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http //www.emaga.com/bn/?2009070076780410010270.3407 【チャンネル桜など公開質問状】NHKに対する質問と公開討論会の要請 平成21年7月24日 日本放送協会 会長 福地茂雄殿 NHKに対する質問と公開討論会の要請 貴日本放送協会(以下、NHK)が去る4月5日に放送した「NHKスペシャル シリーズ JAPANデビュー 第一回 アジアの“一等国”」に対し、放送直後から日本国内はもとより取材先の台湾においても様々な批判が巻き起こり、NHKにもこれまでにないほど多数の抗議が寄せられていることはNHK自身が認めているところである。NHK内においても経営委員会において、当該番組の放送法違反が問われる事態となっている。放送後3ヵ月以上経つというのに、内外の抗議の声は高まるばかりである。 台湾においても、抗議と訂正を求める声が巻き起こり、「美しく正しい日本語を台湾に残そう」という趣旨で活動している友愛グループの有志80名の連名により、6月20日付で「NHKへの抗議と訂正を要望」が提出された。この中には番組出演者である藍昭光氏も含まれている。また、当該番組出演者であるパイワン族の方々からも、誇り高いパイワン族の名誉を深く傷つける内容だったとして6月21日付の文書が送付されている。さらに、やはり当該番組出演者の柯徳三氏など6名からも「NHK番組『JAPAN・デビュー』に対する抗議と訂正を求める文書」が提出されている。つまり、ほとんどの台湾人出演者が、抗議や訂正を求めているのである。 6月25日には、日本裁判史上初となる8389人もの原告がNHKに対して損害賠償請求や慰謝料などを求めて東京地裁に提訴した。原告数は今も増え続け、7月23日には9700人を突破し、間もなく1万人に達しようとしている。 7月8日には千葉県議会が「公共放送たるNHKのこうした姿勢は、公正・公平・中立の観点から放送法違反の疑いも濃厚であり、到底容認できるものではない」として、内閣総理大臣と総務大臣宛の「日本放送協会(NHK)の偏向報道に関する調査と行政指導を求める意見書」を可決している。また、台湾において日本の伝統的な短歌を詠み続けている台湾歌壇の有志60名からも、7月15日付で「NHKの偏向番組に対して抗議し訂正を要求」という書面が提出された。 さて、そこでこれらの抗議や訂正を求める声を踏まえ、ここに抗議の意を込めて当該番組などに対する疑問を質問という形で問いたい。 1、NHKは、ホームページ6月17日公表の「説明」で「柯徳三さんや蒋松輝さんから抗議を受けているということはありません」と記していた。だが、その後、番組出演者である柯徳三氏らから「NHK番組『JAPAN・デビュー』に対する抗議と訂正を求める文書」が届けられている。また、同じく出演者であるパイワン族の方々からの抗議の意を込めた「質問状」も届けられている。2つとも7月22日ホームページ更新のはるか前に届いていた。ところが、7月22日公表の「説明・追加」では「『台湾・友愛グループ』など台湾の方たちから、抗議の文書を受け取りました」と記すのみで、番組出演者から抗議文を受けていることを明らかにしていない。そこで問う。 柯徳三氏らから上記文書を受け取っているのか。 受け取ったのはいつか。 ほとんどの台湾人出演者から、抗議と訂正の声が上がっている。この取材や放送は、台湾人出演者に対する「人権侵害」行為と考えるが、NHKはどう考えるか。 台湾人、パイワン人に対する「人権侵害行為」をどう処理するつもりか。 パイワン族の方々から上記文書を受け取ったのか。 受け取ったのはいつか。 なぜ番組出演者から、怒りの声や抗議文、訂正を求める文書を受け取っていることを公表しないのか。 事実関係が違い、名誉と誇りを傷つけられたとするパイワン族出演者の声に対して、これは人権問題だと考えるが、NHKはどうのように考えるか。 パイワン族出演者の「人権侵害」を起こした番組放送を謝罪し訂正するつもりはないか。 7月22日公表の「説明・追加」では「パイワン族の人たち自身が当時どう受け止め、感じたかということは、『人間動物園』の事実を左右するものではありません。こうしたことは台湾の方々にとっても心地よいことでないことはもちろんですが、番組は当時の状況の中でおきた事実としてあくまでも客観的に伝えたものです」と記している。この説明で、「パイワン族の人たち自身が当時どう受け止め、感じたかということは、『人間動物園』の事実を左右するものではありません」と述べているのは、NHKスタッフがパイワン族の人たち自身の独自の世界観、伝統文化によって「感じ方」や物事の判断をする「民族自決」を認めず、または尊重しようとしない態度であり、パイワン族の出演者のみならず、パイワン族全体の「名誉と誇り」を著しく傷つけ、それを尊重しない「差別」または「差別意識」からきている人権侵害の最たる物言いと考えるがいかがか。 この「差別」「人権侵害」の事実を認め、訂正謝罪するつもりはないか。 2、また6月17日に「抗議を受けているということはありません」と公表しながら、6月下旬に「ジャパンプロジェクト」の濱崎憲一ディレクターと田辺雅泰チーフ・プロデューサーは台湾を訪れ、柯徳三氏ら番組出演者に対して陳謝し、抗議文の撤回を求める「隠蔽工作」とも言える行為を為したという。その際、濱崎ディレクターは、自分の子供が「あれが濱崎の子供だ」等と言われて、身辺保護の必要から、警察に保護願いを出しているとも言ったという。そこで問う。 濱崎氏と田辺氏が訪台したことは事実か。 彼らが訪台したのはいつからいつまでか。 濱崎・田辺両氏以外に同行者はいたのか。 柯徳三氏らと会ったことは事実か。 柯徳三氏以外に会ったのは誰か。 柯徳三氏らに陳謝したのは事実か。 陳謝したとしたら、何について陳謝したのか。 柯徳三氏に抗議文の撤回を求めたのは事実か。 柯徳三氏以外に抗議文の撤回を求めた人物はいるのか。 濱崎氏の子供が「脅迫」めいた脅しにあっているのは事実か。 濱崎氏が、警察に保護願いを出しているのは事実か。 3、さらに、濱崎・田辺両氏が帰国した後で、屏東県の高士村に番組出演者などを訪問したNHK台湾支局員と名乗る人物が、パイワン族の方々が提出した「質問状」について、自分がNHKに届けると申し出たという。幸いにも「質問状」は提出した後だったので、その手に渡ることはなかったという。そこで問う。 NHK台湾支局員と名乗る人物が高士村を訪問したのは事実か。 いつ訪問したのか。 NHK台湾支局員とは誰か。 このNHK台湾支局員に同行者はいたのか パイワン族の誰と会ったのか。 自分がNHKに届けると申し出たというのは事実か。 4、当該番組では、パイワン族の方々が登場する場面で、「展示された青年の息子、許進貴さん」というナレーションとともに許進貴氏が写され、次に画面は右に移動し、女性の声による「悲しい」という日本語とともに、「そして娘の高許月さんです」というナレーションが流れる。そして、高許月妹さんがパイワン語で話す場面は字幕で「悲しいね。この出来事の重さ語りきれない」と映し出される。次に、画面は高許月妹さんを写したままで、男性の声による日本語で「悲しいね、語りきれないそうだ。悲しい、この重さね、話しきれないそうだ」との声が流れる。放送を見ていた視聴者は、先に息子の許進貴氏が写されたので、この男性の声は当然許進貴氏の声だと思って聞いていた。他に男性の映像はなかったからだ。ところが、7月22日公表された「説明・追加」によると、これは通訳の声であり、「許進貴さん、高許月さんの親戚にあたります」と説明している。しかし、番組ではこの声が通訳の声であるとの説明は一切ない。通訳を務めたと説明する方の名前も「資料提供」などの中にもない。そこで問う。 この通訳とは誰か。 なぜ字幕で通訳者の声であることを断らなかったのか。 通訳の方の名前を、なぜ「通訳」または「協力」または資料提供やコーディネーター等の名称で、番組終了時のスタッフタイトルで紹介しなかったのか。 通訳の方はこの兄妹の「親戚」という説明は事実なのか。 撮影はどこで行われたのか。許進貴さん、高許月妹さんの家で行われたのか。それとも「通訳」の家で行われたのか。「通訳」としたら、なぜ「通訳」の家で行われたのか。 通訳という役目ならギャラが支払われたはずだが、支払われたのか。 通訳のギャラは、パイワン人ということで「差別的」で不当に安いギャラではなかったのか。 「協力者」扱いの物によるプレゼントなどで、通訳としてのギャラを誤魔化すことは、パイワン族に対する差別の典型例となるが、物のプレゼントだけで誤魔化さなかったか。 1日の通訳ギャラはいくらで、何日間分支払われたのか。 通訳の名前をタイトルに入れなかったのは、パイワン人差別と考えられても仕方ないが、どのように考えるか。 5、当該番組では、パイワン族兄妹の妹の姓名を「高許月」と説明し、7月22日公表された「説明・追加」でも「高許月」としている。しかし、先に届けられたパイワン族の方々からの「質問状」では明らかに「高許月妹」と記している。日本文化チャンネル桜の取材でも「高許月妹」であることを確認している。そこで問う。 パイワン族兄妹の妹の姓名は「高許月」で間違いないのか。「高許月妹」ではないのか。 なぜ「高許月」と表示したのか。もしこの姓名の表示が間違っていたとしたら放送で、どのように謝罪・訂正を行うのか。 パイワン族高士村への取材は何日間だったのか。 このような出演者の名前すら間違い、通訳の名前もタイトルに入れない、このようなパイワン族に対する「人権侵害」ともいえる安易な取材と制作は、パイワン族をNHKこそ「人間動物園」とみるがごとき、無意識の「差別意識」からきていると考えられる。その点を訂正謝罪するつもりはないか。 パイワン族出演者とパイワン族全体の誇りと名誉を傷つけたことはパイワン人出演者からの文書でも明らかであり、このパイワン人の心を傷つけた「人権侵害」を謝罪するつもりはないのか。 6、最近になって、「NHK中国総局の男性職員が買春を行って北京の公安当局に拘束されたが、もみ消し工作を行って密かに帰国させたようだ」というNHK内部からの告発があったという。これについて「事実関係を問いただしたい」と放送した日本文化チャンネル桜の水島総代表取締役にはNHKの米本信・広報局長名で、「全くの事実無根」として抗議と謝罪・訂正を求める7月22日付の文書が届いている。当方には複数の同様の内部告発がされている。起こった事件の月日も、当事者の名前も特定されている。そこで改めて問う。 NHKは改めてこの「買春問題」を再調査してみるつもりはないか。 本年五月に中国総局において突然の人事異動はなかったのか。 日本文化チャンネル桜の番組では、内部告発の内容を説明し、こんなことがあるなら由々しきことだと述べ、公開質問状でNHKに問いただすと述べている。日本文化チャンネル桜に謝罪と訂正を行うつもりはないか。 以上、この質問に対する回答期限は7月31日までとする。 なお、先にNHKは、日本李登輝友の会からの公開討論会の要請に対して「番組内容が偏向していたり、事実関係に間違いがあるとは考えて」いないので「公開討論会」の要請には応じない旨を回答している。 だが、1万人近い原告団のNHKに対する集団訴訟やこれほど多くの抗議や疑問に対して、公共放送としてホームページなどで一方的に説明するだけではもはや済まなくなっている。まして台湾の出演者の抗議や訂正要求にも誠実に答えず、パイワン族の「名誉と誇り」を傷つけた差別と人権侵害は許しがたいものである。 そこで、ここに公開の場において当該番組を検証する討論会の開催を要請する。この要請に対する回答期限は7月31日までとする。 日本李登輝友の会会長 小田村四郎 「NHK『JAPANデビュー』」を考える国民の会代表 水島 総 草莽全国地方議員の会代表 松浦 芳子 台湾研究フォーラム会長 永山 英樹 【連絡先】日本李登輝友の会 〒113-0033 東京都文京区本郷2-36-9 西ビル2A TEL:03-3868-2111 FAX:03-3868-2101 NHKがチャンネル桜に抗議
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ゲ ー ム の 主 人 公 だ け が 旅 を し て な い か。 予 約 は 簡 単 楽 天 ト ラ ベ ル 楽 天 ト ラ ベ ル 【南台湾・駆け足旅】 第4話)第4話)南台湾B級グルメ 《南台湾旅行記|高雄|恆春|墾丁|鵝鑾鼻》 駆け足で巡った南台湾であるが、その中で出会ったB級グルメのいくつかを書き綴ってみたい。 ■カモ春雨(冬粉鴨) 恆春(ハンチュン)の街の名物のようで何店か鴨料理の大衆店があった。一番のお薦めというカモ春雨(冬粉鴨)を食べてみたが、鴨の旨味が春雨に沁み込み、香味野菜の薬味が味のしつこさを打ち消してめちゃくちゃうまい。値段も安くこれはお薦めである。 カモ春雨(冬粉鴨) ■火龍捲餅(レッド ドラゴンフルーツ ブリトー) 恆春で泊まった宿の目の前にユニークなご当地グルメを出す店を発見した。火龍捲餅と名付けられた料理で英語メニューには Dragon Fruit Burrito と記載されている。ドラゴンフルーツを食材として使い、その鮮やかな紅色をまとった皮生地でチキンを巻いた一品だ。生地は色合いだけでなくほのかな酸味もあり、具材の鶏肉とドラゴンフルーツを混ぜ込んだマヨネーズソースが良く合い美味であった。他で見たことのない独創的な料理なので、恆春に来たら味わってみて。 火龍捲餅(レッド ドラゴンフルーツ ブリトー) ■行列の出来るマンゴーシェイク屋台 恆春(ハンチュン)の夜市でやたら行列のできてるマンゴーシェイクの屋台を見つけた。フルーツ王国・台湾らしく、熟れた大量のマンゴーをその場で皮をむき、ジューサーで氷と共にシェイク。スタッフは仕込みのおじさんとジューサー担当のお姉さんの2人だけ。一瞬たりとも休まず手を動かしているため、次から次へと買い求めるお客とのお金の受け渡しができない。じゃどうやっているのか? そこで編み出されていたのが、設置費用ほぼ0円のセルフレジ!! マンゴーシェイク屋台と設置費用ほぼ0円のセルフレジ!! 売り場の片隅に100元札、10元玉、5元玉、の塊が入ったザルがある。客はそこに自分でお金を払い、勝手にお釣りを取っていくのだ!! 不届き者がいればチョロまかすことは簡単だが、そんなことをする輩はいない。売る側と買う側の信頼関係が見られて、微笑ましい光景であった ■「の」の字看板 台湾の街中を歩いていて奇妙なことに気がついた。屋台看板の漢字の中に日本語の「の」の時がやたら出てくるのだ。だからといってそこで書かれていることが日本語として成り立っているわけではない。なんでだ? 看板の中に突如現る「の」の字 もしかしたら、単に日本風の雰囲気を示すためだけの記号として「の」を挿入してないか? 例えば我々日本人がタイ文字の「ญ」とか「ไ」とか書かれていると、意味がわからなくてもそれはタイ風だと感じる。これと同じ心理で「の」の字を書き加えたのであろう。親日国台湾ならではの光景だ。 ■怪しい日本食 台湾には怪しい日本食が多い。特に屋台では得体の知れないものが多くあり、その代表は寿司であろう。和食では絶対ありえないどぎつい赤や青の魚卵系のネタや、エビフライが乗った、寿司と呼んでいいのかわからない寿司まで売られている。だがこれが列をなして人気なのだから理解不能に陥ってしまうが、わけのわからない日本料理屋台を巡るのもまた台湾B級グルメの醍醐味である。 怪しい寿司屋台だが、現地では人気だ そんな中でオイラが驚いたのは、たこ焼き屋台である。日本のたこ焼きといえば、一個のたこ焼きにタコの切り身が一つ入ってるのが普通である。が恆春(ハンチュン)の夜市で見かけたたこ焼き屋台は、一個のたこ焼きの中にタコが一匹まるまる入ってるのだ!! 一個のたこ焼きの中にタコが一匹まるまる入ってる もちろん入っているのはイイダコのような極小タコだが、それでも一個に一匹はスゴイ。残念なことにこの屋台を見つけたときは既に食事済みで、お腹一杯で食べられなかったことが悔やまれる。 (続く) もどる < 4 > つぎへ なんちゃって世界旅行-海外旅行記|中東|アフリカ|中南米|アジア|タイ|欧州|沖縄|離島 なんちゃって世界旅行ブログ-新着情報&雑談 var gaJsHost = (( https == document.location.protocol) ? https //ssl. http //www. ); document.write(unescape( %3Cscript src= + gaJsHost + google-analytics.com/ga.js type= text/javascript %3E%3C/script%3E )); try { var pageTracker = _gat._getTracker( UA-10108613-1 ); pageTracker._trackPageview(); } catch(err) {}
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更新日:2012-06-10 タイトル: ウェディング・バンケット 原 題: 喜宴/THE WEDDING BANQUET 製 作 年: 1993 製 作 国: 台湾/アメリカ ジャンル: ドラマ レ ス: ☆おすすめ!やおい映画☆ http //www2.bbspink.com/801/kako/979/979530199.html 117 名前: 風と木の名無しさん 「ウエディングバンケット」ベルリン映画祭金熊賞受賞作品。 アメリカに帰化した台湾人(主人公)と、アメリカ人青年のカップルが、 主人公の両親を安心せせるため、主人公と中国人女性が偽装結婚する話。 121 名前: 風と木の名無しさん 117 「ウェディングバンケット」は映画自体も、ほのぼのとして ラストはおとうさんにじんわり泣けて良かった。 監督も台湾系中国人の女性じゃなかったっけ。 121 名前: 風と木の名無しさん 121 アン・リー監督は男性です。かくいう私も「グリーンディスティニー」 の公開時まで女性だと思ってました。写真見て驚いた。 ジョン・ウー映画ファンの息子さんがいるそうな。 125 名前: 121 えっ、女性じゃなかったの? うお!それじゃあ男性があの映画をとったのか…… いかにも女性ならではの細かく優しい映画だと思ってたのに。 ありがとう 123 そう思ってもう一度見てみます。違った感慨がありそうだ(笑 308 名前: 風と木の名無しさん がいしゅつだが「ウェディング・バンケット」は おあずけされてて早くしたくて階段の途中から焦って あたふたしてる様子がよかった・・・。 ▲PAGETOP 今日: - 昨日: - 合計: -
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図説 台湾の歴史 第7章 日本統治時代――天子が代わった 1894年、甲午の年、清朝と日本の間で戦争が起こった。歴史にいう中日甲午戦争〔日清戦争〕である。それまで二十数年もの間、自強運動に傾注した中国は、この戦争で明治維新後の日本にいとも簡単に打ち破られてしまった。また、日本はひとたび戦って勝利するや否や、列強の仲間入りを果たしたのに対し、清国朝廷にすれぼ、アヘン戦争以来続く主権喪失という国辱の中でも、これはとりわけ重大な挫折であった。敗れた以上、和議を結ばざるを得ず、講和の代価は領土割譲と戦費賠償であった。 台湾、鄭成功がオランダ人の手中から奪い返し、「反清復明」基地としたこの辺境の小島は、1684年に清朝政府の領土に組み入れられた。そして乙未<いつび>の年(1895年)まで、清朝に隷属すること二百余年、漢人主体の多民族・多言語社会となっていた。それが中日の馬関〔下関〕談判で、甲午戦争の戦火から遠く離れたこの海上の孤島は、不幸にも日本への割譲が取り決められた。これが、台湾近代の悲劇の運命の起源であった。 下関条約は1895年4月17日に本州の西端、下関(別名、馬関)で締結された。下関は九州の門司とむかいあっており、当時は九州から東京に行くのに必ず経由する要地であった。ご存知のとおり、清朝政府は李鴻章<りこうしょう>を全権として対日講和に当たらせ、日本側の全権は伊藤博文であった。当時李鴻章は直隷総督で北洋大臣を兼ね、その権勢は一世風靡し、あたかも一国の宰相のごとき存在であった(清朝は制度上宰相を設けていない)。一方の伊藤博文は明治維新の功臣である上に、当時の内閣総理大臣でもあった 093 から、双方会談に臨むに当たってその権勢たるや好敵手であったと言える。長州藩出身の伊藤博文は、下関でもっとも有名な旅館であった春帆楼を会談の地に定めた。100年を経て、「蒼い海が桑の畑となる」喩えのように現在はすっかり様変わりをしているが、春帆楼は相変わらず営業を続けており、下関のきわめて貴重な「史跡旅館」として知られている。ただし当時の建物は第二次世界大戦の際に焼け落ちており、現在の綺麗な黄色の瓦をちりばめた建物は、十数年前に再建されたものである。春帆楼入口の右側には日清講和記念館があり、当時講和会議に使われた椅子や器具が保存され、観覧できるようになっている。 1902年、新しい教育方法の導入を提唱した清朝の呉汝綸<ごじょりん>が訪日し、教育制度を視察したついでに下関に立ち寄り、日本人の求めに応じて「傷心之地」という四文字を残し、当時新聞などで名筆と喧伝された。現代人も呉汝綸がこの字を書き残した時の沈欝な心情が理解できるであろう。1996年6月、筆者も調査研究の訪日の折に下関に立ち寄り、記念館で台湾の旅行団の列が出てくるのを見たことがあるが、彼らは皆、一様に茫然とした表情を浮かべており、まるでどう感じてよいのか、分からないようにも見えた。おそらくこの小さな旅行団だけの問題ではあるまい。思うにこれは、私たちが現在確実に直面している、どのように過去を感じ、どのように過去を見定めるのかという問題なのである。歴史というものに対する感受性の乏しい人は、おそらく後世の人を感動させるような歴史を描き出すことはできないのではなかろうか? 周知のごとく、やがて日本に割譲されたというニュースが伝わると、台湾の官民はこぞってこれに反対して立ち上がり、世論は沸騰した。条約が締結されてからというもの、台湾人の憤激は頂点に達した。台湾の官員や士紳は台湾を保持することを願い、敢えて利権をもって列強の支援を誘い出すことすらも拒まなかったが、すべては無駄であった。台湾の土紳・民衆は、何とかして天地を反転して旧に復すべく、最後の一筋の望みを「公 096 法」に訴え、国際的な同情を取り付けようとし、そこで5月23日に「台湾民主国」の成立を宣言、台湾巡撫唐景崧<とうけいすう>を総統に推挙して、年号を「永清」とし、「藍地黄虎旗」(青地に黄色の虎を象<かたど>った旗)を国旗と定めたのである。「台湾民主国」はアジアで初めての共和国であり※1、唐景崧は台湾民主国総統として全台湾の士紳・民衆に布告を発して言った。「本日を以て正式に決定し、台湾を改めて民主之国とする。国中の一切の新政は、必ずまず議院を開設し、議員を公挙すべきである」。すなわち厳然と近代議会政治を成立させようとする気概が見える。しかし台湾民主国の成立は、もともと便宜的な企てであり、唐景崧は続けてこうも言っている。「台湾は現在は独立国ではあるが、歴代皇帝陛下の旧恩を念頭に刻み、依然として謹んで臣服し、王朝の遥かな藩屏<はんぺい>となるのである。気脈を通ずることは、本土と変わりはない」。唐景崧は黒旗将軍劉永福を「台湾民主国大将軍」に任じ、新たな人事配置を行ったが、清朝が台湾の文武官に本国帰還を命じていたため、留任する者はほんの数人しかいなかった。 ※1 研究者によっては、榎本武揚などの「蝦夷共和国」をアジア初の共和国とする見解も存在する。 097 講和条約で台湾を得た日本であったが、実際に台湾全島を「領有」する過程は決して順調ではなく、前後およそ5ヶ月ほどを費やした。1895年5月24日、台湾総督兼軍司令官の海軍大将樺山資紀<かばやますけのり>は、広島宇品港から総督府の文武官員を率いて「横浜号」に乗り込み、南下して台湾及び周辺島嶼を接収した。台湾領有という目的を達成するために、近衛師団を派遣、5月29日に澳底<おうてい>から台湾に上陸した。増援部隊として混成第4旅団もまた7月に次々と台湾にやってきた。この他、比志島混成支隊は、3月24日、まだ談判中にすでに澎湖島を占拠していた。 武力によって台湾を領有しようとした日本は、至るところで台湾人民の頑強な抵抗に出会った。過去の戒厳令下の時代、日本植民地時代の歴史は、早期の武装抗日運動のみに偏重していたが、近年来の台湾史研究の重厚な発展によって、さまざまな主題を人々がすべて研究するようになり、官製「抗日史観」はもはや流行ではなくなった。現在では私たちも知っているように、領台〔台湾占領〕当初、進んで日本に協力した人もあれば、さらに「日本の明治の君を御主人とします」という旗を掲げて出迎えた人たちもいた。台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではないことは、明らかである。しかしながら、台湾内部の民族集団<エスニックグループ>(族群)や宗教の「分類」がどうであれ、あるいは何人かの士紳・商人階級が日本軍に協力したとはいえ、台湾の各地に、民衆が奮起して日本軍に抵抗したのは事実である。多くの死傷者を出し、流された血は川をなした、このことを否定し、消し去ることは決してできない。また今日の私たちが、これに続く日本の植民地統治をどのように評価するとしても、先人たちがこぞって立ち上がり外敵侵入に抵抗した事実をなおざりにすることはできない。 外敵に抵抗することは民族精神の根源となるものである。台湾割譲のニュースを伝え聞いた時、台湾民衆は自分たちの郷土を守るという素朴な思いから、古臭い武器を片手に近代的な軍隊に立ち向かった。仮に「その愚かさは救いがたかった」としても、一つの民族が追い求める独立自主の精神がそこにはあったのだ。言い換えれぼ、開城して敵を迎え入れた人は、もしそれによって社会から認められ、さらには羨望されることがあったと 099 しても、そのような民族は未来の危機を前にした時、きっと戦わずして降伏してしまいかねないのである。6月3日、日本軍は基隆を攻略、4日には唐景崧は慌てふためいて中国大陸へと帰ってしまった。6日、鹿港出身の辜顕栄<こけんえい>という無名の人物が日本軍と交渉し、台北の市民は皆、日本軍の到来を待ち望んでいると伝え、自ら案内役を買って出た。続いて李春生などの紳商と外国人居住者の委託を受けた外国人たちもやってきて、日本軍の入城を歓迎したのである。こうして6月7日には近衛師団が台北の城門に至り、戦わずして台北市内に進駐した。6月17日、樺山資紀がもとの巡撫衙門<がもん>の前の広場で「始政式」を行い、ここに台湾は正式に「天子(天命を受けた支配者)が代わった」こ 100 ととなった。この後、半世紀にわたって、6月17日はもっとも重要な祝日「始政記念日」となり、毎年、荘重盛大な祝賀行事が行われることとなった。 これに先立って、1895年の5月に、台湾の士紳と民衆は「台湾布告」を発表し「人々が皆戦死して台湾を失うことがあろうとも、手を拱換<こまね>いて台湾を譲り渡すことは決してしない」という誓いを立てた。指導者であった丘逢甲・林朝棟・林維源らの士紳が相次いで台湾を捨てて去ってしまったにもかかわらず、何人かの地方官や将校と無数の庶民たちは、逆に、死すとも投降せず、「台湾と存亡を共に」し、この孤島のために、賞賛すべき、そして涙せずにはおられない勇敢な戦いを歴史に刻んだのである。日本軍は台北から南進した時に、道々で抗日軍の勇敢な抵抗に出会い、双方は大嵙崁(大渓)、三角湧(三峡)、新竹、苗栗、彰化、斗六、嘉義など各地で激戦を繰り返した。なかでも八卦山の役では抗日軍は寡勢で大軍に立ち向かい、戦況は苛烈を極め、全台義勇軍統領・呉湯興、黒旗軍統領・呉彭年などは皆この戦で戦死したが、日本軍の方でも兵馬の疲労著しく、しばし 101 南進を停止せざるを得なかった。また大甫林(大林)の役では義勇軍が日本軍に大勝、失地を回復し、「日清開戦以来未曾有の出来事」となり、人心を大いに鼓舞したのであった。紙幅の関係もあり、ここでは先人による抗日の経過を詳しく書くことができない。簡単に言うと、中部の抗日は台湾府知府黎景嵩<れいけいすう>の率いる新楚軍と義勇軍が戦い、南部抗日では劉永福の黒旗軍が主力で義勇軍が脇を固めた。日本軍の近代的な最新兵器をもってしても、4ヶ月もの期間を費やしてようやく台北から台南まで到達することができた。ここに台湾人民の抵抗が激烈であったことを、皆さんも思いめぐらすことができるであろう。 近衛師団はこのような頑強な抵抗に遭遇したほか、台湾のいわゆる「瘴<しょう>病」(風土病)に苦しみ、戦力は大いに減少した。しかし10月になると、援軍が続々と到着し、混成第4旅団が10月10日には布袋口に、続いて第2師団が10月11日に枋寮<ほうりよう>に上陸した。そこで日本軍による南北中3方向からの挟み撃ちが開始され、10月中旬には3方面の軍が台南城を包囲攻撃する態勢が出来上がった。19日深夜、南部抗日の精神的支柱であった劉永福の率いた部隊は、軍服を脱ぎ捨てて変装し、台湾を離れ、翌日には厦門<アモイ>に到着した。21日、英国の宣教師バークレイと宋忠堅が、台南の紳商の委託を受けて日本軍を出迎え、日本軍は「平和裡」に台南市内に入城し、台湾全島の占領が完成した。 ここまでの過程を簡単に要約すると、台北と台南2城が戦わずに開城したのを除き、各地(後山=山岳地帯と東部を除く)ではすべて日本軍の侵入に激しく抵抗し、無数の死傷者を出している。日本軍を案内して無血入城させたことについて、以前から人民をさらなる塗炭の苦しみから免れさせたという言い方があった。結果論としては、このような言い方も正しいかもしれない。しかし開城して敵を迎え入れるこの行為は、果たして外敵との抗争に苦しむ人民のためを思っての大慈悲心によるものであったのか、それともあるいは自分の財産や生命に思いがあったのか、あるいは極言すれば、いちかばちかの大博打であったのか。文献を見わたしても語るものは少なく、憶測は敢えて避げておこう。ただ、無血入城を推進した彼らが、 102 勲章をつけた辜顕栄 辜顕栄の邸(現鹿港民俗文物館) 後に日本側から膨大な贈り物を受け、久しく密接な「協力」関係を続けていったことから見れば、少なくとも慈悲という宗教的な動機からではなかったことはほぼ確かであろう。台湾の統治者が替わる時に、無数の兵士が決然と立って敵に立ち向かい、生命を失ったことは、後の人びとから忘れ去られてしまった。これに対して、日本軍を台北城に導き入れた辜顕栄は、逆に一躍台湾の名家の仲間入りを果たし、その一生を栄華のうちに終え、現在その遺産は何代も後の子孫にまで及んでいる。辜一族は現在でも台湾の有数の名家に数えられていることは御覧のとおりであって、歴史を知る者はただただその皮肉に感嘆するほかない。 一個の民族が存続を求めるならば、必ずその強靭な独立自主の意志が不可欠である。世界の多くの国家が、外敵に低抗した人びとを今でも民族英雄として称<たた>えているのに対して、進んで敵に協力した人々を唾棄<だき>するのはそのためである。さもなくば、国家が存亡の危機に直面した時、ひたすら投降するしか道はなくなってしまう。権勢におもねることを蔑<さげす>み、気概と節義を尊ぶこと、これは民族の偉大さ、その風紀の貴賎に関わるものである。何人<なんぴと>たりとも、台湾が外敵の侵攻を受けた時に、人びとが我れ先に開城して歓迎する情況を見たくはないであろう。台湾社会の気風の衰落は、たやすく過去を忘れ、道に外れたやり方で富貴を得た人たちを羨ましがる傾向と関係しているのではないだろうか。 103 図説 台湾の歴史
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村名 最高投資金額 最高投資者 最終投資日 商団名 2番手【投資者(商団):金額】 3番手【投資者(商団):金額】 備考 雲林 1,400,000,000 悪魔将軍 1532年 5月12日 風林火山 苑裡 598,941,793 GreenHill 1539年 7月22日 w大笑w 嘉義 170,000,000 みろく 1537年 4月20日 w大笑w 花蓮 年月日 基隆 470,000,010 上原 聖子 1539年 7月11日 ‐夢氷月天‐ 宜蘭 441,531,518 周 夫人 1525年 2月15日 ----- 墾丁 607,809,140 hiduki 1529年 9月14日 蒼氷緋炎 新竹 1,002,957,334 漣 紅藍 1529年 1月 1日 笑傲江湖 蘇澳 164,424,097 孫・悟空 1520年11月16日 ----- 台中 1,011,200,628 ume34 1539年10月17日 帝国 台東 151,704,505 盗塁王 1522年12月22日 花火百景 台南 1,100,000,000 (*~▽~*)/ 1532年 7月24日 行灯屋 台北 1,000,000,000 kouzixyu 1534年 9月 5日 ばなな村 高雄 2,000,000,000 河上彦斎 1537年 2月 24日 ----- 淡水 300,000,000 伝之助 1536年 7月25日 ----- 大武 370,000,000 卑弥呼 1535年 4月 3日 吉祥達磨 桃園 年月日 豊原 400,000,000 絢音 1530年 8月13日 ~そよ風~ 南澳 295,000,003 マイにゃん 年 月 日 月奇峰 南投 2,105,000,000 萌汰橇 1534年11月28日 森羅万象 苗栗 300,000,000 あかねchan 1534年 8月18日 唯我独尊 屏東 303,031,447 マイにゃん 年月日 月奇峰 鳳林 220,000,000 不発花火 1525年 6月 4日 花火百景
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沖縄県に近い国だ。
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この項目では、韓国に関するスレッドを纏めています。 ■韓国 2007年、韓国10大ニュース(08-01-21) 韓国人の 80% 九九団を 4段まで覚えることができない.(08-01-26) 日本のTVドラマには朝鮮民族の悪者はいません・・・(08-01-29) 韓国のマスコミは最低だ(08-01-31) 日帝が作ったソウル大学が、韓国人だけの運営になったらレベルが急降下したのは何故ですか?(08-02-04) 韓国人が唯一日本と競えるのはスポーツだけ。しかし弱い・・・・・(08-02-08) カナダ人が作った韓国人の思考フローチャート(08-02-10) 醜い韓国マスコミ(08-02-12) 今日も狂ってる朝鮮日報(08-02-13) 韓国有名ホテルでの日本人に対するボッタクリを電凸で暴く…(08-02-13) 全世界が、韓国のモラル・常識に驚いた! 【世界のニュースで放送】(08-02-15) 韓国の休日は少なくなってる?(08-02-17) 茶を世界一飲まない国なのに、緑茶や茶道起源を主張する韓国(08-03-02) 韓国言論の特殊な事情(08-03-03) 韓国歴史上初めてG8サミットに参加(08-03-08) セウカンだけではない..韓国の衛生事情(08-03-18) 【衝撃】韓国人の言う「IQランキング」は朝鮮日報の捏造【再掲】(08-03-19) 全世界1万2千本のペニスの集大成データ発表 ― 標準は14~16センチだが、韓国だけ数値が異常に低いとの指摘(08-04-11) 【韓国人】バージニア銃乱射事件【忘れるなよ】(08-04-15) パラオのKBブリッジの施工は韓国では無い?~また韓国人が恥ずかしさのあまり捏造をしている。(08-05-10) ■文化 韓国人は、世界で有名な文化がないから他の国の文化の起源を主張するのか?(08-01-18) メ(◦_-)ソウルに行って来ました---その23---(08-01-25) 放火よりも、酷い韓国人(08-02-11) 例年行事になった文化財の放火。(08-02-11) 南大門焼失に対する、ネット掲示板2chの反応(08-02-11) だから、朝鮮日報は嫌われる。(08-02-13) 思う存分堪能してくれ。これが併合時の朝鮮の実態だ↓(08-02-29) ハングルもチマチョゴリも外国の真似(08-03-04) 【you tube】ドイツ・イギリス・オーストラリアで、韓国文化を非難する動画が乱立(08-03-12) 性売買輸出対局の韓国(08-05-06) ■対外評価 韓国の国際的信用(08-01-16) 中, 一番嫌やがる国 1位圧倒的に韓国指折って(08-01-16) イギリスで全く人気がない朝鮮(08-01-31) 世界で、全く人気の無い韓国w(08-02-03) 【イギリスBBC】世界から孤立している国がアジアに2カ国(08-02-16) 韓国人が全世界から嫌われている証拠(ソース付き)(08-02-16) 「韓国大好き」というオーストラリア女性。(08-02-19) 世界から愛される韓国(08-02-21) 韓国人が日本人の民度を語る(08-02-22) 台湾人にも馬鹿にされる韓国(08-03-14) 世界から嫌われる韓国人総合(08-03-15) ■民度・反日 韓国の反日感情が減ってしまった・・・(08-01-25 ) 指紋押捺と在日差別問題(08-02-01) 【真面目】 反中と嫌韓の違い(08-02-01) 在日差別と戦う姉と・・・姉を批判する帰化した弟(08-02-01) ベトナム人と韓国人の会話(08-02-27) 米国社会・・・「韓国人、お断り!」の風潮が広がる!(08-03-05) 台湾人と韓国人の会話(08-03-06) 今頃、こんなエチケット教育か? 民度以前の問題だろ(08-03-09) 【韓国高校の日本語教科書】(08-03-30) 報道漫画に見る韓国人のユーモアのセンス(08-04-09)
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テンプレ 基本的には21時スタート つまらなくてもレスしてください 寝落ちはデフォだから怒らないでね 本家 http //58.156.76.25 8080 @25 鏡 ┗http //58.156.76.25 8888 @50 / ヽ (●●) 川 フゴーフゴー ( ( ) ) 必殺★爆音ノーズブレス! おま指で配信していた時に「鼻息うるせぇwwww」と書かれ、鼻息と呼ばれるように / ヽ (●●) 川 フゴーフゴー ( ( ) ) 必殺★爆音ノーズブレス! こんなAAも貼られていた 専用スレ初実況は2007年5月4日の23時から5日の13時頃まで実況したDQ1,2,3を一晩でクリアする実況、バラモスを倒したところで巨人戦を見に行くためにギブアップした 大体いつも21時スタート しかし最近は飲みに行くことがふえたため未定になることが多い 特にDQシリーズがお気に入りで1~6は全部3回以上実況している 不思議と自宅警備員が集まりやすい 実況中にもかかわらず10分以上レスがないことも多く、スレが盛り上がるのは実況と関係ないことが話題の時が多い スレを立ててから30分レスが付かず自分で 2に書き込んで保守をしたことがあった。 DQ4の実況中に初めて寝落ちして以来、しばしば寝落ちすることが増えた 草野球チームに所属しているらしく、時々休みに試合があったりする ポジションは外野 夕食等を安価することも多く、松屋でお茶だけ飲んで帰ってきたこともある 2000円でチーズバーガー買えるだけの安価により、チーズバーガーだけを10個買ってきたこともある 実況が終わると、トップをねらえ!をよく垂れ流したりする メタボと呼ばれることもある 体重は87.5kgである コテをつけてるわけではないが、名前を持っている人が結構多い ほとんどはハンゲ実況の影響であるが、チャーハン氏、884氏は鼻息が命名 Balloがバグりやすい 漢字に弱く、時々わけのわからない読み方をしたりする ここ最近鼻息から寝息に改名しろという声がちらほら聞こえるほど寝オチする時が多い DQ4を初実況したときに本気でTHEENDをザ・エンドと読み、それ以来ゲームクリアの時のお約束となった 以前DQ3をプレイしていたときに、やけに人数が多いと思ったら、なぜかおま指の番組表の中に組み込まれていたことがあった 一時期縛りプレイをすることが多くあり、FCDQ2緑無しクリア、FCDQ3勇者一人旅クリア、DQ6職業無し縛りクリアなどを達成した 1月19日19時から20日23時にかけての約29時間かけてDQ1,2,3,4寝ずにクリアを達成! 今までに無いほどの盛り上がりを見せる。しかも4クリア後に5主人公の名前安価を出し、プレイを始めるというなんとも漢な一面を見せる 1月23日18時46分、「ぬるぽ」という発言を最後に消息を絶つ。 が、その後規制され19時頃から配信を始めたが、開始の合図の書き込みができず2時間半ほど誰にも気がついてくれなかった 実は19 30頃一人だけ視聴した人がおり、「『規制中で書き込みができないから配信開始してる』を書き込んでください!!!1」と訴えるも必死すぎて生理的に受け付けなかったらしく、たった一人の視聴者に逃げられた。 2008年2月3日午後7時より、ついに鼻息OFFが開催された! 某駅南口の白木屋に合言葉「警備会社JK」で入店した鼻息の下に駆けつけたのはなんと・・・たった1人ww (日曜の夜にOFFをしても人が集まるわけが無いが・・・) その後9時頃まで飲んで、鼻息宅で鼻息実況史上初の二人実況である鼻息&社員実況が行われた!このときのスレの内容はホモネタばかりであったw 鼻息&社員実況の際にDQ7が初フリーズを起こしたせいか、最近はハルヒに逃避気味である 2月6日0時15~30分、実況開始15分寝落ちという快挙。 自己新記録を更新した マイクを新しくしたために鼻息の鼻息たる所以である鼻息の音が聞こえにくくなった 実況したソフト一覧 DQ1~8 FC1~4 FF1~6,10 クロノトリガー パワプロ3,9,11,14 パワメジャ ハンゲーム ときめきメモリアル Gジェネレーション魂 スペースエース 涼宮ハルヒの戸惑 3days ビリーズブートキャンプ 非常にマターリとしていて個人的には居心地がよい
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台湾球界から2000年に西武に移籍し、入団した、来日してからすでに10年以上たっている台湾人投手。 来日1年目からローテーションを守り、2年目の2001年には最優秀防御率のタイトルまで後一歩のところまでという好成績を収めた。その後もローテーション投手として投げていたが、5年目以降より打ちこまれるようになり、外国人登録の影響もあり出番が少なくなっていった。 長期期間低迷していたが、2009年に復活の足掛かりをつかむと2010年には8年ぶりに100イニング以上投げる。2011年には中継ぎに回り、セットアッパーとして素晴らしい成績を収めた。 キャリアハイと言ってもいい成績を収めた2011年のオフにこの年取得したばかりの国内FA権を行使し、オリックスに入団。国内FA権を取得したため、2012年度から日本人登録となる。 中継ぎの層を厚くするために多いな期待をされたが、開幕時から試合を壊してしまい、4月の防御率が10点台を越えるなど期待を大きく裏切る投球に終始したシーズンとなってしまった。 2013年は2軍で開幕を迎え、5月に一旦は1軍昇格を告げられたが、日程の都合で1軍に上がることはなかった。このことが影響したのかは定かではないが、6月に1軍登録をされるも敗戦濃厚の場面で大炎上。この試合限りで2軍落ちし、以降は1軍登録されることなくシーズン終了。契約期間満了ということもあり、自由契約となりオリックスを退団した。 2014年からは台湾球界に復帰している。 プレースタイル 球速は速くなく、スライダーやシュート、カットボールなどの多彩な変化球を用いて打たせて取るピッチャーである。奪三振数は少なく、制球力にはあまり優れておらず、それが長期期間の低迷につながったという見方ができる。