約 2,029,814 件
https://w.atwiki.jp/mioritsu/pages/727.html
大学生活もだいぶ慣れてきた。 慣れない新生活に最初はスケジュールを組むのも一苦労だったが、やっと休日を取れるくらいまでになった。 私と澪は、終日オフの日。一緒に、ふたりきりで、過ごしていた。 天気は、雨だった。 「雨…だね」 「あぁ…」 私は返事をして、ソファに深く沈んだ。 「折角の、休みなのにな…」 澪は残念そうに呟いた。 「澪」 「ん?」 ちゅっ 私は振り向いた澪にキスをした。 「なんだよ…」 「キス」 澪は頬を赤くした。 「…律」 「何?」 「おなか、空かないか?」 「…うん」 そういえば、中途半端に昼前に起きて。 何も食べないまま、午後になっていた。 「パスタでも、作ろっか?」 「うん」 澪の言葉に私が頷くと、澪はキッチンへ消えて行った。 そういえば、今日は澪が食事当番の日。 「できた!!」 澪は大きめの器いっぱいのパスタをリビングに運んできた。 「…おう」 私は、澪の嬉しそうな顔を見て「全部食べなきゃ…」と覚悟した。 「作り過ぎちゃった…」 澪はちょっと申し訳なさそうに言った。 「…いいよ」 「え?」 「澪が作ってくれるなら、なんでも美味しいからさ」 「…ありがと」 私は照れる澪の黒髪を、撫でた。 「おなかいっぱい…」 カチャカチャ、と音を立てながら食器を洗う澪。 私と澪は、二人で頑張ってパスタを平らげた。 「唯でも呼べば、あっという間だったんだけどなー」 「そうだねー」 せっかくのふたりきりだから、呼ばなかったんだけど。 私も澪も、心の中でそう思っていた。 「ねぇ、律」 「ん?」 「小さい頃、シャボン玉作って、遊んだよね?」 「あぁ、なっつかしいなぁ!」 「律が「おっきいシャボン玉つくって、いっしょになかにはいろ!」とか言ってさ」 「あぁーそんな事言ってたなー」 うろ覚えだけど、覚えてる。 「律ってば「シャボンにくるまろうよ!!」とかはりきってさ」 「洗面所洗剤だらけにして、母さんに怒られたんだよなー」 「そうそう」 私と澪は、笑った。 「律―。食器すすいでー」 「わかったー」 私と澪は、シンクの前に並んだ。 澪が洗った食器を、私がすすぐ。 澪は食器を洗い終えると、私がすすいだ食器を拭いて定位置に戻した。 「りつー」 「ん?」 「雨、やまないね」 「うん」 私と澪は、ソファで寄り添っていた。 「みおー」 「なに?」 「晴れたら、なにする?」 「……」 澪はすこし考え 「……このままソファで、いいかな」 私の肩に、頭を乗せた。 私は、澪の黒髪を撫でた。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shabonmaturi/pages/13.html
TOP 内容 参加地 絵 シャボン玉をしている人を見かけたら 宣伝用動画 掲示板 シャボン玉の作り方 テンプレ
https://w.atwiki.jp/kinecoandvtr/pages/40.html
シャボン玉ホリデー 1961年6月4日から1972年10月1日まで日本テレビで毎週日曜18 30~19 00に放送されたバラエティ番組である。 第151回:コーラス万歳!ピーナッツ(1964年4月19日放送)…モノクロキネコ 第169回:楽器で遊ぼうピーナッツ(1964年8月23日放送)…オープニングのみカラーVTR本編はモノクロキネコ 第215回:どうなってんだピーナッツ(1965年7月11日放送)…モノクロキネコ 第241回:タニーケイだよピーナッツ/谷啓ショウ(1966年1月9日放送)…モノクロキネコ 第249回:コントは楽しピーナッツ(1966年3月6日放送)…モノクロキネコ 第320回:お化けが出るよピーナッツ(1967年7月16日放送)…モノクロキネコ 第440回:ダンドリ大切ピーナッツ(1969年11月2日)…カラーVTR 第464回:安田ァー!ピーナッツ(1970年4月19日放送)…カラーVTR 第479回:海へ山へピーナッツ(1970年8月2日放送)…カラーVTR 第570回:10周年だよ!(1972年4月30日放送)…カラーVTR ※このほか「テレビ探偵団」で「第298回:恋をしましょうピーナッツ(1967年2月12日放送)…モノクロキネコ」が放送されたがその後目撃をされていない。 95年にLD・VHSで、07年にDVDで発売された『クレージーキャッツ メモリアル』には、『楽器で遊ぼう』『どうなってんだ』『タニーケイだよ』『コントは楽し』の4本と『ダンドリ大切』内のコント・『10周年だよ!』の冒頭が収録されている(巻末のハイライト映像ではそれら以外の映像の一部も収録されているが詳細は不明)。 横浜の放送ライブラリーでは、『コーラス万歳!』が視聴できる。
https://w.atwiki.jp/bubblefetish/pages/19.html
P-SR【カラフルメタモルフォーゼ】三峰結華 シャボン玉リングで長いシャボン玉を作っているイラスト。 P-SR【カラメル】樋口円香 浴槽でシャボン玉を吹いているイラスト。 P-SSR【新装備・バブルバスター!】小宮果穂 シャボン玉リングで遊んでいるイラスト(アニメーションあり)。 P-SSR【アバウト-ナイト-ライト】田中摩美々 シャボン玉銃で遊んでいるイラスト(アニメーションあり)。
https://w.atwiki.jp/mimi98/
ここはふしぎのページです。 何がふしぎって、私のふしぎを集めるためのページってことです。 役に立つものを集めるためのページです。 朝日新聞の記事
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、神学篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 神学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p16 「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」 まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。 The Doctrine of the Orthodox Church The Basic Doctrines p23 「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」 橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟) p47p48 大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」橋爪「関係ない、です。」橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」 47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。 『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353 教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p116 「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」 橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。 論理の破綻 p145p147p148 橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、枝葉に過ぎない。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、付録みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」 復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りありだろう。実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来しており、その重要性が表れている。復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。 ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージカトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)キリストの復活六本木ルーテル教会神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師) p184, p185 「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage p245, p246 「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」 少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Holy Ghost参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ p256 「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」 アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。 Orthodox Unity - Statement Index内、Relations with the Eastern Orthodox Churchesより "Concerning the Christological controversy which caused the division, we..." (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 ) p312 「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」 どこに出て行ったというのか?そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)(p75, p76) イザヤ書8章10節マタイによる福音書28章20節創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/14.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。 ――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。 橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。 ――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。 橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。 つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは p41 「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更) サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」→『レビ記』を『出エジプト記』に訂正。なお、この訂正は正しい。 どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか? 単純な事実に関する間違い 目次 1 歴史 2 教会生活 3 教会論 4 聖書 1 総論 2 旧約 3 新約その1 ・ 新約その2 5 神学 6 東方教会(正教会・非カルケドン派) 7 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 8 科学 9 キリスト教音楽 10 キリスト教美術 11 哲学 12 言語 13 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教・神道・イスラムについての無理解) 歴史 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)を参照 教会生活 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p67 「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」 根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6 5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。 (正教会)Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник(カトリック教会)主の祈り(カトリック南山教会)(プロテスタント)Behold the Glories of the Lamb.mp4 (非カルケドン派)قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo p67 大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。 なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。 Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Amen p237 「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」 ・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? 小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス 小林信雄「マルコ福音書における供食物語 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Eucharist 日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 正教会とは 日本正教会 Holy Mystery A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33) p294 「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。逆もそうだと思う。」 カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。1998年、当時のアメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となったこともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。逆に世界を誤解します。 Why Close Communion And Not Open Communion(By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas ) 栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217 New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published April 07, 1998 教会論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p291 「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」 「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA PriesthoodCATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church Ecclesiastical Buildings "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) 八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表 八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版) 聖書 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)を参照 神学 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)を参照 東方教会(正教会・非カルケドン派) 橋爪氏も大澤氏も、正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p256 「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」 4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。「東方=ギリシア語のみ」ではない。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)Oriental Fathers Syriac Literature p256, p261 橋爪氏「東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」 皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱いになっている。そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁 『山川世界史小辞典』p230, 2007 p257 「ロシア語を使うロシア正教会、セルビア語を使うセルビア正教会」 各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。 Church Slavonic (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th) Reform of liturgical language in Russia (Serbian Orthodox Church, Official web site) p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が 「総主教座の分裂」の要因を「使用言語」としている そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。 Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY (Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century(PDF) 知多半島の正教会の歴史石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂 p281, p282 「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」 理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。 ※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。 『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社 加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001 『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p253 大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」 こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。 p292 「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や告解や七つの秘蹟などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」 まず単純に、告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない)。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない偏向も際立っている。 七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Sacraments尊者・福者・聖人(カトリック中央協議会)What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America p293 「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略)煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった」 煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの教義は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。 教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説 第29回 「免罪符」のウソ(尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門より) 正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan 科学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p309-315 大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」 「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「プロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。(データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。 キリスト教音楽 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p320 「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」 問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Gregorian Chant p321 「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」 橋爪氏はルター派の音楽家であるバッハの、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁) マタイ受難曲皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』 キリスト教美術 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p321-322 「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」 まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。Johannes Vermeer’s influence and inspirationやessentialvermeer.com参照)など無数に存在する。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Ecclesiastical Art 静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape 哲学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p281 「理性は、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです」 典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう」。哲学事典を引かずとも、大辞泉に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難であることが示されている。カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な認識という意味で用いられた。※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。 大辞泉り‐せい【理性】『哲学事典』p1462, 1984 平凡社REASON (Lat. ratio, through French raison) (Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Reason 言語 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p234-5 「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、ヘブライ語の方言であるアラム語)を話していた」 イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。 左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解) 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/17.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 総論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p182 「「地獄」というものは、ありません。聖書には書いていない。火で焼かれる。」 「地獄は永遠か」という設問は古くからキリスト教で問われてきた問題ではあるし、「地獄」の意味についても諸説あるが、聖書には「地獄」の単語は書かれている(本当に聖書を読んだのか?)。訳語の問題はある。γέενναとᾍδηςにつき、正教会訳では両方「地獄」の漢字を当てるが(但しルビで訳し分けている)、他方、新改訳聖書はそれぞれ「ゲヘナ」「ハデス」と訳している(但し新改訳聖書を使用する諸教会が「地獄は無い」と主張しているわけではない)。橋爪氏は新改訳聖書しか読んでいないのかもしれないし、「『地獄』とは誤訳だ」と言いたいのかもしれない。しかしだとしたらきちんとそう言うべきだ。「聖書には無い」などと断言する前に、日本聖書協会訳の新共同訳聖書と口語訳聖書で検索をかけてみる事くらいは、学者としてやっておくべきではないか。 新共同訳聖書の「地獄」検索結果 口語訳聖書の「地獄」検索結果 p244, p246, p247 「まず聖霊は、使徒行伝に出てくる」(p. 244) 「でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる。ともかく、使徒行伝には聖霊の記述がある」(p. 246) 「なぜ聖霊が必要かというと、パウロの書簡を神の言葉(聖書)」にするためなんです」(p.247 彼の記述や論理だと聖霊が登場するのは使徒行伝が最初のようだが、使徒行伝が最初ではない。旧約では意見が分かれるが、ギリシャ語訳ユダヤ教聖書(いわゆる「70人訳聖書」)にも新約聖書と同じ単語で「聖霊αγιον πνευμα」が出てくる(詩51 13;イザ63 10,11;ダニ5 12;6 4etc)。(ヘブライ語からだと聖霊とは訳せないが。明らかに「聖霊」となる語を新約から探しても、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ 3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20.22)、その他ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15など。ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15 は助け手(パラクレーシス)たる聖霊の役割についても詳しく言及されている。聖霊のこの役割に触れないのも不可解。あるいは不勉強。 新共同訳聖書の「聖霊」検索結果 口語訳聖書の「聖霊」検索結果 p291 「聖書が成立したあと、公会議で聖書の読み方(学説)を決めたが、それも含めて聖書と考える」 そのような聖書の定義をしている教派は無い。公会議で定められた信条は聖書に収められていない。教会が聖書の正典を定めたことを指しているのだろうか?聖書につきカトリックでは旧約46巻・新約27巻、計73巻編成の文書を正典とし(ウルガタ訳聖書の影響)、正教では旧約49巻、新約27巻を正典とし(70人訳ギリシア語聖書)、プロテスタントは旧約39巻、新約27巻、計66巻を正典とする(旧約をマソラ本文のあるものに限定したため)。また、その他の正典を定める教派もある。しかし、正典の編纂と考えてもおかしい。なぜなら、プロテスタントは公会議で聖書の正典を定めたわけではないからである。カトリックは「聖書と聖伝」とし、プロテスタントは「聖書のみ」(聖書自身が聖書であることを証する限りにおいて)、正教は「聖伝は聖書を含む」と考えるが(聖書も公会議も聖伝の構成要素)、「公会議で聖書の読み方を決めた」教派は無いし、「公会議の内容も含めて聖書とする」教派も無い。 教え-聖書:日本正教会 The Orthodox Church in Japan Holy Scripture In The Orthodox Church "The Bible" Compiled by Father Demetrios Serfes CATHOLIC ENCYCLOPEDIA The Bible Canon of the Old Testament Canon of the New Testament 旧約 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p17 「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」 ヘブライ語での意味は「油つけられし者」(「メシア」のギリシャ語訳である「キリスト」も同様の意味)。「ヘブライ語で」などと言わず、「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」などという説明であれば正解だったが。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA MessiahХристос(Краткий церковнославянский словарь) p29 「たとえば、王妃のイザベラがバアル神を拝んだので、預言者エリヤがバアルの祭司四百五十人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名です」 どうしてイゼベラだけを取り上げるのか、理解に苦しむ。『列王記上』16章31節によれば、王アハブが「進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」とある。そもそも、エリヤが「バアルの祭司四百五十人」を殺したのはイザベラがバアル神を拝んだから、というまとめは、読解力の欠如を疑わせる。もっとも、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような理屈を理解しろと言うのであれば、話は別であるが。なお、ここで橋爪氏は「バアルの祭司」という言葉を用いているが、正確には「預言者」である。55頁及び109頁に見られる誤り(下記参照)のため、つまり、自説に都合良くするためにバアルの預言者という言葉遣いを避けたのであろう。 列王記上16 31列王記上18章 p33 「さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。(中略)第一は、儀式を行う。牛や羊などの犠牲を献げるのですね。犠牲の献げ方にもいろいろあるが、特にヤハウェに献げる場合には、「全焼の供儀」といって、黒焼きにした。」 動物だけが捧げ物ではない。まるで他の祭儀は神に捧げていないかのような口ぶりだが、灌祭(ブドウ酒を捧げる)も素祭(種なしパンを捧げる)も神に献げられるもの(祭司は分け前にあずかるだけ)。 レビ記「素祭」検索結果 民数記「灌祭」検索結果」 p49-50 「ニネベはアッシリアの首都で、そんな異教徒の国のど真ん中で、ヤハウェの言葉を伝えるなんて、自殺行為です。ヨナは嫌だから、反対の方向に向い船に乗った」 確かにヨナは神の言葉に従わなかった。しかし、ニネベで「ヤハウェの言葉を伝える」のが「自殺行為」で、それが嫌だから逃げた、とは、ヨナ書の1章にもどこにも書かれていない。むしろ、4章2節から、神の命令通りにニネベの人びとに神による災いを伝えても、神が思い直し、結果として自分の預言活動が無駄になることが嫌で逃げた、と考えられよう。 ヨナ1章ヨナ4 2 p50 「でも、沖合に出たら大嵐になって、『こいつのせいだ』と、ヨナは海にほうりこまれた」 ヨナ書の記述と異なる。ヨナは自分から申し出て海にほうりこまれたのである。 ヨナ1:12 p50 「ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです」 ヨナは「ニネベが破壊されるのを楽しみにしていた」、とはどこにも書かれていない。神が思い直したのが腹立たしいのである。他の箇所でもそうであるが、橋爪氏は聖書を勝手に書き換え、自分の理屈に合うように読む傾向がある。 ヨナ4 2 p50 「ヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのがうれしい、と答える。」 あまりに元の文章からかけ離れている。元は「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。」(口語訳聖書ヨナ書4 11)「栄える」も「うれしい」も書いておらず、疑問文。ヨナ書は神からのヨナへの問いかけであるこの疑問文で終わっている(聖書に、神からの問いかけ・疑問文に人がどう答えたかを敢えて書かないことで、読者自らが自分の答えを出すことを期待していると、教派によって解釈し得る箇所が時々出てくる。)。「惜しむ」という単語は、直前でヨナが日よけのとうごまの木が枯れたことを惜しんでいることと対応している。この文章が重要なのは、「異邦人の人々」に神の配慮が行き届く信仰内容が示されているにとどまらず、「家畜」という動物にまで神の配慮が行き届くことが示されてもいることにもある。これらの意義が全く抜け落ちてしまう橋爪氏の紹介文は、もはや国語でいう要約の態をなしていない。 口語訳聖書ヨナ書4 11"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1023, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p53 橋爪「ヤハウェは、ノアに語りかける。神の声を聞いたノアは、預言者みたいなものですが、ノアの一族以外の人びとは洪水で全滅していますから、人類の一部分に語りかけたわけではない。ノアの子孫が地上に拡がったあと、ヤハウェは今度は、アブラハムに語りかけた。人類の一部に語りかけたというのは、アブラハムが最初でしょ?」大澤「言われてみると確かにそうですね。」橋爪「これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。」 創世記4 6で、神はカインに語りかけている。さらにノアについても、まだ洪水の起きる前に話しかけているから(創世記6 13)、やはり「一部に」語りかけている。口語訳聖書で15頁にも満たない創世記の冒頭部分すら、橋爪氏も大澤氏も碌にチェックしていない。ちなみに「語りかけられた」だけでは神の民の出発点にはならないことは、カインがその後どうなったかを見れば明らか。こうして橋爪氏と大澤は、既に出発点の意義から、テーマとなっている一民族について理解していない。 創世記4 6創世記6 13 p54 「イスラエルの民は…エジプトに移り…人数が増えて六十万人にもなった。それが、モーセに率いられて、エジプトを脱出した」 正確には、エジプトを脱出した「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」のである(出エ12 37。更に民11 21参照)。 出エジプト記12章37節民数記11章21節 p55 「モーセのあとにも、預言者が大勢現れ、ヤハウエはイスラエルの民に語りかけ続ける。アブラハムの子孫以外には、預言者が現れない。この意味で、彼らは、神に選ばれた民族なのです」 ユダヤ人以外でヤハウェから語りかけられた預言者として、バラムがいるので、誤り。 民数記22、23、24章 p68 「『ヨブ記』は、さっきの『ヨナ書』と同じく旧約聖書の「諸書」の一つです」 『ヨブ記』が「諸書」の一つであることは正しいが、『ヨナ書』は「後の預言者」に分類される。 和田幹男 プロテスタントとカトリックにおける旧約正典の比較 p69 「(ヨブは)友達もなくしてしまった」 批判した相手は友達ではない、と考えているのだろうか。個人的にそのように考えて振る舞うのは勝手だが、ヨブ記にあてはめるべきではない。ヨブを批判した三人が批判し終わった後でもヨブにとっては友人であり続けた、と考えられていることは、42章10節「ヨブが友人たちのために祈った」から明らか。 ヨブ42 10 p69 「わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した」 ヨブ記で神はそのようなことは言ってはいない。誰がリヴァイアサンを鉤で引っかけられるか」、「お前ヨブはベヘモットを捕らえられるか」とは語っているが。尤も、橋爪氏がヘブライ語からそのように読めると主張するのであれば話は別であるが(ヘブライ語からそのように理解するのは大変難しいが) ヨブ40章 p69 「ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した」 そのようなことはどこにも書かれていない。 (各自ヨブ記を読まれたし) p75 「エデンの園には、食べ物が十分にあって、働かなくていい」 創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあるが、この「耕し」はヘブライ語で「働く」を意味する単語である(LXXでも同様)。エデンの園でも人間は働いていたのである。 創世記2章15節ヘブライ語版創世記ギリシャ語版創世記 p75 「この二つの樹の実を食べてはいけないよ、それ以外の実は食べてもいいけど、と言い置いて、神様は(楽園から)出て行ってしまうわけです。」 どこに「出て行った」というのか?そのようなことはどこにも書かれていない。「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→下記p76と、間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)(p312) 創世記2章参照創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 p76 「で、神の留守に、蛇が出てくる。蛇はサタン。反対者ですね。イブに「知恵の実を食べてみないか、きっとおいしいよ」とそそのかす。」 「神の留守」「食べてみないかとそそのかす」そのようなことはどこにも書かれていない。蛇の誘惑はより狡猾なものであった。イブは自らの意思で食べたのである。またイブに勧められたアダムも、自分の意思で食べている。蛇は「食べたらどうだ」とは言っていない。この後、神からの問いかけに対して人が責任転嫁を行っていることが、神の前に罪を犯した人間の好ましくない有り様であると捉えることが、殊に正教会、カトリック教会における重要な告解理解に繋がるのであって、瑣末な間違いではない。ここも、「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なおここから先は「細かい間違い」かもしれないが、橋爪氏は「蛇はサタン。」と述べているが、そう捉えない教派・解釈例もあるので、特定教派もしくは特定思潮の立場をとらない書籍において簡単に断言してしまうのは、厳密には不適当もしくは偏向である。 創世記3章参照『旧約聖書略解』p14, 日本基督教団出版局, 1986年5月10日 40版"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p6, p8, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p80 大澤「だいたい、理由も言わずにただ」知恵の樹と生命の樹の実を「『食べてはいけない』なんて言われたら」(橋爪氏、これを否定せず) 理由は神によって語られている。「食べると必ず死んでしまう」からである(創世記2章17節及び3章3節参照) 創世記2章17節 3章3節 p84 大澤「ところが神については、逆で、『俺は神を見た』と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない」(橋爪氏、これを否定せず) 大澤氏が念頭に置いている聖書箇所は恐らく出エジプト記33章20節以下及びヨハネの福音書1書18節、ヨハネの手紙一4章12節などであろう。なるほど、出エジプト記33章20節には「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(新共同訳)とあり、モーセが見れたのは神の後ろ姿だけであったと述べられている。しかし、大澤氏(と恐らく橋爪氏)は出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあることも、更に同書24章9節以下でモーセのみならず「アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老」がイスラエルの神を見たと語られていることも無視している。更に言えば、創世記32章31節でヤコブも神を見たと語られている。士師記13章22節では、マノアとその妻が「神を見てしまった」ことが語られている(尤も、神とマノアが呼ぶ存在は、地の文では「神の御使い」と呼ばれているが)。案外と神を見た人間はいるのである。 出エジプト記33章11節以下、同24章9節以下、創世記32章31節、士師記13章22節 p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」 契約の箱の構造について詳しい説明があるのは、『レビ記』ではなく、『出エジプト記』の25章10節以下である。なお、どの刷からかは不明であるが、『出エジプト記』と修正されていることを付記しておこう。なるほど、誤った情報が正しい情報に訂正されたのは喜ばしいことではあるが、版を改めるではなく内容を修正するというのは、業界の慣習かもしれないが、問題であると思われる(これは著者にではなく、講談社に対する批判)。 出エジプト記25章 p100 「サラが亡くなったとき、墓地が必要になって、ブドウ畑の隅っこでいいから売って下さいと、(アブラハムは)地元民に交渉するのですが、なかなか売ってくれない。」「寄留民の土地所有は認められていなくて、墓地なら例外的に取得できたのです。ヤハウェに約束の地を与えられたというものの、実態はこんなものだった。そうやって苦労のすえ墓地を手に入れたと、いかにも自慢そうに『創世記』は記しています。」 そのようなことは創世記に書かれていない。むしろ「じゅうぶんな対価を払って」購入を希望するアブラハムに対し、地元民(ヘテびとエフロン)は「わたしはあの畑をあなたにさしあげます」と提案している(23章11節)。それに対してアブラハムは「代価を払います」と述べ、無償で譲渡されることを断わっている。そこでエフロンは畑の価格を「銀400シケル」と述べるが、ここでもエフロンは「売ります」とは言っておらず、とにかく「あなたの死人を葬りなさい」とだけ言っている。これに対し、アブラハムはエフロンに対して銀400シケルを量って渡し、無償譲渡の申し出を断って購入している。「『創世記』にはこう書かれているが、実態は某説によればこんなものだったろう」といった言い方なら場合によっては成立するかもしれないが、結局「自慢そうに『創世記』は記しています。」の文言で、単純な誤りになってしまった。他の個所でも同種の傾向を有するものがあるが、「アブラハムの寄留民としての実態はこんなもの」という橋爪氏の考える結論がまず先にあり、その結論に合わせて前提となる事実(記述内容)が捻じ曲げられているのが、この誤りの本質的問題である。 創世記23章 p109 「預言者。これは一神教にしか、考えられない存在です」 所謂「多神教」にも預言者がいたとは、たとえば列王記上18章などに明記されている(「バアルの預言者」「アシェラの預言者」)。なお、「バアルの預言者」「アシェラの預言者」という表現の「預言者」に当たるヘブライ語名詞は、ヤハウェの「預言者」を指す際に用いられるのと同じものである。 バアルの預言者アシェラの預言者 p146 『列王記下』4章42~44節では、エリシャが「わずかな食糧で」「百人を満腹させた」奇跡が語られていると橋爪氏は語る。 満腹したとは書かれておらず、「食べ残した」と書かれている。なるほど、満腹したから食べ残したのであろうが、エリシャの奇蹟はイエスの奇蹟との関連で言及されており、そのイエスの奇蹟では、人びとが食べ残した点に強調点が置かれている記事もあるのだから、正確に語るべきである。 列王記下4:43、44節及びマルコ8:19-21参照 p151 「イエスは、預言者として、活動した。預言者だと思った人が大勢いた。だから、「エリヤの再来」と言われたのです。ちなみに、預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので(『列王記下』2章11節)、再来してもおかしくない」。 イエスは預言者と考えられていた、というのは福音書に記されているので(マルコ6章15節、8章28節等)、イエスを預言者と考えた人びとが実際にいたかもしれない。しかし、イエスは預言者として活動した、「だから」、エリヤの再来と言われた、という言葉は、「再来のエリヤ」思想を無視していると思われる。イエスをイザヤでもなくサムエルでもなくエリヤだとする考えの背後には、終末の直前にエリヤが再来するという思想があるからである(マラキ書3章1、23-24節、シラ書48章10節)。つまり、イエスは終末の接近を告知しており、それが終末直前に再来するエリヤという伝承を思い出させた、だからイエスを再来のエリヤと同一視した人がいた、と考えられるのである。預言者として活動したからではない。 マルコ6:158:28等マラキ3:1、23-24シラ48:10 p153p167 「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方です。…これはもう、ユダヤ教の考え方ではない」「ユダヤ教には、…神の子という考え方はなかったと思う」 創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節に「神の子」という表現が見られる。従って、イエスが神の子であるという主張はユダヤ教の考え方であってもよく、仮に問題があるとすれば、ユダヤ教の観点からイエスが神の子と言えるかどうかであろう。 新共同訳聖書「神の子」検索結果 p158 大澤「(人の子の)もうひとつのとらえ方として、聖書学の田川建三さんが次のようなことを書いていました」 この後に大澤氏が語るアラム語での「人の子」理解は、『イエスという男』(三一書房、1980年、333頁)からのものであり(引用元を書かないのは問題である)、田川氏の本からの要約引用にそれほど間違いは無い。しかし、田川氏は自身の「人の子」理解を「主としてC・コルペによる」と明記しているのだから、大澤氏はこの点まで引用しておく、あるいはC・コルペの研究に目を通し、C・コルペ氏の主張と語るべきであろう。 田川建三『イエスという男』三一書房、1980年 p158-9 大澤「『人の子』と言えばメシアのことだなというのは、当時のユダヤ教に精通している人たちには通じたんだと思うんですね。…、もちろんイエスは旧約聖書に精通しているわけだから、『人の子』と言えば、旧約聖書に由来する救世主という含みももちうることがわかっていたはずです」 「人の子」はイエスの生前のユダヤ教においてメシア的称号であったという学説に対しては、様々な批判が寄せられていることを考えれば、このように簡単には言えない。尤も、本書が新書であること、そして大澤氏も橋爪氏も聖書学者ではないことを考えれば、このような単純化はしょうがないかもしれない。 上村静「メシア的称号としての『人の子』の起源」『イエス―人と神と』関東神学ゼミナール、2005年、pp105-135 p188 「動物もひとつがいずつ箱舟に乗り込んで、助かった」 創世記7章3節に従って正確に言えば、「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつである 創世記7:3 p228 「カインは…弟のアベルを…刺し殺してしまった」 これは創世記4章8節のことであるが、そこでは「刺し殺した」とは書いていない。 創世記4:8 新約 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/ankoss/pages/2813.html
『シャボン玉とゆん生』 14KB いじめ 不運 自業自得 日常模様 番い 野良ゆ 赤ゆ 現代 久々な感じです、どうぞ 『シャボン玉とゆん生』 よく晴れた日の公園。 そこにはたくさんの子供たちがいた。 子供たちが走り、遊ぶ場所には一面手入れが行きとどいた芝生で、子供たちが転んでも怪我はほとんどないだろう。 周りの木陰にはベンチが幾つもあり、何人かの大人がそこに座って子供たちを眺めていた。 そして一人、ベンチに座る男が一人いた。 やはりその男も公園で遊ぶたくさんの子供たちの中に、自身の子供がいるのだろう子供たちを見る目はとても優しい。 その男の手にはコップがある。 しかし飲むわけではない。 コップには水が入っていた。 しかし、ただの水ではない、若干白く濁っている。 そのコップにはストローがさしてあった。 男は、コップにさしてあるストローをおもむろにコップから抜き、それを口に銜え優しく、息を吹いた。 ストローの先から現れたのは幾つもの虹色の玉。 ユラユラ風に揺られ、フワフワ空を漂う、儚く、美しい、シャボン玉。 幾つものシャボン玉の虹彩が空を彩り、すぐに消えて行った。 そう、男が持つコップの中には石鹸水が入っている。 無論、用途はシャボン玉を作るためだ。 男は、子供に作ってとせがまれ作ったのはいいが。 公園に着き子供に渡したがしばらくすると、友達に遊び誘われ今はもう目の前で友達と元気よく遊んでいる。 まあ、こんなことも悪くないと、もう一度シャボン玉を膨らませた。 優しく、優しく。 少しずつ大きくなったそれは、やがて空に飛び、しばらく浮いていると、また儚く消えた。 男は昔を思い出す。 自分も昔、シャボン玉でよく遊んだものだと。 そう、こうやって遊んでいると。 「ゆゆ! ふわふわしゃんはゆっきゅりできりゅよ! ゆっきゅりしていっちぇね!」 こうやって、やってくるのだ。 ゆっくりが。 茂みから現れたのは赤ゆっくりのれいむだ。 「ゆゆ~ん、おちびちゃんまってね!」 その親なのだろう、れいむが赤れいむを追うように出てきた。 男は気にせず、シャボン玉を新たに作る。 今度は強めに息を吐くことによって、小さいながらもたくさんのシャボン玉が宙を彩る。 「ゆわ~い! ふわふわしゃんがいっぴゃいだよ! ゆっくちゆっくち!」 新たに増えたたくさんのシャボン玉に目を奪われる赤れいむ。 地面に近づいたシャボン玉に飛び付き、幾つも消しては、また別のシャボン玉へ飛び付く。 「ゆゆ! にんげんさんだよ!」 そこでようやく、親のれいむが男に気付く。 ゆっくりにとって、人間は不倶戴天の敵だ。 しかしシャボン玉を作っている姿を認め、その姿がゆっくりできていたのだろう。 「ゆゆ~ん、ゆっくりしてるにんげんさんだよ、ゆっくりしていってね!」 そう、男に言った。 この程度で警戒を解く辺り、やはりゆっくりはゆっくりとしか言いようがなかった。 男はただ曖昧にほほ笑み、シャボン玉もう一度作った。 シャボン玉を作ってゆっくりさせてくれるのだから、少しの無礼も許そうと、れいむは返事をしない男に怒りはしなかった。 その後も、シャボン玉は幾つも幾つもストローの先から飛び出てきた。 そして、その後もゾロゾロとゆっくり達が現れる。 おそらく、その赤れいむと親のれいむの家族だ。 「ゆっへん、かぞくさーびすができるまりさでごめんね! きょうもおちびたちはゆっくりできるんだぜ!」 親のれいむの番、赤れいむの親のまりさだろう。 何にアピールをしているのか、自分はすごいでしょ、褒めても良いよ、といった風だ。 もちろん、男は無視してシャボン玉を作り続ける。 「ゆゆ~ん、おちびちゃんたちはとってもゆっくりしてるよ~」 シャボン玉を見てゆっくりしている我が子達をみて、れいむはゆっくりする。 「ゆっきゅりまっちぇね! ふわふわしゃん、ゆっくちゆっくち!」 「まりちゃしゃまが、ふわふわしゃんをつきゃまえりゅんだじぇ! ゆっくちー!」 「ゆー! まりしゃもぎゃんびゃるよ!」 そういって赤まりさの一匹がシャボン玉に突撃する。 「ゆー!」 しかし、シャボン玉は赤まりさが掴まえる寸前に弾けてしまった。 その後もどれだけ頑張っても、そのシャボン玉を捕まえることができない。 「ゆっくちつかみゃるんだじぇ!」 「まりしゃにもつきゃまってね!」 それでも赤まりさは、掴めると信じて、シャボン玉に向かって飛び続ける。 きっとこの、綺麗なシャボン玉を自分のおつむを覆う、帽子に入れさえすれば、一生の宝物にできるのだと。 「ゆっくち!、ゆっくち!」 「ゆー! ゆー!」 ちょっとやそっとでは、この赤まりさのゆっくりへの情熱は冷めることはない。 「……ゆっくち、ゆっくち……」 「ゆー、ゆー」 跳んで跳んで跳んで。 「ゆひぃ……、ゆひぃ……」 「ゆう、ゆう」 疲れて、止まって。 「……どびょじで、ふわふわじゃんまりぢゃにづがまっでぐれないんだじぇぇぇぇぇぇ!!!」 「まりちゃぁぁぁにゃきゃにゃいでぇぇぇぇ!! もっちょまりしゃもぎゃんびゃるきゃらぁぁぁぁぁ!!!」 情熱でシャボン玉は掴めるものではなく。 根性の欠片もないゆっくりである、赤まりさは捕まえられない現実は、シャボン玉のせいとした。 何時までも冷めない情熱は、ただの我がままになり、姉妹の赤まりさも泣かせてしまった。 ピイピイと泣き喚く、赤まりさ達である。 そんな馬鹿が馬鹿らしい行動をしている頃。 れいむの傍の赤れいむは、実にゆっくりしていた。 先ほどまでは赤まりさ同様に、シャボン玉を追っていた赤れいむだが、疲れたのかシャボン玉が浮かんでいるのを静かに見ている。 「ゆーん、ゆゆ~ん、れいみゅゆっきゅりしてりゅよ~」 「ゆ~ん、ほんとうだね、れいむもとってもゆっくりしてるよ!」 赤れいむもれいむ種なのだから、れいむ似なのだろう、その馬鹿面までもが縮小されたかのようにそっくりだった。 「そうだね、おちびちゃん、れいむおもわずうたっちゃうよ、ゆっくりのひ~、まったりのひ~」 「ゆゆ、れいみゅもおうたしゃんうたうよ! ゆっきゅりのひ~、まっちゃりのひ~」 ノイズにも劣る雑音が垂れ流すが、同種間ではこれは歌の様だ。 顔を緩ませて、その音に聞き入るれいむ。 「ゆっ! れいむはれいむににて、おうたがとってもおじょうずだね! れいむとってもゆっくりできるよ~」 「ゆゆ! ほんちょ! じゃあれいみゅ、うたひめしゃんになりゅよ!」 「きっとなれるよ! だってれいむのおちびちゃんなんだからね!」 そのなれなかった証明がそこに存在しているというのに、この親子は自身達の未来に酔う。 ただ、ゆっくりしていると信じて。 その光景を見て、まりさは実にゆっくりする。 「ゆゆ~ん、やっぱりまりさのかぞくのみんなはとってもゆっくりしてるんだぜ!」 まりさが守っている光景。 まりさが望んでいる光景。 まりさの思い描いていた光景。 その光景は流石に小さい頃夢見てきたモノとはとても違くなってしまったが、今のこれがまりさの生きてきた証明。 今まで生きてきて、ゆっくりできないこともあった、ゆっくりできたこともった。 しかし、それでも今、目の前の自分の番が、自分の子供が、そして、自分自身がとてもゆっくりしている。 これがいまのまりさの全て、ゆん生の集大成ともいえる光景だった。 そんなこんなであっという間に男の周りのベンチにはゆっくりで一杯になってしまった。 男は気にせず、シャボン玉を作り続ける。 どうせそのうち、飽きてどっか行くだろうと思いると。 「にんげんしゃん、れいみゅにもふわふわしゃんだしゃしぇてにぇ!」 と一匹の赤れいむが男がシャボン玉を作っていることに気付いたのだろう、男に言ってきた。 男はやれやれと言った笑みを浮かべながら、赤れいむを持ち上げる。 「おしょらとんでりゅみたい!」 そうご機嫌にいう赤れいむ。 親のれいむもまりさも、男がゆっくりさせてくれると思っているのだろう、その顔は緩んでいた。 「ゆゆ~ん、れいみゅゆっくちしてりゅよぉ~、ゆゆ~」 ご機嫌に鼻歌まで歌い始める。 ポンと男の手のひらの乗せられ赤れいむの前に突きだされた一本のストロー。 赤れいむは躊躇なくそれを銜える。 男を真似てだろう。 だがこの先は見ているだけでは分かりにくい。 しかし、ゆっくりらしい計画性も想像性も何もなく、赤れいむは気にせず、躊躇もせず思い切りやった。 さて、ここで少し考えてみよう。 小さい子供がストローの刺さったジュースのコップにすることはなんだろうか。 答えはただ一つしかない。 吸う、だ。 ジュルル! と勢いよく、コップの中の石鹸水が吸われる。 ストローに少しだけ影を作り、流動性のあるそれは重力に反して動く。 ストローの先から入り、蛇腹部分を通る。 あっという間に石鹸水はストローを通り切り、赤れいむの口の中に入っていった。 そして、それをは赤れいむの舌に辿りつき、その舌を味覚を刺激させた。 一瞬の間。 赤れいむは顔を真っ青にする。 その顔は今までかつてない以上にゆっくりしていない。 「!!!!!!ぶっ゛」 口に銜えたストローと口に入った石鹸水を勢いよく吐き出す。 ついでと言わんばかりに、餡子も飛び出してくる。 しかし、それでも赤れいむの顔色は元に戻らない。 「!!!! ゆ゛ぎぃ゛」 不細工な顔を顰め、更にその顔を醜くゆがめても、それでもなお顔色は悪いままだ。 とにかく、何かを叫びたかった。 この辛い思いを、何かにぶつける為に。 視界が歪むほどのこの感覚を。 舌の機能が利かなくなるほどのこの苦しみを。 赤れいむの餡子脳の中でこの辛さを伝える言葉を持っていなかった。 だから、ただ、餡子脳の本能として刻まれた、幾つもある末期の言葉の一つを吐きだす。 「!!! ゆ゛げぇ゛!! ごれ゛どぎゅ゛ばい゛っでり゛ゅ゛!!!!!」 そう叫び、今度は口から餡子を多量に放出させた。 なんてことはない赤れいむの舌には今は石鹸の味、台所用中性洗剤の味、つまり苦味が支配していた。 あのなんとも言えない、口に残る苦味。 どれだけ水に流そうと、残るその味。 たかが赤ゆっくり程度の吐く餡子で流しきれるモノではない。 「ゆ゛げぇ゛! ゆ゛げぇ゛!! ゆ゛げぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!」 それを証拠に、赤れいむは目を血走らせ、自身の限界を挑むように餡子を吐き続ける。 ゆっくりの一家は、いきなりの赤れいむの吐餡行動に呆然としている。 まるで自分の中の悪魔でも吐き出すかのような行為。 石鹸と汚物は相容れぬものなのだろうか、少しでも浄化しようとする作用があるかのように、赤れいむの吐餡は止まらない。 すでに左右の目は何も映し出さないように濁りきり、何処を向いてるかもわからない。 ただひたすら、赤れいむの家族に赤れいむはゆっくりできない声を響かせる。 そして家族はその音源を注視してる。 「ゆ゛ぎっ」 赤れいむは、今まで吐餡をし続けた口をいきなり閉じた。 「ゆ゛ぶっ」 それでも、吐餡行為は止まりそうにない、歯茎をむき出しに歯を食いしばる。 「ゆ゛がっ」 だが足りない、食いしばった歯の隙間から餡子が出口を見つけ出しニュルニュルと顔をのぞかせる。 「ゆ゛びっ」 ボロボロと今まで以上に涙がこぼれる、それでも餡子の流出は止まらない。 歯を食いしばるのも辛くなり、徐々に口がすぼまっていく。 「ゆ゛べっ」 赤れいむは最後の抵抗に限界まで口をすぼめる。 体が震わせ、体は跳ねさせ、体をくねらせ。 全身を使い、短いゆん生の中で飛びぬけるほど、力を込める。 しかし、それでも、足らない。 赤れいむの体が強く跳ねる。 「ゆ゛っ゛!!!」 一瞬、赤れいむの苦悶の表情が透明になる。 そして溜めが終わったように最後に強く響いた。 「ゆ゛げぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!」 今まででもっとも汚い音をたてながら赤れいむは口が裂けろと言わんばかりに口を開く。 「え゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!」 少しずつ出来てきたのは丸く、他の餡よりも艶のある餡子、中枢餡。 それが徐々に赤れいむの口からひり出されていく。 「ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!!!」 徐々に、徐々に、出てきた中枢餡はその全容を見せた。 それがなければ生きていけない、ゆっくりの中枢餡である。 赤れいむは今まで、必死に動いていたのが嘘のようにピクリとも動かなくなる。 男の手の中の赤れいむは餡子を少しも残さず、自身の餡子を吐きだし尽くしピラピラの皮となっていた。 それでもなお、その顔はまだ苦痛にゆがんだままだった。 死んだ。 ゆっくりが呆然とする中。 一つの元気な声が響く。 「あっ! ゆっくりがいる!!」 今まで公園の芝生で遊んでいた子供だ。 その声を聞きつけ、別の子供たちがホントだ―、と楽しそうな声を上げる。 「みんなー! 次はこれで遊ぼー!!」 一人の子供が言うと、みんなただ、わかったー! 騒いだ。 男の子の一人が、親のまりさを持ち上げる。 「おそらとんでるみたい! ……ゆっ? ゆっ? なんなんだぜ、なにするんだぜ!」 自分の子供がいきなり壮絶な死をした直後である。 ここは頭の回転の悪いゆっくり、死んだという事実を呑み込みきれない、いや死んだとわかっていない。 不安げに、ゆっ? ゆっ? と戸惑いながら、いきなり持ち上げられたまりさは、訳の分らぬままに男の子の手から逃れようと、体をよじる。 しかし、その程度では、子供の拘束すら解けない。 「ゆっくりおろすんだぜ! ゆっくりおろすんだぜ!」 まりさは自分の子供の安否も分からぬまま、連れて行かれる。 先ほどまで子供たちが遊んでいた、芝生だ。 「ゆっ! おちび、おちびは、いったいどうなんたんだぜ!」 いつもの傲慢さを出す暇もない。 ただ自分の希望であった、自分の子供が命である餡子を大量に吐いたのだ。 あの量では死んでいると、素人目でもわかる。 しかし、信じられない、信じられるわけがない。 ただ、生きていると信じて、まりさは底部に力を込め、一瞬でも早く自分の子供の元へ跳ねようとする。 「あ、コラ逃げるなっ!」 が、蹴りがまりさを襲う。 まりさはゆべっ! と潰れたような声を出しながら、芝生の上を転がる。 男の子がまりさを降ろしたのはまりさの命令に従ったわけではない。 蹴るボールは手に持っていたら蹴りにくいのだ。 ただ、それだけだ。 「おちびゅ!」 男の子達は、まりさを嬉々として蹴りつける。 しかしまりさは、逃げようと、自分の子供の元へ向かおうと、必死に動く。 「おびっ!」 それでも遅々として前に進まない。 「ゆ゛っ!」 蹴られ戻され、踏まれ止まり。 「ぼうやめでー! やめでぐづぁー!!!!」 一人の蹴りが、まりさの目に突き刺さる。 「ばりざのおめめがぁぁぁぁぁ!! ぜがいをみどおずばりざのおべべぇぇぇぇぇぇ!!!!」 ブジュリとまりさの目から音が鳴った。 涙とは違う液体がもはや目のない窪みから流れる。 「おべべぇぇぇぇぇ!! おべぇぇぇぇ!!!!」 泣き喚いていると、まりさに力強い一撃が加わる。 放物線を描き、遠く飛ばされ、連れていかれたところまで吹き飛ばされた。 「ゆべぇ!!」 痛みに呻きながらも、まりさは残った目を開いた。 ただ、一心にまりさの子供の安否の為、ただ信じたいため、この心に残った赤れいむが死んでしまったという、信じたくないことを払しょくするため。 ただ、それだけだったのに。 「ゆ゛っ……?」 そこには。 絶望があった。 まりさの想像を超える、絶望。 まりさの子供達が、希望が、ピクリとも動いていない。 顔に幾つもの穴が開いている、口から目から砂糖水の体液を垂れ流している。 その死にざまはまったくゆっくりしているモノではない。 「あ、あ、あああ」 震える声で、見たくないモノから目をそらす、その視線の先には、れいむがいた。 まりさの番のれいむだ。 だが、まりさの子供たち同様に、すでに死に絶えていた。 しかし、死に方は体に棒が突き刺さっているのだ。 幾つも穴が開いている。 中枢餡に刺さるまでにあけた穴だろう。 その顔は、最初に死んだ赤れいむ同様、壮絶なまでにゆっくりしていない表情だった。 「ば、ばりざの、ばりざの、ばりざの……」 その光景が目に焼きつく。 まりさが守れなかった光景が。 まりさが望んでいない光景が。 まりさの思い描いていない光景が。 まりさのゆん生の全てが、終わっていた。 「ゅっ、ゆっ、ゆっ、ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛」 まりさは痙攣し始める。 口から泡がボコボコと吐きだされ、残った片方の目も白目をむく。 「ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛ゆ゛っ゛、ゅ゛っ゛、ゅ゛っ゛……、ゅ゛……っ」 全てを失ったまりさは、ただ、ゆっくりできなくなって死んだ。 まりさが動かなくなると、子供達は別の遊具に行ってしまった。 男はやれやれと思いながら、ゆっくりの死体を持ち上げる。 ここの公園はよく整備されている。 なら、綺麗に使うのは道理だろう。 餡子が飛び散らないように、棒で突き刺して殺したのだ掃除は楽だ。 ただ、最初に死んだ赤れいむの餡子はしょうがないだろう、自然に任せるか、管理者にどうにかしてもうことにする。 ゴミはゴミ箱へ。 ゆっくり専用と書かれた、ゴミ箱には今日もたくさんのゆっくりが詰め込まれていた。 ただ、そのゆっくり達のゆん生はシャボン玉より淡く、儚く、そして比べるまでもなく汚らしいゆん生だろう。 anko1083 サンプル anko1097 暗く湿った穴の中 anko1308 すろーりぃな作戦 anko1394 投げた! anko1425 声 anko1477 さよなら生物 anko1503 山彦恋慕 anko1632 親の脛かじり anko1739 楽しい朝餉 anko1823 梅雨が来て、人が来て anko1879 飼い(仮)ゆっくり 子れいむ anko1890 一緒に遊ぼう anko2053 ゆっくり地獄鍋 anko2216 真夏のオアシス anko2291 一番ゆっくりしてるのは anko2313 エチケット糞袋 anko2471 甘い言葉 anko2574 戦い方を教えてみたり 19作目です。 では、最後まで見ていただけたら幸いです。 大きく振りかぶったあき
https://w.atwiki.jp/bubblefetish/pages/13.html
しゅごキャラ!37話 あむ達が×キャラの作ったシャボン玉に閉じ込められてしまいます。 しゅごキャラ!! どきっ!100話 アミュレットハートに変身したあむとあむのしゅごキャラ・ミキとスゥ、唯世がシャボン玉に包まれています。 OP「みんなのたまご」 しゅごキャラ達がシャボン玉に包まれています。 OP「Scool Days」 あむとあむのしゅごキャラ達がシャボン玉の上に落下し弾力で弾き返され、そのまま上に乗って飛んでいくシーンがあります。 ※2期からアニメオリジナル要素としてアミュレットクローバーにハニーバブルスというワンドでシャボン玉を出す技が追加されています。 しゅごキャラ!!! どっきどき PARTY TIME/わたしのたまご 帯イラストであむ・りっか・ひかるが楽しそうにシャボン玉の中に入って浮かんでいます。