約 9,615 件
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/8803.html
登録日:2010/06/08 Tue 22 34 04 更新日:2024/07/21 Sun 16 28 25 所要時間:約 6 分で読めます ▽タグ一覧 ゴッ!トッ!バッ! ゴトバイン ゴトバゴトバ ←鳥はいない ゴリラ!トラ!バッタ! 上皇 人物 天皇 後鳥羽天皇 承久の乱 日本史 歌人 歴史 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 今年の夏、海水浴場の監視員のアルバイトをしていた。 DQNカップルに向かって「危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!」って注意したら DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」 DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱www」 とか言って聞き入れなかった。 その後、突然の嵐にDQN共は沖に流されその姿を見たものはいない。 後鳥羽(ごとば)天皇 1180年8月6日~1239年3月28日 平家と共に西に落ちた安徳天皇に代わり即位。 第82代目の天皇。 時は1183年、木曾義仲率いる源氏の軍勢に京を追われた平家は「安徳天皇」を連れ西へと落ち延びる。 天皇不在のままでは政務が滞ることを危惧した後白河法皇は、翌年当時五歳の尊成親王を即位させて「後鳥羽天皇」とし、当人は摂政として実権を握った。 この時、天皇の即位に必要な「三種の神器」は平家によって持ち出されており、神器は正当な天皇の手に必ず戻ってくるという事にして、事後承諾的に神器がないまま天皇に即位することとなった。 天皇が二人いる(安徳天皇は退位していなかったため)というこの異例の状況は、二年後の1185年に安徳天皇が「壇ノ浦の戦い」で平氏一門と共に崩御するまで続いた。 しかし、三種の神器のうち、「草薙剣」のみ回収が叶わずに平氏や安徳天皇と共に海中に消えてしまったため、 三種の神器が揃わないことで後鳥羽天皇の天皇としての正当性は保証されず、少しでも不徳をすれば「まあ、神器が揃ってない天皇だしねぇ…」等の嫌味を言われたりしており、 後鳥羽天皇自身もこれをコンプレックスと感じていたようで、何度か宝剣探索を行わせているが、結局壇ノ浦に沈んだ「草薙剣」は見つからなかった(*1)。 この事が彼の人格とその後の人生に大きな影を落とすこととなる。 後鳥羽天皇が在位してからは後白河法皇が院政を敷いており、後白河法皇が崩御してからは当時の関白であった「九条兼実」が政権を握り、 後白河法皇が忌避していた「源頼朝」の征夷大将軍就任が認められたことで、史上初の武家政権である「鎌倉幕府」が誕生する。 しかし、兼実と頼朝及び鎌倉幕府の関係は次第に悪化し、1196年に起きた「建久七年の政変」で兼実の郎党が朝廷から一掃されている。 それから二年後の1198年、後鳥羽天皇は当時3歳であった息子の為仁親王に位を譲って「土御門天皇」とし、自身は院へと移り院政を開始。 その後三代に渡り、上皇として政務を取り仕切ることとなり、1202年に朝廷で権勢をふるった土御門通親が急死し、九条兼実も出家したことで名実ともに「治天の君」となった。 鎌倉幕府には強硬な姿勢を崩さなかったが、和歌などに造詣が深い源千幡が三代目将軍となった時には上皇自ら「源実朝」の名乗りを認め、 実朝を朝廷側に引き込んで鎌倉幕府内への影響力を強めようとする後鳥羽上皇と、実子のいない実朝の後継ぎに皇族を据えようとする鎌倉幕府は互いの思惑もあって一時期良好な関係となるが、 源実朝が甥の公暁に暗殺される事件が起こるとその関係は終わりを告げ、急速に関係は悪化していくこととなった。 幕府との関係上、心優しい土御門天皇では厳しいと考えた上皇は、1210年に土御門を退位させると新たに「順徳天皇」を据え、1221年には「仲恭天皇」を推戴し鎌倉幕府倒幕の準備を進める。 (もっとも、幕府を倒すというよりは「執権の北条義時を倒して幕府の状況を変えたかっただけ」とする説もある) 同年1221年、遂に準備を終えた上皇は鎌倉方に挙兵。 朝廷の権威をもってすれば、武士はみんな味方に付くだろうという打算があった。 …が、当の朝廷内部ですら鎌倉方と仲の良い者もいれば、これでは勝てないと諫める者がいる状態。 息子の土御門上皇すら反対しており、この見通しは正直甘かったと言わざるを得ない。 一方の鎌倉幕府も、朝廷の権威がどれほどか測りかねて動揺したのは事実であったが、結局大半の武士は鎌倉方についた。 北条政子の頼朝の恩を謳った大演説は、歴史の授業で聞いた人も多かろう(*2)。 兵力で大幅に劣る朝廷軍は各戦線で敗戦を重ね、最終的に朝廷軍は幕府軍に大敗を喫することとなった。 助けを求めた比叡山延暦寺の僧兵にも普段の政策が災いしてそっぽを向かれ、京都を守る最後の防衛戦も突破されてしまう。 事ここに至って、後鳥羽上皇が取った対応は… 幕府軍に使者を送って「義時追討の院宣は取り消します。というかあれは一部の佞臣の企てで言わされたもので、決して自分の本意じゃないんです。私は関与してません!」 一緒に戦うことを求めて御所にやってきた主要な武士を門を閉じて追い返したどころか、彼らを逮捕するように幕府側に院宣を出す。 必死になって上皇を止めていたが、上皇に逆らえず院宣の文章を作った部下を「反乱の張本人」として鎌倉に突き出す。もちろんその部下は結果として死刑に… と、部下に責任を擦り付けて自分は責任を逃れようとする、なんとも身勝手なものであった。 当然ここまでやらかしておいて言い逃れできるはずもなく、結局捕らえられた後鳥羽上皇は隠岐へと流罪。関わりある者等も連座して方々へ流された。 元々側近以外の貴族からは(前述の三種の神器の件も含めて)後鳥羽上皇の評判はあまり良くなかったこともあり、 承久の乱で敗北し失脚した後鳥羽上皇への視線は冷ややかなものが大半であり、上述の九条兼実の弟にして天台座主(天台宗および延暦寺のトップ)の慈円が書いた『愚管抄』などにも「自業自得」と書かれている。 後鳥羽の挙兵に反対していた息子の土御門上皇も「自分は関与してないけど、自分だけ京都にいるのも辛い…」と京都を離れたが、 承久の乱に関与しておらず、罪人でもない土御門上皇に関しては、幕府も上皇が居を移した四国に宮殿を作るなど相応に配慮している。 当の後鳥羽上皇は隠岐へと流されても挫けた様子はなく、都との連絡を頻繁に取り赦免運動と趣味である和歌の編纂等にいそしんでいたが、1239年崩御。 都への帰還が絶望的になった後、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔物となることがあれば、この世に災いをなすだろう。 我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との未練と無念さをにじませた文を残している。 崩御と前後して、北条泰時や四条天皇といった幕府と朝廷の要人の死が相次いだため、怨霊になったとも噂される。その怨霊を鎮めるため諡号は顕徳院とされた。 なお、この「承久の乱」を機に六波羅探題が設置されたことで、朝廷は事実上幕府に従属し、後鳥羽上皇自身どころか朝廷権力全般が凋落してしまった。 後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。 とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に次の天皇の決定を幕府に丸投げするというとんでもない行為をやらかし、その結果皇統が持明院統と大覚寺統の2つに分断される。 こうして東国武士のための政権だった鎌倉幕府は、名実ともに日本政府という立場と責務を押し付けられてしまった。 それから半世紀、正当な天皇の後継者が成長するまでの中継ぎとして即位した後醍醐天皇が今度こそ幕府を滅ぼす事ととなる。 とはいえ、その間に武士の力が高くなっていく一方、後醍醐天皇に政治力はなく、結局政権は武士の手に戻ってしまう。 その後武士から朝廷に権力が戻ったのは19世紀の大政奉還を待たなければならなかった。 一流の歌人・文化人としても有名であり、「新古今和歌集」の編纂を命じるなどし、小倉百人一首にもその名を遺した。 歌人との親交も深く、歌人としても有名な源実朝が生きている間は、後鳥羽上皇も幕府にはむしろ好意的なくらいであった。 朕は歌人の追記・修正を命じる △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] この頃になると、朝廷を支えてた御師や傀儡子やら鎌倉方についてそうだから、上皇さんの支持者って限られてたろうな 鎌倉武士たちは論外だし -- 松永さん (2013-03-26 20 57 33) DQNの切り返しすごいな。超承久の乱って…上級者だな。 -- 名無しさん (2013-11-19 17 55 05) DQNの知能レベルの高さが無駄に高い。 -- 名無しさん (2013-11-19 18 06 08) 崇徳さんとデュエットしたら? -- 名無しさん (2013-11-19 18 11 06) たしかにタトバ天皇とか居ても語感的には違和感ないなw -- 名無しさん (2014-01-24 22 19 31) 最初のDQNに草不可避w -- 名無しさん (2014-01-24 22 21 56) 御堀川帝とその后、摂政藤原教実の死は後鳥羽帝の生霊。三浦義村、北条時房、泰時、四条帝の死は怨霊だって考えられてる。これもあって歴代天皇で唯一贈名が「顕徳院」から「後鳥羽院」に変えられている -- (2014-01-24 22 22 30) しかし院政ってなんだろうな。天皇退位してから本番とか言う感じなのがなあ。 -- 名無しさん (2014-07-13 21 29 21) 天皇は政治を行うというより神事や宮廷行事を執り行うことが中心で自由がないからな。帝の地位を退いたほうが元天皇である面からも色々と自由にできるからな。それに治天の君ともなればその力は絶大だろうし。 -- 名無しさん (2015-02-04 02 44 18) タグがカッコいいと思った(小並感)。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 10 24) 上皇のイメージが強すぎて天皇と書かれると一瞬戸惑う -- 名無しさん (2015-03-07 23 21 10) ↑同意。教科書じゃ、「上皇」の肩書で掲載されてたしね。 -- 名無しさん (2015-03-07 23 53 08) 菊一文字もこの人の時代だっけ(本当に菊の紋を入れされたかどうかわからんけど) -- 名無しさん (2015-03-07 23 59 58) 高野山に住んでいた智行上人という僧侶が見た夢では、天照大御神に「このまま隠岐の地で死にゆくのは耐えられない。だから私は天下を滅ぼそうと思うのでそのことを大神に伝えに参った」と話す上皇の姿を見た、らしい -- (2015-04-06 02 29 31) 妙にインテリなDQNだな -- 名無しさん (2015-04-06 03 00 19) 承久の乱で負けて部下たちが屋敷に来て一緒に戦いましょうと申し出ると「俺しーらね。勝手に逃げれば?」「あ、幕府さん?うちの佞臣が暴走しちゃってさー」と言い逃れ。タダの夜郎自大だったっぽい。 -- 名無しさん (2017-04-24 20 10 18) ↑なのに死後は怨霊として妖怪になって祟るんだから性質悪い -- 名無しさん (2017-08-06 09 31 02) うちの恩師は「実朝の事は後鳥羽は結構気に入ってたんですよ、北条が嫌いなだけで」つってたな まあこの恩師「日本の文化は地味と派手の谷と山が続きます。東山文化の次を見なさい。安土桃山文化はド派手ですね。作った人は信長と秀吉。日本史上DQNベスト3の1位と2位です。3位は高師直」とか言ってたような人だったからなあ… -- 名無しさん (2018-01-31 17 30 53) ↑2 隠岐に流された頃は「自分は崇徳院のように怨霊にはなりたくない」と書き残したりはしてたんだけどな -- 名無しさん (2018-06-16 01 40 29) 息子の土御門天皇が最も不憫だな(´;ω;`)。3歳で後鳥羽天皇から譲位され、15歳で上皇へ (またしても後鳥羽上皇の口)、自身は鎌倉に対して反抗するべきではないと言っていたが後鳥羽上皇の暴走。後鳥羽上皇流罪のときは、自らに責任はないのに自ら進んで土佐へ流れた・・・ -- 名無しさん (2021-03-05 18 29 49) 土御門天皇もよくわからん人だよね、自分から流罪になりたがるってよほど家族仲良かったのか -- 名無しさん (2021-03-06 08 51 14) ↑6祖父の後白河法皇とやってることが一緒な辺り血筋だなあと思う。まあ祖父と違って言い逃れできなかったけど -- 名無しさん (2021-05-17 22 23 08) 学びのあるDQNだな... -- 名無しさん (2022-03-01 11 47 30) 一応後鳥羽院の低評価は、京都の貴族が鎌倉に恭順姿勢を見せるに当たって全部後鳥羽のせいにするために盛られてる可能性も高い気はするけどね。 -- 名無しさん (2022-10-31 11 21 34) ↑21崇徳上皇にとって後鳥羽上皇は自分の院政の道を潰した上に自分を流罪に追い込んだ憎き後白河天皇の子孫だからデュエットはしないと思う -- 名無しさん (2022-12-28 13 00 54) ↑むしろ崇徳上皇のたたりで後白河の孫である後鳥羽が負けて落ちぶれた感がある -- 名無しさん (2022-12-30 14 46 09) ↑後鳥羽上皇が落ちぶれたのが崇徳上皇の祟りならそこまでの間に後白河の皇子や孫の何人かが相次いで若くして亡くなったのも崇徳の祟りって事になっちゃうな。一番崇徳から恨まれてる後白河本人は長生きしたけど -- 名無しさん (2023-01-01 11 28 38) ゴッシーは祟り効かなそうな怪物感あるから…… -- 名無しさん (2023-01-01 11 37 03) 敗けて危機が及ぶとお公家さんらしく「配下がやったことです。知りません」命乞い発動したのがねえ。まだ「おのれ北条。くっ殺」だったら男としての株は保てたんだが -- 名無しさん (2023-01-14 00 08 06) 実際に明治位まで天皇家が没落したのは崇徳院の祟りって信じられていたからな。明治維新の際に明治天皇が崇徳院の御霊を京都に移して神社を建てたり -- 名無しさん (2023-01-14 00 46 49) ここ読むまで顕徳院→後鳥羽院の改諡をしらんかった。ウィキペディアとかで勉強しとけばよかった…歴史に「顕徳天皇」で名が残った可能性もあったって事か… -- 名無しさん (2023-04-14 19 00 15) 責任逃れの時の発言がクズ過ぎて笑ってしまったw -- 名無しさん (2023-06-06 06 57 35) この人が幕末から現代までの天皇でなくて良かった… 絶対どこかで暴走して諸外国から詰め寄られた時「部下が勝手にやったこと」とか言って、領土を分け与える条約結びそうだもん -- 名無しさん (2023-08-01 12 12 49) ↑孝明天皇はそれに近い。水戸に勝手に勅許を送るし、長州に陣羽織を下賜して攘夷は任せた!と丸投げさせたら、長州や取り巻きの公卿が攘夷に全力疾走。ヤバいと思い、薩摩や会津に止めて貰おうと密書を出し、長州が失脚し、今までの勅許は長州が勝手にやったこと、と責任転嫁。後は薩摩に手紙を送り会津と組んで徳川体制を守って、と依頼したら断られて薩摩を絶許。会津に宸翰を送り徳川体制を守ってほしいと依頼して、会津は期待に応えた。孝明天皇が討幕に直面したら、会津が勝手にやった事と責任転嫁して、天皇の椅子にしがみついているんだろうな。 -- 名無しさん (2024-07-21 16 28 25) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/93.html
上永谷地域 永野地域に関する歴史は永野郷土誌に詳しく記載されております。 永野郷土誌 歴史書に見る永野 空から見た上永谷の歴史 永谷天満宮 永谷天満宮 菅原道真公自刻の御神体が永谷天満宮へ 笹山城 武相国境越えの変遷 永野村鎌倉郡から横浜市へ 鎌倉郡から横浜市へ 上永谷に残る屋号 永谷に伝わる高札の 永谷川の氾濫 永野十景いまむかし 「かまくら下の道」については、下記のHPに詳しく記載されておりますので、ご覧下さい。 鎌倉古道かまくら下の道 尾根道のかまくら下の道を立体画像で示す 鎌倉古道かまくら下の道 武士たちが駆けぬけた道かまくら下の道 勝海舟と永谷地域との関わりについて、記載されています。 勝海舟の「眠雲」扁額について 平野玉城先生の永谷(永野)小学校への関わりについて、記載されています。 永野の教育を支えた平野玉城 高浜虚子一行の永谷村探勝 戦時中の永谷地域の様子について、下記のペ-ジをご覧下さい。 松根油と戦時中の永谷 太平洋戦争空襲~終戦の日 上永谷・野庭・丸山台・日限山地区の歴史散策の会の記録です 第72回歴史散策リポート 第72回歴散リポート.pdf 第28回歴史散策(上野庭めぐり)リポ-ト 第28回(上野庭めぐり).pdf こうなん 道ばた風土記より 馬洗川周辺 永谷天満宮 伊予殿根 永谷天満宮「天神囃子」については下記をご覧下さい 天神囃子 こうなんの昔ばなし より 馬を洗った尼将軍 (上永谷) 貞昌院 港南区の生い立ち 永野小学校0100(昭和60年頃の環状2号線) 永野小学校0090(昭和51年、永野小学校の全景・航空写真) 永野小学校0080(昭和44年、永野小学校下の県道を横断する子供達) 永野小学校0070(昭和41年、水田付近の県道を横断する子供達) 永野小学校0051(昭和38年頃2階建て鉄筋校舎増築) 永野小学校0050(昭和36年頃2階建て木造校舎増築) 永野小学校0044(昭和36年頃の県道の景観) 永野小学校0043(昭和30年頃マラソンを駆ける子供達) 永野小学校0042(昭和30年頃の永野小学校全景・航空写真) 永野小学校0041(昭和30年頃の運動会、未就学児童のかけっこ) 永野小学校0040(昭和30年頃の永野小学校の全景写真) 永野小学校0031(昭和25年の富士登山の記念写真) 永野小学校0024(昭和12年修学旅行の際の記念写真) 永野小学校0023(昭和11年の運動会の際の写真) 永野小学校0022(昭和11年入学式の記念写真) 永野小学校0020(昭和7年健康優良児童表彰式の際の記念写真) 永野小学校0012(大正12年尋常高等小学校の卒業式の記念写真) 永野小学校0011(大正14年皇室へ献上する繭を前にして) 永野小学校0010(大正12年鎌倉郡永野尋常小学校の写真) 永野小学校00011(明治44年日露戦争勝利を祝う会の写真) 永野小学校0001(明治44年卒業式の写真) 永野小学校0000-2(永谷学校のスケッチ) 永野小学校0000(明治25年頃の永野村役場の写真) 永谷天神と菅秀才 (上永谷) 永谷に住んだ宅間の殿様(上永谷) 桜岡小学校0130(桜台・月見ケ丘の歴史) 区内武相国境の詳細位置 勝海舟の書 ―永谷学校―(上永谷) 上永谷、丸山台、野庭、上永谷町、日限山地区 <タグに 上永谷 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
https://w.atwiki.jp/aderayu/pages/17.html
13世紀 イングランド(イギリス) ノルウェー王国 フランス ローマ神聖帝国 東ローマ帝国 ルーシ(ロシア) モンゴル帝国 宋 金 鎌倉幕府 アイヌ ポーランド ルーム・セルジューク朝 アイユーブ朝 インドのダイナスティ インド・スタルーン朝 14世紀予想(おそらく更新でいつか追加される。) 独立国家 オスマン帝国(ルーム・セルジューク朝と戦争中。) スイス(ポーランドと戦争中。) 室町幕府(鎌倉幕府と戦争中) マリーン朝(アフリカ・イスラム教サウジアラビア 、アイユーブ朝と戦争中。) ハルジー朝(インド、インドのダイナスティと戦争中。) 明(宋と戦争中。) イングランドとフランスは、百年戦争を始めた。
https://w.atwiki.jp/c100/pages/104.html
第55 千早城 すんません ■ 概要 鎌倉時代末期に金剛山西側に上赤坂・下赤坂城などとともに楠木正成が築城。鎌倉幕府軍の攻城に少数の兵で篭城した千早城の戦いで有名。登山口有料駐車場から石段600段。 ■ 駐車場 ・千早赤阪村に入ったら雨 ・ふもとの「まつまさ」に着いたが雨は増すばかり ■ 見て回る ・一応こっちにあるらしいが、この雨では何とも...・まあ晴れたらまた来るということで...(T-T) ■ スタンプ まつまさでもらう。 ■ 情報 城址開園時間 実質は昼間のみ。 城址入館料 タダ 城址駐車代 10分ならタダ 道順 府道05号で金剛山方向へ。看板あり 日付 2011/5/1 旅程 明日香→千早城→和歌山城→和歌山泊 大きな地図で見る
https://w.atwiki.jp/kuizu/pages/1592.html
さいぎょう 自作 『新古今和歌集』では94首と最も多くの歌が入選された、 「願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という歌で知られる 平安時代から鎌倉時代にかけての僧侶は誰でしょう? (2011年4月16日 漢字二文字クイズ ) 「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」という辞世の句を残し 1190年に亡くなった、代表作に『山家集』があり、百人一首に収められた歌の 歌人の一人でもある鎌倉時代初期の僧侶・歌人は誰でしょう? (2010年4月10日 Twitterクイズ大会 ) タグ:学問・その他 Quizwiki 索引 さ~と
https://w.atwiki.jp/yurupedia/pages/1872.html
携帯画像 りゅうのしん(写真右) みなみちゃん(写真左) 都道府県 東京都 肩書き 戸越公園駅前南口商店街マスコットキャラクター 公式サイト http //togoshi-hot.shinagawa.or.jp/ 解説 鎌倉時代から上明神天祖神社にやってきたいたずらっ子の「りゅうのしん」。りゅうのしんを追いかけて鎌倉時代からやってきた巫女見習い中の10歳の女の子「べんてんやみなみちゃん」。いたずらを止めさせる追いかけっこを続けている。 攻略難易度 ★★★★やや難。戸越公園駅前南口商店街のイベントにて。 名刺の有無 ? 狙い目イベント イベント情報
https://w.atwiki.jp/zensensyu/pages/495.html
足利将軍家 737 名前:水先案名無い人 :05/02/21 04 24 16 ID +ymq477e0 「フォーマットにのっとった足利家を見たいかーッ!!」 「オーーーーー!!!!」 「ワシもじゃ!ワシもじゃ、みんな!!」 全足利家入場!! 「逆臣」は生きていた!! 更なる研鑚を積み武家政権が甦った!!! 元祖!! 足利尊氏だァ――――!!! 幕府の混乱はすでに我々が体現している!! 観応の擾乱足利直義だァ――――!!! 攻められしだい逃げまくってやる!! 地味な二代目将軍 足利義詮だァッ!!! 武家の政権なら関東の安定がものを言う!! 尊氏三男 鎌倉公方 足利基氏!!! 真の日陰を知らしめたい!! 複雑な生い立ち 足利直冬だァ!!! 将軍は京都の主だが東日本なら全地域オレのものだ!! 二代目鎌倉公方 足利氏満だ!!! 反乱準備は完璧だ!! 三代目鎌倉公方 足利満兼!!!! 全室町のベスト・ガバナンスは私の治世にある!! 「一休さん」の将軍様が来たッ 足利義満!!! 臣号なら絶対に名乗らん!! 勘合貿易を中止させたる 四代将軍 足利義持だ!!! インデペンデンス・ウォー(永享の乱)ならこいつが怖い!! 鎌倉のアンビシャス・クボウ 足利持氏だ!!! 京都将軍家では酒毒の若君が早死にだ!! 五代将軍 足利義量!!! もめごとの無い後継者選びをしたいから神意任せ(くじ引き)になったのだ!! 恐怖政治を見せてやる!! 足利義教!!! 歴史書の扱いが軽いとはよく言ったもの!! 九歳の将軍が在職 八ヶ月で夭折する!! 短命七代目 足利義勝将軍だ―――!!! 慈照寺銀閣こそが東山文化の代名詞だ!! まさかこの文化人がきてくれるとはッッ 足利義政!!! 後継ぎにと言うから還俗までしたッ 実子が生まれて一切放置!!!! 義政の実弟(西軍)プリンス 足利義視だ!!! この戦いは室町の合戦ではない戦国の合戦なのだ!! 御存知応仁の乱 足利義尚!!! 将軍の居場所は今や京都にない!! オレを担ぎ出す奴はいないのか!! 足利義材(義稙)だ!!! 実権無あァァァァァいッ説明不要!! 流浪の人生!!! 流れ公方!!! 足利義澄だ!!! 将軍は権力を使えてナンボのモン!!! 超堺大樹!! 「堺幕府」から足利義維(義冬)の登場だ!!! 将軍位はオレのもの 邪魔するやつは細川に殴らせ六角に蹴らせるだけ!! 室町幕府十二代将軍 足利義晴 栄光を取り戻しに京都へ戻ったッ!! 剣豪全将軍チャンプ 足利義輝!!! 手紙魔ぶりに更なる磨きをかけ ”最後の将軍”足利義昭が帰ってきたァ!!! 今の鎌倉に支持者はないッッ!! 古河公方初代足利成氏!!! 将軍義政公の弟君が今箱根を越えられない!! 堀越まで 足利政知だ!!! 早雲の前でならオレはいつでもヤラレ役だ!! 燃える堀越館 足利茶々丸 本名で登場だ!!! 古河の公方はどーしたッ 戦乱の関東 どこかに消えたッ!! 治すも壊すも無力なまま!! 足利政氏だ!!! 特に理由はないッ お家騒動が続くのは当たりまえ!! 父上は追放だ!!! 三代目古河公方! 足利高基がきてくれた―――!!! 武者修行で磨いた暴力二男!! 房総小弓のデンジャラス・クボウ 足利義明だ!!! マニアだったらこの人も思い出せ!! 古河四代 足利晴氏だ!!! 超一流名門の超三流の末路だ!! 生で拝んでナミダグミやがれッ 小田原北条家の養い人!! 足利義氏!!! 名族の血脈はこの娘が存続させた!! 旧古河公方家の切り札!! 足利氏姫だ!!! 古き名族が帰ってきたッ どこへ行っていたンだッ お家再興ッッ 秀吉は貴種を待っていたッッッ 喜連川国朝の登場だ――――――――ッ 加えて室町名物守護大名の反乱、土一揆や一向一揆発生に備え 超豪華なリザーバーを4名御用意致しました! 義満の弟 足利満詮!! 四代目なりそこね 足利義嗣!! 結城合戦の悲劇!! 足利春王・安王!! ……ッッ どーやら十四代将軍は三好氏に担がれて上洛中の様ですが、 就任次第ッ 腫れ物で病死致しますッッ 関連レス 742 名前:水先案名無い人 :05/02/21 05 06 11 ID /F7AMLPi0 737-741 GJ! コメント 名前
https://w.atwiki.jp/zsphere/pages/147.html
金毛九尾の狐「玉藻前」が退治されて後、那須野ヶ原で毒石となったという伝説。曹洞宗の僧、源翁和尚が柱杖(もしくは鉄槌)にて打ち砕いたとされる。→源翁 源翁の破砕した殺生石が飛来したという謂れ地は多くある。『源翁能照和尚行状記』では白河の常在院と会津磐梯山に、『伯耆民談記』では那須の湯村、白河常在院、美作高田の化生寺に飛来したと伝える。 他にも岡山市上高田の五后社(『岩田村誌』)、愛知県額田郡岩津村の村績神社の境内にも殺生石の残片と信じられた霊石がある。 美作の化生寺には、境内に殺生石を祀る玉雲大権現(高田稲荷)がある。玉雲と書いて「たまも」と読む。 京都、真如堂には「鎌倉地蔵」と呼ばれる、「飛散した那須野の毒石の破片を刻んで作ったと伝えられる地蔵」が安置されている。 縁起書によれば、元々鎌倉にて信仰を集めていたが、甲良豊後守の夢枕にて京都への移動を告げ、豊後守の尽力により京都へ移されたと言う。 ここで出てくる甲良氏は工匠の家柄で、慶長十一年の江戸城改築の他、日光東照宮造営において大棟梁を勤めたという家柄。 『江戸の怪異譚』の中で堤邦彦氏は、大工言葉で石を砕くための鉄槌を「げんのう」と呼ぶ事などとも合わせ、源翁和尚と殺生石の伝説も甲良氏を中心とした大工職たちが広めていったのではないかと述べている。 参照:『江戸の怪異譚』 なお、上記「真如堂縁起」に、鎌倉地蔵を京都へ移動させた甲良豊後守宗広を慈眼大師天海の「肉弟」とする記述がある。→天海 (『江戸の怪異譚』堤邦彦)
https://w.atwiki.jp/seiya189/pages/14.html
役職一覧 位階 将軍直属 管領 評定衆 政所 問注所 侍所 小侍所 鎌倉府 地方 動員兵数 正一位 征夷大将軍 --- --- --- --- --- --- --- --- 10000 従一位 --- --- --- --- --- --- --- 鎌倉公方 公方 9500 正二位 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 9000 従二位 --- 管領 --- --- --- --- --- --- --- 8500 正三位 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 8000 従三位 --- 管領代 --- --- --- --- --- 関東管領 --- 7500 正四位上 --- --- --- 執事 --- 所司 --- --- --- 7000 正四位下 --- --- 評定衆 執事代 執事 所司代 --- 政所執事、侍所所司 --- 6500 従四位上 --- --- 引付頭人 --- 執事代 --- --- 評定衆、問注所執事 --- 6000 従四位下 --- --- --- 政所代 --- --- --- 引付頭人 九州探題 5500 正五位上 --- --- --- --- --- 少所司代 --- --- 西国探題 5000 正五位下 --- --- --- --- --- --- 所司 --- 奥州探題 4500 従五位上 --- --- --- --- --- --- --- 小侍所所司 羽州探題 4000 従五位下 御相伴衆 --- --- --- --- --- --- --- --- 3500 正六位上 国持衆、外様衆、御供衆 --- 引付衆 --- --- --- --- --- 大国守護 3000 正六位下 --- --- 開闔 --- --- 開闔 --- --- 大国守護 2800 従六位上 --- --- --- --- --- --- --- --- 上国守護 2600 従六位下 --- --- 開闔代 --- --- 目付 --- --- 大国守護代 2400 正七位上 --- --- --- --- --- --- --- --- 上国守護代 2200 正七位下 --- --- 祐筆 寄人 寄人 寄人 --- --- 中国守護 2000 従七位上 --- --- --- --- --- --- --- --- 下国守護 1800 従七位下 --- --- --- 公人 --- 小舎人 --- --- 中国守護代 1600 正八位上 --- --- --- --- --- --- --- --- 下国守護代 1400 正八位下 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 1200 従八位上 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 1000 従八位下 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 800 大初位 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 400 少初位 --- --- --- --- --- --- --- --- --- 200 ※鎌倉府、地方に属する役職に就任できるのはその地方に所在する参加者のみ
https://w.atwiki.jp/nihonnokokoro/pages/29.html
4月3日 田母神敏雄講演会 来る4月3日の19 00から田母神敏雄元航空幕僚長をお招きした講演会を「日本の心をつたえる会」が主催いたします。 日時:2010年4月3日 会場:鎌倉芸術館 前売り券:2000円 当日券:2500円 会場サイト講演会案内 前売券お申込窓口 電話 090-1258-3344 受付時間 月・水・金 09 00~13 00 FAX 0487-43-0926 E-mail メール 郵送 〒247-0056 神奈川県鎌倉市大船2-20-34 林潤事務所 ≪チケット発送について≫ 送金確認後郵送でお届けします ≪送金先口座≫ ゆうちょ銀行 記号 10360 番号 62735311 銀行から送金の場合 ゆうちょ銀行 〇三八支店 普通 6273531 日心会講演会事務局