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葉室光親 安元二(1176)~承久三(1221)年7月12日 父は権中納言光雅、母は右大弁藤原重方の娘。承元二(1208)年に参議、建暦元(1211)年に権中納言。はじめ近衛家に仕え、やがて後鳥羽上皇の信任を得る。後世、院の執権は光親に始まるといわれる程(1)、上皇に重用された。上皇の妃修明門院や順徳上皇にも近侍し、また妻の経子(参議藤原定経の娘、吉田為経の叔母)と娘の満子はともに順徳上皇の乳母であった。承久の乱の首謀者の一人で、北条義時追討の院宣の奉者にもなっている。実は討幕に反対であったともいうが(2)、光親室が預所だった河内国甲斐庄で軍勢が集められている事実もあり(3)、確証はない。乱後捕えられ、駿河国で斬られた。法名は西親。 『小槻季継記』 『吾妻鏡』承久三年七月十二日 『鎌倉遺文』4512号 (本郷和人)
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2020 建礼門院右京大夫集? 春ごろ、宮の〜陳ぜしも、をかしかりき 2019 2018 うたたね? 近江国野路といふ所より〜少しをかしくなりぬ 2017 2016 撰集抄?巻五 近ごろ、西山のふもとに〜いささかの縁をも結びなむとおぼえてこそ。 2015 2014 讚岐典侍日記 左衛門の督、源中納言、大臣殿の権中納言〜あれらのやうに声たてられぬはとぞ、思ひ知らるる。 2013 古今著聞集 建仁三年十二月二十日、北野宮寺に御幸ありて、〜神明の御計らひ、かたじけなかりけり。 2012 続古事談 2011 伊勢物語 2010 2009 横井也有「鶉衣」 嘆老辞 芭蕉翁は五十一にて世を去り給ひ、〜二つの境まことに得がたしや。 2008 増鏡 おどろのした 2007 宇治拾遺物語 一一 2006 今物語?30 嘉祥寺僧都海恵といひける人の〜いと不思議なり 2005 平治物語?・中 2004 宇治拾遺物語?189 門部の府生といふ舍人ありけり〜小唾吐きて居たりけり 2003 源氏物語?・少女 2002 袋草紙?
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概要 オワタディア各地から屈強な戦士たちが集まってくる場所 参加料を払って敵と戦い、勝てば景品が貰える 元ネタ 登場キャラクター 涼宮ハルヒ 真紅 水銀燈 いく夫 車イス 悪魔 死神五世 サモン パワードラゴナス ニンニン ピザオーク ジャンヌ ミノタウロス 敵 名前 HP MP 条件 参加料 景品 備考 ゴッグ 1500 60 はじめから 500 プロキシパッチ ありす 2500 0 闘技場二回戦 500 バトルメイド服 ガリ竜騎士 3500 50 闘技場三回戦 500 千取戦槍 やるオプーナ 4200 30 闘技場四回戦 500 エナジーボンボン バックベアード 4000 1000 闘技場五回戦 500 ゆめのエフェクト 海馬社長 8000 50 闘技場六回戦 500 厨房の腕輪 青眼の白龍 2800 30 青眼の究極龍 3000 20 DIO 13000 0 四人の刺客 1000 ザ・ワールドのDISC 完全なるたかまさ 10000 8000 四人の刺客 1000 九死に一生の勲章 六条公麿三位中納言 12000 3000 四人の刺客 1000 中納言の位 三月ウサギ 15000 8000 四人の刺客 1000 ローザミスティカ ディオ・ブランドー 42000 0 田代神撃破+四人の刺客撃破 0 メイド・イン・ヘブンのDISC アイテム アイテム名 入手場所 備考 蒟蒻ゼリー 右上の観客 小ネタ
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葉室頼藤 宝治二(1254)~建武三(1336)年5月14日 父は葉室頼親、母は江口の遊君。蔵人・弁官を歴任し、この間伏見天皇の母の玄輝門院の院司にもなって、永仁二(1294)年に参議。父とともに伏見上皇の院司となり、正安二(1300)年には権中納言。またこの年、伝奏を務めている明証がある。前年に伝奏であった父が出家しているので、父から同職を譲られたのだろうか。翌年に皇統が大覚寺統に移ると、権中納言を辞任。しかし後宇多上皇は頼藤をひきつづき伝奏に補任した。徳治元(1306)年、亀山上皇妃昭訓門院の使者として関東へ下向。大覚寺統は後宇多上皇─後二条天皇方と亀山上皇─恒明親王方とに分裂していたが、頼藤は後者の中心人物だったらしい。翌々年、後二条天皇の急逝によって伏見院政が再開されると、頼藤はやはり重用されて伝奏とたる。つづく後伏見院政でも伝奏となり、正和五(1316)年には権大納言に昇った。文保二(1318)年に後宇多院政が再開されると、故亀山上皇に親近していた頼藤は出家する。しかし子息長隆が伝奏として召出されている。 (本郷和人)
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☆このページでは、霧雨の野望における姉小路良頼(三木嗣頼)について詳細に解説しています。 史実での姉小路良頼(三木嗣頼)について詳しく知りたい方はwikipediaなどの姉小路良頼(三木嗣頼)を調べてください 姉小路良頼(三木嗣頼)(永正17年(1520年)- ) 旧姓の読みは「みき」ではない。「みつき」である。 三木直頼の嫡男として1520年に飛騨で生まれる。1554年に三木直頼が病死したために家督を継ぐ。 1554年に何かあったのか翌1555年には飛騨を統一し江馬氏を配下に。 1555年末から1556年に異能の者達とともに越中へ侵攻。制圧し支配圏を拡大する。 以後は、現場の指示を息子に譲り朝廷工作に尽力した。 基本的には積極的に自分の意見を出さずまわりの者の意見を聞いて、そこから判断を下す。 そういったところから動画的には目立たないが最重要人物であるのには間違いない。 また、Act47で行った演説はまさに歴史に残る名演説であろう。 清濁併せ呑む、器の大きい人物。彼のような人の下であるからこそ、 松永久秀や東方キャラたちのような者たちも思う存分に実力を発揮できる。 でも慧音に頼まれると断れない。 史実でも朝廷工作に優れていたようだ。 僭称貴族にすぎない武家でありながら従三位参議にまで登りつめた、公卿補任(公卿の職員録)に 載っている珍しい武将。どうも中納言になりたかったようだ。変人といえば変人。 そのうち我らが大殿もわがままを言い出す日がくるかも。(中納言と呼んでくれとか) 決戦編Act.8にて本物の中納言に。 武将紹介登場:予告編 ☆出生・家族構成 1520年に三木直頼の嫡男として生まれる。 子に姉小路頼綱 (三木自綱)、三木顕綱 ☆官位・役職 ☆参加合戦 富山城の戦い、飛騨川の戦い、稲葉山城決戦 革新能力 統率62 武勇58 知略58 政治61 義理54 足軽C 騎馬D 弓C 鉄砲D 計略D 兵器D 水軍D 築城D 内政C うp主解説 三木家当主。後の姉小路良頼。武田・上杉・織田と言った列強の間で、見事な立ち回りを見せ、飛騨に独自の勢力を維持していた。能力は小粒だが大きな欠点もなく、弱小三木家においては彼自身が獅子奮迅の活躍をせねばならない。 緑の人解説 後に息子共々姉小路氏を僭称する。武田氏に屈するも密かに斉藤氏と結ぶ。上杉援軍の出陣を前に病没。
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平仲兼 宝治二(1248)~没年未詳 父は正四位下兵部卿平時仲、母は正五位下惟宗行貞の娘。正嘉元(1257)年に叙爵。民部大輔、甲斐守、勘解由次官などに任じた。このころ近衛家・鷹司家の家司であった。建治三(1277)年に左衛門権佐。父が殿上人であったため、検非違使庁の官人に軽侮された(1)。蔵人・弁官を務め、正応五(1292)年に父祖を超えて参議となり、公卿に列した。このときも人々の非難があったが、伏見天皇が仲兼を助力してくれた(2)。同年中に官を辞し、長く散官であったが、乾元二(1303)年、一ヵ月ほど権中納言になった。彼の能力が高く評価されたのだろう。二年後、子息の右少弁仲高が吉田隆長に超越されたのを恥じ、仲高と共に出家した。彼の子孫から安居院家と西洞院家が出て、参議に昇り公卿に列するが、余程のことがないと権中納言にはなれぬ家柄として固定した。 『吉続記』弘安二年五月十五日 『伏見天皇記』正応五年二月五日 (本郷和人)
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小倉百人一首の歌のデータベース この項目では、小倉百人一首の首番号、歌の内容、詠み人などのデータを扱う。 【ノート】 関連ウィキペディア項目 百人一首 小倉百人一首の歌人の一覧 1~100首一覧表 (首番号) (歌の内容) (詠み人) 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ (天智天皇) 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山 (持統天皇) あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 独りかも寝む (柿本人麻呂) 田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ (山部赤人) 奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき (猿丸大夫) 鵲の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける (中納言家持) 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも (阿部仲麻呂) わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師) 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに (小野小町) これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 (蝉丸) わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟 (参議篁) 天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ (僧正遍昭) 筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる (陽成院) 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに (河原左大臣) 君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ (光孝天皇) 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今帰り来む (中納言行平) ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは (在原業平朝臣) 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ (藤原敏行朝臣) 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや (伊勢) わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ (元良親王) 今来むと いひしばかりに 長月の 有明けの月を 待ち出でつるかな (素性法師) 吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ (文屋康秀) 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど (大江千里) このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに (菅家) 名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな (三条右大臣) 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ (貞信公) みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見きとてか 恋しかるらむ (中納言兼輔) 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば (源宗于朝臣) 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 (凡河内躬恒) ありあけの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし (壬生忠岑) 朝ぼらけ ありあけの月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪 (坂上是則) 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり (春道列樹) ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ (紀友則) 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに (藤原興風) 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける (紀貫之) 夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ (清原深養父) 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける (文屋朝康) 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな (右近) 浅茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の恋しき (参議等) 忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふど 人の問ふまで (平兼盛) 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (壬生忠見) 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは (清原元輔) 逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり (権中納言敦忠) 逢ふことの 絶へてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし (中納言朝忠) あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな (謙徳公) 由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな (曾禰好忠) 八重むぐら 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来にけり (恵慶法師) 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな (源重之) みかきもり 衛士のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ 物をこそ思へ (大中臣能宣朝臣) 君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな (藤原義孝) かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな もゆる思ひを (藤原実方朝臣) 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほうらめしき 朝ぼらけかな (藤原道信朝臣) 嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る (右大将道綱母) 忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな (儀同三司母) 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ (大納言公任) あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな (和泉式部) めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな (紫式部) ありま山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする (大弐三位) やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな (赤染衛門) 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 (小式部内侍) いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな (伊勢大輔) 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関は許さじ (清少納言) 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな (左京大夫道雅) 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 (権中納言定頼) 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ (相模) もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし (前大僧正行尊) 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ (周防内侍) 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな (三条院) あらし吹く 三室の山の もみじ葉は 竜田の川の 錦なりけり (能因法師) さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ (良暹法師) 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 葦のまろやに 秋風ぞ吹く (大納言経信) 音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ (裕子内親王家紀伊) 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ (前中納言匡房) 憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを (源俊頼朝臣) 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり (藤原基俊) わたの原 こぎいでて見れば 久方の 雲ゐにまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣) 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ (祟徳院) 淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に いく夜寝ざめぬ 須磨の関守 (源兼昌) 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ (左京大夫顕輔) 長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れてけさは 物をこそ思へ (待賢門院堀河) ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ残れる (後徳大寺左大臣) 思いわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり (道因法師) 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる (皇太后宮大夫俊成) ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき (藤原清輔朝臣) 夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり (俊恵法師) 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな (西行法師) 村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧たちのぼる 秋の夕暮れ (寂蓮法師) 難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき (皇嘉門院別当) 玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする (式子内親王) 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず (殷富門院大輔) きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む (後京極摂政前太政大臣) わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 石こそ知らね かわく間もなし (二条院讃岐) 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも (鎌倉右大臣) み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり (参議雅経) おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に すみぞめの袖 (前大僧正慈円) 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり (入道前太政大臣) 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ (権中納言定家) 風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける (従二位家隆) 人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は (後鳥羽院) ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり (順徳院) 出典・引用元 カラー小倉百人一首 (島津忠夫・櫟原聰 編著) [京都書房] 外部リンク 大切にしたい日本の言葉と文化 小倉百人一首 小倉百人一首について
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姉小路忠方 仁治二(1241)~弘安五(1282)年12月19日 父は姉小路顕朝、母は二条定高の娘。父の譲りをうけて弱冠十八歳で右少弁になり、以後累進し文永五(1268)年に参議。このころには後嵯峨上皇の伝奏であった(1)。二年後には権中納言。上皇の股肱の臣顕朝の嫡男として、順調すぎる程の昇進ぶりである。ところが文永八(1271)年、同じ正三位でも位次が下の中御門経任が、忠方を超越して従二位に叙せられた。忠方はこれに怒り、家領甲斐国を返上するとともに権中納言を辞してしまう(2)。この忠方の行為をどう捉えるべきだろうか。①「当時、超越されることは貴族にとってたいへんな恥屠であると認識されていた。それゆえに忠方は「思切生涯」ったのだ」。このように当時の意識を前面に押し出せば、説明は案外簡単に付せる。しかしもう少し踏み込んだ解釈はできないだろうか。まず、忠方の個人的な感情を強調するならば、吉田経藤を想起すべきだろう。経藤は経任の異母兄でやはり経任に超越されたために出家してしまったが、この経藤が忠方の母方の従兄弟(二人の祖父は二条定高)なのであった。それゆえに①’「超越されるのは恥辱であって、先には経藤が、今度は自分が、経任に屠めをうけた。そう思って激怒した忠方は官を辞した」。あるいは当時の意識云々を強調しなければどうか。忠方は、くどくなるが、後嵯峨上皇の第一の近臣顕朝の子である。父の地位の継承を望んでも不思議はない。一方経任は弘長年問ごろから、上皇の側近として働いていた。彼も顕朝の地位を望める存在である。そして上皇は、正三位権中納言という同じ官位をもつ二人のうち、経任に従二位を与えた。それはまさに、経任をかつての顕朝の座に据えるための選択であった。②「父の地位を望んでいた忠方にとって、経任に敗れ、以後常に経任の風下に立つことは、すべてを失うことと全く同義であった」。このような解釈も可能ではないか。とまれ、忠方の行動は後嵯峨上皇の機嫌を著しく損ねたらしく、以後彼にも彼の一族にも、名誉回復の沙汰は全くなかった。忠方は自ら家の文書を焼いて前途を断ち、弘安五年に没している。 『吉続記』文永五年五月二十一日 『吉続記』文永八年三月三十日 (本郷和人)
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『花園天皇宸記』元応元年十月二十八日 廿八日、今夜披去夜聞書、前中納言経継・定房任権大納言、自余雑任不能具注耳、抑両大納言日来互確執、而遂両人一度拝任、誠可謂一門光華、
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チュウナゴンノテンジ(中納言典侍) フジワラノマサコ(2)の別名。