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※西暦2000年代に入って漸く、戦後長く無視されてきた「昭和期の日本主義」に関する実証的な研究が本格化しました。 日本主義的教養の時代―大学批判の古層竹内 洋 (編集), 佐藤 卓己 (編集) 2006.2刊内容(「BOOK」データベースより)戦前「護憲」の降魔剣“日本主義”を解明。「右翼」「反動」のレッテル貼りで忌避されてきた一九三〇年代“日本主義”の大学批判。マルクス主義的教養の機能的代替となった日本主義的教養の担い手たち。来るべき時代を読み解く画期的論集。目次第1章 帝大粛正運動の誕生・猛攻・蹉跌第2章 天皇機関説批判の「論理」―「官僚」批判者蓑田胸喜第3章 写生・随順・拝誦―三井甲之の思想圏第4章 英語学の日本主義―松田福松の戦前と戦後第5章 戦時期の右翼学生運動―東大小田村事件と日本学生協会第6章 日本主義的社会学の提唱―赤神良譲の学術論第7章 日本主義ジャーナリズムの曳光弾―『新聞と社会』の軌跡★未だに自虐史観どっぷりの東大・岩波系とは距離を置く京大系の学者達による昭和10年代日本の思想状況の共同研究プロジェクト全体のガイドライン的な位置づけの本。 日本主義と東京大学―昭和期学生思想運動の系譜井上 義和 (著) 2008.6刊内容(「BOOK」データベースより)国家的危機の時代における大学の使命とは何か。欧化一辺倒の東京帝国大学に学風改革を迫り、高度国防国家を標傍する政府とも命がけの思想戦を繰り広げた東大生たち。戦時体制下で宿命的に挫折した“日本主義的教養”の逆説を読み解き、日本型保守主義の可能性を探る。目次第1章 「右翼」は頭が悪かったのか―文部省データの統計的分析第2章 政治学講義と国体論の出会い―『矢部貞治日記』を中心に第3章 学風改革か自治破壊か―東大小田村事件の衝撃第4章 若き日本主義者たちの登場―一高昭信会の系譜第5章 学生思想運動の全国展開―日本学生協会の設立第6章 逆風下の思想戦―精神科学研究所の設立第7章 「観念右翼」の逆説―戦時体制下の護憲運動第8章 昭和十六年の短期戦論―違勅論と軍政批判第9章 「観念右翼」は狂信的だったのか―日本型保守主義の可能性★現代の日本会議に繋がる国民文化研究会の母体となった昭和10年代の右翼学生運動の系譜を追い、左翼が壊滅した後、国家改造を進める革新右翼(国家社会主義者・アジア主義者)と激しく対立した観念右翼(伝統保守・日本主義者)の論理と実情を具体的に論証する好著 丸山眞男と平泉澄 昭和期日本の政治主義植村 和秀 (著) 2004.10刊内容(「MARC」データベースより)理性の民主派=丸山と、東大国史の歴史神学者=平泉。ともにマイネッケに感銘を受け、危機の時代に対峙した両者の思惟様式に論理的な共通性を見出し、戦前・戦後を貫通する日本ナショナリズムを再定位する。目次第1章 政論記者丸山眞男第2章 歴史神学者平泉澄第3章 正統の争い―平泉澄と丸山眞男第4章 平泉澄における忠誠と反逆第5章 丸山眞男にとっての忠誠と反逆第6章 昭和期日本の政治主義★昭和期日本主義を代表する歴史神学者・平泉澄と戦後民主主義の旗手・丸山眞男、昭和史を貫く両者の思想対立を鋭く分析した名著。 「日本」への問いをめぐる闘争―京都学派と原理日本社植村 和秀 (著) 2007.12刊内容(「BOOK」データベースより)日本の危機を超克するための哲学は可能か。新世界秩序の創造を目指す、西田幾多郎ら京都学派。それを執拗に否定する、蓑田胸喜ら原理日本社。激しい思想戦から描き出す、斬新な近代日本思想史。目次第1章 西田幾多郎の哲学的挑戦―自己からの創造(西田幾多郎の「論理」、国家理由の問題―マイネッケへの苛立ち ほか)第2章 京都学派の世界史的挑戦―近代の超克(ヨーロッパ中心主義からの跳躍―鈴木成高、近代国家との訣別―西谷啓治 ほか)第3章 蓑田胸喜の西田幾多郎批判―禁忌としての日本(蓑田胸喜の執念、偶像を刻んではならない―カントとマルクスの「共通宿命」 ほか)第4章 蓑田胸喜の天皇機関説批判―原理日本社の公論(自我意識の極大化と絶対への欲求、「コトノハノミチ」という論理 ほか)第5章 京都学派対原理日本社―日本をめぐる闘争(絶対的なるものへの欲求、自己の責務 ほか)★東西文明の総合(止揚)としての「近代の超克」を説く西田幾多郎ら京都学派と、それを押しとどめ、あくまで日本の独自性に拘る蓑田胸喜ら原理日本社を対比して戦前・戦中期日本のもう一つの思想的可能性を描く。上3冊を読んだあとの+αとして。
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※下記は全て、ブリタニカ百科事典(日本版)より引用(ただし※注はこちらで追記) 政治思想ないしイデオロギー 説明 関連ページ 保守主義、及び、保守主義の内実を成す概念 保守主義(conservatism) 既存の価値・制度・信条を根本的に覆そうとする理論体系が現れたときにこれに対する対抗イデオロギーとして形成される。「保守主義の宣言」とも言われる『フランス革命に関する省察』を著わしたE.バークは、人間のあらゆる制度の基礎は歴史であり、具体的な文脈のなかで長い時間をかけて培われてきたものだけが永続性を持つため、抽象的な哲学原理に基づく革命は座絶を運命づけられているとしている。バークは決して変化を拒絶しないが、それは既存のものの漸進的改良として果たされねばならないと考える。歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴であるが、これは現代のF.ハイエクやM.オークショットにもみられる考え方である。 保守主義とは何か 新保守主義(neo-conservatism) 1960年代後半以降、アメリカでリベラリズムや対抗文化の行き過ぎを批判しつつ登場してきた思想。I.クリストル、D.ベル、S.ハンティントンなどが代表的である。アメリカでは、ベトナム戦争の経験に伴う文化的混乱から若者を中心として性の自由や家族の解体といった急進的な主張がなされたが、反面、こうした潮流に強い危機意識をいだき、西欧的価値を擁護しながらアメリカの文化的同一性を再定義しようという試みも生まれた。これらは資本主義と自由の結びつきを強調し、共産主義に対する批判を共有するもので、現実の政策的提言においても連邦政府が過剰な役割を果たすことには懐疑的で、私的集団の活動の場を拡大する「小さな政府」への方向性を示唆している。このような主張を経済論として展開しているのが、新自由主義である。 自由主義(liberalism) 個人の諸自由を尊重し、封建的共同体の束縛から解放しようとした思想や運動をいう。本格的に開始されたのはルネサンスと宗教改革によって幕をあけた近代生産社会においてであり、宗教改革にみられるように、個人の内面的自由(信教の自由、良心の自由、思想の自由)を、国家・政府・カトリック・共同体などの自己以外の外在的権威の束縛・圧迫・強制などの侵害から守ろうとしたことから起こった。この内面的諸自由は、必然的に外面的自由、すなわち市民的自由として総称される参政権に象徴される政治的自由や、ギルド的諸特権や独占に反対し通商自由の拡大を求め、財産や資本の所有や運用を自由になしうる経済的自由への要求へと広がっていった。これらの諸自由の実現を求め苦闘した集団や階級が新興ブルジョアジーであったため、自由主義はしばしばそのイデオロギーであるとみられた。しかし各個人の諸自由を中核とした社会構造は、その国家形態からみれば、いわゆる消極国家・中性国家・夜警国家などに表象されるように、自由放任を生み、当然弱肉強食の現象を現出させることになり、社会的経済的に実質的な平等を求める広義の社会主義に挑戦されることになった。しかし、20世紀に出現した左右の独裁政治の実態は、自由主義が至上の価値としてきた内面的自由・政治的社会的諸自由などが、政治体制のいかんに関わらず、普遍的価値があることを容認せしめ、近代西欧社会に主として育まれてきた自由主義は再評価されている。 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 新自由主義(neo-liberalism) (1) 1870,80年代から勃興したイギリスの理想主義運動、なかんずくT.H.グリーンが主唱した社会思想。グリーンは、道徳哲学としてはJ.ロック、J.ベンサムなどの功利主義的自由主義ではなく、カントやヘーゲルの影響を受けた観念論的・理想主義的自由主義を、社会哲学としては、自由放任主義(経済的自由主義)ではなく国家による保護干渉主義(社会政策)を主唱した。しかし決して国家専制主義や全体主義に陥らず、個人の自我の実現、個人の道徳的生活の可能な諸条件の整備に国家機能が存在するとして、自由主義の中心である個人主義を継受した。この思想はイギリス自由党の労働立法・社会政策に思想的根拠を与えた。⇒※注:こちらは正確には new liberalismであり、訳すと文字通り「新自由主義」だが、現在はこちらの意味では使用されなくなったので注意が必要。 リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 (2) 1930年代以降の全体主義国家の台頭や第二次世界大戦中から戦後にかけてのケインズ政策に反発して、再び個人の自由の尊厳を説き、政府の恣意的政策の採用を排し、法の下での自由を強調する思想。このような思想をもつW.オイケン、W.リプケ、L.ミーゼス、G.ハーバラー、F.ハイエク、L.C.ロビンズ、M.フリードマンらの多彩な人材を擁して、47年にモンペルラン・ソサエティーを結成している。恣意的・強権的権力の行使に反対する点ではかっての自由放任的自由主義と共通する面をもつため、その単なる復活と誤解されがちであるが、普遍的な法の強力な支配の必要を説き、法秩序の下での自由を強調する点で、かっての自由放任とは異なる。経済政策面でのその端的な表れは、ドイツに代表される社会的市場政策とシカゴ学派に代表される新貨幣数量説である。⇒※注:こちらが、neo-liberalism(正確に訳すと「再興自由主義」)すなわち現在使用されている意味での「新自由主義」である。 保守主義に隣接・類似するために混同されやすいが、別概念として区別すべきもの 自由至上主義(libertarianism)※注:項目なしのため、リバタリアン(libertarian)の項目で代用 福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する自由論者。古典的自由主義と同様、リバタリアンも自由市場経済を支持するが、その論拠は自由市場が資源配分の効率性に関して卓越しているということだけではない。より重要なのは集産主義的介入(⇒コレクティビズム)が、自明の権利である個人の自然権や人権を侵害するという点である。リバタリアンの出発点は社会の理解に関する徹底的な個人主義的アプローチである。社会とは何らかの実体ではなく、自律性を権利として保障された諸個人が互いの価値の実現を目指して交流を持つ場である。経験的な意味で国家や政府による合理的計画よりも自律的な個人の活動のほうが社会的利益を最大化するというだけでなく、道徳的な意味でも個人の自律性を国家や政府の干渉によって強制的に縮小しようとするあらゆる試みは、個人の独自性を破壊し社会の目的のための手段といて扱うことになる。個人の価値の追求にはルールによる制約が課せられるべきであるが、それは各人の平等な権利を保障するというに限定されねばならない。国家や政府の役割はそこにあるのである。⇒※補注参照 中間派に何を含めるか 共同体主義(communitarianism)※注:項目なしのため、コミュニタリアン(communitarian)の項目で代用 人間存在の基盤としての「共同体」の復権を唱える一群の政治哲学者たちの総称。J.ロールズの『正義論』(1971)が政治哲学の復権に大きな影響を与え、当初その指導的立場にあったのが、ロールズに代表される福祉国家的な自由主義を主張するリベラリストと、ノージックに代表される個人の自由に対する制限を最小化しようとするリバタリアンであった。一見したところ対立するこの両陣営は「個人」の多元的対立から社会構成の原理を導出しようとする基本的枠組みでは一致している。この個人主義的な人間像・社会像に対して根本的な次元から論争に参加してきたのがコミュニタリアンである。A.マッキンタイア、M.サンデル、M.ウォルツァーらを代表とし、その主張は必ずしも一様でないが、人間的主体性を抽象的なアトム的存在の自律性としてではなく、共同体のもつ歴史・社会的なコンテクストに根付いた具体的存在として捉えようとする点では共通している。コミュニタリアンの登場の背景にはアメリカ社会が極端な個人主義の結果、公共心を衰退させ、そのことが様々な社会問題を引き起こしているという洞察がある。 中間派に何を含めるか ナショナリズム(nationalism) 民族、国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通、民族主義と訳されるが、国民主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。ナショナリズムの概念が多義的であるのは、ネーション(民族、国民)が歴史上きわめて多様な形態をたどって生成・発展してきたことに起因している。歴史的な重要概念となったのは18世紀末以後のことである。アメリカの独立とフランス革命がその端緒となったとされ、南アメリカに浸透し、19世紀にはヨーロッパ全体に広まり、ナショナリズム時代をつくりだし、20世紀に入って、アジア・アフリカで多くのナショナリズム運動が展開された。ナショナリズムはこうした諸国の独立をもたらす解放的イデオロギーではあるが、民族紛争と戦争の拡大をもたらす危険も大きい。 ナショナリズムとは何か右派・右翼とは何か ※補注:このように古典的自由主義およびその再興であるハイエクに代表される新自由主義(neo-liberalism)と、リバタリアニズム(自由至上主義)は厳密には別概念であるが、特にアメリカではliberalismが「マイルドな社会主義」を意味する言葉に変形してしまったために、ハイエク的な自由主義をも「リバタリアニズム」と呼ぶ場合がむしろ多くなっており、後述の中岡望 著『アメリカ保守革命』でも、正確には新自由主義(neo-liberalism)と呼ぶべきものをリバタリアニズムと呼称しているので注意が必要。(この場合は「リバタリアニズム」=新自由主義=経済保守 となる)
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フュージョニズム(fusionism) アメリカにおいて冷戦時代に「伝統保守」と「経済保守」の融合・架橋を目指した思想的立場 ※以下は、「乱読ノート ~出町柳から哲学の道へ~」様blog記事中岡望『アメリカ保守革命』より抜粋 ※なお、中岡望氏は、現代アメリカの用法に従って「新自由主義(=リベラル右派=経済保守)」の意味で「リバタリアニズム」という語を使用しているので注意が必要。 戦後のアメリカ保守主義は二つの流れに収斂されていった。ひとつは伝統主義であり、もう一つはリバタリアニズムである。だが保守主義運動の中で、この二つのグループの間に直接的な接点はなかった。二つの保守主義は共通な価値観を持っていたが、必ずしも同じ理想を求めていたわけではなかった。「大きな政府」を批判する点では一致しながらも、「個人の自由」に関する考え方は大きく違っていた。伝統主義者が倫理や宗教から「個人の自由」を理解しようとしたのに対し、リバタリアンは市場という観点から理解しようとしていた。(p.40)伝統主義者は敬虔なキリスト教徒が主流を占めていたのに対し、リバタリアンの多くは宗教には比較的無関心であった。伝統主義者は伝統を重んじ、個人主義に対して批判的であったが、リバタリアンはダイナミックに変化する社会経済をイメージし、個人の自由を最大限認める個人主義の哲学を掲げていた。(p.41) しかし、思想運動としての保守主義が発展するためには、「小異を捨てて大同につく」ことが求められた。二つの流れを融合させることが必要であった。反共主義がその接着剤の役割を果たした。 保守主義の二つの流れを融合させたのが、ジャーナリスト出身の保守主義者フランク・メイヤーである。融合された保守主義思想は「フュージョニズム(融合主義)」と呼ばれた。(p.41)伝統主義が主張する人間の“美徳”の達成は・・・リバタリアンの主張する“自由な社会”があって初めて可能になると説いたのである。メイヤーは、これによって、それまで対立していた伝統主義とリバタリアニズムを保守主義革命の大義のために“融合”させたのである。(pp.43-4)フュージョニズムが反共主義によって貫かれている・・・。冷戦が深刻化し、共産主義の世界への拡大が現実のものとなりつつあった当時の状況から、全体主義に反対する伝統主義者もリバタリアンも、反共主義にはまったく異論がなかった。その結果、反共主義はアメリカの多様な保守主義の思想を結びつける役割を果たすことになる。(pp.44-5) ここまでがアメリカ保守主義革命の第一段階である。メイヤーによる“融合”によって理論武装を終えた保守主義者は、その舞台を思想の場から政治の場へと移していく。彼らは保守主義思想を単なる思想運動に留めることなく、その理念を政治の場で実現しようとした。ここから保守主義革命は第二段階に突入する。1950・60年代、タフト、ゴールドウォーターという二人の共和党政治家は保守主義の理念を政治の場で実現することに成功しなかった。しかし、その過程で、保守主義運動の本流の流れとは別に、(伝統的な孤立主義を捨てて積極的に国際政治に介入しようとする反共主義者である)「冷戦リベラル」や(人工中絶や同性愛を宗教的な倫理観に反する現象として徹底的に批判する)「クリスチャン・ライト」といったグループが保守陣営に加わり、保守主義者は共和党の一大支持基盤を形成していく。それに伴って、共和党は保守主義を奉じる政党へと変貌していく。そして、1980年、レーガン共和党政権の成立によって、ついに保守主義はその理念を政治の場で実現するチャンスを手に入れた。 思いやりのある保守主義(compassionate conservatism) ブッシュ大統領が、冷戦終結で「反共」という共通基盤を失った後の「伝統保守」と「経済保守」を架橋するために打ち出した政策コンセプトであり、さらに「思いやり(compassion)」という言葉に象徴されるように、従来は共和党の支持者獲得のターゲットとはあまりみなされなかった社会的弱者への目配りが含意されている。英キャメロン首相も、ブッシュ政権に倣いこれを自身の政策コンセプトとして採用しているほか、安倍元首相が政権当時掲げた「再チャレンジ支援構想」もこのコンセプトの影響を受けていると考えられ、21世紀型の保守主義のあり方として注目される。
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区分 時期 内容 (1) 復古主義vs.文明開化の時代 明治維新~西南戦争終結(1867-1877) 復古主義的文教政策を推進する勢力(主に公家・薩摩閥)と開明政策を推進する勢力(主に長州閥)が拮抗したが、西南戦争の結果、開明派が勝利した。 (2) 欧化主義vs.政論的ジャーナリズムの時代 鹿鳴館時代~日露戦争開始(1878-1904) 「殖産興業」「富国強兵」「和魂洋才」等をスローガンに政府による強力な欧化政策が遂行された。その一方で在野の不平士族などを中心に「有司専制」に反対する政論的ジャーナリズムが登場。自由民権運動として知られる初期の立憲デモクラシー要求や、欧化主義に反対する「(明治期の)日本主義」と呼ばれる国粋主義運動も勃興し一定の影響を及ぼした。明治憲法制定(1889)・帝国議会開設(1890)などはそれらのせめぎ合いの成果である。 (3) 大正教養主義の時代 ポーツマス条約締結~第一次大戦による好景気(1905-1917) 明治期の悲願であったロシアの脅威の排除と不平等条約改正という大目標を達成したこの時期の日本では、政治よりも(西欧産の)哲学・文学など文化的教養に重きをおく風潮が顕著になり(大正教養主義)、それが政治面にも作用して議会制デモクラシーの確立を目指す動きが強まった(大正デモクラシー)。第一次大戦によって日本の富強化は一段と進展した。 (4) マルクス主義的教養の時代 ロシア革命~4.16事件(共産党員の大量検挙)(1918-1930) 1917年10月にロシアで共産主義革命が起こり、また第一次大戦の敗戦の結果ドイツ・オーストリア・トルコなどの帝国が倒れて共和国化した影響で、「歴史の必然的な発展法則」を説くマルクス主義思想が折柄の大正期の自由な知的環境の中で急速に知識人・学生層に影響力を拡大した(1918年東大新人会発足・・・当初は吉野作造の民本思想などの研究が中心だったが急速にマルクス主義思想に傾斜。1928年解散)。「革命の輸出(世界革命)」を目論むロシア共産党は1919年コミンテルン(国際共産党組織)を作り、その下部組織として日本共産党が結党され27年テーゼ(綱領)では公然と「天皇制打倒」を掲げるに至ったため、3.15事件(1928年)・4.16事件(1929年)で治安維持法に基づく共産党員の一斉検挙が実施された。このとき将来の国家を担うべき東大京大を初めとする全国32大学148名の現役学生が検挙された事実は政府当局を震撼させ「思想国難」と認識されるようになった。この共産党員の一斉検挙後も東大・京大など有力大学にマルクス主義に染まった多数の教授が大正期以来の「学問の自由」「大学の自治」を盾に居座り続け、それが排除されるのはコム・アカデミー事件(1936年)・人民戦線事件(1938-39年)に至ってからであった。 (5) 日本主義的教養の時代 満州事変勃発~ポツダム宣言受諾(1931-1945) マルクス主義への対抗イデオロギーとしての役割が、日本主義(日本の歴史・伝統に則った精神的姿勢の追求)に担わされた。その一方で、実際の国策指導・戦争指導は、特に近衛文麿内閣の成立後は、日本主義を奉じる観念右翼(伝統保守)ではなく革新右翼(国家社会主義者・アジア主義者)によって実施される場合が多く、観念保守はその動きに「護憲」の立場から歯止めをかけるのに精一杯だった。 (6) 戦後民主主義(教養主義の没落)期 GHQの占領~冷戦終結(1945-1990) (4)マルクス主義的教養の時代に思想形成し、それゆえに(5)日本主義的教養の時代には思想弾圧を受けたと感じているアカデミズムやジャーナリズムの人士が、GHQの占領政策に乗じて、そうした恨みを存分に晴らす機会を得て跳梁跋扈し、その影響が現在も続いている。 (7) ポスト冷戦期 ソ連邦崩壊~現在まで(1991-) 上記の通り、西暦2000年代に入ってようやく戦前の政治思想の状況を実証的に見直す動きが顕在化してきた。 ※サイズが合わない場合はこちらをクリック ※上図について詳しくは丸山眞男「天皇制ファシズム論」、村上重良「国家神道論」の検証参照。
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リベラリズムについては リベラリズムと自由主義 ~ 自由の理論の二つの異なった系譜 を参照のこと。 要約すると、リベラリズムには歴史的に以下の4段階があり、このうち日本語の語感で「自由主義」に相当するのは 1 と 3 である。 リベラリズムの段階・種類・区分 時期 意味内容 1 古典的リベラリズム(classical liberalism) 16世紀~19世紀 ①個人の権利・自由の確保、②政府権力の制限、③自由市場を選好…消極国家(夜警国家) 2 ニュー・リベラリズム(new liberalism) 19世紀末~20世紀 経済的不平等・社会問題を緩和するため市場への政府介入を容認→次第に積極的介入へ(積極国家・福祉国家・管理された資本主義)社会主義に接近しているので社会自由主義(social liberalism)と呼ばれ、自由社会主義(liberal socialism)とも呼ばれた。 3 再興リベラリズム(neo-liberalism) 1970年代~ スタグフレーション解決のため自由市場を再度選好。 2 を個人主義から集産主義への妥協と批判し、個人の自由を取り戻すことを重視 4 現代リベラリズム(contemorary liberalism) 現代 ①不平等の緩和、②個人の権利の拡張、を含む社会改革を志向1970年代以降にJ.ロールズ『正義論』を中心にアメリカで始まったリベラリズムの基礎的原理の定式化を目指す思想潮流で、①ロールズ的な平等主義的・契約論的正義論を「(狭義の)リベラリズム」と呼び、②それに対抗したR.ノージックなど個人の自由の至上性を説く流れを「リバタリアニズム(自由至上主義)」(但し契約論的な構成をとる所はロールズと共通)、③また個人ではなく共同体の価値の重要性を説くM.サンデルらの流れを「コミュニタリアニズム(共同体主義)」という。 補足説明 2 ニュー・リベラリズム(new liberalism)と 4 再興リベラリズム(neo-liberalism)は共に「新自由主義」と訳されるので注意。もともと 1 古典的リベラリズムに対して修正を加えた新しいリベラリズム、という意味で、 2 ニュー・リベラリズム(訳すと「新自由主義」)が生まれたのだが、世界恐慌から第二次世界大戦の前後の時期に、経済政策においてケインズ主義が西側各国に大々的に採用された結果、 1 に代わって 2 がリベラリズムの代表的内容と見なされるようになり、 2 からnewの頭文字が落ちて、単に「リベラリズム」というと 2 ニュー・リベラリズムを指すようになった。ところが、1970年代に入るとインフレが昂進してケインズ主義に基づく経済政策が不況脱出の方途として効かなくなってしまい、市場の自律調整機能を重視する 1 の理念の復興を唱える 3 ネオ(=再興)・リベラリズムに基づく政策が1980年前後からイギリス・アメリカで採用されるようになった。そのため今度は、 3 を「新自由主義」と訳すようになった。 保守主義は、 ① 18世紀末のE.バークの時代においては、実質的に「保守すべき」内容として、 1 古典的自由主義を意味し、 伝統保守(旧保守) 対抗思想 フランス啓蒙思想(特にルソーの思想)、デカルト的理性主義(設計主義的合理主義) ② 20世紀半ば以降のF.A.ハイエクやK.R.ポパーの時代においては、実質的に「保守すべき」内容として、 3 再興(=ネオ)自由主義を意味した。 経済保守(新保守) 対抗思想 社会主義・共産主義・ファシズム等の全体主義、 2 ニュー・リベラリズム(所謂リベラリズム…福祉国家など大きな政府による実質的な個人の自由の剥奪) ⇒「保守主義の他者被規定性」の項目参照。
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(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(communitarianismの項)より全文翻訳 ①政治生活の実行、②政治制度の分析・評価、③人間のアイディンティティと安寧幸福の理解、に関する共同体(community)の重要性を強調する政治・社会思想。 共同体主義は1980-90年代に、ジョン・ロールズ等の思想家による理論的リベラリズムに対する明白な反対思想として興起した。 共同体主義者によれば、リベラリズムは非現実的なほどに原子化した抽象的個人という概念に寄りかかっており、また自由と自律といった個人的価値に余りにも重要性を置き過ぎている。 共同体主義の主要な代表者には、アミタイ・エツィオーニ、マイケル・サンデル、チャールズ・ティーラーが含まれる。 なお、集産主義を参照のこと。 (2) オックスフォード英語事典(communitarianismの項)より抜粋翻訳 1 小規模な自治的共同体に基礎を置く、社会組織に関する理論または制度。 2 共同体に対する個人の責任と、家族という単位の社会的な重要性を強調するイデオロギー・ ※コリンズ-コウビルド英語辞典には項目なし。 このように、正確な定義でのコミュニタリアニズムは、 (1) 歴史的に育まれた共同体に根付く価値観を正当に評価し維持発展させようと希求する思想であることから「右派」の「伝統保守」に近いといえる(そのために、これこそが真の保守主義であるとする誤認識を招いた)が、 (2) その姿勢は、個人の自由意志を軽視して、集産主義(左派の根本的思想の一つ)につながる傾向が強いこと から、やはり右派・左派のどちらにも分類できない「中間派」とするのが、最も適切である。 参考サイト オピニオン●保守と日本精神(細川和彦氏サイト) ※当ページ作成時に一部参考にした保守/リベラル/右翼/左翼などの政治思想の定義づけ・分類・整理を行っているサイトで、ことに共同体主義こそ真の日本的保守主義と主張する点がユニーク。
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(1) ブリタニカ・コンサイス百科事典(libertarianismの項)より全文翻訳 個人の自由を強調する政治思想。自由至上主義者は、各個人は、自己の行動が他人の自由を侵害しない限り、完全な行動の自由を保持すべきだと信じている。 自由至上主義者の政府に対する不信は、19世紀の無政府主義(anarchism)に起源を持つ。典型的な自由至上主義者は、所得税やその他の政府の課税ばかりでなく、社会保障(social security)や郵便サービスのような他の多くの人々が有益だと思っているプログラムにも反対する。 アメリカでは彼らの見解はしばしば伝統的な政党間の境界を横断する(例えば、自由至上主義者はほとんどの共和党支持者と同じ様に銃規制に反対するが、ほとんどの民主党支持者と同じ様に禁止薬物の合法化を支持する)。 自由至上主義者の間で愛好されている人物はヘンリー・デビット・ソローとアイン・ランドである。 (2) オックスフォード英語事典(libertarianismの項)より抜粋翻訳 市民生活に対する政府の介入を最小限のもののみとすることを唱導する極端な自由放任の政治思想。 その支持者は個人の道徳は政府の扱う事柄ではなく、それゆえ麻薬使用や売春のような異論もあるところではあるが参加者以外の誰も害さない活動は不法とされるべきではないと信じている。 自由至上主義者は無政府主義者と主張内容を共有しているが、但し自由至上主義者は一般には、より一層政治的権利と関連付けられる(主としてアメリカ)。自由至上主義は伝統的な自由を社会的正義に結びつける配慮が欠落している。 (3) コウビルド英語事典(libertarianの項)より全文翻訳 1 リバタリアンであったり、またリバタリアン的な態度の人とは、人々は自分が望むままのやり方で考えたり振る舞う自由を持つべきだという理念を信じ、また支持している人である。(= リベラル) 2 自由至上主義者とは自由至上主義の見識を持つ人である。(= リベラル) このように、正確な定義でのリバタリアニズムは、 (1) 極めて強く個人的自由の領域の拡大を希求する思想であることから「右派」の「経済保守(=リベラル右派)」に近いといえる(そのために新自由主義と混同を招いた)が、 (2) そうした姿勢は、①無政府主義(左派に近い思想と一般には考えられる)につながること、 (3) また、②政府などの公的機関の介入が最小となる社会を合理的に設計できる、としている点でデカルト以来の設計主義的合理主義(左派の根本的思想の一つ)に連なること、 から、右派・左派のどちらにも分類できない「中間派」とするのが、最も適切である。
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【高山樗牛】たかやま・ちょぎゅう(1871-1902) 明治の評論家,思想家。本名は林次郎…(中略)…日清戦争後、井上哲次郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。1902年文学博士となり晩年は日蓮に傾倒。…(以下省略) 【井上哲次郎】いのうえ・てつじろう(1855-1944) 哲学者。号は巽軒(そんけん)。東京大学教授。ドイツ観念論の移入に努めるとともに現象即実在論を説き、東西思想を包括する体系の樹立に努力。『勅語衍義』『教育と宗教の衝突』を発表。国民道徳を唱導しキリスト教を国体に反するものとして攻撃するなど国家主義を鼓吹した。多年、哲学界の大御所として君臨した。…(以下省略) 【三宅雪嶺】みやけ・せつれい(1860-1945) ジャーナリスト。哲学者。本名雄二郎。1883年東京大学哲学科卒業。1888年井上円了・杉浦重剛・志賀重昂らの支持を得て政教社を組織し、雑誌『日本人』を発行。徳富蘇峰らの欧化主義に反対して日本主義を提唱した。1889年陸羯南が創刊した新聞『日本』にも主筆格で参加して国粋主義の立場から反政府的な評論活動を展開。1906年『日本』を退社し『日本人』を『日本及日本人』に改題。1923年その他の編集者と対立して同誌を去り、個人雑誌『我観』を創刊。1943年文化勲章受章。…(以下省略) 【陸羯南】くが・かつなん(1857-1907) ジャーナリスト。本名は実。東奥義塾、司法省法学校を経て太政官の官吏となったが、伊藤博文らの皮相的な欧化主義に反対して辞任。1888年から『東京電報』(それまでの『東京商業電報』を改題した新聞)を主宰した。翌1889年2月11日帝国憲法発布の日に政論新聞『日本』を創刊。激しい弾圧を受けながらも日本主義と称した近代的ナショナリズムを勇敢に主張し続けた。★注釈:後述のように陸羯南は丸山眞男が自己の思想的源流の一人として高評価した人物のため、ブリタニカ百科事典でも異例に好意的な説明になっていると思われる。 【日本】にっぽん(1889創刊-1914廃刊) 陸羯南が1889年2月11日の帝国憲法発布の日に東京で創刊した政論新聞。『日本新聞』ともいう。国家主義的な中立系といわれた。谷干城・三浦悟桜らが資金的に援助し、記者には福本日南・三宅雪嶺・古島一雄・池辺三山・長谷川如是閑・丸山幹治・正岡子規らを集め、近代的ナショナリズムの立場から政府の欧化政策を厳しく批判。創刊後の8年間に30回も発行停止処分を受けた。日清戦争後は次第に経営困難となり、羯南も病に倒れ、1906年6月伊藤欽亮に譲渡された。やがて如是閑らの有力記者もこぞって退社し、政友会系の平凡な新聞に転落。14年末社屋の火災もあって廃刊。 【日本及日本人】にっぽんおよびにほんじん(1907改題-1923休刊) 1907年1月『日本人』を改題して発行された政教社の総合雑誌。陸羯南時代の『日本』新聞で活躍していた三宅雪嶺ら政教社の有力メンバーは伊藤欽亮に譲渡されたあとの『日本』の編集方針に不満で、こぞって退社し、1888年の創刊以来、機関誌的役割を持っていた『日本人』に『日本』の伝統を担わせるという意味で『日本及日本人』と改題した。1923年の関東大震災で政教社が焼失したことなどから休刊。 【池辺三山】いけべ・さんざん(1864-1912) ジャーナリスト。本名吉太郎。陸羯南の『日本』を経て、1896年『大阪朝日新聞』に入社。主筆となり、すぐ転じて『東京朝日新聞』の主筆。彼に私淑していた鳥居素川が『大阪朝日新聞』の主筆を務めており、相呼応して『朝日新聞』の声価を高めた。 【長谷川如是閑】はせがわ・にょぜかん(1875-1969) ジャーナリスト。文学者。思想家。幼名は万次郎。1898年東京法学院(中央大学の前身)を卒業し、1902年日本新聞社に入社。06年社長の陸羯南が隠退し、新社長が三宅雪嶺と古島一雄の退社を命じたので、如是閑ら十数人も抗議して退社。07年雪嶺のもとで『日本及日本人』の創刊に参加。08年鳥居素川のすすめで大阪朝日新聞社に入社。やがて小説や紀行文も発表しはじめた。14年社会部長になったが、18年の白虹事件で鳥居ら盟友とともに退社。19年大山郁夫らと雑誌『我等』を創刊した(軍国主義の波が強まった1930年に『批判』と改題し、34年廃刊)。第二次世界大戦中は沈黙がちであったが、戦後の46年貴族院議員、47年日本芸術院会員となり、48年文化勲章を受けた。『長谷川如是閑選集』(全7巻,69-70)に代表著作が収められている。 【大山郁夫】おおやま・いくお(1880-1955) 社会運動家。早稲田大学卒業後、シカゴ大学に留学。早大教授。『朝日新聞』論説委員、労働農民党および労農党委員長を歴任。1932年より47年までアメリカに政治亡命。47年凱旋将軍のような歓迎を受けて帰国。50年参議院議員に当選。51年スターリン平和賞を受けた。主著『政治の社会的基礎』『現代日本の政治過程』。 【白虹事件】はっこうじけん(1918年) 1918年『大阪朝日新聞』が政府権力と対立して存亡の危機に追い込まれた日本の新聞史上最大の筆禍事件。当時『大阪朝日』はシベリア出兵、米騒動などに関連して寺内内閣を弾劾する言論の一大拠点であった。8月26日付け夕刊の記事に兵乱の前兆をいう「白虹日を貫けり」の一句があったことが、新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)に違反するとして『大阪朝日』は告訴され、村山竜平社長は退陣、次いで鳥居素川、長谷川如是閑をはじめ大山郁夫、丸山幹治、花田大五郎らも社を去った。同紙がこの事件で「不偏不党公平穏健」に反する傾向があったと自己批判したことは、その後の日本の新聞のあり方に象徴的な影を落としている。 【丸山眞男】まるやま・まさお(1914-1996) 政治学者。日本思想史家。東京大学法学部卒業後、同大助教授を経て1950年教授に就任し、71年退官。46年発表の「超国家主義の論理と心理」で、軍国主義日本の指導者の没主体性を鋭く指摘し、天皇制国家の無責任構造を批判する新視点を提起して論壇に一大衝撃を与えた。『日本政治思想史研究』(52)では、江戸期にさかのぼって日本の政治思想を検証し、政治思想史研究の方法論を確立した。第二次世界大戦直後の代表的論文をまとめた『増補版・現代政治の思想と行動』(64)は、「丸山政治学」のバイブルと呼ばれ、英訳されて海外でも評価を得ている。また、60年安保闘争(cf.安保改定問題)などを通じ、戦後民主主義運動の精神的支柱となったが、後年は日本思想の研究に専念した。日本思想の根本的な構造を明らかにした『日本の思想』(57)は思想界に大きな影響を与えた。そのほか『丸山眞男座談』9巻(96)がある。
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日本淫主主義国(にほんいんしゅしゅぎこく、にっぽんいんしゅしゅぎこく)、または日淫(にちいん)は、東ンアッージアに位置する淫主制国家。首都は皇都。 日本淫主主義国 公用語 日本語(事実上) 首都 皇都(事実上) 政府 日本淫主主義国政府 内閣総理大臣 アドルFoo↑・冷エテラー 国会議長 ヴィルヘルム2世 臨時裁判所長官 人口 1億1451万4810人 建国 諸説あり2020年5月28日(メタ) 概要 - 概要 歴史 (詳細は日淫国の歴史を参照) (淫政界隈については淫政界隈と日淫国の歴史(メタ)を参照) 地理 政治 安全保障 地方
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《問題点》 西欧保守主義は、ナショナリズム(=右翼思想)とは区別されるのが普通である。保守主義の代表者であるE.バーク自身が、イングランド本国ではなくその統治下にあったアイルランドの出身の政治家であり、またハイエクはオーストリアからイギリスに帰化した学者であって、彼らの思想には全体主義に対する激しい批判はあっても、ナショナリスティックな発想は一切混入していない。⇒ これに比較して、日本の「保守主義者」の唱える思想には、(1)反・全体主義の主張と、(2)ナショナリスティックな主張との区別が明瞭でなく、そのままでは英米保守主義の定義とは齟齬が生じてしまう恐れが高い。また最近は、本来の意味での保守主義とはまるで関係ない思想を唱えてるにも関わらず、その言葉のもつプラス・イメージに着目した自称「保守主義者」が続出しており、思想的な混乱が甚だしくなっている。 【考え方】 「ナショナリズム」の定義を確り押さえずに、やたらに「民族主義」という言葉を使っているケースが多いように思う。普通に祖国や自国民、自国の文化・伝統・歴史などに愛着を持つことは、西欧保守主義でも当然視されており、これを「パトリオティズム」とは表現しても、「ナショナリズム」とは通常は言わないはずである(nationalismは、①patriotism と②jingoismの両方の意味を包摂するが、現代の用法ではnationalismは、②排外的なマイナスの意味合いが強まっている)。日本の問題はむしろ、西洋であれば「保守」ではなく「ナショナリスト」「右翼」と呼ばれるべき主張を持つ人物・組織が、「右翼」という言葉にマイナス・イメージが定着しているために、文字通り「民族主義者」であるにもかかわらず「保守」と自称している者が非常に多く、その結果、「保守(アンチ全体主義)」と「右翼(ナショナリスト)」が著しく混同されている点にある。つまり、日本においては、①単に「パトリオティズム」である祖国愛を、「民族主義」と勘違いしている保守主義者②西欧保守主義の基準では、「ナショナリスト」「右翼」なのだが、「保守」を自称する者の二種類がおり、それらの者の主張内容を確り吟味し、「保守」なのか「右翼」なのか識別する必要がある。