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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第九章 国民代表と選挙制度 p.133以下 <目次> ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類[155] (一)歴史上最初の代表は王であった [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された ■第ニ節 代表または代表制の意義[161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない ■第三節 日本国憲法上の代表制[165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない ■第四節 選挙と選挙権[167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える ■第五節 選挙制度[174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である ■第六節 被選挙権と立候補の自由[177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か [179] (三)立候補は自由でなければならない ■第七節 選挙区[180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される ■第八節 選挙方法[182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 ■ご意見、情報提供 ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類 [155] (一)歴史上最初の代表は王であった 代表概念は実に多義的えある。 それは、ある権限それ自体、その権限を有する人・機関、または、それらの権能(役割)のいずれか、または、全てを表す。 今日いう「代表」とは、通常、選挙民によって選出された人をいい、そのための制度を「代表制」という。 そのことからすれば、「代表」なる概念は、選挙制、議会制といった制度の表現体である。 これを「狭義の代表」と称することにしよう。 この狭義の代表概念は、例えば、《アメリカの大統領は、全国民の利益を代表する》、とか、《君主は国家を代表する》とかいわれる場合の、機能からみた「代表」概念と同じではない。 狭義の代表は、議会において必ず民意(選挙人の利益、全国民の利益)を表出しなければならないわけではない。 代表の表出する利益は、一院制か二院制かによって異なり、二院制のなかでも、州の利益代表、職能の利益代表等々、様々である。 議会が登場する以前の代表は、王であった。 王は、その機能からみれば、国家・国民の一体性を象徴しているという意味での「象徴的代表」であったり、国家・国民のもつ特質を集約的に共有しているという意味での「縮図的代表」であったりした。 [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した 中世中期以後、王への自主的援助金(これが後に税となる)に対する等族(司祭、村長、修道院長等)の同意を得る実際的必要性から、審議権限をもつ集会たる等族会議が登場する。 王は、財政的基礎を領主関係を超えた諸階層に求め始めたのである。 等族は、「国家」機関ではなく、「国家内国家」(公法上の団体)であって、それぞれの構成員を支配する権限を有する独立団体であった。 等族は、等族会議に代表を送り出すが、その代表は、①選挙区の特権身分の有する伝統的な固有の権利を君主から守るために、各身分から派遣され、②私法的な委任の原則による規律に服する存在であった。 それは、選出母体からの命令的・個別的委任を受ける「委任的代表」であった。 委任の条件と範囲を逸脱する代表の行為は無効とされるばかりでなく、代表の罷免事由とされた。 また、その役割は、君主の諮問機関であったために、討論・表決することではなく、君主と選出母体との間の導管役を果たすにとどまった。 右の代表の役割がいかに限定されていたとはいえ、その統治にもたらした変容は、重大な意味をもっていた。 すなわち代表の登場は、君主の権力は絶対的ではなく、等族の有する権力との二元構造のなかで制限されていることの象徴的意義を有していた。 絶対君主制に代わる制限君主制が説かれるに当って、歴史上のモデルとされたのが等族的な代表であった。 [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した 国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。 ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([2]参照)。 これに対して、市民革命期のイギリスにおいては、等族君主制から立憲君主制への円滑な移行によって、二元構造が克服されたのである。 立憲君主制は、パーラメントという統一的統治機構を有するイギリスにおいて、まず実現された。 その後、統一的国家の中に、最高・直接機関としての君主と、もう一つの直接機関としての議会(または議院)が存在するに至った段階で、近代国家は新たな二元構造上の政治的軋轢に遭遇することになる(この新たな二元構造を克服する試みが、議院内閣制であることは後の第11章の [208] でふれる)。 なお、「直接機関」とは、国家の組織法たる憲法に基づき国家機関となるものをいい、委任に基づいて機関たる地位を与えられる「間接機関」と対比される。 イギリスでの議会は、法を語る大法院でもあり、間歇的に活動する諮問機関でもあったパーラメントから発展して成立する。 パーラメントは、等族会議とは違って公法上の団体ではなく、地域的閉鎖性を打破する国民代表機関(政治的統一を担う機関)としての性格を次第に獲得していった。 そして、パーラメントは、代表機関の同意こそ法の拘束力の基礎たるべしと主張しつつ、「すべての人に関係あることはすべての人により同意されるべきである」との標語のもとで、まず、「法を作ること」(law-making)に参与する。 それが、国民の同意の通路、国民の代表者としての議会(パーラメント)となる。 議会は、もともと法の確認と修正を行う機関であったが、「法を作ること」がすなわち「立法」であると法実証主義的公法学者によって同視されるに至って、「立法機関としての議会」が誕生するのである。 もともと議会の成立要因は、立法機関としての地位を獲得することだけにあったのではない。 議会は、課税という立法でもなく行政でもない君主の作用について同意することから発生・生育したことに表れているように(後述する [289] 参照)、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。 その本来の目的に従って議会は、立法権限から、さらに勢力を拡張して、執政府の責任追及権まで獲得していく。 この段階であっても、君主は立法の裁可権を保持するのであるが、ほぼ全面的に制限された君主となる。 [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく 右のような移行は、代表制のあり方と密接に関連している。 等族会議から議会への移行は、トーリ的代表観に代わってウィッグ的代表観が定着してきたことを反映している。 トーリ的代表観とは、代表は地域的利害を君主に対して表明し交渉する存在であるべし、とする思考をいう。 等族会議への代表は、同質的な地域的利害を代弁する存在であった。 これに対して、ウィッグ的代表観とは、直接機関の構成員としての代表は、「一つの利益をもった一つの国民」の意思を表示すべきであって、選出母体から自由に見解を表明できる存在足るべし、とする思考をいう。 ウィッグ的代表観は、次のようなE. バーク演説(1774年)に典型的に表れている。 すなわち、「議会は全体の利益をもった一つの・・・・・・国民の審議のための集会である。・・・・・・代表者は、その偏見なき意見、その成熟した判断力・・・・・・を、いかなる人間、団体に対しても、犠牲に供してはならない。」 これは、議会が政治権力の中心となるために、代表の意思は、選挙区からの個別的な訓令がなくとも全国民の意思を表わすが故に正当であることを強調したものである。 この代表観によって初めて、議会は全国民の代表としての地位と、それに相応しい政治権力とを獲得したのである。 このウィッグ的な代表制は「選挙制代表」と呼ばれ、その代表は、委任的代表、象徴的代表、縮図的代表のいずれであってもならない、とされる。 もっとも、17世紀以降のイギリスにおける代表観は一様ではない。 先にふれたように、トーリ流に、地方の利害を代表し、不満の救済を王に求めるという伝統的代表観ばかりでなく、急進派レヴェラーズのように、委任的代表観に立って頻度の高い選挙を要求する流れもみられた。 こうした様々な代表観は、個人を単位として成立している近代社会にあって、部分(地域)的利害を全体(全国)的利害へと社会統合するための架橋として、複数の解答があることを示唆している。 [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された こうした様々な代表観は、18世紀フランスに渡った。 そこでは、二つの代表概念が意図的に使い分けられた。 まず、1791年憲法はウィッグ的代表観に影響され、「各県から選出された代表者は個々の県の代表ではなく全国民の代表である」(第三編第一章第五節七条)と謳うことによって委任的代表制を否定した(命令的委任の禁止または自由委任)。 代表が選挙民から自由であるために、「代表として、職務執行に際しては、言動を理由として捜索され、起訴され、裁判されることはない」とする免責特権をも同憲法典は認めた(第三編第一章第五節七条)。 この代表は「純(粋)代表」と呼ばれる。 この代表制が、ナシオン主権理論のもとで主張された点については、既にふれた([114]参照)。 これに対して、ルソー理論の影響のもとでプープル主権理論にでた1793年憲法(ジャコバン憲法)は直接民主制の原則を標榜し、純(粋)代表観を否定して、命令的委任の制度を採用した(ルソーによれば「主権は代表され得ないし、同様に譲り渡し得ない」のであるから、議員は代表ではなく、受任者となる)。 19世紀中葉以降のフランスにおいて、また新たな代表観の登場をみる。 男子普通選挙制の実現(1848年)後に制定された第三共和国憲法(1875年)は、純粋代表に代わる別の代表を模索して、選挙民の意向を無視できなくするための工夫を凝らした。 具体的には、(ア)大統領による民選議院の解散制度を導入し、(イ)選挙民を直截に代表する議会の最高機関性を謳った、のである。 これによって選挙民は、代表の行為と表決を実効的に統制でき、ここに選挙人と代表との事実上の同一性が確保される、とする新たな代表観が誕生した。 この代表が「半代表」または社会学的代表と呼ばれることについては、既にふれた([113]参照)。 [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された アメリカ合衆国憲法典における代表観は、総じてウィッグよりも急進的である。 同憲法典は、主権が人民にあることを宣言し、代表制を直接民主制の次善の策またはその手段として捉えた。 そのために、連邦議会の下院議員に大きな独立性を与えることを避け、議員を二年ごとの頻繁な選挙に服せしめるのである。 さらに同憲法典は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。 もっとも、その選出に当っては、人民の激情による選出を阻止するために、間接選挙という制度が採用された。 大陸諸国の相当数が、君主と議会という二つの代表機関を置けば、かっての二元構造の復活となることを危惧して、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとするのに対して(議院内閣制については第11章 [207] 以下でふれる)、アメリカは独自の代表観と権力分立構想のもとで、独自の道を歩むのである(アメリカ独特の権力分立については。[196] でふれる)。 ■第ニ節 代表または代表制の意義 [161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる 法的な意味での代表とは、Aの行為の法的効果がBに帰属する場合のAをいうが、憲法学でいわれる代表とは政治的意味でのそれ、つまり、ある政治体制のなかで統治の一体性を、公然と表象する地位または役割を有する人をいう。 それを「政治的代表」という。 政治的代表の概念は、私法上の代表概念とは全く異なる。 歴史を振り返れば、我々は、三つの代表概念が存在してきたことに気づく。 その第一は、 民会を中心として行われる直接民主政におけるポリス的代表観である。そこでは、有責・有徳の人物(君主、貴族または多数の公民)から構成される政治的共同体において、各人が共通利益を代表しながら、積極的・自発的に政治参加することが理想とされた。 その第二は、 理性の力によって自由な判断(私利私欲を払拭した判断)を為す公民が自らの意思を現前させれば、一般意思が形成され、たとえ代表が存在するとしても、それが最終的決定権を持つことはない、とする18世紀のルソー的な代表観である。 その第三は、 一定の条件を満たせば選挙人としての資格をもって、その選挙人が代表を選出するという装置のなかで、代表は、公衆(public)の政治的選好を公然と(publicly)再現前(represent)すべきものである、という今日的な代表観である。 この最後の代表観は、選挙によって選出される議員から成る議会が、選挙民に代わって政治上の争点を解決する、とする制度を前提とする。 その制度は、強制的委任を排除しながらも、定期的な選挙に代表を服さしめる(一定の任期期間中だけ存在する)制度でもある。 [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る 政治的代表は、国民主権の実現と共に、一般意思または主権者意思を表明する機関または機関構成員を意味するようになる。 そして、そこでの代表制とは、多数の意思を反映するように機関が組織されていることをいう(宮沢『憲法』219~220頁)。 これを国民代表(制)という。 国民代表には、二つのタイプがあり、一つが直接民主制、他の一つが間接民主制である。 直接民主制とは、機関概念を用いて説明するとすれば、全体としての国民が一つの機関となると同時に、全員が機関構成員となる統治技術をいう。 この直接民主制は、国民の各自が代表者兼決定者となり、統治の自同性を最大化するための国民代表制である。 これに対して間接(代表)民主制とは、同じく機関概念を用いるとすれば、一次機関としての国民が二次機関としての議会(その構成員たる議員)を選出し、二次機関が政治的統一性を表象する統治技術をいう。 近代国家は、右の二つのうち、間接民主制を採用して議会を置き、その構成員たる議員の選出方法として、選挙によるとするのが通例である。 間接民主制が各国で採用された理由は、 第一に、 広大な領土と多大な人口を抱える近代国家においては直接民主制の実行は不可能または困難であること、 第二に、 加熱しがちの人民のパッションや、地域的利害のストレートな強要を抑制する必要のあること(近代立憲主義は、人民の積極的政治参加に警戒的であった点は、既に [78] [81] でふれた)、 第三に、 統治の自同性を確保実現することは、憲法の目指すところではなく、統治にとってリーダー(代表)は不可欠であること、 等に求められる。 右のうち、(ニ)(※注釈:第二の理由)が最も重要である。 直接民主制は多数者の選好をストレートに反映するのに対し、間接代表制は少数者をも代表し得るのである。 [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した 近代立憲主義にとって、代表という観念は極めて重要な発明であった。 というのは、この代表技術によって初めて、絶対君主のもとにあった単一の権力から分離独立した権力保持者としての議会が成立し得たからである。 換言すれば、代表技術の考案によって成立をみた議会こそ、絶対君主の専制からの訣別の第一歩であった。 議会は、君主の権力を剥奪または抑制するための組織として成立をみたのである。 議会の成立時においては、議会に対する信頼は絶大であった。 普通選挙のもとでの自由な投票は、議会が国民に対して最大の効用を実現するであろう、と期待された。 J. S. ミルでさえ、代議政治こそ最善の統治形態である、と述べたのは、そのためであった。 実際、19世紀は「議会制の時代」となった。 それを先導したのは、一つには、イギリス憲法史の所産である、代表制、両院制、大臣責任制、議院内閣制といった制度であり、一つには18世紀の哲学の所産である、国民主権、憲法制定権力、権力分立等の理論であった。 君主と議会との力関係は国によって異なるものの、立憲君主制以降は、両者が直接機関としての地位を占めるに至り、議会がまず立法権の本質部分を担うようになる([156]でふれたように等族会議の時代には、その会議体は直接機関ではなかった。また、立憲君主制の意義については、[197]参照)。 その時代には、イェリネックの如く、一次機関(国民)と二次機関(国民代表)とが「法的な統一体となる」と解することも、「議員の意思は国民全体の意思である」と解することも、本来擬制であるとはいえ、説得的であり得た。 なぜなら、国民が統一体として、統一的選挙によって代表を選べば、国民の統一的意思は議会に反映され、従って、我々は民主制を獲得したのだ、といい得るからであった(同時に、多くの人々は、民主制のなかに自由がある、と確信して、19世紀の「議会の時代」を賞賛した)。 ところがその後、君主権限が完全に名目化されたり、君主の存在自体が否定されたりして、議会は抵抗すべきターゲットを失った。 この時点以降、選挙制代表または純粋代表制のもとでの議会は、国民から法上独立した機関であって、議会と国民との間の法的同一性こそ擬制中の擬制であることが判明してくる。 例えば、「昔の政治の大迷信は国王の神権であった。今日の政治の大迷信は議会の神権である」(H. スペンサー)とか、「疑いもなく代議制は民主主義の歪曲である。純粋な民主制は、人民主権を議会という媒介者を通じてのみ発動せしめることを否定する直接民主制のはずである」(ケルゼン)とかの指摘は、「議会の時代」への反省を人々に迫った。 「個」と「全体」との対立は、いかなる代表技術をもってしても解決されることはない。 そこで、真の民主制としての「治者と被治者との自同性」を満たす直接民主制への回帰を訴える人々が出てくるのも当然である。 しかしながら、直接民主主義的統治理念も、ほかならぬ擬制であり、空虚な主張形式に過ぎない。 各人全員が代表者であり、かつ、決定者となる事態は在りようもなく、在ったとしても「感情という誘惑を伴う群衆の仕事であって何者もその衡平を保障しない」であろう(デュギー『公法変遷論』第一章)。 国家は、二つの相対立する形成原理に拠って立つ。 一つは、「同一性の原理」であり、他の一つが、「代表の原理」である。 同一性の原理に依拠する国制が直接民主制であるが、統治に一定の組織・機構と指導者が不可欠である以上、その国制といえども、自己統治を実現することはなく、ただ、民意と指導者の意思とのギャップを極小化することに期待されるだけである。 これに対して、代表の原理に徹する国制は、指導者たちによる統治を極大化するであろう。 それにも拘わらず、代表制や普通選挙制と、国民主権とを関連させながら、議会が主権者たる国民の意思を代表すると説くことは、有害無益である(主権者としての国民、すなわち、選挙人団としての国民が議会を創設することをもって、主権の行使であると説くことは出来ない。この点については、既に [56] [130] でふれたが、後の [173] でもふれる)。 この点と関連して、「議会制民主主義」という用語に過剰な内容を吹き込むことにも我々は慎重でなければならない。 その用語は、国民と代表との間の関係を表示するものではなく、議会内での討議、表決等の手続にみられる特徴をだけ指すものに限定されるべきである。 [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない 民主制とは、被治者が治者(代表)に対して有効な統制を及ぼすための装置である([56]参照)。 その装置のうち間接民主制または純(粋)代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な工夫によって補完されなければならない。 まず 第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)の在り方が検討されなければならない。その工夫の一つが比例代表制である。これは、複数政党の掲げる公約または綱領が選挙の争点となり、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席が配分される選挙制である(比例代表制のタイプについては、[183]でふれる)。政党は、代表制を補完する政治的装置として、自然発生的に生まれたのである。 第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのためのチャネルの整備保障も望まれるところである。地方自治制度は、地域的部分意思を住民自ら形成するための制度であるばかりでなく、全国的な多数者意思形成を準備させるための基盤でもある。 第三に、 一定種の公務員に関しては、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることも一つの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。 第四に、 政治過程から隔絶されている少数集団(マイノリティ・グループ)は、その政治的意思を政治過程へ正確に反映できないこと(under-representation)に鑑みて、非政治的機関(典型的には司法府)による救済手段を彼らに柔軟に講ずることも必要であろう。 最後に、 代表制を半代表制に近づけることも一案ではあるが、社会学上の概念である半代表を、法上の概念として制度化することは困難であって、結局民意と代表者意思との可能な限りの一致は、現実の政治的展開によって解決されるほかない(半代表をいかに評価すべきかについては、すぐ後の [166] で述べる)。 ■第三節 日本国憲法上の代表制 [165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない 日本国憲法が採用している国民代表制につき、徹底した直接民主制であると解する余地はなく、次のいずれかの選択肢が残される。 まず、 ① 選挙人の意思から法上独立するなかで、独自に統一的意思形成をする代表制、すなわち「純代表制」である、とするA説、 ② 選挙人の意思を反映しながら、代表と選出母体との利害の類似性を確保する代表制、すなわち「半代表制」である、とするB説、 ③ 日本国憲法が人民主権に立っているとの前提で、その採用する代表制は、命令的委任に服する代表制、すなわち「委任的代表」か、直接民主制の次善手段としての代表制である、とするC説。 我が憲法上の代表制は、「権力は国民の代表者がこれを行使する」と謳う前文、国会議員が「全国民の代表である」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与えている51条等から考えて、A説(純代表制)またはB説(半代表制)の説くところであろう。 なお、本書は、「実在する民意または選挙民の意思」という表現を使用しない。 民意や選挙民の政治的選好は、モザイクのように、ただ浮遊するのみであって、統一的な実在物ではない。 [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない このうち、半代表とは、何度か繰り返したように、選挙人の意思と代表の意思との「事実上の同質性」を満たすものをいい、ときに社会学的代表ともいわれる。 なるほど、普通選挙制の実現、民選議院解散に伴う選挙の実施、党員政党の発達等によって、事実としては、代表への自由委任は貫徹し得なくなってきている。 とはいえ、法上の代表の性質如何を問う場合に、事実上の性質をもって論ずることでは、代表に対する法的拘束力を説き得ない。 また、純代表であっても、選挙民の意思に十分配慮すべきものとされていることからしても、A説が妥当である(今日いう純代表を擁護する有名な演説をしたE. バークでさえ、選挙民との密接な接触の必要性、彼らの利益の優先性を説いた点を忘却すべきではない。また、普通選挙制が国民主権の実現であるとか、民主制の実現であると、ナイーヴに同視してはならない。プルードンの指摘するように「普通選挙制とは、人民をしてその本質的統一の姿において語らしむるを得ない立法者が、市民をして一人一人自己の意見を発表せしむるもの」に過ぎない。この点については、[173]でふれる。 半代表制論には、地域的利益は同質であってその意思は代表され得るであろう、との想定がある。 ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、個別的でしかないのである。 半代表論は、得票最大化動機や団体利益促進願望に支配される代表を産み、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするであろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、半代表機能を修正する試みである)。 さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45条、46条)、選挙民と代表との事実上の同質性は強調し得ない。 [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない 法律を行うはずの「行政」担当者、なかでも、官僚が、法律案の策定のみならず、執政領域の政策立案、政策の見直し等々、統治の全過程に力を持ってきた。 それは、「自由市場のもたらしてきた不公正の是正」を理由として、国家が、ときには企業として、ときには保護者として、我々の「市民社会」にきめ細かく介入して、生産とその成果の分配を決定し始めた。 これは、「福祉国家・積極国家」の必然の帰結であった。 実際、無数ともいえる国家目的決定の選択肢と実現手段が、投票者には理解できないほど複雑になったために、その主導権は、議会でもなく、国民でもなく(ましてや国民の多数派でもなく)、官僚へと移ってきたのである。 かくして官僚は、リソースの配分と分配を決定する「権力」を保有することとなった。 この現代立憲国家においては、ヘーゲル『法権利の哲学』第311節が既に指摘していたように、個人は代表されることはなく、ただ、規模の大きい組織化可能な利害のみが代表されるに至った。 民主主義は、多数派を代表することさえしないのである。 なかでも、代表民主制は、「代表する者」と「代表される者」とを切断するばかりでなく、その二つの者の間隙に、「代表されない者」を出現させる。 代表制は、まさにその中に、「代表されない者」を生み出すという逆説をもつのである。 ■第四節 選挙と選挙権 [167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする 任命権者による選任を「任命」というのに対して、選挙人(有権者)によって代表を選任する行為を「選挙」という。 我が国の通説は、選挙に当って選挙人が選挙人団という一つの機関を構成すると捉える。 この観点からは、選挙における個々の選挙人の意思表示は、選挙とは異なるものと観念されて、「投票」と呼ばれる。 こうした思考は、国家法人説に立って、国家という法人の構成員たる選挙人が、選挙人団という法人の一機関を構成する、と捉えることによる。 この考え方でいけば、「選挙行為」とは、最高国家機関でもあり一次機関でもある選挙人団が二次機関を創設する行為(公的な行為、従って公務としての特質をもつ行為)であり、「選挙権」とは、個々の選挙人が選挙人団の構成員たる資格を求める権利(選挙人資格請求権)である、とされる。 この資格は、国家構成員であるが故に認められるのであるから、これを国籍保有者に限定するのが当然である(選挙人資格を認められた者の氏名等を登録した名簿を選挙人名簿という。同名簿の作成方法には、本人の登録に基づく自発的登録制と、公的機関が職権で登録する自動登録制とがある。我が国は後者に拠っており、公職選挙法第4章に詳細な定めがある)。 [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする 「選挙人団」という観念を持ち出すと、その行為は個々の選挙人の権利とは別次元のものと考えざるを得なくなる。 ここから、「選挙人団の行為=公務としての選挙」と、「個々人の選挙権=資格請求権としての選挙権」との区別が帰結される。 これが、イェリネックにみられた、公務としての選挙行為と能動的権利としての選挙権という二元説である。 [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる もっとも、我が国で二元説といわれる場合には、イェリネックの見解とは異なった意味で用いられる。 それは、選挙権は、選挙人団という機関の公務であると共に、「参政の権利」として主観的権利でもある、という趣旨で通常用いられる(芦部信喜『憲法と議会政』281頁、佐藤・109頁)。 つまりこの二元説は、選挙行為を、機関としての国民から統一的にみれば選挙人団の機関行為であるとみる一方で、個々人のレヴェルに分解してみれば参政権の行使である、と説くのである。 この我が国の通説は、「機関としての選挙行為=公務としての選挙行為」という等式にさらに、「選挙人資格請求権+自己の意思表示としての選挙行為(参政権)=主観的利益としての選挙権」とする等式を加えることによって、選挙権の二元的正確を解明してみせるのである。 しかしながら、各人の選挙権と選挙人団の選挙行為という異なる次元のものを「二元的」と称すること自体、誤導的である。 もともと「参政権」という概念自体、イェリネックにはみられなかった極めて曖昧な概念である。 選挙権が主観的利益であることが解明されて初めて「それは参政権である」といい得るのであって、芒洋とした「参政権としての選挙権」という前提から選挙権の権利性を根拠づけることは結論先取りの循環論に過ぎない。 機関概念を前提とする限り、定義上、個々人の選挙権はあくまで「有権者の一員となる資格の請求権」であり、選挙行為は「機関としての国民の行為(公務の遂行)」である、と説くのが正しい。 [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である 通説的位置を占める二元説に対抗するかたちで、最近では、選挙権を権利であるとする立場(権利説)が提唱されてきている。 権利説の中にも、自然権説、憲法上の基本権説、等様々な立場があるが、中でもプープル主権論を基礎とする権利説が注目されている。 プープル主権論によれば、主権が現実的具体的存在としてのプープルに帰属する以上、プープルが最大限直接に国家権力を行使すべきものとされ、選挙とは、主権主体たるプープルが、主権の客体たる国家機関を創設したり改廃したりする「権利」である、と位置づけられる。 この場合の「権利」には、選挙人となる資格および選挙行為の双方が含まれるばかりでなく、同権利は「主権を直接に行使する権利」(奪うことの出来ない政治的権利)である、と特徴づけられる。 このプープル主権論を基礎とする権利説は、次のような多くの難点を残す。 第一に、選挙を主権の行使と捉えることは、正しくない。選挙を主権的権利であると捉え得るか否かは、主権や民主主義をいかに捉えるかと関連している。プープル主権論は、民主主義を「治者と被治者の自同性の実現」と捉えるために、主権の行使(治者の行為)と選挙権の行使(被治者の行為)との同質性を見て取るのである。しかしながら、統治に同質性など在り得ない。多元的社会における民主主義は、国民の最大可能な部分が、治者を定期的に交替させる装置をもつ政治体制、または、決定者(代表)を決定する政治体制である([56]参照)。今日においては、シュンペーターも指摘するごとく「人民の意思は政治過程の推進力ではなくて、むしろその産物である」といわざるを得ず、選挙民の意思を統一的に捉えて、それが政治的意思の最高の決定であり推進力である(主権の行使である)、とすることは擬制にすぎる。「民主主義理論は、最小限度、一般市民が指導者に対して比較的高度のコントロールを発揮できる諸過程に関連をもっていると考えられている。このことこそ、・・・・・・[民主主義理論という言葉の]最低限度の定義なのである」(R. ダール『民主主義理論の基礎』11頁)。選挙とは、右にいう「統治者に対する有効なコントロール」を行うためにシトワイアン(各市民)が参加するメカニズムであって、プープル(シトワイアンの総体)の行為ではない、と考えるべきである。選挙は、自ら統治することを含意していない(間歇的な選挙は、不断の統治とは異なる)。 また、プープル主権論に基づく選挙権権利説に対する疑問の第二として、次の点が挙げられよう。すなわち、いかに民主主義が徹底されようとも、選挙権の享有主体の具体化は法令に待たねばならず、シトワイアンであれば選挙権を「奪われることのない権利」として保障されるわけではない。選挙権は、国民のうち、行為能力のある成人にのみ、平等原則に基づいて法認されるのが通例であり、何歳をもって成人とするか、居住要件や不適格要件をどうするか等は、立法府の裁量的判断によって決せられざるを得ない。 なお、選挙権を自然権の一種であると説いて、その権利性を主張する立場もみられるが、各種の技術的制約(例えば、年齢、定住性、登録等)に服さざるを得ない選挙権を自然権と理論構成することは、不可能である。 [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない 選挙権は、国籍保有者たる国家構成員にのみ付与される。 憲法15条1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定めているのは、国家は、対人高権によって画される政治的共同体であって、その政治的意思決定は、対人高権の指標でる国籍の保有者によって下されるべきことを明らかにしているものと解される。 また、国民主権または民主制の観念が、選挙人資格を最大限広げることを要請しているとしても、それは、国政が国籍保有者によって為されるものとする結論に変化はもたらさない。 イェリネックの指摘するように、「民主制的共和制の理念がどんなに進んでも、国家の全ての住民が政治的権利を持つべきだということにはならない。せいぜい、国家の全ての構成員が政治的権利を持つべきだというところで止まる」(イェリネック『一般国家学』582頁)。 最高裁判決は(最ニ小判平5.2.26、判時1452号37頁)、永住外国人が平成元年の参議院議員選挙での投票を行い得なかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、マクリーン事件判決(最大判昭53.10.4、民集32巻7号1233頁)を援用しながら、「国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法9条1項の規定が憲法15条、14条の規定に違反するものではない」と判断した。 同判決は、国家権力行使の源泉は「国民」とすることが国民主権原理の意であるとしながら、学界の通説である「権利性質説」に立って、外国人をその権利保障の範囲外としたのである。 国家権力行使の源泉が「国民」にあるとする伝統的な思考に従えば、被選挙権が外国人に保障されない、と解釈されざるを得ない。 ある下級審判決は(大阪地判平6.12.9、判時1539号107頁)、国会議員の被選挙権について、日本国籍を有さない者が参議院議員選挙への立候補を受理されなかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、「右権利は、国民主権原理に基づくものであるから、同条[憲法15条]の『国民』とは日本国籍を有する者のことであることは明らかである」と述べた。 [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である 選挙は、国政だけにみられるわけではない。 地方政治のレヴェルにおいても各種の選挙が実施される。 そこでの選挙権は、その地方の住民であることに基づく資格であると考えれば、その要件として一定期間の定住性が課せられることに異論はない(定住性を満たさない外国人については、論外である)。 地方公共団体における選挙について、「定住性」以外を要件とすることにつき、日本国憲法の採用するスタンスについては、以下の三説があり得る。 まず、A説は、 憲法93条2項が「住民」による直接選挙を保障していることを根拠に、日本国憲法は、定住外国人への選挙権付与を要請している、とする(積極説)。この説に立てば、国籍を要件としている現行の地方自治法11条は違憲とされる。このA説には、地方自治の目的は、国家の意思から独立して、住民の身近に感じている地域的な行政需要に応ずることにある、との前提がある。この前提に立てば、定住性や、共同体意識においても日本人と変わりない外国人に選挙権を付与して、その意思を地方行政へ反映するためのチャネルを解法するのは当然の対応ということになろう。 次にB説は、 憲法93条2項にいう「住民」には、外国人を含み得る余地ありと解して、憲法が外国人の選挙権を許容している、とする(許容説)。この説をとれば、現行の地方自治法は違憲とまではされないものの、同法を改正して、定住外国人に選挙権を与えたとしても違憲ではないことになる。 これに対してC説は、 地方自治をもって住民の行政需要に応ずるためのものでなく、あくまで地方の「政治(統治)」を決定する統治制度であると捉えながら、地方自治であっても、それはあくまで国家における統治であって、その政治的統一性は国民のなかの一定の意思によって為されなければならない、とする。となれば、93条2項にいう「住民」とは国民の中での部分意思を意味し、従って、憲法は、外国人の選挙権を否認していると帰結される(禁止説)。この説に立てば、現行の地方自治法上の規定は合憲であり、外国人に選挙権を承認する法改正は禁止されることになる。 憲法93条2項の文理からすれば、A、B説の成立する余地がないではないが、地方自治の統治的性格からして、「住民」とは「国民の中の住民」を意味すると解するのが妥当である。 1990年、ドイツの憲法裁判所が、外国人に選挙権を与える州および特別市の法律について違憲判決を下したのも、統治なるものは、同質なる国民(Volk)の意思によて為されるべし、との古典的な思想を基本的には反映している(もっとも、右のドイツ憲法裁判所の違憲判決は、ドイツ基本法20条にいう「全ての国家権力は、国民(Volk)に由来する。国家権力は、選挙および投票において国民により、かつ、立法・執行権および裁判の個別の機関によって行使される。」との定めを文理解釈しながら導き出されたものであって、その意味では、やや技術的な姿勢にとどまるものの、基本的な国家観とも関連を有していると考えられる。なお、ドイツにおいては、1992年12月に基本法28条が一部改正され、「郡および市町村における選挙に際しては、欧州共同体を構成する国家の国籍を有している者も、欧州共同体の法の基準に従って、選挙権および被選挙権を有する」こととされた)。 本書は、C説を妥当と考える。 なお、国際人権規約(B規約)25条は、すべての「市民」が「普通かつ平等の選挙権」を有すると定めるが、「市民」とは、国籍保有者を意味するものと理解すべきである。 外国人の地方公共団体における選挙権について、最高裁は(最三小判平7.2.28、判時1523号49頁)、 ① 公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、その権利の保障は、在留外国人には及ばないこと、 ② 憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内の住所を有する日本国民を意味すること、 を明らかにした。 もっとも、同判決は、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、・・・・・・法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と指摘したこと(許容説にでたこと)に我々は留意しておかなければならない。 地方レヴェルでの被選挙権に関する最高裁の判断は、今のところ、示されていないとはいえ、右の最高裁判決が「日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に [永住外国人等の意思を] 反映させるべく」と表現していることからすれば、地方統治の意思を決定するポストに関わる被選挙権に対しては、消極的とならざるを得ないものと思われる。 [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える 【表12】選挙権に関する本書の見方 ① 国家法人説に立たず、従って、有権者団という国家機関を考えない。 ② 求心性に欠ける有権者が統一的意思をもつことはなく、従って、有権者が機関となることはない。 ③ 秘密投票まで承認する選挙方法は、公的責任ある統一的な政治的判断を産むことはない。 ④ 間歇的に行われる選挙は、主権の行使ではない。 ↓ 選挙とは、統治される民主主義のもとで個々の選挙人が、代表を選出する行為であり、選挙権は主観的公権である。 本書は、選挙とは選挙人団という機関行為(公務)ではなく、代表を選出するための個々人の行為であると解する(表12をみよ)。 選挙人団なる概念は、払拭されるべきドイツ国法学上の残滓である。 もし、選挙行為を公務であると考えれば、「個人の自由な処分に服するという意味での権利ではない」とする思考が正しく(シュミット『憲法論』295頁)、従って、ベルギー憲法48条にみられるように「投票義務」を帰結することとなる(「同国憲法48条1項は「選挙人団の構成は、法律により定められる。」と「選挙人団」という用語によりつつ、3項は「投票は義務であり、秘密である。」と定めている)。 確かに我が国の二元説は、この不当な帰結を回避するかの如くである。 ところが、その二元説が理論構築に成功しているわけではない。 特に今日の選挙が個別的地域を基礎にした選挙区制によって為される以上、選挙民は統一的国家意思の法上の単位ではない。 代表は、選挙民のバラバラの行為(通常は秘密投票)の後に、有効投票の多数が法上結合されて、法上の効果として、出来上がるのである。 利害を異にする有権者が機関を構成することはない(佐々木・318、224頁)。 また、選挙人の多数により示される意思をもって主権であるとする理論は、単純な擬制である(J. ベンサムは、19世紀初頭、「支配する少数者」を選定・解任する権利を多数者に認めることが「最大幸福」に繋がるとみた。これに対して、デュギーは、20世紀初頭にその著『公法変遷論』において既に「現代意識は、選挙団体の多数によりて示される主権の単純すぎる観念ではもはや満足しない」と指摘していた)。 選挙とは、代表(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程であり、選挙人からみれば、それは、その競争過程の最終段階において、代表を選択する行為である、と考えたい。 つまり、選挙とは、機関としての行為でもなく、公務でもなく、主権の行使でもなく、代表を選出する主観的権利の行使である、と本書は考える。 各自の投票におくる意思表示が法上結合されて、そのうちの有効投票で最多数または一定数以上の投票を得た候補者が、法上の効果として、代表の資格を与えられるのである。 この権利は、国民が統治者に対する有効なコントロールを及ぼすための基本的で重要な権利である。 かく解すれば、「選挙権/選挙行為」、「選挙/投票」の区別は不要となる。 我が国の古い最高裁判例(最大判昭30.2.9、刑集9巻2号217頁)は「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一つである」と述べた。 その後も、議員定数不均衡に関する一連の最高裁判決(最大判昭51.4.14、民集30巻3号23頁)も、選挙権をもって憲法上の最も重要な基本的権利であることを、繰り返し指摘している。 その最高裁の論理は、国民主権から選挙権の権利性を説く点で、プープル主権論にみられると同様の疑問を残すものの、通説にみられる二元説に立っていない点では、基本的方向として妥当である。 ■第五節 選挙制度 [174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 年齢、居住要件以外を選挙権資格の認定に必要としないものを、「普通選挙制」という。 これに対して、独立した政治的判断は、教養と「財産」を有する有閑階層のみが出来ると考えられた場合には一定以上の納税額が、公事に参画するためには一定以上の教養・判断能力が必要であると考えられた場合には知能または教育レヴェルが、女性は家事に男性は公事にという女性への差別感が反映した場合には男性であることが、選挙権付与の要件とされる。 これらの要素のいずれかまたは全部を要件とする選挙制度を「制限選挙制」という。 我が憲法典は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」(15条3項)としている。 数多くの国々で採られていた制限選挙制は、19世紀中葉から20世紀にかけて、次々と撤廃されていった。 普通選挙制の実施によって、政治の様相は一転する。 第一に、 大衆を指導・組織する政党政治が生まれた。議院内閣制の成立も普通選挙制と無関係ではない。 第二に、 労働者階級を基盤とする社会主義政党が登場して、福祉国家への変容を促進した。 第三に、 純粋代表の思想はもはや実際上貫徹できず、半代表概念が説かれるに至る。 選挙が統治者に対する有効なコントロールのための最大の機会である以上、選挙人となる範囲を意味する「包括度」が可能な限り高くなければならない([57]参照)。 それは、普通選挙制度のもとでも、欠格事由が、やむを得ざるものであり、かつ、その範囲が最小限でなければならないことを意味する。 我が国の公職選挙法11条は、禁治産者、禁固以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者等を欠格者として法定している。 旧憲法時代には欠格事由として、準禁治産者、破産者、貧困のため生活扶助を受ける者等が挙げられていたことと比べれば、その範囲は縮小されたといえよう。 選挙違反による処罰者に対し選挙権・被選挙権を停止している公選法252条につき、最高裁は「選挙の公正を害した者として、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当」である、と合憲判断を示した(前傾最大判昭30.2.9)。 しかし、選挙関係犯罪を「公民権停止」事由としていることには、公選法が本来合法的とも思われる戸別訪問等の選挙運動を犯罪として法定している点も合わせ考慮すれば、疑問が残らざるを得ない。 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 「何人も一人として数えられ、一人以上には数えられない」との形式的正義原理に基づいて投票数または投票価値を平等にする one person one vote, one vote one value に依拠する選挙制度を「平等選挙制」といい、これらに格差を設けるものを「差等選挙制」という。 差等選挙制度には、選挙人に一票もつ者と複数票もつ者との別を設ける「複数投票制」、選挙人を幾つかの等級に分けて、各等級ごとに一定の代表数を配分する「等級選挙制」とがある。 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である 我が国では、大正14年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙制が採用された。 昭和20年には、女子にも選挙権が与えられると共に、年齢資格が20歳以上に引き下げられ、完全な普通選挙制度となった。 日本国憲法15条3項は、明文で普通選挙制を保障している。 これに対して、同憲法典には平等選挙制に関する明文規定はないものの、14条の平等原則規定、国会議員選挙における選挙人資格の平等を定める44条但書からして、当然にこれを採用しているものと解される。 なかでも、44条但書は、投票数および投票価値に関して、選挙人の判断能力、財産、社会的身分等の差異を捨象した、徹底した形式的平等観を示したものである(この点については『憲法理論Ⅱ』 [230] でふれる)。 また、直接選挙制について我が憲法典は、地方公共団体の長および議会議員等の選挙について明文規定をもつにとどまるものの、これを当然視しているものと思われる。 公選法の定める選挙は、すべて直接選挙である。 ■第六節 被選挙権と立候補の自由 [177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する 民主主義は、自由に闘わされる複数の選択肢のうち、最大多数の票によって支えられたものが勝利を得た選択であるとみなされ、それまでの選択肢に平和裡に取って代わることにその特質がある([56]参照)。 日本国憲法前文の第一文が「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・・・・自由のもたらす恵沢を確保し、・・・・・・」と述べているには、この特質に基づく統治体制を予定してのことである。 民主主義は、選挙民となる人口が大であることのみならず、複数の政党または候補者が投票獲得を求めて自由に競争することをも、その必要条件としている。 この観点からすれば、被選挙人資格につき、特定政党の構成員であることや、特定団体の推薦を受けること等を法上の要件とすることは許されず(一党制を公認するとなると、党が国家となってしまう)、立候補は自由でなければならない。 [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か 通説は、被選挙権とは、選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格をいう、と解している(資格説)。 この説は、被選挙権とは公務就任権の帰属主体となりうる資格をいうのであって、権利そのものではなく、権利能力の如きものと捉えるようである。 これに対して、我が最高裁(最大判昭43.12.4、刑集22巻13号1425頁)は、「被選挙権は、15条1項の保障する重要な基本的人権の一つ」であるとして、選挙される資格につき、国家から妨害、干渉を受けない自由とみている(自由権説)。 なるほど、被選挙人資格の具体的あり方は、立法府の判断に委ねられざるを得ないものの、選挙人資格の決定に当って、性別、財産、教育等を関連性のなき不合理な要素とする思考は、被選挙資格の付与の際にも妥当する。 従って、これらの不合理な要素を理由に被選挙資格を制限されないことをもって、被選挙権という、と解してよい。 我が憲法典は、特に国会議員のそれについて、法律事項に委ねながら「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(44条)と規定しているのは、この趣旨にでたものと解される。 もっとも、包括度が最大である必要はない。 例えば、公務員(官僚と呼ばれる人々)であること、補助金受給者であること、といった事実を欠格事由とすることが真剣に検討されるべきである。 なぜなら、彼らは、それ以外の人々とは違って、政策の立案実行の段階で、既に数票を投じておきながら、選挙時点で、また、一票をもつことになるからである。 [179] (三)立候補は自由でなければならない 被選挙人資格を有する者が、自己の自由な意思に基づいて公選に係る公職に就任するために立候補することを、立候補の自由という。 政党を主導とする選挙制が採用される場合には、政党によって立候補の自由も規制されることがありうるが、それは、基本的には、党と立候補者の私人間の問題である(もっとも、政党の国法上の位置によっては、また、現実の政治に対する政党の統制力如何によっては、政党を国家機関またはそれに準じたものとして扱い、憲法典規定を直接適用することがあり得る)。 これに対して、政党の存在を憲法上公認している国家にみられるように、法上、政党を単位とする選挙制が採用されている場合には、 ① 政党結成の自由が保障されていること、 ② 立候補決定の党内手続が公開され、多数者意思を反映するよう整備されていること、 ③ 構成員が立候補するについては、その自由意思に委ねられること(構成員の自由)、 等の条件が必要である。 我が憲法典には、立候補の自由に関して明示的規定はない。 その根拠については、憲法13条の幸福追求権を挙げるもの、14条1項にいう政治的関係における平等原則を挙げるもの等、様々である。 公選法は、憲法典が同自由を保障していることを当然の前提として、公職の候補者になろうとする者に暴行または威力を加えること等を禁止している(225条)。 なお、政党だけを単位とする選挙制を採用することには、我が憲法典上、個人の立候補の自由との関係上、大きな疑義がる。 公選法(87条の2)が、参議院議員の比例代表選挙について、政党その他の政治団体が候補者名簿を選挙長に届け出ることにより、名簿記載者を候補者とすることが出来る、としているのは、そのためである。 ■第七節 選挙区 [180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という 全体の選挙人を数個の選挙人団に分割して、それぞれの選挙結果を独立に決定するための単位を選挙区という。 通常、選挙区は地域を標準として区分され、一名を選出するものを小選挙区制、二名以上を選出するものを大選挙区制という。 選挙区の設定は、古くは王の特権であった。 議会の勢力が強くなるにつれ、その特権は否定され、議会の制定法による原則が確立された。 これを「選挙区法律制度」という。 我が憲法典も、国会議員の選挙区につき、「法律でこれを定める」ことを明らかにしている(47条)。 それを受けて公選法は、衆議院については大選挙区制を採用している(3名ないし5名区が多く、我が国特有に「中選挙区制」と呼ばれている)。 参議院については比例代表選出と選挙区選出という方式に分かたれ、前者は全都道府県の区域という大選挙区制をとり(12条2項)、後者の選挙区は都道府県を単位とする大選挙区制をとっている。 [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される 選挙区制のもとでは、立候補から当選人の決定までの選挙手続は、一定地域を単位として行われる。 各選挙区から選出される議員数の配分方法としては、各区の人口に比例させるもの、一定地域(例えば各県につき一人)を基礎とするもの等、様々のものがある。 我が憲法典は、議席配分基準を明示することなく、法律事項としている(47条)。 公選法は配分基準を明示することなく、衆議院の小選挙区選出議員については別表第一で、同議員比例代表選出議員については別表第二で、参議院選挙区選出議員については別表第三で定めることとしている(13、14条)。 そのうち、別表第二の末尾には、「この表は、国勢調査(統計法・・・・・・第四条第二項の規定により十年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によって、更生することを例とする。」と述べられており、人口を基礎にすることが示唆されている。 これに対して、参議院の選挙区選出議員に関しては、こうした指示は見当たらない。 それは一つには、都道府県を単位とする地域代表的性格をもっていることから来るものとみる余地もある(議院定数不均衡と日本国憲法14条との関係については、『憲法理論Ⅱ』でふれる)。 ■第八節 選挙方法 [182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 選挙人が、議員や首長等公選に係る公務員を直接に指名することを「直接選挙」といい、選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出されるものを「間接選挙」という。 そして、実定法によってそれぞれの選挙方法を制度化したものを「直接選挙制」、「間接選挙制」と呼ぶ。 後者は、一般有権者の判断能力に対する不信感から採用されたが、その後の民主主義思想の浸透に伴って、今日では直接選挙制を採用する国家が多くなっている。 間接選挙制の典型例が、アメリカ合衆国の大統領選挙にみられる(もっとも、アメリカの大統領選挙においては electoral college と呼ばれる大統領選挙人が政党別に選出され、各人は予め支持すると公約した大統領候補者に投票しなければならないという習律が成立しているために、その実質は直接選挙となっている)。 これに対して、フランスの大統領選挙は、かつては議会が選出する方式によっていたが、1962年の憲法的法律制定以来、それに代えて直接選挙制によっている。 大統領権限の正当性を強化するためである。 また、「直接選挙制」と似て非なるものとして、被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出するという「複選制」というものもある。 この場合の議員は、複選のためだけの職務に限定されていない点で、中間選挙人の職務とは異なる。 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 代表の選出がその選挙区の多数派の意思によって決定される選挙方法を「多数代表法」という。 これは、代表機関は多数者意思を反映すべきものである、という思想に基づく。 大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれに当たる。 ところが、これによれば多数派による代表機関の独占の可能性が生ずるため、少数派もまた代表を送り込める方策が模索される。 その方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれに当たる。 もっとも、この方法によれば必ず少数派が代表を送り出せるというわけではなく、立候補者の数や投票行動といった外的要因によって左右される。 そこで、これを修正し、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする「比例代表法」も考案されて、19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されている。 比例代表法の基本的特徴は、 ① 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものとしてドント式がある)、 ② 当選基数を超える投票が他の候補者に移譲されること、 この二点にある。 比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代方法とに大別だれる。 ① 単記移譲式比例代表法これは、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。 ② 名簿式比例代方法これは、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補内で為される方法をいう。この方法には大別して二つある。一つは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他の一つは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純高速名簿式である。 我が国の参議院議員の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を、「秘密投票」という。 これに対して、挙手、起立、記名等の方法のように、第三者に投票内容が知れるものを、「公開投票」という。 政治は、責任ある公人によって為されるものであるという理念が強調されれば、公開投票制が好まれる。 しかし、その制度は、他者による拘束や圧力等の不利益を選挙人に与えることになる。 そこで今日では、各人の自由な意思に基づく投票を確保する秘密投票制が広く採用されている。 我が国の憲法典も、「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」(15条4項)と定める。 これを受けて公選法は、無記名投票(46条3項)、投票の秘密侵害罪(227条)につき定め、さらに、何人も投票した被選挙人の氏名または政党その他の政治団体の名称を陳述sる義務はない(52条)としている。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 名前 コメント
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阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊) 第一部 国家と憲法の基礎理論 第九章 国民代表と選挙制度 p.133以下 <目次> ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類[155] (一)歴史上最初の代表は王であった [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された ■第ニ節 代表または代表制の意義[161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない ■第三節 日本国憲法上の代表制[165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない ■第四節 選挙と選挙権[167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える ■第五節 選挙制度[174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である ■第六節 被選挙権と立候補の自由[177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か [179] (三)立候補は自由でなければならない ■第七節 選挙区[180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される ■第八節 選挙方法[182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 ■ご意見、情報提供 ■第一節 代表をめぐる歴史 - 代表の種類 [155] (一)歴史上最初の代表は王であった 代表概念は実に多義的えある。 それは、ある権限それ自体、その権限を有する人・機関、または、それらの権能(役割)のいずれか、または、全てを表す。 今日いう「代表」とは、通常、選挙民によって選出された人をいい、そのための制度を「代表制」という。 そのことからすれば、「代表」なる概念は、選挙制、議会制といった制度の表現体である。 これを「狭義の代表」と称することにしよう。 この狭義の代表概念は、例えば、《アメリカの大統領は、全国民の利益を代表する》、とか、《君主は国家を代表する》とかいわれる場合の、機能からみた「代表」概念と同じではない。 狭義の代表は、議会において必ず民意(選挙人の利益、全国民の利益)を表出しなければならないわけではない。 代表の表出する利益は、一院制か二院制かによって異なり、二院制のなかでも、州の利益代表、職能の利益代表等々、様々である。 議会が登場する以前の代表は、王であった。 王は、その機能からみれば、国家・国民の一体性を象徴しているという意味での「象徴的代表」であったり、国家・国民のもつ特質を集約的に共有しているという意味での「縮図的代表」であったりした。 [156] (二)等族会議は王の諮問機関として登場した 中世中期以後、王への自主的援助金(これが後に税となる)に対する等族(司祭、村長、修道院長等)の同意を得る実際的必要性から、審議権限をもつ集会たる等族会議が登場する。 王は、財政的基礎を領主関係を超えた諸階層に求め始めたのである。 等族は、「国家」機関ではなく、「国家内国家」(公法上の団体)であって、それぞれの構成員を支配する権限を有する独立団体であった。 等族は、等族会議に代表を送り出すが、その代表は、①選挙区の特権身分の有する伝統的な固有の権利を君主から守るために、各身分から派遣され、②私法的な委任の原則による規律に服する存在であった。 それは、選出母体からの命令的・個別的委任を受ける「委任的代表」であった。 委任の条件と範囲を逸脱する代表の行為は無効とされるばかりでなく、代表の罷免事由とされた。 また、その役割は、君主の諮問機関であったために、討論・表決することではなく、君主と選出母体との間の導管役を果たすにとどまった。 右の代表の役割がいかに限定されていたとはいえ、その統治にもたらした変容は、重大な意味をもっていた。 すなわち代表の登場は、君主の権力は絶対的ではなく、等族の有する権力との二元構造のなかで制限されていることの象徴的意義を有していた。 絶対君主制に代わる制限君主制が説かれるに当って、歴史上のモデルとされたのが等族的な代表であった。 [157] (三)近代国家は王と等族との二元構造を克服することによって成立した 国家は、等族国家にみられた君主と等族との二元構造を克服することによって成立した。 ヨーロッパ大陸では、その克服は、政治的統一を一身で代表する君主の登場、すなわち、絶対君主制の確立によって達成された([2]参照)。 これに対して、市民革命期のイギリスにおいては、等族君主制から立憲君主制への円滑な移行によって、二元構造が克服されたのである。 立憲君主制は、パーラメントという統一的統治機構を有するイギリスにおいて、まず実現された。 その後、統一的国家の中に、最高・直接機関としての君主と、もう一つの直接機関としての議会(または議院)が存在するに至った段階で、近代国家は新たな二元構造上の政治的軋轢に遭遇することになる(この新たな二元構造を克服する試みが、議院内閣制であることは後の第11章の [208] でふれる)。 なお、「直接機関」とは、国家の組織法たる憲法に基づき国家機関となるものをいい、委任に基づいて機関たる地位を与えられる「間接機関」と対比される。 イギリスでの議会は、法を語る大法院でもあり、間歇的に活動する諮問機関でもあったパーラメントから発展して成立する。 パーラメントは、等族会議とは違って公法上の団体ではなく、地域的閉鎖性を打破する国民代表機関(政治的統一を担う機関)としての性格を次第に獲得していった。 そして、パーラメントは、代表機関の同意こそ法の拘束力の基礎たるべしと主張しつつ、「すべての人に関係あることはすべての人により同意されるべきである」との標語のもとで、まず、「法を作ること」(law-making)に参与する。 それが、国民の同意の通路、国民の代表者としての議会(パーラメント)となる。 議会は、もともと法の確認と修正を行う機関であったが、「法を作ること」がすなわち「立法」であると法実証主義的公法学者によって同視されるに至って、「立法機関としての議会」が誕生するのである。 もともと議会の成立要因は、立法機関としての地位を獲得することだけにあったのではない。 議会は、課税という立法でもなく行政でもない君主の作用について同意することから発生・生育したことに表れているように(後述する [289] 参照)、執政府を監視監督しながらそれを抑制することを目指していた。 その本来の目的に従って議会は、立法権限から、さらに勢力を拡張して、執政府の責任追及権まで獲得していく。 この段階であっても、君主は立法の裁可権を保持するのであるが、ほぼ全面的に制限された君主となる。 [158] (四)ウィッグの代表観が選挙制代表となっていく 右のような移行は、代表制のあり方と密接に関連している。 等族会議から議会への移行は、トーリ的代表観に代わってウィッグ的代表観が定着してきたことを反映している。 トーリ的代表観とは、代表は地域的利害を君主に対して表明し交渉する存在であるべし、とする思考をいう。 等族会議への代表は、同質的な地域的利害を代弁する存在であった。 これに対して、ウィッグ的代表観とは、直接機関の構成員としての代表は、「一つの利益をもった一つの国民」の意思を表示すべきであって、選出母体から自由に見解を表明できる存在足るべし、とする思考をいう。 ウィッグ的代表観は、次のようなE. バーク演説(1774年)に典型的に表れている。 すなわち、「議会は全体の利益をもった一つの・・・・・・国民の審議のための集会である。・・・・・・代表者は、その偏見なき意見、その成熟した判断力・・・・・・を、いかなる人間、団体に対しても、犠牲に供してはならない。」 これは、議会が政治権力の中心となるために、代表の意思は、選挙区からの個別的な訓令がなくとも全国民の意思を表わすが故に正当であることを強調したものである。 この代表観によって初めて、議会は全国民の代表としての地位と、それに相応しい政治権力とを獲得したのである。 このウィッグ的な代表制は「選挙制代表」と呼ばれ、その代表は、委任的代表、象徴的代表、縮図的代表のいずれであってもならない、とされる。 もっとも、17世紀以降のイギリスにおける代表観は一様ではない。 先にふれたように、トーリ流に、地方の利害を代表し、不満の救済を王に求めるという伝統的代表観ばかりでなく、急進派レヴェラーズのように、委任的代表観に立って頻度の高い選挙を要求する流れもみられた。 こうした様々な代表観は、個人を単位として成立している近代社会にあって、部分(地域)的利害を全体(全国)的利害へと社会統合するための架橋として、複数の解答があることを示唆している。 [159] (五)フランスでは純粋代表、委任的代表、そして半代表として理論化された こうした様々な代表観は、18世紀フランスに渡った。 そこでは、二つの代表概念が意図的に使い分けられた。 まず、1791年憲法はウィッグ的代表観に影響され、「各県から選出された代表者は個々の県の代表ではなく全国民の代表である」(第三編第一章第五節七条)と謳うことによって委任的代表制を否定した(命令的委任の禁止または自由委任)。 代表が選挙民から自由であるために、「代表として、職務執行に際しては、言動を理由として捜索され、起訴され、裁判されることはない」とする免責特権をも同憲法典は認めた(第三編第一章第五節七条)。 この代表は「純(粋)代表」と呼ばれる。 この代表制が、ナシオン主権理論のもとで主張された点については、既にふれた([114]参照)。 これに対して、ルソー理論の影響のもとでプープル主権理論にでた1793年憲法(ジャコバン憲法)は直接民主制の原則を標榜し、純(粋)代表観を否定して、命令的委任の制度を採用した(ルソーによれば「主権は代表され得ないし、同様に譲り渡し得ない」のであるから、議員は代表ではなく、受任者となる)。 19世紀中葉以降のフランスにおいて、また新たな代表観の登場をみる。 男子普通選挙制の実現(1848年)後に制定された第三共和国憲法(1875年)は、純粋代表に代わる別の代表を模索して、選挙民の意向を無視できなくするための工夫を凝らした。 具体的には、(ア)大統領による民選議院の解散制度を導入し、(イ)選挙民を直截に代表する議会の最高機関性を謳った、のである。 これによって選挙民は、代表の行為と表決を実効的に統制でき、ここに選挙人と代表との事実上の同一性が確保される、とする新たな代表観が誕生した。 この代表が「半代表」または社会学的代表と呼ばれることについては、既にふれた([113]参照)。 [160] (六)アメリカ合衆国憲法では二元的代表構造が採用された アメリカ合衆国憲法典における代表観は、総じてウィッグよりも急進的である。 同憲法典は、主権が人民にあることを宣言し、代表制を直接民主制の次善の策またはその手段として捉えた。 そのために、連邦議会の下院議員に大きな独立性を与えることを避け、議員を二年ごとの頻繁な選挙に服せしめるのである。 さらに同憲法典は、一身で全国民を代表する大統領を置いた。 もっとも、その選出に当っては、人民の激情による選出を阻止するために、間接選挙という制度が採用された。 大陸諸国の相当数が、君主と議会という二つの代表機関を置けば、かっての二元構造の復活となることを危惧して、議院内閣制という新たな理論によってこれを克服しようとするのに対して(議院内閣制については第11章 [207] 以下でふれる)、アメリカは独自の代表観と権力分立構想のもとで、独自の道を歩むのである(アメリカ独特の権力分立については。[196] でふれる)。 ■第ニ節 代表または代表制の意義 [161] (一)政治的代表は法的代表とは異なる 法的な意味での代表とは、Aの行為の法的効果がBに帰属する場合のAをいうが、憲法学でいわれる代表とは政治的意味でのそれ、つまり、ある政治体制のなかで統治の一体性を、公然と表象する地位または役割を有する人をいう。 それを「政治的代表」という。 政治的代表の概念は、私法上の代表概念とは全く異なる。 歴史を振り返れば、我々は、三つの代表概念が存在してきたことに気づく。 その第一は、 民会を中心として行われる直接民主政におけるポリス的代表観である。そこでは、有責・有徳の人物(君主、貴族または多数の公民)から構成される政治的共同体において、各人が共通利益を代表しながら、積極的・自発的に政治参加することが理想とされた。 その第二は、 理性の力によって自由な判断(私利私欲を払拭した判断)を為す公民が自らの意思を現前させれば、一般意思が形成され、たとえ代表が存在するとしても、それが最終的決定権を持つことはない、とする18世紀のルソー的な代表観である。 その第三は、 一定の条件を満たせば選挙人としての資格をもって、その選挙人が代表を選出するという装置のなかで、代表は、公衆(public)の政治的選好を公然と(publicly)再現前(represent)すべきものである、という今日的な代表観である。 この最後の代表観は、選挙によって選出される議員から成る議会が、選挙民に代わって政治上の争点を解決する、とする制度を前提とする。 その制度は、強制的委任を排除しながらも、定期的な選挙に代表を服さしめる(一定の任期期間中だけ存在する)制度でもある。 [162] (ニ)国民主権のもとでの政治的代表は国民代表と呼ばれるに至る 政治的代表は、国民主権の実現と共に、一般意思または主権者意思を表明する機関または機関構成員を意味するようになる。 そして、そこでの代表制とは、多数の意思を反映するように機関が組織されていることをいう(宮沢『憲法』219~220頁)。 これを国民代表(制)という。 国民代表には、二つのタイプがあり、一つが直接民主制、他の一つが間接民主制である。 直接民主制とは、機関概念を用いて説明するとすれば、全体としての国民が一つの機関となると同時に、全員が機関構成員となる統治技術をいう。 この直接民主制は、国民の各自が代表者兼決定者となり、統治の自同性を最大化するための国民代表制である。 これに対して間接(代表)民主制とは、同じく機関概念を用いるとすれば、一次機関としての国民が二次機関としての議会(その構成員たる議員)を選出し、二次機関が政治的統一性を表象する統治技術をいう。 近代国家は、右の二つのうち、間接民主制を採用して議会を置き、その構成員たる議員の選出方法として、選挙によるとするのが通例である。 間接民主制が各国で採用された理由は、 第一に、 広大な領土と多大な人口を抱える近代国家においては直接民主制の実行は不可能または困難であること、 第二に、 加熱しがちの人民のパッションや、地域的利害のストレートな強要を抑制する必要のあること(近代立憲主義は、人民の積極的政治参加に警戒的であった点は、既に [78] [81] でふれた)、 第三に、 統治の自同性を確保実現することは、憲法の目指すところではなく、統治にとってリーダー(代表)は不可欠であること、 等に求められる。 右のうち、(ニ)(※注釈:第二の理由)が最も重要である。 直接民主制は多数者の選好をストレートに反映するのに対し、間接代表制は少数者をも代表し得るのである。 [163] (三)代表概念によって直接機関・立法機関としての議会が成立した 近代立憲主義にとって、代表という観念は極めて重要な発明であった。 というのは、この代表技術によって初めて、絶対君主のもとにあった単一の権力から分離独立した権力保持者としての議会が成立し得たからである。 換言すれば、代表技術の考案によって成立をみた議会こそ、絶対君主の専制からの訣別の第一歩であった。 議会は、君主の権力を剥奪または抑制するための組織として成立をみたのである。 議会の成立時においては、議会に対する信頼は絶大であった。 普通選挙のもとでの自由な投票は、議会が国民に対して最大の効用を実現するであろう、と期待された。 J. S. ミルでさえ、代議政治こそ最善の統治形態である、と述べたのは、そのためであった。 実際、19世紀は「議会制の時代」となった。 それを先導したのは、一つには、イギリス憲法史の所産である、代表制、両院制、大臣責任制、議院内閣制といった制度であり、一つには18世紀の哲学の所産である、国民主権、憲法制定権力、権力分立等の理論であった。 君主と議会との力関係は国によって異なるものの、立憲君主制以降は、両者が直接機関としての地位を占めるに至り、議会がまず立法権の本質部分を担うようになる([156]でふれたように等族会議の時代には、その会議体は直接機関ではなかった。また、立憲君主制の意義については、[197]参照)。 その時代には、イェリネックの如く、一次機関(国民)と二次機関(国民代表)とが「法的な統一体となる」と解することも、「議員の意思は国民全体の意思である」と解することも、本来擬制であるとはいえ、説得的であり得た。 なぜなら、国民が統一体として、統一的選挙によって代表を選べば、国民の統一的意思は議会に反映され、従って、我々は民主制を獲得したのだ、といい得るからであった(同時に、多くの人々は、民主制のなかに自由がある、と確信して、19世紀の「議会の時代」を賞賛した)。 ところがその後、君主権限が完全に名目化されたり、君主の存在自体が否定されたりして、議会は抵抗すべきターゲットを失った。 この時点以降、選挙制代表または純粋代表制のもとでの議会は、国民から法上独立した機関であって、議会と国民との間の法的同一性こそ擬制中の擬制であることが判明してくる。 例えば、「昔の政治の大迷信は国王の神権であった。今日の政治の大迷信は議会の神権である」(H. スペンサー)とか、「疑いもなく代議制は民主主義の歪曲である。純粋な民主制は、人民主権を議会という媒介者を通じてのみ発動せしめることを否定する直接民主制のはずである」(ケルゼン)とかの指摘は、「議会の時代」への反省を人々に迫った。 「個」と「全体」との対立は、いかなる代表技術をもってしても解決されることはない。 そこで、真の民主制としての「治者と被治者との自同性」を満たす直接民主制への回帰を訴える人々が出てくるのも当然である。 しかしながら、直接民主主義的統治理念も、ほかならぬ擬制であり、空虚な主張形式に過ぎない。 各人全員が代表者であり、かつ、決定者となる事態は在りようもなく、在ったとしても「感情という誘惑を伴う群衆の仕事であって何者もその衡平を保障しない」であろう(デュギー『公法変遷論』第一章)。 国家は、二つの相対立する形成原理に拠って立つ。 一つは、「同一性の原理」であり、他の一つが、「代表の原理」である。 同一性の原理に依拠する国制が直接民主制であるが、統治に一定の組織・機構と指導者が不可欠である以上、その国制といえども、自己統治を実現することはなく、ただ、民意と指導者の意思とのギャップを極小化することに期待されるだけである。 これに対して、代表の原理に徹する国制は、指導者たちによる統治を極大化するであろう。 それにも拘わらず、代表制や普通選挙制と、国民主権とを関連させながら、議会が主権者たる国民の意思を代表すると説くことは、有害無益である(主権者としての国民、すなわち、選挙人団としての国民が議会を創設することをもって、主権の行使であると説くことは出来ない。この点については、既に [56] [130] でふれたが、後の [173] でもふれる)。 この点と関連して、「議会制民主主義」という用語に過剰な内容を吹き込むことにも我々は慎重でなければならない。 その用語は、国民と代表との間の関係を表示するものではなく、議会内での討議、表決等の手続にみられる特徴をだけ指すものに限定されるべきである。 [164] (四)代表制は統治方法として最善ではない 民主制とは、被治者が治者(代表)に対して有効な統制を及ぼすための装置である([56]参照)。 その装置のうち間接民主制または純(粋)代表制は、統治技術としてベストではなく、様々な工夫によって補完されなければならない。 まず 第一に、 民意の多元的な分布を可能な限り正確に反映する代表制とするために、選出(選挙)の在り方が検討されなければならない。その工夫の一つが比例代表制である。これは、複数政党の掲げる公約または綱領が選挙の争点となり、基本的には、選挙民が投じた票数に応じて議席が配分される選挙制である(比例代表制のタイプについては、[183]でふれる)。政党は、代表制を補完する政治的装置として、自然発生的に生まれたのである。 第二に、 地域的利害は、住民の生活に最も密着した地方政府に直接表明されることが望ましく、そのためのチャネルの整備保障も望まれるところである。地方自治制度は、地域的部分意思を住民自ら形成するための制度であるばかりでなく、全国的な多数者意思形成を準備させるための基盤でもある。 第三に、 一定種の公務員に関しては、任命による公務員であっても、国民による選定罷免権の対象とすることも一つの対応である(日本国憲法にみられる最高裁判所裁判官の国民審査はその一例である)。 第四に、 政治過程から隔絶されている少数集団(マイノリティ・グループ)は、その政治的意思を政治過程へ正確に反映できないこと(under-representation)に鑑みて、非政治的機関(典型的には司法府)による救済手段を彼らに柔軟に講ずることも必要であろう。 最後に、 代表制を半代表制に近づけることも一案ではあるが、社会学上の概念である半代表を、法上の概念として制度化することは困難であって、結局民意と代表者意思との可能な限りの一致は、現実の政治的展開によって解決されるほかない(半代表をいかに評価すべきかについては、すぐ後の [166] で述べる)。 ■第三節 日本国憲法上の代表制 [165] (一)我が国の代表制は直接民主制を基礎としていない 日本国憲法が採用している国民代表制につき、徹底した直接民主制であると解する余地はなく、次のいずれかの選択肢が残される。 まず、 ① 選挙人の意思から法上独立するなかで、独自に統一的意思形成をする代表制、すなわち「純代表制」である、とするA説、 ② 選挙人の意思を反映しながら、代表と選出母体との利害の類似性を確保する代表制、すなわち「半代表制」である、とするB説、 ③ 日本国憲法が人民主権に立っているとの前提で、その採用する代表制は、命令的委任に服する代表制、すなわち「委任的代表」か、直接民主制の次善手段としての代表制である、とするC説。 我が憲法上の代表制は、「権力は国民の代表者がこれを行使する」と謳う前文、国会議員が「全国民の代表である」と定めて選出母体からの統制を受けないことを示唆する43条、それを具体化するために代表に免責特権を与えている51条等から考えて、A説(純代表制)またはB説(半代表制)の説くところであろう。 なお、本書は、「実在する民意または選挙民の意思」という表現を使用しない。 民意や選挙民の政治的選好は、モザイクのように、ただ浮遊するのみであって、統一的な実在物ではない。 [166] (ニ)我が国の代表制は半代表でもない このうち、半代表とは、何度か繰り返したように、選挙人の意思と代表の意思との「事実上の同質性」を満たすものをいい、ときに社会学的代表ともいわれる。 なるほど、普通選挙制の実現、民選議院解散に伴う選挙の実施、党員政党の発達等によって、事実としては、代表への自由委任は貫徹し得なくなってきている。 とはいえ、法上の代表の性質如何を問う場合に、事実上の性質をもって論ずることでは、代表に対する法的拘束力を説き得ない。 また、純代表であっても、選挙民の意思に十分配慮すべきものとされていることからしても、A説が妥当である(今日いう純代表を擁護する有名な演説をしたE. バークでさえ、選挙民との密接な接触の必要性、彼らの利益の優先性を説いた点を忘却すべきではない。また、普通選挙制が国民主権の実現であるとか、民主制の実現であると、ナイーヴに同視してはならない。プルードンの指摘するように「普通選挙制とは、人民をしてその本質的統一の姿において語らしむるを得ない立法者が、市民をして一人一人自己の意見を発表せしむるもの」に過ぎない。この点については、[173]でふれる。 半代表制論には、地域的利益は同質であってその意思は代表され得るであろう、との想定がある。 ところが、地域的利益も実は多元的であって、代表され得ると思われる利益も、実は、個別的でしかないのである。 半代表論は、得票最大化動機や団体利益促進願望に支配される代表を産み、国会を地域の特殊・個別的利益の巣とするであろう(大統領公選制や首相公選制は、特殊利益代表と化した議会に対して、全体利益代表としての執政府の長を置いて、半代表機能を修正する試みである)。 さらには、参議院議員の任期が6年、衆議院議員のそれが4年と長期であることからして(45条、46条)、選挙民と代表との事実上の同質性は強調し得ない。 [no.抜け] (三)代表制は、多数の利益をも代表しない 法律を行うはずの「行政」担当者、なかでも、官僚が、法律案の策定のみならず、執政領域の政策立案、政策の見直し等々、統治の全過程に力を持ってきた。 それは、「自由市場のもたらしてきた不公正の是正」を理由として、国家が、ときには企業として、ときには保護者として、我々の「市民社会」にきめ細かく介入して、生産とその成果の分配を決定し始めた。 これは、「福祉国家・積極国家」の必然の帰結であった。 実際、無数ともいえる国家目的決定の選択肢と実現手段が、投票者には理解できないほど複雑になったために、その主導権は、議会でもなく、国民でもなく(ましてや国民の多数派でもなく)、官僚へと移ってきたのである。 かくして官僚は、リソースの配分と分配を決定する「権力」を保有することとなった。 この現代立憲国家においては、ヘーゲル『法権利の哲学』第311節が既に指摘していたように、個人は代表されることはなく、ただ、規模の大きい組織化可能な利害のみが代表されるに至った。 民主主義は、多数派を代表することさえしないのである。 なかでも、代表民主制は、「代表する者」と「代表される者」とを切断するばかりでなく、その二つの者の間隙に、「代表されない者」を出現させる。 代表制は、まさにその中に、「代表されない者」を生み出すという逆説をもつのである。 ■第四節 選挙と選挙権 [167] (一)通説は選挙を選挙人団による選任行為であるとする 任命権者による選任を「任命」というのに対して、選挙人(有権者)によって代表を選任する行為を「選挙」という。 我が国の通説は、選挙に当って選挙人が選挙人団という一つの機関を構成すると捉える。 この観点からは、選挙における個々の選挙人の意思表示は、選挙とは異なるものと観念されて、「投票」と呼ばれる。 こうした思考は、国家法人説に立って、国家という法人の構成員たる選挙人が、選挙人団という法人の一機関を構成する、と捉えることによる。 この考え方でいけば、「選挙行為」とは、最高国家機関でもあり一次機関でもある選挙人団が二次機関を創設する行為(公的な行為、従って公務としての特質をもつ行為)であり、「選挙権」とは、個々の選挙人が選挙人団の構成員たる資格を求める権利(選挙人資格請求権)である、とされる。 この資格は、国家構成員であるが故に認められるのであるから、これを国籍保有者に限定するのが当然である(選挙人資格を認められた者の氏名等を登録した名簿を選挙人名簿という。同名簿の作成方法には、本人の登録に基づく自発的登録制と、公的機関が職権で登録する自動登録制とがある。我が国は後者に拠っており、公職選挙法第4章に詳細な定めがある)。 [168] (ニ)選挙に関する理論はイェリネックを元祖とする 「選挙人団」という観念を持ち出すと、その行為は個々の選挙人の権利とは別次元のものと考えざるを得なくなる。 ここから、「選挙人団の行為=公務としての選挙」と、「個々人の選挙権=資格請求権としての選挙権」との区別が帰結される。 これが、イェリネックにみられた、公務としての選挙行為と能動的権利としての選挙権という二元説である。 [169] (三)我が国の二元説はイェリネック理論とは異なる もっとも、我が国で二元説といわれる場合には、イェリネックの見解とは異なった意味で用いられる。 それは、選挙権は、選挙人団という機関の公務であると共に、「参政の権利」として主観的権利でもある、という趣旨で通常用いられる(芦部信喜『憲法と議会政』281頁、佐藤・109頁)。 つまりこの二元説は、選挙行為を、機関としての国民から統一的にみれば選挙人団の機関行為であるとみる一方で、個々人のレヴェルに分解してみれば参政権の行使である、と説くのである。 この我が国の通説は、「機関としての選挙行為=公務としての選挙行為」という等式にさらに、「選挙人資格請求権+自己の意思表示としての選挙行為(参政権)=主観的利益としての選挙権」とする等式を加えることによって、選挙権の二元的正確を解明してみせるのである。 しかしながら、各人の選挙権と選挙人団の選挙行為という異なる次元のものを「二元的」と称すること自体、誤導的である。 もともと「参政権」という概念自体、イェリネックにはみられなかった極めて曖昧な概念である。 選挙権が主観的利益であることが解明されて初めて「それは参政権である」といい得るのであって、芒洋とした「参政権としての選挙権」という前提から選挙権の権利性を根拠づけることは結論先取りの循環論に過ぎない。 機関概念を前提とする限り、定義上、個々人の選挙権はあくまで「有権者の一員となる資格の請求権」であり、選挙行為は「機関としての国民の行為(公務の遂行)」である、と説くのが正しい。 [170] (四)近時、我が国では選挙権権利説も有力である 通説的位置を占める二元説に対抗するかたちで、最近では、選挙権を権利であるとする立場(権利説)が提唱されてきている。 権利説の中にも、自然権説、憲法上の基本権説、等様々な立場があるが、中でもプープル主権論を基礎とする権利説が注目されている。 プープル主権論によれば、主権が現実的具体的存在としてのプープルに帰属する以上、プープルが最大限直接に国家権力を行使すべきものとされ、選挙とは、主権主体たるプープルが、主権の客体たる国家機関を創設したり改廃したりする「権利」である、と位置づけられる。 この場合の「権利」には、選挙人となる資格および選挙行為の双方が含まれるばかりでなく、同権利は「主権を直接に行使する権利」(奪うことの出来ない政治的権利)である、と特徴づけられる。 このプープル主権論を基礎とする権利説は、次のような多くの難点を残す。 第一に、選挙を主権の行使と捉えることは、正しくない。選挙を主権的権利であると捉え得るか否かは、主権や民主主義をいかに捉えるかと関連している。プープル主権論は、民主主義を「治者と被治者の自同性の実現」と捉えるために、主権の行使(治者の行為)と選挙権の行使(被治者の行為)との同質性を見て取るのである。しかしながら、統治に同質性など在り得ない。多元的社会における民主主義は、国民の最大可能な部分が、治者を定期的に交替させる装置をもつ政治体制、または、決定者(代表)を決定する政治体制である([56]参照)。今日においては、シュンペーターも指摘するごとく「人民の意思は政治過程の推進力ではなくて、むしろその産物である」といわざるを得ず、選挙民の意思を統一的に捉えて、それが政治的意思の最高の決定であり推進力である(主権の行使である)、とすることは擬制にすぎる。「民主主義理論は、最小限度、一般市民が指導者に対して比較的高度のコントロールを発揮できる諸過程に関連をもっていると考えられている。このことこそ、・・・・・・[民主主義理論という言葉の]最低限度の定義なのである」(R. ダール『民主主義理論の基礎』11頁)。選挙とは、右にいう「統治者に対する有効なコントロール」を行うためにシトワイアン(各市民)が参加するメカニズムであって、プープル(シトワイアンの総体)の行為ではない、と考えるべきである。選挙は、自ら統治することを含意していない(間歇的な選挙は、不断の統治とは異なる)。 また、プープル主権論に基づく選挙権権利説に対する疑問の第二として、次の点が挙げられよう。すなわち、いかに民主主義が徹底されようとも、選挙権の享有主体の具体化は法令に待たねばならず、シトワイアンであれば選挙権を「奪われることのない権利」として保障されるわけではない。選挙権は、国民のうち、行為能力のある成人にのみ、平等原則に基づいて法認されるのが通例であり、何歳をもって成人とするか、居住要件や不適格要件をどうするか等は、立法府の裁量的判断によって決せられざるを得ない。 なお、選挙権を自然権の一種であると説いて、その権利性を主張する立場もみられるが、各種の技術的制約(例えば、年齢、定住性、登録等)に服さざるを得ない選挙権を自然権と理論構成することは、不可能である。 [171] (五)国政レヴェルでは外国人に選挙権を与えることは許されない 選挙権は、国籍保有者たる国家構成員にのみ付与される。 憲法15条1項が「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定めているのは、国家は、対人高権によって画される政治的共同体であって、その政治的意思決定は、対人高権の指標でる国籍の保有者によって下されるべきことを明らかにしているものと解される。 また、国民主権または民主制の観念が、選挙人資格を最大限広げることを要請しているとしても、それは、国政が国籍保有者によって為されるものとする結論に変化はもたらさない。 イェリネックの指摘するように、「民主制的共和制の理念がどんなに進んでも、国家の全ての住民が政治的権利を持つべきだということにはならない。せいぜい、国家の全ての構成員が政治的権利を持つべきだというところで止まる」(イェリネック『一般国家学』582頁)。 最高裁判決は(最ニ小判平5.2.26、判時1452号37頁)、永住外国人が平成元年の参議院議員選挙での投票を行い得なかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、マクリーン事件判決(最大判昭53.10.4、民集32巻7号1233頁)を援用しながら、「国会議員の選挙権を有する者を日本国民に限っている公職選挙法9条1項の規定が憲法15条、14条の規定に違反するものではない」と判断した。 同判決は、国家権力行使の源泉は「国民」とすることが国民主権原理の意であるとしながら、学界の通説である「権利性質説」に立って、外国人をその権利保障の範囲外としたのである。 国家権力行使の源泉が「国民」にあるとする伝統的な思考に従えば、被選挙権が外国人に保障されない、と解釈されざるを得ない。 ある下級審判決は(大阪地判平6.12.9、判時1539号107頁)、国会議員の被選挙権について、日本国籍を有さない者が参議院議員選挙への立候補を受理されなかったことを理由として国家賠償を請求した事案において、「右権利は、国民主権原理に基づくものであるから、同条[憲法15条]の『国民』とは日本国籍を有する者のことであることは明らかである」と述べた。 [172] (六)地方自治レヴェルにおける外国人の選挙権付与は微妙である 選挙は、国政だけにみられるわけではない。 地方政治のレヴェルにおいても各種の選挙が実施される。 そこでの選挙権は、その地方の住民であることに基づく資格であると考えれば、その要件として一定期間の定住性が課せられることに異論はない(定住性を満たさない外国人については、論外である)。 地方公共団体における選挙について、「定住性」以外を要件とすることにつき、日本国憲法の採用するスタンスについては、以下の三説があり得る。 まず、A説は、 憲法93条2項が「住民」による直接選挙を保障していることを根拠に、日本国憲法は、定住外国人への選挙権付与を要請している、とする(積極説)。この説に立てば、国籍を要件としている現行の地方自治法11条は違憲とされる。このA説には、地方自治の目的は、国家の意思から独立して、住民の身近に感じている地域的な行政需要に応ずることにある、との前提がある。この前提に立てば、定住性や、共同体意識においても日本人と変わりない外国人に選挙権を付与して、その意思を地方行政へ反映するためのチャネルを解法するのは当然の対応ということになろう。 次にB説は、 憲法93条2項にいう「住民」には、外国人を含み得る余地ありと解して、憲法が外国人の選挙権を許容している、とする(許容説)。この説をとれば、現行の地方自治法は違憲とまではされないものの、同法を改正して、定住外国人に選挙権を与えたとしても違憲ではないことになる。 これに対してC説は、 地方自治をもって住民の行政需要に応ずるためのものでなく、あくまで地方の「政治(統治)」を決定する統治制度であると捉えながら、地方自治であっても、それはあくまで国家における統治であって、その政治的統一性は国民のなかの一定の意思によって為されなければならない、とする。となれば、93条2項にいう「住民」とは国民の中での部分意思を意味し、従って、憲法は、外国人の選挙権を否認していると帰結される(禁止説)。この説に立てば、現行の地方自治法上の規定は合憲であり、外国人に選挙権を承認する法改正は禁止されることになる。 憲法93条2項の文理からすれば、A、B説の成立する余地がないではないが、地方自治の統治的性格からして、「住民」とは「国民の中の住民」を意味すると解するのが妥当である。 1990年、ドイツの憲法裁判所が、外国人に選挙権を与える州および特別市の法律について違憲判決を下したのも、統治なるものは、同質なる国民(Volk)の意思によて為されるべし、との古典的な思想を基本的には反映している(もっとも、右のドイツ憲法裁判所の違憲判決は、ドイツ基本法20条にいう「全ての国家権力は、国民(Volk)に由来する。国家権力は、選挙および投票において国民により、かつ、立法・執行権および裁判の個別の機関によって行使される。」との定めを文理解釈しながら導き出されたものであって、その意味では、やや技術的な姿勢にとどまるものの、基本的な国家観とも関連を有していると考えられる。なお、ドイツにおいては、1992年12月に基本法28条が一部改正され、「郡および市町村における選挙に際しては、欧州共同体を構成する国家の国籍を有している者も、欧州共同体の法の基準に従って、選挙権および被選挙権を有する」こととされた)。 本書は、C説を妥当と考える。 なお、国際人権規約(B規約)25条は、すべての「市民」が「普通かつ平等の選挙権」を有すると定めるが、「市民」とは、国籍保有者を意味するものと理解すべきである。 外国人の地方公共団体における選挙権について、最高裁は(最三小判平7.2.28、判時1523号49頁)、 ① 公務員を選定罷免する権利を保障した憲法15条1項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、その権利の保障は、在留外国人には及ばないこと、 ② 憲法93条2項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内の住所を有する日本国民を意味すること、 を明らかにした。 もっとも、同判決は、「我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、・・・・・・法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではない」と指摘したこと(許容説にでたこと)に我々は留意しておかなければならない。 地方レヴェルでの被選挙権に関する最高裁の判断は、今のところ、示されていないとはいえ、右の最高裁判決が「日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に [永住外国人等の意思を] 反映させるべく」と表現していることからすれば、地方統治の意思を決定するポストに関わる被選挙権に対しては、消極的とならざるを得ないものと思われる。 [173] (七)本書は選挙権を「代表を選ぶ権利」と考える 【表12】選挙権に関する本書の見方 ① 国家法人説に立たず、従って、有権者団という国家機関を考えない。 ② 求心性に欠ける有権者が統一的意思をもつことはなく、従って、有権者が機関となることはない。 ③ 秘密投票まで承認する選挙方法は、公的責任ある統一的な政治的判断を産むことはない。 ④ 間歇的に行われる選挙は、主権の行使ではない。 ↓ 選挙とは、統治される民主主義のもとで個々の選挙人が、代表を選出する行為であり、選挙権は主観的公権である。 本書は、選挙とは選挙人団という機関行為(公務)ではなく、代表を選出するための個々人の行為であると解する(表12をみよ)。 選挙人団なる概念は、払拭されるべきドイツ国法学上の残滓である。 もし、選挙行為を公務であると考えれば、「個人の自由な処分に服するという意味での権利ではない」とする思考が正しく(シュミット『憲法論』295頁)、従って、ベルギー憲法48条にみられるように「投票義務」を帰結することとなる(「同国憲法48条1項は「選挙人団の構成は、法律により定められる。」と「選挙人団」という用語によりつつ、3項は「投票は義務であり、秘密である。」と定めている)。 確かに我が国の二元説は、この不当な帰結を回避するかの如くである。 ところが、その二元説が理論構築に成功しているわけではない。 特に今日の選挙が個別的地域を基礎にした選挙区制によって為される以上、選挙民は統一的国家意思の法上の単位ではない。 代表は、選挙民のバラバラの行為(通常は秘密投票)の後に、有効投票の多数が法上結合されて、法上の効果として、出来上がるのである。 利害を異にする有権者が機関を構成することはない(佐々木・318、224頁)。 また、選挙人の多数により示される意思をもって主権であるとする理論は、単純な擬制である(J. ベンサムは、19世紀初頭、「支配する少数者」を選定・解任する権利を多数者に認めることが「最大幸福」に繋がるとみた。これに対して、デュギーは、20世紀初頭にその著『公法変遷論』において既に「現代意識は、選挙団体の多数によりて示される主権の単純すぎる観念ではもはや満足しない」と指摘していた)。 選挙とは、代表(リーダー)からみれば選挙人の投票の獲得を目指して競争する過程であり、選挙人からみれば、それは、その競争過程の最終段階において、代表を選択する行為である、と考えたい。 つまり、選挙とは、機関としての行為でもなく、公務でもなく、主権の行使でもなく、代表を選出する主観的権利の行使である、と本書は考える。 各自の投票におくる意思表示が法上結合されて、そのうちの有効投票で最多数または一定数以上の投票を得た候補者が、法上の効果として、代表の資格を与えられるのである。 この権利は、国民が統治者に対する有効なコントロールを及ぼすための基本的で重要な権利である。 かく解すれば、「選挙権/選挙行為」、「選挙/投票」の区別は不要となる。 我が国の古い最高裁判例(最大判昭30.2.9、刑集9巻2号217頁)は「国民主権を宣言する憲法の下において、公職の選挙権が国民の最も重要な基本的権利の一つである」と述べた。 その後も、議員定数不均衡に関する一連の最高裁判決(最大判昭51.4.14、民集30巻3号23頁)も、選挙権をもって憲法上の最も重要な基本的権利であることを、繰り返し指摘している。 その最高裁の論理は、国民主権から選挙権の権利性を説く点で、プープル主権論にみられると同様の疑問を残すものの、通説にみられる二元説に立っていない点では、基本的方向として妥当である。 ■第五節 選挙制度 [174] (一)「普通選挙制」と「制限選挙制」 年齢、居住要件以外を選挙権資格の認定に必要としないものを、「普通選挙制」という。 これに対して、独立した政治的判断は、教養と「財産」を有する有閑階層のみが出来ると考えられた場合には一定以上の納税額が、公事に参画するためには一定以上の教養・判断能力が必要であると考えられた場合には知能または教育レヴェルが、女性は家事に男性は公事にという女性への差別感が反映した場合には男性であることが、選挙権付与の要件とされる。 これらの要素のいずれかまたは全部を要件とする選挙制度を「制限選挙制」という。 我が憲法典は、「公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する」(15条3項)としている。 数多くの国々で採られていた制限選挙制は、19世紀中葉から20世紀にかけて、次々と撤廃されていった。 普通選挙制の実施によって、政治の様相は一転する。 第一に、 大衆を指導・組織する政党政治が生まれた。議院内閣制の成立も普通選挙制と無関係ではない。 第二に、 労働者階級を基盤とする社会主義政党が登場して、福祉国家への変容を促進した。 第三に、 純粋代表の思想はもはや実際上貫徹できず、半代表概念が説かれるに至る。 選挙が統治者に対する有効なコントロールのための最大の機会である以上、選挙人となる範囲を意味する「包括度」が可能な限り高くなければならない([57]参照)。 それは、普通選挙制度のもとでも、欠格事由が、やむを得ざるものであり、かつ、その範囲が最小限でなければならないことを意味する。 我が国の公職選挙法11条は、禁治産者、禁固以上の刑に処せられその執行を終わるまでの者等を欠格者として法定している。 旧憲法時代には欠格事由として、準禁治産者、破産者、貧困のため生活扶助を受ける者等が挙げられていたことと比べれば、その範囲は縮小されたといえよう。 選挙違反による処罰者に対し選挙権・被選挙権を停止している公選法252条につき、最高裁は「選挙の公正を害した者として、選挙に関与せしめるに不適当なものとみとめるべきであるから、これを一定期間、公職の選挙に関与することから排除するのは相当」である、と合憲判断を示した(前傾最大判昭30.2.9)。 しかし、選挙関係犯罪を「公民権停止」事由としていることには、公選法が本来合法的とも思われる戸別訪問等の選挙運動を犯罪として法定している点も合わせ考慮すれば、疑問が残らざるを得ない。 [175] (ニ)「平等選挙制」と「差等選挙制」 「何人も一人として数えられ、一人以上には数えられない」との形式的正義原理に基づいて投票数または投票価値を平等にする one person one vote, one vote one value に依拠する選挙制度を「平等選挙制」といい、これらに格差を設けるものを「差等選挙制」という。 差等選挙制度には、選挙人に一票もつ者と複数票もつ者との別を設ける「複数投票制」、選挙人を幾つかの等級に分けて、各等級ごとに一定の代表数を配分する「等級選挙制」とがある。 [176] (三)我が国の選挙制度は普通・平等・直接選挙制である 我が国では、大正14年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙制が採用された。 昭和20年には、女子にも選挙権が与えられると共に、年齢資格が20歳以上に引き下げられ、完全な普通選挙制度となった。 日本国憲法15条3項は、明文で普通選挙制を保障している。 これに対して、同憲法典には平等選挙制に関する明文規定はないものの、14条の平等原則規定、国会議員選挙における選挙人資格の平等を定める44条但書からして、当然にこれを採用しているものと解される。 なかでも、44条但書は、投票数および投票価値に関して、選挙人の判断能力、財産、社会的身分等の差異を捨象した、徹底した形式的平等観を示したものである(この点については『憲法理論Ⅱ』 [230] でふれる)。 また、直接選挙制について我が憲法典は、地方公共団体の長および議会議員等の選挙について明文規定をもつにとどまるものの、これを当然視しているものと思われる。 公選法の定める選挙は、すべて直接選挙である。 ■第六節 被選挙権と立候補の自由 [177] (一)民主主義はリーダー間の自由な競争を要請する 民主主義は、自由に闘わされる複数の選択肢のうち、最大多数の票によって支えられたものが勝利を得た選択であるとみなされ、それまでの選択肢に平和裡に取って代わることにその特質がある([56]参照)。 日本国憲法前文の第一文が「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、・・・・・・自由のもたらす恵沢を確保し、・・・・・・」と述べているには、この特質に基づく統治体制を予定してのことである。 民主主義は、選挙民となる人口が大であることのみならず、複数の政党または候補者が投票獲得を求めて自由に競争することをも、その必要条件としている。 この観点からすれば、被選挙人資格につき、特定政党の構成員であることや、特定団体の推薦を受けること等を法上の要件とすることは許されず(一党制を公認するとなると、党が国家となってしまう)、立候補は自由でなければならない。 [178] (ニ)被選挙権は資格か権利か 通説は、被選挙権とは、選挙人団によって選定されたとき、これを承諾し、公務員となりうる資格をいう、と解している(資格説)。 この説は、被選挙権とは公務就任権の帰属主体となりうる資格をいうのであって、権利そのものではなく、権利能力の如きものと捉えるようである。 これに対して、我が最高裁(最大判昭43.12.4、刑集22巻13号1425頁)は、「被選挙権は、15条1項の保障する重要な基本的人権の一つ」であるとして、選挙される資格につき、国家から妨害、干渉を受けない自由とみている(自由権説)。 なるほど、被選挙人資格の具体的あり方は、立法府の判断に委ねられざるを得ないものの、選挙人資格の決定に当って、性別、財産、教育等を関連性のなき不合理な要素とする思考は、被選挙資格の付与の際にも妥当する。 従って、これらの不合理な要素を理由に被選挙資格を制限されないことをもって、被選挙権という、と解してよい。 我が憲法典は、特に国会議員のそれについて、法律事項に委ねながら「但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(44条)と規定しているのは、この趣旨にでたものと解される。 もっとも、包括度が最大である必要はない。 例えば、公務員(官僚と呼ばれる人々)であること、補助金受給者であること、といった事実を欠格事由とすることが真剣に検討されるべきである。 なぜなら、彼らは、それ以外の人々とは違って、政策の立案実行の段階で、既に数票を投じておきながら、選挙時点で、また、一票をもつことになるからである。 [179] (三)立候補は自由でなければならない 被選挙人資格を有する者が、自己の自由な意思に基づいて公選に係る公職に就任するために立候補することを、立候補の自由という。 政党を主導とする選挙制が採用される場合には、政党によって立候補の自由も規制されることがありうるが、それは、基本的には、党と立候補者の私人間の問題である(もっとも、政党の国法上の位置によっては、また、現実の政治に対する政党の統制力如何によっては、政党を国家機関またはそれに準じたものとして扱い、憲法典規定を直接適用することがあり得る)。 これに対して、政党の存在を憲法上公認している国家にみられるように、法上、政党を単位とする選挙制が採用されている場合には、 ① 政党結成の自由が保障されていること、 ② 立候補決定の党内手続が公開され、多数者意思を反映するよう整備されていること、 ③ 構成員が立候補するについては、その自由意思に委ねられること(構成員の自由)、 等の条件が必要である。 我が憲法典には、立候補の自由に関して明示的規定はない。 その根拠については、憲法13条の幸福追求権を挙げるもの、14条1項にいう政治的関係における平等原則を挙げるもの等、様々である。 公選法は、憲法典が同自由を保障していることを当然の前提として、公職の候補者になろうとする者に暴行または威力を加えること等を禁止している(225条)。 なお、政党だけを単位とする選挙制を採用することには、我が憲法典上、個人の立候補の自由との関係上、大きな疑義がる。 公選法(87条の2)が、参議院議員の比例代表選挙について、政党その他の政治団体が候補者名簿を選挙長に届け出ることにより、名簿記載者を候補者とすることが出来る、としているのは、そのためである。 ■第七節 選挙区 [180] (一)分割された選挙人団の単位を選挙区という 全体の選挙人を数個の選挙人団に分割して、それぞれの選挙結果を独立に決定するための単位を選挙区という。 通常、選挙区は地域を標準として区分され、一名を選出するものを小選挙区制、二名以上を選出するものを大選挙区制という。 選挙区の設定は、古くは王の特権であった。 議会の勢力が強くなるにつれ、その特権は否定され、議会の制定法による原則が確立された。 これを「選挙区法律制度」という。 我が憲法典も、国会議員の選挙区につき、「法律でこれを定める」ことを明らかにしている(47条)。 それを受けて公選法は、衆議院については大選挙区制を採用している(3名ないし5名区が多く、我が国特有に「中選挙区制」と呼ばれている)。 参議院については比例代表選出と選挙区選出という方式に分かたれ、前者は全都道府県の区域という大選挙区制をとり(12条2項)、後者の選挙区は都道府県を単位とする大選挙区制をとっている。 [181] (ニ)選挙区制のもとで議員定数が配分される 選挙区制のもとでは、立候補から当選人の決定までの選挙手続は、一定地域を単位として行われる。 各選挙区から選出される議員数の配分方法としては、各区の人口に比例させるもの、一定地域(例えば各県につき一人)を基礎とするもの等、様々のものがある。 我が憲法典は、議席配分基準を明示することなく、法律事項としている(47条)。 公選法は配分基準を明示することなく、衆議院の小選挙区選出議員については別表第一で、同議員比例代表選出議員については別表第二で、参議院選挙区選出議員については別表第三で定めることとしている(13、14条)。 そのうち、別表第二の末尾には、「この表は、国勢調査(統計法・・・・・・第四条第二項の規定により十年ごとに行われる国勢調査に限る。)の結果によって、更生することを例とする。」と述べられており、人口を基礎にすることが示唆されている。 これに対して、参議院の選挙区選出議員に関しては、こうした指示は見当たらない。 それは一つには、都道府県を単位とする地域代表的性格をもっていることから来るものとみる余地もある(議院定数不均衡と日本国憲法14条との関係については、『憲法理論Ⅱ』でふれる)。 ■第八節 選挙方法 [182] (一)「直接選挙制」、「間接選挙制」、「複選制」 選挙人が、議員や首長等公選に係る公務員を直接に指名することを「直接選挙」といい、選挙人が特定数の中間選挙人を選出し、その中間選挙人の選挙によって公職就任者が選出されるものを「間接選挙」という。 そして、実定法によってそれぞれの選挙方法を制度化したものを「直接選挙制」、「間接選挙制」と呼ぶ。 後者は、一般有権者の判断能力に対する不信感から採用されたが、その後の民主主義思想の浸透に伴って、今日では直接選挙制を採用する国家が多くなっている。 間接選挙制の典型例が、アメリカ合衆国の大統領選挙にみられる(もっとも、アメリカの大統領選挙においては electoral college と呼ばれる大統領選挙人が政党別に選出され、各人は予め支持すると公約した大統領候補者に投票しなければならないという習律が成立しているために、その実質は直接選挙となっている)。 これに対して、フランスの大統領選挙は、かつては議会が選出する方式によっていたが、1962年の憲法的法律制定以来、それに代えて直接選挙制によっている。 大統領権限の正当性を強化するためである。 また、「直接選挙制」と似て非なるものとして、被選議員によって構成される合議機関が別の議員を選出するという「複選制」というものもある。 この場合の議員は、複選のためだけの職務に限定されていない点で、中間選挙人の職務とは異なる。 [183] (ニ)「多数代表法」、「少数代表法」、「比例代表法」 代表の選出がその選挙区の多数派の意思によって決定される選挙方法を「多数代表法」という。 これは、代表機関は多数者意思を反映すべきものである、という思想に基づく。 大選挙区制のもとでの連記投票制や小選挙区制がこれに当たる。 ところが、これによれば多数派による代表機関の独占の可能性が生ずるため、少数派もまた代表を送り込める方策が模索される。 その方策を「少数代表法」といい、典型的には、大選挙区制のもとでの単記制がこれに当たる。 もっとも、この方法によれば必ず少数派が代表を送り出せるというわけではなく、立候補者の数や投票行動といった外的要因によって左右される。 そこで、これを修正し、多数派・少数派に各々その勢力に比例した代表数を確保しようとする「比例代表法」も考案されて、19世紀後半からヨーロッパ各国で実施されている。 比例代表法の基本的特徴は、 ① 当選に必要な標準票数(当選基数)が一定されること(その方法も様々であって、採用頻度の高いものとしてドント式がある)、 ② 当選基数を超える投票が他の候補者に移譲されること、 この二点にある。 比例代表法は、移譲の方式によって、単記移譲式比例代表法と、名簿式比例代方法とに大別だれる。 ① 単記移譲式比例代表法これは、大選挙区制のもとでの単記投票で、当選基数を超えた残余の得票が選挙人の指定する順序に従って移譲される方式をいう。 ② 名簿式比例代方法これは、政党の作成した候補者名簿に対して選挙人が投票し、投票の移譲は名簿上の候補内で為される方法をいう。この方法には大別して二つある。一つは、政党の決定した候補者名簿の順位が絶対的に優先する厳正拘束名簿式と、他の一つは、同一名簿上での候補者順位について選挙人の選択の余地を認める単純高速名簿式である。 我が国の参議院議員の比例代表選挙で採用されている方式は、厳正拘束名簿式であり、当選者の決定はドント式によるものとされている(公選法95条の2)。 [184] (三)「秘密投票」、「公開投票」 投票内容が第三者には判明しないよう工夫された投票方法を、「秘密投票」という。 これに対して、挙手、起立、記名等の方法のように、第三者に投票内容が知れるものを、「公開投票」という。 政治は、責任ある公人によって為されるものであるという理念が強調されれば、公開投票制が好まれる。 しかし、その制度は、他者による拘束や圧力等の不利益を選挙人に与えることになる。 そこで今日では、各人の自由な意思に基づく投票を確保する秘密投票制が広く採用されている。 我が国の憲法典も、「すべての選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」(15条4項)と定める。 これを受けて公選法は、無記名投票(46条3項)、投票の秘密侵害罪(227条)につき定め、さらに、何人も投票した被選挙人の氏名または政党その他の政治団体の名称を陳述sる義務はない(52条)としている。 ■ご意見、情報提供 ※全体目次は阪本昌成『憲法理論Ⅰ 第三版』(1999年刊)へ。 ものすごく分かりにくい -- よもぎ (2015-01-18 16 58 43) ものすごく分かりやすい -- くさもち (2016-12-04 23 46 36) 名前 コメント
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佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) <目次> 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下Ⅰ. 国家(1)国家の概念 (2)国家の法人格性(イ)国家の法人格性 (ロ)国家法人説 Ⅱ. 主権(1)主権観念の展開(イ)主権観念の登場 (ロ)国民主権・人民主権 (ハ)国家主権権 (ニ)実力としての憲法制定権力 (2)実定法上の主権観念 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論(1)総説 (2)最高機関意思説 (3)憲法制定権力説(イ)総説 (4)ノモスの主権説 (5)人民主権説 Ⅱ. 国民主権の意義(1)総説 (2)憲法制定権力者としての国民主権 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権(イ)統治制度の民主化の要請 (ロ)公開討論の場の確保の要請 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下 Ⅰ. 国家 (1)国家の概念 上述のように、憲法は国家生活のあり方にかかわる法であることから、そのことの関係で国家とはそもそも何かについて若干論及しておく必要がある。 国家と呼ばれる社会団体の存在性格・様式は、時代によりまた所により一定しないが、近代国家は、一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体であるという点で概ね共通している。 このように、国家の本質を、地域、所属員、固有の支配権の3要素に集約せしめて理解しようとする見解は、一般に国家3要素説と呼ばれる。 (中略) 第三の要素である固有の支配権は、「国権」とか「統治権」とかあるいは「主権」とか呼ばれる。 「国権」は、伝統的な見解にあっては、国家の法上の人格すなわち国家の意思力を指す観念とされ(ここから国権の唯一不可分性が帰結される)、それに対して「統治権」は国家が国際法および国内法上有する権利の総体である(従って統治権は可分となる)として国権と区別されることもあるが、今日では、国権と統治権は同義に使用されることが多い。 「統治権」の内容は国によって一様ではありえないことになるが、国家である以上次の3種の基本的能力、すなわち、①領土内にある人および物を支配する権利たる領土高権、②国家の所属員を支配する権利たる対人高権、③国家の組織・権限の有り様を自らの意思により定めることのできる権利たる自主組織権(権限高権)、を備えているものでなければならない、とされる。なお、また、「国権」または「統治権」は「国家において統治活動をなす権力」の意味で用いられることもある(日本国憲法41条にいう「国権」はその例であるとされる)。 「主権」の語も多義的で、国権あるいは統治権と同義に用いられることのほか、国権の属性としての最高独立性の意味で用いられたり、また国家の統治活動の有り方を最終的に決定する力ないし権威の意味で用いられたりすることがるが、この点については後述する。 国家の第三の要素としての支配権は、国際組織が発達し相互依存的な今日の国際社会にあっては、かつてと違って様々な制約を受けることが多くなる傾向にある。 (2)国家の法人格性 (イ)国家の法人格性 法的認識の問題としてみた場合、国家は一個の統一的法秩序を形成しているといえようが、この法秩序の統一性をもって擬人的に法人格と称されることがあり、この意味で国家は法人格を有する、つまり国家は法人であるとみることができる。 さらに、国家は、実定法の内容に照らして、人格を有するとみなされる、というように言われる。 我が国の現行法上、国家は、財産権の主体としての関係において「国庫」と呼ばれ(民法239条・959条)、「国債」を負担したり、「国有財産」を有することが認められ、また、対外的な国際法上の関係において法主体として登場する。 この意味における国家の法人格性の範囲は、専らそれぞれの国家の実定法の定めるところによって決まることになる。 (ロ)国家法人説 19世紀ドイツにおいて登場し、我が国に多大の影響を及ぼした国家法人説は、右に述べたような意味での国家の法人格性を超えて、独特の意義と背景をもつものであったことが注目される。 つまり、国家法人説は、国家をもって社会学的には社団であり、法学的には法人であるとするとともに、従来の主権観念をもって専らかかる国家自体の特性を示すものとして把握し、それ以外の主権の意味を回避しようとしたところに特徴をもつものであった。 国家自体が意思力をもち、本来の主権はその意思力の最高性を示す観念として把握される。 このように国家の統治の有り方を最終的に決めるのは人格としての国家であるとする(国家主権説。ここでの国家主権は、国家が対外的に独立しているという意味での国家主権と異なることに注意)背景には、一方では絶対主義的君主主義論を克服し、他方では国民自身による積極的・具体的な統治を追求する国民主権論を抑止しようとする政治的低意が働いていたことが指摘される。 アメリカ合衆国などのように国民主権の確立した国において、とりたてて国家法人説が主張され発展せしめられることのなかったのは、まさにこの説のもつかかるイデオロギー性を示しているといえる。 他方、神権的国体観念を払拭しきれなかった明治憲法下において、国家は法人にして天皇はその機関とする天皇機関説は、結局において、「民主共和の説」として排撃されるところとなる。 国家法人説は、このように法人たる国家に主権があるとしたが、いわゆる国家の自己制限ないし自己義務づけの理論によって、主権の最高独立性と国家の被法的拘束性とを両立せしめ、そのことによってまた個人の自由の観念とも調和せしめようとした。 しかし、個人の「自然権」を基礎とする徹底した立憲民主主義の観点からすれば、いわゆる国家法人説は、国家の統治の正当性の契機を回避するとともに(従来の君主主権か国民主権かの問題は、国家意思を供給する国家機関の組織のあり方の問題と化す)、結局において国家の絶対性を措定し、個人の自由の観念と調和困難な説(国家固有の統治権はしばしば無条件に団体員を支配しその意思を規律しうる力であると説かれる)として受け入れ難いものとみなされざるをえないことになる。 もっとも、政治社会には唯一の究極的で絶対的な権威ないし権力が存しなければならないという観念たる「主権」は、結局のところ抽象的人格性を備える国家に帰属すると考えるとしても(その意味では国家主権説)、そのような属性をもつ国家を誰の権威でどのように運営するかの問題は残り、その主体的・具体的意思・権威はどこにあるかの問題こそ君主主権か国民主権かの問題である、というように考えることはできる。 国家と人権との関係をめぐる問題は後述するので(とくに第四編)、次に国家と主権と憲法との関係をめぐる問題をもう少し立ち入って考察することにしたい。 Ⅱ. 主権 (1)主権観念の展開 (イ)主権観念の登場 主権観念は、まず、フランス王権について、対外的にはローマ皇帝およびカトリック法王の権威・権力からの独立性を、体内的には封建諸侯に対しての優越性を、示すものとして登場した。 この主権観念の確立に理論的指導性を発揮したのはバーダンで、彼は、主権は国家の絶対的かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素であると説いた。 そしてかかる主権観念は、近代国家への移行過程において他のヨーロッパ諸国でも広く用いられるようになる。 この段階では、国家は君主と一体的に観念されていたから(「朕は国家なり」)、国家自体の主権とその国家内において最高意思はどこにあるかということ(国家内における最高権の問題)とは次元を異にする別個の問題であることは十分意識されていなかった。 しかるに、君権に対する市民層の不満を背景に、国民主権ないし人民主権が登場するに及んで、主権論の力点は国家内の最高権の所在の問題に向けられることになる(もっとも、この段階でも君主を人民に取って換えただけで、人民即国家と考える傾向がみられる)。 (ロ)国民主権・人民主権 (a) 国民主権論は、近代自然法論に依拠する社会契約説を根拠に登場した。社会契約説は、その理論構成如何によっては、なお君主主権を根拠づけるところともなるが(ホッブズ)、一般に、あくまでも各人の自然権の保全を基軸に考え、その保全に必要な限度での統治の権力の信託という構成をとることによって国民主権を帰結した(ロック)。つまり、国家権力を支えるのは国民であり、国民の支持がある限りにおいてのみその行使が正当化される。しかしこの見解は、国民主権の名にふさわしい実をあげる具体的方法・プロセスを明確にしていないきらいがあった。 (b) 同じく社会契約説に立脚しつつ、それを単に国家統治の正当性の根拠とするにとどまらず、国民による直接統治を帰結する説(ルソー)は、右の国民主権論に対する批判にして一つの解答であったとみることができる。そこでは、主権は子かを構成する全人民の、常に共同の利益を欲して誤ることのない一般意思として把握され、具体的には一般意思は立法意思と同一視され、それは全市民の参加によって行使されるものとみなされた。主権は絶対的なもので、不可分・不可譲・不可代表の性質をもつ。それは議会制を否定する徹底した直接民主主義的人民主権論であるが、従来の絶対主義的君主主権を端的に人民に取って換えたきらいがあり、現実の国家の実態に即した理論としては無理な性格のものであった。一般意思は常に共同の利益を欲する意思だとされるが、具体的な立法意思がそうであるという保障はなく、絶対的な一般意思の名における個人や少数者の抑圧という可能性は常に存する(ルソーの人民主権論が後世において人民独裁の国家論と評されることのある理由はここにある)。また、主権は不可分だとされるが、主権の主体としては具体的な個々人ないしその総体が想定されていて、理論的整合性の点でも問題を孕んでいた。 (c) このような国民主権論、人民主権論の問題性の文脈においてみると、国民主権を基本的に憲法制定権力として把握しようとする説(シェイエス)は注目すべき見解であったといわなければならない。そこでは、「憲法を制定する権力(pouvoir constituant)」と「憲法によってつくられた権力(pouvoirs constitues)」とが区別される。そして、前者は、自然法の下に、国民がこれを有し、単一不可分であり、それ自体いかなる形式にも服することのない、「意欲しさえすれば十分である」万能の存在であるとされ、他方後者は、憲法制定権力の制定した憲法によって組織されるところの立法権・執行権といった権力で、憲法による規制下に立つ存在であるとされた。ここではルソーの一般意思と同様主権の絶対性が措定されつつも、他方憲法制定権力と立法権との本質的区別がなされることによって、代議制や権力分立制と結合する途が開かれたのである。この憲法制定権力の観念は、右のシェイエスにみられるように徹底して理論化されるということはなかったが、アメリカにおいていち早く現実のものとなった。権力の根源である国民が人為的に制定した成文の憲法によって国家の統治構造と国民の権利を定め、国政の運営およびそれにまつわる問題の解決は全てこの成文の憲法に立ち返って行なうという行き方が定着した。アメリカの憲法制定権力は、ヨーロッパのそれのように激しく対立すべき“敵”(アンシャン・レジーム)をもたず、当初から民主的基盤の上に成立したことが関係してか、本質的に非実体的・非権力的で、憲法制定会議とその成案の承認を通じて、法律よりも高次の妥当性を根拠づけるという機能に基本的に集約される。それには、アメリカの立憲主義がイギリスの古典的立憲主義と必ずしも切断されず、むしろある面ではそれを引き継ぐ形で成立したものであること、第二に、アメリカの憲法制定権力は、革命初期の諸邦における立法権優位の経験に基づく反動として、個人の諸権利を確実なものとするという保守的な土台の上に構想されたものであること、などが関係していたと思われる。 (d) フランス革命期は、君主主権、国民主権、ルソー流人民主権、シェイエス流憲法制定権力など様々な観念が競い合った時代であった。1789年の「人および市民の権利宣言」にはルソー的思想の影響が指摘されているが、1791年の憲法は、君主主権を否定すると同時に、ルソー流人民主権をも斥けて、国民主権に与する姿勢を明確にした。そこでは、「主権は、単一、不可分、不可譲で時効にかかることがない。主権は国民に属する」とされるが、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる。フランスの国家体制は代表制である」と明言されている。つまり、主権者たる「国民(nation)」は抽象的な観念的統一体としての国民であって、それ自体として具体的な意思・活動能力を備えた存在ではありえず、委任(包括的・集団的な代表委任)が不可避的に帰結されたのである。代表と被代表との間の選任関係を不可欠の要素とせず、制限選挙制が採用され、訓令委任が禁止されたことなどは、いずれも国民(nation)主権の帰結であった。他方、シェイエス流憲法制定権力は、憲法を制定し変更する権力として一括して把握されてものであったが、91年憲法においては、制定権力と改正権とに分離され、改正権は法的統制下におかれるとされる一方、制定権力は依然として法的統制を受けない存在であるものの、観念化され、憲法の妥当性を根拠づけるという機能に封じ込ようとする姿勢が示された。ところが、93年憲法は、国民主権を斥けて、むしろ人民主権の考え方に依拠することを明らかにする。ここでの「人民(peuple)」は、もはや抽象的な観念的統一体としての存在ではなく、それ自体活動能力を備えた具体的に把握できる存在である。かくして、憲法改正のイニシアティヴは第一次集会に組織された人民に帰属せしめられ、また「人民が法律につき表決する」ものとされた。そして、男子普通選挙制の下で直接選挙によって選出された立法府が統治機構の中で極めて高い地位を占めていることも見逃せない点である。 (e) 右にみたように、フランスにおいては国民主権と人民主権とは別個のものとして区別され、両者間の葛藤が歴史を彩ることとなるが、選挙権の拡大につれ次第に議会は実在する民意を忠実に反映すべきであると考えられるようになり(第一節Ⅲ(7頁)参照)、第三共和制憲法下においてそうした考え方が定着するに至る。理論上の曖昧さを残しながらも、実質的意味において人民主権への傾斜である。他方、憲法制定権力論は、この第三共和制憲法の下で立憲主義が定着するにつれて後退し、むしろ制定権力をもって法の世界の外の問題と解し、法的には改正権のみが問題とされるようになる。そして、さらには改正権と立法権との区別さえ曖昧化してしまう。この点は法実証主義の強い影響下にあった19世紀後半のドイツ憲法学において一層顕著で、憲法改正権は立法権と同一視されている。 (ハ)国家主権権 国家主権論については、既に触れた。 繰り返せば、右の君主主権と国民主権・人民主権を忌避して、法人たる国家に主権が帰属するとしたもので、当時のドイツの法実証主義憲法学にいかにも相応しい考え方であったということができよう。 ここでは、主権の主体は法人たる国家に属するということで主権の人格性は残存しているが、本来の主権論からすれば主権観念の非人格化である。 主権観念は歴史的にみて公法学の領域から追放することはできないが、それを限定的に用いようとする態度であって、主権とは、国家権力が法的な自己決定および自己拘束をなす排他的能力をそれによってもつことになる、国家権力の特性である、などと説かれた。 この点さらに押し進めて、主権の主体の問題を認めず、むしろ法秩序の効力の属性の意味、つまり法秩序の至高性・非伝来性の意味において主権観念を捉えようとする見解も登場してくる。 (ニ)実力としての憲法制定権力 シェイエスによって主張された憲法制定権力は、右に見たように、ヨーロッパにあっては、立憲主義の確立過程において、法実証主義的思考傾向の下に、法の世界の外に放擲されたが、ワイマール憲法下において、シュミットによって新たな装いの下に再び重要な観念として導入されることになった。 彼は、ワイマール憲法前文の「ドイツ国民は、・・・・・・この憲法を制定する」の文言および1条の「国権は、国民より発する」という規定に着目し、それは憲法制定権力が国民にあること、つまり同憲法が国民主権主義に立脚するものであることを明確にしたものであると捉えたのである。 それでは、彼のいう憲法制定権力とは何か。 彼によれば、それは「自己の政治的実存の態様と形式に関する具体的な全体決定を下すことのできる、すなわち、政治的統一体の実存を全体として規定することができる実力または権威をもった政治的意思」であるとされた(この「憲法」を前提にしてはじめて妥当する憲法規定の集合は「憲法律」と呼ばれる)。 この憲法制定権力は、シェイエスの場合と違って自然法の観念を払拭した、すべての規範の上に立つ実力であり、そのこととも関連して制定権力の担い手は国民であることを要しないとされている(君主や少数者の組織も担い手でありうる)点に特色がある。 制定権力は、「移付され、譲渡され、吸収され、使い果たされることはありえ」ない、「可能態として常に存続」するものであるが、シェイエスの場合とは違って、憲法改正権とは峻別されている。(第三節Ⅱ(34頁)参照)。 シュミットの制定権力論は、主権の権力的契機を純粋に追求した結果得られた観念であったと解することができよう。 しかし、その実態は何かという段になると、喝采であり、現代国家では世論であることが示唆されるのみで、著しく神秘的色彩を帯びるものとなっている。 (2)実定法上の主権観念 以上主権観念の史的展開を瞥見したのみで、その他にも種々の主権観念がある。 そして第二次大戦後、シュミット流の活性的な決断主義的憲法制定権力論を否認ないし克服しようとする傾向が顕著である点は指摘しておく必要があろう。 ここではその委細について論及する余裕はないので、以下実定法とりわけ日本国憲法との関係で重要と思われる主権観念を整理し、その意義を再確認するにとどめておく。 明治憲法は、「統治権」という語を用いつつも「主権」という語は使用しなかったが、日本国憲法は、「主権」という語を何箇所かで使用し、むしろ「統治権」という語を用いてはいない。 「主権」についての明治憲法以来の有力な伝統的説明によれば、 ① 最高権(自己の意思に反して他より制限を受けざる力)、 ② 統治権(人に命令し強制する権利)、 ③ 国家内における最高機関の地位、さらには、 ④ 国家の意思力そのもの、 を指すといわれた(美濃部達吉)。 これらの意味の中、まず、①は、国家の意思力の最高性、独立性ないし自主性に着眼しているもので、国家の意思力の属性を示すものである。 日本国憲法前文に「この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、・・・・・・」とあり、あるいは平和条約前文に「連合国及び日本国は、・・・・・・主権を有する対等のものとして・・・・・・」とあるのが、その例である。 それに対して、④は、国家の意思力そのものを指してのもので、「国権」とか「統治権」とか呼ばれるものである。 「主権」が唯一不可分であるという場合の主権はこの意味であると説かれる。 もっとも、既に見たように、「国権」あるいは「統治権」という語自体がまた一義的でなく、「国権」は国家の意思力そのものを指すのに対し、「統治権」は国家が有する権利の総体であるとして区別され、国家である以上3種の基本的権利、すなわち地域的統治権または領土高権、対人的統治権または対人高権、自主組織権(権限高権)を有するものでなければならない、などと説かれる。 ②は、このような「統治権」に対応するものということになる。 ポツダム宣言の8項に「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるのがその例であるとされ、あるいは、領土主権といい、領土の割譲を主権の割譲というがごときもその例であるとされる。 問題は、③の「主権」観念である。 明治憲法時代、「唯一最高無限ニシテ独立」という「主権」概念により、その「主権」の所在如何によって君主国体と民主国体に分かつ説もあったが(穂積八束)、右の説(美濃部説)はそうした「主権」観念を排して最高の機関の地位について語ろうとするものである。 すなわち、美濃部は、明治憲法の「最も重要な根本主義」として「君主主権主義」に言及したが、それは、「統治を行ふ力が君主にその最高の源を発すること」、つまり君主が国家の「最高の機関」として「統治の最高の源泉たる地位に存ますこと」と解し、そして、「憲法制定権力」と「被制定権力」とを区別し、前者はその性質上何らの拘束も受けないというシェイエスの所説に触れて明確にそれを排撃した。 「国民が憲法以上に在って憲法の拘束を受けないものとすることは国民に不断の革命の権利を認むることであって、恰も専制主義の君主主権説に於て君主の権力が憲法以上に超越し、何時でも憲法を廃止変更することが出来るとする説と同様の誤に陥いって居る」というのがその理由である。 美濃部は、第二次大戦後も、国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であると捉え、日本国憲法前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し」と明言し、本文1条に天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」とあることをもって、「国家の統治権を行使する権能即ち国家の原始的直接機関として統治権を発動する力」が天皇から国民に移ったことを示すものと解した。 が、同時に、美濃部は、日本国憲法の成立に関し、いわゆる「八月革命」説に投じ、「憲法制定権」という言葉も使用したりして、「憲法制定権力」への傾斜を思わせる態度を示した。 この点、「国民主権」にいう「主権」とは、「国家の政治のあり方を最終的にきめる権力あるいは権威」であるとし、「シェイエス流に、『憲法制定権力』といってもいいかも知れない」と明言したのが宮沢俊義である。 そして、憲法にいう「国民主権」をそのような意味において理解する立場が支配的となったが、なおその具体的意味について解釈論上各種の考え方がありうるところで、その点については後に詳述する(第二編第一章第二節(92頁)参照)。 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下 Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論 (1)総説 日本国憲法は天皇主権を排して国民主権に立脚するが、その国民主権の意味ないし内容については必ずしも一義的に捉えきれないところがあり、実際様々な見解が存する。 以下主な諸見解に触れ、あわせてその問題点について述べる。 (2)最高機関意思説 いわゆる国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であるとの前提の下に、国民主権をもって、国家の意思力を構成する最高の機関意思、国家の原始的直接機関(ここに「直接機関」とは他の機関から委任されたのではなく、直接に国家の組織法によって国家機関たるものをいい、その中でも、他の直接機関を代表するものではなく、憲法上自己に固有のものとして認められる権能を有するものを「原始的直接機関」という)として統治権を発動する力が国民に属するとする主義であると解し、その国民とは参政権を与えられているものの全体であるとする見解がある。 この説によれば、理論上、主権の所在は憲法によって定まることになり、主権は憲法によって創設された最高権という意味合いをもつことになる(美濃部達吉は、国民主権は憲法の民定性を要求すると解しているようであるが、主権者をもって憲法・法律によって組織された国民と解する限り、憲法以前にそのような国民が存しうるのか疑問である。この点、佐々木惣一は、日本国憲法は欽定憲法であるとなし、ただ、日本国憲法の規定によれば、天皇の制定による欽定憲法というものは将来は存在しえないと説く)。 主権者たる国民からは一般に天皇は除かれる。 ただ、この国民は、雑然とした多数者であって常に直接国家意思を決定することはできないので、主権者たる国民の意思を現実に表示することを職分とする代表者が必要であり、日本国憲法上は国民の選挙によって選ばれる国会がそれにあたるとされる。 この見解は憲法発足当初有力に主張されたものであるが、次のような問題性が指摘されうる。 まず、 主権をもって機関意思と把握する以上行為能力が問題となり、そこでこの説は主権者を有権者とするのであるが、国民の中には主権者たるものと主権者でないものとがあることになって、国民主権の根本理念に反することにならないか。 第二に、 主権者たる国民は具体的には有権者とされるが、誰が有権者かは日本国憲法上基本的には法律で決まることになっていること(44条参照)、また、日本国憲法が国会をもって「国権の最高機関」としていること(41条)、との関係をどう考えるか。 第三に、 主権は憲法を生み出す力(憲法制定権力)と解すべきであって、憲法によって主権の所在が決まるというのは主権の本質を見誤るものではないか。 第四に、 論者によっては、国民主権をもって、国民が国権の源泉者または国権の「総攬者」であることの意味に解するが(佐々木惣一)、天皇が「総攬者」であると同じような意味において国民の「総攬者」を語りうるか否か。 第五に、 この説は、国民の選挙によって組織される国会が立法権を中心に国政を統括する地位に立つとすれば、国民主権の趣旨は満たされるとする傾きをもつが、国会の権能ももとより憲法による拘束下にあることをどう理解するか、また、選挙にそのような本質的契機を認めることは果たして妥当であろうか。 (3)憲法制定権力説 (イ)総説 最高機関意思説の右のような問題性を踏まえて、国民主権をもって憲法制定権力が国民にあるという趣旨に解そうとする見解が主張される。 もっとも、この点において基本的発想を共通にしつつも、仔細をみれば、さらに次のような諸説の分岐がみられる。 (ロ) 実力説 まず、憲法制定権力の本質を最高の実力に求める見解がある。これは、上述の(第一編第一章第四節Ⅱ(57頁))シュミットの憲法制定権力論に通ずる見解である。しかし、この見解に対しては、憲法制定権力が実力であるとして、その実態は何かという段になると一向に明らかにされないという批判、あるいは、最高の実力としての憲法制定権力にとって、憲法典の制定とはそもそも如何なる意味をもちうるのかという批判、が妥当する。制定権力の実態は明らかにされず、しかも制定権力はそれを制約づけるもののない全能の存在ということになると、誰もが制定権力の行使の名において憲法を変更することを正当化する途が開かれていることにならないか。そうなると、憲法はもはや法の世界ではなく、全く政治の世界そのものと化してしまわないか。 (ハ) 権限説 実力説の右の問題性を忌避して、実定的な「根本規範」の存在を想定し、憲法制定をもってかかる「根本規範」の授権に基づき(内容的制限を含めて)行われるところの機関としての行為として捉えようとする見解が登場する。つまり、憲法制定権力は、厳密には憲法制定権限となる。そしてここにいう「根本規範」とは、純粋法学流の仮設規範ないし法理論的意味における憲法ではなく、すべての成文憲法の前に妥当する、人間人格不可侵の原則を核とする価値体系にかかわる規範であるとされる。かかる考え方に依拠して、一般に、権限主体は、シェイエスの場合と同様国民でなければならないとされ、そして君主主権に対峙する意味で国民からは天皇は除かれ、かつ機関としての行為が問題となることから具体的には有権者が想定される。この見解に対しては、次のような問題性が指摘される。まず、憲法制定の権限主体、制定の手続、制定さるべき憲法の内容を定める実定的な「根本規範」といったものはそもそも存在するのか。第二に、人間人格不可侵の原則の実定性が承認されるとしても、その具体的内容および実現の方法は決して一様ではありえず、その違いが如何にして確定されるかはなお重大な問題として残るというべきではないか。第三に、国民の中に主権の担い手たるものとそうでないものとの区別が生じ、国民主権の根本理念に反することにならないか(未成年者などの非有権者は、何故に憲法に従わなければならないのであろうか)。第四に、有権者は日本国憲法上基本的には法律によって定められるが、憲法制定の権限主体が結局国会によって定められることになって不当ではないか。 (ニ) 監督権力説 主権者としての意思活動を憲法制定権力の発動と把握する立場に立ちつつ、国民主権の本質をもって、国民の代表の行なう統治に対して、同意を与えまたは与えない監督の権力たるところに求める見解が存する。つまり、国民主権は、具体的な積極的行動を行なう組織化された主体にかかわるのではなく、国家の統治作用に同意を与えまたは与えないという受動的な作用を本質とするところの、現に生活しているすべての国民全体の「一般意思」の力であるところにその眼目があると解するのである。国民主権国家にあっては、国権が国民の代表によって行われるにせよ、結局国民の同意が国政における決め手となることが力説される。この見解は、実力説および権限説のそれぞれ有する問題性を免れ、と同時に国民主権における討論の自由(表現の自由の保障)と自由なる選挙の不可欠性を提示している点で優れた説というべきである。が、そこでいう「一般意思」とは具体的に何であり、それは如何にして認定されるか、一時点における支配的意思が「一般意思」として絶対視される危険はないか、あるいは、国政は結局「一般意思」によって行われるということになって悪戯に現状肯定的な保守的説明手段に堕しないか、といった疑問がありえよう。また、国民の同意が国政における決め手であるということであるとすれば、およそ国民が政治的意思を持つ限り、憲法の定め如何に関わりなく国民が主権者ということになりはしまいか、という疑問が生ずる。それは、結局、いわゆる「事実の確認としての国民主権」論や後述のノモスの主権論に接近する。 (ホ) 最終的権威説 国民主権をもって、憲法制定権力が国民によって担われるという意味において把握するが、制定権力をもって実力とみたり権限とみたりせずに、統治を正当化すべき権威が国民に存するという意味において理解する見解が存する。ここにおける国民とは抽象的な観念的統一体としての国民であって、およそ日本国民であれば誰でも包含され、天皇も私人としてみる限りこの国民に含まれると解することが可能となる。この見解は、主権 = 憲法制定権力から権力的契機を徹底的に排除し、あくまでも権力の正当性の所在の問題として把握し、主権 = 憲法制定権力という実定法上の概念の名の下に憲法破壊ないし人権侵害が正当化されることを回避しようとする立場であると解することができる。そして、主権者たる国民は権威の源泉としての国民であって、国家機関としての国民とは異なり行為能力を問題とする必要はなく、最高機関意思説や権限説のように国民の範囲をめぐる問題にかかわる必要はないという長所をもつ。しかし他面、この説による国民主権はあまりにも無内容ではないか、国民主権はそこから一定の政治組織上の原則が帰納さるべき性質のものと捉えるべきではないか、の批判が加えられることになる。 (4)ノモスの主権説 主権をもって事実の世界から完全に切断し、純然たる法理念の問題として把握しようとする見解が存在する。 それによれば、いかなる権力も超えてはならない「正しい筋途」すなわちノモスがあるのであって、国の政治を最終的に決めるものが主権であるとすれば、主権はノモスにあるとみるべきであるとされる(因みに、ノモスは、古典古代のギリシャにおいて自然[ピュシス]の対立概念として考えられ、絶対的なものではなく破られやすいものではあるが、それに従うべきであるとされたものであるという)。 あるいは、この説は、法の効力根拠をノモスという道理・規範に求める説だとみる余地もある(*1)(そうだとすると、この説は、「根本規範」の存在を前提とする先の権限説に接近する)。 この説によれば、国民主権か君主主権かという問題は全く第二義的な問題と化してしまう。 事実、この説は、国民主権も君主(天皇)主権もすべてノモスという理念の支配であるから、明治憲法から日本国憲法に変っても「国体」は不変であると主張した。 しかし、仮にそのようなノモスが存在するとしても、具体的にどのような内容のノモスが、どのような方途を通じて支配するのか、という問題意識がこのノモスの主権説に欠落しており、天皇制の弁明としての性格をもつものであった。 ただ、国民主権の場合であっても、あるべき政治とは何かの課題は残るのであって、その限りでは、ノモスの主権説も考えるべき課題を提起しているといえよう。 (*1) 尾高朝雄はこのノモスの主権説の論者として知られるが、そのノモスの主権は結局のところ為政者への「心構え」の問題にとどまって、それに反する立法の無効の主張にまでは及ばなかった。そこには、法の効力をもって「法的規範意味が事実の世界に実現され得るという『可能性』である」と捉える考え方が作用していたようである。つまり、法の効力は当為のレヴェルではなく、事実のレヴェルにつなぎとめられていたからである。 (5)人民主権説 国民主権の主権をもって憲法制定権力と解することに反対し、主権を実定憲法秩序における国家権力の帰属の問題として捉えるべきであるとし、従って主権が国民にあるとされる場合の主権は、憲法秩序に取り込まれた構成的な規範原理として、国民をして実際の国政の上で最高権の存在に相応しい場を確保せしめるという民主化の作用を果たすべきものとみるみるべきであるとする見解が存する。 そして、国民主権をルソー流の人民主権の方向で把握するのがあるべき歴史的解釈であるとし、日本国憲法に即していえば、15条1項、79条2項・3項、96条1項などは人民主権に馴染む規定であると捉え、43条1項や51条の規定にかかわらず、命令的委任の採用は可能であると説く(命令的委任の意味は必ずしも明確ではないが、一般に、選挙で選ばれた代表者は選挙区の訓令によって行動する義務を負い、それに違反した場合には有権者によって罷免されうるという要求を内容とするようである)。 この見解は、まず、主権は法的権力であるが、憲法制定権力は法の外の世界に属する事象と捉えるところに特徴をもつ(この説によれば、主権 = 憲法制定権力という定式では、国民主権は建前と化し、結局現実の国政の場で国民を主権者たる地位から追放することになるという。) しかし、主権観念が国家統治のあり方に最も根源的にかかわり合う憲法の制定に無関係とすることは問題で、ドイツのように、「ドイツ国民は・・・・・・その憲法制定権力に基づき、この基本法を決定した」(前文)とうたって、憲法制定権力を実定化している例のあることが留意さるべきである。 そして、主権 = 憲法制定権力と基本的に把握することが、直ちに主権観念をして無内容のものとすると解するべきではなく、後述のように一定の構成的作用を果たすものであるとみるべきであろう。 なお、フランス的文脈でいえば、いわゆる「国民主権」から「人民主権」へという定式が成り立つとしても(1946年憲法も58年憲法も、国の主権は人民(peuple)に属するとしている)、そのことから、一般的に、あるいは日本国憲法上、命令的委任が当然に帰結されるといえるかは問題で、この点については後述する(第二章(13頁)参照)。 国民代表の観念が、現実でないものを現実であるかのごとく装うという「イデオロギー」的性格をもつとすれば、命令的委任も、そのような「イデオロギー」的性格を免れえているわけではない。 Ⅱ. 国民主権の意義 (1)総説 以上みてきたように、日本国憲法下の国民主権の意味について諸種の見解が存するところであるが、今日国民主権は単一の次元においてのみ捉えるべきではなく、複数の次元を包摂する全体像において把握されるべきものと思われる。 すなわち、国民主権には、大別して、憲法を定立し統治の正当性を根拠づけるという側面と、実定憲法の存在を前提としてその憲法上の構成的原理としての側面とがあり、後者はさらに、国家の統治制度の民主化に関する側面と公開討論の場(forum)の確保に関する側面とを包含するものと解すべきである。 (2)憲法制定権力者としての国民主権 国民主権は、まず、主権という属性をもった国家の統治のあり方の根源にかかわる憲法を制定しかつ支える権力ないし権威が国民にあることを意味する。 この場合の国民は、憲法を制定した世代の国民、現在の国民、さらには将来の国民をも包摂した統一体としての国民である。 従って、この場合の国民は、基本的には、それ自体として国家の具体的な意思決定を行ないうる存在ではない。 換言すれば、雑然とした国民の全体を一つの観念で把握し、そこに一つの意思があると想定し(あるいはこれを一般意思と呼んでもよい)、その意思に国家の合法性の体系を成立せしめる究極の正当性の根拠をみるのである。 もとより、国民主権を標榜する場合であっても、現実には、憲法は、ある歴史的時点において、その世代の人々により、ある方法をとって(憲法会議と国民投票という方法をとることもあれば、そうでない場合もある)制定される。 その意味では、国家の合法性の体系は具体的な意思ないし実力(権力)から生まれるものといわなければならない。 つまり、権限説やある種のノモスの主権説のように「根本規範」ないし自然法といったものを想定し、国家の実定法体系をその具体化・実現として捉える(法の根拠についての道理説)のではなく、法の根拠について意思ないし実力に求める立場である。(*1) しかし、その場合に問題となるのは、何のために、如何なる原理に基づく憲法を制定するかである。 主権者(憲法制定権者)たる国民が立憲主義憲法を制定する場合、そのときの国民は、個人の人格的自律が尊重される“良き社会”の形成発展という長期的視野に立って自己拘束をなし、また、後の世代の国民がそれぞれの時代の状況に柔軟に対応しつつ“良き社会”の形成発展に向けて自己統治を行なうことを容易にする政治システムを構築しようとするのである。 過去の国民(“死者”)は現在の国民(“生者”)を拘束することはできない。 立憲主義を支える道徳理論によるならば、過去の国民(“死者”)が現在の国民(“生者”)を拘束することが許されるのは、現在の国民(“生者”)が自由を保持しつつ自己統治をなすことを容易にする制度枠組を構築する、換言すれば、現在の国民(“生者”)が自由な主体として自己統治をなすことができる開かれた公正な統治過程を保障するという場合のみである。 国民をもって、憲法を実際に制定した世代の国民、現在の国民、さらに将来の国民を包摂した観念的統一体として把握し、そのような国民の意思に国家の合法性の体系の成立・存続の正当性の根拠を求めることが道徳理論上認容されうるのは、そのような条件が満たされる場合においてのみであろう。 このような意味において、国民がその担い手である憲法制定権力は基本的には端的な実力ではなく、一般的な意思ないし権威となる。 ただ、上述のように憲法改正権は制度化された憲法制定権力と解されるから(第一編第一章第三節(34頁)参照)、改正の場に登場する国民は具体的には一定の資格をもったもの(有権者)のみではあるが、主権者たる国民そのものに擬すべき存在と解するべきであろう。 これによって、主権者たる国民は、制度枠組自体をそれぞれの時代に制度的に適応せしめる途が開かれている。 (*1) 宮沢俊義は、尾高のノモスの主権説を批判するにあたって、意思ないし実力説的見地に立つことを示唆したが、他方では、「憲法の正邪曲直を判定する基準になる『名』」の存在、さらには憲法の効力さえ左右する自然法論のごとき立場に与することを示唆した。 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権 (イ)統治制度の民主化の要請 国民主権は、憲法を成立せしめ支える意思ないし権威としてのみならず、その憲法を前提に、国家の統治制度が右の意思ないし権威を活かすよう組織されなければならないという要請を帰結するものと解される。 次節にみるように国民は有権者団という機関を構成するが、それは民意を忠実に反映するよう組織されなければならないとともに、統治制度全般、とりわけ国民を代表する機関の組織と活動のあり方が、憲法の定める基本的枠組の中で、民意を反映し活かすという角度から不断に問われなければならないというべきである。 国民主権のこの要請から例えば命令的委任が帰結されるかどうかは、日本国憲法の定める基本的枠組の解釈の問題であって、その点については後述する(本編第二章(136頁)参照)。 また、有権者団としての国民の意思、その意思に基づいて組織される国家機関の意思は、(2)の憲法制定権力者としての国民の意思そのものではないのであって、絶対性を主張することはできないことが留意さるべきである。 (ロ)公開討論の場の確保の要請 構成原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、かかる統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能ならしめる公開討論の場が国民の間に確保されることを要請する。 集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということをその本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民による政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。 しばしば国民主権は“世論による政治”であるといわれるのは、国民主権の右の面にかかわるが、ただ、ここでいわれる世論は憲法制定権力者としての国民の意思そのものと目さるべきでないこと勿論である。
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佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) <目次> 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下Ⅰ. 国家(1)国家の概念 (2)国家の法人格性(イ)国家の法人格性 (ロ)国家法人説 Ⅱ. 主権(1)主権観念の展開(イ)主権観念の登場 (ロ)国民主権・人民主権 (ハ)国家主権権 (ニ)実力としての憲法制定権力 (2)実定法上の主権観念 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論(1)総説 (2)最高機関意思説 (3)憲法制定権力説(イ)総説 (4)ノモスの主権説 (5)人民主権説 Ⅱ. 国民主権の意義(1)総説 (2)憲法制定権力者としての国民主権 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権(イ)統治制度の民主化の要請 (ロ)公開討論の場の確保の要請 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下 Ⅰ. 国家 (1)国家の概念 上述のように、憲法は国家生活のあり方にかかわる法であることから、そのことの関係で国家とはそもそも何かについて若干論及しておく必要がある。 国家と呼ばれる社会団体の存在性格・様式は、時代によりまた所により一定しないが、近代国家は、一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体であるという点で概ね共通している。 このように、国家の本質を、地域、所属員、固有の支配権の3要素に集約せしめて理解しようとする見解は、一般に国家3要素説と呼ばれる。 (中略) 第三の要素である固有の支配権は、「国権」とか「統治権」とかあるいは「主権」とか呼ばれる。 「国権」は、伝統的な見解にあっては、国家の法上の人格すなわち国家の意思力を指す観念とされ(ここから国権の唯一不可分性が帰結される)、それに対して「統治権」は国家が国際法および国内法上有する権利の総体である(従って統治権は可分となる)として国権と区別されることもあるが、今日では、国権と統治権は同義に使用されることが多い。 「統治権」の内容は国によって一様ではありえないことになるが、国家である以上次の3種の基本的能力、すなわち、①領土内にある人および物を支配する権利たる領土高権、②国家の所属員を支配する権利たる対人高権、③国家の組織・権限の有り様を自らの意思により定めることのできる権利たる自主組織権(権限高権)、を備えているものでなければならない、とされる。なお、また、「国権」または「統治権」は「国家において統治活動をなす権力」の意味で用いられることもある(日本国憲法41条にいう「国権」はその例であるとされる)。 「主権」の語も多義的で、国権あるいは統治権と同義に用いられることのほか、国権の属性としての最高独立性の意味で用いられたり、また国家の統治活動の有り方を最終的に決定する力ないし権威の意味で用いられたりすることがるが、この点については後述する。 国家の第三の要素としての支配権は、国際組織が発達し相互依存的な今日の国際社会にあっては、かつてと違って様々な制約を受けることが多くなる傾向にある。 (2)国家の法人格性 (イ)国家の法人格性 法的認識の問題としてみた場合、国家は一個の統一的法秩序を形成しているといえようが、この法秩序の統一性をもって擬人的に法人格と称されることがあり、この意味で国家は法人格を有する、つまり国家は法人であるとみることができる。 さらに、国家は、実定法の内容に照らして、人格を有するとみなされる、というように言われる。 我が国の現行法上、国家は、財産権の主体としての関係において「国庫」と呼ばれ(民法239条・959条)、「国債」を負担したり、「国有財産」を有することが認められ、また、対外的な国際法上の関係において法主体として登場する。 この意味における国家の法人格性の範囲は、専らそれぞれの国家の実定法の定めるところによって決まることになる。 (ロ)国家法人説 19世紀ドイツにおいて登場し、我が国に多大の影響を及ぼした国家法人説は、右に述べたような意味での国家の法人格性を超えて、独特の意義と背景をもつものであったことが注目される。 つまり、国家法人説は、国家をもって社会学的には社団であり、法学的には法人であるとするとともに、従来の主権観念をもって専らかかる国家自体の特性を示すものとして把握し、それ以外の主権の意味を回避しようとしたところに特徴をもつものであった。 国家自体が意思力をもち、本来の主権はその意思力の最高性を示す観念として把握される。 このように国家の統治の有り方を最終的に決めるのは人格としての国家であるとする(国家主権説。ここでの国家主権は、国家が対外的に独立しているという意味での国家主権と異なることに注意)背景には、一方では絶対主義的君主主義論を克服し、他方では国民自身による積極的・具体的な統治を追求する国民主権論を抑止しようとする政治的低意が働いていたことが指摘される。 アメリカ合衆国などのように国民主権の確立した国において、とりたてて国家法人説が主張され発展せしめられることのなかったのは、まさにこの説のもつかかるイデオロギー性を示しているといえる。 他方、神権的国体観念を払拭しきれなかった明治憲法下において、国家は法人にして天皇はその機関とする天皇機関説は、結局において、「民主共和の説」として排撃されるところとなる。 国家法人説は、このように法人たる国家に主権があるとしたが、いわゆる国家の自己制限ないし自己義務づけの理論によって、主権の最高独立性と国家の被法的拘束性とを両立せしめ、そのことによってまた個人の自由の観念とも調和せしめようとした。 しかし、個人の「自然権」を基礎とする徹底した立憲民主主義の観点からすれば、いわゆる国家法人説は、国家の統治の正当性の契機を回避するとともに(従来の君主主権か国民主権かの問題は、国家意思を供給する国家機関の組織のあり方の問題と化す)、結局において国家の絶対性を措定し、個人の自由の観念と調和困難な説(国家固有の統治権はしばしば無条件に団体員を支配しその意思を規律しうる力であると説かれる)として受け入れ難いものとみなされざるをえないことになる。 もっとも、政治社会には唯一の究極的で絶対的な権威ないし権力が存しなければならないという観念たる「主権」は、結局のところ抽象的人格性を備える国家に帰属すると考えるとしても(その意味では国家主権説)、そのような属性をもつ国家を誰の権威でどのように運営するかの問題は残り、その主体的・具体的意思・権威はどこにあるかの問題こそ君主主権か国民主権かの問題である、というように考えることはできる。 国家と人権との関係をめぐる問題は後述するので(とくに第四編)、次に国家と主権と憲法との関係をめぐる問題をもう少し立ち入って考察することにしたい。 Ⅱ. 主権 (1)主権観念の展開 (イ)主権観念の登場 主権観念は、まず、フランス王権について、対外的にはローマ皇帝およびカトリック法王の権威・権力からの独立性を、体内的には封建諸侯に対しての優越性を、示すものとして登場した。 この主権観念の確立に理論的指導性を発揮したのはバーダンで、彼は、主権は国家の絶対的かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素であると説いた。 そしてかかる主権観念は、近代国家への移行過程において他のヨーロッパ諸国でも広く用いられるようになる。 この段階では、国家は君主と一体的に観念されていたから(「朕は国家なり」)、国家自体の主権とその国家内において最高意思はどこにあるかということ(国家内における最高権の問題)とは次元を異にする別個の問題であることは十分意識されていなかった。 しかるに、君権に対する市民層の不満を背景に、国民主権ないし人民主権が登場するに及んで、主権論の力点は国家内の最高権の所在の問題に向けられることになる(もっとも、この段階でも君主を人民に取って換えただけで、人民即国家と考える傾向がみられる)。 (ロ)国民主権・人民主権 (a) 国民主権論は、近代自然法論に依拠する社会契約説を根拠に登場した。社会契約説は、その理論構成如何によっては、なお君主主権を根拠づけるところともなるが(ホッブズ)、一般に、あくまでも各人の自然権の保全を基軸に考え、その保全に必要な限度での統治の権力の信託という構成をとることによって国民主権を帰結した(ロック)。つまり、国家権力を支えるのは国民であり、国民の支持がある限りにおいてのみその行使が正当化される。しかしこの見解は、国民主権の名にふさわしい実をあげる具体的方法・プロセスを明確にしていないきらいがあった。 (b) 同じく社会契約説に立脚しつつ、それを単に国家統治の正当性の根拠とするにとどまらず、国民による直接統治を帰結する説(ルソー)は、右の国民主権論に対する批判にして一つの解答であったとみることができる。そこでは、主権は子かを構成する全人民の、常に共同の利益を欲して誤ることのない一般意思として把握され、具体的には一般意思は立法意思と同一視され、それは全市民の参加によって行使されるものとみなされた。主権は絶対的なもので、不可分・不可譲・不可代表の性質をもつ。それは議会制を否定する徹底した直接民主主義的人民主権論であるが、従来の絶対主義的君主主権を端的に人民に取って換えたきらいがあり、現実の国家の実態に即した理論としては無理な性格のものであった。一般意思は常に共同の利益を欲する意思だとされるが、具体的な立法意思がそうであるという保障はなく、絶対的な一般意思の名における個人や少数者の抑圧という可能性は常に存する(ルソーの人民主権論が後世において人民独裁の国家論と評されることのある理由はここにある)。また、主権は不可分だとされるが、主権の主体としては具体的な個々人ないしその総体が想定されていて、理論的整合性の点でも問題を孕んでいた。 (c) このような国民主権論、人民主権論の問題性の文脈においてみると、国民主権を基本的に憲法制定権力として把握しようとする説(シェイエス)は注目すべき見解であったといわなければならない。そこでは、「憲法を制定する権力(pouvoir constituant)」と「憲法によってつくられた権力(pouvoirs constitues)」とが区別される。そして、前者は、自然法の下に、国民がこれを有し、単一不可分であり、それ自体いかなる形式にも服することのない、「意欲しさえすれば十分である」万能の存在であるとされ、他方後者は、憲法制定権力の制定した憲法によって組織されるところの立法権・執行権といった権力で、憲法による規制下に立つ存在であるとされた。ここではルソーの一般意思と同様主権の絶対性が措定されつつも、他方憲法制定権力と立法権との本質的区別がなされることによって、代議制や権力分立制と結合する途が開かれたのである。この憲法制定権力の観念は、右のシェイエスにみられるように徹底して理論化されるということはなかったが、アメリカにおいていち早く現実のものとなった。権力の根源である国民が人為的に制定した成文の憲法によって国家の統治構造と国民の権利を定め、国政の運営およびそれにまつわる問題の解決は全てこの成文の憲法に立ち返って行なうという行き方が定着した。アメリカの憲法制定権力は、ヨーロッパのそれのように激しく対立すべき“敵”(アンシャン・レジーム)をもたず、当初から民主的基盤の上に成立したことが関係してか、本質的に非実体的・非権力的で、憲法制定会議とその成案の承認を通じて、法律よりも高次の妥当性を根拠づけるという機能に基本的に集約される。それには、アメリカの立憲主義がイギリスの古典的立憲主義と必ずしも切断されず、むしろある面ではそれを引き継ぐ形で成立したものであること、第二に、アメリカの憲法制定権力は、革命初期の諸邦における立法権優位の経験に基づく反動として、個人の諸権利を確実なものとするという保守的な土台の上に構想されたものであること、などが関係していたと思われる。 (d) フランス革命期は、君主主権、国民主権、ルソー流人民主権、シェイエス流憲法制定権力など様々な観念が競い合った時代であった。1789年の「人および市民の権利宣言」にはルソー的思想の影響が指摘されているが、1791年の憲法は、君主主権を否定すると同時に、ルソー流人民主権をも斥けて、国民主権に与する姿勢を明確にした。そこでは、「主権は、単一、不可分、不可譲で時効にかかることがない。主権は国民に属する」とされるが、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる。フランスの国家体制は代表制である」と明言されている。つまり、主権者たる「国民(nation)」は抽象的な観念的統一体としての国民であって、それ自体として具体的な意思・活動能力を備えた存在ではありえず、委任(包括的・集団的な代表委任)が不可避的に帰結されたのである。代表と被代表との間の選任関係を不可欠の要素とせず、制限選挙制が採用され、訓令委任が禁止されたことなどは、いずれも国民(nation)主権の帰結であった。他方、シェイエス流憲法制定権力は、憲法を制定し変更する権力として一括して把握されてものであったが、91年憲法においては、制定権力と改正権とに分離され、改正権は法的統制下におかれるとされる一方、制定権力は依然として法的統制を受けない存在であるものの、観念化され、憲法の妥当性を根拠づけるという機能に封じ込ようとする姿勢が示された。ところが、93年憲法は、国民主権を斥けて、むしろ人民主権の考え方に依拠することを明らかにする。ここでの「人民(peuple)」は、もはや抽象的な観念的統一体としての存在ではなく、それ自体活動能力を備えた具体的に把握できる存在である。かくして、憲法改正のイニシアティヴは第一次集会に組織された人民に帰属せしめられ、また「人民が法律につき表決する」ものとされた。そして、男子普通選挙制の下で直接選挙によって選出された立法府が統治機構の中で極めて高い地位を占めていることも見逃せない点である。 (e) 右にみたように、フランスにおいては国民主権と人民主権とは別個のものとして区別され、両者間の葛藤が歴史を彩ることとなるが、選挙権の拡大につれ次第に議会は実在する民意を忠実に反映すべきであると考えられるようになり(第一節Ⅲ(7頁)参照)、第三共和制憲法下においてそうした考え方が定着するに至る。理論上の曖昧さを残しながらも、実質的意味において人民主権への傾斜である。他方、憲法制定権力論は、この第三共和制憲法の下で立憲主義が定着するにつれて後退し、むしろ制定権力をもって法の世界の外の問題と解し、法的には改正権のみが問題とされるようになる。そして、さらには改正権と立法権との区別さえ曖昧化してしまう。この点は法実証主義の強い影響下にあった19世紀後半のドイツ憲法学において一層顕著で、憲法改正権は立法権と同一視されている。 (ハ)国家主権権 国家主権論については、既に触れた。 繰り返せば、右の君主主権と国民主権・人民主権を忌避して、法人たる国家に主権が帰属するとしたもので、当時のドイツの法実証主義憲法学にいかにも相応しい考え方であったということができよう。 ここでは、主権の主体は法人たる国家に属するということで主権の人格性は残存しているが、本来の主権論からすれば主権観念の非人格化である。 主権観念は歴史的にみて公法学の領域から追放することはできないが、それを限定的に用いようとする態度であって、主権とは、国家権力が法的な自己決定および自己拘束をなす排他的能力をそれによってもつことになる、国家権力の特性である、などと説かれた。 この点さらに押し進めて、主権の主体の問題を認めず、むしろ法秩序の効力の属性の意味、つまり法秩序の至高性・非伝来性の意味において主権観念を捉えようとする見解も登場してくる。 (ニ)実力としての憲法制定権力 シェイエスによって主張された憲法制定権力は、右に見たように、ヨーロッパにあっては、立憲主義の確立過程において、法実証主義的思考傾向の下に、法の世界の外に放擲されたが、ワイマール憲法下において、シュミットによって新たな装いの下に再び重要な観念として導入されることになった。 彼は、ワイマール憲法前文の「ドイツ国民は、・・・・・・この憲法を制定する」の文言および1条の「国権は、国民より発する」という規定に着目し、それは憲法制定権力が国民にあること、つまり同憲法が国民主権主義に立脚するものであることを明確にしたものであると捉えたのである。 それでは、彼のいう憲法制定権力とは何か。 彼によれば、それは「自己の政治的実存の態様と形式に関する具体的な全体決定を下すことのできる、すなわち、政治的統一体の実存を全体として規定することができる実力または権威をもった政治的意思」であるとされた(この「憲法」を前提にしてはじめて妥当する憲法規定の集合は「憲法律」と呼ばれる)。 この憲法制定権力は、シェイエスの場合と違って自然法の観念を払拭した、すべての規範の上に立つ実力であり、そのこととも関連して制定権力の担い手は国民であることを要しないとされている(君主や少数者の組織も担い手でありうる)点に特色がある。 制定権力は、「移付され、譲渡され、吸収され、使い果たされることはありえ」ない、「可能態として常に存続」するものであるが、シェイエスの場合とは違って、憲法改正権とは峻別されている。(第三節Ⅱ(34頁)参照)。 シュミットの制定権力論は、主権の権力的契機を純粋に追求した結果得られた観念であったと解することができよう。 しかし、その実態は何かという段になると、喝采であり、現代国家では世論であることが示唆されるのみで、著しく神秘的色彩を帯びるものとなっている。 (2)実定法上の主権観念 以上主権観念の史的展開を瞥見したのみで、その他にも種々の主権観念がある。 そして第二次大戦後、シュミット流の活性的な決断主義的憲法制定権力論を否認ないし克服しようとする傾向が顕著である点は指摘しておく必要があろう。 ここではその委細について論及する余裕はないので、以下実定法とりわけ日本国憲法との関係で重要と思われる主権観念を整理し、その意義を再確認するにとどめておく。 明治憲法は、「統治権」という語を用いつつも「主権」という語は使用しなかったが、日本国憲法は、「主権」という語を何箇所かで使用し、むしろ「統治権」という語を用いてはいない。 「主権」についての明治憲法以来の有力な伝統的説明によれば、 ① 最高権(自己の意思に反して他より制限を受けざる力)、 ② 統治権(人に命令し強制する権利)、 ③ 国家内における最高機関の地位、さらには、 ④ 国家の意思力そのもの、 を指すといわれた(美濃部達吉)。 これらの意味の中、まず、①は、国家の意思力の最高性、独立性ないし自主性に着眼しているもので、国家の意思力の属性を示すものである。 日本国憲法前文に「この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、・・・・・・」とあり、あるいは平和条約前文に「連合国及び日本国は、・・・・・・主権を有する対等のものとして・・・・・・」とあるのが、その例である。 それに対して、④は、国家の意思力そのものを指してのもので、「国権」とか「統治権」とか呼ばれるものである。 「主権」が唯一不可分であるという場合の主権はこの意味であると説かれる。 もっとも、既に見たように、「国権」あるいは「統治権」という語自体がまた一義的でなく、「国権」は国家の意思力そのものを指すのに対し、「統治権」は国家が有する権利の総体であるとして区別され、国家である以上3種の基本的権利、すなわち地域的統治権または領土高権、対人的統治権または対人高権、自主組織権(権限高権)を有するものでなければならない、などと説かれる。 ②は、このような「統治権」に対応するものということになる。 ポツダム宣言の8項に「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるのがその例であるとされ、あるいは、領土主権といい、領土の割譲を主権の割譲というがごときもその例であるとされる。 問題は、③の「主権」観念である。 明治憲法時代、「唯一最高無限ニシテ独立」という「主権」概念により、その「主権」の所在如何によって君主国体と民主国体に分かつ説もあったが(穂積八束)、右の説(美濃部説)はそうした「主権」観念を排して最高の機関の地位について語ろうとするものである。 すなわち、美濃部は、明治憲法の「最も重要な根本主義」として「君主主権主義」に言及したが、それは、「統治を行ふ力が君主にその最高の源を発すること」、つまり君主が国家の「最高の機関」として「統治の最高の源泉たる地位に存ますこと」と解し、そして、「憲法制定権力」と「被制定権力」とを区別し、前者はその性質上何らの拘束も受けないというシェイエスの所説に触れて明確にそれを排撃した。 「国民が憲法以上に在って憲法の拘束を受けないものとすることは国民に不断の革命の権利を認むることであって、恰も専制主義の君主主権説に於て君主の権力が憲法以上に超越し、何時でも憲法を廃止変更することが出来るとする説と同様の誤に陥いって居る」というのがその理由である。 美濃部は、第二次大戦後も、国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であると捉え、日本国憲法前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し」と明言し、本文1条に天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」とあることをもって、「国家の統治権を行使する権能即ち国家の原始的直接機関として統治権を発動する力」が天皇から国民に移ったことを示すものと解した。 が、同時に、美濃部は、日本国憲法の成立に関し、いわゆる「八月革命」説に投じ、「憲法制定権」という言葉も使用したりして、「憲法制定権力」への傾斜を思わせる態度を示した。 この点、「国民主権」にいう「主権」とは、「国家の政治のあり方を最終的にきめる権力あるいは権威」であるとし、「シェイエス流に、『憲法制定権力』といってもいいかも知れない」と明言したのが宮沢俊義である。 そして、憲法にいう「国民主権」をそのような意味において理解する立場が支配的となったが、なおその具体的意味について解釈論上各種の考え方がありうるところで、その点については後に詳述する(第二編第一章第二節(92頁)参照)。 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下 Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論 (1)総説 日本国憲法は天皇主権を排して国民主権に立脚するが、その国民主権の意味ないし内容については必ずしも一義的に捉えきれないところがあり、実際様々な見解が存する。 以下主な諸見解に触れ、あわせてその問題点について述べる。 (2)最高機関意思説 いわゆる国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であるとの前提の下に、国民主権をもって、国家の意思力を構成する最高の機関意思、国家の原始的直接機関(ここに「直接機関」とは他の機関から委任されたのではなく、直接に国家の組織法によって国家機関たるものをいい、その中でも、他の直接機関を代表するものではなく、憲法上自己に固有のものとして認められる権能を有するものを「原始的直接機関」という)として統治権を発動する力が国民に属するとする主義であると解し、その国民とは参政権を与えられているものの全体であるとする見解がある。 この説によれば、理論上、主権の所在は憲法によって定まることになり、主権は憲法によって創設された最高権という意味合いをもつことになる(美濃部達吉は、国民主権は憲法の民定性を要求すると解しているようであるが、主権者をもって憲法・法律によって組織された国民と解する限り、憲法以前にそのような国民が存しうるのか疑問である。この点、佐々木惣一は、日本国憲法は欽定憲法であるとなし、ただ、日本国憲法の規定によれば、天皇の制定による欽定憲法というものは将来は存在しえないと説く)。 主権者たる国民からは一般に天皇は除かれる。 ただ、この国民は、雑然とした多数者であって常に直接国家意思を決定することはできないので、主権者たる国民の意思を現実に表示することを職分とする代表者が必要であり、日本国憲法上は国民の選挙によって選ばれる国会がそれにあたるとされる。 この見解は憲法発足当初有力に主張されたものであるが、次のような問題性が指摘されうる。 まず、 主権をもって機関意思と把握する以上行為能力が問題となり、そこでこの説は主権者を有権者とするのであるが、国民の中には主権者たるものと主権者でないものとがあることになって、国民主権の根本理念に反することにならないか。 第二に、 主権者たる国民は具体的には有権者とされるが、誰が有権者かは日本国憲法上基本的には法律で決まることになっていること(44条参照)、また、日本国憲法が国会をもって「国権の最高機関」としていること(41条)、との関係をどう考えるか。 第三に、 主権は憲法を生み出す力(憲法制定権力)と解すべきであって、憲法によって主権の所在が決まるというのは主権の本質を見誤るものではないか。 第四に、 論者によっては、国民主権をもって、国民が国権の源泉者または国権の「総攬者」であることの意味に解するが(佐々木惣一)、天皇が「総攬者」であると同じような意味において国民の「総攬者」を語りうるか否か。 第五に、 この説は、国民の選挙によって組織される国会が立法権を中心に国政を統括する地位に立つとすれば、国民主権の趣旨は満たされるとする傾きをもつが、国会の権能ももとより憲法による拘束下にあることをどう理解するか、また、選挙にそのような本質的契機を認めることは果たして妥当であろうか。 (3)憲法制定権力説 (イ)総説 最高機関意思説の右のような問題性を踏まえて、国民主権をもって憲法制定権力が国民にあるという趣旨に解そうとする見解が主張される。 もっとも、この点において基本的発想を共通にしつつも、仔細をみれば、さらに次のような諸説の分岐がみられる。 (ロ) 実力説 まず、憲法制定権力の本質を最高の実力に求める見解がある。これは、上述の(第一編第一章第四節Ⅱ(57頁))シュミットの憲法制定権力論に通ずる見解である。しかし、この見解に対しては、憲法制定権力が実力であるとして、その実態は何かという段になると一向に明らかにされないという批判、あるいは、最高の実力としての憲法制定権力にとって、憲法典の制定とはそもそも如何なる意味をもちうるのかという批判、が妥当する。制定権力の実態は明らかにされず、しかも制定権力はそれを制約づけるもののない全能の存在ということになると、誰もが制定権力の行使の名において憲法を変更することを正当化する途が開かれていることにならないか。そうなると、憲法はもはや法の世界ではなく、全く政治の世界そのものと化してしまわないか。 (ハ) 権限説 実力説の右の問題性を忌避して、実定的な「根本規範」の存在を想定し、憲法制定をもってかかる「根本規範」の授権に基づき(内容的制限を含めて)行われるところの機関としての行為として捉えようとする見解が登場する。つまり、憲法制定権力は、厳密には憲法制定権限となる。そしてここにいう「根本規範」とは、純粋法学流の仮設規範ないし法理論的意味における憲法ではなく、すべての成文憲法の前に妥当する、人間人格不可侵の原則を核とする価値体系にかかわる規範であるとされる。かかる考え方に依拠して、一般に、権限主体は、シェイエスの場合と同様国民でなければならないとされ、そして君主主権に対峙する意味で国民からは天皇は除かれ、かつ機関としての行為が問題となることから具体的には有権者が想定される。この見解に対しては、次のような問題性が指摘される。まず、憲法制定の権限主体、制定の手続、制定さるべき憲法の内容を定める実定的な「根本規範」といったものはそもそも存在するのか。第二に、人間人格不可侵の原則の実定性が承認されるとしても、その具体的内容および実現の方法は決して一様ではありえず、その違いが如何にして確定されるかはなお重大な問題として残るというべきではないか。第三に、国民の中に主権の担い手たるものとそうでないものとの区別が生じ、国民主権の根本理念に反することにならないか(未成年者などの非有権者は、何故に憲法に従わなければならないのであろうか)。第四に、有権者は日本国憲法上基本的には法律によって定められるが、憲法制定の権限主体が結局国会によって定められることになって不当ではないか。 (ニ) 監督権力説 主権者としての意思活動を憲法制定権力の発動と把握する立場に立ちつつ、国民主権の本質をもって、国民の代表の行なう統治に対して、同意を与えまたは与えない監督の権力たるところに求める見解が存する。つまり、国民主権は、具体的な積極的行動を行なう組織化された主体にかかわるのではなく、国家の統治作用に同意を与えまたは与えないという受動的な作用を本質とするところの、現に生活しているすべての国民全体の「一般意思」の力であるところにその眼目があると解するのである。国民主権国家にあっては、国権が国民の代表によって行われるにせよ、結局国民の同意が国政における決め手となることが力説される。この見解は、実力説および権限説のそれぞれ有する問題性を免れ、と同時に国民主権における討論の自由(表現の自由の保障)と自由なる選挙の不可欠性を提示している点で優れた説というべきである。が、そこでいう「一般意思」とは具体的に何であり、それは如何にして認定されるか、一時点における支配的意思が「一般意思」として絶対視される危険はないか、あるいは、国政は結局「一般意思」によって行われるということになって悪戯に現状肯定的な保守的説明手段に堕しないか、といった疑問がありえよう。また、国民の同意が国政における決め手であるということであるとすれば、およそ国民が政治的意思を持つ限り、憲法の定め如何に関わりなく国民が主権者ということになりはしまいか、という疑問が生ずる。それは、結局、いわゆる「事実の確認としての国民主権」論や後述のノモスの主権論に接近する。 (ホ) 最終的権威説 国民主権をもって、憲法制定権力が国民によって担われるという意味において把握するが、制定権力をもって実力とみたり権限とみたりせずに、統治を正当化すべき権威が国民に存するという意味において理解する見解が存する。ここにおける国民とは抽象的な観念的統一体としての国民であって、およそ日本国民であれば誰でも包含され、天皇も私人としてみる限りこの国民に含まれると解することが可能となる。この見解は、主権 = 憲法制定権力から権力的契機を徹底的に排除し、あくまでも権力の正当性の所在の問題として把握し、主権 = 憲法制定権力という実定法上の概念の名の下に憲法破壊ないし人権侵害が正当化されることを回避しようとする立場であると解することができる。そして、主権者たる国民は権威の源泉としての国民であって、国家機関としての国民とは異なり行為能力を問題とする必要はなく、最高機関意思説や権限説のように国民の範囲をめぐる問題にかかわる必要はないという長所をもつ。しかし他面、この説による国民主権はあまりにも無内容ではないか、国民主権はそこから一定の政治組織上の原則が帰納さるべき性質のものと捉えるべきではないか、の批判が加えられることになる。 (4)ノモスの主権説 主権をもって事実の世界から完全に切断し、純然たる法理念の問題として把握しようとする見解が存在する。 それによれば、いかなる権力も超えてはならない「正しい筋途」すなわちノモスがあるのであって、国の政治を最終的に決めるものが主権であるとすれば、主権はノモスにあるとみるべきであるとされる(因みに、ノモスは、古典古代のギリシャにおいて自然[ピュシス]の対立概念として考えられ、絶対的なものではなく破られやすいものではあるが、それに従うべきであるとされたものであるという)。 あるいは、この説は、法の効力根拠をノモスという道理・規範に求める説だとみる余地もある(*1)(そうだとすると、この説は、「根本規範」の存在を前提とする先の権限説に接近する)。 この説によれば、国民主権か君主主権かという問題は全く第二義的な問題と化してしまう。 事実、この説は、国民主権も君主(天皇)主権もすべてノモスという理念の支配であるから、明治憲法から日本国憲法に変っても「国体」は不変であると主張した。 しかし、仮にそのようなノモスが存在するとしても、具体的にどのような内容のノモスが、どのような方途を通じて支配するのか、という問題意識がこのノモスの主権説に欠落しており、天皇制の弁明としての性格をもつものであった。 ただ、国民主権の場合であっても、あるべき政治とは何かの課題は残るのであって、その限りでは、ノモスの主権説も考えるべき課題を提起しているといえよう。 (*1) 尾高朝雄はこのノモスの主権説の論者として知られるが、そのノモスの主権は結局のところ為政者への「心構え」の問題にとどまって、それに反する立法の無効の主張にまでは及ばなかった。そこには、法の効力をもって「法的規範意味が事実の世界に実現され得るという『可能性』である」と捉える考え方が作用していたようである。つまり、法の効力は当為のレヴェルではなく、事実のレヴェルにつなぎとめられていたからである。 (5)人民主権説 国民主権の主権をもって憲法制定権力と解することに反対し、主権を実定憲法秩序における国家権力の帰属の問題として捉えるべきであるとし、従って主権が国民にあるとされる場合の主権は、憲法秩序に取り込まれた構成的な規範原理として、国民をして実際の国政の上で最高権の存在に相応しい場を確保せしめるという民主化の作用を果たすべきものとみるみるべきであるとする見解が存する。 そして、国民主権をルソー流の人民主権の方向で把握するのがあるべき歴史的解釈であるとし、日本国憲法に即していえば、15条1項、79条2項・3項、96条1項などは人民主権に馴染む規定であると捉え、43条1項や51条の規定にかかわらず、命令的委任の採用は可能であると説く(命令的委任の意味は必ずしも明確ではないが、一般に、選挙で選ばれた代表者は選挙区の訓令によって行動する義務を負い、それに違反した場合には有権者によって罷免されうるという要求を内容とするようである)。 この見解は、まず、主権は法的権力であるが、憲法制定権力は法の外の世界に属する事象と捉えるところに特徴をもつ(この説によれば、主権 = 憲法制定権力という定式では、国民主権は建前と化し、結局現実の国政の場で国民を主権者たる地位から追放することになるという。) しかし、主権観念が国家統治のあり方に最も根源的にかかわり合う憲法の制定に無関係とすることは問題で、ドイツのように、「ドイツ国民は・・・・・・その憲法制定権力に基づき、この基本法を決定した」(前文)とうたって、憲法制定権力を実定化している例のあることが留意さるべきである。 そして、主権 = 憲法制定権力と基本的に把握することが、直ちに主権観念をして無内容のものとすると解するべきではなく、後述のように一定の構成的作用を果たすものであるとみるべきであろう。 なお、フランス的文脈でいえば、いわゆる「国民主権」から「人民主権」へという定式が成り立つとしても(1946年憲法も58年憲法も、国の主権は人民(peuple)に属するとしている)、そのことから、一般的に、あるいは日本国憲法上、命令的委任が当然に帰結されるといえるかは問題で、この点については後述する(第二章(13頁)参照)。 国民代表の観念が、現実でないものを現実であるかのごとく装うという「イデオロギー」的性格をもつとすれば、命令的委任も、そのような「イデオロギー」的性格を免れえているわけではない。 Ⅱ. 国民主権の意義 (1)総説 以上みてきたように、日本国憲法下の国民主権の意味について諸種の見解が存するところであるが、今日国民主権は単一の次元においてのみ捉えるべきではなく、複数の次元を包摂する全体像において把握されるべきものと思われる。 すなわち、国民主権には、大別して、憲法を定立し統治の正当性を根拠づけるという側面と、実定憲法の存在を前提としてその憲法上の構成的原理としての側面とがあり、後者はさらに、国家の統治制度の民主化に関する側面と公開討論の場(forum)の確保に関する側面とを包含するものと解すべきである。 (2)憲法制定権力者としての国民主権 国民主権は、まず、主権という属性をもった国家の統治のあり方の根源にかかわる憲法を制定しかつ支える権力ないし権威が国民にあることを意味する。 この場合の国民は、憲法を制定した世代の国民、現在の国民、さらには将来の国民をも包摂した統一体としての国民である。 従って、この場合の国民は、基本的には、それ自体として国家の具体的な意思決定を行ないうる存在ではない。 換言すれば、雑然とした国民の全体を一つの観念で把握し、そこに一つの意思があると想定し(あるいはこれを一般意思と呼んでもよい)、その意思に国家の合法性の体系を成立せしめる究極の正当性の根拠をみるのである。 もとより、国民主権を標榜する場合であっても、現実には、憲法は、ある歴史的時点において、その世代の人々により、ある方法をとって(憲法会議と国民投票という方法をとることもあれば、そうでない場合もある)制定される。 その意味では、国家の合法性の体系は具体的な意思ないし実力(権力)から生まれるものといわなければならない。 つまり、権限説やある種のノモスの主権説のように「根本規範」ないし自然法といったものを想定し、国家の実定法体系をその具体化・実現として捉える(法の根拠についての道理説)のではなく、法の根拠について意思ないし実力に求める立場である。(*1) しかし、その場合に問題となるのは、何のために、如何なる原理に基づく憲法を制定するかである。 主権者(憲法制定権者)たる国民が立憲主義憲法を制定する場合、そのときの国民は、個人の人格的自律が尊重される“良き社会”の形成発展という長期的視野に立って自己拘束をなし、また、後の世代の国民がそれぞれの時代の状況に柔軟に対応しつつ“良き社会”の形成発展に向けて自己統治を行なうことを容易にする政治システムを構築しようとするのである。 過去の国民(“死者”)は現在の国民(“生者”)を拘束することはできない。 立憲主義を支える道徳理論によるならば、過去の国民(“死者”)が現在の国民(“生者”)を拘束することが許されるのは、現在の国民(“生者”)が自由を保持しつつ自己統治をなすことを容易にする制度枠組を構築する、換言すれば、現在の国民(“生者”)が自由な主体として自己統治をなすことができる開かれた公正な統治過程を保障するという場合のみである。 国民をもって、憲法を実際に制定した世代の国民、現在の国民、さらに将来の国民を包摂した観念的統一体として把握し、そのような国民の意思に国家の合法性の体系の成立・存続の正当性の根拠を求めることが道徳理論上認容されうるのは、そのような条件が満たされる場合においてのみであろう。 このような意味において、国民がその担い手である憲法制定権力は基本的には端的な実力ではなく、一般的な意思ないし権威となる。 ただ、上述のように憲法改正権は制度化された憲法制定権力と解されるから(第一編第一章第三節(34頁)参照)、改正の場に登場する国民は具体的には一定の資格をもったもの(有権者)のみではあるが、主権者たる国民そのものに擬すべき存在と解するべきであろう。 これによって、主権者たる国民は、制度枠組自体をそれぞれの時代に制度的に適応せしめる途が開かれている。 (*1) 宮沢俊義は、尾高のノモスの主権説を批判するにあたって、意思ないし実力説的見地に立つことを示唆したが、他方では、「憲法の正邪曲直を判定する基準になる『名』」の存在、さらには憲法の効力さえ左右する自然法論のごとき立場に与することを示唆した。 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権 (イ)統治制度の民主化の要請 国民主権は、憲法を成立せしめ支える意思ないし権威としてのみならず、その憲法を前提に、国家の統治制度が右の意思ないし権威を活かすよう組織されなければならないという要請を帰結するものと解される。 次節にみるように国民は有権者団という機関を構成するが、それは民意を忠実に反映するよう組織されなければならないとともに、統治制度全般、とりわけ国民を代表する機関の組織と活動のあり方が、憲法の定める基本的枠組の中で、民意を反映し活かすという角度から不断に問われなければならないというべきである。 国民主権のこの要請から例えば命令的委任が帰結されるかどうかは、日本国憲法の定める基本的枠組の解釈の問題であって、その点については後述する(本編第二章(136頁)参照)。 また、有権者団としての国民の意思、その意思に基づいて組織される国家機関の意思は、(2)の憲法制定権力者としての国民の意思そのものではないのであって、絶対性を主張することはできないことが留意さるべきである。 (ロ)公開討論の場の確保の要請 構成原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、かかる統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能ならしめる公開討論の場が国民の間に確保されることを要請する。 集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということをその本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民による政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。 しばしば国民主権は“世論による政治”であるといわれるのは、国民主権の右の面にかかわるが、ただ、ここでいわれる世論は憲法制定権力者としての国民の意思そのものと目さるべきでないこと勿論である。
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佐藤幸治『憲法 第三版』(1995年刊) <目次> 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下Ⅰ. 国家(1)国家の概念 (2)国家の法人格性(イ)国家の法人格性 (ロ)国家法人説 Ⅱ. 主権(1)主権観念の展開(イ)主権観念の登場 (ロ)国民主権・人民主権 (ハ)国家主権権 (ニ)実力としての憲法制定権力 (2)実定法上の主権観念 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論(1)総説 (2)最高機関意思説 (3)憲法制定権力説(イ)総説 (4)ノモスの主権説 (5)人民主権説 Ⅱ. 国民主権の意義(1)総説 (2)憲法制定権力者としての国民主権 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権(イ)統治制度の民主化の要請 (ロ)公開討論の場の確保の要請 第一編 憲法の基本観念と日本国憲法の展開第一章 憲法の基本観念第四節 憲法と国家と主権 p.54以下 Ⅰ. 国家 (1)国家の概念 上述のように、憲法は国家生活のあり方にかかわる法であることから、そのことの関係で国家とはそもそも何かについて若干論及しておく必要がある。 国家と呼ばれる社会団体の存在性格・様式は、時代によりまた所により一定しないが、近代国家は、一定の地域を基盤として、その所属員の包括的な共同目的の達成を目的に、固有の支配権によって統一された非限時的の団体であるという点で概ね共通している。 このように、国家の本質を、地域、所属員、固有の支配権の3要素に集約せしめて理解しようとする見解は、一般に国家3要素説と呼ばれる。 (中略) 第三の要素である固有の支配権は、「国権」とか「統治権」とかあるいは「主権」とか呼ばれる。 「国権」は、伝統的な見解にあっては、国家の法上の人格すなわち国家の意思力を指す観念とされ(ここから国権の唯一不可分性が帰結される)、それに対して「統治権」は国家が国際法および国内法上有する権利の総体である(従って統治権は可分となる)として国権と区別されることもあるが、今日では、国権と統治権は同義に使用されることが多い。 「統治権」の内容は国によって一様ではありえないことになるが、国家である以上次の3種の基本的能力、すなわち、①領土内にある人および物を支配する権利たる領土高権、②国家の所属員を支配する権利たる対人高権、③国家の組織・権限の有り様を自らの意思により定めることのできる権利たる自主組織権(権限高権)、を備えているものでなければならない、とされる。なお、また、「国権」または「統治権」は「国家において統治活動をなす権力」の意味で用いられることもある(日本国憲法41条にいう「国権」はその例であるとされる)。 「主権」の語も多義的で、国権あるいは統治権と同義に用いられることのほか、国権の属性としての最高独立性の意味で用いられたり、また国家の統治活動の有り方を最終的に決定する力ないし権威の意味で用いられたりすることがるが、この点については後述する。 国家の第三の要素としての支配権は、国際組織が発達し相互依存的な今日の国際社会にあっては、かつてと違って様々な制約を受けることが多くなる傾向にある。 (2)国家の法人格性 (イ)国家の法人格性 法的認識の問題としてみた場合、国家は一個の統一的法秩序を形成しているといえようが、この法秩序の統一性をもって擬人的に法人格と称されることがあり、この意味で国家は法人格を有する、つまり国家は法人であるとみることができる。 さらに、国家は、実定法の内容に照らして、人格を有するとみなされる、というように言われる。 我が国の現行法上、国家は、財産権の主体としての関係において「国庫」と呼ばれ(民法239条・959条)、「国債」を負担したり、「国有財産」を有することが認められ、また、対外的な国際法上の関係において法主体として登場する。 この意味における国家の法人格性の範囲は、専らそれぞれの国家の実定法の定めるところによって決まることになる。 (ロ)国家法人説 19世紀ドイツにおいて登場し、我が国に多大の影響を及ぼした国家法人説は、右に述べたような意味での国家の法人格性を超えて、独特の意義と背景をもつものであったことが注目される。 つまり、国家法人説は、国家をもって社会学的には社団であり、法学的には法人であるとするとともに、従来の主権観念をもって専らかかる国家自体の特性を示すものとして把握し、それ以外の主権の意味を回避しようとしたところに特徴をもつものであった。 国家自体が意思力をもち、本来の主権はその意思力の最高性を示す観念として把握される。 このように国家の統治の有り方を最終的に決めるのは人格としての国家であるとする(国家主権説。ここでの国家主権は、国家が対外的に独立しているという意味での国家主権と異なることに注意)背景には、一方では絶対主義的君主主義論を克服し、他方では国民自身による積極的・具体的な統治を追求する国民主権論を抑止しようとする政治的低意が働いていたことが指摘される。 アメリカ合衆国などのように国民主権の確立した国において、とりたてて国家法人説が主張され発展せしめられることのなかったのは、まさにこの説のもつかかるイデオロギー性を示しているといえる。 他方、神権的国体観念を払拭しきれなかった明治憲法下において、国家は法人にして天皇はその機関とする天皇機関説は、結局において、「民主共和の説」として排撃されるところとなる。 国家法人説は、このように法人たる国家に主権があるとしたが、いわゆる国家の自己制限ないし自己義務づけの理論によって、主権の最高独立性と国家の被法的拘束性とを両立せしめ、そのことによってまた個人の自由の観念とも調和せしめようとした。 しかし、個人の「自然権」を基礎とする徹底した立憲民主主義の観点からすれば、いわゆる国家法人説は、国家の統治の正当性の契機を回避するとともに(従来の君主主権か国民主権かの問題は、国家意思を供給する国家機関の組織のあり方の問題と化す)、結局において国家の絶対性を措定し、個人の自由の観念と調和困難な説(国家固有の統治権はしばしば無条件に団体員を支配しその意思を規律しうる力であると説かれる)として受け入れ難いものとみなされざるをえないことになる。 もっとも、政治社会には唯一の究極的で絶対的な権威ないし権力が存しなければならないという観念たる「主権」は、結局のところ抽象的人格性を備える国家に帰属すると考えるとしても(その意味では国家主権説)、そのような属性をもつ国家を誰の権威でどのように運営するかの問題は残り、その主体的・具体的意思・権威はどこにあるかの問題こそ君主主権か国民主権かの問題である、というように考えることはできる。 国家と人権との関係をめぐる問題は後述するので(とくに第四編)、次に国家と主権と憲法との関係をめぐる問題をもう少し立ち入って考察することにしたい。 Ⅱ. 主権 (1)主権観念の展開 (イ)主権観念の登場 主権観念は、まず、フランス王権について、対外的にはローマ皇帝およびカトリック法王の権威・権力からの独立性を、体内的には封建諸侯に対しての優越性を、示すものとして登場した。 この主権観念の確立に理論的指導性を発揮したのはバーダンで、彼は、主権は国家の絶対的かつ恒久的権力であって、最高、唯一、不可分のものであり、すべての国家にとって不可欠の要素であると説いた。 そしてかかる主権観念は、近代国家への移行過程において他のヨーロッパ諸国でも広く用いられるようになる。 この段階では、国家は君主と一体的に観念されていたから(「朕は国家なり」)、国家自体の主権とその国家内において最高意思はどこにあるかということ(国家内における最高権の問題)とは次元を異にする別個の問題であることは十分意識されていなかった。 しかるに、君権に対する市民層の不満を背景に、国民主権ないし人民主権が登場するに及んで、主権論の力点は国家内の最高権の所在の問題に向けられることになる(もっとも、この段階でも君主を人民に取って換えただけで、人民即国家と考える傾向がみられる)。 (ロ)国民主権・人民主権 (a) 国民主権論は、近代自然法論に依拠する社会契約説を根拠に登場した。社会契約説は、その理論構成如何によっては、なお君主主権を根拠づけるところともなるが(ホッブズ)、一般に、あくまでも各人の自然権の保全を基軸に考え、その保全に必要な限度での統治の権力の信託という構成をとることによって国民主権を帰結した(ロック)。つまり、国家権力を支えるのは国民であり、国民の支持がある限りにおいてのみその行使が正当化される。しかしこの見解は、国民主権の名にふさわしい実をあげる具体的方法・プロセスを明確にしていないきらいがあった。 (b) 同じく社会契約説に立脚しつつ、それを単に国家統治の正当性の根拠とするにとどまらず、国民による直接統治を帰結する説(ルソー)は、右の国民主権論に対する批判にして一つの解答であったとみることができる。そこでは、主権は子かを構成する全人民の、常に共同の利益を欲して誤ることのない一般意思として把握され、具体的には一般意思は立法意思と同一視され、それは全市民の参加によって行使されるものとみなされた。主権は絶対的なもので、不可分・不可譲・不可代表の性質をもつ。それは議会制を否定する徹底した直接民主主義的人民主権論であるが、従来の絶対主義的君主主権を端的に人民に取って換えたきらいがあり、現実の国家の実態に即した理論としては無理な性格のものであった。一般意思は常に共同の利益を欲する意思だとされるが、具体的な立法意思がそうであるという保障はなく、絶対的な一般意思の名における個人や少数者の抑圧という可能性は常に存する(ルソーの人民主権論が後世において人民独裁の国家論と評されることのある理由はここにある)。また、主権は不可分だとされるが、主権の主体としては具体的な個々人ないしその総体が想定されていて、理論的整合性の点でも問題を孕んでいた。 (c) このような国民主権論、人民主権論の問題性の文脈においてみると、国民主権を基本的に憲法制定権力として把握しようとする説(シェイエス)は注目すべき見解であったといわなければならない。そこでは、「憲法を制定する権力(pouvoir constituant)」と「憲法によってつくられた権力(pouvoirs constitues)」とが区別される。そして、前者は、自然法の下に、国民がこれを有し、単一不可分であり、それ自体いかなる形式にも服することのない、「意欲しさえすれば十分である」万能の存在であるとされ、他方後者は、憲法制定権力の制定した憲法によって組織されるところの立法権・執行権といった権力で、憲法による規制下に立つ存在であるとされた。ここではルソーの一般意思と同様主権の絶対性が措定されつつも、他方憲法制定権力と立法権との本質的区別がなされることによって、代議制や権力分立制と結合する途が開かれたのである。この憲法制定権力の観念は、右のシェイエスにみられるように徹底して理論化されるということはなかったが、アメリカにおいていち早く現実のものとなった。権力の根源である国民が人為的に制定した成文の憲法によって国家の統治構造と国民の権利を定め、国政の運営およびそれにまつわる問題の解決は全てこの成文の憲法に立ち返って行なうという行き方が定着した。アメリカの憲法制定権力は、ヨーロッパのそれのように激しく対立すべき“敵”(アンシャン・レジーム)をもたず、当初から民主的基盤の上に成立したことが関係してか、本質的に非実体的・非権力的で、憲法制定会議とその成案の承認を通じて、法律よりも高次の妥当性を根拠づけるという機能に基本的に集約される。それには、アメリカの立憲主義がイギリスの古典的立憲主義と必ずしも切断されず、むしろある面ではそれを引き継ぐ形で成立したものであること、第二に、アメリカの憲法制定権力は、革命初期の諸邦における立法権優位の経験に基づく反動として、個人の諸権利を確実なものとするという保守的な土台の上に構想されたものであること、などが関係していたと思われる。 (d) フランス革命期は、君主主権、国民主権、ルソー流人民主権、シェイエス流憲法制定権力など様々な観念が競い合った時代であった。1789年の「人および市民の権利宣言」にはルソー的思想の影響が指摘されているが、1791年の憲法は、君主主権を否定すると同時に、ルソー流人民主権をも斥けて、国民主権に与する姿勢を明確にした。そこでは、「主権は、単一、不可分、不可譲で時効にかかることがない。主権は国民に属する」とされるが、「権力の唯一の淵源である国民は、委任によってのみその権力を行使しうる。フランスの国家体制は代表制である」と明言されている。つまり、主権者たる「国民(nation)」は抽象的な観念的統一体としての国民であって、それ自体として具体的な意思・活動能力を備えた存在ではありえず、委任(包括的・集団的な代表委任)が不可避的に帰結されたのである。代表と被代表との間の選任関係を不可欠の要素とせず、制限選挙制が採用され、訓令委任が禁止されたことなどは、いずれも国民(nation)主権の帰結であった。他方、シェイエス流憲法制定権力は、憲法を制定し変更する権力として一括して把握されてものであったが、91年憲法においては、制定権力と改正権とに分離され、改正権は法的統制下におかれるとされる一方、制定権力は依然として法的統制を受けない存在であるものの、観念化され、憲法の妥当性を根拠づけるという機能に封じ込ようとする姿勢が示された。ところが、93年憲法は、国民主権を斥けて、むしろ人民主権の考え方に依拠することを明らかにする。ここでの「人民(peuple)」は、もはや抽象的な観念的統一体としての存在ではなく、それ自体活動能力を備えた具体的に把握できる存在である。かくして、憲法改正のイニシアティヴは第一次集会に組織された人民に帰属せしめられ、また「人民が法律につき表決する」ものとされた。そして、男子普通選挙制の下で直接選挙によって選出された立法府が統治機構の中で極めて高い地位を占めていることも見逃せない点である。 (e) 右にみたように、フランスにおいては国民主権と人民主権とは別個のものとして区別され、両者間の葛藤が歴史を彩ることとなるが、選挙権の拡大につれ次第に議会は実在する民意を忠実に反映すべきであると考えられるようになり(第一節Ⅲ(7頁)参照)、第三共和制憲法下においてそうした考え方が定着するに至る。理論上の曖昧さを残しながらも、実質的意味において人民主権への傾斜である。他方、憲法制定権力論は、この第三共和制憲法の下で立憲主義が定着するにつれて後退し、むしろ制定権力をもって法の世界の外の問題と解し、法的には改正権のみが問題とされるようになる。そして、さらには改正権と立法権との区別さえ曖昧化してしまう。この点は法実証主義の強い影響下にあった19世紀後半のドイツ憲法学において一層顕著で、憲法改正権は立法権と同一視されている。 (ハ)国家主権権 国家主権論については、既に触れた。 繰り返せば、右の君主主権と国民主権・人民主権を忌避して、法人たる国家に主権が帰属するとしたもので、当時のドイツの法実証主義憲法学にいかにも相応しい考え方であったということができよう。 ここでは、主権の主体は法人たる国家に属するということで主権の人格性は残存しているが、本来の主権論からすれば主権観念の非人格化である。 主権観念は歴史的にみて公法学の領域から追放することはできないが、それを限定的に用いようとする態度であって、主権とは、国家権力が法的な自己決定および自己拘束をなす排他的能力をそれによってもつことになる、国家権力の特性である、などと説かれた。 この点さらに押し進めて、主権の主体の問題を認めず、むしろ法秩序の効力の属性の意味、つまり法秩序の至高性・非伝来性の意味において主権観念を捉えようとする見解も登場してくる。 (ニ)実力としての憲法制定権力 シェイエスによって主張された憲法制定権力は、右に見たように、ヨーロッパにあっては、立憲主義の確立過程において、法実証主義的思考傾向の下に、法の世界の外に放擲されたが、ワイマール憲法下において、シュミットによって新たな装いの下に再び重要な観念として導入されることになった。 彼は、ワイマール憲法前文の「ドイツ国民は、・・・・・・この憲法を制定する」の文言および1条の「国権は、国民より発する」という規定に着目し、それは憲法制定権力が国民にあること、つまり同憲法が国民主権主義に立脚するものであることを明確にしたものであると捉えたのである。 それでは、彼のいう憲法制定権力とは何か。 彼によれば、それは「自己の政治的実存の態様と形式に関する具体的な全体決定を下すことのできる、すなわち、政治的統一体の実存を全体として規定することができる実力または権威をもった政治的意思」であるとされた(この「憲法」を前提にしてはじめて妥当する憲法規定の集合は「憲法律」と呼ばれる)。 この憲法制定権力は、シェイエスの場合と違って自然法の観念を払拭した、すべての規範の上に立つ実力であり、そのこととも関連して制定権力の担い手は国民であることを要しないとされている(君主や少数者の組織も担い手でありうる)点に特色がある。 制定権力は、「移付され、譲渡され、吸収され、使い果たされることはありえ」ない、「可能態として常に存続」するものであるが、シェイエスの場合とは違って、憲法改正権とは峻別されている。(第三節Ⅱ(34頁)参照)。 シュミットの制定権力論は、主権の権力的契機を純粋に追求した結果得られた観念であったと解することができよう。 しかし、その実態は何かという段になると、喝采であり、現代国家では世論であることが示唆されるのみで、著しく神秘的色彩を帯びるものとなっている。 (2)実定法上の主権観念 以上主権観念の史的展開を瞥見したのみで、その他にも種々の主権観念がある。 そして第二次大戦後、シュミット流の活性的な決断主義的憲法制定権力論を否認ないし克服しようとする傾向が顕著である点は指摘しておく必要があろう。 ここではその委細について論及する余裕はないので、以下実定法とりわけ日本国憲法との関係で重要と思われる主権観念を整理し、その意義を再確認するにとどめておく。 明治憲法は、「統治権」という語を用いつつも「主権」という語は使用しなかったが、日本国憲法は、「主権」という語を何箇所かで使用し、むしろ「統治権」という語を用いてはいない。 「主権」についての明治憲法以来の有力な伝統的説明によれば、 ① 最高権(自己の意思に反して他より制限を受けざる力)、 ② 統治権(人に命令し強制する権利)、 ③ 国家内における最高機関の地位、さらには、 ④ 国家の意思力そのもの、 を指すといわれた(美濃部達吉)。 これらの意味の中、まず、①は、国家の意思力の最高性、独立性ないし自主性に着眼しているもので、国家の意思力の属性を示すものである。 日本国憲法前文に「この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、・・・・・・」とあり、あるいは平和条約前文に「連合国及び日本国は、・・・・・・主権を有する対等のものとして・・・・・・」とあるのが、その例である。 それに対して、④は、国家の意思力そのものを指してのもので、「国権」とか「統治権」とか呼ばれるものである。 「主権」が唯一不可分であるという場合の主権はこの意味であると説かれる。 もっとも、既に見たように、「国権」あるいは「統治権」という語自体がまた一義的でなく、「国権」は国家の意思力そのものを指すのに対し、「統治権」は国家が有する権利の総体であるとして区別され、国家である以上3種の基本的権利、すなわち地域的統治権または領土高権、対人的統治権または対人高権、自主組織権(権限高権)を有するものでなければならない、などと説かれる。 ②は、このような「統治権」に対応するものということになる。 ポツダム宣言の8項に「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」とあるのがその例であるとされ、あるいは、領土主権といい、領土の割譲を主権の割譲というがごときもその例であるとされる。 問題は、③の「主権」観念である。 明治憲法時代、「唯一最高無限ニシテ独立」という「主権」概念により、その「主権」の所在如何によって君主国体と民主国体に分かつ説もあったが(穂積八束)、右の説(美濃部説)はそうした「主権」観念を排して最高の機関の地位について語ろうとするものである。 すなわち、美濃部は、明治憲法の「最も重要な根本主義」として「君主主権主義」に言及したが、それは、「統治を行ふ力が君主にその最高の源を発すること」、つまり君主が国家の「最高の機関」として「統治の最高の源泉たる地位に存ますこと」と解し、そして、「憲法制定権力」と「被制定権力」とを区別し、前者はその性質上何らの拘束も受けないというシェイエスの所説に触れて明確にそれを排撃した。 「国民が憲法以上に在って憲法の拘束を受けないものとすることは国民に不断の革命の権利を認むることであって、恰も専制主義の君主主権説に於て君主の権力が憲法以上に超越し、何時でも憲法を廃止変更することが出来るとする説と同様の誤に陥いって居る」というのがその理由である。 美濃部は、第二次大戦後も、国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であると捉え、日本国憲法前文に「ここに主権が国民に存することを宣言し」と明言し、本文1条に天皇の地位が「主権の存する日本国民の総意に基く」とあることをもって、「国家の統治権を行使する権能即ち国家の原始的直接機関として統治権を発動する力」が天皇から国民に移ったことを示すものと解した。 が、同時に、美濃部は、日本国憲法の成立に関し、いわゆる「八月革命」説に投じ、「憲法制定権」という言葉も使用したりして、「憲法制定権力」への傾斜を思わせる態度を示した。 この点、「国民主権」にいう「主権」とは、「国家の政治のあり方を最終的にきめる権力あるいは権威」であるとし、「シェイエス流に、『憲法制定権力』といってもいいかも知れない」と明言したのが宮沢俊義である。 そして、憲法にいう「国民主権」をそのような意味において理解する立場が支配的となったが、なおその具体的意味について解釈論上各種の考え方がありうるところで、その点については後に詳述する(第二編第一章第二節(92頁)参照)。 第二編 国民主権と政治制度第一章 国民第ニ節 主権者としての国民 p.92以下 Ⅰ. 日本国憲法下の国民主権論 (1)総説 日本国憲法は天皇主権を排して国民主権に立脚するが、その国民主権の意味ないし内容については必ずしも一義的に捉えきれないところがあり、実際様々な見解が存する。 以下主な諸見解に触れ、あわせてその問題点について述べる。 (2)最高機関意思説 いわゆる国家法人説的見地に立って、統治の権利主体は常に国家それ自身であるとの前提の下に、国民主権をもって、国家の意思力を構成する最高の機関意思、国家の原始的直接機関(ここに「直接機関」とは他の機関から委任されたのではなく、直接に国家の組織法によって国家機関たるものをいい、その中でも、他の直接機関を代表するものではなく、憲法上自己に固有のものとして認められる権能を有するものを「原始的直接機関」という)として統治権を発動する力が国民に属するとする主義であると解し、その国民とは参政権を与えられているものの全体であるとする見解がある。 この説によれば、理論上、主権の所在は憲法によって定まることになり、主権は憲法によって創設された最高権という意味合いをもつことになる(美濃部達吉は、国民主権は憲法の民定性を要求すると解しているようであるが、主権者をもって憲法・法律によって組織された国民と解する限り、憲法以前にそのような国民が存しうるのか疑問である。この点、佐々木惣一は、日本国憲法は欽定憲法であるとなし、ただ、日本国憲法の規定によれば、天皇の制定による欽定憲法というものは将来は存在しえないと説く)。 主権者たる国民からは一般に天皇は除かれる。 ただ、この国民は、雑然とした多数者であって常に直接国家意思を決定することはできないので、主権者たる国民の意思を現実に表示することを職分とする代表者が必要であり、日本国憲法上は国民の選挙によって選ばれる国会がそれにあたるとされる。 この見解は憲法発足当初有力に主張されたものであるが、次のような問題性が指摘されうる。 まず、 主権をもって機関意思と把握する以上行為能力が問題となり、そこでこの説は主権者を有権者とするのであるが、国民の中には主権者たるものと主権者でないものとがあることになって、国民主権の根本理念に反することにならないか。 第二に、 主権者たる国民は具体的には有権者とされるが、誰が有権者かは日本国憲法上基本的には法律で決まることになっていること(44条参照)、また、日本国憲法が国会をもって「国権の最高機関」としていること(41条)、との関係をどう考えるか。 第三に、 主権は憲法を生み出す力(憲法制定権力)と解すべきであって、憲法によって主権の所在が決まるというのは主権の本質を見誤るものではないか。 第四に、 論者によっては、国民主権をもって、国民が国権の源泉者または国権の「総攬者」であることの意味に解するが(佐々木惣一)、天皇が「総攬者」であると同じような意味において国民の「総攬者」を語りうるか否か。 第五に、 この説は、国民の選挙によって組織される国会が立法権を中心に国政を統括する地位に立つとすれば、国民主権の趣旨は満たされるとする傾きをもつが、国会の権能ももとより憲法による拘束下にあることをどう理解するか、また、選挙にそのような本質的契機を認めることは果たして妥当であろうか。 (3)憲法制定権力説 (イ)総説 最高機関意思説の右のような問題性を踏まえて、国民主権をもって憲法制定権力が国民にあるという趣旨に解そうとする見解が主張される。 もっとも、この点において基本的発想を共通にしつつも、仔細をみれば、さらに次のような諸説の分岐がみられる。 (ロ) 実力説 まず、憲法制定権力の本質を最高の実力に求める見解がある。これは、上述の(第一編第一章第四節Ⅱ(57頁))シュミットの憲法制定権力論に通ずる見解である。しかし、この見解に対しては、憲法制定権力が実力であるとして、その実態は何かという段になると一向に明らかにされないという批判、あるいは、最高の実力としての憲法制定権力にとって、憲法典の制定とはそもそも如何なる意味をもちうるのかという批判、が妥当する。制定権力の実態は明らかにされず、しかも制定権力はそれを制約づけるもののない全能の存在ということになると、誰もが制定権力の行使の名において憲法を変更することを正当化する途が開かれていることにならないか。そうなると、憲法はもはや法の世界ではなく、全く政治の世界そのものと化してしまわないか。 (ハ) 権限説 実力説の右の問題性を忌避して、実定的な「根本規範」の存在を想定し、憲法制定をもってかかる「根本規範」の授権に基づき(内容的制限を含めて)行われるところの機関としての行為として捉えようとする見解が登場する。つまり、憲法制定権力は、厳密には憲法制定権限となる。そしてここにいう「根本規範」とは、純粋法学流の仮設規範ないし法理論的意味における憲法ではなく、すべての成文憲法の前に妥当する、人間人格不可侵の原則を核とする価値体系にかかわる規範であるとされる。かかる考え方に依拠して、一般に、権限主体は、シェイエスの場合と同様国民でなければならないとされ、そして君主主権に対峙する意味で国民からは天皇は除かれ、かつ機関としての行為が問題となることから具体的には有権者が想定される。この見解に対しては、次のような問題性が指摘される。まず、憲法制定の権限主体、制定の手続、制定さるべき憲法の内容を定める実定的な「根本規範」といったものはそもそも存在するのか。第二に、人間人格不可侵の原則の実定性が承認されるとしても、その具体的内容および実現の方法は決して一様ではありえず、その違いが如何にして確定されるかはなお重大な問題として残るというべきではないか。第三に、国民の中に主権の担い手たるものとそうでないものとの区別が生じ、国民主権の根本理念に反することにならないか(未成年者などの非有権者は、何故に憲法に従わなければならないのであろうか)。第四に、有権者は日本国憲法上基本的には法律によって定められるが、憲法制定の権限主体が結局国会によって定められることになって不当ではないか。 (ニ) 監督権力説 主権者としての意思活動を憲法制定権力の発動と把握する立場に立ちつつ、国民主権の本質をもって、国民の代表の行なう統治に対して、同意を与えまたは与えない監督の権力たるところに求める見解が存する。つまり、国民主権は、具体的な積極的行動を行なう組織化された主体にかかわるのではなく、国家の統治作用に同意を与えまたは与えないという受動的な作用を本質とするところの、現に生活しているすべての国民全体の「一般意思」の力であるところにその眼目があると解するのである。国民主権国家にあっては、国権が国民の代表によって行われるにせよ、結局国民の同意が国政における決め手となることが力説される。この見解は、実力説および権限説のそれぞれ有する問題性を免れ、と同時に国民主権における討論の自由(表現の自由の保障)と自由なる選挙の不可欠性を提示している点で優れた説というべきである。が、そこでいう「一般意思」とは具体的に何であり、それは如何にして認定されるか、一時点における支配的意思が「一般意思」として絶対視される危険はないか、あるいは、国政は結局「一般意思」によって行われるということになって悪戯に現状肯定的な保守的説明手段に堕しないか、といった疑問がありえよう。また、国民の同意が国政における決め手であるということであるとすれば、およそ国民が政治的意思を持つ限り、憲法の定め如何に関わりなく国民が主権者ということになりはしまいか、という疑問が生ずる。それは、結局、いわゆる「事実の確認としての国民主権」論や後述のノモスの主権論に接近する。 (ホ) 最終的権威説 国民主権をもって、憲法制定権力が国民によって担われるという意味において把握するが、制定権力をもって実力とみたり権限とみたりせずに、統治を正当化すべき権威が国民に存するという意味において理解する見解が存する。ここにおける国民とは抽象的な観念的統一体としての国民であって、およそ日本国民であれば誰でも包含され、天皇も私人としてみる限りこの国民に含まれると解することが可能となる。この見解は、主権 = 憲法制定権力から権力的契機を徹底的に排除し、あくまでも権力の正当性の所在の問題として把握し、主権 = 憲法制定権力という実定法上の概念の名の下に憲法破壊ないし人権侵害が正当化されることを回避しようとする立場であると解することができる。そして、主権者たる国民は権威の源泉としての国民であって、国家機関としての国民とは異なり行為能力を問題とする必要はなく、最高機関意思説や権限説のように国民の範囲をめぐる問題にかかわる必要はないという長所をもつ。しかし他面、この説による国民主権はあまりにも無内容ではないか、国民主権はそこから一定の政治組織上の原則が帰納さるべき性質のものと捉えるべきではないか、の批判が加えられることになる。 (4)ノモスの主権説 主権をもって事実の世界から完全に切断し、純然たる法理念の問題として把握しようとする見解が存在する。 それによれば、いかなる権力も超えてはならない「正しい筋途」すなわちノモスがあるのであって、国の政治を最終的に決めるものが主権であるとすれば、主権はノモスにあるとみるべきであるとされる(因みに、ノモスは、古典古代のギリシャにおいて自然[ピュシス]の対立概念として考えられ、絶対的なものではなく破られやすいものではあるが、それに従うべきであるとされたものであるという)。 あるいは、この説は、法の効力根拠をノモスという道理・規範に求める説だとみる余地もある(*1)(そうだとすると、この説は、「根本規範」の存在を前提とする先の権限説に接近する)。 この説によれば、国民主権か君主主権かという問題は全く第二義的な問題と化してしまう。 事実、この説は、国民主権も君主(天皇)主権もすべてノモスという理念の支配であるから、明治憲法から日本国憲法に変っても「国体」は不変であると主張した。 しかし、仮にそのようなノモスが存在するとしても、具体的にどのような内容のノモスが、どのような方途を通じて支配するのか、という問題意識がこのノモスの主権説に欠落しており、天皇制の弁明としての性格をもつものであった。 ただ、国民主権の場合であっても、あるべき政治とは何かの課題は残るのであって、その限りでは、ノモスの主権説も考えるべき課題を提起しているといえよう。 (*1) 尾高朝雄はこのノモスの主権説の論者として知られるが、そのノモスの主権は結局のところ為政者への「心構え」の問題にとどまって、それに反する立法の無効の主張にまでは及ばなかった。そこには、法の効力をもって「法的規範意味が事実の世界に実現され得るという『可能性』である」と捉える考え方が作用していたようである。つまり、法の効力は当為のレヴェルではなく、事実のレヴェルにつなぎとめられていたからである。 (5)人民主権説 国民主権の主権をもって憲法制定権力と解することに反対し、主権を実定憲法秩序における国家権力の帰属の問題として捉えるべきであるとし、従って主権が国民にあるとされる場合の主権は、憲法秩序に取り込まれた構成的な規範原理として、国民をして実際の国政の上で最高権の存在に相応しい場を確保せしめるという民主化の作用を果たすべきものとみるみるべきであるとする見解が存する。 そして、国民主権をルソー流の人民主権の方向で把握するのがあるべき歴史的解釈であるとし、日本国憲法に即していえば、15条1項、79条2項・3項、96条1項などは人民主権に馴染む規定であると捉え、43条1項や51条の規定にかかわらず、命令的委任の採用は可能であると説く(命令的委任の意味は必ずしも明確ではないが、一般に、選挙で選ばれた代表者は選挙区の訓令によって行動する義務を負い、それに違反した場合には有権者によって罷免されうるという要求を内容とするようである)。 この見解は、まず、主権は法的権力であるが、憲法制定権力は法の外の世界に属する事象と捉えるところに特徴をもつ(この説によれば、主権 = 憲法制定権力という定式では、国民主権は建前と化し、結局現実の国政の場で国民を主権者たる地位から追放することになるという。) しかし、主権観念が国家統治のあり方に最も根源的にかかわり合う憲法の制定に無関係とすることは問題で、ドイツのように、「ドイツ国民は・・・・・・その憲法制定権力に基づき、この基本法を決定した」(前文)とうたって、憲法制定権力を実定化している例のあることが留意さるべきである。 そして、主権 = 憲法制定権力と基本的に把握することが、直ちに主権観念をして無内容のものとすると解するべきではなく、後述のように一定の構成的作用を果たすものであるとみるべきであろう。 なお、フランス的文脈でいえば、いわゆる「国民主権」から「人民主権」へという定式が成り立つとしても(1946年憲法も58年憲法も、国の主権は人民(peuple)に属するとしている)、そのことから、一般的に、あるいは日本国憲法上、命令的委任が当然に帰結されるといえるかは問題で、この点については後述する(第二章(13頁)参照)。 国民代表の観念が、現実でないものを現実であるかのごとく装うという「イデオロギー」的性格をもつとすれば、命令的委任も、そのような「イデオロギー」的性格を免れえているわけではない。 Ⅱ. 国民主権の意義 (1)総説 以上みてきたように、日本国憲法下の国民主権の意味について諸種の見解が存するところであるが、今日国民主権は単一の次元においてのみ捉えるべきではなく、複数の次元を包摂する全体像において把握されるべきものと思われる。 すなわち、国民主権には、大別して、憲法を定立し統治の正当性を根拠づけるという側面と、実定憲法の存在を前提としてその憲法上の構成的原理としての側面とがあり、後者はさらに、国家の統治制度の民主化に関する側面と公開討論の場(forum)の確保に関する側面とを包含するものと解すべきである。 (2)憲法制定権力者としての国民主権 国民主権は、まず、主権という属性をもった国家の統治のあり方の根源にかかわる憲法を制定しかつ支える権力ないし権威が国民にあることを意味する。 この場合の国民は、憲法を制定した世代の国民、現在の国民、さらには将来の国民をも包摂した統一体としての国民である。 従って、この場合の国民は、基本的には、それ自体として国家の具体的な意思決定を行ないうる存在ではない。 換言すれば、雑然とした国民の全体を一つの観念で把握し、そこに一つの意思があると想定し(あるいはこれを一般意思と呼んでもよい)、その意思に国家の合法性の体系を成立せしめる究極の正当性の根拠をみるのである。 もとより、国民主権を標榜する場合であっても、現実には、憲法は、ある歴史的時点において、その世代の人々により、ある方法をとって(憲法会議と国民投票という方法をとることもあれば、そうでない場合もある)制定される。 その意味では、国家の合法性の体系は具体的な意思ないし実力(権力)から生まれるものといわなければならない。 つまり、権限説やある種のノモスの主権説のように「根本規範」ないし自然法といったものを想定し、国家の実定法体系をその具体化・実現として捉える(法の根拠についての道理説)のではなく、法の根拠について意思ないし実力に求める立場である。(*1) しかし、その場合に問題となるのは、何のために、如何なる原理に基づく憲法を制定するかである。 主権者(憲法制定権者)たる国民が立憲主義憲法を制定する場合、そのときの国民は、個人の人格的自律が尊重される“良き社会”の形成発展という長期的視野に立って自己拘束をなし、また、後の世代の国民がそれぞれの時代の状況に柔軟に対応しつつ“良き社会”の形成発展に向けて自己統治を行なうことを容易にする政治システムを構築しようとするのである。 過去の国民(“死者”)は現在の国民(“生者”)を拘束することはできない。 立憲主義を支える道徳理論によるならば、過去の国民(“死者”)が現在の国民(“生者”)を拘束することが許されるのは、現在の国民(“生者”)が自由を保持しつつ自己統治をなすことを容易にする制度枠組を構築する、換言すれば、現在の国民(“生者”)が自由な主体として自己統治をなすことができる開かれた公正な統治過程を保障するという場合のみである。 国民をもって、憲法を実際に制定した世代の国民、現在の国民、さらに将来の国民を包摂した観念的統一体として把握し、そのような国民の意思に国家の合法性の体系の成立・存続の正当性の根拠を求めることが道徳理論上認容されうるのは、そのような条件が満たされる場合においてのみであろう。 このような意味において、国民がその担い手である憲法制定権力は基本的には端的な実力ではなく、一般的な意思ないし権威となる。 ただ、上述のように憲法改正権は制度化された憲法制定権力と解されるから(第一編第一章第三節(34頁)参照)、改正の場に登場する国民は具体的には一定の資格をもったもの(有権者)のみではあるが、主権者たる国民そのものに擬すべき存在と解するべきであろう。 これによって、主権者たる国民は、制度枠組自体をそれぞれの時代に制度的に適応せしめる途が開かれている。 (*1) 宮沢俊義は、尾高のノモスの主権説を批判するにあたって、意思ないし実力説的見地に立つことを示唆したが、他方では、「憲法の正邪曲直を判定する基準になる『名』」の存在、さらには憲法の効力さえ左右する自然法論のごとき立場に与することを示唆した。 (3)実定憲法上の構成的原理としての国民主権 (イ)統治制度の民主化の要請 国民主権は、憲法を成立せしめ支える意思ないし権威としてのみならず、その憲法を前提に、国家の統治制度が右の意思ないし権威を活かすよう組織されなければならないという要請を帰結するものと解される。 次節にみるように国民は有権者団という機関を構成するが、それは民意を忠実に反映するよう組織されなければならないとともに、統治制度全般、とりわけ国民を代表する機関の組織と活動のあり方が、憲法の定める基本的枠組の中で、民意を反映し活かすという角度から不断に問われなければならないというべきである。 国民主権のこの要請から例えば命令的委任が帰結されるかどうかは、日本国憲法の定める基本的枠組の解釈の問題であって、その点については後述する(本編第二章(136頁)参照)。 また、有権者団としての国民の意思、その意思に基づいて組織される国家機関の意思は、(2)の憲法制定権力者としての国民の意思そのものではないのであって、絶対性を主張することはできないことが留意さるべきである。 (ロ)公開討論の場の確保の要請 構成原理としての国民主権は、統治制度の民主化を要請するのみならず、かかる統治制度とその活動のあり方を不断に監視し問うことを可能ならしめる公開討論の場が国民の間に確保されることを要請する。 集会・結社の自由、いわゆる「知る権利」を包摂する表現の自由は、国家からの個人の自由ということをその本質としつつも、同時に、公開討論の場を維持発展させ、国民による政治の運営を実現する手段であるという意味において国民主権と直結する側面を有している。
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プープク 種類:家畜 詳細 丸々太る家畜。雑食で疫病に強く管理と育成がしやすい。 主に食肉目的に生産させられる。
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プープーテレサ とは、【New スーパーマリオブラザーズ】のキャラクター。 プロフィール 作品別 関連キャラクター コメント プロフィール プープーテレサ 他言語 Balloon Boo (英語) 種族 【テレサ】 初登場 【New スーパーマリオブラザーズ】 頬にピンク色の斑点がある【テレサ】。向かい合うとどんどんと膨らんで行く。 作品別 【New スーパーマリオブラザーズ】 W4-屋敷のみに登場。向かい合っている間はどんどん大きくなり、背を向けると萎みながら追いかけてくる。 コウラマリオでの体当たりや巨大マリオなら倒せる。 関連キャラクター 【テレサ】 コメント 名前 全てのコメントを見る?
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<目次> 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.129以下 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理 フランス革命とは、・・・人民の政府でもなければ、人民による政府でもなく、・・・国民から絶対的に独立した地位に自らを置いた、国民の代表者を僭称する革命家たちの、「主権の簒奪」であった。(アーレント) 第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理 ◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか 日本の憲法学では、授業でも教科書でも、米国憲法を事実上、全く触れない。避ける。 東京大学法学部ですら然りである。 この理由は明確で、米国憲法に言及した瞬間、日本の憲法学者の九割が虚偽とプロパガンダの常習者、つまり詐欺師と分かってしまうからである。 日本における憲法学者のほとんどは、人格的にも病いに冒されている。 例えば、米国憲法には「国民主権」などというものは匂いほども存在しない。 そんなものは積極的に排斥され否定されている。 とくに、米国は、その憲法制定によって「立憲主義(constitutionalism)」を憲法原理としたから、いかなる権力も制限される。 このため、「制限されない権力」の意である「主権」は、当然に憲法違反であり、完全に排撃される。 「立憲主義」と「国民主権」は水と油で両立しないから、米国は前者を採用して後者を追放した。 日本の憲法学者が「立憲主義」を是とし、「国民主権」を称賛しているのは分裂症的思考である。 バジョットは、米国憲法の起草者たちは「何処にも主権を置かないようにしたのである。それは、主権によって暴政が生じることを恐れたからである」と、米国憲法を正しく観察している(※注1:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、中央公論社「世界の名著」第72巻、246頁)。 ハンナ・アーレントも次のように述べている。「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては主権と暴政とは同一のものであると洞察したこと」(※注2:ハンナ・アーレント『革命について』、ちくま学芸文庫、239頁)統治に関する「主権」の廃止は、英国本国のコーク以来の伝統であって、「アメリカ的革新」ではない。また「主権」と“暴政”の同一視も、英国の常識であって、「米国の発明」とはいえない。このような小さなミスをしているけれど、アーレントは米国憲法の核心を正確に把握している。 ノーベル経済学賞受賞の政治哲学者ハイエクは、次のように「国民主権」のことを「迷信」という。その通りであって、政府の統治を受けている被治者を「主権者」などとは、酔っ払いの寝言か戯言かであろう。あるいは、迷信とか妄念上の幻覚としか言いようがない。「主権が何処にあるかと問われるなら、何処にもない・・・・・・というのがその答えである。立憲政治は(権力が)制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はあり得ない。・・・・・・無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、・・・・・・・迷信である(※注3:F. A. ハイエク『法と立法と自由』、『ハイエク全集』第10巻、春秋社、171頁)」 統治において「主権」を排除するのは、自由にとって最高の憲法原理である。 「法の支配」の下で憲法を成長させてきた英国においても同様である。 英国の「法の支配」の原理にあっては、ブラクトンの法諺のとおり、“法”は神よりも国王よりも上位にあって神や国王を支配するから、神や国王ですら主権者になり得ない。 かくして、「何にも支配されない権力」という意味である「主権」は、英国では“法”に支配される国王にすら適用されなかった。 むろん、英国にも、ボーダンの『国家論六書』(1576年)などによって、「主権」というフランス生まれの思想が上陸していたから、16世紀末からのイギリス国王も「主権」に並々ならぬ関心を寄せるし、その周辺の臣下のなかには国王に阿諛すべく「国王主権」を言い出すものは少なくなかった。 だが、ちょうどこの17世紀の初頭、英国は幸運なことに「法の支配」を死守せんとするエドワード・コーク卿というコモン・ローの大法曹家が存在していた。そして、不敬罪で牢に繋がれることを恐れず、「国王主権」論を断固排撃した。例えば、1608年10月、国王ジェームスⅠ世に向って、コークは直接ブラクトンの法諺「国王は、すべての臣民の上にあるが、“法”の下にある」を持ち出し諌言している(※注4:『コーク判例集12』、原著、63~5頁)。また、チャールスⅠ世時代の1628年の「権利請願」(Petition of Right)の草案に貴族院が「国王主権」の文字を挿入したとき、当時たまたま下院議員になっていたコーク卿は「主権は国会の用語ではない」と、ばっさりと削ってしまった(※注5:W. Holdworth, A History of English Law, Vol. 5, p.451)。現代風の表現では、「主権は憲法に背反する」である。 今日に至るも、英国に、憲法を含め国家の統治関係に「国民主権」という概念が全く存在しないのは、コークに代表される「法の支配」を守らんとした多くの英国の法曹家と政治家の汗の結晶による。 かくして、英国には、ブラックストーンの「“法”主権」や、ダイシーの『憲法序説』で日本でも有名になった「国会主権(※注6:中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、116~8頁)」の概念はあっても、「国民主権」も「人民主権」も存在しないのである。 英米の憲法が“正統な憲法”として世界的にもそのモデルになっている事実については、日本でも広く知られている。 この点からでも「国民主権」が存在しないか、否定されているのが“正しい憲法”であるのは自明であろう。 つまり、「国民主権」を美化し神格化している日本の憲法学の教科書はすべて、“狂った憲法学”である。 しかも、この狂気は度が過ぎ、オウム真理教よりも遥かに酷い。 米国社会から排除された“アメリカのはぐれ者”たちの巣窟であったGHQ民政局では、日本国憲法を書くに当たってスターリン憲法やワイマール憲法を参考にしたように、彼らは通常の“米国人”ではなかった。 そのことは、非英米的な「国民主権」が前文や第一条にあることですぐ分かる。 彼らは「英米の憲法が正統」であることに耐えられない、“アメリカの異分子”たちであった。 話を戻して、米国憲法が「国民主権」を排しているのは、米国がイギリス17世紀の法思想で建国されたからである。 独立戦争(1775~83年)とは、この17世紀という百年ほど昔の英国の法思想で武装したアメリカ植民地に住む“古い英国人”と、議会が強くなりすぎた18世紀後半の英本国に住む“新しい英国人”との闘いであった。 また、建国当時のアメリカのエリートたちとは主として大農園主であるが、コークの『英国法提要』とこのコークを継ぐブラックストーンの『イギリス法釈義』を座右の書とする、高い教養人であった。 コークとブラックストーンこそは「法の支配」の法曹家であるが、それらを血肉としたアメリカ「建国の父たち」は、主としてこの両名の法思想を学び、そこから「立憲主義」とか、「(立法に対する)司法審査」とかを「発明」した。 19世紀において、英本国では、「ベンサム→オースティン」らの命令法学に汚染され、「法の支配」が衰退していった。 しかし、米国は17世紀初頭のコークの思想を頑固に19世紀末までは継承し続けた。 20世紀に入って米国でも「法の支配」は衰退したが、しかし「国民主権」などという、暴力とテロルを生んだ革命フランスの、国民を暴君に仕立てあげてこの凶暴な暴君に自分たちの自由を侵害させる狂気のドグマは、全く芽すら出ることなく今日に至っている。 「国民主権」という言葉は、米国では今でも火星語のようなもので誰も理解できない。 一方、英国とは、マグナ・カルタに代表される中世封建時代からのコモン・ローと、それと不可分の関係にある自由擁護の憲法原理「“法”の支配」とを死守すべく、フランスから流入する「主権」思想を撃退するために血を流した歴史を持つ国家である。 革命フランスに宣戦し、22年戦争(1793~1815年)を戦ったのである。 英国にとって「国民主権」は、英国に上陸してはならない、根を張ってはならない、有害な教理として合意され現在に至っている。 「国民主権」が米国に存在もせず米国人の関心の対象にもならなかったことは、米国にルソーやその他のフランス啓蒙哲学(モンテスキュー1名のみ例外)がさっぱり流入しなかったことに通じている。 あるいは、米国の建国から数ヶ月後に発生した革命フランスの革命思想も簡単に排除され流入しなかったこととも関係していよう。 英国ではエドマンド・バークを先頭にして国を挙げて革命フランスの革命思想の流入の阻止に血眼にならざるを得なかったが、米国にはそんな苦労は全くなかった。 英米憲法の思想は、革命フランスの思想とは水と油のごとく対立的である。 共通する所がどこにもない。 フランスが、フランス革命の思想こそが“本当の憲法”を蹂躙すると悟って、英国系の憲法思想の正しさにやっと気づいたのは、1875年の第三共和国憲法からであった。 つまり、1789年から1875年までの86年間とは、フランスにとって無意味で有害な反憲法のドグマに熱狂した「狂愚の86年間」であった。 そして、このフランス第三共和国憲法が米国憲法(1788年)に似たものであることは、米国に遅れること87年もかかってフランスがようやく米国の足下に及んだということである。 話を米国憲法に戻せば、そこに「国民主権」がはっきりと不在になっているのは、憲法起草者が一致して民衆(demos)というものに「潜在的専制者(potential tyrant)」を透視し警戒したからである。 育ちも教養も高い君主ですら「専制君主」になると恐れるならば、その逆の、育ちも悪く教養もない民衆は主権を与えられれば直ちに“暴君”になるだろうことは、「米国の建国の父たち」にとって自明であった。 民衆が多数を恃(たの)んでその意志を強制力に転換したならば、それは必ず国民の自由を侵害するものになるのは、自明であった。 「建国の父」の一人で、米国憲法の起草者の一人でもあったマディソンは、この「多数者の専制」を次のように恐れている。 「民主政治(popular government、民選政府)の下で多数者が一つの党派を構成するときは、党派が、公共の善と他の市民の権利のいずれをも、その圧倒的な感情や利益の犠牲とすることが可能になる(※注7:A. ハミルトンほか『ザ・フェデラリスト』、福村出版、46頁)」 このようにデモクラシーへの警戒感は、“人間というものへの不信”という、正しい人間観を、アメリカの「建国の父」たちが持っていたからであった。 フランスの啓蒙哲学者や革命屋たちは、あろうことか、政治過程での人間が善性であり得ると逆さに妄想した。 マディソンの、次のような主張こそが不変の真理であろう。 「そもそも政府とはいったい何なのであろうか。それこそ、人間性に対する最大の不信の現れでなくして何であろう。万が一、人間が天使ででもあるというならば、政府などもとより必要としない(※注7:前掲『ザ・フェデラリスト』、254頁)」 「建国の父たち」の筆頭アレグザンダ・ハミルトンも、デイビット・ヒュームの影響もあるが、「全ての人間はごろつき(a knave)と見なすべきである」と、政治家が持つべき正しき人間観を持っていた。 ニューヨーク邦での米国憲法批准会議で、ハミルトンは次のように演説した。 「純粋デモクラシーは、歴史を紐解けば、これほどの政治における偽りは他に類をみない。古代デモクラシーでは市民(国民)自身が議会に参加するが決して良き政府をもったことがない。その性格は専制的であり、その姿は奇形である(※注8:Selected Writings and Speeches of Alexander Hamilton, AEI, p.207)」(1788年6月21日) 国民の自由の擁護は、民衆の政治参加を警戒し、その代表者の議会に対してすらさらに警戒し、デモクラシーを制限する「制度」をつくることであるが、これが「建国の父たち」の一致した意見であった。 マディソンは、民衆が選出した代議士たちの議会(立法府)に対して、この議会が国家権力を簒奪しないかとも恐れた。 「・・・・・・この立法部(国会)に対してこそ、冒険的な野心をもつことがないように、人民はその一切の猜疑心を注ぎ、警戒をおさおさ怠りないようにしなければならない(※注9:前掲『ザ・フェデラリスト』、242頁)」 実際に革命フランスでは、「議会」が権力を簒奪して、国民を好き放題にギロチンその他で殺害するに至った。 ジャコバン党独裁下の「国民公会」は、単なる“殺人許可書を発行する村役場”であった。 フランス革命は、米国憲法のあとに発生したが、またラファイエット侯爵のようなワシントン・マニアックもいたのに、米国憲法の思想から何かを学ぼうとした形跡が全くない。 日本の憲法学者のほぼ全ては、米国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』をその教科書でまともに取り上げていないが、それはフランス革命の凶暴なジャコバン・テロリストと日本の憲法学者とが「兄弟」だからである。 ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 日本の憲法学者の多くは、一種の詐話師である。 いかに言論の自由があるとはいえ、何らかの刑法上の犯罪になるのではないかと思うほど、彼らが書き散らした教科書は嘘とトリックだらけである。 「国民主権」一つを例としよう。 英米憲法はそれを拒絶している。 現代フランスの第五共和国憲法(1958年)は“蝉の抜け殻”のようにその形骸を残してはいるが、憲法として何かの意味を持たせているわけではない。 つまり、フランスは、「国民主権」を実態上は死刑に処しているが、その屍を埋めたあとに立派な墓をたててあげた。 それが第五共和国憲法の第三条に当たる。 ところが、日本の憲法学は、プリンセス天功のマジック・ショーも顔負けに、まず現実の自由社会の世界地図から英国も米国も現代フランスも、主要三ヶ国を消してしまう。 次に、歴史の彼方にとっくの昔に葬られたほずの、1789年から1794年にかけての血塗られた革命フランスを「現在」に存在する、「世界に存在する唯一の憲法先進国である」という“大幻想”のスクリーンを映し出す。 杉原泰雄の『国民主権の研究』や辻村みよ子の『フランス革命の憲法原理』などは、彼らが1789年から1794年のジャコバン・テロリストになりきっており、彼らの思考も時間もこの18世紀末のフランスに止まっている、そして、この18世紀が、「20世紀後半である」「21世紀である」とのマジックに専念している。 彼らの本は、読むたびにゴースト・タウンの光景か、お化け屋敷が浮かんでくる。 異様な本である。 なお、フランス革命のフランスに憲法原理など全く存在しないから、『フランス革命の憲法原理』との、辻村の著作タイトルは、悪徳不動産屋の誇大広告と同じ虚偽広告に当たる。 なぜ日本の憲法学者の九割がこれほどまでに虚偽と欺瞞に狂奔するのであろうか。 理由の第一は、彼らはマルクス・レーニン主義者であり、日本を何としても社会主義化したい、共産主義国にしたいという執念にのみ生きている宗教信者であるからだろう。 そして、革命を排除する智恵が憲法の魂に沿っていなくてはならないのに、革命に誘導する革命の教理を、あろうことか憲法学だと詐言的に転倒する。 宮沢俊義、長谷川正安、杉原泰雄、小林直樹、横田耕一、渡辺浩、樋口陽一、辻村みよ子ら、名をあげると数十名にも及ぶ。 英米憲法を全面的に消してこの地球上には存在しないことにした「情報操作(トリック)の達人」辻村みよ子とは、フランス人権宣言(1789年)や1793年ジャコバン憲法に関して荒唐無稽かつ出鱈目なプロパガンダ(嘘宣伝)を平然となす人物でもある。 前述したその作品『フランス革命の憲法原理』で、辻村の嘘は「はしがき」の冒頭一行目から始まる。 そこでは「(フランス革命200年目にあたる今年)フランスをはじめ世界の国々で、大革命の偉業を讃え、その意義を考える記念行事・・・・・・(※注1:辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』、日本評論社、i頁、ii頁)」、としているからだ。 だが実際には、フランスにおいてすらフランス革命離れは決定的である。 フランス政府は、革命記念日行事その他を今では可能な限りロー・キー化している。 フランスは、東欧の解放(1989年11月)とソ連邦の崩壊(1991年12月)をもって、フランス革命記念日の安楽死を模索している。 世界のどこにもフランス革命の「偉業を讃え」る、そんな国は実態としては一ヶ国もない。 辻村の虚偽記述は病気である。 さらに、人権宣言やジャコバン憲法についての、細々とした“屍体解剖”的な研究は散見されるが、「フランス憲法学界の最近の傾向、すなわち1789年宣言の憲法規範性を認め、・・・・・・(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)」などという研究動向は、ゴミほどのもので無視すべきレベルである。 人権宣言はフランス国家全体を宗教団体に改造する宣言で、“モーゼの十戎”などをモデルとしたカルト宗教の戒律もしくは呪文の性格をもつことは、今では定説であろう。 かくも憲法から程遠いものが、どうして「憲法規範性」を持ち得るというのだろうか。 辻村の言説が麻原彰晃のそれに重なるのは、辻村が殺人鬼ロベスピエールの崇拝者であることだけではない、 「近代市民憲法原理ないし近代立憲主義の基本原理を確立したのは、人権宣言かジャコバン憲法か、あるいは1791年憲法かジャコバン憲法か」などと言ったり、それが「<新しい問題>である」など、と述べているからである(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)。 「立憲主義」とは、「立憲君主」という概念でも簡単に分かるように、憲法に従っって如何なる権力も制限されることを指すから、「国民主権」という「主権」が高らかに謳いあげられた革命フランスに全く存在しなかったのは明々白々ではないか。 例えば、ジャコバン憲法は制定されたが施行されなかった。 そればかりか、この憲法に定められていない、“無法組織”たる公安委員会と革命裁判所をもって独裁とフランス国民の大量虐殺が実行された。 「立憲主義」とは対極的な“憲法破壊主義”がジャコバンの本性であった。 だから、自由、生命、財産への大々的な侵害という蛮行が実行されたのである。 フランスが米国生まれの「立憲主義」を初めて理解したのは、約百年後の1875年であった。 しかも、「フランス人権宣言」こそが、“憲法破壊主義”を牽引し正当化した。 その第三条が「国民主権」を定めたからである。 この「国民主権」によって、人間を無制限に殺戮したいという、国民の一部の“意志”が絶対化され神化されたからである。 これが大規模テロルに至った主要な理由の一つである。 このように、「国民主権」が反・憲法原理であることは、このフランス革命史が百パーセント以上に証明している。 「立憲主義」を史上初めて創造したアメリカの「建国の父たち」が、「国民主権」とそれに類する思想すべてを排撃したが、彼らが如何に優れた賢者であったかはこれだけでも充分に判明する。 樋口陽一は、東京大学教授として最も強い悪影響と深い傷跡とを日本に遺した憲法学者である。 この樋口もまた、時間がフランス革命でとまり、事実上、それから現在に至る二百年間の歴史が抹殺されている。 また、場所もパリに限って、英米を含めて世界各国の憲法を決して鳥瞰しようとしない。 ときたまタイム・マシーンに乗って、ホッブズとルソーを狂信する「ヒットラーの芸者学者」のカール・シュミット(ナチ党員)の所にお伺いに出かけるぐらいである。 これが樋口陽一の憲法学の全てである。 “知の貧困”もここまでくると絶句するほかない。 具体例を挙げる。 樋口陽一の主著『憲法Ⅰ』(※注2:樋口陽一『憲法Ⅰ』、青林書院)は、英国憲法は全面無視し歪曲する。 米国憲法は完全拒絶する、オランダ、ベルギー、北欧の立憲君主国憲法はないことに処理し、現代フランスの憲法は隠す、……。 マジック・ショーのトリック以外の記述が全くないという奇本、それが樋口著『憲法Ⅰ』である。 別の表現をすれば、憲法としてはとっくの昔に死んで白骨と化している革命フランスのそれと、カルト宗教の経典であったフランス人権宣言だけでもって、腐った枯れ枝を集めたような樋口流「憲法理論」を創る。 まずその第Ⅰ部では、主に「立憲主義」を取り上げる(第一章第三節、第四章その他)。 ところがそこでは、米国の「立憲主義」には全く言及しない。 「立憲主義」を全面破壊したい“反・立憲主義者”である樋口にとって、その内容について実質的に一行も言及しないことによって自分の狙う目的を果している。 しかし「立憲主義に言及しないとは何だ!」の批判を回避すべく「立憲主義」という四文字のみは選挙宣伝カーの連呼の如く書き散らす手法をとっている。 次に、近代憲法の基本構造が「主権」と「人権」だとする(第二章第一節)。 ここでも、樋口は卑劣なほどのトリックで論述していく。 なぜなら、そのタイトルは一般的な「近代憲法の基本構造」としているのに、実際には、「身分制秩序を否定する国家=国民主権原理によって、人権主体としての個人が成立した」(28頁)などと、革命フランスのみに限定してその「憲法」なるものを記述しているだけだからである。 羊頭狗肉である。 また、この第一節のタイトルを「主権と人権 - その近代性」としているのは、革命フランスのみに特殊であった「(国民、人民)主権」と「人権」が、当時の欧米に一般的にも存在し「近代的」であったかのように学生が誤解するよう誘導するためである。 近代の英米憲法には、「国民(人民)主権」も存在しない。 「人権」も存在しない。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。 英米憲法について正しく記述すれば、「人権」が近代とは無関係であるのが一瞬にしてバレるからである。 それを避けるための詐術としての「抹殺」である。 次に、ここまで米国憲法を抹殺するのは極端で拙いと思ったのか米国に言及する所がある。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。米国憲法とは何の関係もない、1835年のトクヴィルの作品を出して誤魔化すのである(30頁)。 英国については、17世紀の“主権潰し”のコークなどには一言も言及せず、それから200年以上もたった19世紀のダイシーの『憲法序説』のさわりにちょっと触れてオシマイにする(25頁)。 全体を通してみると、結局、革命フランスの部分だけで「全世界の憲法と近代以降2~400年間の全ての憲法の話をした」ことにしている。 レトリックというより、低級な詐言としか形容できない。 「立憲主義」に話を戻せば、ここまで真っ赤な嘘を吐ける人間がこの世にいるのかと、ただ驚愕するしかない。 例えば、樋口は次のように、出鱈目も度が過ぎた虚偽定義をするからである。 「近代立憲主義は、人権主体としての個人の尊厳という究極的価値を前提にして、権利保障と権力分立をその内容とする」(22頁) 「立憲主義」は、統治機構内の如何なる権力も憲法に従って制限されるという、1788年の米国憲法を嚆矢とするアメリカ的な憲法原理である。 が、決してこれには触れない。 また、マディソンらの「建国の父たち」が起草した米国憲法には「人権」は匂いすらなく、「個人の尊厳」もない。 当然、「権利の保障」とも無関係である。 いったい、「人権主体としての個人の尊厳」と「立憲主義」とがどう関係すると言うのだろう。 まるで、「フランスのケーキは我が日本国の伝統文化の象徴である」などと同じ言辞であり、酔っ払いでもこれほどの酔言は吐かない。 そして、米国憲法から100年も後の、しかも米国でない、19世紀ドイツの「立憲主義」などのマイナーな話にすり替えていく(22~3頁)。 次のような、もう一つの虚偽定義も全く意味不明である。 なぜなら、「立憲主義」は、「国民主権」や「絶対君主」を排撃するものであるが、単なる「個人」を対象としないからである。 樋口の「強い個人」の意味ははっきりしないけれど、それが“個々(アトム)主義”の「個人」を指すのであれば、ルソーの『人間不平等起源論』から生まれた「平等」と表裏一体をなす概念である。 つまり、樋口はフランス啓蒙思想をもって、水と油の関係にあるコーク系列の「立憲主義」とが混じり合えるという、マジック・ショー的にこの一文を書いている。 「近代立憲主義を想定する個人は、ひとことでいえば、強い個人である」(33頁) 樋口陽一の「憲法学」は“憲法学”ではない。 「法の支配」など、自由を擁護する憲法原理を完全に無視するか、歪曲している。 ひたすらフランス革命を日本に起こすことのみに執念を燃やす扇動のパンフレットになっている。 アジビラである。 附記読売憲法試案(2004年5月3日)は、樋口陽一や辻村みよ子の直系の、大量虐殺者ロベスピエールと同じイデオロギーというか、共産革命のロジックというか、それが冒頭に展開されている。「日本国憲法は、日本国の主権者であり、……」が、前文の最初に書かれているからである。その意は、日本人は「一億二千六百万分の一の絶対君主」になったとでも言いたいのだろうか。しかも、一般に日本人のほぼすべては被治者であるからこの主権者に絶対的な服従を強いられる「一人の奴隷」になったとの宣言である。そればかりか、わざわざ「第一章 国民主権」を新しく設け、それを現第一章「天皇」の直前にもってきている。天皇は、「主権者」たる国民の下にある、と言いたいのである。あのルイ16世の処刑の直前の血塗られた革命フランスを模倣している。読売憲法試案より、現GHQ憲法の方が日本国にとって何十倍もましである。
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<目次> 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 中川八洋『国民の憲法改正』(2004年刊) p.129以下 第三部 国家簒奪・大量虐殺の思想を排除する - 根絶すべきフランス革命の教理 フランス革命とは、・・・人民の政府でもなければ、人民による政府でもなく、・・・国民から絶対的に独立した地位に自らを置いた、国民の代表者を僭称する革命家たちの、「主権の簒奪」であった。(アーレント) 第四章 「国民主権」は暴政・革命に至る - 「デモクラシーの制限と抑制」こそ憲法原理 ◇第一節 英米憲法は、なぜ「国民主権」を完全に排撃したか 日本の憲法学では、授業でも教科書でも、米国憲法を事実上、全く触れない。避ける。 東京大学法学部ですら然りである。 この理由は明確で、米国憲法に言及した瞬間、日本の憲法学者の九割が虚偽とプロパガンダの常習者、つまり詐欺師と分かってしまうからである。 日本における憲法学者のほとんどは、人格的にも病いに冒されている。 例えば、米国憲法には「国民主権」などというものは匂いほども存在しない。 そんなものは積極的に排斥され否定されている。 とくに、米国は、その憲法制定によって「立憲主義(constitutionalism)」を憲法原理としたから、いかなる権力も制限される。 このため、「制限されない権力」の意である「主権」は、当然に憲法違反であり、完全に排撃される。 「立憲主義」と「国民主権」は水と油で両立しないから、米国は前者を採用して後者を追放した。 日本の憲法学者が「立憲主義」を是とし、「国民主権」を称賛しているのは分裂症的思考である。 バジョットは、米国憲法の起草者たちは「何処にも主権を置かないようにしたのである。それは、主権によって暴政が生じることを恐れたからである」と、米国憲法を正しく観察している(※注1:ウォルター・バジョット『英国憲政論』、中央公論社「世界の名著」第72巻、246頁)。 ハンナ・アーレントも次のように述べている。「政治それ自体における偉大な、そして長期的に見ればおそらく最大のアメリカ的革新は、共和国の政治体内部において主権を徹底的に廃止したということ、そして、人間事象の領域においては主権と暴政とは同一のものであると洞察したこと」(※注2:ハンナ・アーレント『革命について』、ちくま学芸文庫、239頁)統治に関する「主権」の廃止は、英国本国のコーク以来の伝統であって、「アメリカ的革新」ではない。また「主権」と“暴政”の同一視も、英国の常識であって、「米国の発明」とはいえない。このような小さなミスをしているけれど、アーレントは米国憲法の核心を正確に把握している。 ノーベル経済学賞受賞の政治哲学者ハイエクは、次のように「国民主権」のことを「迷信」という。その通りであって、政府の統治を受けている被治者を「主権者」などとは、酔っ払いの寝言か戯言かであろう。あるいは、迷信とか妄念上の幻覚としか言いようがない。「主権が何処にあるかと問われるなら、何処にもない・・・・・・というのがその答えである。立憲政治は(権力が)制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はあり得ない。・・・・・・無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、・・・・・・・迷信である(※注3:F. A. ハイエク『法と立法と自由』、『ハイエク全集』第10巻、春秋社、171頁)」 統治において「主権」を排除するのは、自由にとって最高の憲法原理である。 「法の支配」の下で憲法を成長させてきた英国においても同様である。 英国の「法の支配」の原理にあっては、ブラクトンの法諺のとおり、“法”は神よりも国王よりも上位にあって神や国王を支配するから、神や国王ですら主権者になり得ない。 かくして、「何にも支配されない権力」という意味である「主権」は、英国では“法”に支配される国王にすら適用されなかった。 むろん、英国にも、ボーダンの『国家論六書』(1576年)などによって、「主権」というフランス生まれの思想が上陸していたから、16世紀末からのイギリス国王も「主権」に並々ならぬ関心を寄せるし、その周辺の臣下のなかには国王に阿諛すべく「国王主権」を言い出すものは少なくなかった。 だが、ちょうどこの17世紀の初頭、英国は幸運なことに「法の支配」を死守せんとするエドワード・コーク卿というコモン・ローの大法曹家が存在していた。そして、不敬罪で牢に繋がれることを恐れず、「国王主権」論を断固排撃した。例えば、1608年10月、国王ジェームスⅠ世に向って、コークは直接ブラクトンの法諺「国王は、すべての臣民の上にあるが、“法”の下にある」を持ち出し諌言している(※注4:『コーク判例集12』、原著、63~5頁)。また、チャールスⅠ世時代の1628年の「権利請願」(Petition of Right)の草案に貴族院が「国王主権」の文字を挿入したとき、当時たまたま下院議員になっていたコーク卿は「主権は国会の用語ではない」と、ばっさりと削ってしまった(※注5:W. Holdworth, A History of English Law, Vol. 5, p.451)。現代風の表現では、「主権は憲法に背反する」である。 今日に至るも、英国に、憲法を含め国家の統治関係に「国民主権」という概念が全く存在しないのは、コークに代表される「法の支配」を守らんとした多くの英国の法曹家と政治家の汗の結晶による。 かくして、英国には、ブラックストーンの「“法”主権」や、ダイシーの『憲法序説』で日本でも有名になった「国会主権(※注6:中川八洋『保守主義の哲学』、PHP研究所、116~8頁)」の概念はあっても、「国民主権」も「人民主権」も存在しないのである。 英米の憲法が“正統な憲法”として世界的にもそのモデルになっている事実については、日本でも広く知られている。 この点からでも「国民主権」が存在しないか、否定されているのが“正しい憲法”であるのは自明であろう。 つまり、「国民主権」を美化し神格化している日本の憲法学の教科書はすべて、“狂った憲法学”である。 しかも、この狂気は度が過ぎ、オウム真理教よりも遥かに酷い。 米国社会から排除された“アメリカのはぐれ者”たちの巣窟であったGHQ民政局では、日本国憲法を書くに当たってスターリン憲法やワイマール憲法を参考にしたように、彼らは通常の“米国人”ではなかった。 そのことは、非英米的な「国民主権」が前文や第一条にあることですぐ分かる。 彼らは「英米の憲法が正統」であることに耐えられない、“アメリカの異分子”たちであった。 話を戻して、米国憲法が「国民主権」を排しているのは、米国がイギリス17世紀の法思想で建国されたからである。 独立戦争(1775~83年)とは、この17世紀という百年ほど昔の英国の法思想で武装したアメリカ植民地に住む“古い英国人”と、議会が強くなりすぎた18世紀後半の英本国に住む“新しい英国人”との闘いであった。 また、建国当時のアメリカのエリートたちとは主として大農園主であるが、コークの『英国法提要』とこのコークを継ぐブラックストーンの『イギリス法釈義』を座右の書とする、高い教養人であった。 コークとブラックストーンこそは「法の支配」の法曹家であるが、それらを血肉としたアメリカ「建国の父たち」は、主としてこの両名の法思想を学び、そこから「立憲主義」とか、「(立法に対する)司法審査」とかを「発明」した。 19世紀において、英本国では、「ベンサム→オースティン」らの命令法学に汚染され、「法の支配」が衰退していった。 しかし、米国は17世紀初頭のコークの思想を頑固に19世紀末までは継承し続けた。 20世紀に入って米国でも「法の支配」は衰退したが、しかし「国民主権」などという、暴力とテロルを生んだ革命フランスの、国民を暴君に仕立てあげてこの凶暴な暴君に自分たちの自由を侵害させる狂気のドグマは、全く芽すら出ることなく今日に至っている。 「国民主権」という言葉は、米国では今でも火星語のようなもので誰も理解できない。 一方、英国とは、マグナ・カルタに代表される中世封建時代からのコモン・ローと、それと不可分の関係にある自由擁護の憲法原理「“法”の支配」とを死守すべく、フランスから流入する「主権」思想を撃退するために血を流した歴史を持つ国家である。 革命フランスに宣戦し、22年戦争(1793~1815年)を戦ったのである。 英国にとって「国民主権」は、英国に上陸してはならない、根を張ってはならない、有害な教理として合意され現在に至っている。 「国民主権」が米国に存在もせず米国人の関心の対象にもならなかったことは、米国にルソーやその他のフランス啓蒙哲学(モンテスキュー1名のみ例外)がさっぱり流入しなかったことに通じている。 あるいは、米国の建国から数ヶ月後に発生した革命フランスの革命思想も簡単に排除され流入しなかったこととも関係していよう。 英国ではエドマンド・バークを先頭にして国を挙げて革命フランスの革命思想の流入の阻止に血眼にならざるを得なかったが、米国にはそんな苦労は全くなかった。 英米憲法の思想は、革命フランスの思想とは水と油のごとく対立的である。 共通する所がどこにもない。 フランスが、フランス革命の思想こそが“本当の憲法”を蹂躙すると悟って、英国系の憲法思想の正しさにやっと気づいたのは、1875年の第三共和国憲法からであった。 つまり、1789年から1875年までの86年間とは、フランスにとって無意味で有害な反憲法のドグマに熱狂した「狂愚の86年間」であった。 そして、このフランス第三共和国憲法が米国憲法(1788年)に似たものであることは、米国に遅れること87年もかかってフランスがようやく米国の足下に及んだということである。 話を米国憲法に戻せば、そこに「国民主権」がはっきりと不在になっているのは、憲法起草者が一致して民衆(demos)というものに「潜在的専制者(potential tyrant)」を透視し警戒したからである。 育ちも教養も高い君主ですら「専制君主」になると恐れるならば、その逆の、育ちも悪く教養もない民衆は主権を与えられれば直ちに“暴君”になるだろうことは、「米国の建国の父たち」にとって自明であった。 民衆が多数を恃(たの)んでその意志を強制力に転換したならば、それは必ず国民の自由を侵害するものになるのは、自明であった。 「建国の父」の一人で、米国憲法の起草者の一人でもあったマディソンは、この「多数者の専制」を次のように恐れている。 「民主政治(popular government、民選政府)の下で多数者が一つの党派を構成するときは、党派が、公共の善と他の市民の権利のいずれをも、その圧倒的な感情や利益の犠牲とすることが可能になる(※注7:A. ハミルトンほか『ザ・フェデラリスト』、福村出版、46頁)」 このようにデモクラシーへの警戒感は、“人間というものへの不信”という、正しい人間観を、アメリカの「建国の父」たちが持っていたからであった。 フランスの啓蒙哲学者や革命屋たちは、あろうことか、政治過程での人間が善性であり得ると逆さに妄想した。 マディソンの、次のような主張こそが不変の真理であろう。 「そもそも政府とはいったい何なのであろうか。それこそ、人間性に対する最大の不信の現れでなくして何であろう。万が一、人間が天使ででもあるというならば、政府などもとより必要としない(※注7:前掲『ザ・フェデラリスト』、254頁)」 「建国の父たち」の筆頭アレグザンダ・ハミルトンも、デイビット・ヒュームの影響もあるが、「全ての人間はごろつき(a knave)と見なすべきである」と、政治家が持つべき正しき人間観を持っていた。 ニューヨーク邦での米国憲法批准会議で、ハミルトンは次のように演説した。 「純粋デモクラシーは、歴史を紐解けば、これほどの政治における偽りは他に類をみない。古代デモクラシーでは市民(国民)自身が議会に参加するが決して良き政府をもったことがない。その性格は専制的であり、その姿は奇形である(※注8:Selected Writings and Speeches of Alexander Hamilton, AEI, p.207)」(1788年6月21日) 国民の自由の擁護は、民衆の政治参加を警戒し、その代表者の議会に対してすらさらに警戒し、デモクラシーを制限する「制度」をつくることであるが、これが「建国の父たち」の一致した意見であった。 マディソンは、民衆が選出した代議士たちの議会(立法府)に対して、この議会が国家権力を簒奪しないかとも恐れた。 「・・・・・・この立法部(国会)に対してこそ、冒険的な野心をもつことがないように、人民はその一切の猜疑心を注ぎ、警戒をおさおさ怠りないようにしなければならない(※注9:前掲『ザ・フェデラリスト』、242頁)」 実際に革命フランスでは、「議会」が権力を簒奪して、国民を好き放題にギロチンその他で殺害するに至った。 ジャコバン党独裁下の「国民公会」は、単なる“殺人許可書を発行する村役場”であった。 フランス革命は、米国憲法のあとに発生したが、またラファイエット侯爵のようなワシントン・マニアックもいたのに、米国憲法の思想から何かを学ぼうとした形跡が全くない。 日本の憲法学者のほぼ全ては、米国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』をその教科書でまともに取り上げていないが、それはフランス革命の凶暴なジャコバン・テロリストと日本の憲法学者とが「兄弟」だからである。 ◇第二節 「フランス革命の教理」を“憲法原理”だと詐言する学者たち 日本の憲法学者の多くは、一種の詐話師である。 いかに言論の自由があるとはいえ、何らかの刑法上の犯罪になるのではないかと思うほど、彼らが書き散らした教科書は嘘とトリックだらけである。 「国民主権」一つを例としよう。 英米憲法はそれを拒絶している。 現代フランスの第五共和国憲法(1958年)は“蝉の抜け殻”のようにその形骸を残してはいるが、憲法として何かの意味を持たせているわけではない。 つまり、フランスは、「国民主権」を実態上は死刑に処しているが、その屍を埋めたあとに立派な墓をたててあげた。 それが第五共和国憲法の第三条に当たる。 ところが、日本の憲法学は、プリンセス天功のマジック・ショーも顔負けに、まず現実の自由社会の世界地図から英国も米国も現代フランスも、主要三ヶ国を消してしまう。 次に、歴史の彼方にとっくの昔に葬られたほずの、1789年から1794年にかけての血塗られた革命フランスを「現在」に存在する、「世界に存在する唯一の憲法先進国である」という“大幻想”のスクリーンを映し出す。 杉原泰雄の『国民主権の研究』や辻村みよ子の『フランス革命の憲法原理』などは、彼らが1789年から1794年のジャコバン・テロリストになりきっており、彼らの思考も時間もこの18世紀末のフランスに止まっている、そして、この18世紀が、「20世紀後半である」「21世紀である」とのマジックに専念している。 彼らの本は、読むたびにゴースト・タウンの光景か、お化け屋敷が浮かんでくる。 異様な本である。 なお、フランス革命のフランスに憲法原理など全く存在しないから、『フランス革命の憲法原理』との、辻村の著作タイトルは、悪徳不動産屋の誇大広告と同じ虚偽広告に当たる。 なぜ日本の憲法学者の九割がこれほどまでに虚偽と欺瞞に狂奔するのであろうか。 理由の第一は、彼らはマルクス・レーニン主義者であり、日本を何としても社会主義化したい、共産主義国にしたいという執念にのみ生きている宗教信者であるからだろう。 そして、革命を排除する智恵が憲法の魂に沿っていなくてはならないのに、革命に誘導する革命の教理を、あろうことか憲法学だと詐言的に転倒する。 宮沢俊義、長谷川正安、杉原泰雄、小林直樹、横田耕一、渡辺浩、樋口陽一、辻村みよ子ら、名をあげると数十名にも及ぶ。 英米憲法を全面的に消してこの地球上には存在しないことにした「情報操作(トリック)の達人」辻村みよ子とは、フランス人権宣言(1789年)や1793年ジャコバン憲法に関して荒唐無稽かつ出鱈目なプロパガンダ(嘘宣伝)を平然となす人物でもある。 前述したその作品『フランス革命の憲法原理』で、辻村の嘘は「はしがき」の冒頭一行目から始まる。 そこでは「(フランス革命200年目にあたる今年)フランスをはじめ世界の国々で、大革命の偉業を讃え、その意義を考える記念行事・・・・・・(※注1:辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』、日本評論社、i頁、ii頁)」、としているからだ。 だが実際には、フランスにおいてすらフランス革命離れは決定的である。 フランス政府は、革命記念日行事その他を今では可能な限りロー・キー化している。 フランスは、東欧の解放(1989年11月)とソ連邦の崩壊(1991年12月)をもって、フランス革命記念日の安楽死を模索している。 世界のどこにもフランス革命の「偉業を讃え」る、そんな国は実態としては一ヶ国もない。 辻村の虚偽記述は病気である。 さらに、人権宣言やジャコバン憲法についての、細々とした“屍体解剖”的な研究は散見されるが、「フランス憲法学界の最近の傾向、すなわち1789年宣言の憲法規範性を認め、・・・・・・(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)」などという研究動向は、ゴミほどのもので無視すべきレベルである。 人権宣言はフランス国家全体を宗教団体に改造する宣言で、“モーゼの十戎”などをモデルとしたカルト宗教の戒律もしくは呪文の性格をもつことは、今では定説であろう。 かくも憲法から程遠いものが、どうして「憲法規範性」を持ち得るというのだろうか。 辻村の言説が麻原彰晃のそれに重なるのは、辻村が殺人鬼ロベスピエールの崇拝者であることだけではない、 「近代市民憲法原理ないし近代立憲主義の基本原理を確立したのは、人権宣言かジャコバン憲法か、あるいは1791年憲法かジャコバン憲法か」などと言ったり、それが「<新しい問題>である」など、と述べているからである(※注1:前掲『フランス革命の憲法原理』、i頁、ii頁)。 「立憲主義」とは、「立憲君主」という概念でも簡単に分かるように、憲法に従っって如何なる権力も制限されることを指すから、「国民主権」という「主権」が高らかに謳いあげられた革命フランスに全く存在しなかったのは明々白々ではないか。 例えば、ジャコバン憲法は制定されたが施行されなかった。 そればかりか、この憲法に定められていない、“無法組織”たる公安委員会と革命裁判所をもって独裁とフランス国民の大量虐殺が実行された。 「立憲主義」とは対極的な“憲法破壊主義”がジャコバンの本性であった。 だから、自由、生命、財産への大々的な侵害という蛮行が実行されたのである。 フランスが米国生まれの「立憲主義」を初めて理解したのは、約百年後の1875年であった。 しかも、「フランス人権宣言」こそが、“憲法破壊主義”を牽引し正当化した。 その第三条が「国民主権」を定めたからである。 この「国民主権」によって、人間を無制限に殺戮したいという、国民の一部の“意志”が絶対化され神化されたからである。 これが大規模テロルに至った主要な理由の一つである。 このように、「国民主権」が反・憲法原理であることは、このフランス革命史が百パーセント以上に証明している。 「立憲主義」を史上初めて創造したアメリカの「建国の父たち」が、「国民主権」とそれに類する思想すべてを排撃したが、彼らが如何に優れた賢者であったかはこれだけでも充分に判明する。 樋口陽一は、東京大学教授として最も強い悪影響と深い傷跡とを日本に遺した憲法学者である。 この樋口もまた、時間がフランス革命でとまり、事実上、それから現在に至る二百年間の歴史が抹殺されている。 また、場所もパリに限って、英米を含めて世界各国の憲法を決して鳥瞰しようとしない。 ときたまタイム・マシーンに乗って、ホッブズとルソーを狂信する「ヒットラーの芸者学者」のカール・シュミット(ナチ党員)の所にお伺いに出かけるぐらいである。 これが樋口陽一の憲法学の全てである。 “知の貧困”もここまでくると絶句するほかない。 具体例を挙げる。 樋口陽一の主著『憲法Ⅰ』(※注2:樋口陽一『憲法Ⅰ』、青林書院)は、英国憲法は全面無視し歪曲する。 米国憲法は完全拒絶する、オランダ、ベルギー、北欧の立憲君主国憲法はないことに処理し、現代フランスの憲法は隠す、……。 マジック・ショーのトリック以外の記述が全くないという奇本、それが樋口著『憲法Ⅰ』である。 別の表現をすれば、憲法としてはとっくの昔に死んで白骨と化している革命フランスのそれと、カルト宗教の経典であったフランス人権宣言だけでもって、腐った枯れ枝を集めたような樋口流「憲法理論」を創る。 まずその第Ⅰ部では、主に「立憲主義」を取り上げる(第一章第三節、第四章その他)。 ところがそこでは、米国の「立憲主義」には全く言及しない。 「立憲主義」を全面破壊したい“反・立憲主義者”である樋口にとって、その内容について実質的に一行も言及しないことによって自分の狙う目的を果している。 しかし「立憲主義に言及しないとは何だ!」の批判を回避すべく「立憲主義」という四文字のみは選挙宣伝カーの連呼の如く書き散らす手法をとっている。 次に、近代憲法の基本構造が「主権」と「人権」だとする(第二章第一節)。 ここでも、樋口は卑劣なほどのトリックで論述していく。 なぜなら、そのタイトルは一般的な「近代憲法の基本構造」としているのに、実際には、「身分制秩序を否定する国家=国民主権原理によって、人権主体としての個人が成立した」(28頁)などと、革命フランスのみに限定してその「憲法」なるものを記述しているだけだからである。 羊頭狗肉である。 また、この第一節のタイトルを「主権と人権 - その近代性」としているのは、革命フランスのみに特殊であった「(国民、人民)主権」と「人権」が、当時の欧米に一般的にも存在し「近代的」であったかのように学生が誤解するよう誘導するためである。 近代の英米憲法には、「国民(人民)主権」も存在しない。 「人権」も存在しない。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。 英米憲法について正しく記述すれば、「人権」が近代とは無関係であるのが一瞬にしてバレるからである。 それを避けるための詐術としての「抹殺」である。 次に、ここまで米国憲法を抹殺するのは極端で拙いと思ったのか米国に言及する所がある。 が、この事実については樋口は一文字も書いていない。米国憲法とは何の関係もない、1835年のトクヴィルの作品を出して誤魔化すのである(30頁)。 英国については、17世紀の“主権潰し”のコークなどには一言も言及せず、それから200年以上もたった19世紀のダイシーの『憲法序説』のさわりにちょっと触れてオシマイにする(25頁)。 全体を通してみると、結局、革命フランスの部分だけで「全世界の憲法と近代以降2~400年間の全ての憲法の話をした」ことにしている。 レトリックというより、低級な詐言としか形容できない。 「立憲主義」に話を戻せば、ここまで真っ赤な嘘を吐ける人間がこの世にいるのかと、ただ驚愕するしかない。 例えば、樋口は次のように、出鱈目も度が過ぎた虚偽定義をするからである。 「近代立憲主義は、人権主体としての個人の尊厳という究極的価値を前提にして、権利保障と権力分立をその内容とする」(22頁) 「立憲主義」は、統治機構内の如何なる権力も憲法に従って制限されるという、1788年の米国憲法を嚆矢とするアメリカ的な憲法原理である。 が、決してこれには触れない。 また、マディソンらの「建国の父たち」が起草した米国憲法には「人権」は匂いすらなく、「個人の尊厳」もない。 当然、「権利の保障」とも無関係である。 いったい、「人権主体としての個人の尊厳」と「立憲主義」とがどう関係すると言うのだろう。 まるで、「フランスのケーキは我が日本国の伝統文化の象徴である」などと同じ言辞であり、酔っ払いでもこれほどの酔言は吐かない。 そして、米国憲法から100年も後の、しかも米国でない、19世紀ドイツの「立憲主義」などのマイナーな話にすり替えていく(22~3頁)。 次のような、もう一つの虚偽定義も全く意味不明である。 なぜなら、「立憲主義」は、「国民主権」や「絶対君主」を排撃するものであるが、単なる「個人」を対象としないからである。 樋口の「強い個人」の意味ははっきりしないけれど、それが“個々(アトム)主義”の「個人」を指すのであれば、ルソーの『人間不平等起源論』から生まれた「平等」と表裏一体をなす概念である。 つまり、樋口はフランス啓蒙思想をもって、水と油の関係にあるコーク系列の「立憲主義」とが混じり合えるという、マジック・ショー的にこの一文を書いている。 「近代立憲主義を想定する個人は、ひとことでいえば、強い個人である」(33頁) 樋口陽一の「憲法学」は“憲法学”ではない。 「法の支配」など、自由を擁護する憲法原理を完全に無視するか、歪曲している。 ひたすらフランス革命を日本に起こすことのみに執念を燃やす扇動のパンフレットになっている。 アジビラである。 附記読売憲法試案(2004年5月3日)は、樋口陽一や辻村みよ子の直系の、大量虐殺者ロベスピエールと同じイデオロギーというか、共産革命のロジックというか、それが冒頭に展開されている。「日本国憲法は、日本国の主権者であり、……」が、前文の最初に書かれているからである。その意は、日本人は「一億二千六百万分の一の絶対君主」になったとでも言いたいのだろうか。しかも、一般に日本人のほぼすべては被治者であるからこの主権者に絶対的な服従を強いられる「一人の奴隷」になったとの宣言である。そればかりか、わざわざ「第一章 国民主権」を新しく設け、それを現第一章「天皇」の直前にもってきている。天皇は、「主権者」たる国民の下にある、と言いたいのである。あのルイ16世の処刑の直前の血塗られた革命フランスを模倣している。読売憲法試案より、現GHQ憲法の方が日本国にとって何十倍もましである。
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歴史主義・伝統主義 (英米法) 反歴史主義・リセット主義 (大陸法) 権利の本質 人間は長い歴史を通じて、社会の中で試行錯誤を繰り返しながら、社会的叡智の結晶として歴史的権利を「慣習」という形で個別に見出してきた、とする立場 人間は自然状態において、生来的に自然権(natural right)を有していたが、社会契約(social contract)を結んで自然権を一部または全部放棄し、人定法(実定法:positive law)を定めた、とする立場 法の本質 法は特定の共同体の中で人々の社会的ルールとして自生した(特定の人物の意思によらずに時間をかけて次第に生成されてきた)(法=社会的ルール説)(★注3)⇒この立場は、真の法=ノモス(個別の共同体毎に自生的に発展してきた人為的ではあるが特定の意思によらざる法)とする見解と親和的である。 法はそれを作成した主権者の意思であり命令である(法=主権者意思[命令]説)(★注1、★注2)⇒この立場には、①真の法=理性から演繹された自然法(フュシス)とする近代的自然法論、および、②真の法など存在せず主権者の意思・命令としての人為法があるのみとする純然たる法実証主義、の2通りの見解がある。 誰が法を作るのか 法は幾世代にも渡る無数の人々の叡智が積み重ねられて自生的に発展したもの(経験主義、批判的合理主義)⇒「法は“発見”するもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を否認(特定時点の世代の人々が制定できるのは原則として「憲法典(形式憲法)」迄であって、「国制(実質憲法)」は世代を重ねて徐々に確立されていくものに過ぎない) 法は主権者の委任を受けた立法者(エリート)が合理的に設計するもの(設計主義的合理主義)⇒「法は“主権者”が作るもの」⇒制憲権(憲法制定権力)を肯定(特定時点の世代の人々は「憲法典(形式憲法)」のみならず「国制(実質憲法)」をも意図的に確立することが可能である) 補足 共同体毎に個別的→共同体に固有の「国民の権利」と「一般的自由」の二元論と親和的価値多元的・相対主義的、帰納的、保守主義・自由主義・非形而上学的な分析哲学と親和的法の支配ないし立憲主義と順接 全人類に普遍的→共同体や歴史的経緯を超える普遍的な人権イデオロギーと親和的絶対主義的(但し価値一元的な傾向と価値相対主義的な傾向との両面がある)演繹的、急進主義・全体主義・形而上学的な観念論哲学と親和的国民主権や法治主義と順接 実例 英国の不文憲法が典型例。またアメリカ憲法は意外にも独立宣言にあった社会契約説的な色彩を極力消した形で制定され歴史主義の立場に基づいて運用されてきた。大日本帝国憲法(明治憲法)も日本の歴史的伝統を重んじる形で当時としては最大限に熟慮を重ねて制定された フランスの数々の憲法、ドイツのワイマール憲法が典型例。日本国憲法は前文で「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」とロックの社会契約説的な制定理由を明記しており、残念ながら形式上この範疇に入る(GHQ草案翻訳憲法)※但し“解釈”により日本の歴史・伝統を過剰に毀損しない慎重な運用が為されてきた 主な提唱者 コーク、ブラックストーン、バーク、ハミルトンなお第二次大戦後の代表的論者は、ハイエク、ハート ホッブズ、ロック、ルソーなお第二次大戦後の代表的論者は、ロールズ、ノージック (★注1)「法=主権者意思[命令]説」は、主権者を誰と見なすかによって以下に分類される。 ① 君主主権 君主一人が主権者。(1)社会契約説以前の王権神授説や、(2)ホッブズの社会契約説が代表例。 ② 人民主権 君主以外の人民 people が主権者であり人民は各々主権を分有し人民自らがそれを行使する(=プープル主権説)。ルソーの社会契約説が代表例。 ③ 国民主権 君主を含めて国民全員が主権者(但し左翼の多い日本の憲法学者には「君主は国民に含めない」として、実質的に人民主権と同一とする者が多い)。なお国民主権の具体的意味については、(1)最高機関意思説と、(2)制憲権(憲法制定権力)説が対立しており、さらに(2)は、 1 ナシオン主権説と 2 プープル主権説に分かれる(プープル主権説は実質的に②人民主権説)。一般的に国民主権という場合は、 1 ナシオン主権説(観念的統一体としての国民が制憲権を保有するとする説)を指す。 ④ 議会主権 英国の憲法学者A.V.ダイシーの用語で、正確には「議会における国王/女王(the king/queen in parliament)」を主権者とする。君主主権や国民主権の語を避けるために考え出された理論 ⑤ 国家主権 帝政時代のドイツで、君主を含む「国家」が主権者であるとして君主主権や国民主権の語を避けた理論。戦前の日本の美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説もこの説の一種である ⇒教科書は、戦後の日本は「国民主権」だが、戦前の日本は「君主主権」の絶対主義国家だった、とする刷り込みを行っている。しかし実の所は、大日本帝国憲法(明治憲法)は制定時において明確に歴史主義の立場を取っており、そもそも「xx主権」という立場(法=主権者命令説)ではなかった。強いて言えば ⑥ “法”主権 つまり「法の支配」・・・歴史的に形成された統治に関する慣習法(=国体法 constitutional law)及びそれを可能な範囲で実定化した憲法典(constitutional code)が天皇をも含めた国家の全構成員を拘束するという立場だった。 ⇒なお、大正デモクラシー期には、ドイツ法学の「⑤国家主権説」を直輸入した美濃部達吉の「天皇機関説」が通説となり、それがさらに天皇機関説事件によっていわゆる①君主主権説に転換したのは昭和10年(1935年)以降の僅か10年間である。 (★注2)「法=主権者意思[命令]説」は、法を特定の立法者/思想家の価値観(例:カントやヘーゲルのドイツ観念論的法思想や自然法論・人権論)あるいは政治イデオロギー(例:マルクス主義やナチス期ドイツ思想)に還元してしまう危険が高く、全体主義への接近を許してしまう。 ※以下、「法=主権者意思[命令]説」の法体系モデル。 ※図が見づらい場合⇒ こちら を参照 ※①宮澤俊義(ケルゼン主義者)・②芦部信喜(修正自然法論者)に代表される戦後日本の左翼的憲法学は「実定法を根拠づける“根本規範”あるいは“自然法”」を仮設ないし想定するところからその理論の総てが始まるが、そのようなア・プリオリ(先験的)な前提から始まる論説は、20世紀後半以降に英米圏で主流となった分析哲学(形而上学的な特定観念の刷り込みに終始するのではなく緻密な概念分析を重視する哲学潮流)を反映した法理学/法哲学(基礎法学)分野では、とっくの昔に排撃されており、日本でも“自然法”を想定する法理学者/法哲学者は最早、笹倉秀夫(丸山眞男門下)など一部の化石化した確信犯的な左翼しか残っていない。このように基礎法学(理論法学)分野でほぼ一掃された論説を、応用法学(実定法学)分野である憲法学で未だに前提として理論を展開し続けるのはナンセンスであるばかりか知的誠実さを疑われても仕方がない行いであり、日本の憲法学の早急な正常化が待たれる。(※なお、近年の左翼憲法論をリードし「護憲派最終防御ライン」と呼ばれている長谷部恭男は、芦部門下であるが、ハートの法概念論を正当と認めて、芦部説にある自然法・根本規範・制憲権といった超越的概念を明確に否定するに至っている。) (★注3)「法=社会的ルール説」は20世紀初頭に英米圏で発展した分析哲学の成果を受けて、1960年以降にイギリスの法理学者H. L. A. ハートによって提唱され、現在では英米圏の法理論の圧倒的なパラダイムとなっている法の捉え方である。 ※以下、「法=社会的ルール説」の法体系モデル。また阪本昌成『憲法理論Ⅰ』第二章 国制と法の理論も参照。 ※サイズが画面に合わない場合は こちら 及び こちら をクリック願います。 ※上記のように、ハートの法=社会的ルール説は、現実の法現象について詳細で明晰な分析モデルを提供しており、特定の価値観・政治的イデオロギーに基づく概念ピラミッドに過ぎない法=主権者意思[命令]説の法体系モデルを、その説得力において大幅に凌駕している。 ※なお、自由を巡る西洋思想の二つの潮流について詳しくは ⇒ 国家解体思想の正体 参照 ※(補足説明)ハートの法=社会的ルール説のいう「ルール(rule)」という用語は、図にあるように、①事実(外的視点からの捉え方)と②規範(内的視点からの捉え方)の二重構造(=観測者から見れば①事実(社会的事実)だが、法共同体の構成員から見れば②規範だ、という③第3のカテゴリー)になっている、という独特の意味で使用されており、①事実と②規範を峻別する方法二元論(ケルゼンら新カント学派の方法論)と大きく異なっている点に注意(→こうした①事実でもあり②規範でもある③第3のカテゴリーの導入によって、ハート理論は「単なる①事実(=認識)から、なぜ②規範(=価値判断)が生まれるのか」という難問のクリアを図っている)。