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2006年05月14日(日)02時13分-穂永秋琴 索遂公子は九世先の子孫にまで伝えることができるほどの莫大な富を持って、宋代の末、包山に隠遁した。 彼はかつて親戚に語ったことがあった。 「僕には悔しく思っていることが三つ、思うままにならなかったことが三つある。僕の先祖が湖陰に読書のための楼台を構え、家具を揃えて引っ越そうとしたとき、旋風にあおられて舟が転覆したことがあった。そのとき家宝を捨てて湖神に命乞いをしようと、先代の『銅駝記』の墨蹟を棄ててしまった。後になって先祖は湖神に祈ってこれを返してもらおうとしたが、承知してもらえず、ついに病に倒れてしまった。これが悔しく思うことの一つ。 末の弟は八歳のときから師について学問を学び、神童といわれていた。かつて六月、字をつけよう(成人する)というとき、突然の雷で石硯腹の中の亀が撃ち殺され、弟も手に障害を負った。遍く天下に医師を求めたが、治せるものはなかった。これが悔しく思うことの二つ。 舅の鄭虎臣は、木綿庵で天下の賊を討ち取ったけれど、陳宜中に殺害されてしまった。今、宜中は占城(ベトナム南部)に逃れ、僕には舅の仇を討つ手段がない。これが悔しく思うことの三つ。 西山の娘の梁文選は、もともと僕の婚約者だったが、戦乱の中で盗賊にさらわれ、今は★帥のところに入り、寵愛を受けているという。姿を見て得ることが出来ず、ついに路傍のよもぎとなってしまった。これが思うままにならなかったことの一つ。 田圃千畝あまりを、隣村の貧しい人々に与えて耕させているが、聞くところによると互いにそそのかしあって盗賊行為をし、農業に専心しないという。どうやって彼らに刀を置かせ、牛を飼うよう勧めればよいのやら。これが思うままにならなかったことの二つ。 震沢の東生寺は、湖山の景勝にあるが、数十年にわたって高僧が現れず、近頃では淫らな行いがはびこっているという。どうすれば天神の力を借り、黒い行いを排除し、白蓮を開くことができるのだろう。これが思うままにならなかったことの三つだ」 親戚たちはみな切歯扼腕した。 公子は毎年、家の忌日に、南山の僧に食事をふるまった。呉越の僧たちで、鐘に応じて集まるものは、万人をくだらなかった。一人の乞食――ぼろぼろの衣を着て腹を露出し、伸び放題の髪は肩にかかり、頬骨はとがり顎は丸く、眉は整い目は巨きい――が、藤の杖を支えにして進み出て言った。 「ボンクラ坊主どもには飯を振るまうのに、異人の乞食は接待してくれないのですか?」 公子は彼を奇異に思い、来歴を尋ねた。乞食は答えた。 「西域の者です。父母は幼いとき亡くなりました。人の奴僕になろうと思っています」 名前を尋ねると、答えた。 「師に従って道を学びました。名は多利、字は瑪瑙、今年十六歳になります。旅してこの東の地へ来、いくつかの果を終え、いくつかの因を生じました。まだ主を誰にするかは決めていません」 公子は拱手して言った。 「僕は主人たる値打ちがあるだろうか」 乞食は跪いて答えた。 「公子は私を奴僕とすることがお出来になります。私は大言壮語するだけの輩ではありませんよ」 そこで公子は彼を屋敷に連れ帰り、提供する衣食は公子自らが検分した。瑪瑙は日ごろ怠けていて、公子の召使たちから嫌われていた。公子は召使たちを戒めて言った。 「彼はおまえたちの仲間になるような者ではない。憎みあうことがあるか」 召使たちはみなひそかに笑った。 一年あまりして、瑪瑙は病にかかり、公子はこれを憂えて、日夜そばについていた。瑪瑙は小さな声で言った。 「私は薬では治りません。門下の客の★姓は、あなたの侍女を欲しがっており、与えるならばともかく、断るならば凶行を防ぐ備えをしなければなりません。あなたは今年、この厄運にあたっており、私はあなたのために妖星を探し出して誅戮いたします」 公子はこれを心に留めた。★姓は北方の人で、のち南に渡り、国変ののち、公子の客となったのである。公子は彼を礼儀をもってもてなした。この人は酒色を好み、侍女の雕雲を見てほれ込んでいたのだった。ある日酔っ払ったとき、果たして公子に頼み込んだが、公子の答えはこうだった。 「差し上げるのにやぶさかではないが、この娘は武人に仕えるのを願っていない。雕雲の次に欲しいと思うのは誰か」 ★姓は恥じて耐えられなくなり、言った。 「私は確かに武人です。もし私がろくでもないことを考えたならば、あなたは文士ですから、無事でいられるでしょうかな」 大笑いして出て行った。ある夜、鶏が鳴いて人々が起き上がるころ、★姓は突然剣を振り回してまっすぐに寝室に向かい、門をくぐって入りこみ、公子を捕えようとした。公子は驚いたが、助けを呼ばないうちに、★姓の身体はばったりと倒れ、首は瑪瑙の手にあった。公子は感謝して言った。 「素晴らしい、どうやってこれほど速く私を助けられたのだ?」 瑪瑙は答えず、★姓の首を地に投げ捨てた。召使たちがやって来ると、瑪瑙は怒りの表情で去っていった。公子が召使たちと瑪瑙のところへ行くと、彼は水が欲しいとうなっていて、先ほどのことを尋ねると「知らない」と言う。公子は感嘆して、彼を神人であると思った。 公子は召使たちを下がらせると、ひとり床の下に拝跪した。瑪瑙は飛び起きて公子を助け抱き、その顔に水を吹きかけると、公子は昏倒した。瑪瑙が公子の腰を強くもむと、一匹の犬が出てきて、走って逃げた。瑪瑙は指で犬の腰を断ち切ると、石を劈くかのようだった。公子は腰に少し痛みを覚えて目を覚ました。瑪瑙は言った。 「あなたが賤しい者と交わるのを恥とせず、最高の敬意をもって接してくれたのに、私はそれにお応えできずにおりました。先ほど天狗(てんこう)を腰のあたりで捕え、誅殺いたしました。妖星は除かれましたので、福が至るでしょう」 「あなたの病を治すため、医者と相談してみよう」 「私はもともと病ではありません。病んだのは誅殺しなければならない者がいたからです」 公子はすぐに瑪瑙を密室に連れて行き、跪いて三つの悔恨事を告げた。瑪瑙は言った。 「医者を探すのは難しいですが、あとの二つは容易いことです。まずは海外に行かせて下さい。私が死んだようになったら、すぐ身体を氷室に入れ、公子の竜眼珠を口に含ませてください。十日のうちには帰ってきて報告いたします」 「あなたの身体を不壊のものとするためなら、どうして宝玉の一つを惜しむだろう」 翌日、召使たちが瑪瑙が突然死んだと告げてきた。公子は命じて瑪瑙の身体を氷室に入れさせ、口に珠を含ませた。それから一日中、彼のそばで見守った。 七日経って、突然叱咤する声を上げ、一丈あまりも跳び上がって、また目を閉じた。 十日後、にわかに跳ね起きて、懐から骨のかけらを二つと玉の印章とを取り出して言った。 「私は五色の蛟竜に跨って海を渡ろうとしましたが、蛟のやつが間違って北の方に向かったので、その背中を血が出るまで鞭打ってやりました。三日かかって東南の島にとって返し、占城に入って、宜中の足取りを追いましたが、一ヶ月前に商人の船に乗って臨安に帰っておりました。私は風の具合が良くないのを見て、あるいはまだ南海に留まっているのではないかと思い、海の人たちとともに舟に乗って西南に行き、暹羅国でやつを見つけ出し、岸辺で仕留めました。宜中は占いをよくするので、不測の事態があるのを知って舟を棄て岸に逃れたのですが、わたしは岸辺に追いつめてやつを捕えたというわけです。やつの身をあらためると、玉の印章がありました。私はそれから、やつの心臓をえぐって舅君の鄭さまを祭りました。やつの骨二かけらと玉の印章を証拠にし、やつの屍を海に沈めて、報告に戻って参りました」 口に含んでいた珠を吐き出すと、宝石は輝石に変じていた。公子は感謝した。 瑪瑙は言った。 「先祖の墨蹟を取り戻すためには、まず震沢君に会わなければなりません。彼は書道を愛好しており、水曹の官についています。荒っぽいことは必要ありません。一人、手助けする者を私につけてください」 公子は水練に長けた菰蘆生を彼と共に行かせた。瑪瑙は湖岸に至ると、ぶつぶつと数語をつぶやき、字を菰蘆生の掌に書いて、「握ったまま、開いてはならない」と命じてから、水を破って進んでいった。進んでいって門を過ぎ、竜君の宮に入った。瑪瑙が礼をすると、魚介の族たちは彼に従った。竜君も応じて挨拶をした。瑪瑙は言った。 「索家の鸞驚の墨蹟は、晋代以来今に至るまで、見ようと願わない者はありません。大王はどうして秘匿しておかれるのですか」 「確かにあるが、ただで見せてあげるわけにはゆかぬ」 瑪瑙は手中の竜眼珠を出し、また口中に入れてしばらく呪文を唱え、吐き出して献上した。竜君は言った。 「もちろん、わしもそなたが珍しい贈り物をくれると知っておったとも」 左右に命じて、第三架第二軸の字幅を取ってこさせた。瑪瑙は見終わると、菰蘆生に渡して言った。 「おまえはただちにこれを持ち帰って若様に報告せよ。私は竜君と話をしてからすぐ帰る」 竜君は大いに驚いて問うた。 「お客人、どこへ持って行くおつもりか」 瑪瑙は色を正した。 「索公子にお返しし、大王の廉潔を全うしようと思います。お嫌でしたら、私を人質になさい」 竜君は客の意図が凶悪であるのを見て、尋ねた。 「あなたは智をもって取ろうというのか。力をもって取ろうとするのか」 「最初は智慧を用いました。今は力を使うときです」 剣を抜いて示すと、竜君は恐れをなし、謝罪した。 「五本の真宰佩剣のうち一本があなたの手にあるとは知らなかった。沢に住む山椒魚如きに、どうして否やがあろう」 「大王は文士であられるから、私も落ち着いて話せます。それに、差し上げた珠は充分に交換する価値があるものですよ」 竜君は酒を献じた。瑪瑙はそれを乾すと退出した。公子は礼をして祖先の霊に報告した。 瑪瑙は問うた。 「石硯腹の中の亀は、雷に撃ち殺された後、骨は残っていましたか?」 「弟が傷を負ったあと、亀の屍骸は風にさらわれていってしまった」 「では撃ち殺されたのではありません。仏氏が命じて取ってこさせ、蓮池で飼っているのでしょう。こうなると、弟君の治癒はさらに難しいと思われます」 「ではどうしたものだろう」 「ひとまず力は尽くしてみます。うまくいくかどうかは分かりません」 そこで臥して呪文を唱え、蔡山君を呼んで尋ねた。答えがあった。 「もともとわしは介部の長であり、同類のものは全てその出処を知っていた。しかし災いによって、上天はわしの官位を剥奪し、江淮の支氏に預けられた。それで情報も今や入ってこなくなっている。硯中の亀のことも多分聞いたことがない」 瑪瑙は叱咤して彼を立ち去らせた。南朝の寺を調べてみると、半分は蓮池を置いている。そこで江南に旅してまわった。盧山に至り、遠くから蓮を見ると、いずれの花も葉も変わった様子はない。ところが一株だけ、花が小さいながらも妖艶で、葉に斑がないものがある。瑪瑙は疑い、すぐさま呪文を使った。竜が変じた者たちは全て、蓮のきわに頭を伏せて出てこないか、這い出て呪に伏するところとなった。ただ一匹の亀は地に伏してはいたが、片目を僅かに開けて怖れている様子だった。瑪瑙は亀たちをさらせ、ただ片目を開けた者だけを離さず、簪を抜いてその腸を突き刺し、白血を出させ、杯でその血を受けた。亀は息絶え、蓮は萎れた。遠公がたちまちやって来て、瑪瑙に礼をして言った。 「異人どの、すでに腸を取ったからには、どうぞ命をお返しください」 瑪瑙は萎れた蓮に向かって三度息を吸い、亀の鼻に返した。亀は動き始め、会釈をして感謝した。この亀が蓮の下に入ると、もとのように花が開いた。瑪瑙は言った。 「蛮人の行いは性急なものです。先生はどうやって私を立ち去らせるおつもりですかな」 「異人どのは要するに、愚僧を役に立たせようというわけでしょう」 遠公はそう言い、蓮の葉を折って江の中に投げ入れた。瑪瑙がその中に跳び入ると、遠公は扇を振って道を示した。蓮の葉は牛渚から潤州に入り、晋陵に出て、具区、つまり包山の麓に達した。 公子とともにその末弟を見舞うと、針を刺したかのように小さな穴が開いて、黒い血がつつと流れており、悲鳴を上げていた。瑪瑙は手に入れてきた亀の腸の白血を取り出し、小さな穴の中に注ぐと、黒い血は流れなくなった。公子の末弟は悲鳴を上げなくなり、ただ治ったと告げた。手や指を動かすと普通の人と同じようであった。彼は瑪瑙の前に拝跪した。 どうして治ったか尋ねると、瑪瑙は答えた。 「亀が撃たれたとき、死気が外に流れたのです。つまり黒い血は雷撃の余威ではなく、亀の死気が流れてきたものだったわけですな。亀が生きていたのなら、その気もやはり生き、死んだ気を収めることができるのです。それにしても、物を追いかけ神を煩わせ、私はいささか疲れました。若君の病は実に治すのが難しいものでした」 家を挙げて初めて末弟のためにお祝いをした。 瑪瑙は突然心配顔になり、公子に言った。 「公子のお顔にはどうもよからぬ兆しが出ております。死に至るようなことはなくとも、厄介事が起こりましょう」 公子が詳しく述べるように言うと、答えた。 「盗賊の災いがありますが、五日以内に治まるでしょう。まずはこの家の人々を呼び出し、私に占わせてください。それから急いで備えをしましょう」 公子はすぐに全員を呼び出し、占わせた。瑪瑙は言った。 「他の者には問題はありませんが、第二夫人と三歳のご令嬢には杖の災いがあるでしょう。お助けいたします」 そこで札を書いて公子の娘の胸元に納めさせ、また丹砂で文字を書いて夫人に握らせた。さらに公子に言った。 「あなたが傷つかなければ、盗賊を捕えることができません」 公子の右ひじに呪文を書き、時期が来たら盗賊の刀を防がせるようにした。 このとき、東生寺には悪僧が多く、商売女どもを囲い、無頼の行いをし人をさらっていた。江西の僧で永円というものがいて、金剛禅を習得し幻術を使うことができた。彼の師は山に入って盗賊たちを仲間に引き入れていたが、文提刑のために誅された。永円は弟子二人とともに海東に逃れたが、この二人も術法に習熟していた。彼らは東生寺が乱れていることを聞きつけ、これをねぐらにした。彼らはこの付近で盗賊行為を働いている者に会うと、どこの家が財産を蓄え、誰が美女を置いているかを尋ねた。みな索家の名を挙げた。永円らは翌日の夜にことを行うことに決めた。 明け方、永円に会いにきた者がいて、言った。 「私は索氏のしもべの瑪瑙です。彼は日ごろ酷薄で、童僕たちはみな逃げ散ってしまいました。私は西域のものですから、行くところがありません。どうか寺で使ってください」 永円は索氏を襲う計画のことを言い、役に立つ者でなければ寺に入れないと言った。 「貴様は何ができる?」 その人は言った。 「索氏を襲う計画があるなら、案内ができます」 永円が耳を傾けると、その人は情報を与え、攻撃する作戦を描き出して見せた。永円は彼を弟と呼んだ。 この日の夜、瑪瑙は僧賊の輩を導き、午後十時ころ、たいまつを灯して公子の館を襲った。公子は自ら武器を振るって防いだが、盗賊に斬り倒された。屋敷の奴僕たちはみな竦みあがって戦えなかったが、ただ一人瑪瑙に似たものが拳を振るって戦ったが、やはり盗賊に斬り倒された。屋敷の中に入ると美しい姫がいたので、永円が彼女に迫ろうとすると、激しく罵られた。永円は怒り、杖でもってその頭を打ち、彼女が抱いていた女の子も傷つけてから、逃げて隠れた。 瑪瑙は僧賊の輩を案内して蔵の中へ入ったが、半数は厠の中に落ち、為す所なくして捕えられた。残り半数はほしいままに略奪していったが、奪われたのはみなガラクタばかりで、貴重な品は無事であった。 翌朝になって、公子は捕まった盗賊たちを連れて県知事のもとへ出向いた。知事が盗賊たちの内情を尋ねると、みな索公子の奴僕の瑪瑙が案内し、三人の僧が主導して、ほかはみな近村の民、つまり公子の田を借りている者だと述べた。知事がまず瑪瑙を捕えようというと、早くも僧賊の中から出てきて、言った。 「私を尋問するより、すぐに数十人の捕手を派遣し、私と共に東生寺へ向かわせれば、盗賊の首魁もそれ以外も、ことごとく捕えることができるでしょう」 知事はこれを許した。瑪瑙は捕手たちを連れて行き、盗賊たちを残らず捕えたが、永円と弟子たちは見つからなかった。捕手たちは怖れたが、瑪瑙は言った。 「大丈夫だ。屋根の下に墜落してくる者がいたら、すぐに捕えてくれ。私はあなたたちのために力を貸そう」 捕手たちは感激した。瑪瑙が空に向かってなにか梵語をつぶやくと、羊のように大きな二匹の鼠が、屋根の下に落ちてきた。捕えるように言ってから、彼自身は屋根の上に上った。人と戦うような音がした。しばらくもしないうちに、瑪瑙の首が屋根の下に落ちてきた。捕手たちはあっと驚いた。瑪瑙の声が屋根の上から聞こえてきた。 「すぐにその首を持って穴を開け、縄でつなぐのだ」 捕手たちは甚だ驚いたが、これに従った。瑪瑙はたちまち扉の後ろから現れ、言った。 「あなたたちの手柄を手伝えたな」 水を含んで鼠たちに吹きかけると、人の形、永円の弟子の姿に戻った。舌を噛んで血を首に吹きかけると、永円の肩胛骨が縄に穿たれた。捕手たちは瑪瑙を神人だと思い、知事のもとに戻って報告した。知事は大いに喜び、罪を許そうとすると、僧賊たちが大声で言った。 「牢獄に死んだ法律はない。瑪瑙は主に背いて盗みを行ったのだから、罪を逃れることはできないはずだ」 知事はぐっとつまった。瑪瑙は抗弁しなかった。知事がまさに罰を下そうとしていると、右腕を包んだ公子が、頭を包んだ瑪瑙を連れて現れた。二人の瑪瑙は互いを見て密かに笑い、その場にいた人々は騒然となった。頭を包んだ瑪瑙は言った。 「彼は私の弟です。三人の僧を捕えるのに微功があり、盗賊を助けた罪を贖うのに足りるでしょう。私は盗賊に斬られたので、すぐ死ぬことになります。何をして償えばいいのでしょうか」 すぐに頭が破裂して地に倒れ、死んだ。罰を受けようとしていた瑪瑙は、階下から大声で言った。 「私は盗賊たちと共に死にたいと思います」 知事は涙を流した。公子は進み出て知事に請うた。 「彼の兄は死にました。僕はその弟に情けをかけたいと思います」 知事は二つ返事で承諾し、瑪瑙に兄の亡骸を背負わせ、公子とともに帰らせた。それから三人の僧と民たちをみな斬り殺し、首を門にかけた。 公子が帰ると、瑪瑙は瑪瑙が背負っていた屍と一つになっていた。彼は公子に告げて言った。 「東生寺は阿育王が建立したところです。私はここで生涯を終えたいと思うのですが、お許しくださるでしょうか」 「それは難しくないことだが、残念ながら僕はまだ俗世に留まるつもりだ。また会えるだろうか」 「前のことは終わりましたが、後のことは起こっていません。あなたと縁なく終わるなどありえないでしょう」 かくして瑪瑙は東生寺の主となった。語録の士で、空を語ろうと試みるものに対しては、蝿叩きで追い払ったので、みな押し黙って帰っていった。公子はあるときここを訪ねてきて、ともに丈室で眠った。その夜、寺院の裏手で酒を飲み博打を打つ音が聞こえてきて、やがて大騒ぎになった。公子は起き出していってその様子を窺うと、瑪瑙が龍のような髯を生やした人と明かりをつけて双六遊びに興じていた。酒の香りが強烈に漂ってきた。瑪瑙は甕のそばに座り、二人の童子が大きな杯に注いでいたのだ。丈室に寝ていた瑪瑙の様子を見やると、しっかりと座禅を組んで瞑想していた。 のち、中秋の雨の日、また寺を訪ねていくと、そこだけが晴れ渡っていた。瑪瑙は公子を誘って言った。 「望月が上ったら、魔女の戯れを見に行きませんか」 公子は諌めた。 「以前の酒と賭博のことだが、僕にはあなたが理解できなかった。あるいは幻で僕を試しているのかと思って何も言わなかったが。今、魔と戯れるなどと、恐らくは名を汚すことになろう。あなたもまた色を好むのか」 瑪瑙は言った。 「あなたのために席を設けるのですよ。そもそも生ける者は歳月によって栄え滅び、優れたところは消えるところ、あるものはないもの。どうして静かにご覧にならないのです?」 月が昇ると、僧たちが寺院の中に入って雨を避ける音が聞こえた。公子は尋ねた。 「どうして同じ屋敷の中で景色が異なるのだろう?」 「同じ景色の中にいても、得るものは異なるのですよ」 庭に突然とばりが張り巡らされた。笙の音が月から下りてくるのが聞こえた。しばらくすると、うすぎぬの白い衣を着た女たちが、十二の列を作り、瑪瑙の前で舞を舞ったが、公子には目をくれなかった。瑪瑙はたちまち行列の中に跳びこみ、一人の女を抱きかかえた。女たちは争い、瑪瑙はとばりの外に走り出て、すぐに寂然として静かになった。公子はとばりの中をうろうろ歩き、先ほどの光景は幻であって真実でなく、考えすぎるべきでないと思いかけた。白衣の女が一人、とばりの外から入ってきた。どうも見覚えがあるような気がして思い出してみると、西山の梁文選である。公子は驚いて尋ねた。 「十年も会わないうちに美しくなったな。それにしても、あなたは都に帰り、僕の心はすでに枯れてしまったというのに、また会えるとは思わなかった」 「★帥はよそで宴をしていたのですが、急病にかかって起きられなくなったと報せがあり、夫人がわたくしに様子を見てくるよう命じたのですが、どうして公子と会えると思ったでしょうか。それにしても、千里を隔てて明月をともできたのですから、いつかまたお会いするのも、きっと容易でございましょう」 言い終わると不意に風が起こり、彼女はとばりとともに消えた。公子は細雨の中に立っていた。 寺院の中に戻ると、瑪瑙が座っていた。 「かつて道を学んだ師匠のところへ帰ろうと思っています。十八日、胥江に潮が現れる日、見送りに来てください」 公子は呆然として帰った。 深夜になって、梁文選が早舟に乗ってやって来て、門に入ってから言った。 「瑪瑙師匠がわたくしのために獄に下されました。あなたはしばらくの間、家を去って江淮に行ってください」 公子はすぐさま舟に乗り、十八日に胥江に至った。すると瑪瑙が五色の蛟龍に跨り潮に乗って行き、手を挙げて公子と別れの挨拶をした。 九月になって、公子は江淮でようやく都からの報せを聞いた。瑪瑙は八月十六日、★帥の屋敷に入って梁文選をさらい、★河に入って逃げた。★帥は自ら兵士たちを引き連れて追った。瑪瑙は梁文選の船を隠してから★帥の軍勢と戦い、捕えられた。尋問には何も答えなかった。十八日、★帥は瑪瑙を市街で斬った。公子と胥江で別れの挨拶をした時刻だった。 またこの日、東生寺で瑪瑙の説教を聴いた者が千人もいた。瑪瑙は言った。 「潮には生まれる日はなく、死ぬ日だけがあります。衆生に譬えれば、苦しみだけがあって死ぬ日がないようなものです。潮は汐を以って死ぬ日としますが、衆生は何を以って死ぬ日としますか?」 人々はみなうなずき、泣き出す者もいた。 また同じ日、公子の末の弟が門によりかかって景色を眺めていると、瑪瑙が欣然とした様子でやって来て言った。 「若君様の、すでに治ったところの傷ですが、筆をとるときに傷跡を見れば、着想の助けになるかと存じます」 公子の末弟はこれを信じた。 この二つの出来事について、公子は自邸に帰ったあとに知った。 解題 本稿は清代の短編小説集『★★雑記』に収録されている「西域奴」の翻訳で、作者は屠紳(1744~1801)である。 屠紳は字を賢書、号を笏岩といい、若くして進士となり、雲南師宗県の知事や、広州の通判などの役職を歴任した。作品としては『★★雑記』(のち『六合内外★言』に改題)のほか、随筆集『鶚亭詩話』、長篇の文語小説『★史』がある。屠紳は古書を好み、自分の作品も古雅な難しい文体で書いた。そのため自然な趣といった点では同時代のほかの小説作品に劣ることとなったが、華美艶麗で奇抜な、一種独特の風格を醸し出すことに成功しており、清代小説史上に一定の地位を占めている。魯迅『中国小説史略』でも言及されている。 とは言うものの、一読者として彼の小説を読むのはたいへん困難だ。これは中国人にとっても同じらしく、特に『六合内外★言』は近代になってから一度も活字本として出版されていないようだ(影印本は出ているが)。そのためこの翻訳の中にも相当量の誤訳があると思う。読者諸賢の叱正を待つのみである。 底本は程毅中編『古體小説鈔 清代巻』(中華書局、2001年)に収録されているものを用いた。この本は清代のさまざまな短篇集から秀作を集めた便利なアンソロジーで、『★★雑記』からは五編が収められている。 第六回サークル賞に投稿します。 分身もの&義侠もの。瑪瑙かっこいいですな。詳しい解説はのちほどで書きます。 翻訳するものを間違えた。ちょっと面白そうだからって、こんな難しいものを選んでしまうとは……。 いつも以上に誤魔化したり訳出しなかったりしたフレーズが多。あと、文中の★は表示できない文字。冊子に載せるときは手書きにするとか、何か手段を講じよう。 解説をつけた。短篇集のタイトルにしてからが表示できないという。中国ですら入手困難なので、日本での出版なぞ夢のまた夢。
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唐書巻二百二十二上 列伝第一百四十七上 南蛮上 南詔上 南詔は、あるいは鶴拓といい、または龍尾、または苴咩、または陽剣といった。もとは哀牢の夷の後裔で、烏蛮の別種である。夷の語で王を「詔」という。その先祖の頭目は六あり、自ら「六詔」といい、蒙巂詔・越析詔・浪穹詔・邆睒詔・施浪詔・蒙舎詔である。兵は隔てられ、君公と相対することはできなかった。蜀の諸葛亮がこれを討定した。蒙舎詔は諸部の南にあり、そのため南詔と称した。永昌・姚州の間、鉄橋(雲南省江県西北、故巨津州北百三十里)の南におり、東は爨(さん)を隔て、東南は交趾に属し、西は摩伽陀(マガタ)、西北は吐蕃と接し、南は女王国、西南は驃(ピョー)、北は益州にあたり、東北は黔・巫を境界とした。王都は羊苴咩城で、別都を善闡府といった。 王は東に向かって座し、その臣は整列し、述べるところがあっても臣とは称さない。王は自らを「元」といい、「朕」というようなものである。その配下のことを「昶」といい、「卿」「爾(なんじ)」というようなものである。官を坦綽・布燮・久賛といい、これを清平官という。国事の軽重を決する所以であり、唐の宰相のようなものである。酋望・正酋望・員外酋望・大軍将・員外軍将というのは、試官(正式に任命されていない官吏)のようなものである。幕爽は兵を司り、琮爽は戸籍を司り、慈爽は礼を司り、罰爽は刑を司り、勧爽は官人を司り、厥爽は工作を司り、万爽は財務を司り、引爽は接客を司り、禾爽は商売を司り、みなは清平官・酋望・大軍将がこれを兼任した。爽は省のようなものである。督爽は三省を統べる。乞託は馬を司り、禄託は牛を司り、巨託は穀物貯蔵庫を司り、また清平官・酋望・大軍将がこれを兼任した。爽酋・弥勤・勤斉というのは賦税を司る。兵獳司というのは、機密を司る。大府の主将を演習といい、副官を演覧という。中府の主将を繕裔といい、副官を繕覧という。下府の主将を澹酋といい、副官を澹覧という。小府の主将を幕撝といい、副官を幕覧という。府には陀酋があり、文官のようなものである。陀西というのは判官のようなもので、大抵このようなものである。たいてい動員がかかれば、文書を下して村に集め、必ずその時期を占った。百家には総佐が一人、千家には治人官が一人、万家には都督が一人いた。たいてい田五畝を双といった。上官には田四十双を、上戸には田三十双を授け、これには差があった。壮者はみな兵隊となり、馬があれば騎兵となった。人は毎年皮の衫(はだぎ)・袴を給付された。村落の遠近によって四軍に分け、旗幟によって四方に分け、一将に面して千人が統率され、四軍に一将を置いた。おおむね敵が国境に侵入すれば、侵入に面した将がこれを防いだ。王の親兵を朱弩佉苴という。佉苴というのは皮帯のことである。郷兵から選んで四軍の羅苴子とし、朱色の鞮鍪(皮兜)を被り、犀革の銅盾を背負って跣(はだし)となり、険しい地を走っては飛ぶかのようであった。百人に羅苴子を置き、一人が統率した。 望苴蛮というのは、蘭蒼江の西にあった。男女ともに勇ましく敏捷で、鞍をつけずに騎乗し、よく矛剣を用い、短甲で胴体を覆い、皮兜にみな猫や牛の尾を挿し、突撃すると神の如くであった。おおむね出兵すれば、望苴蛮の子弟が最前列となった。清平官の子弟を羽儀とした。王の左右には羽儀の長八人がいて、清平官は王にまみえては佩剣することができず、ただ羽儀の長が佩刀して親信とした。六人の曹長があり、曹長は軍功によって大軍将に補任された。大軍将は十二人、清平官と等列で、日々議して王の所に仕え、出ては軍を治めて節度と称し、ついで清平官を補佐した。内算官があり、王に代わって裁許した。外算官は、王の所を記して処理し、六曹に付した。外には六の節度があり、弄棟・永昌・銀生・剣川・柘東・麗水といった。二の都督があり、会川・通海といった。十の瞼があるが、夷語で瞼というのは州のようなもので、雲南瞼・白厓瞼(または勃弄瞼という)・品澹瞼・邆川瞼・蒙舎瞼・大釐瞼(または史瞼という)・苴咩瞼(または陽瞼という)・蒙秦瞼・矣和瞼・趙川瞼がある。 祁鮮山の西は熱病が多く、地は平らかで、草は冬でも枯れない。曲靖州から滇池までは、人は水耕し、蚕は柘(やまぐわ)を食べ、蚕は生まれて二十日ほどで繭となる。錦縑を織れば精緻である。大和・祁鮮から西の人は養蚕せず、波羅樹の実を割く。形は綿のようであり、紐縷(ひも)で布をつくった。覧瞼の塩井より産する塩が最も鮮白であり、ただ王が食べることができ、取るに足ればすぐに滅窯してしまう。昆明城に複数の塩井があり、皆塩を算出するが、王は食さず、群蛮がこれを食す。永昌の西に桑が石の上に自生し、その林上にまげて両向きとして下に植え、採取して弓とし、漆を塗布しなくても強弓となり、名を瞑弓という。大河や山々には往々として金が採れ、または砂をさらってこれを得た。麗水には多くの砂金を含む。越睒の西には薦草が多く、良馬を産し、世上に「越睒駿」という。始め仔馬が生まれると、一歳までは莎(はますげ)を手綱として繋ぎ、米のとぎ汁を飲ませ、七年して御せるようになり、一日に数百里を馳せる。 王が出御すると、八旗を建て、紫もしくは青で、白の斿(旒さお)がつき、雉翣(雉の羽飾り)が二あり、旄鉞(旗と斧)は紫の袋を被せ、翠蓋(緑色の傘)もある。王母は信麼といい、または九麼ともいう。妃を進武という。信麼が出ると、また八旗を建てる、白の斿(旒さお)がつく。曹長以降は金の佉苴(革帯)に繋ぐ。上位物は絳紫(青紫色)である。功績があれば錦を加え、さらに功績があれば金波羅を加えた。金波羅とは虎皮である。功が少ない者は、襟の背中に袖をつけず、次は衿のみとする。婦人は化粧をせず、紫蘇で髪を潤わせる。貴族は綾錦の肌着で、上より錦一幅を羽織る。両股辮(三つ編みツインテール)を髷とし、耳に珠貝(アコヤガイ)・瑟瑟(ラピスラズリ)・虎魄(琥珀)をつける。寡婦は人と関係を持つことは禁止されておらず、結婚は夕方に行い秘密裏に婚家に送った。すでに嫁している者が他者と姦淫に及べば、皆死罪となった。俗では寅正(一月を正月とする)とし、ほとんど大抵は中国と大同小異である。膾魚は一寸ほどで、胡瓜・山椒・蔱(グミ)をあえ、「鵞闕」と称した。瓢笙を吹き、笙は四管で、酒は客前で笙を吹いて盃をすすめて飲み干させた。繒(かとり)の布を市場で貝と為替した。貝の大きさは指ほどで、十六枚で一枚が得られた。軍隊が行軍すれば、人は糧を一斗五升もたらし、二千五百人を一営とした。その軍法は、前に傷がある者は治療し、後に傷がある者は斬刑とした。田を耕作するのに牛一匹に三人がつき、前は曳き、中は押し、後ろは走った。しかし農事を専らにし貴賎なく皆耕作した。繇役せず、人は一年に米二斗を租税で納めた。一芸ある者は田を給し、二芸の場合は収めて税とした。 王は蒙氏で、父子は名を相続した。舎尨より以来、系譜の順序があるが考察すべきである。舎尨は独邏を生み、または細奴邏といい、高宗の時に遣使して入朝し、錦袍を賜った。細奴邏は邏盛炎を生み、邏盛炎は炎閤を生んだ。武后の時、盛炎は自ら入朝し、その時に妻はまさに妊娠しており、盛邏皮を生み、喜んで「私にはまた子がある。唐の地で死んだとしても満足だ」と言った。炎閤が即位し、開元年間(713-741)に死んだ。弟の盛邏皮が即位し、皮邏閣を生んだ。特進を授けられ、台登郡王に封ぜられた。炎閤にまだ子がなかった時、閤羅鳳を後嗣としていたが、子が生まれたため、宗家に血筋を戻すよう、名を承閤としたが、ついに改め戻されなかった。 開元年間(713-741)末、皮邏閣は河蛮を駆逐し、大和城を奪取し、また大釐城を襲撃してこれを守り、因城の龍口によった。夷語で山の起伏を「和」といい、そのため「大和」といい、閤羅鳳の居所となった。天子は詔して皮邏閣に帰義の名を賜った。この時になって五詔は弱体化し、帰義ひとり強く、厚く剣南節度使の王昱に利益誘導し、六詔を合わせて一つとなることを求め、裁可された。帰義はすでに群蛮に並び、ついに吐蕃を破り、次第に驕慢となった。入朝し、天子はまた礼を加えた。また渳河(洱海)の蛮を破った功績によって、勅使を馳せ遣し冊封して雲南王とし、錦袍・黄金螺鈿の帯七事を賜った。ここにおいて大和城に遷り治めた。天宝年間(742-756)初頭、閤羅鳳の子の鳳迦異を遣わして宿衛に入れ、鴻臚卿を拝し、恩賜はまことに他の人と異っていた。 天宝七載(748)、帰義が死ぬと、閤羅鳳が即位し、王を襲名した。その子の鳳迦異を陽瓜州刺史とした。それ以前、安寧城に五箇所の塩井があり、人は竈で煮て自給していた。玄宗は特進の何履光に詔し、出兵して南詔の境を定め、安寧城および塩井を奪取し、再度馬援の銅柱を立てて帰還した。 鮮于仲通は剣南節度使を領したが、性格凶暴で知略に乏しかった。南詔はかつて妻子とともに都督に謁してから雲南を通過するのが慣習であったが、太守の張虔陀が私にし、多くを要求したが、閤羅鳳は応じなかった。張虔陀はしばしば罵って物惜しみし、陰でその罪を表したから、閤羅鳳は怒って反き、兵を発して張虔陀を攻めて殺し、姚州および小夷の州およそ三十二を奪取した。翌年、鮮于仲通は自ら率いて戎・巂州を出て、二道を分けて進み曲州・靖州に次いだ。閤羅鳳は使者を遣わして謝罪し、「願わくば捕虜を返還し、自ら刷新して姚州に築城したいです。もし聴されないのなら、吐蕃に臣属しますが、そうなると、おそれながら雲南は唐の地ではなくなるでしょう」と言ったから、鮮于仲通は怒り、使者を捕らえ、進軍して白厓城に迫ったが、大敗して撤退した。閤羅鳳は戦死者を埋葬して京観を築き、ついに北は吐蕃に臣従し、吐蕃は南詔を弟とした。夷(吐蕃)では弟を「鍾」というから、そのため「賛普鍾(ツェンポの弟)」と称し、金印を賜い、「東帝」と号した。碑を国門に掲げ、やむをえず叛いたことを明らかとした。かつて、「我は昔より代々中国を奉り、封賞をかさね、後嗣は容れて帰順した。もし唐の使者が至り、碑文を指すことができれば我が罪を洗い祓うだろう」と言った。たまたま楊国忠が剣南節度使となって国にあたり、すなわち天下の兵およそ十万を整えて、侍御史の李宓をしてこれを討伐させたが、補給するものがおらず、海(洱海)を渡って疫病で死んだ者は道に相次いだ。李宓は大和城で敗れ、死者は十人中の八人に及んだ。またちょうどその時安禄山が叛乱し、閤羅鳳はこれによって巂州会同軍を奪取し、清渓関によった。越析詔を破り、越析詔王の于贈を梟首した。西は尋伝蛮・驃の諸国が降った。 尋伝蛮は、習俗は糸や綿がなく、裸足で棒や茨を踏んでも苦しまない。豪猪(ヤマアラシ)を射て、その肉を生食する。戦えば、竹籠を頭に兜のように被る。その西に裸蛮がいて、または野蛮ともいい、山中に散漫し、君長がおらず、檻のような家をつくって居住した。男は少なく女が多く、田を耕さず、木皮をもって体を覆う。婦人は十ないしは五人で一人の男子を養う。広徳年間(763-764)初頭、鳳迦異は柘東城を築くと、諸葛亮の石刻があった。文には「碑が即ち倒れれば、蛮は漢の奴隷となるだろう」とあり、夷は畏れて誓い、常に石を保護した。 大暦十四年(779)、閤羅鳳が卒したが、鳳迦異がその前に死んでいたから、その孫の異牟尋が立って嗣いだ。異牟尋には知略があり、衆をよくし、ほぼ書を知っていた。母の李氏は、独錦蛮の娘である。独錦蛮はまた烏蛮の種で、秦蔵川の南にいた。天宝年間(742-756)、その長に命じて蹄州刺史とした。代々南詔と婚姻関係にあった。 異牟尋が立つと、衆二十万をつくして入寇し、吐蕃と合力した。一隊は茂州を駆け抜け、文川を越え、灌口を騒がせた。一隊は扶州・文集を駆け抜け、方維・白垻を掠奪した。一隊は黎州・雅州に侵入し、邛郲関を攻撃した。その配下に命じて「我がために蜀を取り東府とすれば、職人や妓女はすべて邏娑城に送り、年に一縑(かとり)を与えよう」と言った。ここに進軍して城邑を陥落させ、人々は山に逃げた。徳宗は禁衛および幽州軍を発して東川への援軍とし、山南の兵と合わせ、大いに異牟尋の軍を破り、斬首すること六千級、敵の捕虜や負傷者ははなはだ多く、崖から転落する者十万におよんだ。異牟尋は恐れ、さらに苴咩城に遷り、築くこと南北十五里におよび、吐蕃は日東王に封じた。 しかし吐蕃は重税を課して苛政であり、ことごとく要害を奪って駐屯して侍らせ、毎年出兵要請をして防衛を助けさせたから、異牟尋は次第に苦しんだ。そのため西瀘令の鄭回なる者がおり、唐の官吏であったが、巂州の敗戦で捕虜となっていた。閤羅鳳は儒学の才能を重んじて「蛮利」と号し、子弟を教育させ鞭打ちもさせたから、そのため国中に憚りがなかった。後に清平官となった。鄭回は異牟尋に説いて「中国は礼義があり、少し責めを求めたとしても、吐蕃のように貪欲酷薄なこと極まりないということはありません。今吐蕃との関係を破棄して再び唐に帰順すれば、遠征の労なく、利はこれより大きいものはありません」と言った。異牟尋はこれをよしとし、次第に内部で謀議したが、しかしながら未だにあえて公表しなかった。また節度使の韋皋が諸蛮を慰撫するに威光や恩恵があり、諸蛮はすこぶる異牟尋の語を得て韋皋に伝えた。その時貞元四年(788)であった。韋皋は間諜を派遣して書を遺したから、吐蕃はこれを疑い、責めて大臣の子を人質とし、異牟尋は次第に怨んだ。 その後貞元五年(789)、策を決して使者三人を派遣し、それぞれ違う道を通って成都に赴き、韋皋に帛書を遣わしていう、「異牟尋は代々唐の臣下ですが、さきに張虔陀のせいで、志は後悔に吞まれてしまい、勅使が至り、澄み雪ぐことができず、部族をあげて恐れ苦しみ、不本意のはかりごととなってしまいました。鮮于仲通はこの頃挙兵し、そのため自ら新たに従うができませんでした。祖父はそむき、吐蕃の欺きのため一人盟約に背くことになりました。神川都督の論訥舌(ロンチツェン)は浪人の利羅式をして部族を惑わし、兵を起こすのにも定まった時がなく、今まで十二年となりました。これが一つめの忍です。天では蕃廷に禍いとし、降っては会見場で仲違いさせ、太子の弟は兄を流竄し、近臣は汚職専横をつくしています。みな尚結賛(シャンギェルツェン)の陰謀で、そのため殺害が横行し、かつての功臣は一、二人いるかいないかになってしまいました。論訥舌らは王を冊封し、小国の奏請は上達させません。これは二つめの忍です。また論訥舌を遣わし城を鄙へと追いやり、邑を潰えて耐えることができません。利羅式はひそかに重賞を取り、部落は皆驚いています。これは三つめの忍です。また利羅式は使者を「お前の将軍は滅んでいる。我でなければだれがいるのか?お前が富めるところはまさに我がためにあるべきなのだ」と罵りました。これが四つ目の忍です。 今、吐蕃は利羅式に甲士六十侍衛をゆだねていますが、心が邪悪なのを知りながら罪ではないとしています。これが一つ目の忍び難きことです。吐蕃は奸詐で詭弁があり、たやすく懐に入り込んで勢力で侵します。生を楽しむかのように、実に先人を侮辱し、罪を部落に押し付けます。これが二つ目の忍び難きことです。撤退した渾王は吐蕃のために殺害され、遺児は騙されました。西山の女王はその位を奪われ、拓抜の首領は殺戮されました。僕固の志は忠誠なのに、その身はまた喪亡しました。一朝を思い起こすごとにまたこの禍いを受けているのです。これが三つ目の忍び難きことです。朝廷に行き降使を招き、心には二心がなく、詔して信節は箱に入れられ、みな吐蕃の朝廷に送られます。中華が仁であることを知っているとはいえ、業は吐蕃の臣となり、声を呑んで訴えることがありません。これが四つ目の忍び難きことです。 かつて祖父は先帝の寵があり、後嗣は愚か者を率いて王位を襲名しました。人は礼楽を知り、もとより唐風に化していました。吐蕃は詐って百情を欺き、互いに接近するのを憎く思っています。異牟尋は願わくは誠をつくして心を日々新たにし、天子に帰順したいのです。願わくば加えて剣南・西山・涇原などの州を守り、安西を鎮め守り、兵をあげて四方にのぞみ、回鶻の諸国に委せて、侵掠されるところに、吐蕃の勢いを分散して力を散らせば、強いままでいることはできず、これ西南の隅は天子の兵を煩わせることはなく、功績を立てることができるのです。」 そして韋皋に黄金・丹砂を贈った。韋皋は使者を京師に護送し、使者は異牟尋が天子に帰順することを請い、唐のために藩屏となることを奏上した。金は改めて帰順することを示し、丹は赤心(まごころ)である。徳宗は喜び、詔書を賜い、韋皋に命じて間諜を遣して窺わせた。 韋皋はその部下の崔佐時をして羊苴咩城に至らしめた。その時吐蕃の使者が多数いて、ひそかに崔佐時に戒めて牂柯国の使者の服に着替えさせて入らせた。崔佐時は、「私は唐の使者である。どうして小夷の服装に従うことができようか」と言ったから、異牟尋は夜に迎えて、席次を設けて篝火を並べ、崔佐時は即ち天子の意を述べた。異牟尋は心の内で吐蕃を恐れ、左右の者を顧みて顔色を失い、流涕して再拝して命を受けた。その子の閤勧および清平官をして崔佐時とともに点蒼山で会盟させた。載書(会盟の誓約文)は四つで、一つは神祠の石室におさめ、一つは西洱水に沈め、一つは祖廟に置き、一つは天子に奉った。そこで兵を発して吐蕃の使者を殺し、誓約文を献じ、曹長の叚南羅・趙迦寬を遣わして崔佐時にしたがって入朝した。 それ以前、吐蕃は回鶻と戦い、死傷者が甚だしく、そこで南詔の万人を徴兵した。異牟尋は吐蕃を攻撃したいと思い、表向きは寡兵弱小を装って、五千人が向かうと言ったから、吐蕃は許可した。そこで自ら数万を率いて後を追い、昼夜兼行し、大いに吐蕃を神川で破り、遂に鉄橋をたち、溺死するものは万人を数え、その五王を捕虜とした。そこで弟の湊羅棟・清平官の尹仇寬ら二十七人を遣わして入朝して地図・方物を献上し、南詔の復号を願い出た。帝は賜物を加え、尹仇寬を左散騎常侍に任命し、高渓郡王に封じた。 翌年夏六月、異牟尋を冊して南詔王とした。祠部郎中の袁滋を持節領使とし、成都少尹の龐頎を副官とし、崔佐時を判官とした。倶文珍を宣慰使とし、劉幽巌を判官とした。黄金の印を賜い、その文には「貞元冊南詔印」とあった。袁滋は大和城に到り、異牟尋は兄の蒙細羅勿らを遣わし良馬六十で迎えた。金の馬頭飾りや玉の轡飾りがつけられ、兵は鐸を振るって道を挟んで並んだ。異牟尋は金の甲冑を着用し、虎の皮をかぶり、二振の鐸鞘(鋭利な刀)を持った。矛を持った千人衛がおり、大きな象十二頭が前に曳かれ、騎兵・歩兵は列を並べた。夜明けに冊を授け、異牟尋は官吏を率いて北面して立ち、宣慰使は東向となり、冊使は南向きとなり、そこで詔冊を読んだ。案内する者が異牟尋を引いて席につかせ、跪いて冊印を受け、稽首再拝した。また賜服・備物を受け、退いて「開元・天宝年間(713-756)、曾祖父および祖父はみな冊を受けて王位を襲名し、これより五十年。貞元皇帝(徳宗)は罪のあとを洗い流して功績を記録され、ふたたび爵命を賜りました。子々孫々までまた爵を賜わり永遠に唐の臣下となります」と言った。そこで大いにその下に会し、使者をもてなし、銀細工の馬頭盤(匙置き)二つを出してきて、袁滋に「これは天宝(742-756)の時に先君(閤羅鳳)が鴻臚少卿に宿衛したとき、皇帝(玄宗)から賜ったものです」と言った。笛工と歌女がいて、みな白髪の老人であった。袁滋に「これは先君が帰国の時に、皇帝が胡部・亀茲の二楽団を賜りました。今は死んで失われてしまいましたが、ただ二人だけがいるのです」と言った。酒が来ると、異牟尋は座り、盃を袁滋の前に奉り、袁滋は盃を受けて「南詔は深く先祖のなした業績を思い、忠誠心を抱き、永く西南の藩屏となり、後嗣をして絶やすようなことがあってはならない」といい、異牟尋は拝して「どうして使者の命ずることを受けないなんてことがありましょうや」と言った。 袁滋が帰還すると、再び清平官の尹輔酋ら七人を遣わして天子に謝礼し、鐸鞘・浪剣・鬱刃・黄金・瑟瑟(ラピスラズリ)・牛黄・琥珀・綿布・紡ぎ糸・象・犀・越睒の統倫馬を献上した。鐸鞘というのは、形は刀のようで、孔があって近づけば綺麗な水が出て、金で飾られ、撃って貫けないものはなく、夷人は最も宝とし、毎月血で祀った。鬱刃というのは、鋳造するときに毒薬で冶(つく)り、完成して取り出すと刃紋が躍動すること星のようであり、十年にして完成し、馬血を塗り、黄金や犀で鐔・頭を飾り、人を傷つければ即死した。浪人が鋳造するから、そのためまたの名を浪剣といい、王が佩刀しており、七世に伝わった。 異牟尋は吐蕃を攻撃し、再び昆明城を奪取して食塩池とした。また施蛮・順蛮を破り、その二王を捕虜とし、白厓城を置いた。よって磨些蛮を平定し、昆山、西爨の故地に隷属させた。茫蛮を破り、弄棟蛮・漢裳蛮を奪い、雲南の東北を実効支配した。 施蛮は、鉄橋の西北にいて、大施睒・斂尋睒にいた。男子は繒布を着た。女は髮を分けて額にたらし、一髻をつくって後に垂らし、裸足で皮を着た。 順蛮は、もとは施蛮と剣・共の諸川に雑居した。咩羅皮・鐸羅望はすでに邆川・浪穹を失い、剣・共の地を奪った。そのため鉄橋に移り、剣睒の西北四百里にいたから、剣羌と号した。 磨蛮・些蛮は、施蛮・順蛮とともに、みな烏蛮の一種族であり、鉄橋・大婆・小婆・三探覧・昆池などの川にいた。風土は牛や羊が多く、習俗では沢で顔を洗わず、男女は皮を着て、習俗は飲酒・歌舞を好んだ。 茫蛮は関南の一種で、茫というのは、その君主の号であり、または茫詔と呼んだ。永昌の南に茫天連・茫吐薅・大睒・茫昌・茫鮓・茫施があり、大抵みなその種族である。楼に住み、城郭はない。ある者は漆の歯、ある者は金歯であった。青布短袴を着て、脛は露出し、繒布で腰をまとい、その余りを後ろに垂らして飾りとした。婦人は五色の娑羅籠(木綿の円筒スカート)を着た。象はわずかで牛のようであり、養って耕作に用いた。 弄棟蛮というのは、白蛮の一種族である。その部族は、もとは弄棟県の辺境の地におり、昔は褒州とし、首領を刺史としたが、誤ってその参軍に殺されたから、族を引き連れて北に逃げ、後に磨些江の側に散居し、そのため剣・共の諸川にもまた居住した。 漢裳蛮は、もとは漢人の一部族で、鉄橋にいた。思うに早朝に頭に衣をまとっているが、他は漢服と同じようなものである。 貞元十五年(799)、異牟尋は謀って吐蕃を攻撃し、邆川・寧北などの城をもって寇路にあたり、険しい山に深く塹壕を掘って戦いの準備に備え、帝は出兵助力を許した。また大臣の子弟を韋皋の人質とすることを願い出たが、韋皋は固辞したが、かたく願い出たから、ことごとくを成都に宿らせ、みな就学させた。かつ、「昆明・巂州は吐蕃と接っており、先んじて出兵しなければ、虜(吐蕃)のために脅かされるところで、かえって我らの患いとなります」と言い、韋皋に願い出てこのようにした。その時、唐兵はこの頃京西・朔方に駐屯し、大いに兵糧を積みたくわえ、南北を一緒に攻撃して故地を攻めとろうとした。しかし南方に軍事品を輸送する期間を考えると、兵はことごとく集まらなかった。この夏、虜(吐蕃)の麦が熟らず、疫癘が流行し、賛普も死に、新君主が即位した。韋皋は虜(吐蕃)があえて動かないから、異牟尋に勧めて、「緩やかに万全をあげ、いよいよ速くしても功績はあがらない。今、国境の上の兵士は十倍であったのは過去のことであり、かつ行営(駐屯軍)はすべて巂州にいて、西瀘の吐蕃路はおさえ、昆明・弄棟から虜(吐蕃)はいなくなるだろう」といった。異牟尋はその年を期して実行することを願い出た。 吐蕃の大臣は歳(ほし)が辰に在(やど)っているから、出兵する時期であるとし、南詔を襲撃しようと謀った。軍を閲兵して道を整え、まさに十月に巂州を包囲しようとし、軍は昆明におよそ八万が駐屯しており、全員に一年間の兵糧を命じた。賛普は舅の攘鄀羅を都統とし、尚乞力(シャンチチ)・欺徐濫鑠を遣わして西貢川に駐屯した。異牟尋と韋皋は互いにこれを聞き、韋皋は部将の武免に命じて弩士三千を率いて赴任させ、亢栄朝を一万人で黎州に駐屯し、韋良金を二万五千人で巂州に駐屯し、南詔に急ありと約し、すべて進軍し、俄準添城を過ぎると、南詔が兵糧を供与した。吐蕃は軍五万を率いて曩貢川から軍を二分して雲南を攻め、一軍は諾済城より巂州を攻めた。異牟尋は東蛮・磨些の動きが予測しがたいのを恐れ、吐蕃を道案内することを恐れ、先んじて攻撃しようとした。韋皋に報して「巂州は実に往来の道であり、数州を防ぎ覆うから、虜は百計を案じてこれを窺っています。そのため兵を厳にして守り、障壁は望み、穀物はどこまでもあり、東蛮はおろかにも敢えて二心を抱くでしょうか?」と言った。異牟尋は東・磨些の諸蛮に檄(げき)して城中に兵糧を運び入れ、応じない者はことごとく焼き払った。吐蕃の顒城の将の楊万波は降伏を約束したが、事は事前に洩れ、吐蕃は兵五千で守り、韋皋はまさにこれを撃破せんとした。楊万波と籠官は顒城が陥落すると、その人二千人を宿川に移した。韋皋は扶忠義を将としてまた末恭城を取り、捕虜は牛や羊に繋いで千を数えた。賛普の大将の既煎譲律は兵をもって十貢川を隔てて一家屋にて駐屯し、国師の馬定徳は部族を率いて降伏した。西貢節度監軍の野多輸煎は、賛普乞立賛(チソンデツェン)の養子で、まさに先代の賛普に従って殉死すべきところを、また扶忠義に詣でて降伏した。ここにおいて虜(吐蕃)は気勢が衰え、軍は不振であった。欺徐濫鑠は鉄橋に至ったが、南詔はその水に毒をまき、人は多く死んだから、納川に移り、壁を築いて待機した。この年、虜(吐蕃)は霜雪が早く、兵は功なくして帰還し、明年を以て期した。吐蕃は唐・南詔の挟撃に苦しみ、また敢えて南詔を計略できなかった。韋皋は巂州の徴兵を解除させ、次第に鎮守のみとし、南詔の境といえども国境軍を所在させた。吐蕃は野戦のしばしばの敗北に懲り、三度瀘水に駐屯し、論妄熱(ロンモンシェル)を遣わしてしきりに瀘の諸蛮を誘った。また悉摂を城とした。悉摂は、吐蕃の険要である。蛮酋は密かに南詔と韋皋の部将の杜毘羅を導いて狙い撃ちした。貞元十七年(785-805)春、夜に瀘を渡って虜(吐蕃)の駐屯地を破り、斬首五百級であった。虜(吐蕃)は鹿危山を確保し、杜毘羅は伏兵で待ち伏せし、また戦い、虜(吐蕃)は大いに敗走した。時に康(サマルカンド)・黒衣大食(アッバース朝)らの兵および吐蕃の大酋はみな降伏し、兜首級二万人を獲た。また鬼主と合同で虜(吐蕃)を瀘西で破った。 吐蕃の君長は共にはかり、巂州を獲得できず、患いはいまだおさまらず、常に両頭蛮が唐をはさんで深刻さの尺度とした。南詔のことをいうのである。たまたま虜(吐蕃)は飢饉となり、まさに賛普を葬ろうとしたが、葬儀を整えるにも支障があった。ここにいたって大いに兵を率い、三戸ごとに一卒を徴兵し、虜(吐蕃)の法では大調集といった。また唐兵三万が南詔に入ったということを聞いて大変恐れ、兵は納川・故洪・諾済・臘・聿賷の五城を守り、ことごとく軍を西山・剣山に出し、巂州をおさめて南詔を絶たんとした。韋皋はそこで上言して「京右の諸屯をよろしく明斥候とし、はやく田を収穫し、邠・隴の荒れ地を焼き払えば、虜(吐蕃)は侵入するのに困るでしょう」といい、韋皋は遣将軍の邢毘を遣わし兵一万人で南・北路に駐屯し、趙昱に一万人で黎・雅州を守らせた。異牟尋は韋皋に対して「虜(吐蕃)は声高に巂州攻略と言ってますが、実際には雲南攻略を窺っています。武免の督軍をお願いして羊苴咩に進みます。もし虜(吐蕃)が出て来なかったら、来年二月に深く侵入することをお願いします」と言った。その時虜(吐蕃)の兵三万が塩州を攻めたが、帝は虜(吐蕃)が多く偽るから、何度も大軍を出してくるのに疑い、韋皋に詔して深く賊(吐蕃)の村をかすめてとり、虜(吐蕃)の勢いを分けようとした。韋皋は上表して「賊の精鋭の多くは南に駐屯しており、今、塩・夏に向かっているのは全軍ではありません。河曲を掠奪しようとするのは党項(タングート)を富ませるだけです」と言った。その時、虜(吐蕃)が麟州を破ったのを聞き、韋皋は諸将を督軍して道を分けて進出し、あるいは西山から、あるいは平夷を経て、あるいは隴陀和・石門を下って、あるいは神川・納川を経て、南詔と合流した。この時、回鶻・太原・邠寧・涇原の軍はその北を刈り取り、剣南東川・山南の兵はその東を震わし、鳳翔軍はその西に当たった。蜀・南詔は深く侵入し、城に勝つこと七、堡塁を焼くこと百五十所、斬首一万級、獲た甲冑は十五万であった。昆明・維州を包囲したが勝てず、軍は帰還した。振武・霊武の兵は虜(吐蕃)二万を破り、涇原・鳳翔軍は虜(吐蕃)を原州に破った。ここに南詔はその腹心を攻め、得た捕虜は最多であった。帝は中人の尹偕を遣わして異牟尋に激励し、吐蕃は盛んに昆明・神川・納川に駐屯して自ら守った。異牟尋はこの年から方物を献じ、天子に礼した。
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へロデの宮殿、饗宴の間に続いている大きなテラス。数人の兵士が胸壁に凭れている。右手に壮大な階段、左手後方に、青銅の枠の嵌め込まれた、古い地下水構。月が白々と輝いている。 第一場 <ナッラボート> 今宵のサロメ姫は、また一段と、麗(うるわ)しゅうておわす! <小姓> あの鏡のごとき月を見てたもれ、いかにも奇態なる様なれば。墓穴より抜け出したる女子のごと。 <ナッラボート> いかにも、大きに奇態よな。 白鳩の如き足をつけし、小さき姫君の姿に似たり。 舞を舞うておるように見ゆる。 <小姓> 身罷(みまか)りし女子(おなご)のようよな。 ゆるり、ゆるり、滑(ぬ)めるごとく行き行くよな。 (饗宴の間より騒音が響いてくる) <兵士 一> 何ぞの騒動(そうどく)ぞ! かくのごとく吠えおるは、いかなる獣(けだもの)ぞや? <兵士 二> ユダヤ人にてやある。 (そっけなく) 彼等(あいら)には常なる事ぞ。 己等の宗旨に拘(かかずろう)て、諍(あらごう)ておる。 <兵士 一> 戯(たわ)けよな、さしたることにて諍うなど。 <ナッラボート> 今宵のサロメ姫は、また一段と、麗しゅうておわす! <小姓> (不安げに) お前さまは、間なしに姫君を打見やりておわす。 見やり過ぎというものぞ。 危うきことにてそうろう。 禍(まが)事の、いで来るやもあらむ。 <ナッラボート> 今宵の姫君は、まことに麗しゅうておわす。 <兵士 一> 太守の殿には、気鬱なご様子にておわす。 <兵士 二> いかにも、殿には気鬱なご様子にておわす。 <兵士 一> 太守の殿には、いずれの方を打ち見やりておわすや? <兵士 二> 己は、存ぜぬ。 <ナッラボート> 姫君の、さても青褪むておわしまする。 かつて、かように青褪むる姫君を見掛くる事はあらず。 今宵の姫君は、白金の鏡に映す、白薔薇(そうび)の花影のごとくにておわす。 <小姓> (非常に不安げに) 姫君を見やりなされまするな。 お前さまは、姫君を見やり過ぎにておわす。 禍(まが)事の、いで来るやもあらむ。 <ヨカナアンの声> (地下水溝の中から) 吾が後より来たる人やある、その人は吾より強(こわ)し。 吾は彼の人の沓紐解くだに値わず。 ひとたび彼の人の来たるれば、荒(あばら)の地も歓呼し迎えむ。 ひとたび彼の人の来たるれば、光無き者の眼(まなこ)も白日を覚えむ。 ひとたび彼の人の来たるれば、音無き者の耳も開かむ。 <兵士 二> 彼奴の口、封ぜよ! やくたいも無きことばかり、言い罵りおる。 <兵士 一> あの者は聖(ひじり)にておわす。 きわめて、おとなしき男にておわす。 日毎、己が食い物を持て参ずるに、ねんごろに返り言をもうす。 <一人のカッパドキア人> 彼は、何者ぞ? <兵士 一> 予言(かねごと)をなす者なり。 <一人のカッパドキア人> 名は何ともうす? <兵士 一> ヨカナアン。 <一人のカッパドキア人> いずくより来たりし者か? <兵士 一> 砂漠の彼方より来たりし者にてそうろう。 彼の地では明暮、あまたの門徒衆、あの者をば囲みておりし。 <一人のカッパドキア人> あの者は、如何なる予言(かねごと)をなすや? <兵士 一> 如何なる予言(かねごと)やら、己には、一向合点がゆかぬ。 <一人のカッパドキア人> あの者を一目見るは、叶うや? <兵士 一> 叶い申さぬ。太守殿が封じられもうした。 <ナッラボート> (非常に興奮して) 姫君がお立ちめさる! 卓を離れめさるぞ。 いたく、お苛(いらち)のご気配なり。 我等の方にお成り召さるご様子ぞ。 <小姓> 姫君の方をば、打ち見遣りなされますな! <ナッラボート> まことに、我等の方にお成り召さるぞ。 <小姓> 後生にてそうろう、姫君を打ち見遣りなされますな! <ナッラボート> 姫君は、まこと、迷い子の鳩のごとくにておわす。 第二場 (興奮した様子でサロメが現れる) <サロメ> 酒宴の座ぞ疎ましや。 堰(せき)かぬるとはこのことぞ。 などて太守の殿は、かの如く目蓋(まなぶた)をひく付かせ、むぐらもちのごとき眼(まなこ)持て、間なしに妾を見遣りさるのか?奇態なことよ。母君の夫(つま)なるお人が、かのごとき眼もて妾をば見遣りなさるとは。 なんと、此処なる夜気の旨きことよ!ようよう、甦りし心地なり...彼処にては、エルサレムより参りしユダヤの族(やから)、彼等の痴(おこ)なる慣わしにかかづりおうて、気狂いせむばかりに諍うておる... エジプト人(びと)は無口なれど小賢し。荒びて、むくつけきローマ人(びと)の言語(ごんご)し下種下種なり... おお、ローマ人(びと)なる、まことに、うとましや! <小姓> (ナッラボートに向かって) 禍(まが)事の、いで来るやもあらむ。 などて、さほどに姫君を見遣りなさる? <サロメ> 月眺むるは、まことに、心地良きことよ。 月は白金の花のごと、冷ややかにして清らなり。 さなり、月は穢れ無き処女(おとめ)の麗しさなり。 <ヨカナアンの声> 見よ、主(しゅう)は来たりたもうた、人の子はいまや近きにおわす。 <サロメ> 何者なるか、いま、呼ばわりしは? <兵士 二> 予言(かねごと)をなす者にてそうろう。姫君。 <サロメ> ああ、かの予言(かねごと)をなす者なろう! 太守殿が怖れおわさるは? <兵士 二> 姫君、われら左様な事はとんと無沙汰にて居り申す。 最前呼ばわり申したは、予言(かねごと)をなすヨカナアンにてそうろう。 <ナッラボート> (サロメに向かって) 御気に召しますなれば、御輿、運びまいらせましょうや? 姫君、 夜(よさ)の御園生(みそのう)は、一際心地良きにてそうらえば。 <サロメ> 彼の者は、吾が母を構うて、忌まわしき事共言い散らしためれ、さならずや? <兵士 二> 姫君、彼奴の語るる事、我等には一向合点が行きもうさずにてそうろう。 <サロメ> さなり、彼は、吾が母を構うて、忌まわしき事共言い散らしつあるべし。 (一人の奴隷が登場) <奴隷> 姫君、宴(うたげ)の座に返りたまわりませ。太守の殿のお頼みてそうらえば。 <サロメ> (激しく) 妾は、座には立ち返らぬ。 (奴隷退場) <サロメ> 彼の予言(かねごと)語りは、年長けたる男(おのこ)なるや? <ナッラボート> (切迫して) 姫君、お立ち返りめさるるがよろしきに、 お許したまわりますれば、僕(やつかれ)お供つかまつりまする。 <サロメ> (さらに言い募って) 予言(かねごと)語りは、年長けた男(おのこ)なるや? <兵士 一> 否、姫君、いまだ若き男(おのこ)にてそうろう。 <ヨカナアンの声>========-- 歓ぶなかれ、パレスチナの民よ、汝を打ちし鞭は折れたりといえども。 蛇の種よりバジリスク*は生まれ、そ奴の孵化せしものは、あまたの飛鳥を飲み込むのじゃ。 <サロメ> さても不可思議なる声じゃ! 妾は、あの男と語り合うて見まほし... <兵士 二> 姫君様、太守殿には、いかなるお方といえども、彼の男と語リ合う事、お許しにはござりませぬ。 大僧正殿**にさえ、彼の男と語り合う事は禁じなされ申した。 <サロメ> 妾は、あの男と語り合うて見まほし。 <兵士 二> 無理にてござります。姫君様。 <サロメ> (ますます、興奮して) 妾は、あの男と語り合いたし... 予言(かなごと)語りを引き出してまいれ! <兵士 二> われらには許されておりませぬ。姫君様。 <サロメ> (地下水構に近寄り、中を覗き込む) 何と、中は暗闇ではないか! 恐ろしき事じゃろうのう、このような暗き穴の中に棲もうておるのは... 墓穴のようじゃ... (荒々しく) 聞こえぬのか? 預言(かねごと)語りを引き出せい! 妾は、あの男が見まほし! <兵士 一> 姫君様御望みなれど、われらには致し方ございませぬ。 <サロメ> (ナッラボートに目が止まる) あ! <小姓> おお、如何なることになろうや?私には分かる、禍がしき事が起きるのじゃ。 <サロメ> (ナッラボートに近づき、小声で、生き生きと喋る) そちが、叶のうてくれようのう、ナッラボートや? 妾は日頃より、そちを心よく思うておったぞ。 そちが、妾がために、為してくれるのじゃろう。 妾は、その不可思議なる予言(かねごと)語りを、一目見るのみじゃ。皆の者が、その男の噂をしておる。 妾は、太守殿は、あの男を恐れてござると見た。 <ナッラボート> 太守殿は、何者の願いにあれ、水構の蓋を開けることはならぬと、固く禁じなされ申した。 <サロメ> そちは、妾のために叶えてくりょう、ナッラボート。 (非常に、性急に) すれば、明日、妾が、神像の立ち並ぶ城門の路を輿でまかり行く折に、汝に、小さき花を落として遣わしょうぞ、小さき翠の花をな。 <ナッラボート> 姫君様、私めには叶えられませぬ、叶えられませぬ。 <サロメ> (きっぱりと) そちは、妾のために叶えてくりょうぞ、ナッラボートや。 そちは、妾のために叶えてくりょうことを、先刻承知済みじゃ。すれば、明日の朝まだき、妾は唐縮緬の被衣(かづき)の陰から、そちを一目、見遣ってやろうぞ、ナッラボートや、 妾がそちを見遣ってやるのじゃぞ。その折、微笑みをかけてくれるやも知れぬぞえ。妾を見や、ナッラボート。 ああ!そちは、よくよく承知しておるのじゃ、妾の頼みごとを、聞き入れてくりょうことを! そちは、最前より、承知しておるのじゃ! (強く) 妾には、分かっておるぞえ、そちが叶えてくりょうことが。 <ナッラボート> (兵士達に合図を送る) 預言(かねごと)語りを引き出してまいれ... あの男を見せよと、サロメ姫がご所望じゃ。 <サロメ> ああ! (預言者が地下水構から上ってくる) 第三場 (吾を忘れて予言者の姿に見とれていたサロメは、やがて彼の前から徐々に後じさりし始める) <ヨカナアン> (強く) 彼の男、何処(いずく)にやある、罪業の杯を溢るばかりに満たしたる者は? 彼の男、何処(いずく)にやある、群がる民の眼前にて、一日、銀の上着を身に纏うて死に行く者は? その男をば、此処に来さしめよ、砂漠に、はたまた、王達の棲家に轟き渡りし、世に告知する者の声をば聴かせむ。 <サロメ> 誰の事を言うておるのじゃ? <ナラボート> 誰にも思い及びませぬ、姫君様。 <ヨカナアン> その女、何処にや在る、彩色ほどこさるる男共の絵姿の前に佇みて、眼(まなこ)の法楽に負け、 カルデアの国に特使を遣わせし者は? <サロメ> (抑揚の無い声で) 彼は、妾が母上の事を言いなしておる。 <ナラボート> (激しく) そのような事はござりませぬ、姫君様。 <サロメ> (無気力に) そうじゃ、彼は、妾が母上の事を言いなしておる。 <ヨカナアン> その女、何処にや在る、アッシリアの首領どもに身を任せし者は? その女、何処にや在る、細やかに織り成しし麻衣を、大入道の如き体躯に纏いて、風信子石をひけらかせ、黄金の盾を手にせる、エジプトの若人(わこうど)共に身をまかせしは者は? 疾く行きて、かの女を罪業の閨(ねや)、畜生道の臥所(ふしど)より起たしめよ、しこうして、主が為に路踏み分くる者の言葉(ことのは)を聞かしめよ、かくて女、己が罪業をば悔ゆるべし。 はたまた女直ちに悔い改めねば、この場へ引き連れてまいれ、主の鞭は、告知者の手にあれば。 <サロメ> 恐ろしき男じゃ。 誠に恐ろしき男じゃ。 <ナラボート> 此処に留まりくださりますな、姫君様、お願いでござりまする! <サロメ> 彼の目こそは、分けても恐ろしい。 暗闇の洞窟のようじゃ、中には竜が棲みついておろう。 水底に月明かりのひらめき揺るる、黒き湖(みずうみ)のようじゃ そち等は、あの者が、今一度、口を利くと見るかえ? <ナラボート> (益々興奮して) 此処に留まりくださりますな、姫君様、 お願いでござりまする、どうか、彼処(かしこ)へ。 <サロメ> さても、さても、細やかにて居らす! 象牙(きさのき)細工の如き体じゃ。 彼は、あの月の如、穢れ無き体であろうよのう。 彼の肌えは、さぞや、冷や冷やとしておろうよのう。 も、ちっと、近こう寄りて見たいものじゃ。 <ナラボート> 姫君様、お止めくださりませ。 <サロメ> 妾は、あの者を、いま、些(ち)っと、よう見たいのじゃ。 <ナラボート> 姫君様、姫君様...。 <ヨカナアン> 吾に、見入りておる、彼の女子(おなご)は、誰(た)れじゃ?吾は、あのような目で見られとうは無いわ。 綺羅らに塗り上げられたる目蓋の下より、金色の眼(まなこ)持て、何故、かくの如く吾に見入るのじゃ? 吾は、あの女子が誰なるかを知らぬ。 吾は、あの女子が誰なるかを知りとうもないわ。 女子を、去らせい! あの者に、口を利きとうはない。 <サロメ> 妾は、サロメじゃ、ヘロディアの娘、ユダヤの太守の娘じゃ。 <ヨカナアン> 下がれ、バビロンの娘! 主に選ばれたる者に近寄るでない! 汝の母はこの世を快楽の酒で満たし、その罪業の深きは、神の耳にも届いておる。 <サロメ> いざいざ、物言うてたもれ、ヨカナアンや、汝の声音は楽の音のようじゃ。 <ナラボート> 姫君様、姫君様、姫君様! <サロメ> 物言うてたも! 言うてたも、ヨカナアンや、妾は、如何様にすべきとや? <ヨカナアン> ソドムの娘よ、吾が傍らに寄るな! 早々に、そなたの顔(かんばせ)をば被衣(かづき)で隠し、その髪に灰を被(かぶ)りて、砂漠の彼方に行き行きて、人の子の居ませる方(かた)を尋ぬるべし。 <サロメ> 人の子とは、たれの事じゃな? 彼もまた、そなたのごとく、麗しいかのう、ヨカナアンや? <ヨカナアン> 吾に 近寄るな! 吾はすでに、宮殿に死の使いの羽ばたくを聴きし... <サロメ> ヨカナアン! <ナラボート> 姫君様、後生でござります、中へお入りくだされ! <サロメ> ヨカナアン! 妾は、そなたの身体(からど)に惚れたぞえ、ヨカナアン! そなたの身体は、未だ鎌の切っ先も触れぬ、野辺の百合の如くに白し。 そなたの身体は、ユダヤの山稜の雪の如くに白し。 アラビアの女王の庭に咲く、薔薇の花すら、そなたの身体ほど白くはあらぬ、女王の庭の薔薇すら、 木々の葉に降り来る夕暮れの脛(はぎ)すら、海原に浸さるる月の乳房すら、地上のありとあらゆる物だにすら、そなたの身体の白さには勝てぬ! そなたの身体に、触れさせてたも! <ヨカナアン> 下がりおろう、バビロンの娘! 女子こそは、この世に悪を持ち来たりものなり。 吾に、物言うなかれ。 汝の声聞くだに穢らわしい! 吾は、唯一、吾が主、神の御声を聴くのみなり。 <サロメ> そなたの身体はうたてじゃ。 そなたの身体は、かったい病みのごとしじゃ。 漆喰で塗り固めた壁の様じゃ、毒蛇の這うた跡がある。 漆喰で塗り固めた壁の様じゃ、さそりの巣食うた跡がある。 そなたの体は、うたてなる物あまた塗り込めし、塚穴の様じゃ。そなたは、うたてじゃ、そなたの身体は、さても、うたてじゃ。そなたの髪に、妾は惚れたぞえ、ヨカナアン。 そなたの髪は葡萄(えび)の様じゃ、エドムの葡萄園に熟す、黒き葡萄の房の様じゃ。 そなたの髪は、杉の様じゃ、獅子や盗人に蔭を貸す、レバノンの大杉の様じゃ。 あらたまの月は面を隠し、天の星おののき瞬く、長き闇夜も、そなたの髪ほどには暗からず。 黙(もだ)せる森のごと... 世の中の如何なる物とて、そなたの、ぬばたまの髪に似たるは無し。そなたの髪に触れさせてたも! <ヨカナアン> 下がれ、ソドムの娘! 吾を弄(いら)うな! 吾が神、吾が主の御座所をば、汚すなかれ! <サロメ> そなたの髪は、うたてじゃ! そなたの髪は、塵芥にまみれておる。 茨の冠りを被いておるように見ゆるぞえ。 そなたの首をば、蛇(じゃ)の如く取り巻きて居るぞえ。 妾は、そなたの髪をば愛ではせぬ。 (激情をこめて) 妾の愛ずるは、そなたの口じゃぞ、ヨカナアン。 そなたの口は象牙(きさのき)造りの櫓(やぐら)に引き渡されし、紅(くれない)の細紐の様じゃ。 そなたの口は、白金の太刀にて断ち割られたる柘榴の実の様じゃ。 ティルスの庭に咲き出る薔薇の花よりなお紅き、 柘榴の花さえ、さほどに紅うはない。 王達の出陣を告げ、敵どもを震撼さす喇叭の音すら、 そなたの紅(くれない)の口ほどには燃えはせぬ。 そなたの口は葡萄(えび)の実を踏み潰す、地下蔵の酒作りの足より紅し。 そは、神殿に住みつきし、鳩鳥の足より紅し。 そなたの口は、海底のほの明かりにはびこる珊瑚の小枝の様じゃ、 モアブの鉱坑の丹砂より取り出ずる朱(あか)、王者の朱色じゃ。 (吾を忘れるほど興奮して) この世に、そなたの口ほど朱(あか)きものは、ゆめあるまじ。そなたの口、吸わせてたも。 <ヨカナアン> (低く、嫌悪を込めて) ゆめにも、許さじ、バビロンの娘、ソドムの娘よ.... ゆめにも! <サロメ> 妾は、そなたに口吸いするのじゃ、ヨカナアン。 妾は、そなたに口吸いするのじゃ... <ナラボート> (恐怖と絶望の極みにあって) 姫様、姫様、没薬(もつやく)の園のごとく芳しく、無垢なる小鳩のごとき姫様、この男をごらんになり召さるな。 かくのごとき言葉を、この男にお掛け召さるな。 私奴には、耐えられませぬ...。 <サロメ> 妾は、そなたに口吸いするのじゃ、ヨカナアン。 妾は、そなたに口吸いするのじゃ...。 (ナラボートは、吾と吾身を刺しつらぬき、サロメとヨカナアンの間に倒れて死ぬ) <サロメ> そなたの口、吸わせてくりょう、ヨカナアン! <ヨカナアン> 汝は、怖れを知らぬのか、ヘロディアスの娘よ? <サロメ> そなたの口、吸わせてくりょう、ヨカナアン! <ヨカナアン> 淫乱の申し子たる娘、汝を助け得る人は、ただ独りなり。 行きて、かの人を尋ねよ。 (温かさに溢れた声で) かの人を尋ねよ。 その人は、ガリレアの湖(うみ)の上の小舟に座して、徒弟等に法(のり)を説いておわす。 (非常に厳かに) 湖の岸辺に跪き、その人の名をば呼ばわるべし、その人は、彼を呼ばわるなべての者の傍らに来ますれば、やがて汝の傍らにも来らるるべし、さすればその御足の下(もと)に身を屈(くぐ)み、汝の罪の許しを受くるべし。 <サロメ> (気も狂わんばかりに) そなたの口、吸わせてたも、ヨカナアン! <ヨカナアン> 呪われてあれ、人の道ならぬ交じわりに身を任せたる母人の娘、呪われてあれ! <サロメ> そなたの口、吸わせてたも、ヨカナアン! <ヨカナアン> 吾は、汝を見とうもないわ。 汝、呪われてあれ、サロメ。 汝、呪われてあれ。 (彼は、再び、水構の中へ降りてゆく) Eine große Terrasse im Palast des Herodes, die an den Bankettsaal stößt. Einige Soldaten lehnen sich über die Brüstung. Rechts eine mächtige Treppe, links im Hintergrund eine alte Cisterne mit einer Einfassung aus grüner Bronze. Der Mond scheint sehr hell. Erste Szene NARRABOTH Wie schön ist die Prinzessin Salome heute nacht! PAGE Sieh die Mondscheibe, wie sie seltsam aussieht. Wie eine Frau, die aufsteigt aus dem Grab. NARRABOTH Sie ist sehr seltsam. Wie eine kleine Prinzessin, deren Füße weiße Tauben sind. Man könnte meinen, sie tanzt. PAGE Wie eine Frau, die tot ist. Sie gleitet langsam dahin. (Lärm im Bankettsaal) ERSTER SOLDAT Was für ein Aufruhr! Was sind das für wilde Tiere, die da heulen? ZWEITER SOLDAT Die Juden. (Trocken) Sie sind immer so. Sie streiten über ihre Religion. ERSTER SOLDAT Ich finde es lächerlich, über solche Dinge zu streiten. NARRABOTH Wie schön ist die Prinzessin Salome heute abend! PAGE (unruhig) Du siehst sie immer an. Du siehst sie zuviel an. Es ist gefährlich, Menschen auf diese Art anzusehn. Schreckliches kann geschehn. NARRABOTH Sie ist sehr schön heute abend. ERSTER SOLDAT Der Tetrarch sieht finster drein. ZWEITER SOLDAT Ja, er sieht finster drein. ERSTER SOLDAT Auf wen blickt er? ZWEITER SOLDAT Ich weiß nicht. NARRABOTH Wie blaß die Prinzessin ist. Niemals habe ich sie so blaß gesehn. Sie ist wie der Schatten einer weißen Rose in einem silbernen Spiegel. PAGE (sehr unruhig) Du mußt sie nicht ansehn. Du siehst sie zuviel an. Schreckliches kann geschehn. DIE STIMME DES JOCHANAAN (aus der Cisterne) Nach mir wird Einer kommen, der ist stärker als ich. Ich bin nicht wert, ihm zu lösen den Riemen an seinen Schuh n. Wenn er kommt, werden die verödeten Stätten frohlocken. Wenn er kommt, werden die Augen der Blinden den Tag sehn. Wenn er kommt, die Ohren der Tauben geöffnet. ZWEITER SOLDAT Heiß ihn schweigen! Er sagt immer lächerliche Dinge. ERSTER SOLDAT Er ist ein heil ger Mann. Er ist sehr sanft. Jeden Tag, den ich ihm zu essen gebe, dankt er mir. EIN CAPPADOCIER Wer ist es? ERSTER SOLDAT Ein Prophet. EIN CAPPADOCIER Wie ist sein Name? ERSTER SOLDAT Jochanaan. EIN CAPPADOCIER Woher kommt er? ERSTER SOLDAT Aus der Wüste. Eine Schar von Jüngern war dort immer um ihn. EIN CAPPADOCIER Wovon redet er? ERSTER SOLDAT Unmöglich ist s, zu verstehn, was er sagt. EIN CAPPADOCIER Kann man ihn sehn? ERSTER SOLDAT Nein, der Tetrarch hat es verboten. NARRABOTH (sehr erregt) Die Prinzessin erhebt sich! Sie verläßt die Tafel. Sie ist sehr erregt. Sie kommt hierher. PAGE Sieh sie nicht an! NARRABOTH Ja, sie kommt auf uns zu. PAGE Ich bitte dich, sieh sie nicht an! NARRABOTH Sie ist wie eine verirrte Taube. Zweite Szene (Salome tritt erregt ein) SALOME Ich will nicht bleiben. Ich kann nicht bleiben. Warum sieht mich der Tetrarch fortwährend so an mit seinen Maulwurfsaugen unter den zuckenden Lidern? Es ist seltsam, daß der Mann meiner Mutter mich so ansieht. Wie süß ist hier die Luft! Hier kann ich atmen ... Da drinnen sitzen Juden aus Jerusalem, die einander über ihre närrischen Gebräuche in Stücke reißen ... Schweigsame, list ge Ägypter und brutale ungeschlachte Römer mit ihrer plumpen Sprache ... O, wie ich diese Römer hasse! PAGE (zu Narraboth) Schreckliches wird geschehn. Warum siehst du sie so an? SALOME Wie gut ist s, in den Mond zu sehn. Er ist wie eine silberne Blume, kühl und keusch. Ja, wie die Schönheit einer Jungfrau, die rein geblieben ist. DIE STIMME DES JOCHANAAN Siehe, der Herr ist gekommen, des Menschen Sohn ist nahe. SALOME Wer war das, der hier gerufen hat? ZWEITER SOLDAT Der Prophet, Prinzessin. SALOME Ach, der Prophet! Der, vor dem der Tetrarch Angst hat? ZWEITER SOLDAT Wir wissen davon nichts, Prinzessin. Es war der Prophet Jochanaan, der hier rief. NARRABOTH (zu Salome) Beliebt es Euch, daß ich Eure Sänfte holen lasse, Prinzessin? Die Nacht ist schön im Garten. SALOME Er sagt schreckliche Dinge über meine Mutter, nicht wahr? ZWEITER SOLDAT Wir verstehen nie, was er sagt, Prinzessin. SALOME Ja, er sagt schreckliche Dinge über sie. (Ein Sklave tritt ein) SKLAVE Prinzessin, der Tetrarch ersucht Euch, wieder zum Fest hineinzugehn. SALOME (heftig) Ich will nicht hineingehn. (Der Sklave geht ab) SALOME Ist dieser Prophet ein alter Mann? NARRABOTH (dringender) Prinzessin, es wäre besser hineinzugehn. Gestattet, daß ich Euch führe. SALOME (gesteigert) Ist der Prophet ein alter Mann? ERSTER SOLDAT Nein, Prinzessin, er ist ganz jung. DIE STIMME DES JOCHANAAN Jauchze nicht, du Land Palästina, weil der Stab dessen, der dich schlug, gebrochen ist. Denn aus dem Samen der Schlange wird ein Basilisk kommen, und seine Brut wird die Vögel verschlingen. SALOME Welch seltsame Stimme! Ich möchte mit ihm sprechen ... ZWEITER SOLDAT Prinzessin, der Tetrarch duldet nicht, daß irgend wer mit ihm spricht. Er hat selbst dem Hohenpriester verboten, mit ihm zu sprechen. SALOME Ich wünsche mit ihm zu sprechen. ZWEITER SOLDAT Es ist unmöglich, Prinzessin. SALOME (immer heftiger) Ich will mit ihm sprechen ... Bringt diesen Propheten heraus! ZWEITER SOLDAT Wir dürfen nicht, Prinzessin. SALOME (tritt an die Cisterne heran und blickt hinunter) Wie schwarz es da drunten ist! Es muß schrecklich sein, in so einer schwarzen Höhle zu leben ... Es ist wie eine Gruft ... (wild) Habt ihr nicht gehört? Bringt den Propheten heraus! Ich möchte ihn sehn! ERSTER SOLDAT Prinzessin, wir dürfen nicht tun, was Ihr von uns begehrt. SALOME (erblickt Narraboth) Ah! PAGE O, was wird geschehn? Ich weiß, es wird Schreckliches geschehn. SALOME (tritt an Narraboth heran, leise und lebhaft sprechend) Du wirst das für mich tun, Narraboth, nicht wahr? Ich war dir immer gewogen. Du wirst das für mich tun. Ich möchte ihn bloß sehn, diesen seltsamen Propheten. Die Leute haben soviel von ihm gesprochen. Ich glaube, der Tetrarch hat Angst vor ihm. NARRABOTH Der Tetrarch hat es ausdrücklich verboten, daß irgend wer den Deckel zu diesem Brunnen aufhebt. SALOME Du wirst das für mich tun, Narraboth, (sehr hastig) und morgen, wenn ich in meiner Sänfte an dem Torweg, wo die Götzenbilder stehn, vorbeikomme, werde ich eine kleine Blume für dich fallen lassen, ein kleines grünes Blümchen. NARRABOTH Prinzessin, ich kann nicht, ich kann nicht. SALOME (bestimmter) Du wirst das für mich tun, Narraboth. Du weißt, daß du das für mich tun wirst. Und morgen früh werde ich unter den Musselinschleiern dir einen Blick zuwerfen, Narraboth, ich werde dich ansehn, kann sein, ich werde dir zulächeln. Sieh mich an, Narraboth, sieh mich an. Ah! wie gut du weißt, daß du tun wirst, um was ich dich bitte! Wie du es weißt! (Stark) Ich weiß, du wirst das tun. NARRABOTH (gibt den Soldaten ein Zeichen) Laßt den Propheten herauskommen ... die Prinzessin Salome wünscht ihn zu sehn. SALOME Ah! (Der Prophet kommt aus der Cisterne) Dritte Szene (Salome, in seinen Anblick versunken, weicht langsam vor ihm zurück) JOCHANAAN (stark) Wo ist er, dessen Sündenbecher jetzt voll ist? Wo ist er, der eines Tages im Angesicht alles Volkes in einem Silbermantel sterben wird? Heißt ihn herkommen, auf daß er die Stimme Dessen höre, der in den Wüsten und in den Häusern der Könige gekündet hat. SALOME Von wem spricht er? NARRABOTH Niemand kann es sagen, Prinzessin. JOCHANAAN Wo ist sie, die sich hingab der Lust ihrer Augen, die gestanden hat vor buntgemalten Männerbildern und Gesandte ins Land der Chaldäer schickte? SALOME (tonlos) Er spricht von meiner Mutter. NARRABOTH (heftig) Nein, nein Prinzessin. SALOME (matt) Ja, er spricht von meiner Mutter. JOCHANAAN Wo ist sie, die den Hauptleuten Assyriens sich gab? Wo ist sie, die sich den jungen Männern der Ägypter gegeben hat, die in feinem Leinen und Hyazinthgesteinen prangen, deren Schilde von Gold sind und die Leiber wie von Riesen? Geht, heißt sie aufstehn von dem Bett ihrer Greuel, vom Bett ihrer Blutschande; auf daß sie die Worte Dessen vernehme, der dem Herrn die Wege bereitet, und ihre Missetaten bereue. Und wenn sie gleich nicht bereut, heißt sie herkommen, denn die Geißel des Herrn ist in seiner Hand. SALOME Er ist schrecklich. Er ist wirklich schrecklich. NARRABOTH Bleibt nicht hier, Prinzessin, ich bitte Euch! SALOME Seine Augen sind von allem das Schrecklichste. Sie sind wie die schwarzen Höhlen, wo die Drachen hausen! Sie sind wie schwarze Seen, aus denen irres Mondlicht flackert. Glaubt ihr, daß er noch einmal sprechen wird? NARRABOTH (immer aufgeregter) Bleibt nicht hier, Prinzessin. Ich bitte Euch, bleibt nicht hier. SALOME Wie abgezehrt er ist! Er ist wie ein Bildnis aus Elfenbein. Gewiß ist er keusch wie der Mond. Sein Fleisch muß sehr kühl sein, kühl wie Elfenbein. Ich möchte ihn näher besehn. NARRABOTH Nein, nein, Prinzessin. SALOME Ich muß ihn näher besehn. NARRABOTH Prinzessin! Prinzessin ... JOCHANAAN Wer ist dies Weib, das mich ansieht? Ich will ihre Augen nicht auf mir haben. Warum sieht sie mich so an mit ihren Goldaugen unter den gleißenden Lidern? Ich weiß nicht, wer sie ist. Ich will nicht wissen, wer sie ist. Heißt sie gehn! Zu ihr will ich nicht sprechen. SALOME Ich bin Salome, die Tochter der Herodias, Prinzessin von Judäa. JOCHANAAN Zurück, Tochter Babylons! Komm dem Erwählten des Herrn nicht nahe! Deine Mutter hat die Erde erfüllt mit dem Wein ihrer Lüste, und das Unmaß ihrer Sünden schreit zu Gott. SALOME Sprich mehr, Jochanaan, deine Stimme ist wie Musik in meinen Ohren. NARRABOTH Prinzessin! Prinzessin! Prinzessin! SALOME Sprich mehr! Sprich mehr, Jochanaan, und sag mir, was ich tun soll? JOCHANAAN Tochter Sodoms, komm mir nicht nahe! Vielmehr bedecke dein Gesicht mit einem Schleier, streue Asche auf deinen Kopf, mach dich auf in die Wüste und suche des Menschen Sohn. SALOME Wer ist das, des Menschen Sohn? Ist er so schön wie du, Jochanaan? JOCHANAAN Weiche von mir! Ich höre die Flügel des Todesengels im Palaste rauschen ... SALOME Jochanaan! NARRABOTH Prinzessin, ich flehe, geh hinein! SALOME Jochanaan! Ich bin verliebt in deinen Leib, Jochanaan! Dein Leib ist weiß wie die Lilien auf einem Felde, von der Sichel nie berührt. Dein Leib ist weiß wie der Schnee auf den Bergen Judäas. Die Rosen im Garten von Arabiens Königin sind nicht so weiß wie dein Leib, nicht die Rosen im Garten der Königin, nicht die Füße der Dämmerung auf den Blättern, nicht die Brüste des Mondes auf dem Meere, nichts in der Welt ist so weiß wie dein Leib. Laß mich ihn berühren, deinen Leib! JOCHANAAN Zurück, Tochter Babylons! Durch das Weib kam das Übel in die Welt. Sprich nicht zu mir. Ich will dich nicht anhör n! Ich höre nur auf die Stimme des Herrn, meines Gottes. SALOME Dein Leib ist grauenvoll. Er ist wie der Leib eines Aussätzigen. Er ist wie eine getünchte Wand, wo Nattern gekrochen sind; wie eine getünchte Wand, wo die Skorpione ihr Nest gebaut. Er ist wie ein übertünchtes Grab voll widerlicher Dinge. Er ist gräßlich, dein Leib ist gräßlich. In dein Haar bin ich verliebt, Jochanaan. Dein Haar ist wie Weintrauben, wie Büschel schwarzer Trauben, an den Weinstöcken Edoms. Dein Haar ist wie die Cedern, die großen Cedern vom Libanon, die den Löwen und Räubern Schatten spenden. Die langen schwarzen Nächte, wenn der Mond sich verbirgt, wenn die Sterne bangen, sind nicht so schwarz wie dein Haar. Des Waldes Schweigen .... Nichts in der Welt ist so schwarz wie dein Haar. Laß mich es berühren, dein Haar! JOCHANAAN Zurück, Tochter Sodoms! Berühre mich nicht! Entweihe nicht den Tempel des Herrn, meines Gottes! SALOME Dein Haar ist gräßlich! Es starrt von Staub und Unrat. Es ist wie eine Dornenkrone auf deinen Kopf gesetzt. Es ist wie ein Schlangenknoten gewickelt um deinen Hals. Ich liebe dein Haar nicht. (Mit höchster Leidenschaft) Deinen Mund begehre ich, Jochanaan. Dein Mund ist wie ein Scharlachband an einem Turm von Elfenbein. Er ist wie ein Granatapfel, von einem Silbermesser zerteilt. Die Granatapfelblüten in den Gärten von Tyrus, glüh nder als Rosen, sind nicht so rot. Die roten Fanfaren der Trompeten, die das Nah n von Kön gen künden und vor denen der Feind erzittert, sind nicht so rot, wie dein roter Mund. Dein Mund ist röter als die Füße der Männer, die den Wein stampfen in der Kelter. Er ist röter als die Füße der Tauben, die in den Tempeln wohnen. Dein Mund ist wie ein Korallenzweig in der Dämm rung des Meer s, wie der Purpur in den Gruben von Moab, der Purpur der Könige. (Außer sich) Nichts in der Welt ist so rot wie dein Mund. Laß mich ihn küssen, deinen Mund. JOCHANAAN (leise, in tonlosem Schauder) Niemals, Tochter Babylons, Tochter Sodoms ... Niemals! SALOME Ich will deinen Mund küssen, Jochanaan. Ich will deinen Mund küssen. ... NARRABOTH (in höchster Angst und Verzweiflung) Prinzessin, Prinzessin, die wie ein Garten von Myrrhen ist, die die Taube aller Tauben ist, sieh diesen Mann nicht an. Sprich nicht solche Worte zu ihm. Ich kann es nicht ertragen. ... SALOME Ich will deinen Mund küssen, Jochanaan. Ich will deinen Mund küssen. (Narraboth ersticht sich und fällt tot zwischen Salome Jochanaan) SALOME Laß mich deinen Mund küssen, Jochanaan! JOCHANAAN Wird dir nicht bange, Tochter der Herodias? SALOME Laß mich deinen Mund küssen, Jochanaan! JOCHANAAN Tochter der Unzucht, es lebt nur Einer, der dich retten kann. Geh , such ihn. (Mit größter Wärme) Such ihn. Er ist in einem Nachen auf dem See von Galiläa und redet zu seinen Jüngern, (sehr feierlich) Knie nieder am Ufer des Sees, ruf ihn an und rufe ihn beim Namen, wenn er zu dir kommt, und er kommt zu allen, die ihn rufen, dann bücke dich zu seinen Füßen, daß er dir deine Sünden vergebe. SALOME (wie verzweifelt) Laß mich deinen Mund küssen, Jochanaan! JOCHANAAN Sei verflucht, Tochter der blutschänderischen Mutter, sei verflucht! SALOME Laß mich deinen Mund küssen, Jochanaan! JOCHANAAN Ich will dich nicht ansehn. Du bist verflucht, Salome. Du bist verflucht. (Er geht wieder in die Cisterne hinab) All rights reserved © Kimiyo Strauss,Richard/Salome/2
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作者 亚布 原址 (1) 正文 内容摘要:印章文字:又称哈拉帕印章文字,或印度印章文字,是出土于印度河流域的古代文字。因为诸多原因,至今尚未破译。笔者曾在拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中断言:印章文字是伏羲书契,哈拉帕是昆仑墟。这是因为印章出土地哈拉帕古城遗址,与中国古代帝都昆仑墟十分接近,并且还有四枚图画印章表现的内容,与《山海经》的记述极度吻合。 笔者沿着《山海经》的脉络,参照水书、甲骨文和金文,尝试破译了50枚印章上的文字。从破译的结果来看:仅仅破译了50枚印章,就出现了12位中国古籍上夏朝以前的人物。这些人物包括伯子杼、大禹、因乎、贰负、虞舜、共工、仁羿、用侯、丹朱、巫咸、华胥、曾侯。这些人物都记述在《山海经》、《古本竹书纪年》及《史记》里。50枚印章里还包含有“余、施、殷、曾、用、朱、有虞氏、昆吾氏、风、卜、曲、牛、储、且、世、邠、华胥氏、穀穀、干”19个上古姓氏。 由于印章文字破译出来的内容,多处与《山海经》和《古本竹书纪年》吻合,笔者断定:所谓的印度河文明乃是中华远古文明,印章文字乃是中国古文字,是生活在印度河流域的中华先民使用过的文字。 第一章 印章文字所处年代及社会状况 无论要破译哪一种未知古代文字,首先要做的都是断代工作。要确定这种文字语言所处的年代,被什么人使用,这些人有着怎样的生活方式,他们的宗教信仰,政治体系、风俗、地缘关系和该文字有关的历史书籍,文化传承等等,都要分析清楚,就是要在破译之前,首先复原所要破译文字所处的历史环境。这样做既有助于文字的破译,又有助于检验我们破译出来的文字是否正确。 笔者曾在拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中断言:巴基斯坦印出土的印章文字是夏朝以前的伏羲书契,哈拉帕是昆仑墟。之所以敢这样肯定的放言,原因有三: 一、印章文字与中国古代帝都昆仑墟的地缘关系 出土印章文字的哈拉帕古城,尽管离中国更近,可发现印章文字的人,却还是把它归结为印度文明。稍有点历史知识的人,都会知道:印章文字大约发现于1922年-1930年之间,而那个时候的印章发掘地还在英属印度统治之下,并不是现在的巴基斯坦。因为发现印章文字的人,是带有浓厚殖民意识的西方人,他所要做的工作就是:为殖民合法化找到理论依据。这也就催生了雅利安人入侵印度的神话,催生了中国文明西来学说。自诩进步文明的西方考古工作者,也自然不会把哈拉帕这顶桂冠给中国戴上,这也就成了印章文字至今还没破译的瓶颈。 按照《穆天子传》所云:“自宗周瀍水以西,至于河宗之邦,阳纡之山,三千有四百里。自阳纡西至于西夏氏,二千又五百里”。就是说周朝的时候,镐京(今西安市)到西夏氏的距离合周制五千九百里,约合现在二千零四十公里。笔者在百度地图上使用测距软件,测得西安向西二千零四十公里处,正是现在的中巴边境,五河之源。 也就是《山海经》里面所说的昆仑山。而昆仑山周朝时隶属于西夏氏。那么,西夏氏是不是和我们一样,也是夏朝的后裔呢?笔者认为:是。因为周穆王效仿古天子巡狩四方,入西夏诸国以后,多逢宗亲,就像是回到老家一样。况且出土印章文字的哈拉帕古城,就位于喀喇昆仑山与喜马拉雅山交界处。而中国古籍上也一再强调:“海内昆仑墟远在西北,帝之下都”。尽管古籍上记载的昆仑山和现在的喀喇昆仑山,所指的范围可能不太一致,但不会出其左右。 二、印章文字与水书、甲骨文的同源关系 水书与甲骨文同源这个事实,在现在的华文世界里没有争议。我曾对水书、甲骨文和金文进行过对比研究:分析得出的结果也是水书比甲骨文古老,甚至比印章文字还古老。虽然现在的水书受汉字的影响严重,但从可以确定为原始水书文字的情况来看,水书中的文字都是最基本的生活诉求,就连官爵之类的文字都极少出现,说明水书产生于阶级社会之前,也停止造字于阶级社会之前。停止造字以后,水书就因袭汉字,往往是把汉字反写,以示区别。而印章文字情况截然不同。在《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面,我破译过“帝、王、公、侯、伯、子”六个字,而且把这几个印章文字与甲骨文、金文进行了对比,做了论证。从这个现象上可以看出当时的印章文字,尽管变体很多,还处在发展阶段,但肯定比水书成熟。从印章文字和甲骨文的发展规律来看:印章文字和甲骨文都借鉴了古老水书的造字方法,只不过印章文字是朝向简洁的符号化发展,而甲骨文却恰恰相反,朝向繁缛的象形文字发展,但其同源性是显而易见的。笔者还发现一个有趣的巧合:根据统计资料显示:哈拉帕印章文字基本字符有400多个。这与我们现代汉语有400多个字根的数目极为吻合。这似乎也证明了甲骨文,乃至现代汉语,是在印章文字基础上完善起来的。 三、图画印章与《山海经》的映证关系 考古需要实证,我们无法回避这个问题。如果在哈拉帕和摩亨佐.达罗古城,出土了一件《山海经》里面记述的文物,可以用巧合解释。而问题却是:在哈拉帕和摩亨佐.达罗古城遗址出土了多件《山海经》里面记述的文物,这就不能不让我们引起重视。据我考证:至少有四枚图画印章,刻画的是《山海经》里面记述的故事。它们是黄帝战蚩尤、应龙杀蚩尤和夸父、二八神、怪兽“双双”。这些印章故事,被我写成《印章上的山海经故事》,发在贴吧里。 综合以上三点,又结合《山海经》记述的年代,我把印章文字的年代断在伏羲至于夏朝,就是大约公元前3100年-公元前1600年。这1500年也正是中国无信史阶段,甚至当今有些网友开始怀疑夏朝是否真的存在,这已经动摇了中华五千年文明的根基。 笔者认为:不仅夏是信史,而且伏羲也是信史。近些年,笔者使用巴基斯坦的出土印章,对照《山海经》、《古本竹书纪年》、《穆天子传》、《史记》、《尚书》等史籍研究,隐约看到一个纵横在亚洲大地,上至伏羲,下至夏朝的庞大古国。按《山海经》所记述的范围来看:这个帝国疆域西至伊朗高原;东抵中国海,北到西伯利亚,南达印度洋。应该是那个时代最强大的帝国。 既然已把印章文字的年代,断在伏羲至于夏朝,大约公元前3100年至-公元前1600年之间。那么回头看看中国古籍上有关这段历史的记载。在印章文字破译工作中,笔者主要采信《山海经》和《古本竹书纪年》,兼杂《史记》、《尚书》等。之所以这样选择,是根据各种史书的成书年代及经过不同而定。 《山海经》海经部分,成书年代可确定为伏羲至于夏朝,正处于我要破译的印章文字年代,又是上古群巫秉图直言,极为可信。 《古本竹书纪年》是魏国史书,成书于战国时代,可能原始史料更早。成书早于《史记》,且有编年,不易伪造,多处记载均于《山海经》契合。据《竹书》记载 “(尧)七十六年,司空伐曹魏之戎,克之”。可见曹魏历史久远,且毗邻西北,是黄帝东进第一站,定有正面接触。 《史记》对伏羲至于夏朝的记述是司马迁择史及民间传说著成。成书时间距该段历史久远,故未必准确。 《尚书》为孔子所修撰,儒家重德轻史。有道是:巫言皆实,道言皆玄,儒言皆高尚。儒学的经典,只言帝功,不言帝过。有删书之嫌。孔子自己都直言不讳的说:“知我者其惟春秋乎!罪我者其惟春秋乎”! 那么,笔者就从《山海经》收篇之处入手,分析印章文字所处年代的社会状况。 《山海经.海内经》结尾说:“黄帝生骆明,骆明生白马,白马是为鲧。帝俊生禺号,禺号生淫梁,淫梁生番禺,是始为舟。番禺生奚仲,奚仲生吉光,吉光是始以木为车。少昊生般,般是始为弓矢。帝俊赐羿彤弓素[矢曾],以扶下国,羿是始去恤下地之百艰。帝俊生晏龙,晏龙是为琴瑟。帝俊有子八人,是始为歌舞。帝俊生三身,三身生义均,义均是始为朽[亻垂],是始作下民百朽。后稷是播百穀。稷之孙曰叔均,是始作牛耕。大比赤阴是始为国。禹、鲧是始布土,均定九州。炎帝之妻,赤水之子听[讠夭]生炎居。炎居生节并,节并生戏器,戏器生祝融,祝融降处于江水,生共工。共工生术器,术器首方颠,是复土壤,以处江水。共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二。洪水滔天,鲧窃帝息壤以堙洪水,不待帝命。帝令祝融杀鲧于羽郊。鲧复生禹,帝乃命禹卒布土,以定九州”。 这一段文字是全书之精妙,也是全书之玄妙!文中叙述的帝系顺序为:黄帝-帝俊-禹-鲧-炎帝-鲧-禹。这个排序相当混乱,以至于使读者如坠云雾。是历史本来就是这样的,还是古人排序错了? 笔者以为都不是。参考一下《古本竹书纪年》,很容易理清其顺序,黄帝以下当是:黄帝-鲧-禹。据《史记》记载:“炎帝欲侵陵诸侯,诸侯咸归轩辕”。可见炎帝时候,轩辕还没有称帝,那么黄帝肯定是排在炎帝之后了。根据《山海经》来看炎帝又出于帝俊。那么该文的帝系排序就应该是:帝俊-炎帝-黄帝-鲧-禹。 从此段文字反常的帝系排序来看:《山海经》在夏朝时一定有过重大修撰,因为夏人为黄帝苗裔,故把黄帝排在文首,把禹列在文尾。 那我把“禹、鲧是始布土,均定九州”这段重复的话删掉,重新排序一下:《山海经.海内经》: “帝俊生禺号,禺号生淫梁,淫梁生番禺,是始为舟。番禺生奚仲,奚仲生吉光,吉光是始以木为车。少昊生般,般是始为弓矢。帝俊赐羿彤弓素[矢曾],以扶下国,羿是始去恤下地之百艰。帝俊生晏龙,晏龙是为琴瑟。帝俊有子八人,是始为歌舞。帝俊生三身,三身生义均,义均是始为朽[亻垂],是始作下民百朽。后稷是播百穀。稷之孙曰叔均,是始作牛耕。大比赤阴是始为国。炎帝之妻,赤水之子听[讠夭]生炎居。炎居生节并,节并生戏器,戏器生祝融,祝融降处于江水,生共工。共工生术器,术器首方颠,是复土壤,以处江水。共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二。黄帝生骆明,骆明生白马,白马是为鲧。洪水滔天,鲧窃帝息壤以堙洪水,不待帝命。帝令祝融杀鲧于羽郊。鲧复生禹,帝乃命禹卒布土,以定九州”。 概括上文:记述的其实都是帝俊伏羲一家之事。是说帝俊有子八人,却有两个主要支系直接影响后世历史:一支是少昊支系;另一支是炎黄(即少典)支系。 少昊支系:帝俊生禺号,禺号即是一世少昊,八传至少昊挚,被颛顼逐到西方。 炎黄支系:帝俊生三身。参考《大荒西经》记载:“有西周之国,姬姓,食穀。有人方耕,名曰叔均。帝俊生后稷,稷降以百穀。稷之弟曰台玺,生叔均。叔均是代其父及稷播百穀,始作耕。有赤国妻氏。有双山”。古人把孕一儿称作“双身”,孕两儿就是“三身”。所谓“帝俊生三身”,就是帝俊和娥皇孪生了后稷和台玺两兄弟,封为少典。后稷的儿子是义均,也叫朽[亻垂],姚姓,后来的舜就出生在姚虚。台玺的儿子是叔均,姬姓,后娶赤国妻氏赤水之子听[讠夭],就是一世炎帝。黄帝也是姬姓,自然出于叔均,所以无论炎黄二氏皆言出于少典氏。 现在让我们来还原一下那个时候的社会生活状况。 笔者从上文共摘取出:帝、舟、车、弓矢、羿、国、琴瑟、歌舞、百巧、播百穀、牛耕、双山、洪水、九州,十四项事物。 之所以这样做,我是要把这些《山海经》里面所说的事物,拿来与印章对比。看看印章上到底有没有这些事物,以此证明我的断代工作不是姑妄之言。 通过对印章图案和文字的对照分析,结果发现:印章文字上确实有帝、有舟(见于图片印章之上)、未见车、有弓矢、有羿、有国(有帝必有国)、有琴、有舞、有百巧、播百穀(见于图片印章)、有牛耕(见于图片印章)、未见双山、未见洪水、见九州官员(帝、王、公、侯、伯、子、男)。 十四项中只有“车”、“双山”和“洪水”三项未见。可能是因这三种事物与印章的功能关系不大,抑或是因笔者手头印章资料有限。但车、双山和洪水三种事物在《古本竹书纪年》和《山海经》里面有见。笔者相信随着对印章文字考证的深入,会有发现。 除此之外,那个时代和印章文字有关的还有什么呢? 《史记·三皇本记》说:“庖牺氏、风姓,代隧人氏继天而王。母曰华胥,履大人迹于雷泽而生庖牺,以类万物之情,造书契以代结绳之政”。这里面的“庖牺氏”就是太昊伏羲。伏羲的母亲“华胥”这一古老姓氏,读者会在后面的破译中看到。文中说伏羲“造书契以代结绳之政”,这说明伏羲时代的书契沿袭了结绳的某些印记,我在印章文字里,的确发现了“玄、兹、索(或读素)”三个字。 伏羲至于夏朝1500年间和印章文字有关的事情,笔者就掌握这么多。接下来笔者要做的工作是:在印章文字里面,复活这些上古的事物。 第二章 印章文字破译 要破译印章文字,其方法和破译甲骨文差不多,就要对印章文字进行分类、训诂、查证。 为了使破译工作容易展开,我把印章分成:素章、徽章、图画章。 一、素章就是没有图案的印章。又分为有名素章和无名素章。 二、徽章就是有帝王、动物图案的印章。又分为有名徽章和无名徽章。 三、图画章就是以叙事为题材的,图案形象生动,具有纪念意义的印章。图画章又分为有字图画章和无字图画章。笔者因资料有限,迄今仅发现:黄帝战蚩尤、应龙杀蚩尤与夸父、二八神和怪兽“双双”四枚图画章。 直观地看印章:公爵基本是素章。徽章上端坐着的人是帝;昂首挺胸的麒麟(独角兽)多为侯爵;器宇轩昂的牛多为伯爵;低首乞怜的牛或其他动物多为降爵。 印章上的独角兽,其实就是中国古代传说的麒麟。许慎《说文》记述的很明白:“麒,仁兽也,麋身牛尾一角;麐,牝麒也”。对照一下印章上的独角兽,完全是“麋身牛尾一角”。西凉武昭王《麒麟颂》也说:“一角圆蹄,行中规矩,游必择地,翔而后处,不蹈陷阱,不罹罗罟。”《说苑》亦有:“含仁怀义,音中律吕,行步中规,折旋中矩,择土而后践,位平然而后处,不群居,不旅行,纷兮其质文也,幽问循循如也”。可见古人把麒麟描绘成仁厚君子,风度谦谦的样子。因此麒麟便成为统治者、王、侯的象征。《古本竹书纪年》就记载:“帝尧陶唐氏。元年丙子,帝即位,居冀。五年,初巡狩四岳。七年,有麟”。这里的“有麟”就是被推举为圣人。 《淮南子》还有:“应龙生建马,建马生麒麟”之句。应龙就是黄帝部族,杀死夸父和蚩尤的那个豹部首领。由此可见:麒麟与黄帝部族存在渊源,反映到印章上面也就自然而然了。 中国民间还有“牛生麒麟猪生象”的传说。这也隐隐透露出牛与麒麟存在嫡亲关系。而印章里面,牛多为伯,为长辈,似乎也印证了民间传说。 为了方便读者阅读,我选取了50枚印章图片,从0001开始进行编码,并称之为印章图码;对要破译的文字也从0001开始进行编码,并称之为印章字码。然后把破译出来的带有印章字码的印章文字,对照水书、甲骨文、金文列成《 印章文字单字破译表 》,使它初具字典功能,以备破译印章原文使用。 为了简化工作,我又把要破译的印章文字分成数字类、帝爵类、符号类、书契类。 一、数字类:包含了从“一”到“十”和“百、千、万”,共13个字。 二、帝爵类:包括“帝、帝帝、王、公、侯、伯、子、男”,共8个字。 三、符号类:包括“省写复读符号”2个 ;“玄、兹、素(索)”结绳符号3个,共个5个符号。 四、书契类:共有62个文字。书契类也就是正文类,之所以叫书契类,是因为笔者认为这种文字始造于伏羲,沿用至夏末。 破译文字之前,还要先给读者补习一点“切音和训诂”的知识。因为笔者非专业人士,所言未必正确,采用的术语也未必专业,个人目的:是为了让普通读者读懂我这篇论文,所以采用科普读物的语言来讲解。 训诂:就是研究古字的原始含义,弄清古字的标准发音,用以正确地解读古籍。其方法是:对单体象形字,主要考察它的读音和原始意义;对合体会意字,不仅要考察它原始的意义,还要准确切读文字的读音,我称之为切音。切音以后,还有把切读出来的文字,对译成现代汉语。 切音,也叫急读或者切读。形象点说:就是发音时剪切掉辅次音阶,保留主韵音阶。举个典型的例子,如:“费”字。在还没有拼音字母的上古时期,“费”字有两种读法:口语音可以读作“弗贝”,书面语就读作“费”。在音韵上讲:“费”是“弗贝”切。用现代汉语拼音表示:fú beì切feì。通俗的讲:“弗贝”急读就是“费”。“弗贝”在现代汉语里面叫连绵词。连绵词拆解之后,单个文字就与连绵词本身的意义再无关联。这种例子很多。如“祁连”急读为“乾”;“昆仑”急读为“坤”。 从“费”字切读中不难悟出:上古的字,既有表意功能,又有表音功能。通俗的说:上古的文字,即是文字,又是拼音。这就是我破译印章文字的突破点。时至今日还有很多专家学者,为印章文字到底是表音文字,还是表意文字而争论不休。那我告诉大家:印章文字即是表音文字,又是表意文字。它即是文字,又是拼音。 笔者在印章文字与水书的对比过程中,还发现水书也有类似以字表音的现象,如:以“雨”代“与”;以“六”代“禄”;以“益”代“宜”等等,值得研究。 对于切音,笔者的经验是:有直切和模糊切之分。 所谓直切:就如“弗贝切费”,直接用合体字的两个部首拼读。 所谓模糊切:就是用单体字的音,或合体字的音部,进行拼读。比如“匈奴”切读之后就是“胡”;“[马匋][马余]”切读之后就是“[马交]”。 但需要注意的是:有些文字的古音与今音不同。估计约占古文字十分之三。这就要求我们尽可能的使用古音切读,切可不是信口开河,胡乱切读,那样就违背了做学术的初衷。 对于“训诂”,笔者想举例说明,这样读者更容易接受。就举《山海经》里面频繁出现的两个字:“其”和“有”。也许有些读者会笑了!这个简单啊!“其”就是他、他们。“有”就是有啊!有此一解,《山海经》不成神书难矣! 今天笔者对印章文字的破译,其实就源于多年以前读研《山海经》时,对“其”和“有”的独到解释。 “其”字,甲骨文是象形文字,箕形,是上古氏族图腾。因为上古人逐水草而居,往来迁徙不定。为了防止相同氏族的人在几代以后,异地相逢,还能相认,各个氏族便制作了属于自己的图腾。“其”就是“棋”或“旗”。金文里的“棋”字更形象了,为两手将“其”挂在木杆之上。所以氏族驻地,必置“其”于辕门外。“其”就是他们的图腾,后来引申为他或他们之意。 “有”字,甲骨文也是个象形文字,是上古的族旗或族徽。上古“有国的人”就是“侯”。“侯”字“有”音。金文“有”字,形为旗杆上挂着一面“旗”,是王族标志。因此上古王族多称自己为“有某氏”。比如黄帝称“有熊氏”,就是他们的族旗上画着熊。因为族旗是王族标志,所以两族汇聚,无论是敌是友,必先看“有”。“有”则贵,无则贱。“有”为族旗,还可以考证在《国语.鲁语上》:“共工氏之伯九有”。是说共工氏族有九面族旗,即共工氏有九个部族。 下面我用《山海经》里面的章节给读者验证一下。 《海外西经》载:“奇肱之国在其(一臂国)北。‘其’人,一臂三目,有阴有阳,乘文马。‘有’鸟焉,两头,赤黄色,在‘其’旁”。这句话的真实意思是说:奇肱国在他们(一臂国)的北边。图腾画的是人,(图腾上的人)一臂三目,可以看见那人的前胸后背(犹似侧影),骑着华丽的骏马。(悬挂的)族旗上面画的是鸟,两头,赤黄色,立在图腾旁。 如果把“其”当做“他们”,把“有”当“有”来解释,就会令人感觉荒诞怪异,不知所云。 就历史起源来看:“其”比“有”更古老,“其”代表氏族;“有”代表部族或侯国。这个问题会在《第三章》的破译中浮现出来。 懂得了切音和训诂,对古籍的解释就不会人云亦云,望文生义了。 下面请读者和我一起,分类破译印章文字。 一、数字类 只要是智慧生物,第一认识肯定是自然数。像哈拉帕这种文明社会,数字在肯定社会生活中,起着平衡社会成员的作用。因此印章文字里一定有数字无疑,难的是:我们如何从这些看似杂乱无章的文字里,把他们挑选出来。 通过谨慎研究,笔者在50枚印章图片中,选取了“一、二、三、四、五、七、十”7个文字。又根据印章数字的排列规律,增加了“六、八、九”3个数字。虽然没有找“百、千、万”3个字,但笔者还是把“百、千、万”三个字进行了编码,以便日后破译缀入。并把选取出来的印章数字和水书、甲骨文、金文进行对比,列成表一。 表一:印章文字单字破译表(数字类),印章字码0001-0013。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF006.tmp.png 在表一里可以发现:原来上古数字源于数手指。读者请看印章文字的变体“一、二、三、”和水书“一、二、三”,就是手掌上伸着的指头。这一点可以证明水书和印章文字一样古老,而甲骨文则要年轻的多。 那么再看印章文字正体和甲骨文、金文的“一、二、三、四”,对比字形完全相同,只是甲骨文、金文横写,而印章文字竖写罢了。 还要注意一下金文“十”字,是一个“五”字,下面加一个“黑点”,意思是还有一个“五”。这个黑点就是金文的省写复读符号。 稍后我们会看到:印章文字里也有省写复读符号。以上选取的这些印章数字,对与不对,权且记下,待在《第三章》验证给读者。 二、帝爵类 共破译“帝、帝帝、王、公、侯、伯、子、男”8个印章文字。 对于中国上古封爵问题,《通典.职官.封爵》载:“黄帝:方制万里,为万国,各百里;唐虞夏:建国凡五等:公、侯、伯、子、男;殷:公、侯、伯三等,公百里,侯七十里,伯五十里;周:公、侯、伯、子、男五等,公侯百里,伯七十里,子男五十里。周公居摄改制,大其封,公五百里,侯四百里,伯三百里,子二百里,男百里”。 有明确记载最早的封侯时间是《山海经.海内经》:“炎帝之孙伯陵,伯陵同吴权之妻阿女缘妇,缘妇孕三年,是生鼓、延、殳,始为侯”。除此,笔者再没发现比这更早的记述。 帝爵类文字,我已经在《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面论述过了,这里就不再赘述。 表二:印章文字单字破译表(帝爵类),印章字码0014-0021。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF017.tmp.png 在这里笔者要修正一些内容:“帝、王、公、伯”,都是用官帽标识等级。“帝”的帽子是倒三角形的;“王”的帽子好像两只羽毛,但据笔者进一步考证:印章文字的“玨”字应是戴玉冠的舞者,因为印章文字上面部首“玨”对应的是甲骨文“珏”字,就是和在一起的两块玉。下面部首对应的是甲骨文“舞”字。“玉”也音“羽”,极可能巫王不祭祀的时候戴羽冠;“公”的帽子尖尖的;“伯”的帽子好像套着一个环。“子”(爵)是没有官帽的,他还还小,从甲骨文中看:他只能伏在母亲的背上,食俸禄,不参政。 侯:甲骨文、金文都是象形字形,象射张布中矢之形。张布就是用兽皮制成的箭靶。《小尔雅·广器》载:“射有张布谓之矦”。“矦”是侯的异体字。以此可见:“侯”有一项重要的生活内容,就是习射弓箭。印章文字“侯”是象形字,形如立着的族旗。这与《山海经》中“有”字更为接近 。因此上古“侯”字“有”音。据笔者考证:印章文字的“侯”字,已演变成现代汉字姓氏里常见的偏旁“阝”,如:鄧、郮、邸、邬、邯、郜等。他们分别是登侯、周侯、氐侯、乌侯、甘侯、告侯的合体字。也可以这样讲:凡带有“阝”旁的姓氏,均是由上古诸侯封号演变而来的。更正拙作《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中,“侯”字也是合体字,实为“用侯”。此外还有邠侯、虞候、曾侯等,在后面的破译中会一一呈现。 细心地读者一定会发现:《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》中没有破译男爵。笔者在此破译。 男:印章图码0049,印章字码0021。 《说文》:“男,丈夫也。从男从力,言男用力于田也”。《说文》的解释只对了一半。男:田音。上古“男”就是“田”。甲骨文里“男”字有两种写法。一种是从田从手,一种是从田从力。这两个名词“男”对应着两个动词“田”,即“畋”和“佃”。 古时“田”字概念与今天不同。人类最初的生产生活方式是由狩猎、放牧、再过渡到耕种的。所以古时的“田”分为:猎田、牧田、耕田。三个“田”字,字形虽相近,但用途不同。 甲骨文中从田从手的“男”字,对应的是动词“畋”字。“畋”字是个会意字,从攴(pū)从田。“攴”,甲骨文画作手持木棒,临于陷阱旁,即畋猎,意为猎杀猎物。《古本竹书纪年》夏史记载:“汝艾夜使人袭断其首,乃女歧也。浇既多力,又善走,艾乃畋猎,放犬逐兽,因嗾浇颠陨,乃斩浇以归于少康”。这里就记述了汝艾使用“畋猎”的方法,使浇坠入猎田的陷阱,并杀死他。 古时还有牧田。《周礼·载师》 “牛田牧田”。这里的“牛田牧田”都是牧田,只不过“牛田”是用来养公家牛的田。 甲骨文中还有一个从田从力的“男”字,这个“男”字从金文以后就固定为耕田之男了,因为周朝是以农立国的。而这时候的“男”字,对应的动词就是“佃”,从人从田。意思是人在田间耕作。 印章文字的“田”字实际就是“男”字,可译作现代汉语:田、男。读:田、男。 从对印章文字帝爵类的破译结果来看,与《通典.职官.封爵》记载:“唐虞夏:建国凡五等:公、侯、伯、子、男”一致。或许这也是“印章文字是伏羲书契”的一个明证。 读过《古本竹书纪年》的人都会有一个共同的印象,就是夏、商、周对帝王的称谓不同。夏以前皆称帝,而商、周皆称王。笔者认为:促使夏帝国灭亡的原因不止是商汤伐夏,而是万国不来朝夏。即使商汤灭夏以后,“始居夏社”,同样万国也没来朝商。这说明殷朝的疆域和统治范围远不及夏朝,夏朝在商汤之时已经分裂。尽管后来逐渐有朝觐殷商者,但均来自东方,而对于西方,殷朝多言征伐。或许因此,历代殷朝君主才不敢称帝,只能称王。《古本竹书纪年》殷史记载:“武丁。王,殷之大仁也。力行王道,不敢荒宁,嘉靖殷邦,至于小大,无时或怨。是时舆地,东不过江、黄,西不过氐、羌,南不过荆蛮,北不过朔方,而颂声作,礼废而复起,庙号高宗”。可见到了殷王武丁的时候,殷朝已迁九鼎,定居中原。而周是殷的诸侯,所以更不敢称帝。 三、符号类 符号是客观事物或主观思维,在人脑中的具体抽象或形象。符号可以用书写的方式表达,也可以用体姿语言,声音,甚至眼神传达。只要在群体内能够被理解,能够互通,就是符号。我将要破译的是印章文字里面语言符号。它们是符号,但也有语言功能。 表三:印章文字单字破译表(符号类),印章字码0022、0023、0031、0036、0056。 file ///C \Users\ADMINI~1\AppData\Local\Temp\ksohtml\wpsF018.tmp.png 1、省写复读符号 在图0001、图0005、图0007和图0008里面,“省写复读符号”可能困扰了不少学者。其实它跟我们今天的省写复读符号“り”是一样的。只不过今天是连写,上古是正写。印章文字里还有“两字省写复读符号”,相当现代书写里的“りり”。而金文里的省写复读符号却是以“一点”带过。 由于印章文字里“省写复读符号”和“印”字频繁出现,以至于很多学者都把印章文字定性为拼音文字了。其实我在接触印章文字的初期,也曾有过这种想法,但当我把这两个字符,做一个定义之后,转机马上出现了。 2、结绳记事符号 在图0005、图0006、图0019中,笔者发现了可能比伏羲书契更为古老的文字符号,它们是“玄、兹、素(索)”。虽然我知道它们是文字,会在后面的书契类里破解它们,但我还是把它们在符号类里说明一下。笔者认为“玄、兹、素(索)”这三个字,来源于更古老的结绳记事符号。 结绳记事,也叫奇普(英文khipu),我译之为“其谱”。结绳记事相传起源于和燧人氏同时期的弇兹氏,就是《山海经.海内北经》中:“西王母梯几而戴胜(枚),其南有三青鸟,为西王母取食”文中的“三青鸟”部族。“三青鸟”部族首领均是女子。结绳一股的女首领,叫玄女;结绳二股的女首领,叫兹女。结绳三股的女首领。叫素女,或叫须女。伏羲氏风姓就来自于这个部落,所以我才说“玄、兹、素(索)”这三个符号更古老。果真如此,那可能在伏羲以前就已经有文字的雏形了。 四、书契类 书契类破译是本篇论文的重点,笔者主要采用印章图片原文,逐字破译。单字破译后还会在《第三章》里面,使用印章原文配合史书进行验证。 那么,我就从印章文字里面经常出现的“鱼”形符号开始破译。在破译之前,请读者千万不要忘记我前面讲过的切音和训诂,否则,将无法破译印章文字。 为了方便读者阅读,我把将要破译的62个印章文字列成表四,以便读者对照阅读。 表四:印章文字单字破译表(书契类),印章字码0024-0085。 更多内容搜索《古文字学术报告:亚布破译印章文字》 3�{RX¡ 表四:印章文字单字破译表(书契类),印章字码0024-0085。 1、鱼:印章图码0001,印章字码0024。 鱼:印章文字、水书、甲骨文、金文都是象形字,像鱼形。 《山海经.海外北经》载:“汉水出[鱼付]鱼之山。帝颛顼葬于阳,九嫔葬于阴,四蛇卫之”。文中的“[鱼付]鱼”,在《山海经》里有多种写法,如附禺、务隅、扶余等。这说明鱼、禺、隅、余,都读鱼。 《古本竹书纪年》夏史记载 “帝杼。元年己巳,帝即位,居原。杼或作帝宇,一曰伯杼。杼,能帅禹者也,故夏后氏报焉”。这又说明:“杼、宇、禹”同音。而禺、禹在甲骨文里又是同型字。这说明:“鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹”都读鱼音。 《山海经.大荒西经》:“有人反臂,名曰天虞”。《山海经.海外东经》:“朝阳之谷,神曰天吴,是为水伯”。那么,这里面的“天虞”和“天吴”是不是同一个官职?“虞”和“吴”是不是同一个字?帝舜的时候,曾封伯益为虞官,专管草木鸟兽之事。同时帝舜就出生在有虞氏。先秦以前吴、虞通用。《左传》僖公五年的“虞仲”,被《吴越春秋》引为“吴仲”。可见上古吴、虞是一个字。 再请看印章字码0066“吴”字的金文写法,左下角有一鱼形,按照古代汉字的拼读习惯,这个鱼形就是声部,故“虞”读作鱼。吴、虞是一个字,“吴”也读鱼。 综上所述:上古的鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹、虞、吴都读做鱼。那么我们就可以反过来想:现代汉字的鱼、禺、余、隅、余、杼、宇、禹、虞、吴,都可以用印章文字里的“鱼”字代替。读:鱼。 2、矢:印章图码0001,印章字码0025。 印章文字“矢”字,和水书、甲骨文、金文一样象矢形。矢音。 《山海经.海内经》 “少昊生般,般是始为弓矢。”上古“矢”用于诸侯土地面积的确定。“矢”通“屎”。因为上古诸侯射出的箭,和“豹、虎、熊、罴”拉的屎,所落之地,皆为领地。 “矢”通“施”。《诗·大雅·江汉》 :“矢其文德,洽此四国”。 “矢”通“誓”。《诗·卫风·考槃》 “永矢弗谖”。《广雅》:“矢,直也”。 印章文字“矢”译作现代汉字:矢、屎、施、誓、直。读做:矢。 3、网:印章图码0001,印章图码0025,印章字码0026。 网:《说文》 “网,庖牺所结绳以渔”。《易·系辞下》:“(伏羲)作结绳而为罔罟,以佃以渔,盖取诸离”。这说明网是伏羲发明的。网也是罔,上古网、罔都读做网。印章文字“网”字,象网形,网音。可译作现代汉字:网、罔。4、印:印章图码0003,印章字码0027。印:甲骨文为会意字,左为一只手(持印章)朝下,右为一人长跪状。水书是象形字,为纸上有一印迹。学理工科的同学一看就清楚了,印章文字的“印”字也是象形字,只不过印章文字的“印”字是主视图,而水书“印”字是俯视图。 《说文》:“印,执政所持信也”。蔡邕说 ”《独断》玺者,印也。印者,信也”。《小尔雅》:“玺谓之印”。“按,古上下通曰玺。秦以来,天子、诸侯、王称玺,独以玉;列侯至二千石曰章”。这说明秦以前,无论官阶大小都可以用玉印,都叫做玺。秦以后除了天子、诸侯、王可以用玉印,称作“玺”,余者皆称“章”。单从哈拉帕出土印章材质来看,我们的确看不出官阶等级,这也侧面证明了这个说法。印章文字中“印”可译作玺、章、印。上古读“玺”。因为印章文字概念已被大家所接受,笔者按今音,通译做“印”。但切音时要读:玺。 5、因:印章图码0005,印章字码0028。因:也写作“囙”。是个很古老的文字,本意是靠垫,《山海经》中频繁出现。 甲骨文、金文,象人靠在席子上。而印章文字直接画成“靠垫”形状。《说文》说:“因,就也”。有因循之意。《论语·为政》:“殷因于夏礼,所损益可知也”。 “因”与“亲”同音,有“亲”之意。《诗·大雅·皇矣》:“因心则友”。 “因”古同“姻”。《诗经·我行其野》:“昏姻之故,言就尔宿”。这里的“昏姻“是指野蛮抢婚的原因,并不是今天的文明婚姻。 “因”也是姓氏。参照《山海经》和《古本竹书纪年》“河伯僕牛”之事,“因”同“殷”。 印章文字“因”字,读“因”。译作现代汉字:因、姻、亲、殷。6、乎:印章图码0005,印章字码0029。乎 :本意是“呼”。甲骨文、金文像呼喊时声波上扬之状。印章文字变体与甲骨文金文一致;印章文字正体,画作呼号时二目圆睁。 “乎”后引申为疑问或反诘之意,类似“你说?” “乎”通“于”。《礼记》:“ 素富贵,行乎富贵;素贫贱,行乎贫贱”。印章文字“乎”字,读“乎”。可译作现代汉字:乎、呼、于。7、西:印章图码0005,印章字码0030。西:印章文字、甲骨文、金文的“西”字,只在方圆变化间,字体一模一样。为同一个字。印章文字,读:西。译为现代汉字:西。8、玄:印章图码0005,印章字码0031。玄:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,“玄”就是有一股的绳。印章文字、甲骨文、金文里,“玄”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,甲骨文和金文展现的是绳身。 “玄”通“弦”,即弓绳。“玄”字印章文字里译作:玄、弦。读作:玄。9、浮鱼:印章图码0005,印章字码0032。浮鱼:印章文字是一个氏族符号,画作鱼破水而出,会意为“浮鱼”。《山海经.海外北经》:“务隅之山,帝颛顼葬于阳,九嫔葬于阴”。据此推断:“浮鱼”氏族和颛顼有关。“浮鱼”与“务隅、附禺、扶余”同音,皆可对译。10、弗:印章图码0006,印章字码0033。《说文》:“弗,矫也”。甲骨文与金文都是象形字,形似两曲木反束,以矫其正。可见“弗”有“背”之意,“背”有“负”之意。“弗”与“负”同音,互为通假。《孟子.梁惠王上》:“ 颁白者不负戴于道路矣”。 弗通“沸”。《汉书.司马相如传》“汹涌彭湃,滭弗密汨”。弗通“怫”。《汉书.沟洫志》:“吾山平兮钜野溢,鱼弗郁兮柏冬日”。 “弗”通“不”。《吕氏春秋.察今》:“澭水暴益,荆人弗知”。 “弗”也是笔的名称。《说文》:“楚谓之聿,吴谓之不律,燕谓之弗”。 印章文字“弗”,字形与甲骨文、金文相近,是符号化了的文字。读:弗。译作:弗 、负、沸、怫、不。11、玺两:印章图码0006,印章字码0034。玺两:印章文字玺两为切音字,玺两切降,即xǐ liǎng切xiáng。12、鸦:印章图码0006,印章字码0035。鸦:水书与印章文字皆为象形字。印章文字译作:鸦。读:鸦。13、兹:印章图码0006,印章字码0036。兹:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,兹就是有两股的绳。印章文字、甲骨文、金文里,“兹”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,甲骨文和金文展现的是绳身。印章文字“兹”读作:兹。译作:兹、之。14、水:印章图码0007,印章字码0037。水:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字,形似流水。《释名》:“水,准也。”。可见上古“水”和“准”连用。“水准”切音为:舜或顺。水(shuǐ)的韵母ui,上古读un。如《诗·周颂·维天之命》:“骏惠我文王 ,曾孙笃之”。这里的“惠(huì)”训为“顺(shùn)”,韵母ui,读un。印章文字“水”可译作现代汉字:水、舜、顺。读作:水。15、弓:印章图码0008,印章字码0038。弓:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字。《说文》:“ 弓,兵也,所以发矢”。上古领兵之人也称“公”。故“公”也称“ 弓”。《山海经》:“在昆仑之北,柔利之东。相柳者,九首人面,蛇身而青。不敢北射,畏共工之台”。“弓”实为“共工”切读。可见印章文字里面的“弓”字,可以译作现代汉字:弓、公、共、工。读作:弓。16、弜:印章图码0008,印章字码0039。弜:《说文》:“弜:强也。从二弓。凡弜之属皆从弜”。可见“弜”上古读:强,或读弓弓、共工。这可能是因为共工力大无比,手可开双弓,是一位神射手。所以《山海经》才说“不敢北射,畏共工之台”。17、夷:印章图码0009,印章字码0040。夷:印章文字、甲骨文、金文均是象形字。图形都是人形与弓、矢的组合。《说文》说:“夷俗仁。仁者寿。有君子不死之国。按天大,地大,人亦大。大象人形。而夷篆从大。则与夏不殊。夏者,中国之人也。从弓者,肃慎氏贡楛矢石砮之类也。以脂切。十五部。出车,节南山,桑柔,召旻傳皆曰。夷,平也。此与君子如夷,有夷之行,降福孔夷傳夷易也同意。夷即易之假借也。易亦训平。故假夷为易也。节南山一诗中平易分释者,各依其义所近也。风雨傳曰夷悦也者,平之意也。皇矣傳曰夷常也者,谓夷节之假借也。凡注家云夷伤也者,谓夷即痍之假借也。周礼注夷之言尸也者,谓夷即尸之假借也。尸,陈也。其他训释皆可以类求之”。从这段文字中可以看出来,古代“夷”可以表示仁、易、痍、尸。印章文字“夷”字,可译作:夷、仁、易、痍、尸。读:夷。18、[羽/开]:印章图码0009,印章字码0041。[羽/开]:读“开”,实为“羿”。《说文》:“ [羽/开],亦古诸侯也。一曰射师。从羽幵声”。“[羽/开]”是“羿”的古字,意为射师。印章文字“[羽/开]”画作一人身背羽箭,双腿叉开,实为射姿。“羿”或“[羽/开]”的字音,分别是从上羽声,从下开声。印章文字中“[羽/开]”可译作:[羽/开]、羿。笔者按照现代汉语,从上羽声,在印章文字里面译作“羿”。但切音时读:开。引申一下。《山海经.海内西经》:“百神之所在。在八隅之岩,赤水之际,非仁羿莫能上冈之岩”。这里面的“仁羿”,出现在我破译的印章图码0009里面。印章图码0009音译为:“三(等伯).夷羿印”。按《说文》:“夷俗仁”。即夷也可读仁。夷羿可译成仁羿。通过这种转译,印章文字破译出来的“夷羿”,就变成《山海经》里面的“仁羿”。笔者想:这绝非巧合。19、曾:印章图码0010,印章字码0042。 曾:是上古的姓氏。印章文字、甲骨文、金文均是象形字。意思是领地内有田。《管子·轻重戊》 :“有虞之王,烧曾薮,斩群害,以为民利”。有虞之王就是舜,烧了曾族的领地,说明这个姓氏非常古老。 “曾”通“层”。《淮南子·本经》:“大厦曾架,拟于昆仑”。这句话表明昆仑墟是多层建筑 。这与哈拉帕和摩亨佐.达罗古城建筑风格一致。 “曾”通“增”。《孟子·告下子》:“所以动心忍性,曾益其所不能”。印章文字的“曾”字可译作现代汉字:曾、层、增。读:曾。20、用:印章图码0012,印章字码0043。 用:甲骨文象形字,桶形。通“桶”,引申为用。《苍颉篇》:“用,以也”。《易.益》:“利用为大作”。《书.微子》:“乃攘窃神胝之牺牷牺用”。 “用”也是古老的姓氏。《古本竹书纪年》 “帝芬。十六年,洛伯用与河伯冯夷斗”。上古诸侯有筑“桶城”者,以桶为姓。桶,用也。因此在印章文字“用”字出现在“侯”字旁边,译作“用侯”。印章文字里“用”字,译作:用、桶。读:用。21、有:印章图码0012,印章字码0044。 有:是个象形文字。印章文字为一旗状。金文“有”字,形似旗杆上挂着族旗。甲骨文“有”字与印章文字“侯”字为同形字,故“有”通“侯”。《易·杂卦》说:“大有众也”。犹是说:光明正大的旗帜下会聚集很多人。“有”同“又”。《韩非子·五蠹》:“ 割地朝者三十有六国”。印章文字中的“有”可以译作现代汉字:有、侯、又。读:有。22、囿:印章图码0012,印章字码0045。囿:从囗(wéi),有声。是古代帝王皇家的园林。因专属,而竖族旗于园内。印章文字也是象形字,像园内立一族旗。而甲骨文是园内有林木。《古本竹书纪年》 “黄帝。二十年,景云见,以云纪官。麒麟在囿,神鸟来仪”。印章文字里“囿”可以译作现代汉字:囿、有。读作:囿。23、雨:印章图码0014,印章图码0018,印章字码0046。 雨:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形字,字形基本一致。印章文字变体“雨”字是雨滴中有水,更接近金文。《管子·形势解》:“ 雨,濡物者也”。《说文》:“雨,水从云下也”。印章文字“雨”译作现代汉字 雨。读:雨。24、益:印章图码0014,印章字码0047。益 :古同“溢”。 水书、甲骨文、金文皆从皿,从水,像水从器皿中漫出的样子。印章文字表现的是往器皿中加水。《古本竹书纪年》载 “帝启。二年,费侯伯益出就国”。印章文字“益”译作现代汉字:益、溢。读:益。25、降:印章图码0015,印章字码0048。降:印章文字的“降”,与甲骨文、金文字的“降”字左边偏旁字形相同,都是梯形,有连降三阶之意。从印章文字“梯”字还可以看出来:“梯”有上之意,而“降”有下之意。《说文》:“ 降,下也”。《诗·大雅·公刘》:“复降在原”。《山海经.海内经》:“黄帝妻雷祖,生昌意。昌意降处若水,生韩流”。印章文字的“降”可译作现代汉字 降。读:降。26、丹:印章图码0015,印章字码0049。丹:印章文字的“丹”字,画的是丹水有四条支流。金文的“丹”字也画出三条水形,加上左边偏旁,也为四条支流。虽然甲骨文的“丹”字比金文简化,没画出水形,只画出了生产丹砂的工具,但丹朱降居丹水是不争的事实。笔者认为,这个字是印章文字的“丹”字,读:丹。27、朱:印章图码0015,印章字码0050。朱:印章文字、水书、甲骨文和金文字的“朱”字,均像蜘蛛。《古本竹书纪年》 “帝子丹朱避舜于房陵,舜让,不克。朱遂封于房,为虞宾。三年,舜即天子之位”。《韩非子·十过》:“禹作祭器,墨染其外,而朱画其内”。根据这两句话分析:丹朱降居丹水组织生产的丹砂,主要是用于漆染祭器。在那个时代,管理丹水应该是个很神圣的职位。印章文字中“朱”可译作现代汉语:朱。读:朱。28、困:印章图码0016,印章字码0051。困:印章文字、甲骨文、金文都是从囗( wéi),象房的四壁;里边是生长的树木。理解为废弃的房屋。《说文》:“困,故庐也”。《周礼·地官·禀人》:“行而无资谓之乏,居而无食谓之困”印章文字译作:困。读:困,音同“昆”。29、木:印章图码0016,印章字码0052。木:因为在印章文字、甲骨文、金文“困”字都是从囗( wéi),内生一木。故笔者把“木”字也一并译出来,留给以后使用。 “木”是象形字。甲骨文和金文写的有枝有根。水书有根无枝。印章文字有枝无根。印章文字也读:木。《说文》:“ 木,冒也。冒地而生”。《春秋繁露》:“木者,春生之性。农之本也”。综合两句话可以看出来:木有“生”之意,生有“性”之意。上古“生”、“性”、“姓”,为同一字。印章文字的“木”字有枝无根,而把无枝有根的“木”字留下来,表示“生、性、姓”。在后面的破译中,再带给读者。30、舞:印章图码0016,印章图码0034,印章字码0053。印章文字的“舞”字,乃王之身形,上古皆巫王《说文》释巫:“象人两袖舞形”;“筮巫以玉事神”。因此巫与舞蹈、玉器、祭祀有关。非王不能上祭台。这与印章文字“舞”字一样。印章文字“舞”,读:舞。译做:舞、巫、吾。巫乃王,王自言为吾。综合“困”和“舞”,看《古本竹书纪年》 “帝仲康。六年,锡昆吾,命作伯”。《山海经.海内经》 “有九丘,以水络之:名曰陶唐之丘、有叔得之丘、孟盈之丘、昆吾之丘、黑白之丘、赤望之丘、参卫之丘、武夫之丘、神民之丘”。我把“困舞”二字模糊切读作:昆吾。31、弟:印章图码0017,印章字码0054。弟:本意是“梯”。因梯为木制,现在汉语的“梯”字才从木。 《说文》:“梯,木阶也”。在印章文字、水书、甲骨文、金文里,“弟”都是象形文字,都是梯形。上古“弟”字通“悌”。《商君书·去强》 :“国有礼有乐,有诗有画,有善有修,有孝有弟,有廉有辩”。还通“第、涕”。梯还通“凭”。《字汇》:“梯,凭也,若梯邪倚著也”。《山海经.海内北经》 :“西王母梯几而戴胜杖”。可见印章文字的“弟”可译作:弟、悌、第、涕、凭。读:弟。32、风:印章图码0019,印章字码0055。风:天之使,万物播者。风是上古最古老的姓氏。伏羲就是风姓的后代,据传上古弇兹氏观风遂得风历,便以风为姓。《山海经》和《尚书》里面都有四方风神的记述,风神也叫风伯,后来发展到“八风”。印章文字、甲骨文的“风”字皆是鸟形,故也可以通“凤”,因上古“风皇”,也称“凤皇”。水书的“风”字,画作三撇,刮风之状,与印章文字和甲骨文不类。印章文字“风”字读:风。译作:风、凤。33、素:印章图码0019,印章字码0056。“素”或“索、须”:是古老的文字符号,来源于上古弇兹氏结绳记事,“素”就是有三股的绳。印章文字、水书、甲骨文、金文里,“素”都是象形文字。印章文字展现的是绳头,水书、甲骨文和金文展现的是绳身。“素、须”古意与现代汉语意义不同,“索”古意与现代汉语意义相同。印章文字“素”读作:素。译作:素、索、须。34、卜:印章图码0020,印章字码0057。卜: 中国古代凡祭祀、征伐、田猎、出入、年成、风雨、疾病皆要占卜吉凶。卜:古汉语读“僕”。《周礼·大卜》:“问龟曰卜”。卜官,卜卦之人。卜作为一种职业,后来演变成姓氏。 印章文字、甲骨文、金文里字形一样,皆是一字。印章文字译作:卜、僕。读:卜。35、射:印章图码0021,印章图码0046,印章字码0058。射:印章文字、水书、甲骨文、金文均是象形会意,象箭在弦上,待发。不过印章文字的变体有点像小篆,人形可理解为“身”字。《礼记·射义》:“射者,男子之事也”。上古有一种习俗叫“射牛”。帝王、诸侯祭祀天地、宗庙,必亲自射牛以示隆重。读者请看图0046印章的图面,看看那个人射的是不是牛?射:还有“舍”之意。《诗经.清庙》:“不显不承,无射于人斯”。这里的“射”为“舍”,舍弃之意。印章文字里的“射”字,译作:射、舍。读 射。36、曲:印章图码0023,印章字码0059。曲:古代的姓。 印章文字、甲骨文、金文里字形相同。和《广雅·释诂一》说的一样:“曲,折也”。《说文》解:“曲,象器曲受物之形”。笔者认为:“曲”字是上古音和词组保存最好的一个字。读者可以体会一下:如曲录;曲律;曲弯弯;曲蟮;曲盖;曲兵;曲谕;曲止;曲言;曲譬;曲子;曲邃;曲狭;曲复;曲止;曲至;曲防;曲延臣算;曲心矫肚;曲意;曲就;曲全;曲惠;曲智;曲胜;曲艺。由此可见上古曲氏对中国文化的影响。 印章文字里面的“曲”,译作:曲。读:曲。37、牛:印章图码0025,印章字码0060。牛:印章文字、水书、甲骨文、金文均是同一字形,为“牛”字。《说文》:“牛,大牲也”。《大戴礼记·曾子天圆》:“牛曰太牢”。《连山易》里面有“兼山物”之语,兼山卦位在东南,是少昊的封地,盛产水牛,这里的“物”便是指牛。物,从牛,勿声。《说文》 :“物,万物也。牛为大物,天地之数起于牵牛,故从牛”。《礼记·乐记》:“物以群分”。这也是说牛。所以上古“牛”读“物”,像牛叫之声。印章文字“牛”译作 牛、物。切音读:物。38、蝇:印章图码0026,印章图码0047,印章字码0061。蝇:象形字。印章文字、甲骨文、金文皆写作苍蝇状。印章文字译作:蝇。读:蝇。39、豕:印章图码0026,印章字码0062。豕:象形字。印章文字、甲骨文、金文皆写作猪形,即是“豕”。印章文字译作:豕。读:豕。40、储:印章图码0026,印章字码0063。储:即储君、太子。亦称:储贰、储宫、皇储。储也是姓氏。印章文字“储”是合体会意字。即是少帝居于室,为“储”。印章文字译作:储。读:储。41、山:印章图码0027,印章字码0064。山:象形字。印章文字、水书、甲骨文、金文皆画作山形。 印章文字译作:山。读:山。42、且:印章图码0027,印章字码0065。且:上古“且”与“祖”是同一个字,为男根。哈拉帕出土文物中就有一件石雕男根。印章文字、甲骨文、金文里的“且”字,都是男根形状。“祖”应该是殷商以后发展为形声字的。从示,且(jǔ)音。“示”为祭祀,“且”为男祖。“祖”字合起来意思就是祭祀男祖。《说文》:“祖,始庙也”。 “祖”通“初”。《庄子.山木》:“浮游乎万物之祖”。上古“且”与“祖”均是姓氏。印章文字“且”译作:且、祖、初。读:且。43、吴:印章图码0028,印章字码0066。甲骨文中未发现“吴”字,可能和“鱼”是同一个字。先秦以前吴、虞通用。金文“虞”字左下角有一鱼形,和印章文字的“吴”字神似。“虞”,鱼部。读作鱼。印章文字中的“吴”也读:鱼。译作:吴、虞。44、贝:印章图码0028,印章字码0067。贝:印章文字、甲骨文和金文字皆是贝壳展开之状。印章文字译作:贝。读:贝。45、三三:印章图码0029,印章字码0068。印章文字“三三”,切读为“鄯善”。即sān sān音同shàn shàn。46、疆:印章图码0030,印章字码0069。疆:《说文》 “畺:界也。从畕;三,其界画也”。印章文字的“疆”字正是此意,并和印章文字“囿”字形意相近,皆从囗(wéi)。“囿”是古代帝王皇家的园林,族旗竖于园中。而“疆”是王侯封地“田”的范围。在印章文字里面都是会意字。按现代文字“疆”字会意,上古王侯封地应该是两箭之地。“疆”字很古老。《山海经.大荒北经》载:“北海之渚中有神,人面鸟身,珥两蛇,践两赤蛇,名曰禺彊”。文中的“禺彊”两个字,在印章文字里面我们全部见到了。印章文字里“疆”译作:疆。读:疆。47、单:印章图码0036,印章字码0070。 “蟾蜍”古称“蟾诸”或“蝉蜍”。故“蝉”通“蟾”。“蝉”即是“单”,“虫单”切读为“蝉”。在印章文字、甲骨文、金文里皆是象形字。“蟾”形。“蟾”在现代汉语里是形声字,从虫詹声。印章文字“单”译作:蟾。读:蟾。48、世:印章图码0037,印章字码0071。世:古同“丗”、“卋”。金文字形似“止”,意为终止。《说文》:“ 三十年为一世”。印章文字“世”是印章文字正体的“四”字加一横,意思是四十年为一世。与现在的“世”字定义相差十年,可能是时代不同所致。“世”与“生”同。《列子·天瑞篇》:“亦如人自世之老,皮肤爪发,随世随落”。 “世”又通“嗣”。《列子·杨朱》 :“卫瑞木叔者,子贡之世也”。 “世”指嫡长。通“大”。《释名》:“世父言为嫡统继世也。故世子亦曰大子”。 “世”通“太”。《庄子·大宗师》:“滀乎进我色也,与乎止我德也;厉乎其似世乎”!“世”也是姓。《风俗通》有:“秦大夫世钧”。印章文字“世”,读:世。译作现代汉语:世、生、嗣、大、太。49、开:印章图码0037,印章字码0072。开:参见印章字码0041“[羽/开]”字。“开”是“[羽/开]”字音首,故译为“开”字,读“开”。50、凡:印章图码0039,印章字码0073。凡:印章文字、甲骨文、金文皆是象形字。像铸器之模,即“范”。 《广雅》:“ 凡,皆也”。如《周礼·春官序》:“凡内女之有爵者”。从这句话来看:上古女人和男人一样享有等同的社会地位。 凡:也是古代乐谱音符,类似现在的简谱“发”。印章文字的“凡”,读:凡。可译作现代汉语:凡、范、发。51、午:印章图码0041,印章字码0074。午:是地支的第七位,与天干相配,用以纪年。“午”字,印章文字、甲骨文、金文皆绳结之状,怀疑此字源于结绳符号,有待研究。 “午”通“仵”。《礼记·哀公问》:“午其众以伐有道,求得当欲,不以其所”。 “午”通“迕”。《荀子·富国》 :“视可午其军、取其将”。 印章文字的“午”,读作:午。译作现代汉语的午、仵、迕。52、玺三:印章图码0041,印章字码0075。玺三:印章文字切音字。玺三切读为“咸”,即xǐ sān切xiān。53、小:印章图码0041,印章字码0076。小:印章文字、甲骨文和金文字皆是同一字形,只是书写方向相反。印章文字的“小”,译作:小。读作:小。54、邠:印章图码0043,印章字码0077。邠国:古代传说的西方极远之国。《古本竹书纪年》 “殷.河亶甲。十五年,命邠侯高圉”。“邠”,即“分”。印章文字、甲骨文和金文中笔画间架基本一致。甲骨文和金文竖着写的,印章文字为了美观,是横着写的,这与印章“丹朱”两字,书写方式一致。可见上古对书写的规范性不是很强,只要能读懂就可以了。印章文字依现代汉语译作:邠,读:邠。55、生:印章图码0043,印章字码0078。《古本竹书纪年》 “禹笑曰:吾受命于天,屈力以养人。生,性也;死,命也”。《说文》:“姓,人所生也”。由此看来“生”即同于“性”,也同于“姓”。印章文字的生为木之根本,有根方能生发。甲骨文、金文“生”字皆是木发于土。印章文字的“生”字,可译作:生、性、姓。读做:生。56、浮:印章图码0043,印章字码0079。《广雅》:“浮,漂也。浮游也”。从水,孚声。印章文字里的浮为鱼向上顶水。这个字与金文会意极为相似。金文为一子鱼,奋力逆水而去,也有顶之意。为“浮”。参考印章字码0032“浮鱼”氏族符号,“浮”与“附、务、扶”同音。“浮”可译作:浮、附、务、扶。读:浮。57、华:印章图码0044,印章字码0080。华:花也。也为姓氏。印章文字、水书、金文皆为花开之态,尤其水书“华”字与印章文字“华”字最为神似。皆花型。印章文字“华”译作现代汉字:华、花。读作:华。58、琴:印章图码0044,印章字码0081。琴:也写作“琹 ”、“珡”。象形。小篆字形,象乐器形,上面“玨”象弦和弦柱,下面象琴身。“琴,弦乐也。神农所作,洞越练朱五弦,周加二弦,象形”。《说文》:“琴,古文从瑟金省声”。说明“琴”字和现在的读音差别很大。 印章文字的“琴”字和金文有类似之处,金文上面画的是弦柱,下面是琴身,这可能是琴到周朝时形状改变了。而印章文字的琴身更像今天的竖琴。 印章文字的“琴”字跟“神农所作,洞越练朱五弦”一样,画着五根弦。在前面“舞”字的破译中,我们知道“王”即是“巫 ”、是“舞”。就是祭祀的神职人员。按照上古的命名方式,一般都以职业命名。比如虞官就叫虞侯,卜官就叫卜伯,河官就叫水伯,雨官就叫雨师。那让我们来看看古代使用琴的乐官叫什么?古代的乐官叫做胥人。《礼记·王制》:“小胥大胥”。它注释道 “皆乐官属也”。《礼记》:“大胥是敛,众胥佐之”。“小胥大胥”都是胥人。图0044印章上刻着“王”字,一定是大胥了,简称为胥。那么印章印章图码0044这个“琴”字。也可以当做“胥”字解释。胥也是姓氏。《史记·扁仓传》:“胥与公往见之”。这里的胥就是指个姓胥的人。印章文字把“琴”字译作:琴、胥。读作:琴、胥。59、十四:印章图码0045,印章字码0082。十四:筹算总和十四,译做:十四。可以参考一下《山海经.海内经》:“共工生后土,后土生噎鸣,噎鸣生岁十有二”。“岁十有二”这几个字看起来突兀,其实这是它们的读音。如果使用印章文字书写,它也是两个字的连绵词。一个是“岁”字,另一个是组合在一起的十二个竖线。这样就与前文的共工、后土对照工整了。同时笔者认为:“岁十有二”是指“岁星纪年”。也就是说从八世炎帝“岁十有二”时,已开始使用“岁星纪年”了。60、穀:印章图码0047,印章字码0083。穀:古汉字是象形会意字,为谷仓内堆满粮食。《说文》:“穀,百谷之总名。从禾,穀声”。意为装粮食的壶,即“库”。 《说文》:“壶:昆吾圆器也。象形。从大,象其盖也”。文中的“昆吾”是夏朝的重要诸侯国。印章文字也是象形会意字,为谷仓内有谷堆。穀:也与“谷”通假,粮食的总称。“穀穀”也是姓氏。出自姬姓,后简写为郤。据《鼠璞》所载,古代有郤姓,唐叔虞后代,后去掉邑旁改为谷姓。《魏书·官氏志》:“北魏代北复姓有谷会氏,鲜卑族,入中原改为谷姓”;《唐书》:“唐代谷那律,复姓谷那,东夷人,他的后代改谷姓”。 “穀”字印章文字里译作:穀、郤、谷。读作:穀。61、中:印章图码0048,印章字码0084。中:象形字。印章文字、水书、甲骨文、金文皆或作物之中心,字形相同,为同一个字。《周礼·射人》:“与太史数射中”。这里的“中”是靶心。中:还通仲。伯、仲、弟,仲居中。印章文章“中”译作:中、仲。读作:中、仲。 62、干:印章图码0049,印章字码0085。干:印章文字、甲骨文、金文都是是象形文字,像叉子样形的武器,既可用于进攻,又可用于防御,有盾的作用。《方言》:“盾,自关而东或谓之干”。可见“干”是“盾”的异称。《礼记·儒行》载:“礼义以为干橹”。其注曰 “干橹,小楯大楯也”。 因此《礼记·檀弓下》才说:“ 能执干戈以卫社稷”。“干”与“岸”音同,通“岸”。《诗·魏风·伐檀》:“坎坎伐檀兮,置之河之干兮”。 “干”通“犯”。《说文》 “干:犯也。从反入,从一”。《公羊传·宣公十二年》:“以干天祸” 。“干”也是姓氏。印章文字“干”可译作现代汉语:干、岸、犯。读:干。 第三章 印章文字破译结果验证对于印章文字的读写顺序问题,笔者是这样解决的。网上说:“印章文字,首行从右向左写,第二行从左向右写,像牛犁地一样往复”。因为笔者所得到的资料都是图片,不排除有反方向的图片。所以不好以方向论断读写顺序问题。但经过笔者细心比对,发现印章文字的排列,有两种基本规律。一种是:封号+等级+姓名+印字(或省略印字);另一种是:封号+等级+印字(或省略印字)。封号和等级很多时候是反正不分的,但“印”字多数居后。如果“印”字多次出现,那它就的作用就是装饰功能,没有具体意义。最后笔者采用这种方法。在《第二章》里面,我对印章文字是单字破译的。这种方法破译出来的文字,无法验证破译结果是否正确。那么现在,我要把破译出来的单字,放回到印章里,如果破译出来的结果,在某部史书上找到了,那就足以证明我破译的文字无误。除此之外,我没有别的办法。而这个切入点很难选择,如果我选择一枚简单的印章,比如拿《印章文字与哈拉帕古城遗址相关问题考释》里面,已经破译的“三等王、四等公”,定然不会为读者所瞩目。看来我只能选择一枚比较复杂的印章,来说服读者。我在《印章上的山海经故事》里面曾讲到过怪兽“双双”。看看我能不能用《印章文字单字破译表》,破译怪兽“双双”。图0001 图0002 读者一眼就会看出:图0001、图0002两枚印章上,刻画的明明是同一个怪兽?笔者也认同这种观点。而且我认为它就是《山海经》里面的怪兽“双双”,相信这两枚印章的价值很大,因为上面都刻有文字,如果能对照破译了,信息量应该十分丰富。《山海经.大荒南经》记载:“南海之外,赤水之西,流沙之东,有兽,左右有首,名曰[足术]踼。有三青兽相并,名曰双双”。文中连续出现两个“有”字来叙述怪兽,我已经在《第二章》中解释了,“有”就是族旗或族徽。而文中所述:初看像是说两种怪兽。细读才发现:这是同一种怪兽的两种称谓。恰恰又在巴基斯坦,这两枚印章又一起出土了。现在我才理解《大荒南经》这句话的意思:原来这种怪兽正面看“左右有首,名叫“[足术]踼”;侧面看“三青兽连体,名叫双双”。那笔者的论断对不对?也就是说“[足术]踼”是不是“双双”。因为在众多的《山海经》译本中,“[足术]踼”与“双双”都被当做两种怪兽来解释,笔者不敢苟同。看来“[足术]踼”到底是不是“双双”的问题,还要仔细研究。按照中国古代造字方法,笔者理解“[足术][足昜]”两字左边“足”部,说明该怪兽为四足动物,而右边“术昜”是两字的音部,切读之后结果是这样的。“术昜”切“双”,即shù shāng切shuāng。可见我的想法是对正确的。“[足术]踼”就是“双双”,是同一怪兽。那么图0001、图0002上的文字到底是不是“[足术]踼”或“双双”呢?对照《第二章》的《印章文字单字破译表》,我先把图0001、图0002上的印章文字音译出来,然后再表音或切音。图0001上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这六个印章文字对译上的印章字码是: [0019.0020].0022.0024.0025.0026 。印章字码对应的六个印章文字读音是:伯子り鱼矢网图0002上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这两个字对译上的印章字码是:0007.0018。印章字码对应的两个印章文读音是:七侯。那么图0002可以直接译为:七(等)侯。看来图0001不切音难懂其义。笔者把图0001切音为:伯子り杼.双。即“矢网”切“双”,即shī wǎng切shwāng。因文句里有个省写复读符号“り”,故译做:伯子杼.双双。这简直令人难以置信!我对印章文字“矢网”的切读,竟然与对《山海经》“[足术]踼”的切读,得到是一模一样的结果。读者可能会说:这是巧合。只是巧合的事情后面越来越多!我们知道了“双双”是图0001、图0002两枚印章上怪兽的名字,这和《山海经.大荒南经》记载的一模一样。那“伯子杼”又是谁?在《古本竹书纪年》夏史中有这样的记载 “伯子杼帅师灭戈”。“(伯子杼)帝杼。元年己巳,帝即位,居原。杼或作帝宇,一曰伯杼。杼,能帅禹者也,故夏后氏报焉”。原来“伯子杼”是夏朝的一个帝王,帝杼或称帝宇,也称伯杼。 难道历史会这么巧合?古代巴基斯坦地区,也有一个和“伯子杼”姓名履历一摸一样的帝王?当然不会。我破译的“伯子杼.双双”,就是帝杼。族徽是怪兽“双双”,或叫“[足术]踼”、“矢网”。这个结果也印证了我一直把《山海经》里面的“有”字,译作“族旗或族徽”是正确的。一枚小小的印章,就把《山海经》和《古本竹书纪年》紧紧的联系到一起。这不得不令我对《山海经》和《古本竹书纪年》这两本饱受非议的古籍刮目相看。对“[足术]踼”和“矢网”的切读,还让我想起《古本竹书纪年》上,一件发生在夏朝的重大历史事件。《古本竹书纪年》这样记载:“帝廑。一名胤甲。元年己未,帝即位,居西河。四年,作西音”;“帝孔甲。元年乙巳,帝即位,居西河。五年,作东音”。 这可能是夏朝历史上最大的一次语音规范运动。“西音”就是当时夏朝西部的语音,例如“[足术]踼”和“矢网”;“东音”就是当时夏朝东部的语音,例如:“双双”。而东音最典型的代表作品,据《古本竹书纪年》记载:当算是帝孔甲的《破斧之歌》。通过“[足术]踼”和“矢网”的切读,还可以看出来:当时夏朝西部的语音,是使用文字进行标注切读的,文字可以不固定,只要切读后发音一致就可以了。而切读出来的“双”就是“东音”。而“东音”的“双”就只能读“双”了。这也印证了我在《第二章》论述过的,之所以我能破译印章文字,突破点就是:“上古的文字,即是文字,又是拼音”。这也难怪众多的学者,对这种文字的表达方式大惑不解。语言文字发展到了夏朝帝廑的时候,夏朝西部和东部的语音拼读混乱,甚至交流上都出现问题了,不得已才有“帝廑:四年,作西音;帝孔甲:五年,作东音”的举措。历经两代帝王,对全国语音进行了一次强制性的规范。这个重要的历史事件,也为后来汉语的规范化、标准化做出了巨大贡献。从图0001、图0002破译结果来看:帝杼是从子爵、伯爵、侯爵做起,最后才做到帝王。是一步步干上去的务实的帝王。虽然笔者尚未弄清图0001和图0002这两枚印章是出土于哈拉帕,还是出土于摩亨佐.达罗,但就《山海经.大荒南经》记述的地理位置上来看,这两枚图画印章应该出土于今天的摩亨佐.达罗,也就是《古本竹书纪年》所称的“帝即位,居原”。 图0003 图0004我在《印章上的山海经故事》里面还讲到过“二八神”。我认为“二八神”和图0003印章记述的是同一事件。《山海经.海外南经》载:“羽民国在其东南,其为人长头,身生羽。一曰在比翼鸟东南,其为人长颊。有神人二八,连臂,为帝司夜于此野。在羽民东。其为人小颊赤肩,尽十六人”。上文中所说的羽民国,是《山海经.海外南经》从西南角向东南角排列的第三个国家。那么图0003这枚印章就应该出土于哈拉帕古城。印章上面描绘的共有九人:一人立于礼台之上,明显是帝,另一人是头领,跪于帝前,其余七人皆“连臂”,印章的背景是牧场,也就是“野”,这八人的装束皆头戴鸟羽,除了人数少了一半,场景与“二八神”的记述一模一样。笔者认为:所谓“二八神”确有其事,应该理解为两个八人一组的神,是帝的两个南方卫队,临南海(孟加拉湾)为帝司夜。这枚印章只是其中一个卫队,这样的印章一定共有两枚,只是那枚印章遗失了,或还未出土罢了。将图0003印章上的文字,对照《印章文字单字破译表》,这四个字对译上的印章字码是:0014.0014.0024.0027。印章字码对应的四个印章文读音是:帝帝鱼印。我把它译作:帝.禹印。 笔者注意到:和图0003印章还有一枚十分相近的印章图0004,对照《印章文字单字破译表》,图0004五个字对译上的印章字码是:0014.0014.0027.0024.0027。印章字码对应的两五个印章文读音是:帝帝印鱼印。我把图0004译作:帝印.禹印。 《山海经》里面的“二八神”,到底是为哪一个“帝”司夜一直是个谜。现在通过对印章文字的破译,我可以告诉读者了:他们是在帝禹司夜。 图0005 图0006 让我们再破译两枚印章。看图0005上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这九个印章文字对译上的印章字码是:0002.0028.0028.0029.0024.0030.0031.0023.0032。 印章字码对应的九个印章文字读音是:二因因乎鱼西玄りり浮鱼。 因图0005文句里有“两字省写复读符号“りり”,故切音为:二.因因乎余.西玄.浮浮鱼鱼。译做:二(等侯).因因乎余.西玄.附附禺禺。还可以简读为:二(等侯).因乎.西玄.附禺。 “因因乎余”和“因乎”被记述在《山海经.大荒南经》 “南海渚中有神,人面,珥两青蛇,践两赤蛇,曰不廷胡余。有神名曰因因乎乎,南方曰因乎,夸风曰乎民,处南极以出入风”。 据印章0005文字分析:“因乎”是南方风神的官职名称,这枚印章是属于一位名字叫“西玄”观风官,印章的主人来源于一个叫“附禺”的氏族。 文中的“不廷胡余”,就是《古本竹书纪年》里面所称的“西音”,而“因因乎乎”或“因乎”,则是“东音”,尽管在《山海经》里称作“南方曰因乎”,但这并不矛盾。因为《山海经》的记述者一直在强调“昆仑墟远在西北”,这也就透露出记述者身在“东南”,熟读《山海经》的人都知道:《山海经》里面有些国家,一会儿记在《南经》,一会儿又记在《东经》,可见上古对方位的划分不是很严格的。笔者认为:夏朝时“东音”与“西音”的关系,类似于今天的南方话和北方话。只不过现在是以长江为界划分的,也不知道夏朝以前是不是这样。 根据《山海经.大荒南经》对南风神“因乎”的记载:“南海渚中有神”。因为“渚”是水中小块陆地的意思,那么,南风神“因乎”所处的地理位置最有可能的,就是今天的柬埔寨和越南南部了。 再看图0006上的印章文字,对照《印章文字单字破译表》,这七个印章文字对应的印章字码是: 0002.0033.[0027.0002].0024.0035.0036.0027。 印章字码对应的七个印章文字读音是:贰弗[玺两(xī liǎng)]鱼鸦兹印。 切读之后为: 贰负.降.窳窫之印。 这里的“窳窫(yú yā)”,《山海经》里叫“窫窳(yā yú)”。“贰负杀窫窳”被记述在《山海经.海内西经》里。“贰负之臣曰危,危与贰负杀窫窳。帝乃梏之疏属之山,桎其右足,反缚两手(与发),系之山上木。在开题西北”。从印章图0006那头牛低首乞怜的表情上看,这枚印章的主人一定是降伯,这与《山海经》的记述一致。 通过以上对六枚印章的破译,特别是在对“伯子杼.双双”及南风神“因乎”,及贰负“降”窫窳的切读中,笔者发现《山海经》里面还有不少这种切读现象,比如:“折丹”切读为“折”,即是东风神;“石夷”切读为“韦”,即是西风神;“[马匋][马余]”切读为“[马交]”,即是同一种兽;“困因”切“殷”,即是指殷国。此类现象很多。据此笔者推断:由于《山海经》叙述的地域广阔,成书时间久远,肯定是一部“东音”、“西音”并用的古代书籍。音韵学家们可以好好研究一下,从中一定可以衍生出一门新学科,权且叫做:《山海经》音韵学。 看了我对以上六枚印章的破译,现在读者应该理解我为什么一再强调:“印章文字是伏羲书契”。那是因为我对印章文字的破译结果,都印证在《山海经》和《古本竹书纪年》里面,特别是印证在夏朝或夏朝以前的历史中。诸多吻合之处,绝不能用巧合而一言蔽之。 既然大家都了解了我破译印章文字的方法,为了节省篇幅,对其它印章的破译,我就不再用叙述的方法了。尽管后面的破译中还会出现很多古籍上的人物,但解释的空间就留给读者吧。现在我直接使用《印章文字单字破译表》,以查字典的方式,破译印章图码0007-0050印章原文。并把破译过程和结果,以列表的方式,呈现给大家。 表五:印章原文破译表,印章图码0001-0050。 看完《印章原文破译表》,读者肯定会将信将疑。天书一样的东西,真的会被你破译了?其实我比大家更关注破译结果的准确性。因此在整个破译过程,我采取的是由难至简,处处设卡的方式。在选取50枚印章的时候,我担心对于一个没有被破译的单字,只在一枚印章上进行验证,还不能说明破译的准确性,因此我就故意选择了一些,带有重复文字的印章。而对于每个印章文字,只破译一次,就列入《印章文字单字破译表》,当做“字典文字”,然后直接拿到其他印章上使用。 当50枚印章破解之后,我对50枚印章里重复出现的文字,做了一个初步统计。排除“帝、王、公、侯、伯、子、印”,出现的频率高的文字,又排除出现频率低于3次的文字。最后我统计出来的结果是:鱼字出现13次;弓字出现8次;夷字出现6次;蝇字出现4次;弟字出现5次;吴字出现4次;益字出现6次;省写复读符号出现4次。从统计结果上来看,这些文字符号反复出现在不同的印章里,而破译的结果,均未发现在逻辑上有什么矛盾之处。而恰恰相反,仅仅破译了50枚印章,就出现了12位古籍上记载的人物。这些人物包括伯子杼、大禹、因乎、贰负、虞舜、共工、仁羿、用侯、丹朱、巫咸、华胥、曾侯。此外还发现“附禺”、“怪兽双双”两个图腾或族徽。这些人物及氏族都记述在《山海经》、《古本竹书纪年》及《史记》里,并且相互印证。 破译中还发现印章上姓氏居多。50枚印章中共有“余、施、殷、曾、用、朱、有虞氏、昆吾氏、风、卜、曲、牛、储、且、世、邠、华胥氏、穀穀、干”19个姓氏,均是上古姓氏。笔者还有点儿个人体会:就是对印章文字的研究越深入,就越离不开《山海经》和《古本竹书纪年》这两本书。综合以上结果,只能说明一个问题:我的《印章文字单字破译表》具有字典功能,我对印章文字的破译基本成功。 当然我破译的印章文字也不一定全部正确,肯定还需在今后的工作中进一步修正,但至少我已经找到破译印章文字的钥匙,全面破译印章文字,只是一个时间的问题了。 由于印章文字破译出来的内容,多处与《山海经》和《古本竹书纪年》吻合,笔者断定:所谓的印度河文明乃是中华远古文明,印章文字乃是中国古文字,是生活在印度河流域的中华先民使用过的文字。印章文字所属年代:夏朝至于伏羲。 这样一来,印章的用途也了然于世了。其实印章就是官方印符,并不是现在网上流传的那样,是护身符或是商人物货往来的凭据。印度河印章和我们现在使用的印章功能没有什么区别,只是被我们现代人给神秘化了。庆幸笔者破译了印章文字。如果让外国人抢先破译了,那我们真的无颜做炎黄子孙了。 本来这篇论文还可以破译更多的印章文字,或者是直接编译成《印章文字字典》,但因笔者收集不到更多的印章资料,此事也只能搁下。现在看来:仅凭我个人之力,是无法完成此项工作了。据说哈拉帕和摩亨佐.达罗古城遗址还有泥版文书出土,或许大量的历史信息就记录在上面。印章文字破译工作实在关乎中华民族荣辱。亚布虽卑微,拳拳爱国之心,片刻未泯。 最后总结一下,此次成功破译印章文字的重大意义: 第一、印章文字的破译成功,把中华文明五千年历史,变为中华文明五千年信史。把中国历史从夏朝上推到伏羲,期间1500多年,有典有册,有出土文物、文字。 第二、印章文字的破译成功,粉碎了《山海经》是神话的谬论。确立了《三海经》的正史地位。同时也结束了《古本竹书纪年》是伪书的说法。 第三、印章文字的破译成功,抨击了中华文明“西来说”。中华文明就是土生土长的文明。据史料显示,直到魏晋,还有中国人生活在印度河(古称赤水)南岸。 第四、印章文字的破译成功,确定了夏朝至于伏羲,都城皆在昆仑墟,主要是在现在的哈拉帕,后期迁都至摩亨佐.达罗。对于这一点,国人不必纠结。摊开地图,就会看到:巴基斯坦与中国比邻而居,哈拉帕就在喜马拉雅山脚下,印度河水也是从喜马拉雅山缓缓流下。文明的传承是靠文化,而不是遗产。俄罗斯的祖坟埋在乌克兰,但谁又能否定俄罗斯的历史。犹太人靠一本《圣经》亡国后两千年复国,但谁又能小看以色列?如果有一天我们移民太空,但谁又敢说我们不是炎黄子孙? 第五、印章文字的破译成功,催生了印章文字学科。是继金文、甲骨文之后的另一种中国古代文字。为发掘中国古代历史提供了现实手段,为中华民族的伟大复兴增添了精神动力。 古代文字破解,应该是当今最好玩的智力游戏。参与者不可胜数,成功者却寥若晨星。今天我能破译成功,也是十几年来坚持的结果。但我个人认为:成功确实带有偶然性。我的学术成果,不一定能使所有人接受。但清者自清,浊者自浊。借用孔子一句话:“知我者其惟印章文字!罪我者其惟印章文字”! 2017年2月8日定稿于贵州
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唐書巻一百七十六 列伝第一百一 韓愈 附 孟郊 張籍 皇甫湜 盧仝 賈島 劉义 韓愈は、字は退之、鄧州南陽の人である。七代前の先祖の韓茂は、北魏の王朝に対して功績があり、安定王に封ぜられた。父の韓仲卿は、武昌の県令となって、善政を施し、県から去ったあと、人々は石に刻んでその得を誉め称えた。秘書郎で終わった。韓愈は三歳のときに父を失い、長兄の韓会が左遷されたのについて嶺表に行った。韓会が死ぬと、兄嫁の鄭氏が韓愈を養い育てた。韓愈は、書物を読むことを覚えると、日ごとになん百字なん千字も記憶し、成長するにつれて儒家の六経や諸子百家の学説の全てに精通するようになった。進士に選ばれて及第した。当時董晋が宣武節度使になると、上表して韓愈を観察推官の役につけた。董晋が死ぬと、韓愈は、その故郷に帰るのを送ったが、それから四日もたたぬうちに汴州の駐屯軍が反乱を起こした。そこで去って武寧節度使の張建封のもとに行って身をよせた。張建封は、韓愈を節度使府の幕僚とした。幕僚としての韓愈の行動は、正しいと思ったことはどこまでもやり通し、誰はばかる所なく直し、中央政府の四門博士の官に変わり、監察御史に遷った。上疏して宮市の弊害を激しく論じたため、徳宗の怒りをかって、陽山の県令に左遷された。愛情を持ってその地の民衆に接し、民衆たちは、子供が生まれると、韓愈の姓を取ってその名とするものが多かった。江陵法曹軍に改任された。元和年間(806-820)初頭、権知国子博士となり、東都洛陽で事務をとったが、三年たって正式の国子博士となった。都官員外郎に改任され、まもなく河南の県令に任じられた。のちに職方員外郎に遷った。 華陰の県令の柳澗が罪を犯したため、前任の華州刺史は上奏してこれを弾劾したが、中央の決定が下されないうちに刺史の任期が切れた。柳澗は、人々を煽動し、転任する刺史の馬車の前に立ちふさがって、前年軍隊の通過に際し労力奉仕に出たときの費用を払うようにと請求させた。後任の刺史はこれを憎み、その罪状を調べて、房州司馬に左遷した。韓愈は、華州を通ることがあってこの事件を知り、前任の刺史と後任の刺史とが密かにぐるになっているのだと考え、上疏して柳澗の件について糾明を求めた。御史が再審してみると、柳澗が賄賂を取っていた事実が発見され、彼は更に封渓の県尉に官を貶された。韓愈もこのことで罪があるとされ、国子博士の官に戻された。才能を持ちながらしばしば官位を落とされ、今また下級の官に移されたため、「進学の解」を作って自分自身になぞらえた。 「国子の先生、あさ太学に登校し、学生たちをあつめて校舎の前に立たせ訓示した。「学業ははげめばすぐれ、あそべばすさむ。行ないは思案すればりっぱ、気ままなればめちゃくちゃ。いまこそは聖人賢者めぐりあい、太平の用意はすべてととのう。悪邪を抜き去って、俊秀善良を登用尊重する。小さな善でもすればそろって名前を記録され、一芸に有名なものはだれでも任用される。ねこそぎさらえほじくり出して、欠点をのぞき美点を磨き出す。およそまぐれあたりで選ばれるものはあっても、多能なのに抜擢されぬというものはない。学生諸君、学業がすぐれぬことを気づかえ、試験官に目がないことを気づかうな。行ないのりっぱならぬことを気づかえ、試験官の不公平を気づかうな。」 いいもおわらぬうちに、列中で笑ったものがいる。「先生はわたしをあざむかれるか。この弟子はなが年先生におつかえして来た。先生は口ではいつも六経の文句を暗誦し、手にはいつも諸子百家の書物を開いている。ことがらを記録すればかならず要点を書きぬき、議論をまとめればかならず奥の意味をさぐり出す。なるべくたくさん取り入れ努力して獲得し、小も大も捨てられることはない。あぶらをともしてひるまにつづけ、いつもこつこつと年末まではげむ。先生の学術は、はげんでいるといえましょう。異端の説をあらそいおしのけ、仏教老子をはらいしりぞける。すきまがあれば補ないうずめ、はやらぬ学説をひろめられる。失墜した学説のあてどのないものをたずねもとめ、ただひとりさがしまわって遠く継承される。百の川をさえぎって東に流し、あれくるう波を定まった方向からおしかえす。先生は儒学に関して、労力を費やしているといえましょう。純粋な酒の中にひたりこみ、その中の精華を口に含む。文章を作っては、著書は家いっぱい。上、模範にとるは、舜帝・禹王、ひろびろとはて知れず。周の「五誥」や殷の「盤庚」のぎくしゃくがちがち。『春秋』のこちこち、『左伝』のふわふわ。『易経』の奇抜ながらすじがとおり、『詩経』のまともながらもはなやかさ。下れば『荘子』に「離騒」、太史公司馬遷の記録。揚雄と司馬相如、基調は同じで目さきが変わるところまで。先生は文学に対して、中をゆたかに外をのびのびとされたといえましょう。わかいとき学問を知るとすぐに、勇敢に実行に移された。成人してからは筋道を心得て、なにごとにつけても適宜であった。先生は人格において、完成しているといえましょう。それなのに官途にあっては人から信用されず、個人的には友人から援助されない。前につまずきうしろによろけ、なにかあるととがめを受ける。しばらく御史になったかと思うと、やがては南の遠国に飛ばされる。三年間大学教授だったが、余分ものとして問題にされぬ。運命と仇敵とが相談しあい、失敗するのは目に見えている。暖冬でさえ子どもはさむいと泣き叫び、豊年でさえも妻は空腹に悲鳴をあげる。頭ははげ歯はからっぽ、ついに死ぬまで何の役にも立つまい。それを考えることも忘れて、かえって人に教育していらっしゃる。」 先生「おい、きみ、前へ来い。だいたい大木はうつばりに、細い木はたるきになる。柱の上のますぐみ、くるるにしきい、かんぬきに門柱。それぞれ適当なところにおかれ、うまく使用して家をつくりあげるのは、大工のうでまえ。玉札丹砂、赤箭青芝。牛の小便に馬の屁きのこ、やぶれ太鼓の皮。なんでもかでものこしたくわえ、用途に応じむだのないのは、医者のうできき。登用は明白に選択は公平に、器用なものと不器用なものをとりまぜ任用する。ていねいなのは八方美人、ごつごつしたのこそ豪傑。短所をしらべ長所をはかって、人がらに適切なようにするのは、宰相のさじかげん。むかし孟軻は議論がすきで、孔子の道はおかげであきらか。車の跡は天下をめぐり、ついに旅行のうちに年老いた。荀卿は正義を守り、りっぱな議論は世にひろまった。楚の国にざん言を避け、蘭陵の地でうだつあがらぬままなくなった。この二人の儒者は、ことばを吐けば経典、足を挙げれば法則。人なみはずれてすぐれ、聖人の域に十分はいる。その人たちの時代のめぐりあわせはどうであったか。」「いま、先生は、学問にはげんではいるが伝統によらぬ。ことばは多いが的中を求めぬ。文章は奇抜だが実用にならぬ。行為には修養努めているけれどもひとびとの評判にならぬ。それでも毎月俸給を費やし、毎年お蔵米を減らす。子どもは耕作を知らず、よめは機おりを知らぬ。馬に乗って従者をひきつれ、おちつき坐って食事する。あたりまえのみちをあくせくとふんで行き、古い書物をのぞいては学説をぬすんで来る。しかしながら聖天子は処罰されないし、大臣から免職にされない。幸福なことではございませんか。なにかすると非難を受け、評判もそれに随う。閑職に追いやられているのは、お似合いなのです。財産の有無を考え、官位や俸禄の高低をはかる。自分の度量にかなったところを忘れ、先輩の欠点を指摘する。それらは、いわゆる大工が杭を柱にせぬと責め立て、医者が菖蒲で長生きさせようとするのを非難して、豨苓を飲ませようとするものなのです。」」 政府の実力者たちがこの文章を読んで、韓の才能を非凡なものだと評価し、比部郎中・史館修撰に改任させた。考功郎中、知制誥の官に変わり、中書舎人の官にまで昇った。 それより以前、憲宗は、蔡を討伐しようとして、御史中丞の裴度に命じて討伐軍の陣営を巡視して情勢を判断させた。裴度は戻ると、賊軍は打ち亡ぼすことができるとの意見を詳しく言上した。このことについて宰相と議論をしたが、意見が合わなかった。韓愈も以下のように上奏した。 「淮西では連年、武器やとりでを手入れして、金銭や絹、食糧や家畜が、褒賞で減少すれば、武器を手にした兵士が、四方にむかって侵入掠奪し、農耕の男とはたおりの女とは、子どもたちの手をひいて後方から兵糧を補給しておりましたが、その出費をつぐないませんでした。又聞くところでは、飼っている馬が非常に多く、半年以来、みなうまやに入れられているとのことであります。それは、ちょうど十人力の人であろうと、朝から晩まで、いつも大声でどなってはねまわっておれば、さいしょはすごいけれども、その元気はいつまでも持たず、きっとおのずと疲れ果て、力がなくなったところにつけこめば、身のたけ三尺の子どもでも、そのいのちを思うままにさせられるようなものであります。まして、疲れ果てくたびれきったのちの三つの小さな州で、天下全体の力とぶつかれば、そのやぶれるのは、またたく間のことであります。けれども、まだやぶれるかどうかわからないのは、陛下が決断を下されるかどうかにかかっているからであります。そもそも、兵士が少なければ、かならず勝つためには不十分であります。かならず勝つ軍隊は、かならず速く戦うことによります。兵士が多いのに戦いが速く行なわれなければ、費用がかならず多くかかり、両方土地のあいだ、国境のあたりでは、日日攻撃と掠奪とがあり、敵に近いところの州や県では、さまざまの形で徴発されます。その時すこし大水や早ばつにあえば、住民は憂い苦しみます。こうなったときには、だれもかれも意見がくいちがい、陛下のお耳をまどわします。陛下がしっかりと意見を持たれず、途中でおやめになれば、威光をきずつけ費用を損失し、その弊害はかならず深いのであります。だから、大切なのは、まず決心をきめ、よくよく状況を考え、事件が起こったときにまどわずしてこそ、成功の見こみが立つのであります。」 また、「諸道から兵士を動員するのは、他郷に旅行して来たので、勢力はひとりぼっちで弱く、反乱軍の土地ととなりあっている州や県では、村里の住民が戦闘に習熟して、敵の状態をよく知っているとのことであります。もし、命令を出して募集させれば、すぐさま軍隊をこしらえあげられますし、教えて三ヶ月もすれば一切用いることができます。」と言上し、また「もし四道に分けて、道ごとにそれぞれ三万人をおき、要害の地を選択して一か所に駐屯させ、実力を中にたくわえて様子をうかがわせるようにし、一度に出動して、蔡の両翼が助けあうこともできないようにさせると、成功するでしょう」と願った。政府の権力者たちは、この意見を喜ばなかった。たまたま韓愈を謗って、彼が江陵に居たときに、裴均に厚遇され、裴均の息子の裴鍔は平素から行動がめちゃくちゃな人物であるのに、送別のためにわざわざ文章を作ってやり、その中で裴鍔を字で呼んでいる。と非難する者があったのをきっかけに、韓愈を誹謗する声が一気に高くなった。このために彼は、太子右庶子に改任された。裴度が宰相として彰義軍の節度使となり淮西宣慰の任に当たることになると、上表して韓愈を行軍司馬の役につけた。韓愈は、裴度の許可を得ると、駅伝の馬車に乗って軍に先んじて汴州に乗り込み、韓弘を説きつけて朝廷の軍に力を合わさせることに成功した。呉元済が平らぐと、刑部侍郎の官に逢った。 憲宗は、使者を鳳翔まで遣わし、仏舎利を迎えて三日間宮中に入れ、それからそれを仏寺に送った。これに際して、王公から士庶にいたるまで、あわただしく走りまわり、合掌礼拝し梵唄を唱った。西域の法をまねて自分の身体に火をつけたり、珍宝を投げ出し、道に行列して踊りまわるという状態にまで至った。韓愈は、このことを聞いて憎み、そこで次のように上表している。 「仏は、異民族の一つの教説にすぎません。後漢の時から、中国に流れこんだもので、大むかしにはなかったものであります。黄帝は在位百年、年は百十歳、少昊は在位八十年、年は百歳、顓頊は在位七十九年、年は九十八歳、帝嚳は在位七十年、年は百五歳、帝堯は在位九十八年、年は百十八歳、帝舜と禹とは、いずれも百歳、この時天下太平、人民は安楽長寿でありました。けれども中国には仏はまだなかったのであります。そののち、殷の湯王も年は百歳、湯の子孫、太戊は在位七十五年、武丁は在位五十九年、『書経』や『史記』にそのなくなった年齢は見えませんが、在位年数から推測すれば、おそらくやはりいずれも百歳以下でありますまい。周の文王は年九十七歳、武王は年九十三歳、穆王は在位百年でありましたが、この時も仏の教えはまだ中国にはいっておらず、仏に奉仕することによってこのように長寿となったのではございません。後漢の明帝の時、やっと仏の教えがはいって来ました。明帝は在位わずかに十八年にすぎません。そののち戦乱亡国がひきつづき、国家の生命は短く、宋・斉・梁・陳・元魏より以下、仏に奉仕するのが一心であればあるほど、年代はいっそうちぢまって来ました。ただ梁の武帝だけは、在位四十八年、前後三度、自身をささげて仏に布施され、先祖の霊廟の祭祀に、犠牲の牛、羊、ぶたを使用せず、ひるに一度食事し、それも野菜やくだものだけでありました。その後、はからずも侯景におしとめられて、台城で餓死し、国家もつづいて亡んでしまいました。仏に奉仕して幸福を求めたのが、かえっていっそう災禍を得ることになったのでありますこれから見ましても、仏が奉仕するほどのものでないことは、おわかりでありましょう。 高祖皇帝がはじめて隋の禅譲を受けられたばかりのとき、仏教を除こうと討議させられました。当時の臣下のものどもは、才能識見が狭く、先王の道と時代による適当な処置を深く知って、天子さまのご聡明さを発揮させ、それによってこの弊害から救い出すことができず、そのことはそのままで沙汰止みになりました。わたくしはいつもざんねんに思っております。謹んで考えますに、睿聖文武皇帝陛下は、神聖英武にして、数百年数千年このかた、たぐいございません。御即位のはじめ、すぐさま人を得度して僧や道士とすることを許可されず、又新しく仏寺や道観を立てることを許可されませんでした。わたくしはこう思っていたことでありました。高祖皇帝のお志は、かならず陛下の手で実行されるだろう、いまたといすぐに実行できなくても、かれらをすきほうだいにさせて、いっそう盛んにさせられることはないにちがいない、と思ったのでございます。いま聞くところによれば、陛下は僧侶たちにいいつけ、仏舎利を鳳翔から迎えさせ、楼にお出ましになってごらんになり、輿にのせたまま大内裏にお入れになり、さらに寺寺につぎつぎと迎えさせて供養させられたとのことでございます。わたくし、極めて愚かながら、きっとこうだと知っております。陛下は仏に迷わされたので、こんな崇拝奉仕をして、幸福を祈願されたのではなく、ただ豊年で国民がたのしんでいるので、国民の心に副われて、首都の士や庶民のために、めずらしい見せもの、遊び道具をこしらえさせられたまでのことだ、と思います。これほど聖徳あり聡明な陛下がこんなことを信じようとなさるはずがありましょうか。けれども国民は愚かで、惑い易くさとり難いものであります。かりにも陛下がこのようだと見ますと、まごころから仏に奉仕されていると思いこみ、みな、こう申しますでしょう。「天子さまは、偉大な聖人であるのに、それでも一心になってうやまい信じておられる。国民などはなにほどのものであろうか。いっそう命を惜しんだりしてはならぬぞ。」そして、頭のいただきを焼き指を燃やして、百人十人と群をなし、きものを脱ぎ銅銭をばらまいてお布施とし、朝から夕方まで、つぎつぎとまねをしあって、ただもう時代におくれまいとし、としよりもこどももかけまわって、自分の職場を棄てるようになるでありましょう。もしすぐに禁止せず、寺寺をつぎつぎとまわれば、かならず、ひじを断ちきり、身の肉を切りとって、供養とするものが出るでしょう。風俗を傷つけ、四方の国に笑いぐさを伝えることになり、小さなことではありません。 そもそも、仏はもともと異民族の人であって、中国とことばは通ぜず、衣服は作りかたがちがいます。口では先王の礼にかなったことばを語らず、身には先王の礼にかなった衣服を着ず、君と臣とのあいだの義、父と子とのあいだの情も知りません。たといその身が今まで生きていて、その国の命令を奉じて、首都に外交使節としてまいりましたとしても、陛下がそれを認めて接待せられるのは、宣政殿で一度拝謁仰せつけられ、礼賓院で一度宴会を開かれ、衣服ひとかさねを下賜され、護衛をつけて国内から出されるぐらいのことで、ひとびとをまどわせることをさせられないでありましょう。ましてその身は死んでから久しくたち、ひからびた骨、けがれたのこりであります。宮中に入れさせてよいでありましょうか。孔子さまは、「神さまや精霊は尊敬するが近づけない。」といわれ、諸侯が自分の国で弔問に行くのでさえも、みこや神主を先だてて、桃やおぎのほうきで不吉なものを祓いきよめさせ、それから進み出て弔問いたしました。いま、理由もないのに、けがれたものを迎え取って、自身出かけてごらんになるのに、みこや神主が先ばらいもせず、桃やおぎのほうきを使用して祓いきよめることもなさっておりません。臣下のものどもはそれがあやまりであることを申さず、御史は臣下の怠慢をとりあげません。わたくし、実にはずかしく存じます。なにとぞ、この骨を事務担当官におわたしになり、それを水か火に投げこんで、永久に迷信の根源を絶ちきり、天下の疑惑をはっきりさせ、後世の惑いのたねを絶ちきるようになさって下さいませ。そして天下の人に、偉大な聖人のなされることは、なみなみのことよりも遥かに遥かにとびぬけているのだということを知らせて下さいませ。そうすれば、なんとりっぱなことではありませんか。なんと愉快なことではありませんか。仏にもしも精霊があって、たたりをすることができるのなら、あらゆ禍と咎めは、わたくしの身に加えるのがよろしい。上なる天が見ております。わたくしは怨んだり後悔はいたしません。」 上表文が来ると、憲宗はひどく腹を立て、上表文を持って宰相たちに見せ、韓愈を死刑に処しようとした。裴度と崔群が言った、「韓愈めの言葉は、まちがいだらけで道理に悖り、罪に処せられるのは誠に当然ではございますが、心に最高の忠を持っておらねば、どうしてこんなことまでしでかしたりいたしましょう。どうぞいささか彼の刑を緩められて、以後彼の処刑に懲りて帝をお諌めする者がなくなってしまわぬようにされて下さい」。帝が言った、「韓愈めが、おれが仏をあがめることが度を過ぎると言うのは、それはそれで許すこともできよう。しかし後漢の世に仏をあがめるようになって以来、天子はみな長生きできなかったなどと言うに至っては、なんというひどい言い草だ。韓愈めは臣下でありながら、思慮分別を失ってこんなことまでやりだしたのだ。決して許すことはできない」。事態がここに至って宮中も一般の人々も心を驚かせ、帝の外戚の貴族までが、韓愈のために執り成しの言上をした。そのため死刑は免れて潮州刺史に官を貶されることになった。 潮州に着くと、上表して哀みと叙任に対する感謝の意を表した。 「わたくし、分別なく意見をいう愚かもので、ものごとの節度をわきまえず、上表文をたてまって仏舎利のことを申し述べましたところ、ことばが不敬にわたりました。罪名にしたがって処罰を定めれば、一万回殺されてもなお軽いぐらいであります。陛下は、わたくしの愚かな忠義心をあわれみ、わたくしの分別のないきまじめさをおゆるしになり、わたくしのことばは処罰せねばならぬが、心に別のことがあってのことではないとおおせられ、特別に刑法の条文をまげられて、わたくしを潮州刺史になさいました。処刑をまぬがれたうえに、俸給生活ができることになりました。天子さまの御恩のひろく大きなことは、天地でも計量できません。脳をぶちわり心臓をくりぬいても、感謝の気持ちをあらわしきれないのであります。 わたくしの統治しております州は、広州の嶺南節度使管内でいちばん東の地域にあり、海口を過ぎ、悪渓を下れば、波と早瀬は勢いはげしくて、日程は予定しがたく、台風やワニは、そのわざわいを予測できません。この州の南の近い地域でも、みなぎる海が天にまでつらなって、毒の霧と風土病をおこす気とが、朝夕立ちのぼります。わたくしはわかいときから病気がちで、年はやっと五十ですが、髪は白く歯は抜け落ち、道理からすればそう長くはありますまい。そのうえに犯した罪はきわめて重く、住むところは又いちばん遠くて悪いところであります。憂いと恐れと慙愧と胸さわぎで、死ぬのは間もないことと思われます。ひとりこの身ひとつがあるだけで、朝廷には親類も同郷人もなく、遠い文化のない土地にいて、化けもののなかまとなっております。もしも、皇帝陛下があわれんで思いをかけて下さらなければ、だれがわたくしのためにいってくれるでありましょうか。 わたくしは生まれつき、愚かで見識がなく、世間のことについてよく知らないことが多うございます。ただ、学問と文章がひどくすきで、ほんの一日もやめたことがなく、実際、現今の同輩のものから高く評価されております。わたくしは、時機時機に必要な文については、人よりもすぐれているところはありませんが、陛下の功績と聖徳とを論じ述べて、『詩経』『書経』と肩を並べ、歌や詩を作って、天地の神神の宮居や御先祖の霊廟にささげ、泰山の祭祀を記録して、白玉の書札にほりつけ、天に答えるほどのひろびろしためでたさをひろげのべ、過去にはなかったような偉大な事跡を賞讃するとなると、『詩経』や『書経』の巻物の中に編みこんでもはずかしくなく、天地のあいだにおいても欠点がなく、むかしの人を復活させたとしても、わたくしはそうひどく見劣りはしないつもりであります。 謹んで考えますに、大唐は天命を受けて天下を統治し、四海のうちは、みな臣下となり、東西南北、土地はそれぞれ万里あります。天宝年間(742-756)からのち、政治がすこしゆるみ、文化による教化も不十分であり、武力による勝利もつよくなく、わざわいをおこすわるい臣下が、シミのようにくいこんで住まいし碁のようにちらばっており、毒を出しては自分を防衛し、外面は従順で内心は反逆し、父が死ねば子が代わり、祖父なら孫へとむかしの諸侯のように領地を自分のすきなようにし、租税を納め朝廷へのあいさつもしないで、六・七十年、四代の皇帝陛下につぎつぎと伝わって、陛下に至りました。陛下は御即位このかた、自身直接聞いて判断され、天地を回転させ、機械の中心装置を運転し、雷のようにはげしく風のように吹きとばし、日や月のようにあかるく照らされました。天子さまの鉾の指しまねくものは、みなおとなしく従い、天のおおう下に、生きとし生けるものはきわめて平和になりました。ですから、音楽にあわせる歌詞を定めて、神神に申しあげ、東のかた泰山に巡幸されて、天に功績を上奏し、あきらかな功業をすっかり書きつけて、はっきりと得意の気持ちを示され、将来、永久の世代のものたちに対して、われわれの完成されたすばらしさに感服させるようにされるのがよろしいと存じます。いわゆる千年に一度もめぐりあうことのできないめでたい機会なのに、わたくしは、罪を背負い罰を受けて、身から出た さびとして海の島につながれ、びくびく、ああああといたみなげきながら、毎日死にせまられております。おそまつなわざさえもおともの官吏の中、おそばづかえのもののあいだで上奏して、思いのたけを尽くし精魂をはき出し、罪を償うこともまったくできず、この天にもとどく苦しみをいだいていては、死んでも安らかに目を閉じられません。謹んで考えますに、皇帝陛下は、天地の父母、憐れみを垂れさせたまわりますようお願い致します。」 帝は上表文を見て、いささか心を動かされ後悔して、もう一度中央で用いようと考えた。その上表文を持って宰相たちに見せて言った、「韓愈がさきに論難をしたのは、大いにおれのことを思ってくれてのことなのだ。ただ、天子が仏に仕えれば寿命が短くなるなどと言ってはならなかったのだ」。皇甫鎛は、以前から韓愈の剛直なところを嫌っていたので、すぐさま上奏して、「韓愈はまだ十分には人づきあいの悪い性格が改まっておりませんから、ひとまずもう少し都に近い地方の官に移されるのが適当かと思われます」と述べた。そのため袁州刺史に改任されることとなった。それより以前、韓愈が潮州に赴任したとき、民衆たちに困ったり苦しんだりしていることはないかと尋ねたことがあった。みなが口をそろえて言った、「悪渓と呼ばれるところに鱷魚(ワニ)がいて、住民たちの家畜を食べるため、家畜がほとんど全滅しかかっております。住民たちはこのために生活が窮之いたしております」。数日あと、韓愈は自ら出かけてその状態を見ると、属官の秦済に命じて、羊一匹と豚一匹を谷川に投げこんで祈らせた。その告文にいう、 「むかし、先王が天下を統治されたとき、山や沢を封じこめ、網や縄や銛や刃もので、住民に害を与える虫や蛇や悪い化けものをとりのぞき、それらを国外追放された。後世の王に至り、徳が薄くて、遠方まで統治することができなくなると、長江や漢水のあたりでさえも、みな放棄されて、異民族の楚や越の国に与えられた。まして、潮州は、五嶺と南海のあいだ、首都から万里のところであるからなおさらのことである。鱷魚(ワニ)どもがここに侵入し、卵を生みつけて繁殖したのも、なるほどもっともなことといえる。 現在、天子さまは唐の帝位をうけつがれ、神聖にして慈愛あり勇武である。四つの海の外、天地四方の内、すべてかわいがって統治される。まして、王の足跡のおよぶところ、揚州に所属する近い地域、刺史と県令が治めるところ、租税を出して天地や先祖の霊廟、ちよろずの神神の祭に提供する土地では、もとよりのことである。鱷魚(ワニ)どもは刺史とこの土地にいっしょに住まいしてはならぬ。刺史は、天子さまの命令を受けて、この土地を守り、この住民を治めている。それなのに鱷魚がぎょろぎょろ目をむいておちつかず、谷の渕に住まいをかまえ、住民や家畜や熊やぶたや鹿や麞(のろ)を食って、身を肥やし、子孫を繁殖させ、刺史とはりあって、どちらが親分となるか争っている。刺史は弱虫ではあるけれども、鱷魚どものために、うなだれへりくだって、びくびくきょろきょろと、住民や役人に対してはずかしい思いをしながら、ここで日さえたてばよいというくらしをしようとは思わぬ。そのうえ天子さまの命令をうけたまわって官吏として赴任して来た当然のこと、その事情からいって鱷魚どもと決着をつけねばならない。鱷魚どもに理性があるなら、刺史のことばに耳を傾けよ。 潮州という州は、大海が南にあり、鯨や鴨のような大きなものでも、えびやかにのような小さなものでも、なんでもとり入れて、生活させ養ってくれる。鱷魚(ワニ)どもは、朝出発すれば、夕方には到着できる。いま、鱷魚と約束する、まる三日のうちにその一族をひきつれて、南のかた海に移住して、天子さまから御命令を受けている官吏を避けよ。三日でできなければ、五日までとし、五日でできなければ、七日までとする。七日でできなければ、これはけっきょく移住を承知しなかったのである。これは刺史がいながらそのことばを聞き入れようとはしないのである。そうでなければ、鱷魚どもは頑冥で神霊を欠き、刺史がことばをかけても、聞こえず理解しないのである。天子さま御命令の官吏を軽蔑し、そのことばを聞き入れず、移住して避けようとせぬものと、頑冥で神霊を欠き、住民や生物の害となるものはいずれも殺すがよい。刺史は、うでまえすぐれた役人と住民とを選抜し、強い弓と矢を手にして、鱷魚どもに対して処置をとらせ、かならずみなごろしにするまではやめないであろう。後悔してはならぬぞ。」 その晩、谷に激しい風とかみなりが起こり、数日たつと水がすっかり涸れ、鱷魚は西方六十里の地に移った。これ以後、潮州に鱷魚の被害の心配はなくなった。袁州の人々の間には、息子や娘を人の家の下働きに売る風習があったが、期限が来ても買いもどさないと、そのまま持主の家の奴隷となってしまった。韓愈は袁州に赴任すると、一人ずつのそれまでの労賃を計算し、買いもどすに足る額になっているもの七百余人をすっかり父母のもとに帰してやった。同時に土地の有力者たちの約束を取りつけ、下働きに売る風習を禁止した。中央に召し帰されて国子祭酒の官に任ぜられ、兵部侍郎に移った。 鎮州の駐屯軍が反乱を起こし、田弘正を殺して、王廷湊を首領におし立てた。皇帝は、詔を下して韓愈を宣撫にむかわせた。出発したあと、人々は韓愈の生命を危ぶみ、元稹は、「韓愈ほどの人材を殺してしまうのは惜しい」と上言した。穆宗も後悔し、情勢をよく判断して適切な処置を取るように、必ずしも敵地に乗り込む必要はないとの詔を韓愈に伝えた。王廷湊は、厳戒体制を敷いて韓愈を迎え、前庭には甲冑に身を固めた兵士たちが並んでいた。席につくと、王廷湊が言った、「事態が安らかでないのは、これらの兵士たちの不満が強いからなのだ」韓愈は声を荒げて言った、「天子は、あなたに軍を率いてゆく才能があると考えられたからこそ、将軍の節を賜ったのだ。賊たちと一緒になって背こうなどとは決して思っておられなかった」。言葉が終わらぬうちに、兵士たちは前につめ寄せ興奮して言った、「さきの大将軍の王武俊殿は、国家のために朱滔を討たれた。その時の血ぞめの衣服はまだ残っている。この軍のどこが朝廷の意にそわなくて、反乱軍と見なされるのか」。韓愈が言った。「おれは、おまえたちがさきの大将軍のことなど忘れてしまったのだと思っていた。覚えているとすれば、それは結構だ。そもそも反逆をなすことと柔順であることとの損得については、遠い故事を引くまでもない。天宝年間(742-756)以来の凶事吉事でもって、おまえたちに明らかにしてやろう。安禄山・史思明・李希烈たちのうち、息子あるいは孫が生き残っている者があるか。ましてや官位にある者がおるか」。兵士たちが答えた、「ない」。韓愈が言った。「田公は、六州を奉じて朝廷に帰順され、中書令に任じられ、父子ともに軍を率いるしるしの旗と節とを授けられた。劉悟も李祐も大鎮の長だ。このことは、おまえたちの軍の者がみな聞いている所ではないか」。兵士たちが言った。「田弘正はやり方が酷かったので、この軍の者は不満を持ったのです」。韓愈が言った、「しかしおまえたちは田公を殺し、そのうえ田公の家族までも殺害した。この上になにを言うのだ」。兵士たちは口々に叫んだ。「兵部侍郎殿の言葉の通りだ」。 王廷湊は、兵士たちの心が動揺するのを恐れ、急いで引き下がるように合図をすると、韓愈に泣きついて言った、「いま廷湊をいかようにせよとおおせられますか」。韓愈が言った、「神策軍(近衛兵)や六軍(天子が直接率いている軍)には、牛元翼ぐらいの者なら少なくないのだが、ただ朝廷は事の名分を重んじられ、これを棄てておくことはできないのだ。あなたが牛元翼を久しく包囲しているのは、どうしたことなのだ」。王廷湊が言った、「すぐさま包囲から出しましょう」が言った。「そうされたならば、お咎めもありますまい」。ちょうど牛元翼の方でも囲みを破って脱出したので、王廷湊はこれを追わせなかった。韓愈は帰ると、王廷湊の帰順の言葉を奏上した。帝は大いに喜び、吏部侍郎に改任させた。 当時宰相であった李逢吉は、李紳を嫌って中央政府から追い出したいと考えていた。そこで韓愈を京兆尹と 御史大夫を兼任させ、特別の詔を下して御史台に挨拶に行く必要はないとした上で、李紳を御史中丞(御史大夫の次官)に任じた。李紳は、果たして韓愈が挨拶に来ないと言って弾劾の上奏をした。韓愈は、自分は詔を受けていると弁解をした。 そののち、この事件をめぐって文書が盛んにやりとりされたので、宰相の李逢吉は、御史台と京兆府との間がいまくいっていないという理由で、韓愈を罷めさせて兵部侍郎に改任し、李紳を江西観察使として地方に転出させた。李紳は、帝に目通りして留任することができ、韓愈も再び吏部侍郎となった。長慶四年(824)に卒した。享年五十七歳。没後、礼部尚書の官を贈られた。諡は文。 韓愈は、頭が明晰で鋭く切れ、他人に附和雷動することがなかった。友人たちとの交わりは、最後までいささかも変わることなく貫いた。後輩たちの世話をして世の中に出してやり、その中には有名になった者も多く、韓愈の指導を受けたものは、みな「韓門の弟子」と称した。ただ韓愈の官位が上がると、次第に弟子入りをことわるようになった。肉身や姻戚の者、あるいは友人たちに跡継ぎのないまま死ぬ者がいると、韓愈が親がわりになって父を失った娘を嫁にやり、その家のことを心配してやった。兄嫁の鄭氏が死ぬと、一年の喪に服してその養育の恩に報いた。 いつも文章を論じて、「漢の司馬相如・太史公(司馬遷)・劉向・揚雄以後、優れた作者は世に出ていない」と言い、そう考えればこそ韓愈は深く文章の根本を探って、すっくと聳え立ち、一家を成したのである。その『原道』・『原性』・『師説』など数十篇は、みな奥ゆきが広く深く、孟軻(孟子)や揚雄と表裏一体をなし、儒家の六経を助けるものであるとされる。その他の文章についても、内容の導き出し方や議論の進め方は、なによりも先人のやったあとを踏まぬようにと心がけた。しかしこうしたことは、韓愈だけが十分な余裕を持ってやれることであった。その一派の李翱・李漢・皇甫湜たちが韓愈のあとについてそれを模倣したような類は、はるかに及ぶことができない。韓愈について学んだ者のうち、孟郊や張籍らも、それぞれ当時名声があった。 孟郊は、字は東野、湖州武康の人である。若くして嵩山に隠れ、性格は狷介不羈、他人と和合することは少なかった。韓愈と一見すると身分や貧富などを問題にしない交わりをした。五十歳のとき進士に及第し、溧陽県の尉に任じられた。溧陽県に金瀬や平陵城があり、林は近くまでせまって草木が覆い茂り、麓には池沼があった。町外れは静かにさえわたり、行っては水のほとりに座り、徘徊しては詩を賦していたから、職務はほとんどできなかった。そのため県令は府に申し上げて、仮の尉で替わらせ、その俸給を両者で半分づつとした。鄭余慶が東都(洛陽)留守となると、水陸転運判官に任じられた。鄭余慶が興元府を治めると、奏上して参謀となった。卒した時、年六十四歳であった。張籍が諡して貞曜先生とした。 孟郊が詩をつくると道理にかなっており、最も韓愈が褒め称えたが、しかし晦渋だと思われていた。李観もまたその詩を論じて、「古より至高のところにあり、平きところは下は二謝(東晋の謝霊運と謝朓)を振り返る」と言った。 張籍は、字は文昌、和州烏江の人である。進士に及第し、太常寺太祝となった。しばらくして秘書郎に遷任された。韓愈の推薦により国子博士となった。さらに水部員外郎・主客郎中を歴任した。当時の名士は皆張籍と親交があり、韓愈は賢さから重じた。張籍の性格は狷介かつ実直で、かつて韓愈が博打を喜んでいたのを責めて非難し、論議はよく人に勝り、仏教・道教をしりぞけるのに書物を著して孟軻・揚雄のように世の中に示すことをしていないと非難した。韓愈は最後に書簡を送って以下のように返答した。 「あなたは、わたしをつまらぬ人間と思わず、聖人賢人のなかまにまでおすすめ、わたしのけがれた心をのぞき、まだ及ばないところをのばそうという心持で、わたしには道に到達できる素質がある、といわれます。その本源をさらえて、流れあつまるところにみちびき、その根に水をやって、実を食べようとなさいますが、これは、徳のりっぱな人でも遠慮することで、ましてわたしなど、いうまでもありません。けれどもその中に御返事するのがよいと思うことがあるので、書くことにいたしました。むかし、聖人が『春秋』を作ったとき、その表現に深い意味を持たせましたが、それでも、はっきりと公開して伝えようとはされず、口ずから弟子に授けられ、後世になって、はじめて解説書があらわれました。聖人がわざわいを気づかわれてとられた方法は、こまかいところに意味を持たせることでありました。いまかの仏・道の二教をあがめて奉仕しているものは、上はいうもおそれ多く、下は貴族や大臣なのですから、わたしは堂々たる議論でおしのけようとは思いません。はなしのできるものを選んで教えても、時にはわたしと意見がくいちがい、声をあらだてることになります。もしも書物を書きあげたら、それを読んで腹を立てる人はきっと多いでしょう。きっとわたしを狂人だ、考えちがいをしてるのだと思いましょう。自分自身でさえ保証しかねるのに、書物がわたしにとって何の役に立ちましょう。孔子は聖人です。それでも、「わたしは子路を弟子にしてから、悪口が耳にはいらなくなった」といい、そのほか、天下いたるところに、補助する人がありましたが、それでも、陳では食糧がなくなり、匡では危険なめにあい、叔孫から非難され、斉・魯・宋・衛の郊外を馳せめぐられました。孔子の道は尊いけれども、その困窮も甚だしいものがあります。その門弟たちがいっしょに保持していったおかげで、さいごは天下にその地位を確立されましたが、もし、ひとりそれをいい、ひとりそれを書いたのなら、生きのこることを期待できたでしょうか。かの二教が中国に流行してから、ざっと六百年あまりになります。根をしっかりと植えつけ、波をひろびろと流し、朝に命令を出せば夕方に禁止されるといった簡単なことではありません。周の文王がなくなってから、武王・周公・成王・康王とそれぞれ保持しつづけ、礼法音楽もすべてちゃんとしていました。孔子まではそう長い期間ではありません。孔子から孟子まで、そう長くなく、孟子から揚雄までも、そう長くありません。それでもあんなに努力し、あんなに苦労して、やっと確立することができました。わたしが簡単にできるはずがありましょうか。簡単にできるなら、そう遠くまで伝わりません。だから、わたしはむりにしようとは思わないのです。けれども、むかしの人を見ると、その時世に認められ、その道を実行できれば、書物を著わしていません。書物とは、いつも自分のしていることが、当時に行なわれず、後世に行なわれるためのものです。いま、わたしが、自分の希望とおりにはたらけるかどうかは、まだわかりません。五十・六十になって、それをしても、おそくないのです。天がこの人類に道を知らせまいと思えば、わたしの生命は、あてにならぬでしょう。もし天がこの人類に知らせようとするなら、わたし以外にだれがいますでしょうか。道を行ない、書物を書き、現代を教化し、後世に伝えることが、きっとあります。あなたはどうしてそんなにわたしの行為にはらはらしているのです。 さきのお手紙に、わたしがひとと議論するとき、興奮をおさえきれず、ひとに勝つのをよろこんでいるみたいだ、とありました。たしかにそういうところがありますけれども、それは自分が勝つのを喜んでいるわけでありません。自分の道が勝つのを喜んでいるのです。自分の道が勝つのを喜んでいるのでもありません。自分の道は、孔子・孟軻・揚雄が伝えて来た道です。もし、勝たないのなら、道といえないのです。わたしは、ひとに勝つのを喜ぶという名をさけようとは思いません。孔子のことばに「わたしは顔回と一日中はなしていたが、かれはばかみたいにさからわない」といっているところからすると、孔子はひとびとと議論することがあったのです。いいかげんなはなしをしているという非難には、さきの手紙ですっかり申しました。あなたはもう一度読みかえして下さい。むかし、孔子でもたわむれることがありました。『詩経』に、「よくたわむれるけれども、ひどいことはしない」とあるではありませんか。『礼記』に、「弦を張ったままでゆるめないのは、文王・武王でもできないことだ」とあります。道に有害だとも思えません。あなたは、それを考えておらないのではないでしょうか。」 張籍は詩をつくり、楽府(古体詩の一種)を得意とし、多くの警句がある。官位は国子司業で終わった。 皇甫湜は、字は持正で、睦州新安の人である。選ばれて進士に及第し、陸渾県の尉となり、仕官は工部郎中に到った。酒による失言をし、しばしば同僚をなじったから、自ら求めて東都の分司(洛陽の官吏のこと)となった。東都留守の裴度は招いて判官とした。当時裴度は福先寺を修造し、碑を建てようとし、文を白居易に求めた。皇甫湜は怒って、「近くにいる湜を棄てて遠くにいる白居易を取るのなら、ここから去りたいと思います」と言ったから、裴度は謝罪した。皇甫湜はそこで一斗の酒を所望し、飲んで酩酊して、筆をもって真っすぐ立って書き上げた。裴度はお礼に車馬に繒彩と贈物が非常に多かったが、皇甫湜は激怒して、「私は『顧況集序』をつくりましたが、それ以外では作文をいまだ他人に許したことはありません。今、碑文の字は三千あり、一字三縑です。どうして私はこんなに少ない報酬を受けるはめになるのでしょうか」と言ったから、裴度は笑って「奔放な天才だな」と言い、従って報酬を与えた。 皇甫湜は以前、蜂に指を刺させるため、小児を買って蜂を育てさせ、叩いてその毒液を撤らせた。ある日、その小児に命じて詩文を記録させたが、一字誤ったから、ののしって杖を探したが、杖がなかったから、その肘を噛んで血を流させた。 盧仝は東都(洛陽)に住み、韓愈が河南令であったとき、その詩を愛して、敬意をもって優遇した。盧仝は自ら玉川子と号し、かつて「月蝕の詩」をつくって元和の逆党を批判した。韓愈はその巧みさを賞賛した。 当時、また賈島・劉义がいて、皆「韓門の弟子」であった。 賈島は、字は浪仙で、范陽の人である。当初、僧侶であり、名を無本といった。東都(洛陽)に来た時、洛陽令が、僧が午後に外出することを禁止したため、賈島はそのため自ら慰める詩をつくった。韓愈はこれを哀れんで、そこで文章をつくることを教え、ついに還俗して進士となった。詩文をつくるのにいつも苦吟し、公卿や貴人に遭遇しても、いつも気づかなかった。ある日、京兆尹(韓愈)と遭遇したが、苦吟してロバにまたがってながらも避けず、呼ばれて詰問され、しばらくして詠むべき句を得たのであった。何度も科挙を勧められたが、及第できなかった。文宗の時、誹謗のため長江主簿に貶された。会昌年間(841-846)初頭、普州司倉参軍となり、さらに司戸に改任されたが、命令を受けて赴任する以前に卒した。享年六十五歳。 劉义もまた一人の高節の士である。若い時は放埒で侠行があり、酒のために殺人して逃亡した。たまたま恩赦となったため出てきて、さらに過去を改めて読書し、よく詩をつくった。しかし昔にやっていたことをたのみとしていたから、貴人に拝礼することができず、常に穴が空いた沓、破れた衣服を着ていた。韓愈が天下の士に接することを聞いて、歩いて会いに行った。「氷柱」「雪車」の二詩をつくり、韓愈からは盧仝・孟郊の右に出ると評価された。樊宗師と会うと、樊宗師は彼に拝礼した。道行く人の顔をみて長短をいい、仁義を行えば人の欠点を補うことはまるで親族のようであった。後に口論して賓客に謝ることができず、そこで韓愈の金数斤を持ち去った。「これは墓の中の人に諂って墓碑を書いて得ただけだから、この劉君に与えたら供養になるだろう」と言った。韓愈は止めることができず、斉・魯に帰り、どこで死んだかわからない。 賛にいわく、唐が勃興し、五代がわかれて受け継いだが、王政の綱紀はゆるみ、文業は衰え、衰えて質が悪化し、田舎言葉が混雑するようになった。天下が平定されると、治世は整えられて弊害は除かれ、儒教は討論研究されて国法をおこし、醸成されて次第に広がること百年あまりになろうとし、その後文章は次第に述べられてきた。貞元・元和年間(785-820)になると、韓愈は遂に六経の文によることを諸儒に提唱し、末流まで流れの堤防となって導き、曲がった物を真っ直ぐにし、偽りを削って真実なものとした。しかも韓愈の才能は、自ら司馬遷・揚雄に匹敵するとみて、班固以下に到っては論ずるに値しなかった。彼の得意とするとことなると、粋然としてすべて正しい事柄から出て、古臭い言葉は削除し、縦横に紙面を馳せ、言論・書法の気勢は豪放で、これらの事をおこなっても聖人の教えと食い違うことはなかった。その道は思うに韓愈自ら孟軻(孟子)に比較するとし、荀況(荀子)・揚雄はまだ真心がないとしているが、どうして韓愈の言う通りだと信じられないことがあろうか。諫言を奉ったり謀を陳述する時には、危機を排除して孤児に憐れみをかけ、悪党の下々を矯正し、仁義にかしこまり、徳行の君子というべきである。晋から隋まで道教・仏教が盛んに行わるようになったが、聖道が絶え間なく続くことは帯のようであった。諸儒が天下の正議をたのんで、道教・仏教がを助けて怪神の座を提供した。韓愈は一人嘆息して聖人の道を引き、天下を惑わす物事に争い、嘲笑されたとはいえ、倒されてもまた奮闘し、はじめ信じる者はいなかったが、ついに大いに世の中に名があらわれるようになった。昔、孟軻(孟子)は楊朱・墨子の説を否定したが、孔子の時代からわずか二百年ほどのことであった。韓愈は道教・仏教の二家の教えを排斥したのは、それからさらに千年あまり後のことであり、正道に帰し、功績は等しくその威力は倍となった。いわゆる荀況(荀子)・揚雄を超えたといってもいいくらいであった。韓愈が没してから、その言行は大いに行われ、学者は仰ぎ見ること泰山や北斗雲のようであった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百七十五 列伝第一百 『新唐書』巻一百七十六 列伝第一百一 巻一百七十七 列伝第一百二
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試してきやがって 45 00 02 02,900 -- 00 02 05,000 ギガネーム中田島翔子 46 00 02 05,000 -- 00 02 06,719 あ、ここは気持ちよく読めたの 47 00 02 06,719 -- 00 02 09,759 いや気持ちよくねえよ 48 00 02 09,759 -- 00 02 12,120 まあ行為自体も気持ちいいでしょうし 49 00 02 12,120 -- 00 02 15,500 やめろ 50 00 02 15,500 -- 00 02 16,860 中田した 51 00 02 16,860 -- 00 02 20,700 お、広げんな 52 00 02 20,700 -- 00 02 22,379 何を何をですか 53 00 02 22,379 -- 00 02 24,319 広げんなって 54 00 02 24,319 -- 00 02 26,520 話しかない 55 00 02 26,520 -- 00 02 27,599 やめてくれえ 56 00 02 27,759 -- 00 02 29,679 確認しないといけないですからね 57 00 02 29,679 -- 00 02 32,719 あれ、本当に中かな 58 00 02 32,719 -- 00 02 33,439 そう 59 00 02 33,439 -- 00 02 37,879 いいよ、広げて確認するとかじゃないんだよ 60 00 02 37,879 -- 00 02 40,759 やばいって 61 00 02 40,759 -- 00 02 43,819 加担してるからなお前もう 62 00 02 43,819 -- 00 02 46,459 やばいってとか言っても 63 00 02 46,459 -- 00 02 49,039 もうそっち側なんだよ 64 00 02 49,039 -- 00 02 52,419 嫌ななんか表現 65 00 02 52,419 -- 00 02 53,439 うん 66 00 02 53,439 -- 00 02 55,199 俺前までのさ 67 00 02 55,199 -- 00 02 55,799 R1グランプリひらがなだったのマジでやだったのに 68 00 02 55,799 -- 00 02 56,399 俺前までのさR1グランプリひらがなだったのマジでやだったのに 69 00 02 56,399 -- 00 02 56,899 俺前までのさR1グランプリひらがなだったのマジでやだったのに 70 00 02 56,900 -- 00 03 26,900 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 71 00 03 26,900 -- 00 03 56,900 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 72 00 03 56,900 -- 00 04 26,899 ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ 73 00 04 26,899 -- 00 04 29,560 KOCっていう芸人 74 00 04 29,560 -- 00 04 30,779 面白くないよな 75 00 04 30,779 -- 00 04 36,099 それでよく 76 00 04 36,099 -- 00 04 36,859 KOC 77 00 04 36,859 -- 00 04 40,239 アンダーパーさんですよね 78 00 04 40,239 -- 00 04 41,399 アンダーパーはKOCっていう 79 00 04 41,399 -- 00 04 44,719 って言ってました 80 00 04 44,719 -- 00 04 47,199 岡野さんが 81 00 04 47,199 -- 00 04 50,679 アンダーパーとかな 82 00 04 50,679 -- 00 04 54,679 アンダーパーの名前出す 83 00 04 54,680 -- 00 04 56,819 KOC 84 00 04 56,819 -- 00 04 58,699 なんなんだろうな 85 00 04 58,699 -- 00 04 59,720 ちょっと 86 00 04 59,720 -- 00 05 02,240 薄ら寒さあるよな 87 00 05 02,240 -- 00 05 08,280 いい略し方があればいいんですけどね 88 00 05 08,280 -- 00 05 09,480 もっと長ければいいんだよ 89 00 05 09,480 -- 00 05 10,860 キングオブコントって 90 00 05 10,860 -- 00 05 13,060 全然 91 00 05 13,060 -- 00 05 18,319 そんなもんか略称なんて 92 00 05 18,319 -- 00 05 21,800 CODとかもそうだもんな 93 00 05 21,800 -- 00 05 23,780 そうですね 94 00 05 23,780 -- 00 05 24,620 なんかやっぱ 95 00 05 24,620 -- 00 05 26,759 薄ら寒さだなきっとな 96 00 05 26,759 -- 00 05 30,620 CODとかは 97 00 05 30,620 -- 00 05 32,019 CODって 98 00 05 32,019 -- 00 05 35,360 ロゴが出ますからね 99 00 05 35,360 -- 00 05 37,439 KOCが 100 00 05 37,439 -- 00 05 39,879 一般に伝わらない 101 00 05 39,879 -- 00 05 41,060 って気持ちあるじゃないですか 102 00 05 41,060 -- 00 05 43,579 こっちのもんないですかね 103 00 05 43,579 -- 00 05 45,840 側も言ってない 104 00 05 45,840 -- 00 05 46,980 KOCと 105 00 05 46,980 -- 00 05 50,879 それだわ 106 00 05 50,879 -- 00 05 53,240 勝手に言ってるから 107 00 05 53,240 -- 00 05 53,439 うん 108 00 05 54,620 -- 00 05 57,180 そんぐらいかな 109 00 05 57,180 -- 00 05 59,180 俺が思うのが 110 00 05 59,180 -- 00 06 02,379 グランプリか 111 00 06 02,379 -- 00 06 04,980 件名 112 00 06 04,980 -- 00 06 10,579 豚汁男優に聞いた一番大切なこと 113 00 06 10,579 -- 00 06 13,379 アイブー 114 00 06 13,379 -- 00 06 15,660 真空ジェシカの川北さん 115 00 06 15,660 -- 00 06 17,280 肉体戦士ギガさん 116 00 06 17,280 -- 00 06 18,319 ガクさん 117 00 06 18,319 -- 00 06 20,300 かっこ継承込み 118 00 06 20,300 -- 00 06 22,300 こんにちは 119 00 06 22,300 -- 00 06 23,500 ちょっといけないな 120 00 06 23,500 -- 00 06 24,459 ちょっと 121 00 06 24,620 -- 00 06 27,459 継承の佐藤さん 122 00 06 27,459 -- 00 06 29,560 かっこ継承略 123 00 06 29,560 -- 00 06 32,360 いつもお疲れさまです 124 00 06 32,360 -- 00 06 35,060 継承の佐藤さんじゃないですよね 125 00 06 35,060 -- 00 06 37,220 ギガネームドン谷氏です 126 00 06 37,220 -- 00 06 39,620 お久しぶりな気がする 127 00 06 39,620 -- 00 06 43,180 なんか全部の説明がついたな今 128 00 06 43,180 -- 00 06 47,280 うん 129 00 06 47,280 -- 00 06 48,879 マーゴミみたいなもんになっちゃってますね 130 00 06 48,879 -- 00 06 51,459 なんかいろいろ 131 00 06 51,459 -- 00 06 53,519 いろいろなんだって思いながら読み進めてきて 132 00 06 53,519 -- 00 06 54,420 ん?って思ってたら? 133 00 06 54,420 -- 00 06 58,460 全部の説明がついた 134 00 06 58,460 -- 00 07 02,360 ドン谷氏ならそうだな 135 00 07 02,360 -- 00 07 04,420 ショーレースの季節ですね 136 00 07 04,420 -- 00 07 05,920 うんそうか 137 00 07 05,920 -- 00 07 12,360 僕も学校の文化祭の実行委員長選挙に立候補して当選しました 138 00 07 12,360 -- 00 07 14,319 おぉすごい 139 00 07 14,319 -- 00 07 16,720 僕の学校は男子校なので 140 00 07 16,720 -- 00 07 20,259 年齢イコール彼女いない歴の人が多いですが 141 00 07 20,259 -- 00 07 24,259 大学に入ると0歳になる人が多いと聞きます 142 00 07 24,420 -- 00 07 26,420 ん? 143 00 07 26,420 -- 00 07 30,420 僕は大学お笑いに興味を持っていますが 144 00 07 30,420 -- 00 07 37,420 上女女性の方と往々付き合いできるのか不安です 145 00 07 37,420 -- 00 07 40,420 文面でも緊張して 146 00 07 40,420 -- 00 07 48,420 お笑いサークル内で付き合うと男芸人が女芸人に手を出すみたいになってしまいますか? 147 00 07 48,420 -- 00 07 54,379 お三方かもしくはお三方の周りの方の女性との初めて付き合ったエピソードを教えてください 148 00 07 54,379 -- 00 08 01,379 ギガネームは同様に確からしい 149 00 08 01,379 -- 00 08 07,379 同様に確からしいって表現も俺嫌だわ 150 00 08 07,379 -- 00 08 12,379 嫌の前にちょっとわかんないなちょっとギガの脳みそじゃん 151 00 08 12,379 -- 00 08 18,379 なんかあってね確率かなんかの問題だってね 152 00 08 18,379 -- 00 08 21,379 まさかの数学? 153 00 08 21,379 -- 00 08 24,379 その確率が同様に確からしいってこと? 154 00 08 24,379 -- 00 08 26,379 確らしいみたいな 155 00 08 26,379 -- 00 08 30,379 数学のそういう言い方は確かに全部腹立つな 156 00 08 30,379 -- 00 08 31,379 確からしい 157 00 08 31,379 -- 00 08 33,379 確からしいか 158 00 08 33,379 -- 00 08 34,379 そう 159 00 08 34,379 -- 00 08 36,379 どういう意味かってそう 160 00 08 36,379 -- 00 08 38,379 確からしいって 161 00 08 38,379 -- 00 08 42,379 確かとは言えない何かがある 162 00 08 42,379 -- 00 08 49,379 そこはちょっとなんか厳密に言うと君たちにはまだ早いよみたいに言われてるけどきっとこれは 163 00 08 49,379 -- 00 08 53,379 同様になんかよくわかんない 164 00 08 54,379 -- 00 08 58,379 同様に確かって似たような言葉じゃないんかとか思っちゃう 165 00 08 58,379 -- 00 09 00,379 同じじゃないんだよね 166 00 09 00,379 -- 00 09 02,379 同様 167 00 09 02,379 -- 00 09 06,379 様が同じらしいよ 168 00 09 06,379 -- 00 09 08,379 確かっぽい 169 00 09 08,379 -- 00 09 12,379 うるせえ同じでいいだろ 170 00 09 12,379 -- 00 09 15,379 あとねじれの位置も俺嫌いだったわ 171 00 09 15,379 -- 00 09 17,379 ねじれの位置 172 00 09 17,379 -- 00 09 21,379 なんかさ立方体のさ 173 00 09 21,379 -- 00 09 22,379 辺? 174 00 09 22,379 -- 00 09 23,379 うん? 175 00 09 23,379 -- 00 09 24,379 うん? 176 00 09 24,379 -- 00 09 28,379 辺がその平行 177 00 09 28,379 -- 00 09 31,379 平行じゃなくて 178 00 09 31,379 -- 00 09 36,379 その接してもない辺2つ 179 00 09 36,379 -- 00 09 39,379 の位置関係をなんて言うみたいな 180 00 09 39,379 -- 00 09 42,379 ねじれの位置みたいな 181 00 09 42,379 -- 00 09 44,379 確かそうだね 182 00 09 44,379 -- 00 09 50,379 俺ねそれねじれの位置っていうのがその正確な数学の表現なわけないと思って 183 00 09 50,379 -- 00 09 53,379 テストで書かなかったのね 184 00 09 53,379 -- 00 09 56,379 すごいなかっこいい 185 00 09 56,379 -- 00 09 57,379 ねじれで正解なのに 186 00 09 57,379 -- 00 09 59,379 そんなわけないそう 187 00 09 59,379 -- 00 10 00,379 えー 188 00 10 00,379 -- 00 10 04,379 えーこんなわけなくないと思ったらそんなわけあって 189 00 10 04,379 -- 00 10 07,379 ちゃんと言われてる言葉だった 190 00 10 07,379 -- 00 10 13,379 あーその言葉とその意味合いが譜に落ちないんだ 191 00 10 13,379 -- 00 10 22,379 数学のさ俺そういうところで俺数学どんどん落ちてった今考えたら 192 00 10 22,379 -- 00 10 26,379 あのー必要十分条件あるじゃん 193 00 10 26,379 -- 00 10 27,379 うんうん 194 00 10 27,379 -- 00 10 29,379 必要条件十分条件 195 00 10 29,379 -- 00 10 30,379 うん 196 00 10 30,379 -- 00 10 34,379 あれも全然文字でピンとこなくて 197 00 10 34,379 -- 00 10 35,379 ピンとこない 198 00 10 35,379 -- 00 10 37,379 どっちがどっちだよみたいな 199 00 10 37,379 -- 00 10 40,379 俺そこを打って赤点取ったのよ 200 00 10 43,379 -- 00 10 44,379 5点取ったの 201 00 10 44,379 -- 00 10 47,379 ここあればいいだけの話なのに 202 00 10 47,379 -- 00 10 50,379 それをちゃんと意味を考えちゃうというか 203 00 10 50,379 -- 00 10 51,379 でもその 204 00 10 51,379 -- 00 10 54,379 でもその普通さ意味を考えた方がさ 205 00 10 54,379 -- 00 10 55,379 うん 206 00 10 55,379 -- 00 10 57,379 なんか単純に覚えるよりもさ 207 00 10 57,379 -- 00 10 58,379 理解しやすい 208 00 10 58,379 -- 00 10 59,379 そうそう 209 00 10 59,379 -- 00 11 00,379 ん? 210 00 11 00,379 -- 00 11 05,379 で俺はそこを理解できるまでの極語の力がなくて 211 00 11 05,379 -- 00 11 11,379 でその混乱したまま全部逆で5点って 212 00 11 11,379 -- 00 11 13,379 赤だったの 213 00 11 13,379 -- 00 11 17,379 これはめちゃくちゃわかりづらい必要十分は 214 00 11 17,379 -- 00 11 20,379 えー初めて付き合ったエピソード 215 00 11 20,379 -- 00 11 26,379 大学お笑いで付き合うと男芸人が女芸人 216 00 11 26,379 -- 00 11 27,379 あーまじそこか 217 00 11 27,379 -- 00 11 28,379 うん 218 00 11 28,379 -- 00 11 29,379 別になんないんだよ 219 00 11 29,379 -- 00 11 31,379 え?全然なんないよまじで 220 00 11 31,379 -- 00 11 33,379 それ大学生だから 221 00 11 33,379 -- 00 11 34,379 うん 222 00 11 34,379 -- 00 11 37,379 女性はいるもんなんですか?そのお笑いサークルに 223 00 11 37,379 -- 00 11 38,379 全然いる 224 00 11 38,379 -- 00 11 39,379 うん 225 00 11 39,379 -- 00 11 40,379 なんか 226 00 11 40,379 -- 00 11 42,379 普通にスタッフとかも 227 00 11 42,379 -- 00 11 43,379 はい 228 00 11 43,379 -- 00 11 44,379 そう 229 00 11 44,379 -- 00 11 47,379 全然だからそこは大丈夫 230 00 11 47,379 -- 00 11 48,379 うん 231 00 11 48,379 -- 00 11 49,379 そうなんですね 232 00 11 49,379 -- 00 11 50,379 うん 233 00 11 50,379 -- 00 11 53,379 まあ大丈夫ってわけで別に 234 00 11 53,379 -- 00 11 56,379 ドン・タニシがどうこうっていう話ではなくね 235 00 11 56,379 -- 00 12 01,379 うんまあそれを意識してる時点でちょっと危うい危うい 236 00 12 01,379 -- 00 12 04,379 初めて付き合ったエピソード 237 00 12 04,379 -- 00 12 08,379 河本は河本みたいな女と付き合ってたんだっけ 238 00 12 08,379 -- 00 12 11,379 僕は僕みたいな女と付き合ってた 239 00 12 11,379 -- 00 12 13,379 それが一発目? 240 00 12 13,379 -- 00 12 16,379 それが一発目だね高校生の時 241 00 12 16,379 -- 00 12 18,379 それまた 242 00 12 18,379 -- 00 12 20,379 2回付き合わなかったっけ? 243 00 12 20,379 -- 00 12 21,379 そのこと? 244 00 12 21,379 -- 00 12 22,379 うん 245 00 12 22,379 -- 00 12 27,379 どうだったかなでもそうかもそんなのもあったかもしれない 246 00 12 27,379 -- 00 12 32,379 河本は河本みたいな女と2回付き合ってた 247 00 12 32,379 -- 00 12 35,379 同じことってことだよ 248 00 12 35,379 -- 00 12 38,379 どっちから告白したんですか? 249 00 12 38,379 -- 00 12 40,379 向こうから 250 00 12 40,379 -- 00 12 46,379 僕は高校でそういう女の子と接してることが全くなくて 251 00 12 46,379 -- 00 12 49,379 バイト先でちょっとそういう 252 00 12 49,379 -- 00 12 58,379 なんか女の子と話せないみたいな感じをやめようと思って 253 00 12 58,379 -- 00 13 04,379 なんか今まで僕全然彼女とかいっぱいいましたけどねみたいなスタンスで 254 00 13 04,379 -- 00 13 07,379 バイトしてたら 255 00 13 07,379 -- 00 13 11,379 なんかいけた 256 00 13 11,379 -- 00 13 14,379 通ったそれが 257 00 13 14,379 -- 00 13 16,379 信じてくれて 258 00 13 16,379 -- 00 13 18,379 河本みたいな女には刺さった? 259 00 13 18,379 -- 00 13 20,379 そう 260 00 13 20,379 -- 00 13 22,379 考えも同じだった 261 00 13 22,379 -- 00 13 27,379 なぜならそう河本みたいだから 262 00 13 27,379 -- 00 13 35,379 でも不思議だよね自分に似てる人って遺伝子的に好きにならなそうだけど 263 00 13 35,379 -- 00 13 39,379 だから別に河本はそんな好きじゃなかったんでしょ 264 00 13 39,379 -- 00 13 43,379 いや僕でもおもながの女性好きだなすごい 265 00 13 43,379 -- 00 13 47,379 河本は痩せすぎてるだけでおもながじゃないのかもね 266 00 13 48,379 -- 00 13 50,379 ガクさんおもなかじゃないでしょ 267 00 13 50,379 -- 00 13 52,379 めちゃめちゃおもながよ 268 00 13 52,379 -- 00 13 55,379 えそうですか? 269 00 13 55,379 -- 00 13 57,379 おもながよ 270 00 13 57,379 -- 00 14 01,379 なんだろうなぁ 271 00 14 01,379 -- 00 14 10,379 丹砂で山でクラッシュして 272 00 14 10,379 -- 00 14 16,379 傷んでるところ傷んでるギガを治療した人がいたんだけど 273 00 14 16,379 -- 00 14 26,379 まぁその人と付き合うことになったんですけど 274 00 14 26,379 -- 00 14 27,379 ギガみたいな人とね 275 00 14 27,379 -- 00 14 40,379 そっから治療もすることはなかったんですよケガなんてそうそうしないんで 276 00 14 40,379 -- 00 14 45,379 いつの間にかギガの隣からいないけど 277 00 14 46,379 -- 00 14 47,200 いなくなっていました 278 00 14 47,200 -- 00 14 51,799 好きじゃなかったんだよ 279 00 14 51,799 -- 00 15 00,559 普通の恋愛じゃなっぽく言ったのに 280 00 15 00,559 -- 00 15 01,939 普通の恋愛の 281 00 15 01,939 -- 00 15 03,299 落とし方になってしまった 282 00 15 03,299 -- 00 15 05,820 どうしてもね 283 00 15 05,820 -- 00 15 10,500 俺でも自分みたいな人とは 284 00 15 10,500 -- 00 15 11,379 付き合ったことないな 285 00 15 11,379 -- 00 15 13,620 誰みたいな人と付き合ってた 286 00 15 15,620 -- 00 15 15,980 俺 287 00 15 15,980 -- 00 15 22,740 川北さんみたいな人じゃないですか 288 00 15 22,740 -- 00 15 25,700 俺みたいな人とは付き合ったことないよ 289 00 15 25,700 -- 00 15 31,620 じゃあ誰みたいな人と付き合ったことあるんですか 290 00 15 31,620 -- 00 15 33,759 お前だよ 291 00 15 33,759 -- 00 15 37,180 お前 292 00 15 37,180 -- 00 15 39,779 なにこれ 293 00 15 39,779 -- 00 15 40,860 ひもくん 294 00 15 40,860 -- 00 15 43,039 なにこれ 295 00 15 43,039 -- 00 15 43,759 お前だよ 296 00 15 43,759 -- 00 15 45,700 なにこれ 297 00 15 45,700 -- 00 15 45,940 お前だよ 298 00 15 45,940 -- 00 15 45,960 お前だよ 299 00 15 45,980 -- 00 15 48,399 俺中学の時だわ 300 00 15 48,399 -- 00 15 48,879 初は 301 00 15 48,879 -- 00 15 51,980 早くはないよ 302 00 15 51,980 -- 00 15 55,500 でも中学早いでしょ 303 00 15 55,500 -- 00 16 00,180 生徒会長やってたんでしたっけ 304 00 16 00,180 -- 00 16 01,980 ちゃうねん 305 00 16 03,019 -- 00 16 05,860 先生に生徒会長やってくれって 306 00 16 05,860 -- 00 16 06,580 言われて 307 00 16 06,580 -- 00 16 09,480 部活が忙しいんだって 308 00 16 09,480 -- 00 16 11,200 断ってたのか 309 00 16 11,200 -- 00 16 11,759 断った 310 00 16 11,759 -- 00 16 15,980 言わせんなよ 311 00 16 15,980 -- 00 16 17,980 言いたがってたの今 312 00 16 17,980 -- 00 16 23,980 言いたがってたの今 313 00 16 23,980 -- 00 16 28,300 どん谷氏は恋愛がしたいのかな 314 00 16 28,300 -- 00 16 29,379 そういうことよ 315 00 16 29,379 -- 00 16 31,940 大学入って 316 00 16 31,940 -- 00 16 35,800 そっか今彼女いるかどうかもわかんないのか 317 00 16 35,800 -- 00 16 36,519 どん谷氏が 318 00 16 36,519 -- 00 16 38,200 いないってことじゃない 319 00 16 38,200 -- 00 16 39,840 イコール年齢っていう 320 00 16 39,840 -- 00 16 41,680 おそらく 321 00 16 41,680 -- 00 16 42,259 いなそう 322 00 16 42,259 -- 00 16 45,340 これでいるとかはちょっとマジで喋るわ 323 00 16 45,340 -- 00 16 47,259 喋もしないわ 324 00 16 47,259 -- 00 16 49,940 いないでくれみたいな 325 00 16 49,940 -- 00 16 52,639 どん谷氏彼女いないでとは別に思ってない 326 00 16 52,639 -- 00 16 54,480 どっちでもいい 327 00 16 54,480 -- 00 16 58,139 件名 328 00 16 58,139 -- 00 16 58,800 はい 329 00 16 58,800 -- 00 17 01,540 寄崎真珠見ましたメール 330 00 17 01,540 -- 00 17 03,160 はい 331 00 17 03,160 -- 00 17 05,420 真空ジェシカ川北さん 332 00 17 05,420 -- 00 17 06,519 肉体戦士ギガさん 333 00 17 06,519 -- 00 17 08,400 植木おでんさんこんばんは 334 00 17 08,400 -- 00 17 09,140 違います 335 00 17 09,140 -- 00 17 12,140 玉浦学園所属じゃないんで 336 00 17 12,140 -- 00 17 13,539 県越の佐藤さん 337 00 17 13,539 -- 00 17 15,299 県越のほどよろしくお願いいたします 338 00 17 15,339 -- 00 17 17,000 お願いします 339 00 17 17,000 -- 00 17 20,339 和歌山大学体育会陸上競技部です 340 00 17 20,339 -- 00 17 21,099 あれだ 341 00 17 21,099 -- 00 17 22,539 はい 342 00 17 22,539 -- 00 17 24,799 言うとしたら僕とは 343 00 17 24,799 -- 00 17 28,500 よく言ったものですが 344 00 17 28,500 -- 00 17 30,740 部活の後輩が 345 00 17 30,740 -- 00 17 32,459 わばあずきや 346 00 17 32,459 -- 00 17 34,500 マグロ物産などと 347 00 17 34,500 -- 00 17 39,099 塾上フェチいじりを受けていました 348 00 17 39,099 -- 00 17 41,720 その後輩は若ければ若いほどいいという 349 00 17 41,720 -- 00 17 44,019 思考を持つやつだったので 350 00 17 44,019 -- 00 17 45,259 風間由美の 351 00 17 45,259 -- 00 17 48,180 パツンパツンレギンスの母を 352 00 17 48,180 -- 00 17 51,200 わざわざビデオ屋に買いに行き 353 00 17 51,200 -- 00 17 53,759 村上涼子の無修正ビデオを 354 00 17 53,759 -- 00 17 56,920 難波の裏ビデオ屋で揃えることができた 355 00 17 56,920 -- 00 17 58,400 私からすると 356 00 17 58,400 -- 00 18 02,700 まさに言うとしたら僕な出来事でした 357 00 18 02,700 -- 00 18 04,539 なるほどね 358 00 18 04,539 -- 00 18 07,500 質問ギガ 359 00 18 07,500 -- 00 18 08,879 川北さんとギガさんの 360 00 18 08,879 -- 00 18 12,079 言うとしたら僕を教えてください 361 00 18 12,079 -- 00 18 13,519 植木おでんさんは 362 00 18 13,519 -- 00 18 14,920 渡辺里奈さんを大事にしていますが 363 00 18 14,920 -- 00 18 18,000 大事にしてあげてください 364 00 18 18,000 -- 00 18 19,920 一人抜けちゃったからね 365 00 18 19,920 -- 00 18 20,880 ギガラジオネーム 366 00 18 20,880 -- 00 18 23,400 和歌山大学体育会陸上競技部 367 00 18 23,400 -- 00 18 25,880 手こき授乳されながら送信 368 00 18 25,880 -- 00 18 26,920 いいな 369 00 18 26,920 -- 00 18 28,380 でも大人が母乳飲むと 370 00 18 28,380 -- 00 18 29,740 お腹壊すらしいよ 371 00 18 29,740 -- 00 18 30,860 あそうなんだ 372 00 18 30,860 -- 00 18 33,180 気をつけて 373 00 18 33,180 -- 00 18 34,320 気をつけてね 374 00 18 34,320 -- 00 18 35,880 理由こそ分かんないか 375 00 18 35,880 -- 00 18 38,539 なんかその赤ちゃんしか分解できない 376 00 18 38,539 -- 00 18 39,560 へー 377 00 18 39,560 -- 00 18 41,640 いや赤ちゃんスペック高 378 00 18 41,640 -- 00 18 43,740 赤ちゃんスペック高いよ 379 00 18 43,740 -- 00 18 44,880 基地分解 380 00 18 44,920 -- 00 18 46,380 するのに長けてんだ 381 00 18 46,380 -- 00 18 51,920 言うとしたら僕を教えてください 382 00 18 51,920 -- 00 18 52,519 言うとしたら僕 383 00 18 52,519 -- 00 18 55,420 お題が 384 00 18 55,420 -- 00 18 57,820 えっとですね 385 00 18 57,820 -- 00 19 00,000 あるのか 386 00 19 00,000 -- 00 19 02,960 あの携帯会社に 387 00 19 02,960 -- 00 19 04,880 ショップに行って 388 00 19 04,880 -- 00 19 07,420 プランを変更しようとしたんですよ 389 00 19 07,420 -- 00 19 09,900 そしたらその 390 00 19 09,900 -- 00 19 12,420 ちょっとギガちょっと 391 00 19 12,420 -- 00 19 13,759 目が見れないんで 392 00 19 13,759 -- 00 19 14,900 ずっと 393 00 19 14,920 -- 00 19 16,920 ずっと下を向いて喋ってて 394 00 19 16,920 -- 00 19 17,920 その 395 00 19 17,920 -- 00 19 19,920 対応してくださった方で 396 00 19 19,920 -- 00 19 20,920 はい 397 00 19 20,920 -- 00 19 21,920 で 398 00 19 21,920 -- 00 19 24,120 まあ規約ちょっとずつ進めていったん ですけども 399 00 19 24,120 -- 00 19 26,240 すごい説明が多いんですよ 400 00 19 26,240 -- 00 19 27,240 その人の 401 00 19 27,240 -- 00 19 28,240 多いね 402 00 19 28,240 -- 00 19 29,240 うん 403 00 19 29,240 -- 00 19 32,980 でもう必要以上にもうマニュアル そのまま読んでるだろうぐらい 404 00 19 32,980 -- 00 19 34,380 の説明の多さで 405 00 19 34,380 -- 00 19 35,380 あ 406 00 19 35,380 -- 00 19 36,380 へー 407 00 19 36,380 -- 00 19 37,380 はい 408 00 19 37,380 -- 00 19 38,380 で 409 00 19 38,380 -- 00 19 40,580 チラッとその人の名札が見えたん ですけど 410 00 19 40,580 -- 00 19 42,019 その研修中って書いてあって 411 00 19 42,019 -- 00 19 43,019 うん 412 00 19 43,019 -- 00 19 44,019 で 413 00 19 44,019 -- 00 19 49,019 だからそのマニュアル通りにやってる 感じになっちゃってて 414 00 19 49,019 -- 00 19 52,139 全然慣れてない感じでもうとりあえず 順を追って 415 00 19 52,139 -- 00 19 55,019 いっこいこなぞっていくみたいな 感じになってて 416 00 19 55,019 -- 00 19 56,019 うん 417 00 19 56,019 -- 00 20 00,019 でその僕も 418 00 20 00,019 -- 00 20 01,019 言ったら 419 00 20 01,019 -- 00 20 04,299 初なんですよその 420 00 20 04,299 -- 00 20 07,019 料金の変更をショップにしに行った のが 421 00 20 07,019 -- 00 20 08,019 うん 422 00 20 08,019 -- 00 20 11,019 言ったらこっちも研修中なんですよ 423 00 20 11,019 -- 00 20 12,019 なるほど 424 00 20 12,019 -- 00 20 14,019 今その初めてその受けて 425 00 20 14,019 -- 00 20 17,019 そのプランの変更に挑戦して研修 中 426 00 20 17,019 -- 00 20 23,019 でちょっとまあ手続きがおぼつかない ところがあったんでやっぱその 427 00 20 23,019 -- 00 20 24,019 研修中の人 428 00 20 24,019 -- 00 20 25,019 うん 429 00 20 25,019 -- 00 20 26,019 そのベテランの人がパパパって 来て 430 00 20 26,019 -- 00 20 27,019 うん 431 00 20 27,019 -- 00 20 28,019 ああこここここうでみたいなサポート してて 432 00 20 28,019 -- 00 20 29,019 うん 433 00 20 29,019 -- 00 20 38,019 でギガに言ってきたんですけど そのすいませんこの子研修中なんて 434 00 20 38,019 -- 00 20 42,019 ちょっとまだうまくできなくて すいませんみたいな言ってきて 435 00 20 42,019 -- 00 20 43,019 うんうん 436 00 20 43,019 -- 00 20 45,720 言うとしたら僕って思いました 437 00 20 45,720 -- 00 20 51,519 マジで一緒だけど俺も 438 00 20 51,519 -- 00 20 55,680 ATMの操作で 439 00 20 55,680 -- 00 20 58,680 間違えてやり直しをしたときに 440 00 20 58,680 -- 00 21 01,000 申し訳ありません 441 00 21 01,000 -- 00 21 03,319 もう一度最初から入力し直してください 442 00 21 03,319 -- 00 21 05,980 ピーってカードが戻ってくる 443 00 21 05,980 -- 00 21 09,720 それは言うとしたら僕 444 00 21 09,720 -- 00 21 13,380 申し訳ありませんは僕ってこと? 445 00 21 13,920 -- 00 21 15,539 こっちが間違えてやり直して 446 00 21 15,539 -- 00 21 18,460 こっちが暗証番号間違えたりとかして 447 00 21 18,460 -- 00 21 20,900 言わしてすいませんってやつですか? 448 00 21 20,900 -- 00 21 22,259 向こうが申し訳ありません 449 00 21 22,259 -- 00 21 24,000 もう一度入力し直してください 450 00 21 24,000 -- 00 21 26,339 こっちがミスしてるんだから 451 00 21 26,339 -- 00 21 28,640 それはもう言うとしたら僕ですよって 452 00 21 28,640 -- 00 21 31,039 やるしねそのときは 453 00 21 31,039 -- 00 21 32,819 やるな銀行で 454 00 21 32,819 -- 00 21 34,120 言うとしたら僕って 455 00 21 34,120 -- 00 21 38,140 すっきりした話でいいな 456 00 21 38,140 -- 00 21 39,700 そう 457 00 21 39,720 -- 00 21 42,579 でもそれ一緒 458 00 21 42,579 -- 00 21 44,420 それ機械じゃないだけで 459 00 21 44,420 -- 00 21 47,380 人か機械かって話ですよね 460 00 21 47,380 -- 00 21 47,680 そう 461 00 21 47,680 -- 00 21 49,900 あーやばいな 462 00 21 49,900 -- 00 21 50,920 なんかちょっともう 463 00 21 50,920 -- 00 21 53,039 トークでなんか 464 00 21 53,039 -- 00 21 54,519 レベルを 465 00 21 54,519 -- 00 21 57,299 見られるというか 466 00 21 57,299 -- 00 21 59,160 このメール 467 00 21 59,160 -- 00 22 00,700 カットするか 468 00 22 00,700 -- 00 22 03,700 ちょっと穴埋めに 469 00 22 03,700 -- 00 22 05,900 脅迫性障害漫談しましょうか 470 00 22 06,519 -- 00 22 07,819 ちょっとやめてくれ 471 00 22 07,819 -- 00 22 09,680 しまうでいいよ 472 00 22 09,720 -- 00 22 13,920 このメールがカットされないために 473 00 22 13,920 -- 00 22 15,480 脅迫性障害漫談しましょうか 474 00 22 15,480 -- 00 22 19,759 夜中に 475 00 22 19,759 -- 00 22 23,019 1週間分まとめたゴミ袋を 476 00 22 23,019 -- 00 22 24,620 ゴミ捨て場に持ってって 477 00 22 24,620 -- 00 22 26,579 家戻って 478 00 22 26,579 -- 00 22 28,440 1時間ぐらい経ってから 479 00 22 28,440 -- 00 22 30,100 不安になって 480 00 22 30,100 -- 00 22 32,100 またゴミ 481 00 22 32,100 -- 00 22 34,420 捨て場に行って 482 00 22 34,420 -- 00 22 36,799 ゴミを漁って 483 00 22 36,799 -- 00 22 39,579 大事なものを 484 00 22 39,579 -- 00 22 40,679 捨ててないかとか 485 00 22 40,679 -- 00 22 42,659 ちゃんと確認して 486 00 22 42,659 -- 00 22 45,599 周りに誰も見られてないかとか 487 00 22 45,599 -- 00 22 47,359 おどおどしながら 488 00 22 47,359 -- 00 22 50,439 完全に不審者の格好になりながら 489 00 22 50,439 -- 00 22 51,939 確認して 490 00 22 51,939 -- 00 22 53,879 また閉めて家に戻る 491 00 22 53,879 -- 00 22 55,639 っていうのを2回ぐらいやる 492 00 22 55,639 -- 00 22 59,740 これを2セット 493 00 22 59,740 -- 00 23 03,819 脅迫性障害じゃなかったらな 494 00 23 03,819 -- 00 23 09,419 常人は1回で住むところ 495 00 23 09,420 -- 00 23 11,779 1回でも多いところを 496 00 23 11,779 -- 00 23 13,160 これを2セット 497 00 23 13,160 -- 00 23 15,080 2セットやっちゃう 498 00 23 15,080 -- 00 23 16,560 これはでもまだ 499 00 23 16,560 -- 00 23 18,580 ギガが継承な証でしょうね 500 00 23 18,580 -- 00 23 20,060 まだギガが 501 00 23 20,060 -- 00 23 23,440 YouTubeに上げていいなっていう判断を 502 00 23 23,440 -- 00 23 24,779 したレベルの話 503 00 23 24,779 -- 00 23 28,300 あんまそうない人は来ないって 504 00 23 28,300 -- 00 23 33,960 これうまいこと 505 00 23 33,960 -- 00 23 37,220 ギガ入れてもらいます 506 00 23 37,220 -- 00 23 39,100 いやもう 507 00 23 39,420 -- 00 23 41,920 もっと怖がられるって 508 00 23 41,920 -- 00 23 44,200 そんな迷惑はかけないでしょ 509 00 23 44,200 -- 00 23 46,259 迷惑はかけないです 510 00 23 46,259 -- 00 23 49,300 ただ 511 00 23 49,300 -- 00 23 50,720 必要なものを捨ててないか 512 00 23 50,720 -- 00 23 53,860 ちゃんとチェックする人ってだけです 513 00 23 53,860 -- 00 23 55,100 だからまあ 514 00 23 55,100 -- 00 23 56,060 安心ちゃうしような 515 00 23 56,060 -- 00 23 57,660 ちゃんと鍵もかけるし 516 00 23 57,660 -- 00 24 02,960 そう鍵は誰よりもかけます 517 00 24 02,960 -- 00 24 05,300 かかった上でかけますから 518 00 24 05,300 -- 00 24 09,300 そうセキュリティ名は大丈夫 519 00 24 09,420 -- 00 24 11,600 完璧 520 00 24 11,600 -- 00 24 12,860 じゃあ終わります 521 00 24 12,860 -- 00 24 13,800 ギガの勝ちだ 522 00 24 13,800 -- 00 24 16,800 ギガラジオじゃんけんの時間だ 523 00 24 16,800 -- 00 24 18,220 ギガの勝ちだ 524 00 24 18,220 -- 00 24 22,019 よしこのギガの勝ちだを道路に置いて 525 00 24 22,019 -- 00 24 25,539 車を踏んでもらって割ってもらおう 526 00 24 25,539 -- 00 24 29,640 ブーンブーン 527 00 24 29,640 -- 00 24 30,480 踏んでな 528 00 24 30,480 -- 00 24 32,300 よし割れたかな 529 00 24 32,300 -- 00 24 33,800 ギガの勝ちだ 530 00 24 33,800 -- 00 24 35,440 いやギガの勝ちだ 531 00 24 35,440 -- 00 24 36,860 もうええやん
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原神(げんしん) 機種:PC,PS4,iOS,And,PS5 作曲者:HOYO-MiX 開発・発売元:miHoYo 発売年:2020,2021(PS5) 概要 中国のゲームメーカーmiHoYoが開発・運営しているオープンワールドRPG。さらわれた片割れの双子である旅人が見知らぬ神を探す旅に出ることになる。 音楽はmiHoYoの音楽チームHOYO-MiXが担当。 初期の音楽プロデューサーである陳致逸(ユーペン・チェン)氏は、主に映画音楽で活躍していたフリーランスの作曲家だったが、本作を機にmiHoYoの正式メンバーとなった。同氏は過去にテンセントのオンラインRPG『天涯明月刀』の音楽を担当している。 2023年9月、氏は自身のSNSでmiHoYoの退職を発表した。「自分の音楽の夢を追うため」とのこと。 現任の音楽プロデューサーは陳致逸氏の音楽学院での後輩で長年アシスタントを務めた苑迪萌氏。 全編オーケストラ系の楽曲が使われており、収録はモデルとなった国々の楽団の生演奏によるものである。どの曲も音が綺麗で耳に心地良い。 収録曲(サウンドトラック順) 曲名 作曲者 編曲者 補足 順位 「原神-風と異邦人 Le Vent et les Enfants des étoiles」収録曲 原神メインテーマ 陳致逸 ログイン画面(昼間) 2020年323位 アカツキワイナリー アカツキワイナリー(昼間) 2020年360位 甘美な微笑み アンバーとの会話シーン 嵐、尖塔と聖域 風龍廃墟 終焉のフィナーレ 征討領域・風龍廃墟(風魔龍・トワリン戦) 2020年405位 孤独の旅路 アカツキワイナリー(夜間) モンドの一日 モンド城(昼間) 夢のアリア (原神メインテーマ変奏曲) ログイン画面(夜間) 青空 モンド(夜間) 平原のマージン トワリンとドゥリン 魔神任務・序章・第二幕 バトルの秘儀 戦闘(モンド) 騎士の善意 伝説任務・小兎の章(アンバー)第一幕伝説任務・孔雀羽の章(ガイア)第一幕 楽しい旅 スライムランド 風を捕まえる異邦人 Genshin Impact Announcement Trailer 「原神-風と牧歌の城 City of Winds and Idylls」収録曲 Disc 1 - 風と牧歌の城 City of Winds and Idylls 安静の夕暮れ 陳致逸 ログイン画面(朝方・夕方) レジェンド・オブ・ザ・ウィンド 伝説任務・小兎の章(アンバー)第一幕 風に愛される都 モンド城(昼間) 多忙なモンドの午後 モンドの夕暮れ モンド城(夕方) スターライト・オブ・モンド モンド城(夜間) ムーンライト・オブ・モンド アナザーデイ・イン・モンド モンド城(黎明) 風が運んだ聖歌 大聖堂 西風騎士団 西風騎士団本部 エンジェルズシェア エンジェルズシェア シルエットと猫足 ステルスシーン 際どい小道 向き合い ウッ、これは思いつかなかった... 愉快な挑戦 スピードアップ 伝説任務・夜梟の章(ディルック)第一幕 楽しい一日 囁きの森での再会 魔神任務・序章・第一幕 びっくりした アンバーと初対面 ストーム・ビフォールズ 陰陰たる不安 魔神任務・序章・第一幕魔神任務・序章・第二幕 仲間の力 差し迫う勝利の歌 魔神任務・序章・第一幕魔神任務・序章・第二幕 Disc 2 - 蒲公英の国 The Horizon of Dandelion 抑えきれない思い 陳致逸 モンド 旅の始まり 魔神任務・序章・第一幕 アカツキワイナリー アカツキワイナリー(昼間) 夜明け前のワイナリー アカツキワイナリー(夜間) 見慣れた風景 塵歌壺・翠黛の山(昼間) 黄金色の夜 モンド(夜間)塵歌壺・翠黛の山(夜間) 平原の囁き モンド 七天神像 七天神像祈願 運命の繋がり 七天神像 月から盗んだ歌 モンド(夜間)塵歌壺・翠黛の山(夜間) 旅人の休憩 モンド(昼間) 風に洗われし山々 モンド(昼間)伝説任務・帰らぬ熄星・第四幕 漫然たる魂たち モンド(昼間) 追憶 ログイン画面(夜間) 休まぬ烈日 モンド(昼間) リメンブランス モンド(夜間) ザ・ホライゾン モンド(昼間) 未来を待つ モンド(夜間)塵歌壺・翠黛の山(夜間) 月光が照らす荒野 モンド(夜間) 希望に満ちるアナザーデイ モンド(昼間) 希望の旅 万古の風の捨子 風龍廃墟 太古の孤児 風龍廃墟 正午の見通し 伝説任務・帰らぬ熄星・第四幕 過去の虜 モンド(昼間) エターナル・アナムネーシス Disc 3 - モンド戦記 Saga of the West Wind 彷徨する輝き 陳致逸 戦闘(モンド・ドラゴンスパイン)秘境(モンド)深境螺旋 解決案 戦闘(モンド)深境螺旋 太古の韻律 秘境(モンド) 無限の響き 秘境(モンド)深境螺旋 征け!不敵な戦士よ 秘境(モンド・璃月・稲妻) ビート・オブ・ウォータードロップ 秘境(セシリアの苗床) 魔導の奥義 秘境(モンド・璃月)深境螺旋 数え切れない逆境 止まらぬ航行 魔神任務・序章・第一幕 風に乗って進もう 魔神任務・序章・第一幕 漂う氷風 BOSS・北風の狼挑戦(アンドリアス戦/覚醒前) 氷封のシンフォニー BOSS・北風の狼挑戦(アンドリアス戦/覚醒後) 「原神-皎月雲間の夢 Jade Moon Upon a Sea of Clouds」収録曲 Disc 1 - 海を照す琉璃明月 Glazed Moon Over the Tides 璃月 陳致逸 璃月港(昼間) 2020年372位 明月、盃にあり 商湖の余暇 璃月港(夕方) 乙女の待ち続け 璃月港北部 璃月の日ノ出 璃月港(黎明) お休み、璃月よ 璃月港(夜間) 璃月の一日が終わる 璃月港(夕方) 璃月の晴れ空 璃月港(夜間) 透き通る月(瑠璃亭) 瑠璃亭 北国の宝庫 北国銀行 品茶の余暇(望舒昼間) 望舒旅館(昼間) 渡り者の甘い夢(望舒夜間) 望舒旅館(夜間) 委蛇たる緑水 碧水の原 たゆたうさざ波 碧水の原(昼間) 釣り人の歌 川水、翡翠の如く 谷に満開する花々 流水に乗って去りゆく思い 碧水の原(夜間) 木陰漫歩 碧水の原(昼間) 古道に響く笛音 碧水の原(夜間) 照り雨の糸 碧水の原(夜間)塵歌壺・清玉の島(夜間) 竹林の囁き 碧水の原(昼間) 帰らぬ物語 碧水の原 帰り人の歌 碧水の原(昼間) 原離れの草 帰離原(昼間) キツネ遊戯 故郷の原野 明日の希望 璃月(昼間)塵歌壺・清玉の島(昼間) 細やかな光 大いなる伝説 幽けき光 瑶光の浜塵歌壺・清玉の島 潮汐浮遊 璃月塵歌壺・清玉の島 潮風が吹く 璃月港北部 Disc 2 - 山頂の清心、雲間の月 Shimmering Sea of Clouds and Moonlight 遠足に行こう(軽策昼間) 陳致逸 軽策荘(昼間) アプリ127位 老いゆく夜間(軽策夜間) 軽策荘(夜間) さまよう羽ばたき 絶雲の間(昼間)塵歌壺・羅浮洞天 仙人を後を辿り 絶雲の間(夜間) 閑雲野鶴 慶雲頂(昼間) 岩で創られし歌 無妄の丘 雲海の上 慶雲頂(夜間) 浮き世で暇作り 慶雲頂(昼間) 亭下小憩 華光の林(昼間) 偶然の出会い 白鶴飛翔 慶雲頂(昼間)塵歌壺・羅浮洞天 夜明けの光 慶雲頂(昼間) 空を飾る虹色 春は雲に眠る 仙人の独酌 絶雲の間 仙家でのうろつき 華光の林(夜間) 雲立ち 絶雲の間(昼間) 岩中で交わした盃 璃月 苔に覆われた山道 明蘊町 雲の中から雁の鳴き声 絶雲の間(夜間) 仙人の碁盤 絶雲の間(昼間) 清い川谷 無妄の丘 ちらつく百合の花 璃月港北部 揺らめく霓裳の花 孤独な山 璃月港西部 遠くから鳥の鳴く声 古の歩み 谷に佇む 霊矩関青墟浦 まどろみの伝承 静かな遺跡 孤独の漫遊者 失われた望み 壺中の天地 秘境(璃月) Disc 3 - 璃月鏖戦録 Battles of Liyue 烈火の如く 陳致逸 戦闘(璃月) 第14回134位第15回242位第16回309位2020年83位通常戦闘曲217位 激流の如く 凛々しい遊侠 2020年96位 「原神-輝く星々 The Stellar Moments」収録曲 詩人の仕事 陳致逸 苑迪萌 キャラクター実戦紹介 ウェンティ 真紅の騎士、出発! キャラクター実戦紹介 クレー 小さな夢の冒険 陳致逸苑迪萌 エピソード クレー 烈火調理 陳致逸 キャラクター実戦紹介 香菱 永夜の序曲 キャラクター実戦紹介 フィッシュル ほら!わたくしの夏の夜のガーデン 陳致逸苑迪萌 エピソード フィッシュル 度厄童子 陳致逸 キャラクター実戦紹介 七七 星天の予知 陳致逸苑迪萌 キャラクター実戦紹介 モナ アヤックスからの返信 陳致逸 キャラクター実戦紹介 「公子」タルタリヤ 雪国より訪れし者 陳致逸苑迪萌 エピソード 「公子」タルタリヤ スペシャルドリンク キャラクター実戦紹介 ディオナ 迸る烈焔 キャラクター実戦紹介 辛炎 疾雷快雨 陳致逸 キャラクター実戦紹介 刻晴 純白での瞑想 キャラクター実戦紹介 アルベド 創生の霊智 エピソード アルベド 麟躍幽岩 キャラクター実戦紹介動画 甘雨 浮世閑歩 キャラクター実戦紹介 鍾離 「原神-渦巻、落星と雪山 Vortex of Legends」収録曲 雪に隠された往事 陳致逸 ドラゴンスパイン 銀白の希望 霜の精霊 夢で再会しよう 氷に砕けた夢 忘れられた風 寒波の余響 極寒の悪所 吹雪に迷う 星蛍の洞窟 隠匿する前兆 静謐なホール 山林の故地 未完成のフレスコ ドラゴンスパイン 氷風の舞い 雪国のフィナーレ 色彩の記憶 清らかな笑顔 第14回781位 「原神-真珠の歌 The Shimmering Voyage」収録曲 Disc 1 - 海島の童話 Fairytale of the Isles 希望の航路 陳致逸 金リンゴ群島(海上・昼間) 果てしない青空 揺らぐさざ波 金リンゴ群島(地上・夜間) 夢へ旅立とう 金リンゴ群島(海上・夜間) 海風の囁き 金リンゴ群島(地上・昼間) 小憩の浜辺 金リンゴ群島 島の精霊 金リンゴ群島(地上・昼間) クラゲの歌 金リンゴ群島 貴重な静けさ 金リンゴ群島(地上・昼間) ホラガイの余韻 金リンゴ群島(地上・夜間) 慎重に探索しよう 金リンゴ群島(地上・昼間) 光去りゆく物語 金リンゴ群島(地上・夜間) 心地良い付き添い 金リンゴ群島(地上・黎明) 昔の語り 金リンゴ群島 遥かなる憂慮 金リンゴ群島(地上・夜間) Disc 2 - 眩い星々 Blazing Stars 烈風の序章 陳致逸 魔神任務・序章・第一幕 火花の初対面 伝説任務・四つ葉の章(クレー)第一幕 あどけない日々 ゲーム内未使用 楽しさはどこから 清泉町(昼間) グルメ旅 伝説任務・長杓の章(香菱)第一幕 小さないたずら ほろ酔いの記憶 アカツキワイナリー 狼の少年 伝説任務・狼の章(レザー)第一幕 戦闘準備 秘境 「やっと来ましたね。」 伝説任務・映天の章(モナ)第一幕 星が知る昔の夢 モンド(夜間) 炉辺での小憩 アカツキワイナリー 危険な計画 魔神任務・第一章 吟遊詩人のトリック 魔神任務・序章・第三幕 アリーヴォ デラ シニョーラ 希望の微風 伝説任務・歌仙の章(ウェンティ)第一幕 白昼夢のさざ波 清泉町(夜間) 青天に戻った歌 魔神任務・序章・第三幕 岩主の崩御 陳致逸 何迦徳 魔神任務・第一章・第一幕 尊き天権 魔神任務・第一章・第二幕 予想外の救い主 陳致逸 魔神任務・第一章・第一幕 異郷からの手紙 ゲーム内未使用 シロガネヨシの如く 魔神任務・第一章・第一幕 Disc 3 - 激流と山岳 Roar of the Formidable 不凍の怒濤 陳致逸 戦闘(ドラゴンスパイン)秘境 アプリ127位 無尽蔵の演劇 征討領域・「黄金屋」(「公子」戦・第一~第二形態) 嵐を切り裂く魔鯨 征討領域・「黄金屋」(「公子」戦・第三形態) 渦巻に踊れ 魔神任務・第一章・第三幕(璃月防衛戦)無相の交響詩魔神任務・間章・第一幕(跋掣戦) 2020年129位 天穹の歌 征討領域・「伏龍の木」の底(若陀龍王戦(元素吸収前))詞:孫宇 山岳は崩れ 陳致逸 何迦徳苑迪萌 征討領域・「伏龍の木」の底(若陀龍王戦(元素吸収後))詞:孫宇 第14回385位第15回529位第16回656位2021年151位 Disc 4 - 異邦人の旅路 A Stranger's Sojourn 真珠の歌 陳致逸 紀行 墜落の星 陳致逸 何迦徳 伝説任務・帰らぬ熄星・第一幕 浮浪人の魂胆 陳致逸 伝説任務・帰らぬ熄星・第三幕 紛争に直面する喜び 魔神任務・第一章・第三幕 魔王武装 陳致逸 苑迪萌 伝説任務・空鯨の章(タルタリヤ)第一幕 黄金が眠る所 陳致逸 黄金屋 徘徊する玉姿 群玉閣 月を覆う閣 魔神任務・第一章・第三幕 凱旋の歌を奏でよう 陳致逸 何迦徳 高貴たる別れ 陳致逸 優しき思い出 伝説任務・古聞の章(鍾離)第一幕 冷たい満開 陳致逸 何迦徳 伝説任務・白亜と黒龍・第四幕 夜叉の追憶 陳致逸 何迦徳苑迪萌 伝説任務・金翼鵬王の章(魈)第一幕 風花の招待 陳致逸 何迦徳 伝説任務・風花の招待・第四幕 災厄の一撃 魔神任務・第一章・第四幕 アビスの下での別れ 陳致逸 王斯邁 遊撃騎士 陳致逸 苑迪萌 伝説任務・波沫の章(エウルア)第一幕 山岩の悪意 陳致逸 伝説任務・古聞の章(鍾離)第二幕 創龍点睛 トワリン、到着! 陳致逸 何迦徳 伝説任務・真夏!島?大冒険!・第一幕 真夏ランド 伝説任務・真夏!島?大冒険!・第二幕 夏の大冒険! 伝説任務・真夏!島?大冒険!・第四幕 雪深き山頂の記憶 陳致逸 ゲーム内未使用(イメージ楽曲MV) 運命の別れ ゲーム内未使用(双子ストーリームービー) 「原神-寂々たる無妄の国 Realm of Tranquil Eternity」収録曲 Disc 1 - 稲光と雷櫻の大地 Sakura and Violet Thunder 稲妻 陳致逸 稲妻城(昼間) 落葉風波 稲妻城(夜間)魔神任務・第二章・プロローグ 羈留の客 稲妻城(昼間) 風雅の里 常しえの花火 稲妻城(昼間)塵歌壺・絵綺の庭(昼間)伝説任務・琉金の章(宵宮)第一幕 静謐なる国土 稲妻城(黎明) 異郷の櫻 稲妻城(夕方) 静寂なる夢 稲妻城(夜間)塵歌壺・絵綺の庭(夜間) 華散る夢 鳴神の思慮 鳴神島 神秘なる島 残存する温もり 失っていない記憶 鳴神島(昼間)塵歌壺・絵綺の庭(昼間) 延々と続く守護 鳴神島 悠遠なる思いやり 伝説任務・雪鶴の章(神里綾華)第一幕 華散る縁 鳴神島 いずれは散り逝く 煌めく雷櫻 故人の嘆き 閉鎖された港 離島 異邦人の島 商人の懐郷 離島(夜間)塵歌壺・絵綺の庭(夜間) 郷愁は糸の如く 離島 祭りがやってくる 甘金島影向山 硝彩の思い出 甘金島 林間の清流 鎮守の森 思い出に残るように 影向山 安寧の天光 紺田村(昼間)塵歌壺・絵綺の庭(昼間) 神狐の祝福 紺田村(夜間)塵歌壺・絵綺の庭(夜間) Disc 2 - 浮世の栄枯 Stories of the Floating World 神願の所 陳致逸 影向山 空寂常の如し ひらひらと舞う庭 神里屋敷 白鷺の風儀 社奉行本部 天領奉行御帳 九条陣屋 陣営は森森なり 家なき悲しみ 傷痛みの物語 緋木村 静まった証言 荒海神無塚 無魂の地の魂 神無塚 ヤシオリの民 緋木村ヤシオリ島 埋もれた音 御影炉心 探る処無し 神の無い塚 荒海神無塚 無言の哀訴 神無塚 葛藤は如何せん石垣に満ちて 荒海神無塚 荒れ丘の残月、木陰濃く 神無塚 哀しきかな、鼓角に休むこと無し 義軍の砦 藤兜砦 毅然たる行軍 名椎の浜 刃連島名椎の浜無明砦 擱坐した願い 名椎の浜無明砦 慌ただしい影 ヤシオリ島 虚空の境遇 祟り神の囁き 犠牲の教諭 雷隠しの遺事 無想刃狭間緋木村 亡き者が語りき 慣れた航路 金リンゴ群島魔神任務・第二章・第一幕 Disc 3 - 稲妻征戦記 Battles of Inazuma 斬霧破竹 陳致逸 戦闘(稲妻)秘境(稲妻) 2021年267位 逃れられぬ陣 空を翔ける不羈 追奔逐北 戦闘/フィールドBOSS(稲妻) 「原神-輝く星々 Vol. 2 The Stellar Moments Vol. 2」収録曲 捷疾の業 陳致逸 苑迪萌 キャラクター実戦紹介 魈 生と死の送迎者 王斯邁 エピソード 胡桃 理が集いし処 陳致逸苑迪萌 苑迪萌 キャラクター実戦紹介動画 胡桃 暗闇に現れし影 陳致逸 陳致逸王斯邁 キャラクター実戦紹介 ロサリア 法獣の歩み 苑迪萌 キャラクター実戦紹介 煙緋 氷封のエムブレム 陳致逸 苑迪萌 エピソード エウルア 波沫の舞 キャラクター実戦紹介 エウルア 虹色サマーデイ 陳致逸苑迪萌 テイワットスタイル・コスチュームPV 「海辺の歌」 荒波に漂う紅葉 苑迪萌 エピソード 楓原万葉 顛沛流浪 キャラクター実戦紹介 楓原万葉 風儀の舞 キャラクター実戦紹介 神里綾華 むじむじ大作戦 苑迪萌 趙鑫 キャラクター実戦紹介 早柚 瞬きの永遠 苑迪萌 エピソード 宵宮 満開の焔硝 キャラクター実戦紹介 宵宮 轟雷の意志 キャラクター実戦紹介 九条裟羅 新世界のハンター 丁謙 キャラクター実戦紹介 アーロイ 有智高才 陳致逸趙鑫 趙鑫 エピソード 珊瑚宮心海 睡竜の目覚め 苑迪萌陳致逸 苑迪萌 キャラクター実戦紹介 珊瑚宮心海 忠魂義胆 趙鑫 キャラクター実戦紹介 トーマ 悽愴たる夢 陳致逸苑迪萌 苑迪萌 エピソード 雷電将軍 妄念と執念 キャラクター実戦紹介 雷電将軍 「原神-流るる星霜、華咲きて Fleeting Colors in Flight」収録曲 神女劈観・喚情 陳致逸 苑迪萌 魔神任務・間章・第一幕詞:豆子歌:楊揚 華やかな灯火、星々の如く 陳致逸 伝説任務・華々しき流年・第三幕 神女劈観・喚情 (ボーカルなし、楽器のみ) 陳致逸 苑迪萌 「原神-遺失と忘却の島 Islands of the Lost and Forgotten」収録曲 Disc 1 - 忘失と瞑想の島 Isles of Serenity and Amnesia 海祇之島 陳致逸 海祇島 七彩の庭園 平和の祝福 喧騒を離れて 水辺を流離う 澄みわたる碧潭 海祇島塵歌壺・絵綺の庭(昼間) 語りかける伝説 海祇島 残されし遺恨 月夜の静寂 セイライ島 孤独の行路 寥々たる月星 寂寞たる響き 悲しき囁き 凪いだ心 閑静の片隅 浅瀬神社 寝子の夢 俗世の佳肴 烏有亭 鳴神囃子 魔神任務・第二章・第三幕 謹言慎行 天領奉行府 静思の場 魔神任務・第二章・第三幕 永遠への冥想 虹に堕つるが如く 鶴観 物是にして人非なり 哀しみの幽影 雲霧に覆われて 留まる遊歩 曲径探幽 色褪せた追憶 温かき思い出 ルーのメロディー Disc 2 - 海淵の下 Beneath the Abyssal Depth 深奥に落つ細径 陳致逸 蛇腸の道 消滅した記憶 淵下宮 奥深き淵 淵下宮(白夜) 暗き幽光 趙鑫 旅の哀しき音 過ぎ去る流光 姜以君 恍惚たる夢 眩惑の幻 趙鑫 天地晦冥 淵下宮(常夜) 幽冥の囁き 陳致逸 過ぎ去った日を遠く見つめて 廃墟の叙述 丁謙 無明長夜 往時の余韻 趙鑫 狭間の懸念 暗流への航行 姜以君 昼夜を分かたず 趙鑫 明暮は移り行く 苑迪萌 大日御輿 永遠なる哀しき淵 大日御輿(常夜) 白夜国の民 大日御輿(白夜) 常世之国 姜以君 大日御輿(常夜) 祈望と故郷の魂 大日御輿(白夜) Disc 3 - 稲妻征戦記2 Battles of Inazuma 2 嘆息のまゆ 陳致逸 征討領域・鳴神島・天守(「淑女」戦)詞:孫宇 燼滅の舞 陳致逸 陳致逸苑迪萌 征討領域・鳴神島・天守(焚尽の灼炎魔女戦)詞:孫宇 雑念を払う 陳致逸 魔神任務・第二章・第二幕(雷電将軍戦)魔神任務・第二章・第三幕(影戦・前半) 雷霆のご威光 陳致逸 趙鑫 魔神任務・第二章・第三幕(影戦・後半) 第15回206位第16回563位2021年154位アプリ211位 稲光神鳴 征討領域・夢想楽土の結末(禍津御建鳴神命戦) 2022年409位 波を裂く寒光 陳致逸 戦闘(淵下宮) 第15回307位第16回349位2022年212位 波瀾万丈 苑迪萌 背水の陣 陳致逸姜以君 戦闘/フィールドBOSS(淵下宮/アビサルヴィシャップの群れ戦) 「原神-千岩の眺望 Millelith's Watch」収録曲 Disc 1 - 山岳重畳 Wrinkled Peaks 魏々たる丹砂 陳致逸 層岩巨淵 蒼茫たる絶域 千巌万壑 清風朗月 層岩巨淵(昼間) 群峰、粛然と残陽を浴びる 層岩巨淵(夕方) 大荒沈々 層岩巨淵(昼間) 霜の如き寒夜の月 層岩巨淵(夜間) 古戍蒼蒼 層岩巨淵 孤雁は遠く... 層岩巨淵(昼間) 黎明に稀なる天の河 層岩巨淵(夜間) 青山悠々 層岩巨淵(昼間) 深山に皎月 層岩巨淵(夜間) 荒れ野をただよう雲 層岩巨淵(昼間) Disc 2 - 淵に沈みゆく日没 Underground Adventures 沈黙の意味 姜以君 層岩巨淵・地下鉱区(上層南東エリア/ガンダルヴァー村地下オアシス) 知りえぬ夢 不穏な予感 臨時本坑巨淵主鉱区巨蛇岩穴地下湿原嶮しき石堂(層岩巨淵・地下鉱区) 霞む、霜の崖 姜以君苑迪萌 暗影潜形 姜以君 危険な絶境 姜以君苑迪萌 光無き探索 姜以君 空虚の地 かすかな燭光 交錯する塵界 姜以君苑迪萌 魔神任務・間章・第二幕伝説任務・懸壺の章(白朮) 静かな地 姜以君 臨時本坑巨淵主鉱区巨蛇岩穴地下湿原嶮しき石堂(層岩巨淵・地下鉱区) 連山を越えて 幽谷に深思する 深き洞穴に遊ぶ 苑迪萌 魔神任務・間章・第二幕伝説任務・懸壺の章(白朮) 過ぎ去りし華 丁謙 無名遺跡(下層/戦闘前)魔神任務・第三章・第六幕(未知なる聖処) 砕け散った誇り 無名遺跡(下層/戦闘後) 往時のさざ波 趙鑫 無名遺跡(上層/戦闘前)層岩巨淵・地下鉱区(中層) 疾うに消えたもの 無名遺跡(上層/戦闘後)層岩巨淵・地下鉱区(中層) 幽邃怪奇の道 苑迪萌 蛍光隘路(戦闘前) 怪夢に酔いしれる処 蛍光隘路(戦闘後) 地核に隠されし秘宝 陳致逸 層岩巨淵・地下鉱区(下層/"寒天の釘") Disc 3 - 戦いの響音 Battles of the Chasm 猛然たる風雷 姜以君 戦闘/魔神任務・間章・第二幕伝説任務・懸壺の章(白朮)伝説任務・閑鶴の章(閑雲) 武者震い 戦闘/臨時本坑巨淵主鉱区巨蛇岩穴地下湿原嶮しき石堂(層岩巨淵・地下鉱区)秘境(山間幽谷) 湧き立つ敵意 丁謙 戦闘/無名遺跡(下層)魔神任務・第三章・第六幕(未知なる聖処) 闘争の暗流 趙鑫 戦闘/無名遺跡(上層)層岩巨淵・地下鉱区(中層) 危機迫る 苑迪萌 戦闘/蛍光隘路 白熱する接戦 陳致逸 戦闘/層岩巨淵・地下鉱区(下層/"寒天の釘") 「原神-真珠の歌 Vol. 2 The Shimmering Voyage Vol. 2」収録曲 Disc 1 - 幻世の浮生 A Vagrant Breeze 羽を広げる白鷺 陳致逸 伝説任務・雪鶴の章(神里綾華)第一幕 妙策急襲 陳致逸 何迦徳 魔神任務・第二章・第二幕 雷霆の判決 陳致逸 丁謙 裁決や如何に...? 予期せぬ陰謀 魔神任務・第二章・第三幕 危険な予感 虚栄心の凋落 勝利に向けて 陳致逸苑迪萌 丁謙 轟く疾雷 陳致逸 丁謙 苦渋の凱旋 何迦徳 殊勝な身分 丁謙 伝説任務・天下人の章(雷電将軍)第一幕 ひらめきの時 何迦徳 伝説任務・睡竜の章(珊瑚宮心海)第一幕 もう一つの旅路 丁謙 伝説任務・謎境一騎・第三幕 急転直下 陳致逸 伝説任務・白雪に潜みし影・第二幕 晶明なる怒り 分断されし運命 救い主の登場 陳致逸 丁謙趙鑫 伝説任務・天ノ牛の章(荒瀧一斗)第一幕 愛別離苦 陳致逸 青天白日 陳致逸 丁謙 色褪せていく旧話 苑迪萌 三界道饗祭 泡沫の永遠 気鬱な姿 姜以君 モンドの午夜 陳致逸 モンド城(夜間) Disc 2 - 群島奇想曲 Fantasia of the Isles 黄昏の歌 姜以君 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第四幕 暮景に心を馳せて·1 暮景に心を馳せて·2 聖眷の浄土 趙鑫 飛びし鳥の皇庭 苑迪萌 幽星の独り言 丁謙 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第五幕 烈炎の明光 陳致逸姜以君 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第三幕 烈火轟雷 夏の夜の幻想 姜以君陳致逸 姜以君 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第四幕 Disc 3 - 波瀾曲折 A Turbulent Peregrination ご覧あれ 陳致逸 伝説任務・韶光撫月・第二幕 縞鶴懐霜 陳致逸苑迪萌 丁謙 魔神任務・間章・第一幕 雷霆猛震 丁謙陳致逸 伝説任務・天下人の章(雷電将軍)第二幕 永遠の脈絡 神子の奇想 苑迪萌 伝説任務・仙狐の章(八重神子)第一幕 再臨する国土 丁謙陳致逸 丁謙 世界任務・瞑海の霧追い・後日談 未だ滅びぬ光 丁謙 破裂した剣 姜以君 魔神任務・第二章・第四幕 叶わぬ志 丁謙 風に吹かれし常緑 丁謙苑迪萌 丁謙 伝説任務・神守柏の章(神里綾人)第一幕 光華容彩 苑迪萌 伝説任務・華彩紫庭真説・第一幕伝説任務・華彩紫庭真説・第二幕伝説任務・華彩紫庭真説・第三幕伝説任務・華彩紫庭真説・第四幕 一か八か 丁謙 魔神任務・間章・第二幕 予期せぬ怪事 命の綱渡り 苑迪萌陳致逸 姜以君 夜叉の追想 苑迪萌 丁謙 知るは易く行うは難し 姜以君 伝説任務・幽客の章(夜蘭)第一幕 一念一心 丁謙 伝説任務・紅葉の章(楓原万葉)第一幕 激動の前奏 丁謙苑迪萌 丁謙 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第二幕 華夢の組曲 姜以君苑迪萌 姜以君 伝説任務・サマータイムオデッセイ・第二幕伝説任務・サマータイムオデッセイ・第三幕伝説任務・サマータイムオデッセイ・第四幕伝説任務・サマータイムオデッセイ・第五幕 終わりなき挑戦 陳致逸丁謙 魔神任務・第二章・第三幕 照り輝く星々 苑迪萌 ゲーム内未使用(TGA2021 受賞PV) 浮世の波 姜以君陳致逸 姜以君 ゲーム内未使用(ストーリーPV) 羽ばたく時 苑迪萌陳致逸丁謙 苑迪萌丁謙 ゲーム内未使用(ストーリーPV「雪晴れに綻ぶ椿」) 焚燼の弔辞 陳致逸 丁謙 ゲーム内未使用(『テイワット』メインストーリー幕間PV-「冬夜の戯劇」) 無垢の歌 陳致逸 ゲーム内未使用(稲妻OST2.0霧海紀行イメージソング「無垢の歌」) 「原神-流星の軌跡 Footprints of the Traveler」収録曲 迫る客星 陳致逸苑迪萌 苑迪萌 Ver.1.1公式PV「迫る客星」 白亜と黒龍 陳致逸 Ver.1.2公式PV「白亜と黒龍」 明霄、海に昇りて 苑迪萌何迦徳 Ver.1.3公式PV「明霄、海に昇りて」 風花の招待 苑迪萌 Ver.1.4公式PV「風花の招待」 塵歌を纏いし扉 陳致逸苑迪萌 Ver.1.5公式PV「塵歌を纏いし扉」 真夏!島?大冒険! 苑迪萌陳致逸 Ver.1.6公式PV「真夏!島?大冒険!」 鳴神不動、泡影を滅す 陳致逸苑迪萌 Ver.2.0公式PV「鳴神不動、泡影を滅す」 韶光撫月の浮世 陳致逸趙鑫 趙鑫 Ver.2.1公式PV「韶光撫月の浮世」 霧の海と謎の秘境 趙鑫 Ver.2.2公式PV「霧の海と謎の秘境」 白雪に潜みし影 陳致逸姜以君 姜以君 Ver.2.3公式PV「白雪に潜みし影」 流るる星霜、華咲きて 陳致逸苑迪萌姜以君趙鑫 Ver.2.4公式PV「流るる星霜、華咲きて」 薄櫻が綻ぶ時 苑迪萌姜以君 Ver.2.5公式PV「薄櫻が綻ぶ時」 そよ風、紫苑の庭を偲ぶ Ver.2.6公式PV「そよ風、紫苑の庭を偲ぶ」 虞淵に隠されし夢魘 姜以君趙鑫 Ver.2.7公式PV「虞淵に隠されし夢魘」 常夏!幻夜?奇想曲! 姜以君丁謙 Ver.2.8公式PV「常夏!幻夜?奇想曲!」 「原神-ジュニャーナとヴィディヤーの森 Forest of Jnana and Vidya」収録曲 Disc 1 - 緑に囲まれた住処 Dwelling Where Everlasting Spring Abides スメール 陳致逸 花と樹の旋舞 スメールシティ 2022年268位 揺らめく木々の影 いつかの知恵、いつかの願い 常緑の願い 夕暮れの笑顔と嘆き 夜に香る、森の露 仙樹の思いと祈り 教令院 眠りの光 スメールシティ 星降る夜の静寂 教令院(夜間) 暁を告げる慧光 スメールシティ 歓談の響きは悠々と ランバド酒場 真理への回帰 知恵の殿堂 賑やかな港 オルモス港(昼間) 第16回878位 港の夜の憩い オルモス港(夜間) 街の喧噪 オルモス港 色褪せる夜 緑の囲う村 ヴィマラ村(昼間) 深い緑のベッドタイム・ストーリー ヴィマラ村(夜間) 灼熱の前哨 キャラバン宿駅(昼間) 動かぬ恭默 キャラバン宿駅(夜間) リバトに集いし砂 キャラバン宿駅 警戒の眼差し キャラバン宿駅(夜間) 遥かな密林 キャラバン宿駅 生い茂る草木のざわめき アビディアの森 そぞろ歩きは晴れやかに 揺れる波影を追う 柔らかな風、なびく草 けだるいひととき スメールの月夜 アビディアの森(夜間) 気ままな漫遊 スメールシティ 安らかに眠る森林 翠、和らかに芽ざす スメールシティ(夜間) 若木に響く聖歌 スメールシティ Disc 2 - 深林、せせらぎと秘めごと Woods, Rivers and Mysteries ヴァルナの慈悲 陳致逸 アシャヴァンレルム 密林巡行 慈しむ煙林 姜以君 露の滴る森林の朝 趙鑫 アシャヴァンレルム(昼間) 流れる夜の思い 姜以君 アシャヴァンレルム(夜間) 暮林の賛美歌 趙鑫 アシャヴァンレルム 小川のせせらぎ 苑迪萌 アシャヴァンレルム(夜間) 空虚なこだま 陳致逸 アルダラビ河谷 森に彷徨う 定められし幽谷 趙鑫 アルダラビ河谷(夜間) ツルに隠された哀しみ アルダラビ河谷(昼間) 夜明けの余韻 アルダラビ河谷 涼風の小憩 姜以君 ヴィマラ村 夜星が囁く時 ヴィマラ村(夜間) 遥か想う アルダラビ河谷 谷をゆく風 丁謙 白き木々の追憶 旧き夢は風と去る 清澄な夜 姜以君 夢の樹 寂寞録 陳致逸 アルダラビ河谷 記憶の余韻 苑迪萌 ダーリの遺事 デーヴァーンタカ山 封じられた過去 丁謙 アルダラビ河谷 閑かな夜に思い馳せて 苑迪萌 孤独な星のあこがれ アルダラビ河谷(夜間) 隠された光の足跡 陳致逸 遺跡巨像 残存する戒め 丁謙 アルダラビ河谷 星月の小径 陳致逸 ローカパーラ密林 蛍ちらり 丁謙 唸る月光 劫が晴らす煩悩 魔神任務・第三章・第一幕 輝く新芽のメロディー 陳致逸 ヴァナラーナ 夢想を逆転せしメロディー 陳致逸 趙鑫 夜明けの初露のメロディー 丁謙 生命の谷のメロディー 姜以君 大夢の集うメロディー 陳致逸 緑灯る庭のメロディー 陳致逸 趙鑫 幼緑の萌えるメロディー 丁謙 広がる緑地のメロディー 姜以君 Disc 3 - 死生流転真如 Eternal Antagonism Between Life and Death ねっこ、カタコト 陳致逸 夢の樹 ロストメロディー 姜以君 遥かなる記憶 丁謙 ゆれるささやき 苑迪萌 忘却の地のままに 陳致逸 アシャヴァンレルム 説はんと欲して還た休む 趙鑫 迷い道を抜けて 実りなき探索 遺跡巨像 荒れ果てた旧土 名もなき歳月 陳致逸 失われた苗畑 塵と涙 趙鑫 死の土地を行く 姜以君 遺跡巨像 空虚な響き 不穏の影 消えゆく光 趙鑫 声なき大地 生のない場所 苑迪萌 死域 余燼の抵抗 戦闘(死域) 息ができない 丁謙 死域 悪意は重く 戦闘(死域) 失夢之地 姜以君 戦闘(世界任務・森林書・第三章/マラーナの化身戦) 褪せた厄災 ともしびの消える前に Disc 4 - スメール戦闘編 Battles of Sumeru 渦巻く激流 陳致逸 戦闘(スメール)秘境(スメール) 2022年168位 谷間の韻律 疾駆流金 揺れる森 戦闘/フィールドBOSS(スメール) 「原神-輝く星々 Vol. 3 The Stellar Moments Vol. 3」収録曲 腕の見せ所 陳致逸趙鑫 趙鑫 キャラクター実戦紹介 荒瀧一斗 俺様に注目だぁ! 陳致逸姜以君 姜以君 エピソード 荒瀧一斗 犬将計略 丁謙 キャラクター実戦紹介 ゴロー 霞裳飄々 陳致逸 姜以君 テイワットスタイル・コスチュームPV 「彩を纏い、なびく御衣」 白き羽根を隠して 苑迪萌 エピソード 申鶴 清唳の響き キャラクター実戦紹介 申鶴 快意なる新章 趙鑫 キャラクター実戦紹介 雲菫 神通変化 苑迪萌 姜以君 エピソード 八重神子 天狐の幻術 趙鑫苑迪萌 趙鑫 キャラクター実戦紹介 八重神子 秘めたる思い 苑迪萌丁謙 趙鑫丁謙 エピソード 神里綾人 流水盈盈 苑迪萌 キャラクター実戦紹介 神里綾人 疎にして失わず 趙鑫苑迪萌 苑迪萌 エピソード 夜蘭 慈雨の麗姿 キャラクター実戦紹介 夜蘭 疾霆才捷 姜以君 キャラクター実戦紹介 久岐忍 疾風追跡 趙鑫 キャラクター実戦紹介 鹿野院平蔵 遥夜のラグジュアリー 陳致逸姜以君 姜以君 テイワットスタイル・コスチュームPV 「夜の帳はシルエットを映し出す」 アビディアを巡る風 陳致逸 趙鑫 キャラクター実戦紹介 ティナリ 移り気な葉っぱたち 趙鑫 キャラクター実戦紹介 コレイ 毎度ありですわ! 姜以君 キャラクター実戦紹介 ドリー 九弓の絃楽 趙鑫 エピソード セノ 緘秘の戒律 キャラクター実戦紹介 セノ 赤砂の賜玉 キャラクター実戦紹介 キャンディス 七域の蓮華 陳致逸 尤裴佳 キャラクター実戦紹介 ニィロウ 今宵、星の旅路へ 尤裴佳 キャラクター実戦紹介 レイラ 深き夢の祝福 陳致逸 丁謙趙鑫 エピソード ナヒーダ スラサタンナ幻想曲 陳致逸 陳致逸姜以君 キャラクター実戦紹介 ナヒーダ 「原神-流変の砂、さやさやと The Unfathomable Sand Dunes」収録曲 Disc 1 - 風砂の追憶 Sandstorm Remembrances ソルシュの歌 丁謙 甘露花海 霊光の響き 花と木の娘たち 姜以君 女主人の言いつけ 神鳥の棲む処 尤裴佳 バルソムの丘(昼間) 花蕊は幾千もの夢をみる バルソムの丘(夜間) 生きとし生けるものへ 趙鑫 バルソムの丘(昼間) 無憂夢 バルソムの丘(夜間) オアシスの蜃気楼 尤裴佳 蒼漠の囿土(昼間) 孤独な旅路 苑迪萌 迷い子の嘆き 趙鑫 分かたれた道 姜以君 砂丘に差す暁光 蠍の舞踏 荒漠と三日月 蒼漠の囿土(夜間) 千夜に忘れられた宝玉 陳子敏 荒原に響く虫の音 尤裴佳 花海の夢 趙鑫 月明かりの祝福 陳子敏 浪客の憩い 苑迪萌 深秘窮境 トゥニギの黒淵 荒廃の兆し 姜以君 孤独な深淵 陳子敏 いばらが囲む地 アシパトラ・ヴァナの沼 廃墟に潜む影 車子玉 アル・ヌハスの都 呪われた沼地 尤裴佳 地を這う毒虫 姜以君 ドゥル・カルナイン峠(地下) 遥かな夢の朽ち果てる場所 陳子敏 青々しき夢 陳致逸 「永遠のオアシス」 彼女の熱望 虚しい未来図 旧楽園 丁謙 砂煙 ダマーヴァンド山 砂纏う肌 陳致逸 Spice Road 姜以君 千尋の砂漠(昼間) 失われた国々 尤裴佳 金色に輝く旅 劉越 砂の大海原 趙鑫 砂海のララバイ 千尋の砂漠(夜間) 色褪せた慕情 丁謙 ジュラバドの思い出 ほら、猟鷹が巣に帰る。 帰るべき居場所 姜以君 千尋の砂漠(夜間・地下) 蛇と蠍は眠らない 陳致逸 蕭やかな殿堂 姜以君 千尋の砂漠(昼間) 失われた哀歌 千尋の砂漠(地下) 赤砂の思慕 丁謙 毒虫の巣穴 陳致逸 古都のささやき 砂に埋もれた秘密 千尋の砂漠(昼間・地下) オアシスの金盃 タニット露営地(昼間) 纏いつく流砂 タニット露営地(夜間) Disc 2 - 砂海に離散する民 Desert Exodus ガーディアンの想い 苑迪萌丁謙 アアル村(昼間) 静謐の風 丁謙 アアル村(夜間) 砂民の心安らぐ地 姜以君丁謙 丁謙 アアル村(昼間) 遥かな夢を銘す 姜以君 アアル村(夜間) 千代に受け継ぐ願い アアル村 村長の家 残光は灼らかに燃えて 趙鑫 列柱砂原捨身の坑 とどまる余威 今に触れ、昔を偲ぶ 思い出は遥か 姜以君 旧壁への追慕 丁謙 闇に隠された地 秘密の行方 失われた旧宴 沈む誓い ネチェルイリケトの階段 天燃やす輝舟 姜以君 赤砂の眼 苑迪萌 聖顕殿 空想の終わり 姜以君 消えゆく終末 遠ざかる響き 七栄の廟殿 趙鑫 忠言を聞く刻 砂のエメラルド 苑迪萌 ソベクオアシス(昼間) 遥方楽土 ターコイズの小夜曲 姜以君 ソベクオアシス(夜間) 永世の甘き夢 漠々と惑う 趙鑫 上風蝕地 砂塵の痕跡をなぞって 涙枯れ果てる地へ 渇水の峡谷 姜以君 寂しき砂道 趙鑫 上風蝕地(昼間) 重なる苦境 苑迪萌 やがて月明かりへ 上風蝕地(夜間) 星霜の余韻 趙鑫 残されし砂塵 列柱砂原(昼間)下風蝕地(昼間) 邃古の憂愁 碧落の陽炎 果てなき砂 荒砂に灼風 姜以君 砂漠を越えて 孤独な夜をゆく 趙鑫 列柱砂原(夜間)下風蝕地(夜間) 砂と月のうた 乾いた夜風 星月寂寞 列柱砂原(夜間・地下)下風蝕地(夜間・地下)上風蝕地(地下) 思考の余韻 列柱砂原(地下)下風蝕地(地下)上風蝕地(地下) 底見えぬ峡谷 絶境の危機 信念を継ぐ者 陳致逸 スラサタンナ聖処 Disc 3 - スメール戦闘編2 Battles of Sumeru 2 砂金の赫怒 苑迪萌 戦闘(スメール・大赤砂海) ばらばらになった星たち 姜以君 シャムシールの舞 陳致逸 第16回420位 赭泉の舞 六輪一露の狂詩曲 陳致逸 陳子敏尤裴佳 征討領域・浄瑠璃工房(七葉寂照秘密主戦/前半)詞:項柳 五相常寂 陳致逸 魔神任務・第三章・第五幕 三千娑界の御詠歌 陳致逸 陳致逸姜以君 征討領域・浄瑠璃工房(七葉寂照秘密主戦/後半)詞:項柳 第16回596位2022年300位 神喰らう巨蛇の乱舞 姜以君 征討領域・原初の郷(アペプのオアシス守護者戦) 2023年204位 「原神-流星の軌跡 Vol. 2 Footprints of the Traveler Vol. 2」収録曲 黎明を告げる千の薔薇 陳致逸姜以君 姜以君 Ver.3.0公式PV「黎明を告げる千の薔薇」 赤砂の王と三人の巡礼者 姜以君陳致逸 Ver.3.1公式PV「赤砂の王と三人の巡礼者」 虚空の鼓動、熾盛の劫火 Ver.3.2公式PV「虚空の鼓動、熾盛の劫火」 六処解悟、諸相空無 姜以君陳子敏陳致逸尤裴佳 Ver.3.3公式PV「六処解悟、諸相空無」 織りなす調べ、華更けて 尤裴佳陳致逸姜以君趙鑫 尤裴佳 Ver.3.4公式PV「織りなす調べ、華更けて」 風花の吐息 尤裴佳姜以君趙鑫陳致逸 Ver.3.5公式PV「風花の吐息」 盛典と慧業 王予曦姜以君丁謙車子玉陳子敏 王予曦 Ver.3.6公式PV「盛典と慧業」 決闘!召喚の頂! 尤裴佳趙鑫苑迪萌 尤裴佳 Ver.3.7公式PV「決闘!召喚の頂!」 涼夏!楽園?大秘境! 王予曦苑迪萌陳致逸陳子敏 王予曦 Ver.3.8公式PV「涼夏!楽園?大秘境!」 「原神-真珠の歌 Vol. 3 The Shimmering Voyage Vol. 3」収録曲 Disc 1 - 歓喜、あるいは流れる夢の蜃気楼 La liesse, ou le fluide mirage des songes ワクワクライド 苑迪萌 びゅんびゅん爆速車 びゅんびゅん爆速車、出発! 陳子敏 バザールは大盛況 銀瓶の庭(昼間) 市場をぶらついて 丁謙 寝静まった夜 車子玉 銀瓶の庭(夜間) 夕夜綺想 丁謙 歓喜の凱旋 陳子敏 隠者の遊園 ゆかいなマーチ 車子玉 心にかなう小唄 尤裴佳 気ままなさえずり 姜以君 ブラッククリスタルの航海 趙鑫 祈者の劇場 森然たる幻想劇 ヴェルーリヤ・ミラージュ(昼間) 蜃気楼の夢 ヴェルーリヤ・ミラージュ(夜間) 色褪せた想い 姜以君 祈者の劇場(昼間) 優しき祈り アストラルチャイム 王予曦 祈者の劇場(夜間) けがれなき夢は儚く 苑迪萌 月露の旅 フクロウの夜想曲 尤裴佳 祈者の劇場 アフラシアブの塔 姜以君 彼方を描いて 車子玉 蔓生の渓谷 遠い空の情景 峻嶮の時 趙鑫 伝説任務・フェネックの章(ティナリ)第一幕 白い枝の夢 陳致逸 夢の樹 法楽を求む者 姜以君 そよ風に吹かれて 陳致逸 キャッツテール 杏林に憇う 王予曦丁謙 王予曦 不卜廬 ほろ酔いの詩 苑迪萌 キャッツテール Disc 2 - 俗世諸相 Tathya-Samvrti ウツァヴのメロディー 陳致逸 丁謙 「ウツァヴ祭」 赤砂の護り 姜以君 魔神任務・第三章・第一幕 花と夢の祝福 陳致逸 姜以君 魔神任務・第三章・第二幕 災禍の音 陳致逸趙鑫 趙鑫 魔神任務・第三章・第一幕 兇変の律動 陳致逸 叶わぬ願い 丁謙 伝説任務・フェネックの章(ティナリ)第一幕 風変わりな歓迎 魔神任務・第三章・第三幕 花鏡百韻 劫末の刻 陳致逸趙鑫 趙鑫 牙研ぎ 姜以君 崩れゆく熱砂 魔神任務・第三章・第四幕 ささめく帰風 陳致逸趙鑫 趙鑫 伝説任務・杯の中のバラッド・第三幕 七栄の継承者 姜以君 伝説任務・金狼の章(セノ)第一幕 通じ合う二人 丁謙 伝説任務・睡蓮の章(ニィロウ)第一幕 指先が綴る言葉 丁謙 陳子敏 魔神任務・第三章・第五幕 蓮光に溺れて 陳致逸姜以君 姜以君 三時三覚 丁謙陳致逸 陳子敏劉越 一空一切空 丁謙陳致逸 劉越 幽玄有心 丁謙陳致逸姜以君 趙鑫 魔神任務・間章・第三幕 秋津の思ひ出 陳子敏 伝説任務・秋津ノ夜森肝試し大会・第二幕伝説任務・秋津ノ夜森肝試し大会・第三幕 桃枝火鱗 陳致逸丁謙 丁謙姜以君 伝説任務・華舞う夜の旋律・第二幕 寒木春花 丁謙 その名は、ハイブ 陳子敏 伝説任務・隼の章(アルハイゼン)第一幕 遼遠のセレナーデ 劉越 魔神任務・第三章・第六幕 閉鎖的災異 風を憶え、月に想う 陳子敏陳致逸 陳子敏 伝説任務・杯の中のバラッド・第三幕 煌めく旅路 苑迪萌 伝説任務・マンティコアの章(ディシア)第一幕 ほのおの残暉 丁謙 伝説任務・知恵の主の章(ナヒーダ)第一幕 白草の悟り 劉越 春の脈動 丁謙 王予曦 伝説任務・懸壺の章(白朮)第一幕 摂理の栄冠 陳子敏尤裴佳陳致逸姜以君趙鑫 尤裴佳 伝説任務・盛典と慧業・第三幕 偲び、ため息 陳子敏王予曦 王予曦 伝説任務・決闘!召喚の頂!・第四ラウンド 共に星々を追いかけて 王予曦苑迪萌 伝説任務・琉金の章(宵宮)第二幕 清き水晶の夢 王予曦 伝説任務・涼夏!楽園?大秘境!・第三幕 Disc 3 - 夢想の逸話 Anecdotes of Reverie 諸相追憶 陳致逸姜以君 姜以君 ゲーム内未使用(スメール実装ゲームプレイ トレーラー|Gamescom 2022) 召喚王の決意 陳致逸 ゲーム内未使用(新コンテンツ予告PV「七聖召喚を一戦やろう!」) 千景巡礼の歌 陳致逸尤裴佳 尤裴佳 ゲーム内未使用(TGA2022 エントリーPV) 三千娑界の御詠歌(ライブ編集版) 陳致逸 陳致逸姜以君 ゲーム内未使用(スメールOST2.0宣伝MV「三千娑界の御詠歌-ライブ編集版」) 孤谷白駒 丁謙 ゲーム内未使用(ストーリーPV「諸苦無隙」) フィナーレへの歓宴 苑迪萌陳致逸 苑迪萌 ゲーム内未使用(序曲PV「フィナーレへの歓宴」) 「原神-白露澄明の泉 Fountain of Belleau」収録曲 Disc 1 - 律令の頌歌 Chanson of Justice and Impartiality フォンテーヌ 苑迪萌 夕暮れの想い フォンテーヌ廷(夕方) 衆の水の詩 フォンテーヌ廷(昼間) 調和と繁栄の都 姜以君 悠々たる歳月 丁謙 蒼水晶の行歌 陳子敏 花朝月夕 苑迪萌 フォンテーヌ廷(夜間) 星灯りに染まる街 姜以君 夢の中の囁き 陳子敏 優雅でのどかな夜 車子玉 朝の光が初めて映る時 苑迪萌 フォンテーヌ廷(朝方) スペクタクルの宴 趙鑫 ホテル・ドゥボール 諸律のハルモニア 陳子敏 パレ・メルモニア 霧雨が煙る理由 苑迪萌 フォンテーヌ(雨) 隠伏の河 尤裴佳 フォンテーヌ廷・サーンドル河 歓びを求めし追放者 ロマリタイムの想い 趙鑫 ロマリタイムハーバー(昼間) ナビゲーターの憩い ロマリタイムハーバー(夜間) ルキナに映りて 苑迪萌 ルキナの泉(昼間) 微かな月影 ルキナの泉(夜間) 清泉の礼賛 尤裴佳 ルキナの泉(昼間) 万水が集う地 丁謙 暮夜の柔光 陳子敏 ルキナの泉(夜間) 終わらぬ盛典 エピクレシス歌劇場 諭示裁定の刻 丁謙 魔神任務・第四章・第一幕魔神任務・第四章・第二幕 隠れし深奧を求めて 趙鑫 魔神任務・第四章・第二幕魔神任務・第四章・第三幕魔神任務・第四章・第四幕 傾危の判詞 姜以君 魔神任務・第四章・第一幕魔神任務・第四章・第二幕 演繹と演繹法 魔神任務・第四章・第一幕 かの時の証言 丁謙 魔神任務・第四章・第一幕魔神任務・第四章・第三幕 その者の名は既知である! 陳子敏陳致逸 陳子敏 魔神任務・第四章・第一幕 小暗がりの炉火 陳致逸 陳子敏 魔神任務・第四章・第一幕魔神任務・第四章・第三幕魔神任務・第四章・第四幕 Disc 2 - 栄光のアリオーソ Arioso of Belle Epoque 棘薔薇の詩律 尤裴佳 ポワソン町 ポワソンの夕暮れ 穏やかな止水 姜以君 「真の安眠の地」 あたたかな風を眺めて 尤裴佳 巡水船 揺らめく波 趙鑫 水の色を巡りて 陳子敏 生い茂る木陰の原を訪ねて 姜以君 ブロー地区(昼間)ベリル地区(昼間)フォンテーヌ廷地区(昼間)フォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区(昼間)リフィー地区(昼間) 青色の響き ブロー地区(昼間)ベリル地区(昼間)フォンテーヌ廷地区(昼間) かさかさと鳴る松の林 涓々たる水の流れ 陳子敏 雲雀の目覚め 柔風の喜願 苑迪萌 軽やかなさざ波のリズム 遥かなる旅の希望 丁謙 四季の優遊 姜以君 かつての花言葉 暁がまた昇れば 趙鑫 ブロー地区(夜間)ベリル地区(夜間)フォンテーヌ廷地区(夜間) 潺々たる寒流 丁謙 夜半に滴る雫 何処へ行く 魔神任務・第四章・第二幕 雨月の晩祷 陳子敏 ブロー地区(夜間)ベリル地区(夜間)フォンテーヌ廷地区(夜間) 遥か彼方の寒星 白き泉の暮景 水を追う浮萍 徹夜の詩編 薄暮に映る星々 苑迪萌 狡猾な計略 姜以君 伝説任務・黒斑猫の章(リネ)第一幕 何故この瞬間に踏み止まる 水仙のお茶会 苑迪萌 鏡の中の夢 水仙十字結社 Disc 3 - 幽泉淙々の歌 Chapelloise of Trickling Springs 海の泡沫が上げる歓声 車子玉 メリュシー村 奇抜なささやき メリュシー村(水中) 淵水の失われた都 フォンテーヌ(水中)自然哲学学院 間隙を縫う流光 劉越 隠れし旧夢 車子玉 穏やかな海原 フォンテーヌ(水中) 深潭の流れに身を任せて たとえ歳月が流転しても あらゆる水の誓い 悠々と波を追う 姜以君 滄波の追想 沈思黙考 王予曦 水中の花影 沈んだ残痕 陳子敏 深潮暗流の刻 車子玉 追憶の地にて安眠を 安眠の地塵歌壺(フォンテーヌ) 往時の花に零れ落ちる 金色に輝く夕暮れ 尤裴佳 自然哲学学院安眠の地 色褪せる若き日 安眠の地 万古の余韻 車子玉 「とてもあったかい場所」 旧日の影を越えて 出会えてうれしい あらゆる水の終わりまで 丁謙 奇妙な前兆の残響 エリナス 終焉の啓示 車子玉 ???(世界任務・カノティラと啓示の書) 熔炎の残燼 鉄甲熔炎帝王の玉座 斑々たる泉の跡 姜以君 「さみしい場所」「とても明るい場所」 深眠幽静の谷 影の重なる幽かな小道 妄執の道 魔神任務・第四章・第二幕 薄暗い深罪 尤裴佳 魔神任務・第四章・第二幕魔神任務・第四章・第四幕 Disc 4 - フォンテーヌ戦記 La bataille de Fontaine 花と剣の輪舞 苑迪萌 戦闘(フォンテーヌ)秘境(フォンテーヌ) 2023年390位 嘆きと凱旋 丁謙 2023年168位アプリ73位 波砕きの舞い 姜以君 コッペリアの暁歌 陳子敏 王予曦 戦闘(氷風組曲・「コッペリアの葬送」) コペリウスの辞別 陳子敏 戦闘(氷風組曲・「コペリウスの劫罰」) 「原神-さざ波 La vaguelette」収録曲 さざ波 苑迪萌 伝説任務・頌歌者の章(フリーナ)第一幕詞:哈尼、項柳、三宝歌:Cécilia Cara 2023年483位 さざ波 (伴奏ver.) 「原神-輝く星々 Vol. 4 The Stellar Moments Vol. 4」収録曲 九徹の先見 陳致逸趙鑫 趙鑫 キャラクター実戦紹介 放浪者 無余灰断 丁謙陳子敏 陳子敏 エピソード 放浪者 旋藍の舞 尤裴佳 キャラクター実戦紹介 ファルザン 妙浄の心 車子玉 テイワットスタイル・コスチュームPV 「本を閉じ、花を寄せる」 玉花映芯 姜以君 キャラクター実戦紹介 ヨォーヨ 封じられし世の理 苑迪萌 エピソード アルハイゼン 千載の時を継ぐ想い 趙鑫 キャラクター実戦紹介 アルハイゼン 夜明けの輝き 苑迪萌 劉越 エピソード ディシア 灼熱の陽光 姜以君 キャラクター実戦紹介 ディシア 霜晴の風 趙鑫 キャラクター実戦紹介 ミカ 天路遥々 車子玉 キャラクター実戦紹介 カーヴェ 風に吹かれる野草 丁謙 趙鑫 エピソード 白朮 ついに止む雨 姜以君 キャラクター実戦紹介 白朮 暖かな雲と猫の痕跡 趙鑫 キャラクター実戦紹介 綺良々 散らし絹織り 尤裴佳 テイワットスタイル・コスチュームPV「素晴らしき一幕」 虚と実の秘言 陳子敏 エピソード リネ 幻光のトリック 趙鑫 キャラクター実戦紹介 リネ 軽やかに風を追う影 キャラクター実戦紹介 リネット 寒晶の夢 路南 キャラクター実戦紹介 フレミネ 潮音流奏の日 姜以君 エピソード ヌヴィレット 古海が再び湧き上がる時 キャラクター実戦紹介 ヌヴィレット詞:項柳 深海の格律 陳子敏趙鑫 趙鑫 エピソード リオセスリ 霜烈の競争 路南 キャラクター実戦紹介 リオセスリ 真実を求めて 李洋 キャラクター実戦紹介 シャルロット 万民の頌歌 苑迪萌 エピソード フリーナ 旅への誘い キャラクター実戦紹介 フリーナ詞:項柳 「原神-万水の源なる海 Pelagic Primaevality」収録曲 Disc 1 - かの者、衆の水を見守りぬ Les grandes eaux qu'elle avait veillees そよ風と戯れる波 王予曦 ルミドゥースハーバー(昼間) ルミドゥースの憩い ルミドゥースハーバー(夜間) ザ・ラスティ・ラダーで乾杯 陳子敏 ザ・ラスティ・ラダー 枯れ柳の哀愁 王予曦 湖中のウィーピングウィロー 湖はよみがえる 泉の底には エリニュスの根 白き霧 車子玉 霧の幽林道 高い塔の夢 イプシシマスの塔 涙なき魔術 陳子敏 願いの象限記憶の象限 影のベールに包まれて 車子玉 魂の象限人格の象限 水仙の渇き 姜以君 イプシシマスの塔 試練、儀式、規律 懐かしき孤独のメロディー 車子玉 往日の海螺の楽章塵歌壺(フォンテーヌ) 母なる海の慈悲 とある小宇宙のはじまり 旅人よ、杯を掲げよう! 姜以君 魔神任務・第四章・第一幕魔神任務・第四章・第二幕魔神任務・第四章・第三幕 美と薔薇の出会い 尤裴佳 魔神任務・第四章・第一幕 光と影の下で 丁謙 冷たき復讐 魔神任務・第四章・第二幕 ラストチャンス 路南 魔神任務・第四章・第四幕 Les muets 尤裴佳 魔神任務・第四章・第五幕 裏と表 陳子敏 運命の予言 苑迪萌 終幕の序曲 苑迪萌 丁謙 お気に召すまま 苑迪萌 The Last Rose of the Sinner 苑迪萌 王予曦 喝采を、幕が下りる時だ! 記憶の漣 趙鑫 伝説任務・頌歌者の章(フリーナ)第一幕 トルクシーのささやき 丁謙 トルクシーの不思議な冒険・イベント画面 虹色の子守唄 丁謙劉越 劉越 伝説任務・トルクシーの不思議な冒険・下 珊瑚の戴冠式 丁謙 夢の後日談 苑迪萌 水仙十字結社 水仙十字の夜想曲 Disc 2 - 真鍮と鉄のガイヤルド Galliard of Brass and Iron クロックワーク・ワルツ 姜以君 メロピデ要塞 歯車の王国 丁謙 Welcome to the Industry 車子玉 Sting Like a Bee! 路南 水の下の公爵 姜以君 「公爵」の執務室 クリスタルカーテン 車子玉 リフィー地区(水中) 沈む瞑想 声なきクジラの歌 尤裴佳 禁止区域 路南 禁域 鉱滓が築く道 趙鑫 クイセルのクロックワーク工房海蝕の裂け目 得るべきものを求むには 姜以君 探究のリズム 尤裴佳 クイセルのクロックワーク工房 秘した水晶 車子玉 ブラヴェのプレス工房 沈黙の屈折光 姜以君 新たなる希望 車子玉 新フォンテーヌ科学院 間違いの喜劇 姜以君 フォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区 色褪せたアイディル フォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区(昼間)リフィー地区(昼間) 憧憬の共鳴 丁謙 流るる美 姜以君 フルドラの隠れ家 車子玉 白露の名残 陳子敏 ささめく霧 姜以君 フォンテーヌで甘い夢を 丁謙 フォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区(夜間)リフィー地区(夜間) 月夜の潮 車子玉 まどろみに揺蕩う 趙鑫 フローティング・ララバイ 淡き月のジムノペディ 陳子敏 夏の青い夜に 車子玉 中央実験室跡地 真水の雲 王予曦 蒼き眺望 趙鑫 未完成の詩 姜以君 フォンテーヌ運動エネルギー工学科学研究院地区(夜間)リフィー地区(夜間) 暗闇と忘却 中央実験室跡地 長き荒廃の和音 知られざる秘密 尤裴佳 エリニュス山林地区 Disc 3 - 万水の終焉に辿り着くその日まで Ad Consummationem Aquarum 万象が滅びる刻 丁謙 丁謙路南 征討領域・異界の余影(呑星の鯨戦) カタストロフの残影 路南 「原神-芳を浴びる沈玉 Jadeite Redolence」収録曲 Disc 1 - 翹英に魅せられる春風 Enthralled by the Spring Breeze 埠の景色 王予曦 遺瓏埠(昼間) 半ば江風に入り、半ば雲に入る 姜以君 遺瓏埠(夜間) よき麗日 尤裴佳 遺瓏埠(昼間) 月明かりの翠瓏 丁謙 遺瓏埠(夜間) 融風は温もりを帯びゆく 姜以君 翹英荘(昼間) 芳草閑庭 陳子敏 花咲き乱れ、月あかし 苑迪萌 翹英荘(夜間) 錦彩る夢 李洋 悠々たる茶の香り 姜以君 春茶々房 悠久の記憶 丁謙 沈玉の谷(昼間) 山々と仙の言の葉 陳子敏 とめどなき清露 姜以君 暖かな雲、茶摘みの時 王予曦 仙府の隠者 深き春を行き交う人 姜以君 霧の山々 路南 玉の如き頌歌 沈玉の谷(夜間) 静夜の流觴 趙鑫 清き雫の響き 姜以君 竹林と渓谷 王予曦 薬採りの帰り道 陳子敏 曲水の鱗 丁謙 歓談の声 王予曦 ミニゲーム 歓声に包まれる村 趙鑫 幽谷の舟唄 車子玉 筏詞:孫宇 幽谷の舟唄・二 沈玉の谷の漁歌 王予曦 沈玉の谷の漁歌・二 Disc 2 - 霊濛の雲に隠れし翠羽 Clouds Over Lingmeng 王山の遺烈 趙鑫 王山庁 水光に揺らぐ日月 李洋 懸練山(昼間) 夜風に吹かれる景色 懸練山(夜間) 春過ぎて水、天の如し 路南 懸練山(昼間) 雲と永い夢 懸練山(夜間) 玉磬の音 王予曦 赤望台 霧立ちこめる石泉 陳子敏 沈玉の谷(霧) 揺蕩う天光、冴渡る渓影 来歆山(夜間) 雲纏う衣裳、月照す艶姿 李洋 軽やかな舞い 来歆山(昼間) 山深き濃霧 尤裴佳 沈玉の谷(霧) 夕暮れに染まる雲 来歆山(昼間) 霊蘭を枕に耽る玉機 丁謙 薬蝶の谷 壺中の金匱 洞天の伏仙 伏仙洞霊枢の庭 沈瓏の瑶庭 車子玉 錦落の庭 峡谷の冷たき苔 姜以君 沈玉の谷(地下) 松陰の寒き真昼 錦落ち、雲昇る 李洋 世界任務・沈玉の祝福 九霄の雲 伝説任務・閑鶴の章(閑雲)第一幕 瑟と箏には負けぬ 丁謙 散りゆく風、過ぎし日々 心は孤雲、身は野鶴 月と見紛う天の灯 王予曦 伝説任務・春立つ風を梳かす彩鳶・第三幕 粛々と夜を征く者 李洋 濛気 山風と共に 戦闘(山隠れの猊獣) 「原神-燼火 Emberfire」収録曲 燼火 李洋 詞:三宝、項柳歌:希林娜伊・高 燼火 (伴奏ver.) サントラ未収録曲 ゆえなく煙る霧雨のように 尤裴佳苑迪萌趙鑫路南 尤裴佳 Ver.4.0公式PV「ゆえなく煙る霧雨のように」 深海に煌めく星たちへ 尤裴佳路南姜以君 尤裴佳路南 Ver.4.1公式PV「深海に煌めく星たちへ」 罪人の円舞曲 尤裴佳路南苑迪萌李洋 Ver.4.2公式PV「罪人の円舞曲」 薔薇と銃士 李洋尤裴佳陳子敏 李洋 Ver.4.3公式PV「薔薇と銃士」 彩る紙鳶、春梳きて 路南王予曦李洋 路南王予曦 Ver.4.4公式PV「彩る紙鳶、春梳きて」 鋒刃、錦を裁つ 尤裴佳趙鑫 尤裴佳路南 Ver.4.5公式PV「鋒刃、錦を裁つ」 双界に至る炎、熄えゆく赤夜 路南李洋陳致逸 路南李洋 Ver.4.6公式PV「双界に至る炎、熄えゆく赤夜」 召仕の続唱 苑迪萌 伝説任務・浄煉の炎の章(アルレッキーノ)第一幕 終末の赦祷式 苑迪萌 征討領域・ぼろぼろの廃墟(双界の炎の余燼戦) ゲームプレイ トレーラー
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十八史略 漢の太祖劉邦 2009-09-15 17 05 15 | Weblog 西漢 漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。 漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ 鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。 晦冥 2009-09-17 13 43 14 | Weblog 前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。 晦 かい ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち ②くらいこと「-冥」 ③くらますこと「-渋」「韜-」 冥 めい(呉音はミョウ) ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」 ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」 ③奥深いこと「-想」 ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン) ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。 ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり 十八史略 大丈夫當如此矣 2009-09-17 13 49 17 | Weblog 願わくは箕帚の妾と為さん 及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。 單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。 壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。 單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。 壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。 単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。 泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。 単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う 十八史略 劉氏の冠 2009-09-19 08 50 01 | Weblog 劉氏の冠 秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。 秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。 秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。 劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。 厭当 押さえつけて防ぐこと 十八史略 劉季兵を沛に起こす。 2009-09-22 16 57 35 | Weblog 劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。 劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。 十八史略 劉季兵を沛に起こす 2009-09-24 14 40 26 | Weblog 彼岸過ぎての麦の肥 土用過ぎての稲の肥 三十過ぎての男に意見 以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。 では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。 驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。 白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを 剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。 十八史略 法三章のみ 2009-09-26 09 20 40 | Weblog 白文 楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。 訓読文 楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。 通釈 楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。 謂って曰く 方針を発表する 覇上 陜西省にある、覇水のほとり 十八史略 2009-09-29 17 02 48 | Weblog 項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。 項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。 項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。 十八史略 張良と項伯 2009-10-01 17 42 25 | Weblog 羽季父項伯、素善張良。夜馳至沛公軍、告良呼與倶去。良曰、臣從沛公、有急亡不義。入具告、因要伯入見。沛公奉巵酒爲壽、約爲婚姻。曰、吾入關、秋毫不敢有所近。籍吏民、封府庫、而待將軍。所以守關者、備他盗也。願伯具言臣之不敢倍。伯許諾曰、且日不可不蚤自來謝。伯去具以告羽、且曰、人有大功、撃之不義。不如因善遇之。 羽の季父項伯、素より張良と善し。夜馳せて沛公の軍に至り、良に告げ呼んで与に倶に去らんとす。良曰く、臣、沛公に従い、急有って亡(に)ぐるは不義なり、と。入って具(つぶさ)に告げ、因(よ)って伯を要して入り見(まみ)えしむ。沛公巵酒(ししゅ)を奉じて寿を為し、約して婚姻を為す。曰く、吾、関に入って、秋毫も敢えて近づくる所有らず。吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。関を守る所以の者は、他の盗に備うるなり。願わくは伯、具に臣の徳に倍(そむ)かざるを言え、と。伯、許諾して曰く、旦日蚤(はや)く自ら来たって謝せざる可からず、と。伯去って具に以て羽に告げ、且つ曰く、人大功有り、之を撃つは不義なり。因って善く之を遇するに如かず、と。 通釈は次回にしてください。 十八史略 張良と項伯 通釈 2009-10-06 10 26 51 | Weblog 項羽の叔父項伯は、かねてから張良と親しかった。その夜馬を駆って沛公の軍に至り、張良に急を告げて共に逃げるよう勧めた。張良は「私は沛公に臣として従う身、危急が迫ったからと逃げ去るのは道義に反します」と承知せず、帷幕に入り沛公に仔細を告げた。やがて張良は項伯を沛公に会見させた。 沛公は大杯を捧げて項伯の長命を寿ぎ、子の婚姻を約束した。その上で、「自分は関中に入ってからは、毛ほども私欲を近づけたことはございません。役人や民の数を記帳し、庫を封印して項羽将軍をお待ちしておりました。函谷関を閉じていた訳は、よその盗賊に備えていたからです。あなたにどうかお願いします、私が将軍の徳にそむく気持ちの毛頭ないことをお伝えください」と言った。項伯は承知して「明朝早くご自身が謝罪に出向かわなければなりません」と言って覇上を去った。戻った項伯は詳しく項羽に事情を報告し、そして言うには「このように大功ある人を撃つことは道義に反します、篤く対応して心服させるに越したことはありません」と。 秋毫 秋に抜け代わる獣の毛は細いので、ごく僅かなこと。 十八史略 鴻門の会 2009-10-08 08 20 15 | Weblog 鴻門の会 沛公旦從百餘騎、見羽鴻門。謝曰、臣與將軍、戮力而攻秦。將軍戰河北、臣戰河南。不自意、先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有隙。羽曰、此沛公左司馬曹無傷之言。羽留沛公與飮。范數目羽、擧所佩玉玦者三。羽不應。出使項莊入、前爲壽、請以劒舞、因撃沛公。項伯亦抜劒起舞、常以身翼蔽沛公。莊不得撃。張良出告樊噲以事急。 沛公旦(あした)に百余騎を従えて、羽を鴻門に見る。謝して曰く、臣、将軍と力を戮(あわせ)て秦を攻む。将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。自ら意(おも)わざりき、先ず関に入って秦を破り、復将軍に此に見(まみ)ゆるを得んとは。今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と隙有らしむ、と。羽曰く、此れ沛公の左司馬曹無傷の言なり、と。羽、沛公を留めて与に飲む。范数々(しばしば)羽に目もく)し、佩(お) ぶるところの玉玦(ぎょっけつ)を挙ぐるもの三たび。羽、応ぜず。出でて、項荘をして入り、前(すす)んで寿を為し、剣を以って舞わんと請い、因って沛公を撃たしむ。項伯も亦剣を抜いて起って舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。荘、撃つことを得ず。張良出でて樊噲(はんかい)に告ぐるに事の急なるを以てす。 十八史略 鴻門の会 2009-10-10 16 26 21 | Weblog 通釈文 沛公は翌朝、百余騎の部下を従えて鴻門に行って項羽と会見した。先ず謝罪して言うには「私は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦われ、私は河南で戦いました。まさか自分が先に関中に入って秦を滅ぼし、再び将軍とこの地でお会いできるとは思っても見ませんでした。ただつまらぬ者が将軍と私を仲違いさせようとしたようです」と。項羽は「そなたの部下の左司馬、曹無傷から聞いたことだ」と言った。 項羽は沛公を留めて酒盛りをした。席上范はしばしば項羽に目くばせして、腰に佩びていた玉玦(ぎょっけつ)を三度も挙げて決行を促したが、項羽は応じなかった。范は席を外し、項荘を席に入らせて沛公の前に進んで健康を祝し、剣舞を披露したいと申し出て、沛公を撃たせようとした。それを見て項伯もまた剣を抜いて起ち、常に沛公を庇い舞ったので項荘は撃つことができなかった。張良は外に出て、樊噲(はんかい)に事の差し迫っていることを知らせた。 玉玦 玉製の腰につける装飾品、玦は決に通じる。 項荘 項羽の従弟 翼蔽 親鳥が翼でひなをかばうように守る事。 十八史略 樊噲 2009-10-13 09 10 45 | Weblog 樊噲目を瞋(いから)して項羽を視る 噲擁盾直入、瞋目視羽。頭髪上指、目眦盡裂。羽曰、壯士、賜之巵酒則與斗巵酒。賜之彘肩。則生彘肩。噲立飮、抜劒切肉啗之。羽曰、能復飮乎。噲曰、臣死且不避。巵酒安足辭。沛公先破秦入咸陽。勞苦而功高如此、未有封爵之賞。而將軍聽細人之説、欲誅有功之人。此亡秦之續耳。切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲從良坐。 噲、盾を擁して直ちに入り、目を瞋(いから)して羽を視る。頭髪上指(じょうし)し、目眦(まなじり)尽く裂く。羽曰く、壮士なり、之に巵酒(ししゅ)を賜え、と。則ち斗巵酒を与う。之に彘肩(ていけん)を賜えと。則ち生彘肩なり。噲立って飲み、剣を抜き、肉を切って之を啗(くら)う。羽曰く、能(よ)く復た飲むか、と。噲曰く、臣、死すら且つ避けず。巵酒安(いずく)んぞ辞するに足らんや。沛公先づ秦を破って咸陽に入る。労苦して功高きこと此の如くなるに、未だ封爵の賞有らず。而も将軍、細人の説を聴き、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。切(ひそ)かに将軍の為に取らざるなり、と。羽曰く坐せよ、と。噲、良に従って坐す。 十八史略 樊かい 2009-10-15 08 39 15 | Weblog 先ずお詫びを 前回の白文を読み返していたらとんでもないミスを発見しましたので訂正をいたします。 最初の行の終わりから四字目、則の前に句点 。を付けて下さい。次に最終行の、羽曰、坐のあと噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。までが重複していました。 では通釈を・・ 樊噲は盾を抱えたまま宴席に入り、目をつりあげて項羽を睨みつけた。頭髪は天を衝き、まなじりは裂けていた。項羽は壮士なり、大杯を与えよ、と言って一斗の酒を勧めた。項羽はまた豚の肩肉を与えよと言った。それで生の豚肉が出された。樊噲は立ったまま酒を飲み干し、剣を抜き肉をきって食った。項羽がまだ飲めるかと聞くと、樊噲は「私めは死ぬことさえもなんとも思っておりません、一杯の酒ぐらいなんで厭いましょう。恐れながら申し上げます、我が主人は真っ先に秦を破って咸陽に入りました、苦労をして大功をたてられたのに、まだ領地も爵位もありません。それどころか、小人の言葉を取り上げて、手柄のある人を殺そうとしておられます。これでは秦の二の舞でございます。ひそかに将軍のため思うのでございます」と申し上げた。項羽は「まあ坐れ」といった。樊噲は張良の次の席に坐った。 目眦 まなじり 斗巵酒 一斗(約一升)入る酒つぼ 彘肩(ていけん)彘は子豚 十八史略 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 2009-10-20 08 37 18 | Weblog 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。 使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。 須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。 沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。 10/20 間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。 一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。 須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-22 09 10 48 | Weblog 沐猴にして冠す 居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。 居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-24 09 01 59 | Weblog 居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。 十八史略 項羽西楚の覇王となる 2009-10-27 09 20 04 | Weblog 巴・蜀も亦關中の地なり 羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。 羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり 巴蜀も亦関中の地なり 2009-10-29 08 39 32 | Weblog 項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。 十八史略 韓信と漂母 2009-10-31 09 03 45 | Weblog 韓信と漂母 漢元年、五星聚東井。 初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。 漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。 初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。 漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。 それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。 五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。 東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性 韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。 王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200910 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200911/1 十八史略 韓信胯をくぐる 2009-11-03 20 52 39 | Weblog 韓信の胯くぐり 淮陰屠中少年、有侮信者。因衆辱之曰、若雖長大好帶劔、中情怯耳。脳死刺我。不能出我胯下。信熟視之、俛出胯下蒲伏。一市人皆笑信怯。 淮陰の屠中の少年に、信を侮る者有り。衆に因(よ)って之を辱かしめて曰く、若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖(いえど)も、中情は怯なるのみ。能く死せば我を刺せ。能(あた)わずんば我が胯下(こか)を出でよ、と。信、之を熟視し、俛(ふ)して胯下より出でて蒲伏(ほふく)す。一市の人、皆、信が怯(きょう)を笑う。 その後淮陰の場の若者で、韓信を見くびる者があった。仲間が多いのを嵩にかかって、恥をかかそうとこう言った。「お前さん、図体ばかりでかくて、剣なぞぶらさげているが本当は臆病者だろう、なんならこの俺を刺してみろよ、どうだ出来るか、出来なきゃおれの股の下をくぐれ」と。韓信はじっと若者を視ていたが、うつぶして股の下から腹ばい出た。町中の人は、韓信を嘲り笑った。 蒲伏 匍匐に同じ 十八史略 國士無雙Ⅰ 2009-11-05 09 23 33 | Weblog 蕭何、韓信を追う 項梁渡淮、信從之。又數以策干項羽。不用。亡歸漢、爲治粟都尉。數與蕭何話。何奇之。王至南鄭。將士皆謳歌思歸、多道亡。信度、何已數言、王不用。即亡去。何自追之。人曰、丞相何亡。王怒、如失左右手。 項梁淮(わい)を渡るとき、信、之に従う。又しばしば策を以て項羽に干(もと)む。用いられず。亡(に)げて漢に帰(き)し、治粟都尉(ちぞくとい)と為る。数々(しばしば) 蕭何と語る。何、之を奇とす。王、南鄭(なんてい)に至る。将士、皆謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡(に)ぐ。信度(はか)るに、何(か)、已(すで)に数々(しばしば)言いしも、王用いざるなりと。即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡ぐ、と。王怒る、左右の手を失うが如し。 項梁が秦との戦で淮(わい)水を渡る時、韓信は従軍した。又たびたび項羽に献策したが用いられなかった。そこで逃げ出して漢王につき、糧食をつかさどる治粟都尉(ちぞくとい)という官に就いた。しばしば蕭何と語った。蕭何は韓信の非凡を知った。漢王は関中の都南鄭に赴任したが部下の将士たちは故郷をたたえる歌をうたい、帰りたいと多く逃げ去った。韓信は蕭何がたびたび自分を推挙しているのに漢王はとりたててくれないと、たちまち逃げ出した。蕭何は何とか引き止めようと自ら後を追った。ある人が丞相の蕭何までも逃げました、と王に告げた。漢王は怒った、と同時に両腕をもがれたかのように落胆した。 十八史略 国士無双2 2009-11-07 08 42 19 | Weblog 國士無雙2 何來謁。王罵曰、若亡何也。何曰、追韓信。王曰、諸將亡以十數。公無所追。追信詐也。何曰、諸將易得耳。信國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無可與計事者。王曰、吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎。何曰、計必東、能用信。信即留。不然信終亡耳。 何(か)来たり謁す。王罵(ののし)って曰く、若(なんじ)、亡(に)げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追う、と。王曰く、諸将の亡ぐるもの十を数う。公追う所無し。信を追うとは詐(いつわ)りならん、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を爭わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る可き者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ。安(いづ)くんぞ能(よ)く鬱鬱として久しく此(ここ)に居らん乎(や)と。何曰く、必ず東せんと計らば、能く信を用いよ。信即ち留まらん。然(しか)らずんば信終(つい)に亡げんのみ、と。 蕭何が帰って王に謁見すると、王が罵って言うに「お前までにげるとは何事か」と。蕭何は答えて「韓信を追ったのです」と言った。王は「将のにげたものは、何十人と居るのに、今まで一人も追いかけたことがない、なのに韓信だけを追うとは合点がゆかぬ、嘘であろう」と。蕭何は「他の将はいくらでも補充出来ますが、韓信は二人と得られぬ国士です、漢王がいつまでも漢中の王でいたいと思われるならば、韓信を引き留めることに苦心することはありませんが、是非にも天下を争おうとお考えなら、韓信でなければともに大事を計る者は居りません」王は「わしも東に向って、天下を争う心算でいる。だれがこんな所で鬱うつとしておられようか」何は「是非とも東に出ようとのお考えならば、心して韓信を重用することです。そうすれば信はここに留まりましょう、でなければ結局信は逃げてしまいますよ」と言った。 以十數 十の単位で数えることが出来る。つまり ン十人の意。 無所事信 事はコトトスと読み、努め励むこと。全てにレ点がつく。 非信無可與計事者 非②信①無⑧可⑥與③計⑤事④者⑦の順に読む 十八史略 韓信大将軍となる 2009-11-10 08 46 48 | Weblog 全国吟剣詩舞道大会が8日無事終了しました。今年は天気に恵まれ助かりました。 終了後広島の中村さんほかお客様をお迎えして懇親の席を設けました。とても楽しいひと時でしたが、少々しゃべり過ぎました、寡黙堂の看板を返上しなければと考えています。では十八史略のつづきです。 王曰、吾爲公以爲將。何曰、不留也。王曰、以爲大將。何曰、幸甚。王素慢無禮。拝大將如呼小児。此信所以去。乃設壇場、具禮。諸將皆喜、人人自以爲得大將。至拝乃韓信也。一軍皆驚。 王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり。王素(もと)より慢(まん)にして礼無し。大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以(ゆえん)なり、と。乃ち壇場を設け、礼を具(そな)う。諸将皆喜び、人々自から以為(おも)えらく、大将を得んと。拝するに至って乃ち韓信なり。一軍皆驚く。 漢王が言うに「貴公の顔を立てて韓信を将に取り立てよう」と。蕭何は「それでは留まらないでしょう」と答えた。王は「それでは大将にしよう」何は「それは幸いに存じます。ところで大王には平素から人を見下して、礼に欠けるところがございます。大将を任命されるにも子供を呼びつけるようですが、それこそ韓信が逃げ出す理由です」と。そこで王は大将軍任命の式場を設け、威儀を整えた。将軍達は皆喜び、各々自分こそ大将では、と内心思っていた。 いよいよ任命の段になって指名されたのは韓信だったので将軍達をはじめ一同大いに驚いた。 十八史略 韓信三王を滅ぼす 2009-11-12 13 31 04 | Weblog 中野の杉山公園は只今改修中です。残念なのはフェンスにつるを張っていた、テイカカズラと真っ赤な実をつけるヒヨドリジョウゴが抜かれてしまった事です。 王遂用信計、部署諸將、留蕭何、収巴・蜀租、給軍粮食。信引兵從故道出、襲雍王章邯。邯敗死。塞王司馬欣・翟王菫翳皆降。 王遂に信の計を用いて、諸将を部署し、蕭何を留めて巴・蜀の租(そ)を収め、軍の粮食(りょうしょく)を給せしむ。信、兵を引いて故道より出で、雍王章邯(ようおうしょうかん)を襲う。邯敗死す。塞王司馬欣(さいおうしばきん)・翟王菫翳(てきおうとうえい)皆降る 漢王は遂に韓信の計を用い、諸将をそれぞれ配置した。蕭何は関中に留めて、巴・蜀の租税を取り立て、軍の糧食の手当とした。韓信は兵を率いて故道県から打って出て雍王章邯を敗死させた。塞王司馬欣と翟王菫翳はともに降伏した。 雍王章邯・塞王司馬欣・翟王菫翳は秦の降将で漢の地を扼するため項羽が王にした三人(巴・蜀も亦関中なり参照) 十八史略 嗟乎、使平得宰天下 2009-11-17 09 09 50 | Weblog 漢二年、項籍弑義帝於江中。 初陽武人陳平、家貧、好讀書。里中の社、平爲宰、分肉甚均。父老曰、善、陳孺子之爲宰。平曰、嗟乎、使平得宰天下、亦如此肉矣。初事魏王咎、不用。去事項羽、得罪亡。因魏無知求見漢王。拝爲都尉參乘典護軍。 漢の二年、項籍、義帝を江中に弑す。 初め陽武の人陳平、家貧にして、書を読むことを好む。里中の社に、平、宰(さい)と為り、肉を分つこと甚だ均し。父老の曰く、善し、陳孺子の宰たること、と。平曰く、嗟乎(ああ)、平をして天下に宰たるを得しめば、亦此の肉の如くならん、と。 初め魏王咎(きゅう)に事(つか)えて、用いられず。去って項羽に事え、罪を得て亡(に)ぐ。魏無知に因(よ)って漢王に見(まみ)えんことを求む。拝して都尉参乗典護軍と為す。 漢の二年、項籍が義帝を揚子江で殺す。 さかのぼって、陽武の人で陳平というものが居た。家は貧しかったが書を読むのが好きだった。村の社の祭日に陳平が差配して、祭りの後の肉の分配に大変公平だったので、村の老人たちは「まことに善かった。陳君のきりもりは」と言うと、陳平が言うには「ああ、もし私に天下の切り盛りをさせてくれたなら、この肉のように公平に裁いてみせるのに」と。 初め陳平は魏王の咎につかえたが、用いられなかった。去って項羽につかえたが罪を犯して逃げ出した。魏無知の紹介によって漢王に謁見を求めた。漢王は都尉参乗典護軍に任じた。 十八史略 陳平 2009-11-19 09 02 55 | 十八史略 陳平 周勃言於王曰、平雖美如冠玉、其中未必有也。臣聞、平居家盗其嫂、事魏不容、亡歸楚、又不容、亡歸漢。今大王令護軍、受諸將金。願王察之。王讓魏無知。無知曰、臣所言者能也。大王所問者行也。今有尾生・孝己之行、而無成敗之數、大王何暇用之乎。王拝平護軍中尉、盡護諸將。諸將乃不敢復言。 周勃、王に言いて曰く、平は美なること冠玉の如しと雖も、其の中、未だ必ずしも有らざるなり。臣聞く、平、家に居っては其の嫂(あによめ)を盗み、魏に事(つか)えては容れられず、亡(に)げて楚に帰し、又容れられず、亡げて漢に帰すと。今、大王、軍を護(ご)せしめしに、諸将の金を受けたり。願わくは王之を察せよ、と。王、魏無知を讓(せ)む。無知の曰く、臣の言う所の者は能なり。大王の問う所の者は行いなり。今尾生(びせい)・孝己(こうき)の行い有りとも、成敗の数に益無くんば、大王何の暇(いとま)あってか之を用いんや、と。 王、平を護軍中尉に拝し、尽く諸将を護せしむ。諸将乃ち敢えて復言わず。 十八史略 陳平2 2009-11-21 09 48 19 | 十八史略 昨夜早く目覚めたのでNHKラジオをつけたら深夜便の歌が流れた。 いい歌だなーとしみじみ聞き入った、大川栄策の声で題名は「昭和ロマン第二章」と言っていました。 では前回の通釈です。 周勃が王に向って言うには「陳平は風采の立派なことは玉(ぎょく)で飾った冠のようですが、その中身は必ずしも伴っているとは言えません。私の聞くところでは陳平がまだ官につかず家にいるとき、あによめと関係をもち、魏に仕えて用いられず、逃げて楚に身を寄せたが容れられずして、また逃げてわが漢にたどり着いた、ということです。今、大王はこのような人物に軍を監督せられましたから、あやつは諸将から賄賂を受けています。どうかよくよくお考えください」と。そこで王は魏無知を責めた。無知が申すのに「私がお引き合わせしたのは、彼の能力を見ていただきたいのです。大王の問うところは品行のことです。今日、尾生や孝己のような立派な行いがあったとして、天下の帰趨になんらの益もなければ、大王にはどうしてそんな意見を用いられるいとまがおありでしょうか」と。 王は陳平を護軍中尉に任じて、すべて諸将を監督させた。そこでもう陳平のことを言う者が居なくなった。 護 もともと統率する、監督するの意がある。 譲む 譲はゆずる、の意の他に責める意味がある。 尾生 女と橋の下で逢う約束を守って、増水した川でおぼれたばか正直な男。 孝己 一夜に五度も親の安否を気づかったといわれる、殷の高宗の子。 拝 官を授ける、また授かるのどちらにも使う。ここでは前者。 十八詩略 徳に順うものは昌え、逆らうものは亡ぶ 2009-11-24 13 34 36 | 十八史略 大川栄策の昭和ロマン第二章は「昭和浪漫第二章」でした。 漢王至洛陽。新城三老菫公遮説曰、順徳者昌、逆者亡。兵出無名。事故不成。明其爲賊、敵乃可服。項羽無道、放弑其主。天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力。大王宜率三軍之衆、爲之素服、以告諸侯而伐之。於是漢王爲義帝發喪、告諸侯曰、天下共立義帝。今項羽放弑之。寡人悉發關中兵、収三河之士、南浮江漢而下、願從諸侯王、撃楚之弑義帝者。 漢王、洛陽に至る。新城の三老菫公(とうこう)、遮(さえぎ)り説いて曰く、徳に順(したが)うものは昌(さか)え、徳に逆らう者は亡ぶ。兵、出づるに名無し。事、故に成らず。其の賊たるを明かにせば、敵乃ち服す可し。項羽無道にして、其の主を放弑(ほうし)す。天下の賊なり。夫(そ)れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず。大王宜しく三軍の衆を率い、之が為に素服し、以って諸侯に告げて之を伐つべし、と。是に於いて漢王、義帝の為に喪を発し、諸侯に告げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽之を放弑す。寡人悉く関中の兵を発し、三河(さんか)の士を収め、南のかた江漢に浮かんで下り、願わくは諸侯王に従い、楚の義帝を弑(しい)する者を撃たん、と。 十八史略 2009-11-26 08 32 31 | 十八史略 順徳者昌、逆者亡 通釈です 漢王はすでに、洛陽に至った。新城というところの三老の役をしていた菫(とう)なにがしという者が、道を遮り、漢王に説いて言うには「道徳に従って行動する者が栄え、道徳に逆らう者は亡びるものです。兵を出すのに名目が無ければ、事は成就しません。もし相手が逆賊であることを明らかにすれば、敵は屈服するものです。項羽は道徳にそむいて、主君である義帝を追放したうえ殺してしまいました。まさに天下の逆賊です。 そもそも仁を行うには勇は不用です、義を行うには力を必要としません。大王には宜しく三軍の兵を率いて、義帝のために喪服を着て、諸侯に項羽の非道を告げて、これを討伐されるべきです」と。 そこで漢王は義帝のために喪を発して諸侯に告げてこう言った「さきに諸侯相ともに義帝を立てて天子に戴いた。ところが項羽は義帝を追放して、殺してしまった。よって私は関中の兵を出し、河南、河東、河内の兵を集め、南方の江水、漢水を舟で下る、どうか諸侯、私に従って欲しい。義帝を殺した楚の賊を撃ち懲らしたいのだ」と。 三老 官名、その地の長老で教化をつかさどった。 三軍 周代の兵制で天子は六軍、諸侯の大国が三軍を出した。三万七千五百人の兵。 素服 白地の服、喪の時に用いた。 十八史略 2009-11-28 08 42 52 | 十八史略 漢王率五諸侯兵五十六萬、伐楚入彭城、収其寶貨・美人、置酒高會。項羽方撃齊。聞之、自以精兵三萬還撃漢、大破漢軍於睢水上。死者二十萬人。水爲之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起、折木發屋、揚沙石、晝晦。王乃得與數十騎遁。審食其從太公・呂氏行、遇楚軍、爲楚所獲。常置軍中爲質。漢王至滎陽。諸敗軍皆會蕭何亦發關中老弱悉詣滎陽。漢軍復大振。 漢王、五諸侯の兵五十六萬を率い、楚を伐って彭城(ぼうじょう)に入り、其の宝貨・美人を収めて、置酒高会(ちしゅこうかい)す。項羽方(まさ)に齊を撃つ。之を聞き、自ら精兵三万を以(ひき)いて還って漢を撃ち、大いに漢軍を睢水(すいすい)の上(ほとり)に破る。死する者二十万人。水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝(そう)。会ゝ(たまたま)大風、西北より起こり、木を折り屋を発(あば)き、沙石を揚げ、昼晦(くら)し。王乃ち数十騎と遁(のが)るるを得たり。審食其(しんいき) 太公・呂氏に従って間行し、楚軍に遭い、楚の得る所と為る。常に軍中に置いて質(ち)と為す。漢王、滎陽(けいよう)に至る。諸敗軍皆会す。蕭何も亦関中の老弱を発し、悉(ことごと)く滎陽に詣(いた)らしむ。漢軍復た大いに振るう。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200912/2 十八史略 死者二十万人水之が為に流れず 2009-12-01 08 57 02 | Weblog 漢王は、五諸侯の兵五十六萬を率いて楚をうって彭城に攻め入り、宝貨、美人を奪って酒宴を開いた。項羽はちょうど斉を攻めていた時で、急を聞きすぐさま自身で三万の選りすぐった兵を率いて戻り、漢軍を睢水のほとりに大敗させた。死者二十万人、その死体で睢水の流れも止まるほどであった。項羽は彭城の漢王を三重に取り囲んだ。おりしも大風が西北より吹き起こり、木を折り屋根を剥いで砂石を飛ばして昼にもかかわらず、あたりは暗くなった。天の助けとばかり漢王は数十騎の部下と逃げおおせた。審食其という者が漢王の父と夫人の呂氏の共をして、間道を抜けて逃げようとしたが、楚軍に遭って捕らえられてしまった。項羽は二人を常に陣中に置き人質とした。漢王が滎陽まで来たとき、ちりぢりになっていた部下達も集まった。そのうえ蕭何もまた関中の老人から年少者までも徴用して滎陽にかけつけた。漢軍は再び勢力を盛り返した。 五諸侯 常山王張耳・河南王申陽・韓王鄭昌・魏王豹・殷王邛(きょう)の五侯 置酒高会 置酒は酒宴さかもり、高会は盛大に会合する。 三匝 匝は取り巻く、三めぐり 十八史略 是れ口尚乳臭なり 2009-12-03 16 58 10 | 十八史略 蕭何守關中、立宗廟・社稷・縣邑、事便宜施行、計關中戸口、轉漕調兵、未嘗乏絶。 魏王豹叛。漢王遣韓信撃之。豹以柏直爲大將。王曰、是口尚乳臭。安能當韓信。信伏兵、從夏陽以木罌渡軍、襲安邑虜豹。信既定魏、請兵三萬人、願以北擧燕・趙、東撃齊、南絶楚糧道、西與大王會滎陽。王遣張耳與倶。 蕭何、関中を守り、宗廟・社稷・県邑を立て、事、便宜に施行して、関中の戸口を計り、転漕、兵を調し、未だ嘗て亡絶せず。 魏王豹叛す。漢王、韓信を遣わして之を撃たしむ。豹、柏直を以って大将と為す。王曰く、是れ口尚乳臭なり。安くんぞ能く韓信に当たらん、と。信、兵を伏せ、夏陽より木罌(ぼくおう)を以て軍を渡し、安邑を襲って豹を虜にす。信、既に魏を定め、兵三万人を請い、願わくは、以って北のかた、燕・趙を挙げ、東のかた、齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽に会せんという。王、張耳を遣わして與に倶にせしむ。 十八史略 是口尚乳臭 2009-12-08 15 54 53 | 十八史略 蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。 魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。 宗廟 先祖のみたまや 社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと 木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。 十八史略 陳餘、奇計を用いず 2009-12-10 11 32 56 | 十八史略 三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。 餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。 三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。 餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。 十八史略 陳餘奇計を用いず 2009-12-12 10 21 47 | 十八史略 漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。 ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-15 12 04 59 | Weblog 背水の陣(一) 未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。 未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。 韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。 平旦 夜明け 殊死 決死 鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること 佯 見せかける、ふりをする 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-17 12 50 51 | 十八史略 陥之死地而後生 趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。 趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。 趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。 韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。 倍 背に同じ、背にする 十八史略 黥布 2009-12-19 08 47 28 | 十八史略 随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。 随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。 随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。 黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。 畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反 十八史略 豎儒幾ど乃公の事を敗らんとす 2009-12-22 16 12 58 | 十八史略 酈食其説漢王、立六國後。王曰、趣刻印。張良來謁。王方食。具告良。良曰、請借前箸、爲大王籌之。遂發八難。其七曰、天下游士、離親戚、棄墳墓、從大王游者、徒欲望尺寸之地。今復立六國後、游士各歸事其主。大王誰與取天下乎。且楚惟無彊。六國復撓而從之、大王焉得而臣之乎。誠用客謀、大事去矣。漢王輟食吐哺、罵曰、豎儒幾敗乃公事。令趣銷印。 酈食其(れいいき)漢王に説く、六国(りっこく)の後を立てんと。王曰く、趣(すみや)かに印を刻せよ、と。張良来たり謁す。王方(まさ)に食す。具(つぶさ)に良に告ぐ。良曰く、請う、前箸(ぜんちょ)を借りて、大王の為に之を籌せん、と。遂に八難を発す。其の七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄てて、大王に従い游ぶ者は、徒(いたずら)に尺寸(せきすん)の地を望まんと欲す。今復六国の後を立てば、游士各ゝ帰って其の主に事(つか)えん。大王誰と与に天下を取らんや。且つ楚より惟(こ)れ彊(つよ)きは無し。六国復撓(たわ)んで之に従わば、大王焉(いず)くんぞ得て之を臣とせんや。誠に客の謀(はかりごと)を用いなば、大事去らん、と。漢王、食を輟(や)めて哺を吐き、罵って曰く、豎儒(じゅじゅ)、幾(ほとん)ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす、と。趣かに印を銷(しょう)せしむ 十八史略 ほとんど乃公の事を敗らんとす 2009-12-24 17 17 48 | 十八史略 通釈文 酈食其は漢王に六国の跡目を立てて諸侯にするよう説くと、漢王は「ではすぐに印章を作らせよ。」と言った。張良が来て王に謁した。王は食事中であったが、委細を張良に話した。張良は「お手近の箸をお借りして大王の為にはかりごとを献じましょう」と言って八つの懸案を提示した。その七番目には「今、天下の遊説の士が親戚と別れ、先祖のまつりを置いて大王に従っているのは、ただただ、僅かな土地を望んでいるからでございます。今また六国の跡目を立てれば、遊説者たちは帰ってその諸侯に仕えるでしょう。そうなったら大王は誰と組んで天下を取るおつもりですか。その上、今楚より強い国はありません。六国がまた屈服して楚に従ったら、大王はどうやって臣従させることが出来ましょう。この客人のはかりごとを用いたならば大王の大事も潰(つい)えることになりましょう」漢王は食事を止め、口中の食物を吐き出して、「くされ儒者めがあやうくわしの大事業を潰すところであったわい」と罵って六国の印を鋳潰させた。 六国 楚・韓・魏・燕・趙・齊。 趣 おもむき のほかに、すみやかにの意味がある。籌 はかりごと 輟食てつしょく 食事を途中で止める 乃公 乃はなんじ、公は君、汝の君主とは、臣下にむかって自分のことを尊大に言う。乃公出でずんば(このおれさまが出ないで、他の誰にできようか) 十八史略 骸骨を請う 2009-12-26 08 48 27 | 十八史略 骸骨を請う 楚圍漢王於滎陽。漢王謂陳平曰、天下紛々。何時定乎。平曰、項王骨鯁之臣、亜父輩數人耳。行以疑其心、破楚必矣。王與平黄金四萬斤、不問其出入。平多縦反。羽大疑亜父。請骸骨歸。疽發背死。 楚、漢王を滎陽(けいよう)に囲む。漢王、陳平に謂って曰く、天下紛々たり、何れの時か定まらん、と。平曰く、項王骨鯁(こっこう)の臣、亜父の輩数人耳(のみ)。間を行うて以て其の心を疑わしめば、楚を破ること必(ひっ)せり、と。王、平に黄金四萬斤を与え、其の出入を問わず。平、多く反間を縦(はな)つ。羽、大いに亜父を疑う。骸骨を請うて帰る。疽背に発して死す。 楚が漢王を滎陽に囲んだ。漢王は陳平に「天下乱れて紛々、いつになったら平定するのだろうか」と言った。陳平は答えた「項羽の剛毅直言の臣は亜父范増たち数人に過ぎません。間者を放って彼等の間で疑心を起こさせたら、楚を破ること必定でございます」と。漢王は陳平に黄金四万斤を与えて、その出入りを問わなかった。平は多くの間者を放ったので、項羽は大いに范増を疑った。范増は暇を請い国に帰ったが腫れ物が背中にできて死んだ。 骨鯁の臣 直言の臣、鯁は骨が喉につかえることから君主の機嫌をそこねることを敢えて進言する臣。 骸骨を請う 主君に辞職を願う 仕官して捧げたわが身の残骸を乞い受ける 十八史略 紀信、楚をあざむく 2009-12-29 11 04 09 | 十八史略 紀信、楚をあざむく 楚圍漢王急。紀信曰、事急矣。請誑楚。乃乗漢王車、出東門。曰、食盡漢王出降。楚人皆之城東観。漢王乃得出西門去。項羽焼殺紀信。 楚、漢王を囲むこと益々急なり。紀信曰く、事急なり、請う楚を誑(あざむ)かんと。乃ち漢王の車に乗り、東門より出づ。曰く、食尽き漢王出で降る、と。楚人、皆城東に之(ゆ)いて観る。漢王乃ち西門より出でて去ることを得たり。項羽、紀信を焼殺す。 楚は一層厳しく漢王を取り囲んだ。紀信が漢王に「事は差し迫っております、ここはひとつ楚軍をだましてやりましょう」と申し出て、漢王の車に乗って滎陽城の東門から出て、「食糧が尽きたから降伏する」と呼ばわった。楚軍は東門につめかけて見物した。その隙に漢王はまんまと西門から脱出した。怒った項羽は紀信を焼き殺した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001/2 十八史略 王、韓信の兵を奪う 2010-01-05 08 36 14 | 十八史略 新年おめでとうございます。 今年も多難な一年となることが予想されますが、2200年ほど前の中国では変わらぬ戦乱の世はつづきます。 漢王軍成皐。羽圍之。王逃去、北渡河、晨入趙壁、奪韓信軍、令信収趙兵撃齊。 酈食其説王、収滎陽、據敖倉粟、塞成皐之險。王從之。 漢王成皐(せいこう)に軍す。羽之を囲む。王逃れ去り、北のかた河を渡り、晨(あした)に趙の壁に入り、韓信の軍を奪い、信をして趙兵を収めて齊を撃たしむ。 酈食其(れいいき)王に説き、滎陽(けいよう)を収め、敖倉(ごうそう)の粟(ぞく)に據(よ)って成皐の険を塞(ふさ)がんとす。王之に従う。 漢王は成皐に布陣した。項羽がこれを囲んだので漢王は逃げて北の黄河を渡り、早朝趙の城内に入り、そこに陣を布いていた韓信の兵を手中にし、韓信には趙の兵を集めて斉を攻撃させた。 酈食其が王に説いて、滎陽城を手に入れて、敖倉山の食糧に頼って、成皐の要所を固めようと言った。王はこの説に従った。 韓信の兵を奪い 漢王といえども兵符が無ければ兵を自由にできなかったので、早朝、韓信の眠っているうちに兵符を奪った。 十八史略 一豎儒の功に如(し)かざるか 2010-01-07 17 43 23 | 十八史略 酈食其爲漢王、説齊王下之。蒯徹説韓信曰、將軍撃齊。而漢獨發使下之。寧有詔止將軍止乎。酈生伏軾、掉三寸舌、下七十余城。將軍爲將數歳、反不如一豎儒之功乎。 四年.信襲破齊。齊王烹食其而走。 酈食其(れきいき)漢王の為に、斉王に説いて之を下す。 蒯徹(かいてつ)、韓信に説いて曰く、将軍斉を撃つ。而(しか)るに漢独り間使を発して之を下せり。寧ろ詔(みことのり)有って将軍を止めしか。酈生(れきせい)軾に伏して三寸の舌を掉(ふる)い、七十余城を下せり。将軍、将たること数歳、反(かえ)って一豎儒(じゅじゅ)の功に如(し)かざるか、と。 四年、信襲うて斉を破る。斉王、食其(いき)を烹(に)て走る。 酈食其は漢王の為に、斉王に説いて降伏させた。 蒯徹という者が韓信に説いて言った。「将軍が斉を攻撃しようとしておられるのに、漢王は密使を送って降伏させてしまいました。それより何より漢王から将軍に、止まるようにと詔勅がありましたか?あの酈食其は車の横木に寄りかかったままで舌先三寸、斉の七十余城を降しました。将軍は将として数年、一介の青二才儒者に及ばないのでしょうか」と。 四年、韓信は斉を急襲して撃ち破った。斉王は酈食其を煮殺して逃げた 十八史略 我に一杯の羹を分かて 2010-01-09 11 04 30 | 十八史略 漢與楚皆軍廣武。羽爲高俎、置太公其上、告漢王曰、不急下、吾烹太公。王曰、吾與若倶北面事懐王、約爲兄弟。吾翁即若翁。必欲烹而翁、幸分我一杯羹。 羽願與王挑戰。王曰、吾寧鬭智。不鬭力。因數羽十罪。羽大怒、伏弩射王傷胸。 漢と楚皆広武に軍す。羽、高俎(こうそ)を為(つく)り、其の上に太公を置き、漢王に告げて曰く、急に下らずんば、吾太公を烹(に)ん、と。王曰く、吾と若(なんじ)と倶(とも)に北面して懐王に事(つか)え、約して兄弟(けいてい)と為る。吾が翁は即ち若(なんじ)が翁なり。必ず而が翁を烹(に)んと欲せば、幸いに我に一杯の羹(あつもの)を分かて、と。 羽、王と挑戦せんと願う。王曰く、吾寧ろ智を闘わさん。力を闘わさず、と。因(よ)って羽の十罪を数う。羽、大いに怒り、弩を伏せ王を射て胸を傷つく。 漢と楚の軍はみな広武に布陣していた。項羽は高い俎板をつくり、かねて捕えていた漢王の父の太公をその上に据え、漢王に言った「急いで降参しなければ、釜茹でにするぞ」と。漢王は「私とお前とはともに北面して懐王に仕え、約束して兄弟になった。私の父はすなわちお前の父だ、是非にもお前の父を煮るというなら、一杯の肉汁を分けて貰いたいものだ」とやりかえした。 つぎに項羽は、漢王と一騎打ちをしかけたが、王は「私は、智恵比べなら応ずるが、力比べはごめん被る」と答えた。そのうえで項羽の十か条の罪状を数え上げた。項羽は怒って、いしゆみを密かに射かけ漢王の胸を傷つけた。 幸い我に一杯の・・ 幸 ねがうの意 十八史略 韓信龍且を破る 2010-01-12 09 20 01 | 十八史略 韓信、濰水を決壊す 楚使龍且救齊。龍且曰、韓信易與耳。寄食於漂母、無資身之策、受辱於股下、無兼人之勇。進與信夾濰水而陣。信夜使人嚢沙壅水上流、旦渡撃且、佯敗還走。且追之。信使決水。且軍大半不得渡。急撃殺且 楚、龍且(りょうしょ)をして斉を救わしむ。龍且曰く、韓信与(くみ)し易きのみ。漂母に寄食して、身を資(たす)くるの策無く、辱めを股下に受けて、人に兼ぬるの勇無し、と。進んで濰水(いすい)を夾(はさ)んで陣す。信、夜人をして沙を嚢(ふくろ)にして水の上流を壅(ふさ)がしめ、旦(あした)に渡って且を撃ち、佯(いつわ)り敗れて還り走る。且、之を追う。信、水を決せしむ。且の軍大半渡るを得ず。急に撃って且を殺す。 楚の項羽は龍且を将として斉を救わせた。龍且は言った「韓信は恐れるに足りません。洗濯ばあさんに食わせて貰って身を立てる術もなく、人の股をくぐる恥を受けても平気で、人にすぐれた勇気も持ち合わせていない」と。進んで濰水を挟んで韓信と対陣した。韓信は夜ひそかに人をやって砂を袋に入れて上流を堰きとめさせ、翌早朝、川を渡って龍且を撃ち、負けた振りをして逃げた。龍且はそれとは知らず追撃する。韓信が堰を切ったので、龍且の軍勢は大半が渡ることが出来ない。そこを急襲して龍且を討ち取った。 人に兼ぬるの勇 人に勝る勇気 十八史略 韓信仮に齊王たらんとす 2010-01-14 09 32 06 | 十八史略 信使人言之漢王,請爲請假王以鎮齊。漢王大怒罵之。張良・陳平躡足附耳語。王悟、復罵曰、大丈夫、定諸侯、即爲眞王耳。何以假爲。遣印立信爲齊王。 信、人をして之を漢王に言わしめ、仮王と為り以て斉を鎮せんと請う。漢王大いに怒って之を罵る。張良・陳平、足を躡(ふ)み、耳に附けて語る。王悟り、復た罵って曰く、大丈夫、諸侯を定めば即ち真王たらんのみ。何ぞ仮を以て為さん、と。印を遣わし、信を立てて斉王と為す。 韓信は使者を遣わして、戦勝を伝え、なお自分が仮に斉王となって斉の地を安堵したい旨請うた。漢王は大いに怒って罵った。張良と陳平とが韓信を敵にすることを恐れ、王の足を踏んで、耳に口を寄せて許してやりなさいと囁いたので、漢王はハッと気がつき、また罵って言った。「大丈夫たる者が、諸侯を平定したら真の王になるだけのことではないか、仮になどと言うことはない」と。早速印章を遣わして斉王に立てた。 十八史略 韓信節を枉げず 2010-01-16 13 06 04 | Weblog 項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。 漢立黥布、爲淮南王。 項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。 漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。 項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。 漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001 十八史略 虎を養うて患を遺す 2010-01-19 21 29 46 | 十八史略 養虎自遺患也 項王少助食盡。韓信又進兵撃之。羽乃與漢約、中分天下、鴻溝以西爲漢、以東爲楚。歸太公・呂后、解而東歸。漢王亦欲西歸。張良・陳平曰、漢有天下大半。楚兵饑疲。今釋不撃、此養虎自遺患也。王從之。 項王、助け少なく、食尽く。韓信、又兵を進めて之を撃つ。羽、乃ち漢と約す、天下を中分し、鴻溝(こうこう)以西を漢と為し、以東を楚と為さんと。太公・呂后を帰し、解いて東に帰る。漢王も亦西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、漢天下の大半を有(たも)つ。楚の兵飢疲す。今釈(ゆる)して撃たずんば、此れ虎を養うて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり、と。王、之に従う。 項王は援兵少なく食糧も尽きてきた。さらに韓信もまた兵を進めてこれを攻めた。項羽はしかたなく漢と約束して鴻溝で二分し、西方を漢の領土とし東を楚の領土とした。そして人質にしていた太公と呂后を帰して、戦闘態勢を解いて東に帰った。漢王もまた西に帰還しようとしたところ、張良と陳平が止めて言った。「漢は天下の大半を領有しており、楚の兵は飢え疲れはてています。ここでこのままゆるして撃たなければ、虎を育てて患いを遺すというものです」と。漢王はこの進言に従った。 十八史略 四面楚歌 2010-01-21 15 39 41 | Weblog 四面皆楚歌 五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。 五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。 漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 2010-01-23 11 28 53 | 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 起飮帳中、命虞美人起舞。悲歌慷慨泣數行下。其歌曰、力抜山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。騅者羽平日所乘駿馬也。左右皆泣、莫敢仰視。 起って帳中に飲し、虞美人に命じて起って舞わしむ。悲歌慷慨、泣(なみだ)数行下る。その歌に曰く、 力山を抜き、気は世を蓋う。 時、利あらず 騅(すい)逝かず 騅逝かざるを奈何(いかん)せん 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん 騅とは羽が平日乗るところの駿馬なり。左右皆泣き、敢えて仰ぎ視るもの莫(な)し。 やがて立ち上がって陣中のとばりの中で酒を酌み交わし、虞美人に舞わせた。歌は悲壮に、嘆きは増して、さすがの項羽も涙が幾筋も頬をつたわった。その歌は、 力は山をも引き抜き、気概は天下をも蓋う 天の時は味方せず、愛馬の騅も前に進まぬ 騅の進まぬをいかんせん ああそれよりも 虞よ虞よなんじをいかんせん 左右の臣は皆泣き、項羽の顔を仰ぎ視る者は誰一人居なかった。 兮 調子を整えるために置く助字 音はケイ 奈何 如何におなじ 虞美人 項羽の愛妾、ひなげしにその名をとどめる 十八史略 此れ天我を亡ぼすなり 2010-01-26 17 51 07 | 十八史略 今年に入ってどうも体調が芳しくない。予定を早めて女子医大の南先生に診てもらうことにした。 羽乃夜從八百餘騎、潰圍南出、渡淮、迷失道、陥大澤中。漢追及之。至東城。乃有二十八騎。羽謂其騎曰、吾起兵八歳、七十餘戰、未嘗敗也。今卒困此。此天亡我。非戰之罪。今日固決死。願爲諸君決戰、必潰圍斬將、令諸君知之。皆如其言。於是欲東渡烏江。 羽乃(すなわ)ち世八百余騎を従え、囲みを潰(ついや)して南に出で、淮(わい)を渡り、迷うて道を失い、大沢(だいたく)の中に陥る。漢追うて之に及ぶ。東城に至る。乃ち二十八騎有り。羽、その騎に謂って曰く、吾、兵を起こしてより八歳、七十余戦、未だ嘗て破れざるなり。今卒(つい)に此に困しむ。此れ天我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ず。今日固(もと)より死を決す。願わくは諸君の為に決戦し、必ず囲みを潰(ついや)し将を斬り、諸君をして之を知らしめんと。皆其の言の如くす。是に於いて東のかた烏江を渡らんと欲す。 項羽は夜になるや八百余騎を従えて、敵の包囲を突き破って南に逃れたが、淮水を渡ったところで道に迷い、湿地帯に踏み込んでしまった。漢軍に追いつかれ、また逃げ延びて東城(安徽省の地名)にたどりついたときは、二十八騎になっていた。羽は彼等に向って「わしは兵を挙げて八年、七十余たび戦ったが敗れたことがなかった。今ここで追い詰められてしまったのは、天がわしを亡ぼすのであって、戦の上手下手ではない。もちろん今日生き残れるはずもないが、諸君の目の前で決戦して囲みを破って、敵将を斬りその証をたてたいと思う」と。そしてすべてその通りやってのけた。こうして項羽は東にのがれ烏江を渡ろうとした 十八史略 我何の面目あって復た見ん 2010-01-28 15 29 41 | 十八史略 亭長艤船待。曰、江東雖小、亦足以王。願急渡。羽曰、藉與江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。縱江東父兄、憐而王我、我何面目復見。獨不愧於心乎。乃刎而死。 亭長船を艤(ぎ)して待つ。曰く、江東、小なりと雖も、亦以て王たるに足る。願わくは急に渡れと。羽曰く、籍、江東の子弟八千人と、江を渡って西す。今一人の還るもの無し。縦(たとい)江東の父兄、憐れんで我を王とすとも、我、何の面目あって復見ん。独り心に愧(は)ぢざらんや、と。乃ち刎(くびは)ねて死す。 烏江の亭長が船出の用意を整えて待っていた。そして「江東は小なりとはいえ、それでも王として治めるには充分です。どうか急いで渡ってください」と言った。項羽はハッと気付き「わしはかつて江東の子弟八千と共に、この長江を渡って西に向ったが、今一人として連れ還るものもない。たとい父兄がわしに同情して王にしてくれてもなんの面目あって顔を合わすことができよう。わしとて心に羞じずにおられようか」と自ら首をかき切って死んだ。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201002/2 十八史略 漢の高祖 2010-02-02 09 20 31 | 十八史略 楚地悉定。獨魯不下。王欲屠之。至城下、猶聞絃踊之聲。爲其守禮義之國、爲主死節、持羽頭示之。乃降。王還、馳入齊王信壁、奪其軍、立信爲楚王、彭越爲梁王。漢王即皇帝位。 楚の地悉(ことごと)く定まる。独り魯のみ下らず。王之を屠(ほふ)らんと欲し、城下に至れば猶絃踊(げんしょう)の声を聞く。其の礼義を守るの国にして、主の為に節に死するが為に、羽の頭を持して之に示す。乃(すなわ)ち降る。王還り、馳せて齊王信の壁に入り、其の軍を奪い、信を立てて楚王と為し、彭越(ほうえつ)を梁王と為す。漢王、皇帝の位に即(つ)く かくして楚の地はすべて平定したが、ただ魯だけが降らない。漢王は根絶やしにしようと城下にせまると、城内からは楽器にあわせて詩を歌う声が聞こえてくる。漢王は、魯が礼節を守る国で、旧主項羽へ忠節をたてて死ぬ覚悟と見たので、項羽の首を持ってきて魯の人々に示した。それでようやく降伏した。漢王は軍を返し急遽斉王韓信の城壁に入ってその軍隊を自分のものにした。やがて韓信を楚王にし、彭越を梁王にした。そして漢王は皇帝の位に就いた(前202)高租である 主の為に節に死する 項羽はかつて魯公に封ぜられた 十八史略 吾の天下を得たる所以は何ぞ 2010-02-04 16 54 20 | 十八史略 置酒洛陽南宮。上曰、徹侯諸將、皆言、吾所以得天下者何、項氏所以失天下者何。高起・王陵對曰、陛下使人攻城掠地、因而與之、與天下同其利。項羽不然。有効者害之、賢者疑之、戰勝而不予人功、得地而不與人利。 洛陽の南宮に置酒(ちしゅ)す。上(しょう)曰く、徹侯(てっこう)諸将、皆言え、吾の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ、項氏の天下を失いし所以は何ぞ、と。高起・王陵対(こた)えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしむれば、因って之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず。功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝って人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。 洛陽の南宮で宴会を催した時、高祖が言った、「列侯・諸将たちよ、皆言ってみよ。予が天下を得たわけは何か、項羽が天下を失った理由は何であるか」と。すると高起と王陵が対(こた)えて言った、「陛下は部下に城を攻め、土地を取らせられますと、功によって部下に与えて、天下の人と利益を共にされました。項羽はそうではありません。功ある者は痛めつけ、賢者は疑ってかかりました。戦争に勝っても、部下に功賞を与えず、土地を得ても人に与えませんでした。それで天下を失ったのです」と。 徹侯 秦代の爵位、後に通侯、列侯といった 十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う 2010-02-06 10 19 41 | Weblog 上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。 上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。 十八史略 2010-02-09 16 47 13 | 十八史略 高祖は言った。「貴公らはその一面を知って、他の面を知らない。そもそも帷幕の中で作戦をめぐらし、千里も離れて勝利を導くは子房(張良)に及ばない。国家を安定させ人民をいつくしみ食糧を確保し補給を絶やさぬ能力は蕭何にかなわない。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る腕前は、韓信に及ばぬ。この三人は傑出した者たちだ。わしはこの三人をよく使いこなした。これがわしが天下を取ったわけだ。ところが項羽には一人范がいたが、使いこなすことができなかった。これがあやつがわしにしてやられたゆえんだ」と。群臣みな感じいった。 籌 はかる 数をかぞえる竹の棒から、はかりごと、計略 餽餉 食糧 人傑 能力の衆人にすぐれた人。 十八史略 田横自頸す 2010-02-13 11 04 01 | 十八史略 故齊田横、與其徒五百餘人入海島。上召之曰、横來。大者王。小者侯。不來、且擧兵誅。横與二客乘傳、至洛陽尸郷自剄。以王禮葬之。二客自剄客從之。五百人在島中者、聞之自殺。 故(もと)の斉の田横(でんこう)其の徒五百人と海島に入る。上(しょう)之を召して曰く、横来たれ。大なる者は王とせん。小なる者は侯とせん。来たらずんば、且(まさ)に兵を挙げて誅(ちゅう)せんとす、と。横、二客(じかく)と伝に乗り、洛陽の尸郷(しきょう)に至って自剄(じけい)す。王の礼を以て之を葬る。二客自剄して之に従う。五百人島中に在る者、之を聞いて自殺す。 もと斉の田横は、その徒党五百人余りと海上の島に逃れて立てこもった。高祖はこれを召すべく、「田横よ来い。重くは王に、軽くとも侯に取り立てよう。もし来なければ、兵を派遣して誅するぞ」と使者に伝えさせた。田横は二人の客と共に、宿継ぎをしながら洛陽に向かい、すぐ手前の尸郷まで来たところで、みずから首をはねた。高祖は王の礼をもって田横を葬った。二人の客もみずから首をきって後を追った。島に残っていた五百人もこれを聞いてすべて自決して殉じた。 十八史略 季布髠鉗(こんけん)して奴と為り朱家に売る 2010-02-16 17 58 57 | 十八史略 初季布爲項羽將、數窘帝。羽滅、帝購求布。敢匿者罪三族。布乃髠鉗爲奴、自賣於魯朱家。朱家心知其布也、之洛陽見滕公曰、季布何罪。臣各爲其主耳。以布之賢、漢求之急、不北走胡、南走越耳。此棄壯士資敵國也。 滕公言於上。乃赦布、召拝郎中。 初め季布、項羽の将と為り、数々(しばしば)帝を窘(くる)しむ。羽滅んで、帝、布を購求す。敢えて匿(かく)す者は三族を罪せんと。布乃ち髠鉗(こんけん)して奴(ど)と為り、自ら魯の朱家に売る。朱家、心に其の布なるを知るや、洛陽に之(ゆ)き滕公(とうこう)に見(まみ)えて曰く、季布、何の罪かある。臣は各々其の主の為にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なるときは、北のかた胡に走らずんば、南のかた越に走らんのみ。此れ壮士を棄てて敵国を資(たす)くるなり、と。滕公、上(しょう)に言う。乃ち布を赦し、召して郎中に拝す。 以前季布は項羽の将軍として度々高祖を苦しめた。そこで項羽が滅びると、賞金を懸けて捜し求め、もしかくまう者があったら、本人はもとより父母、妻の一族までも罰するぞと布告した。季布は髪を剃り首枷(かせ)をはめて自ら奴隷に身を落として魯の朱家に売った。朱は季布の正体を感づくと、洛陽に赴き、滕公(夏公嬰)に会見してこう言った。「季布に何の罪がありましょう、臣下はそれぞれの主君のために力を尽くすのがつとめ、ここで季布ほどの賢人を厳しく探索したなら、北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。これこそ壮士を見捨てて敵国を利することになりましょう」と。滕公はそれを高祖に申し上げた。高祖は早速季布を赦し、召して郎中に任じた。 窘(くる)しむ 閉じ込める、苦しめる。 購求 懸賞金をかけて捜し求める。 髠鉗(こんけん) 頭髪を剃り、鉄枷を首に施すこと。 郎中 宮中の宿直の役。 十八史略 丁公、臣と為って不忠なり 2010-02-18 18 04 57 | 十八史略 丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。 丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。 丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。 丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに 厄 阨に同じ、苦しみ困ること。 十八史略 西安遷都 2010-02-23 17 40 14 | 十八史略 齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。 斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。 斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。 案 安堵におなじ、その所に落ち着いている 亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ 十八史略 赤松子に従って遊ばん 2010-02-25 18 13 35 | 十八史略 留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。 留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。 留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。 赤松子 上古の仙人の名 十八史略 張良、橋上に老人と会う 2010-02-27 11 29 45 | 十八史略 孺子教うべし 良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。 良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。 張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201003/2 十八史略 張良太公望の兵書を授かる 2010-03-02 18 03 14 | 十八史略 及往、老人又先在。怒復約五日。良半夜往。老人至。乃喜、授以一編書。曰、讀此可爲帝者師。異日見濟北穀城山下黄石、即我也。旦視之、乃太公兵法。良異之、晝夜習讀。既佐上定天下。封功臣、使良自擇齊三萬戸。良曰、臣始與陛下遇於留。此天以臣授陛下。封留足矣。後經穀城、果得黄石焉。奉祠之。 往くに及んで、老人又先ず在り。怒って復五日を約す。良半夜に往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに一編の書を以ってす。曰く、此れを読まば帝者の師と為るべし。異日、濟北(さいほく)の穀城(こくじょう)山下の黄石を見ば、即ち我なり、と。旦(あした)に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良、之を異とし、昼夜習読す。既にして上(しょう)を佐(たす)けて天下を定む。功臣を封ずるとき、良をして自ら斉の三万戸を択ばしむ。良曰く、臣始め陛下と留に遇(あ)う。此れ天、臣を以って陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば足れり、と。後、穀城を経しに、果して黄石を得たり。之を奉祠す。 五日後に行ってみると老人が先に来ていて叱り付け、さらに五日後に行くことを約束した。張良は今度は遅れまいと夜中から待った。やがて老人が来て、会うと喜んで一編の書を授けてこう告げた「これを読めば帝王の軍師となれよう。後日、済北の穀城山下で黄色の石を見かけたらそれがわしじゃ」と。朝になってその書を見ると太公望の兵法書であった。張良はこれを奇遇と喜び、昼夜の別なく読み習ったのであった。 やがて張良は高祖をたすけて天下を平定し、功臣を封ずるとき、高祖は斉のうちで三万戸の領地を選び取らせようとしたところ張良はこう言って辞退した「私は陛下に留でお目にかかりました。それは天が私を陛下に授けたものと思っております。ですから留の地をいただければ充分でございます。」 その後穀城山を通ったとき、果して黄石をみつけたので、祠に祀ったのであった。 十八史略 狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる 2010-03-04 18 08 33 | 十八史略 六年、人有上書告楚王韓信反。諸將曰、發兵坑孺子耳。上問陳平。平危之曰、古有巡守會諸侯。陛下第出僞遊雲夢、會諸侯於陳、因禽之、一力士之事耳。上從之、告諸侯、會陳、吾將遊雲夢。至陳。信上謁。命武士縛信、載後車。信曰、果若人言。狡兎死走狗烹、飛鳥盡良弓蔵。敵國破謀臣亡。天下已定。臣固當烹。遂械繋以歸。赦爲淮陰侯。 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已(すで)に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文は次回に 十八史略 狡兎死して走狗烹らる 2010-03-06 09 09 57 | Weblog 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文 漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」 とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。 十八史略 善く将に将たり 2010-03-09 13 56 03 | 十八史略 多々益々辦(べん)ず 上嘗從容問信諸將能將兵多少。上曰、如我能將幾何。信曰、陛下不過十萬。上曰、於君如何。曰、臣多多益辦。上笑曰、多多益辦、何以爲我禽。曰、陛下不能將兵、而善將將。此信所以爲陛下禽。且陛下所謂天授、力也。 上(しょう)嘗て従容(しょうよう)として信に諸将の能(よ)く兵に将たるの多少を問う。上曰く、我の如きは能く幾何(いくばく)に将たらんか、と。信曰く、陛下は十万に将たるに過ぎず、と。上曰く、君に於いては如何(いかん)、と。曰く、臣は多々益々辦(べん)ず、と。上笑って曰く、多々益々辦ぜば、何を以って我が禽(とりこ)に為れる、と。曰く、陛下は兵に将たること能(あた)わざれども、而(しか)も善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以(ゆえん)なり。且つ陛下は所謂(いわゆる)天授にして、人力に非ざるなり、と。 高祖はあるとき、くつろいだ様子で韓信に将軍達がそれぞれどの位の兵を統率する能力があるだろうかと聞いたことがあった。そして最後に高祖は「わしはどれほどの兵を使いこなせるだろうか」と問うた。すると韓信は「陛下は十万位いでしょう」と答えた。高祖は「ではお前はどうだ」と尋ねると、「私は多ければ多いほど指揮がさえます」と事もなげに言った。高祖は笑って「多ければ多いほどうまくやれると言うそなたがなぜわしの虜になったのだ?」韓信は「陛下は兵に将たるには向きませんが、将に将たる才がおありになります。これが私が虜になった所以です。その上、陛下は天から授かった人に君たる運勢をお持ちです。人の力では及びもつきません。」と。 辦 つとめる。処理する。さばく。 よく似た字がありますので参考のため列挙しました。 辨(弁)わかつ 弁別。わきまえる 分別。つぐなう 弁償。用にあてる弁当。 辧(弁)辨の本字。 辯(弁)言うこと、言い開きすること 弁護士の弁 瓣(弁)はなびら、花弁。瓜の種の周りのやわらかな部分 辮 編む 辮髪(べんぱつ)中国清朝の男子の髪型。(蒼穹の昴でおなじみ) 十八史略 狗の功と人の功 2010-03-11 18 14 31 | 十八史略 剖符封功臣。酇侯蕭何、食邑獨多。功臣皆曰、臣等被堅執鋭、多者百餘戰、少者數十合。蕭何未嘗有汗馬之勞、徒持文墨議論、顧反居臣等上何也。上曰、諸君知獵乎。逐殺獸者狗也。發縱指示者人也。諸君徒能得走獸耳。功狗也。至如蕭何、功人也。羣臣皆莫敢言。 符を剖(さ)き功臣を封ず。酇侯(さんこう)蕭何、食邑(しょくゆう)独り多し。功臣皆曰く、臣等、堅を被(き)鋭を執(と)り、多き者は百余戦、少なき者も数十合。 蕭何は、未だ嘗て汗馬の労あらず、徒(た)だ文墨(ぶんぼく)を持して議論し、顧反して臣等の上に居るは何ぞや、と。上曰く、諸君、猟を知れるか。獣を逐殺する者は狗なり。発従(はっしょう)して指示する者は人なり。諸君は徒(ただ)能く走獣を得たるのみ。功は狗なり。蕭何の如きに至っては、功は人なり、と。群臣、皆敢えて言う者莫(な)し。 高祖は割符を分け授けて功績のあった家臣に領地を与えた。その中で酇侯の蕭何だけ特に多かったから、他の功臣は皆「我々は身に堅いよろいをつけ、矛や刀を執って、多い者は百余回、少ない者でも数十合の戦をしています。ところが蕭何は一度も馬に鞭をあてた事も無く、ただ筆と墨を持って議論していただけではありませんか。それが却って自分たちより上というのはどういうことでしょうか。」と言った。すると高祖は「諸君は猟を知っているか。獣を追いかけて殺すのは犬であり、犬の綱を解いて指図するのは人間の役である。諸君はただ獣を捕えただけであるから、いわば犬の功である。蕭何は諸君を指図したのだから、その功は人の功である」と言った。これには群臣誰一人一言もなかった。 剖符 符を割くこと その一片を与えて証とする 酇侯 湖北省の地名蕭何が封じられた。 汗馬の労 馬が汗をかくほどの骨折り、実戦の苦労。 顧反(こはん) かえって。 発縦 犬を繋いだ綱を解き放つこと 十八史略 雍齒すら且つ侯たり 2010-03-16 14 29 30 | 十八史略 上已封大功臣。餘爭功不決。上從複道上望見、諸將往坐沙中、相與語。上問張良。良曰、陛下以此屬取天下。今所封皆故人親愛、所誅皆平生仇怨。此屬畏不能盡封、又恐見疑平生過失及誅。故相聚謀反耳。 上(しょう)、すでに大功臣を封(ほう)ず。余(よ)は功を争うて決せず。上、複道の上より望み見るに、諸将、往々沙中に坐して、相与(とも)に語る。上、張良に問う。良曰く、陛下、此の属を以って天下を取る。今、封ずる所は、皆故人親愛にして、誅する所は、皆平生の仇怨(きゅうえん)なり。此の属、尽くは封ぜらるる能わざるをおそれ、又平生の過失を疑われて誅に及ばんことを恐る。故に相聚(あつ)まって反を謀(はか)るのみ、と。 高祖はすでに大きな功労を立てた者にだけは領地を与たえ終ったが、残りの者は功績の大小を言いつのって決まらなかった。高祖が二重廊下の上から見下ろすと、諸将があちこちと砂の上に座って何やら話し合っている。張良に尋ねると「陛下はあの者たちの力によって天下を取られましたが、今のところ領地を与えられた者は、皆古くからの知り合いか、目をかけられた者たちです。また、誅殺された者は、皆陛下が常日頃憎んでいた者ばかりです。ですからあの連中は皆が皆領地をもらえないのではないかと心配し、一方わずかの落ち度でも、疑われて殺されるかと恐れているのです。それでああして集まって、いっそ謀反を起こそうかと相談しているのです」と答えた。つづく 十八史略 つづき 2010-03-18 17 40 51 | 十八史略 承前 上曰、奈何。良曰、陛下平生所憎、羣臣所共知、誰最甚者。上曰、雍齒。良曰、急先封齒。於是封齒爲什方侯。而急趣丞相・御史、定功行封。羣臣皆喜曰、雍齒且侯、吾屬無患矣。詔定元功十八人位次、賜丞相何、劔履上殿、入朝不趨。 尊太公爲太上皇。 上曰く、奈何(いかん)せん、と。良曰く、陛下平生憎む所にして、群臣の共に知るところは、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒(ようし)なり、と。良曰く、急に先ず齒を封ぜよ、と。是に於いて齒を封じて什方侯と為す。而(しか)して急に丞相・御史を趣(うなが)して、功を定め封を行う。群臣皆喜んで曰く、雍齒すら且つ侯たり、吾が属、患い無けん、と。 詔(みことのり)して元功十八人の位次(いじ)を定め、丞相何に賜い、剣履(けんり)して殿(でん)に上り、入朝して趨(はし)らざらしむ。 太公を尊んで太上皇と為す。 高祖は「どうすればよかろう」と尋ねると、張良は「陛下が平生憎んでおられて、なおかつ群臣がそれを知っている、その最たる者は誰でしょうか」高祖は「雍齒だろう」張良は「では真っ先に雍齒に領地をお与えください」そこで雍齒を什方(じゅうほう)侯に取り立てた。そうしておいて丞相や御史を督促して、諸将の功績を定めて領地を決めることにした。群臣は皆喜んで言った。「あの疎まれていた雍齒すら侯に取り立てられたのだから、我々は何の心配も無いだろう」と。 詔(みことのり)によって大功ある者十八人の席次を定め、丞相の蕭何には剣をつけ履(くつ)をはいて殿上にのぼることを許し、朝廷に入っても小走りしなくとも良いという恩典を賜った。 高祖は父の太公を尊んで太上皇(たいじょうこう)という尊号を奉った。 元功 元は頭、最上、第一の意味がある。 十八史略 叔孫通 2010-03-20 10 35 35 | 十八史略 與に成を守るべし 帝懲秦苛法、爲簡易。羣臣飮酒争功、酔或妄呼、抜劍撃柱。叔孫通説上曰、儒者難與進取、可與守成。願懲魯諸生、共起朝儀。上從之。魯有兩生。不肯行曰、禮樂積、而後可興也。通與所徴及上左右、與弟子百餘人、爲緜蕝野外習之。 帝、秦の苛法に懲りて簡易を為す。群臣酒を飲んで功を争い、酔うて或いは妄呼(もうこ)し、剣を抜いて柱を撃つ。叔孫通(しゅくそんとう)、上(しょう)に説いて曰く、儒者は与(とも)に進んで取り難く、ともに成を守るべし。願はくは魯の諸生を徴(ちょう)して、共に朝儀を起こさん、と。上之に従う。魯に両生有り。行くを肯(がえ)んぜずして曰く、礼楽は徳を積んで、後に興すべきなり、と。通(とう)、徴(め)す所のもの及び上の左右と、弟子(ていし)百余人と、緜蕝(めんぜつ)を野外に為(つく)って之を習わす。ー通釈は次回にー 十八史略 2010-03-23 08 20 26 | 十八史略 高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。 緜蕝(めんぜつ) 緜は木綿糸、蕝は茅 十八史略 叔孫通太常となる 2010-03-25 17 48 27 | 十八史略 七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 十八史略 叔孫通 太常となる 2010-03-27 13 49 23 | 十八史略 前回のつづき 読み下し文から 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。 法酒 儀礼の酒 諠譁 騒がしいこと、喧嘩 太常 神祇官、 十八史略 陳平匈奴と和睦す 2010-03-30 18 25 02 | 十八史略 匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。 九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。 匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。 九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。 匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。 九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。 梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族 梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。 梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。 十八史略 安くんぞ詩書を事とせん 2010-04-08 15 38 05 | 十八史略 前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、 帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。 遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。 陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。 高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。 南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。 乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。 十八史略 陸賈新語 2010-04-10 12 16 57 | 十八史略 承前 賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。 賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。 つづき 陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。 新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語) 十八史略 大風起こって雲飛揚す 2010-04-13 18 21 26 | 十八史略 淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。 十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、 大風起雲飛揚。 威加海内兮歸故郷。 安得猛士兮守四方。 令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。 淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。 十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、 大風起って雲飛揚(ひよう)す。 威、海内に加わって故郷に帰る。 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。 沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。 淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。 十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。 かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。 過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。 太牢 たいそう立派なご馳走。 十八史略 高祖、太子盈を廃せんと欲す 2010-04-20 16 33 42 | 十八史略 初戚姫有寵。生趙王如意。呂后見疏。太子仁弱。上以如意類己、欲廃太子而立之。羣臣争之、皆不能得。呂后使人彊要張良畫計。良曰、此難以口舌争也。顧上所不能致者四人。東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生。以上嫚侮士故、逃匿山中、義不爲漢臣。上高此四人。今令太子爲書卑詞、安車固請、宜来。至以爲客、時從入朝、令上見之、則一助也。 初め戚姫(せきき) 寵(ちょう)有り。趙王如意(じょい)を生む。呂后疏(うと)んぜらる。太子仁弱(じんじゃく)なり。上(しょう)、如意の己に類するを以って、太子を廃して之を立てんと欲す。群臣之を争えども、皆得ること能(あた)わず。呂后、人をして張良を彊要(きょうよう)して画計せしむ。良曰く、此れ口舌(こうぜつ)を以って争いがたきなり。顧(おも)うに上(しょう)の致すこと能わざる所の者四人あり。東園公・綺里季(きりき)・夏黄(かこう)公・甪里(ろくり)先生と曰う。上、士を嫚侮(まんぶ)する故を以って、逃れて山中に匿(かく)れ、義として漢の臣と為らず。上、此の四人を高しとす。今、太子をして書を為(つく)り詞(ことば)を卑(ひく)うし、安車(あんしゃ)もて固く請わしめば、宜しく来るべし。至らば以って客と為し、時々に従えて入朝し、上をして之を見しめば、則ち一助なり、と。 初め戚姫が帝に寵愛されて、趙王如意(じょい)を生んだので、呂后は疎んぜられた。そのうえ呂后の生んだ太子(盈)は慈悲深くはあったが身体が弱かった。帝は如意の気性が自分に似ていたので、盈を廃して如意を立てようとした。群臣は諌めたけれども、どれも聞き入れられなかった。そこで呂后は使者を張良に遣わして強いて太子の安泰を画策させた。張良はこれに答えて、「これは口先で諌めてもどうなるものでもありません。それがしが思うに、帝が招聘(しょうへい)しようとしてもどうにもならない人物が四人居ります、東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生といいますが、彼等は帝が士をあなどり軽んずるのを見て山中に隠れ、義を貫いて臣になりません。帝はこの四人を見識の高い者だと思っておられます。今太子が手紙を書き、言葉を丁寧にして、乗り心地の良い車で是非にと請えば、彼等はきっと太子のもとにやって来るでしょう。参りましたならば、彼等を賓客として遇し、折にふれて伴って帝のお目にかけるようになされますならば、一つの助けになりましょう」と言った。 彊要 強要と同じ。 嫚侮 嫚も侮もあなどる、ばかにすること。 甪里先生 角里とも書く。 十八史略 羽翼已に成れり。動かし難し 2010-04-24 08 35 45 | 十八史略 呂后使人奉太子書招之。四人至。帝撃布還、愈欲易太子。後置酒。太子侍。良所招四人者從。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。上怪問之。四人前對、各言姓名。上大驚曰、吾求公數歳、公避逃我。今何自從吾兒游乎。 四人曰、陛下輕士善罵。臣等義不辱。今聞太子仁孝・恭敬愛士、天下莫不延頸願爲太子死者。故臣等來耳。上曰、煩公。幸卒調護。四人出。上召戚夫人、指示之曰、我欲易之、彼四人者、輔之。羽翼已成。難動矣。 呂后人をして太子の書を奉じて之を招かしむ。四人至る。帝、布を撃って還り、愈々太子を易(か)えんと欲す。後、置酒(ちしゅ)す。太子侍す。良の招く所の四人の者従う。年皆八十余、鬚眉皓白(しゅびこうはく)、衣冠甚だ偉なり。上(しょう)、怪しんで之を問う。四人前(すす)んで対(こた)え、各々姓名を言う。上、大いに驚いて曰く、吾、公を求むること数歳なれども、公、我を避逃(ひとう)せり。今何に自(よ)って吾が児に従って游(あそ)ぶかと。 四人曰く、陛下士を軽んじて善く罵(ののし)る。臣等、義として辱(はず)かしめられず。今、太子、仁孝・恭敬にして士を愛し、天下頸(くび)を延べて太子の為に死するを願わざる者莫(な)しと聞く。故に臣等来れるのみ、と。上曰く、公を煩わさん。幸に卒(つい)に調護せよ、と。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示(しし)して曰く、我之を易えんと欲すれども、彼(か)の四人の者之を輔(たす)く。羽翼已に成れり。動かし難し、と。 呂后は使者をつかわして太子の書状を奉じて四人を招かせた。四人は都にやって来た。高祖は黥布を伐って帰り、いよいよ太子を易えようと思った。 その後宮中で酒宴が開かれた。太子も侍(はべ)っていたが、張良の献策で招かれた四人も付き従っていた。年齢は皆八十以上、ひげも眉も真っ白で衣冠をつけた姿がたいへん立派であった。帝は不思議に思い、名を尋ねると四人とも前に出て姓名を名乗った。帝は大いに驚き「余は貴公たちを何年も求めたが、その度に避け、逃げた。それが今どうして吾が子に従って客となっておられるのか」と問うた。四人は口をそろえて「陛下は士を軽んじてよく罵倒なさいます。臣らは義を重んじておりますゆえ辱めを受けてまで仕える気はございません。ところが太子は慈悲深く、孝心がお有りで、うやうやしく敬(つつし)んでよく士を愛されますので、天下の人びとで太子のために首をさし延ばして死ぬことを厭わない者はないと聞きおよんでいます。私どもが来たのはそのためでございます」と答えた。帝は「貴公たちの力を借りよう、どうかわが子を助けもり立てて下されよ」と頼んだ。帝は戚夫人を呼び、四人を指し示して「わしは太子を替えようと思ったがあの四人の者が太子を補佐している、ひな鳥に羽や翼が備わったも同然、もう動かすことは出来なくなった」と言った。 十八史略 乃(なんじ)の知る所に非ざるなり 2010-04-27 11 52 44 | 十八史略 蕭何以長安地陿、上林中多空地棄、請令民得入田。上大怒、下何廷尉、械繋之、數日而赦之。 上撃布中流矢、疾甚。呂后問、陛下百歳後、蕭相國死。誰可代之。曰、曹參。其次。曰、王陵。然少戇。陳平可以助之。平智有餘。然難獨任。周勃重厚少文、可令爲太尉。安劉氏者必勃也。復問其次。上曰、此後亦非乃所知也。 蕭何、長安の地陿(せま)くして、上林の中(うち)に空地の棄てられたるもの多きを以って、民をして入って田(でん)することを得しめんと請う。上大いに怒り何を廷尉に下(くだ)して、之を械繋(かいけい)せしが、数日にして之を赦(ゆる)せり。 上、布を撃つや流矢に中(あた)って疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后問う、陛下百歳の後、蕭相國死せば、誰か之に代るべき、と。曰く、曹參なり、と。其の次は。曰く、王陵なり、然れども少しく戇(とう)なり。陳平以って之を助くべし。平の智は余りあり。然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なく、太尉(たいい)たらしむべし。劉氏を安んぜん者は必ず勃ならん、と。復其の次を問う。上曰く、此の後は亦乃(なんじ)の知る所に非ざるなり。 蕭何が、長安の地は狭いのに、帝の御料場の中には空地のままうち棄てられたままになっている所があるので、民が林に入って耕作できるように願い出た。帝は大変怒って、蕭何を獄吏の手に下して、手かせをして牢に繋いだが数日経って赦した。 帝は黥布を征伐した時、流れ矢にあたったが、其の傷がもとで病が重くなった。そこで呂后が問うた「陛下に万一の事態が起こったとき、相国の蕭何がもし死んだら誰を代りに任用したらよろしうございましょう」帝は「曹参がよい」と答えた。更に「その次は」と問うと「王陵である、が少し愚直であるから陳平に補佐させるようにせよ。陳平は知略は充分にあるが一人では任せがたい。周勃は重厚な人物であるが、飾り気がないから太尉とするがよい。将来劉氏を安泰に保つ者は周勃であろう」と言った。呂后がまたその次を問うと、帝は「それから先のことはそなたの知ったことではなかろう」と言った。 上林 天子の庭園、狩猟などを行った。 田 耕すこと 廷尉 刑罰をつかさどる官名 械繋 械は手かせ足かせ 戇 愚直、がんこ 文少なく 文は模様、飾り 太尉 軍事長官、丞相に次ぐ位 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/103 十八史略 人豚 2010-04-29 12 36 49 | 十八史略 上崩。葬長陵。爲漢王者四年、爲帝者八年、凡十二年。太子盈立。是爲孝惠皇帝。 孝惠皇帝名盈。母呂太后。即位之元年、呂后鴆殺趙王如意、斷戚夫人手足、去眼耳、飮瘖藥、使居廁中。命曰人彘、召帝觀之。帝驚大哭、因病,歳餘不能起。 上(しょう)崩ず。長陵に葬る。漢王たること四年、帝たること八年、凡(すべ)て十二年なり。太子盈立つ。是を孝惠皇帝と為す。 孝惠皇帝名は盈(えい)、母は呂太后なり。位に即くの元年、呂后、趙王如意(じょい)を鴆殺(ちんさつ)し、戚夫人の手足(しゅそく)を断ち、眼を去り、耳を(ふす)べ、瘖薬(いんやく)を飲ましめ、厠中(しちゅう)に居(お)らしむ。命じて人彘(じんてい)と曰い、帝を召して之を観(み)しむ。帝驚いて大いに哭し、因(よ)って病み、歳余起(た)つこと能(あた)わず。 高祖が崩御し(前195年)、長陵に葬られた。漢王であること四年、天子であること八年、あわせて十二年間であった。二代皇帝に太子の盈が就いた。これを孝恵皇帝(恵帝)といった。 孝恵皇帝、名は盈という、母は呂太后である。即位の年、呂后は趙王如意を鴆毒(ちんどく)で殺し、戚夫人の手足を斬り、眼球をえぐり取り、耳を燻(いぶ)してふさぎ、瘖薬を飲ませて声を奪ったうえで厠(かわや)に閉じ込めた。これを「ひとぶた」と呼ばせて、恵帝にこれを見せた。恵帝は驚いて声をあげて哭(な)き叫んだ。とうとうこれがもとで病気になり、一年余りも起き上がれなかった。 鴆毒 マムシを食った鴆という鳥の羽を浸した酒という 瘖薬 ひとを唖にする薬 人彘 彘は猪子 十八史略 蕭何卒し曹参代って相国となる。 2010-05-01 09 27 21 | 十八史略 二年、蕭何卒。齊相曹參、令舎人趣爲裝。吾且入相。使者果召參。代何爲相國、一遵何約束。百姓歌之曰、 蕭何爲相、 較若畫一。 曹參代之、 守而勿失、 載其淨、 民以寧壹。 五年、曹參卒。 六年、王陵、爲右丞相、陳平爲左丞相。張良卒。周勃爲太尉。 二年、蕭何卒す。齊の相曹參、舎人をして趣(すみや)かに装を為さしむ。吾且(まさ)に入って相たらんとす、と。使者果たして参を召す。何に代って相国と為り、一(いつ)に何の約束に遵(したが)う。百姓(ひゃくせい)之を歌って曰く、 蕭何、相(しょう)と為り、 較(こう)として一を画(かく)するが若(ごと)し 曹参之に代り、 守って失うこと勿(な)く 載(こと)其れ清浄にして、 民以って寧壱(ねいいつ)なり 五年、曹参卒す。 六年、王陵、右丞相と為り、陳平、左丞相と為る。張良卒す。周勃、太尉と為る。 恵帝の二年に蕭何が死んだ。この時斉の大臣の曹参は、召使いに急いで旅装を命じた。そして自分はこれから朝廷に入って宰相になるのだといったが、果たしてその通り、使者が来て曹参を召した。入朝した曹参は蕭何に代って宰相になり、蕭何のとりきめに従った。人々はこれを讃えて歌って言うには、 蕭何さまの、まつりごと、その法すっきり一の文字 曹参さまがひきついで、なに変わることなきありがたさ すべてが清廉潔白で、おかげでわしらは安泰じゃ 五年にその曹参が死んだ。 六年に王陵が右丞相となり、陳平が左丞相となった。 同年張良が死に、周勃が太尉となった。 十八史略 劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て 2010-05-07 11 22 11 | 十八史略 太后、朝に臨み制を称す 帝在位七年崩。無子。呂太后、取他人子、以爲太子。至是即位。太后臨朝稱制。 元年、太后議立諸呂爲王。王陵曰、高帝刑白馬、盟曰、非劉氏而王、天下共撃之。平・勃以爲可。陵罷相。遂王呂氏。 四年、太后廢少帝幽殺之、立恆山王義爲帝。改名弘。亦名佗人子、爲惠帝子者也。 帝、位に在ること七年にして崩ず。子無し。呂太后、他人の子を取って、以って太子と為す。是(ここ)に至って位に即(つ)く。太后、朝に臨み制を称す。 元年、太后、諸呂を立てて王と為さんと議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑(けい)し、盟(ちか)って曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て、と。平・勃以って可と為す。陵、相を罷(や)む。遂に呂氏を王とす。 四年、太后、少帝を廃して之を幽殺し、恒山王、義を立てて帝と為す。名を弘(こう)と改む。亦佗人の子を名づけて、恵帝の子と為しし者なり。 恵帝は在位七年で崩御した。帝に子は無かった。呂太后は他人の子を奪って太子としていたが、恵帝が亡くなったので、この太子が位についた(少帝恭という)そして呂太后は朝廷にあって自身の命令を制と称して天子のみことのりと同列にしてしまった。 少帝の元年、太后が一族の呂氏の面々を王に就かせようと朝議に諮った。右丞相王陵が敢然と「高祖皇帝は白馬をいけにえに捧げて、わが劉氏でない者が王となったなら、天下こぞってこれを撃つべしと、盟いを立てられました」と反対した。しかし陳平と周勃が賛成したので王陵は宰相を辞め、結局呂氏が王になった。 四年、呂后は少帝を廃して幽閉したうえで殺し、恒山王の義を立て名を弘と改めて帝とした(少帝弘)。これも他人の子を恵帝の子としておいたものである。 白馬を刑し 刑は殺すこと、いけにえにしてその血をすすって誓いをたてる。 少帝を廃し 呂后は太子恭の実母を殺して奪った。それを知った少帝が呂后を恨むようになったからという。 十八史略 朕は献を受けざるなり 2010-05-13 10 41 25 | 十八史略 孝文皇帝名恆、母薄氏。夢龍據胸、遂生帝。帝立、尊爲皇太后。 元年、陳平爲左丞相、周勃爲右丞相。 時有獻千里馬者。帝曰、鸞旗在前、屬車在後、吉行日五十里、師行日三十里。朕乗千里馬、獨先安之。於是還其馬、與道里費、而下詔曰、朕不受獻也。其令四方毋來獻。 孝文皇帝名は恒(こう)、母は薄氏(はくし)なり。龍胸に拠(よ)ると夢みて、遂に帝を生む。帝立ち、尊んで皇太后と為す。 元年、陳平左丞相と為り、周勃右丞相と為る。 時に千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、鸞旗(らんき)前に在り、属車後ろに在って、吉行(きっこう)には日に五十里、師行には日に三十里なり。朕、千里の馬に乗るとも、独り先だって安(いづ)くにか之(ゆ)かん、と。是(ここ)に於いて其の馬を還(かえ)し、道里の費を与え、而(しか)して詔(みことのり)を下して曰く、朕は献を受けざるなり。其れ四方をして来献すること毋(な)からしめよ、と。 孝文皇帝名は恒といい、母は薄氏である。龍が胸に棲む夢をみて身ごもり、文帝を生んだ。帝は位につくと、母をうやまって皇太后と称した。 元年に、陳平は左丞相となり、周勃が右丞相となった。 ときに、一日に千里をも走るという名馬を献上する者がいた。しかし文帝は「天子の旗を前に、供奉(ぐぶ)の車を従えて、巡狩(じゅんしゅ)には一日五十里、征伐のときには一日三十里進む決まりであるのに、千里の馬に乗ったところでわし一人が一体どこに行こうというのか」と言った。そこでその馬と道中の費用を渡して返した。そうしてみことのりを下した。「朕は一切献上を受けぬ、国中に来献することの無いようはからえ」と。 鸞旗 天子の旗、鸞は瑞鳥で鳳凰に似る。 吉行 狩など、平和の時に出かける。師行の師はいくさ 十八史略 惶愧して汗出で背を沾す 2010-05-18 09 46 26 | 十八史略 周勃職を免ぜらる 帝明修國家事。朝而問右丞相勃曰、天下一歳決獄幾何。勃謝不知。又問、一歳錢穀出入幾何。勃又謝不知。惶愧汗出沾背。上問左丞相平。平曰、有主者。即問決獄責廷尉。問錢穀責治粟内史。上曰、君所主者何事。平謝曰、陛下使待罪宰相。宰相者、上佐天子、理陰陽、順四時、下遂萬物の宜、外鎭撫四夷、内親附百姓、使卿大夫各得其職焉。帝稱善。勃大慚、謝病免。 帝益々国家の事を明修す。朝(ちょう)にて右丞相勃に問うて曰く、天下一歳の決獄(けつごく)幾何(いくばく)ぞ、と。勃知らずと謝す。又問う、一歳の銭穀の出入幾何ぞ、と。勃又知らずと謝す。惶愧(こうき)して汗出で背を沾(うるお)す。上(しょう)、左丞相平に問う。平曰く、主者(しゅしゃ)有り。即(も)し決獄を問うには廷尉を責められよ。銭穀を問うには治粟内史(ちぞくないし)を責められよ、と。上曰く、君の主(つかさど)る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上(かみ)、天子を佐(たす)け、陰陽を理し、四時(しじ)を順にし、下(しも)万物の宜(よろ)しきを遂げ、外、四夷(しい)を鎮撫し、内、百姓(ひゃくせい)を親附(しんぷ)し、卿大夫をして各々其の職を得しむるものなり、と。帝、善しと称す。勃大いに慚(は)じ、病と謝して免ぜらる。 文帝は益々国のまつりごとに通暁しようと務めた。ある時、朝廷で右丞相の周勃に下問した。「一年に裁判の数はいかほどか」と。周勃は「存じません」と恐縮して答えた。帝は又、「一年に金銭・穀物の出入りはいかほどか」と問うた。周勃は又「存じません」と答えたが、恐れ恥じ入って冷や汗で背中がぐっしょりになった。帝は左丞相の陳平に同じことを問うた。陳平が答えて「それぞれ管掌というものがあります。裁判についてのご下問は廷尉に糺して下さい。また金銭、穀物のことは治粟内史にお尋ねください」と言った。帝は「それではそちは何を司っておるのか」と訊くと、陳平は「私は宰相として至りませず、陛下から罰せられるのを待っている身でありますが、そもそも宰相の職務は上は天子を補佐し、陰陽を整え、春夏秋冬を順調ならしめ、下は万物のよろしきを得て、外は四方の蛮夷を鎮め、内は人民を親しみなつかせ、卿大夫にはそれぞれふさわしい職務を得させること、でございます」と申し上げた。帝は「もっともである」といわれた。周勃は大いに恥じいって、病と申し出て、職を免ぜられた。 決獄 嫌疑のある事件を決裁すること。 惶愧 惶はおそれる、愧ははじる。 廷尉 裁判を掌る長官。 治粟内史 銭穀を掌る長官。 陛下、罪を宰相に待たしむ 宰相の重責ありながら何の功績もなく、ただ陛下から罪の来るのを待っているの意、宰相の謙辞。 陰陽を理し、四時を順にし 正しく政治を行えば天変地異が無く、四時が順調に推移するという思想があったから。 十八史略 廷尉は天下の平なり 2010-05-20 08 16 47 | 十八史略 河南守呉公、治平爲天下第一。召爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼。年二十餘。一歳中、超遷爲大中大夫。 陳平卒。 二年、賜天下今年田租之半。 三年、張釋之爲廷尉。上行中渭橋。有一人、橋下走。乘輿馬驚。捕屬廷尉。釋之奏、犯蹕當罰金。上怒。釋之曰、法如是。更重之、是法不信於民。廷尉天下之平也。一傾、天下用法、皆爲之輕重。民安所措手足乎。上良久曰、廷尉當、是也。 河南の守(しゅ)呉公、治平天下第一たり。召して廷尉と為す。呉公、洛陽の人賈誼(かぎ)を薦(すす)む。年二十余。一歳のうち、超遷(ちょうせん)して大中大夫と為る。 陳平、卒す。 二年、天下に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 三年、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為る。上(しょう)中渭橋(ちゅういきょう)を行く。一人(いちにん)有り、橋下より走る。乗輿(じょうよ)の馬驚く。捕えて廷尉に属す。釈之奏す、蹕(ひつ)を犯すは罰金に当(とう)す、と。上怒る。釈之曰く、法是(かく)の如し。更に之を重くせば、是れ法、民に信ならず。廷尉は天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用うるもの、皆之が為に軽重(けいじゅう)せん。民安(いづ)くにか手足(しゅそく)を措(お)く所あらんや、と。上、良々(やや)久しうして曰く、廷尉の当、是なり、と。 河南の大守呉公は、政治の公平なこと天下第一であったので召して廷尉とした。呉公は洛陽の人賈誼を推薦した。賈誼はその時二十歳あまりであったが、一年のうちに、一足飛びに出世して大中大夫となった。 この年、陳平が死んだ。 文帝の二年、天下中に今年の年貢の半分が免除された。 三年、張釋之が廷尉になった。ある日、文帝が中渭橋を通りかかると、橋の下から走り出した者がいて、帝の馬が驚いて棹立ちになった。すぐさま捕えて廷尉に引き渡した。釈之が「行幸を騒がせたのは罰金に相当いたします」と奏上した。帝は処分の軽さに立腹したが、釈之はひるまず「法ではそのように決まっております。もしこれより重く致しますと、法が民に信用されなくなります。廷尉の職は天下の公平を司ることにあります。一たび傾きますと天下の法に携わる者が、これにならって、勝手に軽重を決めるでしょう。そうなれば民はどうして手足を伸ばせましょうか」と申し上げた。帝はしばらく思案の後、口を開いた「廷尉の処置はもっともである」と。 超遷 飛び越えて昇進すること。 大中大夫 論議を掌る官。 蹕 天子の行列のさきばらい、行きは警といい、帰りを蹕という。 十八史略 一尺の布も尚縫うべし 2010-05-25 16 27 10 | 十八史略 六年、淮南王長謀反、廢徙死。民有歌之者。曰、一尺布尚可縫。一斗粟尚可舂。兄弟二人不相容。帝聞而病之、後封其四子爲侯。 匈奴冒頓死。 先是、上議以賈誼位公卿。大臣多短之。上以爲長沙王大傅。徙梁王大傅。上疏曰、方今時埶、可爲痛哭者一。可爲流涕者二。可爲長大息者六。 十年、帝舅薄昭、殺漢使者。帝不忍誅、使公卿羣臣往哭之。昭自殺。 六年、淮南(わいなん)の王(れいおう)長、謀反(ぼうはん)し、廃徒(はいし)せられて死す。民之を歌う者あり、曰く、 一尺(せき)の布も尚縫うべし。 一斗の粟(ぞく)もなお舂(うすづ)くべし。 兄弟(けいてい)二人(ににん)相容れず。と 帝聞いて之を病(うれ)え、後其の四子(しし)を封(ほう)じて侯と為せり。 匈奴の冒頓(ぼくとつ)死す。 是より先、上(しょう)、賈誼(かぎ)を以って公卿(こうきょう)に位せしめんと議す。大臣多く之を短(そし)る。上以って長沙王の大傅(たいふ)と為す。梁王の大傅に徒(うつ)る。上疏(じょうそ)して曰く、方今(ほうこん)の時埶(じせい)、為(ため)に痛哭すべき者一。為に流涕すべき者二。為に長大息すべき者六あり、と。 十年、帝の舅(きゅう)薄昭、漢の使者を殺す。帝、誅するに忍びず、公卿羣臣をして往(ゆ)いて之を哭せしむ。昭自殺す。 六年に文帝の弟で淮南の王(れいおう)長が謀反を企てたが発覚して、王位を廃され、他所に移される途中で死んだ。痛ましく思った民の歌が広まった。 わずかな布も縫って仲良く着られる。僅かな粟も搗いて一緒に食べられる。なのにどうして兄弟二人許し合えぬ。 文帝はこの歌を聞いてひどく気に病み、王の四人の遺児を侯に封じた。 この年、匈奴の冒頓が死んだ。 これより以前、帝は賈誼を公卿に取り立てようと朝議にかけたが、大臣の多くは短所をあげて非難した。そのため帝は賈誼を長沙王の大傅にしたが、間もなく梁王の大傅に移した。ある時、賈誼は上疏して「現今の時勢を見ますに、悲しみ嘆くべきものが一つ、涙を流すべきものが二つ、ため息をつくものが六つあります。」と申しあげた。 十年に、文帝の叔父の薄昭が朝廷の使者を殺した。帝は薄昭を誅殺するに忍びず公卿、群臣を薄昭の邸で使者の死を悲しみ泣かせた。薄昭は罪が軽くないことを悟って自殺した。 大傅 王を補佐、養育する役。 上疏 天子に奉る意見書 一尺の布・・・頼山陽の静御前の詩にみえる 十八史略 以って父の刑を贖(あがな)わしめよ 2010-05-29 15 48 09 | 十八史略 十二年、賜民今年田租半。 十三年、太倉令淳于意、有罪當刑。少女緹縈上書曰、死者不可復生。刑者不可復屬、願没入爲官婢、以贖父刑。上憐其意、詔除肉刑。 是歳、除田租税 十六年、方士新垣平爲上大夫。 後元年、平以詐伏誅。 十二年、民に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 十三年、太倉の令淳于意(じゅんうい)、罪有って刑に当る。少女緹縈(ていえい)上書して曰く、死者は復(また)生く可からず。刑者は復属す可からず、願わくは没入して官婢と為し、以って父の刑を贖(あがな)わしめよ、と。上(しょう)其の意を憐れみ、詔(みことのり)して肉刑を除く。 十六年、方士新垣平(しんえんぺい)上大夫と為る。 後の元年、平、詐(さ)を以って誅に伏す。 十二年、民に今年の田租の半分を免除した。 十三年、太倉令の淳于意が肉体の一部を切る肉刑に相当する罪を犯した。娘の緹縈が上書して言うには「死んだ者は生き返りません、肉体を切られた者は再び元に戻せません。どうか私の身体をお取り上げになって召使にすることで、父の刑をあがなうことをお許し下さい」と。帝は少女の心根を憐れみ、詔を下して以後肉刑を廃止した。 十六年、方士の新垣平なる者が一計を案じて上大夫となった。 のちの元年、新垣平のいつわりが露見して殺された。 太倉の令 朝廷の米倉を管理する長官。 肉刑 刺青、鼻そぎ、足切、宮刑など。 方士 仙術を行う者。 後の元年 新垣平の計略によって瑞兆が顕われたことを喜んだ文帝が十七年を後の元年とした。 十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ 2010-06-01 10 10 51 | 十八史略 将軍の令を聞いて天子の詔を聞かず 六年、匈奴寇上郡・雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上・棘門軍兒戲耳。 六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備えしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。大将以下、騎して送迎す。已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。乃ち言を伝えて門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。群臣皆驚く。上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。 文帝の後の六年に匈奴が上郡や雲中を侵した。文帝は詔を下して、将軍の周亜夫は細柳に駐屯し、劉禮は覇上に、徐は棘門に宿営して匈奴に備えさせた。文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴いた。馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下、騎馬で送迎した。その後細柳に行くと門を入ることが出来ない。先駆の者が「天子さまがお着きになる開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」と。帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせた。そして将軍の命によって門を開かせたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言った。帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげた。群臣は皆あきれたが、帝はすっかり感服して、「これこそ真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言った。 寇 倭寇、元寇の寇、領土を侵すこと。上郡 陜西省の地名。 雲中 山西省の地名。周亞夫 周勃の子。 細柳・覇上・棘門 陜西省の地名長安近郊。 屯・次 ともに留まって守備をすること。 且に 将に同じ、再読文字「まさに・・・す」と読む。 轡(ひ)を按(あん)じ くつわを引いて馬をおさえること。 向者 二字でさきと読む向は以前のこと、者は「・・・は」覇上と棘門を指す 十八史略 風流篤厚 2010-06-03 18 01 50 | 十八史略 文帝崩ず 七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。 七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。 後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。 太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。 弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること 十八史略 孝景皇帝 2010-06-05 09 30 46 | 十八史略 孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。 帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請 言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。 初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。 孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。 帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。 初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず 十八史略 孝景皇帝 2010-06-08 08 33 24 | 十八史略 孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。 景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。 以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。 内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ 十八史略 呉楚七国の乱 2010-06-10 08 26 59 | 十八史略 及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。 帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。 景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。 十八史略 周亜夫、血を吐きて死す。 2010-06-12 14 18 58 | 十八史略 初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。 初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。 鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。 緩急 危急の場合 太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。 鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと 以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。 ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。 一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ 十八史略 2010-06-15 08 32 52 | 十八史略 自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。 漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、 黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。 漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく 黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。 廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉 十八史略 物盛んにして衰うる 2010-06-17 08 42 38 | 十八史略 爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。 吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。 帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。 官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。 すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。 景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。 重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。 十八史略 始めて改元して建元という 2010-06-19 08 05 52 | 十八史略 孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。 擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。 孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。 賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。 孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。 武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。 十八史略 董仲舒の対 2010-06-22 17 56 07 | 十八史略 又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。 又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。 また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく 極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。 十八史略 董仲舒の対 2 2010-06-24 17 29 44 | 十八史略 今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。 十八史略董仲舒の続きです。 陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。 陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。 陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。 漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。 然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。 更張 張り替えること。 更化 改め変えること。 十八史略 董仲舒の対 3 2010-06-26 11 52 01 | 十八史略 太學 又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。 又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。 又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。 董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」 又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。 太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること 十八史略 董仲舒の対 4 2010-06-29 13 47 59 | 十八史略 又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。 又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。 また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。 春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。 十八史略 力行如何(いかん)を顧みるのみ 2010-07-01 14 04 46 | 十八史略 上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。 三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。 帝始爲微行、起上林苑。 五年、置五經博士。 六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。 元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。 上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。 三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。 帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。 五年、五経博士を置く。 六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。 元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。 武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。 三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。 武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。 五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。 六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。 年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。 安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。 十八史略 武帝神仙を求む。 2010-07-06 13 35 20 | 十八史略 二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。 二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。 元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。 丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者 十八史略 司馬相如 2010-07-08 13 50 35 | 十八史略 上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。 唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。 又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。 上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。 唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。 又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。 武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。 唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。 また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。 大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。 十八史略 曲学阿世 2010-07-10 15 53 05 | 十八史略 曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ 徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。 六年、初算商車。 吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。 六年、初めて商車を算す。 武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。 元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。 菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問 十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや 2010-07-13 08 27 32 | 十八史略 匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。 元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。 匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。 元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。 匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。 元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。 この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。 上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。 十八史略 張騫を西域に遣わす 2010-07-15 11 51 44 | 十八史略 五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。 匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。 六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。 元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。 五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。 匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。 還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。 六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。 元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。 元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。 匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。 衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。 匈奴が代郡に攻め入った。 六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。 元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。 代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族 十八史略 霍去病、西域を平ぐ 2010-07-17 12 16 10 | 十八史略 二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。 匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。 三年、匈奴入右北平・定襄。 四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。 二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。 匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。 三年、匈奴、右北平・定襄に入る。 四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。 元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。 匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。 三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。 元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。 十八史略 衛青と霍去病 2010-07-20 18 17 08 | 十八史略 元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。 西域始通。置酒泉・武威郡。 五年、遣將軍路博等撃南越。 方士五利將軍欒大、以詐誅。 六年、討西羌平之。 南越平。置九郡。 元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。 西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。 五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。 方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。 六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。 南越平らぐ。九郡を置く 元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。 西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。 五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。 六年、西羌国を討伐してこれを平定した。 南越も平定したので、九郡を置いた。 文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。 衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没 霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/98 十八史略 泰山に封じ、粛然山に禅す。 2010-07-22 10 16 14 | 十八史略 元封元年、帝出長城、登單于臺、遣使告單于曰、南越王頭、已懸於漢北闕下。今單于能戰、天子自將待邊。 帝如緱氏、登中嶽、遂東巡海上、求神仙、封泰山、禪粛然、復東北至碣石而還。 滇王降。置益州郡。 三年、撃楼蘭虜其王、撃車師破之。 朝鮮降。置樂浪・臨屯・玄莬・眞蕃郡。 匈奴寇邊。遣兵屯朔方。 五年、南巡江漢、至泰山増封。 六年、撃昆明。 元封元年、帝、長城を出で、単于台に登り、使いを遣わし単于に告げて曰く、南越王の頭(こうべ)はすでに漢の北闕(ほっけつ)の下(もと)に懸かれり。今、単于能(よ)く戦わば、天子自ら将として辺に待たん、と。 帝、緱氏(こうし)に如(ゆ)き、中嶽に登り、遂に東のかた海上を巡り、神仙を求め、泰山に封じ、粛然(しゅくぜん)に禅し、復東北して碣石(けっせき)に至って還る。 滇王(てんおう)降る。益州郡を置く。 三年、楼蘭を撃って其の王を虜にし、車師を撃って之を破る。 朝鮮降る。楽浪・臨屯(りんとん)・玄莬(げんと)・眞蕃郡(しんばんぐん)を置く。 匈奴、辺に寇す。兵を遣わして朔方に屯せしむ。 五年、南のかた江漢を巡(めぐ)り、泰山に至って封(ほう)を増す。 六年、昆明を撃つ。 元封元年に、武帝は長城を越えて冒頓単于の築いた台に登り、使者を遣わして、単于に告げて、「南越王の頭(こうべ)は漢宮の北門に懸かっている。それでも汝が漢と戦うというのなら、わしが自ら大将軍となって国境で待っていてやるが、どうだ」と威した。 武帝は緱氏県に行き、嵩山(すうざん)に登り、更に東の海上を巡り神仙を捜し求めた。それから泰山に登り、天を祀る封の儀式を、麓の粛然山で地を祀る禅の儀式を執り行って、さらに東北に行き、碣石山に至って帰還した。 滇王が降伏したので、益州郡を置いた。 元封三年に楼蘭国に攻め入り、王を虜にした。さらに車師国を撃ち破った。 朝鮮が降伏したので、楽浪・臨屯・玄莬・眞蕃の四郡を置いた。 匈奴は辺境を侵犯したので、兵を派遣して朔方郡に駐屯させた。 五年に、南の揚子江、漢水の地方を巡幸し、泰山に登って、土檀を増築して祀った。 六年に、昆明を攻めた。 北闕 漢の未央宮では北門を正門とした。 緱氏 河南省の県。 中岳 五岳の一、嵩高山、太室山とも。 粛然 泰山の麓にある山の名。 封と禅 封は土を盛って天をまつり、禅は地を清めて山川をまつること。 碣石山 河北省にある山名。 楼蘭・車師 ともに新疆地区にあった国名。 昆明 雲南地方の族名。 十八史略 太初暦を制定す 2010-07-27 14 12 53 | 十八史略 太初元年、帝如泰山。十一月甲子、朔旦冬至、作太初暦、以正月爲歳首。 遣李廣利伐大宛。不克。 遣趙破奴撃匈奴。敗没。 三年、匈奴大入、破塞外城障。 大發兵、從李廣利伐宛。宛降。得善馬數十匹。 四年、匈奴單于、使使來獻。 太初(たいしょ)元年、帝泰山に如(ゆ)く。十一月甲子、朔旦(さくたん)冬至、太初暦を作り、正月を以って歳首と為す。 李廣利(りこうり)を遣わして大宛(だいえん)を伐たしむ。克(か)たず。 趙破奴(ちょうはど)を遣わして匈奴を伐たしむ。敗没す。 三年、匈奴大いに入って、塞外の城障(じょうしょう)を破る。 大いに兵を発し、李廣利に従って宛を伐たしむ。宛降る。善馬数十匹を得たり。 四年、匈奴の単于、使いをして来献せしむ。 太初元年(前104年)、武帝は泰山に行き、封の儀式を行った。この年の十一月甲子の日は一日(ついたち)で冬至でもあったので、暦法を改めて太初暦を制定して、この日を正月元日とし、歳のはじめとした。 李広利を派遣して大宛国を撃たせたが、勝つことができなかった。 趙破奴を派遣して匈奴を撃たせたが、敗れて趙破奴は捕虜になった。 三年に、匈奴が大挙して侵入し砦の外の城壁を破った。 大部隊を動員して李広利の指揮で宛の討伐に向わせた。宛は降伏し、駿馬数十匹を得て帰った。 太初四年に匈奴の単于が使者を送って、貢物を献上した。 甲子 干支のそれぞれ第一番目、きのえね。ちなみにこの年は丁丑直近では1997年で35回還暦を迎えたことになる。 朔旦 一日の朝。 大宛国 西域の代表国、イラン系の国で汗血馬の産地。 敗没 戦に敗れて捕虜になること。 十八史略 蘇武 2010-07-29 10 35 32 | 十八史略 天漢元年、遣中郎將蘇武使匈奴。單于欲降之、幽武置大窖中、絶不飮食。武齧雪與旃毛、并咽之。數日不死。匈奴以爲神、徙武北海上、無人處。使牧羝曰、羝乳乃得歸。 二年、遣李廣利撃匈奴。別將李陵敗降虜。 上以法制御下、好尊用酷吏。東方盗賊滋起。遣使者、衣繍衣、持斧督捕、得斬二千石以下。 四年、李廣利撃匈奴。不利。 太始三年、帝東巡瑯琊、浮海而還。 四年、東巡祀明堂、修封禪。 天漢元年、中郎將蘇武(そぶ)を遣わし匈奴に使いせしむ。単于(ぜんう)之を降(くだ)さんと欲し、武を幽(ゆう)して大窖(たいこう)中に置き、絶えて飲食せしめず。武、雪と旃毛(せんもう)とを齧(か)み、併せて之を咽(の)む。数日死せず。匈奴以って神(しん)と為し、武を北海の上(ほとり)、無人の処に徙(うつ)す。羝(てい)を牧せしめて曰く、羝、乳(にゅう)せば乃(すなわ)ち帰るを得ん、と。 二年、李廣利を遣わして匈奴を撃たしむ。別将李陵敗れて虜(りょ)に降る。 上(しょう)、法制を以って下(しも)を御し、好んで酷吏を尊用す。東方に盗賊滋々(しばしば)起こる。使者を遣わして、繍衣(しゅうい)を衣(き)、斧(ふ)を持して督捕(とくほ)せしめ、二千石以下を斬ることを得しむ。 四年、李広利匈奴を撃つ。利あらず。 太始三年、帝、東のかた瑯琊を巡り、海に浮んで還る。 四年、東巡して明堂を祀り、封禅を修(しゅう)す。 天漢元年、中郎将の蘇武を匈奴に使いとして遣わした。単于は蘇武を虜にして匈奴に仕えさせようとしたが拒絶したので、あなぐらに幽閉し、飲食を絶った。蘇武は織物の毛と雪とをあわせて呑み下して、数日生き延びた。匈奴たちは、その生命力を神がかりであるとして、蘇武を北海の無人の岸辺に移し、牡羊を飼わせて、もし子を産んだら還してやろう。と言った。 天漢二年に李広利を遣わして匈奴を撃たせた。そのとき別軍の将の李陵は敗れて降伏した。 武帝は、法や制度で人民を統治し、冷徹な役人を好んで重く用いた。しかし東方では盗賊が多く出没した。そこで武帝は、使者を送り、その使者に立派な刺繍の衣を着せ、斧を持たせて、賊を取り締まり、捕えさせた。地方長官以下で、悪事を働く者を独断で処刑できるようにした。 四年に、李広利が匈奴を攻めたが、失敗に終った。 太始三年になると武帝は東方の瑯琊郡を巡り、海路船で帰った。 四年に、東方を巡視して、泰山の明堂で諸侯を引見して、天を祀り、地を祓って封禅の儀式を行った。 中郎將 帝を護衛する武官の長。 蘇武 匈奴に捕えられ19年節を守って降らず、昭帝の時代に還った。 北海 バイカル湖。 衣繍衣持斧 天子の代理であることを示すため錦の刺繍の服を着せ、天子が出征の将軍に持たせる斧を授けた。 二千石以下 郡の太守の年俸に等しい。 十八史略 巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る 2010-08-17 13 40 24 | 十八史略 目まぐるしく元号が交替したので、ここで一度整理をしてみます。武帝が始めて年号を制定した建元から昭帝即位までの年号を西暦に対比して掲げてみます。 建元元年 前140年 2150年前 元光 前134年 2144年前 元朔 前128年 2138年前 元狩 前122年 2132年前 元鼎 前116年 2126年前 元封 前110年 2120年前 太初 前104年 2114年前 天漢 前100年 2114年前 太始 前96年 2106年前 征和 前92年 2102年前 後元 前88年 2098年前 征和二年、巫蠱事作。帝如甘泉、以江充爲使者、治巫蠱獄。掘太子宮云、得木人尤多。太子據懼、使客佯爲使者、収捕充斬之、白母衞皇后、發中厩車、載射士、出武庫兵、發長樂宮衞卒。 征和二年、巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る。帝、甘泉に如(ゆ)き、江充を以って使者と為し、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘って云う、木人を得ること尤(もっと)も多し、と。太子據(きょ) 懼(おそ)れ、客をして佯(いつわ)って使者と為し、充を収捕して之を斬らしめ、母衛皇后に白(もう)し、中厩の車を発し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を発す。 征和二年に巫蠱の事件が起こった。帝は甘泉宮に保養に行っていたので、江充を使者に遣わして事件の処断を任せた。かねてより太子と不仲の江充は太子の宮殿を掘り返したら、多くの呪詛の木人が出て来ましたと、嘘の報告をした。 太子の據は江充のわなに陥ったことを知り、恐れて食客の一人を武帝の使者と偽って、江充を捕えて切り殺した。そして母の衛皇后にいきさつを告げて宮中の厩から、兵車を引き出し、射手を乗り込ませ、武器庫から武器を持ち出して長楽宮の護衛兵を出動させた。 十八史略 巫蠱の事 2010-08-19 09 52 19 | 十八史略 上從甘泉宮來、詔發三輔兵。丞相劉屈氂將之。太子亦矯制發兵、逢丞相軍。兵合戰五日、死者數萬。皇后自殺、太子亡至湖、自經死。後有高廟寢郎、田千秋。上書言、有白頭翁、教臣云、子弄父兵、罪當笞。上悟曰、此高廟神靈、告我也。知太子無罪。作歸來望思之臺於湖。天下聞而悲之。 上(しょう)、甘泉宮より来たり、みことのりして三輔の兵を発す。丞相劉屈氂(りゅうくつり)之に将たり。太子も亦制を矯(いつわ)り兵を発し、丞相の軍に逢う。兵、合戦すること五日、死する者数万なり。皇后自殺し、太子亡(に)げて湖(こ)に至り、自頸して死す。 後、高廟の寢郎、田千秋というもの有り。上書して言う、白頭翁有り、臣に教えて云わく、子、父の兵を弄するは、罪笞(ち)に当(とう)す、と。上、悟って曰く、此れ高廟の神霊、我に告ぐるなり。太子の罪無きを知る、と。帰来望思の台を湖に作る。天下、聞いて之を悲しむ。 武帝は急ぎ甘泉宮より戻り、詔勅を発して三輔の兵を出動させた。丞相の劉屈氂が率いた。太子もまた帝の詔勅といつわって兵を繰り出し丞相の軍と対峙した。合戦は五日に及び、死者数万人にも及んだ。太子は敗れ、母の衛皇后は自殺、太子は逃げて湖県に行き、そこで首をくくって死んだ。 後に、高祖の御霊屋(みたまや)の司で田千秋という者が、武帝に書をたてまつって言うには「白頭の翁が現れまして臣に向って、子たる者が、父の兵を勝手に動かすのは笞打ちの刑に相当するのみである。と告げました」と。 武帝はそこで「高祖の霊が我に太子には罪がないことを示されたに違いない」と気づき、湖県に帰来望思台を作った。人々はこれを聞いて大いに悲しんだ。 巫蠱 巫は巫女、蠱は人を惑わし害すること。 三輔の兵 都長安の周囲三郡の兵。 湖 河南省湖県 十八史略 武帝霍光に後を託す。 2010-08-21 09 29 39 | 十八史略 三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。 四年、罷方士候神人者。 以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。 後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。 三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。 四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。 田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。 後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。 征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。 四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。 田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。 後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。 輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟 十八史略 武帝の事跡(一) 2010-08-24 16 29 37 | 十八史略 上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。 上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。 武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。 平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。 十八史略 武帝の事跡二 2010-08-26 14 59 40 | 十八史略 漢、幾んど秦たるを免れず 以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。 方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。 方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。 均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。 十八史略 武帝の事跡 2010-08-28 13 55 24 | 十八史略 丞相連(しき)りに誅を以って死す。 所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。 用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。 武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。 十八史略 武帝の事跡四 2010-08-31 17 35 03 | 十八史略 汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。 汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。 群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。 切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。 十八史略 武帝の事跡 汲黯 2010-09-02 13 32 29 | 十八史略 黯の如きは冠せざれば見ざるなり 淮南王安謀反。曰、漢廷大臣、獨汲黯好直諌、守節死義。如丞相弘等、説之如發蒙耳。黯嘗拝淮陽守。曰、臣病、不能任郡事。願爲郎中、出入禁闥、補過拾遺。上曰、君薄淮陽邪。吾今召君矣。顧淮陽吏民不相得。徒得君之重、臥而治之。至淮陽、十歳竟卒。黯甚爲上所重。大將軍衞雖貴、上或踞廁見之。如黯不冠、不見也。 淮南王(わいなんおう)安、反を謀(はか)る。曰く、「漢廷の大臣、独り汲黯(きゅうあん)、直諌を好み、節を守って義に死す。丞相弘等の如きは、之を説くこと蒙を発(ひら)くがごとき耳(のみ)」と。黯、嘗て淮陽(わいよう)の守に拝せらる。曰く、臣病んで郡事に任ずる能(あた)わず。願わくは郎中と為り、禁闥(きんたつ)に出入し、過を補い遺(い)を拾わん、と。上曰く、君、淮陽を薄(うす)んずるか。吾今、君を召さん。顧(おも)うに淮陽の吏民、相得ず。徒(ただ)君の重きを得て、臥して之を治めんと。淮陽に至り、十歳にして竟(つい)に卒(しゅっ)す。黯、甚(はなは)だ上の重んずる所と為る。大将軍衞、貴しと雖も、上、或いは廁(しょく)に踞(きょ)して之を見る。黯の如きは、冠せざれば見ざるなり。 淮南王の安が謀反を企ててこう言った。「漢の朝廷の重臣の中で、汲黯だけが憚ることなく天子を諌め、節義を守るために命を投げ出す人物だ。丞相の公孫弘などの連中は、いかようにも言いくるめられる。まるで何かの蓋をつまんで取るようなものだ」と。 汲黯は嘗て、河南の淮陽の太守に任命されたとき、「私めは病気がちで、お役目を果たすことが出来そうもありません。できることなら郎中にしていただいて、宮中に出入りし、陛下の過失をおぎない、お見落としを拾っていきたいと思います」と申し上げた。武帝は「そなたは淮陽を軽んじていないか。どうにもいやだと言うなら、すぐにも呼び戻してやるから暫く行ってくれ。役人と人民との間がうまくいっていない、そなたの徳の重みで寝たままで良いから治めてくれ」と言った。汲黯は結局淮陽に赴任し、十年後、ついにその地で歿した。 汲黯は、武帝にたいそう信任された。大将軍の衛青さえ、武帝は時として寝台に腰掛けたまま引見することがあったが、汲黯に対してだけは、冠をつけなければ決して会わなかった。 淮南王安 高祖の孫、謀反したが自殺した。 蒙を発く おおいを取り去る。 禁闥 禁は禁裏、闥は小門。 拾遺 もれているものを拾い補うこと、あるいは君主の過失をいさめる官名。 踞廁 廁は普通シ、かわやを指すが、ここではショクで寝台の側。 十八史略 東方朔 2010-09-07 16 44 32 | 十八史略 上、招選天下材智士、俊異者、寵用之。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍等、在左右。相如特以詩賦得幸。朔・皋不根持論、好詼諧。上以俳優畜之。朔嘗語上前侏儒、以爲上欲殺之。侏儒泣請命。上問朔。朔曰、侏儒飽欲死、臣朔饑欲死。伏日賜肉晏。朔先斫肉持歸。上召問、令自責。朔曰、受賜不待詔、何無禮也。抜劔斫肉、何壯也。斫之不多、何廉也。歸遺細君、又何仁也。然朔亦時直諌、有所補。 上、天下材智の士、俊異の者を招選(しょうせん)して、之を寵用す。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如(しばしょうじょ)・東方朔(とうほうさく)・枚皋(ばいこう)・終軍等左右に在り。相如は特に詩賦(しふ)を以って幸を得たり。朔・皋は持論を根(こん)とせず、詼諧(かいかい)を好む。上、俳優を以って之を畜(やしな)う。朔、嘗て上の前の侏儒に語り、以って上之を殺さんと欲すと為す。侏儒泣いて命を請う。上、朔に問う。朔曰く、侏儒は飽(あ)いて死せんと欲し、臣朔は饑えて死せんと欲す、と。伏日に肉を賜うこと晏(おそ)し。朔、先ず肉を斫(き)って持ち帰る。上、召して問い、自ら責めしむ。朔曰く、賜(たまもの)を受けて詔を待たず、何ぞ礼無きや。剣を抜いて肉を斫る、何ぞ壮なるや。之を斫って多からず、何ぞ廉(れん)なるや。帰って細君に遺(おく)る、又何ぞ仁なるや、と。然れども朔も亦時に直諌(ちょっかん)して、補益(ほえき)するする所有り。 武帝は天下の逸材智者、異能の士を選び招き、寵愛して用いた。荘助・朱買臣・ 吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが側近に仕えた。司馬相如は詩賦によって目をかけられていた。東方朔・枚皋はこれといった見識はなく、諧謔、滑稽の才によって、役者、芸人として禄を得ていた。あるとき東方朔は武帝の前に仕えている小人に「帝はお前の命を所望しているようだ」と耳うちした。小人は驚いて泣いて助命を請うた。武帝は訳が解らず、東方朔に尋ねた。朔はすかさず、「こびとは賜りものがあまりに多いので食べ過ぎて死にそうだと訴えているのです。ところで私めは飢えて死にそうなのでございます」と答えた。 盛夏三伏の日には諸役人に肉を下賜するならわしがあったが、このときは遅くなった。朔は真っ先に肉を切って持ち帰ってしまった。武帝は東方朔を呼び、、どう責めを負うつもりかと、詰問した。朔はすまして「賜りものを頂くのにお言葉も待たぬとは何と無礼な。剣を抜いて肉を切る、なんという勇ましさじゃ。肉を切っても多く取らぬとは何と無欲なことか。しかも持って帰って細君に渡すとはなんと仁者じゃ」と言った。 しかし朔もまた時に帝に直言して、過ちを補いたすけたことがあった。 侏儒 こびと 十八史略 武帝の事績(七) 2010-09-09 15 47 31 | 十八史略 神仙 自李少君以來、求神仙不已。文成誅而五利至。五利以文成爲言。上曰、文成食馬肝死耳。及五利又誅、公孫卿等、尤見聽信。末年、帝乃悟曰、天下豈有仙人、盡妖妄耳。節食服藥、差可少病而已。 李少君より以来、神仙を求めて已(や)まず。文成誅せられて五利至る。五利文成を以って言を為す。上曰く、文成は馬肝(ばかん)を食(くら)いて死せしのみ、と。五利又誅せらるるに及び、公孫卿等、尤も聴信(ちょうしん)せらる。末年、帝乃ち悟って曰く、天下豈仙人有らんや、尽く妖妄(ようもう)のみ。食を節し薬を服せば、差(やや)病を少うすべきのみ、と。 方士の李少君の説を信じてからこのかた、武帝は神仙を求めてやまなかった。文成将軍李少君は帝を詐(いつわ)ったとして殺された。五利将軍欒大(らんだい)が後をうけて朝廷に入ったが文成将軍の前例に恐れをなして、神仙の術を言わなかった。そこで武帝は文成将軍は馬の肝にあたって死んだのだと言いくるめて、促がした。やがて五利将軍も誅殺されてしまった。その後公孫卿等の言説が信用された。晩年になって、武帝はやっと醒めて「この世に仙人などいない、みなまやかしに過ぎぬ、食物を控えめに、薬を用いれば少しは病が少なくなるばかりだ」と言った。 十八史略 武帝の事績 三代の風あり 2010-09-12 07 51 03 | 十八史略 武帝崩ず 漢興、雖自惠帝已除挾書之禁、文帝已廣游學の路、然儒學終末盡盛。至帝世、董仲舒・公孫弘、皆以春秋進兒寛亦以經術飾吏事。後又有孔安國等出。表章六經、實自帝始。數獲瑞。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆爲樂章、薦之郊廟。文章亦帝世始盛。人以爲有三代之風焉。 帝壽七十而崩。葬茂陵。太子立。是爲孝昭皇帝。 漢興り、恵帝より已(すで)に挟書之禁を除き、文帝已に游学の路を広むと雖も、然れども儒学終に未だ尽くは盛んならず。帝の世に至り、董仲舒・公孫弘、皆春秋を以って進み、兒寛(げいかん)も亦経術を以って吏事を飾る。後又、孔安国等の出づる有り。六経(りくけい)を表章するは、実に帝より始まる。数々祥瑞を獲(え)たり。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆楽章を為(つく)って、之を郊廟に薦(すす)む。文章も亦帝の世に至って始めて盛んなり。人以って三代の風有りと為す。帝、寿七十にして崩ず。茂陵(もりょう)に葬る。太子立つ。是を孝昭皇帝と為す。 武帝の事績(八) 漢が興ってから恵帝の時になって蔵書の禁が解かれ、文帝の時に自由に遊学する道が開けたが儒学はいまだ十分に盛んになるにはいたらなかった。武帝の世になってから董仲舒・公孫弘は「春秋」に精通しているというので官位を与えられ、兒寛も経書の学術を以って職務を輝かせた。後にはまた孔安国が出て、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を天下に明らかにしたのは実に武帝の時に始まったのである。また度々瑞祥があらわれた。白い麒麟、赤い雁、霊芝、宝鼎、これ等は皆音楽をつくって、天や祖先の祭りに奏した。文章も武帝の時に盛んになった。そこで人々は武帝の世を、夏・殷・周の遺風があると讃えた。帝は齢七十で崩じ茂陵に葬られた。あとを継いで太子が即位した。孝昭皇帝(昭帝)という。 挟書之禁 秦の焚書を引き継いだもので書をわきばさむこと禁ずるの意、禁書の制。 孔安国 孔子の子孫で、おたまじゃくしの様な蝌蚪(かと)文字を研究し解読した。 表章 世に出して広く知らせること。 十八史略 昭帝立つ 2010-09-14 09 11 37 | 十八史略 孝昭皇帝名弗陵。母鉤弋夫人、趙氏。娠十四月而生。武帝、命其門曰堯母門。年七歳、體壯大多知。武帝欲立之。察羣臣、惟霍光忠厚、可任大事。使黄門畫周公負成王朝諸侯、以賜光。譴責鉤弋夫人賜死。曰、古、國家所以亂、由主少母壯、驕淫自恣也。明年武帝崩。遂即位。燕王旦、以長不得立謀反。赦弗治。黨與伏誅。 孝昭皇帝名は弗陵(ふつりょう)。母は鉤弋(こうよく)夫人、趙氏なり。娠(はら)んで十四月(げつ)にして生まる。武帝其の門に命じて堯母門(ぎょうぼもん)と曰う。年七歳、体壮大にして多知なり。武帝之を立てんと欲す。群臣を察するに、惟(た)だ霍光(かくこう)のみ忠厚にして、大事を任ず可し。黄門をして周公、成王を負(お)って諸侯を朝(ちょう)せしむるを画き、以って光に賜わしむ。鉤弋夫人を譴責(けんせき)して死を賜う。曰く、いにしえ、国家の乱るる所以は、主少(わか)く母壮(そう)にして驕淫自恣(きょういんじし)なるに由(よ)る、と。明年武帝崩ず。遂に位に即く。燕王旦、長にして立つを得ざるを以って反を謀(はか)る。赦して治(ち)せず。党与誅に伏す。 孝昭皇帝、名は弗陵という。母は鉤弋夫人、趙氏である。懐妊して十四ヶ月で生まれたので、武帝はやはり十四ヶ月で生まれた堯帝にあやかって、その宮殿の門を堯母門と名づけた。弗陵は年七歳で身体は大きく、知能も優れていたので、武帝は弗陵を後継ぎに立てようとした。群臣をじっと観察してみると霍光のみ忠実で情に厚いとみて、太子の補佐の大任を果たさせようとした。侍従に、幼い成王が周公旦に背負われて諸侯の拝謁をうけている絵を描かせて、それを霍光に下賜して意を伝えた。その後、鉤弋夫人の過失をせめて、死を命じた。側近には「昔から国の乱れは君主が幼少、その母が若く、驕りと不品行でわがままなことで起こるものだ」ともらした。 その翌年武帝は崩じ、弗陵が位についた。燕王の旦が年長にも拘わらず帝位につくことができなかったので謀反を企てた。しかし昭帝は、旦を赦して罪に問わず、与(くみ)した者たちを誅殺した。 十八史略 雁書 2010-09-16 15 06 32 | 十八史略 前回漏れたので、遅れ馳せながら付け加えます。赦弗治 赦して治せず 弗は不に同じ、治は取り調べる意。 蘇武帰還す 始元六年、蘇武還自匈奴。武初徒北海上、堀野鼠、去草實而食之、臥起持漢節。李陵謂武曰、人生如朝露。何自苦如此。陵與衞律降匈奴、皆富貴。律亦屢勸武降。終不肯。漢使者至匈奴。匈奴詭言、武已死。漢使知之、言、天子射上林中、得鴈。足有帛書。言、武在大澤中。匈奴不能隠。乃遣武還。武留匈奴十九年。始以強壯出。及還、須髪盡白。拝爲典屬國。 始元六年、蘇武匈奴より還る。武、初め北海の上(ほとり)に徒(うつ)り、野鼠を掘り、草実を去(おさ)めて、之を食らい、臥起(がき)に漢の節を持す。李陵、武に謂って曰く、人生朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き、と。陵と衛律(えいりつ)とは匈奴に降(くだ)って、皆富貴なり。律も亦屡しば武に降(こう)を勧む。終に肯(がえ)んぜず。漢の使者、匈奴に至る。匈奴詭(いつわ)り言う、武、已に死す、と。漢の使之を知り、言う、天子、上林の中に射て、雁を得たり。足に帛書有り。言く、武は大澤の中(うち)に在り、と。匈奴隠すこと能わず。乃(すなわ)ち武を遣(や)って還す。武、匈奴に留まること十九年。始め強壮を以って出ず。還るに及んで須髪尽く白し。拝して典属国と為す。 始元六年に蘇武が匈奴より還って来た。蘇武はバイカル湖のほとりに流されたが、野鼠を捕り、草の実を貯めてこれを食い、寝起きするに漢の符節を身から離さなかった。さきに匈奴に降った李陵が蘇武に向って「人の一生は朝の露のようにはかないもの、どうして自らこんなに苦しんでいるのだ」と言った。李陵と衛律とは匈奴に降服して、富貴に暮らしていた。衛律もたびたび蘇武に降服を勧めたが最後まで承知しなかった。 その後、漢の使者が匈奴に来て蘇武の返還をせまった折、匈奴は偽って蘇武はもう死んだと告げた。漢の使者は偽りを見抜き、「近頃、天子が上林で狩をしていたとき、雁を射止められたところ足に手紙がつけてあり、武は大きな沢のほとりにいる。と書いてあったぞ、どう説明するのだ」と迫った。匈奴は隠しきれず、蘇武を還した。匈奴の地に留まること十九年、漢を出るときは頑強で壮んであったが、帰ったときは鬚も髪も真っ白になっていた。漢は蘇武を典属国の長官に任命した。 草実を去(おさ)め 去はしまうの意。 節 使者の印しとして天子が授けた旗。 帛書 帛は絹、これに書かれた手紙。須髪 須は鬚、あごひげ。 典属国 降服した異民族のことを司る官。 十八史略 霍光排斥の陰謀 2010-09-18 12 00 54 | 十八史略 左将軍上官桀子安、爲霍光婿。生女。立爲皇后。桀與安自以、后之祖・父、乃不若光以外祖專制朝事。桀與光爭權。時鄂國蓋長公主、爲所愛丁外人求封侯。不許。怨光。燕王旦自以帝兄常怨望。御史大夫桑弘羊爲子弟求官。不得。亦怨望。於是皆與旦通謀、詐令人爲旦上書言、光出都肄郎・羽林、道上稱蹕擅調莫府校尉、專權自恣。疑有非常。候光出沐日奏之。桀欲從中下其事、弘羊當與大臣共執退光。 左将軍上官桀(けつ)の子安(あん)は、霍光の婿たり。女を生む。立って皇后と為る。桀と安と自ら以(おも)えらく、后の祖・父なるに、乃ち光の外祖を以って朝事を専制するに若かず、と。桀、光と権を争う。時に鄂国(がくこく)蓋(こう)長公主(ちょうこうしゅ)は、愛するところの丁外人の為に封侯を求む。許されず。光を怨む。燕王旦は自ら帝の兄を以って常に怨望(えんぼう)す。御史大夫桑弘羊は子弟の為に官を求む。得ず。亦怨望す。 是に於いて皆旦と謀(はかりごと)を通じ詐(いつわ)って、人をして旦の為に書を上(たてまつ)らしめて言う、光、出でて郎・羽林を都肄(とい)せしとき、道上に蹕(ひつ)を称し、擅(ほしいまま)に莫府(ばくふ)の校尉(こうい)を調益(ちょうえき)し、権を専(もっぱら)にして自らほしいままにす。疑うらくは非常有らん、と。光の出沐(しゅつもく)の日を候(うかが)うて之を奏す。桀、中(うち)より其の事を下し、弘羊をして大臣と共に、執(と)って光を退くるに当らしめんと欲す。 左将軍上官桀の子の安は、霍光の婿となり、娘が生まれた。やがて娘は昭帝の皇后となった。桀と安が思うに、皇后の祖父でありまた父である我等が、皇后の外祖父で、朝事を専らにしている霍光に及ばぬ、と不満に思っていた。それで桀は次第に霍光と権力を争うようになった。この頃、昭帝の一番上の姉で、鄂国の蓋侯夫人は寵愛する丁外人を諸侯に取り立ててくれるよう頼んだが、許されず霍光を怨んでいた。燕王旦は自分が昭帝の兄であるのに天子になれなかったので、かねてから怨んでいた。また御史大夫の桑弘羊も自分の子供のために官職を与えられるよう頼んだが、得られず、これまた怨んでいた。 ここに至ってみな燕王旦と通じて、ある者をして旦の名で上書して「霍光は都を出て、郎軍や羽林軍を調練するとき、街道で天子と同じ格の先払いをさせ、勝手に幕府の将校を増やし選び権勢をもっぱらにし、ほしいままに振舞っております。あるいは重大な事態に至るやもしれません」と言わせた。この上奏文は霍光が参朝しない日をうかがって差し出された。上官桀は宮中にいてこの件を直ちに審議に付し、桑弘羊には大臣と共に強く主張して霍光を失脚させる役目を担わせる計画だった。 都肄 都は試みる、肄は習うで演習。 郎・羽林 郎は侍従武官、羽林は近衛兵。 蹕 天子の行列の先払い。 出沐日 休日、沐浴するために役所を出て休日としたから。 十八史略 昭帝霍光の窮地を救う 2010-09-23 10 43 21 | 十八史略 書奏。帝不肯下。明旦、光聞之、止畫室中不入。上問、大將軍安在。桀曰、以燕王告其罪、不敢入。詔召大將軍。光入。免冠頓首謝。上曰、將軍之廣明都郎、屬耳。調校尉以來、未能十日。燕王何以得知之。且將軍爲非、不須校尉。是時元鳳元年、帝年十四。尚書左右皆驚。而上書果亡。捕之甚急。 書奏す。帝肯(あえ)て下さず。明旦、光之を聞き、画室中に止まって入らず。上(しょう)問う、大将軍安(いづ)くにか在る、と。桀曰く、燕王、其の罪を告ぐるを以って、敢えて入らず、と。詔(みことのり)して大将軍を召す。光入る。冠を免(ぬ)ぎ頓首して謝す。上曰く、将軍、廣明に之(ゆ)いて郎を都(と)せしは属(このごろ)のみ。校尉を調して以来、未だ十日なる能(あた)わず。燕王何を以って之を知るを得ん。且つ将軍非を為さんとせば、校尉を須(ま)たざらん、と。是の時元鳳元年(前80年)にして帝年十四なり。尚書左右皆驚く。而して書を上(たてまつる)者果たして亡(に)ぐ。之を捕うること甚だ急なり。 訴状が奏上されたが、昭帝は自分の手元に留めおいた。翌朝霍光がこの事を聞くと画室に籠って入廷しなかった。帝が「大将軍はどこにいるか」と問うと、桀が答えて「燕王が光の罪を奏上したので入るのを憚っているのでしょう」と。昭帝はみことのりを下して大将軍を召した。霍光は参内すると冠をぬぎ、額を地につけて詫びた。昭帝は告げた「将軍が広明亭に行って郎軍を調練したのは、まだ最近のことだ。将校を選任してからは十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう、それにもし将軍が何か事を起こそうと思ったとしても、将校などあてにするはずがなかろう」と。この時は元鳳元年、昭帝はまだ十四歳であった。尚書や左右の側近は皆帝の聡明さに驚いた。そして上書した者は姿をくらました。帝は逮捕せよと厳しく命じた。 十八史略 2010-09-25 10 37 27 | 十八史略 桀等懼白上、小事不足遂。上不聽。後、桀黨有譖光者。上輒怒曰、大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身。敢有毀者坐之。自是無敢復言。桀等謀令長公主置酒請光、伏兵挌殺之、因廢帝而立旦。安又謀誘旦、至誅之、廢帝而立桀。會有知其謀者、以聞。捕桀・安・弘羊等、并宗族盡誅之。蓋主與旦皆自殺。 桀等懼れて上(しょう)に白(もう)す、小事遂ぐるに足らず、と。上聴かず。後、桀の党に光を譖(しん)する者有り。上、輒(すなわ)ち怒って曰く、大将軍は忠臣、先帝の属(しょく)して以って朕が身を輔(たす)けしむる所なり。敢えて毀(そし)る者有らば之を坐せしめん、と。是より敢えて復言うもの無し。桀等、長公主をして酒を置いて光を請わしめ、兵を伏せて之を挌殺(かくさつ)し、因(よ)って帝を廃して旦を立てんと謀(はか)る。安、又、旦を誘(いざな)い、至らば之を誅し、帝を廃して桀を立てんと謀る。会々(たまたま)其の謀を知る者有り、以って聞(ぶん)す。桀・安・弘羊等を捕え、宗族を併せて尽く之を誅す。蓋主(こうしゅ)と旦と皆自殺す。 上官桀等は企みの露見を恐れて、昭帝に「些細なことです、厳しく追及することでもないでしょう」と申し上げたが、帝は承知しなかった。その後桀の仲間から霍光を讒言する者があった。昭帝は怒って、「大将軍は忠臣ゆえ、先帝が朕を補佐するよう遺言しておかれたものだ、それでもそしるならば罪に問うであろう」と言った。以後霍光をそしる者はなくなった。桀等は次に長公主に、酒宴を開いて霍光を招待させ、兵を伏せておいて打ち殺し、それに乗じて昭帝を廃し、旦を立てようと謀った。上官安はさらに旦をも招きよせてこれを殺し、父の桀を立てようと謀った。たまたまそのたくらみを知った者がいて、昭帝の耳に入れたので、帝は上官桀・安父子と桑弘羊らを捕え、その一族をも尽く誅殺した。蓋公主と燕王旦はともに自害した。 坐 罰する、連座の坐 十八史略 昭帝崩ず 2010-09-28 12 54 11 | 十八史略 四年、傅介子使西域、誘樓蘭王刺殺之、馳傳詣闕。以其爲匈奴反也。 元平元年、帝年二十一而崩。在位十四年。改元者三、曰始元・元鳳・元平。霍光爲政、與民休息、天下無事。昌邑王賀、哀王髆之子、武帝孫也。光迎賀入即位。尊皇后爲皇太后。賀淫戲無度。光奏廢之、迎立武帝曾孫。是爲中宗孝宣皇帝。 四年、傅介子(ふかいし)、西域に使いし、楼蘭王を誘(いざな)うて之を刺殺し、伝を馳せて闕(けつ)に詣(いた)る。其の匈奴の為に反間するを以ってなり。 元平元年、帝、二十一にして崩ず。在位十四年。改元すること三、始元・元鳳・元平と曰(い)う。霍光、政を為し、民と休息し、天下無事なり。昌邑王(しょうゆうおう)賀は哀王髆(はく)の子にして、武帝の孫なり。光、賀を迎え、入れて位に即(つ)かしむ。皇后を尊んで皇太后と為す。賀、淫戲(いんぎ)度無し。光、奏して之を廃し、武帝の曾孫を迎立(げいりつ)す。是を中宗孝宣皇帝と為す。 元鳳四年(前77年)に、傅介子という者が、西域に使者となって行き、楼蘭王を誘い出して刺殺し、駅馬を乗り継いで朝廷に駆けつけた。楼蘭王が匈奴と通じて離間をはかったからである。 元平元年(前74年)、昭帝が二十一歳で崩御した。帝位に在ること十四年改元すること三度、すなわち、始元・元鳳・元平である。その間、霍光が政務をとり、人々とやすらぎを共にしたので、天下は平らかであった。 昌邑王の賀は哀王髆の子で武帝の孫であった。霍光はその賀を朝廷に迎え入れて、即位させた。そして昭帝の皇后を皇太后として尊んだ。ところが賀は女色に耽ってとめどが無かったので、霍光は皇太后に奏上して、賀を廃し、武帝の曾孫を迎えて立てた。これが中宗孝宣皇帝(宣帝)である。 伝 駅伝。 闕 宮城の門。 反間 敵国同士の仲をさく計略をめぐらすこと 十八史略 獄中に天子の気あり 2010-09-30 15 38 39 | 十八史略 無辜なるも尚不可なり況や皇曾孫をや 孝宣皇帝初名病已。後改名詢。武帝之曾孫也。初戻太子據、納史良娣、生史皇孫進。進生病已。數月遭巫蠱事、皆繋獄。望氣者言。長安獄中、有天子氣。武帝遣使、令盡殺獄中人。丙吉時治獄。拒不納。曰、侘人無辜尚不可。況皇曾孫乎。使者還報。武帝曰、天也。 孝宣皇帝、初め名は病已(へいい)。後名を詢(じゅん)と改む。武帝の曾孫(そうそん)なり。初め戻太子拠(きょ)、史良娣(りょうてい)を納れ、史皇孫進を生む。進、病已を生む。数月にして巫蠱(ふこ)の事に遭い、皆獄に繋がる。気を望む者言う、「長安の獄中に、天子の気有り」と。武帝、使を遣わして、尽く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治む。拒んで納れず。曰く、「侘人(たにん)の無辜(むこ)なるも尚不可なり。況(いわん)や皇曾孫をや」と。使者還り報ず。武帝曰く、「天なり」と。 孝宣皇帝、もとの名は病已、後に詢と改めた。武帝のひ孫である。かつて武帝の太子であった戻太子拠が史氏のむすめを良娣として納れて、皇孫史進を生ませた。その子が病已である。病已の生後数ヶ月に巫蠱の事件に出遭い、連坐して係累すべて牢獄に繋がれた。 雲気を眺めて吉凶を占う者が、「長安の獄中に天子の雲気が見えます」と言った。武帝は使者を遣わして、獄中の者をことごとく殺させようとした。この時丙吉という者が牢獄を取り締まっていたが、使者を拒んで聞き入れず、「たとい誰であろうと、無実の人を殺すことはできません。まして帝の曾孫などもってのほかです」と言った。使者が還ってこの事を告げると武帝は「天命というべきか」と言っただけであった。 良娣 女官の官名、太子妃に次ぐ側室。 戻太子 宣帝が即位後に贈った諡(おくりな) 侘人 他人に同じ。 無辜 辜は罪。 十八史略 2010-10-07 08 06 29 | 十八史略 地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。 膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。 魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。 地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。 膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。 魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。 地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。 膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。 魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。 治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。 十八史略 霍氏滅ぶ。 2010-11-18 16 15 50 | 十八史略 四年、霍氏謀反、伏誅。夷其族。告者皆封列侯。初霍氏奢縦。茂陵徐福上疏言、宜以時抑制、無使至亡。書三上。不聽。至是人爲徐生上書曰、客有過主人。見其竈直突、傍有積薪、謂主人、更爲曲突、速徒其薪。主人不應。俄失火。郷里共救之、幸而得息。殺牛置酒、謝其郷人。人謂主人曰、郷使聽客之言、不費牛酒、終無火患。今論功而賞、曲突徒薪無恩澤、焦頭燗額爲上客邪。上乃賜福帛、以爲郎。 四年、霍氏謀反し、誅に伏(ふく)す。その族を夷(たい)らぐ。告ぐる者、皆列侯に封ぜらる。初め霍氏、奢縦(しゃしょう)なり。茂陵の徐福、上疏(じょうそ)して言う、「宜しく時を以って抑制し、亡に至らしむること無かるべし」と。書三たび上(たてまつ)る。聴かず。是に至って人、徐生の為に上書して曰く、「客、主人を過(よぎ)るもの有り。その竈(かまど)の直突にして、傍らに積薪(せきしん)有るを見、主人に謂う、更めて曲突(きょくとつ)を為(つく)り、速やかにその薪を徒(うつ)せと。主人応ぜず。俄(にわ)かに火を失す。郷里共に之を救い、幸いにして息(や)むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、その郷人に謝す。人、主人に謂って曰く、郷(さき)に客の言を聴(き)かしめば、牛酒を費やさず、終(つい)に火の患無かりしならん。今、功を論じて賞するに、曲突薪を徒せというものに恩沢無くして、頭を焦がし額を燗(ただ)らすものを上客となすかと」と。上乃ち福に帛(はく)を賜い、以って郎と為す。 地節四年に、霍氏一族が謀反をはかり、誅せられて皆殺しにされた。謀反を告発した者を皆列侯に封じた。以前より霍氏一門はおごりたかぶっていたので、茂陵の徐福というものが「今のうちに霍氏を抑えつけて、滅亡にまで至らないようにするべきでしょう」と書をたてまつった。上書は三度に及んだが、聴き入れられなかった。こうして霍氏の謀反が誅せられるに及んで、ある人が徐福の為にこう上書した「ある家を訪れたものが、竈の煙突がまっすぐで、傍に薪が積んであるのを見て主人に、新たに曲がった煙突に造り直し、薪を他所に移さないと火事になりますよ。と忠告したところ、主人は応じませんでした。やがてその竈から失火しましたが、村人たちの協力を得て消し止めることができた。主人は喜んで牛を殺し、酒を用意して村人たちに振るまい、感謝しました。ある人が主人に向って“先に客人の忠告を聴き入れていれば、牛や酒の用意も、火事の災いも無かったでしょう。ところが今、謝礼をする段になって、煙突を曲げなさい、薪を移しなさいと言ったものには何の音沙汰もなく、頭を焦がし、額を爛れさせた者だけをありがたがるとはどうしたことでしょう”と申したそうでございます」と。宣帝はその意を悟って徐福に絹を下賜し、さらに郎官に取り立てた。 曲突 火の粉がすくないからか。 過る おとずれるの意。 郷に 以前の意。 十八史略 霍氏の禍い驂乗にきざす 2010-11-24 08 47 45 | 十八史略 帝初立謁高廟、霍光驂乗。上嚴憚之。若有芒刺在背。後、張安世代光參乗。上從容肆體、甚安近焉。故俗傳、霍氏之禍、萌於驂乗。 帝、初めて立って高廟に謁するや、霍光驂乗(さんじょう)す。上(しょう)之を厳憚(げんたん)す。芒刺(ぼうし)の背に在るが若(ごと)し。後、張安世光に代って参乗す。上、従容肆体(しょうようしたい)甚だ安近す。故に俗伝う、霍氏の禍い驂乗に萌(きざ)す、と。 宣帝が即位した初め、高祖の廟に参拝のとき、霍光が陪乗したが、帝は心休まらず、まるで背中に棘がささったようであった。後に張安世光に代って陪乗するようになると、くつろいでなごやかに、近づき易くなった。それで世間では「霍氏一門の禍は、陪乗のときにきざしていたのだ」とうわさしあった。 十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(1) 2010-11-25 08 30 44 | 十八史略 北海太守朱邑、以治行第一、入爲大司農、渤海太守龔遂入爲水衡都尉。先是渤海歳饑、盗起。選遂爲太守召見問、何以治盗。遂對曰、海濱遐遠、不沾聖化。其民飢寒、而吏不恤。使陛下赤子、盗弄兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪。將安之也。上曰、選用賢良、固欲安之。遂曰、治亂民、如治亂縄。不可急也。願無拘臣以文法、得便宜從事。上許焉。 北海の太守朱邑、治行第一を以って、入(い)って大司農(だいしのう)と為り、渤海の太守龔遂(きょうすい)、入って水衡都尉(すいこうとい)と為る。是より先、渤海(ぼっかい)歳饑(う)え、盗起こる。遂を選んで太守と為す。召見(しょうけん)して問う、何を以って盗を治むると。遂対(こた)えて曰く、海浜、遐遠(かえん)にして、聖化に沾(うるお)わず。其の民飢寒(きかん)して、吏(り) 恤(あわれ)まず。陛下の赤子(せきし)をして、兵を潢池(こうち)の中に盗弄(とうろう)せしむるのみ。今臣をして之に勝たしめんと欲するか、将(はた)之を安(やす)んぜんかと。上曰く、賢良を選用するは、固(もと)より之を安んぜんと欲するなり、と。遂曰く、乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは臣を拘するに文法を以ってすること無く、便宜事に従うを得しめよ、と。上、焉(これ)を許す。 北海郡(山東省)の太守の朱邑は、治績徳行とも第一であるとして、朝廷に入って大司農となり、渤海(河北省)の太守龔遂は、朝廷に入って水衡都尉になった。これというのは、渤海郡は年々飢饉に見舞われ盗賊が増えたので宣帝は龔遂を選んで太守に任命した。そこで遂を召して聞いた「どうやって盗賊を取り締まるつもりか」と。すると遂は「渤海は海辺の僻地で陛下の徳に浴しておりません。民が飢えても役人が救おうともせず、いわば陛下の赤子が溜池の中で刃物を振り回すようにしむけているようなものです。陛下は私に武力で鎮圧するのをお望みでしょうか、それとも安撫するのをお望みでしょうか」と問うた。宣帝は「わざわざ優れた人材を登用するのは安撫することを望めばこそだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのはもつれた縄を解くようなもので、性急であってはなりません。どうか私を煩わしい法規でしばることなく、一存で取り計らえるようにしていただきたい」と申し上げた。宣帝はこれを許した。 水衡都尉 河川の水路灌漑、宮中の御苑を管理する官。 遐遠 遐も遠もとおいこと。兵 武器。 潢池 水溜り、渤海湾にたとえる。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/93 十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人 2010-11-30 17 06 11 | 十八史略 趙廣漢腰斬さる 元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。 元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。 是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。 京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。 以下次回に 元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。 広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。 十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず 2011-01-11 08 31 51 | 十八史略 以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。 尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。 尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。 右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。 邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。 十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり 2011-01-13 17 50 58 | 十八史略 二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。 今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。 二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。 今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 2011-01-15 13 38 26 | 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。 ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。 右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。 論語 季氏篇 2011-01-15 13 40 51 | 十八史略 論語 季氏篇 ―前略―丘は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患うと。蓋し均しきときはまずしきこと無く、和すれば寡きこと無く、安んずれば傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざるときは則ち文徳を修めて以ってこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離折(ぶんぽうりせき)すれどもまもること能わず。而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり 私はこう聞いている。「国を保ち家をまもる者は人民の少ないことを心配せずに平等でないことを心配し、貧しいことを心配しないで、安らかでないことを心配する」と。均しいときは貧しいということが無く、平和であれば、人が少ないと気にかけることも無い。安らかであれば国も家も傾くことが無いのである。であるから遠くの属国が服従しないときは、徳を以って来朝するように仕向け、来たときには安らかに接するべきである。いま、由(字は子路、姓は仲、名が由)と求(字は子由、姓が冉、名が求)は夫子(季孫氏)を補佐する身でありながら顓臾が服さないときも来朝させることができず、魯国が分裂の危機にあっても守ることができない、その上兵を出そうとさえしている。私が恐れているのは季孫氏の危機は遠い属国にあるのではなく、本当は身近な垣根の内側にあるのだ。 十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う 2011-01-18 08 23 43 | 十八史略 子孫の為に産業を立てず。 三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。 三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。 元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。 二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。 太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。 十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し 2011-01-20 08 27 30 | 十八史略 神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。 二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。 神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。 二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。 神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。 神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。 先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職
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唐書巻二百二十一上 列伝第一百四十六上 西域上 泥婆羅 党項 東女 高昌 吐谷渾 焉耆 亀茲 跋禄迦 疏勒 于闐 天竺 摩掲陀 罽賓 泥婆羅(ネパール)は、吐蕃の西にある楽陵川からすぐのところにある。国土は赤銅とヤクを多く産出した。国人の風俗は翦髪で、前髪が眉にまで達している。耳には穴を穿っていた。アーチ状になった竹筒で楕円形の枠をつくり、ゆるやかに肩に至るのがよいとされた。さじと箸がないので、国人は手づかみで食べた。その国の器はみな銅製である。その家屋の板囲いに模様を描いた。牛を使用した耕作方法を知らないため、田畑が少ない。それゆえ、国人は生業として商業に習熟している。一枚の布で体を覆い、一日に数回、沐浴する。博戯を重んじ、天文学と暦術に通じていた。天神を祀るのに石を刻んで像をつくり、この像に毎日、水を浴びせ、煮た羊肉をそなえて天神を祀る。銅を鋳造して貨幣をつくる。貨幣のおもてに人のかたちを描き、裏側に牛や馬のかたちを描いた。この国の君主は、真珠、瑠璃、車渠(貝殻)、珊瑚、琥珀を身につけ、纓絡(ネックレス)をたらし、耳には金鉤・玉の耳飾りをつけ、宝剣を腰に帯びて、獅子の足の格好をした四脚寝台に座り、香を焚いて花を堂にしいた。大臣は地べたに座って敷物をしかない。左右に武器を持った兵士数百が待っている。宮中には七重の楼閣があり、その屋根は銅製の瓦で覆われていた。柱と梁はみな様々な宝石で飾られており、宮殿の四隅には銅製の水槽が置かれていた。その下には黄金の龍がおり、龍の口からは激しく水が流れ出て槽の中に注ぎ込んでいた。 初め王の那陵提婆(ナーレンドラ・デーヴァ)の父親が、叔父によって殺されたため、提婆は吐蕃に亡命した。吐蕃が提婆を受け入れたので、提婆は吐蕃に臣従した。貞観中、太宗は李義表を天竺に派遣した。李義表が泥婆羅を通過したので、提婆はたいそう喜び、使者を案内して阿耆婆池(アジーヴァ)を一緒に見学した。池の広さは数十丈、その水はいつも沸騰していた。その水は、日照りの時も大雨の時も、涸れることも溢れることもなかったと伝えられている。池の中に物を投げ込むと、たちまち煙が生じ、その上に釜をかけると、すぐに煮あがってくる。 貞観二十一年(647)、泥婆羅の使者が入朝し、波稜(ホウレン草)、酢菜、渾提葱を献上した。永徽の時(650-656)、王の尸利那連陀羅がまた使いを派遣して入貢した。 党項(タングート)は漢代の西羌の別種で、魏晋の後、次第に甚だしく衰微した。北周が宕昌、鄧至を滅ぼしたので、党項は初めて強くなりはじめた。その地は昔の析支であり、東は松州、西は葉護(西突厥)、南は春桑・迷桑などの羌、北は吐谷渾に隣接していた。険しい山谷に居住し、その長さは三千里にわたる。姓のちがいによって部落をなし、その一つの姓がまたさらに分かれて小部落をなし、大きいものでは万騎、小さいものでは数千の兵力を持っており、互いに相手を服属させることができないでいる。そのため、細封氏、費聴氏、往利氏、頗超氏、野辞氏、房当氏、米禽氏、拓拔氏があり、拓拔氏が最強で、定住し、家屋があり、ヤクの尾、羊毛を織って家を覆い、一年に一度、その毛織物を交換した。党項は武を尊び、法令も賦役もない。人々の寿命は長く、多くのものが百歳を越えた。盗みを好み、互いに略奪しあった。彼らは、復讐することを最も重んじた。復讐をいまだに果たせていないものは、蓬のように髪をふり乱し垢まみれの顔で、裸足のまま過ごし、草を食べる。復讐を遂げた後に、ようやく普通の生活に戻る。男女は、皮衣と粗い繊維の衣服を着用し、毛織物をまとった。ヤク、ウシ、ウマ、ロバ、ヒツジを牧畜して食べ、耕作はしなかった。その地は寒く、五月に草が生え八月に霜がおりた。文字はなく、草木の様子をうかがって歳時を識別した。三年に一度、互いに集まり、牛と羊を殺して天を祀った。他国から麦を得て酒を醸造した。父親の妾、伯母・叔母、兄嫁、息子や弟の妻を妻としたが、ただ同姓の女性は娶らなかった。年老いて亡くなった場合、子孫達は泣かなかった。しかし、幼くして亡くなると、天柱と称して、家族は悲しんだ。 貞観三年(629)、南会州都督の鄭元疇は使者を派遣して降服するように説得したので、党項の酋長・細封歩頼が部落を挙げて降服した。太宗が璽を押した詔を下して彼らを慰撫したので、細封歩頼はこれより入朝し、太宗から与えられる宴や賜わりものは、他とは違って別格であった。太宗は細封歩頼の領地を軌州となし、細封歩頼に刺史を授与した。細封歩頼は、兵を率いて吐谷渾を討伐したいと請願した。その後、酋長達がことごとく内属したので、その地を州、奉州、厳州、遠州の四つの州となし、首領たちを刺史に任じた。拓赤辞というものがおり、初めは吐谷渾に臣従していた。谷津の慕容伏允が、赤辞を厚遇して通婚したので、諸々の羌族はすでに唐に帰順していたにもかかわらず、赤辞だけがひとり唐に帰順してこなかった。李靖が吐谷渾を討伐した時、赤辞は狼道峡に駐屯して唐軍に抵抗した。廓州刺史の久且洛生が、赤辞を説得して降伏させようとしたが、赤辞は「吐谷渾王は私のことを腹心として遇してくれている。他のものなど知らぬ。もし速やかにこの場から立ち去らないのなら、おまえを斬り殺して私の刀を穢すことになるぞ。」と言い返してきたので、久且洛生は怒り、軽騎兵を率いて粛遠山で赤辞を撃破し、数百級を斬首して雑畜六千を捕獲した。太宗は、この勝利によって、降服すれば生命の保障をしたので、赤辞の従子・思頭は、ひそかに唐に帰順し、その部下の拓拔細豆もまた降伏した。赤辞は宗族が離反してしまったので次第に自らも帰順することを望み、岷州都督の劉師立も帰順を勧誘したので、赤辞は思頭とともに唐に内属した。そこで、太宗はこの地を懿州・嵯州・麟州・可州など三十二の州となし、松州を都督府となして、赤辞を西戎州都督に抜擢し、李姓を賜わった。それ以後、党項からの朝貢が絶えることはなかった。これによって、黄河の源流にある積石山から東の地はすべて中国の領地となった。この後、吐蕃が次第に隆盛したので、拓抜は恐れて内地への移住を請願した。そこで初めて慶州に静辺などの州を設置して党項をここに住まわせた。この地が吐蕃の領土と化すと、この地に住んでいるものはみな吐蕃に従属する事となり、さらに弭薬(ミーニャク)と号するようになった。 また黒党項という部族もいた。黒党項は、赤水の西に住んでいた。その部族長は、敦善王と号し、吐谷渾の王・慕容伏が李靖の軍に敗北してこの地に逃走してきた時には、伏允は敦善王を頼ってきた。吐谷渾が唐に服従するようになると、敦善王もまた朝貢してきた。雪山に住んでいるものたちを破氏といった。 白蘭羌という部族がいた。吐蕃はこれを丁零と呼んでいた。白蘭羌は、その左の部族が党項に属し、右の部族は多弥と隣接していた。勝兵を一万人擁し、戦闘において勇敢に戦い、用兵を善くするところは、民族的に党項と同じであった。武徳六年(623)、使者が入朝した。翌年、高祖はこの地を維州と恭州の二州となした。貞観六年(632)、数十万とともに内属した。永徽年間(650-656)には、特浪の生羌の楼と大首領・凍就が部衆を率いて到来し、内属したので、その地を剣州となした。 龍朔年間(661-663)以後、白蘭、春桑、白狗羌が吐蕃の臣下となり、吐蕃に兵士を提供してその先鋒になった。白狗と東会州は隣接し、勝兵はわずかに千人であった。西北にいるもので天授年間(690-692)の間に内附したものは、戸数にして約二十万だった。唐は、その地を朝州・呉州・浮州・帰州などの十州となし、霊州と夏州の間に散居させた。至徳年間の末(757)、党項は吐蕃に誘われ、吐蕃の間諜となって辺境地帯を略奪した。しかし、彼らは急に後悔して来朝し、霊州の軍糧運送を援助したいと請願した。乾元年間(758-760)、安史の乱が原因で中国がしばしば乱れたので、党項は邠州と寧州に入寇した。粛宗は、郭子儀に詔して朔方・邠寧・鄜坊の三節度使の任務を統括させて、鄜州刺史の杜冕と邠州刺史の桑如珪に二部隊に分けて出撃させた。郭子儀が邠州・寧州に到着すると、党項は潰走した。 上元元年(760)、涇州・隴州の部落十万人が、鳳翔節度使の崔光遠のもとに来て降伏した。上元二年(761)、党項は渾・奴刺と連合して、宝鶏を襲撃し、吏民を殺害して財物を掠め取った。大散関(宝鶏の南)を焼き、鳳州に入寇して、刺史の蕭槐、節度使の李鼎がこれを追撃した。翌年、党項がまた梁州を攻撃したので、刺史の李勉は逃走した。このため党項は奉天まで進撃し、華原・同官を大いに略奪して去った。詔して、蔵希譲を李勉に代えて刺史とした。これによって、帰順・乾封・帰義・順化・和寧・和義・保善・寧定・羅雲・朝鳳のおよそ十州の部落が蔵希譲を訪れ、よしみを通じて節と印を乞うたので、詔してこれを認めた。 僕固懐恩が叛いた時(764)、懐恩は党項・渾・奴刺を誘って入寇した。僕固懐恩は数万の兵を率いて鳳翔と盩厔を略奪した。党項の大酋長の鄭廷と郝徳は同州に入寇したので、同州刺史の韋勝は逃走した。節度使の周智光は、鄭廷らを澄城で撃破した。一ヵ月後、鄭廷らがまた同州に入寇し、官庁および民間の家屋を焼き、馬蘭山に塞を築いた。郭子儀は軍勢を派遣してこれを襲撃し、退却して三堡を保った。それから、郭子儀は慕容休明を派遣して、鄭廷と郝徳を諭させて降伏させた。 郭子儀は、党項と吐谷渾の部落を塩州・慶州などの州に分散させて住まわせた。それらの地と吐蕃が非常に近く、互いに連合して脅威になりやすかったので、上表して、静辺州都督、夏州・楽容などの六つの府の党項を銀州の北、夏州の東に移動させ、寧朔州の吐谷渾を夏州の西に住まわせて、引き離して唐の脅威にならないよう防いだ。静辺州の大首領、左羽林大将軍の拓拔朝光ら五人の刺史を召して入朝させ、厚く賜わりものを与えて帰還させ、各々の部族を安んじさせた。これより以前、慶州には、破丑氏族が三部族、野利氏族が五部族、把利氏族が一部族おり、おのおの吐蕃と婚姻して互いに援助しあっていたので、吐蕃の賛普は、これらを王とした。このため辺境地帯が乱れること十年餘に及んだ。郭子儀は上表し、工部尚書の路嗣恭を朔方留後、将作少監の梁進用を押党項部落使とし、行慶州を設置させた。さらに郭子儀は「党項は、ひそかに吐蕃と結んで事変を起こそうとしております。ですから党項に使者を派遣し、これを招慰して謀叛の機会を取り除くべきです。また梁進用を慶州刺史に任命し、厳しく警邏させて、党項と吐蕃との交通路を遮断すべきです」と進言した。代宗は、郭子儀の意見をもっともであるとした。また、郭子儀は上表して、静辺、芳池、相興の三州に都督と長史を置き、永平、旭定、清寧、寧保、忠順、静塞、万吉などの七つの州に都督府をそれぞれ置くよう進言した。ここに至り、破丑、野利、把利の三部族と、思楽州の刺史・拓拔乞梅らは、みな入朝し、宜定州刺史の折磨布落、芳池州の野利部は、並びに綏州、延州に移された。 大暦の末、野利禿羅都と吐蕃が結んで叛き、他の部族にも謀叛をけしかけたが、他部族はこれに呼応しなかった。郭子儀が、野利禿羅都を撃って、禿羅都を斬ったので、野利景庭、野利剛は、部族数千人を率いて雞子川において帰順した。六州の部落というのは、野利越詩、野利龍児、野利厥律、児黄、野海、野塞などで、慶州に住んでいるものを東山部と号し、夏州のものを平夏部と号した。永泰年間(765-766)の後、党項は次第に石州に移動したが、その後、永安の将・阿史那思昧による税の取立てが際限なかったので、ついに耐え切れず、党項は河西に逃走した。 元和(806-820)の時、宥州を復置して党項を護ったが、大和年間の中頃になると党項は次第に強盛になり、しばしば国境地帯を略奪した。党項は、武器や防具が鈍くて粗末なので、唐兵の武器の精強さを恐れ、良馬を売っては鎧を買い、良い羊を売っては弓矢を購入した。そこで、党項を危険視した鄜坊道軍糧使の李石が上表し、商人が、軍旗、甲冑、種々の武器を持って党項の部落に入ることを禁止した。もし密告したものがいたら、その密告者に罪人の財産を没収し、褒美として与えた。開成年間(836-840)の末になると、党項部族はいよいよ盛んになり、富裕な商人が絹織物を持ち込み、党項からヒツジ・ウマを買い入れた。藩鎮の役人はそれに便乗して、ヒツジ・ウマを無理やり売らせて代価を与えない事があった。このため党項の部族民は怒り、互いに誘いあって反乱を起こし、霊州、塩州に攻め込んだので道が不通になった。武宗は侍御史を使招定に任じ、三印に分け、邠州、寧州、延州を崔彦曽に属させ、塩州、夏州、長澤を李鄂に属させ、霊武、麟州、勝州を鄭賀に属させて、みなに緋衣と銀魚の印を賜わったが、功を奏さなかった。 宣宗の大中四年(850)、党項が邠州と寧州を略奪したので、鳳翔節度使の李業、河東節度使の李拭に詔して節度している軍勢を併せて、これを討伐するよう命令し、宰相の白敏中を都統となした。宣宗が近苑に出向いたところ、あるものが一本の竹を屋外に植えていた。見ると、その竹は、わずか一尺の高さで、宣宗から百歩ばかり遠ざかっていた。宣宗は矢の命中の成否にことよせて言った。「党羌は、いまや追いつめられた敵だが、窮地に陥りながらも、なお年ごとに唐の辺境を荒らしている。いま私は約束しよう。もし竹まん中に命中することができれば、党項はまさに、おのずから滅びるであろう。命中しなければ、私は天下の兵を求めて党項を殲滅しよう。この賊に子孫を残させないぞ」と。近臣たちが注目するなか、宣宗がひとたび矢を放つと、竹が割れ、矢が貫通したので、近臣らは万歳と叫んだ。一ヶ月もたたないうちに羌は果たして破れ滅び、残党は南山に逃亡した。 初め天宝年間(742-756)の末に、平夏部の族長、拓跋思恭が戦功を上げたので、容州刺史、天柱軍使に抜擢した。拓跋思寂の子孫の拓跋思恭が、咸通年間(860-874)の末に、ひそかに宥州を占領して刺史を自称した。黄巣が長安に侵入したので、拓跋思恭は鄜州刺史の李孝昌とともに壇を築いて犠牲を供え、賊を討伐する事を誓った。僖宗はこれを賢明な行為とし、拓跋思恭を左武衛将軍、権知夏綏銀節度事に任命した。拓跋思恭が、王橋に留まった時に黄巣に打ち破られたが、鄭畋ら四人の節度使とともに盟約して渭橋に駐屯した。中和二年(882)詔して拓跋思恭を京城西面都統、検校司空、同中書門下平章事に任命した。にわかに拓跋思恭を昇進させて、四面都統、権知京兆尹となした。黄巣が平定されると、拓跋思恭に太子太傅を兼ねさせ、夏国公に封じて、李姓を賜わった。嗣襄王李熅の乱が勃発すると、拓跋思恭に詔を下して賊を討伐させたが、軍勢が出撃する前に、拓跋思恭は亡くなった。そこで、思恭の弟の思諫を代わりに定難節度使に任じ、もう一人の弟の思考を保大節度使鄜・坊・丹・翟などの州の観察使、ならびに検校司徒、同中書門下平章事に任命した。王行瑜が抜くと、拓跋思孝を北面招討使に任命し、拓跋思諫を東北面招討使に任じた。拓跋思孝もまた、この反乱によって鄜州を取り、ついに節度使となり、累進して侍中も兼ねたが、年老いたために弟の思敬を推薦して保大軍兵馬留後となし、にわかに節度使となした。 東女国は、蘇伐刺拏瞿咀羅(スヴァルナゴトラ)ともいい、羌族の別種である。西海(インド洋)にも、女の王を戴く国があるので、区別するために「東」をつける。東は吐蕃、党項、茂州(四川省)に接し、西は三波訶国に属し、北には于闐、東南は雅州の羅女蛮、白狼夷に属していた。この国の面積は、東西に九日、南北に二十日行程の広さであった。八十の城を有し、女を君主に戴いている。延川に住み、険しい土地が四方を取り囲んでいた。弱水が南に流れている。人々は革を縫いあわせて船を造った。戸数は四万戸で、勝兵は一万人であった。王のことを「賓就」といい、官のことを「高霸黎」といったが、これは宰相に相当した。外にいる役人は、男子をこれにあてた。およそ号令は女官が内廷から伝え、男の役人がこれを受け取って実行に移した。王の侍女は数百人おり、王は五日に一度、政務をとり行った。王が亡くなると、国人は金銭数万を王族に納め、王族の中から淑女二人を求めて、そのうちの年長者を大王とし、年少者を小王となした。大王が死ぬと、小王を後継ぎに立てた。あるいは、姑が死ぬと嫁がその後を継いだ。王位の簒奪はなかった。住まいはみな重屋で、王は九層、国人は六層であった。王は、青毛の綾のスカート、青色の袍を着用したが、服の袖は地面に引きずった。冬は子羊の皮衣を着用し、文錦で飾った。小さな髪をつくり、耳にはイヤリングをたらした。足には皮靴を履いた。皮靴とは履き物のことである。この国の習俗では、男子を軽んじた。身分の高い女性はみな男を従者として有していた。侍男は、被髪で、顔面を青く塗り、ただ戦争と耕作にのみ努めた。子供は母親の姓に従った。その地は寒く、麦をよく産し、羊馬を牧畜し、黄金を産出した。風俗はだいたい天竺と同じであった。十一月を年始とした。巫者は十月に山中に詣で、酒かすと麦を敷き、まじないを言って鳥の群れを呼ぶ。にわかにやって来る鳥があって、その姿は鶏のようである。その腹を割いて腹の中を見、腹の中に穀物があれば、その年は豊作であるが、そうでなければ災厄が訪れる。それで、この占いの名を鳥といった。三年間喪に服し、衣服を変えず、くしけずる事も沐浴もしなかった。貴人が亡くなると、その皮膚を剥ぎ取り、骨を甕の中に収め、金粉を塗って、墓に埋める。王を葬る際には、殉死するものは数十人に及んだ。 武徳年間(618-626)に、王の湯滂氏が初めて遺使して入貢した。高祖はこれに対して厚く報いたが、西突厥が略奪するので通じることができなくなった。貞観年間中、使者がまたやって来たので、太宗は璽制して使者を慰撫した。顕慶の初め、遣使して、高覇黎の文と王子の三盧を来朝させたので、高宗は彼らに右監門中郎将を授与した。王の歛臂が、大臣を遣わして官号が欲しいと請願したので、則天武后は歛臂を冊立して左玉鈐衛員外将軍を授与し、瑞錦の服を下賜した。天授と開元の間、王と王子が再び来朝したので、玄宗は詔して宰相とともに長安の曲江池で宴をし、王の曳夫を封じて、帰昌王、左金吾衛大将軍となした。後には男子を王となした。 貞元九年(793)、王の湯立悉は、白狗君、及び、哥隣君の董臥庭、浦租君の鄧吉知、南水君の薛尚悉曩、弱水君の董避和、悉董君の湯息賛、清遠君の蘇唐磨、咄覇君の董藐蓬とともに、みなで剣南節度使の韋皋のもとに赴き、唐への内附を希望した。その種族は、西山、弱水に散居し、自ら王を称していたけれども、けだし小さな部落ばかりであった。吐蕃に河西隴右を奪われた後、これらの部落は尽く吐蕃の下に従属した。その部落は数千戸であったが、県令を置き、年ごとに絲(絹と綿)を吐蕃に輸出した。しかし、ここに至り、天宝の時に天子から賜わった詔勅を取り出して、韋皋に献上した。韋皋は、東女の民人を維州、覇州などに住まわせ、牛や糧食を与え、なりわいを治めさせた。湯立悉らが入朝すると、官禄を賜わったが、それには差があった。ここにおいて松州の二万口も踵を接して内附してきた。湯立悉らは刺史を与えられ、みな代々官職を世襲したが、しかし、ひそかに吐蕃に内附したので、これを両面羌と称した。 高昌(トルファン)は長安の西四千余里の所にあり、国土の面積は東西八百里、南北五百里で、およそ二十一の城を有していた。首都の交河城は、漢の車師前王国の王庭があったところである。田地城は戊己校尉の治所である。勝兵は一万いた。土壌は肥沃で、麦、稲は、二毛作であった。高昌には白畳(綿花)という名前の草があった。人々は白畳の花を摘んで織り、布を作った。この国の風俗では、弁髪にし、髪の毛をうしろに垂らした。 高昌の王麴伯雅は、隋の時、皇帝の親族字文氏の娘を妻にした。宇文氏は華容公主と号した。唐の武徳の初め、麴伯雅が亡くなり、息子の文泰が即位し、遣使して伯雅の死を告げたので、高祖は使者に命じて弔問させた。五年後の武徳七年、高昌は、身長が六寸、体長が一尺余の犬を献上した。この犬は、馬の手綱を口にくわえて先導することができ、また燭台を口にくわえることもできた。犬は払菻が原産であると言われ、中国はこれによって初めて払菻狗を有する事になった。 太宗が即位すると、黒狐の皮衣を献上したので、太宗もそのお返しに、妻の宇文氏にかんざしを一つ下賜した。これに対し、宇文氏も太宗に玉盤を献上した。およそ西域諸国の動静は、高昌が、すぐにこれを唐に奏上した。貞観四年(630)、麹文泰が来朝したので、太宗は礼賜を甚だ篤く与えた。また文泰の妻の宇文氏が李王室の皇族になりたいと申し出たので、太宗は詔して宇文氏に姓を賜わり、常楽公主に封じた。 これよりしばらくして麴文泰と西突厥が通好した。西域諸国は朝貢する際に高昌を通過したが、これ以後、使者達はみな麴文泰によって朝貢路を遮られ、唐への献上品を奪い取られた。伊吾(ハミ)は、以前西突厥に臣従していたが、唐に内属したため麴文泰と西突厥の葉護は共謀して伊吾を攻撃した。太宗は詔を下して麴文泰の背信行為を訪問し、高昌の大臣冠軍・阿史那矩を召し寄せて相談しようとしたが、麴文泰は太宗の命令にそむき、阿史那矩を唐には派遣せず、代わりに長史の麴雍を派遣して謝罪した。初め、隋の大業年間の末、中国の多くの民が東突厥に亡命したが、東突厥の頡利可汗が敗北すると、高昌に亡命するものがあった。太宗は詔を下して、中国から高昌に逃亡したものを中国に護送するように命じたが、麴文泰は彼らを高昌に拘留して中国に帰さなかった。また麴文泰は西突厥の乙毘設とともに焉耆の三つの城を撃破し、焉耆の民を捕虜にしたので、焉耆王は太宗に高昌の所業を訴えた。 太宗は、虞部郎中の李道裕を派遣して麴文泰の行状を詰問させた。麴文泰がまた遣使して太宗に謝罪したので、太宗はその使者を引見し叱責して言った。「おまえのあるじ麴文泰は、数年来、朝貢をしてこない。麴文泰には臣下としての礼がない。勝手に官職を設け、中国の百僚を僭称し、まねている。正月には万国の使者達がことごとく来朝したが、麴文泰は来なかった。かつて唐の使節が高昌を訪れたが、麴文泰は唐使に向かって横柄に言った。〝鷹が天に舞えば雉は草むらに隠れる。猫が堂で遊べば鼠は穴の中に逃げて安んじる。おのおの、その適所を得て、どうして心を楽しませないことがあろうか?〟西域の使者達が入貢しようとすると、高昌は、ことごとくこれを拘束する。また麴文泰は薛延陀に遣使して、こう言ったそうだな。〝あなたはすでに自ら可汗になった。唐の天子と同等である。なんで唐の使節に拝謁する必要があろうか?〟朕は来年、軍隊をおこして、なんじの国を虜にする。帰って、なんじのあるじに言うがよい。よく自ら図れ、とな」と。この時、薛延陀の可汗が、唐軍のために教導をしたいと請願してきた。そこで民部尚書の唐倹が薛延陀に行き、可汗とかたく約した。 太宗はまた璽書を下して麴文泰に禍福を示し、入朝を促させたが、麴文泰はついに病気を理由に入朝しなかった。そこで太宗は、侯君集を拝して交河道大総管となし、左屯衛大将軍の薛萬均、薩孤の呉仁をその副官に任命し、契苾何力を葱山道副大総管となし、武術将軍の牛進達を行軍総管に任じて、突厥と契の騎兵数万騎を率いさせて、高昌を討伐させた。群臣は太宗を諫めた。「万里も行軍しては、兵士の志気を得るのは難しい。それに、天界の絶域を得たとしても、これを守りきることはできない」と言って群臣は太宗に諫言したが、太宗は聞き入れなかった。一方、麴文泰は近臣に言った。「昔、私が隋に入朝した時、秦隴の北にある城邑を見たが、荒れていた。隋の時代の比ではない。唐は、いま高昌を討とうとしているが、兵が多ければ兵糧は及ばない。もし唐軍の兵力が三万以下ならば、私はよくこれを制圧する事ができよう。砂漠を渡れば唐軍は疲労し、動きも鈍くなる。気楽に唐軍の疲弊を待ち、横になって敵の疲弊を収めればよいだけだ」と。しかし貞観十四年(640)、麴文泰は唐軍が磧口に達したという事を聞いたとたん、動悸がし、驚きふるえあがって、はかりごとも思い浮かばなくなった。麴文泰は病を発して死んでしまった。息子の麴智盛が即位した。 侯君集は田地城を襲撃し、契苾何力が先鋒部隊となって死に物狂いで戦った。その夜、流れ星が城中に墜ちた。翌日、田地城は陥落し、唐軍は七千余人を捕虜にした。中郎将の辛獠児が軽騎兵を率いて夜間に高昌の都に迫ったので、麴智盛は侯君集に手紙を送って言った。「天子に対して罪を犯したのは先王の文泰です。先王の咎は深く、罪は堆積しています。智盛は位を継いでまだ日が浅い。公よ、どうか私を赦してください」と。しかし、侯君集は答えていった。「よく過ちを悔いるものは、後ろ手に縛って軍門に下るべきだ」と。智盛は答えなかった。唐軍は出撃し、濠を埋め衝車を引き、投石器から飛ばされた石が飛ぶさまは雨のようであった。城内の人々は大いに震撼した。麴智盛は、大将の麴士義に都に留まって町を守護するよう命令した上で、自身は綰曹の麴徳俊とともに唐の軍門を訪れ、改めて天子に仕えたいと懇願した。君集は、麴智盛を降伏させようと考え説得したが、麴智盛の言葉遣いが傲慢だったので、薛万均が急に顔色を変えて立ち上がり、「先に城を奪い取るべきである。小僧と話しても話しにならん」と言って、指揮旗をふるって唐兵に進撃を命令したので、麴智盛は汗を流し地に伏し、「ただ、公の命令に従います」と言い、すぐに降伏した。侯君集は軍を分け、高昌をほぼ平定した。およそ、州の数は三、県の数は五、城は二十二、戸は八千、人口は三万、馬は四千であった。これより前、高昌の人々は童謡をうたっていた。「高昌の兵は霜や雪のようなもの。唐軍は日月のようだ。日月が照れば、霜と雪はほどなく自ら溶けて消滅する」と。麴文泰は戯れ歌を歌い始めたものを捕らえようとしたが、結局、捕まえる事はできなかった。 戦勝報告が長安に届けられると、太宗はたいそう喜び群臣を宴に招いて論功行賞を行った。高昌国の支配下にあった諸都市をゆるし、高昌の地に州県制を設置して、西昌州と号した。しかし、特進の魏徴は太宗を諌めて言った。「陛下が即位なされたとき、高昌は真っ先に朝謁しました。しかしその後、高昌は商胡を劫略し、貢献を遮ったために高昌王は誅殺を加えられました。麴文泰が亡くなり、罪も止まりました。高昌の民を慰撫し、その子を高昌の王に立て、罪を討伐して民を慰める。これが道であります。いま、高昌の地を利して、常時その地に千人の兵を駐屯させ、数年に一度、駐屯兵を変えるならば、辺境に派遣される兵士は、装備や旅費を自弁で用意せねばならず、親戚と離別しなければなりません。十年もたたぬうちに隴西(甘粛省)が空虚になりましょう。陛下は結局、高昌の一粒の穀物、一尺の絹も得ることなく、中国の軍事費の助けとすることもできないでしょう。これこそまさに、有用を捨て無用に力を費やすということです」と。しかし、太宗は魏徴の意見を採用しなかった。西昌州を西州と改め、さらに安西都護府を設置した。一年に千人の兵を徴発し、罪人を送って守備兵にあてたので、黄門侍郎の褚遂良は太宗を諌めていった。「昔は中華を優先して夷狄を後回しにし、徳化を広めるように務めて、遠方のことは争いませんでした。いま高昌は誅滅され、中国の威光は四方の夷狄を動かしました。皇帝の軍隊が初めて征伐してから、河西は労役に駆り出されて、急いで米を運び、まぐさを転送して出撃の準備を整えるので、十軒のうち九軒がそうした仕事に駆り出されて貧困になり、五年たってもいまだに回復しません。いままた年に駐屯兵を送るなら、荷物は万里を行き、辺防のために去るものは、そのための費用と衣装を自分で調達するために、自分の食べ物を売り、はたを売ってまで費用を調達しなければならず、旅の途上で死亡するものも多く、その数は計り知れません。罪人は、法を犯すことに始まり、なりわいを捨てることに終わり、行いに益がありません。派遣した兵士も逃亡し、役人が逮捕して、逮捕者は芋づる式に相次いで牽かれていきます。張掖や酒泉のように、敵襲を知らせる土煙があがり、烽火があがった時に、どうして、それより更に遠い高昌の一車両一兵卒を得て救援を得られましょうか。隴右、河西から微発するだけです。たとえば、中国内地の河西を自分の腹心であるとするならば、外地の高昌は他人の手足のようなものです。どうして中華を消耗させて役に立たない事につかえるのですか。むかし陛下は東突厥の頡利可汗や吐谷渾を平定なされましたが、みな、その故地に君主を推戴しました。罪を犯せばこれを誅し、降伏すればこれを存続させる。これが、多くの蛮族が陛下の御威光を畏れ、陛下の徳を慕う理由です。いま、高昌を治めるべきものを選んで推戴し、首領達を召し出して、ことごとく故国に帰還させ、長く中国の垣根と柱になすべきです。そうすれば中国に乱れはありません」と。褚遂良はこのように言って太宗を諦めたが、この書聞は太宗によって省みられることはなかった。 初め麴文泰は黄金をもって西突厥の欲谷設に篤く贈物をし、危急の際にはお互いに表裏をなして助け合おうと約束していた。そこで、欲谷設は葉護を可汗浮図城に駐屯させた。しかし、君集の軍勢が襲来すると欲谷設は恐れて援軍を出撃させず、ついに降伏した。そこで、太宗は可汗浮図城を庭州とした。焉耆は太宗に高昌に奪われた五つの城を返し、駐屯軍を留まらせて守ってほしいと要請した。 侯君集は石に刻んで功を記させ、長安に凱旋した。麴智盛ら高昌の君臣たちは捕虜として観徳殿に献上された。皇帝による礼をつくした酒宴がとり行われ、三日間宴が開かれた。高昌の豪傑たちを中国に移し、麴智盛に左武衛将軍、金城郡公、弟の麴智湛に右武衛中郎将、天山郡公を拝した。麴氏は、国を伝えること九世代、百三十四年にして滅亡した。 麴智湛は、麟徳年間中に左驍衛大将軍から西州刺史に任じられ、亡くなった。死後、涼州都督を贈られた。麴智湛には、麴昭という息子がいた。麴昭が勉強好きなので、珍しい書物があると、母親は息子のために箱の中からお金を持ち出し、「珍しい本があれば、どうして息子のためにお金を惜しもうか」と言って、書物をことごとく買い求めてやった。麴昭は司膳卿を歴任したが、文章が非常にうまかった。その弟の麴崇裕は武芸にすぐれていたので、永徽年間中に右武衛翊府中郎将に任じられ、交河郡王に封じられた。邑は三千戸に至り鎮軍大将軍で亡くなった。武后は麴崇裕の死を悼んで美しい錦で織った衣服を贈り、弔いのための賜わりものは甚だ篤かった。麴氏の封爵は、麴崇裕の死によって断絶した。 吐谷渾は甘松山の南、洮水の西にあり、南は白蘭を隔てること数千里である。城郭はあるが、国人はその中には住まず、水と草に従って移動する。テントに住み、肉食をする。その国の官職には、長史・司馬・将軍・王・公・僕射・尚書・郎中がある。おそらく中国王朝の官職の制度をまねて、このような行政組織をつくったのであろう。この国の人々は、文字を知っている。王は、椎髷(髪を後ろにたれ、ひとたばねにしたまげ)にして黒い帽子をかぶり、王の妻は錦の袍を着、織り上げたスカートをはき、黄金の花を首に飾った。この国の男性は、裾の長い服を着用し、絹の帽子か、羃羅(べきら)を頭にかぶった。女性は弁髪にし、うしろにたらして珠や貝殻を綴って髪を飾った。この国の婚礼では、裕福な家は盛大な結婚式を行って嫁を娶るが、貧者は婚礼を挙げられないので妻を盗んだ。父親が亡くなると母親以外の父の妻を娶り、兄が死ぬと兄嫁を妻とした。喪服には規定があり、葬礼が終わるとすぐに解除した。民に対して恒常的に課される税金はなく、不足があれば、富裕商人から税を集めとり、不足分が足りれば微税をやめた。およそ、殺人と馬泥棒は死罪になった。その他の罪は、商品を献上させて贖罪させた。その地は非常に寒く、麦、菽(マメ)、栗、蕪菁(カブラ)を産し、仔馬、ヤク、銅、鉄、丹砂を産出した。青海という湖がある。青海湖の周囲は、八、九百里であった。湖の中に山があり、湖が凍結するのを待って、その上に雌馬を放牧する。翌年、仔馬を産む。この仔馬は龍種であった。吐谷渾は、むかし波斯馬を得たが、これを青海のほとりで放牧しておいたところ、驄(青白色の馬)の仔馬を産んだ。この馬は、一日に千里を歩いた。それで、人々は「青海驄」と称した。西北には、流砂が数百里も続いており、夏には熱風が吹き、旅人を傷つけた。熱風が押し寄せてくると、老いた駱駝が首をひいていななき、鼻を砂中にうずめる。人はそれによって砂嵐の到来を察知し、絨毯で鼻と口をおおって、熱風の害から免れた。 隋の時、王の慕容伏允は歩薩鉢をしていた。かつて慕容伏允が中国の辺境地帯に入寇した時、煬帝は鉄を派遣して慕容伏允を撃破した。煬帝は西平に城壁を築き、また観王雄に命じて吐谷渾を破らせた。吐谷渾の王慕容伏允は数十騎を率いて泥嶺に逃亡したが、仙頭王は男女十余万を率いて隋の軍隊に降伏した。煬帝は、吐谷渾の地に郡県と鎮戍を設置した。それから、慕容伏允の長男で、人質として長安に滞在させておいた慕容順を、逃亡した慕容伏允の代わりに王として推戴した。そして吐谷渾の余衆を治めさせるために、にわかに慕容順を故国に帰還させた。一方、慕容伏允は党項に亡命し、客人として滞在していたが、隋末の乱の折、隋の混乱に乗じて故地を回復した。 唐の高祖李淵が受命したとき、慕容順は江都から長安に帰還した。このとき李軌が涼州に拠っていたが、高祖は慕容伏允と和睦を約し、慕容伏允が李軌を撃って唐のために戦ったならば、息子の慕容順を慕容伏允のもとに護送しようと約束した。慕容伏允は喜び、兵を率いて李軌と庫門で戦い、その後、両軍は退却した。それから遣使して慕容順を帰国させてくれるよう請願した。高祖は約束どおり慕容順を吐谷渾に使わした。慕容順が帰国すると、慕容伏允はこれを大寧王となした。 太宗の時、慕容伏允は使者を遣わして入朝させたが、その使者が帰還しないうちに吐谷渾は州に入寇した。太宗は使者を派遣して慕容伏允の非を責め、慕容伏允を召し出そうとしたが、慕容伏允は病を理由に行けないと言い訳した。その上、息子の尊王のために公主の降嫁を請願し、太宗の心を試した。太宗は慕容伏允の子尊王を召して自ら歓迎したが、尊王もまた病気を口実に入朝しなかったので、太宗は詔を下して、尊王への公主の降嫁を中止にした。太宗は、中郎将の康処真を派遣して慕容伏允の説得に向かわせた。また、慕容伏允が岷州を略奪したので、太宗は都督の李道彦を派遣して吐谷渾軍を撃破し、敗走させた。唐軍は名王二人を捕虜とし、首級七百を斬った。慕容伏允は、この後、毎年名王を派遣して入貢した。しかし、にわかに吐谷渾が涼州に入寇してきたので、鄯州刺史の李玄運は「吐谷渾は青海で放牧しています。軽装の兵で、これを襲って取り囲めば、すべてを捕獲できます」と上表した。そこで、太宗は、左驍衛大将軍の段志玄、左驍衛将軍の梁洛仁に命じて、契苾・党項の兵を率いて吐谷渾を征伐させた。しかし、三十里も行かないうちに、戦いたくなかった段志玄らは陣営を築いて駐屯したので、軍の到来に気づいた吐谷渾は、放牧していた馬を駆って逃走してしまった。副将の李君は、騎兵の精鋭部隊を率いてこれを追撃し、懸水のほとりで後方から襲撃して、吐谷渾の牛羊二万を捕獲して帰還した。 この時、慕容伏允は年老いて政務を取る事ができなかったので、大臣の天柱王が政治を掌握し、太宗の使者、鴻臚丞・趙徳楷を拘束した。太宗は使者を派遣して勅命を与えること十回に及んだが、吐谷渾からは改悛の言葉は返ってこなかった。貞観九年(635)、太宗は詔し、李靖を西海道行軍大総管に、侯君集を積石道、任城王の李道宗を鄯善道、李道彦を赤水道、李大亮を且末道、高甑生を塩澤道の各々行軍総管に任命し、突厥、契芯の兵を率いて吐谷渾を討伐させた。党項に内属する羌族と、洮州羌は、みな刺史を殺害して慕容伏允に帰順した。夏四月、李道宗が慕容伏允を庫山で撃破し、捕虜・斬首は四百に及んだ。慕容伏允は、砂漠に唐軍を誘き寄せようと謀り、野草を焼いたので、李靖の軍馬は食糧がなくなって多くが飢餓に苦しんだ。そのため対策を講じて李道宗は言った。「柏海は河源に近いので、昔からここに至ったものはいまだいない。慕容伏允は西に逃走したというが、その所在は今もって不明である。我が軍の馬は痩せ衰え、食糧も欠乏している。遠方に軍を進めることは難しい。鄯州に駐屯して、馬が元気になってから、再度、吐谷渾征伐を図った方がよい」と。しかし侯君集は、「それはいけない。かつて段志玄が鄯州に至った時、吐谷渾の兵は即座に城に拠った。吐谷渾の力はまだ健在であり、むしろ民衆は命令に従った。しかしいま吐谷渾は大敗し、斥候もいない。君臣も失われた。我らは吐谷渾の難に乗じ、吐谷渾討滅という志を全うすべきである。柏海は遠いが、将兵を鼓舞して到達すべきである」と。李靖は「よし」と言うと、唐軍を二分し、李靖が李大亮、薛万均とともに一軍を率いて北に赴き、その右から出、侯君集と李道宗が一軍を率いて南に赴いて、左から出ることになった。李靖の将、薩孤呉仁は、軽騎兵を率いて曼都山で戦い、名王を斬り殺して、斬首五百級を得た。諸将は、牛心堆、赤水源で戦い、敵将の南昌王の慕容孝を捕縛して、雑畜数万を捕獲した。侯君集と李道宗は、漢哭山に登り、烏海で戦って名王の梁屈葱を捕縛した。李靖は、天柱部落を赤海で破り、雑畜二十万を捕獲した。李大亮は、名王二十人を捕虜とし、雑畜五万を捕獲して、且末の西に軍を宿営した。慕容伏允は図倫磧に逃走し、于闐に逃亡しようと図ったが、薛万均は騎兵の精鋭を率いて逃げる慕容伏允を数百里にわたって追跡し、慕容伏允を打ち破った。唐軍の将兵は水が乏しくなったので、馬を刺して、その血を水の代わりに飲んだ。侯君集と李道宗は、空しく荒野二千里を進軍した。盛夏にもかかわらず霜が降り、水草は乏しく、兵士は氷をかゆ(食糧)として食べ、馬は雪をまぐさにして食べた。一ヶ月を経て星宿川に達し、柏梅の上に到達し、積石山を展望し、河源を観望できた。執失思力は、馬を馳せて、吐谷渾の輜重部隊を打ち破った。両軍は、大非川、破邏真谷で遭遇した。 慕容伏允の息子慕容順は隋に人質に出され、金紫光禄大夫に任命されていた。長男の順が人質として中国にいたので、慕容伏允は、慕容順の弟を太子にした。慕容順は帰国したが、弟に太子の位を奪われたために常に快々として楽しまなかった。慕容順は位を失ったので、功績を上げて皇帝と結びたいと希望していた。そこで、天柱王を斬り、国を挙げて唐に降伏した。慕容伏允は恐れ、千余騎を率いて磧(ゴビ砂漠)中を遁走した。しかし従う兵士達が慕容伏允を見限って次第に逃亡していったので、付き従う従者はわずか百騎だけとなり、慕容伏允の無聊は極まり、遂に自ら縊れて死んだ。国人達は慕容順を立てて吐谷渾王となし、臣を称して唐に帰順した。太宗は詔して、慕容順を西平郡王に封じ、趙胡呂烏甘豆可汗と号した。太宗は、吐谷渾がまだ十分に安定していない事を恐れ、李大亮に精鋭部隊を率いさせて、かの国に駐屯して守らせた。 慕容順が長い間、人質として中国に滞在していたために、国人達は慕容順になつかず、慕容順は臣下によって殺されてしまった。国人は、慕容順の息子、燕王の慕容諾曷鉢を擁立した。慕容諾曷鉢はまだ幼く、大臣達は権力闘争をした。太宗は侯君集に詔し、吐谷渾王のそばに付いて国を統治させたので、慕容諾曷鉢は、初めて太宗に向かって、唐の暦を分けて欲しいこと、子弟を唐に入侍させたいことを請願した。また、詔して慕容諾曷鉢を河源郡王に封じ、烏地也抜勒豆可汗とさせた。また、淮陽郡王の李道明を派遣し、節を持たせ詔書を下して、慕容諾曷鉢に鼓纛(太鼓と旗)を賜わった。慕容諾曷鉢は自ら入朝して感謝し、公主の降嫁を懇願して、馬牛羊を万匹献上した。慕容諾曷鉢が毎年入朝したので、太宗は宗室の女を弘化公主となして慕容諾曷鉢の妻とし、李道明と右武衛将軍の慕容宝に詔して、節を持って公主を吐谷渾まで送らせた。しかし吐谷渾では大臣の宣王が跋扈しており、反乱を謀って、公主を襲撃し、慕容諾曷鉢を掠め取って吐蕃に出奔しようと画策した。慕容諾曷鉢はこれを察知し、軽騎兵を率いて城に逃走した。威信王は兵を率いて慕容諾曷鉢を迎え、果毅都尉の席君買が兵を率いて威信王とともに、宣王を討伐し、兄弟三人を斬ったので、吐谷渾は大いに乱れた。太宗はまた、民部尚書の唐倹と中書舎人の馬周に詔し、節を持して吐谷渾人を慰撫した。 高宗が即位すると、公主が嫁いでいる縁故で慕容諾曷鉢は駙馬都尉を拝した。吐谷渾が名馬を献上したので、高宗が馬の種性をたずねたところ、使者はこたえて「吐谷渾で最良の馬です」と言った。高宗は「良馬は人々の惜しむものである」と言い、その馬を吐谷渾に返すよう詔を下した。弘化公主が表して入朝したいと請願したので、高宗は左驍衛将軍の鮮于匡済を派遣して公主を迎えに行かせた。十一月、慕容諾曷鉢が長安に到着したので、高宗は宗室の女、金城公主を、慕容諾曷鉢の長男の慕容蘇度摸末の妻とし、慕容蘇度摸末に左領軍衛大将軍を拝した。しかし、しばらくして慕容蘇度摸末が亡くなった。そこで弘化公主は、次男の右武衛大将軍・梁漢王・慕容闥盧摸末とともに来朝して、婚姻を請願した。高宗は、宗室の女金明公主を慕容闥盧摸末の妻とした。すでに吐谷渾と吐蕃は互いに攻めあい、高宗に上書して、お互いの善悪を訴えて唐に援軍を要請したが、高宗は双方に対して援軍派遣を許さなかった。吐谷渾の大臣・素和貴が吐蕃に亡命し、吐谷渾の内情を告げたので、吐蕃は出兵し、不意を衝いて吐谷渾の軍勢を黄河のほとりで打ち破った。慕容諾曷鉢は国を保ちきれず、弘化公主とともに数千帳を率いて涼州に逃走した。高宗は、左武衛大将軍の蘇定方を安集大使に任命して派遣し、両国の怨みを静めさせようとした。しかし吐蕃はついに吐谷渾の地を領有した。 慕容諾曷鉢は、唐の国内に移住したいと請願した。乾封初め(666年頃)、高宗は改めて慕容諾曷鉢を青海国王に封じた。高宗は、慕容諾曷鉢の率いる吐谷暉の部衆を涼州の南山に移住させたいと考えたが、群臣の議論は意見が一致せず、高宗も南山への移住は難しいと考えた。咸亨元年(670)、高宗は右威衛大将軍の薛仁貴を邏娑道行軍大総管、左衛員外大将軍の阿史那道真と、左衛将軍の郭待封を副将となし、五万の兵を統率して吐蕃を征伐させ、あわせて慕容諾曷鉢を吐谷渾の故地に帰らせようとした。しかし唐軍は大非川で敗北し、吐谷暉の地はすべて吐蕃に掌握される事となった。慕容諾曷鉢は、親近のもの数千帳とともに辛うじて逃れた。咸亨三年(672)、慕容諾曷鉢は浩亹水の南に移動した。慕容諾曷鉢は、吐蕃が強盛である事、自力では吐蕃に抵抗できない事、鄯州の土地が狭い事などが理由で、また霊州に移動した。高宗は慕容諾曷鉢のために安楽州を設置し、慕容諾曷鉢に刺史を拝して、安らかに、かつ楽しく暮らせるようにと願った。 慕容諾曷鉢が亡くなると息子の慕容忠が立ち、慕容忠が亡くなると子供の慕容宣超が立った。聖暦三年(663)、慕容宣超に左豹韜員外大将軍を拝し、かつての可汗号を襲名させた。吐谷渾の、慕容諾曷鉢が統率する以外の部族は、涼州、甘州、粛州、瓜州、沙州などの州に行って投降した。宰相の張錫と、右武衛大将軍の唐休璟が議論して、これらの吐谷渾人を秦州、隴州、豊州、霊州の間に移住させるようにと言った。この地から吐谷渾を離れさせることはできなかった。涼州都督の郭元振は、次のように言った。「吐谷渾が、秦州、隴州に近づけば、監牧と雑居してしまい問題である。彼らを豊州や霊州に置いても、また突厥の勢力に近くなり、それに取り込まれやすい。仮に、彼らを中華の地に住まわせても、その習性を変えることはできないだろう。かつて王孝傑は、河源軍から耽爾乙句貴を霊州に移住させたが、耽爾乙句貴は抜いて牧坊に侵入し、群馬を略奪して州県を痛めつけた。これすなわち、異民族を中国の地に移して利益のなかったことの証拠である。また、かつて吐谷渾の大臣・素和貴が謀反して去ったが、これは唐にとって損害ではなかった。ただ吐谷暉の数十の部落が失われただけであった。どうして、耽爾乙句貴の場合と比較しないのか。いま降伏している異民族は、無理やり服従させたのではない。みな吐蕃の弓矢や刃をかいくぐり、吐蕃を捨てて来朝した。その事情に従って、これを制するべきである。甘州、粛州、瓜州、沙州に降伏したものは、その場所に置き、投降したところに住まわせれば、彼らの気持ちも安心しやすい。数州を割けば、力はおのずから分散する。彼らの気持ちに順じて、その勢力を分散すれば、人民を乱すことはない。よく夷狄の心を掌握するものと言うべきである。毎年しずめとどめるための使者を派遣して、慕容宣超の兄弟と撫護すれば、互いに侵攻略奪する事もなく、なりわいがしっかり安定する。もし叛き去るものが仮にあったとしても、中国に損害はない」と。高宗は郭元振の意見を採用した。慕容宣超が亡くなると、息子の慕容曦皓が後を継いで立った。慕容曦皓が死ぬと、息子の慕容兆が立った。吐蕃がまた安楽州を奪い取ったので、吐谷渾の残りの部族は朔方と河東に移住した。吐谷渾の名称を訛って「退渾」とした。 貞元十四年(798)、朔方節度副使、左金吾衛大将軍の慕容復を長楽都督、青海国王となし、可汗号を襲名させた。慕容復が亡くなると、後を継承するものが途絶えた。吐谷渾は、西晋の永嘉年間(307-313)から国があったが、龍朔三年(663)に吐蕃によってその地を奪われるに至って、およそ三五〇年、ここに及んで、封じる後継者が断絶した。 焉耆(カラシャール)国は、長安の西七千餘里の所にあり、東西六百里、南北四百里であった。東は高昌、西は亀茲、南は尉犂、北は烏孫であった。水路を造って田に水を注いで灌漑した。その土地は、黍、葡萄をよく産し、魚と塩の利もあった。この国の風俗は、髪を切り落とし、毛織物を着た。戸数は四千、勝兵の数は二千で、常に西突厥に役属していた。この国の風俗は娯楽を好んだ。二月には三日間、野に出て祀った。四月十五日、林で遊んだ。七月七日には祖先を祀った。十月十五日には焉耆王が初めて出遊した。一年が終わると祀りも全て終わった。 太宗の貞観六年(632)、焉耆の王、龍突騎支が初めて遺使来朝した。隋末の乱以来、磧路が塞がったので、西域諸国の朝貢はみな高昌を経由した。龍突騎支は、大磧道(大砂漠の道)を開通して旅人のために交通の便をよくしたいと請願したので、太宗はこれを許した。高昌は怒り、焉耆の周辺を大々的に略奪した。西突厥の莫賀設は、咄陸・弩失畢と仲が悪く、焉耆に逃亡してきたので、咄陸と弩失畢もまた焉耆を攻めた。そこで、龍突騎支は遺使して太宗に状況を告げ、あわせて名馬を献上した。莫賀設の次男が咥利失可汗として即位すると、焉耆とはもともと仲が良かったので、頼りとなって支援した。貞観十二年(638)、処月・処密が高昌とともに焉耆の五つの城を攻め落とし、千五百人を略奪して家を焼いた。侯君集が高昌を討伐しようとし、焉耆に使者を派遣して、焉耆と連合して高昌討伐を行ないたいと言ったので、龍突騎支は喜び、兵を率いて唐軍を支援した。高昌が唐軍に敗北すると、高昌に捕えていた焉耆の捕虜と城を焉耆に返した。焉耆は改めて唐に使者を派遣して謝恩した。 西突厥の重臣屈利啜は、弟のために龍突騎支の娘を娶った。そのため、屈利啜と龍突騎支は互いに約束して持ちつ持たれつの関係となり、龍突騎支は朝貢しなくなった。そこで安西都護の郭孝恪は太宗に焉耆討伐を請願した。たまたま焉耆王の弟の頡鼻・栗婆準・葉護ら三人が来降したので、太宗は、郭孝恪を西州道総管に任命し、軍勢を率いて銀山道から出撃して栗婆準らを道案内として焉耆を攻めるよう命令した。もともと焉耆は都にした場所の周囲三十里が四面すべて大きな山に囲まれ、海水もその外をめぐっていたので、焉耆はこの自然の要害を頼んで恐れることがなかった。郭孝格は、焉耆に向かって倍速で進軍すると、海水を船で渡り、夜のうちに、城壁の物見垣に近づき、夜明け方、大騒音とともに城壁を登った。唐軍の太鼓と角笛が轟き渡り、兵士が攻撃をしかけたので焉耆の人々は混乱して敗北し、千余人の首級が斬られて、龍突騎支は捕らえられた。唐は、栗婆準に政務を取らせた。初め、太宗は近臣に語っていった。「郭孝恪は八月十一日に焉耆に行った。二旬(二十日)で焉耆に到着し、二十二日目に焉耆を落城させるであろう。まもなく焉耆からの使者がやって来よう」と太宗が近臣に推測を語っていたところ、にわかに焉耆からの飛脚が駆け込んできて、戦勝報告を届けた。龍突騎支と、その妻子は捕らえられて洛陽に護送された。太宗の詔があって、彼らの罪は赦された。 屈利啜は軍勢を派遣して焉耆を救おうとしたが、屈利啜が焉耆に着いた時には、郭孝恪が帰還してすでに三日たっていた。屈利啜は栗婆準を捕らえ、さらに吐屯を派遣して王の代行をさせた。焉耆は唐に遺使して、この状況を告げた。太宗が「焉耆は我々が降伏させた。なんじがどうして王になったのか」と言ったので、吐屯は恐れ、焉耆の王になることができなかった。焉耆は、唐の立てた栗婆準を再び推戴したが、従兄の薛婆阿那支は自ら王となって瞎干と号し、栗婆準を捕らえて亀茲に献上した。亀茲は栗婆準を殺害した。阿史那社尓が亀茲を攻撃すると薛婆阿那支は亀茲に逃走し、東の国境地帯に城壁を築いて唐軍に抵抗した。しかし、阿史那社尓に捕らえられた。阿史那社尓は薛婆阿那支の罪を数え上げると、斬り殺して示しをつけた。龍突騎支の弟婆伽利を王となし、焉耆の地を焉耆都督府となした。 婆伽利が亡くなると、国人は前王の龍突騎支を返して欲しいと請願したので、高宗はこれを許し、龍突騎支に左衛大将軍を拝して帰国させた。龍突騎支が死ぬと、龍嬾突が即位した。武后の長安年間、焉耆の国が小さく人口も少ないので、焉耆は、この国を通過する使者や客人をもてなす労力に耐えられなかった。そこで武后は四鎮経略使に詔し、私馬を無料で微発すること、無品官のものが焉耆で肉食することを禁止した。開元七年(719)、龍嬾突が亡くなり、焉吐払延が即位した。ここにおいて、十姓可汗は砕葉に住むことを請願した。安西節度使の湯嘉恵は上表し、焉耆に四鎮を備えさせようとした。そこで玄宗は、焉耆、亀茲、疏勒、于闐に詔して、西域の商人に課税させた。諸国はそれぞれ通行税を徴収した北道を経由していた商人に対しては輪台で税をとった。焉耆は天宝年間まで常に朝貢した。 亀茲(クチャ)は、丘茲とも、屈茲ともいう。東に長安をへだてること七千余里であった。焉耆より西南に徒歩で二百里の距離であり、小山を越え大河二つを経て、さらに徒歩七百余里行って亀茲に到着する。東西の幅は千里、南北は六百里であった。その土地は、麻、麦、秔稲、葡萄をよく産し、黄金も産出した。その国の風俗は、歌と音楽、横書きの書をよくし、仏教を尊んだ。子供が生まれると、木で首をしめつけた。その国の風俗は断髪で、首のところでそろえた。ただ君主だけは髪を切らなかった。王の姓は白氏で、伊邏盧城に住んでいた。北は阿羯田山に守られていた。この山はまた白山ともいった。常に火を有していた。王は錦の帽子を頭にかぶり、錦の袍と宝石をちりばめた帯を着用した。新年の初めに羊と馬と駱駝を七日間戦わせる儀式があった。その勝負を観戦して家畜の繁殖を占った。パミール高原以東の風俗は淫行を喜んだので、亀茲と于闐は娼館を置き、売り上げ金を税として政府に納めていた。 高祖が隋から禅譲された時、亀茲王の蘇伐勃駃(スワルナプスパ)は使者を派遣して入させた。蘇伐勃駃が死ぬと、息子の蘇伐畳(スワルナデーヴァ)が即位し、時健莫賀俟利発と号した。貞観四年(630)、蘇伐畳が馬を献上したので、太宗は璽書を賜い、慰撫して等級を加えた。この後、亀茲は西突厥に臣従した。郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲は軍勢を派遣して焉耆を支援したので、これ以後、亀茲は朝貢しなくなった。 蘇伐畳が死ぬと、弟の訶黎布失畢(ハリプスパ)が即位した。貞観二十一年(647)、亀茲は二度、遣使朝貢したが、太宗は亀茲が焉耆の反乱を支援した事に怒り、亀茲討伐を議した。この夜、月が昴を食したので、太宗は詔していった。「月は陰の気であるから、これは刑罰を用いる兆しである。星は胡の運命を決める。胡(亀茲)の命運は、いままさに終わろうとしている」と。そこで太宗は阿史那社尓を崑丘道行軍大総管に任命し、契苾何力を副官となして、安西都護の郭孝恪、司農卿の楊弘礼、左武衛将軍の李海岸らを統率させて、鉄勒十三部族の兵十万を出動させて亀茲を討たせた。阿史那社尓は軍勢を五つに分け、亀茲の北方を略奪して、焉耆王の龍阿那支を捕らえたので、亀茲は非常に恐れ、酋長達はみな城を捨てて逃走した。阿史那社尓は磧石に至った。ここは亀茲の王城から三百里の場所であった。先に伊州刺史の韓威を派遣して、騎兵一千先鋒とした。右驍衛将軍の曹継叔がこれに次いだ。多褐に至り、亀茲王と遭遇し、亀茲の将軍の羯獵顛の兵五万と合戦した。韓威が偽って敗走した。亀茲王は、韓威の兵力が少ないのを見ると、指図旗で合図して軍を進め、韓威を追跡した。韓威は退却すると曹継叔と合流し、戻ってきて亀茲の軍勢と戦った。唐軍は亀茲軍を大破すると、逃げる亀茲兵を八十里も追撃した。亀茲王は城壁をめぐらして守ったが、阿史那社尓が城を取り囲もうとしたため、突騎を率いて西へ逃走した。亀茲城はついに陥落した。その後、郭孝恪が亀茲城に守備隊として残った。 沙州刺史の蘇海政、行軍長史の薛万備は、騎兵の精鋭を率いて亀茲王を追いつめること六百里に及んだ。亀茲王の計画は窮まり、撥換城を保とうとした。そこで阿史那社尓は撥換城を包囲した。一ヶ月が経過して亀茲王と将軍の羯獵顛は唐軍に捕らえられた。大臣の那利は夜間に逃亡すると、西突厥と亀茲の国人万余を率いて唐軍と戦った。この戦いで郭孝恪とその息子が戦死した。唐軍は混乱した。倉部郎中の崔義起は募兵して城中で戦い、曹継叔と韓威もこれを支援し、西突厥と亀茲の軍勢を撃破して、三千もの首級を斬った。那利は敗北したが、逃亡したり離散していた者たちを集めて次第に勢力を盛り返し、亀茲に戻って唐軍を襲撃した。しかし曹継叔はこれに乗じて八千もの首級を斬った。那利は逃走したが、その後、亀茲人によって捕らえられ、唐軍に献上された。阿史那社尓は、亀茲の五つの大城を破り、男女数万人を捕虜にした。そして、使者を派遣して小城七百余を諭して降伏させた。西域諸国は震撼し、西突厥と安国の両国は、降伏のしるしに唐軍に兵糧を献上した。阿史那社尓は、亀茲王の弟の葉護を推戴して亀茲の王となし、石に刻んで功績を記した。 戦勝報告が届けられると、太宗は喜び、群臣に向かって、ゆったりとして言った。「そもそも楽しみというものは幾つかの種類がある。朕はむかし、こう言った事がある。土の城や竹馬を得る事は童子の楽しみである。金翠羅を身に飾る事は婦人の楽しみである。その土地にあるものないものを交易することが商人の楽しみである。高官が高い秩を得る事は士大夫の楽しみである。戦って前に敵がいない事は将帥にとっての楽しみである。四海が安寧で統一されている事は、帝王にとっての楽しみである。だから朕はいま楽しいかな」と。そう言うと太宗は群臣にあまねく酒をすすめた。初め郭孝恪が焉耆を討伐した時、亀茲にいた仏教徒で、よく未来を予言できる人が嘆息して言った。「唐はついに西域を領有した。数年もたたないうちに、わが国もまた滅ぼされるであろう」と。阿史那社尓は、訶黎布失畢・那利・羯獵顛を捕らえて、太廟に献上した。太宗は捕虜達を紫微殿で受け取った。太宗が彼らを責めて言うと、亀茲の君臣はみな頭を地面に打ち付けて身を伏せた。太宗は詔して彼らの罪を赦し、捕虜の身から客人に扱いを改めて鴻臚寺に宿らせ、訶黎布失畢に左武衛中郎将を拝した。初めて亀茲の首都に安西都護を移動し、于闐、砕葉、疏勒を統させて四鎮と号した。 高宗はまた訶黎布失畢を封じて亀茲王となし、那利・羯獵顛とともに帰国させた。これからしばらくして亀茲王が来朝した。那利は、王の妻阿史那と密通したが、王はこれを禁じることができなかった。左右の近臣が王に向かって那利を殺すよう請願したので、これ以後、王は猜疑心を抱くようになった。王と那利の使者がそれぞれ遣使して高宗に状況を報告した。高宗は那利を召してこれを投獄し、王を護衛して亀茲に帰国させた。しかし羯獵顛は王の入国を拒み、使者を西突厥に派遣して阿史那賀魯に降伏した。王はあえて進まず怏々として死去した。高宗は左屯衛大将軍の楊冑に詔して兵を出動させ、羯獵顛を捕らえ、その部党を誅した。そして亀茲の地をもって亀茲都督府となした。さらに訶黎布失畢の息子素稽を王となして、右驍衛大将軍を授け、都督に任じた。この年、安西都護府を亀茲に移動させ、かつて安西都護府があった高昌を西州都督府となした。そして左驍衛大将軍・安西都護の麴智盛を都督に任じた。こうして西域諸国は平定した。高宗は使者を諸国に分散して派遣し、各国の風俗や物産を調査させ、許敬宗と史官に詔して『西域図誌』を撰文させた。 上元年間(674-676)、素稽が銀・頗羅(ガラス)・名馬を献上した。天授三年(692)、亀茲王の延田跌が来朝した。初め、儀風年間(676-679)、吐蕃が焉耆以西を攻撃したので四鎮はみな陥落した。長寿元年(692)、武威道総管の王孝傑が吐蕃を破って四鎮を回復したので、唐は安西都護府を亀茲に置き、三万の駐屯兵を置いて守備を固めた。ここに至り沙磧は荒廃し、民が資金と食糧を供給する事が甚だ苦しくなった。議者は安西の地を放棄するよう請願したが、武后はこれを認めなかった。安西都護には、政務の実績が中国と夷狄の双方において称賛されているものを選んで任命した。武后の時には田揚名、中宗の時には郭元振、開元の時には張孝嵩と杜暹が、各々安西都護を務めた。開元七年(719)、王の白莫苾が死去し、息子の多市が即位して孝節と改名した。開元十八年(730)、孝節は弟の孝義を派遣して来朝させた。 亀茲から六百余里、小さな沙漠を越えると、跋禄迦(バールカー)という小さな国があった。またの名を亟墨といった。漢代の姑墨(アクス)国である。国土は東西六百里、南北三百里であった。風俗と文字は亀茲と同じであったが、言語は少し異なった。目の細かい毛織物を産出した。西に三百里進んで石磧を越えると、凌山(ハン・テングリ)に至る。これはパミールの北の高原である。水は東に流れ、春・夏も山谷には雪が積もっていた。西北に五百里行くと素葉水(スーヤーブ)城に至る。近隣諸国の比国(ソグド)商人が商売のために来て雑居していた。素葉水以西の数十城は、みな君長を立て、西突厥に従属していた。素葉水城より羯霜那国(キシュ)に至る国は、毛織物、皮ごろも、皮や厚地の毛布を着用し、絹布で額を縛っていた。素葉水城の西に四百里進むと千泉に至る。その地はおよそ二百里四方で、南は雪山に面し、三方向には平地が広がっていた。泉や池が多いので千泉と命名した。西突厥の可汗が毎年千泉に避暑にやって来た。そこには鹿の群れが鈴や金属の環を付けられており、人によくなついていた。西におよそ百里進むと呾邏私(タラス)城があり、ここにも近隣諸国の比国(ソグド)商人が雑居していた。小さな城があり、三百余戸あった。この地の人々は、もともとは中国に住んでいたが、突厥に略奪されてきて、この地に住んでいた。彼らはいまでも中国語を話した。西南に二百余里行くと、白水(アクス)城に至る。平原湿潤で、地味は肥えていた。南に五十里進むと笯赤建(ヌージカンド)国があった。国土の広さは千里で肥沃だったので、作物がよく稔り、葡萄をたくさん産した。また二百里行くと石国であった。 疏勒(カシュガル)は佉沙とも言った。国の周囲は五千里で、長安から九千里余離れていた。砂漠が多く土壌は少なかった。疏勒の風俗は詭詐を尊び、子供が生まれると頭を両側から固定して扁平にした。この国の人々は刺青をし、瞳は青色であった。王の姓は裴氏で「阿摩」と自称し、迦師城に住んでいた。西突厥可汗は、娘を疏勒王の妻にしていた。疏勒の勝兵は二千人であった。この国は祆神(ゾロアスター教)を祀っていた。 貞観九年(635)、疏勒王は使者を派遣して名馬を献上し、四年後(639)にもまた朱倶波・甘棠とともに方物を貢いだ。太宗は房玄齡らに言った。「むかし天下を統一して四方の夷狄にも打ち勝ったのは、ただ秦の始皇帝と漢の武帝だけである。朕は三尺の剣を手に四海を定めたので、遠方の狄はおおむね服属した。二君(始皇帝と武帝)に劣らない功績である。しかし二君の末路は自らを保つことができなかった。公らは、よろしく互いに補弼しあって、へつらいの言葉を進めて危機存亡の状態に置かないでくれ」と。儀鳳年間(676-678)に吐蕃が疏勒を打ち破った。開元十六年(728)、初めて大理正の喬夢松に鴻臚少卿を兼務させて疏勒に派遣し、疏勒の君主安定を冊立して疏勒王となした。天宝十二載(753)、首領の裴国良が来朝したので折衝都尉を授け、紫袍と金魚を下賜した。 朱倶波(カルガリク)は、またの名を朱倶槃といい、漢の時の子合国であった。西夜・蒲犂・依耐・得若の四つの種族を併合していた。于闐の西千里、パミールの北三百里、西は喝盤陀、北に九百里行くと疏勒、南に三千里進むと女国であった。勝兵の数は二千人であった。浮層の法(仏教)を尊び、文字は婆羅門と同じであった。 甘棠は、海の南にあり、崑崙人であった。 喝盤陀(タシュクルガン)は、漢陀とも渇館檀とも言い、また渇羅陀とも言った。疏勒の西南より剣末谷に入り、不忍領を六百里進めばその国に至る。瓜州を隔てること四千五百里であり、朱倶波の西に隣接し、南は懸度山で隔てられ、北は疏勒、西は護密(ワハン)、西北は判汗国(フェルガナ)と境を接していた。王の治所はパミール高原の山中に存在した。都城の背後には徒多河(ヤルカンド川)が流れていた。勝兵の数は千人であった。その国の王はもともと疏勒人であり、代々王位を継承して王となった。西南には頭痛山があった。パミールはこの国の人々によって極嶷山と呼ばれ、喝盤陀の周囲を取り囲んでいた。この国の人々は強くて荒々しく、容貌と言語は于闐と同じであった。喝盤陀の法律においては、殺人と盗みを犯した者は死刑であり、それ以外の犯罪者は罪を金銭で贖った。租税として必ず服飾を納めた。王は金の長椅子に座った。北魏の太武帝の太延年間(435-439)に初めて中国に通好した。貞観九年(635)、使者を派遣して来朝させた。開元中に唐は喝盤陀を打ち破り、その地に葱嶺守捉を設置した。これが安西都護府の最果ての辺境守備隊であった。 于闐(ホータン)は、瞿薩旦那とも言い、また渙那とも屈丹とも言った。于闐の事を北狄は于遁と呼び、諸胡(ソグド人)は豁旦と呼んだ。長安を隔てること九千七百里、瓜州から四千余里離れていた。漢の戎盧・杆彌・渠勒・皮山の五国の故地を併合していた。王の居城を西山城と言い、勝兵四千人であった。この国には玉河があり、国人は夜、月の光がひときわ明るく反射するところを見て、必ず美玉を探し当てることができた。王は絵の描かれた部屋に住んでいた。人々は習性として、策略に長け、大言壮語を好んだ。また祅神(ゾロアスター教)や仏法に喜んでつかえた。しかし態度は恭しく謹直で、面会する時はみな跪いた。この国では木で筆を作り、玉で印鑑を作った。国人は書簡を得るとまず首に戴き、それから書を開封した。漢の武帝の時以来の中国の詔書や符節は、于闐の王が代々伝授して受け継いでいた。人々は歌舞を喜び、紡績に巧みであった。西には砂漠があり、その砂漠に住む鼠の大きさは蝟(ハリネズミ)と同じで、色は黄金であった。鼠の群れの長が穴から出入りする時、鼠の群れが従った。初め于闐には桑や蚕がなかったので、隣国にこれを乞うたが、隣国は桑蚕を于闐に輸出してくれなかった。そこで于闐王は隣国に求婚した。隣国が結婚を許したので、于闐王は花嫁を迎える際、花嫁に告げて言った。「わが国には絹がないので、自国から蚕を持ってきて自ら衣服を作るように」と。花嫁はこれを聞くと、綿の帽子の中に蚕を入れて関所を越えたので、関所役人もあえてこれを調べなかった。これ以後、于闐は初めて蚕を有することになった。花嫁は石の上に「蚕を殺してはならない。蚕が蛾となり、飛び去って初めてを処理してよい」という約定を刻ませた。 于闐王の姓は尉遅氏で、名は屋密と言った。もともとは西突厥の臣下であったが、貞観六年(622)、使者を派遣して入献させた。その後三年たって(635)、王は息子を派遣して入侍させた。阿史那社尓が亀茲を平定したので、于闐王の伏闍信は唐を非常に恐れ、息子を派遣して駱駝三百頭を献上した。長史の薛万備は阿史那社尓に向かって「公が亀茲を破ったので西域諸国はみな震え恐れています。願わくば軽装騎兵をお借りして于闐王を拘束し、京師に献上いたしましょう」と言ったので、阿史那社尓はこれを許した。唐の軽騎兵が于闐に到来し、唐の威霊を連ねて天子のもとに入見するよう勧めると、王の伏闍信は使者に従って長安にやって来た。たまたま高宗が即位したので、伏闍信に右衛大将軍を授け、息子の葉護玷に右驍衛将軍を授けて、袍帯と布帛六千段を下賜し、邸宅一区もあわせて授けた。高宗は于闐王をこの邸宅に数ヶ月留まらせてから于聞に帰らせてやった。王は、子弟を留めて宿衛にしてくれるよう高宗に請願した。上元年間(674-676)の初め、于闐王は自ら子弟の酋長や領主七十人を率いて来朝した。伏闍信に吐蕃討伐の功績があったので、高宗は于闐の地に毘沙都督府を設置して十州に分割し、伏闍雄に都督を授けた。伏闍雄が死去すると、武后は、その息子の璥を王に立てた。開元の時、于闐は馬・駱駝・豹を献上した。璥が死ぬと、また尉遅伏師を立てて王となした。尉伏師が死ぬと伏闇達が後を継いだので、唐はその妻の執失を冊立して妃となした。伏闍達が亡くなると尉遅珪が王位を継承したので、妻の馬を妃とした。尉遅珪が死ぬと息子の勝が即位した。至徳年間(756-758)初めは軍を率いて国を救うために赴こうと考え、宿衛として留まりたいと請願した。乾元三年(760)、勝は弟の左監門衛率葉護の曜を大僕員外卿、同四鎮節度副使、権知本国事となした。詳細は、勝の伝に記されている。 于闐の東三百里の所に建徳力河があり、七百里の所に精絶国があった。建徳力河の東には汗弥があった。汗弥の王は、達徳力城(ダンダン・ウィリク)に住んでいた。達徳力城はまた拘弥城と言った。達徳力城というのは即ち寧弥の故城である。みな小国であった。 初め徳宗が即位した時、内給事の朱如玉を安西に派遣して于闐の玉を求めさせた。朱如玉は、圭一つ、珂佩五つ、枕一つ、帯胯三百、簪四十、奩三十、釧十、杵三、瑟瑟百斤、その他の珍宝などを得た。しかし朱如玉は帰国するに当たり、回紇人の領地を通過した時に回紇人に玉を奪われたと嘘を言った。久しくして事は露見し、市場で売られていた玉が得られたので、朱如玉は恩州に流刑となり、死んだ。 天竺(インド)国は漢の身毒国のことである。あるいは摩伽陀(マガダ)とも婆羅門ともいった。長安を去ること九千六百里で西域都護の治所からは二千八百里離れていた。パミールの南に位置し、その周囲は三万里であった。東・西・南・北・中の五つの天竺に分かれていた。各国は数百の城邑を有していた。南天竺は海(インド洋)にせまり、師子(ライオン)・豹(ヒョウ)・駱駝・犀・象・火斉・琅玕・氷砂糖・黒塩を産した。北天竺は雪山(ヒマラヤ山脈)によって隔てられており、山が壁のように取り巻いており、ただ南には出口があり、その谷あいを国の門戸となした。東天竺は海のほとりにあり、扶南・林邑に隣接していた。西天竺は罽賓(カピーシー)・波斯(ペルシア)と隣接していた。中天竺は四つの天竺国が会するところに位置した。都城は茶鎛和羅城(パータリプトラ)といい、迦毘黎(ガンジス)河の河岸にあった。都城以外の城が数百もあり、みな長を置いていた。また別の独立国が数十あり、そこには王を置いていた。舎衛(シュラーヴァスティー)といい、迦没路(カーマルーパ)といい、その国の戸口はみな東に向いていた。迦尸国(カーシー)というのはまた波羅奈ともいい、波羅那斯(ヴァーラーナシー)ともいった。中天竺の家畜に、稍割牛という動物がいた。黒色で角は細く、角の長は四尺あまりであった。十日に一度、角を切ってやらないと稍割牛は苦しんで死んでしまう。ある人は、この牛の血を飲むと五百歳まで寿命が延びると言っている。この牛の年も、これくらいであった。 中天竺王の姓は乞利咥(クシャトリヤ)氏で、または刹利ともいった。王は代々中天竺を支配し、簒奪や弑殺はなかった。中天竺の土地は湿気が多くて熱い。稲は一年に四度熟し、長いものは駱駝の体が没するくらいの高さであった。貝歯(子安貝)を貨幣とした。金剛石(ダイヤモンド)・栴檀・鬱金(サフラン)を産し、大秦(ローマ)・扶南・交趾と貿易した。人は裕福に暮らし、戸籍簿と地籍簿がなく、王の領地を耕作するものは税金を納めた。最高の礼としては足をねぶり踵をさすった。家ごとに奇楽を催す伎がいた。王や大臣はみな錦や毛織物を着用した。螺髻(もとどり)を頭のてっぺんで作り、あまった髪の毛は切って巻き髪にした。男性は耳を穿ってイヤリングをたらした。耳に黄金をかけるものもいた。耳たぶの垂れているものを上類とした。素足で過ごし、衣装は白を尊んだ。婦人は首に金・銀・真珠の首飾を飾った。死者は、その亡骸を焼き遺灰をとって卒塔婆を建てた。あるいは遺体は野原や河に遺棄し、鳥獣や魚・亀の餌にした。服喪の期間は定まっていない。謀反を起こしたものは幽閉して殺された。小さな犯罪を犯したものは金銭で罪を贖った。親不孝者は手足を斬り落とし、耳鼻を削ぎ、辺境地帯に移された。文字があり、歩暦(天文測算術)を善くし、「悉曇十二章」を学んだ。貝多羅に筆記して出来事をしるした。これをみだりに梵天法と言った。仏法を尊び、殺生や飲酒をしなかった。国中の所々を指し示して仏の古跡であると言っている。盟誓を信じ、禁呪を伝え、祈って龍を呼び起こすと雲がわき雨が降ると言っている。 隋の煬帝の時、裴矩を派遣して西域諸国と通好させたが、ただ天竺と払菻(ビザンツ)だけが来朝しなかったので煬帝はこれを恨みに思っていた。武徳年間(618-626)に天竺に大乱が起こった。王の尸羅逸多(シーラーディトヤ=ハルシャ・ヴァルダナ)が軍隊を統率して戦うと向かうところ敵なしの状態であった。戦象は鞍をはずさず兵士も甲冑を脱がず、四天竺を討ったので王達はみな北面して臣従した。たまたま唐の仏教僧の玄奘がその国を訪問した時、尸羅逸多はこれを召し謁見して言った。「なんじの国には聖人が出現し、秦王破陣楽という音楽を作ったというが、試みに私のために秦王(太宗)の人となりを話してくれ」と。そこで玄奘は太宗の神の如き武勇について大まかに説明し、太宗が世の乱れを平定し、四方の諸民族がして物を献上している状況を話して聞かせた。尸羅逸多は喜び、「私は東面して唐に朝貢しよう」と言った。貞観十五年(641)、尸羅逸多は自ら摩伽陀王を称して使節を派遣し、太宗に上書した。太宗は雲騎尉の梁懐璥に命じ節を持たせて派遣し、天竺を慰撫せしめた。尸羅逸多は驚き、国人に問うて言った。「いにしえより摩訶震旦(=中国)からの使いが、わが国に来た事があったか」と。みな、こたえて言った。「摩訶震旦からの使者が来た事はありません」と。夷狄は中国の事を摩訶震旦と呼んだのである。尸羅逸多は拝して太宗の詔書を受け、頭の上に勅書を戴いた。そこでまた尸羅逸多は中国使節の帰国に随行させて使者を答礼使として派遣し、唐に朝貢した。これに対し、太宗は衛尉丞の李義表を報使として天竺に遣わした。尸羅逸多は大臣を派遣して李義表を迎えさせ、都から隅まで李義表一行に自由に見学させて、道中で香を焚いて歓迎した。尸羅逸多は群臣を引き連れ、東に顔を向けて太宗からの勅書を受けた。尸羅逸多はまた使者を唐に遣わして、火珠・鬱金・菩提樹を献上した。 貞観二十二年(648)、太宗は右衛率府長史の王玄策を天竺に派遣し、蒋師仁を副使となした。しかし王玄策が天竺に到着する前に尸羅逸多は死去し、天竺国内は乱れて、大臣の帝那伏帝阿羅那順(ティラブクティ・アルジュナ)が自ら即位し、軍隊を発動して王玄策の入国を拒んだ。このとき王玄策に従う騎兵は僅かに数十だったため、唐軍は阿羅那順に勝つことができず、兵士はみな死没し、諸国からの貢物は阿羅那順に略奪されてしまった。王玄策は遁走し、吐蕃の西の辺境地帯に奔走した。王玄策は周辺諸国に檄を飛ばして兵を徴発した。吐蕃は一千の兵を率いて王玄策のもとに至り、泥婆羅(ネパール)は七千騎を率いてやってきた。王玄策は部隊を分けて進軍し、茶鎛和羅城で阿羅那順の軍勢と戦い、三日間の戦いの後に阿羅那順の軍を打ち破って三千の首級を斬った。この戦いでの溺死者は一万人であった。阿羅那順は国を棄てて逃走し、散兵を合わせて再び陣地を築こうとしたが、蒋師仁がこれを生け捕りにした。捕虜にしたもの斬首したものは一千を数えた。阿羅那順の余衆が、王の妻と息子を奉じて乾陀衛江(ガンダキ)で抵抗したが、蒋師仁がこれを撃ち大破した。蒋師仁は王妃・王子を捕らえ、男女一万二千人を捕虜とし、雑畜三万を獲得し、五百八十の城を降した。東天竺の王の尸鳩摩は牛馬三万、兵糧として唐軍に送り、弓・刀・宝の纓絡もともに贈った。また迦没路国は珍奇なものを献上し、地図も献上して、それから太宗に向かって老子の像と道徳経を賜りたいと願した。王は、阿羅那順を捕らえて長安城に連行し太宗に献上した。役人達は王玄策の宗廟に報告した。太宗は「いったい人というものは、耳と目が(音楽と女色)を愛で、口と鼻が匂いと味を愛でる事にばかり耽るようになるのは、敗徳の源である。もしバラモン(=阿羅那順)が、わが使節を略しなければ、捕虜になることがあろうか」と。と言った。太宗は王玄策を抜擢して朝散大夫にした。 王玄策は天竺において道士の那邏邇娑婆寐(ナーラーヤナスヴァーミン)を得た。那邏邇娑婆寐は自ら年齢が二百歳であると言い、不死の術を持っていると称していた。そこで太宗は改めて住まわせ錬金術を治めさせ、兵部尚書の崔教礼に命じてあつく保護監視させた。太宗はまた中国全土に使者を派遣して、もろもろの奇薬や異石を集めさせ、使節を婆羅門の諸国にも派遣して異を収集させた。いわゆる畔茶法水という薬は、石臼の中から生じる。石人の像があり、これを守っている。水には七種類の色があり、熱くなったり冷たくなったりして、金をよく溶かすことができる。人がそれを手にのせると、たちまち爛れてしまう。そこで駱駝の髑髏を使って瓢の中に注ぐ。咀賴羅という名樹があった。その葉に似ており、奥深い山の中に崖にはえていた。その樹の前には巨大な穴を蝮が守っているため、樹のそばに近づくことができない。しかし咀賴羅の業を採取したいものが四角い鏃の矢を放つと、枝はすぐに落ち、鳥の群れがこの枝を運び去ってくれる。枝を銜えたこの鳥を射落とすと、咀賴羅の枝を入手することができた。奇怪なさまは、このようであった。この後、那邏邇娑婆寐の術に効力がなかったため、太宗は詔を出して天竺への帰国を許したが、帰ることができずに長安で亡くなった。高宗の時代、盧伽逸多というものがいた。東天竺の烏茶(ウドラ)の人で、また方術をもって昇進し、懐化大将軍を拝した。 乾封三年(668)、五天竺の使節がすべて来朝した。開元の時、中天竺は使者を三度派遣した。南天竺は一度使節を派遣し、人の言葉をよく語る五色のオウムを献上した。南天竺の王はそれから玄宗に対し、軍隊の応援を求めて大食と吐蕃を討伐したいといい、その軍隊に名をつけて欲しいと請願した。そこで玄宗は詔して懐徳軍の名を賜った。南天竺の使者が「蕃夷はただと帯をもって寵愛のしるしとなします」と言ったので、玄宗は、錦の袍、金で装飾された革帯、魚袋、七事(佩刀・刀子・火石など軍に必須の七つのもの)を賜った。北天竺の使者は一度だけ来朝した。 摩掲它(マガダ)は摩伽陀ともいう。もともと中天竺に属する国であった。周囲は五千里で、その土地は肥沃で農業をよくし、異稲巨粒(異常なイネと巨大な米つぶ)を有した。これを供大人米(大臣にのみ供給する米)といった。王は拘闍掲羅布羅城に住んだ。あるいは倶蘇摩補羅(クスマプラ)といい、波吒釐子城(パタリプトラ)ともいった。その北には伽河(ガンジス)がせまっていた。貞観二十一年(647)、初めて唐に使節を派遣して自ら太宗に通好し、波羅樹(菩提樹)を献上した。この樹は白楊と似ていた。太宗は摩伽陀に使者を派遣し、その国の熬糖法を学ばせた。それから揚州に詔して諸蔗(もろもろのサトウキビ)を献上させ、汁を圧搾して剤のようにさせた。色と味は西域産の砂糖よりも数段まさった。高宗はまた王玄策を派遣して摩訶菩提祠(マハーボディ)に行かせ碑を立てさせた。その後、徳宗は自らの銘をしるして那爛陀祠(ナーランダ寺院)に賜った。 また、那掲(ナガラハーラ)という国があった。これは摩掲它の属国であった。貞観二十年(646)、那揭は使者を派遣して万物を献上した。 烏茶(ウディヤーナ)という国は、烏伏那とも烏萇ともいい、天竺のすぐ南(正しくは西北)にあった。土地の広さは五千里で、東は勃律を隔てること六百里、西は罽賓の四百里のところにあった。山谷が互いに連なり、金・鉄・葡萄・鬱金を産した。稲は毎年熟した。人は物腰が柔らかで媚びへつらい、禁架術(方士の呪術)を善くした。この国には死刑はなく、死罪に相当するものは奥深い山に放置した。疑いのあるものには薬を飲ませ、尿の清濁を見て罪の軽重を決定した。五つの城があり、王は術曹蘖利城に住んだ。この城は瞢掲釐城(ミンゴーラ)ともいい、その東北に達麗羅(ダレル)川があった。この川はかつて烏萇の土地であった。貞観十六年(642)、王の達摩因陀訶斯が使者を派遣して龍涎香を献上したので、太宗は璽書を下して優答した。大食がこの国の東の辺境地帯に接していた。開元中に、大食がしばしば誘ったが、烏萇王と骨咄・倶位の二王は大食の臣下になることを承知しなかった。玄宗は使者を派遣し、王を冊立した。 章求抜国は章掲抜ともいい、もともとは西羌の種族であった。悉立の西南の四山の山中に住み、後に山の西に移住して東天竺と隣接するようになった。その国の衣服は東天竺と似ており、東天竺に属するようになった。そのは八、九百里あまりで兵は二千人、城郭がなく、掠奪を好んだので商旅はこれに悩まされた。貞観二十年(646)、王の羅利多菩伽が悉立国によって使者を派遣して入朝した。王玄策が中天竺を討伐した時、章求抜国の王は援軍を派遣して王玄策を支援し、功績を立てた。それ以来、朝貢は絶えなかった。 悉立国は、ちょうど吐の西南に位置した。戸数は五万戸で、城邑の多くが渓流のそばにあった。男子は絹帯で頭髪を結び、氈褐(毛織物)を着用した。婦人は短いスカートを着た。婚姻に結納がなかった。穀物・豆をよく産した。死者に葬られ、盛り土をし、木を植えて墓をつくることがなかった。この国では人々は黒衣を着用し、丸一年が過ぎると服喪の期間が終わり、黒衣を脱いだ。刑罰には刖(あしきり)と劓(はなそぎ)があった。常に吐蕃に従属した。 罽賓(カピーシー)は、隋の漕国である。罽賓はパミールの南にあり、長安をへだてること一万二千里余であった。罽賓の南三千里のところに舎衛(シュラーヴァスティー)があった。王は修鮮城で統治し、常に大月氏に属していた。その地は暑くて湿気が多く、人々は象に乗り、仏法に従って支配していた。 武徳二年(619)、使者を派遣して朝貢し、宝石で象嵌された玉帯、金の鎖、水晶製の小さな杯、小さな棗のような形をしたガラスを献上した。貞観中には名馬を献上したので、太宗は大臣に詔して言った。「朕が初めて即位した時、あるものが天子というものは兵を輝かして四方の夷狄を屈服させるものであると申したが、ただ魏徴だけは朕に向かって、文徳を修めて中華を安んじるようにと勧めたものである。中華が安んじれば、遠方の異民族も威服するであろう、と。いま天下は大いに安んじ、四方の君主達はみな来献した。これは魏徴の力によるものだ」と。そこで太宗は、果毅の何処羅抜らを派遣して篤く罽賓国に賜わりものを下し、あわせて天竺も慰撫させた。何処羅抜が罽賓に到着すると、罽賓王は東に向き、頭を地につけて再拝した。また部下を遣わして唐の使節一行を天竺まで護衛して道案内させた。貞観十六年(642)、褥特鼠(マングース)を献上してきた。この鼠は鼻がとがっていて尻尾が赤く、ヘビを取って食べた。毒に刺されたものがいると、褥特鼠はこれを嗅いで尿をかけた。すると傷がたちまち治った。 国人はみな罽賓王の始祖は馨孽(ヒンギラ)といい、曷擷支に至るまで十二代にわたって王位が継承されてきたと伝えている。顕慶三年(658)、罽賓の地を修鮮都督府となした。龍朔の初め、罽賓王を修鮮城等十一州諸軍事および脩鮮都督に任命した。開元七年(719)、罽賓は使者を派遣して天文学の書と秘法の奇薬を献上したので、玄宗は罽賓王を葛邏達支特勒に冊立した。のち烏散特勒灑が年老いて息子の払菻婆に後を継がせたいと請願してきたので玄宗はこれを許可した。天宝四載(745)、玄宗は罽賓王の息子の勃匐準を冊立し、罽賓王と烏萇王を継承させた。乾元の初め(758)、罽賓の使者が朝貢してきた。
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詩語砕金 ¥,は音読,*は大漢和索引 【春部】, 【立春某亭集】, 青帝¥*,せいてい,はるのかみ 東風¥*,とうふう,はるのかぜ 暖煙¥*,たんえん,あたたかなけむり 陽和¥*,やうくゎ,はるのかぜ 迎春*,はるをむかう 軽寒¥*,けいかん 融雪¥*,いうせつ,とけるゆき 小池¥*,せうち,ちいさないけ 和風¥*,くゎふう 餘寒¥*,よかん 晴日¥*,せいじつ 辞寒,かんをじす,さむさをはなれることなり 風光¥*,ふうくゎう,けいしょくと云こと 春生,はるせうす 韶景¥*,せうけい,はるげしき 韶風¥,せうふう,はるのかぜ 雲晴,くもはれ 留寒,かんをととめて 梅発,むめひらく 椒酒¥*,しゃうしゅ,とそのるい 柳梅¥,りうばい 梅花¥*,はいくゎ 柳梢¥,りうしょう 草芽¥*,さうが 柳眼¥*,りうがん,やなぎのめだし 同約,をなじくやくす,をなじくやくそくすること 梅梢¥,ばいしゃう,むめのこずゑ 迎歓,くゎんをむかふ,よろこびをむかへる 酒卮¥*,しゅし,さけさかづき 臘酒¥*,ろうしゅ,去年のさけ 映杯,えいはい,さかづきへうつること或花或日 満盤,はんにみつ,はちにいっはいと云こと 遠訪,とをくとむあう,とをくたづねる 携朋,ともをたつそふ 徐歩¥*,じょほ,しづかにあゆむ 閑亭¥,かんてい,しづかなちん 林亭¥,りんてい,はやしの内にあるちん 詩成,しなって,しのできたること 拈筆,ふでをひねって 美酒¥*,ひしゅ,よきさけ 行杯¥,かうはい,まはるさかづき 幽興¥*,ゆうけう,わびたけう 半酣¥*,はんかん 対客¥,たいかく 照席,せきをてらして 初暖,はじめてあたたか 深酔¥,しんすい,ふかふようた 庭樹¥*,ていじゅ,にわのき 園木¥*,えんぼく,そののき 風暖*,かせあたたか 推窓,まどををす,まどをかえること 喜見,よろこびみる 暖回,だんかへる,あたたかになる 良辰¥*,りゃうしん,よいじせつ 新看,あらたにみる 【元日口号】,ぐゎんじつのこふごふ,ぐゎんじつになりしことをつくるなり 爆竹¥*,ぼうちく,さぎてう 新年¥*,しんねん 留雪,ゆきをととむ,ゆきののこるを云 瑞気¥*,ずいき,めでたいき 旭日¥*,きょくじつ,あさひ 南窓¥*,なんそう,みなみうけのまど 呈新,あらたなるをていす 氷融¥,ひょうゆう,こをりのとけるコト 氷解*,こをりとく 臘雪¥*,ろうせつ,去年のゆき 梅帯,むめをふ 屠蘇¥*,とそ 暁色¥**,きょうしょく,あかつきのけしき 春陽¥*,しゅんやう,はるのあたたかなコト 今朝¥*,こんてう 四海¥*,しかい,よものうみ 寒消,かんしゃう,さむさのなくなるコト 梅花¥*,ばいくゎ 逐時,ときををふ,じせつををうコト 風暖*,かぜあたたか 寿觴¥*,じゅしゃう,しうぎのさかづき 柳芽¥*,りうが,やなぎのめだし 添歳,としをそふ,一年ましたといふコト 曙鴉¥*,しょあ,あけのからす 献寿*,じゅをけん,ことぶきをもふしあげる 迎春*,はるをむかう 雪消,ゆきしゃうす,ゆきのきえるコト 昇平¥*,せうへい,たいへい 最喜,もっともよろこぶ 椒酒¥*,しゃうしゅ,とそのるい 半融,なかばゆうす,雪にても氷にても半分とけるコト 半解,なかばとく,(雪にても氷にても半分とけるコト) 池面¥*,ちめん,いけのをもて 江山¥*,こうざん 微青¥*,びせい,すこしあをいと云コトで草やなぎなど用 暁鶏¥**,けうけい,あけのにはとり 初暖,はじめあたたかなり 退朝¥*,たいてう,とじゃうがへり 城邸¥,ちゃうてい,をしろやしき 曙光¥*,しょくゎう,あけのけしき 春生,はるしゃうす 今日¥*,こんにち 漸従,やうやくより 尚是,なをこれ 喜迎,よろこびむかう 【春日偶成】,しゅんじつのぐうせい,はるのけしきをつくるなり 韶光¥*,せうくゎう,はるのけしき 軽風¥*,けいふう,はるかぜ 遅日¥*,ちじつ,はるのひ 恵風¥*,けいふう,はるかぜ 花紅*,はなくれなひなり 芳草¥,はうそう,はるのくさ 花気¥*,くゎき,はなのにほひ 蛺蝶¥*,けうてう,てう 柳緑*,やなぎみどり 好風¥*,くゎうふう,はるかぜ 和気¥*,くゎき,はるのき 二月¥*,じげつ 烟花¥*,えんくゎ,けむりの中のはな 林鶯¥*,りんをう,はやしのうぐひす 花柳¥*,くはりう 烟霞¥*,えんか 烟柳¥*,えんりう,けむりこめしやなぎ 蝶飛,てうとふ 鶯呼,ををよぶ,或語とも歌ともいづれな 花塢¥*,くゎう 林花¥*,りんくゎ 春水¥*,しゅんすい 深園¥*,しんえん,こだちふかきには 草平,くさたいらか,くさのはえそろふたコト 柳梢¥,りうしゃう,やなぎのえだ 風暖*,かせあたたか 迎翠,みどりをむかふ 門墻¥?,もんしょう 啼鳥¥*,ていてう 花綻,はなほころぶ,はなのひらくコト 園林¥*,えんりん 風絲¥*,ふうし,やなぎのかぜにふかるるコト 晴暉¥*,せいき,はれたひ 日高,ひたかふして 蒸紅,ゆうをむす,花を日のてらすコトに用ゆと 桃李¥*,とうり,ももすもも 鳴鳩¥*,めいきう,なくはと 柳絲¥*,りうし,やなぎのいと 屋後¥*,をくご,いえのうしろ 江峰¥,こうほう,えどをりのみね 花伴,はなともなふ,はながつれにるきみうくひすなどに用ゆ 草香,くさこうはし 繞舎,しゃをめぐる,いえをめぐるといふコト 弱柳¥,じゃくりう,しなしなするやなき 鶯聲¥*,をうせい,うぐひすのこえ 夕陽¥,せきよう,いりひ 花遍¥,くゎへん,はなのあたり 苔径¥,たいけい,こけのこみち 簾前¥,れんぜん,すだれのまへ 山杏¥,さんきゃう,やまのあんず 径暖,けいあたたか,こみちなどもあたたか 半渓¥,はんけい,たにはんぶん 水光¥,すいくゎう,みつのいろ 旧砌¥,きうせい,ふるには 墻柳¥,しゃうりう,かきのやなぎ 柳葉¥*,りうよう 砌花¥,せいくゎ,にはのはな 穿樹,じゅをうがつ,きをつけるきみ 汀烟¥,ていえん,なぎさのけむり 緑蘋¥,りょくひん,あをきもくさ 水堤¥,すいてい,つつみせき 柳塘¥*,りうとう,やなぎのあるつつみ 湖山¥*,こさ,みづうみやま 新緑¥,しんりょく,やなぎなどをいふ 水草¥,すいさう,みづくさ 照眼,まなこをてらす,はななどのうつるを云 草緑,くさみどり,くさのあをあをとしたるコト 苔階¥,たいかい,こけむしたあがりだん 乗興,けうにじゃうす 春光¥,しゅんくゎう 閑吟¥*,かんぎん,しつかにしをつくるコト 春醪¥,しゅんろう,はるのさけ 一瓢¥*,いっひょう,ひとふくべ 染毫,ごうをそむ,ふでにすみをとるコト 把杯,はいをとる,さかづきをとるコト 好景¥*,こうけい,よいけしき 園花¥,えんくゎ,そののはな 漫成,まんになす,めったに詩作などをすると云コト 酔後¥,すいご,よふてからのち 笑語¥,せうご,わらうつかたりつ 引杖,じゃうをひく,つへをついて 可愛*,あいすべし 萋萋¥,せいせい,くさのはへたコト 【人日小集】,じんじつしゃうしう,正月七日を云なり 小集とは人ずくなによりあふことなり 七日¥,しちじつ 菜羹¥,さいこう,ななくさのにもの 挑菜,さいをとる 碧菜¥,へきさい,あほな 人日¥,じんじつ 残雪¥,ざんせつ,のこりしゆき 軽烟¥*,けいえん,かろきけむり 題詩,しをだいす,しをかくコト 春流¥,しゅんりう,はるのながれ 草堂¥,さうどう,くさのいほり 小飲¥,せういん,こざかもり 幽棲¥*,いうせい,さびたすまい 風軽,かぜかろく 江嶂¥,こうしょう,かはばたのやま 庭草¥,ていさう,にはのくさ 短墻¥,たんしゃう,ひくいかき 援筆*,ふでをとる,ものかくコト 論文¥,ろんぶん,文の拙をきんみする 竹几¥,ちくき,たけのをしまつき 春事¥,しゅんじ,はるのわざ 斜曛¥,しゃくん,いりひ 昼静,ひるしづか 酒味¥,しゅみ 佳肴¥*,かこう 蔵扉,ひをかくす,松などのをひかぶさるを云 倚欄,らんによる,らんかんにもたれるコト 推窓,まどををす,まとのふたをあけるコト 綵牋¥,さいせん,よいかみ 花深,はなふかうして 当砌,ぜいにあたって 筆硯¥,ひっけん 花気¥*,くゎき,はなのにほひ 親交¥,しんかう,したしき友を云 来訪,きたりとふ,たつねにくる 分字,じをわかつ,いんじをとると 小径¥,せうけい,ほそみち 盤餐¥,ばんさん,はちのくひもの 春酒¥,しゅんしゅ,はるのさけ 留客,かくをととむ 叩扉,ひをたたく,とぼそをたたくコトなり人のくるを云 晴窓¥,せいそう,あかるいまど 供具¥*,きゃうぐ,ちそうのしな 令節¥,れいせつ,よいせつ 佳会¥,かくゎい,をもしろいくゎい 風吹,かせふく 談罷,だんやんで,はなしもやんで 坐深,ざふかうして,坐のしっほとしたコト 訪幽,ゆうをとふ,さびた処をたづぬる 事閑,ことかんにして,はんじしづかなコト 鶯声¥*,をうせい,うくいすのこえ 春池¥,しゅんち,はるのいけ 園柳¥*,えんりう,そののやなぎ 引友,ともをひく,ともだちをよぶ 亭上¥,ていしゃう 鮮妍¥,せんけん,山などのみごとにはっきりとしたこと 逸興¥*,いっけう,すぐれたをもしろさ 愛晴,はれをあいす 就暖,だんにつく,あたたかな方へまはる 一樽¥*,いっそん 可愛*,あいすべし 半酔¥,はんすい,なかばようた 相賞,あひしゃうす 倒屐,げきさかしまにす,人の来るを喜びはきものをさかさまにしたコト事実なり 好是,よしこれ 山々¥,さんさん,やまやま 【春日田家】, 草舍¥,さうしゃ,わらや 林塢¥,りんお,はやしのをか 柴門¥,さいもん,しばのもん 荒径¥,くゎうけい,あれはてたこみち 鶏鳴*,にはとりなく 茅屋¥*,ぼくおく,わらや 農務¥,のうむ,百姓わざ 鶏犬¥*,けいけん,にはとりいぬ 桑麻¥*,そうま,くわあさ 二頃¥,じきゃう,田地のかづにてわづかなこと 桑葉¥,そうよふ,くわのは 竹籬¥,ちくり,たけかき 雨多,あめををうして,あまがち 入巷,こうにいって,こまちにいる 渚禽¥,しょきん,なぎさのとり 牧童¥,ぼくどう,うしかふこども 犬眠,いぬねむって 蓑笠¥,さりつ,みのかさ 繭成,けんなって,かいこのまゆができたと云コト 泉溢,いづみあふる 隣家¥,りんか 牛羊¥*,ぎうよう,うしひつじ 帰牛¥,きぎう,かへるうし 春畦¥,しゅんけい,はるのはたけ 山田¥,さんでん,やまの田 門静,もんしづか 村家¥,そんか,むらのいえ 人稀,ひとまれにして,人もすくない 村翁¥,そんをう,むらのをきな 一村¥*,いっそん,ひとむら 犂鋤¥,れいじょ,すきくわ 田畝¥,でんほ,たはた 傍園,えんにそふ,そのについてと云コト 柳影¥*,りうえい,やなぎのかげ 遶屋,おくをめぐる,いえをとりまはして 侵籬,まがきををかして,草柳などを云 花蔭¥*,くゎいん,はなのかげ 坡下¥,はか,つつみのした 炊黍,きびをかしいて,百姓のくいもの 小橋¥,せうけう,こばし 群童¥*,ぐんどう,あまたのこども 流水¥,りうすい 短墻¥,たんしょう,ひくいかき 春晴¥,しゅんせい 水竹¥,すいちく 農談¥,のうだん,つくりもののはなし 含風,かぜをふくむ,やなぎなどを云 帯雨,あめををぶ,はなややなぎなどを云 城遠,しろとうして 山花¥,さんくゎ 鳥雀¥,てうじゃく,とりすずめ 竹風¥,ちくふう,たけのかせ 深林¥,しんりん,しげったはやし 野水¥*,やすい,のみつ 林鳩¥,りんきう,はやしのはと 村路¥,そんろ,むらのみち 雨餘¥*,うよ,あまあがり 晩烟¥,ばんえん,くれかたのけむり 場圃¥,ぢゃうほ,作りものをかりをくところ 繰車¥*,そうしゃ,いとくりくるま 野橋¥*,やけう, 柳暗*,やなきくらふして,やなぎのしげるを云 気晴,きはれて,はれたころを云 花濃,はなこまやか,はなのみごとなコト 無客,かくなうして,人のくるコトなし 村橋¥,そんけう 花竹¥*,くゎちく 牧笛¥,ぼくてき,くさかりふえ 傍江,えにそふて,かはについて 竹宇¥,ちくう,たけののき 茅簷¥*,ぼうえん,わらののき 微風¥,びふう,そよかぜ 菜畦¥,さいけい,なばたけ 墻梅¥,しゃうばい,かきのむめ 濁酒¥,だくしゅ,にごりざけ 小瓶¥,せうべい,ちさきかめ 四囲¥,しい,しほうと云きみ 添睡,ねむりをそふ 林鶯¥,りんをう,はやしのうぐひす 飛蝶¥,ひてう,とびあるくてう 雲散*,くもさんす,くものちるコト 花発¥*,くゎはっす,はなのひらくコト 軽燕¥*,けいえん,かろきつばめ 絲飄,いとひるがへる,やなぎなどを云 乱紅¥,らんこう,はななどを云 緑深,みどりふかし,柳草などに用ゆ 一路¥*,いちろ 垂楊¥,すいやう,しだれやなぎ 柳条¥*,りうでう,やなぎのえだ 幾度,いくたび 幽閑¥*,ゆうかん,をくぶかにしづかなるを云 寂寥¥,せきりょう,ものすごいコト 紛々¥,ふんふん,みだれたコト 深愛,ふかくあいす 多少¥,たせう 雨鳩¥,うきう,あめの中のはと 【春日訪友人山荘】,しゅんじついうじんのさんそうをとふ,はるのひともだちのやまやしきへたづねてゆくことなり 杏梢¥,けうしょう 小院¥,せういん 渓喧,けいかまびすしふして 寄踪,あとをよす 雲気¥*,うんき 谷木¥,こくぼく 閑人¥*,かんじん 家林¥*,かりん 遊楽¥,ゆうらく 行踪¥,こうそう 竹戸¥,ちくこ 春暖,はるあたたかにして 樹暗,じゅくろう 茅舍¥*,ぼうしゃ 隴麦¥,ろうばく 鶏声¥*,けいせい 園桑¥,えんそう 隔渓,けいをへだてて 静話¥,せいわ 鶯声¥*,をうせい 門静,もんしづか 幽泉¥*,ゆうせん 野花¥*,やくゎ 野焼¥*,やしょう 琴牀¥*,きんじゃう 山色¥,さんしょく 竹陰¥,ちくいん 山光¥,さんくゎう 松声¥,せうせい 幽意¥*,ゆうい 松蘿¥,せうら 石梁¥,せきりょう 樵路¥,しょうろ 岩翠¥,がんすい 澗水¥*,かんすい 地僻¥,ちへき 嶺雲¥,れいうん 石径¥,せきけい 渓流¥*,けいりう 鶴閑,つるかんにして 雲磴¥*,うんとう 山影¥,さんえい 石峻,いしするどうして 度窓,まどをわたって 松籟¥,せうらい 苔花¥,たいくゎ 窺人,ひとをうかがふ 夭桃¥,ようとう 蒸霞¥,じょうか 山荘¥,さんそう 高隠¥,こういん 薬欄¥,やくらん 花径¥*,くゎけい 紫蕨¥,しけつ 山花¥,さんくゎ 松根¥,せうこん 翠屏¥,すいへい 山童¥,さんどう 琴書¥*,きんしょ 人少,ひとまれにして 隔林,はやしをへたて 春禽¥,しゅんきん 花媚,はなこぶ 幽鳥¥*,いふてう 遶屋,をくをめぐる 犬迎,いぬむかう 遥訪,はるかにとふ 一杖¥,いちじゃう 踰山,やまをこへ 傍澗,かんにそう 晩照¥,ばんしょう 尖嶂¥,せんしょう 栽薬,くすりをうゆ 吟歩¥,ぎんほ 逐靜,せいをををて 竹牀¥,ちくしょう 石堦¥,せきかい 門柳¥,もんりう 尋幽,いうをたづねて 逐君,きみをををて 蝶狂,てうくるう 細泉¥,さいせん 瓢酒¥,ひょうしゅ 石隙¥,せきげき 煎茗¥,せんめい 伐木¥,ばつぼく 樵叟¥,せうそう 樵夫¥,せうふ 花綻,はなほころぶ 閑行¥*,かんこう 叩門,もんをたたひて 細草¥,さいそう 倚杖,じょうによって 山杏¥,さんきゃう 沽酒,さけをかうて 紅争,こうあらそう 翻錦,にしきをひるかへす 染花,はなをそむ 蝶翅¥,てうじ 素艶¥,そえん 柳絮¥*,りうじょ 錦綉¥*,きんしう 如繰,しいとくるがごとし 斜照¥,しゃしゃう 村醪¥,そんらう 脩竹¥,しうちく 黄鶯¥*,くゎうをう 【春日郊行】, 野色¥*,やしょく 携笻,つえをたつそふ 郊原¥,こうげん 渓橋¥,けいきゃう 烟郊¥,えんくう 鳥声¥,てうせい 山低,やまたれて 村靜,そんしつか 岩影¥,がんえい 蔬畦¥,そけい 駐馬,むまをとどむ 斜坡¥,しゃは 烟林¥,えんりん 麦深,むぎふかふして 閑詠¥,かんえい 一簇¥*,いちぞく 徐行¥,じょかう 野雉¥*,やち 村逈,むらはるかにして 霽色¥,せいしょく 辺照¥,へんせう 野歩¥,やほ 野水¥*,やすい 成錦,にしきをなす 燕子¥*,えんし 村店¥,そんてん 尋花,はなをたづぬ 野趣¥*,やしゅ 野花¥*,やくゎ 樵声¥,せうせい 探春,はるをさぐる 問柳,やなぎをとふ 野桃¥*,やとう 渡水,みづをわたり 翠柳¥,すいりう 双燕¥,そうえん 覓翠,みどりをもとむ 鶯花¥*,をうくゎ 携手*,てをたつさへて 媚烟,えんにこふ 野禽¥*,やきん 花嬌,はなこふ 看花*,はなをみて 追勝,しょうををふ 賞春,はるをしょうす 野渡¥*,やど 乗暖,じょうだん 帯露,つゆををふ 柳橋¥*,りうけふ 飛絮¥,ひじょ 花柳¥*,くゎりう 緑深,みどりふかし 陰暗,かけくらふ 暗香¥*,あんかう 芳草¥,はうさう 花径¥*,くゎけい 花艶¥,くゎえん 花陰¥*,くゎいん 春郊¥,しゅんかう 閑歩¥*,かんほ 探寺,てらをさくって 山鐘¥,さんしょう 酒肆¥,しゅし 晴景¥,せいけい 初霽¥,しょせい 酒旆¥,しゅはい 問童,どうにとふ 麦秀,むぎひいて 晴後¥,せいこ 烟草¥,えんさう 川原¥,せんげん 紅深,こうふかし 野林¥,やりん 日斜,ひななめ 山水¥,さんすい 細水¥,さいすい 妖艶¥,ようえん 春山¥,しゅんざん 春深,はるふかうして 有情,じょうあり 傍堤,ていにそう 【尋花】,はなをたつぬ 尋花,はなをたつねて 遥探,はるかにさぐる 負郭¥,ふくゎく 度水,みづをわたる 野坰¥,やけい 就暖,だんについて 芒鞋¥,ばうあい 村径¥,そんけい 入林,はやしにいって 覓紅,かうをもとめて 載酒,さけをのす 追香,くゎうをををて 山杏¥,さんきゃう 野桃¥*,やとう 独歩¥,どくほ 烟林¥,えんりん 藜杖¥,れいでう 花気¥*,くゎき 酒帘¥,しゅれん 残照¥,ざんしょう 駐馬,むまをとどめて 遠郊¥*,えんかう 野橋¥*,やきゃう 野花¥*,やくゎ 雪残,ゆきのこる 花香*,はなくゎう 隔澗,かんをへたて 遶山,やまをめくって 山径¥,さんけい 過橋*,はしをすぎて 夾水,みづをはさむ 烟沙¥,えんしゃ 危峰¥*,きほう 碧潭¥*,へきたん 一樹¥*,いちじゅ 景勝¥*,けいしょう 探得,さぐりえて 初見,はじめてみる 来尋,きたりたづぬ 郭外¥,くゎくぐゎい 【春日遊山寺】, 緑蘿¥,りょくら 松高,まつたかうして 禪室¥,ぜんしつ 磬罷,けいやんで 雲靜,くもしづかにして 浄界¥,じゃうかい 祇園¥,ぎをん 蘭若¥,らんじゃく 空廊¥,くうらう 鐘楼¥,しょうろう 方丈¥,ほうぢゃう 紺宇¥,こんう 山門¥,さんもん 花閑,はなしづかにして 絶頂¥,ぜってう 老杉¥,ろうさん 巣鶴¥,そうくゎく 竹深,たけふかふして 細径¥,さいけい 春寺¥,しゅんじ 花濃,はなこまやか 打磬¥,たけい 松蘿¥,せうら 登覧¥,とうらん 松多,まつををうして 石磴¥,せきとう 乱山¥,らんざん 入門,もんにいって 峭壁¥,しょうへき 杖藜¥,ぢゃうれい 寺古,てらふり 梵声¥,ぼんせい 苔蘚¥,たいせん 山風¥,さんふう 鐘響¥,しょうけい 逢僧,そうにをうて 松靜,まつしづか 幡影¥,はんえい 幽鳥¥*,ゆうてう 塔秀,とうひいづ 僧歸,そうかへる 棊声¥,きせい 境寂,きゃうしづか 泉声¥,せんせい 石泉¥,せきせん 閑雲¥*,かんうん 空院¥*,くういん 寒殿¥*,かんでん 山翠¥,さんすい 後峰¥*,こうほう 遠澗¥*,えんかん 密樹¥,みつじゅ 捫蘿¥,もんら 荒蘚¥,くゎうせん 乱石¥,らんせき 深山¥,しんざん 山頂¥,さんてう 趺坐¥,ふさ 乱水¥,らんすい 山際¥,さんさい 鐸声¥,たくせい 苔痕¥,たいごん 無塵,ちりなうして 禪亭¥,ぜんてい 烟嶂¥,えんしゃう 日午¥,じつこ 鐘磬¥,しょうけい 古殿¥*,こでん 白昼¥,はくちう 遶院,いんをめぐって 山屏¥,さんべい 花木¥*,くゎぼく 翠薜¥,すいへき 梵音¥,ぼんいん 斜廊¥,しゃらう 老鶴¥,ろうくゎく 山僧¥,さんそう 誦経¥,せうきゃう 木魚¥,もくぎょ 柳暗*,やなぎくらふして 花多,はなをほく 雨花¥*,うくゎ 掃石,いしをはらふ 石鼎¥,せきてい 飛錫¥,ひしゃく 扶笻,つへにたすけて 招提¥,せうだい 煮茶,ちゃをにる 山寺¥,さんじ 碁局¥,ききょく 垂柳¥,すいりう 坐靜,ざしつか 香閣¥,かうかく 金仙¥,きんせん 嬌鶯¥,きゃうをう 林鳥¥,りんてう 春鳥¥,しゅんてう 棕櫚¥,そうりょ 花繁,はなしけうして 乗暖,だんにじょうして 春草¥,しゅんさう 花嬌,はなこびて 柳花¥*,りうくゎ 院靜,いんしづか 門環,もんめぐる 逼簾,れんにせまる 濃花¥,じょうくわ 靜話¥,せいわ 閑攀,かんによつ 山閣¥,さんかく 安禪¥*,あんぜん 【花下与友人飲】, 傍花,はなにそう 鳥啼,とりないて 楊花¥,やうくゎ 柳縷¥,りうる 淡烟¥,たんえん 芳景¥,ほうけい 花露¥*,くゎろ 林下¥,りんか 柳陰¥*,りういん 花辺¥*,くゎへん 池面¥,ちめん 閑鳥¥,かんてう 静坐¥,せいざ 苔砌¥,たいせい 花映,はなえいす 翠縷¥,すいる 迎客,かくをむじゃへて 籬根¥,りこん 禽語¥*,きんご 花径¥*,くゎけい 花枝¥*,くゎし 奇花¥*,きくゎ 花光¥*,くゎくゎう 藉草,くさをしひて 題竹,たけにだいす 蜂迷,ほうまよふ 芳馨¥,はうけい 如錦,にしきのごとし 千点¥,せんてん 鶯啼¥*,をうてい 置酒¥,ちしゅ 酒壺¥,しゅこ 清話¥,せいわ 閑談¥*,かんだん 移榻,とうをうつす 把杯¥,ははい 詩成,しなって 酔来¥,すいらい 引杯,はいをひいて 狂飲¥*,けういん 拍手,はくしゅ 家醞,かうん, 瓢酒¥,ひょうしゅ 対酒,さけにたいして 高興,かうけう 盤肴¥,ばんかう 狂歌,けうか 花間¥*,くゎかん 詩伴,しはん 牽興,けうをひいて 花底,くゎてい 樹陰,じゅいん 放情,じゃうをほしひままにす 乗酔,よひにじょうして 清香,せいくゎう 坐間,さかん 親朋,しんはう 吟詩,しをぎんす 待月,つきをまって 照席,せきをてらして 花気¥*,くゎき 【廃寺看花】 鳩声¥,きうせい 花深,はなふかうして 蔓草,まんそう 経歳,としをへて 野雀,やじゃく 壊壁¥*,くゎいへき 経牀¥,けいしょう 花艶¥,くゎえん 松梢¥,せうしょう 山深,やまふかうして 夕鴉¥,せきあ 古刹,こせつ 蛛糸,しゅし 摧頽¥,さいたい 何代,いつれのよか 昔樹¥,せきしゅ 今花¥,こんくゎ 依旧,ふるきによる 鳥啄,とりついばむ 空梁¥,くうりゃう 荒草¥,くゎうさう 野蔓¥*,やまん 頽垣¥*,たいえん 苔紋¥,たいもん 古木¥*,こぼく 無人,ひとなふして 破窓¥,はそう 苔生,たいせうす 野蒿¥,やこう 院空,いんむなしく 怪石¥*,くゎいせき 無僧,そうなうして 旧主¥,きゅうしゅ 当時¥,とうじ 積塵¥,せきぢん 不語,かたらず 空題,だいむなしく 荒涼¥,くゎうりゃう 春水¥,しゅんすい 粉蝶¥*,ふんてう 荒景¥,くゎうけい 不言,ものいはず 【春日送友人】, 牽衣,ころもをひく 別話¥,べつわ 行装¥,こうそう 離思¥,りし 別酒¥*,べっしゅ 花前¥*,くゎせん 曙鐘¥,しょしゃう 別筵¥*,べつえん 問程,ていをとうて 川途¥,せんと 岸花¥,がんくゎ 去程¥*,きょてい 征鞍,せいあん 愁別,わかれをうれふ 征騎¥,せいき 古駅¥,こえき 送君,きみををくる 関山¥*,くゎんざん 駅路¥*,えきろ 河橋¥*,かきゃう 別恨¥*,べっこん 聚散¥,しうさん 関河¥,くゎんか 郵亭¥*,ゆうてい 柳下¥*,りうか 亭柳¥,ていりう 解携¥,かいけい 春草¥,しゅんそう 征帆¥,せいはん 話罷,わやんで 分袂,たもとをわかって 落花¥,らくくゎ 分手,てをわかって 惜別,わかれををしむ 天涯¥,てんがい 相送,あひをくる 祖席¥,そせき 送帰,きををくる 浮雲¥,ふうん 離憂¥,りゆう 東西¥,とうせい 柳絲¥*,りうし 駅舎¥*,えきしゃ 万里¥,ばんり 故交¥*,こかう 一別¥*,いちべつ 落月¥,らくげつ 暁光¥*,きゃうくゎう 春流¥,しゅんりう 烟柳¥,えんりう 花気¥*,くゎき 傷別,わかれをいたむ 別涙¥*,べつるい 気暖,きあたたか 好花¥,かうくゎ 題詩,しだいして 行程¥,かうてい 故里¥*,こり 流鶯¥,りうをう 欲別,わかれんとほっして 去國*,くにをさって 衣錦*,にしきをきて 流涕¥,りうてい 客路¥*,かくろ 出郭,くゎくをいでて 江山¥,こうざん 親友¥,しんゆう 帰期¥*,きき 把手,てをとって 去住¥*,きょぢう 難留,とどめがたし 孤館¥*,こくゎん 愁容¥,しうよう 無那,いかんなし 飛絮¥,ひじょ 馬蹄¥,ばてい 山店¥,さんてん 野橋¥*,やきゃう 相別,あひわかる 行計¥,こうけい 離歌¥,りか 江雲¥,こううん 客舎¥*,かくしゃ 断雲¥,だんうん 一望¥*,いちぼう 臨岐,きにのぞむ 綰得,わかねえて 相見,あいみる 飛花¥,ひくゎ 到處,いたるところ 握手,てをあくす 【三日水亭集】, 風日¥,ふうしつ 芳辰¥,ほうしん 禊事¥,けいじ 臨流,なかれにのぞむ 野挑¥,やてう 春潭¥,しゅんたん 暖日¥,だんじつ 向晩,ばんになんなんとして 蘭亭¥,らんてい 細柳¥,さいりう 山陰¥,さんいん 蝶狂,てうくるう 気朗,きほからかに 曲水¥*,きょくすい 軽柔¥*,けいじう 水面¥,すいめん 祓禊¥,ばっけい 流水¥,りうすい 春暮¥,しゅんぼ 翠柳¥,すいりう 柳桃¥,りうとう 紅桃¥,かうとう 柳暗*,やなぎくらうして 元巳¥*,げんし 上巳¥,じゃうし 飛花¥,ひくゎ 紅緑¥,かうりょく 鶯吟¥*,をうぎん 東流¥,とうりう 和風¥*,くゎふう 三日¥,さんじつ 花多,はなをおうして 平沙¥,へいさ 春流¥,しゅんりう 野草¥*,やそう 濃紅¥,じょうこう 雲晴,くもはれて 水辺¥,すいへん 踏青¥,とうせい 節物¥,せつぶつ 高会¥,こうくゎい 勝遊¥,しょういふ 祓除¥,ばつじょ 風柳¥,ふうりう 園花¥,えんくゎ 三月¥,さんげつ 当年¥,とうねん 沙辺¥,さへん 永和¥*,えいくゎ 風光¥*,ふうくゎう 蝶飛,てうとぶ 酒味¥,しゅみ 閑窓¥*,かんそう 曲江¥,きょくこう 日暖,ひあたたか 風微,かぜびにして 錬句,くをねる 染毫,がうをそむ 流觴¥,りうしょう 流杯¥,りうはい 浮杯¥,ふはい 濁醪¥,だくろう 美味¥,びみ 取酔,えいをとる 【春日陪某侯宴】, 大厦¥,たいか 高第¥,かうたい 侯家¥,こうか 盛筵¥,せいえん 歓飲¥*,くゎんいん 玉缾¥,ぎょくべい 珠簾¥,しゅれん 玉盌¥,ぎょくゑん 高宴¥,かうえん 銀碗¥,ぎんわん 珍膳¥,ちんぜん 肥鮮¥,ひせん 漆椀¥,しつわん 玉醪¥,ぎょくろう 茶具¥,さぐ 酒香,さけかうばし 満貯,みちたくをふ 耳熱,みみねつ 倒榼,かいをさかしまにす 霄宴¥,しょうえん 斫鱠¥,しゃくくゎい 炙肉¥,せきじく 飽餐,あくまでさんす 香茗¥,かうめい 醇醲¥,じゅんじゃう 肴酒¥,かうしゅ 爛酔¥,らんすい 華筵¥*,くゎえん 綺席¥,きせき 撃鮮¥*,げきせん 繍簾¥,しうれん 晴窓¥,せいそう 金杯¥*,きんはい 銀缸¥,ぎんこう 林庭¥,りんてい 語燕¥,ごえん 風鶯¥,ふうをう 林鳩¥,りんきう 衆鳥¥,しうてう 春風¥,しゅんふう 深園¥,しんえん 晩照¥,ばんしょう 層楼¥,ぞうろう 銀燭¥,ぎんしょく 兎毫¥,とごう 興酣,きゃうたけなは 拈筆,ふでをひねる 微酔¥,びすい 趨陪¥,すうばい 陪従¥,ばいじう 豪遊¥,ごうゆう 【春日帰家】, 帰夢¥*,きむ 帰閑,しづかにきす 風烟¥,ふうえん 帰休¥*,ききう 帰去¥*,ききょ 山野¥,さんや 抛官,くゎんをなげうつ 望迷,のぞみまよふ 残星¥,ざんせい 烟寺¥,えんじ 寺鐘¥,じしょう 早行¥,そうかう 残月¥,ざんげつ 斜月¥,しゃげつ 漏月,つきをもらして 着林,りんについて 数点¥,すてん 故園¥*,こえん 郷國¥*,きゃうこく 林隙¥,りんげき 去路¥*,きょろ 野渡¥*,やと 帰心¥*,きしん 還家,いえにかへって 早発,つとにはっす 雲断,くもたへて 乗晴,はれにじゃうして 帰途¥*,きと 郷天¥*,きゃうてん 乗春,はるにじゃうして 家山¥*,かさん 日夜¥,にちや 衣錦*,にしきをきて 眺望¥,てうばう 諸弟¥,しょてい 花逐,はなをふ 感時*,ときにかんして 思親,しんををもふて 落絮¥,らくじょ 背嶺,みねにそむひて 駅樹¥*,えきじゅ 水遶,みつめぐる 家遠,いへとをふして 晩次,ばんし 花飛,はなとぶ 鳥啼,とりないて 孤笻¥,こきょう 野曠,やむなしふして 四望¥,しぼう 万山¥,ばんざん 臨帰,きにのぞむ 草鞋¥,そうあい 匹馬¥,ひつば 【春日雨集】, 無声,こえなふして 如膏,あぶらのごとく 湿花,はなをうるをす 懶鶯¥,らんをう 隨風,かぜにしたがって 湿柳,やなぎをうるをす 簾槞¥,れんろう 軽烟¥*,けいえん 花涙¥,くゎるい 潤色¥,じゅんしょく 半湿,なかはうるをす 小雨¥,せうう 花気¥*,くゎき 如絲,いとのごとし 林花¥,りんくゎ 無情¥,むじゃう 着柳,やなぎについて 蛙声¥*,あせい 竹窓¥,ちくそう 苔砌¥,たいせい 小池¥,せうち 点注¥,てんちう 群蛙¥*,ぐんあ 烟暗,えんくらふして 池館¥,ちくゎん 点滴¥,てんてき 湿透,しつとをる 含涙*,なんだをふくむ 糸微,いとびにして 春昼¥,しゅんちう 砌下¥,ぜいか 園木¥*,えんぼく 書窓¥,しょそう 園花¥,えんくゎ 香散¥,かうさん 花塢¥*,くゎを 空階¥*,くうかい 簷溜¥,えんりう 透窓,まどにとをりて 侵簾,れんををかして 細雨¥,さいう 細添,こまかにそふ 洒来,そそききたる 声微,こえびにして 径竹¥*,けいちく 苔滑,こけなめらか 竹院¥,ちくいん 淋瀝¥,りんれき 和雨,あめにわして 如霧,きりのごとし 点々¥,てんてん 滴階,かいにしたたる 洒花,はなにそそく 敲窓,まとをたたいて 賖酒,さけををきのる 剪蔬,そをきって 小瓢¥,せうひゃう 閑談¥*,かんだん 題詩,しをだいして 把杯,はんをとって 話深,わふかうして 幽靜¥,ゆうせい 供靜,きゃうせい 分字,じをわかって 援筆*,ふでをとる 耽談,だんにふけって 引興,きゃうをひいて 扶幽,ゆうをたすけて 友朋¥*,ゆうほう 成酔,えんをなして 苔蘚¥,たいせん 【花下歩月】, 印地,ちにいんす 疎影¥,そえい 月升,つきのほって 独歩¥,どくほ 花影¥*,くゎえい 夜景¥*,やけい 踏影,かげをふむて 雲靜,くもしづかに 移歩,ひをうつす 氷輪¥*,ひょうりん 半夜¥,はんや 影淡,かげあわしうして 穿林,りんをうがつて 風前¥,ふぜん 踏花,はなをふむと 清景¥,せいけい 屋後¥*,をくご 樹底¥,じゅてい 清光¥,せいくゎう 春霄¥,しゅんせう 倚笻,つへによって 如雪,ゆきのごとく 芳辰¥,はうしん 花前¥*,くゎぜん 清馨¥,せいけい 逐風,かぜををって 花明*,はなあきらか 苔砌¥,たいぜい 【惜花】, 多惜,ををくをしむ 餘香¥,よかう 落尽,をちつくす 尚厭,なをいとふ 為惜,ためにをしむ 減却¥*,げんきゃく 零落¥,れいらく 流鶯¥,りうをう 洗紅,こうをあらふ 無情¥,むじゃう 只愁,ただうれふ 落地,ちにをつ 委泥,でいにいす 落風,かぜにをつ 閑落,しづかにをつ 紅委,かうはいす 点々¥,てんてん 如霰,あられのごとく 乱落¥,らんらく 香消,かうせうす 折雨,あめにくちく 春尽,はるつく 将暮,くれんとす 愁見,うれいみる 冐雨,あめををかす 尤嫌,もっともきらふ 風雨¥,ふうう 鶯老,うくひすをいて 蝶逐,てうをふ 飛花¥,ひくゎ 夜雨¥*,やう 吹破,ふきやぶる 雨打,あめうつ 芳歇,はうやむて 送春,はるををくる 墜粉,ふんをとす 春減,はるげん 風掃,かせはろふ 点苔,たいにてんす 落去,をちさって 傷残¥,しゃうざん 無那,いかんなし 経雨,あめをへて 瓢零¥,ひょうれい 逐水,みつをををて 鋪地,ちにしく 落旋,をちめぐる 狂風¥*,けうふう 辞枝,えだをぢす 只恐,ただをそらく 堕紅,こうををとす 過雨*,あめをすこす 銷減¥,せうげん 満地¥,まんち 狼藉¥,ろうぜき 為誰,たがためにす 無意,いなし 不語,かたらず 因風,かぜによって ○【夏部】, 【池亭聞蛙】,ちていあをきく,いけのほとりのちんにてかはづのなくをききてつくる 波光¥,はくゎう,なみのひかり 翠簾¥,すいれん,あをすだれ 憑欄,らんによる 曲岸¥,きょくがん 野渡¥,やと,いなかのわたし 枕簟¥,ちんたん,まくらたかむしろ 帯雨,あめおぶ 好景¥,かうけい 暮涼¥,ぼりゃう 疎雨¥,そう 苔逕¥,たいけい 畳石¥,じょうせき 荷風¥,かふう 柳陰¥,りういん,やなぎかげ 晴沙¥,せいさ,ひのはれしすなば 水紋¥,すいもん 林塘¥,りんとう,はやしつつみ 円沙¥,えんさ,まろきすなば 密雨¥,みつう,こさめ 沙日¥,さじつ,すなばをてらすひ 涼雨¥,りゃうう,すずしきあめ 水面¥,すいめん 荷葉¥,かよう,はすのは 鴛鴦¥,えんおう,をし 水軒¥,すいけん 烟樹¥,えんじゅ 蛙声¥,あせい,かわづのこえ 鳴蛙¥,めいあ 鼓吹¥,こすい 雨余¥,うよ 崩岸¥,ほうかん 風露¥,ふうろ 酔耳¥,すいじ 沙禽¥,さきん 疎葦¥,そい 古池¥,こち 池塘¥,ちとう 乱鳴¥,らんめい 繁声¥,はんせい 堤草¥,ていそう 青草¥,せいそう 夜凉¥,やりゃう 岸樹¥,がんじゅ 【客舎聞子規】,かくしゃしきをきく,たびにてほととぎすをききてつくる 一声¥,いっせい 春暮¥,しゅんぼ 旅恨¥,りょこん 催帰¥,さいき 枕前¥,ちんぜん 愁烟¥,しうえん 暁月¥,きゃうげつ 啼月¥,ていけつ 半夜¥,はんや 微雨¥,びう 欲暁,あけんとほっす 江山¥,こうざん 故郷¥,こきゃう 青山¥,せいざん 孤客¥,こかく 遊子¥,ゆうし 芳樹¥,はうじゅ 烟雨¥,えんう 子規¥,しき 杜宇¥,とう 啼破,なきやぶる 落花¥,らくくゎ 啼月,つきになく 残夢¥,ざんむ 驚夢,ゆめををとろかす 残春¥,ざんしゅん 杜鵑¥,とけん 深樹¥,しんじゅ 断続¥,だんぞく 軽烟¥,けいえん 残月¥,ざんげつ 玉漏¥,ぎょくろう 呼帰,きをよぶ 思家,いえををもふ 暁鐘¥,きゃうしょう 紗窓¥,しゃそう 【梅雨】,ばいう,夏のつゆのせつを云 黄梅¥,くゎうばい 緑陰¥,りょくいん 梅霖¥,ばいりん 山雲¥,さんうん 簷溜¥,えんりう 雨足¥,うそく 幽窓¥,ゆうそう 微雲¥,びうん 如絲,いとのごとし 軽雲¥,けいうん 雲烟¥,うんえん 連山¥,れんざん 遠樹¥,えんじゅ 簾槞¥,れんろう 小池¥,せうち 沈雲¥,ちんうん 細滴¥,さいてき 行雲¥,かううん 嶺雲¥,れいうん 庭苑¥,ていえん 頽垣¥,たいえん 緑苔¥,りょくたい 苔紋¥,たいもん 通霄¥,つうしゃう 苔砌¥,たいぜい 戸牖¥,こやう 書窓¥,しょそう 野逕¥,やけい 竹窓¥,ちくそう 苔園¥,たいえん 竹院¥,ちくいん 林中¥,りんちう 烟村¥,えんそん 連朝¥,れんちゃう 竹籬¥,ちくり 【五日集友人宅】,ごじつゆうじんのたくにあつまる,五月五日ともだちの所へあつまりてつくる 蒲酒¥,ほしゅ 香蒲¥,かうほ 佳辰¥,かしん 江榴¥,かうりう 独醒¥,どくせい 玉蒲¥,ぎょくほ 蒲樽¥,ほそん 濁醪¥,だくろう 榴花¥,りうくゎ 綵線¥,さいせん 競渡¥,きゃうと 角黍¥,かくしょ 離騒¥,りそう 纏縷,るをまとふ 纏臂,ひちにまとふ 午日¥,ごじつ 五日¥,ごじつ 薫風¥,くんふう 端午¥,たんご 細葛¥,さいかつ 艾葉¥,かいやう 菰葉¥,こやう 五糸¥,ごし 石榴¥,せきりう 楚臣¥,そしん 蘭舟¥,らんしう 蒲觴¥,ほしゃう 玉盤¥,ぎょくばん 綺席¥,きせき 艾酒¥,がいしゅ 晴日¥,せいじつ 清興¥,せいきゃう 紗窓¥,しゃそう 翠葉¥,すいやう 緑酒¥,りょくしゅ 醇醪¥,じゅんりゃう 騒客¥,そうかく 歓宴¥,くゎんえん 酔裏¥,すいり 爛酔¥,らんすい 玉欄¥,ぎょくらん 清江¥,せいこう 佳宴¥,かえん 清歓¥,せいくゎん 啣杯,はいをふくむ 勸君,きみにすすむ 玉餮¥,きょくざん 【午睡】,ごすい,ひるね 昼眠¥,ちうめん 北窓¥,ほくそう 清風¥,せいふう 午夢¥,ごむ 曲肱,ひじをまぐ 蝶夢¥,ちゃうむ 午陰¥,ごいん 胡蝶¥,こちゃう 枕上¥,ちんしゃう 松窓¥,せうそう 碧簟¥,へきたん 氷簟¥,ひゃうたん 酔後¥,すいご 柴門¥,さいもん 夢覚,ゆめさめて 一枕¥,いっしん 華胥¥,くゎしょ 花庭¥,くゎてい 茅舍¥,ぼうしゃ 竹籬¥,ちくり 玉壺¥,ぎょくこ 緑酒¥,りょくしゅ 残樽¥,ざんそん 酔裏¥,すいり 枕簟¥,ちんたん 幽棲¥,ゆうせい 山亭¥,さんてい 林亭¥,りんてい 竹逕¥,ちくけい 落日¥,らくじつ 夕陽¥,せきやう 閑臥¥,かんぐゎ 竹影¥,ちくえい 松風¥,せうふう 松声¥,せうせい 野鳥¥,やちゃう 山雨¥,さんう 雨声¥,うせい 苔逕¥,たいけい 雨痕¥,うこん 洗暑,しょをあらふ 階泥¥,かいでい 西山¥,せいざん 昼陰¥,ちういん 睡濃,ねむりこまやか 【江亭避暑】,こうていしょをさく,えのほとりのちんにてすずむを云 水扉¥,すいひ 水色¥,すいしょく 翠烟¥,すいえん 江闊¥,こうくゎつ 満簾¥,まんれん 霞際¥,かさい 酣歌¥,かんか 簷楹¥,えんえい 茂林¥,もりん 紈扇¥,ぐゎんせん 軒窓¥,けんそう 簟凉,たんすずし 一派¥,いつは 炎暑¥,えんしょ 窓戸¥,そうこ 暮凉¥,ぼりゃう 一帯¥,いったい 環亭,ていをめぐる 駆暑,しょをかる 清風¥,せいふう 竹床¥,ちくじゃう 藤床¥,とうじゃう 荷香¥,かかう 荷風¥,かふう 浴鳬¥,よくふ 晴波¥,せいは 汀柳¥,ていりう 林塘¥,りんとう 三伏¥,さんふく 行魚¥,かうぎょ 游魚¥,ゆうぎょ 翠李¥,すいり 凉雨¥,りゃうう 蛍火¥,けいくゎ 飛蛍¥,ひけい 荷葉¥,かやう 好景¥,かうけい 竹月¥,ちくげつ 長塘¥,ちゃうとう 酒味¥,しゅみ 歌扇¥,かせん 揺扇,あほきをうこがす 暑気¥,しょき 瑶琴¥,ようきん 舞袖¥,ぶしう 氷盤¥,ひゃうばん 林泉¥,りんせん 尋凉,りゃうをたづぬ 浮瓜,くわをうかむ 玉瓜¥,きょくくゎ 漿寒¥,しゃうかん 紗巾¥,しゃきん 襟懐¥,きんくゎい 沈李,りをしづむ 展簟,たんをのぶ 酔舞¥,すいぶ 取涼,りゃうをとる 垂楊¥,すいやう 歌舞¥,かぶ 琴樽¥,きんそん 江流¥,かうりう 江声¥,かうせい 納涼¥,のうりゃう 来凉,りゃうをきたす 夏陰¥,かいん 夏雲¥,かうん 凉気¥,りゃうき 江畔¥,かうはん 坐来¥,ざらい 酔臥¥,すいぐゎ 江風¥,こうふう 河朔¥,かさく 脱巾¥,だっきん 朱実¥,しゅじつ 披襟¥,ひきん 蝉声¥,せんせい 【苦熱】,くねつ,あつさをくるしんでつくる前の避暑の題をも見合すべし 炎蒸¥,えんじゃう 蒸暑¥,じゃうしょ 煩暑¥,はんしょ 流汗¥,りうかん 火雲¥,くゎうん 酷暑¥,こくしょ 雲峰¥,うんほう 林影¥,りんえい 旱雲¥,かんうん 葵扇¥,きせん 浮埃¥,ふあい 氛埃¥,ふんあい 雨汗¥,うかん 炎風¥,えんふう 煩襟¥,はんきん 午雲¥,ごうん 葛衣¥,かつい 夏簟¥,かたん 羽扇¥,うせん 汗沾#,あせうるをう 蒸気¥,じゃうき 衣湿#,ころもうるをう 炎天¥,えんてん 蒸雲¥,じゃううん 散髪¥,さんはつ 裸体¥,らたい 【夏日喜雨】¥,かじつきう;あめのふるをよろこぶ,梅雨避暑苦熱の題を見合つくるべし 沛雨¥,はいう 救旱#,かんをすくふ 潤物¥,じゅんぶつ 洗尽#,あらひつくす 雷声¥,らいせい 滌暑#,しょをあらふ 雲起#,くもおこる 傾盆#,ぼんをかたむく 空濛¥,くうもう 山雲¥,さんうん 洗塵#,ちりをあらふ 竹風¥,ちくふう 出雲#,くもをいだす 山窓¥,さんそう 風雲¥,ふううん 微凉¥,びりゃう 雲霧¥,うんむ 陰蜺¥,いんげい 閑苑¥,かんえん 砌苔¥,せいたい 含泥#,でいをふくむ 点滴¥,てんてき 掣電¥,せいでん 奔雷¥,ほんらい 鳥雀¥,ちゃうじゃく 凉生¥,りゃうしゃう 雲濃#,くもこまやか 翻雷¥,ほんらい 【夏日舟行】¥,かじつしうかう,なつのひのふなあそびにでたるけしきをつくる。避暑の題をも見合べし 江声¥,かうせい 繋舟#,ふねをつなぐ 回棹#,さほをめぐらす 潮平#,うしをたいらか 荻蘆¥,てきろ 扁舟¥,へんしう 軽舟¥,けいしう 孤舟¥,こしう 樓船¥,ろうせん 孤帆¥,こはん 孤棹¥,ことう 席帆¥,せきはん 涼風¥,りゃうふう 錦纜¥,きんらん 漁火¥,ぎょくゎ 風帆¥,ふうはん 晴烟¥,せいえん 岸遠#,きしとをし 雲坡¥,うんは 水程¥,すいてい 杜若¥,とじゃく 岸樹¥,がんじゅ 江烟¥,こうえん 岸闊#,きしひろし 迥碧¥,けいへき 落照¥,らくしゃう 萬頃¥,ばんきゃう 波心¥,はしん 游魚¥,ゆうきょ 浸月#,つきををかす 湧月#,つきをわかす 長堤¥,ちゃうてい 垂釣¥,すいちゃう 魚龍¥,ぎょりゃう 漁人¥,ぎょじん 戴酒#,さけをのする 烟浦¥,えんほ 方舟#,ふねをならぶ 胸襟¥,きゃうきん 清漪¥,せいい 画舡¥,がかう 蕩漿#,かぢをとうす 泛江#,せにうく 密藻¥,みっそう 転楫#,かちをてんす 細浪¥,さいろう 画橈¥,ぐゎやう 波底¥,はてい 棹影¥,とうえい 烟波¥,えんは 泛舟#,ふねをうかふ 凉景¥,りゃうけい 夾岸#,きしをはさむ 沙鳥¥,さちゃう 浅瀬¥,せんらい 蘋洲¥,ひんじう 急湍¥,きうたん 清渓¥,せいけい 沙邊¥,さへん 荻渚¥,てきしょ 沙逕¥,さけい 短艇¥,たんてい 漁歌¥,ぎょか 沙上¥,さじゃう 両岸¥,りゃうがん 蔭堤¥,いんてい 軽禽¥,けいきん 魚父¥,ぎょほ 魚翁¥,ぎょをう 鴎鳥¥,をうちゃう 吟思¥,ぎんし 吟情¥,ぎんじゃう 詩料¥,しりゃう 高歌¥,かうか 応接¥,をうせつ 酔吟¥,すいぎん 【夏日過漁家】,かじつぎょかをよぎる,なつのひりゃうしのいえへゆきしコトをつくる。夏のけしきは前の題をも見合べし 烟波¥,えんは 幾家#,いくいえ 焼荻#,をぎをたく 倚岸#,きしによる 数椽¥,すてん 臨渓#,たにのぞむ 水郷¥,すいきゃう 繋舟#,ふねをつなぐ 柳岸¥,りうがん 晒網#,あみをさらす 茅屋¥,ぼうをく 蘆荻¥,ろてき 漁磯¥,ぎょき 小艇¥,しゃうてい 宅邊¥,たくへん 苔磯¥,たいき 釣魚¥,ちゃうぎょ 持竿#,かんをもつ 孤村¥,こそん 蓑笠¥,さりつ 漁網¥,ぎょもう 釣舟¥,ちゃうしう 船横#,ふねよこたはる 古岸¥,こかん 魚肥#,うをこへ 魚蝦¥,きょか 映竹#,たけにえいす 斜陽¥,しゃやう 鴎鷺¥,をうろ 魚竿¥,ぎょかん 開樽#,そんをひらく 捕魚#,うををとる 張網#,あみをはる 懸網#,あみをかく 潮痕¥,ちゃうこん 滄江¥,そうかう 暮笛¥,ぼてき 晩浦¥,ばんほ 蒹葭¥,けんか 渓畔¥,けいはん 竹扉¥,ちくひ 短蓑¥,たんさ 蘆葦¥,ろい 買酒#,さけをかう 汀鷺¥,ていろ 烟霞¥,えんか 一酔¥,いっすい 碧波¥,へきは 小舟¥,しゃうしう 茅堂¥,ぼうどう 横塘¥,をうとう 塘草¥,とうそう 涼風¥,りゃうふう 卜晴#,はれをぼくす 【夏日山居】¥,かじつさんきょ,やますまいのけしきをつくる 小橋¥,しゃうきゃう 鳥噪#,とりさはぐ 依嶂#,しゃうによる 竹樹¥,ちくじゅ 野逕¥,やけい 石磴¥,せきとう 青礀¥,せいかん 草逕¥,そうけい 松林¥,せうりん 松声¥,せうせい 清涼¥,せいりゃう 看書#,しょをみる 開牖#,まどをひらく 幽亭¥,ゆうてい 山禽¥,さんきん 松篁¥,せうくゎう 野橋¥,やきゃう 修篁¥,しうくゎう 松窓¥,せうそう 緑苔¥,りょくたい 几案¥,きあん 軒窓¥,けんそう 茶鼎¥,さてい 涼月¥,りゃうげつ 吟魂¥,ぎんこん 吟情¥,ぎんじゃう 地僻¥,ちへき 蝉吟¥,せんぎん 雲山¥,うんざん 風竹¥,ふうちく 石榻¥,せきとう 峰巒¥,ほうらん 薬逕¥,やくけい 翠微¥,すいび 崩岸¥,ぼうがん 蒼隼¥,さうじゅん 山谷¥,さんこく 松門¥,せうもん 酔臥¥,すいぐゎ 四壁¥,しへき 林籟¥,りんらい 乱藤¥,らんとう 瀑声¥,ばくせい 晩烟¥,ばんえん 青嶂¥,せいしゃう 風樹¥,ふうじゅ 清泉¥,せいせん 渓流¥,けいりう 満庭¥,まんてい 幽閑¥,ゆうかん 山叟¥,さんそう 松花¥,せうくゎ 麋鹿¥,びろく 庭戸¥,ていこ 岩泉¥,がんせん 松月¥,せうげつ 鶏犬¥,けいけん 鄰翁¥,りんをう 竹逕¥,ちくけい 野猿¥,やえん 翠柏¥,すいはく 竹陰¥,ちくいん 山菓¥,さんくゎ 雲気¥,うんき 塵稀#,ちりまれなり 性僻¥,せいへき 愛山#,やまをあいす 一逕¥,いっけい 松岩¥,せうがん 臨渓#,たににのぞむ 山田¥,さんでん 松蘿¥,せうら 空山¥,くうざん 甕牖¥,をうよう 樵路¥,しゃうろ 厨烟¥,ちうえん 岩腰¥,がんよう 嶺雲¥,れいうん 渓路¥,けいろ 蘿月¥,らげつ 鳥影¥,ちゃうえい 雲磴¥,うんとう 古藤¥,ことう 苔鮮¥,たいせん 薜蘿¥,へきら 山影¥,さんえい 急泉¥,きうせん 窓風¥,そうふう 喬木¥,きゃうぼく 夜泉¥,やせん 簷雨¥,えんう 翠篠¥,すいじゃう 疎松¥,そせう 荒逕¥,くゎうけい 苔花¥,たいくゎ 絺衣¥,ちい 露禽¥,ろきん 杖履¥,じゃうり 渓溜¥,けいりう ○【秋部】 【立秋】¥,りっしう,あきのせつになるコトをつくるなり 一葉¥,いちやう 梧桐¥,ごとう 早秋¥,さうしう 暑退#,しょしりぞく 白雲¥,はくうん 火流¥,くゎりう 金風¥,きんふう 涼気¥,りゃうき 露下#,つゆくだる 商声¥,しゃうせい 報秋#,あきをほうす 西風¥,せいふう 孤雁¥,こがん 霜信¥,そうしん 玉露¥,ぎょくろ 涼雨¥,りゃうう 悲秋¥,ひしう 爽気¥,そうき 梧落,ごをつ 庭梧¥,ていご 蟋蟀¥,しっそつ 晩涼¥,ばんりゃう 残暑¥,ざんしょ 清砧¥,せいちん 秋候¥,しうかう 風冷¥,かぜすずし 璧月¥,へきげつ 滌暑#,しょをあらふ 送凉#,りゃうををくる 鳴蝉¥,めいせん 風樹¥,ふうじゅ 蛩声¥,きゃうせい 蕭索¥,しゃうさく 凄々¥,せいせい 蕭瑟¥,しゃうしつ 凄凉¥,せいりゃう 寂寞¥,せきばく 凄然¥,せいぜん 【初秋送人還郷】,しょしうひとのきゃうにかへるをおくる,あきのはじめに人のくにもとへかへるををくる 遊子¥,ゆうし 長路¥,ちゃうろ 留馬#,とどめむま 離歌¥,りか 行装¥,かうしゃう 去住¥,きょぢう 離別¥,りべつ 別愁¥,べっしう 離愁¥,りしう 惨澹¥,さんたん 征衣¥,せいい 離思¥,りし 離杯¥,りはい 解携¥,かいけい 去路¥,きょろ 送君#,きみををくる 詩酒¥,ししゅ 憶家#,いえををもふ 離亭¥,りてい 問程#,ていをとう 留詩#,しをとどむ 祖帳¥,そちゃう 刀頭¥,とうとう 別後¥,べつご 行色¥,かうしょく 別筵¥,べつえん 帰舟¥,きしう 惜別#,わかれををしむ 征鞍¥,せいあん 故園¥,こえん 故人¥,こじん 分手#,てをわかつ 別時¥,べつじ 雲路¥,うんろ 離筵¥,りえん 陽関¥,やうくゎん 三畳¥,さんじゃう 征路¥,せいろ 連床#,ゆかをつらね 留客#,かくをとどむ 関河¥,くゎんが 酔襟¥,すいきん 覊懐¥,きくゎい 行人¥,かうじん 聚散¥,しうさん 異郷¥,いきゃう 相送#,あいをくる 去去¥,きょきょ 回首#,かうべをめぐらす 前途¥,せんと 別涙¥,べつるい 郷関¥,きゃうくゎん 行程¥,かうてい 去旆¥,きょはい 帰路¥,きろ 客路¥,かくろ 至家#,いえにいたる 征鞭¥,せいべん 分袂#,たもとをわかつ 松菊¥,せうきく 荒逕¥,くゎうけい 帰意¥,きい 山河¥,さんか 征途¥,せいと 祖餞¥,そせん 別夜¥,べつや 分襟¥,ぶんきん 征帆¥,せいはん 旧遊¥,きうゆう 帰棹¥,きとう 解纜#,らんをとく 停舟#,ふねをとどむ 臨岸#,きしにのぞむ 柳岸¥,りうがん 折柳¥,せつりう 為別#,わかれをなす 悵別#,わかれをいたむ 別顔¥,べつかん 惜別#,わかれををしむ 離堂¥,りどう 帰藩#,はんにかへる,くにもとへかへる,佩文韻府(後漢書) 帰馬¥,きば 別酒¥,べっしゅ 離杯¥,りはい 揚帆¥,やうはん 勧酒,さけをすすむ 重遊¥,ちゃうゆう 重来¥,ぢゃうらい 即今¥,そくこん 只今,ただいま 桑梓¥,そうし 尊親¥,そんしん 思親#,しんををもふ 倚門¥,いもん 莱衣¥,らいい 斑衣¥,はんい 餞君#,きみをはなむけす 更憐#,さらにあはれむ 揺落¥,やうらく 楓落#,ふうをつ 金天¥,きんてん 蘆岸¥,ろがん 西風¥,せいふう 庭梧¥,ていご 帰雁¥,きがん 微霜¥,びそう 露色¥,ろしき 馬蹄¥,ばてい 紅葉¥,かうやう 天高#,てんたかし 山暁¥,さんきゃう 窓風¥,そうふう 暁月¥,きゃうげつ 残月¥,ざんげつ 宿霧¥,しゅくむ 暁鶏¥,きゃうけい 鶏鳴¥,けいめい 馬嘶#,むまいななく 門前¥,もんぜん 河梁¥,かりゃう 秋声¥,しうせい 転蓬¥,てんほう 寒鴉¥,かんあ 野樹¥,やじゅ 駅樹¥,えきじゅ 迢迢¥,ちゃうちゃう 【七夕】¥,しっせき,たなばたまつりのコトをつくる。秋のコトは前の題にみ合つくるべし。雨ふらば下の秋雨の所にみ合つくるべし 風露¥,ふうろ 穿針#,はりをうがつ 乞巧¥,きっかう 牛女¥,ぎうじょ 良夜¥,りゃうや 香烟¥,かうえん 銀河¥,ぎんか 銀漢¥,ぎんかん 鵲橋¥,じゃくきゃう 星橋¥,せいきゃう 瓜菓¥,くゎくゎ 華筵¥,くゎえん 佳期¥,かき 星河¥,せいが 雲漢¥,うんかん 明河¥,めいか 織女¥,しょくじょ 晒衣#,ころもをさらす 斜月¥,しゃげつ 剖瓜#,うりをさく 牽牛¥,けんぎう 戸々¥,ここ 銀漏¥,ぎんろう 星明#,ほしあきらかなり 夜深#,よふかし 機杼¥,きじょ 家々¥,いえいえ 万戸¥,ばんこ 弾琴¥,だんきん 杯酒¥,はいしゅ 金樽¥,きんそん 珠杯¥,しゅはい 嘉会¥,かくゎい 城中¥,じゃうちう 針線¥,しんせん 華燈¥,くゎとう 生愁#,うれひをしゃうす 蕭条¥,しゃうじゃう 愁雲¥,しううん 綺席¥,きせき 【秋日訪友人村亭】,しうじつゆうじんのそんていをとむらふ,ともだちのしもやしきなどへあそびしコトをつくる 露零#,つゆをつ 戸庭¥,こてい 竹葉¥,ちくやう 孤雲¥,こうん 菊花¥,きくくゎ 山翠¥,さんすい 軒窓¥,けんそう 井梧¥,せいご 野草¥,やそう 紅葉¥,かうやう 霜色¥,そうしょく 莓苔¥,まいたい 細雨¥,さいう 白露¥,はくろ 清霜¥,せいそう 満籬¥,まんり 晩烟¥,ばんえん 野花¥,やくゎ 烟林¥,えんりん 落照¥,らくしゃう 穿竹#,たけをうがつ 風蕉¥,ふうせう 蕉窓¥,せうそう 風景¥,ふうけい 霜後¥,そうご 丹楓¥,たんふう 候蟲¥,かうちう 橘柚¥,きつゆ 蝉噪#,せみさはぐ 墜葉¥,ついやう 荒林¥,くゎうりん 芭蕉¥,ばせう 池荷¥,ちか 吟歩¥,ぎんほ 村砧¥,そんちん 牧童¥,ぼくどう 牧笛¥,ぼくてき 徐歩¥,じょほ 吟行¥,ぎんかう 登山#,やまにのぼる 吟思¥,ぎんし 種竹#,たけをうゆ 孤村¥,こそん 烟村¥,えんそん 小逕¥,せうけい 留題¥,りうたい 柴門¥,さいもん 茅屋¥,ぼうをく 尋幽#,ゆうをたづぬ 小亭¥,せうてい 琴書¥,きんしょ 帯雨#,あめををぶ 青簾¥,せいれん 看書#,しょをみる 虚亭¥,きょてい 鳥語¥,ちゃうご 林亭¥,りんてい 林泉¥,りんせん 宿雨¥,しゅくう 佳景¥,かけい 松陰¥,せういん 斜陽¥,しゃやう 登臨¥,とうりん 鐘声¥,しゃうせい 松窓¥,せうそう 茅茨¥,ぼうし 清閑¥,せいかん 松門¥,せうもん 山雨¥,さんう 山色¥,さんしょく 落照¥,らくしゃう 煎茶#,ちゃをせんす 茶烟¥,さえん 吟哦¥,ぎんが 野風¥,やふう 探勝¥,たんしょう 山蜩¥,せんちう 叢桂¥,そうけい 桂花¥,けいくゎ 詩伴¥,しはん 友情¥,ゆうじゃう,ともだちこころいれ 【秋雨懐郷】,しううきゃうををもふ,あめのゆふさとをおもふて作る。作家書(くにもとへのふみ)などの題もこの中にて作れるなり 小雨¥,せうう 野涼¥,やりゃう 旅館¥,りょくゎん 客舎¥,かくしゃ 夜雨¥,やう 滴々¥,てきてき 通霄¥,つうしゃう 故郷¥,こきゃう 故丘¥,こきう 郷園¥,きゃうえん 黄菊¥,くゎうきく 門柳¥,もんりう 客愁¥,かくしう 客恨¥,かくこん 難暁#,あけがたし 華髪¥,くゎはつ 寒声¥,かんせい 寒燈¥,かんとう 孤燈¥,ことう 客夢¥,かくむ 打窓#,まどをうつ 虫鳴¥,ちうめい 臥聴#,ふしてきく 西風¥,せいふう 引雨#,あめをひく 涼気¥,りゃうき 兄弟¥,けいてい 鴻雁¥,かうがん 孤雁¥,こがん 疎鐘¥,そしゃう 午烟¥,ごえん 山河¥,さんか 関山¥,くゎんざん 瀉簷#,のきにそそぐ 霏霏¥,ひひ 凄然¥,せいぜん 今霄¥,こんしゃう 今夜¥,こんや 老親¥,ろうしん 懐親#,しんををもふ 秋風¥,しうふう 万里¥,ばんり 雁音¥,がんいん 音書¥,いんしょ 音信¥,いんしん 尺素¥,せきそ 客心¥,かくしん 長天¥,ちゃうてん 【中秋宴集】¥,ちうしうのえんしう 銀盤¥,ぎんばん 一輪¥,いちりん 高秋¥,かうしう 絃管¥,けんくゎん 清輝¥,せいき 広寒¥,くゎうかん 桂花¥,けいくゎ 月華¥,けつくゎ 銀漢¥,ぎんかん 玉盤¥,ぎょくはん 氷蟾¥,ひゃうせん 微雲¥,びうん 蟾光¥,せんくゎう 今夕¥,こんせき 素娥¥,そが 如璧#,たまのごとし 瑶蟾¥,やうせん 皎皎¥,かうかう 嬋娟¥,せんげん 蟾輝¥,せんき 烏鵲¥,うじゃく 似鏡#,かがみににたり 寒光¥,かんかう 庭寒#,にはさむし 冷艶¥,れいえん 紗窓¥,しゃそう 掛鏡#,かがみにかく 清光¥,せいかう 玉兎¥,ぎょくと 清露¥,せいろ 桂枝¥,けいし 庾公¥,ゆこう 庾楼¥,ゆろう 勝賞¥,しゃうしゃう 姮娥¥,じゃうが 珠簾¥,しゅれん 依欄#,らんによる 開匣#,かうをひらく 珠箔¥,しゅはく 宝匣¥,はうかう 蟾華¥,せんくゎ 碧紗¥,へきしゃ 停杯#,はいをとどむ 捲簾#,れんをまく 高楼¥,かうろう 精華¥,せいくゎ 雲晴#,くもはれ 無雲#,くもなし 中庭¥,ちうてい 夜景¥,やけい 佳期¥,かき 金風¥,きんふう 清樽¥,せいそん 簷前¥,えんぜん 南楼¥,なんろう 皎潔¥,かうけつ 吟賞¥,ぎんしゃう 【中秋無月】¥,ちうしうむげつ 浮雲¥,ふうん 成愁#,うれいをなす 蕭索¥,しゃうさく 濃雲¥,じゃううん 陰雲¥,いんうん 烟昏#,けむりくらし 埋光#,ひかりをうつむ 風雨¥,ふうう 虚負#,むなしくそむく 寒露¥,かんろ 負約#,やくにそむく 黯淡¥,あんたん 失影#,かけをうしなふ 片雲¥,へんうん 晦影#,かけをくらます 断雲¥,だんうん 暗度#,あんにわたる 深沈¥,しんちん 月影¥,げつえい 点綴¥,てんてい 雲鎖#,くもとざす 行雲¥,かううん 無情¥,むじゃう 烟霧¥,えんむ 一夜¥,いちや 霧凝#,きりこる 閑雲¥,かんうん 対酒#,さけにたいす 無香#,かうなし 【秋日泛舟】,しうじつふねをうかぶ 乗興#,きゃうにじゃうす 波揺#,なみうごく 夕凉¥,せきりゃう 停橈#,かぢをとどむ 凄清¥,せいせい 垂釣#,つりをたる 中流¥,ちうりう 荷香¥,かかう 回舟#,ふねをめぐらす 両岸¥,りゃうがん 波声¥,はせい 孤蓬¥,こほう 行舟¥,かうしう 軽烟¥,けいえん 軽帆¥,けいはん 短棹¥,たんとう 江湖¥,こうこ 舟楫¥,しうしう 江山¥,こうざん 浪花¥,らうくゎ 移舟#,うねをうつす 孤烟¥,こえん 連浦¥,れんほ 帆影¥,はんえい 入霧#,きりにいる 沙明#,すなあきらか 棹歌¥,たうか 眠鴎¥,めんをう 宿鷺¥,しゅくろ 古渡¥,こと 蘆花¥,ろくゎ 江波¥,かうは 桂楫¥,けいしう 畳波¥,じゃうは 渡頭¥,ととう 堤畔¥,ていはん 錦纜¥,きんらん 潮来¥,ちゃうらい 飛雁¥,ひがん 汀沙¥,ていさ 白鳥¥,はくちゃう 船窓¥,せんそう 浅沙¥,せんさ 秋江¥,しうこう 一篙¥,いっかう 金波¥,きんは 汀月¥,ていげつ 烟波¥,えんは 柔櫓¥,じうろ 江村¥,こうそん 繊月¥,せんげつ 帰舟¥,きしう 棹影¥,たうえい 暮烟¥,ぼえん 晩烟¥,ばんえん 蘋洲¥,ひんしう 鳴[木郎]¥,めいろう 前津¥,ぜんしん 鮮魚¥,せんぎょ 月夜¥,げつや 小艇¥,しゃうてい 水雲¥,すいうん 釣糸¥,てうし 舉網#,あみをあく 蓑笠¥,さりつ 晩景¥,ばんけい 寒鴎¥,かんをう 烟裏¥,えんり 波間¥,はかん 傍船#,ふねにそふ 帰簑¥,きさ 衝烟#,けむりをつく 釣月#,つきにつる 晒簑#,さをさらす 晩浦¥,ばんほ 細鱗¥,さいりん 紅鱗¥,かうりん 蘋江¥,ひんこう 魚龍¥,ぎょりゃう 無心¥,むしん 酔臥¥,すいぐゎ 沙鴎¥,さをう 岸上¥,がんしゃう 短簑¥,たんさ 斜風¥,しゃふう 鱸魚¥,ろぎょ 竹竿¥,ちくかん 金螻¥,きんる 水面¥,すいめん 漁家¥,ぎょか 波心¥,はしん 【客舎聞砧】,かくしゃきぬたをきく 寒砧¥,かんちん 搗衣#,ころもをうつ 断続¥,だんぞく 秋風¥,しうふう 清砧¥,せいちん 別愁¥,べつしう 秋砧¥,しうちん 砧杵¥,ちんしょ 月落#,つきをつ 深夜¥,しんや 疎砧¥,そちん 遥夜¥,やうや 客愁¥,かくしう 無衣¥,ぶい 繁霜¥,はんそう 旅恨¥,りょごん 家々¥,いえいえ 誰家#,たがいえ 搗霜#,しもにうつ 風前¥,ふうぜん 月下¥,げつか 暮砧¥,ぼちん 寒早#,かんはやし 丁東¥,ていとう 遥音¥,やういん 寂々¥,せきせき 城辺¥,じゃうへん 双杵¥,そうしょ 夜寒#,よるさむし 関山¥,くゎんざん 幽韻¥,ゆういん 鳴杵¥,めいしょ 連窓#,まどにつらなる 客夢¥,かくむ 征衣¥,せいい 夜月¥,やげつ 故園¥,こえん 清音¥,せいいん 客心¥,かくしん 風声¥,ふうせい 孤館¥,こくゎん 秋霜¥,しうそう 帰夢¥,きむ 寒窓¥,かんそう 郷思¥,きゃうし 夜靜¥,よしづか 【秋郊聞笛】,しうかうふえをきく 烟郊¥,えんかう 樵歌¥,しゃうか 秋郊¥,しうかう 幽懐¥,ゆうくゎい 斜日¥,しゃじつ 落木¥,らくぼく 牛羊¥,ぎうよう 雲樹¥,うんじゅ 野鳥¥,やちゃう 荒塘¥,くゎうとう 牧笛¥,ぼくてき 寂寥¥,せきりゃう 出郭,くゎくをいづ 孤笻¥,こきゃう 杖藜,れいをつき 蕎花¥,きゃうくゎ 林烟¥,りんえん 帰犢¥,きとく 乱鴉¥,らんあ 黄花¥,くゎうくゎ 村落¥,そんらく 紅葉¥,かうやう 細徑¥,さいけい 疎木¥,そぼく 香露¥,かうろ 禾黍¥,くゎしょ 桑葉¥,さうやう 稻花¥,とうくゎ 漁舟¥,ぎょしう 淡烟¥,たんえん 渓水¥,けいすい 叢竹¥,そうちく 隴畝¥,ろうほ 寒蛩¥,かんきゃう 採菊,きくをとる 山峰¥,さんほう 晩照¥,ばんしょう 禾稼¥,くゎか 満袖¥,まんしう 黄落¥,くゎうらく 小雨¥,しゃうう 秋陰¥,しういん 山鳥¥,さんちゃう 寒蝉¥,かんせん 短墻¥,たんしゃう 肩輿¥,けんよ 遶村#,そんをめぐる 薜蘿¥,へきら 野色¥,やしょく 禾熟#,あわじゅくす 穿雲#,くもをうがつ 暸喨¥,りゃうりゃう 悽清¥,せいせい 笛声¥,てきせい 断続¥,だんぞく 誰家#,たがいえ 凄涼¥,せいりゃう 吹笛#,ふえをふく 数声¥,すせい 三弄¥,さんろう 一曲¥,いっきょく 曲罷#,きょくやむ 余音¥,よいん 竹笛¥,ちくてき 牛背¥,ぎうはい 野調¥,やちゃう 幾曲#,いくきょく 短笛¥,たんてき 野唱¥,やしゃう 青玉¥,せいぎょく 嗚咽¥,をうえつ 清哀¥,せいあい 【九日登高】¥,きうじつとうかう 佳節¥,かせつ 登高¥,とうかう 揺落¥,えうらく 酔場¥,すいしゃう 落帽¥,らくぼう 泛菊#,きくをうかふ 茱萸¥,しゅゆ 黄花¥,くゎうくゎ 細菊¥,さいきく 茱嚢¥,しゅのう 菊觴¥,きくしゃう 菊酒¥,きくしゅ 龍山¥,りゃうざん 重陽¥,ちゃうやう 伝杯#,はいをつたふ 風帽¥,ふうぼう 東籬¥,とうり 彭澤¥,ほうたく 採花#,はなをとる 籬菊¥,りきく 紅萸¥,こうゆ 白衣¥,はくい 軽香¥,けいかう 清樽¥,せいそん 陶令¥,とうれい 濁酒¥,だくしゅ 携酒#,さけをたつさふ 酩酊¥,めいてい 故山¥,こさん 秋香¥,しうかう 逢秋#,あきにあふ 把菊¥,はきく 秋懐¥,しうくゎい 双鬢¥,そうびん 籬下¥,りか 冷雨¥,れいう 風急#,かぜきうなり 風雨¥,ふうう 一樽¥,いっそん 客中¥,かくちう 雁影¥,がんえい 他郷¥,たきゃう 旧徑¥,きうけい 覊遊¥,きゆう 重九¥,ちゃうきう 客舎¥,かくしゃ 異郷¥,いきゃう 舉觴#,しゃうをあく 秋雨¥,しうう 蒼茫¥,そうぼう 瞑烟¥,めいえん 暮雲¥,ぼうん 黯淡¥,あんたん 山色¥,さんしょく 満林¥,まんりん 霜林¥,そうりん 雲篭¥,くもこむ 薄雲¥,はくうん 過雁¥,くゎがん 林梢¥,りんしゃう 秋陰¥,しういん 松林¥,しゃうりん 紅葉¥,かうやう 樵徑¥,しゃうけい 出雲¥,くもいづ 石磴¥,せきとう 風磴¥,ふうとう 空翠¥,くうすい 高鳥¥,かうちゃう 山水¥,さんすい 山囲¥,やまかこむ 天高#,てんたかし 崔嵬¥,さいくゎい 千峰¥,せんほう 濃雲¥,じゃううん 山嶂¥,さんしゃう 秋水¥,しうすい 一点¥,いってん 千尋¥,せんじん 白雲¥,はくうん 烟霏¥,えんひ 陰澹¥,いんたん 園林¥,えんりん 【秋日山行】¥,しうじつさんかう 曳藜#,れいをひく 遊山¥,ゆうさん 済勝¥,せいしゃう 山水¥,さんすい 樵唱¥,しゃうしゃう 山雨¥,さんう 雲林¥,うんりん 村景¥,そんけい 莓苔¥,まいたい 登屐¥,とうげき 歩屧¥,ほちゃう 絶壁¥,ぜっへき 石路¥,せきろ 青鞋¥,せいあ 荒涼¥,くゎうりゃう 探奇#,きをさぐる 錦屏¥,きんへい 奇峰¥,きほう 路転¥,ろてん 山濃#,やまこまやか 渓雲¥,けいうん 帯雨#,あめををぶ 山木¥,さんぼく 空林¥,くうりん 猿声¥,えんせい 捫蘿#,らをとる 挽葛#,かつをひく 岩花¥,がんくゎ 穿林#,りんをうがつ 断崖¥,だんがい 山雲¥,さんうん 躋攀¥,せいはん 羊腸¥,やうちゃう 一徑¥,いっけい 乱山¥,らんさん 猿叫¥,えんきう 林疎¥,りんそ 野橋¥,やきゃう 危峰¥,きほう 飛泉¥,ひせん 倚杖#,つえによる 橋断#,はしたへ 度嶺#,みねをわたる 古藤¥,ことう 風葉¥,ふうやう 谷鳥¥,こくちゃう 翠篠¥,すいじゃう 啼猿¥,ていえん 歩壑#,がくにほす 看松#,まつをみる 清流¥,せいりう 峻嶺¥,しゅんれい 烟外¥,えんぐゎい 倦鳥¥,けんちゃう 帰鴉¥,きあ 残照¥,さんしゃう 人語¥,じんご 鳥語¥,ちゃうご 山花¥,さんくゎ 風声¥,ふうせい 好景¥,かうけい 夾路#,みちをはさむ 屐歯¥,げきし 渓水¥,けいすい 烟含#,けむりふくむ 嶺雲¥,れいうん 烟渓¥,えんけい 烟嵐¥,えんらん 数峰¥,すほう 翠嵐¥,すいらん 微雨¥,びう 前村¥,ぜんそん 郊原¥,かうげん 携笻#,つえをたづさふ 江村¥,こうそん 孤村¥,こそん 芒鞋¥,ぼうあい 野情¥,やじゃう 藜杖¥,れいぢゃう 柴門¥,さいもん 渓橋¥,けいきゃう 苔徑¥,たいけい 草徑¥,さうけい 風烟¥,ふうえん 蔬畦¥,そけい 行吟¥,かうぎん 徐歩¥,じょほ 杖履¥,じゃうり 遥峰¥,ようほう 疎鐘¥,そしゃう 一簇¥,いちぞく 烟横#,けむりよこたふ 林景¥,りんけい 村徑¥,そんけい 烟林¥,えんりん 野菊¥,やきく 修竹¥,しうちく 澗水¥,かんすい 斜坡¥,しゃは 沙禽¥,さきん 野趣¥,やしゅ 植杖#,つえをたてて 墜葉¥,ついやう 寒鴟¥,かんし 葦岸¥,いがん 奔流¥,ほんりう 頽墻¥,たいしゃう 蘿陰¥,らいん 村叟¥,そんそう 野翁¥,やをう 野老¥,やろう 烟月¥,えんけつ 馬上¥,ばしゃう 疲馬¥,ひば 高林¥,かうりん 【秋夜宿山寺】,しうやさんじにしゅくす 盤嶺¥,ばんれい 憑軒#,のきによる 禅房¥,ぜんばう 方丈¥,はうじゃう 香閣¥,かうかく 禅堂¥,ぜんどう 清幽¥,せいゆう 松陰¥,せういん 空林¥,くうりん 長嘯¥,ちゃうしう 尋僧#,そうをたづぬ 含烟#,けむりをふくむ 山寒#,やまさむし 乗閑#,かんにじゃうす 開窓#,まどをひらく 鐘磬¥,しゃうけい 乗興#,きゃうにじょうす 烟鎖#,けむりとざす 猿驚#,さるをとろく 履痕¥,りこん 尋師#,しをたづぬ 杖藜#,れいをつく 幽尋¥,ゆうじん 野雲¥,やうん 石逕¥,せきてい 竹扉¥,ちくひ 細泉¥,さいせん 旧題¥,きうたい 寒雲¥,かんうん 丈室¥,じゃうしつ 渓口¥,けいかう 禅関¥,ぜんくゎん 風篁¥,ふうくゎう 招提¥,しゃうたい 烟霞¥,えんか 山門¥,さんもん 松子¥,しゃうし 幽鳥¥,ゆうちゃう 寒殿¥,かんてん 松靜#,まつしづかなり 皎月¥,かうげつ 暁堂¥,きゃうとう 暁鐘¥,きゃうしゃう 空院¥,くういん 清磬¥,せいけい 鳴泉¥,めいせん 後峰¥,こうほう 烟蘿¥,えんら 寺門¥,じもん 乱水¥,らんすい 苔痕¥,たいこん 塔影¥,とうえい 清梵¥,せいぼん 風露¥,ふうろ 鐘梵¥,しゃうぼん 烟嶂¥,えんしゃう 密竹¥,みっちく 遥峰¥,ようほう 梵声¥,ぼんせい 梵音¥,ぼんいん 閑眠¥,かんめん 山寺¥,さんじ 一榻¥,いっとう 暮鐘¥,ぼしゃう 茗飲¥,めいいん 茗話¥,めいわ 林月¥,りんげつ 月露¥,げつろ 麈談¥,しゅだん,ほっすをすりはなす 霜露¥,そうろ 雲外¥,うんぐゎい 塵外¥,ぢんぐゎい 山閣¥,さんかく 層簷¥,そうえん 貝葉¥,はいやう 古殿¥,こでん 禅談¥,ぜんだん 残月¥,ざんげつ 絃月¥,けんげつ 【海樓望月】,かいろうつきをのぞむ 潮来¥,ちゃうらい 滄溟¥,そうめい 蜃楼¥,しんろう 連天#,てんにつらなる 霧開#,きりひらく 連嶼¥,れんしょ 月湧¥,つきわく 三山¥,さんざん 島間¥,とうかん 鮫室¥,かうしつ 掛帆#,ほをかけ 碧海¥,へきかい 雲散#,くもさんす 海色¥,かいしょく 潮声¥,ちゃうせい 烟島¥,えんとう 隔霧#,きりをへだつ 乗槎#,いかだにじゃうす 雁飛#,がんとぶ 海面¥,かいめん 雷奔¥,らいほん 万頃¥,ばんきゃう 観涛¥,くゎんとう 海若¥,かいじゃく 魚跳#,うををとる 八月¥,はちげつ 高浪¥,かうらう 觸山#,やまにふる 狂雷¥,きゃうらい 洲渚¥,しうしょ 銀山¥,ぎんざん 波心¥,はしん 長風¥,ちゃうふう 浦月¥,ほげつ 舟人¥,しうじん 賈舶¥,かはく 千雷¥,せんらい 波面¥,はめん 魚龍¥,ぎょりゃう 浪花¥,らうくゎ 登楼¥,とうろう 捲簾#,れんをまく 清賞¥,せいしゃう 秋宵¥,しうしゃう 如霜#,しものごとし 滄海¥,さうかい 月宮¥,けっきう 出波#,なみをいづ 清輝¥,せいき 海月¥,かいげつ 銀盤¥,ぎんばん 一点¥,いってん 流影¥,りうえい 金波¥,きんは 積水¥,せきすい 蚌珠¥,ほうしゅ 晴空¥,せいくう ○【冬部】 【初冬夜坐】¥,しょとうのやざ 霜威¥,そうい 園地¥,えんち 草腓#,くさしほむ 霜厳#,しもげんなり 水寒#,みづさむふして 水凝#,みづこって 更長#,こうながふして 霜夜¥,そうや 木凋#,きしぼむ 雲凍#,くもこって 寒灰¥,かんくゎい 坐撥#,そぞろにはいす 凛々¥,りんりん 紙窓¥,しそう 凋零¥,ちゃうれい 霜鋪#,しもしく 孤燈¥,ことう 燈火¥,とうくゎ 書燈¥,しょとう 山寒#,やまさむふして 林疎#,はやしそにして 燈影¥,とうえい 風叩#,かせたたく 凛冽¥,りんれつ 霜月¥,そうげつ 寒霄¥,かんしゃう 小斎¥,せうさい 竹声¥,ちくせい 梅影¥,ばいえい 竹斎¥,ちくさい 敲窓#,まどをたたく 松号#,まつさけぶ 風声¥,ふうせい 月上#,つきのぼって 寒侵#,かんをかす 梅月¥,ばいげつ 斜月¥,しゃげつ 松声¥,せうせい 竹影¥,ちくえい 月穿#,つきうがつ 寒風¥,かんふう 一夜¥,いちや 廃眠#,ねむりをはいして 三更¥,さんこう 推戸#,こををす 一窓¥,いっそう 寒威¥,かんい 凄凄¥,せいせい 囲爐#,ろをかこむ 【冬日過田家】,とうじつでんかによぎる 竹籬¥,ちくり 田畝¥,でんほ 老樹¥,ろうじゅ 遶屋#,をくをめぐって 柴門¥,さいもん 隣叟¥,りんそう 窓寒#,まどさむし 草枯#,くさかれて 乍靜#,たちまちしづかなり 場圃¥,じゃうほ 松声¥,せうせい 寒笛¥,かんてき 竹風¥,ちくふう 寒雀¥,かんじゃく 斜日¥,しゃじつ 林塢¥,りんを 村舍¥,そんしゃ 晩照¥,ばんしゃう 影澹#,かげたんなり 環舍#,しゃをめぐる 人稀#,ひとまれにして 泉凝#,せんこって 林疎#,はやしそにして 園荒#,えんあれて 犬眠#,いぬねむって 鶏犬¥,けいけん 村童¥,そんどう 茅店¥,ぼうてん 事閑#,ことかんにして 天寒#,てんさむふして 急景¥,きうけい 野木¥,やぼく 欲雪#,ゆきならんとほっす 淡雲¥,たんうん 氷合#,こをりがっして 寒深#,かんふかふして 敲氷#,こをりをたたひて 梅花¥,ばいくゎ 墻梅¥,しゃうばい 山色¥,さんしょく 取醪#,ろうをとる 凌寒#,かんをしのいて 遠樹¥,えんじゅ 孤松¥,こせう 枯木¥,こぼく 梅英¥,ばいえい 爐底¥,ろてい 木凋#,きしぼむ 霜林¥,そうりん 蔦葉¥,てうやう 染霜#,しもにそむ 野市¥,やし 禿木¥,とくぼく 梅吐#,むめはく 被霜#,しもをかふりて 破窓¥,はそう 村靜#,そんしづかにして 荒徑¥,くゎうけい 野雀¥,やじゃく 深竹¥,しんちく 霜楓¥,そうふう 松葉¥,せうやう 木葉¥,もくやう 落牀#,ゆかにをつ 濃談¥,のうだん 山鐘¥,さんしゃう 【雪中遊山寺】,せっちうさんじにあそぶ 素花¥,そくゎ 琪花¥,きくゎ 瓊林¥,けいりん 凍雲¥,とううん 飛絮¥,ひじょ 縈風#,かせにまとふ 砕飄#,くだけひるがへる 撲簾#,れんをうつ 随風#,かぜにしたがふ 飄墜#,ひょうついす 生光#,くゎうをしゃうす 砌陰¥,ぜいいん 裁花#,はなをさいす 点砌#,せいにてんして 如玉#,たまのごとく 堆銀#,ぎんをうづたかふす 分鴉#,あをわかつ 急雪¥,きうせつ 気厳¥,きげん 山明#,やまあきらか 望迷#,のそみまよふ 成花#,はなをなす 随山#,やまにしたがい 一杖¥,いちじゃう 着樹¥,じゅくつく 忍寒#,かんをしのんで 玉屑¥,ぎょくせつ 六出¥,りくしゅつ 蓑笠¥,さりつ 好景¥,かうけい 風巻#,かせまいて 賞雪#,ゆきをしゃうす 寒雪¥,かんせつ 寒光¥,かんくゎう 成珠#,たまをなして 寺橋¥,じきゃう 砕玉#,たまをくたいて 茶烟¥,さえん 深雪¥,しんせつ 鮮明¥,せんめい 皎潔¥,かうけつ 密洒#,みつにそそく 山路¥,さんろ 粘扉¥,ねんひ 鏤成#,ちりばめなす 粉萼¥,ふんがく 粘衣#,いにねんす 地疑#,ちうたがふ 石磴¥,せきとう 山門¥,さんもん 丈室¥,ちゃうしつ 絶頂¥,ぜっちゃう 古壁¥,こへき 一徑¥,いっけい 半岩¥,はんがん 寺墻¥,じしょう 石壇¥,せきだん 僧歸,そうかへる 廊空#,らうむなしふして 蕭寺¥,しょうじ 梵城¥,ぼんじゃう 禪室¥,ぜんしつ 浄域¥,ぜういき 寒磬¥,かんけい 石牀¥,せきじゃう 梵声¥,ほんせい 如意¥,にょい 世尊¥,せそん 精舎¥,しゃうしゃ 衲衣¥,とつい 山僧¥,さんそう 香刹¥,かうせつ 梵宇¥,ぼんう 誦経¥,しゃうきゃう 飛塔¥,ひとう 雨花¥,うくゎ 天花¥,てんくゎ 蓮社¥,れんしゃ 鐘韻¥,しゃういん 禪房¥,ぜんぼう 焚香¥,ふんかう 浮圖¥,ふと 偃松¥,えんせう 松扉¥,せうひ 雪花¥,せっくゎ 珠樹¥,しゅじゅ 鶴氅¥,くゎくしゃう 虎渓¥,こけい 砕銀#,ぎんをくだく 烹茶#,ちゃをにて 旋撲#,めぐりうつ 冷透#,れいとほる 玉英¥,ぎょくえい 禅誦¥,ぜんしゃう 林梢¥,りんしゃう 芒鞋¥,ぼうあい 掬雪#,ゆきをきくす 【喜雪】,ゆきをよろこぶ 風雪¥,ふうせつ 吹雪#,ゆきをふひて 玉粒¥,ぎょくりう 帯風#,かぜををぶ 散白#,はくをさんす 千点¥,せんてん 乱敲#,みだれうつ 無影#,かげなし 乱飄#,みだれひるがへる 光動#,ひかりうごく 靜点#,しづかにてんして 玉塵¥,ぎょくぢん 割玉#,たまをさく 捲簾#,れんをまく 会客#,かくをくゎいす 登楼#,ろうにのぼる 清興¥,せいきゃう 紙上¥,ししゃう 種玉#,たまをうゆ 酒力¥,しゅりょく 舞花#,はなをまわして 綻玉#,たまをつづる 片濃#,へんこまやか 忽埋#,たちまちうづむ 一色¥,いっしょく 巧裁#,たくみにさいす 望迷#,のそみまよふ 転旋¥,てんせん 凝階#,かいにこって 飛態¥,ひたい 凍気¥,とうき 俄積#,にわかにつむ 寒深#,かんふかうして 舞風#,かせにまふ 争撲#,あらそひうつ 縈砌#,ぜいにまとふ 深賞#,ふかくしゃうす 倚檻#,かんによる 熾炭#,すみやひて 温酒#,さけをあたため 啓窓#,まどをひらひて 揮筆#,ふでをふるふ 四山¥,しさん 可喜#,よろこぶべし 寒気¥,かんき 吟詩#,しをぎんす 【雪中訪友人】,せっちうゆうじんをとふ 驢背¥,ろはい 寒林¥,かんりん 撲面#,めんをうつ 澗畔¥,かんはん 眺望¥,てうばう 村落¥,そんらく 半江¥,はんこう 風寒#,かぜさむふして 整履#,りをととのへて 斜路¥,しゃろ 竹籬¥,ちくり 風前¥,ふうぜん 柴門¥,さいもん 千山¥,せんざん 瓊樹¥,けいじゅ 鏤玉#,たまをちりばむ 渡口¥,とこう 山遠#,やまとほく 雪侵#,ゆきをかす 曠野¥,くゎうや 雲抱#,くもはいだく 向背¥,かうはい 門松¥,もんせう 墻竹¥,しゃうちく 風撼#,かせうごかす 門臨#,もんはのぞむ 圧竹#,たけをあっす 風力¥,ふうりょく 吹雪#,ゆきをふひて 如鷺#,ろのごとく 鳥雀¥,てうじゃく 訪戴#,たいをとふ 寒空¥,かんくう 野雀¥,やじゃく 攀山#,やまをよぢて 山陰¥,さんいん 烟暗#,えんくらふして 草鞋¥,そうあい 孤笻¥,こきゃう 乗興#,きゃうにじゃうじて 乗舟#,ふねにじゃうして 棹舟#,ふねにさほさして 軽舸¥,けいか 沙汀¥,さてい 小流¥,せうりう 望迷#,のぞみまよふ 移棹#,さほをうつして 冐雪#,ゆきををかして 払面#,めんをはらふて 林麓¥,りんろく 鵝毛¥,がもう 渚烟¥,しょえん 照林#,りんをてらす 沙路¥,さろ 短簑¥,たんさ 叩扉#,ひをたたひて 楊花¥,やうくゎ 透林#,りんにとほりて 相尋#,あひたつぬ 【至日集】¥,しじつしう 陽生¥,やうせうす 来復¥,らいふく 春信¥,しゅんしん 微陽¥,びいやう 陽升#,いやうのぼる 陰伏¥,いんふく 短晷¥,たんき 始生#,はじめてせうす 一陽¥,いちやう 窓梅¥,そうばい 暖律¥,だんりつ 陰退#,いんしりぞく 葭灰¥,かくゎい 至日¥,しじつ 律応¥,りつをう 灰動¥,くゎいどう 短景¥,たんけい 新陽¥,しんいやう 将動#,うごかんとす 宮線¥,きうせん 南窓¥,なんそう 雲物¥,うんぶつ 一線¥,いっせん 南枝¥,なんし 初長#,はじめてながし 今日¥,こんにち 視晷#,きをみる 蘆灰¥,ろくゎい 野梅¥,やばい 黄鐘¥,くゎうしょう 南至¥,なんし 風柔#,かぜやはらかなり 陽回#,いやうかへる 共酔#,ともによふ 迎長#,ながきをむかふ 添景#,かげをそふ 衝寒#,かんをついて 庭暖#,にわあたたかなり 已復#,すでにふくす 放香#,にほひをはなつ 迎気#,きをむかふ 添線#,せんをそふ 已催#,すでにもよほす 禦寒#,かんをふせいで 旧友¥,きうゆう 動處#,うごくところ 書雲#,くもをしるす 共喜#,ともによろこぶ 添時#,ときをそふ 小陽¥,せうやう 酌酒,さけをくむ 清談¥,せいだん 坐久,ざひさしふして 掃榻#,とうをはらふ 歓情¥,くゎんじゃう 故人¥,こじん 【冬日見梅】,とうじつむめをみる 梅花¥,ばいくゎ 破蕾#,らいをやぶりて 竹外¥,ちくぐゎい 墻角¥,しゃうかく 衝寒#,かんをついて 芳姿¥,はうし 氷肌¥,ひょうき 氷艶¥,ひょうえん 綴珠#,たまをつづる 裁玉#,たまをさいす 寒梢¥,かんしょう 香散¥,かうさん 先破#,まつやぶる 含情#,じゃうをふくむ 耐寒#,かんにたへたり 渓橋¥,けいきゃう 吟筆¥,ぎんひつ 寒英¥,かんえい 未春#,いまだはるならざるに 帯雪#,ゆきををぶ 倚墻#,かきによる 先春#,はるにさきだって 異香¥,いかう 雪中¥,せっちう 野橋¥,やきゃう 寒香¥,かんかう 凝寒#,かんをこらす 疎影¥,そえい 忍凍#,いてをしのぶ 和雪#,ゆきにくゎして 短籬¥,たんり 雪後¥,せつご 逐暖#,だんををふ 風前¥,ふうぜん 着砌#,ぜいについて 冐雪#,ゆきをおかして 向暖#,だんにむかふ 花魁¥,くゎくゎい 羅浮¥,らふ 氷魂¥,ひょうこん 痩枝¥,そうし 媚風#,かぜにこぶ 暗香¥,あんかう 氷蕋¥,ひゃうずい 素艶¥,そえん 渾疑#,すべてうたがふ 疎枝¥,そし 屋背¥,おくはい 寒冬¥,かんとう 傲雪#,ゆきにをごる 似画#,くゎににたり 如粧#,よそおふごとし 日照#,ひてらす 吐香#,かうをはく 早芳¥,さうはう 淡影¥,たんえい 倚竹#,たけによる 粉態¥,ふんたい 招得#,まねきえたり 得春#,はるをえて 野寺¥,やじ 烟滋#,えんうるをふ 移歩#,ほをうつして 倚杖#,つえによって 傍村#,むらにそふて 臨水#,みづにのぞむて 囲舎#,しゃをめぐって 数歩¥,すほ 【雪江晩釣】¥,せっこうのばんてう 孤篷¥,こほう 小艇¥,せうてい 短棹¥,たんとう 烟波¥,えんは 蘆岸¥,ろがん 釣緡¥,てうびん 波間¥,はかん 収綸#,りんををさめ 垂釣¥,すいてう 閑繋#,かんにつなぐ 篷軽#,ほうかろし 細糸¥,さいし 伴鴎#,をうにとものふ 投餌#,えばをとうす 磯根¥,きこん 香餌¥,かうじ 短蓑¥,たんさ 蓑笠¥,さりつ 釣得#,つりえたり 小竿¥,せうかん 漁竿¥,ぎょかん 水寒#,みづさむし 烟渚¥,えんしょ 一竿¥,いっかん 釣糸¥,てうし 釣鉤¥,てうこう 黙釣¥,もくてう 小江¥,せうこう 寒江¥,かんこう 孤舟¥,こしう 取竿#,かんをとる 独釣¥,どくてう 投鉤#,こうをとうす 汀葦¥,ていい 晩景¥,ばんけい 帰鴉¥,きあ 任流#,ながれにまかす 晩江¥,ばんこう 浅水¥,せんすい 飛鷺¥,ひろ 雨雪¥,うせつ 雪急¥,ゆききう 雪花¥,せっくゎ 如絮#,じょのごとく 江山¥,こうさん 遠近¥,えんきん 津樹¥,しんじゅ 浦口¥,ほこう 江石¥,こうせき 釣舟¥,てうしう 碧涛¥,へきとう 暮潮¥,ぼちゃう 擲鉤#,こうをなげうつ 満蓑#,さにみつ 持竿#,かんをじす 浪声¥,ろうせい 蘆葦¥,ろい 船横#,ふねよこたふ 沙汀¥,さてい 波平#,なみたいらか 圧竿#,かんをあっす 淡烟¥,たんえん 嶺樹¥,れいじゅ 古渡¥,こと 沙岸¥,さがん 密雪¥,みっせつ 乱飄¥,らんひょう 風寒#,かぜさむう 衝寒#,かんをついて 雪裏¥,せつり 飛雪¥,ひせつ 鋪素#,そをしく 一色¥,いっしき 圧樹#,じゅをあっす 日夕¥,じつせき 【苦寒】¥,くかん 凍雲¥,とううん 透衣#,ころもにとうる 水凝#,みづこる 地凍#,ちいてて 天寒#,てんさむふして 凛々¥,りんりん 霜風¥,さうふう 切肌#,はだへにさつなり 氷桂¥,ひょうちう 寒光¥,かんくゎう 野林¥,やりん 凄風¥,せいふう 急景¥,きうけい 簾寒#,れんさむうして 噪林#,りんにさはぐ 氷結¥,ひょうむすぶ 裋褐¥,じゅかつ 重裘¥,てうきう 欲雪#,ゆきならんとほっす 寒威¥,かんい 野木¥,やぼく 園池¥,えんち 擁褐#,かつをようす 重裀¥,てういん 囲炉¥,いろ 熾炭#,たんをやく 風勁#,かぜはげしふして 日影¥,じつえい 厚氷¥,かうひょう 禦寒#,かんをふせいで 鋪砌#,ぜいにしひて 寒木¥,かんぼく 経霜#,しもをへて 木凋#,きしぼむ 山林¥,さんりん 江嶂¥,こうしょう 帯雪#,ゆきををぶ 待雪#,ゆきをまつ 孤松¥,こせう 忍寒#,かんをしのぶ 【冬夜読書】¥,とうやとくしょ 短檠¥,たんけい 披巻#,くゎんをひらく 寒窓¥,かんそう 孤坐¥,こざ 作蠧#,ととなる 詩書¥,ししょ 旧史¥,きうし 閉戸#,こをとぢて 靜読#,しづかによむ 留神#,しんをとどめて 研精#,せいをとひで 古今¥,ここん 図書¥,としょ 夜深#,よふかうして 灯火¥,とうくゎ 精力¥,せいりょく 映雪#,ゆきにえいす 鑿壁#,かべにほる 刺股#,ももをさす 努力¥,どりょく 随月#,つきにしたがって 潜心#,ここをろひそむ 下帷#,いをくだして 燈焔¥,とうえん 凭几#,きによって 書架¥,しょか 点検¥,てんてん 窓下¥,そうか 衝寒#,かんをついて 口誦#,くちにしょうして 寒霄¥,かんしゃう 霜月¥,そうげつ 更残#,こうのこって 竹影¥,ちくえい 燈背¥,とうはい 松声¥,せうし 書室¥,しょしつ 小斎¥,せうさい 旧砌¥,きうせい 梅月¥,ばいげつ 竹風¥,ちくふう 梅影¥,ばいえい 厳風¥,げんふう 寒侵#,かんをかす 半夜¥,はんや 度鴻¥,とこう 月高#,つきたかふして 推窓#,まどをおす 牀上¥,しゃうじゃう 簷月¥,えんげつ 叩窓#,まどをたたく 寒夜¥,かんや 書斎¥,しょさい 開書#,しょをひらいて 散帙#,ちつをさん 不眠#,ねむらず 閲古#,いにしへをけみす 牙籤¥,がせん 蠧魚¥,とぎょ 巻舒¥,けんじょ 【除夜】¥,ぢょや 残臘¥,ざんろう 迎気#,きをむかへて 歳華¥,さいくゎ 迎新#,あらたなるをむかふ 屠蘇¥,とそ 杯盤¥,はいばん 歳尽#,としつきて 寒漏¥,かんろう 一霄¥,いっしゃう 今霄¥,こんしゃう 光景¥,くゎうけい 節物¥,せつぶつ 此盡#,ここにつく 冬盡#,ふゆつきて 新春¥,しんしゅん 窓梅¥,そうばい 臘盡#,ろうつきて 隔夕#,ゆうべをへだてて 影小#,かげすこしふして 隔年#,としをへだてて 明朝¥,みゃうてう 梅帯#,むめをふ 数刻¥,すこく 守歳#,としをまもって 囲炉#,ろをかこむて 不眠#,ねむらず 待旦#,あしたをまつ 守夜#,よをまもって 今夕#,このゆふべ 旧歳¥,きうさい 酒缾¥,しゅへい 紅燭¥,こうしょく 地炉¥,ちろ 五更¥,ごこう 暁柝¥,きゃうたく 挑燈#,とうをかかぐる 一年¥,いちねん 笑談¥,せうだん 燈花¥,とうくゎ 終夕¥,しうせき 随漏#,ろうにしたがって 春随#,はるはしたがふ 歓娯¥,くゎんご ○【雑部】 【囲碁】¥,いご 手談¥,しゅだん 忘憂,うれひをわする 飛響,ひびきをとばす 紋楸¥,もんしふ 碁声¥,きせい 子声¥,しせい 一枰¥,いつへい 默坐¥,もくざ 忘帰,きをわする 不言,いはず 無機,きなし 碁局¥,ききょく 局上¥,きょくじゃう 談兵,へいをだんず 一着¥,いちぢゃく 靜中¥,せいちう 幽閑¥,ゆうかん 偶坐¥,ぐうざ 相競,あいきそふ 黒白¥,こくびゃく 落子,しををとす 収枰,へいををさむ 閑暇¥,かんか 坐客¥,ざかく 終局,きょくををはる 松窓¥,せうそう 声敲,こへたたく 映竹,たけにえいじ 両奩¥,りゃうれん 偸閑,かんをぬすむ 爛柯¥,らんか 響玉¥,きゃうぎょく 【暁発】¥,きゃうはつ 残月¥,ざんげつ 暁雲¥,きゃううん 駅亭¥,えきてい 束嚢,のうをつかぬ 暗泉¥,あんせん 宿霧¥,しゅくむ 宿雲¥,しゅくうん 暁鴉¥,きゃうあ 朝暉¥,ちゃうき 匹馬¥,ひつば 鳥雀¥,ちゃうじゃく 暁風¥,きゃうふう 馬嘶¥,むまいななく 征衣¥,せいい 客衣¥,かくい 鶏声¥,けいせい 隣鶏¥,りんけい 山曙¥,やまあけ 孤村¥,こそん 山駅¥,さんえき 早発¥,そうはつ 暁寺¥,きゃうじ 鐘声¥,しゃうせい 銀河¥,ぎんが 林風¥,りんふう 炊烟¥,すいえん 茶烟¥,さえん 茅店¥,ぼうてん 酒家¥,しゅか 青旗¥,せいき 下馬,むまをくだる 肩輿¥,けんよ 官道¥,くゎんとう 路傍¥,ろはう 晴風¥,せいふう 【懐友人】,ゆうじんをおもふ 倚楼,ろうによる 夜月¥,やげつ 江山¥,こうざん 極目¥,きょくもく 悵望¥,ちゃうばう 魚雁¥,ぎょかん 交歓¥,かうくゎん 相逢,あいあはん 一別¥,いちべつ 故人¥,こじん 寄書,しょをよす 両地¥,りゃうち 寄梅,むめをよす 託雁,がんにたくす 掻首,かうべをかく 音書¥,いんしょ 相思¥,さうし 書断¥,しょだん 夢飛,ゆめとぶ 双鯉¥,そうり 屈指,ゆびをくっす 回頭,かうべをめぐらす 別後¥,べつご 残夢¥,ざんむ 憶君,きみををもふ 尺素¥,せきそ 曽遊¥,そうゆう 一字¥,いちじ 平安¥,へいあん 契闊¥,けいくゎつ 消息¥,せうそく 懐人,ひとををもふ 寄詩,しをよす 天末¥,てんまつ 雲端¥,うんたん 一枝¥,いっし 離群¥,りぐん 思爾,なんぢををもふ 相期,あひきす 約遊,ゆうをやくす 長天¥,ちゃうてん 緘書¥,かんしょ 【隠者】¥,いんじゃ 耕雲,くもにたがやす 避地,ちをさく 迯名,なをのかる 雲棲¥,うんせい 晦迹,あとをくらます 卜居¥,ぼくきょ 幽谷¥,ゆうこく 高臥¥,かうぐゎ 世塵¥,せぢん 幽人¥,ゆじん 白髪¥,はくはつ 声名¥,せいめい 踪跡¥,そうせき 野衣¥,やい 山飯¥,さんはん 泉石¥,せんせき 賦帰,きをふす 帰家,いえにかへる 投簪,しんをとうす 遺栄,えいをわすれ 辞老,らうをじす 山林¥,さんりん 無心¥,むしん 忘情,じゃうをわする 連床¥,れんじゃう 琴樽¥,きんそん 松筠¥,せうきん 帰田¥,きてん 老懶¥,ろうらん 帰休¥,ききう 避喧,けんをさく 清貧¥,せいひん 綸巾¥,りんきん 事業¥,じぎゃう 巾裘¥,きんきう 猿鶴¥,えんくゎく 雲閑,くもしつかなり 読書¥,とくしょ 避俗,ぞくをさく 詩興¥,しきゃう 移家,いえをうつす 弾琴¥,だんきん 吟詩,しをぎんす 帰隠¥,きいん 払衣,ころもをはらふ 茅簷¥,ぼうえん 茶竃¥,さそう 掛冠,かむりをかく 隠身,みをかくす 売薬,くすりをうる 三徑¥,さんけい 採薇,わらびをとる 柴扉¥,さいひ 田園¥,でんえん 酒熟,さけじゅくす 身世¥,しんせい 野寉¥,やくゎく 高情¥,かうじゃう 烹茶,ちゃをにる 漉酒,さけをこす 蕙帳¥,けいちゃう 草廬¥,そうろ 似水,みづににたり 知時,ときをしる 緩歩¥,くゎんほ 来往¥,らいおう 携鋤,すきをたづそふ 荷鍤,すきをになふ 採薪,たきぎをとる 採芝¥,さいし 鼓腹¥,こふく 南畝¥,なんほ 伐木¥,ばつぼく 憩石,いしにいかふ 飲泉,いづみをのむ 山居¥,さんきょ 酌酒,さけをくむ 松徑¥,せうけい 負薪,たきぎをおふ 沽酒,さけをかふ 賣薪,たきぎをうる 清談¥,せいだん 著書¥,ちょしょ 図書¥,としょ 琴書¥,きんしょ 草堂¥,さうどう 引睡,ねむりをひく 谷口¥,こくかう 【病中友人至喜而賦】,びゃうちうゆうじんいたるよろこんでふす 蓬頭¥,ほうとう 痩笻¥,そうきゃう 形容¥,けいやう 老痩¥,ろうそう 単髪¥,たんはつ 薬裹¥,やくくゎ 隠几,きにかくる 閑吟¥,かんぎん 病後¥,びゃうご 多愁,うれいををし 多病¥,たびゃう 病客¥,びゃうかく 仙丹¥,せんたん 抱痾,あをいだく 一臥¥,いちぐゎ 高枕,たかくまくらす 科頭¥,くゎとう 枕頭¥,ちんとう 臥枕,まくらにふす 擁褐,かつをやうす 苦吟¥,くぎん 痼病¥,こしつ 力疾,やまいをつとむ 詩痩¥,しそう 撫枕,まくらをなづ 散髪¥,さんはつ 枕上¥,しんじゃう 平生¥,へいせい 湯薬¥,とうやく 病後¥,びゃうご 病起¥,びゃうき 還丹¥,くゎんたん 廃書,しょをはいす 薬方¥,やくはう 古方¥,こはう 薬録¥,やくろく 試歩,ほをこころむ 問疾,やまいをとふ 書窓¥,しょそう 烏几¥,うき 止酒,さけをやむ 粥飲¥,じゅくいん 来尋¥,らいじん 起疾,やまいよりたつ 相訪,あいとふらふ 忘愁,うれいをわする 留客,かくをとどむ 留歓¥,りうくゎん 患眼,まなこをうれふ 旧友¥,きうゆう 故人¥,こじん 閑来¥,かんらい 徒傷,いたつらいたむ 病夫¥,びゃうふ 病間,,やややまいこころよきをいふ 病来¥,びゃうらい 披髪¥,ひはつ 衰鬢¥,すいびん 開鏡,かがみをひらく 鏡中¥,きゃうちう 【和友人見寄之作】,ゆうじんよせらるるのさくをわす 別後¥,べつご 昔同,むかしをなじ 一別¥,いちべつ 湖辺¥,こへん 曽記,かつてきす 契闊¥,けいくゎつ 流落¥,りうらく 故人¥,こじん 鴻雁¥,がうがん 新詩¥,しんし 愁来,うれいきたる 懐旧,ふるきををもふ 却寄,かへってよす 自愧,みづからはづ 何年,いづれのとし 十載¥,じっさい 思君,きみををもふ 往日¥,をうじつ 奇才¥,きさい 雅句¥,がく 新意¥,しんい 清新¥,せいしん 一紙¥,いっし 錦綉¥,きんしう 句句¥,くく 難酬,むくひがたし 耽吟,ぎんにふける 和稀¥,わまれなり 射眼,まなこをいる 遥傳,はるかにつたふ 調高,ちゃうたかし 彩牋¥,さいせん 詩句¥,しく 遠寄,とふくよす 尺素¥,せきそ 折簡¥,せっかん 来書¥,らいしょ 開緘,かんをひらく 消息¥,しゃうそく 一封¥,いっふう 尺書¥,せきしょ 封愁,うれひをふうす 開読¥,かいとく 得信¥,しんをう 天涯¥,てんがい 千里¥,せんり 音書¥,いんしょ 錦字¥,きんじ 芳牋¥,はうせん 鯉魚¥,りぎょ 脩程¥,しうてい 【懐古】¥,くゎいこ 今古¥,きんこ 興亡¥,こうぼう 傷魂,たましいをいたましむ 流水¥,りうすい 夕陽¥,せきやう 争戦¥,そうせん 英雄¥,えいゆう 宮殿¥,きうてん 孤鳥¥,こちゃう 万古¥,ばんこ 君王¥,くんをう 泉流¥,せんりう 山川¥,せんさん 往事¥,わうじ 園荒,えんある 喬木¥,きゃうぼく 堂在¥,どうあり 浮雲¥,ふうん 改変¥,かいへん 遠泉¥,えんせん 月明,つきあきらか 愁来,うれひきたる 草木¥,そうもく 昔人¥,せきじん 雄図¥,ゆうと 図尽,はかりことつく 宅古,たくふる 河声¥,かせい 臺荒,たいある 一時¥,いちじ 人物¥,じんぶつ 一生¥,いっせい 富貴¥,ふうき 有靈¥,れいあり 覇図¥,はと 無主,しゅなし 落暉¥,らくき 此地¥,このち 懐古,いにしへをもふ 何年,いづれのとし 江山¥,こうざん 原野¥,げんや 風雲¥,ふううん 長留,ながくとどむ 遠近¥,えんきん 禾黍¥,くゎしょ 野蒿¥,やかう 吊古,いにしへをてうす 至今,いまにいたる 残碑¥,ざんひ 折戟¥,せつけき 一去,ひとたびさる 豪華¥,がうくゎ 青山¥,せいさん 寒浪¥,かんろう 麦秀¥,むぎひいづ 依旧,ふるきによる 残礎¥,ざんそ 蔓草¥,まんそう 荊棘¥,けいきょく 鬼火¥,きくゎ 野焼¥,やしゃう 耕者¥,かうしゃ 古樹¥,こじゅ 野雉¥,やち 夕照¥,せきしゃう 悲風¥,ひふう 草烟¥,そうえん 有基¥,きあり 樵夫¥,せうふ 空城¥,くうじゃう 頽墻¥,たいしゃう 江空¥,かうむなし 荒涼¥,くゎうりゃう 枯骨¥,ここつ 野雀¥,やじゃく 深竹¥,しんちく 哀湍¥,あいたん 松風¥,せうふう 山渓¥,さんけい 代謝¥,たいしゃ 【麗人】¥,れいじん 雲髻¥,うんけい 花顔¥,くゎがん 蝉鬢¥,せんびん 蛾眉¥,がび 傾城¥,けいせい 雪肌¥,せっき 紅粉¥,かうふん 青蛾¥,せいが 羅幙¥,らばく 朱唇¥,しゅしん 巫山¥,ふさん 皓歯¥,こうし 如花,はなのごとし 丹臉¥,たんけん 金釵¥,きんさい 黛眉¥,たいび 巧梳,たくみにくしけづる 翡翠¥,ひすい 羅裙¥,らくん 絳裙¥,かうくん 双眸¥,そうぼう 払黛,まゆずみをはらふ 理鬟,くゎんををさむ 翠眉¥,すいび 紅臉¥,かうけん 鳳釵¥,ほうさ 時樣¥,じやう 画眉,まゆをえかく 新粧¥,しんそう 細腰¥,さいやう 学月,つきをまなふ 羅綺¥,らき 繊指¥,せんし 花臉¥,くゎけん 羅帯¥,らたい 繊腰¥,せんやう 紫袖¥,ししう 長袖¥,ちゃうしう 繊手¥,せんしゅ 玉指¥,ぎょくし 羅衫¥,らさん 春衫¥,しゅんさん 綃衣¥,せうい 翠黛¥,すいたい 含情,じゃうをふくむ 妬花,はなをねたむ 陽臺¥,やうたい 斜釵¥,しゃさ 花容¥,くゎやう 巧粧¥,かうそう 凝脂¥,ぎょうし 媚人,ひとにこぶ 麗色¥,れいしょく 緑鬢¥,りょくびん 仙姿¥,せんし 蘭房¥,らんほう 歌扇¥,かせん 酔態¥,すいたい 嬌態¥,きゃうたい 薫籠¥,くんろう 羅襪¥,らべつ 洞房¥,とうぼう 翠楼¥,すいろう 閨中¥,けいちう 少婦¥,しゃうふ 二八¥,にはち 凝粧,よそをひをこらす 珠簪¥,しゅさん 羅裳¥,らしゃう 一笑¥,いっしゃう 如氷,こほりのごとし 梳頭,かうべをくしけづる 掻頭¥,そうとう 素手¥,そしゅ 【傷悼】¥,しゃうとう 九泉¥,きうせん 一夕¥,いっせき 黄泉¥,くゎうせん 龍化¥,りゃうとくゎす 遺跡¥,いせき 薤露¥,かいろ 梁摧¥,りゃうくたく 絶絃¥,ぜつけん 掛剣,けんをかく 蘭摧¥,らんくたく 孤墳¥,こふん 凋蘭¥,ちうらん 傷神,しんをいたましむ 人亡,ひとぼうす 流水¥,りうすい 新墳¥,しんふん 素車¥,そしゃ 黄壌¥,かうじゃう 玉折,たまくしけ 孤魂¥,ここん 涕涙¥,ているい 仙遊¥,せんゆう 招魂,たましひをまねく 墓門¥,ぼもん 彫傷¥,ちうしゃう 星殞,ほしをつ 黄土¥,くゎうと 堕涙¥,だるい 遺塚¥,いちゃう 【医】¥,い 真訣¥,しんけつ 青嚢¥,せいのう 起死,しををこす 橘井¥,きっせい 杏林¥,きゃうりん 薬炉¥,やくろ 丹竃¥,たんそう 国手¥,こくしゅ 肘後¥,しうご 妙術¥,めうじゅつ 靈丹¥,れいたん 薬草¥,やくそう 妙訣¥,めうけつ 㔉薬,くすりをほる 名方¥,めいはう 竃烟¥,そうえん 松実¥,せうじつ 古方¥,こはう 薬苗¥,やくびゃう 救治¥,きうぢ 禽戯¥,きんき 医国¥,いこく 飡霞,かすみをぞんす 丹成¥,たんせい 烟閑,けむりしづか 【慶賀】¥,けいが 吹簫,しゃうをふく 青鳥¥,せいちゃう 合歓¥,かうくゎん 齊眉,まゆをひとしふす 種玉,たまをうゆ 新歓¥,しんくゎん 鳳枕¥,ほうしん 琴瑟¥,きんしつ 鴛衾¥,えんきん 双棲¥,そうせい 同心¥,どうしん 婚姻¥,こんいん 夢羆¥,むひ 鳳雛¥,ほうすう 明珠¥,めいしゅ 桑弧¥,そうこ 鳳毛¥,ほうもう 玉樹¥,ぎょくじゅ 弄璋¥,ろうしゃう 祥雲¥,しゃううん 結子,しをむすぶ 懸弧¥,けんこ 掌中¥,しゃうちう 伝芳,はうをつたふ 蘭玉¥,らんぎょく 龍種¥,りょうしゅ 弄瓦¥,ろうぐゎ 生子¥,せいし 寉算¥,くゎくさん 稱觴¥,しゃうしゃう 誕辰¥,たんしん 南山¥,なんさん 佳辰¥,かしん 寿筵¥,じゅえん 献寿¥,けんじゅ 寿席¥,じゅせき 眉寿¥,びじゅ 無疆¥,むきゃう 萬年¥,ばんねん 金鼎¥,きんてい 霞觴¥,かしゃう 綺席¥,きせき 黄髪¥,くゎうはつ 綵服¥,さいふく 千秋¥,せんしう 子孫¥,しそん 罄歓,よろこびをつくす 瓊楼¥,けいろう 佳賓¥,かひん 紅顔¥,かうがん 彩雲¥,さいうん 階庭¥,かいてい 莱衣¥,らいい 生辰¥,せいしん 華筵¥,くゎせん 寿算¥,じゅさん 歓声¥,くゎんせい 遐算¥,かさん 華旦¥,くゎたん 瑞雲¥,ずいうん 佳宴¥,かえん 蓬莱¥,ほうらい 瑞気¥,すいき 甲子¥,かっし 緑鬢¥,りょくひん 初度¥,しょど 玉壺¥,ぎょくこ 垂白¥,すいはく 春秋¥,しゅんじう 寿曲¥,じゅきょく 寿仙¥,じゅせん 北堂¥,ほくどう 金母¥,きんぼ 阿母¥,あほ 桃花¥,とうくゎ 蟠桃¥,はんとう 宝婺¥,ほうぼ 慈竹¥,ちちく 萱草¥,くゎんそう 祝寿¥,しゅくじゅ 【神仙】¥,しんせん 絳闕¥,かうけつ 仙骨¥,せんこつ 丹成,たんなる 仙宮¥,せんきう 瑶臺¥,やうたい 貝闕¥,ばいけつ 珠宮¥,しゅきう 跨寉,つるにまたがる 飡霞¥,さんか 縮地¥,しゅくち 焼丹,たんをやく 蓬海¥,ほうかい 丹砂¥,たんさ 却老,ろうをしりぞく 長生¥,ちゃうせい 瑶草¥,やうそう 金鼎¥,きんてい 玉洞¥,ぎょくとう 霊丹¥,れいたん 仙壇¥,せんたん 紫府¥,しふ 歩虚¥,ほきょ 丹丘¥,たんきう 靈風¥,れいふう 宝籙¥,ほうろく 玉泉¥,ぎょくせん 玉樹¥,ぎょくじゅ 仙軺¥,せんちゃう 三山¥,さんざん 丹爐¥,たんろ 黄金¥,わうごん 霊芝¥,れいし 雲臥¥,うんぐゎ 虚皇¥,きょくゎう 玉皇¥,ぎょくくゎう 鳳簫¥,ほうしゃう 仙靈¥,せんれい 化薬,くすりをくゎす 白寉¥,はくくゎく 琪樹¥,きじゅ 飡玉,たまをさんす 仙花¥,せんくゎ 金液¥,きんえき 桑海¥,そうかい 丹火¥,たんくゎ 煮石,いしをにる 化金,きんをくゎす 羽客¥,うかく 遊仙¥,ゆうせん 寉背¥,くゎくはい 山靈¥,さんれい 神人¥,しんじん 山鬼¥,さんき 神符¥,しんふ 【道士】¥,どうし,日本に道士と云はなし先つ山伏を比して道士と云 星冠¥,せいくゎん 羽衣¥,うい 仙籙¥,せんろく 真素¥,しんそ 紫気¥,しき 焚香,かうをたく 黄冠¥,くゎうくゎん 雲洞¥,うんとう 丹篆¥,たんてん 寉馭¥,くゎくぎょ 仙林¥,せんりん 霞漿¥,かしゃう 道書¥,とうしょ 隠篆¥,いんてん 道味¥,どうみ 道骨¥,とうこつ 道衣¥,どうい 道心¥,どうしん 驗符¥,けんふ 玉杖¥,ぎょくじゃう 種薬,くすりをうゆ 丹書¥,たんしょ 宝籙¥,ほうろく 頤神,しんをやしなふ 麻衣¥,まい 葛屨¥,かつく 芝朮¥,しじゅつ 服薬¥,はくやく 仙蹤¥,せんじう 石洞¥,せきとう 天壇¥,てんだん 神丹¥,しんたん 休粮,りゃうをやむ 香火¥,かうくゎ 清泉¥,せいせん 柱杖¥,しゅじゃう 石壇¥,せきだん 松壇¥,せうだん 引寉,つるをひく 道家¥,だうか 雲碓¥,うんたい 尋真,しんをたづぬ 天書¥,てんしょ 紫皇¥,しくゎう 【通用】¥,つうやう,虚字ばかりにてもなく実字ばかりにてもまままじえをきて求るに乏しからぬやうにあつむ 共言,ともにいふ 誰道,たれかいふ 誰識,たれかしる 相憐,あいあはれむ 俯臨,ふしてのぞむ 高倚,たかくよる 仰見,あおぎみる 一望,いつぼう 相逢,あいあふ 遥臨,はるかにのぞむ 伝聞,つたへきく 試問,こころみにとふ 誰知,たれかしる 借問,しゃもん 遥思,はるかにをもふ 為報,ためにほうす 豈妨,あにさまたげんや 方是,まさにこれ 自是,おのづからこれ 豈知,あにしらんや 最愛,もっともあいす 不厭,いとわず 方知,まさにしる 何来,からい 無爲,あじきなし 無辺¥,むへん 不尽¥,ふじん 不辨,わきまへず 由來¥,ゆらい 従来¥,じうらい 何用,なんぞもちいん 何須,なんぞもちひん 坐愛,そぞろにあいす 何処,いづれのところ 何限,なんぞかぎらん 何減,なんぞげんぜん 誰憐,たれかあはれむ 坐来¥,ざらい 無端,はしなく 已知,すでにしる 不知,しらず 早已,はやくすでに 那知,なんぞしらむ 偏憐,ひとへにあはれむ 本自,もとをのづから 且喜,かつよろこぶ 先已,まづすでに 不関,あづからず 不覺,をぼへず 応是,まさにこれ 不遣,しめず 不減,げんぜず 無妨,さまたげなし 何妨,なんぞさまたげん 各自¥,かくじ 到来¥,とうらい 即今¥,そくこん 如今¥,じょこん,いま 暫時¥,ざんじ 冷然¥,れいぜん 陶然¥,とうぜん 凄然¥,せいぜん 寂然¥,せきぜん 偶然¥,ぐうぜん 蒼然¥,そうぜん 悠然¥,ゆうぜん 蕭然¥,しゃうぜん 飄然¥,ひゃうぜん 依然¥,いぜん 黯淡¥,あんたん 蹁〓¥,へんせん 鬱䓗¥,うっそう 惨澹¥,さんたん 蕭瑟¥,しゃうしつ 隠映¥,いんえい 寂寥¥,せきりゃう 蕭条¥,しゃうじゃう 寂寞¥,せきばく 荒涼¥,こうりょう 歴乱¥,れきらん 徘徊¥,はいくゎい 玲瓏¥,れいろう 蕭疎¥,しゃうそ 逍遥¥,しゃうやう 宛転¥,えんてん 縹緲¥,ひゃうびゃう 蒼茫¥,そうぼう 凄涼¥,せいりゃう 空濛¥,くうもう 揺落¥,やうらく 蕭索¥,しゃうさく 皎潔¥,かうけつ 参差¥,しんし 迢遥¥,ちゃうやう 徙倚¥,しい 寥落¥,りゃうらく 零落¥,れいらく 蕭森¥,せうしん 断続¥,だんぞく 潦倒¥,りゃうとう 憔悴¥,しゃうすい 殷勤¥,いんぎん 蕭颯¥,しゃうさつ 瀟灑¥,しゃうしゃ 蹉跎¥,さだ 崔嵬¥,さいくゎい 崎嶇¥,きく 嵯峨¥,さが 岧嶢¥,しゃうぎゃう 渺漫¥,びゃうまん 瀲灔¥,れんえん 聯翩¥,れんへん 彷彿¥,ほうふつ 迢遞¥,ちゃうてい 縈回¥,けいくゎい 飄颻¥,ひゃうやう 逶迤¥,いた 微茫¥,びぼう 冥漠¥,めいばく 接聯¥,せつれん 蕩漾¥,とうやう 慷慨¥,かうがい 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 陰々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 悠々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 娟々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 綿々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 巍々¥,ぎ/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 灼々¥,しゃく/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 々¥,/\ 慘々¥,さん/\ 往々¥,をう/\