約 9,617 件
https://w.atwiki.jp/shuin/pages/212.html
建長寺 建長寺(鎌倉三十三観音) 建長寺(びんずる尊者) 建長寺・御朱印帳 神奈川県鎌倉市山ノ内8
https://w.atwiki.jp/shuin/pages/588.html
覚園寺 覚園寺(鎌倉十三仏) 神奈川県鎌倉市二階堂421
https://w.atwiki.jp/asaahingaeaw/pages/281.html
日本 金沢八景園 鎌倉浄妙寺園 鎌倉長寿寺園 広島縮景園 岡山後楽園 水戸偕楽園 北陸兼六園 金戒光明寺庭園 ルーマニア 広島鹿府園 広島妃幌園 御関懋兒園 本田氓篭園 南橋祁敍園 茨越本飛園
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/3462.html
光照寺 神奈川県鎌倉市、光照寺の御朱印「一遍上人法難霊場」です。 ★住所 神奈川県鎌倉市山ノ内827 -
https://w.atwiki.jp/hayamaiso/pages/6.html
京急バス 時刻表 鎌倉駅 京急バス 5番のりば 鎌倉駅から浄妙寺 時刻表1 時刻表2
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/52449.html
登録日:2022/10/30 Sun 23 23 23 更新日:2024/08/06 Tue 22 05 53 所要時間:約 40 分で読めます ▽タグ一覧 中世 北条氏 北条義時 吾妻鏡 執権 大河ドラマ主人公項目 宰相 所要時間30分以上の項目 承久の乱 日本史 朝廷 武士 江間小四郎 稀代の朝敵 鎌倉幕府 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 非道の逆臣 今ハ義時思フ事ナシ。 義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。 義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル。 ~『承久記』より~ 北条(ほうじょう)義時(よしとき)(1163年~1224年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の豪族・北条氏の一門(*1)。 1185年(所説あり)に創設された、史上初の完全独立の武家政権「鎌倉幕府」、その黎明期において中心的な位置に立った人物。 ――そして、後にも先にも唯一と言っていい「ある偉業」を成し遂げた事で、日本史上最大最強の「朝敵」として歴史に名を残す人物である。 ◆前提 義時、そして彼が生きた時代を語る上で欠かせない史料として挙げられるのが『吾妻鏡(あづまかがみ)』。 鎌倉幕府草創期から中期までの各種経緯や歴史を記す書物である。 同時代を検証する上で非常に重要な一線級の史料……なのだが、一部怪しい点もあったりする。 というのも、この『吾妻鏡』、義時の子孫にして鎌倉幕府の最高権力者たる北条一族寄りの記述が多い。 つまりは、過去の出来事を記す上で、北条一族にとって都合のいい形で脚色・修正を行っている感ありありなのだ。 さらに、記述が中途半端な時期で終わっている点や、成立してからかなり早くに散逸してしまい、現在に至っても欠損箇所が多いという点から、 重要な史料であることは疑いようがないのだが、その記述の正確さ・適切さについては議論の余地を残すものとなっている。 かといって、『吾妻鏡』を「北条家(一族)を称賛するためのプロパガンダ」と断ずるのも間違いと言える。 というのも、北条家に滅ぼされた武家を絶賛したり、北条家の陰謀をわざわざ記述したり、挙句義時自身を陰謀の黒幕とほのめかすなど、 「筆者はどっちについてんだ」とツッコミたくなる程、北条家への厳しい記述も散見されるからである(*2)。 他に同時代を検証する上で使われるのは、藤原摂関家出身で天台座主(*3)も務めた僧、慈円が記した『愚管抄(ぐかんしょう)』がある。 こちらは初代天皇から鎌倉時代初期の順徳天皇までに関する歴史について記されおり、どちらかと言うと朝廷における各種事情が中心となって記されている。 こっちもこっちで同時代の重要情報は多数記述されているが、何せ京に身を置いた人物の記録なので遠く鎌倉の事情は精度が粗くなりがちで、ほかの日記等との食い違いもままある。 その他にも、項目冒頭の文の元である軍記物語『承久記(じょうきゅうき)』(*4)など、この時代を読み解く文献はいくつかあるが、本項目では原則『吾妻鏡』に準拠しつつ、必要に応じて出典の補足を加えていく。 ◆来歴 〇青年期~伊豆の倅から将軍の側近へ~ 1163年、義時は伊豆国に在する豪族・北条(ほうじょう)時政(ときまさ)の次男として生まれる。 後に娘婿の源頼朝と、彼による源氏復権・鎌倉幕府成立を大いに助け、初代執権の立場に付いたとされる父の時政だが、 義時が産まれた時点ではこれといった官位も持たず、北条一族もまた、交通の便の良い場所に拠点を持ってはいたものの、 取り立てて高い権力や地位があったわけではなかった(一応、有力領主伊東祐親と縁戚関係にあった)。 ……というか、この時期の北条一族に関する文献が碌に残っていないので「よくわからない」と言うのが実情。 逆に言えば「当時の文献に書かれない程度の存在だった」とも言える。 あくまで一介の地方在住の豪族に過ぎなかったのだ。 加えて言えば、時政の後を継ぐのは長男で嫡子の北条(ほうじょう)宗時(むねとき)であり、今でこそ義時は「北条義時」の名で知られているが、 『吾妻鏡』でも、江間に移住してから任官するまで「江間義時」と記されており、おそらく当人も自分が北条家を継ぐとは思っていなかったと思われる。 一介の地方の豪族の子、さらにその嫡子でもないとなれば、当然義時にそこまで権力や地位があるわけでもなし。 「このまま何もなければ、一介の地方の豪族として終わっていた」とも考えられる程度の存在だった。 そんな彼――ひいては北条一族の転機は、義時が15、6歳の頃。 1159年に起きた「平治の乱」に敗れ、伊豆に流刑となった若武者・源(みなもとの)頼朝(よりとも)と縁を結ぶ事から始まる。 流人として伊豆に来た頼朝は、先の乱で没した父祖を弔いながら同地で過ごす内、ある女性と出会い、婚姻関係を結ぶ。 その女性こそ、時政の娘であり義時の姉にあたる政子(まさこ)(*5)であった。 図らずも北条時政とその一族は、源氏の嫡流たる頼朝と姻戚関係を結ぶ事になった。 が、当時は平清盛率いる平家一門の全盛期。 「平家にあらずんば人にあらず」とまで称された時代において、反逆者たる源氏の嫡流・頼朝と繋がりを持つというのは、ある種の自殺行為に等しいとも言えた(*6)。 ところが、頼朝と政子が結ばれて少し経った頃の1180年。 時の最高権力者・後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が、平家追討の命令を全国の源氏へ発し、自らも挙兵を画策した事で事態は急転する(*7)。 以仁王自身は挙兵に失敗し程なく追討されたが、この事態が自身への危機につながると判断した頼朝は呼応する形で挙兵を決定。 伊豆国を含めた坂東(ばんとう)(現在で言う関東一帯を指す)の豪族に協力を呼びかけ、勢力を集め始めた。 その豪族――坂東武者たちの中には、頼朝の舅である時政も含まれていた。 如何なる判断があったかは定かではないが、時政は頼朝の挙兵という大博打に、一族を挙げて乗っかる事を決めたのだ。 そして義時も、父に従う格好で義兄の打つ大博打に乗るハメになった。 当然その行動は、平家及び平家側の豪族にとっては討伐の対象であり、挙兵後程なくして両者が激突した「石橋山の戦い」において、手勢に劣る頼朝側は完膚なきまでにボロ負けした(*8)。 義時も兄・宗時を失った上での逃走を余儀なくされ、源氏再興は夢と消え……たりさせなかったのが、頼朝の豪運のなせる業か。 かろうじて逃げた頼朝一行は安房国(現在の房総半島南部)で再度勢力を結集させ、先の敗戦時からは比べ物にならない軍勢を確保(*9)。 一方義時は父・時政と共に甲斐国(現在の山梨県)へ向かい、同地で頼朝と同じく挙兵した甲斐源氏の武田信義(*10)と合流。 双方が合流し大軍勢をとなった源氏の一軍は、「富士川の合戦」において平氏の軍勢を戦わずして撤退に追い込む(*11)など、情勢は完全に頼朝ら源氏側へと逆転していた。 時期を同じくして、頼朝は父・源義朝が住んでいた地「鎌倉」へと入り、以後同地を拠点とした勢力――のちの「鎌倉幕府」の基礎を築いていく事になる。 ……なお、石橋山の敗戦からここまでの間、ものの一ヶ月ちょい。 とんでもない復権ペースである。 義時もそんな義兄にして主君・頼朝に随行する形で鎌倉に入り、側近として活動していく。 頼朝の寝所の護衛に選ばれたり、壇ノ浦で平家を滅亡させた追討軍、奥州藤原氏の征伐軍に従軍して武功を立てるなど、着実に功績を立てていた。 また、姉の政子が引き起こした「後妻打ち」の一件(亀の前事件)で父・時政が激怒し、一族を引き連れて一時期伊豆国に戻った時には、 義時は父に従わずに鎌倉に留まり、これによって頼朝から称賛されてますます側近として重用されることとなった。 余談:ブチ切れ政子の後妻打ち 「後妻(うわなり)打(う)ち」とは、簡単に言うと「離婚した元夫の再婚相手に対して、元妻が突撃をかけて家を破壊する行為」。 おっかないにも程がある話だが、平安時代から江戸時代前期頃までは、わりと珍しくもない風習だったりする。 より時代が下った江戸時代頃においてはルールめいた事まで定まってたらしく、 条件は「離婚から再婚までの期間が一ヶ月以内の場合」 事前に「何月何日の何時に突撃する」と告知する 単身でなく徒党を組んで向かうも良し。相対する後妻側も同様に応戦して良し ……などなど、やってる事は物騒極まりないが、妙に律儀な面もある慣わしだったりする。 もっとも、古い時代においてはそんな律儀な事を毎度やっていたわけではないらしく、加えて離婚していなくても夫の妾や愛人の家へ妻が襲撃をかます、というのもあったりしたという。 ……とまぁ、「後妻打ち」についての説明はこの辺で止め、政子の後妻打ちに話を戻すと、 そもそもの話として、彼女の夫である頼朝は、鎌倉幕府の創始者であり稀代の大英雄であるのは間違いないのだが、同時にかなりの女好きでも有名だった。 ただ、「英雄色を好む」のは洋の東西を問わずよくある話な上、当時は子供が成人前に亡くなることは珍しくなく、 従って、「確実に後世に血を残す」という意味でも、正妻の他に愛妾などを持つことは、自分の“跡”を考えるなら(頼朝の視点では)当然と言えた。 問題は、政子が(当時の価値観に於いてはかなり際立って)その手の話に敏感だった事にある。 ……早い話、政子はかなり嫉妬深かったのだ。 もっともこれは、正室と言えど政子の出自が「一介の地方豪族の娘」という、かなり貧弱な物だった事も考慮すべき話ではある。 夫・頼朝は河内源氏という確固たる名家の嫡男にして、武家の棟梁。 それこそ嫁の来手など数知れずである。 頼朝の父の義朝も正妻に尾張の名門神社、熱田神宮の大宮司の娘を迎え、他にも三浦や波多野といった関東で名の通った豪族の娘を側室としている。 万が一側室に名家の女性が入り、しかも後継者たる男児を産もうモノなら、正室であってもその威厳や立場はあっという間に崩れ去る。 そうした危機感と、政子本人も結構気性が荒いというか豪胆というか、性格面でのアレコレが相まって、この一件に繋がった。 事が起きたのは、1182年。 当時頼朝は「亀の前」と呼ばれる女性と懇意になっており、足繁く通い詰めていた。 当然、政子にバレない様にこっそりと、しかもわざわざ自宅から少し離れた部下の邸宅に亀の前を預けたうえで、である(ヲイ)。 が、程なくしてこの話は義母を通じて政子の耳に入ってしまう。 しかも政子、この直前に(鎌倉関係者待望の)長男を出産したばかりという、「火に油」どころか「山盛りのダイナマイトにガソリンかけて火をつける」が如き状況。 (つまり頼朝、まさかの「身重の妻がいる中で別の女と浮気」という、現代におけるクズ男ムーブメント全開の所業をやらかしていた。) かくして政子の怒りは怒髪天。 「後妻打ち」の決行を決意する。 だが自身が直接カチコミかけるわけにはいかず(出産して間もないのだから当然だが)、政子は義母の兄である牧宗親(まきむねちか)に「後妻打ち」を命じた。 鎌倉の最高権力者の妻、所謂「御台所」の指示とあっては逆らう理由もなし。 かくして、牧宗親とその郎党により(政子の意向が適切に反映されたのか加減を間違えたのかは図りかねるが)亀の前が住む邸宅は盛大に破壊されたのだった。 (注:邸宅は前述の通り、頼朝の家臣の所有物です) なお、亀の前並びに邸宅所有者は命からがら逃げおおせたという(容赦ねえ)。 後日それを知った頼朝はというと、こっちもこっちで大激怒。 宗親本人を呼びつけ大叱責をかました。 「いや、全面的にお前が悪いだろ」とか言ってはいけない。いや言いたくもなるが。 ただ、理由はどうあれ、自身の膝元たる鎌倉の地での打ち壊しという狼藉を行った上に、 妻=御台所の指示とはいえ、主君たる自分に事前に報告など一切しなかったという所業を頼朝は看過できなかった。 そこで頼朝は、牧親宗への罰として「宗親の髻(もとどり)(*12)を切り落とす」という行為に及んだ。 そもそも「髻」に馴染みがない現代人目線では「罰が髪を切るだけ?軽くない?」と思うだろうが、 当時において髻は人目には晒さない(通常「冠」と呼ばれる被り物を頭に乗せて隠す)ものであり、 他者のコレを無理矢理人目に晒すどころか切り落とすというのは、現代風に言えば「公衆の面前でズボンどころかパンツも下ろして晒す」に等しい。 つまり、身体や財産に明確なダメージこそ負わないが、メンタル面においてはかなりヒドい処罰を下したのだった。 が、この処遇に怒ったのが北条時政。 時政にとって宗親は妻の兄、つまり義兄に当たる人物であった。 娘の指示を受けて行動しただけの義兄が娘婿にとんでもない恥辱を与えられたばかりか、 その理由も元を辿ればその娘婿の女癖の悪さにあったとあれば、流石に時政も黙ってはおられず、 その抗議の意志を込め、自分のみならず一族揃って伊豆国へ立ち退くという行動に出たのであった。 その後の顛末についてだが、現存する『吾妻鏡』において、翌1183年に関する記述が欠落しているため、詳細は不明となっている(*13)。 現状分かっているのは、1182年末時点で 亀の前は別の御家人の屋敷に移った(以後の消息は不明)。 頼朝は相変わらず亀の前を寵愛した(懲りねえのかヲイ) 更にキレた政子の命で、打ち壊された家の所有者である御家人が流罪になった(ヒデェ) といった事である。 え? 大体頼朝が悪いって? ご も っ と も まさに全部大泉頼朝のせい また私生活においても、長男・泰時(やすとき)を授かり、幕府の女官だった比企家の令嬢(姫の前)と猛アプローチの末結婚するなど、順風満帆であった(*14)。 そして1192年、頼朝が朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、ここに頼朝こと「鎌倉殿(かまくらどの)」と、その部下となる武将たち「御(ご)家(け)人(にん)」による新たな統治機構が確立された。 ……もっとも、この時点での義時は、数多くいる御家人の一人、という立ち位置に過ぎなかった。 先にも触れたが、各種文献においてこの時期の義時は「北条義時」ではなく「江間(えま)義時(よしとき)」ないし「江間(えま)小四(こし)郎(ろう)」と書かれていた事が多かった。 「江間」は義時が拝領した土地の名前(現在の静岡県東部の一部)で、「小四郎」は通称。 この時代、親の姓を堂々と名乗れるのはもっぱら嫡男、ないし本家筋と認められた人間に限られており、 義時もこの時点では、「江間」という北条分家の筆頭に過ぎなかったとされている(*15)。 が、無論ここで終わるのが彼の人生ではない。 今日において彼が「江間小四郎」ではなく「北条義時」として歴史上で語られる所以は、ここからが本番である。 〇壮年期~はじまりの十三人、そして頂へ~ 1199年。初代鎌倉殿である頼朝は、年明けから突如体調を崩し、程なく急死。 頼朝と政子の長男・頼家(よりいえ)がその跡を継ぐ事になる。 当時の鎌倉幕府の政治機構は、最高権力者である鎌倉殿が直接的に政治上の判断・決定を下す「親裁」であった。 だが頼家就任からわずか数か月後、この直接裁断は事実上停止。 政治上の各種判断については、御家人の中から選抜された「宿老」十三人による合議を踏まえて決定する事とされた(*16)。 そしてその「十三人の合議制」のメンバーには、時政と共に義時もその名を連ねており、事実上この父子が鎌倉における最高意思決定機関の一翼を担う事になった。 かくして統治機構が次なる形へと変わりだす一方、新たに沸き起こりつつある問題があった。 鎌倉の創始者にして絶対的な権威として君臨していた頼朝は、御家人たちにとって尊敬と共に畏れも抱く存在――謂わば御家人に対する「行動の抑制役」も担っていた。 それが突然喪失し、跡に就いたのは、生前頼朝が後継に定めていたが、年若く場数も踏んでいない頼家。 保身にしろ野心にしろ、元来自身の領土確保を絶対としていた御家人たちにとって、揺れ動く情勢は必然的に様々な行動を起こさせる。 結果、それは互いと、ないし大勢と干渉し、せめぎ合い、 そして、ぶつかり合う。 平家が壇ノ浦の海に消えてから、およそ15年。 外に敵が居なくなった組織で生じる必然的問題――内側での権力闘争が、鎌倉の御家人同士ではじまりを告げたのだ。 必然、義時も御家人の一人、そして十三人の宿老の一員として、幕府中枢での権力闘争を生き抜く事を余儀なくされる。 手始めは、頼家が鎌倉殿に就任した年、1199年の末(早っ)。 通称「梶原景時(かじわらかげとき)の変」から始まった。 まず、事件の名前にあがった「梶原景時」という人物について説明しよう。 梶原景時は、頼朝の配下になった時期こそ少々遅い(*17)が、教養の深さや事務・実務能力の高さから頼朝の信頼厚く「一の郎党(一番の家臣)」と称された人物であった。 このため、頼朝の没後も引き続き頼家の側近として重用される事になったのだが、そんな彼の鎌倉における仕事は、御家人たちの勤務審査や取り締まりといった、現代でいう監査部門であった。 が、組織においてこの手の内部監査業務、悪い言い方をすれば「人の仕事にケチをつける事が仕事」の人間が好まれないのは、古今東西同じ。 加えて景時は、ちょっとでも言動が怪しかったりすると「アイツは謀反でも企んでるのでは」と勘ぐったり、 他人の仕事のダメっぷりをオブラートゼロ(むしろ若干誇張込み)でまとめ上げ、しかもそれらを忖度無しのドストレートに頼朝へ進言する事が度々あった(*18)。(*19) 無論、彼の立場からすれば、疑惑の芽を潰したり問題行動のある者について報告するというのは至極当然なのだが、当人の言動も相まって御家人からは心よく思われない状態。 結果「仕事自体は有能だが、同僚からの印象はすこぶる悪い」という立ち位置にあった。まあようするにこいつみたいなもの ――そんな人物が、急激に動き始める情勢下で真っ先にターゲッティングされたのは、必然と言えた。 事件の発端は御家人の一人、結城(ゆうき)朝光(ともみつ)のボヤきにあった。 彼もまた頼朝に従い挙兵した一人であったが、頼朝の死後、始まった鎌倉幕府の不穏さ加減に、 「『忠臣二君に仕えず』というが、自分もそれに倣いあの時(頼朝の死後)出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」 と口にした。 現代風に言えば「経営者が変わった結果会社の空気が険悪化した事に辟易してる古参サラリーマンの愚痴」レベルの一言なのだが、これがよりによって梶原景時の耳に入ってしまう。 先のボヤきを景時フィルターに通すと、 「忠臣二君に仕えず=仕えるべきなのは先代であって当代の頼家様ではない」 「今の世はなにやら薄氷を踏むような思い=頼家様の治世に不満がある」 という感じで変換された結果、景時はこれを「鎌倉殿(頼家様)への誹謗である」と断じ、朝光の処罰を求めたのだ。 ところが、この景時の対応は、ある女官を通して朝光本人に伝わり、困った朝光が他の御家人に相談。 話は更に御家人の間へ伝播していき、同時にその理不尽さ加減と、これまで積もり積もった景時への不平不満が相まって大・爆・発。 結果、御家人66名による「景時への糾弾・排斥」を記した連判状が作成され、鎌倉殿の手元へ挙げられる事になった。 頼家からこの連判状を見せられ説明を求められた景時だが、特に抗弁をすることも無く、自所領に一族を連れて退去する自主謹慎的な対応を取った。 一方頼家にとって景時は、父の代から仕え自分も重用していた側近であったが、多数の御家人がこうも反発している現状で彼を庇いきる事は出来ず、結果鎌倉からの追放という処分を下すのだった。 そして、年が明けて1200年。 景時は突如一族を率い出立。 一路京を目指して進み始める。 『吾妻鏡』では「京に上洛し九州の勢力を集め、別の人物を将軍に立てて反乱を企てた」とされるが、その道中、駿河国(現在の静岡県静岡市付近)にて在地の武将らに発見され、交戦。 最終的に景時以下、梶原一族は同地にて命を落とし、滅亡する事になった。 さて、ここまで読んで「本件と義時関係なくね?」と思われたかもしれない。 確かに景時排斥の理由となった「66名による連判状」に義時及び北条一族の名前は無く、深く関与したと思しき記述も無いのだが、 一方で本件の背後では北条一族が暗躍していたのでは、という推測もある。 何しろ、本事件のきっかけとなった「景時が朝光を処罰しようとしている話」を朝光本人に告げたとされる女官は、北条時政の娘であり、義時の異母姉妹に当たる「阿波(あわ)局(のつぼね)」だったのだ。 更に梶原一族が滅んだ駿河国の守護(*20)を当時務めていたのは、北条時政。 そもそも梶原景時自身、時政・義時と共に「十三人の合議制」の一人に加わっており、 同じ立場に居た北条親子が本件に全く感知していないというのは考えにくく、時政ないし義時が暗躍していた可能性もぬぐい切れないのが実情である。 さてはともかく、(設立からたった一年で合議制のメンバーが一人抜けたが)事件は決着し、ひとまず鎌倉は平穏に…… ならなかった(知ってた)。 梶原一族の滅亡から3年後(だから早くね?)、次なる騒乱「比企(ひき)能員(よしかず)の変」の幕が上がる。 二代目鎌倉殿となった頼家には、後見の立場として北条と並ぶ豪族の一つ・比企(ひき)家がついていた。 その当主が「比企能員」。 彼もまた「十三人の合議制」の一人である。 彼の母は先代将軍・頼朝の乳母であり、自身は頼家の乳母父、そして娘は頼家の妻と、北条家と同様に将軍外戚としての地位を固めつつあった。 加えて1198年に娘が頼家との間に嫡男・一幡(いちまん)を産んだことで、その権勢は否が応でも増していった。 この状況は、頼朝の外戚であった北条家当主・時政にとっては非常に危機感を抱くものであり、 実際鎌倉殿が代替わりして以降、北条一族は「先代鎌倉殿の外戚」というなんとも微妙な状況に陥っていた(*21)。 さらに、北条氏に近かった阿野全成法師(生前の頼朝による粛清を免れた唯一の弟)(*22)が頼家の命令で処刑されるなど立場は悪化の一途をたどった。 が、頼家就任から4年後の1203年、転機が起こる。 かねてから体調不良が続いていた頼家の病状が悪化、8月には危篤状態に陥ったのである。 これを受けて御家人たちは急ぎ今後に関する協議を始めるのだが、ここで「誰を後任の『鎌倉殿』にするか」で、比企と北条が対立する。 比企側は頼家の嫡男である一幡を後継と考えた一方で、北条側は頼家の弟(頼朝と政子の次男)である千幡(せんまん)を後継に据えようと画策。 ……双方ともに「自分が外戚として振る舞える人物を後釜に」という(わかりやすすぎる)思惑がモロに出た後継者選出議論は当然紛糾。 譲歩案として北条から「西と東それぞれを分割して相続する」という案も出されたが、比企はこれに反発。 事態に決着が見えない中、9月になって北条時政とその一族が取った手段、それは、 仏事を理由に自宅に呼び寄せた比企能員を、 完全武装した状態で待ち構え、 その場で誅殺したのである。 ……道理もへったくれもない超絶強硬手段であるが、『吾妻鏡』においては、 分割相続に反発した比企能員が、病床に伏した頼家に北条時政追討の許諾を求める これをたまたま政子が障子の影から立ち聞き(家政婦政子は見た)し、時政に連絡(*23) 時政はこれを理由に比企能員討伐を決め、自宅に呼び寄せた上で誅殺 と、「やられそうになったからやりかえした」的な理由を上げている(*24)。 (にしてもその対処はないだろ、と突っ込みたくなる所業だが) が、ここで話が終わらないのが鎌倉のサツバツ御家人。 能員に随行していた従者が逃げおおせた事で、比企一族は事態を把握。 前後策の協議か、はたまた応戦のためかは不明瞭だが、一幡が住む屋敷に一族で集結し立て籠もったのだ。 それを知った時政はその対応を「謀反」と断じ、討伐を決定。 義時を筆頭に配下の御家人に出動を命じ、戦力差も相まって比企の一族は悉く討ち取られた。 ――比企能員が時政邸に赴いてから、ここまでわずか一日足らず。 将軍外戚として権勢を誇った比企一族は、あまりにも呆気なく滅亡するに至った(またかい)。 ……が、この話、まだここでは終わらない。 それは、頼家と一幡の事である。 先の通り、比企一族は一幡の屋敷に集結し、討伐軍と応戦の末討ち死にした。 では、屋敷に住んでいた一幡(当時6歳)はどうなったかというと、 比企一族討伐の過程で命を落としている。 しかもその顛末も複数の話があり、 『吾妻鏡』では、 「義時を大将とする軍勢に攻められ、もはやこれまでと判じた比企側が屋敷に火を放ち自決」「一幡も炎の中に消え、着ていた服の一部が焼け跡から発見され死亡が確定した」 と書かれる一方、 『愚管抄』においては更に酷い話で、 「そもそも時政らは一幡を殺す目的で軍勢を送り込み、比企一族がそれに応戦した」 「一幡は母が屋敷から連れ出して逃走するも、数ヶ月後に義時の配下に発見され殺された」 という、最早救いもへったくれもない有り様。 ついでに言うと、しれっと義時が「直接的に介入している」事も留意すべき点である。 流石にこんなことをしては比企家の人間と夫婦関係を続ける訳にもいかず、戦後に姫の前と離婚。失意のうちに彼女は4年後、この世を去った。 ……だが、輪をかけて残酷な事態になったのは、頼家であった。 事の発端は8月に頼家が危篤に陥った事であるが、実はその後、奇跡的に回復を遂げている。 ただし、比企一族が滅亡した数日後に、であるが。 しかも、それに前後する形で鎌倉側は「頼家が病死したので次の将軍に千幡を据えたいのでよろしくお願いします」という通知を朝廷へ送っている。 この時点で頼家は危篤ではあったが生きていたのに、である(*25)。 オマケと言うかとどめと言うか、この「頼家病死につき将軍交代を願う」通知、なんと比企家討伐の前日、遅くとも当日早々に発送されていたと言う記録もある。 コレが正しいのなら、比企家の討伐と頼家の死亡届提出は、最初から既定路線だった事になる。 (死体蹴りにも程がある。いや頼家死んでないけど) 頼家からすれば、一時期意識不明で臥せっていた病床から目を覚ましてみれば、 「いいですか、あなたが眠っている間にあなたの舅とその一族は皆殺しになりました。そして妻とお子さんも巻き添えで命を落とし、将軍職は弟さんが継ぐ事が決定しました」 と、起き抜けに言われたようなもんである(*26)。 その後、一連の事態を知った頼家は当然大激怒。首謀者である時政の討伐を御家人達に命じる。 ……が、その命令に応じる御家人はロクに居なかった(*27)。 後見たる比企一族は既に亡く、将軍職も弟に移譲される事が決まってしまった現状では、もはや頼家に勝ちの目が無い事は、御家人の誰もが理解するところであった。 結局頼家は、有無を言わさぬ形で出家させられた上で、身柄を鎌倉から伊豆の修禅寺に移送される。 事実上の追放、そして幽閉という憂き目にあった頼家は、その翌年、失意の内に同地で没する事になる。 その死の顛末も、『吾妻鏡』では「死の報が届いた」、『保暦間記(*28)』では「入浴中に殺された」と簡潔に記すのみだが、 『愚管抄』においては「義時が送った配下によって暗殺された」と記されている(*29)。 とまあ、あんまりにもあんまりな展開ではあるが、騒動は決着し(また一人合議制のメンバーが減ったが)、鎌倉殿には千幡改め源(みなもとの)実朝(さねとも)が着任。 ようやく鎌倉も安定期に突入…… しなかった(やっぱり。) 比企の族滅以後、北条一族はその権勢を否が応でも増していく。 特に将軍外戚にして当主たる時政の勢いはめざましく、実朝がまだ若すぎる(就任時点でまだ11歳)事も手伝って、 将軍実朝の補佐という名目の下、鎌倉の政治を差配する立場になった。 この「鎌倉殿の補佐を直接的に行う」立場は、後年「執権(しっけん)」と呼ばれる事になり、鎌倉幕府の事実上のNo.2、御家人の中でも最高の地位を指すものとなった。 が、権力が強まれば強まるほど、周囲と軋轢が生じるのはどこも同じ事。 それは仲間や同僚のみならず、親族間ですら起こりうる。 比企能員の変から2年後の、1205年(相変わらず年代が近い)。 勃発した「畠山(はたけやま)重忠(しげただ)の乱」が、時政と義時親子の大いなる分岐点となる。 題に上った人物(つまり今回の犠牲者)、「畠山重忠」。 武蔵国(現在の東京・埼玉及び神奈川の一部)を治める御家人の一人であり、武勇の高さと人望などから「坂東武者の鑑」と称された傑物であった(*30)。 彼とその一族も梶原景時と同様、少し遅れる形で頼朝に臣従したが、鎌倉方の先陣として戦場に立つ武勇から頼朝からも信頼厚く、 「自分亡き後はその子孫を守護せよ」との遺言まで残されるほどだった。 頼朝の没後は北条氏と同調する立場を取り、先の二つの変においてもそれは同様だった(*31)。 が、比企一族滅亡後から、両者の関係は急激に悪化する。 背景には、重忠の勢力圏である武蔵国へ、時政が支配権を伸ばしてきた事にあった。 元々武蔵国は、朝廷から「国司」に任命された人物が支配する地域であった。 国司は同地に常任・常駐という訳ではなく、不在や空席の場合は在地の武将が管理を代行するのだが、 重忠はその代行職の内、武蔵国の武士団を統括する仕事を請け負ってきた。 一方、武蔵国の国司に当時任ぜられていたのが「平賀(ひらが)朝雅(ともまさ)」。 彼も重忠同様、時政の娘婿に当たるのだが、比企の一件の直後に京都守護の任も与えられ上洛。 その朝雅の職務代行を名目として、時政が武蔵国の行政権を掌握し始めたのだ。 とはいえこれは取っ掛かりに過ぎず、乱の契機は1204年。 将軍・実朝の妻をお迎えするべく、京へ鎌倉御家人の一団が到着した際の事。 その一団には重忠の息子・畠山重保(しげやす)が加わっていたのだが、到着後に開かれた酒宴において、臨席していた平賀朝雅と口論になった。 その場は取りなされたものの、後日朝雅はこの一件を時政とその妻・牧の方へ「重保から悪し様に言われた」と伝えたのだ。 加えて、京へ向かった一団には、時政と牧の方の嫡男・政範(まさのり)も加わっていたのだが、なんと在京中に急死してしまう。 愛息の死と、娘婿への誹謗の話。 この二つを同時に聴かされた時政と牧の方は「重忠ら畠山一族は謀反を企てているのでは」との疑心を抱き、加えて前述の武蔵国管理に関する対立も相まって、例の如く討伐を画策する(またかい)。 だが、父の判断に義時は反発。 弟の時房(ときふさ)(*32)と共に「重忠は謀反を起こす男ではない」と反対するも、父と義母に逆らいきれず最終的に同意。 更に時政の娘婿・稲毛(いなげ)重成(しげなり)が重忠の謀反を訴え出た(無論入れ知恵元は時政)事で、大義名分は成立。 畠山重忠とその一族を謀反人として討伐すべく、御家人が集結した。 まず、鎌倉にいた重保が「謀反人討伐の指令が下りたので集まるように」との命で呼び出されたところを誅殺される。 一方の重忠は、当時自領の武蔵国に居たが「鎌倉で騒ぎがあるのですぐ集まれ」との知らせを受け、130余りの手勢を引き連れ出発した。 だが二俣川(現在の神奈川県横浜市旭区付近)に来た彼が見たのは、義時を総大将とした総勢1万近く(諸説あり)の軍勢。 事ここに至って全てを悟った重忠は、しかし逃げる事無く正面から戦う事を決意し、数時間にわたる攻防の末、重忠は討死。 (※なお、『鎌倉殿の13人』では、演じる中川大志の熱演や義時役の小栗旬の提案もあって、重忠最期の戦いは大河史に残る名場面となっている。詳しくは当該記事へ) 従った者も悉く斃れ、畠山一族は滅亡となった(何度目だよ)。 だが、この一件は義時にとっては甚だ不本意であったという。 義時は「重忠の手勢が少数であり、謀反を画策する程の人員を集めていない=重忠は無実である」という事を見抜いており、 実際多くの御家人は、重忠の謀反について疑惑が噴出し始めた当初から半信半疑だった。 にもかかわらず、半ば強引に事を進めた父に対して義時は対立を深め、一方の時政もこの一件で御家人達からの信頼を急速に失っていく事になった。 おまけにこの乱の直後、重忠の謀反を訴えた稲毛重成が「讒言によって畠山重忠を陥れ、死なせるに至った」との罪科を受けで誅殺されている。 お手本のようなスケープゴート、しかも暗に「畠山一族の討伐は間違いだった」と示すこの始末は、余計に時政への不信を周囲に抱かせる事になった(*33)。 そして、同年閏7月。 その後の義時の立場を決定づける「牧氏(まきし)の変」が起こる。 先述の通り、時政には後妻として迎えた女性がおり、この女性の出身が「牧」という家だった事からこの名がついた。 その名の通り彼女が犠牲になった……のではなく、犠牲となったのは、先ほども名前が出た時政の娘婿、平賀朝雅。 この人物、元を辿れば頼朝と同様源氏の主家の血を引く家系であり、源氏将軍家の一門を指す「門葉」に居並ぶ人物であった。 そんな彼を、なんと牧の方及び時政は、実朝の次の将軍に据えようと画策したのだ。 それも、実朝が就任してからわずか数年後のこの時期に。 ……要するに、「当代の鎌倉殿である実朝をその地位から追い出して、自分たちに都合のいい人材を後釜に据えようとした」のである。 「またかよ」と思いたくなる事態だが、輪をかけて問題なのは、 頼家の方はあくまで「将軍が病気になり、将軍を続けられるか分からなくなった」という大義名分があったのに対し、 こちらは現役バリバリで健康な実朝を、特に理由も無く地位から追い出すという、大義名分もへったくれもない身勝手なものだったのだ。 そんな謀反同然の行為に、他の御家人たちが従う訳も無し。 どころか息子の義時、そして娘の政子までも反旗を翻し、時政の邸宅に居た実朝の身柄を保護する措置に出る。 結果、完全に権威と信用を失った時政は、出家の後に故郷・伊豆国へ流罪。 妻も同様に伊豆国へ送られた。時政は以後鎌倉に戻ることはなく、生涯を閉じた。 そして、もっぱら京において朝廷との対応についていた平賀朝雅は、鎌倉からの達しを受けた西国の御家人により、謀反人として討ち取られた。 本人ほとんど直接何もしてないのに、哀れ。 父を事実上追放した義時は、その跡を継ぐ形で鎌倉殿の補佐役となり、将軍に次ぐ権力を持つ役職「執権」――すなわち、数多いる御家人の中でも、事実上最高の地位に就く事になった(*34)。 ――頼朝の挙兵から、およそ25年。 伊豆の豪族の若者は、ついに御家人の頂へと至った。 〇晩年期~三度の危機、そして最強の「朝敵」へ~ こうして、「執権」という事実上鎌倉幕府・坂東御家人の頂点に就くことになった義時であるが、 以降の彼が執権として強権を振るったり、権力をほしいままにしたり……といった行動を取ったことはそんなに無かったとされる。 例えば「自身の部下を御家人扱いにしてもらえないか」と実朝に求めるも、「道理に合わない」と論破されて却下されたり、 各地の守護を終身制ではなく交代制にしようとするも、有力御家人の大反発を喰らって断念するなど、 後世の「悪人」イメージの権力者が行いそうな、強権全開の政治を行ってはいなかったと見られている。 もっとも何も騒動が無かったかと言えば、そんな訳はない。 むしろ、鎌倉後期の仏教説話集「雑談集」にて「生涯、三度の難」と称されたほどの、人生最大級の騒乱の連発が義時には待ち構えていた。 (もう充分すぎる程あっただろ、とか言うのは禁句) 一度目の難の発端は、1213年。 「二代将軍頼家の遺児を担ぎ上げ、それを利用して義時を排除・打倒しよう」という御家人の企みが露見する。 主導者及び賛同者は悉くが捕縛されたのだが、その中には幕府草創期からの重鎮「和田(わだ)義盛(よしもり)」の子と甥も含まれていた。 補足:和田義盛とは 和田氏は元々相模国(現在の神奈川県付近)の豪族・三浦氏の分家筋に当たり、義盛は初代当主であった。 彼もまた頼朝の挙兵に呼応した者の一人であり、最前線で戦った有力御家人でもあった。 ちなみに、一次資料には登場しないために実在が疑われているが、世間一般では木曾(きそ)義仲(よしなか)の愛妾の女傑として有名な巴御前(ともえごぜん)に関して、 義仲没後に落ち延び、頼朝によって鎌倉に召された彼女を義盛が妻として迎えたという記述が『源平盛衰記』に存在する。 鎌倉幕府設立後は「侍所別当」と呼ばれる、各種警護や軍事面における最高指揮官としての地位に就き、 以後自身が没するまで(途中で梶原景時と交代する事もあったが)その地位に就き続けた。 また頼朝没後発足した「十三人の合議制」にもその名を並べ、 以後頻発した御家人間での騒乱においては、一貫して北条側としての立ち位置にあり続けた。 結果、多くの有力御家人が(主に)北条家によって族滅される中、義盛とその一族はその勢力を維持し続ける事が出来たのだが、 皮肉にもこうして「生き残ってしまった」が故に、北条一強体制となりつつある鎌倉においては数少ない「北条に抗しうる存在」として目立つようになった。 この事態に義盛は親族の赦免を将軍・実朝に懇願。 彼の長年の功績に免じて子供は赦免されたが、甥の和田胤長(たねなが)に限ってはそうはいかず、義時は彼を事件の張本人であるとして赦免を許可しなかったばかりか、 一族を引き連れ再度の嘆願のために御所に参じた義盛の前に、胤長を縛り上げた姿で引き立てるという行為に出る。 更には胤長が所有していた屋敷についても、義盛がその管理を任されたのだが、後になって義時はこれを却下して別の人間をあてがった(*35)。 義盛にしてみればこの一連の事態は「自身の面子丸つぶしの上に、一族を公衆の面前で侮辱された」という、義時からの明確な挑発行為に他ならず、 ついに一族を上げての挙兵を決心するに至る。世に言う「和田合戦」の勃発である。 和田一族のみならず、近縁や本家筋の三浦一族まで集めた義盛は、夕刻に義時及び大江広元(幕府中枢の御家人)の邸宅、並びに大倉御所(将軍の邸宅)を相次いで襲撃。 先の畠山重忠の乱とは異なる、鎌倉の中心地で市街地戦が展開されるという大騒乱が巻き起こった。 なお義時というと、和田一族蹶起の報が届くと、慌てず騒がず悠然と支度を整え御所に向かい、関係者の安全確保や護衛といった対処を指示したという(謀反慣れし過ぎじゃね?)。 一方の和田勢力はというと、御所に火を放ち警護の武士と交戦するなど攻勢を続けたが、 蹶起の直前に本家筋である三浦家当主・三浦(みうら)義村(よしむら)が翻意した事による兵力不足や、幕府側から続々と来る援軍も手伝って劣勢に陥る。 日暮れに合わせて後退した後、翌朝には再度の攻撃を仕掛けるも、他の御家人が幕府側についたことも手伝い敗北。 義盛らは討ち取られ、和田一族は滅亡。 騒乱は終結するに至った。 (はいそこ、またかよとか言わない) なお、発端である義時が義盛とその一族に向けた一連の挑発的対応の理由は判然としていないが、 もともと義盛が就いていた「侍所別当」の地位を合戦後に義時が自分のモノとしている事から、 自身の権力強化を図る義時が義盛ないし和田一族を暴走させるためにあえて仕掛けたのでは、とする意見もある。 またも御家人同士での激突、しかも今度は鎌倉中心地での武力衝突という大事件であったが、 この一件の決着は、同時に北条に対立し得る御家人が軒並み居なくなった事を意味した。 逆に言えば、これ以上の騒乱が起きる懸念材料もひとまずは無くなったという意味でもあり、 このまま鎌倉の情勢が落ち着き、安定した統治の末に次の代へ受け継がれていく……かと思われた。 しかし、二度目の難は、あまりにも突然に、そして想定外の方向から訪れた。 1219年、雪が降り積もる日。 三代将軍・実朝が、鶴岡八幡宮に参拝し帰途につこうとした、その時。 同地に身を置いていた先代将軍頼家の実子・公暁(こうぎょう)の襲撃を受け、実朝が殺害される事件が起こる(*36)。 現役将軍の暗殺、しかも実行犯はその甥である先代将軍の子(*37)、というだけで前代未聞を通り越した大事件だが、問題はもう一つあった。 というのも実朝、この時点で正室(当代の上皇との血縁者)と結婚してから十数年経っていたのだが、子供が一人も居なかった。 加えて側室も一人として迎えておらず、直系の子が誰一人として存在しない状態だった。 さらに、実朝以外に頼朝、あるいはその兄弟の血を継ぐ者が、過去の権力闘争と内紛によってほぼ死に絶えた状態になっていたため、 実朝が凶刃に斃れ、その下手人である公暁と関連を疑われた彼の兄弟(=頼家の子)も殺されてしまった時点で、 それは、初代将軍頼朝から受け継がれてきた源氏の棟梁直系の血筋が文字通り断絶した事を意味していた。 補足:頼朝の血脈 頼朝は正室・政子を含め、女性との間に何人かの子供をもうけていた。 また二代将軍・頼家にも同様に子供がいた上、そもそも頼朝本人にも異母弟がいた……のだが、各員の顛末を列挙すると、 ●頼朝の弟(鎌倉幕府成立時点で存命組) 源範頼:頼朝から反逆の嫌疑をかけられ追放。以後の消息は不明だが、誅殺説が濃厚 阿野全成:頼家の就任後に謀反の嫌疑を受け捕縛・誅殺 源義経:ご存知九郎判官。頼朝と対立した末に奥州で自刃 ●頼朝の子(実朝以外) 頼家:二代将軍。病床の間に起きた政変の結果、職を追われて憤死 大姫:木曾義仲の嫡男・義高と婚姻関係を結ぶも、頼朝の命令で義高が処刑されたことに悲観し、20歳で早逝(子は無し) 貞暁:政子以外の女性との間に生まれたが、それを知った政子の逆鱗に触れ、人目から隠すように育てられた果てに7歳で仏門入り。以後世俗からは断絶状態(勿論子は無し) 乙姫:頼朝の死から半年後、14歳で病没(独身) ●頼家の子 一幡:比企能員の変において、巻き添えを食う形で6歳にして死亡 善哉:父の失脚と死の後、出家し公暁と称する。そして実朝の暗殺を実行し、直後に討伐される 栄実:泉親衡に大将軍として擁立され、義時暗殺に加担させられるがこれがバレ、京都で幕府勢に襲われ自害 禅暁:公暁と同様に出家していたが、実朝の暗殺に加担したと嫌疑を受け、翌年に誅殺 鞠子:存命だが当時は独身。その後第4代将軍・藤原頼経の妻となり男児を妊娠するも死産に終わり、彼女自身も難産死してしまう ……うん、こ れ は ヒ ド イ しかも大半が鎌倉における権力闘争や騒乱が原因というあたり、因果は巡るにしてもアレすぎる話である。 無論、政子や義時を始め、実朝の周囲がその後継者問題に無頓着だったなどということはなく、 暗殺事件の前年頃から、朝廷と「上皇の皇子を将軍の後継として迎えられないか」と調整を始めていた。 その矢先の実朝の死を受け、鎌倉は急ぎ朝廷に先の要望を伝えるも、時の最高権力者・後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)はこれに難色を示す(*38)。 それでもと再三要請すると、今度はその引き換えに自身の寵姫の領地における地頭廃止という、幕府にとっては到底了承できない要求(*39)を出したため、 義時は弟の時房に1000の騎兵を預けて京への交渉に向かわせるという強硬策に出る。 それでも話が進展することはなく、結局上皇から「皇子でなく摂関家(*40)からであれば後釜に据えても構わない」という妥協案が示され、義時らもこれを承諾。 摂関家の内、初代将軍頼朝との血縁関係がある「九条(くじょう)頼経(よりつね)」(*41)が新たな鎌倉殿に据えられることになった。 が、この時点で頼経は、2歳になるかという幼児。 当然政務なぞできるわけなく、そもそも将軍職を任ぜられる年齢でもないため、政子がその職務を代行し、義時が執権として補佐をする政治形態を取る事でひとまず決着。 これは結果的に「将軍は事実上のお飾りで、政治の実務は執権にて執り行なう」体制――「執権(しっけん)政治(せいじ)」と呼称される政治体制の始まりでもあった(*42)。 だが、この一件を契機に、元々微妙なバランスで成り立っていた朝廷と幕府の関係は急激に悪化する形となり、 実朝の死から2年後、それは義時の人生最後にして最強の刃――第三の難として振るわれる事になる 1221年5月。 後鳥羽上皇は催事を口実に京都近隣の武将・兵を招集すると、京に居る親鎌倉派を軒並み粛清。 続けて全国の御家人・守護・地頭に対して院宣を下した。 内容は「謀反人・北条義時を討て」。 かの有名な「承久の乱」の始まりである。 下した直後の京方では楽観視する者が多く、「義時に味方する者は千人も居まい」と言う者までいたという。 それほどまでに、当時の朝廷、そして上皇の下す命令は「絶対」であった。 加えて、確実に義時を打倒すべく、有力な御家人には個別で院宣を送るなどの手を打っていたため、その余裕もある種必然ではあった。 が、在京の親鎌倉派の生き残りが、辛うじて事態を鎌倉へ伝達する事に成功。 これを受けて警戒を強めた結果、朝廷から東国各地の御家人達へと送られた使者の捕縛にも成功した。 また、個別に院宣及び密書を受け取った有力御家人の一人・三浦義村(*43)は、これをそのまま義時ら鎌倉の首脳陣へ開示。 一連の事態は思いのほか早く鎌倉方に伝わる事になった。 とはいえ、事態は最悪に近い状況。 義時はかつての平家一門と同様の「討伐対象」となっており、下手な対応は義時どころか鎌倉全体が壊滅しかねない。 御家人たちは色めき立ち、一説では義時本人は自分が討たれる事も受け入れていたという。 が、そうはさせじと動いたのが、姉であり当時「尼将軍」の異名で呼ばれた政子。 動揺する御家人たちに対し、初代将軍頼朝の功績とその恩を訴え、上皇の軍を討つ事でそれに報いるようにと一喝。 鎌倉を守るために結集するよう呼びかけたのである(*44) ……追討対象は「義時個人」なのに、さりげなく追討の矛先が「鎌倉全体である」と誤認するよう誘導しているのは内緒。 とはいっても、ここで義時まで討たれてしまえば鎌倉が空中崩壊しかねないのでやむ無しともいえるが。 この説得により、鎌倉旗下の御家人は上皇との対決姿勢を鮮明にして結束する事になり、 更に首脳陣の会議の結果「京方の軍勢が此方に攻めてくるを迎え撃つ」のではなく、「御家人を総動員して京へと出撃する」という積極策を選択。 義時本人は鎌倉に留まり、息子である泰時や朝時、弟の時房といった側近らを大将とした軍勢を、東海道・東山道・北陸道の三方向から出陣させた。 この積極策は功を奏し、各地の武将・御家人達も鎌倉側に同調・合流する事で軍は膨れ上がり、最終的には総勢19万の大軍勢となっていた。 ちなみに義時、出陣に合わせて、先述の「京都から自身追討の宣旨を持ってくるも捕らえられた」人物に、返答の文を持たせて京都に返しているのだが、その内容は、 「私は今日まで上皇に忠義を尽くしてきたのに、今や罪人として扱われています」 「なので、弟の時房や長男の泰時を始めとした、19万の軍をそちらにお送りします」 「それでも考えが変わらないのであれば、私自ら20万の軍を率いてそちらに向かうので、そのつもりで」 といった感じ。この義時、煽りおる。 また、進軍に際しては「一人残らず、 山狩りしてでも敵を討ち取れ。功を急いで討ち漏らしたまま京に入る事の無いように」と、積極的かつ慎重な進軍を指示している。 もっとも義時自身、強気一辺倒というわけではなかったらしく、軍勢が鎌倉を発した直後、自宅に落雷が落ちて死者が出た際は「これは朝廷に逆らった自分と幕府が滅びる前兆か」と不安がったり、 泰時から「もし上皇自ら兵を率いてきたらどうすべきか」と問われて「その時はすぐさま武装解除し、下馬して降伏しろ」と返すなど、 承久の乱では積極策を採った義時であったが、彼個人としては当時禁忌とされていた「朝廷に弓を引く」行為に思う所はあった模様。 一方、先の返答文や各所の報告により、義時が討たれるどころか自分たち目掛けて軍勢が大挙して来ることを知った京側は大慌て。 急いで迎撃態勢を取ろうとするも、幕府の想定外の進軍速度から後手に回る形となり、集められた数は1万数千程と圧倒的に不利。 オマケに戦略ミス(*45)も手伝ってロクな迎撃が出来ない始末。 結果、幕府側はその悉くを撃破し進撃。 京側が最終防衛ラインとしていた京都・宇治川をも突破。 その日の夜には京へ鎌倉軍がなだれ込み、勝敗は決する事になった。 敗北が決定的となった後鳥羽上皇は、ここに来て義時追討の院宣を撤回し、全ては家臣らの謀議であると弁明する。 ……が、鎌倉で血で血を洗う権力闘争を繰り広げてきた義時に、そんな言い逃れが通用する訳も無し。 後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した順徳(じゅんとく)上皇は佐渡島へそれぞれ流罪、追討に反対していた土御門(つちみかど)上皇も自ら望む形で土佐国へ配流された。 後鳥羽上皇の皇子らも同様に配流され、さらに順徳上皇の息子たる当代の天皇は廃位され(*46)、 後鳥羽上皇の甥が新帝として建てられるなど、後鳥羽上皇とその一党は軒並み京から追われる格好となった。 もっともこれでもまだ「ゆるい」方で、上皇側に就いた公家や御家人たちへの処断は更に容赦がなかった。 武士たちは大半が斬首され、貴族も処刑や流罪、失職のオンパレード。 合わせて、彼らが持っていた所領もそのすべてが幕府に没収された上、鎌倉側の武士たちに恩賞として与えられる事になった。 更に京都及び西国の監視として「六(ろく)波羅(はら)探題(たんだい)」が設置されるなど、鎌倉幕府の影響力は京を含めた日本全域へ広がり、 同時に幕府と御家人――引いては「武士」という階級の有り様も大きく変動する事になった。 ……それは、絶大な影響力を持つ鎌倉の中心に居る義時が、文字通り日の本の中心的存在になっていることも示していた。 ――上皇が義時追討の宣旨を出してから、鎌倉の軍勢が京に辿り着くまで、その間わずか一ヶ月。 一介の豪族に過ぎなかった男は、ついに日の本の頂点に座する存在を墜とすまでに至った。 項目冒頭の一文は、『承久記』において、まさにこの勝利の報を聴いた際に義時が述べたという科白(*47)。 「自分が現世において受ける幸運は、上皇のそれに勝っていたのだ」という、彼なりの勝利宣言であった。 だが、乱からわずか3年後の1224年、義時は62歳でこの世を去る。 脚気と暑気あたりによるものとされるが、急死であったらしく、一部では毒殺説まで語られる事もあったという。 義時の没後、北条家の家督と政治的地位は長男の泰時が継承。 また、五男の北条政村は晩年、後の8代執権北条時宗(泰時の曾孫)の後見として7代執権を務める事になる。 以後、義時を祖とする「北条得宗(とくそう)」一門による鎌倉幕府の統治が進められていき、 その体制と栄華は1333年に鎌倉幕府が崩壊するまで、約100年以上に渡って続いていく。 ◆家族・子孫 両親・夫人 父は前述のとおり北条時政。母の名前は不明だが、伊豆の有力武士であった伊藤祐親の娘と伝わっている。 夫人のうち名前が残されているのは泰時の母である阿波局、比企朝宗の娘で朝時・重時らの母である正室の姫の前、 そして伊賀朝光の娘で政村らの母である継室の伊賀の方の三人。 姫の前は大変な美人であり、義時は恋文を1年以上送り続けるというストーカーじみた熱烈なアピールを行ったものの案の定一向になびかず、 見かねた頼朝が義時に「絶対に離縁しない」という起請文を書かせて間を取り持ったという。 しかし、比企氏の乱の後に結局離縁することになってしまい、その後は京都で公家の源具親と再婚したことが記録に残っている。 一方、継室の伊賀の方は義時の死後、伊賀氏の変という事件を起こしたとされる。 彼女は兄の伊賀光宗、有力御家人の三浦義村と手を結び、息子の政村を執権、娘婿の一条実雅を将軍にしようとしたが、 不穏な動きを察知した政子に先手を打たれ、義村も不支持に回ったため頓挫。 政村は許されたものの、彼女を始めとする関係者は流罪となった……というのが事件のあらまし。 ただ、光宗らを始めとする伊賀氏が謀反に及んだという明言は『吾妻鏡』内に全くなく、関係者も比較的寛大な処分がされたため、 「自らの影響力の低下を恐れた政子が牧氏の変と同様の構図で伊賀の方らの勢力を削るために陰謀をでっち上げたのでは?」という説も有力である。 また、歌人・藤原定家の日記内に『承久の乱の首謀者の一人である僧侶、尊長が捕らえられて尋問を受けたとき、 彼は『早く首を切れ、さもなくば義時の妻が義時に飲ませた薬を使って自分を殺せ』と叫んで周囲を驚かせた』という記述があり、 上述の毒殺説の犯人ではないかという疑いもある。ただこちらも確たる証拠はなく、真相は闇の中である。 なお、義時の後を継いで第三代執権となった泰時の母、阿波局に関しては出自はおろか、生没年すら不詳と完全に謎。 義時の正室は前述の姫の前と伝わっているため、おそらくは側室であり、泰時は庶長子の立場であったと思われる。 彼女の詳細について、歴史学者で義時を主役としたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の時代考証も務めた坂井孝一氏は、 「証拠などは全くない、あくまで推論」として「源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないか」という仮説を唱えており、 これを受けてか、『鎌倉殿の13人』では八重(姫)が義時の最初の妻(=阿波局)になっている。 ちなみに、同じ時代を扱った1979年の大河ドラマ『草燃える』では、オリジナルキャラクターの『茜』が事実上阿波局の立場にあり、 「元々義時の妻だったが、頼朝に夜這いされた上に、その直後に泰時を妊娠してしまう」設定になっていて、泰時の実の父親が頼朝なのか義時なのかはぼかされている。 『鎌倉殿の13人』でも、金剛(泰時)を褒める際に頼朝が「ワシに似てないか?」と笑えないボケをかますシーンがあったが、『草燃える』の方はもっと笑えない設定であった。 子息 義時には多くの子息がいたが、ここでは子孫が鎌倉幕府の要職を歴任していくことになっていく人物5人を挙げておくことにする。 北条泰時 鎌倉幕府第三代執権で、義時の後継者。 戦国時代に至るまで武士の基本法として運用された『御成敗式目』を制定。寛大かつ質実剛健なその人柄は武士の鏡として後世まで評された。 ただし、『吾妻鏡』内の彼の供述には露骨な曲筆や顕彰も多いのは注意が必要。 もっとも同時代の公家などからも高く評価されており、優れた人物であったことは確かだと思われる。 北条家の主流となった得宗家は彼の子孫にあたる。 北条朝時 姫の前の子で、名越流北条氏の祖。 女性問題でやらかして実朝・義時の怒りを買い勘当されるという憂き目を見たが、 和田合戦で呼び戻され、そこで活躍したことで許される。承久の乱では北陸道の部隊を指揮して活躍した。 庶子である兄泰時に対し、正室の生まれである朝時は主流意識が強かったとされ、泰時が設置した評定衆を即座に辞任するなど対立的な関係だったとされる。 泰時の死の前後にもいくつかの暗闘があったという。 彼の子孫である名越流も得宗家とたびたび対立し、宮騒動、二月騒動などを引き起こす。そのため、執権や六波羅探題といった要職に就くものはいなかった。 娘の一人が足利氏に嫁ぎ、男子を出産。その子孫が室町幕府の管領家の一つ斯波家を興す。 北条重時 姫の前の子で、極楽寺流北条氏の祖。 六波羅探題を17年勤め、後に執権北条時頼の要望によって補佐役である連署に就任した。 民衆をいたわる「撫民」を政治の基礎とし、その姿勢は「御家人の政権」から「全国政権」へと変化した幕府の政治姿勢に大きく影響したとされる。 名越流と違って極楽寺流は得宗家と大きく対立することはなく、執権も北条長時をはじめ、極楽寺流から3人輩出している。余談だが、足利尊氏の高祖父である。 北条政村 伊賀の方の子で、政村流北条氏の祖。 伊賀氏の変でまつり上げられたものの、泰時の計らいにより許される。泰時でなければ即死だった その泰時の死後、後に第八代執権となる北条時宗が得宗家を若くして継いだ際には、中継ぎとして第七代執権に就任。 時宗が成長すると彼に執権の座を渡し、以降は連署として彼を支えた。 和歌や典礼に通じる教養人であり、京都の公家からも敬愛されたという。 北条実泰 こちらも伊賀の方の子で、金沢流北条氏の祖。 同母兄の政村と同様、伊賀氏の変では泰時の計らいにより許された…が、実泰はそれがかえって重荷になってしまったのか、 若くして病にかかってしまい、引退してしまうことになってしまった。 実泰の後を継いだ彼の子・実時は鎌倉北条氏を代表する文人として知られ、 所領としていた武蔵国金沢(現・横浜市金沢区)に収集した書物を所蔵した。これが金沢文庫の始まりである。 ◆功績と後年の評価 鎌倉幕府における支配体制、所謂「執権政治」の基礎を築いたのは紛れもない事実である。 義時以降、北条家は鎌倉幕府における中心的地位を独占し続ける事となり、その先駆けたる義時は北条家の始祖として顕彰される事になる(*48)。 人物面においても、近い時代においては高く評価されており、承久の乱の直後に生まれた日蓮僧侶(日蓮宗の開祖)は「嘘をつかない人」と文献に記した。 また業績面においても、鎌倉幕府滅亡後に室町幕府を築いた足利尊氏は、泰時と共に「その行いは近代の師であった」と評している。 加えて、各種文献において、彼が積極的に権力確保・収奪に動いたという記述はそこまで多くない。 主君たる源氏・将軍から実権を奪い取り、以降彼とその末裔が執権として鎌倉幕府を動かしたことから、野心的で冷酷な策謀家と認識されがちな北条義時だが、 実際のところ、彼にそこまで明確な野心や権力欲があったのかは定かではない。 少なくとも、晩年の少しでも野心を見せれば兄弟でも粛清した頼朝の近くに居ながら生き残った時点で、 頼朝が亡くなるまでは野心をさほど持っていないか、持っていても猜疑心に苛まれる主に見抜かれないほどに上手く隠していたのだろうと推測できる。 むしろ、なまじ頼朝に近い立場にいたばかりに、源氏や北条家、御家人や朝廷といった周囲の野望・行動に巻き込まれる形で関わってしまい、 それらから自分や家族、仲間と組織を守るために奔走し、時に武力と謀略を持って立ち向かっていった結果、 いつの間にか最高権力者の座に上り詰めてしまった、と言った方が正確ではないか……とする説もある。 だが一方で、「主君や同僚を次々と罠にはめて滅ぼしていき、最後には天皇家にまで弓引いた不忠者・策謀家」とする評価もまた古くから存在した。 そうした「義時の裏切り」を、最も早く最も体系立てて論述したのは、他ならぬ『吾妻鏡』である。 何しろ三代将軍・実朝の暗殺について、『吾妻鏡』は義時こそが暗殺の黒幕だとほのめかしているのだ。 実朝暗殺に関する『吾妻鏡』の記述について 『吾妻鏡』によれば、 「実朝が鶴岡八幡宮にいざ参詣するという際に、義時は急に腹が痛くなり、実朝と同行するはずだった自分の役職を別の実朝側近である源仲章に代わってもらった。その結果、実朝は仲章共々殺された」 としている。 しかし『愚管抄』では、「義時は実朝の命令もあって、最初から参詣しない役だった」とあり、「仲章は義時と間違えられて斬られた」としている。 さらに『吾妻鏡』には、この他にも「実朝が『自らが暗殺されること』を予期・確信し、遺言のような詩を残した」などと記されている。 これはいずれも、実朝暗殺を「歴史上の事実」として知る後世の人物があえて曲筆したと推測されるのだが、 問題はその曲筆が「急に腹が痛くなったなどと、子供騙しのような策略を義時が仕掛けた」と記述されている点である。 おまけに先述の遺言じみた詩も、「学問の神様にして怨霊」と謳われたかの菅原道真が、冤罪で左遷される際の詩のもじりである辺り、相当な意志もうかがえる。 少なくとも『吾妻鏡』の作者は、実朝暗殺の黒幕は北条義時、と見なしていたことになる。 実際の義時がどうであったかは別として、そういう記述がはびこるほどには、当時既にそういう見方が広まっていた事が読み解けるのだ。 その実朝が三代将軍となるきっかけになった、二代将軍・頼家が急病で倒れ、一時は危篤状態と見なされた時にも、 まだ頼家はもちろん、その後ろ盾の比企能員もまだ存命にも関わらず「頼家死亡につき弟に交代させる許可を」という公式嘆願書を出す(*49)辺り、 北条家が積極的に頼家から実朝への将軍交代を策謀していたのは間違いない。 そしてこれら北条家の策略に、その中核的メンバーである義時が全く関与していなかったというのは考えにくい(*50)。 畠山重忠についてその粛清には反対しながらも、死後にはその遺族に対して便宜を図ろうとはしなかったこと、 和田義盛を反乱に追い込むべくあからさまな挑発をしかけていることからも、義時は周囲に巻き込まれる形で状況に対処していただけでなく、 明確かつ作為的な意志を腹の内に抱いて行動していた証左と言える。 そうした明暗分かれる義時の評価は、時代が下るとますます暗い方へ傾いていく。 江戸時代においては、将軍家を筆頭とした「主君・目上に対する忠誠」を重んずる儒学思想が根づいたこともあり、 執権として政治を主導した行為が「主君たる将軍から実権を奪い取った」とみなされ、不忠の臣下として見做されるようになった。 さらに進んで時代が明治に移ると、承久の乱における「三上皇の配流と現天皇の皇位廃止」という処断が当時の尊王・皇国史観とモロにぶつかる形となった。 結果、江戸時代以前の好意的評価は消え去り、「非道の逆臣」「稀代の朝敵」として批判的に扱われるようになった。 この印象は太平洋戦争後も根強く残り続け、「冷酷無比な策謀家」のイメージが大衆に定着していった。 オマケに歴史教育において「鎌倉時代の北条氏の代表」と言えば姉・政子の名前が教科書に載る一方、 実際に政治を取り仕切った義時について記される事はほとんどない事も手伝い、その有り様や立ち位置、功罪が見直されるのは21世紀以降になってからであった。 だが、日本の歴史的に見れば彼の行い、特に承久の乱に勝利した事の影響は絶大の一言に尽きる。 それまでの「朝廷・公家>武士」という絶対的な上下関係・社会通念を、義時は乱の勝利によって完全にひっくり返す事に成功した。 この結果、日本における武家政権、ひいてはその頂点に立つ「武家の棟梁」は事実上の「日本の統治者」としての意味を獲得。 その構成員たる「武士」という存在が、以後の日本の歴史を作っていく契機となったのだ。 この状態は鎌倉幕府が滅んでも尚変わる事は無く、以後の室町時代から江戸時代に至るまで継続。 明治維新によって天皇を頂点とした新たな政治体制が形成されるまでの、実に約600年もの長きに渡って続いた。 しかもその明治においても、初期において政治に参与した者の多くが過去に武士階級であった以上、 義時の勝利は、今の日本を形作る上で決して欠かすことのできないターニングポイントであったと言える。 伊豆出身の豪族の次男坊から始まり、降りかかる火の粉を払い続け、あるいは振り巻き、いつしか日本の武家の頂きにまで辿り着いた男・北条義時。 彼が数多の犠牲と策謀、はたまた苦悩と選択の果てに築き上げた北条一族の栄華は、鎌倉幕府の終焉と共に歴史上から消え去った。 だが、彼が選び、歩み、そして踏み固めた道は、現代の日本を形作る上で決して欠かすことのできない礎となって、今日に至るまで存在し続けている。 ◆大河ドラマで北条義時を演じた主な俳優 西田敏行(新・平家物語) 松平健(草燃える) 小栗旬(鎌倉殿の13人)※主役 追記・修正は鎌倉の御家人の方々がお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 乙 -- 名無しさん (2022-10-31 00 03 47) 時政が義時を晩年失脚したとはいえ育て上げて義時自身も御成敗式目を作り上げた泰時を育てていたの見ると、主君というか幕府というみこしに乗っかっていたことで権威示してた頼朝って何だったんだろうと思う(頼家実朝の末路は言わずもがな、自身の血脈はあっさり断絶、全成の子孫の阿野氏は残っているとはいえ細々、最終的に河内源氏の嫡流というか本家は足利に持っていかれる) -- 名無しさん (2022-10-31 01 03 45) やたらカラフルですね -- 名無しさん (2022-10-31 01 07 23) 北条義時が好きなら永井路子の小説「炎環」は必読。大河ドラマ「草燃える」の原作なんだっけ? -- 名無しさん (2022-10-31 01 09 56) 鎌倉の将軍家は、朝廷と交渉役をやってたお飾りだったと思っている。頼朝はそれでも顔が利いたからよかったが、代がかわれば顔も聞きにくいだろうし、逆に朝廷に懐柔されかかったから、消されたのだと踏んでいる。「消したのが誰か」はともかくね。 -- 名無しさん (2022-10-31 01 29 36) 生きていたら嫡子頼家の政敵になる可能性もゼロとは言い切れなかった異母兄弟たちを朝廷に -- 名無しさん (2022-10-31 07 42 44) ↑続き圧力かけて始末した頼朝が北条一族の踏み台に自身や自身の子供諸共踏み台にされて、今度はその北条一族も同じ源氏の先祖を持つ足利氏の踏み台にされたという真の勝者というか鎌倉中心の関東での争いに限れば最終的な勝者は北条一族ではなく実は足利氏だったのではという -- 名無しさん (2022-10-31 07 46 41) 最初の上下2色になってるのちょいちょい見かけるが、読みづらいだけなんだよなマジで -- 名無しさん (2022-10-31 07 57 09) 誰でもいいからマーキングは統一してほしい。色のせいで台無しだ -- 名無しさん (2022-10-31 15 29 18) すごくよくわかりやすく書けていてとてもありがたいんだが目ェ痛い… -- 名無しさん (2022-10-31 15 44 46) 歴史苦手な自分が一息に読んでしまった。建て主に感謝。 -- 名無しさん (2022-10-31 19 59 39) 嫡子泰時は鎌倉幕府の祖廟として頼朝、政子、義時を事あるごとに参詣していたが、一方で祖父時政に関しては仏事すら行わず完全に黒歴史扱いしていたという -- 名無しさん (2022-10-31 20 02 51) 乙 改めて見ると地獄以外の何物でもねぇな? -- 名無しさん (2022-10-31 22 56 33) フィクションでの出番…ってなるとだいたい北条政子の出番が多くてあんま見ないかな? -- 名無しさん (2022-10-31 23 38 28) 意外と知られていないけど、足利尊氏の妻は北条氏(最後の執権の妹)。京の幕府、鎌倉府ともにその子孫が代々トップに就いたから、北条の血はそういう意味では長く続いていたりする。 -- (2022-11-01 18 53 26) これはあんまりにもアレだから教科書に載せれなかったのかな?それにしても最初のやつすごく怖い -- 名無しさん (2022-11-01 22 41 02) 朝敵になった中で真っ向叩き伏せて勝ったのはこの人くらい?後の尊氏(義満まで)はこっちが本当の天皇(北朝)と矛先反らすトリック使ってるし -- 名無しさん (2022-11-02 11 31 39) いやぁ読み応えあった。しかしまあ北条義時にこれまでライトが当てられなかったのも頷けるというか……エグいなぁ北条家 -- 名無しさん (2022-11-02 16 01 33) 鎌倉殿の13人以前の創作物だと、そもそも歴史ものでも戦国や幕末などに比べて鎌倉時代を扱ったものは少ない感じだし、あっても源平合戦や元寇なんかの方にスポット当たること多いからどうしても影薄くなるわなぁ。自分が知ってる奴だとコーエーの蒼き狼シリーズで日本の史実将軍として登場していることくらいか。 -- 名無しさん (2022-11-03 00 54 44) 色々と過少評価されがちだけど、頼朝すら越える大政治家じゃないかと思えるほどスーパードロドロ勝ち残って、朝廷も屈服するガチ天下人になったのは厳然たる実績だと思う -- 名無しさん (2022-11-07 02 07 16) ↑戦の総大将でバリバリ戦果上げたとかじゃないから地味になっちゃいがちなんだよね。知れば知るほど面白い人だと思う。 -- 名無しさん (2022-12-19 00 40 12) 実際大河以前だと泰時の父親程度の扱い多かったな -- 名無しさん (2022-12-20 16 37 59) 実質的な鎌倉幕府の二代目将軍 -- 名無しさん (2023-01-01 06 09 51) 間接的にとはいえ甥(姉の子)の頼家をタヒに追いやった感じとはいえ、その頼家が仮に有能な人物だったとしてもどの道末路変わらなかった言われてるし、寧ろ北条時政義時親子を念には念を入れて排斥しなかった頼朝のせいでもありそうな頼家の末路 -- 名無しさん (2023-04-16 21 03 19) 死に際して盛大な加持祈祷は行われたが「医者が派遣された記録」は無い。…怖いね -- 名無しさん (2023-05-22 17 19 17) 徳川家康を更に醤油で煮詰めたような人物だからなあ。まぁ、一般ウケはしないだろう -- 名無しさん (2024-07-09 20 13 17) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/3456.html
五所神社 神奈川県鎌倉市に鎮座する五所神社の御朱印です。 2種類の御朱印をいただくこができます。 ★住所 神奈川県鎌倉市材木座2-9-1 -
https://w.atwiki.jp/led-gallery/pages/412.html
01 藤沢 02 鎌倉 03 江ノ島 04 稲村ヶ崎 05 極楽寺 06 長谷 07 鎌倉 前部2両貸切 08 藤沢 後部2両貸切 09 回送 10 試運転
https://w.atwiki.jp/wiki-journey/pages/919.html
鎌倉市 神奈川県 江ノ島電鉄線の駅。江ノ電が管理しています。 しかし鎌倉大仏も近いし長谷・大仏殿口駅のが相応しいんやなー。 隣 極楽寺駅←◎→由比ヶ浜口駅
https://w.atwiki.jp/wanisita/pages/1798.html
問題 表示 解答 補足 3世紀ごろに邪馬台国と争ったという記録が残る国 狗奴国 くなこく 528年に「磐井の乱」を鎮圧した豪族は「物部○○○」? 麁鹿火 あらかひ 603年に推古天皇が豊浦宮から場所を移した宮殿 小墾田宮 おはりだのみや 645年の乙巳の変後の新政府で旻と高向玄理がついた役職 国博士 くにのはかせ 645年の大化の改新で自殺させられました 蘇我蝦夷 そがのえみし 645年の大化の改新で蘇我入鹿が暗殺された政変のこと 乙巳の変 いっしのへん 645年の大化の改新で自殺させられました 蘇我蝦夷 そがのえみし 647年頃に蝦夷に対する日本海方面の防衛のため築かれた城柵 渟足柵 ぬたりのきぬたりのさく 658年に軍船180隻を率いて蝦夷を討ったと伝えられます 阿倍比羅夫 あべのひらふ 660年に阿倍比羅夫が戦って服属させた東北地方の民族 粛慎 みしはせ 663年に倭国と新羅・唐の連合が戦ったのは「○○○の戦い」? 白村江 はくすきのえはくそんこう 663年の白村江の戦いで倭国(日本)を破った唐の武将 劉仁願 りゅうじんがん 664年に対馬・壱岐などに防人とともに設置された狼煙の一種 烽 とぶひ 740年から744年まで聖武天皇が都としました 恭仁京 くにきょう 780年に東北で反乱を起こした蝦夷の豪族は伊治○○○? 呰麻呂 あざまろ 810年に藤原冬嗣と巨勢野足が初代に就任した役職です 蔵人頭 くろうどのとう 811年に嵯峨天皇の命で蝦夷地平定に向かった公卿 文室綿麻呂 ふんやのわたまろ 842年に承和の変を起こした平安時代の貴族です 伴健岑 とものこわみね 842年に承和の変を起こした平安時代の貴族は橘○○? 逸勢 はやなり 866年の応天門の変で濡れ衣を着せられた人物 源信 みなもとのまこと 887年に阿衡事件の原因となる勅を起草した人物です 橘広相 たちばなのひろみ 901年に菅原道真が左遷されて付いた役職は大宰○○? 権帥 ごんのそち 939年に乱を起こし「新皇」を名乗った武将 平将門 たいらのまさかど 1156年、この事件のあと崇徳上皇は隠岐に流されました 保元の乱 ほうげんのらん 1177年に後白河法皇の近臣が平氏打倒を企てた事件は「?の陰謀」 鹿ヶ谷 ししがたに 1189年に鎌倉幕府に対する反乱を起こした奥州藤原氏の残党 大河兼任 おおかわかねとう 1189年に源頼朝と奥州藤原氏が激突したのは○○○○山の戦い 阿津賀志 あつかし 1246年に宮騒動を起こして伊豆国に流された武将です 名越光時 なごえみつとき 1275年の農民らの訴状で有名な現在の和歌山県にあった荘園 阿氐河荘 あてがわのしょう 1326年に次期執権を巡り長崎氏と安達氏が争ったのは○○の騒動? 嘉暦 かりゃく 1331年の元弘の乱で捕らえられた日野俊基が斬首された鎌倉の地名 化粧坂 けわいざか 1333年に新田義貞と鎌倉幕府が激突したのは○○○○の戦い? 小手指原 こてさしがはら 1335年、北条高時の遺児・時行が起こした反乱は「○○○の乱」? 中先代 なかせんだい 1336年に足利尊氏が後醍醐天皇の軍に敗れたのは○○○○の戦い? 豊島河原 てしまがわら 1336年に楠木正成が戦死した戦いは○○の戦い? 湊川 みなとがわ 1609年に対馬の宗氏が李氏朝鮮と結んだ貿易に関する条約です 己酉約条 きゆうやくじょう 1946年に群馬県の岩宿で打製石器を発見した考古学者 相沢忠洋 あいざわただひろ 1999年に発掘され注目を浴びた和同開珎以前の通貨 富本銭 ふほんせん 「安和の変」で源高明を失脚させたのは藤原○○? 師尹 もろただ 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている奈良時代の歌人です 山部赤人 やまべのあかひと 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 大江千里 おおえのちさと 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 春道列樹 はるみちのつらき 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 良暹法師 りょうぜんほうし 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 文屋朝康 ふんやのあさやすぶんやのあさやす 『小倉百人一首』にも歌が詠まれている平安時代の歌人です 壬生忠岑 みぶのただみね 『小倉百人一首』にも和歌が収められている和泉式部の娘 小式部内侍 こしきぶのないし 『小倉百人一首』にも和歌が収められている女流歌人 赤染衛門 あかぞめえもん 『小倉百人一首』にも和歌が収められている女流歌人 大弐三位 だいにのさんみ 『小倉百人一首』第11首目の和歌の詠み人である歌人です 小野篁 おののたかむら 『小倉百人一首』にも和歌が収められている平安時代の歌人 蝉丸 せみまる 『懐風藻』の編者ともいわれる奈良時代の文人 淡海三船 おうみのみふね 『後漢書』や『魏志倭人伝』に記されている倭人の国 奴国 なのくに 「聖徳太子」のことを、最近の教科書ではこう教えています 厩戸皇子 うまやどのおうじ 「図田帳」とも呼ばれた鎌倉時代に作られた土地台帳 大田文 おおたぶみ 『太平記』に新田義貞の妻として登場する女官 勾当内侍 こうとうのないし 『竹取物語』の作者という説もある平安時代前期の公卿 紀長谷雄 きのはせお 『日本書紀』や『万葉集』に登場する「幻の人工池」 磐余池 いわれいけ 『義経記』に源義経が自刃に用いたと書かれている短刀 今剣 いまのつるぎ 足利直義派として尊氏と戦った南北朝時代の武将 桃井直常 もものいただつね 足利義昭を支援するため毛利輝元が寺社に課したとされる労役 鞆夫 ともふ 足利義政の時代に権力を握るも文正の政変で失脚した僧侶 季瓊真蘂 きけいしんずい 飛鳥時代に愛媛県松山市にあったとされる船着き場 熟田津 にきたつ 安土桃山時代に盛んになった極彩色を使った障壁画 濃絵 だみえ 安土桃山時代に活躍した寺や城の石垣を作った職人 穴太衆 あのうしゅう 安土桃山時代に中院通勝が著した『源氏物語』の注釈書 岷江入楚 みんごうにっそ 兄の第12代室町幕府将軍・義晴を一時京都から追放した人物 足利義維 あしかがよしつな 有間皇子をそそのかして謀反を企てさせた人物 蘇我赤兄 そがのあかえ 厳島の戦いで毛利元就に敗れた室町時代の武将 陶晴賢 すえはるかた 院政において上皇の側近が命を賜り書状にして示したこと 院宣 いんぜん 上杉顕定を祖とする室町時代の上杉氏四家の一つは○○上杉家? 扇谷 おうぎがやつ 宇治川の先陣争いで有名な鎌倉時代の武将です 梶原景季 かじわらかげすえ 恵美押勝の乱を平定した奈良時代の文人 吉備真備 きびのまきび 奥州藤原氏の初代当主は「藤原○○」? 清衡 きよひら 奥州藤原氏の最後の当主は「藤原○○」? 泰衡 やすひら 応仁の乱の最中に斯波義敏と斯波家の当主を争った人物 斯波義廉 しばよしかど 応仁の乱で叔父の足利義視と対立した室町幕府第9代将軍 足利義尚 あしかがよしひさ 大江広元を祖とする氏族「越後○○氏」? 北条 きたじょう 大阪夏の陣以降の平和な時代を指します 元和偃武 げんなえんぶ 岡山県にある弥生時代の遺跡は○○○遺跡? 百間川 ひゃっけんがわ 織田信長も切り取った、東大寺正倉院に収蔵されている香木 蘭奢待 らんじゃたい かつて豪族の田荘を耕していた私有民のこと 部曲 かきべ かつて日宋貿易で栄えた神戸市にあった港です 大輪田泊 おおわだのとまり 仮名書道の手本とされる『古今和歌集』最古の写本 高野切 こうやぎれ 鎌倉・室町時代、港や大都市で運輸や取引を行いました 問丸 といまる 鎌倉時代初期に一族もろとも滅ぼされた御家人です 比企能員 ひきよしかず 鎌倉時代初期に幕府を打倒するため建仁の乱を起こした武将 城長茂 じょうながもち 鎌倉時代初期の1213年に反乱を起こした御家人です 泉親衡 いずみちかひら 鎌倉時代に茨城県水戸市に水戸城を築城した武将です 馬場資幹 ばばすけもと 鎌倉時代に執権の北条氏に仕えた武士のことです 御内人 みうちびと 鎌倉時代に順徳天皇が著した有職故実の解説書 禁秘抄 きんぴしょう 鎌倉時代の執権・北条氏において嫡流の当主を指した言葉です 得宗 とくそう 鎌倉時代に蒙古襲来に備えて博多湾沿岸一帯に築かれた防塁 石築地 いしついじ 鎌倉時代に始まった相互扶助組織 頼母子講 たのもしこう 鎌倉幕府が朝廷の動きを監視するために設けた機関 六波羅探題 ろくはらたんだい 鎌倉幕府第17代執権だったという説もあるのは北条○○? 貞将 さだゆき 鎌倉幕府で御家人統制や警察の役割を担った機関 侍所 さむらいどころ 鎌倉幕府の最後の将軍 守邦親王 もりくにしんのう 鎌倉幕府の第5代将軍です 九条頼嗣 くじょうよりつぐ 鎌倉末期に正中の変に参加するも倒幕計画を漏らしたとされる人物 土岐頼員 ときよりかず 神に誓って熱湯に手を入れさせた古代の裁判 盟神探湯 くかたち 仮名書道の手本とされる『古今和歌集』最古の写本 高野切 こうやぎれ 嘉吉の乱で殺された室町幕府第6代将軍 足利義教 あしかがよしのり 桓武天皇が軍団兵士制を廃し郡司の子弟から登用しました 健児 こんでい 北野大茶会で朱塗りの傘を立てて秀吉を驚かせた伝説の茶人 丿貫 へちかん 九州で多く発見される埋葬専用の土器です 甕棺墓 かめかんぼ 京都の犯罪などを取り締まった平安時代に置かれた役職です 検非違使 けびいし 清原夏野らが編集した養老令の官撰注釈書 令義解 りょうのぎげ 楠木正行と正時が高師直らに敗れた場所 四條畷 しじょうなわて 百済より渡来した秦氏の祖とされる人物 弓月君 ゆづきのきみ 熊本県山鹿市にある古墳時代の遺跡は○○古墳群? 岩原 いわばる 公文所を前身とする鎌倉幕府の機関です 政所 まんどころ 遣隋使小野妹子の帰国とともに使者として来日した隋の官人 裴世清 はいせいせい 建武新政府の征夷大将軍に任ぜられた後醍醐天皇の皇子 護良親王 もりよししんのう 現在の青森県に位置する鎌倉時代の豪族・安東氏の本拠地 十三湊 とさみなと 源平の争乱で焼かれた東大寺の大仏を修復した宋の工人 陳和卿 ちんわけいちんなけい 光明皇后によって設置された病人を治療する施設 施薬院 せやくいん 古今伝授の祖といわれる室町時代中期の武将です 東常縁 とうつねより 五山文学を代表する室町時代の臨済宗の僧 横川景三 おうせんけいさん 古代から中世の日本で、農民に対して行われた利子付き貸借 出挙 すいこ 古代日本の律令制において官庁に属する家族を持てない奴隷 公奴婢 くぬひ 古代日本の律令制において宮中を護衛していた兵士 衛士 えじ 古代の日本で宮廷に仕えた女官 采女 うねめ 後醍醐天皇の近臣として活躍した公卿は○○○○宣房? 万里小路 までのこうじ 後醍醐天皇の元で活躍した武将・楠木正成の幼名です 多聞丸 たもんまる 後鳥羽上皇や後醍醐天皇が流されました 隠岐 おき 後南朝の初代天皇・中興天皇に即位したという説もある僧侶 金蔵主 こんぞうす 古墳時代から平安時代まで生産された青灰色の土器 須恵器 すえき 古墳時代に豪族が支配した私有地 田荘 たどころ 古来の朝廷や武家の儀式を研究する学問 有職故実 ゆうそくこじつ 埼玉県にある古墳時代の遺跡は「○○古墳群」? 埼玉 さきたま 斉明天皇の墓である可能性が高い奈良県にある古墳は「?古墳」 牽牛子塚 けんごしづか 斉明天皇が造った壮大な運河を「○○の渠(みぞ)」という? 狂心 たぶれごころ 坂上田村麻呂に降伏した蝦夷の族長 阿弖流為 あてるい 坂上田村麻呂に処刑された蝦夷の族長 阿弖流爲 アテルイ 坂上田村麻呂に処刑された蝦夷の族長 母礼 モレ 鹿ヶ谷の陰謀を平清盛に密告した平安時代末期の武将です 多田行綱 ただゆきつなただのゆきつな 四条天皇の代に当たる使われた日数が最も短い年号 暦仁 りゃくにん 四條畷の戦いで戦死した南北朝時代の武将 楠木正行 くすのきまさつら 執権・北条時頼が置いた評定衆の補佐役 引付衆 ひきつけしゅう 主君である細川持隆を殺害した三好一族の家臣は三好○○? 実休 じっきゅう 受領の貪欲さを表した逸話で有名な平安時代の貴族は藤原○○? 陳忠 のぶただ 将軍・足利義晴が一時期仮の幕府を設置した滋賀県のお寺 桑実寺 くわのみでら 聖徳太子の姿を描いた最古のものとされる有名な肖像画 唐本御影 とうほんみえい 聖徳太子が愛用した反りのない直刀は○○○○剣? 丙子椒林 へいししょうりん 聖徳太子によって纏められたとされる仏教書 三経義疏 さんきょうぎしょ 聖徳太子の母親は穴穂部○○皇女? 間人 はしひと 聖徳太子のブレーンとして活躍した豪族 秦河勝 はたのかわかつ 承久の乱に際し、北条義時追討の院宣を作成し、処刑された公卿 葉室光親 はむろみつちか 推古天皇が即位した時に皇居としていた宮殿 豊浦宮 とゆらのみや 前九年の役で源頼義が大敗した1057年の戦いは○○○の戦い 黄海柵 きのみのさく 蘇我入鹿暗殺の舞台にもなった奈良県にあった都は飛鳥○○○? 板蓋宮 いたぶきのみや 蘇我馬子と戦い討ち死にした飛鳥時代の豪族です 物部守屋 もののべのもりや その下で源義経と梶原景時が論争したという大阪市にあった松 逆櫓の松 さかろのまつ 大化の改新後に6歳以上の男女に配られました 口分田 くぶんでん 大化の改新以前の大和朝廷における大臣と並ぶ最高官 大連 おおむらじ 大化の改新で廃止された朝廷の直轄地 屯倉 とんそうみやけ 大宝律令を撰定した天武天皇の皇子 刑部親王 おさかべしんのう 代表作に法隆寺金堂の釈迦三尊像がある飛鳥時代の仏像彫刻師は? 鞍作止利 くらつくりのとり 高倉天皇と安徳天皇の治世を扱っている鎌倉時代の歴史書 弥世継 いやよつぎ 壇ノ浦の戦いで熊野水軍を率いた武蔵坊弁慶の父と伝えられる僧 湛増 たんぞう 地方武士の生活を描いた鎌倉時代の絵巻物は『○○三郎絵巻』? 男衾 おぶすま 中国の刑罰を取り入れた、日本の律令制での罪人に対する刑罰 笞杖徒流死 ちじょうずるし 中世の日本で後妻が結婚する時に先妻が後妻の家を襲った風習 後妻打ち うわなりうち 著書『往生要集』で有名な平安時代の僧侶です 源信 げんしん 鶴岡八幡宮で源実朝を暗殺 公暁 くぎょうこうきょう 天智・弘文・持統天皇が誕生の際に産湯に用いたという泉です 閼伽井 あかい 天智天皇の妃である7世紀後半の女流歌人です 額田王 ぬかたのおおきみ 天武天皇が制定した八色の姓の1つです 朝臣 あそみ 天武天皇の孫に当たる奈良時代の皇族 道祖王 ふなどおうふなどのおおきみ 伝説上の存在とされている初代琉球国王 舜天 しゅんてん 東京都大田区と世田谷区にまたがるのは○○○古墳群? 荏原台 えばらだい 中先代の乱に乗じて護良親王を殺害した足利直義の家臣 淵辺義博 ふちのべよしひろ 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏討伐の密談を交わした奈良の山 多武峰 とうのみね 奈良・平安時代に大学寮で漢文学や歴史学を教えた令外官 文章博士 もんじょうはかせ 奈良県天理市の石上神宮にある百済から伝来したとされる刀 七支刀 しちしとう 奈良時代に行なわれた絞り染めの呼び名です 纐纈 こうけち 奈良時代に鑑真を招請するために唐へ渡った僧侶です 栄叡 ようえい 奈良時代に設置された地方行政を監督する令外官の官職です 按察使 あぜち 奈良時代に創建された東大寺の門で現在も残る唯一のものは? 転害門 てがいもんてんがいもん 奈良時代に建てられた日本最初の図書館です 芸亭 うんてい 奈良時代に東大寺を開山した華厳宗の僧です 良弁 ろうべん 奈良時代に始まった、日本の神々と仏を同体と見て一緒に祀る思想 本地垂迹 ほんじすいじゃく 奈良時代に平城京を中心に栄えた南都六宗の一つです 倶舎宗 くしゃしゅう 奈良時代に平城京を中心に栄えた南都六宗の一つです 成実宗 じょうじつしゅう 奈良時代の743年に発布された法律は「○○○○私財法」? 墾田永年 こんでんえいねん 南朝の再建を図った勢力が1443年に京都を襲撃した事件 禁闕の変 きんけつのへん 南朝の征西大将軍を務めた後醍醐天皇の皇子は○○親王? 懐良 かねよし 南北朝時代に室町幕府内で行った内紛「観応の○○」? 擾乱 じょうらん 南北朝時代に書かれた作者不詳の軍記物語です 梅松論 ばいしょうろん 南北朝時代に大覚寺統と交互に皇位を継承した皇室の系統です 持明院統 じみょういんとう 南北朝時代の北朝初代天皇とされている人物です 光厳天皇 こうごんてんのう 日明貿易では、これと区別するために勘合符が使われました 倭寇 わこう 新田義貞の軍勢が鎌倉幕府軍を打ち破った鎌倉市にある地名 巨福呂坂 こぶくろざか 日本の律令制の役人・国司はここで政務をとりました 国衙 こくが 後に義稙と改名した室町幕府第10代将軍は足利○○? 義材 よしき 白村江の戦いの敗戦後に使節として唐に送られた貴族 粟田真人 あわたのまひと 白村江の戦いで百済が滅亡した後に日本に亡命した陰陽家 角福牟 ろくふくむ 白村江の戦いの後、熊本県に築かれた朝鮮式山城は○○城? 鞠智 きくち 白村江の戦いの後、佐賀県に築かれた朝鮮式山城は○○城? 基肄 きい 藤原兼家に欺かれて出家した第65代天皇は○○天皇? 花山 かざん 藤原純友が挙兵の拠点としたことで有名な愛媛県宇和島市にある島 日振島 ひぶりしまひぶりじま 藤原不比等の4人の息子が死んだ後に権力を握った奈良時代の皇族 橘諸兄 たちばなのもろえ 仏教が儒教や道教よりも優れていることを示した空海の著書 三教指帰 さんごうしき 仏具を入れる飛鳥時代の工芸品 玉虫厨子 たまむしのずし 文永の役で日本軍の総大将を務めた鎌倉時代の御家人です 少弐景資 しょうにかげすけ 平安から鎌倉時代に見られた竹や板で間を開けて作った垣根 透垣 すいがい 平安貴族の間に流行した民謡を雅楽風にした歌謡 催馬楽 さいばら 平安時代、一夜を共にした男女が翌朝別れたこと 後朝 きぬぎぬ 平安時代、嵯峨天皇が蔵人頭に任命しました 巨勢野足 こせののたり 平安時代、紫式部に仏教の素養を授けたとされる異母弟 定暹 じょうせん 平安時代後期に公卿の藤原忠実が書き残した日記 殿暦 でんりゃく 平安時代後期に東宮学士として活躍した公卿です 大江匡房 おおえのまさふさ 平安時代後期に奥州で起きた後三年の役の発端となった武将 吉彦秀武 きみこのひでたけ 平安時代初期に編纂された六国史の2番めに当たる歴史書 続日本紀 しょくにほんぎ 平安時代前期の888年に起こった政治事件です 阿衡事件 あこうじけん 平安時代に神道資料『古語拾遺』を著した貴族 斎部広成 いんべのひろなり 平安時代に公家が用いた肌着と表着の間に着た衣服 袙 あこめ 平安時代に十二単と共に礼装とされた貴族女性の髪型 大垂髪 おすべらかし 平安時代に女性が用いた、現代のエクステンションのような添え髪 髢 かもじ 平安時代に追補使として活躍した人物です 小野好古 おののよしふる 平安時代に始まった、朝廷に寄付した代わりに官位を得ること 成功 じょうごう 平安時代の貴族が履いていた古代の靴下です 下沓 しとうず 平安時代の京都で、安倍晴明とライバル関係にあった陰陽師 蘆屋道満 あしやどうまん 平安時代の藤原道長の腹心「四納言」の一人は藤原○○? 斉信 ただのぶ 平安時代末期に二条親政派の中心となったのは美福門院○○? 得子 なりこ 平安時代に尾張国郡司百姓等解文で訴えられた国司は藤原○○? 元命 もとなが 平安時代に寝殿造りで用いられた藁などを渦巻状に編んだ円い敷物 円座 わろうだ 平安時代の宮廷の儀式などを詳細に記した藤原実資の日記 小右記 しょうゆうき 平安中期から室町時代にかけて僧兵が為政者に要求をしたこと 強訴 ごうそ 平安末期に城資盛が築城した新潟県胎内市にあった城 鳥坂城 とっさかじょう 平氏討伐を企てたが失敗した後白河天皇の第三皇子 以仁王 もちひとおう 平安時代の寝殿造りで寝殿と対屋を結んだ屋根付きの廊下 渡殿 わたどの 別名を儀同三司母という平安時代の歌人 高階貴子 たかしなのたかこ 別名を檀林皇后という嵯峨天皇の皇后です 橘嘉智子 たちばなのかちこ 北条時宗に招かれ来日し円覚寺を開いた南宋の僧侶 無学祖元 むがくそげん 三木一草の一人に数えられた南北朝時代の武将です 千種忠顕 ちぐさただあき 三木一草の一人に数えられた南北朝時代の武将です 結城親光 ゆうきちかみつ 右肩を出して着る袈裟の着用の仕方 偏袒右肩 へんだんうけんへんたんうけん 源義経が奥州平泉に逃げる手助けをしたとされる平安末期の商人 金売吉次 かねうりきちじ 源義仲と平家軍の合戦があった石川県と富山県の県境 倶利伽羅峠 くりからとうげ 源頼朝の異母弟にあたる平安末期から鎌倉初期の僧侶 阿野全成 あのぜんじょう 武蔵坊弁慶が使っていたとされる有名な薙刀です 岩融 いわとおし 蒸した玄米をタマゴ型に固めた平安時代の食べ物です 頓食 とんじき 謀反を疑われて処刑された孝徳天皇の皇子 有間皇子 ありまのみこ 室町時代の書院造りを代表する建築物は慈照寺○○○? 東求堂 とうぐどう 室町時代中期に唯一神道を創始した京都の神道家です 吉田兼倶 よしだかねとも 室町時代に日明貿易の輸入品に対して課せられた輸入税のこと 抽分銭 ちゅうぶんせん 室町時代に農民が団結し、耕作を放棄して他の領地に行くこと 逃散 ちょうさん 室町時代の第14代将軍です 足利義栄 あしかがよしひで 室町時代の第2代将軍は足利○○? 義詮 よしあきら 室町時代に奉公衆として仕えた細川藤孝の兄にあたる戦国武将 三淵藤英 みつぶちふじひで 毛利元就の献上金で即位式をした第106代天皇は「○○○天皇」? 正親町 おおぎまち もともとは庶民の平服だった鎌倉時代以降の武家の礼服 直垂 ひたたれ 桃山時代によく見られた屋根の形です 唐破風 からはふ 薬子の変で有名な藤原薬子の夫である平安時代の公卿は藤原○○? 縄主 ただぬし 役人の交代の際に引き継ぎ書類の審査を行った平安時代の役職です 勘解由使 かげゆし 山崎の戦いで明智光秀が本陣を置いたのは京都府の○○○古墳? 恵解山 いげのやま 邪馬台国の女王・卑弥呼と対立した狗奴国の王 卑弥弓呼 ひみここ 邪馬台国の女王です 壱与 いよ 邪馬台国の女王です 卑弥呼 ひみこ 邪馬台国の有力な候補地とされる奈良県桜井市の遺跡です 纒向遺跡 まきむくいせき 大和朝廷に仕えた渡来人の機織技術者 漢織 あやはとり 弥生時代後期の木製の鎧がみつかった奈良県の遺跡です 大福遺跡 だいふくいせき 弥生時代に製造されたこの青銅器は何? どうたく 律令制下で、国司が農民を土木事業などに駆り出した制度 雑徭 ぞうようざつよう 律令制において大蔵や内蔵の出納をつかさどった役職 監物 けんもつ 若くして亡くなった室町幕府第5代将軍は足利○○? 義量 よしかず 和気王の変で称徳天皇を呪うよう命じられた奈良時代の巫女 紀益女 きのますめ