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特色 [編集] 中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い[1]。 遣唐使の停止 [編集] 以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。しかし、遣唐使廃止後も対外交流は盛んで中国の文物は多く日本に流入していた。そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。 浄土教の流行 [編集] 末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。 女房文学の発達 [編集] 藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。 かな文字の使用 [編集] 奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。(ひらがなを参照) 文学 [編集] 詩歌 [編集] * 古今和歌集:延喜5年(905年)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。 * 和漢朗詠集:寛仁2年(1018年)頃に藤原公任が編集した漢詩集。 物語 [編集] * 竹取物語:現存する最古の仮名の物語。 * 伊勢物語:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。 * 宇津保物語:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。 * 落窪物語:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。 * 源氏物語:王朝物語の最高傑作。 日記・随筆 [編集] * 土佐日記:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。 * 蜻蛉日記:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。 * 和泉式部日記:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。 * 紫式部日記:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。 * 枕草子:清少納言の随筆。鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。 * 更級日記:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。 * 小右記:藤原実資の日記。(漢文) * 御堂関白記:藤原道長の日記。 その他 [編集] * 倭名類聚抄:源順が編纂した日本最初の百科事典。 * 六歌仙:在原業平 小野小町 僧正遍昭 喜撰法師 文屋康秀 大友黒主を総称して六歌仙と言う。 服装 [編集] 湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。 男性用 * 衣冠 * 束帯 * 直衣 * 狩衣 女性用 * 十二単 * 細長 楽器 [編集] * 和琴 宗教 [編集] * 御霊信仰 * 陰陽道 * 本地垂迹説 建築 [編集] 平等院鳳凰堂 醍醐寺五重塔 貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。平等院にはその影響が見られる。 仏教建築としては浄土教の影響を受けた阿弥陀堂が多く建立された。 * 法成寺無量寿院:寛仁4年(1020年)に藤原道長が建立。現存せず。 * 平等院鳳凰堂:天喜元年(1053年)に藤原頼通が建立。 * 法界寺阿弥陀堂:永承5年(1050年)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。 阿弥陀堂以外の建築としては天暦5年(951年)建立の醍醐寺五重塔が知られる。 彫刻 [編集] 阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる寄木造の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが定朝である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。 * 平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品。 * 法界寺阿弥陀如来像 * 平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像 絵画 [編集] 平等院壁画 大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では来迎図がよく描かれた。 * 高野山 涅槃図(ACE1086) * 高野山 聖衆来迎図 * 東寺 十二天(ACE1127) * 東京国立博物館 普賢菩薩像 * 平等院鳳凰堂扉絵(ACE1053年前後) * 京都国立博物館 山水屏風 * 源氏物語絵巻(平家時代または院政期) * 信貴山縁起(院政期) * 伴大納言絵巻(院政期) * 鳥獣人物戯画甲乙巻(院政期)[2] 書道 [編集] 小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。 工芸 [編集] 刀剣 [編集] 日本刀の様式(鎬造・湾刀)の確立期である。 * 三条宗近(三日月宗近) * 小烏丸(天国) * 備前国友成 * 童子切安綱(安綱) 蒔絵 [編集] 奈良時代に日本で考案された蒔絵の技法が大きく発展した。 参照 [編集] 1. ^ 後世から、「日本文化」の「有職故実」の「正統な源流」とされる。実際、古代の「聖徳太子」・「大化の改新」・「壬申の乱」を描いた絵巻物では、「太子」や「蘇我入鹿」らの装いは平安時代の正装である「衣冠束帯」であり、大鎧を着、太刀を揮って中世さながらの合戦をしている。古代の実像が明らかとなったのは、永く続いた中世(「乱世」)が落ち着いた近世・江戸時代の中期で古文辞学(古学)・歌学・国学・陵墓研究が盛んになった時代以降のことである。 2. ^ 鳥獣人物戯画は4巻のうち2巻が鎌倉時代の作とされる。 関連項目 [編集] * 平安時代 * 日本の文化 * 日本の中古文学史 * 王朝国家・摂関政治 * 菅原道真 * 延喜・天暦の治 参照:ウィキペディア「国風文化」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96 古布専門店 はてな 東京都立川市高松町3-30-24 古布 / 吊るし雛
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特色 [編集] 中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風(和風・倭風)文化と呼んでいる。現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多い[1]。 遣唐使の停止 [編集] 以前は寛平6年(894年)の遣唐使停止により中国の直接的影響を抜け出し、日本独自の文化が発展したと一般的に解釈されてきた。しかし、遣唐使廃止後も対外交流は盛んで中国の文物は多く日本に流入していた。そのため、遣唐使停止を国風文化の画期とすることは誤りである。そもそも、唐風の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情である「国風(くにぶり)」を重視する傾向は奈良時代から進行していた。すなわち、遣唐使停止は日本文化の国風化を加速させる要因であったとみることが適当である。 浄土教の流行 [編集] 末法思想を背景に浄土教(浄土信仰)が流行した。9世紀前半に円仁が中国五台山の念仏三昧法を比叡山に伝えており、源信が『往生要集』を著して天台浄土教を大成した。また空也は庶民に対しても浄土教を広め、市の聖と呼ばれた。浄土信仰は京の貴族に深く浸透し、国風文化の仏教建築、仏像、絵画などにその影響を残した。 女房文学の発達 [編集] 藤原氏(藤原北家)による摂関政治は、外戚政策(天皇家に子女を入内させ、その子を天皇として外祖父となり権力を握ること)に立脚するものだった。藤原氏は子女を入内させると天皇の歓心を得るために有能な女性を選抜し、女房として近侍させた。女房は受領階級などの中級貴族の子女が多く、中級貴族たちは藤原氏に取り入るべく子女の教育に努力を惜しまなかった。そのため、清少納言や紫式部など多くの女流作家が生まれることとなった。 かな文字の使用 [編集] 奈良時代から日本語を表記するため漢字の音訓を借りた万葉仮名が使われていたが、この時代になって仮名文字(ひらがな、カタカナ)が広く使われるようになった。カタカナは漢字の一部に由来し(例:伊→イ)、漢文を訓読する際の補助文字として使われた。また、ひらがなは漢字の草書体を元にしたもので(安→あ)主に女性が用い始めた。紀貫之が書いた『古今和歌集』の「仮名序」は、漢文の用法を遺しながらも平仮名で書かれた和文として初期のものである。(ひらがなを参照) 文学 [編集] 詩歌 [編集] * 古今和歌集:延喜5年(905年)に醍醐天皇が紀貫之、紀友則、凡河内躬恒、壬生忠岑等に編纂を命じて出来た最初の勅撰和歌集。 * 和漢朗詠集:寛仁2年(1018年)頃に藤原公任が編集した漢詩集。 物語 [編集] * 竹取物語:現存する最古の仮名の物語。 * 伊勢物語:在原業平を主人公にしたといわれている歌物語。 * 宇津保物語:遣唐副使・清原俊蔭とその子孫を主人公とした物語。 * 落窪物語:継子いじめに苦しむ姫が貴公子と結婚して幸せになるまでを描いた物語。 * 源氏物語:王朝物語の最高傑作。 日記・随筆 [編集] * 土佐日記:紀貫之が土佐守の任務を終えて帰る旅の途中のことを女性を装って平仮名で書いている。 * 蜻蛉日記:藤原道綱母が夫藤原兼家との生活の不満を綴った日記。 * 和泉式部日記:和泉式部が自らの恋愛について綴った日記。 * 紫式部日記:紫式部が宮中に仕えている時の事を綴った日記。 * 枕草子:清少納言の随筆。鴨長明の『方丈記』、吉田兼好の『徒然草』と並んで日本三大随筆と称される。 * 更級日記:菅原孝標女が自分の人生を自伝的に綴った回想録。 * 小右記:藤原実資の日記。(漢文) * 御堂関白記:藤原道長の日記。 その他 [編集] * 倭名類聚抄:源順が編纂した日本最初の百科事典。 * 六歌仙:在原業平 小野小町 僧正遍昭 喜撰法師 文屋康秀 大友黒主を総称して六歌仙と言う。 服装 [編集] 湿度の高い気候に適応するため、袖口が広くなるなど風通しの良いゆったりとしたシルエットになった。 男性用 * 衣冠 * 束帯 * 直衣 * 狩衣 女性用 * 十二単 * 細長 楽器 [編集] * 和琴 宗教 [編集] * 御霊信仰 * 陰陽道 * 本地垂迹説 建築 [編集] 平等院鳳凰堂 醍醐寺五重塔 貴族住宅が寝殿造の様式で建てられた。平等院にはその影響が見られる。 仏教建築としては浄土教の影響を受けた阿弥陀堂が多く建立された。 * 法成寺無量寿院:寛仁4年(1020年)に藤原道長が建立。現存せず。 * 平等院鳳凰堂:天喜元年(1053年)に藤原頼通が建立。 * 法界寺阿弥陀堂:永承5年(1050年)頃、日野資業が自分の別荘を寺にしたもの。承久の乱で焼失し、再建。 阿弥陀堂以外の建築としては天暦5年(951年)建立の醍醐寺五重塔が知られる。 彫刻 [編集] 阿弥陀如来像を大量生産するため、分けて造った部品を組み立てる寄木造の技法が用いられた。この技法を完成させたとされるのが定朝である。彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔に細い目の穏やかで瞑想的な表情が特徴で、こうした仏像を定朝様式と呼ぶ。 * 平等院鳳凰堂阿弥陀如来像:定朝作で唯一現存する作品。 * 法界寺阿弥陀如来像 * 平等院鳳凰堂雲中供養菩薩像 絵画 [編集] 平等院壁画 大和絵と呼ばれる日本的な絵画が発達し、仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画(山水屏風など)や壁画(平等院鳳凰堂扉絵など)が描かれたが仏教絵画を除いて少数しか現存していない。また、多くの物語絵(冊子または絵巻物)が制作されたことが推測されているが、11世紀末以前に制作された作品は現存していない。 仏教絵画では来迎図がよく描かれた。 * 高野山 涅槃図(ACE1086) * 高野山 聖衆来迎図 * 東寺 十二天(ACE1127) * 東京国立博物館 普賢菩薩像 * 平等院鳳凰堂扉絵(ACE1053年前後) * 京都国立博物館 山水屏風 * 源氏物語絵巻(平家時代または院政期) * 信貴山縁起(院政期) * 伴大納言絵巻(院政期) * 鳥獣人物戯画甲乙巻(院政期)[2] 書道 [編集] 小野道風・藤原佐理・藤原行成が三蹟と呼ばれた。11世紀にはかな書道の古典とされる高野切が制作され、12世紀まで多様なかなの書風が展開した。 工芸 [編集] 刀剣 [編集] 日本刀の様式(鎬造・湾刀)の確立期である。 * 三条宗近(三日月宗近) * 小烏丸(天国) * 備前国友成 * 童子切安綱(安綱) 蒔絵 [編集] 奈良時代に日本で考案された蒔絵の技法が大きく発展した。 参照 [編集] 1. ^ 後世から、「日本文化」の「有職故実」の「正統な源流」とされる。実際、古代の「聖徳太子」・「大化の改新」・「壬申の乱」を描いた絵巻物では、「太子」や「蘇我入鹿」らの装いは平安時代の正装である「衣冠束帯」であり、大鎧を着、太刀を揮って中世さながらの合戦をしている。古代の実像が明らかとなったのは、永く続いた中世(「乱世」)が落ち着いた近世・江戸時代の中期で古文辞学(古学)・歌学・国学・陵墓研究が盛んになった時代以降のことである。 2. ^ 鳥獣人物戯画は4巻のうち2巻が鎌倉時代の作とされる。 関連項目 [編集] * 平安時代 * 日本の文化 * 日本の中古文学史 * 王朝国家・摂関政治 * 菅原道真 * 延喜・天暦の治 参照:ウィキペディア「国風文化」より http //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96 榎本劍修堂 / 劒人倶楽部 埼玉県さいたま市見沼区大谷399 剣道具 通販 / 竹刀 通販
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関係あるとみられるもの 桜花之恋塚 ~ Japanese Flower 住所 恋塚寺 下鳥羽城ノ越町132 京阪本線・近鉄京都線「丹波橋」より徒歩25分 京都市バス19, 南3系統「下鳥羽城之越町」より徒歩2分 京都市バス19, 22, 南3系統「国道下鳥羽」より徒歩5分 恋塚浄禅寺 上鳥羽岩ノ本町93 近鉄京都線・地下鉄烏丸線「竹田」より徒歩20分 京都市バス18系統「地蔵前」より徒歩すぐ 京都市バス19系統「鳥羽大橋北詰」より徒歩5分 恋塚 京都・鳥羽にはふたつの恋塚が存在する。 平安末期に北面の武士・遠藤盛遠は源渡の妻・袈裟御前に横恋慕し、源渡を殺し袈裟御前を我が物にしようとした。 それを知った袈裟御前は夫の身代わりとなって盛遠に殺されてしまう。この事実を知った盛遠は罪を悔いて出家し、名を文覚と改めた。 袈裟御前を供養するために作られたのが恋塚とされる。 恋塚寺 浄土宗。袈裟御前の菩提を弔うため墓を設けたのが恋塚寺の起りといわれる。 本堂には本尊阿弥陀如来像のほかに袈裟御前、源渡、文覚上人3名の木像が安置される。 境内には袈裟御前の墓と伝わる石塔が建てられている。 恋塚浄禅寺 浄土宗西山禅林寺派。京の六地蔵巡りのひとつ。 1647年、永井直清が林羅山に撰させ、袈裟御前の貞女を顕彰した碑が境内に建てられた。 観音堂には9~10世紀ごろと推定される十一面観世音菩薩(市指定文化財)が祀られている。 こちらの恋塚も袈裟御前にまつわるものだが、「京都名所図絵」によれば鯉の怪物を供養した"鯉塚"が転じたものだという。 名前
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今日はアイプロ鎌倉編にちなんで、大仏についてご紹介しようかなと思います!鎌倉の大仏といえば高徳院のる阿弥陀如来像ですねっ。実はこの高徳院は誰が開いたかは不明で、大仏造像についても資料が残っておらず不明なんです。 また、もう一つ有名な大仏といえば奈良県奈良市の東大寺にある盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)、通称奈良の大仏ですね。画像URL。743年の聖武天皇の命によりおよそ4500億円を掛けて作られたもので、天平文化を代表する貴重なものです。 この二つが有名な大仏で、国宝に指定されています。さて、かつてはこの二つの大仏に付け加えてもう一つをあわせて日本三大仏像と呼ばれていた仏像がありました。それが京都府方広寺の「京の大仏」だったのですが、落雷により消失してしまいました……。 その後、兵庫県能福寺の「兵庫大仏」が三大仏像と呼ばれたのですが、太平洋戦争中の金属回収令により回収されてしまい、大きさや歴史的経緯で奈良の大仏と鎌倉の大仏に並ぶ大仏はなくなってしまい、日本三大仏像の一席は空席のままになっています。 そもそも、大仏って大きな仏と書きますが、特に何m以上でないと大仏とは言えないという決まりはないそうです。ちなみに日本最大の仏像は茨城県牛久浄苑の牛久大仏です。全長120mで、ブロンズ立像としては世界最大で、自由の女神の3倍近い大きさなんです。 また、日本最古の仏像は奈良県明日香村の飛鳥寺にある飛鳥大仏です。画像URL。日本書紀によれば完成は606年。大化の改新より前です。ただかなり損傷が激しく、大部分が後世に作り変えられているようなのですが、とても貴重だということには変わりありませんね。
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恵心僧都(源信) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)ほか 概略 源信(げんしん)は平安時代中期の天台宗?の僧で、延暦寺の横川(よかわ)にある恵心院で修行したため、恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)とも呼ばれる。浄土真宗?が言うところの七高僧の一人で、鎌倉時代の浄土教?や民衆仏教に大きな影響を与えた。源信の作と伝わる仏像も数多い。天慶5年~寛仁元年(942~1017) 人物史 大和国(現奈良県)当麻生まれ。父は卜部氏、母は清原氏。父の死後、信仰心の篤い母の影響により9歳で延暦寺中興の祖である良源(元三大師)の門に入り、止観業、遮那業を学ぶ。学識豊かな論議の名手として知られ、15歳のとき、村上天皇により法華八講の講師のひとりに選ばれたが、母の教えに従って人目に立つことを避け、比叡山横川の恵心院に籠もる。その後は学問と念仏に没頭するようになった。43歳で執筆を開始したといわれる『往生要集』は、現世の悪や浄土の美、地獄の恐ろしいありさまを具体的に描きだし、浄行三昧念仏を唱えることにより人々に極楽浄土の往生をすすめるもので、念仏と極楽浄土の信仰を幅広い層に浸透させた。この浄土教?説は、同本浄七教史上において先駆をなすものであり、浄土教?が広まる基礎ともなった。寛弘元年(1004)に権少僧都となったが、翌年辞退。寛仁元年(1017)臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして合掌し入滅した。『源氏物語』に登場する横川の僧都は、源信をモデルにしている。主な著作に『往生要集』『因明論疏四相違略注釈』『一乗要決』など。 その他 リンク 往生要集 (同時代ライブラリー―古典を読む (281))
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九品山 唯在念佛院 淨眞寺(九品仏 浄真寺) くほんざん ゆいざいねんぶついん じょうしんじ(くほんぶつ じょうしんじ) 東京都世田谷区にある浄土宗の寺院。 「九品仏」(くほんぶつ)とは同寺の9体の阿弥陀如来像のことで、同寺の通称となっている。 所在地 東京都世田谷区奥沢7丁目41-3 2022-06-11… 総門 仁王門。1793年建立。 鐘楼堂。1708年建立。 本堂。1698年上棟。 東門 総門前でラジオ体操。 関連項目 2022年度/行った所写真 東京サイクリング 歴史的建造物写真 この項目のタグ 2022年 2022年6月 おすすめ 世田谷区 寺院 東京都 歴史 歴史的建造物 駅名の由来 タグ「世田谷区」がついた項目 2012-06-24 / 2013-05-25 / 2013-05-26 / 2017-02-05 / 2022-08-27 / 烏山川緑道 / 世田谷観音 / 北沢川緑道 / 砧公園 / 九品仏浄真寺 / 豪徳寺 / 駒沢オリンピック公園 / 西澄寺 / 蛇崩川緑道 / 世田谷八幡宮 / 東京都道428号 / 等々力渓谷 / 等々力不動尊 / 野川 / ベーカーバウンス / 三宿神社 / 目黒川緑道 / ラヴィエクスキーズ / 野沢龍雲寺 タグ「東京都」「寺院」がついた項目 新井薬師 / 池上本門寺 / 尾崎観音 / 海福寺 / 寛永寺 / 世田谷観音 / 吉祥寺(文京区) / 九品仏浄真寺 / 講安寺 / 高円寺 / 高岩寺 / 広徳寺 / 豪徳寺 / 護国寺 / 西澄寺 / 柴又帝釈天 / 正覚寺 / 承教寺 / 深大寺 / 誓閑寺 / 清土鬼子母神堂 / 泉岳寺 / 浅草寺 / 雑司ヶ谷鬼子母神堂 / 増上寺 / 大悲願寺 / 高尾山薬王院 / 高幡不動尊 / 築地本願寺 / 東禅寺(港区) / 等々力不動尊 / 西新井大師 / 梅岩寺 / 深川不動堂 / 法明寺 / 妙正寺 / 目黒不動尊 / 薬王寺(青梅市) / 祐天寺 / 野沢龍雲寺 / 龍珠院 タグ「駅名の由来」がついた項目 高円寺 / 泉岳寺 / 高幡不動尊 / 西新井大師 / 目黒不動尊 / 祐天寺 / 代々木八幡宮
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佐藤研制作プログラム>SANTの会>SANT展2012>会場リサーチ3 ■SANT展の会場リサーチ結果を報告するページです。 リサーチ場所:大鹿山 弘経寺 (だいろくさん ぐぎょうじ) リサーチ者:藤原 僚平 日時:7月20日 場所:弘経寺/取手市白山2丁目5-3 白山商店街入ってすぐ 概要: 本尊は阿弥陀如来像。(鎌倉後期の作と伝えられる) 宗派は浄土宗。 開山は、浄土宗の僧・良肇が応永二十一年(1414年)に飯沼の弘経寺の分寺として草庵を設けた事に端を発する。飯沼(水海道)・結城・大鹿山の3地域にある弘経寺は、「関東の三弘経寺」として知られている。 天正十八年(1590年)に徳川家康が当地に遊猟の際、案内をした住職が有徳の僧であったため、境内外三十一石の御朱印を授かった。以来、御朱印寺としての格式を備えて堂宇も拡大され、現在でも家康をはじめとする徳川十一代の御朱印が保存されている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ↑駅西口から白山商店街へ。徒歩で7分くらいか。 ↑白山商店街を進んでいると、背の高い地蔵が見えてくる。 ↑浄土宗大鹿山弘経寺。 ↑表参道は長く、100mあまりある。車が結構通る。 ↑山門は立派なものである。「大鹿山」とあるが、この取手周辺の別称であるようだ。 ↑敷地内にも車が止まっている。 ↑山門をくぐって右手には白山幼稚園があった。車通りが多いのはこの為か。 ↑山門に比べて本堂が新しいのは、昭和22年の火災により消失したため。古くからの伽藍も失われてしまった。 ↑英霊を祀る霊堂。 ↑詳細不明の祠。良い。 ↑太平洋戦争戦没児童の追悼碑と朽ち荒れた堂。東日本大震災で犠牲になった児童の追悼碑もあった。 ↑本堂の横にも児童施設が。こちらは「取手保育園」。寺と地域との関係性が窺い知れる。 ↑霊園。 ↑古くなった石仏を移し安置する場所。 *
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泉涌寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗?泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。 歴史 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣?(おつぐ)が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824~834)に、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855)、藤原緒嗣?によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。鎌倉時代の建保6年(1218)、源頼朝の家臣で豊前国守護の宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進し、多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営した。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという。俊芿は肥後国(現熊本県)出身の学僧で、正治元年(1199)に宋へ渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、建暦元年(1211年)日本へ帰国する。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍はすべて宋風につくられることになった。2世の湛海も2度宋へと渡り、仏舎利をはじめ楊貴妃観音像や十六羅漢像のほか、多くの経典や仏画を持ち帰った。貞応3年・元仁元年(1224)には後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められて皇室との結びつきが強まり、御堀河天皇の皇子、四条天皇の陵墓「月輪陵」が泉涌寺内に築かれた。江戸時代には後水尾天皇以後、幕末の孝明天皇までの歴代天皇が山内に葬られた。応仁の乱による焼失をはじめ、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。 伽藍 大門 慶長年間(1596~1614)に造営された内裏?の四脚門を移築したもの。切妻造、本瓦葺。南宋の書家、張即之(ちょうそくし)の筆による山号「東山」の額が掲げられている。 仏殿 寛文8年(1668)、徳川家綱の援助で再建したもの。一重裳階付の入母屋造、本瓦葺。正面中央に両開きの桟唐戸、左右両端に花頭窓がつく禅宗様の建物。本尊は過去・現在・来世を表わす釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?を安置する。天井の雲龍図と本尊背後の白衣観音図は狩野探幽の筆という。 舎利殿 京都御所?の清涼殿を移築し、正面は中央に桟唐戸、その両脇二間ずつは蔀、両端は花頭窓という禅宗様の建物へと大幅に改装された。二重屋根、本瓦葺。俊芿の弟子湛海が、建長7年(1255)に南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)と南宋時代の作という韋駄天像と伝月蓋長者像が安置されている。仏殿とともに、寛文8年(1668)に徳川家綱の援助で再建された。天井に描かれた雲龍図は狩野山雪筆で、鳴き龍として名高い。通常非公開。 霊明殿 明治17年(1884)の再建。入母屋、檜皮葺で外観は寝殿造風。天智天皇から昭和天皇に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。通常非公開。 御座所・御座所庭園 安政2年(1855)に建立され、明治天皇が使用していた旧御所?の御里御殿を明治17年(1884)に移築したもの。玉座の間や皇族の間、勅使の間などの襖絵の多くは狩野派が手掛けている。庭園は元禄年間(1688~1704)に造られた池泉鑑賞式庭園で、月輪陵の前庭も兼ねる。 海会堂 御座所と同じく旧御所?から移築した建物で、歴代天皇と皇后の念持仏(守り本尊)を安置する。 楊貴妃観音堂 本尊の聖観音?像は中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃を偲んで彫らせたと伝えられる美しい仏像で、楊貴妃観音像と呼ばれている。建長7年(1255)に請来された。長い間100年に一度だけ公開するという秘仏であったが、請来から700年目の昭和30年(1955)から一般に公開されている。作風や材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられている。また脇侍として6躯の羅漢像を安置する。 心照殿(宝物館) 平成16年(2004)に完成した泉涌寺が所蔵する宝物を保存・展示する施設。名称は俊芿の国師号「大円覚心照国師」から命名された。国宝に指定されている俊芿の「泉涌寺勧縁疏」をはじめ、歴代天皇の御尊影や遺品などが展示されている。 主な塔頭 今熊野観音寺 恵美須神を祀る。天長年間(824~834)に空海が創建し、後白河上皇が熊野権現を勧請して、新那智山今熊野観音寺と称したという。本尊十一面観音像は空海が熊野権現の化身の老翁から授かったと伝わり、中風や頭痛平癒にご利益がある「頭の観音さん」として有名。西国三十三箇所観音霊場の第15番札所でもある。 雲龍院 大黒天を祀る。応安5年(1372)後光巌天皇の勅願によって創建された。応仁の乱で焼失後、御所?の黒戸御殿を移築したが地震で倒壊。後水尾天皇より写経会に必要な仏具の寄付を受けて再興された。本尊は薬師如来像。庫裏に安置されている鎌倉時代作の大黒天像は左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている。 戒光寺 弁財天を祀る。後堀河天皇の勅願寺として猪熊八条に創建され、正保2年(1645)に後水尾天皇の発願により泉涌寺の山内に移された。本尊の釈迦如来像は運慶と湛慶の合作で像高10mを誇る丈六仏。境内飛び地にある墓地には新選組を離脱した伊東甲子太郎ら御陵衛士の墓標がある。 即成院 福禄寿神を祀る。藤原頼通?の三男、橘俊綱の山荘内にあった阿弥陀堂を明治時代にこの地に移転させた。本堂には本尊の阿弥陀如来像と二十五菩薩像が並び、阿弥陀如来が来迎するさまをあらわしているという。境内には源平合戦での弓の名手として名高い、那須与一の墓と伝わる宝塔がある。 来迎院 布袋尊を祀る。開祖は空海。応仁の乱で焼失するが、慶長2年(1597)に前田利家によって再建された。大石内蔵助が山科に隠棲した時に建てた茶室「含翠軒」や池泉回遊式庭園の「含翠庭」がある。現存する茶室は大正14年(1925)に再建されたもので、もともとのものは行方不明という。 法音院 寿老人を祀る。嘉暦元年(1326)無人如導によって創建された。兵火により焼失したが、寛文4年~5年(1664~1665)に本多正貫夫妻が再建し菩提寺とした。本尊は不空羂索観音?で、現在の本堂は英照皇太后(明治天皇の母)大葬の御須屋を賜ったもの。 悲田院 毘沙門天を祀る。聖徳太子が四天王寺に建てた悲田院を起源とする。平安京?にも病人や孤児の救済施設として東西の悲田院が建てられ、焼失再建の後、正保3年(1646)に泉涌寺山内に移転、復興された。本尊は阿弥陀如来。境内から京都市内が一望できる。宿坊としても利用可能。 新善光寺 愛染明王を祀る。後嵯峨天皇の勅願で一条大宮に建立されたものを応仁の乱後、この地へ再建されたと伝えられる。 本尊は信濃善光寺の本尊を模刻して造られた阿弥陀如来像。 善能寺 本堂は航空機の事故により遭難した遺族により建立された。本尊は聖観音?像。庭園は重森三玲?の作庭。 文化財 国宝 泉涌寺勧縁疏 附法状 重要文化財(建造物) 大門 仏殿 無縫塔 開山塔及び開山堂 雲龍院本堂 重要文化財(美術工芸品) 絹本着色道宣律師・元照律師像 絹本着色俊芿律師像 木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音)及び木造韋駄天立像・木造伝月蓋長者立像 太刀 中御門天皇宸翰大円覚心照国師号勅書 法華経(雲龍院所蔵) 絹本著色後円融院宸翰(土佐光信筆、雲龍院所蔵) 木造釈迦如来立像(戒光寺所蔵) 木造浄業坐像(戒光寺所蔵) 木造阿弥陀如来及び二十五菩薩坐像(即成院所蔵) 木造荒神坐像(来迎院所蔵) 木造護法神立像(来迎院) 拝観情報 住所 京都市東山区泉涌寺山内町27 電話番号 075-561-1551(泉涌寺)、075-561-5511(今熊野観音寺)、075-541-3916(雲龍院)、075-561-5209(戒光寺) 075-561-3443(即成院)、075-561-8813(来迎院)、075-551-0961(法音院)、075-561-8781(非田院)、075-561-5109(新善光寺) 拝観時間 泉涌寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00) 今熊野観音寺 8:00~17:00 雲龍院 9:00~16:30 戒光寺 6:00~17:00 即成院 8:00~17:00 来迎院 9:00~17:00 法音院 9:00~16:30 悲田院 9:00~16:30 新善光寺 9:00~16:30 善能寺 9:00~16:30(12月~2月末は9:00~16:00) 拝観料 伽藍拝観500円、御殿拝観300円 雲龍院200円(写経と抹茶1,000円)、来迎院300円 アクセス 市バス「泉涌寺道」下車徒歩10分 駐車場 駐車場あり(無料) 主な行事 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定3級出題 「皇室とゆかりが深く、御寺と呼ばれ、皇室の香華院(菩提所)として知られている寺院はどこか。」 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「泉涌寺の仏殿わきには百人一首で有名な「夜をこめて鳥のそらねははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ」の歌碑が建っているが、この歌の作者は誰か。」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「泉涌寺は、皇室の香華院(菩提所)として知られるが、最初に御陵が造られた天皇は誰か。」 「仏像の通称について誤っているものを選びなさい。 (ア)証拠の阿弥陀と来迎院 (イ)楊貴妃観音と泉涌寺 (ウ)見返り阿弥陀と永観堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」 リンク 泉涌寺オフィシャル http //www.mitera.org/ 今熊野観音寺オフィシャル http //www.kannon.jp/ 即成院オフィシャル http //www.mitera.com/ 新版 古寺巡礼京都〈27〉泉涌寺
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霊場会 霊場会の名称 不詳 霊場会サイト 事務局所在地 事務局TEL そ の 他 気になること スペック 開 創 不詳 専用納経帳 不詳 納 経 料 不詳 対応時間 不詳 注意事項 札所一覧 地図 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 第1番 無量寿院三縁山西福寺 東京都北区豊島2-14-1 03-3911-2266 阿弥陀如来 真言宗豊山派 第2番 宮城山円明院恵明寺 東京都足立区江北2-4-3 03-3890-0897 阿弥陀如来 単立 第3番 佛寶山西光院無量寺 東京都北区西ケ原1-34-8 03-3910-2840 阿弥陀如来 真言宗豊山派 第4番 宝珠山地蔵院與楽寺 東京都北区田端1-25-1 03-3821-0976 阿弥陀如来 真言宗豊山派 第5番 常楽院 東京都調布市西つつじケ丘4-9-1 042-484-0900 阿弥陀如来 天台宗 第6番 常光寺 東京都江東区亀戸4-48-3 03-3681-7023 阿弥陀如来 曹洞宗 木余 龍燈山貞香院性翁寺 東京都足立区扇2-19-3 03-3890-0967 阿弥陀如来 浄土宗 木残 補陀山昌林寺 東京都北区西ケ原3-12-6 03-3910-2645 曹洞宗 ※平成24年10月現在の常楽院さん及び天地じんさんのサイトの情報を基としています。 名前 コメント
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悪夢の妖怪村,300,鳥井加南子,文庫,85/12,スーパー脱出ゲーム・ノベル “ペチャ、ペチャ……。深夜、怪しい獣が行燈の油を舐めている。気配に気づき、 妖獣が振り返った。バケネコだ!”人界遠い廃村に、妖怪や化け物が棲みついて いるとの噂を聞きつけた君は、その姿をビデオに収めようと単身、妖怪村に 潜入した。吸血鬼やロクロックビら妖怪変化との恐怖の戦い……。 彼らに殺されず君は目的を遂げ、無事、魔境を脱出することができるか? 江戸川乱歩賞受賞作家、初の書下ろしゲーム・ノベル第一弾! 青函トンネル大迷宮,297,雅孝司,文庫,86/02,スーパー脱出ゲーム・ノベル 華々しく報道された本州と北海道を結ぶ世界一の海底トンネルは、いまだ不気味に 放置されたままである。巨費を注ぎ込み、数多くの犠牲者を出しながら、 なぜか工事完成後、出入口が封鎖されたままなのだ。 青函トンネルの秘密とは何か?莫大な地下資源が眠るという情報を追い、 君は長大なトンネル内に潜入し、暗躍する敵と戦いながら〈プラチナ〉を入手し、 無事、脱出できるか?大好評の書下ろしゲーム・ノベル第二弾! 悪夢のマンダラ郷,300,鳥井加南子,文庫,86/05,スーパーゲーム・ノベル 仏壇から転げ落ちた阿弥陀如来像の不思議な法力で、君は〈人外境〉に迷いこんでしまった。 首狩り族、魔女、サソリ、ドラゴン…、手強い魔物たちが次々と君に襲いかかる。 勇気と知恵で彼らを倒し、人外境脱出のための四つの秘宝を得た君の前に、 さらに恐ろしい“火焔地獄”が待っている…。 はたして君は無事、脱出できるか? 江戸川乱歩賞受賞作家が『悪夢の妖怪村』に続いて書き下ろしたゲーム・ノベル “悪夢シリーズ”の第二弾登場! 悪夢の幽霊都市,300,鳥井加南子,文庫,86/09,スーパーゲーム・ノベル 映画館の暗闇を出た途端、君は見たこともない「幽霊都市」に放り出された。 透明人間、キングコング、モスラ、狼男、魔女…など、お馴染みの怪物たちが待ち 受けている。 そして、都市中に張りめぐらされた時間軸と空間軸が、君を過去や異郷にワープ させる。 襲いかかる怪物に、知恵と勇気で戦いを挑み、君は勝ち続けなければならない。 はたして恐怖の都市から、無事に脱出できるだろうか?江戸川乱歩賞受賞作家が 書き下ろした、大好評ゲーム・ノベルの第三弾登場!