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2ちゃんねる型掲示板、板もきちんとそろっている。
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法律や憲法は従来の大日本帝国憲法と変わらないが主君は須佐之男之命最後の子孫である梶谷 朝陽を初代とする鷹月宮梶谷氏が勤める。 梶谷氏として鷹月宮梶谷氏は2066年ぐらいにルーマニアで自称した。梶谷 朝陽の代では天皇陛下への忠誠心から須佐之男之命の子孫である身分を隠し、仕えていたが不満を持った梶谷 戦斗が弟である梶谷 新一、梶谷 悟、梶谷 将吾と結託し、自称を開始したのが始まりとされている。後にイスラムを真似て大日本帝国梶谷朝として君臨した。 立憲政友会(梶谷朝)と社会党が合併し、立憲社会党となった。 勇政党と民主党が合併し、勇政民主党となった。 首都は広島都。 ルーマニア🇷🇴 ウクライナ🇺🇦 ブルガリア🇧🇬 セルビア🇷🇸 マケドニア🇲🇰 トルコ🇹🇷 で自称した。 歴史 梶谷 朝陽が第三次世界大戦で2064年に戦死(死去)したが幸いにして彼の製作した本などがあった。これによって多くのルーマニア人少年少女が梶谷 朝陽のルーマニア語に翻訳した本を読んだ。そこで梶谷 戦斗がいつの間にか登場した。彼は梶谷氏物語でルーマニア人だったが孤児で梶谷 朝陽に育てられた経緯を持つ。なのでルーマニア語、日本語、ドイツ語が扱えた。2066年、彼は大日本帝国(梶谷朝)の自称を始める。梶谷 戦斗が弟分である梶谷 新一、梶谷 悟、梶谷 将吾を率いて自称した。いつしか梶谷 朝陽がルーマニアで英雄扱いされ、始めた。ルーマニア王室の残党は彼らによって存在自体を消され、王家の血筋は2066年には残っていない。 大日本帝国との戦い 大日本帝国と大日本帝国(梶谷朝)はガンダムのジオン公国軍、ネオ・ジオン公国軍みたいな争いが始まると終末戦争が開始され、大日本帝国(梶谷朝)と日本は陣営は作らず、互いに戦争していった結果、ルーマニアこと大日本帝国(梶谷朝)が勝利。日本の都市部や過疎地にも核兵器を次々と落としていった結果、日本は跡形も残らない形となり、日本人も次々と国別で死刑されていった為、日本人は全滅した。 日本滅亡後は中国と台湾と韓国が分割して統治した。その後、朝鮮戦争と中華統一戦争もやめていったため、結局、多くの日本人が暗躍している事になった。 混血のルーマニア 日本滅亡後も日本人とルーマニア人の混血化が進み、大日本帝国(梶谷朝)は密かに発展していった。更に混血が進む事によって日本人のDNAを手に入れたルーマニア人は手先が器用でなんでも作れたり、料理ができたりした。また終末戦争時に日本の新幹線を鹵獲したため、かなり鉄道もそれなりに発展していった。
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thumb|大日本帝国海軍[[軍艦旗]] 大日本帝国海軍(だいにっぽんていこくかいぐん)とは、1945年以前に大日本帝国の天皇が統帥していた海軍である。通常は、単に「日本海軍」や「帝国海軍」と呼ばれた。 概要 軍令は軍令部、軍政は海軍省が行い、最高統帥権を有していたのは天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成、軍事予算などの軍事大権については、憲法上内閣から独立し、直接天皇の統帥権に属した。したがって、全軍の最高司令官は大元帥たる天皇ただ一人であり、それを輔弼する最高級指揮官(形式的には参謀)が、海軍では軍令部総長、陸軍では参謀総長である。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職(ポスト)は存在しない。 また、戦時(後に事変を含む)には陸軍と合同で大本営を設置した。主な戦役に日清戦争の黄海海戦や日露戦争時の日本海海戦、太平洋戦争での真珠湾攻撃などがある。海上自衛隊(その前身たる海上警備隊、保安庁警備隊も含めて。)の前身とも言え、海上自衛隊自身も日本海軍の伝統を尊重する傾向がある。 英国を倣った組織であったため、ユーモアを重視し「ユーモアを解せざる者は海軍士官の資格なし」と言われていた。また、様々な国に寄港する海軍士官は外交官的役割を持つことがあるため、専用に冊子を作製しテーブルマナーなども重視していた。ドイツ帝国陸軍を規範とした陸軍と比べ、リベラルな組織であった。中曾根康弘海軍主計中尉(後の中曾根総理)、阿川弘之少尉任官らが語っている。著作でも語っているので参照されたい。 特徴 日本はそもそも四方を海洋に囲まれているため、日本海軍は西太平洋の制海権を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また一方でイギリス海軍に大きな影響を受けていたため、戦闘においては「見敵必戦」と「制海権の確保」を重視して攻勢を良しと考えてきた。このため、本土防衛の戦力よりも海上戦力の増強を優先的に行った。 日本海軍の戦略戦術研究の功労者として佐藤鉄太郎中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり、その基盤を築いた。1907年に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」と延べ、日本の軍事戦略や軍事力建設計画に影響を与えた。 いずれにせよ、帝国海軍は戦術的勝利を納めることを第一義として創建されており、「戦略」という概念は太平洋戦争が終わるまで存在し得なかった。太平洋戦争の第一段作戦終了後、軍令部の某将校が語った「この後どうしたら良いかさっぱり見当がつかなかった」という台詞があるように、海軍のみならず大日本帝国陸海軍に戦略という概念が全く不足していたという事実がある。現に太平洋戦争初頭、戦術的勝利を納めるも戦略的勝利を納めた戦いはほとんど見出せない。 帝国陸軍とは関係が良くなく、しばしば官僚的な縄張り争いによって無用の対立を見た。太平洋戦争においてほとんどの国は陸海軍で共同作戦を行ったが、日本が陸海共同の作戦を行ったのは、ガダルカナル、マリアナ諸島、レイテ沖海戦のみである。つまり、太平洋戦争ではほとんどの作戦において帝国海軍は単独で米陸海軍の2つの軍を相手にしていた。(帝国陸軍は満州に400万の兵力を投じ10年以上にわたって中国軍と泥沼の戦いを繰り広げていた事も要因の一つ。) 陸海軍の予算は均等であるのに人員は海軍のほうがはるかに少なかったために、海軍では伝統的に官給の衣食が富裕であり、この特権を維持することを目的として、日中戦争時に仮想敵国にアメリカ合衆国を加えていたと陸軍側から見られていた(陸軍は伝統的にロシア・ソ連を仮想敵国としていた)。しかし、艦船や航空機等の高額な兵器が必須である海軍の実情を考えれば陸軍に対して贅沢であったとは言えない。むしろ機械化に対して無理解であった陸軍により問題があろう。 太平洋戦争前から海軍においては山本五十六を始めとして航空主兵論があったが、結局海軍内の官僚的硬直性から艦隊決戦主義を見直すことができなかった。また二・二六事件では戦艦長門以下第一艦隊の戦艦群の照準を国会議事堂に合わせて反乱軍を威嚇したり、海軍陸戦隊や車両を投入して反乱軍を鎮圧しようとしたことがあると伝えられるがTemplate 要出典?、迫水久常が、岡田啓介首相救出のため海軍陸戦隊を一時首相官邸に入れるよう、当時の海軍大臣大角岑生に提案したところ、「とんでもない。そんなことをして陸軍との戦争になったらどうする」と却下されたという岡田啓介 『岡田啓介回顧録』 P181、中公文庫、2001年9月25日 --参考文献。 歴史 日本神話における神武天皇の御船出の地(詳しくは神武東征を参照)、宮崎県日向市美々津が日本海軍発祥の地とされており、美々津港には海軍大臣米内光政による「日本海軍発祥の地」碑が現存している宮崎観光写真。 江戸時代の幕藩体制においては鎖国が行われ、諸藩の大船建造は禁止されていたが、各地に外国船が来航して通商を求める事件が頻発するようになると、幕府や諸藩は海防強化を行うようになる。軍艦奉行、長崎海軍伝習所が設置され、開国が行われたのちの1860年には咸臨丸が派遣される。1864年には初の観艦式が行われる。 王政復古により成立した明治政府は、江戸幕府の海軍操練所や海軍伝習所などの機関を継承し、幕府や諸藩の軍艦を整理・編成したのが基礎になる。 1870年に陸海軍が分離され、1872年に海軍省が東京築地に設置される。初期には川村純義と勝海舟が指導する。1876年に海軍兵学校、1893年には軍令部をそれぞれ設置する。明治初期には陸軍に対して海軍が主であったが、西南戦争により政府内で薩摩藩閥が退行すると、陸軍重点主義が取られるようになる。 参謀本部が設立され、海軍大臣の西郷従道や山本権兵衛らが海軍増強を主張し、艦隊の整備や組織改革が行われ、日清戦争時には軍艦31隻に水雷艇24隻、日露戦争時には軍艦76隻水雷艇76隻を保有する規模となる。 日露戦争後は、1920年に海軍増強政策である八八艦隊案を成立させ、アメリカを仮想敵国に建艦競争をはじめる。1922年のワシントン海軍軍縮条約及び1930年のロンドン海軍軍縮条約により主力艦の建艦は一時中断されるが、ロンドン海軍軍縮会議が決裂した後に再開され、太平洋戦争開戦時には艦艇385隻、零戦などの航空機3260機余りを保有する規模であった。第二次世界大戦の敗北に伴って解体される。 また、日露戦争後はアメリカ合衆国、イギリスと並び、世界三大海軍と呼ばれていた。その後、太平洋戦争が勃発し、世界の半分の地域を戦場として連合国海軍と激しい空と海の戦いを繰り広げた末、マリアナ沖海戦で空母機動部隊を失い、残された水上戦闘艦もレイテ沖海戦にてその大半の艦艇を失い、実質的に大日本帝国海軍はここで戦闘不能となる。 終戦後、武装解除に伴い海軍省が第二復員省に改組され、海軍の元艦船・元乗組員も復員事業に従事した海軍では「復員」ではなく「解員」という呼称を使った。。第二復員省は1946年に復員庁第二復員局へ、1948年に厚生省第二復員残務処理部となり、保有艦艇や掃海部隊などは運輸省(海上保安庁)へ、海軍病院は国立病院(現国立病院機構)へ移された。その後復員事業は厚生省外局の引揚援護庁へ統合される。引揚援護庁は1954年閉庁。また1952年の海上警備隊発足に際し、操艦の技術には熟練を要するため、海軍出身者や軍関係者が数多く採用された。そのため、海上自衛隊でも旗をはじめ、軍艦行進曲演奏や東郷平八郎の肖像を飾るなど、伝統が息づいている。 帝国海軍の伝統は、巨大な技術者集団であり合理主義者の集団でもあった。軍艦の操縦や位置天測、大砲や魚雷の発射等には、数学や物理学の知識が必要であり、海軍兵学校の教育においても、理数系の教育に重点が置かれ、合理的・計量的な思考が生徒一人一人に必然的に具わっていた。井上成美は、死の直前まで代数学の問題集を手放さなかったと言われている。 組織 天皇 海軍大臣 連合艦隊 海上護衛総司令部 海軍航空本部 軍部高官 歴代の海軍大臣については「海軍省」の項を参照のこと。 歴代の海軍軍令部長、参謀本部次官、参謀本部海軍部長、海軍参謀部長、海軍軍令部長、軍令部総長については、「軍令部」の項を参照のこと。 歴代の聯合艦隊司令長官については「連合艦隊」及び「連合艦隊司令長官」の項を参照のこと。 海軍軍人については日本の海軍軍人の項を参照のこと。 脚注 参考文献 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』(朝雲新聞社・昭和50年6月) 野村実監修・太平洋戦争研究会著『図説日本海軍』(河出書房新社・1997年11月) ISBN 4309725708 半藤一利『日本海軍の興亡』』(PHP研究所PHP文庫・1999年1月) ISBN 4569572308 太平洋戦争研究会『日本海軍がよくわかる事典』(PHP研究所PHP文庫・2002年7月) ISBN 456957763 野村実『日本海軍の歴史』(吉川弘文館・2002年8月) ISBN 4642037454 坂本正器・福川秀樹『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版・2003年7月) ISBN 4829503300 関連項目 大日本帝国海軍艦艇一覧 大日本帝国海軍艦艇要目解説 大日本帝国海軍兵装一覧 大日本帝国海軍軍人一覧 大日本帝国海軍航空隊一覧 海軍予備員 軍服 (大日本帝国海軍) 大日本帝国海軍の旗章 5分前精神 出船精神 ようそろ 五省 総員起こし 後発航期 海軍カレー 肉じゃが ラムネ (清涼飲料) シーメンス事件 外部リンク Template Commonscat? Nihon Kaigun 日本海軍組織概論 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月22日 (木) 16 47。
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大日本帝国の会とは 大日本帝国の会とは2020年6月18日にうかぁ氏が設立したオープンチャットである! これを書いていた時の人数は70名くらいの賑やかなオープンチャットです。 今はみぎがわが運営していて、過疎と過密を繰り返しています( 副官一覧 副官 ↓ bot複数名 大日本帝国愛国総会会長氏 ボーラー(イギリスの会管理人)氏 Unknown is BOB氏 瑞鶴の荒鷲氏 友好・同盟オプ 友好オプ スズメバチの会 大日本帝国 シベリア共和国 新ソビエト社会主義共和国連邦 サントメ・プリンシペの会 同盟オプ オープンチャット共和国 中華連邦 キューバの会 共同体 国際連合 日本連盟(一応) 世界経済平和連合 気が向いたら来てな✋ オープンチャット「大日本帝国の会」 https //line.me/ti/g2/yN70KIXgu8bwCrOVhj5-XzShPNMCeKz7UUoXeQ?utm_source=invitation utm_medium=link_copy utm_campaign=default
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[DNT]大日本帝国ONLINE.TEAM ↑移転しました。。
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セミにちゃんねる【セミ2ちゃんねる】[名詞] 2ちゃんねらーがいつの間にか大量に掲示板などのCGIページに巣食い、それに便乗した2ちゃんねらーでないはずの訪問者まで2ちゃんねらーもどきと化す事例が多発し、あるいは管理人が2ちゃんねらーだったために掲示板が2ちゃんねる並みの無法地帯と化したWebページのこと。また、その症状。 正式名称は2ch化症候群。 この症状に冒されたページは2ちゃんねる語で掲示板があふれ返る、時折アスキーアート(巨大な顔文字等)を無意味に大量に投稿するアスキーアート荒らしが出没する、少しでも自分達と意見の違う人間を相手の個人情報をばらしてまで攻撃するなどの症状が見られる。 こうなると、ほとんど本家2ちゃんねると同じ荒らし養成サイト的機能と排他性を持つようになってしまうため、場合によっては危険を感じた訪問者が身を引くことによりアクセス数が減少する可能性がある。 最悪の場合は管理人自体が攻撃対象になる恐れもある。 これからWebページを作成する人は最大限の警戒が必要な症状。 「俺んとこのHPがなんだか-になっちゃったよ」 「あのHPって最近-になってないか?」
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国家と国民の関係性と「憲法」 「国家」と「国民」の関係を考えてみよう。 国家は、権限(権力)をもって、国民をコントロールしている。 国民は、国家に対していろいろな権利(基本的人権など)をもっている。 国民は国家にコントロールされるだけでなく、国家にいろんなことをする権利を「約束」しなければならない。 国民から国家に「権利をもつ」ことを約束させているとも言える。 この「約束」が「憲法」である。 国民から国家への矢印が「憲法」、国家から国民への矢印は「法律」。 憲法は、他の法律と違って特殊なのである。 法令について 「法令」は、「法律」「命令」「条例」に分かれる。 「法律」は「憲法」「法律」(狭義)に分かれ、「法律」は「基本法」(憲法に次ぐステータス)と「一般法」に分かれる。 「命令」は「政令」(内閣が出す命令)と「省令」(省が出す命令)に分かれる。 「条例」は地方自治体が制定したものである。 法律と命令の違いについては以下の通り。 法律=法律を出すには、国会を通す必要がある。改正するのも大変。 命令=法律に書き込めないような細かいルールが書いてある。国会で審議しなくても出せるので変更しやすい。法律の範囲内で書かれている。(法律に矛盾するようなことは書かれていない。) 六法について 数えきれないほど沢山ある法律の中で、重要な6種類の法律があり、それを「六法」と言う。 六法=憲法、民法、民事訴訟法、刑法、刑事訴訟法、商法。 民法→プライベートな行為について。 民事訴訟法→民法に関する裁判のやり方について。 刑法→反社会的な行為について。 刑事訴訟法→逮捕、家宅操作、警察の取り調べについて。 憲法制定の必要性 日本に憲法が初めてできたのは、1889年(明治22年)2月11日。 明治政府が始まってから22年間、憲法はなかった。 →国民と国家の間の決まりがなかった。封建社会と一緒。 明治政府にとって、憲法制定の必要性はどこにあったのだろうか。3つある。 必要性①「資本主義制度を確立するため」 必要性②「国際的独立をする必要があったから」 必要性③「国会開設を求める国民の世論に対応するため」 大日本帝国憲法の制定過程 大日本帝国憲法の「告文」 大日本帝国憲法の「憲法発布勅語」 大日本帝国憲法の「第1章」 大日本帝国憲法の基本的性格 大日本帝国憲法に基づく国家の統治の仕組み ①天皇主権 ②皇室自律主義 ③弱い衆議院 ④統帥権独立 大日本帝国憲法に基づく政治
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うさちゃんねるに書き込む前に 言っておきたい事がある かなりきびしい話もするが 俺の本音を聴いておけ 俺より先にスレを立ててはいけない 俺より後に立ててもいけない スレはうまく立てれ いつもキチガイでいろ 出来る範囲で構わないから 忘れてくれるな糞スレ立てもできないやつに うさちゃんねるを守れるはずなどないってことを お前にはお前にしか 出来ない事もあるから それ以外は口出しせず 黙ってうさちゃんねるに書き込んでこい
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15ちゃんねる履歴 4/1 15ちゃんねる運営開始! 4/26 15ちゃんねるwiki開始 8/17 0ch最新版に以降
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おんぷちゃんねる (Onpu Channel) は、画像・動画・音声ファイルのアップロードに特化した鉄道趣味系掲示板。略称は「おんぷ」「♪ch」「♪」など。 概要 2001年に開設された「おんぷちゃんねる」は鉄道・おジャ魔女どれみ(アニメ)・かちゅ~しゃ(2ちゃんねる専用ブラウザ)の3本柱によって運営されていたが、2002年に起きた管理運営上のトラブルにより、紆余曲折の末、おジャ魔女どれみ系の「どれみちゃんねる」、かちゅ~しゃ系の「新・かちゅ~しゃ板」、鉄道系の「TetsuBBS」の3つに分割。その後「TetsuBBS」は「新おんぷちゃんねる」を経て「おんぷちゃんねる」の名称が復活した。 2007年12月末、創設以来の管理者[1]が「利用者との深刻な対立および鬱病」のために正式に辞任し、画像系掲示板の管理権限を現管理者に移譲した。現管理者は画像系掲示板のサーバーの所有者で維持管理を行っており、前管理者辞任の半年ほど前から実質的に掲示板を管理していた。また、前管理者の直接管理下にあった画像系掲示板以外のコンテンツは2008年3月末をもって閉鎖された。 現管理者の管理下となってからは、71項目にも及ぶ投稿規程等を細かく記載した「ルールブック」を全廃し、大幅に簡略化された投稿規程を新たに定めた。これにより管理方針が大幅に変更された。また、掲示板の背景色も変更され、同一スレッドに複数の画像を投稿することが可能になった。 掲示板一覧 鉄道画像系掲示板 鉄道画像掲示板(ageタイプ/sageタイプ) 鉄道動画掲示板(ageタイプ/sageタイプ) 鉄道の音掲示板(ageタイプ/sageタイプ) 鉄道掲示板(ageタイプ/sageタイプ) 年表 2001年7月11日 - 「かちゅ~しゃ板」が開設される[2]。 2001年8月 - 8月 危機(2ちゃんねる閉鎖騒動)の避難先として「仮鉄道板」、避難先ではない独立板として「どれみ板」が開設される。 2001年秋 - 8月 危機終息に伴い「仮鉄道板」を「鉄道板」と改称、同時に「鉄道画像板」を新設、サイトの統一名称を「おんぷちゃんねる」とする。 2002年10月 - 「おんぷちゃんねる」とは別に鉄道専門掲示板サイト「中山道本線」が開設される。 2003年頃 - 紆余曲折を経ておジャ魔女どれみ系は「どれみちゃんねる」、かちゅ~しゃ板は「新・かちゅ~しゃ板」、鉄道系は「中山道本線」と統合して「TetsuBBS」の3つに分割される。この時点で「おんぷちゃんねる」という名称は一旦消滅。 2004年5月1日 - 「TetsuBBS」のドメイン名をonpuch.co.ukに変更、同時にサイト名を「新おんぷちゃんねる」と改称。 2006年7月11日 - サイト名を「おんぷちゃんねる」と改称、旧称が復活する。同時に「鉄道萌えお絵かき板」が新設される。 2007年12月22日 - 創設以来の管理者が12月末をもって辞任、画像掲示板における管理権限を現管理者へ移譲することを発表。 2008年1月1日 - 現管理者が画像系掲示板の管理者に就任。 2008年4月1日 - 前管理者の直接管理下にあった全てのコンテンツを閉鎖。鉄道画像系掲示板が唯一のコンテンツとなる。 2009年12月22日 - ドメインをrail-uploader.khz-net.comに変更。 2011年7月11日 - 開設10周年を迎える。 2018年3月31日 - 閉鎖。 掲示板の傾向 「サンパチくん」こと113系3800番台 鉄道画像系掲示板はスクリプトを呼び出す際の引数によって、静止画像のみの「鉄道画像掲示板」、動画のみの「鉄道動画掲示板」、音声のみの「鉄道の音掲示板」、およびすべてを一覧できる「鉄道掲示板」に分けられている。いわゆるスレッドタイプの掲示板であり、画像等を見た者がさらにコメント(レス)をつけてゆくことができる。従来はコメント投稿の際に画像や動画、音声等のデータを添付することはできなかったが、2008年6月からレス投稿にも画像などを添付できるようになっている。 投稿される画像・動画等は、鉄道車両や駅舎を撮った画像から鉄道設備、乗車券や駅弁の画像、ウソ電など多岐に亘る。掲示板の傾向として、鉄道系の話題から鉄道以外の話題に外れる、または鉄道会社の施策やサービスから単なる批判合戦と化すことがよく見られる[3]。これに関して管理者は「sage進行の推奨」を掲げているがあまり守られておらず、投稿者の意図に関わらずスレッドごと削除されてしまうことが多い。 また、掲示板の特徴ある現象としては「日付支援」がある。たとえば2月1日なら201系、というように日付にこじつけた車両の画像が多数投稿される現象である。こちらもまたマンネリであるということに加え、必ずしも良質とは言えない画像が「支援」の名の下に多数投稿されること[4]に対しての批判もたびたび起こるが、おんぷちゃんねるは創設当時より必ずしも良質とは言えない画像の投稿にも寛大であり[5]、現管理者の「掲示板なんて投稿が有ってナンボ」という運営方針もあって、その批判は受け入れられていない。2008年6月のスクリプト変更により、支援画像が同一スレッドにまとまることが多くなっている。 脚注 [1]ただし、途中に管理者から退いていた期間がある。 [2]かつて「おんぷちゃんねる公式の誕生日」とされていたが、現在のおんぷちゃんねるでは誕生日に関する言及がない。 [3]更に言うと、批判される鉄道会社や批判の対象になるものも定型化しており、何度も同じ話題で論争が繰り返されることもある。 [4]人気のある形式が支援対象となると「失敗作ですが~」「ピンボケですが~」という投稿者コメントがつくことが多い。 [5]一部の利用者は、あくまでも良質な画像のみを載せるよう長年に渡って主張しており、前管理者と深刻な対立を引き起こしていた。