約 5,369 件
https://w.atwiki.jp/circus2526/pages/383.html
ファンが多く、 毛玉スクリプト内にももにょもにょ。 君主名や拠点名を関連作品から取っている同盟員が素敵に多い。 さあ、何人見つけられるかな?! 戯言シリーズは大好きですたい(*´∇`*) -- くな (2011-05-23 21 24 05) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/jojonisio/
勝者は、一人。 【はじめに】 このスレは、西尾維新作品及びジョジョの奇妙な冒険に登場するキャラクター達でバトルロワイアルパロディを行う企画スレです。 性質上、登場人物の死亡・暴力描写が多々含まれすので、苦手な方は注意してください。 現在準備中……
https://w.atwiki.jp/nisioisinnbr/pages/21.html
このスレは、西尾維新の作品に登場するキャラクター達でバトルロワイアルパロディを行う企画スレです。 性質上、登場人物の死亡・暴力描写が多々含まれすので、苦手な方は注意してください。 【バトルロワイアルパロディについて】 小説『バトルロワイアル』に登場した生徒同士の殺し合い『プログラム』を、他作品の登場人物で行う企画です。 詳しくは下の『2chパロロワ事典@wiki』を参照。 ttp //www11.atwiki.jp/row/ 【ルール】 外界から隔離された空間で最後の一人になるまで殺し合いを行い、最後まで生き残った一人は願いが叶う。 参加者は全員首輪を填められ、主催者への反抗、禁止エリアへの侵入が認められた場合、首輪が爆発しその参加者は死亡する。 六時間毎に会場に放送が流れ、死亡者、残り人数、禁止エリアの発表が行われる。 【参加作品について】 参加作品は「戯言シリーズ」「零崎一賊シリーズ」「世界シリーズ」 「新本格魔法少女りすか」「物語シリーズ」「刀語」「真庭語」の七作品です。 【参加者について】 参加者は全部で45名です。各作品の主人公とヒロイン、オープニングに登場したキャラクターは参加確定。 現在参加が確定しているのは「戯言遣い」「玖渚友」「零崎人識」「病院坂黒猫」「水倉りすか」「供犠創貴」 「阿良々木暦」「戦場ヶ原ひたぎ」「鑢七花」「とがめ」「真庭狂犬」「真庭鳳凰」「真庭人鳥」の13名。 残りの32名は自由枠として、SSに登場した順に参加が確定していきます。 【支給品について】 参加者には、主催者から食糧や武器等の入っている、何でも入るディパックが支給されます。 ディパックの中身は、地図、名簿、食糧、水、筆記用具、懐中電灯、コンパス、時計、ランダム支給品1〜3個です。 名簿は開始直後は白紙、第一放送の際に参加者の名前が浮かび上がる仕様となっています。 【時間表記について】 このロワでの時間表記は、以下のようになっています。 0-2 深夜 2-4 黎明 4-6 早朝 6-8 朝 8-10 午前 10-12 昼 12-14 真昼 14-16 午後 16-18 夕方 18-20 夜 20-22 夜中 22-24 真夜中 【まとめwiki】 ttp //www24.atwiki.jp/nisioisinnbr/ 【避難所】 ttp //jbbs.livedoor.jp/otaku/12245/
https://w.atwiki.jp/nishiparo/
2chエロパロ板の西尾維新スレまとめwikiです。 現行スレ 【戯言・リスカ】西尾維新 Vol.11【化物語・刀語】 http //yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1264316959/ 前スレ 【戯言・リスカ】西尾維新 Vol.10【化物語・刀語】 http //yomi.bbspink.com/test/read.cgi/eroparo/1257998209/ 保管庫 http //green.ribbon.to/~eroparo/contents/lightnovel-nisioisin.html 歴代スレ http //www29.atwiki.jp/nishiparo/pages/13.html 現時点(2010/01/02)までに保管された作品の全ては、上記保管庫からの転載です。 今日は - 人閲覧したみたいなの。 昨日は - 人閲覧したことを、この私はあらかじめ予想していました。 現在までの閲覧者数は計 - ちぇりお! エロパロという性質上、同一タイトルが多数あります。 そのため、重複したタイトルの場合、尻に番号を付けています。 ですので、同タイトルの連番となっていても、同じ作品では無い場合があります。ご注意ください。 これは、まぁ、編集側の都合というか……ページ名でリンク貼っているせいと言うか…… この問題は#setpagename(任意のタイトル)で解消されます。 ただ、ページ量が多いので、有志の方のご協力をお待ちしております。 作品掲載に不備がありましたら、深くお詫び申し上げます。 連絡をして下されば、きっと直します。でも、自分で直した方が早(ry 編集ガイド 編集者様へ 当保管庫は編集フリーのwiki構成です。作品の収蔵に御協力下さい。大歓迎です。 作品を収蔵下さる場合、元ネタ欄と作者別欄にも編集して頂けると助かります。 無用なトラブル回避の為、作品内容への編集は極力抑えた方が良いでしょう。 スレ住人の皆様の御理解と御協力を宜しくお願い致しまむ。
https://w.atwiki.jp/jojonisio/pages/14.html
【西尾維新作品】 確定枠40人 書き手枠3人 計43人 刀語 (4/4) 鑢七花 / とがめ / 左右田右衛門左衛門 / 鑢七実 最強シリーズ (2/2) 長瀞とろみ / 哀川潤 戯言シリーズ (5/5) 戯言遣い / 玖渚友 / 零崎人識 / 匂宮出夢 / 西東天 十二大戦 (3/3) 妬良 / 憂城 / 失井 新本格魔法少女りすか (2/2) 供犠創貴 / 水倉りすか 伝説シリーズ (5/5) 空々空 / 氷上竝生 / 杵槻鋼矢 / 地濃鑿 / 虎杖浜なのか 人間シリーズ (3/3) 零崎双識 / 零崎軋識 / 零崎曲識 美少年シリーズ (6/6) 瞳島眉美 / 双頭院学 / 咲口長広 / 指輪創作 / 足利飆太 / 袋井満 忘却探偵シリーズ (2/2) 掟上今日子 / 隠館厄介 物語シリーズ (4/4) 阿良々木暦 / 八九寺真宵 / 千石撫子 / 老倉育 めだかボックス (4/4) 黒神めだか / 人吉善吉 / 球磨川禊 / 名瀬夭歌 書き手枠 (3/3) / / 【ジョジョの奇妙な冒険】 確定枠30人 書き手枠3人 計33人 ファントムブラッド (2/2) ジョナサン・ジョースター / ロバート・E・O・スピードワゴン 戦闘潮流 (5/5) シーザー・アントニオ・ツェペリ / カーズ / ワムウ / エシディシ / サンタナ スターダストクルセイダース (7/7) 空条承太郎 / ジョセフ・ジョースター / 花京院典明 / ジャン・ピエール・ポルナレフ / モハメド・アヴドゥル / ンドゥール / DIO ダイヤモンドは砕けない (5/5) 東方仗助 / 広瀬康一 / 虹村億泰 / 岸辺露伴 / 吉良吉影 黄金の風 (4/4) ジョルノ・ジョバァーナ / パンナコッタ・フーゴ / ヴィネガー・ドッピオ(ディアボロ) / ブローノ・ブチャラティ ストーンオーシャン (3/3) 空条徐倫 / ウェス・ブルーマリン(ウェザー・リポート) / エンリコ・プッチ STEEL BALL RUN (4/4) ジョニィ・ジョースター / ジャイロ・ツェペリ / ウェカピポ / マジェント・マジェント 書き手枠 (3/3) / / 主催 2人 荒木飛呂彦 西尾維新 計78人
https://w.atwiki.jp/kagayaseminar/pages/15.html
ゼミ選びの基準 その1 (西尾和高) ども、こんにちは。8期生の坊主頭、西尾和高です。 坊主頭ですが、ゼミ幹やってます。 1月に、新3年生のゼミ選びに役に立つものを載せていこうと新歓サイトを立ち上げました。 テストも終わったことなのでこれからゼミ面接までどんどん更新していこうと思います。 ぜひ、ときどきチェックしてください! さて、僕が2年の冬に何を思ってゼミ選びをしたかを思い出してみると、 大きな基準というか方向として、2つありましたね。 一つは、「人材」や「流通」といった領域を決めるのではなく、「経営」という高い視点から企業を見ることができるところ。 ま、ようは領域を決めずに何でも見ていけるようなとこが良かったってことですな。 で、もう一つは「グループワーク」であること。一人で考えるより、議論しながら考えていった方が 面白いものが生まれるって考えてましたので。 実際、しょーもないことでも友達と議論してると、なんか面白いもんが出てくるものなんですわ。 ま、誰と何を議論するかにもよるんでしょうけどね。 僕の場合、1・2年生の間にグループワークをずっとやってたので、それを気に入ってたってのが大きいのかな。 ああ、当時の僕は「輪読」をあまりにも軽視し過ぎていたので、「グループワーク」主体か「輪読」主体かってのは、 しっかり考えた方がいいかと思いますよ。 どっちにも、それなりにいいところはありますから。 輪読なんて自分で読めばいいじゃないかっていったところで、英語の専門書を一人で読むかっていうと なかなか読みませんしね(笑)。 それに、輪読主体のところでも、時期によってはグループワークをやるゼミが多いみたいですし。 こんな感じでゼミを絞っていって、最終的に加賀谷ゼミを選んだのは、様々な細かい部分を比較して、って感じでしたね。 ま、よく「雰囲気」とかで一括りにいわれるヤツですよ。 最後にいっておくと、結局のところ、一緒にゼミをやるのは同期のゼミテンとですから、 やってみなきゃ分からないって面がかなり大きいんじゃないかと思います。 だからある程度不確定要因があることは覚悟したうえで、ゼミを判断していくことが必要でしょう。 もしも判断に迷うようでしたら、先生か現役のゼミ生に直接相談してみるのがいいんじゃないですかね。 ただし、最後の意思決定をする際は、候補のゼミ内部の人間だけじゃなくて、同期の友達とか、 候補のゼミとは関係ない先輩なんかとも話をした方がいいかもしれません。 ゼミ内部の人間は他のゼミを経験していないので、ゼミに染まっている可能性があるので(笑)。 とにかく、いろんな人の話を聞いてみて下さい! さて、今回はこんな感じで終わりとします。 僕の動機って、どうやらしっかりしたものじゃないみたいなんで、あんまり参考にはならなかったかな(笑)。 何か「こういうことが聞きたいんだけど」って要望がありましたら、遠慮なくメールしてください。 新歓用のメールアドレスが公開されていますので、そこにお願いします。 それでは、また次の機会で!! - -
https://w.atwiki.jp/nisioisin/pages/35.html
(さびこっけん) ◼︎概要 錆家の女剣士。齢は30を越えているが、外見は5歳にしか見えない。 語尾に「にゃん」と付け態度も軽いが、これはキャラ作りであり大人力は高い。 錆家の血刀全刀「錆」の特性のため帯刀する事は無く、その辺の木の枝などを刀として使用する。 『歴史上最強の剣士』、『剣聖の中の剣聖』、『死神』などと称されている。 「一人で国一つ滅せる」、「将軍家の暗部を担う十一人に匹敵する」、「錆家の他の剣士も風鈴のように鳴り響くだけ」などと示される通り、 強弱を通り越し天災に近い実力のため、後世の剣士のやる気を削ぐという理由で記録には残されていない。 「否定的なあの方」の思惑を受け出雲での鑢六枝と飛騨鷹比等の動向を伺うが、「愛する息子に四季崎の因縁を持ち越したくない」という独自の思惑もあり、 技でもなんでもないただの素振りで、地を割り天を裂く暴風を発生させ、出雲を水の枯れた湖のような窪地に作り変える。 因幡砂漠では否定的な童女が足留めした六枝を狙い、砂漠の外から突きで発生させた衝撃波による狙撃を試みるが、 片腕を吹き飛ばし、更に精度を上げて首を狙おうとしたところで鑢七実に遮られる。 七実が虚刀流どころか何の鍛錬も積んでいないにも関わらず、自身と渡り合う実力を持つことを知り、 最初で最後の本気で戦える相手と認め、半年に渡り戦いを続けた。 この戦いの勝敗は不明だが、大乱における真の活躍は半年後の奥州で行われたとナレーションで触れられたことから、生存はしたものと思われる。 音声媒体のみの登場だが『大河アニメ刀語ビジュアルブック』中の対談にて、西尾が名を挙げたことから漢字表記が判明している。 ◼︎登場作品 第零話 虚刀・鑢 名前 コメント 刀語 登場人物
https://w.atwiki.jp/sinnisioisinrowa/pages/222.html
新西尾維新バトルロワイアル用語集 ネタバレを大いに含みますので閲覧の際は注意! 【あ行】【か行】【さ行】【た行】【な行】【は行】【ま行】【や行】【ら行】【わ・を・ん】 あ行 安心院さん 7932兆1354億4152万3222個の異常性と4925兆9165億2611万0643個の過負荷、合わせて1京2858兆0519億6763万3865個のスキルを持つご存知西尾作品の中でも屈指のチートキャラ。 全容が見えない主催陣営ではあるが、黒幕候補を挙げるとすれば真っ先に出てくるのはこの人ではないだろうか。 今のところは某参加者の夢にちょっかいを出しにきただけで基本的には死者スレで他の参加者と和気藹々としているが、例え実際に黒幕だったとしても全く問題なさそうではある(そして黒幕ではなかった模様)。 なんて言ってたらついに実体まで出てしまった。しかもまだ何かしそうな雰囲気。 あたらしいかおよ! 避難所にある雑談スレにて141話時点での刀語勢の現状がまとめられたレスが投下された際、一人だけ長文になったキャラの説明で一際目を引いた単語。 完全にネタキャラ扱いであるが、実際第三者視点から見ればその通りなので仕方が無い。 本人は至極真っ当に頑張ってきたのにこの扱いは不当……とはならないのがこの世界だ。 一般人 何の能力も持たない、限りなく現実世界のパンピーに近い身体能力を持つキャラのこと。 なお現実にありえる人間であっても、特殊な技能や経歴(軍務経験者、銃火器や罠やサバイバルのエキスパート等)を持つ場合は、一般人キャラとは見なされない。(パロロワWikiより、現在記述は変更されている) 世界シリーズがギリギリでこれに当てはまるが、メンタルはやはり一般人離れしている。 残りはみな一般人の皮を被った何か。 逸般人 特殊能力を持たない一般人でありながら、何らかの才能(あくまで現実の人間に可能な範囲内)を持つ、知恵が働くなどの要素で、超人キャラと張り合えるスペックを持つキャラのことを指す。(パロロワWikiより、現在記述は変更されている) 一般人の皮を被った何かはこれだった。 戯言遣いがこの代表。 か行 拡声器 ロワでは伝統の死亡フラグ。 使ったものにはほぼ必ずと言っていいほど死が訪れる……のだが、支給されたのがなんと狐さんこと西東天。 そんな彼が素直に使用するはずはなく沈黙を保ってくれているが、目的である「物語を加速させる」タイミングで使ったらどうなるのか…… などと言われていたが某話にて狐さんがうっかり死してしまったため、同行していた真庭鳳凰の手に渡ることに。 鳳凰には「物語を加速させる」目的などないので使用タイミングは鳳凰次第だが、彼の現在地がフラグが集積しているランドセルランド付近のため火種になる可能性は大きい。 とか言ってたら様刻君に奪われた。合理主義な彼のことだからおそらく使う機会は来ないであろう。(ネタバレ防止のため反転) 禁止エリア(笑) とある話で形成された腐敗空間のこと。 通常の禁止エリアは首輪が警告をしてくれる親切仕様だが、某キャラが作り上げたこの空間に入ってしまうと能力から逃れることはできない。 留まり続ければ骨まで残らず、離脱しても『感染源』として他の参加者と接触してしまえば腐敗が感染するという迷惑極まりないことこの上ない。 現在地の画像を見れば威力がおわかりいただけるであろう。 緊張感/Zero 他のパロロワにはよくいる登場話で怯えている参加者が一人もいない。皆無である。 外見的見た目は小学生の八九寺真宵、リアル小学生の供犠創貴や水倉りすかなどがいるにも関わらず、だ。 まあ、原作からして結構人死にに慣れてる節あるもんね…… 黒神兄妹の災難 下の【めだか包囲網】も参照。ここでは主に黒神真黒について解説する。 箱庭学園が真っ先に禁止エリアに指定され、僐物語-ヒトモノガタリ-にて黒神めだか(改)の(改)が取れると同時に人吉善吉も死亡してしまったため真黒さんのやることがなくなってしまうという事態に。 もしも乱神モードのままだったらワンチャンあったかもしれないけどローリンガールなロンリ―ガールで完全に正気に戻っていたので完全にいらない人扱い 更に死に様も考えると彼はかなり報われなかった参加者の一人ではないだろうか…… さ行 死者スレ 本編で死んだ参加者が本編での愚痴だったり、原作ではありえなかった会話や本編でできなかったクロスオーバーをする場所。 最初に死んだあの人が変態にされたりえ?原作と変わってない?、参加者じゃないあの人がいるが基本的に仲良くやっている。 スレは避難所に存在。 た行 武田観柳 るろうに剣心の序盤に出てくるその場限りの敵キャラ……だったのだが実写版映画のインパクトが強すぎたためパロロワ民の間で有名に。 とはいえ本ロワでは無関係であるはずなので他のロワに出てくるのを眺めていればよかったのだが。だが。 某話でとあるキャラがカンリュウ化。 しかもそのカンリュウ化以外の描写は全くもって自然だからたちが悪い(誉め言葉)。 仮投下直後にたまんねぇなぁ!という感想が2件つき、さらには + ネタバレ回避 何があった。もう一度言う。何があった!(大事なことなのでry) 前半の失意モードの宇練のらしさや、そうなっちゃうよなあ、と思わせる描写に氏の筆力を改めて認識しつつ、 球磨川のカレー談義のすげーどうでもいいという辺りのらしさを描いた一コマにクスリとなった。 そして三者の邂逅、結果球磨川の反応には「だろうなあ」と思いつつバーを下げていったら、「たまんねえなあ!」とかいうあれが脳裏をよぎる展開に。 な…何を言ってるか分からねーと思うが(以下AA略) まあ、これも彼の生きていた時代が時代ですから、止むを得ない結果かもしれませんがw ここにきて、破壊力抜群の作品がきて驚き半分爆笑半分といった具合で、すげー作品だなと舌を巻いておりましたw 展開に関しては問題ないと思います。 このようなものまで寄せられた。 西尾維新先生と和月伸宏先生の間には関わりはありませんので注意 ちなみに、次の話で刀から浮気した報い(本スレ感想より、ネタバレ防止のため反転)を受けた。 チート ズルをすることを意味する英語(Cheat)のカタカナ表記である。 そこから転じて……。 1.ゲームにおける(プロアクションリプレイなどを使用した)改造を意味する言葉。 2.誰が使用しても強力な性能を発揮する能力などを言う。要はズルしているも同然なほど万能だという事。 3.上記から転じて、それほどまでに突出した才能、能力を持つ人物やキャラクターを指す。 (ピクシブ百科事典より) このロワで「チート」という単語が出るときは3の意味を持つ。 元々チートキャラが多い西尾作品(世界シリーズ以外の全ての作品に存在している)ではあるが今のところチートキャラを倒しているのは全てチートキャラ。 チートキャラが一般人キャラに倒されるのもロワの醍醐味の一つなんだし頑張れ一般人。 な行 は行 人探し よくある、「とりあえず自分(または同行者)の知り合いを探そう」といういわゆる消極的な対主催と言えなくもないスタンスの一つ。 実際、本ロワの登場話でもそのような方針でスタートしたキャラは少なくなかった。 あくまでも目的は「知人と合流すること」であり、マーダーに遭遇するなどのトラブルに見舞われなければ穏便に済むはずである。 だがしかし、死亡者リストを、特にこの辺を見ていただきたい。 確かに本人たちは真面目に行動していたのだし、その結果殺害数ランキングに名を連ねていたり、あまつさえトップマーダーになっていてもおかしくはない。 おかしくないったらおかしくないんです。 不幸四天王 パロロワにおいて主人公然として輝く者もいれば逆に不幸のどん底に落とされる者もいる。 その中でも特に不幸になったキャラが複数いた場合、彼らを総称して不幸四天王と呼ぶのが通例。 2013年12月12日にパロロワ毒吐き別館の交流所にてロワ語りが行われた際に言及され、実際に検証してみれば浮かび上がったのが真庭鳳凰、黒神めだか、黒神真黒、江迎怒江(暫定含む)。 めだかボックスキャラに恨みがあるということはない。決して。 ま行 めだか包囲網 静寂を切り裂く脆弱な義理策を発端に徐々に黒神めだかの悪評が広まって形成された包囲網のこと。 元々は戯言遣いを案じた玖渚友が危険視させる程度だったのだが、実際にめだかが阿良々木暦を殺していたからさあ大変。 コイスルオトメで戦場ヶ原ひたぎが掲示板の情報に乗っかり、全く関係なかった左右田右衛門左右衛門まで不忍と不完全の再会で悪評を広める始末。 第二回放送時点で現在悪評を知っている(広めている)のは、玖渚友、貝木泥舟、櫃内様刻、無桐伊織、戦場ヶ原ひたぎ、左右田右衛門左右衛門、宗像形、羽川翼の8人。 だが、携帯電話等から掲示板に繋げられること、更に情報機器を持つ者に十中八九同行者がいる(いた)ため第三回放送時点で知らないのが真庭鳳凰と張本人の黒神めだかのみになってしまう事態に。 生存者のほとんどが一ヶ所に向かっているためかなり大きな火種になりつつある。 や行 ヤンデレマーダー 戦場ヶ原ひたぎと江迎怒江のこと。 どちらもスタート当初は比較的まともでギャグ要員だったのに第一回放送前後から豹変。 戦場ヶ原ひたぎは恋人である阿良々木暦を殺されたことから、江迎怒江はリレーでどんどん転がされた結果マーダー化。 ひたぎは冷静に掲示板なども駆使して立ち回るのに対し、江迎は過負荷が一気にチートレベルまでパワーアップ(ダウン)。 はっきり言ってどっちも怖い。 ら行 ランダム支給品 パロロワにおいては通例となっている支給品であるが、第二回放送を越えた後も手つかずな参加者がかなりいる。 原因としては、無手で十分通用する参加者が多いこと、支給品がなくとも十分話を作ることができるなどが挙げられる。 そろそろオープンしないと編集がゲフンゲフン わ・を・ん
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1665.html
http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/195153/ 【佐藤優の地球を斬る】雑誌ジャーナリズムの衰退 西尾幹二氏の真摯な言葉 11/13 01 35更新 右派でも左派でも、論壇において論争と言えないような罵詈(ばり)雑言の応酬が行われることが多い。沖縄の集団自決問題、靖国神社への総理参拝問題、原子力発電の是非、憲法改正問題など、執筆者の名前を見るだけでどういう立場かすぐに想像がつき、実際に読んでみても、先入観を確認するだけの論文が多い。 このような状況に突破口をあけたいと思うのだけれども、力不足でなかなか現状を変化させることができない。この問題について、最近、素晴らしい論文を読んだ。 『諸君!』12月号(文藝春秋)に掲載された評論家・西尾幹二氏(73)の「雑誌ジャーナリズムよ、衰退の根源を直視せよ」だ。西尾氏は現下論壇の問題をこう指摘する。 <言論雑誌がなぜ今日のような苦境に陥ってしまったのか、本質的に、これはイデオロギーの災いであると私は見ています。 イデオロギーといえば、だれしもかつてのマルクス主義を思い浮かべるでしょうが、私がいうのは、そんな複雑、高尚なものではありません。手っ取り早く安心を得たいがために、自分好みに固定された思考の枠組みのなかに、自ら進んで嵌(はま)り込むことです。 イデオロギーの反対概念は、現実--リアリティです。リアリティは激しく動揺し、不安定です。たえず波立っています。その波の頂点をとらえつづけるためには、極度の触覚と鋭敏さが必要となります。> ■「不可能の可能性」に挑む この箇所を読んで、中世の実念論者(リアリスト)のことを思った。筆者は、世間ではロシア専門家のように思われているが、本人の自己意識では専門はチェコ神学だ。15世紀のチェコにヤン・フス(1370ごろ~から1415年)という宗教改革者がいた。最後は、カトリック教会によって火あぶりにされてしまうのであるが、マルティン・ルター(1483~1546年)らより100年も前に本格的な宗教改革を行った。 中世神学では、実念論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)が対立していた。哲学史の教科書をひもとくと、当初優勢だった実念論が唯名論に徐々に地位を譲っていったと書いてある。15世紀になるとヨーロッパ大陸の神学部はすべて唯名論を採用していたが、ただ一つだけ例外があった。カール[プラハ]大学の神学部だ。この大学の学長がフスだったのだ。実念論者は、リアルなものを人間がとらえることはできないと考える。しかし、人間はリアルなものをとらえようとしなくてはならない。いわば「不可能の可能性」に挑むことが重要と考える。 <(リアリティの)波の頂点をとらえつづけるためには、極度の触覚と鋭敏さが必要となります>という西尾氏の言葉に触れて、こういう本質的な事柄に気づき、発言するのがほんものの知識人であると思った。 ■「言論人も実行家たれ」 米国発金融危機について、西尾氏はこう述べる。 <新聞や雑誌で、この件に関連する論を立てている人々には、不安の影は見いだせません。アメリカの経済はかならず復元すると思い込むにせよ、もう回復不能なところまで来ているととらえるにせよ、かれらはさしたる逡巡(しゅんじゅん)もなく易々(やすやす)といずれかの意見に与(くみ)し、とうとうと自説を述べて倦(う)むことを知りません。実行している三菱(UFJフィナンシャル・グループ)や野村(ホールディングス)の人はリアリティに触れているから未来は見えません。不安に耐えています。さも未来をわかっているかのように語る人はすべて傍観者です。見物人です。イデオローグなのです。だから不安がありません。 私がいいたいのは、不安が必要だということです。言論人も実行家たれ、ということです。実行家は必ず何かに賭けています。賭けに打って出る用意なくして、安易な言葉を発してはいけないのです。> 筆者も西尾氏の発言に全面的に賛成だ。率直に言うが、筆者自身も、論文を書くときは、必ず何かに賭けている。今後も知行合一(ちこうごういつ)につとめたい。西尾氏には人知の外にある超越性をつかむ力がある。それだから、現下の世界における出来事を読み解くキーワードとして「不安」をあげるのだ。 特に、普段、西尾氏の言説に触れない朝日新聞、『世界』、『週刊金曜日』などの読者に西尾氏のこの論文を是非読んでほしいと思う。真摯(しんし)な言葉には、左右のイデオロギーを超え、人間の魂に訴える力がある。その力を是非感じてほしい。 (作家、元外務省主任分析官 佐藤優/SANKEI EXPRESS) 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
https://w.atwiki.jp/kotozora/pages/115.html
昭和二十一年十月二十六日の国語学会公開講演会(東京帝大法文経三十七番教室にて)の席上で、西尾実氏は、「ことばの実態」といふ題で講演され、従来の国語学の研究方法を批判され、あはせて今後の国語教育の方向をも示唆されるところがあつた。講演会が終つて、茶話会の席上でも活潑な意見の交換があり、同氏からも補足的な説明があつたが、私としては国語学の立場からお答へしたいこともあり、国語教育の立場についても御教示を乞ひたいことを希望しながら他事にとりまぎれ、殆んど一年を経過してしまつたことは、何と云つても私の不勉強と申すより外ないことであつた。それに引きかへ、氏はその後、右の論旨を色々な形に於いて敷衍し、発展させて、国語教育、国語問題の解決に対して多くの示唆を与へて来られたのである。しかも右の論旨は、岩波講座国語教育の「文芸主義と言語活動主義」(昭和十二年三月)に早く見えてゐることから考へて、氏にとつては最近十年閻の国語教育論の基礎理論であつたと推測されるので、現代並に将来の国語教育のために、特に氏の所説をここに取上げて考へて見ようとしたのである。 二 順序として、まつ十月二十六日の講演要旨を次に引用することとする。 (上略)われわれの日常におけることばの生活では、人間の存在や行動といふやうな目に訴へるものが、耳にきく音声と一体になつて表現を形成してゐる。しかもさういふ存在や行動、また、ものをいふときの顔つき・目つき・身振りなど、耳にきく音声としての言葉ときり離しがたい関聯を講成してゐる。それを無理に切り離せば、血が流れたり、死んでしまつたりする。ことばを「思想を音声で現したもの」だの、「意味と音声との結合」だの、「思想が音声や文字に現はれる活動」だのとしてゐる在来の国語学の定義では、いきたことばの実態はとらへられぬのではないか。学問といふものには研究対象を概念的に規定しておくことが必要である。国語学の定義も、その本質要素をとらへてゐるとは思ふ。わけても言語発達史から推して、言語進化の方向をも指示し得てゐると思ふ。しかし、いまのことばの実態は、それだけでは捉へきれない。さうしてこの実態と研究対象としての言語との関聯を、たえず見失はぬことが、学問のたあにも必要ではないだらうか。すくなくとも、ことばの実践指導である国語教育は、この実態の認識から出発しなほさなくてはならぬと思ふ。(国語学会会報第三講演要録) 右の論旨には、言語の実態なるものが、如何なるものであるかについての考察から、進んで言語を対象とする国語学や言語学は、実は言葉の実態を把握するに遠いものであることが述べられてゐる。そして、従来の国語学や言語学の立場を一方では是認しながらも、国語教育の基礎として、言語の実態についての認識が必要であることが強調されてゐる。しかも、それが国語学に属すものであるのか、或は他の別個の科学を構成するものであるのかといふことは、氏の論述の意図の有無に拘はらず、これを受取る我々の側に於いては、必然的に問題とされることなのである。このことは一方に於いて、国語学は、国語教育の要請の如何に拘はらず、従来の立場が認められてよろしいものであるのか、そして他方に於いて、国語教育は、その国語認識を何に求めたらばよろしいのであるのかといふことが反省されるのである。 以上は右の講演の提出するところの問題であるが、なほ、同様の趣旨のことが、氏の他の諸著にも述べられてゐる。 文芸主義と言語活動主義 昭和十二年三月 岩波講座国語教育 国語教育の新領域 同十四年九月 言葉とその文化 同二十二年三月 国語教育の構想 同 国語の教育一ノ一 本論に入る前に、本筋にはいささか関係のないことと考へられるが、国語叡育に対する批評家としての西尾氏の立場といふものを、右の諸著を基礎にして、私なりの解釈に従つて、叙述して見ようと思ふ。このことは、私が氏の所説を理解するに当つての一の態度とも、心構へともなつてゐると思ふので、これを予め明かにして置くことが、私の論旨を展開する上に極めて必要なことではないかと考へられたからである。 氏は、時代の呼吸を極めて鋭敏に感受される人である。そしてそれに即応して国語教育の欠陥を指摘して、それに適切な方向を与へようとされる。従つて氏の国語教育の理論は、氏の所説の前提であり、基礎であるよりも、氏の所説を合理化する手段として用ゐられる場合が多いのではないかと思ふ。氏は病人を適切に診断する名医の勘と、病状に適当した薬剤を調合する術を心得てをられることに於いて、優れた国語教育の批評家であると云つてもよいであらう。しかし、もし、国語教育に従事するものが、各自銘々に自力で新しい道を探し求め、発見することが出来るやうな力を与へられ、そのやうな指導が与へられたならば、と歎くのは私ばかりであらうか。氏は秀れた名医ではあつても、我々が常に健康を維持するにはどうしたならばよいか。又病気にかかつたならば、どういふ風に自ら診断し、どういふ治療法を用ゐたならばよいかについて自ら工夫することを教へる忠告者ではないのではなからうか。氏の歩みの跡を辿つた時、私にはどうしても氏の立場をそのやうに解せざるを得ないやうな気がするし、又そのやうな心構へで氏の所説をとりあげて行くことが、氏の所説を正当に生かす所以ではないかと考へたのである。 四 西尾氏が、国語国文の教育(昭和四年十一月刊)に、鍛錬道どしての国語教育を力説され、或は文芸学的理論を国語教育に導入され、更に転じて言語活動主義の国語教育を提唱され(昭和十二年)、その発展としての話し言葉の文化を説かれ、ここに至つて話し言葉は、即ち民衆の言語と同義語の如くに考へられて、終戦後の時代思潮の動向に適切した国語教育の理念を掲げられたのである。我々は氏の思索の極めて柔軟性に富み、時に前後矛盾するのではないかの疑を抱くことはあつても、皆夫々に時機に適した氏の提案に対しては、賛意を表しこそすれ、異議を申立てる理由を見出さないのである。ただそれらの提案の裏付けとして、言語理論を持込まうとされる時、ここに始めて我々にとつて、問題が生ずるのである。いはば、私は名医としての氏の臨床診断に対しては、全幅の敬意を表しながら、氏のそれに対する生理的病理的説明にはなほ批判の余地があると考へる、といふ風に云へるであらう。臨床的判断さへ誤らないならば、そして対症療法が適確であるならば、それでよいではないかと云ふかも知れない。しかしながら、国語教育界を自力で歩ませるためには、氏の言語理論こそ最も重要な力とならなければならないのである。氏が、国語教育は言葉の実態を捉へることから再出発しなければならないと主張されることは、正しいことである。ところが、この言葉の実態なるものを、専ら感情的言語、動作や身振りを伴つた言語、或は言語としては外に現われない、いはば未分化の身体的動作にまでも言語と同格の機能を認めようとされようとし、更にこれらを言語の地盤的領域として、その上に発展段階、完成段階といふやうな言語の発展段階を認めようとされたことは(言葉とその文化第二)、言語理論としては直ちに承認出来ないことであつて、それこそ氏とは別の意味に於いて、言語の実態認識に反した結論ではないかと考へられるのである。ここで氏のいはゆる「実態」といふことが問題になつて来ると思ふのである。表情や身振りや動作を伴ふことがことばの実態であるとするならば、このやうなものを伴はない極めて冷静な「話し」もまた同様にことばの実態ではないであらうか。更に音声言語が実態であるならば、親が子に愛情を吐露した手紙のやうな文字言語も同様にことばの実態であり、厳粛な哲学の論文であつてもそれがことばの実態でないとは云へないのではなからうか。仮にそのやうなものは実態でなく、実態はただ日常生活の言語のやうなものに限られるとしても、文字言語や芸術的言語が、それらを地盤として、その上に建てられた発展段階であるとして考へることが許されるのであらうか。仮にさういふ事実が認められるとして、その時、実態的なことば以外の言語は、一体どういふ言語なのであらうか。もし言語にそのやうな発展段階があるとするならば、そのことをもまた言語の実態として素直に認めて行かなければならないのではないか。一体氏が、日常生活語のやうなものにのみ「ことばの実態」を認めて、それを国語教育の地盤ともし、出発点ともしようとされた理論は何処から来てゐるのであらうか、等々の疑問が私には涌いて来るのである。 私はこれらの疑問に対して、一応次のやうな解答を与へて見た。氏の考への根底には、恐らく、素朴なもの、未分化なもの、自然的なものを、最も基本的なもの、典型的なものとする考へがあるのではなからうか。或る意味で、本能的な、獣性を持つた、理性の拘束を受けない人間を最も人間的なものとする自然主義的考へ方に似通つた考へ方があるのではなからうかと考へて見た。それは、ソシュールよりパイイへと展開した、文学的言語に自然的言語 langue naturelleを対立させたやうな考方に一致するものがあるのではないかとも見られるのである。 五 私は、しかし、西尾氏の「ことばの実態」の所説を、氏の言語理論の発展の結論として見ることは正しくないのではないかと考へた。氏の真意は、むしろ言語の具体的な姿を認識せよ、そして国語教育の出発点をそこに置かなければならないといふことを力説されたのであつて、氏の言語理論は、ただその裏付けとして持ち出されたものに過ぎないのではないかと思ふのである。言語の具体相を「ことばの実態」として、これを直に素朴な音声言語に結び付けて考へられたところに、氏の思索の非常な飛躍があつたのではなかつたかと思ふ。ただしそれは論理的思索の面に於いてそのやうな飛躍が認められるのであつて、氏が実際に「ことばの実態」と考へられたものは、実はそのやうな「ことばの実態」即ち表情や身振りを伴つた音声言語といふやうなものではなくして、むしろ、言語に於ける主体性の把握──人間性の認識とも云つてよいであらう──といふことではなかつたかと思ふのである。言語に於ける主体の立場、言語を生み出す人格の力を認め、そこに国語教育の地盤を求めようとされたのが氏の真意に近いのではないかと思ふ。かう云ふ解釈は、決して私のほしいままな理解に基いて云ふのではないのである。 それは氏が、言語活動主義の国語教育の主張に於いて、旧読本巻十第十七の「言ひにくい言葉」を例として、 そこに問題にせられてゐるところは極めて簡単な声音語が実は極めて困難な言葉であること、そしてその困難は「言ひにくい」といふことであり、それを言ふには「勇気」を要することであるといふことが示されてゐる(岩波講座国語教育文芸主義と言語活動主義二九頁)。 と云はれ、更に、 かくして、現実としての言語活動は、横に声音や身振や行為の有機的に結合した構成を有すると共に、縦にその人の内外生活の成果としての過程を含む全的表現として理解せられなくてはならないものである(同上書二九頁) と云はれ、国語教育に於ける全人的陶冶を力説された(同上書二七頁)根拠を尋ねて見れば明かではないかと思ふ。言語表現に於いて、このやうな話手の人格が端的に把握されるのは、音声言語に於いて特に著しいところから、これを言語の実態とし、国語教育の地盤とされたのではないかと考へられるので、その意のあるところは理解することが出来るのであるが、このやうな全人的活動は、必しも表情や身振りを伴ふ音声言語に於いてばかりでなく、文字言語に於いても、又氏の云はれる完成段階の芸術的言語に於いても、当然考へられなければならないことである。もしこのやうに言語の実態といふものを考へることがゆるされるとするならば、国語教育の地盤は、表情や身振りや動作によつて初めて完成されるところの、言語としては、どちらかと云へば未分化状態にある音声言語に国語教育の地盤的領域があるといふよりも、音声言語、文宇言語を通して、これを成立させる全人的活動にそれがあると考へなくてはならないのである。そして、このやうな全人的活動の訓練錬磨こそ、国語教育の出発点とし、主眼点としなければならないことを知るのである。そしてこのやうな話手或は聞手、読手としての全人的活動の様相として音声言語、文字言語、芸術的言語等が考へられるのである。この場合でも重要なことは、音声言語を以て文字言語や芸術的言語の地盤として考へるべきではなく、人格的活動の異つた表現様相として、夫々に異つた表現意図と、表現技巧のあることを明らかにし、これを訓練することが国語教育の任務でなければならないのである。例へば、言ひにくいことを、はつきり云はなければならないといふことは、音声言語に於いても、文字言語に於いても共通して、勇気を必要とすることであるが、それをどう表はすかといふことは、音声言語の場合と文字言語の場合とでは異るのであるから、その相違を明かにし夫々に適切な方法手段を考へることが必要なことなのである。話手(文字言語の場合をも含めて)の人格といふことが、言語の真の実態であり、地盤的領域であるべき筈のところを、西尾氏に於いては、それが日常普通の音声言語といふことに置き代へられ、又さういふ話手の、私の術語を以てするならば、場面的変容による表現様相が、音声言語を基本とする発展段階として考へられたのではないかと思ふ。そして、その理論付けとして、従来の国語学言語学に於ける言語観の批判といふことが、なされたのであらうと思ふけれども、氏の端的に云はうとされたことは、国語教育が、従来とかく表現の特殊様相、しかも芸術的表現といふことの教育にのみ偏し、言語表現の他の種々な様相、特に音声的表現を軽んじた弊を矯めようとされたことにあるのであつて、その理論付けの点は、氏に於いてさまで重要な点ではなかつたのではなからうか。私はそのやうに、氏の国語教育説を考へるのが至当ではないかと考へるのである。たまたま氏がそれを強調するあまりに、言語の一特殊様相である音声言語をとつて、それの特殊性を明かにすることの代りに、これを地盤的なものとされ、文芸的言語の特殊性を明かにすることの代りに、それを音声言語の発展段階、或は完成段階とされたところに問題が生ずるのであり、それを言語の実態の問題に結びつけ、音声言語を実態的なものとし、国語教育の出発点をそこに置かうとされたことによつて、問題は益々重大となつて来たのである。 六 私は、西尾氏が「ことばの実態」といふことを極めて狭く、また偏つて考へられたことを指摘し、しかしそれが恐らく氏の本意ではないのではなからうかといふことを述べて来た。氏の論理の飛躍は、氏が国語学や言語学の方法に対して下された批判の側からも云はれることである。氏に従へば、国語教育に於いて取り扱ふ国語と、国語学がその対象として規定する国語とは別のものであると云ふのである。 ソシュールのやうに、実践としての言語を「パロル」とし、実践の材料として脳裏に蓄積された言語を「ラング」とし、言語学は「ラング」を研究するものであるとする考へ方に従ふならば、或はそのやうに考へられもするであらう。しかしながら、本来科学としての国語学に於いて取扱ふ対象としての国語は、個々の具体的な実践された国語より外にないのであるから、国語学の取扱ふ国語が、国語教育に於いて取扱ふ国語と別物であるとは、決して考へられない筈である。異るのは、ただそのやうな国語に対する立場だけであつて、教育的立場は、実践を主とし、国語学の立揚は、実践されたものを観察し、そこに法則を見出すことを主とするのである。このやうに考へることによつて、始めて国語学は国語教育に理論的基礎を供給することが出来るのであつて、もしこれを別個のものを取扱ふとするならば、国語教育と国語学とは全く無縁のものとなつてしまはなければならないのである。国語学の対象とする国語は、個々の具体的な国語であるから、西尾氏の云はれるやうに、音声言語の場合には、多分に表情や身振りのやうな身体的動作を伴ふものである。しかし、それは文字言語の場合でも同様で、興奮して口をゆがめたり、字を乱暴に書きなぐつたりすることは、必ず場合によつてあることであるが、文字言語の場合には、これらの動作を捨象して言語を考へるのは、これらの身体的なものは、具体的には言語と切離せないものではあるけれども、言語の本質的な構成要素とは考へられないからである。どこまでも言語に随伴する現象であり、または言語の代りをするものであつて、言語そのものではないのである。音声言語では、身体的動作によつて表現を助け、時にはそれだけで用を弁ずることがあるにしても、それらが同じく表現であるといふ理由では、これを言語と認めることは出来ないのである。国語学者の努力は、この綜合的な、複合的なものから言語の本質的性格がどのやうなものであるかを抽象しようとするところにあるといふことが出来るであらう。それが、「意味と音声との結合」とか、「思想が音声や文字に現れる活動」といふやうな言語の定義となるのであるが、それは決して、氏のいはゆる言語の実態の否定を意味するのではない。それどころか、このやうな本質的性格の規定なくしては、言語の実態をも実は明かにすることが出来ないのであり、従つて、国語教育の本領がどこにあるかも明かにすることは出来ない筈なのである。事実、氏に従へば、言語に伴ふ表情や、身振りや動作の如きものをも、引きくるめて言語と云ふのであるのか、或は更に沈黙とか人間の存在そのものとかが、相手に何等かの言語と同じやうな影響を及ぼすものとして、このやうなものをも引きくるめて言語といふのであるのか、甚だあいまいであつて、これらの点が明かにならなければ、恐らく国語教育の本質的領域、或は国語教育の目的をも決定することは困難ではないかと思ふのである。 綜合的な、未分化の感情表現から言語表現が分化し、音声或は文字を枢軸とする表現のみを言語と限定して考へるやうになつたことは、言語表現の目標を考へる上に極めて大切なことであり、言語がこのやうに純粋に言語的になることによつてのみ、人間文化の発展に寄与することが出来るのであるから、国語教育の目標もまたこのやうな、言語表現を言語表現として純化させる努力訓練の上になければならないのではないかと思ふ。例へば、悲しいことの表現に、ただ「悲しい悲しい」と泣きながら身もだえすることが言語表現として好ましい状態であるかと云へば、云ふまでもなく言語表現としては、「悲しみ」を何らかの言語的な形に於いて表はして他人に自己の悲しい所以を伝へることでなければならない。そこに言語表現の目的も訓練もなければならないと考へられるのである。 次に、西尾氏は、国語学や言語学に於ける言語の本質規定を以て、発達の最終段階に於ける言語の規定としては該当するが、今日の段階に於いては、言語は未だそのやうな状態には到達してゐないと考へられたのは、国語学や言語学の言語の規定を誤り考へられた結果ではないかと思ふのである。既に述べたやうに、国語学や言語学に於ける言語規定は、具体的言語に於ける本質的領域と、それに随伴するものとの境界を明かにしようとしたもので、個々の具体的言語に、裏情や身振りや動作が伴つて表現が完成される場合があることを否定しようとしたものでないことは明かである。ただそのやうな場合には、身体的なものを借りて表現が完成されるのであるから、言語表現としては不完全なものであると云はなければならないのである。氏の云はれるやうに、それは実態であるには違ひない。しかしそれが言語表現として基本的形式であるか、理想的形式であるかといふことになれば問題であらうと思ふのである。国語教育の理念は、そのやうな実態を実態として肯定するだけでは出て来ないのであつて、それにはどうしても言語といふものは如何なるものであるかを考へて来なければならないのである。 七 私に於いては、人格的活動の異つた表現様相として考へたものを、氏は音声言語を地盤として、それの発展段階として考へられた。私に於いては、国語教育の任とするところのことは、異つた表現様相に応ずる夫々別個の訓練であると考へたのに対して、氏は、音声言語を地盤とするそれの発展段階と考へるところから、国語教育の出発点は音声言語の教育になければならないと考へられた。ここに音声言語の重視といふ氏の意図は充分に認められたにも拘はらず、文字言語や芸術的言語の特殊な意義といふものは、それらが、ただ音声言語の発展にあるといふことだけが明かにされた以上のことは見出されなかつた。問題はむしろ、人格的活動の種々相としての文字言語や芸術的言語の特殊相が明かにされねばならないことではなかつたかと思ふ。それこそ正しく言語の実態の認識なのである。もし言語の実態といふことを右のやうな意味にとるならば、音声言語が、文字言語の地盤となるよりも、むしろ逆に文字言語が音声言語の地盤となる場合すらあることを見逃してはならないのである。氏に従へば、話手聞手から成立する話し言葉は、更に講義、講話、講演等の独話形態を、又聞答、対談等の対話形態を、更に討義、討論、協議、鼎談等の会話形態を、その特殊形態として発達させてゐると云はれる(言語とその文化二二頁)。しかしながら、少し深く考へて見るならば、これらの特殊形態は、文字言語の特質を加味しなければ、或は文字言語に於ける表現態度や、蓑現技法に基かずしては、到底それを完成さすことが出来ないのを知るのである。文字言語の態度とか技法とか云へば、例へば、表現に於いて論理的脈絡を整へるとか、感情や主観的判断を出来るだけ避けるとか、相手の理解を考慮して、説明に委曲を尽すとかいふことであつて、音声言語に於いては、表情や身振りや動作に訴へたものを、ここでは出来る限り言語によつて表現しようとする態度である。これらの話し言葉の特殊形態は、文字言語に於ける修練によつてのみ完成されるのである。講義や問答や討議に於いては予め草稿や覚書を作つてこれに臨むといふ実情を見てもそのことがうかがはれると思ふのである。今日ラジオを通じてなされる音声言語についても同様なことが云へるのであつて、文字言語が常に音声言語の地盤の上にのみ発展するといふことは単純には云ひ切ることが出来ないことを知る必要があるのではなからうか。文化の発展に対する文字言語の特殊な機能を明かにし、それによつて、音声言語を整へて行くといふ面も重要なこととして見逃してはならないことであらうと思ふ。 八 以上、私は西尾氏の「ことばの実態」の説を吟味して国語学の立場から、これにお答へして来た。そして氏が「ことばの実態」を国語教育の出発点としようとされる真意がどこにあるかを忖度することによつて、氏の説に訂正を加へることを試みた。それによつて国語教育の体系を方法的に合理化することが出来るのではなからうか、又それによつて国語学を国語教育の基礎学とすることも出来るのではなからうかと考へたのである。私は西尾氏が国語教育を文学教育としての偏向から救ひ、又国語教育に於いて、話し言葉の指導が軽んぜられて来たことを指摘せられて、常に国語教育の欠陥に対して適切な指導をせられて来たことに対して全幅の敬意を捧げる一面、氏がそれの裏付けとして示された言語理論が、或は国語教育の将来に氏の意図に反した結果を生みはしないかを恐れるあまり、この一文を草して来た。もとよりそれは私の言語観から割出されたことであり、それには、氏の所説に対する私の見当違ひもあることであらう。それらに対しては、西尾氏並に大方の御叱正を乞ふ次第である。 (昭和二十二年九月三十日) 『国語と国文学』24巻12号