約 3,489 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1750.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-117 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 5 真実性ないし真実相当性について(その1) 【原判決の引用】 (原)第4・5 争点(4)及び(5)(真実性及び真実相当性)について (原)(5) 知念証人・皆本証人・控訴人梅澤・赤松大尉の供述等について (原)ア 知念証人の証言について (判決本文p226~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 (原)ア 知念証人の証言について(ア)(常に隊長の傍らにいたのか?)* (イ)(手榴弾配布に関して)* (ウ)(少年2名の処刑に関して)* (エ)(まとめ)* (ア)(常に隊長の傍らにいたのか?)* 第4・5(1)イ(イ)のとおり, 米軍の上陸前, 赤松大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよう指示したことが認められ, 第4・5(2)イ(イ)aのとおり, 赤松大尉自身, 部落の係員から住民の処置を聞かれ, 部隊が西山に移動するから住民も集結するなら部隊の近くの谷がよいであろうと示唆してとニュアンスにやや差異はあるものの, 赤松大尉が住民に対して西山陣地へ集結するよう指示したことを, その手記に記載している。 一方, 知念証人は, 陳述書(甲B67)に 「私は, 正式には小隊長という立場でしたが, 事実上の副官として常に赤松隊長の傍にいたおり」 と記載しているにもかかわらず, 西山陣地への集結指示については, 聞いていない, 知らない旨証言し, 陳述書(甲B67)にも 「住民が西山陣地近くに集まっていたことも知りませんでした。」 と記載している。 この食い違いは, 西山陣地への集結の持つ意味の重さに照らしても, 知念証人の証言の信用性に疑問が生じさせるか, 知念証人が赤松大尉の言動をすぺて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので, いずれにしても赤松大尉の自決命令を「聞いていない」「知らない」という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難であるということになる。 (イ)(手榴弾配布に関して)* 知念証人は, 「軍として手榴弾を防衛隊員の人に配っていたと, そういうことは御存じですか。」 という質問に対し, 「知りません。」 と答え, さらに 「それは全く知らないということですか。」 という質問に対しては 「はい。 ぶら下げているのは見たのは見たんですが, 配ったことについては全然わかりません。」 と答えた。 第三戦隊が住民に対して自決用等として手榴弾を配布したことは, 第4・5(2)イ記載の各諸文献及ぴそれらに記載された住民の体験談から明らかに認められるものであり, 第4・5(1)のとおり, 補給路の断たれた第三戦隊にとって貴重な武器である手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは, 極めて不合理であるというほかない。 (ウ)(少年2名の処刑に関して)* 知念証人は, 原告ら代理人に対しては「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」の記載内容は事前に確認して間違いがないと証言していたにもかかわらず, 「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」に 「米軍の捕虜になって逃げ帰った二人の少年が歩哨線で日本軍に捕らえられ, 本部につれられて来ていました。 少年たちは赤松隊長に, 皇民として, 捕虜になった君たちは, どのようにして, その汚名をつぐなうかと, 折かんされ, 死にますと答えて, 立木に首をつって死んでしまいました。」 との記載があり, 第4・5(1)のとおり認められる米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて, 被告ら代理人に問われると, 「正直言ってそれはわかりません。」 「私は直接会っていませんし, このことについて今初めて聞くんですから, ちょっとわかりません。」 と答えた。 また, 伊江島の女性等を処刑したことについても, 「沖縄県史 10巻」の「副官の証言」に 「伊江島の女性を私が処刑しました。 伊江島の男女四人が, 投降勧告文書を持って, 陣地に近づき, 捕らえられて処刑されました。」 などと記載があるにもかかわらず, 「それは私, 正直言って存じませんね, この処刑という。 処刑ということについては私は存じません。」 と証言した後, 原告ら代理人の問いに対しては, 「伊江島のこの処刑については, 私は全然如らないんです。」 「(知らないとはと聞かれて)それで, 3名やっぱり処刑されて, それでも生き返りというとおかしいんですが, 埋めたところから逃げていなくなったと。 それをうちの将校が, 知念おまえが逃がしたんだろうと, だから探してこいという命令を受けました。 私はそのときはむかっとしたんですが, 上官ですから。 5人ぐらい兵隊を連れて捜しに行きましたら, もう伊江島の人は, 本当にもう, 何といいますか, 呼吸も困難な状態にあったんです。 それで話を聞いたら, もう軍刀よりはピストルでやってくれと, ピストルでもう殺してくれという話がありましたので, 私がピストルで撃ちました。」 などと証言し, 原告ら代理人の質問には迎合的で, 被告ら代理人の質間には拒否的で, 一貫性のない証言をしている。 ※法廷での知念証人の供述場面については、目取真俊氏の傍聴記を参照 (エ)(まとめ)* 以上指摘した点を考えると, 知念証人の証言は措信しがたく, (ア)でも指摘したとおり, 知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である。 目次 戻る 通2-117 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pkmnomegaralphas/pages/154.html
PGLポケマイルクラブ・アトラクション 概要 アトラクション一覧Balloon Popping(バルーンポッピング) Graffiti Wiping(グラフィティワイピング) Mine Cart Adventure(マインカートアドベンチャー) Poké Doll Grabber(ポケドールグラッバー) 情報提供欄 概要 『ポケットモンスター オメガルビー・アルファサファイア』でためた「ポケマイルポイント」を利用して楽しむ遊び。アトラクションで遊ぶことで、さまざまな道具を手に入れることができる。 手に入れた道具は、ゲームシンクをすることで『OR・AS』のゲームに持ち帰り、使用することができる。 遊ぶためには、メダルを20個以上獲得する必要がある。 挑戦するためには、1回につき「100」ポケマイルを消費する(「マインカートアドベンチャー」は20ポイント~)。2015年7月21日(火)13時予定(※メンテナンス終了後)~8月4日(火)8 59(※メンテナンス開始)まで、「サマーキャンペーン」を実施。各アトラクションで遊ぶために必要なポケマイルポイントが 50%OFF になる。 2016年7月26日(火)メンテナンス終了後~XY・ORAS版PGLサービス終了(10月下旬予定)まで、「サンクスキャンペーン」を実施。全アトラクションの必要ポケマイルポイントが 50%OFF になる。 アトラクション一覧 Balloon Popping(バルーンポッピング) 2014年1月14日(火)に公開。 ふわふわと飛ぶ風船をクリックして10個割るアトラクション。割った風船でランクが決まる。 得点とランク得点は風船の形や大きさに関わらず各1~10点のランダムである模様。 最終得点のランクによりもらえるアイテムに違いがあるかは要検証。今のところ、ランクによる差異はまったくない模様。 得点 ランク もらえるアイテム 80~100 A ? 70~79 B ? 40~69 C ? 30~39 D ? 10~29 E ? 獲得できる道具一覧進化アイテムは1個、きのみは3個 Lv.1 Lv.2 Lv.3 メタルコート おうじゃのしるし するどいツメ きれいなウロコ りゅうのウロコ するどいキバ アップグレード エレキブースター プロテクター あやしいパッチ マグマブースター れいかいのぬの しんかいのキバ においぶくろ ホイップポップ しんかいのウロコ まんまるいし かわらずのいし ひかりのいし たいようのいし つきのいし めざめいし かみなりのいし やみのいし ほのおのいし みずのいし リーフのいし ネコブのみ タポルのみ ザロクのみ ロメのみ ウブのみ マトマのみ Graffiti Wiping(グラフィティワイピング) 2014年4月15日(火)に公開。 落書きで汚れたショーウィンドウをきれいにするアトラクション。落書きはクリックしたり、こすったりすると消える。ポケドールが3個出現しきった時点で終了 得点とランクポケモンドールの種類で得点が変わる模様。 たまに幻のポケモンのポケドールが登場する。50点固定で一個だけ出る模様。開始前にはいない。開始後ランダムで出現。 見つければCランク以上は確定。 最終得点のランクによりもらえるアイテムに違いがあるかは要検証。 獲得できる道具一覧 Lv.1 Lv.2 Lv.3 ポイントマックス ポイントアップ あかいいと しあわせタマゴ きょうせいギプス パワーリスト パワーベルト パワーウエイト パワーレンズ パワーバンド パワーアンクル ふしぎなアメ ハートのウロコ タウリン ブロムヘキシン マックスアップ リゾチウム キトサン インドメタシン きんりょくのハネ ていこうのハネ たいりょくのハネ ちりょくのハネ せいしんのハネ しゅんぱつのハネ Mine Cart Adventure(マインカートアドベンチャー) 2014年11月21日(金)に公開。 トロッコを走らせて、きのみを集めるアトラクション。 遊ぶために必要なメダルの数とポケマイルポイント レベル メダルの数 ポケマイル Lv.1 1枚 20P Lv.2 20枚 100P Lv.3 40枚 200P 遊び方:トロッコを走らせるコースを3つの中から選ぶ。 トロッコを押して走らせる。ポケモンがトロッコを押す強さによって、走る距離が変わる。 トロッコが止まった場所で、落ちてくるきのみをさらに集める。 得点とランク集めたきのみの数でランクが決まる。 獲得できる道具一覧貰える個数:マスターボールは1個。その他は、Lv.1=1個、Lv.2=5個、Lv.3=10個。 上の方に位置するアイテムほど出にくい? Lv.1 Lv.2 Lv.3 マスターボール×1 ネットボール×1 ネットボール×5 ヒールボール×10 ダイブボール×1 ダイブボール×5 ネットボール×10 ネストボール×1 ネストボール×5 ダイブボール×10 リピートボール×1 リピートボール×5 ネストボール×10 タイマーボール×1 タイマーボール×5 リピートボール×10 ゴージャスボール×1 ゴージャスボール×5 タイマーボール×10 ダークボール×1 ダークボール×5 ゴージャスボール×10 ヒールボール×1 クイックボール×5 ダークボール×10 クイックボール×1 ヒールボール×5 クイックボール×10 ハイパーボール×1 ハイパーボール×5 ハイパーボール×10 スーパーボール×1 スーパーボール×5 スーパーボール×10 モンスターボール×1 モンスターボール×5 モンスターボール×10 Poké Doll Grabber(ポケドールグラッバー) 2015年2月3日(火)に公開。 クレーンでつかんだポケドールを落とさないよう、障害物をよけながら引き上げてゴールを目指すアトラクション。ゴールしたときのポケドールの数によってA~Eの結果が表示され、いろんな「きのみ」を手に入れることができる。 得点とランク ドールの数 ランク 5個 A 4個 B 3個 C 2個 D 1個・0個 E 獲得できる道具一覧上の方に位置するアイテムほど出にくい? Lv.1 Lv.2 Lv.3 ミクルのみ ジャポのみ ナゾのみ イバンのみ レンブのみ カムラのみ ヤタピのみ チイラのみ アッキのみ ズアのみ リュガのみ タラプのみ オッカのみ ビアーのみ カシブのみ イトケのみ シュカのみ ハバンのみ ソクノのみ バコウのみ ナモのみ リンドのみ ウタンのみ リリバのみ ヤチェのみ タンガのみ ホズのみ ヨプのみ ヨロギのみ ロゼルのみ 情報提供欄 グラッパーLV3で、最後までいかずに途中でドール全部落として終了になったけどナゾのみが出ました。 -- (名無しさん) 2015-02-06 03 36 08 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/staff-officer/pages/47.html
http //megalodon.jp/2013-0406-0252-36/www2.odn.ne.jp/~caq10260/kyosantoukei.htm 【労働】 (略称) 全国労働組合総連合 (全労連) 日本自治体労働組合総連合 (自治労連) 全日本教職員組合 (全教) 日本国家公務員労働組合連合会 (国交労連) 郵政産業労働組合 (郵政労) 日本医療労働組合連合会 (日本医労連) 全国自動車交通労働組合総連合会 (自交総連) 全日本年金者組合 (年金者組合) 全国印刷出版産業労働組合総連合会 (全印総連) 全国動力車労働組合 (全動労) 全国地方銀行従業員組合連合会 (地銀連) 日本育英会労働組合 (育英労) 映像・文化関連産業労働組合 (映産労) 日本民間放送労働組合連合会 (民放労連) 住宅・都市整備公団労働組合 (住都労) 日本原子力研究所労働組合 (原研労) 「労働相談110番」 「過労死110番」 「パート110番」 【平和】 (略称) 原水爆禁止日本協議会 (原水協) 日本平和委員会 (平和委) 平和・民主主義・革新統一をすすめる全国懇話会 (全国革新懇) 非核の政府を求める会 安保破棄・諸要求貫徹中央実行委員会 (安保破棄中実委) 憲法改悪阻止各界連絡会議 (憲法会議) 「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名賛同・推進の国内連絡会 日本原水爆被害者団体協議会 (日本被団協) 第五福竜丸平和協会 平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会 (平和遺族会) 【宗教】 (略称) 日本宗教者平和協議会 (宗平協) 日本キリスト者平和の会 (日キ平) 【法曹】 (略称) 自由法曹団 青年法律家協会 (青法協) 日本国民救援会 (国救) 再審・えん罪事件を支援する全国連絡会 日本国際法律家協会 日本民主法律家協会 (民法協または日民協) 日本労働弁護団 全国公害弁護団連絡会議 水俣病被害者・弁護団全国連絡会議 大気汚染公害裁判原告団・弁護団全国連絡会議 核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会 【生活擁護】 (略称) 全国商工団体連合会 (全商連=民商) 全国生活と健康を守る会連合会 (全生連) 全国中小業者団体連絡会 (全中連) 全国借地借家人組合連合会 (全借連) 中央社会保障推進協議会 (社保協) 全国老後保障地域団体連絡協議会 (老地連) 公害・地球環境問題懇談会 (公害地球懇) 全国部落解放運動連合会 (全解連) 【医療】 (略称) 全日本民主医療機関連合会 (全日本民医連) 新日本医師協会 全国保険医団体連合会 (保団連) 全国労災職業病対策実行委員会 日本患者同盟 日本患者・家族団体協議会 (JPC) 障害者の生活と権利を守る全国連絡協議会(障全協) 全国障害者問題研究会 (全障研) 稀少難病者全国連合会 (あせび会) スモンの会全国連絡協議会 全国ハンセン病患者協議会 全日本視力障害者協議会 (全視協) 全国精神障害者団体連合会 日本てんかん協会 全国腎臓病患者連絡協議会、 (全腎協) 全国腎炎・ネフローゼ児を守る会 【婦人】 (略称) 新日本婦人の会 (新婦人) 日本婦人団体連合会 (婦団連) 婦人民主クラブ (再建) 日本母親大会連絡会 子どもと教育・文化を守る国民会議 (教育・文化国民会議) 全国保育団体連絡会 全国学童保育連絡協議会 【青年・学生】 日本民主青年同盟 (民青同)または(民青) 全日本医学生自治会連合 (医学連) 全日本学生寮自治会連合 (全寮連) 全国大学生活協同組合連合会 (大学生協連) 明るい革新日本をめざす中央青年学生連絡会議 (中央青学連) 日本青年学生平和友好祭中央実行委員会 宗教青年平和協議会 (宗青協) 【思想・研究】 (略称) 日本科学者会議 (JSA) 歴史科学協議会 (歴科協) 自治体研究社 日本民間教育研究団体連絡会 (民教連) 歴史教育者協議会 (歴教協) 【教宣・マスコミ】 (略称) 労働者教育協会 (労教協) 日本機関紙協会 機関紙連合通信社 (KNA) 日本ジャーナリスト会議 (JCJ) 共同企画 ジャパン・プレス・サービス、ジャパン・プレス・フォト 日本電波ニュース 日本幻灯文化社 【文化】 (略称) 文化団体連絡会議 (文団連) 日本民主主義文学同盟 (民文同) 詩人会議 新日本歌人協会 新俳句人連盟 親子読書・地域文庫全国連絡会 (親地連) 日本美術会 (日美) 日本リアリズム写真集団 (JRP) いわさきちひろ絵本美術館 日本のうたごえ全国協議会 全国勤労者音楽協議会連絡会議 (労音) 日本音楽舞踊会議 (音舞会議) 全国演劇鑑賞団体連絡会議 (全国演鑑連) 全国子ども劇場・おやこ劇場連絡会 映画鑑賞団体全国連絡会議 (全国映連) 勤労者演劇協議会 (労演) 【スポーツ】 (略称) 新日本スポーツ連盟 日本勤労者山岳連盟 (労山) 全国勤労者スキー協議会 (スキー協) 全国硬式テニス協議会 (硬式テニス協) 全国野球協議会 (野球協) 全国バレーボール協議会 (バレー協) 全国水泳協議会 (水泳協) 全国卓球協議会 (卓球協) 全国サッカー協議会 (サッカー協) 全国ランニングセンター 勤労者釣りの会 (労釣) 【共産党系のあかつき書店と取引関係にある主な出版社】 新日本出版社 あかね書房 青木書店 ナウカ 学習の友社 偕成社 文理書院 あゆみ出版 岩崎書店 未来社 明治図書出版 【共産党系または関連の出版紙誌】 しんぶん赤旗 前衛 少年少女新聞 子ども会少年団 民主文学 議会と自治体 労働運動 学生新聞 月刊学習 女性のひろば グラフこんにちは デートライン・トウキョウ(外国向け英字情報紙) 学習の友 民主青年新聞 われら高校生 そがく 新婦人しんぶん 経済 (参考文献:日本政治経済研究所編「左翼便覧」など)
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1382.html
http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2_syomen_03.html 被控訴人準備書面(3)3/3 準備書面(3)1/3 準備書面(3)2/3 被控訴人準備書面(3)3/3第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について(1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)についてア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について (2)同(2)住民の体験談)についてア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について イ 同イ(大城良平の体験)について (3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について (4)同(4)(その他資料の評価)についてア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について (5)同(5)(知念証言について)について (6)同(6)(皆本証言について)について (7)同(7)(赤松大尉手記)について (8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について (9)同(9)(富山真順の証言の評価)について (10)同(10)(金城重明の証言の評価)について (11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について (12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について1 同1(原判決の判示)(120頁)について 2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について 第3 同第3(真実相当性に関する事実認定上の問題点)について 7 同7(集団自決にかかる証拠評価の誤り(その3)―渡嘉敷島―)(84頁)について (1)同(1)(『ある神話の背景』に対する原判決の評価)について ア 同ア(曽野は〈赤松命令説〉を否定するのか)について 控訴人は、原判決が「ある神話の背景」について「曽野綾子自身の見解として赤松命令説を否定する立場を表明したものではない」(原判決179頁)としたことについて、「『ある神話の背景』で赤松隊長の自決命令があったことを証明する証拠はなく赤松隊長の自決命令はなかったというのが曽野の結論である」と主張する。 しかし、原判決が認定するとおり、曽野は、平成12年10月16日の司法制度改革審議会において、「ある神話の背景」について「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、とは言っていません。ただ、今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。」と答えた旨の発言しており(甲B40の2、「正論」(平成15年9月号)(甲B55)も同旨)、「ある神話の背景」について「客観的な根拠を示して赤松命令説を覆すものとも、渡嘉敷島の集団自決に関して軍の関与を否定するものともいえない」(原判決181頁)との原判決の証拠評価は正当である。 イ 同イ(『ある神話の背景』の住民の供述は詳細でないのか)について 控訴人は、原判決が「曽野綾子は、『ある神話の背景』において、赤松大尉による自決命令があったという住民の供述は得られなかったとしながら、取材をした住民がどのような供述をしたかについては詳細に記述していない。」(原判決180頁)と認定したことについて、ある神話の背景には関係者の詳細な証言が多数収録されており、「調査の丹念さと内容からして『ある神話の背景』は高い信用性があると評価すべきである」と主張する。 しかし、原判決が述べていることは、「ある神話の背景」によると、曽野綾子は、住民から赤松大尉による自決命令があったという直接の供述は得ていないが、それに関連して、住民からどのようなことが具体的に供述されたかについて詳細には記述がないという意味であって、関係者の証言が収録されていないなどとは全く指摘していない。 ウ 同ウ(曽野の取材には偏りがあるのか)について 控訴人は、原判決が、曽野が「ある神話の背景」を執筆した際、富山真順に取材しなかったとされることについて、「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」(原判決180頁)としたことを、「曽野が意図的に富山氏を取材対象から外したかのように決めつける原審判決こそ限りなく被告側に偏った証拠の評価をしている」と主張する。 しかし、まず、原判決は、富山(新城)真順兵事主任への取材を行っていないとする曽野綾子の主張が「それが事実であれば」取材対象に偏りがなかったか疑問が生じるとしているのであり、曽野が意図的に取材対象から富山を外したと決めつけたものでは全くない。 曽野綾子の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が、「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという」(乙11・14頁)と具体的に指摘しているとおり、曽野は、富山に取材を行っている。安仁屋が「兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11・14~15頁)と指摘するとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てており、信用できないものであって、原判決の証拠評価は正当なものである。 エ 同エ(大城将保の『ある神話の背景』に対する評価の変遷)について 控訴人は、原判決が、大城将保は「全体として集団自決に関して軍の関与自体は肯定する見解を主張している」と判示した点について、「大城の主張は度々変遷し、しかも意味不明に、政治的な目的で変わる」などと主張する。 しかし、大城の集団自決に関する主張は全く変遷していない。大城は、原判決が指摘するように、「青い海」(昭和52年)においては、「私自身は、今のところ戦争責任の追及の問題に言及する用意はないし、自決命令があったかどうかについてはさして興味がない」としたうえで、星雅彦が指摘する集団自決の様々な原因のなかに事実はほとんど網羅され、その要因の中でも旧日本軍が常に発散させていた国民への圧力を重視すべきであるとしており、当初から、集団自決への軍の関与を肯定している。その後、大城は、「沖縄戦を考える」(昭和58年)において、「ある神話の背景」に対する星雅彦らの反論が曽野の論証を覆していないとし、「鉄の暴風」の誤記等に関する指摘についての反証が出てきていないとするが、これは議論の状況についての大城の見解を述べたものにすぎず、赤松隊長の自決命令がなかったとの見解を示すものでは全くなく、大城の主張に変遷はない。 オ 同オ(命令の伝達経路の不明確)について 控訴人は、「命令の伝達経路が明らかになっていないことは、命令がなかったことを示すものであり、自決に失敗した負傷者を赤松部隊が治療した事実と併せ(甲B18p121、122、141、142)、自決命令がなかったことを物語っている」と主張する。 しかし、富山真順兵事主任の証言から明らかなように、赤松隊の兵器軍曹が米軍上陸前に、村役場にて17歳未満の少年と役場職員を集めて手榴弾を2個ずつ配布し、「敵に遭遇したら1個は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ」と訓示しており、重要な武器である手榴弾が隊長の命令なしに住民に配布されることは考えられない。また、軍の命令で西山に集結した住民は、軍の自決命令によって自決したと認識している。したがって、戦時下の混乱状況での命令の伝達経路が明らかでないからといって、赤松隊長の自決命令がなかったということにはならない。 また、自決命令にしたがって自決を図り、負傷して現に苦しんでいる住民を治療することは、自決命令を出したことと矛盾するものではなく、赤松隊が自決に失敗した住民を治療したからといって、自決命令がなかったことにならず、赤松隊長による自決命令を否定するものではない。 カ 同カ(古波蔵蓉子のエピソードが物語る《赤松命令説》の不存在)について 控訴人は、「ある神話の背景」に記載されている、斬込みに行くことを願い出た古波蔵蓉子が赤松隊長に引き留められたとする話が、赤松隊長が自決命令を出していない決定的な証拠であると主張する。 しかし、古波蔵蓉子が斬込みに行くことを願い出たとされているのは集団自決の3か月半後の7月12日のことである(甲B18・236頁)。これは、米軍上陸後、住民が軍とともに避難し、軍が米軍に対して散発的に攻撃を行っていた時点での話であり、米軍上陸を目前にしていた集団自決直前とは全く状況が異なるのであって、古波蔵蓉子を赤松隊長が引き留めたという話は、何ら隊長による自決命令を否定する根拠とはならない。 (2)同(2)住民の体験談)について ア 同ア(徳平秀雄郵便局長の体験)について (ア)控訴人は、徳平秀雄の手記(乙9)について、「赤松隊長が途方に暮れ、統率力を失っていた状態を明らかにし、村民に自決命令を出す余裕もなく、また命令を村長に届けさせることもできなかったこと言わんとしている」と主張するが、これは控訴人独自の偏った解釈である。 徳平秀雄の手記は、「このようなことは一体誰の責任でしょうか。あの時特攻舟艇を自沈させ、うつろなまま上陸を迎えて途方に暮れ、統率力を失っていた赤松隊長の責任か、また、村民の責任なのか、私はこれから更に、この問題を考え続けていかなければならないだろうか」とあるように、赤松隊長による自決命令を否定するものではないことが明らかであり、徳平の手記に記載された事実が赤松命令説を覆すものではないことは、原判決が認定したとおりである(原判決184頁)。 (イ)また、控訴人は、徳平の手記が「防衛隊が現れてから協議が始まって自決と決まったことを明らかにしているが、命令があったのならば、協議をする必要もないのであり、村長ら村の幹部の協議の結果、自決が決まったというのであるから、自然発生的に自決したのであり、赤松隊長の命令で自決したものでないことを徳平は語っている」と主張する。 しかし、徳平の手記は赤松隊長の命令で自決したのではないなどとはしていない。日本軍の陣地の中から出てきた防衛隊員の伝令が古波蔵村長に伝達事項を伝えた後、古波蔵村長は徳平郵便局長と話をし、その後、古波蔵村長の呼び掛けで「天皇陛下万歳」を三唱し、「発火用意」という村長の号令のあとに手榴弾による集団自決が行われたことは、吉川勇助の陳述書(乙67)記載のとおりである。防衛隊を通じて軍から自決命令が伝えられ、徳平と村長らは具体的な自決の手順等を協議したことは十分に考えられるのであって、村の有力者の協議によって自然発生的に自決が行われたのではなく、軍の指示、命令により集団自決が行われたものである。 (ウ)なお、控訴人は、秦郁彦が徳平の手記を「信頼性のある私的記録と高く評価していることに留意すべきである」と主張するが、秦の意見書(甲B104)は、徳平の手記が信頼性のある私的記録であるとする根拠を明らかにしておらず、控訴人の主張は根拠のないものである。 イ 同イ(大城良平の体験)について 控訴人は、大城良平は一貫して赤松隊長を擁護し、《赤松命令説》を否定しており、大城の証言が《赤松命令説》が虚偽であることを明らかにしている旨主張する。 しかし、原判決が、「『沖縄県史第10巻』(乙9・781頁)に記載された大城良平の体験談も、赤松大尉が部下を指揮できなかったという事情について具体性はなく(大城良平の体験談以外に、赤松大尉が部下を指揮できなくなっていたと語るものは、本訴で提出された書証等の中には存しない。)、多くは大城良平の観測を述べるものにとどまっている」(原判決184頁)と認定しているとおり、大城の体験談は赤松隊長による自決命令がなかったことの具体的根拠を示しておらず、観測を述べるものにすぎないことから、大城の証言は、赤松隊長による自決命令がなかったとするものではない。 (3)同(3)(『秘録沖縄戦記』復刻版で《赤松命令説》は訂正されたか)について 控訴人は、「秘録沖縄戦記」の復刻版(甲B53)について、原判決が「赤松命令説に反対する見解の存在又は沖縄戦の認識をめぐる紛争の存在を考慮して、復刻版を出版した遺族である山川一郎が慎重な態度をとったにすぎない」、「『秘録 沖縄戦史』及び『秘録 沖縄戦記』の資料的価値に変更を認めることはできない」(原判決185頁)したことについて、「遺族山川一郎が慎重な態度をとったと判断するに無理があり、判決の著しい偏りといえる」と主張する。 しかし、原判決が認定しているとおり、「秘録 沖縄戦記」復刻版は、山川泰邦の死後に復刻され、慶良間列島の集団自決等に関する記述の一部を削除した理由について、「集団自決についてはさまざまな見解があり、今後とも注視をしていく必要があることを付記しておきたい」としており、復刻版の出版者である山川一郎が集団自決に関するさまざまな見解の存在を考慮して慎重な態度を示していることは明らかであり、同復刻版は、集団自決について隊長命令があったことを否定するものではなく、原判決の認定は何ら偏ったものではない。 (4)同(4)(その他資料の評価)について ア 同ア(『陣中日誌』の転載の正確性)について 控訴人は、原判決が「陣中日誌」について「その転載の正確性を確認できない」(原判決186頁)としていることについて、「根拠もなしに、不正確かのように評価するのは恐ろしく乱暴な証拠評価といわざるをえない」と主張する。 しかし、原判決は、「赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり、そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7)、『陣中日誌』は、このような報道後、同年8月15日に発行されたものであるし、その元となった資料は書証として提出されておらず、その転載の正確性を確認できない」とし、抗議行動を受けて、赤松隊長に不利な集団自決の経緯に関する記述をしていない可能性が疑われることや、「陣中日誌」作成の根拠となった資料の内容が不明である点を指摘して、その記載の正確性が確認できないとする根拠を具体的に示しており、原判決の証拠評価は正当である。 イ 同イ(大江志乃夫の判断について)について 控訴人は、大江志乃夫が「花綵の海辺から」(甲B36)に「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」と記載したことについて、「『沖縄県史第10巻』(p778~p783)、『沖縄戦ショーダウン』(甲B44p3)で取り上げられる大城良平の取材を基にしたものであり、赤松隊長が自決命令を出さなかったという記述は、文科省の平成18年度教科書用教材検定における専門委員の意見書が、いずれも赤松隊長の自決命令を認めていないことからしても客観的事実に合致する」とし、「集団自決の本質をとらえており、その指摘は評価に値する」と主張する。 しかし、「沖縄県史第10巻」の大城良平の手記の内容は、原判決が認定したとおり、大城の観測を述べるものにすぎず(本準備書面43頁)、「沖縄戦ショウダウン」、「花綵の海辺から」における大城の証言は「沖縄県史第10巻」の大城の手記と同じ内容であって、これも大城の観測にとどまるものであり、赤松隊長の自決命令がなかったとするものではない。また、前記第3、2のとおり、平成18年度の教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会が意見聴取した専門家のうち、赤松隊長の自決命令がなかったとしているのは、秦郁彦と原剛のみであり、その他の専門家は隊長による自決命令を否定していない(甲B104)。したがって、「赤松嘉次隊長が『自決命令』を出さなかったのはたぶん事実であろう」とした大江志乃夫の見解は大江の感想を述べたものにすぎず、本訴における資料価値は低いとした原判決の判断は正当である。 (5)同(5)(知念証言について)について ア 控訴人は、原判決が、知念証人が陳述書(甲B67)に、常に赤松隊長の傍らにいたと記載しているにもかかわらず、西山陣地への住民に対する集結指示は知らない旨証言し(知念証人調書12頁)、住民が西山に集結した事実を知らなかった旨陳述書に記載していることを、「知念証人の証言の信用性に疑問を生じさせるか、知念証人が赤松大尉の言動をすべて把握できる立場にはなかったことを窺わせるもので、いずれにしても赤松大尉の自決命令を『聞いていない』『知らない』という知念証人の証言から赤松大尉の自決命令の存在を否定することは困難である」(原判決188頁)としたことについて、「知念少尉が、事実上の副官であったとしても、軍の問題でもない部落民の避難場所の相談に対し、そのすべてに関与することはあり得ない」「住民の避難の相談について知念少尉が知らなくても不思議ではない」などと主張する。 しかし、知念証人は、陳述書(甲B67)において「私は、正式には小隊長という立場でしたが、事実上の副官として常に赤松隊長の傍におり、私を素通りしていかなる赤松隊長による下令もあるはずがありません。私は、赤松隊長が自決命令を出したことは、見たことも聞いたこともありません。赤松隊長の傍には私が常にひかえていたのですから、自決命令がなかったことは間違いありません」と記載しながら、赤松隊長自身が認めている住民に対する西山への避難命令(集結指示)について、知らなかったと証言しており(知念証人調書12頁、甲B67)、知念証人が赤松隊長の出した命令・指示のすべてを把握してはいなかったことが明らかであり、赤松隊長による自決命令がなかったと証言できる立場にない。 イ また、控訴人は、原判決が「手榴弾を配布したことを副官を自称する知念証人が知らないというのは、極めて不合理であるというほかない」(原判決189頁)としたことについて、「手榴弾は勤務隊の兵器係が管理していたものであり(甲B36p27)、防衛隊に渡された手榴弾も勤務隊を通じて配布されたものである」「勤務隊から直接防衛隊に配布された場合には、第3戦隊の赤松隊長や副官の知念少尉がその事実を知らないことになる」と主張する。 しかし、補給路を断たれた第三戦隊において貴重な武器であり厳重に管理されるべき手榴弾が、勤務隊も含めた渡嘉敷島の日本軍の最高責任者であった赤松隊長の命令・許可なく住民に配布されるとは考えられず、原判決の認定は正当である(赤松隊の中隊長であった皆本証人は、防衛隊員による手榴弾交付について「恐らく戦隊長の了解なしで勝手にやるようなばかな兵隊はいなかったと思います」と証言している(皆本証人調書25頁))。 ウ さらに、控訴人は、原判決が、知念証言について、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」(原判決190頁)と判示した点について、「裁判所の偏見にみちた認定という他はない」と主張する。 しかし、知念証人は、原告代理人に対しては「沖縄県史第10巻」の「副官の証言」の記載は事前に確認して間違いがない旨証言したのにもかかわらず、一審被告代理人の質問に対しては、米軍に保護された少年2名を日本軍が処刑したことについて、「正直いってそれは分かりません」「私は直接会っていませんし、このことについて今初めて聞くんですから、ちょっと分かりません」と証言し、また、伊江島の女性等の処刑について、「伊江島のこの処刑については、私はぜんぜん知らないんです」などと証言しているのであり、「原告ら代理人の質問には迎合的で、被告ら代理人の質問には拒否的で、一貫性のない表現をしている」との原判決の認定は正当である。 知念証人は、原審証人尋問において、「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」と赤松隊長が住民に対して伝言したことがあるかとの一審原告代理人の質問に対し、「これはあります」と答え(知念証人調書5頁)、一審被告代理人の質問に対しては、そのように一審原告代理人の主尋問に答えたことについて記憶にない旨証言するなど(知念証人調書11頁)、隊長の自決命令に関する証言が一貫しておらず、赤松隊長が住民に対する自決命令を出したことはないとする証言自体信用できない。 そして、知念証人は、赤松隊長が、捕虜になることを許さないとして、伊江島の女性、朝鮮人軍夫、大城訓導の処刑を口頭で命じたと証言しており(知念証人調書15頁)、昭和20年3月28日当時においても、赤松隊長は、住民が捕虜になることがないよう、住民に自決命令を発したと考えられる。 エ なお、控訴人は、母親を殺したという姉弟に赤松隊長の命令で乾麺麩を与え財布を渡したとする知念証人の行動から、「隊長あるいは部隊が自決命令を出していないことは容易に推測できる」と主張するが、米軍上陸直前に住民に対する自決命令を出すことと、その後生き残った幼い姉弟に乾麺麩等を与えることとは何ら矛盾するものではなく、赤松隊長が自決命令を出していないことは推測できるとはいえない。 オ 以上述べたとおり、知念証言に対する原判決の判断は全く正当である。 (6)同(6)(皆本証言について)について ア 控訴人は、皆本証人が「現実には赤松隊長に戦況報告にいった際には、赤松隊長は、手榴弾配布のことも、自決命令のことも何もいっていない(甲B66p17)。そうであれば、自決命令はもちろん、自決のための手榴弾配布もされなかったというのが自然な解釈というべきである」と主張し、原判決が、皆本証人が赤松隊長の言動を把握できる立場にないと認定したこと、及び手榴弾に関する陳述書(甲B66)の記載及び証言が信用できないとしたことを論難するようである。 しかし、皆本証人が赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であり(皆本証人は、赤松隊の本体に合流したのは3月28日午前10時であるとの「沖縄方面陸軍作戦」の記載について、防衛研究所戦史室の調査にもそのように答えたと認めている(皆本証人調書16~18頁))、また、皆本証人が中隊長であった第三中隊は本部とは別の場所に配置されていたのであるから(皆本証人調書21頁)、皆本証人が陣地内の状況をすべて把握していたわけではない(皆本証人調書27頁)。したがって、皆本証人は常に赤松隊長のそばにいたのではなく、赤松隊長の言動を把握しておらず、赤松隊長の自決命令がなかったと証言できる立場にないことが明らかである。 そして、渡嘉敷島の集団自決において、住民は、富山の証言等にあるように、軍や防衛隊員から配られた手榴弾で自決を図ったのであるが、手榴弾は軍の重要な武器であり、皆本証人も軍の最高責任者である赤松隊長の了解なしに防衛隊員に手榴弾が交付されるはずはない旨証言しており(皆本証人調書25頁)、手榴弾の交付が赤松隊長の指示・了解なしに行えないことを認めている。 イ なお、控訴人は、「沖縄方面陸軍作戦」(乙55)と皆本証人の陳述書(甲B66)の本隊への合流時間の齟齬について、「資料のごく一部と証言の食い違いに特段の意味を見出すのは合理的な証拠評価といえない」と主張するが、原判決は、合流時間の齟齬のみを理由に皆本証人の証言を信用できないとしたものではない。 ウ 以上述べたとおり、皆本証言についての原判決の認定は正当である。 (7)同(7)(赤松大尉手記)について 控訴人は、原判決が、「潮」に掲載された赤松隊長の手記(甲B2)の記載と「週刊新潮」の取材に応じた記録(甲B73)の記載を比較して、「潮」の「赤松手記の記載内容には疑問があり、それを直ちに措信することはできない」(原判決196頁)としたことについて、「週刊新潮」の記事は、「赤松隊長に取材したなら、起こるはずのない虚偽を記載しており、その余の記載にも信用性がない」とし、「『週刊新潮』の記事を『赤松隊長の手記』と比較するのは、前提において誤っている」と主張する。 しかし、「週刊新潮」の赤松隊長に対する取材記事(甲B73)は、一審原告によって赤松隊長の自決命令を否定する証拠として提出されたものであり、その記載内容に信用性がないとする控訴人の主張は、不可解というほかない。 原判決は、赤松隊長の手記(甲B2)、赤松隊長に対する「週刊新潮」(甲B73)、「琉球新報」(乙26)の取材記事の記載内容を比較して赤松隊長の手記(甲B2)は「自己弁護の傾向が強く、手記、取材毎にニュアンスに差異が認められるなど不合理な面を否定できず、全面的に信用することは困難である」として「ただちに措信することはできない」とするもので、その判断は正当である。 (8)同(8)(被控訴人大江は十分な取材をしたのか)について 控訴人は、被控訴人大江の「沖縄ノート」執筆の際の取材について、「牧港ら、被控訴人大江が親交を結んだメンバーは、牧港が『鉄の暴風』共著者であることを除けば、渡嘉敷島、座間味島の集団自決とは関係のない、社会活動家、政治活動家であり、被控訴人大江が渡嘉敷島、座間味島の集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」と主張する。 しかし、被控訴人大江が取材した当時、牧港篤三は沖縄タイムス社の記者であり、「鉄の暴風」を執筆し、新川明は八重山地方で沖縄タイムス社の記者を務めており(後に沖縄タイムス社の編集局長、社長を務めた)、外間守善は沖縄の文化・伝統の研究の第一人者であり、大田昌秀は自ら鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦を戦った経験者として沖縄戦及び沖縄の民衆意識を研究し(後に沖縄県知事を務めた)、いずれも沖縄の歴史・文化に対して十分な見識を有する知識人であり、これらの知識人について「集団自決の具体的情報を得るだけの体験も資料も持っていた兆候はない」という控訴人の主張は、誤った憶測にすぎない。また、「鉄の暴風」が伝聞に基づくものではなく、集団自決の体験者からの直接の聞き取りをもとにしていることは前記第3、4(1)のとおりである。 被控訴人大江は、自ら渡嘉敷島、座間味島に赴いて現地で調査することはしていないが、集団自決の直接体験者からの聞き取りに基づいて執筆された「鉄の暴風」や「沖縄戦記」(乙3)等の書籍を収集、検討し、体験者の証言を集めた本を中心に読み、「鉄の暴風」の執筆者である牧港ら知識人らから話を聞き、何度も牧港の元を訪れて取材し、牧港から沖縄タイムス社にある資料を見せてもらうなどし、これらに基づいて「沖縄ノート」を執筆したのである(乙97、被告大江本人調書8頁)。 このように、「沖縄ノート」は十分な取材に基づいて執筆されたものであり、原判決が被控訴人大江の沖縄ノート執筆の際の取材状況を、赤松隊長の自決命令があったことが真実であると信じるについて相当の理由があったとする判断の一要素として考慮したことは、全く正当な判断である。 (9)同(9)(富山真順の証言の評価)について ア 控訴人は、昭和20年3月20日に、兵器軍曹が村役場で、17歳未満の村民に手榴弾を2発ずつ配ったという富山真順の証言について、原判決が「『自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する』と述べているが(原判決p206)、当該証言に内容の変遷があるという重大な事実を全く考慮しておらず、あまりに杜撰な証拠評価を行っている」などと主張する。 しかし、原判決の認定は正当であって、控訴人の主張は全く理由がない。 富山真順の証言は、 「(1) 1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。富山氏は、軍の指示に従って『17歳未満の少年と役場職員』を役場の前庭に集めた。 (2) そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、『米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ』と訓示した。 (3) 3月27日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任の富山氏に対して軍の命令が伝えられた。その内容は『住民を軍の西山陣地近くに集結させよ』というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。 (4) 3月28日、恩納河原の上流フィジガーで住民の『集団死』事件が起きた。このとき防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の『自殺』を促した」 というものであるが(乙11・158頁、乙12、乙67)、この手榴弾配布に関する証言は詳細であるうえ、朝日新聞記事(乙12)において「この位置に並んだ少年たちに兵器軍曹が自決命令を下した」と、実際に手榴弾を交付されて自決命令を受けた場所を指し示すなど、非常に具体的である(乙12写真説明)。そして証言をした理由を問われた富山が、「いや、玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、改めて証言しておこうと思った」としているとおり、富山は、軍(赤松隊長)による自決命令があったことについての渡嘉敷村における住民の認識を改めて明らかにしたものであり、同証言がなされた経緯は何ら不自然ではない。富山証言を「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の判断は全く正当である。 イ 控訴人は、第三次家永訴訟における証人尋問において、初めて富山証言がなされたことが不自然であるとし、安仁屋政昭が金城重明に働きかけて工作したのではないかとの疑いすら生じると主張するが、富山証言がなされた経緯は上記のとおりであって何ら不自然ではない。 また、金城重明は、富山証言について、「本人から直接聞きました」「きっかけは、私が家永訴訟の体験者、証人として証言をするということを富山さんも知ったわけですよ。だから、実はあなたのおやじさんとは親しい、身近な関係だったと。あんたが出るならこういう事実があったんだよと言って、手榴弾を配った話をじかにしてくれました」「会ったわけですよ。渡嘉敷に行って」「証人は複数いますから、連絡を取り合ってます。例えば沖縄国際大学の教授をしておられた安仁屋さんとか、連絡を取り合っていますから、彼の方が情報が先だっただろうかなと思います。富山さんがこういう情報を持っているよと。多分そういう経緯で、私が後からかけたと思います」(金城証人調書24~25頁)と証言している。金城証人は、第三次家永訴訟で証言するにあたり、安仁屋政昭から、富山が渡嘉敷島での手榴弾交付の事実を知っている旨を知らされ、自ら渡嘉敷島へ赴いて、昭和20年3月20日の村役場における兵器軍曹による手榴弾交付の事実を、金城証人の父親と親しかった富山本人から直接聞いたものであり、安仁屋が金城に働きかけて工作したなどということは全くなく、富山証言が真実であることは疑いがない。 なお、控訴人は、渡嘉敷島の住民からの聞き取りからなる「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)に富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されていないことについて、「当時《手榴弾交付説》が住民のだれも知らないものであったことの証左である」と主張するが、「渡嘉敷村史資料編」における富山の手記は昭和19年10月10日の空襲時の状況を内容とするもので、集団自決について述べたものではない。また、安仁屋政昭が執筆した同書籍の第四章、第一節「慶良間諸島の戦争(解説)」の「渡嘉敷島の戦闘と住民」の項に、「すでに上陸前に、村の兵事主任を通して軍から手りゅう弾が配られており、『いざという時』にはこれで自決をするように指示されていたといわれる」(甲B39・366頁)と記載されているように、富山証言にある手榴弾交付の事実が記載されている。 ウ 控訴人は、吉川勇助の陳述書(乙67)において、昭和20年3月20日の村役場における日本軍による手榴弾配布の事実が記載されていないことについて、「吉川の記憶にそれがなかったことを証明している」と主張する。 しかし、吉川は、陳述書において、自身が所持していた手榴弾の入手先について、1個は3月23日の空襲のあとに敵に捕まった時の自決用にもらったもの、もう1個は、3月28日に軍から伝令が古波蔵村長のもとに来た後、村長が号令をかける前に村長からもらったとの事実を記載しているのであり、富山証言にある3月20日の手榴弾交付の事実の記憶がなかったのではない。吉川が3月20日に兵器軍曹から手榴弾の交付を受けていないからといって、渡嘉敷村の17歳未満の少年と役場職員の全員が役場に呼ばれたわけではなく、富山証言が虚偽であるということはない。 (10)同(10)(金城重明の証言の評価)について ア 控訴人は、原判決が、金城重明の証言を「自身の実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」と判示したことについて、「証拠の吟味を最初から放棄したかのような、極めて杜撰な、偏ったものである」と主張するが、以下に述べるとおり、原判決の判断は正当である。 イ 控訴人は、昭和20年3月20日に兵器軍曹が住民に対して手榴弾を交付したとの富山証言が真実ならば、「命令の一貫性から考えて、一部の部落だけに手榴弾を交付したり、『自決せよ』と言ったりすることはあり得ないし、周囲20㎞の狭い島の中で『手榴弾の交付を受けたという話を誰からも聞いていない』などということはあり得ない」と主張する。 しかし、金城は、軍の本部があった渡嘉敷島の渡嘉敷部落ではなく、渡嘉敷部落から離れた字阿波連の住民であったことから、富山証言の手榴弾の交付の対象ではなく、当時のことは知らないのであって、富山証言にある手榴弾の交付の事実を、第三次家永訴訟時点まで知らなかったとしても何ら不自然ではない。 ウ また、控訴人は、《万歳三唱説》なるものが、「潮」11月号(甲B21)、「ある神話の背景」に記載されておらず、家永訴訟における証人尋問においても証言されておらず、平成19年6月8日付沖縄タイムス紙上において《万歳三唱説》を唱えるに至ったとし、金城が最近になって無理やり《万歳三唱説》を作出したなどと主張する。 しかし、金城重明は、第三次家永訴訟の証人尋問においても、本訴原審における証人尋問においても、自身の記憶に基づいて、詳細かつ誠実に、集団自決の際の事実関係について証言している。渡嘉敷島における集団自決の際に、古波蔵村長の号令により「天皇陛下万歳」を三唱して自決が始まったことは、金城の「集団自決を心に刻んで」(甲B42・52頁)に記載されているほか、「渡嘉敷村史資料編」(甲B39)の小嶺幸信の手記(386~387頁)にも記載されており、金城によって近年突然語られるようになったものではない。金城は、本訴原審における証人尋問において、悲惨な集団自決の状況を、誠実かつ詳細に証言したのであり、「無理やり《万歳三唱説》を作出した」などということは全くない。 なお、控訴人は、「集団自決を心に刻んで」(甲B42)の「軍から命令が出たらしいとの情報が伝えられました(この事実関係については議論がある)」との記載について、金城が「軍による自決命令について自ら疑問を抱いていたと」しているが、これは、軍による自決命令があったとの立場である金城が、自己の立場を前提に、軍命令を否定する見解がある事実を客観的に記載したものにすぎない。 エ さらに、控訴人は、金城が、集団自決後に負傷した部位を治療するために軍の医療班のもとへ通ったと証言したことについて、「真に軍から自決命令が出ており、それが被控訴人らの主張するように『島民を死に追いやる程に意思を拘束していた』というのであれば、金城が負傷した部位を治療するために軍の医療班のところまで何度も通うということはあり得ないし、そもそも治療してもらって生き延びようという発想自体生じるはずがない。また、赤松隊長が自決命令の対象である島民にわざわざ薬のありかを教えるはずもない」とし、上記金城の証言が赤松命令を否定する重要な事実であり、これを金城が語ることが大きな矛盾であるなどと主張する。 しかし、金城が軍の医療班のもとへ通っていたのは、米軍が上陸し、米軍の攻撃から生き延びた軍・民ともに避難生活を送っていた時点でのことであり、集団自決が行われたその時とは、全く事情が異なるのであって、治療のために医療班のもとへ通うことは何らおかしなことではなく、このことは赤松隊長の自決命令の存在を否定するものではない。 (11)同(11)(吉川勇助の証言の評価)について 控訴人は、「そもそも『伝令』なるものの存在が疑わしい」「吉川証言は『手榴弾の交付』という本件の重要な問題点について相矛盾しており、その信用性は疑わしい」として、原判決が、吉川勇助の陳述書(乙67)、吉川の証言を掲載した沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」としたことについて、「明らかに証拠の吟味を欠いた、極めて杜撰な、偏った認定である」と主張する。 しかし、吉川勇助は、軍陣地から出てきた40歳過ぎの中年男性である防衛隊員が「伝令」と叫びながら古波蔵村長の隣まで来ると、村長の耳元で何かを伝え、村長は何度も頷いていたこと、伝令の話を聞き終えた村長が郵便局長と話をし、しばらくたって住民に呼び掛けて「天皇陛下万歳」を三唱し、村長の「発火用意」との号令によって集団自決が始まったことを述べており、その供述は具体的かつ詳細であり、吉川勇助の陳述書(乙67)、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)について「実体験に基づく話として具体性、迫真性を有するものといえ、信用性を有する」とした原判決の認定は正当である。 控訴人は、沖縄タイムス記事(乙70の1ないし3)に米軍上陸前に2発の手榴弾が交付された事実が記載されていることをもって、陳述書(乙67)と相矛盾すると主張するが、米軍上陸前に日本軍が2発の手榴弾を交付した事実(富山証言によって明らかになった事実)と、陳述書に記載した吉川自身が手榴弾を受け取った経過とは何ら矛盾するものではない。 (12)同(12)(金城武徳の証言の評価)について 控訴人は、原判決が金城武徳の証言について存在を指摘するのみで何ら評価を加えておらず、「意図的ともいえる判断の遺脱であり、証拠評価に不均衡があることを如実に物語るものである」と主張する。 しかし、金城武徳の「正論」(甲B38)、DVD(甲B52の1ないし2)における証言は、単に集団自決が軍の命令ではないとするのみで、隊長命令がなかったことを具体的に指摘するものではなく、金城は隊長命令がなかったことを指摘できる立場にない。 したがって、原判決に証拠評価の不均衡は存在しない。 第4 同第4(宮平秀幸証言)について 被控訴人準備書面(2)で反論したとおり、控訴人主張の宮平秀幸の新証言は、母宮平貞子の証言や宮城初枝の証言、宮平春子の証言に照らし、また、従前の宮平秀幸の供述などに照らし、全く信用できない。 第5 同第5(『沖縄ノート』による人格非難について)について 1 同1(原判決の判示)(120頁)について 「沖縄ノート」について両隊長に対する名誉毀損性が認められないことは、当審答弁書記載のとおりである。 2 同2(究極の故人攻撃)(121頁)について 控訴人指摘の「沖縄ノート」の論評部分が違法性を有しないことは、原判決が丁寧に判示しているとおりである。 以上 1/3へ | 前へ | 沖縄集団自決訴訟第2審
https://w.atwiki.jp/mnskokki/pages/13.html
【Web】日章旗を使った民主党旗問題で“裸祭り” 日章旗を裁断して作った民主党旗問題で、巨大ネット掲示板「2ちゃんねる」の「ニュース速報+」板の関連スレッドでは19日未明から、同掲示板のfusianasan(ふしあなさん)機能を利用した“裸祭り”が発生。名前欄にfusianasanと入れて書き込むと、IPアドレスのリモートホストが“丸裸”で表示され、身元保証の役割を果たすが、民主党否定派が裸で書き込む一方、擁護派の多くは同機能を使わず、「党関係者なのでは?」との憶測も生まれた。 2009.8.27 07 59 産経 http //sankei.jp.msn.com/economy/it/090827/its0908270759007-n1.htm ■ニュース速報+板 継続数TOP10(4日ルール適用、2009.8.21現在) ①【ネット】 朝日新聞社員(49)、2ちゃんねるで荒らし行為…「失語症躁鬱ニート部落民は首つって氏ねよ」と差別表現も★263 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1238834873/ ②【毎日新聞・変態報道】ネット上に変態報道の処分と無関係の社員を誹謗中傷する書き込み→名誉棄損で法的措置を取る方針★230 http //mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1214938163/ ③【ネット】 2ちゃんねる、閉鎖か…すでに壷は差し押さえられ★117 http //news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1168767623/ ●④【党首討論】 麻生首相 「民主党の党旗、日の丸を切り刻み作成…」→鳩山氏「神聖マーク、きちんと作らねば」→民主HPから写真削除★93 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250832870/ ⑤【神戸・高3自殺】 “2ちゃんねるで” 逮捕少年らの名前流出に加え、中傷の書き込みも殺到→学校側、人権侵害被害申告へ★83 http //news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1191128778/ ⑥【ネット】googleなどが検閲?「亀田・反則」「初音ミク・画像」などがネット上から“消えた”…、電通やTBSの陰謀との説も★73 http //news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1193012787/ ⑦【毎日・変態報道】毎日新聞、追加処分と対応策発表 社長ら1ヶ月10~20%減俸 転載サイト判明すれば記事削除を要請★71 http //mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1216833573/ ⑧【民主党】鳩山幹事長「日本列島は日本人だけの所有物ではない」「永住外国人への地方参政権くらい当然付与されるべき」★66 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1240354225/ ⑨【秋葉原・大量殺傷】 "ネット予告も認める" 派遣社員の男、歩行者天国にトラック突入&人刺す…7人死亡は、過去最悪級★64 http //mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1213141825/ ⑩【訃報】 筑紫哲也さん、肺ガンのため死去。73歳…「NEWS23」元キャスター★57 ●平和な2chを守るため、選挙期間中は自主的フシアナしましょう● ウォンを看取るスレで自主フシアナ祭り (名前欄に「fusianasan」入力でIP表示) ↓ 工作員が綺麗に消える ↓ N+でもやる奴が出てくる ↓ 民主擁護工作員が突然消える ↓ 運営に頼らず自主的フシアナで工作員追い出せるじゃん! 細々と復活した民主擁護・AA荒しは何故か絶対にフシアナ無し 工作書込みが簡単に区別出来て便利です 好評なら選挙後も続けましょう、効果は抜群だ! ニュース速報+板 http //tsushima.2ch.net/newsplus/ 2NN ニュース速報+ http //www.2nn.jp/newsplus/ 本スレ継続中は頻繁に祭りマークが点灯 スレッド 以下の過去ログを読めば裸祭り突入前後の民主党擁護者の減少やIP表示拒否の状況がわかります。 本スレ 【党首討論】 麻生首相 「民主党の党旗、日の丸を切り刻み作成…」→鳩山氏「神聖マーク、きちんと作らねば」→民主HPから写真削除 ★52 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250618180/ ★51 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250615439/ ★50 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250613901/ ★49 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250612284/ ★48 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250610528/ ★47 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250608779/ ★46 http //tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1250606739/ 過去ログ取得協力募集中! 全93スレッドおよび関連スレの過去ログURL募集! 編集できない方は 取得した過去ログURLをご意見、雑談、情報提供等までお知らせください。 無料過去ログ取得はこちらなどから http //www.geocities.jp/mirrorhenkan/ 2chの祭りをプロパガンダ合戦として報じながら一方の「ネトウヨ」のみを主犯とする論調例 踊る阿呆の「祭り」のあとに 2009年8月31日(月) 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 http //business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090828/203664/?P=1 祭り派生物 祭りで派生した情報ネタ等 ※2chからなので多少、不謹慎なものもあります。 民主党マーク作成方法 (職人不明) imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 東アジア共同体を体現する神聖マーク (職人不明) ※以下広告
https://w.atwiki.jp/edf2pv2/pages/147.html
ミッション概要 大型円盤編隊が飛来。 市街地上空を旋回しています。 まるで、 我々を挑発しているかのようです。 大型円盤を撃墜し、占拠された 市街地を奪還してください。 マップ 開始地点 市街地2 超高層ビル前 協力プレイ制限 限界設定 武器 耐久値 EASY/NORMAL 13 957/478 HARD 37 2259/1129 HARDEST 62 3506/1753 INFERNO 無制限 無制限 登場する乗り物 出現位置 戦車 開始地点のすぐ前 バイク 開始地点の右側 出現する敵 出現数 備考 第一波 キャリアー 3 ┗巨大甲殻虫 15 キャリアー一機につき最大五体まで投下攻撃モード キャリアー 3 ┗凶虫バゥ 15 キャリアー一機につき最大五体まで投下攻撃モード 全国のEDF隊員によるアドバイス 周囲を六機のキャリアーに囲まれた状況で始まるミッション。 スタート時の方向で左側のキャリアー三機が蟻、右側のキャリアー三機が蜘蛛を投下する。 ここのキャリアーは一定コースを常に移動している。 それなりの高さを飛行しているので、ある程度の射程距離がある武器を持っていこう。 開始地点に留まっていても危険なので、(特に高難易度では)先に外周まで移動する方がいい。 陸戦兵 その1 【武器】ライサンダーZ、ボルケーノ-6W 脇目もふらずに乗り物を使って外周へ移動すること。あとはキャリアーを全機撃墜した後、虫を掃討する。 礼賛乙の2発でキャリアーは破壊出来る。ボルケーノ6Wで虫を引き撃ちしつつ、キャリアーを狙う。 最初に戦車で外周まで逃げて後ほどバイクを拾いに行くのがベストだが、戦車でも距離取れるので無理する必要は無い。 その2 【武器】ミサイル、スナイパーライフル 敵はバイクで思いっきり引き離せる酸蟻と蜘蛛だけなのでミサイル超オススメ。 キャリアー狙撃にはスナイパーライフル。 その3 【武器】ボルケーノ-6W ボルケーノ6Wを撃ちながら歩いていてもクリアできる。ボルケの試し撃ちにどうぞ。 その4 【武器】AS-DDなど AS-DDならキャリアーを11発で落とせる上に射程も長い。片手には好きな武器を持っていこう。 まずキャリアー2機を撃墜してバイクで逃げ、残ったキャリアーを撃墜していく。 全部落としたら蟻と蜘蛛を葬る。 ペイルウイング その1 【武器】イクシオン・マークX、サンダーボウ30、M30プラズマ・ランチャー、XSXプラズマ・ランチャー 開幕でキャリアーを落とせるだけ落とす。イクシオン・マークXならうまくやれば4機はいける。 強力な武器がない場合は無理をせず、早めに外周に移動し、蜘蛛を迎撃しながら隙を見て落としていくことになる。 キャリアー破壊にはイクシX以外では参謀30、M30Pランチャー、XSXPランチャーあたりが有力。 その2 【武器】ミラージュ、フェンリル、プラズマ・ランチャー(プラズマ・グレネード)、ヘブンズ・ゲートなど 適当な高いビルの上→キャリアー下部にある足のような棒の付け根→キャリアーの上→マップ中央の高層ビル屋上へ行くことが可能。登ってこれるのは蟻だけ。ビル上でミラージュ、フェンリルを撃てばクリア。 高難易度になると高層ビル上で蟻を倒すのも少々辛くなってくるので、どの敵も手を出せないキャリアー上からPランチャー・Pグレネード・ヘブンズゲート等の爆撃でじっくり敵を減らすという方法もある。 IMP 【武器】RZRプラズマ・ランチャー、サンダーボウXD、フレイドマル、ルオンノタルなど 開幕すぐ、左側の高いタワーの右側を通ってほぼ真っ直ぐの場所にある、凹の形をした高いビルの上に行き、右側から近付いてくる蜘蛛を投下するキャリアーに上る。 そのキャリアーから順番に最後の一つになるまでキャリアーを落としたら、キャリアー上からRZRで爆撃。 十分に敵の数が少なくなったら、最後のキャリアーも落として残敵を掃討する。 キャリアーから降りる時は、レーダーを見て敵が直下にいない、外周にすぐ行ける位置が望ましい。 その3 【武器】サンダーボウ30、レーザーランスΣ 【アーマー】1800~ 始まったらビルの上に登り、そのままビルの上を伝いながら参謀でキャリアーを落としていく。 キャリアーは参謀二発で落とせる。 キャリアーを全て落とした後、外周に移動して引き撃ちで雑魚を処理してクリア。 その4~省エネ武器で安全に 【武器1】サンダースナイパーMX 【武器2】サンダーボウ30 40秒おきにしか撃てないという悲しみを背負った武器サンダースナイパーMXを活用した攻略。 基本的には「外周をサンダーボウ30引き撃ちで回りながら、サンダースナイパーMXのリロードが完了したらキャリアーに撃つ」だけ。 エネルギーを移動とサンダーボウのチャージに集中できるというのが大きな利点で、時間はかかるが非常に安定感がある。 細かいポイントは以下の通り。 外周はキャリアーと逆回転する方向で回るとキャリアー攻撃のチャンスを増やせる。 外周移動はバニーホップを常に行う…必要は無い。巨大生物との距離が十分ある・サンダーボウの弾数が十分ある状況では落ち着いて歩こう。近寄ってくる巨大生物を多めに倒しておけばあとで拾えるアイテムが増えたり、不慮のダメージの際に薬を拾いに行けたりする。 外周からでもキャリアーにサンダースナイパーは届くが、より手早く終わらせたいならマップ中央へ移動し、真下から撃ち込むとダメージが大きく増加する。 とにかく蜘蛛にだけは常に警戒を怠らないこと。INFではいきなりハイジャンプして後ろに回り込んできたりする。 エアレイド その1 【武器】150ミリ砲Q〔攻撃機〕、ZEXR-GUNなど 正面から突破するのは難しい。武器は150ミリ砲Qなど、キャリアー撃破向けとZEXR-GUNなど虫を撃破できる武器。 まずは乗り物を使って外周へ逃げ込む。 そこからキャリアーを撃墜していく。虫に追いつかれないように注意。念のためZEXR-GUNを配置しておくのもあり。 キャリアーをすべて撃墜したら、後は虫を倒すだけ。逃げればリロードできるので乗り物を壊されないように確実に。 スカッとしたい方向け 【武器1】スプライトフォールModeβ3 【武器2】リムペット・チェーンガンZDなど 【武器3】ルール オブ ゴッド 【アーマー】2000~ 武器2は虫をある程度捌けるものならなんでも可。 開幕スプフォでキャリアーを撃墜しながら後ろの外周目指してダッシュ(蜘蛛がいる開幕右だと成功率が低かったので。探せばもっと良いルートがあるかもしれない)。 この時虫が近づいてきたなら虫優先で。 キャリアー全部と、虫を少し倒せばルルゴがたまる。街共々焼き払おう。 協力プレイ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/767.html
気が付いたら文末が欠落していましたので補修しました。ご迷惑をおかけしました。 雑誌「潮」1971年11月号 特別企画・沖縄は日本兵に何をされたか 《私記》私は自決を命令していない "極悪無残な鬼隊長だった。といわれているが、ことの真相を事実に基き明らかにしたい 赤松 嘉次 元海上挺進第三戦隊長・肥料店経営 《私記》私は自決を命令していない怒号のアラシの出迎え 出撃を中止した背景には 曲解された"軍命令" 住民の集結すら知らない 住民を惨殺したというが 投降までのいきさつ 投降時、村に三つの色分け なぜ現地調査をしないのか 【写真】渡嘉敷島へ転進まえの筆者(当時23歳) 怒号のアラシの出迎え 「何しにノコノコ出てきたんだ! 今ごろになって!」 「おまえは三百人以上の沖縄県民を殺したんだぞ! 土下座してあやまれ!」 耳をふさぎたくなるほどのすさまじい怒号が、飛行機のタラップから降り、空港エプロンに向かった私を急襲した。エブロンには数多くの、抗議団と称する人々が集まっていて、口々に「人殺しを沖縄に入れるな!」「赤松帰れ!」のシュプレヒコールを、私にあびせかけてきた。 戦時中の基地であった渡嘉島で、昨年の三月二十八日行なわれるはずだった「第二十五回忌合同慰霊祭」に、島の人々に招かれて、私たち海上挺進第三戦隊の生存者の有志たちが、訪沖の第一歩をしるしたさいの出来事である。 ある程度のことは予想していたのだが、かくも激越な抗議デモに出迎えられ、モミクチャにされるとは夢想だにしなかったし、また、その後約半月にわたり、沖縄の新聞でいろいろと取りざたされたのには、驚きをいだいたというより、まったく戸惑ったというのが実感である。 それまでにも、週刊誌等に数回、私のことが取り上げられていたが、多くは興味本位的な記事であり、いかにも私が「三百有余」の島民に一方的に自決を命じたかのような内容が、沖縄の方々に深く信じられているとは、夢にも思っていなかったのである。 日本でも、戦後しばらく暴露的な読み物や映画が多く出回り、世人のヒンシュクを買ったが、しだいに生活が落ち着くとともに、それらの多くは姿を消していった。だから、渡嘉敷での私たちのことも、時日が真相を明らかにしてくれるものと信じていた。さらに、戦後、沖縄の知人との文通も途絶えがちで現地沖縄の様子もわからぬまま、慰霊祭参列のための訪沖となり、抗議デモに遭遇したのである。 私には大学にいっている娘がある。この娘が事件を知って「お父ちゃんは軍人やった。軍人なら、住民を守るのが義務じゃないか」と私に質問したことがある。そのとおりなのだ。いかにして島を死守し、最後の一兵まで戦うかに夢中だった状態のなかでも、われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた。 いまさら、弁解がましく当時のことを云々するのは本意ではないが、沖縄で"殺人鬼"なみに悪しざまに面罵され、あまつさえ娘にまで誤解されるのは、何としてもつらい。編集部からの切望もあり"誤解"されている間題点のひとつ、ひとつを以下で説明してみようと思う。 現在出回っている、おびただしい数の沖縄戦記物の多くは、一九五三年にまとめられた『慶良間列島・渡嘉敷の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会編)の記録をパラフレーズしている。この記録は、当時の村長だった米田惟好氏(のぷよし、旧姓、古波蔵=こはぐら)を中心に編まれたものである。 出撃を中止した背景には 昭和ニ十年三月二十一日から、米軍は大空爆と艦砲射撃を加え、山は、二日も三日も燃えつづけ、火は夜空をこがした。ところが、海上挺進隊の隊長だった「赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した」(中野好夫.新崎盛暉著『沖縄問題二十年』岩波新書)という。 私たちの海上挺進隊は、ベニヤばりのモーターポートに120キログラム爆雷二個を積み米軍船団を夜襲、体当たりを敢行する特殊部隊だった。慶良間に三隊(座間味、阿嘉の両島に第一、第二戦隊がいた)、沖縄本島に三隊の、計六戦隊が配置されていた。隊員は第三戦隊の場合、当時二十五歳だった私を長に、十六~十八歳の特別幹部候補生百四名で編成(開戦時には病気、事故などで百名を割っていた)百隻の○レ(マルレ)艇を有していた。 出撃準傭から船舶自沈にいたるまでの状況を、戦闘中、基地勤務隊の辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』に追ってみよう。 【写真】戦闘のさなか渡嘉敷島で記した『陣中日誌』 【引用者註】これは戦闘中塹壕の中で書き綴ったものではない。後1970年に、元本部付特幹兵谷本小次郎氏が中心となって書き直したものである。「ある神話の背景」もそう説明している。 「三月二十五日晴、暁と共に敵機の来襲を受く。〇九三〇敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入、我が地上陣地、基地設備に織烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地等に於いて夜のとばりを待つ、一七〇〇頃より敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去……二〇〇〇戦隊長(赤松)出撃を考慮し、独断各(中)隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に『敵情判断如何』と打電。……二一三〇船舶団本部より『敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は、所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし』との返電あり」 (引用者注)上記は、原本である辻政弘中尉が塹壕の中で書き綴った第三戦隊『陣中日誌』ではない。原本は以下のとおり 三月二十五日 晴 於 渡嘉志久 一、敵機常時在空三○―四○機主目標ヲ基地設備並ニ地上陣地ニ対シ爆弾焼夷弾投下銃撃モ加フ 敵機動部隊ハ巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻 慶良間海峡侵入 我ガ地上陣地並ニ基地設備ニ対シ猛烈ナル艦砲ヲ加フ 船舶団長基地隊長以下十五名座間味島ヨリ橇船ニテ阿波連ニ上陸後渡嘉志久本部ニ来隊セラル 二、転進命令 軍並ニ軍船舶隊ヨリ部隊(戦隊ノミ)那覇ニ転進命令ヲ受領ス 勤ム隊主力整備隊一部並ニ水上勤ム隊ノ主力ハ船舶團長ノ意考ニ依リ渡嘉敷島ニ残留敵ヲ邀撃ニ訣ス 二二:二○部隊全員ヲ以テ舟艇泛水ノ作業を実施ス 珍しい条件付きのこの本部命令は、ちよっと類がない。だが、この命令下令は、当時のことを記した軍関係の本(自衛隊保存)にも出ている。私どもが故意に、もしくは無意識的に、無線を誤読したわけではない。「戦隊長は命令を協議の上、本島転進に決し……残り2/3の泛水作業を決行……折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町茂大佐以下十五名敵戦艦の中を突破……上陸」 ところが、慶良間列島をあちこちと視察しておられた船舶団長は、この命令を知らず、上官無視だと非常に立腹された。私は敵中突破して那覇に向かう決心を述べたが、団長はなかなか同意してくれない。種々協議の結果、戦隊の主力(一個中隊欠)をもって、大佐を護送することを決定。この間の事情も『陣中日誌』に明記されている。 「三月二十六日晴、出撃準備命令(註・大佐護送のため)湾外より艦砲受け、水面にて瞬発信管により散弾飛び散り、又焼夷弾山の肌を焼く中泛水作業……敵を迎撃する基地特設隊の感情交錯し、干潮のためリーフ各所に露出、延々五時間を要し、東天既に黎明近く、白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が本島に到達すること不可能なるを考え、船舶団長(大町)再び艇の収容揚陸を命ず。戦隊長(赤松)現在使用しうる人員を以てする揚陸は不可能と判断、団長に出撃命令下令を懇願せしむるも空しく……全員揚陸作業行なうも、敵機の空襲(グラマン機)を受く。茲に於て遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命ず」 以上で、私が生命への未練や気遅れから、身がってな"破壊命令"を出したのではないことだけは、わかってもらえると思う。 (引用者注)この日の記述も陣中日誌原本ではまったく違う 三月二十六日 晴 於 渡嘉志久 旭沢 一、渡嘉志久基地全舟艇ノ泛水並ニ出撃準備着手スルモ泛水作業悪ルク泛水ニ五時間ヲ要シ出発準備完了ハ払暁ニ近ク然モ敵駆逐艦、魚雷艇慶良間海峡ニ遊弋シ那覇転進ハ不可能ノ状態トナレハ部隊ハ他日ヲ期シ涙ヲ呑ンデ三中隊ノ二艇ヲ残シ全舟艇ヲ渡嘉志久湾ニ自沈ス 二、阿波連基地ニアル第一中隊ハ泛水ハ阿波連湾内ニ敵駆逐艦並ニ魚雷艇アリテ泛水不能ナリ 三、 敵機常時二○ー三○爆撃並ニ渡嘉志久湾ニハ敵舟艇数隻ヲ以テ艦砲射撃ヲナス攻撃目標ハ自沈舟艇、地上陣地、棲息設備ニシテ猛烈ヲ極ム 四、戦隊本部旭沢ニ転移ス、船舶団長、基地隊長鈴木少佐外一名那覇帰隊ノタメ舟艇二ヲ以テ出発ス 中島少尉、竹島候補生、操舵手トシテ 整備隊下士官一、兵一ハ助手トナリ出発ス 五、損害 人員 戦死者 水勤隊軍夫 二名 負傷者 三島候補生 一名 曲解された"軍命令" 次にこれまでの戦記によると、その後私は、「上陸したアメリカ軍を地上において撃減する戦法に出る、と宣言、西山A高地に部隊を集結し、さらに住民にもそこに集合するよう命令を発した。住民にとって、いまや赤松部隊は唯一無二の頼みであった、部隊の集結場所への集合を命ぜられた住民はよろこんだ。日本軍が自分たちを守ってくれるものと信じ、西山A高地へ集合したのである。しかし赤松大尉は住民を守ってはくれなかった。『部隊は、これから、米軍を迎えうつ。そして長期戦にはいる。だから住民は、部隊の行動をさまたげないため、また、食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ』とはなはだ無慈悲な命令を与えたのである」(上地一史著『沖縄戦史』時事通信社)という。 二十六日夜、大町大佐を渡嘉志久の基地から送り出したあと、私たちは山の反対斜面に本部の移動計画を立て、寝ていると、十時過ぎ、敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が「上陸はたぶん明日だ」と本部の移動を伝えると「では住民は? 往民はどうなるんですか」という。正直な話、二十六日に特攻する覚悟だった私には、住民の処置は頭になかった。そこで「部隊は西山のほうに移るから、住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆した。これが軍命令を出し、自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。 住民の集結すら知らない しかし、村当局が、部隊の背後に隠れるのが、もっとも上策だと判断したのも、とうぜんだろう。村では、まえまえから集結する計画もあったのではないかと思われるフシもある。もちろん米軍上陸前に出撃してしまう隊長に、上陸後の村民の処置など相談する必要はなかったのであるが……。 二十七日、米軍の上陸開始、二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは、集結した住民の姿も見えなかった。『陣中日誌』を開くと―― 「三月二十八日 小雨 晴 夜雨、昨二十七日上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し……昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地召集隊の一部、支給しありたる手榴弾を以って家族と共に自決す。……小雨の中、敵弾激しく、住民の叫び阿修羅の如く陣地彼方に於いて自決し始めたる模様。(註=自決は翌日判明したるものである) 【引用者註】はてさて、「住民の叫び阿修羅の如く」は翌日聞こえてきたのであろうか? それに、「住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と示唆しておきながら、「住民の結集すらしらない」というのは、「われわれはなるべく住民を戦闘に巻き込まないように心がけた」ことになるのだろうか? 【引用者註】この日の陣中日誌原本では、自決に関する記述は一切無い。詳しくは、赤松隊「陣中日誌」改竄の一端参照。 三月二十九日 曇雨 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された、昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決後、判明)首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとはいえ言葉に表し尽し得ない情景であった」とある。 【引用者註】これは、完全に自己撞着である。赤松元大尉が曽野綾子に語ったこととも矛盾している。この『従軍日誌』が後から書かれ、「様々な戦史」との辻褄合わせに苦心したものであることが窺われる。 【引用者追記】「従軍日誌」の原本をみれば、このような表現は一切無く、1970年段階の創作であることは明らかである。 さまざまな戦記にあるごとく、私が、自決に失敗した住民が軍の壕へ近づくと、壕の入り口で立ちふさがり、軍の壕に入るなとにらみつけたかどうか。 第一、当夜、私は住民と顔を合わせていない。前述のごとく集結していたことすら知らなかったのだ。この「住民を自決から救えなかった手ぬかり」は、私もじゅうぶんに責任を感ずるところである。ほんとうに申しわけないと思っている。 三月二十一日夜、舟艇出撃の諸準備完成を機に、私は渡嘉敷部落に帰り、村長以下村の有志と夕食をともにし、今日までの協力を感謝し、さらにこんごの協力を要請したのである。しかし、両者の意思疎通をはかるため、早くからこのような機会をもつぺきであったと反省している。 自決命令を下したあと「赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。……』と主張したという」(岩波新書・同前書) 糧秣に関しては、米軍が四月上旬に沖縄本島に兵力を集中していらい、五月中旬まで攻撃が中断していたころ、村長と会合をもち糧秣協定を結んだものだ。鶏と豚は村民が、牛は部隊がとる。イモは、わが軍が米軍の鉄条網を切断、前のほうを部隊(すでに米軍基地となっていた場所だから危険なのだ)、後方は住民と分割、協同作業を行なった。部隊全体としてほ、住民に対して糧秣の圧迫を加えたことは一度もない。一部の兵隊か空腹のあまり、部落民に食糧をねだったかもしれないが、この程度の例外はいたしかたないだろう。 私の部隊で、新海中尉をはじめ数十人の栄養失調による死者を出したことでも、食糧のない苦しさにどれだけ耐えていたか、一端がうかがえるというものではなかろうか。 「赤松大尉は、その他にも、住民を惨殺している。戦闘中捕虜になって伊江島から移住させられた住民の中から、青年男女六名のものが、赤松部隊への投降勧告の使者として派遣されたが、彼らは赤松大尉に斬り殺された。 集団自決のとき、傷を負っただけで死を免れた小嶺武則、金城幸二郎の十六歳になる二人の少年は、アメリカ軍の捕虜となって手当を受けていて、西山に避難している渡嘉敷住民に下山を勧告してくるようにいいつけられたが、途中で赤松隊に捕まり射殺された」(『沖縄県史・各諭篇7』嘉陽安男編) 住民を惨殺したというが 第一の場合、米軍の背後で(渡嘉志久)生活していた伊江島住民のなかから、男女三名ずつ歩哨線を抜けて、投降勧告にきた。女三名は取調べの田所中尉に、捕虜であることを告白したので、当時の戦陣訓の話をし、自らを処するように勧めた。帰してくれと懇願されたが、陣地内のモヨウを知っているうえに、戻れぱ家族の者もいることだし、情報がもれない保証はない。 それに陣地内におくには、先に述べたように糧秣が逼迫していて不可能だ……中尉に事情をじゅんじゅんと説かれて、最後には従容として自決したという。 男のほうは年配者だったと思う。女たちに男たちのことを聞くと、彼らは伊江島陥落のとき米軍を誘導してきた。今回も、自分たちだけで投降を勧めに行くと危いというので、女性を連れてきたという。この三名は自決に応じないので、斬刑に処した。現在流でいえば軍法会議を開くところだろうが、そんな余裕もなく、これは万やむをえなかった。 第二の場合はこうだ。二人の少年は歩哨線で捕まった。本人たちには意識されてなくとも、いったん米軍の捕虜となっている以上、どんな謀略的任務をもらっているかわからないから、部落民といっしょにはできないというので処刑することにいちおうなったが、二人のうち小嶺というのが、阿波連で私が宿舎にしていた家の息子なので、私が直接取り調ぺに出向いて行った。いろんな話を聞いたあと「ここで自決するか、阿波連に帰るかどちらかにしろ」といったら、二人は戻りたいと答えた。ところが、二人は、歩哨線のところで、米軍の電話線を切って木にかけ、首つり自殺をしてしまった。赤松隊が処刑したのではない。 投降までのいきさつ 「八月十五日、アメリカ軍は降伏勧告のピラを飛行機から撤いた。古波蔵惟好村長は意を決して集団で投降することにし、住民たちは栄養失調で疲弊し切った体を励ましあって下山してきたが、赤松隊は依然として投降勧告に応じなかった。新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名は再びアメリカ軍の命令で投降勧告に行った。捕えられぬよう用心しながら勧告文を木の枝に結びつけて帰るつもりだったが、与那嶺、大城の二人は不幸にも捕えられて殺された」(『沖縄県史』前同) このくだりも重要な問題を含んでいる。まず村長以下住民が投降したのは、八月十二、三日の両日だったのである。だから、十五日まで村長が投降しないでいたかのように書いているのは、事実に反する。間題の二人が歩哨線に引っかかったのは十六日の朝だった。歩哨兵に誰何され逃亡しようとして射殺されたもようである。(じつは、この二名の射殺の件は、つい最近耳にしたのである) 【写真】陸軍情報隊長・塚本保次大佐による投降勧告 ボツダム宣言受諾の報であるが、十二日ころから米軍無電の傍受により、うすうすその気配は感じ取っていた。ビラやスピーカーによる宣伝も盛んで「赤松隊長は、自己の信義を重んずるのあまり、部下にむりじいしてないか!」とか「あなた方だけが慶良間の一角でがんばっても大勢には、いささかの影響もない。一分、一秒でも早く住民と部隊を解放しなさい!」とか、まくし立てる。 十五日夜七時五十分ごろ「一億一丸となって……」の声が断片的にはいり、九時過ぎの、"時事解説"に「戦後いぱらの道を……」云云のことぱが聞かれた。 十六日払暁、先の四人の投降勧告者が残していった、竹の先に結んだ手紙が届いた。――戦争は終結、隊長か代理を米軍基地まで寄こせという文面である。全将校が集合協議の結果、軍使四名を派遭することに決定。このさいの会見により、大東亜戦争の終結、連合軍への降伏は動かぬ事実となったのである。 ついで十八日、私自身が米軍指揮官と会見、無条件降伏の詳細を知り、即時投降を勧告されたが、私は「我が軍は、所属する上級指揮官の命令がなくば、武装解除に応じられない」と要求。とりあえず、停戦協定のみを締結した。 すでに沖縄本島の三十二軍司令部は、すでに崩壊したあとなので、たまたま当日、大本営派遣軍使としてマニラヘ飛ぶ途中の川辺虎四郎中将の許可をもらい、かくして二十四日の武装解除の調印のはこびとなった。 【写真】米軍との間に交わした武装解除調印式の文書 村の記録や戦記によると、私はわが身の保身に汲々とし唯々諾々として投降したごとく描写されている。私としてぽ軍人らしい規律を重んじ、最後まで徹底抗戦の用意があり、降伏も上級司令官の命の後に行なった。この点に関しては、一点のやましさもないと明言できる。 投降当時の状況を思い出してみると、軍の者も疲労しきって満足に歩けない身体で、黙黙と壕を掘り、射たれっ放しで乏しい騨薬を持って、ただただ敵の近接を待つのは(主陣地では、小銃を三十メートル以上の射程距離で射撃することを禁じた)、異常なる精神力を要したのである。このような状況下でも、犬半の村民が八月十二日に集団投降するまでは軍とともに、苦しいなかをがんばってくれたことは、ただただ感謝のほかはない。 ただ三十余名の方が、私の勧告にもかかわらず、八月二十四日の武装解除まで軍と行動をともにされ、戦後、他の村民との間になにかミゾができたかに聞く。 投降時、村に三つの色分け 結局、村には投降の時点において三つの集団ができたのだ。米軍の後方にいた伊江島の住民、十二日に投降したグループ、八月二十四日まで軍とともにあったグルーブ。 伊江島の住民の処刑のどきは、村長も取り調べの現場にいて「おまえら日本人のくせに何だ」と詰間していた。それが、戦後いっしょに生活しなくてはならなくなったあたりにも問題がありそうだ。 八月二十四日、米軍に武装解除された部隊を涙を流して送ってくれた村の人々、昨年三月慰霊祭に旧部隊のものを暖かく迎え、夜のふけるのを忘れて語り合い、なかには、島に行げなかった私に、わざわざみやげ物を持って那覇まで会いにきてくれた村民に、私はあの島の戦史や巷の戦記物にあるような憎しみや、悪意を見いだしえないのである。 沖縄のある友人からの手紙は、 「私も四月三日に渡嘉敷島に渡り、島の人々が"あのこと"に対し、どのような反響を見せるか、ただ注意深く見守っておりましたが、島の人には誰一人として貴殿に反意を持つものがいなかったことは、那覇でのあの騒ぎと対照した場合、いかにもおかしい気がして……。 ある人が村長に対し、なぜ赤松さんをご案内して来なかったのか、と詰めよる人さえあったのです。それも一人ではありません。数多くの人々がいっていたと村長はいっていました。(以下略)」 また先日、戦後のあるとき渡嘉敷で小学校長をやっていた人が、わざわざ私のところを訪ねてきて、 「赤松さんは集団自決の命令は出してない筈だ。軍が持つほとんどすぺての衛生材料(薬包帯等)を、集団自決に失敗した人たちのために使っているのだから。自分で下命しておき、そんな親切を見せるはずはないものですよ」といってくれたのである。 私の許には同様の趣旨の村民、あるいは村関係者からの手紙が数多くよせられているが、ここでは、そのひとつ当時女子青年団長だった伊礼蓉子さん(那覇市在住)の真心こもる所信を、ご紹介するにとどめておこう。 「赤松さまのことが話題にのぼる度に、ゆがんで書かれた渡嘉敷村の戦記がすべて事実に反することを証明し、その誤解をとく役目を果たさせて戴いております。 最後まで部隊と行動を共にして終戦を迎えましたが、その間、赤松さまの部隊の責任者としての御立派な行動は、私たちの敬服するところでした。(中略)村民に玉砕命令を下したとか、いろいろと風評はございますが、それは間違いで、あの時赤松さまの冷静沈着な判断によって、むしろあれだけの村民が生きのびることができたのだと申しましても決して過言ではございません。ゆがめられた戦記を読んで赤松さまを誤解している一部の反戦青年の来島反対にあい、渡嘉敷島まで行かれなかったことは、私たちをはじめ渡嘉敷の村民は心から残念に思っております」 なぜ現地調査をしないのか 村当局が戦記を村の公文書としてまとめた段階では、当事者にも、私個人をあれほどの"極悪人"に仕立てる心算はなかっただろう。ところが戦記が、マスコミの目にとまるや、事態はあれよあれよというまに急旋回、つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに、赤松という大隊長が、極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。 ことに、左翼系の書物に、その煩向がとくに顕著だった。思想が異なり、時代のすう勢も変わったから、元陸士五十三期生の男が誹謗されるのも、運命かもしれない,いたしかたがないというものである。 だが間題は、その方法である。村の戦記の記述を一から十までウのみにし、さらに尾ヒレ手ピレをつけて、さも現揚にいて、すべてを見知っていたかのように描写する魂胆に憤激をおぼえる。 兵士の銃を評論家のベンにたとえれぱ、事情は明白だ。ペソも凶器たりうる。「三百数十人」もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば、資料の質を問い、さらに多くの証言に傍証させるのが、ジャーナリストとしての最小限の良心ではないのか。 戦記の作者の何人かは、沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに、なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。その怠慢を責められてもしかたあるまい。彼らの書物を孫引きして、得々として"良心的"な平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしてみたい。 日本の良識を代表するといわれるA新聞に「丸々とふとった赤松大尉は女を従えて傲然と壕から出てきた」と書かれたこともある。当時の部下が皆知っているように、私は今よりもっとやせ、年齢も25だったから壕に女を連れこむほどの"才覚"は、みじんも持ち合わせてなかったのである。 以上を私の強弁、居なおり、傲慢ととる方もあろう。だが、ぬれぎぬをかぶられっ放しだった者には、これくらいの強腰がないと、かえって自己弁護も怯懦のいいわけととられかねないのである。 島の方々に対しては、心から哀悼の意をささげるとともに、私が意識したにせよ、しないにせよ、海上艇進隊隊長としての「存在」じたいが、ひとつの強力な力として、住民の方々の心に強く押しかぶさっていたことはいなめない、このことを、旧軍人として心から反省するにやぶさかでないむね申し添えておきたい。 船を失った私が、任務を沖縄本島の支作戦であると解釈し、渡嘉敷島にできるだけ長く米軍を拘束しようとしたことが、あるいは卑怯なように思われ、村民にも持久防御の辛酸をなめさせてしまったことを、深くお詫びしておきたい。 どうか私のいうことも信じてほしい。私も戦争中から戦後の今日にいたるまで、戦争という巨大な"罪過"のただなかで苦しめられ、痛めつけられてきた人間なのである。ここに述べるのは、私の血の叫びであるといえば、読者諸兄は、やはり眉をひそめられるであろうか。 (編集部=文中引用してある書簡は、すぺて筆者が保管してあるものです) 潮1971年11月号特集index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/624.html
中公新書256 名嘉正八郎・谷川健一編 沖縄の証言(上) 庶民が語る戦争体験 中央公論社刊 昭和46年7月25日初版 昭和57年2月1日5版 空襲そして艦砲射撃 北谷村吉原(ちゃたんそんよしはら) 喜友名朝昭(きゆなともあき) 中学一年生十六歳 昭和十九年の四月に私は開南中学に入学して、その年の十月十日の大空襲があるまで、那覇港近くの垣花(かきのはな)に下宿していました。 その空襲の日は、私はどうしたわけか那覇にはいませんでした。八、九日ごろ、家に帰っていました。そしてその日、朝の一番の汽車で那覇に向かうときに、ぢょうどいまのキャンプ.クワ工の桑江(くわえ)駅ですな、そこを過ぎたところで、十・十空襲の爆弾が、読谷(よみたん)飛行場に落ちたんです。その飛行機は太平洋からの艦載機だったんでしょうが、那覇をやる組と、読谷飛行場をやる組と、小禄(おろく)飛行場をやる組は、ぜんぜん別々だったと思うんです。 それまでは、学校も順調ですよ。その日に、那覇商業、一高女、二中などの学校はぜんぶ焼けましてね。うちの学校は焼け残って、あとで陸軍病院になったんです。 話は前後しますが、それでも汽車はごうごう進みますから、われわれは汽車が北谷の駅にとまったとき、あれは空襲だと騒いだんです。すると車掌は、いいやあれは演習だ、あんな空襲はない、というもんだから、そうかと思い、また汽車は進んで、大山(おおやま)の駅に向かって進行しているとき、途中で日本兵にとがめられたんですね。 日本兵は汽車をとめて、君らは空襲というものを知らんのかと、ぜんぶ散れと、大山の駅の手前で汽車もわれわれもとめられてですね、午前中釘付げになりましてね。陸上の唯一の大きな輸送はこの汽車しかないですからね、軍としては、この汽車が爆破されるとこまると思って、機関銃や機関砲を持ってきて、敵の飛行機が来たら撃とうと準備していましたがね。しかしアメリカさんは、それを汽車だとは思わなかったんじゃないですか、あんまり小さくて、近寄っても来ませんでしたよ。 そしてわれわれは、そこで隊を組めといわれて、乗客を各部落ごとに集めて、おじいさんおぱあさんや子供や掃人の方たちを、引率して途中まで送って行ったんです。そしてそこから、それぞれ歩いて、私が家についたのは午後二時ごろでした。県道の樹の下を歩くときは、ゆっくり歩いてもなんでもなかったんですが、樹のまぼらなところをゆっくり歩いたら、なにぽやぼやしているのかと、兵隊がどなるんですよ。 あくる日に、私が学校に行こうとしたら、警察のほうから、学校には行かなくてもいいという通知があって、家にいましたが、それから四日目でしたかな、私は学校まで歩いて行ったんです。そのとき那覇はまだ燃えていました。那覇の桟橋近くの砂糖会社の砂糖は、一週間ぐらい燃えていましたよ。 学校に行ったら、先生方がそのうち招集するからといって、それからは一週間に一、二回ぐらい小禄の飛行場にもっこかつぎに、あるいは垣花の丘のガジャンビラ〔地名〕というところですね、あそこの高射砲陣地の建設に、なんどか行きました。その仕事は、陣地構築して土台を作り、擂鉢(すりばち)みたいなかっこうにして、弾を運ぶ連絡の通路を作ったり、ですね。 そのころの学生の生活はたいへんでした。通学の汽車はもっぽら軍用にされてですね、私は毎朝六里半の道を歩いて、学校に通いました。旧北谷村の字上勢頭(かみせいど)から、識名(しきな)のイニンディ〔地名〕の、馬場(そこが私の学校の仮の場所でしたから)、そこまで、歩いて行ったんです。出発は朝四時ごろから、かばんをさげて、弁当を持って、地下足袋は教練のときははかないとおこられますから、だいじにしてポケットに入れてはかないで、アダンで作ったわらじをはいて、歩いて行きました。わらじは一日に二足か三足は使いましたね、すり切れてしまいますからね。帰り道は、泊(とまり)の天久(あめく)に向かう坂まで来て、そこで待っておって、軍の輸送トラックにぶらさがるんです。そのへんの坂になるとトラックは遅いので走れぼ追いつくぐらいですから、勝手にぶらさがって乗るんですよ。また、おりるときも、坂に来たとき飛びおりるんです。あのころは、団体登校ですからね。私の家がいちぱん遠かったですから、さきに起きてつぎつぎ起こして、五時ごろには五、六人いっしょに出かけました。またあのころは、中学生には米と石油の特配がありました。 それからあとで、同級生の二百名の中から四十八名は、通信教育を受けました。私もその一人でした。手旗信号は小学校のときすでに覚えていましたから、モールス信号ですね。その教育は二十年の一月から受けて、即席できびしかったですね。もうそのころからは、学校はノータッチですよね。われわれは山(やま)部隊に配属されるということで、山部隊の将校に教育されたんです。それはもう尻をたたく棒を持ってのスパルタ教育でしたね。たとえぽ一週間目からは、中尉がベルを持って、ひとりびとり訓練を受げるんですが、何番、はい、と立つと、ピピーピー、ピーピーピピ、たにかと聞かれて、わかりませんというと、すぐ棒がとんでくるんですよ。その訓練のとき軍曹は棒を持って回っているんですからね。。 そしてわれわれは、山部隊に配属されるという予定だったものの、どういうわけか、嘉手納までの学生は家に帰されたわけですよ。三月の十五日に。安里(あさと)の一高女あたりから嘉手納までの出身者ですね、首里(しゅり)に一人いるし、宜野湾(ぎのわん)の嘉数(かかず)に一人、宇地泊(うじどまり)に一人、石平(いしんだ)に一人、嘉手納と砂辺(すなべ)に各一人と、私で七名ですね。本線はそれだけで、枝葉のところに何名かいるわけですが、連絡の方法はきめてありました。AはBに、BはCに、CはDにと、きめて帰されたわけなんです。そのために、私は山原(やんばる)に逃げることができずにですね、自分の部落の壕に残って、捕虜になったわけですよ。 ところが軍の連絡はすぐだめになりました。連絡係のちょうど中間の人が、艦砲の直撃弾を受けて死んでしまって、その人を飛び越えた相手がだれだかは知らないもんだから、連絡ができないわけですよ。それで連絡はとだえてしまったんです。そしてあとまで生き残ったのは、私ともう一人の学生だけでした。 私が捕虜になるまで残った壕は、上勢頭の私の家の所有にたっていた山にあった、兵隊が掘った壕でした。 三月二十三日の上陸前の大空襲の日は、私は自分の家の壕にいました。二十五日に山の壕に家族といっしょに移ったんです。そのときの家族は、両親と長男の私と妹と弟二人でした。二十六日に、住民は山原に避難するようにという通達があって、父も母もその決心をしていました。しかし私は、連絡係という意識がありますから、山原に逃げてはならないと思っていました。うちの母は、私も行くものと思っていたんですね、いざ家族が発とうとするとき、いや自分は行けないんだと、短剣も軍から渡っているし逃げるわけにはいかないんだと、私はいいはったんですよ。すると母は、それじゃ私たちもおまえを出征させてからでないと発てないといいだしたわげですよね。結局、私一人を残して逃げ出すことがしのびなかったわけでしょう、たぶん。おまえを出征させてから山原に逃げようと、いやそうしたらまにあわないと、自分一人残っていてもだいじょうぶだからと、私はいったんですが、父も母もきかなかったんですよ。 そうこうしているうちに、母の親元のおじさんたちが、この壕は横穴で頑丈だからいっしょに入れさせてくれと、頼みにきたもんだから、いっしょになったんです。おじさんたぢは、おじいさんおぽあさんもいっしょでしたから、すぐに山原に行くのはたいへんだと、やはり私が出征してから、馬車を出して行こうと、そういうふうに相談はきまったんです。 だから私は、はりきって、いつ出征の連絡があるかあるかと待っていたんです。私がぶらぶらしているとき、ちょうど約一キロ離れたコザの山内(やまうち)という部落に日本軍がいて、そこの大きな五つ星の鉄血勤皇隊が、私に使役を頼むということだったんです。もう上陸はまちがいないから、山内と上勢頭のあいだにある石橋をこわさなけれぼならないと、それで私も一つ星の鉄血勤皇隊になってその手伝いをしたんです。 二十八日に、私は二中の一年生といっしょに、敵機が嘉手納・読谷あたりを空襲しているのを、山のてっべんにすわって見ていたんですよね。すると二人を見つけたのか、四、五機ぐらいずつの編隊を組んだ敵機が三十機ぐらいつぎつぎに低空して、私たぢの方へ機銃掃射を約十分ぐらいしたんです。そのとき、私のかぶっていた戦闘帽の上の方を弾が貫通したんですよ。そして二人がちちこまっているとき、敵の飛行機が一機落ちたんです。日本軍の高射砲の弾があたったんでしょうな。私たちは敵の飛行機が落ちるのを見たもんだから、二中生は自分の壕に逃げて、私はまた落ちた飛行機の方へ走って行ったんですよね。行ってみたら、飛行機はグラマンで、ぽんぼん燃えていたんですよ。燃えているそぱまで行ってみたら、血の垂れている跡があるもんだから、私はその血を追って行ってみたんです。そしたら他人(ひと)の屋敷のかたすみに、包帯の切れっぱしとヨードチンキのびんが捨てられてあったんです。そのへんを私はなにも武器は持っていないのに夢中でさがしてみたんですが、人影らしいものは見あたらないんですよね。それで私は近くのキビ畑に石を投げてみたり、もういちど屋敷の中をさがしてみたりしたんですが、物音一つしないんですよね。それから私は燃えているグラマンのところへもどってみました。飛行機は機関銃弾か燃料タンクかなにかときどき小さく爆発しよるんですよね。 私は約二十分間そのままその燃えるのを眺めて、やっと燃えるのがおさまったもんだから、後ろ側からならもうだいじょうぶだろうと思って、よじ登ってゆっくりゆっくり降りて、操縦席のところをのぞいてみたら、髪の焦げたようなにおいがするんですよ。人間が焼け死んでいるなあと思ったんですが、毛布が焦げていたんですよね。その毛布をどけてそこいらをさがしてみたら、伐採用の平べったいなたがあったんですよ。青竜刀みたいなそのなたを見つけて、私はああ上等があったと思い、それを腰にぶらさげてね、得意になってぶらぶらしていたんです。そのときに、日本兵に発見されたんですよ。でも、もう少しで、私は銃殺されるところでした。 日本兵は六名でしたが、ちゃんと着剣して構えて、わずか五、六間(けん)さきまで近寄ってきていたんです。私、がひょっくり見たら、日本兵が抜刀して、きらきらさせて、私に向かってねらいを定めているもんだから、私はあわてて帽子を振ったんですよ。 それから私は日本兵にいろいろと質間されました。それで私は松田という少尉に見たとおりのことを報告したんです。少尉は感心したようにうなずいてから、じゃ命令する、グラマソの翼にある機関銃を取れ、というんですよ。上空では敵機が旋回しているし、兵隊たちは隠れるし、道具はないし、飛行機は爆発するかもわからないのに・・…。でも私ははりきっていましたから命令に従って、つるはしを借りてきて、飛行機の翼をこわして、機関銃を四門取り出して、そして兵隊たちも手伝ってみんたで部隊に運んだんです。 それからあとで、集まってきた人たちも手伝って、機関銃の弾を出したんですが、出しても出してもじゃんじゃん出てくるんですね。それは馬車の荷台一ばいありましたよ。部隊ではよくやったとほめられましてね、一階級特進だといっていました。私は鉄血勤皇隊の一つ星でしたから、二つ星になったわけでした。それから部隊長は、君に明日頼みたいことがある、用件は明日発表する、といっていました。 あくる日は、壕からぜんぜん出られないぐらいの空襲でしたね。そして二十九日の晩ですね、兵隊も入れて四十名、まっくらやみですからだれがだれやらわからたいんです。ただ番号だげで呼んで、私たちは地雷を持たされてですね、いまの第一ゲート付近、北谷小学校の近くに埋めに行ったんです。みんな地雷を背負って、頭から木の葉をかぶって行きかけたんです。つるはしやシヤベルを持って、一列に並んで、縄を引いて、一定の間隔をおいてですね。私は道案内もかねていたので、一番でした。ときどき照明弾が上がると、みんな伏せてですね。それから目的地にみんないっしよに穴を掘って、まず一番から、二番三番と、ひとりずつ埋めてから、一番よし、と帰ってくると、二番よし三番よし、とつぎつぎに踏まないように注意されていました。その作業は明け方の四時ごろまでかかりましたね。 それから後は、昼は一歩も壕から出ませんでした。夜は、食糧さがしに出たりしていました。私は青竜刀みたいななたを持っていましたから、使ってみたい気持があって、それでよくキピ畑にキピを切りに出かけました。 三十一日でしたね、昼、米軍のちょうど昼食時間の十二時ごろですよ。アメリカはおもしろいことに、戦争であっても昼食時間はきまっていて戦いませんよ。艦砲もやむし、空襲もないし、もうそのころから私たぢはそのことが勘でわかっていましたから、その一時間ぼかりを私は利用しようと思ったんです。いまのうちに鶏でもつぷしてこようと思って、私は自分の家に走って行ったら、鶏小屋は爆風でやられてめちゃくちゃになっていて、鶏は屋敷のまわりに逃げていました。その鶏をつかまえるのに時間がたってしまって、鶏を三羽つかまえて持って帰るときは、もう砲弾の中ですよ。その途中で、弾が私の前に飛んできたんですよ。あの弾がもし破裂しておれぱ、私はまちがいなく死んでいて、いまこんな話もできないわけですが、運がよかったんですね。ちょうど三メートルぐらい離れたところに、直径四セソチ長さ二十五センチぐらいの砲弾がパッと落ちてきたんですよ。そこはイモ畑の中でしたが、とつ普ん耳がつぶれて聞こえなくなったみたいに、熱い風がふわツと来ただけで、私は思わず伏せて、そして起きてみたら弾が目の前に落ちていたんですよ。 それから私は、びっくりして鶏を放り投げたまま逃げて、百メートルぐらい離れたところまで逃げてから、くぽみのところで、あの弾がいつ爆発するかなあ、と待っていたんです。おかしいなあ、時限なのかなあ、と長いこと待っていても爆発しないもんですから、鶏がおしくなって、這(は)って行って鶏を取って壕に帰ったんです。 壕には、もう日本兵はいませんでした。うちの家族とおじさんの家族だけでした。四月一日はずっと昼中は壕の中にいたんですが、昼休みのとき、私だけは高い木に登って、海の様子を見ているんです。ああいっぽいアメリカの軍艦が来ているなあ、小さい舟が浜辺の方へ往き帰りしているなあ、と思って見ていました。しかしそれが上陸だとは思っていませんでした。三十一日は上陸するところをじゃんじゃん艦砲射撃していましたが、一日は上陸するところより奥地の方を、午前中と午後に分けて、セスナ(債察機ですな)あれで上空から指令して攻撃しているようでした。 それから私は、もういちど、まだ鶏が家に四、五羽残っているのを取ってこようと思ってですね、夜になってから出かけたら、途中でですね、まっくらい中に、何か大きな黒いものがあるんですよ。たしかそこには家はなかったんだがなあ、なんだろう、と私はイモ畑の中に立ちどまって眺めていました。いったんは離れて反対側からしゃがんで眺めて、それでもなにかわからないので、這って近寄ってみたとき、パッと明るくなって、それは戦車だったんですよ。そしたら急に、ライトが動いて、機関銃の音が聞こえたんですよ。私はあおむけに寝てじっとしていたんですが、英語みたいな声が聞こえたもんだから、すぐ崖の下にころげ落ちて、夢中で逃げて、這って他人(ひと)の屋敷をくぐりぬけて、やっと自分の壕に帰ったわけです。私は両親やみんなに、へんだったと、どうもアメリカが上陸Lているらしいと、話したんです。みんなびっくりして、じゃどうするかと、家族会議したわけですよ。明日、朝にでも確かめてみてから、山原に逃げようときめたんです。それでも私は内心一人残るつもりでした。 そして翌朝、七時ごろに、おじさんの子供が便所に行きたいというもんですから、おばさんが壕の前の便所につれて行こうとしたら、すでに壕の近くにアメリカー〔アメリカ兵のこと〕がいたんですね、おぼさんはびっくりして引き返してきていました。 おじさんはハワイにいた人で、英語が話せましたから、こうなったらどうしようもないといって、おじさんが出て行って、アメリカーと話をしてきて、私に説明していました。民間人なら、壕から出てきなさい、出ればどうもしないし食糧も与える、もし出なけれぱ壕を爆破するんだと、そういっているから出たほうがよいということでした。私は武装した服装でしたから、みんなにすすめられて、上着を脱ぎ捨てて、丹前に着替えてですな、そしておじさんのあとにつづいてみんな出て行ったんです。 みんた出てみたら、アメリカーたちは笑っていました。私の頭はくりくり坊主だったもんだから、アメリカーはおもしろがってなでたりたたいたりして、いたずらするんですね。私は驚きな、がらも、このクソタレと思っていましたね。私のアメリカ兵にたいする最初の印象といったら、ほんとに化け物みたいな奴らだと思いましたよ。ポケットもばかでかいし、鉄かぶともぶかっこうだし、だれが上官だかもわからないし、そして黒人にはほんとにびっくりしましたね。それでも私は、チャンスがあったら彼らの機関銃を奪ってやろうと考えていました。 アメリカ兵がいうには、ここは危険だからみんな浜辺につれて行くと、おじが通訳してくれて、みんなトラツクに乗せられました。父と私だげは、別のトラックに乗るようにいわれました。そこから約1キロメートルの上陸地点に向かって進み、着いたところは砂辺の収容所でした。そこは周囲に杭が打たれバラ線で囲まれていました。そぱには医務室代りのテントが二つありました。 私と父はそこに入れられて、どうなることかと、また家族のことを心配していたら、しぼらくして家族づれの人たちがはいって来ました。私と父がはいる前に、すでに二人の捕虜が砂の上にしゃがんでいました。一人はおばあさんで、もう一人は兵隊らしい男で、その人は裸になっていて下は半ズボンをつけて、バンドはしていませんでしたね。それから最初に私の父が呼ぱれて、アメリカ兵からいろいろと尋問を受けたそうですが、父はとぽけて、日本語はぜんぜんわからんふりしたそうです。そこで二世はしゃくにさわったらしく、私を呼んで、父の言葉を通訳しろといっていましたが、私がわざとちんぷんかんぷんに答えると、おまえまでぱかかとどなっていました。父は帰され、こんどは私にいろいろと質問しました。 おまえは兵隊だったんだろうと、いや学生だったと、じゃどこの学生だったかと、私はいちおうほんとうのことを説明しました。そしたら、くわしい沖縄の地図を出して見せて、おまえの学校の生徒には山部隊の通信隊に配属されたものがいるはずだが、知らないかと、聞かれて私はびっくりしましてね。いやぜんぜん知らないと、私はなにも知らないと答えました。その日の尋問は三時問もかかりましたよ。二世は見た感じは日本人で、沖縄語は知らないようでした。尋問のあいだに、すかすようにCレーションという携帯用の罐詰(かんづめ)の食糧を与えられましたね。 いったんは帰されて、家族も喜んでいたんですが、私はまた呼ぼれたんです。行ってみたら、別の将校がまた尋問するんですよ。浦添(うらそえ)の高地ですね、そこの地図をさして、ここには石(いし)部隊の何々部隊がいるはずだが、君は知らないか、となんども質問をあびせました。私はうそをついて、十月十日以後は、学校には行かずにずっと家にいたからなにも知らないと、しらを切ったんです。そしたら、トラックに乗せられて、ズケラン〔瑞慶覧〕に行ってですね、そこから双眼鏡でみせ、ちょうどそのとき嘉数の高地を攻撃しているんですね、あの高地には石部隊が何百名いて、あそこには機関砲と機関銃が何門あるはずだが、実際にはどうなのか、見たことはないかと、また質問をくり返すんですよ。私はいや見たことはない、なにもわからないと答えたもんだから、アメリカーもあきらめたんでしょうね、それだけで帰されました。 戦況を見せられ、質問が終わって帰ったときは、収容所には新しい捕虜が二、三十名にふえていました。それからは、怪我人がGMCで運ぼれてきたりして、私はその世話をする手伝いをしました。しかしたいへんだったのは、食事で、米軍は配給はしないし、みんなほとんど食糧を持って来ていませんでしたからね。だから私は二世に頼んで、ちょうどそのころはキャベツとニンジンの時期ですよね、みんなひもじくしているから、畑から野菜を取りに行きたいがいいかと、それじゃいっしょに行こうやと、いうことになって、四、五名で若い女の人もいっしょになって野菜を坂りに行ったんです。その日は、鍋(なぺ)もないし、みんな生で食べましたよ。そこは砂浜の上ですから、じかに寝るので、明け方は寒くてですね。 三日目になると、捕虜は四、五百名にふえてきました。そこでまた二世に頼んで許可を受けて、みんなで手分けして部落の壕から鍋やら米やらをさがしだしてきて、ご飯をたいて、みんなににぎり飯を配給して暮らしましたね。そこには一週間いましたが、つぎつぎと死人がたくさん出て、二、三百体を、私たちは埋める作業もしたんです。戦車につけたプルドーザーで細長く穴をあけてですね、私たちが死体を運んで並べると、すぐブルドーザーで土をかぶせていましたね。 それから一週間したら移動ということになって、砂辺から島袋(しまぶくろ)までみんな歩かされましたよ。そのときはもう三干名ぐらいになっていました。 島袋に来てからは、なんといっても食糧不足が間題でした。とにかく、食糧をさがしに行かないと餓死するというわけで、私は日本軍の壕に食糧があるのを知っていましたから、そこへ行って米や罐詰などを取ってきたんです。割当てられて収容された家には、足をのばしてすわる余地もないぐらい、六畳に何十名も入れられていましたから、食糧はいくらでも必要だったわげです。私は運よく馬を見つげたもんだから、日本軍の壕から味噌のたるを二十個ぐらい運んだんですよ。その馬は、あとでMPが欲しがって煙草四ボールと強制的に交換させられました。ところがおもしろいことに、その馬はアメリカ兵が近寄ると、あぼれていましたね。それから三日目に、男はみんな広場に集まれという命令が出て、一万人ぐらいの中から四十名ぐらい働きざかりの男たちが選び出されて、私も父もその中に入れられ、特別収容所に入れられました。 特別収容所も同じ島袋の民家でしたが、囲いがされていて、普通より大きな一軒家で、そこの母屋(むーやー)とアサギ〔離れ〕と馬小屋を使っていました。MPがいつも監視して、いちいち朝夕点呼していましたね。しかしそこでは、食糧の不自由はなく、まただれかはどこからか三味線をさがし出してきて、ひいたりして、沖縄歌を歌っている人もいました。私などまだ少年でしたから、夜など二、三名で屋根にのぼって遊んでいましたよ。ただ仕事だけは、まったくいやな仕事でした。朝は六時に起床して、七時半にトラックに乗せられ、いまの第一ゲート近くに行って、そこでアメリカ兵の死体を洗ったりする仕事でしたよ。頭がないのを、これと合うかなあと、合わせてみたり、ちぎれた手を爪をみて左右合わせてみたり、それから洗って、認識番号をつけたり、布で包んだり、広場に穴を掘って埋めたりしていました。そしてそこに、一体ずつ十字架を立て、十字架を整然と並べた墓地を作ったりしました。それから、米軍のテントの周辺のみぞさらいをしたり、また日本軍の兵器・砲弾を集めて、海上トラックにのせて、海に沈めに行ったりしました。 そういう作業をずっとつづけて、六月の末に避難民が島袋から移動させられるとき、四、五日先にキャンプ作りとして、私たちは宜野座村(ぎのざ)の福山(ふくやま)に送られました。最初の十日間は、毎日、山の中に木を切りにやらされましたね。ところがわれわれは、もうアメリカ兵のためには働きたくない気持でしたからね、どうせその材木はアメリカ兵が使うのだと思って、また怠けようと思えばいくらでも怠けられたので、山にはいったら、監視の目をのがれて山の下の方で寝てばかりいましたよ。アメリカ兵は、日本の敗残兵をこわがって二、三名かたまって山の上の方にいましたから、われわれは昼食時間のときだけ木を一本持って行って、また午後も一本だけ持って引きあげましたよ。ところが、あとでその材木はわれわれのためのものだとわかって、もっと働いておけばよかったと思いました。われわれが切り出した材木で、病院とか孤児院とか、配給所や学校や養老院といった施設を建てたんです。あとの個人個人の家は、みんな自力で作ったんです。そのころになると、MPはきびしくなくなって、昼は一回か二回監視に来るだけでした。夜は絶対に外出禁止になっていました。こっちももうなれたもので、夜、だれかが島尻(しまじり)〔沖縄本島南部の総称〕に食糧揚げに行こうかという話になると、よし行こうと私たちはたびたび出かけました。あるとき島尻の壕の中に、米俵やら日本刀を見つけ出して、私は七振りの日本刀を米俵の中に突っこんで、手榴弾八十発ぐらいもいっしょに運んできました。いざとなったら、日本軍のもり返しのために、それらの武器を役だてるつもりでしたよ。 そうこうするうちに、八月十五日がきて、負けたことがはっきりしたわけですが、やんちゃのさかりでしたから、夜になると日本刀をさげて手榴弾を二、三発持って、山の中に遊びに行きましたよ。山の中では、日本の敗残兵ニ人とも会いました。その人たちのために、私は一ヵ月ぐらい毎晩食糧運びをしましたよ。それがいつのまにか、日本兵は山の中の約束の場所に来なくなっていました……。 目次
https://w.atwiki.jp/fireemblemtrpg/pages/141.html
<ファイアーエムブレムTRPG キャラクターシート> 名前:キリ=エルラ 年齢:12,3位 性別:女 外見:腰まで伸びる黒髪、褐色の肌、金色の瞳、薄手の質素な服、物静かな雰囲気、ロリ体型 LV:6 装備ランク:闇本D 杖D クラス:シャーマン 兵種:魔術師 予算:13000 購入上限値:13000 スキルポイント(25/25) 経験点 530 【一般能力値】 S(感覚):40 M(精神):100 N(交渉):40 【能力値】 【HP44/44 リ9/9 レ12/12 FP4/4】 HP:44 力:00 魔力:13 技:10 速さ:10 幸運:11 防御:00 魔防:10 体格:04 移動:04 【成長率】 HP:50 力:00 魔力:90 技:60 速さ:70 幸運:60 防御:00 魔防:50 体格:20 移動:00 【戦闘能力値(未装備)】 命中値(基本値) :51+S修 必殺値:10 攻撃力(物理/魔法):00/13 防御力(物理/魔法):00/10 攻撃速度 :10 回避値 :51 必殺回避値:11 【防具修正】 防御力(物理/魔法):+00/+00 合計重量:00 【戦闘能力値(最終)】 名称 :命中値:必殺: 威力 :重量:攻速:回避:必避:防御:魔防:備考 リザイア(闇) : 131%:10:1D6+21:12:02:19:10:02:14:盾装備不可、与えたダメージ分HP回復 イビルワーム : 121%:10:1D6+21:12:02:19:10:02:14:盾装備不可、命中対象に3ラウンド毒 リライブ : 136%:10:4D6+13:00:10:61:10:02:14: レスト : 136%:10:4D6+13:00:10:61:10:02:14: 【所持スキル】 <戦闘系> 名称:発動率:解説 突撃:任意 :味方ターンの戦闘終了時、相手よりHPが高い場合再度戦闘可能、シナリオ3回まで <常動系> 名称:解説 運び手 移動開始時に同一エンゲージのキャラ一人を同時に移動させる事が出来る 軽業 地形によるバッド効果を無効化する <汎用系> 名称:解説 後援者 予算、購入上限+3000 装備:魔道書闇D 闇魔道書命中+5 装備:杖D 杖命中+5 装備:防具D 防具重量-0 <クラス専用> 名称:解説 【装備品】 予算/維持費合計:11000/13000 <武器> 名称 :ランク:維持費 :重量: 命中 :攻撃力: 射程 :備考 リライブ : D :2000: 0 :80%:4d6 :0-1:耐久9、攻撃力+魔力回復、杖、自身に使用不可、初期装備 レスト : D :2000: 0 :80%: :0-5:耐久12、BS[毒][睡眠][沈黙][混乱]解除、杖 リザイア(闇): D :2000:12:70%:1D6+5 :1-2:魔道書闇、盾装備不可、与えたダメージ分HP回復 イビルワーム : D :2000:12:60%:1d6+5 :1-3:魔道書闇、盾装備不可、命中対象に3ラウンド毒 <防具> 名称 :ランク:維持費 :重量:防御:魔防:備考 魔女の服 : D :2000: 0 : 2: 4:闇魔道書の命中+5攻撃+3 ラウンドシールド: E :1000: 2 : 0: 0:回避+10 <消耗品> 名称 :個数 :維持費 :備考 傷薬 :1 :300 :HP10回復、使用回数3回 松明 :1 :700 :シーン中使用者中心4エリアのダークゾーンを消去 金塊中 :1 : :一度だけ予算上限値+3000 金塊大 :1 : :一度だけ予算上限値+5000 <倉庫> 保存数/保存上限:2/5 名称 :備考 スライム : D :2000: 5 :60%:2D6+3 :1-2:魔道書闇 剣士の服 : :1000: 0 : 0: 0:回避+5 【特殊アイテム】 名称 :解説 ●●●●:●●●●●●●● 【設定】外見は最上部参照 大陸北部にある人里離れた山奥の少数部落における代表の巫女…… の娘にして次期巫女候補の一人(夜の巫女)。 闇の精霊、及び夜そのものの神秘性、光と同じく闇の不変性を尊び信仰する者たちである、基本的に物静か、というか無口な者が多い。 大陸南部には対となる光を信仰する一族がおり、年に一度交流の祭りを行っていたり、村の間で婚姻を結ぶことが多いとか。 ギルドに所属するようになったのは昨今大陸に邪な影が近づきつつあるというお告げがあったのと、巫女候補としての修行の旅の兼用である。 性格は非常に物静か、というか外の人間に会ったことが余り無いので興味半分恐れ半分といったところ。 表情こそ殆ど変わらないが、好奇心自体は年齢相応に旺盛なようで、無表情なまま興味のあるものにこっそり付きまとったりも……。 アンク、という白毛の大型犬をペットとして連れ歩いている、大食らいだが大の大人でも引っ張れる力自慢のパワフルなわんこである。(運び手的意味で) 【貼り付け用成長度】 gd50 HP gd90 魔力 gd60 技 gd70 速さ gd60 幸運 gd50 魔防 gd20 体格 【履歴】 2013/07/14 じゅねGM、フィリ、ジョウ、ディーン 金塊(大) 2013/08/04 じゅねGM、フィリ、ぱりぃ、プリシラ、スコッティ 金塊(中)(リザイア(闇)取得に使用) 2013/08/21 じゅねGM、ミーロン 魔女の服 2013/10/21 じゅねGM、ミーロン、フィリ、ジョウ、ルシア、アイン
https://w.atwiki.jp/staff-officer/pages/231.html
「排外主義を許さない5・30関西集会」 http //megalodon.jp/2013-0819-1624-05/antichauvinismactionnetwork.blogspot.com/ 賛同人・団体一覧(2010年5月末現在) 集会直前、終了後にも賛同していただける方が増えました。 賛同人(424人) 相川直美(風をおこす女の会) 青木 道夫 追跡リンク 青崎 百合雄(カトリック町田教会信徒)/赤塚 彩(あすじゃ京都)/浅田 明(Freelance Mathematician) 麻田 茂樹(憲法を活かす市民の会・やまぐち事務局長) 追跡リンク 麻田 法江(やまぐち障害者解放センター代表)/浅海 春江 味岡 佳代子 味岡 理一 追跡リンク 麻生 勝之/麻生 満枝/安達 秀近/足立 正樹/アッテンボロー/阿部 太郎 安部 哲多(教員) 追跡リンク 有元 幹明(日朝市民連帯・大阪共同代表) 追跡リンク 粟井 敏広 安藤眞一(牧師) 李匡舜(学生) 追跡リンク 生田 武志(野宿者ネットワーク代表)/井口 成子/池本 行雄/石川 哲朗 石川 豊子(関西合同労組) 追跡リンク 石田 勝啓(関西合同労組委員長) 石田 加代(関西合同労組) 石田 法子(弁護士)/石塚 健(元教職員ひょうごネット)/和泉 健一(教育労働者)/泉 正治(神戸市外国語大学名誉教授、姫路獨協大学名誉教授)/磯貝 治良/磯田 琴美(高槻医療・福祉労働組合執行委員)/磯田 俊郎(戦争に反対する淡路の会)/イダ ヒロユキ(大学非常勤講師)/市村 善之(「日の丸・君が代」の強制に反対する阪神連絡会)/伊藤 公雄/伊藤 昌林(東大阪みはり番代表)/伊藤 隆明(ワーキングプア労働者)/伊藤 俊郎/伊藤 よしあき/稲葉 奈々子(茨城大学教員)/井上 淳/井上 力(元神戸市会議員)/林炳澤(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会共同代表)/岩崎 晶子/岩野 政樹(「日の丸・君が代」の強制に反対する阪神連絡会)/岩村 義雄/植木 ひろみ(宝塚学校給食を考える会)/上西 創造(福岡スピーチクリニック院長)/内山 悠(排外主義とたたかうネットワーク関西)/内海 和男(弁護士)/海原 広見(近畿軍事問題研究会)/江口 慶明/江戸 信夫(戦争に反対する淡路の会)/江原 則子(自営業)/江原 護(朝鮮学校を支える会・京滋)/江渡 績(JP労組はりま東支部加古川分会・兵庫県労働委員会申立人)/遠藤 良子(市民)/遠藤 礼子(活動家)/及川 稜乙(あづみの道草あかとんぼの会代表)/仰木 明(百万人署名運動・関西連絡会)/大串 潤二(鉄建公団訴訟原告)/大口 昭彦 (弁護士)/大島 淡紅子(宝塚市議会議員)/大嶋 薫(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会共同代表)/大谷 隆夫(日本基督教団 牧師)/大田 美智子/大月 英雄(大学院生)/大坪 正雄(兵庫県職労)/大津留 求/大野 進(全日本港湾労働組合関西地方大阪支部執行委員長)/大野 剛義/大野 利男(安倍川製紙労働組合)/大野 ひろ子/大野 町子(弁護士)/大庭 伸介(静岡ふれあいユニオン)/大村 和子/大村 淳/大山 千恵子(行政書士)/大和田 幸治(全国金属機械労働組合港合同事務局長)/岡田 有生(アルバイト)/岡 真理(京都大学教員)/岡村 達郎/おがわ ともこ(PACE)/翁長 晴永(沖縄料理店店主)/荻野 敏紀(高槻医療・福祉労働組合)/奥田 和浩/奥村 岳志/奥山 淑美(高槻医療福祉労組)/小多 基実夫(反戦自衛官)/小田 幸児/小田原 琳(非常勤講師)/小野 政美(朝鮮高校無償化ネット愛知事務局;エルクラノの会事務局)/折口 恵子(現代を問う会)/垣沼 陽輔(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部執行委員長)/掛屋 昭/笠村 正人/笠村 容子/梶川 みさお(宝塚市議会議員)/榊原 隆子(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会事務局長)/柏原 貴司(アプロハムケネットワーク)/梶原 義行(とめよう戦争への道!百万人署名運動兵庫)/綛谷 智雄(福岡医療福祉大学教員)/風(ブログ「風の歌が聞こえる街」管理人)/加藤 健太(和光大学学生・一アスペルガー症候群患者)/加藤 寛/加藤 亮子/門永 秀次(9プラス25改憲阻止市民の会)/要 宏輝(連合損害賠償請求裁判・原告)/金田 熊二(一致バラばらの会)/蒲牟田 桂子/蒲牟田 宏(関西合同労働組合兵庫支部執行委員長)/神谷 扶左子/神谷 牧子/川勝 清一/川口 耕三郎/川崎 二男 (静岡ふれあいユニオン組合員)/川嶋 澄夫/河原 よしみ/川村 望/姜昌秀(労働者)/神原 洋子/菊池 憲之/岸本 淳子/北上 哲仁(川西市議)/北島 教行(靖国解体企画)/北田 万寿夫/喜多村 憲一(川崎市職職場懇談会)/北村 修治(静岡ふれあいユニオン)/北本 修二(弁護士)/木戸 衛一(大阪大学教員)/木下 清子(風をおこす女の会)/木下 清一郎/木下 達雄(日本軍「慰安婦」被害女性と共に歩む大阪・神戸・阪神連絡会)/木下 俊子/木下 広子/宜保 幸男(沖縄平和市民連絡会 嘉手納空軍基地・普天間海兵隊飛行場一坪反戦地主)/金亨和/金 栄煕/木村 修(マブイ・シネコープ)/京極 紀子/清河 愛実/黒石 昌朗(とめよう戦争への道!百万人署名運動・関西連絡会事務局)/黒川 伊織(東京都立大学学生)/黒目/桑野 浩一(無職渡世)/功能 大輔/高 秀美(三一書房労働組合書記長)/高英弘(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部朝日分会書記長)/高英男(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部副委員長)/郡山 修二(国労近畿)/古賀 清敬(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会共同代表)/越尾 邦仁(弁護士)/小生 富士枝(岸和田女性会議)/小塚 太(ピースネット/市民平和基金)/小番 伊佐夫(三一書房労働組合委員長)/小西 純一郎(武庫川ユニオン書記長)/小西 弘泰(高槻市議会議員)/小西 誠/コノウラ ミツタカ/小林 生佳(関西合同労組大阪支部)/小林 ちよみ(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会共同代表)/小林 嘉直(宝塚の平和と人権を考える会事務局)/小柳 伸顕(牧師)/雑賀 恵子(大学非常勤講師)/斉藤 幸弘(戦争に反対する淡路の会)/坂井 貴司(アジア共同行動(AWC)-九州・山口実行委会員)/酒肆 和子/崎浜 盛喜(奈良-沖縄連帯委員会・代表)/桜井 希(同志社中学校・高等学校教員)/桜井 規順(元参議院議員)/佐々木 伸良(関西合同労組執行委員)/笹間 俊明(元尼崎夜間中教員)/佐治 孝典(近代日本思想史研究者)/佐藤 袿子/佐藤 三郎(元教職員ひょうごネット)/さとう しゅういち(民主党員)/さとう 大(朝鮮学校を支える会・京滋)/塩谷 恵吾(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地区トラック支部執行委員長)/志賀 直輝/志賀 英紀(アジア共同行動日本連絡会議全国事務長)/柴田 富士子(神戸YWCA会員)/渋谷 要(「変革のアソシエ」会員)/嶋谷 数博(元教職員ひょうごネット)/嶋田 頼一/島原 登志郎(PeaceMedia)/下村 安男(変革のアソシエ会員)/白石 裕/白崎 朝子(ライター・安全な労働と所得保障を求める女性介護労働者の会)/白松 哲夫(アジア共同行動日本連絡会議共同代表)/新行内 六三(雇用と生活要求者組合)/申順子/申 嘉美(ノレの会)/陣内 二郎(反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会)/末本 雛子(日朝友好促進京都婦人会議)/陶山 喜代子/杉村 和美/杉村 尚子(風をおこす女の会)/鈴木 耕生(怒れる休学生)/鈴木 耕太郎(大学院生)/鈴木 太一/砂布均(歌うたい)/関根 隆晃/草加 耕助(サイト『旗旗』管理人) /徐 隆徳/宋安鍾(大学教員)/高崎 庄二(国労組合員)/高島 与一/高塚 ばんこ(社民党伊丹市議)/高槻 民枝(アジア共同行動首都圏幹事)/高橋 伸二(大阪全労協事務局長)/高原 さつき/高峰 幸子/田川 晴信(反戦・反貧困・反差別共同行動in京都世話人)/瀧川 順朗(アジア共同行動・京都代表/にっこりネット共同代表)/武市 常雄(アムネスティ京都グループ)/武居 玲子/武 建一(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部執行委員長)/竹下 大(南大阪平和人権連帯会議事務局)/武田 和也/竹田 雅博(元教職員ひょうごネット)/竹林 隆(大阪教育合同労働組合書記長)/竹村 泰子(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会共同代表)/武 洋一(全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部副委員長)/田坂 富士男(憲法を守る芦屋市民の会)/田尻 義晴/立花 涼(予備校講師)/田中 恵子/田中 啓司(自立労働組合連合委員長)/田中 寿雄(作業所役員)/田中 直子/田中 信幸(熊本朝鮮会館問題を考える会)/田中ひろみ(日本軍「慰安婦」被害女性と共に歩む大阪・神戸阪神連絡会)/田中 翠(ピース)/田中 洋子/谷川 健志(日本労働者エスペラント協会)/谷口 博文(雑草の会・東京 事務局長)/田平 正子(世界エスペラント協会)/玉木 裕/田村 文子/千葉 忠志/張 貞華(団体職員)/塚本 泰史/津川 勤(自治労埼玉公共サービス民間労組協議会 事務局長)/辻田 之子(西日本入管センターを考える会)/辻 正男/辻 真弓/辻本 靖紀(関西合同労働組合)/常野 雄次郎/椿 正一(エスペランチスト)/津村 洋(フリーター全般労組賛助会員)/津村 実/手束 光子(新社会党)/寺田 道男(京都「天皇制を問う」講座実行委員会)/寺中 千尋(被爆二世の会)/寺中 正樹(被爆二世の会代表)/渡海 優 (関西合同労働組合副執行委員長)/戸梶 博夫/土岐 幸一(ブログ『どこからどこへ』管理人)/戸田 ひさよし(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部顧問)/百々 年美(風をおこす女の会)/泊 寛二(全日本港湾労働組合関西地方建設支部執行委員長)/富田 穀(アプロハムケネットワーク大阪)/豊田 幸治(アジア共同行動ー九州・山口実行委員会)/仲岡 駿/中川 裕之/中沢 浩二/仲宗根 朝寿(辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動)/中西 正克(教員)/中道 武美(弁護士)/中村 彰/中村 猛(日韓民主労働者連帯代表)/中村 裕美(非正規雇用労働者)/中村 雅也(京都府立視力障害者福祉センター入所者)/仲村 実(管理職ユニオン関西副委員長)/中村 吉政(南大阪朝鮮初級学校アプロハムケ事務局長)/中森 昭(週刊金曜日読者の会・大阪)/永井 満(牧師)/長沢 民衣/永嶋 靖久(弁護士)/流 広志(ブロガー「21世紀の風」)/鍋島 浩一(新社会党兵庫県本部書記長)/難波 広(アジア共同行動首都圏事務局次長)/西 明良/西浦 隆男(政治犯に対する不当な弾圧に反対する会)/西川 たけお(吹田市議会議員)/西山 直洋(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部書記次長)/西 良倫(立命館大学院生)/野坂 昭生(闘う国労闘争団を支援する京都の会会長)/野田 暢子/野々村 秀世/萩 ルイ子(詩人・作家)/橋野 高明(同志社大学人文科学研究所研究員)/橋本 武朋(自治労埼玉公共サービス民間労組協議会議長)/橋本 利昭/橋本 成子(高槻医療福祉労組)/長谷川 直彦(弁護士)/長谷川 正夫(被災地雇用と生活要求者組合代表)/長谷川 真理子/長谷川 嘉美(カトリック大阪教区 ピース9”シエル”)/秦 浩二/馬場 徳夫(NPO労働と人権サポートセンター・大阪事務局長)/濱本 正彦(日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会事務局次長)/林田 力(『東急不動産だまし売り裁判』著者)/林 寛明/早瀬 博(生への意志とナショナリズム研究家)/原 和美(社民党)/原口 剛(神戸大学)/原田 賢一/韓基大(辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動)/東 茜/樋口 直人(徳島大学)/飛田 雄一(神戸学生青年センター館長)/平石 昇(ユニオンおおさか委員長)/平井 由貴子/平岡 文子/平川 主計/平川 洋子/平田 共次(連帯労組・やまぐち執行委員)/平田 直子(高槻医療福祉労組)/平田 義夫/廣瀬 慎(大学院生)/福本 憲応(浄土真宗本願寺派住職)/福本 吉雄(元教員・作業所役員)/藤谷 祐太(モルグモルマルモ)/藤巻 謙一(沼津エスペラント会)/藤村 妙子(アジア共同行動首都圏幹事)/藤目 ゆき(大阪大学教員)/藤本 孝一郎/藤原 好雄(憲法を生かす会・奈良)/船橋 美和子/古川 雅基(在韓軍人軍属裁判を支援する会事務局長)/古橋 雅夫(関西共同行動)/古屋 寛生(あすじゃ京都)/星川 洋史(関西共同行動)/堀之内 洋一(NPO法人かごしまホームレス生活者支えあう会」理事長)/本多 真紀子/前島 登(富士地区労議長、元全日建運輸連帯労働組合中央副執行委員長)/前島 ゆり子(安倍川製紙労働組合)/前田 朗/前田 裕子/前田 陸三/前堂 亜祐美/蒔田 直子/桝田 幸子(アゲンスト)/増田 都志美/増田 博光/増田 都子(東京都学校ユニオン・委員長)/増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事)/松尾 哲郎/松尾 美恵子/松下 礼良(とめよう戦争への道!百万人署名運動・千葉県連絡会)/松田 勲(関西労組交流センター協議会事務局長)/松田 耕典(とめよう戦争への道!百万人署名運動阪神連絡会)/松田 妙子(漫画家)/松野尾 かおる/松原 康彦(新空港反対東灘区住民の会事務局長)/松本 勲/松本 麻里(ジェンダー/フェミニズム研究)/三木 駿助(一致バラばらの会)/三木 譲/水木 久美子/南 徹夫(虹の会)/南 守(ユニオンぼちぼち)/宮川 謙二(教員)/三宅 亜希子(あすじゃ京都)/宮崎 光子(手話教室「もみじ」)/宮崎 庸人(関西合同労働組合執行委員)/宮沢 直人(北海道自由エスペラント協会)/三輪 史敏(仕事開発就労者組合事務長)/三輪 充(医師)/宗像 啓介/村上 ひとみ(淀川市民の会)/村田 豪/村田 英雄(関合労兵庫支部)/室田 正則(元教職員ひょうごネット)/文優子(韓国籍在日朝鮮人三世)/望月 信也/望月 隆一郎(静岡ふれあいユニオン)/森 章代(高槻医療福祉労組執行委員長)/森岡 佑生(学生)/森岡 ルリ/森下 茂(静岡県共闘)/守田 基師子(地域を支え合う会)/森田 恒一(三里塚芝山連合空港反対同盟員、牧師)/森本 正三/役重 善洋/八鍬 瑞子(占領に反対する芸術家たち)/安井 大輔(京都大学大学院文学研究科)/弥永 修(尼崎伊丹三里塚実行委事務局長)/柳田 勝英(フリーライター)/柳 充(全日本建設運輸連帯労働組合近畿セメント支部執行委員長)/矢部 史郎(著述業)/八幡 博己/山上 義人(NPO法人まちづくりねっと・うじ)/山口 直(自営業)/山崎 猛(尼崎夜間中教員)/山崎 洋/山崎 貢(憲法を生かす北区民の会)/山下 慶喜(茨木市議会議員)/山根 実紀(フェイスプロジェクト)/山本 繁樹/山本 純(アジア共同行動・京都事務局長/にっこりネット事務局長)/山本 俊彦(部落解放同盟全国連合会)/山本 善偉/結城 とおる(学生)/横山 雄一(契約社員)/吉井(市民)/吉岡 一彦(高槻医療・福祉労働組合書記長)/吉岡 史朗(革共同再建協議会)/吉岡 多佳子/吉岡 治子(元教職員ひょうごネット)/吉川 健明(医師)/吉澤 恵次(障害年金の国籍条項を撤廃させる会副代表)/吉武 仁貞(ピアサポート ちょっと聞いて)/吉水 公一(子どもと教科書兵庫県ネット21事務局次長他)/四津谷 薫(西宮市議)/米村 泰輔(関西合同労働組合執行委員)/わしお 由紀太/渡辺 学/GO@あるみさん(たたかうあるみさんのブログ管理人) 賛同団体(149団体) アジア共同行動-九州・山口実行委員会/アジア共同行動・京都/アジア共同行動首都圏/アジア共同行動日本連絡会議/アジェンダ・プロジェクト/あすじゃ/あすじゃ大阪/あすじゃ京都/あづみの道草あかとんぼの会/尼崎伊丹三里塚実行委員会/アルバイト・派遣・パート関西労働組合/安全な労働と所得保障を求める女性介護労働者の会/「慰安婦」問題を考える会・神戸/イラク判決を活かす会/エスペラント9条の会/エルクラノの会/大阪城公園よろず相談所/大阪の海と空を戦争に使わせない会/風をおこす女の会/風をおこす女の会松山/釜ヶ崎医療連絡会議/釜ヶ崎キリスト教協友会/釜ヶ崎日雇労働組合/釜ヶ崎連帯委員会/川崎市職職場懇談会/関西沖縄民権講座/関西共同行動/関西合同労働組合/関西合同労働組合尼崎養護学校分会/関西合同労働組合大阪支部/関西合同労働組合関西トランスポート分会/関西合同労働組合摂津分会/関西合同労働組合成友印刷分会/関西合同労働組合日本管検工業分会/関西合同労働組合兵庫支部/関西「障害者」解放委員会/関西単一労働組合/関西非正規等労働組合ユニオンぼちぼち/関西非正規等労働組合ユニオンぼちぼち大阪分会/関西労組交流センター協議会/関大校友連絡会/関東「障害者」解放委員会/北大阪合同労働組合/旧日本軍性奴隷問題の解決を求める全国同時企画・京都/共生舎/京都生協の働く仲間の会/「キリスト者・九条の会」北九州/近畿圧送組合連合会/近畿軍事問題研究会/近畿バラセメント輸送協同組合/近畿生コン関連協同組合連合会/近畿生コンクリート圧送協同組合/近畿生コン輸送協同組合/憲法を生かす北区の会/神戸国際キリスト教会/神戸国際支援機構/高齢者特別就労組合準備会/「心の教育」は、いらない!市民会議/笹島日雇労働組合/差別・排外主義に反対する連絡会/三一書房労働組合/3月行動をよびかける女たち/三多摩合同労働組合/山谷労働者福祉会館・活動委員会/三里塚決戦勝利関西実行委員会/在日アジア労働者と共に闘う会/在日朝鮮人・人権セミナー/雑草の会・東京/静岡ふれあいユニオン/渋谷・野宿者の生存と生活をかちとる自由連合/女性会議兵庫県本部/自立障害者グループペンギンの会/自立労働組合連合/新空港反対東灘区住民の会/新社会党兵庫県本部/ストップ派兵!改憲NO!南部共同行動/「精神障害者」差別によって分限免職にされた芦屋郵便局・高見さんを支える会/生存のためのメーデー広島実行委員会/泉州地区反戦/戦争に反対しアジアの人々と共に行動する会(PAL)/全国一般労働組合全国協議会山口連帯労働組合/全国金属機械労働組合港合同/全国金属機械労働組合港合同アート・アド分会/全国金属機械労働組合港合同イヅツヤ分会/全国金属機械労働組合港合同大熊鉄工支部/全国金属機械労働組合港合同コーヨー急送分会/全国金属機械労働組合港合同サンコー分会/全国金属機械労働組合港合同田中機械支部/全国金属機械労働組合港合同南労会支部/全国金属機械労働組合港合同昌一金属支部/全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部/全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部朝日分会/全日本建設運輸連帯労働組合近畿地区トラック支部/全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部/曽根九条の会/対話で平和を!日朝関係を考える神戸ネットワーク/高槻医療・福祉労働組合/東京都学校ユニオン/徳島県教職員組合/徳島市教職員組合/とめよう戦争への道!百万人署名運動大阪東部連絡会/とめよう戦争への道!百万人署名運動関西連絡会/とめよう戦争への道!百万人署名運動阪神連絡会/とめよう戦争への道!百万人署名運動兵庫県連絡会/西成公園よろず相談所/日韓民主労働者連帯/にっこりネット/日中友好雄鷹会大阪府本部/日朝友好愛知学生の会/日朝友好関西学生の会/日本軍「慰安婦」問題早期解決を求める実行委員会in京田辺/日本人民委員会/日本の戦後責任を清算するため行動する北海道の会/野宿者ネットワーク/野宿者の人権を守る会/排外主義にNO!福岡/反戦・反失業を闘う釜ヶ崎労働者の会/反戦・反貧困・反差別共同行動(きょうと)/反「入管法」運動関西交流会/パレスチナの平和を考える会/被災地雇用と生活要求者組合/「日の丸・君が代」の強制に反対する阪神連絡会/「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会/被爆二世の会/日雇全協・山谷争議団/反失業闘争実行委員会/兵庫県職員労働組合/平川訴訟を支援する会/不二越訴訟関西連絡会/部落解放川西市民共闘会議/部落解放同盟全国連合会/ヘイトスピーチに反対する会/へいわとふくしを見つめる会/辺野古に基地を絶対つくらせない大阪行動/米兵・自衛官人権ホットライン/保安処分病棟に反対する有志連絡会/北海道エスペラント連盟/マブイ・シネコープ/南大阪朝鮮初級学校アプロハムケ/南大阪平和人権連帯会議/山形大学公害問題研究会/山形大学新聞会/山形大学朝鮮史研究会/労働組合武庫川ユニオン/労働者共闘/AWC山口実行委員会/KCM/NPO法人関西仕事づくりセンター/PeaceMedia/VOL Collective ほか賛同者(公表不可)25人 総計598/