約 9,617 件
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/1662.html
東慶寺 神奈川県鎌倉市、東慶寺の御朱印「本尊釈迦如来」です。 「水月観音菩薩」の御朱印です。 御詠歌の御朱印です。 鎌倉三十三観音霊場第32番札所「聖観世音菩薩」です。 東国花の寺鎌倉第10番札所「聖観世音菩薩」です。 円覚寺百観音第7番の御朱印「聖観世音菩薩」です。 ★この寺院にはオリジナル御朱印帳があります。 東慶寺の御朱印帳です。18cm×12cmです。 ★住所 神奈川県鎌倉市山ノ内1367 -
https://w.atwiki.jp/jreast-timetable/pages/4.html
山手貨物線(湘南新宿ライン) 列車番号 名称 編成 区間 備考 回1540レ 回送 東大宮操→品川 う4089レ う回貨物 EF66形吹田車+コキ 新鶴見→大宮 4089レ新鶴見~大宮間運休武蔵野線深夜帯保守間合い確保に伴うう回 8171レ 貨物 EF65形新鶴見車 川崎貨物→郡山タ 回6450M 回送 豊田車/三鷹車 新宿→大崎 豊田車/三鷹車TK入場 回6465M 回送 豊田車/三鷹車 大崎→新宿 豊田車/三鷹車TK出場 回6550M 回送 205系鎌倉車 新宿→大崎 205系鎌倉車TK入場回送 回6551M 回送 205系鎌倉車 品川→新宿 205系鎌倉車TK入場回送 回6851M 回送 205系鎌倉車 品川→新宿 205系鎌倉車TK入場回送 回6990M 回送 松戸車 松戸→大崎 松戸車TK入場 回6991M 回送 松戸車 大崎→松戸 松戸車TK出場 回8341M 回送 幕張車 新宿→大宮 幕張車OM入場 回8344M 回送 幕張車 東大宮操→新宿 幕張車OM出場 回8386M 回送 209系幕張車 津田沼→大崎 209系幕張車TK入場 回8387M 回送 209系幕張車 大崎→津田沼 209系幕張車TK出場 回8388M 回送 143系東京車 幕張→大崎 幕張車両センター常駐車返却回送 回8389M 回送 143系東京車 大崎→幕張 幕張車両センター常駐車送り込み回送 回8392M 回送 京葉車 新宿→大崎 京葉車TK入場 回8397M 回送 京葉車 大崎→新宿 京葉車TK出場 回8648M 回送 小山車 小金井→大崎 小山車TK入場 回8649M 回送 小山車 大崎→小金井 小山車TK出場 回8842M 回送 253系鎌倉車 東大宮操→品川 253系鎌倉車OM出場回送 回8845M 回送 E217系幕張車 大崎→新宿 E217系鎌倉車TK出場回送 回8846M 回送 E217系鎌倉車 大船→新宿 E217系鎌倉車TK入場回送 回8847M 回送 E217系鎌倉車 新宿→大崎 E217系鎌倉車TK入場回送 回8849M? 回送 205系鎌倉車 大崎→新宿 205系鎌倉車TK出場回送 回8850M? 回送 205系鎌倉車 新宿→品川 205系鎌倉車TK出場回送 回8859M 回送 国府津車 品川→大宮 国府津車OM入場回送 回8860M? 回送 国府津車 東大宮操→品川 国府津車OM出場回送 回8895M 回送 253系鎌倉車 品川→大宮 253系鎌倉車OM入場回送 単8921レ 単機 EF65形田端車 品川→田端操 単8941レ 単機 DE10形又はDE11形宇都宮車 品川→田端操 回8944M 回送 クモヤ143形東京車 東大宮操→大崎 OM出場 9003M 多客臨 485系高崎車(リゾートやまどり) 新宿→長野原草津口 特急「リゾート草津」 9004M 多客臨 485系高崎車(リゾートやまどり) 長野原草津口→新宿 特急「リゾート草津」 9012M 団臨 E655系尾久車(なごみ(和)) 早川→新宿 長岡まつり大花火大会臨 9013M 団臨 E655系尾久車(なごみ(和)) 新宿→長岡 長岡まつり大花火大会臨 回9024M 試運転 E233系浦和車 東大宮操→大崎 9090M 多客臨 185系大宮車 高崎→新宿 特急「上州踊り子号」 9091M 多客臨 185系大宮車 新宿→伊豆急下田 特急「上州踊り子号」 9115レ 団臨 EF64形高崎車又はEF65形又はEF81形田端車+24系尾久車(夢空間) 品川→盛岡 配9233レ 配給 EF64形長岡車+E231系東京車 大崎→長野 E231系東京車(サハE230形)NN廃車回送 EF64形長岡車+211系田町車 品川→長野 211系田町車NN廃車回送 回9256M 回送 E257系松本車+E655系東京車 新宿→大崎 回9257M 回送 E257系松本車+E655系東京車 大崎→新宿 工9390レ 工臨 EF65形田端車+チキ 東大宮操→新宿 新宿工臨 回9392M 回送 113系幕張車 新宿→大崎 113系幕張車TK入場回送(車両展示) 回9397M 回送 209系京葉車 大崎→新宿 209系京葉車TK出場回送 配9433レ 配給 EF64形長岡車+211系田町車 品川→長野 211系田町車NN入場回送 回9456M 回送 215系田町車 新宿→品川 快速「ホリデー快速ビューやまなし号」返却回送 回9459M 回送 215系田町車 品川→新宿 快速「ホリデー快速ビューやまなし号」送り込み回送 配9497レ 配給 EF64形長岡車+クモヤ143形東京車 大崎→長野 クモヤ廃車回送 配9522レ 配給 EF64形長岡車+205系京葉車 東大宮操→大崎 TK入場 配9532レ 配給 EF81形長岡車+209系浦和車 東大宮操→大崎 209系浦和車(高萩疎開車)TK入場回送 回9533レ 回送 EF64形高崎車+12系高崎車+EF64高崎車 新宿→東大宮操 試9533M 試運転 E233系浦和車 逗子→宇都宮 E233系浦和車東急車輛製造出場回送兼公式試運転 試9540M 試運転 115系豊田車(訓練車) 豊田→品川 乗務員訓練 配9541レ 配給 EF64形長岡車+145系豊田車+143系松戸車+143系東京車+145系東京車+143系東京車 品川→大宮 143・145系NN廃車回送 試9541M 試運転 115系豊田車(訓練車) 品川→新宿 乗務員訓練 試9542M 試運転 115系豊田車(訓練車) 新宿→品川 乗務員訓練 試9543M 試運転 115系豊田車(訓練車) 品川→豊田 乗務員訓練 回9550M 回送 209系幕張車 東大宮操→新宿 209系幕張車KY出場回送 回9551M 回送 新宿→東大宮操 回9552M 回送 東大宮操→新宿 回9567M 回送 品川→八王子 試9570M 試運転 豊田→品川 試9571M 試運転 品川→豊田 試9572M 試運転 豊田→品川 回9577M 回送 品川→新宿 試9577M 試運転 品川→新宿 回9587M 回送 品川→新宿 配9651レ 配給 EF64形長岡車+E233系豊田車 大崎→新津 E233系豊田車TK→NT間回送 単9720レ 単機 大船→田端操 9723M 団臨 183系大宮車 品川→長岡 長岡まつり大花火大会臨 配9732レ 配給 EF64形長岡車+209系浦和車 越後石山→大崎 新潟車セ疎開編成TK入場回送 回9741M 回送 209系川越車(MUE-Train) 新宿→逗子 209系川越車東急車輛製造入場回送 回9742レ 回送 EF64形高崎車+旧型客車高崎車+EF65形高崎車 高崎→品川 「レトロ横濱号」送り込み回送 回9742M 回送 485系新潟車(きらきらうえつ) 越後石山→品川 「き・ら・き・らヨコハマ」送り込み回送 回9743レ 回送 EF65形高崎車+旧型客車高崎車+EF64形高崎車 品川→高崎 「レトロ横濱号」返却回送 回9745M 回送 485系新潟車(きらきらうえつ) 品川→上沼垂 「き・ら・き・らヨコハマ」返却回送 配9746レ 配給 EF64形長岡車+143系東京車 大崎→新宿 廃車 配9771レ 配給 EF81形長岡車+E231系東京車 大崎→新津 E231系東京車NT入場回送 配9772レ 配給 EF64形又はEF81形長岡車+E231系東京車 新津→大崎 E231系東京車NT出場回送 EF64形又はEF81形長岡車+E233系田町車 新津→品川 E233系田町車NT出場回送 回9777M 回送 113系幕張車 新宿→宮内 113系幕張車NN廃車回送 単9810レ 単機 EF58形田端車 田端操→大崎 EF58形田端車TK入場回送 9811レ 団臨 DD51形高崎車 東京→秋田 9822M 団臨 583系 横浜→新宿 「583系あおもり号」 回9853M 回送 E231系三鷹車 大崎→新宿 E231系三鷹車TK出場(休日) 回9870M 回送 115系 新宿→品川 回9871M 回送 115系 品川→新宿 単9920レ 単機 EF65形田端車 田端操→品川 田端操→東高島 単9921レ 単機 EF65形田端車 品川→田端操 単9940レ 単機 EF64形長岡車 田端操→品川 回9940M 回送 211系田町車 東大宮操→品川 211系疎開返却 回9941M 回送 185系又は211系田町車 品川→大宮 185系又は211系田町車OM入場回送 単9945レ 単機 EF65形田端車 新宿→田端操 回9948M 回送 立川→品川 単9962レ 単機 大船→田端操 配9986レ 配給 EF64形長岡車+209系浦和車 東大宮操→大崎 209系浦和車(尾久疎開車)TK入場回送 回9991M 回送 川越車 大崎→南古谷 川越車TK出場回送 回9993M 回送 大崎→東大宮操
https://w.atwiki.jp/history_chronicle/pages/19.html
日本史 星2・星3→星3・星4 ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 精鋭(星4→星5) ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 2000 藤原道長 火 政治 平安 2001 一家三后 藤原道長 火 政治 平安 2002 足利義満 火 政治 室町 2003 金閣寺 足利義満 火 政治 室町 2004 西郷隆盛 火 武力 幕末 2005 維新の三傑 西郷隆盛 火 武力 幕末 2006 葛飾北斎 火 学術 江戸 2007 富嶽三十六景 葛飾北斎 火 学術 江戸 2008 武田信玄 火 武力 戦国 2009 甲斐の虎 武田信玄 火 武力 戦国 2010 物部守屋 火 政治 古代 2011 廃仏論者 物部守屋 火 政治 古代 2012 平将門 火 武力 平安 2013 新皇 平将門 火 武力 平安 2014 足利義輝 火 政治 室町 2015 室町幕府13代目将軍 足利義輝 火 政治 室町 2016 出雲阿国 火 学術 江戸 2017 歌舞伎の始祖 出雲阿国 火 学術 江戸 2018 真田幸村 火 武力 戦国 2019 日本一の兵 真田幸村 火 武力 戦国 2020 本多忠勝 火 武力 戦国 2021 徳川四天王 本多忠勝 火 武力 戦国 2022 中岡慎太郎 火 政治 幕末 2023 陸援隊隊長 中岡慎太郎 火 政治 幕末 2024 大塩平八郎 火 政治 江戸 2025 大坂町奉行組与力 大塩平八郎 火 政治 江戸 2200 北条政子 水 政治 鎌倉 2201 尼将軍 北条政子 水 政治 鎌倉 2202 沖田総司 水 武力 幕末 2203 一番隊組長 沖田総司 水 武力 幕末 2204 北条時宗 水 政治 鎌倉 2205 神風の執権 北条時宗 水 政治 鎌倉 2206 徳川家光 水 政治 江戸 2207 江戸幕府3代目将軍 徳川家光 水 政治 江戸 2208 上杉謙信 水 武力 政治 2209 越後の龍 上杉謙信 水 武力 政治 2210 マシュー・ペリー 水 学術 幕末 2211 蒸気船海軍の父 ペリー 水 学術 幕末 2212 原田左之助 水 武力 幕末 2213 十番隊組長 原田左之助 水 武力 幕末 2214 源実朝 水 学術 鎌倉 2215 鎌倉幕府第3代将軍 源実朝 水 学術 鎌倉 2216 紀貫之 水 学術 平安 2217 土佐日記 紀貫之 水 学術 平安 2218 足利尊氏 水 武力 室町 2219 室町幕府初代将軍 足利尊氏 水 武力 室町 2220 小早川秀秋 水 武力 戦国 2221 背信の将 小早川秀秋 水 武力 戦国 2222 近松門左衛門 水 学術 江戸 2223 浄瑠璃作者 近松門左衛門 水 学術 江戸 2224 伊達政宗 水 政治 戦国 2225 独眼竜 伊達政宗 水 政治 戦国 2400 伊能忠敬 風 学術 江戸 2401 全国測量 伊能忠敬 風 学術 江戸 2402 小野妹子 風 学術 古代 2403 遣隋使 小野妹子 風 学術 古代 2404 行基 風 学術 古代 2405 東大寺四聖 行基 風 学術 古代 2406 足利義政 風 政治 室町 2407 銀閣寺 足利義政 風 政治 室町 2408 直江兼続 風 学術 戦国 2409 愛と義の智将 直江兼続 風 学術 戦国 2410 三浦義村 風 武力 鎌倉 2411 評定衆 三浦義村 風 武力 鎌倉 2412 弁慶 風 武力 平安 2413 荒法師 弁慶 風 武力 平安 2414 板垣退助 風 政治 明治 2415 自由党創始者 板垣退助 風 政治 明治 2416 今川義元 風 武力 戦国 2417 海道一の弓取 今川義元 風 武力 戦国 2418 松尾芭蕉 風 学術 江戸 2419 俳聖 松尾芭蕉 風 学術 江戸 2420 道鏡 風 学術 古代 2421 宇佐八幡宮神託 道鏡 風 学術 古代 2422 石田三成 風 武力 戦国 2423 五奉行 石田三成 風 武力 戦国 2424 毛利元就 風 武力 戦国 2425 三本の矢 毛利元就 風 武力 戦国 2426 千利休 風 学術 戦国 2427 茶聖 千利休 風 学術 戦国 2428 前田利家 風 武力 戦国 2429 加賀百万石の祖 前田利家 風 武力 戦国 2430 島津義弘 風 武力 戦国 2431 鬼島津 島津義弘 風 武力 戦国 2600 平清盛 光 武力 平安 2601 太政大臣 平清盛 光 武力 平安 2602 徳川慶喜 光 政治 幕末 2603 最後の将軍 徳川慶喜 光 政治 幕末 2604 フランシスコ・ザビエル 光 学術 戦国 2605 宣教師 ザビエル 光 学術 戦国 2606 鑑真 光 学術 古代 2607 日本律宗の祖 鑑真 光 学術 古代 2608 篤姫 光 学術 幕末 2609 天璋院 篤姫 光 学術 幕末 2610 近藤勇 光 政治 幕末 2611 新選組局長 近藤勇 光 政治 幕末 2612 北条義時 光 武力 鎌倉 2613 鎌倉幕府第2代執権 北条義時 光 武力 鎌倉 2614 山名宗全 光 武力 室町 2615 西軍総大将 山名宗全 光 武力 室町 2616 伊藤博文 光 政治 明治 2617 初代内閣総理大臣 伊藤博文 光 政治 明治 2618 大石内蔵助 光 政治 江戸 2619 赤穂浪士 大石内蔵助 光 政治 江戸 2800 中臣鎌足 闇 政治 古代 2801 藤原氏の祖 中臣鎌足 闇 政治 古代 2802 源頼朝 闇 武力 鎌倉 2803 鎌倉幕府初代将軍 源頼朝 闇 武力 鎌倉 2804 吉田松陰 闇 学術 幕末 2805 松下村塾主宰 吉田松陰 闇 学術 幕末 2806 蘇我馬子 闇 政治 古代 2807 崇仏論者 蘇我馬子 闇 政治 古代 2808 芹沢鴨 闇 武力 幕末 2809 初代筆頭局長 芹沢鴨 闇 武力 幕末 2810 細川勝元 闇 学術 室町 2811 東軍総大将 細川勝元 闇 学術 室町 2812 大久保利通 闇 政治 明治 2813 初代内務卿 大久保利通 闇 政治 明治 2814 杉田玄白 闇 学術 江戸 2815 蘭学医 杉田玄白 闇 学術 江戸 2816 明智光秀 闇 武力 戦国 2817 本能寺の変 明智光秀 闇 武力 戦国 2818 雪舟 闇 学術 室町 2819 画僧 雪舟 闇 学術 室町 2820 大谷吉継 闇 武力 戦国 2821 刑部少輔 大谷吉継 闇 武力 戦国 2822 小野小町 闇 学術 平安 2823 六歌仙 小野小町 闇 学術 平安 2824 伊東甲子太郎 闇 学術 幕末 2825 新選組参謀 伊東甲子太郎 闇 学術 幕末 2826 高杉晋作 闇 政治 幕末 2827 奇兵隊創始者 高杉晋作 闇 政治 幕末 2828 斎藤一 闇 武力 幕末 2829 三番隊組長 斎藤一 闇 武力 幕末 2830 望月千代女 闇 学術 戦国 2831 歩き巫女 望月千代女 闇 学術 戦国 SP(星4→星5) ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 総合力 HP 攻撃 3000 織田信長 火 武力 戦国 3001 天下布武 織田信長 火 武力 戦国 32609 14717 2982 3200 源義経 水 武力 平安 3201 判官 源義経 水 武力 平安 32538 17820 2453 3202 土方歳三 水 武力 幕末 3203 新選組副長 土方歳三 水 武力 幕末 32573 16229 2724 3400 豊臣秀吉 風 政治 戦国 3401 太閤 豊臣秀吉 風 政治 戦国 32549 17309 2540 3402 天草四郎 風 武力 江戸 3403 神の子 天草四郎 風 武力 江戸 32399 18629 2295 3600 徳川家康 光 政治 江戸 3601 江戸幕府初代将軍 徳川家康 光 政治 江戸 32556 16188 2728 3602 坂本龍馬 光 武力 幕末 3603 海援隊隊長 坂本龍馬 光 武力 幕末 32520 13800 3120 3604 清少納言 光 学術 平安 3605 枕草子 清少納言 光 学術 平安 32545 16219 2721 3800 紫式部 闇 学術 平安 3801 源氏物語 紫式部 闇 学術 平安 32551 17839 2452 3802 聖徳太子 闇 政治 古代 3803 冠位十二階 聖徳太子 闇 政治 古代 32568 14640 2988 禁書領域(星5) ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 総合力 HP 攻撃 4000 天下御免の傾奇者 前田慶次 火 武力 戦国 37440 19656 2964 4200 陰陽師 安倍晴明 水 政治 平安 37476 19476 3000 4400 二天一流 宮本武蔵 風 武力 江戸 37461 17685 3296 4600 雷神 坂田金時 光 武力 平安 37440 16848 3432 4800 羅生門 芥川龍之介 闇 学術 明治 37440 18720 3120 異説 ※IDはオリジナル+3000 人物クエストを参照 世界史 先歴のメダル交換 50000枚 ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 8000 ナポレオン・ボナパルト 火 武力 8001 フランス皇帝 ナポレオン 火 武力 8100 マルコ・ポーロ 水 学術 8101 ベネツィアの商人・マルコ・ポーロ 水 学術 8200 諸葛孔明 風 政治 8201 天才軍師・諸葛孔明 風 政治 15000枚 ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 8600 カール大帝 光 政治 8601 ローマの再興者 カール大帝 光 政治 8700 ガリレオ・ガリレイ 闇 学術 8701 近代科学の父・ガリレオ 闇 学術 世界史ガチャ ID キャラクター名 属性 タイプ 時代 9000 ビスマルク 火 政治 9001 鉄血宰相・ビスマルク 火 政治 9002 カエサル 火 武力 9003 終身独裁官・カエサル 火 武力 9004 ネロ 火 政治 9005 第5代ローマ皇帝・ネロ 火 政治 9200 マリー・アントワネット 水 学術 9201 悲劇の王妃・マリー・アントワネット 水 学術 9202 曹操孟徳 水 武力 9203 魏武・曹操孟徳 水 武力 9204 エリザベス1世 水 政治 9205 善き女王・エリザベス 水 政治 9206 マゼラン 水 学術 9207 航路の探究者・マゼラン 水 学術 9400 クレオパトラ 風 政治 9401 絶世の美女・クレオパトラ 風 政治 9402 レオナルド・ダ・ヴィンチ 風 学術 9403 万能の天才・ダ・ヴィンチ 風 学術 9404 劉備玄徳 風 武力 9405 蜀漢の皇帝・劉備玄徳 風 武力 9600 リンカーン 光 政治 9601 偉大なる解放者・リンカーン 光 政治
https://w.atwiki.jp/yurupedia/pages/1469.html
おちむん 携帯画像 都道府県 神奈川県 肩書き 鎌倉市非公認マスコットキャラクター twitter https //twitter.com/ochimun 解説 「おちむん」は鎌倉時代末期、倒幕で滅びた鎌倉から逃げ出した武士。逃亡中に何故かタイムスリップして現代に出現。現在は鎌倉市非公認マスコットとして活躍中。 攻略難易度 ★★★★★難。オーナーチェンジが発生したキャラであり、以前より登場頻度が少なくなっている。 名刺の有無 ? 狙い目イベント イベント情報
https://w.atwiki.jp/shuinn/pages/1375.html
明王院 神奈川県鎌倉市・明王院の御朱印です。鎌倉十三仏第1番「不動明王」の霊場です。 鎌倉三十三観音霊場第8番札所の御朱印「十一面観世音」です。 「叶地蔵尊」です。 令和4年1月、初不動で授与された御朱印です。 令和4年1月、初聖天で授与された御朱印です。 ★住所 神奈川県鎌倉市十二所32 -
https://w.atwiki.jp/shuin/pages/722.html
光明寺 光明寺(鎌倉三十三観音) 光明寺(鎌倉二十四地蔵) 神奈川県鎌倉市材木座6-17-19
https://w.atwiki.jp/ekidash/pages/2177.html
かたせやま 湘南モノレール 神奈川県鎌倉市西鎌倉 湘南モノレール 西鎌倉←→目白山下
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/52894.html
登録日:1221/05/14 Wed 12 21 03…ではなく、2022/12/27 Tue 02 24 24 更新日:2024/09/10 Tue 18 56 50NEW! 所要時間:約 50 分で読めます ▽タグ一覧 1221年 その時歴史が動いた ターニングポイント 中世 内乱 勉強になる項目 北条政子 北条義時 後鳥羽上皇 戦争 所要時間30分以上の項目 承久の乱 日本史 朝廷 武士 歴史 鎌倉幕府 鎌倉時代 鎌倉殿の13人 革命 1221年(ひとにふいうち) 承久(じょうきゅう)の乱 『承久の乱』とは、1221年(承久3年)に日本国で起きた騒乱の名称。 時の最高権力者・後鳥羽上皇が、当時東国一園を支配していた武家政権『鎌倉幕府』の執権・北条義時追討の命を下すも、 鎌倉幕府の初代将軍・頼朝の妻であった北条政子の演説によって結束した幕府軍の反撃を受け、敗れ去った事変である。 この勝利によって鎌倉幕府、ひいては武家がその権力を強め、以降朝廷に代わって約650年に亘り日本の政治を取り仕切っていく事となる。 なお歴史用語的には「身分が下の者が時の権力者に反乱を起こしたが、権力者側が勝った」(*1)事変を「乱」と呼ぶことが多く、 逆に、「下の者が反乱に勝ち、権力者が失墜した」戦乱を「変」と呼ぶことが多い。 「多い」という表現を多用したように例外な使い方をされることもあるが、 この戦乱の場合、敗者となった後鳥羽上皇の方が立場が上なのは言うまでもないので、 「『承久の乱』ではなく『承久の変』では?」という声もあり、実際そう書かれることもある。 一方で名目上の立場は後鳥羽上皇の方が上だが、実質的な権力はこの戦が起きる前からすでに逆転していたと言う観点では『乱』でも間違いではない。 歴史の解釈や呼称は日進月歩であり、今後この乱の呼び名が変わる可能性はあり得るがひとまずこの項目では承久の乱で統一する。 △メニュー 項目変更 -アニヲタWiki- そんな『承久の乱』であるが、日本史の教科書では数行ないし1ページ程度の扱いであることが多く、 大多数の学生にとっては「鎌倉幕府が権力地盤を固めた」というだけの出来事、 下手をすればテスト勉強に向けた年号の語呂合わせの方が印象に強い事件と言えるだろう。 だが実際は、当時の日本における既成概念・統治体制を大きく変容させる契機となった戦乱であり、後の歴史に絶大な影響をもたらした転換点である。 ◆当時の背景 ~武家政権と治天の君~ 1185年(所説あり)に創建された、日本史上初の単独武家政権「鎌倉幕府(*2)」。 創設者である源(みなもとの) 頼朝(よりとも)はその後、1192年に朝廷から「征夷大将軍」の任官を受け、統治機構の更なる拡充を図るのだが、 これは同時に「朝廷が直接介在しない政治・統治体制の誕生(*3)」という側面があった。 鎌倉幕府はその名の通り鎌倉、すなわち関東(当時は『坂東』と呼ばれていた)一帯を拠点とし、加えて東国(現在の中部および東北地方)を勢力圏に置いていたのだが、 「征夷大将軍」という役職の性質上(*4)、頼朝は日本全国の武将たちを統治する事が朝廷より認められた立場にあった。 加えて、1185年の時点で頼朝は朝廷から「守護・地頭(*5)」の全国設置を認められており、ここに「征夷大将軍」の役職・権限が合わさった事で、 頼朝は勢力圏内における軍事・警察権と土地の支配・行政権、そして徴税事務の権利を獲得。 こうして頼朝、そして「鎌倉」は関東及び東国における支配権を朝廷から認められるに至ったのだが、 その結果、勢力下にある武士・豪族こと「御家人」への軍事・政治的指示や各種褒章を出すのは鎌倉の将軍、通称「鎌倉殿」の役割となった。 当然と言えば当然の話なのだが、これは同時に従来の、 朝廷(天皇・上皇)・公家 ↓ 武士・豪族 という統治・指示の流れに、新たに「鎌倉殿」という存在が割って入る(*6)格好となり、 武士たちにとっては従来の朝廷よりも、直接的な統治者となる鎌倉殿の重要度が大きく増す形になっていった。 早い話、「朝廷に対して仕える」というより「鎌倉殿に対して仕える」という認識が、関東及び東国では強く広まる形になった。 一方京においては、従来の統治機構たる朝廷、そしてその最高位として天皇および上皇が君臨しており、 加えて物理的な距離の問題も手伝って、鎌倉殿の影響力も京周辺及び西国には届かず、引き続き朝廷の意向が重視される形にあった。 つまり、鎌倉殿の影響力が強まるにつれ、西と東で事実上統治機構が二つ存在する格好になっていったのだ。 この状況は、朝廷――特に当時の最高権力者たる「治天の君」(*7)後鳥羽(ごとば)上皇にとっては何とも芳しくない事態であった。 特に荘園に対して地頭が置かれて支配構造が変化した結果、朝廷の収入源たる年貢の徴収に支障をきたすようになるなど、地味に痛い問題が噴出するようになっていた。 そもそも「鎌倉殿」が成立したこの時代、朝廷の権威は武家の一門たる平家・源氏の隆盛に呼応するかの如く落ち始めており、後鳥羽上皇はその回復・復権に気炎を上げていた。 補足:朝廷、右肩下がりの四方山話 前提の話として、古代からこっち、日の本における社会構造は(めっさ大雑把に言うと) 「一番高い地位に天皇・上皇が立つ」 「その下で公家が『朝廷』という政治機構を取り仕切る」 「その朝廷の決定に従い、日本の各地を武士が管理し、必要に応じて軍事力を行使する」 という体制・固定観念が定着していた。 逆に言えば当時の武士階級、特に京から離れた地域に拠点を置く武士・豪族は、居住地域の管理を公家や朝廷から「命じられている」ないし「住む事を許されている」立場にすぎず、 その立ち位置は決して高くない……というかぶっちゃけ「下から数えた方が早い」序列にあった。 が、平安時代末期、「保元の乱」(*8)あたりから話が変わり出す。 「保元の乱」と続く「平治の乱」(*9)という二つの政変は、どちらも天皇・上皇や公家が武士階級の武力を借りることで解決した。 その結果平(たいらの) 清盛(きよもり)率いる平家一門が、「朝廷の政治」に武家として初めて食い込み出したのだ。 元々武家の中でも最上位クラスの格式を持っていた事を活かし、清盛は数々の権謀と闘争の末に朝廷を事実上掌握。 その勢いは当時の最高権力者・後(ご)白河(しらかわ)法皇(ほうおう)すら押さえ込む程だったが、朝廷や公家にとっては、自分達の権威を貶めるが如き所業。 それは各地の武士――特に平家の台頭によって割りを食う形になった源氏やその麾下にとっても同様だった。 結果、後白河法皇を始め、朝廷はあの手この手を使って平家を追いやるべく動き出し、反平家を標榜する各地の武士・豪族もこれに同調したのだが、 そうした「反平家勢力」たる武士達を最終的にまとめ上げたのが頼朝だった。 朝廷から見れば、厄介な平家を討つに足る器――「源氏の嫡流」という頼朝の出自は最適であり、 加えて清盛の様に朝廷の政治にそこまで首を突っ込めない立場(*10)と、正にうってつけ。 後白河法皇をはじめ、朝廷は頼朝に「朝廷を蔑ろにした平家を討伐せよ」という命令――大義名分を与え、平家を滅亡させるに至ったのだ。 が。 一方の頼朝も、ただ朝廷に利用されるだけの扱いに甘んじるワケがなかった。 頼朝は「平家討伐」という功績や朝廷からの各種要望に応えるのと引き換えに、様々な権限・権利を合法的に(●●●●)自身へ移譲・承認させていったのだ。 これは平家……というか平清盛の手法とは真逆に近いもの。 清盛は時に強権的とも取れる手法で朝廷の権力闘争に勝ち抜き、掌握してきた。 だがそれ故に反発も盛大であり、加えてそれらの強権発動が「清盛個人の意向・力」によるところが強すぎた結果、 彼が病没してしまったのをきっかけに、平家は一転して追い込まれる事になった。 しかし頼朝は、あくまで現行の制度を活用したり、一定の大義名分を背景にした上で自身に有利な方向へ権限が動くように事を図った。 しかも朝廷内部には深く関わらず、同時に朝廷から余計な介入がないよう絶妙に気を配りながら事を進めた事で、 頼朝は鎌倉という「京から離れた地」での「事実上朝廷から切り離された」独自政権を建てるに至った。 ……だが、朝廷の立場から見てみれば「難敵を追い出す為に連れて来た奴が、別の形を取って難敵になり出した」という皮肉な事態。 諸々の事態を打開可能な勢力が頼朝しかいないという、やむを得ない状況下での対処であったのだが、 結果として朝廷の復権には至らないばかりか、逆に新興の勢力が生まれるという新たな頭痛のタネが出来上がってしまったのだ。 そういった側面からも、鎌倉の影響力拡大は朝廷にとっては「無視しがたい目の上のタンコブ」みたいな話でもあった。 とは言え、朝廷も不満はありつつ軍事的・政治的影響力が強大な鎌倉を早々足蹴にするわけにはいかず、 他方鎌倉も自分たちの権威基盤は「朝廷の威光・認可に基づく」という事は充分理解していたため、両者の関係は若干の緊張感をはらみつつも穏当な状況を維持していた。 ◆騒乱の発端 ~将軍の死と後継問題~ 鎌倉の創建者にして初代将軍・頼朝没後より代を重ねた1203年。 三代目として頼朝の次男・源(みなもとの)実朝(さねとも)が新たな鎌倉殿に就任する。 実朝はその名付け親が他ならぬ後鳥羽上皇であり、妻にも上皇の姪御を迎えるなど、その立場は朝廷と浅からぬ繋がりがあった。 朝廷側も彼の存在は重要視していたらしく、彼に与える官職の昇格スピードはかなり早く、 最終的には実朝に「右大臣」という当時の武士階層としては初にして破格の地位を授けていた(*11)。 また実朝は、小倉百人一首の一人にも選ばれるように和歌を嗜んでいた事で有名なのだが、これも朝廷・宮中における重要文化の一つであり、 そういった意味でも彼の存在は朝廷と鎌倉における重要な橋渡し的側面を持っていた(*12)。 一方、実朝には当時子供がおらず(*13)、後継者に関する問題も付いて回っていた。 対処の一環、そして朝廷との更なる関係強化も兼ねて、後鳥羽上皇の皇子を次代の将軍に迎える案が内々に検討され始めた、その矢先。 1219年1月。 右大臣任官の催事として鶴岡八幡宮に参拝していた実朝が、先代将軍の遺児・公暁の襲撃を受け、暗殺されてしまう(*14)。 それは即ち、頼朝から続いた源氏将軍の血筋が絶たれた事を意味し、 同時に、それまで安定期にあった朝幕関係が一気に悪化する契機ともなった(*15) 実朝の死を受け、鎌倉は直ちに次代の将軍として後鳥羽上皇の皇子・雅成親王(まさなりしんのう)を鎌倉へ迎えたいと朝廷に要請を出す。 内々ではあるが相談はしている話なだけに、程なく了承される……と思いきや、上皇は対応を保留する。 理由は所説あり、 皇子を出すことでむしろ鎌倉と朝廷で日本の二分化が加速する事を懸念した 将軍が暗殺されるという前代未聞の事態により、鎌倉の治安の悪さを問題視した そもそも皇子を送る事自体は実朝が存命であるのが前提であった 等あるが、定かではない。 いずれにせよ、この反応に鎌倉は再三の要望を送るのだが、すると上皇、今度は 「親王を迎えたいなら、自分の寵姫・亀菊が持つ荘園の地頭廃止と、自分の部下である武将への処分を撤回せよ」 と、まさかの交換条件を突き出してきた。 だが、守護・地頭制は幕府による御家人たちへの所領安堵と事実上セット(*16)であり、 それを朝廷の都合で廃止するという行為は今後の幕府体制に悪影響が大きすぎる話であった。 もう一つの要求に至っては了承すれば「朝廷なら幕府の処罰を容易に覆せる」という前例を生むことになり、これまた後々に禍根を生み出しかねないモノ。 結果、将軍に次ぐ序列第二位、現時点での幕府最高権力者である執権・北条義時(ほうじょうよしとき)はこの要求を拒否。 対処及び交渉のため、弟の時房に兵千人を預けて京に向かわせるという強硬策に打って出る。 だが、武力を背景にしたこの対応にも朝廷は応じる事は無く、結局上皇が「摂関家(*17)の人間であれば鎌倉殿としても良い」と妥協案を示し、義時ら鎌倉側もこれを了承。 初代将軍・頼朝との血縁関係があった九条家の三男・三(み)寅(とら)(後の九条頼経(くじょうよりつね))(*18)を新たな鎌倉殿として迎える事になった。 しかし、当時三寅は2歳かそこらという幼児だったため、将軍職としての立場は頼朝の妻で実朝の母・政(まさ)子(こ)が代行し、実務は執権の義時が中心となって進める格好に落ち着いた。 だが、この一件は元々微妙だった朝廷と幕府に致命的な亀裂を生む一因となった。 朝廷にとって本件は「こちらの要望が通らない=朝廷の意向・権威を鎌倉側が無視した」形であり、結果的にこちらが妥協案を示す=折れる形になった。 加えて何より「武力を背景にした朝廷への要求」という行為は、後鳥羽上皇の祖父・後白河法皇がかつて平清盛より受けた事(通称「治承三年の政変(*19)」)と同じ所業。 朝廷及び自身の権威向上に腐心していた後鳥羽上皇にとって、それをを一度ならず二度までも、というのは腹立たしいにも程がある話であった。 一方、鎌倉側にとっても本件は業腹極まる話だった。 「鎌倉殿」の存在は、鎌倉幕府が成立する上では不可欠なんて言葉では言い表せないレベルの重要な存在。 それが欠落したとあっては、一歩間違えれば鎌倉が崩壊しかねない緊急事態である。 (その幕府が後継者になりうる人材を軒並み死なせたのは禁句。) にも拘らず、かねてから打診していた筈の後継者についての依頼をしたのに対応は遅く、せっつくと今度は無茶な要求を突きつけられ(*20)、 最終的には妥協案に乗らざるを得ない形になるなど、あからさまに非協力的な上皇及び朝廷への不信感は否応なく増幅していった。 加えて実朝の死は、こうして生じてしまった両者の亀裂を修復する役目を持つ「橋渡し役」の喪失も意味しており、関係改善がより一層困難な事態になってしまった。 そして同年。 京の大内裏が在京の武将による騒乱の果てに焼失した際、その再建費を全国に一律負担するよう上皇は命じたのだが、 これに各地の武将――要は鎌倉麾下の御家人たちが軒並み反発・拒絶するという事態が発生(*21)。 西と東、朝廷と鎌倉の対立は、半ば公然としたものへとなりつつあった。 ◆乱の勃発~敵の名は北条義時~ 先の一件含め、諸々積み重なった現状は、後鳥羽上皇にある策謀を抱かせるに至った。 朝廷相手に武力を背景にした恫喝も辞さない構えを見せたばかりか、源氏将軍が絶えた今、鎌倉で絶対的な権威を振るう執権・北条義時。 地方出身の豪族に過ぎない身でありながら、鎌倉の中心で政を差配するばかりか、あまつさえ朝廷すら蔑ろにする彼という存在を、上皇は遂に排除する事に決めたのだ(*22)。 この上皇の意思に当代の天皇・順徳天皇(じゅんとくてんのう)(*23)も同調。 当時4歳の息子に天皇の地位を譲り、自らも上皇となる事で自由な立場になり、協力することとした。 他方、順徳天皇の先代である土御門上皇(つちみかどじょうこう)(*24)は後鳥羽上皇の決定に反対し、一部の公卿(*25)らも異を唱えたが、 逆に後鳥羽上皇は彼らを要職から排除するといった措置を取るなど、その意思は変わらなかった。 そして、1221年(承久3年)5月14日。 後鳥羽上皇は「流鏑馬を行うので、近隣の武士たちは集まるように」という通達を出す。 無論そんな話は建前であり、その真意は自身に従う軍勢を集めるための招集であった。 集結した武将は上皇直属の北面・西面武士(*26)だけでなく、近隣諸国の兵、果ては在京していた鎌倉由縁の御家人まで加わり、その数は千を超えていた。 人員を集めた上皇は手始めとして、鎌倉から京都守護として派遣され、今回の招集に応じなかった武将・伊賀光季(*27)を討伐。 更に公卿の内、親鎌倉派として知られていた西園寺公経を幽閉。 これで周辺を自勢力で固め、造反勢力を抑え込んだ上皇は、翌15日に五畿内諸国(現在の奈良・京都及び大阪近隣)及び日本全国の御家人・守護地頭へと院宣(*28)を下した。 その内容は、 新たな将軍が幼い事を利用して、己の好き勝手に裁可を下し天下を乱す謀反人・北条義時を追討せよ。 逆らう者がいるのなら、速やかにこれを討ち取れ。 かつて平家追討の際に出された時と同様、朝廷の最高権力者「治天の君」による、北条義時討伐命令が全国の武将へと下されたのである。 院宣が下された直後、京側の士気は高かった。 それもその筈、上皇の院宣は文字通り最強の切札。どんな公家・武士であってもそれを前にしたのならば、絶対的に従わざるを得ない「錦の御旗」。 西国は勿論、鎌倉幕府勢力下の武士達とて、無下にすることなど到底考えられない代物であり、東国を含めた諸国の武将はこぞって上皇に味方すると確信していた。 加えて、鎌倉に在する有力御家人に対しては個別に院宣を送るなど、根回しも周到。 「義時の味方など千人も居ない」と言われるほどであった。 ……だが、彼らは勿論、後鳥羽上皇もある種読み違いをしていた。 京方に「上皇という最高権威」由来の院宣という絶対的な切札があるように、 鎌倉方にも「頼朝が築いた鎌倉」由来の、当代無比にして最強の鬼札がある事を。 そもそも、東国一帯に生きる武将――坂東武者たちが、何のために戦うのか、 そして、自分達が生きるこの時代が、今どういう流れに動きつつあるのか、という事を。 ◆鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~ さて、上皇は義時追討の命を下したのだが、その内容を記した通知は二種類に分けられる。 一つは、守護・地頭といった各地の御家人に送られた、いわば「全体向け」の内容の通知。 もう一つは、特定の御家人に対して格別の内容を記した通知である。 どちらも院宣が正式に下り次第、所定の者が各地、ないし特定の御家人の下へ通知を持参して事を伝える、という手筈であった。 だが、ここで(のっけから)誤算が生じ始める。 院宣を下す前、京一帯の地固めとして討伐された京都守護・伊賀光季。 実は彼、追討軍に応戦する一方で、家中の者を鎌倉への伝令として脱出させていたのだ。 同様に、上皇によって幽閉された西園寺公経も、事前に部下を鎌倉へ向かわせることに成功。 結果、院宣を携えた使者が来るよりも早く、鎌倉側は上皇の挙兵を始めとした変事を把握する事が出来た。 必然、鎌倉は警戒を強め、その結果後から来た京からの使者を捕える事に成功した。 そして更なる誤算は、個別に送った院宣である。 送られた通知は全部で8通で、いずれも在京経験があり、鎌倉幕府においては相応の勢力を誇る御家人達に宛てられたもので、 この院宣によって、上皇及は鎌倉内部の分断を図り、ひいては義時追討を果たそうとした。 で、その内の1通を(こっちは予定通りに)受け取ったのが、三浦(みうら)義村(よしむら)。 京側についた武将・三浦(みうら)胤義(たねよし)の兄であり、当時の鎌倉においては北条一族に次ぐ勢力を誇る有力御家人・三浦家の当主であった。 胤義は会議において「見返りとして相当の地位を約束すれば、兄は確実にこちらに味方する」と請け負っており、密使に持たせて送った院宣及び通知もその意見に準じたものだった。 のだが。 なんと義村、届いた文書をそのまま追討対象である義時並びに鎌倉首脳陣の下へ持って行ったのである。 曰く「京に住む弟から届いた書状を見てください」とか言って見せ、加えて「私は弟の反逆に加担する気はありません。鎌倉に味方して忠義をつくす所存です(キリッ」とか言ってのけたとか。 ……なんて事ない様に思うかもだが、この密書は(要約すれば)「『三浦一族は義時を討てという命令が上皇様からありました』by弟」と言う内容。 つまり、見る人が見れば「三浦一族は義時追討を目論んでいる」と認識されかねない代物である。 どれ程忠誠を口にしようと、腹の中が読めないのはいつの時代も同じな以上、一歩間違えれば忠義っぷりを褒められる前に返す刀で誅殺されかねない大劇物である。 そんなものをしれっと義時らに見せ、「自分に謀反するつもりはない」といけしゃあしゃあと宣える辺り、この男、只者ではない。(*29)。 ともあれ、挙兵の情報及び院宣は、かなり早い段階で鎌倉首脳陣の下へ伝わる格好になった。 とはいえ、事態が好転したわけではないのが実情。 何しろ義時はこの院宣が下された瞬間から、まごう事なき「朝敵」。 京からの使者こそ捕縛したが、あくまで鎌倉近辺に向けた使者一人であって、他の地域への使者まで全て止められる訳もなし。 遠からず事態は御家人全員が聞き及ぶ事となるだろう。 そうなれば、御家人の少なくない者は義時を討とうと動き出し、仮に成功すれば「鎌倉の中枢で政治を舵取りする人材の喪失・欠落」という政治的混乱必至の事態。 無論失敗もあり得るが、それは即ち義時側の応戦=鎌倉での武力衝突の発生。 そしてそれ即ち「上皇への反逆」と見なされ更なる朝敵扱いという、どう転んでも大混乱は確定事項。 下手をすれば「鎌倉殿」という統治体制が根底から崩壊しかねない、絶体絶命の危機と言えた。 が、そこで立ち上がったのが、当時「尼将軍」の異名で呼ばれていた、初代将軍の妻にして義時の姉・政子。 上皇の挙兵という一大事変に浮足立つ御家人たちに向けて、世に言う「北条政子の演説」をぶち上げたのである(*30)。 その内容を現代版に翻訳・意訳すると、 皆心して聞きなさい、これが私の最後の言葉です。 亡き将軍頼朝公が平家を討ち、坂東に鎌倉を創設して以降、保障してきた皆の地位、与えてきた褒賞、その全ての恩は山よりも高く、海よりもなお深いものの筈。 その恩に報いようという心は無いのですか! 今、逆臣の讒言に基づき、上皇は道理と正義を無視した命令を下しました。 坂東武者としての、そして己と一族の名誉を重んずるのなら、ただちに逆臣たちとその軍を打ち破り、源氏三代の将軍達が遺した、この鎌倉の地を護り通すのです! もし上皇に従おうという者がいるのなら、今この場で申し出るがいい!! ――頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、およそ30年余り。 世代交代も進む中で、坂東・東国一帯の御家人にとって「鎌倉」という存在は「当たり前の統治機構」になりつつあった。 それ故に御家人たちにとって初代鎌倉殿・頼朝という人物は「自分たちの今を築き上げてくれた存在」であり、 故に「今日の自分達の立場と暮らしが守られているのは、他ならぬ頼朝公、そして彼が築いた『鎌倉殿』のお陰である」という共通意識が、 坂東を始めとした鎌倉勢力圏には広く浸透していたのだ。 そんな頼朝への恩義として、彼が築いた鎌倉の守護の勤めを果たすべし、という言葉を、他でもない頼朝の妻である政子から一喝された以上、御家人たちに応じない理由は無かった。 上皇の誤算、その二つ目は、「頼朝、そして『鎌倉殿』の偉功」という、御家人たちにとっては上皇へのそれをも凌ぐ、目に見えない力が鎌倉に深く根付いていた、という点である。 そもそも政子の言にある通り、鎌倉の武将達にとって、自分達に褒賞をもたらし領地安堵を保障してくれるのは「頼朝が築いた鎌倉殿」であり、 遠く離れた京に居座る、会った事も話した事もない「上皇様」に対して義理立てする理由がすっかり薄くなっていたのだ。 ……もっとも、この演説。 よく読むと、院宣にある討伐対象はあくまで「北条義時『個人』」なのに、話の中で頼朝の名前を出してその恩顧を説くことで、 あたかも討伐対象が「鎌倉全体である」ように印象づける格好になっている。 演説の中でさりげなく話題を頼朝やその恩義の話にもっていき、「義時を討てば丸く収まる」とか御家人が考えないように意識を逸らし、 「討つべき相手は上皇一派だ」と御家人たちに思わせる、ファインプレー感満載なトーク内容だったりする。 加えて、実のところ御家人たち全員が「頼朝への恩顧」や「鎌倉の守護」を理由に結集したかと言うと、そうでもなかったりする。 『承久記』に曰く、政子の演説を聞いて鎌倉側へ付く事を決めたとされる一人、甲斐国の武将・武田(たけだ)信光(のぶみつ)。ご存知「甲斐の虎」こと武田信玄の先祖である。 彼は後日出陣した際、帯同した武将との会話で「鎌倉が勝ったら鎌倉に、京が勝てば京につくのが武士ってもんだろ」と事も無げに言い放っているのだ(*31)。 しかもその後、鎌倉側から勝利した際の褒賞を約束する書面が届くや、水を得た魚の如く猛進軍を開始したという。 そもそも、鎌倉殿と御家人の関係は、忠誠心とか先祖からの恩顧とか、そういった物に基づく関係ではなく、互いが互いの利益となる行為を行い合う互恵的・双務的な関係。 現代風に言えば「派遣社員と派遣先企業」といったビジネスライク感満載な、利益と打算を双方が考えた上で結ばれた契約関係であった(*32)。 しかも当時、戦争などで相手を討ち滅ぼして武功を上げれば、相手側の土地が功績に応じて褒賞として分け当たられる都合上、 「勢力規模的に勝算が高く」かつ「勝ったら上皇軍の領地をゴッソリ貰える可能性がある」鎌倉側へつこうと考えるのは当然であったのだ。 (封建制も参照) 「自分に利をもたらしてくれるのはどちらか」。 上皇側の誤算の二つ目、その別側面は、坂東一帯及び多くの御家人にとっては「上皇直々の御達し」よりも「付いた結果得られる利得」の方がよっぽど重要だった。 つまりそれだけ「朝廷の威光・権威」は形式的な物として扱われ、実利面ではさしたる効力を持たない時代になりつつあった、という点を読み違えていた事でもあった。 身も蓋もない言い方をすれば、「京におわす上皇様の院宣」なんぞ「戦に勝った結果貰えるだろう褒賞」の前には紙切れ同然、 例えるなら「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしねぇってのによぉ!」一歩手前状態だったのだ。 ……まあ、何はともあれ。 政子の演説内容と御家人の思惑が合致した結果、鎌倉側の御家人は「打倒上皇軍」へと纏まる事になった。 ◆進撃の鎌倉、失態の京方 ~「いざ鎌倉」もとい「いざ京へ」~ かくして方針は決定し、19日には具体的な対応策を首脳陣で協議する事となった。 当初は箱根近郊に勢力を結集し、上皇軍を迎え撃つ策が検討されたのだが、 鎌倉草創期からの重鎮・大江(おおえ)広元(ひろもと)は、「迎撃は時間が取られ、その間に御家人達の動揺と離反を招く」と指摘。 その上で、「勢力が集まり次第出撃させ、京へ向かわせる」という、積極的な対応を提案した。 これに同じく首脳陣の三善(みよし)康信(やすのぶ)、及び政子も同調し、義時を始めとする慎重論派とのせめぎ合いもあったが、 最終的には「最速での戦力出動・京への進撃」が決定された。 そして22日。 東海道・東山道・北陸道の三方面から、それぞれ北条(ほうじょう)泰時(やすとき)(*33)・武田信光・北条(ほうじょう)朝時(ともとき)(*34)が指揮官となり、京へ向けて進撃を開始した。 速度最優先の出撃の結果、出発時は極小数、泰時麾下に至っては僅か18騎程度だったという。 だが、数はどうあれ「上皇を誑かした逆臣を討ち、鎌倉を守護すべく京へ進軍する」という名目の積極策は、 様子見を決め込んでいたり、態度を決めかねていた御家人達には効果的面であった。 結果、道中で在地の豪族や御家人達は次々と鎌倉側に合流・帰順していき、その勢力はドンドン増大。 最終的には(所説あるが) 東海道軍:10万騎 東山道軍:5万騎 北陸道軍:4万騎 その総勢、およそ19万騎という、当時はおろか日本史上においても空前絶後の大軍勢となっていた(*35)。 参考までに…… 今回と同様、歴史上に大きく名を刻む戦乱と比較すると、戦国時代有数の大合戦「関ヶ原の戦い」において、 勝利した東軍(徳川家康側)でも約7万から10万程度、西軍(石田三成側)とあわせてようやく18万程、である。 単独陣営で19万という数値に並ぶものは、豊臣秀吉による小田原征伐がほぼ同数、超えるとなると同じく秀吉の九州平定時の勢力(約20万)が挙げられる。 ……逆に言えば、天下統一まであと一歩まで近づいていた秀吉レベルの勢力を、この時点で義時ら鎌倉は確保していた、ともいえる。 その一方、鎌倉に留まった「朝敵」義時は、先に捕縛した京の使者の一人・押松丸を、敢えて京へと送り返した。 京の御所に戻った押松丸を出迎えた京方首脳陣は、当初「義時が討伐されたのか、それとも逃げたのか」「首は誰が取ったのか」と、勝利した気満々の思考でいた。 だか、押松丸が持って来たのは結果報告などではなく、他ならぬ義時からの文書。 『北条九代記』に曰く、その文面は 私、北条義時は、今日に至るまで上皇様に忠義を尽くしてまいりました。 ですがこの度、上皇様は讒言を信じ、私を討伐すべしとの命を下されました。 ですので、弟の時房(*36)、子の泰時・朝時を始めとする19万の軍勢を京へ上洛させます。 もしそれでもお気持ちが変わらないようであれば、他の子らと私自らが、20万の兵を連れて参上いたします。 ――事実上の宣戦布告を記したものだった。 更に押松丸から、上皇の院宣を受けとった鎌倉が恭順するどころか蹶起を決めた事、文面の内容が虚偽でも脅しでもなく事実であり、 坂東武者が大挙して京へ向かっている事を告げられると、場にいた一同から浮かれ具合は霧散霧消した。 勝ったも同然の気で居たら一転、強者揃いの坂東武者が群れをなして京へなだれ込んでくるというのだから、それも必然であった。 とはいえ何もしないわけも無く、後鳥羽上皇は直ちに配下の武将・藤原(ふじわらの)秀康(ひでやす)を総大将とした迎撃軍を編制。 鎌倉方を迎え撃つべく準備に取り掛かった、 のだが。 京方が院宣の効力を絶対視し、勢力集めを京周辺地域でしか行っていなかった事に加え、 鎌倉側の対応及び進撃スピードが想定外過ぎた事もあって、集められた戦力はこの時点で1万数千騎余り(多く見ても2万以下)。 ……これでも当時で見ればよく集められた方なのだが、如何せん鎌倉方の総数19万と比べると、絶望という表現すら生ぬるいレベルの戦力差であった。 さらに京方は、搔き集めたこの手勢を迎撃のため木曽川沿いに布陣させるのだが、その際に、 「川沿いの各所に兵力を分散して配置・布陣する」という、彼我の戦力差が圧倒的な状況下で一番やってはいけない戦法を取ってしまう(*37)。 まあ平家追討を初め多くの戦を経験し場数を踏んでいた鎌倉に比べれば、京方にその辺りのノウハウがしっかりあったのか、と聞かれれば、甚だ疑問な話。 そもそも「鎌倉方の総数は19万です」という、ケタ外れにも程がある話を京方が本気で受け止めていたのかも怪しいところ。 「戦意を削ぐための虚仮威し」「多少のフカシ入ってるだろ」として兵力を少なく見積もる――というかそう思いたくなるのも無理からぬ話ではある。 しかし、現実は残酷なモノ。 案の定というか、木曾川の布陣における最上流地点・大井戸(現在の岐阜県可児市)でまず開かれた戦端において、 京方の軍勢2千騎が武田信光率いる5万の軍勢を前になすすべなく蹂躙された。 他の布陣箇所においても、同時期に泰時率いる10万の軍勢が合流していた事も手伝って劣勢……というか勝負になる訳がなかった。 特に、泰時の従弟で御門葉(*38)筆頭である足利義氏(*39)率いる精鋭部隊の猛威は凄まじく、担当した地点の京都側を完膚なきまでに蹂躙して増援の猶予さえ与えなかった程。北条義時排除を頼朝の血縁者ですら認めないと宣言した政治的な意義も大きかった。この二匹目のドジョウを狙った結果が1333年の足利高氏の離反と鎌倉幕府の滅亡に繋がる訳だから歴史は皮肉である。同時に最後の執権・赤橋守時の血も足利家に合流する形で残ったのも。 なにせ「鎌倉側に何処かの地点が突破されたら、別の地点にその鎌倉の部隊が増援として向かう」格好になるのだから、 戦力差が歴然のこの情勢下ではジリ貧になるのは当たり前過ぎる話。 京方布陣の最後方・墨俣(現在の岐阜県大垣市付近)に鎌倉側が到達した際には、もはや交戦不可能と判断した京方が撤退していてもぬけの殻、という有り様であった。 もっとも、別に京方も諦めたわけではなかった。 墨俣からの撤退も、裏を返せば状況判断の上での迅速な対応の一環とも言えた。 後退した京方は、新たに宇治・瀬田(現在の京都府宇治市と滋賀県大津市。両府県の境地域)を絶対防衛ラインと定め、残存勢力を結集。 それと並行する形で、西国(京以西。中国・九州地方)の武士に対して出動を命じる事で戦力増強を図った。 (「いや遅ぇ」とか言うのは禁句。) 最初の戦闘で敗れこそしたが、それで戦自体に負けたつもりなど、京方には毛頭無かったのであった。 だが、如何せん遅すぎた。 鎌倉の進撃速度は迅速の一言に尽き、増援となる西国武将が駆けつける前に京に到達される可能性が高い状況だった。 (「ほらな」とか言わない。) そこで上皇が足を運んだのは、京の北東・比叡山にある天台宗総本山・延暦寺。 当時、延暦寺を始めとした寺社は「僧兵」と呼ばれる独自の武装勢力を保有しており、上皇はその協力を仰いで戦力を補おうとしたのだ。 が。 上皇直々のこの要望を、延暦寺側は拒絶した。 というのも、当時の寺社は保有する武力に加えて財力・地域への影響力などその権力は尋常ではなく、ある種の独立国家じみた勢力を誇っていた。 当然朝廷側からすれば甚だ鬱陶しい存在であったため、寺社の勢力を削ぐべく腐心する羽目になっており、それは後鳥羽上皇も例外ではなかった。(*40) 延暦寺側からすれば後鳥羽上皇は「自分達に難癖つけて力を削ごうとしてくる面倒な存在」でしかなく、 加えて一連の事態はあくまで「朝廷と鎌倉」の問題であり、自分たちとは(直接的には)無関係。 そんな事にわざわざ首を突っ込む理由も、半ば対立関係にあった上皇の窮地を救う義理も道理も、延暦寺側は微塵も持ち合わせていなかったのだ。 かくして(ある意味日頃の行いのツケが丸ごと回ってきた)上皇は、現有戦力のみでの応戦を余儀なくされるのだった(*41)。 ◆決着、そして始末の果て ~王法すでに尽ぬ~ 先に定めた絶対防衛ラインたる宇治・瀬田に残存勢力を結集させた京方。 一方順調に軍を進めた鎌倉側は、6月13日には宇治近郊へ到着。 ここに両軍は相対することになった。 京方としては絶望的にも程がある状況下だが、唯一の救いは、宇治・瀬田地域に流れる宇治川(淀川)の存在だった。 琵琶湖から出て大阪湾へと流れ至るこの川は、東国から京へまっすぐ向かうには絶対越えなければならない境界線。 源平合戦の際には、以仁王の乱で源頼政が平家軍を、また木曾義仲も源義経を宇治川で迎え撃ち、攻撃側を散々に困らせていた。 とはいえ、頼政も義仲も結局は守り切れずに敗れ去っており、絶対の要害などでは決してない。 しかし、京方にしてみれば、まさに天が味方した格好となる事態が起こる。 折しも宇治川は降雨に伴って増水しており、船による渡河は難易度が上がっていた。 京方は宇治川にかかる橋を落として相手の進軍を止め、更に対岸から矢を浴びせかけるという戦法を取った。 幕府軍としてみれば強引に出せない事もないが、そうすれば操船に手間取るうちに矢の雨を浴びせられ、針鼠と化すのは必至。 結果、鎌倉側も攻めあぐねる事態になった。 しかも、京方にはまだ希望がある。 ここで可能な限り時間を稼げれば、西国からの増援が来て状況を盛り返せる、せめて拮抗状態にまでは持ち直せる―― と、思った矢先の、翌14日。 坂東武者の「橋が無いなら、川の浅瀬を探して渡ればいいじゃない」の蛮族思考脳筋パワープレイ全開の論法に基づき、鎌倉側の一部が強引に渡河に成功(*42)。 防御陣が突き崩され、その隙に後続の軍勢が船で対岸へ到着した事で、京方は敗走。 その日の夜には鎌倉の軍勢が京の市街地へ到達し、勝敗は決する事となった。 かくして敗軍の将と化した後鳥羽上皇だが、この時点で鎌倉の軍へ使者を送っている。 要は事実上の敗北宣言であったのだが、その内容は(意訳すると) 「義時を討て」って院宣出したけど、アレは部下に嘘つかれたせいだから取り消すね 代わりに嘘ついて自分騙した藤原秀康や三浦胤義を捕まえるように院宣出すね 鎌倉に味方してたから解任した公卿達も復権させるし、今後朝廷が武士を召し抱えることもしないし、反省するからもう勘弁してね ……という、清々しいまでの責任丸投げ・保身全開の弁明連発であった。 しかも上皇、宇治川での戦いに敗れた後「せめて一矢報いるために再戦を」と考え御所にやって来た藤原秀康ら京方の武将に対し、 御所の門を閉ざして彼らを追い返す(=面会しようとすらしなかった)という所業に及んでいる。 その上での先の書面。 完全に上皇は彼らを生贄にして生き残ろうとしていたのだ。 見捨てられる格好になった秀康以下京方の武将は、京の東寺に立てこもって抗戦するも、三浦義村率いる鎌倉軍の前に敗北。 藤原秀康は逃走するも捕縛、三浦胤義は自刃して果て、ここに騒乱は決着するに至った。 余談:三浦胤義の最後 実の兄・三浦義村に攻められる形となった弟・胤義だが、『承久記』において、彼は兄と交戦前に対面を果たした、という記述がある。 兄と相対した胤義は、兄が自分と朝廷ではなく義時と鎌倉を選んだことを恨み、同時にそんな兄に上皇からの院宣を送ってしまった事を後悔していた。 もはや死以外に道はない事は理解しているが、せめて最後にそんな兄の顔を見てやろうと思っていた……と、積年の思いをぶちまけるが如き語りをしたという。 が、そんな弟に対して兄・義村は、「痴れ者にかけ合って無益なり(馬鹿の相手をするのは時間の無駄だ)」と告げ、相手にする事も無く立ち去ったという。 その後、胤義は攻めてくる義村の軍勢に奮戦するも、最終的に自害して果てる事になる。 一つの選択によって文字通り明暗分かれた兄弟だったが、どちらが正しく、また賢かったのかを推し量るのは簡単では無い。 なにせ、義村本人は天寿を全うしたが、彼の裔たる三浦一族は、後年になって北条一族――つまり義時の末裔によって滅ぼされる事になるのだから。 なお、一応フォローするなら、先述の上皇の対応は酷すぎるにしても程があるが、一方で「敗北確定時の対処」としては、あながち変でもない。 どうあがいても敗戦確定の状況下で、迂闊に抗戦体制でも取ろうものなら、情け容赦絶無の坂東武者が大挙して京一帯に攻め入り、都は文字通り灰燼に帰す事すら考えられる。 特に後鳥羽上皇は、いわゆる「源平合戦」の最中に天皇の座に就いたのだが、皇位継承における最重要の宝物「三種の神器」が手元に無い状況での即位を余儀なくされた事、 挙げ句その内一つが、源平合戦の最終戦「壇ノ浦の戦い」の末に行方知れずとなってしまった事(*43)もあって、 歴代朝廷所縁の備品保存には人一倍神経をとがらせていたと考えられている(*44)。 つまり上皇にとっては「最後まで戦う事」なんぞより、「自身と皇族の安全確保」及び「朝廷の施設・備品一式の保全」が絶対にして最優先課題であった。 となれば、「鎌倉側に『敵を討ち倒して勝利した』という印象を与えて戦乱を収束させる」ために、 なにかしらの生贄・スケープゴートを立ててそっちで鎌倉の鬱憤を晴らさせる、というのもあながち悪手ではない。 また、政子の演説内容や義時の返答(という名の喧嘩宣告)を見れば、鎌倉側は(一応は)「上皇が悪い」ではなく「上皇の臣下が謀略した(悪い)」と述べている。 つまり「上皇を討ち取る事」それ自体は目的にしていないとも解釈できる以上、「謀略を働いた臣下を討ち取った」時点で鎌倉側の戦闘理由は消滅、つまり事実上の終戦と相成るのだから、 そっちに鎌倉が舵を切るよう誘導し、事態を終息させるのも一つの手、と言える(生贄にされた側はたまったもんじゃないが)。 また、そもそもの話として、この「情け無さ全開の上皇の対応」自体、後世において創作ないし誇張されたモノであって、ホントかどうかは微妙という意見もある。 一説では上皇の通知はあくまで「義時追討命令の撤回」と「京に到着した鎌倉軍の掠奪行為の停止要請」であったという。 早い話、これ以上京の洛中で破壊行為が行われないよう、戦争の火種となった院宣の取り消しを行う事で事態の収拾を図った、という事。 藤原秀康らの追討命令や事実上の武装放棄といった話は、この通知と前後する形で彼らが討伐・捕縛されて抵抗可能な軍勢が事実上いなくなった事から、 「上皇の通知の結果そうなった」と拡大解釈され、それがそのまま後世の文献に記されたのでは、とも考えられている(*45)。 いずれにせよ、上皇もまた、敗北確定の中で何とか生存への道を見出そうと必死だった、というのは間違いない。 (はいそこ、「ある意味自業自得だろ」とか言わない) 戦後の沙汰は7月に確定した。 その結果、(先の弁明の効果も無く)首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した順徳上皇は佐渡島へ配流(流罪)となった。 乱に反対していた土御門上皇も自ら望む形で土佐国へ配流となり、後鳥羽上皇の皇子たちも但馬国、備前国へと配流。 更に順徳上皇から天皇の座を譲位されたばかりの皇子・懐成親王(かねなりしんのう)は皇位を剥奪され、新たに後(ご)堀河(ほりかわ)天皇(てんのう)(当時10歳。後鳥羽上皇の甥御に当たる)が即位する事となった。 余談:天皇と称されなかった天皇・懐成親王 文中で述べた通り、乱に先駆けて当代の天皇・順徳天皇は譲位して自身の皇子・懐成親王(当時4歳)へ天皇の地位を譲った。 通常天皇に在位した場合、その人物に対しては「天皇として呼ぶべき名前(尊号・諡号)」が没後に贈られる。 本項目で出てきた「後鳥羽」「土御門」「順徳」といった名称も、そういった経緯で贈られた称号であり、それが今日に至るまで各種文献に記されている。 のだが、この懐成親王に限っては、そうはいかなかった。 というのも、天皇が即位(皇位継承)する際には「即位式」や「大嘗祭」といった所定の祭祀を行う事で初めて「即位・在位した」事を内外に知らしめる。 逆に言えば、こうした手続きが踏まれていないと「正式に即位した天皇」として認められない(というか認めようがない)という事になる。 そして懐成親王の場合「践祚(せんそ)」と呼ばれる「皇位継承における最初の手続き」は済んでいたが、そこから先の即位式・大嘗祭といった手続きは済んでいなかったのだ。 理由は至極単純で、順徳上皇の譲位から承久の乱の終結・戦後処理まで僅か78日足らずだったため。 要は「即位」に関する祭祀を行う時間が禄に無かったからである。 そもそも勝利した鎌倉側の戦後処理の一環で「皇位を廃する」事になるなど、当時の朝廷は全く想像できなかったのだ。 結果、先に触れた通り「所定の手順が踏まれていない=天皇として在位していたとは見なせない」形となり、乱から13年後の1234年に崩御した後も諡号がされる事は無かった。 以後は母の実家が摂関家の一つ・九条家であった事から「九条廃帝」、もしくは「承久の廃帝」などと称されるようになった。 懐成親王に「天皇としての尊号」がようやく定められるのは、時代が下って1870年。 時の明治政府によって「仲恭(ちゅうきょう)天皇(てんのう)」の諡号が贈られてからであった(*46)。 また、後鳥羽上皇の管理下にあった荘園はその全てが没収となり、表向きは後堀河天皇の父・守貞親王の管理下となったが、 「何かあったら鎌倉に返すように」という条件付きであり、実際の支配権は鎌倉のものであった。 加えて、朝廷内部の取り仕切りは、幽閉されていた西園寺公経が復帰して内大臣に任命された事で、以後鎌倉の意向が強く反映される事になった。 更に鎌倉は、以後の朝廷・京周辺及び西国の支配強化策として、京都守護に代わって新たに六波羅へ監視部門を設置(通称「六(ろく)波羅(はら)探題(たんだい)」)。 朝廷側と京以西への統制・監視体制の強化を進める事になる。 文章で書くと、なんともサラッとした印象を抱くかもだが、この処断は、当時の価値観においては前代未聞なんてレベルを遥か彼方に通り越した仰天処分だった。 過去において、天皇や上皇および皇族や公家が、内乱や権力闘争の果てに追放や処分を受けた、なんて話は枚挙に暇がない。 が、それらはあくまで「朝廷内部における騒動」の結果。 今回のように「朝廷VS外部勢力」という事態そのものがレアケースな上、 その「外部勢力」は鎌倉――つまり(くどいようだが)当時の価値観では明らかに下位に属する武士階級が主体。 おまけにその武士が文句なしの大勝利をおさめ、上皇を始めとした国の最高権力者たちをその座から引きずり降ろして島流しに処するなど、 もう空前絶後とか天地がひっくり返ったとか、そんな表現ですら足りない異常事態であった。 ついでに言うと、この処分に関する決定権を有していた執権・北条義時は、元を質せば伊豆出身の極小豪族の次男坊。 そんな彼が武家政権の最高責任者に上り詰めただけでも超絶級なのに、そこに加えて上皇を文字通り「裁く」なんて事は、もう当時の常識の埒外に過ぎる話であった。 とまあ、かくして乱の首謀者たる上皇とその関係者は、悉く京での地位と権力を失う形になった訳だが、大事な事がもう一つある。 文字通り当時の常識を逸脱したこの処断だが、実のところこれでもまだ彼らの地位を考慮した「ゆるい」処断であり、 彼らに付き従った者――つまり公家や武士たちへの罰は、もっと容赦が無く苛烈だった。 後鳥羽上皇に組した公卿の内、中心的存在とされた者は「合戦張本公卿」と称され、軒並み捕えられた上で鎌倉へ護送……の途中で全員処刑された。 それ以外でも、上皇の近臣はその多くが流罪・謹慎などの処罰を受けた。 また、藤原秀康はじめ、上皇についた御家人及び京方の武将も多数が処刑・追放。 そして彼らや京方の公家の所領は根こそぎ没収された上、鎌倉方の御家人へ褒章として分け与えられた。 厳しい表現をすれば、上皇に従った者たちはある意味「時勢を読み切れなかった」ともいえるが、それはあくまで後世から見たが故の話。 実際問題、朝廷に与した者たち全員が鎌倉へ不満や批判を抱いていたかといえば、そんな事は無い。 何度も触れているが、当時の価値観では「上皇の命令」への絶対性は決して無視できるものではなかった。 鎌倉方についた御家人たちは「政子の演説」という超級の鬼札を前に意思を決定したが、 それを知る余地もなかった京周辺の武将・御家人たちが、上皇が「かくあるべし」と意向を定めた以上、それに抗うという思考を抱けたかは疑問符がつく。 そうした面においては、彼らにも温情や情状酌量の余地は大いにあったと言えるだろう。 だが、鎌倉は、そして執権・北条義時は容赦しなかった。 詳細は彼の項目に譲るが、鎌倉において、正真正銘「血で血を洗う凄惨な権力闘争」を繰り広げてきた義時らは、 たとえ「上皇の命令」であったとしても、自分たちに敵対した勢力を放置したらどんな事態が先に待っているかという事を、嫌と言うほど思い知っていた。 それはイコール、騒乱を終結させ後顧の憂いを絶つためには、どんな「処分」が最適かという事を、骨の髄まで理解していた、という事でもあった。 加えて当時、土地は当人および一族にとって命といっても過言ではないものだった。 所領を失う事は生活基盤を失う事と同義であり、だからこそ武将や公家は自所領の権益確保・拡大に躍起になっていた。 「鎌倉殿」というシステム・統治機構が上手く普及したのも「御家人の所領安堵」という制度が見事に需要と噛み合っていたからである。 が、(当たり前の話だが)日本列島にある土地の数・量には一定の「限界」がある。 そして、武功を立てた者には恩賞として土地を与えるのが当時の習わし。 幕府としても、恩賞を与えなければ「幕府の危機に立ち上がった御家人に何の恩賞も出さなかった」という既成事実を作ってしまうことになり、存立基盤が危うくなる。 承久の乱における恩賞の出処は乱で上皇方についた者たちの土地しかない。 そして、その「敗れた者」は、後になって復権する事のないよう「排除」する―― そうした「当時においては当然」の理論の帰結に基づき、「新しい力」による旧来勢力の排除は、加減も温情も無く速やかに執行されていったのだった。 そして、元寇の際には敵が国外のために同じ手法が採れず、鎌倉幕府が一気に衰亡していくことになる… この敗北の結果、後鳥羽上皇の人物評価は劇的に下がった。 鎌倉幕府はおろか、公家からも「天が許さなかった」と冷ややかな評価ばかりが目立つことになった。 上皇の敗戦が以後の朝廷のあり方を劇的に変えてしまったという覆いがたい失態。 公家たちからすれば、鎌倉幕府に恭順的な姿勢を見せなければ処刑や追放の危険すらある状況。 最悪の場合「朝廷そのものが潰される」事態さえあり得る中では、「朝廷」でなく「上皇個人」に責任を押しつけて朝廷の存続をはからざるをえない。 こうして上皇は「徳も力もないのに無謀な戦いを挑んで案の定敗れ、いざ敗れると保身に走る、仕える価値もない愚かな上皇」と扱われることになったのである。 前記した京都に攻め込まれた時点での情けなさ全開の対応をはじめ、各種文献においてもその手のエピソードを生み出しやすい人物――要は「ダメ人間」扱いされやすい要因となった、とも言える。 ◆後世への影響 ~朝威の落陽、武士の暁天~ 乱の後、朝廷及び天皇の「日の本の頂点」という立ち位置自体は変わらなかったものの、その有り様は一変した。 完膚なきまでにその権力と威光をへし折られた朝廷は、事実上鎌倉に屈服する事になったのだ。 例えば後堀河天皇の後代・四条天皇が12歳の若さで急逝した際、その後継者選出で紛糾した朝廷内勢力が「鎌倉側の意向・賛同を求める」手紙を送るなど、 以後の朝廷の差配、特に天皇や摂政・関白といった重要人事については、原則「鎌倉の意向を確認・優先する」形が定着した。 これは即ち、鎌倉が事実上日本全域における政治の権限を掌握した事に他ならず、名実共に鎌倉幕府は「日本の統治者」としての地位を確立したのだ。 同時に鎌倉幕府の最高位たる征夷大将軍の意味も、それまでの「武家の棟梁」=「日本の武将達の統括者」から一歩進み、 以降江戸時代まで続く「事実上の日本の最高指導者」としての性質を有する事になった。 そしてそれは、当時定着つつあった「将軍は実質飾りで、実際の政治は側近たる執権が行う」政治体制――執権政治において、 その執権の座に就いた者が、この国を事実上統べる者になった、という事でもあった。 とはいえ、鎌倉側にとっては両手を上げて喜べる話ばかりではなかった。 何しろ支配領域が事実上日本全域に及んだのだから、これまで以上に各地に目を光らせ、反乱や騒乱に気を配る手間が増える事になった。 加えて前述の通り、西国の土地を東国の武士達に恩賞として与えた結果、現地住民と御家人の間でのトラブルも続発し、その対処に追われる羽目になったりもした。 オマケに先述の「朝廷からの意向確認」についても、公家の官位や皇位継承といった話は、それまで「朝廷があれやこれやと進め、決定してから通達が来る話」でしかなかったのに、 今後は鎌倉もある程度口を挟める――というか「口を挟まないといけない」状態に転じてしまった。 総括すれば「勝利と引き換えに『やらなきゃならない仕事』が異様に増えた」格好。 今まで以上に日の本全体の情勢に目と頭を巡らせる――要は「国政」を本格的に行う事を余儀なくされたのだった。 だが、そうした悲喜交々を差し引いても、この勝利はまさしく「歴史を変えた」一件だった。 実態はどうあれ、それまで日の本において朝廷、そして天皇及び上皇は「絶対的権威」であり、 皇族や公家が物申す事こそあれど、公然と反発したり、剰え刃を向ける事など考えられない存在だった。 だが承久の乱において、鎌倉殿とその配下たる御家人たちは、その固定観念に真っ向から喧嘩を売り、そして勝った。 勝ってしまった。 勝ててしまった。 それは「たとえ朝廷・上皇であっても、純然たる『武力』の前には屈する」という事の証明。 武力を持つ者、すなわち「武士」であれば、この日の本を意のままに動かす事も可能という事実の確立であった。 つまり、将軍とそれに仕える御家人――「武士」という階級の有り様が、それまでの「武力を保有するだけでそこまでの権益はない」状態から一転し、 「名実共に天下を差配しうる」存在になった事を意味していた。 それまでの「朝廷・公家>武士・豪族」という、絶対的な力関係・従来の固定観念が文字通りひっくり返ったのだ。 この「武士階級による日本の統治」は、1333年に後(ご)醍(だい)醐(ご)天皇(てんのう)及び足利(あしかが)尊氏(たかうじ)によって鎌倉幕府が滅亡に追い込まれるまで継続した。 その後、後醍醐天皇は再び朝廷を絶対とした政治機構の再構築「建武の新政」に着手するも最終的に失敗。 世にいう「南北朝時代」の混乱の末に、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ「室町幕府」が開闢。再び「武家の棟梁」による日本統治が開始された。 この後、室町から戦国時代を経て創設された「江戸幕府」の終焉まで、武士階級による日本支配・統治は継続。 朝廷とは異なる形式による、天皇を頂点とした新たな政治統治機構の構築――「明治維新」に至るまでの、実に約600年の長きに渡って「武士階級による日本の実質的な統治」は続くことになった。 加えて、維新後の「日本国」黎明期において政治を差配したのは、いわゆる「薩長土肥」と称される、倒幕活動の中心を担った武士階級の人々が多数を占めていた。 その結果がどんな歴史を紡いできたかは、近現代史を学んだ人なら誰もが良く知る通り。 すなわち、この「承久の乱」における鎌倉側の勝利は、現代へと繋がる日本史を形成する上で欠かすことの出来ない事変。 我々が生きる「今」へと繋がる、歴史における大いなる節目。 知名度の高い「応仁の乱」や「関ヶ原の戦い」すら凌ぎうる、日本史上屈指の絶対的な分岐点と言えるのだ。 歴史に「もしも」はありはしない。ただ事実の積み重ねがあるのみであり、仮定の先を確かめる術もない。 それでも、例えば… 追討の院宣が漏洩する事無く、各地の御家人に適切に伝わっていたら? 命令を受けた御家人がそれに従い、「朝敵」義時を討っていたら? 政子ら鎌倉側が、上皇への反抗ではなく恭順を選択していたら? 後鳥羽上皇が手勢をより多く集め、鎌倉に抗しうる戦力を持っていたら? 戦いの場に後鳥羽上皇自らが出陣していたら(*47)? これらの内どれか一つでも、誰か一人でも違う選択や行動を取っていたならば、 鎌倉時代における「武士階級による日本統治の確立」という事態には至らず 武士という階級が歴史を動かす存在となる事も無く、今日我々が良く知る「この歴史」は、間違いなく成立することは無かったと言えるだろう。 追記・修正は、承久の乱の年号を「ひとにふいうち」か「ひっぷにいちげき」のどっちかで覚えた方がお願いします。 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 登録日時が明らかに操作してあるけどこのくらいはいいんでなかろうか。出来事と鎌倉軍勝利は知ってたけど戦力差がここまで圧倒的だったとは知らなんだ。関ヶ原しかもその両軍合計分の兵が一気に… -- 名無しさん (2022-12-27 03 02 44) 「鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~」のある箇所、朝廷扱いって何?朝敵っしょ!直しときます。 -- 名無しさん (2022-12-27 10 20 30) 「ひっぷにいちげき」……『教科書っていうか!?』という漫画で覚えましたなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 11 33 31) なんで今日できた項目なのに登録日2 -- 名無しさん (2022-12-27 11 55 36) ↑ミス 登録日21日なんだ、と思ったら年号に合わせたシャレなのね -- 名無しさん (2022-12-27 11 56 24) とても良い項目でした。北条義時の項目を書いたのと同じ人かな? -- 名無しさん (2022-12-27 12 07 58) 政子マジ強キャラ -- 名無しさん (2022-12-27 12 20 46) 年号の覚え方、『ワンツーツーワン』はダメですか。 -- 名無しさん (2022-12-27 12 38 16) ↑他にも色々、年号の語呂合わせが出来そうですなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 13 27 10) QKの民おって草 -- 名無しさん (2022-12-27 13 32 35) ホント今年の大河を見るまでは北条政子、承久の乱というワードは習ったが義時とか細部は全くだったか勉強になったわ -- 名無しさん (2022-12-27 14 31 21) 鎌倉幕府の真の始まりは承久の乱からと言っても過言ではないかもしれない -- 名無しさん (2022-12-27 14 46 27) 正式な登録日時をきちんと書く形でネタ登録日時を復活させてみました。 -- 名無しさん (2022-12-27 15 37 13) 「三浦義村がわけわかんないことした」が武家政権成立の理由の1つだったとは…こいつ敵に回すと怖いけど味方にもしたくないなあ… -- 名無しさん (2022-12-27 17 03 53) ↑山本耕史の怪演も相まって、三浦義村が「鎌倉のロキ」にしか見えない。 -- 名無しさん (2022-12-27 19 37 41) 三浦義村がわけわかんなすぎる、歴史には時おりこういう怪人物が登場するから面白い -- 名無しさん (2022-12-27 20 01 28) 進研ゼミの教材にあった「いつ注いでもお言葉上級」、いつつい(1221)でもおことば(後鳥羽)じょうきゅう(承久)という語呂合わせが未だに印象に残ってる -- 名無しさん (2022-12-27 22 16 23) 漫画版「吾妻鏡」で予習済みの私にスキはなかった。漫画版だと老いで弱り病で視力も失った大江広元が「盲いた年寄りにも言わせてくだされ」と言いながら「持久戦を選べば敵を待つ間に仲間の心が乱れます。討って出たほうが良い」と一度も戦場に行ったこともないのに戦機を掴んでいたのが印象深かった。 -- 名無しさん (2022-12-27 23 10 52) ↑3 やっぱり外星人だったんじゃ…イミフな行動の数々も地球人類を進歩させるための工作だったのかもしれん -- 名無しさん (2022-12-28 07 44 59) この項目マジ受けるんだけど、超承久の変〜 -- 名無しさん (2022-12-28 07 56 59) 「上皇自ら出陣」という小さなことで勝敗が逆転してた可能性があるとは……歴史は恐ろしい。良項目ありがとうございました -- 名無しさん (2022-12-28 10 33 25) 北条朝時は義時の次男で三男は極楽寺重時だぞ。 -- 名無しさん (2022-12-28 21 51 32) 三浦一族の滅亡(宝治合戦)は大河ドラマの北条時宗の第一話で描かれていたな。義村の家督を継いだ三浦泰村を津嘉山正種さんが、泰村の弟の三浦光村を遠藤憲一さんがやってた。宝治合戦開始と共に流れるオープニングのメインテーマの雰囲気も相まって泰村殿が可哀想でならなかった(大体、安達と弟の光村のせい)。 -- 名無しさん (2022-12-28 21 58 37) 執権=過労死上等のスーパー激務化の始まり始まり -- 名無しさん (2022-12-29 08 42 20) 他の国の歴史ならこんな戦いがあれば天皇上皇という地位や朝廷という政権自体が滅びてもおかしくないんだけどそうはならないのが日本史 -- 名無しさん (2022-12-29 10 10 18) ↑5小さな事どころか上皇直々に戦場に向かうって相当だぞ。外国との殲滅戦争ならともかく田舎の派遣社員の反乱に最高権力者が直々に出向くのかと -- 名無しさん (2022-12-29 10 31 41) ↑2そうなんだよな。事実隣の中国とかでは何度も政権が滅びているし、「後に再び権力を握れるものを残さない」スタンスなら天皇上皇制もまとめて滅ぼしても良かったはず。高校で日本史の先生にそこを聞いても「天皇上皇を滅ぼすのは神を滅ぼしたのと同じだからそこまでやると今度は誰も鎌倉方についてこなくなる」というわかるようなわからんような解説しかもらえなかった。そこの辺もついでにこの項目で解決するかなと思いながら読んでたけど、天皇上皇が「象徴」となった現代に生きる自分にはやっぱりよくわからんかった。欲を言えばそこの辺の解説も欲しいな…非常に良項目だった。楽しませてもらいました。 -- 名無しさん (2022-12-30 01 27 25) ↑天皇家を滅ぼしたら今度は北条が天皇家に代わる正当な権威の構造作らないといけないから。要は御恩と奉公っていう実利だけでなく長期にわたる権利を保障できる機構を作らなきゃいけない。それにはもう何十年なんてレベルじゃないとんでもない時間がかかる。 -- 名無しさん (2022-12-30 02 58 01) ↑大雑把に言えば当時の武家は朝廷の貴族にルーツを持つ軍事貴族が主なので、「朝廷の否定=自らの出自や立場の否定」に繋がりかねん。ましてや源家将軍(河内源氏)は「清和源氏」の名の通り天皇家にルーツを持つ訳で -- 名無しさん (2022-12-30 03 08 17) ↑2北条氏にしても桓武平氏の直系を自称しているので、朝廷を滅ぼせば今度は自家の権威が危ない。 -- 名無しさん (2022-12-31 00 22 08) 別の切り口で語るなら、本文中にもある通り権力が集中するほど「やらねばならない職務」がどんどん増える。例えばこれまで朝廷の貴族が担ってきた学問、医療、宗教、暦、文化などなどの職務も武家がやらなきゃあかんくなる -- 名無しさん (2022-12-31 02 54 32) 日本の天皇はヨーロッパだと教皇に当たるとよく言われるけど、そういう点ではヨーロッパでも王様と教皇が対立したり、その結果負けた教皇が捕まったり挿げ替えられた事はあるけど、教皇制度やバチカン自体を滅ぼそうとした王様なんていないわけで。 -- 名無しさん (2023-01-01 09 25 37) 天皇自身が義時をではなく、天皇が部下の言葉を鵜呑みにして出したってのは。やっぱ本当に直接対峙はできない位のお人なのよね… -- 名無しさん (2023-01-03 15 56 40) ↑2日本人は本人も意識してないけど全員が神道(というか日本教)の信者だからな -- 名無しさん (2023-01-14 01 06 59) ↑8 逆に皇帝が殺される中国の方が特殊。あっちは早々に皇帝に権力が集中する仕組みが作られた 儒教の中に「国が天災などで乱れるのは君主の徳がないからである、故に国が乱れたら速やかに新しい君主にして国を護るべし(≒殺してもいい)」という思想があったから… -- 名無しさん (2023-02-02 09 24 21) 「逃げ上手の若君」の歴史解説の本郷氏は「幕府軍の合計兵力は多くても1万5千くらいだったのでは?」という説を出してるな。「死者負傷者の記録から計算した数字。総兵力の記録は盛られがち。」だそう。(11巻巻末より) -- 名無しさん (2023-07-22 20 05 58) 項目立てた方、編集に携わった方々マジで感謝。勉強になった。このまま教科書に乗せてしまった方が教育に貢献できると思うくらいありがたいです。 -- 名無しさん (2023-12-28 12 27 01) 位置について(1221)承久の乱って教わってそれが定番だと思ってたけど少数派だったのか -- 名無しさん (2024-06-28 21 40 11) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/wiki_rail_bus_pic/pages/134.html
横須賀・総武線(快速) 駅名 駅全景 改札口 ホーム 特記事項 千葉 ○ × ○? 稲毛 ○ ○ ○ 津田沼 ○ ○ ○ 船橋 ○ ○ ○ 市川 ○ ○ ○ 新小岩 ○ × ○ 錦糸町 ○ × ○? 電留線 馬喰町 △? ○ × 駅出入口一部 新日本橋 △? ○ × 駅出入口一部 東京 ○ ○ ○ 新橋 ○ × × 横須賀線分のみ記載 品川 × ○ × 西大井 ○ × × 新川崎 ○ × ○? 列車あり 横浜 ○ ○ ○? 列車あり 保土ヶ谷 ○ ○ × 東戸塚 ○ ○ ○ 戸塚 ○ ○ ○ 大船 ○ ○ × 北鎌倉 ○ ○ × 90年代構内踏切画像あり 鎌倉 ○ × × 逗子 ○ △ × 旧西口改札口 東逗子 ○ × ○ 田浦 ○ ○ × 横須賀 ○ ○ ○ 衣笠 ○ ○ × 久里浜 ○ ○ × 2008年02月17日 (成田空港・成東・君津・上総一ノ宮方面 )千葉-稲毛-津田沼-船橋-市川-新小岩-錦糸町-馬喰町-新日本橋-東京-新橋-品川-西大井-新川崎-横浜-保土ヶ谷-東戸塚-戸塚-大船-北鎌倉-鎌倉-逗子-東逗子-田浦-横須賀-衣笠-久里浜
https://w.atwiki.jp/trebor/pages/545.html
霊場会 霊場会の名称 東国花の寺 百ヶ寺 霊場会サイト http //www.hananotera.or.jp/index.html 事務局所在地 神奈川県三浦市初声町下宮田119 飯盛山 妙音寺 内 事務局TEL 不詳 そ の 他 札所の入退会が比較的多いように感じる。結果、百ヶ寺より微妙に多い。 気になること スペック 開 創 平成13年3月 専用納経帳 あり(上下巻に分かれている) 納 経 料 @300 対応時間 不詳 注意事項 札所一覧 札番 寺社名 所在地 電話番号 霊場本尊 宗派 納経所 東京1番 總持寺(西新井大師) 東京都足立区西新井1-15-1 03-3890-2345 東京2番 薬王院 東京都新宿区下落合4-8-2 03-3951-4324 東京3番 護国寺 東京都文京区大塚5-40-1 03-3941-0764 東京4番 池上本門寺 東京都大田区池上1-1-1 03-3752-2331 東京5番 高蔵寺 東京都町田市三輪町1739 044-988-2585 東京6番 吉祥院 東京都多摩市豊ヶ丘1-51-2 042-374-2871 東京7番 高幡不動尊 東京都日野市高幡733 042-591-0032 東京8番 高尾山薬王院 東京都八王子市高尾町2177 0426-61-1115 東京9番 長福寺 東京都八王子市川口町2722 0426-54-4418 東京10番 大悲願寺 東京都あきる野市五日市134 0425-96-0141 東京11番 金剛寺 東京都青梅市天ヶ瀬町1032 0428-22-2554 東京12番 塩船観音寺 東京都青梅市塩船194 0428-22-6677 埼玉1番 西善寺 埼玉県秩父郡横瀬町根古屋598 0494-23-3413 埼玉2番 長泉院 埼玉県秩父郡荒川村上田野557 0494-54-1106 埼玉3番 法性寺 埼玉県秩父部小鹿野町般若2661 0494-75-0410 埼玉4番 長泉寺 埼玉県児玉郡児玉町高柳901 0495-72-3122 埼玉5番 吉見観音 埼玉県比企郡吉見町御所374 0493-54-2898 埼玉6番 圓通寺 埼玉県比企郡川島町畑中761 0492-97-6005 埼玉7番 徳星寺 埼玉県上尾市畔吉751 048-725-1599 埼玉8番 総持院 埼玉県さいたま市南部領辻2944 048-878-1545 埼玉9番 法華寺 埼玉県岩槻市飯塚1361 048-798-1627 埼玉10番 正法院 埼玉県南埼玉郡菖蒲町上栢間2767 0480-85-0494 埼玉11番 満願寺 埼玉県行田市野744 048-559-4963 埼玉12番 遍照院 埼玉県行田市駒形1-4-18 048-553-2361 埼玉13番 能護寺 埼玉県大里郡妻沼町永井太田1141 048-588-0901 埼玉14番 妻沼聖天山 埼玉県大里郡妻沼町妻沼1627 0485-88-1644 群馬1番 常楽寺 群馬県太田市上田島町372 0276-31-0001 群馬2番 大慶寺(ふれあい牡丹園) 群馬県新田郡新田町大根1000 0276-57-1077 群馬3番 退魔寺 群馬県伊勢崎市大字茂呂3612 0270-25-4642 群馬4番 宝積寺 群馬県甘楽郡甘楽町轟774 0274-74-2743 群馬5番 長楽寺 群馬県甘楽郡下仁田町本宿3788 0274-84-2518 群馬6番 金剛寺 群馬県碓氷郡松井田町新堀1058 0273-93-0252 群馬7番 高崎観音 群馬県高崎市石原町2710-1 0273-22-2269 群馬8番 柳沢寺 群馬県北群馬郡榛東村山子田2535 0279-54-3954 群馬9番 泰寧寺 群馬県利根郡新治村須川98 0278-64-1131 群馬10番 玉泉寺 群馬県利根郡月夜野町下牧東山2391 0278-62-2192 群馬11番 吉祥寺 群馬県利根郡川場村門前860 0278-52-2434 群馬12番 福増寺 群馬県渋川市赤城町津久田237 0279-56-3408 群馬13番 珊瑚寺 群馬県勢多郡富士見村石井1227 0272-88-3503 群馬14番 龍真寺 群馬県勢多郡新里村新川1051 0277-74-2251 旧札所 曹源寺 群馬県太田市東今泉165 栃木1番 吉祥寺 栃木県足利市江川町245 0284-42-6006 栃木2番 光永寺 栃木県佐野市飯田町874 0283-22-5648 栃木3番 成就院 栃木県下都賀郡岩舟町三谷156 0282-55-8564 栃木4番 清水寺 栃木県下都賀郡大平町西山田3427 0282-43-3863 栃木5番 太山寺 栃木県栃木市平井町714 0282-22-1514 栃木6番 常楽寺 栃木県上都賀郡粟野町下粕尾949 0289-83-0971 栃木7番 雲照寺 栃木県那須郡西那須野町三区町659 0287-36-0824 栃木8番 東輪寺 栃木県さくら市鹿子畑1117 028-685-3836 栃木9番 馬頭院 栃木県那須郡那珂川町馬頭188 0287-92-2603 栃木10番 法輪寺 栃木県那須郡湯津上村佐良土1401 0287-98-2606 栃木11番 大雄寺 栃木県那須郡黒羽町田町450 0287-54-0332 旧札所 満願寺 栃木県栃木市出流町288 旧札所 法輪寺 栃木県那須郡湯津上村佐良土1401 茨城1番 長福寺 茨城県久慈郡大子町頃藤3357 02957-4-0417 茨城2番 慈眼寺 茨城県鹿嶋市浜津賀378 0299-69-2096 茨城3番 南円寺 茨城県新治郡霞ヶ浦町加茂4476 0298-28-0656 茨城4番 如意輪寺 茨城県西茨城郡友部町上市原942 0296-77-3298 茨城5番 月山寺 茨城県西茨城郡岩瀬町西小塙1677 0296-75-2251 茨城6番 雨引観音 茨城県真壁郡大和村本木1番地 0296-58-5009 茨城7番 千妙寺 茨城県真壁郡関城町黒子214 0296-37-6749 茨城8番 八町観音 茨城県結城郡八千代町八町149 0296-48-0304 茨城9番 安楽寺 茨城県水海道市大輪町2001 0297-24-1533 茨城10番 無量寺 茨城県水海道市菅生町5028 0297-27-0713 茨城11番 光明院 茨城県筑波郡谷和原村西楢戸767 0297-52-2192 千葉1番 清瀧院 千葉県流山市名都借1024-1 0471-44-7904 千葉2番 【現在欠番】 (旧2番) 本土寺 千葉県松戸市平賀63 047-346-2121 千葉3番 法華経寺 千葉県市川市中山2-10-1 047-334-3433 千葉4番 高圓寺 千葉県市川市宮久保4-5-1 047-372-9588 千葉5番 大龍寺 千葉県香取市与倉1012 0478-58-1336 千葉6番 芝山仁王尊 千葉県山武郡芝山町芝山298 0479-77-0004 千葉7番 円明院 千葉県君津市山本1535 0439-35-2984 千葉8番 円如寺 千葉県君津市小市部127 0439-27-2100 千葉9番 佛母寺 千葉県富津市田倉942-13 0439-37-2336 千葉10番 誕生寺 千葉県鴨川市小湊183 0470-95-2621 千葉11番 清澄寺 千葉県鴨川市清澄322-1 0470-94-0525 千葉12番 能蔵院 千葉県南房総市千倉町忽戸146 0470-44-0588 千葉13番 小松院 千葉県南房総市千倉町大貫1057 0470-44-2502 千葉14番 石堂寺 千葉県南房総市石堂302 0470-46-2218 千葉15番 日本寺 千葉県安房郡鋸南町元名184-4 0470-55-1103 旧札所 本土寺 千葉県松戸市平賀63 旧札所 長福寿寺 千葉県長生郡長南町長南969-1 神奈川1番 妙音寺 神奈川県三浦市初声町下宮田119 0468-88-2226 神奈川2番 延寿寺 神奈川県三浦市初声町下宮田3403 0468-88-1815 神奈川3番 武山不動院 神奈川県横須賀市武1-3040 0468-57-3545 神奈川4番 清雲寺 神奈川県横須賀市大矢部5-9-20 0468-36-0216 神奈川5番 等覚院 神奈川県川崎市宮前区神木本町1-8-1 044-866-4573 神奈川6番 飯山観音 神奈川県厚木市飯山5605 046-241-1635 神奈川7番 日向薬師 神奈川県伊勢原市日向1644 0643-95-1416 神奈川8番 龍散寺 神奈川県伊勢原市東富岡986 0463-95-3337 神奈川9番 泉蔵寺 神奈川県秦野市千村503 0463-87-7278 神奈川10番 浄徳院 神奈川県秦野市菖蒲1184 0463-88-0257 神奈川11番 延命寺 神奈川県足柄上郡松田町松田惣領2160 0465-82-0401 神奈川12番 長安寺 神奈川県足柄下郡箱根町仙石原82 0460-4-8187 神奈川13番 【現在欠番】 (旧13番) 本還寺 神奈川県足柄下郡箱根町箱根223 0460-3-7686 神奈川14番 瑞雲寺 神奈川県小田原市上曽我902 0465-42-0718 神奈川15番 遊行寺 神奈川県藤沢市西富1-8-1 0466-22-2063 鎌倉1番 極楽律寺 神奈川県鎌倉市極楽寺3-6-7 0467-22-3402 鎌倉2番 光明寺 神奈川県鎌倉市材木座6-17-19 0467-22-0603 鎌倉3番 安国論寺 神奈川県鎌倉市大町4-4-18 0467-22-4825 鎌倉4番 瑞泉寺 神奈川県鎌倉市二階堂710 0467-22-1191 鎌倉5番 報国寺 神奈川県鎌倉市浄明寺2-7-4 0467-22-0762 鎌倉6番 英勝寺 神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-16 0467-22-3534 鎌倉7番 海蔵寺 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-18-8 0467-22-3175 鎌倉8番 雲頂庵 神奈川県鎌倉市山ノ内479 0467-22-3904 鎌倉9番 浄智寺 神奈川県鎌倉市山ノ内1402 0467-22-3943 鎌倉10番 東慶寺 神奈川県鎌倉市山ノ内1367 0467-22-1663 鎌倉11番 円覚寺 神奈川県鎌倉市山ノ内409 0467-22-0478 ※平成25年5月現在の公式サイトの情報を基としています。 名前 コメント