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イエスの顕現について最も初めに触れられているのはパウロ書簡のコリントの信徒への手紙一である。ケファとはシモン・ペトロのことである。また、ここで言及されている「聖書」とは旧約聖書のことであり、福音書はまだ存在していない。(Ⅰコリント15 3-8) 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 他の全ての福音書はこれより後に書かれていることをまず留意したい。 マタイ福音書でのガリラヤでの顕現 マルコ福音書では、天使がイエスがガリラヤにいることを告げる場面で終わっている。一方、マタイ福音書では、天使の命令により弟子たちは実際にガリラヤへ向かい、そこで復活したイエスに会っている。そこでイエスが宣教について述べる場面で終わっている。(マタイ28 16-20) さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(終) しかしこれはパウロ書簡の内容にも反しているし、後述するルカ福音書やヨハネ福音書の内容とも合致しない。 ルカ福音書でのエルサレム周囲での顕現 ルカ福音書では、まず、エマオという村へ向かっていた二人の弟子の元にイエスは顕現している。(ルカ24 13-32) ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 その後、二人の弟子がエルサレムに戻ったところで、十一人の使徒たちとその仲間の元にイエスが顕現し、魚を食べて見せた。(ルカ24 33-43) そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。 そして弟子たちに復活について説教を始めた。(ルカ24 44-50) イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」 ヨハネ福音書での3度の顕現 ヨハネ福音書では、(おそらくはエルサレムにある)弟子たちの家の前にイエスが顕現した。これが一回目の顕現である。(ヨハネ20 19-23) その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 中でも、使徒トマスが疑い深く、イエスの顕現を信じていなかったことが細かく書かされている。トマスの前に現れたのが二回目の顕現である。(ヨハネ20 24-29) 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」 さらに、三回目にティベリアス湖畔で顕現した時には、二回目の大漁の奇跡を見せている。 ヨハネ21 1-14 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされたイエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。 その後、ペトロは三度主を知らないと言ったこと(ペトロの否認)に対応して、今度はイエスがペトロに「私を愛しているか」と三度尋ねる。 ヨハネ21 15-19 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。 マルコ福音書の終結部 なお、マルコの福音書には、ルカ、ヨハネ、マタイの順に他の福音書の内容をまとめた記載があるが、後世の加筆と考えられている。(マルコ16 12-18) 〔(マグダラのマリアが弟子たちにイエスの顕現を報告した)その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」〕
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【作品名】唯一神又吉イエス 【名前】又吉イエス 【大きさ】普段は人並みの成人男子くらいの容姿で現れるが真の姿は全てを内包した存在で限りが無い 全世界・全宇宙・全次元にある全ての存在は彼の一部に過ぎない。 【攻撃力】最低でも多元宇宙内包大規模上位階層無限個内包上位階層を更に内包した階層を更に内包した階層を それまた更に内包した(以下略、×5000恆河沙)くらいの階層は鼻毛だけで消し飛ばせる 【防御力】多元宇宙を一撃で消し去る攻撃をくらってもマッサージくらいにしか感じない 【素早さ】時間・空間という概念がない為、あらゆる宇宙・世界・次元のあらゆる時代のあらゆる場所に移動が可能 【備考】作り出そうと思えば具現化し何でも創造できるし 消えろと思えば何でも消せるが、非常に過激な性格のため わざわざ「腹を切って氏ね」と消したい相手に対し自害を命令する。 もちろん唯一神なだけに彼に逆らえる存在はいないので命令された側は切腹せざるを得ない。 しかも自害するだけでは飽き足らず死後、その者の魂を地獄の火の中に 放り込むという、とても厳しく凶悪で我侭なお方。 たとえ死や消滅の概念がない存在に対しても因果律を弄繰り回して無理矢理、死ねる存在に 作り変えてしまう。 でも、その我侭なせいで人望はなくなってしまい次回唯一神選挙で小泉神に敗退するばかりか 下っ端の秀吉神にも投票で負けてしまう。 122 名前:格無しさん 投稿日:2006/04/28(金) 13 42 11 又吉イエス……SSランク。病原体Xを防ぐ手をもっていないのでその真下。
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又吉イエス またよしいえす 【人物】 08-12-31作成 random_imgエラー:ご指定のファイルがありません。アップロード済みのファイルを指定してください。 又吉イエスとは、唯一神である。 過去、世界経済共同体党党首として幾度か国政選挙などに立候補している。 いわゆる「泡沫候補」の一人。 2003年、東京一区から総選挙へ出馬したことをきっかけに全国的に有名になる(なお、東京にくる前にも出身地の沖縄で何度か出馬しており沖縄では「知る人ぞ知る」存在だったらしい)。その後、2004年から立て続けに東京で参議院議員選挙・総選挙・都知事選挙に出馬。 「腹を切って死ぬべきだ」「地獄の業火に放り込む」「選挙候補で熟知すべし」などの特徴的なポスターの文句やデザインにネタ好きなネットユーザーが反応。期待通りの政見放送を経て、人気はさらに拡大。 もっとも、ネタ扱いされるだけでなく、ボランティアとして参加した者も多かったようだ。参院選時には、とても都内全域にポスターを貼る人手がないとされていたのに、最終的にはかなりの地域に貼り切ったらしい。 しかし、結果はいずれも供託金没収圏内で落選。次回以降の出馬を危ぶむ声もある。 ちなみに、ひろゆき氏は又吉氏が出馬する度に彼に投票しているしている。理由は、当選者の何万分の一よりも又吉氏の何百分の一の方が投票した甲斐がある、という趣旨だそうである(ITmedia NEWS 2008年12月26日 17時05分)。 ところで、又吉氏は「唯一神」「イエス」を名乗るが、牧師だった経歴があるらしい。最初の選挙の時は「又吉イエス」を主に使用したが、有効になるのは「又吉光雄」の名でのものだったため、参院選からは「マタヨシ光雄」を主に使っているようだ。 その他、又吉氏の詳細はウィキペディア等で熟知すべし。 余談 かつて、ネタ見物に池袋の街頭演説をみたところ、演説外では人のいいおじいちゃんという感じだった。ボランティアが多数集まったあたりも含めると、人の良さが見える気がする。 さらに余談 マスコミの泡沫候補扱いはどうなのだろうか。 選挙で選ぶのは有権者であって、マスコミではない。 有力候補がクローズアップされ、扱いに大きな差がでるのは仕方ない。 しかし、泡沫候補は全く表示しないなどの扱い(都知事選で顔を映したのはNHKぐらい)は、仕方ない範囲を逸して報道の公平を欠くといえよう。マスコミが候補者を選別するという傲慢の表れともいえる。 報道の公平を欠くマスゴミは腹を切って死ぬべきである。 外部リンク 【都市伝説を追う】有名候補者、又吉イエス代表の素顔に迫る “唯一神”のすべてが明らかに(産経) 2大政党の時代。地盤もカバンも看板もなく国政選挙に出馬し“独自の戦い”を繰り広げる候補者たちがいる。新聞やテレビなどでは半ば存在しないものとして扱われている彼らの中で、ネット上で「唯一神」と呼ばれ伝説的な存在となっているのが、「世界経済共同体党」の又吉イエス代表(65)だ。「対立候補は腹を切って死ぬべきだ」「唯一神又吉イエスが地獄の火の中に投げ込む」などの過激なスローガンで知られ、実際の得票数をはるかに上回る独特のプレゼンスを示す又吉代表の素顔に迫った。 唯一神が扇風機を… JR高田馬場駅周辺の繁華街から少し離れた新宿区下落合の住宅街。又吉代表が代表を務める世界経済共同体党の事務所は、針灸院やもんじゃ焼き屋などが入居する雑居ビルの4階にあった。 暗く狭い階段を上る。「地獄の火の中に投げ込まれるようなことになったらどうしよう」と緊張しながらドアをノックすると、又吉代表の妻、正子さん(62)が出迎えてくれた。 12畳ほどの部屋の真ん中にある簡素な応接テーブルに案内されると、唯一神が自ら扇風機をかついで向きを変え、「冷房の効きが悪くて申し訳ありません。風は来ますか」と気遣ってくれた。とりあえず火あぶりは避けられそうだと一安心した。 最も話題を集めている選挙ポスターの過激な文言の意図について質問したところ、「腹を切って死ぬべきだ、というのは責任追及であり、日本の責任感の精神なんです。神の当選を邪魔しているのだからその罪万死に値する、という意味でもある」という。公職にある者は命をかけて臨み、失政を猛省すべしということだと、私は理解することにした。 大山というところがあるんですが、そこの海はとっても…最高です。もちろん私の創造の手によるものです。ほかのところの海ももちろんいいんですが、(宜野湾の海は)とってもいい…」 又吉代表は昭和19年、沖縄本島中南部の宜野湾市(当時は宜野湾村)の雑貨店に、5人兄弟の末っ子として生まれた。戸籍名は又吉光雄。中央大学商学部に進学し、東京の商社や設計事務所で働いた後、沖縄に戻った。 家の近くの海で泳いだり潮干狩りをしたり…。子供のころの故郷の美しい海での楽しい思い出を語る又吉代表は、政治の話をしているときの激しさとは全く違う、本当に幸せそうな表情を浮かべた。 沖縄に戻った又吉代表は自動車販売店勤務、学習塾経営などを経た後、牧師となって教会を開いた。主に精神障害の患者に対し、心のケアを行った。当時は心の病に対する偏見が強く、世間の無理解に苦労を重ねたという。 そんな中、故郷の海岸を埋め立て地とする計画が持ち上がり、反対運動を起こしたのが政治にかかわるきっかけだった。 沖縄県庁で「再臨宣言」 「絶対に許さない」。故郷の海を愛する又吉代表にとって、まったく受け入れがたい計画だった。しかし運動もむなしく、埋め立ては進んでいく。その抗議行動の最中、沖縄県庁で又吉代表は自らをイエス・キリストだとする「再臨宣言」を行った。 「これは(神としての)予定の行動です。これからは政治を直接私がみる時代だ、時期がきたな、と」。又吉光雄から、唯一神又吉イエスへと変わった瞬間だった。 以後、平成9年の宜野湾市長選を手始めに、沖縄県知事選、名護市長選などに相次いで立候補。いずれも落選した。 そして14年、2度目の県知事選立候補の際に掲げた「沖縄県民が唯一神又吉イエスを次期沖縄県知事にしないというなら、本世界経済共同体本部は東京に持って行く。それは沖縄県民の子や孫・ひ孫達、更に末代までの沖縄県の恥になるが、それでもいいのか」との公約に従って、15年の衆院選には東京1区から出馬した。 「腹を切って死ぬべきだ」のスローガンなどにより、ネットを中心として一気に“全国区”に。この選挙以降は、ずっと東京を活動拠点としている。 資金源は軍用地地代 法定得票数に達しなかった候補は供託金を没収される。その額は衆院選挙区立候補の場合300万円。軽い金額ではない。 「300万円をドブに捨てているのではないか、その金で困っている人を助けられるのではないかとご批判もありました。しかしそれでもやらないといけないのが私なんですね」「私が唯一神の世界経済共同体を作らない限り、一人ひとりの困っている皆さんを助けられないんですよ」 寄付も最も多いときで200万円ほどであるため、足りない分や実際の選挙活動費は、年400万円ほどある宜野湾市の普天間基地内に所有する軍用地の地代収入から拠出しているという。 1~2年に1度のペースで出馬しているため、冗費は許されない。一張羅のグレーのスーツも、2年前の参院選の際に近所のスーパー「ライフ」で買った約1万円のものだ。 「私はライフ育ちなんですよ。ライフで身を包んでます」。室内を見回しても電化製品の型は古く、本棚にいたっては3段のカラーボックスを2つ並べただけ。唯一神の生活は、実に質素だった。 「2ちゃんねらーの功績大」 沖縄時代はほとんど夫婦2人だけで行っていた選挙活動だが、現在はボランティアによって支えられている。 人数は19年の参院選の場合、50~60人ほど。ネット上で初めてブレークした15年衆院選では、巨大ネット掲示板「2ちゃんねる」を通じ、個人同士で連絡を取り合った若者約90人が手伝いに訪れたという。 「2ちゃんねらーのみなさんが連れ立って、たくさん来ていただいたようです」 当初は学生が多かった支持者層だが、6年がたった今では「外に出ましても声をかけてくださる皆さんが…あれ、世界経済共同体党もちょっと歳とってきたな、年期が入ってきたなと。皆さん、30歳ぐらいになってきてますよ」。 そんな子や孫ほどに歳の離れた世代のボランティアや支持者たちに囲まれてあれこれ語らうのが、選挙期間中の何よりの楽しみ。 彼らにパソコンの使い方を習ったり、公式サイトを作ってもらったりしたことを、好々爺の表情で語る。「唯一神又吉イエスにとって、2ちゃんねらーの皆さんの功績は大きいです。とっても大きいです」。 「本当に恩師です」 「すごく優しくてとてもきめ細かい先生でした。子供心にも、大丈夫かな、と思ったほどに」。学習塾経営時代の又吉代表の教え子だった那覇市の映画館「桜坂劇場」番組責任者の真喜屋力(まきやつとむ)さん(42)は、当時の印象をこう話した。 「目がまっすぐな人でした。今はやせて目だけギョロッとした感じなんですが、昔はもっとぽっちゃりしていた」 小中学生を対象に、全教科を又吉代表がみる小さな個人塾。月謝は4000円程度で、当時としても格安だった。教え方は徹底した教科書中心主義で、問題を理解するまでやる。「熱心に、意味を考えるよう教えてくれました。車での送り迎えもあった」という。 「本当に恩師です。おかげさまで、立派に…かどうかはともかく、社会人としてやっています。今でも感謝しています」。真喜屋さんはいつか又吉代表に会う機会があれば、そう伝えたいという。(磨井慎吾) 動画検索 「又吉イエス」でタグ検索 関連タグ 唯一神 (タグ検索 → 検索結果) random_imgエラー:ご指定のファイルがありません。アップロード済みのファイルを指定してください。 動画 /sm732042又吉イエス 07参議院選挙政見放送 http //www.nicovideo.jp/watch/sm732042 又吉イエス 政見放送 sm1740445【秋葉原】おじいちゃんの演説【又吉イエス氏】 http //www.nicovideo.jp/watch/sm1740445 ま行の単語一覧にもどる トップページにもどる - -
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イエスマン 男 カルーアトラズ刑務所最高責任者。 性格は基本的に穏やかで優しいが、ある一点において人とかけ離れた感性を持っており、 それ故残虐な行為を行うことに関しては躊躇いを持たない狂人である。 また、良くも悪くも『神』に対して信心深い。 能力は『奇跡』(先代の所長により命名) その名の通り、誰かの怪我を治すことから荒れ狂う海を鎮めることまで何でも実現する力。 無条件でそれを現実にすることが出来るわけではなく、本人が『どこまで神に身を委ねることが出来るか』に よって、能力を発動出来るかどうか変わってくるらしい。『奇跡』の度合いも基本的に些細なことに関しては、 なんでも実現出来るのだが対象者の運命に関わる事柄(瀕死の状態からの再生や組織の崩壊など)に関しては、 『どこまでイエスに身を委ねることが出来るか』によって、また違ってくるらしい。 ※「とある巨木と聖人と少女」では、イエスの「アカノミの姿を見たい」という祈りによって実現された。 シギ同様、能力を抜きにしても戦闘能力が強く、細身の剣をいつも携えている。 ロビン如く「いつ斬ったか分からないぐらい速くて、無駄のない手捌き」らしい。 制作者:しらにゅい 過去話:no data 収録場所 時系列361~390 その他いかせのごれ関係者
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ゲオイエス 株式会社ゲオイエス(2002年10月~2010年10月1日株式会社ゲオに合併) そうご電器株式会社(1968年~2002年10月) 北海道相互興産株式会社(1948年9月29日~1968年) 【株式上場履歴】 <札証>1976年 月 日~2002年5月13日(民事再生法適用申請)
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十字架への道 イエスは始め、自ら十字架を背負っていたが、途中で力つきたため、ローマ兵士たちはキレネ人シモンに無理に担がせた。 イエスの死を見届けた女たちも参照されたい。 マルコ15 21-24 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、 その服を分け合った、 だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。 マタイ27 32-34 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。 ルカ23 26-32 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。 「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、 人々は山に向かっては、 『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、 丘に向かっては、 『我々を覆ってくれ』と言い始める。 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 ヨハネ19 17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。 イエスの磔刑と死後の奇跡 罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていた。この図では、上にラテン語、下にアラム語で書かれている。 このうち、ラテン語の IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM の頭文字をとって "INRI"となる。 イエスは他の二人の強盗と共に十字架につけられた。 マルコ15 25-41 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 マタイ27 35-56 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 ルカ23 33-49 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。 ヨハネ福音書のみ死後の奇跡の内容が異なり、ロンギヌスと俗に呼ばれる兵士がイエスを突き刺すと、血と水が流れたことが記されている。 ヨハネ福音書では、イエスの母マリア、マグダラのマリア、愛する弟子ヨハネがいたことになっている。 ヨハネ19 18-37 そこ(「されこうべの場所」、ヘブライ語でゴルゴダ)で、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、 「彼らはわたしの服を分け合い、 わたしの衣服のことでくじを引いた」 という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。そこで、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。これらのことが起こったのは、「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。また、聖書の別の所に、「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 イエスが十字架の上で発した言葉は十字架上のキリストの最後の7つの言葉のようにまとめられている。 詩篇22篇 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の言葉は、詩篇22編の2節のことだとされている。また、イエスが「渇く」と言ったことと、兵士らがイエスの衣を分け合ったことは、詩篇22編の16節と19節の預言とされている。 詩編22 2 わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか。 なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず 呻きも言葉も聞いてくださらないのか。 詩篇22 16-19 口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く。 あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。 犬どもがわたしを取り囲み さいなむ者が群がってわたしを囲み 獅子のようにわたしの手足を砕く。 骨が数えられる程になったわたしのからだを 彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け 衣を取ろうとしてくじを引く。 詩篇31篇 ルカ福音書で最後にイエスが述べた「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉は、詩篇31編6節からの引用とされている。 詩編31 2-6 主よ、御もとに身を寄せます。 とこしえに恥に落とすことなく 恵みの御業によってわたしを助けてください。 あなたの耳をわたしに傾け 急いでわたしを救い出してください。 砦の岩、城塞となってお救いください。 あなたはわたしの大岩、わたしの砦。 御名にふさわしく、わたしを守り導き 隠された網に落ちたわたしを引き出してください。 あなたはわたしの砦。 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。 わたしを贖ってください。 詩篇34篇 イエスの骨が一つも折られなかったのは、詩篇34 21の預言とされている。 詩編34 16-23 主は、従う人に目を注ぎ 助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 主は悪を行う者に御顔を向け その名の記念を地上から絶たれる。 主は助けを求める人の叫びを聞き 苦難から常に彼らを助け出される。 主は打ち砕かれた心に近くいまし 悔いる霊を救ってくださる。 主に従う人には災いが重なるが 主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように 彼を守ってくださる。 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い 主に従う人を憎む者は罪に定められる。 主はその僕の魂を贖ってくださる。 主を避けどころとする人は 罪に定められることがない。 ホセア書の預言 ルカ福音書で引用されているエルサレム陥落の預言である。 ホセア書10 8 アベンの聖なる高台 このイスラエルの罪は破壊され 茨とあざみがその祭壇の周りに生い茂る。 そのとき、彼らは山に向かい 「我々を覆い隠せ」 丘に向かっては 「我々の上に崩れ落ちよ」と叫ぶ。 参考 中川健一 十字架の言葉
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☆ノイエス 曇り無き純白の杖(魔法/魔+96/TP再生+4%/初期TP+15%) その薄ら寒い白さは、天使の頭蓋骨の白だと言われる。 079:☆ノイエス タイプ:魔法装備 価格:2680G 攻撃力:48 防御力:0 魔法力:96 魔法防御:0 敏捷性:0 運:0 最大HP:0 最大MP:0 攻撃時属性近接物理 TP再生率+4%初期TP+15 特徴 使い勝手・希少性などを記入してください。 コメント 名前 コメント
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自然奇跡、いやしの奇跡、よみがえりに大別できる。 自然奇跡 一回目の大漁の奇跡:イエスは夜通し働いて何も取れなかったシモンに、「沖に乗り出し網をおろしなさい」と命じる。そこでシモンが言葉どおりに従うと、おびただしい魚がかかり、二そうの舟が魚でいっぱいになる。(ルカ 5 4) カナの婚礼:カナでの婚礼で水がめに入った水をぶどう酒に変える。(ヨハネ 2 1) 嵐を静める:嵐を静める舟に乗ったイエスが「静まれ」と命じて嵐を静める。(マルコ 4 35)(マタイ 8 23)(ルカ 8 22) パンと魚の奇跡(5000人の給食):五つのパンと二匹の魚を増やし五千人の人々に食べさせる。(マルコ 6 30)(マタイ 14 13)(ルカ 9 10)(ヨハネ 6 1) 水の上を歩く:イエスが湖の上を歩く。(マルコ 6 45)(マタイ 14 22)(ヨハネ 6 15) パンと魚の奇跡(4000人の給食):七つのパンと少しの魚を増やし四千人の人々に食べさせる。(マルコ 8 1)(マタイ 15 32) 主イエスの変容:イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登ると、イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、その衣がまっ白に輝く。(マルコ 9 2)(マタイ 17 1)(ルカ 9 37) 銀貨を釣る奇跡:カファルナウムで神殿税を集める人が来たとき、ペトロを湖に釣りに行かせ、釣れた魚の口の中にある銀貨一枚でふたり分の神殿税を納めさせる。(マタイ 17 24) いちじくの木を枯らす奇跡:いちじくの木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と祈ると、翌朝、いちじくの木が枯れている。(マルコ 11 12)(マタイ 21 18) 二回目の大漁の奇跡:イエスの復活後、漁をしている七人の弟子たちのもとにイエスが現れ、舟の右側に網を打ちなさいと指示をすると153匹の大きな魚が網に入る。(ヨハネ 21 1) いやしの奇跡 悪霊につかれた男をいやす:安息日の会堂で汚れた霊に取りつかれた男を癒す。(マルコ 1 21)(ルカ 4 31) ペトロの姑をいやす:ペトロの家で彼の義理の母の病気と大勢の病気を癒し、多くの悪霊を追い出す。(マルコ 1 29)(マタイ 8 14)(ルカ 4 38) ガリラヤでおびただしい民衆の病気、苦しみ、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、あらゆる病人が癒される。(マタイ 4 23)(ルカ 6 17) 重い皮膚病(ハンセン病)を患っている人が近寄り、ひれ伏して癒されることを願う。イエスは深く憐れんで彼に触れ、病気をいやし清くする。(マルコ 1 40) カファルナウムの百人隊長:百人隊長の信仰を誉め、彼のしもべの病気を癒す。(マタイ 8 5)(ルカ 7 1) ガリラヤのカナで王の役人の息子を癒す。(ヨハネ 4 43) エルサレムのベトザタの池(ベテスダの池)で38年間病気で苦しんでいる人を癒す。(ヨハネ 5 1) カファルナウムで屋根をはがして吊り降ろされた中風(ちゅうぶ)の人に向かって、イエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言うと、その人はすぐに床を担いで、皆の見ている前を出ていく。人々は驚く。(マルコ 2 3)(マタイ 9 1)(ルカ 5 17) 安息日に会堂で手の萎えた人を癒す。(マルコ 3 1)(マタイ 12 9)(ルカ 6 6) おびただしい民衆がユダヤ全土から集まり、イエスから力が出て病気を癒していたので、群集は皆、イエスに触れようとする。(ルカ 6 17) 悪霊に取りつかれたゲラサの人を癒し、悪霊たちを豚の中に送りこむ。(マルコ 5 1)(マタイ 8 28)(ルカ 8 26) ヤイロの娘の復活:十二年間出血が止まらず苦しんでいた女が、後ろからイエスに近づきイエスの服の房に触れた途端、出血が癒える。イエスは振り返り、「あなたの信仰があなたを救った」と女をいたわる。(マルコ 5 25)(マタイ 9 18)(ルカ 8 40) 「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらついてきた二人の盲人の目を見えるようにする。(マタイ 9 27) 悪霊に取り付かれて口の利けない人を癒すとしゃべり始める。(マタイ 9 32) ゲネサレトで舟を降りたイエスは、人々が床に乗せて運んでくる病人を癒す。(マルコ 6 53)(マタイ 14 34) 信仰による癒し:シリア・フェニキアのギリシャ人の女の「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンくずはいただきます」という信仰を認め、悪霊につかれた娘を癒す。(マルコ 7 25)(マタイ 15 21) 十八年間、病の霊のために腰が曲がったままの婦人を癒す。(ルカ 13 10) 安息日にファリサイ派のある議員の家に入り、水腫の人を癒す。(ルカ 14 1) ガリラヤで耳が聞こえず舌の回らない人を群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ、しゃべられるようにする。(マルコ 7 32) ベトサイダで盲人を見えるようにする。(マルコ 8 22) 汚れた霊につかれた子供を癒す。(マルコ 9 17) イエスがエルサレムにのぼる途中、ある村に入ると、重い皮膚病(ハンセン病)を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げる。イエスは彼らを見て、その体を清くする。(ルカ 17 11) エリコの近くの盲人バルティマイの目を見えるようにする。(マルコ 10 46) エルサレムで生まれつきの盲人の目に唾と土をこねて塗り、シロアムの池で洗うと見えるようになる。(ヨハネ 9 1) 怪我の癒し:弟子のひとりが剣で切り落とした、祭司長のしもべの耳に触れ、彼を癒す。(ルカ 22 50) よみがえりの奇跡 ヤイロの娘の復活:会堂長ヤイロの娘を生き返らせる。(マルコ 5 21)(マタイ 9 18)(ルカ 8 40) イエスはナインという町の門に近づくと、ある未亡人の一人息子が死んで棺が担ぎ出されるのを見る。イエスはこの母親を見て憐れに思い、「もう泣かなくてもよい」と告げ、棺に手を触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言うと死人が起き上がってものを言い始める。(ルカ 7 11) ベタニヤでイエスは涙を流しラザロを生き返らせる。(ヨハネ 11 1) 人の罪を赦す 厳密には奇跡ではないが、人の罪を赦す権限は神にしかないため、狭義の奇跡と言える。 カファルナウムで屋根をはがして中風の人を吊り降ろす人たちを見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は今赦された」と告げる。(マルコ 2 3)(マタイ 9 1)(ルカ 5 17) ファリサイ派の人の家でイエスの足に香油を塗る罪深い女に「あなたの罪は赦された」と告げる。(ルカ 7 36) エルサレム神殿の境内で姦通の女を石打ちの刑から救い、「私もあなたを罪に定めない」と告げ帰らせる。(ヨハネ 8 1) イエスの死と復活と顕現 イエスの復活:復活したイエスがマグダラのマリアの前に現れる。(マタイ 28 9)(ヨハネ 20 11)(マルコ 16 9) 二人の弟子に現れる。(ルカ 24 13)(マルコ 16 12) 食事中の十一人の弟子たちのもとに現れる。(マタイ 28 16)(ルカ 24 36)(ヨハネ 20 19)(マルコ 16 14) 八日の後、再び弟子たちのもとにイエスが現れ、信じなかったトマスに自分の手とわき腹を見せる。(ヨハネ 20 24) 漁をしている七人の弟子たちのもとにイエスが現れ、舟の右側に網を打ちなさいと指示をすると153匹の大きな魚が網に入る。(ヨハネ 21 1) イエスは弟子たちと過ごした後、彼らが見守る中、天に上げられる。(ルカ 24 50)(使徒行伝 1 9)(マルコ 16 19) クルアーンの記述 イスラム教の聖典であるクルアーンにもイエスの奇跡に関する記述がある。 クルアーン3 48-49 主は啓典と英知と律法と福音とをかれ〔イエス〕に教えられ、そしてかれを、イスラエルの子孫への使徒とされた。(イーサー〔イエス〕は言った。)「わたしは、あなたがたの主から、印を齎したのである。わたしはあなたがたのために、泥で鳥の形を造り、それに息を吹き込めば、アッラーの御許しによりそれは鳥になる。またアッラーの御許しによって、生れ付きの盲人や、ライ患者を治し、また死者を生き返らせる。またわたしは、あなたがたが何を食べ、何を家に蓄えているかを告げよう。もしあなたがたが(真の)信者なら、その中にあなたがたへの印がある。
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イエスは磔刑を受けて亡くなった後、アリマタヤのヨサフという人物により埋葬された。 マルコ15 42-47 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。 マタイ27 57-66 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。 ルカ23 50-56 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。 ヨハネ19 38-42 その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 木に架けられた死体の規定 イエスの死体は夜になる前に墓に納められている。これは申命記にある次の規定によると考えられる。 申命記21 22-23 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、 死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた者は、神に呪われたものだからである。あなたは、あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を汚してはならない。
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経歴 本名:又吉光雄。1944年2月5日生まれ、2018年7月20日死去。享年74。 中央大学商学部を卒業後、東京の商社や設計事務所で勤務した。その後沖縄に戻り、自動車販売店(日産サニー)、学習塾経営、教会牧師などを務めた。1990年代半ば、故郷である宜野湾市大山の海岸の埋立計画への反対運動に参加していたが、結果的に海は埋め立てられる。その様子を見る中で、「これからは自分が神として政治を直接見る時期が来た」と感じるようになり、自らをイエス・キリストだとする「再臨宣言」を行い、政治活動を開始した。 1997年の宜野湾市長選挙に初めて立候補し、その後は沖縄県知事選挙に2回、名護市長選挙、さらに任期満了による2001年の宜野湾市長選挙に立候補するが全て落選。2002年の沖縄県知事選挙を最後に活動拠点を東京へ移し、2005年までに数多くの衆議院・参議院議員選挙に出馬する。1997年に世界経済共同体党を設立、同党代表を務める。(現在は既に解散) 外山恒一の登場以前に2004年ごろから2ちゃんねるを中心に注目され、現在でも根強い人気がある。 2018年6月30日、健康状態悪化のため政治活動引退をホームページ上で発表。同年7月20日に左腎癌により死去。 政見の特徴 対立候補やその他の政治家に対し「腹を切って死ぬべきである」等といった過激な批判を行うことが有名である。また、自らを唯一神(発音の関係から「唯通信」としか聞こえない)と名乗っているが、宗教じみたことは一切言わず、あくまで政治批判にとどめている。手法としては主に用意した原稿をそのまま読むスタイルで、間を開けず一気に読み上げる。独特の甲高い声が特徴で、抑揚が激しい。 小泉純一郎は他人を殺し、全人類を殺すものに他ならない。 小泉純一郎は腹を切って死ぬべきである! 又吉イエスが地獄の火の中に投げ込むものである! 唯一神(唯通信)、又吉イエス ニコニコ動画で視聴できる動画