約 4,001 件
https://w.atwiki.jp/savagetide5th/pages/442.html
Theologian 君は宗教について格別深い造詣を持ち、下記の利益を得る: 君の【知力】の値は、最大20までの範囲で1上昇する。 君は〈宗教〉技能への習熟を獲得する。もし君がすでにこの技能に習熟しているなら、君がそれを使って行なう判定に習熟ボーナスの2倍を加算する。 君はソーマタージーとディテクト・イーヴル・アンド・グッド呪文を修得する。君はディテクト・イーヴル・アンド・グッドを1回だけ呪文スロットを消費することなく発動することができ、大休憩をとり終えたときにそれを実行する能力を回復する。 Unearthed Arcana「技能用の特技」(2017/4/17)に戻る
https://w.atwiki.jp/imonoshi/
ローマの某修道会系教皇庁立大学神学部のメモ 検索
https://w.atwiki.jp/isgmhsk/pages/18.html
登場人物 以志神学園 鳳崎学園
https://w.atwiki.jp/imonoshi/pages/11.html
書き手 萩原。 日本でそれなりに大学院を修了した後、ローマの専門機関でそれなりに資格取得。 その後、ローマのとある神学部にとある必要から登録。 まっこうくさいのは苦手だが仕方がない。 ならばせっかくだからレポートするかと、まあそんな感じ。
https://w.atwiki.jp/imonoshi/pages/42.html
典礼学序論 1 典礼という語とその歴史的変遷1 異教における“典礼”の語 2 聖書における“典礼”という語 3 “典礼”という語の発展の最終局面 2 典礼グループ 3 ローマ典礼の本1 最初期からトレント公会議へ 2 トレント公会議の典礼本 3 第二ヴァティカン公会議の典礼本 4 キリスト教崇敬の性質1 崇敬について 2 旧約における崇敬 3 新約における崇敬 4 教会の崇敬 5 第二ヴァティカン公会議以前の典礼の定義1 典礼の“美的”定義 2 典礼の“法的”定義 3 典礼の“神学的”定義 6 Sacrocantum Concilium の定める典礼1 救済史の経済における典礼 2 典礼 復活 pascha の神秘の現実化 7 祝儀1 祀る 2 祝儀の定義 3 祝儀の語彙 4 祝儀の要素 1 典礼という語とその歴史的変遷 1 異教における“典礼”の語 2 聖書における“典礼”という語 3 “典礼”という語の発展の最終局面 2 典礼グループ 3 ローマ典礼の本 1 最初期からトレント公会議へ 1.1 最初期 1.2 創始期 1.3 単一の典礼本 Sacramentarium Lectionarium Antiphonarium Ordines 1.4 混合典礼本 Pontificalis Messalis Ritualis Breviarium 2 トレント公会議の典礼本 3 第二ヴァティカン公会議の典礼本 3.1 Messalis 3.2 Letionarium 3.3 時課 3.4 Pontificalis 3.5 Ritualis 4 キリスト教崇敬の性質 1 崇敬について 2 旧約における崇敬 3 新約における崇敬 4 教会の崇敬 5 第二ヴァティカン公会議以前の典礼の定義 1 典礼の“美的”定義 2 典礼の“法的”定義 3 典礼の“神学的”定義 3.1 Dom Lamberto Beauduin (1873-1960) 3.2 Odo Casel (1886-1968) 3.3 回勅 "Mediator Dei" (1947) 6 Sacrocantum Concilium の定める典礼 1 救済史の経済における典礼 1.1 預言の時-準備-告知 1.2 現実-充溢-完遂の時 1.3 連続/現実化の時(秘跡性) 1.4 典礼 救済史の終局 2 典礼 復活 pascha の神秘の現実化 2.1 復活 救済史の中心 旧約における歴史的 pascha 新約における歴史的 pascha 2.2 pascha 典礼の中心 ユダヤ儀礼の pascha キリスト教典礼の pascha 7 祝儀 1 祀る 1.1 人間論的観点 1.2 神学的観点 2 祝儀の定義 2.1 神秘としての祝儀 2.2 儀式としての祝儀 2.3 vita としての祝儀 3 祝儀の語彙 3.1 人の語の象徴性 3.2 象徴的語彙としての身体 3.3 しるし-象徴の意味 しるし 象徴 しるし-象徴 3.4 儀式 4 祝儀の要素 4.1 集会-祝儀の主体たる教会 集会 集会 教会のしるし 集会 祝儀の主体 集会の特徴 集会における神秘 集会の祝儀への参加 4.2 祝儀の場 教会-集会の家 建物の多様性 建物の祝儀スペース 4.3 祝儀における神の言葉 言葉の典礼の構造 第一学年>典礼学序論へ
https://w.atwiki.jp/doide/pages/41.html
人口の増大である。これに伴って分業が――本源的には性的行為における分業にすぎなかったのだが――発展していきやがて自然的な素質(例えば体力)、欲求、偶然等によって、ひとりでに〈それゆえ〉あるいは「自然発生的」に生じる分業が行なわれるようになる。分業は、物質的労働と精神的労働との分割が現われた瞬間から、初めて現実に分割となる。この瞬間から、意識は、現存する〈事物〉実践の意識とは別の何かであるかのように、何らかの現実的なものを表象しないでも現実的に何かしらを表象しているかのように思い込むことが現実にできるようになり、――この瞬間から、意識は、自己を世界から解き放って「純粋な」理論、神学、哲学、道徳、等の〈純粋な〉形成へと移ることができるようになっている。しかし、これらの理論、神学、哲学、道徳、等が現存の諸関係との矛盾に陥る場合でさえ、そのようなことが起こりうるのは、もっぱら現存の社会的諸関係が現存の生産力との矛盾に陥っていることによってである。(59-60頁)
https://w.atwiki.jp/imonoshi/pages/70.html
時課 第一章 聖書における祈り1 イスラエル 祈りを知る民 第二章 教会の祈り(二-十四世紀)1 使徒的共同体 2 三世紀の教会におけるキリスト教の祈りの内容 3 聖務日課の初期の構造 4 聖務日課の衰退 5 時課の構造 6 時課の神学 第一章 聖書における祈り 1 イスラエル 祈りを知る民 1.1 祈りの内容と文学形式 1.2 祈りの環境設定 1.3 イエスの祈り 1.4 原始教会における祈り 祈りの場所と時 原始教会の祈りの内容 第二章 教会の祈り(二-十四世紀) 1 使徒的共同体 2 三世紀の教会におけるキリスト教の祈りの内容 2.1 常に祈ること 2.2 時へのキリスト教的意味の付与 3 聖務日課の初期の構造 3.1 司教座における聖務日課 3.2 僧院の聖務日課 3.3 僧院のそれと一体となる民の聖務日課 4 聖務日課の衰退 4.1 私的祝儀への移行 4.2 十六世紀から第二ヴァティカン公会議までの諸改革 クイニョネスの聖務日課書 聖ピウス五世の聖務日課書 聖ピウス十世の聖務日課書 第二ヴァティカン公会議の時課 5 時課の構造 5.1 時課への招き 5.2 讃歌と晩課:日々の祈りの要 朝の讃歌 晩課と夕の祈り 5.3 講読 5.4 三時課、六時課、九時課 5.5 終課 6 時課の神学 6.1 名称 Breviarium Opus Dei Officium divinum Sacrificium lodae ore canoniche 時課 6.2 時課 救済の神秘の教会的讃美 時課 救済の神秘の祝儀 時課とエウカリスティア 時課と典礼年 人生と共に豊かになる祈り 6.3 霊性的視野における時課 定型表現と祈り Opus Dei と個人の祈り 個人と共同体 観想的祈り 第二学年>時課と典礼年へ
https://w.atwiki.jp/imonoshi/pages/73.html
終末論/対神徳 終末論序 1. 歴史的-文化的文脈 2. キリスト教の終末論思想の発展 3. 聖書的終末論 4. 組織終末論 対神徳1. 信仰経験 6. 共同体存在としての人間.愛の人間論 終末論 序 1. 歴史的-文化的文脈 1.1. 今日のキリスト教終末論の哲学的文脈 近代における歴史考察 未来への展望の進展 1.2. 現代の文化的文脈 1.3. 諸宗教の文脈 現象学的見方 偉大なる宗教たち 2. キリスト教の終末論思想の発展 2.1. 原始教会における終末論思想の発展 初期神学における肉の復活 来世思想の発展:個人レベルと共同体レベル 2.2. 中世の終末論:フィオレのヨアキム 2.3. 中世終末論の終焉:ルター 2.4. 現代の議論 結果としての終末論 弁証法的読解の鍵 現実化された終末論 全体的発展の鍵としての終末論:Theilard de Chardin 倫理学の鍵としての終末論 3. 聖書的終末論 3.1. 旧約の終末論 旧約終末論の流れ 個人:報いの問題 3.2. 新約の終末論 イエスと終末論 復活後の共同体の終末論 パウロの伝統 ヨハネの伝統 黙示録の書 4. 組織終末論 4.1. 死の終末論 キリスト教の死の見方をめぐる問題 死と怖れ 死と罪 最期の決断の仮説 死の神学的意味 4.2. 中間の状態:煉獄と転生 中間の状態の問題 煉獄 転生をめぐる疑問 4.3. 審判、断罪、最終的救済 審判 永遠の断罪 天 4.4. 歴史の終焉としての来臨 対神徳 1. 信仰経験 1.1. 宗教的態度としての信仰 1.2. 生の経験としての信仰、知としての信仰 1.3. 深くパラドクシカルな経験としての信仰 1.4. 複数経験としての信仰 1.5. 有益な経験としての信仰:信仰の有益性 1.6. 認知科学の信仰へのアクセス 6. 共同体存在としての人間.愛の人間論 6.1. 共同体と愛の考察 6.2. 人間論の問題としての人類愛 6.3. キリスト教の愛概念の複数性と議論 6.4. キリスト教における愛徳の特権的地位 6.5. キリスト教の愛の思想の基本ライン 第三学年>終末論/対神徳へ
https://w.atwiki.jp/fushiginakirisutokyo/pages/22.html
当ページでは、橋爪大三郎と大澤真幸による『ふしぎなキリスト教}』(講談社現代新書)に記述されている、単純な事実に関する膨大な量の間違い・誤りを扱う。間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」が容量オーバーになったため、神学篇を分割して作成。 2012年7月18日現在、130個以上の誤りが挙げられているが、まだ未完成。なおこの誤りの数は明らかな誤りのみをカウントしたものであり、疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」に挙げられている項目数は含まれていない。まだまだ対応出来て居ない間違いがあるため、今後さらにページを分割することも有り得る。 ※ 当ページ編集者は、「少しくらい間違っててもいいじゃないか」という価値観・感想には拠らない。 間違いの量が桁違いに多い(当ページにまとめている通り)。「少しくらい」のレベルを遥かに超えて居る。 理系ではそんな事は許されないが、文系でも同じ。真面目な文系研究者に失礼。 関連する研究をしている人々の努力と業績を一切無視して講釈するのは、学者も、金を払っている一般読者も愚弄している。 p254 大澤「「西洋」を理解するというぼくらの目標」と言ってながら、実際には西洋で一般的な解釈を説明する内容ではなく「橋爪独自解釈」がだらだらと書かれているというのでは、宣伝文句に偽りがある。 ※ 本ページにおける「参考文献」は、学術論文に使用出来るレベルのものとは限らない。一般向けにアクセスし易い便によって選定されることもある。 間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」 歴史篇(上記ページが容量オーバーになったため分割されたもの、以下同様) 聖書篇(総合・旧約) 聖書篇(新約その1) ・ (新約その2) 他宗教篇(仏教・神道・イスラーム)(間違いだらけの惨状は他宗教の記述でも同様。これで比較が可能なのでしょうか?) 疑問符が山ほどつく「ふしぎなキリスト教」 「ふしぎなキリスト教」以外の良い入門書(あるんです!)紹介 (誠実な著者による良書からこそ学びましょう^^) 神学 頁数 誤りのある記述の引用 正しくは 参考文献 p16 「ユダヤ教の神は、ヤハウェ。その同じ神が、イエス・キリストに語りかけている。イエス・キリストは神の子だけれど、その父なる神は、ヤハウェなんです。」 まず根本的な問題として、イエス・キリストは「真の神・真の人」として神性人性の両方が認められて信仰されている、ということを橋爪氏は本書において一切述べない。橋爪氏がどのようにイエス・キリストを考えようと自由だが、「キリスト教について理解を深める」ことを目的とするのであれば、「キリスト教においてどう信じられているか」を述べるべき。イエス・キリストは「真の神・真の人」なのだから、「神がイエス・キリストに話しかける」というのは不十分な表現であり(「他の位格が第二位格たるキリストに話しかける」というのなら解るが)、「神でもあるイエス・キリストが語る」も触れなければ、キリスト論につき半分も語っていないことになる。なお以下はハードルが高い問題ではあるが、キリスト教において「ヤハウェ=第一位格たる父なる神」という見解ばかりでは無い。正教会においてはビザンティン・イコンにおいて、イエス・キリスト(イイスス・ハリストス)の周囲にギリシャ語に転写された"YHWH"が書かれることがあり、イエス・キリストが世々の前から「あった」ロゴス(ことば・神言・かみことば)であったことを西方よりも強調する東方神学の傾向を反映している。橋爪氏の本を読むことは、「キリスト教を理解出来る」どころか、キリスト教美術に触れた時にさらに混乱の種になるだけだということが示されている。 The Doctrine of the Orthodox Church The Basic Doctrines p23 「自分はGodにつくられた価値のない存在です、としおらしくしているのが正しい。これが、Godと人間の関係の、基本の基本です。」 橋爪氏の解釈によれば、「神が造ったものには価値が無い」と信じることが「正しい」ことで「基本の基本」らしい。もちろんそんな理解は正教会、カトリック、プロテスタント全て含めて、キリスト教には無い。(教派によって小さくない解釈の違いはあるが、それこそ基本的には)「神の似姿として創られた人間」がキリスト教の人間観の基礎を成す。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan3課 キリスト教の人間観(市川大野キリスト教会;日本バプテスト連盟) p47p48 大澤「『創世記』には原罪の起源のようなものはないんですか?」橋爪「ないんです。」大澤「禁断の木の実を食べたという話は『創世記』に入っていますよね。これはじゃあ、必ずしも原罪の観念とは関係がない?」橋爪「関係ない、です。」橋爪「人間そのものが間違った存在であることを、原罪という。」 47頁のやりとりは文脈が曖昧であるため、ここで両者がユダヤ教について語っているのかキリスト教について語っているのか、不明であるが、仮にキリスト教についてこのように語っているのであれば、非常に問題であると言えよう。と言うのも、カトリック教会は原罪を「人祖(アダムのこと)の罪。人の世に苦しみ、情欲の乱れ、不毛な生、そして死が入ったもの」とし、プロテスタントでは「人間の始祖(アダム)の犯した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説」などと説明されるからである。このように、西方神学で最も一般的な理解では、原罪とは「アダムとイヴから受け継がれた罪」であり、創世記が「原罪の観念と関係が」あることは明らかである。他方、正教会はアウグスティヌス以降の全的堕落説を否定しており「原罪」という語彙の使用そのものに慎重もしくは否定的であるが、正教会においても「人間そのものが間違った存在」などとは言わない(むしろこうした全的堕落の考え方を否定する)。いずれの教派でも「人間そのものが間違った存在」などと言わないし、原罪についてこのような定義をすることもない。橋爪氏がどのような珍奇な原罪理解を持とうと、それを講釈しようと自由であるが、それを「欧米理解に不可欠なキリスト教理解」と銘打つのは、看板に偽りありであろう。 『カトリック教会の教え』p53 カトリック中央協議会 (2003/6/25)『キリスト教大事典 改訂新版』 p390 - p391 教文館(第4版)Justo L. Gonzalez (原著), 鈴木 浩 (翻訳) 『キリスト教神学基本用語集』p87 - p88 2010年10月20日 ISBN 9784764240353 教え-罪と救い:日本正教会 The Orthodox Church in Japan p116 「これはね、人間と神の共同作業になるんです。(中略)共同作業だから、神と人間のあいだに対等なコミュニケーションがあるとも言える。神は圧倒的に偉大で、人間はとても弱いのだけれども、共同作業をしているからには対等でもある」 橋爪氏が自分で言っていることと矛盾する。人間は神に対して発言権がない(p184, p185)、と言いながら、対等なコミュニケーションがあるとする。論理が破綻している。そもそも、神と人間は「対等」ではない。そしてまた、神と人との「共同作業」を認めるなら、カルヴァン的予定説と矛盾する。そこでまた、橋爪氏の論理は破綻する。 論理の破綻 p145p147p148 橋爪「奇蹟にも、ありえない荒唐無稽なものと、まあありそうなものとがある。いちばんありえないのは、復活ですね。」「復活の奇蹟は、イエスが死んでだいぶ経ってから、いまのようなかたちで信じられるようになったと思われます。」「キリスト教の奇蹟は、イエスがキリスト(メシア)であり、神の子であることが核心で、奇蹟はそれを証明するもの。重要だけれど、枝葉に過ぎない。」「奇蹟を信じにくい人は、無理に信じなくてもよいように、福音書は書いてある。」大澤「考えてみれば奇蹟というのは、本当に信じるべきものの傍証みたいなものですよね。」「奇蹟自体は偶有的な、付録みたいなものということですね。」「奇蹟それ自体を超能力として信じるかどうかは、橋爪さんのおっしゃる通り、二次的なことでしょうね。」 復活は荒唐無稽←そう主張するのは個人の自由キリスト教において復活は枝葉末節であり付録←誤り橋爪氏や大澤氏が復活をはじめとする奇蹟を信じようと信じまいと、どう主張しようと自由である。しかし「キリスト教ではどう考えられているか」に一切言及せずに「最強のキリスト教入門書」を名乗るのは看板に偽りありだろう。実際には復活は、「重要だけど、枝葉に過ぎない」「付録」どころか、東方教会(正教会・非カルケドン派)、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)の全てで、(神学的見解をはじめとする微妙な温度差はあるものの)重要な信仰内容の一つを構成しており、多くの教派・信者が最も重要な信仰内容に数えている。たとえば名古屋ハリストス正教会の司祭ゲオルギイ松島は「復活信仰の無いキリスト教はあんこの入っていないあんパンを食べるようなもの」と評している。出典にあるように、橋爪氏の所属しているルーテル教会も復活信仰を重要なものとしており、その例外ではない(はずなのだが)。そもそも日曜日に教会に信者が集まるのは、日曜日にキリストが復活したことに由来しており、その重要性が表れている。復活につき事実として捉えない信者・教会も居るには居るが、全体から見れば少数派である上に、事実ではないと捉える信者も「枝葉末節」「付録」とは考えない。 ハリストス復活! 実に復活!「トマスとともに」名古屋教会司祭松島執筆メッセージカトリック西千葉教会説教倉庫2008年 3月23日 復活の主日復活日(イースター)礼拝のご案内 - 静岡聖ペテロ教会(日本聖公会横浜教区)キリストの復活六本木ルーテル教会神戸改革派神学校 校長 市川康則による「信仰直言『死人の復活~あり得ん?』」振り向く信仰(二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨、石川和夫牧師) p184, p185 「救いは、恩恵の問題なんです。神の恩恵に対して、人間に発言権があるかというと、ゼロです。なんの発言権もありません。」 極端な予定説を述べているが、アウグスティヌスの恩恵論についてはカトリック教会からプロテスタントに至るまで様々な温度差がある。アルミニウス主義もある。そもそも橋爪氏はルーテル教会信徒の筈なのだが、フィリップ・メランヒトンおよび神人協力説論争は完全に無視している。また正教会は「共働」概念を採る。なお上述の通り、この箇所の橋爪の見解は、p116で述べている内容と矛盾している。 世界観-人間:日本正教会 The Orthodox Church in Japan The United Methodist Church Our Wesleyan Theological Heritage p245, p246 「聖霊は、大澤さんの言うように、ネトワークや相互感応みたいな作用」「(聖霊は)神からのもの」「人と神とをつなぐのが聖霊」「人々と神との、唯一の連絡手段が、聖霊」 少なくとも伝統的なキリスト教では、聖霊は独立の位格(イポスタシス:ヒュポスタシス)たる真の神として理解されている。「神からの【もの】」という一種の従属説は異端として退けられる。ゆえにもちろん「作用」「手段」としては理解されていない。橋爪氏のこの説明と理解では、「聖霊は神ではない」ことになる。三位一体を取るキリスト教の大多数は、もちろん聖霊を神とみなすし、三位一体を取らないまま、聖霊を神とみなす教派もある。 CATHOLIC ENCYCLOPEDIA Holy Ghost参照。「作用」「手段」に類する表現はどこにもナシ p256 「アルメニア教会はカルケドン公会議に参加しなかったので、通常の三位一体説をとっていません」 アルメニア教会も三位一体説はとっている。議論が分かれたのはキリスト論(Christological controversy)。そもそもアルメニア教会というのは一組織名であって、教理教義を論じるのであれば「非カルケドン派」という枠組みが妥当。 Orthodox Unity - Statement Index内、Relations with the Eastern Orthodox Churchesより "Concerning the Christological controversy which caused the division, we..." (Statement by the Oriental Orthodox Churches, Addis Ababa, Ethiopia, 1965 ) p312 「一神教では、神は世界を創造したあと、出て行ってしまった。世界のなかには、もうどんな神もいなくて」 どこに出て行ったというのか?そのような記述は聖書のどこにも無いし、どこの教会でもこのような事は言われない。「神がわれわれと共におられるからである。」(イザヤ書8章10節)「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイによる福音書28章20節)これも、橋爪氏がどのような理解をしようと自由だが、「キリスト教を理解する」ための本であると売り出すのであれば、キリスト教での理解を述べるべきであろう。なお橋爪氏は他の箇所でも「神が留守」「神が出て行った」という表現をしており、「瑣末な間違い」ではなく、橋爪氏の一貫した誤解であることが判る。→間違いだらけの「ふしぎなキリスト教」(聖書篇)(p75, p76) イザヤ書8章10節マタイによる福音書28章20節創世記3章9節「あなたはどこにいるのか」の注解 外部リンク 間違いだらけの『ふしぎなキリスト教』とそれを評価する傾向につき 誤りと誤解と偏見に満ちている本, 2011/7/13 映画瓦版の読書日誌 ふしぎなキリスト教 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判まとめ一覧 - Togetter 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判100- Togetter 最新 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判1 - Togetter(2以降と別のまとめ製作者によるもの) 橋爪大三郎×大澤真幸『ふしぎなキリスト教』に対する批判2 - Togetter(2以降のまとめの始まり)
https://w.atwiki.jp/kumicit/pages/1102.html
Kumicitのコンテンツ 宗教とインテリジェントデザイン カトリック 2005年11月のバチカンの科学と神学についての会議 バチカン教皇庁文化評議会が11月9~11日に科学と神学についての会議を開いた。そこでは、自然の背後に"Intelligent Project"があるという見方を示す一方で、「宗教がその信仰のために科学的立証を求めるべきだとは意味しない」として、科学への介入も否定した。 VATICAN CITY (CNS) -- The intelligent design debate visited the Vatican in November, provoking some inflated newspaper headlines and a bit of theological fine-tuning by Pope Benedict XVI. バチカン市国(CNS)-- インテリジェントデザイン論争が11月に、刺激的な新聞の見出しと、教皇ベネディクト16世によって神学的に微調整されて、バチカンを訪れた。 After a cardinal criticized the fundamentalist approach of creationists, the pope weighed in, saying the created world must be understood as an "intelligent project." To some, his phrase echoed "intelligent design," but to others it suggested something quite different. ある枢機卿が創造論の原理主義者のアプローチを批判した後で、教皇は創造された世界は知的計画として理解できるはずだと言った。ある人々にとっては、"インテリジェントデザイン"のことを言っているように思えただろうが、ほかに人々にはまったく違うものを示唆していると受け取られた。 The timing of the Vatican comments was significant. バチカンのコメントのタイミングは重要だった。 Debate has been simmering in the United States over intelligent design, which holds that the complexity of the created world cannot simply be the product of random evolution, but implies a divine designer. Some groups want intelligent design taught in schools alongside evolution, an issue that spilled over to local school board elections Nov. 8. 創造された世界は複雑すぎてランダムな進化の産物ではありえず、神のごときデザイナーによるものだというインテリジェントデザインについての米国で論争が起きている。幾つかのグループはインテリジェントデザインを進化論とともに学校で教えたいと考えおり、論争は11月8日の地方の教育委員会選挙に波及した。 Coincidentally, the Vatican s Pontifical Council for Culture was preparing to host a conference on science and theology Nov. 9-11. Speaking to reporters, French Cardinal Paul Poupard, president of the council, said the origin of the world is one area where scientists and religious believers must recognize the limits of their own discipline. たまたま、バチカンの教皇庁文化評議会は、11月9-11日に科学と神学についての会議を開く準備をしていた。リポーターに対して、評議会議長であるフランス枢機卿Paul Poupardは、世界の起源は科学者と宗教信者が自らの分野の限界を認識しなければない分野であると語った。 He said people who support creationism as the only acceptable Christian explanation of the world s origins are "taking something never meant to be a scientific explanation and calling it science." 彼は、「世界の起源の説明としてキリスト教徒が受け入れられる唯一のものとして創造論を支持する人々は、科学的説明を全く意味しない何かを科学と呼んでいる。」と言った。 Msgr. Gianfranco Basti, an organizer of the Vatican conference, went on to quote Pope John Paul II s well-known statement in 1996 that evolution is "more than a hypothesis" and has been widely accepted by scientists. バチカン会議の主催者であるGianfranco Bastiは、続けて、進化が「仮説以上」の、おのであるであるという1996年のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の有名な声明を引用し、科学者によって広く受け入れられた。 Their comments led to headlines like "Vatican Embraces Evolution" and "Vatican Rejects Intelligent Design." If the pope reads the newspapers, he may have raised an eyebrow at the media spin. それらのコメントから「バチカンは進化論を抱擁した」とか「バチカンはインテリジェントデザインを拒絶した」という見出しにつながった。ローマ教皇が新聞を読めば、彼はメディアの偏見に眉をひそめたかもしれない。 At the end of his general audience Nov. 9, the pope set aside his prepared text and spoke emphatically about the wisdom of recognizing "signs of God s love" in the marvels of creation. He made no scientific claims, but said it would be unscientific to think that "everything is without direction and order." 11月9日の総合聴取のおわりに、教皇は準備した原稿を使わずに、創造の驚異に「神の愛の徴」を認める知恵について強調した話しをした。彼は科学的な主張をしなかったが、「すべてに方向性や指示がない」と考えるのは非科学的だろうと発言した。 Behind the natural world is "the creative reason, the reason that has created everything, that has created this intelligent project," he said. 自然界の背後に、「この知的計画を創造した創造の理由、あらゆるものが創造した理由」があると言った。 The pope spoke from the perspective of faith, and he cited a saint, not a scientist, to back him up. St. Basil the Great, he said, understood back in the fourth century that people can be "fooled by atheism" into thinking the world developed only through chance. ローマ教皇は信仰の観点から話、その主張を裏付けとして、科学者ではなく聖人の言葉を引用した。 偉大なる聖バジルは14世紀に、人々が無神論にだまされ、世界が偶然にみによって発展したと考えるようになるかもしれないと理解していたと、教皇は言った。 Did the pope s words signal a shift toward intelligent design? ローマ教皇の言葉は、インテリジェントデザインへの方針変更のシグナルだろうか? "The pope was not alluding in any way to intelligent design as it is understood in the United States," said U.S. Jesuit Father George Coyne, director of the Vatican Observatory and a keen follower of the evolution debates. 「ローマ教皇は、米国で理解されているようなインテリジェントデザインには言及していない。」とバチカン観測所所長であり進化論争の辛らつな後継者である米国イエズス会士George Coyne神父は言った。 "The pope was talking about God s love for his creation. God is in love with his creation, he nurses it along, he accompanies it. But that doesn t make God a designer. That belittles God, it makes him paltry," Father Coyne said. 「ローマ教皇は神の彼の創造への愛について話した。神は創造を愛し、いたわり、同行する。しかし、それは神を"デザイナー"にはしない。それは神を軽視し、神を無価値にするものだ」とCoyne神父は言った。 Robert J. Russell, founder and director of the Center for Theology and the Natural Sciences in Berkeley, Calif., said that "if (the pope) wants to use the term intelligent project it s fine. I think it s a little unfortunate because it s been co-opted by the intelligent design movement." カリフォルニアもバークレーの神学と自然科学センターの創立者でありセンター長であるロバートJ.ラッセルは、次のように言った。「(ローマ教皇)が"知的計画"という言葉を使いたがったとしたら、それが適切だったからだ。不運なのはインテリジェントデザイン運動を思わせる言葉だったことだ。」 Russell, a participant at the Vatican-sponsored conference, said the pope was simply expressing the theological interpretation of creation, something Christian leaders ought to do. バチカン会議の参加者であるラッセルは、ローマ教皇がキリスト教徒のリーダーとしてなすべきこととして、単に創造についての神学的解釈を表現したものだと言った。 "As a Christian, you can say God is the maker of heaven and earth That s a theological statement. Evolution is how God does it That s a scientific statement," he said. 「キリスト教徒として、神が天と地球の創造者であると言ってよい。それは神学の声明だ。進化は、神がどのようにそれを行ったかということだ。これは科学の声明だ。」と彼は言った。 The intelligent design movement, in Russell s view, has deliberately crossed the border between science and faith in an effort to slip God into U.S. classrooms. ラッセルの見方ではインテリジェントデザイン運動は、科学と信仰の境界を乗り越えて、神を米国の学校に滑り込ませるものだ。 Gennaro Auletta, who teaches science and philosophy at Rome s Gregorian University, said intelligent design tends to attribute too much to God and not enough to the freedom of his creation. ローマのGregorian Universityで科学と哲学を教えるGennaro Aulettaは、「インテリジェントデザインがあまりにも多くを神のせいにする傾向があり、神の創造の自由度が十分ではない」と言った。 "God is there in the created world, but not as the protagonist of every detail. That would turn God into a great puppeteer," Auletta said. 「神は創造された世界にいるが、すべての詳細の主唱者としてではない。それでは神は巨大な人形遣いになってしまう」とAulettaは言った。 Some of the church s most extensive comments on the subject came last year in a document on creation issued by the International Theological Commission, which at the time was headed by Cardinal Joseph Ratzinger, the current pope. 教会の主題に関する最も広範囲なコメントのうちのいくつかは、国際的な神学の委員会によって出された創造について昨年のドキュメントに基づくもので、この委員会の当時の委員長はJoseph Ratzinger枢機卿(現ローマ教皇)だった。 The document walked some fine lines. It accepted as likely the prevailing tenets of evolutionary science. Significantly, it did not argue for a "divine design" in the evolutionary details. ドキュメントは見事ないくつかの細線を歩きました。ありそうなものとして、それは受理しました、進化論的科学の普及している内容を受け入れた。特に進化の詳細について、神のデザインに賛成しなかった。 It acknowledged that some experts do see a providential design in biological structures, but said such development might also be contingent, or dependant on chance. This contingency, however, cannot be so radical as to exclude a divine cause, it said. それは、何人かの専門家が生物学の構造に神意によるデザインを見たが、偶然あるいは機会により発生したかもしれないと言っている。しかし、この偶然は神の因果律を破棄するほどとまでは言えないと言っている。 In broad terms, the theological commission set the religious parameters of the sense and purpose of creation and left the procedural details to science. 普通の言葉で言えば、神学委員会は、創造の意味と目的の宗教パラメーターを設定し、あとの詳細過程は科学にゆだねた。 That was also the view expressed by Cardinal Poupard at his conference in Rome. He said the believer naturally sees the world as the expression of "God s loving plan," and science can sometimes help the believer to read this plan. さらに、それは、ローマでのPoupard枢機卿の会議で、枢機卿自身が言った見方だ。信者は世界を神の愛の計画の表現と見て、科学者ときには信者がこの計画を読み取る手助けができるかもしれない。 But that doesn t mean religion should seek scientific proofs for its beliefs. しかし、それは、宗教がその信仰のために科学的立証を求めるべきだとは意味しない。 "The faith does not tell science how to conduct its investigations. The faith is not a manual of biology or cosmology, and every effort to make it a scientific textbook distorts its true nature," Cardinal Poupard said. 「信仰は、その調査を行なう方法を科学に伝えない。信仰は生物学または宇宙論のマニュアルではない。また、それを理科の教科書にしようという努力は、真の自然の性質をひずませる」とPoupard枢機卿が言った。 Earlier this year, Austrian Cardinal Christoph Schonborn caused a stir when he wrote an article that, while it did not use the term "intelligent design," seemed to defend its principles. 今年の初めに、オーストリア枢機卿Christoph Schonbornは、インテリジェント・デザインという言葉を使わないものの、その原則を擁護するかのような記事を書いて物議をかもした。 Cardinal Schonborn said human intellect can readily and clearly discern purpose and design in the natural world, including the world of living things. Schonborn枢機卿は、生けるもの世界を含む自然界に目的とデザインを容易かつ明瞭に識別できると言った。 "Any system of thought that denies or seeks to explain away the overwhelming evidence for design in biology is ideology, not science," he said. 「生物学におけるデザインを立証する圧倒的な証拠を否定したり、うまく言いぬけたりする学問は科学ではなくイデオロギーだ。」彼は言った。 When the pope made his recent remarks about creation as an "intelligent project," Cardinal Schonborn was sitting near the front of the audience with a pilgrim group. Greeting the pope afterward, the cardinal had a big smile on his face. ローマ教皇が「知的なプロジェクト」として創造について最近の意見を述べた時、Schonborn枢機卿は、巡礼者グループの聴衆の正面の近くに座っていた。そして、ローマ教皇に挨拶してあと、枢機卿は大きな笑顔をしていた。 [ John Thavis "Designer God? Vatican experts debate fine points of evolution" (2005/11/11) on Catholic News Service ] .