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(妹より兄へ) ××日付、佐治さんを接近させてはいけないというお手紙、本日拝見いたしました。 いつもどおり、いろんなことに気を配ってくださるお兄様だけれど、喬子、こんどのお手紙だ けはよくわかんない。佐治さんは、喬子が接近したのでもないし、接近させたんでもないの。お 兄様だって御承知のとおり、お兄様や漆戸と同期生だったんですって。アメリカから帰られると、 すぐ漆戸を訪ねていらっしゃって、漆戸は、病気で退屈で、話し相手が欲しいもんだから、佐治 さんが来てくださるのを、ずいぶん楽しみにしているんですわ。 そういえば思い出すけれど、漆戸が一度いいました。「佐治という男は、学校時代からちょっ と変わったところがあって、他人からずいぶん誤解されたものだが、芯は、気の弱い正直な男 さ」って。喬子、まだ佐治さんがどんなふうに変わっている人か知らないけれど、お兄様が何か きっと誤解しているんじゃないかしら。まアとにかく、お兄様のいうことは、これまでたいてい の場合、嘘だったことはないのだから、その意味で喬子、こんどのお手紙のこと、忘れないでい るつもりです。漆戸が、電諳をかけて呼んだりなどするのだから、佐治さんが、ここへ足踏みも しないようにするなんてこと、とてもできないけど。 漆戸の病気、ほんとうはあまりよくなくて、困っています。医者のいうのには、この冬を越せ るようだったら、見込みがいくらか出るんだそうです。一週間前に喀血して、近ごろは痩せ方も ひどい。この冬のうちに、夫と死に別れするなんてこと、考えただけでもゾッとしてしまう。それじゃ、喬子があんまりかわいそうすぎると思う。 お兄様のほうの御病気はどうなんですの。くれぐれも体をたいせつにしてネ。 (兄より妹へ) 三日ほど前、足試しのつもりで、宿の近くを四、五町歩いてみた。歩けたには歩けたが、無理 だったとみえて、あとの疼痛が激しく、今日やっと苦痛が薄らいできた。心配してくれたけれど、 僕の病気はだいたいこんな程度。気長にして、ここの温泉につかっていればいいのを、時々、焦 って足試しなどするのがいけないのだ。リウマチなんて、老人のかかる病気みたいで、気の利か ぬことおびただしいが、いずれしかし、治ることは治ると思うから、心配しないで欲しい。旦那 様の病気と兄貴の病気と、二つ心配してちゃ、君もたまらないじゃないか。 さて、佐治佐助の件。 私からの手紙がたいへん簡単すぎたため、君には私のいうことがよくのみ込めなかったらしい ね。無理もないことだ。佐治は、私にとっても友人だし、彼のことをあまり悪く言わずにおこう などと考えたのだが、どうもそれでは不徹底で、結局、私の知っていることや考えていることを、 ここで全部言っておかねばならないだろう。 佐治をなぜ接近させてはいけないか、その理由は、だいたい二つあるが、まず割りに小さな理 由のほうから言うと、それは彼が非常な美男子であるということだ。 彼の美男ぶりについては、君が彼を直接知っているし、詳しい説明をしなくてもいいが、大学 時代、彼についてはすでに、 「佐治を見た女は不幸だね」 という深い意味の言葉が、ある教授の口からさえ言われたものだった。 彼は牛込のほうにある某先輩の家に寄寓していて、一時そこから大学へ通ったことがあったが、 そのころ彼が通学するために乗る市内電車には、若い女がずいぶんたくさん乗ったものだそうだ。 女学生、交換手、そのほか職業婦人といった手合いが、自分たちの時間に遅れるのも構わず、あ るいはことさらに回り道をして、佐治の電車を待ち構えていたというのだ。まるで嘘のような話 だけれど、必ずしも嘘でない証拠には、某女学校で佐治に付け文をしたため退学された生徒が二 人まである。私たちより一時代前の学生たちは、女義太夫というものを一生懸命で追いかけたと いうし、現代の女学生はターキーで夢中だ。佐治については、ちょうどこんなような人気があっ たのだろう。表面慎み深い女でも、どうかするとひどく大胆に勇敢にまた露骨になることがある。 往年私は、映画で有名な速水張治郎の実演を某劇場へ見に行ったことがあるが、その時につくづ く女のすさまじさを見た。張治郎が花道を通ると、花道際にいた女たちが、身を乗り出し、手を 伸ばして、この美男で名高い俳優の足をなでようとするのだ。劇場がはねてからは、楽屋から宿 へ引揚げようとする張治郎のぐるりに、黄色い喚声をあげて女たちが押しかける。実にそれこそ は露骨であさましいくらいのものだったが、佐治も俳優になっていたら、さしずめ張治郎と同じ だったに違いない。お転婆な女学生たちの間では、彼のことが「バレちゃん」という綽名ですぐ わかるほどになっていたというが、それはなんでもバレンチノという映画俳優に似ていたからだ そうだ。 佐治が寄寓していた先輩の家では、その細君が、離別された。 政治家として知名なS代議士の令嬢は、どこで手に入れたか佐治の写真を持っていたことが発 見されたため、実業家M氏の令息との婚約が破れ、その結果がやがてS代議士の財政的破綻、政 治的失脚になったとも伝えられている。 さらに痛ましいのは、前にもちょっと述べた某教授の令嬢が、これは気の毒なくらいの醜女だ ったそうだが、佐治あてに非常に長い手紙を昼き、しかもその手紙を実際に佐治のところへ出す 勇気もなく、毎日持ち歩いているうちに、彼女はD英語塾というのの生徒だったそうで、その手 紙を朋友に見られたのを恥ずかしがり、カルモチン自殺を遂げてしまったことだ。 それでこそ、教授のいった言葉の意味がよくのみ込めるだろう。 佐治が、彼自身から女に働きかけたということをまだ聞かないのは、いささかなりとも彼の面 目を保つに足る。だから、正しい意味では、彼は女蕩しだとか色魔だとは呼べないのだが、不幸 にも彼は、女に対してそれだけの魅力を持った男だ。漆戸もそのことは知っていたはずなのに、 なぜ彼を接近させるか、私は不審でならない。漆戸には、君からこの手紙を見せてやってもらえ まいか。そうして君自身も、愛する漆戸のため、こういう危険性のある男を避けるがいいのだ。 君が、佐治を相手にして火遊びをする女だとは思わないけれど、用心に若くはなし、あえてこ の第一の理由を、あけすけに言っておく次第だ。 理由第二−-。 これは、君の旦那さんが「佐治は少し変わったところのある男だ」といったとかで、この言葉 に関連していると見てよい。どこが変わっているか、一口にいえば彼は変に悪党ぶる癖がある。 このことは、まア漆戸だとか私だとか、佐治ととりわけ親密だったものだけが知っているのだが、 彼は一種の偽悪病患者なのだ。学生時代、彼は毎試験期に、すこぶる巧妙なカンニングの方法を 案出した。そしてその方法を誇りがに皆の前で公表した。ところが彼自身はカンニングなんかし ないで、いつも最優秀の成績で試験をパスしているのだ。上野の図昼館の本を盗み出す方法とか、 電車へただ乗りする方法とか、時には釣り銭を詐取する方法とか、いろんなことを考え出したも のだが、これらの方法は、実に奇抜で巧妙でだれしもちょっと実行してみたくなるようなものば かりだった。彼はある時、友人の名前を利用して、その友人の国元から為替を送らせ、為替を横 取りする方法を案出したが、これはKという放蕩者の学生がすぐまねをし、しかし、ヘマをやっ たためにたちまちKはその筋の手で取り押さえられ、しかも学校からは退学処分に付されてしま った。 このことが、いち早く私たちの仲間に知れた時に、佐治は、 「馬鹿なやつさKは。あいつ、僕のでたらめにしゃべったことを、ほんとうにできることだと 思やがったんだね。ああいう低能児にかかっちゃかなわない。こっちで迷惑してしまう。僕は元 来頭の悪いやつが大きらいで、世の中の低能児なんてものは、むしろ一時に殺戮してしまったほ うが、世の中をどんなに愉快にするかしれないと思っているんだが、Kなどは、差しあたりその 被殺戮者の筆頭だね。あいつは、結局、順当に学校を卒業しても、決して出世する男じゃないよ。 いつかは、こんどと同じようなヘマをやって大失敗を重ねる男だ。要するに世の中じゃ、頭がよ くって、犯罪を巧みにやるようなやつ、悪いことをしても、それをだれにも知られないでいるや つが、いちばん手っ取り早く成功するんだからね。Kなんて、実に下らない存在さ。え? 何、あ れにもう少し同情してやれって? 冗談じゃない。いくら僕のしゃべったことに誘惑されたのだ からって、あんなやつに同情してやるほど、安価なセンチメソタリズムを僕なもっていないよ」 いかにも強がって言ったものだ。 あとで聞くと、佐治は、Kのつかまった時警察へ自ら出頭し、実はその為替横取り事件は、こ れこれで白分が案出した方法だと言い、それが実行できるかどうか、Kと賭けをしたのだという 嘘を言いこしらえて、そのほかKのために百方陳弁したそうだ。Kに対する佐治の友情で、係官 もひどく感激させられたというし、Kは涙を流して、自分がかえって佐治に迷惑をかけたことを 謝ったという。それのみか、佐治は、Kのすでに費消した金を、全部自分で弁償し、とにかくK を警察から救い出してさえいるのだ。 佐治が私たちに向かって言った強がりと、この実際の行為と、いずれが彼本来の面目であるか、 私は、いまだに決定することができぬような気がする。 美貌を利用して、女をだますことぐらい朝飯前だと言い、時には、数人の女を事実手玉にとっ ているがごとく見せかけて、一度もそれで尻尾を出したことがない。前言ったようにもろもろの 恋愛事件が、すべて女のほうから、片思いにすぎなかったということで鳧のついてしまったのは 不思議なくらいだ。 彼は、こうも言ったことがある。 「僕はね、どうも君たちから、法螺吹きだと思われているらしいよ。悪いことをするような顔 をして、いっこう悪いことはしやしない。だから、正真正銘の僕は、実に気の小さい男だと思わ れているらしい。だが、僕は、実のところ、ちっぽけな悪いことなんかやりたくないのだ。同じ やるなら、いまだかつて、人類のだれもが案出したことのないような悪事をたくらもうと思って いるのだ。いわば僕の一生涯は、その悪事のためにささげられるといってもいい。芸術家が一世 一代の大作品を作り出すように、科学老が生命を賭して、宇宙の一大神秘を解こうとするように、 僕は、前人未踏の境地に分け入って、悪の最高峰をきわめようというのだ。大きな悪事をする前 に、ちっぽけな悪事で、警察へ連れて行かれるなんてのははなはだ不名誉だ。だから僕は、目下 できるだけ謹慎して、時期の到来を待っているのさ」 当時の私は、佐治がいかにもうまいことを耆うので感心したものだ。ただ、今にして思えば、 佐治が、本音でこんなことをいったのか、それともおもしろ半分であったのか、その点が多少曖 昧にもなってくる。 偽悪病が、最後まで偽悪病であればよろしい。けれども、いずれの日にか、彼の偽悪が偽悪で なくなる時が来ないとは断言できない。その意味で私は、佐治を危険人物とみなすことに躊躇し ないのだ。大学を出てから彼は×省へ入って役人になり、こんど洋行してきたという。昔よりは ずっと大人になったし、学生時代のように、むやみと偽悪ぶりを発揮することもあるまいけれど、 それこそかえって、腹の底では、ほんとうに何かの悪事をたくらみ、その準備にとりかかってい るのだと考えることも不可能ではない。 なお彼の警戒すべき性格については、以上のほかいくらでも話があるように思うが、今日は疲 れたから、これで擱筆しよう。 僕の言うことは、わかってくれたろうね。 漆戸には、病気を、忍耐で征服しろといって伝えてくれたまえ。肺なんか、黴菌と忍耐との闘 争で、根気の強いほうが勝つもんだそうだよ。愛する妻のために、どんなことがあっても生き伸 びてくれなくちゃ困るわって言って、君から甘えてやるのも一つの手だね。 じゃ、さようなら。 (妹より兄へ) お兄様の心配症なこと、喬子、漆戸と二人で大笑いしちゃいましたわ。こんどみたいなおもし ろい手紙は、あたし、今までにだれからももらったことがない。モチ、お兄様の気持ちはよくわ かるし、それについては、漆戸もどんなにかありがたがっているのだけれど、あたしがあの手紙 を見せると、お兄様のこと、被害妄想狂だそこれは—って漆戸が言うの。 偽悪病患者と被害妄想狂なんて、とても、絶好の取り組みねえ。 昨日も佐治さんが見えたので、喬子、お兄様のことなんかむろん何も話しやしないけれど、佐 治さんを、ふいに、「バレちゃん」て呼んでやった。佐治さん、ひどくびっくりしてしまって、 顔を真っ赤にしているじゃないの。どこでそんなことを聞き込んだかって、一生懸命気にしてい て、おかしいったらない。漆戸と二人して、さんざんからかってやったんだけれど、あの人、漆 戸の言うとおり、ほんとうに気の小さな人ね。お兄様、何も心配することは要らないと思うわ。 漆戸と話している時、あの人、こんなことを言いました。 「ねえ漆戸君、僕はこのごろつくづく自分がだめになったと思うよ。昔は僕も、相当野心家で、 勉強もしたし、撥刺たる意気ももっていた。ところが、学生生活を終わって社会に実際出てみる と、すっかりもう僕はサラリーマンになり切ってしまって、いつもいつも考えていることは、早 くサラリーが上がればいいとか、上役の感情を損ねてはならないとか、役所で何か手柄をして長 官に認めてもらいたいとか、それに類した事柄ばかりだ。往年の大言壮語がきまり悪くなってく る。これではいけない、昔の意気や野望を盛り返せという叫びが、時として頭の隅から聞こえて きても、イヤイヤ、現在だって何も不幸ではない。同期の卒業生などに比べると、自分は出世が 早いほうだし、まず成功者のうちに入れそうだ。焦ってはならぬという考えが湧いてきてしまう。 —実にだめだね。僕は、もしかして僕を、昔の僕に復帰させようというのなら、結局のところ、 ここらですばらしい恋愛でもやって、昔の若さを再び燃え立たせにゃだめだろうと思っているよ。 正直にいって、僕は、女にもてはやされ過ぎた。女など、いつでも欲しい時に手に入れることが できると思って、かつて一度も心からの恋愛をしたことがない。僕が、手に入れようと思っても、 容易に僕を許してくれぬような女があれば、たぶん僕は、昔の僕にもどれるだろう」 あたし、この言葉こそ、佐治さんの本音だろうと思います。だれかあたしの知っている女のう ちから、佐治さんが恋をするにふさわしい人を見つけてあげたいくらい。 そういう恋人ができてしまえば、佐治さんは、もっと元気のいい人になるだろうし、かといっ て、まさか昔の偽悪病患者になどなりっこないわ。 今日、東京は初雪。 漆戸は、あの後、どうしてか妙に体のぐあいがいいらしく、この分なら、大丈夫だど自分でい っています。御安心ください。 (兄より妹へ) 被害妄想狂云々のお手紙、実にまいってしまった。 そう言われれば、なるほど僕は、被害妄想狂かもしれないと思うのは、こんどの君の手紙でも、 またまた余計に心配になってきたからだ。僕は佐治について、あまりしゃべり過ぎたのじゃない かしら。そうして、そのために、今まで君の心のうちで、何も知らず眠っていた佐治に対する好 奇心を、横っちょから掻き立ててしまったのではないかしら。 喬子。気をつけろ!!! 君は、佐治のために、恋人を探してやろうなんて言っている。これは、要らぬことだぞ。決し て決して、そんなお世話を焼くものじゃない。それはおまえが意識せずして、佐治に好奇心を抱 き始めた証拠だ。 異性が異性に対する好奇心は、危険な火遊びの第一歩だ。すでに、好奇心をもち始めた君に対 して、僕がこういうことを指摘するのは、いいことか悪いことか、僕には判断できない。手紙を 書きながら、躊躇しているのだけれど、とにかく、君はよろしくない。佐治を、悪党だと思って くれ。頼む。私は、心配だ。リウマチでなかったら、すぐにも東京へもどって、佐治に絶交を言 い渡し、おまえと佐治とこれ以上の接近を防ぎたいほどに思う。 漆戸あて、別に書信で、佐治を警戒するよう言ってやった。 被害妄想狂と嘲られてもいいから、要するに私は、漆戸とおまえとの幸福を祈る心で専一なのだ。 (妹より兄へ) クリスマス、それから年の暮れ。 なんだか気持ちの落ち着かない時になってきました。毎年のことでめんどうくさい贈り物とか、 漆戸が、いつものとおり、クリスマスのお祝いを家でやれとか言うので、喬子、めちゃくちゃに 忙しく、お兄様への御返事、一週間近くも放ったらかしにしてしまった。堪忍してネ。 あたし、このごろになってつくづく思うのだけれど、お兄様、やっぱし偉いわね。お兄様の手 紙で、喬子は、自分の気持ちをかなりハッキリと解剖することができました。そして、お兄様の いわれたとおり、喬子が佐治さんに対して、確かにある種の好奇心を抱いていたことを発見し、 自分でびっくりしています。 あたし、いけない女なのでしょうか。 このごろのあたしは、佐治さんと直接視線をカチ合わせるのが恐ろしいように思うし、漆戸と 佐治さんとが何か話し合っているところへ、紅茶などを運んで行っても、変に不安なものを感じ てしまう。できるだけ不愛想に振る舞ってはいるつもりだけれど、それが心からの不愛想でない ことを、夫からも佐治さんからも、すでに看破されているような気がする。 漆戸が、あののち、日増しに元気になってくれたし、いつかは、あたしをもっと力強く護って くれそうなので、それを心頼みにもしています。そしてあたし、いろいろ考えたすえに、最賀さ んにお願いして、これから当分、同居していただくようにしました。 最賀さんは、お兄様も、二、三度会って御存じのはずね。漆戸の後輩で、今は漆戸のやってい る事業のパートナーです。無口な、ブッキラ棒な、怖いみたいな人だけれど、事業上の手腕はす ばらしいとかで、漆戸がすっかり信用しています。奥さんを去年亡くして、お淋しいようでもあ るし、ここの家に同居していれば、事業上便利でもあり、それに喬子としては、漆戸以外に、喬 子をじっと監視してくれる人が欲しい。それやこれやで、最賀さんに来ていただいたわけです。 自分で向分の心を信用できず、監視人を置くなんて、喬子もずいぶんおバカさんネ。 でも佐治さん、なんだか、ひどく恐ろしい人のように見え出してきたのだから仕方がない。あ たしもお兄様の被害妄想狂にかぶれちゃったのかしら。お兄様の御病気は、近ごろどうですの? (兄より妹へ) お手紙拝見。実にごんどは、とりとめのない手紙だったね。 私は、三度も四度も、こんどの君の手紙を読み返してみたのだが、どうも君の真意がよくわか らなくて困っているよ。 というのが、君の言うことは、変に不自然じゃないか。 佐治に、君は好奇心をもっていると言って、正直に告白しているようだが、そのくせ、ではな ぜ佐治を遠ざけないのだ。佐治を恐れながら、彼の出入りを相変わらず許していたのじゃなんに もならない。 君は、何か嘘を言っているね。 嘘ではない、ほんとの手紙を待っている。 今日はこれだけ—。 (兄より妹へ) どうしたのだ喬子! 前の手紙を出してから今日で一週間になる。その間にクリスマスも過ぎてしまったが、おまえ は、まだ私へ返事をくれないね。 君が、嘘をいっていると書いてやったのが気に障ったのか? 気に障ろうがどうしようが、君 からの前の手紙は、やっぱり嘘だらけだと思う。 もう一度訊くが、君は、ほんとうに佐治をどう思っている? 佐治を、もう君が、好奇心どこ ろじゃない、愛し始めたのではないかと思って、私は気懸かりでならない。それに、君から何も 言ってよこしてくれないのは、君を中心にして、漆戸と佐治との間に、何か恐ろしいことが起こ りつつあるためではないかという邪推まで起こってくる始末だ。それが、単なる被害妄想であっ てくれたら、どんなに私はうれしいか。 君の気持ちを、正直に言えないようだったら、偽悪病患者佐治佐助の最近の動静だけでも知ら せてくれ。そうすれば僕は、かなりいろいろのことを判断できるだろう。私は、実は感冒にやら れて、少しまたリウマチを悪くしてしまった。東京へもどって、直接君や漆戸や、その周囲に気 を配ってやれないのが残念だと思う。 折返し、御返事を待つ。 (兄より妹へ) 謹賀新年。 今日でまた一週間になるよ。 正月早々、変なことは言いたくない。 賀状ぐらい、くれてもよくはないか。 (兄より妹へ) 去年の暮れからかけて、私はスタンダールの小説「赤と黒」を読んだ。そしてこの中の主人公 ジュリアンが、少なからず佐治佐助に似ていることを発見した。ジュリアンは、非常に美青年で、 頭脳の明晰な男で、しかも野心家だ。美しいレナール夫人は、ジュリアンを避けよう避けようと 心がけつつ、ついにジュリアンと姦通する。また、侯爵令嬢ラ・モール嬢は、身分の卑しいジュ リアンを一生懸命軽蔑しようとして、しかも妊娠し、彼を世界でいちばん偉い男のように尊敬し、 愛してしまう。最後にジュリアンは、おのれの立身出世せんとするやさきを、レナール夫人の中 傷によって妨げられ、レナール夫人をピストルで殺害する。殺害は、単にレナール夫人を傷つけ たのみであったがジュリアンは死刑に処せられるという筋のもので、私は、今偶然にこんな小説 を読んだことを、何かの暗合、もしくは不吉な前兆でありはしないかと恐れている。 願わくば、君が、レナール夫人であってくれぬように。そして佐治が、ジュリアンとなってく れぬように。 今日は正月四日。昨日も一昨日も、そして今日一日、私はおまえからの便りを待って、結局待 ちぼけを食わされてしまった。漆戸からさえ、なんとも言ってよこさぬのはどうしたことか。こ こで例のごとく、僕一流の想像をめぐらしてみると、君は、僕から漆戸あてに出した書信を、す べて横取りしてはいないか。僕の言葉を漆戸に聞かせたら、漆戸は、君の佐治に対する気持ちを 知って、佐治を遠ざける。それが恐ろしいものだから、君は、僕と彼との間を遮断して、漆戸を 瞞着しているのだ。 愛する妹よ。 まだ時期は遅過ぎはしない。 . 詳しいことを知らせてくれ。 (妹より兄へ) ウルシド、シンダ、サジ、ケイサツヘツレテユカレタ、コチラヘコラレヌカ。 (兄より妹へ) ユカレヌ、イサイ、フミニテシラセ、シンブン、オクレ。 (妹より兄へ) 親切な、そして恐ろしいお兄様。 お兄様は、とうとう、悲劇の結末を言いあててしまいましたわね。電報でお知らせしたように、 漆戸は死にました。いえ、殺されました。何事についても、めったに間違ったことをおっしゃら ぬお兄様だったけれど、こんどの正確さだけは恨みに思います。こんなにまで、言いあててくだ さらなくともよかったのに。 昨日まで、私は、何がなんだか、悪夢の中にいるような気持ちで過ごしてきました。もう、す べてがあまり突然で、眼の前に見ることが、どれも信じられなかったのです。漆戸が死んだこと も、遺骸を火葬揚へ持って行って、その代わりに、骨壷をもらってきたことも、皆、まだほんと うではないような気がしています。泣いても悔んでも、漆戸は生き帰ってはくれません。それで 私は、やっと現実の中の出来事だと意識させられ、悲嘆や慚愧や懊悩やの深い深い谷底へ、一気 に蹴落とされたようになってしまうのですが。 お兄様に、どこからお話を始めたらいいかとてもまだ筋道立ったことは書けませぬけれど、事 件前後のあらましだけを報告させてください。 お兄様が偶然の暗合ということをおっしゃったけれど、全くそれは偶然過ぎるほどの暗合で、 あれは、ちょうどお兄様が、かわいそうなレナール夫人やジュリアンのことを書いた手紙をくだ すった、その晩のことでしたの。ここでついでに申しますけれど、お兄様の手紙は、半分まで、 私の恐ろしい秘密を看破していらっしゃり、しかしあとの半分は、少々お兄様の心配が度を過ぎ たような格好になっておりました。今こそ隠さずに申しますけれど、喬子は実際に、レナール夫 人になりかけていました。佐治さんに好奇心を抱き始めた、と申した時は、すでに佐治さんをひ そかに愛していましたし、そのため、お兄様への御返事を差し上げるのが、なんとしても嘘らし く、しどろもどろに、不徹底なものになり、それを鋭くお兄様から指摘されたものですから、す っかりともう、お便りを出せなくなったのでした。ただしかし、喬子は闘っていました。最賀さ んに同居していただいたということも嘘ではないのです。佐治さんを、陰では悪魔だと思い、で きるだけ軽蔑したり憎んだりしようとし、でも困ったのは、佐治さんから、すでに求愛の態度に 出られたことでした。喬子は、この誘惑をしりぞけるのに、血みどろで闘ったつもりです。つい に漆戸にも、去年のクリスマスの晩告白しましたら、漆戸は、意外にも、このことを半ば以上予 期していたのだと申し、だから私の告白を非常に喜んでくれました。なぜ予期しながら、黙って 見ていたか、夫の気持ちこそ、私には不可解しごくなものですけれど、とにかく漆戸は私を叱り ませんでした。それどころか、佐治さんを相変わらず出入りさせ、お兄様に対しては、私同様、 何も言ってやろうとはしなかったようです。事態は、悪くなるのが当然でしょう。告白をしての ち、私は、夫が、一種の残忍性をもって、あたしを監視しているのだと思い出し、すると、反抗 的に佐治さんと親しいように見せかけたくなり、一方では、やっぱり誘惑に乗るまいとして苦し みました。お兄様が、半分だけ、心配の度をお過ごしになっていると申したのは、それでも喬子 が、レナール夫人に、まだなり切らずにいたことでございます。それだけは信じてください。心 のうちはどうあろうとも、形の上で、まだ喬子は、漆戸に言いわけのできぬところまでは行って いませんでした。喬子は、辛くも最後の一線を死守しました。そうして、こういうような状態の もとに、前言った晩がまいったのでした。 その晩—。 折り悪しく家の中には、喬子と漆戸と女中のお竹というのと三人だけだったのです。最賀さん は三日ほどの旅行中で、竹や以外の女中や書生は、七日正月の終わりの日でもあり、私が暇を与 えて遊びに出しましたので、ちょうど八時半ごろだったでしょう。 私は、漆戸の翌日の分の薬を、お竹に言いつけて医者のところまで取りにやり、そのあと、ち ょっと夫の病室へ行きました。それからしばらくすると、台所のほうへ竹やの帰ってきた気配が しましたが、私は、ふと、よそへ、電話をかける用事のあったことを思い出し、夫の部屋を出て、 お兄様も知っていらっしゃる、お納戸の横手の電話のところまでまいりますと、その時家の中の 電燈が一時に消えてしまいました。 発電所の停電だろうか、それとも、引っ込み線のヒューズでも飛んだのかなど思いながら、じ きに点くと思いましたし、私は塗りこめられたほど真っ暗な中で、そのまま電話をかけにかかっ て、しかしそれが、幾度も幾度も話し中だったり混線していたりで、かなり長い時間かかりまし た。長いといっても、むろん十分ぐらいのものだったでしょうが、その間電燈は点きませんし、 女中の竹やが、あいにくと一か月ほど前東京へ出て来たばかりの田舎者で、マッチを探したり蝋 燭を出したり、家の中の勝手にも不案内で、そんなことにたいそう手間取りました。電話口にい た私は、暗さは暗し、電話での話は通じませんし、いい加減でじれったくなって、いつものキャ ンキャン声でどなり散らしたすえ、受話器をかけてしまおうとしたとたん、家の中のどこかで、 ピシーリ! というような、激しい銃声を聞いたのでございました。 まだ台所でマゴマゴしていた竹やは、あとで言うのに、私が電話をかけていて、ふいに倒れる とか何かにぶつかるとか、けがでもしたのではないかと思ったそうですが、はじめ私も、そのす さまじい銃声が、あまり突然でもありましたし、どこで起こったのか、すぐには見当のつきかね る気持ちでした。 竹やが、やっとこさ蝋燭をともして、念のため、廊下の隅っこにあった引っ込み線のスイッチ を照らしてみますと、どうしてでしょう、その蓋が開いています。これはあとで思うと、だれか が、家の中を暗くする目的で、スイッチを切ったものでしょうが、その時は、ただ、だれがこん なことをしたのかというぐらいで、別に深いことも考えようとはせず、竹やに踏み台やら脚立や らを持ってこさせ、女ばかりだから、たいへん骨を折ってスイッチを元へもどし、さて明るくな ったところで、夫の部屋へ行ってみますと、それはもう、私の口からは申せぬほどのむごたらし いありさまでした。 漆戸は、ベッドへ、仰向けに寝たまま、頭をピストルで撃ち貫かれて絶命していたのでござい ます。 私が電話をかけに行ったあの時までは、確かに何事もなかったのに、それも、近ごろは病気か ら来る熱もぐっと下がって、この分なら春先には起きられるかもしれぬなどと、うれしそうに話 していた漆戸だったのに、もう夫は、一口も物を言ってくれません。悲しい亡骸になってしまい ました。 それからあとのことは、私から申すまでもなく、いっしょにお送りした、東京の新聞で御覧に なってくださいませ。 警察の人たちがまいってから、最初は、凶器のピストルが問題になりましたけれど、そのピス トルは、夫のベッドの枕元にある小机の引き出しへ、いつも入れておいたものでございます。ピ ストルは、中庭の山茶花の根元に、一発だけ弾がなくなって落ちていたのを、一人の刑事がじき と発見したのですが、一方では、部屋の中庭に向いた窓が開いていましたし、裏木戸の潜りも、 簡単に開けられるようになっていました。結局、何者かが、夫の枕元にあったピストルで夫を殺 害して、窓から中庭へ逃げ出し、ピストルを山茶花の根元へ捨て去ったものだろうということに なりました。電燈を消したのは、私が、電話のところにいましたし、そこから、また竹やのいた 台所のあたりからも、中庭のほうを、見ようと思えば見えないこともなく、犯人は、そういう場 合をあらかじめ考慮して、電燈を消してから、夫の部屋へ忍び入ったのであろうという推定です。 盗難の形跡はありません。 犯人は、だれかということになり、この家へ出入りする者を調べ始めると、佐治さんが、じきに 疑われるようになりました。どこのだれがそんなことを警察の耳へ入れたのか、佐治さんと私と のひそやかな恋愛問題が、ちゃんともう知れていて、そのうえ悪いことには、事件の起こった当 夜八時半ごろ、佐治さんは、この東京のどこにいたのか、ハツキリしたことが申せませんでした。 警察で当夜の行動を尋ねられると、はじめ佐治さんは、その時刻に、上野公園の科学博物館前の ベンチにいたのだと申し立てたそうで、しかしそれが、私との逢引のためだったと苦しい弁明を したとのことです。午後八時半に、そこのべンチで私とひそかに会おうということを、私と約束 してあり、じっとそこで私を待っていたというのですが、それについては、私も警察からいろい ろ訊かれて、もとより、そんな約束をした覚えはありませんし、私がそれを否定しますと、佐治 さんはたいへんに怒って、私のことをひどい嘘つきだと言ってののしりましたけれど、いかに愛 を感じ始めた人のためであっても、私、そんなふしだらな約束をしたとは、どうしても申せませ ん。ありのままに、それこそ佐治さんの言い懸かりだということを明らかにしましたので、結局 あの人のアリバイは、成り立たぬようになりました。できるだけ秘密の逢引を遂げるため、人に 姿を見せぬようにしていたのだという弁解だったそうですが、科学博物館の前で佐治さんを見た ということを、だれ一人、申し出るものもありません。私も、お兄様に前申したとおり、佐治さ んを特別な関心をもってながめていましたし、それは私の、悔いても悔いても悔い切れぬ過ちで した。佐治さんは、求愛に私が報いぬのは、夫があり、しかも、近ごろだんだん夫の病気が快方 に向かっている、そのためだと考え、そのあげくが漆戸を殺す気になったのではなかったでしょ うか。そうして、あまりにも早くその罪が発覚しかけると、偽のアリバイを申し立てて、そのア リバイを、私の好意ある偽の証言で、有効に役立てようとしたのではなかったでしょうが。真実 私が、夫よりも佐治さんを愛していたら、佐治さんを救うため、上野公園で密会の約束をしたと 言い、しかし事情があって時間に遅れたため、佐治さんを公園のベンチで待ちぼけにしたと申し 立てることができたかもしれません。そうなれば、事情は変わってきます。佐治さんは、アリバ イのあるおかげで、ずっと有利になります。不幸にも佐治さんは、私の愛を測り損なったのです。 私は苦しみもだえて、しかし、そのように「好意ある偽の証言」をするまで佐治さんを愛してい なかったことを、今、ハッキリ知りました。そして、せめてそれが、漆戸へのお詫びだと思って います。 佐治さんが偽悪病患者で、いつかは、最もすばらしい犯罪をたくらんでみせると公言していた というお話や、ジュリアンが、やっぱりピストルで、レナール夫人を撃ったというお話を、私は、 いまさらながら思い出しています。 昔から、まちがったことをおっしゃらぬお兄様。そして、実に怖いお兄様。 今の哀れな喬子を慰めてください。 (兄より妹へ) かわいそうに。 普通の人生ではめったに出くわさぬような悲劇の渦中にあって、心身共に疲れているだろうに、 よくこんどの詳しい手紙を書いてくれた。おかげで、だいたいのみ込むことができたわけだ。 私に言わせれば、私のリウマチが祟ったのだ。私が、東京にいたら、こんなことを、決して起 こらせはしなかったのに。 さてしかし、君からの手紙で、だいたいのみ込めたとはいうものの、生まれつき、何事もいい 加減では放ったらかしにできない、しかも、人一倍穿鑿好きなところのある、兄の因果な性格を 許しておくれ。僕は、君の手紙やら新聞記事やらで、二つ三つ、なお、尋ねたいことがある。そ れは、佐治もまた私の旧友であり、彼が漆戸殺しを、まだ否認し続けているらしいから、どうで も彼の犯行だというならば、彼あてに、潔く、自白を勧告してやりたいためでもあるのだが。訊 きたいことは箇条書きにする。 (一)犯人は、電燈を消しておいてピストルを発射している。ものをねらうのに、暗黒をこと さら選ぶのは常識に反するようだ。当局の人は、これをなんと解釈しているのだろうか。 (二)君の手紙だと、犯人は、君が漆戸の部屋を出て電話をかけに行こうとした時、電燈を消 したことになっている。暗がりの中で、君の電話は、幾度も話し中で、かけ直しをしたらしい。 それらの事柄にまちがいはないか。 (三)漆戸家の中庭の様子を、私は、案外ハッキリ記憶せぬが、ピストルの落ちていたという 山茶花は、漆戸の病室から東南へ六、七間行った、花壇の右の端に植えてあったと思う。それに 違いはないか。 (四)最賀君は、私も相識の間柄だ。三日ほどの旅行中だったというが、その旅行先はどこだったか。 以上、大至急御返事を待つ。 (妹より兄へ) お手紙拝見いたしました。 ちっとも喬子のこと、慰めてもくださらず、箇条書きのお尋ね、お兄様もずいぶんだと思いま した。私からの手紙の書き方がいけなかったのでしょうか。それとも、佐治さんに対する私の不 心得を、お兄様、怒っていらっしゃるのでしょうか。 では、喬子も、箇条書きにして御返事差し上げますわ。 (一)漆戸は、傷口の様子から判断して、非常に近距離から、射殺されたことがわかっている ようです。ベツドに寝ているのだし、しょっちゅう、病気見舞になど来ている人だったら、暗が りでも、漆戸の頭がどこにあるかわかるだろうし、また、侵入した時、声でもかけて、聞きなれ た声だということを知らせて安心させ、そのうえでベッドへ近づいたら、十分、ねらい撃ちでき るだろうという、当局の人の話でした。 (二)電燈の消えた時のこと、そのとおりです。まちがいありません。繰り返して申すと、竹 やは台所で、蝋燭を探してい、私は、電話でいじれっぼくなっていた時、暗がりの中で、だしぬ けにピストルの音がしたのです。 (三)山茶花も、お兄様のおっしゃるとおりです。 (四)最賀さんは、名古屋へ旅行中でした。何か、最賀さんに、お疑いがあるのでしょうか。ほんとうを申すと、私も、もしかしたら、あの人ではないかということを考えてみたこともあり まづ。最賀さんは、審業上、漆戸と利害関係が深いのですし、ひょっとしたら、私たちの知らな いことで、漆戸との間が、円滑でないようになっていたかもしれません。けれどもあの人は、事 件の翌日の夕方東京へもどって、たいへんびっくりしていました。名古屋にいたというアリバイ も確実だし、目下、どうにも疑えません。犯人が、佐治さんでなく、最賀さんだということにな ったら、私、何がなし、ホッとできるように思います。そうなれば、少なくともこんどの事件は、 私と佐治さんとの忌まわしい恋愛問題が原因ではなかったということになり、肩の重荷がいくら かでも減りますもの。 今日は頭が重たいし、以上の御返事だけで堪忍してください。 もし、お兄様の力で、最賀さんが犯人だということを発見してくだすったら、喬子、ほんとう に感謝します。名古屋へ行ったと見せかげて、実は行かなかったというようなことでもあるので しょうか。それについて、お兄様の観察を、近いうちに聞かしてくださいネ。今、喬子の気持ち を救うものは、おそらく、それのみでしょう。お兄様からのお手紙がどんなに力頼みとなるか、 お兄様の想像以上です。 では、これでー。 (妹より兄へ) 冬の雨というものは、底知れず侘びしいものですわね。喬子、このごろは、ひどい泣き虫にな ってしまいました。夫の部屋へ行ってみると、ガランとして淋しい。「あなた!」と呼んでみる。 小さな小さな声で呼んでみる。そうして、だれも答えてはくれない。でも喬子、じっと耳を澄ま して、漆戸の返事を待っていて、そのうちに、声を立てて泣かずにはいられなくなってしまうの です。 事件のあった直後は、それでも気が張っていました。 弔いも、済ませました。 そしてそのあとは、めったにだれも訪ねてこない。墓のような静けさです。静けさを掻き乱さ れたくはない。このしーんとした家の中で漆戸のことだけを思い出していたい。でも、たまらな く淋しくなってくるのですもの。 最賀さんも、漆戸がいなくなった家に、いつまでもいられないと言って、四谷のほうのアパー トへ移ってしまい、佐治さんは、むろん、まいりません。 漆戸には、遠い親戚が、それも、数えるほどしかなかったので、その人たちもあまり見えず、 また見えたにしたところで、それは漆戸家の財産目あて、何かうまい形見分けにでもありつこう という考えばかりで。 そうした人々のあさましさを見ると、喬子、もう、死にたくなります。 お兄様は、どうしてお便りをくださらないのでしょう。お兄様が、私のただ一人の力頼みなの に、あれからもう一週間、喬子は、世界じゅうにポツンと一人きりでいます。 お体のぐあいでも悪いのでしょうか。 お使り、くださいましネ。 (妹より兄へ) 昨日、新聞で見ると、お兄様の行っていらっしゃる温泉場の付近がたいへんな雪で、汽車など 不通になったと出ていました。 まさかとは思うけれど、お変わりはないのでしょうね。また五日も喬子は、ボンヤリと漆戸の ことやお兄様のことばかり、考えて過ごしたのですもの。この前の手紙で言い落としましたけれ ど、佐治さんについてはその後、まだ取り調べが終わらないそうです。佐治さんの特異な性格な どのことも、警察では、だんだん明らかになった様子で、だれかやっぱり佐治さんやお兄様と同 じ学校を出た方が佐治さんを一種の悪魔主義の男だと言ったとかで、偽悪病患者というのと言葉 は違いますけれど心証はますます悪くなっていくようです。 佐治さんが犯人でないとなれば、少なくとも喬子は、たいへん気が楽になると思った、あの希 望は、ついにだめなのでしょうか。 地下に眠っている漆戸を呼び起こして、犯人はだれかと尋ねることができたら、どんなにいい でしょう。漆戸に指差されたら、いかに強情な鉄面皮な犯人でも地に平伏するよりほかないでし ょうもの。ーでも、そんなことを考えるのは恐ろしい。それは、漆戸の霊に対する冒涜ですわ。 それはそれとして、最賀さんの件はどうなりました? お兄様だったら、あるいは、最賀さんが名古屋へ行ったというアリバイを打ち破ることがでぎ るのではないかと思って、喬子、まだその期待を捨てていません。 どうぞ、御返事ください。 (兄より妹へ) 愛する妹よー。 ほとんど二週間、私はおまえに御無沙汰をしてしまった。淋しいという手紙、それから、最賀 君のことを知らせてくれという手紙、二通とも、確かに読んではいるのだが、ついでにここで言 っておこう、その二通の手紙は、常のおまえにも似ず、なんとたどたどしい文章だったろう。漆 戸を喪った悲しみが、そんなにもおまえの胸を鋭くえぐったのか。それとも、何かも一つの邪魔 物が、絶えずおまえの胸を掻き乱していて、それが、隠そうとすれば隠そうとするだけ、おまえ のいう言葉、文字、文章の上に現われてきたのか。 妹よー。 おまえは、哀れな女だ。おまえは、たとえどんなことがあろうとも、兄としての私が、どこま でもおまえを愛し憐れんでいるのだということを、よく知っていて欲しい。そして、これから私 の書く手紙を、できるだけ冷静に読んで欲しい。実をいえば、私のこの手紙は、ずいぶん書きに くい手紙だった。幾度か筆をとりかけては躊躇し、しかし結局書こうと決心した手紙だ。まず、 何から言おう。おまえの手紙にもあったのだし、乞いに任せて最賀君のことからでも話していこ うか。 最賀君が犯人だったらどんなにうれしかろうとおまえは言ったね。なんとそれは、巧妙なおま えの言い回し方だったろう。私の調査によると、最賀君は、事件発生当時、事実名古屋に滞在し ていたのだ。そして毫末といえども犯人たるの証跡はないのだ。彼の犯人ならざることを、だれ よりも明瞭に知っていたのは、おまえではなかったか。おまえは、私がいかに最賀君を疑ったと ころで、おしまいには彼の無罪を立証するにすぎぬことを知ってい、それなればこそ、ことさら に彼を疑わしく言い、それに応じての私の返事で、私がこんどの事件について、どれだけの真相 をつかみつつあるか、ひそかに嗅ぎつけようとしたのではないか。私からの便りを欲しがったの も、実は私の調査がどの方向へ進行したか、そっと打診するためだったと私は見る。憐れにもお まえの胸のうちは、不安の念でいっぱいだ。いじらしくもおまえは、この兄をこそ最も恐るべき 敵だと知り、全力を尽くして兄への闘いを挑んだ。前々から準備して、佐治佐助と恋愛の交渉が あるがごとく無きがごとく見せかけたのも、畢竟するに、兄を欺こうとするのが大部分の目的だ った。兄は、実際、しばらくのうち欺かれた。兄だけではなく、佐治佐助も、また欺かれただろ う。彼が、上野公園でおまえと密会する約束をしたのは、必ずしも嘘ではない。約束だけは確か にあったのだ。ただおまえが、その約束を履行せず、のちに佐治が、午後八時半東京のどこにい たか、アリバイを立証しえざるよう、彼をして、人通りの最も少ない上野公園へ、一人だけ行か しめたのだ。二人がひそかに取り交わした約束で、その約束に対する証人のないのを幸いに、お まえは、あとで大胆にも、この約束をしなかったと公言している。言い懸かりにされてしまった 佐治の怒りは推察するに余りあるものだ。なぜおまえはこんなことをしたか。それは、根気よく 丹念にずっと前から計画し、佐治を巧みに操縦しておいて、万一の場合、彼一人に嫌疑をかけさ せる目的があったからだ。彼の、特異な性格、偽悪病患者であることが、実に都合がよい。彼こ そは、寃罪をこうむらせるに、最も適切な男だったのだ。 私は、遠隔の地にいるが、最初におまえから事件の内容を知らせてきた時、なんともいえず不 思議なことを発見した。それはおまえが、暗がりで、電話をかけたということだ。折り返し、そ れにまちがいはないかと訊いてやると、まちがいはないという返事だった。だが、賢い妹よ。考 えてごらん。ここでおまえは、いわゆる犯人の愚挙、常識では、どうしてそんなバカなことをし たかと驚くほどの失策をしている。漆戸家は、赤坂にある。そして赤坂管内にあるおまえの家の 電話は暗がりでは、通話ができぬようになっている。いわんやして、話中だったり混線したりし て、幾度もかけ直すことなど絶対にできない。その電話は自動交換式だ。文字盤がついていて、 文字盤を読んで回さねばならない。交換手に電話番号を告げるわけにいかない。だのに、暗がり で、それも塗りこめられたほど真っ暗だったと断わっている。そこで、おまえは、どんなふうに して電話をかけたのだ。 私は、嘘を発見すると、この嘘がなんのためであるか推理にかかった。 おもうにおまえは、ピストルが発射された時、夫の部屋にいなかったことを証明するため、電 話をかけるふりをしていたのだろう。いい塩梅に、竹やが、電話を聞いていた。そして証人にな ってくれた。きわめて近距離から発射されたピストルだが、その時おまえは、電話口にいたとい うのだから、当然、嫌疑からは免れてしまう。事実、当局では、そのことだけで、全くもうおま えを嫌疑の埒外に置いた。ところが犯人は、ぜひとも、電話をかけていたということを知らせた いと思った余りに、不思議なほどの忘れ物をした。いつも使っている文字盤に気付かなかった。 あとで、どこへかけたか訊かれたり、かけた先を調べられた時、実際は電話がかからなかったと 知れては困るので、いい加減に、話し中と混線とを持ち出し、キャンキャン声でどなりちらした と言っている。けれども一方では、電話をかけているふりも必要だったし、また、暗いことも必 要だったので、つい、文字盤を無視してしまったのだ。 次に、では、暗さがなぜ必要だったか。 それは、二つの理由からだ。 一つは、暗いことによって、犯人の逃げる姿がだれにも見えなかったという、弁明をするため だったに違いない。庭には常夜燈が一つあり、夫の部屋からも明るみが流れ出している。この明 るみの中を、事実犯人が逃げ出したとすれば、ちょうど台所にいた竹やが、その姿を見たはずで あるかもしれない。ところが、暗ければ、そのために見えなかったとも言えるのだ。要するに暗 さは、人の姿を隠しもするし、同時に、もともと存在しなかった姿が、暗さのため見えなかった ということにもしてしまうのだ。 暗さについて第二の理由。犯人は、その暗さの中で、ピストルを発射しているが、それは、ど こで発射されたものだったろう。ここで順序正しくいうと、犯人が漆戸を射殺したのは電燈の消 える前のことだ。犯人は、その夜田舎者の女中だけを残して、ほかの者に暇を与えて遊びに出し た。そして八時半竹やを医者のところへやり、竹やの留守のうちに、最も恐るべき夫殺しの罪は 行なわれたのだ。犯人は、かねて綿密に考慮した計画に従い、夫の部屋へ行き、おそらくは前も って盗み出しておいたピストルを、毛布か布団類似のもので包んで音のなるべく辺りへ響かぬよ う注意し、何か冗談を言いながら、夫の前額部に銃口を押し当てて、夫が、何をするか理解せぬ うちにすばやく引き金を引いた。それから、部屋の窓を半ば開けて、犯人がそこから逃げ去った 体裁を作り、ついで竹やの医者から帰ったのを見計らい、廊下へ走り出して、身軽に窓框へ乗り、 電燈引っ込み線のスイッチを切った。次いで、お納戸横手の電話口におけるお芝居にとりかかっ たが、この時までに、なお一つ、なすべきことがあった。 それは、夫の部屋で発射した一発の弾を、ピストルと同時に盗み出しておいた別の弾で、補充 しておくことだったのだ。 弾の補充されたピストルは、まだ、手に持っている。彼女は、電話口で高声にしゃべりつつ、 その途中で、電話口からわずかに身を離し、そこの小窓から、庭へ向けて、轟然とピストルを発 射したのだ。その音は、台所にいた竹やに聞こえ、しかし、そんなところで発射されたとはだれ にも知られなかった。発射された弾は、そこの柔らかい地面へ、深く潜ってしまったに違いない。 犯人は、そのあとで、ピストルを中庭へ向かって投げ捨てたが、これは山茶花の根元に落ち、そ の山茶花が、お納戸の近くの小窓からも、確かに見える位置に植えてあることを、私は、犯人へ 問い合わせて、ちゃんと確かめてあるのだ。犯人は、暗さを利用して、ピストルを、そこから庭 へ投げたことを、やっぱりだれにも見せぬよう心がけた。これで、暗さの必要だった、二つの理 由がわかったであろう。 兄に似て聡明過ぎるほどの妹よ。憫然なおまえは、それが罅の入った聡明さだということに気 づかなかったのだね。 兄は、ようやくにして、語るべきことを不十分ながら語りえた感じだ。兄は、匕首に刺し貫か るる思いをして、わが妹が、殺人者たることを指摘せねばならぬ破目におちたのだ。呪われてあ れ。 私は、おまえの手紙の嘘を発見すると、ただちに在京の某友人を煩わして、旬日にわたり、お まえの行動を監視せしめた。そして知りえたのは、おまえが、最賀と二人、ひそかに大森の待合 へ、すでに事件前から事件後へかけて、十数回出入りしているという事実だった。おまえの言葉 を借りるならば、地下に眠る漆戸が、額の傷口から垂れる血を満面に浴びて、犯人の名前を指摘 する時、真っ先にひれ伏すべき者が、なんとおまえ自身だったではないか。 おまえの愛人は、佐治でなくて、最賀だったのだ。おそらくは、最賀を同居せしめたのも、彼 との悦楽にふけるためだったろう。そしてそれは、間もなく夫漆戸の看破するところとなり、も はや猶予できずに、この戦慄すべき犯罪に着手したものだったろう。夫から、離婚せられざるう ちならば、妻は、夫の遺産を継ぐことができる。時期を待って、おまえは、最賀と結婚するつも りだったかもしれないね。 兄は、逝ける友、漆戸のために、妹の罪をあばき、すでにこの手紙がおまえの手へ届いた時、 おまえのもとへは、同行を求むる刑事たちが赴く手はずになっている。お納戸の近くの庭から、 ピストルの弾も掘り出されるだろう。無慈悲な兄ではあるが、この兄をどうか許してくれ。佐治 は、やっぱり、偽悪病患者でしかなかった。彼を見殺しにはできぬ立場だ。 兄は、美しく聡明な妹のため、今日が日までを、どんなに慰められてきたことがあったかしれ ない。兄は、おまえを愛している。では、さようなら、哀れな喬子よー。
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その一 老婆と水道 「おばあちゃん、おばあちゃんてば!」 ぐいぐいと肩を揺すられて、村井家の老婆はふっと眼を覚ました。七十五になる中風のお 婆さん、膝の上に本を開いて眼鏡を掛けたまま居眠っていた。 「おばあちゃん、あたちにめがねかちて」 孫娘の君ちゃんは、祖母の肩に両手を置いて言った。 「どうします、眼鏡などを──」 「あたちね、おはりしごとするの。いとがはりにとおらないのよう」 「ホ、ホ、ホ、ホ──」 老婆は笑まし気な声を立てた。右半身が中風でよくいうことを利かない。辛うじて歩けるが 使うのには左手が便利だ。左手を不器用に動かして眼鏡を外した。 「あらおばあちゃん、このめがねこわれてる?」 「どうしてなの」 「あたち、おめがいたいの。みえないわ」 鼻のとっ端へ老眼鏡をかけて、一生懸命糸を針のめどに通そうとする孫娘に、老婆はも一度 声を立てて笑った。 「ホ、ホ、ホ、ホ──」 と、そこへ村井夫人がすらりと現れた。美しいが稍険のある顔、どこかへ訪問にでも出る前 なのか、黒縮緬の紋付に革のオペラバッグ、艶やかな髪が波を打っている。 「まあ、君子さんは! お針なんぞ持つんじゃありません」 村井夫人は不機嫌である。君ちゃんの手から針と糸とを取り上げてしまった。 「おばあさん、気を注けて下さいよ。子供に針なんぞ持たせて危いじゃありませんか」 「いいえねえお前、君子があたしの眼鏡を貸して呉れっていうだろう、ホッホ、ホ、ホ──」 「いいえ、困ります。おばあさんはいつでも不注意なんです。おばあさんが針を出してやったのでしょう」 村井夫人はきっと言って、それでも娘のエプロンをちょっと直してやって、やがてその場か ら姿を消した。 午後二時、老婆は茶の間でうつらうつら、又居眠りを始めていた。 ゴトンという音で、半分落ちかかった顎をがくんと振って眼を開く。茶の間に続いた台所へ 午後の日が一杯にさし込んで、流し元にはお河童頭、孫娘の肩まで見えた。 「おばあちゃん、おばあちゃん!」 「はいはい、何んですえ君子さん」 「あたち、ねぎきってもいいわねえ」 「おやおや、今度はお料理なの。おいたをしてはいけませんよ」 「ううん、あたちねぎきんの」 葱を一本、左手に掴んだ君ちゃんは、俎の上にそれを載せて、仔細らしく小頚をひねる。 何んと思ったか、水道の栓を捩じった。 ピク、ピク、三和土が低いので水の音は高い。老婆は何故ともなく昔を憶い出した。あそこ の流し元に、自分も幾度坐ってお料理をしたことか。あの方はお総菜の六つかしい方だった。 お気に入らないと、黙ったままで箸を置きなすった。この家で、昔のままでいるのはお台所だ けだ。嫁もよくあそこだけ手を付けずに置いて呉れた ふと気が付く。君ちゃんはどこから探し出したか踏台を持って来た。棚の下にそれを置いて よちよちと攀じ登った。棚の上の出刃がキラリと光る。老婆はあっ! と声を立てた。 右足を不自由に引き摺って、老婆は流し元へやっとこさ身を運んだ。 どたん! 君ちゃんが踏台から落ちるのと、すっと空を切って出刃が降るのと、そして老婆がばったり 倒れるのとが、狭い場所で同時に起った。 わーん、君ちゃんは声を限りに泣いた。 「おお、どれどれ」 老婆は言おうと思ったが囗が利けなかった。もがいて、起き上ろうとしたけれど出来なかっ た。 「あわ、あわ」そんな風に声を立てた。 仰向けに倒れたのが水道の下で、三和土にぺったり背を付けて、顔の上から水道の水が落ち た。 だだだだ、だだだだ、水は間断なく老婆の口へ落ちていた。 ××× 十五分後に村井夫人が帰宅した時、小さい君ちゃんはまだ泣いていた。母親の顔を見ると余計に泣いた。 「どうしたの君子さん! あ、あなたおててを切ったのね、あらまあひどい!」 折悪しく大きな子供達は皆学校に行っていた。女中の一人は外へ出て、一人は夫人がお伴に 連れて行った留守中の出来事。君ちゃんの小指は、根元からぶっつりと切れていたのだ。 で、台所の流し元に、もうすっかり冷たくなっていた老婆については、村井夫人も村井氏も、老婆が孫娘に怪我をさせた申訳に、覚悟の自殺を遂げたものとしか信じられなかった訳である。 お葬式は翌々日に行われた。 その二 老婆とアンテナ おいしは六十四である。田舎で生れて田舎で年を取った。つい去年までは稲扱のお手伝いを した程で、大変丈夫なお婆さんだ。指などは小若い百姓よりずっと節くれ立って太い位だ。 ある晩、総領夫婦と口争いをした。おいしの方に理がなくてたちまち言い負される。その 揚句、東京にいる二番息子の準平が恋いしくなって、どうしても東京へ行くと頑張り始めた。 「きく、お前が言い過ぎただ。おっ母様の前に于をついて謝って来い」 そういう声を襖越しに聞いて、おいしは余計我を張った。総領の嫁が叮寧に謝ったけれど諾 かなかった。 「なにね、わしは謝ってなど貰い度くはござんしねえ。おきくには理屈があるでな、わしが負 けたことにして置きますだ」 「ねえおっ母様、わしも言い過ぎたしきくだって悪い。きくにはわしが後でよく言い聞かせる で、もうそんなに大きな声をしねえでおくれや」 「大きいのは地声でござんす。悪かったらわしが謝りますだ。親に謝らせたらお前も気持がい いずら。準平のところへ行けばな、お前様達夫婦は気楽になれるで、まあ、そう止めずに置い とくんなんしよ」 「準平のところへは、また暇になったらわしが連れて行きます。おっ母様はまだ汽車に乗った ことはねえし、危いずらに」 「いんえ、わしだって一人で行けます。こんな家にはもう一時でも居ることは出来ましねえ」 おいしは、丁度準平から東京見物に出て来いという手紙の来ていた折でもあるし、いっそう 気が強くなってこう言いつのってしまった。 「そんねに言うなら明日にでも出かけるがいいだ。おきく、準平のところへ電報を打って来い。母、明日一番で立つ、こう打つのだ」 とうとう、総領息子も腹を立てて、こう言い捨てたまま奥の部屋に這入る。で、次の囗の朝 おいしは信玄袋を肩にして、汽車に乗り込んだのである。 汽車に乗ってしばらくすると、おいしは少し悲しくなった。初めての一人旅というばかりで なく、何だか途方もない失敗をした様な気がして来た。もう準平のところへ行きっきりに行っ ていようという気もあって、善光寺詣りの費用の積りで貯えてあった二百円も持ち出して、当 分要るだけの着物も持って来た。が、段々に淋しくなる。いっそ、次の駅から切符を買い換え て、家へすぐに帰ろうか、或る時はそうも思った位だが、総領の嫁の小憎いことを一生懸命憶 い出しては、その気弱さに打ち勝とうとした。 三十五銭の弁当を買った頃は、それでももう東京の方が近くなった。お弁当のお茶の残った のを、ちゃんと始末して信玄袋に入れてしまうと、何だか妙に気が落ち付く。準平のところへ とに角行って見た上で、それから帰ったっていいずら、そう思って窓から移り変る景色を眺め るだけの余裕が出来た。 そして、いよいよ東京へ着いて見ると、おいしはほっと安心してしまった。準平は昔ながら の愛くるしい靨を浮べて自分を迎えて呉れるし、寄席や浪花節もすぐ近所にあった。天丼とい う御飯は、見たことも聞いたこともない程おいしいものであった。汽車の中で、何故あんなに 気弱いことを考えたか、おいしは時々自分の心を可笑しく思った。 だが、おいしのこの喜びは長く続かなかった。十日、二十日一ヵ月の終りになるとおいしは 東京に飽き飽きしてしまった。何故と言って、準平が外出すると後はおいし一人きりである。 田舎と違って無駄話しに来て呉れる人もない。準平が帰るまで、じっとしているより他ないの であった。それに、もっと悪いことがある。おいしが準平に気を許せなくなったことだ。 「おっ母さん、今夜会社の人達が集って宴会をやるんですがね、お金を貸して呉れませんか。ええ、十円要るんです」 準平が最初にそう言った時は、十円の会費は少し過ぎると思っだけれど、持って来た二百円 のうちから快く出してやった。 「おっ母さん、今度県人会があるのですがね、五円ばかし貸して下さい。今月末には会社のボーナスが出ますし、おっ母さんにもお小使いを沢山あげますよ」 二度目にも、快く出してやった。 なんだかんだと言って、準平の手へおよそ五十円ほども渡してしまったが、月末になっても ボーナスはどうなったのか、準平は三日程家へ帰らなかった。 心配していると、四日目の朝になって準平は蒼い顔で帰って来た。 「おっ母さん済みません。ボーナスがあんまり少いのでやけを起してしまったのです。堪忍し て下さい。その代りにね、おっ母さんがいつも留守の時は退屈だって仰有るから、ラジオを買 って来ましたよ」 「………」 おいしは呆れて返事が出来ない。 「これはアンテナってものです。レシーバーってものは後で買って来ます」 準平に、果たしてラジオのセットを全部買う意志があったかどうかは解らない。おいしの御 機嫌をとるために、田舎者にはちょっと珍らしく見える銀色の針金だけを買って来だのかも知 れない。とに角凖平は、そのギラギラ光るアンテナ用の針金を、壁の帽子掛へ投げる様に引掛 けて、再びぷいと外出してしまった。 おいしは泣きたくなった。もう準平を信じることは出来ない。このままでいると、いまに二 百円を皆取られてしまうだろう。田舎の家へは、あれだけ立派な口を利いても来たし、せめて 三月位は東京にいてから帰り度い。あああ、来るのじゃなかったによ、おいしはどうしていい か、途方に暮れた。 で、さしずめ残りの金を取られない算段をしようと思った。準平から言われれば、口の巧ま さに釣られてどうしても出してやることになる。隠して置いて、失くしてしまった。そう言う より他無いと思った。 どこに隠そうかと思って、あちこち探すうちに天井へ目を付けた。机をあそこまで持って行 って、天井板を一枚押し上げよう。あそこなら大丈夫だ。 机に乗ったが天井へは手が届かない。本箱から洋書を出して積み重ねた。やっとのことで新 聞紙に包んだ紙幣束を隠すと、天井板を元通りに直し、本の上から足を下ろそうとしたが、そ の途端である。洋書がつるっと滑っておいしは前へよろけた。 準平が帽子掛へ掛けて行った買ったままのアンテナ線、ぐるぐる大きな輪に巻いたのがどう したものか二本の釘に渡っていて、おいしはそこへ自分の頸を持って行ったのである。 バタバタ、バタバタ、おいしはしきりに〓《もが》いた。 田舎から兄が来た時に、おいしが家をどんな工合で出て来たかは解ったけれど、矢張り自殺 の理由はぼんやりしている。 「なあ準平、おっ母様は百五十円を失くしたのかも知れねえぞ。それで気を落したんずらい。俺ア、おっ母様を東京へ寄越すのじゃなかった」 「そうですね、そうでしょうよ」 準平はそう返事をして、涙をぽろぽろ濡している兄の顔を見ていた。 その三 老婆と鼠 七十という声を聞いて、源六婆さんはめっきり弱ってしまった。 その年のお彼岸には、それでもまだお寺詣りに行くことも出来たし、お萩を作って仏壇に供 えるだけの元気があった。 お盆になると、もうとてもそれが出来ない。お墓へ魂迎えに行くのがやっとのことで、お供 えものも碌に作らなかった。雨戸を閉めきりにして、寝ていた方が楽であった。 お婆さんのほんとの名はたきよというのだが、村の人達は誰もたきよ婆さんとは呼ばない。 源六婆さん、それで通っている。無論、源六というのはこのお婆さんの連合で、今から二十年 前に監獄で死んだ。死刑になる前の日に、どういう隙を見出したものか、自分で首を縊って死 んでしまった。で、それ以来、お婆さんは一人っきりで淋しく暮していた。 「源六がよ、あいつはまあ死ぬところで死んだってものだ。だが、源六婆さんもよ、どうせ碌 な死に態はしまいてなあ」 村の人達はどうかするとこんなことを言った。 お婆さん夫婦が、どれだけ惨虐な性質を持っていたか、また、その一生涯のうちにどれだけ の悪事をして来たか、それはわざとここには言わないが、源六が監獄で首を縊って死んだ時、 お婆さんもまた監獄にいた。源六のことを聞かされてしなびた唇をびくびくと動かせただけだ ったそうだが、とに角、その後二年してお婆さんは娑婆に出て来た。 「わしもな、年は取ったし、今迄の業がつくづく恐ろしくなった。村の人には憎まれたくれえ て。これからせいぜい仏いじりでもしますでな、お仲間にして置いておくれなよ」 海岸にあるその村へ、お婆さんは帰って来るとすぐにそう言った。逢う人には誰にでもそう 言って眼をしょぼつかせた。 事実、お婆さんはその積りだった。連合の源六爺さんのことにしても考えれば考えるほどあ あした死に態をするのが当り前だと思った。で、それだけにまた源六爺さんがいとおしく、朝 晩のお勤めも十分にして、せめて大叫喚地獄とやらへだけは行かせ度くないと念じていたも のだが自分が死んだら、いったい誰がお水を上げて呉れようぞ。生きてる間、そうだ、老いさ らばえた自分の息が続く間だけでも、後世を願って置かずばなるまい。お婆さんは出来るだけ、 現世の悪業を薄くしたいと思っていた。 お婆さんがその積りになったけれど、村の人達は相手にしなかった。 「源六婆アめ、何をぶつぶつ言ってるんだろ」 「お経だとよ。仏心が出たのだとよ」 「なにを鬼婆め。年をとったからいい様なものの、あれでまだ何をするか知れやしねえぞ」 村の人達は誰一人お婆さんを信じるものはなかった。 駐在所の巡査からの言葉もあって、村の人はお婆さんを追い立てなかったし、畑を売った金 がいくらか手に有っだのでお婆さんはたった一人きりでも、まず、食うには困らずにいた。 で、七十になってその年の夏、お婆さんはひどく弱り込んで来た。どうせもう、村の人に 交際って貰おうということは諦めていたけれど、源六爺さんのお墓参りは続ける積りだったの が、今はそれも出来ない。お向いにある米屋へ、米を買いに行くのがやっとこさで一週間位ぶ っ続けに、寝通したこともあった。 寝る日の方が多くなった頃、お婆さんはふと大きな慰めを見出した。壁の穴や、押入れの隅 から、ちょろちょろ、ちょろちょろと出て来る鼠である。鼠とお友達になろう。お婆さんはそ う決心した。 鼠はなかなか人に馴れなかった。追わないものだから、段々図々しくはなって来るけれど、 お婆さんがちょっと身を動かすと、パアッと逃げ散る。お婆さんが眠ったふりをしていると、 大胆な奴が枕元へ来る。時によると皺だらけの顔の上まで昇って来る。それでも眼を覚ますと たちまち逃げた。 だが、一週間経ち十日経つうちに、鼠共はお婆さんを次第に信頼して来た様に見えた。ほん とに信頼したのか、それとも見くびったのか、それは誰にだって解らないけれど、とに角、鼠 はお婆さんを怖がらなくなった。寝床で、お婆さんがもぞりっと身を動かすと、鼠はきょろっ として、首を振るけれど、たった二尺程走っただけでこちらへ向き直る。おどけて鬚を掻いて 見せる奴もいた。 お婆さんが喜んで、枕元へ集まる五六匹の鼠のために、切ない身体を動かしては何かと餌を 集めて置くと、鼠の数は段々に増した。五匹が十匹となり二十匹となる。生んだのか集まった のか、一月程のうちにお婆さんの家は鼠で真黒になってしまった。 村の人達は何も知らなかった。相変らずお婆さんのところへは誰一人お客さんが来ない。 「雨戸がもう長い事閉まってるが、なに、まだ生きてはいるよ」 「生きてるのなんのって、昨日は米屋へ餅米を買いに来たそうだ。息をせいせい切らしてはい たがな、なんでも三日目に二升ずつ買ってくとよ」 「ほう、鬼婆め、まだえらい元気だな」 村の人は憎々しげにこんな噂をし合っていた。 八月十日の朝、源六婆さんは、ひどく身体のだるいのに気が付いた。 嘔き気があって熱がある。頭が痛いな、そう思っているうちはまだよかった。恐ろしく暑い 日で蝉がじんじん鳴いている。お婆さんはありったけの布団を出して見だけれど、それでもひ っきりなしにがたがた慄えた。顔の前の鼠が無暗に大きく見える。猫の様に膨大な一匹がキュ ーッと言って自分の額に飛びかかって来る。お婆さんはそれを追い払うことも出来なかった。 夢とも現ともなく、お婆さんは薄暗い部屋の中をのだ打ち廻って苦しんだのを覚えている。 身体中に腫物が一面に出来て、それをボリボリ、ボリボリ引掻いたのを覚えている。 そして、 「ああ、夜になったぞ」 そう思ったのを最後として、それっきりすべてが不明瞭になってしまった。 翌日の朝まで生きていたのか、それともその夜の中に息を引取ったのか、それは最後まで解 決出来なかったことである。 × × × 源六婆さんが、米を買いに来ないというので、まず米屋の亭主が騒ぎ出しか。外から雨戸に 耳を押し付けると、確かに何かの音はする。それでもどこか様子が変である。亭主は思い切っ て中に這入って見た。 「あ!」 亭主はのけ反るばかりに驚いて、蒼い顔をして巡査駐在所に駈け込んだ。巡査、お医者さん、 そして消防隊の組長、皆んながどやどやと源六婆さんの家に乗り込む。 鼠、布団、肉、骨、歯莖、そして掌骨! 人々は、わっ! と言って一散に逃げ出した。 そして話はまだあるのだ。 村の人々は、たった三人だけを残して、皆ペストで死んでしまった。 (一九二七年八、九月号)
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血の部屋 一 夜の空気の中で、貴美子夫人の顔や姿は、光る絹か、透 明な、そして柔かいガラスで作った生物のような感じをあ たえた。 何時何分という、ハッキリした時刻を、あとで思ってみ ても残念なことに、誰も記憶していない。が、ともかく、 午前一時半に近いか、もしかしたら、それをもう過ぎてい る。 二人は、びっくりして門の前に立ちどまったままだった が、驚きは、向うでも、大きい風だった。 「あら、どうしたのよ、有吉ちゃんも友杉さんも……」 そうして、貴美子夫人は、こっちの二人を、頭から爪の 先きまで、吟味する眼つきで見なおし、それから抱いてい た白いエナメル塗りのハンド。バッグから、白い小さなハン ケチを出した。 疲れたという表情であり、顔の汗をそのハンケチでおさ えている。 げ 「電車がなくなっちゃったの。しかたがないから歩いた 、わ。 一時間もl」 「どこへ行ってらしたんですか」 と友杉が聞いたが、その時、向うもこっちも、何か。バカ バカしい間違いが起ったのだということが、頭の中へ閃め くようにしてわかってきた。 「こんなことじゃないかって、あたしもう、いくども考え ながら帰ってきたのよ。有吉ちゃん、どこも、怪我なんか してないわね」 「ええ、そんなことは。1いったい、母さん、どうした んですか」 と有吉が、心配な眼つきになった。 「パヵバカしいの。有吉ちゃんが、怪我したっていって電 話があったのよ」 「おかしいですね。誰からですか」 「男の声だったって、山岸さんがいっていたわ。あたし じゃなくて、山岸さんが電話へ出たものですからね」 「で、その男が?……」 「有吉ちゃんが、喧嘩で斬られて怪我している……有吉 ちゃんに頼まれて電話をかけるのだが、家の人にすぐ来て くれるようにっていってるのよ。所も番地もハッキリと うけおいし いって、草野という請負師か何かの家で、そこの家の二階 へ、ともかく寝かしてあるから、というんだったわ。あた しは、友杉さんが有吉ちゃんをつれて、いまにも帰ってく るかと思って待っていたところなの。友杉さんのこと、電 話じゃ、何も言わなかったっていうから、なんだかわけが わからないけど、その時はまだ電車があったし、向うで病 院へ入れるなりどうなりしなくちゃと思って、あたし、す ぐに出かけてみると、おどろいたわ。その草野という家、 いくら探したってないんですもの。交番へ行って聞いてみ たり、番地違いか丁目違いかと思って、さんざんそこら ほっつきまわって、そのあげくがとうとうあきらめて帰っ てきたのよ。くたびれて、くたんくたんになっちゃった。 早稲田の近くの淋しい場所で、とてもあたしたいへんだっ たわ……」 友杉にも有吉にも、その電話の意味はわからない。悪戯 にしては念が入りすぎている。とすると、どんな目的があ ってのことであろうか。 有吉は、早稲田になど、行きはしなかった。神田で麻雀 やっていたのだと、友杉が話した。そして果物籠の金のこ とはあとで話す、そんなに心配したほどのことはないと、 眼で知らせた。 「そうなの。よかったわ。有吉ちゃんにまちがいさえなけ れば。……さア、家へ入りましょうよ。お父さまが、有吉 ちゃんのこと、とても気にして、待ってらつしゃるんだか ら」 門のくぐりは、戸締りがしてなく、面目なげな顔つき の、有吉が先きに立ってはいって行った。玄関までが、斜 めに右手へ十五六歩ほどで、砂利の道の両側に、松やひば やつつじの株が植えてあり、つつじは、おくれ咲きの白い 花をつけている。とつぜん、 「あら、いやだ1」 と、貴美子夫人が、叫ぶようにいった。 「山岸さん、どうしたんでしょ。用心が悪いから、あたし の出たあと、門のくぐりだけあけといて、玄関は、しめと くようにって、いっといたのよ。ーいいえ、そうだっ た。山岸さん、たしかに内から戸締りして、そして電燈を 消したはずだったわ……」 だのに、玄関は、明るみが、外まで流れだしている。そ れのみではない。格子にガラスの引戸が、誰か今、人が出 て行ったばかりというように、二尺ほどあいたままになっ ているのであった。 不安だった。 なにか、つめたくて、重量のあるものが、ドスンと腹の 底へ、おりて行った。 「ぼくが呼んでみましょう」 友杉が、先きに玄関へはいり、「山岸さん、山岸さん」 と呼んだが返事はない。 貴美子夫人は、靴をぬいだ。 あわてたので、ソックスがいっしょにぬげそうになり、 かかと 踵で折れたたまって踏み心地が悪かったが、それをなおし ているひまがなかった。廊下にも、奥の部屋にも、台所に も、電燈がついている。ふみやの姿は見えなかった。まっ さきに気にしたのは、お納戸の箪笥で、のぞくと、思った とおり、抽斗がいくつか引きだしてあって、衣類が乱雑に 投げちらしてあった。 「やられたわ。どろぼうよ!」 いったあとで、箪笥の角に、いや、角だけではない、そ こらに、ベタベタと、血がついているのに気がついた。 失神しそうになって、うしろへよろけてきた貴美子夫人 を、有吉が両腕で抱きとめた。そして、友杉が、廊下を走 りもどって二階への階段をあがると、書斎の入口まで来た ところで、身動きができなくなってしまった。 書斎は、血の部屋だった。 代議士藤井有太は、血みどろになり、惨殺されていた。 二 所轄K署で、事件発生の知らせをうけたのは、午前二時 を五分過ぎた時であった。 署長は、官舎で寝ていたが、叩き起された。署僚警部の 自宅へも通知が行った。むろん、本庁の捜査課鑑識課へも 連絡をとった。代議士が殺されたということは、大事件で ある。政治的に波及するものがあるかも知れない。現場臨 検もとくに慎重にやらないと、あとで何か思いもよらぬ問 題を起すことがないとはいえない。終戦後、管内で殺人事 件がいくつか起った。しかし、これは、最大の事件だとい うことを、誰もすぐに考えた。夜の明けるのを待つなどと おおぼり いう、悠長なことはできなかった。肥満した大堀捜査課長 が、じきに自動車で現場へやってきた。それにつづいて検 事の顔も見えた。たちまち藤井家は、係官の姿でいっぱい になった。ふいに、門のあたりで、なにかどなり合う声が したが、それは、記者クラブの連中が、現場を見せうとい うので、見張りの巡査と喧嘩になったからである。そっと 塀をのりこしてはいって来て、庭の桜の木によじのぼり、 フラッシュをたいた写真班の記者があった。その記者は、 三人の巡査が包囲して、じきに樹上から引きずりおろし た。 女中の山岸ふみが、ボンヤリした眼つきをして.大きな 青い風呂敷包みを背中にして帰ってきたのは、そういう騒 ぎのさい中である。風呂敷には、毛布と洗面器と氷枕と、 有吉の寝巻につかう浴衣が二枚、ほかにタオル石鹸などが はいっていた。巡査が、門の前で怪しんでふみやをつかま え、引きずるようにしてつれてきた。友杉が、ちょうどそ こにいて、この家の女中だと証言したが、ふみやは、旦那 様が殺されたのだと聞いて、へたへたと廊下へ膝をつい た。 「私は、早稲田まで、行ってきたのです。奥さまがお出か けになってから、一時間ばかりすると、また公衆電話がか かってきました。そうです、前のも同じ公衆電話でした。 そして、同じ男の人の声ですけれど、誰だかわかりませ ん。奥さまが、坊っちゃまを病院へお入れになった。だけ ど、病室に毛布もないし、寝巻もない。だから、それを 持って、すぐ早稲田まで来てくれっていうのでした。私、 お二階へ上って、旦那さまに、それを申上げたら、その時 は、旦那様は、ベッドのそばの台ランプをつけて、何か本 を読んでいらっしゃいました。そうか、よし、それじや 御苦労だが、行ってきてくれ、とおっしやって、私、戸締 りをし、出かけたのですけれども、もう電車はありません し、神楽坂から矢来へ出て参りまして、……」 それからあとは、貴美子夫人の場合と同じだったらし い。探しても探しても、電話で知らせてくれた病院は見つ からなかった。そして、また歩いて帰ってきたというので あった。 ふみやだけが、その時刻を、おぼえている。 有吉の入院に必要なものをかき集めて、出る時に台所の 戸棚の目ざましを見たら、もう十二時を二十分も過ぎてい たというのであったが、その時、藤井有太はまだ生きてい たはずであり、今はそれが、血みどろな死体になっている のであった。 二階の書斎は、四坪半の洋室である。 南と東へ向いた一部がガラス窓になっていて、東の窓に 近くデスクがあり、デスクにそなえつけの椅子のほかに、 来客用の椅子が二脚あった。北側に入口のドアと大きな書 棚、西の壁にそって、シングルのベッドがあり、このベッ ドの上で有太は殺されている。 頭部に、傷がアングリと口をあけている。 兇器は、まき割りの斧で、そのまき割りの斧が、デスク の横に、立てかけておいてある。それは友杉が、薪をつく る時につかうものだった。犯人は、それを、昔は自動車の ガレージであり、今は納屋にしてつかっている表の小屋か ら持ちだしてきているのである。眠っているところを、頭 上からいきなり兇器をふりおろしたのかも知れない。また は、眼がさめていても有太は、起き上ることができない身 体だったから、抵抗もせず、逃げもせず、やられたのだと も考えられる。血が、壁にまで飛び、また菊の花の模様が ついた青い絨毯のはしを、びっちょり濡らすまでに流れて いた。生前の有太は、血を見ることが極度に嫌いで、それ は病的なものに見えた。しかし、今は、その大嫌いな血の ね なケ 海の中に、物も言わず、仰向けに寝長まっているのであっ た。 係官たちは、それぞれの部署に従って、死体をしらべ、 犯人の足あとや曳78留品をさがし、また家人を訊問して、事 件前後の事情を知ることに努めたが、最初にともかく明ら かだと思われたことは、この兇行が、単なる行きずりの強 盗などがやったことではなくて、ある程度藤井家の内情に 通じたものが、それもかなり計画的にやった仕業であると いうことであった。 有吉が怪我をしたという、公衆電話の意味が、いま、は じめてハヅキリしてきた。 それは、邸内への侵入を妨げるものを、できるだけ少な くするためだったのである。いったいが家人の少ない家だ った。代議士である。また藤井産業の社長である。だか ら、書生や女中がもっと多くいてもふしぎではないし、ガ レージもあるくらいだから、自動車をおいてあったり、そ の運転手がいてもいい。しかし有太は、戦時中に自動車を 軍へ取られて、それっきり自家用車を買わなかった。敗戦 国民は、敗戦国民らしい生活をしなくちゃならんといって いた。そのくらいだから、不便でも、人を多く置かなかっ た。有太夫妻に有吉、それに友杉とふみやとの五人だけで あった。そうして犯人は、少なくとも有吉が外出していた ことは、知っていたのにちがいない。もしかしたら、友杉 がやはり外出していたことも、知っていたのではあるまい か。あとは、貴美子夫人とふみやだけであった。そこで、 まず貴美子夫人をおびきだした。次に、適当な時間をおい て、ふみやをおびきだした。あとは、有太が一人だけであ る。有太を、一人だけにしておいて、さて犯行に着手した というわけであった。 死体の情況、血液のかたまりぐあい、そして電話のこと などからして、兇行は、午前一時前後だろうという推定が ついた。 そして、係官の頭の中では、次第にいろいろの考えが、 まとまりをつけてきていた。 「どうだろう。こいつは、この家へ出入りする人間を、 片っぱしから洗って行ったら、すぐに犯人がわかるんじや ないかな……」 「まず、そうだね。面識のあるやつだろう。顔を見られ ちゃぐあいが悪い。それで、家の者を外へ呼びだした。し かし、主人公の代議士だけ、呼びだすわけにいかなかっ た。そこで、殺してしまった……」 「待て、そこまで言うと、少し決定的になりすぎるね。コ ロシがシキのせいだとだけ考えると、はじめはコロシが目 的ではなくて、盗みが目的だったということになるだろう。 盗みも、なるほどやっている。簸笥をひっかきまわした跡 がある。衣類が、しかし、なくなってはいないんだよ」 「へえ、それは知らなかった。家の者がそういっているのか」 「しらべてもらった。すると、和服の方も洋服の方も、ど うやら、なくなったものはないらしいというのだ。但し、 服の生地が、これは昔の品で、背広二着分、しまってあっ たのが見えなくなっているのだそうだ。茶に青い縞がは いっているというが、ともかく、盗まれたのは、今のとこ ろ、それだけだからね」 「考えを変えなくちゃならんわけだな。現金とか、宝石と かは9」 「それも、無いというのだ。だから、盗みが目的だったと はいえなくなる。コロシが目的で、そのついでに、盗みを やろうと考えて、服の生地を二着分、盗んで行ったのかも 知れないし……イヤ、そうじゃないね。盗むなら、もっと たくさん盗めたはずじゃないのかな。この点は、なかなか 簡題だよ」 「コロシが目的で……コロシを目的だと見せないために、 盗みをやったということもないじゃないからね。イヤ、そ のくらいのことは、やりかねない奴だ。犯行が、ひどく兇 暴だ。斧で額をぶち割っている。野蛮なやり方だと思うん だが、一方じゃ、頭を使っているからね。家人を、呼びだ している。その口実が巧妙だ。こいつは、流しの強盗なん かじゃ、ぜったいやらないことだろう。電話は、公衆電話 だというんだったね」 「そうだ、公衆電話だ。どこの公衆電話だか、電話局でし らべたら、時刻も大体ハッキリしているし、わかるはずだ と思っている。電話をかけておいて、犯人は女中が出て行 くのを待っていた。それから、まきわりの斧を持ちだした ……」 「斧がどこにあるか、それも知っていたのかも知れない ね。入りと出のぐあいはどうなんだ」 「まだわからない。女中は、出かける時、戸締りをして行 ったという。玄関は内側から戸締りをした。それから、勝 ナンキンじよう 手口から出たが、外から南京錠をかけておいたのだそう で、この南京錠は、事件が発見された時も、そのままかけ てあった。だから犯人が、勝手口からはいったということ も考えられないわけだ。-出の方は、家の者が帰ってき た時、家の中に、消しておいたはずの電燈がついていて、 また玄関の戸があいていたというのだから、まずわかっ ている。玄関から出て行ったものにはちがいないのだがi」 出と入りとの問題は、重大であった。特に入りは、ガラ スを焼ききる、土台下を掘る、雨戸をはずす、錠前をこわ す、屋根をはがし、また汲取口からもぐりこむ、それぞれ 犯人常用の方法があって、その手口から、捜査の端緒をっ かむことが多い。しかし、この事件では、その点がまだま るっきりわからないのであった。 事件が発見されてから夜の明けるまでに、家人に対して の訊問が、何回となく繰返されていた。 その時、友杉や有吉が申立てたのは、彼らが帰る時に、 坂の途中で聞いたふしぎな足音のことである。あれこそ、 犯人だったのだろう。家で何が起っているのかを、その時 に知っていたら、足音を追いかけることもできたのであ る。今となっては、歯がみをして口惜しがっても取返しが つかない。友杉は、係官に向って告げた。 「足音の様子では、一人きりだったと思います。それに、 もしかしてあの坂に、土のやわらかいところでもあったと すると、そいつの足あとが残っているのじゃないでしよう か」 足あとは、ふみ荒されると、役に立たない。まだ暗かっ たが、刑事が二人、手提電燈を持って、坂をしらべに行っ たが、やがて、どうも、うまくない。坂の道路に砂利がは いっている。しかも、固く乾いている。足あとらしいもの は、発見できなかったという報告をもたらした。 三 貴美子夫人は、恐怖に圧倒され、また深い悲哀のうちに 沈みこんでいた。 はじめ、友杉が、有太の殺されていることを発見した直 後、彼女もおどろいて二階へかけ上ったが、書斎の入口に 立ち、血まみれな良人の死体を一目見ると、 「たいへんだ! 医者を……早く、医者を呼んでちょうだ い!」 わめくようにしてうしろをふりむいた。 すぐに眼が狂人のように輝き、部屋の中へとびこもうと したので、それは友杉が抱きとめたが、彼女は、有太がも う死んでいるのだとは信じない、どうしても医者を呼ぶの だといって頑張りつづけた。 悲鳴でもあげるかと思ったがそうではなくて、その代り に、非常に気が立っている。そうして、だまってほっとい たら、何かとんでもない、狂暴なことをでも、やりそうな 風が見える。 凄惨なこの部屋の様子を、長く見せておくのはよくない と気がつき、友杉と有吉と二人がかりで夫人を階下の室ま でつれ戻したが、すると、 「いったい、どうしたっていうのよ。なぜ、こんなことに なったのよ。1こんなことって、まるでわけがわからな い。ねえ、手を放してちょうだい。お願いよ。あたし、も ういっぺん行って見てくるわ。だめよ、だめよ、こんなバ カなことってないじゃないの。ねえ。あたしは、もうおち ついているわ。行かせてちょうだい、お願いだわ。ねえ ……」 夢にうなされたようにしていって、そのあと、はげしく 泣き伏してしまった。 有吉が、それまでのうちは、魂を引きぬかれたように、 キョトンとした眼つきをし、ただ途方にくれているという 風だったが、貴美子夫人の泣くのを見ると、急にこらえら れなくなったらしい。彼もその時、声を放って泣いた。 「ぼくが……悪いんだ。ぼくに、責任があるんだ。ぼくが 家へ帰らなかった。だから……ぼくのことで、みんなが外 へ出てしまって、その間にお父さんを殺した奴が、ノソノ ソとはいって来たんだ……」 くりかえし、そう叫んでいるのであった。 こういう混乱の中で、ただ一人友杉だけが、ともかく思 慮を失わずにいた。 警察へ電話をかけたのも彼である。 係官が来た時のことを思って、事件の起った屋部へ、家 の者をも、もう入れさせぬようにしていたのも彼である。 そうして彼は、係官が来る前に、貴美子夫人と有吉に、 一つだけ注意をあたえた。 「いいですか。有吉君については、有吉君が果物籠の金を 盗みだしたことを。なるべく警察へは知らせない方がいい と思いますからね。これは有吉君の恥です。知らせずにす むのだったら、知らせぬ方がいいんですからね。有吉君 は、麻雀で遅くなって、心配だったから、私が迎えに行っ たとだけ申立てておけばいいでしょう。1もしかして、 その金のことが、関係があるのだったら、私が警察へその ことを話します。まア、様子を見てからのことにしますか らね」 その金が、事件と関係があるとは思わなかった。だから 友杉としては、事件と切りはなし、有吉のために秘密に処 理してしまうつもりだったのである。金は、十五万円だけ 書棚の『日本史略』のケースに入っている。あとで五万円 尼じて諸内代議士に返してやる。それでょいのだと考・兄た わけであった。 係官の方では、金のことは知らずにいて、しかし有吉 が、麻雀で夜更かしをしたり、書生が心配して迎えに行く という点から、有吉の素行が、かなり不良なものであろう と推測した。 「息子が不良だとすると、その点で、何か問題がありゃし ないかねえ」 「そうさ。あるかも知れないな。殺された親父と仲が悪か ったとかなんとか……。そうだ、その点は調べておく必要 があるね」 係官は、相談をして、女中のふみやを呼ぶことにした が、ふみやは、何も気がつかずに、有太と有吉とが、あま り仲がよいとは思えなかったといった。親子でありなが ら、子は父を恐れ、父は子を憎んでいるように見える。最 近はそれほどでもないが、以前は、二人が口をきき合うの も珍らしいくらいであったと答えた。 係官は、ふみやを去らせたあとで、眼と眼を見合わして いる。 「ふしぎなのは、息子の態度が、われわれの前で、へんに オドオドしている点だよ。神田で麻雀をやっていたといっ ている。賭け麻雀だろう。賭博であげられるのを心配して いるのかとも思ったんだが……」 「犯人が、家の中の事情に通じている点から見ると、こい つは、も少し念入りにやる心要があるね。友杉という書生 と二人で神田から帰ってきた。しかし、友杉という男も、 態度が、へんだといえば、へんだからね。こいつは、ひど くしっかりしているんだ。一言一句、むだなことをいわな い。聞くことに応じて、実に要領よく答えている。ー待 でよ。兇器の斧は、あの書生がまき割りの時に使うやつだ づていうことだったね」 この上に、まだ不利なのは、時間の点が、あいまいにな っていることだった。 十二時をすぎるまで、神田の麻雀クラブ紅中軒にいたと いうが、何時何十分にクラブを出たのか、友杉も有吉もハ ヅキリ言えない。一方、兇行は午前一時前後だった。神田 にいたというのは嘘で、邸内へもっと早く帰っていたのか も知れない。それに、公衆電話が男の声であった。友杉か 有吉かが、その電話をかけたのだという疑いもわいてく る。 「よし!麻雀クラブを、夜が明けたら、すぐに当ってみ ることにしよう。二人の中立てと違っていたら、二人がホ シということになるかも知れんぞ。ー書生も息子も、家 へ帰る途中の坂で、犯人らしい者の足音を聞いたといって いる。ところが、足あとはありゃしないのだ。足あとの残 る場所でないことを知っていて、わざとそういうことを言 い、こっちの捜査方針を狂わせるつもりだったということ も十分考えられるのだからね」 誤解は誤解を生み、しかも係官は、誤解だと気がつかな いから、急にそこで元気づいてきていた。 1やがて、待ち設けていた朝がきた。 谷野という警部補が、さっそく神田の紅中軒へかけつけ たが、紅中軒では、昨夜麻雀を何時までうっていたのかと 訊かれると、主人が、取締り規則の違犯になっていること を心配したから、 「そうですね。十一時少し前に、店を閉めたと思います。 いえ、賭けなんか、ぜったいやらせませんよ。そして、規 則どおり、いつも十一時には、お客さまに、帰ってもらう ことにしておりますので……」 と嘘をついた。 「そうかね。これは、ある事件に関係したことで、非常に 重大な問題なんだよ。たしかに十一時以後麻雀をうってい た客はないのだね」 「まちがいなし、十一時でおしまいでした。事件てのは、 どういうことですか」 「新聞にも、いずれ出るだろうから、その時にわかるさ。 ついでに聞くが、昨夜の客のうちに、藤井有吉という男 と、友杉成人という男がきていたかね」 主人は、急に困った顔をしたが、そこまで嘘もつけなか ったと見える。 「ええと、その友杉っていう人は知りません。しかし、藤 井ってのなら、学生さんでしょう。藤井さんは、来ていま した」 「それで、藤井が帰ったのは?」 「十一時に少し前でしたろう。いえ、私は、奥にいました から、ハッキリしたことは知りません。しかし、十一時に 店をしめた時、藤井さんは、もういませんでしたから」 谷野警部補は凱歌をあげた。 まっしぐら、捜査本部のK署へ戻った。 これで、友杉と有吉とのアリバイが破れたことになるの である。昔のやり方だったら、すぐ二人をひっくくってし まってもよい。おとは、物的証拠を探すだけのことになっ たと考えてしまった。 ところが、その頃に、事件現場の藤井家では、有吉が、 もう一つ、係官の疑いを招くようなことをやってしまった のである。 有吉は、書棚の金のことが、気になってたまらなかっ た。 よせばよかったのに、自分の隠しておいた場所に、あの ままあるかどうかを、たしかめたくなった。 二階へ、一人で、上って行った。 すると、書斎の入口に、刑事が二人、まだ見張っている。 「ぼく、ちょっと、書斎へはいりたいんですが……」 「困りますね。死体を解剖へ送るまでは、なるべく、入っ でもらいたくないんですが」 「中をかきまわすんじゃないんです。調べたいことがあり ますから、辞書を見たいんです。一分間だけです。はいら せて下さい」 刑事は、眼と眼で相談した。そうしてよろしいと許可を して、しかし、じっと有吉のすることを眺めていた。 有吉は、書棚のガラス戸をあけ、辞書を探すふりをし て、そっと『日本史略』のケースを引っぱりだし、中をの ぞくと、思わず「あッ!」という声を立てた。『日本史 略』は二冊あり、はじめに見たのは上巻だったが、次に下 巻のヶースをのぞいても、やはり驚きの表情が、すぐ顔に 現われた。そうして、 「どうしたんです。何をびっくりしているんですか」 刑事が、目ざとく、そのケースのあるところへきたが、 「いえ、なんでもないんです。ただ、ちょっと……」 口をにごらして、赤い顔をして、有吉は書斎を出てきて しまった。 事情を知らぬ人から見ると、それは少なからず怪しい挙 動に見えた。 しかも、有吉が書斎を出て階下へ行こうとすると、友杉 は、有吉が二階へ何をしに行ったのかと心配し、階段を下 から上ってきたから、二人は、階段の踊り場で、バッタリ と顔をつき合した。 「友杉さん、たいへんですよ」 「どうしたの?」 「金が、なくなっているんです。隠しといた本のケース が、二冊ともからっぽになっているんですよ」 「え!」 声は低かったから、何を話したのか、刑事たちには、わ からなかった。 しかし、それは、十分に怪しい態度として見えたのであ る。 虚実 所轄K警察署の二階の、暗くてせまい廊下のつきたり のドアには、『藤井事件捜査本部』と、〆まりうまくない 字で大書した紙が貼りだされていた。 ドアは、ぐあいが悪いから、あけたてするたびに、ギギ イッという悲鳴をあげる。そのいやな音は、事件の起った 日、しきり問っきりなしに聞えていた。顔色のよくない若 い刑事が、藤井代議士邸へ出入していた人物について、新 しい聞込みがあったといって、眼つきを昂奮させて帰って くる。古参の見るからに老練らしい背の高い刑事が、すぐ にまた何かの命令をうけて外へとびだして行く。制服の巡 査が二人、事件現場見取図と附近略図の拡大したものを持 ってきて、ピンで壁に貼りつける。ー目まぐるしく係官 が、その室へ入れ代り立ち代りしているのであった。 午前十一時、代議士の死体を解剖した結果、やはり致命 傷は、斧で一撃された頭部の傷だと判明した旨の報告があ り、またべつに本庁鑑識課から事件現場階下の台所には、 犯人が血を洗い落して行った形跡があるのだと知らせてよ こした。そうしてそのあとへ、自動車で乗りつけてぎた刑 事部長が、この事件は、とくに迅速かつ慎重に処理しても らいたい、警視総監も心配しているのだからといって、捜 査課長以下の係官一同を激励して帰って行った。 署員が、食事の都合を聞きにくる。 新聞が、捜査経過を早く発表したらどうかといって催促 にくる。 卓上電話を二っ急設することになって、電気屋さんが、 コードをぐるぐると部屋中へひっばりまわしたが、する と、それができあがったとたんに、その二つの電話がいっ しょにジリジリ鳴りだしてしまった。 「被害者の息子……そうです、有吉についてです。学生 で、まだ十八歳だというんですが、情婦があるってことが わかりましたよ。相手の女も、H女学院の生徒で十七歳、 なみぎ 会社重役の娘ですが……ええ、名前は、波木みはるってい うんです。好きで会ってるとか、手紙のやりとりをしてい るってんじゃなくて、もっと深いらしいですね。情婦です よ。二人で宜しくやってるんですよ」 という報告と、もう一つは、電話交換局を調べに行った 刑事からで、貴美子夫人とふみやをおびきだした電話が、 牛込公衆Bの八番であるとわかったことを知らせてきたも のである。その電話のボックスは、藤井家から約五〇〇メ ートルをへだてたT字型道路の角に立っていて、夜間は人 通りが淋れるから、利用者の数がきわめて少ない。前夜 は、十一時半ごろと十二時数分後との二回にわたって、そ こから藤井家を乎びだしたものがたしかにある。むろん、 それが犯人にちがいないというのでのった。 有吉について係長が、 「どうですか課長。おどろきましたね。議員さんの息子 も、これじゃすっかりもう与太もんですよ。麻雀ばくちは やる、ダンスホールへ行く、女もつくったというわけで す。ともかく、この女も洗ってみる心要があると思います が……」 やれやれといった顔でため息をつき、課長は、 「そうだね。見たとこは、おとなしい息子に見えるが意外 に悪くなってるんだね。まア、洗ってみなくちゃなるま い。ただ、息子が犯人だとはきまらないし、その娘の方も 事件と関係があるかどうかわからんだろう。若い者に、あ とで傷がつかないように注意してやることだ。ーぼくと しては、公衆電話の方が興味がある。現場と五〇〇メート ルの距離だ。歩いて五分あれば足りるだろう。犯人は電話 をかけておいて藤井家へ行った。そうして女中なり細君な りが、うその電話と知らないで外へ出て行くのを見てい た。それから、邸内へ侵入したという順序になるんじゃな いかね。くわしく地取りをしてみることだな。もしかし て、犯人が公衆電話のボックスにいる時、または、そこを 出て藤井家へ行く時……イヤ、待て。二度も電話をかけて いるんだよ。場合によると、被害者の家と電話との間を、 いくども往復しているかも知れないそ。その時に、犯人の 姿を、誰か見ていたものがあるとすると面白いじゃない か」 丸く肥った短い指で、買いたてのボールペンのカップ を、ぬいたりはめたりしながら答えていた。有吉や友杉に 怪しいふしがあることは、すでに本部へも報告があって知 っている。しかし、まだ的確な嫌疑をかけるという段階へ は進んでいない。捜査は、できるだけ網を大きくひろげ、 理詰めで一歩一歩進めたかった。願わくば、その公衆電話 の受話器にでも、犯人の指紋が残っているというようなこ とがないだろうか。犯人が電話をかけたのは、第二回目が 午後十二時数分過ぎだという。それなら、もしかすると、 今朝の夜明けまで、ほかには誰もその電話を使用したもの がなく、従って、もっと早くそのことがわかっていたら、 受話器の指紋を検出することができたのかも知れない。今 からでも遅くない、という流行語があったが、それは果し て、今からでも遅くないのであろうか。今日は、まだ誰も その公衆電話へはいったものがないというような、奇蹟が あると都合がよい。そうだ、ともかくこれは、手配を急い でみようと、課長も係長も、いっしょに考えているのであ った。 係官たちは、ゆうべの真夜中に、官舎や自宅から乎び出 されてきたものばかりで、昼の食事がすむと、少し眠くな った。 課長は、階下の署長室へ行って腕椅子を借り、よりかか るとすぐにいびきをかいた。 係長は、署僚警部と昔から親しい仲で、子供が大きくな って中学へ入ったが、靴を買わされて閉口したという話を した。 その時、だしぬけに署へ出頭したのが、友杉成人であっ た。 署の受付へきて彼は、 「内密でお話をしたいことがあります。なるべくなら、捜 査課長か係長さんにお目にかかりたいのですがー」 と、いつものおちついた調子でいったが、その眼のうち には、何かしっかり決心したものが出てきている。署内 は、急にまた緊張した。それから、課長と係長とが二人で いっしょに友杉に会ったが、するとすぐに友杉の話しだし たのが、例の果物籠の中の二十万円についてであった。 実は、友杉としては、それをいくどか考えてみたあげく に、当局へ知らせてしまうのが、最適の処置だときめたの である。十五万円残っているはずだったのに、意外にも、 全部なくなっている。それには有吉自身がびっくりし、友 杉もおどろいてしまった。そうして、もうこうなってから では、かくすことができないと感じた。かくしても、あと で知れて、そのために有吉が、どんな誤解を招くまいもの でもない。表面的に見ては、金も有吉が全部盗んだと思わ れてもしかたのないことであるし、一方には、金を盗まれ たのが、代議士の殺されたのと同時であるか、またそれ以 前のことであるか、それも問題になるのであろう。藤井代 議士を買収するために、諸内代議士が持ってぎた金で、政 治的に波及するところが大きいかも知れない。いずれにも せよ、うやむやで葬り去ろうとしたら間違いが起る。貴美 子夫人ともそれは相談してみた。有吉が困って泣き出しそ うな顔になり、しかし、はじめに盗んだ五万円を誰に与え たか、その友人の名前までハッキリと打明けて話した。有 吉は、平川や高橋や園江が、その前日強盗をやったこと を、今ではうすうす知っていて、それだけは、さすがに辛 うじて言わなかったが、ともかく警察へ、残り十五万円の 件を話すのは、やむを得ないことだと承服し、そこで友杉 が、向うから呼ばれぬ先きにというつもりで、とりいそぎ 捜査本部へ出頭したわけである。 友杉の申立ては、重大だと思われる。 課長も係長も、耳をかたむけてそれを聞いた。 そして、終ってからなお係長は、事件発生前の友杉や有 古の行動について、いくつかの鋭い質問をしたが、それは とくに、彼等が麻雀クラブ紅中軒を出た時間が問題だっ た。友杉が、クラブ主人の申立てとはちがって、ほとんど 十二時を過ぎてからクラブを出たと記憶しているから、記 憶のとおりに答えると、係長は、それを証明するものがあ るかと訊きかえす。友杉は、そうですね、と考えこんで、 いっしょに麻雀をうった平川と高橋とを思いだしたが、じ きにハッと明るい眼つきになった。有吉と帰る時、九段の 電車の曲り角で、巡査に見とがめられて不審訊問をうけて いる。その時、自分らは藤井代議士邸のものだということ を答えたのだから、それを巡査が忘れずにいてさえくれれ ばよい。時刻は、巡査が記憶していてくれるにちがいない のである。i係長は、鉛筆で頬杖をつき、友杉の話すの を聞いているうちに、やはり急に眼つきが明るくなってき ていた。そうして、そうですか、それはよかった、九段の 巡査だったら、調べるとすぐにわかることだからと、愉快 そうな口調でいうのであった。 一時間あまりいて、友杉が帰る。 そのあと、課長と係長とが、いっしょにたばこを口にく わえた。 「貝原君。君はどう思うかね、今の男を」 「感じがいいですね。会ってみているうちに、考えを少し 変えなきゃいかんという気がしてきましたよ」 「同じだな。ぼくと……」 「ある程度の嫌疑が、あの男にもかかっています。事実、 何かしら変なところがないじゃなかった。しかし、信頼が おけるのじゃないでしょうか」 「話した事実はオカしなことだよ。二十万円の金のうち、 五万円は被害者の息子が盗んだ。が、ほかに十五万円盗ん だやつもいるというのだ。ところが、申立ては信頼しても いいという感じを与える。捜査の資料を提供してくれただ けでもありがたい。1まア、しかし、九段の巡査を調べ なくちゃいけないがね」 「すぐやりましょう。それに事件が派生的にいろいろの面 を持ってきたようです。第一、諸内代議士というと、名前 は相当に知れている人物ですよ。こっちへも、すぐ手配な つけてみますか」 「むろんだ。やらんきゃならん。これはぼくから本庁へも 連絡をつけておく。ともかく、うまくやってくれたまえ。 ぼくは、ここで、ちょっとほかへ廻って来なくちゃならな いがー」 時間がたつにつれて、頭も身体も、忙しくなってくるの である。 課長は、べつの用件があって、その時いったん捜査本部 を出て行ったが、気になるからまた三時間ほどして帰って きた時、係長が、待ちかねた顔で報告した。 「わかりましたよ。九段の巡査は」 「ほう。どう った」 「友杉の申立てが正しいのだとわかりました。午前一時十 分、九段で不審訊問をうけています。一方、藤井代議士の 殺されたのが、やはりその一時に十分前か十分後というと ころで、その時刻には、友杉も有吉も、九段附近にいたと いうわけです」 「よかった。だいたいはアリバイが成立つじゃないか」 「だいたいどころじゃなく、りっぱなものですよ。それ に、まだお話ししなかったからいけないが、つまりは紅中 軒の親父が、でたらめをいっていたのです。ついさっき、 呼びつけて叱りつけました。すると、一も二もなく恐れ入 って、実は午前一時近くまで、客を遊ばせておいたという んです。その客というのが、有吉とその友だちで、そばで 友杉が麻雀を見ていたというのもほんとうだったそうでし てね。むろん、ずっと夢中で麻雀をやっていて、公衆電話 をかけるひまもなかったんですから、ぜったいに二人と も、嫌疑の余地はありませんね。二人だけじゃない、いっ しょに麻雀をうっていた有吉の不良の友だちも、前に有吉 から五万円もらった事実はあるが、それ以外べつに何もな いという見込みが立つのですし、もう一つ、有吉に問題が ないとすると、有吉の情婦だという少女についても、もう べつに大して調べを進める必要がなくなったように思うん ですが、ところで困ったのは、諸内代議士の問題でして ……」 コ一十万円の件だね。そっちはどんなあんばいだった?」 「てんで話にならないのです。そういう金については、ま ったく覚えがないというんでして、ひどく頑張りました」 「ふうん」 「仮にも、藤井を買収しようとしたなんて、外聞の悪いこ とを言ってくれるな。我輩、そんな愚劣な行動は決してと らない。警視庁ともあろうものが、実にべらぼうな話をす るもんじゃないか。とんでもない言いがかりだ。俯仰して 天地に恥じず、公明正大、誰の前でも断言する、そんな汚 いことをするおれではないそといって、大声に笑いとばし てしまったんです。諸内代議士の言葉を正しいとすると、 この点でだけ、友杉の申立てが、嘘だということになるの ですが……」 諸内代議士の、人を人とも思わぬ笑い顔が、目に見える ようである。 課長は、なるほどそうか、とうなずいて見せたが、眼尻 をかすかに笑わせている。何か考えていることがある風で あったが、べつに何も言わず、ドシンと椅子に腰を下ろす と、留守のうちに集まっていた報告書類に目を通しはじめ た。 二 友杉や有吉の身辺については、もう完全に、何も問題が ないように見えた。少なくともこの二人が、藤井代議士殺 しの犯人でないだけは確かだった。今や当局としては、そ のほかの方面へ、目を向けねばならぬ時期がきていたので ある。 係官たちは、血眼になって、捜査資料の蒐集につとめ た。 また、いくどかめいめいの意見を持ちよって議論を交 し、捜査方針の確立をいそいだ。 残念にもその時はまだ、事件現場たる藤井代議士邸で、 犯人の遺留品であるとか足跡であるとか、直接犯人を推定 するに足るような具体的物件が、何一つ発見されていな い。それに、一時ひどく有力視されたのが、牛込公衆B八 番の電話についての調査であって、これは、捜査課長も気 づいていたとおり、犯人を目撃したものがあったり、また 電話機に指紋でもついていたとすると、たいへん好都合で あるにはちがいなく、しかし物事は、そう思ったとおりに はならないのが常である。その電話は、一時使用禁止にし た。同時に、そこらかいわいの家を、刑事が軒なみ尋ねま かん わって、犯人目撃者を探してみたが、結果は甚だ香ばしく ない。指紋は一つだけ、ハッキリしたのがあったが、調べ てみると、電話のあるすぐ前の家の少女が、病気で学校を 休んだから、少女の母親が、学校へ電話をかけたのだそう で、つまりその母親の指紋が残っていたのだとわかってし まい、それもそこまでわからせただけが容易なことではな く、一方犯人を目撃したというものも出てこない。けっきょ く、絶望とは言えぬにしても、あとは根気ずくで、同じこ とを続けるよりほかないということになってしまった。 もっともここに、甚だ興味のある問題が一つ提出されて いる。 例の果物籠の金についてだった。 この金を、一方では、諸内代議士から無理押しつけで藤 井代議士に渡そうとした金であるといっているのに対し、 諸内代議士が、頭からそれを否定してしまったのは面白 い。多分それは、友杉の申立てが事実であり、しかも政治 的な意味に於て、諸内代議士としては、否定せざるを得な かったのではあるまいか。が、それだとすると、金の背後 にひそむ問題は、どうしてなかなか、 一朝一夕にはメスを 入れ難いほど大きなものになってくるのだし、といって、 それを藤井代議士殺害事件と切りはなして考えてよいかど うかにも疑問があり、また切りはなしてみたにしても、事 件発生直後に、残り十五万円の紛失がわかったというの が、どうやら全然無意味なことでもなさそうである。黒い モヤモヤした雲がかかっている。雲の向うには、どんなに 驚嘆すべき、そして恐ろしいことがあるのかもわからな い。不気味で大きな懸案だった。もちろん、いつかはそこ へぶつかるのだろう。が、焦っては失敗する、うかつに手 をつけられぬという気がしてくるのであった。 事件発生の日の翌日1。 藤井代議士邸は、たいへんな混雑状態に陥入った。 警察当局が、現場の調査を打切って、邸内への人の出入 りを許したので、有太が殺されたことを新聞で読んだ人々 が、どっと弔問に押しかけたのである。 さすがに代議士ではあるし、藤井産業の社長として、実 業界にもある程度名を成していたから、弔問客は、各層各 界にわたって多数であった。大臣の車が門の前へとまっ た。取引銀行の支店長がやってきた。学生時代からの友人 おかみ がくる。築地の某料亭の女将もきた。出入りの商人、区 長、通運会社や肥料会社の社長、そして貴美子夫人-今 は未亡人といった方がいいのであろう、未亡人と親しかっ た画家や音楽家、また洋裁店のデザイナーまでくるといっ た工合であった。 人々は、応接室や廊下や、すでに有太が遺骨になって祭 壇に安置されているサンルームの入口などで、くりか、兄し 生前の有太について語り合い、口をそろえてあのようにも 清廉潔白であった有太の死を残念がったが、それと同時 に、この敬愛すべき人物を、残酷にまき割りの斧で殺した 犯人が誰であるかということについても、いろいろと意見 を述べ合っていたようである。 その時に、そういう弔問客の中へ、生前の有太の知友で もないらしく、かといって、未亡人貴美子の姻戚らしくも 思われぬ人物が、あちらに一人こちらに一人、べつに話相 手があるでもなく、ボゾヤリした顔つきをしてまぎれこん でいたが、それは実は、捜査課から選りすぐってよこした 最も敏腕の刑事たちであった。刑事が、受付にもいた。台 所へも顔をのぞかせた。人々が語り合う雑談に、片言隻語 をも聞きのがすまじとして、じっと耳を傾けているのであ った。 有太が、若い頃は、なかなかの乱暴者で、しかし友情に 厚い男だったという話が出る。 先妻の節子をいかによく愛したかという話も、小さな声 で話し合うものがあり、しかし、今の貴美子未亡人とは、 年がいくつ違っていたのかと、それをひどく気にして人に 訊くものもあった。有太が、政治の問題で、近いうちに大 いに世間をびっくりさせることが起るぞ、と語ったことが あると話すものがあり、しかしそれがどんな問題であるの か、誰も知っているものがないようであった。酒量はそれ ほどでなかったが、酔うと下手な節廻しでおけさ節を歌っ たという話1。また、芝居を見ていてボロボロ涙をこぼ したという話ー。 どうやらまだ、捜査の助けになるような話を、誰も持ち だすものはなかったが、そのうちにふいに玄関で、 「やア、どうも、とんだことで……」 と大きな声がした。 それは、いかにもくったくのない明るい響きを伴ってい て、しかし、いささかこの場合としては、無遠慮にすぎる ような声だったので、そこにいた人々は、ハッとして声の した方をふり向いて見たほどだったが、その声の主は、中 正党代議士諸内達也であった。 彼は、鞄持ちの書生を供につれ、時期にしては少し早い 白いパナマ帽をかむり、自動車できていた。むろん、弔問 のためにきたのであったが、受付で名刺を出して玄関へ上 ると、そこですぐに知人にあった。そうしてその知人と、 玄関からとっつきになっている書生部屋の前で、立話をは じめたのであった。 彼は、それからあとは、はじめほどの大きな声でなく、 普通の調子で簡単な話をつづけた。そしておしまいに、 「イヤ、藤井君も、まったくえらいことになったものです よ。政治的意見では、わしと大分喰いちがいがある。だか ら議会では議論ばかりしましたが、そのくせ、忘れられん 男でしてね。なかなかよいところがあったが、こういう死 に方をするとは思わなかったですな。まア、不運というも のでしょう。世の中が混乱している。その犠牲ですな。政 治家としての前途も、大いに期待すべきものがあったの に、実際残念なことをしましたよ」 知人にそういって別れを告げ、それから奥へはいってき た。 藤井代議士買収の画策については、当局も慎重な態度を とり、新聞などにはいっさいそれを発表しないことにして いたから、来ていた一般の弔問客は、まだ何も知らないで いたことだろう。 つら 彼は、いつもに変らぬ剛愎な面がまえで、そこにいた 人々の顔を、一巡ずらりと見渡していた。 刑事が、この時ばかりは、きっと身を乗り出すようにし て、この代議士の一挙一動を見まもっている。 が、彼は、口を大きくへの字に結び、そのうすあばたの ある顔を昂然と上げて、祭壇のしつらえてあるサンルーム へ進んだ。そして、きゅうくつそうに、膝を折って坐って 礼拝し香を焚き、そのあと、壇の前にいる貴美子未亡人の 前へきた。 「驚ろきました。御愁傷さまです。奥さんとしては、いろ いろとお話もあることでしょうし、いずれ、日を改めて参 りますが、私も何かとお力になれるだけのことはしてみた いつもりでおりますから……よろしいですな。この際、十 分に考慮なすって、世間を無益に騒がせぬよう願います そ」 と最後の言葉を、ひどく低い声で、そして力をこめてい った。 未亡人は、この男が、金のことを否定したのだというこ とを、むろんもう聞いて知っている。十分に考慮せよとい うのは、いかなる意味であるかもよくわかる。しかし、こ こではロへ出すべき問題でないから、だまってただうなず いただけであった。 「御霊前へどうぞ……」 代議士は、紙に包んだかなり分厚なものを未亡人の前へ さし出し、そして席を立った。 あとは何も言わない。 それだけで、スッと帰って行ってしまった。 死んだ猫 一 日が暮れたばかりの銀座は、光や音に充ちあふれ、いつ にも増して、若い男や女の姿がいっぱいだった。 なま 女は、美しく生き生きとしていて嬌めかしく、男は元気で 愉しそうで、みんな苦しみや悲しみを持っていないように 見える。露店の前の人だかりが、ワッと笑い声を立てた。 閉店前の時計店の飾窓に、金やダイヤをちりばめた高価で 珍らしい時計が、ずらりと光って並んでいた。ビヤホール は、歩道まで客がはみだして"る。腕と肩と胸とを、むっ ちりむき出しにした女が、背の高い男に抱きささえられ て、横町から出たとたんに、つきあたりそうになった。 「こんど、どこへ行くのよ。どこへでも、あたし平気よ お!」 女の言葉が耳に入った。 そして高橋勇は、頭がぐらつくような気持がし、さ、兄ぎ る人波をぬけ、セルロイド人形の露店の前で、立って待っ ている平川洋一郎に追いついた。 「それでねえ、平川君。そん時ぼくは、藤井のおやじが殺 されたなんて、ちっとも知らなかったから、ドキッとした んだよ」 「同じだよ、ぼくも。ふいに刑事が来やがった。ちょう ど、ぼくのおやじが、アトリエで仕事をしていた、女中が おやじに知らせたんだ。おやじが、先きに刑事に会った。 ぼくの方は、あれがばれたのかと思っちゃった。藤井から 五万円もらった、あのことを確かめに来ただけとは知らな かったからね」 「ぼくの方は、もうだめだ、と思ってしまってね、すき があったら、刑事をつきたおし、表へ逃げ出そうかと思っ たくらいだよ。下宿のおかみさんがそばで見ていた。あと で聞いたら、ぼくの顔が病人のように青くなっていたって いうんだ。よかったよ。まったくよかったよ。心配なの は、やっぱりまだ園江のことだけどね。あいつ、それっき り、会わないんだよ」 「へまやらずにいてくれると、ありがたいね。ぼくは、毎 日、電話しているけど、まだ家へ帰らないっていうこと だ」 「帰っていても、ぼくらに会わせまいとして、家でうそつ いているんじゃないのかねえ」 「ちがうさ。そんなことはない、園江の家は、おふくろ が女中上りで、かぼちゃのように肥っているよ。おやじ は、ほかにお妾こしらえてるし、園江のことなんか冷淡 で、いく日家へ帰らなくても、まるっきり心配してないん だよ。まア、園江が、つかまらずにいさえしたらいいと思 う。園江のことより、こっちのことが心配さ。もうぼく は、もいっぺん、 『あれ』をやる気にはならないしね」 尾張町の角へ来ていた。 二人ともに咽喉がかわき、アイスキャンデーでもいいか ら食べたいと思ったが、がまんして向う側へ渡った。金が なくなっている。煙草を買うのがやっとこさである。『あ れ』をやる気がないのは本当で、しかし、うまく行く見込 みがつけば、『あれ』よりほかに金が手に入らないのだか ら、やはりやってもよいという気持がどこかでしている。 平川洋一郎は、画家の父親のアトリエから、額ぶちを盗み 出して売ってきた。高橋は、靴を質に入れた。が、明日の 朝は文無しになるにちがいない。こんな時、藤井に頼んだ ら、いくらかは役に立つのだろう。けれども、藤井は、父 親が殺されてからまだ一週間くらいにしかならないから、 そこへ金を借りに行くなんてわけにいかない。高橋は、立 ちどまり、ポケットへ手を入れたが、たばこがもう二本し かないと思いつくと、そのまま歩きだした。敏感に平川 が、たばこならあるよ、といって、光の箱を出した。 「中心附近の風速は四十メートル、毎時二十五キロの速度 で東北東に進行中……」 どこかでラジオが、今年で何番目かの台風のことをしゃ べっている。 しかし、誰もそんなことは、気にしていない。またビヤ ホールがあった。泡立つジョッキを白い服のボーイが配っ ていた。バタや肉の焼ける匂いがした。横町の屋台店から 煙が流れ出し、そのそばでリンタク屋が、ボンヤリとネオ ンサインの方を見ている。夏の着物に赤い帯の女が二人、 眼を輝かし、笑って、そばを通りすぎた。血が、うろたえ 騒ぐようで、胸のうちが苦しくなった。 「しかしねえ高橋。藤井ぱきっとしょげてるだろうな」 「うん。かあいそうだよ、あいつはね。あいつは、南条と 同じに少年だからな。ぼくらが告別式に行った時、何かぼ くらに話したいような顔つきだったよ」 「でも、ぼくはあとで考えたんだ。藤井は、もしかした ら、ぼくらを疑っているんじゃないかってね」 「ほう、どうしてだい?」 「ぼくらが、五万円もらった前の晩、荒仕事したってこ と、藤井はもう知っているからね。それと同じことを、ぼ くらが藤井の家へ行ってやったんじゃないかってことも考 えられるんだ。もちろん、ぼくらは藤井と麻雀をやってい た。だから、君やぼくが直接そんなことをやるはずはない が、ほかにぼくらの仲間があれば、藤井をぼくらが麻雀で 引きとめておいて、一方でその仲間が電話かけたりなんか して、藤井の名前で家の者を呼び出し、それから忍びこむ ことだってできるだろう。藤井も、そんなことを、一度は 考えてみるんじゃないのかねえ」 「考えたって、そうじゃないから、平気だよ。1しか し、犯人は誰だろう」 「わからないな。新聞にも、迷宮入りかって書いてあつ た。政治的陰謀の疑いがある、という記事もあったね。し かし、詳しいことは何も書いてない。某政治家ーってし てあって、名前も発表されなかった。おまけに、その某政 治家ってのは、アリバイがあったそうだからね」 「まアいいさ。どっちみち、ぼくらが藤井代議士殺しとは、 まったく無関係なことは事実だから、その点でぼくら心配 することはないわけだ。それよりも問題は、ぼくら自身の ことなんだよ。そこでこの際、とくにいやなのは、笠原だよ。 笠原のやつ、なぜぼくに、用があるから来いっていうのか」 「笠原を、いやだと思うのは、君だけじゃないね。みん な、あいっには、かなわないと思っている。でも、ぼく は、わりに平気だぜ。金はあいつから三度も借りた。利子 が高いから、借りるのはいやだけれど、今のような場合に は、けっきょく、まああいつから借りるよりほかないだろ うとも思っているんだ」 「うん、それはね平川。君は、池袋で『あれ』をやった金 で、ぼくが笠原に借金返しに行った時のこと、まだ詳しく 話さないから、そんな平気な顔をしているんだよ。ぼく は、その時に、笠原の眼で睨まれると、身動きができなく なるような気持だった。ぼくは、いいアルバイトを見つけ たから、それで金ができて借金を返せるのだといった。と ころがあいつは、アルバイトなんか信じてやしない。何か べつのことで金が入ったのだと思っている。高慢ちきな眼 つきでぼくの顔のぞいて、腹の中じゃ、エヘラエヘラ軽蔑 して笑っているんだ。そして、悪いことをすると親が心配 するっていう話をしたよ。チャリンコでつかまった川上の ことをいったり、小西や園江が低能児で、ことに園江は、 鼻が曲がっていて、先天的犯罪者型の顔だなんて、ひどい こといったんだ。ぼくは、怖くなっちゃった。長いうち笠 原と話してたら、池袋のこと、見ぬかれそうだと思ってし まった。あわてて帰ろうとしたら、ぼくが帽子を忘れそう になったから、笠原がニヤニヤして、その帽子をぞうきん ぶら下げるようにしてぼくに渡したが、ぼくは、笠原にと びついて、首をしめてやるか、でなきゃ、逃げるよりほか ないという気がしたものだよ。あいつは、きらいだ。恐ろ しい奴だよ。それだのに、いい話があるから会いに来いっ ていうんだからね」 「ぼくの方へも、いい話があるっていってきたんだよ。南 条と小西とは来ないそうだが、なにしろいい話だっていう のだから……」 「そこだよ。気味が悪いんだ。南条は子供だし、小西は低 能だときめていて、君とぼくだけを呼びつけるのだ。しか し、ろくなことじゃないね。藤井のおやじが殺された事に 関連して、五万円ぼくらがもらったことだって、あいつは もう知っているにちがいない。そして、池袋のことや、下 谷でぼくらが失敗して園江がいなくなってしまった、その ことも感づいているんじゃ、ないかと思う。警察へぼくらの こと、話す気になれば話せるのだ。それでいて、いい話だ なんて……」 サイレンが鳴り、ジープが走って行った。 が、歩道はべつに何事もなく、笑いさざめき昂奮して、 肩と肩とすれ合わせて人が歩いている。 平川は、ため息をつき、高橋は、ワイシャツの袖で汗を ふいた。 藤井や園江や笠原のことを、百ぺんでもくりかえして話 したかった。話して、話して、話してしまって、そうした ら、何か安心できるような気がした。 薬局があった。 「ぼくはね、催眠剤をのんでみたよ」と平川がいった。 アヘン 「催眠剤より、阿片かなんかがぼくは欲しいよ。そんなに いい気持じゃないともいうし、でも注射するやつがたくさ んいるからね」 と高橋は答えた。 「まるで、でたらめになっちゃいそうだね」 「しかたがないさ、池袋の『あれ』をやったんだから、あ とはますますそうなるよ。藤井のようなスヶがあるとまだ いいんだけど」 「女はいいね、女とねると、気が休まるとぼくも思うんだ よ。ほかのこと忘れてしまうことができるのだ。けれど も、ぼくの女は芸妓だから、金がかかってだめなんだ。金 が欲しいね」 平川は、またため息をし、洋品店の角を曲って横町へは いった。 笠原がダンスホール・オーロラへ来ている。そこへ来い という知らせであった。気は進まないが行くよりほかない のである。 ホールへ入るだけの金がないのに気がひけながら、二人 は、地下室の階段に立ち、笠原を呼び出してもらった。そ ぞうげ ぼ うして笠原は、十分ほども二人を待たせてから、象牙彫り のように顔の輪廓のととのった、しかし、笠原より年上の 女と、腕を組み合わせてそこへ出てきた。 「速達がとどいたんだね」 「うんー」 「平川君には電話だったから、来ると思っていたんだよ。 二人でいっしょに来てくれたのはありがたい。1が、今 夜は、急に予定が変ったのでね」 笠原はチラと女をふりむき、それからズボンのポケット へ手を入れると、厚い紙幣束をつかみ出していた。 「高橋君にもお気の毒だけれど、今夜はだめなんだ。明日 の午後、ぼくの下宿の方へ来てくれないか。その代り、ほ んとにいい話なんだよ。まア、今夜は、これをとっておい でくれたまえ」 二人はびっくりしていた。この男が、こんな風にして気 前を見せるとは思わなかった。平川の手へ押しつけられた 金は五千円近くあるだろう。なぜ笠原がこんなことをする のか、てんでわけがわからない。それに、機嫌よく陽気な 目つきで、二人を真実仲のよい親友のようにして取扱うで はないか。 「かまわないんだよ。その金は、君たちが使ってしまって いい金さ。じゃ、しっけい」 笠原は、もう、二人をふりむかない。女とまっすぐに行 ってしまった。 平川も高橋も、あっけにとられた。 笠原が、向うの明るい通りへ出るところでタクシーをひ ろい、女といっしょに乗りこむところを見てしまってか ら、急に泣きそうな声で高橋が叫んだ。 「オイ、平川、ぼくらも、どこかへ行こう。バカにしてや がる、笠原のやつ!」 「うん、あいつ、ぼくらを軽蔑して、女の前で優越感を味 わっているんだ。いいさ。したいようにさせておくさ。あ いつはあいつ、こっちはこっちだ。ほんとに、どこかへ行 こう。どこだっていいだろう。これだけあれば、どうにか なるからね」 と平川もいった。腹の立った声だった。そうして、もら った金を、そのままポケットへ押しこんだ。 二 その晩、高橋勇は、でろでうに酔った。キリスト教や共 産党や保守党のことを、でたらめに悪くいったりほめたり し、また道の上で人に喧嘩をふぎかけそうになった。そう して平川洋一郎は、迷惑し、貴様は馬鹿だと罵りつつ、け っきょく二人して少しも知らない家へ行った。 その女たちは、同じアパートの小さい部屋を二つ続けて 借りていて、自分たちは姉妹だといったが、なるほど顔が よく似ていて、服装も化粧もみすぼらしい代り、見た目に は健康そうであり、よく二人を歓待し、ことに平川の女は 平川を、芸術家にちがいない、あたいは芸術家が大好きだ といって、夜っぴてそばをはなさなかったから、平川は、 藤井のことも園江のことも、笠原のあの不思議な態度すら 忘れて、満足したくらいだった。 朝は、女たちが、トーストをこさえてくれた。しかし、 高橋が頭痛で起きていられぬくらいだといい、昨夜の屋台 で飲んだ酒にメチイルがはいっていたのではないかと心配 したが、二時間ほど寝ていると、高橋もやっと痛みがとれ たといった。 「ねえ、これからあんたたちはどうするの」 「帰るのさ。しかたがないよ。金がなくなってしまった」 「あら、お金なら、気にしなくてもいいわよ。夕方までい らっしゃい。その間は、ブリイタイムよ。お互いにサ!ビ スだわ」 「面白いんだな。お互いにって、どういうんだい」 「わかんない人ね。お金がないと、食べるものにだって困 るでしょう。それは、あたしたちが心配するわ。そうして あんたたちは、こっちのいうなりになっているの。あたし たちのような女でも、たまにはできるったけたんのうした いと思うものよ」 いつもこの女たちは、自分の気に入った客を取れずにい るのかも知れない。が、それにしても、平川や高橋にとっ て、.」んな女は予想外だった。そうして考えると、昨夜は ヤケになっていて、何かはずみがついたら、ついフラフラ と自殺でもしそうな気持だったが、笠原に会ってから、へ んにアヤがよくなってきたような気がした。この分だと笠 原の話もほんとに悪くないことのように思われる。とにか ふ て くさ く世の中は、そう悲観したものでもない。不貞腐れな、し かし図太い勇気が二人ともにわいてきた。 午後、台風は日本海にそれたらしいが、雨が一時はげし く降り、その雨がやんでから、二人は女の家を出た。 そうして、本郷の焼けのこり地区にある笠原の下宿へ行 ってみると、笠原は、 「ずいぶん待たせたじゃないか。しかたがないから、ぼく が一人で出かけてしまおうかと思っていたよ」 パリッとした夏の背広を着て、柱にかけた鏡に向い、ネ クタイを直していたところである。ふりむいて高橋を、頭 から爪の先きまで見下ろすと、 「学校の服、着て来ちゃったね。帽子も汚い。1しか し、今日はまアいいとしておこう。そのうちに、服を新調 させるぜ」 と笑いかけ、次に平川にも、 「ああ、そうだったな。平川君は、まだ借金がそのままに なっているだろう。が、これはあとで差引になるさ。ぼく は事業をはじめる。君たちに手つだってもらうのだからね」 もうそれを決定したという顔で言うのであった。 言葉が笑い声でも笠原は、瞳が冷たく澄んでいて、腹の 底を見透かし難いところがある。それに、事業をはじめる とは、どんなことなのか。ウカと口を利いたら、足をさら われるようなことがあるかも知れぬと感じ、この男に抵抗 したいと心のどこかで焦りつつ、しかし平川も高橋も、そ の抵抗心が、もろくも急に薄れて行くのを、くやしいが、 ハッキリと自分で意識した。 「夕飯には、少し早いね。事務的な問題を片づけてから、 レストランへでも行くことにしようか」 ひとり言のように笠原はいって、さて外へ出て、白線入 りのタクシーを拾ってから、だしぬけにしゃべりだした。 「早い話がね。ぼくは昔からある一つの言葉に疑いを持ち はじめたんだ。その古い言葉は、青年には未来の期待があ るとか、未来こそは青年のものだとか、そういう種類の教 訓なんだ。いいかい、なるほどわれわれ青年には未来があ る。そうしてその未来の輝かしさを思えばこそ、青年は現 在のあらゆる労苦に堪えることができるというんだよ。と ころが、未来ってものは、ほんとにそんなに輝かしく愉し いものかどうか、実際は誰にだってわからないものじゃな いだろうか。それはその未来になってみてわかることで、 イヤ、そもそもは、生命というものを、現在と未来とにわ けて、未来だけが値打ちがあり、現在はその値打ちのある 未来の為への準備時代だとする、この考え方が、ぼくは不 当だと思うのだ。一個の生命は、その生命全体を通じて、 価値を論すべきだと思う。つまり、現在には現在としての 価値があって、これは、必然的に未来と連続はするけれ ど、未来よりも低い価値だとは、どうしても言えないのだ よ。むしろ、現在の方が、あるかないかわからない未来よ りも、その現在を、享受している者にとっては、価値があ るといっていいのじゃないか。1むつかしく考えず、青 年と老年とを比較したまえ。老年は未来だが、肉体的にも 精神的にも、老年は青年に劣っている。そうして青年こそ は、生命のもっとも旺盛な時期だ。はげしい恋愛ができ る。食慾も十分だ。それでいてこの生きる力の充実した時 期を、しなびておとろえて、もう女を抱くことすらできな くなっている自分の老後のための犠牲にするなんて.まっ たく.バカバカしいことじゃないだろうか」 高橋も平川も、口をはさむことができなかった。笠原の しゃべることの意味はわかる。しかし、自分たちを呼びつ けて、昨夜はいきなり小づかい銭をくれ、さて今はなぜこ んな理窟をこねだしたか、動機がまったくわからないので あった。 二人が、眼をきょときょとさせて、合槌もうてずにいる のを見ると、笠原は、ふいにニヤリとした。 そして、笑いだした。 「アハハハ、平川君も高橋君も、びっくりしたみたいな顔 してるね」 「うん……どうも、ぼくは哲学の話はきらいだからね」と 亠咼橋が、顔を赧くして答えた。 「ウフフフ、哲学の話はよかったね。なに、哲学というほ どのものじゃあるまい。要するところは、ぼくらは青年で 学生だろう。そして、青年らしく学生らしくやれってこと 言われるだろう。その、青年らしく学生らしくやること を、今の時代では、新しい角度から決定したいという意味 なんだよ。ハッキリ言おうか、ぼくはぼくら学生のやるア ルバイトについて論じているのさ」 「へええ、アルバイトをね。アルバイトが、どうしたって いうのかね」 平川が、自分を馬鹿だと思われるのを気にしながら、や っとそこへ口を出したが、笠原の眼は明るく愉快そうに輝 いている。 「つまり、学生のアルバイトというものは、目的が学資を 稼ぐだけのものだろう。そいつがぼくは、ひどくつまらな いと思っているのだよ。君たちは、どんなバイトをやって いるのか、ぼくは知らない。おそらく、大していいバイト じゃなくて、あんまり人の前では、話せないようなものじゃ ないのかい。iぼくのバイトは、言葉を飾ってもしか たがない、君たちの考えている通りに学生高利貸しという やつさ。君たちのためにもずいぶん役に立ってやって、そ のくせ君たちに憎まれているのだから、世話はない。しか し、ぼくは、その高利貸しを、もっと盛大にやろうと考え たんだ。学資稼ぎじゃない。事業として発展させるのだ。 われわれが、学校へ通って勉強する。それは未来に於て、 政治家になったり事業家になったりする、その準備だとい うのが常識だが、そんな常識…は古いんだよ。学問は、生活 力の資材じゃなくて、生命の調味料と解すべきだ。つま り、生活力の根源は学問にはない。従って、学問しながら でも、できるだけは生活を充実させるのが本当だ。簡単に いうと、学生だからといって、事業をはじめるのを、学校 を卒業するまで待たなくちゃならんという規則はないこと になるのだ。わかったかい。ぼくは、金融会社を興す。ぼ くが社長で、君たちが専務だの支配人だのというわけだ」 平川にも高橋にも、はじめてハッキリとわかってきた。 金儲けをするのには、今は高利貸しが一番早いといわれ ている。それに笠原が、目をつけているのであった。 「こいつはね、世間じゃ、学生らしくないことだといっ て、非難するにちがいない。ところが、学生らしいという ことの意味が、さっきもいったように、昔と今とでは違う のだから、世間の非難は平気なんだ。ぼくらはぼくらの新 解釈に従って行動すればよろしい。ーしかも利益は莫大 だよ。十日に一割の利子で一月三割、担保をおさえとい て、天引きという場合もあるだろう。高橋君の見すぼらし い学生服なんか、オカしくて着ていられなくなる。五千や 一万の金は問題じゃない。資本が一年で百倍になり得ると いうわけだ。実はね、これは一年前からの計画だよ。最近 に、適当な事務所も見っけることができた。そこを、もう ちゃんと借りてあるのだ。君たちをこれからそこへ案内し てあげようと思っているのだよ」 タクシーは、いつの間にか牛込をぬけ、淀橋の新しくで きた道路を走っている。罹災あとの家が、まばらに立って いた。そうして笠原は、ふいに運転手に、ストップと元気 よく声をかけた。 なぜか、車を降りてから、二町も歩いた。 すると、罹災後に建てたものではあろうが、掘立小屋の ように小さくて粗末で、屋根のトントン葺きが、ところど ころはげている家が、道のはたにポツンと立っていた。 「ひどい家だろう。ひどい家だから、ぼくが格安の権利と 家賃で借りといたのさ。近所も賑かじゃないが、ナニ、こ れで、少し手を入れてお化粧したら、けっこうぼくらの会 社の事務所になるよ。さしずめ、平川君たちには、これを 事務所に改装する仕事をやってもらう。ま、ともかく入っ てみよう」 笠原は、その家の横にある勝手ロへ行き、鍵を出して錠 前をはずしたが、その錠前が、こんな家には似合わないほ ど大きく立派なのが、何か異様な感じである。 中へはいって、雨戸をあけた。 表の道路へ向いた部分が三坪ほどの土間になっていて、 外の光線が流れこむといっしょに、笠原が、 「あッ!」 と声を立てて、うしろへとび下った。 土間には、猫が一匹、死んでいる。 首に縄がかかっていて、毛には泥がこびりつき、それほ ど大きくはないが、いやらしくぐたりと曲げた胴のあたり に、刃物でえぐったらしい傷もついている。 笠原は、その三毛猫を見て、顔色を変えたのであった。 そうしてしかし、すぐに顔色を元へ戻すと、 「ああ、びっくりしたよ。ナニ、ぼくは猫については、迷 信を持っているのでね」 とこの男にしては、珍らしく気まりの悪そうな顔でいっ た。 迷信と恋愛 一 「つまりだね。こいつがぼくという人間の一断片なんだ。 べつに、このことをぼくは気まりが悪いとは思っていない さ。しかし、常識的には気まりがいいことじゃないのだろ う。猫について、ぼくが迷信家だということはね」 笠原は、土間の隅に横倒しになっていたポロ椅子をおこ すと、ほこりをバタバタ叩いて落して腰をかけた。そし て、改めて猫の死骸をのぞきこみ、さて口のはたを歪める ようにしてしゃべりだすのであった。 「迷信てもの、平川君はどうだね、信じることがあるか い」 「イヤ、ぼくは……ないね。高橋は?」 「うん、ぼくだって、べつにないが、大道の易者に手相を 見てもらったことはあるよ」 平川も高橋も、眼つきが戸惑いしていた。猫の死骸を見 て、笠原の顔色が変ったのは、それほど大したことでもな いはずで、しかし、笠原は自分だけでそれを、ひどく気に しているように見える。むきになって、何か弁解しようと しているようで、返事をするのにも当惑する。一日前の夕 方までは、いやな奴だと思っていたが、気前よくゴヅソリ と金をくれた。それから、事業をはじめ、自分たちを専務 とか理事とかにするのだという。いい友達が思いもよらず 見つかった。このいい友達と、仲違いしたらつまらない が、さて、猫の迷信とはどういうことか。迷信なんて、軽 蔑して笑ってやってもいいし、でも、笑ったら、機嫌が悪 くなるのであろう。機嫌を悪くさせたくはないー。 笠原は、平川と高橋との顔をキラリと等分に見ただけ で、もうこっちが何を考えているのかはわかったはずであ り、そのくせ、べつに機嫌が悪くもならず、外国煙草の箱 を、慣れた手つきで口を開け、二人に吸えといってさしだ した。 「平川君も高橋君も、こういうことは、深く考えたことが ないのかも知れんね。迷信てやつは、面白いんだ。物理学 の理論で原因を説明できない結果がある。こいつを偶然と 、呼んでるだろう。迷信は、それに似ているんだね。といっ て、ぼくは、鰯の頭を信心したり、キリストの予言や奇蹟 なんかを信じるという、そういうのとはちがうのだよ。君 たちがわかってくれるように、どういったらいいのかな。 つまり、ある一つの前兆なんだ。理由はない。偶然と同じ だ。が、前兆というものはある。その前兆が、ぼくの場合 しんら には猫なんだ。猫だけが、ぼくにとっては、世の中の森羅 ぱんしよう 万象のうち、ただ一つの前兆であり偶然であり迷信だ。ぽ くの子供の時の話、平川君も高橋君も知らないだろうね」 「ああ、それは、聞いたことがないからね」 高橋は、興味を感じた眼つきでうなずいて見せ、平川 は、そうだ、それは不良の仲間で、アヤがいいとか悪いと かいう、そのアヤのことだと考えた。 「子供の頃のぼくは、田舎の百姓の末っ子で、小ちゃない じけた弱い子だったが、猫を魔物だと思っていてね。眼玉 が大きくなったり細くなったり、足音を立てずに歩いた り、高いところから逆さにして落しても、ちゃんと地べた へつく時は、四つの足をそろえて立っているだろう。怖か ったのはぼくの九十六になるおばあさんが死んで、すると おばあさんの墓を乞食が掘り起しゃがったんだ。ところ が、そのお墓へ行ってみたら、おばあさんの飼っていた猫 が、ふいに、お墓の穴から飛びだしてきたんだよ。ぼく は、猫ほど神秘的なものはないと思いこんだ。そうしてそ のうちに、猫がぼくのマスコットであるという、変た信念 にとりつかれてしまった。猫を見る。すると、きっといい ことがあるのだね。どんな場合でも、猫さえ見たら、ぼく は幸運に恵まれているということがわかった。一つだけ、 おきて 禁断の掟がある。それは、その猫の動くところを見たら、 このせっかくの幸運が、泡のように消えるということなん だ。ぼくの猫は、動いちゃいけない猫なんだ。屋根で日向 ぼっこをしている猫を見る。ぼくは、すぐに眼をつぶって 駈け出さないといけない。池の金魚をねらって猫がくる。 またぼくは、眼をつぶって猫の見えない所へ逃げてしま う。それだけは絶対にぼくが、守らなくちゃならん約束な んだ。どうだい、面白いだろう。ぼくは、誰にもこれは話 したことがない。話したら、笑われるにきまっている。し かし、前にもいっといたろう。これが、ぼくという人間の、 外部へは見せずにきた一断片さ。原子爆弾の世の中だね。 原子が開裂して、ピカドンていうんだろう。一つのピカド ないそく ンで一瞬に、大きな都会と都会に棲息する数十万の人類が 灰になってしまう。けれどもぼくは、 一匹の猫をバカにで きないというわけだよ」 笠原の顔には、時々自嘲の色が動きながら、言葉には力 がこもっている。高橋と平川は、どこか胸のうちがもどか しく、耳に響く言葉の裏へつきぬけなくては、笠原が実は 何を言おうとしているのかわからぬ気がし、金のことか女 のことか事業のことかと疑いつつ、しかし、けっきょく猫 の話よりほかはわからなかった。そうして、猫のことな ら、べつに意見があるわけでもない。この冷徹で優れた頭 脳をもった男でも、女や子供と同じように幼稚なところ があるのだと知り、かえって安心したような気持になっ た。 気がつくと、土間は、土が十分に踏みかためてなく、 湿った赤土のかたまりが、そこらにぼろぼろこぼれ散って いる。 高橋は、 「しかし、も少し、明るくしようや。第一、かび臭いじゃ ないか」 グヲス 表へ出る硝子戸を開けようとしたが、ガタガタ音を立て るだけで戸が開かない。 「うん、その戸は、内から釘づけにしてあるんだ」笠原 が、ふりむいていった。 「釘づけって、どうしてだい、バヵに厳重にしてあるんだ ね」 「物騒だからだよ。借りたまま、放ったらかしてある。釘 づけにしといても、猫の死骸なんか持ちこんだからね。 「が、困ったねえ、この猫には」 「困ること、ないさ。ぼくが、どこかへ捨ててくる 」 「イヤ、そうじゃない。捨てちゃいけない。猫を動かし ちゃいけないんだ。動かさずに、そっとしておいてくれた まえ」 「でも、ここが事務所になるのだろう」 「そうだよ。だから、困るといっているんじゃないか。前 兆がいいと思うけど、悪くしてしまうのかも知れない。さ っきからぼくが言ってるだろう。君たちも、智慧を貸して くれなくちゃ……猫が、一寸でも動いたら、事業は不成功 だと思うんだよ」 迷信の話が、その場の座興でもなく思いつきでもなく、 意外に真剣なものだったことが、やっとわかった。わかる と同時に、そういう笠原の思想は、再び急にひどく幼稚で 浅薄なものに見え、フンと笑いたくなったが、それはこら えた。こっちの腹の中を察して、笠原の顔が、怒りで染め られてくるように感じたからである。実にバヵパカしいこ とだったが、いっしょにそのバカバカしさに同化しないと いけない。金融会社をつくる。これは素敵なことだった。 新調の服ができる。ふんだんに金が儲かる。怖い思いをし て強盗をやる必要はないだろう。それなら、猫の迷信も、 バカバカしいことではなくなってくる。今が大切な出発点 だった。そうだ、一つの儀式として、猫の処置を笠原の気 に入るようにしてやらなければならない。 笠原は、明日は建築会社から来て、この家の模様変えに とりかかる予定だと話した。 すると、猫の死骸のある土間を、板敷きにするかコンク リートにするか、いずれにもせよ、このままでおけぬこと はたしかであり、その時猫をどうするのがよいであろう か。 まじめになって三人は相談した。 そしてけっきょく、猫の死骸は、一分一厘今ある位置か ら動かさない、死骸に、土をかぶせ、その上にコンクリー トを厚く敷いて事務所の床にしてしまう。それで猫がこの 会社の守護神になるだろうということに一決した。床は、 実際は、土をさらい取ってからコンクリートにしないと、 短い柱を使ってあるから、天井が低くなる恐れが多分にあ る。しかし、不便でも、また体裁が悪くても、やむを得な い。土をさらい取ったら、猫の位置が動くから、それ以外 に設計は立たないということになったのであった。 きまってしまうと、笠原は、安心した眼つきになった。 「よかったよ。君たちに来てもらってね。明日は、建築会 社が来たら、工事がやりにくいと言うかも知れない。が、 厳重に監督して、猫を動かせないようにするんだね。平川 君も高橋君も、いっしょに来てくれるね」 「いいとも、オーケーさ」 「それで決定だ。むろん、君たちに損をさせることはあ りゃしないさ。よかった、ほんとうによかった。じゃ、こ れから銀座へ行こう。すてきなコックのいる店を見つけて あるんだよ」 ふいに平川が気になったのは、猫の死骸に刃物でえぐつ た傷がついていることである。猫は病気で死んだのではな くて殺されたのであろう。なぜこの猫は殺されたのかわか らない。それに、幸運の前兆だといっている。しかし、殺 された猫でも、ほんとうに幸運の前兆になれるのであろう か? 「オイ、なに考えてるんだい?」 高橋が、小さな声で平川に訊ねた。 「うん、なんでもないさ。-腹が減ってきたね」 と平川は答えた。 二 工事は、その翌日から、予定どおりはじまった。 工事請負人がきて、土間の改造について話を聞くと、そ れでは床が高くなりすぎると文句を言いだしたのも予定ど おりで、それは誰よりも笠原が頑強につっぱって、こっち の設計に従わせることにした。請負人は、柱の根つぎをし たらいいという。根つぎはしなくて、はじめに、土間の工 事からかかってもらいたいと主張した。そうして、けっ きょく、砂利とセメントと砂とで、猫は夕方までに埋めら れてしまった。 高橋が、早くも今までいた下宿を引きはらい、寝具と机 を運んできた。腐ったような古畳には、土足であがった靴 のあとがいくつとなく入り乱れているし、炊事場の準備も まったくできていない始末だったが、彼は工事中ここに寝 泊りしていて、改装の監督をするというのである。平川 も、もう会社が成立したかのように大喜びで、電燈会社へ 行ったり水道の交渉をしたりしてくる。夜になって、しか たがないからろうそくをつけた。そして笠原が、二人に気 の毒だからといって、近くの屋台店から酒や肴を運ばせ た。その酒で、高橋はたちまち泥酔し、 「笠原君は、偉いよ。ぼくは、この尊敬すべき親友を誤解 し……イヤ、憎んでいたことさえあるんだよ。バイトの話 にゃ感心した。そうだね……まったく……学資稼ぎだけの バイトなんて、意味をなさんことだからなア。青年の未来 がどうしたっていうんだい。お伽話はたくさんさ。在るが 故に、我尊しとなすか。今日を大いに祝福せよだ。うん、 これでいいよ。愉快だね……ばんざいだなア……」 盛んに気焔をあげた末に、だらしなく倒れて眠ってしま い、それからあと平川と笠原は、どの青年にもあるように 女のことを話しはじめた。 「高橋のやつ、酒を飲むといつもこうなんだよ。しかし、 うまいこと言ったね。ぼくも笠原君に対しては、ハッキリ 考えを変えなくてはならんと気がついたよ」 「わかってるさ。誰にだってぼくは、憎まれるか、そねま れるかするだけだった。むろん君もその一人だったね」 「そうなんだ。よく君は知っている。今になってぼくも明 瞭になったが、憎んだのは、君にはかなわないと知ってい たからだね。つまり、そねみだよ」 「どういう点で、そねんだのかね」 「いろいろだな。頭がいい、そいつが癪にさわっていた よ。金を貸すっていうこともね。それから女のこともだ よ。女は、君はうまくやっている。ぼくは、高橋もだが、 商売の女しか経験がない。君は、無数の経験だね。しか も、商売女じゃない。セニョリータだろう。堂々たるレ ディがいるだろう。こいつは、ぼくらにゃ、手が出せない んだが……」 笠原は、大きな声で笑いだした。 平川の露骨なそねみが、滑稽に聞えたからである。 「平川君も高橋君も、自分で自分の値打を、落して考えて いるのが、いけないと思うね。自信をもつことだ。そうし て勇気をもたなくちゃ・ ・ 」 「自信がもてれば、勇気は出るさ。君は、どんな女の前で でも、自信をもつことができるのかい」 「それはそうだよ。ある女をぼくが欲しいと思う、すぐ に、向うの女も、ぼくを欲しがっているとわかるのだ。イ ヤ、欲しがらぬはずはないと考える……」 「おどろいたな。ぼくは、そうは考えられないよ。へまな ことして、軽蔑されたり、横っ面ひっぱたかれたり、世間 の笑いものにされたりするくらいなら、黙って我慢してい る方がいいと思うんだよ。一度だけ、ぼくもやってみた。 お医者さんの奥さんだよ。僕より二つ年が上で、とても肉 体がすばらしいとぼくは思ったんだ。映画のロードショウ の切符を持って行ったら、すぐいっしょに行こうというか ら、しめたと思った。映画見ていて、そっと手を握って も、だまっている。それから外へ出てね、ぼくが抱くよう に腕を出したとたん、ピシャリと頬っぺたをやられたん だ。まったく恥かしかったよ。日本の女も、男をひっぽた くようになったからね」 あゆ 自分の失敗を話すことが、自然の阿諛になっているのを 平川は気がつかない。笠原は、面白そうに平川の話を聞い たが、その時、思い出したという顔になった。 「女で失敗といえば、君だけじゃないさ。ぼくも最近は一 つやりそくなっているよ」 「ふうん、君でもそういうことがあるのかねえ。おとつい の晩、銀座のホールからいっしょに出て来たレディかい」 「違う。あの女は、ある政治家の二号なんだ。そして失敗 も何もありゃしない。最も簡単な例の一つだよ」 「そうかねえ。とすると、失敗したという相手は、よほど 特別な例なんだね。どういう女だい」 「そうさ。そのことは、話そうかな、話すまいかな」 笠原は、また口のはたを歪めていた。思案してみて、そ のあと、明るい笑い顔になった。 「これは、秘密だよ。ほかの人には話せない。1ぼくが やりそくなった女というのは、君もよく知っているはずの 女なんだ。殺された藤井代議士の奥さんさ。藤井有吉のマ マだよ。びっくりしたかい?」 「へええ……」 平川は、びっくりしたとも、しないとも言わない。ちょっ とのうち、まるで困っているようだった。そして、とつぜ ん、不安の色を眼にうかべた。藤井代議士を殺した犯人が、 まだ逮捕されないでいる。深刻な恐ろしい事件で、それが 未解決である。だのに、あの美しい未亡人のことを、こん な風に平気であけすけに、笑い話のたねにすることが、何 かしら妥当なことではないと感じたからである。笠原は、 平川が何を考えているのか、気のつかぬ風だった。 「あの女はね、まったく、不思議な女なんだよ。すばらし いんぽん く美しくてすばらしく利口で、泙奔のように見えるけれ ど、そのくせ、ちっとも淫奔じゃないんだね。ぼくは、実 は、ほかのどの女に会う時よりも、あの女といっしょにい て、ダンスしたり、歩いたり、話をしている時、夢中にな ることができた。つまり、とても惚れていたんだ。いたん じゃなくて、今でも惚れているのだろう。問題は、それだ のに、ぼくがあの女と、キスを一つしただけで、それ以上 には、一歩も進めないでいるということだ。キスして、し かも、それっぎりになった女なんて、はじめてなんだよ。 あの女から、会わない、とぼくに断わってきた。電話をか げると、電話を切ってしまう。訪ねて行っても、玄関から 追い帰される。まるでぼくは、嫌われてしまったみたいな んだ。どうしてこんなことになったのか、さすがのぼくに もわからない。i君は、あの女と、何か話をしたことが あるかい`7」 「ないよ。ほとんどね。こないだお葬式に行った。その 時、ぼくからはお悔みをいったけれど……」 「殺された代議士の葬式だね。それぱ、ぼくも、よそうか と思ったが、ともかく行ったよ。しかし、口をきけやしな い。そうして、ぼくの方を見向きもしないというわけだ。 ぼくは、失望して帰ってぎた。なぜぼくに、キスを許して おきながら、急にぼくをそんなにまで毛嫌いするようにな ったのか、その説明を聞きたいが聞くこともできない。そ れはね、キスしたあとだった。だしぬけに手紙がきた。そ して、もうダンスもやめる。会いに来ないでくれ、といっ てきたのさ。ぼくは腹を立てたが、そのあとすぐに女の魅 よみがえ 力が、倍も強く蘇ってきた。匂いがするような気がす る・甘い麟ざしが思い出される・とてもたまらないのだ。 そこへ、代議士が殺されたと聞いたのだが、殺されたあ と、あの女は一人きりだろう。一人きりでどんな風にして 日を暮すのかと考えると、じっとしているのが苦しくな る。ぼくが、こんなにも一人の女で、馬鹿みたいになるな んて、変なことだと思うのだよ。苦しいから、何かしよう と考えて、それからが実は、金融会社を早くはじめようと 決心したんだ。といっても、むろん会社は、女のことがな くったって、やるつもりではいたんだがねーうん、ほん とうに、ぼくが恋愛でこんなに夢中になれるとは思わな かったよ。猫の迷信だの女だの、ぼくも、やきがまわった のかも知れないね」 ドシンと音をさせて、高橋が寝返りをうったので、笠原 ば話をやめてしまった。高橋は、眼をさましている。ふい にむくむく起きなおると、アーンと大きな伸びをして、平 Hこ、つこo 丿セし ≠ム 「なんだい。面白そうな話をしていたじゃないか。藤井が どうかしたっていうの?」 「ううん。ちがうよ。藤井のことだけど、もっとべつの話 だよ」 「そうかなア。おれ、聞いていたつもりなんだよ。有吉の ことかと思っていた。ほんとは、昨夜から、おれ、有吉の こと、ちょっと考えていたものだから」 「有吉のことって?」 「あいつ、可哀そうだと思ってるんだ。親父が殺された。 「ぼくら藤井と麻雀うっていて、藤井がバカづきしたか ら、何か悪いことが起るそっていって、君がおどかしたろ う。今思うと、言いあてたんだよ。その晩に、あいつの親 父が殺されたのだからねえ。昨夜、それを思い出したか ら、おれ、気味が悪くなったけれど、今度の会社へ、藤井 も仲間にして入れてやったらと思いついたのだ。あいつ、 しよげ きっと、喜ぶぜ。悄気ているにちがいないのだ」 寝ぼけて、見当違いの話を持ち出している。恋愛の話 が、ポツンと中断された形になったが、笠原はだまって、 高橋の話を聞いていて、とつぜん高橋に訊いた。 「いいね。賛成だよ。藤非有吉なら社員にしてやっても悪 くはないんじゃないか。すすめたら、会社に入るか知ら」 「入る、と思うね。あいつも、金儲けぱしたいのだから」 「だったら、君から話してみてくれたまえ。話して、ここ へ、つれて来た方がいい」 笠原の態度が、急に事務的になり、テキパキしてきた。 高橋は、自分の偶然の思いつきを、すぐ笠原に採用され たから、得意そうな眼つきになり、しかし頭をかいた。 「でもね、困ったことが、一つあるよ」 「なんだい」 「藤井の家へ行くのは、苦手だからね。誰かに叱られそう な気がする。まだ親父を殺した犯人がつかまっていないだ ろう。ノコノコ出かけて行って、デカにでも睨まれると怖 いみたいだぜ。おれよりも平川行ってくれないか」 「うん、ぼくがかい?」 平川も、首をふった。 「ぼくも、行きたくはないね。デカは、べつに怖くない さ。しかし、やっぱり苦手だよ。人殺しのあった家なんて ね」 すね どっちも尻込みしているのは、池袋のタタキで臑の傷が あるからである。 笠原が、 判,じゃ、二人ともに行くのはいやなんだね。いやなら、ぽ くが行ってもいいよ。ぼくだと、さっきも平川君に話した ように、追い帰されるかも知れないがね」 と口を出したが、その声は不機嫌で、さっきとまるっき り眼つきがちがっている。 平川も高橋も、気がついた。 社長の命令である。自分たちの都合ばかりを考えてはい られない。平川が、すぐに、 「うん、いやってんじゃないさ。行きにくいと思っただけ なんだ、そうだ、高橋。二人でいっしょに行こうじゃない か」 と言いなおした。 笠原は、むっつりと、だまりこんだままでいる。気分が 急に重いものになった。三人が三人、ちがったことを思っ ていて、まとまりがつかないといった感じである。 高橋は、てれがくしに、残っていた酒をガブリと飲ん だ。 平川は、ろうそくを新しいのにとりかえて、わざと土間 のコンクリートをのぞき、 「オヤオヤ、もうセメントが乾いてきているぜ。猫がどこ に埋めてあるか、わからなくなっちゃったね」 と高橋の方を向いて話しかけた。 「話は、早い方がいいよ。明日のうちに、藤井のところへ 行ってぎてくれたまえ。わかったね」 とその時笠原は、冷たく二人に命令した。 苦悶の少年 一 未亡人貴美子は、案内に立った巡査のあとにつぎ従い、 二階への階段を上りかけたとたんに、 「あ、待って……友杉さん……」 ふいにょうけて、友杉の右の肘で身を支え、ちょっとの うち眼を閉じた。 彼女は、黒い色調のスリム・スーツを着ている。そして とヤもじ 白ピケのゆるいカラーと服に共地の短いボウとが、おとが いや首の線の美しさを、いっそう強く引立たせている。 友杉が、一瞬あわてた眼つきになり、しかし、すぐに落 着きを取戻した 「どうしました。奥さん」 「目まいがしたのよ。クラクラッとしたわ」 「きっと疲れていらっしゃるんですよ。大丈夫ですか」 「ええ……もう平気。歩けるわ」 そうして、友杉の肘から身をはなし、先きに立って階段 を上って行った。今日は、良人有太の初七日をすましてか ら二日目になる。彼女は、急に自分で言い出して、友杉を 伴につれ、K署の捜査本部を訪れたのであった。 本部には、ちょうど大堀捜査課長がきていたし、貝原係 長も、これは朝からやってきていて、二人はとつぜんの未 亡人の出頭で、少しびっくりしたような顔をしている。 「おお、これはいらっしゃい……」 「だしぬけに上りましたの。いろいろと御苦労をおかけし ておりますが……」 「いや……苦労なんて、そう言われると、困るですな。我 我は職務ですよ。それに何分にも事件が解決の域に達しま せんので」 課長が、好人物らしい小さな眼を、照れたようにしてま たたかせたが、ともかく給仕を呼んで茶をはこばせ、それ から話がすぐと本題に入った。 「あたくし、今日は、友杉さんと話し合った上で参ったの ですわ。実は、思いついたことがございました。それをこ ちらへ申上げた方がよいということを決心したのです。 が、その前に、話していただけたらよいと思うのですけれ ど、いかがでしょうか、諸内さんについて、あたくし、ど うしてもハッキリしないようなものがあって、頭の芯から 諸内さんのことがぬけ切らないでいるのですわ。その後、 あの方について、何か新しい事実でもなかったのでござい ましょうか」 「ああ、諸内代議士の件。そうですね・ .」 課長は、ちょっとのうち考えこんで、係長と眼で相談し ている。そして、まっすぐに未亡人へ顔を向けた。 「これはここだけの話ですよ。よろしいですか」 「はア、わかっておりますわ」 「諸内代議士については、もちろん我々も、考えているこ とがあるわけです。情況的には一応の嫌疑をかけてもいい でしょう。ところが、捜査を進めてみると、代議士自身に ついては、これを容疑者として見るわけには行きそうもな いのでして……」 「新聞で拝見しました。某代議士については確実なアリバ イがあったと書いてございましたが」 「その通りなんです。諸内氏については、ほかに例の買収 費二十万円の件がありましたね。これは、代議士が頑強に その事実を否定しているのでして、但し友杉君から最初に 詳しい事情の説明があったのですから、この件については 代議士の否定を、そのまま信用しているわけでもないので す。しかし、こういうことは多分に政治的な問題であっ て、もしかして、純粋に政治的な問題だけであったとする と、その捜査の担当は、我々でない、別の係りの者になっ てくるわけです。当捜査一課としては、とりあえず諸内代 議士が藤井代議士殺しの犯人であるかないか、その点を追 求する必要があるわけですが、さて捜査の結果によります と、諸内代議士には、たいへん確実なアリバイがありまし た。事件発生の当夜、諸内代議士は土木建築請負業者の会 合へ出晴し、そのあと大森の妾宅へ行って泊っています。 しかもその晩、妾宅の近くに放火事件が発生し、これが、 午前一時半という時刻です。ところが調べてみるとその時 刻に、諸内代議士が寝巻のまま妾宅の外へ出てきて火事を 眺めていた姿を、数名目撃したもののあることがわかりま して、だとすると、藤井代議士の殺されたのは午前一時前 後の.」と。放火事件の発生とは、.取大三+分の差があるの ですが、牛込から大森まで自動車で飛ばして行ったにして も、その間に妾宅から寝巻に着更えて、外へ出てくるとい うことは、まず不可能と見なければならないでしょう。一 方、同時刻に、牛込から大森までの間、諸内代議士の自動 車を見かけたものがあるかというと、これも目下の調査で は、無いということになっていまして、けっきょく諸内代 議士のアリバイは崩れません。つまり、少なくとも、諸内 代議士が直接手を下して藤井代議士を殺したのじゃない、 ということになってくるのでして……」 疑惑が完全に消えた、というのではない。けれども、そ れ以上には捜査の手を進められずにいる、ということの説 明である。 未亡人の瞳に、かすかな躊躇の色が浮んだ。そして、ふ り向いて友杉を見た。友杉の眼は、かまわないじゃないで すか、話すだけは話しておいた方がいいと思いますね、と 答えている。 「諸内さんのアリバイの話、よくわかりましたわ。でも、 あたくし、申上げたいのは、諸内さんが宅の主人を訪ねて 見えまして、その時に、あとで思うと、妙なことがあった ものですから……」 「というと、お待ち下さい。それはいつのことになります か。事件発生の前、つまりその日の昼のうちに、諸内代議士 がお宅へ行っていたはずでしたね。その時のことですか」 「ええ、そうですわ。諸内さんには、あの果物籠を引取っ ていただきたいと思って、いくどか交渉しましたけれど、 なかなかお見えになってくれません。こちらは、籠の中の 金がなくなっているのは少しも知らないでいたのですが、 その時、ふいに諸内さんが見えたものですから、そこで主 人はベッドに寝たままで、果物籠のことを話しはじめたの です。すると、籠の中の金がなくなっていることがわか り、誰かが盗んだのではないかという話が出たのですけれ ど、主人の寝ている書斎の窓に、二ヵ所だけ挿込錠の壊れ ているところがあるのを、あたくしが気がついて申したも のですから、諸内さんも、立ち上ってその壊れた挿込錠の 工合など、調べてごらんになったのです。考えてみて、あ たくし、意味のないことではないと思いました。その窓か らでしたら、誰でも外部から侵入することができるのです わ。そして、挿込錠の壊れていることは、家の中の者を除 くと、諸内さんだけが御存じだったのじゃないか、という 気がするのですもの」 「なるほど……」 と思わず、課長も係長も、うなずく言葉に力が入った。 事件現場の最初の調査では、犯人の『出』がわかっていて 『入』がわからなかった。其の後に、.二階の書斎で、窓の 瑛れている部分を発見したものがないでもない。従って、 『入』がその窓であるかも知れぬという意見も出ていた が、その窓のことを諸内代議士が知っていたとすると、問 題はまた改めて検討をする必要が生じてくる。これは重大 な証言であると考えられるのであった。 「挿込錠の壊れたのは、いつ頃からですか」 と係長が、手帳を開き、エバシャープの芯を押し出しな がら尋ねた。 「さア、記憶が確かではございませんけど、今年の春以来 ーいえ、正月以来だったのじゃないでしょうか。不用心 じゃないかなって思ったこともありますの。建具屋さんを 頼んだ方がいいと知っていて、つい、そのままになってい たものですから……」 「恐らくは、それがいけなかったのだと思いますよ。犯人 が誰だかという点は二の次にしても、そこから犯人が侵入 したということだけは、まず、間違いはないでしょう。そ れで、問題を諸内代議士に戻します。窓の壊れているの を、諸内代議士も調べてみたというお話でしたね。その 時、代議士の表情とか態度とかで、特に何か印象に残るよ うなものはなかったのですか」 「はア、それは、べつにあたくし、気のついたことはなか ったのです。諸内さんは、すぐにニヤニヤ笑いました。そ して主人に向って、冗談はよせ、金は盗まれたのじゃある まい、自分で取っておいて、盗まれたことにし、別になお 大きな金額を要求しているのだろう、と申しました。主人 は潔白な性格ですから、そんなことをする筈もありません し、腹を立てたあげくが、二十万円の金は小切手でなら、 すぐに返してしまうのだと言い出しまして、しかし諸内さ んの方では、小切手では困るというお話でしたから、あと で現金で返すということにきまったのですけれど、そうで すわ、そのあとで、もう一っ、変なことが起ったのです。 その話、つづけて申しましょうか」 「どうぞ……」 「主人から、二十万円を返すときめてしまったあとのこと です。だしぬけに主人が、あたくしの知らない人の名前を そこへ持ち出しました。それは、あたくしが主人に呼ばれ て書斎へ行く前、諸内さんと主人と二人きりで話していた ことの続きらしく、だからあたくしには、ハッキリした意 味がわからなかったのですけれど、加東明という人のこと についてでしたの」 課長の眼の底が、キラリと光ったようであった。そして 課長は、すぐに口をはさんだ。 「ああ、ちょっと、待って下さいよ。加東明ーというん ですね。そうですか。加東明なら、まんざら知らないじゃ ありませんね。我々としては、ある程度、知っている人物 の名前ですよ」 「そうでしょうか知ら。……いえ、そうじゃないか、とあ たくしも、こちらへ参る決心をしてからは、半ば予期して 参ったんですわ。でも、その時ではあたくし、まったく初 耳だったものですから」 「よろしい。わかりました。それであとを続けて下さい。 加東明について、どんな話が出たのですか」 「主人は、諸内さんに向って、加東明の問題を、そのうち に詳しく調査するというようなことを言い、それに対して 諸内さんの方は、平気だねそんなことは。調べたけりゃ、 物好きにもいろいろあるのだから、得心の行くまで調べる がいい。まアしかし、加東明なんて、全然関係はないのだ から、労して効なしというところだね、などと答えていら つしゃったようです。iけれども、あとで思ってみてあ たくしとしては、どうも変だったと気がついたのは、その 時の主人と諸内さんとが、表面は大声に笑って、冗談を言 い言いしながら、その実何か眼に見えぬ荒々しさで、お互 いにとても辛辣な皮肉をぶつけ合っていたことなのです。 日がたつにつれ、そのことが強く頭の中へ蘇ってまいりま した。一人で思い出していると、ドキドキ胸が躍ってきて 苦しいくらいでした。それで、主人の初七日もすみました し、友杉さんに相談をしてみたのでございます。すると友 杉さんは、びっくりした顔で、加東明なら、知っている。 先生の命令で、その人物についての新聞記事を探し、切抜 きにして先生にお渡ししたと申しまして、ねえ、そうで しょう、友杉さん……あなたから、あとのこと、お話しし てちょうだい」 友杉成人はうなずいている。 未亡人に代って、いつもと同じむだのない言葉で答え た。 「詳しいことは、ぼくも知らないのですよ。ただ切抜きだ けについてなら、話すことができるのです。亡くなられた 藤井先生からは、事件の起る一週間前に、その記事を探せ という命令がありました。そして、去年の八月二十五日の 東洋新報の社会欄から、それを切抜いたというわけです。 なぜその記事が必要であったか、理由を先生は言われなか ったから、私にもわけがわかりません。しかし、記事の内 容は、記憶しているつもりです。要するに、加東明という のは、追放になった元陸軍少将で、それが行方不明になっ たということを知らせたものです。記事によると、八月上 旬、行先きも告げずに外出し、そのまま自宅へ戻らない。 遺書も発見されないが、恐らくは、生活苦からして自殺し たものではないだろうか、ということでした。警察でも行 方を探したということが、簡単に書いてありましたから、 それについての御記憶もあるのではないでしょうか。な お、その記事には遺族があり、その遺族は娘さんが二人、 男の子が一人であると書いてありました」 課長も係長も息をするのを忘れていた。 はじめから、その予想は十分にあったことであるが、事 件の性質は、複雑である。裏に裏があり、底に底があるも のに見えてきた。友杉がいったとおりに、なるほど加東明 の行方不明事件は、今から一年前警視庁でも手がけたこと のある問題だった。それを言い出されると、今でもいろい ろ思いだすことができる。元陸軍少将加東明は、政治の好 きな人物であって、もっとも追放者だから、表向き政治に は関与できない立場にあり、しかしながら、真に政治と絶 縁していたかどうかは疑わしい。政治的暗躍または政治的 陰謀に、喜んで加担しそうな人物だったことは確かであ る。遺族だという娘の一人が戦争未亡人であって、父親の 失踪を届けて出た。当局としては、かなり綿密に行方を捜 査してみたが、結果は一向に思わしくなく、大体に於て、 自殺したのであろうと推測はされたが、死体が発見された わけではない。けっきょく謎の失踪ということになってい たもので、それを生前の藤井代議士が、改めて調査にかか るつもりだと語ったという。しかも藤井代議士は、某政党 についての醜事実を摘発することによって、政界の浄化を 志していたというではないか。藤非代議士が、いかなる事 実を掴んでいたのかわからない。しかし、諸内代議士、ま たは諸内代議士の所属する政党は、藤井代議士の掴んだ事 実を恐れたが故に、果物籠へ買収費を入れて持ちこんでき た。そうして藤井代議士は、福島で怪我をして帰ってき て、さて外出できずに寝ているうちに、加東明のことを思 いだしたから、そこで友杉に命じて、新聞記事を探させた という順序になるのである。藤井代議士の意図する政界浄 化と加東明の失踪とは、何か関係があるにちがいない。そ の上に、藤井代議士の殺されたのは、藤井代議士が諸内代 議士に、加東明のことを話した日の夜だった。そうして諸 内代議士は、あの書斎の窓が、一ヵ所だけ容易に外部から 侵入できることを知っていたということになるのであっ た。ー 「新聞の切抜きのことは、奥さんも前から御存知だった でしょうか。生前に御主人から、それについて何か話でも ・ …?.」 「いえ、それが、主人はあたくしを、政治嫌いだとしてき めていましたの。新聞の切抜きのことなど、一度も話して くれたことがございません」 「とすると、友杉君はどうですか」 「ぼくは、さっき言ったとおりです。その記事が必要なわ けを、先生が説明して下さいませんでした。言いおとしま したが、記事を探しだして先生のところへ持って行くと、 先生はそれをお読みになってから、ぼくに、机の上にあっ た青い表紙の紙ばさみへはさんでおけと言われました。ぼ くは、命じられたとおりにしたのですが」 「そうですか。記事について藤井代議士が何を考えておら れたか、その点がわからぬのは残念ですね。切抜きを、そ の紙ばさみごと、持ってきてもらえるとよかったですが」 「ええ、それは、ぼくも考えたことです。奥さんに話した あと、いっしょに書斎へいって紙ばさみを見ました。とこ ろが、切抜きがなくなっていたものですから」 「ふーん」 うなり声が出た。 重大な証拠品とも見るべきものが紛失している。それ は、いつ紛失したのであろうか。藤非代議士が殺されたと 同時に紛失したものとすれば、犯人がそれを奪い去ったと 見てよいのであろう。そしてまた、犯人が奪い去ったので あったなら、もはや確実に、藤井代議士殺しは、少なくと もその裏面に、政治的陰謀の黒い糸が張り廻されていると 考えてもよいのであろう。もちろん、諸内代議士にはアリ バイがあった。だとすれば、諸内代議士が直接の犯人でな いことだけは確かである。そうしてしかし、藤井邸は牛 込にあり、諸内代議士の妾宅は大森にあった。時間として は最大三十分間の余裕がないではない。その時問で、牛込 から大森に赴き、近所の火事で、驚いて外へ出てくるとい うことは、ぜったい不可能なのであろうか。火事は放火で あった。その放火が、ことさらにその時刻に起るように計 画されていたということも、有り得ぬことではないであろ う。1疑惑は疑惑を呼び、止め度がなくなってくる。 係長は、課長の耳へ口をよせて、 「諸内代議士のアリバイを、もう一度、追究してみまし.低 うか」 と囁き、課長は、 「そうだね。それも必要だ。そして、加東明の事件を、根 本から洗いなおすのだね」 と、やはり小さな、しかし力を入れた声で答えていた。 二 未亡人貴美子と友杉とが、藤井家へ戻ったのは夕方だっ た。 未亡人が自動車を降りて邸内へはいってしまったあと、 友杉が自動車賃を支払っていると、そこへやってきたの が、平川洋一郎と高橋勇である。高橋が、先きに友杉の姿 を見っけた。そして、足をとめ、平川の腕をおさえるよう にした。 「だめだよ。友杉さんがいるぜ」 「うん、そうかーしかし、いたって、かまわないだろう」 「でもヨオ。おれ、あの人は少し苦手だよ。怖いみたいな 気がするんだ」 そうして、そこで二人はためらって、コソコソと塀の角 へでも身をかくそうと考えたが、その時、 「ああ、なんだ。平川君と高橋君じゃないか。何か用な の」 逆にふりむいた友杉から、声をかけられてしまった。 しかたがない。二人は門の前へ来た。 「藤井君、家にいるでしょうか」 「有吉君だね。いるはずですよ」 「ちょっと話があってきたんです」 「そうですか。じゃ、取次いであげよう。ーしかし、麻 雀やなんかじゃないだろうね。そういうことで誘うんだっ たら、ぼくが断わる。遠慮してもらいたいな」 「ちがいますよ。まじめな話です。笠原君から、使いを頼 まれたものですから」 「ほう……」 チラリと友杉の顔を影が走って過ぎた。 「なるほどね。笠原君なら、ぼくもよく知っているんだ。 iよろしい。はいりたまえ。有吉君に知らせてあげま す」と彼はいってから思案し、「しかし、君たちと有吉君 との話、ぼくも聞かせておいてもらいたいなア。まじめな 話だっていうんだから、いいでしょう。ぼくもいっしょに いることにするからね」とつけ加えていった。 平川も高橋も、困ったことになったと感じ、しかしいや だとは言えない。自分たちは不良として警戒されているの だから、これもしかたがないのだとあきらめた。 二人が通されたのは、玄関わきの応接室である。二人と も、今日は学生服を着ている。そこへ通されて、友杉がい ないちょっとの間に、弱ったな、どうも、と二人は眼を見 合わした。そうしてじきに友杉が有吉をつれてきた。 有吉は、青く神経質な顔になり、眼の光が鋭く深く考え ごとをしているようで、わずか十日とたたぬうちに、こん なにも顔が変ったのかと、二人をびっくりさせるほどであ った。ショートパンツに、クリーニングしたてのワイシャ ツを着ていて、腕や足まで、白く痩せたように見えるので ある。それでも、懐しい二人の友だちを見て、ニッと口の はたを笑わせたが、はじめ何も言わず、椅子のところへ来 てじっと立っているうちに、たちまち眼のうちへ、涙がた まってきた。特徴のあるはしっこでめくれ上った唇を、き っと強く結んでいるが、それは胸いっぱいにこみ上げてき た悲痛なものを、溢れ出ぬように噛みしめて、自分をでき るだけしゃんと見せるための努力だとわかる。十八歳の少 年にとって、あの悲惨な父親の死が、いかに大きな打撃だ ったろうか。友杉が、 「さア、有吉君……」 と、眼で椅子にかけさせようとしたが、肩を張り、息を つめ、立ったままでいる。不良ではあっても感動家の高橋 が、ふいに自分も悲しくなって、有吉の手をしっかり握り しめた。そして、 門ぼく、来たかったんだよ。君を慰さめにゃならんて知っ ていたんだ。だけど、なんだか……来にくかったものだか らね……」 と正直にいって、とうとう自分も、涙声になってしまっ た。 「うん、いいんだよ。高橋君……」 と有吉も、遠慮したのだろう。友杉の方をちょっとふり むいたが、ようやく口がきけるようになった。 「ぼくもね、君たちが、かげでぼくのことを心配したり、 いろいろ噂をしてるだろうってこと、しょっちゅう思って みたんだよ。麻雀うっていて、ぼくがあの晩、バカづきし たね」 「そうそう。そうだったね」 「友杉さんもおぼえてるでしょう。そん時、平川君がぼく のこと、そんなにバヵづきしたら、あとでろくなこと起ら んていって、からかったんだ。時々ぼく思いだすのさ」 「うん、ぼくらもこないだ、その話をしたよ、悪いことい ってしまった……」 「いいや、悪いことないさ。謝まってもらわなくったって いいけれど、ぼくはとてもこりちゃった。麻雀のこと、考 えるだけで、怖くなるんだ。夢見るよ。血のついた麻雀の パイ チンイーソー 牌が、血だらけの清一色で並んでいたり、ピンポンみたい に飛びまわって、遠くの方へ逃げていったりするんだよ。 ーだけど、ともかく、よくきてくれたね。ぼくの方か ら、君たちんとこへ、会いに、行こうっていくども思った んだ。とてもぼく、嬉しいんだよ。おやじがあんな工合で 殺されちゃった。それを恐ろしいと思ったり、また悲しい と思ったりするだけじゃない。ほかにぼくは、うんと心配 なことがあるからね」 再び友杉をふりむいたが、有吉の表情には、微妙な変化 が起っている。瞳に力がこもってきた。悲しみが少し薄れ たようで、そのくせまた、今までとちがった不安の色が浮 いて出た。友杉が言いつけておいたのだろう、そこへふみ やがつめたいコーヒーを運んできた。そして有吉の表情 を、友杉が注意深く見守っているのであった。 平川が、話しかけた。 「有吉君。ぼくら、君に同情しているんだよ。小西だっ て、南条だって、同じことさ。君のためには、どんなこと だってしてあげるよ。うんと心配なことがあるっていった ね。それはどういうことだい」 「ああ、それはね、ぼく、言っていいかどうか、わからな いことだよ。1うん、むろん君たちには、いつかきっと 話す時があると思うけど……そうだなア……ぼく、心配し ていることは、五万円の金、君たちにぼくからあげただろ う。あれにも関係があるんだよ。……困っちゃったな。ど う言ったらいいのかなア。ともかくぼく、あの金のこと で、君たちが迷惑したんじゃないかって思ってんのさ。ど うだったの、君たちの方は?」 「わりに平気さ。警察から調べに来たけれどね、もらった ことを正直に言ったら、すんじゃったよ。それでおしま い。君が心配しなくってもいいんだよ」 「そう。それじゃよかった」 表情が、また変化している。 何か気おくれがし、ためらっているようであった。 そして、だまって考えこんでから、わざとのように、明 るい眼つきに戻った。 「バカかも知れないよ、ぼくはね」 「どうしてさ」 「きっとね、くだらないこと、ぼくが心配しすぎているん だろう。もうよすよ、そして、もっと元気だすよ」 「そうかい。そりゃ、その方がいいな」 「元気だせば、も少したってから、学校へも行けるし、君 たちと遊ぶことだって、できるんだからね。……うん、そ うだった……君たちと遊ぶっていえば、思いだしたよ。 … .いま平川君は、小西や南条のこと言ったっけ。みん な、変りはないのかい」 「ああ、いつもの通りだよ」 「……そして、園江は?」 「え?」 「園江は、どうしているの。園江は、お葬式の時も、来て くれなかったんだよ」 友だちのことを訊く眼つきが、燃えるように熱心であ り、しかも、平川も高橋も、すぐに答えることができなか った。 園江は、どうしているか、彼等も知らない。あの時以 来、ずっと気になっている。笠原に会ってから少し忘れて いた。しかし、鳩の街まで園江を探しに行った時以来、い や、その前に二度目の強盗をやろうとして失敗し、ちりち りばらばらで逃げてしまって以来、会いもしないし噂も聞 かない。それに、園江のことを訊かれると、胸をチクリと 刺されるように感ずるのであった。 高橋が、変だと思われるのが気になって、むりに笑って みせた。 「園江か。あいつは、低能だから……」 「低能って、なぜなの?」 「なぜでも、低能だね。お葬式のお悔みを言いに来ないっ てのなら、なおのこと低能さ。うん、ほんとは、ぼくらも あいつのこと、まるで知らないんだ。ええと、あれはちょ うど君のパパの事件が起る前だったね。ぼくと平川とで、 君の学校へ行って、園江が来たかどうだかって聞いたろ う。そのあと紅中軒へ行って麻雀うったんだ。けれども園 江のやつ、あれっきりなのさ。ぼくらも、あいつには会わ ないよ」 「ふうん。じゃ、どこにいるか、わからないの、君たちに も9.」 「わからないね。探したこともある。しかし放ったらかし ておくことにきめちゃったよ。いいんだ、あいつはね。あ いつのことなんか、そう心配してやらなくたって平気なん だ。……それより、ぼくらは、まだ肝心な話をしなかった ね。その話をしてしまおうよ。ぼくたち、今日は笠原君に 頼まれてきたんだ。笠原君が、君に会いたがっているのだ よ」 高橋が、急に笠原のことを言いだしたのは、園江新六の 話が、いやだったからである。彼は、平川を見て、 「オイ、笠原のこと、君から話せよ。君の方が話はうまい から」 と応援を求め、無意味に手をあげて、頭をかいた。 友杉が、眼を放さず、彼等を見ている。 平川も、友杉がいては話しにくいと感じ、しかし、きっ かけがついたので、話しはじめた。 笠原が、ある種の事業をやろうとしていること。淀橋 に、もう事務所ができかけていて、有吉をもその事業に参 加させたいと思っていること。そうして笠原という男は、 自分たちが考えていたより愉快なよい友人であること。だ から、有吉も、父親の死でしょげていないで、笠原のとこ ろへ来た方がよいではないかということー。 有吉は、見るも明らかに、不愉快そうな顔に変った。笠 原なんて、名前を聞くだけでもいやだとハッキリ言い、ど んな事業か知らないが、笠原といっしょに事業をやるなん て、ぜったいお断わりすると言い張った。 不思議にも、だまって聞いていた友杉が、ニコリと笑っ たようだった。 彼は、はじめて、口をはさんだ。 「ああ、平川君も高橋君も、有吉君に対する友情で来てくれ たんですね。有吉君も、ありがたいと思った方がいいじゃ ないんですか。……そうだな平川君。君たちの話、ぼくに はよくわかっているよ。有吉君のために、いいことかも知 れないね。よろしい。ぼくがあとで有吉君には、ゆっくり と話してあげよう、笠原君への返事は、断わってしまった ことにしないで、少し考えさせてくれるようにしてくれた まえ。今日はこれで帰ってもらう。もしかしたら、明日に でも、こっちが出かけて行くよ。i実は、ぼくも笠原君 には、用があるしね。なアに、笠原君にぼくが、失敬なこ とをしたことがある。奥さんを訪ねてきていたのを、ぼく が脅迫して追い返したんだ。電話がかかってきても、ぼく が自分勝手に取次ぎを断わったりなんかしてね。悪かった よ。ぼくから謝まらなくちゃならないと思っていたんだ。 ねえ、有吉君。これはぼくに、任せて下さいね」 有吉が、おどろいた眼で、友杉の顔を見ていたが、平川 と高橋とは、意外な仲裁で、これもびっくりしながら、急 に元気づいてきた。 「そうなんだよ。ねえ、藤井。ぼくら、君を悪いようには 決してしないよ。大丈夫だ。頑張ったって、ほめられやし ないさ。それより、向うで来てくれっていうんだから、と もかく会ってみるだけだっていいじゃないか。友杉さん、 よろしくお願いしますよ」と高橋は言い、平川も、 「それにだな。笠原君のこと、ぼくらだって誤解していた さ。いやな奴だと思っていた。だけどあいつも、芯は淋し がっていたんだぜ。ぼくらから憎まれて、いろいろ煩悶し たと思うね。話し合ってみると、いい人間だったよ。君 も、つきあえば、だんだんわかるにちがいないのだ。ねえ、 強情張らずに、会ってみたまえ。頭はいいし、啓発される ことだってずいぶんあるぜ。ぼく、嘘をいっているんじゃ ない。ぼくらを信用したまえ。そうして、せっかく来たぼ くらの顔も立てるようにしてくれたまえLくりかえし、笠 原をほめて聞かせるのであった。 三 友杉が有吉を、少し外の空気を吸わないかといって散歩 につれだしたのは、その夜の夕食が終ってから一時間ほど 後だった。 二人は、事件の夜、あの奇妙な足音を聞きつけた坂を下 りた。それから電車道を神楽坂の方へ歩いたが、途中のお 濠には貸ボートが浮かんでいたので、ああ、あれがいい、 と友杉はすぐにボートを借りて漕ぎだした。 お濠の重みのある水が、時々ピシャリと音を立て、水面 には、走る電車の燈影が線を引いて映った。若い男女や女 ばかりのボートの間を、しばらく漕ぎぬけてから、オール を有吉が代ったが、すぐに疲れて手を休め、煙草に火をつ けると仰向けになって、夜の深い空を、じっとだまって見 上げている。 「有吉君i」 「なんですか」 「散歩に君をつれだしたのは、どうしてだかわかってい る?」 「わかっていますよ。むろん……」 腹を立てた声だったが、むっくり顔を持ち上げると、思 いついたように、煙草の箱を友杉の前へさし出している。 「ありがとう。一本、もらうかな」 そうして友杉も、うまそうに煙を吐きだし、しばらくの うちは、また二人ともにだまりこんでしまった。 向うのボートで、少女が何か叫び、それから笑い声を立 てた。明るいこだわりのない笑い方だった。中央線の電車 が、またはげしい響きとともに走り去った。 「ぼくは、友杉さんの気持が、わからないんですよ。ぼ く、びっくりしていた」 「そうですか。笠原のところへ、有吉君が行った方がいい って言いだしたからですね」 「そうですよ。あの男を、ぼくは憎んでいます。それは友 杉さんも知ってますね。ずっとせんに病院で、友杉さんは ぼくの書いた手帳を読んだのだから」 「そうだったな。笠原という名前は、あの時にぼくは、 はじめて知ったんですよ。1しかし、どうですか。せっ かく平川君や高橋君が来たのだから、行ってみた方がよい とぼくは思いますがね」 「それは……ぼくは、友杉さんを信頼しています。友杉さ んがそうしろってのなら、その通りにしてもいいんです。 だけど、なぜ友杉さんが、ぼくの気持知っていて、むりに ぼくをあいつのところへ行かせるのか、その理由がわかり ませんから」 「理由は、大してないんですよ」 「ひどいなア。それじゃ、まるでぼくの気持を無視してし まって……」 「無視しやしない。それは考えているんです。しかし、あ とできっと役に立つと思うんですよ。ぼくには、そういう 気がする。笠原という男は、ぼくも好きじゃなかったです ね。ところが、たいへんな秀才ですよ。特異な性格を持っ ている。それに人間は、どこかによいとこはあるもので、 そのことをぼくは思ってみました。平川君や高橋君が、今 はすっかり笠原に敬服してるでしょう。何かあの人たちも 発見したのにちがいない。だから、有吉君も、行って見れ ば、案外気持が変るかも知れないじゃないですか」 「まるでアヤフヤですねえ、友杉さんも。アハハハ、おか しいや」 「有吉君の笑うの、久しぶりに見たな。アハハハ、ぼく も、おかしくなってきた。いや、いいですよ、ぼくを笑っ てもね。まったく、ぼくもアヤフヤなこと、いってしまっ たんでしょう。1が、どう。ほんとに行く9」 「ええ、行きますよQそれは……」 「よかった。有吉君は、すなおだから、ぼくは好きなんで すよ。そうですね、場合によったら、ぼくがいっしょにつ いて行きますよ。それでもいいでしょう。ここで、ほんと のこと、ぼくがもう一つ言う。それはね、ぼくは有吉君 を、一人でおいちゃいけないって、いつもこの頃考えてい るんですよ」 「信用ないんですね。アハハハ・ ・.・」 有吉が、また笑ったが、おかしくって笑う声ではなかっ た。投げた煙草の火が、水面でシュッと音を立てて消え た。そして友杉は、鋭いまっすぐな視線で、有吉の眼をの ぞいていた。 「信用の問題じゃないんだが、有吉君には解らないのか な」 「わかりませんね。信用の問題じゃなくて、では、どうい うんですか」 「つまり、ぼくは、有吉君が、いつもひどく何か苦しんで いるのに気づいているのですよ。考えていることがある。 しかも、それを誰にも言わない。自分だけで、不安を感 じ、いらいらし、だしぬけに泣きだしそうになっている。 ねえ、そうじゃないですか」 「 」 「お父さんがあんなことになった。それを悲しがっている のはわかるが、それだけじゃ決してないですね。そのこと は、平川君たちの前でも、有吉君自身で言ったでしょう。 あの事件を、恐ろしがったり悲しんだりするだけじゃな い。ほかにうんと大きな心配があるってね。それなんだ。 ぼくが気にしているのは。それがあるから、ぼくは有吉君 に、いつもついていてやらないと、いけないことが起るの だと思っています。どうですか。ぼくにいっそ話してしま いませんか。その心配なことはどんなことだか……」 有吉は、顔を上げると、友杉の視線を、あわてて横へそ らしてしまった。しばらく、返事をしない。また煙草に火 をつけた。 「いやだなア、ぼくは……」 「え、どうして9」 「相手が友杉さんでも、そうしちくどく、ぼくのことを疑 ぐられるの、いやなんですよ」 「疑うんじゃありませんね。そうだと観察しているんです よ」 「同じことですよ、それは、友杉さん。1第一、心配な ことっての、あの時にやはりぼくが平川君たちに言ったで しょう。友杉さん流に言えば、大したことじゃないんで す。ぼくがバカかも知れない、くだらないことを考えすぎ てるんだってね。それで解答はおしまいですよ。何もあり ません。バカバカしいんですー・」 「君が一人きりで考えていることは、べつにないっていう んですね」 「そうですよ。その通りですよ。もういい、友杉さん。何 もぼくに訊かないで下さい。ほんとうに、ぼくがバカだと いうことだけです。それ以外に何もないんですよ!」 声が痛ましい響きを帯びている。あと一歩というところ を、命がけの力で踏みこたえている。友杉が、しかし、や はり視線をはなさなかった。無慈悲にまた一つえぐった。 「有吉君。ぼくはね、君をいじめたいんじゃないんだ。反 対に、君の味方なんだ。いいね。そこで君がどこまでも君 の考えていることを話さないのなら、ぼくの見たこと話し てあげよう。四日前だった。ぼくは庭へ出て、草むしりし ていた。そしたら、有吉君が二階のバルコニーへ上り、へ んなことしているのに気がついたんだよ。バルコニーは、 お父さんの書斎へ続いているでしょう。そして書斎の窓が あるでしょう。その窓は挿込錠が壊れていて、バルコニー から、夜中でも侵入できるようになっている。ところがど うだ、君は、その窓を、そっと開けたり閉めたりしてい る。それから、バルコニーへ腹ん這いになって出て、何か 探すような恰好をしている。じきに、階下でふみやさん が、湯殿の戸を外からあけた。その音がすると、君はびっ くりして立ち上り、バルコニーから姿を消したね。 …・ね え、どうなの? そこまでぼくに言わせたら、あとはもう 強情張らなくてもいいんじゃないですか。あの窓は、今の ところ、犯人が侵入した口だということになっているので すよ。少なくとも君は、そのことを前から知っていたので すね」 有吉の瞳が、大きく見開かれていた。 それは驚きの表情であり、しかし、恐怖の表情に近かっ た。 「友杉さん1 ……」 と彼は叫んで、あとの言葉が続けられず、ふいにオール を掴みよせると、その手の上へ顔を重ね、はげしく声を立 てて泣きだしてしまった。 ボートがグラリとゆれ、光る波があたりに散って行っ た。友杉は、ため息をつき、身を動かして有吉のそばへよ った。 「君は弱いんだね有吉君。なにも泣くほどのことはないん だよ。え?」 そして有吉は、手のひらで涙をこすりあげ、ようやくオ ールから顔をはなした。 「ぼくは……ぼくは、ほんとは……苦しいんです。友杉さ んの言うとおりです。しかし……もう少しのうち、ぼくの 気ままにさせて、ただぼくを見ていて下さい。お願いです 友杉さん。それだったらぼくは、笠原のところへも行きま すよ。そうです、行くことがぼくにも必要なんですから。 一つだけ言えば、ぼくはぼくの責任を考えているだけで、 これ以上友杉さんに迷惑なんかかけません。信じて下さ い。そしてもう何も訊かないで下さい」 兄に甘える弟の声だった。 友杉は、有吉の肩を抱きしめるようにして、じっとこの おえつ 嗚咽の言葉を聞くのみであった。 愛の書簡 一 有吉が、友杉といっしょで、淀橋にある笠原昇の事務所 を訪ねたのは、平川と高橋とが有吉にそれを勧めにきた、 その翌々日のことであった。 ボートの中で泣いた有吉は、友杉と肩を並ぺて帰る道す がら、ふっと遠く空を見上げて、ああ、ぎれいだなア、今 夜の星は、まるで生きているみたいに動いていますよ、と 大人っぼくしみじみした声で言い、その星を眺める目つき が、思いのほか清く明るく澄んでいたが、これは彼が、胸 のうちの秘密と苦しみとを、友杉に鋭く指摘されたので、 かえってその苦しみや秘密は、これから後のいざという場 合、友杉になら打明けて話すことができるのだという、ひ そかな安心感が生れてきたせいだったろう。 友杉の方は、帰るとすぐに未亡人の部屋へ行って、長い うち未亡人と話しこんでいたが、それは藤井家に於ける友 杉の存在が、あの事件後すっかりと重味のあるものになっ てぎている。未亡人一人だけでは、内外の家事一切を処置 しきれず、自然友杉が、唯一の相談相手になっていたから であるが、さてしかしその晩の二人の話は、かなり重大な 問題についてであったにちがいない。未亡人は、次の日一 日、何かじっと考えに沈んでいた。そして翌日の昼ごろ、 ようやく決心がついたという顔になって、 「ねえ、友杉さん。あたしも、同じような気がしてきた わ。あなたの意見に賛成なの。有吉ちゃんを、つれて行っ てみてちょうだい。……それから、笠原さんに軽蔑された ら口惜しいじゃないの。身なりを、できるだけキチンとしー て行ってね」 と女らしく気を配り、友杉のために、藤井代議士の服を・ 出して与えたのであった。 行ってみると笠原の事務所へは、折よく笠原が来ていた し、平川と高橋も顔をそろえている。そして、事務所の工 事は、たいへんに早く進んだらしい。あの貧弱なバラック が、もう見ちがえるほどになっているー。 表の硝子戸に、ペンキが塗ってあった。 壁はベニヤ板で、天井がテックス。その天井いっぱいの 高さに書類入れの戸棚が立ててある。ニスの匂いの新しい テ!ブル。安ものの灰皿や紙屑籠。そして奥の部屋では、 畳替えがはじまっているところだった。 「あ、藤井か。よく来たね。もう来ないのかと思っていた よ」 顔を見て、はじめに声をかけたのは高橋だったが、今日 も友杉がいっしょなので、ふりむいて笠原と平川とに、て れくさくパチパチと目ばたきをして見せている。 笠原と友杉との視線が合った。 とたんに、友杉の顔には静かな微笑が浮かび上ってきた し、すぐ笠原も、 「やア、こりゃ、あなたが来てくれたのは意外ですよ。し fらくでした。歓迎しますよ」 と思いのほかおちついた声でいった。 かつて藤非家のサンルームで、貴美子夫人にダンスを教 えにきていた笠原を、友杉が容赦なく追い払おうとした 時、彼等は擱み合いの喧嘩でもはじめそうであった。それ 以来、どちらも、相手を憎悪しているはずであり、しかし 二人とも、それを忘れたような顔をしているのである。平 川や高橋は、深いことを何も知らなかっただろう。気をき かして高橋が、脚を上にして重ねてあった椅子を床へおろ し、入口のテーブルのそばへ、有吉と友杉との席をつくっ た。そうして平川に、 「オイ、お前、自慢してたじゃないか。コーヒーいれろ よ。茶碗、買ってきてあるぜ」 と言いつけた。 女の事務員がまだ来ないので、キャンプ生活の学生のよ うに、自炊をしているのだと、高橋、平川が言いわけして いる。そのあとで笠原が有吉に、殺された有太のお悔みを 言い、すると笠原と友杉との間で、話が有太の殺害事件の ことにはいってしまった。 「どうですか友杉さん。あなたは直接に事件の渦中にいる のだから、いろいろと詳しいことが、ぼくらよりもわかっ ているはずですね。犯人の目星は、もう大体のところっい ているのじゃないですか」 「そうですね。警察じゃ、ある程度わかってきているかも 知れません。少し政治的な問題がからんできているようで すが」 「政治的って……そうですか。じゃ、それは、諸内達也と いう代議士のことですね」 「ほう、よく知っていますね。どうしてですか」 「どうしてでもないんです。ぼくは、実はこの事件には、 興味をもっているんです。藤井君の前で興味だなんていう のは気の毒だけれど、ともかく変った事件ですからね。ぼ くが新聞記者とか探偵とかであったら、夢中になったかも 知れません。ぼくは新聞で事件を知ったのですが、事件発 生以来の新聞の切抜きを、全部集めて持っているくらいで す。1その新聞に、某代議士のアリバイのことが書いて あったでしょう。それを読むと、すぐにぼくは諸内代議士 だと気がついたんです」 「新聞には、詣内代議士の名前は、出ていなかったはずで すが……」 「出ていなくても、わかったんですよ。諸内代議士が、藤 井君のお父さんを買収しようとしたんですね。政治的な何 かの秘密を、藤井君のお父さんに擱まれていて、その暴露 を恐れたからのことでしょう。諸内代議士は、果物籠へ莫 大な金を入れて持ってきた。しかし、清廉潔白な藤井代議 士が、最後までその買収に応じなかった。そうして、そん なことでモタモタしているうちに、とうとう殺人事件にな ってしまったという順序です。警察じゃ、どういう見解な んです。つまり藤井代議士は、中正党の秘密を握り、その 秘密のため、殺されたというんじゃないのですか」 友杉よりも、平川と高橋とが、おどろいた眼つきになっ ていた。これまでに笠原は、事件についての特別な興味を もっていることなど、おくびにもロへ出さなかった。むろ ん、それについての意見を、述べるというようなこともな かったし、果物籠のことも、平川や高橋が、話して聞かせ た覚えはない。だのにこの男は、平川も高橋も及ぼぬほ ど、詳しい事情に通じているらしい。いつのまに、どうし てそんなことを知ったのかと、不思議な気がするのであっ た。 友杉の顔に、一筋、血の色が浮いたようである。ふい に、ニスのテーブルについていた肘をはなし、上体をまっ す6、に起したから、何か反対意見をでも述べるのかと思わ れ、しかし、べつに何も言わなかった。ポケットの扇子を 出し、パチリと音をさせて、またそれをもとのポケットに 入れてしまった。そうして、簡単な言葉で笠原に答えて、 諸内代議士の件は、多分警察でも笠原と同じ着眼点で捜査 にかかっているのではなかろうか、といっただけであっ た。 有吉が、急に椅子をはなれ、せまいテーブルと壁との問 をぬけて、疂屋の職人の仕事を見ている平川のそばへ行っ てしまった。やせ細った横顔が、透きとおって青い色をし ている。友杉と笠原とが、事件の話ばかりしているのを、 不平に思っている顔つきだった。 友杉は気がついて、 「まアしかし、犯人を探すことは、警察へ任せておいた方 がいいと思っているのですよ。それよりも今日は有吉君の ことですが……」 と有吉をこっちへ手招きして言い、笠原も笑いながら、 「そうでしたね、iこれは、実は、高橋君が言いだした のです。ぼくも賛成で、有吉君にしても、ここへきてぼく らの仕事を手伝っていたら、気がまぎれるんじゃないかと 思ったんです。学校の余暇を利用して、まア、バイトとい うわけですが、学生のバイトとしては、かなり面白いつも りですから……」 といって、事業の説明をはじめた。金融会社ではある が、合法的にうまくやる。名前は企業会社ということにし て、小資本の企業家に対し、資金を貸したり企業の計画を 立ててやったりする。名目は、貸金の利子をとるのでな く、その企業を合同にし、利潤を分け合う形式になるのだ から、世間ていも悪くはないし、出資金に対しては担保を ちゃんととっておく、そうすれば、企業が失敗してもこち らは損失にならず、成功すると、それだけやはり儲かる、 というような説明であった。 友杉が、ふりむいて、心配そうに有古の眼をのぞいた が、有吉は、思ったよりハッキリした口調で答えた。 「ぼくは、どっちでもいいんですよ。高利貸しって言われ るんじゃなかったら、バイトしたってかまいません。しか し、その前に笠原さんに、一つだけ聞きたいんですが」 「ほう、どういうこと?」 「仕事の話じゃないんですよ。ぼく、気になっているか ら、こないだも平川君たちに訊いてみたんです。……とい うのは、園江が、どこにいるのか、笠原さんは知ってない でしょうか。ぼく、園江に、どうしても会ってみたいんで す」 胸のうちにためていたことを、がまんできず、ロへ吐き 出したという感じだった。 なぜ、ここでだしぬけに園江新六のことなどを言い出し たか、それは誰にもわけがわからない。友杉が、ハッとし て有吉の顔を見なおした。笠原も、表情に変化が起り、眼 が輝いたようであったが、ガタンと音をさせて、椅子の上 の膝を組みなおした。 「おかしいね。藤井君。どうしてだい、園江のことなど、 なぜぼくに訊くの9」 「わけがあるんです。平川君も高橋君も、園江のことは、 知らないんだそうです。でも、笠原さんなら、知っている かと思って……」 「だからさ。だから、なぜぼくなら、園江のことがわかる のかねえ。ぼくが、あいつのこと、知っているはずはない じゃないか」 「そうですか。じゃ、園江は、笠原さんのところへ、最近 来たことはなかったんですか。1最近といっても、十日 ほど前、イヤニ週間にもなるでしょう。その時園江は、笠 原さんのところへ行くといっていたんですよ」 「ほう……」 「園江はぼくに、金を借りに来たんです。ぼくは都合が悪 くて断わりました。そしたら園江は、それじゃしかたがな い、困ったなアといって考えこんで、それから、笠原さん のところに、金を借りに行くって言ったんです。ほんとに 来なかったんですか」 「そうか。ー金を借りる話なら、園江が来たこともない じゃない。しかし、二週間前だというんじゃ話がちがう ね。こっちは、もう二た月も三月も前のことだからね」 「ぼくの家で事件が起った、その四日前のことですよ」 「ふーん……」 奥にいる畳屋さんのそばで平川が、ふっと顔を上げ、こ ちらへ耳を澄ましている。 それは、誰の胸にも、ある微妙な感じが起ってきていた からであった。その感じは、海の底の流れのように力が強 く、同時に大きな不安や恐れを伴っているものである。そ の原因は、甚だしく不確かであり、そうして不確かなくせ に、ぼんやりと何かの映像が見えてくるようなものである のであった。 友杉が、まっさきに冷静な表情に戻った。 つづいて笠原も、たばこを出し、ライターで火をつけ、 それから、 「まア、いいじゃないか藤井君。t園江のことなんか問 題じゃないよ。少なくとも、ぼくの事業とは関係がないと 思うね。君は、急ぐわけじゃないから、ゆっくり考えてみ てからでかまわないんだよ。いっしょにやる気があった ら、ここの事務所へ出てくるんだね。なアに、心配なこと はありゃしない。君のために、決して悪いようにはしない からね」 と有吉に、いかにも親切に聞えるような、やさしい口調 ですすめるのであった。 二 はじめからその予想はあったことだが、こうして有吉と 笠原との会見には、息苦しく不安定な気分がつきまとって いて、しかしともかくも、当面の用件だけは、事無くして すんだのであった。 帰りを、友杉と有吉は新宿駅へ出るつもりで、すると平 川が、会社のゴム印を頼むのだといって、いっしょについ てきたが、その途中友杉と平川との間で、事務所の床のこ とが話題にのぼった。それは友杉には、あそこにいた時か ら気になっていたことである。椅子に腰かけていて、天井 がひどく低くて頭がつかえるようだと思い、つまり、コン クリで塗りかためた床が、高すぎるのだと気がついた。バ ラックを改造したのではあろう。でも、なぜ、あんなぶざ まな設計をしたのかと、まったく何気なく平川に訊いたの である。 平川は、これも何気なく説明した。 要するに、猫の死骸があったせいだった。そして、笠原 がら が柄にもなく、猫についての迷信をもっていたせいだっ た。 「ぼくは、反対したかったんですよ。しかし、仮にも社長 の意見ですからね、ハハハハ」 「なるほどね。社長さんじゃ、かなわない。アハハハ」 友杉は、つりこまれて笑い声を立て、それから間もなく 平川とは別れた。 邸へ帰って友杉は、有吉と笠原との会見顧末を、詳しく 未亡人に報告していた。 一方有吉は、留守中にきていた郵便物のうちから、雑誌 の包みらしいものを見っけると、急にすばやい手つきでそ れを抜きとり、自分の部屋へ持って行ってしまった。 その包みは、表の宛名が有吉になっているし、中身もな るほど科学雑誌である。 しかし、秘密があった。 包み紙の裏に、字がぎっしりと書きこまれた、薄いレタ ーペーパーが貼りつけてあった。そうしてそれは有吉の情 婦波木みはるからの手紙だった。あの青い石の私設郵便局 はもう不便になっていたし、ペン画の表紙がついた記念帳 も使えない。今は新しく案出したこの方法で、彼等はすで に数回の通信を取交している。その前後数同の通信は、次 のごときものであった。 × × (波木みはるより……) お手紙、無事につきました。とても悲しかったり腹が立 ったりしました。あんまり腹が立ったから、あたしは、あ なたを苦しませることをこれから書くのです。あなたに は、こんなこと知らせたくない。でも、あなたは、無責任 ですね。お父様が亡くなったから、もうあたしのこと忘れ るのだといってるでしょう。ずいぶん身勝手な言分だと思 います。だから、あなたを苦しませてやるのですよ。ほん とは、あたしは、たいへんなんです。警察から調べがき て、あなたと私のこと、何もかも知られてしまったのは、 この前の手紙で書きました。ところが、あたしは一つだ け、秘密にしておきました。それはあたしが、父や母にも ないしょで、医者に診てもらったことです。その医者は、 耳の大きい、赤い顔の肥った男でした。あたしは、いくど も躊躇したけれど、パンバンだと嘘をついて、その医者の ところへ行きました。とても煩悶したあとです。生理的に 変だと気づいていたからでした。 肥った医者は、ニヤニヤして私の頬ぺたを指でつつき、 そしてたいそう長い時間をかけてあたしの身体をしらべま・ した。診察のとちゅうであたしは、よして下さい、失礼な ことしないで下さいって、よっぽど叫ぽうかと思ったくら、 いです。でも、パンバンだって嘘ついてあるから、軽蔑さ れてもしかたがなかったのでしょう。医者は、やっとこさ 診療を終りました。貧弱な水道のカランのところで、ピ チャピチャ音を立てて指を洗って、それから私の方へ向き ました。君の心配したとおりだよ、赤ん坊ができているっ て言ったんです! あたしの頭の中では、ガン、ガン、ガーンと鐘が鳴るよ うでした。そこで泣きだしてしまいました。医者が、また ニヤニヤして、泣かなくてもいい。簡単な手術でどうにで もなる。困ったら、いつでもくるがいい、手術の費用なん か、あたりまえなら、うんと高いのだけれど、君はとくべ つにやるよって言って、あたしの肩を両腕でおさ、兄るの を、あたしはふりはなして逃げてきたのです。あたしは今 の今まで、誰にもこの話はしたことがありません。父も母 も、そして警察でも知らずにいることなのです。いつかあ たしは、あの赤い顔の耳の大きい好色な医者の所へ、もう 一度行くことになるのでしょう。しかも、このことは、あ なたにも永久の秘密にしておくつもりだったのですけれど ……。ああ、しかし、こんなこと書いてしまっていいので しょうか。 腹立ちまぎれに書いたのですけれど、この手紙は、やぶ いてしまった方がいいのでしょうか。 いいえ、やぶきません。あ.なたに読んでもらいます。あ たしは、そんなに考えなしではないのだから、書いた以 上、この手紙はあなたに読まサ 6のです. ではさようなら。 × × (有吉より……) ぼくは、息がつけない気がした。まったくうちのめされ た。内憂外患こもごも至るという形になった。そして、み んなぼく自身の責任なのだ! ぼくは、改めて君に謝罪しよう。君のこと忘れるといっ たのは悪かった。忘れやしない、決して決して……。 だから、無責任だという非難だけはしないでくれ。ぼく は、以前君が、自分たちが何をしようと、責任さえ持てば いいのだと言ったことを思い出す。勇気が必要だ。責任を 逃げるようなことは決してしない。ただ、困るのは、君に 対してだけの責任が、ぼくに重くのしかかっているのでは なくて、ほかにも、もう一つの重い責任があることだ。そ の責任を果したい。そのあとで、君への責任を果すつもり だ。 しかし、変だね。ぼくは、自分が今、ひどくえらそうな .」とを書いてしまったのに気がついて、顔を恥で、真赤に しているのだよ。 二つの責任を、事務的に、順々に果すなんて、ぼくに可 能なことか知ら、考えてみると、それはむつかしいことだ とわかってくる。二つどこじゃない、その一つだけでも、 ぼくの背負いきれる責任じゃないと思う。一つはぼくの愛 人に対して、一つはぼくの父親に対してー。 苦しい、苦しい、苦しい、苦しい! 君は君のことだけを考えているが、ぼくだったら、君の 立場になった方がまだましなような気がするよ イヤこ れはやはり君から身勝手な言分だといって非難されること だろう。そうだ、女としては最大の事件が起ったのだ。君 が苦しいのは無理もない。そうして、ぼくも、君と同じよ うに苦しいのだと言いなおそう。どうしたら、この苦痛か ら脱却できるのだろうか。いちばん容易な方法は、昔から 多くの人々が実行してきた方法だ。その方法を選ぶなら、 事はまことに簡単であり、ぼくにも、それだけの勇気は残. こら っている。けれども、卑怯だね。もう少し、ぼくは泳えて いてみよう。君にも、もう一度、会ってからだ。 とにかく悪かった、ぼくの敗北だ。 そのうちに、なんとかする。赤い顔の耳の大きな医者は 憎い奴だ。そいつには、ぼくはいつか、十分な復讐をして やりたい。 サウザンドキスを君におくるー。 × × (波木みはるより……) ごめんなさいごめんなさい、ごめんなさい! あたし、とても悪いことしました。あなたにこの前の手 紙を出したあとで、あんなこと書かねばよかったと後悔 し、ム,度はまたもっとうんと後悔してしまいました。 お詫びしたら、あなたは許して下さるでしょうか。私 は、嘘をついたのです。あなたが、私のこと忘れるといっ たのが口惜しかったから、あなたを困らせたくて、嘘つき ました。耳の大きい肥った医者の話、あたしが作ったお話 です。いいえ、それもただの作り話ではありません。あた しのお友だちのズベ公が、私に話してくれたことで、それ を私のことのようにして書いたのです。ほんとうに、ごめ んなさいね。 心配かけて、それもほかの場合じゃなくて、あなたにほ かの大きな心配がある時なのに、すまないことをしたと思 っています。そうして、今度は、あたしが心配になってき たのです。あなたが、何かとりかえしのつかないことしや しないかと思い、お手紙を読んでいるうちに、胸がドキド キしてきてしまいました。 二つの責任があるってこと。 そのうちの一つは、耳の大きな医者のことが作り話だか ら、もう解消したことになるでしょう。その残りの一つ、 あなたの亡くなったお父様に対しての責任とは、どんなこ とですか。 あの時、あたしはお葬式に行くこともできず、どうした らあなたを慰さめてあげられるかと考えて、そのあげく に、雑誌の手紙を思いついたのでしたわね。だけど、あな たがお父様のことでそんなに苦しんでいらっしゃるとは知 りませんでした。お手紙では、お父様があんな風にして亡 ・くなったのを、ただ悲しんでいらっしゃるだけではないよ うに見えます。責任があるというのは、お父様に対して申 訳がないという意味でしょう。 そのわけを聞かして下さい。なにか異様な感じがしてな らないのです。 苦痛を脱却するのにいちばん安易な方法なんて、考えな いようにしていて下さい。 それは、あなたが一人でやることではなくて、万一の場 合には、あたしと二人でやることです。あたしは、二人で だったら少しも怖いと思いませんし、でも、あなたが一人 でそんなことをして、あとにあたしだけを残すのだった ら、それこそあなたを、身勝手だと思ってしまうでしょ う。死ぬなら、いっしょですよ。そうして、死ぬ前に、あ たしにわからないことがないようにしておいて下さい。 お願い! あなたの秘密を話して下さい。そして、ほんとにどうに もならないような問題だったら、その時、二人で死んだっ ていいでしょうもの。あたしは、本気に死のことを考えて います。死ぬのは、そんなに悲しいことじゃないのです。 少し早く死ぬか遅く死ぬかだけの違いです。そうして、今 の世界では、若くて健康な人たちが、あたしたちよりもっ と正直で善良で、そのくせ無理に死なされました。それを 思えば、あたしにはあなたがあり、はげしい愛の言葉があ り、この一瞬の命こそは、輝く幸福に充ちているのですか ら、もう十分に満足して死んでもいいのですわ。 ママが、奥であたしを呼んでいます。見つけられないう ちに、ではこれで。 × × (有吉より……) ぼくは、笑いだしてしまった。はじめ、くそッ!と思 って腹が立ったが、そのうちにおかしくてたまらなくなっ た。耳の大きな医者の話。よくうまくぼくをだましたね。 これは覚えておくよ。いつか、きっとしかえしをしてやる から。 ところで、死についての君の言葉は、ぼくに大きな慰さ めや力を与えてくれた。これは感謝しなくてはなるまい。 自分が苦しくて、死と向き合っているような気持のとき、 それが孤独ではなく、いっしょに死ぬつもりでいる人のあ ることが、死ぬほど苦しい時に、こんなにも嬉しいものだ とは思わなかった。ありがとう。もしかしたら、ほんとに ぼくは、死んだ方がいいと思うようになるかも知れない。 その時は、よく相談をしよう。そして、世界でいちばん美 しい、誰にも真似のできない方法で死ぬことにしよう。 なぜ死ぬことを考えるのか。 その話を、ぼくは君への感謝の念から、打明けてもよい と思うようになった。ほかの誰にもまだ話してはない。ぽ くが最も信頼している友杉さんにさえ、この恐怖すべき真 実をぼくはかくしているのだ。友杉さんは、ぼくを危ぶん でそっと見守っている。そうして、ある程度、ぼくの秘密 に気づいている。しかし、ぼくは意地になって、口を閉じ てしまった。それをぼくは、君にだけ打明けるのだ。 結論から先きにいうが、ぼくの父、代議士藤井有太氏 は、その一人息子である不良少年藤井有吉によって殺され たといってもよいくらいだ。直接犯人は、有吉の友人の園 江新六であり、しかし新六は、有吉に教唆されて、この犯 行を敢てしたというわけだ。 君は、園江を知っているだろうか。たしかどこかで、ぼ くといっしょに、コーヒーぐらい飲んだことがあっただろ う。園江は、中野のわりに裕福な家具店の息子でS大専門 部の学生で、年はぼくより一つ上の十九歳だが、鼻が曲っ そつぱ ているし反歯だし、おまけにニキビがいっぱいあって、色 が黒くてたいへん醜悪な顔つきをしている。ところがこの 園江は、ある日ぼくの家へやってきて、金を貸してくれと いう相談をもちかけたのだ。奴にはぼくは、ぼくの家の二 階の書斎に、誰も受取人がない、そして持主もない金が十 数万あり、あのまま放っておくのは惜しいものだと話した ことがある。その金を借りるつもりでやって来たのだっ た。ところが、ぼくは、その時もう、二階の書斎から、金 を持ち出すことがでぎないようになっていた。父が、福島 から帰ってきて、その部屋のベッドへ寝こんでしまったか らだが、そこでぼくは園江に、そういうわけだから、金を 貸すことができないといって断わり、しかし、あとで、と んでもないことをしゃべってしまった。つまり、金は、『日 本史略』という書籍のケースに入れてかくしてあると話し、 なお、その部屋には、窓の挿込錠のこわれているところが あって、泥棒するつもりなら、そこからたやすく忍びこん で、あの金を盗み出せるのだということを、ウッカリ話し て聞かせたのだ。むろんぼくは、そうしろといって園江に 教えたのではない。泥棒ならそうするが、ぼくはこの家の 子供だから、まさかそれもできないという意味で、笑いな がら、園江に話しただけだが、あとで思うと、これは教唆 になっている。園江も、その時は笑っていた。そうして、 金を借りることはあきらめて帰っていった。ところが、そ れから四日目に、ぼくの父は殺されてしまった。しかし、 ぼくと園江以外には、本のケ!スに金がかくしてあること を知っている者はないはずなのに、その金が影も形も見え なくなってしまったのだ。 事件直後、まだ血みどろの父の惨死体が横たわっている 部屋へ、ぼくが警官の許しを得てはいって、ヶiスの金が 消え失せているのを発見した時のぼくの驚きを察してもら いたい。立っている部屋の床が、ずしんと暗黒の底へ沈ん で行く思いだった。息がつまり、脳貧血を起しそうだっ た。そしてもうすぐに、そのことを警官に話そうかと思 い、それを怺えているのが苦痛だった。気が少しおちつい てきてから、ぼくがひそかに考えたのは、せめてもの父へ の責任で、園江新六をぼくの手でひっつかまえて、警察へ つき出してやろうということや、また反対に、園江がうま く逃げてくれて、一生涯つかまらずにいてくれたら、ぼく が彼を教唆したことは、世の中へ知れずにすむだろうとい うような、たいへん卑劣な利己的な希望についてだった。 ぼくの煩悶がはじまった。死んでしまってから、ぼくは父 の善良な性格を思い起した。その善良な父を、一人息子の ぼくが、園江の手で殺さしたことになるのだ。 気まりが悪くて、日の光へ顔を向けていることができな いくらいだ。 たった一つ、ぼくを救ってくれる道は、園江以外に犯人 があって、その犯人が逮捕されるということだが、そんな うまい工合にはならないことを、ほかの誰よりもぼくはよ く知っている。 なぜなら、園江は、事件後、どこかへ逃亡してしまっ て、父の葬儀にさえ、顔を見せなかった。彼が犯人でなか ったら、姿をかくす必要はないではないか。彼は低能だか ら、お悔みを言いにくることを知らないのだと、平川君や 高橋がいった。が、そうではない。低能だから、何喰わぬ 顔をして、ぼくの前へ姿を現わし、疑いのかからぬように するだけの智慧がわかないのだ。却ってそれは図太くなく て小心なせいかも知れない。が、ともかくも、彼は、顔を 見せただけで、ぼくが、ほかの誰が知らなくても、彼に金 を盗み出す方法を教えたことを思い出すと考えた。そうし て、ぜったいにどこへも立ち現われない。もしかしたら、 今は彼も後悔しているだろう。ぼくという親友の父を殺し てしまった。その罪の苛責に苦しみつつ、逃げ廻っている のかも知れない。しかし、誰にも彼は消息を絶ってしまっ たのだ。 ある代議士に疑いがかかっている。 ところが、この疑いは、すぐ晴れるにきまっている。 けっきょく園江が逮捕されるのであろうが、ここに一 つ、矛盾したぼくの気持が働くのは、ぼくが園江を憎むこ とができないでいるということだ。それも、つけ加えて言 っておく方がいいだろう。ぼくは、どうしたものか、あの 醜悪な顔をした園江が、犯した罪に脅えつつ、狩りたてら れた獣のようにして、あちこち逃げ廻っている姿を想像す ると、彼が可哀そうに思えてくる。彼も不倖せな奴だ。今 の時代が生んだ一つの犠牲者だ。何が正しいか、何が善良 か、イヤ何が幸福かということを今のぼくたちはハッキリ 判断し見定めることができない。本能的な欲望だけに忠実 であることが、いちばん強くて正しい生き方だという議論 はちゆうるい がある。が、そうだったら、人間は、獣類や爬虫類と同じ 生物になってしまうし、ではほかに、どれが真実の人間の 生き方かというと、世界で最高の権力者たちがしているよ うに、一挙にして巨万の人の命を奪う原子爆弾の製造に努 力することが、その正しいあり方だとも言えないだろう。 すべては混乱している。わからないことだらけだ。園江 は、そのわからない世の中で、もがいたり、はねたり、 しゃべり、わらい、泣いている一人の少年に過ぎない。 しょせんは、場合によったら、ぼくでもやりかねないこと を、思い切ってやっただけだ。それを、ぼくは許してやり たい気さえする。 下らない屁理窟を並べてしまったね。 笑ってくれ。 要するに、ぼくは、こういう状態で苦しんでいるのだ。 いちばんいいのは、園江に、ぼくが会うことだ。わずか に一縷の望みを抱いているのは、会ってみたら、案外園江 は犯人でなかったという場合だが、まア、それはあり得な いことであろう。ぼくは園江をつかまえ、彼と一晩語り明 かし、それから彼を警察へ自首させたいと思っている。セ ンチメンタルで空想的だと言われるだろうけれど、そうい う風にすれば、ぼくは少しでも気が休まるのだ。長い手紙 になってしまった。それでも、ぼくは、ぼくの微細な感情 を、そのまま書き現わすことができなかったから、ぼくの 苦しみを十分に理解してもらえなかったかも知れない。 が、推察し感じ取るのは愛の力だ。これだけでぼくのこと 解ってもらいたいと思う。書いてしまったら、ぼくは不思 議に頭の中が明るくなってきた。苦しみを訴えるのは、そ れだけで大きな慰安になるのだね。では、これで失敬。 X × 手紙には、若さのための、思慮の足りなさが見えてい る。が、それはともかく、偶然にも、平川や高橋と同じよ うに、有吉も、園江新六の行方を気にしていることがわか る。ただ、平川や高橋と有吉とでは、園江を探す意味が違 っているのであった。 (つづく)
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人間の価値 時間がきていた。 人間について知りたいことはまだたくさんあるが、たっ た一回の会見ではその全部をつくすわけにはいかず、それ にはまた日を改めて会見をくりかえすほうが得策だったし、 他面には人間観覧希望老が引きもきらずやってきていると いう実情があって、あたしだけが人間を、いつまでも独占 していることはできない。 残念ながらあたしは、そのへんで第一回の会見を打切る よりほかなかったが、そのとき思いついて人間に、 「あなたは、まだ十分に自分のおかれている立場を理解し ていらっしゃらないと思うわ。あなたは冷凍されたってお っしゃった。冷凍から六十七万年たっちゃったの。いまの あなたを包む事情が、まるっきり変ってしまっているのだ から・きっとたいへんにお困りね・困ることは・あみ亡に掬 まかしとけばいいの。ずっとこれから、あたしがパトロン になってあげる。どう、いまどんなことをしてもらいたい か、遠慮せずにおっしゃったら」 というと、彼は前にもいいだした待遇改善問題を強硬に 主張してから、つけ加之て次のようにいった。 「話してみてわかったデろうがおいらはヨ、人問のうちで もとくに上等の部類の人間だぜ。だんだん思いだしたが、 冷凍志願者はうんとこさいた。資格審査の厳密な標準があ ってネ、こいつをパスするのは、人間衛星の適格者になる よりもずっと困難だった。世界的コンクールを何回となく 重ねた上で、おいらが選出されたってものはだ、おいらが すごく優秀だったからだと思いねえ。どこが優秀だったか ってえと、一口にいえば.おいらは健康が十分である上に、 進歩的文化人だったからさ。こんなのは、めったにいねえ ということになった。ところがこの進歩的文化人てのは困 るんだな。特質からして論じなくちゃなるめえが、文化人 てものはだヨ、常住坐臥節度があって上品で理智が発達し ているから批判的精神が旺盛だし、その批判精神では具象 性を軽蔑し抽象性を尊ぶという傾向がある。勇気に乏しい 代りには、腕力による解決を極度に嫌う。美術や音楽につ いての鑑賞力をもつことは最大の誇りで、マドロスパイプ とゴルフが大好きだ。欲がどんなに深くても、欲の深いの をうまくかくす術を知っているし、弱いものには同情し、 強いものには手を出さねえ。いちばん目につく特徴は、ポ ーズを作るということでね。ポーズってのは大切なんだ。 いつも上等のポーズをとっていねえと、他人からすぐに馬 鹿にされる。従ってポーズを作るためのいろいろの要素、 こいつはとくに重視しなくちゃいけねえんだがヨ。見てく れおいらの恰好をヨ。おいらの中味は冷凍で持ちこたえた。 ところがポーズに必要な服装ときたらなっちゃいねえ。冷 凍温度に対しての繊維製品の耐久性ってものを、もっと研 究しておく必要があったんだな。こんなポロを着て世の中 へ出てきたとき、世の中からどんな目で見られるかってこ とを、冷凍学術会の委員どもが、まるっきり考えてくれな かったってわけだ」 たいそうまわりくどい意志表示だったが、つまりこれも 文化人であるせいだろう。彼は服が欲しいといっているの であった。そんなことだったらおやすい御用だ。服はどん なのがいいか、あたしが着ているのと同じのなら、すぐに 持ってこさせるとあたしがいうと、彼は少しはにかんだ表 情で手をふった。 「いけね、いけね。だめだよそいつは」 「あらどうして。この服はレディメイドじゃなくってよ。 一流のデザイナーが腕によりをかけて作ったものだわ。カ ッコいいって、誰でもいうわ。どこが気にいらなくて」 「寸法が合うかどうか心配だよ。そいから、いちばん困る のは、おめえの服の下腹部のところだ。正確にいや、股と 腹との接合点だね。そこんとこ、おめえの股は、スッポラ カンとあいてやがる。そんなのあるかってんだ。そこは、 他人には見えねえようにしておくのが、文化人としてのし きたりじゃねえか」 「へんなしきたりがあったもんね。あたしたちがこの部分 を開放しているのは、そうする必要があり、そうすれば便 利だからよ。身体の各部には、外部へ開放しているのが便 利なところと、開放していなくてもいいところとがあるで しょ。早い話、顔は開放していないと、誰が誰だかわから なくて困るわね」 「そりゃまア、そうだな」 「同時に顔には、眼があり耳があり、鼻も口もついていて、 そういうものをしょっちゅう使うから、服の中へしまって おくと不便だわ。ほかのとことくらべるといいのよ。腹や 胸なんか、内側にあるものだけが消化や呼吸に必要で、外 側を使うってことはほとんどないから、服で包んでしまっ ておくの。背骨の横んとこ、痒いときだけは、服の中にな いほうがいいけど、要するところ、使用の便不便を考えて 服ってものは作るんでしょ。だったら、あたしのような服 がいいのだってことわかるはずよ」 「でもさ、人間の習慣じゃ、首から上と手と、ときには足 だけを服のぞとへ出しとくんだよ。そこんとこはやっぱり どうもね」 「くりかえすけど、首から上と手と足は、使う度数が多い から、出しといたほうが便利なのよ。だったら、腰のとこ ろも同じじゃない。前もうしろも毎日何べんか必らず使う わ。人間は、服へしまったままで使うのかしら」 「ちがうよ。使うときにはサ、服をまくりあげてそとへ出 すか、でなきゃ、指でつまんでひっばり出すかにきまって るじゃねえかヨ。どうもおいらは文化人だから、こういう 話をするのはきまりが悪いや。ま、いい。そこを開放した 服でもがまんすら。しかし、その代りにゃ、せめてフンド シぐれえは作ってくれヨな」 「フンドシって」 「やだな。そんなこと訊くなヨ。説明するだけでも、おい ら、顔が赤くなってもじもじするぜ。フンドシつけねえで、 そこんとこスッポラカンの服着たらばヨ、そいつはまるで 生まれたときのまんまの恰好ってことになっちまわ。文化 人はそういうことしち偽、いけねえ。でえいちおれは、さっ きからおめえのスッポラカンのとこ、眼についてしかたが ねえ。見ねえようにしてえと思っても、視線が命令を拒否 しやがる。しかもだ、ふっくらとした曲線美だ。へんだヨ な。昔から男はその曲線美を見ると、身体の一部が変調を きたして、おさえりゃおさえるほど、変調の度合が高ぶる んだ。こいつは不随意筋といって、始末におえねえ代物さ。 この不随意筋をかくしておくだけのためにも、ぜひともフ ンドシはなくっちゃならねえ。たのんどくぜ。服といっし ょに、忘れずに届けてくんなL よっぽどそれが欲しいらしい。 熱音心をこめての依頼だった。 かわいそうだから、あたしは承諾してやった。そしてこ の天然記念物の檻をはなれた。 久しい問世の中は、変ったことが起らずにきた。それは 春の小川の水面のように、静けさと和らぎの連続だった。 個と個はよく理解し合って他を犯さず、団体と団体は話合 いを続け協調し、闘争や摩擦を起さなかった。あたしたち は満足しながら欠伸ばかりしていたから、人間捕獲のよう な一大異変は、あたしの心をも肉体をも、奇妙な興奮状態 に駆りたてた。帰宅後自家用簡易精神系数測定機にかかっ てみると、コンマ八五という数字を示した。コンマ九〇だ と、医院の治療をうけることが法律できめられている。医 院はあたしは好きではない。すぐに平静さをとりもどそう と思い、水蓮香水のシャワーを浴びていると、もう学会の 諸権威が、彼らが行なった人間観察についての第一次報告 を放送している。 曰く── 「超古代生物人間は、形体上のダイメンションにおいて、 われわれケール族よりはいくらか大きいように見える。屈 伸自在な関節づきの足を二本、手を二本もっていて、頭部 から尾部に達するまでの脊椎骨を有することも、ほぼわれ われと同様である。このほか透視解剖によってみれば、首 下位から腰までの内部に、肺や胃袋や腹などをもっている 点も、大体われわれに似ているようで、一見したところで は、わりに高級な生物といえぬでもないが、とくに注目す べき二つの大きな差違があることは、ことわっておかねば ならぬであろう。その一つは彼の手や足、また腹部胸部な どの皮膚に、直接われわれの手をふれてみること、彼のほ うからわれわれのほうへ、ある量の熱が伝わってくること である。トリイ族やコオモリイ族にも、これと同じ現象が あり、それは体内を流れる血液が温いせいであるとされて いる。されば人間は、肉体的進化の段階においては、辛う じてトリイ族やコオモリイ族の段階に達しているだけで、 われわれケール族よりは、はるかに下位にあるものと断定 することができる。 然り而して、次の二つめの大きな差違は、この生物の手 と足とに現われているものであるが、彼の手や足の指は、 それぞれ長短五本ずつあって、みな基部から孤立して生え ているのである。すなわち指と指との間隙をふさぎつなぐ 皮膜をまったく欠除している。この皮膜は学術的に指間開 閉連絡筋と呼ばれるものだが、世間的俗称に従い、水かき といってもよいだろう。つまり人間は、水かきがないので あるから、水中を歩行する動作が不可能であるにちがいな い。他面には空気中から酸素を摂取するための肺も、どう やら陸上においてだけは使用のできる構造を有し、水中で はまったく用をなさないものであるらしい。ケール族が水 陸どちらでも、好むところに応じて生活できるのに対し、 かくの如くして人間が陸上にのみ生活を限られることは、 なんたる不便なことであろうか。なおまた人間の血液が温 かく、また水中生活が不可能である点では、彼とトリイ族 並びにコオモリイ族のいちじるしき相似点とすることがで きるけれども、トリイ族とコオモリイ族は翼を有し、空中 を自在に歩くことができるのであるから、人間は地面に密 着して生活する以外に道はなく、従って人間は、トリイ族 やコオモリイ族よりも進化の遅れた低位価値の生物なので ある」 曰く── 「人間の皮膚は砂の表面のように乾燥している.。さわると ザラザラして甚だしい不快感がある。ケール族は、肌から 常に粘液クリームを分泌しているし、ことに最近は薬学界 の進歩発達に基き、粘液の色調を自由に変化せしめ、また 好むがままの芳香を発散しつつ、適度の潤滑性を保有せし むることが可能になっているが、人間にはまったくそれが 不可能であるから、定めし精神的にも不愉快であろうと思 われる。もっとも彼の皮膚は、粘液を分泌しない代りに、 たくさんの触角を生やさせるという機能をもっている。触 角は、長かったり短かかったり、また細かったり太か(、た りする。発生する部位により、密生して群落となり、ある いはひどくまばらで、あるかないかわからないところもあ る。この触角は、トリイ族及びコオモリイ族のもつ羽毛と 同じものだといえぬでもないが、かすかにこれに触れてみ れば、触角としての働らきが鋭敏なのだと見てよい。但し 試みに、その触角をつまんでひっぱると、人間はアイテテ テと叫んだ。それは喜こびの声のようであった。彼はそれ を好むのであろう。人問をもし愛撫するのであったら、触 角を引っばってやればよいということになる。不思議なの は、彼の下腹部から足が二本生えている。その足の生え根 のところにある触角は、他の部分のものとちがい、モジャ モジャとちぢれ曲り、かたまっていることである。そこを 調べるとき人間は、いささかはげしい拒否の動作を示した. いくどもくりかえし、バカナコトスルナ、コッバズカシイ と叫んだ。おそらくここの部分の触角は彼にとってとくに 大切なものだろう。叫んだ言葉言葉の意味は、古典学者の 解説を待たねばわからない」 曰く── 「人間が猛毒を出すという説が流布されたが、どうやらそ れは誤まった認識であるらしいとわかった。口の中を調べ るため、長い金属の挺了、釘抜き及びピンセットを用いて 彼の口中にある舌を引きだそうとすると、彼はもっともは げしい拒否の態度を示し、怒って口中から唾液を分泌し、 われわれの顔へ吐きかけてきた。毒であってはたいへんだ から、被害者には即刻消毒の手続きをとるとともに、唾液 を分析したけれども、完全に毒性のないことが判明したの で、われわれは大いに安心したような次第である。ついに 舌を引き出したとき、眼からもポロポロと水がこぼれた。 しかしこの水にも、分析の結果では毒性のないことが判明 した」 更に曰く── 「すべてにおいて進化のおくれた人間であるが、われわれ ケール族やトリイ族にはできなくて、人間だけにできるた った一つのことがあった。それは人間は、腹と背中のどち らを上にしてでも寝られるということである。もっとも、 それができたからといって、すなわち腹を上へ向けて寝ら れたからといって、とくに生活や智能の働らきの上で役立 つということはないはずだから、そのこと自身いかなる意 義をも有するのではないが、そのようにして腹を上にして 寝長まった姿を眺めているとき、まことに不可解な発見が あった。腹部の中心には、不等辺不規則な星型をした小さ な突起がついている。その形状はなお精細に観察すれば、 紐を結び合せ、その結びめを鋏で断ち切ったという恰好を していて、断ちきった切口には、黒灰色の脂染みた固まり が埋めこんであったからこの物質はなんであろうか、また いかなる作用をするものであるか、生理化学研究所へ送っ て調査することになった。ちなみに、人間観察にあたって は、傍らに録音機をすえつけて、人間の発する叫びを録音 することにした。押しよせる見物の大群衆に災いされて、 録音は十分に成功せず、一部分しか収録できなかったが、 上述の腹部中央にある、紐の切口に似た器官を調べるとき、 人間の叫びはわれわれの耳へ『ヨセヤイヘソナンカイジリ ヤガッテカンニンシテクレヘソバヨセヨセッテバヨセヘソ ガクスグッテエタマラネエナソコハヘソダッテバヨ』とい っているように聞えた。残念なことに、この叫び声の意味 はまだまったくわからない」 部分的に異論はあるけれど、これらの報告は、大体があ たしの観察に一致している。 人間があたしたちよりも、いやトリイ族やコオモリイ族 よりも、一段と進化のおくれた生物であったと断定したの はさすがである。なにしろ六十七万年前の生物だから、そ れは当然のことだろう。人間自身は、彼を万物の霊長だと 称して威張っていた。でもそれは、うぬぼれに過ぎない。 彼らが地球を主宰した時代にあっても、ほんとうは彼らよ り優れた他生物がいて、その優れた生物が、ただ表面に顔 を出すだけの勢力がなかった、ということもあり得る。進 化の不足な人間だったればこそ、そのような真理を発見で きず、我一個のうぬぼれのうちに生きていた。うぬぼれは、 あるとき身を滅ぼす原因にもなるが、また救いでないこと もない。人間にとっては救いだったかもしれない。うぬぼ れて満足していた。そして六十七万年たったいま、そのう ぬぼれが間違いだったことを、あたしたちに指摘されたわ けである。 報告のうちで、とくにしかしあたしの注意を強くひきつ けたのは、最後の報告中の腹部に発見した奇妙な器官につ いてであった。 ありていをいえばあたしは、人間との会見中、彼の腹部 の中心にではなく、それより少し下部の、いわゆるちぢれ た触角の群落の中のひとつの器官のほうハ、、より多くの興 味と関心とを持ちつづけ、鋏で断ち切った紐の結び目のよ うなものについては、そんなものがあるということすら気 にしなかった。 いまやその器官は、大きな謎として学界に提出された。 あたしも研究すべきであろう。 幸いにしてあたしには、人間の言葉がほかの誰よりもよ くわかる。録音された言葉を調べた。そして理解すること ができた。 人間はそこをいじられることを嫌ったのである。いじら れたらそこは、くすぐったくなるのである。そこは「ヘ ソ」という器官であって、平素はあまりいじることのない ものであるらしい。あたしたちは、おなかがぽってりふく らみすべすべしていて、そのような器官をもたないから、 へそについての智識はまったくないが、人問にとっては、 おそらく重要な器官であるだろう。肺や心臓や胃袋と同じ に、それがなかったら生きていられない、というものにち がいない。これは大きな特徴である。あたしは、ヘソのこ とを深く知らねばならぬと決心した。 地軸異変 かなり長いうち、あたしは陸上に棲みつづけた。 山の中腹にある私の家は、壁材料に不燃性固体窒素を使 ったから、どこの部屋からも花に蔽われた広野原や水草の 浮いた沼沢が見えたし、そのような美しい景色がなかった にしても、陸の生活そのものに、なかなか捨て難いものが ある。 空気がふんだんで、水中よりはさすがに肺の疲労が少な い。降雨日以外は日光がまんべんなくふりそそぎ、ときに はやや強烈すぎて、肌が乾燥しかけることもあるが、ホル モンクリームの備えがあれば平気だし、すずらんの大樹、 かきつばたの森、そこをすかしてくる朝の金色の光や、夕 方の靄とともにたゆたう茜色の光などは、溶かした縞瑪瑙 のように美しい。加うるに明るいときはトリイ族が、光線 が薄れてきたときはケール族の歌手たちが、絶えず演奏会 を開催しているというわけだが、困ったことに陸上は、空 前に飛び交う衛星の数が多すぎる。衛星は形状大小さまざ まだが、どうやらこの太陽系中で天然にできたものでなく、 ずっとずっと大昔、つまり人間が棲息していた頃に、地上 で作って宇宙へうち上げたものらしいとされている。必要 があうてそうしたのもあるだろうけれど、必要はなくて、 ただ多くうち上げることが、他に対しての優越感を満足さ せたのもあるらしい。それとも地球のほかに衛星のつなが りで作った団地をもち、そこへ移住しようという目的があ ったのか、その点は諸説紛々としていてまだ決定されてい ないけれども、とにかく衛星は無数にあり、しかも接近す ると、これも古代原始生物が作って、いまは博物館に陳列 してあるリベッチングマシーンというものの発するような、 鋭い悲鳴をあげるから、それを耳にしたが最後、思想の統 一は乱れてしまう。あたしは人間を見ただけでなく会話ま で試みた。結果として人間の言葉についてだけでなく、人 間そのものへの探究意欲がわいてきた。大して利益のある ことではないにきまっている。利益がなくてもいいだろう。 あとでわかったが人間は、利益がないどころか害のあるも のを、いっしょうけんめい研究した。その意味において人 間の探究は、ある程度意義のあることだともいえるだろう。 あたしは、直ちにそのための思索にはいろうとしたけれど、 前述のような状態だから、陸上はそれに適合しない。 あたしは、思索のためのよい場所として、水底に用意し てある別荘へ行くことにした。そこならば、おちついて本 も読めるし、十分に眠って休養をとり、さて好むがまま哲 学的瞑想にも耽ることができるのである。 珊瑚の丘の昆布林にある別荘まで、あたしはゆっくり歩 いて行くのも楽しみだと思ったけれど、それはもっとひま のある時のことにして、例により水中車を利用したが、途 中ではいくどか腹が立った。陸の道路に較べて海底道路は まるでなっていない。いたるところ削りとったり掘り返し たりの工事中だった。そこをでっかいダンプカーが、規則 におかまいなしの猛スピードで走る。事故を起して死亡す るのだったら文句はないが、死なずに怪我だけするのだっ たらやりきれない。なぜ道路の整備をしないのか、これは 政府当局者の怠慢であろう。ゆられてひやひやして、やっ とこさ別荘へ着いたと思ったら、そこでもまた腹が立った。 別荘の留守中を、あたしは学生アルバイトの青助に管理 させてある。 ところが青助は、あたしのベッドを占領し、さも気持よ さそうに、いびきをかいて寝ているのであった。 青助はまだほんの少年で、尻尾がとれてからまだいくら もたたない。顔の斑点がうるしのような黒さで、それに鮮 明な赤のふちどりがしてあるから、容貌からいうとハンサ ムなほうである。寝顔も、あどけなさのうちに、思春期に 特有な血の色が浮き出ていて、そっと頬ずりをしてやり.た いほどに可愛いいが、だからといってうっかりできない。 この子は元来不良少年だった。少年少女の非行がこのごろ 問題になっている。どうしてそんなことになったかという と、学校が悪いからだというのが、いまのところ定説にな っている。ほんとは学校が悪いわけでなく、どの子も好き な学校へ行って勉強できるし、教育のための設備は十分に してあるのだけれど、困ったことには学校がたくさん有り すぎた。だから生徒の数が足りなくて、学級の編成ができ ないところもある。学校では、だから卒業試験をたいそう 厳密にした。場合によっては寝食を忘れるほどの勉強をし ないと、卒業試験を通過できない。卒業難というものが起 った。落第生が多くなった。学校としては、落第生が多い と、生徒の数が減らないから、学級の編成も容易なわけだ が、これは生徒を自暴自棄にさせる。いきおい彼らは非行 に走るというわけだそうだ。 もっとも、あたしの見るところだと、少年少女の不良化 は、学校そのものではなくて、学制に間違ったところがあ るせいだという気がしないでもない。というのはいまの学 制は、多段式学制である。第一段学校に対しては、卒業期 の学術試験と同時に、素質検定所の検査があり、この検査 に合格すれば文句なしもうそれ以後は学校へ行かなくても すむが、学術試験を通っても、素質検定が合格しないと、 次の第二段第三段学校へ入らなくてはならない。つまり第 一段学校だけで勉強が終れば、それは優秀だということの 証明になるが、そのあとも学校へ行かなくてはならぬとあ れば、当人にとっては不名誉なことで、根性も卑屈になる だろうし、自分で自分を軽蔑し粗末に扱かい、やがては不 良の徒に化すということになる。だから、学校は第一段学 校だけですむように、学制を改革しなければ、少年少女の 非行はおさまらないのではあるまいか。卒業期の学術試験 をやっとこさ乗り越えたと思ったとたんに、なおまた別の 学校へはいらなくちゃならないという、子どもの苦悶を思 いやる必要がある。入学や卒業は、いっぺんだけすれば結 構だ。二度も三度もそれを繰り返させるという学制に欠陥 がある。 青助は、素質検定ではねられた子だった。可哀そうだと 思ったから、あたしはこの子の将来を引き受け、手もとに おいてその成長を見守ってやることにした。しかし、あた しがこんなにも親切にしてやるのに、主人のベッドへもぐ りこんでいるなんてのは、許せないo 「起きなさいよ、坊や」 とあたしは青助の惚れぼれするような頬ぺたへ、力をこ めて往復ビンタを見舞ってやった。 「あれっ、いけね」 彼はさすがに眠りからさめたが、その眼のあどけなさ美 しさ、あたしはキスしてやりたくなったが我慢した。 「ども、すみません。ぼくちん、よく働らいたんですよ。 庭から天井裏から、きれいに掃除したんですけれど、淋し くてたまらなかったものですから」 「へんね。淋しいからって、主人のべッドへはいりこむっ ていう法はないわ」 「ええ、それが、理解してください。ベッドで移り香をか いでいれば、せめてものそれが慰さめになるってことがわ かったんです。実際のところ、すごくいい気持ですね。ζ のような快適さを、なぜいままで知らずにいたか、後悔し たいくらいです。気が静まり眠たくなって、夢の中でぼく. は、しっかりとあなたを抱きしめていました」 どうも、とんでもないことをいう。 これだから青助は非行少年だといわれるのだ。尻尾がと れたばかりで、自分のことをぼくちんなんていってるくせ に、とあたしは思ったが、叱声はとりあえずあとのことに しておき、あたしが地上からこの水底へやってきたのは、 思索する必要があってのことだから、この際このとき、そ のような不逞なことをいって、あたしを悩ませてはいけな いのだと、やさしくいいきかせた。 「わかるね、坊やはいい子になったんだもの」 「よしてくださいよ。ぼくは、なったんじゃなくて、昔か らいい子だったんですよ。ー1その思索するってのは、ど ういうことをするんですか」 おだてられたから青助は、すっかり真面目な顔つきにな った。 「ええ、それわね。脳髄に命令を与えて、非具象的にいろ んな事がらを、配列したり分解したり整理するのよ。その 結果は新しい理論や発見が生まれてくるわ。あたしは、六 十七万年も昔の古いことを知らなくちゃならないの。坊や は女を追いまわすことを、何よりも先に覚えてしまった代 りには、学問的智能指数ときたらゼロでしょ。古いこと、 なんにも知らないんじゃない」 「いやだな。バカにしないでください。ぼくだってこれで も卒業試験を、半分はパスしたんですから」 「そうだったかしら。じゃ、試しにクイズを答えてちょう だい。いまの地球は、あたしたちケール族と、空をとぶト リイ族それからコオモリイ族との世界だけど、ずっとずっ と昔の大昔、地球上にはもっとべつの生物が繁栄していた んだってことを知っている?」 「進化論以前の問題ですね。わけないや。それは人間のこ とでしょう。人間という下等生物がいたんだってこと、学 校でちゃんと習いました」 「いいわ。そこまでは御名答よ。では次に人間について知 ってることをいってごらんなさい」 「ええと、そうだな。ぼくは人間が、ぼくらの祖先である 蛙に対して、まことに残虐な行為をしたってことを知って います。生きている蛙をつかまえて、その眼玉へ火をつけ て、蛙の眼玉に灸すえて、これでも飛べるか飛んでみろ、 という詩を作りました。それから、蛙をはりつけにし、電 気を通すという実験をやったでしょう。古い池に蛙がとび こんだ、べつに大したことじゃないはずだが、そのことを 人間どもは、ひどく神秘で幽玄で古今にわたる大発見だと 考えました。つまり人間は残虐なだけでなく、バカでもあ ったわけでしょう。ほかにぼくは、ニッポン遺跡のこと、 本で読みました」 「感心ね。よくそこまで知ってるわ。ニッポン遺跡のこと、 説明してごらんなさい」 「ニッポン遺跡は、いまの地球の氷結帯の下で、カチカチ に凍結しているんでしょう。そのニッポンというのは、人 間がふえてウジャウジャいて、土地が狭かったのにふえす ぎたから、しまいには人間が海へこぼれおちたし、それで もまだ人間がふえたため、しまいには土地が人間の重さに こらえきれず、地盤沈下という現象を起して、ニッポンが 海の底へ沈んでしまったのじゃないですか」 「残念でした。少しお答えが怪しくなってきちゃったわ。 人間が海へこぼれおちたというのは、伝説的生物学界発行 の論文集にも出ていた話だけれど、それは誤りだという学 界の反論があって、人間絶滅の原因については、まだはっ きりした論拠がつかめないでいるのよ。)但し、人間絶滅の 問題とは切りはなして、ニッポン遺跡凍結については、も うはっきりした解答が与えられているの。それはね、地球 回転軸の変化によって、そういう現象が起ったのよL ここが青助の智能指数が低いところである℃彼は当惑し てあたしの眼をのぞいた。そして地球回転軸の変化とはい かなることかと尋ねたので、あたしは厄介なことを言いだ したと、心のうちで後悔しつつ、あらましの説明をしてや らねばならなくなった○ 「坊やは、地球と太陽との相関的運行の法則を知ってるで しょ」 門ええ、それは学校の天文学で、いのいちばんに教わりま した。地球は太陽を中心に大きく公転しながら、自分もた えず自転しています。そうしてその自転では、地球に一本 の軸があって、軸の一端はいつでも太陽へまっすぐに向き、 従って反対の一端は、いつも太陽には照らされず、太陽か らいちばん遠いところにあります。学校の先生の説明だと、 ちょうどそれはコマの頭がいつも太陽の方へ向いていて、 心棒の根っこが、太陽と反対の地べたへくっついたまま、 ぐるぐる太陽を廻っていると同じだということでした。こ れはつまりコマの頭がいつも熱く、心棒の根っこは冷えて いるということです。自転の軸がそんな工合になっている ものだから、太陽に向いた地球の半面は、年がら年中太陽 に照らされっぱなしだし、他の半面は、いつまでたっても 太陽には背を向けているんです」 「よろしいわ。大体はそれで正しい智識ね。ところが六十 七万年もの昔になると、地球の自転は、いまとずいぶん変 っていたのよ。正確にいうと、その当時の地球の軸は、南 極から北極へ通っていたのね。そうして軸は、太陽への公 転軌道面に対し、六六・五度という傾斜角を持っていたの よ。そういう傾斜があるから、地軸の太陽に対する動き方 は、ミソスリ運動とも称ばれていたわ。しかるに、よくっ て、ここんとこむつかしいから、しっかり聞いていなくち 釦、だめ。地軸、つまりあなたの学校の先生がいったコマの 心棒は、いまから六十七ガ年もの昔、動き方を変えちゃっ たの。誰がどんな風にして変えたのかは別問題よ。結果的 にいうと、地軸の軌道面に対する傾斜角が、ゼロになっち やったのよ」 「たいへんだ。そんなことしたらコマの心棒が地べたへ倒 れて、廻らなくなってしまう」 「違うわ。コマじゃなくて地球よ。地球は宇宙の中で空気 に包まれて廻るのだから、そうなってもちゃんと廻ること は廻るの。ところが古代は、地軸と公転軌道面との間に、 一定の傾斜角があったものだから、自転に応じて、太陽に 向いている地球半面は、明るくて暖かくて昼になり、その 反対の半面が、暗くて冷めたい夜だった代りには、いつか またぐるりと廻って、昼だった部分が夜になるし、夜だっ た部分が昼になるという仕組にできていたのよ.、けど、い まいったように、軸の傾斜に大変動があり、軸が公転面へ 寝てしまった場合を考えてごらんなさい。そうなっても、 地球は太陽を公転するの。そうして太陽に向いたきりの一 端を持つ半面、つまリコマの頭の方よ、そっちは年から年 中昼ばかりが続くし、裏がわの半面、つまりコマの根(.こ ね、こっちはしょっちゅう夜だということになるはずでし ょ。わかる、この理屈はP」 「わ、わかります」 「へんな顔してるじゃないの。まるで顔へ水をぶっかけら れたみたい。でも、いいわよ。ともかくそんな工合で、太 陽に照らされ続けの半面は、とくにその中心部が、太陽熱 の集中で焦熱地獄の砂漠になっちゃったし、裏側の暗い部 分の中心、コマでいえば心棒の根っこのところね、ここは 何十万年ものうち日光が届かないから、寒くて凍りついて、 零下何十度という極寒地帯になってるわ。ニッポンという ところは、幸か不幸か、その根っこに近いところだったの.. だから、海へ沈んだのじゃなくて、厚い氷の層の下へ閉じ こめられてしまったというわけ。土地も建物も、そしてそ のときもまだ人間がいたから、もちろん人間もいっしょに なって、冷凍ニッポンができちゃったのよ」 「おもしろいですね。まるでお伽話みたいだ。ぼくらの住 んでいるこの明暗環状地帯以外に、生物が住んでいたとこ ろがあるなんて、夢にも考えたことはないんですよ。ニッ ポン以外には、同じようなところはもうありませんか」 「ないことはないわ。あたしがずっと子どもだった頃に、 学者が行って砂漠を調査していたら、ボーリングでへんな もの見つけたのよ。それはね、棒の先にいく本かの骨がつ いていて、骨と骨との問には膜があり、骨をひろげると膜 がぱっとひらく仕掛になっているの。早い話、あたしたち が手の指をひろげたようでもあるし、トリイ族やコオモリ イ族が翼をひろげたようにも見える。学者たちが論争した わ。きっとそれは超古代のコオモリイ族の化石だろうとい う説と、いや、ケール族祖先の化石だろうという説と、長 いうち論争したけれど、結局のところそれは、古代生物人 間が使用したアマガサハ、ていうものだとわかったのよ。ア マガサは、雨が降るときに人間が使ったものだそうだわ。 人間て不便だったのよ。雨にぬれると死んじゃったのでし ょうね。だから雨をよけるためのアマガサを使ったんだけ れど、それが出てきたから砂漠の調査隊は、なお熱心にボ ーリングを続け、そのあげく、砂漠に埋もれた下の方に、 ロンドンというところがあるのだとわかったわ。ロンドン もやっぱり人間の住んでいたところでしょうね。それから ロンドンのほかでは、もっともっと熱い砂漠で、ニューヨ ークってのも、あったらしいという推定がついているの よ」 「どうしてそういう推定がついたんですか」 「こっちは、砂漠で水が欲しくなって、砂漠を掘っている うちに、まるい形のドルという金属を見つけたのよ。きっ と何かのバッジでしょ。材質がいまいちばん多量に存在す る黄金と同じものだから、あんまり値打ちはないけれど、 考古学的には貴重な出土品だわ。ドルについて調べたら、 どうやらその下には、ニューヨークってとこが埋没してい るらしいってわかったのよ」 「じゃ、そういうとこ、どんどん発掘したら、まだとても いろんな出土品があるでしょうね。ぼくは考古学ってもの、 きっとおもしろいだろうって思っています。そういうとこ ろへ行って発掘隊の一員になって、モリモリ出土品を掘り だしたいなL 「いいこといったわね。いままで坊やのいったことのうち では、それがいちばんりっぱな言葉だわ。まかしとき、あ たしが心得ている。そのうちに、ニッポン遺跡、ロンドン やニューヨークの遺跡、みんな発掘されるでしょう。その ときに、あたしが坊やを発掘隊員の一人として推薦してあ げるわよ」 若い青助の瞳のうちには、将来に対する明るい希望が燃 えてきた。 不良少年でも、これから何をやるかという目的を与えて やりさえすれば、がらり変ったいい子になるということが、 これでりっぱに立証できるだろう。 あたしは、なお彼に、地球や太陽や、古代生物の話をし てやるつもりだったが、そのときあたしの腕飾りにつけて いるマイクロ・ラジオは、世界連邦議会における生命大臣 の演説を放送しはじめた。 卵生の倖せ 生命大臣は閣僚中唯一の男性大臣だった。 男性にしては珍らしく虚飾家でなく饒舌でなく泣虫でも なく、識見豊かで実行力に富み、声が美しくないとか、容 貌がオカチメンコであるとか、女性への意慾が薄弱である とか、多少は個人差的欠陥があるにしても、ほかでは信頼 のおける政治業者である。その汚ない声でがなり立てた演 説は、議会における予算審議の席上、来年度産児並びに死 亡者数推定に関するものであった。 「従いまして、来年度死亡志願者につきましては、近来に 稀なる願書提出はありましたものの、該当資格不十分なる ものも相当多数に見込まれましたので、死亡許可制審議会 の答申と睨み合せ、政府はこれを三百五十万までに絞るこ とができました。ほかに近年の嘆かわしき風潮といたしま して、無許可死亡、またはモグリ死亡など、年毎に増加し ている傾向にはござりまするが、これは官民協力ひたすら 根絶を期する次第でござりますので、来年度は羨むべき自 然死数を、成長率七パーセントに応じて計算し、九百二十 一万とおさえまして、死亡総数千二百七十一万といたしま すことは、せいぜいのところ誤差ニパーセント内外のもの かと存ぜられるのでござります。しかり而して、これに対 応しての新生児孵化は、前述の数字に従いまして、これを 千二百七十一万と計上することも、皆様におかれまして十 分御諒承いただけるものと存ずるのでござります。つきま しては本案件施行にあたり、優良卵千二百七十一万個を、 直ちに確保せねばならぬのでありますが、政府保管のもと にある在庫卵五十七億個のうち、従来採用されてきました 透視法、すなわち日光に透かしつつ振って見て、なお音を 確かめるという方法以外に、新しく登場いたしました優性 鑑別光線分析法により、もっとも厳密なる検査をとり行な いましたるところ、孵化適格卵は僅かに二百七十八万個し かないという、悲しむべき結果に到達したような事情にご ざります。まことに厖大な数の産出卵に対しまして、いか なればかくも僅少なる適格卵しか得られなかったか、原因 はいろいろとあることでござりましょうし、それには体育 性育の面と合せて、倫理徳育の面につきましても、関係当 局今後の御検討に深く期待するものがありますが、生命省 独自の立場と責任におきましては、目下のところそういう 問題を究明するの余裕が全くござりません。この点諸派政 党並びに一般識老各位の御賢察と御宥恕を懇願するよりほ かござりませんが、とりあえず政府といたしましては、差 引き不足分九百九十三万個の適格卵を、大至急獲得いたさ ねばならぬのでござります。いかにして九百九十三万個の 適格卵を補給するか、申すまでもなくそれは、一般男女皆 様よりの御供出に仰がねばなりませんので、政府の苦衷の 存するところ、これをよく御諒察くださいまして、十分な る御協力を賜わりたく、優良卵産出に誠心誠意従事いたさ るるよう、-お願い申上ぐる次第にござります。なおつけ加 えて申しますなれば、近年学校施設充足の結果、卒業難時 代を招来しておりまするが、ここに提出いたしました予算 においては、その点も十分吟味してあるつもりでございま して、近き将来に卒業難など完全に絶滅するであろうこと は、第二種類公約、すなわち間違いなく実行される公約と して、本大臣ほはっきり宣言いたしておきます。本論に立 ちかえりまして、もとよりして御供出の優良卵につきまし ては、新旧の別は問わないのが立て前になっておりますか ら、家庭に御保有の古いものでも一向にかまいませぬし、 価格の点におきましても、昔のように、それぞれ目方をは かって代金を支払うようなことは、絶対いたしません。卵 価公正取引委員会も立会いの上、審議会法定の価格を堅持 するとともに、慎重なる試験を行ないまして、適格卵は直 ちにこれを孵化公社に送附する段取りとなるのでござりま すが、これらのうちとくに優秀と認めらるる卵につきまし ては、該優秀卵御供出の御両親二十組に限り、任意希望死 去を許可するという、特別扱かいの法律案件が、すでに本 議会において通過しているのでござります。どうか皆さん、 ふるって優良卵を産出なされますように……」 べつにこれは、珍らしいというほどの演説ではない。 毎年度末の通常議会で、一般会計予算案の審議と前後し て、必らず生命大臣が発表するものだったし、成長率が少 少上廻っている傾向はあるにしても、優良卵千二百七十一 万個という数字は、そうおどろくには当らないものだろうQ ただ、政府からの放出分二百七十八万個に対し、民間割 当供出が九百九十三万個だという比率が、たいしたいざこ ざもなしにこの決定に漕ぎつけたのは、生命大臣のお手柄 といってもよいことであって、あとは要するに、ほんとう に値打ちのあるよい卵を公正に選びだすだけの話になる。 それには透視法その他新しい検査の方式がどうであるか、 というようなことよりも、審査委員会の構成が問題になる だろう。もうそれはめったにないことだとはされているが、 かつて審査員の汚職があった。不良卵を蓄積していた母親 がいた。彼女は審査員に贈賄し、自分の不良卵を孵化させ ることに成功した。生まれた赤ん坊は、まだ尻尾もとれな いうちから、男の子を追いまわす、火つけをやる、悪質な 冬眠薬遊びをやる、バクチにケンカにヒキニゲというわけ で、しまいにはナンデモカンデモ反対同盟というテロリス トの頭目になり、手もつけられない女に成長した。あんな ことがあったのは、審査員としての不適格者が任命された からのことで、まさか今度はそのような失態もないのであ ろう。 青助も生命大臣の演説には、耳を傾むけていたらしい。 彼はため息をついたo 「わりといまの演説はうまかったですね。タレントとして、 じきに売りだすんじゃないかな」 「なまいきいって。もう売りだしているわよ。あたしはあ のハスキーな声が好きよ。評判とちがって案外ミリキがあ るじゃない」 「ミリキだなんて、へんなところに感心するんだなあ。ぼ くちんはですよ。演説聞いていて、つくづくぼくたちはよ かったと思った」 「そうお。何がよ」 「ぼくたちだけじゃない、この点ではトリイ族も同じだけ ど、ぼくたちの子どもは、卵になって生まれます。これは 実にすばらしいことじゃありませんか。卵でなくて、生ま れたとたんに、親と同じ形になっているっていうのは、 たしか胎生っていうんでしたね。コオモリイ族がそうだっ たのじゃないですか。胎生だったらば、ぼくたちはおっそ うしく不便なことになっていたろうと思います。胎生じゃ、 生まれたがさいご、すみ、に親が赤ん坊を育ててやらなくち 偽、ならない。親でなくて政府かなんかがやるにしても、生 まれたてのやつはほっといたら、死んでしまうんですから ね。そしてですよ、卵でないと、優良かどうか鑑別する方 法はないんだから、いい赤ん坊であろうが悪い赤ん坊であ ろうが、同じように育てるんでしょう。結果としてはいま のぼくたちみたいに、渚の世の中を、いい赤ん坊だけにす るってことが不可能になります。良不良善悪優劣こちゃま ぜだ。誰を信用していいかわからない。お互いを疑が(、て かかる。だったらいつもいつも不安だし、とってもとって も淋しいんじゃないですか。誰にでも自分の内側を見せて しまったら、どんなやつがどんなことを企てるかわからな いから、自分はいつも自分の内側に、そっともぐりこんで、 孤独でいるほかはないでしょう。それに較べたら、ぼくた ちの世の中は恵まれていますよ。質の悪い卵だったら、処 置としては簡単に、孵化させずにおけばすむことです。ま た場合によりよい卵でも、育成の準備がととのわないとい うようなことだったら、なにもすぐに孵化させる必要はな い。そういうのは、生んだあと保存しといて、さて適当な ときに孵化して、赤ん坊を作ればいいんですからね」 青助を幼稚だとばかりは侮れない。あたしにしても、彼 のこの感想にはまったく同調できた。 卵生を胎生にくらべたら、よい赤ん坊と悪い赤ん坊との 問題以外に、まだたくさんの利点があるだろう。いま地球 上に棲息する生物としては、三つの大種族が目立っている。 すなわちケール族とトリイ族、そうしてコウモリイ族だが、 このうちケール族とトリイ族は、甚だ高度の文化をもつの に対し、コオモリイ族はひどく知能指数が低くて野蛮らし い。そうしてそのような差違が生じた根本原因は、卵生と 胎生との差違にあるとしてよいのではないか。 ともに種族を増殖し繁栄させるための手段であることは いうまでもない。 しかし胎生が、いかにして文化の発達を阻害するか、そ の点については学術的にも芸術的にも、たくさんの興味あ る研究があり発表がある。と同時に、もっと簡単に考えて みても、卵生ははるかに胎生よりすぐれているのである。 たとえば赤ん坊を胎生するという仕事は、コウモリイ族 の風習についてみればよくわかる。赤ん坊を生む前に医師 に相談したり湯を沸かしたり、お祈りをし祝い品を持ちよ り、まことに煩雑な準備と処置を要するものだが、産卵に あっては、精神的にも物質的にも肉体的にも、それは母親 の努力をほとんど必要とせぬものであり、まして釦、医師そ の他の諸儀式を用いずして、極めて自然に完遂される仕事 である。 もとよりして、直接の当事者たる母親が、産卵に際して 苦痛を伴うようなことは全然ない。それどころか、生みお とすときの快感は、どんな言葉をもって表現したらよいの であろうか。下品な小説家がいったことがある。それは長 いうち秘結したあとで気持のいいお通じがあったのと同じ だと。言い得て妙ではあるけれども、ただそれだけの表現 では物足りなくもある。卵があたしたちの体内にある卵道 をくぐりぬけてくるときは、適度の潤滑度があり適当の抵 抗があり、感覚のすべてはそこに集中されるから、頭脳の 方は一種の麻痺状態で、体内のあらゆる骨め、筋肉が、うっ とりとろけてしまうようである。もしそれ並外れて偉大な 卵を生むとき、またはいささか畸形ではあるけれども、中 央にくびれのある卵を生むときなどには、快感度が二倍に も三倍にも増大するから、卵が単に生みだされるだけでな く、もういっぺんでもニへんでも、いや数限りなく卵道を、 出てははいり、はいっては出て、つまり往復運動をしてく れればいいということを願わぬものはなく、産婦はしばし ば快感の極致の死を連想し、死ぬ死ぬと叫ぶほどのもので ある。 加うるに産卵後の処置も、胎生で赤ん坊を牛んだあとに くらべたら、話にならぬほど単純である。 生んだあとすぐに、何かのパーティのお呼ばれがあると か、または旅行などに出かけるにしても、生みおとした卵 を気にすることはないだろう。生んだ直後、アルコールを 浸した綿球でぬぐい、または市販の洗剤でもよい、その微 温湯に浸してさっと消毒した方がよいということになって いるが、いまではバイキン附着の恐れがほとんどなくなっ ているから、それはもう気がすむすまぬの問題でもある。 卵は、箱や戸棚やひき出しの奥へ、番号だけを記入して、 しまっておけばよいことになる。胎生だったら、とてもそ う簡単には行けそうもない。生むとすぐに乳首をくわえさ せ、寒さを防ぎ湿気をよせつけず、母親がそばを離れるこ とができなくなる。それに、卵を生んでも、子どもは欲し くないという場合だってあるだろう。それには卵生が絶対 有利だ。子どもが欲しくなるときまで、あたしたちは卵の 形で保存しておける。政府の供出要請でも新旧を問わずと いっている。おとして壊さない限り、卵はじっとして孵化 されるときを待っているのだ。 「あたし、なんだか気持がへんになってきたわ。顔へ血が のぼるみたいL とあたしがいうと青助は、 「そりゃいけない。病院へ行きますか」 といった。 「バカね。そういう感度の鈍い男は、あたしだいきらい。 いまの大臣の演説で、あたしが卵を生みたくなってるって ことわからないの。いいわよ、ほっといて」 あたしはいらいらしてきたが、そのときに思いだした。 地球軸のことだの卵のことだの、そんなことは問題ではな い。あたしは六十七万年前の生物人間について、研究を開 始するつもりだった。人間に関しては、いま話題にした卵 生か胎生かの問題もまたわかっていない。ほかに、無数の 未解決な謎が残されているではないか。 「ああ、そうだったわ青助君。あなたは人間のおなかのま ん中にあるヘソってもののこと知っている」 「え、ヘソですか。いえ、知りませんね。聞いたこともな いですよ。学校の教科書にも出ていなかったし」 聞いてみたこっちがどうかしている。 青助は、さもさも当惑した顔だった。 やはりそれは、自分で調べねばならぬことであった。
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群盗 その同じ晩1。 というのは、代議士藤井有太の留守宅へ、中正党代議士 の諸内達也が訪ねてきて、バヵバカしいほど大きな果物の 籠を、手土産としておいて行った晩に、不良少年有吉の仲 間は、午後八時キッカリ、省線池袋駅前のパチンコ屋でせ いぞろいした。 彼らは、その日四谷の麻雀クラブへあつまって打合せを すました。ちょうどそこへ友杉がやってきて、有吉だけを つれ去ったが、あとに五人の仲間がのこった。そうしてこ の五人で相談して、ともかく『あれ』を、思い立った今佼 のうちに、決行しようということになったのである。『あ れ』というのは、隠語で言えば、トントンとか、タタキと か、言うのであろう。強盗をやるということを、さすがに 彼らは、そのまま口へ出していうのが恐ろしく、こういう あいまいな代名詞で、間に合わしていたわけだった。それ に『あれ』は、もし飼か都合のよいことが起って、しない でもすむようなぐあいになるのだったら、やっぱり、しな い方がよいのだということを、めいめいが心のどこかで考 えていながら、しかし、もう今となってはしないですむわ けには行きそうもなかった。なぜかと言えば、仲間の一人 そのえ でS大学専門部法科一年に籍をおく今年十九歳の少年園江 しん 新六というのが、ちゃんとアテをつけてきていたからであ たかす よしお る。それはある銀行の支店長で高須由雄という人物が住ん でいる家だった。支店長は、地位を利用し行金を秘密に貸 しつけて獲た高額な利子を、数百万円も自分の懐中へ流し こんでいた。ところが、支店長の息子は、園江新六と同じ S大専門部の優等学生である。園江は、二度ほど支店長の 家へ遊びに行き、家の中の間取りをよくおぼえてきた。だ から、『あれ』をやる手はじめに、そこへ行ってみようと いうことになったのであった。 仲間のうちには、地方の官立病院長の息子の高橋勇とい う少年がいた。 てい 小西貞というのは神田の某書店の三男坊で、平川洋一郎 という画家の息子もいる。最年少が、十七歳で、しかし自 なんじようまこと 分より四つも年上の女を情婦にもっている南条真という 子で、その母は、戦前に有名だったある政治家の妾だとい うことであった。 彼等は、学生風に見られないために、背広を着たり、わ ざと汚いカーキ色のズボンをはいたりして、また、人相を かくすための、色眼鏡や防寒マスクや頬冠りの風呂敷や、 つけ髯まで、用意してきたものがあった。目的の家へ行っ てからのめいめいの役割りもきめてある。計画は綿密で、 くろうと 玄人のタタキでも、これ以上にはやるまいというまでに考 えてあったー。 パチンコ屋を出るとすぐに、道路を横切り制服の巡査が 二人、ッカツカこっちへ来るのが見えたので、ドキンとし て五人は立ちすくみそうになったが、巡査は、何も知らず 五人のそばを通りすぎてしまった。 駅前の雑沓。 三角くじとデン助。焼そばや肉まんじゅうの屋台店。そ うしてひどく明るいくせに客が一人もいない果物の店。 彼らは、通行人の視線が、いじわるく自分の方へ向けら こわ れるように感じ、すると、顔の筋肉が硬ばり、ひどく不愉 快で、そのくせに歩きながら、わざとはしゃいで笑い声を 立てたり、水泳や野球の選手のことを話したりした。そし て、ようやく駅前の賑やかなところをはなれると、大通り から暗い横町へはいってしばらく行って、とつぜん、案内 役の園江新六が、 「おい、あの家だぞ」 低く押し殺した声でいったので、みんな、何かの宣告を 聞いたような気持で、そこに足をとめた。 それは、家庭菜園や草の生えた空地にとりかこまれた、 あまり大きくはないが、キチンとした平家建ての家であ る。支店長が不正な利得の一部分で作ったものだろう、ま だ新しくて、使った板や柱の材木の色が白く夜の空気の中 に浮いて見える。むし暑い晩なので、庭へ向いた座敷が、 障子をすっかり開け放ってある風だった。灯の明るみが外 へ流れ出し、ラジオをかけてあるらしい。庭木がまばらに 植えてあった。物置らしい小屋も一つ附属していた。彼ら は、だまってたたずんでそれを眺めて、思ったことは五人 ともに同じである。ああ、あの家へ自分たちが、麻雀をや るとか音楽の練習会をやるとかで、客として招かれたのだ ったら、どんなによいだろう。もう見ただけでたくさん だ。このまま帰ってしまいたい。いったいあの家へ、盗賊 になって押し入って、家人を縛ったり嚇したり、そうして 金を奪ってくるということが、ほんとうに可能なのであろ うか。イヤ、それは、現実に起り得ることであろうか。 「電燈がついているよ。まだ家の人が起きてんだね」 と、わかりきったことを、尻ごみした眼つきで、二十一 歳の情婦をもつ南条真がいったので、強がり屋の高橋勇 が、ニキビを爪でつぶしながら答えた。 「うん、まだ九時前だからな。しかし、早い方がいいん だ。帰る時に道で怪しまれずにすむよ。さア、やっちまお うじゃないか」 「でもなア、園江……」 と、主謀者格の画家の息子が、うしろから園江の肩を叩 いた。 「お前、家の人は、少いといったろう。それに間違いはな いだろうな」 「だいじょぶさ。おやじは、お妾こしらえて、お妾んと こへ泊るから、めったに家へは帰りっこない。だから、い るのは、病気で寝ているおふくろと、あとは息子と娘きり まいくち さ。ヤヅパ(匕首)でおどかしや、それだけで気を失うよ うな連中だよ」 「非常ベルや電話や、そんなものはないんだろうな」 「電話はないよ。非常ベルは知らないが、きっとだいじよ うぶだと思うね。第一、起きてるとこへ行くんだから、ベ ルなんか、あったって鳴らさせないようにすればいい」 「それもそうか。じゃ、やっつけようぜ。みんな、顔をか くせ、バンタチ (見張)は、ゆだんなくやる。それから、 足がついてヤ。ハイようなものは、なるべく手をつけないこ とにしろ、コカスのに都合のいいものだけを選ぽうぜ。オ シン (現金)が一番いいよ。一人あたり、ヤリマン (一万 円)がとこあれば、ちょっと息がつけるからな」 その時でもまだ誰かが、いやになったから中止しようと 言い出したら、中止になったのかも知れず、しかし、思っ てもそれはロへ出せなかった。そうして五人は、息をつ め、足がガクガクする思いで、支店長の家へ近づいた。も う考えたってだめだった。これから何が起るにしても、そ の起ることを、できるだけ手ぎわよく終らせるということ に頭を使った方がいい。それに、こんなことは、自分たち がはじめてやるのではなかった。学生の集団強盗は、ほかに たくさんあった。そういう奴は、盗むだけじゃなくて、お 婆さんを殺したり、赤ん坊を蒲団まきにして窒息させた。 自分たちは、殺しだけはやるまい、という約束がしてあ る。またこの後同じことを重ねてやる場合でも、不正な富 だけを狙おうと申合せた。これは、りっぱなことではない か。政府の役人でも悪いことをしている。悪事が露見した 奴が運がないのだと言われる。ナニ、かまわない、やっつ けてしまえ……。 小西貞が、友人の与太もんから、ハジキを借りてきてい る。 それで、小西貞が、いちばん先きに玄関から入り、ハジ キをつきつけたら、ほかのものがどっとはいって、家人を さるぐつわ 縛り上げ、口に猿轡をかませることにしてあった。 「いいか。ドジふむな、ブルカムだと、ふるえてしくじる ぞ。おちつけ!」 玄関前で、園江が注意し、平川洋一郎が、声を変えるた め、片手を筒形にして口にあて、 「こんばんは……高須さん……電報ですよ……高須さん… …」 と呶鳴った。 警察だの防犯協会だのから、こういう賊の手口について は、再三の注意がしてあるけれども、電報だと言われる と、やはり戸を開けて、顔を出さねばならぬようにできて いる日本の住宅だから、しかたがない。 家の中から「は!い」と女の声がした。 そうして、玄関の締りをはずし、園江の友人の、S大専 、門部模範生の高須行夫が顔を出したが、呼吸を一つしない うちに、その顔色が青くなってしまった。 黒い拳銃が胸につきつけられている。 顔をかくした男たちが、鋭く身がまえして暗がりのうち に立っている。 「君たちは、何をするのだ!」 と行夫は辛うじていったが、すぐに園江がそのうしろへ まわって、行夫の着ていたセイターを腰から逆にまくり上 げたので、行夫は腕がうこかなくなり、物を見ることもで きなくなった。 どうやら、予期した以上に、手ぎわよくいきそうであ る。 バンタチの南条だけを家の外にのこしておいて、四人は 靴のままズカズカと家へあがった。 みな大胆になり、頭が鋭く立ちはたらいた。 ゆうベ ラジオが農村の夕をやっている。スイッチを切ろうかと 考えたが、手をかけただけでそれはよした。頭をお下げにし た少女が、茶の間と次の間の敷居の上で、読みかけの雑誌 を手にしたまま、恐怖の瞳をいっぱいにひらき、身うごき もできずこっちを見ている。電燈が明るすぎると五人は感 じた。しかし、ヤッパ (匕首)を出して見せて、ほとんど 気を失わんばかりになったその女の両腕を、ギリギリ巻き にしてしまった。 園江新六の偵察に、まちがいはない。 支店長の妻は、奥の部屋に病みおとろえて寝ていて、す べてを眼の前に見ながら、何もすることができなかった。 そして支店長は、今夜もやはり、家へ帰ってきていないの であった。 二 「まだ雨が降ってるのね。いつになったら止むのかしら」 女は、時間がきたので、服を着るために、ベッドを出た ところであった。純白の柔かい絹のシュミ!ズを、椅子の 背からとって手にもっただけで、窓のカーテンのすきまか ら、雨の降る街を見おろしている。街は、午後のラッシュ プワだった。ここらは会社の少ないところだったが、それ でも、人通りが多くなってきていた。男が、小さな、汚れ た緑色の女のアンブレラをさして、都電の停留所へ急いで 行く。若い女の事務員が、黄色く透きとおるレインコート を着て、水溜りをどっちがわへよけて越そうかと思案して いる。あぶない!満員のバスが走ってきた。河の中を行 くように、水しぶきをはねかけて通りすぎた。お向うの食 料品店の前で、晩のおそうざいを買って帰るらしい勤人 が、雨の中に立ちどまり、長いうち動かない。あぶらげ一 枚六円、鮭のすずこ五十匁百五円。多分、鯨のベーコンで も買うか、でなくば、思案しただけで、何も買わずに行く のであろう。 「ラジオ、聞かなかったのですか。雨は明日の朝まで降り づつくっていいましたよ」 ベッドの中にいて、女を眺めながら答えたのは笠原昇で ある。 「そう。そいじゃ、予報があたってるのね。よかったわ。 野球見に行かなくて」 そうして女は、まだ裸のまま、壁にかけた小さな鏡で自 分の顔をのぞき、そのあと、ふいにふりむいて笑いかけ た。 「帰るの、いやになっちゃった。まだ三十分は、だいじょ ぶだわ」 ぼんやり湿った光線の中で、女の肩や胸は白く輝いてい る。水にぬれたおっとせいのようだった。そして、シュミ ーズを手からはなし、笠原昇のそばへ来て、 「ねえ……」 といいながら、ドスンと身をなげつけてしまった。 女は、最近に笠原昇と知り合った、ある会社員の妻であ や じまか つ こ る。名前は矢島加津子といった。どんなぐあいで笠原が誘 惑したのかわからない。しかし、昇が借りているこの部屋 へ、もう三回も通ってきた。年齢は、昇より二つか三っ上 であろう。野球が好きで、選手の名前は、大学リーグも職 業野球も都市対抗もみな知っている。ふしぎに、ダンスだ けが、まだおぼえたばかりであった。 ー1しばらくしてから、枕もとに投げだしてある銀の女 の腕時計を見ると、もう五時を指そうとしている。 「おそくなっちゃったわ……」 と女はいったが、とつぜん、探るような眼で昇の顔をの ぞいた。 「あたし、忘れていたことがあったわ」 「なんです」 「あなたのこと、知ってる人がいるのよ。その人、気をつ 融 けうっていったの」 「忠告ですか」 「そうね。ほんとは、やきもちかも知れないけれど……」 笠原昇は、たばこの煙を、細く長くうまそうに吐きだし た。 「忠告は、だれでも、したがるものですよ。忠告聞いて、 どう思ったんですか」 「どう思ったかって……」 「つまり、嬉しかったか、ありがたかったかというのです よ」 「ちがうわ。まるで嬉しくなんかありゃしない」 「じゃ、いいじゃないですか。ぼくは、人問は不安なんか あっちゃいけないっていうことを、いつも考えています。 それには、その時その時の行動を、常に肯定して行くんで すよ。不安を感じて生きてるんじゃつまらない。自分の欲 求に対してはよぶんな方向をふりむかないで、まっすぐに 歩いている。そうすると、世の中は愉快になります」 「わかったわ。だから、忠告が嬉しくなかったら、そんな 忠告を気にしないでいいっていうのだわね。ーだけど、 その人はあなたのことを、あれは白い鬼だからっていって たのよ」 、 「そうですか。白い鬼i」 昇は、ふ!んと感心したような眼つきをしたが、すぐに その眼つきは、何かすばらしい冗談を思いついたような明 るい色に変った。 「白い鬼、というのじゃいけないな。ぼくだったら、もつ と別な表現をする」 「まア、どんな?」 こんじキリ 「金色の鬼っていうんです。ぼくは、金色の鬼って言われ るんだったら、喜びはしないが、感心してやってもいい」 「自分で自分のあだ名つけるのね。どういう意味なの、そ の金色の鬼っての」 こんじぎやしや 「イヤ、平凡ですよ。ミイちゃんも知っている。金色夜叉 という小説がありましたね。貫一とお宮が出てくるでしよ う。あの小説と同じようなものです」 「まア、そう……」 返事はしたが女には、昇の言葉が何を説明したのか、ハ ッキリわからなかったのかも知れない。そうして二人の話 は、それでおしまいになってしまった。 その時、はしご段を上ってくる足音がしたからである。 足音は、この二階を昇に貸している家主のおかみさんだ った。おかみさんは、十分な部屋代を昇から貰う代りに、 万事によく気をくばってくれるおかみさんだった。 「笠原さん。学生さんが会いたいといってきましたよ、高 橋さんという方ですが」 と、部屋を開けずに、はしご段の上り口から声をかけ た。 昇は、女の眼をのぞき、女がうんとうなずくのを見て答 えた。 おば 「ああ、わかったよ小母さん。あと二十分ほど、そこらぶ らついてから来るようにって、いって下さい」 おかみさんは、はしご段を下りて行き、女は、足音が消え てから、もう一度はげしく昇の首に腕をまわしたが、もう 時間が過ぎている。昇はつめたく唇を合せただけだった。 女は泣き出しそうで、しかし、泣かずに身をはなした。そ れから、いそいで服を着はじめた。 借りている部屋は、学生に似合わずぜいたくで二つあ る。 女が立ち去ると、昇は、次の部屋にうつり、書棚から古 びたノートを引出して、頁をくった。一頁に一人ずつ、人 名が書いてあり、日附や金額を記入してある。計算尺で彼 は計算をはじめた。そしてそこへ、前の夜の五人組の一人 高橋勇が、雨に濡れた顔をハンケチでふきながら、はいっ てきた。 畳に椅子をおき、テーブルによりかかっている笠原の前 で、高橋勇は立ったまま、頬をふくらせ、眼の色をきつく し、喧嘩でもするような調子でいった。 「笠原君。金を返しに来たぜ」 「そうかい。よかったな。栃木の病院にいる君のおやじの 方へ催促しようかと思ってたところだ」 笠原は、ゆっくり笑って、さっきのノートの頁を見せ た。 えんたい 「五ヵ月になるよ。延滞だ。天引き利子のほかに、二千百 円の利子がつくんだ。合計七千と百円になるが、 いいか い」 高橋はノートを見なかった。その代り、笠原を鋭く睨 み、ポケットから一万円の紙幣を出した。 「ほう、金廻りがいいんだね。田舎の病院長さんから仕送 りが ったのかい」 「おやじは、何も知らないよ。バイトだ」 「オヤォヤ、そりゃ失敬した。何かよほどいいバイトが丶 ったんだね」 紙幣を受取り、ノ!トの終りに縫いつけてある厚紙の袋 から、笠原は借用証を出して渡したので、高橋はベリベ リッとその証文をやぶいてしまった。 「そう、きげんの悪い顔、するもんじゃないよ。誰でも借 金を返す時には、損したような気持がするものだ。しか し、じきに君は、次の金を借りに来るんだからね」 「何いってるんだ。誰がもう、君んとこなんかへ、金のこ と頼みに来るもんかい」 怒りが爆発した声で高橋がいったので、今度は笠原もび っくりした顔だった。 謎を解こうとするように考えてから、また笑い声になっ た。 「おどろいたな。 たいへんなけんまくじゃないか。 え え?」 「君の金、借りなくてもいいようになったんだっていって るのだよ」 「うん、わかってるさ。ホールへ行ったり、麻雀やったり、 女と遊ぶ金が、ぼくの手からでなくて入るようになった っていうんだね。結構だ。たいへん結構だ。が、そういう のだったら、ぼくにも教えてもらいたいな。そんなボロイ 金を手に入れるには、どうすればよいかってことをだよ」 「.ハイトだよ。。ハイトだって、さっきいったじゃないか」 「ああ、そうか。そうだったね。また失敬してしまった。 なるほど学生には、バイト以外にゃないはずだ。何かほか にあるかねえ」 「ないよ。君のやる学生高利貸し以外にはね」 「うんー」 笠原は、ひるんだような返事をしたが、実は少しもひる んでいない。高橋を軽蔑して眼尻を笑わせた。 「ぼくの高利貸しを非難したくば勝手にするさ。これは ね、やはり"、・ルバイトだよ。誰もやらないから、ぼくが始 めた。そうしたら、ほかの大学にも、ぼくの真似をする奴 ができたそうだよ。いいかい。ぼくはね、形のないものは 軽蔑するんだ。義理や人情、おていさいと習慣、神様や仏 様、成文にならない法律、こういうものはみんな軽蔑す る。ぼくの欲しいものは実際にあるものだけで、無意味な 偶像を持っちゃならないと思っている。ところで、現代は どういう時代だね。古い偶像はもちろん破壊された。バヵ な人間たちが、次の新しい偶像を探し出そうとしている が、こいつはなかなか見つかるまい。そうして、信頼すべ きものが、すべてなくなっちゃったんだ。正しい理論、す ぐれた才能、そういうものは信頼できるというだろう。と ころが、そんなものも役には立たない。第一、正しい理論 なんてものは、どこにもない。なぜかといえば、人間を支 配するものは、けっきょく、力以外の何物でもないからだ よ。すぐれた才能も、才能を生かすための力がなかった ら、才能なんてない方が気がきいている。力だ。実力だ。 実力だけが信頼できる。そうして実力の代表者として、今 のところ、金力ほど手っ取りばやくその効果を発揮するも げんし のはないんだからね。原子の開裂で何百万度の高熱が出た り、都会が一瞬に消えてなくなったり、何十万人かの命が うばわれたりする。しかし、金は、同じことをやるんだ ぜ。徐々に確実にやるだけだ。その金を、できるだけたく さん持っていようというのは、間違ったことじゃないはず だ。1うん、バカに長くおしゃべりしてしまったが、君 たちが、金を欲しがるくせに金を軽蔑している。そういう 習慣を是正してやろうというんだよ。まアね、君たちも幸 いにして、いい、たんまりと謝礼の出るアルバイトを見つ けたんだったら、それを大切にすることだぜ。その。ハイト が、長続きさえしたら申し分がないよ」 「長続きするのだ。いつまででもやって行ける」 「おお、それじゃ、文句なしだよ。羨ましいって言っても いいよ」 「ぼくだけじゃない。みんなそうなったんだ。君の世話 にゃならなくてすむ。園江も小西も同じことだよ」 「へええ、園江も小西もねl」 笠原の瞳はキラリとうこいたようだった。彼は、首をか しげている。指でテーブルの上のほこりをこすった。それ から高橋の眼をのぞいた。 「ふしぎだなア、園江も、小西もってのは。それ、本当か ねえ」 「本当だよ」 「そうかい」 笠原の瞳は、再び謎を解こうとしている眼つきに変っ た。その視線を向けられると、高橋が我知らず顔をそむけ た。 「ねえ、亠咼橋君l」 「なんだい」 「ぼくはね、世の中が、なぜ急にそんなに甘くなったかと いうことを、ふしぎに思っているんだよ。園江や小西まで が、金には困らなくなったという、・てこんところがわから ない。あの二人は低能児だね。あいつらが、そんなに簡単 に、金に困らなくていられるんだったら、生活苦なんて言 葉は不必要になる。ことに、園江ときたら、ぼくがいつか 見たことのある刑務所脱走人にそっくりの顔をしているん だよ。あんなに無智で野蛮な顔はないね。あいつは、拳闘 家でもないくせに、鼻が曲ってついてるだろう。学生だか らいいが、でなかったら、人殺しと間違えられる顔なんだ よ。そのおかげに、あいつがいちばん女にもてない。下等 なパン助と青かんだ。鳩の街へばかり行っている。しかも その鳩の街ですら、あいつは女に嫌われどおしだ。ぼく は、あいつの曲った鼻を見ていると、なにか背筋のあたり が、ゾオッと寒くなることがあるんだよ。あいつは、先天 的犯罪者型をしているんだが、あいつまでが、金を儲けて いるのだとすると……うん……そうだったな、思い出した よ。川北か……イヤちがう。川北じゃない。川上だろう。 川上って子がいたそうだね。うん、ぼくは直接には知らな い子だ……話だけを聞いたんだ、その川上って子のことを ね」 「川上が、どうしたっていうのだい」 「イヤ、そりゃ、君の方が、詳しく知っているはずだと思 うがねえ。川上は、強盗やったって……」 「ちがうよ。チャリンコだ」 「ああ、そうか。チャリンコだ。電車の中の集団スリだ ね。ともかく、そのチャリンコで警察へつれて行かれたの だろう。それでぼくは思うんだよ」 「なんだ。何を思うっていうんだ!」 「怒っちゃいけない、怒ることは何もないはずじゃない か。ただ、ぼくはね、川上をぼくが知っていたら、チャリ ンコでバクられるなんて、そんなヘマはさせなかったと思 うんだ。せいぜいのところ、警・察へつれて行かれても、素 行不良で注意されてガリがノルくらいのものだろう。ぼく だったら、金で川上を困らせやしないぜ。ぼくは、金を君 たちが返さない時、君たちの家へ出かけて行く。そいか ら、善良な君たちのおやじやおふくろに、親切な注意をあ たえてやるんだ。君たちが、たいへんに今困っている。そ して、ほっとけば、かっぱらいだの、スリだの、強盗だ の、向う見ずのことをしそうだから、ぼくの金をたてかえ てやったのだと説明するのさ。事実もまたその通りだね。 ぼくが金を貸さなかったら、君たちは何をやらかすか、わ からないのだよ。ーところで、説明を聞いて君たちの家 では、びっくりしてありがたがって、ぼくに金を返してく れるが、つまり、おやじやおふくろってものは、自分の子 供が警察へつれて行かれるってことを、極端に嫌うものな んだね。素質が悪くても、表面的にポロを出しさえせね ば、それで安心している代りに、たとえば、親の知らない 金を子供が持ってるだけでも、親は不安になり心配なん だ。まア、君たちも、少なくともその点を知っていなく ちゃいけないね。金を、むやみに見せびらかしたら、それ だけでよけいな疑いを起させ、よけいな心配をかけるん だぜ。君だけじゃない。多ぜいそろって、園江までが金つ かいが荒いとなったら、世間じゃびっくりしてしまうさ。 悪いことは言わないよ。いいバイトを、人に怪しまれず、 うまく続けたまえ。そして、また困るようになったら、五 千円以内、いつでも貸してあげるからね」 高橋勇は、顔が土気色になっていた。 池袋の銀行支店長の家で、昨夜どんなことが起ったのか を、まさか笠原が知っていて言うのではないだろう。しか し、いい、たんまりした謝礼のとれるバイトなんて、実は どこにもないことが明らかだった。皮肉な言葉がガクンと こっちの顎にぶつかってくる思いがする。それに、この男 の頭の中には、まだどんな考えがつまっているのかわから ない。聞いたことやおぼえたことはいつまでも忘れなく て、しゃべる機械みたいに雄弁で、時計のぜんまいみたい に頭が正確にはたらく。恐ろしい男だ。ウカッなことを、 この男の前でしゃべってしまった。こいつを、昨夜小西が 借りてきたハジキで、殺してしまったらどうなるだろう……。 「忘れてた。時間がない。とにかく、これでもう、君に借 金はないんだよ」 と高橋勇は、さっきより目に見えて意気が錆沈していっ た。ほかに、もっとうまいことを言わなくてはだめだと感 じ、そのくせ、何も言葉が見つからなかったから、ひどく ヘマな別れのセリフになってしまった。そうして、ヘマな セリフだと思うといっしょに、ますます気持が泡を食っ て、もう一刻も早くここを逃げ出したくなった。 「オヤオヤ。帰るのかね」 「うん」 高橋の濡れた帽子が、肘かけ窓に投げ出してある。それ を笠原が取って渡した。 「もってけよ。忘れちゃだめだ」 「あ……」 「借金なくなって、いい気持だとぼくは思うんだがね、 ーええと、そうだな。園江も小西もっていうんなら、平 川もむろんいっしよだろうな。平川にゃ、三度目の金を貸 してある。なくさないうちに返済しろって、君から話して おいてくれよ」 笠原は、立ち上って、紙幣を棚の本の間へはさみなが ら、もう部屋を半分出かかった高橋の背中へ声をかけた。 × × 特筆すべきことは、雨がまだますますはげしくなってい るこの晩に、五人の仲間は、平川が馴染みになっている下 谷の待合で、こうせいな宴会を開いたということである。 高橋は、笠原と別れてから、その宴会へ廻ったが、そこ では笠原のことを、何も話す気がしなかった。そして五人 のものは、飲めもせぬ酒やビールをガブガブと飲み、異国 の丘や泣くな小鳩や校歌をどなり、女とダンスをして、ヘ ドを吐いた。 十時頃、おどろいたのは、青い顔をして、もう一人の仲 間の藤井有吉がそこへやってきたことだった。 有吉は、坐るといきなり、酒を飲まされた。 若い芸妓がたいそう酔っていて、 「あら、このひと、可愛いい顔してるわ」 といって、そばへぺたりと膝をくっつけてきた。 ところが、有吉は、めいわくそうだった。 「待ってくれ。君たちにぼく話があるんだ。平川さんと小 西君とこへ行ったけど、平川さんも小西君もいなかったか ら、きっとここだと思って来たんだよ。少し、ないしよで 話がある」 平川が、小西と相談した。 ヘドを吐いた南条が、縁側で座蒲団を枕にして倒れてい る。 女たちが、一時、部屋を去ることになった。そうして、 園江が、まだビールのびんを片手にもったまま、あぐらを かいた。 「ぼくはね、君たちのこと、心配したんだ。それでね、悪 いことしないうちにと思って、金をこしらえて来たんだ よ」 有吉がいいながら、持ってきた新聞包みをひろげると、 中から五万円の紙幣が現われた。 「これだけあれば、当分のうち、困らないだろう。タタキ なんか、あぶないと思うよ。よした方がいいと思ったか ら、持ってきたよ。これは、使ってしまってかまわないん だ。どこからも文句の来ない金だよ」 そういって有吉は、五人の顔を見わたしたが、みな黙っ て眼と眼を見合せている。 さいしよに、小西貞が、 「ぼくは……ぼくは……ほんとは反対したんだ! ……」 といって泣き出した。 それから、バヵヤロウ! とどなって、平川が料理の皿 をどこかへ投げつけた。バシーンと、皿が砕けて散った。 有吉は、その五万円がどういう金だか説明する。しか し、高橋勇が、 「わかった。わかった。ありがとう、しかしもう、遅かっ たんだ……」 また泣声でいって、有吉に抱きついてしまった。 ケ 山のクラブ 一 じっきう ながよし れんが つげ 1実休討死のとき、長慶は飯盛にて連歌せしに告きた る。すすきにまじる芦の一むらといふ句、人々つけわづら ひたりしに、その書をひらきて、とかくをいはずさしお き、古沼のあさきかたより野となりて、とつけ終りてさて、 つげ 実休討死なりと告きたれり、今日の連歌これにてやむべし とて、さて兵を出されしとなりi。 「いいなア、これは」 と、友杉成人は、思わず声に出していった。藤井家の玄 関からとっつきの、自分にあたえられている小さな部屋 じようざんきだん で、古本屋で見つけてきた常山紀談を読んでいたのであ る。彼は、三好長慶のうたった古沼の歌を、いくどか口の うちでくりかえしつつ、 「そうだったな。昔の武将には、いいものを持っていた人 さねとも がある。実朝が、歌人だった。謙信も、詩を詠んだl」 などと思いだしたが、すると、すぐにまた考えたのは、 有吉のことだった。有吉は、スポーッにも興味をもってい なかった。自分でも愉しいことを、探しあてられないで困 っているにちがいない。歌や詩をあたえたらどうであろ う。絵画や彫刻や、文学でもいい。こないだから気がつい ているのだが、何か夢中になれるものを探してやりたい。 そうすればあの少年も、不良ではなくなってくる。まだ残 っている純真な素質を、生かしてやればよいのだからな、 と考えつづけた。 昨夜は、雨が降っているのに有吉が、三時間だけ外出す る、きっと泊らずに帰るから、と友杉に断わりをいってお いて出かけたが、すると約束よりも三十分ほどおくれただ けで、 「友杉さん、帰ってきたですよ、ぼく……」 有吉は、雨にぬれていて、帰ると第一に友杉に顔を見せ たから、 「すてきだな有吉君。約束守るんだったら、ぼくは君に、 もう絶望じゃない!」 そういって友杉が、ほめてやったくらいだった。実はそ の有吉の外出が、二階の書斎へ、誰も手をつけぬことにし ておいてある、諸内代議士からの手土産のうち、五万円の さつ束を、有吉が盗みだして行ったのだとは、友杉もまだ 知らないでいる。いま、常山紀談から、芸術のことを思い ついた。困るのは友杉自身が、製薬化学の出身で、専門以 外にはあまり明るくないという気がすることで、しかしこ れからは有吉を相手に、俳句や歌の話などしようかと、肚 の中できめたのであったー。 有吉は、今日はめずらしく、学校へ行くのだといって、 朝早く家を出た。 邸内には、貴美子夫人と女中のふみやと友杉とがいるだ けである。主人の藤井代議士は、おとといの午前、会社へ 出たままで帰らないが、それは、代議士から電話があっ た。福島に、代議士が経営している炭坑があり、そこでス トライキがはじまりそうだった。解決のため、代議士は自 宅にも立ちよらず、福島へ赴いたのであった。 雨の翌日の庭が、染めるような青葉に巻きつつまれてい る。 友杉は、読書をやめ、庭へ出た。 それから、上衣やシャツをぬぎすて、ズボン一ッのはだ かになって、まき割りをはじめた。まき割りは、下男とし てやる仕事のうちでは、いちばんの楽しみであった。原始 的な単純な仕事だけれど、やったことのないものには、そ の味がわからない。重くて鋭い刃のついたまき割りの斧 を、まっすぐに頭上からふりおろすと、太いくぬぎや、松 かつぜん の丸太が、戞然と音を立てて割れて、新しい木の肌の匂い が鼻をうった。斧をふりおろす時、雑念が頭に入っている と、刃先きが横へそれたり、丸太が倒れたりしていけな い。それは剣道と同じようなものだった。心を澄まし、丸 太の頭だけを狙ってやると、斧の刃先きが、必らず思った ところヘストーンとおちた。見ているとつまらないこと で、しかし爽快な感じが起るのであった。 一時間ほどたった。 薪は、炊事と風呂場とで使うのが、たっぷり十日分はで ぎたと思った。 薪は納屋へはこんでおいて、井戸ばたで汗をふき、中庭 を通りぬけて自分の部屋へもどろうとすると、ギクリとし て足がとまった。 サンルームとここの家で呼んでいるガラス張りの洋室 で、レコードをかけ、貴美子夫人がダンスをしている。そ の相手が、いつの間にきたのか、笠原昇だった。笠原昇 は、今日は仕立のいい背広服を着ていた。もう学生ではな い。りっぱな青年紳士に見えた。そして、貴美子夫人の胸 を抱きよせるようにして、なにか特別なダンスの型を教え ているのであった。 友杉は、中庭から引きかえし、お勝手をまわって部屋へ もどった。 時計を見ると、午後三時に近いから、有吉がいつ帰ってく るかわからない。今日は気を新たにして学校へ行った。し かし、帰ると、笠原が来ていたのでは、せっかくの有吉の 気持が、またすっかりとこじれたものになるのであろう。 友杉は、少しのうち、机の前へ坐ったが、じきにまた机 をはなれた。そうして、サンルームへ行き、廊下に立って ドアをノックした。 「ああ、だアれ? おはいりなさい」 貴美子夫人の声がしたので、ドアをあけると、レコード はもうやんでいて、夫人が緑色のカウチに腰をおろし、笠 原が、その横の椅子で、外国雑誌の写真を見ている。 「お客さまなの?」 と夫人がいったが、友杉は首をふった。 「いえ、笠原君に話があるのですが……」 「あら、そうだったの。何よ?」 「笠原君と二人きりになりませんと……」 びっくりした眼つきで、夫人は、友杉と笠原との顔を見 くらべている。そうして、 「おどろいたわ。あたしに聞かせたくない話があるという おけね。たいへんだ」 からかうようにしていってから、しかしすぐと、明るい 微笑をうかべた。 「よくってよ。二人でここで話していらっしゃい。あたし は、お呼ばれしているところがあるの。服を更えなくちゃ ならないわ」 そういって、ヵウチから立ち上ってしまった。 夫人は、渋茶色のスカートに、ハイネックのこまかい縫 取りがあるブラウスを着ていて、部屋を横切って行くの が、花の動いて行く感じだった。友杉と笠原との間に、ど んな話があろうと、それは自分とは無関係だという顔つき である。うしろ手にサンルームのドアを閉めると、じきに 廊下で、「山岸さーん、山岸さーん……」と女中を呼び立 てる声がした。 その声に、耳を傾けるようにしてから笠原は、膝の上の 雑誌をひらいたまま、ゆっくりと視線を友杉に向けた。 「ぼくに、話があるっての、どういうことですか」 友杉は、立ったままで答えた。 「君の喜ぶ話じゃないですよ。問題は簡単だが、君の訪問 についてです」 「というと?」 「先週は、二回、君がこの家へ来た。今週はもう三回目で しよう。今後は、こういう訪問を、よしてもらいたいので す」 「ほう」 笠原は、雑誌を、閉じてしまっていた。 友杉の言葉が、あまりにも飾りがなくてハッキリしてい て、気を奪われたという形だった。 「わからんな。1すると、ぼくの訪問が、迷惑になると いうわけですか」 「そのとおりですよ。ほかに理由はないでしよう」 「しかし……迷惑だって……それは、なぜですか」 「そうですね。なぜかってことは、説明できないじゃない が、説明しない方がいいんじゃないですか。君を、必要以 上に傷つけたくないんですよ。要するところは、君がもう ここの家へ、来ないという決心をしてくれれば文句はな い。君に対して、そのことを、ぼくよりほかに、言い出す 人がいなかったものですからね」 笠原の顔を、かすかな痙蠻・が走った。 すぐに、なにか辛辣な言葉で言いかえしてやらねばなら なかったが、あいにくとそういう言葉が見つからなかっ た。今までに、二度か三度しか、口をきいたことのない男 である。訪問すると、玄関で取次ぎをする。それから、有 吉が、四谷の麻雀クラブへ行くことを、教えてやった。し かも、べつに身分のある男ではなく、単なる藤井家の居候 で、同時に書生であり、下男ですらあるはずの男だった。 だのに、こんな男は、今まで見たことがないのである。軽 蔑してやりたいと思うのに、軽蔑することができなくなっ でいた。ぬっと椅子の前へ立って、じつとこっちを見下ろ している眼つきが、しっかりしていてたじろがない。肚の ・中で思っていることを、思ったとおりにロへ出していっ で、不安もなければ後悔もないという風に見える。才智や 白先きだけでは、相手をしにくかった。眼に見えぬ圧力が のしかかってきた。悪くすると、こっちが、犬のように、 尾をまいて逃げるよりほかないのであった。 「不愉快だな、実にどうも……」 「そうでしよう。それは、わかる」 「こんなことを、だしぬけに言われるとは、ぼくは思わな かったですよ」 「だしぬけじゃないんです。ぼくの方では、こないだか ら、考えていたことですから」 「イヤ、1それに、ずいぶん無礼だと思う。ぼくはです ね、よその家で、こんな無礼なことを言われた記憶がな い。生れてから、これは、はじめてだ!」 ついに、腹が立ち、声が大きくなった。雑誌を丸めて棒 にしてしまった。この表情のおちついた男をなぐりつけて やるかどうするか、ともかくこの無礼を、甘んじてうけて いるのが業腹で、そのくせに、気ばかりあせって、顔が蒼 くなり、唇がふるえた。 「しかし……いったい、誰がぼくのことを、迷惑だってい づてるんですか。奥さんが、そういっておられたのです か」 「さア、どうですかね。べつに、誰もロへ出しては言わな かったですよ。ただ、さっきもお断わりしたでしよう。ぼ くが、はじめて言い出したのですから」 「ぼくには……イヤ、君が、それを言う権利があるという ことがわからない。聞いておきたいですね。どういう権利 ですか。君が、自分だけの考えで、勝手に来客の訪問を拒 絶する。そうして、ここの家への来客を、こんなにも不愉 快にさせるということは」 「さア、それはですね、権利の問題じゃない。義務の問題 でしよう」 「え?」 「わかりませんか。ぼくはこの家の主人じゃない。親戚で さえもありません。しかし義務をもっている。ぼくは、こ の家の、忠実な番犬だから …・」 「ふうん。iじゃ、番犬だから、誰の足にでも咬みつく というわけですか」 「アッハハハ、そうかも知れませんね。まさか、咬みつ きゃしない。が、いやな奴だったら、腕の一本ぐらい、へ し折ることはあるでしよう。そういうことが起らないよう にしたいと、ぼくは思っている!」 友杉の顔が、笑ってはいたが、めんどう臭いという色に 変ってきていた。この美貌の大学生を、追い出すだけが番 犬の役目である。しかし、久しく柔道を使ったことがなか った。庭石へでも投げつけて、じっさいに腕を一本へし折 ってやったら、この男はどんな顔をするであろうか。 笠原の顔色は、みじめに見えた。 それから、その視線が、横へうこいた。 両手でふりかぶるのに適当な椅子がそばにあり、また電 蓄[のこちらに、真鍮の彫刻がついた、重量のある台ランプ がおいてあった。 友杉は、相手の行動を、退散するなり、なぐりかかって くるなり自由にさせてやるために、笠原のそばから少しは なれて、やはりおちついて笠原を見下ろしていたが、その 時ふいに邸内で物音がした。 廊下のとちゅうにある電話が鳴っているのだった。 聞いていると、ベルがいくどもいくども鳴っているの に、だれも電話口へ出るものがない。多分、女中のふみや は、貴美子夫人の外出の身支度で、手つだいをさせられて いるのであろう。友杉は、もういっぺん、笠原の方を眺め た。そうして、だまってサンルームを去り、電話口へ出 た。 ところが、その電話は、藤井産業の庶務課長からであ る。課長は、社長夫人に、至急知らせてほしいということ だった。会社からもすぐにお宅へ連絡に出向くが、実は、 藤井社長が、福島の炭坑で怪我をした。本社からも見舞い にかけつける。社長夫人も、行かれるのだったら、切符を 賀うことにする。ともかく、奥さんが御在宅だったら、電 話口へというのであった。 やがて、友杉の知らせで、貴美子夫人が電話に出たが、 すると話がすぐにきまってしまった。 「わかりました。それじゃ、あたしも福島へ行きますわ。 1いいえ、こちらへ連絡に来なくてもいいでしよう。汽 車の時間が……そう、あと二時間で出るのね。間に合うよ うに出かけますわ。汽車の中で、話を聞きますからね。そ うですか、それほどの大怪我じゃないんだって……ええ、 結構よ。医師も、手配して、連れて行くようにして下さ い。万一のことがあるといけませんからね」 そうして、電話を切ったのであった。 ふみやが、奥さまの御旅行で、鞄をつめるやら、着更え を選ぶやら、てんてこ舞いになって、友杉を応援に頼ん だ。 笠原昇は、玄関へ出て靴をはいた。 それから、中庭へはいり、夫人の部屋の窓へ来た。 いとま 「奥さん。お暇しますよ」 「あら、そうだったわね。急にあたし、旅行することにな ったのよ」 「知っています。福島でしよう。iぼくも、福島へは、 行ったことがありません。それにお手つだいができるかも 知れませんね。いっしょにお伴してもいいでしょうか」 「いっしょにって、そうね……べつに、さしつかえはない わ。でも、二時間したら、汽車が出るのよ」 「大丈夫です。遅れないように行きます。じゃ、駅でお目 にかかりますからー」 彼は、靴音を高くして、立ち去った。 友杉は、あとで、笠原も夫人といっしよに行くのだとい さか うことを知った。そして友杉は、顔を逆なでされたみたい で、けっきょくあの男には敗北したのだと感じた。 二 福島県のN炭坑は、交通の不便な位置にあって、炭質も 硫黄が多く発熱量も少ないものとされて、 一時ほとんど廃 坑の状態にされたのを、藤井代議士が目をつけて買い取っ て以来、めきめきと盛りかえしてきた炭坑だった。近い将 来、炭坑に、コークス工場が付属する。タールから、副産 物ができるだろう。硫黄が、新しい方式で作られる。更に い なわしろ 進んで、猪苗代の安い電力を使ったら、石炭液化もやれる かも知れない。藤井産業では、この炭坑に、大きな夢を抱 いていたのであった。 ストライキが起りかけたのは、やはり待遇改善の要求で あって、それを、労働組合の大きな動きにする前に、藤井 代議士がかけつけたのは、たいへん成功であった。紛争 は、代議士の熱意で解決された。会社側も、坑夫の側も、 十分に満足し合い納得し合って、前よりも愉快に仕事がで ぎるようになった。そうして、そのあとで、代議士は、坑 内を視察することになったが、すると、トロッコの運転手 がヘマをやった。代議士を、もう少しで、轢き殺してしま うところだったのである。 幸いにして、怪我が、軽くてすんだ。 腰をうたれ、脚を痛めた。が、命には別状なく、それ も、しばらく寝ていれば癒るという程度のものだった。 山に、会社のクラブができている。 坑道の、石炭殻で黒くなった入口を少しはなれた谷間 に、つい最近建てられたばかりだったが、社員の宿泊や集 会にあてられるので、設備がよくととのっているし、石炭 がふんだんにあるおかげで、冬は暖房が十分であり、夏 も、朝から入浴ができる。まるで、温泉のりっぱなホテル のようだった。代議士は、怪我をした直後、このクラブへ運 びこまれた。そうして、そこへ、東京からの社員と、医師 と、貴美子夫人と、笠原昇とがやってきたのであった。 「びっくりしたのよ、あたし。あなたが怪我したってだけ 聞いた時、ドスンと頭なぐられたみたいだったの、あと で、だんだんにおちついたけれどI」 「来て見て、わしが平気な顔しているから、がっかりした かな。なアに、君がくるほどのことじゃなかったんだ」 「いいえ、来てよかったと思うわ。それに、山の中のクラ ブ、とても気に入ったのよ。まるで、遊びに来ているみた い。あたしも、一度炭坑の中へ入ってみてよ」 代議士夫妻は、睦じく話し合った。 怪我をして寝ているために、ゆっくりとして、久しぶり の愛情を味う時ができたかのようであった。 三日ほどのうち、表面的には何事もなくて過ぎた。 代議士は、手当が行きとどいたせいであろう。打身の腫 れや痛みが急速に消えて行くようで、まだむろん、蒲団を よ しいて寝てはいるが、凭りかかりさえあれば、もう半身起 して、しばらく話をしたり、食事をとったりすることがで きるほどになった。 四日目の夕方、思いもよらずやってきたのは、中正党代 議士諸内達也であった。 藤井有太の怪我を東京で聞いて、その見舞いに来たとい かんじよう うのが口実であるが、むろん、有太を中正党へ勧請するため の口説き落しが目的である。諸内達也が来たと聞くと、貴 美子夫人が、ウッカリして話さずにいた果物の籠の手土産 のことを思いだした。あれは、良人が会社へ出た留守のう ちのことだった。帰宅するまでと思って、二階の書斎へ、 誰にも手をつけさせぬようにして運ばせた。ところが、有 太は、自宅へ帰らずに炭坑へ来てしまったから、あれはあ の時のままになっている。夫人は、手土産の内容がどんな ものであったにしろ、あとで有太が、好きなように処置す るのだろうと考えた。そう深くは気にしないでいたわけだ った。 妻の話を聞いて、 「ふうん、そいつは、少し困ったぞ」 有太は、眉をしかめている。 「オヤ、いけなかったんですか、預っておいたの」 「うまくないよ、金が入っていちゃ、おだやかじゃない。 どのくらい入っていた?」 「しらべなかったの、だけど、現金で二十万や三十万、そ のくらいあるんじゃないかって考えたわ。とてもかさばっ た籠でしたから」 「うむ、現金だけじゃなく、小切手を入れとくということ もある。イヤ、少なくとも、百万以上だよ。このわしを、 買収するには、そう安くないはずだから」 「買収されるつもりですの」 「とんでもない! 百万が二百万、千万円積んでも動きは せん。が、籠を受取ってあるとすると、めんどうだぞ」 「受取りゃしません。諸内さんも、それはわかっていらつ しゃるはずですわ。あなたがどうおっしゃるか、とにかく 預るということにして……」 「イヤ、いかん。預ったというのが、先方じゃ、受取った ことにしてしまうさ。君にも似合わん、まずいことしてく れた」 「あたしが悪かったとおっしゃるの?」 「まア、そうだ! まるで、子供みたいに考えている。政 治家の妻としては、もっと深く考えていてくれなくちゃ ね」 「すみませんでした。あたし、政治家の妻には不向きでし たわね」 「え?」 「悪かったとおっしゃるから、謝まってるのよ。第一あな た、腹を立てた顔しているわ」 そうして、そこへもう諸内代議士が、クラブの女中に案 内されて、 「ヤア、どうしたい。怪我したっていうじゃないか」 さも豪放らしい笑い声とともに、その肥った、短い口髭 のある、うすあばたの顔をのぞかせたのであった。 藤井夫妻の、やや険悪になった会話は、自然にそこで打 ち切られた。 そうして、それから十分たった時に、貴美子夫人は、ク ラブの裏手につづく林の中へはいっていたー。 林は、濶葉樹や丈の低い潅木や、時々にょっきりとして 松や杉が生えている自然林で、空気がつめたく、日の光が もう薄れているので、奥がどこまでつづくかわからないほ ど深く見える。細い、手入れをしたことのない道を、夫人 は歩いていった。そして、大きな木の切株が三つほどある 草地へ出ると、ハンヶチを出して株の上へしき、腰をかけ た。 その場所へは、実はもう、二度も来たことがあった。 はじめは、笠原と散歩に出て、木の切株を見つけたから 休んだ。しかし、二度目は、今日の午前だった。やはり、 笠原といっしよに来たが、すると、笠原がとつぜん物狂わ しい態度になり、夫人への愛情を訴えた。その時の笠原 は、不思議にも子供のように幼稚に見え、夫人は、姉のよ うに冷静だった。そうして、それから数時問たって、彼女 は、また同じ場所へ来てしまったのであった。 あたりは静かで、草や木の葉の呼吸さえも聞えるほどで あったから、それからしばらくした時に、遠くから足音が 近づいてきたのは、その足音だけで誰だかということがわ かるほどのものだった。 足音は、貴美子夫人を見て、とまった。 「ああ、やはり、来てくれましたね!」 笠原が、喜びの声を上げて近づいてきた。 「ぼくは、あれから、三度もここへ来たのです。奥さん が、怒っているのかと思った。それから、イヤ、もう一 度、ここで会えると考え直したんです」 「あたしは、わからなくなったのよ。自然に足が向いてこ こへ来たわ」 「それでょかったんです。ぼくは安心しました。あのまま だったら、ぼくは何をするか知れなかったんです」 それは、本心からいったのかも知れない。また、こうい う言葉で、 女というものが、いつも我を忘れることをわき まえていて、技術的にいったのかも知れない。 とつぜん、貴美子夫人の唇に、微笑がうかんだようだっ た。 「ほんとはね、あたし、夫婦喧嘩しちゃったのよ」 「それは……ぼくのことについてですか」 「いいえ、ちがうの。お金の問題よ。お金って、不思議な ものね。男と女との問題と同じように不思議だわ。話して あげましょうか」 果物の籠の話が出てきた。 恋愛とは無関係なことであり、しかし、耳を傾けて、笠 原はその話を聞いていた。彼は、切株のそばの草へ腰をお ろした。そしてその肩へ、夫人の手がかかり、笠原は、ぎゅ つとそれを握りしめていた。林の中に残っていた日の光 は、もうすっかりと消えてしまい、夫人の顔だけが白く 浮いている。誰もこの二人の、邪魔をするものはなかっ た。 「あたしね、一人でここへきていたのは、いろんなこと、 考えてみるためだったの。妻と良人とのことも、わからな いことがたくさんにあるわ」 「奥さんは、今の結婚生活に、満足していないのですね」 「そうかも知れないし、そうでないかも知れないわ。で も、満足しない時は、あたしがきっと、慾張りすぎるから じゃないかと思っていたの。藤井は、ほんとうは、とても 善人だわ。あんな善人はないくらいよ。それでいて、あた しは、しょっちゅう、退屈していたのよ」 「退屈なんてことは、ぼくは、したくないですね、年より になってから、そういうことがあるでしよう。しかし、若 いうちは、毎時間毎分、充実して生きていたいですよ。退 屈を、ぼくは憎みますね」 「憎んだって、あるのだから、しかたがないわ。あなた は、ほんとに、退屈しないでいられて?」 「もちろんですよ。いつだって、ぼくはせいいっぱいの生 き方をしているんです。それに、奥さんを知ってからのぼ くは……」 「ああ、それは、なにも言わないで……」 「いいえ、言わせて下さい。ぼくは、正直に告白すると、 ほかの女たちと、いくどか交渉をもちました。ところが、 奥さんを見てから、ほかの女たちが、とても下らない女ば かりだったとわかったんです。急に眼がさめたようなもの でした。青春を、今まで無駄にしていたのだと気がつい て、それから世の中が美しく見えてきました。朝起きてか ら寝るまでのうち、一分も休まずに、奥さんのことを考え ています。苦しいけれど、ぼくが、ずっと充実された感じ でした。そのかわり、奥さんがここで、どこかへ行ってし まっていなくなったら、ぼくは気が狂うんじゃないかと思 いました。それくらいいっしょうけんめいで考えて、何か 大声で怒鳴りたくなったりしました。一方で、奥さんをぼ くが恋するのは、いけないことじゃないかと反省する。し かし、掴みたいものを擱まずにいるってのは、卑怯なんで す。ぼくは勇気が出てきました。怖いものはなくなり、ど んなものにでも、ぶつかって行ける気がしてきました。藤 井さんが怪我をしたという。しかし、それはそれでかまわ ない。炭坑へ奥さんについて行こうと考えたのは、そのた めだったのです。他人が見て、どんな風に思っても平気で した。生死の問題と同じです。それをしなければ死ぬとい う時、他人の思惑で遠慮して死んだら、そいつは馬鹿だと いうことになるでしょう。ぼくにとってはこの世に奥さん がいるということが、ぼくの生甲斐になってきてしまいま した。そうしてぼくは、ほかには何も欲しくはない。ただ 奥さんの……」 笠原の腕が、夫人の腰へまわった。 夫人の身体は、木の切株から、笠原の膝へ崩れおちた。 「だめ! いけないわ」 「いいえ、奥さん!」 そうして、唇が、はげしく重ね合わされ、二人の息が、 からみ合って喘いだ。 林の向うの炭坑の方から、とつぜん、音楽の響きが流れ てきた。 若い従業員たちのブラスバンドだった。今夜は、月に一 回の慰安会だった。映画があり、漫才があり、素人演芸が あった。ブラスバンドが、その開会を知らせているのだっ た。 貴美子夫人が、クラブへ戻ってきた時に、藤井代議士 は、待ちかねたという顔である。 「どこへ行っていたのだ」 「裏の林を、歩いていたのよ」 「そうか。探していたのだ。東京へ、明日の朝、帰ること にするよ」 「、ら、ー」 「腰骨んところが、まだ痛い。しかし、無理をしても帰ら にゃならん。諸内の奴と喧嘩したよ」 「政治の話、うまく行かなかったのね」 「追い帰してやったんだ。はじめから、交渉の余地はありゃ しなかった。1しかし、議会へ出ないかぎりはどうに もならない。東京へ行ってから、奴らをとっちめてやる。 帰る支度をしておくれ」 有太は、しきりに気負い立っている。 政治の醜状を曝露し、中正党を相手どっての大喧嘩をは じめようとしていた。そうして、自分の妻のことは、まだ 何も気がつかずにいるのであった。 しかしながら、東京へ帰ってから、どんなことが起る か、それは貴美子夫人ですら、ぜんぜん予想がつかなかっ たのであろう。東京へ藤井代議士がもどってから、新しい 事件が起った。 それは、殺人事件であった。 鳩 の 街 一 空の色は、すきとおって晴れていたが、ラジオの予報が あった。昼すぎから風がはげしくなり、十米の風速をうけ た街路樹の葉が、緑色の大きな包みもののようになって、 起き上ったり寝たり、身もだえしている。 電燈が、まだ明るい街につきはじめ、窓わくを黄色くぬ った、重量感のある新型.ハスが走ってきた。 「H町……お降りの方はございませんか。H町……」 風をひいて咽喉へ湿布をまいた女車掌が、腰でうまく身 体のバランスをとりながら叫ぶと、平川洋一郎が高橋勇を 肘でこづいた。 「オイ、降りよう」 「え?」 「降りるんだよ。ここでi」 「ちがうじゃないか。まだだぜ」 「いいんだ、降りるんだよ!」 高橋勇は、わけがわからぬといった顔で、平川の眼をの ぞき、しかし、立ち上った。そうして、少しよろけなが ら、平川といっしよに。ハスを降りた。 「どうしたんだね、こんなところで?」 「いやだったんだよ。変な奴がのっていたよ。じろじろ と、ぼくや君の顔ばかり見ている。向うがわの席の、すり 切れた鞄をもっていたやつだ。もしかして、刑事じゃない かと思ったからね」 しかし、その刑事に似た男を乗せたバスは、べつに異変 もなく走り去った。平川が、それをじつと見送ってから、 アハハハと笑いだしたが、笑う顔は、醜く歪んでいて、唇 がビクビクとけいれんしているようだった。 高橋が、たばこを口にくわえたが、風のために、いくど やってみてもライターが消えた。腹を立て、パチパチと火 花をとばし、しまいにはたばこを噛んですてて、靴で踏み つぶそうとしたとたん、土ほこりといっしょの風が、その 白いほそいたばこを、道の向うのはしまで、吹きはらって 行ってしまった。 何もかも思うようにならず、気持が灰色だった。 「夕刊にゃ、ぼくらのこと、もう出ていないぜ。まア、こ のままですむと、うまいぐあいだが……」 ふいに、平川がいって、ポケットから新聞を出したの で、高橋はうけとってそれをひろげようとしたが、やはり 風が強くて、読むこともできない。 「朝刊も、そう大きく書いてはなかったから、いいあんば いさ。しかし、失敗だったね。あんなことになろうとは思 わなかった」 「池袋の時のように、知っている家にしなかったのが失敗 のもとだよ。はじめから、危険なような気がしていた。そ れを、南条がだいじようぶだっていったからね。あいつ、 まるでまだ子供だったのに……」 「南条もそうだし、小西だって、学校の帽子をかぶって行 ったからいけないよ。徽章だけは、ぼくが取らせたんだ」 「新聞に、学生風の集団強盗って出ているので、ギョクン としたよ。まア、それでも、ぼくたちだということは、ま さかまだわかっちゃいないと思うんだが・ …」 「心配だぜ。警察じゃ、手配つけるまで、詳しいことを新 聞に書かせないのかも知れない。ぼくたち、まさかと思っ ているうちにズキが廻ったりなんかしたものなら。1と にかく、園江にゃ困ったね。逃げる時、反対の方角へ逃げ やがった。ぼくは、うしろ姿だけ見たから、声かけようか と思ったけれど、かけられなかった。あいつ、泡喰ってい たから、つかまったかも知れないよ」 「いやだなア。園江がつかまって口を割ったら、ぼくらだ って、つかまっちゃうよ」 「形勢を見て、場合によったら、自首した方がいいかも知 れないね」 「うん、自首するか、高飛びするかだよ。とにかく、園江 のこと、確かめてからだ。これから行って、園江がいた ら、安心だものね」 今までに、もういくどとなく、くりかえして話し合った ことばかりである。その時、停留所へ、お婆さんと商人風 の男が二人きたから、平川が高橋に目くばせをして話をや めたが、二人とも、不安で眼がおちくぼんでいる。彼等 は、池袋での「あれ」を、もうよした方がいいと知ってい ながら、また昨夜ある家へ強盗にはいった。そして騒がれ て、一物をも得ずに逃走した。しかし、今朝になって見る と、新聞には記事が出ているし、心配でたまらなくなった から、例の四谷の麻雀クラブへ集合したが、園江新六だけ がやってこない。みんなで、園江はどうしたのかと話し合 った。園江も、そう問抜な奴じゃないはずだから、うまく 逃げたろう、という者もある。イヤ、あの時は、近所の人 たちも出て来て騒いだから、逃げられなかったかも知れな い、という考えもわいた。それから、小西貞が、中野で家 具店をやっている園江の家まで、様子を見に行ってきた が、どうやら家へも帰ってきていないらしいとわかった。 なにかどす黒いいやな気持が、むくむくと、彼らの胸の中 へふくれてきた。麻雀をやりかけたが、面白くもおかしく もなかった。鼻が曲ってついていて、笠原昇から、犯罪者型 だと罵られた園江の顔を思いうかべ、その顔が、ヤアといっ て入ってきたら、どんなにいいだろうかと考えたが、待っ ても待っても、その顔は現われない。彼らは、相談した。 そして、そうだ、園江は鳩の街へ入りびたりだ、こっちの 心配も知らないで、女と寝ているだろう、鳩の街へ行って みようということになって、平川と高橋とが、バスに乗っ て出かけたわけである。 「オイ、地下鉄にしようか。浅草まで行って、それから乗 りかえるといいよ」 と高橋がいったが、平川は賛成しない。 「地下鉄は、ぼくは好きじゃないな。だが、どうしてだ い、地下鉄なんて?」 「うん、ただ、そう言ってみただけだよ。バスだと、笠原 の下宿のそばを通るね」 「そうか。そうだったな。あいつは、いやな奴だよ。おれ は、借金をまだ返さない」 頭から、 一瞬だけ、園江のことがぬけた。 そうして、そこヘバスが来た。 さっきのより、ひどくこんでいて、天井のチュウブにつ かまっているのがやっとである。二人とも話はできなかっ た。学生が一人、図面や数字のたくさんに書きこんである ノートを、赤鉛筆でアンダラインをしながら、読んでい る。平川は顔をそむけて、そのまじめな学生を見ないよう にしていた。 二 鳩の街は、隅田川の向うの、低く湿った土地にあった。 昔はーというのは、戦争の前には、少しはなれた玉の井 がその場所だったが、今はここへきて商売をはじめた。女 たらが、洋装だったり、お振袖だったり、時には女学生の ようにセイラi服を着たりして、会社員や職工や、老人や 青年がくるのを待っている。世間には女が有りあまってい て、男の相手がない女がたくさんいるのに、ここでは女 が、一晩に十人もの男を相手にする。大胆で色っぽくて勇 敢だった。そして中には、白痴に近い女がいる代りに、英 語をべらべらしゃべることのできる女がいた。 鳩の街へはいる前に、 「腹がへったね」 「うんi」 平川と高橋は、屋台店の焼そばを食べた。ひどい匂いが して、ロへ入れると、胸がゲッとむかつくほどだったが、 鳩の街では金がいるかも知れない。だから、ほかのことで は、倹約をしなければならなかった。がまんして、のみこ んだ。ようやく腹ができた。 ふと気になったのは、平川は背広だが、高橋は学生服を 着てきたことで、昨夜の学生風の集団強盗について、もし かしたら刑事たちが、ここらで眼を光らしているかも知れ ず、だとすると、危険がひしひしと身にせまる思いがする のであった。見れば学生服も、高橋だけではない、ほかに も二三人そこらをうろついているのがあったから、ナニ、 かまうものか、平ちゃらな顔でいた方がいいと、度胸をき めることができた。 「わりに淋しいもんだね」 「宵の口だからだよ。それに、風がやめば、もっと人が出 てくるさ。平川君は、あんまりここは好きじゃないってい ったね」 「うん、芸妓の方が、ぼくは好きだよ。ここはまるで、怖 いみたいだね。さきに、どっちへ行く?」 「そうだな。ぼくの知っている方へ行こう。そこにいなか ったら、君が行った家だ」 高橋も平川も、園江の案内でここへ来た経験があるが、 高橋はつい十日ほど前にきたばかりで、その時に、園江の なじみ 新しい馴染の女を紹介された。痩せているし、口が狐のよ うにとんがっていて、小母さんみたいに年をとった女だっ たが、園江には、その女が気に入っている風だった。高橋 に話したところによると、女が園江に、あまりはげしく来 ない方がいい、学校のことも勉強して、お小づかいのあま りで、月に一度か二度来るようにしろ。そうすれば、うん と可愛がってやるから、と言ったそうである。同じこと を、真実の母や妹に言われても、嬉しくはない。しかし園 江は、ひどく喜んで得意になっていた。いるとすれば、そ の女のところへ来ているにちがいないという見込みだっ た。 家の名は、おぼえがない。 小さい道を三つ曲って、入口の柱を、青と赤とのペンキ で塗りわげた家がそれだった。 まっすぐに、二人はその家へ行ったが、たちまち失望し た。 狐の口をした女が、肌襦袢一つでお化粧をしているとこ ろだったが、園江はあの時っきり来ないのだといった。 「どうしたのよ。あの子、いなくちゃ、困ることがある の」 「うん、用があるんだよ。ほんとに来なかった?」 「来ないわよ。うそじゃないの。1それよっか、遊んで 行かない?」 「あいつがいないんじゃ …・」 「かまわないじゃないの。あたし、学生さんなら、誰でも 好きよ。二人でいっしょでもいいわ。ねえ、とてもいいこ と、してあげるからさー.」 痩せていると思ったが、肌襦袢から、丸い乳の玉がふく らんで見えている。 高橋も平川も、血が鳴ってきた。園江を探しにきた目的 を忘れそうになった。それから逃げ出した。 平川が、高橋より前に、園江と行った家は、おしるこ屋 みたいに作ってある。しかし、園江はそこにもいなかっ た。第一、園江をおぼえてもいない風だった。平川を相手 にした女も、いなくなっている。そうして、やはり遊んで 行けとすすめられた。 「困っちゃったなあ。おれ、心配になってきたよ」 平川が、歩きながらいったが、顔はそれほど心配そうで なかった。女に、手をにぎられたり、むりやりに抱きつか れたりして、気分が変ってしまった。心配にはちがいない が、急にはどうにもしかたのないことだった。あとで、ゆ っくりと考えた方がいいと思った。 いつの間にか、風がおさまってきていた。 高橋がいったように、人が多くなり、賑やかになった。 し ふん 脂粉や汗や食べものやの雑然たる匂いがする。女の笑い声 が聞えた。不思議に酔っぱらいはいなかった。果物を売る お婆さんがいる。りんごを買って、立ったまま、丸かじり にしている男がいた。赤い縞のアロハを着た男がきて何か 話しかけた。 「じょうだん言うなよ。おれは知らんよ」 「客の靴を持って逃げやがったんだ。君が出たすぐあと で、靴のないことがわかった」 「でもおれじわ、ねえさ。その証拠にゃ、何も持ってやしな い」 「それはそうだがね。まアいい、いっしょに来てくれ」 すぐに人だかりがして、面白そうに眺めている。まだり んごをかじりながら、けっきょくその男は、アロハの男と いっしょに、角を曲って姿を消した。 夜だのに、空気が熱くなり、汗が出た。 入浴して、ベタつく身体を洗ったら、きっといい気持だ ろうと思い、しかし、そんなことでは、おちつけないとも 思った。二人ともに、金をいまいくら持っているかと考え た。その金はどっちみち、長く身についている金ではなか った。昨夜の強盗が成功していたら、そんな金はなんでも ないもので、そう思うと、ヘマをしたのが、口惜しくなっ た。園江がつかまらずにいてくれるといい。そうすれば、 多分自分たちも大丈夫だろう。今度こそ、うまくやって、 もっと上等なところへ行くこともできるようになる。池袋 の銀行支店長のような家を、早く見つけなくちゃいけな い、などと考えた。 ついに、二人がはいった家は、とても汚くて小さい家 で、仕切りの唐紙など、ぼろぼろに破れていた。そうし て、二人ともに、不愉快になって外へ出ると、病気のこと が気になったり、また、さっきよりも園江のことが大きく 不安になってきた。 「もう、何時かねえ。ぼくは時計をグニヤ (質屋)へ持っ て行ったんだ」 高橋が、一刻も早く、この街を立ち去りたいというよう に、急ぎ足で歩きながら、急にふりむいて平川に訊いた が、平川は、 「うん、ぼくも、時計、忘れてきたよ」 てれくさい顔で答えて、それから、別なことを言いだし た。 「しかしぼくら、学校の方も、当分は休まない方がいい ね」 「そりゃ、そうだな。ノートがブランクばかりだから、試 験の夢を見ることがあるよ」 「試験はどうだっていいけどね、休んでいると、警察なん かで調べられた時に、ぐあいが悪いよ。そういや、藤井は、 このごろ学校へ行っているってね」 「まじめになったんだ。じきに、またグレはじめるだろう けどね。1あいつは、ここへ来たことがないんだよ。一 度つれてきてやろうか」 「うん、そいつは……よした方がいい。藤井にゃ、スケ(娘〉 がついている。可愛いい女だ。むりに、こんなヵイヤ(私 娼窟)へつれてくることないよ」 そうして、五六歩行ってから、ふいに平川が思いだし た。 「ああ、そうだった。園江のことは、藤井に聞いてみた ら、わかるんじゃないかな9」 「ふうん、どうしてだい?」 「藤非は、金を持ってきてくれたろう。金ではあいつは困 らないんだ。笠原のようなことはやらないし、藤井のとこ ろへ金を借りに行こうかって、園江のやつ、相談しかけた ことがあったぜ。昨夜、ぼくらと別れて逃げて、それから 藤井のところへ行ったかも知れないね」 「ああ、そうか、そういえば、そうだったね。園江は、ぼ くにも藤井のこと話したよ。藤井は、二階の書斎に、果物 籠に入れてその金があるってこと言ってたから、園江は、 藤井の家じゃなかったら、盗みに行くんだがなアって言や がった。。ハヵ言え、そんなことしちゃ、藤井がかあいそう だよって、ぼくがいってやったが、ほんとうだ、藤井に園 江のこと聞いてみた方が、早いかも知れないね」 少し、希望がわいてきた。 それに、園江が藤井のところへ行かなかったにしても、 その話のついでで、有吉から金を借りる話をもち出すこと もできる。 「これから、すぐ行こうか」 「いや、明日にしよう。今夜は疲れたよ」 そうして二人は、やっといくらか元気づいた顔になっ て、鳩の街をあとにした。 果 物 籠 一 「あなた!」 ドアをノックしないで、貴美子夫人がはいってきた。 はいるとすぐに、蠅が一匹、良人の枕もとの水差しにと まっているのを見つけたから、手で蠅を追いはらって、つ いでに、ベッドの毛布のはしをぴんとのばし、それから、 そばの椅子へ腰をおろして、うちわの風を、仰向きに寝て いる良人の顔へ送った。 「あついんでしょう。窓をあけといた方がよかなくっ て?」 「うん、さっき友杉がきた時しめてもらったんだ。あとで あけてもらおう」 「ええ、いいわ。それから、お腹はまだおすきにならな い?」 「も少したってからがいいね。キャビアのパン、うまかっ たよ」 「いいえ、今度は、もっとおいしいものつくるわよ。みん な、あたしが味付けしてるんですの。台所へあたしがはい ってやるから、山岸さん、びっくりしていてよ」 「ほう」 藤井有太は、妻の顔を下から見上げて、やはりふみやと 同じようにびっくりした顔つきになり、しかし、満足そう な微笑をうかべた。福島の炭坑から帰ってきて、もう数日 たっている。藤井代議士は二階の書斎にそなえつけのベッ ドへ、寝たきりになっているのであった。彼は、炭坑のク ラブで、諸内代議士と口論した。すぐに東京へ帰って中正 党攻撃の火ぶたを切ると意気込んだが、帰りの汽車がいけ なかったらしい。帰宅すると、腰から脊骨へかけてのはげ しい疼痛が襲った。帰った日に、それでも書斎へ上って何 か調べものをしようとして、がまんができなくなり倒れて から、そのままベッドを、はなれられなくなったのであっ た。 ふしぎだったのは、福島から帰ってくると、貴美子夫人 がまるで人が変ったようになったことである。 夫人は、実にまめまめしく、身うごきもできずにいる良 人の世話をやきはじめた。医師の指図で、疼痛部へ薬を塗 り湿布をする。新聞を良人に読んで聞かせる。電燈のシェイ ドが汚れていると気がついてすぐに新しいのに取りかえさ せた。窓へ草花の鉢をおいた。ベッドに香水をまいた。部 屋の換気や日光に気を配った。そうして、夜は、ベッドに 並んで籐の寝椅子をはこぼせて、その上へ夫人が寝る。そ んなにしないでもいい、疲れるからと有太がいうと、だい じょぶ、心配しないでよ、そばに寝た方が、あたしが安心 なのだから、と夫人は答えた。 こういう変化は、どこから起ったのか、ほかには誰も理 解するものがなく、しかし、有太だけが、わずかにわかっ ていたかも知れなかった。あの夜夫人が、とつぜんに、泣 きだした。そして有太を困らせた。 「どうしたのだ。え?」 「泣きたいのよ。泣いてみたかったのよ」 「君が泣くなんて、まごついてしまうよ。わけがわからな い。わしが、なにか、悪いことしたのか」 「ええ、そう。あなたがいけないの。あなたが卑怯だから l」 「どういうことかな。もっと、ハッキリいってくれ。卑怯 だなんてことは、ないつもりだ。ただわしは、君とは少し 年が違っている。そのことを、時々思ってみるのだが ……」 「それよ。それだわ。そんなことを、あなたは考えてい る。だから、しよっちゅう、だめなのよ。あたしが、ダン スへ行ったり、男の友達つれてきたり、それをあなたは、 だまって見て知らん顔しているのね。それは、あたしを、 ほんとうに愛していることにはならないんだわ」 「待て。それは君-1」 「いいえ、いいえ、どんな弁解するか、知っててよ。だけ ど、あなたがそういう風にしてあたしをほっとくのは、あ いじ たしを苛めるのと同じことだわ。そのくせに、自分じや、 卑怯な苛め方をしているんだってこと、気がっかない。そ れとも、実は、苛めてやろうっていうつもりでいるんで しょうか」 「バカ言え。そんなに陰険な人問にわしが見えるのかね」 「そうだったわね。それは、あたしの間違いだったかも知 れなくてよ。だけど、そうだわ。1たとえば、政治のこ とだったら、あなたはまるで夢中になってしまうわね。事 業でも政治でも、それにかかったらほかのことを、みんな 忘れてしまうでしょ。福島から帰ってらしてから、身体が きかない。そうして、諸内さんに使いを出して……いくど ゆうぜい も使いを出して、それでも諸内さんが、遊説に行ったのだ のなんだのといって、なかなか顔を見せないから、あなた、 じれてじれて、じれぬいて、病人車を呼んでこい、こっち から押しかけるなんていうでしょう。あたし、その気持が わかんないじゃないの。だけど、それだけにあたしのこ と、夢中になったことはなかったわね。いつでも寛大で冷 静だわ。この書斎のベッドで寝ていらっしゃる。病人に は、下の日本間の方がいいのに、書斎のベッドに、むりに 寝ていて……」 「ちがうよ。ひがんじゃいけないよ。わしは、ここの方 が、寝ているのに静かだから、好きなのだ。梯子だんの上 り下りが、たいへんだろうとは思うけれど …・」 「嘘おっしゃい。そうじゃないのよ。あたしが、男の友だ ちつれてきて騒ぐから、それを見たくなくて、書斎へ寝た のよ。だけど、そんなことは、一事が万事で、つまらない ことだわ。たいせつなのは、あなたが、煮え切らないで、 あたしをただ見ているっていうことなのよ。これじゃ、あ たしが、いつか何かの穴の中へおっこっちゃっても、あな たは上から覗いて見て、顔色も変えないかも知れないわ。 穴がまっ黒な口をあけて待っていても、あたしはずんずん と、その穴のふちへ歩いて行ってしまう。それでいいんで しょうか。女ってもの、どんなに利口だからって、芯は弱 くて小さくてバヵなんだわ。利口ぶっているうちに、すっ かりとくたびれてきてしまうの。ほんとに赤んぼになっ ちゃいたい。それを、あなたっていう人、少しもわからな いでいらっしゃるのだから……」 有太は、全身に甘味な情熱がわくのを感じ、この妻は、 死んだ先妻の節子とは、べつな愛し方をせねばならぬのだ と諒解した。身体のきかないのが口惜しかった。そうし て、たいへん満足な気持で、それからの日を過してきたの である。 貴美子夫人の変り方については、むろん、有太だけでは なく、邸内のものが、誰も気がついていただろう。 有太への見舞客がたくさんにきたが、そのほかで夫人を 訪ねてきた客は、全部、玄関で断わりを言われた。奥様は お目にかかれません、といって追い返す。笠原昇が、二度、 やってきた。しかし、これも簡単に面会を拒絶された。一 度は電話をかけてきて、その取次に友杉が出た。友杉は、 笠原の声だとわかっただけでガチャリと電話を切り、受話 器をはずしっぱなしにしてしまったー。 「そうだったな、忘れていたが、会社から電話がかからな かったかね」 「ええと、どういうお話?」 「硬化油工場の敷地の問題だよ」 「ああ、あれね。気になるのでしたら、あたしから会社へ 聞きましょうか」 「そうしてくれ。金が足りないかと思う。そうしたら、銀 行へわしから話をしなくちゃならない」 「わかりましたわ。じゃ、ー」 夫人は立ち上った。 そして階下へ降りてきたが、その時、玄関に客があっ た。 客は、有太が待ちあぐねていた諸内達也代議士であっ た。 二 「いくども使いをくれたそうだね。イヤ、失敬したよ。遊 説で関西へ行っていたんだ。それに、福島じゃ、喧嘩別れ したからね、アハハハ」 有太が、寝たままだから書斎へ通され、諸内代議士は、 例の豪放な笑いを爆発させた。 「しかし、君の方から会いたいというのは、心境の変化が あったというわけだろうね。そう思って、ぼくはやって来 たぜ。今日は、院内で代議士会さ。総裁が、君のことをぼ くに訊いた。御心配御無用、万事はわが方寸にありと答え てきた。どうだい、もうこの辺で、ぼくの顔立ててくれよ」 劉 『うむ、立ててあげたいとは思うんだがね、ぼくは寝てい て、いろいろと考えたんだよ。そうして、実は、とんでも ないことを思い出してしまった。それを君に話したくて ね」 「ふうん、どういうことだね」 「まア、あわてなくてもいいだろう。それは、非常に重大 なことで、しかも、ぼくの考えとちがっていたら、まこと につまらないことだったということになるのだ。ぼくとし ては、重大になってもらいたくない。ぼくの杞憂ですんで くれたらありがたいと思う。それが政界の威信を、より以 上傷つけることになったらたいへんだからね」 有太は、相手の眼をまっすぐに見て云ったが、その時 に、ふみやが茶をはこんできた。諸内代議士は、有太の意 味ありげな言葉で、いやな顔つきだった。そして、ガブリ と茶を飲み、むりに眼を笑わせていた。 「イヤハヤ、顔を合せるとたんに、爆弾的言辞を弄するか ら、どうも君にゃ、話がしにくくなるんだよ。重大だの、 つまらないだのって、どういうことだね。ま、ハッキリそ いつを言いたまえよ」 「言ってもいいさ。しかし、そこのテーブルに、紙ばさみ があるだろう?」 眼で知らせたテーブルを、諸内代議士がふりむくと、 「それだ、表紙の青いやつだ。その中に、新聞の切抜がは さんである。それを読んでみてくれたまえ。ーイヤ、ち がう。小さいんだよ。うむ、ぼくの書いた感想文やなんか のうしろだ……」 有太が、自分で手を、出しそうにしていっている。 切抜を、諸内代議士は、やっと見つけ、それを紙ばさみ から抜きとった。老眼で、眼鏡がないと、読むことができ ない。ハンケチで、ゆっくりと玉をふいた。 「それはね、寝ていてふっと思い出したから、古新聞を書 生に探させ、切抜にしたのだ。どうだね、ぼくがそれを切 抜かせたということで、なにかドキッとするようなことは ないかね。ないとすれば、さっきもいったが、ぼくもあり がたい。単なる杞憂であってもらいたいのだ」 有太は、ベッドから話しかけたが、諸内代議士は、返事 もせずに、切抜を読み、そうして、ジロリと有太を見かえ した。 その切抜の記事は、ある男が不思議な家出をしたという ことを知らせたものである。男は大して有名ではなく、し かし、追放になったもと将官級の軍人だった。そうして、 家出後の消息がわからない。どうやら神経衰弱の気味があ ったようだし、生活が苦しく借金もできていたなどと書い かとうあぎら てあった。加東明という名前である。 相手の表情を見つめようとして、有太の眼つきがきつく なり、諸内代議士は、それをまた十分に意識して、わざと おちつきはらっているように見えた。切抜を、二度もくり かえして読み、それから銀製の葉巻ケースをひっぽりだし た。 「イヤ、どうも、これはね……」 「おどろいたろ」 「うん、べつに、おどろきはしないさ。……むしろ、変だ と思うよ」 「というと、その記事では、何も心当りがないというわけ かい」 「そのとおりだ。これはこれだけのものじゃないか。元陸 軍少将加東明が、敗戦日本で生活苦に陥ちた。そして行方 不明になったというだけのことだろう。いったい君はこの 人物を知っているのかね」 「知らないこともないよ。軍人だったが、政治が好きな男 だね。追放にならなかったら、選挙で名乗りをあげたにち がいないのだ。ことに中正党とは、浅からぬ因縁があった はずだろう。ちがうかね」 「大ちがいさ。因縁などは、少しもない。第一、追放なん だから、政治運動とは絶縁されていたんじゃないかい。ど うも、わからんね。この男の行方不明が、なぜそんなに君 の心配する重大事なんだか1誰か君に、そういう意味の ことを、話した人間でもいたというわけかい」 「イヤ、べつに、そんな人間がいるのじゃないよ。この記 事に目をつけたのは、今のところぼくだけだ。新聞を探し て切抜をつくった書生も、意味はよくわからなかったと思 う。しかし、ほんとうにどうだ。加東明の失踪事件は、君 及び君の属する中正党と、なにも関係がないということ を、誰の前でも断言できるか」 「できるよ、もちろん!」 事もなげに答えて諸内代議士は、うすい笑いを頬にきざ んだ。 「君、よしたら、どうだい。バカなことで、時間をつぶし たってしかたがない。ねえ、お互いに、肚と肚とで行こう じゃないか。子供の喧嘩じゃないのだよ。この切抜は、せ っかく君が見つけたもので、君が重大な意味があると考え たものだから、記念としてぼくが貰って行こう。但し、も ちろん、重大でもなんでもありはせんが、要するところ、 けいこう 君はあまりに直情径行の士であり過ぎるということになら なければ幸いだ。角をためて牛を殺すの譬えもある。そこ を考えてもらいたいよ」 ここらで妥協しようといっているのである。表情が、図 太くなってきている。そうして、うまそうに、葉巻をくゆ らすのであった。 藤井代議士は、天井を見たまま、しばらくのうち、だま っていた。 そして、枕もとのベルのスイッチを、三度押した。 呼りんは、階下へ通じている。一度押せば友杉で、二度 がふみや、三度が貴美子夫人ときめてあった。じきに足音 がして、夫人が顔を現わした。 「ごめんあそばせ。あたくしをお呼びになりましたのね」 「うむ。そこにある果物籠だよ。それを、諸内さんに、持 って帰っていただこうと思う。ーイヤ、諸内君。こいつ はね、受けとれないよ。福島では、君の方から、引取りに くるという話になっていた。だから待っていたが来てくれ ない。物が物で、使いに持たせてやったにしても、間違い が起ったり、君が留守で、うやむやに受けとられたんじゃ 困るから、気にしながらここへ置いたのだ。今日はぜひと も持って帰ってもらうぜ。1こっちは、手をつけず、中 を調べても見ず、家内が君から、むりやりに預けられた時 のままにしてあるよ。ねえ、お前、そうだったね」 「それにちがいございませんの。この果物籠のおかげで、 主人からあたくし、とっても叱られてしまったんですよ。 預かったのが、受取ったことにされるんですって。さア、 どうぞ諸内さん。あなた、そんなあたくしまで困らせるよ うなこと、なさるはずがございませんわね」 えん然と唇をほころばして、首をかしげるようにして言 われたので、諸内代議士は、思わず「やアどうも!」と頭 をかいた。それから、ためらったが、けっきょく、 「そうだね。まア、君がそれほどまでに言うんだから、こ いつはぼくの敗けにしておくか。よし、逆戻りにするよ。 なアに、また筋を変えて、誰かをよこすかも知れんがね」 そういって、等分に有太夫妻の顔を見くらべ、額の汗 を、ハンケチでふいた。 書斎の片がわの壁に、タイル張りの小さなマントルピー スがあり、その上に問題の果物籠がのせてある。 諸内代議士は有太に背中を見せてそこへ近づいたが、包 装紙にちょっと手をふれて、 「しかし、籠の方はがまんしてもらうぜ。中身のかんじん なとこだけ、持って行く。イヤ、かんじんでない、ほんと の果物だってはいっているんだが、あの時のままほっとい たんじゃ、腐ってしまっているだろうね」 言いながら、包装紙をめくって中をのぞいたが、とたん に顔色が動揺した。 彼は、ゴソゴソと、籠の中をかきまわしていた。一度、 ふりむいて藤井代議士の顔を見つめ、また籠の中をしらべ 直してから、今度はアハハハと笑いだした。 「藤井君。よせよ、じょうだんは……」 「え、何がだい。何がじょうだんだね」 「ふざけるのも、ほどほどにするんだな。ぼくは、本気に していたぜ。イヤ、敬服した。完全に降参だ。君にして、 かかる肚芸ありとは、不肖諸内も知らなかったね。アハ、 アハ、アハハハ……よろしい。これは大いによろしい。籠 が、こんなものじゃ、気に入らなかったのはもっともだ。 百万円以上とぼくが主張したのに、総務がケチで、まア瀬 踏みに、二十万円にしてみうって言ったんだよ。むろん、 二十万ぐらいで、藤井君ともあろうものが、目をつぶって 通すとは思わなかったさ。わかったよ。早速ぼくが帰って 相談する。君が満足するだけの処置をとるよ!」 有太夫妻には、意味がわからなかった。 「オヤオヤ、どうしたんだね諸内君。何を君はいっている のだね」 「とは、また、ひどく白ばっくれたものじゃないか。え え? 藤井君」 「困ったな。白ばっくれてなんか、いやしないぜ。誤解は この際、めいわくだよ」 「へええ、誤解かね、これが。金は、一万円のさつ束を二 十個入れといた。そいつを、君はとっておいてね」 「待て……というと、金がそこにないのか」 「ありゃせんよ。梨とレモンが腐っているだけだね」 「それは、オイ、ほんとうか?」 「おどろいたな。まだそんなことをいってるのかい。影も ないじゃないか」 「えッ!」 夫婦はいっしょに、声をあげた。 前兆 果物籠の中の金は、ついに、盗まれたのだとわかった。 有太夫妻は炭坑のクラブで、果物籠を預かったことにつ いて口争いをしたが、まさかそれが盗まれようとまでは思 っていなかった。性質のよくない金である。預かっただけ でもいけなかったのに、盗まれて紛失したのでは、事態が ますます悪くなるかも知れない。すでに諸内代議士は、そ れを皮肉に誤解して、有太が金を取っておいて、なおそれ 以上の金を要求しているのだろうといったくらいである。 そういう誤解がおこるのも、むしろ当然だった。ここでよ ほど賢明な処置をとらないと、藤井有太の政治的生命、ま た社会的信用が、この一角からして崩れかけてくるという ことも、十分に有り得るー。 「こんなことになるなんて、あたし、思ってもみませんで したわ」 「ぼくも、意外だよ。君が、そのまま手をつけずに置いて あるといったから、そうだと思っていた。包み紙のぐあい が変になっているとかなんとか、掃除の時にでも、気がつ かなかったのかねえ」 「お掃除は、山岸さんがしたり、あたしがしたりです。そ う言えば、ハタキをかける時、包み紙のはしっこのところ が、少し凹んじゃったような気がしたことはあるんですけ ど、でも、盗まれるなんて……」 「受取るべき筋合の金じゃない。そっくりそのまま返すつ もりでいたから、注意が散漫になっていたのだね。いった い、預かってから幾日になる」 「炭坑のストライキで、あなたが福島へお立ちになったあ の晩からですわ」 「というと、もう、十日の余になるだろう。十日どころ じゃない。二週間を越しているかも知れない。その間、ず っとここにほったらかしておいたんじゃ、盗む気がありさ えしたら、盗めるわけだよ。家の者は、籠の中に金が入っ ていることを知っているね」 「ええ……それは、知っていると思いますわ ですけ ど、家の者でなくって、外からだって……」 「それは、そうだね。この室は、戸締りがよくない。窓の 挿込錠が壊れている。バルコニーからでも上ってくると、 らくに忍びこむことができるからね」 有太夫妻が話すのを、そばで聞いていた諸内達也は、な るほどという顔でうなずいたり、立ち上って、その壊れて いるという窓の挿込錠のぐあいをみていたりしたが、しま いに、ニヤニヤ笑って有太の顔をのぞいた。 「イヤ、藤井君。もう、いいじゃないか、金の話は」 「いいことないよ。盗まれたのは、こっちの不注意だっ た。これは、ぼくの方で責任を持たなくちゃなるまい」 「へえ。責任を持つって、どういうことになるのだね」 「君が無理押しつけに果物籠を置いて行ったから、こっち はそれで、とんだ迷惑を蒙ったようなものだ。1誰か金 を盗んだものがある。それはゆっくり調べてみることにす るが、調べてみて、わかったにしろ、わからないにしろ、 金だけは君に返すつもりだ」 「そうかね。返すってのなら、返してもらっても悪くはな いさ。しかし盗まれた金が出てこないと、君の損害になる んじゃないかい。どうせ、領収書の必要のない金だったの だ。無理に返さなくてもいいのだよ」 「イヤ、返す。ぜったいにこれは返さなくちゃならん。金 は…・.・こっちじゃ、内容を調べてもみなかった。一万円の 束で二十個あったというのは、たしかだね」 「たしかだとも、諸内達也、そんなことで吹っかけを言や せんよ」 「よし、わかった。金額は、君の言うとおりだと信じてお こう。小切手でもよければ、すぐ書くが……」 「待った、小切手は困るよ。現金にしてもらいたいね」 「よろしい。それも承知した。現金では、今すぐというわ けにいかない。しかし、今度はこっちから届けるからね」 性質が潔癖だから有太は、盗まれたにしろ盗まれないに しろ、金は返すのだといって頑張ったが、その押問答のあ とで、また有太が言い出したのは、元陸軍少将加東明とい う人物の失踪事件についてである。 金は、災難とあきらめて、自分の金を出しても返す代 り、加東明についてはなお疑念がある、それを調査するの だと有太は言い、諸内代議士は、フン、加東のことなど、 べつに関係はないだろう。それよりも、やはり中正党への 入党を再考してもらいたい。それだと、もう何も問題はな くなるのだから、と喰い下って話を元へ戻そうとしたが、 けっきょく二人の話は、同じところをぐるぐる廻っている だけで、ケリがつかない。 彼等は、時々皮肉な冗談をとばし、大きな声を立てて笑 った。 しかし、しまいにこの二人の代議士の間には、何か目に 見、兄ぬ険悪なものが、もやもやと立ちこめてくるかに感じ られた。 そうして諸内代議士は、 「うん、忘れていた。今日は土建業者の会合があってね。 ナニ、顔を出しさえすればすむのだが、これでともかくお 暇するよ。ああ、奥さん、どうも長時間、おじゃまでし た」 そういって急に帰って行ってしまった。 諸内代議士を、玄関まで送りだしてから、二階へ戻った 貴美子夫人は、ベッドの上で天井を睨むようにしたまま黙 りこんでいる良人のそばの椅子に腰を下ろし、疲れたよう なため息をついた。 「ねえ、あなた。……あたしがやっぱりおバカさんだって こと、やっとよくわかったわよ。あんなもの、大したもの じゃないと思って預かったのが、間違いのもとだったわ ね」 「そうだね。預からない方がよかっただけは確かだろう。 しかし、できてしまったことは、しかたがない。それに、盗 まれさえしなけりゃ、よかったんだ。盗まれたのは、君だ けじゃない、わしも不注意だったのだからね」 「そういって下さると、ありがたいわよ。あたし、あなた が気の毒で、諸内さんの顔を見ていると、腹が立って、腹 が立って、たまらなかったの」 「あの男と話をしたら、べつになんでもないことでも、腹 を立てたくなることがよくあるのだ。慣れているから、わ しはおどろきはせん。そうしてね、実はわしは、君が思っ てくれるほどに気の毒でもないよ」 「ま、そうですか。どうしてですの」 「あいつと話していて、ある確信が胸の中へわいて来た。 あいつを、ガンとやっつけてやる手段を考えだした。これ ほ重大なことでね、非常に慎重にやらなきゃならんことだ が、ともかく切札を一つ発見したのだから、もうぜったい にわしは、あいつや、あいつの仲間たちに敗けることはな いと思う。矢でも鉄砲で本持ってこいでね。その点、わし は、気の青どころじゃない、たいへん愉快だと思ってい る。1もっとも、ただ一つだけ困るのは、金が盗まれた ことでね」 「とんだ損害でしたわね」 「イヤイヤ、損害のこと、いってるんじゃないのだよ。な アに、二十万や三十万、べつに大した金じゃないんだが、 盗んだのが誰かということを調べにゃならん。それが、わ しはいやなのだよ」 「と、おっしゃると……あなたも、あたしと、同じこと考 えていらっしゃるんじゃないか知ら」 「ふーん。君は、どう考えている?」 「言いたくないのだけれど、盗んだのは、家の中の者じゃ ないかっていうこと……」 「そうか。そう思うか」 「さっき、諸内さんの前で、あなたが、家の者は金のこと 知っているかとお訊きになったでしょ。あたし、果物籠を 諸内さんが、むりに押しつけておいて行った時のこと思い だしたわ。その時、玄関には友杉さんと山岸さんとがいた だけで、有吉ちゃんはいませんでした。だから、正確に言 えば有吉ちゃんは、お金のことを知らないはずで、でも、 その後にあなたやあたしが、福島へ行ったりなんかしたか ら、このお部屋へはいつでも自由に入ることができたはず ですわね。あたし、有吉ちゃんのことを考えると、口がき けなくなったんです。家の者だけじゃない、外からだって 盗みに入ることができるって言ったのは、諸内さんの手前 だけ、わざとそう言っといたのよ。むろん戸締りが壊れて いるのも、ほんとうですけどね」 「わかった。ありがとう。君の考えと、わしの考えとはま ったく同じだよ。1金を盗むようなやつはほかにはいな いのだ。友杉も山岸さんも、まことに正直で信頼のおける 人間だ。有吉だけが、時計を持出したり写真機を売ってし まったりする。わしは、知っているつもりなのだ。呼びつ げて小言をいったこともいくどかある。しかし、叱ると、 .逃げてしまって近づかない。実に困ったやつだね。金は、 有吉が盗んだのにちがいないよ」 深い苦悩が有太の表情に浮んだ。 夫人もそれを、慰さめる言葉がないようであった。 判どうするのがいいかね。有吉を呼んで叱ってみるか ……」 「ええ、それはね……」 夫人は、考えてから、答えた。 「有吉ちゃんのことは、あなたにも、あたしにも、責任が あるような気がしてならないのよ。あたしだったら、有吉 ちゃんを叱るなんてことできません。あなたにしても、叱 うたら反抗するばかりね」 「というと、黙ってほっとけというのかい」 「ほっとくんじゃなくて、叱るかわりに、もっともっと可 愛がってあげたらいいと思うわ」 「うむ」 「お金のことは、友杉さんからでも話してもらって、二十 万円を、まだみんな使ったんじゃないでしょうし、返せる だけは返させることにしたらよろしいわ。友杉さんなら、 有吉ちゃんがすっかり敬服してるんですから、きっとうま くやってくれますわ」 賢明な考えだった。 有太は、なるほどとうなずいた。そうして、眼の先きが 明るくなったような顔をした。 二 「まるで、バカづきだね。ひょっとこのたきびだよ」 「なんとでもいうがいいや。も少し、お時間を拝借しよ う。十本、つんでみせるからね」 「まだ上るつもりだから、やりきれない。三万点のトップ じゃないか」 「満貫、もういっぺん、やるんだよ。そら、いうことを聞 いて、六と出ろ!」 有吉は、すっかりと、いいきげんだった。 シャイッをふると、言った目の六にはならなかったが、 パイ 四と六との十が出たから、牌のとりどころは、思ったとお ナンチヤ レンチヨアン りの南家からで、やはり連荘が、できそうであった。 相手は、高橋と平川と、もう一人がどこかの会社員で、 場所は神田の紅中軒という麻雀クラブだったが、うしろに は友杉成人がついていて、有吉の麻雀を見ながら、勝負の 終るのを、じっと待っているのであるー。 実はこの日有吉は、いつものように学校へ行ったが、す ると高橋勇と平川洋一郎とが、牛込の有吉の家へ行くのは 気が引けたのか、学校の門のところへ来て、有吉を待ち伏 せしていたのであった。平川も高橋も、強盗で失敗したこ とは有吉に話さない。しかし、園江新六が、もしかしたら 有吉に会いに来たのではなかったかと訊いた。有吉は、考 えてみて、ウン、園江は四日ほど前に、金を貸せといって 来たことは来たが、都合が悪くてだめだと断わると、もう それっきり来ないよ、と答えたから、四日ほど前というの なら、強盗を失敗してからのことではないのだとわかり、 高橋と平川とは、いささかがっかりしたような顔つきにな ったが、さてそのあとは、久しぶりに麻雀でもやろうかと いうことになって、有吉はつい誘惑に敗けて、クラブへ来 てしまったというわけである。友杉の方は、有太夫妻に二 階へ呼ばれた。そうして、有吉のことを頼まれた。ところ が、この日に限って有吉が、待てども待てども家へ帰って 来ない。夜になってから彼は、思いついて四谷の麻雀クラ ブへ行ってみたが、そこには例の五人の仲間のうちの南条 真が一人きりいて、有吉の行きつけのクラブだったら、神 田にも一軒あるのだということを教えてくれた。ようやく 紅中軒を探しあてて来てみると、うれしや有吉はそこにい でくれたが、すぐに帰るという気にはなれないらしい。腕 力でつれ戻すということも面白くなく、時間がついに十二 時を過ぎそうになった。では、これが最後のあと一荘だけ ということになって、有吉がすばらしく勝ちはじめたか レンチヨアン ら、連 荘がもう七回もつづいてしまったのであった。 八回目の有吉の連荘t。 有吉は、ピンホーのリーチ、ツモで上ったから、また三 千点以上をかせいだ。 「オイ、もういいかげんにしろよ。いくら勝ったらいいん だい」 高橋が、面白くない顔でいったが、 「勝てる時に勝っとくんだよ。五万点かせいだら、ドロン ゲームにしてもいいや」 と、平気である。平川も、 テノホウ 「勝つのはいいが、勝ち過ぎるのは、気味が悪いぜ。天和 やって、帰りに電車で轢かれて死んだやつがある。藤井が 十回連荘したら、何かきっとよくないことが起るね。さ ア、チョムポでもして、落ちてしまえよ」 とからかったが、 「ううん、だいじょぶさ。iそう、リーチだ。ツモロン!」 と叫んで、また九回目を上ってしまった。 友杉成人は、がまんして、待っている。 有吉は、宣言どおり、十回の連荘をやり、十一回目、 シイチヤ 西家の闇テンをうちこんだ。そしてその次に、やっと勝負 が終った。 千符が百円の賭けで、それにウマがついていたから、最 後の回の有吉の勝ちは四千円に近く、しかし、高橋は赤い 顔をして、今夜はコテンバアにのされた、この次までノリ にしてくれといったので、いいともいいとも、ナニ、都合 のいい時に返してくれ、と有吉はえらそうに笑って答えて いるのであった。 もう、たいへんに遅い。省線電車も、多分なくなってい るだろうという時刻だった。 高橋と平川とは、どうする、困ったね、徹夜して麻雀う った方がいいが、有吉が帰るのじゃ、クラブのマスター入 れてやるよりほかないね。でも、マスターは、ノリになる と承知しない。服でも靴でも置いて行かせるからいやだな アと話し合い、けっきょく古本屋の小西貞が近くにいる、 そこへ行って泊らせてもらおうということになった。 「有吉君は、帰ろうね」 「ええ、もう、勝ち飽きたから」 「よかったですよ。牛込まで、そう遠くはない。歩いて行 きましょう」 そうして友杉は、有吉に逃げられぬように用心して、九 段から市ケ谷への電車通りを歩きだした。 「ずいぶん、待たせちゃって、すみませんでした。1友 杉さんは、ぼくの麻雀見ていて、びっくりしなかったです か」 「そうだな。びっくりしたですよ。とてもついていた。そ れに有吉君は、強引だから……」 「ぼくの強引なのは有名なんですよ。テンパイしたら、お ちないんです。だから、とてもでっかいやつ、ぶちこんじ まう代りには、みんながぼくをブルカムで……怖がるって いうことですよ。怖がって、向うでおちてしまうし、ぼく チイトイツ はカンがいいから勝つんですね。さっきの連荘の七対子、 パア ぼくは八ピンがいいってこと、チラッと頭の中で思ったか ら、わざとブリテンの八ピンで待ってツモっちゃった。い つか、ほんとに友杉さんとやりましょうね」 「やりましょう。ぼくだって、カンがいいし強引だから、 有吉君に敗けやしない」 「どうだかな。ぼくをのせるようだったら、ぼくが感心し てあげるけどな……」 友杉が、いやな顔もせず、黙って見ていてやったから、 有吉は気を許して友杉に、麻雀のことばかり話しかけてく る。競馬や賭博では、大人でもそれはあることである。勝 負のスリルを回想し、ほかは何も考えず、夢中になってい るのであった。 友杉は、果物籠のことを話しだすのに、当惑していた。 まだ何も言わないでいたから、帰宅の遅れたのを心配して きてくれたのだとばかり思っている。だのに、金を盗んだ のかどうかと、問いつめねばならない。場合によったら、痛 い目を見せねばならぬこともあるだろう。有太夫妻に期待 されただけのことが、できるかどうかわからない。罪を裁 くのではなかった。恥かしめてもよくなかった。そうして 有吉に、こちらからではなく向うから、進んで金のことを 話してもらいたい気持だった。 九段の電車の曲り角へ来ると、巡査が二人を呼びとめ て、こんなに遅くにどうしたのかと訊いた。 径しいものではない、知人のところで話しこんでいた、 自分たちは代議士藤井有太の家の者であると答えてそこを 通りすぎた。 そして、そのあとでようやく友杉は、今日家へ、諸内代 議士が来て、果物籠の中の金がなくなっているのがわかっ たと話しはじめた。二十万円あったのだという。しかし、 盗まれたので、有吉の父親は不利な立場に追いこまれた。 せつ 清廉潔白を以て誇りとする藤井代議士の、節を買い取ろう とする金を、そのまま着服したのであろうとまで言われ た。これは、どうだろう、有吉君に責任はないのであろう かと問いつめた。 「いいかね、有吉君、誤解しちゃだめだよ。君のお父さん は、金を盗まれたので、腹を立てているのじゃ決してない ですよ。腹を立てるどころか、こんな風になったのは、お 父さん自身、責任があるのじゃないかと考えている。そう して、有吉君がやったことだとしても、有吉君を叱ること はできないのだといっておられる。君は、そういうお父さ んを気の毒だと思ってあげなくちゃいけないのじゃないか ねえ。1良いとか悪いとか、それをきめようというので もない。善悪の判断は、有吉君が自分でできることですか らね。ぼくとしては、お父さんから頼まれたのを、あまり 嬉しくないお役目だと思ったが、しかし、ぼくが頼まれて よかったと考えて、引受けてきた。というのは、ぼくが有 吉君を、ぼくに向ってまで嘘をつく人間だと思っていない からなんです。ぼく自身も、何かほんとのことを話すのに は、ほかの誰より、有吉君がいちばん話しやすい気がす る。それはぼくの喜びなんだ。かくさずに、何でも話すこ とのできる友人を持つことは倖せだからね。そうじゃない か有吉君。そうして、むろんぼくは、君を信頼していてい いのだろうね」 金を盗んだことを白状させる方便としてではなく、友杉 は、真実それを感じていて、そのとおりにいったのであ る。心配したのは有吉が、金のことだから嘘をついて、盗 みはしなかったと言張る場合で、そうなったら、もう絶望 だと恐れていたが、幸いにして有吉は、一つずつ友杉の しゃべる言葉を胸の奥で噛みしめて聞いているようであっ た。 富士見町をぬけ、市ケ谷の駅の前へ出て、それから、牛 込の高台への坂へかかった。 坂を上りきると、間もなく藤井家である。 その時、ふいに、へんなことが起った。 頭の上の方で足音がして、誰かが坂を下りてきたようで さと ある。友杉は、有吉に、まだいろいろと説き諭すようにし て話しつづけていた。その声で、坂を上って行く二人に気 づいたのであろう。足音の主は、急に向うへ引き返し、坂 を急ぎ足で上って行った。そうして、しまいにバタバタ と、走るような足音になり、それっきりどこかへ行ってし まった。 何か不安を感じさせるような出来事でもあるし、また、 それほど大したことでもないという気がするー。 二人は、立ちどまって、今の足音が消え去るのを聞いた が、べつにそのことについては口を利かず、また坂を上っ て行った。 そうして、坂を上りきったところで有吉は、友杉が待ち 設けていたとおりに、金は彼が盗んだのだとハッキリ言っ た。 友杉は、嬉しくなり、また道の上で立ちどまると、前へ 廻って有吉を、しっかりと両腕でつかみよせていた。 「ああ、よかったよ、有吉君。ぼくは助かったような気が するよ」 「そうですか。心配かけて、すみませんでした。ぼくは、 友杉さんになら、しゃべることができるんですよ。ーほ んとはぼくはあの金は、ぼくが持出して使っても、そんな にめんどうなことが起る金だとは思わなかったんです。政 治家なんて、収賄だとか買収だとか、しよっちゅうやって いるんでしよう」 「そう。それはあるね。しかし、まじめな政治家だってい るんですよ。君のお父さんみたいな人もね」 「そうだな、お父さんは、政治家としたら、まじめな人の 方でしようね。1だけど、あの時は、ぼくの友達が、金 がなくて困っていたものだから」 「友達に金をやったのですか。金は、二十万円だったとい うんですよ」 「ぼくは、ゆっくり数えなかった。だから、二十万か三十 万の間だと思っていました。そのうち、五万円だσ、友達 のとこへ持って行ってやって、あとは一文も便わないんだ けど……」 「と、いうと、あと、十五万円は残ってますね。それは、 どこにおいてあるんですか」 「お父さんの書斎ですよ」 「え?」 「ぼくは、全部盗み出してきても、あとで金がなくなった のだとわかった時に、どうせぼくに疑いがかかるだろう し、疑いがかかったとなったら、ぼくの勉強部屋なんかへ かくしておいても、きっと見つけられてしまうと思ったか ら、果物籠からは持ち出したけれど、やっぱしお父さんの 書斎のうちへ、そっとかくしておいたんですよ」 「そうだったのですか、イヤ、こりゃおどろいたなア。お 父さんの書斎から、あとでまた持ち出すつもりだったのだ ね」 「まア、そんなところですね。持ち出したかったんだけれ ど、福島から帰ってきてお父さんが、書斎へ寝ることにな ったから、すっかりだめになっちゃったんです。園江って やつが、金を借りに来て、それもそんなわけだから、貸し てやることができませんでした。1でも、今になってみ ると、よかったですね。書斎へかくしたから、まだ十五万 円、ちゃんとそのままであるんですよ」 その書斎の金のかくし場所は、書棚の一番下の隅に、上 下二巻の『日本史略』という書籍がある。箱入りの厚い本 で、本の中身は有吉が、実はもう三ヵ月ほど前にぬいて取 って古本屋へ売ってしまったのを、父親の有太が、まだ少 しも気づかずにいる風だったから、箱だけが背をこちらへ 向けてちゃんと立ててあって、その箱の中へ、紙幣の束を 二つに分けて入れておいたのだと、さすがに有吉は、やや 気まり悪げな笑い声を立てていうのであった。 ついに友杉は、ここでは、少々おかしくなってきてい た。 金が、どこへも行きはしない。やはりめの書斎のうちに あるのを、誰も知らないでいたのでめる。 五万円だけ減ったのはしかたがない。わかっていたら、 五万円だけ足して、その場で諸内代議士につき返してやる こともできたのであろう。 が、これでともかくも、有太夫妻から引受けたむつかし い役目は、無事にすましたと思うと気もゆるんで、 「しかし、お父さんたちに話したら、お父さんだって、笑 いだすにぎまっていますよ。本の箱にかくしとくなんて、 うまいこと考えたからね、有吉君も 」 友杉は、わざとふざけていって有吉の背中を、ドシンと どやしつけたくらいである。 その時は、あと数分とたたぬうち、いかなることが起る かを、友杉も、有吉も、まったく予期しないでいたので あった。 彼等は、やがて、家のすぐ近くまで行ったが、すると、 ほとんどいっしょに、誰かが向うからきた。 靴の音が軽く、小刻みだった。 そうして 門燈の明るみで、それは貴美子夫人だとわか った。 (つづく)
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青い石 一 その石は、公園にあるベンチほどの大きさがあり、形も ベンチに似ていて、人が二人ならんで腰かけられるほどの ものだった。 庭石としては、わりに上等とされる伊予の青石だったか ら、昔でもかなり多額な金を出して、この庭のうちに引か せたものだったのだろう。庭の広さや、所々にのこってい る基礎工事のコンクリートの配置などで、戦災前はこの家 せつちゅうしき が、かなりりっぱな和洋折衷式の屋敷であったということ が、うなずかれる。石はその屋敷の焼け跡の、半分は附近 の人の手でたがやされた家庭菜園になっている庭のうち の、枯れて黒くなった桜の木のそばに、どつしりすえてあ った。 表面には、ほこりをかぶっているし、陽が射して乾いて いる時は、見向く気もしないほど白茶けた汚い石に見える けれど、雨がふって濡れて、ほこりが洗い流されたときに 見ると、肌の緑色が濃く鮮やかに深味をまし、小さなヒダ の間に、白い石英の縞が刻まれていたり、伊予石としても じようもん よほど特別なものなのだろう、こまかい無数の赤い条紋が、 あちらこちらに現われてきたりするので、なるほどこれ は、かなり値打ちのある庭石だということがわかるので あった。 戦災を蒙る前のこの家には、附近の人の話によると、上 品な一人の老人と、その老人の一人息子である音楽好きの 青年と、青年の妻である若い女とが住んでいて、召使いの 者も二人ほどいたということであった。 石の上には、その上品な老人がきて腰をおろして、庭の うちの木や草や土の色をじつと眺めながら、過ぎ去った永 い年月のうちに起った事がらを、それからそれへと思い出 していた日もあったろうし、月の美しいある夜、老人の息 子とその妻とが、そっとよりそって腰をかけて、愉しく睦 じく、時の移るのを忘れて、語り合ったこともあるだろう と思われる。石は、老人の心を知り若い夫婦の語らいを聞 いた。そうして時がいつしか過ぎた。老人が死んだのは、 戦争の終るより二年前である。老人の死後一年ほどして息 子は出征し、南方前線で戦病死したとの公報が、終戦の年 の秋に来たが、その時はもうこの家が焼けてしまってい る。残された妻は、病院にいて良人が死んだという知らせ をうけた。そうして同じ年の冬、良人の遺愛のヴァイオリ ンを枕もとへ飾ってもらい、良人はまだ生ぎているのだか ら、その良人のもとへ自分は行くのだといって、嬉しげに 微笑したまま死んでしまった。 屋敷跡は、庭は、そして石は、誰がこの所有者であるか わからないほどになった。 庭の木は、全部黒くこげて焼けたけれど、根株の生きて さるすべり いた百日紅とツゲと青桐と山吹が、細い芽をふき出し、蘭 おも と や万年青もだんだん生きかえった。 そうして、石のところへは、雀がきていたり、陽の暖かい 時に、猫がきて眼を細め、香箱をつくったりしていること のほかに、今年の春頃からして、奇妙な一群の人々がき て、腰かけたり、そばに立っていたり、しかもあまり長く そこにいるということはない、じきに立ち去ってしまうの だけれど、その石を、特別な奇妙な目的で、利用し合うよ うになった。 奇妙な一群の人々というのは、年齢十七八歳から二十二 三歳までの、青少年男女である。 そして、石を利用するのは、石の地べたに接している面 ねぶかわ が、となりにあるやはり庭石の根府川石と重なり合うよう になっていて、その部分に、手をさし入れることのできる ほどの穴ができていたからである。 穴は、すぐ目に立つというほどのものでなく、しかも、 雨も、風も、中へははいらなかった。それで少年や少女 たちは、穴を、郵便のポストに使った。甲から乙へ、手紙 を書いてきて穴のうちへ入れておく。すると、乙は、都合 のいい日に学校をエスケイプし、何か用があるような顔を してそこへやってきて、誰も怪しむものがないということ を見きわめてから、穴のうちへ手をさしこみ、甲からの手 紙を発見することができる。つまりこれは、ポストよりも つと時間がかかるけれども、ある場合にはまたポストより もつと有用であって、彼等のための私設郵便局の役目を果 しているのであった。 この郵便局を経由してくる書信は、親や兄弟や教師のた めに検閲されるという心配がぜったいにない。 仲間たちは、女のことでも会合のことでも金のことで も、安心して手紙のうちへ書いた。父親がとてもがんこな おやじで、金があるくせ小づかいをくれないから、こんな 父親は早く死んでくれた方がいいというグチを書いた。銀 座の喫茶店のレジをやっている女を紹介してもらえてあり がたかった、そのお礼には、今度田舎の叔父の家の娘が、 洋裁を習うために上京してくるから、その娘を君に紹介す る、という約束をした。君に金を借りたまま返せないでい るが、自分の姉が嫁入っている家へこないだ遊びに行って、 ナルダンの十七石入りを、うまく持出してきた、どこ か、時計を文句なしで買ってくれるところを教えてくれ、 そうすればすぐに金を返すことができるから、という取引 の手紙を書き、いっしょにその手紙の中へ、ほかのグルー プの若い連中ばかりでやっているダンスパアテーへの招待 券を同封したりしたー。 彼等は、時として、石のところへ二人つれできたりした が、そういう時は石の上へ、腰をかけあぐらをかき、何か 重大な相談でもあるらしく、三十分も一時間も話しこんで いて、煙草をむやみにぷかぷかとふかしつづけるのであっ たが、その時取交す会話のうちには、日本語でもなく英語 でもないわけのわからない単語が、いくつか混っているこ とがあった。 いんこ それらの言葉は、隠語である。 警察をサッと呼び、刑務所をヨセバといっている。ハヤ かいたいおうりよう ノリは拐帯横領、ハイクルは自転車、グニヤが質屋でズヤ けいずかい が故買者、そうして、たばこをモク、酒をキスなどという のである。 「オイ、今日はね、ぼくが会計引きうけるぜ」 「ありがてえな。何かバクイことでもあったのかい」 「ぼくの財布だって、いつもヤクとは限らないよ。ケー チャン売ったんだ。ヤリマンがとこ持ってるぜ」 隠語が上手ではないし、いつもそのようにしてしゃべる のではないが、彼等はスゴムことが好きであり、スゴム と、そういう風な言葉づかいになるのである。 スゴムわりに彼等は、見かけたところ普通の青年男女と 一向に変りがなく、イヤ、もしかしたら普通以上に、上品 だったりおとなしそうであったりしたが、それは彼等のう ちに数名、中流以上の家庭の子供がいたからであった。 知名な宗教家の二男坊がいた。 ある銀行支店長の娘がいた。 ついこないだまで爵位をもっていて、その爵位は失った が、財産はまだ十分ある某会社重役の息子もいるというぐ あいだった。 だから、この仲間は、気がつかずにいたら、不良でもな く与太もんでもないと思われたにちがいない。必要な場合 に、彼等はいくらでも礼儀正しくしていることができたし、 いくらでもユーモラスに明朗に理智的な顔つきをしている ことができた。身なりはいつもきちんとしていて、学生服 のほかに、背広服も持っているし、その服のポケットに は、アイロンをかけたハンケチと、服のほこりを払うため の小型なブラッシまで、ちゃんと入れている。親戚知人の 家へ、客の一員として呼ばれて行った時は、会話にも態度 にもソッがなく、末頼もしき少年に見え青年に見え、所望 に応じて、ピアノを叩くことのできる少年もいるのであっ た。 i青い石は、彼等が何を話すか何をするか、一から十 まで知っている。しかも、だまって彼等を眺めている。 そうして、もう一年近くも、彼等はこの石を、利用しつ づけてきたのであった。 二 「山岸さん1 山岸さアん! 山岸さんはいないの?」 きみこ 奥の部屋から、女中を呼びたてる貴美子夫人の、美しく 澄んだ声がした。 世の中が変ったのだから、女中でも、名前を呼び捨てに するのはよくない、といって注意すると、はじめはすこし 不服だったらしいが、結局慣れて、さんづけになった。そ うしてふみやが山岸さんに変った代りに、貴美子夫人が、 自由気ままに男の友達をこしらえて、ダンスホールへ出か けたり、競馬に熱中するようになってしまった。 ふじい ゆうた あさって 二階の書斎にいる藤井有太は、明後日の国会本会議です るはずになっている質問演説の原稿をこしらえながら、想 念が一向にまとまらない。政府は、労働争議に対しての処 置に窮している、それを論難攻撃しさえすればよいのだ が、自分が大臣になっていても、今度の争議では手の下し ようがないという気がするし、だとすれば非難すべきもの は闘争委員会であって政府ではないと考えるから、議論の ほこさぎ 鉾先がにぶってしまうのである。 原稿紙へ、代議士は、『政府の無策なるは、すなわちこ れ国民に対しての一大罪悪である』と書き、この文句はな かなかいいと気に入って、野党からの大拍手があるに違い ないという自信が湧いたが、次に『普通一般の罪悪につい ては、これを法律によって刑罰に処するの道があるけれど も、かくの如くにして政府の行う罪悪につきては、哀れむ べきかな国民は、これを処罰するの手段を知らないのであ る』とまで書いてみて、あとの文句が出て来なくなってし まった。 彼は、原稿紙の余白へ落書をはじめた。 最近に友人のある画家から習った象の絵であるが、頭を 描き鼻を描いたあと、耳と目をつける位置が狂って、どう もこれでは豚の方に似ているなと思い、苦笑した。一度動 物園へ行って象を見てくる方がよいのであろう。しかし、 上野の動物園では、戦時中に猛獣を全部殺してしまったは ずであり、象も今はいるかいないかわからない。そういえ ば、家でも戦時下の食糧難時代に、飼犬のグレートデン が、一日に一升の御飯を食べるので、仕方なしに青酸加里で 毒殺したが、その時は実に可哀そうであったと思い出す。 犬はベアと呼んでいた。ベアは、主人の庭へ下りた姿を見 て、尾をふり、かけてきて頭をすりつけた。そうして、主 人の手にある毒入りの肉片でいつものようにワウワウと吠 えたりグルグルと三べん廻る芸をしてみせた。その頃はま だ元気でいた叢子が・窓から眺めて泣き出して、「あな た、よして下さい。あたし、なんとでもしてベアの食べる もの工夫しますから」といったが、そんな工夫のできない 世の中であった。家中のものが、見るのはいやだと言い、 主人自身も逃げるようにして茶の間へ入ってしまってか ら、二十分後にふみやが青い顔をして、ガレージの横でベ アの死んでいることを告げにきたものだめたが、その晩に むく 節子が、「あんなむごいことをして、いい報いはあるはずが ありませんよ」といった言葉は、不幸にして節子自身の運 命を予言している。二週間ほどのちに空襲があった。節子 は外出していた。そうしてその外出先きで節子は爆弾の破 片にやられたのである。 ふいに、孤独な淋しい感じが、身体中に浸みわたってき た。 ひぎだし 代議士は、鍵を出し、重要書類の抽斗をあけて、その底 にしまってある節子夫人の写真を出して見ようとして、し かし、すぐに元のとおり、抽斗をしめ、鍵をかけ、鍵は手 文庫の中ヘポトリと落してしまった。 懐古的な考えは避けなければならない。すべてが前進的 であるように要求されている。社会も道徳も憲法も新しく なった。これに対応しての希望を持たねばならない。希望 がなかったらそれは人生の喪失であり生命の壊滅である。 殊に政治家たるものは、つねに青年と同じき活気に充ち て、希望の多き前途を見つめ、勇往邁進するところがなけ れば、遂にこれ国家全体の壊滅を招くということになる。 彼は、椅子をはなれ、つめたい夜の空気を吸おうと思っ て、窓をあけた。 数日問天気がつづいていて、そのために貯水池の水は激 減し、時間給水になるかも知れぬと新聞に出ていたが、明日 もまた天気らしく、空には星がいっぱいに輝いている。星 を見ることは、節子が好きであったと思い出したが、また それを考えるのはいけないことだと気がついて、五六ぺん つづけて深呼吸をしてみた。両手を頭上へあげながら息を こ 吸い、弧を描いてそれをおろしながら、息を吐く。星が高 いところで、尾を曳いて飛んだようだった。あの星の破片 は、どこへ、どんな風にして消えて行ったのだろうか。科 学者の話では、星一つの直径が太陽系全体の直径に等しい ものがあると聞いたが、さて今の星の破片も、もしかした ら、そういう巨大な星であったかも知れないー。 代議士は、そうだ、科学の振興に関する政府の施策を、 なお検討する必要があると思いついた。労働争議について の質問よりも、この方が重大な問題であるとも思う。政権 あず にかかずらっての攻撃演説などは面白くない。よし、明日 は委員会に出てこの点を力説しよう。第一、政党のうち に、科学の研究に関しての調査機関が、形に於ても実質に け 於ても皆無だというのが怪しからぬ話である。こんな状態 だから、議会が国民の信用を失うのではないか。 彼は、元気が出てきた。 机に戻ろうとして、もう一度、空の星を見上げたが、そ の時、庭のうちで何か音がした。そうして、黒い人影が、 スルスルと内玄関の方へ走って行ったようだった。 ゆうぎち 「ああ、有吉だ。あいつが帰ってきたのだ」 そうして代議士は、せっかく湧いた清新の気が、たちま ちどこかへ消え失せて、鉛のように気が重くなるのであっ た。 ふんぎゆう 家庭のうちの紛糾に、心を煩わされていては際限がない とわきまえているが、そのくせどんな小さなことにでも、 無関心でいられるたちではない。ことに有吉については、 父親たる自分にこそ全責任があるのではないかという不安 し がある。彼は強いて机に向い、演説の草稿を書きすすめよ うとしたが、今度はもう落書すらできなくなってしまつ た。 奥の部屋の客は、まだ帰らぬのであろう、書斎を出て階 段をおりてくると、にぎやかな話声と笑声とが聞えてき た。妻は有吉の帰宅を知らずにいるのかも知れない。また、 知っていても、それを気にするような女ではない。怒りが こみ上げて来そうになるのを、イヤ、これは、妻よりも自 分に責任があったのだと思い返して怒りをおさえた。そう して、有吉に与えてある勉強部屋へ行こうとすると、とつ ぜん、足がすくんだ。 内玄関を上った畳の上に、点々として赤い血が落ちてい る。血は、それほど多量ではなく、しかしひどく鮮明で、 あの不気味な色をしていた。代議士は、血を見ることが生 れつき嫌いだった。血の色が目に入ると、顔が青くなり、 寒気がし、時には嘔吐をもよおしたりする。大の男が血を 見ただけでそんな状態になることを恥かしく思い、他人に はそれを知られぬようにつとめてきたが、それは生理的に 恐怖を感じるのである。いまも、畳の上の血を見ると、自 なまつば 分の背中や顔にジワジワと汗がわいた。口のうちに生唾が たまり、視界がドンヨリと暗くなって、めまいでも起しそ うな気持だった。一方では、そのくせに、血が畳の上だけ でなくて、玄関のタタキにも、廊下の板じきにも、ポタリ ポタリと落ちているのをハヅキリ見ている。そうして、誰 がなぜこんなに血を流したのかと不安に思い、また女中を 呼び、早く始末させなくては、と考えている。すると、 「ああ、先生1」 ともすぎなりと 廊下から、ぬっと現われてきて、友杉成人が声をかけ た。 「ここにいらつしゃったんですか。お知らせにいこうと思 ったんですが、有吉君が帰ってきました」 「ウム」 「怪我をしているんです。腕から血が流れていまして、大 したことじゃないけれど、医者に見てもらった方がいいと 思いますしi」 「どうして怪我をしたのかね」 「まだ、詳しくわけを訊いてみるひまがありませんが、ゴ ロマイたのだといっています。ゴロマクってのは、喧嘩の ことでしょう」 「喧嘩でやられて、家へ逃げて帰ったというわけか ・…」 「だいたい、そんなところでしょう。私の顔を見ると、昂 奮していて泣き出しましたが、お父さんには黙っていてく れと言いました。先生は知らぬ顔をしていて下すった方が よいと思います」 おやじ 「……親父には……黙ってうってじゃない、会うのがいや だといったんじゃないかい。え?」 「……はア、実は……有吉君には、あとで私から、ゆっく こごと り話します。いま、叱言をおっしゃっても、むだだ、と思 いますし……」 みじ 父親は、腹立たしくなりし、かしすぐに、惨めな目つきに 変った。幼少の頃の有吉に、似たようなことがいく度かあ った。元気がよくて利口な子だったが、某師範の附属小学 校へ通っていて、友達に意地の悪い強い子があったから、 時々いじめられて帰ってくると、父親の顔を見て急にワー ンと声を立てて泣きそうになり、男の子が、なんだ、涙な んか出してみっともないというと、父の服の袖へ顔をなす りつけて涙をふきかくし、それがまた可愛ゆくてたまらな かったから、あとではきっとねだられて、双眼鏡やローラ とうぎゆうばん スケートや闘球盤を買わされたものだった。節子が、あ なた、そんなに有ちゃんを甘やかしたらいけませんわ、と 文句を言い、イヤ、甘やかせるんじめ、ないさ、前から買っ てやる約束だったよ、と嘘をいったこともある。が、ああ その子は、いま友杉を見て泣いたというのに、父に会うこ こわ とをいやがっている。それは、父の叱言を怖がっているの ではなくて、父を憎んでいるからなのである。 友杉成人は、気の毒そうにして、代議士の顔を眺めてい た。 そして、ともかく、医者へつれて行って手当をさせま す、ナニ、大した怪我ではありませんから、それほど心配 しなくてもよいですが、まア私に全部まかせておいて下さ い、といってから有吉の部屋に引返して行った。 ふみやが顔を出し、オドオドとこちらを見ている。 「血をふいておけ!」 はげしくいって代議士は、逃げるように二階の書斎へ行 こうとし、しかし、階段をのぼりかけてから、またもどっ てきた。 「玄関のタタキも、水を流して洗っとくんだ。ーそれか ら、奥さんには、何も言わなくてよいのだからな。いい か」 三 友杉成人は眉毛が濃く、額や頬に特徴のある深い皺があ って、年よりはひどく老けて見えたが、今年三十二歳だっ た。前線で貫通銃創をうけたため、健康がまだ十分でな く、しかし真面目な性質の男だったので、同郷の先輩藤井 代議士に信頼された。健康を回復するまで世話を見てやろ きが うというので、復員後ずっとここの家へきて起臥している のであった。 居候であり、書生であり、秘書であると同時に下男でも あり、一方では有吉のために家庭教師でもある。彼は応召 前、製薬会社の技手をしていた。苦学してある工業大学の 夜学部を卒業していたから、数学や物理が得意だった。そ の点で有吉が、友杉には一目おいているのである。近頃で は有吉は、父親よりも友杉に対して親密であり、従順なと ころがあった。父親とは、話をするのもいやな風で、しか し友杉の言葉には、ちゃんと耳を傾けている。かげでは、 友達同士の話で友杉のことを、家にいる居候の若年寄り だ、などと悪口をついたが、実際は友杉をある程度尊敬 し、ある程度怖がっている。友杉のかぶっている帽子が垢 と汗とで穴があいた。有吉が押入をさがし、父親の使い古 しのソフトをもってきて、友杉の部屋の釘へ、黙ってかけ て行ったことなどもあった。 1かかりつけの病院がじき近くにある。 かみそり 友杉がそこへつれて行くと、傷は、左の腕を安全剃刀の刃 で斬られたものであり、手術は簡単だったけれども、出血 がわりに多量だったし化膿の恐れもないではなく、二三日 のうち入院した方がよいということになった。 その手術のとき、ワイシャツをぬがせようとしたら有吉 は、シャツの下に何かかくしているものがあった。 それは一冊のノートであり、腕を繃帯で首へ吊ると、そ のノートの処置に困ったらしく、病室のベッドへきて寝る 時になると、それを枕の下へおいてみたり、毛布の間へ押 しこんだり、結局どこにも置く場所がなくて困っていると いう風であった。友杉は、電話で藤井代議士に入院のこと を話し、自分がつきそっているからと断わっておいて、病 室へ戻ってきたとき、有吉がノートのことをひどく苦に病 んでいるのに気がついた。 「有吉君、どうしたんですか、その手帳は9」 「ううん、べつに、なんでもないんです」 「大切な手帳らしいですね。私があずかっておいてあげま しょうか」 返事をせずに有吉は、顔を少し赤くした。 それからノートを、ベッドの敷布の下へ入れようとし て、とちゅうで、気が変ったようだった。ちょっとのう ち、窓のカーテンのあたりに目をやって考えこみ、とつぜ んノートを友杉の方へさし出してよこした。 「そうだ、友杉さんなら、中を読まれてもかまわないんで す。だけど、書いてあることはぼくの秘密です。誰にも しゃべらないという約束をして下さい」 何かを思いつめた必死の色が、眼のうちに輝いている。友 杉は両親もなく兄弟もない。ふいに胸の内に熱いものを感 じて、この十八歳の少年を抱きしめてやりたい気がした。 もう十一時に近かったが、病院へは、交通事故で怪我を したという患者がかつぎこまれてきて、医師や看護婦のせ わしげに廊下をあるく音がした。 「手術のあと、痛まない?」 「それほどじゃありません」 「じゃいいや。眠ったらどう?……」 「ええ …・」 窓の方を向いて眠ろうとしてから、何を考えたのか、 「しかし、友杉さんは、バカだとぼくは思うなア」 だしぬけにいったので、 「え、なんだって? どうしてさ」 と訊いたが、ちょっと間をおいて、 「うん、そのことは、またいつか話しますよ。本当はぼく の方がバヵかも知れない」 そういったきり、あとは口もきかず、身動きもしなくな ってしまった。 ノートが、肩の下からはみ出してる。 渋い茶色の表紙にペン画で眼鏡の絵がかいてあり、中は わりに上質の紙のものである。 そっとぬき取って開いてみると、第一頁に『青い石の歴 史』としてあったが、次の頁からは、通信文がいくつか書 きならべてあった。手紙をこのノートへ書いて送ると、先 方が同じノートへ返事を書いてよこし、更にそのノートへ 次の手紙を書いて出すというやり方らしい。長かったり短 かかったり、また日附があったりなかったりで、差出人の 名前も、秘密を保つためだろう、ぜんぜん書いてなかった が、筆蹟からみて差出人の一人は、有吉であることがすぐ にわかった。そうして、その相手は女である。女は有吉よ り字がうまく、しかし、誤字をところどころつかってい る。友杉は、スタンドの光をこちらへ向けて、この奇異 なる記録を読みはじめたのであった。 × × 金曜日・二月十三日-風が五日も六日も吹きつづけて いる。荒廃した東京は、空が土ほこりに充たされて、その 土ほこりの空気を吸うから、人間もますます荒廃してしま うのだ。ヒュウヒュウと鳴る風の音を聞いていると、ぼく こうきゆう はその音の中に、人間の笑ったり号泣したり、また狂人の ように罵り合う声が聞えるような気がしてしかたがない。 しかし、ぼくは風の吹く街が大きらいだから、じつと家 の中にひっこんでいた。そうして、いつも君のことを考え ていた。君の顔を見ないで君のことを考えるのはよいこと なのだ。顔を見たら、駄目になってしまう。見ないで考え ていても、どうかするとぼくは、いけないことばかり空想 するのだが、そばに君がいないから、そのうちに気がおち ついてくる。ただ困ることには、そうやっておちついて考 えていると、いつかまたいろいろの心配や不安がわいてき て、じつとしてはいられない、何かしなけりゃならぬと思 うが、さて何をしたらいいのかわからないし、酒でも飲ん で、そこらをあばれ廻ってやりたいような気がしてくるこ とがあるのだけれど。 かさはら 笠原さんから君が借りた金は、ぼくが返した。笠原さん が何か言ったら、ぼくがやっつけてやる。安心したまえ。 では第一信は、これでおしまいにする。今度君に会う前 に、君からの第一信をもらえると嬉しいね。さよなら。 × × 二月十九日1とてもすてきな思いつきでしたわね、青 い石の歴史は。二人でやりとりした手紙が、そのままいっ しょになって残るのだから、ほんとにあたしたちの記念す べき歴史になるわ。 さいしょに、お礼。 笠原さんのこと、ありがたいわ。でも、あんまり無理し ないでね。無理したら、あなたが今度は笠原さんと同じ になりゃしないかと心配するの。笠原さんは、もうすっか り悪漢ね。何をしているかわかりゃしない。あんなの大学 生だなんて、おかしいわ。こないだM子さんに会ったら、 M子さんは笠原さんに夢中になって、とても笠原さんをほ めている。だけど、M子さんは笠原さんと温泉へ行ってき たんだっていう話よ。あきれたわ。 あたし、とてもあなたに会いたくてたまらずにいます。 あなたは、あたしを見ないであたしのことを考えるのが好 きだっていうけれど、あたしは、そうじゃありません。毎 日毎時間毎分、あなたに会っていたいと思うのよ。顔を見 たら駄目になるっての、どういうことかわからないわ。ち つとも駄目じゃない。ある小説家の書いた本を読んだらそ のことが書いてありました。責任さえ持てば、あたしたち 若いものは、何をしたっていいんですって。パパがその本 見つけて、こんな本読んではいけないって言って、取りあ げちゃった。だけど、パパは自分じゃ面白がってその本読 むにちがいないから、ずるいのよ。あたしは、べつにもう 一冊買ってきました。今度あなたに持って行ってあげる。 それを読めば、あなたも、あたしに会うと駄目になるなん て言わなくなるわ。 今度は、二十五日に会えます。 その日は、バザ!のお手つだいで出かけられるんです。 午前十時、いつものところで待っていますから。 × × マージヤン ニ週間ぶりで、ぼくは家へ帰った。ぼくは、麻雀やって れば、ぜったい間違いはないのに、山ちゃんがぼくを誘っ てオイチョをやった。オイチョじゃかなわない。麻雀のヨ ロクをすっかり取られて金がなくなってしまったのだ。 家へ帰ってみたら、ぼくは、なんだかとても疲れている ことに気がついた。頭の芯がボヤケていて、何をするのも めんどうくさい。こんな時、君に会ったら、元気が出るの じゃないかと思うけれど、1。 今日はこれでおしまい。さよなら。 × × 三月四日1きのうは、お雛さまの節句。そしてあたし は、昔の型通りのお嬢さんになって長いおふり袖を着て、 一日中とても神妙にしていました。だって、この頃はあた し、パパやママの信用ゼロなの。パパやママは、気がつい ていることがあるのかも知れない。あたしが外へ出るのを なかなか許さないから、当分の内、信用回復のためママた ちの気に入るようにしていなくちゃならないんです。 ママと言えば、あなたはあなたのママについて、一度も お話をしてくれたことがなかったでしょう。今度会ったと き、あなたのママのこと話してちょうだい。 あたしのママは、悪い人じゃないけれど、いいえ、悪 いどころじゃない。とってもいい人だけれど、いつもあた しのこと、お嫁さんにやるまで、何々をしちゃならないと か、何々をしなくちゃならないとかいっている。あたしに できるだけ沢山の値打をつけようとしているのだけれど、 それじゃあたしお嫁さんという商品になるために生れて来 たみたいだから、。バカらしくなってあたしは、わざとママ の喜ばないことを言ったりして、ママを泣かせたり怒らせ たりしちゃう。1そのくせ、そういう時にはあたしだっ て、悲しいみたいで泣きたくなり、ママ可哀そうだ、あた しの方がほんとはとても悪い子になっているんじゃないか な、と思ってしまうんだから、ちっともわけがわからな い。 でも、ママは、あたしをよい商品にするために、四月か ら洋裁学校へ通うことをゆるしてくれました。 だから、四月からは、たくさん自由に外出できるので す。それまで、あたしのこと忘れないで愛していてね。 × × 手紙は、まだ数通あった。 そうしてその手紙の中で、有吉と有吉の相手の少女と は、喜びや楽しさを語ると共に、不安や懐疑に苦しめられ つつ、心の中にからみついているものを、何かしきりに訴 えようとしているのであった。 友杉は、ため息をつき、もう眠ってしまった有吉の横顔 を眺めた。 それから、またノートを読みつづけたが、そのうちにド キッと胸をうたれる気がした。有吉が、次のように書いて いたのである。 × × 僕は昨夜君に、ずいぶんと迷惑をかけてしまった。ダン スホールを出てから、いやがる君を、むりやりとカストリ 屋へ引っぱって行った。そうして、酔っぱらって、大声で 歌い出して、もしあの時にやって来た警官の姿を見なかっ たら、まだまだどんな狂態を演じたかわからないのだ。 君は、ベソかいていたね。腹を立て、ぼくにあいそがつ きたという顔をしていたね。ぼくは、ちゐ、んとそれがわか っていたのだけれど。 まったくすまない。ごめん。 が、ただ頭を下げてあやまるだけじゃ、君は気が強くて ゆるしてくれないだろうと思うから、ぼくのあの狂態の理 由を、ハッキリ君に話しておこう。実はダンスホ!ルで、 見てはならないものを見てしまった。あそこへ、笠原さん が来ているのを、君もぼくもいっしょに気がついたね。笠 原さんがいるから、ぼくは面白くなくなり、もう帰ってし まおうかと思ったり、また逆に、笠原さんの前で、君とう んと仲好く踊って見せようかなんて考えていた。ところ が、問題は、そんな簡単なものじゃなかったのだ。 笠原さんは、ぼくたちには、ニヤッと笑っただけで、ぼ くたちを無視していたね。そして少し遅れてやってきた一 人の女と、あのすばらしいステップで踊り出したね。 ぼくは、それを見ていると、血が頭の中でゴーッと音を 立てて逆流する気がした。君は、笠原さんの相手をした女 を知らない。だから平気だったろうけれど、僕は、あまり にもよく知り過ぎている。ほんとのことをぼくは言っちま おう。あれは、ぼくの家にいる女だ。ぼくの母だ。ぼくの 母と呼ばれている、ぼくのお父さんの妻なのだ。 とても美しい。 とても聡明だ。 しかし、ぼくのお母さんなんだよ。 ぼくは、その時に、自分の腕の肉をつかんだ。ドスを持 っていなくて倖せだった。持っていたら、斬りつけたに違 いない。ぼくは人殺しをやったかも知れないのだ。 苦しくなって、僕はホールから出てしまった。それか ら、カストリ屋へ行ったのだ。君に迷惑をかけたのは、こ ういうわけだったのだから、わかってくれるね。 笠原さんーさんなんて、さんづけにして呼ぶのは、も うよそう。あいつは悪漢笠原でたくさんだ。悪漢笠原は、 ぼくを辱しめ、ぼくの父を辱しめる。しかもあいつは恐ろ しいやつだ。どんな風にしてだか知らないが、狙った獲物 へはすぐ接近してしまう術を知っている。大胆で智慧があ って美貌で、学校だって怠けているくせに、いつも試験は 首席だというのだ。ぼくはあいつを殺したいと思う。殺し てしまったら、さぞかし胸のうちがサッパリすることだろ う。 まだ、書きたいことがうんとあるが、この先きは、何を 書くかわからない気がする。また会った時に、話すかも知 れないし、話さないかも知れない。では、さよなら。 × × 友杉はノートをバタリと閉じた。 そしてウームとうなり声を立て、腕組みをして考えこん でしまった。 眉目秀麗な鬼 一 新学期のはじまった明るい四月の午後二時である。 S大学法文科教室E号の教室へは、男の学生が十四人 と、女の学生が三人、ノートや書籍や雑誌を腕にかかえ、 または、グラウンドでテニスやキャッチボールをやったあ うわぎ となのだろう、上衣をぬいで肩にかけて、汗をふきふきあ つまってきた。 この法文科教室には、問題が一つ持上っている。前学期 の半ばごろから持上った問題であって、三月の休暇を持ち こしたが、まだ解決にならないから、今日はどうしても解 決してしまわなくてはならない。その問題というのは、教 授R博士の醜聞についてであった。 R博士は、今年五十八歳だった。そして、まことに謹厳 か もく 寡黙な人格者として知られてきたが、学内で、ふしぎな噂 がひろがりはじめた。教授は、毎週一回、木曜日とか金曜 日とかの晩に、若い女をつれてホテルへ行くというのであ る。女は、肥っていたりやせていたり美しかったり美しく なかったりだったが、街の女や喫茶店の女給や、また洋裁 下請の未亡人などだということで、それを誰がいつ発見し たのかわからない。しかし教室では、だんだんにそれが評 判になった。ついに教授会へは、無名の投書が数通とどい て、R博士を辞職せしむべきであるという意見が高まって きたようであるが、さて教授会がどんな処置をとるのだろ うかと、学生たちが興味をもって眺めていると、実際は何 一つ変ったことが起らない。R教授は、あい変らず教壇に 現われた。若い頃欧洲へ留学し、その時ウインで買ったと いう自まんの鞄が、もうすっかりとすり切れたのを、色の 違った革で修繕し、それを、講義のたびに、ドサリと机の 上においた。それからハンケチで鼻をかみ、唇をいっぺん モグモグとうこかしてみてから、ひくい単調な声で、権利 や義務や法人や個人や、法則や公式の話をはじめる。学生 たちが、たまらなくなった。そうして委員会を結成したの であるー。 一人の学生は、たばこをすって、なにか愉快そうな笑い 声をたてた。 他の一人は、腰かけではない机の角へ尻をのせ、足がい てえんだよ、といって靴をぬいだが、ぬいだ靴をさかさま にしてふると、ポロリと小石が二つこぼれておちた。 女の学生だけが、さすがにつつましやかに教室の窓のと ころへ行って、一かたまりになり、ミシンの針が安く買え るという話をしている。 とつぜん、色の黒い下品な眼つきをした学生が、ほかの 委員をおしのけるようにして教壇へあがって行くと、黒板 ヘチョークで絵を描きだしたが、それは、なかなか器用な もので、女が一人寝台に寝ていて、そばの床に博士がひざ まずき、なにか女に謝まっているというような形の絵にな った。 学生たちは、どっと声を立てて笑った。 それからしかし、年少な一人の学生が、バカ! とどな ってとびだして、 「なんだー・下等なことをするのはよせ! 神聖な教室の 黒板は、カストリ雑誌の口絵や共同便所の壁とは違うんだ ぞ。うん、喧嘩するなら、誰にでもぼくは相手になる!」 腹を立てながらその絵をふき消したので、急に一同、し ーんとした顔つきになってしまった。 「ああ、来た来た」 と誰かが叫び、学生中での最年長者で、戦時中は衛生兵 すみよし としてビルマへ行っていた住吉という学生が、眼をしょぼ つかせ、なにか、困ったことがあるという風で、教室の入 口に顔を見せると、ようやくその場の空気に、一つのまと まりがついたようである。 さっきの下品な落書をした学生が、 「オイ、待ってたぞ、委員長。結果はどうだった?」 とせっかちな口調で訊き、さて住吉委員長は、やはりしよ ぼついた眼つきのまま壇上に立って、彼がいま学校当局 ただ の意向を問い糺しに行ってきた、その報告をしはじめた。 報告によると、学校では、教授会も事務局も、R博士の 醜聞をまったく問題にしていないようである。噂は雌だけ えつれき のことであって、教授の閲歴人格などから考えてみても、 教授がそんな非常識な行動をとるはずはないのだとしてい る。これは誰かが博士を中傷するために言い出したことで あろう。イヤ、或は誰かR教授に似た人物があって、その 人物が女をつれてホテルへ行くのを、見まちがえたという ぐらいのことではあるまいか。学校当局としては、事実を 明細に調査したわけではないが、博士に直接その話をして みたところ、博士がハッキリと噂を否定したから、問題は もう終ったことにしてしまった。学生諸君も見苦しく騒ぎ 立てることなど、よしたらどうか。教授会では、事件の性 質が性質だけに、慎重審議を重ねたが、けっきょく、事件 は一笑に附する、ということにして、従って学生に対して も、正而からこの問題についての弁明をするというような 処置はとらぬことになった。悪くすると、新聞などにも記 事が出るようになり、R教授のみならず、学校全体が世間 の笑いものにされる危険がある。願わくは学生諸君も、よ く自重して行動をあやまらず、諸君自身の名誉をも傷つけ ぬよう、十分に注意してほしい……というのである。 事件は竜頭蛇尾で、つまらないものになってしまったら しい。 報告が終ると、学生たちの一部は、やれやれ、これでめ んどうがなくなったというような、ホッとした顔つきにな り、しかし他の一部は、せっかくの意気込みをくじかれて 拍子ぬけがし、しかし明らかにこの報告では不服だった。 彼らは強硬派である。そうして教授の醜行については大憤 慨をし、今日は、辞職勧告の決議文を作るつもりだったの である。報告をそのまま受入れるものとすると、もう決議 文の必要もないだろう。事件にはこれでピリオッドがうた れ、でも、その代りには、騒ぎ立てた自分たちが軽卒だっ たと非難され面目を失い、校内での物笑いにされるという こともないではない。 住吉委員長は、手帳をくって、報告に落ちがあったかど うかと調べてみて、 「で、ぼくらは、態度を決定しなくちゃならんと思うの だ。ぼくらはR博士排撃の目的で立ち上った。が、どうや ら排撃は不可能らしい。それについて、意見を述べてくれ たまえ」 そういって一同を見まわしている。 委員たちの間では、ガヤガヤと私語の声が起った。そう して、情勢がもうここへ来たのでは、我々のR教授排撃 も、ここらで中止にした方が賢明だろうというものが、半 分以上はあるようで、しかし強硬派がそれではおさまらな い。強硬派は、いきり立って意見をのべた。 「委員長! ぼくは、教授会の態度があいまいだと思うの だ。事実を調査しないでおいて単にR博士が噂を否定した という、それだけで、事件を片づけようというのは、表面 こ と 糊塗の卑劣な手段だ!」 じようとう 「そうだ。そういうやり方は、古い軍閥と官僚との常套手 段だったのだ。自分たちに都合が悪いと、すぐ臭いものに 蓋をする。事なかれ主義以外の何物でもないのだ」 「ぼくらに自重しろという。しかし、黙って引っこんでい ることだけが自重じゃないそ」 「然り! われわれは、大学の名誉を尊重する、そしてそ の故にこそ、なお徹底的に事実を究明しなくちゃならな い!」 熱烈な口調である。また、たしかにある程度正しい言い 分だという気がする。 しかし、その時まだ大部分の学生が、あいまいな眼つき で顔を見合せたり、小声で何か囁き合ったりしていて、こ の強硬派の意見にすぐと賛成しなかったのは、やはり彼ら が、教授会を恐れていたからであろう。教授会に反対し、 教授たちに睨まれるのは、あまりよいことでないにきまっ ている。こういうことは程度問題で、進みすぎてはよろし くない。まかりまちがうと、卒業期の就職問題にも影響が ある。R教授も一通り弁明が立っているというのだから、 ここらでこっちは手を引いた方がよいのではないかIl。 「委員長。採決だー」 と穏和派らしい背の高い学生がどなった。そしてつづけ てその学生は、排撃運動を中止するか否か記名投票で決定 しろという動議を出した。 住吉委員長は、当惑している。 投票だったら、ことに記名投票だったら、穏和派が勝つ にきまっている。しかし学校当局は、ことにR教授は、委 員長であるこの自分を、排撃運動の指導者だったと見なし ているにちがいない。だとしたら、これからの自分の立場 は、ひどくまずいことになってしまうだろう・… 。 ふと目を上げると委員長は、教壇からいちばん遠くはな れた席に、ポッンと、一人きりで英文の雑誌らしいものを 読んでいる学生に気がついた。その学生は、黒いつやつや した髪の毛をしていて、白い額と品のよい鼻や唇が、映画 俳優のように、整った感じを与えるのである。彼は、秀才 として学内では評判の青年だった。しかも今日は、はじめ から今まで、一言も口をきかずにいるのであった。 「笠原君!」と委員長は呼んだ。「君の意見はどうなんだ い。君もかなり強硬な排撃論者だったと思うんだが……」 のぼる ふいに名を乎ばれて笠原昇は、少しびっくりしたようで もあり、しかし、雑誌を惜しそうにして閉じて、ゆっく り答えた。 「ああ、ぼくの考えですか。ぼくは、少しばかり諸君の意 見と違うのだがー」 「結構だよ。要するところは、排撃を中止するのかしない のか」 「イヤ、中止にはぜったい反対。しかし主意がぼくは違う のです。ぼくはR教授の醜聞が事実か否かを問題にしな い。むしろぼくは、博士のあの臆病な性質にかんがみて、 また、あるいは、大学教授の俸給と、いまのインフレ物価 とを対比してみて、パンパンをつれてホテルへ行くなどと いうことは、博士にはできないことだと思っている。だか ら、その点で事実を究明しようなどというのは愚劣であっ て、しかし、排撃はあくまでやり通す必要があるんじゃな いですか」 「というと、君の意図する排撃の理由は?」 「むろん、理由はあるのです。ぼくはR博士がこの教壇 に、立つだけの値打ちがない人物だと認めている。博士の 頭脳は平凡です。新知識を吸収するだけの力がなく、また 新しい研究や発見もしていない。そうして毎学期毎学年、 一行一句違わぬ文句をしゃべっているだけの機械じゃない ですか。ぼくらは、あの講義を直接博士の口から聞かなく てもよい。去年のノート、一昨年のノート、十年前の先輩 のノートを借りてくるか、でなくば古本屋から、博士の著 書をほんの二三冊買ってきて読めば、それで事は足りるの です。こういう教授がいるのでは、われわれは学校の授業 料と、授業料よりもっと貴重なわれわれの若い時とを、毎 日浪費していることになるのだと、ぼくは思う。ぼくらの 仲間のある者は、はげしい肉体的バイトで学資を獲てい る。しかも、たった二日で読んでしまえる著書の内容を、 週に三時間ずつ、一年かかって聞かされるのです。イヤ、 みにく いったいぼくは、古くて醜くて動かないということ、それ がすでに許せないのだ。若くて美しくて生き生きしている ものは、それだけでも讃美するだけの価値があるし、たと え何かの過失があったにしても、そういう若さや美しさは その過失を償うことができるのに反し、古くて醜いものこ そは、ぜったいに償いがないのです」 強硬派も穏和派も、しーんとして耳をかたむけていた。 おちついた顔で、静かな口調でしゃべるのであったが、こ の青年の弁舌は人をひきつける力を持っている。反対した ら、手ひどくやりかえされるような気もするし、聞いてい て、なにか酔ったような気持になるのであった。 「いいですか。博士は停年間近であり、停年までは、この 名誉ある大学の講座にしがみついていたいのです。教授会 はというと、もえずるもかるるも同じ野辺の草でしよう。 教授会はそういう博士の心境に共鳴し同情しているのであ って、それは教授仲間の友情であるとも言えるし、その友 情をぼくは悪いとはいわない。しかし、彼らの友情のかげ に、ぼくらの犠牲が要求されるのです。古い醜いものへの 友情のために、なぜぼくらの若さが犠牲にされるのです か。犠牲を脱出するために、われわれは断乎博士を排撃す ねざよもう るのです。この際この時、虚妄であったにしても、醜行の 噂が出たのは幸いだったとぼくは思う。嚀だけでも、博士 が見かけだおしの劣等人格者だったかも知れないという論 拠にはなる。われわれは、この疑惑に包まれた博士につい で、そろってその聴講を拒否すればよろしい。元来は諸君 も、博士の講義には不満があった。その不満をおさえてい たところへ、たまたま醜聞があったので、ついに爆発して 排撃運動をはじめてしまった。どうです、これが諸君の本 音ではなかったのですか。翻って思うに、一つの真に欲す ることをそのまま実行にうつすということ、これがわれわ れの若さの特権でしょう。躊躇しているのは滑稽です。ぼ くらは、ただまっしぐらに進みさえすればよいのです!」 一人が拍手すると、ほかの者もつりこまれて感動の拍手 をおくってしまった。 もうこれでいざこざはない。言われると、なるほどそう かという気がするから、みんな迷いはなくなって、満足し た顔つぎになっている。委員会は、態度を決定できるので あった。 決議文起草委員を選任しろと叫ぶものがあった。 直ちに学生大会を開き、そこへは新聞記者にも来てもら った方がいいという意見が出たり、決議文が受けつけられ なかったら長期同盟休校だと、どなったりした。 しかし、委員会がまだ終らぬうちに、笠原昇は席を外 し、青葉のもえ出た校庭を、少しいそぎ足になって歩いて いるー。 彼は、いくつかの時問を約束してあった。そうしてその た しろみつお 第一番目に、田代光雄という牧師の家を訪ねることになっ ていた。 一時間と五分の後、その郊外にある牧師の家の、キリス ト像とマリァの絵のほかは、ほとんどなんの飾りもないよ うな、質素で小さな応接間では、 わされていたのであ一る。 二 次のような会話がとりか 「イヤ、よく来て下すったですな。私は深く感謝します よ。もしかしたらあなたは来てくれないのじゃないかと私 は考えた。来てくれないようだったら、話はたいへんこん ぐらかるし、困ったことになると思いましてね」 かつえ 「お手紙に葛江さんのことが書いてあり、重大事件だとい うのですから、ともかくお訪ねしたのです。葛江さんは、 今日は見えないのですか」 「ええ、葛江は今日はおりません。いないようにしておい たのです。ええと、そうですね、はじめにお知らせしてお ぎましょうか。手紙にはそのことを書きませんでした。し かし、葛江は自殺しようとしましてね」 「ああ、そうですか。いつの事ですか」 「十日ほど前です。催眠剤をのみました。分量が多過ぎた ので助かったのですが、父親の私としてはたいへんびっく りしましてね、娘がそんなことをする理由が少しもわから ないのです。世間ていも悪いし、ことに教会の信徒の方々に 知られては面白くありませんから、医者にたのんで、秘密 にしてはもらいましたが、さて娘にわけを聞いてみても泣 くばかりで、ほとほと私も手を焼きました。けっきょく、 娘の居間を探してみて、娘の愛読している歌集の中から、 あなたへあてて書いた娘の手紙を発見し、それで大体のこ とは想像がついたというわけですよ」 「手紙を、まだ僕は読んでませんね。見せてもらえるで しょうか」 「そうですね、場合によっては、お見せした方がいいかも 知れません。しかし、その前にハッキリさせておきたいこ とがあるのです。第一、手紙など見ないでも、あなたとし てはたいてい事情がわかるはずだと思うのですが……」 「さア、どうでしょうか。案外ぼくには、わからないの じゃないか、とも思うんです。ーイヤ、待って下さい。そ う急に腹を立てたような顔をなすっても、ぼくとしては迷 惑なんです。ぼくと葛江さんとの間に、どんなことがあっ たかというと、具体的な事実だけについて言ったら、多 分、葛江さんの手紙をお読みになったお父さんのあなたと しては、ほとんど御推察どおりのことがあったと考えて下 すってかまわないでしょう。しかしぼくは、葛江さんが自 殺を企てたという、その心理状態までを、詳しく知ること はできないのですから……」 会話が、ハタとそこで途切れたのは、牧師田代光雄のや せた細い顔の、額にたれ下った白髪の下に青い怒りの筋が さっと現われ、牧師はその怒りをおさえるため、しばらく のうちギュッと唇を噛んでいなければならなかったからで ある。 ペンキのはげた窓のかまちに、花が二っ咲いたパンジイ の鉢がおいてあった。 学生笠原昇は、チラリとその花の鉢をながめたが、すぐ に、まっすぐな視線を牧師の顔にうつした。そして、今度 は自分の番ではない、葛江の父がしゃべる番だということ をハッキリきめているように、たじろがぬ眼つきでこの哀 れな牧師を見つめていた。 ついに牧師が、むりに口のへんに微笑を刻んだ。 「ああ、どうも昂奮するからいけませんね。ま、手紙のこ とは、あとでまた、話しましょう。実は私は、あなたに会 う前に、祈りをささげておきました。あなたに対し、敵意 を抱くことは許されない。それから葛江に過失を許すとと もに、あなたをも、許さねばならない。許すどころか、あ なたを愛さねばならぬということを考えましてね」 「まるで、ぼくが罪人みたいですね」 「え?」 「過失だの許すだのって、そういう言葉は、罪人に対して 使うのじゃないんですか。ぼくがどんな罪を犯したので しょうか」 「 」 「牧師さんが言いたいと思っていらっしゃることは、ぜん ぜんわからないのじゃありませんよ。それに、葛江さんだ けについて言えば、葛江さんは、過ちを犯したことになる かも知れませんね。なぜなら葛江さんは、ぼくという人間 を誤解していました。葛江さんは、ぼくが葛江さんの肉体 しる に一つの新しい印しをつけた。だからぼくが永久に葛江さ んを愛さねばならぬのだと、一人で勝手にきめてしまった のです。明らかにこれは、葛江さんの過失でしょう。そう してそれは、お父さんでめるあなたが許してあげるのはよ いことです。ぼくも、あなたの立場だったら、許すでしょ う。但し、あなたがぼくを、許すとか許さないとか、そう いうことを言う権利はないはずのものだとぼくは思います ね。ぼくは、盗賊のようなことをしたんじゃありません よ。また葛江さんの手足を縛っておき、自由を奪っておい たのでもありません。それどころか、葛江さんは、その 晩、とても倖せそうに見え、また自分でも、めたしは世界 一幸福な女だって言ったんです。ぼくの膝の上でそう言っ たことを、むろん忘れてはいないでしょう。事実、そう思 ったにちがいありません。してみればぼくは、葛江さんの 身体と同時に意志をも拘束していないのですからね。加う るに葛江さんは、もう子供じゃなくて、立派に成熟した女 性です。教養も乏しくはない。自分というものに対して、 責任を持っているはずです。ぼくを非難しようとするの は、どういう点についてですか」 再び牧師は沈黙し、膝の上においた手を、こまかくぶる ぶるとふるわせていた。 牧師という神聖な職業についていなかったら、ありとあ らゆる汚い言葉を使って、この眉目秀麗な青年を罵り恥か しめ、顔に青痰を吐きかけてやりたかったのであろう。ま た腕力を許されるのであったら、四肢を擱みよせて、ふり まわし、たたきつけ、唇を引き裂きたいと思ったのであろ う。老牧師は、青年の顔を見るのが恐ろしくて眼をとじ た。それから手をあげて胸に十字を描き、もし一日に七度 なんじに罪を犯し、七度悔いあらためてなんじに帰らばこ れを許せ、と口のうちでくりかえし唱えた。 「笠原さん。私はね、ある偶然な機会からして、三人の酒 に酔った若者たちが、勝手ほうだいなおしゃべりをしてい るのを、そばで黙って聞いていたことがありますよ。その 若者たちは、学問もあまりないらしく、まア小学校を卒業 しただけのように思われました。そして動作が乱暴で下等 で、でも自分たちは、それを得意に思っているらしいので まち す。街の与太者たちでしょう。彼等は、笑って騒いで、女 や賭博や、もっと悪いことについて、盛んにしゃべってお りました。ところが、そのうちに戦争の頃の話になると、 一二人ともに戦地へ行って来たんですね。戦地での体験談を めいめい話し、戦争なんて、もうこりこりしたといってい るのでしたが、その時私は、ハッとして気がついたことが ありましたよ。戦争の体験を語る時には、その若者たちの 顔色が、純真な子供のように熱っぽく輝き、眼つきがとて も、真剣になっているのです。こういう変化は、なぜ起っ たのかわかりますか」 「さア……」 「戦争というものに、今の日本人が憧れを持つはずはあり ませんね。与太者たちも、こりこりしたといっています。 しかし、ただ一つあ・の頃を思い出して、急に気持を真面目 にさせたり、また何か懐しいような感じを起させるのは、 当時の若者たちにハッキリした目的があったということな だま んですよ。その目的はまちがった目的でした。みんなで騙 されて、その目的に向って突進しました。しかし、まちが っているにせよ騙されたにせよ、目的があったということ は、生きる張合いを感じさせることで、だから与太者で も、その頃を思い出すと、我知らず顔色が輝いてくるとい うわけなのです。終戦後、日本はひどく変りました。それ から、若い人たちは、生きることの目的がわからなくなっ たのじゃないでしょうか。目的がわからないから、その日 その日の動物的な本能だけで生きつづけている、これが若 い人たちの生態だと私は思うのでしてね、私は若い人たち に同情をしているのですよ。決して若い人を憎みません。 復員兵の強盗や殺人犯でも、真に憎むべきものは、極めて 少数だろうと思うのです。まちがった目的を与えておき、 最後に急に何を目的にしたらよいかわからないような日本 にしてしまった。そういう指導こそ真の責任があったので あって、だから今の迷っている青年たちは可哀そうなもの だと私は考えるのです。それについてあなたは同じように 思ってみたことはないでしょうか」 「青年の立場を理解し、青年に同情するとおっしゃるんで すね。ぼくは、そういう現代の青年の一人として、いちお う感謝の意を表明しておきましょう。まるでこれは、ぼく ぎようかいし が刑務所へ入っていて、その刑務所おかかえの教誨師か ら、ありがたいお説教を聞かされているようなものです。 ただし、断わっておきますが、ぼくはそういう街の与太者 とは、まったく別の種類の人間ですからね……」 「ああ、もちろん私は、あなたを与太者だなどといったの じゃない……」 「同時にぼくは、あなたが観察するような目的がわからな くなった人間でもないんです。ぼくは、目的を掴んでいま す。生きて行くことそれ自身が目的ですからね、問題は非 常に簡単になってくるんじゃないでしょうか。いったい、 生きていなかったら、何があるというのですか。屁理窟や 空想はよしときましょう。それに、死んでも名前が残るな んてのは、ひどいごまかしに過ぎませんね。死んだ人の名 前は、生き残った人に都合がいい場合にだけ、残すように なっているんです。死んだ当人にしてみれば、自分の名前 なんか、お線香の煙より早く消えてしまっても、残念だな んて思わないのでしょう。ーイヤ、ぼくは、議論をしに 来たのじゃなかったんです。葛江さんのお父さんからのお 手紙で、いっぺんはお目にかからなくちゃならんし、敬意 を表しようと思って来たのでした。実は、約束があって、 時間がもうありません。けっきょくのところ、葛江さんが 自殺をしかけた。それでぼくは何をすればよいのでしょう か」 牧師は、眼鏡をはずし、つぎのあるハンケチで、いくど も玉をふきなおした。 何か、しゃべれば、怒りが爆発しそうである。心を平静 にしていた方がいいのだろう。こんな男に会ったことはな じげん い。この男は、私の住む世界とは次元を全く異にした世界 の男なのであろうか。 。バサッと何か軽い物のおちるような音がこの室の外で起 ったので、牧師は、顔を上げてドアの方をふりむき、それ から室を出て行った。 「ああ、葛江か。iいつ帰ってきたのだね?」 「すみません、お父様!」 「泣くことはない。もう、泣かなくてもよいのだ。お前、 会ってみるか、私も、いろいろと話をしてみたが……」 「聞いていました。そしてお父様に、とてもすまないこと をしたと思いました。ーあたし、もう永久に会いたくな いのです」 「うむ」 「蔦江、バヵだったのよ、これからはもっと利口になる!」 け 若い女の泣く声がし、父親がそれをなだめている気はい だったが、笠原昇はトントンとたばこの切口を机の角でた たいた。そして、うまそうに煙を吸い、天井のしみやマリ アの絵を、興味のない眼つきで眺めている。 牧師は、娘を奥の部屋へやってから、応接室へもどって きた。 「葛江さんが泣いていたようですね」 「違います。泣きはしません。その代り、あなたがどんな 人問だか、ハッキリと知ったようですよ。私も、実はあな たに来てもらったのは、葛江との結婚について相談したい と思ったのですが、それはもう相談しない方がいいとわか りましたし……」 「結構でしたね。こういう問題は、智能のすぐれた者の間 だったら、きわめて単純に解決されるはずだと、ぼくも 思っていたのです。時間をむだにしないだけでも助かり ますよ。では、これでぼくは……」 牧師の顔には、最後のはげしい怒りが現われ、しかし何 も言わなかった。 そうして笠原昇は、すぐ玄関へ出て靴をはいてしまっ た。 二時間ののちー。 笠原昇の姿が現われたのは、銀座のダンスホール赤い星 である。 彼は、学生服ではなく、仕立の上等な背広を着ていて、 その自信のある態度や容貌は、一分のすきもない青年紳士 に見えた。 タンゴやクイックのいくつかの曲目が終ったあとで、ホ ールへ入ってきた一人の女が、まっすぐに笠原昇のところ へ歩いてきたが、何か親しげに笑い合って話をしたあと で、二人はワルッを踊りだした。 その踊りぶりは、ホールの中でも、目立てっ美しくて、 優雅でリズミカルである。 ホ ルの支配人が、病気で休んでいるオーケストラの楽 士をつかまえて訊いた。 「あの女、すばらしいね。いつもうちのホールへ来ている のかい」 「いいえ、この頃来はじめたんですよ」 「そうかい。あとで紹介してもらわなくちゃならん。女優 ……でもなさそうだが、どういう女だか知っているかい」 楽士は、この好色家の支配人を、軽蔑するように目で笑 って、 「知ってますよ、しかし、気をつけた方がいいでしよう ね。藤井有太という代議士がいるでしょう。その代議士の 奥さんだそうですからi」 ネクタイをなおしながら答えた。 危険な時期 一 朝から曇っていたし、空気は、水がまじっているかと思 われるくらい、湿度の高い日だった。 少年藤井有吉は、今日で四日間も家へ戻らずにいる。そ うして、ズボンにシャツ一つで、女の子といっしょに、映 画館ひばり座を出てきた。 女の子は、スカートに青い横の縞が二本はいった女学校 の制服を着ているが、コスモスの花をぬいとりした絹のハ ンケチで、鼻の頭やおでこの汗をおさえた。それから、新 宿の街を歩きだしながら、心配そうな目つきで、有吉の顔 をのぞいた。 「ねえ、どうしたっていうのよ」 「うん、何がさ?」 「映画、とてもよかったわよ。あたし、涙が出てきてたま んなかったの。だのに、急に途中で出てきてしまうんです もの」 有吉は、べつに、返事をしない。 だまって、まっすぐに向うへ顔をむけて、人の波をかき わけて行くのが、まるで何か怒っているようにも見える し、女の子の言うことを、フン、何を。ハヵなことをいって いるんだと、軽蔑しているようにも見える。 夕方までには、まだ十分に時間があり、街にはいっぱい に人が浴れていた。女の子が、有吉と腕を組んで歩いて行 くのが、骨が折れる。ふいに有吉は、すれちがった三人組 の学生に、ドシンと横腹をつかれてよろよろした。腹が立 ち、歯を喰いしばったがどうにもならない。女の子をつれ て歩いているのが悪いのである。嫉妬されるのがあたりま えだろう。三人組の学生は、行きすぎてからふり向いて、 バヵ野郎と呶鳴って行った。 「暑いわね。アイスクリーム、たべたいわ」 「うん」 そのくせに、軒なみといっていいほど並んでいる喫茶店 には、はいる気がしなかった。小さくて汚くて、客の少な い店をやっと見つけて、その隅っこのテーブルへ腰をおろ し、女の子は、またハンケチで汗をふき、有吉のために、 赤い色の可愛いい扇子を、出してやった。 「ねえ、何か怒ってるの?」 「ううん」 首をふって、ズボンのポケットからたばこの箱をつかみ だしたが、たばこはもう一本もない。箱をつかみつぶし て、床へなげた。 「怒ってなんか、いやしないよ」 「そう。それならいいけど、あたし、心配だわ」 「さっき話した川上のことだろう」 「ええ、それもあるわね。川上さんは、あなたといちばん 仲好しだったでしょ。その川上さんが警察へつかまったと いうのは……」 「いった通りさ。チャリンコの仲間へはいったからだよ。 あいつ、金つかいが荒いと思ってたら、チャリンコやった んだね。省線で、鞄を切ったところをつかまった。。ハヵだ よ。まるで川上は……」 女の子は、アイスクリ!ムをロへはこびながら、疑わし そうに、有吉の目をのぞいている。有吉は、視線をわきへ そらし、壁にはってある劇場のポスターをながめた。 「スリラー劇って、面白そうだね」 「え?」 「そこにポスターが出ているぜ。今度の時、見に行こう か」 有吉は、無理に笑い顔をして見せている。新しく、子供 をつれた女の客がはいってきて、ソーダ水を註文した。 「芝居もいいわね。だけど、ほんとうはあたし、川上さん と同じことを、あなたがやりはしないかと思って心配して いるのよ」 ふう と女の子は、思い切った風でいった。 「じょうだんじゃない!」 「いいえ、じょうだんでなくないと思うの。あなた、今日 は暑いから上衣をぬいで来たっていった。だけど、上衣を 売って来たのだってこと、あたしは知ってるのよ。だれで も、お金に困ると無理をするわ。お願いだから、川上さん のようなことしないでね」 「もちろんさ。川上はパヵだってぼくいったじゃないか」 「ええ、そうね。それはあなたは、川上さんなんかより、 ずっと利口だとあたしも思ってるわ。だけど……」 あとの言葉につまった時、店の給仕がアイスクリームの 皿を取りにきたので、つめたいコーヒーを二つと註文し た。そしてその金は女の子が払った。 「あたしね、この頃は考えるのよ」 「何をだい」 「あたしたち、とてもまちがったことしてるんじゃないか って。本読んだら、書いてあったわ。解放された行動には 責任が伴わなくちゃならないっていうのよ。ところがあた したち、ずいぶんお金をつかっている。アイスクリームや 映画なんかいいとしても、映画の前にあなたと行ったとこ ろ、あそこは一時間部屋を借りただけで三百円もとられる でしょう。それをあたし、あなたにばっかし払わせてきた わ。この頃は、一週間に三度。四度のこともあるわね。四 度としたら、それだけで一週間に千二百円になるんでしよ う。一月を四週間と見て四千八百円……いいえ、それだけ じゃ、たりない、もっともっとかかるわね」 ちょうど店へは、新しい客が二組もはいってきて、その 一組は、有吉のすぐ隣りの席についたから、それ以上の話 はできなくなった。 有吉は、救われたような顔をしている。 コーヒーを、ガブリと飲みほして、壁の時計を見上げ た。 「ああ、いけないや。少し、おそくなっちゃった」 「これからどこかへ行くの」 「うん、約束してある。麻雀することになってるんだ」 「勝つといいわね。あたし、お祈りしているわ……それか ら、さっきのこと忘れないでね。川上さんのようなことし たら、あたし死んじゃうから」 最後を女の子はわざと悲しくならぬように笑っていっ た。 そうして喫茶店を出て二人は別れた。 有吉は、しばらくのうち、駅の方へ行く女の子のうしろ 姿を見おくり、ため息をついたが、やがて大人ぶった様子 で電車道を横ぎり、大木戸の方へ向って歩いて行った。 街の人通りは、次第に少なくなり、それにつれて家並み もまばらになってくる。 とつぜん彼は、街の前後を、見すかした。 それから、誰も彼の行動を注意していないと見きわめて から、細い横町のうちへ入って行って、なるほど麻雀クラ ブの看板が出ている貧弱なバラック建ての二階家へはいろ うとした。 実は、ここのクラブで、今日は、重大な相談をすること になっている。それは、仲間の者たちが、有吉ばかりでは なく、ひどく近頃は金につまってきていた。両親の品物を 持出したり、親戚をだましたりするだけでは、とうていも うやりきれない。そこへ川上がチャリンコでサヅへつかま ったのは、彼等のための訓戒にならず、かえって刺戟にな ってしまった。いっそもっと大胆にやろうという話が出 た。仲間に加入しない良家の子弟があり、そういう友人の 家へ遊びに行くことがあるから、家の中の勝手もわかって いる。人に憎まれるような手段で、ぼろい儲けをしている 家だけでいいから、それを一つ狙ってみようということに なっていたのであった。 仲間は、すでに集まっているのであろう。 有吉が、合図の口笛を三度鳴らすと、家の中からも、 ちょっと間をおいてから、同じ口笛が聞えてきた。 有吉は、曇りガラスのはいった格子戸へ手をかける前 に、もう一ぺんあたりを見まわし、誰も人はいないと確か めたはずだったが、ガラスの格子戸を半分ほどあけると、 「有吉君!」 ふいに、うしろから名を呼ばれた。 そして、ふりむいて見て、ギョッとした目つきになっ た。 彼にとってはいちばん苦手の人物、家庭教師で書生で居 候で父親の秘書の友杉成人が、そこに立っているのであ る。 「ヤレヤレ、やっと君をつかまえたぞ」 友杉成人は、人の好い笑いを口のはたへきざみ、しか し、大股に近づいてきて、有吉の腕をつかんだ。 「昨日は二時間。今日は、べんとう持ってきて、朝から頑 張っていたんですからね。さア、有吉君、ぼくといっしょ に帰りましょう」 いやだ、という代りに、有吉は肩をねじまげ、友杉の手 をふりはなそうとしたが、友杉は、有吉の全身を抱きよせ るようにしてしまった。 仲間が、家の中から顔を出してのぞいたので、有吉は恥 かしくなり、友杉なんぞなんでもない、下らない奴だとい う顔をして見せたかったが、友杉は、 「ああ、君たち。ぼくは有吉君を、家から迎えにきたん だ。今日は、いっしょに帰るからね」 仲間に笑い顔でいっておいて、外から格子戸をしめてし まった。 「ぼくがいる限り、君を、困るようなことにはさせません よ。ともかく、そこらを歩きましょう」 「でも……」 「お父さんが怒ってるから、ぼくが迎いに来たんじゃな い。ぼくはぼくだけの考えで君を迎いに来たんです。なア に、ここの麻雀クラブへ君が来るってこと、笠原君から聞 いたもんですからね」 「えヅ」 「笠原君を、君は嫌いだったね。しかし、笠原君を君のお 母さんが家へつれて来たから、君のことを聞いてみたら、 ここのクラブを教えてくれたんです。まア、笠原君のこと は、あとで話すとして、家へ帰った方がいいと思うな」 有吉は、抵抗できなくなった。そうして、いっしょに歩 きだした。 二 代議士藤井有太の邸は、牛込の高台の、焼け残った地区 にある。 そこへ帰るのには、都電が便利だけれども、二人は歩い て市ケ谷のお濠ばたへ出た。濠では、子供たちが列をつく って釣りをしていた。 「釣りは、ぼくは名人ですよ、もう長いこと出かけないが ……」 友杉がいって立ちどまったので、有吉も自然にそこへ足 をとめ、それから岸の芝生に腰をおろした。 空気はやはり湿っていて、しかし、夕方間近の薄い陽が さしてきた。 まぶな 友杉は、釣りの話をしはじめ、鮒にはヘラ鮒や真鮒があ るということや、鯉は芋で釣るなどと話したが、有吉は、 少しも面白いという顔をしない。 「有吉君も、釣りをやるとか、山登りをするとか、何かス ポーッやるといいと思うんですがね」 「ええ、それは、ぼくも思うんです。だけど、やってみた ってつまらないという気がするものだから」 「やらぬうちに、そう考えるのがいけないんですよ。やれ ば、きっと面白くなる」 「そうか知ら……」 有吉は、気のない返事をして草の葉を引き抜き、指の先 きで、小さく引き裂いて捨ててしまった。そして、 「笠原のやつ、そんなにしよっちゅう家へ来るんですか」 と、だしぬけに真剣な目つきになった。 「ああ、笠原君のことですか。ーイヤ、そう、しよつ ちゅうじゃありませんね。二度来ただけでしょう」 「ぼくが家をとび出してからi」 「そうですよ」 「じゃ、まるで、しょっちゅうだ!」 怒りが血管の中を駈けまわっているのが友杉にはわか り、友杉は、急いで話題を変えねばならぬと気がついた。 「笠原君は、来ても、長くいるんじゃないからいいでしよ うー。そうだ、それよりかぼくは有吉君に、訊くのを忘 れていたことがあるんだけど……」 「どういうことですか」 「君が怪我をして病院へ入った晩だった。君はぼくのこと つかまえて、バヵだと思うっていったでしょう。あれはど ういう意味のことだったんですか」 首をかしげて考えてみて、有吉はやっとその時のことを 思い出したらしい。彼は、気まりの悪そうな顔をしたが、 とたんにニッと笑ったので、右の頬にえくぼができた。 「ううん、あれは……ぼくは……友杉さんのこと、悪口の つもりでい たのじゃないんです」 「そう。わかってますよ。そのすぐあとで君は、君自身の 方が。バカかも知れないって言いなおしたんだから」 「そうです、ほんとに、ぼく、そういう風に、いつも思っ てみるんです。あの時、友杉さんを.ハヵだといったのは、 友杉さんがとても真面目だから……うん、どんな説明をし たらいいのかわかんないな。ともかく友杉さん、世間の人 とはまるで変ってるでしょう」 「ぼくが馬鹿正直だっていうのですか」 「馬鹿正直1っていうのじゃないけどさ。世間には、友 杉さんみたいな人は少いですね。お父さんから月給いくら もらってるの」 「月給なんてありませんよ。電車賃や湯銭もらうだけです ね。でも、腹の減ることはないんだし、読書の時間はたく さんあるし、ぼくは不服に思わない」 「だからです。だから。バカじゃないかっていったんです。 世間で、女と遊んだり酒飲んだり、ぜいたくしている奴 は、たいてい友杉さんより学問のない、つまらない男ばっ かりです。友杉さんは、そういうことをしたいと思わない んですか」 「したくないことはありませんよ。ただ、今のぼくは、そ れをしなくても、生きて行けるからいいんです」 「じゃ、のちになって、何かで金を儲けてから、するんで すか」 「イヤ、のちのことは、わからないでしょう。してもいい ようになった時に、ぼくがそれをしたかったらするので す。したくなかったら、やはり、しません」 少年有吉は、人の生きることを、酒や女の享楽のための みだと思いこんでいるらしい。この思想は、誰が植えつけ たものだろうと考えてみて、ふいに友杉の胸の中へは、憤 りに似た感情がたぎり立ったが、それといっしょに有吉に は、どんな話をしたらいいのかわからなくなり、絶望を感 じた。とにかく、お説教ではだめである。また古い訓話や 修養の書籍を、百冊読ませても千冊読ませても役に立たな い。いいのは、清新な、今までとはまったく別な方向の興 味を持つようなものをあたえることである。感情家で意志 が弱くて、そうして子供らしさをまだすっかりと失いきっ ていない有吉には、どんな清新な興味をもたせたらよいの であろうか。 話をせずに、友杉は、この十八歳の少年の横顔を、しば らく眺めた。 少年は、上衣もなく、帽子もなく、町の与太者と同じに ノータイで、胸が露出しそうになっているが、やはりどこ かに良家の子弟らしい上品さをそなえている。 「今日は、あそこのクラブで、麻雀やるつもりだったんで すね」 「え、ええ……」 と有吉は、疑いの目を友杉に向けた。 「麻雀は、ぼくもやるんですよ。兵隊に行っていて覚え た」 「ほんとですか」 「ほんとですとも。それに、めったに負けたことはないん モー です。隊に、とても上手な奴がいましてね。そいつは、摸 パイ 牌を、テーブルへ伏せて手もとへ引いてくるだけで、百発 百中という奴でした。こっちのテンパイは、すぐと奴にわ かってしまう。そいつに仕込まれたのですからね。1そ うだ、いつか、有吉君とやってみるかな」 ワアッと、向うで子供たちが騒ぎだしたのは、大きな鮒 がかかって、それが上げられないからである。その子供の 竿は輪になって大きくたわみ、道糸がピーンと張りきって いて、鮒が抵抗しながら水中を逃げまわるうちに、ほかの 子供の糸とからみ合ったから、ますます騒ぎは大きくな った。 友杉は、はねおきて、走って行った。 「だめだい、こんなおまつりにしちゃっちゃ、ばらしてし まうよ」 そうして、手ぎわよく、鮒を釣り上げてやった。 「さア、帰ろうかね。有吉君。お父さんが、とても君のこ と、心配しているんですよ」 「そうですか、お父さんは、ぼくのことを話すことがある のですか」 「あるともさ。いつだって、君を可愛がり、君のことを考 えているにきまっているよ。1ただ、近頃お父さんも、 政治がたいへんに忙しくてね、中正党の代議士たちと大喧 嘩はじめたようだけれど……」 喧嘩という言葉を聞いて、有吉は、少しく興味を感じた ようである。それは、どういう喧嘩かと尋ねるので、友杉 は、現内閣の最大与党中正党に不正事件がある模様で、そ れを有吉の父が糺弾するのだといって運動を起したから、 近いうちに議会も大紛乱におちいるのだろうと、簡単に説 明して聞かせた。 しかしながらー。 やがて彼等が家へ帰りついた時、そこへはちょうどに、 もろうちたつや 今の話にも出てきた中正党の代議士諸内達也が、訪問して きていたのである。 もちろん、その訪問は、政治的な意味をもつものだっ た。 玄関へ、山岸ふみが出て、只今旦那様は会社の御用で外 出なすっておられますが、というと、諸内代議士は、その こうふく ごま塩頭になって五十歳を越した剛愎な顔に、チラリと失 望の色をうかべ、しかし、では止むを得ない、許されるな ら奥さんにでもお目にかかりたいのだ、といった。 ふみやが、その取次で、奥へ引っこんだ時に、友杉と有 吉とが帰ったのである。 今度は、ふみやに代って友杉が出て、諸内代議士を、玄 関脇の洋風応接室へ案内した。 それから、貴美子夫人が、ゆっくり和服に着かえてそこ へ出てきて、出てくるといっしょに、 「友杉さん、暑いわね。窓をみんなあけてちょうだい。扇 風機かけて……それから山岸さんにそういって、何かつめ たいお飲物を……」 gz と言いつけた。 応接室は、ピアノのある窓の向うが、モッコクやサルス ペリやカエデの木のもっさりとしげった植込みになってい で、石燈籠が一基すえてある。 有吉は、父がいなかったのでホッとして、はじめに湯殿 へ行き水浴をした。それから身体をふいてから自分の部屋 へ入ったが、気がおちつかず庭へ出ると、とつぜん思いつ いて、応接室の外の植込みのうちへもぐりこんだ。 そこからは、来客と、来客に応対している若い美しい母 の顔が、ハッキリ見える。そうして、話していることも、 ぎきと ぽとんど全部聴取ることができるのであった。 三 藤井代議士の若い妻である貴美子は、もと、江田島出身 したての海軍士官と結婚したことがあった。 すでに亡くなった父親は、ある程度名を売ったことのあ る政治家で、その妾腹の子として生れたが、生れるとすぐ 父親のいる本宅へ引取られて育ったから、教養はまず申し 分のない娘であった。戦時中の昂奮で、眉目秀麗な若い海 軍少尉と結婚すると、その新婚生活をわずかに三日間すご しただけで、良人は潜水艦に乗りこんで出動し、それから 数ヵ月のちに、良人の遺髪と写真とのはいった白木の箱が 残された若い妻のもとへ戻ってきたのであった。 彼女は涙をこぼしたが、黒い喪服を着て焼香台に立ち、 水晶の念珠をつまぐっている姿が、祭壇にそなえられたど んな花よりも、美しく生々として見え、葬儀に列した親触 や知人や友人のうちの男たちは、思わず息をつめ目を見は り、そして苦しくなったほどだった。 終戦後、藤井代議士が、先妻の節子をなくしたあとであ り、貴美子の父親であった政治家の後輩であるという関係 から、貴美子の幼少時代から知っていたので、三、四の曲 折を経たのちに、めでたく結婚することができた。 この結婚で、一時ではあったが藤井代議士は、人生がす っかり新しくなったほどに元気づき幸福を感じ野心が大き くなり、関係事業の方面はもちろん、政治的な活動でも、 その郷里を地盤とした選挙では最高点の栄誉を占めたほど である。 しかし、公平に観察してみると、貴美子夫人は、古い道 徳観によるにしろ新しい眼で見るにしろ、簡単に批判しき れぬいろいろな面を持っていた。 藤井有太と結婚する時、あたくし、ぜいたくとわがま まは、ふんだんにさせていただくわ、といった。そして、 事実ぜいたくでありわがままであった。ところが、息子の 有吉は、この若い母親を、非常に聡明であるといってい る。男の友達を次から次へとつくり、ダンスホールなどへ 出入するが、それでいて、どの男の友達とも、ある線以上 のつきあいはしないようであるし、一方にはそれが彼女の 利口さであって、たとえどんなことがあったにしても、他 人の前でぼろを出したり、弱点をおさえられるようなこと は、いっさいしないのだという見方もないではない。最も 親しいと思われるAやBという男の友達との間柄が、いっ たいどこまで進んでいるのか、AB以外の男たちには、ぜ んぜんわからないというようなわけであった。 いま、諸内代議士を迎えて、彼女は大きい深い椅子に、 少しはすっかいに腰をおろして、時々パチリと目ばたきを し、まっすぐに客の目をのぞくようにしているー。 諸内代議士は、まぶしそうであった。 扇風機の風があたり、もう涼しいのに、たえずハンケチ で、汗をふいた。 「……で、そんなわけですから、政治家たるものとして は、政治の威信を保つためにも、ここで藤井君と我々とが いがみ合っているようなことは、ぜったいに回避せなきゃ いかんということになるのでして 」 諸内代議士は、そういって、甲に荒い毛が生、兄ボッテリ ふくらんでいる右の手で、ポケットの葉巻をぬき出した。 「まア、つまり、党派のためとか政権とか、そういうケチ な根性じゃぜったいないですよ。要するところは、政界が いつまでも紛糾していておちつかんと、産業が一向に振興 しない。結果は明白、日本はいつまでも再建できぬことに なるのだから、わが党としても総裁以下、その点で意見が まとまった。藤井君にも、心機一転、大乗的見地からし て、国民大衆のため、わが党へ入党していただきたいとい うわけです」 「と、おっしゃると、妥協じゃない、という風に聞えます わね」 ニッコリ笑っていったが、その笑いは、冷たく皮肉に澄 んでいたので、代議士は、少しうろたえてまた汗をふき、 しかしすぐに立ち直った。 「ええ、そうですよ。もちろん妥協じゃありません。御主 人が、妥協嫌いな竹を割ったような御性格だということ は、議員仲間で誰でも知っていることですからな。主義主 張に多少の差違はある。しかし、実はわれわれは御主人の 手腕識見に惚れています。それに、入党されたら、将来の 幹事長は疑いのないところでしよう。かたがた雨降って地 固まるの譬えで、この際藤井君を一枚わが陣営に加えれ ば、党の威信も倍加しますし、藤井君としても、損のない 取引だということにはならんでしょうか。イヤ、すでに大 体は藤井君にも、この党全体としての意志は諒解してもら ったつもりであり、あとはただの一押し、ここで奥さんに お目にかかれたのが倖せでした。奥さんから、ぜひ御主人 かんじよう に、勧請していただきたいのですよ」 「わかりましたわ。話すだけは話します。でも主人は、取 引とか損とか、そういうことは経営している会社の方だけ の言葉であって、政治家としての行動については、そうい う言葉はないはずだということを、いつか申したことがご ざいますの。お話を伺っておりますと、主人が中正党へ参 るとしますと、それを主人に申さなくてはならぬことのよ うな気がしますが」 「ああ、イヤ……」 と代議士は、さっきょり目に見えてうろたえて、照れが くしに、アハハハと笑った。 「それは、奥さん、ー皮肉をおっしゃるものじゃありま せんよ。むろん、これはここだけの話で、奥さんから、そ こをうまく、懇請していただければよいのですから。アッ ハハハ……」 貴美子夫人も、声は立てないが、目だけ笑わせている。 それは、この客を軽蔑しているような笑いでもあるし、ま た単に客といっしょになって、面白がっている笑いのよう にも見える。 「でも、ほんとに、皮肉のつもりじやございませんのよ」 「ああ、そうでしたか」 「あたくし、主人の好きな政治について、今までにこんな お役目、申しつけられたことありませんわ。政治の話は面 白いんですけど、避けていた方があたしは損しませんも の」 「ほ、ほう」 「いえ、そんなこと申しても、おわかりにはなりませんわ ね。ただあたくし、政治のことには、なるべく口を入れな いようにしているってことを申したんですのよ。1です から、主人の藤井を中正党に入れるお手伝いなんて、とて もあたくしには苦手ですわ。たとえば、あなた様の真似を して、主人にそれを勧めるとなると、党利党略のためとい うのと、国民大衆のためというのと、二つがこっちゃにな ってしまって、どっちがどっちだか、わからなくなってし まうんじゃないかと思いますの。あなた様のお話を聞いて いるうちだけでも、あたくし、ハヅキリとそこが呑みこめ ないくらいですものね」 良人がどんな立場にいるかは、よく見ぬいている。まだ 入党の諒解など、ついているはずがなく、それで貴美子夫 人は、政党の総務であり、政務次官にもなったことのある この代議士を、からかい半分で、皮肉をいっているのであ った。 諸内代議士は、それでも、根気づよく粘りつづけた。 目まいがするほど美しいだけでなく、思いもよらず頭の 鋭い女だったが、女を相手にして腹を立てても下らない。 それに次期政権が廻ってくると、自分は大臣になるという こともある。それを思えば、ここで事態を円満に解決する ため、この場だけの恥や外聞は捨ててしまって、所期の目 的を貫徹するの要がある。イヤ、この女に会ってみたのは 面白かった。芸妓のように柔軟なところがあるし、貴族の ように高ぶっているところもある。この女に会うだけのた めに、まだいくどでも訪問するだけの価値があるな、とし まいには図々しくなって考えはじめた。 ついに、中正党入党のことは、良人が帰宅した時に、夫 人から勧めてみるという約束だけできた。 諸内代議士は、椅子をはなれ、玄関へ出たが、その時 に、 「奥さん、ちょっとお待ち下さい」 といっておいて、門外に待たせてあった自動車の運転手 に声をかけ、オーイ、あれを持って来い、と言いつける と、学生服の運転手が、りっぱな大きなかさばった果物の 籠をはこんできた。 「これは、手土産ですが……」 「あら、そんな御心配を……」 「イヤ、心配というほどのものではありませんが、どうか 受取っておいて下さい。……それから、もしかすると、中 に腐ったやつがあるかも知れませんから、女中さんなどで なく、奥さん御自身で、中身をあらためていただいた方が よろしいですな」 意味ありげな微笑とともにいっておいて、 「じゃ、失礼しました。奥さんを信頼しますからね、すべ でよろしく願いますよ」 代議士は、ほとんど逃げるようにして出て行ってしまっ た。 果物の籠が、上に包装紙がかかったまま、そこに残され でいる。 ふみやが、出て来ていて、それを奥へはこぶつもりで手 をかけると、 「お待ち。山岸さんI」 ふりむいて、夫人が友杉にいった。 「これはね、問題だわよ。十万か二十万、もしかすると百 万円ぐらいの札束がはいっていると思うの。手をつけたら いけないでしょ。先生のお書斎へ持ってっとくのね」 誰も気づかなかったが、庭の植込みを出た有吉が、玄関 の、半開きになったドアのかげへ来ていた。 そうして、友杉は、言われた通り、果物籠を、二階の代 議士の書斎へ、運んだのであった。 (つづく)
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絶壁 一 へきぎよくろう M県S海洋という町の温泉旅館碧玉楼へ、ある日の夕 方、二つの大型トランクを携帯した、男女二人つれの奇妙 な客がぎて泊った。 男は五十歳ぐらい、女はずっと若くて三十歳ぐらい ー。 彼等は、駅からまっすぐに自動車でやってきた。 しかし、その自動車からおりたばかりの時は、まことに みすぼらしい服装をしていて、男の方は、ところどころつ ぎ目のあたっている白麻のズボンに汚れきった開襟シャ ツ、古びたカンカン帽に軍隊靴といういでたちだったし、 女がまた、顔立ちだけは整っていながら、着ているワンピ ースの服が、仕立も柄合もひどくじみで不恰好で、その上 むきだしの足に、ズックの運動靴をはいているという有様 だったから、はじめ宿ではこの二人をすっかりと軽蔑し、 ほかに空いた部屋もあったのに、彼等を宿としては最下等 の一室に通したほどであったが、さてそれからしばらくす ると、女中が帳場の番頭にあわてた目つきで報告にきた。 「ねえ、あのお客さま、部屋を変えてあげた方がよくなく つて?」 「ふーん、どうしてだい」 「身なりはそまつね。だけど、持ってきたものが、とても 大したものばかりよ」 「へええ、持ってきたものって9」 「トランクが二つ、あるじゃないの。あたしが行ったら、 トランクの蓋をあけたところなの。そうしたら、服も靴も 帽子も、りっぱなものばかりが揃っているのよ。女の方 は、グイヤの指環出して指へはめたわ。そうしてね、山登 りしてきたから、汚い服を着てきたんだっていっていて よ。悪いこと言わない。部屋を変えた方がいいと思うな」 それではと番頭も気がついて、客に詫びを言いに行った り、特等の二階月の間に案内したり、急に滑稽なほどてい ねいな客あしらいに変ったのは、いかにもこの商売として はあたりまえのことだが、そうなってみると客の方は、男 も女も、すっかりとおちついてきて堂々として、そういう 上等の待遇には、ふだんから慣れっ子になっているという ところが見えてきたから、女中と番頭とは、 「ね、ごらんなさいよ。今日ばかりは、あたしの目の方が 高かったわね」 「うん、そうらしいな。着替えの浴衣まで、自分のを持っ てきている。どう見ても一流の紳士だね」 また話し合ったくらいである。 彼等は、東京からきたのだといった。ここの湯が胃病に 特効があると聞いてきた、それで当分のうち滞在するつも りだともいった。 宿帳の名前は、文房具商高畑義一、同人妻文江としてあ って、しかし、夫婦ではないのであろうし、またどう見て も商人らしいところはみじんもない。女は入浴したあと、 部屋の鏡台の前へ坐って、 「ああ、やっと、さっぽりしたわよ。こんな旅行って、も うこりこりだわ?。それに、景色だって、ちっともいい ところじゃないじゃないの。汽車は三等、おにぎりの弁 当。とんだ道行きしちゃったわね」 不平そうな口ぶりでいったが、だんだらしぼりの涼しげ な浴衣に、パッと目のさめるほどの赤い伊達巻をしめた姿 が、宿へついたばかりの時とは別人のように、あでやかに 見え、コケティッシュに見える。男の方も、同じく湯上りの 肥った躯を、ガッシリあぐらをかかせて葉巻をくわ、兄て、 暮れてきた海の遠くを眺める目つきが少なからず傲岸で、 つらだましい 精悍で、人を人とも思わぬ面魂に見えるのであった。 夕食に、彼等はビールをとりょせた。 男にまけず、女もかなりいける口で、ビールよりはハイ ボールかなんか飲みたいわ、などといったり、久しぶりで 三味線を弾きたいなどと言い出したが、酔いが廻るにつれ て、男の方ぱとくに目つきが淫蕩になり、もう女中がきて 次の部屋へ寝る支度をして行ったにもかかわらず、だしぬ けに女を抱きょせると、はげしくその場へねじ伏せてしま った。 「……いやだわ……無理よ。部屋が開けっぱなしじゃない の……それに、女中さんがくるかも知れなくてよ。 あ あ。そんなことして、バカバカ! ……ああ・ ・ 」 女は身をもだ、兄て抵抗し、男を罵しるようにしながら、 しかし結局は、自分から進んで男の要求に応ずるようだっ た。 荒い呼吸をして、男は、縁がわの籐椅子へ行き、ドサリ と腰をおろした。 「へんねえ。あなたという人。今度はいつもとまるっきり 変ってるわよ」 しばらくして女がとつぜん言った。 「そうかい。どう変っている?」 「だって、そうじゃないの。万事が万事だわよ。あたしに わけも話さないで、こんな田舎の温泉へつれてきて、それ もあなた、一等のパスだって持ってるのに、汚いなりをし て三等できて、これから、何があるっていうのよ。あた し、怖いような気がしてきたわ」 「うん、怖いのは、おれも、怖いよ」 「え9」 「なに、お前を困らせるようなことは、せんつもりだ。だ から、お前がびくびくすることは少しもない。しかし、今 度という今度は、もしかするとわしの土壇場だからな」 「いやねえ。土壇場なんて。1わかった。じゃあなた、 やっぽり警察から疑われていたとおりね。藤井という代議 士を殺したの、あなただったのね」 「じょ、じょうだんいうなよ。わしは、そんなのじゃ、決 してないさ。仮にも諸内ともあろうものが、そんな殺伐で 野蛮なことは決してせん。藤井が殺された時、わしが大森 のお前の家にいたことは、ほかの誰よりもお前が知ってる だろう」 「そうね。それは、そう言われると、そのとおりだわ。だ けど、じゃ、ほかに何があるっていうのよ」 「つまりだな。明日になると、この宿へ、わしを訪ねてく る人物がある。こいつは、なかなかの悪党だよ。悪党でい て、見かけは寺の和尚か田舎の村長みたいな顔をしてい る。こいつに会って、話がこっちの希望するとおりのとこ ろへおちつけば、何も心配はないことになるし、でなかっ たら御破算さ。御破算も御破算、おれだけじゃなくて、天 卞の大政党の御破算だぞ。おれは、少なくとも代議士じゃ いられなくなるからな。とにかく、その悪党に、会ってみ なくちゃわからないが……」 「悪党って面白そうね。そういうの、あたし大好きさ」 「好きか好きでないか、会ってみてからわかる話さ。ー うん、しかし、お前がそいつを好いてくれたら、わしは都 合がいいよ」 「オヤオヤ、どうして?」 「というのは、おれが目をつぶって、がまんしなくちゃな らんかも知れない。老人のくせに女が好きなやつだ。一晩 ぐらい、お前が御機嫌をとらなくちゃならんかも知れん」 「あら、そいじゃ、あたしが、人身ごくうになるっていう わけ?」 「ふふ、まさか、本気でそれを言うんじゃないよ。お前 を、入には渡すものか。ただ、譬えれば、いや、成行きで は、そうした方がいいという場合も起るというだけの話 だよ。まア、政治の裏面ではね、そんなことがしょっちゅ うあるのさ。自分の娘を、人身ごくうにすることもある。 ひどいのは、女房を提供する。それがまた昔から、いちば ん手っとり早い方法だとされているのだ。世の中のこと を、真正面からだけで見ていたら、聖人君子ではいられる だろうが、しまいにゃ野たれ死にするかも知れんからな。 わしはしかし、少々やりすぎたかとも思っているよ。まっ たく、つまらない目にあった。政治的野心なんか持たない で、材木屋をやっていた方が、利口だったかと思うよ。ウ ハハハハ 」 明日になれば会うという悪党は、まだ誰のことをいって いるのかわからない。 しかし、この会話を、誰でも聞いたらわかるだろう。男 かこ は代議士の諸内達也だった。女は、大森に囲ってある妾 で、これは宿帳に記入したとおりの文江という名前の女で ある。旅行は、秘密の旅行だった。身分をかくし、名前を 変え、服装までもわざとみすぼらしくして、この温泉旅館 へきていたのだった。 九時少し過ぎ、男ー諸内代議士は、寝る前に汗を流し てくるといって、階下の浴場へ降りて行ったが、その浴場 は岩風呂になっていて、湯の落ち口の岩のかげに、色の黒 い、ボンヤリした目つきの、頭が少し禿げかけた痩せた男 が、ポチャポチャと湯の音を立てている。 「静かでいいですね、ここの温泉はl」とその薄禿げの 男から話しかけた。 「そうですね」 ぶっきらぼうに代議士はいっただけだが、 「前から御滞在ですか。私は、今日ここへ来たばかりです よ。まだ少し早いが、海岸の崖をおりると海水浴もできる し釣りも面白いそうですな。まア、私も四五日いてみよう と思っていますよ。崖といえば、あそこはまことに絶景で すね。あそこだけは、海がとても深いそうですし、上から 覗くと、頭がくらくらしてきます。最近に、浴客が一人、 飛込んで自殺して、顔もなにもめちゃくちゃになったとい うことですが……」 その男は、しきりに話しかけてきた。代議士は、いいか げんにそれにうけ答えをし、間もなくして女のところへ戻 ってきた時、ハタと横手をうつようにして、 「あ、そうだ。あの男だ!」 とひとり言をいった。 女が、すぐ聞きとがめた。 「あら、どうして? 何があの男なの」 「うん、いま、風呂場でわしに、うるさく話しかける男が あったのだよ。どこかで見たような顔だと思ったが、東京 からの汽車の中で、同じ箱に乗っていた男なのだ」 「そうオ。それで……」 「それでも何もないが……イヤ、待て。何もないことない んじゃないかな。あいつは、汽車の中では、おれのうしろ の通路の反対側の席にいたのだ。目つきが間がぬけてい て、そのくせ、おれが便所や洗面所へ立つ度に、じっとお れの方を見ていたような気がする。とちゅうの駅で、おれ はプラットフォームへおりてアイスクリームを買った。そ したら、あいつも、やはり、。フラットフォームを歩いてや がった。そして、その時こそは、たしかにおれの方を目ば たきもせずに見てやがったのだ。うん、こいつは、少し変 になったぞ。あいつのこと、注意しなくちゃいけない。い やなやつだ。とぼけて、おれに、海岸の絶壁のことなんか 話していたが……」 不安のかげりが、顔にういてきている。 しかし、代議士は、 「なアに、大丈夫だ。そんなはずはない。わしは、誰にも 知れぬように東京を出てきたのだから……」 強いてそういって、新しい葉巻を口にくわえた。 二 朝、おそくなってから、代議士は目をさました。 疲労を恢復すると、昨日にも増して傲岸な面構えにな おうへい り、態度も横柄で、そのかわり、番頭を呼んでチップの札 束を、どさりと投げ出した。 入浴して、帰ってきて、女中を呼んだ。 「断わるのを忘れていたよ。わしを訪ねてくる人があるは ずだ。もしかすると、名前をまちがえて、わしのことを諸 内といってくるかも知れない。そういう人はまだ来ないか ね」 「はい、お見えにならないと思いますが」 「よろしい。では、来たら、すぐにここの部屋へ通してく れたまえ」 女中が、かしこまりましたといって引下ろうとすると、 「ああ、そうだった。ここの宿に、頭が薄っばげになっ た、痩せた男が、昨夜からきて泊ってるだろう。あの客 は、ここの馴染みかね」 と訊いたが、女中は、首をかしげて考えていて、ちょっ とわからないという顔つきをしている。 「風呂場で話しかけられたのだよ。なアに、なんでもない が、わしたちと同じ汽車で東京からきて、この宿へ泊った らしいのだ」 「さようでございますか。昨夜は、たしか、新しいお客さ まが四組いらっしやったと思います。でも、宿帳へ東京か らとお書きになりましたのは、こちらのお部屋だけでござ いますし、旦那さまが、いちばん早くお着きになったので ございますよ。あ、そうでした。頭の薄っぽげのお客さま というのは、松の間のお客さまのことでございましょうか 知ら?」 「うん、部屋は知らないが、色が黒くて、ボンヤリした目 つきをしているよ。女でもつれてきているのかね」 「いえ、男ばかり、お二人ですわ。会社員だっておっしゃ っていました。風呂場でお会いになったのは、そのうちの 年上の方のお客さまでございましょ。笑うと金歯が光って いて……」 「うん、そうそう、それだ」 「とても、冗談ばかしいっていて、面白い人ですよ。で も、何か、お気にさわったことでも・ …」 「イヤ、イヤ、何もないさ。もう、よろしい。サイダー を、氷といっしょに持ってきてもらいたいね」 疑念はまだあるが、聞いてみたいことをそのままにし て、あとは女に、 「ナイ、お前。海水着も持ってくるとよかったな。海は、 遠浅なところがあるそうだよ」 と話しかけている。 遅い新聞がきて、それをゆっくりと読んでいた。 昼食に、またビールを飲み、二人で散歩に出た。 その散歩から帰った時、約束のある人物が訪ねてきて、 逆に代議士を待ちかねていたのである。 その人物は、背の低い、髯の多い、鋭い目つきの、片腕 を繃帯で吊った老人だった。 二人で顔を合せたとたんに、 「やア……」 とどちらも言い、代議士が、 「どうしたね、腕を?」と聞いたが、簡単に、 「怪我をしたのさ。久しぶりだね。貴公が直接来てくれる とは有難いよ」 と答えただけであった。 代議士と老人とは、すぐに二階の部屋へ行った。 しゆこう 酒肴の支度を宿に言いつけようかと女が代議士に相談す ると、 「いや、そいつは、話がすんでからの方がよろしいて。奥 さんは、こりゃ、べっぴんだね。こんなべっぴんをつれて きて、わしに見せつけるのは、諸内君も罪つくりじゃな いか。アハハハ、あとで、そのことを相談せんといかんわ い。な、諸内君、そうじゃろう。わしは、死んだ人間に なって、世の中の蔭で暮しておる。君が、そうせいといっ たからだろう。パージでいるよりこの方が面白いという見 方もあるが、わしはわしで辛いこともあるのだよ。時に は、戦犯で処分された方があとくされがなくてよいと思う こともあるし、いっそ、また東京へ出現してやろうかと考 えることもあってな。アハ、アハ、アハハハ」 老人は腹をゆすって、皮肉に笑い出すのであった。 やがて代議士は、目くばせして、女に座をはずさせてし まった。 それから、代議士と老人とは、長いうち二人きりでその 部屋にいて、何か密談を交していた。 その時に、一度は代議士が、ひどく気にしていたはずで ありながら、いまはすっかりと思い出しもせずにいたの が、例の風呂場で話しかけてきた、ボンヤリした目つきの 男のことである。 女中がいったとおり、その男は、自分より年の若い、俊 敏なスポーツ選手のような軅をした男といっしょで、同じ 宿の松の問に泊っていた。 松の間は、次の間のついていない、床前はあるが、畳も 赤くやけていて、午後に西日が射しこむという部屋である。 代議士への来客があった際に、年長の頭の薄っぽげの男 は、ウカと油断していたのであろう。部屋のうちでも風通 しのいい窓のそばへ寝ころんで、宿の玄関への出入者を、 絶えず見張るようにしていながら、つい、とろとろとし て、午睡をしはじめ、折悪しく、また若い方の男も、これ は野天風呂があると聞いたから物好きで、その野天風呂へ 行っていたため、代議士への来客のことは、それから二時 間ほどもしてからやっと知った。女が、密談の席を遠のい て、一人きりで階下の娯楽室へきて、郷土細工土産品の陳 列棚をのぞいたり、つまらなそうにコリントゲームをやっ たりしている。その様子が少し変だと気がついたから、た くみに宿の女中にあたってみて、月の間へは、いつの間に か客が来ていると知ったのであった。 「ホイ、やりそくなったぞ。その客がどんな男だか、見て おいた方がよかったんだ! 六日のあやめ、十日の菊…… じゃない。十日のあやめ、六日の菊……わからん。どっち でもいい。それになっちゃ、たいへんだぞ」 年長の男が、おどけていって、すぐにまた真顔になって いる。 「よしきた。やっと少し面白くなった。橋本君。君は、見 張っていてくれたまえ。どこかへ二人が外出するようだっ たら、すぐあとをつけて行く。ぼくは、ちょっと偵察だ よ」 ・誹 そして、いそいで浴衣を服に着かえ、リュックから大ぶ りな双眼鏡を出して、宿の裏階段をおりて行ってしまっ た。 月の間では代議士と老人とが、まだ密談をつづけてい る。 三十分とたたぬうちに、松の間へは、偵察に出た男が戻 ってきた。 「大成功だよ」 「そうですか」 「あの部屋の中を、どこからもうまく覗けないんだ。幸い に向うの土産物屋の二階が、いい角度になっていると睨ん だ。しかたがないから、名刺を出して見せて頼んでね。そ のくもの巣だらけの物置場へ上げてもらったんだが、双眼 鏡があって大助かりだった。諸内代議士が会っているの は、誰だと思うね」 「さア……」 「持寄りの意見で会議をした時、いろいろの説が出たっけ ね。その一つに、元陸軍少将加東明は、中正党の秘密を握 っていて、そのために中正党のため殺されたんじゃない か、そうしてそれを藤井代議士が嗅ぎつけていたのだろう というのがあったほどだ。が、ともかくも、加東明と事件 とは関係があるという結論だったはずだね。貝原係長がそ ちゆうしやく れに註 釈を加えて、もちろん関係はないじゃない。しか 」、藤井代議士殺しの直接犯人としては、やはりどうも諸 内代議士じゃ頷けない点があるのだから、その点でゴタク サを起さぬようにしろといっていただろう。まア、こいつ は、もっともだとぼくも思う。藤井代議士の殺人現場か ら、加東明の失踪事件を書いた新聞の切抜きがなくなって いるといっても、その切抜きだけを持ち去っても、新聞に 一旦出た以上、その事実はやはりあったことだと知られて いるから、もはやどうしようもないことで、従って、犯人 がその切抜きを盗むために、藤井代議士を殺しに来たなん てことは考えられない。そのほか、アリバイも、はじめに 洗ったとおり確かだった。常識的にも、中正党の幹部であ る諸内代議士が、自分から手を下して、まき割りの斧を振 ったものとは思われない。けっきょく、何かひどくモタモ タしていて、重大な関係はありながら、直接の犯人ではな さそうだと思われるし、一方で課長が、鋭く指摘していた じゃないか。これは、単純なノビ(窃盗)の品ぶれで、血 のついたトバ(着物)が出てきたために、思いもよらぬコ ロシ(殺人)のホシ(犯人)が出てくる場合に似たものかも 知れない。藤井代議士が殺されたのは大事件だ。しかし、 加東明の線から発展して、もっともっと大きな事件が摘発 されるかも知れないってね。ーどうも、課長の言葉は、 当っているよ。今、諸内代議士のところへ来ているのは、 元陸軍少将の加東明さ」 「えッ!」 「失踪している。生活苦で自殺したのだろう、と思わせて かくしやく いる。ところがどうして、矍鑠として脂ぎっているんだ。 写真でいくども見ているから、双眼鏡でのぞくと、すぐに わかった。同時に、諸内代議士が変装して三等車でこの田 舎の温泉へなぜ来たかというわけもわかった。加東明に会 うためだったのだ。二人で、はげしい顔つきをして、いが み合いの口論をしている。どっちも一筋縄で行く人間じゃ ない。二人の話を、そばへ行って聞いていたら、とても面 とくしんじゆつ 白いだろうと思うんだが、双眼鏡はありながら、読唇術を 習っておかなかったのば残念だよ」 若い方の、橋本と呼ばれた刑事が、もうだまっていられ なくなった顔つきだった。 「井口さん。しかし、もういいじゃないですか。どんなこ とを話しているにしろ、加東明がきているってのなら、こ れからすぐ踏んごんで、二人をしょびくことにしてしまっ たら」 といったが、警部補井口民二郎は、例の、ボンヤリした なだ 目つきで、いきり立つ橋本刑事を宥めている。 「いいよいいよ。意気や甚だ壮とすべし。しかし、その時 期じゃないぜ」 「そうですか、どうしてですか」 「刑訴法が、昔のものとは違ってるんだ。つかまえたら、 こっちでまだ知らなかったことを、容疑者の口から、しゃ べらせるというわけには行かない。このために、人権は擁 護されるというが、同時に、善良な人間の安全も脅かされ ている。-うん、いや、不平をいっている場合じゃない さ。要するに、内偵をうんと進めておかなくちゃいけな い。第一が、諸内と加東とが、どういう利害関係で結びつ いているか、という点だ。そしてそれには、事実をつきと め、証拠を集積しておく。まア、ともかく動静を観望しよ う。大切なのは、加東明が、どこでどんな風にして暮して いるか、それを確かめておくことだな。1そうだ、それ には、君とぼくだけじめ、、手が足りない。君は、東京へ、電 報うってきてくれ。ここは国警だったかね。1だとする と、めんどうかも知れぬが頼んだらいいよ。電話をかけて もらった方が早いだろう。加東明を発見したと知らせて、 応援をたのむのだ。いいかい。うまくやれよ。ぼくは、一 風呂浴びて、お祝いに、ビール一本おごるからね」 そうして警部補は、愉快そうに、若い刑事の肩を叩くの であった。 三 な 灯ともしごろ、海はうねりが高かったのに、風が凪いで しまったから、気温が急に高くなった。 どこかの団体客がきて、大広間いっぱい騒ぎまわり、流 行歌やおけさや戦時にはやったツンツンレロレロをわめき 立てている。 代議士と加東明とは、浴衣を着てあぐらをかいて、しか しまだ話の折合がつかないでいた。 夕食になり、今夜はビールと日本酒とがチャンポンで、 「な、ア、おい、諸内君。君の方に都合のいいことばかりい っていては困るじゃないか。悪くすると、君は、殺人の嫌 疑をうけるところだぜ。藤井代議士の話は、わしも田舎に いながら、新聞を読んで知っていた。わしが生き証人にな って出て、全面的に事実を証言するとしたら、中正党も何 もありゃしない。つまりわしが代って、藤非代議士のやり たいと思っていたことがやれるわけだよ。1一方でわし の失踪は、秘密を握っていたわしを、君たちが殺したのだ ともすることができるし、どっち道、ろくな事はないにき まっているだろう。まア、ゆっくり考えたまえ。わしも、 もうろく まだまだそう耄碌はしておらん。親からもらった名前を捨 て、赤の他人の引揚者になりすまして、君に送ってもらう けちな金でおとなしく田舎に引っこんではいるが、大義名 分のためとあれば、いつでも身を捨てて立つつもりだよ。 どうだい、今の政治はなっとらんね。線の太い、ガッシリ した人物がいなくなってしまったのかな。要するに、思い 切った手をうたなくちゃいかんよ。その手をうつ勇気がな いから、わしも中正党に、あいそをつかしているところ だ。魚心に水心ともいう。ここでまちがったことをするの だったら、天下にわしは公表するよ。その方が大義名分論 からは正しいとも言える。ウフ、ウフ、ウフフフ、まア、 結論は今夜に限るまい。ぼくと君とで、納得のいくまで話 すことだな。君の奥さんみたいなべっぴんを、その間わし あつせん に、斡旋してくれても悪くはないぜ」 うちわ 老人加東明は、いまは客のとりなしで横から団扇の風 を送っている女を、ジロジロ眺めて、言いたいほうだいの ことを言っているのであった。 さすがの諸内達也が、蛇の前の蛙のようなものであっ た。 国会では、痛烈な野次の名人であり、また蛮勇家として こうがんむ ち 知られているし、政治的裏面工作には、厚顔無恥であると ともに奇策縦横、ある場合になくてはならぬ人物とされて いて、しかも、この老廃将軍加東明の前では、額に怒りの 青筋を立て、唇を固く喰いしばり、時にわざと磊落な笑い 声を立て、ただ握りしめた膝のこぶしを、ブルブルとふる わせているだけであった。 加東明が、盃をチビチビとなめながら、顔をのぞいた。 「イヤ、しかし、酔いすぎたかな、久しぶりで、美人を見 たから、虫が起って困りよる。貴公、わしの言ったこと で、腹を立てているのじゃあるまいな」 代議士は、額の汗をふいていた。 「腹を立てはせんさ。君ぐらいの代物は、いつも扱いつけ ているよ。アハ、アハ、アハハハ……」 「そうか。よろしい。怒気心頭に発するというやつは、え てして間違いのもとだからな。怒るのは、けっきょく損に なるよ。どうだ、長いこと聞かなかった、君のお得意を一 つ聞かせろ。わしも、白頭山ぶしをやろう。そりゃ、テン ツルシャン 」 立って踊ろうとして、腰がきまらずによろけると、女の 肩を抱くようにしてドタリと坐って、 「ああ、奥さん。逃げんでもよかろう。いっぺんでよろし い。キスして下さい。え、どうじゃ。わしは、諸内君と、 たった一つしか年はちがわんですよ」 から うるさく絡みついてきた。 諸内代議士が、ピクリと眉をうこかした。 彼も今夜は、立てつづけにビールを六七本飲んでいる。 立ち上ると、加東明の繃帯で吊った腕をつかんだ。 「オッ! どうするのだ。諸内君……」 「どうもしやせん。ここじゃ、話がしにくいことがある。 君の喜ぶようにしてやりたい」 「『へえ……」 「ちょっと、海岸の方でも歩いて来よう。歩きながら話す から」 言いながら、女を見る目つきが、しかたがない、がまん しろ、といっているようである。加東明は、ニヤニヤしだ した。 「よろしい。大いによろしい、海岸へでもどこへでも行く よ」 といって、ようやく、女の肩から手をはなした。 真実酔っているらしく、加東明は足がフラフラしてい て、宿の階段を下りるのに、諸内代議士が、それを抱きさ さえねばならなかった。 宿の玄関へ出た。 女中と番頭が、 「あ、あぶない!」 と、よろけた加東明を、両側から抱きとめたのを、諸内 達也は、眼の底でキラリと眺めて、唇で笑った。 「威張っても、昔ほどじゃなくなったね。あれ位の酒で」 「イヤ、大丈夫。酔ってはおらんよ、ウム、いい気分だ。 君の友情を信頼する……」 加東明は、無意味なことをいって、そのとたんに、女中 のそろえた下駄の上へ、またペタンと尻餅をついた。 番頭が、気をもんで、代議士にいった。 「これじゃ、あぶないですよ。御散歩はお止めになって、 もうお休みになったら……」 「うん、心配せんでよろしい。わしがついているから」 「でも、お気をつけなすって。道が向うで、二つにわかれ ております。そこを右へ行くと崖の上へ出てしまいますか ら、左へいらっしゃらないといけませんよ」 「よしよし、わかった」 代議士は、大きくうなずいて、見送りに出た女の顔をふ りかえり、なに、安心していろ、と目くばせをしている。 外へ出ると、間もなく海鳴りの音が聞えだした。 少し歩き、代議士が、どういうつもりか、通行人に聞え るほどの大声で、 「オーイ、番頭さん、右だったな。左へ行くとだめだった んだな」 どなるようにくりかえして言い、しかし、もう宿からは 離れたので番頭の返事は聞えて来ない。代りに加東明が、 「右せんか左せんか、左派と右派との問題じゃよ。面白い。 話はわかっとる。あの女を、わしに一晩、貸してくれると いうんじゃろう。気に入った。酔いをさます必要がある。 君には、まことに相すまんな。わしのために女をつれてき てくれたとわかっているのだ。ええ女だ。掘出しものだな。 一晩だけでなく、わしのところへ置いて行ったら、まだま だ我輩、君のために、大いに役に立ってやるよ」 悦に入ってしゃべりだした。 星が輝いていて、月は見えないが、わりに明るい。 しかし、外へ出ても、風が死んでいて、空気が重く暑く のしかかってきた。 じきに、道が二つにわかれた。 海へ向って、石の記念碑のようなものが立てられてい た。 「うん、ここだな。番頭が左へ行くとあぶないといった ね」 代議士が、用心ぶかい口調で言い、加東明は、怪我をし ていない腕で代議士にぶら下がりながら、 「うむ、そうだったろう。どっちでもいい。ー今夜は愉 こぎゆう 快だ。故旧来りて燭をとりて遊ぶ、また楽しからずやだ」 とわめき、それからテンツルシャンと歌いだした。 右は、絶壁への道である。 はるかに足の下で、波が岸を打っていた。 自動車は通るのであろう。片側にコンクリートの低い車 止めが、ところどころ作ってあった。 生酔いの本性違わず、加東明が、 「オヤオヤ、道を間違ったな」 と言い、諸内代議士は、 「そうだ。間違ったのさ。間違いはどこにでもあるものさ。 ま、あそこへ腰かけよう。海の風に吹かれた方がいい」 平然たる顔で答えたが、その声には、かすかな顫えがま じっているようであった。 「どうだ、加東君。ここで一つ、話をハッキリときめてし まおうか」 「なんだい。女の話じゃないのか」 「いいや、それは、話をきめてからのことだ。急ぐことは ないだろう。どうせ君に提供するつもりで、ここまでやっ とつれてきたのだ」 「よかろう。それなら、話になる。やはり君はわかる男 さ」 ドシンと、代議士の肩を叩こうとして、上体がぐらりと ゆれたから、加東明は、コンクリの車止めにしがみつい た。 「あぶないな。どこか、よそへ行こう」 と、酔いがさめたようである。 「まア、しかし、聞いてくれ」 と代議士は、腰を上げずに、宿から手に持ったなりでき た葉巻を投げた。闇の海へ、吸われるように、葉巻はおち て行った。 「わしはね、これで大野心を持っているよ」 「そうだろうな。君は野心家さ。また、将来は大臣になる 器だ。おだてるのじゃないけれどね」 「ありがとう。そう見てくれれば感謝する。が、ともかく 困ってしまっている。藤井代議士を、甘く見て買収にかか ったのが失敗のもとだった。悪い時には悪いことが重なっ た。その藤井が殺された上に、買収費を盗んだやつがあ る。おかげで、買収工作が明るみに出てしまった。もちろ ん、警察で、わしを藤井殺しの犯人として疑うのは、とん だ薮睨みで平気だが、附随してこっちの痛い腹まで見抜か れそうになったのは閉口だ。ここを、事無くしてすませた ら、わしは大臣にしてもらう約束だし、でないと、わしの 大臣ぱおろか、政界のお歴々が芋蔓で引っぽられるという ことになるのだ。これは、個人的な利害でなくて、国家と しても損害だよ。内外に信を失う。今後の政治が、ますま すやりにくくなる。そこで君に、さっきからいっている通 りだ。意を決し断行してもらいたいというわけだ」 「いやだね」 「いやでも、やってもらいたいのだ。ほかの工作はやって ある。買収は、わしがどこまでも白を切るし、証拠は、い ざという時、完全に湮滅する手筈が整っている。心配なの は君のことだ。警察が、君の失踪事件を、また調査にかか りはじめた。君がつかまったら、もうどうにも方策がつか ない。そこで一方、君の希望するところへ、渡りをつけて やれるだろう。中共でも国府でも、お望み次第というわけ だ。そこへ行って君は大将軍になるだろう。りっぱな将軍 だ。引揚者の漢学者で田舎にくすぶっているよりは、まだ 一花咲かせる時期がくるのだよ。どうだ、これでもう、二 度とは言わない。最後の返事を聞こうじゃないか。否か応 か……」 「いやだi」 実にす早かった。返事をした曦諸内代議士の腕は・ぐ鞠 んと力をこめて加東明の胸をつき、加東明は、 「あッ!」 叫んだまま、クルリと足を上に向けて、車止めの外側 へ、転落したのであった。 近くで見ていても止めるひまがなかっただろう。 加東明は、絶壁へ呑まれてしまった。 そうして諸内代議士は、ぶるっと身をふるわして、車止 めをはなれ、じっと海鳴りに耳を傾けたが、すぐに気づい た風で、宿への道を駈け戻ろうとした。 その時、ふいに、ぬっと道の上へ出てきた二人の男があ った。 代議士はそれを、ただの通行人と思ったのにちがいな い。 「ああ、たいへんだ。友人が、酔っていて、海へ落ちてし まった!」 と、彼等に向って叫んだ。 しかし、その二人は、通行人ではない。たちまち代議士 の両腕を、鉄の機械のような力でしめあげてしまった。 「オイ、バカなことするな。わしは代議士だぞ!」 「知っていますよ。汽車の中から、もう知っていたので す、それに、御友人は、落ちたのじゃありませんね。あな たがつき落したのですね」 「えッ!」 「見ていましたよ。だしぬけで、びっくりしました。まさ か、そんなことをするとは思わなかったのです。ああ、そ う、あばれないで下さい。あばれると、手首を痛めるだけ でしょうね。ーイヤ、こちらも、後悔しています。風呂 場で、絶壁の自殺者の話をしたのがいけなかったのです な。ぼくらには、よくわからなかったのです。もしかした ら、あなたが自殺でも企てるのじゃないかと思い、一本釘 をさしたつもりでしてね」 「き、きみは、それでは……」 「そうですよ。気がつきませんでしたか。東京からごいっ しょしたんですよ。ともかく、諸内さん、ほかの点は別と しておいて、加東明殺害の現行犯として、あなたを逮捕し ますからね。あなたは代議士だから、これまでの苦心も、 並たいていじゃありませんでしたよ」 頭が薄っばげになった井口警部補は、おちついている。 しかし、ふりむいて橋本刑事に、 「加東明を死なせたくなかったな。うん、万一にも助かる かも知れん。今夜のうちに、死体捜査、または救助の方法 を立てるのだ。おれはこれから宿へ帰って、女の方をつか まえておく。いそがしいそ! 君は、もういっぺん、東京 へ電話だ。大体のことを知らせておけ。但し、絶対に外部 には秘密だということを念を押して断わっておけ。場合に ょると、事件は二課と協力しなくちゃならない。しかし、 外部へ洩れて諸内代議士が逮捕されたと知れたら、証拠書 類など、全部焼かれてしまうだろうからな。しっかりやる んだ。さア、急げ!」 火の出る口調で命令した。 諸内代議士は、うめき声を立てた。 そうして首を人形のようにガクリと垂れてしまった。 崩壊のはじまり 一 笠原昇は、今日午前中、久しぶりで学校へ出たが、午後 の講義はサボルことにしてあった。そうして校門の前でタ クシーを拾うと、すぐに銀座裏の喫茶店マロニエへかけつ けた。 腕時計を見ると、午後一時になろうとしている。 「予定どおりだ。十五分待たせた」 口のうちで呟いたが、彼は時間に対して非常に正確であ る。毎朝、洗顔をして歯ブラシを使う間に、その日の時間 表を頭の中でキチンとつくった。知識の修得に何時間、社 交事務思索にそれぞれ何時間、食事衛生健康のために何時 間、そして娯楽に何時間といったぐあいである。結果とし て、食事の時間と社交の時間が重なったり、娯楽が同時に 事務の一部になったりすると、時間はそれだけ節約された わけで、それを彼は、彼独特の言葉で、『時間の利子』また じようよ は『生命剰余』と呼んでいたが、つまりそれは、そのよう にして余った時間は、時間の儲けだとも考えられるし、ま た反対に、生命のむだな延長だという意味でもあろう。彼 は人生を、肉体の成育充実のための二十年は別として、あ とはしかし、真にむだのない必要な時間というものが、十 年とはないのだと計算したことがあった。十年の時間を、 せいいっぽいに生かして使うと、人間の力で成し得る限界 まで達する。天才や偉人というものは、そのせいいっぽい の充実した時間が、若い時から老年まで続く人のことで、 平凡人は逆にその十年または十年以下をだらだらと五十年 も八十年もかかって充実するのだ、というのである。時間 は貴重であり、絶対に逆行せず、取返しのつかないもので あった。そうして今日は、女とマロニエで零時四十五分に 会う約束にしてあり、しかし自分は十五分遅れて行って、 女をいらいらさせてやろうという予定だった。女は、待た せた方がいい女と、待っていた方がいい女と二種類ある。 今日の女は、待たせるべき女だと考えたのであった。 女は、果して瞳に、喜悦の色を輝かせた。 可愛いいフロント・レースのついた純白のブラウスに、 水色のタイト・スカートがよく似合っている。しかし、待 っている十五分が、不安で泣きたいくらいだったのだろ う。そこへ、今日は学生服の笠原昇がきたのである。この 女は、二日前に笠原のつくった企業会社の社長秘書募集に 応募してきて、即座に採用と決定したのであった。その時 に、R市の資産家の娘で東京へ出て、伯母さんの家から語 学校へ通っているのだといった。働らきたくて、笠原の会 社へきたということであったが、一眼で笠原はこの女が、 自分の自由になるのだとわかってしまった。社長の女秘書 になるということは冒険である。その冒険への期待が、は じめから女の肌の下に燃えている。もしかしたら、もう処 女ではないかも知れず、しかしそうであっても、べつに困 ることはなかった。笠原は、金のことを、身体で結びつい た女に任せるのがいちばんだと知り、それには、教養もあ り利口そうであるこの女が適当だと考えたのであった。 女には、アイスクリームを食べさせ、笠原は、甘味の少 ないシャーベットをとった。 そのあとで、 「実はね、予定が少し狂ったのだよ」 「そうですか」 「ここで会う約束をした男が、関西旅行で来られないと電 話してよこした。それにぼくは食事前で、君に食事をつき あってもらうことにする。会計を、君に任せたいし、その 話を、誰にも聞かれないところで、君に説明しておきたい からね」 女を、神楽坂の待合へつれて行くつもりだった。そうい っておいて、反応を見ている。女は、おとなしくうなず き、笠原の言葉を聞く間、食べかけたアイスクリームの スプーンを、動かさずじっと手にもったままでいたが、指 が、こまかくふるえだしたようだった。爪にはマニキュア がしてなくて、きれいに剪りそろえてあった。指は、精巧 な大理石の彫刻のようで、手の甲の指のつけ根に、えく ぼに似た小さなへこみがついている。この指を五本そろえ て、ギュッと力を入れて締めつけられたら、と考えて笠原 の頭は、痺れるような快感にうずき、急にはげしい情慾が わいてきた。 「まだ、なにかーコーヒーは?」 「いいえ、もう……」 「じゃ、行こう。少し、銀座を歩いてから」 銀座が好きなのではなかった。慾望の達せられる時を延 ばして、更に慾望を刺激するのが楽しみだったのである。 歩いているうち、洋品店へはいった。そして、銀のブロー チを買って女に与えた。 「これから、いろいろの人に会うからね、美しくしていた 方がいいのだよ。君の服も、会社の伝票で作ってあげる。 社員の服装買うのも、事務所の備品買うのも、同じ借方勘 定にはいるようなやり方をぼくはやるのだから」 そっと耳へ囁いて、その時、肩を抱きよせるようにする と、女も少しこちらへ、身をすりょせてくるのが感じられ た。 世の中は、自分の思うがままになると考えられる。自信 に充ち、才能にあふれ、そして街を歩いている人間の顔 が、間抜けと低能ばかりに見えてきた。 神楽坂の待合今花は、笠原がある実業家の夫人につれら れて行って、それ以来顔馴染みになった待合である。行っ てみると、昼のことでほかに客はなく、しかし、風呂がわ いているのだという。何もかもが、あつらえ向きだった。 ここでも彼は、万能を信じた。恐れるものは何もない。こ れから、娯楽と衛生との時間を少しばかり費やす。そのあ とで、淀橋の事務所へ行って、高橋と平川との報告をう け、また彼等に指令をあたえる。企業は、組織や形態だけ ができても、資本をうんと掻き集める必要があった。出資 は、一口一万円から月一割の配当にする。そうしたら、学 生の父兄や、家作持ちの未亡人や、貯金をちびちびため た教員や官吏が高利貸しという悪名をこっちにおしかぶせ ておいて、その実一年で元金を、二倍以上にふやすことが できるのだから、喜び進んで出資する気になるだろう。学 生だけでやる事業だから、信用されることも請合いで、あ る程度まで出資者がふえてきたら、事業はもうゆるぎがな い。問題は、その最初の出資者である。それを平川と高橋 とに命じておいた。手はじめに、彼等の学友の家庭を訪問 させる。教授の家も結構である。そうして、銀行利子や郵 便貯金の利子と比較させ、ためしに一万円ぐらい出させて みる。月末ごとに、キチンと一割の利子を届けたら、半年 目に、出資を二倍にしたい、三倍にしたいと申込んでくる にちがいない。きっとうまく行くにきまっている。貸しっ け総額千万円となったら、利鞘が月に二百万円だから、ど んなぜいたくをしても使い切ることなんてできやしない。 いや、むだ使いするのでなくて、その二百万円も利子に利 子を生んで行くから、ついに会社の財産は、一億円、また はそれを突破するという時が来ないでもない。世界でもま だ類のない学生財閥というものが出現するではないか 女中が来て、お料理の出る前、お風呂にはいったらいか がです、とすすめた。 「そうだね。汗を流した方がサッパリするな。君はど う?.」 と女にきくと、 「いえ、あたし、けっこうですわ」 女中の視線を、避けるようにして女は答えている。 女中は、目くばせして笠原を、廊下へ呼びだした。 「どうなさるの。お食事だけでよろしい(ソ・」 「ちがうよ。気をきかしてくれなくっちゃ……」 「わかってますよ。じゃ、あちらのお部屋へ支度しておき ますから」 「たのむ。それから、寝具香水を忘れないようにしておい てね」 よみがえ ふいに、ある淫蕩な場面の追憶が、胸のうちに蘇って きた。彼をこの待合へつれてきた実業家夫人は、香水の匂 いがむせかえるほどの部屋へはいると、酔っていたせいも あるけれど、冬の寒い夜だったのに、身につけていたもの 全部を急に脱ぎすてて、ねえ、ダンスしましょうよ、と笠 原にからみついたことがあった。奇怪なダンスで、さすが の笠原でも、経験したことがないようなものだった。実業 どんらノん 家夫人は、大胆で貪婪で、いつまででも踊りつづけた。ダ ンスの得意なはずの笠原が、でくの棒のようにぶきっちょ になり、そのせまい部屋の中を、むやみやたらと引っばり 廻され、その間の強い刺戟のため、精神も体も狂人のよう に日叩奮し奴隷のように疲れ果てた。それでも実業家夫人 は、まだ笠原を許そうとせず、丸くて白い両腕の間へ挟み こんだ笠原の首を、昆虫を殺す子供と同じ残忍さで、ギュ ッと力いっぱい捻じ廻したり、ずっしり重量のある自分の 体を、そのまま笠原にもたせかけておいて、無理なアクロ バットのような姿勢をとったりしたが、それを笠原は思い 出したのであった。 「しかし、あの語学校の生徒の女秘書では、そんなでたら ふ さ めは相応わしくない!」 笠原は頭をふり、その妄念を、汗といっしょに洗いおと すため、廊下へ出たついでに風呂場へ行ったが、ここでも 彼は、ひどく満足な気持であった。水泳が少しできるだけ で、とくべつなスポーツはやらないが、常にまことに健康 である。若さに十分恵まれている。ほかのアルバイト学生 ときたら、汗臭くて垢だらけによごれているか、でなかっ たら、ろくにうまいものも食べないから、皮膚もしなびて 痩せてしまって、レントゲンで肺がやられたとわかってい ながら、青い顔をしてノートにかじりつき、学校を卒業す る前に、体の方がだめになってしまいそうなのが、ざらに ある。ところが、笠原は違うのである。新鮮な血液が、い つも元気よく体内をかけめぐっていた。しなやかで弾力の ある皮膚は、新陳代謝の機能が盛んであり、内臓はよく食 物を消化し、頭脳は明敏に濃刺として活躍してくれた。自 分の人生は、アメリカで作った最大最新式の飛行機のよう に、これから悠々として、地上を睥睨しつつ、陽光を浴 び、光彩を放ち、どこかの新しい空へ飛んで行く気がす る。何がきても心配はない。どんなことでもたちまち明快 に処理してしまう。そして慾望は、科学的に可能なもので ある限り、いつでも即座に達し得るようになるのである。 そうだ、その幸福を、自分だけではない、他人にわけてや ることだって、できるだろう。それは、楽しいことかも知 れない。平川や高橋は、自分を神様のように思うだろう。 いや、平川や高橋より、さしずめ、今日の女である。あの 女は、まだ十分に、おれの力を知らないでいる。清潔で利 口そうで役に立ちそうな女だから、ほんとに可愛がっても よい。あの女に、第一の幸福をわけてやろうか知ら。抱い でキスしたら、そのあとで将来のことを話してみよう。あ の女は、おれのために、命を捨てても惜しくないと思うに ちがいないのだー。 彼は、つめたいシャワアで、石鹸の泡を気持よく流し た。 そして、女中の出しておいてくれた糊のきいた浴衣を着 で、もとの部屋へもどってきた。 しかし、こうして彼が自由気ままな空想をしながら入浴 している間に、実は同じこの待合へ、一人の新しい客がき でいたことを、彼はまったく知らなかったのである。 その男は、花模様を染めだしたアロハを着ていたから、 一見して街の与太者風だったが、顔は蒼白く細面で眼つき におちつきがあり、へんになにかヒヤリとする、つめたい 感じをあたえる男だった。 今花では、顔なじみのない客であるが、ズイとはいっ て、部屋は空いてるね、厄介になるよ、といったきり、も う靴をぬいでしまっていたから、女中が断わりたいと思い つつも気押された感じで、そのまま上げてしまったほどだ った。その時に、 「あとから、連れがくるのだよ。石川さんだ。知っている ね」 と、眼もとで笑って女中にいったが、石川などという名 前は、どこにでもあるのである。女中は、おなじみの客 を、あれかこれかと考えてみて、べつにハッキリした心当 りがないながら、では、そういう客がいたのであろうと思 ってしまったが、あとで思うと、男はただその場しのぎの 口実でそんなことをいったのである。 お通しものは、連れがきてからでいい、といった。そし て、茶をガブリと飲むと立ち上り、部屋の作りや庭を眺め ふ しん て、なかなかいい普請だね、とお世辞のようなことを言 い、ふいに高く澄んだ口笛で流行歌の一節を鳴らしたが、 これはやはりあとで思うと、ちゃんとした目的があって鳴 らした口笛だったのである。 連れの『石川さん』は、なかなか来なかった。そうして この間に笠原は、相変らず何も気がつかなかった。 女が、 「いやー・よして……」 思いもよらず抵抗したのは、香水の匂いがする部屋へ行 ってから、襖をしめるかしめないかに笠原が、抱きよせて 接吻をしようとした時であった。 抵抗しても、笠原は、女を抱いた腕をゆるめなかった。 女がはげしくもがいたので、何かガチャンと金属性の音 がしたし、三尺の床の間がつくってある、その床柱まで二 人ともよろけて行ったが、ついに長いうち息をつめて唇を 重ねていると、次第に女の体からは力がぬけ、うっとりと 眼を閉じていると思ったから、 「ね、いいだろう。ぼくは、君の持っているもの、みんな 欲しくなったんだ。君は、素敵だよ。さア、……」 また唇を吸いながら、片手を女のスカートへまわした が、とたんに女は、 「あれえ! 誰か来てえ! だめよオ!」 スカートがピリッと音を立てて裂けるのもかまわず、笠 原の胸を飛びはなれ、咽喉いっぱいの鋭い悲鳴をあげたの であった。 笠原は、驚くというよりは、一瞬へんな気持がした。 この女が、こんなにも手ごわく彼を拒否するなんて、有 り得ぬことだった。どんな女でも、こういうことはなかっ た。口では、いやだといったり、誰か人が来るから困ると いったり、そのくせ、声は甘くやさしく囁くようで、その 声と言葉を聞くだけでも、感情が熱く快く昂奮するのに、 これは、まったく違った種類の声と言葉であった。男を侮 蔑し嫌忌し憎悪して、火事を見つけた時のように、ただけ たたましく叫ぶのである。なにか喰い違いが起っている。 しかもそれは、どうしてそうなったのかわからない。笠原 は、頭の中ヘポカンと穴があいたような感じで、狼狽し腹 立たしくなり、呆然として部屋の隅に立ちすくんだが、す るとその時、廊下からの襖がサッとあいた。 そうして、笠原とは一面識もない、あのアロハを着た男 が、 「フン、ここの部屋か……」 ひどくゆっくり言いながら、部屋のうちへはいってきて しまった。 ちんにゅうしゃ あまりに不意うちで、笠原は、この闖入者に対し自分の 身を守るだけの体勢を整える余裕がなかった。 「知っているぞ。こんなことをやるんじゃないかと思って いたんだ。お前は、色魔で学生高利貸しの笠原だろう。他 人の女を、貴様はおもちゃにしやがったなー」 その言葉といっしょに、顔へ火の出るような平手打ちが ピシャリときたから、肩が壁ヘドシンとぶつかり、はじめ てその時に、これは罠であったと気がついた。こっちは知 らなかったが、女の方では、予定してあったのにちがいな い。もしかすると、喫茶店マロニエから、この男は、もう あとをつけてきたのであろう。時期を待っていた。そうし て、のっぴきさせず、弁明のできない場面へ来て、笠原を ゆすろうとしているのである。 「おれはね、知っといてもらおうぜ。錨のテニイだよ」 「えッ!」 「文句をいってもはじまらないさ。小切手書くんだね。い やだってなら、書かたくてもいいが、アッサリ片づけてし 」 拶 ♂ まいたいからね」 錨のテニイというのは、不良学生の間で、猛獣のように 恐れられている男だった。この男に睨まれたら身動きもで ぎなくなる。もとは江田島の兵学校を卒業した男で、海軍 中尉だったというから、学生時代は秀才だったのだろう。 復員して、自暴自棄になり、すっかりと身を持ち崩した。 度胸があり教養があり、正確な発音で外人との会話が自由 である。だから、生えぬきの与太者でもテニイには一目お いている。女には、そういう男のヒモがついていたこと を、不覚にも笠原は全然気がつかないでいたのである。 どうにも、しかたがなかった。 笠原の智能も弁舌も、今度ばかりは無力だった。法律で ば、笠原の方に理があるのだろう。しかし、それは恥の上 .塗りをすることだった。それにテニイは、ある程度まで笠 原のやりかけた事業のことを知っている口ぶりだった。そ れへ割りこまれたら、ぜったいぜつめいである。学生財閥 の夢は、一気に消し飛んでしまうのである。 女がテニイのポケットからたばこを取って、うまそうに 煙を吐きだし、テニイはつめたく、笑って、 「みっともないね。スヵート、社長さんから買ってもらう んだね」 といった。 怒りが、全身をゆすぶる。 しかし、ついに笠原は、小切手を書かされてしまった。 金額は三万円だった。 「それ以上、ぼくは出せないよ。不服だったら、やぶいて しまってもいい。小切手でなくて、命のやりとりだってや ってみてもいいね」 その時になって、急に笠原はがむしゃらな勇気がわき、 真実テニイと決闘してもいいような気持になったが、テニ イはこっちより上手で、ニコリと眼もとを笑わせた。そし て、 「おっと、君が、強いのは知っているさ。だから、三万円 で手を引くぜ。ありがとう」 と流行のアクセントでいった。 笠原は、みじめである。 唇をふるわせ、しかし、それ以上には、何も言えなくな ってしまった。 二 平川洋一郎が、古着屋で買ったのだけれど、ともかく寸 法の合う白麻の背広を着て、ちょっと気取った姿勢で立ち どまり、ミネルバ企業倶楽部と書かれた新しい看板を見上 げてから、天井の低い事務所の中へはいると、 「オッ、帰ったね。tどうしたんだい、やに張りきった 顔をしているぜ。何かバクイことでもあったの?」 と、高橋勇が、デスクから顔をあげた。 「うん、面白いところへ行ってきたんだ」 「へえ……」 「出資者勧誘が、ぼくはあまり成績がよくない。社長が機 嫌が悪いから、いろいろ思案したんだが、ふっと思いつい たのが高須の家だよ」 「高須って? ……」 「君が忘れるはずはないだろう。池袋の銀行支店長の家 じゃないか」 そう言われて、高橋は、眼を丸くしている。それは強盗 にはいった家だった。今では思い出すのがいやなくらいで ある。五人の仲間だけの絶対の秘密で、それをしかし平川 が、なんと思って面白いところなどといっているのだろ う。彼は、ふりむいて、事務所のうちを見まわした。少年 給仕を一人やとい、煮炊きや掃除のための女が、きのうか ら通いでやってきている。話を聞かれたら、ぐあいが悪い と考えたのであった。 「びっくりしてるんだね」 「うん。じょうだんじゃないよ」 「じょうだんなもんか。ほんとに行ってきたんだよ。そし で大成功だよ。アハハハ」 平川は、笑いとばしてから、たばこに火をつけ、声を小 さくした。 「あの家はね、園江がアテをつけてきて手引きしたのだっ たろう。ぼくは、園江のことが、なんだかまだ気になって いてね」 「ああ、それは、ぼくも同じさ。こないだ藤井がきた。藤 井も、やに園江のこと気にしていたっけ。社長に、園江の こと訊いてたろう。どういうものか、みんなで園江のこ と、気にしてばかりいるんだからね」 「そうなんだ。二度目んのやりそくなってヤバクなって、 その時から園江はいなくなってしまった。そうして、いつ も頭の隅っこに、園江のことがからみついているみたいで へんなんだが、ぼくは、そうやって園江のこと考えてるう ちに、そうだ、あの池袋の高須っていう支店長は、銀行の 金の不正貸付で、ボロイ儲けをしているんだってこと、思 いだしたんだよ」 「ああ、そうか。そうだったね。それで、金があるだろう ってこと、園江が目をつけてきたんだよ。銀行の金で、こ の、ミネルバ倶楽部と同じことをやっていたんだ」 「わかったろう。だから、ぼく訪ねて行ってみたんだよ。 息子がいて、こいつは、園江と友だちだが、くそまじめな 奴だ。しかし、もしかしたら、園江のこと、知ってないか って、訪ねてみたんだ」 「うまい口実だね。怪しまれなかったかい」 「ぜんぜんだl」 「へえl」 「息子の行夫ってのはいなかったよ。怖かったのは、行夫 の妹のーそら、あの時にヤッパでおどして腕を縛りあげ たろう。あの妹がいやがって、ジロッとこっちの顔を見た 時だが、けっきょくあの晩の強盗ががぼくたちだなんてこ と考えるはずはありゃしないさ。ぼくは、行夫のおやじに 会ったよ。園江のことから話しはじめて、学生のバイト でミネルバ倶楽部をはじめたってこと話してやったのさ。 おやじ、すぐに膝を乗りだしてきたよ。ひどく学生に同情 したような口っぷりでね、ぼくを大いに激励するんだ。そ して、事業を助けてやろうと恩に着せて、さしずめ、二十 口分だけ出資するってことになったんだよ。どうだい、う まいだろう。あいつは、欲が深い。深いだけに、それにま た、自分でやってみて儲けた経験があるだけに、こういう 話にはすぐと乗ってくるのだ。まだ、三十口でも五十口で も、あのおやじからなら引出せるよ」 平川は、ますます張り切っている。 そして、社長笠原がやってくるのを、しきりに待ちわび る風であったが、その時、 「新聞の広告で見ましたが……」 といって、五十がらみの目の小さい商人ていの男がはい ってきた。 平川が応対すると、広告には、企業出資の相談に応ずる とあるが、自分は約束手形を出してあって、それをおとせ なくて困っている。一週間だけ金融してくれぬかという話 である。平川も高橋も、心の中でほくそ笑んだ。企業出資 はどうでもいい。金融が目的で、こういう客が目あてであ る。よろしい、と平川は快諾した。所番地を帳簿に記入 し、明日午前こちらから相談に出向くからといって帰して やった。 事業は順調に進むらしい。希望が、明るくわいてくるの であった。 おどろいたのは、しかし、それからしばらくして、待っ ていた笠原がやってきた時、笠原が、ひどく不機嫌だった ことである。 彼は、来るといきなり社長のデスクに、高橋が読みかけ の雑誌をのせておいたのに目をつけ、それをくしゃくしゃ にまるめて、床へ投げつけた。それから、ドシンと椅子へ 腰をおろすと、帳簿を引っぽりだしてあけて見て、記入が 乱雑で、なっていない、と小言をいった。 変だぞ、と平川も高橋も気がついた。 そして平川が、恐る恐る二十口分の出資者について報告 した。 「二十口は、つまり二十万円だね」 「そうだよ。やっと、そこまで説き伏せたんだ。今までの 出資では最大だよ」 「そうかも知れんね。しかし、平川君。このくらいのこと で、そう得意そうな手柄顔をしていたんじゃ困ると思う な」 「うん、そりゃ、なにも手柄顔するってのじゃないけれど …・ 」 「二十万円は、フルに一ヵ月運転して六万円の儲けだか り ざや ら、出資者への一割を差引くと、四万円の利鞘だろう。と ころが、四万円じゃ、一ヵ月の自動車賃も出はしないぜ。 ぼくは、運転資金二百万円になってやっと息がつけるだろ うと思っているんだ。第一期目標を二百万円にして、その 次は一千万円が目標さ。最低一千万円まで行かなかった ら、人から悪口言われるこんな商売、やってみたっては じまらないじゃないか。二十口は、自慢になんかならない よ。相手は銀行家だろう、ぼくだったら、そんな個人から でなくて、銀行の金を借り出すように話を進めるよ。そ うすれば、こっちの利鞘は、うんと割がよくなるんだ。 まア、頭をもっと働かせるんだね。第一、二十万円の現金 を、見てからじゃなくちゃ、話にならんよ」 ムッとして平川は、笠原を殴りつけてやりたくなり、や っとそれでも、がまんしたくらいであった。 笠原自身、不愉快でたまらないのは、待合今花での失敗 が、彼の自負心をすっかりと傷つけていたからである。思 いだすと、また新しく口惜しさの念が燃えあがってきた。 いつもに似ず、ひどいドジをふんでしまった。女を、語学 校の女生徒だと信じこんでいたのからして間違いだった が、男の脅迫に対しても、ただ意気地なく屈服しただけ で、手も足も出せなかった。この不面目なぶざまな愚劣な 見苦しい醜態は、誰にも話せないことである。その上、ミ ネルバ倶楽部発足の第一歩で、こんなことが起ったのは、 わる 何か凶いことの起る前兆のような気がしないでもない。い や、前兆なんて、理論的には、あるはずのないものだろ う。が、そういう理論が、果して真実か否か、科学的に証 明する手段が完成しているのであろうか。 からだじゆう 考えていると、彼は頭が痛くなり、躯中に汗がふきだ してくるようだった。 平川や高橋の顔を見るのもいやで、こじれた気持は、ど うにも動きがつかないのであった。 だしぬけに、彼のこの気持を転換させたのは、会社の前 へ、自動車がきてとまったからである。 笠原は、ドキッと胸をおどらして椅子を立った。 自動車から降りてきたのは、貴美子未亡人と友杉成人で ある。笠原には、友杉の姿が、はじめは目にはいらないく らいだった。未亡人は、今日は極めて簡単なディナー・ド レスで、顔が青く、眼が不安にまたたいている。しかし笠 原には、なにか光がそこへ歩いてくるように思えた。 「ああ、友杉さん。どうしたのですか」 と高橋がまっさきにいったので、友杉が答えた。 「有吉君のことですよ。有吉君、ここへ来ませんでした か」 「いえ……」 友杉の顔に、すぐ困ったという表情がわいた。笠原が、 未亡人をチラリと眺め、しかし視線を避けるようにして友 杉に訊いた。 「有吉君は、あの時っきり、来たことがありませんよ。何 か起ったんですか」 「有吉君が、家を飛び出したらしいのです」 「ほう」 「ここへ来たのかと思ったんです。二日ほど前に、平川君 たちもすすめたのだから、会社へ入って働きたいと言い出. しましたが、それにはぼくが不賛成だったのです。有吉君 は、じゃ、よしにするといっていましたが、今朝、珍らしく 学校へ行くといって出かけ、しかし、女中さんが部屋へ洗 濯物を探しに行ったら、書置きのようなものが残してある のを見つけたのです」 友杉は、とちゅうで、詳しく話してもいいのかどうか と、眼で未亡人に相談したが、未亡人は、自分で話しだし た。 「いえ、書置きだかどうだか、ハッキリしません。でも、 ノートを一枚やぶいて、そのまん中に、お母さん、友杉さ ん、ぼくが悪いのです。すみませんーて書いてあるの。 あたし、読んでいる手が、ブルブルふるえてきました。学 校へ電話をかけてみると、学校へは出席していないという し、それから友杉さんと相談して、ともかく有吉ちゃん は、笠原さんの会社へ、来てみたいような口ぶりだったと 思いだしたものですから……」 だのに、来て見ると有吉の影もない。不安が、急に黒く 大きくふくれあがったのであった。 高橋と平川とが、顔を見合わせ、 「変だね。スケじゃないかい。スケんとこへ行ったのかも 知れないよ」 と呟いたので、笠原がふりむいていった。 「スケってのは、女ということだね。たしか波木みはるっ ていう名前だろう」 「オヤオヤ、よく知っているんだな」 「知ってるさ。波木みはるなら、ぼくんとこへ金を借りに きたことがあるんだ。そうだ、友杉さん。それは平川君た ちが言うとおりですよ。波木っていう女のところへ行って みた方がいいんじゃないですか。ある会社の重役の娘で、 女学校の生徒です。ズベ公っていうんですよ。あの娘と有 吉君とのことは、誰だって知ってるくらい有名ですから ね。ーイヤ、そうだ、波木みはるの家へ行ったってだめ でしょうね。ほかで会うとこがあるんです。そこがいい。 そこへ行っているんですよ。平川君は、知らないのかね。 有吉君や波木みはるが泊ったりなんかする家だよ。京王電 車から、歩いてすぐのホテルだって聞いたが……」 ホテルの名前は、平川でなくて高橋が知っていて、水魚 荘というのだと教えた。そこで、有吉と麻雀うったことが あるというのである。 「友杉さん。どうするの。行ってみる?」 「行きましょう。心配ですよ」 「そうね。じゃ……」 未亡人も、行ってみる決心をし、すると笠原は、 「高橋君。君も行って案内した方がいいよ。ぼくもついて 行くから」 と、いっしょに自動車に乗ってしまった。 その時では、まだ不確かな予想であったけれど、間もな くして笠原の予想は、ピッタリ的中していたことがわかっ たのである。 有吉は、みはると共に、ホテル水魚荘へ行っていた。 しかも、多量のアドルムを服用し、すでに意識はなく、 こんこんとして眠っていた。そこへ未亡人がかけつけたの であった。 雷雨の午後 一 ホテル水魚荘は、駄菓子屋と荒物屋とにはさまれた露地 の入口に、『高級温泉ホテル』と書いた看板が立ててあっ たが、実はつれこみが専門の、まことに貧弱なホテルであ る。 その二階の、西日が窓いっぽいにさしこんでいて、シー ツのよごれた木製のダプルベッドをおいてあるが、ほかに はなんの飾りもなく、狭くて不潔で、歩くと床がギシギシ と鳴る粗末な一室1。そこに、藤井有吉と波木みはると は、二人ともに顔を正しく天井へ向け、しかしお互いの右 腕と左腕とを、ハンケチでしっかり結び合せて、深い死の 眠りに陥ちていたのであった。 枕もとのニスのはげた台の上に、空になった水さしとコ ップがあり、また、アドルム十錠入りの細長いガラス管 が、いく本となくちらばっている。どちらも顔が美しく見 え、苦悶の表情はなかった。唇を半ば開き、いびきの声を 立てている。健康そうないびき声で、ただその一呼吸が、 長過ぎる感じを与えるだけである。そうして、呼んでもゆ すぶっても、こんこんとして眠りつづけているのであっ た。 「いえ、気がついたのは、昼前の十時ごろにきて、それ . きり、部屋を出てこないからです。いつも、そんなに長く いたことはありません。せいぜい、二時間でしょう。だの に、どうも変だと思ったから、ドアのぞとで声をかけて、 それから中へはいってみたんですが……」 ホテルの番頭が、係官の前で恐縮して、もみ手をしなが ら説明したが、そうやって気のついた時というのが、貴美 子未亡人と友杉とが、笠原と高橋とに案内されてホテルへ 来る、それよりは少しばかり前のことであったらしい。ホ テルでは、営業上のポロが出ることを恐れて狼狽した。 が、しかたがないから警察へ届けた。警察で来て見ると、 これぱ藤井代議士殺害事件に直接の関係があるのだと、す ぐにわかることがあったので、警視庁へも電話をかけて、 捜査課長や係長にも来てもらうことにしたが、その捜査課 の連中がやってきた直後に、これはまだ何も知らずに、未 亡人がそこへ駈けつけたという順序になるのであった。 未亡人の顔からは、たちまち血の気が引いてしまった。 笠原と高橋も、思いがけぬことでおどろいていたが、未 亡人は、もう彼等をふりむきもしない。友杉と二人だけ で、死の部屋まで通されると、彼女は、有吉とみはるとの ベッドのふちへ両手をつき、しばらくは唇をかみしめたま ま、じっと感情を制している風であったが、ついにこらえ きれず、 「有吉ちゃん! ……あなた……どうしてこんなことして しまったのよ! ねえ、有吉ちゃんてば……」 兮 咽喉をつきやぶるような声でいって、はげしく有吉の胸 をゆすり、またその手をぎゅっとにぎりしめたが、むろ ん、誰が何をしようとも有吉は意識がない。手のひらに、 病的な熱があるようであった。白い上品な額やこめかみの あたりに、こまかい汗の玉がういていた。そして、乾きを 訴えるかのように、かすかに音をさせて唾液を嚥みこんだ が、それっきり、またいびきをかきはじめるのであった。 大堀捜査課長が、廊下まできて、顔をのぞかせていた。 課長は、はじめ、警察からの知らせで未亡人がここへ来 たのかと思い、まもなく、そうではないとわかったが、そ のあと、波木みはるの両親へは、こちらから知らせてやる ようにと命令しておいた。未亡人のうしろから、何か話し かけたい顔で、じっとその場の様子を見まもっている。ふ りむいて見て、友杉がそれに気がついた。それから課長 が、おちついた眼つきで、部屋のうちへはいってきた。 「ああ、課長さんー」 「びっくりなすったでしょうな。無分別なことをやらかし たもんですよ」 「あたくし、もう、こんなことになっては……」 「いやいや、奥さんは、しっかりしていて下さらないと困 りますよ。それに、毒薬とはちがうし、発見がわりに早く てよかったと思いますね。死ぬとは限らないでしょう。病 院へつれて行って手当てをしてもらうのがいいです。1 実は、長い遺書が書いてありました。ベッドの上にありま してね」 「まア……」 「あとでお目にかけましょう。いろいろわかることがあり ます。が、助かるか助からないか、その手当てが第一です からね」 課長の言葉には、温い響きがこもっている。未亡人と友 杉との眼に、感謝の色がういて出た。そうして、ともかく 課長のすすめに従い、このあわれな、しかし無分別な少年 と少女とを、近くの花非という医院まで、運んで行くこと になった。 医師は瞳孔をしらべ心音を聞き、それからすぐに手当て にとりかかった。開業医としては、珍らしく無愛想で無P な青年医師だったが、することは、確実でキビキビしてい て、信頼のおける感じだった。ビタカンフルを打つ。カテ ーテルで胃洗滌をやる。リンゲルを注射する。サイフォン になったカテーテルから、不快な臭気の胃液が出てきた。 無意識のうちにも患者は苦しいのであろう、身をもだえ、 ゴム管を噛み切ろうとした。どうでしょう、助かる見こみ がありますか、と友杉ががまんできなくて途中で聞くと、 「わからないですよ。やるだけのことをやっとくのです。 問題は当人の体質ですね」 と医師は答えた。 みはるの両親、波木重助夫妻が、最初の手当てが終った 時にかけつけてきた。誰もこの夫妻には初対面であり、し かし、感じの悪い人たちではなかったので、何か助かるよ うな気がした。夫妻は、娘の不行跡を、まるっきり知らず にいたのだといった。多忙なため、眼が届かずにいたのだ と、自分たち自身が悪いことをしたかのように言いわけを し、そして細君が、声を立てて泣きだしてしまった。 医院の別室を借り、そこへ捜査課長が、はじめに波木夫 妻を呼んで、みはるの書いた遺書を渡してやった。 この遺書は、わりに簡単なものであり、みはるが両親に 対しての詫びの言葉である。生きていても、現在より楽し い時がくるのかどうかわからない。愛人とともに死ぬ方 が、わがままではあるが、自分の一番の倖せだと思った。 不孝なみはるを許して下さい。そしてパパとママとの幸福 を祈ります。パパとママ、みはるはとても好きだったけれ ど、みはるがいけない子だったから、すみません。どうか みはるを憎まないで下さい、と結んであった。 今度は、母親だけでなく、父親も泣いた。 そうして、この夫妻のあとへ、貴美子未亡人と友杉とが 呼び迎えられ、二人でいっしょに有吉の遺書を読むことが できた。 それは、鉛筆で書いたものである。 内容としては、未亡人と友杉への詫びのあとへ、園江新 六のことを、すっかり詳しく書いてあった。新六が、藤井 代議士を殺したのである。自分は、新六をつかまえるのが 自分の責任と思い、高橋や平川や笠原にも、それとなく新 六のことを尋ねてみたくらいだが、けっきょく、自分の力 ではどうにもならぬことだと知った。この上は、已むを得 ない。自分の死んだあとで、警察の力を借り、園江新六を 逮捕してもらいたい。そして新六がつかまったら、自分は 新六を、決して憎んでばかりいたのではないということを 告げて欲しい。新六は、鳩の街の女に夢中である。もしか したら、鳩の街で彼をつかまえることができるのではない か……という注意まで書きそえてあった。 「これだったら、死ぬまでのことはない。死ぬつもりにな る前に、園江新六のことを、我々に告げてくれた方がよか ったと思う。それに、友杉君も、もう気がついていたんで したね。この男のことについては」 と課長は、口惜しそうな顔でいった。 「そうです。何かある、と思っていました。有吉君は、ぼ くが警察と秘密に連絡をとって、いろいろ知らせたりなん かしたことには、気がついていないようでした。しかし、 ぼくとしては有吉君が園江新六を、しきりに気にしてい る、とはわかったのです。笠原のところへ行った時も、そ れを有吉君が、笠原にすぐ訊いていたのですから」 「そこで、どうですか友杉君。君は、園江よりも笠原とい う男が、気になってならないということを、前からいって いたでしょう。ところが、有吉君の遺書で見ると、園江新 六が犯人だとしてあるんだが、これについて何か意見 は?」 「前と、別に、変りません」 「ほう」 「というのは、園江新六も、犯人であり得るかも知れな い。しかし、ぼくの頭の中には、笠原昇の異常性格が、し っかり焼きつけられていますから、やはり彼を、疑ってみ ないではいられないという意味です。そのことは、もう数 回、申したことがあるのですが」 「そうでしたね。君の意見は、我々もかなり重く見てい る。だから、笠原について、事件当夜のアリバイなど、す っかり洗ってみたいと思ったんだが」 「それは、まだハッキリしていませんか」 「どうも不十分です。笠原という男は、なかなか頭が利く 男だから、こっちが下手な動き方をすると、すぐ気取られ るという心配があり、その点で捜査もやりにくいわけだ が、大体に於て事件当夜、笠原が下宿にいたということは 証言できても、深夜に外出したという証拠は上らずにいる 始末ですよ。間借りしている下宿のばあさんを第一に問題 にした。ばあさんの懇意にしている染物屋さんがあったか ら、刑事がこの染物屋さんに頼みこんで、事件当夜のこと をそれとなく尋ねさせてみた。すると、ばあさん、その晩 は、夜の九時頃に寝ちまって、あとのことは知らないとい う。そして、その九時に寝る時には、笠原が、たしかに 二階にいたというのだから、けっきょく、笠原がそのあと で外出したかどうかわからんということになってしまっ た。むろん、笠原の出す洗濯物も、クリーニング屋でしら べてみている。しかし、血痕のあったというものも出てこ ない」 「ぼくの方は、刑事でもなく、私立探偵でもありません。 だから、直接に捜査へ協力するわけにもいきませんし、よ けいなことを言い出して、お邪魔になりはしないかと思っ. て遠慮していました。笠原のことを、そうじゃないかと思 って課長さんに申上げるまでに、時間がたってしまったか ら、その間にもしほんとうにあの男が犯人だったとする と、証拠を湮滅する手段だってあったのでしょう。そうだ ったとしたら残念ですね。無証拠のまま、身柄を拘束して しらべるということは、絶対にできないことですか」 「できないし、こういう性質の犯罪では、しない方が賢明 です。つかまえておいて、あとで証拠不十分になったら、 取返しがつかない。それよりは、忍耐しつつも、容疑者を、 およ 自由に游がせておき、向うで気がつかないうちに、切札に なる証拠、絶体絶命というものを擱んだ方がいい。ーそ うだ、口の堅い友杉君だから、話しておこう。最初に、こ れは奥さんから、二階の書斎の窓について、お話があった のでしたね。あの諸内代議士が、今いったような忍耐で、 うまく成功した例ですよ」 「諸内さん……」 「そうです。あの男をずっと見張っていました。そうして 田舎で、思いがけぬことだったが、ほかの殺人事件の現行 犯としてつかまえましたよー.」 今までの行きがかりがあるから、この人たちには、知ら せるだけの義務がある。課長が、はじめて話したのは、諸 内代議士をM県S温泉で逮捕した件についてだった。藤井 代議士殺しとしての嫌疑も相当にあったが、それはどう癖、 ら見込みちがいで、その代り、加東明殺害の現行犯として つかまえることができた。身柄はすでに東京までつれてき てあり、これからあとは、政界醜事実の摘発ということに なる。加東明はS海岸の絶壁下から死体となって発見さ れ、生き証人を失ったのは残念だったが、彼が偽名をし引 揚者となって世に隠れ住んでいた居宅からは、政治に関す る多数の通信や書類が出てきたから、その面での取調べ は、もう順調に進むことであろう。波及するところは大き く深いものがあるが、捜査一課としての残る問題は、やは り藤井代議士殺しの犯人だった。むろん、早く片をつけね ばならず、しかし、功を急ぎ焦りすぎたら、失敗の恐れな しとしない。今が、捜査は特別な段階へきて、最も大切な ところだ……というのであった。 あまり口出しをせず、じっと聞いていた未亡人の顔が、 その時かすかに昂奮してきていた。 藤井代議士が、その潔癖な性格で企てた政界の浄化は、 生きているうちに目的を達しなかったが、諸内代議士の逮 捕で、ようやく意志が貫徹されることになった。これは、 せめてもの満足にちがいない。彼女は、ため息をついた。 そして、有吉の容態が気になるからといって部屋を出て行 き、あとでまた課長と友杉とは話しつづけた。 「これで、ともかくも諸内代議士は、事件と重要な関係は あるけれど、別の問題での中心人物になったというわけで しようぎよ すね。方程式の項が、一つ完全に消去された感じですよ。 ぼくは、もともと笠原を考えたのが、数学のエリミネイ ションからでした。藤井家へ出入し、藤井家の事情を知っ ている者、という点で、その中から嫌疑の余地のないもの を消去して行く。そうすると、最後に笠原昇が残ったので す。ー今は笠原のほかに、有吉君が遺書の中で、園江を 犯人として指摘しているわけですが、どうですか課長さ ん、笠原と園江とでは、どっちがどっちだとお考えです か」 「さア、それは、まだ少し決定の時期には早いでしょう。 二人ともに、捜査の線へ浮かび出ている。しかし、面白く なったな、これは」 「何か、とくべつな手蔓を、つかむことができますか」 「今までは、ありていの話が、捜査は遅れていたというこ とになるでしょう。笠原についてでも、たとえば、ミネル バ倶楽部の創立資金の関係をしらべてみた。ところがあの 男は、学生のくせに、金を相当に貯えていて、事務所の設 備費ぐらいは、十分に賄うことができたらしい。そういう 事柄では、ポロがあったにしても、ポロを出さないだけの 準備をしている。だから、捜査は事実上行きづまりだし、 事件発生当時、藤井家の箪笥から洋服地が二着分盗み出さ れている。こいつからも、うまく行くと手蔓がつきそうで いて、しかし、その服地はどこへ品ぶれを廻してみても出 て来はしない。-が、友杉君。君は気がつかないのか なア。捜査は、今日から、面目を変えますよ。有吉君の書 いたものが、我々に重大なことを教えてくれた。期待して もらいたいと思うね」 ふいに、課長の言葉には、力がこもった。視線の底に、 ギラリと物凄く光るものがあるようである。友杉も、それ に応じて眼の色が鋭くなった。探るようにして課長を見 で、それからいった。 「ああ、課長さん。それは、わからないことはありません よ」 「そうかね」 「問題は、園江新六が犯人だとして有吉君に指摘されてい る。それよりは、園江が行方不明という点にあるのでしょ う」 「そう、そのとおり……」 つぼくは、さっきから頭の隅で、重大なことを思いだして いるのです。先き走りしまいと思って、わざとロへ出さず にいたのですが、ぼくは前に有吉君と二人で、笠原の事務 所へ行ってみました。その時のことは、報告してありまし たね。事務所の構造についてですよ」 「そう、それだよ君! 実はね、今日は刑事がミネルバ倶 楽部へ行っている。手形の金の件を口実にして、その実は 内偵が目的だった。ぼくの方は、有吉君のことでこっちへ くる前に、ちょうど、その刑事からの報告があって、しか しその時はそれほどの注意もひかなかったのが、あとで有 吉君の遺書で園江新六のことが詳しくわかったから、それ で刑事の報告を、ハッと思い出していたわけだ」 高橋や平川が、ミネルバ倶楽部へきた、あの五十がらみ の、眼の小さい商人ていの男を、警視庁の刑事だったと知 りたら、どんなに驚いたことだったろう。課長と友杉と は、意見がよく一致し、なお熱した口調で、あとを話しつ づけようとしたけれど、その時に、未亡人が、走るように してそこへ来た。 「友杉さん!」 「はl」 「有吉ちゃんが、助かりそうよ」 「おお、それは……」 「注射したの、そしたら、いたいッ! ていって叫んだの よ。お医者さまも、有望だっていってらっしゃる。でも、 娘さんの方は、まださっきのままで眠っていて……」 医師の注意したとおり、体質の相違が現われてきてい た。まだ時間が不足で、ハッキリしない。しかし、少なく とも有吉だけは、助かる見込みがついてきたのであった。 友杉も、未亡人といっしょに、有吉の顔を見に行った。 そのあとで、課長は、係長と二人になり、熱心に何か相 談しはじめた。 二 笠原昇は、二日間にわたり、憂鬱な時を過した。 有吉が自殺を企てた翌日は、午前と午後と二度も病院へ 見舞いに行き、有吉だけは助かって、波木みはるがついに 助からなかったことを知ったが、病院から帰る時の彼は、 いつもの傲慢な自信たっぷりの様子をまったく失い、しか も眼が血走っていて、いつものあの秀麗な顔が、別人のよ とげとげ うに刺々しくザラついて見えるのであった。 話してくれるものがなかったから、彼は有吉の遺書につ いて、何一つ知るところがなかった。だから、単純に有吉 ほ、波木みはるとの愛の破滅から自殺を企てたのであろう と推察し、必要があれば、いつでもその詳しい事情は解ら せることができると考えたが、実は有吉のことは、どうで もよかった。長いうち貴美子未亡人の顔を見ないでいて、 この恵まれた機会で口を利くことができたが、すると、彼 が知っているほかの沢山の女の中で、やはりこの女だけ ぱ、とくべつな女だということを強く感じた。それは身が ふるえるほどで、この女が欲しくなり、どんな犠牲をはら ってもと思うくらいだった。苦しいのは、未亡人が、彼を よせつけないことである。福島炭坑の森の中の、たった一 ぺんのキスを、彼は忘れずにいたが、その時とは、態度が まるっきり変ってしまった。もうとうてい想いは達せられ そうもない。彼女は、正気に戻り、しかしまだ体力の回復 しない有吉のそばに、つききりで看病していて、笠原に は、笑顔一つ見せなかった。ダンスのことを、映画のこと を、話しかける余裕も見せない。そうして笠原は、不満と 侮蔑と怒りをおさえ、退去するよりほかしかたがないので あった。 ミネルバ倶楽部で、彼は、平川や高橋に、当りちらし た。 時々、反省してみて、これはいけない、自分は思慮を失 っている、待合今花での不愉快な事件以来、絶えず何か心 を荒しているものがある。それに敗けたらたいへんだぞ、 と気がつきながら、反省は長く続かなかった。そして、二 晩つづけて、べつの女と待合へ行って泊ってしまった。し かも、そういう女は、もうたくさんだという気がした。た だ慾望のために使用するのである。使用するだけの女な ら、ほかにいくらでもいるのだろう。そういう女では、ぜ ったい満足されぬものがある。それは精神か肉体かわから ない。魂というようなものであろうか。魂なんて、あるは ずがないと思ってきた。だのに、今はそれを考えている。 ヤキが廻ったというのであろうか。それとも、今までの自 分の人生観に、狂いがあったのであろうか。頭が混乱しそ うになった。めんどうな不明瞭なことを、忘れてしまうよ うな強烈な刺戟が欲しくなり、それから真夜中に、ガパと 女のそばを起きて出て、好きでもない酒を飲みだした。 三日目の午後、笠原は、最も気に入っている仕立の服を 着て、銀座へ来ていた。 雷雨のあとで、街は湿り、街路樹の葉が、まだ雫を垂ら し、雫がキラキラと光っていた。 その一本の街路樹のこちらで、笠原は十数分ものうち、 じっと向うの、縁と白とで壁や窓を塗りわけた小さな店を 見つめていたが、するとその店から、貴美子未亡人が出て きた。化粧品でも買いに来たのであろうか。笠原は、すぐ 近づいて行った。 「奥さん!」 「あら……」 何かに揺り落されたような、おどろきの眼で笠原を見て いる。一瞬、当惑してから、顔色がしっかりとおちついて きた。 「奥さんとお話がしたいのですよ。ぼくは、今日は、病院 の前へ行って、外出されるのを待っていました。不良少年 みたいに、銀座まであとをつけてきたのです」 「困った人ね」 「そう言われると思っていました。しかし、ほかには方法 がなかったのです。1有吉君は、もう大丈夫ですか」 「ありがと。今夜、退院させますの。だんだん、気持が静 かになって、もう心配ないつもりだわ。あなた、有吉ちゃ んのこと訊くつもりで、あたしのこと、追ってきたんです か」 「イヤ、違います。むろん、別な話ですよ。どこかへ、い つしょに行って下さると有難い。どうですか」 「いやよ、お断わりしますわ」 「そうですか。じゃ、歩きながらでも……」 未亡人は、腕時計をのぞいた。 そして、まっすぐに向うへ顔を向けたままで、笠原と並 んで歩きだした。 「ぼくはね、奥さん、福島の炭坑へ行った時のことを、千 べんも万べんも、思いだしているのですよ」 笠原が、まっさきにそれを言い出したが、未亡人は、動 揺しない表情だった。 「それは、あたしは、忘れたいと思っていることですわ。 過失には、責任がないでしょう。責任を感じさせる権利 も、笠原さんには、無いはずでしたわね」 とりつく島もないといった調子だった。笠原は、あせり の色を顔に現わし、しかし、哀願の声になっていた。 「それは奥さん、ひどいですよ」 「どうしてですの」 「権利とか責任とか、そんな冷たいものじゃないはずでし た。少なくともぼくは、奥さんに対してだけは、ぼくの真 実思っていることだけをいってるのです。そうだった。福 島でも、ぼくは告白しました。ほかの女との交渉があり、 でも、奥さんは別のもので、ぼくの生甲斐だってことをい ったんです。その時、ぼくは感情的で、夢中でそんなこと をしゃべったのかも知れません。しかし、あとで考えてみ いつわ て、あれこそは、ぼくの佯りのない、本当の声だったとわ かったんです。お願いですよ、奥さん。ぼくは、奥さん次 第で、どんな人間にでもなる男だということが、あのの ち、ますますハッキリとわかってきています。ぼくは、救 われたいと思います。外見的に、イヤ、そうじゃない、ぼ く自身でも、ぼくの本質を誤認して、非人道的な、すべて を計算してからやる、変質者だと思いこむことがあり、こ れは、放っといたら、救いのないものになるようで、苦し くてたまらなくなるのですが、奥さんがいて下すったら、 きっとぼくは、今のぼくじゃなくなると思うんです」 「あたしに、あなたを救う力なんて、ないはずですよ」 「違います。あるのです。ー歩きながらじゃ、話せませ ん。が、ぼくは、生れてから今までに、今ほど本気でもの を言ったことがない気がしている。うそじゃありません。 しゃぺっているうちに、奥さんを、誤魔化すことができな くなってしまうんです。言葉が足りません。わかってもら えないのが苦しいです。ぼくを、可哀そうだと思って下さ い。もしかすると、ぼくは何か乱暴なことをしそうだけれ どー」 「乱暴なんて、怖いわ。……あなた、昂奮しすぎているの ね」 「そうです。昂奮しているのです。どうしてだか、自分で もわけがわからない気持がしています。ー正直に言いま しょう。ぼくは、女を口説くのだったら、自信があるつも りでした。名優のように、顔色を柔かくし、甘い言葉を、 あとからあとからと引出すことができます。はじめ、奥さ んにはダンスで接近し、それから、その名優ぶりを利用で ぎると考えたこともありました。ところが、実際は、だめ だったんです。福島の時もそうだったし、今はまたその倍 もそうなんです。わけもなく気が上ずっています。自分で 意識していて、訂正することができません。乱暴は、決し でしやしませんよ。その代りに、もっと長く話を聞いて下 さい。こんな散歩のような恰好じゃ、ぼくは物足らなく で、気が狂ってしまうでしょう。ぼくの知ってるところ で、静かに話を聞いていただきたいのです。どうです、だ あですか」 笠原は、熱烈だった。 自分で自分の口から出る言葉が、女を騙すためのもので あるか、それとも、真実感じたままをいっているのか、よ くわからないほどであり、そのくせに一方でば、もし女 が、土下座をしろとでもいうのだったら、すぐ土下座をす るのだろうと、どこかで自分をそっと冷たく観察している ものがあるのを意識し、これでは自分は崩壊するぞという ことを、チラリと頭の隅で考えた。 裏通りから、賑かな表通りへ出てしまっていた。 もう、どんな話も、できなくなっている。 笠原は、裏通りへもう一度引きかえそうとし、未亡人 は、腕時計をまたのぞいた。そうして、 「さっき、いったでしょ。今夜退院なの。これで失礼する わ」 それっきりで、人混みにまぎれこんでしまった。 そこに立ちつくして、未亡人の後姿を見送る笠原の瞳 が、打ちのめされた屈.辱から、次第に憤りの色に変ってき た。 今こそ、全精神が、笠原本然の主体に統合されたという 気がする。 女は、もう、諦めた。 諦めたが、何か、意地の悪い復讐をしたくなった。どん なことをするか、これから考えることができる。それは一 つの楽しみであるような気がしてぎた。 「そうだった。事業というものがあった。一億円の大会社 だ。世界に類のない学生財閥を作り上げるのだ!」 彼は夢から覚めたように気がつき、銀座を歩く人の顔 を、軽蔑して眺めた。それから、タクシーを呼びとめ、二 十分後に、淀橋のミネルバ企業倶楽部へもどってきた。 ところが、来て見ると事務所には、通いのばあさんと少 年とがいるだけで、机ががらんと空いている。ラジオが野 球の放送をやっているところだった。 「うるさいな。ラジオなんか、やめたまえ。ほかの人たち はどうしたんだい。君が一人きりか」 と、また腹が立ってきた。 少年は、壁のそばへ立ちすくんでいた。 「一人きりですよ。平川さんも高橋さんも、帰ってきませ ん。もう二時間ほど前に出かけたままで……」 「まるで、なっていないな。誰か一人は残っていなくちゃ ならないんだ。どこへ行ったんだい」 「わかりません。人が二人ほどきました。平川さんと高橋 さんとを、一人ずつ事務所のぞとへ呼びだして、ボソボソ 声で話していました。それから、いっしょに二人とも、出 て行ってしまったんです。なんだか高橋さんがあわてたよ うな顔をしていましたけれど」 「ふーん」 事務所への客であろうか、平川や高橋の友人であろう か、友人だとすると、麻雀でもやりに行ったのではあるま いか。笠原は、せっかく事業に専念するつもりになったの が、ふいに何か邪魔をされたみたいで、ひどく不愉快だっ た。平川も高橋も、帰ってきたら、こっぴどく叱りつけよ う、よろしい、あいつらは、首にしてしまってもかまわな いのだ、と考えた。 上衣をぬぎ、ネクタイをはずした。 それから椅子へ腰をかけてから、床へ作りつけた秘密の 箱の蓋を鍵でひらき、ノートを一冊取りだすと、会計に関 する特別な記入をしらべようとしたが、そのとたん、 「ごめん下さいl」 二人の見知らぬ男が、ぬっとはいってきてしまったの で、ノートは、いそいで元の場所へもどしてしまった。 二人の男は、どちらも中年の、しかし、一人が痩せてい て眼鏡をかけ、他の一人が、でっぷり肥っていて、ごくあ りふれた身なりの、何も特徴のない男たちである。べつに 警戒心もおこらなかった。用件を聞くと、小さな鉄工場を やっているが、職工の賃金不払いでストライキが起りかけ ている。役所の仕事を引受けているし、ほかにも、あと二 週間ほどで金になる仕事があるが、それまでストライキを おさえるために、どうしても十万円ほどの金を借りたい。 担保は、工場の建物でも設備でも、お望みのものにするか ら、という話であった。 笠原は、三日前の有吉自殺の事件があった日に、平川と 高橋とが手形をおとす金を借りにきた商人の件で、翌日そ の商人のところへ行ってみると、商人は居所が不明であっ て、ついに話がお流れになったことを思いだした。よし、 あいつらだから、そんな失敗をした。自分なら、ヘマなこ とはやらないそというつもりで、この相談に乗ることにし た。 しかしながら、話してみると、なかなかこれは思うよう にならなかった。 利子の天引きが困るという。また、十日に一割は高いか ら、月一割にはならぬかという。その上、二人とも関西弁 だったが、それがひどくゆっくりしたしゃべり方で、執拗 に喰い下り、有利な条件にしようとしていた。折合いがつ かず、いつまででも、同じところを堂々めぐりしている。 そのために、時間が長くかかってしまった。しかも二人と も、笠原を両側の椅子から挟みこむようにしていて、なん だか身動きもできぬような気がする。ついに笠原は、辛抱 がしきれなくなっていた。早く平川と高橋とが帰ってくれ ばよい。彼らに、このネチネチした男たちとの取引を、ま かせてしまいたいと考えはじめた。 が、この時に実際は、笠原の運命が、もう最悪な状態へ 陥ちこみかけていたのを、彼はまだ知らなかったのであ る。 下手な関西弁の二人の男は、警視庁から来ていた、秋 本、岡野という刑事だった。逮捕の前に、笠原が気がつい て、逃亡するとか、自殺するとか、そういうことをさせぬ ため、刑事が逮捕状に先行し、看視に来ていたのである。 むろん、高橋と平川がいなくなっていたのも、笠原が思っ たように簡単なことではない。彼等は、警視庁へ行ってい たのであった。 「オッ! また雨やぜ!」 と、鉄工場の経営者に化けた秋本という刑事が、事務所 のぞとを眺めていった。 晴れたはずの雷雨が、くりかえし黒い雲を運んできていた。 「こら、どむならんな。金策はつかんわ、ぐちょぬれには なるわ。ま、もすこし話をねっとこ。なア笠原さん。あん たかて男やろ。ズバッと男気出して、うちを助けるつもり になってくれんかいな」 と岡野刑事が応じた。 雨は、ポツリと大粒におちた。 はいぜん そして、沛然たる豪雨になった。 低い天井と高い床 一 すね 脛に傷もつ脚とは、このことをいうのだろうと、平川洋 一郎と高橋勇とは、その時しみじみ思った。 だしぬけに、事務所へ刑事がきた。 そして、警視庁まで同行してもらえまいかと、まるで彼 らに相談しかけるような口調でいった。 その口調から判断すると、いやだ、といって強く拒絶す ることもできそうであり、しかし拒絶したら、あとがよけ いに悪くなることが、眼に見える気がした。すぐに彼ら は、池袋の強盗がばれたのだと、考えをきめたが、とたん に、脚の関節がガクガクと鳴りだし、傲然と平気な顔をし ていようとすると、それが却って泣顔になってしまいそう であった。 新聞に学生強盗の記事が出るのであろう。自分たちの一 生はこれで台なしになる。警察は、間抜けで古臭くて、自 分たちのやったことなんか、嗅ぎつけるはずはないと思っ たが、やはりどうもいけなかった。よかったのは、二度目 の強盗を、やりかけただけで失敗したことだった。だから つまり、あれは一度しかやらなかったということになる し、それも、銀行家が不正な手段で利得した金を奪ったの だから、そういう不正を懲らすためにやったのだといった ら、いくらかは罪が軽くなるだろう。そうだ、とった金 ぱ、共同募金やその他慈善事業に大部分を寄附してしまっ たと嘘をつこう。そうすれば、傷害や殺人をやったわけで はないし、同情されまいものでもない。場合によったら、 ろくに裁判もしないで執行猶予というぐあいにはならない だろうか。 慌しく、彼らの胸中には、そんな考えが往来し、しか し、もしかして青酸加里の錠剤でも持っていたら、それを すぐに飲んでしまったかも知れないほどの絶望状態で、と もかく警視庁までつれて行かれたのであった。 刑事は、途中で何も説明してくれなかった。 そして警視庁へつくと、貝原係長が直接彼らに会い、ま ずいきなりと、園江新六についての質問があった。係長 が、ハッキリといっている。園江新六を、警視庁の手で探 してみた。が、どうしても居所が判明しない。もしかした ら、君たちは知っているのじゃないか。イヤ、園江新六 は、君たちの親友だったのだろう。君たちがどこかへ、か くまっているのではないか、というのであった。 心の中で、平川も高橋も、園江のことを訊かれるようで は、いよいよだめだと観念した。新六は、きっと自分たち と別行動で、何かひどいことをやったのにちがいなく、そ のために警視庁から追いまわされているのであり、またそ のために、池袋の一件も、ばれたのであろう。まったく、 あいつは、低能だった。あんなやつを、仲間にしたのが失 敗だった。しかたがない。もう、白状してしまおう。改俊 の情をここで披瀝しておいた方が、有利になるにきまって いる。そうだ、真実自分たちは後悔しているのだと立証し なくてはいけない。泣くのがいい。涙を流しつつ白状した ら、少なくともこの金ぶちの眼鏡をかけた、学校の教授の ように温厚な顔つきをした警察官は、自分たちを憎むこと なく、同情しつつ調べを進めてくれることであろう。泣く のだ、泣くのだと、二人とも同じことを頭のすみで考え、 すると、もう涙は註文に応じて、こんこんとして眼の底か ら、流れだしてくるのであった。 貝原係長は、おどろいた眼で、二人を見ていた。 そのおどろきは、並たいていのものでない。呆気にとら れ、それから愕然として、なにか警察官としての自信を揺 り動かされるようなものだった。園江新六について訊ねた のは、もしかして園江が、彼らの手でどこかに匿まわれて いるとか、でなくても、最近に彼らが新六に会ったことで もあったとしたら、それだけでもう藤井代議士殺しについ て警視庁でつけた狙いは、根底から狂うことになるだろう し、そうなると最大の容疑者笠原昇に対しての逮捕状も、 出してもらえなくなるという立場に来ていたから、何より 先きに新六のことを訊いてみたのは当然であり、そうして その次に、なおもう一つ、重大な質問があったのに、ここ で平川と高橋とが、叱られた子供のように顔を歪め、涙を ボロボロこぼして泣きだそうとは、てんで予期せずにいた わけである。 係長は、この不良少年たちの問には、警視庁でもまだ知 らずにいた、何かの秘密があったのだぞと気がついて、だ とすれば、自分の言葉にも、十分注意せねばなるまいとい うような心構えになったが、するともうそのとたん、平川 と高橋とは、覚悟をきめて、彼等の改悛の情を、披瀝しは じめた。 「ぼくは、もっと早く、自首して出ようと思っていたので す。しかし、金ができたら、あの家へ返却しようと思って いたものですから……」 さきに、そういったのは高橋であり、つづけて平川も、 「あれは、園江が、ぼくらを誘ったのです。園江が手引き しました。銀行家で、不正なことをして金をためている。 懲らしめのため、やっつけようといったものですから……」 と、すすり泣きしながら、しゃべってしまった。 係長の口から、うなり声がもれた。 いっしょにいた配下の若い警部補と顔を見合せ、それか ら、 「よし。わかった。君たちのやったことを、全部話してみ たま、兄。かくしてもだめだからね」 と、それを知っていた顔つきで二人にいった。 軽率な早すぎた自白だったとは、平川も高橋もまだ気が つかない。それに、実際もうかくしてもだめなところへき ている。彼らは、池袋での犯行を、洗いざらい、しゃべら せられる羽目になった。つけ加えて、藤井有吉が五万円の 金を持ってきてくれたのは、彼らの犯行の直後であったこ とも、そのまま正直に自白してしまった。 「藤井は、親切で、いいやつです。その時の仲間にはなり ませんでしたが、ぼくらに悪いことをさせまいと思って、 果物籠の中の金を持ってきてくれたんです。小西が、藤井 の金を見て、オイオイ、泣き出しました。ぼくは、なぜだ ったか、腹が立って、やけっぱちみたいになったんですけ れど……」 と平川はいい、高橋は、 「その時に、一人だけニャニヤ笑っていて平気だったの は、園江新六です。あいつは、五万円ぽっち、どうにもな らない。もういっぺん同じことをやろうってことを、その 時にもういっていました。1しかし、ぼくらは、園江に は、あいそをつかしています。藤井のおやじが殺された頃 から、あいつはどこかへ行ってしまったし、あれからのち 園江が何をしたにしても、ぼくらとは完全に無関係です。 あいつをかくまっているなんて、とんでもないことです。 どこにいるのか、全然ぼくらは知らないのですから」 と、その点はとくにハッキリ区別してもらいたいつもり で、言葉に力を入れていうのであった。 捜査課長のもとへは来客があり、その客は、麻雀と将棋 と釣りの話をしはじめると、自分一人いつまでも面白がっ ていて切りがない。近いうちに、釣った鮎を持ってきて、 捜査課の連中全部にふるまおうと、あてにならぬ約束をし てから、やっと腰を上げて帰ったあとへ、係長が、緊張し て報告にきた。 「意外でしたよ。こっちじゃ知らなかったのに、自分で口 を割りましてね」 「ほう」 「園江のことを訊くと、いきなり二人が泣きだしました。 それから、園江といっしょで、池袋の高須という家へ、強 盗にはいったことがあると言いだしたのです」 「オヤォヤ、そいつはどうも……」 「こっちは、ドスンと、何かで殴られたような気がしまし た。が、しゃべるにまかせておいてみると、その事件は、 代議士殺しよりも少し前のことらしいのです。園江といっ しょでというのが、ほかにまだ、小西貞というのと南条真 というのがいるのでして、こいつらは、果物籠の金の件 で、いちおうは取調べてある連中です。1とにかく、五 人組の学生強盗で、これは池袋署が所轄だから、そっちと 連絡をとって、すぐ処置をとることができると思うんです が、問題はしかし、園江新六についてですから……」 「そうだ。それだよ。園江のことを、どういっている?」 「私も、気がもめてたまらなかったんですが、けっきょく のところ、思ったとおりでしたよ。園江には、ずっともう 会ったことがない、居所もわからん、それが藤井事件の起 る直前からというんです」 「直前とは、いつ9」 「それが日附をハッキリ記憶していない、といっていま す。しかし、園江に会いたいことがあって、平川と高橋と は、鳩の街へ園江を探しに行ったことがあるそうで、また その翌日に、藤井有吉のところへ園江のことを聞きに行く と、藤井有吉も園江のことは知らなかったから、それはそ のままにして、神田の紅中軒で麻雀をうったのだというこ とです」 「待て。紅中軒の麻雀というと、その晩だぞ、藤井代議士 が殺されたのはl」 「そうです。だから、重大です。つまり、代議士殺しの二 日ほど前から、園江は行方がわからなくなっているので す。どうでしょう課長。もうここらで十分じゃないです か。あなたが、その推理を組み立てた。友杉君も、同じ意 見でしたね。園江新六は、もう生きていないのですよ。そ の推理を立証すればいいわけでしょう。-代議士殺しの 直接の下手人は、やはり園江新六であったかも知れない。 しかし、今もう、園江が生きていないことだけは、確実だ と私も見ます。平川、高橋の強盗の一件は別にして、ここ であの猫を見せた方がいいと思うんですが……」 課長は、ボールペンのカップを、ぬいたりはめたりしな がら、ちょっとのうち思案した。そうして、 「よかろう。見せた結果で、逮捕状といっしょに、捜査差 押許可状もとっておいた方がいい。物件はミネルバ企業倶 楽部建物一式とやる。よしきた。学生強盗の顔を見に、ぼ くも行くよ」 元気な声でいって、椅子を立ち上ってしまった。 猫を見せる、というのは、局外者が聞いたら、わけのわ からぬことであり、まるでなにか、警察で使う特殊な用語 のようにも聞える。しかし、そういうものではなかった。 現実の猫である。そうしてその猫を警視庁は、捜査の最後 のきめ手として、とくべつに探しだしておいたのであっ た。 実は、刑事たちが、二日間にわたり、たいへんな苦心を した。 ミネルバ倶楽部の事務所、及び笠原昇が間借りしている 下宿の附近で、最近に飼猫がいなくなったという家を、残 るくまなく探して見たし、また一方で、笠原の知友関係 を、ダンスホールでも、キャバレーでも喫茶店でも、ひそ かに片っばしから聞きまわったが、するとある洋裁店の女 主人が、ポカリと捜査の線へ浮かび上って来た。その女 は、猫を可愛がって飼っていた。しかしその猫は、藤井事 件がおこってから二日ほどのち、姿が見えなくなってしま としま った。女は、もう年増で、笠原にかなりの金を与えてい る。半年ほど前は、ほとんど毎夜のように、自宅の洋裁店 で会っていて、そののちは自然に笠原の足が遠のいていっ たのを、ふいに笠原の方からやってきた。そしてその時か ら、猫がいなくなったというのであった。猫が主眼だった が、それに女と笠原とが結びついたのでは、もう間違いな しということになった。それは三毛猫だというから、いく 匹もの三毛猫を借りあつめ、女に、どれが一番よく似てい るかを選ばせた上で、その猫を犬の箱に入れ、警視庁へは こんできておいたのである。 平川と高橋とは、留置所へぶちこまれることばかりを考 えていた。 来てから雷雨があり、そのあとの空の色が、窓のはし から青く見えた。あの空の下の空気は、もう自分たちのも のではないと感ずる。見せかけではない後悔の念が強く身 をかんだ。平川は高橋を、高橋は平川を、こんなやつと友 だちになったのがいけなかったのだと思って憎くなり、そ のくせに、手をにぎり、胸を抱き合って、声の限りに泣き たい気がしてきた。 しばらくいなかった係長が、課長といっしょで、うしろ に、猫の箱を刑事に持たせて戻ってきた時、その箱を、拷 問の道具かと思って恐ろしくなったが、すると、思いもよ らぬことを言われた。 「さて、お頼みがあるよ、君たちに」 「は……」 「この猫を見てくれたまえ」 薮から棒で、キョトンとして、係長や課長の顔を見上げ た。 「説明しなくちゃ、わからんのだろうね」 「ええ、わかりません」 「はじめに、友杉君から聞いたのだ。ええと、平川君だっ たろう、君が友杉君に話したということだ。ミネルバ倶楽 部の事務所の床が、コンクリートになっているね。ところ が、それは、猫の死体を、ぬりかためたもので、猫の死体 を、ちょっとでも動かさないようにして床を作ったから、 床が高すぎて、天井が低くなったということだった。その 話は、嘘じゃないのだろうね」 「そ、そうです。ーぼくと高橋とが、それは見たのです から」 「君たちのとこの笠原社長が、猫の死体を動かしちゃいけ ないという、迷信をもっていたのだったね」 「ええ……それも、そのとおりですが……」 「ところで、その猫は、君たちが、どこかで殺して持って 来たのかね」 「ちがいます。ぜんぜんです」 「というと?」 「ぼくらは、笠原君から、事業をやるから手伝えっていわ れました。そして、事務所へつれられて行ってみたら、バ ラックの床が、まだ土間になっていて、その土間のまん中 に、猫の死んだのがあったんです」 「よし。その時のことを、詳しく訊こう。土間の土は、固 くなっていたのかね」 「いえ。固くはありませんでした」 「掘りかえしたとか、穴を埋めたとかいう形跡は?」 「それは……わかりません。しかし、土の色は、新しかっ たと思います。そう言われれば、掘りかえしたのかも知れ ません」 「つまり、足で踏むと、ホカホカしていたというわけだ ね。そのホカホカした土の上に、猫が死んでいたー」 「そうです。そのとおりです。事務所に改築するので、そ の翌日、仕事師の親方が来ました。そしてコンクリートに するなら、土をさらった方がいいといったんですが、土を さらうと、猫を動かさなくちゃならないというので、その まま、コンクリートにしてしまいました。その時にも、ぼ くは見ていましたが、土の色は、まだ新しい色でした」 「では、それもよし。……もう一つだ。はじめに死んだ猫 を見つけたのは、君たちのうちの誰だったね」 「三人でいっしょです。社長とぼくと高橋とでバラックへ はいり、雨戸を一枚あけると、……ああ、そうでした、社 長がはじめに、あッといってびっくりしたのです」 「じゃ、社長が、第一に、猫に気がついたということにな るのだろう。その時の社長の態度や顔つきは9」 「目をまるくして、しばらくそこへ、つっ立ったままでし た」 「よほどひどくおどろいたわけだね。社長は、いつもそう いう風に、びっくりしたり顔色を変えたりすることがある のかね」 「さア、どうですか。大体は、ぼくらよりずっとおちつい ているし、最近は少し変ですが……そうです。その時のよ うに、社長が顔色を変えたなんてことは、ほかでは見たこ とがありません」 係長が、ふりむいて課長を見た。 課長は、満足な目つきをしている。 「じゃ、この猫を見てくれたまえ。死んだ猫に似ているか どうかだ。三毛猫だったということだね」 そう言われて平川と高橋とは、いっしょに箱の中をのぞ き、そうしてうなずいた。 「よく、わかりません。しかし、毛並みは同じですね。頭 のところに、黒と茶色の輪があって、その輪のぐあいは、 そっくりだと思いますが」 それ以上は求めても無理であろう。そうしてこれまでわ かったら、洋裁店主の猫が、あのコンクリートの床の下の 猫だと、断定してもよいだろう。 課長が、ポケットのたばこを出して、平川と高橋とにあ たえた。 そして、配下のものは、すぐに次の行動をおこした。 二 雨がやまない。 雷雨が、どうやら梅雨性のじとじとした降り方に変って しまった。 そうして、笠原昇は、へたな関西弁でしゃべる鉄工場経 営者たちを、もうすっかりもてあましていた。 事業は発足したばかりで、だから、がまんをしたいとは 思うけれど、いつもこんな煮え切らぬ人物ばかりを相手に するのだときまっていたら、まったくやりきれぬと思うほ どである。総額十万円の金融で、すったもんだの末に、二 人のうちの一人が、笠原の持ちだした条件へ、ともかく歩 みよりを見せたかと思うと、他の一人が分別臭い顔で文旬 を言いだし、文句があると、話がまたふりだしへ戻ってし まうという状態で、いつまでたってもヶリがつかない。し かも、雨を口実にして、二人とも、悠々と腰をすえている のであった。 「どうでしょう。もう妥協の余地は、残っていないと思う んですが」 「さよか。そうなると、ほかで金策はつかんよって困るさ かいに……」 「しかたがありませんね。それに、ぼくは用事もありま す。これ以上、まとまらない話をつづけているわけにも行 きません」 「オヤオヤ、帰れちゅうんかいな。ひどいあいそつかし や。そんな短気なことを言わんかて、ま、もう少し、こっ ちのいうこと、聞いてもらわんと……」 「いや、もう、十分に聞きましたよ。金策ができないと、 賃金不払いでストライキが起るという話でしょう。それに ついて、ぼくが責任をもつことはありませんね。雨も、さ っきほどじゃありません。タクシーを呼んで来させましょ うか」 「オットット……待っとくなはれ。タクシーなんて呼んで もろうたら、また散財やであかんわ。なア社長さん、あん たわしらが、あんまりゴテゴテゆうとるから、あいそつか してしもうたんのんとちがうか。こら、えらいこっちが 悪かったわ。ゴテつかせたくてゴテついたんやない。よっ しゃ。もうゴテつかぬ話にしてしまお。金づまりの世の中 やから、天引利子も、かめへん。といちの利子はぎょうさ んやが、これも背に腹はかえられんさかい、キチンと払っ て見せまっせ」 「そうですか。そういくのなら、いいと思いますが」 「そうやろ。担保もしっかりしている、損はかけん。が、 どうやろ、それだったら、十万円ばかりでなくて、もっと たくさん貸してもらえんやろか」 「たくさんて、どのくらいですか」 「ざっと、百万や。二百万なら、なおのことこっちは助か るが …」 できぬ相談だとわかっていての、無理難題を持ちだされ た気がする。でっぷりした方の男の眼尻に、皺がより、人 を馬鹿にしたような薄笑いが浮かんだ。聡明なはずの笠原 が、まだこの二人の正体を、わからずにいた。ただ腹が立 ってきて、待てよ、これは金を借りにきたのではない。も しかすると、なにかゆすりにきたのかも知れないと、はじ めて警戒心がわいてきただけであった。 ゆすりとすれば、事業のことでか、女のことでか、わか らないのがもどかしかったが、なにくそ、今度はもう待合 今花でのようなヘマなことはやらない、うまく胸のすくよ うな、背負い投げを喰わせてやるぞ、と腹のうちで叫んだ とたん、今花での女はキスだけで、それ以上には一歩も進 められなかったことを思いだしたから、ふいにその連想 で、貴美子未亡人の顔が、目の先きにちらついてきた。あ の女も、やはりキスだけはした。森の中の、たそがれ時で あった。たしかにその時の自分は、倖せであった。白く柔 かく美しい、ばらの匂いがする雲の中へでも巻き包まれた ようで、女の肉体のことすら考えず、野心も消え、安心し きって、それ以上には何も望むものがないようであった。 あの女には、それだけの値打ちがあったのである。銀座で は、女に復讐をしてやりたくなったが、やはり、諦められ ぬ女である。なぜ自分を、あんなにも冷淡にとりあつかう のか。ああ、それは、もしかすると、ほかにあの女の愛を 奪った男があるのかも知れない。その男は誰だ。諸内とい う代議士か。いや、あんなやつを愛するはずはないが。と すると、友杉か。友杉という男は、へんなやつだ。あいつ だけは、藤井家の書生で家庭教師で下男で、しかし、おち ついた、しっかりした目つきをしている。そうしてあいつ は、いつも藤井家に起臥しているのだ……。 「どうや、社長さん9」 「え……」 「ズバッと、百万円貸してんか」 肥った男の眼が、また不可解に笑っている。そうしてこ の時、雨を冒して三台の自動車が、凄いスピードで走って くると、ピタリと事務所の前へとまった。 鉄工場の経営者に化けていた二人の刑事が、自動車を見 てホッとした顔になり、笠原も何事かと思って腰をうかし かけると、左右からその腕を、二人の刑事が、パッとつか んでおさえつけてしまった。 「あッ、何をする!」 叫んで、ふりはなそうとしたが、椅子へひきすえられ、 肩まで刑事の手がかかった。 「バカな! 乱暴するのか、君たちは……」 いった時、肥った刑事が、 「警視庁の車だよ。おちついていたまえ。-ー1おお、課長 もやってきたよ」 と、はじめて関西弁でなくいって、相棒の刑事に、目く ばせしている。 なるほど、前の二台の車から、捜査課長がまっさきにと びだした。そして係長と数名の私服や拳銃を持った巡査が おり、つづいて三台目から、ツルハシやタガネやカジヤや ハンマーをたずさえた、仕事師の一団がおりてきた。 係長が、事務所のうちをのぞき、先発の二人の刑事が、 笠原をがっきと抱きすくめているのを見て、それでよし、 という表情になり、それから、天井が低くてせまい事務所 のうちが、たちまち人でいっぽいになってしまった。 笠原の頭のてっぺんから足へかけて、なにか氷のような ものが、ずーんと駈けぬけ、そのくせに、怒りと恥とが、 血を逆流させた。しかも、それを見せてはならない。息を匆 つめ、平静を装い、すると、ものをしゃべろうとする口や こわ 舌が、化石のように硬ばった。 「はなしてくれたまえ! こんなバカなことはない。いっ たい、警察が……」 「人権蹂躙だっていうんだろう。さア、こいつだよ」 係長が、自分でたいせつにして持ってきた書類を、笠原 の椅子の前へきて、デスクを隔て、及び腰になって、開い て見せている。それは、一通が、意外な逮捕状だった。園 江新六殺害被疑事件につき、笠原昇を逮捕すると書いてあ る。他の一通は、同事件に関し、ミネルバ企業倶楽部建物 を、差押え捜索するという許可状であった。 「……9」 笠原の眼が、毒々しい光にあふれて、係長の顔を見上げ た。 「わからんかね、これだけじゃ……」 「わかりません」 「園江新六を知っていないとは、いえないだろう。S大法 科専門部一年、鼻が曲がっていて美少年じゃない。君に、 度々、金を借りたことがある」 「そうです。知っています」 「この男は、藤井代議士が殺される二日前から行方不明 だ。それ以来、誰もこの男を見たものがない。両親のとこ ろへも帰らず、馴染みの女のところへも行かないし、平 川、高橋、南条、小西、みんな会っていない。ところでし かし、そうやって行方不明になる前に、園江が会ったとく べつな人間が一人ある。それは代議士の息子の有吉君だ よ」 「 」 「違例だが、君を納得させるために、みんな話しておくこ とにしようね。いいかい、今いったとおりだよ。すっかり 洗ってあることだが、有吉君以外に、園江新六と会った人 間ーイヤ、そういっては適切でない。有吉君のほかに、 彼が行方不明だと信ぜられている間に、誰かが彼と会って いるはずだということを、警察では考えた。その人間は、 多分この世の中で、いちばんおしまいに、園江新六と会っ たのだ。それが誰だか知ってるかね」 「知りません……そんな、つまらないことをなぜ、ぼくが 知っている必要があるのですか」 「ああ、そう。多分君は、そう言うだろうと思っていたん だよ。が、園江は有吉君に会って別れる時、君にとっては まことに都合の悪いことをいったわけさ。つまり、笠原さ んのところへ行って、金を借りようってことをいったんだ ね。これは、有吉君が自殺するつもりで書いた遺書のうち からわかったんだ。そうして、こうなってみると、園江 は、行方不明になってからか、またはその直前、君を訪ね たのだろうということが推測できる。つまり、この世で最 後に園江と会った人物は、君だったと考えても不思議じゃ ないよ。それから、ほかにもう一つ有吉君は、お父さんが 殺されてしまったあとで、園江がどこにいるかということ を、ひどく気にしだしたのだよ。そしてこの事務所へ、友 杉君と二人でやってきた時、君に向って、園江が君を訪ね て来なかったかと訊いたはずだね。それは、どうだい、お ぼえているだろう」 「おぼえて……います……」 「有吉君も、その点だけは、警察と同じようなことを、す ぐに考えたわけだ。しかも警察のわれわれとしては、君の 次に、園江と会った人間は、恐らく一人もあるまいと思っ ている」 「待って下さい! ……ぼくは、有吉君にそれを訊かれた 時、園江なんか来やしなかったと答えたはずですよ!」 「そうだ。君はそう答えている。が、その時の君の顔色は、 ひどく緊張していたということだね。それは、もうわかっ ているのだ。そうして、君のその答えが、真実であったか 嘘であったかーつまり、園江が君に会ったか会わなかっ たか、それは、じきにもう決定することができるのだよ」 「 」 「警察ぱ、目くらじゃないつもりさ。いろいろの方面で調 査したよ。その中に、藤井代議士殺害より二日前の夜、君 と園江らしい二人の人物が 自動車に乗ったのを目撃した という証言すらないじゃない。ーいいね。もう納得した ろうな。事実上は、君がもう一つの恐るべき犯罪に関係し ていると、こっちじゃ睨んでいる。とりあえず、逮捕状 は、園江新六殺害被疑事件だけになっているが……」 係長の言葉が、脳髄へうちこむ弾丸のようであった。 さすがの笠原が、唇を血の出るほどに噛んで、もう何も 言えなくなっている。係長は、笠原がそこにいては邪魔だ から、畳のある部屋の方へ、つれて行けと命令した。そう して、仕事師の親方をふりむいて、 「さア、やってくれ。早いとこ、頼むよ」 と、いせいよくいった。 まず、書類が全部押収された。 次に、椅子やデスクを、すみへ寄せて積みあげて、それ からかしらたちが、事務所の床をこわしはじめた。 笠原が、わめくかあばれるか、抵抗すると思ったが、彼 と はだまって見ている。顔色が、青く美しぺ砥ぎすまされた ようで、一度、手を自由にしてくれと訴えたが、それは許 されず、刑事が、水をコップで飲ませてやると、それっき り何も言わなかった。 かしらのツルヅパシで、コンクリートの破片がとび散っ た。 セメントが、あまり上質のものでないと見えて、わりに たやすく床が崩されて行く。 「ああ、それだ! 傷をつけないように持ちだすのだ!」 係官の一人が、大声に叫んだのは、コンクリにぬりこめ られた猫の死体が出たからであった。係長が、 「ウム、もう、腐ってるだろう。できるだけ形を崩さないよ うにして、ブリキ板の上へうつしとけ。そうして、その下 の土を掘るんだ。気をつけろ。オイ、写真、たのむよー.」 かしらをかきわけて首を前へ出し、しきりにどなりちら している。 土は、わずかに五寸ほど掘った。 ふとん すると、はじめに現われたのは、蒲団か毛布のような ものであったが、手のひらで、ていねいに土をはらって見 ると、それは、うすい茶色に目立たぬ程度の青い縞がはい った洋服地であることがわかった。そうしてその洋服地 は、長々と横にひろげられ、はしの方が、まだ崩してない コンクリートの下までのびているのであった。 「品ぶれで、出て来なかったはずだよ。これは、藤井家の 箪笥から盗み出された服地にちがいない。おどろいたな。 こいつまで土の中に埋めてあるとは思わなかったよ」 係長が、低い声でいったが、ほかの係官たちは、はやる 心を押ししずめようとして、息苦しそうな顔つきをしてい る。 かしらが、呼ばれた。 コンクリートを、タガネでこわして、また少し穴のふち をひろげ、係長が、さすがに今度は息づまる声でいった。 「さア、よし。もう一枚、写真だ。それから、この服地 を、はいで見ろ!」 背の高い刑事の一人が気がついて、電燈のコードを長く のばし、人々の肩越しに、光の穴の中までさし向けた。そ うして他の刑事が、静かに服地をはぎとって行ったが、す るとその下に横たわっている人間の死体が、脚から胴、 腕、肩、そして顔という順序で見えてきた。 その死体は、園江新六であった。 短い尺度計の告白 一 『今私は、一八七五年フランス政府で招請したメ1トル条 約の会議のことを考えている。この条約でメートル国際原 器が、トレスカの考案にもとづき、X字形の断面をもつ、 白金とイリジウムとの合金製のものに決定された。その原 器は、重さが、たしか三・二五キログラムあった。そし て、摂氏一五度で、正しく一〇〇センチメートルの長さを 示した。私は、この原器が、もし狂っていたら、というこ とを思ってみる。その場合は、地球上の尺度計が全部狂っ てしまうのである。幸いにして原器は狂っていなかったか ら、それを基準にして作った他の尺度計も、摂氏一五度で 正しく一〇〇センチメートルであることが可能になった。 そうして、もしかして九九・九九センチの尺度計が作られ たとすると、それは不正な尺度計であることが、たやすく 看破され得ることになったのである。 しかし、この不正な短い尺度計を、正しい尺度計だと思 いこむ者もあるであろう。しかも私は、そういう尺度計を 使っていたのである。イヤ、私自身、その尺度計であっ て、正しい原器と比較することさえ忘れていたのだといっ てもよい。短い尺度計は、測量を常に誤まっていたが、自 分では誤まっていないつもりであった。そうして、今の破 滅を招いたのである。測量が、理論的には正しいと見えて も、実はまことに不正確であったのは、尺度計の例ではな く、次のような場合にも似ているだろう。 ある博物館で案内人が説明した。 "このミイラは五千七年たったものですよ" 〃ほう、なるほど。しかし、五千七年というのは、どうし てそんなに正確にわかっているのですか" 〃なアに、あなた。私がこの博物館へ任命された時、この ミイラは五千年前のものだと聞いたんですよ。ところが、 私はそれ以来もう七年間、案内人をつとめていますから ね" この案内人に、五千七年が無意味な数字であることを、 ハッキリ呑みこませるように説明するのは、かなり困難で あるに違いない。彼にとって、七年という数字は、大切な 数字だった。そうして五千プラス七、答えの五千七年は、 どんな大学の教授でも、同じように計算するものと考え た。これは合理的である。合理主義は、こうして頑固に案 内人の頭を支配している。私も、案内人に似ていた。短い 尺度計にあわせて正しければ、それこそ合理的であると考 えたのである』 笠原昇は、警視庁の留置所で、手記を書くことを許され たが、その手記の冒頭で、以上のように書いている。 彼の身体をしらべると、ズボンのバンドにとくべつな仕 掛がしてあって、そこに青酸加里の粉末が収められていた が、もし、園江の死体が掘りだされた時、身体の自由を拘 束されていなかったら、すきを見て毒薬をロへ投げ入れる つもりだった、と彼はいっている。 変装した二人の刑事が、先発してミネルバ倶楽部へ行っ ていたのは、まことに機宜を得た処置だったと言えるだろ ゆだ う。死ぬことさえ、自分の意志に委ねられなくなったのだ と知った時に、彼も、もはやすべての結末が来たことを覚 ったらしい。 その後の係官の訊問に対しては、彼は進んで全部をうち あけた。逮捕状の方は、園江新六殺害の一件だけになって いる。しかし、藤井家の盗難品が、新六の死体といっしょ に発見されていたから、もう言い逃れはきかず、藤井代議 士を殺したのもやはり自分であると、ハッキリ自白したの であった。 殺人の動機を訊ねられた時に、 「いえ、ぼくは、動機とは、言いたくない気がします。そ れは、ぼくには、冷静な理論だったのです。今は疑問が湧 いてきています。しかし、その時には、そうするのが最も 合理的であるとぼくは考えたのですから」 と彼はいったが、その理論や、殺人の手段などについて は、彼の手記が詳しく説明している。 手記は、次の如きものであった。 × × × さて私は、世間の人が1教育家や評論家や、人格者と 呼ばれる人たちが、私のことをいろいろと批判する中で、 紬人ぐらいば、私を羨ましがる人だってあるだろうと思っ ている。 たいはいてぎ 私の思想や行動が、頽廃的であり不潔でありエゴイズム であり、ことに殺人者だから、甚だしく反社会的だという 非難は、当然おこるにちがいなく、しかし私への共鳴共感 者だって、必らずしも無いとは限るまい。私は、自分の欲 するものに対して、勇敢に突進した。世間には、この勇敢 さを欠くために、実は私と同じことをしたいと思いつつ、 それができないでいる人がかなりに多い。その人たちは、 腹の中の考えは不逞でも、表面的な行動は常識的で円満で 社会性があるから、いちおう善人として認められている。 細く長く生きるためには、まったくそれは賢明なやり方で あり、私の方が、馬鹿だったということになるだろう。 が、私は、そう思われても口惜しくはなく、なるほど君た ちの方が賢明だよと、その小さな善人たちを、慰さめてや るだけの寛容さを持つつもりである。そうして彼らは、私 を悪しざまに罵り軽蔑し、しかも内心では、あいつはうま くやりやがった、最後に手錠をはめられ、絞首台へ送られ るようにさえならなかったら、おれもあいつと同じことを やりたかった、と考えているにちがいないのである。 小善人諸君! 諸君は幸いにして、よい尺度計を持っている。その尺度 計をたいせつにしたまえ。まちがった尺度計を使ったら、 たちまちにして諸君も地獄行きだ。著名な人物では、ヒト ラーが、狂った尺度計を持っていた。東条がまたそうだっ た。ところが諸君は、もちろんヒトラーだけのことはでき やしない。いや、私だけのことすら、できないだろう、そ うして、ただの一つでもその欲望を達しないうちに、地獄 行きの急行列車に乗ってしまう。なぜなら、狂った尺度計 は、それを使うことだけが、かなり困難だ。智能と技倆と が必要だ。その上に、智能と技倆とが、断然優れていたに しても、けっきょく狂った尺度計は、正しい測量をしない から、破滅が来てしまうのである。 私が、どんなにして、智能と技倆とを応用したか、その ことを書いてみよう。 それは、藤井家の事件より二日前の夜、九時すぎだっ た。 私は、ある女との抱擁で、ひどくくたびれていた。女 は、私の先輩にあたる某官庁の役人の細君であり、肉感的 に私を誘惑するものがあったから、二度目にその家を訪問 した時、私は苦もなくその女を征服したのであったが、征 服してみると、思ったよりつまらない女で、私はがっかり してしまった。そうして私は、下宿へ帰ってきたのであ る。 ところが、下宿の前までくると、暗がりから、とつぜん 園江新六が出て来た。彼は、私を訪ねてきて、しかし、中 へははいらず、暗がりに身をかくすようにして、私の帰り を待っていたのである。私がなぜこんな夜遅くに来たのか と訊くと、もじもじしていて、なかなかわけを話さない。 それから、ついに警察から追われているので、どこかへか くまってくれといって頼むのであった。 気まぐれな興味が私のうちにわいてきた。 そしてこの不細工な顔の、野犬のような男に、いっぺん は恩を施しておいても、悪くはないと考えた。ただ、私の 下宿の部屋でこの男といっしょに寝るのは、いかにも殺風 景でやりきれぬ気がしたから、淀橋に、高利貸しの会社を はじめるつもりで借りてあったバラックがあったことを思 いだし、そこへ、自動車で彼をつれて行ったのである。 まだ手入れをしてないバラックで、彼は不服そうであっ たが、平川や高橋たちと、その夜の宵の口に強盗をやろう として失敗し、ちりちりばらばらに逃げたという話をし た。そして、私に、金を貸してくれといったり、そのあと で、彼にとっては致命的な失言をした。藤井有吉の家に、 かんたんに盗み出せる金がある。有吉が友だちでなかった ら、その金を盗み出すのだが……というのである。その時 に彼はその金が、百万円以上あるのだといった。あとでわ かったが実際は十五万円であり、それを彼は、ことさらに 大げさにいっただけのことであろう。私は、真実百万円だ と思いこみ、すると私の血の中に住む金色の鬼が、何か私 に囁くようであり、そうしてついに新しい一つの考えが、 とつぜんそこへ生れてきてしまった。 その金のことを、私は、福島の炭坑の森の中で、貴美子 夫人から少しばかり聞きかじっている。だから、一方では 受取るまいとし、一方では無理に押しつけようとする秘密 の金で、どこへ消えてなくなってもかまわない。まことに もてあまされた金だと知っている。私は、もったいない、 それを自分が、使ってやろうと考えた。そうして、園江の 話だと、盗み出すのは、そう困難でないようであるが、実 際はかなり困難だろうと思い、そう思うといっしょに、そ こくふく の困難を克服するための工夫が、頭の中へ泉のように湧い てきた。 金は、藤井家の二階の書斎に、ブックケースへ入れてか くしてある。 が、その部屋には、藤井代議士が寝ているし、貴美子夫 人がつきそっている。 そうだ、代議士は殺してしまえ。金を奪い、それから貴 美子夫人をも、自分のものにしてしまおう、と決心したの であった。 断わっておくが、私の貴美子夫人に対する愛情こそは、 私の今までの生涯で、いちばん真剣なものだった。その時 もそうだったし、あとでも常にそうだった。彼女が私のも のになっていたら、私の人生観は更正され、私はもっと平 凡であるとともに、世間から賞讃される人間になり得たか も知れない。彼女の迷惑になることだから、これ以上深く 私は説明をしまい。が、彼女を欲しかったことは事実であ る。そうして、藤井代議士がなかったら、私は彼女の愛情 を自分に向けさせることも、不可能ではないという気がし た。結論として、代議士を殺すことは、一石二鳥だと思っ たのである。 むろん、私にも、反省がないではなかった。 盗みをし、人殺しをする。 これは、悪事である。 私は、それを百も承知、二百もがってんというところ で、ことに、そういう悪事こそは、私自身にとっても甚だ 危険であるとわかっていたのであったが、その時に私に は、例の短い尺度計が作用しだしたのである。藤井代議士 は、清廉潔白の好人物だが、死んだところで、世界がそれ ほどの損失をしたということにはならない。金は、私が有 用に使う。そして、私の人生は、貴美子夫人を獲て、ます ます充実される。何よりも私は、私の欲望を達成するため に、手段があり方法があるのだったら、躊躇や遠慮をして いるのこそ、私の人生への反逆であると考えた。理論が構 成されたのである。私は、勇気が出てきた。これを実行す るのには、一連の危険を冒さねばならず、そのことが、却 って私を激励するようであった。綿密に考え、大胆に実行 し、見事に私はやってのけようと決心した。これは、危険 を冒して猛獣狩りをする心理に似ている。それにまた戦争 というものがある。戦争では、いかにして最も効果的に さつりく 敵を多く殺戮するかということばかり研究している。一人 や二人の殺人がなんであろうか。私は、身ぶるいし、頭の 中が爽快になり、すぐその場で、実行に着手したのであ る。 第一に、私は、園江新六を殺すことにきめてしまった。 この男は愚劣であるから、私の仕事の協力者たるの価値 はなく、しかも、のちに、藤井家で・事件がおこった際に、 私がそれをやったのだと感づいたり、それを世間へ言いふ らす危険が多分にある。彼が私に教唆しているからだ。私 は、この危険を未然に防止するには、殺すのがいちばんだ と考えた。ことに、彼のような醜悪な男こそ、生きている 値打ちはないのである。私は、どうだ、酒でも飲むか、と 彼に訊いた。彼は、こんなバラックで、寝具もなくて寝ら れやしない。酒は有難いね、といった。私は、すぐに街へ 出て、ポケットゥィスキーを買い、ついでにまだ起きてい る古道具屋があったのを幸い、ショベルを一ちょう、買っ てきた。ショベルを見て、園江は、オヤオヤそれは何に使 うのだと聞くから、ウム、これは地べたを掘って、世の中 で役に立たない廃品を埋めるのだよと答えたが、彼にはそ の意味がわからなかったらしい。ウィスキーには、口ぶた の、アルミのコップがついていた。そしてその底に、青酸 加里がこびりついていた。彼はゴクリと飲んだ。そうして たちまち死んでしまった。 私は、土間を掘りはじめた。困ったのは、腕力が足りな いから、思うように深く掘れなかったことである。 しかたがない、ともかく、死体をかくすだけにして、あ とでまた工夫しようと考えた。いいか、そのうちに、もっ とうまくやりなおすよ、今はそれでがまんしていろ、と私 がおどけて死体に言うと、死体は蝋燭の焔の下でだまって 私を眺めていた。 私は、いそいで、次の仕事にとりかかったのである。 二 藤井代議士の殺害については、その詳細の手順を、ここ に書く必要はないだろうが、私がここで最も苦心したの は、貴美子夫人を、いっしょに傷つけてはならないという ことだった。不幸にして夫人は、代議士のそばにつききり でいる。どうにかして夫人を、そばにいないようにする必 要があった。 そのため、園江殺害から二日間、私は工夫をこらした。 私は夜になると、下宿の小母さんには、睡眠剤をあたえて 眠らせてから外出し、藤井邸の附近を徘徊しては、乗ずる 隙もあらばと狙っていた。 ついに二日目の夜、私にとっては最も不気味な存在の友 杉君が外出したので、とりあえず尾行してみると、神田の 紅中軒へ、有吉君を迎えに行ったのだとわかった。私は、 麻雀となったゐ、有吉君がなかなか家へ戻らないことを知 っている。紅中軒の硝子戸の外から覗いていると、友杉君 がじっとその麻雀を見物しているから、そうだ、今夜だ、 今夜が与えられた機会であると悟った。そこで、藤井邸の おび 近くへとってかえし、電話で貴美子夫人を誘きだし、つづ いて、女中のふみやをも同じ口実で、外出させてしまった のである。今や、邸内には藤井代議士が、一人きりでいる ことになった。私は、度々藤井邸を訪れたことがあり、勝 手は明るい。友杉君がまき割りに使う斧が、納屋にあるこ とを知っていたから、その斧を持ちだした。斧など使わず 何かもっと目新しい科学的な殺人方法がないものかとも思 ってみたが、犯行が野蛮であり原始的であれば、それだけ 私への疑いは避けられるのだと考えなおした。まったく、 私にとって、斧で人間の頭をぶち割るなどということは、 たいへんに似合わしくないやり方である。それは、園江な どなら、やることかも知れない。そうだ、うまく行くと、 園江は行方不明ということになり、嫌疑は彼にかかるだろ う。よし、斧でやれ! と私は心のうちで叫んだのであっ た。 挿込錠のこわれた窓からはいってから、二分の後に、身 動きのできない藤井代議士は、血みどろになって死んでし まった。 私は、日本史略のブックケースから、金がたった十五万 円しか出てこなかったので、ナヤとびっくりしながらも、 さすがに、ほかの場所を探すだけの心の余裕をもたなかっ しよい た。じきに階下へ降り、その時、盗賊の所為と見せかけ て、警察の捜査をまどわすのも一策だと気がついたから、 納戸へ行き、洋服地を盗みだしたが、そのあとは、台所へ はいって、手や顔へとびついた血を洗い、そうして、藤井 邸の玄関から、逃げ出したのである。 うまく、私は、下宿へ戻った。一つだけ、ひどく危険だ ったのは、藤井邸を出てから間もなく、紅中軒から帰って きた有吉君と友杉君とに、あぶなく顔を見られそうになっ たことである。彼等は、坂を上ってきた。私は、坂を下ろ うとしていた。そのままですれちがいになったら、私は顔 を見られたかも知れない。私は、話し声で、彼らだと気が ついた。そうして道を変えて逃げてしまったのである。 その翌日からーー。 私が、警察の捜査を、どんなに注意深い眼で見守ってい たかは、誰でも推察できることだろう。嫌疑が、私には向 けられず、はじめに諸内代議士が怪しまれたことは、私を いくぶんか安心させ、しかし、いつまでも安心してはいら れなかった。仕事は、まだし残してある。それを片づけて しまわねばならない。その仕事とは、園江の死体をもっと 安全にかくしてしまうということだった。 ある日私は、淀橋のバラックへ赴いた。そして、また ショベルをふるい、死体をなお深く地中へ埋めの、ちに、こ の上をコンクリートの床にしたら、それこそ完全であろう と考えた。ところが、土を掘りのけてみて、私はすっかり へぎえぎ 辟易したというのが、すでに時間がたっている。気候が悪 い。死体は腐敗しかけていたのである。私は、嘔吐をもよ おした。それでもがまんしてやりかけたが、深く掘るため に死体を抱き上げようとすると、おどろくほどそれは重か った。そして手を放すと、土がザラザラ崩れおち、穴は前 よりも浅くなってしまった。私は、洋服地を死体にかぶ せ、っかれきってため息をついたが、実はすでにこの時私 の計画には、狂いが生じたと感じたのである。すべて、綿 密に計画したつもりだった。また、その時までは、何も支 障がおこらなかった。だのに、あの低能の園江の死体が、 私を裏切ろうとしているのである。私は、ありていにいっ て、狼狽した。そうして、狼狽したら駄目だぞと、我と我 が心を叱咤しつつ、次の最善の手段を工夫した。ともか く、コンクリートの床を、この死体の上へ築くことは、絶 対に必要である。が、このままだったら、土方がきた時、 死体を発見される恐れが強い。死体を発見させず、コンク リートで上を塗りかためさせるには、どうすればよいか。 私は、百の考えを、頭の中でくりかえした。そうしてつい に、解決をつけた。 私は、その夜のうちに、ある女を訪ねた。 洋裁店の女主人で、私に学資を貢ぎ、私をえらい学者に 仕込むという、無邪気な夢を描いていた女である。 女に会い、帰る時、私は猫を盗んできてしまった。なか なか困難だったが、けっきょく猫を、女に気づかせず、盗 んでくることに成功した。そして猫を、青酸加里で殺そう としたが、動物は、不思議なものである。毒薬入りの魚 を、くわえたかと思うと首をふってふりおとし、なかなか 食べない。ついに、首へ紐をかけて天井へつるし、そして ナイフで横腹をえぐって殺した。その猫を、死体にかぶせ た土の上に置いて、ひとまず、バラックを引き上げたので ある。 私は、いつ誰があのバラックへはいり、猫の下の廃品を 発見するかも知れぬ、という恐れで、一日も早く、コンク リートの床を完成しようとあせったが、ついに、平川と高 橋とを利用することに成功した。少なくとも成功したつも りだった。彼らに、気前を見せ、心服させ、バラックへつ れて行った。猫を、私は、非常にびっくりして発見し、 ねつぞう それから、猫の迷信を捏造し、猫の位置を、一寸でも動か せずに、コンクリートの床を築くのが、それほどひどく不 自然ではないという体裁を作り上げてしまった。私は、迷 信の話をするのが、いかにもふさわしくない感じで、気お くれがし、吹きだしたくなり、それでも、うまく彼らはだ まされた。その翌日に、もうコンクリートは築かれた。工 事の請負人が、土間の土をさらった方がいいという。が、 それは猫の迷信で一蹴した。その結果、死体も洋服地も猫 も、完全にコンクリートの下へかくされ、さてしかし、床 が高すぎて天井が低い、まことにぶざまな事務所ができあ がったというわけである。 ぶざまであっても、平川や高橋はそれが猫の迷信のせい だと思ってしまっている。他人から聞かれても、そう説明 するにちがいないのであった。私は、ホッとした。ホッと するとともに、いよいよ貴美子夫人に対しての工作を進め ようとし、それには、有吉君を手なずけるのが、何より効 果的だと思ったから、平川と高橋とに命じて、有吉君を、、、 ネルバ企業倶楽部へ呼びょせた。 ところが、これは、思いもよらぬ私の失敗だったのであ る。 有吉君といっしょに、友杉君が来てしまった。 しかもこの時に有吉君が園江のことを私に訊いた。園江 が私を訪ねたことは誰も知る者がないと思っていただけ に、私は愕然としたのである。ことに友杉君が、口には出 さず、鋭い眼で、私の一挙一動を見守っている。私は、顔 色を変えまいとするのに骨が折れた。ともかく、園江には 最近会わぬと返事したが、早くその話題を他へ転じたいと あせった。友杉君が、事務所のうちをじろじろ眺めてい る。床の高さを気にしているにちがいなかった。そうし て、その時は、それ以上に格別なこともなく、友杉君と有 吉君とが帰ったので、私はどうやらこれで、危機は脱した きよごう のだろうと考えたが、それは私の倨傲な自負心が、私を欺 いただけのことである。或はまた、尺度計の狂いが、ここ でも作用したのである。警視庁へ来てから、係官の話で、 私にはわかった。友杉君は、有吉君に園江のことを訊かれ た私の狼狽を、敏活に見てとっていた。また、果して、床 と天井との釣合いに、不審の目を向けて帰った。捜査課へ 来て、彼はその印象を語ったのだそうである。捜査課で は、事務所の構造を視察に来た。そして、ついに、猫が洋 裁店の猫であることを捜索しだした。もう、いけない。か くしてミネルバ倶楽部へは、あの三台の自動車が来てしま -ったのである。 私のたてた計画は、まことに綿密であるつもりだった が、その実たいへんに粗雑なものだった之いうことが、今 にして私にもよくわかる。そうしてその粗雑さは、単にこ の犯罪についてだけでなく、私の思想や行動や、その全部 を支配していたのではなかったろうか。 私は常に思った。すべては合理的であらねばならぬ。そ して現実をしっかりと把握し、それに即応してのみ生きる ことが、私の生命への最も合理的な努力であると。 しかしながら、その現実の把握が、すでに私の場合で は、甚だしく粗暴であったのかも知れない。そうだ、世 うそいつわ の中の、嘘佯りのないとことんの現実なんて、そう簡単に 見極めてしまうことはできないのに、私はそれができたの だと、思い上っていたのである。けっきょく私は、単なる 空想家にすぎなかった。空想こそは、無制限に自由で楽し くて、しかし、実在するものとの間には、ハッキリした区 別をつけておかねばならなかった。私は、その区別を見失 い、しかも悪魔的な空想に溺れてしまっていたのである。 短い尺度計ー。 尺度計は、現実への測量過失を犯した。 この尺度計は、折って捨てた方がいいと、私は今ハッキ リ思っているー。 × × × 笠原昇は、この手記のほかに、二通の手紙を書いている。 一通は貴美子未亡人あてで、他の一通は友杉成人あてで あったが、どちらも、ひどく簡単で、私は生れてはじめて の祈りをささげる。それはあなたの幸福を祈るのである、 という、文句までほとんど同じものであった。 (おわり)
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2013年1月7日 伊藤秀雄の探偵小説史四部作『明治の探偵小説』(1986年)、『大正の探偵小説』(1991年)、『昭和の探偵小説』(1993年)、『近代の探偵小説』(1994年)の目次。『明治の探偵小説』は日本推理作家協会賞を受賞している。 Index 伊藤秀雄『明治の探偵小説』目次 伊藤秀雄『大正の探偵小説』目次 伊藤秀雄『昭和の探偵小説』目次 伊藤秀雄『近代の探偵小説』目次 『近代の探偵小説』の韓国語訳/韓国で刊行されている《日本ミステリ叢書》について 伊藤秀雄『明治の探偵小説』目次 1987年 日本推理作家協会賞受賞(評論その他の部門) 伊藤秀雄『明治の探偵小説』(晶文社、1986年10月) 伊藤秀雄『明治の探偵小説』(双葉文庫 日本推理作家協会賞受賞作全集56、2002年2月) はしがき 序説――黒岩涙香から横溝正史まで 第一部 日本探偵小説事始第一章 涙香以前――成島柳北、神田孝平、三遊亭円朝 第二章 黒岩涙香の活躍 第三章 探偵小説論――黒岩涙香、内田魯庵、島村抱月 第二部 花ひらく明治ミステリー第四章 森田思軒と春のや朧 第五章 涙香につづく人々――丸亭素人、快楽亭ブラック、南陽外史 第六章 探偵実話の流行 第七章 硯友社の「探偵小説退治」 第八章 創作探偵小説の展開――半井桃水、尾崎紅葉、多田省軒 第九章 押川春浪と武侠冒険小説 第三部 翻訳小説篇第十章 涙香以後の翻訳――徳富蘆花、柳圃散史、原抱一庵 第十一章 乱歩の先駆者――菊池幽芳、暁風山人、羽化仙史 第十二章 怪盗ルパンとソーンダイク博士 第十三章 『新青年』創刊まで あとがき 明治探偵小説年表 索引 伊藤秀雄『大正の探偵小説』目次 伊藤秀雄『大正の探偵小説 涙香・春浪から乱歩・英治まで』(三一書房、1991年4月) 第一部 大正以前一 涙香から始まる 二 探偵実話時代 三 創作家・翻訳者の輩出 四 押川春浪の登場 第二部 大正前期第一章 三津木春影の業績 第二章 「ジゴマ」映画の輸入 第三章 「奇中奇談 幽霊塔」の映画一 原作者の確定 二 原作の「灰色の女」 三 各種の大活劇 第四章 既成作家の活動一 渡辺黙禅 二 鹿島桜巷 三 遠藤柳雨 四 江見水蔭 五 岡本綺堂 六 宮地竹峰 七 押川春浪 第五章 新進・小原柳巷、その他一 青木緑園 二 小原柳巷 三 淡路呼潮 四 雙巴子 第六章 「探偵実話」の転向一 望月紫峰「関東兄イ」 二 松崎天民「探偵ロマンス」 三 私立探偵の成立 四 探偵講談「不思議の家」 第七章 岡本綺堂の「半七捕物帳」一 江戸時代への郷愁 二 先駆的作品 三 綺堂の世界 第八章 松居松葉の「悪人手形帳」 第九章 谷崎潤一郎の探偵小説一 「秘密」「白昼鬼語」など 二 「蘿洞先生」「続 蘿洞先生」 三 「日本に於けるクリップン事件」 第十章 芥川龍之介の怪奇趣味一 「未定稿」 二 「疑惑」「魔術」など 三 「藪の中」 四 「報恩記」 第十一章 佐藤春夫の業績一 「指紋」 二 「女誡扇綺譚」 三 「オカアサン」 四 「探偵小説小論」 第三部 大正後期第十二章 「新青年」の創刊一 森下雨村 二 「警察と犯罪の秘密」 第十三章 「新青年」の展開一 馬場狐蝶 二 小酒井不木 三 井上十吉 第十四章 大正期の翻訳探偵叢書 第十五章 松本泰と専門雑誌の輩出一 「探偵雑誌」と「新趣味」 二 「呪の家」 三 「P丘の殺人事件」 四 「ガラスの橋」 五 「探偵文芸」「探偵趣味」など 第十六章 江戸川乱歩の出現と探偵文壇の成立一 江戸川乱歩 二 山下利三郎 三 甲賀三郎・大下宇陀児 四 城昌幸・山本禾太郎・地味井平造 五 久山秀子・平林初之輔・角田喜久雄 六 正木不如丘・川田功・羽志主水 七 森下雨村・横溝正史 第四部 大正以後第十七章 涙香に還る一 江戸川乱歩の場合 二 横溝正史の場合 三 小酒井不木・甲賀三郎の場合 四 吉川英治の場合 あとがき 日本探偵小説年表 索引 伊藤秀雄『昭和の探偵小説』目次 伊藤秀雄『昭和の探偵小説 昭和元年~昭和二十年』(三一書房、1993年2月) 序章 昭和以前一 涙香の出現 二 探偵実話時代 三 創作家・翻訳者の輩出 四 押川春浪らの登場 五 「ジゴマ」映画の輸入 六 新進・小原柳巷らの登場 七 「新青年」の創刊 第一部 昭和第一期(勃興期 大正末~昭和八年)第一章 江戸川乱歩らの活躍一 江戸川乱歩 二 甲賀三郎 三 大下宇陀児 四 小酒井不木 第二章 ヴァン・ダインの登場と新進の活躍一 浜尾四郎 二 水谷準 三 夢野久作 四 渡辺温 五 渡辺啓助 六 葛山二郎 七 海野十三 八 瀬下耽 九 稲垣足穂 十 水上呂理 十一 橋本五郎 第三章 少年探偵小説の勃興一 昭和以前 二 昭和期と「少年倶楽部」 三 高垣眸 四 吉川英治 五 大佛次郎 六 野村胡堂 七 江戸川乱歩 第四章 探偵小説全集と「蠢く触手」一 探偵小説全集の出版 二 「蠢く触手」について 三 昭和十年以後の探偵小説全集 第五章 「日本探偵叢書」その他一 「日本探偵叢書」 二 「現代探偵名著叢書」 三 「黒岩涙香先生訳(大改訂版)」 四 「黒岩涙香訳」 第二部 昭和第二期(隆盛期 八~十三年)第六章 既成作家の結実一 勃興の機運 二 江戸川乱歩 三 甲賀三郎 四 大下宇陀児 五 横溝正史 六 水谷準 七 夢野久作 八 渡辺啓助 九 海野十三 十 大阪圭吉 第七章 犯人探し・宝探し懸賞小説の流行一 謎解きゲーム小説の起源 二 その流行 第八章 新進作家の輩出一 小栗虫太郎 二 木々高太郎 三 久生十蘭 四 蒼井雄 五 蘭郁二郎 第九章 諸家の探偵小説論一 浜尾四郎の「探偵小説を中心として」 二 海野十三の「探偵小説管見」 三 甲賀三郎の「探偵小説講話――まえ書」 四 木々高太郎の探偵小説論 第三部 昭和第三期(屏息(へいそく)期 十四~二十年)第十章 戦時下の探偵小説一 野村胡堂の「銭形平次捕物控」 二 スパイ関係実話・小説 終章 戦後の動向 主要参考文献 あとがき 昭和探偵小説略年表 索引 伊藤秀雄『近代の探偵小説』目次 伊藤秀雄『近代の探偵小説』(三一書房、1994年6月) 第一部 明治期第一章 草創期探偵趣味明治初期 外国物の翻訳 三遊亭円朝の業績 第二章 黒岩涙香の活躍一 黒岩涙香翻案小説家への道 涙香小説の展開 その小説の抱負 二 「片手美人」「片手美人」 三 「死美人」「死美人」 第三章 涙香につづく人々一 丸亭素人「鬼車」 「虐殺」 二 南陽外史「忍び夫(づま)」 第四章 探偵実話の勃興探偵実話の起源「清水定吉」 「三週間の大探偵」 「探偵実話 破獄の藤蔵」 「探偵実話 獄中の毒殺」 第五章 硯友社の探偵小説退治「五人の生命」 「美人狩」 「血染の釘」 「銀行の秘密」 「無頭の針」 「手形の賊」 「緋桜」 第六章 駸々堂の「探偵小説」・「探偵文庫」叢書「稲妻」 「天刑木」 「幽霊船」 「X光線」 「探偵講談 美人と短銃」 「婦人の念力」 「滝夜叉お仙」 「暗穴地獄」 「鉱山の魔王」 第七章 創作探偵小説の展開一 尾崎紅葉「拈華微笑」 二 三宅青軒「不思議」 「奇々怪々」 三 柳川春葉「夢の夢」 四 犯人探し懸賞小説「女優殺し」「女優殺し」 五 河越輝子の「秘密小説 新看護婦」「新看護婦」 六 巌谷小波の「夢の三郎」「夢の三郎」 第八章 押川春浪と武侠冒険小説「伝奇小説 銀山王」 一 海賀変哲「塚の秘密」 二 滝沢素水「難船崎の怪」 第二部 大正期第九章 「ジゴマ」映画と探偵活劇物の流行「拳骨」 「此足趾が」 「秘密の入墨」 第十章 沈滞期と旧作の再刊一 妖婦 短冊お留「短冊お留」 二 活劇講譚因果華族「因果華族」 第十一章 「新青年」の創刊と翻訳物の先駆一 田中早苗訳「白衣の女」「白衣の女」 二 西洋講談「放浪の佳人」「放浪の佳人」 第十二章 大衆文学の勃興と黒岩涙香の影響前田曙山「慕ひ行く影」 第三部 昭和期第十三章 探偵小説の隆盛一 吉川英治「江戸三国志」 二 渡辺黙禅「娘毒術師」 三 大下宇陀児「金色藻」 四 浜尾四郎「鉄鎖殺人事件」 五 江戸川乱歩「緑衣の鬼」 六 小栗虫太郎「二十世紀鉄仮面」 七 屏息(へいそく)の戦時下 あとがき 日本探偵小説年表 索引 『近代の探偵小説』の韓国語訳/韓国で刊行されている《日本ミステリ叢書》について 韓国で2011年2月、日本ミステリ叢書(일본 미스터리 총서)の第1巻として伊藤秀雄『近代の探偵小説』の韓国語訳『일본의 탐정소설』(直訳:日本の探偵小説)(韓国のネット書店)が発売された。翻訳者は高麗(コリョ)大学校日語日文学科のユ・ジェジン(兪在真、유재진)准教授。ユ・ジェジン准教授は高麗(コリョ)大学校日語日文学科卒業後、日本の筑波大学で日本近代文学を専攻し博士号を取得した。 2012年3月には日本ミステリ叢書第2巻『탐정 취미』(直訳:探偵趣味)(韓国のネット書店)が刊行された。ユ・ジェジン准教授ほかの編訳。日本統治期朝鮮の日本語雑誌に掲載された探偵小説・随筆の韓国語訳アンソロジーである。 日本ミステリ叢書第2巻『探偵趣味』収録内容1. 金三圭「杭に立ったメス」(初出:『朝鮮地方行政』1929年11月号~1930年1月号) 2. 京城探偵趣味の会同人、連作探偵小説「女スパイの死」(初出:『朝鮮公論』1931年1月号~5月号)執筆者:山崎黎門人、阜久生、吉井信夫、大世渡貢、大世渡貢 3. 京城探偵趣味の会同人、連作探偵小説「三つの玉の秘密」(初出:『朝鮮公論』1934年2月号~4月号)執筆者:山岡操、太田恒弥、山崎黎門人 4. コナン・ドイル作、芳野青泉訳「名馬の行方」 5. コナン・ドイル作、倉持高雄訳「謎の死」(初出:『朝鮮公論』1925年9月号~12月号) - 「まだらの紐」の翻訳 6. 江戸川乱歩「探偵趣味」(初出:『朝鮮及満洲』1927年1月号) このうち江戸川乱歩の「探偵趣味」は日本では知られていなかったものである。国会図書館でコピーしてきたが一体どういう性質のものか分からなかったため、『江戸川乱歩執筆年譜』の編者の中相作氏にうかがったところ、『ラヂオ講演集 第十輯』(日本ラヂオ協会・博文館、1926年11月)(近代デジタルライブラリー)に収録された江戸川乱歩の「探偵趣味」と内容がほぼ一致するとの返答をいただいた(文章には異同がある)。元のラジオ講演はその前年、1925年の11月9日に放送された。 2と3は京城探偵趣味の会の同人によるリレー探偵小説である。この会は1928年ごろに京城(けいじょう、現在のソウル)で結成されたらしい。日本では江戸川乱歩らが1925年に「探偵趣味の会」を結成しているので、それに倣ったものだろうか。日本語雑誌『朝鮮公論』の1928年6月号に「探偵趣味の会宣言」が掲載されていた。以下に引用する。 『朝鮮公論』1928年6月号 探偵趣味の会宣言京城探偵趣味の会は発会式などはヌキにして(そんなしち面倒くさいことはいやだからである)事実上既に京城のどこかに存在している。そして同人丈けはいろいろな顔ぶれが揃っていることも事実である。先ず新聞記者も居れば画家も居る。刑事さんも居れば警部も居るのである。未だ此の会は影のような幽霊のような(妖怪味すらそなえた)存在である。だが吾等の探偵趣味の会はそんなとこに面白味があるのかも知れない。由来探偵趣味畑には妖怪味は附きものだからである。さて此の影の存在がハッキリと姿を顕わして来るようになれば幸いである。そして朝鮮からも朝鮮の小酒井不木や江戸川乱歩が出ればいよいよ世の中は面白くなる。次ぎに紹介する一篇は第一回の推せん作である。先ずこんなところからボツボツ出発して来て軈ては本格モノにまで進めば吾等の喜びは大きくなる。(松本輝華) 引用文中で「第一回の推せん作」とされているのは、同号に掲載されている山崎黎門人の「探偵コント 意地わる刑事」のことである。宣言文執筆者の松本輝華は『朝鮮公論』で文芸時評や映画評などを書いていた人物だが、この人物自身が書いた探偵小説は『朝鮮公論』には載っていない。 関連ページ 長谷部史親『欧米推理小説翻訳史』『続・欧米推理小説翻訳史』 鮎川哲也『幻の探偵作家を求めて』(正・続・番外・新) 2014年に韓国で出版された『京城の日本語探偵作品集』
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横溝正史「本陣殺人事件」、木々高太郎 「新月」(短編) 坂口安吾「不連続殺人事件」、山田風太郎 「眼中の悪魔」、「虚像淫楽」(短編) 高木彬光「能面殺人事件」、大坪砂男 「私刑」「涅槃雪」「黒子」(短編) 大下宇陀児「石の下の記録」、島田一男 「社会部記者」「風船魔」(短編) 水谷準「ある決闘」 なし なし 永瀬三吾「売国奴」 日影丈吉「狐の鶏」 松本清張「顔」(短編集) 角田喜久雄「笛吹けば人が死ぬ」 有馬頼義「四万人の目撃者」 鮎川哲也「憎悪の化石」、「黒い白鳥」 水上勉「海の牙」、笹沢左保「人喰い」 飛鳥高「細い赤い糸」 土屋隆夫「影の告発」 結城昌治「夜の終る時」、河野典生「殺意という名の家畜」 佐野洋「華麗なる醜聞」 中島河太郎「推理小説展望」 三好徹「風塵地帯」 星新一「妄想銀行」なし 陳舜臣「孔雀の道」、「玉嶺よふたたび」 なし なし 夏樹静子「蒸発-ある愛の終わり-」、森村誠一「腐食の構造」 小松左京「日本沈没」 清水一行「動脈列島」 戸板康二「グリーン車の子供」(短編) 石沢英太郎「視線」(短編) 泡坂妻夫「乱れからくり」、大岡昇平「事件」 天藤真「大誘拐」、檜山良昭「スターリン暗殺計画」、阿刀田高 「来訪者」(短編 なし 西村京太郎「終着駅殺人事件』、仁木悦子 「赤い猫」、連城三紀彦「戻り川心中」 辻真先「アリスの国の殺人」、日下圭介「鶯を呼ぶ少年」「木に登る犬」 胡桃沢耕史「天山を越えて」 加納一朗「ホック氏の異郷の冒険」、伴野朗「傷ついた野獣」(連作短編) 北方謙三「渇きの街」、皆川博子「壁・旅芝居殺人事件」 岡嶋二人「チョコレートゲーム」、志水辰夫「背いて故郷」 逢坂剛「カディスの赤い星」、高橋克彦「北斎殺人事件」 小杉健治「絆」 和久峻三「雨月荘殺人事件」、船戸与一「伝説なき地」、小池真理子「妻の女友達」(短編) 佐々木譲 『エトロフ発緊急電』 大沢在昌 『新宿鮫』、北村薫 『夜の蝉』(連作短編集) 綾辻行人「時計館の殺人」、宮部みゆき「龍は眠る」 高村薫「リヴィエラを撃て」 中島らも「ガダラの豚」、斎藤純「ル・ジタン」(短編)、鈴木輝一郎「めんどうみてあげるね」(短編) 折原一「沈黙の教室」、藤田宜永「鋼鉄の騎士」、加納朋子「ガラスの麒麟」(短編)、山口雅也「日本殺人事件」(連作短編集) 京極夏彦「魍魎の匣」、梅原克文「ソリトンの悪魔」、黒川博行「カウント・プラン」(短編) 真保裕一「奪取」 桐野夏生「OUT」、馳星周「鎮魂歌」 東野圭吾「秘密」、香納諒一「幻の女」、北森鴻「花の下にて春死なむ」(連作短編集) 天童荒太「永遠の仔」、福井晴敏「亡国のイージス」、横山秀夫「動機」(短編) 東直己「残光」、菅浩江「永遠の森」 山田正紀「ミステリ・オペラ」、古川日出男「アラビアの夜の種族」、法月綸太郎「都市伝説パズル」(短編)、光原百合 「十八の夏」(短編) 浅暮三文「石の中の蜘蛛」、有栖川有栖「マレー鉄道の謎」 垣根涼介「ワイルド・ソウル」、歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ」、伊坂幸太郎「死神の精度」(短編) 貴志祐介「硝子のハンマー」、戸松淳矩「剣と薔薇の夏」 恩田陸「ユージニア」、平山夢明「独白するユニバーサル横メルカトル」(短編) 桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」 今野敏「果断 隠蔽捜査2」、長岡弘樹「傍聞き」(短編) 道尾秀介「カラスの親指」、柳広司「ジョーカー・ゲーム」、曽根圭介「熱帯夜」(短編)、田中啓文「渋い夢」(短編) 飴村行「粘膜蜥蜴」、貫井徳郎「乱反射」、安東能明 「随監」(短編) 麻耶雄嵩「隻眼の少女」、米澤穂信「折れた竜骨」、深水黎一郎 「人間の尊厳と八〇〇メートル」(短編) 高野和明「ジェノサイド」、湊かなえ「望郷、海の星」(短編) 山田宗樹「百年法」、若竹七海「暗い越流」(短編)
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2009年11月10日ページ作成、随時更新 2011年9月1日 (2)と(3)を追加、ページ名変更 目次 (1)台湾ミステリの邦訳一覧長編 短編 アジア・ハードボイルド(?) (2)20世紀前半の台湾探偵小説(日本語作品)座光東平 小島泰介 福田昌夫 金関丈夫(かなせき たけお) 葉歩月(よう ほげつ) その他の創作探偵小説 探偵実話 (3)20世紀前半の台湾探偵小説(日本で復刻されている中国語作品)漢文(文言文) 白話文 (1)は邦訳された台湾ミステリのリスト。 (2)と(3)は、現代の日本で容易に購入できるもの、図書館等に行けば容易に読めるものを掲載する。 (1)台湾ミステリの邦訳一覧 長編 藍霄(ランシャウ)『錯誤配置』(講談社 アジア本格リーグ1、2009年9月)(原著刊行2004年) 寵物先生(ミスターペッツ) 『虚擬街頭漂流記(きょぎがいとうひょうりゅうき)』 (文藝春秋、2010年4月)(原著刊行2009年) 第1回(2009年)島田荘司推理小説賞受賞作 短編 余心樂(よ しんらく) 「生死線上」 『有栖川有栖の本格ミステリ・ライブラリー』(角川文庫、2001年8月)(初出:台湾の雑誌『推理雑誌』64号、1990年) 凌徹(リンチェウ) 「幽霊交叉点」 ( 『ミステリーズ!』Vol.29、東京創元社、2008年6月)(初出:台湾の雑誌『MYSTERY』1号、2006年) 寵物先生(ミスターペッツ) 「彷徨えるマーク・ガッソン」 (『ジャーロ』41号、光文社、2011年3月)(邦訳版が初出/中国語版は未発表) アジア・ハードボイルド(?) 台湾の武侠小説作家の古龍(こりゅう)の作品は、小学館文庫では「アジア・ハードボイルド」と銘打たれて刊行されている。 (ここでは小学館文庫から刊行されているもののみを挙げる。古龍の作品はほかにも邦訳が出ている) 『楚留香 蝙蝠伝奇(そりゅうこう こうもりでんき)』(小学館文庫、1998年12月、上中下巻) 『陸小鳳伝奇(りくしょうほう でんき)』(小学館文庫、1999年2月、全1巻) 『辺城浪子(へんじょう ろうし)』(小学館文庫、1999年6月、全4巻) 『陸小鳳伝奇(りくしょうほう でんき)』はのちに早稲田出版より『陸小鳳伝奇1 金鵬王朝(きんほう おうちょう)』(2006年5月)として刊行。続編の『陸小鳳伝奇2 繍花大盗(しゅうか たいとう)』(2006年5月)、『陸小鳳伝奇3 決戦前後』(2006年11月)も刊行された。 (2)20世紀前半の台湾探偵小説(日本語作品) 作家別、年代順。 座光東平 『日本統治期台湾文学集成9 台湾探偵小説集』(緑蔭書房、2002年11月)厳格な家の娘(1923) 人間の裁判(1923) 強い娘(1924) 是耶非耶(1924)(未完) 謎の夫婦情死(1924) 聖僧の庫裡(1924) 露と消ゆる四つの命(1924) 凄い切味の女(1924) 女落語師の死(1924) 天遣を蒙る人(1924) 自縄自縛(1924) 白金坩堝の行衛(中編)(1924-1925) 小島泰介 『日本統治期台湾文学集成7 台湾通俗文学集 一』(緑蔭書房、2002年11月)「屍婚」(1934) 「屍婚」は乱歩や夢野久作を思わせる変格探偵小説の佳作。 福田昌夫 『日本統治期台湾文学集成21 「台湾鉄道」作品集 一』(緑蔭書房、2007年2月)「二将軍の壁画」(1935) 「港町の殺人事件」(1935) 「魔の椅子事件」(1935) 「山は裁く」(1936) 金関丈夫(かなせき たけお) 金関丈夫の探偵小説は以下の2冊ですべて読むことができる。金関丈夫はいくつかペンネームを使ったが、探偵小説は『南風』(蘇文石名義)以外はすべて林熊生(りん ゆうせい)というペンネームで発表した。 林熊生『日本植民地文学精選集38 〔台湾編13〕 船中の殺人/龍山寺の曹老人 第一輯・第二輯』(ゆまに書房、2001年9月)中編「船中の殺人」(1941) 短編「指紋」(1943) 《龍山寺の曹老人》シリーズ「許夫人の金環」(1943) 「光と闇」(1943) 「入船荘事件」(1943) 「幽霊屋敷」(1945) 「百貨店の曹老人」(1945) 金関丈夫『創作集 南の風』(法政大学出版局、1980年6月)《龍山寺の曹老人》シリーズ「許夫人の金環」(1943) 「入船荘事件」(1943) 「幽霊屋敷」(1945) 「謎の男」(1947) 「観音利生記」(1947) 未完長編『南風』(1942-1943)(蘇文石名義で発表。当初はリレー小説として計画されており、執筆された全17回のうち第2回と第4回は立石鉄臣(伴三果名義)が執筆したものである。立石の執筆回は『創作集 南の風』に収録されていない) 短編「DU14放棄顚末」(1959)(※日本で発表した作品) 《龍山寺の曹老人》シリーズ(短編全7編) 収録状況 # タイトル 『日本植民地文学精選集38』 『創作集 南の風』 1 「許夫人の金環」(1943) 〇 〇 2 「光と闇」(1943) 〇 3 「入船荘事件」(1943) 〇 〇 4 「幽霊屋敷」(1945) 〇 〇 5 「百貨店の曹老人」(1945) 〇 6 「謎の男」(1947) 〇 7 「観音利生記」(1947) 〇 葉歩月(よう ほげつ) 『日本統治期台湾文学集成19 葉歩月作品集一』(緑蔭書房、2003年7月)中編「白昼の殺人」(1946) その他の創作探偵小説 『日本統治期台湾文学集成21 「台湾鉄道」作品集 一』(緑蔭書房、2007年2月)臍皮乱舞・大舌宇奈児・無理下大損・正気不女給 リレー小説「連作怪奇探偵小説 木乃伊の口紅」(1934)名前の読みの推定:「へそがわ らんぶ」、「おおした うなる」、「むりした おおぞん」、「まさき ふじょきゅう」 言うまでもなく、江戸川乱歩、大下宇陀児、森下雨村、正木不如丘をもじったものである 『日本統治期台湾文学集成9 台湾探偵小説集』(緑蔭書房、2002年11月)下村四郎「渦巻」(1934) 松浦泉三郎「甲板の妖人」(1935) 河原崎純「呪われた女身」(1935) 渥美順「暁の非常線」(1936) 美川紀行・梶雁金八・渥美順 リレー小説「姿なき犯罪」(1937) 探偵実話 『日本統治期台湾文学集成9 台湾探偵小説集』(緑蔭書房、2002年11月)飯岡秀三士林川血染船(1914) 奇代の兇賊台北城下を騒す(1920) 野田牧泉阿緱のばらばら事件(1933) 枯れた唐辛子の木 ―お岩後家殺し事件―(1933) 芝川武腕の伝蔵(1938) 山下景光亭主に殺された食菜人(1938) 或る変態性欲者の犯罪(1938) 基隆のバラバラ事件(1941) 三谷祥介おつたの死(1941) 小南堂居万久殺し(1942) (3)20世紀前半の台湾探偵小説(日本で復刻されている中国語作品) 漢文(文言文) 『日本統治期台湾文学集成25 台湾漢文通俗小説集 二』(緑蔭書房、2007年2月)魏清徳長編「傾国恨」(1917-1918)(スパイ小説) 短編「歯痕」(1918)(モーリス・ルブランのルパン物『虎の牙』の翻案) 謝雪漁中編「日華英雌伝」(1937-1938) 短編「小学生椿孝一」(1937) 白話文 『日本統治期台湾文学集成25 台湾漢文通俗小説集 二』(緑蔭書房、2007年2月)蔚然(陳蔚然)「他的勝利」(1941) 関連記事 中国ミステリ 読書案内 韓国ミステリ 読書案内 台湾ミステリ紹介 目次へ