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大日本帝國 国旗 準国章 菊花紋章 標語 (なし) 公用語 日本語(事実上の公用語)朝鮮語、台湾語なども使われていた。 首都 東京 面積 675千km sup 2 /sup (昭和初期の領土) 人口 9770万人 (昭和10年国勢調査での領土内の人口) 政府 1889年以前は絶対君主制、1889年以降は立憲君主制。1930年代以降は軍国主義の傾向。 国家元首 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 内閣総理大臣 内閣総理大臣の一覧を参照 通貨 円 国歌 君が代 大日本帝国(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく、旧字体 大日本帝國)は、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布時から1947年(昭和22年)日本国憲法施行時までの約58年間、天皇が統治する日本が使用していた国号のひとつ。1868年(明治元年)の明治維新から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の終戦時までの日本そのものを指す事も多い。最盛時には現在の日本国の領土に加え、南樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾などを領有していた他、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領や租借地を保有した。 以下は大日本帝国憲法下の国家について記述する。 国名 経緯 明治天皇は1868年1月3日(慶応3年12月9日)、岩倉具視や大久保利通らの画策の元で王政復古を宣言。1889年(明治22年)2月11日には大日本帝国憲法(帝国憲法)が発布され、1890年(明治23年)11月29日、この憲法が施行されるにあたり大日本帝國という国名を称した。初め伊藤博文が明治天皇に提出した憲法案では日本帝國であったが、憲法案を審議する枢密院会議の席上、寺島宗則副議長が、皇室典範案に大日本とあるので文体を統一するために憲法も大日本に改めることを提案。これに対して憲法起草者の井上毅書記官長は、国名に大の字を冠するのは自ら尊大にするきらいがあり、内外に発表する憲法に大の字を書くべきでないとして反対した。結局、枢密院議長であった伊藤博文の裁定により大日本帝國に決められた枢密院会議筆記明治21年(1888年)6月18日午後。。 帝国憲法の半公式の英訳(伊東巳代治訳)では「the Empire of Japan」 と訳され、「大」の意味合いはなかった。当時は国名へのこだわりがなく、帝国憲法と同時に制定された皇室典範では日本帝國、大日本國と表記し、外交文書では日本、日本國とも称したし、国内向けの公文書でも同様であった。その後、世界情勢の悪化などにより国名への面子に対する拘りが表面化した1936年(昭和11年)、外務省は外交文書上「大日本帝國」に統一した。国号参照。 第二次世界大戦後、日本政府が1946年2月8日に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) に提出した憲法改正要綱では、国名を「大日本帝國」のままにしていたが、2月13日、GHQ/SCAPのホイットニーにより、憲法改正要綱の不受理通知とGHQ/SCAP草案が吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣らに手交され、その草案の仮訳からは国名が日本國となり、1947年(昭和22年)5月3日日本国憲法施行により憲法上は日本國の名称が用いられることとなった。 通称 通称では帝国と呼び、また皇国とも称した。日本海海戦での「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ」が有名。もちろん日本や日本国とも称された。 現在「帝国」の文字が公的機関に記されているのは東京都千代田区に所在する日本水準原点標庫のみである。民間では帝国データバンク、帝国劇場(通称「帝劇」)、帝国ホテル、帝国書院、帝国制帽、帝国石油のように、「帝国」を使用しているものもある。 2004年に東京地下鉄(東京メトロ)が運営を引き継いだかつての営団地下鉄も、運営者の正式名称は帝国の首都を意味する「帝都」を冠した帝都高速度交通営団であった。京王電鉄も同様に、社名変更前は「京王帝都電鉄」(京王電鉄と帝都電鉄が合併した名称)と「帝都」を冠し、警備会社ではテイケイが「帝国警備保障」を、帝人が「帝国人造絹糸」と「帝国」を冠していた。 国土 大日本帝国の国土は、完全な領有権を有する領土のほか、領土に準じる区域として、他国から借り受けた租借地、国際連盟に統治を委任された委任統治区域があった。このほか、行政権及び自国民への裁判権を有する一部統治区域があった。 首都 憲法や法令に首都の規定はないが、大正12年9月12日詔書で「東京ハ帝国ノ首都」とされている。東京は大日本帝国の首都として帝都と称され、宮城(きゅうじょう、皇居)が所在し、内閣、各省、枢密院、大審院が位置し、帝国議会が開かれ、戦時には大本営が置かれた。 東京以外の首都機能としては、天皇の所在を示す高御座が京都御所に安置され、即位の礼や大嘗祭が行われていたことから、京都市がその一部を担っていたといえる。また広島は、日清戦争中に天皇の行在所や大本営が置かれ、帝国議会が開かれたので、臨時の首都を務めたとも言える。なお、大東亜戦争で本土決戦になる場合は天皇と大本営を長野県松代町の地下壕に移す予定であったが、本土決戦が行われることなく終戦したため実現しなかった。 領土 領土は完全な領有権を有する区域であり、内地、樺太(後に内地に編入)、台湾、朝鮮からなる。このほか一時遼東半島を領土としたことがあった。各領土の来歴は下記のとおり。領土面積は最大675千km2。各領土の概要は下記のとおり。 内地 日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。 本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。 北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。 沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。 千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。 小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。 このほか以下の島々を内地に編入した。 北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。 硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。 南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。 魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。 沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。 竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。 中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。 沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。 樺太 日持上人が訪れるなど、古くは鎌倉時代から日本との関わりがあり、江戸時代は松前藩の陣屋やアイヌなどとの交易場所なども設けられていたが、樺太島仮規則などの不平等条約でロシアとの雑居地とされた後、1875年、千島樺太交換条約によりロシアに譲渡。1905年、日露戦争(樺太作戦)で占領し、同年のポーツマス条約(日露講和条約、明治38年勅令号外)により北緯50度以南を割譲させ回復。1943年内地に編入した(昭和18年法律第85号)。樺太庁を参照。 台湾 台湾本島と澎湖島を日清戦争で占領し、1895年、下関条約(日清講和条約、明治28年勅令号外)により、清国に割譲させて獲得。1938年、新南群島を台湾高雄市に編入した(昭和14年台湾総督府令第31号、台湾総督府告示第122号)。日本統治時代 (台湾)の項を参照。 遼東半島(奉天半島) 日清戦争で占領し、1895年、下関条約により清国に割譲させて獲得したが、三国干渉を受けて、同年中の奉天半島還付ニ関スル条約(明治28年勅令号外)により返還した。この間、ごく短期ではあるが、領土であった。 朝鮮 1910年、韓国併合ニ関スル条約(明治43年条約第3号)により領土に加え、(明治43年勅令第318号)により朝鮮に改称した。日本統治時代の朝鮮の項を参照。 租借地 租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借した。 関東州 遼東半島先端の大連・旅順近辺。ロシアの租借地だったが、日露戦争で占領。1905年、ポーツマス条約により清国の承諾を条件に租借権を譲り受け、日清間満洲ニ関スル条約(明治39年勅令号外)により清国の承諾を得て租借した。租借期限は1923年までだったが、1915年、南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約(大正4年条約第3号)により1997年まで延長(ポツダム宣言受諾により1945年に失効)。 膠州 山東半島南岸の青島近辺。ドイツの租借地だったが、第一次世界大戦で占領。1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により租借地とするが、2年後の(大正11年条約第3号)により中華民国に返還。 委任統治区域 南洋群島 西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領であったが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域とした。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行う。 一部統治区域 南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) 南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなる。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得した。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃した(昭和12年条約第15号)。 租界 専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設した。また、上海の共同租界に参加していた。北京には正式な租界ではないが、事実上の共同租界として機能した公使館区域があった。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限があったが設置しなかった。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有した。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃した(昭和18年条約第1号、同第2号)。 住民 大日本帝国の国籍を有する者を日本人又は帝国臣民といった。帝国憲法では日本臣民と呼ぶ。国籍の要件は国籍法(明治32年法律第66号)で規定された。下のいずれに属するかによって法制度上異なる取り扱いを受けることがあった。 国民 内地人 内地人とは戸籍法(明治31年法律第12号)の適用を受ける国民である。現在の日本国民にほぼ相当する。内地人には華族、士族、平民の別があり、華族は貴族院議員たる資格を有するなど特殊な地位にあったが、士族と平民の間に差異はなく、法的にも1914年(大正3年)に族籍記載が撤廃された。1947年の戸籍法改正により、これらの別は完全に消滅した。 樺太人 樺太人は樺太の在来住民であり、樺太ニ施行スヘキ法令ニ関スル件(明治40年法律第25号)などの法令では土人と呼ばれた。また樺太土人ともいう。樺太人は日本国籍を有しなかったという説(百瀬後掲書)もあるが、当時の憲法学書では日本国籍を有するものとしていた(美濃部後掲書)。樺太人のうち8割近くが樺太アイヌであり、他にニヴフ、ウィルタ(当時の通称はオロッコ族)などがいた。1932年、樺太アイヌが内地人になり(昭和7年勅令第373号)、他は1943年の樺太の内地編入(昭和18年法律第85号)の際に内地人になった。 台湾人 台湾人は台湾の在来住民である。本島人ともいう。1895年台湾割譲の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。本島人のうち9割が漢族、1割が高砂族である。行政上は日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失したものとして扱われたが、判例上は日本国と中華民国との間の平和条約の発効により日本国籍を喪失したとされている。 朝鮮人 朝鮮人は朝鮮の在来住民である。1910年の韓国併合の際に日本国民になった。戸籍法の適用を受けず、民籍という籍を有した。朝鮮人のうち旧大韓帝国の皇族は王公族、一部の両班や韓国併合に功績のあった者は朝鮮貴族に封じられた。これらの人々は1952年、日本国との平和条約の発効により日本国籍を喪失した。 国民以外 正式な領土とされなかった統治区域の在来住民は、日本国籍が与えられず、国民として扱われなかった。 国際連盟からの委任統治区域であった南洋群島の在来住民を島民といった。島民は国籍がなかった。島民の大部分はカナカ族であり、他にチャモロ族がいた。 租借地である関東州や満鉄附属地の在来住民は当初清国籍、後に中華民国籍を経て、1932年に満州国が建国されたあとは満洲国籍とみなされたただし満州国には国籍法が存在しなかったため、法的な「満州国民」は存在しなかった。満州国を参照のこと。。租界の在来住民は清国籍・中華民国籍とみなされた。これらの大部分は漢族である。 統治機構 大日本帝国は1890年帝国憲法施行に伴い立憲君主国家に移行した。帝国憲法上は国家元首である天皇が統治権全体を掌握する建前であったが(憲法第4条)、実質上は国家の各機関が権限を分掌していた。これは「統治構造の割拠性」といわれる(辻清明)。 内閣と宮中 統治権に関する天皇の権限は国務大臣の輔弼(補佐)に基づいて行使された(憲法第55条)。内閣は国務大臣で組織され(内閣官制第1条)、帝国憲法上天皇大権とされた権限は原則として内閣の決定に基づいて行われた。 内閣総理大臣は国務大臣の首班であり、重要決定事項を天皇に報告し、その了解に基づいて行政を統制した(内閣官制第2条)。内閣総理大臣の選任方法については、明文の規定はなく、元老(のち重臣)とよばれる有力者たちが内閣総理大臣を選んだ。 天皇の実際の役割は、内閣の決定に従ってこれに形式的な裁可を与えて国家意思を確定することであった。ただし、天皇は単なる傀儡ではなく、当時のイギリス国王など他の立憲君主と同様、政治上の決定に関与していた(伊藤之雄)。天皇の側近には、侍従長や内大臣などがおり、特に内大臣は昭和期に天皇の政治秘書として活動した。その他、皇室の事務については宮内大臣が輔弼した。なお、内大臣と宮内大臣は国務大臣ではなく内閣に関与しない。 帝国議会と枢密院 立法権は、天皇が帝国議会の協賛(同意)に基づいて行った(憲法第5条)。帝国議会は貴族院・衆議院の二院制であり、貴族院は皇族華族と勅任議員(元官僚など)で組織され、衆議院は公選された議員から組織された(憲法第33 - 35条)。 帝国議会は法律の制定について協賛(同意)する権限を持った(憲法第37条)。国民の権利・義務に関わる事項は原則として法律によらなければ(すなわち帝国議会の同意がなければ)侵害されなかった(憲法第2章)。また、帝国議会は毎年の予算に対しても協賛権を持った(憲法第64条)。予算が不成立の場合は前年度の予算が施行されるが(憲法第71条)、前年度予算では行政が成り立たないため、帝国議会の予算審議が内閣の死命を制することとなり、これにより政党内閣への道が開かれた。ただし、他の立憲諸国と比較すれば、以下の点で議会の権限は弱かった。 政府は法律の定めのない事項につき独立命令により法規を定める権限を有した(憲法第9条)。 国際条約の締結に関して帝国議会の協賛は不要であった(憲法第12条)。 教育関係の規定は、国民の権利義務に関わる事項であっても、法律ではなく勅令で定められる慣習があり、帝国議会の協賛は不要であった。 皇室典範改正については帝国議会の協賛は不要であった(憲法第74条)。 憲法改正については帝国議会に発案権がなかった(憲法第73条)。 もっとも、これらの事項に関しても政府が自由に裁量できるものではなく、帝国議会の代わりに枢密院の審議を経る必要があった。枢密院は天皇の諮詢(相談)を受けて重要な国務を審議する機関にすぎないが(憲法第56条)、これらの事項に関して事実上の拒否権を有した。枢密院は行政への関与を禁じられたが(枢密院官制第8条)、しばしば政府に干渉した。 裁判所 司法権は天皇の委任により裁判所が行った(憲法第57条)。民事・刑事の裁判については、大審院を頂点とする通常裁判所が裁判したが(裁判所構成法)、欧州大陸型の司法制度に倣って、行政訴訟は特別の行政裁判所が扱った(憲法第61条、行政裁判法)。 陸海軍 陸海軍の統帥(憲法第10条)は国務大臣の輔弼の外に置かれ、統帥部が担当した(統帥権の独立)。統帥部は陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が並立し、戦時に両者は形だけ統合して大本営が置かれた。統帥部は内閣を経ないで天皇に決定を求める帷幄上奏権という特権を有した。陸軍大臣と海軍大臣は、国務大臣であるとともに統帥機関としての地位も有し、やはり帷幄上奏権を行使したほか、帷幄上奏を通じて統帥に関する勅令の決定を求め、これに副署する権限を有した。この勅令は総理大臣の副署を要しなかったが、1907年の公式令制定によって全ての勅令に総理大臣の副署が必要になると、勅令とは別に「軍令」という法形式を新設し(明治40年軍令第1号)、陸海軍大臣のみが副署する権限を保った。 この統帥権の独立によって陸海軍に対するシビリアンコントロール(文民統制)が機能せず、その結果軍部の独走を助長し、国内の混乱及び諸外国との軍事的衝突をいたずらに広める結果になったとする意見もある中曽根康弘、石原慎太郎共著『永遠なれ日本』(PHP研究所 2001年)p.115。 外地統治 内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などという。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任された。これら外地官庁の要職は内地人で占められていた。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しなかった。 Template Main? 国際連盟常任理事国 大日本帝国は1920年に発足した国際連盟の常任理事国であり、1933年3月27日(正式には1935年3月27日)に脱退するまで大きな役割を果たしてきた。 その他 台湾の領有により、日本最高峰は富士山から玉山(新高山)へと変わった。 第二次世界大戦中、軍部の使用に便を図るため、東京のタクシー会社は4社に統合させられた。これら4社大和自動車交通・日本交通・帝都自動車交通・国際自動車の各社名は、「大日本帝国」を分割したものに由来するといわれている。東京四社営業委員会を設立し、戦後も業界大手として営業し、タクシーチケット、タクシークーポンの共通化など連携した営業行動をとる。現在でも、東京四社営業委員会に属するタクシー会社4社の通称として「大日本帝国」と呼ぶことがある。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template Reflist? 参考文献 美濃部達吉著『憲法撮要』改訂第5版、有斐閣、1932年(復刻1999年) 百瀬孝著・伊藤隆監修『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』吉川弘文館、1990年 ジョン・トーランド著『大日本帝国の興亡』ハヤカワ文庫、毎日新聞社訳、1984年 関連項目 天皇 国体 天皇制 日本帝国主義 明治 大正 昭和 大日本帝国憲法 大日本帝国陸軍 大日本帝国海軍 軍服 (大日本帝国陸軍) 帝国 大東亜共栄圏 君主制 帝国議会 ポツダム宣言 日本国皇帝 統帥権 君主主権 植民地
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5ちゃんねるβ 「5ちゃんねるβ」は、5ちゃんねるをポータルサイト風にしたものである。 概要 Web検索機能(Googleによる)、ニュースヘッドライン、そして掲示板を兼ね備えた ポータルサイト化を目指すうえでの準備段階を形にしたものである。 この案が将来的に採用されるかどうかは未だ未定だが、実現するなら鯖の契約期間更新と同時に行われる予定である。 沿革 2007年4月、管理人の発言によりプロジェクトの進行が始まった。 兼ねてからポータルサイトに興味はあったものの、本格的に構築をしたことはなかった。 6月で「5ちゃんねる」として発足して1年を迎えるにあたって、新たな革新を考え、現在に至っている。 2007年5月14日、デザインに大幅な変更がなされた。 検索機能 検索機能はGoogleより検索窓を借りて、設置されている。 そのため、Yahoo! JAPANのような独自のシステムがなされているわけではない。 ニュース CEEK.JPというサイトのヘッドラインからRSSを借りて稼動している。 このサイトのRSSは5分おきにデータを更新するので、最新の情報を得ることが出来る。 掲示板 「5ちゃんねる」の基礎とも言えるコンテンツである。 現在採用されているのは、 5ちゃんねるに使用されているスクリプト YouTube動画のサムネイル表示 の2点である。 今後「VIPクオリティ機能」を実装する予定である。 外部リンク 5ちゃんねるβ
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無事、大日本帝国会議が終わりましたw ようするにチャット集会ですが。 今日は自分も含め7人?出席してくれました。 みなさんありがとうございます。 ってことで来週も開くのでよろしく!! 名前 コメント
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🇯🇵大日本帝国🎌🇯🇵:大日本帝󠄁國/大日本帝国 ←🇯🇵⚔️ 1868 - 1945/1947 🇺🇸🇯🇵→天皇陛下、萬歲!!!! 🇯🇵政治体制 太政官制(1868-1890)外見的立憲主義による立憲君主制(1890-1932)立憲君主制の元での昭和国家主義に基づく天皇制ファシズム独裁全体主義軍事政権(1932-1945)・大政翼賛会による一党独裁あ全体主義軍事政権(1940-1945)🇺🇸🇬🇧連合国軍最高司令官総司令部による間接的占領統治(1945-1947) 🇷🇺🇩🇪イデオロギー 帝国主義⬛ファシズム軍国主義 🇮🇩💬言語 🇯🇵日本語 ❹先祖 倭 🇸🇬首都 平安京→東京奠都→東京府→(広島)→東京府→東京 🌏所属 🇺🇸🇬🇧☭連合国(第一次世界大戦、二次大戦敗北時)🇯🇵卐🇮🇹枢軸国(第二次世界大戦時)🇺🇳国際連盟(1933年脱退)🇯🇵大東亜共栄圏(満洲事変-太平洋戦争時) 🇻🇦宗教 神道 🇵🇱誕生日 1868年1月3日(王政復古の大号令、和暦慶応3年12月9日) 🇵🇱命日 1945年9月2日(対連合国降伏文書調印) 関係 🇲🇨友達 卐🇩🇪ナチス・ドイツ(第二次世界大戦時)🇮🇹イタリア王国(第二次世界大戦時)🇹🇭タイ🇯🇵🇹🇼満洲国(満洲事変以降)🇺🇸アメリカ(日露戦争-第一次世界大戦時)🇬🇧イギリス(日英同盟-第一次世界大戦時)🇷🇺ロシア帝国(第一次世界大戦時)ドイツ帝国(明治維新-帝国憲法発布) 🇮🇩敵 🇺🇸アメリカ(満洲事変以降)🇬🇧イギリス(第二次世界大戦時)🇳🇱オランダ🇹🇼中華民国🇷🇺☭ソビエト連邦🇨🇳清(日清戦争-義和団の乱)🇷🇺ロシア帝国(日露戦争)🇩🇪ドイツ帝国(第一次世界大戦時) 歴史の概要 🇬🇷過去 江戸幕府蝦夷共和国 🇸🇸未来 連合国軍占領下の日本🇺🇸🇯🇵アメリカ領沖縄🇺🇸🇯🇵アメリカ領小笠原諸島🇷🇺☭ソビエト連邦(ソビエト連邦による満洲侵攻)・🇷🇺☭ソビエト連邦による満州あ占領・🇨🇳☭中華民国陝甘寧辺区政府🇲🇳東モンゴル自治政府🇲🇳内モンゴル自治政府🇲🇳ホロンバイル自治政府🇲🇳ホロンバイル臨時地方自治政府🇲🇳内モンゴル人民共和国・🇲🇳内モンゴル人民共和国臨あ時政府🇳🇱🇮🇳オランダ領東インド🇺🇸🇰🇷アメリカ軍政庁☭🇰🇵ソビエト民政庁🇹🇼中華民国🇫🇷🇮🇩フランス領インドシナ🇵🇭フィリピン🇬🇧🇭🇰イギリス領香港🇬🇧🇮🇳イギリス領インド帝国🇬🇧🇲🇲イギリス領ビルマ🇬🇧その他大英帝国植民地🇱🇦ラオス王国🇫🇲太平洋諸島信託統治領 地理 🇷🇺地域区分 アジア 東アジア その他 🇲🇨好きなもの 神風特攻、帝国主義、☀太陽、天皇、親日感情、仕事、日本刀、軍刀、戦艦、空母、潜水艦、兵器、武士道、零戦、武士道、万歳突撃、🇯🇵卐🇮🇹枢軸国、⬛ファシズム、軍国主義、卐ナチス、領土拡張、アジア民族、協商国、🇮🇱ユダヤ人 🇮🇩嫌いなもの 連合国、民主主義、共産主義、核攻撃、反日感情、叛乱、中央同盟国、撤退 ❻宇宙に行ける? 行けない 🇨🇳一人称 私 🇬🇧呼ばれ方 🇯🇵明治政府(成立直後)、🇯🇵日帝、ジャップ(JAP)(アメリカなど英語圏) 🇸🇪ボーク 天皇陛下萬歲!!大日本帝國萬歲!! 🇮🇹料理 寿司、天ぷら、牛鍋、イナゴ 🇺🇸国旗の変遷 🏳️旭日旗/🇯🇵日章旗(国旗) 🇿🇼通貨 日本円、台湾銀行券、朝鮮銀行券 🇺🇦現状 第二次世界大戦敗北により解体日本国憲法発布を以って体制移行、🇺🇸🇯🇵GHQによる間接占領を経て現在の🇯🇵日本へ 🇩🇪性格 弱者に対して手段を選ばない、負けず嫌い、真面目、勤勉 🇧🇷国の標語 五箇条の御誓文 🇵🇹国歌 君が代 🇫🇷最大都市 東京 🇯🇵一言 連合國を擊破せよ!大日本帝國萬歲!!
https://w.atwiki.jp/allemagne420/pages/17.html
大日本帝国とは 国家運営界隈に属するオープンチャットである。 危険度 現在→1 1…戦争の恐れはとても低く、渡航に問題は無い模様 2…戦争が発生する可能性があり渡航に多少の問題が生じる可能 性がある模様 3…戦争が発生しており、渡航が危険でおすすめしない模様 4…戦争によって国内が荒れており渡航禁止の模様 5…国内が壊滅状態であり、政府機能がしていない模様 領土 主要人物 天皇 帝国の天皇 東條英機 帝国の設立者 東郷平八郎 二代目管理人 栗林忠道 帝国の外務大臣 歴史 2022年4月28日に東條英機が設立 友好国 ドイツ国 大英帝国 イタリア王国
https://w.atwiki.jp/soysouso800/pages/404.html
2ちゃんねる 「関口宏の東京フレンドパークⅡ」をただひたすら再放送しているチャンネル。 ちなみに1ちゃんねるでは「関口宏の東京フレンドパーク」を再放送している。
https://w.atwiki.jp/4423/pages/396.html
大日本帝国海軍 大日本帝国陸軍
https://w.atwiki.jp/nagatsutawiki/pages/30.html
巨大な掲示板。ユーザーを「2ちゃんねらー」「ねらー」と呼ぶ。現在は5ちゃんねると改称している。 一方でチンピラの集まりである。いわゆるテロリスト集団である。つまりガン細胞の集まったようなものである。NK細胞の投与による殲滅が望まれる。
https://w.atwiki.jp/ss-wars/pages/13.html
大日本帝国 兵器表空軍 陸軍 海軍
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2002年(黎明期) 旧・関学ちゃんねる(http //green.jbbs.net/study/277/kangaku.html)、 JBBSのGreenサーバーのトラブルによりデータ消失。閉鎖。 現・関学ちゃんねる(http //jbbs.livedoor.jp/study/368)誕生 第1回関学ちゃんねるオフ開催(6月・参加者4名) 第2回関学ちゃんねるオフ開催(9月・参加者8名) 関学ch入門講座~☆の道標~スレッド誕生。初代スレ主…( ゚Д゚)ゴルァ(hJlatw0I)=ライオット(Riot/uTA)(10月) 2003年(安定期) 第3回関学ちゃんねるオフ開催(3月・参加者16名) 黒川道子(ロリ属性@関学・ロリっ娘@道子)海外へ(3月) 「関学生の恋愛事情」スレ主交代。ライオット→ミユウに(3月) BOB、関学ch入門講座~☆の道標~2代目スレ主に(6月) 「関学ちゃんねる固定最萌トーナメント」開催(12月・優勝者グッジョブ) 2004年(変革期) 第4回関学ちゃんねるオフ開催(1月・参加者7名) 「一度も異性と付き合ったこと無い奴集まれ in 関学ch」スレッド誕生(3月) 獣関鮮烈デビュー(4月) 第5回関学ちゃんねるオフ開催(7月・参加者9名) 「一度も異性と付き合ったこと無い奴集まれ in 関学ch」スレッドオフ開催(10月) 片思い関学生(後のふかわ)、関学ch入門講座~☆の道標~3代目スレ主に(11月) 第1回チキチキ関学ちゃんねる京都オフ開催(12月28日・参加者4名) 固定総数46人という大所帯となる 個人スレッドブーム到来(~2005) 2005年(沈静期) 第6回関学ちゃんねるオフ開催(3月・参加者18名) 管理人交代&管理権委譲騒動(4月1日)→http //www.univch.net/kwangaku/20050401.htm 第7回関学ちゃんねるオフ開催(9月・参加者5名) 関学伍長、スナイパー引退 トリップ10桁化 2006年(下げ止まり期) 関学ちゃんねる管理人交代 一日「地獄通信」化(4月1日)→http //www.univch.net/kwangaku/20060401.jpg 関学ちゃんねるWiki誕生 就活オフ開催(6月・参加者4名) 2007年(平行期) 2008年