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秘装八者(ひそうはっしゃ) 自らを〈ヴェル・アアト(永遠の者)〉と名乗る宇宙の存立に関わる原理・法則の守護者たちであり、 この世を管理、存続させていく為の存在。アハーン大陸東方のコウシュ山脈高峰が本拠地で、 その八つの峰に玉座を構えてそこに鎮座している。 〈秘装八者〉とは聖刻世界に属する「力ある意思」、すなわちアハーンで崇められる神々 (ただ一柱遥か未来に遅れて降臨し、再び原初の混沌を巻きをこす予定のデグマト・ドラゴナスを除く)が果てしない争いの末に定めた世界の秘密を言葉に翻訳し、さらに慎重を 期して八つに分割された奥義そのもののことである。 それぞれの一者が、光・闇・物・霊・気・有・無・空を司り守護することで世界の均衡が保たれている(後半三者は未登場)。 彼らの姿は一見して操兵のようだが、実際には自然に生まれ出る存在であり、仮に一者が失われたとしても、 即座にそれに代わる存在が生み出されるという。 古代の神話に残っている〈半神〉と呼ばれる〈秘操兵〉そのもので、存在自体が宇宙の 原理や法則ともいえる。 その世界の秘密・奥義はかつての西方で繁栄を誇った〈ア・カシク(仕える者)〉と呼ぶ古代人に 不完全ながら〈秘装練法〉として与えられ、更に西方暦以前の都市国家モニイダスでは〈秘装八者〉という存在そのものに理解が及ばず単なる東方の 山奥に隠遁する伝説的な術師たちとして扱い研究し、かつての主人である〈古の種族〉の記録を調べあげて 復元した(つもりの)術法を〈秘装門〉と名付けた。 当然ながらそれらも劣化した模倣に過ぎず、結局のところ完全な〈秘装〉の術を使いこなせるのは 彼ら八者のみである。 そんな絶大な力を持ってはいるが、「世界の存続と均衡」を第一義としており、滅多な事で自分達の力を 振おうとはしない(たとえ異界神の侵略や〈八の力〉の暴走を止めるためであっても実力行使して アハーンが滅んでは本末転倒と考えている為)。実際にかつての同胞ギギィ・ガーグの暴走を阻止する為 戦った時には、東方全土を揺るがす被害が出たという。 ナルガ神によってつけられたゼン・イクの「刻印」が移動した事による、アレイ・モーアの造反・消滅により闇の一者が欠けた 状態(とある原因により再生が阻害されている)となっており、 残った七者でその穴を埋める形となっているが、そこにかかる負担は尋常なものではないらしい。 関連 オーレイ・デ・スゥオール ディエン・ズィ・ルィイ カーランカ ドレール・マフナサー
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歌詞:唄界 作曲:縹渺P 翻譯:Hasuki(好久沒翻得這麼酸了!(揍 彼岸花之路 為愛而生之物 一者 二者 三者四者前往黃泉 今夜 照舊依命而為 吾將去往彼岸花之岸 未知 不存 拔去喧嘩之雀舌 竊語中 立於門口 戀心與惡感 皆于琉璃鏡中道來 從此何處為六道? 看吧 看吧 未曾逝去 來吧 來吧 隨我而來 極樂淨土 蓮香彌散 若汝將吾憶起 非也 非也 定已 定已 與煉獄灼燒中忘卻 極樂淨土 蓮香彌散 若汝將吾憶起 非也 定是此刻 于漫漫針山上忘卻 為愛而生之物 一者 二者 三者四者前往黃泉 今夜 照舊依命而行 呼喚何人?【彼岸花之女】 未知 不存 拔去喧嘩之雀舌 捨去吾之本心 戀心與惡感 皆于琉璃鏡中道來 汝于何處入六道? 看吧 看吧 已經逝去 來吧 來吧 莫要逝去 厭離穢土中 燎原之紅 若汝將吾忘卻 非也 定還 定還 牢記此花於心 厭離穢土中 綻裂之瓣 若汝將吾忘卻 非也 定還 定還 牢記此花於心 看吧 看吧 未曾逝去 未曾逝去 未曾逝去… 來吧 來吧 隨我而來 隨我而來 隨我而來… 生者之路 朱紅欲泣 若汝將吾忘卻 非也 定還 定還 牢記此花於心 生者之路 直指月輪 若汝將吾忘卻 非也 定還 定還 牢記此花於心 生者之路 朱紅欲泣 若汝將吾忘卻 非也 定還 定還 牢記此花於心
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太母 英Great mother 全ての霊的な相の権現なる究極の一者 ショットガン婆ちゃん
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序章 マルチチュードと人民 人民・国家が《一者》に収斂するのに対して、マルチチュードは 多様なもの である 人民は国家の存在との密接な相関関係を持っている(by ホッブス)人民に単一の意志が与えられる マルチチュードの中間領域個別なものと集団的なもの、公的なものと私的なもの 収縮する《一者》ではなく、拡散する《一者》を →多数的なものを多数的なものとして迎え入れるマルチチュード 第一章 懸念と防御の弁証法[カント] 世界=内=世界 の生来のリスク← 心的自我 絶対的危険性 恐れと不安[ハイデガー] 内側(住み込み)/外側(離れ)マルチチュードによる外と内の終焉根拠(外と内の一体化) 根拠実体的共同体の消滅 自分の家にいると感じられないこと(=世界への全方向的な露出) 守り→危険の中で守りが危険となる 特殊なトポスから共有のトポスへ 前提としての思考者= 外国人=よそ者 思考が成立するギリギリの地平としての「共有のトポス」 公的領域なき公的知性 狂ったような支配形式の増殖 分有⇔分業 マルチチュードですら《一者》から逃れうることができない 《一者》の規定のしなおし 求心化(=「人民」)から遠心化(=「マルチチュード」)へ 第二章 《労働》(有機的な交換)/《政治的行動》/《知性》(孤立)→「他人のまなざしへの露出」(政治的行動) →労働こそが、政治的行動のさまざまな外的特徴の獲得 名人芸 それ自体の中のそれ自体の完成 他人のプレゼンスを必要とする活動 名人芸と政治的行動は似ている 作品なき労働 = 人格的な奉仕 話す存在 =先行テキスト不在としての名人芸 文化産業 「名人芸的」なものであると同時に「政治的な」ものポストフォーディズムをまとめたものとして(コミュニケーションの即興性) スペクタクル 商品と化した 人間のコミュニケーション 文化産業に特別な商品 二重の本性→特殊な産業の特殊な生産物/ひとつの生産様式全体の真髄 可能性のあるもの(まだ現れていないもの) コミュニケーション産業の出現 途中まで 第三章 個体化原理 終着点としてのアトム 前個体的 生物学的知覚 博物学=自然誌 的言語 支配的な生産関係 両性的主体 個体化は決して完全のものではない「私」であると同時に「ひと」でもある 集団、集団的経験は根源的な新たな個体化の土壌である 社会的個人 生政治 生が政治的に管理されると考える(フーコー)→何故? 補助線としての労働力(=力能、可能態)資本主義における「現在的ではないもの」 売り手の生きた人格と不可分ではない 生そのものが労働力をあらわしている マルチチュードの諸気分 第四章 (テーゼ1)イタリアにおける社会闘争の確認 経済制度を改革するような生産性と、政治的支配の立ち上げ (テーゼ2)知の優位性 (テーゼ3)マルチチュードは自らのうちに労働社会の危機を映し出す マルクスによる三つの「産業予備軍」流動的/潜伏的/沈殿的・労働社会の止揚は賃金労働に基づく内破する労働 (テーゼ4)ポストフォーディズム的マルチチュードによって、労働時間と非労働時間との質的差異は消失する (グラムシ)知性は生産の外にあった ポストフォーディズムは「精神の生活」で満たされる 失業=不払い労働/労働=有給の失業労働の外で培われた経験が労働の中で非常に大きな比重を持つということ (テーゼ5)余剰価値 (以前)必要労働と労働日全体とのあいだの差異 (以後)生産時間と労働時間の差異へ (テーゼ6)ポストフォーディズムの特徴・多様な生産モデルの共存 同質な労働外の社会化 (テーゼ7)労働過程はもはや寡黙なものではなく、むしろ雄弁なもの コミュニケーションが資本主義の中心を陣取る (テーゼ8)ポストフォーディズム的労働力=知的な労働力 話す存在 こそが大衆知力である (テーゼ9)マルチチュードは「プロレタリア化の理論」を埒外に置く (テーゼ10)ポストフォーディズムとは「資本のコミュニズム」 整形済ログ 序章(5/22分) deconstructionjp 序章のマルチチュードvs国家といいますのは、国家がある一点に対して収縮していくような運動、つまりまとまっていくような概念にたいして、マルチチュードがその一者に収縮するのに抵抗するものとして現れてくる。つまり、まとまらない集団として、あるいは均一化されない集団として出てくるわけです。ホッブスなどが、この概念を忌み嫌うのは国家=人民は一つの意志を代行しうるものだから、一者にまとまってくれないと困るわけです。 canis_demens1004 つまり、単位としての個人が集約する社会システム、というよりは、個人が(例えば国家という)ある目標とされる一点に集約されていく、その点そのもの、ということでしょうか・・・? deconstructionjp はい、そうです。ただ一者を否定するだけだとするならばポストモダンがやったような、不毛な差異の強調ゲームに終始してしまう結果となる。だから、レジュメになりますと私的と公的、個別と集団 という間の存在として立ち現れてくる。そのような両義性を含むものとして現れているといってもいいでしょう。差異を強調しつつも、個人にいかない、集団で繋がっているというような「群集」として、マルチチュードは提起されるし、また現れている、と主張するわけです。従って、本書の目論見といいますのは、そのようなあり方とはいったい何なのか、何が可能にしているのかということを考えるというわけです(序章おしまい) canis_demens1004 ここでいう『一者』とは、つまり『国家』と同義、ということではないのでしょうか? deconstructionjp うーん、一者といいますのは、多分、「ある点」として考えると解りやすいのではないかと思います。その点を目指すものとして、国家や人民というものが必要になった、という解釈を僕はとっています。 canis_demens1004 自分が一番ひっかかったのは、その「一者」の必要性についてなんですよね deconstructionjp 一者の必要性といいますと? canis_demens1004 到達点としての一者を想定した上で「マルチチュード」という概念を創出しようとするのでしたら、それはどこまで行っても「人民=国家」という構図の言い換えにならないのではないか、と・・・ deconstructionjp 第一章の話にもなるのですが、問題は「一者」という点をどのように捉えていくか、ですね canis_demens1004 すみません、本書を先に読み進めていけば、その辺の回答も提示されているのかもしれませんが、ちょっと一章に入った辺りまでしか、まだ読み進めてなかったものでorz deconstructionjp いままでの概念だと、多数性から一者に到達するものとして、構築されていたし、そのように現れているというわけなのですが、むしろ、逆転関係として、つまり一者から多数性へと到達しうるようなことを考えているみたいです。ですから、収縮点としての一者ではなく、限りなく拡散していくものとしての一者といったらいいでしょうか。つまり、一者自体は否定しない、その意味が変わっているのだということだと思います。 canis_demens1004 ベクトルを持つ社会性ではなくて、全体をひとつの総体としての『一者』と捉える・・・ということかなあ? deconstructionjp ちょっとまってくださいねー lily_sweet_heart 一者は でこんさんは曰く 「点」ですよね deconstructionjp はい、そうです lily_sweet_heart 点=個では だめなの? deconstructionjp あー、「個」という含みを入れて、「一者」といったのかもしれません>lily deconstructionjp ・ / | \ / | \ / | \ A,B,C,D,E,F,G… ↑ deconstructionjp 普通だったら、このように「特異性」のものから「普遍的なもの」(図だと上方向)なのですが、マルチチュードの場合、逆方向へ向かうというわけです。 canis_demens1004 例えば、グローバリズムみたいな考え方が先にあって、そこからマルチチュードのあり方が求められる、ということでしょうか? deconstructionjp かもしれません。 第一章 deconstructionjp えと、レジュメの最初に書いてあります、カントのお話なのですが、これは要するに「世界が消滅してしまうかもしれない」ことへの恐れですね。そして、もし世界が消滅してしまうとするならば、どうすればいいか、ということです。その為には「世界」から保護してくれるような心的自我を想定する必要があった。つまり避難所が必要だった、と説明しています。そこで、世界を消滅させるようなものがどのようにして現れるか、それをハイデッガーを使います。恐れは何かしらの消滅する原因が解るのですが 不安は、そのような消滅させうるような対象がわからない、ということで区別します。そこで、ハイデッガーは不安というものは<世界に全面的に露出されている我>というものがあるといいます。ここで、一つのクッションとなる(つまり、不安を恐れに変えることができるもの)が共同体である、ということができるのではないでしょうか。しかし、もはや共同体が崩れしまったとき、恐れは不安、言いかえれば<不気味なもの>として現れてくるといえるでしょう。そして、現代の共有意識というのが、既に「居場所が無い」ということになるということができるのではないか。だとするならばマルチチュードというのは、まさにそのような「居場所が無い=不安である」ことを共有するような団体(共同体、とヴィルノは述べてますが)ということができるのではないか。そして、さらに反動的な意識として、「居場所を囲い込む」ということがありうるでしょう。これをセキュリティー化と呼んでもいいかと思います。 canis_demens1004 (すごく例えが悪いかもしれないけど、なんかホームレスのコミュニティに近いような・・・>居場所が無い を共有する) deconstructionjp そうですねー。日本ですとホームレスだということかもしれません。ただ、居場所が無いというのは具体的に住む場所が無い、ということだけではなく canis_demens1004 精神的な、という意味ですよね deconstructionjp 例えば、夜道を歩いていて、何処かから襲われたりするのではないだろうか、というのも居場所のなさということも出きるかと思います deconstructionjp ただし、この守り、つまり囲い込みから何が危険であるかを察知しうることができるといってもいいかもしれません。さて、そのような世界と戦うために考え出されるのが「共有のトポス」です。「特殊のトポス」と比較するとわかりやすいのですが、こちらは要するに共同体や専門家ということを前提とした話をするものとして現れます。しかし、その一方で、居場所の無さとして現れるわけですから、そのような共同体を前提としたはなしかたは出来ないわけです。(ただ、個人的に注をしておきますと、これはヴァルノが住んでいる場所が元になっているため、日本に簡単に当てはめうるものか?というところが少々疑問ではありますが)すると、そのような「特殊のトポス」がどんどん削られていき、言語や思考できるギリギリのラインとしての「共有のトポス」が露出してくるというわけです。したがって、「共有のトポス」が前面に出てきてしまう、というわけです。 lily_sweet_heart (はい・・・・だんだん わかんないけど ま いいか^^) deconstructionjp 僕もいまいち「共有のトポス」というのはよくわからないです。ただ、もしかしたら向こうのクレオールだったり何なりを前提としているのかなとも思っています lily_sweet_heart あ・・・うん そこがわんないです>共有のトポス canis_demens1004 公理とか、思考領域、という捉え方では間違いでしょうか?>この場合のトポス deconstructionjp http //www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/1959/notes/topos.htm こんなページがありました。 「本来トポスは弁論作製のための補助手段である.それはクインティリアヌス(Ⅴ 10, 20)がいうように,「論法の庫(くら)」(argumentorum sedes)であり,したがって実際的な目的に役立つものである」←これは重要かもしれません 実際的な目的に役に立つ、というのはまさにヴァルノが強調している、危機回避能力とでもいうべき思考と絡んでくると思われます。生物学的=数学的な専門知識ではなく、まさに偶発事や不可解な出来事に備えるための最低限の「補助手段=抽象思考」とでもいうべきなのでしょうか。 canis_demens1004 すみません、ちと所用が発生したので一端離席します。そのまま進めてください。後でログを拝見します。 deconstructionjp (この場合、一番わかりやすいのはもしかしたら虫のしらせ、という奴かも lily_sweet_heart 虫のしらせ・・・が ポトス・・・? deconstructionjp ええ。ただ、それだと余りにも直感すぎるってところもありますが… deconstructionjp あ、まーたおいら適当なこといってた^^A deconstructionjp ちゃんと説明しますと、(やはり虫のしらせだと直感すぎる=主観すぎる) deconstructionjp 共有のトポスには三つあるらしいです(アリストテレス)より大きいもの小さいものという比較、お互いに反対するものや対立、または関係図 というものらしいです。先ほども申しましたように思考ができるギリギリのラインですねー。(例えとしては虫のしらせより、ジンクスのほうがいいかもしれませんね) lily_sweet_heart それは・・・トポス? 共有のトポス? deconstructionjp ええ。例えば「僕ジンクス」や「私ジンクス」みたいにこれをしたらなにか悪いことがおきる、というのは、そこに何かしらの因果関係を見出す、ということですから。それは科学的であれ、科学的でないであれ。で、このように思考できるギリギリのラインで考えることこそがマルチチュードであるというわけですね。マルチチュードの定義からして、まず居場所が無いことであり、そして、特殊のトポスは共同体を前提とするわけですから二つは合い入れないというわけです。ですから、ギリギリで考えている以上、そこにはもはやどれだけ知識があるとか、どれだけ知的に隔離されていようが関係がないというわけですね。ただ、ヴィルノさんはここで、補助線を引きます。その補助線といいますのが、「反復」という概念です。それもまた、一つの防衛機構であり、子どもの頃からやっているものではないかと考える。ですから、これもまた一つの「共有のトポス」になってくるのではないか、と考えていらっしゃるみたいです。ただ、さきほども言いましたように、ジンクスも一つの共有のトポスであるのではないかと申しました。だとするならば、そのジンクスによって、支配形体を作り出すことができます。そして、しかもそれらは狂ったように増殖しはじめていくのではないかと考えるわけです。これをマルチチュードの否定的側面と捉えています。 lily_sweet_heart 途中で口はさみますが・・・でこんさんは この概念はどうお考え? deconstructionjp 僕は、前にちょくちょく短期アルバイトや、長期アルバイトをしていたのですがその場合(特に短期アルバイトはそうですが)、やはりさまざまな人が居たりするわけですね。そこで、上記の言い方になりますと「特殊のトポス」というのは削いでいかないといけないわけです。そのような体験上、僕はさっきの議論というのはリアリティーを持つわけです。(それが現実のものであるかは検討しないといけないのですが)ですから、僕はリアリティーがある以上、積極的に検討してみようかなと考えている次第です。 第二章(6/5分) deconstructionjp (20 08 56) ヴィルノさんは次のように指摘します。分業と分有は対立関係になっているといいます。僕の直感ですと、分業は「それぞれが分断されて仕事を行っている状態」、つまり特殊なトポス=専門職であるように捉えることが出来るのではないでしょうか。しかし、そのような専門職ではないような、固定化された職ではなく、流動的にうつりかわりの激しいものとして、分有が成立してくるのではないでしょうか。むしろ、そのような職場では知識よりも知性、つまりヴィルノさんは人格的なものによって基盤を置かれていると説明します。で、一回 《一者》とマルチチュードの関係について見ることになります。前にもcanisさんが質問なさっていたように、《一者》というのからマルチチュードは逃れられないわけです。しかし、今まで《一者》か目指されるものであった(真理の追求)であったのに対して、むしろ《一者》からすすみ、そこから多様性が生み出されるものとして方向転換されるべきだと規定されます。つまり、もはや目標ではなくスタートラインである、というわけです。 mutumigoe (20 22 20) 真理の追求だったの? deconstructionjp (20 24 25) 多数的なものから普遍的なものを取り出すという意味で考えるならば、「真理の追究」としてでも考えられないかなーと思いまして mutumigoe (20 26 41) おれが想像する一者というのは、vox pupuli, vox deiにみられるような、国家統一によって画一的なものとして想定され、それを強いるものだね。代理制では、代理者が、代理されるものをつくってしまうような。それを、「真理の追求」というのは、普遍性との関係もあるんだろうけど、ちょっと違和感あるな。。。ヴィルノがいってるのかな? deconstructionjp (20 28 53) はい、集団による「代表」を取り出すということですね kazenotani_mio (20 29 13) 悲観論として・・ですね deconstructionjp (20 31 07) (あ、僕がそのような意味合いとして捉えられることが出来るかなと思いまして。ちょっとヴィルノさんとずれてくるかもしれません…>mutumi mutumigoe (20 31 30) 了解です。 kazenotani_mio (20 23 32) 質問ですが・・・第1章において・・「居場所が無い」という 共有意識というのは・・ニヒリズム に 繋がりますか? mutumigoe (20 25 12) それは、マルチの構造的な問題で、必ずしもメンタルじゃないよね。<「居場所が無い」 deconstructionjp (20 27 09) (ニヒリズムですかー。うーん、ヴィルノさんはニヒリズムについては説明をしていらっしゃっていたかな…個人的には、ニヒリズムは居場所の無さというよりも、居場所を維持するような意味合いも含まれているような気がします) deconstructionjp (20 34 42) しかし、国家はそのような《一者》を強要してくるのに対して、既に共同体はそのようなトポスを達成している。ここですれ違いが起きてしまうと思うわけですね。そのような=代表を要求してくる、という意味でですね。共同体というとおかしいか…むしろ社会といったほうがいいですね。そのような一者への収縮を拒むような形として「抵抗権」が提示されるといいます。従って、「維持的暴力」になるのではないかといっています。ですから、mioさんがおっしゃられた「ニヒリズム」というのはそのような「維持的暴力」として捉えられないか。つまり生活様式を守るために過度な相対性を持ち出してくるのではないか。そのように感じました。 mutumigoe (20 38 13) うむ、社会契約論の文脈では、よく「抵抗権」が議論されるね。 deconstructionjp (20 39 24) 「抵抗権」は認めうるかということですね…ホッブスは確か認めていらっしゃらなかったんですよね。(それに対してロックがそれを認めたわけですが) mutumigoe (20 40 25) うむ。カントも認めない・・・ kazenotani_mio (20 40 40) トポスは必然的に 生まれてくるもの なら マルチ と 対立するわけですね kazenotani_mio (20 41 37) なるほど、ニヒリズムとは また別の 次元なんですね deconstructionjp (20 42 02) うーん、「共有のトポス」は、マルチチュードとは対立しないといいますか、逃れられるものではないと思うのですね。先ほども述べたのですが、スタートラインとして立つべきところであって、決して目指されるべきものではない。ですから、それを「目指されるべきもの」として提示された場合、そこで対立が起きている、というように思われます。どちらかというと、僕にはニヒリズムは「生存=生き延びるため」の技法という捉え方のほうがしっくりくるかなと思いましたので^^A>mio kazenotani_mio (20 44 04) トポスは始点として存在するものなんですね・・了解しました deconstructionjp (20 45 24) ただ、ヴィルノさんはマルチチュードが代表を不可能にするとは述べているのですが、しかしそれで労働階級が無くなるわけではないとおっしゃってます mutumigoe (20 46 05) 「、「家なき者たち」からなるマルチチュードは、知性に、すなわち「共有のトポス」に、身を任せているのです。そして、独自のやり方で、(たとえ彼らが小学校しか卒業していなくとも、そして、たとえ彼らが拷問のもとにおいてすら本を一冊も読めなかったとしても)思考者たちのマルチチュードなのです。」(57p kazenotani_mio (20 47 09) わかりました mutumigoe (20 47 11) うん、、「共有のトポス」は、マルチチュードとは対立しないよね。 deconstructionjp (20 48 36) (P.65を引用しますと「反対に、マルチチュードのほうはひとつの遠心化的運動の、すなわち《一者》から《多数的なもの》へと向かう運動の成果です」と書いてありますし) deconstructionjp (20 49 39) ここのあたりが難しいのですが、ヴィルノさんはそのような「絶対的価値」と「相対的価値」の交差点として「労働階級」がありうると捉えてあります。そんなこんなで、マルチチュードは歴史的な考察から無視されてきました。私達は今、このマルチチュードを分析するような必要性がある、というところで一章が終わります 一章質疑応答 mutumigoe (20 53 57) 絶対的剰余価値と相対的剰余価値は、資本論の語彙みたいね。。。 canis_demens1004 (20 53 12) スタート地点を規定することが何故必要なのか……とりあえず、それが最大の疑問です。個体の有機的な集合としての全体が、結果として捉えられることは理解できるのですが、ここで言う『一者』というのは初めに理念ありきであって、どうしても国家という概念の言い換えでしかないような気がするんですよねぇ……そこのところがどうにも腑に落ちない、といいますか(汗 deconstructionjp (20 55 50) スタート地点を規定する必要があるのかどうか。確かにそれは重要だと思います。 mutumigoe (21 00 05) 一義的には国家だと思いますよ。ただ、国家による求心的な力から逃れたマルチもまた、なんらかの一者(統合)からまったく自由でないってことでしょう。>かにさん canis_demens1004 (21 02 23) 確かに言語を共有している時点で『なんらかの一者』から自由になることはできない、のでしょうね。なるほど確かにそう考えると、単一の存在としての個というものそれ自体がそもそもありえないのかもしれないなあ・・・。 lily_sweet_heart (21 04 16) マルチの概念において 国家の捉え方が違いますよね むつみさんがおっしゃったように mutumigoe (21 04 51) まあ、言語だけでなく、いろんな不自由があggるんですが、それはおいおいでてくるとおもわれ。ちなみに一般知性の共有は、画一化の一面でもあるのだろうけど、あるいみ、連帯の契機でもあるとおもうよ。>かにさn canis_demens1004 (21 07 52) ああ、スタンドアロンコンプレックスだ(ぉぃ>一般知性の共有は、画一化の一面でもあるのだろうけど、あるいみ、連帯の契機でもある kazenotani_mio (20 53 30) 社会学者達の 中には労働の終わりを予言してる人達もいる。と聞きましたが。機械主義が 徹底したら労働は組織的に減少 するという・・(これは マルチとは 関係ないのかもしれません) lily_sweet_heart (20 56 29) (歴史的考察から無視されてきた マルチチュードはなぜ今分析する必要でてきたのでしょうか?) deconstructionjp (20 58 19) うーん、ある意味では労働がある種の共同体を成立しうることによってのみあったのに対して、それほど共同体を重要としなくなったのではないかという転換も含まれているのかなと…これは想像でしか解らないのですが。うーん、前にも話したのですが、例えば派遣制アルバイトなどですね。僕は労働の歴史に詳しくないので何時頃から出来たかは解らないのですが、そのようにある人をそれぞれの場所に回してくるというようなありかたが段々出てきたのかなと思っていますー。それは予め成員を固定したものとしてあるわけではない、と思いますから。 kazenotani_mio (21 01 52) 確かに 今の労働は・・変化してきています。基本的な社会のつながり(地域・家族) が 労働を中心としていた・・というのは もう 一昔前の事 なんですね mutumigoe (21 02 10) マルチチュードってのは、グローバル化した社会の成員を規定するために持ち出された術語だよね。 deconstructionjp (21 03 40) うーん、そこのところがちょっと気になっていまして。フランスの労働状態というのはもしかしたら日本とは全く違っていて、隣に外国人が文字通りいるような状況なのかなとも思いましてだとすると、安直にマルチチュードを日本に移植は出来ないことになりますし… mutumigoe (21 06 03) うーんそれもあるでしょうね。ただ、国民国家の枠組みが緩んでインターナショナルなものが kazenotani_mio (21 06 56) なるほど deconstructionjp (21 07 06) ユーロみたいなものかな mutumigoe (21 07 25) 前面に出てきた今日、どの社会にもある程度、普遍的に見られうるものと想定されてるんではないかしら。 deconstructionjp (21 07 46) 隣のスペインの職場のほうが近いから、そこに働きに行こう、みたいな感じもあるのでしょうね lily_sweet_heart (21 08 29) (ユーロは今回売られましたね・・フランスのせい?w) kazenotani_mio (21 08 47) 加盟する 各国が 同じ一人の大統領を 持つ という・・欧州連合>でこんさん kazenotani_mio (21 09 08) フランスが反対しましたが deconstructionjp (21 10 07) ふーむ、なるほど… mutumigoe (21 10 34) ここ、「上在」とか、意味不明だなあ。文字化けかしら。「現代のマルチチュードにとって、「自分の家にいると感じられないこと」という条件は、恒常的なものであり、上可逆的なものです。実体的な共同体の上在、そして、互いに組み合わされた諸々の「特殊なトポス」の上在によって、〈外国人=よそ者〉の生活、〈自分の家にいると感じられないこと〉、すなわち、〈bios xenikos〉〔〈外国人=よそ者〉の生〕は、逃れ得ない永続的な経験となるのです。つまり、「家なき者たち」からなるマルチチュードは、知性に、すなわち「共有のトポス」に、身を任せているのです。」 mutumigoe (21 11 06) 不在かあ? deconstructionjp (21 11 57) 「そですね。上が不になっているだけですね 二章 deconstructionjp (21 14 31) レジュメ、第二章にあります通り、ヴィルノは次の三つの区分をアレントをもじって借りてきます。《労働》/《政治的行動》/《知性》 の三つです。 労働は交換可能、反復的、予測可能という風に説明します。片方の《知性》は目に表れないもの、また他人のまなざしから逃れていることだという風に説明しています。しかし、このままでは、《知性》が《労働》と結びつくような契機が無いです。ですから、《政治的行動》というものを持ち出すように思われます。 従って、三つの「分断」から、三つの「統合」へという方向へ転換された、というように説明します。ここで重要になるのが二つを結びつけるような《政治的行動》であるように思われるわけです。先ほど説明しましたように、人格的なものが、労働の重要性を帯びてくるといいました。その人格的なものを労働の一つとして現すように出来るのが政治的行動だと思うのですね。で、その政治的行動の一つとして「名人芸」というものがあるんだといいます。名人芸は「職人芸」ではありません。むしろ、パフォーマンスを行うようなものとして定義されているのが名人芸です。 例示としましては、舞踏家、雄弁家、教師、司祭が挙げられています。 この特徴としましては(1)それ自体がそれ自体として完成する(2)他人がいて初めて成立する、ということを挙げています。従って、逆にこのようなことを拒絶することは、政治的ではないということもできますでしょう。(アレント的にいいますと「他人のまなざしへの露出」を拒否することですね)さらに、このような「何かしらの生産物を生み出さない」ような知的労働はあのマルクスを当惑させてしまったとヴィルノは言っています。なぜなら、それには余剰価値というのが発生できないのではないかと考えるわけです。ですから、むしろ先ほども述べましたように人格的なものが前面に出ている今日、そのような当惑を無しで済ませるわけにはいかないわけですね kiitisamatennsai (21 31 01) (△・ェ・).。oO(1のそれ自体がそれ自体として完成するっていうのは、たとえば、工場労働とかは違って、一つの製品をつくるのに分業されてなくって、その人個人で製品ができあがるような感じっていう理解でいいの? deconstructionjp (21 32 49) うーん、なんといったらいいのでしょうか。例えばダンスの場合ですと、ダンスをすることが一つの「労働=作品」として密接に同じになっているということだと思います canis_demens1004 (21 32 39) 生産物がないこと、何かを作り出すのではなくて言葉や身体の表現そのものを行う知的労働、という意味かと思いますが>きいちさん kiitisamatennsai (21 33 32) (△.ェ.).。oO(なるほど~労働が作品か・・・いいなぁ・・・謎 kazenotani_mio (21 31 02) この余剰価値を発生そない知的労働というのは 政治的行動の事ですか? deconstructionjp (21 31 32) はい、そうです。政治的行動のバリエーションとして出来た「名人芸」ということですね>mio kazenotani_mio (21 32 39) 何故 マルクスは当惑 するのでしょうか?労働と 知性を結びつけるものなのに deconstructionjp (21 34 11) ちょっと余剰価値には詳しくないのですが、「製品」が無いところには余剰価値=利益(といったらいいのかな?)が生まれないから、自分の理論体系では説明できなくなってしまうから、ということがあるかもしれません kazenotani_mio (21 34 21) マルクスは・・芸術を必要としないという・・ mutumigoe (21 34 25) ヴィルノが想定しているポストフォーディズム社会については、たとえばここ。ここみると、パフォーマンスとしての労働とすこしつながるかな。 http //d.hatena.ne.jp/naozane/20050428 deconstructionjp (21 38 32) 続き行きますねー。さて、当惑といいますか、先ほどのURLにもありましたが、コミュニケーションが重要な契機となっていきます。これをヴィルノは 話す存在 といいます。話すということは、何かしらの録音がされない限り、だんだんと消えていってしまうものですから、それは「名人芸」の定義と似ているものだと思います。そして、その「名人芸」、つまり言語活動が「名人芸」として現れたところは、文化産業というのが契機としてあったといいます。この文化産業は、例えば綿矢りさやモブ・ノリオを思い出したらわかりやすいのかな? lily_sweet_heart (21 43 00) 金原さんも思い出してね^^ deconstructionjp (21 43 12) あはは 笑 で、先ほどmioさんが機械主義によると労働が無くなっていくというように言われました。確かに、単純作業の労働は機械によって変わられるでしょう。しかし、それらを調節したり、あるいは点検したりするようなコミュニケーションが重要になってくる。つまり、そのような「単純作業」は機械によって変わられていくのにたいして、それをまとめあげたりするようなものは名人芸に近づいてくる、と指摘します。つまり、機械のバグみたいなものを確認したりするような労働にどんどんズレていくわけですね。そのようなバグ=プログラム外のもの、決定不可能なもの を生み出して、それを政治的行動としてやっていったのが文化産業の役割だったわけです。 kazenotani_mio (21 49 43) 旧来のやり方で思い描かれてる労働、伝統的な生産方法も 終わりを告げていく deconstructionjp (21 50 02) もちろん、単純には消えてなくならないかもしれませんが…で、現在、バグが重要になってくるわけですから、そのような文化産業こそが、工場などを整備していく(!)という奇妙な関係が生まれると言うわけですね。で、次にスペクタクルの社会(先ほどのURLにも出てきましたが)が援用されています。スペクタクルとは確か見世物という意味だったと思います。 kiitisamatennsai (21 54 06) (△・ェ・).。oO(USJでスペクタクルショーってゆー電光掲示板でかいてあったけど、見世物しょーだったのね。 deconstructionjp (21 54 53) で、先ほども述べましたように、スペクタクルは二重の本性を持っている。特殊な産業の特殊な生産物(文化産業)であると同時にひとつの生産様式全体の真髄である、というわけですね。見世物=名人芸、ですね。 kazenotani_mio (21 56 40) あの、名人芸=政治と理解していいのですか? deconstructionjp (21 57 34) うーん、率直に政治とは呼べない気もしますねー。政治的、という比喩に留まっている印象がします。 kazenotani_mio (21 57 50) 比喩ですね mutumigoe (22 01 40) 名人と政治の関係は、あとでもっとでてくるよ deconstructionjp (22 02 20) あ、そうでしたか^^A 久しぶりだったので全体の構成を忘れてしまっています(汗 deconstructionjp (21 58 46) ただ、重要なのは(ここでヴィルノさんがしているアガンベンの「生政治」批判と関係してくるのですが)このような労働は「可能性のあるもの(まだ現れていないもの)」として提出されているわけであり、またそれを予期して賃金を払ったり、雇ったりするのだと。スペクタクル=見世物というのはまさしく「可能性のあるもの」として期待されるわけですから。そして、見世物が出てきたということは、客観的な人間関係ではなく、むしろ主観的な人間関係のほうが重要になると。つまり、労働者がどうすれば楽しく(!)労働できるかということになってくるわけです。以前みたいにただやみくもに働かせ続けるだけでは駄目だというわけです。 (しかも、働かせ続けることは全体から見たら非効率であり、ちゃんと中休みを取ってあげたほうが効率が良くなるという研究結果が確か出ていたと思います) そして、このようにコミュニケーションという能力が労働の全体を占めてきてしまうわけでありました。このコミュニケーションをコミュニケーションたらしめるものこそ、「共有のトポス」だと言うわけですね。もはや、労働は機械的な連結ではなく、このような有機的な(いいかえれば生きた労働)なのであります。ただ、このような公共性は、賃金が関わることによって、またゆがめられてしまう、と指摘するのです。 kiitisamatennsai (22 11 41) (△・ェ・).。oO(コミュニケーション産業って具体的になによ? deconstructionjp (22 12 00) (人事部はちゃうの? kiitisamatennsai (22 12 19) (△・ェ・).。oO(スッチー?キャバ嬢? deconstructionjp (22 13 33) (ちょいまって。そこんところ、さらりと流してしまった 汗)文化産業→コミュニケーション産業という流れだと思うんだけどね…多分、スナックとかキャバ嬢も関係してくるのかな… pia_pia_pia2005 (22 15 19) いかなる、産業においても、行われる、コミュニケーションのことでしょう。例えば、部署や機械互いにを調整するコミュニケーションであって、コミュニケーション産業自体があるわけでは、ないでしょう。 (注訳)ここから落ちてしまいました。すいません。(by deconstructionjp) lily_sweet_heart (22 15 21) (顧客とのコミュニケーションにおいて なりたつて意味?)あぁ そうかも mutumigoe (22 17 37) コミュニケーション産業はむしろ、サービス業みたいなイメージかなkk pia_pia_pia2005 (22 18 15) その、労働環境における、コミュニケーションが、共有のトポスからなり、それは、マルチチュードを構成する、主要因なんでしょう。先走ったか・・・w lily_sweet_heart (22 19 13) あくまで ここで言うところの コミュニケーションの概念て そんなことでいいの? サービス業?? kazenotani_mio (22 19 18) 知性が 手を生み出すというか・・効率をよくするという意味では? kazenotani_mio (22 19 27) コミュニケーションって mutumigoe (22 20 31) 第三次産業の発達と並行したはなしでしょう。 kazenotani_mio (22 20 42) あぁ・・大きな意味なんだ pia_pia_pia2005 (22 21 22) いや、このコミュニケーションは、名人芸であって、フォーデズムで、枠にはめられた、無機的な労働を有機的に変えるものだよ。概念定義が曖昧だけど mutumigoe (22 22 20) 「私の仮説は次のようなものです。コミュニケーション産業(あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業)は、数多くある産業のうちのひとつであり、特殊な諸技術や、特別な慣例や、固有の利益を有しているが、また別の面で、コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」(108頁) kazenotani_mio (22 22 24) 有機的に変える・・というのは 人間的であるということ pia_pia_pia2005 (22 23 28) 生命力を有すると僕は理解したよ。@みおさん mutumigoe (22 24 14) パフォーマンス・・コミュニケーション・・とつながってるようだね。 kazenotani_mio (22 24 29) なるほど・・今までの労働は生命をも 衰弱させるような イメージも ありましたから・・ぴあ さん lily_sweet_heart (22 25 03) 営業という職種は まさに それだわ・・・>むつみさん kazenotani_mio (22 25 14) あぁ・・そっか・・りりちゃ lily_sweet_heart (22 25 38) 具体例あげると・・・キャバ嬢だけじゃないわw mutumigoe (22 25 40) 人間的というより、有機体のようにフレキシブルかつ一丸となって機能するかんじだね。み mutumigoe (22 27 24) つまり、文化産業のパラダイムが、一次的な生産にまで浸透してくるってことだろうね。「コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」 c0sm0s_0 (22 28 46) 営業が絡むのは、司法書士などの士業も、同様ですね^^ pia_pia_pia2005 (22 29 01) 文化産業の生産手段としての、コミュニケーション産業と読んだのですが、間違いかなw mutumigoe (22 29 53) 「コミュニケーション産業(あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業)」と、108にありますね。 c0sm0s_0 (22 30 27) コミニュケーションだったら、ピアノ教師もそうです kazenotani_mio (22 30 40) 確かに労働という範囲というものが 拡大してきてるんですね mutumigoe (22 31 31) あ、ぴあさん、両義的なようです。「私の仮説は次のようなものです。コミュニケーション産業(あるいはむしろ、スペクタクル産業、あるいはさらに、文化産業)は、数多くある産業のうちのひとつであり、特殊な諸技術や、特別な慣例や、固有の利益を有しているが、また別の面で、コミュニケーション産業は、生産手段の産業という役割を果たしてもいるのではないか。」 pia_pia_pia2005 (22 33 14) また、別の面で、とありますね mutumigoe (22 33 22) うむ。 kazenotani_mio (22 34 58) 生産手段の産業・・というのは コミュニケーション産業を円滑に行うための 産業のことですか? lily_sweet_heart (22 35 51) 労働の拡大ではなく 逆に狭小のように思われます なぜか聞かないでね・・・そんな気するだけだから・・というか でこんさん いない・・・ kazenotani_mio (22 36 25) 労働という意味の拡大と 解釈したんですが pia_pia_pia2005 (22 37 32) いや、特殊なものだけでなく、あらゆる、産業の生産手段に、コミュニケーションがなっているという意味では、ないでしょうか。@みおさん [22 54 33]kazenotani_mio 労働のた為のコミュニケーション と コミュニケーション産業のところ で ごっちゃ になってしまって [22 54 59]mutumigoe つながってるのよ [22 55 01]pia_pia_pia2005 うん、僕には、使い分けているようには、思えないんですよ [22 56 09]kazenotani_mio 繋がってる・・この 労働のため というのは・・ロスをなくすとか 円滑に行うという ものではなくって・・という 意味? [22 56 17]mutumigoe 文化産業の台頭によるコミュニケーション化が、全体に浸透していったようなイメージではないかな。あるいはどうじしんこうか [22 57 04]kazenotani_mio ふむ 。文化産業というのは わかるんだけど [22 57 38]pia_pia_pia2005 さきほど、僕は、特殊と共有と一章から、言葉を借りタンですが。 [22 57 44]kazenotani_mio 第一次産業のための コミュニケーション・・という 意味では ないんですね [22 57 46]canis_demens1004 元々労働の根幹にはコミュニケーションが必要だったのだけど、労働というモノの性質が変化したことによって本来内在していたコミュニケーションの要素が顕在化してきた・・・ってことかなあ? [22 57 49]deco_pedantic_bookish_talker そうですね。もはや、例えば労働組合の成立を阻止するためにコミュニュケーションを阻止するということではなくて、それを労働として組み入れていくような状態があると思うのですね。そして、そのコミュニケーションの基盤といいますか、モデルとしてあったのが文化産業が提供したのではないか、というように捉えています。 [22 58 14]mutumigoe ここでのコミュニケーションってかならずしもいいものじゃないよね。他人の前でやるパフォーマンスでもある。 [22 59 36]deco_pedantic_bookish_talker (実際のところテレビの芸人達の馴れ合いみたいなものが(笑)今の若い人達のコミュニケーションの基盤みたいになっているような状況というのはあると思いますしね。その延長上に、労働というのが浮かび上がってくるのではないでしょうか) [22 59 54]pia_pia_pia2005 特殊なものは、確かにあるが、共有(あらゆる産業の生産手段)としても、存在する。1章では、特殊なトポスは、影をひそめましたが・・・ [23 02 37]pia_pia_pia2005 笑いを作る作業(コミュニケーション)が、生産労働ですね。それが、名人芸や、二次的コミュニショーンを生成していく 暫定的ログ 欄外からの一言 てすてす -- 名無しさん (2005-05-21 23 02 07) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/zenmaitako/pages/90.html
一者と五者の結社 オーマン人部族
https://w.atwiki.jp/obbligato207/pages/973.html
〈秘装八者〉の一角、〈気〉の一者。 ゼン・イクの存在に気付く。
https://w.atwiki.jp/gods/pages/22883.html
ラトミカイク パラオ諸島の神話の創世女神。 海底に住み下方世界の第一者と呼ばれた。
https://w.atwiki.jp/obbligato207/pages/969.html
〈秘装八者〉の光の一者。 →ニーズ・エイルマイノー →ラーラ・ロゥイエン 関連 ドレール・マフナサー
https://w.atwiki.jp/gods/pages/18030.html
レベ(2) アフリカのシエラレオネのマンデ族の創造神。 その名は「高みにおわす一者」の意。
https://w.atwiki.jp/osyaka/pages/32.html
会話のこじれの原因、経緯を突き止める。 第一者視点会話(煽り、) 第二者視点会話(煽り、) 第三者視点会話 他者視点会話