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#title 戻る 凛 [権中納言]徳川家康 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 ([権中納言]徳川家康)
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ナイシノカミケチュウナゴン(尚侍家中納言) 平安時代後期の女流歌人。 ニョウボウサンジュウロッカセン(女房三十六歌仙)の一。 別名: フジワラノチカコ(3) (藤原親子) フジワラノシンシ(2) (藤原親子) ゴサガインノチュウナゴンノテンジ (後嵯峨院中納言典侍)
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『吉続記』文永八年三月三十日 卅日癸巳 晴、東宮巳日御祓使可為経頼奉行〈御祈奉行宮司〉 姉小路中納言依超越之恨、所職国〈甲斐〉、等辞退、甲斐三条坊門内府禅門拝領、相伝出羽国云々、 羽州徳大寺中納言拝領云々、世上之様無定、只如夢、
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イツツジソウシ(五辻宗子) 皇族の系譜に登場する女性。 関連: クニハルシンノウ (邦治親王、夫) クニヨシシンノウ (邦良親王、息子) クニミシンノウ (邦省親王、息子) 別名: イツツジムネコ (五辻宗子) チュウナゴンノスケ (中納言典侍) チュウナゴンノテンジ(2) (中納言典侍)
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2013 うたたね 嘆きながら、はかなく過ぎて、秋にもなりぬ 2006 春日権現験記 殿下、信経召し籠めたること、もし冥慮にかなはざるにやとて 2006 堤中納言物語逢坂 いかにせむとながめたまふほどに 2003 東関紀行 宇津の山を越ゆれば、蔦かづらは茂りて昔の跡たえず 1998 堤中納言物語 中将の君、「この御火取のついでに、あはれと思ひて、人の語りし事こそ、思ひ出でられ侍れ」
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2009年度入学生 部長は中納言 あやこ あやか いっし えりこ おっくん くみ こうき ゴッツ スンヨプ たっちー ちひろ 中納言 はっちー ピチュー ホーリー まき みのり みく みさわ みほ もも やひ(8期生) わたべ ホームグループ ナスタチウム Culture Shock!B Sulky face まいちゃむ pe-po people _________________________________________________
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平宗経 平宗経の一流について (本郷和人) 鎌倉時代中期、平時継という公卿がいた。平時子・時忠らの父時信の四代の孫である。武家の清盛一門とは系統は異なるものの、やはり鎌倉時代にあっては平氏は栄達できず、彼の祖父も父も納言には昇っていない。時継は蔵人・弁官を経て参議に進み、実直に十五年その職を務めた。文永六年(1269)、「参議労十五年」を以てようやく中納言に昇り、同年のうちに辞官した。本来なら彼の廟堂生活はこれで終了する筈であったが、思わぬ好運が彼を待っていた。彼は後深草上皇に仕えていたが、弟亀山上皇の一統に皇位を奪われていたこの不遇の上皇が、弘安十年(1287)に治天の君に返り咲いたのである。時継は上皇の信任を得てにわかに政務に関与するよぅになり、院執権・伝奏・評定衆となり、大納言にも任じられた。 時継の権勢は次子経親に伝えられた。経親も後深草・伏見上皇に重く用いられ、官は大納言に進んだ。持明院統を代表し、鎌倉幕府への特使にもなっている。もちろん奉行として、伝奏として、院宣・綸旨の発給に頻繁に関わっている。 時継・経親父子は持明院統の第一の側近ともいうぺき存在であった。ところが、彼らの子孫の活動はあまり伝えられていない。建武政権を経て、皇統は持明院統に独占されるにもかかわらず。そこで私は拙著『中世朝廷訴訟制の研究』において「彼らの家が上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難く、こののち子孫は衰微していく」と書いてしまった。 一九九二年、私は茨城県新治郡・鹿島郡ほかに出張し、古文書を調査・撮影し、あわせて花押を採集した。帰京して護国院の文書を整理しでいるとき、私は「おや?」と思った。『茨城県史料 中世編1』の護国院文書十一「後光厳院綸旨案」にあたる文書の奉者「権中納言宗雅」の「権中納言」の文字が、ちょうど同時に整理していた山城長福寺文書の貞和四年七月十一日、光厳上皇院宣の奉者「権中納言(花押)」の「権中納言」の文字に酷似していたのである。 貞和四年(1348)七月に権中納言であった人物は、 平宗経・三条実継・源宗明・二条良冬・正親町忠季・一条内嗣・中御門宣明・吉田国俊・甘露寺藤長。 このうちで長福寺文書の権中納言は誰か。摂家以上の出身の者は院宣の奉者にふさわしくないから、久良親王の子の宗明、関白兼基の子の良冬、関白経通の子の内嗣を除く。花押の形状が判明していて、長福寺文書のものとは明らかに違う宣明・藤長も除く。実継・忠季は左萄門督・右衛門督を兼ねているので、兼官を以て署判し「権中納言」とは書かないだろう。とすれば、残るは平宗経と吉田国俊であるが、そこで護国院文書に注目してみよう。『茨城県史料』は「宗雅」としているが、これは「宗経」とも読めるのではないか。 もしこの推測が当たっているならば、護国院文書の「後光厳院綸旨案」は案文ではなく正文である。また宗経は貞和五年(1349)に五十六歳で没しているから、「光厳上皇院宣」の方がよいだろう。 もう一つ。護国院文書の「宗経」と全く同様にくずした署名(花押は据えずに、権中納言+署名)が、山城六波羅密寺文書に何通か見える。丹後国大内庄に関する訴訟につき、甘露寺藤長とともに奉行を務めて院宣を奉じている。貞和四年の付年号があるものもあり、史料編纂所の影写本には「定経」と朱が付してあるが、この権中納言も平宗経とみて間違いないだろう。 権中納言平宗経は、こうしてみると、それこそ死の間際まで実務公卿として活発に活動しているようである。そしてこの宗経こそは、先の平経親の子息にあたるのだ。なにが「子孫は衰微していく」であろうか。 『尊卑分脈』を開くと、宗経の子は時経一人、そして彼は正五位左少弁、と記してある。また時経以降の記載はない。これを以て「子孫は…⊥と書いたわけだが、時経で家が絶えている理由をもう一度考えてみなくてはなるまい。宗経も光厳上皇のもとで活躍していたことが判明し、この家が「上皇に近侍するにふさわしい家格であったとはいい難」いなどとは決していえないのだから。 平時経をどうやって調ぺよう。そのときにふと思い出したことがあった。やはり長福寺文書の中に、たしか時経が奉じた綸旨なり院宣があったはずである。そこで見直してみると、はたして正平八年六月二十九日、後村上天皇綸旨の奉者が時経のようである・・後村上天皇?・・そうか、時経は南朝に仕えたのだ。それで事跡が伝わらないのだ。 南朝文書と時経、といぅ視点で史料を見直すと、 ○年末詳・松尾寺文書・右少弁、 ○正平九年十一月十日・金剛寺文書・右中弁、 ○正平九年十一月十八日・金剛寺文書・右中弁、 ○年末詳・金剛寺文書・右中弁、 ○正平十年三月二十七日・毛利文書・右中弁、 ○正平十年十月一日・金剛寺文書・左中弁、 ○正平十二年九月十七日・久米尚寺文書・左中弁、 ○正平十三年・三月二十三日・東妙寺文書・左中弁 時経は以上のように後村上天皇の給旨を奉じている。すくなくとも正平九年(1354)から十三年(1358)まで、彼が南朝方の奉行として活動していることが確かめられる。 しかし依然として旋問は残る。持明院統の信任厚い家に生まれた彼が、どうして南朝に仕えるようになったのか。ヒントは彼が南朝に奔った時期にあるように思ぅ。『弁官補任』によると、「観応三年、左少弁 正五位平時経(参南方為蔵人)」とあり、彼が南朝に参じたのは観応三年(1352)であるという。右の後村上天皇綸旨の発給状況からみてもこの記述は正確であろうと思われるが、この年は有名な「正平一統」のあった年である。将軍足利尊氏は弟直義を討つために南朝に和を請い、北朝の崇光天皇、皇太子直仁親王は廃された。南軍は一時的に京都を画復し、貴族たちは保身に汲々とした。時経はまさにこのとき、限前の状況にとらわれて、時局の読みを誤ったのではないか。 『系図纂要』によると、時経には経泰といぅ兄弟がいたようである。そしてあまり確度の高い史料ではないのだが、史料編纂所に架蔵されている応永三十二年(1425)の奥書を持つ『南朝公卿補任』によると、経泰は広橋を称して早くから南朝に仕え、大納言に昇った人物であるという。彼の子の経氏・泰尹は伊達行朝の娘を母とし、前者は南朝の公卿となり、後者は脇屋義助の孫の義陸とともに奥州を転戦して応永九年(1402)に戦死したといぅ。推測にすぎないが、正平一統時、時経は経泰らのとりなしによって必要以上に南朝に接近し、結果として京都を去らざるを得なくなってしまったのではないか。また時経の子や孫は、あるいは経氏のように、また泰尹のように生きたのではないか。持明院統の近臣たる平氏が消破した経緯は、およそこのようなものだと思う。 護国院文書中の一通の古文書から、平宗経の一流の足跡を追ってみた。鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて活躍したこの実務の家は、吉野の山中に姿を消していった。南朝に仕え、歴史に残らなかった家はきっと他にもあることだろう。「史料編纂所員として今後このような人々の事跡の発掘に努めたいと思っております」、今年の十月に再び茨城県の常陸太田市に史料採訪に赴いた私は、西山荘の黄門様人形にかように申し上げたのだった。 (本郷和人)
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2011 全 長六文 句の付けやうのこと F 大和物語148 津の国の難波のわたりに 2010 全 竹取物語 右大臣阿倍のみむらじは F 撰集抄 過ぎぬるころ、陸奥国平泉の郡 2009 2008 文 唐物語・第十七 又こののち二人の人も世の中のみだれなんずる事をなげきて〜いふかひなくてやみにけり 2007 文 排蘆小船 てにをはと云ふもの、和歌の第一に重んずる所なり。〜巧拙のよく見ゆることなり 2006 経済 堤中納言物語花桜 月にはかられて夜ふかく起きにけるも 商 浮世草子「玉くしげ」 序文と本文第一章 慶長の初年、紀州和歌山 社会 堤中納言物語ほどほど 祭のころは、なべて今めかしう見ゆるにやあらむ 文 宇津保物語 院の帝、紀伊国より帰らせ給ひて、内裏の帝、〜中なる乙女しばしとどめむ 2005 文 松浦宮物語 法 紫式部日記 経済 今昔物語集 社会 おらが春 2004 文 源氏物語・若菜上 法 篁物語 経済 武家義理物語 社会 堤中納言物語 2003 文 落窪物語 法 猫の草子 右かくのごとく御政道ある上は 商 大鏡 四条大納言のかく何事もすぐれ、 社 狭衣物語1 太政大臣の御かたに参りたまへるついでに 経済 宝物集 2002 文 閑居友 法 国歌八論 経済 栄花物語 社会 与謝蕪村「新花摘」 2001 文 古本説話集 法 源氏物語・手習 経済 保元物語 社会 竹取物語 1976 経済 源氏物語 帚木 光源氏、名のみことごとしう〜さるまじき御ふるまひもうちまじりける。
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8期生のホームグループの一つ メンバー 中納言 やひ(8期生) わたべ もも おっくん みさわ (ピチュー) 2009年に結成。 当初は、中納言、やひ(8期生)、わたべ もも、おっくん、ピチューの6人で構成されていた。 2010年度のデビューライブよりみさわが新たに加わり活動している。 「金蓮花」の名前でライブに出ていたこともある。
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平時継 承応元(1222)~永仁二(1294)年7月10日 父は参議平有親。二位尼時子・権大納言時忠らを出した家の正統である。蔵人・弁官を経て建長七(1255)年に参議。以後なんと十五年間参議を務めて文永六(1269)年に権中納言。『官職秘抄』に「中納言 有五道、(四道省略)参議労十五年以上輩也」とある規定通りに昇進したのだろうか。同年のうちに官を辞す。不遇であった後深草上皇に仕え、第一の側近となった。弘安十(1287)年に後深草院政が始まると重く用いられ、院執権、伝奏、評定衆となった。正応二(1289)年には権大納言に進み、翌年辞退して出家した。 (本郷和人)