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・念仏供養塔 所在地:芹が谷1丁目の武相国境 鉦(かね)の音頭に合わせて大数珠を繰りながら百万遍の念仏を唱え、極楽 往生を願って念仏講の人達が建てたもの。 塔正面には阿弥陀如来像が、右側面には「武州相州境道」の文字が刻まれており、 武相国境を表示した貴重な石仏。市の有形民俗文化財です。 寛延元(1748)年造立
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その他 ニコニコ動画 解説 一人セッションの大仏先生。 J・A・シーザーに捧ぐ畑の人。 鍵盤、ギター、ベース、ドラム、ボーカルをこなす千手観音的なイケメン。(蛇足だが、マスクのモデルである鎌倉大仏は阿弥陀如来像である) ニコニコ動画 マイリスト http //www.nicovideo.jp/mylist/8596453 pixiv ピアプロ drawr その他 a_kiraの日記(β) blog 名前 コメント
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ふるさと探訪より引用 会津地方では、中世から近世にかけて、阿弥陀如来像と聖徳太子像を安置し、念仏を唱える太子守宗という宗派が活動し、各地に太子像が残されています。この宗派は会津藩の宗教整理政策により、元禄期に姿を消しました。 元禄年間:1688年~1704年 参考ふるさと探訪(教育福島0218号) 東国の太子信仰研究序説 岩手のまいりの仏と会津の太子守宗を中心として
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日比谷花壇・ムーンダストフラワーパティシエ 2009年6月4日 (木) 父のお誕生日に買ったデコレーションケーキのようなこのお花、サントリーが開発した青いカーネーション・ムーンダストです。 花言葉は「永遠の幸福」。 ムーンダストのブランドコンセプトは、「幸せを願う青い花」。 月のように華麗な花びらが、永遠の幸福をもたらすようにと、あなたとあなたの大切な人の人生を見守ります。 以前、高校時代のお友達、Jちゃんが贈ってくれた日比谷花壇のフラワーカードを使いました♪ 手前の金色の仏像は、24金の阿弥陀如来像。小さいけれど純金のずっしりした重さがあります。 父が他界した時に作って頂きました。普段はミニお仏壇の中におります。 今日は父のお誕生日なので、阿弥陀如来様もひなたぼっこ。 普通の日記 かなえキッチン : ごはん日記 2009年06月
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平等院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏?ゆかりの寺院。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来浄土宗?と天台宗?を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は藤原頼通?、開山(初代住職)は明尊である。平安時代後期である11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを現在に伝え、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、関白藤原道長?の別荘「宇治殿」となったものである。道長?は万寿4年(1027)に没し、その子の関白藤原頼通?は永承7年(1052)に宇治殿を寺に改めた。これが平等院の始まりである。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり、大日如来を本尊としていたが、天喜元年(1053)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。また平等院には、鳳凰堂以外にも法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などの堂塔が建ち並んでいたのだが、建武3年(1336)の楠木正成と足利氏の軍勢による兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長?は寛仁4年(1020)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が現在の岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、歴史書に名をとどめるこれらの大伽藍も今は跡形もなく、平安時代の貴族が建立した寺院が残存するという点で、平等院はかけがえのない存在となっている。 近年、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。 伽藍 鳳凰堂(阿弥陀堂) 天喜元年(1053)の建立。庭園の池の中島に東向きに建つ。南北31.8m、東西41.5m、高さ13.6m。本尊阿弥陀如来像を安置する中堂、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階付。正面中央の扉を開放すると、外からも本尊の顔が拝めるようになっている。阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀如来像を拝するように意図されていたと思われる。中堂の屋根上には一対の鳳凰像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、本物は取り外して別途保管されている。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。壁面には楽器を奏で、舞いを舞う姿の雲中供養菩薩像の浮き彫りがあり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。なお、全体の姿が翼を広げた鳳凰のようであることから「鳳凰堂」と呼ばれることとなったのは江戸時代からで、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。 本尊の木造阿弥陀如来坐像は、大仏師定朝の確証がある唯一の作。定朝が制作した仏像はのちにことごとく失われ、晩年の作品である平等院像は、彼の作風を具体的に知ることのできる唯一の遺品として、きわめて貴重なもの。雲中供養菩薩像は、鳳凰堂中堂の長押上の壁を飾る浮き彫りの菩薩像。飛雲に乗り、阿弥陀如来とともに来迎する菩薩像を表わしたもので、琴、笛、琵琶、太鼓などの楽器を奏する像が多い。全部で52躯現存するが、うち51躯が国宝に指定されている(指定外の1躯は、国宝指定後に堂外から発見されたものといわれている)。本尊阿弥陀如来像と同様、天喜元年(1053)の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が明治時代の修理で補作されているものと、像全体が鎌倉時代の補作であるものが各数躯ある。当初全部で何躯あったのかは定かでない。 観音堂 鎌倉時代前期に創建当時の本堂跡に再建された建造物で、寄棟造、本瓦葺。内部には法橋徳応作の二天像と平安時代作の不動明王像が祀られている。観音堂に隣には樹齢250年という有名な藤棚がある。 庭園 鳳凰堂を中心とし、その周りを阿字池が取り囲むような意匠の、平安末期の浄土思想?を具現化した典型的な浄土式庭園?である。近年の発掘調査に基づき、州浜状の護岸などが復元され、阿字池に反り橋が架け直された。国の名勝及び史跡に指定されている。 浄土院・最勝院 現在の平等院は、浄土宗?の浄土院と、天台宗?系の最勝院(ともに鳳凰堂の西側にある)というふたつの寺院が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492~1501)、最勝院は承応3年(1654)の創始であり、平等院が両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681)、寺社奉行の裁定によるものである。 鳳翔館 旧宝物館に代わって平成13年(2001)に開館したミュージアム。展示物は、梵鐘、雲中供養菩薩26躯、鳳凰一対などの国宝の文化財をはじめ、鬼瓦や土器など発掘調査の出土品など多数。最新のデジタル技術を用いた鳳凰堂内部の彩色の再現映像も閲覧できる。 扇の芝・源頼政供養塔・源頼政の墓 源頼政は平安末期の武将で、文武両道に長けた人物と伝わる。平家の専横を憎む後白河法皇の皇子・高倉宮以仁王(たかくらのみやもちひとおう)が平家追討の令旨を発するに及んで、頼政は宮と共に園城寺(三井寺)で挙兵する。追手から逃れて奈良へ向かうが宇治で捕捉され、戦いに敗れて平等院の境内に扇を敷いた上で自害したという。観音堂の傍らにある「扇の芝」は頼政が自害した跡といわれる場所で、扇型の芝生がある。また浄土院に頼政の供養塔、最勝院には墓が残る。 文化財 国宝 鳳凰堂 鳳凰堂中堂壁画 木像阿弥陀如来坐像(定朝作) 木像雲中供養菩薩像(現存52躯のうち51躯) 木像天蓋 梵鐘 金銅鳳凰 重要文化財(建造物) 観音堂 浄土院養林庵書院 重要文化財(美術工芸品) 木像十一面観音立像 名勝 平等院庭園 史跡 平等院庭園 拝観情報 住所 京都府宇治市宇治蓮華116 電話番号 0774-21-2861 拝観時間 庭園 8:30~17:30(12月~2月9:00~16:30)、鳳翔館 9:00~17:00(12月~2月 9:00~16:00)、 鳳凰堂 9:30~16:30(12月~2月 9:30~15:50) 拝観料 600円(庭園と鳳翔館)、鳳凰堂300円(変更の可能性あり) アクセス JR奈良線「宇治駅」下車徒歩10分 駐車場 徒歩圏内(約1分)に私営駐車場あり(500円) 主な行事 1月1日 修正会 3月2日 関白頼通?忌 3月彼岸 春季彼岸会 5月26日 頼政忌 9月彼岸 秋季彼岸会 11月25日 十夜会 12月31日 除夜会 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「永承7年(1052)、父である藤原道長の別荘、宇治殿を仏寺に改め、平等院としたのは誰か。」 「平等院の阿弥陀如来像(国宝)の作者は誰か。 (ア)運慶 (イ)定朝 (ウ)覚助 (エ)長勢」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「現世に極楽浄土を再現し、「極楽いぶかしくは宇治の御寺をいやまへ」ともいわれた平等院の本尊はなにか。」 「(京都府下に)現存する最古の木造建築物として国宝に指定されているのはどれか。 (ア)法界寺阿弥陀堂 (イ)平等院鳳凰堂 (ウ)大報恩寺本堂 (エ)醍醐寺五重塔」 リンク 平等院オフィシャル http //www.byodoin.or.jp/ [429] Client error `POST https //webservices.amazon.co.jp/paapi5/getitems` resulted in a `429 Too Many Requests` response { __type com.amazon.paapi5#TooManyRequestsException , Errors [{ Code TooManyRequests , Message The request was de (truncated...)
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楊貴妃が山口県長門市に漂着(伝説)(H0756a) 唐の天宝15年(756年)、空艫船(うつろぶね)に乗った楊貴妃が向津具半島唐渡口(山口県長門市 旧油谷町)に漂着したが、まもなく死亡し、里人が寺院に埋葬した。(伝説) 久津地区にある「二尊院」に「楊貴妃の墓」がある。 玄宗皇帝は夢で妃が日本で死んだことを知り、追善のために、家来に弥陀、釈迦の二尊像、十三重の大宝塔を持たせ、日本へ遣わした。だが、妃が漂着した場所が分からず、京都の寺に二尊仏を預けて帰った。その後、漂着地が久津とわかり、一体ずつを二尊院との間にわけて安置することになった。 ニ尊院には楊貴妃の追善のために送られたと言い伝えられる阿弥陀如来像と釈迦如来像(いずれも重文)が現存する。 参考文献 古沢要, 2006. 山口県・向津具半島 楊貴妃伝説 美人の里. 読売新聞, 2006.11.7.
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1 :風吹けば名無し:2009/11/24(火) 18 24 42.75 ID T/PmkSVE 24日未明、京都市北区の金閣寺が炎上しているとの通報があり、火は消し止められたものの焼け跡から巨人小笠原(36)の遺体が発見された。 巨人小笠原容疑者は、金閣寺に23日深夜に侵入。 重要文化財の足利博満像を「(ダッチワイフの代わりに使っちゃ)いかんのか?」と強姦。 木像との性交による激しい摩擦により出火。火は瞬時に寺全体を覆い尽くした。 博満像が灰となった後も相手をチェンジしつつ、文化財を漁る浮浪者(41)を横目に、燃えたぎる阿弥陀如来像相手に腰を振りながら「キンカクジー」と叫び絶頂射精。 最後は俺達のように自身も炎上し死亡した。 この件に関して大正義巨人軍原監督は「熱いものを感じた」とコメント。 なお、来シーズンには間に合う模様。
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真正極楽寺(真如堂) 出典 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか 概略 真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。 歴史 『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(992)に寺としたのが起源という。正暦5年(994)には一条天皇により勅願寺となり、仁安元年(1166)には覚快親王、養和元年(1181)には天台座主を4回務めた慈円が別当となっている。往時は堂塔伽藍も壮麗をきわめ、正中2年(1325)には後醍醐天皇より仏舎利の寄進もうけたが、永和5年(1379)の火災と応仁2年(1468)の応仁の乱の兵火によって堂塔伽藍をことごとく焼失し、本尊は延暦寺西塔の黒谷青龍寺に移された。その後、近江国坂本(現滋賀県大津市)宝光院を経て、文明10年(1478)に本尊を京都一条町に遷している。文明16年(1484)には室町幕府8代将軍足利義政から神楽岡の東の地を寄進され、明応2年(1493)に本堂が完成。復興にあたり、浄土宗?の念仏者、時宗?の僧徒らの勧進によって堂塔伽藍の建立を推進したが、やがてこれが天台宗?から浄土宗?への転宗をもたらすきっかけとなった。文亀3年(1503)には、かつて寺地とした一条町に再び移転、本堂が上棟されたが、織田信長の旧二条城の建設で替地を与えられ、更に天正15年(1587)には聚楽第建設のため豊臣秀吉の命令で京極今出川に移され、慶長11年(1606)に本堂を竣工。同年12月15日に盛大な落慶遷座式を行っている。一方、神楽岡の東の地は寺領として存続し、天正3年(1585)には秀吉によって寺領を安堵されている。寛文元年(1661)に焼失、元禄4年(1691)に再建竣工するも、翌年に再度焼失した。元禄6年(1693)に東山天皇の勅願によって旧地の西南にあたる現在の地に復帰し、天台宗?に改宗した。その後、輪王寺門跡末寺となり、青蓮院が寺務するところとなった。 伽藍 1万坪にも及ぶ広大な寺域には本堂を中心に8ヵ寺の塔頭が建つ。墓所には藤原家?、三井家、明智光秀の重臣で春日局の父である斎藤利三、海北友松、俳人向井去来、幕府作事方大棟梁で日光東照宮を手掛けた甲良豊後守らの墓がある。 本堂 江戸幕府5代将軍徳川綱吉とその母桂昌院の寄進により、享保2年(1717)に建造された(元禄16年(1703)とする史料もある)。入母屋造、本瓦葺。内部には慈覚大師円仁の作と伝わる本尊阿弥陀如来立像(秘仏)、本尊右側に最澄の作と伝わる千手観音立像、左側には園城寺(三井寺)の開祖である智証大師の作と伝わる不動明王坐像を安置する。阿弥陀如来像は円仁が「女人を救い給え」と願ったところ、3度頷いたことから「うなずきの弥陀(阿弥陀)」とも呼ばれる。不動明王像は、陰陽師安倍晴明の命を救った念持仏という。 三重塔 宝暦7年(1757)に建立されるも安永3年(1774)頃から建て替え、文化14年(1817)に完成したもの。総高は約30m。 本坊・書院 本堂とは回廊で繋がれている。書院東側にある庭園は天龍寺庫裏前の石組などを手掛けた曽根三郎によって昭和63年(1988)に作庭された。東山三十六峰を借景とした枯山水庭園で、中央の石組の向かって左が釈迦のあたまで、右脇を下にして横たわり、その周りを弟子や動物たちが囲んで釈迦の死を嘆き悲しむ様子を表現したという。 元三大師堂 おみくじの発案者としても知られる天台宗?中興の祖、元三大師(慈恵大師良源)を祀る建物で入母屋造、本瓦葺。正面に元三大師像、左に不動明王像、右に地蔵菩薩?像を安置する。 鐘楼 宝暦9年(1759)の建立で切妻造、本瓦葺。京都市内では知恩院の鐘楼につぐ規模を持つ。 元真如堂(念仏堂) 真正極楽寺(真如堂)の東北山麓にある境外仏堂で念仏堂とも号する。寺伝では本尊の阿弥陀如来像は慈覚大師円仁の作。この地は正暦3年(992)から応仁の乱により移転するまでの旧地といわれる。元禄6年(1693)の再建ののち、元真如堂と名づけられた小堂宇が建てられたというが、天保元年(1830)の京都大地震で荒廃し、天保14年(1843)になって尼僧黙旨により再興された。以来、換骨堂とも号し、尼僧が代々住持する。 鎌倉地蔵堂 寺伝によると、鳥羽上皇が寵愛した絶世の美女と名高い玉藻前という女官が、陰陽師安倍泰親(異説に安倍泰成、安倍晴明とも)によって正体を九尾狐と見破られる。狐は下野国(現栃木県)に逃れるも討たれ、その悪霊が化して殺生石となり、なお人々に害を与えた。その祟りを解き霊を弔うために、室町期の僧、玄翁和尚が殺生石を砕き、その石で地蔵菩薩?を造り、鎌倉にお堂を建てて祀った。この像を信仰していた甲良豊後守が、夢に現れた地蔵菩薩?に「真正極楽寺(真如堂)に移すべし」と告げられて移築したという。 新長谷寺 平安期の貴族、藤原山蔭?が船旅の折、亀によって命を救われ、日頃より信仰する長谷寺観音の加護によるものとして、長谷寺の本尊十一面観音像を模した仏像を造り、吉田山麓に新長谷寺を建立した。明治の廃仏毀釈の際に真正極楽寺(真如堂)の境内に移されたという。洛陽三十三所第五番札所でもある。 文化財 国宝 法華経 重要文化財(建造物) 本堂 重要文化財(美術工芸品) 木造阿弥陀如来立像 紙本著色真如堂縁起絵巻 絹本著色普賢菩薩像 紙本墨書慈円僧正消息 拝観情報 住所 京都市左京区浄土寺真如町82 電話番号 075-771-0915 拝観時間 9:00~16:00 拝観料 境内自由、本坊拝観500円 アクセス 市バス「真如堂前」下車徒歩8分 駐車場 無料駐車場あり 主な行事 その他 京都検定出題 平成19年(2007)第4回京都検定2級出題 「寺院名」と「その正式名称」の組み合わせについて誤っているものを選びなさい。 (ア)真如堂-真正極楽寺 (イ)三十三間堂-蓮華王院 (ウ)東寺-教王護国寺 (エ)革堂-頂法寺」 リンク 真正極楽寺(真如堂)オフィシャル http //shin-nyo-do.jp/ 塔頭吉祥院副住職のホームページ「苦沙彌のインターネット僧坊」 http //kusyami.com/ 真如堂 (京の古寺から)
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アイテム(歴史的遺物) 欠片があちこちに落ちていて、すべて拾わないと完成されないものもあります。 ◎がついているアイテムは、完成させるとキャサリンから話があったり、メールが届いたりし、説明も詳しいものになります。 アイテムゲットが、イベントや特殊な生物との遭遇のフラグになっているものや イベントのフラグを立てないとアイテムが出現しないものなどもあります。 ※ ポイントが光らないアイテムはパートナーに探してもらうのも手です。 ※ ポイントが光らないアイテムはランダム出現のため、何度でも、いろいろな場所からサルベージできる可能性があります。落ちている場所も砂底に限りません。 ※ ポイントが光らないランダム出現のアイテムは、写真撮影依頼をうけ、その写真が雑誌に掲載されるなど高評価後に見つかりやすいと言う報告があるようです。 アイテム(歴史的遺物)アイテムボックス 呪いの言葉と謎のメール 羅針盤の秘密 アイテムボックス ◆◆1頁目 アイテム ポイント 詳しい位置 備考 ◆1段目 - - - イルカのメダル L-2 ブルーホール ツールアイテムボックス取得、特定生物のイベントなどのパートナーフラグイベントと連動 ◎三角縁鯨神銅鏡a K-2 ロアの宝石箱中央 ◎三角縁鯨神銅鏡b D.E-1.2 エ・マラウイのえぐれ中央。DとE、1と2の境界線が交差した所 ◎三角縁鯨神銅鏡c E-3 D-3との境界線中央付近の珊瑚と岩場 ◎三角縁鯨神銅鏡d L-3中央 岩場 左下の破片 ◎海賊の羅針盤a B-8左上 海溝近く ◎海賊の羅針盤b M-1 ラグーン東端付近 砂地 ◎海賊の羅針盤c J-9 シークレットレイク中央 岩場近くの砂地 ◎海賊の羅針盤d H-1 タガヌァ湾内 砂地 ◎ストーリーボードa F-6右上 奈落への亀裂北端の際 ◎ストーリーボードb E-1 グリーンガーデンへ続くケルプの道の中ほど ◎ストーリーボードc H-3中央 精霊の家 中央の大きな破片 ◎ストーリーボードd K-7 先祖の魚礁 ◆2段目 - - - ◎火焔模様土器a L-7人魚の洞窟内 E-7(リムプール)右下 岩壁と砂地の隙間 ◎火焔模様土器b L-7人魚の洞窟内 H-3 大石柱の左横の鍾乳石 ◎火焔模様土器c L-7人魚の洞窟内 G-3 広間の砂地 ◎火焔模様土器d L-7人魚の洞窟内 G-7 鍾乳洞の迷路からH-7左下通路を進んだ行き止まり 人魚の涙 L-7人魚の洞窟内 E-4 白の間中央、特定生物のイベントなどの※純白のイルカイベント参照 ◎蕃神の偶像 足 D-6海底遺跡内 I-3 遺跡の屋根部分 ◎蕃神の偶像 腕 D-6海底遺跡内 E-3 遺跡外部の壁のくぼみの中 ◎蕃神の偶像 体 D-6海底遺跡内 I-2中央 遺跡外部の岩と岩の間 ◎蕃神の偶像 頭 D-6海底遺跡内 E-6 神官の部屋 ◎軟玉碑文a D-6海底遺跡内 H-5左下 セントラルホールの地面 ◎軟玉碑文b D-6海底遺跡内 H-7左下 天井に穴をあけた部屋の先の石碑の左横 ◎軟玉碑文c D-6海底遺跡内 H-7左下 天井に穴をあけた部屋の先の石碑の右横 ◎軟玉碑文d D-6海底遺跡内 E-4左下 遺跡内部の通路を入って崩れた壁 ◆3段目 - - - ◎アノマロカリスの化石a G-7深海内 G-7秘密の洞窟 通路の真ん中あたり ◎アノマロカリスの化石b G-7深海内 G-3結晶の洞窟 通路の真ん中あたり ◎アノマロカリスの化石c G-7深海内 F-5鯨の墓場 ◎アノマロカリスの化石d G-7深海内 I-5鯨の墓場(夜のみ) ◎血赤珊瑚a G-7奈落(深海)内 D-6魔物の洞窟 ◎血赤珊瑚b G-7奈落(深海)内 D-6魔物の洞窟 ◎血赤珊瑚c G-7奈落(深海)内 I-6熱水奥の洞窟 夜間のみ取得可能 ◎血赤珊瑚d G-7奈落(深海)内 I-6熱水奥の洞窟 夜間のみ取得可能 ◎黄金阿弥陀如来像a 海の墓場 F-4 ネイビア号内部の2階 ◎黄金阿弥陀如来像b 海の墓場 F-4 ネイビア号外周部の海底 ◎黄金阿弥陀如来像c 海の墓場 H-4 ネイビア号の蒸気パイプ上端 如来像本体 ◎黄金阿弥陀如来像d 海の墓場 H・I-6・7(境界十字の所 戦闘機の残骸の中 ◎景徳鎮の大皿a 海の墓場 I-4 ネイビア号艦橋部 ◎景徳鎮の大皿b 海の墓場 H-4右上 ネイビア号 折れた煙突の内部 ◎景徳鎮の大皿c 海の墓場 F-5とG-5の境界線上 戦闘機のタイヤが目印 ◎景徳鎮の大皿d 海の墓場 H-4 ネイビア号内部 ◆◆2頁目 アイテム ポイント 詳しい位置 備考 ◆1段目 - - - 思い出の貝殻 ランダム 全海域 ズームポイントは光らず(入手確率高し) 女神の貝殻 ランダム 全海域 ズームポイントは光らず(入手確率高め) ビンテージライター ランダム 全海域 ズームポイントは光らず 祖霊の彫刻 ランダム 特殊海域(海底遺跡) パートナーが発見 ◆2段目 - - - ブリキのおもちゃ ランダム 全海域 ズームポイントは光らず パトリックの懐中時計 F-1 グリーンガーデン ホワイトマザー伝説と連動 カッティングワイングラス ランダム 全海域 ズームポイントは光らず サメの歯のネックレス D-4.5 ナイフリーフ 特定生物のイベントなどのマグー・タパイベントと連動 ◆3段目 - - - 幻のナポレオン貨幣 ランダム 全海域 ズームポイントは光らず マイセン地方のカップ ランダム 全海域 ズームポイントは光らず 純銀のフォーク ランダム 全海域 ズームポイントは光らず ガラスの香水入れ ランダム 全海域 ズームポイントは光らず ◆◆3頁目 アイテム ポイント 詳しい位置 備考 ◆1段目 - - - 写真立て M-5 サンシャインビーチ 髪型追加 ティアラ D-6 マリジ環礁西側の砂地 高級万年筆 ランダム 全海域 ズームポイントは光らず ドイツ製ハーモニカ ランダム 全海域 ズームポイントは光らず ◆2段目 - - - カセットテープ F-4 魂の回廊・岩礁の上の小さな砂場 激レアジュースの缶 ランダム 全海域 ズームポイントは光らず ガラスのブイ ランダム 全海域 カルサイト化貝化石 ランダム 特殊海域(水中大鍾乳洞) ズームポイントは光らず ◆3段目 - - - 蜥蜴入り琥珀 ランダム 特殊海域(水中大鍾乳洞) ズームポイントは光らず 黒曜石の矢尻 ランダム 特殊海域(水中大鍾乳洞) ズームポイントは光らず 鯨骨疑似餌 ランダム 特殊海域(水中大鍾乳洞) ズームポイントは光らず 幸運の貝殻 ランダム 特殊海域(海底遺跡) ズームポイントは光らず ◆◆4頁目 アイテム ポイント 詳しい位置 備考 ◆1段目 - - - 古代の腕輪 F-4 魂の回廊 特定生物のイベントなどの※純白のイルカイベント参照 円筒印章 ランダム 特殊海域(海底遺跡) ズームポイントは光らず 生命の勾玉 D-6海底遺跡内 I-6左上人面岩の前 特定生物のイベントなどの※シャチイベント参照 鋼鉄の貝殻 ランダム 特殊海域(奈落[深海]) ズームポイントは光らず ◆2段目 - - - アクアアメジスト ランダム 特殊海域(奈落[深海]) ズームポイントは光らず 石仮面 ランダム 特殊海域(奈落[深海]) アンモナイトの化石 ランダム 特殊海域(奈落[深海]) ズームポイントは光らず 夢の貝殻 ランダム 特殊海域(海の墓場) ズームポイントは光らず ◆3段目 - - - 金の延べ棒 ランダム 特殊海域(海の墓場) ズームポイントは光らず カメオブローチ ランダム 特殊海域(海の墓場) 玩具の飛行機 ランダム 特殊海域(海の墓場) パートナーが発見。ズームポイント光らず 呪いの言葉と謎のメール 【 】内はドラッグして下さい。 【蕃神の偶像】をサルベージするたびに、甲板で呪いのような次の台詞を耳にする。 【ヒンとホアンの子よ】【血の流れに罰を】【眠れる神に贖罪を】【ワーガに呪いあれ】 また、差出人不明の謎のメールが届くようになり、そのメールの添付ファイル【髪型や髪の色】が追加されて、変更できるようになる。 謎のメール ドラッグして読んでください。 件名 内容 それを捨てろ 偶像を見つけたようだね……。これは警告だがすぐさま捨てるべきだ。偶像には古代の呪いがかけられている。あれは旧石器時代を支配した邪悪な神のよりしろなのだ。深入りすると髪が白くなるほどの恐怖を味わうことになるだろう。 ……私が何者かって?そんなことはどうでもいい。 後ろを向いてはダメだ 偶像を見つけたようだね……。あれの呪いが君をねらっている。もしかしたらすでに君のうしろに「いる」のかもしれない。深入りすると髪が白くなるほどの恐怖を味わうことになるだろう。 ……私が何者かって?そんなことはどうでもいい。 今なら間に合う 偶像を見つけたようだね……。今ならまだ間に合うかもしれない。彼の目に捉えられる前に逃げ出すんだ。部屋の四方には銀紙を張るといい。深入りすると髪が白くなるほどの恐怖を味わうことになるだろう。 私が何者かって?そんなことはどうでもいい。 声が聞こえるか? 偶像を見つけたようだね……。君にはもう彼の呼び声が聞こえているだろうか。それは深淵の底の暗黒がその呼び声だ。生きとし生けるもの全てを呪う邪神のささやきだ。深入りすると髪が白くなるほどの恐怖を味わうことになるだろう。 私が何者かって?そんなことはどうでもいい。 これが最後になるだろう 偶像を復元してしまったようだね。もはや手遅れだ。総髪が白くなるほどの恐怖を君は味わうことになるだろう。 ああなんということだ。監視していたのは私だけでは無かった。もうだめかもしれ 窓から何かが 羅針盤の秘密 【 】内はドラッグして下さい。 羅針盤が完成すると、【海賊船(沈没船)】を発見できる場所と思われる三箇所が示される。 その座標は【E-5】【H-6】【E-9】であり、そのどこかで発見することができる。
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定朝 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 定朝(じょうちょう)は平安時代後期に活躍した仏師。彫りが浅く、平行して流れる衣文や瞑想的な表情などの作風は「仏の本様」と称せられる。のちに「定朝様」として日本の彫刻の規範とされ、定朝の表現を踏襲した作例が多く造られた。?年~天喜5年(?~1057) 人物史 初めて寺院から独立した工房を構え、有力貴族や寺院の造像を行った康尚の子といわれる。藤原道長?の法成寺の造像に加わり、道長?の没後は子の頼通?のもとで活躍する。永承3年(1048)には興福寺中金堂・南円堂の復興造像を手掛け、天喜元年(1053)には平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造像するなど、藤原氏?一族の造仏に従事した。万寿3年(1126)には後一条天皇の中宮威子の御産御祈の等身仏の造像を手掛ける。その際、統率下に20人の大仏師と各5人の小仏師が組織されていたことが記録に知られており、すでに充実した工房組織を持ち、大規模かつ大量な造像をこなしていたという。また、仏師の社会的地位を大きく向上させ、仏師としてはじめて僧綱位を得た(僧綱位は僧に与えられる位で、法橋・法眼・法印の順に高位となる。法成寺の造像賞として法橋、興福寺の復興で法眼に叙された)。京都七条に工房を持ったことから、工房は「七条佛所」とも呼ばれ、跡が七条東洞院に残る。墓所と伝えられている場所は二箇所あり、ひとつは大正9年(1920)に上品蓮台寺?に移転され、もうひとつは廬山寺?にある。 作風と代表的な作品 平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は定朝の代表作であり、現存する唯一の作品である。全体に穏やかさが漂う表現で顔は丸顔に温和な表情、肉付きの薄い扁平な胸、膝を広く低く安定感を持たせ、衣文線も流れる様に浅く平行に流すという、いわゆる「定朝様式」が見られる。また仏像の需要が急増したことに対応するため、流れ作業が可能な寄木造の技法を完成させて量産体制を確立し、一木造では不可能である大型の造像をも可能にした。 阿弥陀如来坐像 平等院所蔵 国宝 その他 リンク 日本美術全集 (第6巻) 平等院と定朝―平安の建築・彫刻2