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所在地栃木県足利市伊勢町 開業日1888/5/22 接続路線両毛線 隣接駅山前(両毛線:新前橋方面) 富田(両毛線:小山方面) 訪問日2004/8/16 戻る
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足利義昭 列伝 コレクション 装備 無双武将詳細 足利義昭 属性 烈空 基本体力 1000 基本攻撃力 100 攻撃速度 50 成長タイプ ノーマル 列伝 室町幕府15代将軍。 織田信長の後援で将軍職に就くがのちに対立、周辺諸国と協力して信長包囲網を敷く。 自らも挙兵するが信長軍に敗れ、京を追われた コレクション なし。 装備 ノーマル パワー スピード レア 備前近景 備前近景・陰 備前近景・陽 霊剣布津御霊(ノーマル) 無双武将詳細 条件 獲得報酬 足利義昭の階級が5以上 専用装備が生産可能 足利義昭の階級が30以上 グレード2の専用装備が生産可能 足利義昭の階級が60以上 グレード3の専用装備が生産可能 足利義昭の階級が90以上 グレード4の専用装備が生産可能 足利義昭の階級が120以上 グレード5の専用装備が生産可能
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 祖父 .足利重國 ....レベル40 ...血統ランク:婿養子 祖母 .足利幻海 ....レベル60 ...血統ランク:A以上 父 .足利白哉 ....レベル30~40 血統ランク:婿養子 母 .足利巴 ..レベル30 ...血統ランク:A+ 母の妹その1 聖白連(聖家に嫁いだ) ......レベル40 ...血統ランク:B 母の妹その2 鑢七実(鑢家に嫁いだ) ......レベル20(迫真) 血統ランク:A 長女 .足利杏子 ....レベル10~20 血統ランク:D 次女 .薙切えりな(薙切家に嫁いだ) レベル40~50 血統ランク:A 三女 .足利鞠也 ....レベル60 ...血統ランク:A+ 四女 .足利茶々丸 ......レベル10 ...血統ランク:B┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
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総評 室町幕府の威光も応仁の乱によって地に堕ちた。復権目論む足利将軍家は地方の領主を頼りつつも地方分権から中央集権への回帰を目指す。 専用音楽有り、専用エンディング有り、固有戦術複数有りと特別な存在として扱われている。将軍家の権威は未だ健在。 難易度は総じてやや高め。周辺国に比べ初期兵数で大きく劣る。加えてシナリオ1・2では行動力の回復量に恵まれず、シナリオ3では武将の戦闘能力に恵まれない。一度軌道に乗りさえれば、固有戦術の有用さのため全大名家屈指の易しさとなる。室町幕府再興の浪漫も併せて、通好みの大名家といえるだろうか。 領国はシナリオ1~3・5で山城1ヶ国。シナリオ4には登場せず。 人材は幕府直臣を中心に構成。当然といえば当然。政治・教養面に光るものがある。人数は畿内の大名家としては少なめ。政治面は足利義昭・細川藤孝の両名が秀逸。他の面子も政治・教養いずれかに優れる者が多く、まずまずといえる。戦闘面は足利義輝が将軍自ら一人奮戦する形。義輝横死後のシナリオ3はやや厳しいか。浪人は早田道鬼斎、松井康之といった武将の登用が期待出来る。周辺国からも比較的よく移ってくる。百地三太夫などは相性も良く、登用出来れば心強い。 固定戦術は特殊系が1つ、攻撃系が2つ。うち固有戦術が2つ。総合力では抜けた存在。「威光」は足利家の第1の矢。相手兵数の1割強を退却させるため、常に優位な状況を作り出せる。「弓構」は足利家の第2の矢。敵本陣付近で使用するのが常道か。「矢雨」は足利家の第3の矢。敵本陣を一方的に攻撃するために使用すると効果的。 山城の文化効果は「茶会コマンドの成功率上昇」、技法は「弓術」。 都の置かれている土地らしく、初期文化値は高い。反面、最大石高はかなり低め。大軍を駐留させるには向かない。 隣接国は5ヶ国。隣接大名家はシナリオ1の状態で浅井家、六角家、波多野家、三好家。シナリオ2の隣接大名家は浅井家、六角家、波多野家、三好家、本願寺家。隣接大名家に本願寺家が加わる。シナリオ3の隣接大名家は浅井家、織田家、波多野家、本願寺家。三好家に代わり織田家と隣接する。 外交状態はシナリオ1では遠隔地だが上杉家(長尾上杉家)と同盟を結んでいる。隣接する三好家とは一触即発の状態。シナリオ2でも上杉家との同盟は維持。三好家との険悪さも維持。シナリオ3では上杉家との同盟は破棄される。代わりに三好家との関係が良化、新たに同盟を結んでいる。 足利将軍家は他大名家との友好が高い。シナリオ1・2では大抵60以上あり、有力勢力や幕府要職の就く大名家には70以上ある場合も。友好が高いと共闘・勧告の成功率も上がる模様。シナリオ3では信長包囲網参加大名家との友好が軒並み90以上と非常に高い。しかし同盟を結んでいるわけではない。 ちなみに家紋は「足利二引両」。 固定戦術 威光(固有) 弓構 矢雨(固有) 注目武将 足利 義輝‐政治66 戦闘82 教養86 魅力100 足軽A 騎馬D 鉄砲D 天性:猛将 天下五剣を使いこなす「剣豪将軍」の響きは魅力充分。ゆえに魅力は唯一無二の最大値100。 戦闘82、足軽適正A。自身の剣で幕府復権の道を切り開ける。「矢雨」でも切り開ける。 足利 義昭‐政治82 戦闘23 教養79 魅力98 足軽D 騎馬D 鉄砲D 天性:知将 信長包囲網の仕掛人。プロデュース能力とコミュニケーション能力は超一流のペンパル将軍。 政治82と大名としては兄よりも優秀。将軍たるもの、合戦では矢面に立つ必要はない。 細川 藤孝‐政治90 戦闘72 教養92 魅力84 足軽B 騎馬C 鉄砲C 天性:知将 当代一の文化人。戦国の世でも芸は身を助ける。父の三淵晴員は残念ながら今回未登場となった。 政治90、戦闘72と文武両道の誉れ。教養92も併せ三道か。その多芸ぶりには将軍様もお世話になる。 和田 惟政‐政治62 戦闘61 教養70 魅力69 足軽C 騎馬D 鉄砲D 天性:知将 甲賀出身だが忍者扱いではない模様。キリシタンだがフロイス来訪率にも変化は無い模様。 特別に秀でた能力値は無いが、シナリオ3では序盤の主力。細川藤孝のサポートを。 南光坊 天海‐政治94 戦闘 2 教養96 魅力72 足軽D 騎馬D 鉄砲D 天性:知将 政略、謀略、己の正体、大僧正は全てベールに包みこむ。黒衣の宰相1号。 山城の浪人。政治94、教養96に脅威の寿命と最早妖怪の類か。戦闘2は全武将中最下位。 敵大名としての特徴 全シナリオ通して主導権争いには参加せず。基本的に山城に籠もる。丹波・伊賀辺りは共闘を利用して攻め取ることもあるが、三好家・織田家といった各シナリオでの宿敵とも直接矛を交えることは稀である。 直接合戦を行う場合は、「矢雨」対策さえ万全ならば怖い相手ではない。「鎮静」や夜間行軍などで対応すればよい。「威光」は防ぎようがないため甘受するしかない。 足利家(あるいは山城)にはなんらかの補正がかかっているのか、他大名家に合戦を仕掛けられること自体が稀。室町幕府は長期に渡って存続する。 シナリオ別攻略 ・シナリオ1 武将は6人。 剣豪将軍足利義輝の無双に縋るも流石に一人では限界がある。加えて山城1ヶ国では兵糧収支が追い付かず、大軍を維持するのが難しい。 この問題は丹波を攻略すれば解決する。足利義輝自らが将軍家の「威光」を見せつければ波多野家をひれ伏せさせるのは難しくない。 勇壮たる丹波国人衆を家臣に迎えたら、来たるべき三好家との決戦に備えるべく暫時国力と兵数の増強に努めよう。 三好家との友好は低く兵数差もあるため、いつ攻め込まれてもおかしくない状況。機先を制して摂津→大和と侵攻して畿内を制圧したい。 その後は紀伊を皮切りに近畿・四国の諸大名を順次攻略していけば良いだろう。勧告も上手に利用していきたい。 なお、浪人として南光坊天海が滞在。しかし相性は悪いので登用は難しい。 ・シナリオ2 武将は6人。 本願寺家が摂津を新たに支配し、友好の低い三好家とは山城-大和間で接するのみ。家臣の顔ぶれはシナリオ1と変わらないが、状況は好転している。 基本的な戦略もシナリオ1と変わらない。ただし摂津は後回しにして近畿制覇の総仕上げとするべきか。本願寺家主力が播磨辺りに遠征した時が好機。 山城の浪人は明智光秀・明智秀満・南光坊天海の3名。明智姓の両名とは相性も良く、是非とも幕府直臣としたい。足利義輝か義昭、細川藤孝ならば確実に登用できるはず。 ・シナリオ3 武将は5人。 足利義輝が横死し、将軍の座はその弟である足利義昭に引き継がれている。 信長包囲網のシナリオ名に相応しく織田・徳川家vs.足利連合の様相を呈しているが、反信長連合は同盟関係にあるわけではない。 剣豪将軍退場の痛手は大きく、戦力の低下は顕著。細川藤孝を合戦の主力に据えざるを得ない。一方で伊賀には柴田勝家、羽柴秀吉ら織田家主力武将が顔を揃えている。 各個撃破によって突破された愚を繰り返さないためにも、包囲網参加陣営を幕府の旗の下に結集させるべき。つまり、包囲網の武力による統合である。 まずは丹波を攻略。丹波の鬼と共に取って返して近江を陥落させる。ここまでは迅速に行いたい。開始から一年程度が目安となる。 更に越前→加賀と侵攻、本願寺家の拠点を摂津に絞る。本願寺家坊官の畿内集結という目的を果たしたら加賀からは撤退、場合によっては越前も手放して構わない。 近江・山城で織田家の侵攻を防ぎながら、丹波から摂津を目指して進軍。「威光」「矢雨」を駆使すれば攻略も防衛も十分可能。三好家の共闘も可能ならば利用しよう。 最後に紀伊を抑えれば、近畿の反信長勢力一本化が成る。勢力の大きさも武将の質も織田家に対抗出来るようになっているはず。如何に時間を掛けずに行動できるかが鍵。 なお、浪人は松井康之と六角義賢が滞在中。一線級の武将ではないものの、家臣に迎えておきたい。もちろん天海僧上も滞在中。 ・シナリオ5 武将は5人。 古今の英雄が集うこのシナリオも足利家には向かい風のようだ。 家臣団はシナリオ1と変わらぬどころか、要の細川藤孝が足利家を去り、友人明智光秀の元に参じている。何故だ! 浪人には以心崇伝・南光坊天海・松井康之がいるが・・・。 頼みの外交関係もこのシナリオでは完全リセット。将軍家は、まさに正念場である。 SP武将を使うと、安倍晴明が初期状態なら山城に登場する。将軍家との相性は良いので必ず取り立てよう。 室町幕府初代将軍の足利尊氏は山城ではなく、生まれ故郷の上野に登場するので注意。 ・シナリオ6 武将は7人。 住み慣れた京の都を捨て、発祥の地に戻った将軍家。領国が上野・武蔵の2ヶ国となった。 家臣団にはおなじみの面々に明智光秀とその家臣が加わり、ある意味粒揃い。 他家との友好度も高いままなので、台風の目となれるかもしれない。 魔王を倒して幕府再興は成し遂げられるだろうか? 周囲の大名家では島津家と長宗我部家が注意すべき存在かもしれない。 なんと南光坊天海が浪人として上野に随行。仕官する気があるのか、ただの冷やかしなのか…。 変則攻略法 ~幕府に弓引こうとは… 雑兵めが、控えよッ!~ 足利家の固有戦法「威光」を利用した攻略法。「威光」は敵軍の兵数を大きく下げることができるが、合戦が長引くと合戦中に、そうでなくても戦後に脱走した兵が復帰するので使いどころが難しい戦術。しかし「威光」を使用した後に退却すると、「相手国の兵数は減らないが敵国の兵の訓練度が下がる」という副作用があることが判明(逃亡した兵は、戻ってくる際に訓練度が0になるため)。 つまり、兵1で攻め込んで「威光」発動、即時撤退を繰り返せば、相手国の訓練が最大の100でもやがて60台まで落とすことが出来る。そうなった時点で相手を野戦に引きずり出せば、あとは奇襲のし放題。本陣以外の部隊を奇襲で屠り、その後本陣を取り囲んで「矢雨」を降らせれば、ほとんど無傷での勝利も可能となる。 同様の戦い方は本願寺家でも可能だが、足利家の場合は固定戦術のみで実行可能なことが大きい。すこし時間と手間がかかるが、効果は絶大。ぜひお試しあれ。
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足利家 足利足軽 構成 名前 職業 レベル 開始時付与 特徴 足利足軽 侍 24 八坂神主 神主 24 京舎人 陰陽 24 ドロップアイテム
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足利家 足利義輝 レベル 70 7体 職業 侍 配置 本陣総大将 戦闘開始時セリフ #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (kao_yoshiteru.JPG) ○○○○? 征夷大将軍・足利義輝じゃ。 我が鬼丸の切れ味を知れ! ○○○○よ。 そこまでして室町幕府を 倒したいか。何を目指す? おかしいか? 征夷大将軍たるこの義輝が、 自ら剣を抜く時代なのだよ。 構成 名前 職業 レベル 初期付与 特殊技能 足利義輝 刀侍 70 ▲ ▲ 獅子奮迅、剛鬼突、n連撃・改 等持院住持 棍棒僧 65 結界 後光 三刀流精鋭 懐剣二刀忍者 65 奪命三〜五連 細川持隆 陰陽師 65 結界 呪縛・参 大館晴光 剣神主 65 反射 詠唱の韻・極、子守歌 三淵藤英 鉄砲鍛冶屋 65 三段撃ち 鞍馬大山伏 槍薬師 65 再生 ドロップアイテム 鬼丸 特徴 獅子奮迅は雷槌付きの4連撃。 剛鬼突は鬼突モーションの攻撃。準備なし。 開幕はウエイト1で1の行動が来る。 1の連撃・固有技にはランダムで雷槌・氷槌などが付くことがある? 列伝 父は室町幕府第十二代将軍であった足利義晴。母は近衛尚通の娘として生まれる。幼名は菊童丸。妻は近衛稙家の娘。弟に後に十五代将軍となった足利義昭がいる。 父・義晴は当時、管領として幕政を牛耳っていた細川晴元と対立し、京都を追われていた。そのような最中の1546年に、義輝はわずか十一歳にして、父から将軍職を譲られることになる。このときの将軍就任式は、近江坂本で行なわれた。 将軍就任からまもなく、義晴は細川晴元と和睦して京都に戻った。しかし、今度は晴元の家臣である三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱に味方し、畿内に一大政権を築き上げたのである。このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡した。そして1550年、義輝の父・義晴は近江にて死去している。 1552年、義輝は三好長慶と和睦して京都に戻った。しかし翌年から細川晴元と協力して長慶と戦いを始める。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、1558年に三好長慶の猛反攻を受けて京都から追われている。しかし、長慶も将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、義輝に和睦を申し出ている。これにより義輝は京都に戻ることはできたが、長慶は幕府の御相判衆として幕政の実権を牛耳ることとなったので、義輝は傀儡将軍にすぎなかったのである。 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっている。武田信玄と上杉謙信、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。さらに自分の名である『輝』の字を毛利輝元などの諸大名に与えたりもしている。このような経緯から、義輝は将軍として諸大名から認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して義輝と会見しているほどである。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させたのである。 1564年、幕政を牛耳っていた長慶が病死した。このため義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在である。このため、久秀と三人衆は義輝を排除して、義輝の従兄弟(父の兄弟)に当たる足利義栄をロボットとして擁立しようと企んだ。 1565年、久秀と三好三人衆、そして三好義継(長慶の養嗣子)はついにクーデターを起こした。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪将軍であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数、斬り殺したという。しかし衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された。このとき、義輝の生母である慶寿院も殉死している。 法名:光源院融山道圓 辞世の句「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」 義輝は剣豪将軍と呼ばれた。義輝は塚原卜伝からの指導を受け、歴代征夷大将軍の中でも最も武術の優れた人物として評価されている。松永久秀らの二条御所襲撃の際も刀を数本畳にさして自ら戦ったと伝えられる。 そのためか、室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気が溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。そして義輝の政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいてはその能力を評価できるかもしれない。しかし、暗殺されたことにより、将軍としての権威は地に堕ちることとなった。義輝の辞世の句にも、野心と無念が強くにじみ出ていることがうかがえる。 情報募集中 名前 コメント
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関東地方 栃木県 足利市 花と緑の支援制度 助成一覧 補助・助成概要 生垣造成事業に対する助成金交付制度 「うるおいのある、住み良い街づくり」を目指して、一般家庭で自ら生垣造成又は、壁面緑化しようとする場合に助成金を交付します。 (1)公道に面した部分等、公益的効用が期待される生垣の造成、または、石べい等の壁面緑化とします。 (2)樹種は、造園樹木のほかバラやツタなどの洋風式の垣根も含まれます。 (3)既に植えられている生垣の樹木が衰弱して改植する場合も対象となります。 助成を希望する方は、所定の用紙「生垣造成事業に対する助成金交付申請書」を、財団法人足利市みどりと文化・スポーツ財団理事長まで提出してください。 算出方法 延長が4m以上20mまでの生垣又は、壁面緑化を行ったときの樹木購入助成金1m当り1,500円以内(最高限度額30,000円)を助成します。 上限額 30,000円 補助対象 一般家庭 ○(財)足利市みどりと文化・スポーツ財団 渡良瀬グリーンプラザ ℡ 40-1787 足利市役所 都市建設部公園緑地課 TEL 0284-20-2181
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足利家 足利義昭 レベル 65 7体 職業 神主 配置 本陣軍師 戦闘開始時セリフ ○○○○? 光栄に思え! お主の名、 覚えておいてやろう! はっはっは! ○○○○よ! 愚かで哀れで惨めな姿よ! 構成 名前 職業 レベル 初期付与 特殊技能 足利義昭 懐剣神主 65 反射 ▲ 明神閃、狂風、狂風・弐、蘇生・壱、詠唱の韻・極 飯川信堅 斧侍 60 蘇生・壱、沈黙の霧・壱、n連撃・改 米田求政 鉄砲鍛冶屋 60 蘇生・壱、三段撃ち 杉原長盛 陰陽師 60 結界 鞍馬山伏 薬師 60 再生 蘇生・壱 水破の巨魁 刀忍者 60 五連撃 等持院僧兵 僧 60 結界 後光 ドロップアイテム 足利義昭御内書 特徴 情報募集中 名前 コメント
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足利家 足利義輝 レベル 70 7体 職業 侍 配置 本陣総大将 戦闘開始時セリフ #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (kao_yoshiteru.JPG) ○○○○? 征夷大将軍・足利義輝じゃ。 我が鬼丸の切れ味を知れ! ○○○○よ。 そこまでして室町幕府を 倒したいか。何を目指す? おかしいか? 征夷大将軍たるこの義輝が、 自ら剣を抜く時代なのだよ。 構成 名前 職業 レベル 初期付与 特殊技能 足利義輝 刀侍 70 ▲ ▲ 獅子奮迅、剛鬼突、n連撃・改 等持院住持 棍棒僧 65 結界 後光 三刀流精鋭 懐剣二刀忍者 65 奪命三〜五連 細川持隆 陰陽師 65 結界 呪縛・参 大館晴光 剣神主 65 反射 詠唱の韻・極、子守歌 三淵藤英 鉄砲鍛冶屋 65 三段撃ち 鞍馬大山伏 槍薬師 65 再生 ドロップアイテム 鬼丸 特徴 獅子奮迅は雷槌付きの4連撃。 剛鬼突は鬼突モーションの攻撃。準備なし。 開幕はウエイト1で1の行動が来る。 1の連撃・固有技にはランダムで雷槌・氷槌などが付くことがある? 列伝 父は室町幕府第十二代将軍であった足利義晴。母は近衛尚通の娘として生まれる。幼名は菊童丸。妻は近衛稙家の娘。弟に後に十五代将軍となった足利義昭がいる。 父・義晴は当時、管領として幕政を牛耳っていた細川晴元と対立し、京都を追われていた。そのような最中の1546年に、義輝はわずか十一歳にして、父から将軍職を譲られることになる。このときの将軍就任式は、近江坂本で行なわれた。 将軍就任からまもなく、義晴は細川晴元と和睦して京都に戻った。しかし、今度は晴元の家臣である三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱に味方し、畿内に一大政権を築き上げたのである。このため、足利義晴・義輝父子は細川晴元とともに京都を再び追われて近江に逃亡した。そして1550年、義輝の父・義晴は近江にて死去している。 1552年、義輝は三好長慶と和睦して京都に戻った。しかし翌年から細川晴元と協力して長慶と戦いを始める。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、1558年に三好長慶の猛反攻を受けて京都から追われている。しかし、長慶も将軍殺しの汚名を着ることを嫌い、戦いに勝利した後、義輝に和睦を申し出ている。これにより義輝は京都に戻ることはできたが、長慶は幕府の御相判衆として幕政の実権を牛耳ることとなったので、義輝は傀儡将軍にすぎなかったのである。 義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指して、精力的な政治活動を行なっている。武田信玄と上杉謙信、島津貴久と大友宗麟、毛利元就と尼子晴久などの抗争の調停を頻繁に行なって、諸大名に将軍の存在を知らしめたのである。さらに自分の名である『輝』の字を毛利輝元などの諸大名に与えたりもしている。このような経緯から、義輝は将軍として諸大名から認められるようになり、織田信長や上杉謙信などは上洛して義輝と会見しているほどである。義輝の政治活動は、わずかとはいえ将軍権威を復活させたのである。 1564年、幕政を牛耳っていた長慶が病死した。このため義輝は、いよいよ幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。しかし、長慶の死後に幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在である。このため、久秀と三人衆は義輝を排除して、義輝の従兄弟(父の兄弟)に当たる足利義栄をロボットとして擁立しようと企んだ。 1565年、久秀と三好三人衆、そして三好義継(長慶の養嗣子)はついにクーデターを起こした。義輝の居城である二条御所に軍勢を率いて襲撃したのである。義輝は上泉信綱に教えを受け、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた剣豪将軍であったため、秘蔵の太刀をもって敵兵を多数、斬り殺したという。しかし衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された。このとき、義輝の生母である慶寿院も殉死している。 法名:光源院融山道圓 辞世の句「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」 義輝は剣豪将軍と呼ばれた。義輝は塚原卜伝からの指導を受け、歴代征夷大将軍の中でも最も武術の優れた人物として評価されている。松永久秀らの二条御所襲撃の際も刀を数本畳にさして自ら戦ったと伝えられる。 そのためか、室町幕府の歴代将軍の中でも特に覇気が溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。そして義輝の政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいてはその能力を評価できるかもしれない。しかし、暗殺されたことにより、将軍としての権威は地に堕ちることとなった。義輝の辞世の句にも、野心と無念が強くにじみ出ていることがうかがえる。 情報募集中 名前 コメント
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足利氏 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 足利氏(あしかがし)は、清和源氏(河内源氏)の流れを汲む武家。平安時代に河内源氏の棟梁、源義家(八幡太郎義家)の三男義国が下野国足利荘(現栃木県足利市)を領有し、子の義康から足利氏を称する。義康の子、義兼が源頼朝の挙兵に参加、源平合戦、奥州藤原氏討伐まで頼朝の側近として戦い、鎌倉幕府の有力御家人として源氏将軍家に次ぐ地位を得る。義兼が頼朝の妻、北条政子の妹を妻に迎えたのをはじめとして、鎌倉時代には北条氏と縁戚関係を結ぶが、平家の流れを汲む北条氏は源氏の名家である足利氏を常に警戒していたという。のちに足利高氏(尊氏)が京都に幕府を開き、15代義昭まで続く室町幕府を成立させる。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。3代義満は南北朝の合一を達成し、中国の明から「日本国王」として冊封を受け、天皇に迫る権威を確立して足利氏の全盛期を迎えた。6代義教が守護大名に暗殺されたのち将軍の権威は失墜。8代義政は応仁の乱により政治力を失う。10代義材(義稙)が政変によって職を追われて以降、将軍職は実権を奪われ名目的存在となる。のちに15代義昭が織田信長に追放されて室町幕府は終焉を迎える。 また細川氏、斯波氏、畠山氏の三管領家や、渋川氏、一色氏、吉良氏、今川氏などは庶流。 人物史 足利高氏・尊氏(あしかがたかうじ) 嘉元3年~正平13年/延文3年(1305~1358) 足利氏初代義康から七代のちの基氏と上杉清子の間に生まれる。妻は鎌倉幕府最後の執権、赤橋守時の妹にあたる北条登子。弟直義と共に元弘3年(1333)に後醍醐天皇の挙兵に応じて六波羅探題を攻め滅ぼし、鎌倉幕府を倒す。高氏の「高」の字は鎌倉幕府14代執権、北条高時の諱を賜ったものだったが、倒幕の功績の恩賞として後醍醐天皇の名、尊治(たかはる)から「尊」の諱を賜り尊氏と改名する。のちに後醍醐天皇の建武の新政から離反し、天皇の政治に失望した武家の支持を集めて光明天皇を擁立、京都に室町幕府を興して征夷大将軍に任じられた。吉野で崩御した後醍醐天皇の慰霊の為、夢窓疎石に命じて天龍寺の造営を行っているが、天皇に逆らう逆賊と長い間評された。墓所は等持院?。 一般的に知られている尊氏をモデルに描かれたとされていた騎馬武者像は、馬具の紋などの理由から尊氏ではなく執事の高師直、或いはその息子の高師詮を描いたという説が有力。また神護寺蔵の伝平重盛像は、等持院?の木像との比較や、冠を留める笄が室町初期に流行した形状であることなどから、伝平重盛像は尊氏、伝源頼朝像は弟の直義、伝藤原光能?像は子の義詮を描いたものではないかとの説が有力である。 足利義詮(あしかがよしあきら) 元徳2年~正平22年/貞治6年(1330~1367) 尊氏の第三子で嫡男。父とともに後醍醐天皇方(南朝)と戦い、関東統治にも従事する。尊氏の死後、室町幕府2代将軍に任命されるが、南北朝の紛争に加えて幕府内の権力抗争が絶えず、南朝方が一時京都を奪還するなど政権は流動的であった。南朝との講和を推し進め、訴訟手続の整備なども行うが、病により38歳で死去。遺言に「敬慕する楠木正行(正成の子)の墓の傍らで眠りたい」とあり、観林寺(現在の宝篋院?)にあった正行の墓(五輪石塔)の隣に墓(宝篋印塔)が建てられた。 足利義満(あしかがよしみつ) 正平13年/延文3年~応永15年(1358~1408) 11歳で3代将軍となる。南朝最大の勢力圏であった九州に軍を派遣して勢力を弱体化させ、天授4年/永和4年(1378)には幕府を三条坊門より北小路室町に移した。移転後の幕府は後に花の御所と呼ばれ、その所在地により室町幕府と呼ばれるようになる。朝廷と幕府に二分化されていた京都の行政権や課税権なども幕府に一元化するとともに、奉行人と呼ばれる実務官僚を整備する。また有力守護大名を利用して互いに牽制させ、土岐康行の乱、明徳の乱、応永の乱で土岐氏、山名氏、大内氏ら守護大名を征伐し、将軍に権力を集中させた。元中9年/明徳3年(1392)に菩提寺として創建した相国寺が完成し、京都や鎌倉の五山制度?を整えて宗教統制を強化し、幕府権威に宗教的側面を付加させる。同年、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事などの和平案を南朝の後亀山天皇に提示し、三種の神器を接収させて南北朝合一を実現、60年にわたる分裂を終結させた。応永元年(1394)に将軍職を嫡男の義持に譲って隠居したが、政治上の実権は握り続ける。同年に従一位太政大臣にまで昇進して武家と公家の頂点に達した。応永4年(1397)には京都北山に金閣を中心とする北山第(もしくは北山殿)を造営。ここを中心に花開いた、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した文化は、のちに北山文化と呼ばれる。また能の創始者、観阿弥?と息子の世阿弥?は新熊野神社で義満に見出され、観世一座は幕府のお抱えになったという。その後出家して道義と号した義満は「日本国准三后源道義」の名義で、応永8年(1401)に使節を明に派遣。明の建文帝により日本国王に冊封されて国交が正式に樹立し、明に朝貢する形式をとった勘合貿易(日明貿易)が応永11年(1404)から始められた。応永15年(1408)に急病により死去、享年51。 足利義持(あしかがよしもち) 至徳3年/元中3年~応永35年(1386~1428) 父義満の死後、4代将軍となった。義満は異母弟の義嗣を寵愛したため義持とは折り合いが悪かったとされ、義満の諸政策を否定し、北山第も金閣を除いて破却した。また朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を義満に贈られるも辞退(相国寺は受け入れたらしく、過去帳には「鹿苑院太上天皇」と記されている)。応永23年(1416)に関東地方で上杉禅秀の乱が起こり、これに関与したとして義嗣を仁和寺、次いで相国寺に幽閉、2年後に殺害した。応永30年(1423)に子の義量に将軍職を譲り、翌年に等持院?で出家するも、5代義量は応永32年(1425)に早世。3年後には義持も後を追うように後継者を定めないまま死去、享年43。神護寺に義持の画像(寺伝義満像)が残る。 足利義教(あしかがよしのり) 応永元年~嘉吉元年(1394~1441) 義満の三男で、足利幕府6代将軍。家督相続者以外の子として、慣例により青蓮院で仏門に入り義円と名乗った。その後天台座主となり、天台宗?開闢以来の逸材と呼ばれ将来を嘱望されていたが、応永35年(1428)に兄義持が後継者を決めないまま没したため、管領畠山満家の発案によって石清水八幡宮?において兄弟の義承・義昭・永隆らの中から"くじ引き"で選ばれて将軍に就任した。還俗した義教は幕府権威の復興と将軍親政の復活を目標に、中断していた勘合貿易を再開させて財政政策を見直すなど権力の強化につとめた。比叡山勢力に対しては僧を顧問として雇うことにより懐柔、掌握しようと試みた。ところが永享5年(1433)に僧兵が暴動を起こしたことに激怒し、自ら兵を率いて比叡山を攻撃、高僧を斬首する。永享7年(1435)には義教を非難する僧侶が焼身自殺し、最澄以来600年の歴史を誇る延暦寺根本中堂は灰塵に帰した。守護大名に対しては家督相続に積極的に干渉、意に反する大名を粛清した。この恐怖政治は大名の恐怖心を煽り、義教は嘉吉元年(1441)に行われた戦勝祝宴で赤松満祐・教康父子によって暗殺された。この結果、将軍の権威は著しく失墜し、将軍が守護大名の統制を行えない「下克上」の時代へと突入していく。墓所は十念寺?、菩提寺は相国寺普広院。 足利義政(あしかがよしまさ) 永享8年~延徳2年(1436~1490) 父義教の暗殺後、兄の義勝が9歳で7代将軍に就任するも8ヶ月後に夭折したため、8代将軍となる。幼い頃は「三魔」と称された乳母の今参局、烏丸資任、有馬持家らが政治に介入し、幕府も財政難と一揆に悩まされていた。実権のない傀儡将軍として政治に対する熱意を失い、幕政は妻の日野富子と、管領細川勝元や山名持豊(宗全)ら有力守護大名に委ねた。寛正5年(1464)には29歳で隠居を思い立ち、嫡子がいなかった為に僧だった実弟を還俗させて義視(後の10代義材(義植)の父)と名乗らせ、養子として次期将軍とした。ところが翌年に実子(後の9代義尚)が誕生し、家督継承問題が起こる。義政は文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続け、後継者問題に細川勝元と山名宗全の権力争い、斯波氏の家督相続問題が加わり、ついに応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発する。京の市街地は戦乱で焼け野原になり、戦いは全国規模へと発展していった。文明5年(1473)に細川、山名の両人が死ぬと戦乱は惰性的になり、文明9年(1477)にようやく応仁の乱が終結。義政は将軍職を義尚へ譲ったが、息子義尚、妻富子との不仲により益々文化的な活動に拍車がかかり、財政難の中、文明14年(1482)には東山殿の造営をはじめる。その後、義尚が延徳元年(1489)に陣没、息子の死に気を落としたのか翌年に東山殿の完成を待たずして55歳で死去した。菩提寺は相国寺慈照院。義政は文化面では才能を発揮し、庭師の善阿弥?や絵師狩野正信、能楽者の音阿弥?らを召抱え、能、茶道、華道、造園、建築など多様な芸術が花開かせた。それらは次第に庶民にも浸透し、今日まで続く日本文化の源流となる。貴族的で華麗な祖父義満の北山文化に対して、 幽玄、侘び寂びに通じる美意識に支えられた文化は東山文化と呼ばれた。 足利義澄(あしかがよしずみ) 文明12年~永正8年(1481~1511) 義政の異母弟、政知の子。天龍寺で僧となるが、明応2年(1493)の政変で10代義材(義稙)が追放された際、管領細川政元(勝元の子)に擁立されて11代将軍に就任する。永正4年(1507)に政元が暗殺され、前将軍の義材(義稙)が大内義興に後見されて入京、将軍の地位を追われて近江国(現滋賀県)の六角氏を頼って朽木に逃れた。近江国岡山城(現滋賀県近江八幡市)で急逝、享年32。 足利義輝(あしかがよしてる) 天文5年~永禄8年(1536~1565) 父は12代義晴、祖父は11代義澄。天文15年(1546)に父から将軍職を譲られ13代将軍に就任。管領細川晴元や細川氏家臣の三好長慶らと対立し、近江国(現滋賀県)に逃れては京へと復帰することを繰り返した。後に和睦して帰京するも傀儡に過ぎず、将軍権威の復活を目指して精力的な政治活動を始める。戦国大名の抗争の調停を頻繁に行ない、さらに自分の名である「輝」の字を諸大名に与える(上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、伊達輝宗)ことにより、将軍として諸大名から認められるようになり、織田信長や上杉謙信らが上洛して会見しているように、僅かとはいえ将軍権威を復活させた。長慶の死後、幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と対立、居城である二条御所を襲われて自害する。義輝は剣豪上泉信綱や塚原卜伝に奥義の伝授を受けたという剣の達人であったため、足利家伝来の太刀をもって敵兵を多数斬り倒したという。菩提寺は相国寺光源院。 足利義昭(あしかがよしあき) 天文6年~慶長2年(1537~1597) 13代義輝の弟。興福寺一乗院で仏門に入り、覚慶と名乗っていた。兄義輝が殺された際、自身も松永久秀によって幽閉されるが、幕臣である細川藤孝や和田惟政らに助けられて脱出。このとき還俗して義秋、後に義昭と名乗った。義昭は六角氏、武田氏、朝倉氏のもとを転々としながら将軍家再興を目指し、明智光秀の助力により織田信長の後見を得、永禄11年(1568)に上洛する。松永久秀や三好三人衆に担がれた14代義栄を追放し、晴れて15代将軍として宣下を受けた。のちに信長と対立、信長を排除しようと企み、一向宗?や武田氏、上杉氏、毛利氏、浅井氏、朝倉氏らに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成した。信長は一時的に窮地に陥ったが、最大の強敵であった武田信玄が病死したため包囲網は瓦解。義昭は京で挙兵するも捕らえられ、天正元年(1573)に河内国(現大阪府)に追放されて室町幕府は滅亡した。 系図 尊氏1─義詮2─義満3┬義持4─義量5 ├義嗣 └義教6┬義勝7 ├義政8─義尚9 ├義視─義材(義稙)10 └政知─義澄11┬義晴12┬義輝13 │ └義昭15 └義維─義栄14 その他 京都検定出題 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「銀閣寺は(中略)義政の法号から( )と称した。(中略)持仏堂の( )は付書院、違い棚を持つ書斎の同仁斎からなり、( )の初期形態として貴重である。」 平成17年(2005)第2回京都検定3級出題 「銀閣寺について誤っているものを選びなさい。 (ア)足利義政が浄土寺跡に建てた東山山荘にはじまる (イ)相国寺の山外塔頭である (ウ)東求堂は二層の楼閣で、下層を心空殿、上層を潮音閣という (エ)本堂前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐型の向月台がある」 「時代祭で行列に登場しない人物は誰か。 (ア)楠木正成 (イ)織田信長 (ウ)坂本龍馬 (エ)足利尊氏」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「足利尊氏は、後醍醐天皇の追善のために天龍寺を開創したが、その造営費用調達のため、天龍寺船を就航させ貿易を行った相手国はどこか。」 「足利義満の山荘(のちの鹿苑寺)に代表され、伝統的な公家文化と新興の武家文化の融合が特徴とされる文化の名称はなにか。」 「後白河上皇が法住寺殿の鎮守として創建し、足利義満が観阿弥、世阿弥父子の能を初めて見たという神社はどこか。」 平成17年(2005)第2回京都検定1級出題 「天龍寺は(中略)足利尊氏が、後醍醐天皇の冥福を祈るため、( )上皇の亀山殿の地に開創した。庭園は国の史跡・特別名勝で、近景の亀山や遠景の嵐山を借景とした池泉回遊式で( )の作庭といわれている。」 学習漫画 日本の伝記 足利義満 金閣を建てた実力者