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Pearl Harbor History, Memory, Memorial JOURNAL By Tetsuya KATO July 28 - August 4, 2007 @ East-West Center at UH at Manoa プログラムの概要 アメリカ合衆国ハワイ州;ハワイ州立大学マノア校構内にあるEast-West Centerが真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナ号の記念館を管理するArizona Memorial Museum Associationが共同で行うWorkshopである。アメリカ側からは約40名のアメリカ史を中心とした社会科の教員(主に高校教諭)そしてII期のメンバーとして5名の日本人教師(社会科教諭3名・英語科教諭2名)が参加した。 真珠湾攻撃に関する記念館また歴史遺構、国立戦没者墓地などのツアーそして、各専門家からの講演、そして真珠湾攻撃体験者からの証言などを聞くワークショップそして、それらのツアー・講演・証言をもとにして、今後の教育活動・授業にいかに活かして行くのか等を話し合い、実際にカリキュラムを作り上げるディスカッションなどがプログラムとなっている。 7月28日(土)【日本時間】 UA832便(関空 午後7 00発)にてハワイ・ホノルル空港へ 【ハワイ時間】28日(土)午前 8時着(M先生・I先生・MT先生とも合流) その後、TaxiでLincoln Hallへ。矢口先生と会い、昼食と夕食を皆さんとともに。 29日(日) 記念館等を訪問・見学 Arizona Memorial ツアー 白い曲線の建物が印象的。また、今でも沈没したArizonaから流れ出ているという重油が過去と現在を結びつけつつ、見学者に真珠湾攻撃のMemoryを訴えているようであった。神聖な礼拝堂を思わせる内部には、Arizona号の攻撃で戦死したすべての人々の名前が刻まれた白い壁が迫ってくる。 Bookstoreでの自由時間。販売されているものはほとんど、「戦闘機レプリカ」や「真珠湾攻撃」に関する書籍や子ども向けの絵本が多く見られた。その後、食事をとり、日本が太平洋戦争の降伏調印をしたMissouri号の見学。降伏文書のレプリカ等を見ることが出来る。日本側の文書の装丁とアメリカ側の装丁の違いが興味深い。 続いて、The Pacific Aviation Museum の見学。太平洋戦争に実際に従軍した戦闘機(アメリカ・日本)の実物大のレプリカ(?)が展示されている。床には、太平洋の地図が描かれており、どのような戦闘が行われたのかが、分るよう になっている。ここも、戦争の悲惨さを描くことよりも、いかにしてアメリカが太平洋戦争を戦い抜いたのかが、記念館のテーマになっている。そして、ボートに乗船して、真珠湾内のツアーとなった。湾内の地形について、日本軍の攻撃の様子、また当時、どのようにアメリカ戦艦が配置されていたのか等の詳細な説明があった。 ツアーの後、再びThe Pacific Aviation Museum に戻り、希望者のみの潜水艦Bowfin号の見学。潜水艦の中に入り、内部の詳細な説明を受ける。従軍当時のほぼ、そのままに、艦内は保存されていた。魚雷(torpedoes)の模型もあり、狭い艦内をいかに効率的に使用していたのかが(それでも、とても窮屈で息苦しく、非人間的な感じは否めなかった。)説明されていた。 そして、艦内より地上に戻った時に、日本人教諭のひとりの方から、実は、このBowfin号が戦時中に「対馬丸」を沈没させた潜水艦であることを教えてもらった。沖縄研修旅行の事前学習等で「対馬丸」の名前と「沖縄から疎開児童や一般疎開者等1788名を乗せて九州・長崎への航行」中にアメリカ潜水艦からの魚雷攻撃により沈没し、1400名余りの犠牲者を出したことは知っていたが、まさか、その当事者の潜水艦を見学しているという意識が全くなく、自分の「無知」を恥じた次第であった。しかし、アメリカ人ガイドの方の説明に、そのことに対する言及がまったくなく、また、「対馬丸」に関する資料も展示されていなかった。【日本には、那覇市内に『対馬丸記念館』があり、「学童疎開船の悲劇と平和の尊さ」を訴えている】 最後は、Formal Welcome Dinnerが Bowfin号を背景にしたParkで行われ、各代表者の挨拶の後に、参加者ひとり一人の名前が呼ばれ、ハワイの伝統であるleisでの歓迎を受けた。 ※ 初日の雑感 各メモリアル(記念館)は、戦争の事実・内容を展示しているだけのもので、それだけで完結した感あり。今後の平和への構築についての言及なし。 Arizona号(太平洋戦争の始まり)とMissouri号(終了)が直線に並んでいる。 意図的なものか、、(議論があったとのこと) 太平洋戦争の概略を知っておくべきであった。 Bowfin号と対馬丸のことについても、もっと学ぶ必要を感じた。 アメリカ人にとってのPearl Harbor Attackの意義の理解の端緒となるツアー 30日(月) 午前中は、全体写真撮影やハワイ伝統のBlessing また、今回のWorkshopの簡潔なオリエンテーション。 いくつかのグループに分かれて、それぞれ、どのように、授業の中で、アメリカの教師(社会科;歴史;政治【government】担当)らがPearl Harborを教えているのかの紹介の時間。 Session 1 “ History, Memory, and Memorial “ at Pearl Harbor By Geoffrey White MemoryとMemorialの違い・定義についてのgroup discussion 様々なBackgroundをもった人々( アメリカ人・日本人・日系アメリカ人等)から見たPearl Harbor Attacks ≪加藤からのquestion≫ 昨日、訪れたMemorialは戦争当時に何が起こったのかを伝えているだけ。しかし、日本の3つの特に有名なMuseumsがある。沖縄・長崎・広島である。長崎では、核兵器の現状やこれからどのようにして平和な世界を構築していくか の問い掛けがなされている。今回、訪れたMemorialsにはfuture-orientedな側面がないように思われるのだが。 Session 2 “What happened at Pearl Harbor? An Interpretive Simulation of the Attacks By Daniel Martinez National Park Service(国立公園局)の Daniel氏による真珠湾攻撃の詳細の説明-ジオラマ(フロアに広げられた地図)や戦闘機の模型を使っての説明。(マニアック感がややあり) Session 3 Pearl Harbor From Fishponds to Warship By Jon Kay Hawaiian songsによって、Hawaiiの歴史を語る試み (ヒーリングの時間だったね-との日本人参加者の声) 31日(火) 午前中より Pearl Harbor Attack Site Tour まずは Ford Island(島全体が軍用地として使用されている)のツアーから始まった。真珠湾攻撃の際、多くの戦艦が停泊していた場所である。まず、攻撃を受け、沈没したままの姿で現在も残されているUtah号のMemorialを見学した。 その説明パネルには、その他のパネルには見当たらない-WE WILL DEDICATE MEMORIALS TO THOSE WHO WILL LIVE IN PEACE-という”PEACE”が含まれたフレーズが刻まれていたのが印象的であった。また周囲の地面には、真珠湾攻撃時の弾痕が残っていた。また当時の写真と現在の様子を重ね合わせての説明も行われた。 次に Fort Derussy Army Museum を見学した。ワイキキビーチに隣接している陸軍博物館であった。日本軍の戦車や現在までのアメリカが関係してきた「戦争」についての展示があり、もちろんPearl Harbor Attacksについても詳しく説明されていた。 続いて、Hickam Headquarters Building を訪れた。Pacific Air Forceの司令部が置かれている。建物自体は、真珠湾攻撃の際のものをそのまま使用してあり、外壁には弾痕が多く残っている。また、内部に入ると、実際に今も使用されている木製の階段にも2、3の弾痕を見ることが出来る。中庭は"COURTYARD OF HEROES"と名付けられており、 中心には星条旗と炎が印象的な記念碑が設置されていた。その記念碑にはWorld War II、KOREA, そしてSOUTHEAST ASIA に関するプレートがはめ込まれていた。 興味深かったのは、おそらくSOUTHEAST ASIAとはVietnam Warのことを指しているのだろうが、明瞭にそのように記載されていないことであった。国家としてのアメリカにとってはVietnam Warは未だに特別な意味(敗戦であったという事実)を持っていることが伺えた。 参加しているアメリカ人教諭にその点;「なぜ、ベトナム戦争と書いてないのか?」を尋ねたが、「あの戦いは(まさに)東南アジア全体に関わる戦いであったので、その様に表記されているのでは?」とのことであった。 また、内部には、もちろんPearl Harbor Attacksを始めとして、World War II、Korean War、Southeast Asiaについて説明が写真とともに展示されていた。 そして、Humanitarian Operations として環太平洋地域での空軍の活動が(詳細はわからないが)展示されていた。 昼食はHickam基地内で、Pearl Harbor Survivors の方々と昼食をとった。 私はSurvivorsのひとりの夫人Ms.Isabellaと同じテーブルで、光栄にも隣に座ることとなった。真珠湾攻撃当日や前後のハワイの市井の人々の話はとても興味深かった。 National Memorial Cemetery of the Pacific ( Punchbowl Cemetery ) Hickamを後にして、"パンチボウル"国立墓地へ移動した。 ここはホノルル市内を見渡せる丘陵にある国立記念墓地であり、第二次世界大戦以来の、戦没者が埋葬されている。広大な公園墓地にフラットな墓石が数多く整然と敷きつめられている。もちろん、真珠湾攻撃で亡くなった兵士たちの墓碑も多くある。日系人の名前も多い。また、UNKNOWN(無名兵士)の墓碑も多い。日本人に馴染みの深い人物として、1986年にスペースシャトル・チャレンジャー号の事故で亡くなったオニヅカ大佐もここに埋葬されている。その後、女神像が迎えてくれる慰霊廟(?)までの長い階段を上っていった。慰霊廟内部には礼拝堂があり、また両翼には太平洋全体を示すプレートを中心にして、ベトナム戦争・硫黄島戦・沖縄戦・朝鮮戦争の戦闘内容の詳細を刻んだプレートが設置されていた。ここも、戦争の実態を示してはいるものの、人的な犠牲を示す写真などは一切無くあくまで各戦争で名誉ある戦死をした兵士達を称えるためだけの施設であるという印象が個人的には否めなかった。 そして、最後に1995年9月に日本側とアメリカ側の第2次世界大戦の退役軍人(Veterans)が和解(reconciliation)の為に出会ったことを記念する"Forever Friends"と刻まれたプレート前に、アメリカ人教師と日本人教師が並び、そこで一人一人が全員と握手やハグをして、お互いに"Thank you"などと声を掛け合い、私たちも戦後62年目の「和解」と「新たな未来」を確かめ合った。また、そのプレートの周囲を日本人・アメリカ人教師がペアになりLeisで囲むように捧げていった。 美しいホノルル市内と蒼い太平洋が望める場所に、これほど大きなNational Cemeteryがあることは全く知らなかった。この場所を訪れて、改めてHawaii という島々と沖縄という島々の多くの共通点を見出すことが出来た。 午後6 30-9 30 Optional Tora! Tora! Tora! Pizza Party @ Hale Kuahine (ホール) 史実に最も忠実に描かれているという日米合作の真珠湾攻撃に関する映画「Tora! Tora! Tora!」の自由鑑賞 6ドルでPizza付き アメリカ人らしく自由な雰囲気(ソファーに寝転がったり)での鑑賞会 僕自身は初めて「Tora! Tora! Tora!」を見た。 ※淡々と場面が展開し、極端に感情的な場面もなく、開戦直前の日米のやりとり、また両国の政府の状況などが、落ち着いたトーンで描かれていた。 (ひさしぶりのアメリカ・本場でのピザに、僕自身が嬉しくなってしまい、調子に乗って4ピースを食べそして、Pop、2缶を飲んでしまい、その夜、おなかを壊してしまった。) ※ 3日目の雑感 「戦争」というものをアメリカ政府・アメリカ軍・(アメリカ人というよりも)がどのようにとらえているのかを知ることが出来た。「軍」は生活の一部であり、アメリカは「正義・平和・自由」の為に戦っているのだということをアメリカ国民へ知らしめることを目的にした施設であった。また、退役軍人に対する敬意の表し方など、日本では見られない場面も興味深かった。「軍隊」という組織に対する意識の違いを実感できた。 8月1日(水) Pearl Harbor Attack Site Tour Debriefing By Daniel Martinez 昨日のツアーについての追加説明や質疑応答など 私(加藤)は、「日本人の持つハワイのイメージは、『観光地』。このような国立戦没軍事墓地がハワイにあることを多くの日本人が知らないと思うので、高校生を中心に日本からの修学旅行が増える傾向のなかで、是非、日本人の生徒にもあのような施設をみてもらえる機会があれば」と発言。 Session The Road to Pearl Harbor By Harry Butowsky 日本が戦争へ進むまでの、背景を江戸時代から始めそして、明治維新後、また当時の国際状況から、なぜ、日本が戦争への道を進んでいったのかを説明するセッションであった。 Session War Memories across the Pacific Japanese Images and Perspectives on Pearl Harbor By Yujin Yaguchi 日本とハワイの関わりを・明治時代からの移民政策 ・真珠湾攻撃に関わるアニメ「桃太郎の海鷲」の紹介 ・戦後の日本でのハワイブームの背景 ・Arizona Memorialを訪れた 日本人の感想・反応の分析等を用いてのセッション。 Lunch ~ アメリカ人教師との「Teaching Plan」についてのdiscussionを兼ねて Session A Date Which Will Live Pearl Harbor in American Memory By Emily Rosenberg ~アメリカは忘れない~ の著者 Pearl Harbor Attackが当時そしてその後のアメリカ社会、政治、経済、軍事に与えた影響について「icon」(聖像)というKeywordを用いて、様々な角度から分析したセッションであった。真珠湾攻撃がどのようにRoosevelt大統領をはじめとする政治的リーダーにどのように「利用」されたのにも言及されていた。 また1980年代後半のバブル期日本のアメリカへの経済的進出に対して、また9.11以降、Pearl Harbor Attackがどのような形で、Bush政権下のアメリカ政治また社会の中で用いられたかを客観的に、多くの資料を用いて論じられた。 加藤からの質問 「パールハーバーという言葉がアメリカ社会で何度も用いられた。9 11においても。今後も、Pearl Harborがアメリカ社会において『新たな戦争への口実』になりうるのではないか?」 Mrs.Rosenberg 「パールハーバーよりも、むしろ9.11の方が、メタファーとして今後は多く使われていくのではないか」 “Imprecations for Teaching” Discussion with Specialists アメリカ人教諭とともにいくつかのgroups に分かれて。Teaching Plansを作っていくディスカッション。私は Graig Bjorklund from Utah, Stephanie Player from Wyoming, Tiffany Seybert from Coloradoの3人とグループになった。 8月2日(木) Session Hawaiian Perspectives on Pearl Harbor By John Rosa 地元ハワイの高校で教師をしているMr.Rosa(彼自身は中国系とポルトガル系のアメリカ人)によるセッション。 実際にどのような社会科(歴史、地理、政治の総合的な)授業を展開しているのかを中心に説明があった。まず、 自分の家族・地域の歴史をたどる。-家族からの聞き取り。 ハワイの有人史以降の歴史-キャプテンCook、宣教師の派遣、カメハメハ王朝の終焉、アメリカへの合併等―を学ぶ。 WhiteとLocal間のConflicts 実地体験(Taroいも栽培など) などをテーマとして高校生にあたえ、授業を展開していることが紹介された。 Session Pearl Harbor Memory and Issues Of Reconciliation Survivor Reflections 実際にPearl Harbor Attacks を体験した退役軍人や住民の証言を聞くセッション 5人の方々が証言をしてくれた。 Ed Ichiyama -日系アメリカ人 真珠湾攻撃が日系人Communityに与えた衝撃。兄が日本海軍に入っていたために、父親が「危険人物」として取り扱われた。その後、日系人志願兵によって編成された第442部隊として、ヨーロッパ戦線で戦った。 Everett Hyland - 真珠湾攻撃の際、Pennsylvania号でアンテナの修理をしていた。その際に、負傷したが、その後、復員した。戦後、理科の教師として働き、1995年よりThe USS Arizona Memorial でボランティアとして活躍している。1994年に日本人女性と結婚した。 Sterling Cale - 日本空軍の攻撃を直接、目撃した。「日曜日にそんなことが」と驚いた。魚雷の被害に遭った。その後の人的、軍的の被害を語ってくれた。 Joan Rodby - 真珠湾攻撃の際に10才の少女であった。日本軍の攻撃から身を守るためにガスマスクをつけなくてはならなかったことを証言。教会・日曜学校直後に、家に戻るようにと言われた。祖父母の家から真珠湾が見えたが、炎と煙で悲惨な状況であった。家族がどのように対応したかを話してもらった。 ? (男性) (母親が日系人) 当時の家が攻撃で焼け落ちてしまった。 雑感 日系人として困難な時代であったことの認識と、退役軍人が非常に尊敬されていることへの、多少の「違和感」 日本人として。被害者の立場であるので当然かもしれないが、どのようにその体験を後世に引き継いで「平和」を構築していのかの視点が無かった。 Session Teaching about Pearl Harbor and the Japanese Interment By Gary Mukai Mr.Mukaiの日系人(3世)として、日系人社会がPearl Harbor Attacks前後、どのように経過をたどってきたのかを自身の家族史への言及や豊富な資料を用いて論じるセッション。 ピクチャーブライドのストーリー ・Internment Camps( 収容所 ) 勤務校の近くに収容所跡がある教員からの報告(どのようにその史跡を用いているのか) 短時間、今までの講演内容を振り返って、もし「Internment Camps」に持っていくならば、何を持っていくのかをグループで話し合った。その中で、岩野先生が持って来られていた絵本「かわいそうな象」が紹介された。当時のInternment Camps の様子を写した写真も紹介された。 Japanese Latin Americans( ペルーなどの南アメリカの移民していた日系人もアメリカの収容所へと送還された)の歴史も紹介された。 戦後の日系アメリカ人へのアメリカ政府の対応と KANSHA Project 雑感 ハワイ社会の特殊性-歴史・政治・文化・伝統―またその社会の中で、日系人CommunityがPearl Harbor Attacks前後にどのように受けとめたのかを理解できた。また、Survivorsの証言によって、ハワイの軍事的な重要性をまず認識した。そして当時の攻撃が、軍人にそして一般市民に対してどのような衝撃を与えたのかを知ることができた。 この日の夕方はOptionalとして、 Waikiki Sunset Cruise が行われた。 ハワイ滞在中、初めてWaikikiを訪れ、そしてすばらしい太平洋に沈む美しい夕日そして、このWorkshopで友人となったアメリカ人たちとのおしゃべり、(そしてマイタイ)を満喫した。 8月3日(金)(The Workshop の最終日) Pearl Harbor Resources at the USS Arizona Memorial Brainstorm Session Incorporating Multiple Perspectives of Pearl Harbor in Teaching / Learnig Graig Bjorklund , from Utah Stephanie Player, from Wyoming Tiffany Seybert , from Colorado とKato Tetsuya、from Japan の4人で、「どのような視点で Pearl Harborを教えるのか」をテーマにdiscussionをした。また、他のグループも同じような discussionとその後のpresentationの準備をした。 Group Share Teaching Ideas 私たちのグループは一人ひとりが簡潔にそのTeaching Ideas をshare した。 加藤の発言は下記のNoteをもとに行った。 Pearl Harbor History, Memory, Memorial Teaching Plans KATO Tetsuya Doshisha JHS, KYOTO, JAPAN 3 August 2007 (1) The causes of the Pearl Harbor which led to the Pacific War a) the Japan’s desire to rule China, Korea and other Asian Countries b) economic reasons to grow as the Great Power in the world (2) Comparisons between The Pearl Harbor and Hiroshima and Nagasaki-Atomic Bombs Were the TWO bombs really needed? (3) The current situation of OKINAWA and the past of OKINAWA as insight of the relationship between Japan and USA (4) Japan as a warlike nation after MEIJI restoration in Asia (5) Justification of The Pacific War and the YASUKUNI shrine’s claims “We were NOT WRONG!” (6) What we should learn from the Wars and how we are going to do to progress a peaceful movement. – current situation of Japan. (7) irony - As US wants Japan to be their “better” military partner, Japanese Government is going to take a policy to take Japan back to OLD-style Japan changing the Constitution and rearmament and get Japanese people more patriotic Emperor-centered system leading Japan to the anti-American country? (8) How can we link the two tragedies the Pearl Harbor and the Hiroshima Nagasaki? (10) one more symbolic place – Okinawa – still occupied? A new point of view to see the current relation between US and Japan. Many bases and Memorials in Hawaii similarity to OKINAWA different perspective toward the War and Peace (11) Democracy brought by losing the War and Americans (12) embodiment of the ideal helped by The American The Constitution Of Japan Article9; Article 9 of the Japanese Constitution is a "No War" clause. It went into effect on May 3, 1947, immediately after World War II. ARTICLE 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized. 二 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 (13) Allen Nelson as a peace activist a Vietnam veteran http //www.objector.org/articles/nelson.html ≪他のグループのプレゼンテーションの概要≫ 帝国主義の背景を説明する。 アメリカへの移民全体史からのアプローチ 全体の歴史から個人的なものへとスライドしていき、理解を深める。 パールハーバーを機転として、それ以前の様々な歴史的出来事がどのように、収斂されていきどのような結果をもたらしたかを教えていく。(砂時計【hour glass】 の図形)を用いる。当時のプロパガンダポスターや戦時漫画も用いることが出来る。また、地図や戦闘機の模型も用いることが出来る。実際に、地図の上を動いてみること。 ポストカードなどを使用して、生徒に視覚的に訴える。 模型の戦闘機を用いて、真珠湾の様子を生徒に与える。「トラ!トラ!トラ!」の映画を見せる。 日本とアメリカの関係を説明し、パールハーバーに至る経緯を説明する。アメリカ史の中の米西戦争にも言及する。また、日清戦争、第1次世界大戦、様々な軍事・軍縮条約を紹介する。 CDや本を用いて生徒に真珠湾攻撃の様子を伝える。当時の公式文書などを紹介する。収容所の様子を紹介する。スライドショーも効果的である。 9.11と、真珠湾攻撃をどのように関連させていくのかを考えさせる。 アリゾナ号の写真などを見せる。そして、どうしてこの攻撃がこんなにPOWERFULに語られるのかを討論させる。また、歴代大統領がこの出来事をどのようにスピーチの中でどのように語っているのかを教える。 【岩野先生・福岡県】 Ichiyama Familyに焦点を当て、真珠湾攻撃を読み解く。家族史と太平洋戦争との相関関係を説明しながら授業を進める。 記念館がどのようにしたら、真珠湾攻撃を超えた物を伝えていけるのか。真珠湾攻撃の全体像を与え、その後、生徒達に、詳細について考えさせていく。 バーチャルツアーを行う。CDを利用する。 などの意見が出された。 Becoming an East-West Center Associate 最後に、参加者全員に Certificate Of Achievement の証書授与と全体の記念写真をもらえるCeremonyがあり、このWorkshopが終了した。
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メダル オブ オナー パシフィックアサルト - Medal of Honor Pacific Assault 登場兵器 陸上兵器アメリカ軍 日本軍 海上兵器アメリカ軍 日本軍 航空兵器アメリカ軍 日本軍 陸上兵器 アメリカ軍 M3A1 スチュアート M4A2 シャーマン 41 ビュイック スタッフ・カー ウィリス・オーバーランド MBジープ ゼネラルモーターズ DUKW M24 カーゴ・トラック ダッジ トラック M1A1 75mm榴弾砲 ボフォース 40mm機関砲 四連装対空砲 M2 60mm迫撃砲 日本軍 九五式軽戦車 ハ号 九七式中戦車 チハ 特二式内火艇 カミ 砲塔側面に「アヒルのブタ 651」という謎の日本語が書かれている。 九五式小型乗用車 くろがね四起 九四式六輪自動貨車 M25四輪装甲車(ヴィッカース・クロスレイM25装甲車) 蒸気ローラー 70mm砲(九二式歩兵砲?) 九六式十五糎榴弾砲 九六式二十五粍高角機銃 九八式二十粍高射機関砲 九九式短迫撃砲 海上兵器 アメリカ軍 ネバダ級戦艦 ネバダ ペンシルベニア級戦艦 アリゾナ コロラド級戦艦 ウェスト・バージニア インディペンデンス級航空母艦 インディペンデンス ナーワル級潜水艦 ノーチラス PT-20級魚雷艇 PT-20 タグボート LCVP ヒギンズボート LVT-1 LVT-2 ウォーター・バッファロー LVT-4 ウォーター・バッファロー LST(戦車揚陸艦) LCRL(大型ゴムボート揚陸艇) 日本軍 峯風型駆逐艦 峯風 赤城 輸送艦 大発動艇 航空兵器 アメリカ軍 ロッキード P-38 ライトニング ベル P-400(ベル P-39 エアコブラ) カーチス・ライト P-40 ウォーホーク グラマン F4F ワイルドキャット グラマン F6F ヘルキャット ダグラス SBD ドーントレス コンソリディーテッド PBY カタリナ ヴォート・シコルスキー OS2U キングフィッシャー パイパーカブ L-4 グラスホッパー 日本軍 三菱 零式艦上戦闘機 愛知 九九式艦上爆撃機 垂直尾翼にある機体番号は「BI-327」で、空母蒼龍の所属機。 三菱 一式陸上攻撃機 三四型 中島 九七式三号艦上攻撃機 エンジン付近の機体側面に「海鷹」と書かれている。 垂直尾翼にある機体番号は「AI-301」で、空母赤城の飛行隊長「淵田美津雄(真珠湾攻撃時の空襲部隊の総指揮官。真珠湾攻撃時の階級は中佐、最終階級は大佐)」の乗機。 真珠湾攻撃で「ト・ト・ト(全軍突撃セヨ)」と「トラ・トラ・トラ(ワレ奇襲ニ成功セリ)」を打電したのは彼の乗機。 愛知 零式水上偵察機 垂直尾翼にある機体番号は「JI-3」。
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テキストソース http //suga.blog01.linkclub.jp/index.php?itemid=218761 朝日新聞2008年12月22日朝刊 田母神論文 「国を常に支持」が愛国か ジョン・ダワー 米マサチューセッツ工科大教授 画像はコチラ 太平洋戦争の開戦問題は、田母神俊雄・前航空幕僚長の論文「日本は侵略国家であったのか」の核心の一つで、日本が「ルーズベルトの仕掛けた罠(わな)」にはまって真珠湾(パールハーバー)攻撃を決行した、と論じている。 米国にとって「パールハーバー」は記憶から消し去れない出来事だ。01年の9・11米同時テロと、これに続く米国主導のイラク戦争という選択は、その記憶を思いがけず衝撃的な形でよみがえらせた。 米各紙は9・11を真珠湾攻撃になぞらえ、見出しに「インファミー(不名誉)」を掲げた。真珠湾攻撃に対し、当時のルーズベルト大統領が使った「不名誉のうちに生きる日」を下敷きにした表現だ。ブッシュ大統領もこれに反応し、9・11を「21世紀のパールハーバー」と日記に記した。通俗的なこの連想は、ブッシュ政権による02年9月の「先制攻撃」政策発表、半年後のイラク侵攻というブーメランとなった。真珠湾攻撃も9・11事件も米国に挑む戦争として強く非難した米国が、今度は自らが戦争の道を選択したのである。 米の著名な歴史家アーサー・シュレジンジャーは、「予防的自衛」のブッシュ・ドクトリンは「日本帝国の真珠湾攻撃と驚くほど似ている」とし、「今度は我々米国人が不名誉に生きることになる」と鋭く見抜いた(03年3月)。 □ ■ □ だが、大半の米国人は愛国主義に目を曇らされ、米国の安全への重大な挑戦とする政府側にくみした。戦争は早期に終結し、イラク戦後の体制変革も円滑に進むというブッシュ政権の保証を信じ込んでしまったのである。 ブッシュのイラク戦争は、相手の特質や能力を真剣に考察することなく、戦争をいかに終わらせるかの展望もない「戦略的な愚行」(米海軍史家サミュエル・モリソンの50年代初頭の指摘)という点で、日本による真珠湾攻撃との類似性を想起させる。半世紀以上前に日本が犯した「戦略的な愚行」は今では皮肉にも、もはやそうユニークなことではないようだ。 冒頭の、太平洋戦争の開戦を「ルーズベルトの罠」とする田母神論文の主張は、綿密な検証に耐え得る事実にも論理にも支えられていない。 この主張は陰謀史観そのものだが、米国では半世紀余も前に信用できないとして退けられた2つの説を反映している点は興味深い。一つは、ルーズベルトの外交政策を非難する孤立主義者が引き合いにした「バックドア・トゥー・ウオー(戦争への裏口)」説。かれらは、アジアへ侵略しナチスドイツと同盟を結ぶ日本を米国がなだめすかすことで戦争を回避できたし、そうすべきだったと論じた。もう一つは、40年代後半から50年代に吹き荒れたマッカーシズムという政治的魔女狩りの中で唱えられた、「共産勢力」が操っていたとする説だ。 □ ■ □ では、日米間の戦争は避けられたのか。これについては日本語と英語の何万ページもの関係文書や学問的研究がある。なぜ、米日間の外交交渉が戦争を食い止められなかったのかについてはいつも論議の対象になるが、陰謀史観はこの問題を説明できない。 米国が、日本の中国侵攻・占領、そしてナチスドイツとの同盟を支持すべきだったとでもいうのだろうか。田母神論文には、この件に関する膨大な資料をまともに検討した形跡がない。日本の中国支配を単純に肯定するだけで、当時のアジアの危機をいかに解決できたかについてを問いただした形跡もうかがえない。 どこの国でも、熱に浮かされたナショナリストがそうであるように、彼は他者の利害や感情に全く無関心であるかにみえる。中国人や朝鮮人のナショナリズムは、彼の描く絵には入ってこない。 アジア太平洋戦争について、帝国主義や植民地主義、世界大恐慌、アジア(特に中国)でわき起こった反帝国主義ナショナリズムといった広い文脈で論議することは妥当だし、重要でもある。戦死を遂げた何百万もの日本人を悼む感情も同様に理解できる。 しかし、30年代および40年代前半には、日本も植民地帝国主義勢力として軍国主義に陥り、侵攻し、占領し、ひどい残虐行為を行った。それを否定するのは歴史を根底から歪曲(わいきょく)するものだ。戦後、日本が世界で獲得した尊敬と信頼を恐ろしく傷つける。勝ち目のない戦争で、自国の兵士、さらには本土の市民に理不尽な犠牲を強いた日本の指導者は、近視眼的で無情だった。 国を愛するということが、人々の犠牲に思いをいたすのではなく、なぜ、いつでも国家の行為を支持する側につくことを求められるのか。 ◇ 38年生まれ。専門は日本近代史。主著「敗北を抱きしめて-第二次大戦後の日本人」でピュリツァー賞受賞。(朝日新聞2008年12月22日付 声・主張10面12版) 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
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初出撃!中国での攻防 無限× 宣誓なき開戦 無限× 戦闘!鹿児島湾演習 無限○ 真珠湾突入戦 無限○ 真珠湾攻撃 無限× ウェーク島攻撃~前半戦~ 無限○ ウェーク島攻撃~後半戦~ 無限○
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研修報告書 日米協同・連携プロジェクト パールハーバー・ワークショップ 「歴史と記憶;真珠湾をめぐる多様な物語」 PEARL HARBOR HISTORY, MEMORY, MEMORIAL NEH LANDMARKS OF AMERICAN HISTORY AND CULTURE WORKSHOP FOR TEACHERS AUGUST 2-8, 2008 この記事の写真入りのヴァージョンがワードファイルになっています。2008研修報告書をクリックしてファイルをダウンロードして下さい。 蓑口 一哲 みのぐちかずのり 北海道本別高等学校 1.研修期間・場所等 2008年8月3日(日)~8日(金) 6日間 ハワイ州 ホノルル市 ハワイ東海インターナショナルカレッジ 2.本プロジェクトの目的と概要 「歴史と記憶;真珠湾をめぐる多様な物語」と題したこの教員ワークショップには,日米双方の教員二期に別れ計100名が参加した。真珠湾攻撃に関する史跡見学をはじめ,当時の体験者の声を聞き、更に日系人や先住民にとっての真珠湾についても考察していく。 多様な視点から歴史としての真珠湾について再構成し、またディスカッション等を通じ日米の教員が協同・連携して真珠湾や第二次大戦(太平洋戦争)に関する授業案を作成することを目標としている。 3.研修プログラム 2日(土) 21 00 成田Narita 発 10 00 ホノルル空港到着(現地時間)ハワイ東海インターナショナルカレッジに 14 00 ミーティング 3日(日) 研修 第1日目 11 30 出発(バス) 12 00 アリゾナ記念館USS Arizona Memorialに到着戦艦ミズーリUSS Missouri にて昼食、館内見学 13 00 航空博物館 the Pacific Avation Museum 見学 15 00 真珠湾内ボートツアー Special Boat Tourof Pearl Harbor アリゾナ記念館the USS Arizona Memorial見学 17 30 潜水艦ボウフィン号(USS Submarine Bowfin)見学 18 30 フォーマル歓迎夕食会(日本領事館協賛) 4日(月) 研修 第2日目 09 10 グループ写真撮影 09 30 ハワイ先住民による歓迎セレモニー Hawaiian Blessing 09 45 ワークショップ・オリエンテーション 10 00 ワークショップ「パールハーバーを学校でどう教えるか」パールハーバーが授業やカリキュラムでどう取り扱われているか。日米の実践交流。ナムジー・ステインマン(Namji Steineman)氏ジーン・ジョンソン(Jean Johnson)氏による 11 00 パールハーバーで何があったのか?What Happened at Pearl Harbor? 歴史家ダニエル・マルチネス氏による攻撃再現シミュレーション Moderated by Daniel Martinez, Historian, National Park Service 12 30 昼食 13 30 Pearl Harbor Attacks を体験した軍人や住民の証言を聞くセッションPearl Harbor Memory and Issues Of Reconciliation Survivor Reflections証言「パールハーバーの記憶と和解;生存者たちの回想」1. スターリング・ケール(Sterling Cale)氏(米海軍退役将校,真珠湾攻撃生存者)2. エベレット・ハイランド(Everett Hyland)氏(米海軍退役将校)3. エド・イチヤマ(Ed Ichiyama)氏(日系人,第442連隊)4. コリーン・イチヤマ(Mss Ichiyama)さん(日系人 真珠湾攻撃時ハワイ在住者)5. Joan Rodgy氏(真珠湾攻撃時ハワイ在住者) 16 00 Film Viewing and Discussionハワイ大学文化人類学教授ジェフリー・ホワイト(Geoffrey White)氏 5日(火) 研修 第3日目 08 00 「パールハーバー・アタックサイト・ツアー」“Pearl Harbor Attack Site Tour” 出発ガイド・ダニエル・マルチネス(Daniel Martinez)氏 08 05 デルーシー砦陸軍博物館 Fort DeRussy Army Museum見学カメハメハ大王から湾岸戦争までのハワイの軍関係の歴史が展示されている。 10 00 ヒッカム軍司令部(Hickam Headquarters Building)見学日本軍の奇襲当時,3,000名の陸軍航空隊の兵舎があった。建物や格納庫も攻撃ポイントの一つであった。 11 00 フォード島(Ford Island)見学米軍艦ユタ号記念碑(沈没したユタ号の残骸とモニュメント),海軍機のランプ跡,米軍艦アリゾナ号の係留マーカー跡訪問。 12 30 ヒッカム将校クラブにて昼食 ~真珠湾攻撃の生存者とともに~地元テレビ局のニュース番組の収録に参加 エベレット・ハイランド(Everett Hyland)氏と 14 00 ヒッカム出発,パンチボール墓地へ 14 15 国立太平洋地域記念墓地(National Memorial Cemetery of the Pacific)見学通称“パンチボール”墓地。休火山のクレーターは,軍に所属したアメリカ人の埋葬地となっている。真珠湾攻撃の犠牲者の多くもここに葬られている。 16 15 帰着 6日(水) 研修 第4日目 08 30 「パールハーバー・アタックサイト・ツアー」報告会 Pearl Harbor Attack Site Tour Debriefingダニエル・マルチネス(Daniel Martinez)氏 09 00 講義「なぜ日本はパールハーバーを攻撃したのか?」 Why Did Japan Bomb Pearl Harbor?スタンフォード大学 Stanford University教授ピーター・ドゥース(Peter Duus)氏講義テーマ1. 帝国主義下の日本とアメリカ~両者にとっての戦略的地域2. 相互イメージと認識3. 経済制裁と禁輸措置4. 日本の内政~帝国主義的文化とナショナル・アイデンティティ5. 世界の潮流6. 日米両国の個人的・集団的野心 11 15 講義「太平洋の向こう側での記憶;日本側のイメージと認識の中でのパールハーバー」War Memories Across the Pacific Japanese Images and Perspectives on Pearl Harbor。矢口祐人氏,東京大学准教授。日本とハワイの関わり・移民政策についてのセッション。 13 00 Working Lunch and “Teaching Implications” Discussion (Ohana Room) Mixed tables with one Japanese teacher per table.教材作成に向けたディスカッション&昼食。各テーブルに日本人教師が入り,教案作成に向けたグルーピングとディスカッション 14 20 講義 パールハーバーにおける「記憶(Memory)」「記念(Memorial)」“Pearl Harbor Memory, Memorial and Issues of Reconcilliation” ハワイ大学文化人類学教授ジェフリー・ホワイト(Geoffrey White)氏Geoffrey White, Senior Fellow, East-West Center, and Professor of Anthropology, University of Hawai i 7日(木) 研修 第5日目 08 30 講義 プーロア(パールハーバーのハワイ語表記)/パールハーバー ~養魚池から軍港へ~Pu’uloa/Pearl Harbor From Fishponds to Warships先住ハワイ人たちにとってのパールハーバーの歴史と記憶をハワイアン・ミュージックに載せてふり返る。ハワイ大学 ジョン・ケイ・カマカウィオーレ(John Kay Kamakawiwo ole)氏 10 15 授業案提示「パールハーバーと日系人強制収容をどう教えるか」Teaching about Pearl Harbor and the Japanese Internment Curricular Demonstration ゲイリー・ムカイ(Gary Mukai)氏,スタンフォード大学・異文化間教育研究所所長 12 00 昼食 13 00 講義「パールハーバーにおける先住ハワイ人の視点」“Local” Perspectives on Pearl Harbor. ジョン・ロサ(John Rosa)氏。ハワイ大学 15 15 教材化に向けたディスカッション “Implications for Teaching” Discussions with Specialists ~専門家とともに ジョン・ロサ氏,ゲイリー・ムカイ氏がディスカッションのフォロー・アップ 16 00 セッション終了 18 30 ワイキキ・サンセット・クルーズとウォーキング・ツアー 8日(金) 研修 第6日目 08 30 講義 「オーストラリアから見た太平洋戦争」Placing Pearl Harbor and Pacific War in a Global Contex A Perspective from”Down-Under” Doug Trevaskis フリンダース大学 オーストラリア 10 15 Pearl Harbor School Visit Program, ”Witness to History” Video Conference Community Service Initiative. Paul Heintz アリゾナ記念館the USS Arizona Memorial 10 40 Developing Lesson Ideas for“Teaching Pearl Harbor through Multiple Perspectives.” Small groups Work. 「パールハーバーの授業に多様な視点を取り入れるために」小グループに分かれ,授業にパールハーバーについての多様な視点を取り入れるためのアイデアについてグループワーク。考慮すべき「大きな概念」1. 記念(Memorial)の目的 2. なぜパールハーバーなのか? 3. 「危機」としてのパールハーバー 4. それぞれにとってのパールハーバー(米国人,日本人,先住ハワイ人,世界) 5. パールハーバーの持つ意味がいかに広がって来たか?(米国人にとって,日本人にとって,先住ハワイ人にとって,その他の人々にとって) 12 30 昼食 13 30 グループワーク Group Share Lesson Ideas 教材案 各グループ5分で授業案のプレゼンテーション presentations of their teaching ideas 15 15 プレゼンテーションの後,自由討議 14 30 プログラム全体の総括と評価 16 00 東西センター会員資格授与 16 10 修了証授与 Award Ceremony and Luncheon 16 30 ワークショップ終了 Workshop Concludes 9日(土) 自主研修 路線バスにて オアフ島北部カフクポイント訪問 ホノルル市 カメハメハ大王像 イオニア宮殿訪問 10日(日)〜11日(月) 10 00 ホノルル国際空港出発 <日付変更線通過> 12 45 成田空港到着 4. 研修成果としての単元・授業案 ワークショップ最終日,3~5名の小グループに分かれて真珠湾,第二次世界大戦(アジア太平洋戦争)についての単元・授業案の作成を行った 単元・授業案(PDFファイル) 5. まとめ このワークショップに参加した印象をまとめて見たい。 このワークショップ(研修会)のキーワードは、歴史(History),記憶(Memory),記念(Memorial)ということであったが、実際に参加してみるとperspective という言葉が飛び交い(「見方」つまりここでは「歴史観」と訳すべき)、つまり多様な角度から真珠湾攻撃に始まる第二次世界大戦を検証し、日米の文化交流に発展させて、同時に教育現場にも還元しようという壮大なプロジェクトということに気付かされた。 この企画のなかでやはり気付かされたのは、アメリカ人の「戦争」に対するその考えである。我々日本人にとっての主な「戦争観」は、ヒロシマナガサキに象徴される「悲惨さ」「やってはいけないもの」「命の大切さ」が主流ではあるが、アメリカ人にとっての戦争は、「自由と民主主義そして国土を守るためもの」「だから命をかけて戦うことは英雄的なこと」「だから大戦の後も、ベトナム・朝鮮・イラクで戦い続けている」というのが、その主流である。今回集まった米国の教員たちも大半がその意識にたち、日本側参加者との意識の違いを感じた。 その中で戦争体験者の掘り起こしを続けてきた私にとって、戦争体験者の5名の方とお会いできたこと、特に真珠湾攻撃の体験者ハイランド氏との出会いは有意義な物であった。テレビ取材に向かって話した彼の "Killing people doesn t solve a thing, whether it s on a street corner, or whether it s a nation." という言葉は、「勝利主義」に傾いている米国側の姿勢に警鐘を鳴らすものであったし、ニュースキャスターの A history lesson transcending culture and language barriers.と言う言葉も私をほっとさせるものであった。 戦場となった真珠湾やヒッカム飛行場などを訪問したが、中でも印象深いものは撃沈された戦艦アリゾナの真上に建てられたアリゾナ記念館である。屈辱的な「真珠湾攻撃」に対して「国土防衛」を国民の胸に刻む国家的な「記念碑」であるが、海底に沈んでいるこの戦艦からは現在も油が漏れ出ている。その漏れ出る油は、一滴一滴まるで生きているようにそして息をしているように水面に浮き出てくるのである。 「確かにまだ、太平洋戦争すら終わっていない」というのが感想であった。
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トミー・コンリン(Thommy Conlin) 生年月日: 1922年 生誕地: アメリカ合衆国、オレゴン州ブルーリバー 所属組織: アメリカ海兵隊 軍歴: 1940年~不明 最終階級: 軍曹 部隊: アメリカ海兵隊 戦闘: 真珠湾攻撃、マキンの戦い、ガダルカナル島の戦い、タラワ島の戦い 声優: Dave Wittenberg 人物 本名はトーマス・ミッチェル・コンリン。通称トミー。 1922年に樵夫の父親とウェイトレスの母親の間に生まれる。 スポーツが得意で高校では優秀な成績を収めており卒業後はオレゴン大学に進学しようと考えていたが、両親の収入では進学が厳しかったため卵の配達で学費を稼ぎつつ地元の図書館で勉強する。 しかし、1940年にアメリカ海兵隊に徴兵される。 カリフォルニア州サンディエゴで新米訓練を終えた後にハワイ州オアフ島のパールハーバーに転勤、1941年12月7日に日本軍による真珠湾攻撃に巻き込まれる。 ガダルカナル島の戦いでの功績でメリット・”レッドマイク”・エドソン大佐から銀星章を受章する。 ちなみにガダルカナル島にいた時に基地のパイロットから航空機の基本操縦方法を学んでおり、土壇場でSBD ドーントレスのパイロットになったは時に初操縦にもかかわらず日本海軍の空母と駆逐艦を一隻ずつ撃沈するという超神業的功績を挙げた。 出演作品 メダル オブ オナー パシフィックアサルト(主人公) コメント スパム対策につき閉鎖中
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日米交渉 真珠湾攻撃 マレー作戦 インパール作戦 キーワード 日米交渉 ドイツは第一次世界大戦に敗戦したのち、ベルサイユ条約を締結した。この条約により、領土の13%を奪われ、さらに陸軍兵力を10万人に制限されたドイツは、賠償金の支払いとインフレにより経済が破綻していた。 ヒトラーは失地回復、賠償拒否、再軍備などを訴えて国民からの圧倒的な支持を受けた。自信を深めたヒトラーはポーランドにダンチヒの割譲を要求し、侵攻した。 ドイツのポーランド侵攻は英仏に対独宣戦布告を決断させ、第二次世界大戦が勃発した。 その頃日本では、昭和12年7月の盧溝橋事件を発端として中国との武力衝突に発展していた。蒋介石政府は米国からの大量の援助を受けていた。 関係が悪化していた日米だが、日本側としては米国との開戦は絶対に避けなければならないとの立場を強め、米国との交渉を進めていく。 野村吉三郎駐米大使は、コーデル・ハル米国務長官に日米諒解案を提示した。諒解案を受け取った米国政府は以下ハル四原則の立場をもとに米国修正案を回答した。 一、一切の国家の領土保全および主権の不可侵原則 二、他の諸国の国内問題に関する不関与の原則 三、通商上の機会および待遇の平等を含む平等原則 四、紛争の防止および平和的解決ならびに平和的方法および手続きによる国際情勢の改善のため国際協力および国際調停遵拠の原則 野村とハルが中心となり日米交渉が続いたが、折り合いがつかず、米国から提示されたハル・ノートを最後通牒とみなした日本は米国開戦を決意した。 真珠湾攻撃 海軍の軍令部では、石油等の資源確保のため、まずはオランダ領東インド(現在のインドネシア)を中心とする南方を攻略する作戦を計画していた。しかし、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、南方作戦の最中に米艦隊から攻撃を受けた場合に防ぐことができない可能性を指摘。初めに制海権を確保する必要があることを主張し、真珠湾の米太平洋艦隊を奇襲攻撃する計画を立案した。最終的には山本大将の職を賭した説得により真珠湾攻撃が実行されることとなった。 南雲忠一中将率いる航空艦隊は、1941年11月16日に択捉島を出航。12月8日、6隻の空母から発進した第一次攻撃隊183機はオアフ島の米軍基地を攻撃し、真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊の戦艦4隻を撃沈させるなど大きな戦果をあげた。 マレー作戦 真珠湾攻撃に先立ち、山下奉文中将率いる第25軍がマレー半島北部に上陸した。英国の極東における最大の軍事拠点となっているシンガポールの攻略を目的とするためである。 マレー作戦が開始されると、マレー侵攻を阻止すべく、最新鋭の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする英東洋艦隊がシンガポールを出航した。 12月10日、サイゴンの基地航空部隊を出発した索敵機が、クワンタン沖で英艦隊を発見。陸上攻撃機約80機による攻撃により、プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス共に撃沈した。 マレー半島に上陸した日本軍は途中英印軍との戦闘に行いながらも1100kmを縦断し、上陸から55日目の1942年1月30日、シンガポールを望むジョホールバルに到達した。 2月9日、シンガポール島に上陸した約6万人の日本軍は、2月11日の紀元節(神武天皇の即位日)までにシンガポール占領を目的としていた。しかし、英印豪軍約13万人との激戦により、紀元節を過ぎても一進一退の攻防が繰り広げられていた。2月15日、英軍から停戦の申し入れがあった。同日19時、山下奉文中将は英印軍総司令官パーシバル中将とブテキマにあるフォード自動車工場で会見、英軍の降伏により停戦を迎えた。 インパール作戦 イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を求めてきた。日本軍はチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)に協力し、インパールを奪取するため3コ師団を送りこんだ。日本軍約7万8千人とインド国民軍約1万5千人によるインパール攻略作戦は、コヒマを占領しインパール周辺まで進駐した。しかし、空輸による潤沢な補給を受けるイギリス軍に対し、食料弾薬の補給が途絶した日本軍とインド国民軍は、1944年7月2日、ついに撤退を余儀なくされた。 この作戦により、日本軍約4万9千人、インド国民軍約3千人が戦死した。 キーワード A級戦犯 東条英機、木村兵太郎、板垣征四郎、土肥原賢二、松井右根、武藤章、広田弘毅、畑俊六、荒木貞夫、梅津美治郎、小磯国昭、南次郎、大島浩、鈴木貞一、佐藤賢了、橋本欣五郎、嶋田繁太郎、岡敬純、白鳥敏夫、賀屋興宣、木戸幸一、平沼騏一郎、星野直樹、東郷茂徳、重光葵、永野修身、松岡洋右、大川周明
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博士の独り言 敷島人の眼で「百年後」を観る なぜ博士の独り言は「カルト対策」を扱うのか 執拗な罵倒、中傷を受け 重要なお知らせ 百年後の日本 (第一回)まえおき 草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN ソ連の偵察機が沖縄本島領空を侵犯。自衛隊機が初めて実弾警告。 衆院憲法審査会 9日開催予定 与党側会合に維新 国民も参加へ 高市政調会長、北京五輪の外交ボイコット「打ち出すべき」 真珠湾攻撃-日本が米英に宣戦布告。 日本、北京五輪に閣僚派遣見送り検討 水間条項 ●超拡散:動かぬ証拠『安倍晋三首相の終始一貫した『政治哲学』はGHQ占領下以来の日本『解体』政策だった」 ●拡散宜しく『松下玲子武蔵野市長(吉祥寺)の外国人に与える条例投票権への抗議要請例』 ●拡散宜しく『眞子内親王殿下「結婚反対サイレントデモin日比谷公園」日本みつばちさん潜入レポート』 緊急拡散『「LGBT」(性的少数者)を過度に擁護する法案は「伝統文化破壊法案」であり旅館業界に壊滅的な被害を与える』 ■緊急拡散『眞子内親王殿下・小室圭氏が10月26日に行う記者会見の「日」は初代内閣総理大臣伊藤博文が暗殺された「日」であり記者会見は皇居以外でお願いいたします』(ジャーナリスト・近現代史研究家;水間政憲) 月見櫓 韓国人の教条主義 日本で韓国人が暴行に遭う? 再開 愚痴、あるいは言い訳 韓流ピグマリオン効果 ねずきちのひとりごと 真珠湾攻撃と人種差別問題 鳴門の第九 松江豊寿大佐 橘中佐と遼陽会戦 法より慣習が優先する国とは リーチェンの桜の木・・・肥沼信次博士物語
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パールハーバー教育ワークショップ(短大・大学教員用) History and Commemoration The Legacies of the Pacific War 2010年度ワークショップの応募概要を追加しました。今年度の応募は3月2日締め切りです。応募用法をご確認のうえ、osakis[at]eastwestcenter.org (atは@に置き換えてください)に応募書類をお送りください。詳細は左のメニューから応募資格・応募方法をクリックして見ることができます。 2004年より、ハワイ州のホノルルの東西センター(East West Center)でパールハーバーを題材にした中高教員用のワークショップが始まりました。2005年からは日本からの教員も参加するようになりました。1 週間にわたり、日米の教員がディスカッションをしたり、フィールドワークに行ったりなどして、歴史の理解を深めると同時に相互交流を深めてきました。 2010年夏からは内容と対象を一新し、History and Commemoration The Legacies of the Pacific Warとして、大学研究者・教員向けのワークショップとなります。期間は第一期が7月25日(日)から7月30日(金)、第二期が8月1日(日)から8月6日(金)まで。 プログラムについて パールハーバー教育ワークショップはハワイ時間の1941年12月7日の朝に起こった日本軍による真珠湾攻撃の意義を多角的に捉え、教育に還元しようとする試みです。単に軍事史を研究するものではありません。真珠湾攻撃を20世紀の日米関係や帝国主義・植民地主義等広い枠組みで考えると同時に、攻撃が今日、日米でどのように記憶されているかを検討します。また攻撃の影響をアメリカの軍隊の観点からだけではなく、日系アメリカ人や、女性をはじめとする他の一般市民の視点からも考えます。さらにパールハーバーの軍事化について、ネイティヴ・ハワイアンの研究者の意見を聞きます。「真珠湾攻撃」と一口で表現されることを、時間的にも空間的にも、より広く深い、多角的な視座から考えます。講師にはジェフリー・ホワイト、戸谷由麻、ジョナサン・オソリオ、ウォーレン・ニシモト(以上、U of Hawai i at Manoa)、米山リサ(UC San Diego)、テッサ・モーリス・スズキ(ANU)、キース・カマチョ(UCLA)、矢口祐人(東京大学)が予定されています。 さらにセミナー室を出て、バスや船に乗ってフィールドトリップにも行きます。実際に攻撃が行われた軍事基地(一般の観光客は入れないところです)へ行き、現場を見てその当時のことを学びます。 また攻撃を体験した兵士や市民との交流会も行います。かれらが65年以上も前のこの攻撃をどのように記憶しているのか。その体験を今後の日米関係にどのようにいかしていくべきかを考えます。上の写真は日本軍の真珠湾攻撃によって重傷を負ったエヴェレット・ハイランド氏(右)が、ワークショップで米国側コーディネーターのダニエル・マルチネス氏(左)と対話しているときのものです。 ワークショップのいちばんの意義は、日米の教員が同じ部屋で一週間にわたりともに学ぶことです。さまざまな意見を交換することで、パールハーバーの理解にとどまらず、相互の研究や教育理念についての理解を深めることができます。 2005年より昨年までのワークショップは中高教員を対象にしていました(その成果は教材サンプル集をご参照ください)。今年は短大・大学で教える研究者・教員を対象とし、教育のみならず、学術的な意見交換を促進したいと考えています。アメリカ側の参加者は主に短大(community college)の教員です。かれらと積極的に交わり、ワークショップ後は日米の学生間の相互交流に取り組んでくださる方を募集します。参加者には往復の旅費(エコノミー航空券)、宿泊費(ハワイ大学内の寮)、および食費・雑費として250ドルが支給されます。 なおプログラム内容等の詳しい情報についてはEast West Centerにある2010年度のワークショップの情報をご覧ください。