約 2,504 件
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/796.html
国体(こくたい)は、天皇が、すべしろしめす日本の国柄を指す。 概要 国体とは、「神の御子孫たる皇孫が、天地が果てることの無きが如く、統べ治め給う。」皇典編纂局編『熊沢天皇箴言集』第2巻、247頁 1942年、皇典編纂局。 というわが国固有の御神勅に基づく国のあり方を中心的観念とする。『国体の本義』には以下のようにある。「天照大神が皇孫瓊瓊杵ノ尊を降し給ふに先立つて、御弟素戔嗚ノ尊の御子孫であらせられる大国主ノ神を中心とする出雲の神々が、大命を畏んで恭順せられ、こゝに皇孫は豊葦原の瑞穂の国に降臨遊ばされることになつた。而して皇孫降臨の際に授け給うた天壌無窮の神勅には、豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国は、是れ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)宝祚(あまつひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮りなかるべし。と仰せられてある。即ちこゝに儼然たる君臣の大義が昭示せられて、我が国体は確立し、すべしろしめす大神たる天照大神の御子孫が、この瑞穂の国に君臨し給ひ、その御位の隆えまさんこと天壌と共に窮りないのである。而してこの肇国の大義は、皇孫の降臨によつて万古不易に豊葦原の瑞穂の国に実現されるのである。」 これを法哲学・公法学・憲法の観点から述べると以下のようになる。国体は、建国以来不文憲法の根拠として存在してきた。明治になって制定された大日本帝国憲法は、この不文憲法の根拠である国体を根底にし、主に伊藤博文が海外視察によって影響を受けたドイツ諸邦の憲法を参照して構成されたものである。「国制」即ち、国を治める形、国家意思決定過程の定めを意味するverfassungの語を、当初「国憲」と訳してたことからも明らかなように、自然国家としての連続性を意味する国体の表出が、不文成文の憲法であるという相関関係にあるともいえる。憲法思想的には、日本のコモン・ローをベースにしており、英国憲法とその法位相を同じくするものである。 国体の内容は論者によって大きく異なるが、皇統の連続性を強調し、我が国の歴史においては易姓革命を否定する点は共通している。論者の大部分は天皇による国家統治を主張する。 このほか「国体思想」の要素として、 神国思想:日本の国家と皇統は神々に由来し、日本は神々に守護されているという信仰。特に昭和戦前期は天皇を現人神と仰いだ(『国体の本義』・修身の教科書など)。神国思想は、太平洋戦争で敗北した為崩壊したとする論者もある。 皇国史観:天皇を中心とする日本の国の歴史を称揚する歴史観。 国民道徳論:忠君報国や親孝行などを日本の古来からの道徳として称揚する(教育勅語など)。 家族国家論:日本の国家を一大家族に擬制し、皇室を国民の宗家とし、天皇を家長にたとえる。 君主国体説:諸国家を「主権」の所在により君主国体と民主国体に分類し、日本を君主国体とする憲法学説(穂積八束・上杉慎吉)。 立憲主義・民本主義:天皇による統治は国民のために行われるべきと主張する(美濃部達吉・吉野作造など)。 などが挙げられる。 国体思想前史 国体は正字体で「國體」と書き、古くから漢籍に見える。「国体」の文字は『管子』君子篇では「国を組織する骨子」の意味で、『春秋穀梁伝』では「国を支える器」の意味で用いられている。古代日本でも『出雲国造神賀詞』に「国体」と書いて「クニカタ」と読む言葉があり「国の様子」を意味している。 国家観の意味で「国体」の語が用いられるようになったのは江戸後期以降であるが、それ以前にも国体の萌芽となる思想はあらわれていた。そのひとつは、日本を神々の国であるとする神国思想、もうひとつは皇位の血統性を強調する皇国思想である。 記紀 『古事記』・『日本書紀』は、日本の国家と天皇の由来を語りおこしており、それ自体が神国思想といえる。一方、皇位の血統的連続性を直接明言する記述は意外に少なく『日本書紀』の一書(別伝)に天壌無窮の神勅がみられる程度である。これは、天皇の先祖が高天原から降下したという天孫降臨において、天降りする孫に天照大神が与えたとされる言葉である。皇位の栄えは天地とともに無限であろう、と言祝(ことほ)ぐ。昭和戦前期に強調された言葉ではあるが、『日本書紀』の本文では採用されておらず、編纂時に強調されていなかったようである。ただし、『古事記』・『日本書紀』はその全体が、皇統の系譜を叙述の規範としており、皇位の血統的連続性いわゆる万世一系を前提とした史書である。 古代 一説には、雄略天皇は、中華皇帝から倭王に封じられた最後の天皇であり、これ以降、日本天皇は中華皇帝に臣下の礼をとらなくなる。雄略天皇はまた国内では「治天下大王」を名乗り、自己より上位の権威を認めない姿勢を示した。 武烈天皇の死去に伴って、大和の有力豪族たちは自ら即位せずに、敢えて皇族を遠く北陸からむかえ皇位に推戴した。これが継体天皇である。こうした有力豪族たちの行動は、皇位には何よりも血統性が重要であるという一種の信仰を背景としたものであり、日本独自の国体観の始まりといえる。 十七条憲法(注、官民に対する教諭書的性格が強く、現在の「憲法」の概念とは異なる。) 「日の出づる処の天子」(607年、推古天皇15年、聖徳太子が隋の皇帝に送ったとされる親書の一節。)頼山陽は『日本楽府』の冒頭の詩「日出処」で、「日の出ずる処、日の没する処」を易姓革命による中華王朝の存亡流転に対比して、万世一系の皇統を護る日本の国体の永久不変を常昇する東海の一輪の太陽に例えた。翌年の608年、推古天皇15年、遣隋使小野妹子の携えた国書に、「東の天皇、敬みて西の皇帝に曰す。」とある。『日本書紀』 大化改新 和気清麻呂の物語。769年、宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託がくだったが、和気清麻呂が勅使として参向し、以前の神託を否定し、即位計画は破綻して皇位につくことはなかった。天皇の皇位継承についての男系子孫継承の原則を破壊しようとした道鏡は、和気清麻呂によってその野望を打ち砕かれた。 王土王民思想(律令制参照。) 中世 中世の体制は、皇室・摂関家・大寺社・将軍家などの権門勢家が縦割りで支配するものであり、権門勢家間の垣根を越えて日本の国の一体感を強調する目的で神国思想が持ち出されることがあった。特に、元寇など日本の国防上の危機感が高まったときに神国思想が強調された。 朱子学が鎌倉後期に日本に伝来すると、その正統主義、尊王斥覇の思想が日本の国体観に加わった。 後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒し天皇親政を試みた。 鎌倉幕府の倒壊から南北朝時代を物語る『太平記』は、楠木正成などの南朝方武将を好意的に描き、後の歴史観に大きな影響を残した。また南朝方の有力公家北畠親房は南朝の正統性を主張するために歴史書『神皇正統記』を著し、皇国史観の元祖となった。 近世・幕末 近世初頭には、豊臣秀吉や徳川家康の外国宛て書簡で神国思想が表明された。江戸時代に入ると学者による論説が登場した。これには儒学者の流れと国学者の流れがある。 儒学者流では、山崎闇斎とその学統が有名である。山崎闇斎は神儒一致(神道と儒教との一体化)の垂加神道を唱え、その弟子浅見絅斎は『靖献遺言』を著し尊皇思想の源流となった。闇斎は、皇統はそれ自体が道の存在を示しており、さらには天皇こそが儒教的な人倫の道の体現者であるとした。一説には、孫弟子の栗山潜峰(1671‐1706)は、国体の語を日本独自の国家観の意味で初めて用いたといわれている。 水戸藩作成の史書『大日本史』には、孫弟子の三宅観瀾や栗山潜峰らが編纂に携わった。『大日本史』は、朱子学の正統主義の立場から、南朝正統論を強調した。水戸学では日本とは一つの道徳的実残の運動体(国体)であると考えられており、山崎闇斎の思想とともに幕末の尊皇攘夷運動の思想的契機の一つとなった。 一方、国学者流では本居宣長が影響も大きい。ほとんど読めなくなっていた『古事記』の解読にほぼ成功して、神国思想を強調した。 国体の語を用いた国家論が本格的に始まるのは江戸後期の水戸学からである。 会沢正志斎は著書『新論』(1825年)の冒頭で国体と題した章を設けて尊皇攘夷を論じた。また、藤田東湖が起草し同藩主徳川斉昭が撰文した『弘道館記』(1837年)は「国体以之尊厳」と刻み、日本の道徳が皇統に由来することを説いた。これら水戸学者の著作は幕末の志士たちの間で広く読まれたことから、「国体」の語が一般に通用するとともに、水戸学流の国体観念が明治維新の原動力となる。 吉田松蔭は『講孟余話』を著して日本固有の国体を強調した。長州藩の老儒山県太崋がこれを批判し、両者の間で論争になった。後、吉田松蔭門下から明治政府の高官となった者が多く、吉田松蔭の国体観が明治国家に与えた影響は大きい。 水戸学の国体論とは別に大きな影響力を持ったものとして頼山陽『日本外史』がある。これは「国体」の語を用いていないが、尊皇思想を背景に南朝方武将の楠木氏や新田氏を忠臣として描写しており、幕末の志士の間で多くの愛読者を獲得した。 国学者平田篤胤は神国思想に基づく国体を論じた。篤胤は禁書であったキリスト教関係の書を参照して、「アメノミナカヌシノカミ」(天御中主神)を創造神に位置づけ、世界を「幽冥界」と「顕明界」とに分け、前者は「オオクニヌシノミコト」(大国主命)が、後者は「天皇」が統治する世界であると考えた。そして天皇を全世界(人類・生物・物質)の統治者として位置づけた(平田篤胤『霊能御柱』)。こうした平田国学は豪商豪農層に広い支持を獲得し、一部の武士階級にも尊皇・攘夷の思想を育んだ。この解釈は1880年に始まる神道事務局祭神論争での出雲派の敗北によって表面上は衰退したが、現在でも神道系の新興宗教の多くはこの解釈を奉じている。 なお、この頃の「国体」の語の用法にはブレがあり、例えば、国が鎖国から開国に転じることを「国体変革」と呼んでいる事例や、幕藩体制を「国体」と称している例がある。島崎藤村の『夜明け前』(第一部下12章5節)には松平容堂は薩長の態度を飽き足りないとして、「一新更始の道を慶喜に建白した(中略)。天下万民と共に公明正大の道理に帰り、皇国数百年の「国体」を一変して、王政復古の業を建つべき一大機会に到達したと力説した。」とある。これは「国体」の語を広く国家体制の意味で用いていることによる。 明治国家と帝国憲法 加藤弘之は『国体新論』を著して「人民を以て独り天皇の私有臣僕となすが如き」「従来称する国体」は「野鄙陋劣」であると批判し、「欧州の開明論」による「国家君民の権利義務」の理が「公明正大なる国体」であると主張した。これは明治政府の一部から強い批判を受けたため、加藤弘之は著書を自ら絶版するとともに、思想を転向し、社会進化論に基づき明治国家を擁護するようになる。 1876年、元老院に憲法起草を命じる勅語は「我が建国の体に基き広く海外各国の成法を斟酌して以て国憲を定めんとす」としており、「建国の体」即ち国体に基づいた憲法が要求された。これを受けて元老院が作成した憲法案は、伊藤博文に「各国の憲法を取り集めて焼き直ししただけであり、我が国体人情等に少しも注意したものとは察せられない」と反対され、廃案になった。 1881年(明治14年)10月12日に、次のような国会開設の勅諭が発された。 「朕、祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣ぎ、中古紐を解くの乾綱を振張し、大政の統一を総覧し、又、つとに立憲の政体を建て、後世子孫継ぐべきの業をなさんこと期す。さきに明治八年に元老院を設け、十一年に府県会を開かしむ。これ皆、漸次、基を創め、序に循て歩を進むるの道によるにあらざるはなし。なんじ有衆また朕が心を諒とせん。 顧みるに、立国の体、国おのおの宜しきを殊にす。非常の事業、実に軽挙に便ならず。わが祖わが宗、照臨して上に在り。遺烈を揚げ、洪模を弘め、古今を変通して、断じてこれを行う責め、朕が躬に在り。まさに明治二十三年を期し、議員を召し、国会を開き、もって朕が初志を成さんとす。今、在廷臣僚に命じ、仮すに時日をもってし、経画の責に当らしむ。その組織権限に至っては、朕、親ら衷を裁し、時に及んで公布する所あらんとす。 朕おもうに、人心進むに偏して、時会速なるを競う。浮言相動かし、ついに大計を遺る。これ宜しく今に及んで謨訓を明徴し、もって朝野臣民に公示すべし。もしなお故さらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害する者あらば、所するに国典をもってすべし。特にここに言明し、なんじ有衆に諭す。 奉勅 太政大臣 三条実美」 この勅諭においては「立国の体」即ち国体のそれぞれの国における固有性と、当時の国家一大事業として「立憲の政体を建て」る事の弁別が既に明確となっている。 憲法起草を命じられた伊藤博文は欧州で憲法調査を終えて帰国した後、1884年、閣議の席上で「憲法政治を施行すれば]、おのずから国体が変換する」と演説した。伊藤の部下であった金子堅太郎は伊藤を批判して「上に万世一系の天子が君臨するというこの国体にはなんらの変換もありませぬ。閣下は国体と政体との意味を取り違えておられる」と主張。伊藤は「国会を開いて政体を変えればこれも国体変換ではないか」と反駁したものの、これ以降国体変換を口にすることはなくなった。帝国憲法制定後、伊藤の私著の形で刊行された半公式注釈書『憲法義解』では「我が固有の国体は憲法によってますます鞏固なること」を謳った。 福澤諭吉『帝室論』 井上毅のシラス論 教育勅語における国体ノ精華 君主国体説 上杉慎吉は「天皇ノ主権者タルコトハ我ガ日本ノ国体ニシテ、人民ガ主権タルハアメリカ合衆国ノ国体ナリ」 上杉慎吉『帝国憲法』(1924年)大正13年度東京帝国大学講義 謄写版と述べている。 東京帝国大学で憲法学を教授していた筧克彦法学博士は、貞明皇后に「古神道及び国体学」に関し皇后宮にて進講。御進講録「神ながらの道」は皇后宮職より公刊。また昭和10年文部省開催の、憲法講習会の講演録「大日本帝國憲法の根本義」を文部省憲法教育資料中の1冊として上梓。同書には以下のようにある。 「皇国神ながらの御主人様。御親様の御威力と皇国大生命の力とは不二たることを貴き性質とする。」 「天皇様と国家とはもと二元的に相対立せる存在ではなく、神代ながらに不二である。 皇国は、天孫(皇孫)天降りによりて開かれ。開かれし当初より一生命、一徳、一統治権。」「引用は『大日本帝國憲法の根本義』皇学会、1936年。による。」 天孫降臨より皇国神ながらの御主人様つまり国家主体として、天皇がある事をあきらかにした同講演が文部省主催であったことで、国家公認の国体学の権威としての地位をかため、皇太后宮より著作が公刊されたことにもともない、帝国政府部内の国体説としては敗戦まで批判を許さなかった。 筧克彦参照。 家族国家論の流行 日清戦争の勝利や治外法権の撤廃などを背景に、欧米の論理に囚われない日本独自の国体論が新たな形で登場する。すなわち、日本の国民を先祖を同じくする一大家族に喩え、皇室を国民の本家に位置付ける家族国家論が流行しはじめる。憲法学者穂積八束は「我が日本固有の国体と国民道徳との基礎は祖先教に淵源す。祖先教とは先祖崇拝の大義を謂う。」「天祖は国民の始祖にして天皇は国民の宗家たり」(『国民教育 愛国心』1897年)と述べ、また、高山樗牛も「皇室は宗家にして国民は末族なり」(「我国体と新版図」『太陽』1897年)とした。井上哲次郎も「我国は其総合家族制度の究極のものにして、其家長が天皇なり。」(「我国体と家族制度」1911年)としている。 南北朝正閏問題南北朝正閏論参照。 大正デモクラシーと国体 美濃部上杉論争天皇機関説参照。 民本主義 民本主義の主唱者吉野作造は「君民同治を理想とする所の民本主義の政治は、…寧ろ国体観念を鞏固にするものである。」(「民主主義と国体問題」『大学評論』1917年)と述べ、憲法学者美濃部達吉は「政治上の意義に於ての民主主義は…毫も我が国体に抵触するものではなく、却って益々国体の尊貴を発揮する所以である。」(「近代政治の民主的傾向」『太陽』1918年)と主張した。明治期にはキリスト教を排撃していた井上哲次郎も、「日本の国体は万世一系の皇統を中心として来れるもの、日本は君主国にして民本主義を取れり、君主主義と民主主義との調和を保てるものにして其所に我国体の安全は存す」(『我国体と世界の趨勢』)と、民主主義に寄る姿勢を示した。 1921年、内務省神社局は『国体論史』を出版し、国体論の歴史を概観するとともに、「神話はその国民の理想、精神として最も尊重すべし。それは尊重すべきのみ、これを根拠として我が国体の尊厳を説かんと欲するは危し。先入主として、これらの『国造り説』と相容れざる進化学上の知識を注入せられおる国民はあるいはこれを信ずる事をえざるが故なり」とした。内務省神社局がこのような見解を示していたことは注目される。 内務省神社局局長であった水野錬太郎(内務大臣・文部大臣・神職会会長等も歴任。「天皇の政治利用」だと非難されて文部大臣辞任に追い込まれた。水野文相優諚問題参照。)は「日本の仏教は早くから国体精神と同一化し、儒教も、もとより国体精神と同一化してをり、そのほか外国の新文明新思想も国体精神と一致しつつあるもので、外来の思想を論難したり議論すべきでない」 『水野博士古稀記念 論策と随筆』水野博士古稀祝賀会事務所刊、1937年。と述べている。 昭和戦前期の国体を巡る言説 治安維持法 1922年、共産主義インターナショナルコミンテルンは日本の君主制廃止をテーゼに掲げた(日本共産党においてはこの22テーゼは草案段階に終わるが)。このような国体変革を狙った外国勢力主導の動きに対して、1925年公布の治安維持法は「国体の変革」を目的とした結社を禁止し、さらに1928年の法改正で最高刑が死刑に引き上げられた。治安維持法でいうところの「国体」は大審院判決によれば「我帝国は万世一系の天皇君臨し統治権を総覧し給ふことを以て其の国体と為し治安維持法に所謂国体の意義亦此の如くすへきものとす」(大判昭和4年5月31日刑集八巻317頁)とされた。治安維持法により共産主義が厳しく弾圧されるとともに、この頃から国体変革が言語タブーと化すようになる。 国体の名を借る政争 1927年、新たに結成された民政党が政綱に「議会中心的主義」と掲げたのに対し、翌年、その対立政党である政友会の鈴木喜三郎(当時内相)は「議会中心主義などという思想は、民主主義の潮流に棹さした英米流のものであって、わが国体とは相容れない」(大阪朝日新聞昭和3年2月20日)と批判。逆に、政友会内閣が締結したパリ不戦条約に「人民の名において」という文言があったのをとらえて、野党民政党はこれを国体に反するものとして論難した。大正デモクラシー的国体論とは逆の方向へと議会人自ら歩みだしたのである。 国体明徴運動 『原理日本』 天皇機関説排撃事件 国体明徴声明 文部省の思想問題対策 文部省は国民精神文化研究所を「我が国体、国民精神の原理を闡明にし、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関を設くる」ために設置(学生思想問題調査委員会答申、1932年5月)。 文部省『国体の本義』『臣民の道』 国体護持と国体変革 大東亜戦争終結ノ詔書終戦詔書「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」1945年8月14日 憲法改正審議における政府答弁「御誓文の精神、それが日本国の国体であります。」「日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであり、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体でなかったことは明瞭であります。」「日本においては他国におけるがごとき暴虐なる政治とか、あるいは民意を無視した政治の行われたことはないのであります。民の心を心とせられることが日本の国体であります。故に民主政治は新憲法によって初めて創立せられたのではなくして、従来国そのものにあつた事柄を単に再び違った文字で表わしたに過ぎないものであります。」(以上吉田茂)「日本の国体というものは先にも申しましたように、いわば憧れの中心として、天皇を基本としつつ国民が統合をしておるという所に根底があると考えます。その点におきまして毫末も国体は変らないのであります。」「稍々近き過去の日本の学術界の議論等におきましては、その時その時の情勢において現われておる或る原理を、直ちに国体の根本原理として論議しておった嫌いがあるのであります。私はその所に重きを置かないのであります。いわばそういうものは政体的な原理であると考えて居ります。根本におきまして我々の持っておる国体は毫も変らないのであって、例えば水は流れても川は流れないのである。」(以上金森徳次郎国務大臣、昭和21年6月25日衆議院本会議答弁) 尾高・宮沢論争 共産主義運動による天皇制反対の名による皇室制度・政体・国体への批判 共産主義インターナショナルコミンテルン1932年テーゼはドイツ語のMonarchieで我が国の政体を規定。君主制の転覆を指令した。日本共産党はこれを天皇制と翻訳。天皇制反対の主張を抱くも、戦前は、一般には天皇制反対の主張及び天皇制の語は普及しなかった。終戦と米軍を主力とする連合軍による占領により、日本共産党指導部は釈放された。それにともない、共産主義思想の影響下に、学術研究、言論、社会運動場裏における天皇制の語は一般化し。「天皇を中心とする国家体制」を否定的にとらえる論者の間では広く用いられる。 日本共産党及び同党の周辺知識人の主張によると、国体には「ほとんど同義」 『社会科学総合辞典』新日本出版社、1992年、189頁、「国体」の項。の語に天皇制がある。日本共産党、新日本出版社、参照。 2004年日本共産党は綱領を改定「現行、2009年現在」天皇制について、綱領では、「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではない。」「国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべきだ」という方針をうちだしている。「尚、wikipediaの天皇制の項目は政体のカテゴリーに分類されており、本項目、国体には、直接の関係をもたないが参考まで。」日本の場合は主に共産主義勢力から「天皇制ファシズム」と称されることがある 日本反帝同盟の研究-共産主義運動と平和運動『1930年代日本共産党史論』の第2章 田中真人『社会学小辞典』(有斐閣・1982年・増補版)の「天皇制ファシズム」の項には〈日本の場合、イタリアやドイツなどのような「下から」の運動による国家権力の掌握ではなく、天皇制国家権力自体が「上から」なし崩し的にファシズム化していったので、天皇制ファシズムと呼ばれる。〉とある。(天皇制ファシズム参照)。 平成の国体 国体の言語タブー化。本来の大和言葉、国柄(くにがら)への言換え。 国旗国歌法案の国会審議において、国歌の君が代の意味を質された政府は「国歌君が代の『君』は日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意に基づく天皇のことを指しており、君が代とは、日本国民の総意に基づき、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国のことであり、君が代の歌詞も、そうした我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解することが適当である」(平成11年6月29日衆議院本会議小渕総理)と答弁。 「天皇を中心とした神の国」発言。内閣総理大臣森喜朗は、2000年5月15日東京都内神道政治連盟国会議員懇談会の結成30周年記念祝賀会で「今、私は政府側におるわけでございますが、若干及び腰になる事をしっかりと前面に出して、日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知をして載く、その思いでですね、私達が活動して30年になったわけでございます。比較的私達の同期というのはしぶとくて、結構国会に残っておりますのは、神様を大事にしているから、ちゃんと当選させてもらえるんだなあと思っているわけでございます。」と発言した。 注 参考文献 概要、『国体の本義』文部省編纂内閣印刷局印刷発行、1937年5月31日。 概要、筧克彦述『神ながらの道』皇后宮職 、1925年6月 。(尚 書誌ID 000002065114 「国立国会図書館」所蔵を用いた 概要、中西旭主筆『世界観の確立』『尊皇の大義』台湾総督府国民精神研修所、1941年3月。 概要、verfassungの邦訳の解説として(国を治める)過程の語義が含まれるかについて、Template Cite book?1928,Auflage. 筧克彦述『大日本帝国憲法の根本義』文部省、1936年、( 憲法教育資料 )資料 ID 1120977508 「東京都立中央図書館」所蔵 関係項目 Template Wiktionary? 国体論争 皇国史観 神国思想 皇室 万世一系 筧克彦 筧泰彦 今泉定助 平泉澄 清水澄 里見岸雄 葦津珍彦 大石義雄 中川八洋 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月20日 (土) 11 17。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/1665.html
◇1.現在流通している「国体」の定義 【国体】 こく-たい広辞苑 ①[漢書(成帝紀)「通達国体」]国家の状態。くにがら。くにぶり。②[漢書(王莽伝上)「以明国体」]国家の体面。国の体裁。折りたく柴の木(中)「-にしかるべからず」③主権または統治権の所在により区別した国家体制。「-の護持」 【国体】 こく-たいブリタニカ国際大百科事典 一般的には国柄や国風を意味し、この用例は漢籍や古代日本にも見られる。しかし中国や西洋に対して日本の優越を示す根拠として、国生み神話に基づく天皇の神聖性とその君臨の持続性を内容とする意味で用いられるのは、19世紀以降 水戸学に始まる。維新以後も、一般の論説のほか、教育勅語や新聞紙条例、治安維持法などの法令にも国家体制の正当性を示す言葉として登場するが、意味内容は明確ではない。またその使用には論争性が当初から伴われ、福沢諭吉や加藤弘之ら明治初期の啓蒙思想家からの批判や、明治末期から大正期の穂積八束の憲法解釈に対する美濃部達吉の批判が代表的なものである。昭和初期には左翼勢力や美濃部の天皇機関説に代表されるリベラルへの弾圧の根拠としてその神話的解釈が一層強調され、その傾向は国体明徴や文部省の『国体の本義』に頂点をみる。敗戦および新憲法制定を通じて、統治の正当性根拠としての役割は終焉した。 補足説明 このように、「国体」は明治維新以降、日本国家の正統性を示す言葉として頻繁に用いられたが、その意味内容が必ずしも明確ではなかったため、昭和初期に美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説を巡って「国体明徴」問題(1935年)が起こり、その結果1937年になってようやく文部省よりその公定解釈を示す冊子『国体の本義』が刊行された。 ◇2.現在流通している『国体の本義』の説明 【国体の本義】 こくたい-の-ほんぎ広辞苑 1937年文部省が発行した国民教化のための出版物。記紀神話にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対的服従を説き、社会主義・共産主義・民主主義・個人主義・自由主義を排撃。 【国体の本義】 こくたいのほんぎブリタニカ国際大百科事典 文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。 補足説明 結論から先に言うと、上記の説明は、『国体の本義』の内容説明としては歪曲された完全に間違ったものである。但し、大東亜戦争開戦の僅か4ヶ月前の昭和16年(1941)8月に『国体の本義』の実践編・注解編との触れ込みで文部省教学局(文部省の外局)から刊行された『臣民の道』の内容説明と置き換えると、凡そ正しい説明になる。つまり、戦時体制下で刊行され戦争目的を肯定し国民の戦意を高揚させるための時局論的色彩の強い『臣民の道』の内容を、国体の公定解説書として刊行された『国体の本義』に故意に投影した説明となっているのだが、戦後長く『国体の本義』に関して、そして「国体」論自体に対して、こうした歪曲された内容説明が流通し続けてきた。 当ページは、 ① 昭和10年代に政府の公定「国体」解説書として刊行された2つの冊子『国体の本義』及び『臣民の道』の実際の内容を紹介し、その異同を解説する、と共に、 ② これらの異同の背景を為す政治的変動及び、それらを思想的に準備しあるいは理論づけた民間の国体論に関しても説明すること、更には ③ 『国体の本義』で示された思想評価と西洋保守思想の対応関係を確認すること、を目的とする。
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/286.html
◇1.現在流通している「国体」の定義 【国体】 こく-たい広辞苑 ①[漢書(成帝紀)「通達国体」]国家の状態。くにがら。くにぶり。②[漢書(王莽伝上)「以明国体」]国家の体面。国の体裁。折りたく柴の木(中)「-にしかるべからず」③主権または統治権の所在により区別した国家体制。「-の護持」 【国体】 こく-たいブリタニカ国際大百科事典 一般的には国柄や国風を意味し、この用例は漢籍や古代日本にも見られる。しかし中国や西洋に対して日本の優越を示す根拠として、国生み神話に基づく天皇の神聖性とその君臨の持続性を内容とする意味で用いられるのは、19世紀以降 水戸学に始まる。維新以後も、一般の論説のほか、教育勅語や新聞紙条例、治安維持法などの法令にも国家体制の正当性を示す言葉として登場するが、意味内容は明確ではない。またその使用には論争性が当初から伴われ、福沢諭吉や加藤弘之ら明治初期の啓蒙思想家からの批判や、明治末期から大正期の穂積八束の憲法解釈に対する美濃部達吉の批判が代表的なものである。昭和初期には左翼勢力や美濃部の天皇機関説に代表されるリベラルへの弾圧の根拠としてその神話的解釈が一層強調され、その傾向は国体明徴や文部省の『国体の本義』に頂点をみる。敗戦および新憲法制定を通じて、統治の正当性根拠としての役割は終焉した。 補足説明 このように、「国体」は明治維新以降、日本国家の正統性を示す言葉として頻繁に用いられたが、その意味内容が必ずしも明確ではなかったため、昭和初期に美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説を巡って「国体明徴」問題(1935年)が起こり、その結果1937年になってようやく文部省よりその公定解釈を示す冊子『国体の本義』が刊行された。 ◇2.現在流通している『国体の本義』の説明 【国体の本義】 こくたい-の-ほんぎ広辞苑 1937年文部省が発行した国民教化のための出版物。記紀神話にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対的服従を説き、社会主義・共産主義・民主主義・個人主義・自由主義を排撃。 【国体の本義】 こくたいのほんぎブリタニカ国際大百科事典 文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。 補足説明 結論から先に言うと、上記の説明は、『国体の本義』の内容説明としては歪曲された完全に間違ったものである。但し、大東亜戦争開戦の僅か4ヶ月前の昭和16年(1941)8月に『国体の本義』の実践編・注解編との触れ込みで文部省教学局(文部省の外局)から刊行された『臣民の道』の内容説明と置き換えると、凡そ正しい説明になる。つまり、戦時体制下で刊行され戦争目的を肯定し国民の戦意を高揚させるための時局論的色彩の強い『臣民の道』の内容を、国体の公定解説書として刊行された『国体の本義』に故意に投影した説明となっているのだが、戦後長く『国体の本義』に関して、そして「国体」論自体に対して、こうした歪曲された内容説明が流通し続けてきた。 当ページは、 ① 昭和10年代に政府の公定「国体」解説書として刊行された2つの冊子『国体の本義』及び『臣民の道』の実際の内容を紹介し、その異同を解説する、と共に、 ② これらの異同の背景を為す政治的変動及び、それらを思想的に準備しあるいは理論づけた民間の国体論に関しても説明すること、更には ③ 『国体の本義』で示された思想評価と西洋保守思想の対応関係を確認すること、を目的とする。
https://w.atwiki.jp/kbt16s/pages/67.html
◇1.現在流通している「国体」の定義 【国体】こく-たい広辞苑 ①[漢書(成帝紀)「通達国体」]国家の状態。くにがら。くにぶり。②[漢書(王莽伝上)「以明国体」]国家の体面。国の体裁。折りたく柴の木(中)「-にしかるべからず」③主権または統治権の所在により区別した国家体制。「-の護持」 【国体】こく-たいブリタニカ国際大百科事典 一般的には国柄や国風を意味し、この用例は漢籍や古代日本にも見られる。しかし中国や西洋に対して日本の優越を示す根拠として、国生み神話に基づく天皇の神聖性とその君臨の持続性を内容とする意味で用いられるのは、19世紀以降 水戸学に始まる。維新以後も、一般の論説のほか、教育勅語や新聞紙条例、治安維持法などの法令にも国家体制の正当性を示す言葉として登場するが、意味内容は明確ではない。またその使用には論争性が当初から伴われ、福沢諭吉や加藤弘之ら明治初期の啓蒙思想家からの批判や、明治末期から大正期の穂積八束の憲法解釈に対する美濃部達吉の批判が代表的なものである。昭和初期には左翼勢力や美濃部の天皇機関説に代表されるリベラルへの弾圧の根拠としてその神話的解釈が一層強調され、その傾向は国体明徴や文部省の『国体の本義』に頂点をみる。敗戦および新憲法制定を通じて、統治の正当性根拠としての役割は終焉した。 補足説明 このように、「国体」は明治維新以降、日本国家の正統性を示す言葉として頻繁に用いられたが、その意味内容が必ずしも明確ではなかったため、昭和初期に美濃部達吉(憲法学者)の天皇機関説を巡って「国体明徴」問題(1935年)が起こり、その結果1937年になってようやく文部省よりその公定解釈を示す冊子『国体の本義』が刊行された。 ◇2.現在流通している『国体の本義』の説明 【国体の本義】こくたい-の-ほんぎ広辞苑 1937年文部省が発行した国民教化のための出版物。記紀神話にもとづき国体の尊厳、天皇への絶対的服従を説き、社会主義・共産主義・民主主義・個人主義・自由主義を排撃。 【国体の本義】こくたいのほんぎブリタニカ国際大百科事典 文部省編。1937年5月刊行。35年頃から高まった「国体明徴」「教学刷新」の意義を明らかにし、その精神を国民に徹底させることを企図した。神話と古典に依拠して、国史の諸過程を「肇国の精神の顕現」としてとらえるとともに、西洋近代思想を激しく排撃している。45年占領軍により『臣民の道』とともに発売禁止となったが、49年にはアメリカでJ.ガントレットの英訳が刊行され、今日にいたるまで研究材料とされている。 補足説明 結論から先に言うと、上記の説明は、『国体の本義』の内容説明としては歪曲された完全に間違ったものである。但し、大東亜戦争開戦の僅か4ヶ月前の昭和16年(1941)8月に『国体の本義』の実践編・注解編との触れ込みで文部省教学局(文部省の外局)から刊行された『臣民の道』の内容説明と置き換えると、凡そ正しい説明になる。つまり、戦時体制下で刊行され戦争目的を肯定し国民の戦意を高揚させるための時局論的色彩の強い『臣民の道』の内容を、国体の公定解説書として刊行された『国体の本義』に故意に投影した説明となっているのだが、戦後長く『国体の本義』に関して、そして「国体」論自体に対して、こうした歪曲された内容説明が流通し続けてきた。 当ページは、 ① 昭和10年代に政府の公定「国体」解説書として刊行された2つの冊子『国体の本義』及び『臣民の道』の実際の内容を紹介し、その異同を解説する、と共に、 ② これらの異同の背景を為す政治的変動及び、それらを思想的に準備しあるいは理論づけた民間の国体論に関しても説明すること、更には ③ 『国体の本義』で示された思想評価と西洋保守思想の対応関係を確認すること、を目的とする。
https://w.atwiki.jp/tokaiindex/pages/76.html
わかしゃちこくたい【若鯱国体】 若鯱国体とは、わかしゃち国体の誤記。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/467.html
国体明徴声明(こくたいめいちょうせいめい)とは、1935年(昭和10年)の天皇機関説事件の中で、美濃部達吉の天皇機関説を排撃することで政治的主導権を握ろうとした立憲政友会・軍部・右翼諸団体が時の岡田内閣に迫って出させた政府声明。天皇機関説が天皇を統治機構の一機関としているのに対し、天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家であると宣言した。 国体明徴運動の経緯 そもそも大正期半ばから昭和初期にかけて、天皇機関説は国家公認の憲法学説であり、昭和天皇が天皇機関説を当然のものとして受け入れていたことはよく知られている。しかし、軍部ファシズムの台頭と共に起こった国体明徴運動の中で、天皇機関説は国体に反する学説として排撃を受け始めた。 1935年2月19日、貴族院本会議の演説において菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難した。この演説を引き金に軍部・右翼による機関説排撃が始まり、美濃部が「一身上の弁明」として天皇機関説を平易に解説する釈明演説(2月25日貴族院本会議)を行うも、美濃部の著書は発禁となった(『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』)。さらに政友会・軍部・右翼は国体明徴運動を政治利用、各地の在郷軍人会を中心とする機関説排撃運動が全国的に展開されたため、岡田内閣はその対応策として1935年8月3日「国体明徴に関する政府声明」を発し、天皇機関説は国体の本義に反するとした(第1次国体明徴声明)。 これを受けて軍部・右翼は運動の中止を指示、猛威を振るった運動は終息するかに見えた。美濃部も1935年9月18日、貴族院議員を辞するに至るが、辞職に際して出された美濃部の声明が軍部・右翼の猛反発を招き、紛議が再燃。軍部・右翼は国体明徴の徹底を岡田首相に迫り、1935年10月15日、政府は再び「国体明徴に関する政府声明」を発した(第2次国体明徴声明)。第2次声明では、「機関説は国体の本義に反する」とするに留まっていた第1次声明よりさらに進んで、「機関説は芟除(さんじょ)されるべし」とされた。芟除とは「取り除く、摘み取る」という意味である。 以上のような一連の天皇機関説排斥運動に関して注意すべき点は、これが学術論争といった類のものではなく、政争の道具にされた点である。つまり政友会による岡田内閣倒閣運動に使われたばかりか、軍部による政治的主導権奪取の手段として利用されたのである。2度にわたる政府声明を以って事態は一応の沈静化を見たが、これにより明治憲法下における立憲主義の統治理念は公然と否定されることとなった。 国体明徴声明全文 Template quotation? Template quotation? 参考文献 国体明徴ニ関スル再声明ヲ通牒ス(国立公文書館 公文類聚・第五十九編・昭和十年・第二巻・政綱二・地方自治二(台湾・統計調査)・雑載) アジア歴史資料センター レファレンスコード:A01200686500 国体明徴問題に関する件 (陸軍省昭和11年密大日記第2冊) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C01004163700 第3185号 10・7・25 国体明徴問題に関する件(海軍省公文備考 昭和10年 P 会議 巻1) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C05034588200 p1~p10 関連項目 天皇機関説 - 天皇機関説事件 美濃部達吉 国体論争 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月17日 (水) 07 29。
https://w.atwiki.jp/tokaiindex/pages/75.html
わかしゃちこくたい【わかしゃち国体】 わかしゃち国体とは、1994年(平成6年)に愛知県で開催された第49回国民体育大会(国体)のこと。 関連リンク わかしゃち国体 - Wikipedia
https://w.atwiki.jp/iwakyugroup/pages/152.html
希望郷 いわて国体の開催にともない、各線で運行本線を増やしています。 上記のとおりです。増発のほか、通常の列車も停車駅や区間の変更をしております。 〈国体快速〉 盛岡〜本郷間 岩急本線盛岡駅から、国体開会式・閉会式等の会場となる北上運動公園の最寄り・本郷線本郷駅までを最速49分で結びます。通勤型車を使用した全車自由席・7両編成で、停車駅は盛岡から土舘までの各駅と、岩急花巻・岩急北上・本郷です。 ○新水沢〜競馬場前〜水沢江刺間 岩急本線新水沢駅から、馬術競技の会場となる水沢競馬場の最寄り・競馬場前駅と、北海道・東北新幹線の接続駅である水沢江刺との間を結びます。通勤型車を使用した全車自由席・5両〜7両編成で、停車駅は新水沢・競馬場前・水沢江刺です。 〈急行の増発列車〉 ○電鉄好摩〜本郷間急行ひめかみ号 岩急本線電鉄好摩駅から、国体開会式・閉会式等の会場となる北上運動公園の最寄り駅・本郷線本郷駅との間を結びます。通常ダイヤでは電鉄好摩〜岩急花巻間のみの運行ですが、このほど岩急北上・本郷方面へ区間を延長しての運転となります。編成等詳しい列車の情報はこちら。 〈特急の増発列車〉 ○電鉄好摩〜仙台特急南部号・伊達号 岩急本線電鉄好摩駅から、沿線の国体の主な競技の会場が集中、又は近い駅に特別停車します。編成等詳しい列車の情報はこちら。 ○盛岡〜日頃市・新大船渡特急つばき号 岩急本線盛岡駅から、沿線の国体の主な競技の会場が集中、又は近い駅に特別停車します。編成等詳しい列車の情報はこちら。 ◆国体の各会場までは便利で快適な岩急電車をご利用ください。◆ トップへ
https://w.atwiki.jp/oriontv/pages/397.html
2016岩手国体関連まとめ 2016国体事前大会・番組 放送日 内 容 キャスター 5/24 県高校総体総合開会式(生中継) 斉藤 晃 5/26~ 高校総体ダイジェスト2016 斉藤 晃松本伸輔西田 学鎌田智恵平田優香林あづさ橋本奈央子 2016国体中継及びダイジェスト 開催日 内 容 実 況 10/2 サッカー少年男子 松本伸輔 10/3 サッカー成年男子 斉藤 晃 10/4 サッカー成年男子 沢田光治(TSD) 10/5 サッカー女子 斉藤 晃 サッカー成年男子 沢田光治(TSD) 10/6 サッカー成年男子 斉藤 晃 サッカー少年男子 笹沼英士(TSD) 10/7 バスケットボール 西田 学 10/8 永井 俊(TAP)西田 学 10/9 バスケットボール少年男子 西田 学 10/10 バスケットボール男子決勝 沢田光治(TSD) 2016冬季国体及び事前大会 開催日 内 容 実 況 1/19 インターハイアイスホッケー盛岡中央VS十勝江陵 斉藤 晃 1/20 インターハイスピードスケート 清水和幸岡島美咲 インターハイアイスホッケー 和泉智之(TAP) 1/21 インターハイスピードスケート 清水和幸村瀬由衣(TNG) インターハイアイスホッケー日光明峰VS八戸工大一 和泉智之(TAP) インターハイアイスホッケー準決勝 駒大苫小牧VS八戸工大一 山下 裕?(HNB) 1/22 インターハイアイスホッケー決勝 斉藤 晃 インターハイスピードスケート 津野田和明(NAT) インターハイフィギュア男子決勝 久保田修二(TNG) 1/23 インターハイフィギュア女子決勝 村瀬由衣(TNG) インターハイスピードスケート 清水和幸岡島美咲 1/27 国体アイスホッケー(成年)岩手県VS石川県 斉藤 晃 1/28 国体アイスホッケー(少年)福岡県VS岩手県 斉藤 晃 国体アイスホッケー(成年) 稲垣和希(TNK) 1/29 国体アイスホッケー 和泉智之(TAP)稲垣和希(TNK) 国体スピードスケート 清水和幸椎名 勤(DWT) 1/30 国体アイスホッケー準決勝 斉藤 晃 国体スピードスケート 清水和幸柴田 篤 1/31 国体アイスホッケー決勝 和泉智之(TAP) 国体スピードスケート 椎名 勤(DWT) 2/4 インターハイアルペン 梨田 信(TAP) 2/6 インターハイノルディック 津野田和明(NAT) 2/21 国体アルペンスキー 清水和幸松本英和(HNB) 国体スキージャンプ 村中恭央(TNK) 国体スキークロスカントリー 久保田修二(TNG) 2/22 国体ノルディック複合 清水和幸津野田和明(NAT) 国体アルペンスキー 松本英和(HNB) 2/23 国体アルペンスキー 松本英和(HNB)北川 実(MKN) 国体クロスカントリーリレー 清水和幸
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/288.html
◇1.目次 国 体 の 本 義 一、本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した。 一、我が国体は宏大深遠であつて、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことを懼れる。 一、本書に於ける古事記、日本書紀の引用文は、主として古訓古事記、日本書紀通釈の訓に従ひ、又神々の御名は主として日本書紀によつた。 目 次 緒言(1) ※数字は何ページ目を示す 第一 大日本国体(9) 一、肇国(9) 二、聖徳(21) 三、臣節(32) 四、和と「まこと」(50) 第二 国史に於ける国体の顕現(63) 一、国史を一貫する精神(63) 二、国土と国民生活(85) 三、国民性(91) 四、祭祀と道徳(101) 五、国民文化(114) 六、政治・経済・軍事(126) 結語(143) ◇2.緒言 ↓本文はここをクリックして表示 +... 現代日本と思想問題 我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途弥々多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によつて諸種の文物は顕著な発達を遂げた。文物・制度の整備せる、学術の一大進歩をなせる、思想・文化の多彩を極むる、万葉歌人をして今日にあらしめば、再び「御民(みたみ)吾(われ)生ける験(しるし)あり天地(あめつち)の栄ゆる時にあへらく念(おも)へば」と謳ふであらう。明治維新の鴻業により、旧来の陋習を破り、封建的束縛を去つて、国民はよくその志を途げ、その分を竭くし、爾来七十年、以て今日の盛事を見るに至つた。 併しながらこの盛事は、静かにこれを省みるに、実に安穏平静のそれに非ずして、内に外に波瀾万丈、発展の前途に幾多の困難を蔵し、隆盛の内面に混乱をつつんでゐる。即ち国体の本義は、動もすれば透徹せず、学問・教育・政治・経済その他国民生活の各方面に幾多の欠陥を有し、伸びんとする力と混乱の因とは錯綜表裏し、燦然たる文化は内に薫蕕(くんいう)を併せつゝみ、こゝに種々の困難な問題を生じてゐる。今や我が国は、一大躍進をなさんとするに際して、生彩と陰影相共に現れた感がある。併しながら、これ飽くまで発展の機であり、進歩の時である。我等は、よく現下内外の真相を把握し、拠つて進むべき道を明らかにすると共に、奮起して難局の打開に任じ、弥々国運の伸展に貢献するところがなければならぬ。 現今我が国の思想上・社会上の諸弊は、明治以降余りにも急激に多種多様な欧米の文物・制度・学術を輸入したために、動もすれば、本を忘れて末に趨り、厳正な批判を欠き、徹底した醇化をなし得なかつた結果である。抑々我が国に輸入せられた西洋思想は、主として十八世紀以来の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等とを主張すると共に、他面に於て国家や民放を超越した抽象的な世界性を尊重するものである。従つてそこには歴史的全体より孤立して、抽象化せられた個々独立の人間とその集合とが重視せられる。かゝる世界観・人生観を基とする政治学説・社会学説・道徳学説・教育学説等が、一方に於て我が国の諸種の改革に貢献すると共に、他方に於て深く広くその影響を我が国本来の思想・文化に与へた。 我国の啓蒙運動に於ては、先づ仏蘭西啓蒙期の政治哲学たる自由民権思想を始め、英米の議会政治思想や実利主義・功利主義、独逸の国権思想等が輸入せられ、固陋な慣習や制度の改廃にその力を発揮した。かゝる運動は、文明開化の名の下に広く時代の風潮をなし、政治・経済・思想・風習等を動かし、所謂欧化主義時代を現出した。然るにこれに対して伝統復帰の運動が起つた。それは国粋保存の名によつて行はれたもので、澎湃たる西洋文化の輸入の潮流に抗した国民的自覚の現れであつた。蓋し極端な欧化は、我が国の伝統を傷つけ、歴史の内面を流れる国民的精神を萎靡せしめる惧れがあつたからである。かくて欧化主義と国粋保存主義との対立を来し、思想は昏迷に陥り、国民は、内、伝統に従ふべきか、外、新思想に就くべきかに悩んだ。然るに、明治二十三年「教育ニ関スル勅語」の渙発せられるに至つて、国民は皇祖皇宗の肇国樹徳の聖業とその履践すべき大道とを覚り、こゝに進むべき確たる方向を見出した。然るに欧米文化輸入のいきほひの依然として盛んなために、この国体に基づく大道の明示せられたにも拘らず、未だ消化せられない西洋思想は、その後も依然として流行を極めた。即ち西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、又続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた。 国体の自覚 抑々社会主義・無政府主義・共産主義等の詭激なる思想は、究極に於てはすべて西洋近代思想の根柢をなす個人主義に基づくものであつて、その発現の種々相たるに過ぎない。個人主義を本とする欧米に於ても、共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの擡頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る。久しく個人主義の下にその社会・国家を発達せしめた欧米が、今日の行詰りを如何に打開するかの問題は暫く措き、我が国に関する限り、真に我が国独自の立場に還り、万古不易の国体を闡明し、一切の追随を排して、よく本来の姿を現前せしめ、而も固陋を棄てて益々欧米文化の摂取醇化に努め、本を立てて末を生かし、聡明にして宏量なる新日本を建設すべきである。即ち今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱は、我等国民がよく西洋思想の本質を徹見すると共に、真に我が国体の本義を体得することによつてのみ解決せられる。而してこのことは、独り我が国のためのみならず、今や個人主義の行詰りに於てその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。こゝに我等の重大なる世界史的使命がある。乃ち「国体の本義」を編纂して、肇国の由来を詳にし、その大精神を闡明すると共に、国体の国史に顕現する姿を明示し、進んでこれを今の世に説き及ぼし、以て国民の自覚と努力とを促す所以である。 ◇3.第一 大日本国体 ※省略 ◇4.第二 国史に於ける国体の顕現 ※省略 ◇5.結語 ↓本文はここをクリックして表示 +... 我等は、以上我が国体の本義とその国史に顕現する姿とを考察して来た。今や我等皇国臣民は、現下の諸問題に対して如何なる覚悟と態度とをもつべきであらうか。惟ふに、先づ努むべきは、国体の本義に基づいて諸問題の起因をなす外来文化を醇化し、新日本文化を創造するの事業である。 我が国に輸入せられた各種の外来思想は、支那・印度・欧米の民族性や歴史性に由来する点に於て、それらの国々に於ては当然のものであつたにしても、特殊な国体をもつ我が国に於ては、それが我が国体に適するか否かが先づ厳正に批判検討せられねばならぬ。即ちこの自覚とそれに伴ふ醇化とによつて、始めて我が国として特色ある新文化の創造が期し得られる。 西洋思想の特質 抑々西洋思想は、その源をギリシヤ思想に発してゐる。ギリシヤ思想は、主知的精神を基調とするものであり、合理的・客観的・観想的なることを特徴とする。そこには、都市を中心として文化が創造せられ、人類史上稀に見る哲学・芸術等を遺したのであるが、末期に至つてはその思想及び生活に於て、漸次に個人主義的傾向を生じた。而してローマは、このギリシヤ思想を法律・政治その他の実際的方面に継承し発展せしめると同時に、超国家的なキリスト教を採用した。欧米諸国の近世思想は、一面にはギリシヤ思想を復活し、中世期の宗教的圧迫と封建的専制とに反抗し、個人の解放、その自由の獲得を主張し、天国を地上に将来せんとする意図に発足したものであり、他面には、中世期の超国家的な普遍性と真理性とを尊重する思想を継承し、而もこれを地上の実証に求めんとするところから出発した。これがため自然科学を発達せしめると共に、教育・学問・政治・経済等の各方面に於て、個人主義・自由主義・合理主義を主流として、そこに世界史的に特色ある近代文化の著しい発展を齎した。 抑々人間は現実的の存在であると共に永遠なるものに連なる歴史的存在である。又、我であると同時に同胞たる存在である。即ち国民精神により歴史に基づいてその存在が規定せられる。これが人間存在の根本性格である。この具体的な国民としての存在を失はず、そのまゝ個人として存在するところに深い意義が見出される。然るに、個人主義的な人間解釈は、個人たる一面のみを抽象して、その国民性と歴史性とを無視する。従つて全体性・具体性を失ひ、人間存立の真実を逸脱し、その理論は現実より遊離して、種々の誤つた傾向に趨る。こゝに個人主義・自由主義乃至その発展たる種々の思想の根本的なる過誤がある。今や西洋諸国に於ては、この誤謬を自覚し、而してこれを超克するために種々の思想や運動が起つた。併しながら、これらも畢竟個人の単なる集合を以て団体或は階級とするか、乃至は抽象的の国家を観念するに終るのであつて、かくの如きは誤謬に代ふるに誤謬を以てするに止まり、決して真実の打開解決ではない。 東洋思想の特質 我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。老荘は、人為を捨てて自然に帰り、無為を以て化する境涯を理想とし、結局その道は文化を否定する抽象的のものとなり、具体的な歴史的基礎の上に立たずして個人主義に陥つた。その末流は所謂竹林の七賢の如く、世間を離れて孤独を守らうとする傾向を示し、清談独善の徒となつた。要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。 印度に於ける仏教は、行的・直観的な方面もあるが、観想的・非現実的な民族性から創造せられたものであつて、冥想的・非歴史的・超国家的なものである。然るに我が国に摂取せられるに及んでは、国民精神に醇化せられ、現実的・具体的な性格を得て、国本培養に貢献するところが多かつたのである。 新日本文化の創造 これを要するに、西洋の学問や思想の長所が分析的・知的であるに対して、東洋の学問・思想は、直観的・行的なることを特色とする。それは民族と歴史との相違から起る必然的傾向であるが、これを我が国の精神・思想並びに生活と比較する時は、尚そこに大なる根本的の差異を認めざるを得ない。我が国は、従来支那思想・印度思想等を輸入し、よくこれを摂取醇化して皇道の羽翼とし、国体に基づく独自の文化を建設し得たのである。明治維新以来、西洋文化は滔々として流入し、著しく我が国運の隆昌に貢献するところがあつたが、その個人主義的性格は、我が国民生活の各方面に亙つて種々の弊害を醸し、思想の動揺を生ずるに至つた。併しながら、今やこの西洋思想を我が国体に基づいて醇化し、以て宏大なる新日本文化を建設し、これを契機として国家的大発展をなすべき時に際会してゐる。 西洋文化の摂取醇化に当つては、先づ西洋の文物・思想の本質を究明することを必要とする。これなくしては、国体の明徴は現実を離れた抽象的のものとなるであらう。西洋近代文化の顕著なる特色は、実証性を基とする自然科学及びその結果たる物質文化の華かな発達にある。更に精神科学の方面に於ても、その精密性と論理的組織性とが見られ、特色ある文化を形成してゐる。我が国は益々これらの諸学を輸入して、文化の向上、国家の発展を期せねばならぬ。併しながらこれらの学的体系・方法及び技術は、西洋に於ける民族・歴史・風土の特性より来る西洋独自の人生観・世界観によつて裏附けられてゐる。それ故に、我が国にこれを輸入するに際しては、十分この点に留意し、深くその本質を徹見し、透徹した見識の下によくその長所を採用し短所を捨てなければならぬ。 諸般の刷新 明治以来の我が国の傾向を見るに、或は伝統精神を棄てて全く西洋思想に没入したものがあり、或は歴史的な信念を維持しながら、而も西洋の学術理論に関して十分な批判を加へず、そのまゝこれを踏襲して二元的な思想に陥り、而もこれを意識せざるものがある。又著しく西洋思想の影響を受けた知識階級と、一般のものとは相当な思想的懸隔を来してゐる。かくて、かゝる情態から種々の困難な問題が発生した。嘗て流行した共産主義運動、或は最近に於ける天皇機関説の問題の如きが、往々にして一部の学者・知識階級の問題であつた如きは、よくこの間の消息を物語つてゐる。今や共産主義は衰頽し、機関説が打破せられたやうに見えても、それはまだ決して根本的に解決せられてはゐない。各方面に於ける西洋思想の本質の究明とその国体による醇化とが、今一段の進展を見ざる限り、真の成果を挙げる事は困難であらう。 惟ふに西洋の思想・学問について、一般に極端なるもの、例へば共産主義・無政府主義の如きは、何人も容易に我が国体と相容れぬものであることに気づくのであるが、極端ならざるもの、例へば民主主義・自由主義等については、果してそれが我が国体と合致するや否やについては多くの注意を払はない。抑々如何にして近代西洋思想が民主主義・社会主義・共産主義・無政府主義等を生んだかを考察するに、先に述べた如く、そこにはすべての思想の基礎となつてゐる歴史的背景があり、而もその根柢には個人主義的人生観があることを知るのである。西洋近代文化の根本性格は、個人を以て絶対独立自存の存在とし、一切の文化はこの個人の充実に存し、個人が一切価値の創造者・決定者であるとするところにある。従つて個人の主観的思考を重んじ、個人の脳裡に描くところの観念によつてのみ国家を考へ、諸般の制度を企画し、理論を構成せんとする。かくして作られた西洋の国家学説・政治思想は、多くは、国家を以て、個人を生み、個人を超えた主体的な存在とせず、個人の利益保護、幸福増進の手段と考へ、自由・平等・独立の個人を中心とする生活原理の表現となつた。従つて、恣な自由解放のみを求め、奉仕といふ道徳的自由を忘れた謬れる自由主義や民主主義が発生した。而してこの個人主義とこれに伴ふ抽象的思想の発展するところ、必然に具体的・歴史的な国家生活は抽象的論理の蔭に見失はれ、いづれの国家も国民も一様に国家一般乃至人間一般として考へられ、具体的な各国家及びその特性よりも、寧ろ世界一体の国際社会、世界全体に通ずる普遍的理論の如きものが重んぜられ、遂には国際法が国法よりも高次の規範であり、高き価値をもち、国法は寧ろこれに従属するものとするが如き誤つた考すら発生するに至るのである。 個人の自由なる営利活動の結果に対して、国家の繁栄を期待するところに、西洋に於ける近代自由主義経済の濫觴がある。西洋に発達した近代の産業組織が我が国に輸入せられた場合も、国利民福といふ精神が強く人心を支配してゐた間は、個人の溌剌たる自由活動は著しく国富の増進に寄与し得たのであるけれども、その後、個人主義・自由主義思想の普及と共に、漸く経済運営に於て利己主義が公然正当化せられるが如き傾向を馴致するに至つた。この傾向は貧富の懸隔の問題を発生せしめ、遂に階級的対立闘争の思想を生ぜしめる原因となつたが、更に共産主義の侵入するや、経済を以て政治・道徳その他百般の文化の根本と見ると共に、階級闘争を通じてのみ理想的社会を実現し得ると考ふるが如き妄想を生ぜしめた。利己主義や階級闘争が我が国体に反することは説くまでもない。皇運扶翼の精神の下に、国民各々が進んで生業に競ひ励み、各人の活動が統一せられ、秩序づけられるところに於てこそ、国利と民福とは一如となつて、健全なる国民経済が進展し得るのである。 教育についても亦同様である。明治維新以後、我が国は進歩した欧米諸国の教育を参酌して、教育制度・教授内容等の整備に努め、又自然科学はもとより精神諸科学の方面に於ても大いに西洋の学術を輸入し、以て我が国学問の進歩と国民教育の普及とを図つて来た。五箇条の御誓文を奉体して旧来の陋習を破り、智識を世界に求めた進取の精神は、この方面にも亦長足の進歩を促し、その成果は極めて大なるものがあつた。併しそれと同時に個人主義思想の浸潤によつて、学問も教育も動もすれば普遍的真理といふが如き、抽象的なもののみを目標として、理智のみの世界、歴史と具体的生活とを離れた世界に趨らんとし、智育も徳育も知らず識らず抽象化せられた人間の自由、個人の完成を目的とする傾向を生ずるに至つた。それと同時に又それらの学問・教育が、分化し専門化して漸く綜合統一を欠き、具体性を失ふに至つた。この傾向を是正するには、我が国教育の淵源たる国体の真義を明らかにし、個人主義思想と抽象的思考との清算に努力するの外はない。 かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。 併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。 我等の使命 今や我が国民の使命は、国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある。我が国は夙に支那・印度の文化を輸入し、而もよく独自な創造と発展とをなし遂げた。これ正に我が国体の深遠宏大の致すところであつて、これを承け継ぐ国民の歴史的使命はまことに重大である。現下国体明徴の声は極めて高いのであるが、それは必ず西洋の思想・文化の醇化を契機としてなさるべきであつて、これなくしては国体の明徴は現実と遊離する抽象的のものとなり易い。即ち西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある。 世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。