約 461 件
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/39.html
1 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/14(火) 13 26 14 ID cwVjzMAO0 中国の長い歴史の中で登場した数多くの武将たちの中から、特筆に値するであろう名将百名を選ぼうというスレです。 要は作家の田中某氏の著作「中国武将列伝」と同じ企画ですが、田中某氏の評価に従う必要はなく、各人それぞれの 評価によって、百選に入れるべき武将を推挙して下さい。 ・推挙する武将については、その理由を述べること。 ・対象となる武将は、近世以前の武将とし、近代以降の軍人は含めない。 ・対象となる武将は、特定の時代に偏らないように配慮する。 以上の三点に留意して、中国名将百選を決めましょう。 2 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 05 37 ID KM7ddCw40 君は含まれるの?それとも臣だけ? 軍師、謀臣はNG? 3 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 08 32 ID YBw/bV9U0 それも含めて、まずは話し合ったらいい。 4 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 44 50 ID yQpFrdGM0 個人的には皇帝もいれるべきだと思う。全ての創業の君主が歴史に名を残すほどの軍才を 示したわけでもないのだから。 あとはどこまでを中国の武将とするかの範囲が必要。 例えば外国人だが中国本土(これも定義が必要か?)で活躍した武将や、逆に漢人だけど 中国の外でのみ活躍した将はどうするのか? 前者だと耶律休カを入れるのだったらアヘン戦争、太平天国戦争で活躍したヨーロッパ人 はどうするのか?後者だったらイル・ハン国の郭侃とか。 5 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 14 47 41 ID jchs3O4hO 田中の百選は電波がきつ過ぎたからな 趙雲入れようとしてたし 6 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 15 07 58 ID YBw/bV9U0 範囲は、白蓮教の乱までにしたらどうか。 7 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 18 47 07 ID 1kk6Cs2h0 5 いい加減その電波をはねかえせよ。 いつまで引っかかってんだ。 それはともかくとして… 中国というものの範囲だけど、土地的なもので言えば「中華本土」と呼ばれる範囲とするが、中華王朝という枠組みで、漢化政権あるいは中国風の国号を用い、なおかつ中華本土内に領土のある政権、とすればよくはないか? 南詔とか西夏はどうなるんだろ… 詳しい人がいれば入ってもよさそうだけどね。 その規範でいけば、チンギス・ハーンの蒙古は除外するけど、中国風の国号となったフビライ・ハーンの「元」は含む。 また、女真は含まないが、「金」は含む。 あるいはキタイはだめでも「遼」はいい、と。 でないと、北魏はおろか隋や唐まで含まないなんてことになりそうだから。 漢民族だけが中国人ではない! で、国籍は出身国というより所属国で判断すればよろしいかと。 高仙之や李光弼は「中国の名将」としてランキングされるが、郭侃などは紹介はされてもランキング除外、とか。 そんなところでどうかな? 田中ヨッシが先鞭をつけているだけに、そうそう違う武将が出てくるとも思えないけど、どういう判断で紹介するのか興味深い。 8 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 18 57 59 ID yxgR08jb0 とりあえずみんなで何人かづつランクイン入りすると思われる人物の名前を上げていくか? いきなり100人づつ上げていくわけんもいかんしw 9 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 00 31 ID jchs3O4hO 中原指向を持つかどうかで分けた方がよい 渤海や遼、西夏などは広義における中国文化圏と言えるけど 支那の地に入って中華帝国になろうとしなかったから中国じゃない 金や清は歴とした中華王朝 要は支那兵を率いれば中国の武将扱いでいいだろ 契丹人やモンゴル人を率いた武将が中国武将とはいえん 逆に異民族出身でも漢人を率いてれば中国の武将だ 10 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 12 30 ID 1kk6Cs2h0 9 でもなぁ、遼は間違いなく中国兵を率いているぞ? 趙延寿や楊袞(名将とは言えにくいが)などは燕雲十六州に鎮した将だし、遼はキタイと漢人とを住み分けしてもいたし。 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 11 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 28 22 ID 2mD79BmXO 9 でもさ、中華戦線のモンゴル軍の中には漢人も多いんじゃなかったか? (モンゴルは現地の兵をよく使うし) 12 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 35 28 ID yxgR08jb0 10 二十六史にある以上、中国としても問題ないと思うけどなぁ。 それも一理あるが、やはり遼や金を中国にいれるのは抵抗あるなあ。 13 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 37 28 ID 1kk6Cs2h0 12 名前に抵抗あるわなw 耶律とか述律とか完顔とか… それはわかるが、それだと漢人マンセーな田中ヨッシ風味満載になって、おれは構わないが、アンチが沸きまくると思うけどな… 14 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 19 43 36 ID yxgR08jb0 13 ただ抗金というジャンルがあるからね。 他の時代なら異民族の王朝だってほとんど違和感ないんだけど。 先入観かな? とりあえず境界は曖昧にして名前を上げつつ論じていった方がいいんじゃないか? 15 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 20 31 35 ID jchs3O4hO 中国戦線における元の将はもちろん中国武将ですよ でも漢人でも西域で西域の兵で戦ったら、その戦績を中国武将としてカウントするのはアウト 郭侃は中国戦線の功績だけ評価 16 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 21 39 04 ID yQpFrdGM0 所属国家というか王朝で判定するという手もある。 まず基本二十六史の大部分はそのまま認める。 で、遼とか金とか元とかは部分的に認める。中原進出を果たして以降を認める、 とか(これだと遼は除外だな)。 さすがに南詔とか西夏は外国でしょ。 17 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 36 32 ID YBw/bV9U0 まずは、細かいことにこだわらずに、自由に名前をあげていってはどうか? そのうち、自然とまとまっていくだろう。 18 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 41 17 ID FiGiSZS30 自治のような流れだなおい 19 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 54 04 ID 1kk6Cs2h0 とりあえず、 16で異議なしとする。 20 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 22 58 12 ID 2mD79BmXO 16 ヌルハチやホンタイジは駄目って事か 21 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 23 02 53 ID 1kk6Cs2h0 残念ながら切るしかないよな。 これってたしかに自治のような問答になってるな…w まここは、ズバっと切り裂いてしまおう。 で、それぞれ得意な分野・時代があると思うが…? 22 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/14(火) 23 11 30 ID YBw/bV9U0 だから、まずは、これという名前を挙げていこう。 それで、百選に入れるに相応しいかどうか議論する。 とりあえず、明代より、武将?な于謙はどうか? 23 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 00 42 00 ID h1iyOIfd0 墨子を入れたい 24 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 02 36 59 ID MH53qoBd0 ヌルハチを敗死させた明の袁祟煥は、入って当然なので俺的に心配が要らなくて助かる。 鄭成功とか名ばかりのより優先権がある。 25 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 09 49 40 ID DowRg+mm0 関羽のような実績は史実においてはそれほどでもないが、後代の創作や信仰の影響大である将軍はどう扱うの? 26 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2006/11/15(水) 10 04 50 ID 3SWE8QAF0 24 確かにヌルハチは袁祟煥の新型大砲の破片をくらって死亡してるからな。 清朝初代皇帝を殺してる袁祟煥は100人に入れてまったく問題ないと思う。 というか、これほどの功績を立てた武将って他にいるだろうか。 27 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 10 21 49 ID 3QntCpK40 しかし百って多いなw 一人で垂れ流すならまだしもw 28 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 11 45 12 ID JqGXKrAc0 ひきこもりの過酷さを思えば、数年単位で籠城を果たした人は 降伏の如何に限らず、文句無しで名将に推してもいいんじゃないかとは思う。 29 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 12 47 13 ID wfX1flJU0 28 呂文カンなんかはモンケ・ハーンが四川に攻め入った時、兄の下で働いていたりするのだろうが、 救援に行った時にあっさり退けられているのを見る限りだとあまり強いようにも思えない。 やはり、なるべく長く、広い範囲で戦い、さらに高い勝率を保持している連中を優先するべきでないかと とりあえず、 16の基準だとモンゴルはジェベは駄目で、スブタイはOK、て感じかな? それじゃあ、元朝のモンゴル将軍を適当に トゥルイ(チンギスの四男。金朝を倒した際の主力軍司令官で、金主力軍を殲滅した) スブタイ(モンゴル帝国最強と名高いおっさん。活躍の主な舞台が中央ユーラシアやヨーロッパなのが微妙だが) ウリャンハタイ(スブタイの息子。ベトナムの陳朝を朝貢させたり、一万かそこらの戦力で南宋を南北に突っ切った) バヤン(南宋を滅ぼし、中央ユーラシアでフビライのライバル・ハイドゥと渡り合った) とりあえず、この時代なら他に誰を切っても入りそうな面々を並べてみました。フビライの軍事能力はこの面々と比べるとかなり見劣りするし 30 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 13 22 10 ID 7VNkZOK80 なんか切り方が不自然だな。。 っていうか金を中国に含めないとかって田中厨の香りがプンプンする。 31 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 14 19 37 ID hqzFzTu30 じゃあどこまで区切るんだ? 吐藩なんかまで加えたらまた問題だろうし 32 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 14 24 03 ID M8Yjj2bc0 なんだかんだで、田中の中国武将列伝と半分以上は重なるだろうな。 33 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 06 19 ID vdBHZZuN0 俺的には神話や現代中国(中華民国and中華人民共和国)も含めていいと思うな。 34 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 20 13 ID vdBHZZuN0 俺の知っている時代の範囲から一通り推挙するよ。 楽毅,呉起,白起,田単,韓信,項羽,謝玄,李克用 35 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 22 56 ID vdBHZZuN0 三国からは司馬懿,周瑜 36 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 15 34 19 ID Q9gLDeT+0 じゃ、北宋から范仲淹と狄青を推薦。 37 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/15(水) 15 48 36 ID y2nd5Huh0 http //ishinoue3.servebbs.com/uploader/src/up0188.jpg http //ishinoue3.servebbs.com/uploader/src/up0189.jpg 38 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 15 52 44 ID fsKxhlJu0 さっそく田中を貶める輩が沸いている、言わんこっちゃない。 文句つけるだけでスレにも沿わないのはただのバカということで。 【時代】晩唐 【名前】李存孝 【所属】晋 【理由】晋軍の主砲として、少数精鋭騎兵を率いて潞、邢、シ名、磁などの重要拠点を次々と陥とし、一騎討ちにおいても勝利し続けた。 ただし、逆ギレ八つ当たり略奪や、敵方への寝返りなど、潔癖あるいは完全無欠とはいかない。 【時代】後梁 【名前】李嗣源 【所属】晋 【理由】後梁との争覇戦激化の最中、幽州に侵攻してきた契丹軍に対し、倍道兼行して救援に向かい、契丹後で怒鳴りつけつつこれを蹴散らした。 また、横衝隊と称する部隊を率いたので、李横衝と呼ばれ神出鬼没な用兵とあいまって、晋王軍の切り札とされた。 【時代】後唐 【名前】郭崇韜 【所属】後唐 【理由】晋のころから、軍務に政務にとその才をいかんなく発揮し、後唐建国の功臣第一とされる。 特筆すべきは、前蜀討伐のとき。 総大将はかたち的に魏王である李継岌だったが、実質は郭崇韜が指揮を執っており、進むごとに敵をやぶる快進撃っぷり。 その下で実戦部隊を掌握した康延孝の存在も無視できないが、帷幄にあって謀をめぐらし、わずか70日で四川軍閥を平らげた。 ただし、その直後宦官の嫌疑によって誅殺され、不名誉な死を遂げた。 【時代】後周 【名前】劉仁贍 【所属】南唐 【理由】後周世宗の江北侵攻のとき、要衝・寿州を守り、世宗を苦しめた。 味方の不甲斐なさに憤り、病に倒れるが、死ぬ直前までその精神力で寿州城を守り通した。 劉仁贍の死によって、南唐は絶息の一歩手前まで叩き落されることになる。 39 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 19 20 42 ID JqGXKrAc0 韓信は文句無しで百人に入るよな。正直、こいつは凄すぎて褒め言葉に何を言えばいいのかワカラン。 40 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 21 04 33 ID 3SWE8QAF0 39 ,、‐ "  ̄ `` ‐- 、 /イハ/レ /V\∧ド\ / ^ ´ i、 \ ‐ 7 ハ ハ |ヽ ;、 丶 / /!i /|/ ! ヾ リハ |;!、 l /´7 〃|!/_,,、 "゛_^` `‐ly ト /|;ィ N,、‐ ゛_,,.\ ´ "" ヽ !;K ! |ハト〈 ,r "゛ , リイ)| `y t ヽ // ! ぃ、 、; ==ヲ 〃 ` へ、 ` ‐ ゜ .イ 「韓信は凄いと言えばいいと思うよ」 `i;、 / l 〉 ` ‐ ´ l`ヽ / ! レ ヽ_ _,、‐7 i| i´ l ` ‐ 、_ ,、-‐ "´ ノ,、-、 / 、,_ ,.、- {,ヘ 、_ `ヽ、_ / i ,、イ ∨ l.j__,,、..-‐ - ;」,ハ、 、` ‐、_ ,`ヽ / l ,、‐ ´ // ,/! ;、--ァ / `` ‐ ` 7゛ , / l i ´ く ; l / / / , / ! l \ ; l , / i/ , 41 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 22 56 24 ID 4OibmrCs0 とりあえず各時代から十名ずつ選んでみよう。 春秋時代 戦国時代 秦時代 楚漢戦争時代 前漢時代 後漢時代 三国時代 両晋時代 南北朝時代 隋・初唐時代 唐時代 五代十国時代 宋遼金時代 元時代 明時代 清時代 42 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 02 34 ID h1iyOIfd0 秦や三国志や両晋などから10人って無茶ですぜ、ダンナ 43 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 47 46 ID T4ruAg3pO 一応参考までにヨッシーの百選を 春秋時代 1孫武 2伍員 3范蠡 4趙無恤 戦国時代 5呉起 6孫濱 7楽毅 8田単 9廉頗 10趙奢 11魏無忌 12李牧 秦~漢楚争覇時代 13白起 14王翦 15蒙恬 16項籍 17張良 18韓信 前漢時代 19周亜夫 20李広 21衛青 22霍去病 23趙充国 24鄭吉 25陳湯 後漢時代 26トウ禹 27馮異 28岑彭 29馬援 30班超 31曹操 32関羽 33周瑜 三国時代~両晋時代 34司馬懿 35陸遜 36トウ艾 37杜預 38王濬 39陶侃 40祖逖 41謝玄 南北朝時代 42檀道済 43韋叡 44楊大眼 45斛律光 46高長恭 47蕭摩訶 44 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/15(水) 23 52 00 ID T4ruAg3pO 隋唐時代 48韓擒虎 49劉方 50張須陀 51李靖 52李勣 53秦瓊 54尉遅恭 55蘇烈 56薛礼 57王玄策 58裴行儉 59高仙之 60郭子儀 61李愬 62李克用 五代~宋遼金時代 63王彦章 64周徳威 65曹彬 66楊業 67耶律休可 68穆桂英 69狄青 70宗沢 71岳飛 72韓世忠 73宗弼 74虞允文 75孟キョウ 76完顔陳和尚 77張世傑 元明時代 78伯顔 79郭侃 80拡廓帖木児 81徐達 82常遇春 83姚広孝 84鄭和 85于謙 86王守仁 87戚継光 88エン崇煥 89秦良玉 90鄭成功 清時代 91多爾袞 92明亮 93楊遇春 94李長庚 95関天培 96僧格林沁 97李秀成 98石達開 99劉永福 100候補 趙雲 沈光 王式 劉キ 呉リン 宗望 李文忠 なんか見にくくてすいません… 45 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 00 03 35 ID iuNqv0hS0 知り合いの中国人は断然安禄山って言ってた。あっちじゃ評価高いのか? 46 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 06 33 ID lqij+qXT0 春秋戦国時代の戦争とはるか後代の戦争では形態が違う感じなので一概に比較できない気がするなあ。 47 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 10 05 ID 9XAWhsQa0 46 その比較がそもそもナンセンス。昔の時代で上手くやった奴は今の時代でも適当に上手くやれるさ。 48 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 19 35 ID AnPXP3PC0 いつ見ても、両晋南北朝期の異民族武将が少ない 石勒、石虎、王猛(あ、こいつは違う)、慕容恪、慕容垂、拓跋珪あたりは ガイエの大好きな韋叡と比較しても、何ら遜色ないのに…… 桓温、劉裕がいないのも違和感ある もしかして人格も選考項目に入ってたのかな? 上記数名は人格がブラックホールなみに暗黒空間だからそりゃ選考外になるな 49 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 00 26 50 ID chwNDKJt0 48 田中の意見は聞いてない。 なぜそこで人物を挙げないんだ? 挙げたら紹介する、これ基本。 50 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 01 03 45 ID koXVh3E50 冉閔もいれよう 51 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 01 04 33 ID fOZOO/nn0 43-44 劉秀、劉裕、李世民、柴栄、朱元璋、朱棣あたりが入ってないってことは、皇帝は除外したのか? まあ親の遺産を受け継いだ皇帝はともかく、己の力で王朝を創始した武将は入れてもいいんじゃないかな。 52 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 03 12 01 ID sPz0sb8O0 一応田中芳樹の百選では 皇帝は除く 軍事的業績より政治的業績が大きい人物を除く 清朝滅亡後の近代の人を除く あとは名将の条件として 異民族の侵略を退けた 現実に天下統一を成し遂げた(それに関わった) あと例外として 異民族であり制服王朝の樹立に功があった 独創的な軍事行動によって歴史を動かしたり時代を象徴する存在となった こんなところか。 ぱっと見でも、この条件から外れている人物がいるよなあ。 53 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 03 12 02 ID 0gVNQWtkO 48 確か入れてたはずだな 51 君主や政治家は選外になってたはず 54 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 09 11 23 ID I7l2r3sB0 三国志に置ける候補: 魏: ○曹操:同時代で言えば実績は他に比べ一歩リード。赤壁、その後の漢中戦で勝ちきれなかったため統一を逃す。 ○司馬懿:孟達、公孫淵討伐はお見事。が対蜀、対呉は意地悪い言い方をすれば現状維持が精一杯。 ○鄧艾:対蜀戦線で姜維を完封。征蜀戦においても姜維をくじき、本隊が足止め食ってる間に成都を陥とすなど功抜群。 △司馬師、司馬昭:それぞれ毋丘倹、諸葛誕を平定。対蜀・対呉戦線を含めての統括者としての能力は高し。 △曹仁:攻めて良し、守って良しの名将。ただ守りに入った時の粘りは特筆ものだが、江陵においても樊城においても独自に打開は出来てない。 △張遼:合肥だけでなくその勇猛さで何度も功を上げる。 ×他満寵、徐晃など候補多数。 呉: ○孫策:はじめ寡兵で持って他勢力を討ち、瞬く間に江南の地に孫呉の礎を築く。 ○周瑜:赤壁で曹操を挫き、曹仁守る江陵を陥とす。こいつがいなければ三国時代になってない。 △呂蒙:部将時代の勇猛さもさることながら2度に亘る荊州侵攻戦で見せた知略と実行力は一流。 △陸遜:夷陵で劉備を完封。対魏戦線においては可もなく不可もなし。 △陸抗:守成の時期の将軍だが、西陵鎮圧の手腕は名将の名に恥じない。しかし蜀降伏時に永安を抜けなかったのはなあ。 ×他孫堅など。 蜀: △劉備:一流どころに比べると戦績は落ちるが、歴戦の将としては蜀としては随一。 △諸葛亮:北伐は志半ばに終わるも、こと会戦に至った時の強さは特筆物。 △姜維:大勝を上げることがあるも多くは企図を果たせなかった。ただし、その機動力には目を見張るものがある。 △張嶷:馬忠の片腕として南蛮平定に尽力。蛮族相手とは言え知略に武勇に活躍。 ×他張飛、王平、魏延など。 その他勢力、後漢、晋は割愛。 ○が候補、△×は落選。 呉において周瑜が候補にあって呂蒙・陸遜が落選なのは対魏での功績による。 陸抗の西陵鎮圧については晋の侵攻を防ぎつつの鎮圧であることを考えれば候補に入れても良いかも。 雑なところもあるけど勘弁ね。 55 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 10 22 38 ID d/LRvGyi0 ガイエの百選に光武帝陣営から鄧禹が入っているのに、呉漢と耿弇が入っていないのが納得いきません。 この二人は光武帝陣営では間違いなくTOP2の名将だと思うのですが。 鄧禹は戦術戦略ではなく、むしろ人事担当の人で、到底百人の中に入る人とは思えません。 56 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 10 28 14 ID HuT/SgV/0 田中芳樹マンセーでヨッシーとか呼ぶきもい奴の主張 『田中の本が気に入らないなら読まなければいい』 『田中を批判しているようなヤツラが作家になって、自分の言が正しいことを証明すればいいんだよ』 【隋唐演義】 田中芳樹 【徳間書店】 ttp //hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161872878/ 上のスレで集中砲火にあい、このスレに逃げこんでおります。 田中芳樹を批判すると脊髄反射のように上述のように喚くので注意。 57 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 11 50 07 ID SiQqzkT90 43-44 春秋戦国以外は知らないが、まるでダメだというのはよくわかる 58 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 12 30 53 ID chwNDKJt0 55 鄧禹は事実、大敗してるしねぇ。 名将に入りはしないが、光武帝陣営には欠くべからざる人物であることは間違いない。 そういう選定の仕方であればまだよかったかもしれないが、岑彭にならぶ名将とされると、勉強不足を指摘するしかない。 呉漢は所業においてゆずるとして、なぜに耿弇が… 彼は若くして名将たるの手腕を発揮して、なおかつ第一線から退くという、どうみても田中ヨッシの好みのタイプなはずなのに。 ましてや、上谷太守の御曹司とくれば、美形であったのではなかろうかという妄想だって入る余地が大きい。 それ以外のところでも、唐末五代では周徳威と王彦章だけ? おいおい。 知らないというより、出し惜しみしていると曲解してしまう(自分が短編書いてる最中だから)。 五代に関しては、 38だけじゃなくて、もう少し足してみようかと思います。 それで、誰をランキングさせるかは、 56あたりの有識者にお任せしよう。 59 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 12 57 03 ID XU+WJy990 田中芳樹は、神話の時代で不確定だからと春秋から開始したけど、 ここでは太公望を入れたい。 60 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 13 05 22 ID zctZD3M5O 確かにヨッシーの言うとおり呉漢は何度か虐殺略奪を行ってるけど 他にランクインしてる白起、項羽、曹操だって虐殺をやってる 何故その三人はよくて呉漢はダメなんだろうか 基準がよく分からない 61 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 13 29 26 ID 3NqHV1bh0 不確定ってことだったら、穆桂英もかなり不確定なんだけどなあ。 62 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 14 16 04 ID chwNDKJt0 ヨッシー個人の好みと、中国ではこんなのが人気なんだぜ、お前ら知らんだろ、というのと、やはり中国人にとっての知名度… そのあたりなんでしょうよ。 45さんの言ったように、安録山なんかも入れてもいいのだけどな。 100人に絞ってしまうと、大方が武将列伝にかぶるのはしょうがない。 そこで、名将、名臣、あと帝王あたりでカテゴリーわけするのもいいかも? 63 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 22 40 ID koXVh3E50 43 范蠡・趙奢・蒙恬・張良・周亜夫・トウ禹・関羽・蕭摩訶・李愬・姚広孝・鄭和・于謙・王守仁 十四人は確実に開いたな 64 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 43 11 ID chwNDKJt0 開いたって? 65 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 16 53 29 ID 0gVNQWtkO 64 こいつらは確実に選外になるって言いたいんでしょ 田中選の99人と殆ど同じになるとか言われてたから まあ名軍師や名参謀ではなく名将として張良入れるのは納得できないっていうのは同意だが 66 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 17 31 12 ID chwNDKJt0 65 そういう意味ですか。。。 張良は、まぁそうだろう。 しかし、蒙恬、周亜夫、李愬もダメか… できれば、どうしてそう思うのか教えて欲しいところだが。 67 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 26 21 ID UD5gw58wO 呉楚七国の乱はほぼ奴らの自壊だし周亜夫が外れんのに異論は無い 王守仁も寧王の一戦だけで百人に選ばれるにはつょっとな それこそ明には李文忠や藍玉、兪大南犬や胡宗憲いるんだし 68 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 49 08 ID sPz0sb8O0 63ではないが、私もそのあたりが外れるのは同意。全部じゃないけど。 芳樹の百選は実績よりもその勢力を代表する人物として挙げられているのが多い。 すでに名前が出ている鄧禹がそうだし、関羽も実績をみるととても挙げられない。 范蠡、張良、姚広孝は参謀、于謙は名臣列伝の人でしょやっぱ。 蕭摩訶は十分つよいけど、この人は誰かに使われてなんぼだと思う。歴史的に何か 大きな影響を与えたわけでもないしね。呂布みたいなもん。 蒙恬は鄧禹と同じで、政権の重要人物であっても具体的な実績がねえ。 周亜夫、李愬は国家を安定させた功績を認めて入れてもいいと思う。 鄭和は…指揮統率力は文句なしだが、これを軍事活動とみるかどうか? 69 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 18 53 10 ID sPz0sb8O0 追加 あと抜くべき人物としては 王玄策、穆桂英、虞允文、秦良玉、鄭成功、劉永福 このあたりか。 70 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 21 59 ID chwNDKJt0 なるほど。 周亜夫はともかく、李愬あたりをどうするかは、もう少し藩鎮仕置きの経緯を眺めないとなんとも言えませんな。 今現在では、淮西平定の勲功をもってするが… で、結局、皇帝などは含まないことにするのだろうか? とすると、やはり唐末五代は選抜が難しくなるし、一段下がる観は否めないなぁ。 71 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 40 10 ID sPz0sb8O0 皇帝はいれていいと思うけどねえ。唐末五代もそうだが、東晋末十六国の連中が。 72 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 19 51 26 ID I7l2r3sB0 71 100選だと25史基準なら各時代4人くらいしか上げられない。 乱世の時代の皇帝に成り上がったヤツとか入れるとあっという間に100をオーバーしちゃうからなんらかの制限はやむを得ないんじゃないかな? 73 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 19 55 30 ID 9PN2UtxG0 各時代4くらいとなるとここの住人がひけらかしたいマイナーな奴はほとんどアウトだな。 74 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 20 04 54 ID 3NqHV1bh0 73 んじゃ、表の100人とマイナーな100人に分けるってのは?w 75 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 20 05 09 ID 6hQtLBSM0 織田信長 チンギスハーンこと、テムジン。 他に中国の英雄って聞かないな…ってか、中国ってどこにあんの? 76 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 20 57 28 ID zctZD3M5O 皇帝に即位した人物を除外ということになると 曹操や宇文泰みたいな事実上の創業者であっても皇帝に即位してない奴は有りなの? 77 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 05 25 ID x454C0+E0 孫子って孫子の著書は高く評価されているけど、 武将として何かした人ではないよね? だから孫子は外すべき。 75 元朝を開いたクビライなら未だしもテムジンはモンゴル人だし、 元朝を開いた訳ですらない。 中国英雄にカウントするのは難しいのではないの? 78 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 28 16 ID /owm887r0 皇帝は入れた方がいい気がするな。 77 でも、その元朝の前身を開いたわけだから、入れてもいいんじゃないの。 79 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/16(木) 23 44 06 ID 0oMTvrfI0 皇帝は皇帝で、10~20選していけばいいんじゃないか? 80 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 12 36 ID BtxdAmoaO 77 名義的にはイェケ・モンゴル・ウルスがダイオン・イェケ・モンゴル・ウルスに変わっただけだぞ それにクビライだって間違いなくモンゴル人でモンゴル帝国の皇帝だし この場合モンゴル帝国が中華帝国を取り込んでいるだけだ 81 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 17 13 ID QztdyMPq0 取り敢えず、ここら辺は確定だと思うもの 光武帝 李世民 朱元璋 永楽帝 康煕帝 (統一王朝の皇帝でかつ名将) 項羽 石虎 慕容垂 劉裕 蕭道成 宇文ユウ 李克用 柴栄 (分裂時代の強国の皇帝で名将) 韓信 呉漢 李勣 曹彬 徐達 洪承疇 (統一王朝建国の代表的名将) 祖逖 桓温 斛律光 郭子儀 宗沢 孟キョウ 戚継光 袁崇煥 左宗棠 (戦力差をはね除けて国を支えた名将) 宇宙大将軍 (2chで最も愛される名将w) 82 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 23 58 ID Sh04GUhw0 78 テムジンは中国の英雄ではないよ。 この人、中原に王朝を開いた訳でも無いし モンゴルを中心に活躍した人だからテムジンは中華英雄ではない。 モンゴル帝国=中華帝国ではないし、また違う。 テムジンは外すべき。 あと名君と名将を混合するのは止めるべき。 83 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 26 50 ID Sh04GUhw0 孫子とテムジンは外すべき。 孫子はあくまで名著作家であって名将とは違う。 テムジンはモンゴルの英雄であって元朝すら開いていないし 中国で活躍した訳でもない。 84 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 30 21 ID Sh04GUhw0 三国からは周瑜と司馬懿だけでいいと思う。 三国時代の人間ばかり選んでいたら他の時代から人を選出できない。 それと曹操と諸葛亮は武将とは違うと思う。 曹操って名君か名政治家のどちらかであって、 諸葛亮も武将ではなくて名政治家であるのならば選んでいいと思うし。 85 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 40 01 ID QztdyMPq0 三国志は 曹操は赤壁と漢中が痛すぎだし 周瑜・孫策はもうちょっと生きてもらわないとだし 陸遜はあれで領土を拡げててくれればだし 陸抗は西陵はスゴイんだけど……だし 司馬懿・鄧艾は基本的に国力で上だし と、主な候補が殆どケチが付くせいで、絶対に入るとまでは断言できない 86 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 01 40 12 ID BtxdAmoaO 82-83 ぶっちゃけモンゴルはどこから含めるんだ? 中華地帯を領有したとき?中華地帯に首都が移ったとき?中華文化と同化したとき? 初めなら中華の範囲によるが、チンギスの時代の後半とするかオゴデイの時代からかのどちらか 二番目ならクビライの時代から。三番目ならモンゴルはなしになると思うが 87 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 06 47 ID Sh04GUhw0 86 元朝を開いたクビライ以降だけを含めるべきだと思う。 モンゴルと元朝を同一に扱うべきではないし、 元朝とモンゴルは切り離して考えるべき。 88 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 18 13 ID BtxdAmoaO 87 ようするにモンケの死後にモンゴル帝国が分裂(まだ連邦的だが)したときに モンゴリアと中華地方に直接的な影響力が限定してしまった大元ウルスは中華帝国にと言っても良いというわけ? (細かい話を語り出すと絶対に纏まらないから適当な定義作って適応させた方が楽だと思うんだけど) 89 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 19 10 ID CHI7BtZZ0 81 康煕帝は世襲皇帝だからなぁ・・・実力で王朝創始or皇位を獲得した他の4人に比べると かなり見劣りする。 あと、光武二十八将から一人選ぶなら呉漢より耿弇か岑彭にしたいな。 90 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 27 08 ID Sh04GUhw0 元朝は中華王朝だけどモンゴル帝国は中華王朝とは別個の存在だからね。 中華王朝の創始者であるクビライとクビライ以降は中華英雄に含めるべきで、 モンゴル帝国の創始者でしかないテムジンを中華英雄に入れるべきではない。 91 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 51 26 ID BtxdAmoaO 90 元朝(ダイオン・イェケ・モンゴル・ウルス)だって名目的にも性格的にもモンゴル帝国ですよ ただ政権交代時の政争で西側に大ハーンの直接的な影響力が及ばなくなり、地盤が中華地帯になったという事で (だがら異民族の政権では中華帝国の定義付けがややこしくなるから、 16みたいなルール作って適応させていった方が早いって) 92 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 02 55 36 ID QztdyMPq0 89 ん、まぁソレを言ったら李世民だって世襲は世襲ですよ 有能な父と兄が居たからより活躍したけども 康煕帝はアレだけ外征してるんだから見劣りすることも無いと思うけどな どこぞの10勝皇帝とは違ってちゃんと勝ってるし 93 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 03 50 45 ID erQng9E40 兵力3万の呉軍を率いて兵力20万の楚軍を破り、楚都を陥落させた 名将、孫武に対して武将として何かした人ではないとか名著作家であって名将ではないとかよく言えたものだな。 田中選から外すべきは政治家であって武将ではない伍員(子胥)だろ。 94 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 07 12 27 ID MejN4BBU0 84 しかしそれでも、後漢末の動乱を一応治めた人物として、曹操の軍事的功績は 過小評価できるもんでもないでしょう。 95 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 07 23 51 ID q996BlU10 85 それはそれでちょっと過小評価しすぎ。 96 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 11 06 21 ID kfN7ayGBO 曹操は入れてもいいかもしれない 確かに負けは多いけど三国時代を代表する指揮官といえば曹操しか浮かばない 97 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 12 00 03 ID xjaWDLbK0 オゴタイの代ですでに金を滅ぼしてるのにその部分まで除外するとかおかしいだろ。 98 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 14 33 36 ID BtxdAmoaO 97 俺もそう思う オゴデイの時代で華北支配はなったんだから、その時点で中華の帝国になっていると言っていい 元という国号だってあれはモンゴル帝国が元という名前になったにすぎないんだから モンゴル帝国は華北支配の成立からそれを失うまでの期間を含めればいいかと (ただ、大ハーンからある程度分離したウルスは、その分離した時点で分けておくべきだろうが) 99 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 15 23 47 ID Ih508dKX0 百人って結構多いよね。 100 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/17(金) 23 23 26 ID ohSXd1rj0 名将とすると、いろいろややこしい問題が出るんだな。 英雄百選にしたらどうなるだろう? もっとややこしくなるか・・・ 101 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/18(土) 03 46 50 ID ai7xtiDW0 100 そうかもしれんね、項籍なんか名将と呼ぶには先見性に乏しく度量が狭いように思えるもんな 范増の助言もことごとく退けていたし 102 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/18(土) 23 51 03 ID 2KVJZBJD0 いっそ、各人で百人のリスト作ってみるか? 103 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2006/11/18(土) 23 58 47 ID pmvkUtfS0 各人ごとなら10人でいいって。 104 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 00 10 25 ID 0rNQUyZBO 101 項羽は確かに組織のトップとしては難がありすぎるが、将としての能力は(戦術レベルまでは)確かだ 名将が必ずしも軍事以外の分野で活躍できて、英雄になれるとは限らないし 102-103 個人が中華通史から100人挙げるのは大変だし、10人だと少なすぎるでしょ どうせ10人挙げるなら、その人の詳しかったり好きだったりする王朝・時代から10人挙げた方が良くないか? 105 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 00 51 24 ID 6DbIZCRc0 そうだね、一つの時代に5~10人くらいづつあげて紹介してもらえると、こんなヤツがいたのか なんてマイナーな人物も知ることができていいと思う。 106 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 10 24 49 ID Wxz1vDO/0 100人に絞るスレだから小粒な奴を挙げてオナニーされても困るわけで。 107 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 10 32 33 ID 9j3NaZkn0 マイナー≠小粒 108 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 13 10 48 ID QktPeHmE0 106 小粒なら小粒であげてみて、どこがいけないか、論評すればいいんじゃないか。 小粒と思っていても、人によって大きく評価する者がいるかも知れないし。 109 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 13 51 16 ID 0rNQUyZBO 106 ていうか100人以上挙げて貰わないと絞りようがない 110 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 17 22 07 ID bHZW8t1e0 106 ほんと、手より口の動くタイプだよな… ま、言ってることはわからんでもないが、小粒と判断するのもこのスレの役割ということにしないか? で、だ。 皇帝などは省くという話を蒸し返しますが、例えば曹操を例にとってみよう。 仮に曹操が皇帝だったとして、その陣営で曹操を差し置いて誰か一人代表者を挙げよ、と言われたら結構迷うと思う。 これは田中ヨッシーも言ってたことだけど… しかし、10人くらいまでなら挙げることは可能だよね? 小粒かどうかは置いといて。 夏侯淵、夏侯惇、曹洪、曹仁、李典や張遼、あと曹彰あたりも入る余地も出てくる… とか。 なにが言いたいかというと、五代後周世宗の陣営で、代表者を挙げろと言われたら、これと同質の悩みが生じるのだ。 世宗の強烈なリーダーシップで覇業に邁進するわけだけど、その陣営の司令官たちが、時代に冠絶するような名将か? と言われれば自信がない。 じゃあ小粒か? と言われれば、当時では名将の類だ、と言えるそういう連中がいる。 以下、それら。 小粒かどうかの判断は他に委ねる。 自分では贔屓目が働いて、それこそ 106の格好のエジキにしかならないから。 【名前】李重進 【所属】後周 【理由】後周太祖の縁者。郭威の頃より作戦に参与し、幾つかの進言をしている。 世宗期には節度使を兼ねつつ、禁軍の大将を努め、第一次寿州攻めのとき南唐の劉彦貞を完膚なきまでに叩きのめす。 江北平定のおりは別働隊を任され、各州を次々と平定する勲功がある。 世宗北伐の折は、淮南節度使となり新領土の鎮撫を任された。 世宗亡き後、趙匡胤のために挙兵に追い込まれ家族もろとも火中に投じた。 【名前】韓通 【所属】後周 【理由】郭威の李守貞討伐に参加し、勇猛をもって鳴る。高平の戦いののち、北面の防備を担い一度ならず契丹軍を退ける。 対後蜀相手の秦・鳳奪還戦のとき向訓の援軍として参加。鳳州を取るなど武勲を立てる。 江北平定のときは開封府の防衛と外城の建設を任され果たす。 燕雲十六州奪回のための北伐のとき、ときの禁軍は趙匡胤と二分され、水軍の趙、陸軍の韓と目されるほどとなる。 世宗が没すると趙匡胤を容認せず、早まった王彦昇のために殺された。 【名前】向訓 【所属】後周 【理由】郭威のとき潞州に配属され、北漢軍との戦いで勲功があり、高平の戦いにも参加した。精騎をもって陣中にあり崩れる味方を支えた。 勇猛さと剛毅さを世宗に買われ、対後蜀戦の大将として隴西に出兵した。 大散関に出て蜀軍と戦い膠着するも、蜀軍の糧道と退路を断って大勝した。 翻って江北平定戦に呼ばれ、淮南節度使として全軍の指揮を委ねられる。不利な状況の敵中にあって寿州城を1年ほど包囲し、再度世宗が親征するまで淮南へのくさびをゆるがせにしなかった。 世宗死後は趙匡胤に従い、李筠の討伐などに従軍し、あと幾つかの節度使を歴任後75歳で倒れる。 【名前】符彦卿 【所属】後周 【理由】父は李克用の仮子、李存審。 五代を通じての重鎮で生粋の武人。 幼い頃から騎射に通じ「符第四」との渾名を持って親しまれる。 契丹南下のとき奮戦するも味方に足を引っ張られるかたちで捕らえられるが、人物の剛毅さによって許され、自鎮に還された。のち後漢、後周と仕えた。 主に契丹との戦いで武名を上げる。後周皇后符氏の父ということから、趙匡胤からも礼遇された。 五代十国って単純に15の国として、1国に1人目立つ武将を挙げると、それだけで15人に… かといって、一つの時代でみるには、世代交代もあるし… この辺の判断は難しいか。 これでは五胡十六国時代が思いやられるかもね。 111 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 19 42 07 ID 9OQIosZb0 中国名将百選より東アジアの名将百選の方がいいと思うな。 112 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 19 57 18 ID Ki586nPRO 111 それだと日本史の人物も入ることにならない? 113 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 21 10 22 ID 9OQIosZb0 112 うん、当然入るよ。何せ東アジア名将百選なんだから。 東アジア全体から選抜すれば選びやすいと思うし。 114 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 21 19 41 ID ZrkXNwMm0 適当な時代・勢力で区切って、それで100を等分してその枠内で絞るべき。 清(後金含む) 明 元(モンゴル帝国) 五代十国宋遼金 隋唐 魏晋南北朝 後漢 前漢 春秋戦国 神話~殷周 10等分して各時代に詳しい香具師が10人挙げて詳しい香具師同士で議論すればいい。 115 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 21 45 48 ID HC3rwp8K0 http //money4.2ch.net/test/read.cgi/kyousan/1163202722/191 乱交パーティー開催!【関西地方】 116 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 21 58 40 ID /m0nm0ym0 後漢から10人も選べるのか? 117 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 22 14 24 ID 6DbIZCRc0 神話~殷周はさすがに外したら?と思う。 ただ、時代区分をもうけてそれぞれごとに議論していくというのは賛成。 で、10人に絞るんじゃなくて、10人枠に入れてもいい候補を挙げていくと。 118 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 22 22 20 ID bHZW8t1e0 無秩序でもいいから、そろそろ挙げていこうよ。 なんなの、この平行線。 119 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/19(日) 22 40 47 ID LEtdPQjk0 神話~春秋戦国 秦・前漢 新・後漢 後漢末~西晋 南北朝 隋唐 五代十国宋遼金 元(モンゴル帝国) 明 清(後金含む) 10等分にこだわってやや苦しいところもあるけどこんな感じで。 120 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/19(日) 23 35 14 ID R9h/KX1G0 周代より前は、太公望一人でいいかな? 121 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 00 05 00 ID Lsn3codY0 119 五胡十六国が消えてる……南北朝に入れろってことか? 【名前】石勒 【所属】羯族小部落-山東地方で家内奴隷-公師藩軍-前趙-後趙 【理由】西晋系軍閥の苟晞(青州)、劉昆(并州)、王浚(幽州)を悉く討ち平らげる 鮮卑段部、祖逖の北伐を撃退して関東に覇を唱えると、前趙のくびきを断ち切り自立 前趙帝劉曜と洛陽を巡り一進一退の攻防を繰り広げ、329年ついに前趙を滅ぼす 生涯に坑殺した兵卒、漢人官吏、匈奴部族、乞活集団は100万を越え、 300万人以上の漢人、胡人を強制移住させるなど、華北において暴虐の限りを尽くす その一方で仁政家の一面を持ち合わせ、評価が非常に難しい人物 軍人としてなら五胡最強、本人評では劉邦>劉秀=石勒>曹操、司馬懿 君主だが、どうしても名将にいれなきゃ気がすまん 122 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 00 15 04 ID vTAQtGq80 というか 石勒、石虎、石閔で後趙から三名 慕容恪、慕容垂で前燕から二名 十六国もあるのに、二つの国で半分を独占してしまうw 123 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 04 29 01 ID +opae4v10 太公望は政治家であって武将ではないと思う。 124 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 05 59 23 ID XPxurIiN0 戦術レベルで軍隊を指揮したか否かで分ければいいんじゃない? ここの武将百選てのは単純な軍事能力だよな それなら張良のように主君の幕下で戦略レベルで活躍した人物は外せる 劉淵or劉聡 石勒 謝艾 慕容恪 慕容垂 赫連勃勃 苻堅 王猛 個人的に十六国から挙げてみた 叩き歓迎なんで意見よろ 125 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/20(月) 06 46 55 ID Xuwy/ECtO 韓信はナンバー1でおながいします 126 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/20(月) 15 01 21 ID n6HmCdud0 永楽帝なんかもいいの? 127 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 00 11 22 ID b6r/E8hhO 石勒が一番高く評価した劉邦は百選に入れなくていいんだろうか 128 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 00 27 16 ID +v5f23T10 とりあえず、どんな条件でも絶対入るってヤツ挙げていかね? 楽毅・白起・韓信・李靖・李勣・宗沢・岳飛・孟珙・… 拙い知識故、偏った例えで申し訳無いが 129 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 00 57 11 ID 1v/odRrT0 つ 81 130 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 04 15 06 ID U5u5b7gyO 127 将の将としての評価だろうから、単なる名将としては入れなくても良いかと 131 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 05 52 01 ID bPU4XNbx0 128 袁崇煥・郭侃・郭子儀・陳慶之・班超らへんもほぼ確定じゃね? 韋叔裕・斛律光・王猛は個人的に推薦したい 132 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 07 06 16 ID s34TCRik0 田中の百撰を叩き台としてそこから外れるべき人物と替りに入れるべき人物を挙げていった方が話になりやすくない? 133 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 08 05 30 ID CmHHV0oq0 田中氏の百選で明らかにおかしい人物は誰になるだろう? 134 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 08 23 35 ID s34TCRik0 とりあえず32.関羽。 関羽は決して無能じゃないけど、劉備軍の中にあって独自に軍を動かして大功を上げたとかないから。 135 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 08 56 10 ID b6r/E8hhO ところで君主はアリになったの? それと前の方で出てた日本史等からも選ぶという案はどうなったの? 136 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 09 48 19 ID bPU4XNbx0 124で書いてるみたいなんでよくね? 自身が兵を率いて戦った将軍ってのを条件としたらわかりやすくないかい? 武将としての戦績のみでランクインするなら君主でもおk 例えば「皇帝になった」のを評価するのは評価対象外だが 皇帝になるまでの過程で「~の戦いで大勝」とかは評価する そうすれば劉裕やら永楽帝やらもランクインできるかも・・・と思うのだが そもそもガイエの皇帝になった人物は除外ってのが意味不明な分け方だし と、意見を出してみるがどうかな? 137 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 11 21 24 ID s34TCRik0 135 それと前の方で出てた日本史等からも選ぶという案はどうなったの? どうなったかは知らんが、反応が薄いということはスルーされてるんじゃないの? 138 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 12 54 31 ID b6r/E8hhO 136-137 ということは君主はアリで地域は中国に限定という事でいいのかな? だとすると長命王朝を創建した劉秀、李世民、趙匡胤、朱元璋の四人は確定でいいんじゃないかな 139 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 13 33 42 ID bPU4XNbx0 138 俺 136だけど長命王朝の創始者というのは政治的業績だと思うんだ 136でもいってるけどそういう政治力は抜きであくまで将軍としての能力でつけないと 名将ではあっても粛清された人物などが不利じゃないかなと・・・ 俺一人の意見なんで、名将百選の定義を練る叩き台にでもしてくれたら光栄です まあ、その四人は将軍としても十分名将だと思うんで異論はないんたがw 140 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 13 53 26 ID 1v/odRrT0 133 つ 63 138 趙匡胤って将軍としてはそれ程優秀だろうか? 劉邦と同じ将の将に見えるが 141 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/21(火) 16 42 17 ID /s6u8nvX0 139 その創業の4人は、軒並み超一流の戦術家でもあるから、名将に分類しても差し支えないよ。 140 趙匡胤は呂布に知恵がついておおらかになったような人物。 つまり、万夫不当の猛将でありながら、冷静さも兼ね備えた用兵家でもある。 皇帝になったあとは、劉邦のような人情家になったけど、一介の将軍のときは、それは凄まじい戦いぶりだった。 2千で3万やぶったりとか、一騎討ちしたりとか。 142 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 00 18 01 ID lwp9gOS/O 今思い付く限りで統一は果たせなかったが名将と言える君主を挙げてみる 項羽、曹操、石勒、北魏の道武帝・太武帝、宇文泰、宇文ヨウ、 劉裕、蕭道成、陳覇先、後唐の荘宗、後周の世宗… 他には誰がいるかな? 143 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/22(水) 00 30 46 ID GL8xgk7S0 142 北宋の趙匡胤。意外だが、統一したのは弟の代。 144 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 00 31 54 ID GL8xgk7S0 後金のヌルハチも追加。 145 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 03 05 58 ID 9DlPkjh00 142 曹操は帝位にはついてないぞ。 魏になったのは曹丕から。 項羽も西楚覇王とはいえ王止まりで皇帝にはなってない 146 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 03 10 22 ID DDIXYAe+O 145 そもそも項羽が皇帝制を良しと思ってたかは微妙だと思うけどね 147 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 05 19 30 ID lwp9gOS/O 145 あと宇文泰もね そう言われるだろうと思って「君主」って表現にしたつもりだったんだけどダメかな 148 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 06 08 46 ID 7APkT7MzO 金正日大将軍 149 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 07 58 00 ID 7CIG5RwY0 143 どの範囲を制して統一かにもよると思う。 150 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 17 31 29 ID uJssoiv50 147 曹操や宇文泰はその気になれば帝位に就けたのに敢えて臣下の立場を通したから、 君主扱いするのは本人が望まないだろう。 151 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 17 34 22 ID H/jdHPnR0 142 後唐の李嗣源は忘れないでくれ。名将でもあり名君でもある。 152 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 19 26 37 ID G4DYdvtx0 耶律休哥は如何だろう? 中華最強の騎馬軍団だと思う。 153 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 20 12 04 ID DDIXYAe+O 152 別に100に入れることに反対する訳じゃないが、キタイを「中華」で「最強」かと言われると…… 154 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 20 24 54 ID H/jdHPnR0 耶律休哥はふうつにランクインするだろう。 中華ではないが… 杉山センセに撲殺されかねん… 155 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/22(水) 23 43 24 ID lYP8weru0 153 あまりそういう細かいことはこだわらなくていいと思う。 お遊びみたいなものだし。 156 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 00 00 49 ID MuJdUfyUO 名将の定義ってそもそも何なんですかね? 自分は「寡兵で以て多兵を制す」 という事が第一条件と思っとるんですが 157 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 00 10 14 ID I+MVYV5bO 155 俺がモンゴル好きだから変に思っただけだ 他意はない 158 152 sage 2006/11/23(木) 00 23 59 ID 8NmFC1hT0 趣旨を理解できてなかった、すまん。 最強とかそういうのは言わない方がいいな。 159 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 06 15 44 ID DRQZSx5n0 156 それを名将の定義にしたら一体どれだけの将軍が候補から外れるんだ? 確かに寡兵で大軍破るのは評価には大きくプラスされるだろうが 160 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 16 46 31 ID LQHeYnTE0 60万の兵がいないと楚に勝てません って言った秦の王翦は真っ先に失格ですな 161 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 17 03 37 ID cJLOjJ4M0 「寡兵で以て多兵を制す」のを、そういう状況を自ら作って実行するやつもいれば(後漢・耿弇、晋・周徳威など)、相手の政治的不安や命令系統の不一致などを見越してやるやつもいる(梁・陳慶之など)。 高仙之のように、華麗な勝利を華々しい敗北でチャラにするのも存在するし。 だけど、「少数が大軍に勝った」という一事例だけなら、結構存在すると思う。 ただし、同じ将がそのまま勝ち続けることができているか、は別な話。 寡兵で大軍を破って、華々しい戦果を誇っても次には大敗、とかってよくあるパターン。 162 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 18 34 36 ID 5rs75kiF0 とりあえず、勝ち続けることの出来る将軍、ていうのが一番でないかと。 戦場や戦況は多様なんですから、勝利を収め続けることが出来るというだけで偉大です。一回や二回の大敗も、玉に瑕程度だと思います。 それに、拘りすぎると百人いかない、てことになりかねないので、基準はほどほどが一番ですけどね。 それとも、政治的、戦略的にどう見ても勝てそうにない相手を戦場の采配だけで倒してのける、ていうそれこそ世界中探しても百人いきそうにないのでも探します? 163 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 19 18 29 ID Rxa0WtZT0 敵地で平坦な地形での野戦で寡兵を持って大兵を破ったなら評価しようw 164 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 40 47 ID I+MVYV5bO まあ数がすべてというわけではないし 極端な話だが、近代装備をした軍はそんな装備をしていない軍にはまず負けない(イタ公除く)ように 士気、練度、補給、装備、地の利などによっては寡兵でも戦略的優位に立ってる場合もある 165 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 47 30 ID fKnUg09R0 状況が許さず仕方なく寡兵で戦うことはあっても 始めから寡兵で大軍に勝とうと思ってるやつは馬鹿 孫子にも「少なければ則ち能く之を逃れ、若かざれば則ち能く之を避く」とある 166 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 20 52 54 ID fKnUg09R0 まぁ野球ではよく言われることだが本当の名手は始めから 打球の方向を予測してよいポジションをとってるから ファインプレーはしないということだ 167 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 20 35 ID CLesudU10 兵法でも言う 良い将は平々凡々にやってりゃ勝てる状況を作り出せるので 見た目派手な活躍はあまり無い ってやつだ 168 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 34 20 ID esbFkjV80 騎兵1万で歩兵10万に勝ったというのは中国の歴史でも10回ぐらいはあったような… 騎兵対策をとらずに平地で戦えば騎兵がこの戦力差でも勝つらしい。 169 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 44 12 ID fKnUg09R0 168 長い歴史から見て10回という数字はかなり少ないと思うが、 まぁ武装が違えばね、武装が同じなら双方の被害はだいたいランチェスターの あの公式がほぼ正確な数字を出すらしい しかしまぁ俺の意見なら本当の名将は歴史的にスポットライトを浴びたことがない人物になるなw 君主と実戦の指揮官では立場も違うし、高度な戦術を用いて寡兵で大軍を倒した指揮官なら名将と呼べるのでは 170 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 21 57 21 ID cJLOjJ4M0 163 柏郷の戦いはまさにそれだ。 8万の歩兵相手に1万の騎兵で勝つという、戦史に記された勝利。 百戦奇略で、劉基もとりあげている。 誰の戦いかは自分で調べような。 165 まったくそのとおりだ。 軍事ロマンを語るのはいいが、それはあくまで例外。 寡兵で大軍を破るのは、ふつう非常識と考えねばならない。 勝ち続けた将軍なんているのかな? 致命的な敗北を喫さなかった、というあたりならいるが、それは戦略で補っていると考えられよう。 171 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 13 31 ID Veef+XQ+0 >本当の名将は歴史的にスポットライトを浴びたことがない人物 んなわかなかろう 確実な勝利でも勝利は勝利でちゃんと史書に残される訳だし それこそ戦国末の秦ってのは国力で他の国を圧倒してた訳で それでしっかり勝った秦の将の名前はちゃんと残ってるし、ここでも上げられてるじゃん 172 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 30 06 ID uT7wtS330 そんなことよりもっと名前を挙げて、個別に論評していこう。 173 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/23(木) 23 38 30 ID cJLOjJ4M0 わたしゃ最初からずっと名前挙げてるのに、誰も追従しないのはなぜ? 174 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 05 24 02 ID +v3YHYxZ0 170 田中はん?もしかして田中はんやおまへんか 175 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 10 45 38 ID V7rHQYkj0 張弘範は? 一国を滅ぼした武将はやっぱり名将とすべきだと思う ……っと、実質滅ぼしたのは伯顔で亡宋の三傑が相手でも残敵掃討に過ぎないか? 176 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 16 16 32 ID M+Rr1LWp0 174 いや… 田中なんて武将は知らないぞ? 冗談はおいといて。 沙陀騎兵の馳突は、あらゆる会戦のほとんどが敵より少数での勝利が多い。 李克用にしても、皇軍となって黄巣と戦ったおり、1万7千で15万を丸1日かけて撃砕したとか(五代史記-唐本紀荘宗上など)。 177 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 17 01 41 ID 298gNi5/0 175 言っちゃ悪いが、三傑もモンゴルにとってはおまけみたいなものじゃないか? 当時は帝国西側が拙い事になってたし それにモンゴル帝国が屠って来た国・政権はかなりの量になるしね 176 あまり数だけ見るのもよくないけどね 数字が不正確なこともあるし、戦略的優位は別に数だけで決まるものでもないし 178 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 17 39 15 ID 24eJS0wk0 時代で分けるよりは、1世紀に3人くらいの方が公平じゃないか? 179 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 17 59 39 ID ZR5XNFEv0 178 同じ一世紀でも治世と乱世を一律には扱えんだろ。 180 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 23 16 ID tvbUH3ce0 177 というより、三傑は本当に「名将」なのか? どうみても勝ち目がない国に殉じた、っていう情念の部分で有名になったけど。 劣勢を挽回したわけでもなく負けるべくして負けたわけで。 皇帝が降伏しちゃったのに戦争を継続して結果死人を増やしただけではないか 181 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 26 36 ID aFoe9IfI0 180 最後の一行は蛇足だと思うが、そのとおりだと思う 名臣ではあっても名将ではないな なぜかガイエは張世傑を百人にいれていたが 182 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 26 51 ID N9GGpCSa0 騎兵1万に何も対策もせずに平地でぶつかれば10倍いてもひとたまりも無い。 まして斥候も出さずに行軍しているところを騎兵に襲われたら20倍いても負けるだろう… 少数で多数を破ったとしても対戦相手が無能なら凡将でも大勝利できる。 名将とはお互いに相手を察知して不意打ちではなく正面から戦いその時代の代表的な敵国の将を相手に完膚なきまでに叩きのめすぐらいの戦果がないとだめだろう。 183 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 18 52 36 ID +v3YHYxZ0 あんまりハードルを挙げすぎると100人集まらないよ まず文句なく名将を決めて次にかなり名将、やや名将、ちょっとだけ名将と ハードルを下げていくのもいいかもね 184 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 19 17 08 ID M+Rr1LWp0 182 たとえば誰? ちなみに、柏郷での戦いは、王景仁率いる梁軍を、大軍のゆえに怯懦せず、その質がさほどではないことを見抜いた周徳威が3千ほどの歩騎で攻撃を仕掛けたけど、王景仁はこのときとばかりに一気に総攻撃をしかけた。 周徳威は8万の梁軍と戦いつつも後退し、やがて広大な平野部に誘い込み、しかも戦い続けていたので、敵兵の腹が減っていることも見越し、待機させてきた残りの騎兵をもって、完膚なきまでに叩きのめしている。 最初から恵まれた地形にあったわけでもないし、統率者である王景仁が無能でもない。こういう戦史に残される鮮やかな勝利を演出した周徳威も、後の胡柳陂の戦いでは、混乱する味方を抑えられず乱戦の中に沈んでしまった。 185 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 19 20 32 ID M+Rr1LWp0 177 数字は誇大表記が基本だしね。 五代史では、趙匡胤率いる部隊2千(うろ覚え)が、南唐李景達の2万と戦ったとき、斬首5千なのに宋書太祖本紀では1万余に水増しされているというワロス記述もある。 186 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 20 52 24 ID 298gNi5/0 172-173 単純に今誰が出てるかよくわからないから語りにくいだけだろう という事で既出人物のリストを作ってみた ・神話~春秋戦国 呂尚(西周、斉) 孫武(斉、呉) 墨?(墨家) 呉起(魯、魏、楚) 楽毅(燕) 田単(斉) 白起(秦) ・秦・前漢 楚:項籍 前漢:韓信、周亜夫 ・新・後漢 後漢:劉秀、耿弇、呉漢、岑彭、班超 ・後漢末~西晋 魏:曹操、鄧艾 呉:孫策、周瑜 司馬懿(魏、晋) ・南北朝 前涼:謝艾 前趙:劉淵、劉聡 東晋:祖逖、桓温、謝玄 後趙:石勒、石虎 前燕・後燕:慕容恪、慕容垂 冉魏:冉閔 前秦:苻堅、王猛 北魏:拓跋珪、拓跋燾 侯景(北魏、東魏、梁) 大夏:赫連勃勃 劉宋:劉裕 南斉:蕭道成 梁:陳慶之 北斉:斛律光 韋叔裕(?) 北周:宇文泰、宇文? 宇文ユウ(北周?) 陳:陳覇先 ・隋唐 唐:李世民、李靖、李勣、郭子儀、李愬 ・五代十国宋遼金 晋・後唐:李克用、李存孝、李存勗、李嗣源、郭崇韜 南唐:劉仁贍 後周:柴栄、李重進、韓通、向訓、符彦卿 北宋・南宋:趙匡胤、曹彬、范仲淹、狄青、宗沢、岳飛、孟珙 遼:耶律休哥 ・元(モンゴル帝国) トゥルイ、スブタイ、ウリャンハタイ、郭侃、張弘範、バヤン ・明 朱元璋、徐達、李文忠、藍玉、兪大南犬、朱棣、于謙、胡宗憲、袁祟煥 ・清(後金含む) ヌルハチ、康煕帝、左宗棠 洪承疇(明、清) 時代区分は 119に従ったが、複数の勢力に在籍した奴や事実上の建国者やその部下なんかは 勢力の分類に困ったんで適当だw ところで、韋叔裕、宇文ユウ、兪大南犬ってよく知らないんで誰だかわからなかったんだが 187 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 21 07 49 ID +Ir5WLM80 186 兪大南犬 じゃなくて、兪大「猷」のことじゃないかな? ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AA%E5%A4%A7%E7%8C%B7 188 186(携帯) sage 2006/11/24(金) 21 53 28 ID 3D0YGq2uO 187 そりゃいくら検索しても見つからないわけだorz 189 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 22 27 35 ID 2cNyWYaOO 100か 50毎に確定リストを更新していった方がいいと思う 名前があがってるリストじゃなくて ほぼ確定だろ?リストが何回かでてるから それがまずテンプレ で、次の 100か 50レスまでに2~5人ぐらいづつ増やしていこう 190 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 23 29 35 ID Ie5xHdgTO 宋の李顕忠 秦の王翦 191 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/24(金) 23 42 39 ID EGMyDZUi0 狄青 192 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 23 49 37 ID Z+3QIUdNO 186 個人的には好きな人物だけど符堅は外してもいいんじゃなかろうか 彼の軍事的成功は王猛の力に依る所が大きいしなによりヒ水の敗戦が痛過ぎる 193 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 27 34 ID jsisnWo/0 五胡十六国・南北朝に偏りすぎてるな。 194 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 35 47 ID 4BifWSnJ0 秦の王翦 前漢の衛青 北斉の高長恭 金の宗望、宗弼 明の常遇春 あたりは? 195 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 37 32 ID 4BifWSnJ0 とりあえず、今は候補者をガンガンだしていって数を揃えるべきかと。 んで後になって削っていくでいいんでない? 196 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 02 38 20 ID mdViCXj60 高長恭は戦績が少なすぎるとオモ 蘭陵王の話で過大補正がかかってるかと 名将には違いないが 197 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 02 42 03 ID jsisnWo/0 金の完顔陳和尚も入れてやれよ。 おまいらの好きな寡兵で大兵のモンゴル軍を破った武将だお。 198 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 07 06 24 ID PBHUP4WG0 歩兵で10倍の騎兵を破った人とかいない? いたら名将確定だけど 199 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 14 32 31 ID 6ELxZNZq0 史上最強の宇宙大将軍は当然当確だよな。 200 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/25(土) 16 42 26 ID WTJAOlZO0 192 ヒ水を理由に符堅外すなら 赤壁を理由に曹操外すべき 201 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 16 48 30 ID a64clY1X0 200 いやぁ… 苻堅はまさに淝水のあと転落するように退場したろ。 曹操はその後も最大勢力を保ったじゃないか。 202 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 17 25 38 ID O+t4uNTE0 赤壁の戦い自体が胡散臭いのだが 大敗したはずの魏の主だった武将が全然死んでないし 203 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 17 32 15 ID a64clY1X0 そういう天下分け目の戦いというわけでもなかったろうが、曹操自身その後大軍をもっての南征をしてない以上、南北統一の機会といえば赤壁の河下りということになるのだろう。 204 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 18 30 55 ID FO5X8KYBO 武将の仕事はもちろん戦いに勝つことだが、春秋戦国以降の武将の最終目的はやはり天下統一 建国の名将は実績的な面で最大評価をするべき 建国のための戦いで数多く勝利をおさめ、功績の大きい人物は外すべからず 205 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 20 05 01 ID RJlXylR30 話題が散漫になるから、時代毎に議論していった方がよくないか? その時代時代に得意な人と苦手な人もいるだろうし。 最初は春秋戦国からで、大体の候補を決めてく感じで 206 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/25(土) 20 40 34 ID mdViCXj60 それは自分の詳しい時代に差し掛かるまではROMってろと? 207 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 25 30 ID iN7+lkg5O 王翦を超える統一貢献度の高い名将などいない といってみる 208 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/26(日) 00 35 19 ID aYuH8mUGO 王翦の時は秦が他の六国を圧倒してたからなぁ 個人的には長平の戦いを勝利に導き秦の絶対的優位を決定付けた白起の方が凄いと思う 209 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 36 46 ID PjYcxhT50 嬴政は除外? 210 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2006/11/26(日) 00 39 05 ID TRtUvO3j0 名将の定義に依るかと。 211 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 40 49 ID h9FmfRDt0 209 嬴政って親征してたっけ? 212 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 00 54 39 ID yucqavKU0 王翦の凄いところは、水陸両面でオールマイティに采配を揮い、 君主の軍事的行動の要求に必ず応え、それでいて自らの生を 全うさせたことだね。 213 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 01 02 38 ID tMZdmYLG0 211 してないよ。 214 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 01 04 32 ID h9FmfRDt0 213 だよね。 上の方で「自分で軍を率いた」というのを条件としようというレスがあったので、それに従うんなら嬴政は除外されるべきだね。 215 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 02 46 30 ID iN7+lkg5O 信陵君が救援に駆けつけた趙、魏、楚連合軍に負けた (白起はこのへんで処刑されてる) その後も魏の救援に駆けつけた信陵君率いる連合軍に負け 春申君率いる楚、趙、魏、韓連合軍が秦地に侵入、函谷関まで迫った 趙では李牧に惨敗 (このへんまで六国全て残ってる) 楚では項燕に大敗 確かに秦一国抜きんでたけど予断は許されない状況 白起は確かに名将だが長平の大勝利は現実には趙括が無様な負け方をしただけ 王翦の活躍は国を、一つのまとまった勢力そのものをきちんと倒した 征服戦争をも遂行したという点で注目される この結果、中国という領域を確立させた秦帝国の登場をみる 216 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 03 01 46 ID siZxMZWd0 そういや、リストに李牧がいないな。さすがにこいつは外せないだろう。 あと個人的には宋のチュウ師道と金の僕散忠義を推す。 217 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 05 16 30 ID AVEMiy6a0 白起が処刑されてるとか 長平の戦いを趙括が無様な負け方をしただけとか 物凄くバイアスを感じる 218 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 05 51 26 ID PjYcxhT50 その鬱憤を日本にぶつけられても困るよな 219 ↑ sage 2006/11/26(日) 05 51 57 ID PjYcxhT50 すまん。誤爆だ 220 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 06 18 17 ID d1YGtSzc0 215 後半のまとめはガイエの武将列伝まんまじゃないか・・・ 確かに王翦は秦代随一の名将だと思うが・・・ 戦国時代で楽起・白起・王翦・魏無忌・李牧あたりはほぼ確定かな? 田単を推す声もあるけど俺的には百人に絞るとランクインは苦しいと思うんだがどう思う? 221 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 08 46 38 ID qhzh+sRx0 212 戚継光 222 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 08 52 35 ID siZxMZWd0 220 いいたいことは判る。 田単こそ、田中芳樹がいう「平均点が出しにくい」武将だと思いますよ。 陸遜を削る理由にあげたような。 223 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 09 13 56 ID D//XtrXV0 田単は楽毅とワンセット扱いでいいんじゃね? 楽毅無しで語れないし、一発屋感強いし 224 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 10 46 07 ID lUKgVANzO 一応ちょっと名前がでてた墨子と孫武は? あと個人的に管仲はどうなのか聞いてみたい 225 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 11 54 35 ID yucqavKU0 墨子は、戦術家に徹してたから、戦略面の評価が出来ない という点で微妙かと。 孫武は、実戦指揮官としても優秀だし名将で良いと思う。 君主が交代しなければ、もっと戦績を残していたはず。 管仲は、将として斉領土内でなら抜けた存在であったけど、 強力な将帥と戦っていない点で評価を下げて良いかも。 226 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 13 51 12 ID inVAQlXj0 孫武が軍を率いて敵を倒した話なんて知らんぞ 愛妾を斬った話と郢を攻めるのを時期尚早と諌めた話しか知らん 227 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 14 33 28 ID lUKgVANzO 93によるとあるらしいが 228 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 15 44 43 ID inVAQlXj0 227 >兵力3万の呉軍を率いて兵力20万の楚軍を破り、楚都を陥落させた これの出典は何?楚都郢を陥落させた話は簡潔にしか書かれてないんだが 3万、20万の数字はどこから出てきたの? 229 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 02 42 ID lUKgVANzO 227 俺に言われても困るが、93が電波飛ばしてたって事でいいんだよな 一応93が言ったあとに誰も反論しなかったんで一応ほじくり返してみたんだが 230 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 19 54 ID inVAQlXj0 229 いや、単に俺が知らないだけでデムパと決め付けるのもあれだと思うが 自らの著書「孫子」通りの戦い方をしたのなら普通に勝つべくして勝つ戦いをして 勝ったわけだから特に記述するようなこともなく簡潔に書かれるわけで 3万で20万と戦うという戦い方は「孫子」に矛盾するし、なにより楚都郢を 攻めたいという呉王闔盧に時期尚早と再三再四慎重論を唱えてきた それまでの行動と矛盾するのだが まぁ寡兵で大軍を撃破するような華々しい軍功がなくても孫武は名将に違いないと思うが 231 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 32 13 ID iN7+lkg5O 217 仕方ないやん、事実やん 長平の戦いで趙括がとった行動は三流もいいとこ 220 王翦をどうしても残したかったので頑張ってみた 俺が頑張らなくとも残っただろうけどね 232 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 16 38 52 ID iN7+lkg5O 逆に四十万もの捕虜を与えた趙括を感心すらするわ 233 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 17 31 01 ID AVEMiy6a0 白起のあれを処刑とは言わんでしょ、少なくとも中国感覚では 長平の戦いで白起のとった戦略、戦術がが平凡もいいとこだったら 趙括が無様な負け方をしただけとも言えるかもしれないけど、自分にはそうだとはとても思えないんだ 40万の兵士を40日以上にわたって封じ込め続けるなど、名将ならとるに足らないことなんだろうか 234 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 19 32 19 ID iN7+lkg5O 233 処刑は言い方が悪かったかもね 長平の戦いは白起だからあれほど鮮やかに勝ったってのは確かにあるかもね 235 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/26(日) 23 15 09 ID aYuH8mUGO 白起はもう確定でいいんじゃないかな 春秋戦国時代に白起を超える将軍はそうそういないと思われる 236 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/26(日) 23 36 33 ID yucqavKU0 孫武について分かるだけ書いてみる(長文すまん) 呉王闔閭(在位前514~前496)は春秋五覇の一人に数えられることもあ る。呉は新興の小国で、楚は中原を狙うことも可能な大国であり、それ 以外にも斉という大国とも隣接していた。 その代、伍子胥・孫武の両将を主力として、紀元前506年には楚の首都・ 郢を陥落させた。 伍子胥・孫武は、闔閭の即位後に呉に仕え8年間の間に、これらの大国 と対抗できる軍備を整備し、その大国を滅ぼすだけの軍事的な成功を収 めている。 闔閭の太子・夫差が即位し、伍子胥が誅殺(前484)されるのと前後し て孫武は呉国から姿を消す。なお、呉国はほどなくして滅亡する。 ここからは推測が混ざります 伍子胥は、郢の陥落後に闔閭の政治的補佐役として宰相を務める。孫武 は、軍事の中枢にあったと思われる。よって、当時の呉国で軍事的に最 も優れていたのたのは、孫武でしょう。 237 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 00 01 11 ID Ku2AkQqc0 236 他の春秋戦国の名将と比べても、際立って強そうじゃないな。 リストから外していいかも。 238 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 00 26 23 ID K9wU4VUH0 237 楽毅と同じレベルのことはしてると思うんだがな 239 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 02 44 ID xlFKxEyi0 確かに戦功だけで言うと100人入りは難しそうだな 中国史の中でもかなり古い時代だから資料も史記オンリーだしな 孫子の兵法書を書いたネームバリューのが上だろうな 俺的には外したいところ 240 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 16 09 ID /aMHH+wq0 後の世の名将たちに与えた影響がでかい、ってことで評価したいなあ 241 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 06 26 39 ID pZ0Y872aO 春秋戦国から十人出すんなら入れてもいいんじゃないか 242 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 08 09 14 ID QkWuDOXb0 春秋戦国時代は500年を超える期間だから10人は入れてもいいんじゃない 243 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 08 40 58 ID JQ5ysuUDO 119の時代区分なら西周春秋戦国から10人は出せるよ (他の時代との兼ね合いから削られる可能性もあるけど) 補欠を加えて12人位は出しておいて良いんじゃない? 244 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 10 10 02 ID rtP8fock0 つーかね、一人名前を挙げてはゴチャゴチャ言ってうやむやになったまま 次の武将の話題に移ってまたゴチャゴチャ言って、って全然前に進んでないな とりあえず暫定的に100人前後名前を挙げて そこから武将を足したり引いたりする方法をとらない? 245 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 10 21 08 ID pqfV9W4L0 10等分10人枠のなかで調整してった方がいいだろ 白起 呉起 王セン 李牧 楽毅 孫武 田単 墨子 呂尚 管仲 とりあえず神話~春秋戦国は今までに10人候補あがった。 補欠入りやリスト外しするなら今のうち。 246 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 11 20 58 ID OE/Lc3tCO 墨子は外してもいいんじゃないだろうか 代わりに伍員を推す 247 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/27(月) 11 25 20 ID XWrjbjEY0 GOOD! 248 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 11 25 31 ID wghAKR4O0 しかし… 史料を漢籍に頼らざるを得ない時代でも、ここまで熱く語れるだろうか。 正史全編もってる人いる? あるいは特定の時代でもいいけど。 自分は猫に小判ながらあるにはあるが… 全史に精通した人がいればなぁ 249 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 11 45 48 ID 1ygseA6i0 廉頗は? 蘭相如と両名が健在なうちの趙は、秦に侵攻されなかったということでも、 相当な将帥なのでは? 250 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/11/27(月) 13 56 08 ID JQ5ysuUDO 245 魏無忌忘れてやるなよ あと王翦は戦国秦と統一秦のどっちに入れる?
https://w.atwiki.jp/mmmmnnnn/pages/380.html
漢中五斗米道本部 張魯「何!、ホウ徳が囚われただと!」 潘濬「はっ!」 張魯「…頼みの綱が…。このままでは…もう…駄目だ…。」 張英「尊師!何を弱気な…、私が曹操軍なぞ蹴散らしてきます。…我ら五斗米道の力見せてくれる!」 張魯「おお!頼むぞ!」 本部を出て曹陣営へと切り込んでいく張英 しかし夏侯淵と出会い、一瞬のうちに斬り伏せられる 兵「張英様が討ち死にしました!」 張魯「!、張英までも…他に誰か…潘濬!潘濬はいないか!」 兵「…あの~、潘濬様は『尊師より大事な役目を仰せつかった。すぐに旅立たねばならぬ故、金10000と一番良い馬を用意してくれ』と言われ、先ほど城を出ましたが…」 張魯「!、あ奴、逃げおったな!………もう駄目だ…。…圓圃、どうすれば良いか?」 圓圃「こうなっては降伏しかありませんね…。今まで貯めた金100000000は曹操に献上し、曹操に許しを乞いましょう。私が話をつけて参ります。それまで、尊師は秘密部屋にお隠れ下さい。」 張魯「…うむ、頼むぞ…我が夢破れたり…」 圓圃、降伏の使者を出し、曹丕と面会する 圓圃「この度は誠に申し訳なかったです。御詫びに五斗米道の資金99000000 (1000000くらいは着服しても良いだろう) を差し出しますので、尊師以下、信者達の命をお助け下さいませ。」 曹丕「へ~、金99000000か~。なんか微妙に中途半端な金額だけど~、ま、いっか。俺は許してもいいと思うんだけど、かってに決められ無いから、とりあえず、その金は預かって親父に贈っとくよ。攻撃は止めるさ。」 圓圃「有難うございます。尊師以下全ての者が曹操様に帰順致します。では、城に帰ります。」 圓圃が帰ったあとの曹丕、司馬懿 曹丕「すっげ~金。こんなに溜め込んでたのか~。」 司馬懿「全くですね。早速、曹操様にお届しましょう。」 曹丕「…こんだけあるんだ、ちょっとくらい貰っても解りゃしね~な。貰っとくか!」 司馬懿「曹丕様!」 曹丕「大丈夫だって!…じゃ、こんだけ…。よし、司馬懿、これを親父に届けてくれ。金90000000な!」 司馬懿「…。ばれても知りませんからね。」 司馬懿は、金を曹操に届けにいった その道中 司馬懿「…曹丕様には、ああ言ったが…家も多少家計が苦しいんだよな…だからわしの小遣いもほんの少し…原因は春華がブランド物を買い漁るからなのに…そりゃ~、春華は良く出来た嫁で…美人で、知的で、わしの事を良く解っている…けどブランド買いだけは…。おっと、こんな所で愚痴っても仕方ない…(ゴクッ)少し貰っちゃおうかな…。」 許昌 曹操「おお!漢中を制圧したか!」 司馬懿「はっ!更に、ホウ徳、張魯、圓圃も捕獲しております。そして、こちらが五斗米道の資金、88500000でございます。 (1500000着服…すみません。)」 曹操「おお!そうか!…よし、張魯以下五斗米道を許すぞ!」 こうして、金が少しずつ着服された事を曹操は知る事も無く、曹丕は漢中を制圧し、中華北部は曹操の勢力となった 張魯、圓圃は許され、五斗米道も監視付きながら信仰の自由を許されたのだった
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/354.html
ニコニコ上のシミュレーションシリーズでよく使われる用語の辞典です。 基本的に、特定作品の登場人物・専門用語などはその作品の解説を利用することをオススメ。 各作品の参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) 三國志シリーズ - Wikipedia 信長の野望シリーズ - Wikipedia 太閤立志伝シリーズ - Wikipedia 蒼き狼と白き牝鹿シリーズ - Wikipedia (チンギスハーン) 東方wiki 用語解説 ア行 ア イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ1カ2 キ1キ2 ク ケ コ1コ2 マ行 マ ミ ム メ モ サ行 サ シ1シ2 ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ナ ニ ネ ノ ワ行 成(セイ) 西国方陣(セイコクホウジン/サイゴクホウジン) 正史(セイシ) 精神力バグ(セイシンリョクバグ) 正統派(セイトウハ) 性癖(セイヘキ) セイムスメル 西洋建築(セイヨウケンチク) 井闌(セイラン) 世界の新着動画(セカイノシンチャクドウガ) 関(セキ) 舌戦(ゼッセン) 説明文(セツメイブン) 戦艦(センカン) 戦艦空母(センカンクウボ) 戦国史(センゴクシ) 戦国時代(センゴクジダイ) 戦国時代板(センゴクジダイイタ) 戦国ちょっといい話・悪い話(センゴクチョットイイハナシ・ワルイハナシ) 戦国のガラハド(センゴクノガラハド) 戦国のトップブリーダー(センゴクノトップブリーダー) 戦国のファンタジスタ(センゴクノファンタジスタ) 戦極姫(センゴクヒメ) 戦国ブックガイド(センゴクブックガイド) 戦国変態記(センゴクヘンタイキ) 全顧の礼(ゼンコノレイ) 戦死(センシ) 禅譲(ゼンジョウ) せんせー(センセー) 先生(センセイ) 戦隊(センタイ) 鮮卑(センピ) 成(セイ) [部分編集] 「三国志」に登場する国家の一つ。197年建国、首都は寿春。 ご存じ偽帝袁術陛下の治める国。 諸侯の支持を得られず、また重税を課すなど悪政を敷いたため離反を招いた。 199年6月、袁術の死とともに滅亡したと考えられる。 油断すると、魏・呉・蜀・成、と三国の中に自然に混じっている。 オチ担当ネタ国家としての輝かしい地位に揺るぎはない。大成帝国万歳! ★国号問題 実は、正史本文には袁術の立てた国家の国号・元号は記されていない。 歴史的事実としては、国号に関しては「仲」が正しい、とする説が今日は有力である。 ※「仲家」あるいは「仲氏」と記す文献もある。 「漢王朝」の意味で「漢家」と記すこともあるので、国号としては「仲」でいいのだろう。 「成」あるいは「成家」が国号と誤解されたのは、『後漢書集解』(『後漢書』の注釈書の一つ)に 「仲氏は劉氏の漢家や公孫述の成家のように(国号である)」という一文を取り違えたらしい。 ※公孫述は新末後漢初の群雄の一人。蜀の地に割拠し、成都で即位して皇帝を称した人物。 そんなこんなで、いつしか「袁術の国号は成、元号は仲家」という誤解が定着しており、 各種創作物ではむしろ「成」のほうが主流であるほど。 正史と演義の設定の違いのようなもの、と思えばよいかもしれない。 上へ 西国方陣 (セイコクホウジン/サイゴクホウジン) [部分編集] ★「信長の野望・革新PK」における 南蛮技術 のひとつ イスパニアから友好度250でもたらされる。 スペイン方陣(Spanish square)と呼ばれたテルシオ(Tercio)のことと思われる。 ※とすると、「西国」は「西(西洋)の国」の意味ではなく、「西伯牙(スペイン)国」の略となる。 テルシオは長槍兵の密集陣に銃兵を組み合わせたもので、16世紀~17世紀頃にスペインの軍事的覇権を支えた。 ※ちなみにこのニコニコ歴史ゲーとは直接の関わりがないが、 セガのアーケードカードゲーム、「戦国大戦」では丹羽長秀の計略として 「イスパニア方陣」が登録されている 上へ 正史(セイシ) [部分編集] 中国においては、歴代王朝が編纂・公認した(前の王朝の)歴史書のこと。 ここに載せられたことが一応公認された「史実」になるわけだが、正史自体が一種の政治的な文書なわけで、 「前王朝の最後を悪し様に描いて、滅ぼした自王朝を正当化している」など、記述を疑えばきりがない。 ★三国志界隈では、 歴史書の三国志 を指す 後漢末から三国時代にかけての人々とできごとを紀伝体で記した歴史書。 エンターテイメントである 演義 とはいろいろ異なる点が多い。 西晋による三国統一から約10年後、290年頃に完成した歴史書で、魏書30巻、蜀書15巻、呉書20巻からなる。 編者は陳寿。はじめは陳寿の個人的編纂物であったが、のちに正史として公認された。 陳寿の師匠であった譙周の伝には、亡くなる前に陳寿が師匠を訪問した際の思い出話が載っている。 このため、「本文に編者本人が登場」という他の正史には見られない特徴がある。 晋に帝位を譲った魏を正統王朝として描いているのだが、陳寿はもともと蜀の人(蜀滅亡時31歳)ということもあり、 蜀に関する記述には思い入れも見え隠れしているという指摘もある。 陳寿の「三国志」は信頼性の疑わしい資料を徹底的に排除して、記述も極めて簡略に描かれている。 そのため、南北朝時代の裴松之は、時の皇帝(宋の文帝)に命じられて本文の三倍にもなる「注」を編集した(通称「裴注」)。 歴史書「三国志」完成以後の出来事が補われたり、事実関係が補われたりしているほか、 さまざまな異説を紹介したりしている(「信用できない史料」と断りながら紹介しているものもある)。 ちなみに、邪馬台国のことが載っている通称「魏志倭人伝」(魏書の東夷伝倭人の条)も、歴史書「三国志」の一部。 上へ 精神力バグ(セイシンリョクバグ) [部分編集] 「101匹劉璋(+200%)」うp主である「 ゆっくり市長 」氏のあだ名。 「101匹劉璋(+200%)」が「101匹阿斗ちゃん」のパロディとして始まったのがそもそものきっかけである。 「101匹阿斗ちゃん」では、「チート」の上を行くとんでもなく優秀な武将を「バグ」と呼んでいた。 (阿斗基準でなにかの間違いとしか思えないことから) 「101匹劉璋(+200%)」は、「「兵1」10000部隊出撃」というとんでもない目標を掲げた作品であり、 出撃指示の回数はとんでもないことになった。 その精神力のとてつもない強さを、「101匹阿斗ちゃん」うp主のネ禁氏が「バグ」に譬え、 「精神力バグ」と呼んだのがこの呼び名の始まり。であるから、ある意味で尊称である。 上へ 正統派(セイトウハ) [部分編集] そのジャンルの「あるべき路線」を歩むもの。 下記の1.を指すことが多いが、文脈によっても意味するところが異なる。 また、何をもって「正統派」とするかは、人によって考え方が違う。 1.「歴史戦略ゲームのプレイ動画」を期待する人の「正統派」 登録武将を使わず、紙芝居を挟まず、淡々とプレイする「 硬派 ・ 純粋プレイ動画 」を、こう呼ぶ傾向にある。 2.「歴史を改変するIFの物語」を期待する人の「正統派」 武将たちの史実のエピソードに沿った「まじめ・シリアスなシナリオ」を持つ作品を、こう呼ぶ傾向にある。 3.「キャラ競演の異世界ファンタジー」を重視する人の「正統派」 既存/登録武将を キャラブレイク させず、史実エピソードや原作設定に沿った作品を、こう呼ぶ傾向にある。 ★「正統派プレイ動画」を掲げる炎帝蝗君伝のこと 作者がそう言うんだから、正統派に違いない。「正統派☆プレイ動画」「正統派(ry」とも呼ばれる。 同作者による反袁紹包囲網も始まるが一部の視聴者の暴走により打ち切られた。 上へ 性癖 (セイヘキ) [部分編集] 人間の心理や行動にあらわれる志向。 「潔癖」「収集癖」「虚言癖」「衒学癖」など。 ★俗用として「性的な趣味志向」 「性癖」が「性的な趣味志向」に限定されて使われることがあるが、これは本来の意味とは異なっている (「性格」「性質」といった言葉があるように、「性」がついても「性的」なものには限られない。 とはいえ、性的な趣味嗜好も本来の意味の「性癖」の一部ではある)。 どうしたわけか歴戦界隈の動画には、かわった性癖の持ち主の武将やうp主が多いようだ。 関連用語―――― ドM ・ ドS 男色 ロリコン 上へ セイムスメル [部分編集] 訳せば「同じ匂い」だが、要するに「 ダメ君主・ダメ武将 」のこと。 歴戦界隈では、「軍師黄皓の憂鬱」で、 ジョン欠地王 が劉禅に初めて会った際の心の声 「俺とセイムスメルがする!」が由来となっている。 この場面は「 諸王の戦い 」で氏真がジョンに対して発した 「この男…… まろと同じ匂いがするのう」というセリフが大元になっている。 「英雄は英雄を知る」をどこか間違えた方向でさせたもので、「ティンと来た」(お隣)のダメ版。 ダメ武将たちでゲームをスタートする作品の導入では、よく使われる。 上へ 西洋建築(セイヨウケンチク) [部分編集] ★「信長の野望・革新PK」における 南蛮技術 のひとつ オランダから友好度200でもたらされる。建築・改築・修復の期間が短縮される効果がある。 西洋建築によってなぜ水田づくりが早くなるのか、なんてことを気にしてはいけない。 ★いくつかのプレイ動画における紙芝居パートの背景グラフィック なぜ日本にノイシュバンシュタイン城が建っていて、武将たちが当たり前のように生活しているんだ。 どうやらいくつかの戦国時代では、西洋風の城を建てるのが流行したらしい。 地震大国・日本では、総石造りの建物は倒壊の危険性が極めて高いのだが…… 出典は、ダメ君主の野望。 上へ 井闌(セイラン) [部分編集] 三国時代に使われた攻城兵器の一つ。 井桁状に組み上げられた移動式の櫓で、城壁上の敵より高い位置から射撃ができる。 ★三國志Ⅸでの井闌 (1)攻城陣形の一つ。施設の守備兵士に対して強力な間接攻撃を行う。弩系の兵法の発生率が上がる。 編成には兵法「井闌」を習得している武将が必要。 守兵への攻撃力は極めて高い半面、防御力と機動力が低いため、野戦陣形全般に弱い。 CPUが特に好んで指定する陣形でもあり、文官単騎で出撃させることも多々ある。 攻城時に便利すぎるため、縛りの一環として、「自軍は井闌の使用禁止」とする動画もある。 また、CPUの文官単騎を見越して、井闌自体の能力(特に移動力)を改造する場合もある。 (2)武将が習得する攻城系兵法の一つ。 上へ 世界の新着動画(セカイノシンチャクドウガ) [部分編集] 2009年11月、ニコニコ動画⑨から始まったシステム。通称「セカチャク」。 ニコニコ大百科『世界の新着動画』 参照。 生放送で「カテゴリごとに、新着からランダムで動画を流す」のであるが、コメントも動画側に反映される。 一発ネタ・瞬発力のある動画や「見ればわかる」作品に向いたシステムではあるが、 続き物が多く「内輪」の世界観の上に成り立っていることの多い「歴史戦略ゲー」界隈とは相性が悪い。 それほど多いとはいえないニコニコ歴戦ゲー界隈の視聴者数を上回る「一見さん」たちによって ネガティブなコメントが大量に投下された場合、作者によっては精神的な負荷が大きいだろう。 まあ、これによって新しい視聴者が来ることもあるのだが… 批判的な立場からは「世界の爆撃動画」「世界の荒らし動画」「世界の公開処刑」とも揶揄される。 ニコニコ歴戦ゲー界隈で最初の「被災者」になったのは たぬたぬ幻想奇52話 。 「世界の新着動画」で紹介されないためには 「ゲーム」「東方」等のカテゴリタグを入れない。 SmileVIdeoの動画情報登録ページで「生放送での引用」という設定を「許可しない」にする。 といった対策が挙げられる。また、視聴者側では 「コメント(に関する設定)」から「「世界の新着動画」のコメントを表示しない」にチェックを入れる。 という対策をとることができる。 上へ 関(セキ) [部分編集] 三国志シリーズにおける防衛施設の一種。撤去できない常設施設であり、山間部など隘路に築かれている事が多い。 ★三國志Ⅸ 三國志Ⅸでは屈指の硬さを誇り、統率の高い武将が大将になれば守りの要になる。 ただでさえ硬いのに、左右に櫓や城塞を建設すると、難攻不落の要塞と化す。 とはいえ、統率が低い武将が大将になってしまうとかなり脆くなるので注意。 ★三國志11 三國志11では 棺おけ の1つといわれるほどに弱体化している。 上へ 舌戦(ゼッセン) [部分編集] 三國志シリーズにおける「文官の一騎討ち」。 ニコ動ではMAD素材になってる「孔明大車輪」のようなものと考えればよい。 三國志Ⅹから導入され、最新作11にも存在する。ただしルールは全く異なる。 ★三國志11 三國志11の舌戦チュートリアル( 動画 ) 上へ 説明文(セツメイブン) [部分編集] 動画タイトルの下にあるスペース。動画内容を説明したり、前後の動画やリストへの誘導があったり、 うp主からの連絡事項(次回掲載予定や休止情報など)が書かれたりする。 作者によっては、ネタ用スペースにすることもある。 「作者コメ」「主コメ」「投稿者コメ」、あるいは「上コメ」などと呼ぶ人もいるが、 「 投稿者コメント 」には別の用法もあるので、注意が必要である。 上へ 戦艦(センカン) [部分編集] ★かつて存在した軍艦の類別 艦砲を用いた戦闘において、最強の能力(最強の主砲と装甲)を備えた戦闘艦のこと。 19世紀後半~20世紀初頭にかけて全盛を極め、その攻防性能と経済価値から一国の軍事力・経済力・工業力の象徴とされたが、 ミサイルの出現と航空機の進化によって、艦砲を用いた戦闘そのものが非効率的となったため、第二次世界大戦後にほぼ消滅した。 最近、報道機関のニュースなどでは、水上戦闘艦(つまり空母と潜水艦以外の軍艦)全てを指してこう呼ぶこともあるが、 これは戦国武将を誰彼構わず「将軍」と呼ぶようなもので、非常に頭の悪い使い方なので注意。 ★涼宮ハルヒの憂鬱の登場キャラ、長門有希のこと ニート三国志で見せた水上戦闘での活躍から。元ネタは、旧日本海軍の戦艦長門。 関連項目: 弩級戦艦 上へ 戦艦空母(センカンクウボ) [部分編集] (本来の意味の)架空戦記、それもトンデモ系の作品で見掛けられる超兵器。 戦艦と空母のいいところを全部取りし、並み居る従来型艦艇をバッタバッタとなぎ倒す。 たまに敵側にも同様の戦艦空母が登場し、怪獣大決戦状態となることもある。 ★提督の決断2の場合 新型艦として戦艦や空母を開発すると、たまに出来上がる謎の存在。 技術力の上がったゲーム後半では、新型艦のステータスに割り振れるポイントが多いため、 開発対象の艦種に必要な性能を限界まで上昇させても、ポイントが余る場合がある。 この余剰ポイントを、まだ上昇余地のある適当な性能に割り振っていくと、 数十機の搭載能力を持つ戦艦や戦艦並みの対艦攻撃力を持つ空母が出来上がることになる。 これらは一見すると、戦艦と空母の長所を併せ持った万能の超兵器にも思えるが、 実際のところゲームのシステム上、 「戦艦に搭載できる飛行機は水上偵察機のみ」 「空母の対水上射程は全艦種中最低」 という制限が存在するため、本来の艦種に対応していない性能には殆ど意味がない。 もちろん、必要な性能は限界まで上げてあるわけだから、強力なことには違いないし、 不要な性能が高いからといって、何も困ることは無いのだが……何にせよ、勿体無い話ではある。 上へ 戦国史 (センゴクシ) [部分編集] 往年の 天下統一 をモデルとして、個人が開発した戦略シミュレーションゲーム。 フリーウェア版とシェアウェア版とがある。 附属のエディタによって、自分でシナリオを作れるのが特徴であり、 マイナーな地域・時代に焦点を当てたもの、マイナーな武将まで網羅しようとしたもの、オリジナルなものなど、 様々なユーザーシナリオがネット上で配布されている。 外交戦略重視、演出・キャラクター性軽視といった「天下統一」と同様のコンセプトをとっているため、 動画の原作にするには、あまり向いていない。 それでも、紙芝居つきのキャラ差し替え動画、普通にプレイ動画、観戦動画など、いくつかが上げられている。 関連タグ: 【戦国史】 ニコニコ大百科: 『戦国史』 動画一覧: 戦国史 上へ 戦国時代 (センゴクジダイ) [部分編集] 1.日本における中世末期の内乱時代(15世紀末~16世紀後半) 現代日本で単に「戦国時代」と言うと、ふつうこっち。「信長の野望」「太閤立志伝」などが舞台とする時代である。 かつては応仁の乱(1467年)をはじまりとみなすことが多かったが、近年の歴史学では「室町幕府の権力機能」を重視し (応仁の乱後もしばらくは幕府の権力・権威自体は残っていたため)、 管領細川政元が将軍足利義材(義稙)を追放した「明応の政変」(1493年)を始期とみなす考えが主流となっている。 「戦国時代の終わり」の時期の説明としては、 信長による将軍義昭の追放(1573年、室町幕府の滅亡と安土桃山時代のはじまり)、 秀吉による小田原攻め・奥州仕置(1590年、惣無事令を全国に実効普及させる)など、諸説ある。 つまり、最古のシナリオが1555年スタートの「信長の野望・革新」は、 「戦国時代の後半」以降しか扱っていないことになる。 ※ある日(ある年)を境に「戦国時代になった」「戦国時代でなくなった」というのも変な話であるが、 歴史学的な「時代区分論」というのは、「どうすればひとまとまりの時代として説明しやすいか」という議論である。 「前後の時代と区別されるこの時代の特徴を示す、もっとも重要な指標は何か」には当然諸説があり、 時々の議論によって主流の見解(多くの研究者が「なるほどね」と納得する見解)も変わることがあるのである。 歴史学的な定義とは別に、一般的なイメージとしての「戦国時代」は、全体的に時代が少し後ろにずれており、 だいたい信玄・謙信が活躍していたような時代(15世紀中頃)から関ヶ原の合戦(1600年)や大坂夏の陣(1615年)までが ひとくくりの「戦国時代」として認識されているようだ。 「戦国初期」には隠れファンもいるのだがマイナー。 蒼天録PK には、1495年開始など、戦国初期を扱ったシナリオもある。 毛利元就(1497年生まれ)は、信玄(1521年生まれ)・謙信(1530年生まれ)・信長(1534年生まれ)より約一世代上の人物。 朝倉宗滴(1477年生まれ)は、元就よりさらに一世代ほど上になる。 2.中国における古代の内乱時代(紀元前5世紀~紀元前221年) 『戦国策』という書物が書かれたことから、「戦国時代」と名づけられた。 春秋時代を承ける時代で、大国・晋の解体をそのはじまりとすることが多く、秦による中華統一がなされるまでを指す。 呉起・孫臏(ソンピン)などの兵法家、商鞅・蘇秦・張儀などの政治家・思想家、楽毅・田単・白起などの将軍が活躍した。 陳舜臣さんとか宮城谷昌光さんとかの優れた小説も多いのだけれど、三国志に比べるといまひとつマイナーである。 戦国時代の人物は、三国志には「いにしえ武将」として登場することがあるほか、 登録武将として登場するプレイ動画(例:春秋戦国三国志)もある。 上へ 戦国時代板(センゴクジダイイタ) [部分編集] 2chの板の一つ。2006年に 三戦板 から分離して出来た。 戦国時代関連の話題を扱う。 マイナーな地域の国人領主たちの動向についてかなりまじめな(学術的な)会話をしているスレもあるが、 基本的には「趣味」のカテゴリーにある板なので、 「女の子な安東愛季と共に苦難を乗り越えていくスレ」などのAAスレ、ネタスレ、 「IDに出た数字だけ知行を溜めて百万石スレ」のような雑談的なスレから、 自分のひいきの大名・武将を盛り立てて嫌いな大名・武将を蹴落とす合戦場状態のスレまでさまざま。 「泳いで参った!」ネタの元になった「泳げよ宇喜多秀家」スレ、 「 戦国ちょっといい話・悪い話 」スレなどはこの板出自。 上へ 戦国ちょっといい話・悪い話(センゴクチョットイイハナシ・ワルイハナシ) [部分編集] 2ch 戦国時代板 のスレの一つ。通称「いい悪いスレ」。 戦国武将に関する実にさまざまな逸話を紹介しており、ニコ歴戦ゲをはじめネット上における話題のネタ元ともなっている。 「逸話」がテーマなため「史実」としては微妙なのもある(たいてい出典は書かれない)ので、そこのところは多少注意が必要。 「 DQN四天王 」「 鮭様 」「悪い方の家久」など、このスレで発生した用語( 用語集 )は多く、 中には、ニコ動歴戦ゲ界隈でも通用しているもの・重複するものもある(おそらく閲覧者層が重なるため)。 ただ、ほかの「外部ネタ」とも共通するが、必ずしも通用するとも歓迎されるとも限らないので、 そのネタを振れるかどうかは空気を見極める必要がある。 外部リンク: 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ 上へ 戦国のガラハド(センゴクノガラハド) [部分編集] ⇒ ガラハド 参照。 あるいは手っ取り早く 小笠原貞慶 をどうぞ。 上へ 戦国のトップブリーダー(センゴクノトップブリーダー) [部分編集] ⇒ トップブリーダー 参照。 あるいは手っ取り早く 太田資正 をどうぞ。 上へ 戦国のファンタジスタ(センゴクノファンタジスタ) [部分編集] ⇒ ファンタジスタ 参照。 あるいは手っ取り早く 今川氏真 をどうぞ。 関連タグ: 【戦国のファンタジスタ】 上へ 戦極姫 (センゴクヒメ) [部分編集] げーせん18(システムソフト・アルファーのアダルトブランド)が制作した戦国武将女体化エロゲ。 天下統一ADVANCE のシステムを用いた戦国シミュレーションゲームでもある。 正式名称は「戦極姫 -戦乱の世に焔立つ-」。 後に一部絵師変更・シナリオ追加を行い、PS2・PSPに移植された。(移植版タイトルは「戦極姫 -戦乱に舞う乙女達-」) 最近の「天下統一」とシステムソフト・アルファーの評判(悪評?)、 グラフィックの不統一感(絵師が違うからしょうがない)などから、一種のキワモノとしても話題になった。 あれこれのバグなどから「クソゲー・オブ・ザ・イヤー」をにぎわせた。 しかし、キャラクターは好評のようで、とくに立花道雪・武田信玄・上杉謙信(いずれも女体化)などは人気があるらしい。 いくつかの動画では、本作のキャラクターが登録武将として登場する。 上へ 戦国ブックガイド(センゴクブックガイド) [部分編集] 戦国時代が舞台の小説・漫画紹介のこと。 ニコニコ大百科: 『戦国ブックガイド』 関連タグ: 【戦国ブックガイド】 上へ 戦国変態記(センゴクヘンタイキ) [部分編集] 戦国時代を舞台にした、 変態記 に匹敵するようなキャラブレイク動画に対する、畏怖を込めた通称。 変態だらけの戦国動画に思い当たるものは多いが、とくに視聴者に【戦国変態記】のタグを進呈された ダメ君主の野望を指すとされることが多い。 また、人によっては、【変態記II】タグを付けられたことがある蓮子とメリーの戦国旅日記をこう呼ぶ。 ちなみにチルノがゆくは、【変態記Ⅴ】との通称があるため、【戦国変態記】と呼ばれることは無い。 関連項目: 変態記 関連タグ: 【戦国変態記】 上へ 全顧の礼(ゼンコノレイ) [部分編集] 配下武将(時には君主も)全員を投入し、「下手な鉄砲~」的に欲しい人材を登用(盗用)すること。 登用に失敗してもこちらに対する好感度は上がってくれる ので、登用しやすくなる。 元ネタはもちろん「三顧の礼」。 変形として、「三十顧の礼」「62顧の礼」「101顧の礼」などもある。 その「何度も武将が仕官してくれと頼み込む」無礼さから、人によっては、「全顧の無礼」と呼ぶ。 基本的に、助言の確実性が低い場合に取られることが多い方法であるため、軍師が優秀であればあるほど、必要性は薄まる。 登用の対象が自勢力を一度裏切ったことのある武将の場合、登用に関する関連数値が非常に低くなっているため、登用に応じにくい。 そのような時に、この全顧の礼の出番となる。 上へ 戦死(センシ) [部分編集] 司令官などが戦闘で死亡すること。 信長の野望などでは、「 討死 」という言い方をするため、 「戦死」が登場するのは、三国志や西洋を舞台にしたものや、近代の戦争を扱ったゲームが多い。 ★Hearts of Iron2における戦死 敵との戦闘時に、一定の確率で司令官の戦死が発生する。 確率はそれほど高くなく、普通は1プレイで1人か2人が戦死するかどうかである。 ただし、どのような戦闘でも戦死発生の可能性があるため、時には圧倒的有利な状況でも戦死してしまうことがある。 イベントで司令官が死亡したり退役した場合でも戦死と表示されていたり、 戦死したはずの人が閣僚や研究機関員として生き残っていたりするのは、気にしてはいけない。 上へ 禅譲(ゼンジョウ) [部分編集] 皇帝が「我が親族ではもはや天下は治められない」として、徳のある別の人物に帝位を譲ること。 実際はクーデターである事がほとんど。 歴史上で最初の例は前漢から新への禅譲だが、上記の理由で行わせるパターンを初めてやったのは曹丕である。 なお、日本で行われたことは無い。 多くの作品でも、皇帝を名乗る際には手続き上「禅譲」という形になる事が多い。「簒奪」が可能な作品もあるが、それをやると信望やら名声やら家臣の忠誠心が大きく下がる。 上へ せんせー(センセー) [部分編集] 魏国が東方勢にもっこもこ初出の賈詡、郭嘉両名の事。 味方だとこの上なく有難く、敵に廻すと厄介この上ない。 上へ 先生(センセイ) [部分編集] ★味方として、この上なく有難い武将の敬称 敵に廻すと厄介この上ない。「せんせー」も参照。 時代劇に登場する用心棒に「先生、お願いしやす」と頼むようなイメージ。 ★技能開発のために必要な高適正武将 能力値自体はそれほど優秀でないこともある。 弓Sの「吉田先生」(吉田重政)など。 ★ある種の揶揄的表現 てんてー も参照。 上へ 戦隊 (センタイ) [部分編集] ★スーパー戦隊になぞらえた5人組の武将たち 武将を5人そろえると、色を割り当てて結成させたくなるもの。 三国志には五虎将など数人の名将を集めたチームがあるので、ぜひ実現させたいところ。 ネタとしては、 亡国戦隊ラストエンペラーズ がある。 戦国時代の北条家には 北条五色備 が実在し、 北条綱成が「 キレンジャー 」と呼ばれるゆえんとなっている。 戦国時代には、5人セットよりは4人セット(四天王)の方が多いような気がするが、 竜造寺四天王 が変則的に5人組である。 中華武将祭りでは、その特性上、複数の同名武将によるチームを拝める。 例としては、曹操5人で編成された「奸雄戦隊SOSOファイブ」など。 ★「提督の決断」に登場する軍事用語としての「戦隊」 作戦単位の一つ。同一の機能を持つ艦艇が、数隻~十数隻程度まとまったもの。 複数の「戦隊」が集まることで、「艦隊」となる。 ……のだが、ゲーム上の単位として「戦隊」が登場することは、滅多にない。 上へ 鮮卑 (センピ) [部分編集] 中国北方の遊牧民族の一つ。三国志にも異民族として登場する。 テュルク系ともモンゴル系とも言われるこの民族は長らく匈奴に従っていたが、やがて諸部族の中には自立性を強めるようになった。2世紀半ば(黄巾の乱より少し前)、一代の英雄・檀石槐が登場する。勇猛果敢さと政治の公平さとで鮮卑の民の信望を集めた檀石槐は、大人(部族長)に推戴される。檀石槐は惜しくも早世し、子や孫の代は求心力も衰えてしまう。 ここに登場するのが梟雄・軻比能である。あるときは漢民族の王朝と手を結び、あるときは同属と争った末に、北方に「帝国」を構え、曹操・曹丕・曹叡の三代に渡って向背を繰り返し、時に諸葛孔明と結んで魏を脅かした。戦闘では決して屈しなかった軻比能は、魏の放った刺客に殺されるのである。 三国を統一した晋が内部から崩壊を始め、八王の乱が勃発すると、鮮卑の民は傭兵として中国本土に移住するようになった。慕容部・宇文部・拓跋部などの諸部族に分かれていた彼らは混乱の中で自らの国を立て、五胡十六国時代の主役となるのである。そしてその姿は、華北を統一し、すぐれた仏教文化を花開かせた北魏で頂点に達する。 しかし「中華文明」を取り込んだ鮮卑は、やがて漢民族の中に同化していった。 上へ 用語解説 ア行 ア イ ウ エ オ ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ1カ2 キ1キ2 ク ケ コ1コ2 マ行 マ ミ ム メ モ サ行 サ シ1シ2 ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ナ行 ナ ニ ネ ノ ワ行 馬鹿カルテットの項、レティは確かに本気じゃないと書かれているが、求聞史紀では人間に対する危険度がルーミアやリグルと同じだったり(人間友好度、低 危険度、中)文花帖(書籍)で文に駄目だし喰らっていたり、文花帖 (ゲーム)でチルノと同じLVで出てきたりで、決して強キャラ設定はされていない -- 名無しさん (2008-02-24 20 05 43) 指摘多謝です。考えてみると元ネタ寄りの記述になっていたので、必要最小限に整理しました。 -- 名無しさん (2008-02-25 22 53 10) 異民族が力を合わせます第18話で武力差約5倍の一騎打ちでの勝利を確認 -- 名無しさん (2008-03-23 08 37 18) 魔王(なのは)も強いがその嫁も強い。 -- 名無しさん (2008-04-19 20 25 48) 孔明の罠は横山さんのとこだったっけ? -- 名無しさん (2008-06-16 20 06 41) フラグ回収に定評あるのは東方騎行録だろう -- 名無しさん (2008-06-22 22 39 43) 孔明はその二人だけを異様に強調されて人を見る目がないと言われるが、蜀の内政官をたくさん見いだしているのでこの評価は酷すぎると思う。 -- 名無しさん (2008-06-23 12 03 58) 馬鹿息子の例、本当にどうしようもなかったのは信雄ぐらいだろうに。劉禅以外もフォローしてやれよ。 -- 名無しさん (2008-06-27 18 05 00) ブートキャンプの項目、三国志9では異民族相手に行われることもあるので「直接の攻略とは関わらない敵/施設に攻撃を仕掛けて熟練度を上げること」くらいの意味に差し替えたほうがいいのでは。ex 烏丸ブートキャンプ、土塁ブートキャンプ -- 名無しさん (2008-07-05 15 20 52) 「馬鹿息子の項、プレイ動画用語解説という側面で大幅整理しました。ご了承ください。 -- 名無しさん (2008-07-13 02 30 32) (中途送信失礼)「馬鹿息子」の項、プレイ動画用語解説という側面からほぼ全面的に書き改めました。執筆者の方、ご了承ください。「馬鹿息子」とされた個々の武将の弁護をしだすとキリがありませんので、総論として後世のイメージによって不当な評価がおこなわれている可能性もあることを示すに留めました。 -- 名無しさん (2008-07-13 02 38 53) むむむの元ネタは吉川英治の三国志(横山漫画の原作)が初出だよ -- 名無しさん (2008-09-26 04 01 57) ご助言ありがとうございます。補足してみました。 -- 名無しさん (2008-09-26 11 12 19) スペルカードシステム、~ルール、~ブレイクは完全に東方専門用語だから削った方が良いと思う。 -- 名無しさん (2008-10-15 05 21 34) 概ね削りました。~ルールは、東方キャラがいつも不真面目な理由を知って欲しかったので一部削ってちょっと追記して残しました。 -- 名無しさん (2008-11-04 02 59 02) イベコンの項、「イベントコンバーター」と「神ツール」は別物なので当該部分を削りました。 -- 名無しさん (2008-10-26 01 58 46) 妖怪ババア自重w -- 名無しさん (2009-01-02 20 53 45) 誰だ!ソフトバンクなんて入れたのは!? -- 名無しさん (2009-01-26 13 23 59) 変態記並びに予備軍が大量に発生中! -- 名無しさん (2009-06-17 18 04 04) 容量限界につき、用語解説「シ」 part2 を新規作成。「シールド」~「人類筆頭」の項目を part2 に移動。さらに、移動した項目にリンクがあるページを修正 -- 名無しさん (2009-09-29 11 24 30) ※「シ」のページへのコメント インフレの項のインフレ動画にひなやぼ追加 -- 名無しさん (2010-05-23 07 41 25) 容量一杯なので「シ」にならって分割。includeとどっちがいいんだろう -- 名無しさん (2010-11-23 20 56 02) ※「カ」のページへのコメント ここにいるぞ!について吉川版では「ここにいるのを知らぬか」になっていたけど、一応ここからつながってるといえるのかな? -- 名無しさん (2010-01-25 00 17 28) フラグの語源を修正しました。flagmentなのは「デフラグ」などですね。 -- 名無しさん (2011-05-08 13 44 41) 恋姫真名の五十音順を修正しました。 -- 名無しさん (2011-09-16 09 11 19) 醤油と醤油外交で意味が全然違うのにフイタwww -- 名無しさん (2012-01-09 11 09 01) 用語解説各ページへのコメントを一か所にまとめ、includeで表示するようにしました。 -- 名無しさん (2012-04-19 16 07 05) 今号のイブニングのしばちゅうさんで阿会喃が「システム」言ってたぞw -- 名無しさん (2012-10-09 09 10 43) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/9.html
徐州譲渡は孫策でやってても出た -- (名無しさん) 2006-10-06 01 50 41 一連の推挙イベントは未発見または、一度も仕官したことのない在野であることが条件。 -- (名無しさん) 2006-10-08 18 37 16 劉表の死は、曹操が南征宣言してる、劉表が江夏、襄陽を支配、劉表軍で劉ソウ、劉キ、蔡瑁が健在、劉備軍が健在くらいかな?208年以降かも。 -- (名無しさん) 2006-10-08 19 35 42 あ、劉表の死の結果、劉表死亡の他、劉表軍滅亡、江夏は劉備領、襄陽は曹操領になります。おそらくその他の劉表領は空白化。 -- (名無しさん) 2006-10-10 21 24 18 PKのイベント色変えてみた。他にもあったらよろ。 -- (名無しさん) 2006-10-12 13 49 08 五虎将、于吉の呪い以外のイベントはPS2版攻略本には見当たらない。孫劉同盟に近いもので劉備と孫尚香の結婚イベントがあるけど条件が違うみたい。 -- (名無しさん) 2006-10-14 09 04 59 魏公即位はただ公に即位しただけでは駄目っぽい。ギョウが占領されてる必要があり? -- (名無しさん) 2006-10-18 17 39 42 孔明の結婚話が発生。新野200年1月でした。 -- (名無しさん) 2006-11-09 23 14 57 「呉下の阿蒙」の条件って分かりますか?いつまで経っても顔が変わらん -- (名無しさん) 2006-12-25 21 37 57 「呉下の阿蒙ならず」追加しました。ちなみに、呂蒙の顔グラは215年になっても変わります。 -- (名無しさん) 2006-12-28 00 17 33 九品中正法を2ch「【捕縛】三國志11part28 【最強伝説】 」スレ109より転載 -- (名無しさん) 2007-01-08 14 34 33 連環の計を2ch「【捕縛】三國志11part28 【最強伝説】 」スレ649より転載 -- (名無しさん) 2007-01-10 15 19 33 2喬婚礼の条件がまだ足りないかもしれない。もしかすると2喬は未士官でないといけないのか?代わりにほぼ同じ条件で発生(領土にロコウ追加)で小覇王が発生した -- (名無しさん) 2007-01-22 17 09 34 孫尚香の結婚の条件ですが、周瑜、魯粛が死んで居るとダメっぽいです。三顧の礼シナリオからはじめて、麋氏が死ぬ前に周瑜が死にその後停戦状態にして友好度を上げたのですが、2年経ってもイベントが起きませんでしたので。 -- (名無しさん) 2007-02-20 01 02 30 麋氏と劉備だけど、麋竺が劉備と同じ都市に居て、麋氏が配下に居て、未行動の場合季節の変わり目に起こるみたいです。麋氏を移動させたり(行動中)麋竺を別の都市に移動させたら起きませんでした。 -- (名無しさん) 2007-02-24 21 24 58 「二喬婚礼」直しました。「諸葛亮の北伐」入れときました。-- (名無しさん) 2007-03-05 11 02 47 劉表の死(荊州分裂)のイベントが出せないよぉ~。マルチプレイでもダメみたいだし、PC版パワーアップキット攻略本のとおりに条件をそろえてもだめみたいだし、(劉表がCOM担当とは書いてあるが、その他の勢力には触れられていない)そもそも劉備とか劉表とかが未行動なんてありえるのかよ~。出せた人います?-- (92) 2007-04-18 14 17 27 劉表の死(荊州分裂)イベント、何度かやってマルチプレイで出せました。上記の条件以外に、1.劉表が必ずCOM担当である事(曹操はプレイヤー担当でも良い)2.208年8月以降に劉備、曹操、劉表と劉キ、劉ソウ親子、蔡ボウが未行動であること。3.劉表が襄陽、江夏、江陵を確保している事(攻略本によると、イベントの際の判定で江陵も見ているらしい)が必要みたいです。私のやり方としては、1.「207年三顧の礼」のシナリオで、3人プレイでそれぞれ劉備、曹操、孫権を選ぶ。孫権を選ぶのは劉表の領地を削らないようにするため。最初のうちに、曹操、孫権の第一軍団以外の軍団に出陣しないように指示を出しておくのが重要。2.曹操で空白地である晋陽を占領(壷関まで占領する必要はない)。3.2の後、すぐに曹操の南征宣言のイベントが起きる。これ以降は「曹操が未行動の状態」を保持しておく以外、特に曹操の出番はないが、COM任せにすると保持はまず不可能。4.そのまんま年月を重ねる。途中で徐庶や諸葛亮のイベントを経過する。5.208年9月から11月になると、COM担当の劉表勢中の関連武将が偶然未行動になったのか、ほぼ自然発生的にイベント発生。…てな感じです。 -- (92) 2007-04-24 11 09 40 お初に失礼致します。いくつかPS2PK版イベントのご報告をば鳳雛理政(落第県令)…他君主でも出ました。劉備の能力全て2UP、及び兵種経験UP…漢帝奉戴状態で帝所在都市に劉備当人も駐屯20郡くらい確保したら出ました。既出ならば失礼を。。小覇王・孫策…自分の場合は能力2UPでした。条件に何か違いがあるんでしょうかね???漢帝奉戴時劉備のターンへ廻った際、献帝の「頼むぞ、皇叔。」の言葉に微笑ましく感じられました。乱文ご容赦。 -- (玄徳) 2007-04-24 11 58 07 統一前反乱疑惑自分で疑惑を言いに来ました(袁術)ワロタ -- (名無しさん) 2007-05-22 02 18 18 鳳雛理政(落第県令)のイベントに 太史慈(剛胆)が参加しました。 その時の君主は孫策です。 -- (名無しさん) 2008-05-16 20 29 23 遺跡を発見したら、軍の中から一人知力を上げてやると言われました。 一人選ぶと知力が+1されました。 遺跡を破壊すると盟主の健康状態が悪化しました。 -- (ばちょー) 2008-06-19 00 45 09 ある条件下で遺跡・廟を壊したら玉璽が手に入ります それをせずに壊したとき、僕の場合は壊した部隊の兵士が3000減りました。 廟発見の特典は新しい特技です(制限あり) -- (名無し) 2008-06-19 18 31 02 玉璽が手に入る条件は 廟か遺跡を発見した都市に左慈か禰衡がいない、直接攻撃で破壊 、破壊した部隊の主将が漢室重視 、破壊した部隊の所持金がMAX です -- (名無し) 2008-07-10 19 29 10 劉表の死(荊州分裂)イベントについて 私の場合、劉表は襄陽、江陵、上庸の3都市を治めていて江夏は曹操が治めていましたが出ました。 結果は、襄陽は曹操、江陵は劉備、上庸は空白になりました。 -- (PLHJ) 2008-07-12 12 08 49 2喬婚礼は2喬が仕官武将でも余裕でできますよ。 私はおもいっきり2人を仕官させてましたので~~~ -- (小覇王) 2008-07-19 01 27 22 孫尚香の結婚イベントですが、劉表との同盟を破棄したとたん起こったので、他に同盟国のないことも必要なのかなとおもいます。 それとも単に孫権と劉表の仲が悪かったのが原因か… -- (名無しさん) 2008-08-17 01 23 49 廟の場所はある程度決まった所で出ると思いますが誰か教えて下さい。 -- (岳飛) 2008-09-27 12 28 43 FAQにあります -- (名無し) 2008-09-27 18 54 21 FAQを見ましたが()の数字の意味がわかりません。 -- (索超) 2008-09-28 00 59 21 廟を発見出来るのは 功績10000の部隊OR魅力80の部隊なのか? 功績10000+魅力80の部隊なのか? どちらでしょう? -- (索超) 2008-09-28 02 48 35 私も知りたい。 説明不足が多いですな! -- (張遼) 2008-09-29 02 48 59 既出かもしれないけど大司馬でも銅雀もらえました -- (名無しさん) 2008-10-08 21 15 17 三顧の礼について 孔明が仕官する際、黄月英が新野の在野にいましたが、「孔明が行くなら私も!」みたいな感じ(詳細は見逃しました)でともに仕官してきました。 ちなみに・・・条件の詳細は不明です(PK版でプレイしてました)。 既出でしたらご勘弁くださいm(__)m -- (津市孔明町) 2008-10-13 02 56 40 FAQで廟、遺跡の位置を示した数字がありますがどこから数えるのですか? ()内の数字がわからない。 孔明殿教えて下さい。 -- (劉備) 2008-10-26 03 27 39 徐庶登場イベント 以下は、自分が発生したときの状況です。PCPK版 ・劉備でシナリオ3から開始 ・劉備が新野にいて未行動、新野の治安が100 ・徐庶が未仕官在野or未発見 ・徐庶の登場年206年以降に上記状況を満たした時に発生 ちなみに、このときの支配都市数は新野から華北にかけて13で、 爵位は大将軍でした。また、"わが軍には軍師がおらん~~" みたいな台詞ではじまりましたが、徐庶より知力の高い武将が 何人かいましたので、国力や武将状況は関係なさそうです。 -- (らん) 2008-11-25 11 14 18 劉表の死(荊州分裂)イベント 私もこのイベントの発生に苦労しましたが、発生直前の途中参加でマルチプレイにして、 関係者(曹操、劉備、劉表、劉琮、劉琦、蔡瑁)の状態を未行動に揃うようにし、劉表だけ発生月直前にCOMに戻して出来ました。 #もともと劉備軍にいた李厳が、イベント後に江夏の在野武将になってしまうのは、仕様ですかね・・・ -- (らん) 2008-11-25 11 34 12 遺跡の効用について 遺跡を発見すると自分の場合は、 1、いずれかの能力+1 2、いずれかの兵科適正レベルアップ 3、好きな特技習得(高位なやつはなし)、だったかと。 ちなみに自分はPS版(PKなし)でやりました。 既出ならすいません。 あと、()内の数字はマウスをどこでもいいのでそこらへんの土地にあわせると 下のほうに(数字、数字)、森という感じに表示されます。 これも既出ならすいません。 -- (名無しさん) 2008-11-27 11 21 27 恩讐徐州攻略戦(曹嵩惨殺) が192年の9月に発生しました。 曹操が陳留・ボク陽を所持、陶謙との関係が中立かそれ以下 曹操の都市が4つ以下、陶謙が下邳所持で発生。 陶謙が下邳を持ってる状態で曹操が陳留、ボク陽含めた4都市以下ならいつでも発生するんじゃないかな。 既出ならすいません。 -- (名無しさん) 2008-12-09 20 24 28 スレで出てた合併の条件の詳細分かりませんか? -- (名無しさん) 2009-01-11 22 40 33 諸葛亮が、馬超に不満を持つ関羽を説くイベントが発生したんだけど、 そういう細かいイベントは載せてないの? -- (名無しさん) 2009-01-12 01 46 50 汎用イベントで、政治修行中の武将を軍師が訪問するイベント確認。 舌戦が発生、敗北した後知力経験値が少し上昇。 -- (名無しさん) 2009-01-13 00 18 38 ↑二つ上のイベントは「美髯公には及ばず」だと思います。 -- (林沖) 2009-01-14 19 04 08 「旅人訪問・黄承彦」の内容を確認しました。黄承彦先生がおおまかな遺跡の位置を教えてくれました(「襄平の北西に~」というアバウトな示し方ですが… 襄平で魅力94、功績値1万以上の登録武将で探索したところ発生しましたので、もしかすると遺跡・廟発見の条件を満たす武将に限って発生するイベントなのかもしれません。 -- (名無しさん) 2009-05-09 19 50 10 顧雍推挙のイベントですが、孫策勢力で会稽支配してなくても起きました。 -- (名無しさん) 2009-05-20 23 41 03 管輅や許劭の居場所はわかりませんか?わかりませんよね? -- (名無し) 2009-09-01 20 00 40 「桃園の誓い」はopイベントでいいっぽくね?このイベントが起こらなくても……というか最初っから義兄弟だし -- (名無しさん) 2010-01-28 15 08 55 更新ありがたいのだがこれだとPCとCSで混乱してしまう。 -- (名無しさん) 2010-01-29 14 39 01 イベントってPCとCSで違うんですか? -- (名無しさん) 2010-01-29 20 00 33 とりあえずここに載ってる達成イベントってのはPC版には無いよね? まぁ今までこの項目自体がCS向けっぽかったしほとんどはPCと同じだから あんまり言及されてなかったかもしれんけど。 -- (名無しさん) 2010-01-29 21 41 52 けーしゅー分裂イベントきたーーーーーーーーーーーーーー¥ -- (威風書いた人 ) 2010-02-15 18 57 13 ・推挙イベントについて 1. 発生する年月日はプレイ開始時に完全に決定されてると思われる。 2. 乱数は推挙する・される人材に関与し、評定等で乱数を変えてもイベントの発生する日が変わるわけではない。 3. 推挙による登用が成功しようと失敗しようと発生日は変わらないので連続で発生することもある。 4. 武官推挙は出身地に関係ないと思うが、出身地が同じ武将を推挙する確立が高い気がする。 -- (名無しさん) 2010-03-26 23 08 14 徐庶去るのイベントで呼び戻した時の忠誠255って本当? -- (名無しさん) 2010-04-02 21 10 28 二張推挙は柴桑・廬江など江東の都市を支配していないと発生しなかったような・・・ 誰か確認お願いします。 -- (名無しさん) 2010-04-03 15 37 50 PCPKにて確認 勢力は劉表で190年のシナリオ孫堅を討伐済みで 荊南四郡とコウリョウとジョウヨウ支配でイベント発生しました。 -- (名無しさん) 2010-04-03 18 01 02 ↑書き忘れコウカも支配してます。 -- (名無しさん) 2010-04-03 18 06 30 ↑ありがとうございます 孫堅で長沙に引きこもってたら発生しなかったので・・・ -- (名無しさん) 2010-04-04 01 06 44 「徐庶去る」が、徐庶の身分が軍師の時にも起こりました。 機種はwiiですが、おそらくPS2PKでも同様ではないでしょうか? -- (名無しさん) 2010-04-26 01 13 18 君主が皇帝のとき、遺跡・廟を破壊しても玉璽は手に入らない模様。(PCPK) 主将皇甫嵩、部隊所持金MAX、左慈・禰衡も周りにいない状態で、直接攻撃で破壊したのに… -- (名無しさん) 2010-06-06 13 16 41 孫策の死が起きない…なんだコレ? 200年シナリオで初めて孫策、孫権の二人を待機させてたのに起きず推挙イベントやら甘寧亡命が起きる…(いや別に起きてくれてありがとうなんだけどさ…) もしかして200年シナリオじゃ起きないのか?つかイベントの所に 「于吉の呪い」しか書いてなかったり意味不。 「于吉の呪い」参照で飛んだら 「于吉の呪い」どころかイベント一覧表にとんでそこで調べたら 条件 200年以降 孫策勢力である 孫権が配下にいる 廬江・柴桑・建業・呉・会稽が支配下 孫策・孫権が任務中でない 結果 舌戦が発動。勝つと寿命が延びる。負ければ死。 とか何?うん「于吉の呪い」どこ逝った? と長々しく書いたんですけど本当におきなくて困ってます。だれか判る人がいたら教えてください。 ちなみに自分が持っているのはPS2のPKです。 -- (名無しさん) 2010-06-17 03 09 53 そのシナリオで起きるかどうかはわからないけど 孫策は不自然死扱いなので210年くらいまでは生きる事が多いと思う。 イベントの開始条件は確か孫策が寿命を迎える事だから のんびり待ってみてはいかがか。 -- (名無しさん) 2010-06-17 05 43 24 ありがとうございます^^ 寿命を迎えるのが条件とは思わなかったです。とりあえずのんびりやってみます^^ -- (名無しさん) 2010-06-17 17 12 35 表の最下段にある夏侯惇の顔グラ変更をPCPKで確認。 しかし紙芝居のない「夏侯惇が左目を負傷しました」というセリフだけで、 矢を引き抜いて目玉を食らう描写も一切ないから、イベント欄に必要ないかな。 http //www4.atwiki.jp/sangokushi11/pages/8.html#id_c38853dd そもそもここに載ってるしね。 -- (名無しさん) 2010-06-26 12 45 43 蜀帝即位の内容が『王になる』だったので変更。 言葉が変でしたらごめんなさい -- (名無しさん) 2010-07-19 22 10 05 遺跡・廟発見イベントはどうやれば発生するんですか? -- (名無しさん) 2010-08-17 08 22 18 最近買ったばかりですorz 黄巾の乱が終わらない。。これって10みたいにイベント発生→各君主が各地に封じられる、的なのって起こらないままでしょうかorz -- (名無しさん) 2010-09-05 07 11 00 ※の件を編集したものですが、まだ未確定の部分も多いので他の方にも検証をお願いします。 少なくとも、封禅は「汎用のみ」では発生しなくなりました。 -- (名無しさん) 2010-09-14 11 53 55 災害援助で左慈に3回舌戦に勝ち追い込むと瀕死になるがさらに何回追い込んでも死なない それと恐らく体調は回復しないものと思われる ただし知力は瀕死でも94のまま -- (名無しさん) 2010-09-23 03 38 37 連環の計がでないんですけど 一応呂布 王允 李儒 は同じ城ですけど全然起きません なんかしないといけないことってありますか? -- (名無しさん) 2011-01-14 18 07 55 連環の計は、長安の治安という条件が抜けていますね。 どうも70位が目途のようです。 -- (名無しさん) 2011-01-23 12 07 28 「御曹司一番乗り」の発生について。 PCPKシナリオ3曹操勢力でプレイ、曹丕と甄氏は共に曹操配下。 袁尚勢力の薊を陥落させ、袁煕を捕虜にした。 曹丕を含む部隊を薊に移動させたところ次ターンでイベント発生。 このとき下邳所属だった甄氏が薊に移動し、曹丕の配偶者に。 4610あった甄氏の功績値が3000に減った。能力・兵科適正の経験値は変化ない模様。 袁煕を捕虜にした都市に曹丕を配置すると甄氏がどこにいようとイベント発生してしまうのかもしれない。 経験値は減らないが、甄氏の功績を貯めた人は注意かと。 -- (名無しさん) 2011-01-24 00 56 34 http //www.nicovideo.jp/watch/sm13676900 より、矢を引き抜き目玉を食らう!(夏侯惇の特別イベント) において、イベントが戦闘時に発生した場合に、 夏侯惇に若干の武力経験値(暫定値10)が入るようです。 -- (名無しさん) 2011-02-23 20 15 52 ↑の動画と同じ検証をした結果。入手経験値量は『10』と判明しました。 「出陣中の武将に反映される経験値UP系イベント」なので 指導の効果も望めると推察します。(未確認) -- (801) 2011-02-23 23 28 44 趙雲が魏延を推挙してくれる事が有るんだが、出身も違うし他にも武官推挙条件が有りそうな気がする。 -- (名無しさん) 2011-02-28 12 40 26 すみませんが、「ゲーム開始」と「プレイ開始」の違いは何ですか? 正直、さっぱりです…。 -- (名無しさん) 2011-03-01 13 52 45 「ゲーム開始」は「始めから」でシナリオを選んで、新武将を登録するか選んで、難易度や仮想か史実かを選んで シナリオムービーが終わってから、シナリオが始まった時間からの判定という意味で。 そして「プレイ開始」は勢力を選択した時点からの判定になるという意味。 つまり最初に支配都市が1つの曹操勢力で「プレイを開始した」としよう。 そのままプレイヤーが都市を3つにすれば、普通に都市制圧①のイベントが起こるんだけど。 仮に曹操勢力をプレイヤーが途中で抜けてCOMに任せておくとする、そしてそのCOMに任せた曹操勢力が支配都市を3つにする。 その後にプレイヤーが曹操勢力を選び直して「プレイ開始」すると………既に都市制圧①の「プレイ開始時にプレイヤー勢力の支配都市が3未満から開始し」の条件から外れてしまっている。 よって「都市制圧①は曹操勢力からではもう発生しない」ということになる。 しかしそのシナリオでも、改めて他の支配都市3未満の勢力で始めれば起こる可能性はあるということ。 これでわかったかな? -- (801) 2011-03-01 16 41 07 応答ありがとうございます。ただ、それだとロードした時がどうなるのかがわからないのですが…。 -- (名無しさん) 2011-03-02 13 13 02 セーブデータにはちゃんとそのプレイの記録が保存されてるのでロードしても判定は変わらないと思います。 重要なのは途中でプレイを抜けるかどうかなので。 「連環の計」のように董卓でプレイしていなければ発生しないイベントや「荊州分裂」などのようにマルチプレイで条件を整えなければ発生が難しいイベントを見たいときは どうしても最初に選んだ勢力を一度プレイヤーから外さなくてはいけないので、その時に注意してもらえれば良いということです。 -- (801) 2011-03-02 17 36 51 言葉足らずでした。つまり「3都市支配直後で次のターンで都市制圧①が発生する」状態でセーブを取っておくとします。(以下、セーブ①) そこから一度マルチプレイでプレイヤーから外して、次のターンでプレイヤーに戻した状態でセーブを取っておきます。(セーブ②) するとセーブ②の勢力は既に「支配都市数3の状態からスタートしている」のでいくらセーブ②をロードしても都市制圧①は発生しません。 しかしセーブ①をロードすれば、都市制圧①は必ず発生する、というわけです。 -- (801) 2011-03-02 17 55 34 わかりました、ありがとうございます。 -- (名無しさん) 2011-03-03 11 16 48 袁家分裂がおきた場合、寿命が仮想でも袁紹さんお亡くなりになるんですか? -- (名無しさん) 2011-03-25 16 42 13 呉王即位と呉帝即位がたぶん条件そろってるはずなのに起きない。 ちなみに呉はCOM勢力です。 -- (名無しさん) 2011-05-20 22 47 15 スイマセン魏帝即位起きてなかったです。 これって条件そろったらCOM勢力でも発動しますよね。 -- (↑) 2011-05-20 22 49 12 イベント「徐庶去る」の条件中、徐庶の身分は一般ではなく軍師である事が条件の様です -- (名無しさん) 2011-06-05 18 01 55 「連環の計」が発生しないのですが... 上記の発生条件+長安の治安についても満たしているのですが、一向に起きません。まだ何か足りないのでしょうか? -- (名無しさん) 2011-07-01 12 51 19 「連環の計」ですが、王允の忠誠度が90未満も条件の1つかもしれません。 -- (名無しさん) 2011-07-02 13 00 23 「周瑜、魯粛を推挙す」の発生条件に「周瑜が軍師」というのがあると思われます 程普が軍師の間発生せず、周瑜に変えた途端に発生。PS2PK -- (名無しさん) 2011-07-29 06 09 17 史実イベントを一応、時系列順に並べてみました 間違いがあれば修正して下さい。 -- (801) 2011-08-25 00 39 02 「周瑜の死」の条件に"周瑜がプレイヤー勢力の軍師"を追加しました -- (名無しさん) 2011-10-09 09 01 25 「孫策の死」加筆しましたが、発生時期に関して少し半端な書き方になりました。 デモプレイで飛ばして何度か観ていると最速で212年に死亡することも有り。 討ち死にや処断で無いことは確かなので自然死だと思われます。 途中切り替えを含め、自操作時での最速死亡(イベント発生)は214年、最遅で218年。 孫策のページで寿命を気にする必要はそれほど無いと書いたけど、ここまでバラツキあると リセット無しプレイで、このイベントを狙うのは結構面倒かもしれない。 -- (名無しさん) 2011-10-10 05 05 08 「皇叔再興」が発生しないのですが、 英雄集結シナリオでは発生しないのでしょうか? -- (名無しさん) 2012-01-03 22 18 24 「孫尚香の結婚」がwiki条件で発生しなかったのでちょっと検証。 ・周瑜死亡後は発生せず(軍師は別人) ・友好度は好意以上 ・孫尚香、孫呉君主(検証時は孫権)が同一軍団(別拠点でも発生) 検証はPCPKの劉備勢力にて中華ツールも利用して検証。 -- (名無しさん) 2012-01-13 01 57 26 PCPKのおすすめシナリオの「190年1月 曹操挙兵」でスタートして、 荀攸を捕縛、配下にしていると「荀攸、満寵を推挙す」のイベントが 早ければ190年10月1日に発生した。 -- (名無しさん) 2012-02-02 05 57 05 それただの汎用文官推挙イベントだと思うよ。多分舌戦あったんじゃない? 固有推挙イベントは舌戦ないからそれで判別できる。 そもそも固有イベントは(主に演義での)一場面を再現するものだから 「劉曄、満寵・呂虔を推挙す」がある以上満寵に他の固有推挙イベントが存在するとは考えにくいんだけど。 -- (名無しさん) 2012-02-07 07 35 23 そうですね私の記憶違いでなければ二人とも推挙されましたし -- (名無しさん) 2012-04-12 18 04 27 包囲網形成が起きん! 条件は満たしているはずだが… -- (名無しさん) 2012-04-17 15 26 47 PS2版では人材充実イベントに仕様ミスがある。 文官充実で政治80以上の文官の功績が上がらず、何故か武力80以上の武官が500上がる。 武官充実ではやっぱり武力80以上の武官が500上がる。 結局武力80以上の武官のみが優遇されまくりな謎仕様w -- (名無しさん) 2012-06-10 14 53 16 それ本当なら結構重要な仕様ミスだね PC版では違うのかな -- (名無しさん) 2012-06-19 19 11 53 PC版に達成イベントはないって -- (名無しさん) 2012-06-24 04 09 50 しかしアレだねぇ、今頃まで誰も気付かなかったんかな?ま、総勢100人超えるくらいの勢力になって やっと条件が揃うようなイベントだし、その頃に一々各個の武将の功績値なんて気にしてないよねw -- (名無しさん) 2012-06-24 11 36 19 質問なのですが、遺跡・廟をいくら探しても見つけることができません。 功績値10000以上、魅力80、兵1の騎馬隊で探しに行かせてるのですが、 なにか他に条件があるのでしょうか? ちなみにCSのパワーアップキットです -- (名無しさん) 2012-07-05 12 32 43 答え:この質問が出る時は大抵、遺跡・廟のある座標の真上に探索部隊を進めてるパターンなんだが、 キミはそうやっていないか?ポイント座標の真上ではなく、ポイントに隣接させないといけない。 一発で発見できる場合もあるが、2回か3回隣接マスを廻らないと発見できないことも多い。 ま、4回やってダメならほぼハズレだが・・・。 -- (名無しさん) 2012-07-05 22 15 22 CSPKの袁家の戦いだと、孔明の嫁取りは発生しないんですか? 条件には202年12月以前のシナリオと書いてあるので -- (名無士) 2013-05-24 12 54 53 孫策の死のイベントですが自分は209年で孫策が自然死しました マルチプレイをしていたせいかもしれませんが・・・ -- (六武衆) 2013-06-23 19 47 35 PCPKにて、シナリオ2孫堅から君主孫権になって皇帝になるイベントがあり、孫権の適正や能力値が大幅向上するイベントがあったのですが、見当たりませんね。汎用イベントでしょうか? -- (名無しさん) 2013-11-25 14 29 49 旅人訪問の司馬徽イベントが司馬徽との関係がない筈の 蒋琬、法正で発生したのですが ちなみにPCPKのver1.1です -- (名無しさん) 2013-12-14 03 23 33 hhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh -- (hhhhhhhhhhhh) 2014-01-27 20 52 25 PCPKって汎用達成イベント以外は起きる? -- (名無しさん) 2014-03-01 02 03 32 PCPK落第県令イベントで諸葛亮・徐庶とも配下ではなくても発生しました。 -- (名無しさん) 2014-03-22 16 10 06 文官推挙では自制力に仕官禁止期間の武将でも推挙される場合がある 自分は残り八ヶ月 女の戦いで蔡琰が鐘会を推挙した -- (典○) 2014-03-26 10 28 01 曹操でプレイしてて皇帝即位の段になり、帝位禅譲と帝位簒奪の2通りの結果となったが、分岐は如何程? -- (名無しさん) 2014-07-20 02 19 06 「勢力合併」について。プレイヤー勢力の条件では「支配都市が10以上」とあったので 10以上取らないようにしていたのに、8都市所有したときに馬騰と劉璋が合併してしまいました。 また、結果の項目の中に「君主の能力の低い側が、高い側へ合流する形となる」とあるのですが、 このときの合併では馬騰が劉璋に吸収される形となりました。 ロードでひとまず時間を戻し、編集で嫌悪武将を設定して合併を回避。 数ヵ月経過後に設定を元にもどしたところ今度は劉璋が馬騰に吸収される形に。 君主の能力って、具体的になにを指しているのでしょうか? PS2PKなので条件や結果がPC版限定なのだとしたら、長々とごめんなさいです。 -- (名無しさん) 2014-12-27 15 02 14 たまに廟が5か所しかないことがあって、このときは3か所目からレア特技が習得できるようです。PCPKにて。 -- (名無しさん) 2015-03-10 17 54 51 漢帝を支配下の都市に異動することは出来ますか? -- ( 光武帝) 2015-06-20 14 51 27 イベント 董承の密勅(PCPKでの確認) ツール使用で親密度80上昇を確認。 0→80 / 5→85 への変化を確認しました。 -- (名無しさん) 2015-09-25 18 29 52 荊州分裂イベントが起きにくい。条件揃えても、その前に劉表が死んじゃう。誰かコツを教えてくれなせんか? -- (蟹さん) 2016-02-01 03 47 49 PCPKなのですが、技巧習得のイベントが起きません。条件は満たしているはずなのですが・・・ -- (名無しさん) 2018-04-06 16 00 24 技巧習得は、達成イベントだからCS版のみ発生すると書いてあるぞ -- (名無しさん) 2018-04-07 23 59 34 ↑確認不足でした・・・。申し訳ない。 -- (名無しさん) 2018-04-08 08 14 50 ↑問題ない。ワシもよくやらかすw -- (名無しさん) 2018-04-09 00 00 59 赤兎馬を呂布に渡すイベントないのぉ!? -- (名無しさん) 2019-10-18 14 00 42 個人的に思うんだけどこの11の時のイベントはチュートリアルやステージでみんなはっちゃけてたり三顧の礼が劉備三兄弟のコントみたいだったり左慈イベントの曹操がメチャクチャ尊大だったりと見ていて面白い遊びが多かったな。12以降はまた内容が真面目になっちゃうんでちょっと悲しい。 -- (名無しさん) 2019-11-07 19 03 31 孔明の嫁とりイベント、「『黄月英が未発見の場合』と『黄月英が既出・自勢力配下の場合』でセリフが違う」とありますが、違い過ぎて結構笑える。 -- (名無しさん) 2020-10-25 15 52 21
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/730.html
Template 日本の歴史? thumb|200px|[[昭和天皇]] 昭和(しょうわ)は、20世紀の日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間であった1926年12月25日から1989年1月7日までの期間を指す。昭和64年まで続き、これは日本の元号のなかでは、最も長い。ただし、実際の期間は昭和元年と64年が共に1週間のみであったため、厳密には62年2週間である。 改元 大正15年(1926年)12月25日、大正天皇崩御。皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚のため改元。この際、東京日日新聞が『新元号は光文』と誤報した(光文事件を参照) 昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇崩御。皇太子明仁親王(今上天皇)即位のため、元号法の規定に基き元号を改める政令(昭和64年1月7日政令第1号)が公布、翌1月8日施行され、平成に改元された。 出典 「昭和」の由来は、四書五経のひとつ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者吉田増蔵の考案。なお江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。 国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。 時代の流れ 急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。 昭和初期 第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に昭和2年には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵をおこない、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。 田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤高明内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一はみずから外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、昭和3年、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議がおこなわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、昭和3年に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。 一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、昭和7年には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。 そのような状況下の1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた浜口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因のひとつとなった。 1930年米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米 英 日=10 10 7とするものであった。全権大使若槻礼次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。 1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。政府の戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満州建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。 また1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。 1937年には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、日中戦争(支那事変)が始まった。日中戦争(支那事変)がはじまると、中国では蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立し、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。 戦線の拡大に従って広田内閣・林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。 国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。 太平洋戦争 日中戦争開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯国昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。 アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・イタリア王国と日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうしてアメリカ合衆国での呼称太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争とした)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。 アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。 1941年12月8日(アメリカ時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。 1942年、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。 当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未だ未完成であった。 日本海軍は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数10分の1でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年3月10日には、大量無差別の東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。核の被害実験、ソビエト連邦への軍事力の誇示、自軍の被害軽減、戦争の早期終結など様々な理由から、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下が行われた(当初は京都に投下される予定だった)。次いでソビエト連邦軍が条約を一方的に破棄し対日参戦、万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。 日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布告(ソ連対日参戦)し、満州に進撃した。満州では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満州での大規模な略奪行為も頻発するに至った。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じる事となる。日本は連合国側の降伏勧告をポツダム宣言として受け入れ、日本降伏の意思は翌8月15日正午、昭和天皇みずからの日本放送協会のラジオ放送いわゆる玉音放送により日本国民に伝えられた。 こうして日本だけでも3百万の、関係諸国を入れると2~3千万(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、8月23日のことだった。 戦後復興と高度経済成長 概観 太平洋戦争降伏後、1952年まで連合国軍の軍事占領下におかれたが、連合国軍最高司令官総司令部GHQ/SCAPの軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄・奄美諸島・トカラ列島の下7島・歯舞諸島・千島列島・樺太・小笠原諸島を除き日本政府がおこなう間接統治がおこなわれた。連合国軍最高司令官総司令部はプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米感情を統御した。沖縄・小笠原諸島ではアメリカ合衆国の軍政が布かれた。1946年に公布された日本国憲法は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原則とした。このため現在日本では徴兵制は憲法違反として実施されない。また、天皇を日本国および日本国民統合の象徴として、天皇の国政への関与は禁じられた。農地改革、財閥解体、労働組合結成の促進、教育基本法制定などの社会改革が実施された。戦争によって著しく落ち込んだ経済は、朝鮮戦争・ベトナム戦争をきっかけとして、1960年から1970年代初頭まで高度経済成長を遂げ、アメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、農地改革や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場におかれていた労働者や農民が大消費者層として解放され、国内市場が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、家電、自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人びとが豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたるオイルショックを境に高度経済成長時代は終焉し、安定成長時代を経てバブル景気へと突入した。また、日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年に日本国との平和条約と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ合衆国軍の駐留をそのまま継続するとともに、事実上の再軍備をおこなった。冷戦期には米国と同盟してソ連に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。 GHQによる占領 終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南樺太、南洋群島・千島列島を失った。このうち、千島列島については、様々な説があるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。 1945年から1952年までの7年間にわたって、日本史上初めて他国(GHQ)に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続をおこなっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放および被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。 連合国 の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。 日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張をおこなったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年に日本国憲法が公布され、1951年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。 占領期間中の制定だが(後の押し付け憲法説に)、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊が日本国憲法の平和原則に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。 大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年には早くも現れ始めていた。その上、1949年に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理もおこなわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動をおこなった。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージがおこなわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。 文化面においては、映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語の問題についても昭和21年の現代かなづかい・当用漢字の制定や、新聞の検閲などがおこなわれた。 講和後~昭和後期 thumb|200px|[[東京タワー、1958年(昭和33年)竣工]] 自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年代半ばから1970年代初頭まで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、日本万国博覧会(大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。 この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、駐留国負担(近年は思いやり予算と呼ばれることがある)の出費も大きく、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。 急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。 一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、当時流行した新左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代には、公害の激化や社会問題の深刻となるなかで、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。 戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。 一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしにおこなわれたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。 大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。 しかしオイル・ショックを境に、円高問題の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、低成長の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前のバブル景気に突入した。だが、その繁栄はやがて到来するデフレ(マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。 以上のように、戦争そして敗戦と民主化、経済成長など、昭和の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉のときには新聞をはじめ、さまざまな方面から激動の昭和と評された。 後半は昭和-2参照 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月16日 (水) 10 09。
https://w.atwiki.jp/aniwotawiki/pages/46369.html
登録日:2020/10/24 Sat 23 00 00 更新日:2024/01/26 Fri 12 21 00 所要時間:約 15 分で読めます ▽タグ一覧 プロトタイプガンダム 三国志 三国演義 世界史 中国史 中立 仮節 儒者 優柔不断 劉備 劉表 孫家三代の宿敵 ←勝てなかったよ…… 州牧 後漢 後漢皇族 成武侯 清流人士 無気力 皇族 群雄 荊州 見なかったことにしよう 軍閥 鎮南将軍 劉表(りゅう ひょう)は「三国志」の時代の人物。 字は景升。 後漢末期、荊州地方に割拠した軍閥の長として名高い。 後漢朝廷からの官職は「荊州刺史」、「鎮南将軍、荊州牧、成武侯、仮節」。 【生涯】◇前歴 ◇荊州へ ◇勢力拡充 ◇中立偏安 ◇急逝 【評価】 【三国演義の劉表】 【各作品】 【生涯】 ◇前歴 西暦142年、山陽郡は高平県(山東省鄒城市)の出身。なお鄒城市は春秋戦国時代の儒者、孟子の故郷である。 前漢の景帝の四子・魯の恭王、劉余の子孫とされる。 身の丈八尺(186cm)の長身で、顔立ちや立ち居振る舞いには温厚な気品と威厳があった、という。 少年時代から儒者として一流の教育を受けて育ち、太学にまで進んで大儒者として大成する。 その教育の成果で、激しい気性を見せない柔和な性格に育ち、上述の気品も相まって、周囲の声望を一身に集めたという。 他の学生たちとも広く付き合い、「八交」とか「八友」「八及」「八俊」とかいうグループ(というか私党)を組んで、互いに名声を高めあった。 ただ、そのグループ名と所属メンバーがまったく安定しないことからわかるように、これは彼らの能力が高かったことを示すのではなく、徒党を組んで互いに褒めあうことで相互に名声を高めあうという、いわば就職互助組織のようなものであった。 当時は、そうした「虚名を高めて抜擢を求める」人物が多かった。諸葛亮の「伏龍」や龐統の「鳳雛」や司馬徽の「水鏡」とか、馬良・馬謖の「馬氏の五常」も、そのたぐいである。それで「中身がない人間」も多かったが、そういう時代であった。 それでも、そうした工作が奏功して、劉表たちは清流人士として名声を固めていったが、それが党錮の禁で目をつけられてしまう。 同郷の先輩をかばったことで劉表自身も摘発対象となり、一時は逃亡生活を余儀なくされた。 八年後、黄巾の乱に対処するべく党錮の禁が解除されると、劉表も大将軍・何進に招かれ、幕僚(北軍中侯)に収まった。 ◇荊州へ 190年、袁紹を盟主に「反董卓連合」が起き、再び天下が大いに乱れる。 長沙太守の孫堅は連合に所属する過程で手当たり次第に攻略しつつ北上、荊州刺史の王叡も殺害した。 すると朝廷(実質は董卓)は、その後任として劉表を荊州に送り込んだ。 (董卓執政以前から、後漢では皇族を各地の地方官に送り込む政策を取っている。劉焉・劉虞・劉繇・劉岱などがこれにあたる) しかし当時の荊州は、多数の地方豪族・山賊・水賊が人民を抱えて勢力を誇り、しかもそれらを袁術が背後で扇動・支援していた(*1)。 そのため劉表は荊州の本庁・漢寿には接近すらできず、北部の宜城にとりあえず仮寓する羽目になった。 そんな劉表に手を差し伸べたのが、荊州の地方豪族の一派、蒯良・蒯越と蔡瑁たちである。 しかし彼らも、劉表を阻む地方豪族(代表者は長沙太守を称する蘇代、華容長を名乗る貝羽)とは本来同じ穴の狢。 つまり劉表の徳に感じ入ったとかいう話ではなく、単に「豪族同士の抗争に勝って、一獲千金のごとく荊州を支配したいから、劉表を担ぎ上げた」だけだった。早い話がヤクザの縄張り争いだ。 ただ、劉表の地位や名声にはそれなりの価値もある。彼の「皇族」「正規の荊州刺史」「著名な儒学者」という名声は、それ自体では何の役にも立たないが、権力と融合すれば霊妙な権威として、何かと役に立つ。 それで劉表と蔡瑁・蒯越・蒯良は手を組むことになる。 劉表は荊州事情に詳しく兵も持っている蔡瑁・蒯越らの「盟主」となり、その助言と助力を得つつ、 反対派の豪族たちに「まずは話し合いましょう、何ごともそれからです」と呼びかける。 かくして参集した豪族たち五十五人に対して劉表は…… 「はい、静かに、静かに。一同静かにぃ。はい、これからあなた方を皆殺しますぅ」「手の空いた勢力圏は全て、この劉表の権力基盤とさせていただきますぅ。感謝するように」 と伏兵を差し向けて血祭りにあげた。 かくして荊州豪族の勢力図に空白と混乱が起き、機を逃さず劉表・蔡瑁・蒯越らが連合して荊州に進出。 張虎、陳生など、依然残っていた豪族も、あるいは討伐してあるいは説得し、ついに荊州一帯の制圧を達成する。 同時並行して反董卓連合にも参加しているが、名目だけでありこれといって行動はない。 ◇勢力拡充 反董卓連合は、連合特有の脆さを発揮して、あっけなく瓦解。 董卓も長安遷都で連合軍の矛先は免れたものの、中原への主導権を完全に喪失する。 かくして中原の情勢は、袁紹グループと袁術グループに分かれた。 劉表はこの情勢下で、袁紹と結託して袁術を背後から牽制する構えを取った。 その袁術は背後を安定させるべく、傘下の孫堅軍団に荊州攻略を要請する。 劉表軍は孫堅の猛攻を防げず、本拠地・襄陽への籠城を余儀なくされるが、劉表軍の大将・黄祖の伏兵が放った矢が孫堅に直撃、間一髪で切り抜ける。 さらに193年、袁術が自ら曹操攻撃のため出撃するとその背後を封鎖。南陽への退路を断ち、曹操に大敗した袁術を、揚州の寿春へと追い落とした。 袁術グループ最強戦力であった孫堅軍を破り、いままた袁術をも去らせた劉表は、荊州の立場をいよいよ盤石なものとする。 やがて196年には、董卓の元幹部・張済が南陽に進出し略奪を開始するが、彼もまた流れ矢にあたり戦死する。 荊州の官僚は喜んだが、劉表は 「彼は飢えて困窮して落ち延びてきたというのに、わたしは主人の礼を忘れて彼と戦い、ついに彼の死を招いたわけだ。わたしの本意ではないし、ましてや祝賀を受けるわけにはいくまい」 と述べた。 この温情ある言葉と意向が、張繡(張済の甥にあたる)を初めとする張済残党にも伝わった。 感激した彼らは劉表の傘下として宛城に駐屯し、荊州を北方から守る藩屏となった。 197年にはこの張繡が曹操軍を(一度は降伏しながらも)撃破し、曹操の長男・曹昂、側近の典韋らを戦死させる大勝利を得る。 劉表はこの直後張繡に援軍を送り、連携して曹操追討を行ったが、失意のはずの曹操軍の伏兵に襲われて返り討ちに遭った。 それでも劉表・張繡の同盟はよく機能し、以後も曹操の侵入を阻み続ける。 198年には、かねてより劉表と嫌いあっていた長沙太守・張羨(ちょうせん)が、長沙・零陵・桂陽の三郡を率いて反乱。 対して劉表は自ら主力軍を率いてこれを討伐、かなり苦戦したが張羨が病死したのもあって討伐を果たす。 かくして劉表の勢力は「南は零陵・桂陽を収め、北は漢川に拠り、土地は数千里、兵士は十数万」といわれる、当時でも指折りの大軍閥に成長する。 荊南平定後、南に接する交州の牧・張津とのあいだで対立が発生した。199~203年にかけては兵火も交えている。 しかし交州軍は兵力に乏しく、荊州進出は果たせぬまま、張津が部下に殺されて幕を閉じる。 劉表はそれに乗じて、部下を交州刺史や蒼梧太守として送り込み交州も手に入れようとしたが、 その部下が対立したことや、曹操らの後漢朝廷も交趾太守・士燮(*2)を抱き込み劉表を阻ませたことで、うまく行かなかったようである。 ◇中立偏安 当初、荊州は騒乱の地であった。 在地豪族はギャングのごとく抗争を繰り返し、外部からは流民がなだれ込む。庶民は豪族の支配下に収まって徴税・労役を免れ、やせ細るは国家ばかりとなっていた。 劉表はそんな荊州にあって、蔡瑁・蒯越ら豪族たちとうまく共存しあい、場合によっては鎮圧して、安定をもたらすことはできた。 その乱世に見合わぬ安定にひかれて、王粲や邯鄲淳といった戦乱を避けた学者・儒者も大量に流入し、襄陽は時代離れしたサロン的な雰囲気もにぎわったという。 劉表自身、「荊州星占」などの著書があり、その成立にはそうした学者や儒者たちが関わっている。 しかしそうした荊州内治の安定に対して、劉表は荊州から進出することはしなかった。 196年に献帝が長安から脱出し、曹操が擁立して袁紹と対立しだすと、劉表は献帝にも引き続き使者を送る(*3)一方で袁紹との同盟も維持する、という煮え切らない態度を取り出す。 それで両方を手玉に取る策略…が劉表の真意かはわからない。だが、結果としては単なる中途半端で終わってしまった。 200年に入ると袁紹と曹操の対立がいよいよ激化。 名将張繡(*4)が曹操に降り北の防御が失われても、「官渡の戦い」が勃発して曹操軍の圧迫が薄れても、汝南郡で劉備らが暴れまわっても、その劉備が落ち延びてきても、袁紹遺族を平定するべく曹操が五年にわたる北方遠征に乗り出しても、東で孫策が荊州防衛線を全滅させても、孫権が黄祖を討ち取っても、 劉表は頑として動かず、ひたすら荊州に蟠踞して形勢を眺めていた。 確かに、来たる時を考えて戦力を温存するのも一つの考えではある。しかし、天下の情勢は決して一定しないもの。曹操と袁紹のどちらが勝つにしても、どちらかが必ず勝つのだ。そして勝った方は負けた方を併合して強くなる。共倒れはない。 どちらが勝っても中原の覇者となる袁紹と曹操が激突しているあいだこそ、第三勢力的な劉表がもっとも自由に動ける時期であり、東西北のどこにも進出できた。 いっそのことどちらかにはっきりと味方するというのでも、高く評価されて地位を得られた可能性は高い。 にもかかわらず、劉表はどっちつかずのままただひたすら傍観していた。 内部豪族の反対が強くて動こうにも動けなかったという訳では決してない。 韓嵩・蒯越・劉備らがどれだけ諫めようとも、劉表は曹操が対袁紹戦に尽力していた七年もの間、ついに行動を起こさなかった。 彼がしたことといえば、かつての張繡のように劉備を新野に駐屯させて藩屏とし、夏侯惇らの進撃を防いだだけだった。 そして、強大な国力を持っていながら、長期的なプランもなく、ただひたすら立ち尽くしているだけでは、乱世においては攻められるだけだ。 袁家残党との決着をつけ、北方を平定した曹操は、劉備らの懸念通りに目標を南方・荊州に見定める。 そして、許昌を初めとして中原を収め、いままた袁紹の勢力をも併合した華北曹操政権は、もはやどれほどの知恵があろうと正面からの打倒は不可能な存在となっていた。 ◇急逝 しかし、劉表が曹操対策に頭を悩ませる必要はなかった。 曹操がいまだ到着しない208年、劉表はいきなり病に倒れ、あっさりとこの世を去ってしまったのである。享年六十七歳。 ところで劉表には子供が二人いた。 長男は劉琦で、これは先妻・陳氏(203年に没)の子。 次男は劉琮で、蔡瑁の一族・蔡夫人の子。 当たり前だが、外戚である蔡瑁も現在の正室である蔡夫人も、劉琮を立てたいと願っている。 それでなくても、蔡瑁一族は劉表を擁立した大豪族。ありていに言うと、荊州劉表政権は蔡瑁・蒯越ら荊州豪族が作り出した政権だった。 前提条件だけでも、劉琦が跡を継ぐ可能性は限りなくゼロである。 それどころか彼には命の危険さえあった。 劉琦はなんとか、劉備の幕僚諸葛亮の助言を受けて、戦死した黄祖の後任として江夏の防衛線に赴任したが、実質は逃げたのと同じである。 残った劉琮は、晴れて劉表の後釜として、荊州の支配者になった。 後に曹操の名参謀賈詡は曹操の後継者問題で劉表と袁紹の例に出して「劉表も袁紹も、長男を立てないから破滅した。長幼の序に基づいて曹丕を立てるべき」と主張した(*5)とされる。 だが、祭り上げられただけの劉表&その遺児と、トップとして権力を確立していた曹操では、前提条件があまりにも違いすぎたのであり、長幼の序などと言う事を言っていられる状況になかった事は留意しなければならないだろう。 そして、そのときには、もはや曹操の大軍が宛城を出て、荊州の玄関を叩いていた。 そして劉琮・蔡瑁・蒯越は、あっさりと曹操への投降を決意する。 さっきも言ったが荊州劉表政権とは、実質は蔡瑁・蒯越ら地方豪族の政権である。劉表はあくまでも盟主に過ぎない。 ということは、別に劉表や劉琮にこだわる必要はない。それが劉琮だろうが曹操だろうが、荊州を安定させて我々の身を保全してくれるなら、誰だっていい。 そして曹操は荊州に対して、別に悪い感情を持っているわけではない。豪族の大物である蔡瑁は曹操と昔話に興じるレベルの知り合いでもあった。 無駄な意地を張る必要はないし、抗っても勝てるはずもない。いや、曹操は献帝を擁立しているので「後漢朝廷への帰属」「もとから後漢帝国の官僚だったのであり、その本分に帰す」を大義名分とすれば、むしろスムーズに勝ち馬に乗れる。 ここに、蔡瑁・蒯越ら荊州首脳部は特に戦うこともせず曹操に降伏。劉表の19年の統治が幕を閉じた。 ……ただしその後、曹操軍が赤壁の戦いで敗北したため、荊州は「乱世のオアシス」から、曹操・劉備・孫権が激しく争う「乱世の最前線」になってしまうのであるが。 【評価】 劉表は儒者として有名であり、そちらの教養や気品は高く評価されている。 必要とあれば果断な措置を取れるし、殺しを忌んだりもしないのだが、あまり強い野心があるわけでもないのか、やたら優しいエピソードも多い。 どうも年齢を重ねて権力欲が薄れていった節もあり、実権を握る蔡瑁・蒯越らを除こうとはせず、彼らが劉琮を擁立したがっているのを察して、その成り行きに任せようと思っていたようだ。 ただ、曹操が七年にわたって河北攻略に没頭していた唯一無二の時期に、ひたすら拱手傍観して太平楽を決め込んでいたのは、やはりいただけない。 政治家としてはそれでよかっただろうが、群雄としてはやはり彼の対応は的確とはいいがたく、結局彼の死後、荊州はバラバラに分断されて三国時代における最前線になってしまうのである。 「わたしは、内には職責を失わず、外には盟主に背かず、以って天下の大義を実践している。そなたは、なにを怪しみ諫めるのだ?」 とは、曹操・袁紹間の中立政策を批判されたときの反論だが、劉表の中途半端さがどことなく漂っている。 また軍事能力が意外と悪いようで、正面決戦を展開するとたいがい圧倒されている。 それでも、袁術・孫堅・孫策・張済・張羨などを打ち破ってはいるのだが、 袁術は背後を断っただけで正面決戦はしていない。倒したのは曹操 孫堅・張済は矢が命中したから勝てたが、戦術レベルでは押されていた 孫策が攻め込んだときは黄祖の防衛線がほぼ全滅、孫策が後で暗殺されたから助かった 張羨が病死するまでは勝てなかった など、軍事手腕で勝ったというよりも運が味方したようなところがある。 また守りには強いが攻めるには弱く、 張繡に撃破された曹操軍を追撃すると伏兵で返り討ちにされる 交州を狙って策略を巡らすとことごとく失敗する と、荊州からの進出はたいてい失敗している。 上記した中途半端な外交も、それで懲りてしまったとも取れる。 勝ち戦の運も実力の内といえばそうなのだが、幸運を当てにする訳にも行かないという立場そのものは間違いではない。 そのため後世には、優柔不断で軍事手腕に欠けると評されている。それが、ある意味「儒者のイメージ」に合致しているのも、彼をそう認識させる遠因ではあろう。 もっとも、なんだかんだで生涯通して荊州は守り通しており、防御には強かった節もある。 東は孫家・西は劉璋・南は張羨・北は張済と敵に囲まれながらも、最終的にすべて撃退できた。 群雄としてはそれなり以上の力量と存在感はあったわけだ。少なくとも、なにもできずに散っていった劉岱や袁遺よりは大物である。 余談だが、劉琮や蔡瑁たち降伏組は演義では赤壁前後に殺されているが、史実ではいずれも曹操政権で重用され、高い地位に登っている。 劉琮は降伏直後に青州刺史になる。これは名目だけだったが、その後も清廉さを評価され、諫議大夫・参同軍事になったという。ただ曹操は「孫権に比べれば家畜のようだ」とくさしたが。 蒯越に至っては、曹操が「荊州を手に入れた事より蒯越を手に入れたことの方が嬉しい」と言うほどに評価されていた。 乱世の英雄とはなりえなかったにせよ、家族や旧臣が大国でそれなりの地位につけたというのは、むしろ幸せだったといえる。 また、演義では触れられていないが、蔡瑁と組んだ張允は、劉表の甥(姉の子)である。 【三国演義の劉表】 孫堅が、反董卓連合に所属しながらも玉璽をネコババしたことで袁紹と決裂すると、本拠地の長沙に帰ろうとする孫堅を阻むべく、袁紹の依頼を受けて荊州軍を率いて立ちはだかる場面で初登場(*6)。 演義では、前任の荊州刺史を孫堅が因縁つけて殺した話、劉表が在地豪族をだまし討ちにした話などがカットされており、最初から荊州刺史であったように見える。 その後は孫一族との戦いや、張繡と組んで曹操を追撃する場面などでちょくちょく登場。史実からして荊州圏だけしか活動しないため、袁術や呂布ほどの活躍はない。 劉備が荊州に落ち延びてくると、現地の支配者として本格的に登場する。 演義では「品はあるが優柔不断」という史実の評価に加えて「お人好しで優しい」点が強調されている。 実権を握る蔡瑁が劉備を毛嫌いしており、暗殺まで行うのだが、劉表は蔡瑁の策略を止められない反面、劉備への信頼と交誼を無下にもせず、最後まで彼をかばう。 一度、蔡瑁が劉備の野心むき出しの詩を偽造した際は、その場では「劉備め許すまじ!」と激怒したが、 数歩歩くと「いや? 劉備は確か詩を書けなかったはずだな?」と思いいたり、「そうか、蔡瑁の策略だな!」ということまで読みつつも、 蔡瑁の権力を思い起こして「さりとて今さらどうしようもなかろう……」と悟り、 すべて呑み込んだうえで「なかったことにする」という、聡明な一面も見せている。 ただし悲しいかな、非活動的な人物であることは史実と共通しており、 十分な実力がありながらも外征を行わず後手に回り続け、劉備も人柄には敬服しつつも、彼の動かなさにはじれったさを感じていた。 死後は息子たちが曹操に降伏するのは史実通りだが、劉琮は暗殺され、蔡瑁は周瑜の策略にはまって内通を疑われる形で殺されてしまう。 総じて、演義の劉表は、正史の記述から血生臭いエピソードを抜き取り、晩年(劉備帰投後)をベースに、 「個人としては優しく聡明であるが、半端に枯れて優柔不断な面があり、蔡瑁・蔡夫人など周囲の動きに翻弄されてしまう人物」 として完成している。 【各作品】 横山三国志 基本的に演義と同様。 蔡瑁が劉備を嵌めようと門に野心たっぷりの詩を書きつけた時には劉備が詩を嗜んでいなかったことを思い出し、剣で詩をガリガリ削りながら一言。 「何も見なかったことにしよう」 コーエー三国志 恰幅のいい中年男性として描かれる。なぜか鎧を着るグラがほとんどない。 勢力のイメージカラーは水色。勢力相性は劉備と曹操の中間にあり、孫権とは真反対。 軍事能力は中の下だが、知力は70前後、政治力と魅力値は80台と、内政面はそこそこ。 袁紹同様、数値は低くなくバランスもいいのだが、特技を含めて突き抜けたところを感じられない、絶妙なバランスである。 ただ難儀なのが軍事能力の低さ。 劉表本人の低さは君主なのでまだいいとしても、配下まで文官向けの人材が多く、優秀な武将・強力な猛将が非常に少ない。 黄忠はともかく武力・統率力80どまりの文聘がナンバーツーというのはあまりにも薄すぎる。 というか、その文聘を含めて「文官業務もできる武官」が大半であり、武官特化型は非常に少ない。 魏延、邢道栄がそれにあたるが、前者は義理が低くて引き抜かれる可能性があるし、 後者はかませそこまで頼もしい武勇の士では無い。それでも「斬れっ」とは行かないのが劉表軍の層の薄さ 在野の武将を探そうにも、猛将タイプはほとんど孫呉系のため、勢力相性が悪すぎる劉表政権には居ついてくれない。 開始年代によっては甘寧が所属している場合もあるが、それは甘寧が去って行く歴史イベントを見るためであり、ゲーム開始後ほどなくして勢力からいなくなる。 ただ、在野に眠る諸葛亮、龐統、徐庶らを得られれば、計略面では大きく戦力強化できる可能性もある。 呂布軍や馬騰軍などの「強力な武将は多いが内政役や参謀が少ない」というパターンとは真逆に位置する。 ぶっちゃけ最適解が新野にいる劉備軍を速攻で滅ぼして関羽・張飛・趙雲らの勇将を配下にするという方法なのだが、それをやったら劉表のイメージが台無しと言うか、 それなら劉備軍でプレイして劉表軍を滅ぼせばそれ以後の展開は同じだし、イメージもあまり損なわない。 プレイヤーからの人気はあまり高くないのか、劉表勢力のプレイ日記は少ない。 曹操や劉備のような主役級ゆえのとっつき易さもなければ、厳白虎や公孫恭のように詰みに等しい状況をひっくり返すやりがいも無い、微妙な立場のせいか。 劉表がCOM操作でないと見られない歴史イベント(劉備の雌伏関係や甘寧亡命、荊州分裂など)も多いのでなおさらである。 三国無双 2より登場するが、いまだにモブ武将。孫呉の宿敵で劉備の恩人なのにモブ武将。 基本的には孫呉シナリオの序盤、荊州の戦いにて敵総大将として登場するが、初登場の2では汎用のボイス以外の台詞がなかったり(ステージ内で喋るのは終始蒯良)、3では開始早々孫堅から罵倒されたりと扱いは余りよろしくない。 6では魏シナリオの宛城の戦いにて、張繍軍の同盟相手として劉表軍が敵援軍として登場するが、劉表自ら出陣というシチュエーションに加えて邂逅台詞の「私としたことが……。立場も忘れ、勝負に興じてみたくなったわ」(*7)のコンボによりやたらとアグレッシブな劉表を見ることができる。 蒼天航路 虚名を駆使して乱世の群雄を遠隔操作し、以って覇を唱えんとする奸雄。普段は温厚篤実な君子として振る舞っているが、時折すさまじい邪悪さやゲスな本性を剥き出しにすることも。 しかし、実は天下への野心などは持っておらず(あるいは諦めており)、謀略を弄んで天下に挑んでいる気分を味わっているだけというのが彼の正体。 しかも本人は半分自覚していなかったそれを諸葛亮に暴露されてしまう。 さらに、文化事業も「己が文化の一部となることで永遠の存在になる」という意図が隠されていたが、それも「劉表ごときでは無理」とこきおろされ、覇気がしぼんでしまう。 そのまま死亡した劉表は、かつての恰幅の良さなど見る影もないほどにしなんでいた。 ……といっておきながら、のちにその諸葛亮自身も虚構の世界で謀略を弄ぶだけの存在で、現実に立脚していないことを突き付けられてしまい、打ちのめされるという、ものの見事なブーメランも炸裂するのだが。 なお史実の劉表は186cmの長身だが、蒼天の劉表は最初から小柄。 また諸葛亮との対談直前に「最近やたら尿が近い」と呟いていて体調が悪かった模様で、そこに諸葛亮の言葉で止めを刺されたような格好となった。 恋姫†無双 名前は出るが本人は未登場。黄祖は出たのに。 三国志大戦 雑多な勢力が纏められた「他軍」に配置され、最初期から登場。なお黄祖は他軍だが蒯越と蔡瑁は魏軍。 晩年頃の雰囲気を纏っていて平和が一番とか言っており、守り切った手腕と風評からか防柵・魅力の特技も持たされている。 だが計略の「指鹿為馬の計」の効果が直接戦闘に関与しないからか内容が凄まじく、諸葛亮も司馬懿も周瑜も等しく知力0のアホに早変わりしてしまう知力-10という強烈な効果に加え、大きな効果範囲と低い消費士気を持つためいろいろなコンボが出てきた。 特にホウ統の「連環の計」と組み合わせ、試合の4分の1ほどの長時間全く動けずほぼ棒立ちにさせられる「馬鹿連環」が代表格で、他に一発当たれば絶対即死の「馬鹿落雷」などもあった。 決まれば相手の方が馬鹿らしくなってしまうのは流石に問題があったためか、3で漢勢力に再配属されたついでに計略も「荊州からの援軍」という割とシンプルで使い勝手が悪い回復計略にされた。 魅力も取り上げられてしまい、表情もとても暗い。 リブート後も漢勢力に配置されたが、今度は壮年頃の謀略家の雰囲気を醸し出していて再び知力を下げる計略を持たされている。 防柵と引き換えに魅力を取り戻したが、肝心の妨害計略同士のコンボが大幅に弱体化したことや他に有力なライバルが多いことからイマイチパッとしない。 SDガンダム三国伝 演者はプロトタイプガンダム。 漫画版では名前が出た直後に、配下の蔡瑁アッグガイ&黄祖ゾゴックに裏切られて暗殺されたことが発覚し、影も形もないまま退場するという悲惨な扱い。 ただ孔明から立派な人物と評されたり、同じく配下だった黄忠&魏延からは慕われて蔡瑁への敵討ちを果たしてくれたりと人格者として描かれていたのが救いか。 アニメ版では遂に本人が登場したものの、史実の「優柔不断」という面が殊更強調されてしまい曹操軍が進撃してきたのを知るや否や即座に逃亡してしまった。それ以後出番なし。 こちらでは死なずにこそ済んだものの、漫画版での描写から人格者としての劉表の登場を期待していたファンを心底ガッカリさせた。 「わたしは、内には追記・修正を怠らず、外には利用規約に背かず、以ってアニヲタWikiの大義を実践している。そなたは、なにを怪しみ諫めるのだ?」 △メニュー 項目変更 この項目が面白かったなら……\ポチッと/ -アニヲタWiki- ▷ コメント欄 [部分編集] 最近はアレコレと暗殺事件の黒幕にされたり、何かと腹黒にされたりと、動かなかった事で無辜の怪物化が進行してる -- 名無しさん (2020-10-24 23 40 27) 荊州は全部劉表が征圧してたもんな、四英傑がやってきたのも劉ソウが降伏した後曹操が太守として派遣したからで。 -- 名無しさん (2020-10-24 23 54 53) 吉川版の温厚博学、世の賢才集まり侮りがたしに対する「それは壮年時代の定評で老いて病も患い、長所は短所となった今こそ討つべし」ってのは結構面白かった -- 名無しさん (2020-10-25 03 52 18) 「袁紹と劉表の事を考えておりました」とは酷い皮肉だ -- 名無しさん (2020-10-25 06 57 36) 三国時代の群雄を象徴する人物、ほしゆ -- 名無しさん (2020-10-25 18 00 10) 他人を引き付ける徳の高さを持ち、頭も十分に回る…んだけど、掴みかかった重要な好機をことごとく逸しているというか、状況を好転させるチャンスを何度も目の前にしながら一歩を踏み出せず、結果ボロボロになっていくという、フランス革命の頃のルイ16世あたりが人物としては近いんだろうか -- 名無しさん (2020-10-25 18 19 20) 馬鹿連環という字面の強さ -- 名無しさん (2020-10-25 18 37 46) 治世の名君であっても乱世の英雄ではないって感じだな -- 名無しさん (2020-10-29 07 00 03) 三国志の英傑って大体「デカい」という記号みたいに身の丈八尺と伝えられてるからなあ…関羽(周りの英傑よりデカい)や呂布(その関羽よりデカい)と言ったのもいるが -- 名無しさん (2020-11-07 08 15 23) そうか、劉備は劉表にとっては張繍の後継者的な位置づけなんだな -- 名無しさん (2020-11-07 12 35 51) あくまで地方公務員として自分の任された領地を守っただけなのに妙にディスりすぎじゃない? -- 名無しさん (2021-02-04 17 21 13) いや、劉表は荊州のボスになってからは朝廷に収めるべき税金を私蔵し、自分で経営に使い、皇帝のみに許される儀式を行ったりしていたらしい。そう考えると「地方公務員」というよりやはり「乱世の群雄」だろう。その割に積極性がないから中途半端になるんだろう。それと蒯越が「平和な時は仁愛と道義を第一にする。混乱の時代は策謀を第一とする」といったらしいが、まさしくその通りで、どう考えても乱世という時代に「地方公務員の本分を守ること」は大間違いだと思うな。 -- 名無しさん (2021-02-05 10 21 31) 積極性の無さは地方豪族政権だからとしか。あいつらは自分のためにしか動かんからな -- 名無しさん (2021-02-05 14 19 29) 曹操には自前の戦力(曹仁曹洪夏候一族etc)があったから、反発豪族は自前の戦力で抑えられた。流浪の劉備でさえ自前戦力を抱えていた。有力な自前戦力のない劉表は流されながら舵取りをするのが精一杯だっただろう。一部の豪族が外征を支持してくれても勢力が分裂したら詰むから、外征消極派の言い分をもっともらしい言葉で支持せざるを得なかった可能性もある。外征に出ないのが問題と言うよりも、外征に出るだけの統一力のなさの方が問題だったと感じる(そんな能力持っている方がチートな気もするが)。 -- 名無しさん (2021-02-05 17 49 34) この時代の名士は名声ばっか求めて中身のない連中が多かったりする。 -- 名無しさん (2021-02-14 11 11 39) ↑2 そんな一般人が「チート」と思うようなができる人物こそが歴史の「英雄」と呼ばれる人物なんだろう。当時の人物で言えば、同じような立ち位置ながら豪族たちを強力に統率して幽州や河南にまで遠征した、あの袁紹がそれに当たる。 -- 名無しさん (2021-02-16 08 36 26) 跡継ぎ問題で批判されるけど荊州有力者の祭家の血を引く劉綜の方が豪族たちの受けはよかった。 -- 名無しさん (2021-02-27 21 33 47) もし劉備が若い頃に詩を書いてたら蔡瑁が偽造した詩を劉備作と信じ込んだ劉表がブチ切れて劉備を誅殺してたかもしれないな。でも劉備がいなくなったからといってそのまま三国志が終わるわけがなく曹操と孫権が天下を競い合う「二国志」になってたかもしれないが -- 名無しさん (2022-12-30 00 55 43) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/1052.html
[部分編集] 【三国志Ⅸ】サンゴクニカイドウ【東方】 使用ゲーム 三國志Ⅸ シナリオ・担当勢力 英雄集結・改 二階堂軍(江陵) シナリオの設定 上級・仮想 動画形態 紙芝居重視 登録武将 ほぼ東方Projectキャラ(二次創作キャラ含む) 抜擢武将 版権キャラ差し替え 史実武将の扱い キャラブレイク・顔ブレイク大盛り クリア条件 25都市(全体の半分)の領有 縛り 登用は在野のみから可、ほか。詳細下記。 投稿時期 2011年11月12日~ 投稿者名 ろよら マイリスト サンゴクニカイドウ ニコ動関連タグ 【サンゴクニカイドウ】 pixiv関連タグ 【サンゴクニカイドウ】 ニコニコ大百科 『サンゴクニカイドウ』 関連サイト - 備考 投稿間隔:おおむね隔週から一ヶ月の間 +初回外部視聴 http //www.nicovideo.jp/watch/sm16152423 概要 クリア条件と縛り、留意事項などクリア条件と縛り おもな改造点 その他留意事項 ものがたり 登場人物 用語解説 他勢力特集回(メタ回) Face OP. 二次創作などpixiv MAD ニカイドウシナリオ系の作品 コメント欄 [部分編集] 概要 英雄集結の各勢力の初期人員を最大5人まで減らし、あぶれた分を全て在野に放つ闇鍋プレイ。 紙芝居重視・シリアスよりかはコメディ重視の予定。 パラレル的オリ設定注意。 「顔君主(戦国)」こと二階堂盛義を主人公にした、登録武将あり・紙芝居付き三国志IX動画。スタート時は君主二階堂1人のみ。顔芸主人公の動画らしく視覚的・MAD的な演出にも力が入っており、顔芸無双・銅鑼大盛りで毎度深刻化するオープニングは「Face OP.」と言われる。 シナリオは、「チルノ放浪記」で配布されていた英雄集結改造シナリオ(第10回参照)をうp主がさらに改造したもので、スタート時の各勢力は武将数が最大5にリストラされており、在野武将がごろごろしているわ、思わぬところに思わぬ人がいるわ、意外な勢力が滅亡したり拡大したりするわで、闇鍋度がアップしている。 登録武将は「ほぼ東方キャラ」(明らかな例外は二階堂と呂玲綺)。「東方キャラ」でも「釣りキャラ」を含む「二次創作キャラ」が多数存在することが本動画の特色と言えるかもしれない。抜擢武将は、うp主が「独断と偏見で選んだ」版権キャラに差し替えられており、「顔見せ」は本動画の楽しみの一つ。なお、5名分ほど「男性武将枠」に女性キャラグラを割り当てたもの(TS枠)がある(第10回のうp主回答より)。 うp主のところのCPUは、ストーリーを面白い方向に導くような挙動をしばしば行い、「ネタ提供に定評のあるCPU」「神CPU」ともっぱらの評である。たとえば、抜擢武将の師弟の組み合わせが絶妙であったりとか、東方キャラのカップリングのおいしいところをちゃんとおさえていたりとか、史実で因縁のあるコンビを一緒に配置したりとか、それとは逆に因縁のある複数のコンビを2勢力に綺麗に分割配置したりとか。もちろん、CPUがトスするデータをきちんとレシーブして、ネタとして作品に落とし込んでいくうp主の技量にも敬意を払いたい。折々挟まれるコメ返しや史実紹介も丁寧。史実の二階堂や呉末期武将が、見る前よりもちょっと好きになるかもしれない。 うp主曰く「当動画は三国時代とも幻想郷とも何か違う、謎のパラレルワールドが舞台となってます。元ネタよりも初期位置を重視した人間関係が出来ていたり、東方キャラが現地住民だったり、釣りキャラがいたり、とにかく顔だったりと大変カオスですので、タチの悪いパロディを見ると思って、力を入れすぎず、気楽にご視聴ください」(第29回説明文)。 [部分編集] クリア条件と縛り、留意事項など クリア条件と縛り 第6回で「クリア条件と縛り」が開示され、以後改訂が行われている。 クリア条件25都市(全体の半分)の領有 縛りマミゾウさんの使用兵法は混乱のみで、抜擢を育てることはできない。 ブロントさんの使用兵法は罵声のみで、抜擢を育てることはできない。(第15回で追加) 登用は在野のみから可(捕虜登用・盗用は禁止)、捕虜は所属勢力滅亡時強制解放 兵を撤退させる目的での贈呈禁止(第10回で追加) 撤退禁止(第42回で追加) 縛りの解除(第65回での変更)ブロントさんの抜擢育成の制限を解除 ブロントさんの使用兵法は、罵声に加えて治療も使用可とする マミゾウさんの使用兵法の制限を解除 マミゾウさんの抜擢育成の制限を解除 おもな改造点 各勢力初期人員が5人以下となるように人員整理。リストラされた人々ともども、未発見武将も在野化し、それぞれの所在地を適当にばらけさせる(闇鍋) 華北が詰まりすぎて登録勢を置けない問題を解消がてら、華南の穴埋めも兼ねていくつかの勢力をお引越し、あるいは分裂。 +引越し勢力一覧 劉虞:薊→交趾 孔チュウ:許昌→柴桑 劉ヨウ:建業→成都 王朗:会稽→江州 厳白虎:呉→梓潼 劉焉:成都→天水 呂布:上党→安定 孫堅:廬江→建業 孫策:廬江→会稽 孫権:廬江→呉 劉備:永安→新野 劉禅:永安→羌 張角:平原→烏丸 孟獲:雲南→南蛮 すべての港に改造が施してある。耐久力・負傷兵回復速度をUPさせ、射台・落石を装備(第5回) 政治以外のいずれかの能力値が80以上である全ての武将から、得意兵法設定を解除(第9回解説文) 劉禅軍初期メンバーがやたらつよい 熟練度の最高値を2000に変更(第65回での変更) その他留意事項 軍師はマミゾウさん固定。「最初に任命した人物で軍師固定」という方針でスタートしたのだが、強力な能力を持つマミゾウさんが序盤に登場して軍師に就任してしまったため、いくつかの縛り措置が取られることになった。 ストーリーを楽しくするためにいくらかの介入有(ニューヒーローへの兵力贈呈、ブロントさんの熟練度など)。 [部分編集] ものがたり 「息子が主家を継いで、二階堂家はじまったなと思っていたら、いつの間にかこんなところにたたずんでいた」。 なぜか三国志世界に飛ばされてしまった二階堂は、住民から恐れられたり崇められたりしながら、一人で太守として立つことになる。 本作の東方キャラの多くは「幻想種」と呼ばれ、さまざまに不思議な力を持つ一種の妖怪とされている。二階堂が突如この世界に投げ出されたのも、どうやらこの「幻想種」の存在と関わりがあるらしい(第2回に説明有)。他にも二階堂と同様「別の世界から来た人間」たち(顔グラ差し替えの抜擢武将)がいるようだ。 「結界の境界」が見えるメリー曰く、この世界のさまざまな異変には「結界」のほころびが関係しており、二階堂の手で「秩序」を取り戻すことで問題は解決する、と(第4回)。かくして二階堂は、この不思議な世界での戦いに乗り出していく…… 登場人物 二階堂盛義 一応主人公にして君主。能力値は「信長の野望・覇王伝」準拠。もともと武将だけあって乱世に立ち向かう気概はそれなりにある。二階堂と言えば顔芸であるが、一方で顔芸「だけ」のキャラクターでもなく、敵将と堂々とやりとりしたり主人公らしい振る舞いをしたりして、視聴者に「さすが戦国大名」と見直されることもたまにある。 初期能力 統率 66 武力 38 知力 42 政治 49 突破・騎射・罵声 以下のページはあれこれのネタバレがあるので注意。……このページのここまでの解説であれこれの名前が出ちゃってるけれど。 サンゴクニカイドウ登場人物 :初期メンバー、抜擢武将、中途採用組及び他勢力など サンゴクニカイドウ登場人物その2 :中途採用組及び他勢力(遠方の勢力) 用語解説 異変/黒幕 +この世界では「異変」が生じている。……未見の方の興を削ぎ過ぎない程度のネタバレあり この世界では「異変」が生じている。一見月日が流れ、四季が巡っているように見えるこの世界であるが、実は「280年12月31日丑三つ時」で止まった世界であり、星は同じ場所にとどまり続けている。張魯軍がその真実に迫っているようだが……(第29回参照)。おそらくこの時刻に何者かによって何かが仕掛けられたこと、281年1月1日に「異界からの来訪者」が訪れたこと、「秩序」が乱れ「幻想」と「現世」の境界が崩壊したことが触れられており、「別の世界」から人が迷いこんだり「幻想に呑まれ」たりする異変が相次いで生じている。一連の異変の「黒幕」を探索するのが、サンゴクニカイドウの外枠の物語。張魯軍視点でストーリーを追いかけなおすのも面白いかもしれない。 阿南姫(おなみひめ) 史実二階堂盛義の奥方。伊達晴宗と久保姫の間に生まれた長女で、「阿南の方」あるいは法名で「大乗院」とも呼ばれる。1541年生まれで(二階堂が1544年に生まれたという説をとるならば3歳下)、1561年に長男盛隆が生まれている。1581年に夫が没すると二階堂家の実質的な当主として領地須賀川を切り盛りした。甥の伊達政宗が南奥州に侵攻すると、周辺諸家や佐竹家と結んで抗戦している。1589年に政宗によって須賀川城を攻め落とされ、最終的に佐竹を頼るのだが、1602年に思い出深い須賀川の地で亡くなっている。 さてこの阿南姫、「サンゴクニカイドウ」連載中に「二階堂阿南」の名でアーケードゲーム「戦国大戦」への参戦が発表され、本動画のコメントでも話題になった。うぷ主も阿南姫の話題をコメ返しで触れている。「須賀川の女城主」として名をはせた彼女の逸話や、須賀川では二階堂家をしのんではじめられた「松明あかし」というお祭(11月の第2土曜日)が行われていることなど、「顔芸」だけじゃない二階堂の魅力に気づかせてくれるきっかけになった。ちなみに、「戦国大戦」に二階堂盛義は未登場である。 ニコニコ大百科 がとても充実しているので一読されたい。 旧作結界/旧世界 第49回で存在が明らかになった、原初の世界(「旧世界」)と現世を隔てる結界が「旧作結界」。ただ、魅魔と神綺は第49回以前から登場している。魅魔曰く「旧世界の連中はそんなに悪さする連中ではない」。メタ的に言えば、旧作登場キャラの大量追加投入が行われた(第57回によれば、旧作勢その他28名が追加された)。 外来人 二階堂をはじめとする、「外の世界」からやってきた人々。抜擢武将たちはここに含まれる。「外の世界」は、日本の戦国時代(信長の野望世界?)であったり、漫画やアニメなどに描かれた世界(パラレルワールド?)であったりする。 現世種 「幻想種」に対する概念で、もともとの「この世界」に暮らしていた人間たち。ゲーム的には「既存武将」(登録武将の呂玲綺もここに入ると思われる)。また、「幻想種」の解説に記したように、一部東方キャラ(人間)もこの括りに入る。 幻想種 本作における東方キャラたちの多く(妖精や幽霊など)が含まれる概念。「もともとこの世界に住んでいた存在」という設定(うp主いわく、「幻想郷に帰る」以外のEDを見たいとのこと)。厳密には「幻想種=東方キャラ」ということではなく、霊夢や魔理沙は張角と似たような括りの「幻想の力を持った人間(=現世種)」というカテゴリらしい(第49回)。また原作の半妖と似た定義で「半幻想」という存在もおり、依姫や妖夢はこのカテゴリに当てはまるという(第44回) 幻想に呑まれる この世界で起こっている異変の一つ。人がある日突然、「別の世界」で縁のある姿に変わってしまったりするらしい。たとえば、ある日目覚めたら劉備が桃香の姿になっていたのもその一つ。 天則の意志 +40回台後半あたりまで見た方のおさらい用。未見の方が見ても多分差し支えはない この世界の成り立ちに関係しているらしい概念。「天則」とは「世界の秩序を保つ原理」であり、「天則の意志」とは「世界の自浄作用」。世界の中に「排除すべき要因」があるとき、自然の体現たる妖精の一人に「神託」が降る。関係者としては「天則の観測者」たる臥天則閃、そして現在神託が降っている某妖精(第47回)。 [部分編集] 他勢力特集回(メタ回) 勢力図・人材ランキング等を確認し、他勢力の内情(紙芝居)をいくつかまとめて見る特集回。おおむね4~6回に1回挟まれる。進行は 公孫賛一党 (公孫賛(恋姫無双の白蓮)・趙雲(星)・張角・風見幽香)。「この世界」の成り立ちに関する外枠の物語も断片的に語られる(「境界」を掌る紫、倭軍、張魯軍などが関わっているか、何かを知っている模様。第33回では劉禅も語っている) 「最初から見るのは大変そう。どこか途中から見ようかな……」という方には途中経過の確認に、「紙芝居好きなんだけど、この動画ってどんなノリ?」という方にはキャラとノリの確認に、手ごろな目安になるかもしれない。 第7回 司会陣(公孫賛軍)のお披露目。この回では勢力図紹介なし。曹操軍、博麗神社、倭軍、何進軍、劉備軍を紹介 第13回 公孫賛軍の全盛期。劉禅軍(+僕っ子呂布)、倭軍、何進軍、劉備軍、曹豹軍、命蓮寺を紹介 第19回 公孫賛軍は滅亡しました。中原火薬庫祭りのはじまり。二階堂は劉虞軍との本格的な抗争に突入。命蓮寺、曹操軍、博麗神社、劉表軍、何進軍、曹豹軍滅亡を紹介 第23回 桂陽陥落後(対劉虞戦)。博麗神社(曹操軍滅亡+紫育成)、命蓮寺、劉備軍、劉禅軍と董卓軍、何進軍を紹介。 第29回 劉虞滅亡、輝夜と交戦開始。倭軍、博麗神社(兵士追加)、劉備軍(簡雍吸収)、何進軍と命蓮寺、劉循軍、張魯軍(この世界について)を紹介 第33回 劉表戦落着後。博麗神社(沈瑩軍滅亡)、劉禅と劉備(幻想に呑まれる話)、劉循軍(顔芸充実)、厳白虎軍、何進軍を紹介 第41回 対チルノ戦中。倭軍vs輝夜軍、命蓮寺(と劉循軍)、博麗神社、劉備軍(と劉禅軍)、何進軍、チルノ軍vs厳白虎軍 第47回 チルノ軍と二階堂軍が激闘を繰り広げた「宛温櫓の戦い」(45~46回)直後。大きく動いた北方情勢(何進軍vs輝夜軍、何進軍vs劉循軍)、顔グラ兵器の軍事パレードと化した劉禅軍vs厳白虎軍、予想外の粘りを見せる劉備軍、設定に関わるシリアス展開?なチルノ軍を紹介。 第57回 二階堂軍は倭に別働隊を派遣して制圧(次いで命蓮寺と開戦)、西方では因縁の建寧攻めを再開するというタイミング。旧作勢の封印がとけられた!それから劉備軍滅亡。大量の旧世界人材が集った厳白虎軍。劉禅軍の藍が語る「この世界」の秘密。 第58回 他勢力回まさかの前後編。輝夜軍、劉循軍、博麗神社(ナズマリ)、何進軍を紹介。 第64回 長きにわたる対チルノ戦が建寧攻略で山を越えるも、対二階堂連合が結成される。連合結成事情(何進軍)、漢中まわり+「世界」の情勢(劉禅軍、州泰・カナ組、厳白虎軍)、チルノ軍。二階堂軍の宴会では、それぞれの人間模様が振り返られる。 第75回 part1 / part2 / part3 チルノ戦終了後の情勢、各勢力へのテコ入れなど。part1で厳白虎軍、劉禅軍(呂布兄妹)、劉循軍(州泰・カナ組)、輝夜軍。part2で命蓮寺、博霊神社。part3で何進軍。 [部分編集] Face OP. ニカイドウといえば、インパクトのあるオープニング「Face OP.」である。 オープニングが付いたのはは第4回(EDENバージョン)から。コメントで「nice OP.」と打たれていたものが、いつからか(第5回あたりから?)「Face OP.」と打たれるようになった。 回ごとに変化が加わっており、「進化(深刻化)するOP」とも呼ばれる。エフェクト的なインパクトが先行するが、展開に従って他勢力紹介が微妙に変わったりもする。おおむね、ゲーム/ストーリーの展開によってOPが変更されている。 第1期「二階堂マジEDEN」(第4回~第8回) 対荊州四英傑編 第2期「Face/Zero」(第9回~第17回) 対孔伷軍編 「Face/Zero」バージョンは第9回でEDとしてお披露目された。 +―――体は顔で出来ている。 ヽ r‐'、 __ 〉‐r '´ `丶 / ヽ ヽ ,' ヽ. '、 l / .,、z ュ、,_. ,、=, I am the born of my face. l; / ´ ,r'ャ、`' i'rャ;| ―――体は顔で出来ている。 l ヽ l ''`¨¨´ ヽ | ヽ ヽ ! ,ィ _. ', .l Kao is my body ,and kao is my blood. ヽ_λ i. ' `'゙`'‐'i゙ ,' 血潮はネタで、心は硝子。 l ヽ`'. ,∠.ニフ / I have created over a thousand face. | .` 、 、 い.... ,' / 幾たびのにらめっこを超えて不敗 | .ヽ', .ヽ`二フ.,' Unknown to mearning. /三三...`' .、,_`,.ィ ただの一度も例外はなく ____∠ミ }_[}//└ ____ Nor known to desine. / ヽミ=- | ∨// __ \ 顔の造形が理解されない / \ -=彡〉ー‐∨// ll⌒ll ハ Have withstood pain to create many facial expression. |//// ミ ll⌒lハ\Y/∨//人ノ__\ / ;| 彼の者は常に独り 顔の丘で勝利に酔う |/// // \, _|| || |  ̄ ̄ ∨(ニ介ニ) V/ | Yet, those face will never hold anything. |// / \ 彡/ (ニ〉X〈ニ)ニハ マ∨ 川 ∨/ | 故に生涯に意味は無く |// /}/ 川 |ニ/ ヽ ⌒ V/| /|// //彡 ⌒ /ニ{ _ └\ }/| So as I pray, unlimited kaogei works. //|/// /彡 /二 ィニニニヽ\\ リ八 その体は、きっと顔で出来ていた。 ///// ∧彡' / /}厂ニ((ニニニ}ニニ))ニ||\「/ハ ///// { ∨彡/ /ニ||ニニニ\ニツニニ/ニニ;||ニ;|/ } //// / ヾ// /ニニニ|| ニニニニ》=‐=ヽニニリム′ | {// / /ニニニニゝ ==‐《ニ人ニ》 イニ] | |/ / マニニニニニニニ{厂=- ニニ -= ||ニ| | /| / / 〉ニニニニニニ人ニニニ||ニニニ||ニ人ニ;| |. ///| { / /ニニニニニ〃ニニ=‐||ニ人;|| ニニニ| //人 |//// イ {ニニニニニニ|| ニニニニニ ≠ィ ;ニニr‐┴┐ /∧ |// | 厂 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ニニニニへニニニ| | //ヽ 第3期「ULTiMΛTE☆FΛCE」(第18回~第25回) 対劉虞軍編 第4期「Kaogazer」(第26回~第35回) 対輝夜軍・劉表軍編 第5期「Facelink」(第36回~第47回) 対チルノ軍編 第6期「とある顔芸の戦国武将(ニカイドウ)S」(第48回~第56回) 対チルノ軍(継続)・倭遠征編 天子のスク水イラストはnock氏のイラスト。下記pixivの「サンゴクニカイドウ寄せ集め」に行こう。ワッショイ!ワッショイ! 第7期「顔面偏差値の劣等生」(第59回~第70回) 57,58回は他勢力回でOPなし。 第8期「顔物語」(第71回~) 第9期「二階堂さんちのカオゲイドモ」(第76回~) [部分編集] 二次創作など pixiv 蝶子グラなどの作者であるnock氏が作品にはまったとのことで、pixivでイラストを掲載している。 ひょえー、二階堂軍だー! - ニカイドウ軍勢揃い画像(第14話までの時点) サンゴクニカイドウ落書きまとめ サンゴクニカイドウ寄せ集め nock氏の集合絵に触発された作品も。 サンゴクニカイドウ (kotomie氏) タグ「 サンゴクニカイドウ 」が付けられた作品が増えるといいな。 MAD インスパイアを受けたらしい作品(親作品にサンゴクニカイドウが指定されている)として、レノ=シーラス氏の 【東方MMD】マミゾウさんと二階堂と他2名でSweet Magic 【MMD】平沢師匠作って白虎野の娘のリップシンク作って見た など。同氏はほかにも歴戦顔芸ネタの作品も作っておられ、ニヤニヤできる。 ニカイドウシナリオ系の作品 シナリオデータの公開もされており(第31回解説文参照、第45回で更新)、これをもとにした作品もある。 ながこぁ!!(旭鈴夜氏) やる夫は三国志の世界で天下を統一するようです(okoge氏) コメント欄 サンゴクニカイドウ解説および登場人物・同その2へのコメント wikiに解説が! ひょえー! -- ろよら (2011-12-09 20 36 48) wikiにうp主が!ひょ(ry 書きかけでごめんなさい。楽しみにしてます。 -- 名無しさん (2011-12-10 17 50 44) どんどんパワーアップしてますなあ・・・毎度編集感謝です。 -- ろよら (2012-01-03 07 03 12) 恐ろしい程の充実っぷりだなwwwこの充実度を完結までやるのか?www -- 名無しさん (2012-03-17 19 18 37) やっぱり上限が見えてきた。「各話概要」を除きましたが、やっぱり必要というご意見がありましたらコメントください。 -- 名無しさん (2012-03-24 00 01 29) 人物解説・コメントを別ページにしてみました -- 名無しさん (2012-03-24 04 22 56) 政治以外のいずれかの能力値が80以上である全ての武将から、得意兵法設定を解除(第9回)ってどっかに追加したほうがよくない? -- 名無しさん (2012-03-24 12 51 08) 付記しました。 -- 名無しさん (2012-03-24 23 53 55) おもな改造点に基本的な改造点を付記してみました。 -- ろよら (2012-03-25 12 32 50) ひょえー、うp主が! ありがとうございます! -- 名無しさん (2012-03-25 18 31 18) OPで見える大妖精が・・・グラ的に嫌な予感しかしない・・・w -- 名無しさん (2012-03-27 18 53 12) チルノ軍、初期からOPに登場してる割には本編登場は遅くなりそうです・・・御容赦! -- ろよら (2012-04-05 21 57 10) これの仕様でプレイしてみたいのですけど、シナリオデータ配布とかはないですかねー。シナリオ以外だと武将グラは自前でなんとでもなりますし、武将能力も動画を参考に編集すればいけそうなのですが・・・。 -- 名無しさん (2012-09-19 07 36 25) 本編31話にてデータ配布してみましたー。不具合等あればお聞かせくださいまし。 -- ろよら (2012-09-21 20 20 16) 不具合の方は問題ありません。失礼なことを言うかもしれませんがあのシナリオを改変して歴戦動画として投稿してよろしいでしょうか? -- 旭鈴夜 (2012-09-21 22 15 49) ちなみに改変は勢力の配置および初期武将の配置を自分流に改変するのみです。ご連絡お待ちしております。 -- 名無しさん (2012-09-21 22 17 16) おっけーですよー。好きにやっちゃってください。 -- ろよら (2012-09-21 22 23 58) シナリオデータありがとうございます!とりあえず東方登録勢は動画見ながら大体設定終わったので、後は抜擢男勢の顔グラを適当に差し替えてプレイしてみようと思います。 -- 名無しさん (2012-09-23 14 13 49) いつの間にかこのシリーズの更新が、個人的に今歴戦系で一番楽しみになってるかもしれない -- 名無しさん (2012-12-29 03 48 07) カオスなOPが楽しみでしょうがない、いいぞもっとやれ -- 名無しさん (2013-02-28 09 54 18) 氏の動画いつも楽しんで見てます。氏のシナリオデータを少し改変して動画で出したいのですがいいでしょうか?ご返事頂けたら幸いです。 -- 名無しさん (2013-05-16 22 22 34) 毎度ご視聴ありがとうございます~。シナリオデータの件はもちろんおっけーです。動画楽しみにしてますね。 -- ろよら (2013-05-17 00 16 32) 許可の件ありがとうございます!まさかこんなに早く返信してくれるとは思いませんでした感謝です。まだまだ作り途中なためいつになるか分かりませんが頑張って作ります。氏の動画が今一番の楽しみです。 -- 名無しさん (2013-05-17 17 02 02) ↑のシナリオの許可を頂いた者です。名前を書いてませんでした。okogeです。すみませんでした。 -- okoge (2013-05-24 17 18 49) ろよら氏のシナリオを改変し、使用した動画を上げさせていただきました。やる夫関連の動画です。シナリオの許可本当にありがとうございました。 -- okoge (2013-05-27 00 05 15) シナリオデータの再配布お願い頂けないでしょうか? -- 名無しさん (2013-06-18 08 44 52) 元ファイルは残ってるんですけど短縮URLの方が切れてますね。元々次回更新時に修正版をうpる予定だったのですが、一応31話の方は短縮じゃない方のURLにしておきます。 -- ろよら (2013-06-19 07 01 00) 対応ありがとうございます。 -- 名無しさん (2013-06-19 17 40 48) 本編45話にてシナリオデータ更新しましたので、よろしければそちらもご利用くださいませ。以前のものに劉禅が弱い版と劉禅の勢力がない版を追加しただけのものです。 -- ろよら (2013-06-21 22 11 52) 久しぶりにOPの動画見たけど銅鑼がないとスゲエ印象が違うって思った -- 名無しさん (2014-01-25 02 08 33) ろよら氏の動画いつも楽しませてもらっています。 失礼ですが氏のシナリオデータをお借りして動画を投稿したいと思っていますがよろしいでしょうか? ご返事いただけたらと思います -- prince (2014-04-07 14 49 38) 返事が遅れて申し訳ありません。どうぞどうぞ、お好きに使ってやってください。動画楽しみにしていますね。 -- ろよら (2014-04-11 13 01 50) 質問です。メタ回のあの四人がいる命連寺軍を潰したら四人がバラバラになる可能性がありますがその対策は考えているんでしょうか?返信待っています。 -- 名無しさん (2014-04-11 16 38 32) ↑の者ですが出来れば四人全員二階堂軍になることを望んでいますがそこのところどうなんでしょうか上のとまとめて返信待っています。 -- 名無しさん (2014-04-12 07 44 07) ご質問ありがとうございます・・・が、申し訳ありません。今のところは明かすことができません。先の展開に関わることなので、あしからずご了承くださいませ。 -- ろよら (2014-04-12 14 23 48) わかりました。コメ返しありがとうございました。 -- 名無しさん (2014-04-12 22 29 26) シナリオ使用許可ありがとうございました。 まだ製作段階でいつになるかわかりませんが、がんばります。 -- prince (2014-04-13 12 37 45) 次の投稿はいつですか? -- 名無しさん (2014-04-19 21 01 39) 23日に間に合えばいいなと思っています。 -- ろよら (2014-04-22 15 51 50) 明日だよw 56話楽しみにしてます。 -- 名無しさん (2014-04-22 16 32 54) 滅亡して在野になった劉備軍の将は登用しないんですか? -- 名無しさん (2014-05-02 21 41 29) ええ、流れてきませんでした。 -- ろよら (2014-05-02 21 43 32) そうだったんですか…。ということは大半が劉禅軍に…。 -- 名無しさん (2014-05-03 07 02 05) wikiの解説はいつ更新するんですか? -- 名無しさん (2014-05-20 15 34 22) wikiは別に私が更新してきたわけではないので何とも言えません。また更新しておきたいことがあれば更新しますけれど、皆さんで適当に更新してもらったほうがうれしいですね。wikiですし。 -- ろよら (2014-05-21 18 40 18) なるほど、わかりました。誰かが更新してくれるといいですね。 -- 名無しさん (2014-05-21 23 54 05) 59話の投稿は大丈夫でしょうか? -- 名無しさん (2014-07-26 19 55 16) こ、今月中には何とか・・・ -- ろよら (2014-07-27 19 33 04) ろよら氏あまり無理しないでください。でも今月中にお願いします。 -- 名無しさん (2014-07-27 20 04 31) ろよら氏はチルノ軍を倒したら誰を一番登用したいと思ってるのですか?私は劉虞を登用してほしいと思っています。 -- 名無しさん (2014-08-14 21 45 58) 一番ということでしたら私も劉虞ですね。色々と因縁もありますし、ストーリー的にも重要な人物になってくれそうです。 -- ろよら (2014-08-17 18 26 33) やはり劉虞ですか!チルノ軍を倒したら出来る限りでいいので登用してください。 -- 名無しさん (2014-08-18 07 09 11) 部隊壊滅が表示されてる!ろよら氏が進化した! -- 名無しさん (2014-10-01 18 36 56) チルノ軍を倒したら陶濬は登用するんでしょうか? -- 名無しさん (2014-10-06 14 29 34) もちろん登用できたら登用します -- ろよら (2014-10-07 06 23 24) 久々に一覧でこれまでのを見返してるけど、サムネが並んでるだけですでに腹筋がやばいw -- 名無しさん (2014-10-07 15 42 36) 陶濬が入ったらさらにおもしろい事になるな。 -- 名無しさん (2014-10-08 18 46 38) 最近投稿が遅れぎみですがお体の方は大丈夫ですか? -- 名無しさん (2014-12-06 06 18 51) 申し訳ありません。体の方はなんともないんですけど、急に忘年会の準備とか振られて、リアル的に余裕がないんです・・・。ご迷惑おかけしますが、もうしばらくお待ちくださいませ。 -- ろよら (2014-12-09 12 36 33) 確かにこの時期は忘年会とかそういった行事が多いですしね。 -- 名無しさん (2014-12-10 06 53 02) あの抜擢武将はもしや四人目の秀吉か!? -- 名無しさん (2014-12-27 21 16 49) ホワイトタイガーに統合される可能性があるので雲南から攻めた方がイイですよ。 -- 名無しさん (2015-03-15 17 35 05) はーい。といっても録画はチルノ戦終了まで撮っちゃってるんですけどね -- ろよら (2015-03-15 17 59 33) そうだったのですか。コメ返しありがとうございました。64話も楽しみにしています。 -- 名無しさん (2015-03-19 14 22 51) ろよら氏の動画毎回楽しませていただいています。氏のシナリオデータをもとにした動画を近々投稿したいと思っているのですがよろしいでしょうか?ご返事いただけるのならばお願いします。 -- 名無しさん (2015-04-03 18 01 49) もちろんおっけーですよ。投稿楽しみにしてますね~ -- ろよら (2015-04-04 07 43 50) チルノ軍の主力級は結構味方になりましたね。他にどんな武将が仲間になったのかな?次回が楽しみです。 -- 名無しさん (2016-05-26 22 50 17) ろよら氏の動画いつも楽しませていただいております。今更ながら二階堂シナリオを使用しての動画を作ってみたいなぁと思っているのですが、ご許可いただけますでしょうか?もしよろしければご返事いただきたく存じます -- ヨソユキ (2017-04-16 01 33 24) 書き込み気づくのが遅くなってすみません。もちろんかまいませんよ。投稿楽しみにしてますね! -- ろよら (2017-04-20 13 37 18) ↑投稿しました、一応ニカイドウ1話を親作品登録してあります。ご許可ありがとうございました -- ヨソユキ (2017-04-28 11 29 58) そういえば最新回来てましたよ。 -- 名無しさん (2020-06-29 11 19 15) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/1082.html
従軍慰安婦の正体へ戻る 戦前から戦中・戦後まで 明治5年(1872)10月2日 大政官布告第295号『人身売買同様ノ所業ヲ禁シ娼芸妓年季奉公人一切解放?』 この布告により、江戸時代から続いた人身売買の慣習を禁じて、娼妓(しょうぎ)を解放しました。※1 ―― ―― やがて、娼妓は建前として、貸座敷業者から部屋を借りて売春を営むようになります。 ―― ―― そして、国際的な世間体のために、国家が関与するのを避けようとして、取り締まりや保護などの細部を地方自治体に委ねました。 ―― ―― その後、終身拘束を無くし、前借金(ぜんしゃくきん)と返済のための年季契約を導入しました。政府は登録・検診による精微な法体系や統制方式を作り上げてゆきます。 ※2 ―― ―― 官として統制しやすいように集娼方式が好まれました。集娼によって娼妓が1つの地域に集まった所を「遊郭」と呼びます。※3 ―― ―― しかし、娼妓が自由を奪われている現状は変わらず、救世軍による廃娼運動が盛り上がりました。 明治33年(1900)10月 内務省令第44号『娼妓取締規則?』 全国的な統一基準を制定。この規則によって近代公娼制度の確立となった。前借金が残っていても廃業の自由が認められる、居住・営業場所の制限、検診の義務化、18歳という年齢制限等が定めました。 ―― ―― しかし、必ずしも実態が改善した訳ではありませんでした。年齢制限などは有名無実になります。取り締まりを強化するほど私娼が繁昌し、検診制度の効果を低下させました。 ―― ―― この規則は狭義の娼妓しか対象とせず、地方自治体に委ねた部分が少なくありませんでした。そのため、法の目をかいくぐろうとする売春業者、廃娼運動家、その中で板ばさみになる警察との間で泥沼状態になってゆきます。※4 大正時代(1912~) ―― 酌婦(しゃくふ)といって「料理店で飲酒の接待をする」という建前で売春をする人が出現しました。 昭和時代(1926~) ―― 酌婦は年齢制限がゆるく、前借金が安いので、大正から昭和までに激増しました。 ―― ―― この時期、カフェ・バーの女給やダンサーなどが売春予備軍とされました。実際に娼妓などへ転向した人も少なくなかったのです。 昭和31年(1956)5月24日 法律第18号『売春防止法』 これにより売春は完全に禁止されました。 ※1、吉原の娼妓の事を花魁(おいらん)といいます。 ※2、藤目ゆき助教授(フジメユキじょきょうじゅ)によると、これは欧州の近代公娼制を参考にした物であるといいます。実際にフランスの警察制度を学んだ初代警視総監、川路利良の影響が大きいと評しています。 ※3、散娼と集娼という種類があり、前者は娼妓が個々に諸処へ散在して売淫する、後者は表に書いてある通りです。 ※4、娼妓以外には、芸妓(げいぎ)という「芸を売る」人がいました。実際には娼妓と芸妓を兼務する人が多かった。その人たちは2枚の免許を持つので「2枚鑑札(にまいかんさつ)」と呼ばれました。地方自治体の中にも「芸娼妓取締規則」というように、両者まとめて規則を設けました。 戦後から現在まで 昭和47年(1972) 女性史研究家の山崎朋子が、山崎朋子 著『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(筑摩書房 刊)を出版する。 海外に渡って娼婦になった日本人の女性たち、「からゆきさん」を取材した書籍。 昭和48年(1973) 千田夏光 著『従軍慰安婦 “声なき女"八万人の告発』(双葉社 刊)が出版される。 「慰安婦」という言葉に勝手に「従軍」などという接頭語をつけたのはこの書籍が初めてであり、この造語の作者が著者、千田夏光である。 昭和49年(1974) 千田夏光 著『従軍慰安婦 続(償われざる女八万人の慟哭)』(双葉社 刊)が出版される。 〃 昭和50年(1975) 禾晴道 著『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』(太平出版社 刊)が出版される。 ―― 昭和51年(1976) 金一勉 著『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 刊)が出版される。 ―― 昭和52年(1977)3月 吉田清治 著『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社 刊)が出版される。 労報に入るまでの苦労話と、下関での朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談という内容。 12月 金一勉 著『軍隊慰安婦 戦争と人間の記録』(現代史出版会 刊)が出版される。 ―― 昭和53年(1978)12月 山田清吉 著『武漢兵站』(図書出版社 刊)が出版される。 ―― 昭和57年(1982)6月26日 『朝日新聞』が「日本の教科書が『華北への侵略』を『進出』に書き換えさせられた。」と報道する。 この記事を韓国の新聞が引用したときに「中国・韓国への侵略」と勝手に「韓国」を追加して報道した。 9月・11月 第一次サハリン裁判にて、吉田清治氏が済州島(チェジュとう)における朝鮮人の「奴隷狩り」を原告側の証人として証言した。 ―― 昭和58年(1983)7月 吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が出版。 ―― 12月 吉田清治が韓国に謝罪碑を建てるために訪韓する。 天安市の国立墓地に「元労報徴用隊長」の名義で建てた。 昭和59年(1984)5月26日 元慰安婦でタイ在住の朝鮮人が42年ぶりに韓国へ里帰り ―― 昭和60年(1985)8月15日 「かにた婦人の村」(館山)に城田すず子の発意で慰安婦の碑を建立。 『朝日新聞』8月19日付け? 昭和62年(1987)2月 ペ=ポンギの一代記である、川田文子 著『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房 刊)が出版。 ―― 昭和63年(1988)2月 韓国女性グループ{尹貞玉(ユン=ジョンオク)ら}の沖縄調査、元慰安婦ペ=ポンギと会見。 ―― 平成元年(1989)5月 朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会事務局の青柳敦子局員が『朝日ジャーナル』(朝日新聞社 刊)に隔週で15回にわたって意見広告を掲載。 青柳敦子は大分県在住で勤務医を夫に持つ40歳の3児の母親、そして、朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会の宋斗会代表は在日朝鮮人です。要するに朝鮮人が自ら「私達に謝れ」と、青柳局員を通じて言っているのです。しかも15回にわたって。 8月 吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が韓国にて朝鮮語に翻訳されチョンゲ研究所から出版。 ―― 8月14日 『済州新聞(チェジュしんぶん)』の許栄善記者が吉田清治の著書に関する現地調査をし、そのルポを発表。さらに郷土史家の金奉玉氏が追跡調査した。 これにより、吉田清治の著書がでたらめであると判明した。憤慨した金奉玉はこう言った。「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と。 11月19日 青柳敦子・宋斗会の両氏が韓国において「慰安婦裁判の原告募集というビラをまく。 このビラには「訴訟費用を負担する」という条件が書いてある。ということは「勝訴すれば賠償金をもらえ、敗訴してもリスクはない。」、ノーリスクハイリターンという事になる。 平成2年(1990)1月4~24日 『ハンギョレ新聞』にて、韓国の梨花女子大学の尹貞玉教授が、「“挺身隊”怨念の足跡取材記」を連載。 ―― 3月 ソウルで遺族会とともに説明会 ―― 5月 韓国女性団体、訪日する盧大統領へ補償、謝罪を求める声明を発表 ―― 6月6日 参議院予算委員会において、日本社会党の本岡昭次議員が朝鮮人の強制連行に関する質問をする。 『参議院予算委員会会議録』平成2年6月6日付け? 7月10日 韓国において「挺身隊研究会」が決済される。 後の「韓国挺身隊研究所」である。 10月17日 韓国の37の女性団体が当時の海部俊樹総理大臣に公開書簡を送付する。 この書簡には、6項目の要求が書かれていた。 11月16日 韓国において韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が発足する。 このときから毎週水曜日に慰安婦問題に関してデモを行うようになった。通称「水曜デモ」 平成3年(1991)4月1日 日本社会党の本岡昭次議員が再び質問する。 これに労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。 4月24日 在ソウル日本大使館が挺隊協の尹貞玉(ユン=ジョンオク)代表を呼び、「6項目の要求を拒否」を回答する。 ―― 5月22日 『朝日新聞』大阪版にて「木剣ふるい無理やり動員」という見出しで記事が掲載される。 内容は、吉田清治の慰安婦狩りの証言と、それに関する写真を掲載した。 8月11日 『朝日新聞』ソウル支局の植村隆記者が「元従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで記事を掲載する。 ―― 8月14日 元慰安婦とされる金学順(キム=ハクスン)氏が記者会見を開く。 ―― 8月15日 『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。 ―― 10月10日 『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビューを掲載する。 ―― 12月6日 金学順(キム=ハクスン)ら3名の元慰安婦を含む32人の原告が日本政府を相手取り東京地方裁判所へ提訴する。 このときの原告の主任弁護士は高木健一弁護士である。 12月末~年始 中央大学の吉見義明教授が防衛庁防衛研究所図書館に行って慰安所関係を中心に資料を探す。同じ頃、千葉大学の秦郁彦教授は旧知の吉見教授から「資料の発見」と「近く新聞に出る」という事を聞いていた。 吉見が『世界』1992年3月号 (岩波書店 刊)にこの「資料発見の経緯」を載せた。 平成4年(1992)1月11日 『朝日新聞』朝刊の1面にて、辰濃哲郎記者が「慰安所、軍関与示す資料」という見出しで報じる。 辰濃記者が吉見教授から情報を入手したのは12月24日ごろなので、2週間以上も寝かされていたと思われる。 〃 韓国の報道機関が『朝日新聞』から引用して報道する。 『朝日新聞』夕刊より引用。 〃 韓国の当時の李相玉外相が韓国記者らに語る。 「韓日首脳会談では元従軍慰安婦問題に関する日本側の適切な立場表明があると考えている(後略)」『朝日新聞』夕刊より引用。 1月12日 朝日新聞社が朝刊に「歴史から目をそむけまい」と題した社説を載せる。 「16日からの宮沢首相の訪韓では……前向きの姿勢を望みたい」 1月13日 当時の加藤紘一官房長官が談話を発表。 通称「加藤談話」。これは事実調査をせぬままに『お詫びと反省』という内容を盛り込んでしまった談話であった。 〃 英字新聞『Japan Times』が当時の外務省の渡辺美智雄大臣の発言を誇張させて報道する。 11日夜のTV番組で「50年以上前の話、はっきり証拠ない」「何らかの関与は認めざるを得ない」という旨の発言をしたが、記事では「この発言は政治家が『日本軍がWWⅡ中に何10万人ものアジア人に対する強制売春に加担した』と初めて認めた」と、『朝日新聞』にさえ書いてないような事を付け加えた。 1月14日 韓国のマスコミが、「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた」などと報道した。 これは慰安婦と挺身隊の混同による誤報である。挺身隊を“勤労動員した”と書いたのが原因と思われる。 1月16日 当時の故宮澤喜一総理大臣が韓国を訪問する。11日の『朝日新聞』の報道の影響により、反日デモのお出迎え。首脳会談では8回謝罪し、「真相究明」を約束した。 本来なら「真相究明」をしてから、謝罪するのかしないのかを決めるべきでしょう。有罪か無罪かも分からぬまま謝罪するなどという蛮行を行ったのが、故宮澤喜1である。 1月23日 『朝日新聞』夕刊「窓」欄のインタビューにて、吉田清治氏が「強制連行した女性はすくなくみても950人」と発言 ―― 2月17日 日本弁護士連合会(日弁連)の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。 ―― 5月25日 『朝日新聞』が吉田清治氏が韓国に「謝罪の旅」に出る予定と紹介する。 ―― 5月 『正論』6月号(扶桑社 刊)で、秦郁彦教授が済州島での実地調査を発表する。 これにより、吉田清治氏の嘘が暴かれた。 7月6日 日本政府が吉見義明教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表する。100を超える関係資料を公開した。 内閣官房の加藤紘一長官は「強制連行の資料はなかったが、慰安所の設置や運営監督に政府が関与していた」ことをはじめて公式に認める。 7月31日 韓国政府が『日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書』で「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張する。 ―― 8月12日 吉田清治氏が訪韓する。金学順(キム=ハクスン)に頭を下げて謝罪する。 ―― 12月 吉見義明 編・解説 『従軍慰安婦資料集』(大月書店 刊)が出版される。 このときから「広義の強制」という言葉がでてきた。 12月 『週刊新潮』(新潮社 刊)に吉田清治氏のコメントが載る。 吉田氏「私が書いた事は全部事実」 12月25日 韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴する ―― 平成5年(1993)2月1日 韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会「強制連行された朝鮮人『慰安婦』たち」が刊行される。 この本の日本語版は10月に、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク 訳『証言-強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として出版された。 2月 『現代コリア』2~3月号(現代コリア研究所 刊)で、現代史研究家、加藤雅夫氏が、千田夏光 著 講談社文庫『従軍慰安婦』(講談社 刊)の中の嘘を暴露する。 この本は千田夏光 著『従軍慰安婦』(双葉社 刊)の文庫版である。千田を問い詰めたところ、「従軍慰安婦」という言葉は千田が勝手に作ったものであり、内容も島田俊彦 著 中公新書『関東軍 在満陸軍の独走』(中央公論社 刊)を参考にしたもので、直接取材はしていない事が判明した。 2月 ソウル大学の安乗直教授ら「挺身隊研究会」が慰安婦40数人に本格的な聞き取り調査をする。 ―― 3月29日 韓国政府が国内の元慰安婦約135名に対して約74万円の支給などの支援策を発表する。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするように求める。 ―― 4月2日 フィリピンの19人の元慰安婦らが日本政府の謝罪と保証を求めて東京地裁に提訴する。 原告は、最終的には46名となる。 4月5日 元慰安婦の宋神道が、「7年間も従軍慰安婦とされ、肉体的精神的苦痛を受けた。」として、日本政府を相手取り東京地裁に提訴する。 ―― 6月310日 高校日本史の検定済み教科書7社9種類すべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載される事が判明する。 ―― 6月11日 韓国は「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」を制定する。同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。 ―― 8月4日 日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表する。それに関連し、当時の河野洋平官房長官が日本軍の強制連行を認める、いわゆる「河野談話」を発表する。 河野談話の全文と解説は河野談話?を参照してください。 月日不明 高木健一弁護士ら、13人の弁護士がインドネシアの地元紙に「日本政府に対して保証を求める裁判のために元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出す。 ―― 平成6年(1994)5月3日 当時の法務省の永野茂門大臣が記者会見で、「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」と述べ、中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任からわずか10日で引責辞任した。 ―― 8月31日 日本社会党の村山富一総理大臣が、「平和友好交流計画」に関する談話の中で、従軍慰安婦について謝罪した。 ―― 11月23日 「国際法律家委員会」が、「慰安婦被害者には個人補償請求権がある」とする報告書を発表した。 ―― 平成6年(1995)1月 『週刊新潮』1月5日号(新潮社 刊)が、吉田清治氏の証言は事実無根である事が判明したとの記事を掲載した。 ―― 1月24日 日本弁護士連合会(日弁連)が「従軍慰安婦問題に関する提言」を政府に提出。立法措置などにより、元慰安婦らに補償するよう求める。 ―― 7月19日 日本政府の主導で「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」が発足する。 ―― 8月15日 日本社会党の村山富一総理大臣が、いわゆる「村山談話」発表する。 ―― 8月22日 韓国で、元「慰安婦」および支援35団体が、「民間基金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表する。 ―― 平成7年(1996)4月19日 スイスのジュネーヴで開かれた国際連合人権委員会で、女性のクマラスワミ特別質問者が「女性への暴力特別報告(通称 クマラスワミ報告書)」と題する報告書を提出する。 付属文書で「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を「『人道に対する罪』、奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する」と断定。採択はされるが、評価基準は最下であった。 5月 『週刊新潮』5月2日号(新潮社 刊)で、でのインタビューで、吉田清治は著書の記述に一部創作があったと認める。 ―― 6月4日 元法務大臣で自民党の奥野誠亮議員が「従軍記者や従軍看護婦はいたが、『従軍』慰安婦はいない。強制連行はなかった。」と発言した。韓国人元慰安婦(73歳)が参議院で自民党の板垣正議員と面会。「1部の日本人が強制がなかったとか妄言を吐く」と訴える。対価としてお金をもらっていないとの元慰安婦の話に板垣は「そういう例があったとはまったく信じられない」と疑問を呈した。 ―― 6月末 当時の故橋下龍太郎総理大臣が韓国の金泳三大統領との首脳会談後、慰安婦問題を謝罪した。 ―― 6月27日 教科書を発行する7社が一斉に「強制連行の一環として「慰安婦」問題を掲載したと判明する。 ―― 8月 『SAPIO』8月7日~2月26日号(小学館 刊)内、小林よしのり 著『新・ゴーマニズム宣言』にて、慰安婦問題を取り上げる。 ―― 9月20日 日本を守る国民会議が、教科書からの「慰安婦」関連記述の削除を求めて、1ヵ月の全国縦断キャラバンを開始した。 ―― 12月2日 藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのり、坂本多加雄、高橋史郎ら9名の呼びかけで「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」が結成される。 ―― 平成9年(1997)1月31日 『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)で吉見義明教授が「植民地での奴隷狩り的強制連行と挺身隊が慰安婦にさせられた例は確認されていない」ことを認める。 ―― 1月310日 「つくる会」が文部省の小杉隆文大臣に教科書の慰安婦についての記述の削除を申し入れる。 ―― 2月27日 当時の安倍晋三議員の主導で「日本の前述と歴史教育を考える若手議員の会」が結成される。 ―― 3月9日 元内閣官房副長官の石原信雄氏が『産経新聞』のインタビューで、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはなかったことなど『河野談話』発表に至る経緯を明かす。 元官房長官の河野洋平は、『産経新聞』のインタビューを断ったが、3月末の『朝日新聞』のインタビューには応じた。 3月10日 櫻井よしこ氏が『文藝春秋』4月号(文藝春秋 刊)の「密約外交の代償」と題する論文で、証拠に基づかずに、政治的判断・妥協で強制連行を認めた政府の外交を批判した。 ―― 3月12日 内閣官房内閣外政審議室の平林博室長は、参議院予算委員会で「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、総合的な調査の結果についての総合判断により、一定の強制性を認めた」旨の答弁をする。 ―― 3月31日 『朝日新聞』が吉田清治氏の証言に関し、「真偽は確認できない」と掲載した。元官房長官の河野洋平氏のインタビューも掲載した。 自分から火に油を注いでおいて、あまりにも無責任ではないだろうか。 4月 平成3年度用社会科教科書の検定に合格した7種すべてに慰安婦に関する記述があることが判明した。 ―― 5月 中学校教科書の慰安婦の記述削除を求める請願が各地の地方議会で相次ぐ ―― 6月17日 河野洋平氏が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」主催の講演で「強制連行をしたという資料はなかったことは事実。しかし資料がなかったからと言って(強制連行も)なかったと決められるかどうか」と発言した。 「真実は神のみぞ知る」。たしかに資料がなかったからといって、強制連行が無かったとは必ずしも言えない。しかし、人間は神ではない。資料や裏づけのある証言がすべてである。資料がないのに何でも分かるのならば、「どこに邪馬台国があったか」なんかでもめるはずが無い。 平成10年(1998)4月27日 元慰安婦3人と元挺身隊員7人の計10人の韓国人女性が日本政府に総額5億6千4百万円の損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟(通称、関釜裁判)で初の司法判断(河野談話が強制連行の証拠と認定されるが、最終的には慰安婦側の敗訴が確定) ―― 7月31日 農林水産省の中川昭一大臣が就任直後に「中学校の教科書に従軍慰安婦の記載があるのは疑問」と述べ、中韓からの反発。翌日撤回 ―― 8月 国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で、「マクドガル報告書」が採択された。 ―― 8月 韓国で「日本軍慰安婦歴史館」が開館した。 ―― 8月4日 『読売新聞』が「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題した社説で『朝日新聞』を暗に批判した。 ―― 8月11日 『読売新聞』が「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し、慰安婦強制連行説を捏造した者とそれを追認した『河野談話』を厳しく批判した。 ―― 9月2日 秦郁彦教授が吉田清治氏に電話する。「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと進めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、85歳になっても今さら……このままにしておきましょう」との返事。 ―― 10月 『諸君!』11月号(文藝春秋 刊)において、秦郁彦教授が吉田清治氏本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる。 ―― 11月 改訂版として出版された新村出 編『広辞苑』第五版(岩波書店 刊)に、初めて「従軍慰安婦」の語が収録される。 ―― 平成12年(2000)4月 『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』を野党が参議院に提出した。 ―― 12月8日から12日 VAWW-NETジャパンを初め、日本とアジアの非政府組織(NGO)が東京にて女性国際戦犯法廷を開いた。 ―― 3月1日 『読売新聞』が社説で慰安婦問題は捏造であると指摘した。 ―― 5月8日 韓国政府が日本政府に対してつくる会の中学校の歴史教科書などの記述修正を要求した。 ―― 5月16日 中国政府が日本政府に対し、つくる会の歴史教科書の8項目について記述修正を要求する。 ―― 7月9日 文部科学省が韓国・中国政府の修正要求に対して、つくる会の歴史教科書に対する訂正は求めない方針を示す。 ―― 7月 VAWW-NETジャパンが「女性国際戦犯法廷」のNHKの番組編集に不満、提訴した。 ―― 平成14年(2002)1月 アメリカとイギリスで田中ユキ 著「Japan s Comfort Women」という英文の書が出版される。 田中ユキは正体不明である。 2月23日 韓国女性省が、慰安婦問題に関して教育に力を入れる方針を発表した。 ―― 2月24日 「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム(朝日新聞社 後援)で金貴玉教授が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったと発表した。 ―― 3月218日 在日韓国人で唯一元慰安婦であると名乗り出た宋神道(80歳)が日本政府を相手取り、謝罪と賠償を求めていた訴訟で敗訴が確定する。 ―― 平成15年(2003)1月31日 民主党の岡崎トミ子議員らが「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を参議院に再度提出する。 ―― 2月12日 日本の国会議員が挺身隊集会に初参加と中央日報が報じる。参加したのは岡崎トミ子議員、当時の田嶋陽子議員など ―― 3月24日 「関釜裁判」の上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定した。 ―― 9月2日 ソウル大学経済学部の李栄薫教授が、慰安婦を売春業になぞらえたような発言で、韓国で批判される。 ―― 11月27日 文部科学省の中山成彬大臣が歴史教科書について「やっと最近、従軍慰安婦とか強制連行といった言葉が減ってきて本当に良かった」と述べ、反発を招く。 ―― 12月 金完燮(キム=ワンソプ)氏が平成8年に19万部のベストセラーとなった「娼婦論」に慰安婦制度を肯定する最終章を加えた日本語版、金完燮 著『娼婦論』(日本文芸社 刊)を出版した。 「日本軍用女性性奴隷」という用語は、「日本の国家的イメージを失墜させようとする意図が見え隠れする」と指摘した。 平成17年(2005)1月12日 『朝日新聞』が「安倍、中川両氏がVAWW-NETジャパン主催の『女性国際戦犯法廷』NHKの番組改編に圧力」と報じる。 ―― 4月6日 中学歴史教科書では、「慰安婦」の記載は申請段階で帝国書院1社となる。 ―― 6月12日 中山成彬大臣が「従軍慰安婦という言葉は当時無かった」と発言し、韓国から反発を招く。 ―― 8月10日 第2次世界大戦終結60周年世界60都市同時集会・デモが、東京、ソウル、マニラ、サンフランシスコなどで開かれ、日本政府に対し、国連勧告に従い元「慰安婦」への賠償を訴える。「アムネスティ=インターナショナル」が、「水曜デモ」を機に、慰安婦とその支援者らに賛同することを発表する。 ―― 平成18年(2006)4月10日 アメリカの合衆国代議院(アメリカ下院)の対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会の調査局の報告書に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として、「吉田清治の証言」が明記されている事が判明した。 ―― 9月13日 アメリカ下院国際関係委員会が「慰安婦問題」で日本政府を非難する決議案を議決 ―― 10月5日 安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいく事を明言する。 ―― 10月25日 内閣官房の下村博文副長官が講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。 ―― 平成19年(2007)1月31日 アメリカにて、民主党のマイク=ホンダ議員ら6人の民主党の下院議員が共同署名で慰安婦問題に関する対日非難決議案を提出する。 ―― 2月15日 下院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙、金君子、ジャン=ラフ=オハーンの3人の元慰安婦が証言した。 ―― 2月19日 当時の外務省の麻生太郎大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案に対して不快感を表明した。 ―― 2月25日 『報道2001』(フジテレビ)でマイク=ホンダ議員は、強制連行があった根拠を「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」と主張した。 ―― 3月1日 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を表明した。安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。 ―― 3月5日 安倍晋三首相が、「(アメリカ下院)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪する事は無い」と答弁した。 ―― 3月11日 当時の麻生太郎大臣が対日非難決議案について「日米(関係)を離間させる有効な手段だ」と発言した。 ―― 3月16日 日本政府は「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を出す。 ―― 3月23日 元首相で元海軍将校だった中曽根康弘氏がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及する。 ―― 3月24日 『ワシントン=ポスト』が「安倍晋三の2枚舌(Shinzo Abe s Double Talk)」と題する社説を掲載した。 ―― 3月28日 アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い 過去に対する世界的展望」に、日本軍が当時、最大30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明した ―― 3月31日 元従軍慰安婦への償い事業を12年間行ってきた「アジア女性基金」が解散する。国民の浄財5億円が集められ、15年間で40億円の事務費は税金から支払われた。 ―― 3月31日 『ニューヨーク=タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見義明のインタビューを掲載した。 ―― 4月3日 アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する、議員の審議用資料の報告書を作成した。 ―― 4月17日 関東学院大学の林博史教授が外国特派員協会における記者会見にて、「従軍慰安婦」問題に関する新資料7点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が強制連行し、性行為を強要したことを示していることを指摘した。 ―― 4月26日 『ワシントン=ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国人団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載した。「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは1度も無い」と非難し、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。 ―― 4月27日 総理として初訪米した安倍晋三首相はブッシュ大統領との会談と連邦議会における上下両院幹部との階段で、元慰安婦らに対する同情とお詫びを表明。幹部との会談では自ら「せっかくの機会なので一言、念のために申し上げたい。私の真意や発言が正しく伝わっていない。」と発言。これを受けて日系のダニエル・イノウエ上院議員は「残念なのは慰安婦問題をめぐる米国内の動きだ。これまで7人の首相が謝罪しているのにもかかわらず、こういうことが今後も続くのかと思うと、疑問を感じる」と発言した。 ―― 6月14日 作曲家のすぎやまこういち氏らが従軍慰安婦に関する意見広告を『ワシントン・ポスト』に掲載した。 ―― 6月26日 アメリカ下院の「慰安婦決議案」が外交委員会で可決された。 ―― 7月31 アメリカ下院の「慰安婦決議案」が本会議で可決された。 この日の決議は、手続きを簡略化し、下院(定数435)の定足数(218)未満でも審議できる「議事規則の適用停止」が適用された。実際に出席した議員は10人で、発声による投票で異議は出されず、議長が可決と認定した。
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/77.html
従軍慰安婦の正体へ戻る 戦前から戦中・戦後まで 明治5年(1872)10月2日 大政官布告第295号『人身売買同様ノ所業ヲ禁シ娼芸妓年季奉公人一切解放』 この布告により、江戸時代から続いた人身売買の慣習を禁じて、娼妓(しょうぎ)を解放しました。※1 ―― ―― やがて、娼妓は建前として、貸座敷業者から部屋を借りて売春を営むようになります。 ―― ―― そして、国際的な世間体のために、国家が関与するのを避けようとして、取り締まりや保護などの細部を地方自治体に委ねました。 ―― ―― その後、終身拘束を無くし、前借金(ぜんしゃくきん)と返済のための年季契約を導入しました。政府は登録・検診による精微な法体系や統制方式を作り上げてゆきます。 ※2 ―― ―― 官として統制しやすいように集娼方式が好まれました。集娼によって娼妓が1つの地域に集まった所を「遊郭」と呼びます。※3 ―― ―― しかし、娼妓が自由を奪われている現状は変わらず、救世軍による廃娼運動が盛り上がりました。 明治33年(1900)10月 内務省令第44号『娼妓取締規則』 全国的な統一基準を制定。この規則によって近代公娼制度の確立となった。前借金が残っていても廃業の自由が認められる、居住・営業場所の制限、検診の義務化、18歳という年齢制限等が定めました。 ―― ―― しかし、必ずしも実態が改善した訳ではありませんでした。年齢制限などは有名無実になります。取り締まりを強化するほど私娼が繁昌し、検診制度の効果を低下させました。 ―― ―― この規則は狭義の娼妓しか対象とせず、地方自治体に委ねた部分が少なくありませんでした。そのため、法の目をかいくぐろうとする売春業者、廃娼運動家、その中で板ばさみになる警察との間で泥沼状態になってゆきます。※4 大正時代(1912~) ―― 酌婦(しゃくふ)といって「料理店で飲酒の接待をする」という建前で売春をする人が出現しました。 昭和時代(1926~) ―― 酌婦は年齢制限がゆるく、前借金が安いので、大正から昭和までに激増しました。 ―― ―― この時期、カフェ・バーの女給やダンサーなどが売春予備軍とされました。実際に娼妓などへ転向した人も少なくなかったのです。 昭和31年(1956)5月24日 法律第18号『売春防止法』 これにより売春は完全に禁止されました。 ※1、吉原の娼妓の事を花魁(おいらん)といいます。 ※2、藤目ゆき助教授(フジメユキじょきょうじゅ)によると、これは欧州の近代公娼制を参考にした物であるといいます。実際にフランスの警察制度を学んだ初代警視総監、川路利良の影響が大きいと評しています。 ※3、散娼と集娼という種類があり、前者は娼妓が個々に諸処へ散在して売淫する、後者は表に書いてある通りです。 ※4、娼妓以外には、芸妓(げいぎ)という「芸を売る」人がいました。実際には娼妓と芸妓を兼務する人が多かった。その人たちは2枚の免許を持つので「2枚鑑札(にまいかんさつ)」と呼ばれました。地方自治体の中にも「芸娼妓取締規則」というように、両者まとめて規則を設けました。 戦後から現在まで 昭和47年(1972) 女性史研究家の山崎朋子が、山崎朋子 著『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(筑摩書房 刊)を出版する。 海外に渡って娼婦になった日本人の女性たち、「からゆきさん」を取材した書籍。 昭和48年(1973) 千田夏光 著『従軍慰安婦 “声なき女"八万人の告発』(双葉社 刊)が出版される。 「慰安婦」という言葉に勝手に「従軍」などという接頭語をつけたのはこの書籍が初めてであり、この造語の作者が著者、千田夏光である。 昭和49年(1974) 千田夏光 著『従軍慰安婦 続(償われざる女八万人の慟哭)』(双葉社 刊)が出版される。 〃 昭和50年(1975) 禾晴道 著『海軍特別警察隊 アンボン島BC級戦犯の手記』(太平出版社 刊)が出版される。 ―― 昭和51年(1976) 金一勉 著『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(三一書房 刊)が出版される。 ―― 昭和52年(1977)3月 吉田清治 著『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労報動員部長の手記』(新人物往来社 刊)が出版される。 労報に入るまでの苦労話と、下関での朝鮮人慰安婦調達に関わる体験談という内容。 12月 金一勉 著『軍隊慰安婦 戦争と人間の記録』(現代史出版会 刊)が出版される。 ―― 昭和53年(1978)12月 山田清吉 著『武漢兵站』(図書出版社 刊)が出版される。 ―― 昭和57年(1982)6月26日 『朝日新聞』が「日本の教科書が『華北への侵略』を『進出』に書き換えさせられた。」と報道する。 この記事を韓国の新聞が引用したときに「中国・韓国への侵略」と勝手に「韓国」を追加して報道した。 9月・11月 第一次サハリン裁判にて、吉田清治氏が済州島(チェジュとう)における朝鮮人の「奴隷狩り」を原告側の証人として証言した。 ―― 昭和58年(1983)7月 吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が出版。 ―― 12月 吉田清治が韓国に謝罪碑を建てるために訪韓する。 天安市の国立墓地に「元労報徴用隊長」の名義で建てた。 昭和59年(1984)5月26日 元慰安婦でタイ在住の朝鮮人が42年ぶりに韓国へ里帰り ―― 昭和60年(1985)8月15日 「かにた婦人の村」(館山)に城田すず子の発意で慰安婦の碑を建立。 『朝日新聞』8月19日付け 昭和62年(1987)2月 ペ=ポンギの一代記である、川田文子 著『赤瓦の家 朝鮮から来た従軍慰安婦』(筑摩書房 刊)が出版。 ―― 昭和63年(1988)2月 韓国女性グループ{尹貞玉(ユン=ジョンオク)ら}の沖縄調査、元慰安婦ペ=ポンギと会見。 ―― 平成元年(1989)5月 朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会事務局の青柳敦子局員が『朝日ジャーナル』(朝日新聞社 刊)に隔週で15回にわたって意見広告を掲載。 青柳敦子は大分県在住で勤務医を夫に持つ40歳の3児の母親、そして、朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会の宋斗会代表は在日朝鮮人です。要するに朝鮮人が自ら「私達に謝れ」と、青柳局員を通じて言っているのです。しかも15回にわたって。 8月 吉田清治 著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房 刊)が韓国にて朝鮮語に翻訳されチョンゲ研究所から出版。 ―― 8月14日 『済州新聞(チェジュしんぶん)』の許栄善記者が吉田清治の著書に関する現地調査をし、そのルポを発表。さらに郷土史家の金奉玉氏が追跡調査した。 これにより、吉田清治の著書がでたらめであると判明した。憤慨した金奉玉はこう言った。「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と。 11月19日 青柳敦子・宋斗会の両氏が韓国において「慰安婦裁判の原告募集というビラをまく。 このビラには「訴訟費用を負担する」という条件が書いてある。ということは「勝訴すれば賠償金をもらえ、敗訴してもリスクはない。」、ノーリスクハイリターンという事になる。 平成2年(1990)1月4~24日 『ハンギョレ新聞』にて、韓国の梨花女子大学の尹貞玉教授が、「“挺身隊”怨念の足跡取材記」を連載。 ―― 3月 ソウルで遺族会とともに説明会 ―― 5月 韓国女性団体、訪日する盧大統領へ補償、謝罪を求める声明を発表 ―― 6月6日 参議院予算委員会において、日本社会党の本岡昭次議員が朝鮮人の強制連行に関する質問をする。 『参議院予算委員会会議録』平成2年6月6日付け 7月10日 韓国において「挺身隊研究会」が決済される。 後の「韓国挺身隊研究所」である。 10月17日 韓国の37の女性団体が当時の海部俊樹総理大臣に公開書簡を送付する。 この書簡には、6項目の要求が書かれていた。 11月16日 韓国において韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が発足する。 このときから毎週水曜日に慰安婦問題に関してデモを行うようになった。通称「水曜デモ」 平成3年(1991)4月1日 日本社会党の本岡昭次議員が再び質問する。 これに労働省の政府委員は「手がかりになる資料がない」という旨の答弁をする。 4月24日 在ソウル日本大使館が挺隊協の尹貞玉(ユン=ジョンオク)代表を呼び、「6項目の要求を拒否」を回答する。 ―― 5月22日 『朝日新聞』大阪版にて「木剣ふるい無理やり動員」という見出しで記事が掲載される。 内容は、吉田清治の慰安婦狩りの証言と、それに関する写真を掲載した。 8月11日 『朝日新聞』ソウル支局の植村隆記者が「元従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」との見出しで記事を掲載する。 ―― 8月14日 元慰安婦とされる金学順(キム=ハクスン)氏が記者会見を開く。 ―― 8月15日 『ハンギョレ新聞』の報道により、金学順(キム=ハクスン)が「親に売り飛ばされた」と証言していた事が発覚する。 ―― 10月10日 『朝日新聞』大阪版が井上祐雅編集委員による吉田清治のインタビューを掲載する。 ―― 12月6日 金学順(キム=ハクスン)ら3名の元慰安婦を含む32人の原告が日本政府を相手取り東京地方裁判所へ提訴する。 このときの原告の主任弁護士は高木健一弁護士である。 12月末~年始 中央大学の吉見義明教授が防衛庁防衛研究所図書館に行って慰安所関係を中心に資料を探す。同じ頃、千葉大学の秦郁彦教授は旧知の吉見教授から「資料の発見」と「近く新聞に出る」という事を聞いていた。 吉見が『世界』1992年3月号 (岩波書店 刊)にこの「資料発見の経緯」を載せた。 平成4年(1992)1月11日 『朝日新聞』朝刊の1面にて、辰濃哲郎記者が「慰安所、軍関与示す資料」という見出しで報じる。 辰濃記者が吉見教授から情報を入手したのは12月24日ごろなので、2週間以上も寝かされていたと思われる。 〃 韓国の報道機関が『朝日新聞』から引用して報道する。 『朝日新聞』夕刊より引用。 〃 韓国の当時の李相玉外相が韓国記者らに語る。 「韓日首脳会談では元従軍慰安婦問題に関する日本側の適切な立場表明があると考えている(後略)」『朝日新聞』夕刊より引用。 1月12日 朝日新聞社が朝刊に「歴史から目をそむけまい」と題した社説を載せる。 「16日からの宮沢首相の訪韓では……前向きの姿勢を望みたい」 1月13日 当時の加藤紘一官房長官が談話を発表。 通称「加藤談話」。これは事実調査をせぬままに『お詫びと反省』という内容を盛り込んでしまった談話であった。 〃 英字新聞『Japan Times』が当時の外務省の渡辺美智雄大臣の発言を誇張させて報道する。 11日夜のTV番組で「50年以上前の話、はっきり証拠ない」「何らかの関与は認めざるを得ない」という旨の発言をしたが、記事では「この発言は政治家が『日本軍がWWⅡ中に何10万人ものアジア人に対する強制売春に加担した』と初めて認めた」と、『朝日新聞』にさえ書いてないような事を付け加えた。 1月14日 韓国のマスコミが、「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた」などと報道した。 これは慰安婦と挺身隊の混同による誤報である。挺身隊を“勤労動員した”と書いたのが原因と思われる。 1月16日 当時の故宮澤喜一総理大臣が韓国を訪問する。11日の『朝日新聞』の報道の影響により、反日デモのお出迎え。首脳会談では8回謝罪し、「真相究明」を約束した。 本来なら「真相究明」をしてから、謝罪するのかしないのかを決めるべきでしょう。有罪か無罪かも分からぬまま謝罪するなどという蛮行を行ったのが、故宮澤喜1である。 1月23日 『朝日新聞』夕刊「窓」欄のインタビューにて、吉田清治氏が「強制連行した女性はすくなくみても950人」と発言 ―― 2月17日 日本弁護士連合会(日弁連)の戸塚悦郎弁護士が、国連人権委員会において、慰安婦問題を人道上の罪だとして国連の介入を求める。 ―― 5月25日 『朝日新聞』が吉田清治氏が韓国に「謝罪の旅」に出る予定と紹介する。 ―― 5月 『正論』6月号(扶桑社 刊)で、秦郁彦教授が済州島での実地調査を発表する。 これにより、吉田清治氏の嘘が暴かれた。 7月6日 日本政府が吉見義明教授の資料発見を受けて行った慰安婦問題に関する調査結果を発表する。100を超える関係資料を公開した。 内閣官房の加藤紘一長官は「強制連行の資料はなかったが、慰安所の設置や運営監督に政府が関与していた」ことをはじめて公式に認める。 7月31日 韓国政府が『日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書』で「日本政府による慰安婦の威圧的連行があった」と主張する。 ―― 8月12日 吉田清治氏が訪韓する。金学順(キム=ハクスン)に頭を下げて謝罪する。 ―― 12月 吉見義明 編・解説 『従軍慰安婦資料集』(大月書店 刊)が出版される。 このときから「広義の強制」という言葉がでてきた。 12月 『週刊新潮』(新潮社 刊)に吉田清治氏のコメントが載る。 吉田氏「私が書いた事は全部事実」 12月25日 韓国釜山市などの元慰安婦ら10名が、日本政府に公式謝罪と賠償を求めて山口地方裁判所に提訴する ―― 平成5年(1993)2月1日 韓国挺身隊問題対策協議会、挺身隊研究会「強制連行された朝鮮人『慰安婦』たち」が刊行される。 この本の日本語版は10月に、韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会 編、従軍慰安婦問題ウリヨソンネットワーク 訳『証言-強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』として出版された。 2月 『現代コリア』2~3月号(現代コリア研究所 刊)で、現代史研究家、加藤雅夫氏が、千田夏光 著 講談社文庫『従軍慰安婦』(講談社 刊)の中の嘘を暴露する。 この本は千田夏光 著『従軍慰安婦』(双葉社 刊)の文庫版である。千田を問い詰めたところ、「従軍慰安婦」という言葉は千田が勝手に作ったものであり、内容も島田俊彦 著 中公新書『関東軍 在満陸軍の独走』(中央公論社 刊)を参考にしたもので、直接取材はしていない事が判明した。 2月 ソウル大学の安乗直教授ら「挺身隊研究会」が慰安婦40数人に本格的な聞き取り調査をする。 ―― 3月29日 韓国政府が国内の元慰安婦約135名に対して約74万円の支給などの支援策を発表する。また、日本の教科書に慰安婦に関した記述をするように求める。 ―― 4月2日 フィリピンの19人の元慰安婦らが日本政府の謝罪と保証を求めて東京地裁に提訴する。 原告は、最終的には46名となる。 4月5日 元慰安婦の宋神道が、「7年間も従軍慰安婦とされ、肉体的精神的苦痛を受けた。」として、日本政府を相手取り東京地裁に提訴する。 ―― 6月310日 高校日本史の検定済み教科書7社9種類すべてに、従軍慰安婦に関する記述が掲載される事が判明する。 ―― 6月11日 韓国は「日帝下日本軍慰安婦に対する生活安定支援法」を制定する。同年8月から元「慰安婦」に一時金、生活費の支給を行う。 ―― 8月4日 日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表する。それに関連し、当時の河野洋平官房長官が日本軍の強制連行を認める、いわゆる「河野談話」を発表する。 河野談話の全文と解説は河野談話を参照してください。 月日不明 高木健一弁護士ら、13人の弁護士がインドネシアの地元紙に「日本政府に対して保証を求める裁判のために元慰安婦は名乗り出て欲しい」という内容の広告を出す。 ―― 平成6年(1994)5月3日 当時の法務省の永野茂門大臣が記者会見で、「慰安婦は当時の公娼であって、それを今の目から女性蔑視とか、韓国人差別とかは言えない」と述べ、中国、韓国を初め、アジア諸国の激しい反発を招く。4日後、永野大臣は謝罪し、就任からわずか10日で引責辞任した。 ―― 8月31日 日本社会党の村山富一総理大臣が、「平和友好交流計画」に関する談話の中で、従軍慰安婦について謝罪した。 ―― 11月23日 「国際法律家委員会」が、「慰安婦被害者には個人補償請求権がある」とする報告書を発表した。 ―― 平成6年(1995)1月 『週刊新潮』1月5日号(新潮社 刊)が、吉田清治氏の証言は事実無根である事が判明したとの記事を掲載した。 ―― 1月24日 日本弁護士連合会(日弁連)が「従軍慰安婦問題に関する提言」を政府に提出。立法措置などにより、元慰安婦らに補償するよう求める。 ―― 7月19日 日本政府の主導で「財団法人 女性のためのアジア平和国民基金」が発足する。 ―― 8月15日 日本社会党の村山富一総理大臣が、いわゆる「村山談話」発表する。 ―― 8月22日 韓国で、元「慰安婦」および支援35団体が、「民間基金構想撤回と被害者個人への謝罪と補償を求める共同声明」を発表する。 ―― 平成7年(1996)4月19日 スイスのジュネーヴで開かれた国際連合人権委員会で、女性のクマラスワミ特別質問者が「女性への暴力特別報告(通称 クマラスワミ報告書)」と題する報告書を提出する。 付属文書で「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を「『人道に対する罪』、奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する」と断定。採択はされるが、評価基準は最下であった。 5月 『週刊新潮』5月2日号(新潮社 刊)で、でのインタビューで、吉田清治は著書の記述に一部創作があったと認める。 ―― 6月4日 元法務大臣で自民党の奥野誠亮議員が「従軍記者や従軍看護婦はいたが、『従軍』慰安婦はいない。強制連行はなかった。」と発言した。韓国人元慰安婦(73歳)が参議院で自民党の板垣正議員と面会。「1部の日本人が強制がなかったとか妄言を吐く」と訴える。対価としてお金をもらっていないとの元慰安婦の話に板垣は「そういう例があったとはまったく信じられない」と疑問を呈した。 ―― 6月末 当時の故橋下龍太郎総理大臣が韓国の金泳三大統領との首脳会談後、慰安婦問題を謝罪した。 ―― 6月27日 教科書を発行する7社が一斉に「強制連行の一環として「慰安婦」問題を掲載したと判明する。 ―― 8月 『SAPIO』8月7日~2月26日号(小学館 刊)内、小林よしのり 著『新・ゴーマニズム宣言』にて、慰安婦問題を取り上げる。 ―― 9月20日 日本を守る国民会議が、教科書からの「慰安婦」関連記述の削除を求めて、1ヵ月の全国縦断キャラバンを開始した。 ―― 12月2日 藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのり、坂本多加雄、高橋史郎ら9名の呼びかけで「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」が結成される。 ―― 平成9年(1997)1月31日 『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)で吉見義明教授が「植民地での奴隷狩り的強制連行と挺身隊が慰安婦にさせられた例は確認されていない」ことを認める。 ―― 1月310日 「つくる会」が文部省の小杉隆文大臣に教科書の慰安婦についての記述の削除を申し入れる。 ―― 2月27日 当時の安倍晋三議員の主導で「日本の前述と歴史教育を考える若手議員の会」が結成される。 ―― 3月9日 元内閣官房副長官の石原信雄氏が『産経新聞』のインタビューで、日本側のデータには強制連行を裏付けるものはなかったことなど『河野談話』発表に至る経緯を明かす。 元官房長官の河野洋平は、『産経新聞』のインタビューを断ったが、3月末の『朝日新聞』のインタビューには応じた。 3月10日 櫻井よしこ氏が『文藝春秋』4月号(文藝春秋 刊)の「密約外交の代償」と題する論文で、証拠に基づかずに、政治的判断・妥協で強制連行を認めた政府の外交を批判した。 ―― 3月12日 内閣官房内閣外政審議室の平林博室長は、参議院予算委員会で「政府の発見した資料の中には強制連行を直接示す記述は見当たらなかったが、総合的な調査の結果についての総合判断により、一定の強制性を認めた」旨の答弁をする。 ―― 3月31日 『朝日新聞』が吉田清治氏の証言に関し、「真偽は確認できない」と掲載した。元官房長官の河野洋平氏のインタビューも掲載した。 自分から火に油を注いでおいて、あまりにも無責任ではないだろうか。 4月 平成3年度用社会科教科書の検定に合格した7種すべてに慰安婦に関する記述があることが判明した。 ―― 5月 中学校教科書の慰安婦の記述削除を求める請願が各地の地方議会で相次ぐ ―― 6月17日 河野洋平氏が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」主催の講演で「強制連行をしたという資料はなかったことは事実。しかし資料がなかったからと言って(強制連行も)なかったと決められるかどうか」と発言した。 「真実は神のみぞ知る」。たしかに資料がなかったからといって、強制連行が無かったとは必ずしも言えない。しかし、人間は神ではない。資料や裏づけのある証言がすべてである。資料がないのに何でも分かるのならば、「どこに邪馬台国があったか」なんかでもめるはずが無い。 平成10年(1998)4月27日 元慰安婦3人と元挺身隊員7人の計10人の韓国人女性が日本政府に総額5億6千4百万円の損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟(通称、関釜裁判)で初の司法判断(河野談話が強制連行の証拠と認定されるが、最終的には慰安婦側の敗訴が確定) ―― 7月31日 農林水産省の中川昭一大臣が就任直後に「中学校の教科書に従軍慰安婦の記載があるのは疑問」と述べ、中韓からの反発。翌日撤回 ―― 8月 国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で、「マクドガル報告書」が採択された。 ―― 8月 韓国で「日本軍慰安婦歴史館」が開館した。 ―― 8月4日 『読売新聞』が「『慰安婦』問題をもてあそぶな」と題した社説で『朝日新聞』を暗に批判した。 ―― 8月11日 『読売新聞』が「国連の権威損なう『慰安婦』報告」と題し、慰安婦強制連行説を捏造した者とそれを追認した『河野談話』を厳しく批判した。 ―― 9月2日 秦郁彦教授が吉田清治氏に電話する。「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと進めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、85歳になっても今さら……このままにしておきましょう」との返事。 ―― 10月 『諸君!』11月号(文藝春秋 刊)において、秦郁彦教授が吉田清治氏本人が自著をフィクションであることを認めたと述べる。 ―― 11月 改訂版として出版された新村出 編『広辞苑』第五版(岩波書店 刊)に、初めて「従軍慰安婦」の語が収録される。 ―― 平成12年(2000)4月 『戦時性的強制被害者問題解決促進法案』を野党が参議院に提出した。 ―― 12月8日から12日 VAWW-NETジャパンを初め、日本とアジアの非政府組織(NGO)が東京にて女性国際戦犯法廷を開いた。 ―― 3月1日 『読売新聞』が社説で慰安婦問題は捏造であると指摘した。 ―― 5月8日 韓国政府が日本政府に対してつくる会の中学校の歴史教科書などの記述修正を要求した。 ―― 5月16日 中国政府が日本政府に対し、つくる会の歴史教科書の8項目について記述修正を要求する。 ―― 7月9日 文部科学省が韓国・中国政府の修正要求に対して、つくる会の歴史教科書に対する訂正は求めない方針を示す。 ―― 7月 VAWW-NETジャパンが「女性国際戦犯法廷」のNHKの番組編集に不満、提訴した。 ―― 平成14年(2002)1月 アメリカとイギリスで田中ユキ 著「Japan's Comfort Women」という英文の書が出版される。 田中ユキは正体不明である。 2月23日 韓国女性省が、慰安婦問題に関して教育に力を入れる方針を発表した。 ―― 2月24日 「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム(朝日新聞社 後援)で金貴玉教授が、朝鮮戦争時の韓国軍にも慰安婦制度があったと発表した。 ―― 3月218日 在日韓国人で唯一元慰安婦であると名乗り出た宋神道(80歳)が日本政府を相手取り、謝罪と賠償を求めていた訴訟で敗訴が確定する。 ―― 平成15年(2003)1月31日 民主党の岡崎トミ子議員らが「戦時性的強制被害者問題解決促進法案」を参議院に再度提出する。 ―― 2月12日 日本の国会議員が挺身隊集会に初参加と中央日報が報じる。参加したのは岡崎トミ子議員、当時の田嶋陽子議員など ―― 3月24日 「関釜裁判」の上告が棄却され、慰安婦側の敗訴が確定した。 ―― 9月2日 ソウル大学経済学部の李栄薫教授が、慰安婦を売春業になぞらえたような発言で、韓国で批判される。 ―― 11月27日 文部科学省の中山成彬大臣が歴史教科書について「やっと最近、従軍慰安婦とか強制連行といった言葉が減ってきて本当に良かった」と述べ、反発を招く。 ―― 12月 金完燮(キム=ワンソプ)氏が平成8年に19万部のベストセラーとなった「娼婦論」に慰安婦制度を肯定する最終章を加えた日本語版、金完燮 著『娼婦論』(日本文芸社 刊)を出版した。 「日本軍用女性性奴隷」という用語は、「日本の国家的イメージを失墜させようとする意図が見え隠れする」と指摘した。 平成17年(2005)1月12日 『朝日新聞』が「安倍、中川両氏がVAWW-NETジャパン主催の『女性国際戦犯法廷』NHKの番組改編に圧力」と報じる。 ―― 4月6日 中学歴史教科書では、「慰安婦」の記載は申請段階で帝国書院1社となる。 ―― 6月12日 中山成彬大臣が「従軍慰安婦という言葉は当時無かった」と発言し、韓国から反発を招く。 ―― 8月10日 第2次世界大戦終結60周年世界60都市同時集会・デモが、東京、ソウル、マニラ、サンフランシスコなどで開かれ、日本政府に対し、国連勧告に従い元「慰安婦」への賠償を訴える。「アムネスティ=インターナショナル」が、「水曜デモ」を機に、慰安婦とその支援者らに賛同することを発表する。 ―― 平成18年(2006)4月10日 アメリカの合衆国代議院(アメリカ下院)の対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会の調査局の報告書に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として、「吉田清治の証言」が明記されている事が判明した。 ―― 9月13日 アメリカ下院国際関係委員会が「慰安婦問題」で日本政府を非難する決議案を議決 ―― 10月5日 安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいく事を明言する。 ―― 10月25日 内閣官房の下村博文副長官が講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。 ―― 平成19年(2007)1月31日 アメリカにて、民主党のマイク=ホンダ議員ら6人の民主党の下院議員が共同署名で慰安婦問題に関する対日非難決議案を提出する。 ―― 2月15日 下院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙、金君子、ジャン=ラフ=オハーンの3人の元慰安婦が証言した。 ―― 2月19日 当時の外務省の麻生太郎大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案に対して不快感を表明した。 ―― 2月25日 『報道2001』(フジテレビ)でマイク=ホンダ議員は、強制連行があった根拠を「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」と主張した。 ―― 3月1日 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を表明した。安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。 ―― 3月5日 安倍晋三首相が、「(アメリカ下院)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪する事は無い」と答弁した。 ―― 3月11日 当時の麻生太郎大臣が対日非難決議案について「日米(関係)を離間させる有効な手段だ」と発言した。 ―― 3月16日 日本政府は「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書を出す。 ―― 3月23日 元首相で元海軍将校だった中曽根康弘氏がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及する。 ―― 3月24日 『ワシントン=ポスト』が「安倍晋三の2枚舌(Shinzo Abe's Double Talk)」と題する社説を掲載した。 ―― 3月28日 アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い 過去に対する世界的展望」に、日本軍が当時、最大30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明した ―― 3月31日 元従軍慰安婦への償い事業を12年間行ってきた「アジア女性基金」が解散する。国民の浄財5億円が集められ、15年間で40億円の事務費は税金から支払われた。 ―― 3月31日 『ニューヨーク=タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見義明のインタビューを掲載した。 ―― 4月3日 アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する、議員の審議用資料の報告書を作成した。 ―― 4月17日 関東学院大学の林博史教授が外国特派員協会における記者会見にて、「従軍慰安婦」問題に関する新資料7点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が強制連行し、性行為を強要したことを示していることを指摘した。 ―― 4月26日 『ワシントン=ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国人団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載した。「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは1度も無い」と非難し、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。 ―― 4月27日 総理として初訪米した安倍晋三首相はブッシュ大統領との会談と連邦議会における上下両院幹部との階段で、元慰安婦らに対する同情とお詫びを表明。幹部との会談では自ら「せっかくの機会なので一言、念のために申し上げたい。私の真意や発言が正しく伝わっていない。」と発言。これを受けて日系のダニエル・イノウエ上院議員は「残念なのは慰安婦問題をめぐる米国内の動きだ。これまで7人の首相が謝罪しているのにもかかわらず、こういうことが今後も続くのかと思うと、疑問を感じる」と発言した。 ―― 6月14日 作曲家のすぎやまこういち氏らが従軍慰安婦に関する意見広告を『ワシントン・ポスト』に掲載した。 ―― 6月26日 アメリカ下院の「慰安婦決議案」が外交委員会で可決された。 ―― 7月31 アメリカ下院の「慰安婦決議案」が本会議で可決された。 この日の決議は、手続きを簡略化し、下院(定数435)の定足数(218)未満でも審議できる「議事規則の適用停止」が適用された。実際に出席した議員は10人で、発声による投票で異議は出されず、議長が可決と認定した。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/750.html
日本近代史(にほんきんだいし) 明治時代 Template see? 大正時代 Template main? 1914年には第一次世界大戦が勃発した。日本は直接的戦闘地域は殆どなかったにもかかわらず元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦し戦勝国の一員となった。実質的損害はなく、戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と当時まだまだ新興国家だった米国は貿易を加速させ、空前の好景気となり日本では成金などが出現するなど大きく経済を発展させた。 しかし1917年にはロシア革命が起こり、ソ連が成立した。日本は革命政権の転覆のためシベリアに出兵したが、折から国内では米価が暴騰し、富山県から米騒動が起こり、全国に広がった。政府はようやくそれを鎮圧したが、シベリア出兵を推進した寺内正毅首相は退陣し、代わって初めて爵位がなく、また衆議院に議席を持つ平民宰相として政友会の原敬が首相となった。政友会でも、西園寺公望が薩摩藩閥と結び付きが強かったのに対し、原敬は長州藩閥と結び付きが強かった。原敬の祖先は南部盛岡藩の藩士であったが、1922年、東京駅頭で一青年に暗殺された。 この当時、社会問題の深刻化が見られ、社会保障をめぐる議論も盛んとなり、米騒動後には、政府・地方で社会局の創設が相次いだ。 1923年(大正12年)には関東大震災が生じた。この未曾有の大災害に東京は大きな損害を受けるが、震災後、山本権兵衛内閣が成立し、その内務相となった後藤新平が辣腕を振るった。震災での壊滅を機会に江戸時代以来の東京の街を大幅に改良し、道路拡張や区画整理などを行いインフラが整備され、大変革を遂げた。またラジオ放送が始まるなど近代都市へと復興を遂げた。しかし、一部に計画されたパリやロンドンを参考にした環状道路や放射状道路等の理想的な近代都市への建設は行われず、日本は戦後の自動車社会になってそれを思い知らされることとなり、戦後の首都高速の建設につながる。一方、この震災に乗じて、暴動が生じるというデマが振り撒かれ、朝鮮人や共産主義者の虐殺が行われた亀戸事件などが起こったことは、歴史の負の側面であろう。 大正期を特色付けるのは、大正デモクラシーと称される政治の新しい動向である。明治末期にかけては軍部や元老山県有朋の下で藩閥政治が続いていたが、大正初期にかけては山県系列の桂太郎と比較的リベラルな西園寺公望が交代で組閣し、桂園時代とも呼ばれていた。明治45年、第2次西園寺内閣の陸軍大臣上原勇作が、内閣が2個師団増設を否決したことに抗議して単独辞任し、陸軍は後任陸相を出さなかったため軍部大臣現役武官制によって陸相を欠いた西園寺内閣は総辞職した。その後、桂太郎が議会での交代のルールを無視して宮中侍従長から3度目の首相に返り咲こうとした。桂太郎は、パーティなどでニコニコしながら相手の肩をポンと叩いて情誼を通じることが癖で、「ニコポン首相」と呼ばれていた。この桂の返り咲きに対して、都市部の知識階級を中心にその反発は強まった。そして尾崎行雄・犬養毅らによる憲政擁護運動(護憲運動)が起こり、新聞の批判も起こった外、民衆が国会を取り囲む事態も生じ、大正デモクラシーへと発展していった(第一次大正政変)。このため山本権兵衛(第1次)に組閣の命が下った。山本内閣は軍部大臣現役武官制を緩和するなど、事実上政友会に近い姿勢を示したが、シーメンス事件で退陣し、次いで庶民的で大衆に人気のあった大隈重信が組閣した。その後、関東大震災や虎ノ門事件の発生は、それまでの藩閥に危機意識を抱かせ、第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れた後、枢密院議長から天下って清浦奎吾が内閣を組織しようとした。それに対し憲政会・革新倶楽部・政友会の三派は、普選の採用、政党内閣制の樹立を掲げて、藩閥・官僚勢力を主体とした政友本党に対抗した。護憲三派は選挙で勝利し、護憲三派内閣として加藤高明内閣が成立した(第二次大正政変)。加藤内閣は、1925年(大正14年)、身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙法を成立させた。普選は、婦人の参政権は認めず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約があった。またそれは「革命」の安全弁としての役割も期待されていたが、それと同時に治安維持法を成立させ、「国体の変革」「私有財産否定」の活動を厳重に取り締まった。しかしこれによって政党政治が定着するようになった。この後、1932年(昭和7年)に犬養毅内閣が五・一五事件で倒れるまで、政党政治が続き、明治以来の藩閥政治は一応終焉し、政治は、官僚や軍部を基盤にしつつも政党を中心に動いていくこととなった。 このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成された。今日に続く文章日本語のスタイルが完成し、芥川龍之介、有島武郎・武者小路実篤・志賀直哉ら白樺派、中里介山の『大菩薩峠』や『文藝春秋』の経営にも当った菊池寛などの文芸作品が登場した。同時期の大正10年には、小牧近江らによって雑誌『種蒔く人』が創刊され、昭和初期にかけてプロレタリア文学運動に発展した。また大正13年には、演劇で小山内薫が築地小劇場を創立し、新劇を確立させた。新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などのエンターテイメントも徐々に充実した。 昭和時代 Template main? 急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものまでを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。 昭和初期 第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。更に1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げ付きが累積し、それをきっかけとする銀行への取り付け騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻礼次郎内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。 一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利害を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満州の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であったため国内の野党から「満州某重大事件」として追及された。田中は昭和天皇に事件の調査を約束しながら、陸軍の突き上げによって事態を曖昧にしようとしたため、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前を下から読んで、一つもよしことなかったと揶揄された。 田中内閣はもともと前の大正政変で生まれた護憲三派内閣、特に幣原外交の中国内政不干渉政策を「軟弱外交」として批判して登場した。従って田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただこの不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することをうたっており、天皇制をないがしろにするものとする批判が国内に生じたため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至って批准された。また田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、同年に3・15事件、翌年に4・16事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙を行なった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。 一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。 そんな中1929年10月24日、ニューヨークのウォール街で株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた浜口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で多額の賠償金を負っていたドイツや、目ぼしい植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満州は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因となった。 各国が世界大戦後の財政負担に耐えかねている状況で米国や英国が中心となりワシントン軍縮条約が提案された。日本は英国・米国・フランス・イタリアと共に五大軍事大国としてこれに調印し、いわゆる列強になった。しかもワシントン条約の戦艦保有率を米英の5に対して日本が3を保持したことは、世界3位の国になったことになる。この軍縮条約では、日本の中国進出を牽制する内容や日英同盟破棄も含まれていたため、軍部や官僚の中でも激しい意見対立があった。 1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件が引き起こされ、政府の戦争不拡大の方針を軍が無視する形で満州事変に発展し、ポツダム宣言受諾による降伏まで15年もの間繰り広げる十五年戦争に突き進んだ。このことで中国での権益、南方資源地帯の利権を巡り、欧米諸国との対立は深まっていった。また1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件事件が起こり、軍部の暴走が目立ち、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。日本の満州建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいった。 1936年には、盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争(日華事変)が始った。ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国軍事同盟(三国同盟)を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。 国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になって行った。 太平洋戦争 Template main? 日中戦争開始後、1937年、資源局と企画庁が統合されて企画院が設置され、満州国で功績を挙げた岸信介らの「革新官僚」が登用された。また近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争及び太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチス・ドイツの組織原則を真似たものであると言われる。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿、東条英機、小磯国昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局及び23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省及び警察主導の行政補助機関となって行った。 三国同盟の締結や仏印進駐によってアメリカ合衆国・イギリス・オランダとの関係が悪化し、戦争中の中華民国を含めて日本ではABCD包囲網と呼ぶ物資の入手困難な状況に陥った。大日本帝国では、大日本帝国陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘を行った際、ソビエト連邦軍の戦車部隊に大敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチス・ドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相と中華民国の蒋介石がアメリカ合衆国の参戦を要望し、フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が大日本帝国海軍の艦隊行動に激怒したことからコーデル・ハル国務長官より日本のすべての植民地を返還する事などを要求する交渉案を提示され(通称ハル・ノート)、これを事実上の最後通牒と解釈した日本は対英米蘭開戦を決定した。このようにして太平洋戦争(当時の大日本帝国は戦争中一連の戦争を聖戦であるとみなし大東亜戦争と呼称した)が始まり、大日本帝国も第二次世界大戦に参戦することとなった。 1941年12月8日(現地時間12月7日)、大日本帝国海軍は、真珠湾攻撃で対米戦争を開始した。(開戦そのものについて、アメリカ側はルーズベルト大統領もハル国務長官もアメリカ大使館あてのパープル暗号電報を解読し内容は既に知られていた。外務省アメリカ大使館書記官の翻訳遅れで数時間宣戦布告の通告が遅れたので騙し討ちではないとの主張もある。開戦のリメンバー・パールハーバーのスローガンのもと反日感情が一気に高まった)しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六は一年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。大日本帝国海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦の艦載機を主力とする航空機を巧みに使用した新しい戦法を用いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって活動中の戦艦を沈めるなど、アメリカ軍、イギリス軍、オランダ軍相手に連戦連勝であり、大日本帝国臣民はこの最初の大勝利に酔いしれた。 1942年、東条内閣は初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。更に町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視にさらされることとなった。 当時大日本帝国は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として大日本帝国に賛成する動きも多かったが、大日本帝国の強硬な占領政策に大日本帝国への反発は大きくなっていった。大日本帝国はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは、事後の「理屈付け」発想であり、実態は全く無かったとの批判があった。 そして、これまで劣勢だった米国はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返し、次第に戦況は傾いていった。ミッドウェイ海戦では最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北した。しかしこの時から国民には偽りの戦況が伝えられ、大日本帝国臣民は大日本帝国海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころすでに、数百万の大軍を広大な大陸に無戦略に送り込み、最後には敵勢力を把握しない稚拙極まる戦いを続けていた中国大陸での消耗も激しかった。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで大日本帝国への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともにアメリカ合衆国の数10分の1でしかない大日本帝国の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年7月にはサイパン島が陥落し、このことで大日本帝国本土は連日のように空襲に晒され、1945年3月10日には、大量無差別に民間人8万人以上殺され、焼失家屋は約27万8千戸、東京の3分の1以上の面積(40平方Km)が焼失するという東京大空襲が行なわれた。大日本帝国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。それに対して、各種和平工作が企図されるが、国際社会との窓口を自らすべて放棄した大日本帝国にはこの時点ではすでに降伏する以外の選択肢はなかった。翌1945年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、大日本帝国政府は直ちには正式回答せず、アメリカ軍によって世界ではじめての原子爆弾実戦使用として広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下され無差別に数十万人の民間人が殺されまたそれ以外の多数の民間人が被爆者にされた。そして御前会議の場において、昭和天皇の英断という形を取ることで政府は降伏を決定し(8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。 大日本帝国は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を行ったが、ヤルタ会談での連合国の申し合わせに従って大日本帝国政府にソ連対日宣戦布告を通告し、満州国に進撃した。関東軍は総崩れとなり、こぞって大日本帝国へ逃亡しようとした。今日にも波紋を引く中国残留孤児問題はこの時に生じた。これにより大日本帝国の無条件降伏は決定的となった。降伏の意思は翌8月15日正午、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送(玉音放送と呼ばれる)により大日本帝国臣民に伝えられた。 降伏文書の調印は9月2日に東京湾上の連合国、アメリカ合衆国海軍戦艦ミズーリ号艦上にて行われた。 連合国軍占領期 Template main? 敗戦後、日本はそれまで領土としていた、台湾・朝鮮・南樺太・南洋群島・千島列島・歯舞群島・色丹島を失った。このうち、千島列島および歯舞群島・色丹島については、各種の議論があり、1875年の樺太・千島交換条約で平和的に獲得されて日本の領土となったため、日本は千島列島全島の領土権を主張できるとの考え方もあるが、日本政府は、千島列島のうち、国後島と択捉島についてのみ日本固有の領土であると主張し、歯舞・色丹の2島は北海道に属すると説明している。また、ごく一部に南樺太の領有権を主張する動きもある。 1945年から1952年までの7年間にわたって、有史以来初めて外国(連合国軍最高司令官総司令部、多くの職員の国籍はアメリカ合衆国)に占領され、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇稔彦内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇内閣は戦時中の政治の継続を行っただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の3大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また旧治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放及び被選挙権の停止措置が採られた。首相の座が目前の位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことを理由に、政治的活動が制約された。また1946年には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された。 連合国 (Allies) の日本占領は、事実上のアメリカ合衆国の単独占領であったが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの占領下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。 日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆使用の提案など強硬な主張を行ったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったとされるが、「占領」下のこととて当然とはいえ、全ての法令、文書は占領軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。検閲は戦前のような伏せ字による出版ではなく、書き直しが命じられた。1946年に日本国憲法が公布され、1951年の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま駐留軍と称して残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。 占領下の制定とはいえ、日本国憲法は主権は国民に存するとした国民主権(主権在民)や、基本的人権の尊重を明記した常識的な憲法であり、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を加えた3大原則でなりたっている。日米安保条約や自衛隊が日本国憲法の平和主義に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。またこの憲法によって女性の選挙権が初めて認められた。 15年戦争と敗戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷のきわみにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは日本占領当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年には早くも現れ始めていた。その上、1949年に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を行ったところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行った。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行われ、小中高及び大学の共産主義的教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹きすさんだマッカーシー旋風(赤狩り)と軌を一にしていた。 文化面においては、日本映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やポピュラー音楽も急速に流入した(当時は一般にポピュラー音楽はみな「ジャズ」と呼ばれた)。一方、国語の問題についても昭和21年の現代かなづかい・当用漢字の制定や、新聞の検閲などが行われた。 講和後 - 昭和後期 自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、朝鮮戦争、ベトナム戦争の軍需の有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要により、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに1960年から1970年代初めまで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、大阪万国博覧会の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。 この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアは勿論、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、アメリカに朝鮮戦争の戦費を終戦処理費の名目で負担させられたり、米軍駐留に膨大な資金負担を要求されてきたことは見過ごされがちである。沖縄返還の時も日本政府はアメリカに対し多額の資金を提供した。日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄ではこうした問題がしばしば起こった。また核持込をめぐっても不明確なままに推移しており、日本の非核三原則についてもしばしば問題となるようになった。また、米軍駐留に対する日本の資金負担は、思いやり予算という形で現在も行われている。 急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口の中で勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、彼らは金の卵と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職した彼らの豊富な労働力が日本経済を支えた。 一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、高等教育の大衆化がすすんだ。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にした彼らはそれを見習い、既存社会や日本共産党と日本社会党等の「旧左翼」への反発から、新左翼が学生運動をリードするようになり、大学紛争が激しくなった。大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、彼らの多くは屈服を強いられ、一部セクトは「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。当初市民の間には、社会への不満から学園闘争へ共感を持つ者も少なくなかったが、その後彼らの起こすテロ活動や内ゲバが顕在化するにつれ、市民の支持を失っていった。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし1970年代は、公害の激化や社会問題の深刻となる中で、消費者や地域住民という立場からなされる新しい市民運動が盛り上がった時期でもある。社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。京都ではほとんど共産党単独支持の蜷川虎三が多選を果たした。しかし後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。 戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。 一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触するおそれが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行われたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。 大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1980年代半ば、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。しかし1970年ころには、日本人の貧しさはかなり解消され、高度経済成長は一段落した。オイルショックを境に、高度成長時代は終わり、低成長時代へと変化した。しかし輸出依存の体質による円高と貿易黒字が問題視されるようになり、プラザ合意をへて内需拡大政策のもとでバブル景気を引き起こしてしまう。そのような転換の中で平成を迎える。 平成時代 Template main? 1991年にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国のすべてが独立し、解体された。その後、新たな世界構造を模索する状態が続き、日本は、国際連合に協力して海外で国際連合平和維持活動部隊を展開するようになったり、米国主導の湾岸戦争に資金援助をしたりするようになった。冷戦期を通じて整備されていった自衛隊は、ついには驚異的な経済力と円高に比例して金額ベースでは世界屈指になったにも関わらず、行政が合憲と解釈し、裁判所も憲法判断を避けるという、明治憲法下の統帥権の解釈にも似ているとされるものが続いていたが、21世紀をむかえるころになって、湾岸戦争、国連平和維持活動、イラク戦争などで自衛隊の海外活動が活発化し、自民党の悲願であった憲法改正の議論が前よりは高まってきたといわれている。 世界屈指の豊かな国となった日本は、表面的な生活と文化は欧米的に進歩し、自由と平等を謳歌し、これらの基盤の上に現代日本独自の文化が生まれるようにもなった。しかし1980年代後半からの異常な好景気が平成の幕開けとともに崩壊し、その後10年の間に経営の建て直しができなかった数多くの企業が倒産、もしくは欧米系企業を含む大手企業に買収された。企業の国際化によって人的な国際流動が活発になり、また南米出身の日系人を中心に、低賃金で働く発展途上国出身者を肉体労働者として雇うなど、社会の国際化がいっそう進んだ。価値観の多様化、個人主義という流れの中、戦後に確立した日本の社会価値観は変化した。家族の多様化に伴う共通価値観の変化、少年による凶悪犯罪、不況に伴う失業者の増加が問題視され、就職難で増加したフリーターやニートがバッシングを受けるなど、多様化した社会への不安が強まっている。 そうした中で、経済の行き詰まりとも見られる現象も見られ、マイナス成長すら記録されるようになった。そのため「構造不況」の克服、「構造改革」の必要が各方面から叫ばれるようになった。とくに東海地方では、過疎化や産業空洞化が進展し、大都市との格差が広がった。2005年頃から企業業績が改善し、景気の回復が言われるようになった。しかし企業の人件費抑制などにより、国民の生活が豊かになっているという実感はごく一部に限られ、改革によって景気が良くなると言う展望も見えないまま、増税が相次いで打ち出されようとしている。 一方、アジアでは中華人民共和国や大韓民国、マレーシア、ベトナムなどの経済発展が目立ち、そのように大きく変化しつつあるアジアにおける日本の位置についても考え直す必要も指摘されている。少なくとも今日、日本のみがアジアで唯一経済的に繁栄することに成功した国ではなくなっている。それどころかこのままでは、近い将来、日本の成功ならぬ「日本の失敗」について語らなくてはならなくなるかもしれない。中華人民共和国の「四つの近代化」、マレーシアなどアセアン (ASEAN) 諸国の共同体形成と近代化、ベトナムのドイモイなども現代の経済発展システムとして発展途上国では、より自らに近似的な経験として、日本の経験以上に注目されるようになっている。その意味では日本についても内側から見るだけではなく、外側から見る視点も必要となっていると言えるし、アジアについてより多元的な視点から考えることも必要となろう。 関連項目 日本近代建築史 東京時代 日本における検閲 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月3日 (木) 05 54。