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唐書巻一百二十一 列伝第四十六 劉幽求 鍾紹京 崔日用 日知 王琚 張暐 王毛仲 李守徳 陳玄礼 劉幽求、冀州武彊人。聖暦中、舉制科中第。調閬中尉、刺史不礼、棄官去。久之、授朝邑尉。桓彦範等誅張易之、昌宗、而不殺武三思、幽求謂彦範曰:「公等無葬地矣。不早計、後且噬臍。」不從。既、五王皆為三思構死。 臨淄王入誅韋庶人、預参大策、是夜號令詔敕一出其手。以功授中書舎人、参知機務、爵中山県男、實封二百戸、授二子五品官、二代倶贈刺史。睿宗立、進尚書右丞、徐国公、增封戸至五百、賜物千段、奴婢二十人、第一區、良田千畝、金銀雜物稱是。 景雲二年、以戸部尚書罷政事。不旬月、遷吏部、拜侍中。璽詔曰:「頃王室不造、中宗厭代、戚孽專亂、将隕社稷、朕與王公皆幾于難。幽求處危思奮、翊賛聖儲、協和義士、震殄元惡。国家之復存、繄幽求是賴、厥庸茂焉、朕用嘉之。雖胙以土宇、而賦入未広。昔西漢行封、更擇多戸。東京定賞、復增大邑。宜加賜實封二百戸、子子孫孫伝国無絶、特免十死、銘諸鉄券、以伝其功。」先天元年、為尚書右僕射、同中書門下三品、監脩国史。 幽求自謂有勞于国、在諸臣右、意望未滿、而竇懐貞為左僕射、崔湜為中書令、殊不平、見於言面。已而湜等附太平公主、有逆計。幽求與右羽林将軍張暐定計、使暐説玄宗曰:「湜等皆太平黨與、日夜陰計、若不早圖、且産大害、太上不得高枕矣。臣請督羽林兵除之。」帝許之。未發也、而暐漏言於侍御史鄧光賓、帝懼、即列其状。睿宗以幽求等屬吏、劾奏以疎間親、罪應死。帝密申右之、乃流幽求於封州、暐於峯州、光賓於繡州。明年、太平公主誅、即日召復舊官、知軍国事、還封戸、賜錦衣一襲。 開元初、進尚書左丞相、兼黄門監、俄以太子少保罷。姚崇素忌之、奏幽求鬱怏散職、有怨言。詔有司鞫治、宰相盧懐慎等奏言:「幽求輕肆不恭、失大臣體、乖崖分之節。」翌日、貶睦州刺史、削實封戸六百。遷杭、郴二州、恚憤卒于道、年六十一。贈礼部尚書、謚曰文献。六年、詔與蘇配享睿宗廟廷。建中中、追贈司徒。 鍾紹京、虔州贛人。初為司農録事、以善書直鳳閣。武后時署諸宮殿、明堂及銘九鼎、皆其筆也。景龍中、為苑総監、會討韋氏難、紹京帥戸奴、丁夫從。事平、夜拜中書侍郎、参知機務。明日、進中書令、越国公、實封五百戸、賚賜與劉幽求等。既當路、以賞罰自肆、當時惡之。因上疏讓官、睿宗用薛稷謀、進戸部尚書、出為彭州刺史。 玄宗即位、復拜戸部尚書、增實封、改太子詹事。不為姚崇所喜、與幽求並以怨望得罪、貶果州刺史、賜封邑百戸。後坐它事、貶懐恩尉、悉奪階封、再遷温州別駕。十五年入朝、見帝泣曰:「陛下忘疇日事邪、忍使棄死草莽!且同時立功者、今骨已朽、而獨臣在、陛下不垂愍乎?」帝惻然、即日授太子右諭徳。久之、遷少詹事。年踰八十、以官寿卒。紹京嗜書畫、如王羲之、献之、褚遂良真跡、蔵家者至数十百巻。建中中、追贈太子太傅。 崔日用、滑州霊昌人。擢進士第、為芮城尉。大足元年、武后幸長安、陝州刺史宗楚客委以頓峙、饋献豊甘、稱過賓使者。楚客歎其能、亟薦之、擢為新豊尉、遷監察御史。陰附安樂公主、得稍遷。神龍中、鄭普思納女後宮、日用劾奏、中宗初不省、廷爭切至、普思由是得罪。時諸武若三思、延秀及楚客等権寵交煽、日用多所結納、驟拜兵部侍郎。宴内殿、酒酣、起為回波舞、求学士、即詔兼脩文館学士。 帝崩、韋后專制、畏禍及、更因僧普潤、道士王曄私謁臨淄王以自託、且密賛大計。王曰:「謀非計身、直紓親難爾。」日用曰:「至孝動天、舉無不克。然利先發、不則有後憂。」及韋氏平、夜詔権雍州長史、以功授黄門侍郎、参知機務、封齊国公、賜實戸二百。坐與薛稷相忿競、罷政事、為婺州長史。歴揚、汴、兗三州刺史。 由荊州長史入奏計、因言:「太平公主逆節有萌、陛下往以宮府討有罪、臣、子勢須謀與力、今據大位、一下制書定矣。」帝曰:「畏驚太上皇、奈何?」日用曰:「庶人之孝、承順顏色。天子之孝、惟安国家、定社稷。若令姦宄竊發、以亡大業、可為孝乎?請先安北軍而後捕逆黨、於太上皇固無所驚。」帝納之。及討逆、詔権検校雍州長史、以功益封二百戸、進吏部尚書。 會帝誕日、日用采詩大、小雅二十篇及司馬相如封禪書献之、借以諷諭、且勸告成事。有詔賜衣一副、物五十段、以示無言不酬之義。 久之、坐兄累、出為常州刺史。後以例減封戸三百、徙汝州。開元七年、詔曰:「唐元之際、日用實賛大謀、功多不宜減封、復食二百戸。」徙并州長史、卒年五十。并人懐其惠、吏民数百皆縞服送喪。贈吏部尚書、謚曰昭。再贈荊州大都督。 日用才辯絶人、而敏于事、能乘機反禍取富貴。先天後、求復相、然亦不獲也。嘗謂人曰「吾平生所事、皆適時制變、不專始謀。然毎一反思、若芒刺在背」云。 子宗之、襲封。亦好学、寬博有風検、與李白、杜甫以文相知者。 日用從父兄日知、字子駿、少孤貧、力学、以明經進至兵部員外郎。與張説同為魏元忠朔方判官、以健吏稱。遷洛州司馬、會譙王重福之變、官司逃、日知獨率吏卒助屯營撃賊、以功加銀青光禄大夫。遷殿中少監、建言「厩馬多、請分牧隴右、省関畿芻調」。授荊州長史、四遷京兆尹、封安平県侯。坐贓、為御史李如璧所劾、貶歙県丞。後歴殿中監、進中山郡公。説執政、薦為御史大夫、帝不許、遂為左羽林大将軍、而自用崔隠甫。隠甫繇是怨説。日知俄授太常卿。自以處朝廷久、毎入謁、必與尚書歯、時謂「尚書裏行」。終潞州長史、謚曰襄。 王琚、懐州河内人。少孤、敏悟有才略、明天文象緯。以從父隠客嘗為鳳閣侍郎、故数與貴近交。時年甫冠、見駙馬都尉王同皎、同皎器之。會謀刺武三思、琚義其為、即與周璟、張仲之等共計。事洩亡命、自傭於揚州富商家、識非庸人、以女嫁之、厚給以貲、琚亦賴以濟。睿宗立、琚自言本末、主人厚齎使還長安。玄宗為太子、閒游獵韋、杜間、怠休樹下、琚以儒服見、且請過家、太子許之。至所廬、乃蕭然窶陋。坐久、殺牛進酒殊豊厚、太子駭異。自是毎到韋、杜、輒止其廬。 初、太子在潞州、襄城張暐為銅鞮令、性豪殖、喜賓客弋獵事、厚奉太子、数集其家。山東倡人趙元礼有女、善歌舞、得幸太子、止暐第、其後生子瑛者也。太子已平内難、召暐、拜宮門郎、與姜晈、崔滌、李令問、王守一、薛伯陽等並侍左右。令問累擢殿中少監、守一太僕少卿。此数人以東宮皆勢重天下。 琚是時方補諸曁県主簿、過謝東宮、至廷中、徐行高視、侍衛何止曰:「太子在!」琚怒曰:「在外惟聞太平公主、不聞有太子。太子本有功於社稷、孝於君親、安得此聲?」太子遽召見、琚曰:「韋氏躬行弑逆、天下動搖、人思李氏、故殿下取之易也。今天下已定、太平專思立功、左右大臣多為其用、天子以元妹、能忍其過、臣竊為殿下寒心。」太子命坐、且泣曰:「計将安便?」琚曰:「昔漢蓋主供養昭帝、其後與上官桀謀殺霍光、不及天子、而帝猶以大義去之。今太子功定天下、公主乃敢妄圖、大臣樹黨、有廢立意。太子誠召張説、劉幽求、郭元振等計之、憂可紓也。」太子曰:「先生何以自隠而日與寡人游?」琚曰:「臣善丹沙、且工諧隠、願比優人。」太子喜、恨相知晩。翌日、授詹事府司直、内供奉、兼崇文学士。日以諸王及姜晈等入侍、獨琚常豫祕謀。不踰月、遷太子舎人、兼諫議大夫。太子受内禪、擢中書侍郎。 公主謀益甚、幽求、暐謀先事誅之、侍御史鄧光賓漏謀、不克、皆得罪。久之、琚見事迫、請帝決策。先天二年七月、乃與岐王、薛王、姜晈、李令問、王毛仲、王守一以鉄騎至承天門。太上皇聞外譁譟、召郭元振升承天樓、閉関以拒、俄而侍御史任知古召募数百人於朝堂、不得入。少選、琚從帝至樓下、誅蕭至忠、岑羲、竇懐貞、斬常元楷李慈北闕下、賈膺福李猷於内客省。事平、琚進戸部尚書、封趙国公、晈工部尚書、楚国公、毛仲輔国大将軍、霍国公、守一太常卿、晉国公、各食實戸五百。令問殿中監、宋国公、實戸三百。琚、晈、令問辭不就、以舊官增戸二百。於是帝召燕内殿、賜金銀雜皿皆一、帛二千、第一區。 帝於琚眷委特異、豫大政事、時號「内宰相」。毎見閤中、視日薄乃得出。遇休日、使者至第召之、而皇后亦使尚宮勞琚母、賜賚接足、群臣不能無望。或説帝曰:「王琚、麻嗣宗皆譎詭縱橫、可與履危、不可與共安。方天下已定、宜益求純樸經術士以自輔。」帝悟、稍疏之。俄拜御史大夫、持節巡天兵以北諸軍。改紫微侍郎、道未至、拜沢州刺史、削封戸百。歴九刺史、復封戸。又改六州、二郡。 琚自以立勳、至天宝時為舊臣、性豪侈、其處方面、去故就新、受饋遺至数百万、侍兒数十、宝帳備具、闔門三百口。既失志、稍自放、不能遵法度。在州與官屬小史酋豪飲謔、摴博、蔵鉤為樂。毎徙官、車馬数里不絶。從賓客女伎馳弋、凡四十年。李邕故與琚善、皆華首外遷、書疏往復、以譴謫留落為慊。右相李林甫恨琚恃功使氣、欲除之、使人劾發琚宿贓、削封階、貶江華員外司馬。又使羅希奭深按其罪、琚懼、仰藥、未及死、希奭縊之。時人哀其無罪。始、琚為中書侍郎、母居洛陽、來京師、讓琚曰:「爾家上世皆州県職、今汝無攻城野戰勞、以諂佞取容、海内切歯、吾恐汝家墳墓無人復掃除也。」琚卒不免。宝應元年、贈太子少保。 太平之誅、張暐召還為大理卿、封鄧国公、實封戸三百、進京兆尹、入侍宴樂、出主京邑、時人以為寵、然自以幹治稱。累遷太子詹事、判尚書左右丞、再為羽林大将軍、三至左金吾大将軍、以年高加特進。子履冰、季良、弟晤、仕皆清近。暐嘗還郷上、帝賜詩及錦袍繒綵。乘馹就道、子弟車馬聯咽。使者賜賚、敕州県供儗、居處尊顯。天宝五載卒、年九十、贈開府儀同三司。履冰、歴金吾将軍、季良、殿中監、倶列棨戟。 王毛仲、高麗人。父坐事、沒為官奴、生毛仲、故長事臨淄王。王出潞州、有李守徳者、為人奴、善騎射、王市得之、並侍左右、而毛仲為明悟。景龍中、王還長安、二人常負房箙以從。王数引万騎帥長及豪俊、賜飲食金帛、得其驩心。毛仲曉旨、亦布誠結納、王嘉之。 韋后稱制、令韋播、高嵩為羽林将軍、押万騎、以苛峭樹威。果毅葛福順、陳玄礼訴於王、王方與劉幽求、薛崇簡及利仁府折衝麻嗣宗謀舉大計、幽求諷之、皆願效死、遂入討韋氏。守徳從帝止苑中、而毛仲匿不出、事定数日、乃還、不之責、例擢将軍。 王為皇太子、以毛仲知東宮馬駝鷹狗等坊。不旬歳、至大将軍、階三品。與誅蕭至忠等、以功進輔国大将軍、検校内外閑厩、知監牧使、進封霍国公、實封戸五百。與諸王及姜晈等侍禁中、至連榻而坐。帝暫不見、惘惘若有失、見則釋然。開元九年、詔持節為朔方道防禦討撃大使、與左領軍大総管王晙、天兵軍節度使張説、幽州節度使裴伷先等数計事。 毛仲始見飾擢、頗持法、不避権貴為可喜事。兩營万騎及閑厩官吏憚之無敢犯、雖官田草萊、樵斂不敢欺。於牧事尤力、娩息不訾。初監馬二十四万、後乃至四十三万、牛羊皆数倍。蒔茼麥、苜蓿千九百頃以禦冬。市死畜、售絹八万。募嚴道僰僮千口為牧圉。検勒芻菽無漏隠、歳贏数万石。從帝東封、取牧馬数万匹、毎色一隊、相間如錦繡、天子才之。還、加開府儀同三司、自開元後、唯王仁皎、姚崇、宋璟及毛仲得之。 然資小人、志既滿、不能無驕、遂求為兵部尚書、帝不悅、毛仲鞅鞅。及與葛福順為姻家、而守徳及左監門将軍盧龍子唐地文、左右威衛将軍王景耀高広濟数十人與毛仲相倚杖為姦。毛仲恃舊、最不法。中使至其家稱詔、毛仲不甚恭、位卑者、或踞見、迕意即侮誶、以氣凌之、直出其上。高力士、楊思勗等銜之。毛仲有兩妻、其一上所賜、皆有国邑。嘗生子、帝命力士就賜、仍授子五品官、還、問曰:「毛仲喜乎?」力士奏:「毛仲熟視臣曰:『是子亦何辱三品官?』」帝怒曰:「前毛仲負我、未嘗為意、今以嬰兒顧云云。」力士等知帝怒、它日、從容曰:「北門奴官皆毛仲所與、不除之、必起大患。」後毛仲移書太原索甲仗、少尹嚴挺之以聞、帝恐毛仲遂亂、匿其状。十九年、有詔貶瀼州、福順壁州、守徳嚴州、盧龍子唐地文振州、王景耀黨州、高広濟道州、並為別駕員外置。毛仲四子悉奪官、貶惡地、縁坐数十人。有詔縊毛仲於零陵。 守徳本名宜得、立功乃改今名、位武衛将軍。嘗遇故主於道、主走避、守徳命左右迎之至第、親上食奉酒、主流汗不敢當。数日、入奏曰:「臣蒙国恩過分、而故主無寸禄、請解官授之。」帝嘉其志、擢為郎将。 陳玄礼宿衛宮禁、以淳篤自検。帝嘗欲幸虢国夫人第、諫曰:「未宣敕、不可輕去就。」帝為止。後在華清宮、正月望夜、帝将出游、復諫曰:「宮外曠野無備豫、陛下必出游、願歸城闕。」帝不能奪。安禄山反、謀誅楊国忠闕下、不克、至馬嵬、卒誅之。從入蜀。還、封蔡国公。及李輔国遷帝西内、玄礼以老卒。 賛曰:幽求之謀、紹京之果、日用之智、琚之辯、皆足濟危紓難、方多故時、必資以成功者也。雄邁之才、不用其奇則厭然不滿、誠不可與共治平哉!姚崇勸不用功臣、宜矣。然待幽求等恨太薄云。毛仲小人、志得而驕、不足論已。
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唐書巻五 本紀第五 睿宗 玄宗 睿宗玄真大聖大興孝皇帝は、諱を旦といい、高宗の第八子である。始め殷王に封ぜられ、冀州大都督・単于大都護を領した。成長すると温恭で学問を好み、訓詁に通じ、草書・隸書にたくみであった。豫王に徙封され、また冀王に封ぜられ、右金吾衛大将軍・洛州牧に累遷した。相王に徙封され、再び豫王に封ぜられた。武后が中宗を廃すと、立って皇帝となった。その国号を周と改めると、皇嗣となり、東宮に居住した。中宗が房州より還ると、再び皇太子となり、武后が皇嗣を封じて相王とし、太子右衛率を授けた。右羽林衛大将軍・并州牧・安北大都護・諸道元帥に累遷した。中宗が復位すると、安国相王に号を進めた。 景雲元年(710)六月壬午、韋皇后が中宗を弑すと、詔をいつわって温王李重茂を立てて皇太子とした。刑部尚書の裴談と工部尚書の張錫が同中書門下三品となった。吏部尚書の張嘉福・中書侍郎の岑羲・吏部侍郎の崔湜が同中書門下平章事となった。諸府の兵五万を発して京師に駐屯させ、韋温を総知内外兵馬とした。甲申、喪を発した。また遺詔をいつわって、自ら立って皇太后となった。皇太子が皇帝の位につくと、睿宗を参謀政事とし、大赦し、改元して唐隆といった。太后が臨朝摂政し、睿宗の参謀政事を解任して、太尉とした。嗣雍王李守礼を封じて邠王とし、寿春郡王李成器を宋王とした。丁亥、温王の妃の陸氏が皇后となった。壬辰、紀処訥・張嘉福・岑羲が節を持って関内・河南北を巡撫した。 庚子、臨淄郡王李隆基が万騎の兵を率いて北軍に入って乱を討ち、韋氏・安楽公主および韋巨源・馬秦客・駙馬都尉の武延秀・光禄少卿の楊均を殺した。辛丑、睿宗が皇帝を奉じて安福門に御し、大赦した。文武の官に階・勲・爵を賜り、天下の歳租の半分を免除した。李隆基を進封して平王とした。朝邑尉の劉幽求が中書舎人となり、苑総監の鍾紹京が中書侍郎となって、ともに機務に参知した。壬寅、鍾紹京および黄門侍郎の李日知が同中書門下三品となった。紀処訥・韋温・宗楚客・将作大匠の宗晋卿・司農卿の趙履温が処刑された。汴王李邕を左遷して沁州刺史とし、蕭至忠を許州刺史とし、韋嗣立を宋州刺史とし、趙彦昭を絳州刺史とし、崔湜を華州刺史とした。癸卯、太白(金星)が昼に見えた。平王李隆基が同中書門下三品となり、鍾紹京が中書令を代行した。張嘉福が処刑された。 甲辰、安国相王が承天門で皇帝の位につき、大赦し、長流・長任及流人未達者還之。内外の官に階・爵を賜った。再び李重茂を温王とした。乙巳、鍾紹京が宰相を退いた。丙午、太常少卿の薛稷が黄門侍郎となり、機務に参与した。丁未、平王李隆基を立てて皇太子とした。則天大聖皇后の号を復して天后といった。戊申、許州刺史の姚元之が兵部尚書・同中書門下三品となった。韋嗣立・蕭至忠が中書令となり、趙彦昭が中書侍郎となり、崔湜が吏部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。 七月庚戌、衡陽郡王李成義を進封して申王とし、巴陵郡王李隆範を岐王とし、彭城郡王李隆業を薛王とした。癸丑、兵部尚書の崔日用が黄門侍郎となり、機務に参与した。丁巳、洛州長史の宋璟が吏部尚書を検校し、同中書門下三品となった。岑羲が宰相を退いた。壬戌、蕭至忠を左遷して晋州刺史とし、韋嗣立を許州刺史とし、趙彦昭を宋州刺史とし、張錫を絳州刺史とした。崔湜が宰相を退いた。丙寅、李嶠を左遷して懐州刺史とした。姚元之が中書令を兼ね、蘇が尚書左僕射となった。丁卯、唐休璟・張仁亶が宰相を退いた。己巳、大赦し、改元し、内外の官および子為父後者に勲一転を賜った。崔日用・薛稷が宰相を退いた。乙亥、崇恩廟・昊陵・順陵を廃した。皇后韋氏を追って廃して庶人とし、安楽公主を勃逆庶人とした。 八月庚寅、譙王李重福および汴州刺史の鄭愔がそむき、処刑された。癸巳、罷墨敕斜封官。裴談を左遷して蒲州刺史とした。 九月辛未、太子少師として致仕した唐休璟を朔方道行軍大総管とし、突厥に備えた。 十月乙未、天后を追号して大聖天后といった。癸卯、出義宗于太廟。 十一月戊申、姚元之が中書令となった。己酉、孝和皇帝を定陵に葬った。壬子、蘇・韋安石が宰相を退いた。宋王李成器が尚書左僕射となった。丁卯、赦霊駕所過。己巳、宋王李成器が司徒となった。 二年(711)正月己未、太僕卿の郭元振と中書侍郎の張説が同中書門下平章事となった。甲子、李重茂を徙封して襄王とした。乙丑、妃の劉氏・竇氏を追冊して皇后とした。 二月丁丑、皇太子が監国した。甲申、姚元之を左遷して申州刺史とし、宋璟を楚州刺史とした。丙戌、太子少保の韋安石が侍中となった。劉幽求が宰相を退いた。復墨敕斜封官。辛卯、屠殺を禁じた。 三月癸丑、金仙・玉真観を作った。 四月甲申、韋安石が中書令となった。宋王李成器が宰相を退いた。辛卯、李日知が侍中となった。壬寅、大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜り、民間に三日の宴会を賜った。甲辰、玄元皇帝廟を作った。 五月庚戌、昊陵・順陵を復し、官属を置いた。壬戌、殿中監の竇懐貞が左御史台大夫・同中書門下平章事となった。 八月乙卯、大赦し、三日の宴会を賜った。丁巳、皇太子が国学で釋奠した。庚午、韋安石が尚書左僕射・同中書門下三品となった。 九月乙亥、竇懐貞が侍中となった。 十月甲辰、吏部尚書の劉幽求が侍中となり、右散騎常侍の魏知古、太子詹事の崔湜が中書侍郎となり、ともに同中書門下三品となった。中書侍郎の陸象先が同中書門下平章事となった。韋安石・李日知・郭元振・竇懐貞・張説が宰相を退いた。 十二月丁未、作潑寒胡戲。 先天元年(712)正月辛未、太廟で享した。甲戌、并・汾・絳三州で地震があった。辛巳、有事于南郊。戊子、籍田を耕した。己丑、大赦し、改元して太極といった。内外の官に階・爵を賜り、民間に五日の宴会を賜った。版授九十以上下州刺史、八十以上上州司馬。辛卯、幸安福門、観酺三日夜。壬辰、陸象先が同中書門下三品となった。乙未、戸部尚書の岑羲と左御史台大夫の竇懐貞が同中書門下三品となった。 二月丁巳、皇太子が国学で釋奠した。 この春、日照りがあった。 五月戊寅、有事于北郊。辛巳、大赦し、改元して延和といった。賜内外官陪礼者勲一転、民間に五日の宴会を賜った。 六月癸丑、岑羲が侍中となった。乙卯、大聖天后に追号して天后聖帝とした。辛酉、刑部尚書の郭元振が朔方道行軍大総管となり、突厥を討伐した。甲子、幽州都督の孫佺・左驍衛将軍の李楷洛・左威衛将軍の周以悌が奚と冷陘山で戦い、敗れた。 七月辛未、有彗星入于太微。兵部尚書の李迥秀が朔方道後軍大総管となった。乙亥、竇懐貞が尚書右僕射・平章軍国重事となった。己卯、安福門に行幸して楽を観賞したが、三日で止めた。丙戌、旱害のため膳を減らした。 八月庚子、皇太子を立てて皇帝とし、以聴小事。自尊為太上皇、以聴大事。壬寅、追号天后聖帝為聖后。甲辰、大赦し、改元し、賜内外官及五品以上子為父後者勲・爵、民酺五日。丁未、立皇太子妃王氏為皇后。戊申、皇帝の子の李嗣直を封じて郯王とし、李嗣謙を郢王とした。己酉、宋王李成器が司徒となった。庚戌、竇懐貞が尚書左僕射となり、劉幽求が尚書右僕射を代行し、ともに同中書門下三品となった。魏知古が侍中となり、崔湜が中書令を検校した。戊午、劉幽求を封州に流した。 九月丁卯朔、日食があった。甲午、皇帝の子の李嗣昇を封じて陜王とした。 十月辛卯、驪山で狩猟した。 十一月丁亥、誥遣皇帝巡邊。甲午、幽州都督の宋璟が左軍大総管となり、并州長史の薛訥が中軍大総管となり、兵部尚書の郭元振が右軍大総管となった。 二年(713)正月乙亥、吏部尚書の蕭至忠が中書令となった。 二月、追作先天元年酺。 六月辛丑、雨霖のため正殿を避け、膳を減らした。丙辰、郭元振が同中書門下三品となった。 七月甲子、大赦した。乙丑、誥歸政于皇帝。 開元四年六月、百福殿で崩じ、年は五十五で、謚を大聖真皇帝といった。天宝十三載、玄真大聖大興孝皇帝と増謚した。 玄宗至道大聖大明孝皇帝は、諱を隆基といい、睿宗の第三子である。母は昭成皇后竇氏といった。性は英武で、騎射を善くし、音律・暦象の学に通じた。始め楚王に封ぜられ、後に臨淄郡王となった。衛尉少卿・潞州別駕に累遷した。 景龍四年(710)、京師に朝し、遂に留められて派遣されなかった。庶人韋氏がすでに中宗を弑逆し、いつわって詔して称制した。玄宗はそこで太平公主とその薛崇簡、尚衣奉御王の崇曄・公主府典籤の王師虔・朝邑尉の劉幽求・苑総監の鍾紹京・長上折衝の麻嗣宗・押万騎果毅の葛福順・李仙鳧、道士の馮処澄・僧普潤とともに計略をさだめて乱を討伐した。またはまず相王(睿宗)に願い申し上げて、玄宗は、「私たちに従ってください。これは王家の危事なのです。従ってくださらなければ、私達の計略は失敗してしまいます」といい、そこで夜に劉幽求らを率いて苑中に入り、葛福順・李仙鳧は一万騎の兵をもって玄武門を攻撃し、左羽林将軍の韋播・中郎将の高嵩を斬って従わせた。左万騎は左に入らせ、右万騎は右に入らせ、玄宗は総監羽林兵を率いて両儀殿に集合させ、梓宮宿衛兵は皆起ってこれに応じた。遂に韋氏を誅殺した。夜明けに馳せて相王のもとに謁し、先に申し上げなかったことを謝した。相王は泣いて、「お前のお陰で免れた。そうでなければ私にもまた難がおよんだだろう」と言い、そこで玄宗殿は中監、兼知内外閑厩・検校隴右群牧大使、押左右万騎に拝し、平王に進封され、同中書門下三品となった。 睿宗が即位すると、立って皇太子となった。景雲二年(711)、監国となり、六品以下の官の任命を聴した。延和元年(712)、星官が「五帝坐星(惑星)の前の星に変があります」と申し述べた。睿宗は、「徳を伝えて災を避けよう。我が意は決した」と言った。七月壬辰、皇太子に制して皇帝位に即位させた。太子は惶懼して願い出たが、睿宗は、「これはわが所に天戒があったのに答えたものなのだ」と言い、皇太子はそこで武徳殿に御し、三品以下の官を任命した。八月庚子、皇帝の位についた。先天元年(712)十月庚子、太廟に享し、大赦した。 開元元年(713)正月辛巳、皇后が親蠶した。 七月甲子、太平公主および岑羲・蕭至忠・竇懐貞が反乱を計画し、処刑された。乙丑、聴政を始めた。丁卯、大赦し、文武の官に階・爵を賜った。庚午、崔湜を竇州に流した。甲戌、大周万国頌徳天枢を破壊した。乙亥、尚書右丞張説を検校中書令とした。庚辰、陸象先が宰相を退いた。 八月癸巳、劉幽求が尚書右僕射となり、軍国の大事を領知した。壬寅、宋王李成器が太尉となり、申王李成義が司徒となり、邠王李守礼が司空となった。 九月丙寅、宋王李成器が宰相を退いた。庚午、劉幽求が同中書門下三品となり、張説が中書令となった。 十月、姚巂蛮が姚州を寇し、都督の李蒙がここに死んだ。己亥、温湯に幸した。癸卯、驪山で武を講じた。郭元振を新州に流し、給事中の唐紹が処刑された。免新豊来歳税、賜從官帛。甲辰、渭川で狩猟した。同州刺史の姚元之が兵部尚書・同中書門下三品となった。乙巳、渭川から到着した。 十一月乙丑、劉幽求が侍中を兼ねた。戊子、群臣が尊号をたてまつって開元神武皇帝といった。 十二月庚寅、大赦し、改元し、内外の官に勲を賜った。中書省を改めて紫微省とし、門下省を黄門省とし、侍中を監とした。甲午、吐蕃が和を請うた。己亥、潑寒胡戯を禁じた。壬寅、姚崇が紫微令を兼ねた。癸丑、劉幽求が宰相を退いた。張説を左遷して相州刺史とした。甲寅、黄門侍郎の盧懐慎が同紫微黄門平章事となった。 二年(714)正月壬午、関内の旱害のため、直諫を求め、停不急之務、寬繋囚、祠名山大川、葬暴骸。甲申、并州節度大使の薛訥が同紫微黄門三品となり、契丹を討伐した。 二月壬辰、正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめた。突厥が北庭を寇し、都護の郭虔瓘がこれを破った。己酉、慮囚。 三月己亥、磧西節度使の阿史那献が西突厥の都擔を捕らえた。 四月辛未、停諸陵供奉鷹犬。 五月辛亥、魏知古が宰相を退いた。 六月、京師で大風のために木が抜けた。甲子、以太上皇避暑、徙御大明宮。 七月乙未、錦繡珠玉を前殿で焚いた。戊戌、禁采珠玉及為刻鏤器玩・珠繩帖縚服者、織錦坊を廃した。庚子、薛訥が奚・契丹と灤河で戦い、敗れた。丁未、襄王李重茂が薨去し、追冊して皇帝とした。 八月壬戌、女楽を禁じた。乙亥、吐蕃が辺境を寇したので、薛訥が左羽林軍将軍を摂り、隴右防禦大使となり、右驍衛将軍の郭知運が副使となって、これを討伐した。 九月庚寅、興慶宮を作った。丁酉、京師侍老と含元殿の庭で宴し、賜九十以上几・杖、八十以上鳩杖、婦人亦如之、賜於其家。戊申、温湯に幸した。 十月戊午、温湯から到着した。甲子、薛訥が吐蕃と武階で戦い、これを破った。 十二月乙丑、子の李嗣真を封じて鄫王とし、李嗣初を鄂王とし、李嗣玄を鄄王とした。 三年(715)正月丁亥、郢王李嗣謙を立てて皇太子とした。降死罪、流以下原之。三日の宴会を賜った。癸卯、盧懐慎が黄門監を検校した。 二月辛酉、赦囚非惡逆・造偽者。 四月庚申、突厥部の三姓葛邏禄が来附した。右羽林軍大将軍の薛訥が涼州鎮軍大総管となり、涼州都督の楊執一が副総管となった。右衛大将軍の郭虔瓘が朔州鎮軍大総管となり、并州長史の王晙が副総管となり、突厥に備えた。 五月丁未、旱害のため京師の囚を録した。戊申、正殿を避け、膳を減らした。 七月庚辰朔、日食があった。 十月辛酉、巂州蛮が辺境を寇し、右驍衛将軍李玄道がこれを討伐した。壬戌、薛訥が朔方道行軍大総管となり、太僕卿の呂延祚と霊州刺史の杜賓客が副総管となった。癸亥、如郿、赦所過徒罪以下、賜侍老九十以上及篤疾者物。甲子、鳳泉湯にいった。戊辰、降大理繋囚罪。 十一月己卯、鳳泉湯から到着した。乙酉、温湯に幸した。丁亥、相州の人の崔子喦がそむき、処刑された。甲午、温湯から到着した。乙未、白衣長髪で会するのを禁じた。 十二月乙丑、降鳳泉湯所過死罪以下。 四年(716)正月戊寅、朝太上皇于西宮。 二月丙辰、温湯に幸した。辛酉、吐蕃が松州を寇し、廓州刺史の蓋思貴がこれを討伐した。丁卯、温湯から到着した。癸酉、松州都督の孫仁献が吐蕃と戦い、これを破った。 六月甲子、太上皇が崩じた。辛未、京師と華・陜の二州で大風のため木が抜けた。癸酉、大武軍子将の郝霊佺が突厥の默啜を殺した。 七月丁丑、吐蕃が和を請うた。丁酉、洛水が氾濫した。 八月辛未、奚・契丹が降った。 十月庚午、大聖真皇帝を橋陵に葬った。 十一月己卯、盧懐慎が宰相を退いた。丁亥、中宗を西廟に遷した。丙申、尚書左丞の源乾曜が黄門侍郎・同紫微黄門平章事となった。 十二月乙卯、定陵の寝殿で火事があった。丙辰、温湯に幸した。乙丑、温湯から到着した。 閏月己亥、姚崇・源乾曜が宰相を退いた。刑部尚書の宋璟が吏部尚書兼黄門監となり、紫微侍郎の蘇頲が同紫微黄門平章事となった。 五年(717)正月癸卯、太廟の四室が壊れたので、神主を太極殿に遷し、素服で正殿を避け、輟視朝五日。己酉、太極殿に享した。辛亥、東都にいった。戊辰、大霧があった。 二月甲戌、大赦し、従官に帛を賜い、給復河南一年、免河南北蝗・水州今歳租。 三月丙寅、吐蕃が和を請うた。 四月甲申、毀拜洛受図壇。己丑、子の李嗣一が亡くなった。 五月丙辰、詔公侯子孫襲封。 七月壬寅、隴右節度使の郭知運が吐蕃と戦い、これを破った。 九月壬寅、紫微省を中書省にもどし、黄門省を門下省とし、監を侍中とした。 十月戊寅、祔神主于太廟。甲申、命史官月奏所行事。 六年(718)正月辛丑、突厥が和を請うた。 二月壬辰、朔方道行軍大総管の王晙が突厥を討伐した。 六月甲申、瀍水が氾濫した。 八月庚辰、旱害のため慮囚。 十月癸亥、河南府と懐・汝・鄭の三州の父老に帛を賜った。 十一月辛卯、東都から到着した。丙申、太廟で享した。元皇帝以上三祖枝孫失官者授五品京官、皇祖妣家子孫在選者甄擇之。免知頓及旁州供承者一歳租税。乙巳、伝国の璽を改めて「宝」といった。この月、突厥が単于副都護の張知運を捕らえた。 七年(719)五月己丑朔、日食があり、素服で、音楽をやめ、膳を減らし、中書門下慮囚。 六月戊辰、吐蕃が和を請うた。 閏七月辛巳、旱害のため正殿を避け、音楽をやめ、膳を減らした。甲申、慮囚。八月丙戌、慮囚。 九月甲戌、宋王李憲を徙封して寧王とした。 十月、作義宗廟于東都。辛卯、温湯に幸した。癸卯、温湯から到着した。 十一月乙亥、皇太子入学齒冑、賜陪位官及学生帛。 八年(720)正月辛巳、宋璟・蘇頲が宰相を退いた。京兆尹の源乾曜が黄門侍郎となり、并州大都督府長史の張嘉貞が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。 二月戊戌、子の李敏が亡くなった。 三月甲子、免水旱州逋負、給復四鎮行人家一年。 五月丁卯、源乾曜が侍中となり、張嘉貞が中書令となった。 六月庚寅、洛・瀍・穀水が氾濫した。 九月、突厥が甘・涼を寇し、涼州都督の楊敬述が突厥と戦い、敗れた。丙寅、降京城囚罪、杖以下原之。壬申、契丹が辺境を寇し、王晙が検校幽州都督・節度河北諸軍大使となり、黄門侍郎の韋抗が朔方道行軍大総管となり、これを討伐した。甲戌、中書門下慮囚。 十月辛巳、長春宮にいった。壬午、下邽で狩猟した。庚寅、温湯に幸した。十一月乙卯、温湯から到着した。 九年(721)正月、括田。丙寅、温湯に幸した。乙亥、温湯から到着した。 二月丙戌、突厥が和を請うた。丁亥、免天下七年以前逋負。 四月庚寅、蘭池の胡の康待賓が辺境を寇した。 五月庚午、原見囚死・流罪隨軍力・徒以下未發者。 七月己酉、王晙が康待賓を捕らえた。 八月、蘭池の胡の康願子が辺境を寇した。 九月乙巳朔、日食があった。癸亥、天兵軍節度大使の張説が兵部尚書・同中書門下三品となった。 十一月庚午、大赦し、文武の官に階・爵を賜り、唐隆・先天實封功臣坐事免若死者加贈、民間に三日の宴会を賜った。 十二月乙酉、温湯に幸した。壬辰、温湯から到着した。 この冬、雪がなかった。 十年(722)正月丁巳、東都にいった。 二月丁丑、次望春頓、従官に帛を賜った。 四月己亥、張説が持節・朔方軍節度大使となった。 五月戊午、突厥が和を請うた。辛酉、伊・汝水が氾濫した。 閏月壬申、張説が辺境を巡視した。 六月丁巳、黄河が博・棣の二州で決壊した。 七月庚辰、給復遭水州。丙戌、安南の人の梅叔鸞がそむき、処刑された。 九月、張説が康願子を木盤山で破り、これを捕らえた。己卯、京兆の人の権梁山がそむき、処刑された。癸未、吐蕃が小勃律を攻め、北庭節度使の張孝嵩がこれを破った。 十月甲寅、興泰宮にいき、上宜川で狩猟した。庚申、東都にいった。 十二月、突厥が和を請うた。 十一年(723)正月丁卯、東都の囚人の罪を一等降し、杖以下を許した。己巳、并州にいき、囚人の罪を一等降し、徒以下を許した。侍老に物を賜った。庚辰、潞州に行き、囚人を許し、免税五年とし、故邸を飛龍宮とした。辛卯、并州に行き、并州を改めて北都とした。癸巳、太原府で赦し、一年間免税とし、下戸三年は、元従家は五年とした。侍老で八十歳以上に上県の令を、婦人に県君を版授した。九十歳以上に上州長史、婦人を郡君とした。百歳以上は上州刺史、婦人を郡夫人とした。 二月己酉、張嘉貞を左遷して豳州刺史とした。壬子、汾陰にいき、后土を祠り、文武の官に階・勲・爵・帛を賜った。癸亥、張説が中書令を兼ねた。 三月辛未、汾陰から到着し、免所過今歳税、京城で赦した。 四月甲子、張説が中書令となった。吏部尚書の王晙が兵部尚書・同中書門下三品となった。 五月乙丑、中宗を太廟にもどした。己丑、王晙が持節・朔方軍節度大使となった。辛卯、遣使分巡天下。 六月、王晙が辺境を巡視した。 八月戊申、宣皇帝に追号して献祖といい、光皇帝を懿祖といった。 十月丁酉、温湯に幸し、温泉宮を作った。甲寅、温湯から到着した。 十一月戊寅、有事于南郊、大赦した。賜奉祠官階・勲・爵、親王公主一子官、高年粟帛、孝子順孫終身勿事。天下で三日の宴会をおこない、京城では五日おこなった。 十二月甲午、鳳泉湯にいった。戊申、鳳泉湯から到着した。庚申、王晙を左遷して蘄州刺史とした。 十二年(724)四月壬寅、詔傍繼国王礼當廃而屬近者封郡王。 七月己卯、皇后王氏を廃して庶人とした。十月、庶人王氏が亡くなった。 十一月庚午、東都にいった。庚辰、溪州の首領の覃行章がそむき、処刑された。辛巳、申王李撝が薨去した。 閏十二月丙辰朔、日食があった。 十三年(725)正月戊子、降死罪、流以下原之。遣使宣慰天下。壬子、朔方・隴右・河西で戦没した者を葬った。 三月甲午、郯王李潭を徙封して慶王とし、陜王李浚を忠王とし、鄫王李洽を棣王とし、鄄王李滉を栄王とした。子の李涺を封じて光王とし、李濰を儀王とし、李澐を潁王とし、李沢を永王とし、李清を寿王とし、李洄を延王とし、李沐を盛王とし、李溢を済王とした。 九月丙戌、祥瑞を奏するのをやめた。 十月辛酉、兗州にいった。庚午、次濮州、賜河南・北五百里内父老帛。 十一月庚寅、泰山で封をおこなった。辛卯、禅を社首でおこなった。壬辰、大赦した。文武の官に階・勲・爵を賜り、致仕官一季禄、公主・嗣王・郡縣主一子官、諸蕃酋長来会者一官。通り過ぎた所で一年間の、兗州で二年間の租を免除した。天下に七日の宴会を賜った。丙申、孔子の宅に幸し、遣使以太牢祭其墓、給復近墓五戸。丁酉、徐・曹・亳・許・仙・豫の六州の父老に帛を賜った。 十二月己巳、東都にいった。 十四年(726)二月、邕州の獠の梁大海がそむき、処刑された。 四月丁巳、戸部侍郎の李元紘が中書侍郎・同中書門下平章事となった。庚申、張説が宰相を退いた。丁卯、岐王李範が薨去した。 六月戊午、東都で大風のため木が抜けた。壬戌、詔州縣長官言事。 七月癸未、瀍水が氾濫した。 八月丙午、黄河が魏州で決壊した。 九月己丑、磧西節度使の杜暹が黄門侍郎を検校し、同中書門下平章事となった。 十月甲寅、太白(金星)が昼に見えた。庚申、広成湯にいった。己巳、東都にいった。 十二月丁巳、方秀川で狩猟した。 十五年(727)正月辛丑、河西・隴右節度使の王君㚟が吐蕃と青海で戦い、これを破った。 七月甲戌、震興教門観、災。庚寅、洛水が氾濫した。己亥、降都城囚罪、徒以下原之。 八月、澗・穀が氾濫し、澠池県を破壊した。己巳、降天下死罪・嶺南邊州流人、徒以下原之。 九月丙子、吐蕃が瓜州を寇し、刺史の田元献を捕らえた。 閏月庚子、吐蕃が安西を寇し、副大都護の趙頤貞がこれを破った。庚申、回紇が甘州を襲い、王君㚟がここに死んだ。 十月己卯、東都から到着した。 十一月丁卯、城南で狩猟した。 十二月乙亥、温泉宮に幸した。丙戌、温泉宮から到着した。 十六年(728)正月壬寅、趙頤貞が吐蕃と曲子城で戦い、これを破った。乙卯、瀧州の首領の陳行範がそむき、処刑された。庚申、許徒以下囚保任營農。 三月辛丑、免營農囚罪。 七月、吐蕃が瓜州を寇し、刺史の張守珪がこれを破った。乙巳、隴右節度使の張志亮と河西節度使の蕭嵩が吐蕃の大莫門城を落とした。八月辛卯、吐蕃と祁連城で戦い、これを破った。 九月丙午、長らく雨が降ったため囚人の罪を徒以下は赦した。 十月己卯、温泉宮に幸した。己丑、温泉宮から到着した。 十一月癸巳、蕭嵩が兵部尚書・同中書門下平章事(宰相)となった。甲辰、弛陂澤禁。戊申、寧王李憲の邸宅に幸した。庚戌、寧王李憲の邸宅から到着した。 十二月丁卯、温泉宮に幸した。丁丑、温泉宮から到着した。 十七年(729)二月丁卯、巂州都督の張審素が雲南の昆明城・塩城を落とした。 三月戊戌、張守珪が吐蕃と大同軍で戦い、これを破った。 四月癸亥、降死罪、流以下原之。乙亥、大風、震、藍田山が崩れた。 六月甲戌、源乾曜・杜暹・李元紘を宰相から罷免した。蕭嵩が中書令を兼ねた。戸部侍郎の宇文融が黄門侍郎となり、兵部侍郎の裴光庭が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。 九月壬子、宇文融を左遷して汝州刺史とした。 十月戊午朔、日食があった。 十一月庚寅、太廟で享した。丙申、拜橋陵、奉先県で赦した。戊戌、拜定陵。己亥、拜献陵。壬寅、拜昭陵。乙巳、拜乾陵。戊申、乾陵から到着し、大赦した。この年の税の半分を免除した。文武の官に階・爵を、侍老に帛を賜った。旌表孝子順孫・義夫節婦、終身勿事。唐隆両營立功三品以上予一子官。供頓した県でこの年の税を免除した。諸軍の行人に勲両転を賜った。 十二月辛酉、温泉宮に幸した。壬申、温泉宮から到着した。 この冬、雪がなかった。 十八年(730)正月辛卯、裴光庭が侍中となった。 二月丙寅、大雨、雷震左飛龍厩、災。辛未、免囚罪杖以下。 四月乙卯、京師の外郭を築いた。 五月己酉、奚・契丹が突厥についた。 六月甲子、有彗星出于五車。癸酉、有星孛于畢・昴。乙亥、瀍水が氾濫した。丙子、忠王李浚が河北道行軍元帥となった。壬午、洛水が氾濫した。 九月丁巳、忠王李浚が河東道諸軍元帥を兼ねた。 十月戊子、吐蕃が和を請うた。庚寅、鳳泉湯にいった。癸卯、鳳泉湯から到着した。 十一月丁卯、温泉宮に幸した。丁丑、温泉宮から到着した。 十九年(731)正月、瀼州別駕の王毛仲を殺した。丙子、興慶宮で耕した。己卯、鯉魚を捕ることを禁じた。 四月壬午、降死罪以下。丙申、太公廟を立てた。 六月乙酉、大風で木が抜けた。 七月癸丑、吐蕃が和を請うた。 八月辛巳、以千秋節降死罪、流以下原之。 十月丙申、東都にいった。十一月乙卯、次洛城南、従官に帛を賜った。 この年、揚州穭稻生。 二十年(732)正月乙卯、信安郡王李禕が河東・河北道行軍副元帥となり、奚・契丹を討伐した。 二月甲戌朔、日食があった。壬午、降囚罪、徒以下原之。 三月己巳、信安郡王李禕が奚・契丹と薊州で戦い、これを破った。 五月戊申、忠王李浚が捕らえた奚・契丹を献上した。 六月丁丑、李浚が司徒となった。 八月辛未朔、日食があった。 九月乙巳、渤海靺鞨が登州を寇し、刺史の韋俊がここに死に、左領軍衛将軍の蓋福慎がこれを討伐した。戊辰、宋・滑・兗・鄆の四州で水が出たため、この年の税を免除した。 十月壬午、潞州にいった。丙戌、中書門下慮巡幸所過囚。辛卯、潞州で赦し、給復三年、賜高年粟帛。 十一月辛丑、北都にいった。癸丑、北都で赦し、給復三年。庚申、汾陰にいき、后土を祠り、大赦した。供頓した州でこの年の税を免除した。文武の官に階・勲・爵を、諸州の侍老に帛を賜り、武徳以来功臣後及唐隆功臣三品以上一子官。民間に三日の宴会を賜った。 十二月辛未、汾陰から到着した。 二十一年(733)正月丁巳、温泉宮に幸した。二月丁亥、温泉宮から到着した。 三月乙巳、裴光庭が薨去した。甲寅、尚書右丞の韓休が黄門侍郎・同中書門下平章事となった。 閏月癸酉、幽州副総管の郭英傑が契丹と都山で戦い、郭英傑はここに死んだ。 四月乙卯、遣宣慰使黜陟官吏、決繋囚。丁巳、寧王李憲が太尉となり、薛王李業が司徒となった。 五月戊子、以皇太子納妃、降死罪、流以下原之。 七月乙丑朔、日食があった。 九月壬午、子の李沔を封じて信王とし、李泚を義王とし、李漼を陳王とし、李澄を豊王とし、李潓を恒王とし、李漩を涼王とし、李滔を深王とした。 十月庚戌、温泉宮に幸した。己未、温泉宮から到着した。 十二月丁巳、蕭嵩・韓休が宰相を退いた。京兆尹の裴耀卿が黄門侍郎となり、中書侍郎の張九齢、ともに同中書門下平章事となった。 →巻五 本紀第五つづき
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『新唐書』wikiへようこそ このページは、『新唐書』の日本語訳をおこなっているページです。 このページは、誰でも自由に編集することができます。 新規ページはアットウィキモードで作成してください。 『新唐書』翻訳作業中テキスト 巻一 本紀第一 高祖 巻二 本紀第二 太宗 巻三 本紀第三 高宗 巻四 本紀第四 則天皇后 中宗 巻五 本紀第五 睿宗 玄宗 巻六 本紀第六 肅宗 代宗 巻七 本紀第七 徳宗 順宗 憲宗 巻八 本紀第八 穆宗 敬宗 文宗 武宗 宣宗 巻九 本紀第九 懿宗 僖宗 巻十 本紀第十 昭宗 哀帝 巻十一 志第一 礼楽一 巻十二 志第二 礼楽二 巻十三 志第三 礼楽三 巻十四 志第四 礼楽四 巻十五 志第五 礼楽五 巻十六 志第六 礼楽六 巻十七 志第七 礼楽七 巻十八 志第八 礼楽八 巻十九 志第九 礼楽九 巻二十 志第十 礼楽十 巻二十一 志第十一 礼楽十一 巻二十二 志第十二 礼楽十二 巻二十三上 志第十三上 儀衛上 巻二十三下 志第十三下 儀衛下 巻二十四 志第十四 車服 巻二十五 志第十五 暦一 巻二十六 志第十六 暦二 巻二十七上 志第十七上 暦三上 巻二十七下 志第十七下 暦三下 巻二十八上 志第十八上 暦四上 巻二十八下 志第十八下 暦四下 巻二十九 志第十九 暦五 巻三十上 志第二十上 暦六上 巻三十下 志第二十下 暦六下 巻三十一 志第二十一 天文一 巻三十二 志第二十二 天文二 巻三十三 志第二十三 天文三 巻三十四 志第二十四 五行一 巻三十五 志第二十五 五行二 巻三十六 志第二十六 五行三 巻三十七 志第二十七 地理一 巻三十八 志第二十八 地理二 巻三十九 志第二十九 地理三 巻四十 志第三十 地理四 巻四十一 志第三十一 地理五 巻四十二 志第三十二 地理六 巻四十三上 志第三十三上 地理七上 巻四十三下 志第三十三下 地理七下 巻四十四 志第三十四 選挙上 巻四十五 志第三十五 選挙下 巻四十六 志第三十六 百官一 巻四十七 志第三十七 百官二 巻四十八 志第三十八 百官三 巻四十九上 志第三十九上 百官四上 巻四十九下 志第三十九下 百官四下 巻五十 志第四十 兵 巻五十一 志第四十一 食貨一 巻五十二 志第四十二 食貨二 巻五十三 志第四十三 食貨三 巻五十四 志第四十四 食貨四 巻五十五 志第四十五 食貨五 巻五十六 志第四十六 刑法 巻五十七 志第四十七 芸文一 巻五十八 志第四十八 芸文二 巻五十九 志第四十九 芸文三 巻六十 志第五十 芸文四 巻七十六 列伝第一 后妃上 巻七十七 列伝第二 后妃下 巻七十八 列伝第三 宗室 巻七十九 列伝第四 高祖諸子 巻八十 列伝第五 太宗諸子 巻八十一 列伝第六 三宗諸子 巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 巻八十三 列伝第八 諸帝公主 巻八十四 列伝第九 李密 巻八十五 列伝第十 王世充 竇建徳 巻八十六 列伝第十一 薛挙 李軌 劉武周... 巻八十七 列伝第十二 蕭銑 輔公祏 沈法興... 巻八十八 列伝第十三 劉文静 裴寂 巻八十九 列伝第十四 屈突通 尉遅敬徳 張公謹... 巻九十 列伝第十五 劉弘基 殷開山 劉政会... 巻九十一 列伝第十六 温大雅 皇甫無逸 李襲志... 巻九十二 列伝第十七 杜伏威 張士貴 李子和... 巻九十三 列伝第十八 李靖 李勣 巻九十四 列伝第十九 侯君集 張亮 薛万均 巻九十五 列伝第二十 高倹 竇威 巻九十六 列伝第二十一 房玄齡 杜如晦 巻九十七 列伝第二十二 魏徴 巻九十八 列伝第二十三 王珪 薛收 馬周... 巻九十九 列伝第二十四 李綱 李大亮 戴冑... 巻一百 列伝第二十五 陳叔達 楊恭仁 封倫... 巻一百一 列伝第二十六 蕭瑀 巻一百二 列伝第二十七 岑文本 虞世南 李百薬... 巻一百三 列伝第二十八 蘇世長 韋雲起 孫伏伽... 巻一百四 列伝第二十九 于志寧 高季輔 張行成 巻一百五 列伝第三十 長孫无忌 褚遂良 韓瑗... 巻一百六 列伝第三十一 杜正倫 崔知温 高智周... 巻一百七 列伝第三十二 傅弈 呂才 陳子昂 巻一百八 列伝第三十三 劉仁軌 裴行倹 婁師徳 巻一百九 列伝第三十四 崔義玄 楊再思 竇懐貞... 巻一百一十 列伝第三十五 諸夷蕃将 巻一百一十一 列伝第三十六 郭孝恪 張倹 王方翼... 巻一百一十二 列伝第三十七 王義方 員半千 韓思彦... 巻一百一十三 列伝第三十八 唐臨 張文瓘 徐有功 巻一百一十四 列伝第三十九 崔融 徐彦伯 蘇味道... 巻一百一十五 列伝第四十 狄仁傑 郝處俊 朱敬則 巻一百一十六 列伝第四十一 王綝 韋思謙 陸元方... 巻一百一十七 列伝第四十二 裴炎 劉禕之 魏玄同... 巻一百一十八 列伝第四十三 張廷珪 韋湊 韓思復... 巻一百一十九 列伝第四十四 武平一 李乂 賈曾... 巻一百二十 列伝第四十五 桓彦範 敬暉 崔玄暐... 巻一百二十一 列伝第四十六 劉幽求 鍾紹京 崔日用... 巻一百二十二 列伝第四十七 魏元忠 韋安石 郭元振 巻一百二十三 列伝第四十八 李嶠 蕭至忠 盧蔵用... 巻一百二十四 列伝第四十九 姚崇 宋璟 巻一百二十五 列伝第五十 蘇 張説 巻一百二十六 列伝第五十一 魏知古 盧懐慎 李元紘... 巻一百二十七 列伝第五十二 張嘉貞 源乾曜 裴耀卿 巻一百二十八 列伝第五十三 蘇 尹思貞 畢構... 巻一百二十九 列伝第五十四 裴守真 崔沔 盧従願... 巻一百三十 列伝第五十五 裴漼 陽嶠 宋慶礼... 巻一百三十一 列伝第五十六 宗室宰相 巻一百三十二 列伝第五十七 劉子玄 呉兢 韋述... 巻一百三十三 列伝第五十八 郭虔瓘 郭知運 王君... 巻一百三十四 列伝第五十九 宇文融 韋堅 楊慎矜... 巻一百三十五 列伝第六十 哥舒翰 高仙芝 封常清 巻一百三十六 列伝第六十一 李光弼 巻一百三十七 列伝第六十二 郭子儀 巻一百三十八 列伝第六十三 李嗣業 馬璘 李抱玉 巻一百三十九 列伝第六十四 房琯 張鎬 李泌 巻一百四十 列伝第六十五 崔円 苗晋卿 裴冕... 巻一百四十一 列伝第六十六 崔光遠 鄧景山 魏少游... 巻一百四十二 列伝第六十七 李麟 楊綰 崔祐甫... 巻一百四十三 列伝第六十八 高適 元結 李承... 巻一百四十四 列伝第六十九 来瑱 田神功 侯希逸... 巻一百四十五 列伝第七十 元載 王縉 黎幹... 巻一百四十六 列伝第七十一 李栖筠 李鄘 巻一百四十七 列伝第七十二 王思礼 魯炅 王難得... 巻一百四十八 列伝第七十三 令狐彰 張孝忠 康日知... 巻一百四十九 列伝第七十四 劉晏 第五琦 班宏... 巻一百五十 列伝第七十五 李揆 常 趙憬... 巻一百五十一 列伝第七十六 関播 董晋 袁滋... 巻一百五十二 列伝第七十七 張鎰 姜公輔 武元衡... 巻一百五十三 列伝第七十八 段秀実 顔真卿 巻一百五十四 列伝第七十九 李晟 巻一百五十五 列伝第八十 馬燧 渾瑊 巻一百五十六 列伝第八十一 楊朝晟 戴休顔 陽恵元... 巻一百五十七 列伝第八十二 陸贄 巻一百五十八 列伝第八十三 韋皋 張建封 厳震... 巻一百五十九 列伝第八十四 鮑防 李自良 蕭昕... 巻一百六十 列伝第八十五 徐浩 呂渭 孟簡... 巻一百六十一 列伝第八十六 張薦 趙涓 李紓... 巻一百六十二 列伝第八十七 姚南仲 独孤及 顧少連... 巻一百六十三 列伝第八十八 孔巣父 穆寧 崔邠... 巻一百六十四 列伝第八十九 帰崇敬 奚陟 崔衍... 巻一百六十五 列伝第九十 鄭余慶 鄭珣瑜 高郢... 巻一百六十六 列伝第九十一 賈耽 杜佑 令狐楚 巻一百六十七 列伝第九十二 白志貞 裴延齢 崔損... 巻一百六十八 列伝第九十三 韋執誼 王叔文 陸質... 巻一百六十九 列伝第九十四 杜黃裳 裴 李藩... 巻一百七十 列伝第九十五 高崇文 伊慎 朱忠亮... 巻一百七十一 列伝第九十六 李光進 烏重胤 王沛... 巻一百七十二 列伝第九十七 于 王智興 杜兼... 巻一百七十三 列伝第九十八 裴度 巻一百七十四 列伝第九十九 李逢 吉元稹 牛僧孺... 巻一百七十五 列伝第一百 竇群 劉栖楚 張又新... 巻一百七十六 列伝第一百一 韓愈 巻一百七十七 列伝第一百二 銭徽 崔咸 韋表微... 巻一百七十八 列伝第一百三 劉蕡 巻一百七十九 列伝第一百四 李訓 鄭注 王涯... 巻一百八十 列伝第一百五 李徳裕 巻一百八十一 列伝第一百六 陳夷行 李紳 李讓夷... 巻一百八十二 列伝第一百七 李固言 李 崔珙... 巻一百八十三 列伝第一百八 畢諴 崔彦昭 劉鄴... 巻一百八十四 列伝第一百九 馬植 楊収 路巌... 巻一百八十五 列伝第一百一十 鄭畋 王鐸 王徽... 巻一百八十六 列伝第一百一十一 周宝 王処存 鄧処訥... 巻一百八十七 列伝第一百一十二 王重栄 諸葛爽 李罕之... 巻一百八十八 列伝第一百一十三 楊行密 時溥 朱宣... 巻一百八十九 列伝第一百一十四 高仁厚 趙 田頵... 巻一百九十 列伝第一百一十五 劉建鋒 成汭 杜洪... 巻一百九十一 列伝第一百一十六 忠義上 巻一百九十二 列伝第一百一十七 忠義中 巻一百九十三 列伝第一百一十八 忠義下 巻一百九十四 列伝第一百一十九 卓行 巻一百九十五 列伝第一百二十 孝友 巻一百九十六 列伝第一百二十一 隠逸 巻一百九十七 列伝第一百二十二 循吏 巻一百九十八 列伝第一百二十三 儒学上 巻一百九十九 列伝第一百二十四 儒学中 巻二百 列伝第一百二十五 儒学下 巻二百一 列伝第一百二十六 文芸上 巻二百二 列伝第一百二十七 文芸中 巻二百三 列伝第一百二十八 文芸下 巻二百四 列伝第一百二十九 方技 巻二百五 列伝第一百三十 列女 巻二百六 列伝第一百三十一 外戚 巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 巻二百八 列伝第一百三十三 宦者下 巻二百九 列伝第一百三十四 酷吏 巻二百一十 列伝第一百三十五 藩鎮魏博 巻二百一十一 列伝第一百三十六 藩鎮鎮冀 巻二百一十二 列伝第一百三十七 藩鎮盧龍 巻二百一十三 列伝第一百三十八 藩鎮淄青横海 巻二百一十四 列伝第一百三十九 藩鎮宣武彰義澤潞 巻二百一十五上 列伝第一百四十上 突厥上 巻二百一十五下 列伝第一百四十下 突厥下 巻二百一十六上 列伝第一百四十一上 吐蕃上 巻二百一十六下 列伝第一百四十一下 吐蕃下 巻二百一十七上 列伝第一百四十二上 回鶻上 巻二百一十七下 列伝第一百四十二下 回鶻下 巻二百一十八 列伝第一百四十三 沙陀 巻二百一十九 列伝第一百四十四 北狄 巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 巻二百二十一上 列伝第一百四十六上 西域上 巻二百二十一下 列伝第一百四十六下 西域下 巻二百二十二上 列伝第一百四十七上 南蛮上 巻二百二十二中 列伝第一百四十七中 南蛮中 巻二百二十二下 列伝第一百四十七下 南蛮下 巻二百二十三上 列伝第一百四十八上 姦臣上 巻二百二十三下 列伝第一百四十八下 姦臣下 巻二百二十四上 列伝第一百四十九上 叛臣上 巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 叛臣下 巻二百二十五上 列伝第一百五十上 逆臣上 巻二百二十五中 列伝第一百五十中 逆臣中 巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 進唐書表 注意事項 『新唐書』wiki内のコンテンツは、すべてGFDLに基づき配布されます。
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唐書巻一百九十一 列伝第一百一十六 忠義上 夏侯端 劉感 常達 敬君弘 謝叔方 呂子臧 馬元規 王行敏 盧士叡 李玄通 羅士信 張道源 楚金 李育徳 李公逸 張善相 高叡 仲舒 安金蔵 王同皎 潜 周憬 呉保安 李憕 源 彭 盧弈 元輔 張介然 崔無詖 夫有生所甚重者、身也。得輕用者、忠與義也。後身先義、仁也。身可殺、名不可死、志也。大凡捐生以趣義者、寧豫期垂名不朽而為之?雖一世成敗、亦未必済也、要為重所與、終始一操、雖頽嵩・岱、不吾壓也。夷・斉排周存商、商不害亡、而周以興。兩人至餓死不肯屈、卒之武王蒙慚徳、而夷・斉為得仁、仲尼變色言之、不敢少損焉。故忠義者、真天下之大閑歟!姦鈇逆鼎、搏人而肆其毒、然殺一義士、則四方解情、故亂臣賊子赩然疑沮而不得逞。何哉?欲所以為彼者、而為我也。義在與在、義亡與亡、故王者常推而褒之、所以砥礪生民而窒不軌也。雖然、非烈丈夫、曷克為之?彼委靡熟、偸生自私者、真畏人也哉!故次敍夏侯端以來凡三十三人于左方。 夏侯端、寿州寿春人、梁尚書左僕射詳孫也。仕隋為大理司直。高祖微時與相友、大業中討賊河東、表端為副。端邃数術、密語高祖曰:「玉牀搖、帝坐不安。晋得歳、真人将興、安天下之亂者、其在公乎!但上性沈忌、内惡諸李、今金才已誅、次且取公、宜蚤為計。」帝感其言。義師興、端在河東、吏捕送長安。帝入京師、釋囚、引入臥内、擢秘書監。 李密之降、関東地未有所屬、端請假節招諭、乃拜大将軍、為河南道招慰使。即伝檄州県、東薄海、南揵淮、二十餘州遣使順附。次譙州、會亳・汴二州刺史已降王世充、道塞、無所歸、計窮彷徨。麾下二千人糧盡不忍委端去、端乃殺馬宴大澤中、謂衆曰:「我奉王命、義無屈。公等有妻子、徒死無益。吾丐若首、持與賊以取富貴。」衆號泣不忍視、端亦泣、欲自刎、爭持之、乃止。行五日、餓死十四三。遇賊、衆潰、從者纔三十餘人、遂東走、擷豆以食。端持節臥起、歎曰:「平生不知死地乃在此!」縱其下令去、毋倶沒。會李公逸守州、勒兵迎端。時河南地悉入世充、公逸感端之節、亦固守。世充遣人以淮南郡公・尚書少吏部印綬召端、解所服衣以贈。端曰:「吾、天子使、寧汚賊官邪!非持首去不可見。」即焚書及衣、因解節毛懐之、間道走宜陽、歴崖峭榛莽。比到、其下僅有在者、皆體髮焦、人不堪視。端入謁、自謝無功、不及危困状。帝閔之、復拜秘書監。出為梓州刺史。散禄稟周孤窮、不為子孫計。貞観元年卒。 劉感、岐州鳳泉人、後魏司徒豊生孫也。武徳初、以驃騎将軍戍涇州、為薛仁杲所圍、糧盡、殺所乘馬啖士、而煮骨自飲、至和木屑以食。城垂陷、長平王叔良救之、賊乃解。與叔良出戰、為賊執、還圍涇州、令感約城中降。感紿諾、至城下大呼曰:「賊大飢、亡在朝暮、秦王数十万衆且至、勉之無苦。」仁杲怒、執感埋其半土中、馳射之。至死、詈益甚。 賊平、高祖購得其尸、祭以少牢、贈瀛州刺史、爵平原郡公、封戸二千、謚忠壮。詔其子嗣封爵、賜田宅焉。 常達、陝州陝人。仕隋為鷹撃郎将。嘗從高祖征伐、與宋老生戰霍邑、軍敗自匿、帝意已死、久乃自歸。帝大悅、命為統軍、拜隴州刺史。 時薛舉方彊、達敗其子仁杲、斬首千級。舉遣将仵士政紿降、達不疑、厚加撫接。士政伺隙劫之、并其衆二千歸賊。舉指其妻謂達曰:「識皇后乎?」答曰:「彼癭老嫗、何所道?」舉奴張貴又曰:「亦識我否?」達瞋目曰:「若乃奴耳。」貴忿、舉笏撃其面、達不為懾、亦拔刀逐之、趙弘安為蔽捍、乃免。仁杲平、帝見達、勞曰:「君忠節、正可求之古人。」為執士政殺之、賜達布帛三百段、以達并劉感事授史臣令狐徳棻云。終隴西刺史。 敬君弘、絳州絳人、北斉尚書右僕射顯曾孫也。累功歴驃騎将軍、封黔昌侯。以屯營兵守玄武門。隠太子之死、左右解散。其車騎将軍馮立者、有材武、歎曰:「生賴其寵、死不共難、我無以見士大夫!」乃與巣王親将謝叔方率兵攻玄武門、殊死鬭。君弘挺身出、或曰:「事未可判、當按兵待變、成列而鬭可也。」不從。與中郎将呂世衡呼而進、皆戰歿。立顧其下曰:「足以報太子矣。」遂解兵走。君弘等敗、秦府兵不振。尉遲敬徳擲巣王首示叔方、叔方下馬慟、亦出奔。明日自歸、太宗曰:「義士也。」置之。俄而立又至、帝讓曰:「汝離我兄弟、罪一也。殺我将士、罪二也。何所逃死?」答曰:「出身事主、當戰之日、不知其它。」因伏地悲不自勝、帝亦勞遣之。詔贈君弘左屯衛大将軍、世衡右驍衛将軍。 立已蒙貸、歸語人曰:「上赦吾罪、吾當以死報。」未幾、突厥犯便橋、立引数百騎與虜薄、敗之咸陽。帝喜、授廣州都督。前日牧守苛肆、為蠻夷患、故数叛。立至、不事家産、衣食弗求贏。嘗見貪泉曰:「此豈隠之所酌邪?吾雖日汲、庸易吾性哉?」遂極飲去。在職不三年、有惠愛、卒于官。 叔方歴伊州刺史、善治軍、戎・華愛之。累加銀青光禄大夫、徙洪・廣二州都督。卒、謚曰勤。本万年人、從巣王征討有功、王表為屈咥真府左軍騎云。 呂子臧、蒲州河東人。剛直、健于吏。隋大業末為南陽郡丞、捕撃盜賊有功。高祖入京師、遣馬元規慰輯山南、独子臧堅守。元規遣士諷曉、子臧殺之。及煬帝已弑、帝更使其壻薛君倩齎詔、言隋所以亡、諭子臧。子臧為故君發喪訖、即送款、就拜鄧州刺史、封南陽郡公。 武徳初、朱粲新、子臧率兵與元規并力。元規軍不進、子臧曰:「乘賊新敗、上下惶沮、一戰可禽。若遷延、其衆稍集、吾食盡、致死於我、不可當也。」不納。子臧請以所部兵独進、又不許。俄而粲得衆、復張、元規嬰城、子臧扼腕曰:「謀不見用、坐公死矣。」賊圍固。會霖雨、雉堞崩剥、或勸其降、子臧曰:「我、天子方伯、且降賊乎?」乃率麾下数百人赴敵死、城亦陷、元規死之。 元規、安陸人。初以隊正從帝征伐、持節下南陽、得兵万餘、然無謀、至于敗。 王行敏、并州楽平人。隋末為盜長、高祖興、來降、拜潞州刺史、遷屯衛将軍。劉武周入并州、寇上黨、取長子・壺関。或言刺史郭子武懦不支、且失潞、帝遣行敏馳往。既至、與子武不、賊圍急、儲偫空乏、衆恫懼、行敏患之。會有告子武謀反、遂斬之。州民陳正謙者、以信義稱郷里、出粟千石済軍、由是人自奮、賊乃去。行敏又敗竇建徳兵於武陟。武徳四年、督兵徇燕・趙、與劉黒闥戰歴亭、破之。既而釋甲不設備、為黒闥所掩、縛致麾下。終不屈、賊遂斬之。且死、西向跪曰:「臣之忠、惟陛下知之。」帝聞而悼惜。 黒闥之亂、死事者又有盧士叡・李玄通。 士叡客韓城。隋亂、結納英豪。高祖與之舊、及兵興、率数百人上謁汾陰、又使兄子諭降劇賊孫華、與劉弘基敗隋将桑顯和於飲馬泉。擢累右光禄大夫、為瀛州刺史。黒闥遣輕騎破其郛、拒戰半日、士見親屬係虜、乃潰。士叡為賊擒、欲使説下城堡、不從、見殺。 玄通、藍田人。為隋鷹揚郎将、高祖入関、率所部自歸、拜定州總管。為黒闥所破、愛其才、欲以為将。玄通曰:「吾當守節以報、烏能降志賊邪?」不聽、囚之。故吏有餉飲餽者、玄通曰:「諸君見哀、吾能一醉。」遂縱飲、謂守者曰:「吾能剣舞、可借刀。」守士與之。曲終、仰天太息曰:「大丈夫撫方面、不能保所守、尚何視息邪?」乃潰腹死。帝為流涕、擢其子伏護大将軍。 羅士信、斉州歴城人。隋大業時、長白山賊王薄・左才相・孟讓攻斉郡、通守張須率兵撃賊。士信以執衣、年十四、短而悍、請自。須疑其不勝甲、少之。士信怒、被重甲、左右鞬、上馬顧眄。須許之。撃賊濰水上、陣纔列、執長矛馳入賊營、刺殺数人、取一級擲之、承以矛、戴而行、賊皆眙懼無敢亢。須乘之、大破賊。士信逐北、毎殺一賊、輒劓鼻納諸懐、曁還、驗以代級。須歎伏、遺以所乘馬。凡戰、須先登、士信副、以為常。煬帝遣使圖須・士信陣法上内史。 後須為李密所殺、士信與裴仁基歸密、署總管、俾統所部討王世充。身被重創、見獲於世充。世充愛其才、厚遇之、與同寢食。後得密将邴元真等、故士信稍稍疏斥。士信恥與伍、率所部千餘人來降高祖、拜陝州道行軍總管、因謀世充。 士信行則先鋒、反則殿、有所獲、悉散戲下有功者、或脱衣解馬賜之、士以故用命。然持法嚴、至親舊無少貸、其下亦不甚附。師次洛陽、攻千金堡、有惡言軍、士信怒、夜遣百人載嬰兒譟堡下、若自東都出奔者、既而陽悟曰:「非也、此千金堡耳。」因散去。堡兵開門追掠、士信伏入、屠之無類。賊平、授絳州總管、封郯国公。 從秦王撃劉黒闥洛水上、得一城、王君廓戍之、賊急攻、潰而出。王語諸将:「孰能守此?」士信曰:「願以守。」乃命之。士信已久、賊悉衆攻、方雨雪、救軍不得進。城陷、黒闥欲用之、不屈而死、年二十八。王隠悼、購其尸以葬、謚曰勇。初、士信為仁基所礼、及東都平、出家財斂葬北邙以報徳、且曰:「我死當墓其側。」至是、如所志。 張道源、并州祁人、名河、以字顯。年十四、居父喪、士人賢其孝、県令郭湛署所居曰復礼郷至孝里。道源嘗與客夜宿、客暴死、道源恐主人忽怖、臥尸側、至曙乃告、又徒歩護送還其家。隋末政亂、辭監察御史、歸閭里。 高祖興、署大将軍府戸曹参軍。至賈胡堡、復使守并州。京師平、遣撫慰山東、下燕・趙。有詔褒美、封累范陽郡公。淮安王神通略定山東、令守趙州、為竇建徳所執。會建徳寇河南、間遣人詣朝、請乘虚擣賊心脅。即詔諸将率兵影接。俄而賊平、還、拜大理卿。時何稠得罪、籍其家屬賜臣。道源曰:「禍福何常、安可利人之亡、取其子女自奉?仁者不為也。」更資以衣食遣之。天子見其年耆、拜綿州刺史。卒、贈工部尚書、謚曰節。道源雖官九卿、無産貲、比亡、餘粟二斛。詔賜帛三百段。 族孫楚金有至行、與兄越石皆舉進士。州欲独薦楚金、固辭、請倶罷。都督李勣歎曰:「士求才行者也。既能讓、何嫌皆取乎?」乃並薦之。累進刑部侍郎。儀鳳初、彗見東井、上疏陳得失。高宗欽納、賜物二百段。武后時、歴秋官尚書、爵南陽侯。有清、然尚文刻、當時亦少之。為酷吏所構、流死嶺表。 李育徳、趙州人。祖諤、仕隋通州刺史、為名臣。世富于財、家僮百人。天下亂、乃私完械甲、嬰武陟城自保、人多從之、遂為長。劇賊來掠、不能克。隋亡、與柳燮等歸李密、私署總管。密為王世充所破、以郡來降、即拜陟州刺史。 兄厚徳、自賊所逃歸、度河復被執。賊使招育徳、陽許之、故兄不死。賊帥段大師令裨校以兵守厚徳、陰得其驩、乃與州人賈慈行謀逐賊。慈行夜登城呼曰:「唐兵登矣!」厚徳自獄擁囚譟而出、斬長史、衆不敢動、大師縋城走。即拜殷州刺史。厚徳省親、留育徳以守、引兵拔賊河内堡三十一所。世充怒、悉鋭士攻之、城陷、猶力戰、與三弟皆歿。 時死節者又有李公逸・張善相、凡三人。 公逸者、與族弟善行居雍丘、以材雄、為衆所歸。始附王世充、策其必敗、乃獻款高祖、因其地置州、即拜總管、封陽夏郡公。以善行為刺史。世充遣其弟将徐・亳兵攻之、公逸請援、未報、因使善行守、身入朝言状。至襄城、為賊邏送洛陽。世充曰:「君越鄭臣唐、何哉?」答曰:「我於天下唯聞有唐。」賊怒斬之。善行亦死。帝悼惜、封其子襄邑県公。 善相、襄城人。大業末為里長、督兵盜、為衆附賴、乃據許州奉李密。密敗、挈州以來、詔即授伊州總管。王世充攻之、屢困賊、遣使三輩請救、朝廷未暇也。會糧盡、衆餓死、善相謂僚屬曰:「吾為唐臣、當命。君等無庸死、斬吾首以下賊可也。」衆泣不肯、曰:「與公同死、愈於独生。」城陷被執、罵賊見殺。高祖歎曰:「吾負善相、善相不負我!」乃封其子襄城郡公。 高叡、京兆万年人、隋尚書左僕射熲孫也。舉明經、稍遷通義令、有治勞、人刻石載徳。歴趙州刺史、平昌県子。聖暦初、突厥默啜入寇、叡嬰城拒、虜攻益急。長史唐波若度且陷、即與虜通。叡覺之、力不能制、即自經。不得死、為虜執、使降諭諸県、不肯應、見殺。初、虜至、有為叡計者:「突厥鋭、所向無完、公不能亢、且當下之。」答曰:「我、刺史、不戰而降、罪大矣。」武后歎惜、贈冬官尚書、謚曰節。詔誅波若、籍其家。下制暴叡忠節・波若臣賊、使天下知之。 子仲舒、通故訓学、擢明經、為相王府文学、王所欽器。開元初、宋璟・蘇頲當秉、多咨訪焉。時舍人崔琳練達政宜、璟等礼異之。常語人曰:「古事問高仲舒、時事問崔琳、何復疑?」終太子右庶子。 安金蔵、京兆長安人。在太常工籍。睿宗為皇嗣、少府監裴匪躬・中官范雲仙坐私謁皇嗣、皆殊死、自是公卿不復見、唯工優給使得進。俄有誣皇嗣異謀者、武后詔來俊臣問状、左右畏慘楚、欲引服。金蔵大呼曰:「公不信我言、請剖心以明皇嗣不反也。」引佩刀自剚腹中、腸出被地、眩而仆。后聞大驚、輿致禁中、命高醫内腸、褫桑紩之、閱夕而蘇。后臨視、歎曰:「吾有子不能自明、不如爾之忠也。」即詔停獄、睿宗乃安。當是時、朝廷士大夫翕然稱其誼、自以為弗及也。 神龍初、母喪、葬南闕口、營石墳、晝夜不息。地本卬燥、泉忽湧流廬之側、李冬有華、犬鹿相擾。本道使盧懐慎上其事、詔表闕于閭。景雲時、遷右武衛中郎将。玄宗屬其事於史官、擢右驍衛将軍、爵代国公。詔鑱其名於泰・華二山碑以為榮。卒、配饗睿宗廟廷。大暦中、贈兵部尚書、謚曰忠。以子承恩為廬州長史。中和中、又擢其遠孫敬則為太子右諭徳。 王同皎、相州安陽人、陳駙馬都尉寬曾孫也。陳亡、徙河北。長安中、尚太子女安定郡主、拜典膳郎。太子、中宗也。桓彦範等誅二張、遣同皎與李湛・李多祚即東宮迎太子、請至玄武門指授諸将。太子拒不許、同皎進曰:「逆豎反道、顯肆不軌、諸将與南衙執事刻期誅之、須殿下到以係衆望。」太子曰:「上方不豫、得無不可乎?」同皎曰:「将相毀家族以安社稷、奈何欲内之鼎鑊乎?太子能自出諭之、衆乃止。」太子猶豫、同皎即扶上馬、從至玄武門、斬関入。兵趨長生殿太后所、環侍嚴定、因奏誅易之等状。帝復位、擢右千牛将軍、封琅邪公、食實戸五百。主進封公主、拜同皎駙馬都尉、遷光禄卿。 神龍後、武三思烝濁王室、同皎惡之、與張仲之・祖延慶・周憬・李悛・冉祖雍謀、須武后靈駕發、伏弩射殺三思。會播州司兵参軍宋之愻以外妹妻延慶、延慶辭、之愻固請、乃成昏。延慶心厚之、不復疑。故之愻子曇得其實。之愻兄之問嘗舍仲之家、亦得其謀。令曇密語三思。三思遣悛上急變、且言同皎欲擁兵闕下廢皇后。帝殊不曉、大怒、斬同皎於都亭驛、籍其家。同皎且死、神色自如。仲之・延慶皆死。憬遁入比干廟自剄、将死、謂人曰:「比干、古忠臣、神而聰明、其知我乎!后・三思亂朝、虐害忠良、滅亡不久、可干吾頭国門、見其敗也。」憬、寿春人。後太子重俊誅三思、天下共傷同皎之不及見也。睿宗立、詔復官爵、謚曰忠壮。誅祖雍・悛等。 先是、許州司戸参軍燕欽融再上書斥韋后擅政、且逆節已萌。后怒、勸中宗召至廷、撲殺之。宗楚客復私令衛士極力、故死。又博陵人郎岌亦表后及楚客亂、被誅。至是、倶贈諫議大夫、備礼改葬、賜欽融一子官。 同皎子繇尚永穆公主、生子潜、字弘志。生三日、賜緋衣・銀魚。幼莊重、不喜兒弄。以帝外孫、補千牛、復選尚公主、固辭。元和中擢累将作監。吏或籍名北軍、輒驕墯不事、潜悉奏罷之、故不戒而辨。監無公食、而息錢舊皆私有、至潜、取以具食、遂為故事。 遷左散騎常侍、拜涇原節度使。憲宗與對、大悅、曰:「吾知而善職、我自用之。」潜至鎮、繕壁壘、積粟、構高屋偫兵、利而嚴。遂引師自原州踰硤石、取虜将一人、斥烽候、築歸化・潘原二壘。請復城原州、度支沮議、故原州復陷。穆宗即位、封琅邪郡公、更節度荊南。疏吏惡、榜之里閭、殺尤縱者。分射三等、課士習之。不能者罷、故無冗軍。大和初、検校尚書左僕射。卒于官、贈司空。 呉保安字永固、魏州人。氣挺特不俗。睿宗時、姚・巂蠻叛、拜李蒙為姚州都督、宰相郭元振以弟之子仲翔託蒙、蒙表為判官。時保安罷義安尉、未得調、以仲翔里人也、不介而見曰:「願因子得事李将軍可乎?」仲翔雖無雅故、哀其窮、力薦之。蒙表掌書記。保安後往、蒙已深入、與蠻戰沒、仲翔被執。蠻之俘華人、必厚責財、乃肯贖、聞仲翔貴冑也、求千縑。會元振物故、保安留巂州、營贖仲翔、苦無貲。乃力居貨十年、得縑七百。妻子客遂州、間関求保安所在、困姚州不能進。都督楊安居知状、異其故、資以行、求保安得之。引與語曰:「子棄家急朋友之患至是乎!吾請貣官貲助子之乏。」保安大喜、即委縑于蠻、得仲翔以歸。始、仲翔為蠻所奴、三逃三獲、乃轉鬻遠酋、酋嚴遇之、晝役夜囚、沒凡十五年乃還。 安居亦丞相故吏、嘉保安之誼、厚礼仲翔、遺衣服儲用、檄領近県尉。久乃調蔚州録事参軍、以優遷代州戸曹。母喪、服除、喟曰:「吾賴呉公生吾死、今親歿、可行其志。」乃求保安。于時、保安以彭山丞客死、其妻亦沒、喪不克歸。仲翔為服縗絰、囊其骨、徒跣負之、歸葬魏州、廬墓三年乃去。後為嵐州長史、迎保安子、為娶而讓以官。 李憕、并州文水人。或言其先出興聖皇帝、譜系疏晦、不復伝。父希倩、神龍初右臺監察御史。憕少秀敏、舉明經高第、授成安尉。張説罷宰相、為相州刺史、坐有善相者、説問官屬後孰當貴、工指憕及臨河尉鄭巌、説以女妻巌、而歸其甥陰於憕。會母喪免。自武功尉以政尤異遷主簿。説在并州、引憕置幕府。及執政、為長安尉。宇文融括天下田、高選官屬、多致賢以重其柄。表假憕監察御史、分道検覈。以課真拜御史。坐小累、下除晋陽令。三遷給事中。力于治、有任事稱、明簿最、下無敢紿。失李林甫意、出為河南少尹。尹蕭炅内倚權、骫法殖私、憕裁抑其謬、吏下賴之。道士孫甑生以左道幸、託祠事往來嵩・少間、干請亂吏治、憕不為應、故挾炅譖諸朝。天宝初、除清河太守。舉美政、遷廣陵長史、民為立祠賽祝、歳時不絶。以捕賊負、徙彭城太守。封酒泉県侯。連徙襄陽・河東、並兼採訪處置使。入為京兆尹。楊国忠惡之、改光禄卿・東京留守。 安禄山反、玄宗遣封常清募兵東京、憕與留臺御史中丞盧弈・河南尹達奚珣繕城壘、綏勵士卒、将遏賊西鋒。帝聞、擢礼部尚書。禄山度河、號令嚴密、候詗不能知。已陷陳留・滎陽、殺張介然・崔無詖、不数日、薄城下。常清兵皆白徒、戰不勝、輒北。憕收殘士数百、裒斷弦折矢堅守、人不堪鬭。憕約弈:「吾曹荷国重寄、雖力不敵、當死官。」部校皆夜縋去、憕坐留守府、弈守臺。城陷、禄山而入、殺数千人、矢著闕門、執憕・弈及官屬蒋清、害之。有詔贈司徒、謚曰忠懿。河・洛平、再贈太尉、拜一子五品官。 憕通左氏春秋、頗殖産伊川、占膏腴、自都至闕口、疇墅彌望、時謂「地癖」。巌仕終少府監、産利埒憕云。 憕十餘子、江・涵・渢・瀛等同遇害、唯源・彭脱。 源八歳家覆、俘為奴、轉側民間。及史朝義敗、故吏識源於洛陽者贖出之、歸其宗屬。代宗聞、授河南府参軍、遷司農主簿。以父死賊手、常悲憤、不仕不娶、絶酒葷。惠林佛祠者、憕舊墅也、源依祠居、闔戸日一食。祠殿、其先寢也、毎過必趨、未始踐階。自營墓為終制、時時偃臥中。 長慶初、年八十矣、御史中丞李徳裕表薦源、曰:「賈誼稱:守圉扞敵之臣、死城郭封疆。天宝時、士罕伏節、逆羯始興、委符組・棄城郭者不為恥、而憕約義同列、守位自如、抵刃就終、臣節之光由憕始。而源天與至孝、絶心禄仕五十餘年、常守沈默、理契深要、一辭開析、百慮洗然。抱此真節、棄於清世、臣竊為陛下惜之。」穆宗下詔曰:「昔盜起幽陵、振蕩河・洛、贈太尉憕處難居首、正色就死、兩河聞風、再固危壁、殊節卓焉、到今稱之。源有曾参之行・巣父之操、泊然無營、汔此高年。夫褒忠、所以勸臣節也。旌孝、所以激人倫也。鎮澆浮、莫如尚義。厚風俗、莫如尊老。舉是四者、大儆于時。其以源守諫議大夫、賜緋魚袋。」河南尹遣官敦諭上道、帝自遣使者持詔書袍笏即賜、又賜絹二百匹。源頓首受詔、謂使者:「伏疾年耄、不堪趨拜。」即附表謝、辭吐哀、一無受。尋卒。敬宗時、擢憕孫為河南兵曹参軍。 彭擢明經第。天宝中、選名臣子可用者、自咸寧丞遷右補闕。從天子入蜀。後憕数年卒。有孫景讓・景莊・景温、別伝。 武徳功臣十六人、貞観功臣五十三人、至徳功臣二百六十五人。徳宗即位、録武徳以來宰相及實封功臣子孫、賜一子正員官。史館考勳名特高者九十二人、以三等條奏。第一等、以其歳授官。第二等、以次年。第三等、子孫数訟於朝、有詔差為二等、增至百八十七人。毎等、武徳以來宰相為首、功臣次之、至徳以來将相又次之。大中初、又詔求李峴・王珪・戴冑・馬周・褚遂良・韓瑗・郝處俊・婁師徳・王及善・朱敬則・魏知古・陸象先・張九齢・裴寂・劉文静・張柬之・袁恕己・崔玄暐・桓彦範・劉幽求・郭元振・房琯・袁履謙・李嗣業・張巡・許遠・盧弈・南霽雲・蕭華・張鎬・李勉・張鎰・蕭復・柳渾・賈耽・馬燧・李憕三十七人畫像、續圖凌煙閣云。 司空・太子太傅・知門下省事・梁国公房玄齢 尚書右僕射・検校侍中・萊国公杜如晦 太子太保・同中書門下三品・宋国公蕭瑀 開府儀同三司・同中書門下三品・知政事・上柱国・申国公高士廉 太子太師・知政事・特進・鄭国公魏徴 侍中・永寧郡公王珪 吏部尚書・参豫朝政・道国公戴冑 中書令・江陵県子岑文本 中書令・兼太子左庶子・検校吏部尚書・高唐県公馬周 侍中・兼太子左庶子・検校吏部礼部民部尚書事・清苑県男劉洎 尚書右僕射・同中書門下三品・河南郡公褚遂良 太子太師・同中書門下三品・燕国公于志寧 尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子少傅・北平県公張行成 中書令・行侍中・兼太子少保・蓨県公高季輔 侍中・兼太子賓客・襲潁川県公韓瑗 中書令・兼太子詹事・南陽県侯來済 侍中・兼太子賓客張文瓘 侍中・甑山県公郝處俊 中書侍郎・同中書門下三品・兼太子右庶子・酒泉県公李義琰 内史・河東県侯裴炎 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・温国公蘇良嗣 内史・梁国公狄仁傑 納言・検校并州大都督府長史・天兵軍大總管・隴右諸軍大使・譙県子婁師徳 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺平章事・石泉県公王方慶 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・襲邢国公王及善 尚書右僕射・兼中書令・知兵部尚書事・斉国公魏元忠 紫微令・梁国公姚崇 正諫大夫・同鳳閣鸞臺平章事朱敬則 尚書左僕射・同中書門下平章事・許国公蘇 吏部尚書・兼侍中・廣平郡公宋璟 黄門監・梁国公魏知古 中書侍郎・同中書門下平章事・兗国公陸象先 紫微侍郎・同紫微黄門平章事・許国公蘇頲 中書令・河東県侯張嘉貞 中書侍郎・同中書門下平章事・清水県公李元紘 黄門侍郎・同中書門下平章事・宜陽県子韓休 中書令・始興県伯張九齢 司空・河東郡公裴寂 納言・上柱国・魯国公劉文静 太尉・検校中書令・同中書門下三品・揚州大都督・趙国公長孫忌 礼部尚書・河間郡王孝恭 尚書右僕射・検校中書令・行太子左衛率・上柱国・衛国公李靖 司空・兼太子太師・英国公李勣 開府儀同三司・鄜州都督・鄂国公尉遲敬徳 左光禄大夫・洛州都督・蒋国公屈突通 陝東道大行臺・吏部尚書・鄖国公殷開山 衛尉卿・夔国公劉弘基 澤州刺史・邳国公長孫順徳 民部尚書・上柱国・莒国公唐儉 右驍衛大将軍・駙馬都尉・譙国公柴紹 右驍衛大将軍・褒国公段志玄 洪州都督・渝国公劉政會 左武候将軍・相州都督・郯国公張公謹 右武衛大将軍・盧国公程知節 左武衛大将軍・上柱国・胡国公秦叔宝 弘文館学士・秘書監・永興県公虞世南 右衛大将軍・兼太子右衛率・工部尚書・武陽県公李大亮 左武衛大将軍・邢国公蘇定方 夏官尚書・同中書門下三品・清邊道行軍總管・耿国公王孝傑 中書令・漢陽郡公張柬之 中書令・博陵郡公崔玄暐 侍中・平陽郡公敬暉 侍中・譙国公桓彦範 中書令・南陽郡公袁恕己 右武衛大将軍・同中書門下三品・韓国公張仁愿 尚書左丞相・兼黄門監・徐国公劉幽求 黄門侍郎・参知機務・脩文館学士・斉国公崔日用 兵部尚書・同中書門下三品・代国公郭元振 尚書左承相・兼中書令・集賢院学士・燕国公張説 紫微侍郎・上柱国・趙国公王琚 兵部尚書・同中書門下三品・持節朔方軍節度大使・中山郡公王晙 尚書左僕射・同中書門下平章事・兼河南江淮副元帥・東都留守・冀国公裴冕 文部尚書・同中書門下平章事・清河県公房琯 門下侍郎・同中書門下平章事・衛国公杜鴻漸 鎮西北庭行營節度使・開府儀同三司・衛尉卿・兼懐州刺史・虢国公李嗣業 平盧軍節度使・柳城郡太守劉正臣 恆州刺史・衛尉少卿・兼御史中丞顔杲卿 常山郡太守袁履謙 河南節度副使・左金吾衛将軍・検校主客郎中・兼御史中丞張巡 睢陽郡太守・兼御史中丞許遠 御史中丞・留臺東都・知武部選盧弈 睢陽郡太守・特進左金吾衛将軍南霽雲 右第一 内史令・延安郡公竇威 将作大匠・判納言・陳国公竇抗 侍中・兼太子左庶子・江国公陳叔達 納言・観国公楊恭仁 判吏部尚書・参議朝政・安吉郡公杜淹 中書令・虞国公温彦博 中書侍郎・検校刑部尚書・参知機務崔仁師 中書令・兼検校太子詹事・上柱国・安国公崔敦礼 戸部尚書・平恩県公許圉師 兵部尚書・同中書門下三品・浿江道行軍總管任雅相 度支尚書・同中書門下三品・范陽郡公盧承慶 西臺侍郎・同東西臺三品・兼弘文館学士・楚国公上官儀 右相・廣平郡公劉祥道 左侍極・兼検校左相・嘉興県子陸敦信 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・楽城県公劉仁軌 荊州大都督府長史・安平郡公李安期 尚書右僕射・同中書門下三品・兼太子賓客・襲道国公戴至徳 司列少常伯・太子右中護・兼正諫大夫・同東西臺三品趙仁本 中書令・趙国公李敬玄 中書令・兼太子左庶子薛元超 中書令・同中書門下三品崔知温 侍中・同中書門下三品・襲廣平郡公劉斉賢 納言・楽平県男王徳真 地官尚書・検校納言・鉅鹿県男魏玄同 文昌左相・同鳳閣鸞臺三品・特進・輔国大将軍・鄧国公岑長倩 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品・臨淮県男劉禕之 納言・博昌県男韋思謙 地官尚書・同鳳閣鸞臺平章事格輔元 司礼卿・判納言事・渤海県子歐陽通 内史李昭徳 鸞臺侍郎・同鳳閣鸞臺平章事陸元方 鳳閣侍郎・同鳳閣鸞臺三品杜景佺 尚書右僕射・兼太子賓客・同中書門下三品・鄖国公韋安石 左散騎常侍・同中書門下三品・知東都留守・趙郡公李懐遠 中書令・逍遙公韋嗣立 守侍中・同中書門下三品・兼太子右庶子・常山県男李日知 検校黄門監・漁陽県伯盧懐慎 中書令・左丞相・兼侍中・安陽郡公源乾曜 黄門侍郎・同紫微黄門平章事・魏県侯杜暹 侍中・趙城侯裴耀卿 左武衛大将軍・開府儀同三司・淮安王神通 特進・太常卿・江夏王道宗 荊州都督・周国公武士 右屯衛大将軍・検校晋州都督總管・譙国公竇琮 少府監・葛国公劉義節 右光禄大夫・羅国公張平高 洛州都督・右衛大将軍・酇国公竇軌 夔州都督・息国公張長愻 金紫光禄大夫・夷国公李子和 左監門衛大将軍・検校右武候将軍・榮国公樊興 左監門衛大将軍・巣国公錢九隴 右驍衛大将軍・歸国公安興貴 右武衛大将軍・申国公安脩仁 殿中監・郢国公宇文士及 右武衛大将軍・沔陽郡公公孫武達 荊州都督・懐寧郡公杜君綽 右驍衛将軍・濮国公龐卿惲 代州都督・同安郡公鄭仁泰 右翊衛将軍・遂安郡公李安遠 幽州都督・歴陽郡公独孤彦雲 始州刺史・左屯衛大将軍・襄武郡公劉師立 右威衛大将軍・済東郡公李孟嘗 右監門衛大将軍・河南県公元仲文 右監門衛将軍・廬陵郡公秦師行 左領軍大将軍・新興公馬三宝 右衛大将軍・駙馬都尉・畢国公阿史那社尒 鎮軍大将軍・虢国公張士貴 左衛大将軍・琅邪郡公牛進達 鎮軍大将軍・嘉川郡公周護 陝州刺史・天水郡公丘行恭 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安禄山陷東都、吏亡散。弈前遣妻子懐印間道走京師、自朝服坐臺。被執、将殺之、即数禄山罪、徐顧賊徒曰:「為人臣者當識逆順、我不蹈失節、死何恨?」観者恐懼。弈臨刑、西向再拜而辭、罵賊不空口、逆黨為變色。肅宗詔贈礼部尚書、下有司謚。時以為洛陽亡、操兵者任其咎、執法吏去之可也、委身寇讎、以死誰懟?博士独孤及曰:「荀息殺身於晋、不食其言也。玄冥勤其官水死、守位忘躬也。伯姬待姆而火死、先礼後身也。彼死之日、皆於事無補。然則禄山亂大於里・丕、弈廉察之任、切於玄冥之官。分命所繋、不啻保姆。逆黨兵威、烈於水火。于斯時也、能與執干戈者同其戮力、挽之不來、推之不去、全操白刃之下、孰與夫懐安偸生者同其風?請謚曰貞烈。」詔可。 子、別有伝。子元輔。 元輔字子望、少以清行聞。擢進士、補崇文校書郎。死、徳宗念之不忘、拜元輔左拾遺。歴杭・常・絳三州刺史、課當最、召授吏部郎中、進累兵部侍郎、為華州刺史、卒。 元輔端静介正、能詔其祖、故歴顯劇、而人不以之惡為累云。 張介然者、猗氏人、本名六朗。性慎愿、長計畫。始為河・隴支郡太守。王忠嗣・皇甫惟明・哥舒翰踵領節度、並署營田・支度等使。入奏稱旨、賜與良渥。介然啓曰:「臣位三品、當給棨戟。若列於京師、雖富貴、不為郷人知、願得列戟故里。」玄宗許之、別賜戟京師第門、仍賜絹五百匹、宴閭里長老。本郷得列戟、自介然始。翰薦為少府監、歴衛尉卿。 禄山反、授河南節度採訪使、守陳留。陳留據水陸劇、居民孳夥、而太平久、不知戰。介然到屯不三日、賊已度河。車騎蹂騰、煙塵漫数十里、日為奪色。士聞鉦鼓聲、皆褫氣不能授甲。凡旬六日、城陷。初、有詔購賊首而暴誅慶宗状。禄山入陳留、見詔書、拊膺大哭曰:「我何罪!吾子亦何罪、乃殺之!」即大恚憤、殺陳留降者万人以逞、血流成川。斬介然於軍門。以偽将李廷望為節度使、守陳留。 禄山已拔陳留、則鼓而前、無敢亢。中宿攻滎陽、太守崔無詖率衆乘城、聞師譟、自隊如雨、無詖與官屬皆死賊手。以偽将武令珣戍焉。 無詖者、本韋后外家、博陵舊望也。始、無詖娶蕭至忠女、至忠敗、被貶。久乃為益州司馬。素善楊国忠、既用事、引為少府監、守滎陽。有詔贈礼部尚書、謚曰毅勇。
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唐書巻九十九 列伝第二十四 李綱 安仁 安静 李大亮 道裕 迥秀 戴冑 至徳 劉洎 楽彦瑋 崔仁師 湜 液 澄 李綱字文紀、観州蓨人。少慷慨、尚風節。始名瑗、慕張綱為人、改焉。仕周為斉王憲参軍事。宣帝将殺憲、召僚屬誣左其罪、綱矢死無橈辭。及憲誅、露車載尸、故吏奔匿、綱撫棺號慟、為瘞訖、乃去。 事隋為太子洗馬。太子勇宴宮臣、左庶子唐令則奏琵琶、又歌武媚娘曲。綱曰:「令則官調護、乃自比倡優、進淫聲、惑視聽、誠使上聞之、豈不為殿下累乎?臣請正其罪。」勇曰:「置之、我欲為楽耳!」後勇廢、文帝切讓、官屬無敢對、綱獨曰:「陛下不素教、故太子至此。太子資中人、得賢者輔而善、得不肖導而惡、奈何歌舞鷹犬纖兒使日侍側?何特太子罪邪?」帝曰:「以汝為洗馬、何不擇人?」綱曰:「臣非東宮得言者。」帝曰:「朕過矣!」擢尚書右丞。時楊素・蘇威用事、綱据正不詭迎隨、素等参憾。會大将軍劉方討林邑、素言林邑多珍貲、非綱不可任、遂署行軍司馬。方揣素指、数危辱之、幾殆。軍還、不得調。稍除斉王府司馬。復詔出南海、應接林邑。久不召、乃身入奏。威劾綱擅去所部、以屬吏。會赦免、屏居鄠。大業末、賊帥何潘仁劫為長史。 高祖平京師、綱上謁、授丞相府司録参軍、封新昌県公、領選舉。受禪、拜礼部尚書兼太子詹事。斉王元吉為并州総管、縱左右攘奪、民愁苦、宇文歆諫、不聽、騰状顯言、王坐免。俄而復留、下危惴。劉武周入太原、元吉懼、棄軍奔京師、并州陷。帝怒、謂綱曰:「王年少、不習事、故以歆及竇誕佐之。太原、興王地、兵十万、粟支十年、奈何一旦棄去?歆建此計、我當斬于軍。」綱曰:「王過惡、誕養成之。歆事王淺、有闕必諍。今賴歆計、使陛下不失愛子、且有功、又可加罪乎?」翼日、帝悟、引綱升御榻、勞曰:「卿不言、我幾濫罰。」於是釋歆、然猶貸誕也。 帝以舞工安叱奴為散騎常侍、綱諫曰:「周家均工楽胥不得預士伍、雖復妙如師襄、才如子野、皆繼世不易業。故魏武使禰衡撃鼓、衡先解朝衣、曰:『不敢以先王法服為伶人衣。』斉高緯封曹妙達為王、以安馬駒開府、有国家者、可為鑒戒。今新造天下、開太平之基、功臣賞未及、高才猶伏草茅、而先令舞胡鳴玉曳組、位五品、趨丹地、殆非創業垂統・貽子孫之道也。」帝不納。 綱在東宮、太子建成尤加礼、嘗游温湯、綱疾不從。有進魚者、太子使膾之、唐倹・趙元楷自言其能。太子曰:「操刀膾鯉和鼎味、公等善之。若弼諧審諭、固屬綱矣。」遣使賜絹二百匹。後太子寖狎亡賴、猜間朝廷、綱頻諫不見聽、遂乞骸骨。帝罵曰:「卿為潘仁長史、而羞朕尚書邪?」綱頓首曰:「潘仁、賊也、志殘殺、然毎諫輒止、為其長史、故無愧。陛下功成、厚自伐、臣言如持水内石、敢久為尚書乎?且臣事東宮、東宮又與臣忤、是以上印綬。」帝謝曰:「知公直士、幸卒輔吾兒。」乃拜太子少保、尚書・詹事如故。綱上書太子曰:「綱老矣、幸未就木、備位保傅、冀得効愚鄙。日殿下飲酒過量、非養生之道。凡為人子、務孝謹、以慰上心、不宜聽受邪説、與朝廷生惎間。」太子覽書不懌、所為益縱。綱悒悒不自賴、固請老、優詔解尚書。帝以綱隋名臣、手敕未嘗名。 貞観四年、復為少師。以足疾賜歩輿、聽乘至閤、問以政事。詣東宮、太子承乾為拜、毎聽政、必詔綱與房玄齡・王珪侍坐。嘗言曰:「託六尺之孤、寄百里之命、古人為難、綱以為易!」故發言陳事、毅然不可奪。及疾、帝遣玄齡至家存問。明年卒、年八十五、贈開府儀同三司、謚曰貞、太子為立碑。 初、斉王憲女嫠居、綱厚卹之。及卒、女被髮號哭、如喪其親然。綱在隋、宦不進、筮之得鼎。筮人曰:「君當為卿輔、然待易姓乃如志。仕不知退、折足為敗。」故綱雖顯於唐、数稱疾辭位云。 孫安仁・安静。 安仁、永徽中為太子左庶子、太子忠廢還邸、寮屬奔散、獨安仁泣拜而去。終恆州刺史。 安静、天授中為右衛将軍。武氏革命、群臣皆勸進、安静獨無所請。及收繋獄、來俊臣問状、安静曰:「正以我唐舊臣、殺之可也。若詰其状、吾誰欺?」俊臣誣殺之。會昌中、録忠臣後、訪子孫已絶、乃贈安静太子少師。 自綱五世同居、安仁・安静復以義烈聞、世稱李氏不衰。 李大亮、京兆涇陽人。祖琰、為魏度支尚書。大亮有文武才略、隋末、署龐玉行軍兵曹。李密寇東都、玉戰敗、大亮被禽。賊将張弼異之、就執百餘人皆死、獨釋大亮、引與語、遂定交。 高祖入關、大亮自歸、授土門令。方歳飢、境多盜賊。大亮招亡散、撫貧瘠、賣所乘馬、稍稍資業之、勸墾田、歳大熟。間出撃盜、所至輒平。秦王行北境、下書勞、賜馬五乘、帛五十段。頃之、胡賊大至、大亮度不能拒、乃單馬詣営説豪帥、為分別禍福、賊衆感服、遂相率降。大亮殺所乘馬與之食、至歩而返。帝聞之悅、擢金州総管府司馬。王弘烈據襄陽、詔大亮安撫樊・鄧、因圖之、進撃、下十餘城。遷安州刺史。復使徇廣州、至九江、會輔公祏反、以計禽其将張善安。公祏方圍猷州、刺史左難當固守、大亮率兵撃走之。遷越州都督。 貞観初、徙交州、封武陽県男。召授太府卿、復出涼州都督。嘗有臺使見名鷹、諷大亮獻之。大亮密表曰:「陛下絶畋獵久矣、而使者求鷹。信陛下意邪、乃乖昔旨。如其擅求、是使非其才。」太宗報書曰:「有臣如此、朕何憂!古人以一言之重訂千金、今賜胡瓶一、雖亡千鎰、乃朕所自御。」又賜荀悅漢紀、曰:「悅論議深博、極為政之體、公宜繹味之。」 時突厥亡、帝遂欲懐四夷、諸部降者、人賜袍一領・帛五匹、首領拜将軍・中郎将、列五品者贏百員。又置降胡河南。詔大亮為西北道安撫大使、使以綏大度設・拓設・泥熟特勒及七姓種落之未附者、峙糧磧口賑其飢。大亮上言:「臣聞欲綏遠者必自近。中国、天下本根、四夷猶枝葉也。殘本根、厚枝葉、而曰求安、未之有也。屬者突厥傾国入朝、陛下不即俘江淮變其俗、而加賜物帛、悉官之、引處内地、豈久安計哉?今伊吾雖臣、遠在荒鹵。臣以為諸稱藩請附者、宜羈縻受之、使居塞外、畏威懐徳、永為藩臣。謂之荒服者、故臣而不内、所謂行虚惠、收實福。河西積困夷狄、州県蕭條、加因隋亂、殘耗已甚。臣愚願停招慰、省勞役、使邊人得就農、此中国利也。」帝納其計。 八年、為劍南道巡省大使。會討吐谷渾、為河東道行軍総管、與李靖倶出北道、渉青海、観河源、與虜遇蜀渾山、大戰、破之、俘其名王、獲雜畜数万、進爵為公。拜右衛大将軍。晉王為皇太子、詔大亮兼右衛率、又兼工部尚書、身三職、宿衛兩宮。毎番直、常假寐。帝勞曰:「公在、我得酣臥。」 十八年、幸洛陽、詔副房玄齡居守。玄齡稱「有王陵・周勃節、可倚大事」。俄寢疾、帝親和藥、驛賜之。臨終、表請罷遼東役。又言京師宗廟所在、願以關中為意。就、歎曰:「吾聞男子不死婦人手!」命屏左右、言終卒、年五十九。将斂、家無珠玉為含、惟貯米五斛・布三十端。帝哭為慟。贈兵部尚書・秦州都督、謚曰懿、陪葬昭陵。 大亮性忠謹、外若不能言、而内剛烈、不可干非其義。對天子爭是非、無回撓。至妻子未始見墯容、事兄嫂以礼聞。位通顯、居陋狹甚。在越州寫書数百巻、及去、留都督署。初、破公祏、以功賜奴婢百口、謂曰:「而曹皆衣冠子女、不幸破亡、吾何忍録而為隸乎?」縱遣之。高祖聞、咨美、更賜俚婢二十。後破吐谷渾、復賜奴婢百五十口、悉以遺親戚。葬宗族無後者三十餘柩、貲襚加焉。 嘗以張弼脱其死、及貴、念有以報之。時弼為将作丞、匿不見、大亮求之不能得。一日、識諸涂、持弼泣、悉推家財與之、弼拒不受。乃言於帝曰:「臣及事陛下、張弼力也、願悉臣官爵授之。」帝為遷弼中郎将・代州都督。世皆賢大亮能報、而多弼不自伐也。歿後、所育孤姓為大亮行服如所親者十餘人。 兄子道裕、貞観末為将作匠。有告張亮反者、詔百官議。皆言亮當誅、獨道裕謂反形未具。帝怒不暇省、斬之。歳餘、刑部侍郎缺、宰相屢進名、不可。帝曰:「朕得之矣。是嘗議張亮者、朕時雖不從、今尚悔之。」遂命道裕。終大理卿。 大亮族孫迥秀。 迥秀字茂之。及進士第、又中英才傑出科。調相州参軍事。累轉考功員外郎。武后愛其材、遷鳳閣舍人。大足初、検校夏官侍郎、仍領選、銓汰文武、號稱職、進同鳳閣鸞臺平章事。張易之兄弟貴驕、因橈意諧媚、士論頓減。俄坐贓貶廬州刺史。易之誅、貶衡州長史。中宗即位、召授将作少監。累遷鴻臚卿・脩文館學士。出朔方道行軍大総管、還拜兵部尚書。卒、年五十、贈侍中。 迥秀少聰悟、多通賓客。喜飲酒、雖多不亂、當時稱其風流。母少賤、妻嘗詈媵婢、母聞不楽、迥秀即出其妻。或問之、答曰:「取婦要欲事姑、苟違顏色、何可留?」武后嘗遣内人候其母、或迎置宮中。後所居堂産芝草、犬乳鄰、中宗以為孝感、旌大門閭。 子斉損、開元中以謀逆誅。 戴冑字玄胤、相州安陽人。性堅正、幹局明彊、善簿最。隋末、為門下録事、納言蘇威・黄門侍郎裴矩厚礼之。為越王侗給事郎。王世充謀簒、冑説曰:「君臣大分均父子、休戚同之。公當社稷之任、與存與亡、正在今日。願尊輔王室、擬伊・周以幸天下。」世充詭曰:「善。」俄脅九錫、冑又切諫、不納。出為鄭州長史、使與王行本守武牢。秦王攻拔之、引為府士曹参軍、封武昌県男。 大理少卿缺、太宗曰:「大理、人命所繋、冑清直、其人哉。」即日命冑。長孫无忌被召、不解佩刀入東上閤。尚書右僕射封徳彝論監門校尉不覺、罪死當。无忌贖。冑曰:「校尉與无忌罪均、臣子於尊極不稱誤。法著:御湯劑・飲食・舟船、雖誤皆死。陛下録无忌功、原之可也。若罰无忌、殺校尉、不可謂刑。」帝曰:「法為天下公、朕安得阿親戚!」詔復議、徳彝固執、帝将可。冑曰:「不然。校尉縁无忌以致罪、法當輕。若皆誤、不得獨死。」繇是與校尉皆免。 時選者盛集、有詭資蔭冒牒取調者、詔許自首。不首、罪當死。俄有詐得者、獄具、冑以法當流。帝曰:「朕詔不首者死、而今當流、是示天下不以信、卿賣獄邪?」冑曰:「陛下登殺之、非臣所及。既屬臣、敢虧法乎?」帝曰:「卿自守法、而使我失信、奈何?」冑曰:「法者、布大信於人。言乃一時喜怒所發。陛下以一朝忿将殺之、既知不可而寘於法、此忍小忿・存大信也。若阿忿違信、臣為陛下惜之。」帝大感寤、從其言。冑犯顏據正数矣、参處法意、至析秋豪、隨類指擿、言若泉涌、帝益重之。遷尚書左丞。矜其貧、特詔賜錢十万。 會僕射蕭瑀免、封徳彝卒、帝謂冑曰:「尚書総国綱維、失一事、天下有受其弊者。今以令・僕委卿、宜副朕舉。」冑明敏、長于操決、無宿疑。議者美其振職、謂武徳以來殆無其輩。復拜諫議大夫、與魏徴更日供奉。進民部尚書。社如晦遺言、請以選舉委冑、由是検校吏部尚書。然好抑文雅、法吏、時以寡學為訾。 貞観四年、以本官参豫朝政、進爵郡公。帝将脩復洛陽宮、冑上疏諫曰:「比關中・河外置軍團、彊夫富室悉為兵、九成之役又興、司農・将作見丁無幾。大亂之後、戸口單破、一人就役、舉室捐業。籍軍者督戎仗、課役者責糧齎、竭貲經紀、猶不能濟。七月以來、霖潦未止、濱河南北、田正洿下、年之有亡未可知。壯者盡行、賦調不給、則帑藏虚矣。今宮殿足庇風雨・容羽衛、数年後成、猶不謂晩、何憚而遽自生勞擾邪?」帝覽奏、罷役。冑所敷内、縁政得失、咸有可観。奏已、即削、祕外莫知。帝嘗謂左右曰:「冑於我非肺腑親、然事之機切無不聞、惟其忠所激耳。」 七年、卒、帝為舉哀、贈尚書右僕射、追封道国公、謚曰忠。以第舍陋不容祭、詔有司為立廟。聘其女為道王妃。房玄齡・魏徴與冑善、毎至生平故處、輒流涕。 冑無子、以兄子至徳為後。 至徳、乾封中累遷西臺侍郎・同東西臺三品。閲十数年、父子繼為宰相、世詫其榮。高宗嘗為飛白書賜侍臣、賜至徳曰「汎洪源、俟舟楫」、郝處俊曰「飛九霄、假六翮」、李敬玄曰「資啓沃、罄丹誠」、崔知悌曰「竭忠節、賛皇猷」、皆見意於辭云。 遷尚書右僕射。時劉仁軌為左、人有所訴、率優容之。至徳乃詰究本末、理直者密為奏、終不顯私恩。由是、當時多稱仁軌者、號仁軌為「解事僕射」。嘗更日聽訟、有嫗詣省、至徳已收牒、嫗乃復取、曰:「初以為解事僕射、今乃非是。」至徳笑還之。人伏其長者。或以問、至徳答曰:「慶賞刑罰、人主之柄、為臣豈得與人主爭也!」帝知、歎美之。儀鳳四年卒、詔百官哭其第。贈開府儀同三司・并州大都督、謚曰恭。 劉洎字思道、荊州江陵人。初為蕭銑黄門侍郎、南略地嶺表、下五十城、未還而銑敗、遂以城自歸、授南康州都督府長史。 貞観七年、擢給事中、封清苑県男、轉治書侍御史。於時、尚書省詔敕稽壅、按成復下、彌年不能決。洎言:「尚書、万機本、貞観初未有令・僕、職併務繁、左丞戴冑・右丞魏徴應事彈舉、無所回橈、百司震肅不敢懈。比者勳親在位、品非其任、功勢相傾、雖欲自彊、先懼囂謗。故郎中嘿奪、惟事咨稟。尚書依違、不得專裁。筦轄玩弛、綱紀不振。今宜精選左右丞・兩司郎中、使皆得人、非惟救曠滯之弊、固當矯拂趨競也。」未幾、拜尚書右丞。洎健于職、於是尚書復治如徴時。累加銀青光祿大夫・散騎常侍、攝黄門侍郎。 太宗好持論、與公卿言古今事、必往復難詰・究臧否。洎諫曰:「帝王之與臣庶、聖哲之與庸愚、等級遼絶、勢不倫擬。故課愚對聖、持卑抗尊、雖思自彊、不可得已。陛下降慈旨、假柔顏、虚心聽納、猶恐群臣惴縮不敢進。況以神機天辯、飾辭援古、而迮其議哉!夫天以無言為尊、聖以不言為徳、皆弗欲煩也。且多記損心、多語耗氣、心氣内損、形神外勞、初雖無覺、久且為弊。且今之雍平、陛下力行所至耳。欲其長久、匪由辯博、但當忘愛憎、慎取捨、若貞観初可矣!」手詔答曰:「非慮無以臨下、非言無以述慮。雖然、驕人輕物、恐由榷論致之。若形神心氣、不為勞也。」 皇太子初立、洎謂宜尊賢重道、上書曰:「太子宗祧是繋、善惡之習、興亡在焉。弗勤于始、将悔于末。故錯上書、令通政術。賈誼奏計、務知礼教。今太子孝友仁愛、挺自天姿、然春秋鼎盛、學當有漸。以陛下多才多藝、尚垂精厲志、以博異聞、而太子優游、坐棄白日。陛下毎退朝、引見群臣、訪以今古、咨以得失。而太子處内、不接正人、不聞正論、臣所未諭。古者、問安而退、以廣敬也。異宮而處、以遠嫌也。間者、太子一入侍、逾旬不出、師傅寮寀、具員而已、非所謂愛之也。臣愚以為授以良書、娯以佳賓、使耳所未聞、睹所未見、儲徳愈光、群生之福也。」帝於是敕洎與岑文本・馬周遞日直東宮。帝嘗怒苑西監穆裕、有詔斬朝堂、皇太子驟諫。帝喜曰:「朕始得魏徴、朝夕進諫。徴亡、劉洎・岑文本・馬周・褚遂良繼之。兒在吾膝前、見朕悅諫熟矣、故有今日言也。誠習以性成哉!」稍遷侍中。帝忽謂群臣曰:「朕今欲聞己過、卿等為朕言之。」長孫无忌・李勣・楊師道同辭對曰:「陛下以盛徳致太平、臣等愚不見其過。」洎曰:「然頃上書有不稱旨、或面窮詰、無不羞汗、恐非所以進言者路。」帝曰:「卿言善、朕能改之。」 及征遼東、詔兼太子左庶子・検校民部尚書、輔皇太子監国。帝曰:「以卿輔太子、社稷安危在焉、宜識朕意。」洎曰:「願無憂!即大臣有罪、臣謹按法誅之。」帝怪其語謬、戒曰:「君不密則失臣、臣不密則失身。卿性疏而果、恐以此敗。」洎與褚遂良不相中。帝還、不豫、洎與馬周入候、出、見遂良、泣曰:「上體患癰、殊可懼!」遂良即誣奏「洎曰:国家不足慮、正當輔少主行伊・霍事、大臣有異者、誅之。」帝愈、召洎問状、洎引馬周為左。遂良執不已、帝惑之、乃賜死。方死時、索筆牘、欲自言、有司不敢與。帝後知之、有司皆得罪。顯慶中、其子弘業詣闕訴遂良譖死状、李義府右之。高宗問近臣、給事中楽彦瑋曰:「辨之、是暴先帝過刑。」事寢。文明初、詔復官爵。 彦瑋字徳珪、長安人。麟徳元年、以西臺侍郎同東西臺三品。数月、罷為大司憲。卒、贈斉州都督。 賛曰:劉洎之才之烈、易所謂「王臣蹇蹇」者。然性剛疏、輔太子、欲身任安危、以言掩其衆、為媢忌所乘、卒陷罪誅。嗚呼!以太宗之明、蔽於所忿、洎之忠不能自申於上、況其下哉?古人以言為戒、可不慎歟! 崔仁師、定州安喜人。武徳初擢制舉、調管州録事参軍。陳叔達薦仁師才任史官、遷右武衛録事参軍、與脩梁・魏史。貞観初、改殿中侍御史。時青州有男子謀逆、有司捕支黨、纍係填獄、詔仁師按覆。始至、悉去囚械、為具食、飲湯瀋、以情訊之、坐止魁惡十餘人、它悉原縱。大理少卿孫伏伽謂曰:「原雪者衆、誰肯讓死?就決而事變、奈何?」仁師曰:「治獄主仁恕、故諺稱『殺人刖足、亦皆有礼。』豈有知枉不申、為身謀哉?使吾以一介易十囚命、固吾願也!」及敕使覆訊、諸囚咸叩頭曰:「崔公仁恕、必無枉者。」舉無異辭。由是知名。 遷度支郎中。嘗口陳移用費数千名、太宗怪之、詔黄門侍郎杜正倫持簿、使仁師對唱、無一謬。帝奇之。時校書郎王玄度注尚書・毛詩、抵孔・鄭舊學、請遂廢。詔諸儒大議、博士以下不能詰。河間王孝恭請與孔・鄭並行、仁師以玄度不經、條不合大義者奏之。玄度報罷。 遷給事中。時有司以律「反逆者縁坐兄弟沒官」為輕、詔八坐議。咸言漢・魏・晉謀反夷三族、請改從死。仁師曰:「父子天屬、足累其心、此而不卹、何愛兄弟?」房玄齡曰:「祖有蔭孫義、則孫祖親重、而兄弟屬輕。今應重者流而輕者死、非用刑意。」遂不改。 後密請魏王為太子、失帝旨、左遷鴻臚少卿。稍進民部侍郎。及征遼東、副韋挺知海運、又別知河南漕事。仁師以漕路回遠、恐所輸不時至、以便宜發近海租賦餉軍。坐運卒亡命不以聞、除名。帝還至中山、起為中書舍人・検校刑部侍郎。幸翠微宮、上清暑賦以諷。帝稱善、賜帛五十段。二十二年、遷中書侍郎、参知機務、被遇尤渥。中書令褚遂良忌之、會有伏閤訴者、仁師不時上、帝大怒、流連州。永徽初、授簡州刺史、卒。 子挹、挹子湜。 湜字澄瀾。少以文詞稱。第進士、擢累左補闕、稍遷考功員外郎。時桓彦範等當国、畏武三思惎構、引湜使陰汋其姦。中宗稍疏功臣、三思日益寵、湜反以彦範等計告三思、驟遷中書舍人。彦範等被徙、又説三思速殺之以絶人望。三思問誰可使者、乃進其外兄周利貞。利貞往、彦範等皆死。擢利貞御史中丞。湜附託昭容上官氏、数與宣淫於外。景龍二年、遷兵部侍郎、而挹為礼部侍郎。武徳以來、父子同為侍郎、惟挹・湜云。俄拜中書侍郎・検校吏部侍郎・同中書門下平章事、與鄭愔同典選。納賂遺、銓品無序、為御史李尚隱劾奏、貶江州司馬。上官與安楽公主從中申護之、改襄州刺史。未幾、入為尚書左丞。韋氏稱制、復以吏部侍郎同中書門下三品。睿宗立、出為華州刺史。俄除太子詹事。 初、湜建言山南可引丹水通漕至商州、自商鑱山出石門、抵北藍田、可通輓道。中宗以湜充使、開大昌關、役徒数万、死者十五。禁舊道不得行、而新道為夏潦奔豗、数摧壓不通。至是論功、加銀青光祿大夫。景雲中、太平公主引為同中書門下三品。進拜中書令。時挹以戸部尚書得謝、而性貪、数為人請託以干湜。湜多不從、由是父子相失。 玄宗在東宮、数至其第申款密。湜陰附主、時人危之、為寒毛。門下客獻海鷗賦以諷、湜稱善而不自悛。帝将誅蕭至忠等、召湜示腹心。弟澄諫曰:「上有所問、慎無隱。」湜不從。及見、對問失旨。至忠等誅、湜徙嶺外。時雍州長史李晉亦坐誅、歎曰:「此本湜謀、今我死而湜生、何也?」又宮人元稱嘗與湜謀進酖於帝。追及荊州賜死、年四十三。 初、在襄州、與譙王数相問遺。王敗、湜當死、賴劉幽求・張説護免。及為宰相、陷幽求嶺表、密諷廣州都督周利貞殺之、不克。又與太平公主逐張説。其猜毒詭險殆天性、雖蠆虺不若也。 與弟液・澄・從兄淮並以文翰居要官。毎宴私、自比東晉王・謝。嘗曰:「吾一門入仕、歴官未嘗不為第一。丈夫當先據要路以制人、豈能默默受制於人哉!」故進趣不已、至於敗。湜執政時、年三十八、嘗暮出端門、緩轡諷詩。張説見之、歎曰:「文與位固可致、其年不可及也。」 液字潤甫、尤工五言詩、湜歎、因字呼曰:「海子、我家亀龍也!」官至殿中侍御史。坐湜當流、亡命郢州、作幽征賦以見意、詞甚典麗。遇赦還、卒。 子論、有吏幹、乾元中為州刺史、以治行稱。大暦末、遷同州刺史、為黜陟使庚何所按、議者不直何、故復用為衢州刺史。徳宗以舊族耆年、擢大理卿、卒。 澄本名滌、玄宗改焉。帝在藩、與同里居。出潞州、賓友餞者止国門、而澄獨從至華。及即位、寵昵甚。湜既誅、帝仍念之、用為祕書監。開元二年、欲贈其父挹吏部尚書、宰相持不可、遂用四品礼葬、贈和州刺史。澄侍左右、與諸王不讓席坐。性滑稽善辯、帝恐漏禁中語、以「慎密」字親署笏端。累遷金紫光祿大夫、封安喜県子。卒、贈兗州刺史。
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唐書巻一百一十五 列伝第四十 狄仁傑 光嗣 兼謨 郝處俊 象賢 朱敬則 仁軌 狄仁傑字懐英、并州太原人。為兒時、門人有被害者、吏就詰、衆爭辨對、仁傑誦書不置、吏讓之、答曰:「黄巻中方與聖賢對、何暇偶俗吏語耶?」挙明経、調汴州参軍。為吏誣訴、黜陟使閻立本召訊、異其才、謝曰:「仲尼稱観過知仁、君可謂滄海遺珠矣。」薦授并州法曹参軍。親在河陽、仁傑登太行山、反顧、見白雲孤飛、謂左右曰:「吾親舎其下。」瞻悵久之、雲移乃得去。同府参軍鄭崇質母老且疾、當使絶域。仁傑謂曰:「君可貽親万里憂乎?」詣長史藺仁基請代行。仁基咨美其誼、時方與司馬李孝廉不平、相語曰:「吾等可少愧矣!」則相待如初、毎曰:「狄公之賢、北斗以南、一人而已。」 稍遷大理丞、歳中斷久獄万七千人、時稱平恕。左威衛大将軍權善才・右監門中郎将范懐義坐誤斧昭陵柏、罪當免、高宗詔誅之。仁傑奏不應死、帝怒曰:「是使我為不孝子、必殺之。」仁傑曰:「漢有盜高廟玉環、文帝欲當之族、張釋之廷諍曰:『假令取長陵一抔土、何以加其法?』於是罪止棄市。陛下之法在象魏、固有差等。犯不至死而致之死、何哉?今誤伐一柏、殺二臣、後世謂陛下為何如主?」帝意解、遂免死。数日、授侍御史。左司郎中王本立怙寵自肆、仁傑劾奏其惡、有詔原之。仁傑曰:「朝廷借乏賢、如本立者不。陛下惜有罪、虧成法、奈何?臣願先斥、為群臣戒。」本立抵罪。繇是朝廷肅然。使岐州、亡卒数百剽行人、道不通。官捕繋盜黨窮訊、而餘曹紛紛不能制。仁傑曰:「是其計窮、且為患。」乃明開首原格、出繋者、稟而縱之、使相曉、皆自縛歸。帝嘆其達權宜。 遷度支郎中。帝幸汾陽宮、為知頓使。并州長史李沖玄以道出女祠、俗言盛服過者、致風雷之變、更發卒数万改馳道。仁傑曰:「天子之行、風伯清塵、雨師灑道、何女避邪?」止其役。帝壮之、曰:「真丈夫哉!」出為寧州刺史、撫和戎落、得其歡心、郡人勒碑以頌。入拜冬官侍郎・持節江南巡撫使。呉・楚俗多淫祠、仁傑一禁止、凡毀千七百房、止留夏禹・呉太伯・季札・伍員四祠而已。 轉文昌右丞、出豫州刺史。時越王兵敗、支黨餘二千人論死。仁傑釋其械、密疏曰:「臣欲有所陳、似為逆人申理。不言、且累陛下欽恤意。表成復毀、自不能定。然此皆非本惡、詿誤至此。」有詔悉謫戍邊。囚出寧州、父老迎勞曰:「狄使君活汝耶!」因相與哭碑下。囚齋三日乃去。至流所、亦為立碑。初、宰相張光輔討越王、軍中恃功、多暴索、仁傑拒之。光輔怒曰:「州将輕元帥邪?」仁傑曰:「亂河南者一越王、公董士三十万以平亂、縱使暴橫、使無辜之人咸墜塗炭、是一越王死、百越王生也。且王師之至、民歸順以万計、自縋而下、四面成蹊。奈何縱邀賞之人殺降以為功、冤痛徹天?如得上方斬馬剣加君頸、雖死不恨!」光輔還、奉仁傑不遜、左授復州刺史。徙洛州司馬。 天授二年、以地官侍郎同鳳閣鸞臺平章事。武后謂曰:「卿在汝南有善政、然有譖卿者、欲知之乎?」謝曰:「陛下以為過、臣當改之。以為無過、臣之幸也。譖者乃不願知。」后嘆其長者。時太学生謁急、后亦報可。仁傑曰:「人君惟生殺柄不以假人、至簿書期會、宜責有司。尚書省決事、左・右丞不句杖、左・右丞相不判徒、況天子乎?学徒取告、丞・簿職耳、若為報可、則冑子数千、凡幾詔耶?為定令示之而已。」后納其言。 會為来俊臣所構、捕送制獄。于時、訊反者一問即臣、聽減死。俊臣引仁傑置對、答曰:「有周革命、我乃唐臣、反固實。」俊臣乃挺繋。其屬王徳壽以情謂曰:「我意求少遷、公為我引楊執柔為黨、公且免死。」仁傑歎曰:「皇天后土、使仁傑為此乎!」即以首觸柱、血流沬面。徳壽懼而謝。守者寖弛、即丐筆書帛、置褚衣中、好謂吏曰:「方暑、請付家徹絮。」仁傑子光遠得書上變、后遣使案視。俊臣命仁傑冠帶見使者、私令徳壽作謝死表、附使以聞。后乃召見仁傑、謂曰:「臣反何耶?」對曰:「不臣反、死笞掠矣。」示其表、曰:「無之。」后知代署、因免死。武承嗣屢請誅之、后曰:「命已行、不可返。」時同被誣者鳳閣侍郎任知古等七族悉得貸。御史霍獻可以首叩殿陛苦爭、欲必殺仁傑等、乃貶仁傑彭沢令、邑人為置生祠。 万歳通天中、契丹陷冀州、河北震動、擢仁傑為魏州刺史。前刺史懼賊至、驅民保城、修守具。仁傑至、曰:「賊在遠、何自疲民?万一虜来、吾自辦之、何預若輩?」悉縱就田。虜聞、亦引去、民愛仰之、復為立祠。俄轉幽州都督、賜紫袍・龜帶、后自製金字十二於袍、以旌其忠。 召拜鸞臺侍郎、復同鳳閣鸞臺平章事。時發兵戍疏勒四鎮、百姓怨苦。仁傑諫曰: 天生四夷、皆在先王封域之外。東距滄海、西隔流沙、北橫大漠、南阻五嶺、天所以限中外也。自典籍所紀、聲教所曁、三代不能至者、国家既已兼之。詩人矜薄伐於太原、化行於江・漢、前代之遐裔、而我之域中、過夏・商遠矣。今乃用武荒外、邀功絶域、竭府庫之實、以爭磽确不毛之地、得其人不足以增賦、獲其土不可以耕織。苟求冠帶遠夷、不務固本安人、此秦皇・漢武之所行也。伝曰:「與覆車同軌者未嘗安。」此言雖小、可以喩大。 臣伏見国家師旅歳出、調度之費狃以寖広、右戍四鎮、左屯安東、杼軸空匱、轉輸不絶、行役既久、怨曠者多。上不是恤、則政不行。政不行、則害氣作。害氣作、則蟲螟生、水旱起矣。方今関東荐饑、蜀漢流亡、江・淮而南、賦斂不息。人不復本、則相率為盜、本根一搖、憂患非淺。所以然者、皆貪功方外、耗竭中国也。昔漢元帝納賈捐之之謀而罷珠崖、宣帝用魏相之策而棄車師田。貞観中、克平九姓、冊拜李思摩為可汗、使統諸部、夷狄叛則伐、降則撫、得推亡固存之義、無遠戍勞人之役。今阿史那斛瑟羅、皆陰山貴種、代雄沙漠、若委之四鎮、以統諸蕃、建為可汗、遣禦寇患、則国家有繼絶之美、無轉輸之苦。損四鎮、肥中国、罷安東、實遼西、省軍費於遠方、并甲兵於要塞、恒・代之鎮重、而邊州之備豊矣。 且王者外寧、容有内危。陛下姑敕邊兵謹守備、以逸待勞、則戰士力倍。以主禦客、則我得其便。堅壁清野、寇無所得。自然深入有顛躓之慮、淺入無虜獲之益。不数年、二虜不討而服矣。 又請廢安東、復高姓為君長、省江南轉饟以息民、不見納。 張易之嘗従容問自安計、仁傑曰:「惟勸迎廬陵王可以免禍。」會后欲以武三思為太子、以問宰相、衆莫敢對。仁傑曰:「臣観天人未厭唐徳。比匈奴犯邊、陛下使梁王三思募勇士於市、踰月不及千人。廬陵王代之、不浹日、輒五万。今欲繼統、非廬陵王莫可。」后怒、罷議。久之、召謂曰:「朕数夢雙陸不勝、何也?」於是、仁傑與王方慶倶在、二人同辭對曰:「雙陸不勝、無子也。天其意者以儆陛下乎!且太子、天下本、本一搖、天下危矣。文皇帝身蹈鋒鏑、勤勞而有天下、伝之子孫。先帝寢疾、詔陛下監国。陛下掩神器而取之、十有餘年、又欲以三思為後。且姑姪與母子孰親?陛下立廬陵王、則千秋万歳後常享宗廟。三思立、廟不祔姑。」后感悟、即日遣徐彦伯迎廬陵王於房州。王至、后匿王帳中、召見仁傑語廬陵事。仁傑敷請切至、涕下不能止。后乃使王出、曰:「還爾太子!」仁傑降拜頓首、曰:「太子歸、未有知者、人言紛紛、何所信?」后然之。更令太子舎龍門、具礼迎還、中外大悅。初、吉頊・李昭徳数請還太子、而后意不回、唯仁傑毎以母子天性為言、后雖忮忍、不能無感、故卒復唐嗣。 尋拜納言、兼右肅政御史大夫。突厥入趙・定、殺掠甚衆、詔仁傑為河北道行軍元帥、假以便宜。突厥盡殺所得男女万計、由五回道去、仁傑追不能逮。更拜河北安撫大使。時民多脅従於賊、賊已去、懼誅、逃匿。仁傑上疏曰:「議者以為虜入寇、如明人之逆順、或迫脅、或願従、或受偽官、或為招慰。誠以山東之人重氣、一往死不為悔。比縁軍興、調發煩重、傷破家産、剔屋賣田、人不為售。又官吏侵漁、州県科役、督趣鞭笞、情危事迫、不循礼義、投跡犬羊、以圖賒死、此君子所愧、而小人之常。民猶水也、壅則為淵、疏則為川、通塞隨流、豈有常性。昔董卓之亂、神器播越、卓已誅禽、部曲無赦、故事窮變生、流毒京室。此由恩不溥洽、失在機先。今負罪之伍、潜竄山沢、赦之則出、不赦則狂。山東群盜、縁茲聚結。故臣以為邊鄙暫警不足憂、中土不寧可為慮也。夫持大国者不可以小治、事広者不可以細分。人主所務、弗検常法。願曲赦河北、一不問罪。」詔可。 還、除内史。后幸三陽宮、王公皆従、獨賜仁傑第一區、眷礼卓異、時無輩者。是時李楷固・駱務整討契丹、克之、獻俘含樞殿、后大悅。二人者、本契丹李盡忠部将、盡忠入寇、楷固等数挫王師、後降、有司請論如法。仁傑稱其驍勇可任、若貸死、必感恩納節、可以責功。至是凱旋、后挙酒屬仁傑、賞其知人。授楷固左玉鈐衛大将軍・燕国公、賜姓武。務整右武威衛将軍。 后将造浮屠大像、度費数百万、官不能足、更詔天下僧日施一錢助之。仁傑諫曰:「工不役鬼、必在役人。物不天降、終由地出。不損百姓、且将何求?今邊垂未寧、宜寬征鎮之傜、省不急之務。就令顧作、以済窮人、既失農時、是為棄本。且無官助、理不得成。既費官財、又竭人力、一方有難、何以救之?」后由是罷役。 聖暦三年卒、年七十一。贈文昌右相、謚曰文惠。仁傑所薦進、若張柬之・桓彦範・敬暉・姚崇等、皆為中興名臣。始居母喪、有白鵲馴擾之祥。中宗即位、追贈司空。睿宗又封梁国公。 子光嗣・景暉。 光嗣、聖暦初、為司府丞。武后詔宰相各挙尚書郎一人、仁傑薦光嗣、由是拜地官員外郎、以稱職聞。后曰:「祁奚内挙、果得人。」歴淄・許・貝三州刺史。母喪、奪為太府少卿、固讓、睿宗嘉其誠、許之。累遷揚州長史、以罪貶歙州別駕、卒。 景暉、官魏州司功参軍、貪暴為虐、民苦之、因共毀其父生祠、不復奉。至元和中、田弘正鎮魏博、始奏葺之、血食不絶。 族孫兼謨。 兼謨字汝諧、及進士第。辟襄陽使府、剛正有祖風。令狐楚執政、薦授左拾遺、数上書言事。歴刑部郎中・蘄鄧鄭三州刺史。歳旱饑、發粟賑済、民人不流徙。改蘇州、以治最、擢給事中。左藏史盜度支縑帛、文宗以経赦詔勿治、兼謨封還詔書、帝問之、對曰:「典史犯贓、不可免。」帝曰:「朕已赦其長官、吏亦宜宥、與其失信、寧失罪人。」既而曰:「後或事有不可、勿以還詔為憚。」遷御史中丞。帝曰:「御史臺朝廷綱紀、一臺正、則朝廷治、朝廷正、則天下治。畏忌顧望、則職業廢矣。卿、梁公後、當嗣家聲、不可不慎。」兼謨頓首謝。江西観察使呉士矩加給其軍、擅用上供錢数十万。兼謨劾奏:「観察使為陛下守土、宣国詔條、知臨戎賞士、州有定数、而與奪由己、貽弊一方、為諸道觖望、請付有司治罪。」士矩繇是貶蔡州別駕。歴兵部侍郎・河東節度使。還為尚書左丞。武宗子峴封益王、命兼謨為傅。俄領天平節度使、辭疾、以祕書監歸洛陽、遷東都留守、卒。 郝處俊、安州安陸人。父相貴、因隋亂、與婦翁許紹據峽州、歸国、拜滁州刺史、封甑山県公。處俊甫十歳而孤、故吏歸千縑賵之、已能讓不受。及長、好学、嗜漢書、崖略暗誦。貞観中、第進士、解褐著作佐郎、襲父爵。兄弟友睦、事諸舅謹甚。再轉滕王友、恥為王府屬、棄官去。久之、召拜太子司議郎、累遷吏部侍郎。高麗叛、詔李勣為浿江道大総管、處俊副之。師入虜境、未陣、賊遽至、挙軍危駭。處俊方據胡、體胖、安餐乾糒不顧、密畀料精鋭撃之、虜卻、衆壮其謀。 入拜東臺侍郎。時浮屠盧伽逸多治丹、曰「可以續年」。高宗欲遂餌之、處俊諫曰:「脩短固有命、異方之劑、安得輕服哉?昔先帝詔浮屠那羅邇娑寐案其方書為祕劑、取霊蘤怪石、歴歳乃能就。先帝餌之、俄而大漸、上醫不知所為。群臣請顯戮其人、議者以為取笑夷狄、故法不得行。前鑑不遠、惟陛下深察。」帝納其言、弟拜盧伽逸多為懐化大将軍、進處俊同東西臺三品。 咸亨初、幸東都、皇太子監国、諸宰相皆留、而處俊獨従。帝嘗曰:「王者無外、何為守禦?而重門撃柝、庸待不虞邪?我嘗疑秦法為寬、荊軻匹夫耳、匕首竊發、群臣皆荷戟侍、莫敢拒、豈非習慢使然?」處俊對曰:「此乃法急耳。秦法、輒升殿者、夷三族。人皆懼族、安有敢拒邪?魏曹操著令曰:『京城有變、九卿各守其府。』後厳才亂、與徒数十人攻左掖門、操登銅爵臺望之、無敢救者。時王脩為奉常、聞變、召車騎未至、領官屬歩至宮門。操曰:『彼来者、必王脩乎!』此由脩察變識幾、故冒法赴難。向若拘常、則遂成禍矣。故王者設法不可急、亦不可慢。詩曰『不懈于位、人之攸塈』、仁也。『式遏寇虐、無俾作慝』、刑也。書曰『高明柔克、沈潜剛克』、中道也。」帝曰:「善。」 轉中書侍郎、監脩国史。初、顯慶中、令狐徳棻・劉胤之撰国史、其後許敬宗復加緒次。帝恨敬宗所紀失實、更命宰相刊正、且曰:「朕昔従幸未央宮、辟仗既過、有橫刀伏草中者、先帝斂轡、謂朕曰:『事發、當死者数十人、汝可命出之。』史臣惟此為實。」處俊曰:「先帝仁恩溥博、類非一。臣之弟處傑被擇供奉、時有三衛誤拂御衣者、懼甚。先帝曰:『左右無御史、我不汝罪。』」帝曰:「此史臣應載。」處俊乃表左史李仁實欲刪整偽辭、會仁實死而止。 上元初、帝観酺翔鸞閣、時赤県與太常音技分東西朋、帝詔雍王賢主東、周王顯主西、因以角勝、處俊曰:「礼所以示童子無誑者、恐其欺詐之心生也。二王春秋少、意操未定、乃分朋造黨使相誇、彼俳兒優子、言辭無度、爭負勝、相譏誚、非所以導仁義、示雍和也。」帝遽止、歎曰:「處俊遠識、非衆臣所逮。」遷中書令、兼太子賓客、検校兵部尚書 帝多疾、欲遜位武后、處俊諫曰:「天子治陽道、后治陰徳、然則帝與后猶日之與月、陽之與陰、各有所主、不相奪也。若失其序、上見于天、下降災諸人。昔魏文帝著令、帝崩、不許皇后臨朝。今陛下奈何欲身伝位天后乎?天下者、高祖・太宗之天下、非陛下之天下、正應謹守宗廟、伝之子孫、不宜持国與人、以喪厥家。」中書侍郎李義琰曰:「處俊言可従、惟陛下不疑。」事遂沮。又兼太子左庶子、拜侍中、罷為太子少保。 開耀元年卒、年七十五。贈開府儀同三司・荊州大都督。帝哀歎其忠、挙哀光順門、祭以少牢、賻絹布八百段・米粟八百石、詔百官赴哭、官庀葬事。子北叟固辭、未聽。裴炎為白帝曰:「處俊阽死、諉臣曰:『生無益于国、死無煩費、凡詔賜、願一罷之。』」帝聞惻然、答其意、止賻物而已。 處俊資約素、土木形骸、然臨事敢言、自秉政、在帝前議論諄諄、必傅経義、凡所規獻、得大臣體。武后雖忌之、以其操履無玷、不能害。與舅許圉師同里、倶宦達。郷人田氏・彭氏以高貲顯。故江・淮間為語曰:「貴如郝・許、富如田・彭。」 孫象賢、垂拱中、為太子通事舎人、后素銜處俊、故因事誅之。臨刑、極罵乃死、后怒、令離磔其尸、斲夷祖・父棺冢。自是訖后世、将刑人、必先以木丸窒口云。 朱敬則字少連、亳州永城人。以孝義世被旌顯、一門六闕相望。敬則志尚恢博、好学、重節義然諾、善與人交、振其急難、不責報於人。與左史江融・左僕射魏元忠善。咸亨中、高宗聞其名、召見、異之、為中書令李敬玄所毀、故授洹水尉。久之、除右補闕。 初、武后稱制、天下頗流言、遂開告密羅織之路、興大獄、誅将相大臣。至是、已革命、事益寧。敬則諫曰: 臣聞李斯之相秦也、行申・商之法、重刑名之家。杜私門、張公室。棄無用之費、損不急之官。惜日愛功、亟戰疾耕。既庶而富、遂屠諸侯。此救弊之術也。故曰:「刻薄可施於進趨、變詐可陳於攻戰。」天下已平、故可易之以寬簡、潤之以淳和。秦乃不然、淫虐滋甚、往而不反、卒至土崩。此不知變之禍也。 陸賈・叔孫通事漢祖、當滎陽・成皋間、糧餉窮、智勇困、未嘗敢開一説、效一奇、唯進豪猾貪暴之人。及區宇適定、乃陳詩・書、説礼・楽、開王道。高帝忿然曰:「吾以馬上得之、安事詩・書?」對曰:「馬上得之、可馬上治之乎?」帝默然。於是賈著新語、通定礼儀。此知變之善也。向若高帝斥二子、置詩・書、重攻戰、尊首級、則複道爭功、抜剣撃柱、晷漏之不保、何十二帝二百年乎?故曰:仁義者、聖人之蘧廬。礼者、先王之陳迹。祠祝畢、芻狗捐。淳精流、糟粕棄。仁義尚爾、況其輕乎? 国家自文明以来、天地草昧、内則流言、外則構難。故不設鉤距、無以順人。不切刑罰、無以息暴。於是置神器、開告端、故能不出房闈、而天下晏然易主矣。臣聞急趨者無善迹、促柱者無和聲。拯溺不規行、療饑不鼎食。即向時祕策、今之芻狗也。願鑒秦・漢之失、考時事之宜、毀蘧廬、遺糟粕。下寬大之令、流曠蕩之沢、去萋斐之角牙、頓姦險之芒刃、塞羅織之妄源、掃朋黨之險迹、曠然使天下更始、豈不楽哉!后善其言。 遷正諫大夫、兼脩国史。乃請高史官選、以求名才。侍中韋安石嘗閲其史、歎曰:「董狐何以加!世人不知史官權重宰相、宰相但能制生人、史官兼制生死、古之聖君賢臣所以畏懼者也。」時賦斂繁重、民多蕩析、后数召入禁中訪失得。進同鳳閣鸞臺平章事。張易之構魏元忠・張説、欲誅之、無敢言者。敬則獨奏曰:「元忠・説秉心忠一、而所坐無名、殺之失天下望。」乃得不死。 以老疾還政事、俄改成均祭酒・冬官侍郎。易之等集名儒撰三教珠英、又繪武三思・李嶠・蘇味道・李迥秀・王紹宗等十八人像以為圖、欲引敬則、固辭不與、世絜其為人。出為鄭州刺史、遂致仕。侍御史冉祖雍誣奏與王同晈善、貶涪州刺史。既明其非罪、改廬州。代還、無淮南一物、所乘止一馬、子曹歩従以歸。卒年七十五。 敬則與三従昆弟居四十年、貲産無異。及執政、毎以用人為先、細務不省也。嶺表蛮叛、以裴懐古有文武才、用為桂州都督、蛮服其威惠、相率降。薦魏知古為鳳閣舎人、張思敬為右史、皆稱職。初、二張權寵盛、敬則密謂敬暉曰:「公若假太子令、挙北軍誅易之兄弟、兩飛騎力耳。」暉卒用其策。始崔寔・仲長統・王朗・曹冏論封建、指秦為失、敬則以為秦・漢世礼義陵遲、不可復用周制封諸侯、著論明之、儒者以為知言。 睿宗嗣位、嘗曰:「神龍以来、忠於本朝者、李多祚・王同晈・韋月将・燕欽融並褒復矣、尚有遺者耶?」劉幽求曰:「朱敬則忠正義烈、天下所推、往為宗楚客・冉祖雍等所誣、謫守刺史。長安中、嘗語臣曰:『相王必受命、當悉心事之。』及韋氏干紀、臣遂見危赴難。雖天誘其衷、亦敬則啓之。」於是追贈祕書監、謚曰元。 敬則兄仁軌、字徳容、隱居養親。常誨子弟曰:「終身讓路、不枉百歩。終身讓畔、不失一段。」有赤烏・白鵲棲所居樹、按察使趙承恩表其異。及卒、郭山惲・員半千・魏知古共謚為孝友先生。 賛曰:武后乘唐中衰、操殺生柄、劫制天下而攘神器。仁傑蒙恥奮忠、以權大謀、引張柬之等、卒復唐室、功蓋一時、人不及知。故唐呂温頌之曰:「取日虞淵、洗光咸池。潜授五龍、夾之以飛。」世以為名言。方高宗挙天下将以禅后、處俊固爭、不使妻乘夫、陰反陽、至姦人銜怨、仇胔以逞。蓋所謂誼形於主耶。敬則一諫、而羅織之獄衰、時而後言者歟!
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銘附香木 銘 読み 木所 味 位 在庫 備考 葦辺 あしべ 寸門多羅 甘苦酸 中下 幽求斎銘 雨のなごり あめのなごり 羅国 苦辛甘 中々 幽光斎銘 風の心 かぜのなごり 羅国 辛苦甘 中々 幽光斎銘 菊清水 きくしみず 伽羅 苦甘酸 中々 菊渓川 きくたにがわ 伽羅 甘苦辛 中々 清瀧 せいりゅう 佐曽羅 酸苦 下中 幽光斎銘 蒼樹 そうじゅ 伽羅 甘苦鹹 中々 幽光斎銘 千枝の松 ちえのまつ 伽羅 甘苦酸 中上 千代の色 ちよのいろ 真南蛮 酸甘苦 下上 錦の浦 にしきのうら 伽羅 甘苦酸 中々 幽光斎銘 庭の雪 にわのゆき 伽羅 苦甘鹹 中々 幽光斎銘 平安 へいあん 伽羅 甘苦酸 中々 幽光斎銘 まがき菊 まがききく 伽羅 酸甘辛 中々 幽求斎銘 乱れ雲 みだれぐも 真南蛮 苦鹹 中々 幽求斎銘 夕月のかげ ゆうづきのかげ 真南賀 苦酸甘 下上 幽求斎銘 テーブルは 縦棒で くぎります テーブルは 縦棒で くぎります 本スレ 又は 下のコメント欄に書き込んで下されば、銘や詳細を随時補完致します。 名前 コメント
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唐書巻一百一十一 列伝第三十六 郭孝恪 張倹 延師 王方翼 珣 蘇定方 薛仁貴 訥 嵩 平 從 程務挺 王孝傑 唐休璟 張仁愿 張敬忠 王晙 郭孝恪、許州陽翟人。少有奇節、不治貲産、父兄以為無賴。隋亂、率少年数百附李密。密喜、謂曰:「世言汝・潁多奇士、不謬也。」使與李勣守黎陽。密敗。勣遣孝恪送款、封陽翟郡公、拜宋州刺史。詔與勣經略武牢以東、所定州県、委以選補。 竇建徳之援洛也、孝恪上謁秦王、進計曰:「王世充力竭計窮、其面縛可跂足待。建徳悉衆遠來、糧餉阻絶、殆天亡時也。若固守武牢、以軍汜水、逐機應變、禽殄必矣!」王然之。賊平、置酒大會洛陽宮、語諸将曰:「孝恪策禽賊、王長先下漕、功固在諸君右。」遷上柱国。歴貝・趙・江・涇四州刺史、所至有能名。改左驍衛将軍、累加金紫光禄大夫。 貞観十六年、拜涼州都督、改安西都護・西州刺史。其地高昌舊都、流徙罪人與鎮兵雜、限以沙磧、隔絶中国、孝恪推誠撫御、盡得其歡心。初、王師滅高昌、詔以所虜焉耆生口七百還焉耆王。王叛歸欲谷設可汗、孝恪請撃之、即拜西州道行軍総管、率歩騎三千出銀山道、夜襲其王龍突騎支、虜之。帝悅、降璽書褒勞。 俄拜崑丘道副大総管、進討亀茲、破其国城、乃自留守、遣餘軍分道進。亀茲国相那利遁去。孝恪以餘部未平、出営於外。国人有謂孝恪曰:「那利素得士心、今亡在外、勢必為變、城中頗有異志、願公備之。」孝恪忽其言、不設備。那利果率衆陰與城内胡為應、薄城鼓譟、始覺之。乃率千餘人合戰、城中挙應那利、孝恪殊死闘、中流矢卒、子待詔亦歿。将軍曹繼叔進兵、復拔其城。太宗責孝恪斥候不明、至顛覆、奪其官。後愍死戰、更為挙哀。高宗即位、追還官爵、贈待詔游撃将軍、賻物三百段。 次子待封、官左豹韜衛将軍。咸亨初、副薛仁貴討吐蕃、戰大非川、敗績、貸死為民。 張倹字師約、京兆新豊人。隋相州刺史・皖城郡公威孫。父植、車騎将軍・連城県公。 倹、高祖從外孫也。高祖起、倹以功除右衛郎将、遷朔州刺史。時頡利可汗方彊、毎有求取、所遣書輒稱詔敕、邊吏奉承不敢卻。及倹、獨拒不受。大教民営田、歳收穀数十万斛。雖霜旱、勸百姓相振贍、免飢殍、州以完安。李靖既平突厥、有思結部者、窮歸于倹、倹受而安輯之。其在磧北者、親戚私相過省、倹不禁、示羈縻而已。倹徙勝州、後将不察其然、遽奏思結叛、朝廷議進討、時倹以母喪、奪服為使者撫納之。倹單騎入其部、召酋帥慰諭、推腹心、咸匍匐歸命、因挙徙代州、遂検校代州都督。倹勸墾田力耕、歳数稔、私蓄富実。倹恐虜易驕、乃建平糴法、入之官、虜悅喜、由是儲斛流贏。 遷営州都督、兼護東夷校尉。坐事免、詔白衣領職。営州部與契丹・奚・霫・靺鞨諸蕃切畛、高麗引衆入寇、倹率兵破之、俘斬略盡。復拜営州都督。太宗将征遼東、遣倹率蕃兵先進、略地至遼西、川漲、久未度。帝以為畏懦、召還。見洛陽宮、陳水草美惡・山川險易、并久不進状。帝悅、拜行軍総管、使領諸蕃騎、為六軍前鋒。時高麗候者言莫離支且至、帝召倹自新城路邀撃、虜不敢出。倹進度遼、趨建安城、破賊、斬数千級。累封皖城郡公。後改東夷校尉官為都護府、即以倹為都護。永徽初、加金紫光禄大夫。卒、年六十、謚曰密。 倹兄大師、太僕卿・華州刺史・武功県男。 弟延師、左衛大将軍・范陽郡公。性謹畏、典羽林兵三十年、未嘗有過。卒、贈荊州都督、謚曰敬、陪葬昭陵。 倹兄弟三人門皆立戟、時號「三戟張家」。 王方翼字仲翔、并州祁人。祖裕、隨州刺史、尚同安大長公主、官開府儀同三司、卒、謚曰文。 方翼早孤、哀毀如成人、時號孝童。母李、為主所斥、居鳳泉墅。方翼尚幼、雜庸保、執苦不棄日、墾田植樹、治林垠、塈完牆屋、燎松丸墨、為富家。主薨、還京師。嘗夜行、見長人丈餘、引弓射仆之、乃朽木也。太宗聞、擢右千牛。高宗立、而從祖女弟為皇后、調安定令、誅滅大姓、姦豪脅息。徙瀚海都護司馬、坐事下遷朔州尚徳府果毅、歳餘代還。居母喪、哀瘠甚、帝遣侍醫療視。其友趙持滿誅死、尸諸道、親戚莫敢視、方翼曰:「欒布哭彭越、義也。周文王掩骼、仁也。絶友義、蔽主仁、何以事君?」遂往哭其尸、具礼收葬。金吾劾繋、帝嘉之、不罪。 再遷肅州刺史。州無隍塹、寇易以攻、方翼乃發卒建樓堞、廝多楽水自環、烽邏精明。儀鳳間、河西蝗、獨不至方翼境、而它郡民或餒死、皆重繭走方翼治下。乃出私錢作水磑、簿其贏、以濟飢瘵、構舍数十百楹居之、全活甚衆、芝産其地。 裴行倹討遮匐、奏為副、兼検校安西都護、徙故都護杜懐宝為庭州刺史。方翼築碎葉城、面三門、紆還多趣以詭出入、五旬畢。西域胡縱観、莫測其方略、悉獻珍貨。未幾、徙方翼庭州刺史、而懐宝自金山都護更鎮安西、遂失蕃戎之和。 永淳初、十姓阿史那車簿啜叛、圍弓月城、方翼引軍戰伊麗河、敗之、斬首千級。俄而三姓咽兵十万踵至、方翼次熱海、進戰、矢著臂、引佩刀斷去、左右莫知。所部雜虜謀執方翼為内應、方翼悉召會軍中、厚賜、以次出壁外、縛之。會大風、雜金鼓、而號謼無聞者、殺七千人。即遣騎分道襲咽等、皆驚潰、烏鶻引兵遁去、禽首領突騎施等三百人、西戎震服。初、方翼次葛水、暴漲、師不可度、沈祭以禱、師渉而濟。又七月次葉河、無舟、而冰一昔合。時以為祥。 西域平、以功遷夏州都督。屬牛疫、民廢田作、方翼為耦耕法、張機鍵、力省而見功多、百姓順賴。明年、召方翼議西域事、引見奉天宮、賜食帝前、帝見衣有汙濯処、問其故、具對熱海苦戰状。視其創、帝咨嗟久之、賜賚良厚。 俄而妖賊白鉄余以綏州反、詔方翼與程務挺討之。飛旝撃賊、火其柵、平之、封太原郡公。阿史那元珍入寇、被詔進撃。時庫無完鎧、方翼斷六板、畫虎文、鉤聯解合、賊馬忽見、奔駭、遂敗、獲大将二、因降桑乾・舍利二部。 武后時、王后屬無在者、方翼自視功多、冀不坐、而后内欲因罪除之、未得也。及務挺被殺、即并坐方翼、追入朝、捕送獄、流崖州、卒于道、年六十三。神龍初、復官爵。方翼善書、與魏叔琬齊名。 子珣、字伯玉、與兄璵・弟以文学稱、時號「三王」。天授初、珣及進士第、應制科、遷藍田尉。以拔萃擢長安尉、因進見、武后召問刑政、嘉之。詢其族氏、對曰:「廢后、臣之姑也。」后不悅、左遷亳州司法參軍。神龍初、為河南丞、武三思矯制貶臨川令。宋璟輔政、召授侍御史。出許州長史。歳旱、珣時假刺史事、開廩振民、即自劾、玄宗赦之。累遷工部侍郎。而至中書舍人。珣嘗為秘書少監、数年而繼職。終右散騎常侍、卒、贈戸部尚書、謚曰孝。 子鋗、天宝中歴右補闕・殿中侍御史。子、自有伝。 蘇烈字定方、以字行、冀州武邑人、後徙始平。父邕、當隋季、率里中数千人為本郡討賊。定方驍悍有氣決、年十五、從父戰、数先登陷陣。邕卒、代領其衆、破劇賊張金稱・楊公卿、追北数十里、自是賊不舍境、郷黨賴之。 貞観初、為匡道府折衝、從李靖襲突厥頡利於磧口、率彀馬二百為前鋒、乘霧行、去賊一里許、霧霽、見牙帳、馳殺数十百人、頡利及隋公主惶窘各遁去、靖亦尋至、餘黨悉降。再遷左衛中郎将。與程名振討高麗、破之。拜右屯衛将軍・臨清県公。 從山道大総管程知節征賀魯、至鷹娑川、賀魯率二万騎來拒、総管蘇海政連戰未決、鼠尼施等復引二万騎為援。定方始休士、見塵起、率精騎五百、踰嶺馳擣賊営、賊衆大潰、殺千餘人、所棄鎧仗・牛馬藉藉山野不可計。副総管王文度疾其功、謬謂知節曰:「賊雖走、軍死傷者衆。今當結輜重陣間、被甲而趨、賊來即戰、是謂万全。」又矯制收軍不深入。於是馬卒勞、無闘志。定方説知節曰:「天子詔討賊、今反自守、何功之立哉?且公為大将、而閫外之事不得專、顧副将乃得專之、理不其然!胡不囚文度待天子命?」不從。至怛篤城、有胡人降、文度猥曰:「師還而降、且為賊、不如殺之、取其貲。」定方曰:「此乃自作賊耳、寧曰伐叛!」及分財、定方一不取。高宗知之、比知節等還、悉下吏、當死、貸為民。 擢定方伊麗道行軍大総管、復征賀魯、以任雅相・回紇婆潤為副。出金山北、先撃処木昆部、破之、俟斤嬾獨禄擁衆万帳降、定方撫之、發其千騎并回紇万人、進至曳咥河。賀魯率十姓兵十万拒戰、輕定方兵少、舒左右翼包之。定方令歩卒據高、攢外向、親引勁騎陣北原。賊三突歩陣、不能入、定方因其亂撃之、鏖戰三十里、斬首数万級、賊大奔。明日、振兵復進、五弩失畢挙衆降、賀魯獨與処木昆屈律啜数百騎西走。定方令副将蕭嗣業・回紇婆潤率雜虜兵趨邪羅斯川追北、定方與雅相領新附兵絶其後。會大雪、吏請少休、定方曰:「虜恃雪、方止舍、謂我不能進、若縱使遠遁、則莫能禽。」遂勒兵進至雙河、與彌射・歩真合、距賀魯所百里、下令陣而行、薄金牙山。方賀魯将畋、定方縱撃、破其牙下数万人、悉歸所部。賀魯走石国、彌射子元爽以兵與嗣業會、縛賀魯以還。由是脩亭障、列蹊隧、定疆畛、問疾收胔、唐之州県極西海矣。高宗臨軒、定方戎服奉賀魯以獻。策功拜左驍衛大将軍・邢国公、別封子慶節為武邑県公。 會思結闕俟斤都曼先鎮諸胡、劫所部及疏勒・朱倶波・喝槃陀三国復叛、詔定方還為安撫大使。率兵至葉葉水、而賊堞馬頭川。定方選精卒万・騎三千襲之、晝夜馳三百里、至其所。都曼驚、戰無素、遂大敗、走馬保城。師進攻之、都曼計窮、遂面縛降。俘獻於乾陽殿、有司請論如法。定方頓首請曰:「臣向諭陛下意、許以不死、願丐其命。」帝曰:「朕為卿全信。」乃宥之。嶺以西遂定。加食邢州鉅鹿三百戸、遷左武衛大将軍。 出為神丘道大総管、率師討百濟。自城山濟海至熊津口、賊瀕江屯兵、定方出左涯、乘山而陣、與之戰、賊敗、死者数千。王師乘潮而上、舳艫銜尾進、鼓而譟、定方将歩騎夾引、直趨真都城。賊傾国來、酣戰、破之、殺虜万人、乘勝入其郛、王義慈及太子隆北走。定方進圍其城、義慈子泰自立為王、率衆固守。義慈之孫文思曰:「王與太子出、而叔豈得擅為王?若王師還、我父子安得全?」遂率左右縋城下、人多從之、泰不能止。定方使士登城、建唐旗幟。於是泰開門請命、其将禰植與義慈降、隆及諸城送款、百濟平、俘義慈・隆・泰等獻東都。 定方所滅三国、皆生執其王、賞賚珍宝不勝計、加慶節尚輦奉御。未幾、定方為遼東道行軍大総管、俄徙平壤道。破高麗之衆於浿江、奪馬邑山為営、遂圍平壤。會大雪、解圍還。拜涼州安集大使、以定吐蕃・吐谷渾。乾封二年卒、年七十六。帝悼之、責謂侍臣曰:「定方於国有功、當褒贈、若等不言、何邪?」乃贈左驍衛大将軍・幽州都督、謚曰荘。 薛仁貴、絳州龍門人。少貧賤、以田為業。将改葬其先、妻柳曰:「夫有高世之材、要須遇時乃發。今天子自征遼東、求猛将、此難得之時、君盍圖功名以自顕?富貴還郷、葬未晩。」仁貴乃往見将軍張士貴應募。 至安地、會郎将劉君卬為賊所圍、仁貴馳救之、斬賊将、係首馬鞍、賊皆懾伏、由是知名。王師攻安市城、高麗莫離支遣将高延寿等率兵二十万拒戰、倚山結屯、太宗命諸将分撃之。仁貴恃驍悍、欲立奇功、乃著白衣自標顕、持戟、腰鞬兩弓、呼而馳、所向披靡。軍乘之、賊遂奔潰。帝望見、遣使馳問:「先鋒白衣者誰?」曰:「薛仁貴。」帝召見、嗟異、賜金帛・口馬甚衆、授游撃将軍・雲泉府果毅、令北門長上。師還、帝謂曰:「朕舊将皆老、欲擢驍勇付閫外事、莫如卿者。朕不喜得遼東、喜得虓将。」遷右領軍中郎将。 高宗幸万年宮、山水暴至、夜突玄武門、宿衛皆散走、仁貴曰:「當天子緩急、安可懼死?」遂登門大呼、以警宮内、帝遽出乘高。俄而水入帝寢、帝曰:「賴卿以免、始知有忠臣也。」賜以御馬。 蘇定方討賀魯、仁貴上疏曰:「臣聞兵出無名、事故不成。明其為賊、敵乃可服。今泥熟不事賀魯、為其所破、虜係妻子。王師有於賀魯部落轉得其家口者、宜悉取以還、厚加賚遣、使百姓知賀魯為暴而陛下至徳也。」帝納之、遂還其家屬、泥熟請隨軍死。 顕慶三年、詔副程名振經略遼東、破高麗於貴端城、斬首三千級。明年、與梁建方・契苾何力遇高麗大将溫沙多門、戰橫山、仁貴獨馳入、所射皆應弦仆。又戰石城、有善射者、殺官軍十餘人、仁貴怒、單騎突撃、賊弓矢倶廢、遂生禽之。俄與辛文陵破契丹於黒山、執其王阿卜固獻東都。拜左武衛将軍、封河東県男。 詔副鄭仁泰為鉄勒道行軍総管。将行、宴内殿、帝曰:「古善射有穿七札者、卿試以五甲射焉。」仁貴一發洞貫、帝大驚、更取堅甲賜之。時九姓衆十餘万、令驍騎数十來挑戰、仁貴發三矢、輒殺三人、於是虜氣懾、皆降。仁貴慮為後患、悉坑之、轉討磧北餘衆、擒偽葉護兄弟三人以歸。軍中歌曰:「将軍三箭定天山、壯士長歌入漢關。」九姓遂衰。 鉄勒有思結・多覽葛等部、先保天山、及仁泰至、懼而降、仁泰不納、虜其家以賞軍、賊相率遁去。有候騎言:「虜輜重畜牧被野、可往取。」仁泰選騎万四千巻甲馳、絶大漠、至仙萼河、不見虜、糧盡還。人飢相食、比入塞、餘兵纔二十之一。仁貴亦取所部為妾、多納賕遺、為有司劾奏、以功見原。 乾封初、高麗泉男生内附、遣将軍龐同善・高往慰納、弟男建率国人拒弗納、乃詔仁貴率師援送同善。至新城、夜為虜襲、仁貴撃之、斬数百級。同善進次金山、虜不敢前、高麗乘勝進、仁貴撃虜斷為二、衆即潰、斬馘五千、拔南蘇・木底・蒼巖三城、遂會男生軍。手詔勞勉。仁貴負鋭、提卒二千進攻扶餘城、諸将以兵寡勸止。仁貴曰:「在善用、不在衆。」身帥士、遇賊輒破、殺万餘人、拔其城、因旁海略地、與李勣軍合。扶餘既降、它四十城相率送款、威震遼海。有詔仁貴率兵二万與劉仁軌鎮平壤、拜本衛大将軍、封平陽郡公、検校安東都護、移治新城。撫孤存老、検制盜賊、隨才任職、褒崇節義、高麗士衆皆欣然忘亡。 咸亨元年、吐蕃入寇、命為邏娑道行軍大総管、率将軍阿史那道真・郭待封撃之、以援吐谷渾。待封嘗為鄯城鎮守、與仁貴等夷、及是、恥居其下、頗違節度。初、軍次大非川、将趨烏海、仁貴曰:「烏海地險而瘴、吾入死地、可謂危道、然速則有功、遅則敗。今大非嶺寬平、可置二柵、悉内輜重、留万人守之、吾倍道掩賊不整、滅之矣。」乃約齎、至河口、遇賊、破之、多所殺掠、獲牛羊万計。進至烏海城、以待後援。待封初不從、領輜重踵進、吐蕃率衆二十万邀撃取之、糧仗盡沒、待封保險。仁貴退軍大非川、吐蕃益兵四十万來戰、王師大敗。仁貴與吐蕃将論欽陵約和、乃得還、吐谷渾遂沒。仁貴歎曰:「今歳在庚午、星在降婁、不應有事西方、鄧艾所以死於蜀、吾固知必敗。」有詔原死、除名為庶人。 未幾、高麗餘衆叛、起為林道総管。復坐事貶象州、會赦還。帝思其功、乃召見曰:「疇歳万年宮、微卿、我且為魚。前日殄九姓、破高麗、爾功居多。人有言向在烏海城下縱虜不撃、以至失利、此朕所恨而疑也。今遼西不寧、瓜・沙路絶、卿安得高枕不為朕指麾邪?」於是拜瓜州長史・右領軍衛将軍・検校代州都督、率兵撃突厥元珍於雲州。突厥問曰:「唐将為誰?」曰:「薛仁貴。」突厥曰:「吾聞薛将軍流象州死矣、安得復生?」仁貴脱兜鍪見之、突厥相視失色、下馬羅拜、稍稍遁去。仁貴因進撃、大破之、斬首万級、獲生口三万、牛馬稱是。 永淳二年卒、年七十。贈左驍衛大将軍・幽州都督、官給輿、護喪還郷里。 子訥、字慎言、起家城門郎、遷藍田令。富人倪氏訟息錢於肅政臺、中丞來俊臣受賕、發義倉粟数千斛償之。訥曰:「義倉本備水旱、安可絶衆人之仰私一家?」報上不與。會俊臣得罪、亦止。 後突厥擾河北、武后以訥世将、詔攝左威衛将軍・安東道經略使。對同明殿、具言:「醜虜馮暴、以廬陵王藉言、今雖還東宮、議不堅信。若太子無動、賊不討而解。」后納其言。俄遷幽州都督・安東都護。改并州長史、検校左衛大将軍。訥久処邊、有戰功。開元初、玄宗講武新豊、詔訥為左軍節度。時諸部頗失序、唯訥與解琬軍不動。帝令輕騎召之、至軍門、不得入。礼成、尤見慰勞。 明年、契丹・奚・突厥連和、数入邊、訥建議請討、詔監門将軍杜賓客・定州刺史崔宣道與訥帥衆二万出檀州。賓客議「方暑、士負戈贏糧深討、慮恐無功」、姚元崇亦持不可、訥獨曰:「夏草薦茂、羔犢方息、不費饋饟、因盜資、振国威霊、不可失也。」天子方欲夸威四夷、喜奇功、乃聽訥言、而授紫微黄門三品以重之。師至濼河、與賊遇、諸将不如約、為虜覆、盡亡其軍。訥脱身走、而罪宣道及大将李思敬等八人、有詔斬以徇、獨賓客免、盡奪訥官爵。 俄而吐蕃大酋坌達延・乞力徐等衆十万寇臨洮、入蘭州、剽牧馬、詔訥白衣攝羽林将軍、為隴右防禦使、與王晙撃之。追及賊、戰武階驛、掎角劫之、破其衆。尾北至洮水、又戰長城堡、殺鹵数万、禽其酋六指郷彌洪、悉收所掠及仗械不貲。時帝欲自将北伐、及訥大克、乃止行。命紫微舍人倪若水即軍陟功状、拜訥左羽林大将軍、復封平陽郡公、以子暢為朝散大夫。又授涼州鎮軍大総管、赤水・建康・河源邊州皆隸節度。俄為朔方行軍大総管。久之、以老致仕。卒、年七十二、贈太常卿、謚曰昭定。 訥性沈勇寡言、其用兵、臨大敵益壯。 弟楚玉、開元中為范陽節度使、以不職廢。生子嵩。 嵩生燕・薊間、氣豪邁、不肯事産利、以膂力騎射自将。豫安禄山亂、晩為史朝義守相州。僕固懐恩破朝義、長驅河朔、嵩震懼、迎拜軍門、懐恩釋之、奏為検校刑部尚書・相衛洺邢等州節度使。方大亂後、人亦厭禍、嵩謹奉職、頗有治名。大初、封高平郡王、実封二百戸、號其軍為昭義。遷検校尚書右僕射、更封平陽。七年卒、贈太保。 詔其弟知留後事、累加検校太子少師。十年、為其将裴志清所逐、以兵歸田承嗣。奔洺州。請入朝、降服待罪銀臺門、赦之。乃分其地、以嵩族子擇為相州刺史、雄衛州刺史、堅洺州刺史。承嗣誘雄亂、不從、遣客刺殺之。 初、嵩好蹴踘、隱士劉鋼勸止曰:「為楽甚衆、何必乘危邀晷刻歡?」嵩悅、圖其形坐右。 嵩子平。 平字坦塗、年十二、為磁州刺史。父喪、軍吏以故事脅知留務、偽許之、已而讓、夕以喪歸。累授右衛将軍、宿衛三十年。宰相杜黄裳擢為汝州刺史、治有風績。王師討蔡、繇左龍武大将軍授鄭滑節度使、数戰有功。始、河溢瓠子、東泛滑、距城纔二里所。平按求故道出黎陽西南、因命其佐裴弘泰往請魏博節度使田弘正、弘正許之。乃籍民田所當者易以它地、疏道二十里、以釃水悍、還壖田七百頃於河南、自是滑人無患。入為左金吾衛大将軍。未幾、復帥鄭滑。 李師道平、詔分淄・青・齊・登・莱五州為平盧軍、徙平為節度使。王廷湊圍牛元翼、棣州危、詔平出援。平遣将李叔佐率兵二千往、刺史王稷餽餉陋狹、衆潰而歸、推突将馬士端為帥、劫屯士万人、薄州堞。城中兵寡、平悉公帑家貲募鋭卒二千迎戰、以奇兵掩賊輜重、賊狼顧、遂大敗、降、餘黨平。引謀亂者二千人斬堂皇下、脅從皆縱還田里、威震一方。詔遷検校尚書右僕射、封魏国公。在鎮六年、兵鎧完礪、徭賦均一。宝暦初、入朝、民鄣路願留、数日得出。拜検校司空・河中絳隰節度使、復得隸晋・慈二州、益兵三千。進検校司徒、更封韓。召拜太子太保。以司徒致仕。卒、年八十、贈太傅。 子從、字順之、以蔭授左清道率府兵曹參軍、累遷汾州刺史、隄文谷・濾河二水、引漑公私田、汾人利之。徙濮州、儲粟二万斛以備凶災。於是山東大水、詔右司郎中趙傑為賑卹使、傑表其才、擢将作監。終左領軍衛上将軍。贈工部尚書。 程務挺、洺州平恩人。 父名振、隋大業末、仕竇建徳為普楽令、盜不跡境。俄棄賊自歸、高祖詔授永寧令、使率兵經略河北。即夜襲鄴県、俘男女千餘人以歸、去数舍、閲婦人方乳者九十餘人、還之、鄴人感其仁。劉黒闥陷洺州、名振與刺史陳君賓自拔歸、母妻為賊所得。名振率衆千餘、掠冀・貝・滄・瀛等州、邀撃糧道、悉毀賊水陸餉具。黒闥怒、殺其母妻。賊平、請手斬黒闥、以其首祭母。拜営州長史、封東平郡公、賜物二千段・黄金三百兩。轉洺州刺史。太宗征遼東、召問方略、不合旨、帝勃然詰之、名振辯對益詳、帝意解、謂左右曰:「房玄齡常在朕前、見朕嗔餘人、色不能主。名振生平未識我、一旦誚讓、而辭吐不屈、奇士哉!」拜右驍衛将軍・平壤道行軍総管。攻沙卑城、破獨山陣、皆以少撃衆、號為名将。遷営州都督、兼東夷都護。撃高麗於貴端水、焚其新城。歴晋・蒲二州刺史、鏤方道総管。卒、贈右衛大将軍、謚曰烈。 務挺少從父征討、以勇力聞、拜右領軍衛中郎将。破突厥六万騎於雲州。會偽可汗阿史那伏念叛、総管李文暕等三将以次奔敗。詔裴行倹討之、以務挺副、検校豊州都督。時伏念屯金牙山、務挺與副総管唐玄表引兵赴之、伏念懼、乃間道降於行倹、故裴炎以為非行倹功、遷務挺右武衛将軍、封平原郡公。 綏州部落稽白鉄余據城平叛、建偽號、署置百官、進攻綏徳・大斌、殺官吏、火區舍。詔務挺與夏州都督王方翼討之、務挺生禽白鉄余。進左驍衛大将軍、検校左羽林軍。嗣聖初、與右領軍大将軍張虔勗等豫廢中宗・立豫王為皇帝、累被褒賚。以左武衛大将軍為單于道安撫大使、禦突厥。務挺善綏禦、士服其威愛、突厥憚之、不敢盜邊。 裴炎下獄、務挺密表申治、又素與唐之奇・杜求仁善、或言務挺與炎及徐敬業潛相援結、后遣左鷹揚将軍裴紹業即軍中斬之、籍其家。突厥聞務挺死、率相慶、為立祠、毎出師、輒禱焉。 王孝傑、京兆新豊人。少以軍功進。儀鳳中、劉審礼討吐蕃、孝傑以副総管戰大非川、為虜執、賛普見之、曰「貌類吾父」、故不死、歸之。武后時、為右鷹揚衛将軍。孝傑居虜中久、悉其虚実。長寿元年、為武威道総管、與阿史那忠節討吐蕃、克亀茲・于闐・疏勒・碎葉等城。武后曰:「貞観中、西境在四鎮、其後不善守、棄之吐蕃。今故土盡復、孝傑功也。」乃遷左衛大将軍。進夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品、清源県男。證聖初、復為朔方道総管、與吐蕃戰不利、免。 會契丹李盡忠等叛、有詔起白衣為清邊道総管、将兵十八万討之。軍至東硤石谷、與賊接。道隘虜衆、孝傑率鋭兵先驅、出谷整陣、與賊戰、而後軍総管蘇宏暉以其軍退、援不至、為虜所乘、軍潰、孝傑墮谷死、士相蹂且盡。初、進軍平州、白鼠晝入営頓伏。皆謂「鼠坎精、胡象也、白質歸命、天亡之兆」。及戰、乃孝傑覆焉。時張説以管記還白状、后問之、説具陳:「孝傑乃心国家、敢深入、以少當衆、雖敗、功可錄也。」乃贈夏官尚書・耿国公、以其子擇為朝散大夫。遣使者斬宏暉、使未至而宏暉已立功、遂贖罪。 唐璿字休璟、以字行、京兆始平人。曾祖規、為後周驃騎大将軍。休璟少孤、授易於馬嘉運、伝礼於賈公彦、挙明經高第。為呉王府典籤、改営州戸曹參軍。會突厥誘奚・契丹叛、都督周道務以兵授休璟、破之於獨護山、数馘多、遷朔州長史。 永淳中、突厥圍豊州、都督崔智辯戰死、朝廷議棄豊保霊・夏。休璟以為不可、上疏曰:「豊州控河遏寇、號為襟帶、自秦・漢以來、常郡県之。土田良美、宜耕牧。隋季喪亂、不能堅守、乃遷就寧・慶、戎羯得以乘利而交侵、始以霊・夏為邊。唐初、募人以実之、西北一隅得以完固。今而廢之、則河傍地復為賊有、而霊・夏亦不足自安、非国家利也。」高宗從其言。垂拱中、遷安西副都護。會吐蕃破焉耆、安息道大総管韋待價等敗、休璟收其潰亡、以定西土、授霊州都督。乃陳方略、請復四鎮。武后遣王孝傑拔亀茲等城、自休璟倡之。 聖暦中、授涼州都督・右肅政御史大夫・持節隴右諸軍副大使。吐蕃大将麴莽布支率騎数万寇涼州、入洪源谷、休璟以兵数千臨高望之、見賊旗鎧鮮明、謂麾下曰:「吐蕃自欽陵死、賛婆降、莽布支新将兵、欲以示武、且其下皆貴臣酋豪子弟、騎雖精、不習戰、吾為諸君取之。」乃被甲先登、六戰皆克、斬二将、獲首二千五百、築京観而還。吐蕃來請和、既宴、使者屢覘休璟、后問焉、對曰:「洪源之戰、是将軍多殺臣士卒、其勇無比、今願識之。」后嗟異、擢為右武威・金吾二衛大将軍。 西突厥烏質勒失諸蕃和、挙兵相攻、安西道閉。武后詔休璟與宰相計議、不少選、畫所當施行者。既而邊州建請屯置、盡如休璟策。后曰:「恨用卿晩。」進拜夏官尚書・同鳳閣鸞臺三品。后誚楊再思・李嶠・姚元崇等曰:「休璟練知邊事、卿輩十不當一。」改太子右庶子、仍知政事。 會契丹入塞、復以夏官尚書検校幽営等州都督・安東都護。時中宗為皇太子、休璟将行、進啓曰:「易之兄弟恩寵過幸、数入禁閫、非人臣所宜、願加防察。」帝復位、召授輔国大将軍・同中書門下三品・酒泉郡公。謂曰:「初欲召公計事、以有北狄憂、前日直言、今未忘也。」加特進・尚書右僕射、賜邑戸三百、封宋国公。 是歳大水、上疏自劾免、不許。累遷検校吏部尚書。景龍二年致仕。未幾、復起為太子少師・同中書門下三品、監脩国史。景雲初、以特進為朔方行軍大総管、備突厥。停舊封、別賜百戸。明年、復請老、給一品全禄。延和元年卒、年八十六、贈荊州大都督、謚曰忠。 休璟以儒者號知兵、自碣石踰四鎮、其間地幾万里、山川夷岨、障塞之要、皆能言之、故行師料敵未嘗敗。初得封、以賦絹数千散賙其族、又出財数十万大為塋墓、盡葬其五服親、當時稱重。惟張仁愿議築受降城、而休璟獨謂不可、卒就之、而漠南無虜患。始老、已踰八十、猶託倚權近求復用。於是賀婁尚宮方用事、附者輒榮赫、休璟乃為子娶其義女、故復起宰相、頗為時譏訾。其當国、亦無它毘益云。 子先慎至陳州刺史、先擇為右金吾衛将軍。 張仁愿、華州下邽人。本名仁亶、以睿宗諱音近避之。有文武材。武后時、累遷殿中侍御史。御史郭弘霸者、稱后乃彌勒佛身、又鳳閣舍人張嘉福・王慶之請以武承嗣為皇太子、邀仁愿聯章、仁愿正色拒之。後王孝傑為吐剌軍総管、與吐蕃戰不利、仁愿監其軍、因入言状、孝傑坐免、擢仁愿侍御史。 万歳通天中、監察御史孫承景監清邊軍、戰還、自圖先鋒當矢石状。武后歎曰:「御史乃能如是乎!」擢為右肅政臺中丞、詔仁愿即其麾下功。仁愿先問承景破敵曲折、承景実不行、所問皆窮。仁愿劾奏承景罔上、虚列虜級。貶為崇仁令、以仁愿代為中丞、検校幽州都督。 默啜寇趙・定、還出塞、仁愿以兵邀之、賊引去、矢著其手、武后遣使勞問、賜藥注傅。遷并州都督長史。神龍中、進左屯衛大将軍、兼検校洛州長史。會穀貴多盜、仁愿一切捕殺、胔積府門、畿甸震懾、無敢犯。先是、賈敦頤嘗為長史、有政績、時人為之語曰:「洛有前賈後張、敵京兆三王。」 三年、朔方軍総管沙吒忠義為突厥所敗、詔仁愿攝御史大夫代之。既至、賊已去、引兵踵撃、夜掩其営、破之。始、朔方軍與突厥以河為界、北有拂雲祠、突厥毎犯邊、必先謁祠禱解、然後料兵度而南。時默啜悉兵西撃突騎施、仁愿請乘虚取漠南地、於河北築三受降城、絶虜南寇路。唐休璟以為「兩漢以來皆北守河、今築城虜腹中、終為所有」。仁愿固請、中宗從之。表留歳滿兵以助功、咸陽兵二百人逃歸、仁愿禽之、盡斬城下、軍中股慄、役者盡力、六旬而三城就。以拂雲為中城、南直朔方、西城南直霊武、東城南直楡林、三壘相距各四百餘里、其北皆大磧也、斥地三百里而遠。又於牛頭朝那山北置烽候千八百所。自是突厥不敢踰山牧馬、朔方益無寇、歳損費億計、減鎮兵数万。初建三城也、不置壅門・曲敵・戰格。或曰:「邊城無守備、可乎?」仁愿曰:「兵貴攻取、賤退守。寇至、當併力出拒、敢回望城者斬、何事守備、退忸其心哉!」後常元楷代為総管、始築壅門、議者益重仁愿而輕元楷。 景龍二年、拜左衛大将軍・同中書門下三品、封韓国公。春還朝、秋復督軍備邊、帝為賦詩祖道、賞賚不貲。遷鎮軍大将軍。睿宗立、乃致仕。加兵部尚書、稟禄全給。開元二年卒、贈太子少保。 仁愿為将、號令嚴、将吏信伏、按邊撫師、賞罰必直功罪。後人思之、為立祠受降城、出師輒享焉。宰相文武兼者、當時稱李靖・郭元振・唐休璟・仁愿云。在朔方、奏用御史張敬忠・何鸞・長安尉寇泚・鄠尉王易從・始平主簿劉體微分総軍事、太子文学柳彦昭為管記、義烏尉晁良貞為隨機、皆著稱、後至大官、世名仁愿知人。 子之輔、至趙州刺史。 張敬忠自監察御史累遷吏部郎中、開元七年拜平盧節度使。 王晙、滄州景城人、後徙洛陽。父行果、為長安尉、知名。晙少孤、好学。祖有方奇之、曰:「是子當興吾宗。」長豪曠、不楽為銜検事。擢明經第、始調清苑尉、歴除殿中侍御史。會朔方元帥魏元忠討賊不利、劾奏副将韓思忠敗、律當誅。晙以「思忠偏裨、權不己制、且其人勇智可惜、不宜獨誅」、固爭、得釋、晙亦出為渭南令。 景龍末、授桂州都督。州有兵、舊常仰餉衡・永。晙始築羅郛、罷戍卒。埭江、開屯田数千頃、以息轉漕、百姓賴之。後求歸上、州人詣闕留。有詔:「桂往罹寇暴、戸口彫癠、宜即留、以須政成。」在桂踰期年、人丐刻石頌徳。初、劉幽求放封州、広州都督周利貞欲必殺之、道出晙所、晙知其故、留不遣。利貞移書督趣、幽求懼曰:「勢且難全、正恐累君、奈何?」晙曰:「公之坐、非朋友所絶。晙在、終不忍公無罪就死。」俄崔湜等誅、幽求復執政、故詔幽求為刻石辭。遷鴻臚少卿、充朔方軍副大総管・安北大都護、豊安・定遠等城並授節度。進太僕少卿・隴右群牧使。 開元二年、吐蕃以精甲十万寇臨洮、次大來谷、其酋坌達延以兵踵而前。晙率所部二千與臨洮軍合、料奇兵七百、易胡服、夜襲、去賊五里、令曰:「前遇寇、士大呼、鼓角應之。」賊驚、疑伏在旁、自相闘死者万計。俄而薛訥至武階、距大來二十里、賊陣兩軍間、亙一舍而近。晙往迎訥、夜使壯士銜枚鏖突、虜駭引去、追至洮水、敗之、俘獲如積。以功加銀青光禄大夫・清源県男、兼原州都督。以子珽為朝散大夫。又進并州都督長史。 明年、突厥默啜為拔曳固所殺、其下多降、分置河曲。既而小殺繼立、降者稍稍叛去。晙上言: 突厥向以国亂、故款塞、與部落無間也。延傃北風、何嘗忘之?今徙処河曲、使内伺邊罅、久必為患。比者不受要約、兵已屢動、擅作烽區、閉障行李。虜脱南牧、降帳必與連衡、以相應接、表裏有敵、雖韓・彭・孫・呉、無所就功。請至農隙、令朔方軍大陳兵、召酋豪、告以禍福、啗以金繒、且言南方麋鹿魚米之饒、並遷置淮右・河南寬郷、給之程糧。雖一時之勞、然不二十年、漸服諸華、料以充兵、則皆勁卒。議者若謂降狄不可以南処、則高麗舊俘置沙漠之西、城傍編夷居青・徐之右、何獨降胡不可徙歟? 臣復料議者必曰:「故事、置于河曲、前日已寧、今無獨異。」且往者頡利破亡、邊鄙安定、故降戸得以久安。今虜未殄滅、此降人皆戚屬、固不與往年同已。臣請以三策料之:悉其部落置内地、獲精兵之実、閉黠虜之患、此上策也。亭障之下、蕃華參処、広屯戍、為備擬、費甚人勞、下策也。置之朔塞、滋成禍萌、此無策也。不然、前至河冰、且必有變。 書未報、而虜已叛、乃敕晙并州兵濟河以討。晙間行、巻甲捨幕趨山谷、夜遇雪、恐失期、誓於神曰:「晙事君不以忠、不討有罪、天所殛者、當自蒙罰、士衆無罪。心誠忠、而天監之、則止雪反風、以成功。」俄而和霽。時叛胡分二道走、晙自東道追及之、獲級三千。以功遷左散騎常侍・朔方行軍大総管。改御史大夫。跌部及僕固都督勺磨等散保受降城之鄙、潛引突厥内擾、晙密言上、盡誘而誅之。拜兵部尚書、復為朔方軍大総管。 九年、蘭池胡康待賓據長泉反、陷六州、詔郭知運與晙討平之。封清源公、官一子。玄宗以宮人賜知運等、晙獨不敢取、曰:「臣之事君、猶子事父、詎有常近闈掖而臣子敢當乎?誓死以免。」見聽。初、晙奏:「朔方兵力有餘、願罷知運、獨當戍。」未報、而知運至、故不協。晙所降附、知運輒縱撃、賊意晙賣己、乃復叛。晙坐貶梓州刺史。改太子詹事・中山郡公。進吏部尚書・太原尹。代張説為兵部尚書・同中書門下三品、充朔方軍節度大使、河北・河西・隴右・河東之軍盡屬。是冬、帝親郊、追會大礼、晙以冰壯、請留将兵待邊、手敕慰勉。會有人告許州刺史王喬謀反、辭逮晙、詔源乾曜・張説雜訊、無状、以黨與貶蘄州刺史、遷定州。復以戸部尚書為朔方軍節度使。卒、贈尚書左丞相、謚曰忠烈。 晙氣偉特、時謂為熊虎相。感慕節義、有古人風。其操下肅壹、吏人畏愛。始、二張之誣魏元忠、晙獨上疏申治。宋璟曰:「魏公全矣、子再觸逆鱗、其殆乎!」晙曰:「魏公以忠獲罪、苟得辨、雖死弗悔。」 晙卒後、信安王禕討奚於幽州、告捷、且言「戰時、士咸見晙與部将高昭麾兵赴敵」、天子嗟異。戸部郎中陽伯成上疏、請封晙墓、表異之、優其子孫。帝乃遣使祭晙廟、進諸子官。 賛曰:唐所以能威振夷荒・斥大封域者、亦有虎臣為之牙距也。至師行数千万里、窮討殊闘、獵取其国由鹿豕然、可謂選値其才歟!夫宰相代天秩物、燮化人神、惟有徳者宜之。若休璟・仁愿、用以丞弼、非彊所不能邪?據功名之地、則綽綽矣。
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唐書巻二百六 列伝第一百三十一 外戚 独孤懐恩 武士 士稜 士逸 承嗣 三思 懿宗 攸曁 韋温 王仁皎 守一 楊国忠 李翛 鄭光 凡外戚成敗、視主徳何如。主賢則共其栄、主否則先受其禍。故太宗検貴倖、裁賞賜、貞観時、内里無敗家。高・中二宗、柄移豔私、産亂朝廷、武・韋諸族、耄嬰頸血、一日同汚鈇刃。玄宗初年、法行近親、裏表脩敕。天宝奪明、委政妃宗、階召反虜、遂喪天下。楊氏之誅、類不遺、蓋数十年之寵、不償一日之慘、甲第厚貲、無救同坎之悲、寧不哀哉!代・徳而降、閹尹参嬖、後宮雖多、無赫赫顯門、亦無刀鋸大戮。故用福甚者得禍酷、取名少者蒙責輕、理所固然。若乃長孫无忌之功、武平一之識、呉漵之忠、弗縁内寵者、自見別伝云。 独孤懐恩、元貞皇后弟之子也。父整、仕隋為涿郡太守。懐恩之幼、隋文帝献皇后以姪養宮中。逮長、稍学記書、而居財不訾、喜交豪猾博徒。為鄠令、以疾免。 高祖平京師、拜長安令、頗厳明、如職而辨。帝受禪、擢工部尚書。初、虞州刺史韋義節撃堯君素於蒲州、不克、帝遣懐恩代将。性貪、寡算略、数戰無功、士喪沮、詔書切責、而懐恩稍怨望。帝嘗與戲曰:「弟姑子悉有天下、次當爾邪?」懐恩内喜、以為天命。既而居忽忽、曰:「我家渠独女子富貴也?」因謀亂。 是時、虞郷南山多宿盜、而劉武周使宋金剛略澮州、帝發関中軍屬秦王、屯柏壁。繇是懐恩與麾下元君宝・解令栄靜謀引王行本軍與武周連和、割河東以啗之、引群賊取永豐倉、絶秦王餉道、長驅三輔。會君素死、而行本得其兵、部畫已定、而夏人呂崇茂殺県令應武周。帝敕懐恩與永安王孝基・陝州総管于筠・内史侍郎唐儉撃夏、為金剛所掩、諸将皆沒于賊。君宝與開府劉讓私侮懐恩曰:「不早舉大事、以及斯辱也。」故謀寖露。及秦王敗武周於美良川、懐恩逃帰、帝命率師攻蒲州。君宝聞曰:「王者不死、果其然!」唐儉知状。會武周還劉讓求罷兵、因白發懐恩等姦。于時行本舉蒲州降、懐恩勒兵入城、帝方濟河而讓至、具得反状。帝召之、懐恩不知也、單舟以來、即縛之、窮索黨與、縊死于獄、以首徇華陰市、籍入其家。 武士字信、世殖貲、喜交結。高祖嘗領屯汾・晋、休其家、因被顧接。後留守太原、引為行軍司鎧参軍。募兵既集、以劉弘基・長孫順徳統之。王威・高君雅私謂士曰:「弘基等皆背征三衛、罪當死、奈何授之兵?吾且劾繋之。」士曰:「此皆唐公客、若爾、必大有嫌。」故威等疑不發。會司兵参軍田徳平欲勸威劾募人状、士脅謂曰:「討捕兵悉隸唐公、威・君雅無與、徒寄坐耳、何能為?」徳平亦止。兵起、士不與謀也。以大将軍府鎧曹参軍從平京師、為光禄大夫・義原郡公。自言嘗夢帝騎而上天、帝笑曰:「爾故王威黨也、以能罷繋劉弘基等、其意可録、且嘗礼我、故酬汝以官。今胡迂妄媚我邪?」累遷工部尚書、進封應国公、歴利・荊二州都督。卒、贈礼部尚書、謚曰定。高宗永徽中、以士仲女為皇后、故崇贈并州都督・司徒・周国公。咸亨中、加贈太尉兼太子太師・太原郡王、配享高祖廟廷、列功臣上。后監朝、尊為忠孝太皇、建崇先府、置官屬、追王五世。后革命、更於東都立武氏七廟、追冊為帝、諸妣皆隨帝號曰皇后。先天中、有詔削士偽號、仍為太原王、廟遂廢。 始、士娶相里氏、生子元慶・元爽。又娶楊氏、生三女。元女妻賀蘭氏、早寡。季女妻郭氏、不顯。士卒後、諸子事楊不盡礼、銜之。后立、封楊代国夫人、進為栄国、后姊韓国夫人。於時元慶已官宗正少卿、元爽少府少監、兄子惟良衛尉少卿。楊諷后上疏出元慶等于外、以示退讓。由是元慶斥龍州、元爽濠州、惟良始州。元慶死、元爽流振州。乾封時、惟良及弟淄州刺史懐運與岳牧集泰山下、於是韓国有女在宮中、帝尤愛幸。后欲并殺之、即導帝幸其母所、惟良等上食、后寘堇焉、賀蘭食之、暴死。后帰罪惟良等、誅之、諷有司改姓「蝮氏」、絶屬籍。元爽縁坐死、家屬投嶺外。 后取賀蘭敏之為士後、賜氏武、襲封、擢累左侍極・蘭臺太史令、與名儒李嗣真等参與刊撰。敏之韶秀自喜、烝於栄国、挾所愛、佻橫多過失。栄国卒、后出珍幣建佛廬徼福、敏之乾匿自用。司衛少卿楊思儉女選為太子妃、告婚期矣、敏之聞其美、彊私焉。楊喪未畢、褫衰粗、奏音楽。太平公主往來外家、宮人從者、敏之悉逼亂之。后疊数怒、至此暴其惡、流雷州、表復故姓、道中自經死。乃還元爽之子承嗣奉士後、宗屬悉原。 士兄士稜・士逸。 士稜字彦威、少柔愿、力于田。官司農少卿、宣城県公、常主苑囿農稼事。卒、贈潭州都督、陪葬献陵。 士逸字逖、有戰功、為齊王府戸曹参軍、六安県公。從王守太原、為劉武周所執、嘗遣間人陳破賊計。賊平、擢授益州行臺左丞、数言當世得失、高祖嘉納之。終韶州刺史。 承嗣既還、擢尚輦奉御、襲周国公、遷秘書監・礼部尚書。俄以太常卿同中書門下三品、未幾辭位。垂拱初、以春官尚書同鳳閣鸞臺平章事、改納言、代蘇良嗣為文昌左相。性暴輕忍禍、聞左司郎中喬知之婢窈娘美、且善歌、奪取之、知之作綠珠篇以諷、婢得詩恨死。承嗣怒、告酷吏殺之、殘其家。 初、后擅政、中宗幽逐、承嗣自謂伝国及己、武氏當有天下、即諷后革命、去唐家子孫、誅大臣不附者、倡議追王先世、立宗廟。又王元慶曰梁王、謚憲。元爽魏王、謚徳。后從父士讓楚王、謚僖。士逸蜀王、謚節。又贈兄子承業陳王。而承嗣為魏王、元慶子三思為梁王、士讓之孫攸寧為建昌王・攸帰九江王・攸望會稽王、士逸孫懿宗河内王・嗣宗臨川王・仁範河間王、仁範子載徳潁川王、士稜孫攸曁千乘王、惟良子攸宜建安王・攸緒安平王・從子攸止恆安王・重規高平王、承嗣子延基南陽王・延秀淮陽王、三思子崇訓高陽王・崇烈新安王、承業子延暉嗣陳王・延祚咸安王。承嗣實封千戸、監脩国史。密諭后黨鳳閣舎人張嘉福、使洛州人上書請立己為皇太子、以観后意。后問岑長倩・格輔元、皆執不宜。承嗣不得已、奏請責諭嘉福等、不罪也。怨長倩等、皆以罪誅。以特進罷。未幾、復同鳳閣鸞臺三品。承嗣為左相、而攸寧為納言、故皆罷。又與三思同三品、不及月倶免、復拜特進。后決意還太子矣。久之、遷太子太保、不得志、鞅鞅憤死、贈太尉・并州牧、謚曰宣。 延基襲爵、后嫌斥其名、更曰繼魏王。長安初、與妻永泰郡主及邵王私語張易之兄弟事、後忿爭、語聞、后怒、令自殺、以延義代王。 中宗復位、侍中敬暉等言諸武不當王、與群臣白奏:「事不両大、武家諸王宜皆免。」帝柔昏不斷、又素畏太后、且欲悅安之、更言攸曁・三思皆與去二張功、以折暉等、纔降封一級:三思王徳靜郡、攸曁寿春、懿宗為耿国公、攸寧江国、攸望葉国、嗣宗管国、攸宜息国、重規鄶国、延義魏国、攸緒巣国、崇訓酆国、延禄為咸安郡公。直臣宋務光・蘇安恆上書言:「武諸王饗封、不厭人心。」帝不悟。 載徳終湖州刺史、謚武烈。攸帰歴司屬少卿、至齊州刺史、事母孝、姊亡期、不嘗五辛、語輒流涕。攸止絳州刺史。三人死太后時、不及削封。 攸宜歴同州刺史、萬歳通天初、為清邊道行軍大総管、討契丹、后親餞白馬寺、師無功還、拜左羽林大将軍。景龍時、遷右羽林、卒。総禁兵前後十年。嗣宗終司衛卿。 重規為汴・鄭二州刺史、未至、役人營繕、后怒、貶廬州刺史。自是著令:諸王為州、不得擅營治。突厥之叛、以重規為天兵中道大総管、與沙吒忠義・張仁亶引衆三十萬討之。左羽林大将軍閻敬容為西道後軍、兵十五萬後援。還為左金吾衛大将軍、終衛尉卿。 延秀母本帶方人、坐其家沒入奚官、以姝恵、賜承嗣、生延秀。突厥黙啜薦女和親、后令延秀納之、詔右豹韜大将軍閻知微・右武衛郎将楊鸞荘齎金幣送至突厥所。知微等潛約黙啜執延秀進寇媯・檀、故延秀不得帰。神龍初、黙啜請和、因延秀送款、還、封柏国公、左衛中郎将。宗兄崇訓尚安楽公主、数與宴昵、頗通突厥語、倣虜謳舞、姿度閑冶、主愛悅。會崇訓死、遂私侍主、後因尚焉。以太常卿兼右衛将軍、封恆国公。三思死、韋后復私延秀、故延秀益自肆。主府倉曹参軍何鳳説曰:「今天下係心武家、庶幾再興。且讖曰『黑衣神孫被天裳』、神孫非公尚誰哉?」因勸服皁衣惑衆。韋后敗、尚與主居禁中、同斬肅章門。攸望以太府卿貶死春州。諸武屬坐延秀誅徙者略盡、独載徳子平一以文章顯、與攸緒常避盛滿、故免、自有伝。 攸寧、天授中擢累納言。踰年、以左羽林衛大将軍罷、俄還納言。久乃罷為冬官尚書。聖暦初、同鳳閣鸞臺平章事。自承嗣・三思罷政事、間一年、攸寧・三思復當国、置句使、苛取民貲産、毀族者凡十七八、呼天自冤。築大庫百餘舎聚所得財、一昔火、不遺一錢。以冬官尚書罷。神龍初、終岐州刺史、贈尚書右僕射。 三思當太后時、累進夏官・春官尚書、監脩国史、爵為王。契丹陷營州、以楡関道安撫大使屯邊。還、同鳳閣鸞臺三品、踰月去位。又検校内史、罷為太子少保、遷賓客、仍監国史。 三思性傾諛、善迎諧主意、探隱微、故后頗信任、数幸其第、賞予尤渥。薛・二張方烝蠱、三思痛屈節、為懐義御馬、倡言昌宗為王子晋後身、引公卿歌淫汚、靦然如人而不恥也。后春秋高、厭居宮中、三思欲因此市権、誘脅群不肖、即建營三陽宮於嵩山、興泰宮於萬寿山、請太后歳臨幸、己與二張扈侍馳騁、竊威福自私云。工役鉅萬萬、百姓愁歎。 崇訓之尚主也、三思方輔政、中宗居東宮、欲寵耀其下、乃令具親迎礼。宰相李嶠・蘇味道等及沈佺期・宋之問諸有名士、造作文辭、慢泄相矜、復礼法。中宗復位、擢崇訓駙馬都尉・太常卿・兼左衛将軍。三思進位司空・同中書門下三品、加實戸五百。固辭、進開府儀同三司。會降封、裁減實戸。俄以太后遺詔還所減、而封崇訓鎬国公。 初、桓彦範等已誅二張、薛季昶・劉幽求勸并誅三思等、不從。翌日、三思因韋后潛入宮中、反易国政、数日而彦範等皆失柄、所斥去者悉還。詔群臣復循太后法。三思建言:「大帝封泰山、則天皇后建明堂、封嵩山、二聖之美不可廢。」帝韙其言、遂更名五県曰乾封・合宮・永昌・登封・告成云。明年春、大旱、帝遣三思・攸曁禱乾陵而雨、帝悅。三思因主請復崇恩廟、昊・順二陵、皆置令丞。其黨鄭愔上聖感頌、帝為刻石。補闕張景源建言:「母子承業、不可言中興、所下制書皆除之。」於是天下名祠改唐興・龍興云。補闕権若訥又言:「制詔如貞観故事。且太后遺訓、母儀也。太宗舊章、祖徳也。沿襲當自近者始。」帝褒答。是時、起毬場苑中、詔文武三品分朋為都、帝與皇后臨観。崇訓與駙馬都尉楊慎交注膏築場、以利其澤、用功不訾、人苦之。 三思既私韋后、又與上官昭容亂、内忌節太子、即與主謀廢之。太子懼、故發羽林兵圍三思第、并崇訓斬之、殺其黨十餘人。 時疾三思姦亂竊国、比司馬懿。其忌阻正人特甚、嘗曰:「我不知何等名善人、唯與我者殆是哉。」與宗楚客兄弟・紀處訥・崔湜・甘元柬相驅煽、王同皎・周憬・張仲之等不勝憤、謀殺之、為冉祖雍・宋之愻・李悛所白、皆坐死。因逮染五王、而崔湜遣周利貞就殺之、故祖雍與御史姚紹之等五人、號「三思五狗」。司農少卿趙履温・中書舎人鄭愔・長安令馬構・司勳郎中崔日用・監察御史李、託其権、熏炙中外、其尤干政事者、天下語曰:「崔・冉・鄭、亂時政。」以爵賞自相崇樹、凡構大獄、汚點善良、破壞其宗、天下為蕩然。始韋月将・高軫上疏、極言三思過惡、有司殺月将、逐軫惡地。黄門侍郎宋璟執奏、俄見斥。其権大抵如此。 既死、帝為舉哀、廢朝五日、贈太尉、復封梁王、謚曰宣。追封崇訓魯王、謚曰忠。主以太子首祭三思柩。睿宗立、以父子皆逆節、斲棺暴尸、夷其墓。 懿宗以司農卿爵為郡王、歴懐・洛二州刺史。神功元年、孫萬栄敗王孝傑兵、詔懿宗為神兵道大総管討之、而婁師徳・沙吒忠義並為総管、兵凡二十萬、次趙州。懿宗聞賊且至、懼不知所出、欲棄軍走、或勸曰:「賊雖衆、無輜載、以鈔剽為命、若按兵老之、撃其帰、可成大功。」懿宗不暇計、退保相州、賊遂進屠趙州。後萬栄死、懿宗復與婁師徳撫循河北、人有自賊中帰者、一切抵死、先剔取膽、乃殺之、血沫前、而舉動自如。始萬栄入寇也、別帥何阿小陷冀州、殺人無餘種、以懿宗暴忍似之、故號稱「両何」、相語曰:「唯此両何、殺人最多。」 初、懿宗天授間受詔訊大獄、誅大臣王公、皆深排巧引、内刑塹中、無有脱者。其險酷雖周・來等不能繼也。神龍初、遷太子詹事、終懐州刺史。 攸曁自右衛中郎将尚太平公主、拜駙馬都尉、累遷右衛大将軍。天授中、自千乘郡王進封定王、實封戸六百。遷麟臺監司祀卿。長安中、降王寿春、加特進。中宗時、拜司徒、復王定、加戸千。固辭、進開府儀同三司。延秀之誅、降楚国公。攸曁沈謹和厚、於時無忤、專自奉養而已。景龍中卒、贈太尉・并州大都督、還定王、謚曰忠簡。坐公主大逆、夷其墓。 韋温者、中宗廢后庶人從父兄也。后父玄貞、歴普州参軍事、以女為皇太子妃、故擢累豫州刺史。帝幽廬陵、玄貞流死欽州、妻崔為蠻首甯承所殺、四子洵・浩・洞・泚同死容州、后二女弟逃還京師。帝復政、是日詔贈玄貞上洛郡王・太師・雍州牧・益州大都督、温父玄儼魯国公・特進・并州大都督。遣使者迎玄貞喪、詔廣州都督周仁軌討甯承、斬其首祭崔柩、官仁軌左羽林大将軍、汝南郡公。柩至、帝與后登長楽宮望而哭、贈酆王、謚文献、號廟曰褒徳、陵曰栄先、置令丞、給百戸掃除。贈洵吏部尚書・汝南郡王、浩太常卿・武陵郡、洞衛尉卿・淮陽郡、泚太僕卿・上蔡郡、並葬京師。 温初試吏、坐贓斥。神龍初、擢宗正卿、遷礼部尚書、封魯国公。弟湑、自洛州戸曹参軍事連拜左羽林大将軍、曹国公。后大妹嫁陸頌、進国子祭酒。仲妹嫁嗣虢王邕。湑子捷尚成安公主、温從弟濯尚定安公主、並拜駙馬都尉、捷為右羽林将軍。景龍三年、温以太子少保同中書門下三品、遙領揚州大都督。温既見天下事在手、欲自殖以牢其権、引用友黨不相一、公卿雖畏伏、然温無能、不如諸武凶而熾也。 湑初兼脩文館大学士、時熒惑久留羽林、后惡之、方湑從至温泉、后毒殺之以塞變、厚贈司徒・并州大都督。湑兄弟頗以文詞進、帝方盛選文章侍從、與賦詩相娛楽、湑雖為学士、常在北軍、無所造作。 有富商抵罪、萬年令李令質按之。濯馳救、令質不從、毀於帝。帝召令質至、左右為恐、令質從容曰:「濯於賊非親、但以貨為請、濯雖勢重、不如守陛下法、死無恨。」帝釋不責。 帝崩、后專政、畏有變、敕温盡総内外兵、守省中。又以從子播・捷從弟璿・高・嵩分領左右羽林軍。温與宗楚客・武延秀等説后託圖讖、韋氏當受命、謀殺少帝、内憚相王・太平公主屬尊、欲先除之、然後發其謀。而玄宗兵夜起、将軍葛福順攻玄武門、入羽林、斬播・璿・高・嵩、梟首以徇、軍中相率而應、無敢後。后死、遲旦斬温、分捕諸韋子弟、無少長皆斬。 周仁軌者、京兆萬年人、后母族也。方為并州長史、殘酷嗜殺戮。異日、見堂下有斷臂、惡之、送于野、数昔往視、故在。是月、韋后敗、使者誅仁軌、刑人舉刀、仁軌承以臂、墮地、乃悟。 睿宗夷玄貞・洵墳墓、民盜取宝玉略盡。天宝九載、復詔發掘、長安尉薛栄先往視、銘載葬日月、與發日月正同、而陵與尉名合云。 王仁皎字鳴鶴、玄宗廢后父也。景龍中、以将帥舉、授甘泉府果毅、遷左衛中郎将。帝即位、以后故、擢将作大匠、進累開府儀同三司、封祁国公、食戸三百。仁皎避職不事、委遠名譽、厚奉養、積媵妾貲貨而已。卒、年六十九、贈太尉・益州大都督、謚昭宣。官為治葬。柩行、帝御望春亭過喪。詔張説文其碑、帝為題石。 子守一、與后孿生、帝微時與雅舊、後詔尚清陽公主。從討太平主有功、由尚乘奉御遷殿中少監・晋国公、累進太子少保、襲父爵、被遇良渥。后廢、貶柳州別駕、至藍田、賜死。守一沓墨無顧藉、財蓄巨萬、皆籍入于官。 楊国忠、太真妃之從祖兄、張易之之出也。嗜飲博、数丐貸于人、無行検、不為姻族齒。年三十從蜀軍、以屯優當遷、節度使張宥惡其人、笞屈之、然卒以優為新都尉。罷去、益困、蜀大豪鮮于仲通頗資給之。從父玄琰死蜀州、国忠護視其家、因與妹通、所謂虢国夫人者。裒其貲、至成都摴蒲、一日費輒盡、乃亡去。久之、調扶風尉、不得志。復入蜀、剣南節度使章仇兼瓊與宰相李林甫不平、聞楊氏新有寵、思有以結納之為奧助、使仲通之長安、仲通辭、以国忠見、幹貌頎峻、口辯給、兼瓊喜、表為推官、使部春貢長安。将行、告曰:「郫有一日糧、君至、可取之也。」国忠至、乃得蜀貨百萬、即大喜。至京師、見群女弟、致贈遺。於時虢国新寡、国忠多分賂、宣淫不止。諸楊日為兼瓊譽、而言国忠善摴蒲、玄宗引見、擢金吾兵曹参軍・閑厩判官。兼瓊入為戸部尚書兼御史大夫、用其力也。国忠稍入供奉、常後出、專主蒲簿、計算鉤畫、分銖不誤、帝悅曰:「度支郎才也。」累遷監察御史。 李林甫興韋堅等獄、欲危太子、獄事畏卻、以国忠怙寵、搏鷙可用、倚之使按劾。国忠乃慘文峭詆、逮繋連年、誣衊被誅者百餘族、度可以危太子者、先林甫意陷之、皆中所欲。林甫方深阻固位、陰為指嚮、故国忠乘以為姦、肆意無所憚。虢国居中用事、帝所好惡、国忠必探知其微、帝以為能、擢兼度支員外郎。遷不淹年、領十五餘使、林甫始惡之。 天宝七載、擢給事中・兼御史中丞、專判度支。會三妹封国夫人、兄銛擢鴻臚卿、與国忠皆列棨戟、而第舎華僭、彌跨都邑。時海内豐熾、州県粟帛舉巨萬、国忠因言:古者二十七年耕、餘九年食、今天置太平、請在所出滯積、變輕齎、内富京師。又悉天下義倉及丁租・地課易布帛、以充天子禁蔵。明年、帝詔百官観庫物、積如丘山、賜群臣各有差、錫国忠紫衣・金魚、知太府卿事。 初、楊慎矜引王為御史中丞、已而有隙。挾国忠共劾慎矜、抵不道誅。由是権傾中外。吉温為国忠謀奪林甫政、国忠即誣奏京兆尹蕭炅・御史中丞宋渾、逐之、皆林甫所厚善、林甫不能救、遂結怨。寵方渥、位勢在国忠右、国忠忌之、因邢縡事、構誅死、己代為京兆尹、悉領其使。即窮劾支黨、引林甫交私状、牽連左逮、数以聞、帝始厭林甫、疏薄之。 先此、南詔質子閤羅鳳亡去、帝欲討之、国忠薦鮮于仲通為蜀郡長史、率兵六萬討之。戰瀘川、舉軍沒、独仲通挺身免。時国忠兼兵部侍郎、素徳仲通、為匿其敗、更戰功、使白衣領職。因自請兼領剣南、詔拜剣南節度・支度・營田副大使、知節度事。俄加本道兼山南西道採訪處置使、開幕府、引竇華・張漸・宋昱・鄭昂・魏仲犀等自佐、而留京師。帝再幸左蔵庫、班賚百官。出納判官魏仲犀言:「鳳集通訓門。」門直庫西、有詔改為鳳皇門、進仲犀殿中侍御史、屬吏率以「鳳凰優」得調。俄拜国忠御史大夫、因引仲通為京兆尹、己兼領吏部。 国忠恥雲南無功、知為林甫掎摭、欲自解於帝、乃使麾下請己到屯、外示憂邊、以合上旨、實杜禁言路、林甫果奏遣之。及辭、泣訴為林甫中傷者、妃又為言、故帝益親之、豫計召日。然国忠就道、惴惴不自安。帝在華清宮、驛追国忠還。林甫病已困、入見下、林甫曰:「死矣、公且入相、以後事累公!」国忠懼其詐、不敢當、流汗被顏。林甫果死、遂拜右相・兼文部尚書・集賢院大学士・監脩国史・崇賢館大学士・太清太微宮使、而節度・採訪等使・判度支、不解也。国忠已得志、則窮擿林甫姦事、碎其家。帝以為功、封魏国公、固讓魏、徙封衛。 国忠既以宰相領選、始建罷長名、於銓日即定留放。故事、歳掲版南院為選式、選者自通、一辭不如式、輒不得調、故有十年不官者。国忠創押例、無賢不肖、用選深者先補官、牒文謬缺得再通、衆議翕然美之。先天以前、諸司官知政事者、午漏盡、還本司視事、兵・吏部尚書・侍郎分案注擬。開元末、宰相員少、任益尊、不復視本司事。吏部銓、故常三注三唱、自春止夏乃訖。而国忠陰使吏到第、預定其員、集百官尚書省注唱、一日畢、以夸神明、駭天下耳目者。自是資格紛謬、無復綱序。虢国居宣陽坊左、国忠在其南、自臺禁還、趣虢国第、郎官・御史白事者皆隨以至。居同第、出駢騎、相調笑、施施若禽獸然、不以為羞、道路為恥駭。明年大選、因就第唱補、帷女兄弟観之、士之醜野蹇傴者、呼其名、輒笑于堂、聲徹諸外、士大夫詬恥之。先是、有司已定注、則過門下、侍中・給事中按閲、有不可、黜之。国忠則召左相陳希烈隅坐、給事中在旁、既對注、曰:「已過門下矣。」希烈不敢異。侍郎韋見素・張倚與本曹郎趨走堂下、抱案牒、国忠顧女弟曰:「紫袍二主事何如?」皆大噱。鮮于仲通等諷選者鄭怤願立碑省戸下以頌徳、詔仲通為頌、帝為易数字、因以黄金識其處。 帝常歳十月幸華清宮、春乃還、而諸楊湯沐館在宮東垣、連蔓相照、帝臨幸、必五家、賞賚不訾計、出有賜、曰「餞路」、返有勞、曰「軟」。遠近饋遺閹稚・歌兒・狗馬・金貝、踵疊其門。 国忠由御史至宰相、凡領四十餘使、而度支・吏部事自叢夥、第署一字不能盡、故吏得輕重、顯賕公謁無所忌。国忠性疏侻捷給、硜硜處決樞務、自任不疑、盛氣驕愎、百僚莫敢相可否、官屬悉苛督句剥相惎。又便佞、專徇帝嗜欲、不顧天下成敗。帝雅意事邊、故身調兵食、取習文簿惡吏任之、軍凡須索、快成其手、又不能省視也。始、李林甫紿帝天下無事、請巳漏出休、許之。文書填湊、坐家裁決。既成、敕吏持案詣左相陳希烈聯署、左相不敢詰、署惟謹。至国忠時、韋見素代希烈、循以為常。它年、大雨敗稼、帝憂之、国忠擇善禾以進、曰:「雨不為災。」扶風太守房琯上郡災、国忠怒、遣御史按之。後乃無敢以水旱聞、皆前伺国忠意乃敢啓。子暄舉明經、不中、礼部侍郎達奚珣遣子撫往見国忠、国忠方朝、見撫喜。已而聞暄當黜、詬曰:「生子不富貴耶?豈以一名為鼠輩所賣!」珣大驚、即致暄高第。俄與珣同列、猶吒官不進。 国忠雖當国、常領剣南召募使、遣戍瀘南、餉路險乏、舉無還者。舊、勳戸免行、所以寵戰功。国忠令當行者先取勳家、故士無志。凡募法、願奮者則籍之。国忠歳遣宋昱・鄭昂・韋儇以御史迫促、郡県吏窮無以應、乃詭設餉召貧弱者、密縛置室中、衣絮衣、械而送屯、亡者以送吏代之、人人思亂。尋遣剣南留後李宓率兵十餘萬撃閤羅鳳、敗死西洱河、国忠矯為捷書上聞。自再興師、傾中国驍卒二十萬、踦屨無遺、天下冤之。 安禄山方有寵、総重兵于邊、偃蹇不奉法、帝護之、下莫敢言。国忠知終不出己下、又恃内援、独暴發反状、帝疑以位相娼、不之信。禄山雖逆久、以帝遇之厚、故隱忍、伺帝一日晏駕則稱兵。及見帝嬖国忠、甚畏不利己、故謀日急。俄而禄山授尚書右僕射、帝恐国忠不悅、故冊拜司空。禄山還幽州、覺国忠圖己、反謀遂決。国忠令客何盈・蹇昂刺求反状、諷京兆尹李峴圍其第、捕禄山所善李超・安岱・李方來・王岷殺之、貶其黨吉温於合浦。禄山上書自陳、而條上国忠大罪二十、帝帰過於峴、貶零陵太守、以尉禄山意。国忠寡謀矜躁、謂禄山跋扈不足圖、故激怒之使必反、以取信於帝、帝卒不悟。乃建言:「請以禄山為平章事、追入輔政、以賈循為使、節度范陽、呂知誨節度平盧、楊光翽節度河東。」已草詔、帝使謁者輔璆琳覘禄山、未還、帝致詔坐側。而璆琳納金、固言不反。帝謂国忠曰:「禄山無二心、前詔焚之矣。」禄山反、以誅国忠為名、帝欲自将而東、使皇太子監国、謂左右曰:「我欲行一事。」国忠揣帝且禪太子、帰謂女弟等曰:「太子監国、吾屬誅矣。」因聚泣、入訴于貴妃、妃以死邀帝、遂寢。禄山既發范陽、歎曰:「国忠頭來何遲?」 哥舒翰守潼関、按兵守險、国忠聞欲反己、疑之、乃從中督戰、翰不得已出関、遂大敗、降賊。書聞、是日帝自南内移仗未央宮、国忠見百官、鯁咽不自勝。監察御史高適請率百官子弟及募豪桀十萬拒守、衆以為不可。初、国忠聞難作、自以身帥剣南、豫置腹心梁・益間、為自完計。至是、帝召宰相計事、国忠曰:「幸蜀便。」帝然之。明日遲昕、帝出延秋門、群臣不知、猶上朝、唯三衛騎立仗、尚聞刻漏聲。国忠與韋見素・高力士及皇太子諸王数百人護帝。右龍武大将軍陳玄礼謀殺国忠、不克。進次馬嵬、将士疲、乏食、玄礼懼亂、召諸将曰:「今天子震蕩、社稷不守、使生人肝腦塗地、豈非国忠所致!欲誅之以謝天下、云何?」衆曰:「念之久矣、事行身死、固所願。」會吐蕃使有請於国忠、衆大呼曰:「国忠與吐蕃謀反!」衛騎合、国忠突出、或射中其頞、殺之、爭噉其肉且盡、梟首以徇。帝驚曰:「国忠遂反耶?」時吐蕃使亦殲矣。御史大夫魏方進責衆曰:「何故殺宰相?」衆怒、又殺之。 四子:暄・昢・曉・晞。暄位太常卿・戸部侍郎、聞亂、下馬蹶、弩衆射之、身貫百矢、乃踣。昢尚萬春公主、位鴻臚卿、陷賊見殺。曉奔漢中、為漢中王瑀搒死。晞及国忠妻裴柔同奔陳倉、為追兵所斬。柔、故蜀倡也、併坎而瘞。 其黨翰林学士張漸・竇華、中書舎人宋昱、吏部郎中鄭昂、倶走山谷、民爭其貲、富埒国忠。昱戀貲産、竊入都、為亂兵所殺。餘坐誅。 国忠本名釗、以圖讖有「卯金刀」、當位御史中丞時、帝為改今名。 李翛字翛、起寒賤、繇荘憲太后婭婿得進、歴坊・絳二州刺史。無它才、為政粗辦。性纖巧、飾廚伝、結納閹寺、求善譽。憲宗以為才、拜司農卿、進京兆尹、專聚斂以固恩寵、数譖毀近臣、一時側目。 太后崩、詔翛為橋道置頓使、嗇官費、物物裁損為可喜者。梓宮至灞橋、從官多不得食。始議更造渭城門、計錢三萬、翛以為勞、不聽、使鑿軌道深之、柱危不支、方過喪而門壞、轀輬僅免、徹門乃得行。翛妄奏車軸折、山陵使李逢吉劾罔上、請免官。方帝用兵而翛屢有所献、得不坐、纔詔奪稟、逢吉持之、乃削銀青一階。翌日、加賜黄金。帝以浙西富饒、欲掊遺利、以翛為観察使。被疾還京師。元和十四年卒、士有相賀者。 鄭光、孝明皇太后弟也。會昌末、夢御大車載日月行中衢、光輝洪洞照六合、寤而占之、工曰:「君且暴貴。」不闋月、宣宗即位、光興民伍、拜諸衛将軍、遷累平盧軍節度使、徙河中・鳳翔、又賜鄠・雲陽二県良田。大中四年、詔除其租賦、宰相言:「国常賦、窶人下戸不免、柰何以外戚廢法?」帝悟、追格前詔。俄封其妾為夫人、光曉帝意、還詔不敢拜、帝嘉之。七年、來朝、對延英、占奏俚近、帝失所望、不悅、留為右羽林統軍兼太子太保。太后言其家空短、帝厚賜金繒、終不復委方鎮。卒、贈司徒、詔罷三日朝、群臣奉慰。御史大夫李景讓曰:「礼、外祖父母・舅服小功五月、伯叔父若兄弟縗期、所以疏外密内也。王者不可使外戚彊。按王・公主喪不過三日、光宜少降。」詔罷二日。 子漢卿、終義昌軍節度使。
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唐書巻七十六 列伝第一 后妃上 太穆竇皇后 文徳長孫皇后 徐賢妃 王皇后 則天武皇后 和思趙皇后 韋皇后 上官昭容 肅明劉皇后 昭成竇皇后 王皇后 貞順武皇后 元献楊皇后 楊貴妃 唐制では、皇后の下に、貴妃・淑妃・徳妃・賢妃があって、これを夫人とした。昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛があって、これを九嬪とした。婕妤・美人・才人がおのおの九人いて、合わせて二十七人、これを世婦に代えた。宝林・御女・采女がおのおの二十七人いて、合わせて八十一人、これを御妻に代えた。自餘六尚、分典乘輿服御、皆有員次。後世改復不常。開元時、以后下復有四妃非是、乃置恵・麗・華三妃、六儀、四美人、七才人、而尚宮・尚儀・尚服各二、参合前號、大抵踵周官相損益云、然則尚矣。 礼本夫婦、詩始后妃、治乱因之、興亡係焉。盛徳之君、帷薄嚴奧、裏謁不忏于朝、外言不内諸閫、関雎之風行、彤史之化修、故淑範懿行、更為内助。若夫豔嬖之興、常在中主。笫裯既交、則情與愛遷。顏辭媚熟、則事為私奪。乘易昏之明、牽不斷之柔、險言似忠、故受而不詰、醜行已效、反狃而為好。左右附之、憸壬惎之、狡謀鉗其悟先、哀誓楗於寵初、天下之事已去、而恬不自覺、此武・韋所以遂簒弑而喪王室也。至於楊氏未死、玄乱厥謀。張后制中、肅幾斂衽。吁、可嘆哉!中葉以降、時多故矣、外有攻討之勤、内寡嬿溺之私、群閹朋進、外戚勢分、后妃無大善惡、取充職位而已、故列著于篇。 高祖太穆順聖皇后竇氏は、京兆郡平陵の人である。父の竇毅は、北周にあって上柱国となり、武帝の姉の襄陽長公主をめとって、隋に入って定州総管・神武公となった。 后生、髪垂過頸、三歳與身等。讀女誡・列女等伝、一過輒不忘。武帝愛之、養宮中、異它甥。時突厥女為后、無寵、后密諫曰:「吾国未靖、虜且彊、願抑情撫接、以取合従、則江南・関東不吾梗。」武帝嘉納。及崩、哀毀同所生。聞隋高祖受禪、自投牀下、曰:「恨我非男子、不能捄舅家禍。」毅遽掩其口、曰:「毋妄言、赤吾族!」常謂主曰:「此女有奇相、且識不凡、何可妄與人?」因畫二孔雀屏間、請昏者使射二矢、陰約中目則許之。射者閲数十、皆不合。高祖最後射、中各一目、遂歸於帝。 始、元貞太后羸老有疾、而性素嚴、諸姒娣皆畏、莫敢侍。后事之、獨怡謹盡孝、或淹月不釋衣履。工為篇章規誡、文有雅體。又善書、與高祖書相雜、人不辨也。崩於涿郡、年四十五。 帝在煬帝時、多畜善馬、后見曰:「上性楽此、盍以献?徒留之速罪、無益也。」不聽、頃果坐譴。帝後見隋政乱、多妄誅殛、乃為自安計、数奏鷹犬異駒、煬帝果喜、擢位将軍。因泣謂諸子曰:「早用而母言、得此久矣!」帝有天下、詔即所葬園為寿安陵、謚曰穆。及祔献陵、尊為太穆皇后。 始、太宗生、有二龍之符、后於諸子中愛視最篤。後即位、過慶善宮、覽観梗欷、顧侍臣曰:「朕生於此、今母后永違、育我之徳不可報。」因號慟、左右皆流涕。乃享后于正寢。它日幸九成宮、夢后若平生、既悟、然不自勝。明日、詔有司大發倉賑貧瘠、以為后報焉。上元中、益謚太穆神皇后。 太宗文徳順聖皇后長孫氏は、河南郡洛陽の人である。その先祖は魏の拓抜氏であり、のちに宗室の長となったため、長孫と号した。高祖父の長孫は、大丞相・馮翊王となった。曾祖父の長孫裕は、平原公となった。祖父の長孫兕は、左将軍となった。父の長孫晟は、字を季といい、渉書史、趫鷙曉兵、隋につかえて右驍衛将軍となった。 后喜圖伝、視古善惡以自鑒、矜尚礼法。晟兄熾、為周通道館学士。嘗聞太穆勸撫突厥女、心誌之。毎語晟曰:「此明睿人、必有奇子、不可以不圖昏。」故晟以女太宗。后歸寧、舅高士廉妾見大馬二丈立后舍外、懼、占之、遇坤之泰。卜者曰:「坤順承天、載物無疆。馬、地類也。之泰、是天地交而万物通也、又以輔相天地之宜。繇協歸妹、婦人事也。女處尊位、履中而居順、后妃象也。」時隱太子釁已構、后内盡孝事高祖、謹承諸妃、消釋嫌猜。及帝授甲宮中、后親尉勉、士皆感奮。尋為皇太子妃、俄為皇后。 性約素、服御取給則止。益観書、雖容櫛不少廃。與帝言、或及天下事、辭曰:「牝雞司晨、家之窮也、可乎?」帝固要之、訖不對。後廷有被罪者、必助帝怒請繩治、俟意解、徐為開治、終不令有冤。下嬪生豫章公主而死、后視如所生。媵侍疾病、輟所御飲藥資之。下懷其仁。兄忌、於帝本布衣交、以佐命為元功、出入臥内、帝将引以輔政、后固謂不可、乘間曰:「妾託體紫宮、尊貴已極、不願私親更據權于朝。漢之呂・霍、可以為誡。」帝不聽、自用忌為尚書僕射。后密諭令牢讓、帝不獲已、乃聽、后喜見顏間。異母兄安業無行、父喪、逐后・忌還外家。后貴、未嘗以為言。擢位将軍。後與李孝常等謀反、将誅、后叩頭曰:「安業罪死無赦。然向遇妾不以慈、戸知之。今論如法、人必謂妾釋憾於兄、無乃為帝累乎!」遂得減流越巂。太子承乾乳媼請增東宮什器、后曰:「太子患無徳與名、器何請為?」 従幸九成宮、方屬疾、會柴紹等急變聞、帝甲而起、后輿疾以従、宮司諫止、后曰:「上震驚、吾可自安?」疾稍亟、太子欲請大赦、汎度道人、祓塞災會。后曰:「死生有命、非人力所支。若修福可延、吾不為惡。使善無效、我尚何求?且赦令、国大事、佛・老異方教耳、皆上所不為、豈宜以吾乱天下法!」太子不敢奏、以告房玄齡、玄齡以聞、帝嗟美。而群臣請遂赦、帝既許、后固爭止。及大漸、與帝決、時玄齡小譴就第、后曰:「玄齡久事陛下、預奇計祕謀、非大故、願勿置也。妾家以恩澤進、無徳而祿、易以取禍、無屬樞柄、以外戚奉朝請足矣。妾生無益於時、死不可以厚葬、願因山為、無起墳、無用棺槨、器以瓦木、約費送終、是妾不見忘也。」又請帝納忠容諫、勿受讒、省遊畋作役、死無恨。崩、年三十六。 后嘗采古婦人事著女則十篇、又為論斥漢之馬后不能檢抑外家、使與政事、乃戒其車馬之侈、此謂開本源、恤末事。常誡守者:「吾以自檢、故書無條理、勿令至尊見之。」及崩、宮司以聞、帝為之慟、示近臣曰:「后此書可用垂後、我豈不通天命而割情乎!顧内失吾良佐、哀不可已已!」謚曰文徳、葬昭陵、因九嵕山、以成后志。帝自著表序始末、掲陵左。上元中、益謚文徳聖皇后。 太宗賢妃徐恵は、湖州長城の人である。生五月能言、四歳通論語・詩、八歳自曉屬文。父孝徳、嘗試使擬離騷為小山篇曰:「仰幽巖而流盼、撫桂枝以凝想。将千齡兮此遇、荃何為兮獨往?」孝徳大驚、知不可掩、於是所論著遂盛伝。太宗聞之、召為才人。手未嘗廃巻、而辭致贍蔚、文無淹思。帝益礼顧、擢孝徳水部員外郎、恵再遷充容。 貞観末、数調兵討定四夷、稍稍治宮室、百姓勞怨。恵上疏極諫、且言:「東戍遼海、西討崑丘、士馬罷耗、漕饟漂沒。捐有盡之農、趨無窮之壑。圖未獲之衆、喪已成之軍。故地廣者、非常安之術也。人勞者、為易乱之符也。」又言:「翠微・玉華等宮、雖因山藉水、無築構之苦、而工力和僦、不謂無煩。有道之君、以逸逸人。無道之君、以楽楽身。」又言:「伎巧為喪国斧斤、珠玉為蕩心酖毒、侈麗纖美、不可以不遏。志驕於業泰、體逸於時安。」其剴切精詣、大略如此。帝善其言、優賜之。帝崩、哀慕成疾、不肯進藥、曰:「帝遇我厚、得先狗馬侍園寢、吾志也。」復為詩・連珠以見意。永徽元年卒、年二十四、贈賢妃、陪葬昭陵石室。 恵之弟斉聃、斉聃子堅、皆以学聞、女弟為高宗婕妤、亦有文藻、世以擬漢班氏。 高宗廃后王氏は、并州祁県の人で、魏の尚書左僕射の王思政の孫である。従祖母同安長公主以后婉淑、白太宗以為晋王妃。王居東宮、妃亦進冊、擢父仁祐陳州刺史。帝即位、立為皇后。仁祐以特進封魏国公。母柳、本国夫人。仁祐卒、贈司空。 初、蕭良娣有寵、而武才人貞観末以先帝宮人召為昭儀、俄與后・良娣爭寵、更相毀短。而昭儀詭險、即誣后與母挾媚道蠱上、帝信之、解魏国夫人門籍、罷后舅柳奭中書令。李義府等陰佐昭儀、以偏言怒帝、遂下詔廃后・良娣皆為庶人、囚宮中。后母兄・良娣宗族悉流嶺南。許敬宗又奏:「仁祐無他功、以宮掖故、超列三事、今庶人謀乱宗社、罪宜夷宗、仁祐應斲棺、陛下不窮其誅、家止流竄、仁祐不宜引庇廕宥逆子孫。」有詔盡奪仁祐官爵。而后及良娣俄為武后所殺、改后姓為「蟒」、良娣為「梟」。 初、帝念后、間行至囚所、見門禁錮嚴、進飲食竇中、惻然傷之、呼曰:「皇后・良娣無恙乎?今安在?」二人同辭曰:「妾等以罪棄為婢、安得尊稱耶?」流涙嗚咽。又曰:「陛下幸念疇日、使妾死更生、復見日月、乞署此為『回心院』。」帝曰:「朕即有處置。」武后知之、促詔杖二人百、剔其手足、反接投釀罋中、曰:「令二嫗骨醉!」数日死、殊其尸。初、詔旨到、后再拜曰:「陛下万年!昭儀承恩、死吾分也。」至良娣、罵曰:「武氏狐媚、覆至此!我後為猫、使武氏為鼠、吾當扼其喉以報。」后聞、詔六宮毋畜猫。武后頻見二人被髪瀝血為厲、惡之、以巫祝解謝、即徙蓬萊宮、厲復見、故多駐東都。中宗即位、皆復其姓。 高宗則天順聖皇后武氏は、并州文水の人である。父の武士は、外戚伝に見える。文徳皇后崩、久之、太宗聞士女美、召為才人、方十四。母楊、慟泣與訣、后獨自如、曰:「見天子庸知非福、何兒女悲乎?」母韙其意、止泣。既見帝、賜號武媚。及帝崩、與嬪御皆為比丘尼。高宗為太子時、入侍、悅之。王皇后久無子、蕭淑妃方幸、后陰不悅。它日、帝過佛廬、才人見且泣、帝感動。后廉知状、引内後宮、以撓妃寵。 才人有權数、詭變不窮。始、下辭降體事后、后喜、数譽於帝、故進為昭儀。一旦顧幸在蕭右、寖與后不協。后性簡重、不曲事上下、而母柳見内人尚宮無浮礼、故昭儀伺后所薄、必款結之、得賜予、盡以分遺。由是后及妃所為必得、得輒以聞、然未有以中也。昭儀生女、后就顧弄、去、昭儀潛斃兒衾下、伺帝至、陽為歡言、發衾視兒、死矣。又驚問左右、皆曰:「后適來。」昭儀即悲涕、帝不能察、怒曰:「后殺吾女、往與妃相讒媢、今又爾邪!」由是昭儀得入其訾、后無以自解、而帝愈信愛、始有廃后意。久之、欲進號「宸妃」、侍中韓瑗・中書令來濟言:「妃嬪有数、今別立號、不可。」昭儀乃誣后與母厭勝、帝挾前憾、實其言、将遂廃之。長孫无忌・褚遂良・韓瑗及濟瀕死固爭、帝猶豫。而中書舍人李義府・衛尉卿許敬宗素險側、狙勢即表請昭儀為后、帝意決、下詔廃后。詔李勣・于志寧奉璽綬進昭儀為皇后、命群臣及四夷酋長朝后肅義門、内外命婦入謁。朝皇后自此始。 后見宗廟、再贈士至司徒、爵周国公、謚忠孝、配食高祖廟。母楊、再封代国夫人。家食魏千戸。后乃製外戚誡献諸朝、解釋譏譟。於是逐忌・遂良、踵死徙、寵煽赫然。后城宇深、痛柔屈不恥、以就大事、帝謂能奉己、故扳公議立之。已得志、即盜威福、施施無憚避、帝亦儒昏、舉能鉗勒、使不得專、久稍不平。麟徳初、后召方士郭行真入禁中為蠱祝、宦人王伏勝發之、帝怒、因是召西台侍郎上官儀、儀指言后專恣、失海内望、不可承宗廟、與帝意合、乃趣使草詔廃之。左右馳告、后遽従帝自訴、帝羞縮、待之如初、猶意其恚、且曰:「是皆上官儀教我!」后諷許敬宗構儀、殺之。 初、元舅大臣怫旨、不閲歳屠覆、道路目語、及儀見誅、則政歸房帷、天子拱手矣。群臣朝・四方奏章、皆曰「二聖」。毎視朝、殿中垂簾、帝與后偶坐、生殺賞罰惟所命。當其忍斷、雖甚愛、不少隱也。帝晩益病風不支、天下事一付后。后乃更為太平文治事、大集諸儒内禁殿、譔定列女伝・臣軌・百僚新誡・楽書等、大氐千餘篇。因令学士密裁可奏議、分宰相權。 始、士娶相里氏、生子元慶・元爽。又娶楊氏、生三女:伯嫁賀蘭越石、蚤寡、封韓国夫人。仲即后。季嫁郭孝慎、前死。楊以后故、寵日盛、徙封栄国。始、兄子惟良・懷運與元慶等遇楊及后礼薄、后銜不置。及是、元慶為宗正少卿、元爽少府少監、惟良司衛少卿、懷運淄州刺史。它日、夫人置酒、酣、謂惟良曰:「若等記疇日事乎?今謂何?」對曰:「幸以功臣子位朝廷、晩縁戚屬進、憂而不栄也。」夫人怒、諷后偽為退讓、請惟良等外遷、無示天下私。繇是、惟良為始州刺史。元慶、龍州。元爽、濠州、俄坐事死振州。元慶至州、憂死。韓国出入禁中、一女国姝、帝皆寵之。韓国卒、女封魏国夫人、欲以備嬪職、難於后、未決。后内忌甚、會封泰山、惟良・懷運以岳牧來集、従還京師、后毒殺魏国、歸罪惟良等、盡殺之、氏曰「蝮」、以韓国子敏之奉士祀。初、魏国卒、敏之入弔、帝為慟、敏之哭不對。后曰:「兒疑我!」惡之。俄貶死。楊氏徙酇・衛二国、咸亨元年卒、追封魯国、謚忠烈、詔文武九品以上及五等親與外命婦赴弔、以王礼葬咸陽、給班劍・葆仗・鼓吹。時天下旱、后偽表求避位、不許。俄又贈士太尉兼太子太師・太原郡王、魯国忠烈夫人為妃。 上元元年、進號天后、建言十二事:一・勸農桑、薄賦徭。二・給復三輔地。三・息兵、以道徳化天下。四・南北中尚禁浮巧。五・省功費力役。六・廣言路。七・杜讒口。八・王公以降皆習老子。九・父在為母服斉衰三年。十・上元前勳官已給告身者無追覈。十一・京官八品以上益稟入。十二・百官任事久、材高位下者得進階申滯。帝皆下詔略施行之。 蕭妃女義陽・宣城公主幽掖廷、幾四十不嫁、太子弘言于帝、后怒、酖殺弘。帝将下詔遜位于后、宰相郝處俊固諫、乃止。后欲外示寬裕、劫人心使歸己、即奏言:「今群臣納半俸・百姓計口錢以贍邊兵、恐四方妄商虚實、請一罷之。」詔可。 儀鳳三年、群臣・蕃夷長朝后于光順門。即并州建太原郡王廟。帝頭眩不能視、侍醫張文仲・秦鳴鶴曰:「風上逆、砭頭血可愈。」后内幸帝殆、得自專、怒曰:「是可斬、帝體寧刺血處邪?」醫頓首請命。帝曰:「醫議疾、烏可罪?且吾眩不可堪、聽為之!」醫一再刺、帝曰:「吾目明矣!」言未畢、后簾中再拜謝、曰:「天賜我師!」身負繒宝以賜。 帝崩、中宗即位、天后稱皇太后、遺詔軍国大務聽参決。嗣聖元年、太后廃帝為廬陵王、自臨朝、以睿宗即帝位。后坐武成殿、帝率群臣上號冊。越三日、太后臨軒、命礼部尚書攝太尉武承嗣・太常卿攝司空王徳真冊嗣皇帝。自是太后常御紫宸殿、施慘紫帳臨朝。追贈五世祖後魏散騎常侍克己為魯国公、妣裴即其国為夫人。高祖斉殷州司馬居常為太尉・北平郡王、妣劉為王妃。曾祖永昌王諮議参軍・贈斉州刺史儉為太尉・金城郡王、妣宋為王妃。祖隋東郡丞・贈并州刺史・大都督華為太尉・太原郡王、妣趙為王妃。皆置園邑、戸五十。考為太師・魏王、加實戸滿五千、妣為王妃、王園邑守戸百。時睿宗雖立、實囚之、而諸武擅命。又謚魯国公曰靖、裴為靖夫人。北平郡王曰恭肅、金城郡王曰義康、太原郡王曰安成、妃従夫謚。太后遣冊武成殿使者告五世廟室。 於是柳州司馬李敬業・括蒼令唐之奇・臨海丞駱賓王疾太后脅逐天子、不勝憤、乃募兵殺揚州大都督府長史陳敬之、據州欲迎廬陵王、衆至十万。楚州司馬李崇福連和。盱眙人劉行舉嬰城不肯従、敬業攻之、不克。太后拜行舉游撃将軍、擢其弟行實楚州刺史。敬業南度江取潤州、殺刺史李思文、曲阿令尹元貞拒戰死。太后詔左玉鈐衛大将軍李孝逸為揚州道行軍大総管、率兵三十万討之、戰于高郵、前鋒左豹韜果毅成三朗為唐之奇所殺。又以左鷹揚衛大将軍黑齒常之為江南道行軍大総管、并力。敬業興三月敗、伝首東都、三州平。 始、武承嗣請太后立七廟、中書令裴炎沮止、及敬業之興、下炎獄、殺之、并殺左威衛大将軍程務挺。太后方怫恚、一日、召群臣廷讓曰:「朕於天下無負、若等知之乎?」群臣唯唯。太后曰:「朕輔先帝踰三十年、憂勞天下。爵位富貴、朕所與也。天下安佚、朕所養也。先帝棄群臣、以社稷為託、朕不敢愛身、而知愛人。今為戎首者皆将相、何見負之遽?且受遺老臣伉扈難制有若裴炎乎?世将種能合亡命若徐敬業乎?宿将善戰若程務挺乎?彼皆人豪、不利於朕、朕能戮之。公等才有過彼、蚤為之。不然、謹以事朕、無詒天下笑。」群臣頓首、不敢仰視、曰:「惟陛下命。」 久之、下詔陽若復辟者。睿宗揣非情、固請臨朝、制可。乃冶銅匭為一室、署東曰「延恩」、受干賞自言。南曰「招諫」、受時政失得。西曰「申冤」、受抑枉所欲言。北曰「通玄」、受讖歩祕策。詔中書門下一官典領。 太后不惜爵位、以籠四方豪桀自為助、雖妄男子、言有所合、輒不次官之、至不稱職、尋亦廃誅不少縱、務取實材真賢。又畏天下有謀反逆者、詔許上變、在所給輕伝、供五品食、送京師、即日召見、厚餌爵賞歆動之。凡言變、吏不得何詰、雖耘夫蕘子必親延見、稟之客館。敢稽若不送者、以所告罪之。故上變者天下、人人屏息、無敢議。 新豐有山因震突出、太后以為美祥、赦其県、更名慶山。荊人兪文俊上言:「人不和、疣贅生。地不和、堆阜出。今陛下以女主處陽位、山變為災、非慶也。」太后怒、投嶺外。 詔毀乾元殿為明堂、以浮屠薛懷義為使督作。懷義、鄠人、本馮氏、名小宝、偉岸淫毒、佯狂洛陽市、千金公主嬖之。主上言:「小宝可入侍。」后召與私、悅之。欲掩、得通籍出入、使祝髪為浮屠、拜白馬寺主。詔與太平公主婿薛紹通昭穆、紹父事之。給厩馬、中官為騶侍、雖承嗣・三思皆尊事惟謹。至是護作、士数万、巨木率一章千人乃能引。又度明堂後為天堂、鴻麗嚴奧次之。堂成、拜左威衛大将軍・梁国公。 始作崇先廟于西京、享武氏。承嗣偽款洛水石、導使為帝、遣雍人唐同泰献之、后號為「宝圖」、擢同泰游撃将軍。於是汜人又上瑞石、太后乃郊上帝謝況、自號聖母神皇、作神皇璽、改宝圖曰「天授聖圖」、號洛水曰永昌水、圖所曰聖圖泉、勒石洛壇左曰「天授聖圖之表」、改汜水曰廣武。時柄去王室、大臣重将皆撓不得逞、宗室孤外無寄足地。於是、韓王元嘉等謀舉兵唱天下、迎還中宗。琅邪王沖・越王貞先發、諸王倉卒無應者、遂敗。元嘉與魯王靈夔等皆自殺、餘悉坐誅、諸王牽連死滅殆盡、子孫雖嬰褓亦投嶺南。太后身拜洛受圖、天子率太子・群臣・蠻夷以次列、大陳珍禽・奇獸・貢物・鹵簿壇下、礼成去。 永昌元年、享万象神宮、改服冕、搢大圭、執鎮圭、睿宗亞献、太子終献。合祭天地、五方帝・百神従、以高祖・太宗・高宗配、引魏王士従配。班九條、訓百官。遂大饗群臣。號士周忠孝太皇、楊忠孝太后。以文水墓為章徳陵、咸陽墓為明義陵。太原安成王為周安成王、金城郡王為魏義康王、北平郡王為趙肅恭王、魯国公為太原靖王。 載初中、又享万象神宮、以太穆・文徳二皇后配皇地祇、引周忠孝太后従配。作曌・・・・囝・○・・・・・・十有二文。太后自名曌。改詔書為制書。以周・漢為二王後、虞・夏・殷後為三恪、除唐屬籍。拜薛懷義輔国大将軍、封鄂国公、令與群浮屠作大雲經、言神皇受命事。春官尚書李思文詭言:「周書武成為篇、辭有『垂拱天下治』、為受命之符。」后喜、皆班示天下、稍圖革命。然畏人心不肯附、乃陰忍鷙害、肆斬殺怖天下。内縱酷吏周興・來俊臣等数十人為爪吻、有不慊若素疑憚者、必危法中之。宗姓侯王及它骨骾臣将相駢頸就鈇、血丹狴戸、家不能自保。太后操奩具坐重幃、而国命移矣。 御史傅游藝率関内父老請革命、改帝氏為武。又脅群臣固請、妄言鳳集上陽宮、赤雀見朝堂。天子不自安、亦請氏武、示一尊。太后知威柄在己、因大赦天下、改国號周、自稱聖神皇帝、旗幟尚赤、以皇帝為皇嗣。立武氏七廟于神都。尊周文王為文皇帝、號始祖、妣姒曰文定皇后。武王為康皇帝、號睿祖、妣姜曰康恵皇后。太原靖王為成皇帝、號嚴祖、妣曰成莊皇后。趙肅恭王為章敬皇帝、號肅祖、妣曰章敬皇后。魏義康王為昭安皇帝、號烈祖、妣曰昭安皇后。祖周安成王為文穆皇帝、號顯祖、妣曰文穆皇后。考忠孝太皇為孝明高皇帝、號太祖、妣曰孝明高皇后。罷唐廟為享徳廟、四時祠高祖以下三室、餘廃不享。至日、祀上帝万象神宮、以始祖及考妣配、以百神従祀。盡王諸武。詔并州文水県為武興、比漢豐・沛、百姓世給復。以始祖為徳陵、睿祖為喬陵、嚴祖為節陵、肅祖為簡陵、烈祖為靖陵、顯祖為永陵、章徳陵為昊陵、明義陵為順陵。 太后雖春秋高、善自塗澤、雖左右不悟其衰。俄而二齒生、下詔改元為長寿。明年、享神宮、自制大楽、舞工用九百人、以武承嗣為亞献、三思為終献。帝之為皇嗣、公卿往往見之、會尚方監裴匪躬・左衛大将軍阿史那元慶・白澗府果毅薛大信・監門衛大将軍范雲仙潛謁帝、皆腰斬都市、自是公卿不復上謁。 有上封事言嶺南流人謀反者、太后遣攝右台監察御史万国俊就按、得實即論決。国俊至廣州、盡召流人、矯詔賜自盡、皆號哭不服、国俊驅之水曲、使不得逃、一日戮三百餘人。乃誣奏流人怨望、請悉除之。於是太后遣右衛翊府兵曹参軍劉光業・司刑評事王徳寿・苑南面監丞鮑思恭・尚輦直長王大貞・右武衛兵曹参軍屈貞筠、皆攝監察御史、分往劍南・黔中・安南等六道訊鞫、而擢国俊左台侍御史。光業等亦希功于上、惟恐殺人之少。光業殺者九百人、徳寿殺七百人、其餘亦不減五百人。太后久乃知其冤、詔六道使所殺者還其家。国俊等亦相踵而死、皆見有物為厲云。 太后又自加號金輪聖神皇帝、置七宝于廷:曰金輪宝、曰白象宝、曰女宝、曰馬宝、曰珠宝、曰主兵臣宝、曰主藏臣宝、率大朝會則陳之。又尊其顯祖為立極文穆皇帝、太祖為無上孝明皇帝。延載二年、武三思率蕃夷諸酋及耆老請作天樞、紀太后功徳、以黜唐興周、制可。使納言姚護作。乃大裒銅鐵合冶之、署曰「大周万国頌徳天樞」、置端門外。其制若柱、度高一百五尺、八面、面別五尺、冶鐵象山為之趾、負以銅龍、石鑱怪獸環之。柱顛為雲蓋、出大珠、高丈、圍三之。作四蛟、度丈二尺、以承珠。其趾山周百七十尺、度二丈。無慮用銅鐵二百万斤。乃悉鏤群臣・蕃酋名氏其上。 薛懷義寵稍衰、而御醫沈南璆進、懷義大望、因火明堂、太后羞之、掩不發。懷義愈很恣怏怏。乃密詔太平公主擇健婦縛之殿中、命建昌王武攸寧・将作大匠宗晋卿率壯士撃殺之、以畚車載尸還白馬寺。懷義負幸昵、氣蓋一時、出百官上、其徒多犯法。御史馮思勗劾其姦、懷義怒、遇諸道、命左右歐之、幾死、弗敢言。默啜犯塞、拜新平・伐逆・朔方道大総管、提十八将軍兵撃胡、宰相李昭徳・蘇味道至為之長史・司馬。後厭入禁中、陰募力少年千人為浮屠、有逆謀。侍御史周矩劾状請治驗、太后曰:「第出、朕将使詣獄。」矩坐台、少選、懷義怒馬造廷、直往坐大榻上、矩召吏受辭、懷義即乘馬去。矩以聞、太后曰:「是道人素狂、不足治、力少年聽窮劾。」矩悉投放醜裔。懷義構矩、俄免官。 太后祀天南郊、以文王・武王・士與唐高祖并配。太后加號天冊金輪聖神皇帝。遂封嵩山、禪少室、冊山之神為帝、配為后。封壇南有大槲、赦日置雞其杪、賜號「金雞樹」。自制升中述志、刻石示後。改明堂為通天宮、鑄九州鼎、各位其方、列廷中。又斂天下黃金作大儀鐘、不克。久之、以崇先廟為崇尊廟、礼視太廟、旋復崇尊廟為太廟。 自懷義死、張易之・昌宗得幸、乃置控鶴府、有監、有丞及主簿・録事等、監三品、以易之為之。太后自見諸武王非天下意、前此中宗自房州還、復為皇太子、恐百歳後為唐宗室躪藉無死所、即引諸武及相王・太平公主誓明堂、告天地、為鐵券使藏史館。改昊陵署為攀龍台。久視初、以控鶴監為天驥府、又改奉宸府、罷監為令、以左右控鶴為奉宸大夫、易之復為令。 神龍元年、太后有疾、久不平、居迎仙院。宰相張柬之與崔玄暐等建策、請中宗以兵入誅易之・昌宗、於是羽林将軍李多祚等帥兵自玄武門入、斬二張于院左。太后聞變而起、桓彦範進請伝位、太后返臥、不復語。中宗於是復即位。徙太后上陽宮、帝率百官詣観風殿問起居、後率十日一詣宮、俄朝朔・望。廃奉宸府官、遷東都武氏廟于崇尊廟、更號崇恩、復唐宗廟。諸武王者咸降爵。是歳、后崩、年八十一。遺制稱則天大聖皇太后、去帝號。謚曰則天大聖后、祔乾陵。 會武三思蒸韋庶人、復用事。於是大旱、祈陵輒雨。三思訹帝詔崇恩廟祠如太廟、齋郎用五品子。博士楊孚言:「太廟諸郎取七品子、今崇恩取五品、不可。」帝曰:「太廟如崇恩可乎?」孚曰:「崇恩太廟之私、以臣準君則僭、以君準臣則惑。」乃止。及韋・武黨誅、詔則天大聖皇后復號天后、廃崇恩廟及陵。景雲元年、號大聖天后。太平公主奸政、請復二陵官、又尊后曰天后聖帝、俄號聖后。太平誅、詔黜周孝明皇帝號、復為太原郡王、后為妃、罷昊・順等陵。開元四年、追號則天皇后。太常卿姜建言:「則天皇后配高宗廟、主題天后聖帝、非是、請易題為則天皇后武氏。」制可。 中宗和思順聖皇后趙氏は、京兆郡長安の人である。祖父の趙綽は、武徳年間、戦功があって、右領軍将軍に終わった。父の趙は、高祖の常楽公主をめとった。 帝為英王、聘后為妃。高宗於公主恩尤隆。武后不喜、乃幽妃内侍省。自定州刺史・駙馬都尉貶括州、絶主朝謁、隨之官。妃既囚、扃鍵牢謹、日給飼料。衛者候其突煙数日不出、披戸視之、死腐矣。以寿州刺史與主預越王事、死。神龍元年、追謚妃曰恭皇后、贈左衛大将軍。中宗崩、蕆陵事、韋庶人不臣、不得祔、有司加上尊謚、以后祔定陵。 中宗庶人韋氏は、京兆郡万年の人である。祖父の韋弘表は、貞観年間に曹王府典軍となった。 帝が東宮にあったとき、后は選ばれて妃となった。嗣聖初年に、立って皇后となった。俄與帝處房陵、毎使至、帝輒恐、欲自殺。后止曰:「禍福何常、早晩等死耳、無遽!」及帝復即位、后居中宮。 是時、上官昭容與政事、方敬暉等将盡誅諸武、武三思懼、乃因昭容入請、得幸於后、卒謀暉等誅之。初、帝幽廃、與后約:「一朝見天日、不相制。」至是與三思升御牀博戲、帝従旁典籌、不為忤。三思諷群臣上后號為順天皇后。乃親謁宗廟、贈父玄貞上洛郡王。左拾遺賈虚己建言:「非李氏王者、盟書共棄之。今復国未幾、遽私后家、且先朝禍鑒未遠、甚可懼也。如令皇后固辭、使天下知後宮謙讓、不亦善乎?」不聽。神龍三年、節愍太子舉兵敗。宗楚客率群臣請加號「翊聖」、詔可。禁中謬伝有五色雲起后衣笥、帝圖以示諸朝、因大赦天下、賜百官母・妻封號。太史迦葉志忠表上桑條歌十二篇、言后當受命、曰:「昔高祖時、天下歌桃李。太宗時、歌秦王破陣。高宗歌堂堂。天后世、歌武媚娘。皇帝受命、歌英王石州。后今受命、歌桑條韋、蓋后妃之徳專蠶桑、共宗廟事也。」乃賜志忠第一區、綵七百段。太常少卿鄭愔因之被楽府。楚客又諷補闕趙延禧離釋桑條為九十八代、帝大喜、擢延禧諫議大夫。 於是昭容以武氏事動后。即表增出母服。民以二十三為丁、限五十九免。五品而上母・妻不繇夫・子封者、喪得用鼓吹。数改制度、陰儲人望。稍寵樹親屬、封拜之。昭容與母及尚宮賀婁等多受金錢。封巫趙隴西夫人、出入禁中、勢與上官埒。繇是墨敕斜封出矣。三年、帝親郊、引后亞献。明年、正月望夜、帝與后微服過市、彷徉観覽、縱宮女出游、皆淫奔不還。国子祭酒葉靜能善禁架、常侍馬秦客高醫、光祿少卿楊均善烹調、皆引入後廷。均・秦客蒸於后、嘗喪免、不歴旬輒起。 帝遇弑、議者讙咎秦客及安楽公主。后大懼、引所親議計、乃以刑部尚書裴談・工部尚書張錫輔政、留守東都、詔将軍趙承福・薛簡以兵五百衛譙王重福、與兄温定策、立温王重茂為皇太子、列府兵五万分二営屯京師、然後發喪。太子即位、是為殤帝。皇太后臨朝、温総内外兵、檢護宮省。族弟濯・播、宗子捷・璿、璿甥高崇及武延秀、分領左右屯営・羽林・飛騎・万騎。京師大恐、伝言且革命。播・璿入軍中、鞭督万騎欲立威、士怨不為用。俄而臨淄王引兵夜披玄武門入羽林、殺璿・播・崇於寢、斧関叩太極殿、后遁入飛騎営、為乱兵所殺。斬延秀・安楽公主。分捕諸韋・諸武與其支黨、悉誅之、梟后及安楽首東市。翌日、追貶為庶人、葬以一品礼。 上官昭容は、名を婉兒といい、西台侍郎の上官儀の孫である。父の上官廷芝は、上官儀とともに武后のときに死んだ。母の鄭氏は、太常少卿鄭休遠の姉であった。 婉兒始生、與母配掖廷。天性韶警、善文章。年十四、武后召見、有所制作、若素構。自通天以來、内掌詔命、掞麗可観。嘗忤旨當誅、后惜其才、止黥而不殺也。然群臣奏議及天下事皆與之。 帝即位、大被信任、進拜昭容、封鄭沛国夫人。婉兒通武三思、故詔書推右武氏、抑唐家、節愍太子不平。及舉兵、叩肅章門索婉兒、婉兒曰:「我死、當次索皇后・大家矣!」以激怒帝、帝與后挾婉兒登玄武門避之。會太子敗、乃免。婉兒勸帝侈大書館、增学士員、引大臣名儒充選。数賜宴賦詩、君臣賡和、婉兒常代帝及后・長寧安楽二主、衆篇並作、而采麗益新。又差第群臣所賦、賜金爵、故朝廷靡然成風。當時屬辭者、大抵雖浮靡、然所得皆有可観、婉兒力也。鄭卒、謚節義夫人。婉兒請降秩行服、詔起為婕妤、俄還昭容。帝即婉兒居穿沼築巖、窮飾勝趣、即引侍臣宴其所。是時、左右内職皆聽出外、不何止。婉兒與近嬖至皆営外宅、人穢夫爭候門下、肆狎昵、因以求劇職要官。與崔湜乱、遂引知政事。湜開商山道、未半、因帝遺制、虚列其功、加甄賞。韋后之敗、斬闕下。 初、鄭方妊、夢巨人畀大稱曰:「持此稱量天下。」婉兒生踰月、母戲曰:「稱量者豈爾邪?」輒啞然應。後内秉機政、符其夢云。景雲中、追復昭容、謚恵文。始、従母子王昱為拾遺、昱戒曰:「上往囚房陵、武氏得志矣、卒而中興、天命所在、不可幸也。三思雖乘釁、天下知必敗、今昭容上所信、而附之、且滅族!」鄭以責婉兒、不従。節愍誅三思、果索之、始憂懼。及草遺制、即引相王輔政。臨淄王兵起、被收。婉兒以詔草示劉幽求、幽求言之王、王不許、遂誅。開山初、裒次其文章、詔張説題篇。 睿宗肅明順聖皇后劉氏。祖父の劉徳威には、もともと伝がある。儀鳳中、帝在藩、納為孺人、俄為妃。生寧王・寿昌代国二公主。帝即位、為皇后。會帝降號皇嗣、復為妃。長寿二年、為戸婢誣與竇徳妃挾蠱道祝詛武后、並殺之宮中、葬祕莫知。景雲元年、追謚肅明皇后。 睿宗昭成順聖皇后竇氏。曾祖父の竇抗、父の竇孝諶には、もともと伝がある。 后婉淑、尤循礼則。帝為相王、納為孺人。即位、進徳妃。生玄宗及金仙・玉真二公主。與肅明同追謚、並招魂葬東都之南、肅明曰恵陵、后曰靖陵、立別廟曰儀坤以享云。帝崩、追稱皇太后、與肅明祔橋陵。后以子貴、故先祔睿宗室。肅明以開元二十年乃得祔廟。 初、太常加謚后曰「大昭成」。或言:「法宜引『聖真』冠謚、而曰『大昭成』、非也。以單言配之、應曰『聖昭』若『睿成』。以復言配之、應曰『大聖昭成』・『聖真昭成』。」又引太穆皇后始謚穆、及高祖崩、合帝謚曰太穆、追增太穆神皇后。文徳皇后始謚文徳、及太宗崩、合謚文徳聖皇后。又援范曄著漢光烈等為比。太常謂:「曄以帝號標后謚、是史家記事體、婦人非必與夫同也。入廟稱后、繋夫。在朝稱太、繋子。『文母』、生號也。『文王』、既沒謚也。周公豈以夫従婦乎?漢法不可以為據。」制曰「可」。天宝八載制詔、自太穆而下六皇后、並增上「順聖」二謚云。 玄宗皇后王氏は、同州下邽の人である。梁の冀州刺史の王神念の子孫である。帝が臨淄王となると、召されて妃となった。将清内難、預大計。先天元年、立為皇后。久無子、而武妃稍有寵、后不平、顯詆之。然撫下素有恩、終無肯譖短者。帝密欲廃后、以語姜。漏言、即死。后兄守一懼、為求厭勝、浮屠明悟教祭北斗、取霹靂木刻天地文及帝諱合佩之、曰:「後有子、與則天比。」開元十二年、事覺、帝自臨劾有状、乃制詔有司:「皇后天命不祐、華而不實、有無将之心、不可以承宗廟・母儀天下、其廃為庶人。」賜守一死。 始、后以愛弛、不自安。承間泣曰:「陛下獨不念阿忠脫紫半臂易斗麵、為生日湯餅邪?」帝憫然動容。阿忠、后呼其父仁皎云。繇是久乃廃。當時王諲作翠羽帳賦諷帝。未幾卒、以一品礼葬。後宮思慕之、帝亦悔。宝應元年、追復后號。 玄宗貞順皇后武氏は、恒安王武攸止のむすめであり、幼くして宮殿に入った。帝即位、寖得幸。時王皇后廃、故進冊恵妃、其礼秩比皇后。 初、帝在潞、趙麗妃以倡幸、有容止、善歌舞。開元初、父兄皆美官。及妃進、麗妃恩亦弛、以十四年卒、謚曰和。生太子瑛。而皇甫徳儀生鄂王、劉才人生光王、皆藩邸之舊、後愛薄、而妃乃專寵。封所生母楊鄭国夫人、弟忠国子祭酒、信祕書監。将遂立皇后、御史潘好礼上疏曰:「礼、父母讎、不共天。春秋、子不復讎、不子也。陛下欲以武氏為后、何以見天下士!妃再従叔三思也、従父延秀也、皆干紀乱常、天下共疾。夫惡木垂蔭、志士不息。盜泉飛溢、廉夫不飲。匹夫匹婦尚相擇、況天子乎?願慎選華族、稱神祇之心。春秋:宋人夏父之會、無以妾為夫人。斉桓公誓葵丘曰:『無以妾為妻。』此聖人明嫡庶之分。分定、則窺競之心息矣。今人間咸言右丞相張説欲取立后功圖復相、今太子非恵妃所生、而妃有子、若一儷宸極、則儲位将不安。古人所以諫其漸者、有以也!」遂不果立。 妃生子必秀嶷、凡二王・一主、皆不育。及生寿王、帝命寧王養外邸。又生盛王・咸宜太華二公主。後李林甫以寿王母愛、希妃意陷太子・鄂光二王、皆廃死。會妃薨、年四十餘、贈皇后及謚、葬敬陵。 玄宗元献皇后楊氏は、華州華陰の人である。曾祖父の楊士達は、隋の納言となった。天授年間、武后の母の党として、楊士達を追封して鄭王とし、父の楊知慶は太尉となった。 帝在東宮、后以景雲初入宮為良媛。時太平公主忌帝、而宮中左右持兩端、纖悉必聞。媛方娠、帝不自安、密語侍讀張説曰:「用事者不欲吾多子、奈何?」命説挾劑以入、帝於曲室自之。夢若有介而戈者環鼎三、而三盡覆。以告説、説曰:「天命也!」乃止。生男、是為肅宗。 帝即位、為貴嬪。其姊、節愍太子妃也。初、肅宗生、卜云:「不宜養。」乃命王皇后舉之。后無子、撫肅宗如所生。後又生寧親公主、乃薨。説以舊恩、故子得尚寧親。肅宗即位、至徳二載、太上皇自蜀誥有司「其議尊稱」、遂上冊謚。宝應末、祔泰陵。 玄宗貴妃楊氏は、隋の梁郡通守の楊汪の四世の孫である。徙籍蒲州、遂為永楽人。幼孤、養叔父家。始為寿王妃。開元二十四年、武恵妃薨、後廷無當帝意者。或言妃姿質天挺、宜充掖廷、遂召内禁中、異之、即為自出妃意者、丐籍女官、號「太真」、更為寿王聘韋詔訓女、而太真得幸。善歌舞、邃曉音律、且智算警穎、迎意輒悟。帝大悅、遂專房宴、宮中號「娘子」、儀體與皇后等。 天宝初、進冊貴妃。追贈父玄琰太尉・斉国公。擢叔玄珪光祿卿、宗兄銛鴻臚卿、錡侍御史、尚太華公主。主、恵妃所生、最見寵遇。而釗亦寖顯。釗、国忠也。三姊皆美劭、帝呼為姨、封韓・虢・秦三国、為夫人、出入宮掖、恩寵聲焰震天下。毎命婦入班、持盈公主等皆讓不敢就位。台省・州県奉請託、奔走期會過詔敕。四方献餉結納、門若市然。建平・信成二公主以與妃家忤、至追内封物、駙馬都尉獨孤明失官。 它日、妃以譴還銛第、比中仄、帝尚不御食、笞怒左右。高力士欲驗帝意、乃白以殿中供帳・司農酒餼百餘車送妃所、帝即以御膳分賜。力士知帝旨、是夕、請召妃還、下鑰安興坊門馳入。妃見帝、伏地謝、帝釋然、撫尉良渥。明日、諸姨上食、楽作、帝驟賜左右不可貲。由是愈見寵、賜諸姨錢歳百万為脂粉費。銛以上柱国門列戟、與錡・国忠・諸姨五家第舍聯亙、擬憲宮禁、率一堂費緡千万。見它第有勝者、輒壞復造、務以侈相夸詡、土木工不息。帝所得奇珍及貢献分賜之、使者相銜於道、五家如一。 妃毎従游幸、乘馬則力士授轡策。凡充錦繡官及冶瑑金玉者、大抵千人、奉須索、奇服祕玩、變化若神。四方爭為怪珍入貢、動駭耳目。於是嶺南節度使張九章・廣陵長史王翼以所献最、進九章銀青階、擢翼戸部侍郎、天下風靡。妃嗜荔支、必欲生致之、乃置騎伝送、走数千里、味未變已至京師。 天宝九載、妃復得譴還外第、国忠謀於吉温。温因見帝曰:「婦人過忤當死、然何惜宮中一席廣為鈇鑕地、更使外辱乎?」帝感動、輟食、詔中人張韜光賜之。妃因韜光謝帝曰:「妾有罪當万誅、然膚髪外皆上所賜、今且死、無以報。」引刀斷一繚髪奏之、曰:「以此留訣。」帝見駭惋、遽召入、礼遇如初。因又幸秦国及国忠第、賜兩家鉅万。 国忠既遙領劍南、毎十月、帝幸華清宮、五宅車騎皆従、家別為隊、隊一色、俄五家隊合、爛若万花、川谷成錦繡、国忠導以劍南旗節。遺鈿堕舄、瑟瑟璣琲、狼藉于道、香聞数十里。十載正月望夜、妃家與廣寧主僮騎爭闤門、鞭挺讙競、主堕馬、僅得去。主見帝泣、乃詔殺楊氏奴、貶駙馬都尉程昌裔官。国忠之輔政、其息昢尚万春公主、暄尚延和郡主。弟鑑尚承栄郡主。又詔為玄琰立家廟、帝自書其碑。銛・秦国早死、故韓・虢與国忠貴最久。而虢国素與国忠乱、頗為人知、不恥也。毎入謁、並驅道中、従監・侍姆百餘騎、炬蜜如晝、靚妝盈里、不施幃障、時人謂為「雄狐」。諸王子孫凡婚聘、必先因韓・虢以請、輒皆遂、至数百千金以謝。 初、安祿山有邊功、帝寵之、詔與諸姨約為兄弟、而祿山母事妃、來朝、必宴餞結歡。祿山反、以誅国忠為名、且指言妃及諸姨罪。帝欲以皇太子撫軍、因禪位、諸楊大懼、哭于廷。国忠入白妃、妃銜塊請死、帝意沮、乃止。及西幸至馬嵬、陳玄礼等以天下計誅国忠、已死、軍不解。帝遣力士問故、曰:「禍本尚在!」帝不得已、與妃訣、引而去、縊路祠下、裹尸以紫茵、瘞道側、年三十八。 帝至自蜀、道過其所、使祭之、且詔改葬。礼部侍郎李揆曰:「龍武将士以国忠負上速乱、為天下殺之。今葬妃、恐反仄自疑。」帝乃止。密遣中使者具棺槨它葬焉。啓瘞、故香囊猶在、中人以献、帝視之、悽感流涕、命工貌妃於別殿、朝夕往、必為鯁欷。 馬嵬之難、虢国與国忠妻裴柔等奔陳倉、県令率吏追之、意以為賊、棄馬走林。虢国先殺其二子、柔曰:「丐我死!」即并其女刺殺之、乃自剄、不殊、吏載置于獄、問曰:「国家乎?賊乎?」吏曰:「互有之。」乃死、瘞陳倉東郭外。 賛曰:或稱武・韋乱唐同一轍、武持久、韋亟滅、何哉?議者謂否。武后自高宗時挾天子威福、脅制四海、雖逐嗣帝、改国號、然賞罰己出、不假借群臣、僭於上而治於下、故能終天年、阽乱而不亡。韋氏乘夫、淫蒸于朝、斜封四出、政放不一、既鴆殺帝、引睿宗輔政、權去手不自知、戚地已疏、人心相挻、玄宗藉其事以撼豪英、故取若掇遺、不旋踵宗族夷丹、勢奪而事淺也。然二后遺後王戒、顧不厚哉! 前巻 『新唐書』 次巻 巻七十五下 表第十五下 『新唐書』巻七十六 列伝第一 巻七十七 列伝第二
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