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Kiyotaka Miyoshi Birth Date 1985-07-10 (age 36) Birth Place Tokyo Height 180 cm Weight 74 kg Position Defender Club Statistics Season Club No. League Game Goal 2012 Shimizu S-Pulse 36 J1 3 0 Total J1 3 0 J2 0 0
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基本プロフィール 生年月日 1996年6月18日 職業 女優 クロノスプロフィール 総参戦回数 1 賞金獲得回数 0 復活回数 0 逃走時間 33分11秒 逃走率 23.7% 逃走ポイント 2万0865 各回成績 逃走中 出演回 逃走時間 逃走率 逃走ポイント 順位 備考 真夏のハンターランド 33分11秒/140分 23.7% 20865 17位/20人 略歴 小学1年生から読者モデルを始め、小学3年生で事務所に所属。2008年から雑誌「nicola」専属モデルとして活動。2010年に卒業後、アイドルグループ「さくら学院」の初期メンバーとして活動する一方、雑誌「Seventeen」の専属モデルにも選ばれ、「アイドル」と「モデル」の二足の草鞋を履いて活動した。 2012年にさくら学院を卒業、2017年にSeenteen専属モデルを卒業後は女優として活動し、ドラマ「警視庁・捜査一課長」や映画「いぬやしき」「犬鳴村」などに出演。映画「ダンスウィズミー」は上海国際映画祭に招待されレットカーペッドを歩いた。 クロノス略歴 逃走中1回、「真夏のハンターランド」の参戦。9月公開の映画「Daughters」の宣伝も兼ねた出演。 自己評価はスピード・スタミナを2と体力面に不安を残すが「根拠はないがやる時はやる」と決断力を4、また運は3なものの「願っているといい方向に進むことがよくある」と評価。賞金の使い道は映画共演者との食事、余った分で運転免許の取得費用。 逃走中を見たことがあるかと聞かれ「めっちゃ大好きです!見てる分には非常に好きです」というものの、実際に参戦すると「めちゃめちゃ怖い!」とやはりリアルの怖さに押される。 賞金単価アップミッションには参加できず、ニトリの棚の陰から様子をうかがうも「単純に目が悪すぎて遠くにいる人のどれがハンターかを今判別できていない」と目視に不安を残す中、覗いていた方向の横方向からハンターに見つかり逃走。必死に店内にを逃げ回るが徐々に距離が縮まっていき、棚にぶつかるなどのロスがありつつも棚を使った切り替えしも見せるが追い付かれ確保。ハンターとの初遭遇からの確保に「ちょっと待って…こんな感じなんですね…」と絶句。 お小遣いボーナスチャレンジでは伊沢拓司と共に第1組として参戦。伊沢の作戦通り伊沢が囮となり自身はエリアの隅など狙いにくい場所の財布を拾うことに。しかし、伊沢が確保されどんどんろキッズハンターが増えていくが、ほぼ待ち構える形でいたキッズハンターに確保。第1組は0円という結果となった。 ▽タグ一覧 俳優 女優 真夏のハンターランド
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武将名 みよししんぞう 三吉慎蔵 統一名称:三吉慎蔵 生没年:1831~1901「龍馬さんを守ることが私の使命。 必ず守りますとも!」長府藩士。剣術師範の次男として生まれ、宝蔵院流槍術の免許皆伝の腕前。寺田屋事件では、伏見奉行の捕り方に襲撃された際に手槍で応戦し、脱出後に龍馬を材木小屋に隠すと単身で薩摩藩邸に走り、救援を得て龍馬の命を助けた。 勢力 緋 時代 江戸・幕末 レアリティ R コスト 2.0 兵種 槍兵 武力 8 知力 1 特技 技巧 計略 長府の旋技(ちょうふのせんぎ) 武力が上がり、全方向に槍の無敵攻撃を行う。ただし移動できなくなる。この効果はカードを円状に一定回数操作するたびに大きくなる 必要士気 4 効果時間 知力時間 Illust. 武城にしき 声優 馬場惇平 計略内容 カテゴリ 士気 武力 知力 速度 兵力 効果時間 備考 槍強化 4 +1カードを円状に4回転操作するたび+1 - - - 7.9c(知力依存0.4c) 初期の槍無敵攻撃は0.6部隊分カードを円状に4回転するたび直径0.2部隊分拡大 カードを4回転させると効果音とともに武力と槍無敵攻撃の長さが上昇する (Ver.2.0.0H) 調整履歴 修正Ver. 変更点 内容 備考 Ver.2.0.0D 効果時間 7.1c → 7.9c ↑ - Ver.2.0.0H 槍の無敵攻撃4回転ごとに直径0.1部隊分拡大 → 4回転ごとに直径0.2部隊分拡大 ↑ - 所感 江戸幕末の2コスト武闘派槍兵。 コスト比最高武力に技巧持ちと優秀だが、その代償として知力1と極端なスペック。 後述する計略は攻城適正が高いため、低知力なのは気がかり。 ※以下、手作業と目視による主観的所感が多いので有識者に正確な検証をお願いしたい。 「カードを円状に一定回数操作する」については、 剣豪の斬撃のように旋回させるのではなくカード自体で円を描く カードの回転方向不問(時計回りでも反時計回りでもOK) カードの位置不問(三吉慎蔵が戦場中心にいる時にカードを盤面の自城付近で回転させてもOK) 回転の直径不問(カード縦2枚分の小さな円運動でも盤面の半分程度を大きく動かしてもOK) カードを2回転させてカードを数秒間停止し、その後2回転させても4回転させたことになる 武力と槍無敵攻撃長さの上昇上限値不明少なくとも基本上昇値+1と回転による上昇値+30で武力が31上昇する様子は確認されているので上限はそれ以上と思われる 回転させればさせるほど強化されるが、言い換えると強化するには回転操作が必須であるということ。 士気相応の強化を得るためには、相当に回転させなければならない。 これが非常に曲者で、回転操作中はこのカードから手が離せなくなってしまうため、以下のような状況が起こりうる。 回転操作に夢中になり、このカード以外の操作や状況判断が疎かになる 回転操作中に誤って他のカードにぶつけてしまい、盤面が取っ散らかってしまう(多枚数デッキで発生し易い) 流派・計略・奥義を使用するタイミングに、ボタンにとっさに手が伸びない 足並みを揃えて戦うデッキであれば回転操作のスペースを作りやすく、意識を割く箇所も限られ易い。 通常、車輪になれる槍兵は自衛性能が高いため端攻めに向くのだが、このカードは号令デッキに向いているだろう。 解説 長府藩は長州藩の支藩(初代藩主は毛利秀元)。 現在の山口県下関市長府にあたる場所にあり、長州藩の西側の要衝を守っていた。 寺田屋事件についてはフレーバーテキストにある通りだが、テキストの記述に加えて、幕末における大きな歴史の転換点に関わっている。 襲撃した伏見奉行側は30人近くの多勢であり、二人きりで応戦した龍馬と三吉慎蔵が生き延びた事自体が奇跡であること※現代的に言えば30人の警察官が2人の政治犯を急襲したのに逃がしてしまった。江戸幕府の衰えの象徴。 龍馬の命を守った功績に対し、西郷隆盛は着物や感謝の書を贈り、毛利敬親は刀を下賜し、長府藩は加増と藩目附役への昇進で報いていること※脱藩浪士を一人一度きり守っただけでこれだけの恩賞を贈られるほどに、龍馬は大きな存在だった。 事件の後に龍馬と慎蔵は盟友となり、龍馬が「私に万一のことがあれば妻(お龍)を保護してほしい」と託すほどの間柄になったこと※龍馬が自分の死について考えるようになり、まずは怪我の治療を兼ねた愛する妻との新婚旅行、そして維新に向けた活動を加速させる。 龍馬の死を知った慎蔵は約束通りお龍を三か月間保護し、その後坂本家に送りとどけた。 明治維新後は長府藩の要職や宮内省を通じて北白川宮家(皇室の宮家の一つ)の家令(家の事務や会計を取り仕切る役目)を歴任。 龍馬を、お龍を、長府藩を、宮家を守ることに力を注いだ生涯だった。 敵城攻略時の台詞は三吉家の家訓であり孔子の言葉の一節。 「誠者、天之道也。誠之者、人之道也」 (天性の知を持つ聖人は努力することなく誠に到達する。それが天の道。凡人は誠に到達する為に学習努力を継続する。学び続けることこそが人の道) 台詞 \ 台詞 開幕 とうとうこの槍を使う時が来ましたな、私にお任せください └自軍に蒼013_坂本龍馬 龍馬さんを守ることが私の使命。必ず守りますとも! 計略 槍を扱わせたら長府一!お助けしましょう! └絆武将 兵種アクション せい! 撤退 くっ…私は… 復活 無事ですか!? 伏兵 応戦しましょう! 攻城 一斉に駆け、一斉に攻撃です! 落城 誠は天の道なり、これを誠にするのは人の道なり 贈り物① 贈り物② 贈り物(お正月) あなたが一年無事で本当によかった。これからもお守りしますよ。 贈り物(バレンタインデー) あなたの「誠」たしかに受け取りました。これに答えないのは、三吉家の恥です! 贈り物(ホワイトデー) もう二度と離れませんよ。後悔はしたくないのです…… 贈り物(ハロウィン) 自由の国の祭りか面白いな……あれ、龍馬さんはどこだ!? 友好度上昇 無事ですか!? 寵臣 長府藩士、三吉慎蔵と言います!随分待たせてしまいましたね! └特殊 情報提供・誤った点に気付いた等、何かありましたら気楽にコメントしてください。 名前 伏兵「応戦しましょう!」 - 名無しさん (2024-03-19 19 05 30) 5回回すたびに+1で所感にある+30っていうのは150回回したってこと!?wすごい - 名無しさん (2024-02-13 10 27 31) 素の知力で武力24、緋炎配で武力30、緋炎配+部隊流派壱之型+明晰の陣で武力38まで上がるようです - 名無しさん (2023-11-20 18 01 59)
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目次 【時事】ニュース三吉ぼんでん祭 RSS三吉ぼんでん祭 口コミ三吉ぼんでん祭 【参考】関連項目 タグ 最終更新日時 【時事】 ニュース 三吉ぼんでん祭 三吉節全国大会、2年連続中止 感染止まらず「仕方がない」|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 今年は静かに梵天奉納、旭岡山神社 見物客を入れず…|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 コロナ収束、炎に願う 太平山三吉神社「どんと祭」|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 時代を語る・進藤義声(24)三吉節の大会始める|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 ぼんでん祭り、今年は静かに 太平山三吉神社【動画】|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 炎囲み「才の神焼き」 由利本荘市鳥海町|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 三吉神社ぼんでん祭り、無観客で 奉納は先陣争いせず到着順に|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 ねぶり流し館(秋田市)|なびたび北東北 - なびたび北東北 “けんか梵天”の異名も!梵天祭開催 秋田|日テレNEWS24 - 日テレNEWS24 RSS 三吉ぼんでん祭 三吉節全国大会、2年連続中止 感染止まらず「仕方がない」|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 今年は静かに梵天奉納、旭岡山神社 見物客を入れず…|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 コロナ収束、炎に願う 太平山三吉神社「どんと祭」|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 時代を語る・進藤義声(24)三吉節の大会始める|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 ぼんでん祭り、今年は静かに 太平山三吉神社【動画】|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 炎囲み「才の神焼き」 由利本荘市鳥海町|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 三吉神社ぼんでん祭り、無観客で 奉納は先陣争いせず到着順に|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報 ねぶり流し館(秋田市)|なびたび北東北 - なびたび北東北 “けんか梵天”の異名も!梵天祭開催 秋田|日テレNEWS24 - 日テレNEWS24 口コミ 三吉ぼんでん祭 #bf 【参考】 関連項目 項目名 関連度 備考 研究/秋田 ★★★ 研究/正月 ★★★ 研究/新年 ★★★ 研究/年始 ★★★ 研究/祭事 ★★★ 研究/行事 ★★★ 研究/文化 ★★★ 研究/生活 ★★★ 研究/風習 ★★★ 研究/太平山三吉神社 ★★★ タグ 生活 最終更新日時 2013-01-08 冒頭へ
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壱 弐 参 極 名前 [浴衣♪]三吉鬼 (ゆかた さんきちおに) セリフ 壱 「春は野の花でお酒飲むでしょう?」 弐 「暑くても寒くてもお酒は飲むしぃ~」 参 極 解説 山から人里に下りてきてふらりと酒屋に現れる、大酒飲みで代金を払わずに出ていくが代金を請求せずにいると夜中に代金の10倍ほどの値打ちのある薪を置いて行くという。酒樽を供えて三吉鬼に願をかけると、一夜のうちにその仕事が終わっているとも伝えられている。 レアリティ 必要法力 攻 防 知 壱 LR 48 22850 21250 16900 弐 40 24910 23170 18430 参 極 術式名 属性 MAX Lv 効果 専:キンキンに冷えた杯 火 12 自分自身の攻防アップ お邪魔戦術式 発動率 敵HPダウン 高 備考: ※このカードは進化ごと必要法力が減少し、【極】で28になります。
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守ることと開くこと〜『海と島の思想』(野本三吉著・現代書館)から考える〜 (『社会臨床雑誌』16巻2号掲載) 『海と島の思想』 2002年4月、沖縄大学の教員となって、横浜から沖縄県那覇市に居を移した野本三吉さんには、三つの願いがあった。一つは沖縄の島々を歩いてみたいということ、一つは戦後の沖縄のこども史を調べてみたいということ、そしてもう一つは、沖縄のカミンチュの人々のライフストーリーを聞き取りたいということ。その願いのひとつを叶えるべく、野本さんは2002年から2006年までの5年間をかけて琉球弧45島の島々を歩き、その記録を「海と島のある風景—南島民俗紀行」と題して月刊誌に連載した。『海と島の思想 琉球弧45島フィールドノート』(野本三吉著・現代書館刊・2007年)は、その集大成であり、B5版606ページという大部の本である。 中には45の島々を歩いた記録が、「I 人類史の基層文化」「II 戦争の記憶・いのちの記憶」「III 古代信仰と女性原理」「IV 暮らしの思想・祈りの思想」「V 原初的世界との共生」と名付けられた5つの章に納められている。順序は必ずしも島を訪れた順ではなく、章の見出しのもとにテーマに即して並べ直されている。 野本さんと沖縄との関係は深い。かつて野本さんは、大学卒業後に就いた小学校教諭の職を26歳で辞める。二学期が始まったばかりの、学年途中の退職であったという。その理由を野本さんは「ぼく自身にもつかまえることのできない、ぼくの内なる「生命力」のようなものにつき動かされた」(野本1996)と書いている。学校という「体制の維持を目的とした社会的訓練の場」で教える存在として「去勢」されていく自分の内なる生命力」が、「拡大し、深化し、充実したいと強烈に望ん」だゆえだった。国家という体制の中で去勢されつつ生きるのではない、「生きもの」として生き生きと生きてゆくことの出来る場としての“共同体”の原像を求めて放浪の旅に出る。そして1969年—おそらく28歳の時であると思うのだが—沖縄に辿り着く。 この時野本さんは、沖縄ミロク会の神女の人々と20日以上に渡って諸島を廻り歩きながら、彼女らの岩戸開きの儀式に参加している。沖縄での野本さんの三つの願いの一つ、生活史の聞き取りを願うカミンチュの人々とはこの時に出会った神女の人々のことであり、今回の島めぐりの旅にしばしば随行している巫女もまた彼女たちである。 グードルン・ブルクハルトは、人生の21歳から28歳の間を「遍歴時代」、28歳から35歳の間を「死と再生の段階」と呼んでいるが(Burkhard 1992)、まさに遍歴の時代に、野本さんは日本の各地を遍歴し、沖縄を折り返し点として1972年には横浜市民政局に入職、日本三大寄せ場の一つである寿町の中に建つ寿生活館生活相談員として日雇い労働者と共に生きる10年へと出発するのである。 その後野本さんは、1991年、横浜市立大学教員となったのをきっかけに、学生とともに再び沖縄を訪れるようになる。そして2002年、沖縄大学教員として、ついに沖縄での暮らしをはじめることになる。61歳になる年である。ちなみに先のグードルン・ブルクハルトは、42歳以降の人生を人間の「霊的成長期」と呼び、その中でも56歳から63歳の間を「合一的に認識する魂の時代」と呼んでいる。そして、この時代は、人生の最初の7年、世界が肉体の感覚を通して開かれていた時代に対応するとしている。ただし、この「魂の時代」に与えられるのは、肉体の感覚器官に与えられる物理的な光ではなく、霊的な光であり、「霊的本質を内側から認識する、合一的認識」(イントゥイション=直観)の時代なのだとしている。この「合一的に認識する魂の段階」のさなか、野本さんは沖縄での暮らしを始めたのだった。沖縄で暮らし始めたことも、そこでの旅が神を辿る旅になったことも、野本さんにとっては必然だったのであろうと思われてくる。 海と島の旅 この紀行文は5つの章に分けられて納められていると先に書いた。その章の見出しは当然のことながら、この旅のテーマを端的に著している。 「基層」「戦争—いのち」「信仰—いのり」「女性—暮らし」「原初的世界—共生」、これらが野本さんの旅のテーマになっている。 『海と島の思想』を読み進めていくと、幾つかのことに気づくことになる。 まずそのひとつは、この旅が神を巡り、祈りを捧げる旅であるということだ。野本さんは訪れる先々で、その島の御嶽を訪ね、その土地の神に手を合わせる。以前に僕は、別の土地でその土地の氏神を祀る神社の前を通る時は眼をふせそっと通り過ぎるようにと教わったことがあったが、野本さんにとっては沖縄の島々は他所の土地ではなく縁のある土地であるのだろう。あるいは僕がかつて教わったことが間違っているのかもしれない。野本さんは祈るだけではなく、時には神々から力を授かり、あるいは言葉を得、時にはその姿を見る。徳之島の章で野本さんは、郷土研究者松山光秀氏の唱えるコーラル文化圏を紹介しながら、干瀬を共有する文化圏が海の彼方への感謝の祈りを共有する文化圏であり、琉球弧の島々が、それぞれ独立した自給自足可能な共同体でありつつも、同時に信仰を共有する共同体群であることに思いを馳せる。彼らを取り巻く風土は豊かな干瀬、恵みの海、そして海によって作り出される独立性であり、それが内への相互扶助と外への感謝を生み出す。琉球弧は、ニライカナイへの祈りによって連合する共同体でもある。 ちなみにそれでは僕の暮らすヤマト文化圏はどうなのだろう。「徳之島」の章にはヤマト文化圏のことは殆ど触れられていない。現在のヤマト文化圏に生きる僕たちの“宗教”意識は、国家神道と、アジア太平洋戦争への反省に基づくそれへの反発、として形作られているのではないだろうか。神道のみならず仏教や儒教などへの思いも含めて、「科学」「進歩」からの信仰の“否定”と、信仰が政治と結びついた時に起きることへの反省に基づく“忌避”によって、僕たちは信仰を「得体の知れないものを信仰すること」だと思うようになっているし、信仰によって結びつくということも日常として受け入れがたいものになっている。時折マスコミが取り上げる「カルト教団」の話題は、そんな僕らの日常の感覚をより一層補強する。案外にヤマト文化圏は信仰に対する否定と忌避によってまとまっているのかもしれない。 コーラル文化圏の信仰は豊かな自然の恵みへの感謝であり、感謝は人間と自然とを結びつける。言い換えるならば、干瀬という共同的、公共的な圏域を守るためにはそこに信仰という共同的な規範が必要であり、一方のヤマト文化圏の我々はそのような共同的な規範を失い、「われよし、強いもの勝ち」(p.88)の世界に生きている。野本さんがコーラル文化圏に見るのは、「われよし」の世界から脱するあり方のイメージのひとつだ。 気づくことの二つ目は、この島紀行に、しばしば野本さんがお連れ合いの晴美さんと同行しているということだ。読んでいると、折々に晴美さんの人柄によってネットワークが広がり、出会いが広がっているのに気づく。晴美さんが「意気投合し」「話が弾む」ことによって結ばれる縁がしばしば登場する。 野本さん、よく聞いてくださいよ。あなたは、今まで母を探して歩いていたのですよ。 本当の母を、女をね。でも、どこにも見つからなかったはずですよ。だから、あなたは放浪者なのです。いろいろな人にあって、一緒に行動しようともしたでしょう。でも、どれも本物ではなかったですね。父とは〈火〉です。太陽です。行動するエネルギーの源です。あなたは〈父〉にはであいましたね。 だから、あなたは活動的なのです。 けれども、産み育てる母とは出会ってはいないのです。母とは大地です。地面そのもの地球そのものです。あなたの足の下にあるものです。そこに気づかなくてはいけないのです。気がつかずに踏みつけ、ふりむきもしない存在、それが母なのです。母は海です。水なのです。たくさんの微生物や魚を育てる水なのです。沖縄は汐の満引の国、海の国、水の国、だから母の国です。日本は、火山の国、地震の国、日の国、だから父の国です。火は水がなくてはならないのです。それでなくては暴走します。火と水は求めあうのです。反発しつつ求めあうのですよ。 その沖縄を利用するだけ利用して、後は放りっぱなし。野本さん、あなたは、父の国から母を探しに来られたのです。よーくしっかりと母の姿を見ていってください。 これは1969年、日本各地を放浪の果てに宮古島に辿り着いた野本さんに、沖縄ミロク会の比嘉初さんが繰り返し語った言葉として、野本さんの初めての著作『不可視のコミューン』の中で紹介されている言葉である。〈火〉である野本さんは〈水〉である晴美さんとともに、かつて「母」を探して辿り着いた沖縄の島々を歩いている。そこでは、大地に根をはる女性の原理、「あらゆる存在を肯定的に見る世界観」(野本 1996)である女性の原理、包容する原理・繋がる原理が働いて、野本さんの旅を支えている。 そんな野本さんたちは、行く先々でよく食べよく呑んでいる。その土地土地で取れたもの、日常食べられているものを、その土地土地で食べ、呑むことの豊かさが印象に残る。強い日差しの下で疲れた旅人の前に現れる民家、しばしの休息を頼む旅人の前に出される冷たいお茶、そして始まる会話。あるいは、進出してきたスーパーに客を取られ気味の商店の店先に集まって世間話に花を咲かせるオバァたち、天ぷらを食べながらそこに混ざって会話する野本夫妻。 あるいはまた、今回の野本さんの旅は、子どもを訪ねるたびでもある。行く先々の島で小学校を訪ね中学校を訪ねる。学校の教員を訪ね話を聞くこともあるが、休日の学校に出向き校庭を眺めるだけの時もある。多くの島では子どもの数が減り、学校も閉校へと向かっている。ある島では、島外の子どもの受け入れを試みながら、島の将来を模索している。鳩間島では里親制度や「海浜留学」を利用して子どもの減少という事態への対応を試みる。島ぐるみで子どもの受け入れ態勢を整えて子どもを迎える。島の中学校の教室で、授業参観をしていた野本さんは、いつしか子どもと教師の会話に混ざってしまう。野本さんはこの島に「共に生きるという原型が暮らしのすみずみに満ち満ちている」ことを感じ、そこで再生していく子どもたちに思いを馳せている。沖縄大学で学ぶ神谷麻喜乃さんは、かつて大神島の中学校が、子どもがいなくなり廃校になることになった時、そのことを新聞で読み大神島に住むことを決意した神谷里枝子さんの娘だった。島が過去から未来へと繋がっていくためには子どもが必要であり、島に子どもが訪れるためには、島は、島の内だけではなく島の外とも繋がっていかなければならない。島出身者以外の人間が島に住むことへの反対もあったそうだが、中学一年生の麻喜乃さんの入学によって大神中学校は廃校を免れた。 女性、食、子ども、いのちを生み出し、いのちを育み、いのちに育てられる。そのいのちの連鎖が暮らしであり、いのちの連鎖を断つものが戦争であり、いのちの連鎖が繋がっていくためには人と人、人と自然との共生が必要であり、いのちの連鎖が繋がっていることへの感謝は信仰となって人と自然とを支える。僕たち人間の生活の基層にあるいのちの連鎖と信仰という人間の生き方の原型を野本さんは沖縄に見出している。 ただ野本さんは、この人間の生活の原型を、「かつてあった」“原初的世界”と同一視しているのではないかと感じるところもある。あたかもエデンの園信仰のようなその印象への僕の疑問は、この文章の最後に触れさせてもらおうと思う。 「海と島の思想」 「海と島の思想」とは、一体どのような思想であろうか。 今から四十年近くも以前の春、ぼくは強い風に背中を押されるようにして東京晴海埠頭から船にのり沖縄にやってきた。 一九六〇年代の沖縄は、まだ生きものの温もりと戦争の生々しい傷跡が同居して活気あふれた原色の世界であった。 そのコザの街で、また先島の宮古島でぼくはカミンチュの集団と出会った。 六〇年安保の渦の中で学生時代を送り、その余韻の中で生きていたぼくは、そうした暮らしの底流にもう一つの地下水が脈々と生きていることをこの時に実感することになった。 それは、地球の歴史は人間だけのものではなく、土や水、海や山、そして無数の生きもの達、さらには月や星や太陽までも包み込んで存在しているのだという発見であった。(p.1) 沖縄は、ぼくにとって忘れられない島である。二〇代のぼくは、それまで勤めていた小学校の教員生活をやめ、日本列島を放浪して歩いていたのだが、その最後に辿り着いたのが沖縄であった。そこで、ぼくは人類にとってもっとも根源的な生き方の原型をみることになった。自然と人間との共生、生きものと生きものとの共存関係が、実に素直に納得できる暮らしが沖縄には息づいていたのであった。(p.15) 青年時代の野本さんにとって沖縄は、自然と人間の共生、生きものと生きものとの共存関係を実体験として見せてくれた忘れがたい場所なのだ。野本さんにとって、そのような暮らしの在り方は、人間の「根源的な生き方の原型」と捉えられた。そして野本さんにとってその「原型」とは、“過去に存在した”ものであり、“失われてきた”ものとして捉えられている。 あらためて考えてみると、島とは海に囲まれた閉鎖空間ではなく、逆に海という全ての方向に開かれた開放空間であり、さまざまな文化との交流が自由に行えていたのだということが納得できる旅となった。 そして、こうした島には人類史、生命史の最も本質的な原型、母型が豊かに息づいており、島の暮らしには「人類史の基層」に連なるものが眠っていることも感じることが出来たのであった。 その意味では、ようやく「生きものの」地下水と出会えたという実感がある。(p.3) 野本さんは、今回の旅で、沖縄にそのような「原型」が今も息づいているのはそこが島だからであり、島は海に囲まれた閉鎖空間ではなく、海によって繋がり、全方向を海に対して開いた、開かざるを得ない開放空間であるがゆえなのだと捉える視点を見出した。様々な存在に開かれ、交流し合う在り方、それが野本さんの信じる「人類史、生命史の最も本質的な原型、母型」である。 琉球弧はもちろん、日本列島も「島」である。海に囲まれた島には、すべての生きもの、すべての人々と共に生きる「共生の思想」がごく自然に息づいている。 この「共生の思想」こそ、ぼくは「海と島の思想」そのものだと思っている。(p.4) かつての人類が持っていた共生的な暮らし、「根源的な生き方の原型」が沖縄の、南の島々には息づき続けているという思いは、野本さんが、自らの体験から得、30年以上の間抱き続けてきた思いであり、今回の島めぐりはそれを確かめ、ある意味では理論づけようとする旅であったと言えるだろう。時折触れられる祭りの分布と海洋民族の移動ルートについての話や離島活性化の政策に関する話題は、「根源的な生き方の原型」が何故琉球弧において今もって息づいているのか、それをどのように現代の現実の中で守っていけばいいのかについての実証的な理論への野本さんの期待の現れのようにも読める。 けれども、野本さんの「根源的な生き方の原型」への希求や、それが「過去」への希求であることは、『海と島の思想』以上に、30年前に書かれた小説『太陽の自叙伝』により直裁に描かれている。 […(引用者、省略)…]古代祭式による部族連合が成立していたことは明らかで、一部族による中央集権化がされておらず、したがって、天皇のような現人神もまだ生まれておらず、相互扶助で連帯しあっていた時代があったということになる。 それが、強力な武力と、呪術の力によって日本各地に生棲していた部族を次々と制圧し君臨した部族があって、これが、日本列島の支配者となったのである。 各地で生き生きとした文化と生活を保ちつづけていた日本各地の地方部族は、この制圧史の中で、その地を追われ、また征服民族に融合させられ、歴史の上からもその存在を抹殺されていったのである。(野本 1976, pp.136-137) 「今の世の中、あまりにも人間中心になりすぎてしもうとる。人間の欲望中心に、世の中がつくり変えられてしもうとる。心のやさしい自然のままの人間いうのは、あちこち追いちらされてしもうたんやな。 卯太平さんは、そうした人たちの末裔とちがうやろうか。部落民いう形で差別された人たちいうのは、実は、日本の原住民やあるまいか。アイヌ人、山窩の人たちもきっとそうや。今、そうして滅ぼされ、追われてしまった人々の魂がよみがえってきているのとちがうやろうか。」(同, p.137) 「わたしは、現代文明の価値観といかに訣別し、自然と人間とがとり結んでいた、自然の循環回路をどうとり戻してゆくか、という問題しか残っていないような気がするのです。 自然の大きな流れの中に人間もくみ入れられ、その流れの中でを手に入れ、自らも死して土になってゆくという循環の中に、もう一度戻ってゆくことしかないと思うのです。万物ことごとく、相互関係の中で互いに生かしあうわけで、その中でこそ、自らも生かされているのだということを納得することだと思うのです。 こういった考え方は、今まで、あたり前でありながら甘い理想主義として排斥されてきましたけれども、この極限的な事態になって、わたしには、こうとしか言いようはないのです。こうした相互扶助の精神の徹底した生き方以外には、人類をも、地球をも救う道はないと思います。(同, p.153) 「ぼくはね、さっきからの話をひっくるめて言うんだけど、摩里ちゃんや、久保君の言ってる神というのは、世界の何大宗教かで言われる絶対神のことだと思うんだ。 […(引用者、省略)…] けどね、そうした、いわば高次宗教が発生してくる以前、各民族のもっていた土着の民族宗教というのは、全ての生物、全ての存在に神性を認めて、それをスピリットとよんでいたわけだな。まあ、精霊といってもいいや。それが、つまり神だったんだ。だから、木や草や水、土そして人間にも、それぞれに精霊が宿っていて、それ自身が神なんだ。[…(引用者、省略)…]」(同, p.155) 「今、ぼくが考えているのは、人間の精霊っていうのは、結局のところ、先祖霊ということじゃないかと思うんだ。 代々、遺伝子をつたわって受けつがれてきた祖先たちのさまざまな体験が、ぼくら一人一人の中には、いろいろな形で記憶され残っていると思うんだ。それが折にふれ、ふっと浮かび上がってくるんだと思う。 だから、ぼくらは一人一人だけど、一人であっても、長い歴史の全て、全生命史を体の中に宿していると思うんだ。」(同, p.156) 「わしは、古代日本の精神風土の中に、何かしら現代の風潮とは異なった本質的なエレメントを探し出そうと、今日まで努力してきた。その中で古神道も見つけたし、日本文化が他の諸民族文化の移入と、その重層によって成り立っていることもつきとめた。 そして、その一番の基底は、南方系の文化だということになってきたんだ。 更に、その南方系文化の原理は何かということになれば、汎神論的共存ということになる。そう考えてゆくと今のわしらが考えているのよりは、ずっと豊かで優れた文化と社会が、古代日本にはあったとしか思えんようになったんじゃ。[…(引用者、省略)…]」(同, p.159) 人は、世紀末の危機的な状況の中で、自ら最も心惹かれる地へ向かってゆく。 それは、自らが生まれた場所であり、同時に死にゆく場所でもある。 自分に最も適した風土の中で、もう一度、最初から生き切ってみたいと人は思うのかもしれない。(同, p.218) 『太陽の自叙伝』は、都会で雑誌の編集に携わる青年九条健と宮古島で生まれ本島で小学校教師をしていた亀川志乃が、それぞれの宿命に導かれ、地球上の新たなアダムとイブ、あるいはイザナギとイザナミとなるまでを描く小説である。上の引用はその本からのものだが、必ずしも実証を必要としない小説であるからこそ、著者の思いが直截に現れているし、その思いが30年の時を越えて『海と島の思想』にそのまま結びついていることも読み取れるのではないだろうか。 2001年9月11日のニューヨーク世界貿易センタービル破壊の事件の直後、野本さんは夫妻で宮古島を訪れている(野本 2007, p.2)。そして2002年には沖縄大学の教員となっている。まさに「世紀末の危機的な状況の中で、自ら最も心惹かれる地へ向かっ」たのであろう。 野本さんの「根源的な生き方の原型」を求める気持ちが、具体的な歴史上の過去へ、古代へと向かっていることもはっきりと見える。『海と島の思想』では、このことは、「時代は今、大きな岐路に立たされている。危機的な状況になればなるほど、人はもっとも奥深い人類史の原点に戻り、そこから生き直すことになる」(p.602)と表現されている。 「ぼくらは一人一人だけど、一人であっても、長い歴史の全て、全生命史を体の中に宿していると思うんだ」というのは主人公九条健の言葉だが、不思議な運命に導かれ、彼は熊野から補陀落渡海の船で海に出る。その場面を『太陽の自叙伝』は次のように描いている。 自らを世界の中心と考え、他を従わせ、反逆する者たちを山中や島に追い込み、協力な呪術によって封じ込めてきた神々による支配[…(引用者、省略)…] 国を追われ、海を渡り、山岳を伝って逃げのびてきた民族移動の流浪史は、山岳民族と海洋民族を長い間、全く異なった文化圏の民族として分断してきた。 しかし、もともとは山岳民族も海洋民族も同じ源流をもつものである。たまたま定着した場所が山中か島や海岸であったという違いが年を経るごとに拡大してきたのである。 だからこそ、人は海を見つめる時、はるばると越えてきた海洋のかなたにあったはずの故郷に思いをはせるのである。 熊野の沖は、海流の交点である。 還流、暖流の交わる地点である。 したがって、この地に多くの民族が流れついたことは間違いない。 健は今、そうした古代海流にのって、故郷を目指しているのである。そうであるにちがいなかった。 そして、健は、この旅によって、両棲類としての人間に戻ろうとしているのであった。(p.220) 「全生命史を体の中に宿し」た健は、ここではついに両棲類へと戻っていく。三木成夫は人間が古代の海水をたたえた母の胎内で魚類から両棲類、爬虫類、そして哺乳類へと向かう三十数億年の歴史を再現する姿を見事に描き出したが(三木 1983)、健は古来より流れ続ける海流の上で進化の歴史を逆に辿っていく。その健が向かうのは宮古島の北、池間島の先に位置する八備瀬であり、野本さんが『海と島の思想』の45番目に据えた「幻の島・八重干瀬」である。そこには、宮古島の巫女となり、雨乞いのためのヒトバシラとして大神島の洞窟へと入った亀川志乃が、大神島の洞窟の奥の水に浸かった細い海底洞窟を抜けて八備瀬の中の筆島に辿り着いていた。志乃は海底洞窟を抜ける間に声を失っていた。 はじめの十数日、志乃はどうにかして、母や慶昌にこのことを知らせたいと思いあせった。しかし、言葉をあやつることのできなくなった志乃にとって、たとえ宮古島へ戻ったとしても、話のできない身体では、どうすることもできなかった。 志乃は、徐々に宮古島へ帰ることをあきらめはじめていた。 そして太陽と共に起き、海中で魚とたわむれ、貝を拾い集め、夜空の星を眺めて暮らす生活が、この上もなく素晴らしいものに思えてきたのであった。 そして、いつの間にか、海中の魚たちともすっかり仲良くなってしまったようであった。志乃が海中に潜ると、魚たちは、待ちかねていたように志乃のまわりに集まり、体をぶつけてきたり、話しかけてきたりした。 志乃は、そうした生活の中で、一つの生きものへと変化していったのである。志乃は、教師であったことも、巫女であったことも、もう忘れていた。 ただ一つの生きもの、一匹の人魚のように自然の中でたゆたいながら生きはじめていたのであった。(p.213) 大神島から筆島へと続く海底洞窟の産道を通って志乃もまた新たな生きものとして生まれ変わっていた。人間であったことを忘れ、陸上と海中とを自由に行き来し、魚たちとも交感するただの一つの生きものとなっていた。この志乃と健が、新しいイザナギとイザナミであり、アダムとイブとなる。八備瀬には八つの島がありその形と位置は、世界の八大州とも日本とも似ていた。「かつて、日本列島の地図をじっと眺めていた時、突然に、日本列島を拡大したものが世界地図に見えてきて驚いたことがある」と『海と島の思想』に野本さんは書いているが(p.27)、『太陽の自叙伝』では世界地図入りで、世界と日本の相似が説明されている。ここで八備瀬は日本の雛形、世界の雛形であり、志乃と健はそれゆえに世界の親となる。 現代文明によって、あるいは人間の歴史によって抑圧されたもの、その自然状態を回復することは、地下に抑圧された「もう一つの文明史」(生命史)を再生させること。 こうした抑圧され、忘れ去られた記憶の層を解放することは、行きづまり、戦争と破壊の頂点にまで来てしまった生きもののエネルギーを未来に向かって解き放つことになるようにぼくには思える。 今回、島々を廻りながら、マルクーゼのいう「エロス的文明」がまだそれぞれの島の中には脈々と息づいているのを感じた。 少なくとも、古代から海は生き続けており、海と向かい合う時、抑圧されていた生きものの鼓動が蘇ってくるし、海に囲まれて生きてきた島の暮らしの中には、生きものの世界が確実に息づいている。生きものが互いに交流し合うユックリとした時の流れの中で、ぼくらのエロスも解放され、いきものの魂が蘇生する。 二〇〇七年四月、ぼくらは那覇からより自然の残っている南風原町津嘉山に転居した。 できうれば暮らしの中にエロスを取り戻し、ひとりの生きものとしていきたい。(野本 2007, p.606) 野本さんは『海と島の思想』の最後にこのように記している。人類再生のためには、人間は一度、「生きもの」であるところまで戻って生き直さなければならない、そのテーマはこの二冊の本の間で一貫している。野本さん自身が、最終章である「幻の島・八重干瀬」で『太陽の自叙伝』を引いているのは、その繋がりを自覚もしているし、読者に気づかせようともしているのであろう。『海と島の思想』にとって『太陽の自叙伝』は原型であり、「海と島の思想」は、単なる共生の思想ではなく、共生のために進化の道をさかのぼり、あるいは古代の社会へと辿り直し、生きものとして生き直すことを指向する思想なのだということが分かってくる。 それにしても、源流へと向かう心性とは一体なんであろうか。 三年ほど前、僕の関わっているある授業で、現在の紙芝居の源流であり、今では滅んでしまった「立絵紙芝居」(これに対して現在の紙芝居は「平絵紙芝居」と呼ばれる)の復活公演を行った学生たちがいた。僕はもう、今の紙芝居の「源流」であり、「現在では滅んでしまった」ものを「復活させた」というだけで感動してしまったのだが、ところが現在、彼女たちの後輩は、その操演の技術を先輩から伝授されつつも、その公演には消極的だ。僕は「源流」とか「復活」とかの単語だけで即すばらしいことと思ってしまうのだが、彼女たちはそうではないらしい。彼女たちにとっては、「立絵」も「平絵」も所詮子どもたちと関わるための道具でしかなく、それが子どもたちにウケるのであれば「立絵」でなく「平絵」であろうとあるいは絵本であろうと、その価値は等価なようである。 自分たちが子どもと関わるための道具という機能性から測る時、「立絵紙芝居」はその操作の難しさや、人形を作る際の手間等から、必ずしも魅力的な道具ではないようだ(そもそも、それが原因で滅んでしまったのだが)。そんな彼女たちの感性に出会う時、僕は改めて、自分の中にある「源流」「伝統」「伝承」といったものに知らず知らずに惹かれてしまい、それを大事と思ってしまう心性に気づかされるのだ。 現在の僕たち人類が直面している危機的状況に対して、僕たちの「源流」あるいは「古層」に存在する心性にこそ救済の道への可能性があるのではないかという野本さんの確信に、僕もまた同意するところがある。けれども同時に、単なる「逆戻り」では何の救済にもならないし、そもそも「逆戻り」は不可能だとも思っている。「再現」は、結局は現在という、様々な過去をくぐり抜けてしまった後の状況においてかつてを演じる「再演」でしかなく、それは決して、それが初めて演じられた時に持っていたリアリティも力も持ち合わせはしない。「立絵紙芝居」は、それがどれだけ忠実に再現されたとしても、それがリアルに街角で演じられていた大正期に持っていたパワーを今現在に獲得することはできないし、それは所詮「文化財」としての価値しか持ち得ない。「立絵紙芝居」が今において力を持つとすれば、それは、映画やテレビやインターネットを日常の中に抱えてしまった時代であるからこそ持ち得る力であり、それはまさに我々が映画やテレビやインターネットを知っているからこそ、「立絵紙芝居」に与えられることになった力なのだ。 ウィルバーは人間の発達という視点から、 “pre/trans fallacy”、「前/超の錯誤」ということを指摘している(Wilber 1983)。彼は意識のレベルを問題にしているのだが、例えば、悟りを得た聖人の意識の状態が幼い子どものようであったとしても、それは決して幼い子どもの意識の状態と同じではない、ひとりの成人として自我が確立したpersonalな状態を折り返し点として、そこに達するまでのpre-personalな意識の状態とそこからより高次の成長をみたtrans-personalな意識の状態とを同じと考えることは錯誤であるという指摘である。 かつて中央集権化される以前に相互扶助的で連帯的な部族連合が成立していた時代があったとしても、中央集権を知ってしまった人間は、それを知らなかった頃のような相互扶助的で連帯的な部族連合を再び生み出すことはできない。中央集権を超えた、新たな相互扶助的で連帯的な人類の連合を生み出していくしかない。それは中央集権という誘惑に耐え、それを退けることのできる相互扶助的で連帯的な人類の連合であり、中央集権に破壊され取り込まれてしまったかつての相互扶助的で連帯的な人類の連合ではない。「失敗に学ぶこと」と「失敗する前に戻ること」は異なることだ。 野本さんは、宮古島について書いた章で、神田孝一さんという神道の研究者の書いた文章を引いている。この人がきっかけで野本さんは沖縄ミロク会の人々と知り合うことになるのだが、1970年に書かれた文章を引きながら野本さんは神田さんが自分に託した願いについて書いている。 神田さんは、『月刊共同体』に書かれた文章のラストを、原始信仰に対する再評価の時期にきているとして締め括っている。 つまり、現在、原始信仰については次のような二つの見方があるとまず指摘する。 「一つは、これらの原始信仰は、沖縄の地が近代文明から取り残された結果、辛うじて残されたものであるから、今後の近代化によって当然滅び去る運命にある—というもので、これが圧倒的である。殆ど定説化しているといってもよい。 もう一つは、これとは反対に、沖縄の原始信仰は人類社会の新しい秩序確立に重大なヒントを与え、方向を示唆する火種ではなかろうか、という立場である」 その上で、近代主義の典型であるアメリカやヨーロッパの合理主義が行きづまりをみせ、東洋の文化、その非合理と素朴さの中に、近代を超える新たな文明の型があるのではないかと感じ始めている。 沖縄は、近代文明の弊害を比較的軽微で免れることができた貴重な島である。 しかし、この沖縄でも都市部である那覇市を中心に公害が発生し、離島開発の名のもとに自然破壊も進行している。 神田さんは、すでに三十数年前に、こうした形で沖縄が近代化すること、日本化することに批判的であった。(p.505) 神田さんは、海洋や河川の水を、人間にたとえて、地球の血液と考え、これをけがしてはならないとする沖縄ミロク会の人々(神女)の考え方[…(引用者、省略)…]を受けとめ、こうした発想を基本にした社会をつくること、その可能性を真剣に考えていたと思われる。(p.506) […(引用者、省略)…]この文章の最後に神田さんはこう書きつけてくれている。 「いわゆる〈近代〉から脱却して〈超近代〉にいきる琉球は、経済的にも自立し得る条件を秘めている。ここまで書いてきたとき、新鋭野本三吉君が、いまついた。私はすべてを彼に托し、一行と惜別して予定どおりかえろう。大きな大きな、宿題を抱えて……[この部分の三点リーダーは原文、引用者注]」(p.508) 野本さんは30年前に托された思いを引き受け続けている。沖縄にはまだ、神田さんが希望を托した考え方が残っていた。けれどもそれは、あくまでも人間が進むべき方向を考えるためのヒントでしかない。沖縄そのものは理想郷ではない。 例えば、ある島では子どもが増えない要因のひとつに、島民が土地を売らないことがあることを野本さんは紹介している。「島の風土や生活は魅力的なのだが、島の人々が頑なに守っているものがあるような気がする」(p.225)とだけ書いているが、その頑さが島に保ち続けたものもあるはずだが、その排他性は野本さんが海と島の思想に見出そうとしている開放性や共生とは相反するものではないだろうか。あるいはまた、別の島では、島外からやってきて、その島でもう23年間も喫茶店を経営している店主と出会っているが、彼は「この島で永住なさるのですね」と尋ねた野本さんに「いやあ、これだけ暮らしていても島の一員にはなれませんね」と答えている(p.422)。もとからの島民しか村の祭りに参加できない島もある。この排他性が、島の伝統や考え方を守ってきた一要因であろうし、島内・村内の相互扶助的な関係を維持してきたのであろう。しかしそれは、明らかに開放的で共生的な海と島の思想の目指すところとは相容れない。 僕たちが目指したいと思うのは、相互扶助的なコミュニティ、自らもまた自然の一部であるという意識に基づく自然と人間の共生的な社会であり、なおかつそこに排他性、排除のない社会であろう。 島という地理的条件が、相互扶助的なコミュニティや自然と一体と考える意識を守り続けてきた。けれども交通機関、情報機関の発達した現代においては、徐々に「島」という物理的な障壁はなくなっていく。僕たちが沖縄から学ぶべきものを僕たちは、島という、海で隔てられているという地理的条件の外的な鎧をまとうことなく維持しなければならない。それは、僕たち一人ひとりの自己意識の中で意志と感情と思考の支持の基に選びとられなければならない。そうした自覚の先に、排除なき海と島の思想が存在するのだと思う。 これからの我々の世界が、これまで以上の戦争や環境の破壊や貧困や飢餓に見舞われないためには、人々の精神の支柱となるような思索が必要であろう。我々は科学の時代を体験し、合理主義の時代を体験している。それ以前の時代の信仰ではそれらを越えては行けない。未来を前に原理主義的に守旧するのではなく、未来へと信仰を改鋳していかなければならない。我々の知るすべてを含みつつそれを越えることのできる精神的紐帯となるような新たな意識を生み出していかなければならない。その「ヒント」としてこそ琉球弧は今だ豊穣な精神を抱え続けているのではないだろうか。(2008-05-19) 文献 Burkhard, G. 1992 Das Leben in die Hand nehmen. (樋原裕子(訳) 2006 バイオグラフィー・ワーク入門 水声社) 三木成夫 1983 胎児の世界:人類の生命記憶 中央公論新社(中公新書) 野本三吉 1976 太陽の自叙伝 柏樹社 野本三吉 1996(原著は1970) 不可視のコミューン:共同体原理を求めて(野本三吉ノンフィクション選集1) 新宿書房 野本三吉 2007 海と島の思想:琉球弧45島フィールドノート 現代書館 Wiber, K. 1983 Eye To Eye The Quest for the New Paradigm. (吉福伸逸他(訳) 1987 眼には眼を:三つの眼による知の様式と対象域の地平 青土社)
https://w.atwiki.jp/gods/pages/56658.html
ミヨシノオオカミ(三吉霊神、三吉大神) 日本の神話の神。 別名: ミヨシ (三吉神) ミヨシシンセン (三吉神仙) 祭神とする神社: 各地の三吉神社 太平山三吉神社(秋田県) 秋田神社(秋田県横手市) 木戸石八幡神社(秋田県北秋田市)
https://w.atwiki.jp/gods/pages/61668.html
サンキチレイシン(三吉霊神) 土館三吉神社の祭神。 祭神とする神社: 土館三吉神社(秋田県雄勝郡)
https://w.atwiki.jp/amizako/pages/515.html
一生のうちにたった一遍、三吉は雨の降る往来を母をおぶって歩いた経験のあるのを、その母の死後、時々思いだしては、まざまざと生ける母の姿を、まのあたりに見る思いすることがあった。 母、三吉、四郎、五作、それに先年死んだ長兄の遺子で、来年あたり中学へはいろうという年ごろの宏と、この五人が、小樽《おたる》で死んだ三吉たちの父の葬式を済まし、初七日もおわったところで、遺骨を携え帰京したのであった。 上野へ着けば、どしゃぶりの雨だった。十二月の上旬、日の暮れも早く、雨脚《あまあし》が広場のぬかるみに光って、一層寒い思いがした。 母は一昼夜半の長旅に、すっかり疲れきっていた。そうでなくてさえ、つれあいの死によって、ひどく落胆し、あとの始末やなんか、みんな人手に委《まか》せきりで、自分では何一つ出来ないような状態のところへ、汽車でも汽船でも、すべて乗物には弱い人で、寝台車に寝ていてさえ、わずかばかり食べたものをもどすという按配《あんばい》。ほとんど絶食にひとしいありさまで、上野の駅に降りた時には、よろよろして、出迎いの者に手をひかれ、ようよう駅の表口まで出たくらいであった。 出迎いには、母の弟、つまり三吉たちには叔父にあたる人と、三吉の家内の文子と、ほかに、雑司ケ谷《ぞうし や》の家に親しく出入りしている大橋さんという女の人と、それだけ来ていてくれた。 母が、血の気のない、むくんだような青い顔をして、そのうえ、急に霞《かすみ》でもかかったようなぼんやりした眼をうろうろさせながら、足元も危なげに汽車から降りるのを見ては、迎えの人もさすがに、くやみの言葉、励ましの言葉、……何一つ口には出せないで、ただ頭をさげ挨拶《あいさつ》するだけであった。 「栄子はどうしたろう?」 荷物の揃《そろ》うのを待ったり、タキシーの準備に気を配ったりしている三吉に、母が不意に問いかけるのであった。トランクに腰をかけさせておいたのに、母は立ちあがって、どうして栄子が迎えに来ていないのかと、あたりをうろうろ眺《なが》めまわすようにした。 栄子というのは、三吉兄弟の一番上の姉のことだった。母とは十五か十六しか年の違わない、まるで姉妹のようなもので、普段何かといえば意見が衝突したり、一つ家にいてもあまり互いにたよりあうようなことのない間柄であった。それだのに、父が死んでしまった今、もう四十六にもなるその未婚の娘が、母にとって実感的にいかに懐《なつ》かしまれ親しまるべき存在となっているか、三吉にも理解されて、こうまでも弱々しい心になった母を悲しくさえ思った。 「姉はどうしています?」 四郎に手伝って荷物の世話を焼いている大橋さんに、三吉は近よりながら問いかけた。 「風をひいて昨日《きのう》まで寝てらしったわ。でも熱はそうないんですって」 そのとおり母に報告すると、いくらか気が晴れたらしく、またトランクに腰をおろして、寒いのであろう、道行《みちゆき》の袖《そで》を前にきっちり合わせて眼をつぶった。 目白の四ツ家町にタキシーを乗りつけたころは、雨も小降りになっていたが、その表通りから小路に折れて雑司ケ谷の家へ行くまで、小半町はあった。母のために足駄《あしだ》と傘《かさ》をとりに誰かが行こうとするのを、三吉はいいからと、外套《がいとう》に着ぶくれた背を自動車の降り口にむけて、母に、おぶさるようにと促した。 四郎は小樽からずっと、父の遺骨を持つ役目をあてがわれていた。その四郎がバスケットを持って大股にとっとと行くあとから、三吉は案外母の重いのに感傷的な心強さを感じながら、遅れがちについて行った。 「三吉、大丈夫かえ?」 まさか母も、この子におぶさるような機会があろうとは、思いもしなかったのであろう、気遣《きつか》うように言うその声にも、どこか嬉しそうな張りの籠《こも》っているのが三吉にもわかった。 「大丈夫とも。だが、割に重いんだね」 「そうかねえ。もう骨と皮ばかりだが」 「これからせいぜい、肉をつけるようにするんだな」 「これからかえ?」 そう言った母の声音には、何かしら絶望的な感じが裏づけられているように、三吉には思われた。そのまま母は息を深くひくと、あとはじっと黙して、ぐったり三吉の肩に全身の重みをゆだねるようにした。うしろへまわした三吉の腕は、だんだんだるくなって、門の前の石段を二段あがる時には、足も重く、う諍かりすると、母をおぶったまま、あおのけに倒れそうな気がした。 やっと式台に母をおろして、そこへ出迎いに出た姉の栄子と顔を見あわせると、三吉は額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》って、ほっとした。 母は座敷の瀬戸火鉢のそばへ坐ったきり、ほかの人たちが床の間に遺骨をかざり、燈明《とうみよう》をあげ、焼香をしたりするのを、うつろな眼でじっと見ているきりであった。 「お母さんもお焼香なさい」 栄子が立って来て言うと、母は、今まで夢でも見ていた人のように、急にびっくりして娘の顔を見あげた。 「何え?」 そう言って、左の方の耳を相手にぐっとさしのべた。 「耳がとても遠くなったんだよ」と、四郎は姉に説明しながら寄って来た。 「お母さん、お焼香するんだとさ」 栄子の倍ほどの声で四郎が母の耳元で言った。 「お焼香かえ。お焼香なら、もうたくさんだよ。何十遍となくして来たんだから、あとはお前たちでしな」 何をするのも物憂いというように、母は青い顔を不快そうにしかめながら、火鉢の縁に伏さってしまった。そのころ三吉は横浜の弘明寺《ぐみようじ》に文子と二人、わざと世にかくれるような生活を営んでいた。 父が病気で寝ていることを小樽の方から知らせてよこしたのは、十月の半ばごろであった。父の兄、つまり三吉には伯父《おじ》にあたる人は小樽のかなりな大地主であったが、その死後、当主である養嗣子《ようしし》が、世界大戦中船に手をだし、結局三四十万の損失を招い惣のであった。その魚債の整理をするために、親戚が集まって合資会社を組織し、三吉の父は労務拙資者として、同家の債務整理の衝にあたるため、六七年前妻子を東京にのこし、単身小樽に赴《おもむ》いたのであった。その後、死亡当時に至るまで、推されてその会社の代表社員となり、亡兄の遺産整理と同時に利殖の法を、ほとんど寝食を忘れて講じたのであった。 三吉たちにして見れば、父のやっている仕事なんか、馬鹿馬鹿しいものに思われて仕方がなかった。他人の家の財産整理に寝食を忘れたり、手当といえばいくらでもなし、その上いつも憎まれ役にまわって、陰では糞爺《くそおやじ》とか何とか悪口を言われたんでは、たまるものではなかった。ただ父の意を忖度《そんたく》するなら、父にとっては兄の家である。その兄の家を傾けたくない一念から、ああして憎まれたり悪口言われたりしながら、それに頓着なく、ひたむきに務めている心を思えば、無下《むげ》に馬鹿馬鹿しい仕事をやっているとも言えないのであった。 それに、父からの月々の仕送りで、母と五作と宏と、この三人は雑司ケ谷の家◎生計をたて、五作は明治学院に、宏は近くの小学校に通っているのであった。それをいいことにして、三吉は、心では父のやっている仕事を馬鹿馬鹿しいと思いながら、自分の損にはならないので、あえて帰京を促すようなこともなく、のんべんだらりと過して来たのであった。 一朝父が死んだとなれぽ、覿面《てきめん》に一家の負担は、ことごとく三吉の肩におしかぶさって来るよりほかはなかった。 四郎は不運な子であった。ちょうど上の学校へでも行こうという年ごろに、一家は没落したのであった。母方の叔父《おじ》が深川で、当時かなり盛大に釘工場をやっているところへ、職工見習いにはいったのも、そういう事情からであった。 一番の姉は二十歳のころ、当時創設されて間もない女子最高学府に学ぶことは出来たし、三吉は中学卒業後、東京で独力洋画の修業をしようとして失敗し、小樽に戻《もど》って仕方なし税務吏になったり、それから兵隊に行ったり、普通よりは五年も遅れたとはいえ、姉のおかげや、また少しばかり苦学めいたことをして、とにかく早稲田の文科を卒業することが出来た。三吉のすぐ弟の四郎を飛び越して、その次の弟の五作はといえば、これも幼年時代一家没落の悲運に会し、母と二人、樺太の海馬島《かいばとう》まで、昔召使いだったものが漁場をやっている、そこへ落人《おちゆうど》のようにして頼って行ったこともあったが、どう、やら父の方も芽をふきだし、おかげで明治学院の普通部を終え今では、高等部へ通っているのであった。 それにひきかえ、小学校きりで終ったのは四郎だけである。碌々《ろくろく》たる職工で、弟にさえ馬鹿にされ、日給といえぽ二円五十銭か七十銭、震災後大島町で昔の盛んな俤《おもかげ》もなく、貧乏くさくやっと機械を五六台動かすに過ぎない叔父の釘工場に勤めながら、すまいは蒲田《かまた》の裏長屋で、女房と女の子二人、ほそぼそ暮しているのであった。 小樽の東端、築港附近にある崖地《かけち》を宅地にして増収をはかろうと、三吉の父は夏ごろからその埋立工事に、遠いところを毎日現場監督にかよったものであるが、秋になってある雨の降る日、若い時から烈《はげ》しい負けず嫌いの気性で、寒さにもめげず、日暮れてまでも働いているうち、ふと風をひいたのがもとで寝ついたのであった。父病気の報をうけ、三吉はとりあえず四郎を連れて小樽へ行って見ると、父は思ったよりも元気で、奥の一間に、厚い夜具に顎《あご》をうずめ、汗をとっていた。「なあに、汗さえ出してしまえば、けろりと癒《なお》るんですよ」父はむしろ怒っているように、他人行儀な言葉つきで言った。そこの家の者は、父に無断で東京へ病気のことを知らせたのであった。その朝、三吉と四郎が顔を見せるまで、父は予期もしていなかったので、誰が東京へ知らせうと言った、馬鹿野郎! と、頭ごなしに叱られはしないかと、家のものはおどおどしていたが、さすがに、何年となく会わなかった二人の息子の顔を見ることが出来て嬉しいらしく、いつもの短気にも似ず、機嫌《きげん》悪くぷりぷりするようなことはなかった。 医師の診断によれば、カタル性肺炎ということで、三吉は新年号の仕事もあり、万一のために四郎を残して、一先《ひとま》ず小樽をひきあげることにした。 が、三吉が横浜に帰って間もなく、小樽病院に入院するという電報に接したのであった。旅|嫌《ぎら》いの母も、小樽行きを決心しなければならなかった。たった一人の男孫《まご》の宏を連れ、五作に附き添われて旅に立ったのは、十一月の初旬のことであった。 そうすると、雑司ケ谷の家に残るのは、炊事も何も出来ない、病身がちな、その上毎日母校に勤めに出なければならない栄子ひとりである。同居をいやがる四郎の女房をようよう納得させて、蒲田の家をひきはらわせ、雑司ケ谷の家へ来て炊事その他万有をしきらせるように三吉が取り計らったのも、そのためであった。 父の病気は、雑司ケ谷の家、蒲田の家、横浜|弘明寺《ぐみようじ》の家、それぞれに、小さな革命をもたらすことになったのだ。四郎が釘工場を一時ひいて小樽に行っている問、残る女房子供の生計費は三吉の方で負担し、四郎にはまた小遣《こづか》いを支給しなければならなかった。父の死後はなおさらのことである。葬儀を終って一同は帰京したものの、今までは、とにかく遠く離れていたとはいえ、一家の支柱たる父が存命していれば、そこに薄弱ながらも伝統的統一があったのに、一朝にして各人各個に生活の中心がばらぼらとなり、そうして物質の負担はひ乏り三吉の上に背負《しよ》わされることになってしまった。 五作はどういう事情によるか、父の存命中から、雑司ケ谷の家を出て、大崎の方に友人数名と合宿のようなことをやって暮していた。大方学校が遠いので、父や母とも相談してのことであろうと、当時三古としては、別段五作に学資を給与しているわけでもなし、また監督権もなし、深くその理由をただす必要も感じないのであった。 一旦職を失った四郎は、ますます深刻になる不景気のため、容易に就職口をみつけることも出来なかった。 三吉が時々雑司ケ谷の家へ行って見ると、母はいつもぽつねんと、瀬戸火鉢に手をかざしていた。 眼が霞んで、黒瞳《くろめ》と白眼の境界がうす濁りにぼやけているのも、ひとしおの老衰を思わせた。 「小樽から何とも言って来ないかね?」 三吉の顔を見ると、そう訊《たず》ねるのが母の口癖になっていた。 父の慰労金のことであった。いずれ春にでもなったらと、先方から言いだしたことで、母はそれのみを心待ちにしているのであった。七年間も献身的に働いて、しかも代表社員の地位にあって死んだことでもあるし、一年を百円に見積っても七百円、まあ千円ぐらいはよこしてもいいというこっちの肚《はら》であった。 が、三吉は全然そのことに望みを絶っていた。先方では、葬儀の費用を出しただけでも、つりが来ると思っているに違いないのであった。 「まだ何とも言って来ないが、まあ、あまり当てにしないんだなあ。あんな金持のわからずやに、千円やそこらの金で、恩に着せられるような思いをしない方が、よっぽど気がきいている」 三吉がそう言うと、母は憤慨するのであった。 「何も恩に着るのなんのと、そんなことないんだよ。あたりまえのことさ。よこさないったって、取るだけの権利がこっちにあるんだもの」 「えらいことになったなあ」三吉は笑いにまぎらした。 「一体お前たち、あんまり欲がなさすぎるよ。去年だってそうさ。何もかも置いて来るなんて、そんな馬鹿げたことが、; 」 物欲のことになると、この老衰の母にもめざましく活気が溢《あふ》れ、言葉の端《はし》までが鋭く荒くなるのであった。 去年というのは、文子との恋愛事件で三吉が長崎町の家を棄てた時のことを言うのであった。家財|什器《じゆうき》一切、ほかにわずかばかりではあるが貯金まで、残らず先妻の美代の方へ引き渡したのであった。母は何かといえば、そのことで不平を洩《も》らすのであった。巴里土産《パリみやげ》に、母へ黒天鵞絨《くろびろうど》の上等を三吉は持って帰ったのを、襟巻だのその他何かに仕立ててやるつもりで預っておいたまま、それなりになってしまったのが、母にとって、かなりの心残りであった。 「毎月仕送りをするとかって、本当かえ?」 誰にきいたものか、母はそんなことまで言いなじった。 「することにはなってるんだけれど、お父さんが死んだりなんかで、そんな余裕なんかありゃしない」 「余裕があったって、やることはないよ。……一体いくらよこせと言うの?」 「月々七十円」 「ほ、七十円あったら、五作と宏を学校へやって、楽に暮せるよ。……いつまでと言うの?」 「雑誌記者とか、なんとか、まあ、そいった職業婦人にでもなって、自活出来るまでと言うんだが、そんなこと言ってもきりがないから、十一月から、……去年のね、……向う一年間、月々七十円ずつ仕送りして欲しいと言うんだよ」 「お前、出来ればやるつもりかえ?」 「ここに千円も遊んでいる金があったら、一度期にゃってしまいたいくらいなんだが……実はね、間にたってくれる人がいろいろ心配してくれて、今度三百円だけ一纏《ひとまと》めにやって、それも雑誌社から借金しての話なんだが、それでさっぱりと打ち切ることにしたんだ」 「三百円でね?」 母はまじまじと三吉の顔を眺め、まだ何か意にみたなそうであった。 「自分で稼《かせ》いでとった金を、自分が好き勝手に使ったっていいじゃないですか。そのために、お母さんや子供たちに不自由をさせるというわけじゃなし、……」 つい三吉も声を尖《とが》らして、つっかかると、母はじきおどおどと、額を伏せるのであった。 「お前が好きで、美代に金をやると言うのを、誰も何とも言うわけではないよ。それで綺麗に手を切るというなら、……」 母はしょげきって、眼をしばたたいた。 「ただね、五作だって学校がまだあと二年もあるんだし、宏は、はいれる、はいれないは別としても、今年は中学へいれなければならないし、それもこれも噛みんなお前一人の肩にかかるんだからね、……それだから、今三百円のなんのと、そんな金、なんだか泥溝《どぶ》にでも棄てるようで、もったいない気がしたんだよ」 「千円が三百円になったら、やすいもんさ」三吉は、わざとその場の空気を軽くするように、冗談めいた口のききかたをして笑った。 「だが、よくもまあ図々《ずうずう》しく、縁の切れた人間に、一年も仕送りしてくれなんて、言えたものだね。わしらの国では、出来ない芸だよ」 母は三吉の冗談笑いに勢いを得て、またにくていな口をきいた。 「美代は一体に口数がおおすぎて、……ああいうおしゃべりの女、嫌いだよ。縹緻《きりよう》だって少しもよくはないし、……今度の方が、なんぽいいかわからない。第一、口が少いし……」 「第二に縹緻はよしか」 母のお世辞を茶化すように、三吉はわざと言って笑いだした。 「本当だよ。縹緻よしだとも」 母は大真面目であった。が、文子に対する母の批評が当っている当っていないは別として、今では三吉夫婦しかたよりになる人間のいないことを、母が自覚していることは、そういう言葉のはしにも読めるのであった。 春になって暖かくなったら、横浜へ行くよと、母はこれも口癖のようにいうのであった。 「桜の咲くころまでは、弘明寺にいるつもりだから、……」と、三吉も、ぜひ一度横浜へ母の来ることをすすめた。 弘明寺の三吉の家は、秋には芒《すすき》が繁《しげ》ったり、野生のコスモスが咲いたりする原っぱに面していた。その原っぱを越して、まん前に、大岡川の堤につらなる桜並木が見えるのであった。花時になれば、縁側にいながら桜を眺められることを思い、四月までは、とにもかくにも、弘明寺からは動くまいときめていた。 「早く暖かくなるといいわ。雑司ケ谷のお母さんに来ていただくんだから」 文子も四月になるのを心待ちにしていた。 それだのに三吉は、今まで消極的に、強《し》いて自分から逼塞《ひつそく》するようにしていた気持が、にわかに欝勃《うっぼっ》として来るのを感じた。父の死後、文子と二人きりのひそやかな独善的生活に閉じ籠っていられなくなったのも、彼の欝勃たる意気をあおる一つの因をなした。それに、近くある新聞に連載小説を書くことになったので、それを機会に、静かではあるが、便利のよくない横浜をひきあげ、東京に居を移すことにした。 これを一転機として、もっと積極的に仕事もし、世の中へも顔をさらけ出そうと、そういうような気持から、東京もわざと郊外を避け、都塵にうずまるつもりで牛込の矢来に家を捜し、平生はどこか姑息因循《こそくいんじゆん》でありながら、いざとなれば極端なほど一気に物事を決する三吉の癖で、二月にはもう矢来の住人になっていた。. 「せっかく横浜の桜を見に行こうと、楽しみにしていたんだよって、お母さん言ってらしったわ」 ある時、文子が雑司ケ谷へ行って来ての話であった。 「でも、牛込だと近いし、そのうち四郎さんに連れて来てもらうんですって。乗物はいやだから、歩いてですってよ。杖《つえ》をついて」 その、杖という言葉が、強く三吉の頭に来た。そとへなんか出ることもなく、一生をうちでばかり過して来たような母であった。その母が杖をついて、足元も危っかしく歩く姿を、三吉はかつて想像したこともなかった。小づくりな人で、腰も少しくの字に曲り、なおのこと背.は低く、顔も小さく、眼は、三吉兄弟もみんなそれをうけついでいるのだが、人一倍大きく、幾らか険はあっても、今では霞《かす》んで生気のないものであった。遣伝的なリューマチで、指々の節が多少まがり加減になっている、その手に竹の杖でもしっかり握って、目白の通りを、年中脚気の気味で躓《つまず》きがちな足を、古風な内輪にそろそろと運んで来る恰好《かつこう》が、眼をつぶると三吉にありありと見えるような気がして、はかない感じを抱きながらも、しかし心待ちにその日を待つのであった。 夜、電燈を消し、真暗な部屋に三吉は寝て、そうした母の、杖をついて、とぽとぽとやって来る姿を、闇の中に何度も描いて見た。その母は眼を瞠《みは》ったまま、執拗《しつよう》に三吉の方をいつまでもいつまでも、じっと見つめているのであった。母の眼は、何事かを三吉に語ろう、訴えようとしているのであった。 それはもちろん、日ごろから三吉が母の心を推量している事柄に関連して、三吉自身描きだすところの幻影にすぎなかった。その幻影に描きだされた母の、何事かを訴え語ろうとしながら、じっと三吉を見つめている眼の意味は、五作に繋《つな》がるものであった。 、五作は末っ子で、しかも海馬島まで落ちて行って、母と艱難《かんなん》をともにした、いとし児であった。母は老後を五作によって養われようと、それのみ思っていたのだ。五作もまた、中学の課程を終えたら、すぐに月給取りにでもなって、母を扶養しようと、明治学院の普通部を卒業する間際まで考えていたのだが、やはり知識欲に負け、高等部へ、それでも将来を慮《おもんぱか》って商科にはいったのであった。 どうぞ無事に、五作が学校卒業出来るようにしてやってくれと、沈黙の間にも三吉に向って呼びかけている母を、彼は思うのであった。それと、もう一つは、五作と互いに許しあっている、ある若い娘のことである。一度母は、三吉にその娘のことを告げて、将来二人を一緒にさせてやってくれるよう頼んだのであった。 母がしきりに三吉の家へ来たがっているのも、あらためて懇々と、五作のことについて話しておきたいからであろうとは、かねてから彼の想像するところであった。 それだのに、母が矢来の家を訪れる日の来る前に、あの××党事件が勃発したのだ。 三月七日、つづいて三月十五日、次々にほとんど全日本を襲った××党検挙の津波は、五作をも浚《さら》って行ってしまった。 「五作の奴《やつ》、すっかり赤くなっちまやがったよ。まるで余市林檎《よいちりんご》かトマトーさ」 無学の四郎が、自分ではよっぽどうまい警句を吐いたつもりで、あはあは上機嫌に笑っての話であった。三吉がまだ弘明寺にいたころであった。四郎は職のないままに、時々は大崎の合宿へ遊びに行くらしく、そのついでには横浜の兄の方へまわって、晩に一杯御馳走になり、好き勝手な話をするのであった。 父の病気で、最初三吉と一緒に小樽へ行くことになった時、四郎は満足な旅装もなく、三吉が巴里で作った、とてもハイカラな、胴のつまった洋服を借りて行くことにした。その洋服は、あまりしゃれ過ぎ、気恥ずかしくて、日本に帰ってから三吉は一度も着たことはないのであった。それを四郎は、得々として、これ見よがしに、外出ごとに着て出る恰好は、職工のくせに紳士ぶる、つまり孔雀《くじやく》の尾をつけた鴉《からす》といった感じで、滑稽《こつけい》でもあり、また彼の心理を考えれば不憫《ふびん》でもあった。 津軽海峡をわたる連絡船では、一人一人船客の姓名職業等を書いて出すことになっているのだが、小樽からの帰り、その船上で皆の分を五作がひきうけて書いて行くうち、四郎の職業のところで、ちょっと鉛筆をなめって思案しながら、 「職工か」 そう独語《ひとりごと》して書こうとすると、あわてて横合いから四郎が口を尖《とが》らして言ったものである。 「会社員だよ。職工だなんて、やめてくれ」 「だって、職工に違いないんだもの」 五作がどこまでも追究するのを、はねかえすように四郎は反《そ》り身になり、例の、からだにぴっちりと食いこむほどのしゃれた上着の胸前《むなさき》を両手につかんで、ぐっと引きさげて威張って見せた。 「なんでえ! 職工職工って言うなえ。人聞きが悪いや」 すると五作は、憐《あわ》れむともつかず、皮肉ともつかない笑いを浮べた。 「馬鹿だなあ。今に、会社員なんかより、職工の方がうんとえらくなる時代が来るのを知らないんだから」 「そら、またはじまった」 それなり四郎は、わざととりあわないように、船室から甲板の方へ出て行った。 四郎には全くプロレタリア意識なんかないのであった。 「おかしなもんだ。俺なんか一時も早く脱いでしまいたいと思っているのに五作の奴、菜っぱ服を着たいってんだから」 ある夜弘明寺へ来ての話であった。 「研究のためとかいうんだから、それでもいいのか知れないが、とにかく物好きなもんだ。学生なんて暇があって、贅沢《ぜいたく》だよ。金は親や兄弟から貰《もら》えるんで、のんき至極なものさ」 「五作が工場生活でもすると言うのか?」 「そういうわけでもないんだろうが。……今日合宿へ行ったら、連中がそんな話をするもんで、そんなら、五作に、俺とかわろうかって言ってやったよ。お前は俺の工場へ勤める。俺はそのかわりに、何か勉強させてもらおうって」 「工場生活をすると言っても、そいつは労働をするのが主じゃないんだろうよ。……」 工場労働者のなかへはいって行って、たとえば四郎のように、まだ眼覚めようともしない職工を教化し、階級闘争に奮起させるのが彼らの目的であろうと、三吉は想像しながら、それを口に出しては語らなかった。 五作が同志数人と大崎に家を一軒借りて、そこでどういうことをしているのか、おおよそ三吉にもわかって来た。五作はもと、明治学院普通部時代には、文芸部に属し、雑誌に詩や小説を発表したり、ハモニカのバンドを組織したりして、芸術的方面に才能を発揮することを努めていたのであるが、いつかしら、当代青年の一様にひしめき走るめざましい思想の流れに合流していたのである。普通部を終ったら、実社会に出てサラリー・マンになり、母を扶養しようなどという殊勝な心根の消滅したのも、恐らく彼の思想転換に原因すると言っていいであろう。そうして、高等部にすすんでからは、当時文壇でも最左翼と目されていた「文芸戦線」にすら飽き足らずとして、「文化批判」という雑誌を起したくらいであった。 文学芸術というものから、五作の心はまったく離れそむいていた。早晩××運動に赴《おもむ》かずにはいられないであろうとは、三吉の予想していたところであった。 ロシア革命十周年祭には検束されるかも知れないとか、大崎の住所は絶対秘密にしておいて下さいとか、××党の党歌の草案をつくっていますとか、そういう手紙がよく三吉のところへ来た。父が死んでから、月に一度は、金をもらいに横浜へ来るのだが、本所公会堂で建国会撲滅演説会を開いた時、散会後街上にデモンストレーションをやって××と挌闘《かくとう》したとか、そんな話を、熱のある口調で、眼を輝かし、三吉に語りきかすのであった。 二十年前のことである。三吉は中学五年の暑中休暇に、小樽から福山へ帰省したのだが、汽車で函館まで、それから汽船で海上六時間福山港へ着くのを、あいにくその日は船が出ないと聞き、彼は一日待つのをもどかしく思い、下駄《げた》ばきのまま二日がかりで、陸上二十五里の道を歩いたのであった。夕方疲れきった足をひきずって、松前藩時代の唯一の名残《なご》りである三重《みえ》の城近い松城町の、二抱《ふたかか》えもある桜を前庭に持つ家にたどりついて見ると、空にはびこる桜の蔭で一層|黄昏《たそがれ》の色を濃くただよわしている門口に、母が赤児を背負って、ちょうど張板をとりこむところであった。 いつ帰るとも前触れのない三吉の姿をすかし眺めて、母は一旦とりあげた張板を下におき、口をほっかりと開けたままであった。 「歩いて来たよ。船が出ないんで」 「下駄がけで、……まあ!」 母はあきれ、かつよろこんで、いそいそと内へはいって行ったが、その時背に眠っている髪の毛のうすい赤児の頭が、うしろざまにがっくりと反りかえった。その赤児こそ、三吉がはじめて見る弟の五作であった。 流行なのか、カラをづけない襟の低い学校の制服に、太い首筋を見せ、顔も大柄でいかつく、髪をながく波うたせ、三吉をも凌《しの》ぐくらいの背丈にのびた現在の五作をしみじみと眺めながら、三吉は二十年前故郷に帰省した日の葉桜蔭の夕暮を思いだすのであった。 「福山の墓へ骨を納めに、今年は行くつもりだが、お前も行くか?」 「別に行きたくもないけれど、……」 気の乗らない返辞であった。 「お前の生まれた家なんか、覚えはないだろう。今あるかなあ。もうないかも知れない。あの桜の樹だけはあると思うが。……どうだろう、お母さんは行けるかしら?」 「行く気があったら、行けないことはないでしょう」 「今度雑司ケ谷へ行ったら、お前からも言って見な。……時々は雑司ケ谷へ行くんだろう」 「行ってます」 「お母さんは、五作のおまんまを食べないうちは、どんなことがあっても死なないって言ってるそうだ。本当か?」 「ふん、……いつのことだか」 五作は苦笑して眼をそらすのであった。 「何をやるのもいいが、学校へ行っている以上は、満足にちゃんと卒業だけはするようにするんだな」 「ええ」 煮えきらない返辞だと思っていると、ある日学院から葉書が来た。四月から十二月までの授業時間数六百二十九時間、そのうち欠席が二百七時間、こう欠席がちでは修学上はなはだ遺憾であるという注意であった。 学校のことについて、よく五作の意見を質《ただ》そうと思いながら、三吉も仕事がせわしく、そこへ東京転住のことがあったりして、ゆっくり会う機会を持たないでいるうち、折柄の総選挙に彼もまた×x党のために運動をしているようであった。 越えて三月、あの事変であった。 ある日のこと、水島ちゑ子という娘が矢来の家へ、五作さんのことで伺いましたと言って来た。 日あたりのいい二階の書斎に、火鉢をさしはさんで主客は相対したが、あかるい陽射《ひざ》しの照り映《ぱ》えで、その娘の丸顔は一層健康そうな色つやに見えた。剃刀《かみそり》をあてたこともないらしく、西洋の女のように生毛《うぶげ》がめだって、それが野生的な好感を与えると同時に、くるっとした眼にも愛くるしさがあった。 「五作さんが二十日にあげられたってことを、昨日きいたもんですから、……」 やや早言葉で、ちゑ子は前後の事情を物語るのであった。母が言ったのは、この娘のことであった。彼女は、今、自分の愛人が警察にあげられているのに少しもしょげる風はなく、女性の若々しいしなやかさの中にも、敢然とした強い意志をほの見せ、清爽《せいそう》の感じであった。 日本橋のある株屋の小僧さんが、何かのことで、五作のあげられていると同じ警察へ拘留されたのが、二十六日目の日に出ることになって、その時五作から、そっと、これこれの水島ちゑ子という人のところへ、ここに検束されていることを知らせてくれと頼まれたのであった。その小僧さんの手紙を見て、ちゑ子は昨日(二十七日)日本橋のその株屋へ、ともかく行って見ると、主人は親切な人で、一緒に大崎の五作たちの合宿へまで行ってくれたということである。 その合宿の家はしまっていた。前の植木屋できくと、いつの間にか一人いなくなり、二人いなくなりしたというのであった。 「大崎の署から日本橋の方へまわされたらしいんですのよ。四人ですって」 「何か差入れの必要があるかしら?」 「紙が欲しいような話ですけど、……でも、うっかり行けませんわ。偽名しているのかどうか、それもわかりませんし」 「君なんか行っちゃ駄目《だめ》だよ。……大崎の家には、女の人もいたはずだが、どうしたろう?」 「芳子さんやっぱりあげられたらしいんです。拷問《ごうもん》でもされたら、どんなことになるだろうかと、思ってもぞっとしますわ」 さすがにちゑ子は肩をつぼめ、顔をしかめた。 「五作たちもやられるんだろうねえ」 「でも仕方がないと思いますわ。四人別々の部屋にいるんですって。その小僧さんに聞きましたの。英語でもって、大声だして話しあっていますって。何だか、絶食しているらしいとも、言ってましたわ」 黙って成行きを見るよりほかに方法はないと三吉は思った。 「雑司ケ谷のお母さんには、もちろん知らせないでしょうね?」 ちゑ子はいそがしく顔を横に振った。 「わたし、雑司ケ谷のお宅へは、わざと行かないことにしていますの」 「大橋さんにも黙っておきなさい」 「ええ」 大橋さんと.いうのは、三吉の姉の栄子と同じ学校出で、やはりその母校へ勤めている独身の女性であった。住居は雑司ケ谷の家に近く、五作がそこへ遊びに行っている間に、ちゑ子と知合いになったのである。それだから、五作とちゑ子とのことについては、大橋さんにも多少の責任があるのであった。 何はともあれ、五作検挙のことを、母には絶対に知らせないようにと、三吉は皆にいましめておいた。 ことに弟の四郎は、口軽屋なので、厳重に注意をしておく必要があった。 「五作がこのごろちっとも顔を見せないとか、……そんなことをお母さんが言いでもしたら、いい加減にあしらっておくんだぞ。学校の方がせわしいんだろうとか、なんでも友達と旅行に行っているような話だとか、うまくその場をごまかしておけ。警察へあげられているなんて、冗談にも言っちゃいかん」 「大丈夫ですよ。言いやしないから」 四郎は口ではそう言っても、にやにや笑いをしているところを見ると、こいつ、何かほのめかすようなことを言っては、お母さんをからかってるんじゃ癒いかと、不安に思われた。 母と四郎とは、あまりょい仲ではないのであった。四郎のところにも女の子二人あるのに、その方の孫には少しも眼をかけないで、ただ五作と宏とだけを可愛がっている母は、自然と四郎の反感を買うのも道理であった。 四月になってある日の早朝、大橋さんが駈《か》けこむようにしてやって来たゆ茶の間で三吉が新聞を読んでいるところへ、彼女はぴったり坐って挨拶もそこそこに、 「三吉さん、あんまりよ。どうしてすぐに知らして下さらなかったの?」 笠《かさ》にかかるようにいきなり言われて、三吉も面喰《めんく》らった。 「何のことです?」 「五作さんのことよ」 「あッー・あいつまた、おしゃべりしやがったな、……四郎の奴!」三吉は強く舌打ちした。 「おしゃべりじゃないわよ。知らしてくれるのが当然ですわ」 「あなたの方では、当然と思うかも知れないが、……あなたぼかりじゃないよ、……母にしろ、姉にしろ、あとで知ったら、なぜその時知らせてくれなかったかと、不平を言うかも知れない。けれども、こんなことは、知ったって知らないたって、なるようにしかならないんだし、なまじっか母なんかに知らせるより、仮に五作なら五作が、殺されるなりどうされるなりしてから、言ったって、……その方がつまり、よけいな苦労を母にさせないで済むから、今度は僕は、知らしむべからず主義をとったわけなんです」 「違ってよ、違ってよ。お母さんやお姉さんは別よ。わたしにだけは、どうしたって知らせてくれなければ。……じゃ、三吉さん、あんたは、わたしがお母さんやお姉さんに、おしゃべりすると思ったの?……わたしなんぽ馬鹿だって、そんな女じゃないわよ」 よっぽど口惜しいと見え、,涙ぐんでいた。ちゑ子と五作とのことに責任があるので、それで大橋さんはこうまで躍起《やつき》になるのであった。 差入れも何もしないで、ほっておいて下さいと三吉が言っても、大橋さんはいっかなぎくことではなかった。 「いいのよ。わたしは、わたしの気の済むようにするだけなんですから。知らないうちはともかく、知った以上は黙っていられないわ」 中《なか》一日おいて、大橋さんは四郎と二人でまた矢来にやって来た。シャツ、猿股《さるまた》、紙、歯磨《はみかき》、そんなものを差入れして来たというのである。面会は出来なかったが、主任の人の話では、元気でいるとのことであった。 「起訴されるようなこと、なさそうですわ。学生は、そんなに重く見ていないようよ」 「起訴されるなら、されたで、いいじゃないですか」 三吉はやや反抗的な気持になっていた。それには、文子の弟のこともあるのであった。鵠沼《くげぬま》に住んでいる文子の兄から、葉書で、常雄も三月十五日の嵐《あらし》に捲《ま》きこまれたと知らせて来ていた。神戸の親戚の店に働いていたのを、とびだして、去年から尼ケ崎の××党支部に書記を勤めていたのであった。 「これの弟も、神戸の方であげられているんですよ」 三吉は、長火鉢の向う側に、い.つもどおり無口なままおし黙っている文子を、顎《あご》でさし示した。 「これはもう、起訴にきまってるんだ」 「まあ、そうでしたの。御心配ですわねえ。でも、あながち起訴とは限らないんじゃないの」 「それはわかりませんけれど、どうなっても、仕方がないと思っているよりほかはないんですもの」 文子は寂しく微笑するのであった。 四月十日にようよう××党事件も解禁されて、各新聞はほとんど全紙面をあげてその報道につとめた。 その翌日、二十九日間の拘留を終って五作は十八日朝九時前に釈放されるという報告を、四郎は矢来の兄のところへ持って来た。 「大橋さんと僕と、二人で、十八日の朝警察へ行くことにします」四郎が言うのであった。 「大橋さんには気の毒だが、じゃ、そうしてもらおう。一先ずここへ連れて来るんだぞ。雑司ケ谷へすぐ行っちゃいかん」 『、そうしよって、大橋さんも言っていた」 「お母さんには、言いやしないだろうな?」 三吉は四郎の顔色を探るように、釧い眼でじっと見つめた。 「言うもんですか」 「言わなければいい。……だが、お母さん何も訊きやしないか、ー五作はどうしたろうとか、なんとか」 「ちっともこのごろ来ないね、とか、時々|独語《ひとりごと》みたいに言ってるけれど、とりあわないようにしているんです。……ああ、そうそう」と、四郎はすぐ陽気になる持前で、手をたたきそうにしながら、肩をゆすって笑うのであった。 父がもと使っていた眼鏡《めがね》を鼻の先へかけて、昨夜母は一生懸命新聞を読んでいたというのである。 五作がまだ雑司ヶ谷の家にいたころ、寄り集まる同志らの会話を、母は、完全に理解することは出来ないまでも、そのなかから何かしら小耳にはさんでいることがあるはずであった。それだから、母が、××党事件の新聞記事を読んで、それと、一ヵ月も顔を見せない五作とを結びつけて、忌わしい想像にかられないとは、言えないのであった。 「いくらかお母さんも、感づいてるんじゃないかと思うなあ。ゆうべの、あの、新聞に噛《かじ》りついてる熱心な恰好から見れば。……とてもそれや、眼を皿《さら》のようにして」 事あれかしに、面白がって言う四郎を、三吉は睨《にら》むようにした。 「お前がまた、何かほのめかすようなことを言ったんだろう」 「嘘ですよ」 三吉は四郎を信用することは出来なかった。が、十八日には警察から出ることにもなったし、どうせ遅かれ早かれ母の耳にもはいるのだから、もうやかましく言う必要もないと思った。 巷《ちまた》の騒音もあまり響いて来ない、閑静な矢来の街に、家々の塀開《へいかこ》いからのりだしている桜が、輝く春の陽射しのなかに散って行った。 弘明寺の桜も散ったであろうし、そう思えば、母が横浜行きを楽しみにしているうち、三吉の方で東京へ移りすむようになり、それなら春になり次第矢来へ行こうと、そういう約束のところ、五作の事件で、もう花時も過ぎるのに、そのままになっていることなどが、自然三吉の思案にのぼって来るのであった。 今度のことがあって、なおさら母は五作の将来を案じ、それについては、五作に対する三吉の意中も知りたく、矢来の家へ来たがっている模様であったが、風邪《かぜ》の加減で思うにまかせないようであった。はっきりとは口にしないが、時々四郎が来て、五作は学院の方はどうなるのだろうとか、ああやってぶらぶらしていたんでは、お母《つか》さんも心配だろうとか、暗《あん》に言うのも、すべて母の指図で三吉の意のあるところを、それとはなし探るつもりに相違ないことは、三吉にもよくわかるのであった。 「××の×x××は大丈夫だ。××××××いないよ」 警察を出た日、大橋さんと四郎とに迎えられて、五作は、やはり学生の同志と二人、矢来の家に来ると、玄関にあがるや否や、だしぬけにひどく興奮した風に言うのであった。 縁側に近い日向《ひなた》に三吉はいて、それを聞くと苦虫を噛《か》みつぶしたような、嫌《いや》な顔をした。×xの××××だなんて、歯の浮く感じで、とても我慢がならないのであった。が、三十日間も閉じ籠められて、自由勝手な言葉を使うことの出来なかった彼ら二人は、検挙当時のことや拘留中のことを、のべつ幕なしにしゃべりたてるのであった。続けざまにバットを吸いつける、その指先は、癲癇《てんかん》やみのようにぶるぶる震えていた。 興奮している時に何か言っても、かえって反抗心を募《つの》らすばかりだから、、今日は黙っていようと、三吉は、わざと無関心を装うて、相手にもならなかった。 彼らは今夜からでもまたすぐ運動に着手することが出来るものと、楽観視していたのであった。それが、一日二日日を経て見ると、もう手も足も出ないまでに、彼らの運動が完全に阻止されてしまったことがわかったのであった。 数日過ぎて五作がやって来た。 「俺は××なんてえもの、大嫌いだよ」 のっけから三吉は、反動的にきりだした。そう言われると、ちょっと五作は兄の顔を、額越しに見るようにしたが、学校の服で、それまできちんと膝を折っていたのを、あぐらになって、バットを強いて深く吸いこむと、横の方へぷうと勢いこめて吐きだした。兄に言われた冒頭の一句で、彼は反抗の態度をとったのであった。 「とにかく俺は、俺の生活を脅かすようなものは、御免|蒙《こうむ》りたいんだ。××が起ったら、俺は俺の生活を護るためには、断じて××軍に楯《たて》をつくつもりだ。言っておくが、俺の生活というのは、俺一人の生活じゃないんだ。俺には、扶養しなければならない人間が、幾人かある。俺の生活には、それらの人たちの生活がみんな含められているんだ。そういう人たちの生活を誰かが保障してくれて、俺は俺一人で自由勝手な行動をとれるのだったら、それや、どんなアクションに出るかわからないさ。だが、俺は何も、俺の家族の生活を誰かに保障なんかしてもらおうとは思やしない。俺はどこまでも、家族を扶養するよ。ただ、俺の家族を扶養し得る状態に、俺はおいてもらいたいんだ。お前は、家族制度はすでに崩壊したなんてえことを言ってるが、冗談じゃない、崩壊なんか、ちっともしやしないよ。現に、家族制度はすでに崩壊したなんてことを言っているお前自身、家族の一員になって、俺の扶養をうけているんじゃないか。お前が、俺の思想に反抗するならするで、それは、自由だ。そのかわり、物質的に、俺の世話にならないようにしてくれ。家族制度が破壊したって、そいつは溝やしない。家族がめいめい独立の生計さえたててくれれば、家長なんてものは、いやでも存在しなくなるさ。俺は二十の時、親父に反抗したよ。親父に反抗すると同時に、俺は出奔して、それ以来㍉親父の世話になんかなりゃしないんだ。親子の間だって、兄弟の間だって、金銭をおいて何の情愛そやだ。その点、俺は物質主義者だ。くどいようだが、もう一度言っておく。俺の思想に丈句があるなら、今後俺から鐚《びた》一文貰わないようにして、その上で立派に丈句を言ってくれ」 五作は横を向いたまま、持前の口を尖らしながら、黙ってバットばかりふかしていた。 いつもどおり月の宋に、三吉が金を持って雑司ケ谷へ行くと、玄関次の薄暗い三臀に、母は気むずかしそうな青い顔で寝ていた。風だというのであ一った。 「ものは食べられるの?」 座敷の方から三吉が声をかけると、母は聞きとれないことを言いながら、横になっていたのを起きなおり、床の上に坐るようにして、額を枕におしあてた。そんなふうに動作が出来るくらいなら、たいして悪いのでもあるまいと、あまり三吉は気づかいもしないのであった。それに、病気にはきわめて神経質な姉の栄子もいることだし、粗漏なことのありそうにも思われなかった。 五作は二階にいるというので、三吉はあがって行って小遣いを渡した。 「学問を勉強するために、学校へ行きたいというんなら、いくらでも俺はやってやるよ。明治学院がいやなら、早稲田でもどこでもいい。よく考えておけ」 「考えておきます」 それだけの応対で、あとは、これもいつもどおり、あまり母とも言葉をかわさずに、三吉はすうと帰るのであった。 十日とたたないうちであった。四郎が、母の容態思わしくないことを告げに来た。 「医者は流感だと言ってるんだが、 ….」 四郎の言いたいのは、しかし母の容態よりもほかのことであった。三吉が五作に対してひどく頑固な態度をとっていると、母は考えて、三吉をおこらしては、まだ一人前になっていない五作の行く末が案ぜられる、それだから、五作に、矢来へ行って手をついて謝って来いと、こう言ったというのである。 「俺は頑固だとは思わないよ」 母の心事には同情しながら、三吉は自説を翻そうとはしなかった。 「学校へ行って学問を勉強したいというなら、大学だって何だって、卒業するまでは面倒見ると、俺は言ってるんだ。そうでなくって、ソヴィエットロシアがどうしたとか、××主義がどうしたとか、××だとか何とか、そんなことをするなら、俺の世話になんかなってやるんじや、やり栄《ば》えがしないだろう、それだから、自立でやったがよかろうと、こう言うんだよ、俺は。……これほど物わかりのいい兄貴はないと思うがね」 「お母さんは、その、××主義とか何とか、そういう怖《おそ》ろしいものから五作が手を切るように、兄さんの力でしてやってくれと、こういう肚《はら》だと思うんです」 「怖ろしいものだかどうだか、それは俺には判断がつかんね、……だけど、俺の力で、五作の思想をどうしようのこうしようのと、それは出来んぜ。俺はただ、五作に金をやるかやらないか、その二つの能力があるだけさ」 が、三吉はそんなことを言いながら、心では、昔父の無理解に反抗して立った時代のことを思い起していた。彼は歳四十に近くはあっても、まだ想念の硬化には達しないで、かなり現代に対する敏感性を持っているだけ、口では意地強く反動的な言辞をはいても、それが彼の全部とは言えないのであった。五作は弟ではあるが、言わば三吉五作の問題は「父と子」の問題であった。それに当面して、彼は昔父に反抗したことを思い、それと今と照らしあわせて多少の矛盾煩悶を感ぜずにはいられなかった。五月の細雨は、毎日のように欝陶《うつとう》しく隆りつづいていた。明日の日曜は、…鎌倉のY先生を久し振りに訪問しようと思っていたのに四郎の報告で母の容態も気づかわしく、頭をおしつけられるような空の重さを感じながら、三吉は雑司ケ谷へ行って見た。 四郎と五作は下の座敷で、面白半分に、何かの空鑵《あきかん》を利用して、母のためにアイスクリームを作っている最中であった。 病床は二階に移されていた。天井から吊《つ》った氷嚢《ひようのう》を額にあて、じっと仰向《あおむ》いている母の顔は、しなびて、土気色に見えた。 「医者はね、流感だと言うんだよ。もう、熱も出ないし、あと、一凋問も寝ていれば、よくなるって」 母は痰《たん》のからまる嗄《か》れ声で、きれぎれに言うのであった。 「それならもう安心だ。安静にさえしていれば」 そう言って三吉が枕もとに坐るのを、母はつぶらな眼で、絶えず見まもっていた。 「まだまだ、死ねないよ。もう五年は、どんなことがあったって、死ぬもんか」 氷嚢がのっているために顔は動かせないので、眼の球《たま》だけが横の方へぎうりとまわって、三吉に注がれるのであった。三吉はぞっとした。執念の眼を見る思いがした。小学生時代、解剖の実験に、三吉は猫の首に細引を結わいつけ、締める役目をひきうけたことがあった。その時、息が絶え絶えになりながら、三吉の顔を恨めしそうにじっと睨《にら》みすえた猫の眼が、今の母の眼とそっくりの気がした。 「何も、死ぬの生きるのと、そんなむずかしい病気じゃないんだから、大丈夫だよ」 ちょうどそこへ、アイスクリームを持って四郎と五作があがって来た。いいしおにして三吉は枕もとをはなれた。 たった一匙《ひとさじ》たべたきりであった。 「五作、お前、それ、三吉によくお願いしな。……三吉、頼むからね」 母は、アイスクリームどころではないのであった。 「五作のことなら、もうよくわかってるんですよ、お母さん。ちゃんと話はついてるんです。心配はいりません」 しめきった部屋の蒸し蒸しさに、三吉は腰障子の端を少しあけて見た。黝《くろず》んだ瓦屋根《かわらやね》の不規律な並びの間に、雑木《ぞうき》の群を抜いて大公孫樹《おおいちよう》が、梢《こずえ》を少し南方に傾け、曇り空を圧して若葉に繁りたっていた。 冬になると、黄葉《こうよう》をすっかりふるい落し、枝々がみんな南へ南へと弓のようにしなっている素裸の姿を見せるのであった。真夏には、青葉の火焔を天に向って吹くがように、壮烈な偉観を示すのであった。早稲田の大学に学んでいる時代から、三吉の見馴《みな》れた公孫樹であった。 姉は赤十字で大手術を二度もうけ、病気手当の要領をよく会得しているので、特等看護婦。四郎は小樽病院で一ヵ月も病父に附き添った経験があるので、一等看護卒。五作は二等看護卒。四郎の女の子二人、これは見習看護婦。……そんな具合になっているのだと、四郎五作が、愉快そうに三吉に報告したのも、その日であった。 「病人一人に、看護婦ぼかり何人もいて、……」 母もうって変って、晴れ晴れした顔で笑うのであった。二週間たらずで、この母に永別しようとは、誰が予想したであろう。 安心して三吉は雑司ケ谷の家を出たのであるが、その家において生ける母を見たのは、それが最後であった。 季節季節のその公孫樹の姿を望見することに、三吉はありしその日の病床の母を追想し、とりかえしのつかない不覚の思いにき悔恨の念にかられるのであった。 昨夜《ゆうべ》雑司ケ谷の大学病院に、病名不詳のまま入院したと、四郎が知らせに来たのは、その日からわずか三日の後であった。 「五作のおまんまを食べないうちは、死にきれない」 母の執念は、死ぬまで五作の上にあった。 前年父が小樽で死んだ時、三吉は葬式の朝に行ったのであった。着くとすぐ、旅装をといて紋服にあらため、すでに納棺されてあった父に三吉は対面したのであるが、頭を綺麗に剃り、深い眼を、眠っているように静かに閉じ、頬は痩《や》せ衰えていても、口もとのあたり平和で、死相というようなものは少しも現われてはいなかった。 「いい仏様になりました」 三吉は手をあわせ、拝みながら言ったのであった。 最後の日、父は一同を呼んで、今夜かぎり自分の命は持たないことを告げたということであった。会社の方の事務も一切引き継ぎ、遺言もして、そうしてその夜、真夜中をすぎて二時、自分で予言したごとく永眠したことを、人々は三吉に話し、その大往生を称讃するのであった。のうそれにくらべて、母の死顔には、何という浅ましい煩《ぽん》悩の相が、醜く残されていることだろうと、三吉はしみじみ考えた。が、浅ましく醜い死相であるだけに、母が現世に残した妄執のほども察せられ、三吉としても心残りは増すのであった。 急に跳ね起きて、病弱の身のどこにそれほどの力があるのか、五作と文子と二人がかりで寝かせようとするのに、母は狂人のように反抗しつづけ、あばれまわるのだと、文子が夜遅く病院から帰っての話であった。それこそ、死力とでもいうのであろうか。あとで考えれば、その時母は、すでに精神に異状を呈しながら、刻々に襲いせまる死に対して、根かぎりの抵抗を本能的にこころみたもののようであった。 それから一昼夜あまり母は昏睡状態のまま、入院後十二日目の深更一時すぎ、最後の痰《たん》が咽喉《のど》にごろごろと鳴って落ちるひまもなく息絶えた。 「今死んでは、死んでも死にきれない」 いつかこう母が言った時の、恨みをふくむ眼つき、歪《ゆが》んだ口つぎ、現世に思いを残す凄《すご》いほどの醜い相を、その蒼ざめた死顔は遺憾なくもとどめていた。 三吉は死顔の白布を、二度ととる気はしなかった。 「うう、……うう、……」 仏前で不意にうめくような声がしたのに、三吉は何事かと振りかえって見た。 「ううーひ、……ううーひ、……」 叔父がすっかり背をまろくして額《ぬか》ずき、その顔を両手 に蔽《おお》いながら肩をふるわし嗚咽《おえつ》しているのであった。 この叔父は、三吉の母の弟で、今は大島町に借金だらけのぼろ工場を経営しているのだが、震災前には大井の方に大きな釘工場を持ち、本所の元町に堂々たる店舗をもって、万の金を動かしているのであった。 両国橋畔、大山巌書の表忠碑の建つわずかな三角地に、叔父夫婦に伜《せがれ》と、この三人は避難して、狢火を前に一夜ら中生死の境におびえ、辛うじてあの大震災の犠牲をまぬがれたのであった。叔父の頭の毛は、その夜を境にして、今までの胡麻塩《ごましお》が真白になってしまった。 それ以来めっきり気も弱くなっていた。壮年時代には上海《シヤンハイ》の方へまでも渡り、雄図に燃えたったこともあるのに、それも言わば昔の夢で、災後の金融はまったく逼塞《ひつそく》し、あまつさえ持病の喘息《ぜんそく》には悩まされるのであった。そこへ忽然《こつぜん》と、ただ一人の姉の死であった。今さらのように老病苦死の感にとらわれ、死者を悼《いた》み、わが身の悲運を嘆くのも当然のことであった。 半夜の通夜をすまし、叔父は帰宅すると言って、仏前に焼香をし、そこへじっと額ずくところまで、三吉は隣室から見ていたのであった。そうして、ちょっと顔をそらしていると、あの嗚咽であった。 誰も誰も、三吉の母の柩《ひつぎ》に向って、それほど自然な率直な悲嘆を表白したものはないのであった。それはちょうど、姉に叱られて、あやまり泣く弟の姿のように、単純で、子供らしく、それだけに悲しみの実感が三吉に来た。顔にあてていた手は、いつの間にか白髪頭をしっかりと抱え、経机の下にもぐりこみそうな恰好で、畳にへたばり咽《むせ》び泣くのであった。 徐々に嗚咽もおさまり、洟《はな》をかんでそこにいなおると、叔父はうしろへ向いて眼鏡の眼にあたりを捜しもとめるのであった。 「五作はいないか! どこへ行った、五作!」 「二階です」 四郎は腰軽に立って、梯子段《はしごだん》の下から睡ぴあげた。 「五作、叔父さんが呼んでるよ」 呼ぼれて五作は降りて来たが、怪訝《けげん》そうに敷居際に中腰できょろきょろするところへ、叔父はいつにない烈しさで言った。 「お前のお母さんが、どうしてこんなに早く死ぬようになったか、お前にわかっているのか?」 三吉にも意外であった。が、叔父は工場に出入するものの噂話で、五作たち同志の動静を知っていたのであった。 毎年正月元旦には、未明に起き、家人とは一切言葉をまじえず、水風呂に沐浴《もくよく》して礼服を着し、まず二重橋前に聖寿万歳をことほぎ、次いで愛宕山上《あたごさんじよう》に初日《はつひ》の出を拝し、それから家に帰って初めて家人と年賀の辞をかわす という叔父であった。 五作と思想上相容れないのは当然であると同時に、あまりにも呆気《あつけ》なく、しかも無限の執着をこの世に残して去った姉の死を見て、五作を責めずにいられない心理も首肯されるのであった。 「お前のお母さんの死を早めたのは、お前のせいだとは、思わないのか?」 何と言われても、五作は頑固に口を緘《と》じたままであった。 「ここへ来て、お母さんにあやまるんだ」 気をいらって叔父はどもりながら言うと、自分はあとずさって、仏前に席をあけてやった。ゆらぐ蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》に、叔父の頬に流れる涙の痕《あと》があわく光るのを三吉は見た。 「この棺の中には」と、叔父は、そこに台をして横たわる柩《ひつぎ》を指さし、「お前のことばかり心配して、死にきれずに死んで行ったお母さんが、……」 あとは言えずに、叔父は片手に顔を蔽うのであった。 「栄子、お前もよくない。そばについていて、どうして五作を放任しておいた!」 「はい」 栄子は日ごろ叔父に好感情を持たないのであったが、さすがに母の弟として、この場合すなおに責めをうけるのであった。 五作は前に進んで、手をつき、深く頭を垂れさげた。大粒の涙が、ぽたりぽたりと落ちるのが光って見えた。 仏前を離れると、五作は眼をしばたたきながら、急いで二階へあがって行つた。 三吉が行って見ると、立ったままで五作は床柱によりかかり、それに頭をごつんごつんぶっつけ、歯をくいしばり、涙一杯の凄い眼で天井を睨んでは、野獣の底うなりのような声を、間断なく出していた。 母の死を悲しむ心と、主義に殉ずる心と、この二つの心の葛藤を、三吉は見るような気がした。 「いいよ、五作、俺がわかっている」 弟の肩に手をかけて、三吉は、慰めようもないとは知りつつ、そんなことを言うのであった。