金吾車騎馳圍其第。使都至,召望之。望之以問門下生魯國硃雲,雲者,好節士,勸望之自裁。於是望之仰天歎曰:「吾嘗備位將相,年逾六十矣,老入牢獄,苟求生活,不亦鄙乎!」字謂雲曰:「游,趣和藥來,無久留我死!」竟飲鳩自殺。天子聞之驚,拊手曰:「曩固疑其不就牢獄,果然殺吾賢傅!」是時,太官方上晝食,上乃卻食,爲之涕泣,哀動左右。於是召顯等責問以議不詳,皆免冠謝,良久然後已。上追念望之不忘,毎歳時遣使者祠祭望之塚,終帝之世。 臣光曰:甚矣孝元之爲君,易欺而難寤也!夫恭、顯之譖訴望之,其邪説詭計,誠有所不能辨也。至於始疑望之不肯就獄,恭、顯以爲必無憂。已而果自殺,則恭、顯之欺亦明矣。在中智之君,孰不感動奮發以厎邪臣之罰!孝元則不然。雖涕泣不食以傷望之,而終不能誅恭、顯,才得其免冠謝而已。如此,則姦臣安所懲乎!是使恭、顯得肆其邪心而無復忌憚者也。 10. 11是歳,弘恭病死,石顯爲中書令。 11. 12初,武帝灰南越,開置珠崖、儋耳郡,在海中洲上,吏卒皆中國人,多侵陵之。其民亦暴惡,自以阻絶,數犯吏禁,率數年壹反,殺吏;漢輒發兵撃定之。二十餘年間,凡六反。至宣帝時,又再反。上即位之明年,珠崖山南縣反,發兵撃之。諸縣更叛,連年不定。上博謀於羣臣,欲大發軍。待詔賈捐之曰:「臣聞堯、舜、禹之聖德,地方不過數千里,西被流沙,東漸於海,朔南曁聲教,言欲與聲教則治之,不欲與者不強治也。故君臣歌德,含氣之物各得其宜。武丁、成王、殷、周之大仁也,然地東不過江、黄,西不過氐、羌,南不過蠻荊,北不過朔方,是以頌聲並作,視聽之類咸樂其生,越裳氏重九譯而獻,此非兵革之所能致也。以至於秦,興兵遠攻,貪外虚内而天下潰畔。孝文皇帝偃武行文,當此之時,斷獄數百,賦役輕簡。孝武皇帝厲兵馬以攘四夷,天下斷獄萬數,賦煩役重,寇賊並起,軍旅數發,父戰死於前,子斗傷於後,女子乘亭障,孤兒號於道,老母、寡婦飲泣巷哭,是皆廓地泰大,征伐不休之故也。今關東民衆久困,流離道路。人情莫親父母,莫樂夫婦;至嫁妻賣子,法不能禁,義不能止,此社稷之憂也。今陛下不忍悁悁之忿,欲驅士衆擠之大海之中,快心幽冥之地,非所以救助饑饉,保全元元也。詩云:『蠢爾蠻荊,大邦爲讎。』言聖人起則後服,中國衰則先畔,自古而患之,何況乃復其南方萬里之蠻乎!駱越之人,父子同川而浴,相習以鼻飲,與禽獸無異,本不足郡縣置也。顓顓獨居一海之中,霧露氣濕,多毒草、蟲蛇、水土之害;人未見虜,戰士自死。又非獨珠崖有珠、犀、玳瑁也。棄之不足惜,不撃不損威。其民譬猶魚鱉,何足貪也!臣竊以往者羌軍言之,暴師曾未一年,兵出不逾千里,費四十餘萬萬;大司農錢盡,乃以少府禁錢續之。夫一隅爲不善,費尚如此,況於勞師遠攻,亡士毋功乎!求之往古則不合,施之當今又不便,臣愚以爲非冠帶之國,禹貢所及,春秋所治,皆可且無以爲。願遂棄珠崖,專用恤關東爲憂。」上以問丞相、御史。御史大夫陳萬年以爲當撃,丞相於定國以爲:「前日興兵撃之連年,護軍都尉、校尉及丞凡十一人,還者二人,卒士及轉輸死者萬人以上,費用三萬萬餘,尚未能盡降。今關東困乏,民難搖動,捐之議是,」上從之。捐之,賈誼曾孫也。 12. 三年(乙亥、前四六) 1春,詔曰:「珠崖虜殺吏民,背畔爲逆。今廷議者或言可撃,或言可守,或欲棄之,其指各殊。朕日夜惟思議者之言,羞威不行,則欲誅之;狐疑辟難,則守屯田;通於時變,則憂萬民。夫萬民之飢餓與遠蠻之不討,危孰大焉?且宗廟之祭,凶年不備,況乎辟不嫌之辱哉!今關東大困,倉庫空虚,無以相贍,又以動兵,非特勞民,凶年隨之。其罷珠崖郡,民有慕義欲内屬,便處之;不欲,勿強。」 1. 2夏,四月,乙末晦,茂陵白鶴館災;赦天下。 2. 3夏,旱。 3. 4立長沙煬王弟宗爲王。 4. 5長信少府貢禹上言:「諸離宮及長樂宮衞,可減其太半以寬繇役。」六月,詔曰:「朕惟烝庶之饑寒,遠離父母妻子,勞於非業之作,衞於不居之宮,恐非所以佐陰陽之道也。其罷甘泉、建章宮衞,令就農。百宮各省費。條奏,毋有所諱。」 5. 6是歳,上復擢周堪爲光祿勳,堪弟子張猛爲光祿大夫、給事中,大見信任。 6. 四年(丙子、前四五) 1春,正月,上行幸甘泉,效泰畤。三月,行幸河東,祠后土;赦汾陰徒。 1. 五年(丁丑、前四四) 1春,正月,以周子南君爲周承休侯。 1. 2上行幸雍,祠五畤。 2. 3夏,四月,有星孛于參。 3. 4上用諸儒貢禹等之言,詔太官毋日殺,所具各減半;乘輿秣馬,無乏正事而已。罷角抵、上林宮館希御幸者、齊三服官、北假田官、鹽鐵官、常平倉。博士弟子毋置員,以廣學者。令民有能通一經者。皆復。省刑罰七十餘事。 4. 5陳萬年卒。六月,辛酉,長信少府貢禹爲御史大夫。禹前後言得失書數十上,上嘉其質直,多採用之。 5. 6匈奴郅支單于自以道遠,又怨漢擁護呼韓邪而不助己,困辱漢使者乾江乃始等;遣使奉獻,因求侍子。漢議遣衞司馬谷吉送之,御史大夫貢禹、博士東海匡衡以爲:「郅支單于郷化末醇,所在絶遠,宜令使者送其子,至塞而還。」吉上書言:「中國與夷狄有羈縻不絶之義,今既養全其子十年,德澤甚厚,空絶而不送,近從塞還,示棄捐不畜,使無郷從之心,棄前恩,立後怨,不便。議者見前江乃無應敵之數,智勇倶困,以致恥辱,即豫爲臣憂。臣幸得建強漢之節,承明聖之詔,宣諭厚恩,不宜敢桀。若懷禽獸心,加無道於臣,則單于長嬰大罪,必遁逃遠捨,不敢近邊。沒一使以安百姓,國之計,臣之願也。願送到庭。」上許焉。既到,郅支單于怒,竟殺吉等;自知負漢,又聞呼韓邪益強,恐見襲撃,欲遠去。會康居王數爲烏孫所困,與諸翕侯計,以爲:「匈奴大國,烏孫素服屬之。今郅支單于困在外,可迎置東邊,使合兵取烏孫而立之,長無匈憂矣。」即使使到堅昆,通語郅支。郅支素恐,又怨烏孫,聞康居計,大説,遂與相結,引兵而西。郅支人衆中寒道死,餘財三千人。到康居,康居王以女妻郅支,郅支亦以女予康居王,康居甚尊敬郅支,欲倚其威以脅諸國。郅支數借兵撃烏孫,深入至谷城,殺略民人,驅畜産去。烏孫不敢追。西邊空虚不居者五千里。 6. 7冬,十二月,丁末,貢禹卒。丁已,長信少府薛廣德爲御史大夫。 7. 永光元年(戊寅、前四三) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。視畢,因留射獵。薛廣德上書曰:「竊見關東困極,人民流離。陛下日撞亡秦之鐘,聽鄭、衞之樂,臣誠悼之。今士卒暴露,從官勞倦,願陛下亟反宮,思與百姓同憂樂,天下幸甚!」上即日還。 1. 2二月,詔:「丞相、御史舉質樸、敦厚、遜讓、有行者,光祿歳以此科第郎、從官。」 2. 3三月,赦天下。 3. 4雨雪、隕霜,殺桑。 4. 5秋,上酎祭宗廟,出便門,欲御樓船。薛廣德當乘輿車,免冠頓首曰:「宜從橋。」詔曰:「大夫冠。」廣德曰:「陛下不聽臣,臣自刎,以血汚車輪,陛下不得入廟矣!」上不説。先驅光祿大夫張猛進曰:「臣聞主聖臣直。乘船危,就橋安,聖主不乘危。御史大夫言可聽。」上曰:「曉人不當如是邪!」乃從橋。 5. 6九月,隕霜殺稼,天下大饑。丞相於定國,大司馬、車騎將軍史高,御史大夫薛廣德,倶以災異乞骸骨。賜安車、駟馬、黄金六十斤,罷。太子太傅韋玄成爲御史大夫。廣德歸,縣其安車,以傳示子孫爲榮。 6. 7帝之爲太子也,從太中大夫孔霸受尚書。及即位,賜霸爵關内侯,號褒成君,給事中。上欲致霸相位,霸爲人謙退,不好權勢,常稱「爵位泰過,何德以堪之!」御史大夫屢缺,上輒欲用霸;霸讓位,自陳至於再三。上深知其至誠,乃弗用。以是敬之,賞賜甚厚。 7. 8戊子,侍中,衞尉王接爲大司馬、車騎將軍。 8. 9石顯憚周堪、張猛等,數譖毀之。劉更生懼其傾危,上書曰:「臣聞舜命九官,濟濟相讓,和之至也。衆臣和於朝則萬物和於野,故簫韶九成,鳳皇來儀。至周幽,厲之際,朝廷不和,轉相非怨,則日月薄食,水泉沸騰,山谷易處,霜降失節。由此觀之,和氣致祥,乖氣致異,祥多者其國安,異衆者其國危。天地之常經,古今之通義也。今陛下開三代之業,招文學之士,優遊寬容,使得並進。今賢不肖渾殽,白黑不分,邪正雜糅,忠讒並進;章交公車,人滿北軍,朝臣舛午,膠戻乖剌,更相讒訴,轉相是非;所以營惑耳目,感移心意,不可勝載,分曹爲黨,往往羣朋將同心以陷正臣。正臣進者,治之表也;正臣陷者,亂之機也;乘治亂之機,未知孰任,而災異數見,此臣所以寒心者也。初元以來六年矣,按春秋六年之中,災異未有稠如今者也。原其所以然者,由讒邪並進也;讒邪之所以並進者,由上多疑心,既已用賢人而行善政,如或譖之,則賢人退而善政還矣。夫執狐疑之心者,來讒賊之口;持不斷之意者,開羣枉之門;讒邪進則衆賢退,羣枉盛則正士消。故易有否、泰,小人道長,君子道消,則政日亂;君子道長,小人道消,則政日治。昔者鯀、共工、驩兜與舜、禹雜處堯朝,周公與管、蔡並居周位,當是時,迭進相毀,流言相謗,豈可勝道哉!帝堯、成王能賢舜、禹、周公而消共工、管、蔡,故以大治,榮華至今。孔子與季、孟偕仕於魯,李斯與叔孫倶宦於秦,定公、始皇賢季、孟、李斯而消孔子、叔孫,故以大亂,汚辱至今。故治亂榮辱之端,在所信任;信任既賢,在於堅固而不移。詩云:『我心匪石,不可轉也,言守善篤也。易曰:『渙汗其大號』,言號令如汗,汗出而不反者也。今出善令未能逾時而反,是反汗也;用賢未能三旬而退,是轉石也。論語曰:『見不善如探湯。』今二府奏佞謅不當在位,歴年而不去。故出令則如反汗,用賢則如轉石,去佞則如撥山,如此,望陰陽之調,不亦難乎!是以羣小窺見間隙,縁飾文字,巧言醜詆,流言、飛文嘩於民間。故詩云:『憂心悄悄,慍於羣小,』小人成羣,誠足慍也。昔孔子與顏淵、子貢更相稱譽,不爲朋黨;禹、稷與皋陶傳相汲引,不爲比周,何則?忠於爲國,無邪心也。今佞邪與賢臣並交戟之内,合黨共謀,違善依惡,歙歙訿□,數設危險之言,欲以傾移主上,如忽然用之,此天地之所以先戒,災異之所以重至者也。自古明聖未有無誅而治者也,故舜有四放之罰,孔子有兩觀之誅,然後聖化可得而行也。今以陛下明知,誠深思天地之心,覽否、泰之卦,歴周、唐之所進以爲法,原秦、魯之所消以爲戒,考祥應之福。省災異之禍,以揆當世之變,放遠佞邪之黨,壞散險詖之聚,杜閉羣枉之門,方開衆正之路,決斷狐疑,分別猶豫,便是非炳然可知,則百異消滅而衆祥並至,太平之基,萬世之利也。」顯見其書,愈與許、史比而怨更生等。 是歳,夏寒,日靑無光,顯及許、史皆言堪、猛用事之咎。上内重堪,又患衆口之浸潤,無所取信。時長安令楊興以材能幸,常稱譽堪,上欲以爲助,乃見問興:「朝臣斷斷不可光祿勳,何邪?」興者,傾巧士,謂上疑堪,因順指曰:「堪非獨不可於朝廷,自州里亦不可也!臣見衆人聞堪與劉更生等謀毀骨肉,以爲當誅;故臣前書言堪不可誅傷,爲國養恩也。」上曰:「然此何罪而誅?今宜奈何?」興曰:「臣愚以爲可賜爵關内侯,食邑三百戸,勿令典事。明主不失師傅之恩,此最策之得者也。」上於是疑之。 司隸校尉琅邪諸葛豐始以特立剛直著名於朝,數侵犯貴戚,在位多言其短。後坐春夏繋治人,徙城門校尉。豐於是上書告堪、猛罪,上不直豐,乃制詔御史:「城門校尉豐,前與光祿勳、光祿大夫猛在朝之時,數稱言堪、猛之美。豐前爲司隸校尉,不順四時,修法度,專作苛暴以獲虚威;朕不忍下吏,以爲城門校尉。不内省諸己,而反怨堪、猛以求報舉,告按無證之辭,暴揚難驗之罪,毀譽恣意,不顧前言,不信之大也。朕憐豐之耆老,不忍加刑,其免爲庶人!」又曰:「豐言堪、猛貞信不立,朕閔而不治,又惜其材能未有所效,其左遷堪爲河東太守,猛槐里令。」 臣光曰:諸葛豐之於堪、猛,前譽而後毀,其志非爲朝廷進善而去姦也,欲比周求進而已矣。斯亦鄭朋、楊興之流,烏在其爲剛直哉!人君者,察美惡,辨是非,賞以勸善,罰以懲姦,所以爲治也。使豐言得實,則豐不當絀;若其誣罔,則堪、猛何辜焉!今兩責而倶棄之,則美惡、是非果何在哉! 9. 10賈捐之與楊興善。捐之數短石顯,以故不得官,稀復進見;興新以材能得幸。捐之謂興曰:「京兆尹缺,使我得見,言君蘭,京兆尹可立得。」興曰:「君房下筆,言語妙天下;使君房爲尚書令,勝五鹿充宗遠甚。」捐之曰:「令我得代充宗,君蘭爲京兆,京兆,郡國首,尚書,百官本,天下眞大治,士則不隔矣!」捐之復短石顯,興曰:「顯方貴,上信用之;今欲進,第從我計,且與合意,即得入矣!」捐之即與興共爲薦顯奏,稱譽其美,以爲宜賜爵關内侯,引其兄弟以爲諸曹;又共爲薦興奏,以爲可試守京兆尹。石顯聞知,白之上,乃下興、捐之獄,令顯治之,奏「興,捐之懷詐偽,更相薦譽,欲得大位,罔上不道!」捐之竟坐棄市,興髡鉗爲城旦。 臣光曰:君子以正攻邪,猶懼不克。況捐之以邪攻邪,其能免乎! 10. 11徙清河王竟爲中山王。 11. 12匈奴呼韓邪單于民衆益盛,塞下禽獸盡,單于足以自衞,不畏郅支,其大臣多勸單于北歸者。久之,單于竟北歸庭,民衆稍稍歸之,其國遂定。 12. 二年(己卯、前四二) 1春,二月,赦天下。 1. 2丁酉,御史大夫韋玄成爲丞相;右扶風鄭弘爲御史大夫。 2. 3三月,壬戌朔,日有食之。 3. 4夏,六月,赦天下。 4. 5上問給事中匡衡以地震日食之變,衡上疏曰:「陛下躬聖德,開太平之路,閔愚吏民觸法抵禁,比年大赦,使百姓得改行自新,天下幸甚!臣竊見大赦之後,姦邪不爲衰止,今日大赦,明日犯法,相隨入獄,此殆導之未得其務也。今天下俗,貪財賤義,好聲色,上侈靡,親戚之恩薄,婚姻之黨隆,苟合徼幸,以身設利;不改其原,雖歳赦之,刑猶難使錯而不用也,臣愚以爲宜壹曠然大變其俗。夫朝廷者,天下之楨幹也。朝有變色之言,則下有爭鬥之患;上有自專之士,則下有不讓之人;上有克勝之佐,則下有傷害之心;上有好利之臣,則下有盜竊之民;此其本也。治天下者,審所上而已。教化之流,非家至而人説之也;賢者在位,能者布職,朝廷崇禮,百僚敬讓,道德之行,由内及外,自近者始,然後民知所法,遷善日進而不自知也。詩曰:『商邑翼翼,四方之極。』今長安,天子之都,親承聖化,然其習俗無以異於遠方,郡國來者無所法則,或見侈靡而放效之;此教化之原本,風俗之樞機,宜先正者也。臣聞天人之際,精祲有以相蕩,善惡有以相推,事作乎下者象動乎上,陰變則靜者動,陽蔽則明者晻,水旱之災隨類而至。陛下祗畏天戒,哀閔元元,宜省靡麗,考制度,近忠正,遠巧佞,以崇至仁,匡失俗,道德弘於京師,淑問揚乎疆外,然後大化可成,禮讓可興也。」上説其言,遷衡爲光祿大夫。 5. 6荀悅論曰:夫赦者,權時之宜,非常典也。漢興,承秦兵革之後,大愚之世,比屋可刑,故設三章之法,大赦之令,蕩滌穢流,與民更始,時勢然也。後世承業,襲而不革,失時宜矣。若惠、文之世,無所赦之。若孝景之時,七國皆亂,異心並起,姦詐非一;及武帝末年,賦役繁興,羣盜並起,加以太子之事,巫蠱之禍,天下紛然,百姓無聊,人不自安;及光武之際,撥亂之後:如此之比,宜爲赦矣。 6. 荀悦が論じて曰く:それ大赦なるものは便宜上の措置にあり、常なる典範にあらず。漢が興ったときは秦の兵革の後を承けた後であり、大愚の世のため、多くの者が身に重罪を負い、法に則ればことごとく民衆を誅殺しなければならなかった。ゆえに三章の法を設けてこれに令して大赦し、汚いものを洗い流して民とともに新しい時代を始めたのである。時の勢いとしてこうするべきだったのだ。しかし後世に至り、この制度を承けて襲して革(あらた)めずにいたならば、時宜を失していただろう。もし、恵帝、文帝の世に大赦が無かったならば、景帝の世で七国の乱があったときに、皆、異心沸き起こって奸詐は一つどころではなかっただろう。武帝の末年になると、賦役が繁雑に興されて群盗が沸き起こった。加えて皇太子の事件をもって巫蠱の禍があり、天下は紛然となった。百姓は頼るものとてなく、人々は皆、自ずと不安となった。光武帝の際には混乱の後を承けて前世になぞらえ、かくの如くにして大赦すること宜しきを得たのである。 7秋,七月,隴西羌彡姐旁種反,詔召丞相韋玄成等入議。是時,歳比不登,朝廷方以爲憂,而遭羌變,玄成等漠然,莫有對者。右將軍馮奉世曰:「羌虜近在竟内背畔,不以時誅,無以威制遠蠻,臣願帥師討之!」上問用兵之數,對曰:「臣聞善用兵者,役不再興,糧不三載,故師不久暴而天誅亟決。往者數不料敵,而師至於折傷,再三發調,則曠日煩費,威武虧矣。今反虜無慮三萬人,法當倍,用六萬人。然羌戎,弓矛之兵耳,器不犀利,可用四萬人。一月足以決。」丞相、御史、兩將軍皆以爲:「民方收斂時未可多發,發萬人屯守之,且足。」奉世曰:「不可。天下被饑饉,士馬羸耗,守戰之備久廢不簡,夷狄有輕邊吏之心,而羌首難。今以萬人分屯數處,虜見兵少,必不畏懼。戰則挫兵病師,守則百姓不救,如此,怯弱之形見。羌人乘利,諸種並和,相扇而起,臣恐中國之役不得止於四萬,非財幣所能解也。故少發師而曠日,與一舉而疾決,利害相萬也。」固爭之,不能得。有詔,益二千人。於是遣奉世將萬二千人騎,以將屯爲名,典屬國任立、護軍都尉韓昌爲偏裨,到隴西,分屯三處。昌先遣兩校尉與羌戰,羌虜盛多,皆爲所破,殺兩校尉。奉世具上地形部衆多少之計,願益三萬六千人,乃足以決事。書奏,天子大爲發兵六萬餘人。八月,拜太常弋陽侯任千秋爲奮武將軍以助之。冬,十月,兵畢至隴西,十一月,並進,羌虜大破,斬首數千級,餘皆走出塞。兵未決間,漢復發募士萬人,拜定襄太守韓安國爲建威將軍,未進,聞羌破而還。詔罷吏士,頗留屯田,備要害處。 7.
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資治通鑑巻第三十五 漢紀二十七 孝哀皇帝下 元壽元年(己未、前二) 1春,正月,辛丑朔,詔將軍、中二千石舉明習兵法者各一人,因就拜孔郷侯傅晏爲大司馬、衞將軍,陽安侯丁明爲大司馬、票騎將軍。 1.春、正月、???、将軍に命令し、二千石の中から兵法に明らかで慣れた者各一人を挙げさせ、よって孔郷侯傅晏を大司馬、衛将軍、陽安侯丁明を大司馬、票騎将軍に就かせる。 2是日,日有食之。上詔公卿大夫悉心陳過失;又令舉賢良方正能直言者各一人。大赦天下。 丞相嘉奏封事曰:「孝元皇帝奉承大業,温恭少欲,都内錢四十萬萬。嘗幸上林,後宮馮貴人從臨獸圈,猛獸驚出,貴人前當之,元帝嘉美其義,賜錢五萬。掖庭見親,有加賞賜,屬其人勿衆謝。示平惡偏,重失人心,賞賜節約。是時外戚貲千萬者少耳,故少府、水衡見錢多也。雖遭初元、永光凶年饑饉,加以西羌之變,外奉師旅,内振貧民,終無傾危之憂,以府臧内充實也。孝成皇帝時,諫臣多言燕出之害,及女寵專愛,耽於酒色,損德傷年,其言甚切,然終不怨怒也。寵臣淳於長、張放、史育,育數貶退,家貲不滿千萬,放斥逐就國,長榜死於獄,不以私愛害公義,故雖多内譏,朝廷安平,傳業陛下。 2、??、日食あり。公卿大夫の悉心陳が過失を申し上げ;又賢良で方正の才能の直言者を各1名挙げるよう命令した。天下に大赦した。 2a陛下在國之時,好詩、書,上儉節,征來,所過道上稱誦德美,此天下所以回心也。初即位,易帷帳,去錦繡,乘輿席縁綈繒而已。共皇寢廟比當作,憂閔元元,惟用度不足,以義割恩,輒且止息,今始作治。而駙馬都尉董賢亦起官寺上林中,又爲賢治大第,開門郷北闕,引王渠灌園池,使者護作,賞賜吏卒,甚於治宗廟。賢母病,長安廚給祠具,道中過者皆飲食。爲賢治器,器成,奏御乃行,或物好,特賜其工。自貢獻宗廟、三宮,猶不至此。賢家有賓婚及見親,諸官並共,賜及倉頭、奴婢人十萬錢。使者護視、發取市物,百賈震動,道路讙嘩,羣臣惶惑。詔書罷苑,而以賜賢二千餘頃,均田之制從此墮壞。奢僭放縱,變亂陰陽,災異衆多,百姓訛言,持籌相驚,天惑其意,不能自止。陛下素仁智愼事,今而有此大譏。 2b 孔子曰:『危而不持,顛而不扶,則將安用彼相矣!』臣嘉幸得備位,竊内悲傷不能通愚忠之信;身死有益於國,不敢自惜。唯陛下愼己之所獨郷,察衆人之所共疑!往者寵臣鄧通、韓嫣,驕貴失度,逸豫無厭,小人不勝情慾,卒陷罪辜,亂國亡軀,不終其祿,所謂『愛之適足以害之』者也!宜深覽前世,以節賢寵,全安其命。」上由是於嘉浸不説。 2c 前涼州刺史杜鄴以方正對策曰:「臣聞陽尊陰卑,天之道也。是以男雖賤,各爲其家陽,女雖貴,猶爲其國陰。故禮明三從之義,雖有文母之德,必繋於子。昔鄭伯隨姜氏之欲,終有叔段簒國之禍;周襄王内迫惠後之難,而遭居鄭之危。漢興,呂太后權私親屬,幾危社稷。竊見陛下約儉正身,欲與天下更始,然嘉瑞未應,而日食、地震。案春秋災異,以指象爲言語。日食,明陽爲陰所臨。坤以法地,爲土,爲母,以安靜爲德;震,不陰之效也。占像甚明,臣敢不直言其事!昔曾子問從令之義,孔子曰:『是何言與!』善閔子騫守禮不苟從親,所行無非理者,故無可間也。今諸外家昆弟,無賢不肖,並侍帷幄,布在列位,或典兵衞,或將軍屯,寵意並於一家,積貴之勢,世所希見、所希聞也。至乃並置大司馬、將軍之官,皇甫雖盛,三桓雖隆,魯爲作三軍,無以甚此!當拜之日,晻然日食。不在前後,臨事而發者,明陛下謙遜無專,承指非一,所言輒聽,所欲輒隨,有罪惡者不坐辜罰,無功能者畢受官爵,流漸積畏,過在於是,欲令昭昭以覺聖朝。昔詩人所刺,春秋所譏,指象如此,殆不在它。由後視前,忿邑非之。逮身所行,不自鏡見,則以爲可,計之過者。願陛下加致精誠,思承始初,事稽諸古,以厭下心,則黎庶羣生無不説喜,上帝百神收還威怒,禎祥福祿,何嫌不報!」 2d 上又徴孔光詣公車,問以日食事,拜爲光祿大夫,秩中二千石,給事中,位次丞相。 初,王莽既就國,杜門自守。其中子獲殺奴,莽切責獲,令自殺。在國三歳,吏民上書冤訟莽者百數。至是,賢良周護、宋崇等對策,復深訟莽功德。上於是征莽及平阿侯仁還京師,侍太后。 2. 3董賢因日食之變以沮傅晏、息夫躬之策,辛卯,上收晏印綬,罷就第。 3. 4丁巳,皇太太后傅氏崩,合葬渭陵,稱孝元傅皇后。 4. 5丞相、御史奏息夫躬、孫寵等罪過,上乃免躬、寵官,遣就國;又罷侍中、諸曹、黄門郎數十人。 鮑宣上書曰:「陛下父事天,母事地,子養黎民。即位已來,父虧明,母震動,子訛言相驚恐。今日食於三始,誠可畏懼。小民正朔日尚恐毀敗器物,何況於日虧乎!陛下深内自責,避正殿,舉直言,求過失,罷退外親及旁仄素餐之人,征拜孔光爲光祿大夫,發覺孫寵、息夫躬過惡,免官遣就國,衆庶歙然,莫不説喜。天人同心,人心説則天意解矣。乃二月丙戌,白虹干日,連陰不雨,此天下憂結未解,民有怨望未塞者也。侍中、駙馬都尉董賢,本無葭莩之親,但以令色、諛言自進,賞賜無度,竭盡府臧,併合三第,尚以爲小,復壞暴室。賢父、子坐使天子使者,將作治第,行夜吏卒皆得賞賜,上塚有會,輒太官爲供。海内貢獻,當養一君,今反盡之賢家,豈天意與民意邪!天不可久負,厚之如此,反所以害之也!誠欲哀賢,宜爲謝過天地,解讎海内,免遣就國,收乘輿器物還之縣官,如此,可以父子終其性命;不者,海内之所仇,未有得久安者也。孫寵、息夫躬不宜居國,可皆免,以視天下。復征何武、師丹、彭宣、傅喜,曠然使民易視,以應天心,建立大政,興太平之端。」上感大異,納宣言,征何武、彭宣;拜鮑宣爲司隸。 5. 6上託傅太后遺詔,令太皇太后下丞相、御史,益封董賢二千戸,賜孔郷侯、汝昌侯、陽新侯國。王嘉封還詔書,因奏封事諫曰:「臣聞爵祿、土地,天之有也。書云:『天命有德,五服五章哉!』王者代天爵人,尤宜愼之。裂地而封,不得其宜,則衆庶不服,感動陰陽,其害疾自深。今聖體久不平,此臣嘉所内懼也。高安侯賢,佞幸之臣,陛下傾爵位以貴之,單貨財以富之,損至尊以寵之,主威已黜,府臧已竭,唯恐不足。財皆民力所爲,孝文皇帝欲起露台,重百金之費,克己不作。今賢散公賦以施私惠,一家至受千金,往古以來,貴臣未嘗有此,流聞四方,皆同怨之。里諺曰:『千人所指,無病而死,』臣常爲之寒心。今太皇太后以永信太后遺詔詔丞相、御史,益賢戸,賜三侯國,臣嘉竊惑。山崩、地動、日食於三朝,皆陰侵陽之戒也。前賢已再封,晏、商再易邑,業縁私橫求,恩已過厚,求索自恣,不知厭足,甚傷尊尊之義,不可以示天下,爲害痛矣!臣驕侵罔,陰陽失節,氣感相動,害及身體。陛下寢疾久不平,繼嗣未立,宜思正萬事,順天人之心,以求福祐,奈何輕身肆意,不念高祖之勤苦,垂立制度,欲傳之於無窮哉!臣謹封上詔書,不敢露見。非愛死而不自法,恐天下聞之,故不敢自劾。」 初,廷尉梁相治東平王雲獄,時冬月未盡二旬,而相心疑雲冤獄,有飾辭,奏欲傳之長安,更下公卿覆治。尚書令鞫譚、僕射宗伯鳳以爲可許。天子以爲相等皆見上體不平,外内顧望,操持兩心,幸雲踰冬,無討賊疾惡主讎之意,免相等皆爲庶人。後數月,大赦,嘉薦「相等皆有材行,聖王有計功除過,臣竊爲朝廷惜此三人。」書奏,上不能平。後二十餘日,嘉封還益董賢戸事,上乃發怒,召嘉詣尚書,責問以「相等前坐不忠,罪惡著聞,君時輒已自劾;今又稱譽,云『爲朝廷惜之』,何也?」嘉免冠謝罪。 事下將軍中朝者,光祿大夫孔光等劾「嘉迷國罔上,不道,請謁者召嘉詣廷尉詔獄。」議郎龔等以爲「嘉言事前後相違,宜奪爵土,免爲庶人。」永信少府猛等以爲「嘉罪名雖應法,大臣括發關械,裸躬就笞,非所以重國,褒宗廟也。」上不聽,三月,詔「假謁者節,召丞相詣廷尉詔獄。」 使者既到,府掾、史涕泣,共和藥進嘉,嘉不肯服。主簿曰:「將相不對理陳冤,相踵以爲故事,君侯宜引決。」使者危坐府門上,主簿復前進藥。嘉引藥杯以撃地,謂官屬曰:「丞相幸得備位三公,奉職負國,當伏刑都市,以示萬衆。丞相豈兒女子邪!何謂咀藥而死!」嘉遂裝,出見使者,再拜受詔;乘吏小車,去蓋,不冠,隨使者詣廷尉。廷尉收嘉丞相、新甫侯印綬,縛嘉載致都船詔獄。上聞嘉生自詣吏,大怒,使將軍以下與五二千石雜治。吏詰問嘉,嘉對曰:「案事者思得實。竊見相等前治東平王獄,不以雲爲不當死,欲關公卿,示重愼,誠不見其外内顧望,阿附爲雲驗,復幸得蒙大赦。相等皆良善吏,臣竊爲國惜賢,不私此三人。」獄吏曰:「苟如此,則君何以爲罪?猶當有以負國,不空入獄矣。」吏稍侵辱嘉,嘉喟然仰天歎曰:「幸得充備宰相,不能進賢、退不肖,以是負國,死有餘責。」吏問賢、不肖主名。嘉曰:「賢:故丞相孔光、故大司空何武,不能進;惡:高安侯董賢父子,佞邪亂朝,而不能退。罪當死,死無所恨!」嘉繋獄二十餘日,不食,歐血而死。 已而上覽其對,思嘉言,會御史大夫賈延免,夏,五月,乙卯,以孔光爲御史大夫。秋,七月,丙午,以光爲丞相,復故國博山侯;又以汜郷侯何武爲御史大夫。上乃知孔光前免非其罪,以過近臣毀短光者,曰:「傅嘉前爲侍中,毀譖仁賢,誣訴大臣,令俊艾者久失其位,其免嘉爲庶人,歸故郡。」 6. 7八月,何武徙爲前將軍。辛卯,光祿大夫彭宣爲御史大夫。 7. 8司隸鮑宣坐摧辱宰相,拒閉使者,無人臣禮,減死髡鉗。 8. 9大司馬丁明素重王嘉,以其死而憐之;九月,乙卯,冊免明,使就第。 9. 10冬,十一月,壬午,以故定陶太傅、光祿大夫韋賞爲大司馬、車騎將軍。己丑,賞卒。 10. 11十二月,庚子,以侍中、駙馬都尉董賢爲大司馬、衞將軍,冊曰:「建爾於公,以爲漢輔!往悉爾心,匡正庶事,允執其中!」是時賢年二十二,雖爲三公,常給事中,領尚書,百官因賢奏事。以父衞尉恭不宜在卿位,徙爲光祿大夫、秩中二千石;弟寬信代賢爲駙馬都尉。董氏親屬皆侍中、諸曹、奉朝請,寵在丁、傅之右矣。 初,丞相孔光爲御史大夫,賢父恭爲御史,事光。及賢爲大司馬,與光並爲三公。上故令賢私過光。光雅恭謹,知上欲尊寵賢。及聞賢當來也,光警戒衣冠出門待,望見賢車乃卻入,賢至中門,光入閣,既下車,乃出,拜謁、送迎其謹,不敢以賓客鈞敵之禮。上聞之,喜,立拜光兩兄子爲諫大夫、常侍。賢由是權與人主侔矣。 是時,成帝外家王氏衰廢,唯平阿侯譚子去疾爲侍中,弟閎爲中常侍。閎妻父中郎將蕭咸,前將軍望之子也,賢父恭慕之,欲爲子寬信求咸女爲婦,使閎言之。咸惶恐不敢當,私謂閎曰:「董公爲大司馬,冊文言『允執其中』,此乃堯禪舜之文,非三公故事,長者見者莫不心懼。此豈家人子所能堪邪!」閎性有知略,聞咸言,心亦悟;乃還報恭,深達咸自謙薄之意。恭歎曰:「我家何用負天下,而爲人所畏如是!」意不説。後上置酒麒麟殿,賢父子、親屬宴飲,侍中、中常侍皆在側,上有酒所,從容視賢,笑曰:「吾欲法堯禪舜,何如?」王閎進曰:「天下乃高皇帝天下,非陛下之有也!陛下承宗廟,當傳子孫於亡窮,統業至重,天子亡戲言!」上默然不説,左右皆恐。於是遣閎出歸郎署。 久之,太皇太后爲閎謝,復召閎還。閎遂上書諫曰:「臣聞王者立三公,法三光,居之者當得賢人。易曰:『鼎折足,覆公餗,』喩三公非其人也。昔孝文皇帝幸鄧通,不過中大夫;武皇帝幸韓嫣,常賜而已,皆不在大位。今大司馬、衞將軍董賢,無功於漢朝,又無肺腑之連,復無名跡高行以矯世,升擢數年,列備鼎足,典衞禁兵,無功封爵,父子、兄弟橫蒙拔擢,賞賜空竭帑藏,萬民喧嘩,偶言道路,誠不當天心也!昔褒神蚖變化爲人,實生褒姒,亂周國,恐陛下有過失之譏,賢有小人不知進退之禍,非所以垂法後世也!」上雖不從閎言,多其年少志強,亦不罪也。 11. 二年(庚申、前一) 1春,正月,匈奴單于及烏孫大昆彌伊秩靡皆來朝,漢以爲榮。是時西域凡五十國,自譯長至將、相、侯、王皆佩漢印綬,凡三百七十六人;而康居、大月氏、安息、罽賓、烏弋之屬,皆以絶遠,不在數中,其來貢獻,則相與報,不督録總領也。自黄龍以來,單于毎入朝,其賞賜錦繡、繒絮,輒加厚於前,以慰接之。單于宴見,羣臣在前,單于怪董賢年少,以問譯。上令譯報曰:「大司馬年少,以大賢居位。」單于乃起,拜賀漢得賢臣。是時上以大歳厭勝所在,捨單于上林苑蒲陶宮,告之以加敬於單于;單于知之,不悅。 1. 2夏,四月,壬辰晦,日有食之。 2. 3五月,甲子,正三公官分職。大司馬、衞將軍董賢爲大司馬;丞相孔光爲大司徒;御史大夫彭宣爲大司空,封長平侯。 3. 4六月,戊午,帝崩于未央宮。 帝睹孝成之世祿去王室,及即位,屢誅大臣,欲強主威以則武、宣。然而寵信讒諂,憎疾忠直,漢業由是遂衰。 太皇太后聞帝崩,即日駕之未央宮,收取璽綬。太后召大司馬賢,引見東箱,問以喪事調度。賢内憂,不能對,免冠謝。太后曰:「新都侯莽,前以大司馬奉送先帝大行,曉習故事,吾令莽佐君。」賢頓首:「幸甚!」太后遣使者馳召莽。詔尚書,諸發兵符節、百官奏事、中黄門、期門兵皆屬莽。莽以太后指,使尚書劾賢帝病不親醫藥,禁止賢不得入宮殿司馬中;賢不知所爲,詣闕免冠徒跣謝。己未,莽使謁者以太后詔即闕下冊賢曰:「賢年少,未更事理,爲大司馬,不合衆心,其收大司馬印綬,罷歸第!」即日,賢與妻皆自殺;家惶恐,夜葬。莽疑其詐死。有司奏請發賢棺,至獄診視,因埋獄中。太皇太后詔「公卿舉可大司馬者」。莽故大司馬,辭位避丁、傅,衆庶稱以爲賢,又太皇太后近親,自大司徒孔光以下,舉朝皆舉莽。獨前將軍何武、左將軍公孫祿二人相與謀,以爲「往時惠、昭之世,外戚呂、霍、上官持權,幾危社稷;今孝成、孝哀比世無嗣,方當選立近親幼主,不宜令外戚大臣持權。親疏相錯,爲國計便。」於是武舉公孫祿可大司馬,而祿亦舉武。庚申,太皇太后自用莽爲大司馬、領尚書事。 太皇太后與莽議立嗣。安陽侯王舜,莽之從弟,其人修飭,太皇太后所信愛也,莽白以舜爲車騎將軍。秋,七月,遣舜與大鴻臚左咸使持節迎中山王箕子以爲嗣。 莽又白太皇太后,詔有司以皇太后前與女弟昭儀專寵錮寢,殘滅繼嗣,貶爲孝成皇后,徙居北宮。又以定陶共王太后與孔郷侯晏同心合謀,背恩忘本,專恣不軌,徙孝哀皇后退就桂宮,傅氏、丁氏皆免官爵歸故郡,傅晏將妻子徙合浦。獨下詔褒揚傅喜曰:「高武侯喜,姿性端愨,論議忠直,雖與故定陶太后有屬,終不順指從邪,介然守節,以故斥逐就國。傳不雲乎:『歳寒然後知松柏之後凋也。』其還喜長安,位特進,奉朝請。」喜雖外見褒賞,孤立憂懼;後復遣就國,以壽終。莽又貶傅太后號爲定陶共王母,丁太后號曰丁姫。莽又奏董賢父子驕恣奢僭,請收沒入財物縣官,諸以賢爲官者皆免。父恭、弟寬信與家屬徙合浦,母別歸故郡巨鹿。長安中小民歡嘩,郷其第哭,幾獲盜之。縣官斥賣董氏財,凡四十三萬萬。賢所厚吏沛硃詡自劾去大司馬府,買棺衣,收賢屍葬之。莽聞之,以它罪撃殺詡。莽以大司徒孔光名儒,相三主,太后所敬,天下信之,於是盛尊事光,引光女婿甄邯爲侍中、奉車都尉。諸素所不説者,莽皆傅致其罪,爲請奏草,令邯持與光,以太后指風光。光素畏愼,不敢不上之;莽白太后,輒可其奏。於是劾奏何武、公孫祿互相稱舉,皆免官,武就國。又奏董宏子高昌侯武父爲佞邪,奪爵。又奏南郡太守毋將隆前爲冀州牧,治中山馮太后獄,冤陷無辜,關内侯張由誣告骨肉,中太僕史立、泰山太守丁玄陷人入大辟,河内太守趙昌譖害鄭崇,幸逢赦令,皆不宜處位在中土,免爲庶人,徙合浦。中山之獄,本立、玄自典考之,但與隆連名奏事;莽少時慕與隆交,隆不甚附,故因事擠之。 紅陽侯立,太后親弟,雖不居位,莽以諸父内敬憚之,畏立從容言太后,令己不得肆意,復令光奏立罪惡:「前知定陵侯淳於長犯大逆罪,多受其賂,爲言誤朝。後白以官婢楊寄私子爲皇子,衆言曰:『呂氏少帝復出。』紛紛爲天下所疑,難以示來世,成襁褓之功。請遣立就國。」太后不聽。莽曰:「今漢家衰,比世無嗣,太后獨代幼主統政,誠可畏懼。力用公正先天下,尚恐不從;今以私恩逆大臣議,如此,羣下傾邪,亂從此起。宜可且遣就國,安後復徴召之。」太后不得已,遣立就國。莽之所以脅持上下,皆此類也。 於是附順莽者拔擢,忤恨者誅滅,以王舜、王邑爲腹心,甄豐、甄邯主撃斷,平晏領機事,劉秀典文章,孫建爲爪牙。豐子尋、秀子棻、涿郡崔發、南陽陳崇皆以材能幸於莽。莽色厲而言方,欲有所爲,微見風采,黨與承其指意而顯奏之。莽稽首涕泣,固推讓,上以惑太后,下用示信於衆庶焉。 4. 5八月,莽復白太皇太后,廢孝成皇后、孝哀皇后爲庶人,就其園。是日,皆自殺。 5. 6大司空彭宣以王莽專權,乃上書言:「三公鼎足承君;一足不任,則覆亂美實。臣資性淺薄,年齒老眊,數伏疾病,昏亂遺忘,願上大司空、長平侯印綬,乞骸骨歸郷里,俟寘溝壑。」莽白太后策免宣,使就國。莽恨宣求退,故不賜黄金、安車、駟馬。宣居國數年,薨。 班固贊曰:薛廣德保縣車之榮,平當逡巡有恥,彭宣見險而止,異乎苟患失之者矣! 6. 7戊午,右將軍王崇爲大司空,光祿勳東海馬宮爲右將軍,左曹、中郎將甄豐爲光祿勳。 7. 8九月,辛酉,中山王即皇帝位,大赦天下。 平帝年九歳,太皇太后臨朝,大司馬莽秉政,百官總己以聽於莽。莽權日盛,孔光憂懼,不知所出,上書乞骸骨;莽白太后,帝幼少,宜置師傅,徙光爲帝太傅,位四輔,給事中,領宿衞、供養,行内署門戸,省服御食物。以馬宮爲大司徒,甄豐爲右將軍。 8. 9冬,十月,壬寅,葬孝哀皇帝於義陵。 9. 孝平皇帝上 元始元年(辛酉、一) 1春,正月,王莽風益州,令塞外蠻夷自稱越裳氏重譯獻白雉一、黑雉二。莽白太后下詔,以白雉薦宗廟。於是羣臣盛陳莽功德,致周成白雉之瑞,周公及身在而托號於周,莽宜賜號曰安漢公,益戸疇爵邑。太后詔尚書具其事。莽上書言:「臣與孔光、王舜、甄豐、甄邯共定策;今願獨條光等功賞,寢置臣莽,勿隨輩列。」甄邯白太后下詔曰:「『無偏無黨,王道蕩蕩。』君有安宗廟之功,不可以骨肉故蔽隱不揚,君其勿辭!」莽復上書固讓數四,稱疾不起。左右白太后,「宜勿奪莽意,但條孔光等,莽乃肯起。」二月,丙辰,太后下詔;「以太傅、博山侯光爲太師,車騎將軍、安陽侯舜爲太保,皆益封萬戸。左將軍、光祿勳豐爲少傅,封廣陽侯。皆授四輔之職。侍中、奉車都尉邯封承陽侯。」四人既受賞,莽尚未起。羣臣復上言:「莽雖克讓,朝所宜章,以時加賞,明重元功,無使百僚元元失望!」太后乃下詔:「以大司馬、新都侯莽爲太傅,干四輔之事,號曰安漢公,益封二萬八千戸。」於是莽爲惶恐,不得已而起,受太傅、安漢公號,讓還益封事,云:「願須百姓家給,然後加賞。」羣臣復爭,太后詔曰:「公自期百姓家給,是以聽之,其令公奉賜皆倍故。百姓家給人足,大司徒、大司空以聞。」莽復讓不受,而建言褒賞宗室羣臣。立故東平王雲太子開明爲王;又以故東平思王孫成都爲中山王,奉孝王后;封宣帝耳孫信等三十六人皆爲列侯;太僕王惲等二十五人皆賜爵關内侯。又令諸侯王公、列侯、關内侯無子而有孫若同産子者,皆得以爲嗣;宗室屬未盡而以罪絶者,復其屬;天下令比二千石以上年老致仕者,參分故祿,以一與之,終其身。下及庶民鰥寡,恩澤之政,無所不施。 莽既媚説吏民,又欲專斷,知太后老,厭政,乃風公卿奏言:「往者吏以功次遷至二千石,及州部所舉茂材異等吏,率多不稱,宜皆見安漢公。又,太后春秋高,不宜親省小事。」令太后下詔曰:「自今以來,唯封爵乃以聞,他事安漢公、四輔平決。州牧、二千石及茂材吏初除奏事者,輒引入,至近署對安漢公,考故官,問新職,以知其稱否。」於是莽人人延問,密緻恩意,厚加贈送,其不合指,顯奏免之,權與人主侔矣。 1. 2置羲和官,秩二千石。 2. 3夏,五月,丁巳朔,日有食之。大赦天下。公卿以下舉敦厚能直言者各一人。 3. 4王莽恐帝外家衞氏奪其權,白太后:「前哀帝立,背恩義,自貴外家丁、傅,橈亂國家,幾危社稷。今帝以幼年復奉大宗爲成帝后,宜明一統之義,以戒前事,爲後代法。」六月,遣甄豐奉璽綬,即拜帝母衞姫爲中山孝王后。賜帝舅衞寶、寶弟玄爵關内侯。賜帝女弟三人號曰君,皆留中山,不得至京師。 扶風功曹申屠剛以直言對策曰:「臣聞成王幼少,周公攝政,聽言下賢,均權布寵,動順天地,舉措不失;然近則召公不説,遠則四國流言。今聖主始免襁褓,即位以來,至親分離,外戚杜隔,恩不得通。且漢家之制,雖任英賢,猶援姻戚,親疏相錯,杜塞間隙,誠所以安宗廟,重社稷也。宜亟遣使者征中山太后,置之別宮,令時朝見,又召馮、衞二族,裁與冗職,使得執戟親奉宿衞,以抑患禍之端。上安社稷,下全保傅。」莽令太后下詔曰:「剛所言僻經妄説,違背大義。」罷歸田里。 4. 5丙午,封魯頃公之八世孫公子寬爲褒魯侯,奉周公祀;封褒成君孔霸曾孫均爲褒成侯,奉孔子祀。 5. 6詔:「天下女徒已論,歸家,出雇山錢,月三百。復貞婦,郷一人。大司農部丞十三人,人部一州,勸農桑。」 6. 7秋,九月,赦天下徒。 7. 二年(壬戌、二) 1春,黄支國獻犀牛。黄支在南海中,去京師三萬里。王莽欲耀威德,故厚遺其王,令遣使貢獻。 1. 2越巂郡上黄龍游江中。太師光、大司徒宮等咸稱「莽功德比周公,宜告祠宗廟。」大司農孫寶曰:「周公上聖,召公大賢,尚猶有不相説,著於經典,兩不相損。今風雨未時,百姓不足,毎有一事,羣臣同聲,得無非其美者?」時大臣皆失色。甄邯即時承製罷議者。會寶遣吏迎母,母道病,留弟家,獨遣妻子。司直陳崇劾奏寶,事下三公即訊。寶對曰:「年七十,悖眊,恩衰共養,營妻子,如章。」寶坐免,終於家。 2. 3帝更名衎。 3. 4三月,癸酉,大司空王崇謝病免,以避王莽。 4. 5夏,四月,丁酉,左將軍甄豐爲大司空,右將軍孫建爲左將軍,光祿勳甄邯爲右將軍。 5. 6立代孝王玄孫之子如意爲廣宗王,江都易王孫盱台侯宮爲廣川王,廣川惠王曾孫倫爲廣德王。紹封漢興以來大功臣之後周共等皆爲列侯及關内侯,凡百一十七人。 6. 7郡國大旱,蝗,靑州尤甚,民流亡。王莽白太后,宜衣繒練,頗損膳,以示天下。莽因上書願出錢百萬,獻田三十頃,付大司農助給貧民。於是公卿皆慕效焉,凡獻田宅者二百三十人,以口賦貧民。又起五里於長安城中,宅二百區,以居貧民。莽帥羣臣奏太后,言:「幸賴陛下德澤,間者風雨時,甘露降,神芝生,蓂莢、硃草、嘉禾,休征同時並至。願陛下遵帝王之常服,復太官之法膳,使臣子各得盡歡心,備共養!」莽又令太后下詔,不許。毎有水旱,莽輒素食,左右以白太后,太后遣使者詔莽曰:「聞公菜食,憂民深矣。今秋幸孰,公以時食肉,愛身爲國!」 7. 8六月,隕石于鉅鹿二。 8. 9光祿大夫楚國龔勝、太中大夫琅邪邴漢以王莽專政,皆乞骸骨。莽令太后策詔之曰:「朕愍以官職之事煩大夫,大夫其修身守道,以終高年。」皆加優禮而遣之。 9. 10梅福知王莽必簒漢祚,一朝棄妻子去,不知所之。其後,人有見福於會稽者,變姓名爲呉市門卒云。 10. 11秋,九月,戊申晦,日有食之,赦天下徒。 11. 12遣執金吾候陳茂諭説江湖賊成重等二百餘人皆自出,送家在所收事。重徙雲陽,賜公田宅。 12. 13王莽欲悅太后以威德至盛,異於前,乃風單于令遣王昭君女須卜居次雲入侍太后,所以賞賜之甚厚。 13. 14車師後王國有新道通玉門關,往來差近,戊己校尉徐普欲開之。車師後王姑句以當道供給使者,心不便也。普欲分明其界,然後奏之,召姑句使證之;不肯,繋之。其妻股紫陬謂姑句曰:「前車師前王爲都護司馬所殺,今久繋必死,不如降匈奴!」即馳突出高昌壁,入匈奴。又去胡來王唐兜與赤水羌數相寇,不勝,告急都護,都護但欽不以時救助。唐兜困急,怨欽,東守玉門關;玉門關不内,即將妻子、人民千餘人亡降匈奴。單于受,置左谷蠡地,遣使上書言状,曰:「臣謹已受。」詔遣中郎將韓隆等使匈奴,責讓單于;單于叩頭謝罪,執二虜還付使者。詔使中郎將王萌待於西域惡都奴界上。單于遣使送,因請其罪;使者以聞。莽不聽,詔會西域諸國王,陳軍斬姑句、唐兜以示之。乃造設四條,中國人亡入匈奴者,烏孫亡降匈奴者,西域諸國佩中國印綬降匈奴者,烏桓降匈奴者,皆不得受。遣中郎將王駿、王昌、副校尉甄阜、王尋使匈奴,班四條與單于,雜函封,付單于,令奉行;因收故宣帝所爲約束封函還。時莽奏令中國不得有二名,因使使者以風單于,宜上書慕化,爲一名,漢必加厚賞。單于從之,上書言:「幸得備籓臣,竊樂太平聖制。臣故名囊知牙斯,今謹更名曰知。」莽大説,白太后,遣使者答諭,厚賞賜焉。 14. 15莽欲以女配帝爲皇后以固其權,奏言:「皇帝即位三年,長秋宮未建,掖廷媵未充。乃者國家之難,本從無嗣,配取不正,請考論五經,定取後禮,正十二女之義,以廣繼嗣,博采二王后及周公、孔子世、列侯在長安者適子女。」事下有司,上衆女名,王氏女多在選中者,莽恐其與己女爭,即上言:「身無德,子材下,不宜與衆女並采。」太后以爲至誠,乃下詔曰:「王氏女,朕之外家,其勿采。」庶民、諸生、郎吏以上守闕上書者日千餘人,公卿大夫或詣廷中,或伏省戸下,咸言:「安漢公盛勳堂堂若此,今當立後,獨奈何廢公女,天下安所歸命!願得公女爲天下母!」莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生,而上書者愈甚。太后不得已,聽公卿采莽女。莽復自白:「宜博選衆女。」公卿爭曰:「不宜采諸女以貳正統。」莽乃白:「願見女。」 15.
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唐書巻一百一十二 列伝第三十七 王義方 員半千 石抱忠 韓思彦 琬 蘇安恒 薛登 王求礼 柳沢範 奭 馮元常 元淑 蒋欽緒 沇 清 王義方、泗州漣水人、客于魏。孤且窶、事母謹甚。淹究経術、性謇特、高自標樹。挙明経、詣京師、客有徒歩疲于道者、自言:「父宦遠方、病且革、欲往省、困不能前。」義方哀之、解所乘馬以遺、不告姓名去、由是譽振一時。不肯造請貴勢、太宗使宰相聽其論。於是尚書外郎獨孤悊以儒顯、給事中許敬宗推悊確論、義方引逮百家異同、連拄悊、直出其上。左右為悊不平、輒罷會。補晋王府参軍、直弘文館。魏徴異之、欲妻以夫人之姪、辭不取。俄而徴薨、乃取女。人問其然、曰:「初不附宰相、今感知己故也。」 素善張亮、亮抵罪、故貶吉安丞。道南海、舟師持酒脯請福、義方酌水誓曰:「有如忠獲戻、孝見尤、四維廓氛、千里安流。神之聽之、無作神羞。」是時盛夏、濤霧蒸湧、既祭、天雲開露。人壮其誠。吉安介蛮夷、梗悍不馴、義方召首領、稍選生徒、為開陳経書、行釋奠礼、清歌吹籥、登降跽立、人人悅順。久之、徙洹水丞。而亮兄子皎自朱崖還、依義方。将死、諉妻子、願以尸歸葬、義方許之。以皎妻少、故與之誓於神、使奴負柩、輟馬載皎妻、身歩従之。既葬皎原武、歸妻其家、而告亮墓乃去。遷雲陽丞。 顯慶元年、擢侍御史、不再旬、會李義府縱大理囚婦淳于、迫其丞畢正義縊死、無敢白其姦。義方自以興県屬、不三時拜御史、且疾當世附離匪人以欺朝廷、内決劾奏、意必得罪、即問計於母。母曰:「昔王母伏剣、成陵之誼。汝能盡忠、吾願之、死不恨。」義方即上言:「天子置公卿大夫士、欲水火相済、鹽梅相成、不得獨是獨非也。昔堯失之四凶、漢高祖失之陳豨、光武失之逢萌、魏武失之張邈。彼聖傑之主、然皆失於前而得於後。今陛下撫万邦而有之、蛮區夷落、罪無逃罰、況輦轂下姦臣肆虐乎?殺人滅口、此生殺之柄、不自主出、而下移佞臣、履霜堅冰、彌不可長。請下有司雜治正義死状。」即具法冠對仗、叱義府下、跪讀所言。帝方安義府狡佞、恨義方以孤士觸宰相、貶莱州司戸参軍。歳終不復調、往客昌楽、聚徒教授。母喪、隱居不出。卒、年五十五。 義方為御史時、買第、後数日、愛廷中樹、復召主人曰:「此佳樹、得無欠償乎?」又予之錢。其廉不貪類此。始、魏徴愛其材也、毎恨太直、後卒以疾惡不容于時。既死、門人員半千・何彦先行喪、蒔松柏冢側、三年乃去。 彦先、斉州全節人。武后時、位天官侍郎。 員半千字榮期、斉州全節人。其先本彭城劉氏、十世祖凝之、事宋、起部郎、及斉受禅、奔元魏、以忠烈自比伍員、因賜姓員、終鎮西将軍・平涼郡公。 半千始名餘慶、生而孤、為従父鞠愛、羈丱通書史。客晋州、州挙童子、房玄齡異之、對詔高第、已能講易・老子。長與何彦先同事王義方、以邁秀見賞。義方常曰:「五百歳一賢者生、子宜當之。」因改今名。凡挙八科、皆中。咸亨中、上書自陳:「臣家貲不滿千錢、有田三十畝、粟五十石。聞陛下封神岳、挙豪英、故鬻錢走京師。朝廷九品無葭莩親、行年三十、懐志潔操、未蒙一官、不能陳力歸報天子。陛下何惜玉陛方寸地、不使臣披露肝膽乎?得天下英才五千、與榷所長、有一居先、臣當伏死都市。」書奏、不報。 調武陟尉、歳旱、勸令殷子良發粟振民、不従。及子良謁州、半千悉發之、下賴以済。刺史大怒、囚半千于獄。會薛元超持節度河、讓太守曰:「君有民不能恤、使惠出一尉、尚可罪邪?」釋之。俄挙岳牧、高宗御武成殿、問:「兵家有三陣、何謂邪?」衆未對、半千進曰:「臣聞古者星宿孤虚、天陣也。山川向背、地陣也。偏伍彌縫、人陣也。臣謂不然。夫師以義出、沛若時雨、得天之時、為天陣。足食約費、且耕且戰、得地之利、為地陣。挙三軍士如子弟従父兄、得人之和、為人陣。捨是、則何以戰?」帝曰:「善。」既對策、擢高第。 歴華原・武功尉。厭卑劇、求為左衛冑曹参軍。使吐蕃、将行、武后曰:「久聞爾名、謂為古人、乃在朝邪!境外事不足行、宜留待制。」即詔入閤供奉。遷司賓寺主簿。稍與丘悅・王・石抱忠同為弘文館直学士、又與路敬淳分日待制顯福門下。擢累正諫大夫、兼右控鶴内供奉。半千以控鶴在古無有、而授任者皆浮狹少年、非朝廷徳選、請罷之、忤旨、下遷水部郎中。會詔擇牧守、除棣州刺史。復入弘文館為学士。武三思用事、以賢見忌、出豪・蘄二州刺史。半千不顓任吏、常以文雅粉沢、故所至礼化大行。睿宗初、召為太子右諭徳、仍学士職。累封平原郡公。表丐骸骨、有詔聽朝朔望。 半千事五君、有清白節、年老不衰、楽山水自放。開元九年、遊堯山・沮水間、愛其地、遂定居。卒、年九十四、即葬焉。吏民哭野中。 抱忠、長安人。名屬文。初置右臺、自清道率府長史為殿中侍御史、進検校天官郎中、與侍郎劉奇・張詢古共領選、寡廉潔、而奇號清平、二人坐綦連耀伏誅。 悅、河南人。亦善論譔、仕至岐王傅。 韓思彦字英遠、鄧州南陽人。游太学、事博士谷那律。律為匪人所辱、思彦欲殺之、律不可。万年令李乾祐異其才、挙下筆成章・志烈秋霜科、擢第。授監察御史、昌言當世得失。高宗夜召、加二階、待詔弘文館、仗内供奉。 巡察剣南、益州高貲兄弟相訟、累年不決、思彦敕廚宰飲以乳。二人寤、齧肩相泣曰:「吾乃夷獠、不識孝義、公将以兄弟共乳而生邪!」乃請輟訟。至西洱河、誘叛蛮降之。會蜀大饑、開倉振民、然後以聞、璽書褒美。使并州、方賊殺人、主名不立、醉胡懐刀而汙、訊掠已服。思彦疑之、晨集童兒数百、暮出之、如是者三。因問:「兒出、亦有問者乎?」皆曰:「有之。」乃物色推訊、遂禽真盜。 後太白晝見、勸帝修徳答天譴。帝讓中書令李義府曰:「八品官能言得失、而卿冒沒富貴、主何事邪?」義府謝罪。司農武惟良擅用并州賦二百万緡、思彦劾處死、武后為請而免。義府與諸武共譖思彦、出為山陽丞。初、尉遲敬徳子姓陷大逆、思彦按釋其冤、至是贈黄金良馬、思彦不受。至官閲月、自免去、放蹟江・淮間。久之、補建州司戸参軍。帝召問:「不見卿久、今何官邪?」思彦泣道所以然。帝謂宰相:「此亦太屈。」復召為御史。 俄出為江都主簿、又徙蘇州録事参軍。罷、客汴州。張僧徹者、廬墓三十年、詔表其閭、請思彦為頌、餉縑二百、不受。時歳凶、家窶甚、僧徹固請、為受一匹、命其家曰:「此孝子縑、不可輕用。」上元中、復召見。思彦久去朝、儀矩梗野、拜忘蹈舞、又詆外戚擅權、后惡之。中書令李敬玄劾奏思彦見天子不蹈舞、負氣鞅鞅、不可用。時已拜乾封丞、故徙朱鳶丞。遷賀州司馬、卒。 始、思彦在蜀、引什邡令鄧惲右坐、曰:「公且貴、願以子孫諉公。」比其斥、而惲已為文昌左丞。 子琬。 琬字茂貞、喜交酒徒、落魄少崖検。有姻勸挙茂才、名動里中。刺史行郷飲餞之、主人揚觶曰:「孝于家、忠于国、今始充賦、請行無算爵。」儒林榮之。擢第、又挙文芸優長・賢良方正、連中。拜監察御史。景雲初、上言: 国安危在於政。政以法、暫安焉必危。以徳、始不便焉終治。夫法者、智也。徳者、道也。智、權宜也。道、可以久大也。故以智治国、国之賊。不以智治国、国之福。 貞観・永徽之間、農不勸而耕者衆、法施而犯者寡。俗不偸薄、器不行窳。吏貪者士恥同列、忠正清白者比肩而立。罰雖輕而不犯、賞雖薄而勸。位尊不倨、家富不奢。学校不勵而勤、道佛不懲而戒。土木質厚、裨販弗蚩。其故奈何?雜以皇道也。自茲以来、任巧智、斥謇諤。趨勢者進、守道者退。諧附者無黜剥之憂、正直者有後時之歎。人趨家競、風俗淪替。其故奈何?行以霸道也。貞観・永徽之天下、亦今日天下、淳薄相反、由治則然。 夫巧者知忠孝為立身之階、仁義為百行之本、託以求進、口是而心非、言同而意乖、陛下安能盡察哉!貪冒者謂能、清貞者謂孤、浮沉者為黠、剛正者為愚。位下而驕、家貧而奢。歳月漸漬、不救其弊、何由變浮之淳哉?不務省事而務捉搦。夫捉搦者、法也。法設而滋章、滋章則盜賊多矣。法而益国、設之可也。比法令数改、或行未見益、止未知損。譬弈者一棋為善、而復之者愈善、故曰設法不如息事、事息則巧不生。聖人防亂未然、天下何繇不治哉? 永淳時、雍丘令尹元貞坐婦女治道免官、今婦夫女役常不知怪。調露時、河内尉劉憲父喪、人有請其員者、有司以為名教不取、今謂為見機。太宗朝、司農以市木橦倍價抵罪、大理孫伏伽言:「官木橦貴、故百姓者賤。臣見司農識大體、未聞其過。」太宗日:「善。」今和市顓刻剥、名為和而實奪之。往者学生・佐史・里正毎一員闕、擬者十人、今當選者亡匿以免。往選司従容有礼、今如仇敵賈販。往官将代、儲什物俟其至。今交罷、執符紛競校在亡。往商賈出入万里、今市井至失業。往家藏鏹積粟相夸、今匿貲示羸以相尚。往夷狄款関、今軍屯積年。往召募、人賈其勇。今差勒、闔宗逃亡。往倉儲盈衍、今所在空虚。 夫流亡之人非愛羈旅・忘桑梓也、斂重役亟、家産已空、鄰伍牽連、遂為游人。窮詐而犯禁、救死而抵刑。夫亂繩已結、急引之則不可解。今刻簿吏能結者也、挙劾吏能引者也、則解者不見其人。願取奇材卓行者、量能授官。 又言: 仕路太広、故棄農商而趨之。一夫耕、一婦蠶、衣食百人、欲儲蓄有餘、安可得乎? 書入、不報。 出監河北軍、兼按察使。先天中、賦絹非時、於是穀賤縑益貴、丁別二縑、人多徙亡。琬曰:「御史乃耳目官、知而不言、尚何賴?」又上言:「須報則弊已甚、移檄罷督乃聞。」詔可。開元中、遷殿中侍御史、坐事貶官、卒。 蘇安恒、冀州武邑人。博学、尤明周官・春秋左氏学。武后末年、太子雖還東宮、政事一不與、大臣畏禍無敢言。安恒投匭上書曰:「陛下膺先聖顧託、受嗣子揖讓、應天順人、二十餘年、豈不聞虞舜褰裳・周公復辟事乎?今太子孝謹、春秋盛壮、使統臨宸極、何異陛下身撫天下哉!胡不伝位東宮、休安聖躬?自昔天下無二姓並興、且梁・河内・建昌諸王、以親得封、恐万歳後不能良計、宜退就公侯、任以閑簡。又陛下二十餘孫、無尺土封、非長久計也、請以都督府要州分而王之。縱今尚幼、且擇立師傅、養成徳器、藩屏皇家。」書奏、后雖猜克、不能無感、乃召見賜食、厚慰遣之。 明年、復諫曰:「臣聞天下者、高祖・太宗之天下。有隋失馭、群雄鹿駭、唐家親事戎旅、以平宇県、指河為誓、非李氏不王、非功臣不封。陛下雖居正統、實唐舊基。前日太子在諒闇、相王非長嗣、唐祚中弱、故陛下因以即位。今太子年徳已盛、尚貪有大宝、忘母子之恩、蔽其元良、以據神器、何施顔面見唐家宗廟・大帝陵寢哉!臣謂天意人事、還歸李氏。物極則復、器滿則覆。當斷不斷、将受其亂。誠能高揖万機、自怡聖心、史臣書之、楽府歌之、斯盛事也。臣聞見過不諫非忠、畏死不言非勇。陛下以臣為忠、則擇是而用。以為不忠、則斬臣頭以令天下。」書聞、不報。 於是魏元忠為張易之兄弟所構、獄方急、安恒獨申救、曰: 王者有容天下之量、故済其心。能進天下之善、故除其惡。不然、則神鬼馮怒、陰陽紛舛。陛下始革命、勤秉政樞、博逮謀猷、天下以為明主。暮年厭怠、讒佞熾結、水火相災、百姓不親、五品不遜、天下以為暗君。邪正糅進、獄訟冤劇。何昔是而今非邪?居安忘危之失也。 竊見元忠廉直有名、位宰相、履忠正、邪佞之徒嫉之若讎。易之兄弟無功無徳、但以馮附、不閲数期、位勢隆極、指馬獻蒲、先害善良。自元忠下獄、人人偶語、謂易之交亂、且及四国。烈士撫髀、忠臣鉗口、懼易之之權、恐先諫受戮、虚死無名。況賊虜方彊、賦斂重困、而自縱讒慝、搖變遐邇。臣恐四夷低目窺覘、為邊鄙患、百姓託義以清君側、逐鹿之人叩関而至、陛衛左右、従中以應、爭鋒朱雀之門、問鼎大明之宮、陛下何以謝之?臣今計者、莫若收雷電之威、解恢恢之網、復爵還位、君臣如初、則天下幸甚。陛下縱不能斬佞臣、塞人望、且當抑奪榮寵、翦其羽翅、無使驕橫為社稷之憂。 疏奏、易之等大怒、遣刺客邀殺之、賴鳳閣舎人桓彦範等悉力營解、乃免。 神龍初、為習芸館内教。節愍太子難、或讒安恒豫謀、死獄中。睿宗立。知其枉、詔贈諫議大夫。 薛登、常州義興人。父士通、為隋鷹揚郎将。江都亂、與州民聞人嗣安據城拒賊。武徳初、持地自歸、授東武州刺史。輔公祏反、士通與賊将西門君儀戰、破之。及平、封臨汾侯。終泉州刺史。 登通貫文史、善議論、根證該審、與徐堅・劉子玄斉名。調閬中主簿。天授中、累遷左補闕。時選挙濫甚、乃上疏曰: 比観挙薦、類不以才、馳聲假譽、互相推引、非所謂報国求賢者也。古之取士、考素行之原、詢郷邑之譽、崇礼讓、明節義、以敦樸為先、雕文為後。故人崇勸讓、士去輕浮、以計貢賢愚為州之榮辱。昔李陵降而隴西、干木隱而西河美。名勝於利、則偸競日銷。利勝於名、則貪暴滋煽。蓋冀缺以礼讓升而晋人知礼、文翁以経術教而蜀士多儒。未有上好而下不従者也。漢世求士、必観其行、故士有自脩、為閭里推挙、然後府寺交辟。魏取放達、晋先門閥、梁・陳薦士特尚詞賦。隋文帝納李諤之言、詔禁文章浮詞、時泗州刺史司馬幼之表不典實得罪、由是風俗稍改。煬帝始置進士等科、後生復相馳競、赴速趨時、緝綴小文、名曰策学、不指實為本、而以浮虚為貴。 方今挙士、尤乖其本。明詔方下、固已驅馳府寺之廷、出入王公之第、陳篇希恩、奏記誓報。故俗號挙人皆稱覓挙。覓者、自求也、非彼知之義。是以耿介之士羞於自抜、循常小人取附。願陛下降明制、頒峻科、斷無當之游言、收實用之良策、文試効官、武閲守禦。昔呉起将戰、左右進剣、呉子辭之、諸葛亮臨陣、不親戎服、蓋不取弓剣之用也。漢武帝聞司馬相如之文、恨不與同時、及其至也、終不處以公卿之位、非所任故也。漢法、所挙之主、終身保任。楊雄之坐田儀、成子之得魏相、賞罰之令行、則請謁之心絶、退讓之義著、則貪競之路銷。請寬年限、以容簡汰、不實免官、得人加賞、自然見賢不隱、貪禄不專矣。 時四夷質子多在京師、如論欽陵・阿史徳元珍・孫万榮、皆因入侍見中国法度、及還、並為邊害。登諫曰: 臣聞戎・夏不雜、古所戒也。故斥居塞外、有時朝謁、已事則歸、三王之法也。漢・魏以来、革襲衣冠、築室京師、不令歸国。較其利害、三王是而漢・魏非、拒邊長而質子短。昔晋郭欽・江統以夷狄處中夏必為變、武帝不納、卒有永嘉之亂。伏見突厥・吐蕃・契丹往因入侍、並被奨遇、官戎秩、歩黌門、服改氈罽、語習楚夏、窺圖史成敗、熟山川險易。国家雖有冠帶之名、而狼子孤恩、患必在後。 昔申公奔晋、使子狐庸為呉行人、教呉戰陣、使之叛楚。漢遷五部匈奴於汾・晋、卒以劉・石作難。竊計秦并天下、及劉・項用兵、人士凋散、以冒頓之盛、乘中国之虚、而高祖困厄平城、匈奴卒不入中国者、以其生長磧漠、謂穹廬賢於城郭、氈罽美於章紱、既安所習、是以無窺中国心、不楽漢故也。元海五部散亡之餘而能自振者、少居内地、明習漢法、鄙單于之陋、竊帝王之稱。使其未嘗内徙、不過劫邊人繒綵・麴歸陰山而已。 今皇風所覃、含識革面、方由余効忠、日磾盡節。然臣慮備豫不謹、則夷狄稱兵不在方外、非貽謀之道。臣謂願充侍子可一切禁絶、先在国者不使歸蕃、則夷人保疆、邊邑無爭。 武后不納。 久之、出為常州刺史。屬宣州賊鍾大眼亂、百姓潰震、登厳勒守備、闔境賴安。再遷尚書左丞。景雲中、為御史大夫。僧慧範怙太平公主勢、奪民邸肆、官不能直、登将治之、或勸以自安、答曰:「憲府直枉、朝奏暮黜可矣。」遂劾奏、反為主所構、出岐州刺史。遷太子賓客。開元初、為東都留守、再為太子賓客。登本名謙光、以與皇太子名同、詔賜今名。坐子累歸田里、家苦貧、詔給致仕禄。卒、年七十三、贈晋州刺史。 王求礼、許州長社人。武后時、為左拾遺・監察御史。后方營明堂、琱飾譎怪、侈而不法。求礼以為「鐵鸑金龍・丹雘珠玉、乃商瓊臺・夏瑤室之比、非古所謂茅茨棌椽者。自軒轅以来、服牛乘馬、今輦以人負、則人代畜」、上書譏切。久不報。 契丹叛、使孫万榮寇河北、詔河内王武懿宗禦之、懦擾不進、賊敗数州去。懿宗乃條華人為賊詿誤者数百族、請誅之。求礼劾奏曰:「詿誤之人無良邊吏教習、城不完固、為虜脅制、寧素持叛心哉?懿宗擁兵数十万、聞敵至、走保城邑、今乃移禍無辜之人、不亦過乎?請斬懿宗首以謝河北。」懿宗大懼、后盡赦其人。 當是時、契丹陷幽州、饋輓屈竭、左相豆盧欽望請停京官九品以上兩月奉助軍興。求礼曰:「公禄万鍾、正可輟、仰禄之人可奈何?」欽望拒不應。既奏、求礼歴階進曰:「天子富有四海、何待九品奉、使宰相奪之以済軍国用乎?」姚曰:「秦・漢皆有税算以佐軍、求礼不識大體。」對曰:「秦・漢虚天下事邊、奈何使陛下効之?」后曰:「止。」 久視二年三月、大雨雪、鳳閣侍郎蘇味道等以為瑞、率群臣入賀。求礼讓曰:「宰相燮和陰陽、而季春雨雪、乃災也。果以為瑞、則冬月雷、渠為瑞雷邪?」味道不従。既賀者入、求礼即厲言:「今陽氣僨升、而陰冰激射、此天災也。主荒臣佞、寒暑失序、戎狄亂華、盜賊繁興、正官少、偽官多、百司非賄不入、使天有瑞、何感而来哉?」群臣震恐、后為罷朝。然以剛正故、宦齟齬。神龍初、終衛王府参軍。 柳沢、蒲州解人。曾祖亨、字嘉礼、隋大業末、為王屋長、陷李密、已而歸京師。姿貌魁異、高祖奇之、以外孫竇妻之。三遷左衛中郎将、壽陵県男。以罪貶邛州刺史、進散騎常侍。代還、数年不得調。持兄喪、方葬、會太宗幸南山、因得召見、哀之。数日、入對北門、拜光禄少卿。亨射獵無検、帝謂曰:「卿於朕舊且親、然多交游、自今宜少戒。」亨由是痛飭厲、謝賓客、身安靜素、力吏事。終検校岐州刺史、贈礼部尚書・幽州都督、謚曰恭。 沢耿介少言笑、風度方厳。景雲中、為右率府鎧曹参軍、四歳不遷。先是、中宗時、長寧・宜城・定安諸公主及后女弟・昭容上官與其母鄭・尚宮柴・隴西夫人趙及姻聯数十族、皆能降墨敕授官、號斜封。及姚元崇・宋璟輔政、白罷斜封官数千員。元崇等罷去、太平公主盡奏復之。沢詣闕上疏曰: 臣聞藥不毒不可以蠲疾、詞不切不可以補過。故習甘旨者、非攝養之方。邇諛佞者、非治安之宜。臣竊見神龍以来、綱紀大壞、内寵專命、外嬖制權、因貴憑勢、賣官鬻爵。妃主之門同商賈然、挙選之署若闤闠然、屠販者由邪忝官、廢黜者因姦冒進。天下溷亂、幾危社稷、賴陛下聰明神武、拯溺挙墜。耳目所親、豈可忘鑒誡哉?且斜封官者、皆僕妾私謁、迷謬先帝、豈盡先帝意邪?陛下即位之初、用元崇等計、悉以停廢、今又收用之。若斜封之人不可棄邪、韋月将・燕欽融不應褒贈、李多祚・鄭克乂不容盪雪也。陛下何不能忍於此而能忍於彼、使善惡混并、反覆相攻、道人以非、勸人以僻。今天下咸稱太平公主與胡僧慧範以此誤陛下、故語曰:「姚・宋為相、邪不如正。太平用事、正不如邪。」臣恐流遁致遠、積小為大、累微成高。勿謂何傷、其禍将長。勿謂何害、其禍将大。 又言: 尚醫奉御彭君慶以巫覡小伎超授三品、奈何輕用名器、加非其人?臣聞賞一人 而千万人悅者、賞之。罰一人而千万人勸者、罰之。惟陛下裁察。疏入、不報。 沢入調、會有詔選者得言事。乃上書曰: 頃者韋氏蠱亂、姦臣同惡、政以賄成、官以寵進、言正者獲戻、行殊者見疑、海内寒心、人用不保。陛下神聖勇智、安宗社於已危、振黎苗之将溺。乃今蠲煩省徭、法明徳挙、万邦愷楽、室家胥歡。詩曰「靡不有初、鮮克有終。」惟陛下慎厥初、脩其終。書曰:「惟徳罔小、万邦惟慶。惟不徳罔大、墜厥宗。」甚可懼也。 夫驕奢起於親貴、綱紀亂於寵倖。禁之於親貴、則天下従。制之於寵倖、則天下畏。親貴為而不禁、寵倖撓而不制、故政不常、令不一、則姦詐起而暴亂生焉、雖朝施暮戮、而法不行矣。陛下欲親與愛、莫若安之福之。夫寵禄之過、罪之階也、謂安之邪?驕奢之淫、危之梯也、謂福之邪?前事不忘、後之師也。陛下敷求俊哲、使朝夕納誨。其有逆于耳・謬于心者、無速罰、姑求之道。順于耳・便于身者、無急賞、姑求之非道。羞淫巧者拒之、則淫巧息。進忠讜者賞之、則忠讜進。 臣聞生於富者驕、生於貴者。書曰:「罔淫於逸、罔遊於楽。」今儲宮肇建、王府復啓、願采温良・博聞・恭儉・忠鯁者為之僚友、仍請東宮置拾遺・補闕、使朝夕講論、出入侍従、授以訓誥、交修不逮。 臣又聞「馳騁畋獵、令人發狂」。今貴戚打毬撃鼓、飛鷹奔犬、狎比宵人、盤游藪沢。書曰:「内作色荒、外作禽荒。」惟陛下誕降謀訓、勸以学業、示之以好惡、陳之以成敗、則長享福禄矣。 臣聞「富不與驕期而驕自至、驕不與罪期而罪自至、罪不與死期而死自至」。頃韋庶人・安楽公主・武延季等可謂貴且寵矣、權侔人主、威震天下。然怙侈滅徳、神怒人棄、豈不謂愛之太極・富之太多乎?「殷鑒不遠、在夏后之世。」今陛下何勸?其皇祖謀訓之則乎!陛下何懲?其孝和寵任之失乎!故愛而知其惡、憎而知其善。夫寵愛之心未有能免、要去其太甚、閑之以礼、則可矣。諸王・公主・駙馬、陛下之所親愛也、矯枉監戒、宜在厥初、使居寵思危、観過務善。書曰:「三風十愆、卿士有一于身、家必喪、邦君有一于身、国必亡。」惟陛下黜奢僭驕怠、進樸素行業、以勗其非心。 臣聞「常厥徳、保厥位。厥徳匪常、九有以亡」。願陛下不作無益、不啓私門、不差刑、不濫賞、則惟徳是輔、惟人之懐、天禄永終矣。 睿宗善之、拜監察御史。 開元中、轉殿中侍御史、監嶺南選。時市舶使・右威衛中郎将周慶立造奇器以進、沢上書曰:「『不見可欲、使心不亂』、是知見可欲而心必亂矣。慶立雕製詭物、造作奇器、用浮巧為珍玩、以譎怪為異宝、乃治国之巨、明王所宜厳罰者也。昔露臺無費、明君不忍。象箸非大、忠臣憤歎。慶立求媚聖意、搖蕩上心。陛下信而使之乎、是宣淫於天下。慶立矯而為之乎、是禁典之所無赦。陛下新即位、固宜昭宣菲薄、広示節儉、豈可以怪好示四方哉!」書奏、玄宗稱善。歴遷太子右庶子。為鄭州刺史、未行、卒、贈兵部侍郎。 沢従祖範・奭。 範、貞観中為侍御史、時呉王恪好田獵、範彈治之。太宗曰。「權万紀不能輔道恪、罪當死。」範進曰:「房玄齡事陛下、猶不能諫止畋獵、豈宜獨罪万紀?」帝怒、拂衣起。頃之、召謂曰:「何廷折我?」範謝曰:「主聖則臣直、陛下仁明、臣敢不盡愚?」帝乃解。高宗時、歴尚書右丞・揚州大都督府長史。 奭字子邵。以父隋時使高麗卒焉、故往迎喪、號踊盡哀、為夷人所慕。貞観中、累遷中書舎人。外孫為皇后、遷中書侍郎、進中書令。皇后挾媚道覺、罷為吏部尚書。后廢、貶愛州刺史。許敬宗等構奭通宮掖、謀行鴆毒、與褚遂良朋黨、罪大逆。遣使殺之、沒其家、期以上親並流嶺表、奭房隸桂州為奴婢。 神龍初、乃復官爵、子孫親屬縁坐者悉免。開元初、沢兄渙為中書舎人、上言:「臣従伯祖奭、去顯慶三年與褚遂良等五門同被譴戮、雖被原雪、而子孫殆盡、唯曾孫忝客籍龔州。陛下先天後詔書、嘗任宰相家並録其後。況臣之伯祖無辜被誅、今窆未還、後嗣僑處、願許伯祖歸葬、孤孫北遷。」於是詔忝護奭柩歸郷里、官給喪事。忝後歴潭州都督。 馮元常、相州安陽人、其先蓋長楽信都著姓。曾祖子琮、北斉右僕射。叔祖慈明、有文辭、仕隋為内史舎人。奉詔討李密、為密将所縛、身数創、密厚礼之、情謂曰:「東都危蹙、我欲率四方賢豪建功業、幸公同之。」慈明曰:「公家事先帝、名在王室、乃挾玄感挙兵、亡命至今、復圖反噬、何耶?」密囚之。俄為翟讓所殺。武徳初、贈吏部尚書、謚壮武。 元常挙明経及第、調浚儀尉。高宗時、擢累監察御史・剣南道巡察使、興利除害、蜀人順賴。歴尚書左丞。嘗密諫帝中宮權重、宜少抑、帝雖置其計、而内然之、由是為武后所惡。元常在職脩挙、識鑒澄遠、帝委遇特厚。及不豫、詔平章百司奏事。武后擅朝、嵩陽令樊文進瑞石、后暴石朝堂示百官。元常奏石妄偽、不可以示群臣。后怒、出為隴州刺史。會天下岳牧集乾陵、后不欲元常得會、故道徙眉州刺史。剣南有光火盜、夜掠人、晝伏山谷。元常喩以恩信、約悔過自新、賊相率脱甲面縛。賊平、轉広州都督、詔便驛走官。安南酋領李嗣仙殺都護劉延祐、劫州県、詔元常討之。率士卒航海、馳檄先示禍福、賊黨多降、元常縱兵斬首惡而還。雖有功、猶以拂旨見怨、不録功。凡三徙、終不得至京師、卒為酷吏周興所陷、追赴都、下獄死。 元常閨門雍睦、有礼法、雖小功喪不御私室。神龍中、旌其家、大署曰「忠臣之門」。天下高其節、凡名族皆願通婚。 従弟元淑、及后時、歴清漳・浚儀・始平三県令、右善去惡、人稱為神明。與奴僕日一食、馬日一秣、所至不挈妻子、斥奉餘以給貧窮。或譏其近名、元淑曰:「吾性也、不為苦。」中宗降璽書勞勉、付状史官。元淑約潔過於元常、然剛直不及也。終祠部郎中。 蒋欽緒、莱州膠水人。頗工文辭、擢進士第、累遷太常博士。中宗始親郊、国子祭酒祝欽明建言、皇后應亞獻、欲以媚韋氏。天子疑之、詔礼官議。衆曲意阿徇、欽緒獨抗言不可、諸儒壮其節。 歴吏部員外郎。始、韓琬為高郵主簿、使京師、自負其才、有不遇之言題客舎。它日、欽緒見之、笑曰:「是子歎後時耶?」久之、琬挙賢良方正、欽緒擢其文異等、因謂曰:「朋友之過免未?」琬曰:「今日乃見君子之心。」其務薦引士類此。 欽緒精治道、馭吏整厳、雖銖秒罪不貸。出為華州長史。蕭至忠自晋州被召、過欽緒、欽緒本姻家、因戒曰:「以君才不患不見用、患非分而求耳。」至忠竟及禍。開元十三年、以御史中丞録河南囚、宣尉百姓、振窮乏。徙吏部侍郎、歴汴・魏二州刺史、卒。 性孤潔自守、唯與賈曾・郭利貞相友云。 子沇、亦專潔博学、少有名。以孝廉授洛陽尉、遷監察御史、與兄演・溶・弟清倶為才吏、有名天宝間。始、河南尹韓朝宗・裴迥嘗委訊覆検句、而處事平、剖斷精允、群寮莫能望也。乾元中、歴陸渾・盩厔・咸陽・高陵四県令、美政流行、長老紀焉。郭子儀軍出其県、敕麾下曰:「蒋沇、賢令、供億當有素、士得蔬飯足矣、毋撓其清也!」遷長安令、以刑部郎中兼侍御史、領渭橋運出納使。 元載持政、守道士類不遷、沇以故滯郎位、不得調。常代相、聞士議恨沇屈、故擢御史中丞・東都副留守。再遷大理卿、持法明審、號稱職。徳宗出奉天、沇奔行在、為賊所拘、欲誘署偽職、沇絶食不應命、竄伏里中、不復見。京師平、乃出、擢右散騎常侍。卒年七十四、贈工部尚書。 清挙明経中第、調鞏丞。東京留守李賢之、表為判官、與同死安禄山亂、贈礼部侍郎。敬宗時、録其孫鄅為伊闕令。初、清蒙難、以秩卑不及謚。大和初、其出吏部郎中王高言之朝、追謚曰忠。
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資治通鑑巻第八 秦紀三 二世皇帝下 二年(癸巳、前二〇八) 1冬,十月,泗川監平將兵圍沛公於豐,沛公出與戰,破之,令雍齒守豐。十一月,沛公引兵之薛。泗川守壯兵敗於薛,走至戚,沛公左司馬得殺之。 1. 2周章出關,止屯曹陽,二月餘,章邯追敗之。復走澠池,十餘日,章邯撃,大破之。周文自刎,軍遂不戰。 呉叔圍滎陽,李由爲三川守,守滎陽,叔弗能下。楚將軍田臧等相與謀曰:「周章軍已破矣,秦兵旦暮至。我圍滎陽城弗能下,秦兵至,必大敗,不如少遺兵守滎陽,悉精兵迎秦軍。今假王驕,不知兵權,不足與計事,恐敗。」因相與矯王令以誅呉叔,獻其首於陳王。陳王使使賜田臧楚令尹印,使爲上將。 田臧乃使諸將李歸等守滎陽,自以精兵西迎秦軍於敖倉,與戰。田臧死,軍破。章邯進兵撃李歸等滎陽下,破之,李歸等死。陽城人鄧説將兵居郯,章邯別將撃破之。銍人伍逢將兵居許,章邯撃破之。兩軍皆散,走陳,陳王誅鄧説。 2. 3二世數誚讓李斯:「居三公位,如何令盜如此!」李斯恐懼,重爵祿,不知所出,乃阿二世意,以書對曰:「夫賢主者,必能行督責之術者也。故申子曰『有天下而不恣睢,命之曰以天下爲桎梏』者,無他焉,不能督責,而顧以其身勞於天下之民,若堯、禹然,故謂之桎梏也。夫不能修申、韓之明術,行督責之道,專以天下自適也;而徒務苦形勞神,以身徇百姓,則是黔首之役,非畜天下者也,何足貴哉!故明主能行督責之術以獨斷於上,則權不在臣下,然後能滅仁義之塗,絕諫說之辯,犖然行恣睢之心,而莫之敢逆。如此,羣臣、百姓救過不給,何變之敢圖!」二世説,於是行督責益嚴,稅民深者爲明吏,殺人眾者爲忠臣,刑者相半於道,而死人日成積於市,秦民益駭懼思亂。 3. 4趙李良已定常山,還報趙王。趙王復使良略太原。至石邑,秦兵塞井陘,未能前。秦將詐爲二世書以招良。良得書未信,還之邯鄲,益請兵。未至,道逢趙王姊出飲,從百餘騎,良望見,以爲王,伏謁道旁。王姊醉,不知其將,使騎謝李良。李良素貴,起,慚其從官。從官有一人曰:「天下畔秦,能者先立。且趙王素出將軍下,今女兒乃不爲將軍下車,請追殺之!」李良已得秦書,固欲反趙,未決,因此怒,遣人追殺王姊,因將其兵襲邯鄲。邯鄲不知,竟殺趙王、邵騷。趙人多爲張耳、陳餘耳目者,以故二人獨得脱。 4. 5陳人秦嘉、符離人硃雞石等起兵,圍東海守於郯。陳王聞之,使武平君畔爲將軍,監郯下軍。秦嘉不受命,自立爲大司馬,惡屬武平君,告軍吏曰:「武平君年少,不知兵事,勿聽!」因矯以王命殺武平君畔。 5. 6二世益遣長史司馬欣、董翳佐章邯撃盜。章邯已破伍逢,撃陳柱國房君,殺之。又進撃陳西張賀軍。陳王出監戰。張賀死。 臘月,陳王之汝陰,還,至下城父,其御莊賈殺陳王以降。初,陳渉既爲王,其故人皆往依之。妻之父亦往焉,陳王以衆賓待之,長揖不拜。妻之父怒曰:「怙亂僭號,而傲長者,不能久矣!」不辭而去。陳王跪謝,遂不爲顧。客出入愈益發舒,言陳王故情。或說陳王曰:「客愚無知,顓妄言,輕威。」陳王斬之。諸故人皆自引去,由是無親陳王者。陳王以朱防爲中正,胡武爲司過,主司羣臣。諸將徇地至,令之不是,輒繋而罪之。以苛察爲忠,其所不善者,弗下吏,輒自治之。諸將以其故不親附,此其所以敗也。 陳王故涓人將軍呂臣爲蒼頭軍,起新陽,攻陳,下之,殺莊賈,復以陳爲楚。葬陳王於碭,謚曰隱王。 初,陳王令銍人宋留將兵定南陽,入武關。留已徇南陽,聞陳王死,南陽復爲秦,宋留以軍降,二世車裂留以徇。 6. 7魏周市將兵略地豐、沛,使人招雍齒。雍齒雅不欲屬沛公,即以豐降魏。沛公攻之,不克。 7. 8趙張耳、陳餘收其散兵,得數萬人,撃李良。良敗,走歸章邯。 客有説耳、餘曰:「兩君羈旅,而欲附趙,難可獨立。立趙後,輔以誼,可就功。」乃求得趙歇。春,正月,耳、餘立歇爲趙王,居信都。 8. 9東陽寧君、秦嘉聞陳王軍敗,乃立景駒爲楚王,引兵之方與,欲撃秦軍定陶下;使公孫慶使齊,欲與之並力倶進。齊王曰:「陳王戰敗,不知其死生,楚安得不請而立王!」公孫慶曰:「齊不請楚而立王,楚何故請齊而立王!且楚首事,當令於天下。」田儋殺公孫慶。 秦左、右校復攻陳,下之。呂將軍走,徼兵復聚,與番盜黥布相遇,攻撃秦左、右校,破之靑波,復以陳爲楚。 黥布者,六人也,姓英氏,坐法黥,以刑徒論輸驪山。驪山之徒數十萬人,布皆與其徒長豪傑交通,乃率其曹耦,亡之江中爲羣盜。番陽令呉芮,甚得江湖間心,號曰番君。布往見之,其衆已數千人。番君乃以女妻之,使將其兵撃秦。 9. 10楚王景駒在留,沛公往從之。張良亦聚少年百餘人,欲往從景駒,道遇沛公,遂屬焉。沛公拜良爲厩將。良數以太公兵法説沛公,沛公善之,常用其策。良爲他人言,皆不省。良曰:「沛公殆天授!」故遂從不去。 沛公與良倶見景駒,欲請兵以攻豐。時章邯司馬屍二將兵北定楚地,屠相,至碭。東陽寧君、沛公引兵西,戰蕭西,不利,還,收兵聚留。二月,攻碭,三日,拔之。收碭兵得六千人,與故合九千人。三月,攻下邑,拔之。還撃豐,不下。 10. 11廣陵人召平爲陳王徇廣陵,未下。聞陳王敗走,章邯且至,乃渡江,矯陳王令,拜項梁爲楚上柱國,曰:「江東已定,急引兵西撃秦!」梁乃以八千人渡江而西。聞陳嬰已下東陽,使使欲與連和倶西。陳嬰者,故東陽令史,居縣中,素信謹,稱爲長者。東陽少年殺其令,相聚得二萬人,欲立嬰爲王。嬰母謂嬰曰:「自我爲汝家婦,未嘗聞汝先世之有貴者。今暴得大名,不祥;不如有所屬。事成,猶得封侯;事敗,易以亡,非世所指名也。」嬰乃不敢爲王,謂其軍吏曰:「項氏世世將家,有名於楚,今欲舉大事,將非其人不可。我倚名族,亡秦必矣!」其衆從之,乃以兵屬梁。 英布既破秦軍,引兵而東;聞項梁西渡淮,布與蒲將軍皆以其兵屬焉。項梁衆凡六七萬人,軍下邳。景駒、秦嘉軍彭城東,欲以距梁。梁謂軍吏曰:「陳王先首事,戰不利,未聞所在。今秦嘉倍陳王而立景駒,逆無道!」乃進兵撃秦嘉,秦嘉軍敗走。追之,至胡陵,嘉還戰。一日,嘉死,軍降;景駒走死梁地。 梁已並秦嘉軍,軍胡陵,將引軍而西。章邯軍至栗,項梁使別將朱雞石、餘樊君與戰。餘樊君死,朱雞石軍敗,亡走胡陵。梁乃引兵入薛,誅朱雞石。 沛公從騎百餘往見梁,梁與沛公卒五千人,五大夫將十人。沛公還,引兵攻豐,拔之。雍齒奔魏。 項梁使項羽別攻襄城,襄城堅守不下;已拔,皆坑之,還報。 梁聞陳王定死,召諸別將會薛計事,沛公亦往焉。居鄛人范增,年七十,素居家,好奇計,往説項梁曰:「陳勝敗,固當。夫秦滅六國,楚最無罪。自懷王入秦不反,楚人憐之至今。故楚南公曰:『楚雖三戸,亡秦必楚。』今陳勝首事,不立楚後而自立,其勢不長。今君起江東,楚蜂起之將皆爭附君者,以君世世楚將,爲能復立楚之後也。」於是項梁然其言,乃求得楚懷王孫心於民間,爲人牧羊。夏,六月,立以爲楚懷王,從民望也。陳嬰爲上柱國,封五縣,與懷王都盱眙。項梁自號爲武信君。 張良説項梁曰:「君已立楚後,而韓諸公子橫陽君成最賢,可立爲王,益樹黨。」項梁使良求韓成,立以爲韓王,以良爲司徒,與韓王將千餘人西略韓地,得數城,秦輒復取之;往來爲遊兵穎川。 11. 12章邯已破陳王,乃進兵撃魏王於臨濟。魏王使周市出,請救於齊、楚。齊王儋及楚將項它皆將兵隨市救魏。章邯夜銜枚撃,大破齊、楚軍於臨濟下,殺齊王及周市。魏王咎爲其民約降,約定,自燒殺。其弟豹亡走楚,楚懷王予魏豹數千人,復徇魏地。齊田榮收其兄儋餘兵,東走東阿,章邯追圍之。齊人聞齊王儋死,乃立故齊王建之弟假爲王,田角爲相,角弟間爲將,以距諸侯。 秋,七月,大霖雨。武信君引兵攻亢父,聞田榮之急,乃引兵撃破章邯軍東阿下,章邯走而西。田榮引兵東歸齊。武信君獨追北,使項羽、沛公別攻城陽,屠之。楚軍軍濮陽東,復與章邯戰,又破之。章邯復振,守濮陽,環水。沛公、項羽去,攻定陶。八月,田榮撃逐齊王假,假亡走楚,田角亡走趙。田間前救趙,因留不敢歸。田榮乃立儋子市爲齊王,榮相之,田橫爲將,平齊地。章邯兵益盛,項梁數使使告齊、趙發兵共撃章邯。田榮曰:「楚殺田假,趙殺角、間,乃出兵。」楚、趙不許。田榮怒,終不肯出兵。 12. 13郎中令趙高恃恩專恣,以私怨誅殺人衆多,恐大臣入朝奏事言之,乃說二世曰:「天子之所以貴者,但以聞聲,羣臣莫得見其面故也。且陛下富於春秋,未必盡通諸事。今坐朝廷,譴舉有不當者,則見短於大臣,非所以示神明於天下也。陛下不如深拱禁中,與臣及侍中習法者待事,事來有以揆之。如此,則大臣不敢奏疑事,天下稱聖主矣。」二世用其計,乃不坐朝廷見大臣,常居禁中。趙高侍中用事,事皆決於趙高。 高聞李斯以爲言,乃見丞相曰:「關東羣盜多,今上急,益發繇,治阿房宮,聚狗馬無用之物。臣欲諫,爲位賤,此眞君侯之事。君何不諫?」李斯曰:「固也,吾欲言之久矣。今時上不坐朝廷,常居深宮。吾所言者,不可傳也。欲見,無閒。」趙高曰:「君誠能諫,請爲君侯上閒,語君。」於是趙高待二世方燕樂,婦女居前,使人告丞相:「上方閒,可奏事。」丞相至宮門上謁。如此者三。二世怒曰:「吾常多閒日,丞相不來;吾方燕私,丞相輒來請事!丞相豈少我哉,且固我哉?」趙高因曰:「夫沙丘之謀,丞相與焉。今陛下已立爲帝,而丞貴不益,此其意亦望裂地而王矣。且陛下不問臣,臣不敢言。丞相長男李由爲三川守,楚盜陳勝等皆丞相傍縣之子,以故楚盜公行,過三川城,守不肯撃。高聞其文書相往來,未得其審,故未敢以聞。且丞相居外,權重於陛下。」二世以爲然,欲案丞相,恐其不審,乃先使人按驗三川守與盜通状。 李斯聞之,因上書言趙高之短曰:「高擅利擅害,與陛下無異。昔田常相齊簡公,竊其恩威,下得百姓,上得羣臣,卒弒齊簡公而取齊國,此天下所明知也。今高有邪佚之志,危反之行,私家之富,若田氏之於齊矣,而又貪慾無厭,求利不止,列勢次主,其欲無窮,劫陛下之威信,其志若韓□爲韓安相也。陛下不圖,臣恐其必爲變也。」二世曰:「何哉!夫高,故宦人也,然不爲安肆志,不以危易心,潔行修善,自使至此,以忠得進,以信守位,朕實賢之。而君疑之,何也?且朕非屬趙君,當誰任哉!且趙君爲人,精廉強力,下知人情,上能適朕,君其勿疑!」二世雅愛信高,恐李斯殺之,乃私告趙高。高曰:「丞相所患者獨高,高已死,丞相即欲爲田常所爲。」 是時,盜賊益多,而關中捽髮東撃盜者無已。右丞相馮去疾、左丞相李斯、將軍馮劫進諫曰:「關東羣盜並起,秦發兵追撃,所殺亡甚衆,然猶不止。盜多,皆以戍、漕、轉、作事苦,税賦大也。請且止阿房宮作者,減省四邊戍、轉。」二世曰:「凡所爲貴有天下者,得肆意極欲,主重明法,下不敢爲非,以制御海内矣。夫虞、夏之主,貴爲天子,親處窮苦之實以徇百姓,尚何於法!且先帝起諸侯,兼天下,天下已定,外攘四夷以安邊境,作宮室以章得意,而君觀先帝功業有緒。今朕即位,二年之間,羣盜並起,君不能禁,又欲罷先帝之所爲,是上無以報先帝,次不爲朕盡忠力,何以在位!」下去疾、斯、劫吏,案責他罪。去疾、劫自殺,獨李斯就獄。二世以屬趙高治之,責斯與子由謀反狀,皆收捕宗族、賓客。趙高治斯,榜掠千餘,不勝痛,自誣服。 斯所以不死者,自負其辯,有功,實無反心,欲上書自陳,幸二世寤而赦之。乃從獄中上書曰:「臣爲丞相治民,三十餘年矣。逮秦地之狹隘,不過千里,兵數十萬。臣盡薄材,陰行謀臣,資之金玉,使遊説諸侯;陰修甲兵,飭政教,官鬥士,尊功臣;故終以脅韓,弱魏,破燕、趙,夷齊、楚,卒兼六國,虜其王,立秦爲天子。又北逐胡、貉,南定北越,以見秦之強。更克畫,平斗斛、度量,文章布之天下,以樹秦之名。此皆臣之罪也,臣當死久矣!上幸盡其能力,乃得至今。願陛下察之!」書上,趙高使吏棄去不奏,曰:「囚安得上書!」 趙高使其客十餘輩詐爲御史、謁者、侍中,更往覆訊斯,斯更以其實對,輒使人復榜之。後二世使人驗斯,斯以爲如前,終不更言。辭服,奏當上。二世喜曰:「微趙君,幾爲丞相所賣!」及二世所使案三川守由者至,則楚兵已撃殺之。使者來,會職責相下吏,高皆妄爲反辭以相傅會,遂具斯五刑,論腰斬咸陽市。斯出獄,與其中子俱執。顧謂其中子曰:「吾欲與若復牽黃犬,倶出上蔡東門逐狡兔,豈可得乎!」遂父子相哭,而夷三族。二世乃以趙高爲丞相,事無大小皆決焉。 13. 14項梁已破章邯於東阿,引兵西,北至定陶,再破秦軍。項羽、沛公又與秦軍戰於雍丘,大破之,斬李由。項梁益輕秦,有驕色。宋義諫曰:「戰勝而將驕卒惰者,敗。今卒少惰矣,秦兵日益,臣爲君畏之。」項梁弗聽。餘乃使宋義使於齊,道遇齊使者高陵君顯,曰:「公將見武信君乎?」曰:「然。」曰:「臣論武信君軍必敗。公徐行即免死,疾行則及禍。」二世悉起兵益章邯撃楚軍,大破之定陶,項梁死。 時連雨,自七月至九月。項羽、沛公攻外黄未下,去,攻陳留。聞武信君死,士卒恐,乃與將軍呂臣引兵而東,徙懷王自盱眙都彭城。呂臣軍彭城東,項羽軍彭城西,沛公軍碭。 14. 15魏豹下魏二十餘城,楚懷王立豹爲魏王。 15. 16後九月,楚懷王並呂臣、項羽軍,自將之;以沛公爲碭郡長,封武安侯,將碭郡兵;封項羽爲長安侯,號爲魯公;呂臣爲司徒,其父呂靑爲令尹。 16. 17章邯已破項梁,以爲楚地兵不足憂,乃渡河,北撃趙,大破之。引兵至邯鄲,皆徙其民河内,夷其城郭。張耳與趙王歇走入鉅鹿城,王離圍之。陳餘北收常山兵,得數萬人,軍鉅鹿北。章邯軍鉅鹿南棘原。趙數請救於楚。 高陵君顯在楚,見楚王曰:「宋義論武信君之軍必敗,居數日,軍果敗。兵未戰而先見敗征,此可謂知兵矣。」王召宋義與計事而大説之,因置以爲上將軍。項羽爲次將,范增爲末將,以救趙。諸別將皆屬宋義,號爲「卿子冠軍」。 初,楚懷王與諸將約:「先入定關中者王之。」當是時,秦兵強,常乘勝逐北,諸將莫利先入關。獨項羽怨秦之殺項梁,奮勢願與沛公西入關。懷王諸老將皆曰:「項羽爲人,慓悍猾賊,嘗攻襄城,襄城無遺類,皆坑之,諸所過無不殘滅。且楚數進取,前陳王、項梁皆敗,不如更遣長者,扶義而西,告諭秦父兄。秦父兄苦其主久矣,今誠得長者往,無侵暴,宜可下。項羽不可遣,獨沛公素寬大長者,可遣。」懷王乃不許項羽,而遣沛公西略地,收陳王、項梁散卒以伐秦。 沛公道碭,至陽城與槓里,攻秦壁,破其二軍。 17. 三年(甲午、前二〇七) 1冬,十月,齊將田都畔田榮,助楚救趙。 1. 2沛公攻破東郡尉於成武。 2. 3宋義行至安陽,留四十六日不進。項羽曰:「秦圍趙急,宜疾引兵渡河;楚撃其外,趙應其内,破秦軍必矣。」宋義曰:「不然。夫搏牛之虻,不可以破蟣虱。今秦攻趙,戰勝則兵疲,我承其敝;不勝,則我引兵鼓行而西,必舉秦矣。故不如先斗秦、趙。夫被堅執鋭,義不如公;坐運籌策,公不如義。」因下令軍中曰:「有猛如虎,狠如羊,貪如狼,強不可使者,皆斬之!」 乃遣其子宋襄相齊,身送之至無鹽,飲酒高會。天寒,大雨,士卒凍飢。項羽曰:「將戮力而攻秦,久留不行。今歳飢民貧,士卒食半菽,軍無見糧,乃飲酒高會;不引兵渡河,因趙食,與趙並力攻秦,乃曰『承其敝』。夫以秦之強,攻新造之趙,其勢必舉。趙舉秦強,何敝之承!且國兵新破,王坐不安席,掃境内而專屬於將軍,國家安危,在此一舉。今不恤士卒而徇其私,非社稷之臣也!」 十一月,項羽晨朝將軍宋義,即其帳中斬宋義頭。出令軍中曰:「宋義與齊謀反楚,楚王陰令籍誅之!」當是時,諸將皆懾服,莫敢枝梧,皆曰:「首立楚者,將軍家也,今將軍誅亂。」乃相與共立羽爲假上將軍。使人追宋義子,及之齊,殺之。使桓楚報命於懷王。懷王因使羽爲上將軍。 3. 4十二月,沛公引兵至栗,遇剛武侯,奪其軍四千餘人,並之;與魏將皇欣、武滿軍合攻秦軍,破之。 4. 5故齊王建孫安下濟北,從項羽救趙。 5. 6章邯築甬道屬河,餉王離。王離兵食多,急攻鉅鹿。鉅鹿城中食盡、兵少,張耳數使人召前陳餘。陳餘度兵少,不敵秦,不敢前。數月,張耳大怒,怨陳餘,使張黶、陳澤往讓陳餘曰:「始吾與公爲刎頸交,今王與耳旦暮且死,而公擁兵數萬,不肯相救,安在其相爲死!苟必信,胡不赴秦軍倶死,且有十一二相全。」陳餘曰:「吾度前終不能救趙,徒盡亡軍。且餘所以不倶死,欲爲趙王、張君報秦。今必倶死,如以肉委餓虎,何益!」張黶、陳澤要以倶死,乃使黶、澤將五千人先嘗秦軍,至,皆沒。當是時,齊師、燕師皆來救趙,張敖亦北收代兵,得萬餘人,來,皆壁餘旁,未敢撃秦。 項羽已殺卿子冠軍,威震楚國,乃遣當陽君、薄將軍將卒二萬渡河救鉅鹿。戰少利,絶章邯甬道,王離軍乏食。陳餘復請兵。項羽乃悉引兵渡河,皆沈船,破釜、甑,燒廬舍,持三日糧,以示士卒必死,無一還心。於是至則圍王離,與秦軍遇,九戰,大破之,章邯引兵卻。諸侯兵乃敢進撃秦軍,遂殺蘇角,虜王離;渉間不降,自燒殺。當是時,楚兵冠諸侯軍。救鉅鹿者十餘壁,莫敢縱兵。及楚撃秦,諸侯將皆從壁上觀。楚戰士無不一當十,呼聲動天地,諸侯軍無不人人惴恐。於是已破秦軍,項羽召見諸侯將。諸侯將入轅門,無不膝行而前,莫敢仰視。項羽由是始爲諸侯上將軍。諸侯皆屬焉。 於是趙王歇及張耳乃得出鉅鹿城謝諸侯。張耳與陳餘相見,責讓陳餘以不肯救趙;及問張黶、陳澤所在,疑陳餘殺之,數以問餘。餘怒曰:「不意君之望臣深也!豈以臣爲重去將印哉?」乃脱解印綬,推予張耳,張耳亦愕不受。陳餘起如廁。客有説張耳曰:「臣聞『天與不取,反受其咎。』今陳將軍與君印,君不受,反天不祥,急取之!」張耳乃佩其印,收其麾下。而陳餘還,亦望張耳不讓,遂趨出,獨與麾下所善數百人之河上澤中漁獵。趙王歇還信都。 春,二月,沛公北撃昌邑,遇彭越,彭越以其兵從沛公。越,昌邑人,常漁巨野澤中,爲羣盜。陳勝、項梁之起,澤間少年相聚百餘人,往從彭越曰:「請仲爲長。」越謝曰:「臣不願也。」少年強請,乃許,與期旦日日出會,後期者斬。旦日日出,十餘人後,後者至日中。於是越謝曰:「臣老,諸君強以爲長。今期而多後,不可盡誅,誅最後者一人。」令校長斬之。皆笑曰:「何至於是!請後不敢。」於是越引一人斬之,設壇祭,令徒屬,徒屬皆大驚,莫敢仰視。乃略地,收諸侯散卒,得千餘人,遂助沛公攻昌邑。 昌邑未下,沛公引兵西過高陽。高陽人酈食其,家貧落魄,爲里監門,沛公麾下騎士適食其里中人,食其見,謂曰:「諸侯將過高陽者數十人,吾問其將皆握齪,好苛禮,自用,不能聽大度之言。吾聞沛公慢而易人,多大略,此眞吾所願從游,莫爲我先。若見沛公,謂曰:『臣里中有酈生,六十餘,長八尺,人皆謂之狂生。生自謂「我非狂生」。』」騎士曰:「沛公不好儒,諸客冠儒冠來者,沛公輒解其冠,溲溺其中,與人言,常大罵,未可以儒生說也。」酈生曰:「第言之。」騎士從容言,如酈生所誡者。 沛公至高陽傳舍,使人召酈生。酈生至,入謁。沛公方倨床使兩女子洗足,而見酈生。酈生入,則長揖不拜,曰:「足下欲助秦攻諸侯乎?且欲率諸侯破秦也?」沛公罵曰:「豎儒!天下同苦秦久矣,故諸侯相率而攻秦,何謂助秦攻諸侯乎!」酈生曰:「必聚徒合義兵誅無道秦,不宜倨見長者!」於是沛公輟洗,起,攝衣,延酈生上坐,謝之。酈生因言六國從橫時。沛公喜,賜酈生食,問曰:「計將安出?」酈生曰:「足下起糾合之衆,收散亂之兵,不滿萬人;欲以徑入強秦,此所謂探虎口者也。夫陳留,天下之衝,四通五達之郊也,今其城中又多積粟。臣善其令,請得使之令下足下。即不聽,足下引兵攻之,臣爲内應。」於是遣酈生行,沛公引兵隨之,遂下陳留。號酈食其爲廣野君。酈生言其弟商。時商聚少年得四千人,來屬沛公,沛公以爲將,將陳留兵以從,酈生常爲說客,使諸侯。 6. 7三月,沛公攻開封,未拔。西與秦將楊熊會戰白馬,又戰曲遇東,大破之。楊熊走之滎陽,二世使使者斬之以徇。 夏,四月,沛公南攻穎川,屠之。因張良,遂略韓地。時趙別將司馬卬方欲渡河入關。沛公乃北攻平陰,絶河津南,戰洛陽東。軍不利,南出轘轅。張良引兵從沛公。沛公令韓王成留守陽翟,與良倶南。 六月,與南陽守齮戰犨東,破之,略南陽郡;南陽守走保城,守宛。沛公引兵過宛,西。張良諫曰:「沛公雖欲急入關,秦兵尚眾,距險。今不下宛,宛從後撃,強秦在前,此危道也。」於是沛公乃夜引軍從他道還,偃旗幟,遲明,圍宛城三匝。南陽守欲自剄,共舍人陳恢曰:「死未晩也。」乃踰城見沛公曰:「臣聞足下約先入咸陽者王之。今足下留守宛,宛郡縣連城數十,其吏民自以爲降必死,故皆堅守乘城。今足下盡日上攻,士死傷者必多。引兵去宛,宛必隨足下後。足下前則失咸陽之約,後有強宛之患。爲足下計,莫若約降,封其守;因使止守,引其甲卒與之西。諸城未下者,聞聲爭開門而待足下,足下通行無所累。」沛公曰:「善!」秋,七月,南陽守齮降,封爲殷侯,封陳恢千戸。 引兵西,無不下者。至丹水,高武侯鰓、襄侯王陵降。還攻胡陽,遇番君別將梅鋗,與偕攻析、酈,皆降。所過亡得鹵掠,秦民皆喜。 7. 8王離軍既沒,章邯軍棘原,項羽軍漳南,相持未戰。秦軍數卻,二世使人讓章邯。章邯恐,使長史欣請事。至咸陽,留司馬門三日,趙高不見,有不信之心。長史欣恐,還走其軍,不敢出故道。趙高果使人追之,不及。欣至軍,報曰:「趙高用事於中,下無可爲者。今戰能勝,高必疾妒吾功,不能勝,不免於死。願將軍孰計之!」 陳餘亦遺章邯書曰:「白起爲秦將,南征鄢郢,北坑馬服,攻城略地,不可勝計,而竟賜死。蒙恬爲秦將,北逐戎人,開榆中地數千里,竟斬陽周。何者?功多,秦不能盡封,因以法誅之。今將軍爲秦將三歲矣,所亡失以十萬數,而諸侯並起滋益多。彼趙高素諛日久,今事急,亦恐二世誅之,故欲以法誅將軍以塞責,使人更代將軍以脱其禍。夫將軍居外久,多内郤,有功亦誅,無功亦誅。且天之亡秦,無愚智皆知之。今將軍內不能直諫,外爲亡國將,孤特獨立而欲常存,豈不哀哉!將軍何不還兵與諸侯爲從,約共攻秦,分王其地,南面稱孤!此孰與身伏鈇質、妻子爲戮乎?」 章邯狐疑,陰使候始成使項羽,欲約。約未成,項羽使蒲將日夜引兵度三戸,軍漳南,與秦軍戰,再破之。項羽悉引兵撃秦軍汙水上,大破之。章邯使人見項羽,欲約。項羽召軍吏謀曰:「糧少,欲聽其約。」軍吏皆曰:「善。」項羽乃與期洹水殷虚上。已盟,章邯見項羽而流涕,爲言趙高。項羽乃立章邯爲雍王,置楚軍中,使長史欣爲上將軍,將秦軍爲前行。 8. 9瑕丘申陽下河南,引兵從項羽。 9. 10初,中丞相趙高欲專秦權,恐羣臣不聽,乃先設驗,持鹿獻於二世曰:「馬也。」二世笑曰:「丞相誤邪,謂鹿爲馬!」問左右,左右或默,或言馬以阿順趙高,或言鹿者。高因陰中諸言鹿者以法。後羣臣皆畏高,莫敢言其過。高前數言「關東盜無能爲也」,及項羽虜王離等,而章邯等軍數敗,上書請益助。自關以東,大抵盡畔秦吏,應諸侯,諸侯咸率其衆西郷。八月,沛公將數萬人攻武關,屠之。高恐二世怒,誅及其身,乃謝病,不朝見。 二世夢白虎嚙其左驂馬,殺之,心不樂,怪問占夢。卜曰:「涇水爲祟。」二世乃齋於望夷宮,欲祠涇水,沈四白馬。使使責讓高以盜賊事。高懼,乃陰與其婿咸陽令閻樂及弟趙成謀曰:「上不聽諫。今事急,欲歸禍於吾。吾欲易置上,更立子嬰。子嬰仁儉,百姓皆載其言。」乃使郎中令爲内應,詐爲有大賊,令樂召吏發兵追,劫樂母置高舍。遣樂將吏卒千餘人至望夷宮殿門,縛衞令僕射,曰:「賊入此,何不止?」衞令曰:「周廬設卒甚謹,安得賊敢入宮!」樂遂斬衞令,直將吏入,行射郎、宦者。郎、宦者大驚,或走,或格。格者輒死,死者數十人。郎中令與樂俱入,射上幄坐幃。二世怒,召左右,左右皆惶擾不鬥。旁有宦者一人侍,不敢去。二世入內,謂曰:「公何不早告我,乃至於此!」宦者曰:「臣不敢言,故得全。使臣早言,皆已誅,安得至今!」閻樂前即二世,數曰:「足下驕恣,誅殺無道,天下共畔足下。足下其自爲計!」二世曰:「丞相可得見否?」樂曰:「不可!」二世曰:「吾願得一郡爲王。」弗許。又曰:「願爲萬戸侯。」弗許。曰:「願與妻子爲黔首,比諸公子。」閻樂曰:「臣受命於丞相,爲天下誅足下。足下雖多言,臣不敢報!」麾其兵進。二世自殺。閻樂歸報趙高。趙高乃悉召諸大臣、公子,告以誅二世之状,曰:「秦故王國,始皇君天下,故稱帝。今六國復自立,秦地益小,乃以空名爲帝,不可。宜爲王如故,便。」乃立子嬰爲秦王。以黔首葬二世社南宜春苑中。 九月,趙高令子嬰齋戒,當廟見,受玉璽。齋五日。子嬰與其子二人謀曰:「丞相高殺二世望夷宮,恐羣臣誅之,乃佯以義立我。我聞趙高乃與楚約,滅秦宗室而分王關中。今使我齋、見廟,此欲因廟中殺我。我稱病不行,丞相必自來,來則殺之。」高使人請子嬰數輩,子嬰不行。高果自往,曰:「宗廟重事,王奈何不行?」子嬰遂刺殺高於齋宮,三族高家以徇。 遣將兵距嶢關,沛公欲撃之。張良曰:「秦兵尚強,未可輕。願先遣人益張旗幟於山上爲疑兵,使酈食其、陸賈往説秦將,啖以利。」秦將果欲連和,沛公欲許之。張良曰:「此獨其將欲叛,恐其士卒不從;不如因其懈怠撃之。」沛公引兵繞嶢關,踰蕢山,撃秦軍,大破之藍田南。遂至藍田,又戰其北,秦兵大敗。 10.
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唐書巻一百二十三 列伝第四十八 李嶠 蕭至忠 盧蔵用 韋巨源 趙彦昭 和逢尭 李嶠は、字は巨山といい、趙州賛皇の出身である。幼いときに父を失ったが、母親に孝行を尽くした。子供のころ、夢の中で人から二本の筆をもらい、それ以後、文章が作れるようになった。十五歳のときには五経に通暁し、薛元超の称揚をうけた。二十歳で進士に合格して、最初は安定県の尉に任じられた。制策に優等で及第し、長安に転任した。当時、畿内の諸県の尉の中で、文学において名の高かった者には、駱賓王・劉光業がいた。崎はその中で一番年下だったが、同輩として交遊した。 監察御史に任命された。高宗が邕州と巌州で叛乱を起こした獠族を撃退する際、李嶠を軍隊の監督の任に当てる詔勅が下った。李嶠は獠族のいわやへ入っていって説得し降伏させ、それで兵を引きあげた。だんだんと位がうつって給事中になった。ちょうど来俊臣が、狄仁傑・李嗣真・裴宣礼らの罪をでっちあげ、死罪にしようとしているところであった。李嶠に大理少卿の張徳裕、侍御史の劉憲と共に再審理を命ずる勅令が下った。張徳裕たちは心の内ではそれがぬれぎぬであるのを知っていたが、異論をはさもうとしなかった。李嶠は、「無実の罪であることを知りながら、口に出さないのは、『義を見てさざる者」というのだ」といって、結局、二人と一緒に彼らの無実の証拠を列挙した。それが武后のおぼしめしに逆うところとなり、州の司馬として都を離れた。だいぶたってから都に呼びもどされ鳳閣舎人となった。天子の冊命・詔勅の多くを起草する任務にあたった。 それより先のこと、御史台を設置して、州県の事務官の行状や風俗のありさまを調べることになったときは、上流文をたてまつって申しあげた。「法の網の目は荒いのが上策で、法令は簡潔なのがよいのです。簡潔であれば法は実行しやすく、かつ煩雑にはならず、荒ければ網を広げても苛政になることはありません。伏して垂拱年間(685-688)の時代をふりかえってみますと、諸道巡察使の奏上した科目は四十四もあり、別に勅令によって訪問したのは三十にもなります。しかし使は三月に出発して、十一月に奏上を行っていますが、諸道ごとの観察すべき官吏は、多いところでは二千、少すくなくても千ばかりとなり、品格・才行を賞罰しようにも、期限に迫られて、追跡調査する時間もなく、詳細にしようと思っても、難しいのです。これは職を貶めるようとしているのではなく、才能には限りがあり、力は及ばないだけなのです。臣は願わくば、その功程をはかって節制とし、適材の人材を用い、力は時を助け、その後に得失は詳しく明らかになるのです」と述べた。また、「今これをみてみますに、漢の六条に準じて推して広げれば、包括しないものはありません。どうして多く事目を張ることがありましょうか。また朝廷ではすべて何もないということはなく、事の動きに働いて、常に四方にあり、そのため使者が出て冠蓋が互いに見えるということになるのです。今すでに使を設置しており、そこで外州の事はすべてこれを専らにすることができ、伝駅の削減になります。願わくば十州ごとに一御史を設置し、年末を期限とし、その身を属県に派遣し、村里を通過し、邪な人物を査察し、風俗を見て、その後にその任務報告を義務づけるべきです。また御史は朝廷に出入りし、自身を励まして自らを修養することは、他の官吏に比べると百倍になります。もしくは邪な者を弾劾し、欺き隠すのを摘発・糾弾することは、他の官吏に比べて十倍にもなります。陛下は誠に臣の言を用い、よくできる者を択んでこれを委ねるなら、死力を尽くさない者はいないでしょう。」と述べた。武后はそれを認め、天下を二十の道に分けて節度使にできる人材を選ぶ制書を下したが、多数の意見でつぶされてしまった。 まもなく天官侍郎事に任ぜられ、麟台少監、そして同鳳閣鸞台平章事に昇進し、鸞台侍郎に転任した。ちょうど張錫が宰相になったが、李嶠は彼の甥であるので、辞任して成均祭酒になった。すぐに検校文昌左丞となり、東都洛陽づめとなった。長安三年(703)、本来の官職のままで再び平章事となり、納言に任命された。内史に転任したが、李嶠はつよく辞退し、また成均祭酒・平章事にもどった。 武后が白司馬坂に大仏像を建てようとすると、李嶠は諌言していった、「仏像を作るには寺に金を出させるとはいえ、州県が引きうけなければ、完成できぬことです。これは名目上は金をとりたてないにしても、実質はとりたてることです。臣が天下の課税世帯をみましたところ、生活が苦しい家が多く、家を売ったり田畑を抵当にいれたりして賦役をさしだしている者もあります。今、仏像の建設費が十七万緡、集まっております。もしこれを貧しい人々に分けて、一軒につき千銭ずつ与えれば、十七万世帯を飢寒の苦しみから解放することになり、天子の徳は限りないものとなるでありましょう」。しかし、ききいれられなかった。 張易之が滅ぼされると、彼もその徒党にくみしたことで、予州刺史に左遷されることになった。まだ任地へ赴かない前に、通州に変更された。数か月で召還されて吏部侍郎になり、まもなく尚書に転任した。 神龍二年(706)、韋安石に代わって中書となった。李嶠は吏部郎だった頃、世間の評判によって宰相の地位にかえりざこうとひそかにくわだて、そこで上奏して員外の官数千人を設けた。そうしたことがあって役人はやたらとふえ、国庫財産は空っぽになった。そこで彼は書をたてまつって、あやまちを時世のせいにし、自分の過去の失策をかくした。それにはいう、「元首が尊いのは、数多くの門奥深くにあって警備が柝を撃ち、出御しても道を清めて警備し、非常に備えるから、事を起こそうとするものが止み、本当挙動しやすいのではなく、漫然と閑を防いでいるのです。陛下は朝廷の深いところにいるのを嫌い、尊厳を軽んじ、粗末な服を着てお忍び歩きし、店を見ては市を通過し、道端で議論したので、朝廷は驚愕し、禍いは思ってもみないところから来て、勝手気ままで反省もせず、宗廟・人民をどうされるのでしょうか。また官職を分けても、やたらに多くすべきではありません。伝に、「官が必ずしも備わっていないなら、ただその人にせよ」とあります。帝室が中興してより、爵位や報償の授与されるのを慎まず、階級を踏み越え、朝に昇進して夕方に改め、令官が欠けても補わず、員外の官を加えています。内では府庫がつきてしまい、外では民衆が害を被っており、賢人を探し求めて治世を助けようとする道ではないのです。願わくば、高位にいる者を惜しまれますよう。文武官の六十歳以上は、天子が寛恕し、皆これを憐れますよう。老病の者はすでに官の印授を解いて返し、員外の者は既にまた留められれば、恐らくは疲れを消して時を救うという理由にはならないでしょう。役人に勅して、用い進めるべき、もしくは用い退けるべきではないのを調べさせることをお願いします。また遠方の夷人で治めるにたえられない者でも国家が用向きで慰撫してこれを官とし、功績のない酋長でも俸禄を費やしています。願わくば必要ではないものをはかり、すべて家に帰されますよう。また易に、「何ぞ以て位を守るを仁と曰い、何ぞ以て人を聚むるを財というか」とあり、今百姓は貧しく、安心して暮らす場所がなく、そのため位を守ることができません。倉は使いつくしてしまい、財力は傾きつくし、人を集めるには足りません。山東では雨のあとの水たまりで病気になり、江の左岸では輸送で動きがとれません。国はお上ですら乏しく、人は下になるほど困窮しています。辺境をして少しでも恐れを抱かせるようなことをすれば、おそらく逃亡者が多くなり、盗賊が群がり行くことなり、どうして財を召募することができましょうか。どうして民衆の閑を遮れましょう。また崇めて寺観をつくることも、費用が多大にかかります。今山東は毎年飢饉となり、粗食も嫌がりません。しかし困苦の中に身を投じながら庸調の半ばを納め、嘆きの物を用いて土木を営むことは、恐らくは怨みは三霊に結び、誹りは四海に被ることになるでしょう。また征戍(徭役)にあたると、巧みに百情をいつわり、賦役を破棄して身を隠し、租賦を逃れています。今、道士で私度する者は数十万人にもおよび、その中高の多丁戸は、悪賢く大きな商売をあきない、詭って台符をつくって、名をごちゃまぜにして偽って得度しています。また国で軍防を計上する際には、すべて丁口によっていますが、今丁はすべて出家し、兵もことごとく出家しており、軍征は租賦によっているのに、どうやって備えるというのでしょうか。また賄賂を重ねて貴族に接近し、戸籍を移し、州県の甲等の田は種別を変更して下戸としています。道の城鎮に到っては、駅者をつかまえることができず、賦役は小弱となり、即ちその家を破産させることになります。願わくば十道使訪察括取を許され、狡猾な者をして隠蔽させませんよう。また太常寺の楽戸はすでに多く、また散楽を求め尋ねると、ただ大鼓を持つ者がすでに二万人います。願わくば量って留め、ほかは還籍を記録し、無駄な費用を塞がれますよう」と述べた。中宗は李嶠が宰相でありながら、自分の政策の失敗を開陳して辞任を願い、責任を転嫁しないので、彼の辞任をいましめる詔をみずからかきあたえた。李嶠はおそれかしこまり、再び任務についた。三年して修文館大学士を兼任し、趙国公に封ぜられた。特進の職として同中門下三品になった。 睿宗が即位すると、内閣から退き、降位して懐州刺史に任ぜられ、退官した。それより先、中宗が崩御されたとき、李嶠は大臣諸王の子弟は都から離すべきだと、ひそかに願いでたことがあった。玄宗が即位して、その時の文書が宮中でみつかると、そのことで彼を処罰することをもとめる者があった。張説が「李嶠はたしかに忠義の道理をわきまえていないが、しかしその時のためにくわだてたことだ。自分の主人でない者に対して吠えついたのだから過去にのぼってすべきではない」といった。天子も、幾たびも赦令が出されているのを気にかけられ、結局、罪を免ぜられて滁州別駕に左遷となった。彼の子の虔州刺史である李暢が任地に赴くのに同行することを許され、廬州別駕に変更された。享年は七十歳であった。 李嶠は才智豊かで、文章を作ると、多くの人々の間に拡まり愛された。武后の時代に汜水で瑞石がみつかると、御史であったが、一篇の皇符をたてまつり、世間から非難された。しかし彼は仕官すると、はじめは、王勃・楊盈川と交際し、中頃には崔融・蘇味道と文名ならび高く、晩年にはほかの人々が死んでしまったので、文壇の長老となり、当時の文章を学ぶ者は彼を手本とした。 蕭至忠は、沂州氶県の人である。祖先の蕭徳言は、秘書少監となった。蕭至忠は幼くして友と道で落ち合う約束をしたが、たまたま雨や雪となり、人は避けるよう誘ったが、蕭至忠は「どうして人と約束があるのに信を失うことができようか」と言い、ついに友がやって来てから去ったから、大衆は感服した。仕官して伊闕県・洛陽県の尉となった。監察御史に遷り、鳳閣侍郎の蘇味道の収賄を弾劾し、抜擢されて吏部員外郎を拝命した。蕭至忠は決断に優れ、当時は名声があった。中宗の神龍年間(707-710)初頭、御史中丞となった。それより以前、蕭至忠は御史となった時、李承嘉が御史大夫となり、かつて諸御史に謙譲して、「弾劾の事で大夫に報告しないというのは、あってよいことだろうか」と言ったが、皆あえて答えなかった。ただ蕭至忠だけが「故事では御史台に長官はいませんでした。御史は、天子の耳や目であって、御史の奏上は独断で行うべきで、もし御史大夫の許可を得てから論ずるようなことがあれば、御史大夫を弾劾するものは、また誰に申せばよいのでしょうか」と言い、李承嘉は恥じ入った。ここに到って、李承嘉は戸部尚書となると、蕭至忠は祝欽明・竇希玠と李承嘉らの罪を弾劾したから、多くの官僚は震撼した。吏部侍郎に遷ったが、なおも御史中丞を兼任した。 節愍太子が兵をあげて武三思を誅殺したが敗れると、宗楚客らは侍御史の冉祖雍に非常事態を告発させ、相王(睿宗)と太子が謀反を企てたと申し上げた。帝は審理させようとしたが、蕭至忠は泣いて「かつて、天后(武后)は相王を太子にしようとしましたが、相王は毎日食事をとらず、ただ陛下を迎えることを願いました。その謙譲さは天下で知らない者はおりません。陛下は貴くなられて天子におなりあそばされましたが、ただ一人の弟を容れられず、人からの無実の罪を受け入れるのでしょうか。密かに思いますに陛下のために受け入れてはなりません」と言い、帝はその言葉を受け入れて中止した。ついで中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)を授けられた。上疏して時政を述べた。 「すぐれた統治を求める最良の道は、賢者を用いるのが一番です。おろそかにも才能ではない者があった場合、官職はむなしいものとなり、官職がむなしければただちに廃止され、廃止されれば人は残り、歴代の王朝が衰微する原因というのはこれなのです。今、職を授けて人を用いるのに、多くは貴人要人であることによって粉飾しており、上も下も互いにその御蔭を被って、おろそかにも官職に任命されるのです。官爵というのは公器です。恩倖は私的な恵みです。王者は金帛で富ませ、穀物や肉を食わせて、これによって私の恵みとすべきなのです。もし公器を私に用いるのでしたら、つまりは公の義は行われず人を労して人心を離反させ、私に開けっぴろげに面会しては正しい言葉を塞ぐのです。日に日に縮み、月々削られ、ついには疲弊凋落させられるのです。 今、宰相の位に列する者はすでに多く、余剰の人員もまたかつての倍となっています。陛下は数えきれないほどの恩恵を降されていますが、近親に無限ともいえる願いがあるので、閣僚の内、朱紫の衣の者が充満し、官位はますます軽くなり、恩賞はますます多くなるのです。才能がある者は用いられず、用いられる者は才能がなく、そのため人は力を発揮できず、官にある者は不適当なものがいるので、すぐれた統治を求めようとしても最初から困難なのです。 また宰相や要職の子弟は、多くは美爵に封ぜられていますが、才芸をあわせもっている者はまれであるのに、互いに任用しているのです。詩に「自分の家来たちを、多くの官僚に取り立てる。ある者はその酒に飽き、ある者は飲料も得ず、ある者は玉の佩びものを垂らし、ある者はその長きを佩びず」とありますが、これは王の政治が公平ではなく官が多く職が虚しいものとなり、私の家の子が高位に列し、いたずらに玉の佩びものを長くしているのをいっているだけなのです。臣が願うところは陛下、爵位や褒賞を大事に惜しまれ、官を無意味に授けられることなく、徳が高く才能がある人を進めて政権の近くにおらせ、小人を退けて閑職か左遷とし、政令に集中させて、私に公を害させなければ、それは天下の幸甚なのです。また貞観の故事によって、宰相の子弟の多くを外職におらせますが、直ちに勢家を抑えるわけではなく、またこれによって賢才を選ぶだけなのです。願うところは、宰相から諸司の長官に及ぶまでの子弟に、一斉に外官を授け、共に百姓を安んじ、表裏が互いに一統となることなのです。」 帝は受け入れなかった。にわかに侍中、中書令となった。当時、宗楚客は奸人を懐かせて党派をくみ、韋巨源・楊再思・李嶠は自分たちの平和維持につとめ、輔弼して正しくすることがなかったから、蕭至忠はその間をとりもち、一人是非を顧みずみだりに人の意に従うようなことはしなかったから、当時の人々の信望をあつめた。帝は「宰相の中では、蕭至忠が一番私を心配してくれる」と言っていた。韋后はかつてその弟の韋洵のために蕭至忠の夭折した娘と冥婚させた。蕭至忠はまた娘を韋后の舅の崔従礼の子の崔無詖の妻とした。両家は合同で婚礼を行い、帝は蕭氏の婚主(保証人)となり、韋后は崔氏の婚主となったから、当時の人は「天子は娘を嫁がせ、皇后は婦を娶る」と言ったという。 唐隆元年(710)、韋后の党派は罪に応じて連座し、太平公主の発言によって、京師から出されて晋州刺史となるも、優れた統治によって名声を得た。黙啜が大臣を派遣して来朝すると、蕭至忠の風采を見て、尻込みして恐れ俯き、人に向かって「これは天子の宰相となるべき人だ。どうして外官となっているのか」と言った。太平公主に次第に重んじられ、蕭至忠はそこで自ら付き従って、また帰還を願った。公主は蕭至忠の子が千牛に任じられて韋氏の難で死んだから、恨みの思いが動かしやすく、よく自身の助けになるだろうとみて、帝に要請した。刑部尚書を拝命し、再び中書令となり、酇国公に封ぜられ、そこで公主の逆謀に参じた。先天二年(713)、公主が失脚すると、蕭至忠は逃れて南山に入った。数日して捕えられて誅殺され、その家財は収公された。 蕭至忠は朝廷にあっては、風望があり、容貌は心も実務を精通して落ち着いており、見る者は推薦して名臣であるとした。外にあっては実直であり、不法を糾弾して、家の内を守ることなく、時の軽重を見て去就を決めた。始めて御史となると、桓彦範らからは非常に重んじて引き立てられた。五王(崔玄暐・張柬之・敬暉・桓彦範・袁恕己)が失脚すると、さらに武三思にたよって御史中丞となり、安楽公主に付き従って宰相となった。韋氏が失脚すると、ただちに韋洵の墓をあばき、娘の柩を持ち帰った。後に太平公主によって再び宰相となった。かつて公主の邸宅から出てくると、宋璟とばったり会い、宋璟はふざけて「蕭傅(もりやく)の望むところではありませんな」と言うと、蕭至忠は、「宋先生の発言はよろしいですな」と言ったが、自ら返答することができなかった。妹の夫に蒋欽緒がいて、蒋欽緒は事あるごとに諌めていたが、蕭至忠は聞かなかった。嘆いて、「九世もの宰相の一族は、一挙に滅ぶだろう。悲しいことではないか」と言った。賓客と接することを喜ばず、倹約して自らを高め、そのため普段の下賜品は、施したりすることがなかったから、家財が没収されると、珍宝は数え切れないほどであった。しかし玄宗は人となりを賢人であるとし、後に源乾曜を得て、しばらく任用しており、高力士に向かって、「お前は私が突然どうして源乾曜を任用したか知ってるか。私は彼の容貌が蕭至忠に似ているから選んだのだ」と言った。高力士は、「彼はかつて陛下を失脚させようとしませんでしたか」と言うと、帝は「蕭至忠は本当に国家の人材であり、ただ晩年に誤っただけなのだ。その始めは賢人とはいえないのか」と言ったという。 弟の蕭元嘉は、工部侍郎であった。蕭広微は工部員外郎であった。 盧蔵用は、字は子潜で、幽州范陽県の人である。父の盧璥は、魏州長史で、才吏と号した。盧蔵用は文章をよくし、進士に推挙されたが、選ばれることがなかった。兄の盧徴明とともに終南山・少室山の二山に隠遁し、練気を学び、穀物を避け、衡山・廬山に登り、岷山・峨山をさまよい遊んだ。陳子昂・趙貞固とは友人で親しかった。 長安年間(701-705)、召されて左拾遺を授けられた。武后は興泰宮を万安山に造営し、盧蔵用は上疏して諌めた。「陛下には離宮や別観がもとより多くあり、また人力をついやして土木に当たらせており、臣が恐れるところは、議論する者が陛下を人民を愛さずに己に奉仕させているとすることです。また最近、穀物は豊作であるとはいえ、百姓には蓄えるところではありません。陛下が巡幸をなされると、人民は休息できず、土木事業は年月を休ませることはありません。このようなときに徳を施して教化を広めず、また宮殿・苑地を拡大することは、臣は下々の者が耐えられないのを恐れるのです。今左右の近臣は、諂うのを忠義としており、逆らって患いとなり、陛下に百姓が業を失っていることを知らないようにさせるようになっており、百姓もまた、左右の者が陛下の仁を傷づけていることを知らないのです。忠臣は誅殺や天子の怒りを避けず君主に仁を納めるものであり、明主は厳しい諌めを憎まず名を後世に残すのものです。陛下はまことにすぐれた制を発せられ、人を労するのにお言葉をなされれば、天下は必ず人の力を愛され自身を苦しめるとみなすでしょう。そうでなければ、臣のこの文章を下して、政務にあたる者に与えて共議されますよう。」武后は従わなかった。 姚元崇が霊武道に持節すると、奏上して管記となった。戻って県令の推挙に応じて甲科で合格し、済陽県の令となった。神龍年間(707-710)、累進して中書舎人に選ばれ、しばしば偽官を糾弾した。吏部、黄門侍郎、修文館学士を歴任した。親類に連座して、工部侍郎に降格させられた。尚書右丞に昇進した。太平公主に従い、公主が誅殺されると、玄宗は盧蔵用を捕えて斬ろうとしたが、振り返ってみるとまだ宰相でなかったから、理解して、そこで新州に流した。ある者が謀反であると告げたが、審理してみると事実ではなかったから、驩州に流した。当時交趾が叛き、盧蔵用は勇敢で防衛に功績があったから、昭州司戸参軍に改められ、黔州長史、判都督事に遷り、始興県で卒した。 盧蔵用は蓍亀・九宮術といった占いをよくし、草書・隸書、大小の篆書、八分体をよくし、琴・碁をよくし、思想は精緻かつ深淵であったから、士はその多芸ぶりを貴んだ。かつて巷では陰陽にしたがって恐怖におとしいれ、道理にそむき、変通にまみれ、国にあっては広まることはよくないことであった。そこで次のように述べた。「天道は人に従う者である。古に政治を行う者は、刑罰をみだりに行わなければ人の寿命は長く、納税が少なければ人は豊かになり、法令が常用されれば国は安定し、賞罰が適切であれば兵は強かった。礼は士の帰属するところであり、賞は士が死にあたることころであり、礼や賞は倦まずに行えば、士は先を争うのである。そうでなければ、時をはかって罰をおこない、日を選んで命令したところで、成功しないのである。そのため賢人を任用してその能力を使えば、しばらくもしないうちに利となるのである。法令が明らかであれば、卜筮によらなくても吉である。労を養って功を貴ぶなら、祠に祈らなくても福である」そこで『析滞論』を著してその方策を開陳し、世間は「知言」と言った。陳子昂・趙貞固が前に死ぬと、盧蔵用はその孤児を養って恩があり、人々は終始の交わりをよくしたと称えた。始め山中に隠れた時、思いは世の中にあったたから、人々は注目して「随駕隠士」と呼んだ。晩年、利権にしたがい、つとめては驕慢放縦となり、もとの節は尽き果ててしまった。司馬承禎がかつて召されて宮中にいたり、山に帰ろうとすると、盧蔵用は終南山を指さして「この中に大いによきところがある」と言うと、司馬承禎はおもむろに「僕がみたところ、仕官の近道であるだけです」と言ったから、盧蔵用は恥じ入った。子はなかった。 弟の盧若虚は、多才で物に詳しかった。隴西の辛怡諌が職方であったとき、変わった鼠を捕らえて、豹の首で虎の胸であったが、大きさは拳大くらいであった。辛怡諌はこれを鼮鼠であるといって献上した。盧若虚は、「違う。これは許慎が述べるところの鼨鼠というのは、豹の文様で形は小さい」と述べたから、一同驚き敬服した。起居郎、集賢院学士で終わった。 韋巨源は、韋安石と同系で、後周の京兆尹の韋総の曾孫である。祖の韋貞伯は、鄖国公を襲封し、隋に入ると、舒国公に改封された。韋巨源は官吏としての才能があり、武后の時に累進して夏官侍郎、同鳳閣鸞台平章事(宰相)に遷った。その治世は些末で大礼がなく、校省中の間違いを訂正し、符を下して注意深くあきらかにせず、その利を収めたが、部下の恨みを買った。李昭徳の罪に連座し、鄜州刺史に貶された。累進して地官尚書を拝命した。 神龍年間(707-710)初頭、吏部尚書を以て同中書門下三品となる。当時、朝廷の要職が不足しており、宰相は登用するのにその親類を用いており、韋巨源は筆を持って、十人を任命しようとし、そのうちの一人に楊再思はなることができ、残りの採用者を聞いてみると、全員が宰相の近親者であった。楊再思は嘆息して「我らは本当に天下を背負っているのだな」と言ったが、韋巨源は、「最初からそうなる予定なだけだ」と言った。この当時、賢人で有徳の者であっても、終に昇進することはできず、士大夫の人心は離れていった。たまたま韋安石が中書令となると、近親であることを避けて宰相を罷免された。 ついで侍中、舒国公に遷った。韋后とは親類上では兄弟の間がらであったから、属籍に付された。武三思の封戸が貝州にあり、たまたま洪水となり、刺史の宋璟がその租を免除することを議題にあげたが、韋巨源は蚕の桑を納付すべきとしたから、ここにいたって河朔の人の多くは流人となってしまった。景龍二年(708)、韋后は自ら衣装箪笥に五色の雲があると言い、韋巨源はその嘘を真実のように言い立てて、中宗に天下に宣撫するよう勧め、ここに大赦となった。韋巨源は帝が暗愚であるのを見て、そこで宗楚客・鄭愔・趙延禧らとともに祥妖を推し進め、密かに韋氏が武后の故事を行うよう導いた。にわかに尚書左僕射に遷り、宰相となった。帝が南郊に祀りすると、韋巨源は韋后を亜献とするよう願い出て、自ら終献とした。臨淄王(後の玄宗)が韋氏を平定すると、家人は難を避けるよう願ったが、韋巨源は「私は大臣だ。難を見て赴かないなんてことはできない」と言い、都街に出て、乱兵に殺害された。年八十歳であった。 睿宗が即位すると、特進、荊州大都督を追贈された。博士李処直は諡を「昭」とするよう奏請したが、戸部員外郎の李邕は、韋巨源は武三思に付き従って宰相となり、韋后に託して親属となったのであるから、諡を「昭」とするのは非であるとした。李処直は改めず、李邕はその悪を並べ立てたたが用いられなかったものの、しかし世間の大半は李邕があたっているとした。韋氏は韋安石から武后の時の宰相の韋待価・韋巨源まで全員近親で、その一族で大官となった者は、また数十人を数えた。 趙彦昭は、字は奐然で、甘州張掖県の人である。父の趙武孟は、若い頃に遊猟し、捕らえた獲物をその母に贈ったが、母は泣いて「お前は書を好まず放蕩しているが、私を安心させてくれないのか」と言い、食べなかった。趙武孟は感激し、遂に学問に努め、書物に該博となった。長安県の丞から右台侍御史となり、『河西人物志』十篇を著した。 趙彦昭は若い頃から豪邁で、風貌は優れていた。進士に及第すると、南部県の尉に任命された。郭元振・薛稷・蕭至忠と親しかった。新豊県の丞から左台監察御史となった。景龍年間(707-710)、累進して中書侍郎、同中書門下平章事(宰相)となった。金城公主が吐蕃に降嫁し、始めは紀処訥が使者となる予定であったが、紀処訥が辞退したから、そこで趙彦昭が任命された。趙彦昭は自分が領外に出て場合を考え、権力や恩寵が奪われたり移ってしまうことを恐れ、喜ばなかった。司農卿の趙履温は「公は天下の宰相ですが、一介の使者になるなんて、なんといやしいことでしょうか」と言い、趙彦昭はいかなる謀を出せばよいか尋ね、趙履温はそこで趙彦昭のために安楽公主に願い出て留めてもらい、遂に将軍の楊矩が代わりとなった。睿宗が即位すると、京師から出されて宋州刺史となり、罪に連座して帰州に貶された。にわかに涼州都督を授けられ、政務は厳格に行い、部下は全員戦慄した。京師に入って吏部侍郎、持節按辺となった。御史大夫に遷った。蕭至忠らが誅殺されると、郭元振・張説がともに趙彦昭が謀反の企みをしていたと奏進し、刑部尚書に改められ、耿国公に封ぜられ、実封百戸となった。 趙彦昭はもともと権力の厚遇によって昇進していたから、中宗の時、巫女の趙挟が鬼道によって宮中を出入りすると、趙彦昭は様々な事柄によって仕えた。かつて婦人の衣服を着て、車に乗って妻とともに謁し、宰相の地位を得たのは、巫女の力であった。ここに殿中侍御史の郭震が旧悪を暴いて弾劾した。たまたま姚崇が宰相となると、その人となりを憎んで、江州別駕に貶され、卒した。 和逢尭は、岐州岐山県の人である。武后の時、鼎を背負って宮中に詣でて上書し、自ら天子を助けて百度煮込むことを願うと申し上げた。役人は咎めて「昔、桀は不道であったとき、伊尹は鼎を湯のために担った。今天子は聖明で、百官は和しているが、なおどこに任命されようというのか」と言ったが、和逢尭は答えられず、荘州に流された。十年あまりして、進士に推挙されて優秀な成績で合格し、累進して監察御史に抜擢された。 突厥の黙啜が公主を娶りたいとして、和逢尭は御史中丞によって鴻臚卿を摂領することとなり、裁可された。黙啜は一族の頡利を派遣してきて「詔に螺鈿金具の鞍を送るとあったが、実際には金を塗っていただけであった。これは天子の意ではなかろう。使者は信じられない。公主を得たとあっても、真実ではないかのようである。和親するのをやめさせていただきたい」と言い、急いで去ろうとしたから、左右は動揺し、和逢尭を呼んで「私は大国の使者で、私の言葉を受けなければ、ただちに去りなさい」と言い、そこでその人を引き連れて「漢の法では女婿を重んじて鞍具を送るのは、安らかかつ久しいことを願うのであり、金を貴んでいるわけではないのである。可汗は金を貪って信を尊ばないのか」と述べた。黙啜は聞いて「漢の使が我が国にやってきたのは多かったが、このように鉄石を食うような人は変えてはならない」と言い、そこで礼を備えて引見した。和逢尭は「天子は昔、単于都護となったのは、可汗と旧好を通じたいと思うからで、可汗が風になびいて義を慕いたいというのなら、冠冕をつけ、取って諸蕃を重んじるべきでしょう」と説き、黙啜はこれを信じ、髪をおさめて紫衣を着て、南面して再拝して臣と称し、子を派遣して入朝させた。和逢尭は使者として有能であるとされ、戸部侍郎に抜擢された。太平公主と親しかったのに連座して、朗州司馬に貶され、柘州刺史で終わった。和逢尭は諧謔的で不思議な人物であったが、大事にあたってはあえて福を求め、そのため権勢に頼ったために失脚した。しかし唐では使者としての和逢尭を称えたのである。 賛にいわく。なんと奇怪なことであろう、玄宗が蕭至忠を器としたことは、また惑されなかったといえようか。蕭至忠は最初から賢人なんかではなく、賢人側に寄せて利をむさぼり、これを失えば利を迎えて賢人を失い、韋后の一族と婚姻を結び、太平公主の寵をはさみ、宰相の地位をとり、謀略を王室の間に行い、身は誅されて家は滅び、悪名を伝えること後世まで永遠となったのである。しかし帝は源乾曜がこれに似ているとして、突然宰相にさせたのは、これは蕭至忠を用いてはならないことを知らないことの一例をあげたものであり、また源乾曜を用いるべき要処を知らないことでもある。ある者が帝が罪によって才能を覆い隠してしまわないことを称えたが、ますます驚嘆すべきことである。ああ、高力士は本当に腐り果てた凡人であって、天子の道理のわからなさを指摘することができず、もし、「蕭至忠は初め賢人であったなら、最初から末期を誤らなかったでしょう。すでに末期を誤っているのですから、はたして初めから賢人ではなかったのです。以上のことから陛下はこれによって考えてください」と、このように言っていたのなら、帝もまた過失を悟って見る目も正確になったのである。その後李林甫を宰相としたり、安禄山を将軍としたりしたのは、すべて帝の不明が基になっており、身を田舎の山々をさまよい歩くことになったのは、信じて自ら彼らを採用したことにあるのではなかろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百二十二 列伝第四十七 『新唐書』巻一百二十三 列伝第四十八 巻一百二十四 列伝第四十九
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資治通鑑巻第十六 漢紀八 孝景皇帝下 前三年(丁亥,前一五四) 1冬,十月,梁王來朝。時上未置太子,與梁王宴飲,從容言曰:「千秋萬歳後傳於王。」王辭謝,雖知非至言,然心内喜,太后亦然。詹事竇嬰引卮酒進上曰:「天下者,高祖之天下,父子相傳,漢之約也,上何以得傳梁王!」太后由此憎嬰。嬰因病免;太后除嬰門籍,不得朝請。梁王以此益驕。 1. 2春,正月,乙巳,赦。 2. 3長星出西方。 3. 4洛陽東宮災。 4. 5初,孝文時,呉太子入見,得侍皇太子飲、博。呉太子博爭道,不恭;皇太子引博局提呉太子,殺之。遣其喪歸葬,至呉,呉王慍曰:「天下同宗,死長安即葬長安,何必來葬爲!」復遣喪之長安葬。呉王由此稍失藩臣之禮,稱疾不朝。京師知其以子故,繋治、驗問呉使者;呉王恐,始有反謀。後使人爲秋請,文帝復問之,使者對曰:「王實不病;漢繋治使者數輩,呉王恐,以故遂稱病。夫察見淵中魚不祥,唯上棄前過,與之更始。」於是文帝乃赦呉使者,歸之,而賜呉王幾杖,老,不朝。呉得釋其罪,謀亦益解。然其居國,以銅、鹽故,百姓無賦;卒踐更,輒予平賈;歳時存問茂材,賞賜閭里;他郡國吏欲來捕亡人者,公共禁弗予。如此者四十餘年。 晁錯數上書言呉過,可削;文帝寬,不忍罰,以此呉日益橫。及帝即位,錯説上曰:「昔高帝初定天下,昆弟少,諸子弱,大封同姓,齊七十餘城,楚四十餘城,呉五十餘城;封三庶孽,分天下半。今呉王前有太子之郤,詐稱病不朝,於古法當誅。文帝弗忍,因賜幾杖,德至厚,當改過自新,反益驕溢,即山鑄錢,煮海水爲鹽,誘天下亡人謀作亂。今削之亦反,不削亦反。削之,其反亟,禍小;不削,反遲,禍大。」上令公卿、列侯、宗室雜議,莫敢難;獨竇嬰爭之,由此與錯有郤。及楚王戊來朝,錯因言:「戊往年爲薄太后服,私姦服舍,請誅之。」詔赦,削東海郡。及前年,趙王有罪,削其常山郡;膠西王卬以賣爵事有姦,削其六縣。 廷臣方議削呉。呉王恐削地無已,因發謀舉事。念諸侯無足與計者,聞膠西王勇,好兵,諸侯皆畏憚之,於是使中大夫應高口説膠西王曰:「今者主上任用邪臣,聽信讒賊,侵削諸侯,誅罰良重,日以益甚。語有之曰:『□糠及米。』呉與膠西,知名諸侯也,一時見察,不得安肆矣。呉王身有内疾,不能朝請二十餘年,常患見疑,無以自白,脅肩累足,猶懼不見釋。竊聞大王以爵事有過。所聞諸侯削地,罪不至此;此恐不止削地而已。」王曰:「有之。子將奈何?」高曰:「呉王自以與大王同憂,願因時循理,棄軀以除患於天下,意亦可乎?」膠西王瞿然駭曰:「寡人何敢如是!王上雖急,固有死耳,安得不事!」高曰:「御史大夫晁錯,營惑天子,侵奪諸侯,朝廷疾怨,諸侯皆有背叛之意,人事極矣。彗星出,蝗蟲起,此萬世一時;而愁勞,聖人所以起也。呉王内以晁錯爲誅,外從大王后車,方洋天下,所向者降,所指者下,莫敢不服。大王誠幸而許之一言,則呉王率楚王略函谷關,守滎陽、敖倉之粟,距漢兵,治次舍,須大王。大王幸而臨之,則天下可並,兩主分割,不亦可乎!」王曰:「善!」歸,報呉王,呉王猶恐其不果,乃身自爲使者,至膠西面約之。膠西羣臣或聞王謀,諫曰:「諸侯地不能當漢十二,爲叛逆以憂太后,非計也。今承一帝,尚雲不易;假令事成,兩主分爭,患乃益生。」王不聽,遂發使約齊、菑川、膠東、濟南,皆許諾。 初,楚元王好書,與魯申公、穆生、白生倶受詩於浮丘伯;及王楚,以三人爲中大夫。穆生不耆酒;元王毎置酒,常爲穆生設醴。及子夷王、孫王戊即位,常設,後乃忘設焉。穆生退,曰:「可以逝矣!醴酒不設,王之意怠;不去,楚人將鉗我於市。」遂稱疾臥。申公、白生強起之,曰:「獨不念先王之德與!今王一旦失小禮,何足至此!」穆生曰:「易稱:『知幾其神乎!幾者,動之微,吉兇之先見者也。君子見幾而作,不俟終日。』先王之所以禮吾三人者,爲道存也。今而忽之,是忘道也。忘道之人,胡可與久處,豈爲區區之禮哉!」遂謝病去。申公、白生獨留。王戊稍淫暴,太傅韋孟作詩諷諫,不聽,亦去,居於鄒。戊因坐削地事,遂與呉通謀。申公、白生諫戊,戊胥靡之,衣之赭衣,使雅舂於市。休侯富使人諫王。王曰:「季父不吾與,我起,先取季父矣!」休侯懼,乃與母太夫人奔京師。 及削呉會稽、豫章郡書至,呉王遂先起兵,誅漢吏二千石以下;膠西、膠東、菑川、濟南、楚、趙亦皆反。楚相張尚、太傅趙夷吾諫王戊,戊殺尚、夷吾。趙相建德、内史王悍諫王遂,遂燒殺建德、悍。齊王后悔,背約城守。濟北王城壞未完,其郎中令劫守,王不得發兵。膠西王、膠東王爲渠率,與菑川、濟南共攻齊,圍臨菑。趙王遂發兵住其西界,欲待呉、楚倶進,北使匈奴與連兵。 呉王悉其士卒,下令國中曰:「寡人年六十二,身自將;少子年十四,亦爲士卒先。諸年上與寡人同,下與少子等,皆發。」凡二十餘萬人。南使閩、東越,閩、東越亦發兵從。呉王起兵於廣陵,西渉淮,因並楚兵,發使遺諸侯書,罪状晁錯,欲合兵誅之。呉、楚共攻梁,破棘壁,殺數萬人;乘勝而前,鋭甚。梁孝王遣將軍撃之,又敗梁兩軍,士卒皆還走。梁王城守睢陽。 初,文帝且崩,戒太子曰:「即有緩急,周亞夫眞可任將兵。」及七國反書聞,上乃拜中尉周亞夫爲太尉,將三十六將軍往撃呉、楚,遣曲周侯酈寄撃趙,將軍欒布撃齊;復召竇嬰,拜爲大將軍,使屯滎陽監齊、趙兵。 初,晁錯所更令三十章,諸侯讙嘩。錯父聞之,從穎川來,謂錯曰:「上初即位,公爲政用事,侵削諸侯,疏人骨肉,口語多怨,公何爲也?」錯曰:「固也。不如此,天子不尊,宗廟不安。」父曰:「劉氏安矣而晁氏危,吾去公歸矣!」遂飲藥死,曰:「吾不忍見禍逮身!」後十餘日,呉、楚七國倶反,以誅錯爲名。 上與錯議出軍事,錯欲令上自將兵而身居守;又言:「徐、僮之旁呉所未下者,可以予呉。」錯素與呉相袁盎不善,錯所居坐,盎輒避;盎所居坐,錯亦避;兩人未嘗同堂語。及錯爲御史大夫,使吏按盎受呉王財物,抵罪;詔赦以爲庶人。呉、楚反,錯謂丞、史曰:「袁盎多受呉王金錢,專爲蔽匿,言不反;今果反,欲請治盎,宜知其計謀。」丞、史曰:「事未發,治之有絶;今兵西向,治之何益!且盎不宜有謀。」錯猶與未決。人有告盎,盎恐,夜見竇嬰,爲言呉所以反,願至前,口對状。嬰入言,上乃召盎。盎入見,上方與錯調兵食。上問盎:「今呉、楚反,於公意何如?」對曰:「不足憂也!」上曰:「呉王即山鑄錢,煮海爲鹽,誘天豪傑;白頭舉事、此其計不百全,豈發乎!何以言其無能爲也?」對曰:「呉銅鹽之利則有之,安得豪傑而誘之!誠令呉得豪傑,亦且輔而爲誼,不反矣。呉所誘皆亡賴子弟、亡命、鑄錢姦人,故相誘以亂」錯曰:「盎策之善。」上曰:「計安出?」盎對曰:「願屏左右。」上屏人,獨錯在。盎曰:「臣所言,人臣不得知。」乃屏錯。錯趨避東廂,甚恨。上卒問盎,對曰:「呉、楚相遺書,言高皇帝王子弟各有分地,今賊臣晁錯擅適諸侯,削奪之地,以故反,欲西共誅錯,復故地而罷。方今計獨有斬錯,發使赦呉、楚七國,復其故地,則兵可毋血刃而倶罷。」於是上默然良久,曰:「顧誠何如?吾不愛一人以謝天下。」盎曰:「愚計出此,唯上孰計之!」乃拜盎爲太常,密裝治行。後十餘日,上令丞相靑、中尉嘉、廷尉歐劾奏錯:「不稱主上德信,欲疏羣臣、百姓,又欲以城邑予呉,無臣子禮,大逆無道。錯當要斬,父母、妻子、同産無少長皆棄市。」制曰:「可。」錯殊不知。壬子,上使中尉召錯,紿載行市,錯衣朝衣斬東市。上乃使袁盎與呉王弟子宗正德侯通使呉。 謁者僕射鄧公爲校尉,上書言軍事,見上,上問曰:「道軍所來,聞晁錯死,呉、楚罷不?」鄧公曰:「呉爲反數十歳矣;發怒削地,以誅錯爲名,其意不在錯也。且臣恐天下之士拑口不敢復言矣。」上曰:「何哉?」鄧公曰:「夫晁錯患諸侯強大不可制,故請削之以尊京師,萬世之利也。計畫始行,卒受大戮。内杜忠臣之口,外爲諸侯報仇,臣竊爲陛下不取也。」於是帝喟然長息曰:「公言善,吾亦恨之!」 袁盎、劉通至呉,呉、楚兵已攻梁壁矣。宗正以親故,先入見,諭呉王,令拜受詔。呉王聞袁盎來,知其欲説,笑而應曰:「我已爲東帝,尚誰拜!」不肯見盎,而留軍中,欲劫使將;盎不肯,使人圍守,且殺之。盎得間,脱亡歸報。 太尉亞夫言於上曰:「楚兵剽輕,難與爭鋒,願以梁委之,絶其食道,乃可制也。」上許之。亞夫乘六乘傳,將會兵滎陽。發至霸上,趙渉庶説亞夫曰:「呉王素富,懷輯死士久矣。此知將軍且行,必置間人於殽、澠厄狹之間;且兵事上神密,將軍何不從此右去,走藍田,出武關,抵洛陽!間不過差一二日,直入武庫,撃鳴鼓。諸侯聞之,以爲將軍從天而下也。」太尉如其計,至洛陽,喜曰:「七國反,吾乘傳至此,不自意全。今吾據滎陽,滎陽以東,無足憂者。」使吏搜殽、澠間,果得呉伏兵。乃請趙渉爲護軍。 太尉引兵東北走昌邑。呉攻梁急,梁數使使條侯求救,條侯不許。又使使訴條侯於上。上使告條侯救梁,亞夫不奉詔,堅壁不出;而使弓高侯等將輕騎兵出淮泗口,絶呉、楚兵後,塞其饟道。梁使中大夫韓安國及楚相尚弟羽爲將軍;羽力戰,安國持重,乃得頗敗呉兵。呉兵欲西,梁城守,不敢西;即走條侯軍,會下邑,欲戰。條侯堅壁不肯戰;呉糧絶卒飢,數挑戰,終不出,條侯軍中夜驚,内相攻撃,擾亂至帳下,亞夫堅臥不起,頃之,復定。呉奔壁東南陬,亞夫使備西北;已而其精兵果奔西北,不得入。呉、楚士卒多飢死叛散,乃引而去。二月,亞夫出精兵追撃,大破之。呉王濞棄其軍,與壯士數千人夜亡走;楚王戊自殺。 呉王之初發也,呉臣田祿伯爲大將軍。田祿伯曰:「兵屯聚而西,無它奇道,難以立功。臣願得五萬人,別循江、淮而上,收淮南、長沙,入武關,與大王會,此亦一奇也。」呉王太子諫曰:「王以反爲名,此兵難以借人,人亦且反王,奈何?且擅兵而別,多它利害,徒自損耳!」呉王即不許田祿伯。 呉少將桓將軍説王曰:「呉多歩兵,歩兵利險;漢多車騎,車騎利平地,願大王所過城不下,直去,疾西據洛陽武庫,食敖倉粟,阻山河之險以令諸侯,雖無入關,天下固已定矣。大王徐行留下城邑,漢軍車騎至,馳入梁、楚之郊,事敗矣。」呉王問諸老將,老將曰:「此年少,椎鋒可耳,安知大慮!」於是王不用桓將軍計。 王專並將兵。兵未度淮,諸賓客皆得爲將、校尉、候、司馬,獨周丘不用。周丘者,下邳人,亡命呉,酤酒無行;王薄之,不任。周丘乃上謁,説王曰:「臣以無能,不得待罪行間。臣非敢求有所將也,願請王一漢節,必有以報。」王乃予之。周丘得節,夜馳入下邳;下邳時聞呉反,皆城守。至傳舍,召令入戸,使從者以罪斬令,遂召昆弟所善豪吏告曰:「呉反,兵且至,屠下邳不過食頃;今先下,家室必完,能者封侯矣。」出,乃相告,下邳皆下。周丘一夜得三萬人,使人報呉王,遂將其兵北略城邑;比至陽城,兵十餘萬,破陽城中尉軍;聞呉王敗走,自度無與共成功,即引兵歸下邳,未至,疽發背死。 5. 6壬午晦,日有食之。 6. 7呉王之棄軍亡也,軍遂潰,往往稍降太尉條侯及梁軍。呉王渡淮,走丹徒,保東越,兵可萬餘人,收聚亡卒。漢使人以利啖東越,東越即紿呉王出勞軍,使人鏦殺呉王,盛其頭,馳傳以聞。呉太子駒亡走閩越。呉、楚反,凡三月,皆破滅,於是諸將乃以太尉謀爲是;然梁王由此與太尉有隙。 三王之圍臨菑也,齊王使路中大夫告於天子。天子復令路中大夫還報,告齊王堅守,「漢兵今破呉楚矣。」路中大夫至,三國兵圍臨菑數重,無從入。三國將與路中大夫盟曰:「若反言:『漢已破矣,齊趣下三國,不,且見屠。』」路中大夫既許,至城下,望見齊王曰:「漢已發兵百萬,使太尉亞夫撃破呉、楚,方引兵救齊,齊必堅守無下!」三國將誅路中大夫。齊初圍急,陰與三國通謀,約未定;會路中大夫從漢來,其大臣乃復勸王無下三國。會漢將欒布、平陽侯等兵至齊,撃破三國兵。解圍已,後圍齊初與三國有謀,將欲移兵伐齊。齊孝王懼,飲藥自殺。 膠西、膠東、菑川王各引兵歸國。膠西王徒跣、席蒿、飲水謝太后。王太子德曰:「漢兵還,臣觀之,已罷,可襲,願收王餘兵撃之!不勝而逃入海,未晩也。」王曰:「吾士卒皆已壞,不可用。」弓高侯韓頽當遺膠西王書曰:「奉詔誅不義,降者赦除其罪,復故;不降者滅之。王何處?須以從事。」王肉袒叩頭,詣漢軍壁謁曰:「臣卬奉法不謹,驚駭百姓,乃苦將軍遠道至於窮國,敢請菹醢之罪!」弓高侯執金鼓見之曰:「王苦軍事,願聞王發兵状。」王頓首膝行,對曰:「今者晁錯天子用事臣,變更高皇帝法令,侵奪諸侯地。卬等以爲不義,恐其敗亂天下,七國發兵且誅錯。今聞錯已誅,卬等謹已罷兵歸。」將軍曰:「王苟以錯爲不善,何不以聞?及未有詔、虎符,擅發兵撃義國?以此觀之,意非徒欲誅錯也。」乃出詔書,爲王讀之,曰:「王其自圖!」王曰:「如卬等死有餘罪!」遂自殺,太后、太子皆死。膠東王、菑川王、濟南王皆伏誅。 酈將軍兵至趙,趙王引兵還邯鄲城守。酈寄攻之,七月不能下。匈奴聞呉、楚敗,亦不肯入邊。欒布破齊還,並兵引水灌趙城。城壞,王遂自殺。 帝以齊首善,以迫劫有謀,非其罪也,召立齊孝王太子壽,是爲懿王。 濟北王亦欲自殺,幸全其妻子。齊人公孫玃謂濟北王曰:「臣請試爲大王明説梁王,通意天子;説而不用,死未晩也。」公孫玃遂見梁王曰:「夫濟北之地,東接強齊,南牽呉、越,北脅燕、趙。此四分五裂之國。權不足以自守,勁不足以捍寇,又非有奇怪雲以待難也;雖墜言於呉,非其正計也。郷使濟北見情實,示不從之端,則呉必先歴齊,畢濟北,招燕、趙而總之,如此,則山東之從結而無隙矣。今呉王連諸侯之兵,驅白徒之眾,西與天子急衡,濟北獨底節不下;使呉失與而無助,跬歩獨進,瓦解土崩,破敗而不救者,未必非濟北之力也。夫以區區之濟北而與諸侯爭強,是以羔犢之弱而扞虎狼之敵也。守職不橈,可謂誠一矣。功義如此,尚見疑於上,脅肩低首,累足撫衿,使有自悔不前之心,非社稷之利也。臣恐藩臣守職者疑之。臣竊料之,能歴西山,徑長樂,抵未央,攘袂而正議者,獨大王耳。上有全亡之功,下有安百姓之名,德淪於骨髓,恩加於無窮,願大王留意詳惟之。」孝王大悅,使人馳以聞;濟北王得不坐,徙封於菑川。 7. 8河間王太傅衞綰撃呉、楚有功,拜爲中尉。綰以中郎將事文帝,醇謹無它。上爲太子時,召文帝左右飲,而綰稱病不行。文帝且崩,屬上曰:「綰長者,善遇之。」故上亦寵任焉。 8. 9夏,六月,乙亥,詔:「吏民爲呉王濞等所詿誤當坐及逋逃亡軍者,皆赦之。」帝欲以呉王弟德哀侯廣之子續呉,以楚元王子禮續楚。竇太后曰:「呉王,老人也,宜爲宗室順善;今乃首率七國紛亂天下,奈何續其後!」不許呉,許立楚後。乙亥,徙淮陽王餘爲魯王;南王非爲江都王,王故呉地;立宗正禮爲楚王;立皇子端爲膠西王,勝爲中山王。 9. 四年(戊子、前一五三) 1春,復置關,用傳出入。 1. 2夏,四月,己巳,立子榮爲皇太子,徹爲膠東王。 2. 3六月,赦天下。 3. 4秋,七月,臨江王閼薨。 4. 5冬,十月,戊戌晦,日有食之。 5. 6初,呉、楚七國反,呉使者至淮南,淮南王欲發兵應之。其相曰:「王必欲應呉,臣願爲將。」王乃屬之。相已將兵,因城守,不聽王而爲漢,漢亦使曲城侯將兵救淮南,以故得完。 呉使者至廬江,廬江王不應,而往來使越。至衡山,衡山王堅守無二心。及呉、楚已破,衡山王入朝。上以爲貞信,勞苦之,曰:「南方卑濕。」徙王王於濟北以褒之。廬江王以邊越,數使使相交,徙爲衡山王,王江北。 6. 五年(己丑,前一五二) 1春,正月,作陽陵邑。夏,募民徙陽陵,賜錢二十萬。 1. 2遣公主嫁匈奴單于。 2. 3徙廣川王彭祖爲趙王。 3. 4濟北貞王勃薨。 4. 六年(庚寅、前一五一) 1冬,十二月,雷,霖雨。 1. 2初,上爲太子,薄太后以薄氏女爲妃;及即位,爲皇后,無寵。秋,九月,皇后薄氏廢。 2. 3楚文王禮薨。 3. 4初,燕王臧荼有孫女曰臧兒,嫁爲槐里王仲妻,生男信與兩女而仲死;更嫁長陵田氏,生男□分、勝。文帝時,臧兒長女爲金王孫婦,生女俗。臧兒卜筮之,曰:「兩女皆當貴。」臧兒乃奪金氏婦,金氏怒,不肯予決;内之太子宮,生男徹。徹方在身時,王夫人夢日入其懷。 及帝即位,長男榮爲太子。其母栗姫,齊人也。長公主嫖欲以女嫁太子,栗姫以後宮諸美人皆因長公主見帝,故怒而不許;長公主欲與王夫人男徹,王夫人許之。由是長公主日讒栗姫而譽王夫人男之美;帝亦自賢之,又有曩者所夢日符,計未有所定。王夫人知帝嗛栗姫,因怒未解,陰使人趣大行請立栗姫爲皇后。帝怒曰:「是而所宜言邪!」遂按誅大行。 4. 七年(辛卯、前一五〇) 1冬,十一月,己酉,廢太子榮爲臨江王。太子太傅竇嬰力爭不能得,乃謝病免。栗姫恚恨而死。 1. 2庚寅晦,日有食之。 2. 3二月,丞相陶靑免。乙巳,太尉周亞夫爲丞相。罷太尉官。 3. 4夏,四月,乙巳,立皇后王氏。 4. 5丁巳,立膠東王徹爲皇太子。 5. 6是歳,以太僕劉舍爲御史大夫,濟南太守郅都爲中尉。 始,都爲中郎將,敢直諫。嘗從入上林,賈姫如廁,野彘卒來入廁。上目都,都不行;上欲自持兵救賈姫。都伏上前曰:「亡一姫,復一姫進,天下所少,寧賈姫等乎!陛下縱自輕,奈宗廟、太后何!」上乃還,彘亦去。太后聞之,賜都金百斤,由此重都。都爲人,勇悍公廉,不發私書,問遺無所受,請謁無所聽。及爲中尉,先嚴酷,行法不避貴戚。列侯、宗室見都,側目而視,號曰「蒼鷹。」 6. 中元年(壬辰、前一四九) 1夏,四月,乙巳,赦天下。 1. 2地震。衡山原都雨雹,大者尺八寸。 2. 二年(癸巳、前一四八) 1春,二月,匈奴入燕。 1. 2三月,臨江王榮坐侵太宗廟壖垣爲宮,征詣中尉府對簿。臨江王欲得刀筆,爲書謝上,而中尉郅都禁吏不予;魏其侯使人間與臨江王。臨江王既爲書謝上,因自殺。竇太后聞之,怒,後竟以危法中都而殺之。 2. 3夏,四月,有星孛於西北。 3. 4立皇子越爲廣川王,寄爲膠東王。 4. 5秋,九月,甲戌晦,日有食之。 5. 6初,梁孝王以至親有功,得賜天子旌旗。從千乘萬騎,出蹕入警。王寵信羊勝、公孫詭,以詭爲中尉。勝、詭多奇邪計,欲使王求爲漢嗣。栗太子之廢也,太后意欲以梁王爲嗣,嘗因置酒謂帝曰:「安車大駕,用梁王爲寄。」帝跪席舉身曰:「諾。」罷酒,帝以訪諸大臣,大臣袁盎等曰:「不可。昔宋宣公不立子而立弟,以生禍亂,五世不絶。小不忍,害大義,故春秋大居正。」由是太后議格,遂不復言。王又嘗上書;「願賜容車之地,徑至長樂宮,自梁國士眾築作甬道朝太后。」袁盎等皆建以爲不可。 梁王由此怨袁盎及議臣,乃與羊勝、公孫詭謀,陰使人刺殺袁盎及他議臣十餘人。賊未得也,於是天子意梁;逐賊,果梁所爲。上遣田叔、呂委主往按梁事,捕公孫詭、羊勝;詭、勝匿王后宮,使者十餘輩至梁,責二千石急。梁相軒丘豹及内史韓安國以下舉國大索,月餘弗得。安國聞詭、勝匿王所,乃入見王而泣曰:「主辱者臣死。大王無良臣,故紛紛至此。今勝、詭不得,請辭,賜死!」王曰:「何至此!」安國泣數行下,曰:「大王自度於皇帝,孰與臨江王親?」王曰:「弗如也。」安國曰:「臨江王鱣長太子,以一言過,廢王臨江;用宮垣事,卒自殺中尉府。何者?治天下終不用私亂公。今大王列在諸侯,訹邪臣浮説,犯上禁,橈明法。天子以太后故,不忍致法於大王;太后日夜涕泣,幸大王自改,大王終不覺寤。有如太后宮車即晏駕,大王尚誰攀乎?」語未卒,王泣數行而下,謝安國曰:「吾今出勝、詭。」王乃令勝、詭皆自殺,出之。上由此怨望梁王。 梁王恐,使鄒陽入長安,見皇后兄王信説曰:「長君弟得幸於上,後宮莫及;而長君行跡多不循道理者。今袁盎事即究竟,梁王伏誅,太后無所發怒,切齒側目於貴臣,竊爲足下憂之。」長君曰:「爲之奈何?」陽曰:「長君誠能精爲上言之,得毋竟梁事;長君必固自結於太后,太后厚德長君入於骨髓,而長君之弟幸於兩宮,金城之固也。昔者舜之弟象,日以殺舜爲事,及舜立爲天子,封之於有卑。夫仁人之于兄弟,無藏怒,無宿怨,厚親愛而已。是以後世稱之。以是説天子,徼幸梁事不奏。」長君曰:「諾。」乘間入言之。帝怒稍解。 是時,太后憂梁事不食,日夜泣不止,帝亦患之。會田叔等按梁事來還,至霸昌厩,取火悉燒梁之獄辭,空手來見帝。帝曰:「梁有之乎?」叔對曰:「死罪。有之。」上曰:「其事安在?」田叔曰:「上毋以梁事爲問也。」上曰:「何也?」曰:「今梁王不伏誅,是漢法不行也;伏法而太后食不甘味,臥不安席,此憂在陛下也。」上大然之,使叔等謁太后,且曰:「梁王不知也。造爲之者,獨在幸臣羊勝、公孫詭之屬爲之耳,謹已伏誅死,梁王無恙也。」太后聞之,立起坐餐,氣平復。 梁王因上書請朝。既至關,茅蘭説王,使乘布車,從兩騎入,匿於長公主園。漢使使迎王,王已入關,車騎盡居外,不知王處。太后泣曰:「帝果殺吾子!」帝憂恐。於是梁王伏斧質於闕下謝罪。太后、帝大喜,相泣,復如故,悉召王從官入關。然帝益疏王,不與同車輦矣。帝以田叔爲賢,擢爲魯相。 6. 三年(甲午、前一四七) 1冬,十一月,罷諸侯御史大夫官。 1. 2夏,四月,地震。 2. 3旱,禁酤酒。 3. 4三月,丁巳,立皇子乘爲清河王。 4. 5秋,九月,蝗。 5. 6有星孛于西北。 6. 7戊戌晦,日有食之。 7. 8初,上廢栗太子,周亞夫固爭之,不得;上由此疏之。而梁孝王毎朝,常與太后言條侯之短。竇太后曰:「皇后兄王信可侯也。」帝讓曰:「始,南皮、章武,先帝不侯,及臣即位乃侯之;信未得封也。」竇太后曰:「人生各以時行耳。自竇長君在時,竟不得侯,死後,其子彭祖顧得侯,吾甚恨之!帝趣侯信也。」帝曰:「請得與丞相議之。上與丞相議。亞夫曰:「高皇帝約:『非劉氏不得王,非有功不得侯。』今信雖皇后兄,無功,侯之,非約也。」帝默然而止。其後匈奴王徐廬等六人降,帝欲侯之以勸後。丞相亞夫曰:「彼背主降陛下,陛下侯之,則何以責人臣不守節者乎?」帝曰:「丞相議不可用。」乃悉封徐廬等爲列侯。亞夫因謝病。九月,戊戌,亞夫免;以御史大夫桃侯劉舍爲丞相。 8. 四年(乙未、前一四六) 1夏,蝗。 1. 2冬,十月,戊午,日有食之。 2. 五年(丙申、前一四五) 1夏,立皇子舜爲常山王。 1. 2六月,丁巳,赦天下。 2. 3大水。 3. 4秋,八月,己酉,未央宮東闕災。 4. 5九月,詔:「諸獄疑,若雖文致於法,而於人心不厭者,輒讞之。」 5. 6地震。 6. 六年(丁西、前一四四) 1冬,十月,梁王來朝,上疏欲留;上弗許。王歸國,意忽忽不樂。 1. 2十一月,改諸廷尉、將作等官名。 2. 3春,二月,乙卯,上行幸雍,郊五畤。 3. 4三月,雨雪。 4. 5夏,四月,梁孝王薨。竇太后聞之,哭極哀,不食,曰:「帝果殺吾子!」帝哀懼,不知所爲;與長公主計之,乃分梁爲五國,盡立孝王男五人爲王:買爲梁王,明爲濟川王,彭離爲濟東王,定爲山陽王,不識爲濟陰王;女五人皆食湯沐邑。奏之太后,太后乃説,爲帝加一餐。孝王未死時,財以巨萬計,及死,藏府餘黄金尚四十餘萬斤。他物稱是。 5. 6上既減笞法,笞者猶不全;乃更減笞三百曰二百,笞二百曰一百。又定棰令:棰長五尺,其本大一寸,竹也;末薄半寸,皆平其節。當笞得笞臀;畢一罪,乃更人。自是笞者得全。然死刑既重而生刑又輕,民易犯之。 6. 7六月,匈奴入雁門,至武泉,入上郡,取苑馬。吏卒戰死者二千人。隴西李廣爲上郡太守,嘗從百騎出,卒遇匈奴數千騎。見廣,以爲誘騎,皆驚,上山陳。廣之百騎皆大恐,欲馳還走。廣曰:「吾去大軍數十里,今如此以百騎走,匈奴追射我立盡。今我留,匈奴必以我爲大軍之誘,必不敢撃我。」廣令諸騎曰:「前!」未到匈奴陣二里所,止,令曰:「皆下馬解鞍!」其騎曰:「虜多且近,即有急,奈何?」廣曰:「彼虜以我爲走;今皆解鞍以示不走,用堅其意。」於是胡騎遂不敢撃。有白馬將出,護其兵;李廣上馬,與十餘騎奔,射殺白馬將而復還,至其騎中解鞍,令士皆縱馬臥。是時會暮,胡兵終怪之,不敢撃。夜半時,胡兵亦以爲漢有伏軍於旁,欲夜取之,胡皆引兵而去。平旦,李廣乃歸其大軍。 7. 8秋,七月,辛亥晦,日有食之。 8. 9自郅都之死,長安左右宗室多暴犯法。上乃召濟南都尉南陽寧成爲中尉。其治效郅都,其廉弗如。然宗室、豪桀皆人人惴恐。 9. 10城陽共王喜薨。 10. 後元年(戊戌、前一四三) 1春,正月,詔曰:「獄,重事也。人有智愚,官有上下。獄疑者讞有司;有司所不能決,移廷尉;讞而後不當,讞後不爲失。欲令治獄者務先寬。」 1. 2三月,赦天下。 2. 3夏,大酺五日,民得酤酒。 3. 4五月,丙戌,地震。上庸地震二十二日。壞城垣。 4. 5秋,七月,丙午,丞相舍免。 5. 6乙巳晦,日有食之。 6. 7八月,壬辰,以御史大夫衞綰爲丞相,衞尉南陽直不疑爲御史大夫。初,不疑爲郎,同舍有告歸,誤持其同舍郎金去。已而同舍郎覺亡,意不疑,不疑謝有之,買金償。後告歸者至而歸金,亡金郎大慚。以此稱爲長者,稍遷至中大夫。人或廷毀不疑,以爲盜嫂,不疑聞,曰:「我乃無兄。」然終不自明也。 7. 8帝居禁中,召周亞夫賜食,獨置大胾,無切肉,又不置箸。亞夫心不平,顧謂尚席取箸。上視而笑曰:「此非不足君所乎!」亞夫免冠謝上,上曰:「起。」亞夫因趨出。上目送之曰:「此鞅鞅,非少主臣也。」 居無何,亞夫子爲父買工官尚方甲楯五百被,可以葬者。取庸苦之,不與錢。庸知其盜買縣官器,怨而上變,告子,事連汚亞夫。書既聞,上下吏。吏簿責亞夫。亞夫不對。上罵之曰:「吾不用也!」召詣廷尉。廷尉責問曰:「君侯欲反何?」亞夫曰:「臣所買器,乃葬器也,何謂反乎?」吏曰:「君縱不欲反地上,即欲反地下耳!」吏侵之益急。初,吏捕亞夫,亞夫欲自殺,其夫人止之,以故不得死,遂入廷尉,因不食五日,歐血而死。 8. 9是歳,濟陰哀王不識薨。 9. 二年(己亥、前一四二) 1春,正月,地一日三動。 1. 2三月,匈奴入鴈門,太守馮敬與戰,死。發車騎、材官屯鴈門。 2. 3春,以歳不登,禁内郡食馬粟;沒入之。 3. 4夏,四月,詔曰:「雕文刻鏤,傷農事者也;錦繡纂組,害女工者也。農事傷則飢之本,女工害則寒之原也。夫飢寒並至而能亡爲非者寡矣。朕親耕,後親桑,以奉宗廟粢盛、祭服,爲天下先;不受獻,減太官,省繇賦,欲天下務農蠶,素有蓄積,以備災害。強毋攘弱,衆毋暴寡;老耆以壽終,幼孤得遂長。今歳或不登,民食頗寡,其咎安在?或詐偽爲吏,以貨賂爲市,漁奪百姓,侵牟萬民。縣丞,長吏也;姦法與盜盜,甚無謂也!其令二千石各修其職;不事官職、耗亂者,丞相以聞,請其罪。佈告天下,使明知朕意。」 4. 5五月,詔貲算四得官。 5. 6秋,大旱。 6. 三年(庚子、前一四一) 1冬,十月,日月皆食,赤五日。 1. 2十二月晦,雷;日如紫;五星逆行守大微;月貫天廷中。 2. 3春,正月,詔曰:「農,天下之本也。黄金、珠、玉,飢不可食,寒不可衣,以爲幣用,不識其終始。間歳或不登,意爲末者眾,農民寡也。其令郡國務勸農桑,益種樹,可得衣食物。吏發民若取庸采黄金、珠、玉者,坐贓爲盜。二千石聽者,與同罪。」 3. 4甲寅,皇太子冠。 4. 5甲子,帝崩于未央宮。太子即皇帝位,年十六。尊皇太后爲太皇太后,皇后爲皇太后。 5. 6二月,癸酉,葬孝景皇帝于陽陵。 6. 7三月,封皇太后同母弟田□分爲武安侯,勝爲周陽侯。 7. 8班固贊曰:孔子稱:「斯民也,三代之所以直道而行也。」信哉!周、秦之敝,罔密文峻,而姦軌不勝,漢興,掃除煩苛,與民休息;至於孝文,加這以恭儉;孝景遵業。五六十載之間,至於移風易俗,黎民醇厚。周雲成、康,漢言文、景,美矣! 8. 9漢興,接秦之弊,作業劇而財匱,自天子不能具鈞駟,而將相或乘牛車,齊民無藏蓋。天下已平,高祖乃令賈人不得衣絲、乘車,重租税以困辱之。孝惠、高後時,爲天下初定,復馳商賈之律;然市井之子孫,亦不得仕宦爲吏。量吏祿,度官用,以賦於民。而山川、園池、市井租税之入,自天子以至於封君湯沐邑,皆各爲私奉養焉,不領於天下之經費。漕轉山東粟以給中都官,歳不過數十萬石。繼以孝文、孝景,清淨恭儉,安養天下,七十餘年之間,國家無事,非遇水旱之災,民則人給家足。都鄙廩庾皆滿,而府庫餘貨財;京師之錢累巨萬,貫朽而不可校;太倉之粟陳陳相因,充溢露積於外,至腐敗不可食。衆庶街巷有馬,而阡陌之間成羣,乘字牝者擯而不得聚會。守閭閻者食粱肉,爲吏者長子孫,居官者以爲姓號。故人人自愛而重犯法,先行義而後絀辱焉。當此之時,罔疏而民富,役財驕溢,或至兼併;豪黨之徒,以武斷於郷曲。宗室有土,公、卿、大夫以下,爭於奢侈,室廬、輿服僭於上,無限度。物盛而衰,固其變也。自是之後,孝武内窮侈靡,外攘夷狄,天下蕭然,財力耗矣! 9.
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唐書巻二十一 志第十一 礼楽十一 音には形がないが、楽には楽器がある。古の音楽をつくる者は、その楽器には必ず弊害があり、音の言を伝えるべきではないのを知り、その楽器が失われて音楽自体が失われてしまうのを恐れている。そこで多くが手法をつくり、これを著わしてきた。そのため始めて音を求める者は律を用い、律をつくる者は黍の粒を用いた。一粒の黍の大きさより、重ねて分・寸の単位とし、一粒の黍の面積より積んで龠・合の単位とし、一粒の黍の重さより、積んで銖・両の単位とした。これは律をつくる根本である。そのためこれを長短の法として度(長さ)を著し、多少の法として量(体積)を著わし、軽重の法として権衡(秤の重さ)を著わした。この三物は、また必ず時として弊害があり、それはまたその法を統べて数を著した。その分寸・龠合・銖両をして皆黄鍾からはじまり、その後律・度・量・衡を互いに用いて表裏一体とし、律の値を得ることができれば度・量・衡を定めることができ、度・量・衡によってまた律を定めることができる。不幸にして皆亡び、そこでその法数を推測してこれを定め、用その長短・多少・軽重を用いて互いに参考にした。四者は既に同じであって、音も必ず決定でき、音がわかった後は楽もつくることができるのだ。物というものは形あるものを用いれば必ず弊害があり、音は無形であること隠して尽きることはなく、数の法則があるから無形の音を求め、その法は詳細に存在している。音律はつくることなければそこでなくなってしまうが、ましてや音律があるのだから、聖人が千年・万年後に去ったとしても、得られないということはないのだ。古の君子は物の終始を知って、世の中を憂いて深謀遠慮し、その多くはこの法をして細々と詳しく知っていたのだから、この境地に至ったというべきなのだ。 三代(夏・殷・周)は既に滅亡し、礼楽はその根本を失ってしまった。その楽器やそれらを守る役人に至っては、また散逸してしまった。漢より以来、歴代の王朝には楽があり、作者はそれぞれその学ぶところによって、清濁高下で時代は同じではないとはいえ、法数から出ることはできない。郊廟・朝廷や朝廷で用いる理由に到っては、人と神が接する喜びがあるからであって、金石の響き、歌舞のかたちは、それぞれ功業・治乱の起きるところによって、その風俗の元とする由来なのである。 漢・魏(後漢・曹魏)が乱れ、晋が江南に遷ると、中国は遂に夷狄に没してしまった。隋が陳を滅ぼすに至って、始めてその楽器を得て、次第にこれによってつくろうとした。しかし時の君主はゆとりがなく、その事を堪えるには足りなかった。この時、鄭訳・牛弘・辛彥之・何妥・蔡子元・于普明といった者が、皆名を楽で知られ、互いに選定しあった。京房の六十律によって、これを六倍とし三百六十律とし、一年の日に当たるからで、また一律を七音とし、音は一調であり、おしなべて十二律を八十四調とし、その説は甚だ詳かであった。しかし隋の世が終わると、用いるところは黄鍾一宮(十二鐘)、五夏・二舞・登歌・房中等の十四調のみであった。 礼記に「功成りて楽を作す」とあるのは、思うに王者はまだ楽をつくらない時、必ず元の楽を用いるからであろう。唐が興ると隋の楽を用いた。武徳九年(626)、始めて詔して太常少卿祖孝孫・協律郎の竇璡らに楽を定めさせた。これより以前、隋は黄鍾一宮(十二鐘)を用いたが、ただ七鐘のみ用い、残り五鐘は設置されていたが打たなかった。これを「啞鍾」と言った。唐協律郎の張文収がそこで古制により竹を断って十二律とし、高祖は祖孝孫とともに命じて吹いて五鐘を調律させ、これを叩いて鳴らし、これによって十二鐘はすべて用いることできた。祖孝孫はまた十二月をもってあい旋って六十声・八十四調とした。その法は、五音によって二変を生じ、変徴によって正徴となし、変宮によって清宮とした。七音は黄鍾より南呂まで入れ替えて綱紀とした。黄鍾の律は、管の長さ九寸、中宮の土を王とした。これを半ばとして四寸五分、清宮と合わせ、五音の首とした。それだけではなく二変、循環して間はない。そのため一は宮・二は商・三は角・四は変徴・五は徴・六は羽・七は変宮で、その声は濁から清まで一均(一オクターブ)である。おしなべて十二宮調は、皆正宮である。正宮の声の下は、復濁音がなく、そのため五音は宮をもって尊とした。十二商調は、調の下の音の一つを「宮」という。十二角調は、調の下の音の二つを「宮」「商」という。十二徴調は、調の下の音三つを「宮」「商」「角」という。十二羽調は、調の下の音四つを「宮」「商」「角」「徴」という。十二変徴調は、「角」音の後、正徴の前にある。十二変宮調は、「羽」音の後、清宮の前にある。雅楽の成調は、七声から出ることはなく、本宮は互いに用いる。ただ楽章は律に従って均(オクターブ)を定め、合せるのに笙・磬を用い、節は鍾・鼓を以てする。楽がすでに完成すれば演奏する。 太宗が侍臣に、「古の聖人は心にそって音楽をつくったが、国の興衰は、必ずしもこれによるとは限らない」と言った。御史大夫の杜淹が「陳がまさに亡ぼうとしたとき、「玉樹後庭花」があり、斉がまさに滅ぼうとしているときに「伴侶曲」がつくられました。聞く者は悲しみ泣き、亡国の音の哀しさというのはこのようなものです。こうしてみると(国家の興亡は)音楽によっているのです」と言った。帝は、「そもそも音楽が感じるところは、それぞれ人によって悲しかったり楽しかったりする。亡びかけた国の政治にあっては、その民は苦しんでいるから、聞いて悲しむだけである。今「玉樹後庭花」や「伴侶の曲」がなおも残っている。公のために演奏するのは、それを着ても公が悲しまないとわかっているからだ」と述べた。尚書右丞の魏徴が進んで、「孔子はいいました。『楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや(楽だ楽だといっても、鐘や太鼓のことであろうか)』と。楽に人の和がありますが、音はありません」と言った。貞観十一年(637)、張文収は再びほか音楽も整備しようと願い出た。しかし帝(太宗)は許さず、「朕は人が和めば音楽も和むと聞いている。隋末の喪乱のときには、音律を改めたが音楽は和まなかった。もし民が安楽なら、金石の楽器も自ずと調うものであろう」と述べた。 張文収は既に楽を定めたが、再び銅律三百六十・銅斛二・銅秤二・銅甌十四・秤尺一を鋳造した。斛の左右の耳は臀とともにすべて方形で、耳だけ十個積むと、斛自体の高さに至る。古玉の尺・玉の斗と同じである。すべて太楽署に納めた。武后の時、太常卿の武延秀が奇玩であるから献上した。後に、考中宗の廟楽にしようとした時、有司が奏請してこれを出したが、秤尺がすでに失われており、その跡はまだあるかのようであった。常用の度量で換算してみると、尺は六分の五にあたり、量・衡は皆三分の一であった。粛宗の時になると、山東の人の魏延陵が律一を得て、中官の李輔国を通じて献上し、「太常寺の諸楽の調はすべて下で、黄鍾と合致しません。願わくばすべてもろもろの鍾や磬を刷新していただきたい」と言った。帝はそうだと思い、そこでことごとく太常寺の諸楽器を取って禁中に入れ、さらに研磨しておよそ二十五日で完成した。帝は三殿(麟徳殿)に出御してこれを見て、その後太常寺に還した。しかし漢律によって考えると、黄鍾は太簇であるから、当時の議論する者はそうではないとした。 その後、黄巣の乱で、楽工は逃散し、金奏もみな死んだ。昭宗が即位すると、郊廟の祭祀をしようにも、役人は楽縣の制度を知らなかった。太常博士の殷盈孫が周の古法で計算し、鎛鍾の音を合わせた。黄鍾は九寸五分、倍応鍾は三寸三分半、おしなべて四十八等であった。口や頚の大きさ、および径や横の周囲を測り、すなわち命じて鎛鍾十二・編鐘二百四十を鋳造した。宰相の張濬は修奉楽縣となり、音楽を知るものを求め、処士の蕭承訓らを得て、石磬を校合させ、打ち鳴らすと、音楽はついに符合した。 唐が建国してできた楽の制度は非常に簡便であり、高祖・太宗は隋楽と、祖孝孫・張文収が定めたものを用いただけであった。後世に変更したのは楽章舞曲であった。昭宗の時代に至って、はじめて殷盈孫を得た。そのため議論が起こることはまれであった。その楽歌廟舞が現在で用いるようなものは、このことを踏まえて考察すべきである。 宮縣(天子の奏楽の時に楽器を並べるところ)四面は、天子が用いる。祭祀では二日前に太楽令が縣を壇南内の壝(らち)の外に設け、北向きとする。東方・西方には磬の虡(きょ。鐘掛台の縦柱)を北にたて、鍾の虡がこれに次いだ。南方・北方には磬の虡を西にたて、鍾の虡がこれに次いだ。鎛鍾は十二で、十二辰の位にあった。雷鼓を北縣の内、道の左右にたて、建鼓を四隅にたてた。柷・敔を縣内に置き、柷は右に、敔は左にあった。歌鍾・歌磬を壇上に設け、南方で北向きとした。磬の虡は西にあり、鍾の虡は東にあった。琴・瑟・箏・筑はそれぞれ一で、磬の虡の次にあたり、匏・竹は下にあった。おしなべて天神の類はすべて雷鼓を用い、地祇の類はすべて霊鼓を用い、人鬼の類はすべて路鼓を用いた。これを庭に設けるのは、南にあって、登歌(堂にのぼって歌う楽師)は堂にいた。朝会では鍾・磬を十二虡加え、鼓吹の十二案を建鼓の外に置いた。案は羽葆鼓が一、大鼓が一、金錞が一、歌・簫・笳が二である。登歌は、鍾・磬がそれぞれ一虡、節鼓が一、歌者は四人で、琴・瑟・箏・筑がすべて一で、堂上にある。笙・和・簫・篪・塤はそれぞれ一あり、堂下にある。皇后が先蠶(蚕の神)を享(まつ)る時は、十二の大磬を設置し、十二辰の方位にあたる。路鼓は設けなかった。 軒縣(諸侯の奏楽の時に楽器を並べるところ)三面は皇太子が用いる。文宣王(孔子)・武成王(太公望)を釈奠するのにまた用いた。その制度は、宮縣から南面を取り去る。判縣(大夫の奏楽の時に楽器を並べるところ)二面は唐の旧礼で、風伯(風神)・雨師(雨神)・五岳(五名山。泰山・衡山・嵩山・華山・恒山)・四涜(四大河。長江・黄河・淮水・済水)をまつるのに用いた。その制度は軒縣から北面を取り去る。すべて建鼓を東北・西北の二隅にたてる。特縣(士の奏楽の時に楽器を並べるところ。一面のみ)は、判縣から西面を取り去り、または階(きざはし)に並べる。その制度はあるにはあるが用いたことはない。 おしなべて横に並べるものは簨(よこぎ)とし、立てるものは虡(きょ。鐘掛台の縦柱)とする。虡は鐘や磬を懸け、すべて十六あり、周の人はこれを一堵というが、唐の人は一虡という。隋より以前、宮縣は二十虡であった。隋が陳を平定すると、梁の故事によって三十六虡とし、遂にこれを用いた。唐の初め、隋の旧制によって三十六虡を用いた。高宗が蓬莱宮を完成させると、増やして七十二虡を用いた。武后の時に省いた。開元礼が定まると、始めて古によってあらわして二十虡とした。昭宗の時に至ると、宰相の張濬がすでに楽縣を修し、そこで言上した。旧制では、太清宮・南北の郊・社稷および諸殿廷は二十虡を用い、太廟・含元殿は三十六虡を用いた。張濬は古の制ではないとして、廟や朝廷は狭くあふれ、三十六虡を収容することができないから、そこで再び二十虡を用いた。鐘の四虡は甲・丙・庚・壬にあて、磬の四虡は乙・丁・辛・癸にあてており、開元礼とは異なっていたが、その改制が実施された時期は不明である。ある説に鐘や磬を陰陽の位に応じさせたとしたが、これは礼記・書経に著されていないものである。 おしなべて楽は八音(八種の楽器)で、漢より以来、ただ金が鍾を以て律呂(音律)を定めたから、その制度は最も詳細であったが、その他の七音は、史官が記さなかった。唐になって、ただ宮縣と登歌・鼓吹の十二案の楽器に数があり、そのほかは皆略して著さなかったが、その物の名は具さにあった。八音は、一つめを金といい、鎛鍾・編鐘・歌鍾・錞・鐃・鐲・鐸とする。二つめが石といい、大磬・編磬・歌磬とする。三つめを土といい、壎・嘂とし、嘂とは大壎をいうのである。四つめが革といい、雷鼓・霊鼓・路鼓であり、これらはすべて鼗であり、また建鼓・鼗鼓・縣鼓・節鼓・拊・相である。五つめを絲といい、琴・瑟・頌瑟であり、頌瑟は箏のことであり、また阮咸・筑である。六つめを木といい、柷・敔・雅・応である。七つめを匏といい、笙・竽・巣であり、巣とは大笙のことであり、また和であり、和は小笙のことである。八を竹といい、簫・管・篪・笛・舂牘である。これらはその楽器である。 それより以前、祖孝孫はすでに楽を定め、そこで「大楽は天地と和を同じくす(礼記楽記)」といった。十二和をつくり、法天の成和を以て「大唐雅楽」と号した。一を予和、二を順和、三を永和、四を粛和、五を雍和、六を寿和、七を太和、八を舒和、九を昭和、十を休和、十一を正和、十二を承和という。郊廟・朝廷にて用い、人と神を和した。祖孝孫が卒すると、張文収は十二和が未整備であるから、そこで役人に詔して改定し、張文収は正律呂を考え、起居郎の呂才はその声音を叶え、楽曲は遂に備わった。高宗より以後、次第にその曲名は改まった。開元礼が定まると、始めてまた祖孝孫の十二和を遵用した。以下にその礼を示すと、 一を予和といい、天神を降す。冬至に圜丘を祀るとき、正月上辛に祈穀するとき、孟夏に雩(あまごい)するとき、季秋に明堂を享(まつ)るとき、朝に日の神、夕に月の神に拝するとき、巡狩で圜丘に告するとき、封禅で燔柴告至するとき、太山に封祀するとき、上帝に類祭(不時の祭)するときは、すべて圜鍾を宮とし、三度演奏する。黄鍾を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽とし、各一度演奏する。文舞は六編成(雲門・咸池・大韶・大夏・大濩・大武)である。五郊(中郊・南郊・西郊・北郊・中郊)で設祭して気を迎え、黄帝は黄鍾を宮とし、赤帝は函鍾を徴とし、白帝は太簇を商とし、黒帝は南呂を羽とし、青帝は姑洗を角とし、すべて文舞は六編成(雲門・咸池・大韶・大夏・大濩・大武)である。 二を順和とし、これで地祇に降る。夏至に方丘を祭るとき、孟冬に神州地祇を祭るとき、春秋の社祭、巡狩の時の社廟への告、社廟の前での出陣の祭り、社首(蒿里山)での禅は、すべて函鍾を宮とし、太簇を角とし、姑洗を徴とし、南呂を羽として、それぞれ三回演奏し、文舞は八編成である。山川に望んでは蕤賓を宮とし、三回演奏する。 三を永和といい、人鬼を降す。時享(四季の祭祀)、禘・祫の祭祀や、役人をして廟に告謁させるときは、すべて黄鍾を宮とし、三回演奏し、大呂を角とし、太簇を徴とし、応鍾を羽とし、それぞれ二度演奏する。文舞を九編成とする。先農を祀り、皇太子が釈奠する場合、すべて姑洗を宮とし、文舞は三編成である。神を送るのは、それぞれその曲を一編成とする。蜡祭(年末の祭り)で天地人を兼ねる時は、黄鍾で予和を演奏し、蕤賓・姑洗・太簇で順和を演奏し、無射・夷則で永和を演奏し、六均をすべて一編成として神を降して、神を送るのは予和を用いる。 四を粛和といい、登歌(楽師が堂にのぼって歌う)して玉帛を奠(まつ)る。天神においては、大呂を宮とし、地祇においては、応鍾を宮とし、宗廟においては、圜鍾を宮とし、先農・釈奠を祀るのは、南呂を宮とし、山川に望んでは、函鍾を宮とした。 五を雍和といい、おしなべて祭祀で俎(生贄を載せる足付祭器台)を入れるときに用いる。天神の俎のときは、黄鍾を宮とし、地祇の俎のときは、太簇を宮とし、人鬼の俎のときは、無射を宮とする。また豆(高坏状の祭器)をさげる際にも用いる。おしなべて祭祀は、俎を入れた後、接神の曲もまたこのようである。 六を寿和といい、酌献(楽を設けて神に供える)・飲福(祭祀が終わった後に神に供えた酒を飲む)で用いる。黄鍾を宮とする。 七を太和といい、行節で用いる。また黄鍾を宮とする。おしなべて祭祀は、天子が門に入って即位し、その上り下りとともにし、引き返してくると、行くと作り、止まると止まった。朝廷にあって天子がまさに内より出ると黄鍾の鐘を撞き、右の五鍾に応じて演奏した。その礼が終わると、興って入ると、蕤賓の鐘を撞き、左の五鍾に応じて演奏した。すべて黄鍾を宮とした。 八を舒和といい、出入すると二舞する。皇太子・王公・群后・国老もしくは皇后の妾御・皇太子の宮臣が、門を出入すると演奏する。すべて太簇の商である。 九を昭和といい、皇帝・皇太子が酒を勧めるときに用いる。 十を休和といい、皇帝が食事の際に三老に頭を垂れて拝礼するときに用い、、皇太子が食事する時も同様である。すべてその月律(十二調を分けてそれぞれの月に配分したもの)の均とした。 十一を正和といい、皇后が冊を受けると行った。 十二を承和といい、皇太子がその宮にあって、行動するときに行った。もし駕が出れば、黄鐘を撞き太和を演奏した。太極門を出ると采茨を演奏し、嘉徳門に至ると演奏を止めた。還ってきたときも同様である。 それより以前、隋に文舞・武舞があったが、祖孝孫が楽を定めると、さらに文舞を「治康」といい、武舞を「凱安」といい、舞者はそれぞれ六十四人であった。文舞は、左は籥で右は翟で、纛(はた)を持つ者とともに引者二人、すべて委貌冠、黒色の木綿、絳領(あかえり)、広袖、白袴、革帯、烏皮履である。武舞は、左は干で右は戚で、旌(はた)を持って前者二人におり、鼗を持つ者と鐸を持つ者はすべて二人、金錞は二、輿者は四人、奏者は二人、鐃を持つ者は二人、相を持って左におり、雅を持って右におり、すべて二人で挟み導き、平冕を着て、ほかは文舞と同じである。朝会の時は武弁(武冠)、平巾幘、広袖、金色の甲冑、豹文の袴、烏皮鞾である。干戚(楯と斧を持つ武舞)で挟み導くことは、すべて郊廟と同じである。おしなべて初献の時は、文舞の舞をなし、亞献・終献の時は、武舞の舞をなす。太廟降神では文舞を用い、部屋に酌献(楽を設けて神に供える)するごとに、それぞれその廟の舞を用いた。禘・祫、遷廟(周王朝)の木主(いはい)は合祭し、そこで舞もまた同じであった。儀鳳二年(677)、太常卿の韋万石は凱安舞六変を定め、一変は龍興参墟を象り、二変は克定関中を象り、三変は東夏賓服を象り、四変は江淮平を象り、五変は獫狁伏従を象り、六変は復位以崇を象り、兵が帰還して凱旋するのを象った。 はじめ太宗の時、秘書監の顔師古らに詔して弘農府君から高祖太武皇帝にいたるまでの六廟の楽曲・舞名を撰定させ、その後の変更は一つではなかった。献祖より以下の廟の舞は、ほぼ見るべきである。献祖を「光大の舞」といい、懿祖を「長発の舞」といい、太祖を「大政の舞」といい、世祖を「大成の舞」といい、高祖を「大明の舞」といい、太宗を「崇徳の舞」といい、高宗を「鈞天の舞」といい、中宗を「太和の舞」といい、睿宗を「景雲の舞」といい、玄宗を「大運の舞」といい、粛宗を「惟新の舞」といい、代宗を「保大の舞」といい、徳宗を「文明の舞」といい、順宗を「大順の舞」といい、憲宗を「象徳の舞」といい、穆宗を「和寧の舞」といい、敬宗を「大鈞の舞」といい、文宗を「文成の舞」といい、武宗を「大定の舞」といい、昭宗を「咸寧の舞」といった。そのほかは欠損しているから著さない。 唐の自ら楽をつくるのはおよそ三、一は「七徳舞」、二は「九功舞」、三は「上元舞」という。 「七徳舞」は、本名を「秦王破陣楽」という。太宗が秦王であったとき、劉武周を破り、軍中にて「秦王破陣楽曲」をつくった。即位すると、宴会になると必ず演奏した。侍臣に、「激しい舞とはいえ文容とは異なっている。だが功業はこれにより、楽章を演奏するのは、示して本を忘れないためだ」と言い、右僕射の封徳彝は、「陛下は聖武をもって艱難を平定されました。楽を並べて徳を象り、文容はどうして道にたるでしょうか」と言った。帝は驚いて、「朕は武功を興したとはいえ、終いには文徳をもって海内を安んじてきた。文容は激しい舞に及ばないとはいえ、それは言い過ぎだ」と言った。そこで舞図をつくり、左は右方を図して、兵車を前に卒伍を後ろに、入り混じっては曲げたり延ばしたりして、魚麗の陣、鵝鸛の陣を象った。呂才に命じて図を楽工百二十八人に教え、銀の甲冑を着用して戟を持って舞い、およそ三変、変わるごとに四陣とし、撃ったり刺したり往来するのを象った。歌う者は和して「秦王破陣楽」という。後に魏徴をして員外散騎常侍の褚亮・員外散騎常侍の虞世南・太子右庶子の李百薬にさらに歌辞をつくらせ、名づけて「七徳舞」といった。舞がはじめて完成すると、見る者は皆自分の腕を握りしめて踊り、諸将は祝寿を述べ、群臣は万歳を唱え、蛮夷で庭にいる者は一緒に舞うことを願った。太常卿の蕭瑀は「楽の盛徳の表現を見事とするわけは、すべてをつくさないところにあります。陛下は劉武周・薛挙・竇建徳・王世充を破りました。願わくばその形を図して識らしめてください」といい、帝は、「まさに四海はいまだ定まっておらず、戦争は禍乱を平らげるが、楽をつくるのはその概略を述べるだけなのだ。もし捕虜となるところを写し備えてしまえば、今将軍となっている中にはかつてその臣であった者もおり、これを見るのに忍びないだろう。我れはだからしないのだ」と言った。これより元日・冬至の朝会・慶賀に、「九功舞」とともに同じく演奏した。舞人はさらに進賢冠・虎文の袴・螣蛇(飛竜)の帯・烏皮鞾をつけ、二人は旌(はた)をもって前にいた。その後さらに「神功破陣楽」と号した。 「九功舞」は、本名を「功成慶善楽」といった。太宗は慶善宮に生まれ、貞観六年(632)に行幸し、従臣と宴し、賞を村里に賜うことは漢の沛・宛と同じであった。帝は喜ぶこと甚だしく、詩を賦し、起居郎の呂才に管絃を演奏させた。名づけて「功成慶善楽」という。童児六十四人をもって、進徳冠・紫の袴褶・長袖・漆髻を着せ、くつを履いて舞い、「九功舞」と号した。進蹈安徐(静かに礼拝)するのは文徳を象っている。麟徳二年(665)詔して、「郊廟・享宴に文舞を演奏し、「功成慶善楽」を用い、履を引っ張って(余暇と快適さを表し)、縄を持ち、袴褶(常服)を着て、童子冠とするのはもとのままとする。武舞では「神功破陣楽」を用い、甲冑を着用し、戟を持ち、纛(はた)を持つ者は金の甲冑を着用し、八佾の舞で、簫・笛・歌鼓を加え、並べて宮縣の南に配置し、もし舞えば即ち宮縣とともに合奏する。その宴楽の二舞は別に設ける」とした。 「上元舞」は、高宗がつくった。舞者は百八十人、雲を描いた五色の衣を着て、元気を象った。その楽は上元・二儀・三才・四時・五行・六律・七政・八風・九宮・十洲・得一・慶雲の曲があり、大祠を享(まつ)るときにはすべてこれを用いた。上元三年(676)になって詔して、「ただ圜丘・方沢・太廟に用い、他の使用は停止せよ」とした。また、「「神功破陣楽」は雅楽に入れず、「功成慶善楽」は降神で演奏すべきではない。またすべて停止せよ」とした。しかし郊廟で「治康舞」・「凱安舞」を用いることはもとの通りであった。 儀鳳二年(677)、太常卿の韋万石が奏して、「願わくば「上元舞」をつくり、兼ねて「破陣楽」・「慶善楽」の二舞を演奏してください。しかし「破陣楽」は五十二偏のうち、雅楽におさめられるものは二偏、「慶善楽」五十偏のうち、雅楽におさめられるものは一偏、「上元舞」二十九偏ですが、すべて雅楽におさめられますように」といい、また、「雲門・大咸・大韶・大夏は、古の文舞です。大濩・大武は、古の武舞です。国家は禅譲によって天下を得たのなら、まず文舞を演奏し、征伐で天下を得たのなら、まず武舞を演奏します。「神功破陣楽」は武事の象があり、「功成慶善楽」は文事の象があり、二舞を用いるのなら、願わくばまず「神功破陣楽」を演奏してください」とした。それより以前、朝会では常に「破陣舞」を演奏していたが、高宗が即位すると、見るに忍びず、そこで設けなかった。後に九成宮に行幸し、酒宴を開くと韋万石が、「破陣楽舞は、祖宗の功業を宣揚するものであって、もって後世に示すものです。陛下が即位されてより、やめて演奏されないことは久しくなっています。礼というのは、天子が自ら干戚(武器を使って踊る武舞)をすべられ、以て先祖の楽を舞うのです。今、「破陣楽」は久しく廃され、群臣は叙述するところなく、孝心を発露するいわれではなくなっています」と言った。帝は再び演奏させた。舞が終わると帝は歎いて、「この楽を見ないことは三十年になろうとしている。王業の働きを思い起こすことはこのようであった。朕はどうして武功を忘れることがあろうか」と言い、群臣は皆万歳を唱えた。しかし饗燕になって二楽を演奏すると、天子は必ず席を離れ、坐する者は皆興した。太常博士の裴守真は「二舞を演奏している時は、天子は起立してはなりません」と言ったから、詔して従った。高宗が崩ずると、「治康舞」を改めて「化康舞」といい、諱を避けた。武后が唐の太廟を壊すと、「七徳舞」・「九功舞」はすべて亡び、ただその名だけが残った。その後復活して隋の文舞・武舞を用いるのみとなった。 燕楽(宴会の音楽)は、高祖が即位すると隋の制度によって九部楽を設けた。燕楽伎は、楽工・舞人は変わることはなかった。清商伎は、隋の清楽である。編鐘・編磬・独絃琴・撃琴・瑟・秦琵琶・臥箜篌・筑・箏・節鼓があり、すべて一であり、笙・笛・簫・篪・方響・跋膝は、すべて二である。歌は二人、吹葉は一人、舞者は四人、あわせて「巴渝舞」を習った。西涼伎は、編鐘・編磬があり、すべて一である。弾箏・搊箏・臥箜篌・竪箜篌・琵琶・五絃・笙・簫・觱篥・小觱篥・笛・横笛・腰鼓・斉鼓・檐鼓は、すべて一である。銅鈸は二、貝は一である。白舞は一人、方舞は四人である。天竺伎は、銅鼓・羯鼓・都曇鼓・毛員鼓・觱篥・横笛・鳳首箜篌・琵琶・五絃・貝があり、すべて一であり、銅鈸は二、舞者は二人である。高麗伎は、弾箏・搊箏・鳳首箜篌・臥箜篌・竪箜篌・琵琶があり、蛇皮を槽(胴部)とし、厚さは一寸あまり、鱗甲があり、楸木を面とし、象牙を撥とし、国王の形を描く。また五絃・義觜笛・笙・葫蘆笙・簫・小觱篥・桃皮觱篥・腰鼓・斉鼓・檐鼓・亀頭鼓・鉄版・貝・大觱篥がある。胡旋舞は、舞者が毬の上に立ち、旋回すること風のようである。亀茲伎は、弾箏・竪箜篌・琵琶・五絃・橫笛・笙・簫・觱篥・答臘鼓・毛員鼓・都曇鼓・侯提鼓・鶏婁鼓・腰鼓・斉鼓・檐鼓・貝があり、すべて一であり、銅鈸は二である。舞者は四人である。五方の獅子を設け、高さは一丈あまり、五方色(青赤白黒黄)で飾る。獅子ごとに十二人がいて、衣を描き、紅仏(赤い払子)を持ち、首に紅袜で飾り、これを「師子郎」という。安国伎は、竪箜篌・琵琶・五絃・横笛・簫・觱篥・正鼓・和鼓・銅鈸があり、すべて一で、舞者が二人いる。疏勒伎は、竪箜篌・琵琶・五絃・簫・横笛・觱篥・答臘鼓・羯鼓・侯提鼓・腰鼓・鶏婁鼓があり、すべて一であり、舞者が二人いる。康国伎は、正鼓・和鼓があり、すべて一であり、笛・銅鈸はすべて二である。舞者が二人いる。工人の服はすべてその国の制に従った。 隋楽では九部の楽を演奏し終えるたびに、たちまち「文康楽」を演奏し、これを「礼畢」といった。太宗の時、命じてこれを削り去り、その後遂に亡んだ。高昌(トルファン)を平定すると、その音楽を収めた。竪箜篌・銅角が一あり、琵琶・五絃・横笛・簫・觱篥・答臘鼓・腰鼓・鶏婁鼓・羯鼓は、すべて二人である。工人の布巾は、袷袍・錦襟・金銅帯・画絝であった。舞者は二人で、黄袍袖、練襦、五色絛帯、金銅耳璫、赤鞾(赤い革靴)であった。これより初めて十部楽となった。 その後、内宴によって長孫无忌に詔して「傾盃曲」をつくり、魏徴は「楽社楽曲」をつくり、虞世南は「英雄楽曲」をつくった。帝が竇建徳を破った時に乗った馬の名を黄驄驃といい、高麗を征伐するときに道中で死に、非常に悲しみ惜しみ、楽工に命じて「黄驄畳曲」をつくった。これら四曲はすべて宮調である。 五絃は、琵琶のようで小さく、北国から出たものであり、昔は木の撥で弾いていた。楽工の裴神符が初めて手で弾くと、太宗は喜ぶこと甚だしく、後人は習って琵琶を指で奏でた。 高宗が即位すると、景雲が見え、黄河の水が澄んだので、張文收が古誼を采って「景雲河清歌」とし、または「燕楽」と名付けた。玉磬・方響・搊箏・筑・臥箜篌・大小の箜篌・大小の琵琶・大小の五絃・吹葉・大小の笙・大小の觱篥・簫・銅鈸・長笛・尺八・短笛があり、すべて一で、毛員鼓・連鞉鼓・桴鼓・貝は、すべて二である。楽器ごとに楽工が一人、歌が二人である。工人は絳(あか)い袍・金帯・烏鞾を着用する。舞者は二十人である。四部に分け、一を「景雲舞」、二を「慶善舞」、三を「破陣舞」、四を「承天舞」とした。「景雲楽」は、舞が八人、五色雲の冠、錦の袍、五色の袴、金銅の帯を着用する。「慶善楽」は、舞が四人、紫の袍・白袴を着用する。「破陣楽」は、舞が四人で、綾の袍・絳(あか)い袴を着用する。「承天楽」は、舞が四人、進徳冠・紫の袍・白袴を着用する。「景雲舞」、元会の第一に演奏する。 高宗は琴曲が次第に絶え、伝える者がいても、また宮商(調性)を失っていたから、役人をして修学させた。太常丞の呂才が上言して、「舜は五絃の琴を弾いて、南風の詩を歌い、ここに琴を操り曲をもてあそび皆歌に合わせることを知ったのです。今「御雪詩」を「白雪歌」としています。古今より正曲を演奏して再び声を送ることあれば、君は唱い臣が和すの義は、群臣が和した詩十六韻を送声十六節となさんことを」といい、帝はこれを善しとし、そこで太常寺に命じて楽府につけた。呂才はまた琴歌・白雪などの曲を撰し、帝もまた歌詞十六をつくり、皆楽府につけた。 帝はまさに高麗を征伐しようとして、洛陽の城門に宴し、屯営に行って舞を教え、新征用武の勢を考案し、名づけて「一戎大定楽」し、舞者は百四十人、五采の甲冑を着用し、槊を以て舞い、歌う者はこれに和して「八紘同軌楽」といい、高麗が平定して天下が大いに定まることを象った。遼東が平定されると、行軍大総管の李勣は夷美賓の曲をつくって献上した。 調露二年(680)、洛陽城の南楼に行幸し、群臣と宴し、太常寺は六合還淳の舞を演奏したが、その儀容や制度は伝わっていない。 高宗は自ら李氏老子の後裔であるからとして、楽工に命じて道調法曲をつくった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二十 志第十 『新唐書』巻二十一 志第十一 巻二十二 志第十二
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資治通鑑巻第二十九 漢紀二十一 孝元皇帝下 永光三年(庚辰、前四一) | 1春,二月,馮奉世還京師,更爲左將軍,賜爵關内侯。 1. 春、二月、馮奉世が京師に帰還した。左将軍に更められ、関内侯の爵を賜った。 2三月,立皇子康爲濟陽王。 2. 三月、皇子の劉康を済陽王に立てた。 3夏,四月,癸未,平昌考侯王按薨。秋,七月,壬戌,以平恩侯許嘉爲大司馬、車騎將軍。 3. 夏、四月癸未、平昌考侯王接が薨じた。秋、七月壬戌、平恩侯許嘉を大司馬,車騎将軍とした。 4冬,十一月,己丑,地震,雨水。 4.冬,十一月,己丑(八日)、地震があった。雨水。 5復鹽鐵官;置博士弟子員千人。以用度不足,民多復除,無以給中外繇役故也。 5.塩鉄官制度を恢復させた。その理由は、博士弟子の定員を千人に規定してこれを設置したが、そのために朝廷の経費が増加した。かつまた 民間人の多くが繇役や賦税を免除されていたので、しいて民間を繇役に用いることができなかった。それゆえに財政不足になったからである。 四年(辛巳、前四〇) 1春,二月,赦天下。 1. 2三月,上行幸雍,祠五畤。 2. 3夏,六月,甲戌,孝宣園東闕災。 3. | 4戊寅晦,日有食之。上於是召諸前言日變在周堪、張猛者責問,皆稽首謝;因下詔稱堪之美,征詣行在所,拜爲光祿大夫,秩中二千石,領尚書事;猛復爲太中大夫、給事中。中書令石顯管尚書,尚書五人皆其黨也;堪希見得,常因顯白事,事決顯口。會堪疾喑,不能言而卒。顯誣譖猛,令自殺於公車。 4. 5初,貢禹奏言:「孝惠、孝景廟皆親盡宜毀,及郡國廟不應古禮,宜正定。」天子是其議。秋,七月,戊子,罷昭靈后、武哀王、昭哀后、衞思后、戻太子、戻后園,皆不奉祠,裁置吏卒守焉。冬,十月,乙丑,罷祖宗廟在郡國者。 5. 6諸陵分屬三輔。以渭城壽陵亭部原上爲初陵。詔勿置縣邑及徙郡國民。 6. 五年(壬午、前三九) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,幸河東,祠后土。 1. 2秋,穎川水流殺人民。 2. 3冬,上幸長楊射熊館,大獵。 3. 4十二月,乙酉,毀太上皇、孝惠皇帝寢廟園,用韋玄成等之議也。 4. 5上好儒術、文辭,頗改宣帝之政。言事者多進見,人人自以爲得上意。又傅昭儀及子濟陽王康愛幸,踰於皇后、太子。太子少傅匡衡上疏曰:「臣聞治亂安危之機,在乎審所用心。蓋受命之王,務在創業垂統,傳之無窮;繼體之君,心存於承宣先王之德而褒大其功。昔者成王之嗣位,思述文、武之道以養其心,休烈盛美皆歸之二後,而不敢專其名,是以上天歆享,鬼神祐焉。陛下聖德天覆,子愛海内,然陰陽未和,姦邪未禁者,殆論議者未丕揚先帝之盛功,爭言制度不可用也,務變更之,所更或不可行而復復之,是以羣下更相是非,吏民無所信。臣竊恨國家釋樂成之業,而虚爲此紛紛也!願陛下詳覽統業之事,留神於遵制揚功,以定羣下之心。大雅曰:『無念爾祖,聿脩厥德。』蓋至德之本也。傳曰:『審好惡,理情性,而王道畢矣。』治性之道,必審己之所有餘而強其所不足,蓋聰明疏通者戒於太察,寡聞少見者戒於壅蔽,勇猛剛強者戒於太暴,仁愛温良者戒於無斷,湛靜安舒者戒於後時,廣心浩大者戒於遺忘。必審己之所當戒而齊之以義,然後中和之化應,而巧偽之徒不敢比周而望進。唯陛下戒之,所以崇聖德也! 臣又聞室家之道修,則天下之理得,故詩始國風,禮本冠、婚。始乎國風,原情性以明人倫也;本乎冠、婚,正基兆以防未然也。故聖王必愼妃後之際,別適長之位,禮之於内也。卑不踰尊,新不先故,所以統人情而理陰氣也;其尊適而卑庶也,適子冠乎阼,禮之用醴,衆子不得與列,所以貴正體而明嫌疑也。非虚加其禮文而已,乃中心與之殊異,故禮探其情而見之外也。聖人動靜游燕所親,物得其序,則海内自修,百姓從化。如當親者疏,當尊者卑,則佞巧之姦因時而動,以亂國家。故聖人愼防其端,禁於未然,不以私恩害公義。傳曰:『正家而天下定矣!』」 5. 6初,武帝既塞宣房,後河復北決於館陶,分爲屯氏河,東北入海,廣深與大河等,故因其自然,不堤塞也。是歳,河決於清河靈鳴犢口,而屯氏河絶。 6. 建昭元年(癸未、前三八) 1春,正月,戊辰,隕石于梁。 1. 2三月,上行幸雍,祠五畤。 2. 3冬,河間王元坐賊殺不辜廢,遷房陵。 3. 4罷孝文太后寢祠園。 4. 5上幸虎圈鬥獸,後宮皆坐。熊逸出圈,攀檻欲上殿,左右、貴人、傅婕妤等皆驚走。馮婕妤直前,當熊而立。左右格殺熊。上問:「人情驚懼,何故前當熊?」婕妤對曰:「猛獸得人止,妾恐熊至御坐,故以身當之。」帝嗟歎,倍敬重焉。傅婕妤慚,由是與馮婕妤有隙。馮婕妤,左將軍奉世之女也。 5. 二年(甲申、前三七) 1春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。 1. 2夏,四月,赦天下。 2. 3六月,立皇子興爲信都王。 3. 4東郡京房學易於梁人焦延壽。延壽常曰:「得我道以亡身者,京生也。」其説長於災變,分六十卦,更直日用事,以風雨寒温爲候,各有占驗。房用之尤精,以孝廉爲郎,上疏屢言災異,有驗。天子説之,數召見問。房對曰:「古帝王以功舉賢,則萬化成,瑞應著;末世以毀譽取人,故功業廢而致災異。宜令百官各試其功,災異可息。」詔使房作其事,房奏考功課吏法。上令公卿朝臣與房會議温室,皆以房言煩碎,令上下相司,不可許;上意郷之。時部刺史奏事京師,上召見諸刺史,令房曉以課事;剌史復以爲不可行。唯御史大夫鄭弘、光祿大夫周堪初言不可。後善之。 是時,中書令石顯顓權,顯友人五鹿充宗爲尚書令,二人用事。房嘗宴見,問上曰:「幽、厲之君何以危?所任者何人也?」上曰:「君不明而所任者巧佞。」房曰:「知其巧佞而用之邪,將以爲賢也?」上曰:「賢之。」房曰:「然則今何以知其不賢也?」上曰:「以其時亂而君危知之。」房曰:「若是,任賢必治,任不肖必亂,必然之道也。幽、厲何不覺寤而更求賢,曷爲卒任不肖以至於是?」上曰:「臨亂之君,各賢其臣;令皆覺寤,天下安得危亡之君!」房曰:「齊桓公、秦二世亦嘗聞此君而非笑之;然則任豎刁、趙高,政治日亂,盜賊滿山,何不以幽、厲卜之而覺寤乎?」上曰:「唯有道者能以往知來耳。」房因免冠頓首曰:「春秋紀二百四十二年災異,以示萬世之君。今陛下即位已來,日月失明,星辰逆行,山崩,泉湧,地震,石隕,夏霜,冬雷,春凋,秋榮,隕霜不殺,水,旱,螟蟲,民人饑、疫,盜賊不禁,刑人滿市,春秋所記災異盡備。陛下視今爲治邪,亂邪?」上曰:「亦極亂耳,尚何道!」房曰:「今所任用者誰與?」上曰:「然,幸其愈於彼,又以爲不在此人也。」房曰:「夫前世之君,亦皆然矣。臣恐後之視今,猶今之視前也!」上良久,乃曰:「今爲亂者誰哉?」房曰:「明主宜自知之。」上曰:「不知也。如知,何故用之!」房曰:「上最所信任,與圖事帷幄之中,進退天下之士者是矣。」房指謂石顯,上亦知之,謂房曰:「已諭。」房罷出,後上亦不能退顯也。 臣光曰:人君之德不明,則臣下雖欲竭忠,何自而入乎!觀京房之所以曉孝元,可謂明白切至矣,而終不能寤,悲夫!詩曰:「匪面命之,言提其耳。匪手攜之,言示之事。」又曰:「誨爾諄諄,聽我藐藐。」孝元之謂矣! 4. 臣司馬光曰く:人君が徳行を盛んにせずんば、臣僚が忠を尽くそうと欲したところで何ができようか!京房の孝元帝に対する誘導を観ていると、その言うところは道理にかなうこと非常に明確である。しかるに、孝元帝がついぞ悟らなかったのは悲しむべきことなり。 詩に曰く:「面と向かってこれに諭すのみにあらず言葉をもって諷する。手を携(ひ)くのみにあらず言葉をもってこれに事を示せり。」また曰く:「教え諭すこと懇切入念、しかし我聴くに気にせず頭に入らず。」とは孝元帝のような者を言ったものだろうか。 5上令房上弟子曉知考功、課吏事者,欲試用之。房上「中郎任良、姚平,願以爲刺史,試考功法;臣得通籍殿中,爲奏事,以防壅塞。」石顯、五鹿充宗皆疾房,欲遠之,建言,宜試以房爲郡守。帝於是以房爲魏郡太守,得以考功法治郡。 房自請:「歳竟,乘傳奏事。」天子許焉。房自知數以論議爲大臣所非,與石顯等有隙,不欲遠離左右,乃上封事曰:「臣出之後,恐爲用事所蔽,身死而功不成,故願歳盡乘傳奏事,蒙哀見許。乃辛已,蒙氣復乘卦,太陽侵色,此上大夫覆陽而上意疑也。己卯、庚辰之間,必有欲隔絶臣,令不得乘傳奏事者。」 房未發,上令陽平侯王鳳承製詔房止無乘傳奏事。房意愈恐。秋,房去至新豐,因郵上封事曰:「臣前以六月中言遁卦不效,法曰:『道人始去,寒湧水爲災。』至其七月,湧水出。臣弟子姚平謂臣曰:『房可謂知道,未可謂信道也。房言災異,未嘗不中。湧水已出,道人當逐死,尚復何言!』臣曰:『陛下至仁,於臣尤厚,雖言而死,臣猶言也。』平又曰:『房可謂小忠,未可謂大忠也。昔秦時趙高用事,有正先者,非刺高而死,高威自此成,故秦之亂,正先趣之。』今臣得出守郡,自詭效功,恐未效而死,惟陛下毋使臣塞湧水之異,當正先之死,爲姚平所笑。」 房至陝,復上封事曰:「臣前白願出任良試考功,臣得居内。議者知如此於身不利,臣不可蔽,故云『使弟子不若試師。』臣爲刺史,又當奏事,故復云『爲刺史,恐太守不與同心,不若以爲太守。』此其所以隔絶臣也。陛下不違其言而遂聽之,此乃蒙氣所以不解、太陽無色者也。臣去稍遠,太陽侵色益甚,唯陛下毋難還臣而易逆天意。邪説雖安於人,天氣必變,故人可欺,天不可欺也,願陛下察焉。」 房去月餘,竟征下獄。初,淮陽憲王舅張博,傾巧無行,多從王求金錢,欲爲王求入朝。博從京房學,以女妻房。房毎朝見,退輒爲博道其語。博因記房所説密語,令房爲王作求朝奏草,皆持柬與王,以爲信驗。石顯知之,告房與張博通謀,非謗政治,歸惡天子,詿誤諸侯王。皆下獄,棄市,妻子徙邊。鄭弘坐與房善,免爲庶人。 5. 6御史中丞陳咸數毀石顯,久之,坐與槐里令朱雲善,漏洩省中語,石顯微伺知之,與雲皆下獄,髡爲城旦。 石顯威權日盛,公卿以下畏顯,重足一跡。顯與中書僕射牢梁、少府五鹿充宗結爲黨友,諸附倚者皆得寵位,民歌之曰:「牢邪!石邪!五鹿客邪!印何纍纍,綬若若邪!」 顯内自知擅權專柄在掌握,恐天子一旦納用左右耳目以間己,乃時歸誠,取一信以爲驗。顯嘗使至諸官,有所征發,顯先自白:「恐後漏盡宮門閉,請使詔吏開門。」上許之。顯故投夜還,稱詔開門入。後果有上書告「顯顓命,矯詔開宮門」,天子聞之,笑以其書示顯。顯因泣曰:「陛下過私小臣,屬任以事,羣下無不嫉妒,欲陷害臣者,事類如此非一,唯獨明主知之。愚臣微賤,誠不能以一軀稱快萬衆,任天下之怨。臣願歸樞機職,受後宮掃除之役,死無所恨。唯陛下哀憐財幸,以此全活小臣。」天子以爲然而憐之,數勞勉顯,加厚賞賜,賞賜及賂遺訾一萬萬。初,顯聞衆人匈匈,言己殺前將軍蕭望之,恐天下學士訕己,以諫大夫貢禹明經箸節,乃使人致意,深自結納,因薦禹天子,歴位九卿,禮事之甚備。議者於是或稱顯,以爲不妒譖望之矣。顯之設變詐以自解免,取信人主者,皆此類也。 荀悅曰:夫佞臣之惑君主也甚矣,故孔子曰:「遠佞人。」非但不用而已,乃遠而絶之,隔塞其源,戒之極也。孔子曰:「政者,正也。」夫要道之本,正己而已矣。平直眞實者,正之主也。故德必核其眞,然後授其位;能必核其眞,然後授其事;功必核其眞,然後授其賞;罪必核其眞,然後授其刑;行必核其眞,然後貴之;言必核其眞,然後信之;物必核其眞,然後用之;事必核其眞,然後修之。故衆正積於上,萬事實於下,先王之道,如斯而已矣! 6. 荀悦曰く:それ佞臣が君主を惑わすこと甚だしきものがある。ゆえに孔子は言ったのだ。「佞人を遠ざけよ。」と。しかるに己が佞人を用いないだけではなく、遠くにやってこれと絶せねばならず、またその源をしっかり塞いで戒めること断固としなければならない。孔子は言った。「政は正しくねばならない」それ治道の要は根本にあり、己にあり、己を正すことにあるのだ。平直誠実な者、これが正しい主である。ゆえに徳が必ず真であると核心してからその官位に援(つ)け、能力が必ず真であると核心してから事を授け、功が必ず真であると核心してからその賞を授け、罪が必ず真であると核心してから刑に処し、行いが必ず真であると核心してからこれを貴び、言葉が必ず真であると核心してからこれを信じ、物が必ず真であると核心してからこれを用い、事が必ず真であると核心してからこれを修める。ゆえに上が正しいことを多く積み重ねれば、万事、下に至るまで誠実になるのだ。先王の道もかくの如しならんや! 7八月,癸亥,以光祿勳匡衡爲御史大夫。 7. 8閏月,丁酉,太皇太后上官氏崩。 8. 9冬,十一月,齊、楚地震,大雨雪,樹折,屋壞。 9. 三年(乙酉、前三六) 1夏,六月,甲辰,扶陽共侯韋玄成薨。 1. 2秋,七月,匡衡爲丞相。戊辰,衞尉李延壽爲御史大夫。 2. 3冬,使西域都護、騎都尉北地甘延壽、副校尉山陽陳湯共誅斬匈奴郅支單于於康居。 始,郅支單于自以大國,威名尊重,又乘勝驕,不爲康居王禮,怒殺康居王女及貴人、人民數百,或支解投都賴水中。發民作城,日作五百人,二歳乃已。又遣使責闔蘇、大宛諸國歳遺,不敢不予。漢遣使三輩至康居,求谷吉等死,郅支困辱使者,不肯奉詔;而因都護上書,言「居困厄,願歸計強漢,遣子入侍。」其驕嫚如此。 湯爲人沈勇,有大慮,多策略,喜奇功,與延壽謀曰:「夷狄畏服大種,其天性也。西域本屬匈奴,今郅支單于威名遠聞,侵陵烏孫、大宛,常爲康居畫計,欲降服之。如得此二國,數年之間,城郭諸國危矣。且其人剽悍,好戰伐,數取勝,久畜之,必爲西域患。雖所在絶遠,蠻夷無金城、強弩之守。如發屯田吏士,驅從烏孫衆兵,直指其城下,彼亡則無所之,守則不足自保,千載之功可一朝而成也!」延壽亦以爲然,欲奏請之。湯曰:「國家與公卿議,大策非凡所見,事必不從。」延壽猶與不聽。會其久病,湯獨矯制發城郭諸國兵、車師戊已校尉屯田吏士。延壽聞之,驚起,欲止焉。湯怒,按劍叱延壽曰:「大衆已集會,豎子欲沮衆邪!」延壽遂從之。部勒行陳,漢兵、胡兵合四萬餘人。延壽、湯上疏自劾奏矯制,陳言兵状,即日引軍分行,別爲六校:其三校從南道踰蔥領,逕大宛;其三校都護自將,發温宿國,從北道入赤谷,過烏孫,渉康居界,至闐池西。而康居副王抱闐將數千騎寇赤谷城東,殺略大昆彌千餘人,驅畜産甚多,從後與漢軍相及,頗寇盜後重。湯縱胡兵撃之,殺四百六十人,得其所略民四百七十人,還付大昆彌,其馬、牛、羊以給軍食。又捕得抱闐貴人伊奴毒。入康居東界,令軍不得爲寇。間呼其貴人屠墨見之,諭以威信,與飲、盟,遣去。徑引行,未至單于城可六十里,止營。復捕得康居貴人貝色子男開牟以爲導。貝色子,即屠墨母之弟,皆怨單于,由是具知郅支情。明日,引行,未至城三十里,止營。 單于遣使曰:「漢兵何以來?」應曰:「單于上書言:『居困厄,願歸計強漢,身入朝見,』天子哀閔單于棄大國,屈意康居,故使都護將軍來迎單于妻子。恐左右驚動,故未敢至城下。」使數往來相答報,延壽、湯因讓之:「我爲單于遠來,而至今無名王、大人見將軍受事者,何單于忽大計,失客主之禮也!兵來道遠,人畜罷極,食度且盡,恐無以自還,願單于與大臣審計策。」明日,前至郅支城都賴水上,離城三里,止營傅陳。望見單于城上立五采幡幟,數百人被甲乘城;又出百餘騎往來馳城下,歩兵百餘人夾門魚鱗陳,講習用兵。城上人更招漢軍曰:「斗來!」百餘騎馳赴營,營皆張弩持滿指之,騎引卻。頗遣吏士射城門騎、歩兵,騎、歩兵皆入。延壽、湯令軍:「聞鼓音,皆薄城下,四面圍城,各有所守,穿塹,塞門戸,鹵楯爲前,戟弩爲後,仰射城樓上人。」樓上人下走。土城外有重木城,從木城中射,頗殺傷外人。外人發薪燒木城,夜,數百騎欲出,外迎射,殺之。 初,單于聞漢兵至,欲去,疑康居怨己,爲漢内應,又聞烏孫諸國兵皆發,自以無所之。郅支已出,復還,曰:「不如堅守。漢兵遠來,不能久攻。」單于乃被甲在樓上,諸閼氏、夫人數十皆以弓射外人。外人射中單于鼻,諸夫人頗死;單于乃下。夜過半,木城穿,中人卻入土城,乘城呼。時康居兵萬餘騎,分爲十餘處,四面環城,亦與相應和。夜,數奔營,不利,輒卻。平明,四面火起,吏士喜,大呼乘之,鉦鼓聲動地。康居兵引卻;漢兵四面推鹵楯,並入土城中。單于男女百餘人走入大内。漢兵縱火,吏士爭入,單于被創死。軍候假丞杜勳斬單于首。得漢使節二及谷吉等所繼帛書。諸鹵獲以畀得者。凡斬閼氏、太子、名王以下千五百一十八級;生虜百四十五人,降虜千餘人,賦予城郭諸國所發十五王。 3. 四年(丙戌、前三五) 1春,正月,郅支首至京師。延壽、湯上疏曰:「臣聞天下之大義當混爲一,昔有唐、虞,今有強漢。匈奴呼韓邪單于已稱北籓,唯郅支單于叛逆,未伏其辜,大夏之西,以爲強漢不能臣也。郅支單于慘毒行於民,大惡通於天。臣延壽,臣湯,將義兵,行天誅,賴陛下神靈,陰陽並應,天氣精明,陷陳克敵,斬郅支首及名王以下,宜縣頭槁街蠻夷邸間,以示萬里,明犯強漢者,雖遠必誅!」丞相匡衡等以爲:「方春,掩骼、埋胔之時,宜勿縣。」詔縣十日,乃埋之。仍告祠郊廟,赦天下。羣臣上壽,置酒。 1. 2六月,甲申,中山哀王竟薨。哀王者,帝之少弟,與太子遊學相長大。及薨,太子前吊。上望見太子,感念哀王,悲不能自止。太子既至前,不哀,上大恨曰:「安有人不慈仁,而可以奉宗廟,爲民父母者乎!」是時駙馬都尉、侍中史丹護太子家,上以責謂丹,丹免冠謝曰:「臣誠見陛下哀痛中山王,至以感損。向者太子當進見,臣竊戒屬,毋涕泣,感傷陛下;罪乃在臣,當死!」上以爲然,意乃解。 2. 3藍田地震,山崩,壅霸水;安陵岸崩,壅涇水,涇水逆流。 3. 五年(丁亥、前三四) 1春,三月,赦天下。 1. 2夏,六月,庚申,復戻園。 2. 3壬申晦,日有食之。 3. 4秋,七月,庚子,復太上皇寢廟園、原廟、昭靈后、武哀王、昭哀后、衞思后園。時上寢疾,久不平。以爲祖宗譴怒,故盡復之;唯郡國廟遂廢云。 4. 5是歳,徙濟陽王康爲山陽王。 5. 6匈奴呼韓邪單于聞郅支既誅,且喜且懼;上書,願入朝見。 6. 竟寧元年(戊子、前三三) 1春,正月,匈奴呼韓邪單于來朝,自言願婿漢氏以自親。帝以後宮良家子王嬙字昭君賜單于。單于歡喜,上書「願保塞上谷以西至敦煌,傳之無窮。請罷邊備塞吏卒,以休天子人民。」天子下有司議,議者皆以爲便。郎中侯應習邊事,以爲不可許。上問状,應曰:「周、秦以來,匈奴暴桀,寇侵邊境;漢興,尤被其害。臣聞北邊塞至遼東,外有陰山,東西千餘里,草木茂盛,多禽獸,本冒頓單于依阻其中,治作弓矢,來出爲寇,是其苑囿也。至孝武世,出師征伐,斥奪此地,攘之於幕北,建塞徼,起亭隧,築外城,設屯戍以守之,然後邊境得用少安。幕北地平,少草木,多大沙,匈奴來寇,少所蔽隱;從塞以南,逕深山谷,往來差難。邊長老言:『匈奴失陰山之後,過之未嘗不哭也。』如罷備塞戍卒,示夷狄之大利,不可一也。今聖德廣被,天覆匈奴,匈奴得蒙全活之恩,稽首來臣。夫夷狄之情,困則卑順,強則驕逆,天性然也。前已罷外城,省亭隧令,裁足以候望,通烽火而已。古者安不忘危,不可復罷,二也。中國有禮義之教,刑罰之誅,愚民猶尚犯禁;又況單于,能必其衆不犯約哉!三也。自中國尚建關梁以制諸侯,所以絶臣下之覬欲也。設塞徼,置屯戍,非獨爲匈奴而已,亦爲諸屬國降民本故匈奴之人,恐其思舊逃亡,四也。近西羌保塞,與漢人交通,吏民貪利,侵盜其畜産、妻子,以此怨恨,起而背畔。今罷乘塞,則生嫚易分爭之漸,五也。往者從軍多沒不還者,子孫貧困,一旦亡出,從其親戚,六也。又邊人奴婢愁苦,欲亡者多,曰:『聞匈奴中樂,無奈候望急何!』然時有亡出塞者,七也。盜賊桀黠,羣輩犯法,如其窘急,亡走北出,則不可制,八也。起塞以來百有餘年,非皆以土垣也,或因山巖、石、木、溪谷、水門,稍稍平之,卒徒築治,功費久遠,不可勝計。臣恐議者不深慮其終始,欲以壹切省繇戍,十年之外,百歳之内,卒有它變,障塞破壞,亭隧滅絶,當更發屯繕治,累世之功不可卒復,九也。如罷戍卒,省候望,單于自以保塞守禦,必深德漢,請求無已;小失其意,則不可測。開夷狄之隙,虧中國之固,十也。非所以永持至安,威制百蠻之長策也!」對奏,天子有詔:「勿議罷邊塞事。」使車騎將軍嘉口諭單于曰:「單于上書願罷北塞吏士屯戍,子孫世世保塞。單于郷慕禮義,所以爲民計者甚厚。此長久之策也,朕甚嘉之。中國四方皆有關梁障塞,非獨以備塞外也,亦以防中國姦邪放縱,出爲寇害,故明法度以專衆心也。敬諭單于之意,朕無疑焉。爲單于怪其不罷,故使嘉曉單于。」單于謝曰:「愚不知大計,天子幸使大臣告語,甚厚!」 初,左伊秩訾爲呼韓邪畫計歸漢,竟以安定。其後或讒伊秩訾自伐其功,常鞅鞅,呼韓邪疑之;伊秩訾懼誅,將其衆千餘人降漢,漢以爲關内侯,食邑三百戸,令佩其王印綬。及呼韓邪來朝,與伊秩訾相見,謝曰:「王爲我計甚厚,令匈奴至今安寧,王之力也,德豈可忘!我失王意,使王去,不復顧留,皆我過也。今欲白天子,請王歸庭。」伊秩訾曰:「單于賴天命,自歸於漢,得以安寧,單于神靈,天子之祐也,我安得力!既已降漢,又復歸匈奴,是兩心也。願爲單于侍使於漢,不敢聽命!」單于固請,不能得而歸。 單于號王昭君爲寧胡閼氏;生一男伊屠智牙師,爲右日逐王。 1. 2皇太子冠。 2. 3二月,御史大夫李延壽卒。 3. 4初,石顯見馮奉世父子爲公卿著名,女又爲昭儀在内,顯心欲附之,薦言:「昭儀兄謁者逡修敕,宜侍幄帷。」天子召見,欲以爲侍中。逡請間言事。上聞逡言顯顓權,大怒,罷逡歸郎官。及御史大夫缺,在位多舉逡兄大鴻臚野王;上使尚書選第中二千石,而野王行能第一。上以問顯,顯曰:「九卿無出野王者。然野王,親昭儀兄,臣恐後世必以陛下度越衆賢,私後宮親以爲三公。」上曰:「善,吾不見是!」因謂羣臣曰:「吾用野王爲三公,後世必謂我私後宮親屬,以野王爲比。」三月,丙寅,詔曰:「剛強堅固,確然亡欲,大鴻臚野王是也。心辨善辭,可使四方,少府五鹿充宗是也。廉潔節儉,太子少傅張譚是也。其以少傅爲御史大夫。」 4. 5河南太守九江召信臣爲少府。信臣先爲南陽太守,後遷河南,治行常第一。視民如子,好爲民興利,躬勸耕稼,開通溝瀆,戸口增倍。吏民親愛,號曰「召父」。 5. 6癸未,復孝惠皇帝寢廟園、孝文太后、孝昭太后寢園。 6. 7初,中書令石顯嘗欲以姊妻甘延壽,延壽不取。及破郅支還,丞相、御史亦惡其矯制,皆不與延壽等。陳湯素貪,所鹵獲財物入塞,多不法。司隸校尉移書道上,繋吏士,按驗之。湯上疏言:「臣與吏士共誅郅支單于,幸得禽滅,萬里振旅,宜有使者迎勞道路。今司隸反逆收繋按驗,是爲郅支報讎也!」上立出吏士,令縣、道具酒食以過軍。既至,論功,石顯、匡衡以爲:「延壽、湯擅興師矯制,幸得不誅,如復加爵土,則後奉使者爭欲乘危徼幸,生事於蠻夷,爲國招難。」帝内嘉延壽、湯功而重違衡、顯之議,久之不決。 故宗正劉向上疏曰:「郅支單于囚殺使者、吏士以百數,事暴揚外國,傷威毀重,羣臣皆閔焉。陛下赫然欲誅之,意未嘗有忘。西域都護延壽,副校尉湯,承聖指,倚神靈,總百蠻之君,攬城郭之兵,出百死,入絶域,遂蹈康居,屠三重城,搴歙侯之旗,斬郅支之首,縣旌萬里之外,揚威昆山之西,掃谷吉之恥,立昭明之功,萬夷懾伏,莫不懼震。呼韓邪單于見郅支已誅,且喜且懼,郷風馳義,稽首來賓,願守北藩,累世稱臣。立千載之功,建萬世之安,羣臣之勳莫大焉。昔周大夫方叔、吉甫爲宣王誅獫狁而百蠻從,其詩曰:『嘽□焞□,如霆如雷。顯允方叔,征伐獫狁,蠻荊來威。』易曰:『有嘉折首,獲匪其醜。』言美誅首惡之人,而諸不順者皆來從也。今延壽、湯所誅震,雖易之折首,詩之雷霆,不能及也。論大功者不録小過,舉大美者不疵細瑕。司馬法曰:『軍賞不踰月,』欲民速得爲善之利也。蓋急武功,重用人也。吉甫之歸,周厚賜之,其詩曰:『吉甫宴喜,既多受祉。來歸自鎬,我行永久。』千里之鎬猶以爲遠,況萬里之外,其勤至矣。延壽、湯既未獲受祉之報,反屈捐命之功,久挫於刀筆之前,非所以勸有功,厲戎士也。昔齊桓前有尊周之功,後有滅項之罪,君子以功覆過而爲之諱。貳師將軍李廣利,捐五萬之師,靡億萬之費,經四年之勞,而僅獲駿馬三十匹,雖斬宛王母寡之首,猶不足以復費,其私罪惡甚多;孝武以爲萬里征伐,不録其過,遂封拜兩侯、三卿、二千石百有餘人。今康居之國,強於大宛,郅支之號,重於宛王,殺使者罪,甚於留馬,而延壽、湯不煩漢士,不費斗糧,比於貳師,功德百之。且常惠隨欲撃之烏孫,鄭吉迎自來之日逐,猶皆裂土受爵。故言威武勤勞,則大於方叔、吉甫;列功覆過,則優於齊桓、貳師;近事之功,則高於安遠、長羅。而大功未著,小惡數布,臣竊痛之!宜以時解縣,通籍,除過勿治,尊寵爵位,以勸有功。」 於是天子下詔赦延壽、湯罪勿治,令公卿議封焉。議者以爲宜如軍法捕斬單于令。匡衡、石顯以爲「郅支本亡逃失國,竊號絶域,非眞單于。」帝取安遠侯鄭吉故事,封千戸;衡、顯復爭。夏,四月,戊辰,封延壽爲義成侯,賜湯爵關内侯,食邑各三百戸,加賜黄金百斤。拜延壽爲長水校尉,湯爲射聲校尉。於是杜欽上疏追訟馮奉世前破莎車功。上以先帝時事,不復録。欽,故御史大夫延年子也。 荀悅論曰:成其功義足封,追録前事可也。春秋之義,毀泉台則惡之,捨中軍則善之,各由其宜也。夫矯制之事,先王之所愼也,不得已而行之。若矯大而功小者,罪之可也;矯小而功大者,賞之可也;功過相敵,如斯而已可也。權其輕重而爲之制宜焉。 7. 8初,太子少好經書,寬博謹愼;其後幸酒,樂燕樂,上不以爲能。而山陽王康有材藝,母傅昭儀又愛幸,上以故常有意欲以山陽王爲嗣。上晩年多疾,不親政事,留好音樂;或置鼙鼓殿下,天子自臨軒檻上,□貴銅丸以擿鼓,聲中嚴鼓之節。後宮及左右習知音者莫能爲,而山陽王亦能之,上數稱其材。史丹進曰:「凡所謂材者,敏而好學,温故知新,皇太子是也。若乃器人於絲竹鼓鼙之間,則是陳惠、李微高於匡衡,可相國也!」於是上嘿然而笑。 及上寢疾,傅昭儀、山陽王康常在左右,而皇后、太子希得進見。上疾稍侵,意忽忽不平,數問尚書以景帝時立膠東王故事。是時太子長舅陽平侯王鳳爲衞尉、侍中,與皇后、太子皆憂,不知所出。史丹以親密臣得侍視疾,候上間獨寢時,丹直入臥内,頓首伏靑蒲上,涕泣而言曰:「皇太子以適長立,積十餘年,名號繋於百姓,天下莫不歸心臣子。見山陽王雅素愛幸,今者道路流言,爲國生意,以爲太子有動搖之議。審若此,公卿以下必以死爭,不奉詔。臣願先賜死以示羣臣!」天子素仁,不忍見丹涕泣,言又切至,意大感寤,喟然太息曰:「吾日困劣,而太子、兩王幼少,意中戀戀,亦何不念乎!然無有此議。且皇后謹愼,先帝又愛太子,吾豈可違指!駙馬都尉安所受此語?」丹即卻,頓首曰:「愚臣妄聞,罪當死!」上因納,謂丹曰:「吾病浸加,恐不能自還,善輔道太子,毋違我意。」丹嘘唏而起,太子由是遂定爲嗣。而右將軍、光祿大夫王商,中書令石顯亦擁佑太子,頗有力焉。夏,五月,壬辰,帝崩於未央宮。 班彪贊曰:臣外祖兄弟爲元帝侍中,語臣曰:「元帝多材藝,善史書,鼓琴瑟,吹洞簫,自度曲,被歌聲,分刌節度,窮極幼眇。少而好儒,及即位,徴用儒生,委之以政,貢、薛、韋、匡迭爲宰相。而上牽制文義,優遊不斷,孝宣之業衰焉。然寬弘盡下,出於恭儉,號令温雅,有古之風烈。」 8. 9匡衡奏言:「前以上體不平,故復諸所罷祠,卒不蒙福。案衞思后、戻太子、戻后園,親未盡。孝惠、孝景廟,親盡,宜毀。及太上皇、孝文、孝昭太后、昭靈后、昭哀后、武哀王祠,請悉罷勿奉。」奏可。 9. 10六月,己未,太子即皇帝位,謁高廟。尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。以元舅侍中、衞尉、陽平侯王鳳爲大司馬、大將軍、領尚書事。 10. 11秋,七月,丙戌,葬孝元皇帝於渭陵。 11. 12大赦天下。 12. 13丞相衡上疏曰:「陛下秉至孝,哀傷思慕,不絶於心,未有游虞弋射之宴,誠隆於愼終追遠,無窮已也。竊願陛下雖聖性得之,猶復加聖心焉!詩云:『煢煢在疚,』言成王喪畢思慕,意氣未能平也。蓋所以就文、武之業,崇大化之本也。臣又聞之師曰:『妃匹之際,生民之始,萬福之原。婚姻之禮正,然後品物遂而天命全。』孔子論詩,以關雎爲始,此綱紀之首,王教之端也。自上世已來,三代興廢,未有不由此者也。願陛下詳覽得失盛衰之效,以定大基,采有德,戒聲色,近嚴敬,遠技能。臣聞六經者,聖人所以統天地之心,著善惡之歸,明吉凶之分,通人道之正,使不悖於其本性者也。及論語、孝經,聖人言行之要,宜究其意。臣又聞聖王之自爲,動靜周旋,奉天承親,臨朝享臣,物有節文,以章人倫。蓋欽翼祗栗,事天之容也;温恭敬遜,承親之禮也;正躬嚴恪,臨衆之儀也;嘉惠和説,饗下之顏也。舉錯動作,物遵其儀,故形爲仁義,動爲法則。今正月初,幸路寢,臨朝賀,置酒以饗萬方。傳曰:『君子愼始。』願陛下留神動靜之節,使羣下得望盛德休光,以立基楨,天下幸甚!」上敬納其言。 13.