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ふしぎなカギ 主人公であるルカとイルが手に入れたアイテム、「ふしぎなカギ」 このカギを使って、異世界へと冒険にでることができる その世界では、町やダンジョンがあるだけでなく、モンスターが出現する ドラクエモンスターズ2では、異世界が主な舞台となる ll?066829100 アクセス解析
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ここはふしぎのページです。 何がふしぎって、私のふしぎを集めるためのページってことです。 役に立つものを集めるためのページです。 朝日新聞の記事
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、疑問符のつく見解、および偏見としか思えない見解を扱う。 ※ 当ページ編集者は、「面白ければいいじゃないか」「解り易ければいいじゃないか」という価値観には拠らない。たとえば乗法計算が出来ない人に虚数・複素数を説明して「解り易い」と思わせているとしたら、それは「解らせた」ことにならない(予備校で同様のことをやっていたら詐欺行為)。理系でも文系でも、最低限求められるレベルというものがあるのは同じ。 ※ 橋爪も大澤も、「日本人が西洋を理解するのには、根底にあるキリスト教理解が不可欠」として本書を売っている。だったら当のキリスト教でどう理解されているのかを正確に語る必要があるだろうし読者もそれを期待するのだが、中身が一般にキリスト教の見方からかけ離れた「橋爪教」というのでは、一種の詐欺。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 姉妹ページ 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 (2012年7月18日現在、130個以上の誤りが指摘済み、さらに誤りが見付けられることも有り得る) 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 疑問符のつく見解 目次 1 日本の神々はお友達 2 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します) 3 一神教=キレまくるエイリアン教です 4 ふしぎな独自の説が出される→それがもっとふしぎな疑問を生む→橋爪と大澤の二人でもっともっとふしぎがる=最もふしぎなループ。 5 無神経・偏見としか思えない見解 6 ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます 7 社会学? 8 意味不明 9 思いつき 10 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切 日本の神々はお友達 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「日本語で「神」というと、どうしてもなれなれしいニュアンスがまぎれ込んでしまうので、以下、一神教の神をさすことをはっきりさせたい場合には、なるべく「God」ということにします。」 柳父章も示している見解ではある。しかしなぜ英語のGodなのか?散々他の箇所で「(ローマ教会も)本来なら、ギリシア語であるべきですね」(p258)などと述べて「キリスト教、特に東方教会と言えばギリシア語」という見解を披歴しているのに、日本語の「神」との比較対象が英語だけというのは矛盾してはいないか。ちなみに英語の"god"もギリシア語"θεος"も、複数形にしてそれぞれ"gods", "θεοί"として「神々」とする語義があり、一神教だけで使われる語彙ではない。英語もギリシア語も現代においては最初一文字を大文字にするか小文字にするかの違いはあるが、古典時代のギリシア語には小文字は無く、多神教の神々も"ΘΕΟΙ"と書いていた。つまり多神教で使われる語彙を一神教にも使うということ自体は、日本語の専売特許でも異常な現象でも何でも無い。日本語聖書の訳語について考察した著作としては柳父章の『ゴッドと上帝』は大いに参考になるが、柳父章も橋爪も、英語やギリシャ語でも多神教に適用される語彙がキリスト教にも使われているという事実には関心が薄いようだ。 Ὁμήρου Ὀδύσσεια Ραψωδία α' - Θεῶν ἀγορά. Ἀθηνᾶς παραίνεσις πρὸς Τηλέμαχον. Μνηστήρων εὐωχία.(ホメーロス『オデュッセイア』の実例) p20 「(日本の)神様は、ちょっと偉いかもしれないが、まあ、仲間なんですね。友達か、親戚みたいなもんだ。」 早良親王、菅原道真が「仲間」?男か女かも解らない金屋子神が「親戚」?道祖神が「友達」?橋爪氏の多神教についてのイメージは一面的に過ぎる。 橋爪教では伝統的信仰内容は知ったことではありません(でも欧米の理解には役立つと宣伝します) 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「Godは、人間と、血のつながりがない。」 至聖三者(三位一体の神)のうち、父なる神・聖霊についてはそれでいいかもしれない。しかし受肉(藉身)した第二位格たるイエス・キリストは眞の神としてキリスト教で捉えられているのだから(表現方法について対立があるとはいえ、非カルケドン派に至るまで現代の伝統的キリスト教の大半から「イエス・キリストは神であり人(神性と人性)」という見解は認められている)、少なくとも至聖三者(三位一体の神)のうち、第二位格(イエス・キリスト)については「人の肉体をもって」おり、血のつながりどころの話ではない。「三位一体の神全部と血のつながりがあるわけではない」のなら何とか解るが。ちなみに右参考文献『キリスト教神学基本用語集』では受肉(incarnation)について「キリスト教を他の一神教から区別する重要な点の一つ」としているが、この「重要な点」を橋爪は全く押さえていない。尤も、橋爪は169頁でアリウス派異端的な誤解を披瀝しているから(というよりキリストの神性を認めていない)、こうした記述も橋爪にキリスト論の基本知識そのものが無いことによるものと思われる。橋爪がキリストの神性を認めようと認めまいとどうでも良いのだが、これを「キリスト教はこう信じています」とすれば、それは虚偽か誤りでしかない。 Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126 p23 「(Godと人間の)よそよそしい関係を打ち砕こうと、イエス・キリストは「愛」をのべて、大転換が起こるんです。」 イエスがこの世を生きた時代の律法学者の間でも、申命記6章5節「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」レビ記19:18「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」が一番大事な教えだということは認識されていた。だからこそイエスの問いかけに対して律法学者がこの箇所を「律法の一番大事な部分」として答える場面が、「サマリヤ人のたとえ」の手前(ルカ福音10:27)にある。愛を説いたのはイエス・キリストが最初ではないし、旧約聖書で「愛」を探せばいくらでも出てくる。 むしろ大転換というのなら、モーセすら見ることのできなかった神(の第二位格)が、受肉(藉身)によって「見ることの出来る神・人になった」ことこそ挙げなければならないのだが、非カルケドン派が分裂した原因を「三位一体論」と述べてしまいキリスト論が分裂の原因であったことを知らない誤りから判る通り、橋爪は基本的なキリスト論(眞の神・眞の人)を全く認知していない。 口語訳聖書「愛」検索結果 新共同訳聖書「愛」検索結果 Justo L. Gonz´alez (原著), 鈴木 浩 (翻訳)『キリスト教神学基本用語集』p123 - p126 p47 「ユダヤ教には、原罪という考え方はない。」 他のところでも言える事だが、本書では見解が分かれる問題につき、あっさり断言する傾向が目立ち過ぎる。あくまで「ユダヤ教多数派には原罪という考え方は受け入れられて居ない」が、受け入れるユダヤ教神学者も居ないわけではない。なお、原罪はキリスト教全部に受け入れられると橋爪は考えているようだがこれも間違い。正教会は「原罪」という考え方から距離をとっている。 SIN - JewishEncyclopedia.com教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p33 「バビロンには、天地創造の神話や大洪水の物語などがあって、それを取り入れた。聖書の冒頭の『創世記』もこうして出来あがった。」 そう信じていない人も少なくない。「モーセが書いた」という伝承をそのまま信じる人も居る、という断り書きが必須だろう。こうまで完全にキリスト教全部で信じられているかのように断言されると、なぜアメリカで公教育の場で進化論が問題になっているのかが解らないし、「一部の原理主義者が騒いでいる」位に誤解しかねない。実際には現代でも、「モーセが書いた」という伝承をそのまま伝えるか、もしくは「そういう伝承があることは、伝承として一応教える」教会は少なくない。 "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p94 橋爪「これを矛盾なく受け取るにはどうしたらいいか。私の提案ですが、人間は神に似ているが、神は人間に似ていない、と考えればいい。言っていること、わかります? たとえば神を、四次元の怪物みたいなものと考えるのです。それを三次元に射影すると、人間みたいなかたちになる。人間が神をみると三次元だから、自分とおんなじだと思うかもしれないが、神の存在そのものは、人間より次元が高いから、目がいくつもあって、ヒンドゥー教の神みたいな怪物のかたちでもおかしくない、どう?」大澤「なるほど、おもしろい解釈ですね」 ヒンドゥー教の神を「怪物みたいなかたち」と言うのはそもそもどうであろうか。問題ある発言ではないだろうか。「わたしの提案ですが」と断り、一般的な意見として紹介していないところは認めるにしても、創世記1章27節他に現れる「人間は神の似姿である」という、ユダヤ教理解にとってもキリスト教理解にとっても重要なテーマを、過去2000年以上に亘りユダヤ教徒やキリスト教徒によってなされた真剣なそして膨大な議論に全く触れずに、橋爪氏の理解のみ紹介するというのはどういうことであろうか。本書の目的は読者が「キリスト教を理解する」ためだったはずだが、実は橋爪氏を理解するためなのだろうか。 一神教=キレまくるエイリアン教です 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p21 「(Godって)エイリアンみたいだと思う。だって、知能が高くて、腕力が強くて、何を考えているかわからなくて、怒りっぽくて、地球外生命体だから。」 キリストの神性を認識していない橋爪にとっては、真の神であり真の人であると理解されるキリストも「地球外生命体」で「エイリアンみたい」なのか。すると、聖母マリア(生神女マリヤ)は「エイリアンを生んだ」と?「真の神・真の人」というキリスト論の理解が根底に無いことがここでも露呈している。 「怒りっぽいエイリアン」論では、イエス・キリストによる病人達の癒しの話や、異民族で仮想敵国の将軍ナアマンを癒した神の愛(列王記下5章)といった話が伝えられていることにつき説明がつかない。 結局、我田引水的に「こわーいエイリアンっぽい」要素だけを抜き出して列挙しただけ。橋爪論法は大体がこの調子。1、まず橋爪氏の思い込みによる結論を立てる、2、その思い込みに合致するものだけを列挙する。 Богочеловек(…ボゴチェロヴェク、神(Бог)+人(человек)、直訳すると「神人」。神性人性の両性論を前提とした、イエス・キリストを指すロシア語での表現。 p20 「すると、一神教がふしぎです。(中略)なぜ神様にあんなに怒られて、それでも神様に従おうとするんだろう?」 怒られても、それ以上の恩恵を受けていたら子どもは親の家にとどまることを考えれば、何が不思議なのか判らない。「生かされていること、奴隷の境遇から脱出させてもらったこと、病気を癒してくれたこと、神であり人であるキリストが人々の来世の命のために十字架で死んで復活してくれたこと」が信じられていることは一切スルーして「ふしぎです。」と言っているが…、これも「ふしぎ」という結論に合わせて、ふしぎな「キレまくるエイリアン」くらいにしか「キリスト教の神観」を書かないのだから、ふしぎ以外の結論が出よう筈も無い。そもそも多神教でも怖い神様は結構居て、日本では「祟り神」が、祟られることもあるにも関わらず信じられている(場合によってはそれを上回る御利益があるから)。結局橋爪氏は一神教だけでなく多神教もよく知らない。 口語訳聖書「恵み」検索結果 新共同訳聖書「恵み」検索結果 ふしぎな独自の説を出して、それがもっとふしぎな疑問を生み、二人でもっともっとふしぎがる、というふしぎループ。 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p23 「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。(中略)(Godは怖いから)自分たちの安全のために信じる。」 詩篇には「願い事」「感謝」も沢山されているが、詩篇を一篇も読んだことが無いのだろうか?「怖いGodの言うとおりにして怒られないようにする」だけの理解では、聖書もキリスト教も「解り易くなる」どころか、かえって「何も解らなくなる」。 新共同訳「詩篇」で「ください」の検索結果 口語訳「詩篇」で「ください」の検索結果 p37 大澤「どれほど我慢強い人であっても、(相当ひどい目にあった)そのあたりでヤハウェとの安保条約を解消しても良さそうなものです。ところが、まさに、安保条約を破棄してもよさそうなその時期にこそ、ユダヤ教は磨きがかかり、ほぼ完成した。これはいったいなぜでしょうか?」 答え→p23橋爪「Godを信じるのは、安全保障のためなんです。」という断定がそもそも間違っているから、と考えればシンプルに解決。 p39 大澤「安全保障のために契約した神がちっとも安全を守ってくれなかったのに、なぜ信仰が衰えなかったのでしょう?」橋爪「(前略)いじめられっ子の心理。イスラエルの民は弱いので、いじめられる。(後略)」 「いじめられっ子の心理」というような偏見に満ちた表現を教育者でもある大学教授がしている時点で驚きであるが(それは下記の通りここ一カ所ではない)、問題はそれだけではない。ダビデ王朝はオリエント世界で例を見ないほど長命な王朝であったことを完全に橋爪氏も大澤氏も無視している。ダビデ王朝始祖であるダビデ王の治世が紀元前10世紀前半。南ユダ王国滅亡が前587年(年代はキリスト教大事典による)。実に400年以上、ダビデ王朝は存続している。このような長命王朝は単独王朝としてはオリエント世界に類例が無い。これはメソポタミア(アッシリア、バビロニア)とエジプトという両大国に挟まれた地域にある王朝としても特筆すべきことであり、このような困難な地域情勢にあってそれだけの長命政権が存続し得たことにより「神から守られている」と考えるというのは、必ずしも「ふしぎ」な事ではない。またオリエントだけでなく、400年以上存続した王朝が世界史上でどれだけあるかを鑑みれば、果たしてイスラエル・ユダヤ人を「弱者」とだけ片付ければ良いのかどうか、大枠でも疑問が出よう。「ローマ帝国滅亡後、しばらくして、全地公会議が開かれなくなった」といった、約400年を「しばらくして」と表現してしまう橋爪氏の姿勢にも表れているが、橋爪氏も大澤氏も「年代」についての把握が非常に苦手のようである。 山我 哲雄 (著), 佐藤 研 (著) 『旧約新約聖書時代史』p51, p99, 教文館 (1992/02) ISBN 4764279037『キリスト教大事典 改訂新版』 p1082 教文館(第4版) p94 橋爪氏は「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」と、「創世記を読んで受ける印象」をまとめた上で、「神がもともと姿もなく、世界の外にあって世界を創造した絶対の存在であることと、人間に姿が似ていて、エデンの園を歩き回ったりしていることは、矛盾しないか。」と述べている。 前提がどちらも間違っている。「人間の目の前をヤハウェが歩き回っている」「だいたい人間と同じ大きさ」そのような記述は創世記のどこにも無い。「主なる神の歩まれる音を聞いた」(創世記3 8)の記述を念頭に置いているのかもしれないが、ここでは「音」しか聞こえておらず、姿は見えていない(この「音」の単語・訳語を巡り解釈は割れており、瑣末な問題とは捉えられない)。「だいたい人間と同じ大きさ」に至っては、一切記述がない。「かたちに似せて」作ったものであっても、等身大とは必ずしも限らないことは、世間にある人形、ぬいぐるみ、模型などを見ても明らかであろうが、橋爪氏には「似せて」=「等身大」というふしぎな思い込みがあるようである。また、「神が世界の外にあって」というのも典拠不明の珍説。少なくともキリスト教ではそのように教えられていない。橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、ここにも橋爪氏の大枠で一貫した誤解が示されている。→聖書篇(p75, p76)、神学篇(p312)も参照。勝手に、誰も言っても書いてもいない、自分の思い込みを二つ並べ「矛盾しているのでは?」と問いかける橋爪氏。誰も言っても書いても居ないふしぎな独自解釈を前提に、独自議論を展開してふしぎがる。ふしぎ拡大再生産。 Genesis 3 8 Then the man and his wife heard the sound of the LORD God as he was walking in the garden in the cool of the day, and they hid from the LORD God among the trees of the garden.創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 無神経・偏見としか思えない見解 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p20 「(神様は友達みたいなものだ、だったら大勢いた方がいい、)友達がたった一人だけなんて、ろくなやつじゃない。」 友達が少ないいじめられている子どもは「ろくなやつじゃない」とも取られかねない無神経な発言です。ちなみに本書には様々な箇所で「いじめ」に無神経な言葉が沢山出て来ます。大学教授も教育者の筈なんですが。 p44 「イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。どちらが本物かというと、負け組のユダヤ教だと思う。(中略)(国家が消滅しても信仰を持続させた)ユダヤ教の戦略の正しさを(イスラエル建国が)証明していると言えるのです。」 「勝ち組」「負け組」という問題が多い二項対立を「宗教社会学者」が宗教の分類に使うという時点で驚き。更に、ユダヤ教が「本物」だとすると、イスラム教は「偽物」「まがい物」であると言いたいのだろうか。ムスリムの方に対して大変失礼な言い方である。また、シオニズムは19世紀後半になってから様々な要因で起きたもの。「イスラエル建国」が「ユダヤ教の戦略の正しさを証明している」と捉えては、イスラエル建国に懐疑的だったユダヤ人達の存在を理解出来なくなる。 p328 大澤「ソ連時代に東方正教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。正教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」 何が「ちょうどよかった」のだろうか?意味不明。大澤氏によれば「正教を弾圧する」→「精神面の空隙」→「マルクス主義が入り込む」というように、時系列上の間に「空隙」があるかのようだが、そのような事実は無い。また、かなり無神経な発言でもある。たとえば「中華人民共和国ではチベット仏教はたいへんな被害を受けるわけだけど、それは逆に言うと、マルクス主義があったのでちょうどよかったのかもしれない。チベット仏教が排除された空きポストに同じようなものが入ったみたいなところが、ほんとうはあるんじゃないかな。」などと何の断り書きも無く発言すれば、関係各所から猛烈な抗議が来るに違いない。「たいへんな被害」と一口に片づけた後で、「マルクス主義があったからちょうどよかったのかも」などという能天気な発言からは、どれほどの「被害」があったのか完全に無知なのが知れる。ソ連では1918年から1930年までにかけてだけで30万人(!)の聖職者が殺され、1937年と38年には残っていた52人の主教のうち40人が銃殺されている。なお、この数字は聖職者だけのものであり、膨大な数の一般信徒は含まれていない(つまりさらに犠牲者は多い)。修道女も大虐殺の憂き目に遭った。 高橋保行『迫害下のロシア教会―無神論国家における正教の70年』p125 - p126, 教文館 (1996/01) ウィキペディアだったら「誰」(誰がそんな事をどこで言っているのか?)タグがつけられます 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p22 大澤「宇宙と人間を「創造した」Godが、人間にとってはエイリアン、地球外生命体のようなものであるなら、そんな怖いGodといかに付き合うかが一神教の重大なテーマになりますね?」橋爪「はい。」 誰がどこでこのような考え方を「重大なテーマ」と言っているのか?学者が「重大」というからには根拠がある筈だが。まさか大澤と橋爪の二人だけにとって「重大」という意味では無いだろうが。 社会学? 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p146 橋爪氏:イエスが「わずかな食糧で大勢を食べさせた奇蹟」は、「社会学的に言えば」「実際に起こりうることだと思う」。それは、人びとが隠し持っていた食糧を「イエスがうまく、みんなで分け合うように誘導した。それで、みんな食べられた、というわけです」。 人びとが、自分のために隠し持っていた食糧を云々という解釈は、社会学的な見解でも何でもない。このような解釈は、例えば聖書学者であるV. TaylorがThe Gospel according to St. Mark, London, 1963, p.321に記している(ただし、Taylorはこの解釈を退けている)。一読者としては、このような奇蹟物語がどうして生まれ、何故伝承されていったのかを「社会学的に」考察して欲しかった。 意味不明 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p250 「公会議では、意見の対立があるから、それを決着するんです。」「公会議は多数決。多数決ですらない場合もある。」 多数決なのか多数決で無いのか、どちらなのか? 思いつき 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p17 「イエスの出現は、旧約聖書の預言者がやがてメシアがやってくると、預言していたものです。(中略)特に、『イザヤ書』の真ん中より少し後ろ(第二イザヤの預言と言われる部分)にそのことが書いてある」 メシアの到来が、イザヤ書の第二イザヤが記したと言われている個所に書かれているというのは正しい(イザヤ書52章13節から53章12節)。とは言え、橋爪氏の他の著作にも言えることだが、彼は第二イザヤのメシア預言をのみもっぱら取り上げ、他の箇所をあまり取り上げないのはどうであろうか。例えば、有名な「処女懐胎」をマタイ福音書が語る際、預言として引用している旧約聖書の個所は第二イザヤではなく、第一イザヤが記したとされるイザヤ書7章、所謂「インマヌエル預言」(もっとも、ここの「おとめ」が処女が、ただの若い女かは議論があるが。なお、この個所はルーテル教会などをはじめとして、教会ではクリスマスには必ず読まれるはずの箇所でもある)であるのだから(マタイ1:23はイザヤ7:14の引用。更に、マタイ4:15もイザヤ8:23、9:1の引用)。なるほど、新書という点で分量に制限があるから多くの個所に言及することは出来ないであろうが、そうであったとしても、一般の読者に馴染みがないであろうし説明も為されていない「第二イザヤ」などという言葉を用いず、「イザヤ書」とだけ語り、他の文書、たとえば「詩篇」なども挙げておくのが適切であると考えられる。 Catholic Encyclopedia Isaias p277 「新大陸の発見は、大航海時代をもたらした。でも、大航海と言えば、中国人だってイスラム教徒だって、航海の能力をもっていた。問題は、航海の能力ではなく、新大陸に移住する動機を持っていたかどうかです。なぜキリスト教徒だけが、新大陸に大挙移住したのか。それは、旧大陸でいじめられたから。宗教改革は、キリスト教にふたたび亀裂をうみ、不寛容と宗教戦争をひき起こした。戦争では、勝ち組と負け組みができる。負け組は居場所がない。ボート・ピープルになって新大陸を目指すしかないんです。旧大陸でそこそこ安楽な暮らしができれば、誰が好んで新大陸に行きますか? だから中国人もインド人もアラビア人も、新大陸に向かう積極的な動機を持たなかった。キリスト教徒だけがその動機を持ったのです」 もちろん動機も大切である。しかし橋爪氏の頭の中には、地理的な有利不利という考えはないのだろうか。ヨーロッパと中国とインドとアラビア、どこが最もアメリカ大陸に近いか、その物理的距離がアメリカ大陸の発見と人々のアメリカ移住にどれだけ有利であるか、読者の皆様は考えられたし。更に、大航海時代の中国やインドやアラビアに住む人々が「そこそこ安楽な暮らし」ができた、と考える根拠も不明である。なお、橋爪氏はアメリカ大陸を「新大陸」と呼ぶが、現在ではこれはヨーロッパ中心主義あるいは植民地主義の言葉であるとの批判がある。 世界地図 p326 「ヘーゲルの弁証法はもっとあからさまに、キリスト教の論理を取り込んだものになっている。三位一体を下敷きにしたものだと思います。ドイツ語には再帰動詞というものがある。『自らを○○する」のような、自動詞でも他動詞でもない第三の動詞なのですが、この動詞の用法が弁証法のロジックとシンクロしている。ルターのドイツ語訳が、この組み合わせを生み出したのだとすると、ヘーゲルも、マルクスも、その残響の中で仕事をしている」 不明である。ヘーゲルの弁証法がどのように「三位一体を下敷きにした」のか説明が無いために、まったく不明である。なるほど、ドイツ語の再帰動詞の「用法が弁証法のロジックとシンクロしている」と橋爪氏は説明しているが、三位一体とドイツ語の再帰動詞と弁証法とがどのような関係にあってどのような意味で「シンクロしている」のか、一切説明せずに、読者の想像力にまかせている点で、何も言っていないに等しい。そもそも、ドイツ語以外にも再帰動詞があるのに、何故ドイツ語だけが「弁証法のロジックとシンクロ」したのか、全く不明であるし、再帰動詞が自動詞と他動詞の関係が、どのような意味で「命題」「反命題」「統合」の関係であるのか、不明である(そんな説明をする言語学者はいない)。要素が3つあれば三位一体だ、というのは、何の説明でもない。 14刷で唐突に巻末に「主の祈り」と「使徒信条」を追加し、更にその説明が不適切 頁数 疑問符のつく記述の引用 指摘 参考文献 p343 「※主の祈りは、福音書(マタイ6章、ルカ11章)でイエスがこうして祈れと教えた祈りで、キリスト教徒に共通の祈祷である。教会・教派ごとに表現のちがいはある。ここに載せた日本語は、よくあるものを選んだ。なお、最終行は福音書にない、付加部分。「罪」とあるのは原罪ではなく、咎や過ちの意味である」として、ルーテル教会式文の「主の祈り」の訳と、King James Version Matthew 6 9-13)として英語版のLord s Prayerを掲載 1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「主の祈り」を追加したのか2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である3. ルーテル教会式文における「主の祈り」の翻訳は日本キリスト教協議会統一訳と漢字表記が違うだけのものである上、「キリスト教徒に共通の祈祷である」のは確かである。これも真正な「主の祈り」の訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問 4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくギリシア語コイネーである。5. すでに指摘済みであり、繰り返しになるが "King James Version Matthew 6 9-13"として欽定訳聖書から引用しているが、これと「最終行は福音書にない、付加部分」という注釈が致命的に食い違っている。福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。欽定訳聖書のマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。6. この橋爪大三郎の説明を敷衍して考えると、欽定訳聖書だけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。}7. 橋爪大三郎は日本福音ルーテル教会の信徒ながら、『ふしぎなキリスト教』本文中において「イエス・キリスト=神の子」という概念をふしぎがっているが、キリスト教の基本においてキリストだけが「神の子」であるわけではない。十字架の恵みと聖霊の注ぎによりキリスト教徒すべてが罪人のままあがなわれ、「神の子」として扱われる。その約束のもとに、創造主なる神を「天にまします我らの父よ」と呼ぶことができる、という理解である。これはルターの小教理問答にも書かれている、多くの教派に共通した基本的な理解である。橋爪大三郎のこの著書、および他の著作を読んでも、彼がこの「主の祈り」の一行目すら理解できていないのはふしぎである。また、そのような基本教理の説明もなしに、「主の祈り」を、ふしぎな言い訳のように掲載するのもふしぎである。 ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会カトリック教会のカテキズムによる主の祈り デルコル神父訳 祈り 私祈祷 日本正教会 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会訳 問187-196 p443 「※使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)である。日本語はよくあるものを選んだ」として、ルーテル教会式文の「使徒信条」の訳とLutheran Service Bookからの英語訳を掲載 1. なぜ14刷になって、本文中に言及もなかった「使徒信条」を追加したのか2. 「日本語は、よくあるものを選んだ」として、出典をきちんと書かないのは学者として不誠実である3. ルーテル教会式文における「使徒信条」の翻訳は真正な訳である。しかしなぜ、基本的にルーテル教会限定のみで用いられているルーテル教会式文から引用したのか疑問4. 英語訳を付加した理由が不明。そもそも原文は英語ではなくラテン語である。5. 使徒信条は、カトリック、プロテスタントに共通する信仰箇条(三位一体説を簡潔にまとめたもの)とあるが、これは誤解を招く表現である。確かに、この信条による神の三つの位格への信仰告白は、三位一体への信仰告白としても理解される。ルターの小教理問答でもそこを強調している。しかし、三位の位格が「一体」であることの告白文としては弱い。なぜなら、そこがこの信条の主眼ではないからである。一般的な理解において厳密に言えば、三位一体をまとめた基本信条はアタナシオス信条である。5. 使徒信条は主に西方教会で用いられ、東方教会では用いられていない。使徒信条はせめて「西方教会の信ずべき事柄を簡潔にまとめたもの」という位置づけにするのが適切だろう。6. この文脈だと、カトリックでもプロテスタントでもない、正教会は三位一体を採らないように読めてしまうが、東方教会でも西方教会でも共通して使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条にもみられる通り、正教会も三位一体を信仰している。そもそもアルメニア教会についての誤認(p256)がある段階で、橋爪氏も大澤氏も碌に東方教会につき調べていないのではと疑われる。幅広く使われているニカイア・コンスタンティノポリス信条を挙げずに、(ルーテル教会訳の)使徒信条を挙げたのはなぜなのか疑問。尤も、東西教会分裂の原因にフィリオクェ問題を挙げていない両氏の姿勢を鑑みれば、同信条を挙げようとしたところで、結局は「子からも」の有無の違いに言及することは出来ないかもしれず、そうなるとやはりいずれにせよ、東西教会の中立的観点は損なわれるが。7. Lutheran Service Bookにおけるこの「使徒信条」の英訳は宗教改革時、カトリックと対立した際に「聖なる公同の教会」にあたる "sanctam Ecclesiam catholicam"という語句を「カトリック(普遍的な・公同の)」の語を避けて"the holy Christian church"と訳したものであり、教派色が強い訳文である。カトリック、聖公会、改革派・長老派、メソジストなどでは"the holy catholic church"という訳を用いる。ELCAなどルーテル派でもエキュメニカル版の使徒信条を作成しており、その訳文では"the holy catholic church"という訳を用いる。8. 著者が大学教授ならば当然理解しているはずだと信じるが、ある特定のテクストを選ぶ際、その選択はある種の主張の表明ともなりうる。日本福音ルーテル教会の信徒である著者がルーテル派の教派色の強い「使徒信条」のこの訳をこの本に掲載したということは、著者はルーテル派の立場に立っている(あるいは代表している)、という主張の表明とみなしてよいのだろうか? ルーテル教会の信仰 日本福音ルーテル教会 ルター 小教理問答 日本福音ルーテル教会Apostles' Creed Catholic EncyclopediaThe Three Ecumenical or Universal Creeds - Book of ConcordThe Large Catechism The Apostles' Creed - Book of ConcordFaith -Emmanuel Lutheran Church, Missouri SynodThe Apostles' Creed - Evangelical Lutheran Church in AmericaApostles' Creed Westminster Presbyterian Church The Apostles' Creed - United Methodist Church 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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当ページでは、橋爪・大澤による「ふしぎなキリスト教」以外の、良質な入門書を紹介します(書籍紹介ページなので当ページは「ですます」調です)。 「ふしぎなキリスト教」が解り易いのだから、細かい少しの間違い(実際には量的に膨大、質的に最悪な間違いが沢山あるのですが)を気にせずに読んでもらえばいいじゃないか、と仰る方が結構巷間にみられますが、それはずっと良質な本を書いている他の人(実際に居ます)に失礼というものではないでしょうか。 批判者達は「もっと良質な本がある」事を知っているからこそ、批判しています。 一般日本人が「これだからキリスト教ってのはよく解らないんだよね(嘲笑)」という、結論が見えて居る内容の出鱈目な本ではなく、もっと真摯に「キリスト教ってどんな宗教なんだろう」と知りたい人に勧められる本を紹介して参ります。 (管理人より)ウィキシステムは使いますが、本ページでは「外部リンクに挙げられているトゥギャッターで、複数の人の間で高い評価を得た本を挙げる」という基準を設けます。 総合入門書 『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784022617217 「ふしぎなキリスト教」を批判する人たちの間で複数から推されていたのがこれ。 外面的なところまでしか踏み込んでおらず、教派の違いを列挙するだけにとどまっていますので、それこそ専門家には深みの無い内容ではありますが、しかしだからこそ、「知ったかぶり」の無い、対象に誠実に取材した良書になっています。イラストも豊富で、各種考証が仕事で必要になる方にもお勧め出来ます。 950円という大変お手頃な価格も高評価。 『知って役立つキリスト教大研究』(新潮OH!文庫) 八木谷涼子 ISBN 9784102901335 の改訂増補版が上記『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) になります。 『総説キリスト教―はじめての人のためのキリスト教ガイド』(キリスト新聞社) アリスター E.マクグラス (著), 本多 峰子 (翻訳) ISBN 978-4873955247 こちらは割りと本格的なキリスト教の総合入門書。 しかし、結構なお値段なので、図書館などのご利用もオススメします。 教派(宗派)について 『よくわかるキリスト教の教派 新装版』(キリスト新聞社) 徳善義和, 今橋朗 ISBN 9784873954974 キリスト教では、厳密には「宗派」ではなく「教派」といいます。。 八木谷氏の本とは違い、この本は、現在の日本にある教派につながる様々な流れを通時的に理解するのに役立ちます。 あと、分裂の歴史を持つプロテスタントの流れを追うのにも適していたり。 <注>日本における正教会の団体として、「ロシア正教会モスクワ総主教庁駐日ポドウォリエ」についても記載されているのですが 正教における用語として不適切な「皇帝教皇説」なども挙げられていたりするなど欠点も見受けられます。 神学の入り口 『キリスト教の精髄 (C.S.ルイス宗教著作集4)』(新教出版社) C.S. ルイス (著), 柳生 直行 (翻訳) ISBN 9784400520542 『ナルニア国物語』などで知られる作家、C.S. ルイスはキリスト教に関する著書を多く書いています。 特にこの本は定評のある本です。原題はMere Chrisitianity、つまり「ただのキリスト教」というタイトルなのですが、 日本語版は「キリスト教の世界」とか「キリスト教の精髄」とか、大げさなタイトルになってしまいます。 でも、それだけ、体験を通した信仰と、しっかりとした神学に裏付けられた本だからだと思います。 神学 『キリスト教神学基本用語集』(教文館) Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) ISBN 9784764240353 西方教会についての用語が殆どで、東方教会については殆ど言及していないという弱点はありますが、逆に「東方についての知ったかぶり」はありません。「用語集」ですが著者は一人なので、「メソジストのフスト・ゴンサレスが一人で書いた」ことは念頭に置いた方がいいですが、お手頃価格で西方教会の神学用語のあらましを知ることの出来る良書です。 東西教会比較 『ギリシア正教 東方の智』 (講談社選書メチエ) 久松 英二 ISBN 9784062585255 「カトリック教会の神学者が正教会とカトリック教会を比較して書いた」という視点についての前提のもとで読むと大変興味深い良書。 正教会 『ギリシャ正教』(講談社学術文庫) 高橋保行 ISBN 9784061585003 1980年に書かれた本であり、世界の正教会の状況について書かれた部分はデータとして古くなっては居ますが、今も使える正教会についての総合的な入門書です。カトリックやプロテスタントの人物による翻訳・著作ではなく、正教会の司祭(神父)による著作なので、日本正教会での日本語表現・語彙のあらましも知ることが出来ます。 『東方正教会』(文庫クセジュ) オリヴィエ・クレマン(著), 冷牟田 修二(翻訳), 白石 治朗(翻訳) ISBN 9784560056073 「正教会の神学者が正教会について書いた」という前提のもとで読むと大変興味深い良書です。ただし、若干の基礎知識が要求されますので、総合的な入門としては上記がお勧め。神学面での入門書としてはこちら。 カトリック教会 『カトリック教会のカテキズム要約(コンペンディウム)』(カトリック中央協議会) 日本カトリック司教協議会 常任司教委員会 ISBN 9784877501013 バチカン認可の『カトリック教会のカテキズム』、さらにその要約版を、これまた教皇認可のもとにわかりやすく編集されたもの。 カトリックの内部向けだけでなく、外部にも、他の信仰を持つ人にも読んでほしいQ&A集。 『カトリックの信仰』(講談社学術文庫) 岩下 壮一 ISBN 9784061591318 戦前の書ですが、日本語で書かれた教義解説書の中で、今に至るも最高峰に位置します。聖書学などで著者の見解には乗り越えられた部分も多々あると思いますが、しかし、基礎的な教養として知っておいても損にはなりません。厳格な新スコラ主義的教育の薫陶を受けたと思われる硬質な文体もまた、現在の日本では失われたに等しい曖昧さや妥協を嫌う理知の輝きというものを放っています。 聖公会 (英国国教会) 『道をたずねて―祈祷書に基づいたカテキズム』(聖公会出版) B.D. タッカー(著), 赤井 勝哉(翻訳) ISBN 978-4882740834 またカテキズムになってしまうけれど、これもすごくまとまった良書です。 日本の大学で教鞭を執っていたタッカー教授が、できるだけわかりやすく、かつ神学的に正しくまとめたもの。 緑の表紙にケルト十字の表紙です。 『聖公会が大切にしてきたもの』(聖公会出版) 西原 廉太 ISBN 978-4882742111 2009年に聖公会関係学校教職員研修会で行われた講演をもとにまとめられた本。 日本の歴史などとからめ、身近な話題からに「聖公会とは何か」を優しくわかりやすく解説した本。 ルター派(ルーテル派) 『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』(岩波新書) 徳善 義和 ISBN 978-4004313724 ルターの伝記仕立てという読みやすい構成ながら、随所にルターの思想のかんどころや後世への影響を書いているので、読むだけでルターのことがなんでもわかってしまう。 音楽の才能にも恵まれたルターが作った讃美歌が、後のバッハやメンデルスゾーンの音楽に影響を与える一方、ナチスに利用された負の歴史もちゃんと紹介しています。 キリスト教を「ことばの宗教」ととらえ、「ことばに生きた」ルターがやった宗教改革は、聖書という「ことば」によってキリスト教を改革しようとしたことだと、「ことば史観」でルターをまとめあげたのも見事です。 <注>正教会に関して p109で、「(東欧は)北はロシア正教、南はギリシア正教」のような誤った記述が見られるなど、欠点も見受けられます。 『ルター―異端から改革者へ 』(教文館) T・カウフマン(著),宮谷尚実 (翻訳) ISBN 978-4764266858 ルターについての一般向けの概説として、良い本です。訳文も比較的、分かりやすいです。 カルヴァン派(改革派・長老派) 『長老教会の問い、長老教会の答え:キリスト教信仰の探求 』(一麦出版社) ドナルド・K・マッキム(著), 原田浩司(翻訳) ISBN 978-4900666818 問いと答え、という形式で、初歩的なところから細かく丁寧に解き明かしていく構成になっている本です。 会衆派(組合派) 『祈りのこころ』(一麦出版社) ピーター・テイラー・フォーサイス(著),大宮溥 (翻訳) ISBN 978-4-86325-002-4 会衆派(組合派)は、その長い歴史の中で、そしてそれぞれの会衆の中で、幅の広い神学を示してきました。 清教徒革命時やピルグリム・ファーザーズなどの清教徒の要素が強い時代から、19世紀以降の超教派的姿勢まで。 その中で、この教派の神学をきちんと追求し、広く認められている神学者がフォーサイスです。 この本は彼の本の中でも、わかりやすく「祈りについて」書かれたものです。 メソジスト 『メソジストって何ですか―ウェスレーが私たちに訴えること』(教文館) 清水光雄 ISBN 978-4764269019 メソジストの歴史から、その神学までわかりやすく書かれた入門書です。 聖公会・カトリック・東方正教から継承した信仰の遺産や、18世紀英国とアメリカ独立戦争とメソジストの関係などにも触れてあります。 福音派 注:「福音派」とは教派名ではありません。聖書信仰を重視し(聖書主義)、十字架の購いを重視し(十字架中心主義)、回心を重視し(回心主義)、伝道を重視する(行動主義)の教派やグループの総称です。 『わたしの使徒信条 ~キリスト教信仰の真髄~』(いのちのことば社) 藤本満 ISBN 9784264029694 基本信条である使徒信条を読み解きながら、信仰を総合的に体系的に解き明かし、告白する本です。 『総説 現代福音主義神学』(いのちのことば社) 宇田進 ISBN 9784264028970 現代という時代の文脈において、福音派の神学を解き明かした本です。 同じ著者の『福音主義キリスト教と福音派』とあわせ、神学校でも広く用いられている本です。 『信じてたって悩んじゃう〔合本・愛蔵版〕』(いのちのことば社) みなみななみ ISBN 9784264028970 タイトルにもあるように、「信じてたって悩んじゃう」等身大のキリスト教徒の姿を描いたもの。 信徒がさまざまな問題にぶつかって悩んでいく姿を等身大で描いています。 古典的著作 入門書とは少し異なりますが、おさえておきたい古典的著作を挙げます。 『世界の名著 16 アウグスティヌス』 (中公バックス) アウグスティヌス (著), 山田 晶 (翻訳) ISBN 9784124006261 言わずと知れた西方教会最大の教父、アウグスティヌスの有名な書、『告白』です。 『キリスト者の自由・聖書への序言』 (岩波文庫) マルティン・ルター (著), 石原 謙 (翻訳) ISBN 9784003380819 ルターの著作の中で最も有名なもののひとつ。短い文でやさしく語りかけながら、同時に信仰、特にプロテスタント信仰の基本を語る書です。 『信仰の手引き』 (新教新書) ジャン・カルヴァン(著), 渡辺信夫 (翻訳) ISBN 9784400540014 カルヴァンの『キリスト教綱要』の初版が出版された翌年に書かれたもの。『キリスト教綱要』の初版の考えをコンパクトにまとめた本としても評価が高い書です。 ページ一覧 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 (2012年6月2日現在、2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。今後さらにページを分割することも有り得る。) 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、神学篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 神学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p16 「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」 まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。 The Doctrine of the Orthodox Church The Basic Doctrines p23 「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」 橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟) p47p48 大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」橋爪「関係ない、です。」橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」 47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。 『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353 教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p116 「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」 橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。 論理の破綻 p145p147p148 橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、枝葉に過ぎない。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、付録みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」 復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りありだろう。実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来しており、その重要性が表れている。復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。 ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージカトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)キリストの復活六本木ルーテル教会神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師) p184, p185 「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage p245, p246 「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」 少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Holy Ghost参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ p256 「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」 アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。 Orthodox Unity - Statement Index内、Relations with the Eastern Orthodox Churchesより "Concerning the Christological controversy which caused the division, we..." (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 ) p312 「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」 どこに出て行ったというのか?そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)(p75, p76) イザヤ書8章10節マタイによる福音書28章20節創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 キリスト新聞2011年10月22日2面に掲載された橋爪大三郎氏のインタビュー記事を引用しておく。 ――インターネット上では、事実誤認という声もあるが。 橋爪:この本に事実が書いてあると思うのが間違いです。 ――では、どういうものとして捉えてほしいのですか。 橋爪:漢字に楷書・行書・草書があるでしょ。この本は言わば草書体なんです。草書体の字に向かって、画数が違うとか点が省略されているとか言ってもしょうがない。そういうものなんだから。じゃあ、草書体はいい加減か?私はこの本はこの本で実に精密にできていると思う。数学みたいに精密なものなの。ただその表現が漫才みたいなの。/飲み屋で酔っ払って話している二人組みたいじゃないかって言っている人がいた。そういうふうに仕上げてあります。だからそう楽しんでくれていいんだけど、でも言っていることは、よそに書いていないことで、しかも精密なことが書いてある。/論文にしたければ、どの1ページから、論文が何本も書けます。そういうふうに思う人は、クロウトのひと、もの書きの人です。そういう人には概して評判がよろしい。 つまり橋爪氏は「間違いを少し書いてしまった」のではなく、「ハナから間違いを回避しようとしていない」。自分の生み出す本に品質保証をしないと宣言しているも同然。 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 歴史に関する事実誤認の記述を断りなく訂正 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは p41 「初代のサウル王は、北側のベニヤミン族の出身だった」→「初代のサウル王は、北側にもつながりのあるベニヤミン族の出身だった」(6刷で変更) サウル王の属するベニヤミン族は北側ではなく南側に属する。そのために差し替えたのだろうが、どちらにせよ間違い。逆に、訂正のせいでより意味不明になっている p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」→『レビ記』を『出エジプト記』に訂正。なお、この訂正は正しい。 どの刷で訂正したか不明であるが、版を改めないにもかかわらず内容を訂正するのは、不適切であると思われる。講談社(及び日本の出版社)はこのようなことを一般的に行なっているのだろうか? 単純な事実に関する間違い 目次 1 歴史 2 教会生活 3 教会論 4 聖書 1 総論 2 旧約 3 新約その1 ・ 新約その2 5 神学 6 東方教会(正教会・非カルケドン派) 7 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 8 科学 9 キリスト教音楽 10 キリスト教美術 11 哲学 12 言語 13 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教・神道・イスラムについての無理解) 歴史 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(歴史篇)を参照 教会生活 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p67 「キリスト教の祈りは、外から見えない。これみよがしに祈るな、とイエスが命じたから」 根拠不明である。確かにイエスは隠れて祈るように命じたが(マタ6 5以下)、しかし右の動画に映っている人びとは祈っていないとでも言うのだろうか。これでは、正教会の奉神礼、西方教会の典礼・礼拝、それをベースに発展した教会音楽が全く説明出来なくなる。それとも橋爪氏は「教会音楽は祈りでは無い」とでも認識しているのだろうか。橋爪氏がどう「祈り」「教会音楽」を理解しようと自由であるが、少なくともキリスト教において一般的理解ではない独自説を「キリスト教では云々」として流布するのは問題あろう。 (正教会)Патриарх совершил литургию в Рождественск. cочельник(カトリック教会)主の祈り(カトリック南山教会)(プロテスタント)Behold the Glories of the Lamb.mp4 (非カルケドン派)قداس عيد الفصح في كاتدرائية مار افرام حلب-سورياSyriac Easter in aleppo p67 大澤「祈りの最後に「アーメン」という言葉をつける場合が多いですね。これはどういう意味ですか?」橋爪「(引用前略)「その通り、異議なし」という意味です。新左翼が集会で「~するぞー」「異議ナシッ!」とやっているけど、あれと同じです。」 まず単純に過ぎる。少なくとも「かくあらんことを(そうありますように)」を外しては、数多くの祈願の祈祷文の最後に唱えられる場合の意味が丸きり解らなくなるだろう(こうして橋爪氏と大澤氏による解釈は、「大枠では解り易い」どころか、却って「大枠の理解の妨げ」となるのである)「その通り」というのは語義のごく一部でしかないのである。 なお、八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』(352頁、朝日文庫)には、アーメンの意味として「真実に」「確かに」「同意します」「そうなりますように」を記しており、橋爪、大澤よりも正確かつ簡潔である。 Аминь(Энциклопедический Словарь Ф.А.Брокгауза и И.А.Ефрона)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Amen p237 「聖餐式ですけれど、最初はほんとうに食事をしていたらしい。でもそれをすると、みなお腹を空かせてやってきて、教会の財政が大変なので、食事はやめになり、象徴的なパンとブドウ酒の儀式になった」 ・「ほんとうに食事をしていた」とは、恐らく、『コリントの信徒への手紙一』11章17節以下などを根拠としているのだろう。なるほど、パウロの時代には聖餐と愛餐の区別が曖昧であり、実際の食事(愛餐)と聖餐式が一続きで行われたと考えられる。更に、使徒教父文書の一つ『ディダケー』(100年頃)の9-10章の記述からも、愛餐と聖餐は一続きで行われていたと考えられる(10章1節「"満腹"した後」)。ギリシア教父・殉教者ユスティノスの『護教論』(150年頃)にも食事としての描写がある。この点で、「最初はほんとうに食事をしていた」とは、曖昧な表現であるにせよ、許容出来る表現であるかもしれない。しかし、「ほんとうの食事」が「象徴的な…儀式になった」という主張の根拠は不明。聖餐は、最初期に実際にどのように行われていたかは不明であるが(実際の食事の形をとるにせよ、それと連続して行われているにせよ、独立したものであるにせよ)、イエスによって命じられた、つまりそもそもの最初から象徴的な儀式である(1コリント11章23節以下及びマルコ福音書13章22節以下)。・聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)はキリスト教にとって最も重要な儀式のひとつ。ただの食事ではない。キリストの受難と贖罪を記念する儀式であり、聖書にも記された儀式である。「食事の」記念ではない。もしかすると橋爪氏は愛餐(アガペーの食事)と聖餐・聖体拝領・領聖(ユーカリスト)を同一視しているのかもしれない(そのような説があるなら、それを説明すべきである)。なお、聖餐論には世界史で習うレベルの話だけでも、主に実体変化・共在説・霊的臨在説・象徴説がある。「象徴」をそのような意味で定義するかによるが、ツヴィングリの時代まで、パンとぶどう酒を「象徴」のみと限定し、アナムネーシス(想起)に限定する考えはなかった。それまでは実体変化とする考えが主流だった。橋爪氏の所属するルーテル教会は象徴説を取らない。共在説である。そのために、ルターは多くの論争を戦った。プロテスタント内部に分裂も起こった。そういったことも知らないのだろうか? 小林信雄「『ディダケー』における聖餐の祈り」『神學研究』 26, 109-144頁 CiNii PDF - オープンアクセス 小林信雄「マルコ福音書における供食物語 聖餐の起源との関わりにおいて 」『神學研究』 28, 19-55頁 CiNii PDF - オープンアクセス CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Eucharist 日本福音ルーテル教会 ルーテル教会の信仰 ウエストミンスター信仰基準 日本基督改革派教会 正教会とは 日本正教会 Holy Mystery A United Methodist Understanding of Holy Communion. (Cayle Carlton Fenton, 2006. p. 33) p294 「(プロテスタントの教会に)カトリック教会の信徒がやってきても、聖餐にあずかれます。逆もそうだと思う。」 カトリックではプロテスタント信徒に対して聖体拝領を許可しない。それどころかプロテスタント内でも「他教派の人間に聖餐を許すかどうか」については議論が分かれるのが現状(特にバプテストにクローズドの傾向が顕著)。1998年、当時のアメリカ大統領だったビル・クリントン(プロテスタント・バプテスト派)が南アフリカ訪問中にカトリック教会を訪れたとき、カトリックの聖体にあずかったため、論争となったこともある。Bil Clinton + Catholic + Communionなどのキーワードでネット検索すれば、当時の記事や論争などが大量にヒットします。「逆もそうだと思う」などと、軽々しく発言できる問題ではない。基本的な事実誤認。これで「世界がわかる」とは言えない。逆に世界を誤解します。 Why Close Communion And Not Open Communion(By O. L. Hailey, D. D. Editor Arkansas Baptist Little Rock, Arkansas ) 栗林輝夫『アメリカ大統領の信仰と政治――ワシントンからオバマまで』キリスト新聞社 2009年 p.216-217 New York Times "President Took Communion -- And Criticism" By JAMES BENNET Published April 07, 1998 教会論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p291 「カトリック教会には、ミサとか、聖職者(司祭や神父)とかあるが、それらは聖書に根拠をもたない。ゆえに存在すべきでない。教会堂もなくてよい。極端を言えば、聖書さえあればよく、自分と神だけが対話している、これが理想です」 「司祭や神父」は橋爪氏がこの本の他の箇所や、他の著書でも犯す間違い。「司祭」(職名)、「神父」(呼称)。これは別の例で言えば「教諭と先生」「代表取締役と社長」というようなもの。つまり橋爪氏は「司祭」が何か、「神父」が何か、の辞書的意味すら把握していない。また、プロテスタントも礼典・教職、教会堂を持っているが、これらも聖書的根拠がプロテスタントによって示されている。なお、「(カトリックの聖職者制度は)聖書に根拠をもたない」というのは、あくまでプロテスタントがカトリック教会を批判する際に言うものであるが、中立的観点からすれば、カトリック教会も教職制について根拠となる聖書箇所を挙げていることには言及しても良いのではないか(Ⅰペテロ 2:2、Ⅰテモテ 5:17ほか)。プロテスタントの一方的主張だけを「入門書」で書くのは、入門書としての役割を果たしているとは言えない。正教会にも聖職者制度があるが、これも同様に根拠として挙げられる聖書箇所がある(ピリピ 1:1。Ⅰテモテ 3:1 - 7ほか)。概して他の箇所にも言えることだが、当該教派がどういう主張をしているか真摯に調べるという姿勢が決定的に橋爪氏には欠けている。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA PriesthoodCATHOLIC ENCYCLOPEDIA Priest CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Hierarchy of the Early Church Ecclesiastical Buildings "The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1612, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) 八木谷涼子 東方正教会&ローマ・カトリック 聖職者対照表 八木谷涼子 教派いろいろ対照表 (『知って役立つキリスト教大研究』の巻末附録・9教派対照表 (p.362-381)の増補版) 聖書 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)を参照 神学 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)を参照 東方教会(正教会・非カルケドン派) 橋爪氏も大澤氏も、正教については「皇帝教皇主義」と「言語による分裂」しか言及しておらず、以下指摘の通り、大枠でも「誤りしか書いて居ない」。0点である。 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p256 「教会で何語を使うか。東方教会はギリシア語を」 4世紀のシリアの聖エフレム(東西両教会で聖人)、7世紀のシリアのイサアク(正教会で聖人)はシリア語で著述していた。「東方=ギリシア語のみ」ではない。 St. Ephrem (Ephraem, Ephraim) the Syrian, (A.D. 373)(シリア正教会 アメリカ合衆国西部大主教区)Oriental Fathers Syriac Literature p256, p261 橋爪氏「東方教会は、ヴェーバーのいう皇帝教皇主義、すなわち政治的リーダーと教会のトップとが一致する体制をとったので」大澤氏「ビザンツ帝国では、先ほど(橋爪氏が)おっしゃっていたように、教皇がすなわち皇帝であって」 皇帝と総主教は非兼任。そもそもビザンツに教皇は居ないし、「教皇不在⇒皇帝が兼任」という理解をしているのだとしたら、ただ知識と理解の不足。そもそも東方教会に「イエス・キリストに代わって一人が束ねて教導する教会」という教会論が無い。教会が皇帝に抵抗したり阻止したりしたケースも歴史上複数あり、「『皇帝教皇主義』説は、西欧からの偏見」で片付けられるのが現代ビザンチン研究者の間での常識。世俗領域の、非専門家向け・一般向けの世界史書籍(『山川世界史小辞典』p230, 2007)ですら、「(ビザンツの)皇帝教皇主義」は「不正確な説」扱いになっている。そもそも東方教会に言及するのに、正教会のみならず現代ビザンツ学界までをも完全に無視して、なぜ事欠いてヴェーバーなのか。 久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』76頁 - 77頁 『山川世界史小辞典』p230, 2007 p257 「ロシア語を使うロシア正教会、セルビア語を使うセルビア正教会」 各独立正教会が成立する過程の文脈で語られているが、成立時の奉神礼用語はいずれも教会スラヴ語。セルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀。今でもロシア正教会では教会スラヴ語が奉神礼で使われている。 Church Slavonic (The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th) Reform of liturgical language in Russia (Serbian Orthodox Church, Official web site) p257で橋爪氏が、p268で大澤氏が 「総主教座の分裂」の要因を「使用言語」としている そもそも「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」を普通「分裂」とは言わない。正教会における独立正教会・自治正教会といった教会組織の関係には、「母教会」「子教会」という解り易い表現がある。子が母から自立することを「家族関係の分裂」とは言わない。なぜ「解り易い」表現を使わずに、わざわざ誤った記述で解り難くしているのか不明。また(「分裂」の語彙を使わなかったとしても)言語の違いを「独立正教会の成立」「総主教庁の新設」の要因とするのも根拠不明。ブルガリア正教会もロシア正教会も教会スラヴ語を今でも使っているが、使用言語が同じでも全く別の組織を構成している。上述の通りセルビア正教会がセルビア語を奉神礼で使うようになったのは20世紀以降。セルビア総主教座は(途中廃止された時期もあったが)最初のものは14世紀に成立していてむしろ順序が逆。独立正教会たるキプロス正教会は5世紀に独立しているが、ギリシャ語を今日まで使い続けている。「使用言語の違い→総主教座の分裂」は当たらない。本書全体に共通する特徴だが、ここでも間違いだらけの知識から間違いだらけの結論が導き出されている。 Old Church Slavonic language -- Britannica Online Encyclopedia THE SERBIAN ORTHODOX CHURCH - A SHORT HISTORY (Vladimir Vukašinović) Confrontation of Liturgical Theologies in Translations of Holy Liturgies into Serbian Language in the 20th Century(PDF) 知多半島の正教会の歴史石巻ハリストス正教会・聖使徒イオアン聖堂 p281, p282 「理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない」「理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。」 理性(νους)が邪悪な想いと結びついた時には理性は神との交わり"παρρησία"を失うと指摘した表信者(証聖者)聖マクシモス(東西両教会で聖人)を完全に無視(理性が悪に傾く可能性をマクシモスは認識している)。東西両教会についての違いは「皇帝教皇主義」と「使用言語」だ、くらいの認識しか橋爪氏にも大澤氏にもないから、そもそも理性についての認識で東西の間に差があるという教理関係の違いに一切踏み込めない。西方はラテン語だが東方はギリシャ語だ(これもシリア語を考慮していない間違い)と色々論じているのに、語彙に含まれる概念差が神学の見解に反映されている蓋然性について全く考慮していない。 ※ギリシャ語の"νους"(ヌース)は「心」「精神」「理性」と訳され多義的であり、ラテン語の"ratio"と一対一対応するものではない。ラテン語の"ratio"にはギリシャ語の"λογος"が対応するとする場合もある。いずれにせよ橋爪氏が「"νους"は考慮に入れず、あくまで"ratio"のみを考慮に入れた」のだとしたら、「西方教会では」もしくは「ラテン語圏では」の但し書きが必須であろう。 『哲学事典』p1074, p1462 - 1463, 1984 平凡社 加藤信朗『ギリシア哲学史』p18 - p19, 東京大学出版会 2001 『中世思想原典集成 (3)』p550, p556 上智大学中世思想研究所 西方教会(カトリック・聖公会・プロテスタント) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p253 大澤「日本人がキリスト教についてイメージするときに、どちらかというと中心にあるのは、カトリックですね。」 こういうことを言う割には、聖餐論も聖職者制度も含めてほぼ一切ローマカトリックの考え方は紹介されず、「煉獄」「免罪符」を巡っても完全な誤りを述べている(293頁)。大澤氏も橋爪氏もカトリックについて真剣に調べた形跡が無い。 p292 「カトリック教会は、聖書に書かれていないし公会議の正当な解釈でもない、根拠のあいまいな教会の伝承などに従って、聖人崇拝や煉獄の教えや免罪符の販売や告解や七つの秘蹟などを行ってきた。それらを、プロテスタントは認めません。」 まず単純に、告解(ゆるしの秘跡)は、七つの秘蹟の一つ(告解の他に七つあるのではない)。橋爪氏は用語一つ、辞典レベルの単純な語義すら確認していない。そもそもこの個所の前後は、宗教改革の文脈で述べられているとはいえ、聖人崇拝(そもそもこの用語も間違い。後述)・煉獄・免罪符の販売・告解・七つの秘蹟につき、「聖書に書かれていない」「公会議の正当な解釈でもない」「根拠のあいまいな教会の伝承」と断言するのは、あまりに中立的な観点を無視し切っているとの誹りは免れまい。せめて「 - カトリックでは聖書にも根拠があるとし、公会議で教理の確認をしていますが - 」「プロテスタントの視点から言えば」といった但し書きが、仮にも学者の書くものであれば必須であろう。また、「崇拝」と「崇敬」に繊細な使い分けをカトリック教会が行い、少なくともカトリック教会自身は「聖人崇拝」はしておらず「聖人崇敬」をしていると自己規定していることは、カトリックに批判的なプロテスタントですらも、認識していることである。「カトリックは聖人崇拝をしている」というのは、プロテスタントからカトリックを批判する際の言い方であって、カトリック自身はあくまで聖人を「崇敬」していると考える(「これも細かい間違い」ではない、カトリックとプロテスタントとの間での重要な論点となってきたタームである)。さらに、カトリック教会の七つの秘跡(サクラメント)のうち、二つ(洗礼・聖餐)は、(理解が違うとはいえ)礼典(サクラメント)としてプロテスタントも認めているのだが、この文章ではサクラメントの考え方すらプロテスタント全てに存在しないかのように誤解を招きかねない。なお橋爪氏の所属教派であるルター派も、二つ(洗礼・聖餐)は、礼典(サクラメント)として認めている。このように、橋爪氏はカトリック教会の基本的な事柄を抑えていないばかりか、プロテスタントからの(それも著しく通俗的で誤りも含んだ)カトリック批判のみを紹介しており、学者が書く入門書としては許されない偏向も際立っている。 七つの秘蹟 — カトリック鹿児島司教区CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Sacraments尊者・福者・聖人(カトリック中央協議会)What are the sacraments? - Evangelical Lutheran Church in America p293 「宗教改革のあと、いろいろ批判されて、(中略)煉獄とか免罪符とかの教義は(カトリック教会から)すべてなくなった」 煉獄の教えは現代カトリック教会にも健在。免罪符についてはそもそも「贖宥状」「免償符」という用語を使わない時点で、カトリック教会における位置付けをおそらく橋爪氏は把握していないと思われる。「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」もの。「免償」の教えも現代カトリック教会に健在。ルターはちゃんと意味を解っていた上で、その意味の上で批判したのだが、カトリック教会はその批判に同意しなかった。他方、正教会には「赦罪の後の償い」の考え方が元来、無い。つまり免償、煉獄を認めるか認めないかは、現代においてもなお「プロテスタント、カトリック、正教」の違いの代表例の一つなのだが、その「違いの代表例」が橋爪氏の中では宗教改革の時代に消滅しているらしい。橋爪氏が「『免償符』は今のカトリックには無い」という意味にも取れる言葉で言ったのならまだ良かったのだが、ハッキリと「煉獄とか免罪符とかの教義は」と言ってしまっているので、単純に誤りある記述となってしまった。なお、14刷では「煉獄とか免罪符とかの教義はすべてなくなったんだけど」が「免罪符の販売などもやめることにしたんだけど」と、訂正されていることも付言しておこう。 教皇ベネディクト十六世の254回目の一般謁見演説 第29回 「免罪符」のウソ(尾崎明夫神父の「みなさんちょっと聞きなはれ」中学3年生のための哲学入門より) 正教会とは:日本正教会 The Orthodox Church in Japan 科学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p309-315 大澤「自然科学というものは、やはりキリスト教の文化、とりわけプロテスタンティズムから生まれてきている。ぼくらが、今日、『自然科学』として理解しているような真理のシステムは、簡単にいえば、十六世紀から十七世紀にかけて西洋で起こった『科学革命』以降のものだと考えてよいと思います。…そして、その自然科学を生み出した科学革命は、実は時期的に宗教改革の時期とだいたい重なっています。そのうえ、科学革命の担い手となった学者…は、決して信仰心が浅いわけではない。いまはしばしば科学者が宗教批判を熱心にやりますが、科学革命の担い手は、むしろ熱心なキリスト教徒、しかもたいていプロテスタントでした」橋爪「自然科学がなぜ、キリスト教、とくにプロテスタントのあいだから出てきたか」大澤「同じキリスト教でも、東方正教からではなく、カトリックに反抗して出てきたプロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」橋爪「教会の権威に頼らず、自分の理性をたのむ点で、カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学的な考え方)を真剣に発展させて行きやすい」 「科学革命以降の知」が現代の自然科学的な考え方と同じであることが指摘され(310頁)、「プロテスタントから、自然科学的なものの考え方が出てきました」(313頁)と語られているが、その「科学革命」がまさにローマ・カトリックの律修司祭であるコペルニクスから始まった点で事実と異なっている(尤も、彼らが語る「科学革命」でどの研究者の定義する「科学革命」を指しているのか不明であるが。ここではバターフィールドの語る意味での科学革命を彼らが想定していると考え反論している)。(データを掲載していないのだから、根拠不明であるが)科学者にプロテスタントが多いとの主張が仮に正しいとしても、ローマ・カトリックにも多くの優れた科学者がいて、科学の発展に貢献したことを橋爪氏も大澤氏も無視してしまっているのではないか。なるほど、本書は新書であるから単純化は避けられないが、「科学革命」の主要な担い手であるコペルニクス、ケプラー、ガリレイ、ニュートンの4人の内、2人、つまりコペルニクスとガリレイ(橋爪氏は後者を「科学革命の担い手だったと言ってよいと思います」と評価している)がローマ・カトリック信徒であったことには言及すべきであったと思われる。更に、16世紀から17世紀における科学革命の担い手は「たいていプロテスタント」だった、とか、「カトリックよりはプロテスタントのほうがこれら(自然科学や数学)を真剣に発展させて行きやすい」、との主張は、何を根拠にして言っているのか不明である。たとえば、16-17世紀の科学者でありローマ・カトリックに属するキリスト者である、コペルニクスやガリレイ、マラン・メルセンヌ、デカルト、ピエール・ガッサンディ、パスカル、ニコラウス・ステノらによる科学に対する多大な貢献を考えてみよ。 キリスト教音楽 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p320 「教会で、ミサのときに、あんまりやることがない。そこで、時間つなぎに歌うことにした。それでグレゴリオ聖歌とかができたんですけど・・・」 問題外の記述。ミサ・礼典の意味はおろか、宗教音楽の歴史に対してまったく無知をさらけだしている。ユダヤ教の詩篇から歌っていたことは常識である。グレゴリオ聖歌の成立に関しても誤解以前の問題である CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Gregorian Chant p321 「プロテスタントは、宗教音楽を簡素にし」 橋爪氏はルター派の音楽家であるバッハの、たとえばマタイ受難曲(これは聖金曜日の晩課のために書かれたものである!)を聞いたことが無いのだろうか。「簡素にし」という表現で何を意味しているのか不明であるが、プロテスタントが宗教音楽を「飾り付けがなく、質素なものとした」という意味で語っているのであれば、特にルター派が音楽に与えた影響を捉えきれていない。「この世紀(注。16世紀)後半になると、コラール編曲はさらに充実したものとなり、とくにイタリアの技法を同化したハンス・レオ・ハスラー、ミヒャエル・プレトリウス(一五七一ころ-一六二一)らは大規模な器楽伴奏つきコラールを作曲している。偏狭なカルヴァン派とは対比的に、ルター派の音楽に対する開かれた態度は、この後のドイツ音楽の発展にはかりしれない好ましい影響を与えることになり、次代のハインリヒ・シュッツやヨハン・セバスティアン・バッハらのすぐれた宗教音楽作品を生み出す土壌を用意することとなった」(皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社学術文庫、2011年第2刷、195頁) マタイ受難曲皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』 キリスト教美術 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p321-322 「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」「プロテスタントの画家は仕方ないから静物画を描いたり、風景画を描いたりした」「絵画で風景画や風俗画,静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃」 まず「識字率が低かったので絵で見せるしかなかった」というのは中世初期のカトリック教会によるゲルマン人布教限定の説明。また、この説明では肖像画と宗教画を混同しており、プロテスタントは肖像画すら描けないことになる。また、静物画などが宗教画に劣らないジャンルになったのは16世紀頃、とあるが逆である。西洋絵画のジャンルヒエラルキーが構築されたのは17世紀のフランス・アカデミーとするのが一般的。また,風景画というジャンルに至ってはそもそも誕生したのが16世紀以降で,ルネサンスの頃は宗教画との区別が存在していない。また、「宗教画」というカテゴリは当時なく、神話画など他の最高位に置かれたものを含めて「歴史画」である。また、聖書の場面を描いたプロテスタントの画家も多い。レンブラントやフェルメール(注。フェルメールは結婚を機会にカトリックとなったと主張する研究者もいる。Johannes Vermeer’s influence and inspirationやessentialvermeer.com参照)など無数に存在する。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Ecclesiastical Art 静物画:現代美術用語辞典|美術館・アート情報 artscape 哲学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p281 「理性は、人間の精神のうち神と同型である部分、具体的には、数学・論理学のことなんです」 典拠不明の珍説。『哲学事典』(p1462, 1984 平凡社)によれば、理性とは「一般には見たり聞いたりする感覚的な能力に対して、概念によって思惟する能力をいう」。哲学事典を引かずとも、大辞泉に、一般的な語義、カント哲学における語義、ヘーゲル哲学における語義に至るまでが簡潔にまとめられて書かれている。橋爪氏による独自珍説を読むよりも、一般向けの辞典を読んだ方がはるかに無難であることが示されている。カトリック教会においても理性につき「数学・論理学のこと」といった語義は与えていない。スコラ哲学においては理性の働きはintellectusとratioとに分類され、intellectusはギリシア語のノエシスもしくはヌース(νους)の意味に、ratioは論証的な認識という意味で用いられた。※正教会においては理性について西方教会とは別の捉え方がされてきたことについては別項「東方教会」節において詳述してある。 大辞泉り‐せい【理性】『哲学事典』p1462, 1984 平凡社REASON (Lat. ratio, through French raison) (Originally appearing in Volume V22, Page 947 of the 1911 Encyclopedia Britannica)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Reason 言語 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p234-5 「イエスと十二人の弟子たちはヘブライ語(ないしは、昔の説だと、ヘブライ語の方言であるアラム語)を話していた」 イエスらがアラム語を話していた、というのは別に「昔の説」ではなく、現代でも多くの研究者が主張していることは、細かい指摘であるから置いておくにせよ、アラム語が「ヘブライ語の方言」であるとは誤り。ヘブライ語もアラム語も北西セム語派に属しているが、しかし前者は北西セム語派のカナン語群に、後者は北西セム語派のアラム語群に属する。従って、親戚関係にあるが、方言とは言えない。 左近義慈『ヒブル語入門』(新装版)教文館、2002年、p.2 キリスト教以外の宗教についての誤り(仏教、イスラームについての無理解) 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(仏教・神道・イスラムほか篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 総論 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p182 「「地獄」というものは、ありません。聖書には書いていない。火で焼かれる。」 「地獄は永遠か」という設問は古くからキリスト教で問われてきた問題ではあるし、「地獄」の意味についても諸説あるが、聖書には「地獄」の単語は書かれている(本当に聖書を読んだのか?)。訳語の問題はある。γέενναとᾍδηςにつき、正教会訳では両方「地獄」の漢字を当てるが(但しルビで訳し分けている)、他方、新改訳聖書はそれぞれ「ゲヘナ」「ハデス」と訳している(但し新改訳聖書を使用する諸教会が「地獄は無い」と主張しているわけではない)。橋爪氏は新改訳聖書しか読んでいないのかもしれないし、「『地獄』とは誤訳だ」と言いたいのかもしれない。しかしだとしたらきちんとそう言うべきだ。「聖書には無い」などと断言する前に、日本聖書協会訳の新共同訳聖書と口語訳聖書で検索をかけてみる事くらいは、学者としてやっておくべきではないか。 新共同訳聖書の「地獄」検索結果 口語訳聖書の「地獄」検索結果 p244, p246, p247 「まず聖霊は、使徒行伝に出てくる」(p. 244) 「でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる。ともかく、使徒行伝には聖霊の記述がある」(p. 246) 「なぜ聖霊が必要かというと、パウロの書簡を神の言葉(聖書)」にするためなんです」(p.247 彼の記述や論理だと聖霊が登場するのは使徒行伝が最初のようだが、使徒行伝が最初ではない。旧約では意見が分かれるが、ギリシャ語訳ユダヤ教聖書(いわゆる「70人訳聖書」)にも新約聖書と同じ単語で「聖霊αγιον πνευμα」が出てくる(詩51 13;イザ63 10,11;ダニ5 12;6 4etc)。(ヘブライ語からだと聖霊とは訳せないが。明らかに「聖霊」となる語を新約から探しても、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ 1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(ルカ 3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20.22)、その他ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15など。ヨハネ14 15-17,26, 16 5-15 は助け手(パラクレーシス)たる聖霊の役割についても詳しく言及されている。聖霊のこの役割に触れないのも不可解。あるいは不勉強。 新共同訳聖書の「聖霊」検索結果 口語訳聖書の「聖霊」検索結果 p291 「聖書が成立したあと、公会議で聖書の読み方(学説)を決めたが、それも含めて聖書と考える」 そのような聖書の定義をしている教派は無い。公会議で定められた信条は聖書に収められていない。教会が聖書の正典を定めたことを指しているのだろうか?聖書につきカトリックでは旧約46巻・新約27巻、計73巻編成の文書を正典とし(ウルガタ訳聖書の影響)、正教では旧約49巻、新約27巻を正典とし(70人訳ギリシア語聖書)、プロテスタントは旧約39巻、新約27巻、計66巻を正典とする(旧約をマソラ本文のあるものに限定したため)。また、その他の正典を定める教派もある。しかし、正典の編纂と考えてもおかしい。なぜなら、プロテスタントは公会議で聖書の正典を定めたわけではないからである。カトリックは「聖書と聖伝」とし、プロテスタントは「聖書のみ」(聖書自身が聖書であることを証する限りにおいて)、正教は「聖伝は聖書を含む」と考えるが(聖書も公会議も聖伝の構成要素)、「公会議で聖書の読み方を決めた」教派は無いし、「公会議の内容も含めて聖書とする」教派も無い。 教え-聖書:日本正教会 The Orthodox Church in Japan Holy Scripture In The Orthodox Church "The Bible" Compiled by Father Demetrios Serfes CATHOLIC ENCYCLOPEDIA The Bible Canon of the Old Testament Canon of the New Testament 旧約 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p17 「『メシア』はヘブライ語で、救世主という意味」 ヘブライ語での意味は「油つけられし者」(「メシア」のギリシャ語訳である「キリスト」も同様の意味)。「ヘブライ語で」などと言わず、「メシアとは救世主を意味するようになった単語です。」などという説明であれば正解だったが。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA MessiahХристос(Краткий церковнославянский словарь) p29 「たとえば、王妃のイザベラがバアル神を拝んだので、預言者エリヤがバアルの祭司四百五十人を殺害した事件(『列王記上』18章)は有名です」 どうしてイゼベラだけを取り上げるのか、理解に苦しむ。『列王記上』16章31節によれば、王アハブが「進んでバアルに仕え、これにひれ伏した」とある。そもそも、エリヤが「バアルの祭司四百五十人」を殺したのはイザベラがバアル神を拝んだから、というまとめは、読解力の欠如を疑わせる。もっとも、「風が吹けば桶屋が儲かる」というような理屈を理解しろと言うのであれば、話は別であるが。なお、ここで橋爪氏は「バアルの祭司」という言葉を用いているが、正確には「預言者」である。55頁及び109頁に見られる誤り(下記参照)のため、つまり、自説に都合良くするためにバアルの預言者という言葉遣いを避けたのであろう。 列王記上16 31列王記上18章 p33 「さて、ヤハウェにどうやって仕えるか。(中略)第一は、儀式を行う。牛や羊などの犠牲を献げるのですね。犠牲の献げ方にもいろいろあるが、特にヤハウェに献げる場合には、「全焼の供儀」といって、黒焼きにした。」 動物だけが捧げ物ではない。まるで他の祭儀は神に捧げていないかのような口ぶりだが、灌祭(ブドウ酒を捧げる)も素祭(種なしパンを捧げる)も神に献げられるもの(祭司は分け前にあずかるだけ)。 レビ記「素祭」検索結果 民数記「灌祭」検索結果」 p49-50 「ニネベはアッシリアの首都で、そんな異教徒の国のど真ん中で、ヤハウェの言葉を伝えるなんて、自殺行為です。ヨナは嫌だから、反対の方向に向い船に乗った」 確かにヨナは神の言葉に従わなかった。しかし、ニネベで「ヤハウェの言葉を伝える」のが「自殺行為」で、それが嫌だから逃げた、とは、ヨナ書の1章にもどこにも書かれていない。むしろ、4章2節から、神の命令通りにニネベの人びとに神による災いを伝えても、神が思い直し、結果として自分の預言活動が無駄になることが嫌で逃げた、と考えられよう。 ヨナ1章ヨナ4 2 p50 「でも、沖合に出たら大嵐になって、『こいつのせいだ』と、ヨナは海にほうりこまれた」 ヨナ書の記述と異なる。ヨナは自分から申し出て海にほうりこまれたのである。 ヨナ1:12 p50 「ヨナはニネベが破壊されるのを楽しみにしていたのです」 ヨナは「ニネベが破壊されるのを楽しみにしていた」、とはどこにも書かれていない。神が思い直したのが腹立たしいのである。他の箇所でもそうであるが、橋爪氏は聖書を勝手に書き換え、自分の理屈に合うように読む傾向がある。 ヨナ4 2 p50 「ヤハウェは、いや、私は悔い改めたニネベが栄えるのを見るのがうれしい、と答える。」 あまりに元の文章からかけ離れている。元は「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか。」(口語訳聖書ヨナ書4 11)「栄える」も「うれしい」も書いておらず、疑問文。ヨナ書は神からのヨナへの問いかけであるこの疑問文で終わっている(聖書に、神からの問いかけ・疑問文に人がどう答えたかを敢えて書かないことで、読者自らが自分の答えを出すことを期待していると、教派によって解釈し得る箇所が時々出てくる。)。「惜しむ」という単語は、直前でヨナが日よけのとうごまの木が枯れたことを惜しんでいることと対応している。この文章が重要なのは、「異邦人の人々」に神の配慮が行き届く信仰内容が示されているにとどまらず、「家畜」という動物にまで神の配慮が行き届くことが示されてもいることにもある。これらの意義が全く抜け落ちてしまう橋爪氏の紹介文は、もはや国語でいう要約の態をなしていない。 口語訳聖書ヨナ書4 11"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p1023, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p53 橋爪「ヤハウェは、ノアに語りかける。神の声を聞いたノアは、預言者みたいなものですが、ノアの一族以外の人びとは洪水で全滅していますから、人類の一部分に語りかけたわけではない。ノアの子孫が地上に拡がったあと、ヤハウェは今度は、アブラハムに語りかけた。人類の一部に語りかけたというのは、アブラハムが最初でしょ?」大澤「言われてみると確かにそうですね。」橋爪「これが、イスラエルの民(のちのユダヤ民族)の出発点になる。」 創世記4 6で、神はカインに語りかけている。さらにノアについても、まだ洪水の起きる前に話しかけているから(創世記6 13)、やはり「一部に」語りかけている。口語訳聖書で15頁にも満たない創世記の冒頭部分すら、橋爪氏も大澤氏も碌にチェックしていない。ちなみに「語りかけられた」だけでは神の民の出発点にはならないことは、カインがその後どうなったかを見れば明らか。こうして橋爪氏と大澤は、既に出発点の意義から、テーマとなっている一民族について理解していない。 創世記4 6創世記6 13 p54 「イスラエルの民は…エジプトに移り…人数が増えて六十万人にもなった。それが、モーセに率いられて、エジプトを脱出した」 正確には、エジプトを脱出した「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった」のである(出エ12 37。更に民11 21参照)。 出エジプト記12章37節民数記11章21節 p55 「モーセのあとにも、預言者が大勢現れ、ヤハウエはイスラエルの民に語りかけ続ける。アブラハムの子孫以外には、預言者が現れない。この意味で、彼らは、神に選ばれた民族なのです」 ユダヤ人以外でヤハウェから語りかけられた預言者として、バラムがいるので、誤り。 民数記22、23、24章 p68 「『ヨブ記』は、さっきの『ヨナ書』と同じく旧約聖書の「諸書」の一つです」 『ヨブ記』が「諸書」の一つであることは正しいが、『ヨナ書』は「後の預言者」に分類される。 和田幹男 プロテスタントとカトリックにおける旧約正典の比較 p69 「(ヨブは)友達もなくしてしまった」 批判した相手は友達ではない、と考えているのだろうか。個人的にそのように考えて振る舞うのは勝手だが、ヨブ記にあてはめるべきではない。ヨブを批判した三人が批判し終わった後でもヨブにとっては友人であり続けた、と考えられていることは、42章10節「ヨブが友人たちのために祈った」から明らか。 ヨブ42 10 p69 「わしはリヴァイアサンを鉤で引っかけて、やっつけたんだぞ。ビヒモス(ベヘモット)も退治した」 ヨブ記で神はそのようなことは言ってはいない。誰がリヴァイアサンを鉤で引っかけられるか」、「お前ヨブはベヘモットを捕らえられるか」とは語っているが。尤も、橋爪氏がヘブライ語からそのように読めると主張するのであれば話は別であるが(ヘブライ語からそのように理解するのは大変難しいが) ヨブ40章 p69 「ヤハウェも、ちょっとやりすぎたかなと反省した」 そのようなことはどこにも書かれていない。 (各自ヨブ記を読まれたし) p75 「エデンの園には、食べ物が十分にあって、働かなくていい」 創世記2章15節に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあるが、この「耕し」はヘブライ語で「働く」を意味する単語である(LXXでも同様)。エデンの園でも人間は働いていたのである。 創世記2章15節ヘブライ語版創世記ギリシャ語版創世記 p75 「この二つの樹の実を食べてはいけないよ、それ以外の実は食べてもいいけど、と言い置いて、神様は(楽園から)出て行ってしまうわけです。」 どこに「出て行った」というのか?そのようなことはどこにも書かれていない。「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→下記p76と、間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(神学篇)(p312) 創世記2章参照創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 p76 「で、神の留守に、蛇が出てくる。蛇はサタン。反対者ですね。イブに「知恵の実を食べてみないか、きっとおいしいよ」とそそのかす。」 「神の留守」「食べてみないかとそそのかす」そのようなことはどこにも書かれていない。蛇の誘惑はより狡猾なものであった。イブは自らの意思で食べたのである。またイブに勧められたアダムも、自分の意思で食べている。蛇は「食べたらどうだ」とは言っていない。この後、神からの問いかけに対して人が責任転嫁を行っていることが、神の前に罪を犯した人間の好ましくない有り様であると捉えることが、殊に正教会、カトリック教会における重要な告解理解に繋がるのであって、瑣末な間違いではない。ここも、「最強のキリスト教入門書」を謳うなら、聖書に書いていない橋爪氏による創作物語ではなく、(同箇所は短い文章なのだし)聖書をそのまま引用すべきだろう。なおここから先は「細かい間違い」かもしれないが、橋爪氏は「蛇はサタン。」と述べているが、そう捉えない教派・解釈例もあるので、特定教派もしくは特定思潮の立場をとらない書籍において簡単に断言してしまうのは、厳密には不適当もしくは偏向である。 創世記3章参照『旧約聖書略解』p14, 日本基督教団出版局, 1986年5月10日 40版"The Orthodox Study Bible Ancient Christianity Speaks to Today s World" p6, p8, Thomas Nelson Inc; annotated版 (2008/6/17) p80 大澤「だいたい、理由も言わずにただ」知恵の樹と生命の樹の実を「『食べてはいけない』なんて言われたら」(橋爪氏、これを否定せず) 理由は神によって語られている。「食べると必ず死んでしまう」からである(創世記2章17節及び3章3節参照) 創世記2章17節 3章3節 p84 大澤「ところが神については、逆で、『俺は神を見た』と言ってしまえば、それはほんものの神ではなくて、偶像になってしまいます。神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。預言者でさえも、たとえばモーセでさえも神をまともに見ていない」(橋爪氏、これを否定せず) 大澤氏が念頭に置いている聖書箇所は恐らく出エジプト記33章20節以下及びヨハネの福音書1書18節、ヨハネの手紙一4章12節などであろう。なるほど、出エジプト記33章20節には「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(新共同訳)とあり、モーセが見れたのは神の後ろ姿だけであったと述べられている。しかし、大澤氏(と恐らく橋爪氏)は出エジプト記33章11節に「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあることも、更に同書24章9節以下でモーセのみならず「アロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老」がイスラエルの神を見たと語られていることも無視している。更に言えば、創世記32章31節でヤコブも神を見たと語られている。士師記13章22節では、マノアとその妻が「神を見てしまった」ことが語られている(尤も、神とマノアが呼ぶ存在は、地の文では「神の御使い」と呼ばれているが)。案外と神を見た人間はいるのである。 出エジプト記33章11節以下、同24章9節以下、創世記32章31節、士師記13章22節 p93 「(契約の)箱には、金属の輪が四隅について、棒を通して担げるようになっている。その構造の詳しい説明が、旧約聖書の『レビ記』に載っています」 契約の箱の構造について詳しい説明があるのは、『レビ記』ではなく、『出エジプト記』の25章10節以下である。なお、どの刷からかは不明であるが、『出エジプト記』と修正されていることを付記しておこう。なるほど、誤った情報が正しい情報に訂正されたのは喜ばしいことではあるが、版を改めるではなく内容を修正するというのは、業界の慣習かもしれないが、問題であると思われる(これは著者にではなく、講談社に対する批判)。 出エジプト記25章 p100 「サラが亡くなったとき、墓地が必要になって、ブドウ畑の隅っこでいいから売って下さいと、(アブラハムは)地元民に交渉するのですが、なかなか売ってくれない。」「寄留民の土地所有は認められていなくて、墓地なら例外的に取得できたのです。ヤハウェに約束の地を与えられたというものの、実態はこんなものだった。そうやって苦労のすえ墓地を手に入れたと、いかにも自慢そうに『創世記』は記しています。」 そのようなことは創世記に書かれていない。むしろ「じゅうぶんな対価を払って」購入を希望するアブラハムに対し、地元民(ヘテびとエフロン)は「わたしはあの畑をあなたにさしあげます」と提案している(23章11節)。それに対してアブラハムは「代価を払います」と述べ、無償で譲渡されることを断わっている。そこでエフロンは畑の価格を「銀400シケル」と述べるが、ここでもエフロンは「売ります」とは言っておらず、とにかく「あなたの死人を葬りなさい」とだけ言っている。これに対し、アブラハムはエフロンに対して銀400シケルを量って渡し、無償譲渡の申し出を断って購入している。「『創世記』にはこう書かれているが、実態は某説によればこんなものだったろう」といった言い方なら場合によっては成立するかもしれないが、結局「自慢そうに『創世記』は記しています。」の文言で、単純な誤りになってしまった。他の個所でも同種の傾向を有するものがあるが、「アブラハムの寄留民としての実態はこんなもの」という橋爪氏の考える結論がまず先にあり、その結論に合わせて前提となる事実(記述内容)が捻じ曲げられているのが、この誤りの本質的問題である。 創世記23章 p109 「預言者。これは一神教にしか、考えられない存在です」 所謂「多神教」にも預言者がいたとは、たとえば列王記上18章などに明記されている(「バアルの預言者」「アシェラの預言者」)。なお、「バアルの預言者」「アシェラの預言者」という表現の「預言者」に当たるヘブライ語名詞は、ヤハウェの「預言者」を指す際に用いられるのと同じものである。 バアルの預言者アシェラの預言者 p146 『列王記下』4章42~44節では、エリシャが「わずかな食糧で」「百人を満腹させた」奇跡が語られていると橋爪氏は語る。 満腹したとは書かれておらず、「食べ残した」と書かれている。なるほど、満腹したから食べ残したのであろうが、エリシャの奇蹟はイエスの奇蹟との関連で言及されており、そのイエスの奇蹟では、人びとが食べ残した点に強調点が置かれている記事もあるのだから、正確に語るべきである。 列王記下4:43、44節及びマルコ8:19-21参照 p151 「イエスは、預言者として、活動した。預言者だと思った人が大勢いた。だから、「エリヤの再来」と言われたのです。ちなみに、預言者エリヤは、生きたまま天に上げられたと信じられたので(『列王記下』2章11節)、再来してもおかしくない」。 イエスは預言者と考えられていた、というのは福音書に記されているので(マルコ6章15節、8章28節等)、イエスを預言者と考えた人びとが実際にいたかもしれない。しかし、イエスは預言者として活動した、「だから」、エリヤの再来と言われた、という言葉は、「再来のエリヤ」思想を無視していると思われる。イエスをイザヤでもなくサムエルでもなくエリヤだとする考えの背後には、終末の直前にエリヤが再来するという思想があるからである(マラキ書3章1、23-24節、シラ書48章10節)。つまり、イエスは終末の接近を告知しており、それが終末直前に再来するエリヤという伝承を思い出させた、だからイエスを再来のエリヤと同一視した人がいた、と考えられるのである。預言者として活動したからではない。 マルコ6:158:28等マラキ3:1、23-24シラ48:10 p153p167 「イエス・キリストは『神の子』だ、という考え方です。…これはもう、ユダヤ教の考え方ではない」「ユダヤ教には、…神の子という考え方はなかったと思う」 創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節に「神の子」という表現が見られる。従って、イエスが神の子であるという主張はユダヤ教の考え方であってもよく、仮に問題があるとすれば、ユダヤ教の観点からイエスが神の子と言えるかどうかであろう。 新共同訳聖書「神の子」検索結果 p158 大澤「(人の子の)もうひとつのとらえ方として、聖書学の田川建三さんが次のようなことを書いていました」 この後に大澤氏が語るアラム語での「人の子」理解は、『イエスという男』(三一書房、1980年、333頁)からのものであり(引用元を書かないのは問題である)、田川氏の本からの要約引用にそれほど間違いは無い。しかし、田川氏は自身の「人の子」理解を「主としてC・コルペによる」と明記しているのだから、大澤氏はこの点まで引用しておく、あるいはC・コルペの研究に目を通し、C・コルペ氏の主張と語るべきであろう。 田川建三『イエスという男』三一書房、1980年 p158-9 大澤「『人の子』と言えばメシアのことだなというのは、当時のユダヤ教に精通している人たちには通じたんだと思うんですね。…、もちろんイエスは旧約聖書に精通しているわけだから、『人の子』と言えば、旧約聖書に由来する救世主という含みももちうることがわかっていたはずです」 「人の子」はイエスの生前のユダヤ教においてメシア的称号であったという学説に対しては、様々な批判が寄せられていることを考えれば、このように簡単には言えない。尤も、本書が新書であること、そして大澤氏も橋爪氏も聖書学者ではないことを考えれば、このような単純化はしょうがないかもしれない。 上村静「メシア的称号としての『人の子』の起源」『イエス―人と神と』関東神学ゼミナール、2005年、pp105-135 p188 「動物もひとつがいずつ箱舟に乗り込んで、助かった」 創世記7章3節に従って正確に言えば、「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつである 創世記7:3 p228 「カインは…弟のアベルを…刺し殺してしまった」 これは創世記4章8節のことであるが、そこでは「刺し殺した」とは書いていない。 創世記4:8 新約 当ページが容量オーバーになったため、別ページに分割→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(新約聖書篇)を参照 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
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ふしぎなふしぎな生きもの ふしぎなふしぎな生きもの アーティスト 岡崎体育 発売日 2020年12月23日 レーベル SME デイリー最高順位 2位(2020年12月26日) 週間最高順位 3位(2020年12月29日) 月間最高順位 8位(2020年12月) 上半期最高順位 33位(2021年) 初動売上 6521 累計売上 11821 収録内容 曲名 タイアップ 視聴 1 掟の歌 ポケットモンスター ココ 劇中歌 2 ココ 3 Show Window 4 森のハミング 5 ふしぎなふしぎな生きもの ポケットモンスター ココ 主題歌 6 ただいまとおかえり 7 ポーズ ポケットモンスター サン ムーン ED 8 ジャリボーイ・ジャリガール 9 キミの冒険 ポケットモンスター サン ムーン OP 10 心のノート ポケットモンスター サン ムーン ED ランキング 週 月日 順位 変動 週/月間枚数 累計枚数 1 12/29 3 新 6521 6521 2 21/1/5 4 1668 8189 2020年12月 8 新 8189 8189 3 1/12 8 ↓ 792 8981 4 1/19 11 ↓ 771 9752 5 1/26 ↓ 449 10201 6 2/2 431 10632 2021年1月 17 ↓ 2443 10632 7 2/9 ↑ 272 10904 8 2/16 ↑ 286 11190 9 2/23 ↓ 215 11405 10 3/2 220 11625 2021年2月 ↓ 993 11625 11 3/9 196 11821 劇場版ポケットモンスター 主題歌 前作ミュウツーの逆襲EVOLUTION ココ 次作 風といっしょに小林幸子&中川翔子 ふしぎなふしぎな生きものただいまとおかえり
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当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)に記述されている、聖書に関して発言された部分での膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、聖書篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者や読者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) 神学篇 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 聖書についての間違い 目次 1 総論 2 旧約 3 新約その1 新約その2 新約その2 (その1はこちら) 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p208 「福音とは、これを聞いている人は救われるという意味です」 「福音」とは元来、「良い知らせを持って来た使者に与えられるほうび」あるいは「そのような良い知らせを受けた時、神々にささげる供え物」あるいは「良い知らせそのもの」のことであり、それが所謂キリスト者によって、イエスが伝えたメッセージあるいはイエスに関するメッセージを指すために用いられるようになった。福音を聞いた結果救われる、と考えるキリスト者がいることは事実であるが、福音の意味は「これを聞いている人は救われるという意味」ではない。 W・バークレー『新約聖書のギリシア語』滝沢陽一訳、日本キリスト教団出版局、2009年、108頁以下 p231 「十二人も直接の弟子がいた」 「十二人も」と言うが、この十二人は数多いるイエスの弟子の中から選ばれたのであって(ルカ福音書6章12節では、はっきりとこう書かれている)、つまりイエスの弟子は十二人だけに限られない、と考えるのが適切であろう。例えば、ルカ福音書10章1節でイエスは十二人の「ほかに七十二人を任命し」とある。その他、十二人以外の弟子が現れる個所は福音書に多数ある。にも拘らず、イエスの弟子が12人だけというのが史実で、弟子が沢山いたという記事が史実を反映していないというならば、証拠を挙げて論じるべきであろう。 参考として、ルカ福音書において「弟子」が現れる個所 p232 「あるとき、パウロは、馬に乗ってエルサレムからダマスコに移動する最中、突然、イエス・キリストに『会って』しまう。目が視えなくなって馬から転がり落ちた」 パウロの所謂「回心」(或は「召命」)の物語は、使徒言行録9章1節以下、22章6節以下、26章12節以下に記されているが、「馬に乗って」いたとも、「馬から転がり落ちた」とも書かれていない。尤も、この場面を描く絵画等で馬から落馬しているパウロがしばしば描かれることから、古来よりそのように考えられていた、ということは指摘しておこう。しかし、パウロがダマスコ途上で復活のイエスを見ただろうことはほぼ確かだろうが(ガラ1:16-18参照)、この使徒言行録に収められている形でのパウロの回心/召命物語は、後代の創作である可能性が非常に高い、と一般に考えられているが、それはパウロ自身がこの出来事について詳細に語っていないからである。この点もここで指摘しておきたい。 使徒9章使徒22章使徒26章 p233 「パウロがなぜ手紙を書いたかというと、布教活動をしている最中に、拘禁状態になって、自由がなくなったんですけど、ローマの市民権を持っていたので、手紙が書けた。で、手紙をたくさん書いた。それがいくつか残っているのです。」 パウロの真正書簡の内、彼が獄中で書いた書簡、所謂「獄中書簡」は、『フィリピの信徒への手紙』と『フィレモンへの手紙』のみである。パウロは拘禁されていない時にも手紙を書いている。 サンパウロホームページ p234 「まず、十二人の弟子の能力があまりに低かった。ユダは、金銭の管理もまかされているし、ほかの連中よりも学があった。と言うか、他の連中は学がなさすぎた。シモン(ペテロ)がいちおう弟子たちのリーダーということになっているが、漁師とか、まあふつうの人びとですね」 何を根拠にこのように言っているのか、不明である。聖書ではシモン(とその兄弟アンデレ、そしてゼベダイの子ヤコブとヨハネ)が漁師であることは語られているが、その「能力」がどの程度であったかは語られていない。またマタイは徴税人であったのだから、金銭の計算には一定程度の職能を有していたと思われる。シモンが漁師であることに言及して「十二人はふつうの人びと」で、だから「能力があまりに低かった」と言う橋爪氏の主張は、職業差別ではないだろうか。 教皇ベネディクト十六世の55回目の一般謁見演説教皇ベネディクト十六世の64回目の一般謁見演説 p238 「キリスト教徒は扉を閉めてこっそり祈る。いつ祈るかは個人の勝手でわからない、というふうになっていました」 キリスト教の初期において、迫害を恐れたために扉を閉めてこっそり祈る人々もいただろう。しかし、「いつ祈るか」が「個人の勝手」とは意味不明である。これはキリスト者は個々人が自分の都合に合わせて祈っていた、という意味か。この想定が正しいとするならば、橋爪氏は、キリスト者は扉を閉めてこっそりと隠れて、それぞれの都合に合わせて祈っていたから、祈りの様子はおろか祈っているかどうかも分からない、と言いたいのだろう。しかしこれは誤りである。個人で祈ることももちろんあったが、初期の教会でも現在と同様に、集団での祈りがあったことは、例えばコリントの信徒への手紙一14章1節以下、使徒言行録1章14節に記されているし、祈っていることがキリスト者以外にも伝わることもあったことは、使徒言行録16章25節に記されているからである。なるほど、使徒言行録は史実を語っているとは言えないかもしれない。しかし、使徒言行録はまったくのフィクションではなく、ある程度史実を反映しているとも言えるだろうから、全くの間違いとして退けることもできまい。そもそも、使徒言行録がまったくのフィクションであり史実を反映していない、という見解は少数意見である。使徒言行録が史実に忠実ではない、ということと、史実を反映していない、ということは別問題である。 使徒1:14使徒16 25 p245 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと、もう預言者が現れることはできない。預言者は、イエス・キリストの出現を預言していたわけで、もう用済みだ」 「イエス・キリストが出番を終わって退場したあと」のパウロの時代にもまだ預言者が教会にいたことが、そして重視されていたことが『コリントの信徒への手紙一』12章28節以下から明らかである 『コリントの信徒への手紙一』に現れる預言者 p245-6 「聖霊がルートを変えなさいと教えてくれた。これはパウロの第六感かもしれないし、パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれたのかもしれない。こうしたはたらきがみな、聖霊です」 第六感が聖霊の働き、と言うのであればまだ分かるが、「パウロが関わっていた諜報機関の友人が情報をこっそり教えてくれた」のを聖霊の働き、というのは理解に苦しむ。これは人間の働きであろう。聖霊が「諜報機関の友人」に働きかけて、パウロに教えてくれた、という意味であると言うことか?それでは言葉が足りない。そもそも、パウロが関わっていた諜報機関とは意味不明であり、新約聖書にはそんな機関はどこにも書かれていない。 p246 「信徒が集まっているところには、私もいると思いなさい、とイエス・キリストが語っていた。でも、イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」 根拠不明。橋爪氏が語っているのはマタイ福音書18章20節であるが、ここの前後にもマタイ福音書の全てを見ても、「イエス・キリストはいなくて、代わりに聖霊がいる」、とは一言も語られていない。自説に都合の良いように聖書を書き換えてはいけない。 マタイ福音書18章20節 p247 「パウロは…復活のイエスとも会っていない。旅の途中で幻をみただけ」 例えばパウロは『コリントの信徒への手紙一』15章8節で、キリストが自分に現れた、とはっきりと語っている。 『コリントの信徒への手紙一』15章8節 p343 掲載されている主の祈りの「最終行(編者注。マタイ福音書では6章13節)は福音書にない、付加部分」 福音書にないのではなく、後代の付加である、というのが正しい。そもそも橋爪氏は日本語の主の祈りに続けてKJVのマタイ福音書6章9節以下の主の祈りを引用しているが、そこには「福音書にない、付加部分」と橋爪氏が呼ぶ個所が記されている("For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen")。これを橋爪氏あるいは大澤氏はどのように説明するのか。KJVに含まれているマタイ福音書は福音書ではない、と主張するのか。この橋爪氏あるいは大澤氏の説明を敷衍して考えると、KJVだけでなく、同様の箇所を含むルター訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになり、日本語の聖書の新改訳聖書などのマタイ福音書も福音書ではないことになる。 KJV版マタイ福音書 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)