約 1,371 件
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/37.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 50 31 ID NBiHEQOO0 495 >孫ピンは実質将として軍を率いた ってどこから?単に身体的な問題だというのなら、それこそわざわざ田忌を名目上の 司令官にもってくる必要もなく孫ピンをそのまま将に任命すればいい。しかし彼が任 じられたのは田忌の参謀。 あと 488 趙奢っていつのまに確定に入っていたの? 彼は将としての才能があったのかもしれないが、実際に歴史上では将としては記録を 残していない。 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 00 52 22 ID NBiHEQOO0 あらなにかおかしなことに。 501の最後の二行は、「~田忌の参謀」の後にはいります。 503 岩城 2007/01/20(土) 01 04 43 ID 3rKkmY6H0 501 でも作戦立案は参謀である孫ピンの役目だろ? そんでもってちゃんと勝ってるし。 ・・・でも将軍に任ぜられなかったってことは将に必須の指揮統率能力において 孫ピンは田忌に及ばなかった、ってことになるんかな? いやしかし入墨者(罪人の証) を士卒の上に立たせるのが憚られたとも考えられるし・・・なんかわからんくなってきた。 494 悪い。擁護しようとしたがおれの腕ではこのへんが限度のようだ。苦手な時代に首突っ込むと怪我するな。 504 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 07 42 ID /jn8HMOr0 503 トリ=トリップ 名前欄に、#のあとにテキトーな文字入れて個人識別する。 ちなみに「#春秋戦国」と入れてみる。 505 ◆JEhdU3V6hU 2007/01/20(土) 01 09 57 ID 3rKkmY6H0 504 おお。なるほど。そんじゃ俺は#岩城でいいわけだ。早速やってみるよ。サンクス。 506 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 11 30 ID /jn8HMOr0 505 いや、バラしたらトリップの意味ないやんw あくまであなたしか知らない「文字」入れないと、 コテハンと一緒で他人が成りすましできるでしょ。 507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 01 12 48 ID wBaZAhww0 ネット初心者か……道理であれくらいの煽りで過剰反応して、スレを混乱させた訳だ 本来なら2ch初心者ですら半年間ROMってるのが優良ねらーってもんだが トリもコテも板の最初のガイドに載ってる 聞く前に自分で調べる。ここは普通の掲示板じゃないので初心者には冷たいのです ついでにメル欄にsageと入れればスレは上がりません 508 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/20(土) 01 13 52 ID 3rKkmY6H0 そやね。そんじゃ、今後自分しか知らん言葉を使おう。 いやぁ、ええもん教えてもらった。感謝感謝。 509 ◆ExdqqU82h. sage 2007/01/20(土) 01 16 12 ID /jn8HMOr0 507 まあいいじゃん。 数少ない(?)中国英雄ファン同士マターリいきましょうや。 510 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 01 27 26 ID wBaZAhww0 509 中国史ファンである前にちゃねらーでもあるので、溜息一つぐらいは尽きたくもなるけどな 508はここが中英板でよかったな。住人の質によっちゃ叩かれてたろ 次から空気嫁よ 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 02 09 14 ID XeTJqHmRO 半年ロムってろってギャグだからな? ちゃんと理解してるよな? 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 02 50 21 ID wBaZAhww0 半年ロムはギャグというか煽りの常套句だけど 実際、2ch素人はROMから始めた方がいいのは真理だよ 513 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/20(土) 05 11 03 ID j4er0kts0 いや、案外ギャグと思えなかったり。 ・・・あのときの俺、キレて頭に血が上ってたし。 まぁ相手にも不快感与えたし、スレ全体に嫌な雰囲気残したしで反省はしております。マジで。 ROMから、というのは一応、一年間くらいあっちこっちのスレに首突っ込んで「面白そーやなー」とは思ってたわけですわ。 そしたら「中国」「名将」で検索したらここがヒットして、こりゃ参加せねばなるまいと。 まぁ実際参加したのは後漢からだが、非常に楽しかったわけです。全時代にわたって叩き台出しから議事進行まで自分の裁量で進行できたし。 でもチョーシ乗るとあかんね。今後の戒めとして「今後キレたらスレから永久撤去」という俺ルールで自分を律しようと思っております。 まぁ、言い訳以上。 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 06 45 45 ID enTCR6aw0 コテつけてるとまたそれが原因で荒れかねないから 自己主張もほどほどにな 515 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/20(土) 07 16 42 ID Kb8yrJ6o0 2年ほどにちゃんやってるが、トリのつけかたは知ろうとしなかった。 おもしろそうだからやってみる。 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 09 13 13 ID ErAzpK8oO 503 サンクス まあ仕方ないよw W孫子大好きな俺でも上手く説明できてないのに。孫ピンは記録が少ないことだし・・・ 俺の知ってるかぎりでは孫ピン、ホウ涓は兵法丸暗記のまぐれ屋では無いとおもうけど・・・ あと、参謀ていうか一応斉の威王に軍師として任命されてるんだけど・・・ (最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している) 競馬で三回中二回勝つ方法を提示、田忌がその才能の凄さに驚き、 威王の前でも同じことをやってみせ、威王もその才能の凄さを認めたんだよ。 (競馬はあくまでも切っ掛けだからな) あと斉の将軍であり、推挙してくれた田忌の顔を立てたんじゃないか? 孫ピンも田忌にはいろいろ恩義があるし、実力さえ試せれば地位など関係なかったと俺は推理。 さっき終わりにすると言ってまた語ったがこれで最後にするから突っ込みは勘弁なw 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 11 28 00 ID PagI/FoR0 作戦立案すればいいなら孫ピン以外の参謀も名将に入れていいのか? 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 12 02 01 ID PazvjKyM0 516 孫ピンが名将に上がること自体には反対はしないが・・・ 最初、威王は将軍に任命したが孫ピンは自分が無実とはいえ刑余の身であることを理由に辞退している 将軍に任命されたからといって、将軍としての実績がない以上、適正がある証拠にはならない かつ孫ピン自身の辞退の理由が、そのまま将軍に適さない(将帥としてのカリスマ性などの欠如)ことの証明 競馬云々の逸話 作戦立案能力の才能があるという裏付けにはなっても、将軍としての才能とは全く関係ない 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 12 37 29 ID PazvjKyM0 518 訂正 将軍としての才能(誤)→将軍としての統帥面の才能(正) 520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 05 36 ID wBaZAhww0 もうこうなったら田忌の方を推薦した方がいい気がしてきた 有能な部下に支えられるのも将軍の才能の一つだし 521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 19 48 ID PazvjKyM0 田忌+孫ピンあたり、セットで考えた方がしっくり来るケースは、2人で1人分ってのは駄目かね 孫武+伍員あたりもそういうくくりで考えるとか・・・ 522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 13 59 08 ID 6Y2VCu6m0 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以上の7名が確定組 田忌+孫ピン 孫武+伍員 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2名組4名で2人分確定 特例を認めてもらう代わりに、この9名分で 選定終了でもいいかもしれない。 もしくは、残り1名を選定してもよいがね。 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 36 31 ID PagI/FoR0 特例には反対だな 人数合わなくなるし 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 36 59 ID 7Q2ZlK8g0 楚の荘王(熊侶)を推薦した 457だけど廉頗が確定で楚の荘王(熊侶)が落選とは・・・orz 楚の荘王(熊侶)の軍事的功績は凄いものがあると思うぞ。 一応春秋五覇に名を列ねてるし、士会を推薦してる人もいるんだし・・・ 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 14 46 25 ID wBaZAhww0 信陵君もどうなんだ?って話が出たような・・・ 526 522 sage 2007/01/20(土) 15 17 54 ID 6Y2VCu6m0 あくまで、推薦してる人間の多さで絞っただけだから、 適切に修正してください。 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 15 23 56 ID oLePAn9+0 趙の武霊王も、戦闘に本格的な騎馬を導入して 秦に対抗出来るまで国力を上げたところはなかなかだと思うけど ドウデスカネ 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 16 12 33 ID PazvjKyM0 戦国の方が圧倒的に多いし、春秋から 457氏推薦の楚の荘王に一票 あとは戦国の候補入れ替え調整要否の議論してみては? 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 16 21 47 ID 6Y2VCu6m0 524 荘王時代の楚の軍事功績は、確かに凄いのだが、 全ての戦いで、荘王が陣頭指揮をしていたかが、 不明瞭なのが問題ありかと思う。 荘王自身の功績が明らかなら支持する人も増え るでしょう。出展があるならご教示ください。 これだけだと、なんなので廉頗についての説明 廉頗 秦を討ち、昔陽を取る。斉を破り、陽晋を陥とす。 これらの功により上卿に任ぜられる。 上卿になった後は、長平の戦いの防戦の後、魏を2 回、燕を3回討っている。 こう書くと割とパッとしない戦歴に見えるが、長 平の戦いで大軍を失った後も(李牧が趙の国防を 背負っていた頃と似たような勢力関係でもある。) 西に秦、東に斉という大国に挟まれた地理関係で、 趙が国を保てたのは、廉頗の存在が大きい。 (廉頗のソースはWebなので、大いに突っ込みを入 れてください) 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 17 01 31 ID yekxWgzM0 廉頗って、長平で惨敗した趙を舐めた燕王が大軍を差し向けてくるんだけど、 数倍の戦力を樂乗とコテンパンに破って、逆に燕の本土まで攻め入ってるよね 戦国趙では野戦攻城で最も働いてるし、ほぼ負けなしだけど、ただ当時の有名な 名将とは殆ど戦ってないといったあたりがマイナス要素 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 17 21 37 ID k4aCH2Ip0 レンパさん名将には全く異論なし 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 26 10 ID 6Y2VCu6m0 伍子胥・孫武 呉王闔閭の代に小国であった呉に仕え、富国強兵を行う。 当時の中国勢力圏の3分の1ほどを占める超大国楚の首都 を奪い、滅亡寸前まで追いつめる。 次の呉王夫差の代に滅亡するまでに、春秋戦国時代におい て、唯一と言っても過言ではないレベルで呉の名を残すま での輝かしい功績を残す。 (夫差は国を滅ぼしているのでマイナスが大きい) 楽毅が燕を富国強兵し、斉を滅亡寸前まで追い込んだこと に匹敵すると思う。 前スレでは、孫武は将じゃないと云う意見が多かったのが、 難点ですか。 533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 35 02 ID /Kh3ZoCa0 魏・燕・斉を滅ぼした王賁がどうしてノミネートされてないんだ? あと、李信や蒙武といった、 始皇帝の統一戦の名将が王翦以外に、 候補に挙がっていないのが不思議。 魏ゼン、樗里疾の宰相コンビも、十分な実績があると思う。 534 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 21 39 20 ID NBiHEQOO0 史書では、将とされているんだけどね。>孫武 ただそのわずかな記録をみても、孫武個人が将としてどう働いたのか、どんな功績を 樹てたのかが不明なのがいたい。 征楚戦については、どこまでが孫武の功績でどこからが伍子胥の功なのかと区分けが 出来ないってのが、この二人を評価するのを難しくしている。 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 22 16 38 ID 6Y2VCu6m0 春秋は個人の軍功について記載されている資料が少ない 気がする。だから五覇などの評価が難しい。 五覇以外に司馬穰苴なども候補に挙げるくらいはしてもい いんだけど、なかなか難しいね。 533 ノミネートするのであれば、その理由とともに推薦してください。 個人的には強国で、ほとんど負けしらずの時代の将は、特筆 するだけの功績がないとなあと思います。 この時代で特筆する秦将は、白起と王翦かと思います。 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 15 57 ID NBiHEQOO0 535 その理屈だと、商オウの改革前でまだ大国になっていない(小国でもないけど)秦の時代に 五カ国連合軍を撃破して対趙・魏・楚戦で活躍、負け知らずの樗里疾などは確定入り? 533 そのあたりは、活躍した諸将の代表としてって面もある。 537 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 21 38 ID 7Q2ZlK8g0 529 楚の荘王(熊侶)について 晋と激突したヒツの戦いはもちろん、戎の討伐、鄭を多数回、宋・陳・蕭・庸・百濮・舒蓼など 数々の戦闘に出陣、策をねったのは荘王自身。 春秋五覇のなかで政治家、軍人として、最も才能を発揮。 「鳴かず飛ばず」の逸話がしめすように、非常に才知に富み、ある意味狡猾でさえある。 荘王については史記・左伝・荀子などを見てくれ。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 23 36 ID 7Q2ZlK8g0 樗里疾について援護。 樗里疾(チョリシツ)は生来滑稽(円転自在)で、知恵はたくましく、秦人は彼を智嚢(ちえぶくろ)とあだ名した。 B.C.330樗里疾は右更(爵14等)に任じられ、魏の曲沃を討ち、邑民をことごとく追い出し、その地を秦の版図に入れた。 B.C.318樗里疾は秦恵文君の命で、韓・趙・魏・燕・斉の連合軍を迎え撃ち、 これと修魚に戦って、韓将申差を虜にし、趙の公子渇、韓の太子奐を破り、首を斬ること八万二千に及んだ。 B.C.314樗里疾は魏の焦を攻め降し犀首を走らせ、韓の岸門を破り、首級一万を斬った。 B.C.313趙を攻め、趙将荘豹を虜にする。 樗里疾は甘茂を恵文君に推挙し、恵文君は甘茂を将軍に取り立てた。 B.C.312楚が韓を攻めたため、秦恵文君の命で韓を助けて楚を討ち、魏章を輔佐して楚将屈カイを破り、 漢中を取った。その功で封じられ、厳君と号した。 B.C.309秦が初めて丞相を置き、樗里疾は甘茂とともに丞相となり、右丞相に任じられた。 B.C.308樗里疾は韓に出て、韓の宰相となった。このとき戦車100乗を仕立てて周に入国した。 周王赧は護衛兵を出して迎え、 すこぶる敬意を払った。 武王が没すると、昭襄王が立ち、樗里疾はますます尊重された。 B.C.306樗里疾は再び秦の宰相となった。 秦人の諺に「力は任鄙、智は樗里」というのがある。 廉頗は確定でいいんじゃないか。 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/20(土) 23 38 55 ID PazvjKyM0 536 樗里疾はもろに商鞅の改革後でしょ? 直後だからまだ効果が出てくる前だっていう意味? 540 535 sage 2007/01/20(土) 23 45 42 ID 6Y2VCu6m0 536 535の下3行は個人的な意見ですから。 樗里疾もそうですが、司馬錯も秦が強国になる 軍事的契機を作ったとも言えますね。 両者共に有力な候補でしょう。 537 楚の荘王自身の軍功であるなら、こちらも有力な 候補でしょう。 しかし、この3名を候補として決定することについて は、他の方の意見を採り入れた方がよいと思います。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 12 59 ID TkCHJ8kI0 533 ノミネート理由 王賁 魏・燕・斉・代を滅ぼした。 蒙武 王翦の副将として、楚・越を滅ぼす。 李信 遼東で燕王を捕らえる。王賁の副将として、代、斉を滅ぼす。 魏ゼン 魏の河内を攻略し、六十余城を落とした。 魏将芒卯を破り、魏都大梁を包囲した。 魏を討ち、暴鵞を破って首級四万を斬り、三県を奪った。 白起や胡傷とともに三晋を攻め、魏将芒卯を破り、 首を斬る事十万。魏の巻・蔡陽・長社・趙の観津を取った。 樗里疾は上で言及されてるからいいかな。 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 13 03 ID xxt+W++A0 途中経過を書いておきます。 確定組(でいいですよね?) 楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 審査中 樗里疾 司馬錯 楚の荘王 伍子胥 孫武 魏無忌(信陵君) 趙奢 伍子胥・孫武は、その実態が分かりづらい。 魏無忌・趙奢は、対秦戦の勝利とはいえ、 一発屋との見方あり。(趙奢には対斉戦で の功績もありますけどね) 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 00 57 02 ID jwJnnNVX0 武霊王は無視ですかそうですか 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 01 12 39 ID xxt+W++A0 武霊王自身の軍功を挙げて推薦してくださいな。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 01 21 38 ID MtB0GBoT0 武霊王…胡服騎射と中山国を滅ぼしたくらいかね?あと北方に領土を拡げた。 武霊王の初期には趙は秦に負け続けなんだが、これはまだ幼君の頃だしな。 まあ、趙奢よりは有力な候補じゃないかと個人的には思う。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 05 17 17 ID HsOq6oJZ0 537楚の荘王(熊侶)について投下。 楚軍が鄭軍を討ったとき、鄭は陳と共に楚への服従を誓う盟約を交わしたが、 すぐさま晋が鄭へ圧力をかけたため、鄭は楚に背いて晋に屈した。 まさに「日の出には楚へ隷従し、日の入りには晋へ平伏す」 といったどっちつかずの外交策で、両国から怒りを買っていた鄭の裏切りに激怒した荘王は 紀元前597年、大軍をもって鄭都を包囲。 三ヶ月の攻防の末、晋からの援軍も期待できないと万策尽きた鄭伯襄公は降伏した。 楚では降伏してもいつ裏切るかわからない鄭など滅ぼしてしまった方がいいという家臣もいたが、 荘王は鄭の存続を許し、器量のあるところを見せた。 絶纓の会の時、后の着物に悪戯をした蒋雄に対し機転を利かせ不問にした。 それに感激した蒋雄は荘王が秦に囲まれピンチに陥った時、命を張って荘王を助けた。 器量の大きさはプラスαにならないか? 547 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 06 45 58 ID OFEn38vU0 これまで伍子胥を推してたわけだが、 孫武と伍子胥はどっちかに一本化したほうが有利かも分からんね。 俺はエピソード的に伍子胥の肩持ちなんだけど、総じてみると自ら軍事理論を構築し、 実戦でそれを証明して見せた孫武に託したほうがいい気がしてきた。 伍子胥は夫差を諌めすぎて自刎させられてるし、孫武はその辺どうなんやろ? 身を全うしたのかな? 548 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 08 05 33 ID OFEn38vU0 時間空いたけど連投。趙の武霊王に対抗してこの人を。 【秦の繆公】 即位後間もなく、自ら兵を率いて茅津を伐ち、勝った。 賢臣・百里奚と蹇叔を獲る。 某年秋、自ら将として晋を伐ち、河曲で決戦、戦勝。 驪姫の乱を避けて秦を頼った夷吾を保護、百里奚に軍を率いさせ夷吾の入晋を助ける。 夷吾は晋公となった暁には「八城を割いて秦に献上する」と約束したが、 位に就くと約束を反故にし、使者を殺した。丕豹はこの背信に乗じて晋を撃つべしと主張したが、 繆公は「晋君と百姓は心が通じ合っている」としてこの件を不問に付した。ただし心の中で丕豹の言を重用した。 繆公十二年、旱のため食糧を求めた晋に、「夷吾は敵だが晋の百姓に罪はない」として食糧を与えた。 二年後、今度は秦が飢饉となった。これに乗じて晋軍が攻め寄せたが、繆公は丕豹を将として自らも親征し、晋軍を潰走させた。 退却する晋公を僅かな麾下とともに自ら追ったが逆に晋軍に囲まれ、負傷。しかし「三百野人」に助けられて危機を脱し、晋公を捕らえるにいたる。 周室から同姓の晋公を殺さないで欲しいと嘆願され、妻にも頼まれたので処刑は取りやめ、国に帰した。かわりに河西の地を割譲させた。 繆公二十四年、晋の公子重耳を晋君として擁立した。 翌年秋、晋文公とともに周の襄王を助けて出兵、王弟・姫帯を伐ち殺した。 二十八年、晋文公を助けて鄭を囲んだが、「晋が強くなるのは秦の憂いです」というものがあり兵を退いた。 のち百里奚の諌めを無視して百里視、西乞術、白乙兵らを鄭に遠征させたが敗北、 しかしその罪をとがめず、責任は賢臣らの意見を聞かなかった自分にあったとして不問に付し、自らを律した。 戎王の使者・由余が賢明であることを知り、戎王を堕落させるために女楽を送った。 三十六年、百里視らを将として秦を撃たせ、百里視らは雪辱に燃えて勇躍奮戦し、大いに敵を破った。 三十七年、由余の策に従って戎王を伐ち、十二国を併呑し、領土千里を開いて、ついに西戎の覇者となる。 人望が厚く、死後秦人は「黄鳥を歌う」の詩を作って英霊を称え、殉死するもの百七十七人にのぼった。 ・・・将軍に任せてることも何度かあるけど、たいていの場合親政して勝ってるので名将といってよいかと。 この段階で候補増やすのもなんだし、審査落ちでもいいけど。 549 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 09 46 12 ID QYD6D4jYO 547 孫武は~身を全うしたのかな? 孫武は空気を読み、平和的に隠遁し、太湖のほとりあたりで静かな余生を送り、 兵法書を纏め上げたのだろうと推測してる専門家もいるけどね!! 俺もそうじゃないかなと思うな。 史記には「呉が、西方の雄、楚を破り、北は斉や晋を脅かし、 天下に名をとどろかせたのは、孫武の働きによるところが大きい」と記されてるし、 事実、江陵にあった楚の都を陥落させてる。 それを考慮して俺も伍子胥より孫武を推すよ。 あの情勢を読む鋭さ、優れた統率力と戦略戦術は侮れないものがあるし。 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 10 25 32 ID xxt+W++A0 孫武と伍子胥について補足 楚の荘王が、近隣の小勢力を吸収して確立した 版図を(その勢力から云っても凄い功績ではある) それまで歴史上で名前すら出てこなかった小国が 滅亡寸前まで追い込んだわけで、楚の荘王より 功績で上回ると思う。 551 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 12 26 46 ID OFEn38vU0 士会についての推薦文、 周室の内乱平定の功労者。呉の荘王に勝利した唯一(じゃなかったわけだが)の将軍でもある。 これだけじゃあまりにも根拠薄弱なので、春秋紀伝引っ張り出して補足。 ただし古い漢語はわからんので訳は適当。台詞とか政事駆け引きの部分は無視してとりあえず戦功だけ書いた。 【士会】 通称范武子。濮城の戦いでは若年ながら帷幄に参与し、晋軍を勝利に導いた。 趙盾が政変を起こして霊公を立てると先蔑とともに秦に亡命、将となりしばしば晋軍を破って、晋人を悩ませた。 秦将賈季とともに西戎を撃って功あり。 晋には士会とまともに戦える将がなく、中行桓子の提案で彼を晋に引き戻す策を講じた。 いろいろあって(このあたり難しくて読めん)帰国するも、趙盾を嫌いこれを患う。 景公元年、楚が鄭を伐つと上軍の将として出陣、鄭を救う。 同三年、再び楚が鄭を犯したときには楚軍を覆滅して鄭を救った。 邲の戦いで晋軍は楚に大敗、さらに七度戦い七回敗れたが、ただ一人士会率いる上軍だけは敗北を知らなかった。 七年、赤狄を撃破。 周室の動乱を平定、周の典礼に倣い晋の国法を定める。 八年、郤克が斉に赴き、笑いものにされて帰ってきた。その怒りは凄まじく、 なにがあろうと斉人を討ち滅ぼさねば気がすまない、という体であったので、士会は自ら上軍の将を降りて郤克に譲った。 その後も晋の重鎮として「晋に范武子在り。才徳諸卿に冠す」と称えられる。 権力に阿らず、人生における進退の潔さを特筆されている。 ・・・こんなもんで少しは復権したかなと。 552 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 12 53 02 ID OFEn38vU0 551 訂正。前置き文にある呉の荘王に~は楚の荘王ね。呉の荘王って誰やねん。 で、士会が荘王に大勝ちしたのは景公三年の鄭救出戦のとき。 荘王とは晋国七連敗のときにもぶつかってるんかな? そこまで書いてないからわからん。 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 12 53 07 ID HsOq6oJZ0 孫武は確定でいいんじゃない? あとは楚の荘王(熊侶)樗里疾、武霊王、王賁、蒙武、 李信、魏ゼン、秦の繆公、士会を推す人がいるし、審議中という感じか? 魏無忌(信陵君)、趙奢は一発屋だという意見も出てる。 俺も魏無忌(信陵君)が名将?と前スレから思ってた、任侠を貫いた人物としては高く評価するが・・・ 554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 13 44 53 ID gOsZQHg40 墨家集団まるまるっと含めるなら墨子もいいんだけどな 555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 14 13 18 ID xxt+W++A0 墨子は、個人的には軍を率いた将っていう気がしないなあ。 孫武が確定で、残り3名だとして、中では、楚の荘王が一番、有力 だと思う。 それと秦将を推薦してる人は、候補に挙がってる秦将の功績を 格付け(というか順位づけ)してくれないだろうか。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 14 47 22 ID HZxitqQH0 墨子よりは荘王だよなあ・・ 557 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 16 13 43 ID EuPDMnAs0 トップは荘王として、二番手あたりで士会、こんかな? 一応荘王に大勝した男だし。 まぁ勝利したっていっても戦略的歴史的にそう大きな意義がある戦いじゃなかったし、 荘王としても楚の国力がダウンしたわけでなし、負けたからって大した瑕でもないわけだが。 それでも一応勝ちは勝ち、っつーことで。敗戦記録を見落としてるのかも知れんがなんとなく生涯無敗っぽいし。 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 17 57 01 ID jG5A6EKT0 557 士会については二番手評価は疑問、推薦してる人が多数いるようには見えないのだが・・・ 敗戦は、公子雍を秦から迎えるときに趙盾に負けて亡命してるのがあるかも 士会の場合、正卿で全体の指揮権持った戦闘は赤狄討ったのと周室の乱くらい? 鄭の救援のときは正卿前だから上軍の将の時代で上軍だけの派遣で、 楚の軍もそれに応じた少なさだった=本格的な侵攻ではなかったと思われる 間違いなく名将ではあるのだが、時期に恵まれなかったという気がする 樗里疾の方が領土拡大や撃破した敵の規模の面で士会よりは上じゃない? 商鞅の改革以後、秦が一大強国にのし上がって統一に至る流れを決定付けた意義は大きい 司馬錯も蜀平定その他の功が多いけど、樗里疾で代表させるってことでどうか 541 蒙武は王翦の副将だし、王翦確定してるので不要 もし候補に上げるなら親父の蒙ゴウの方がいいんでないのかな(信陵君の連合軍に負けてるけど) 李信は楚を攻めるとき20万で十分と大言吐いた挙句、 項燕に大敗して王翦に尻拭いしてもらってるのが駄目すぎ 始皇帝に最初から20万で攻めろといわれて負けたんなら情状酌量してもよいだろうが・・・ 王賁は確かに功績多いのだけど、秦統一の最終局面で楚以外は勝って当たり前の相手 楚の攻略のときに名前が全く挙がらないあたり、親父の王翦にはかなわない 王翦に功績が集中しないように、っていう配慮で任されてた面もある 559 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 08 15 ID GwbYllVo0 確かに士会推してるのは俺一人(多分)。 実際士会は領土拡大一切してないしなぁ。 本気の大軍を動員した荘王を完膚なきまで倒したとかあればもうひと踏ん張りできるんだが、 ここは涙を呑んでもらうかな。 560 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 12 53 ID HsOq6oJZ0 522 B.C559が晋についた為、荘王が鄭を討つ。晋の士会が鄭を救援、楚軍は 水の北で撃退された。 楚の荘王の唯一最高の宿敵・士会は中国史を代表する天下無双の大軍師。 戦略と戦術に於いて桁外れに天才的なセンスを持ち、政治家としてのバランス感覚も絶妙。 当初こそ趙盾とのイザコザで秦に亡命したモノの、イザ晋に復帰するや、 常に晋の要として大活躍。晋・楚の対決ムードが高まる中、周辺諸国を圧倒したのは勿論、 疾風怒濤の北進を続けていた楚・荘王さえもボッコボコに打ち砕いた程。 (荘王に敗北の味を教えたのは、只一人、後にも先にも士会だけ!)。 郤缺と共に晋を覇者たらしめ、中原の覇者としての毅然とした態度とプライドで 楚の侵攻を抑え込んだ手腕は見事の一語に尽きるだろう。 、軍事・政治・外交に持ち前のバランス感覚を十二分に発揮し続けたのだった。 そして、後世、人々は士会のコトを懐かしみ、慕い、彼のコトをこー評価した。 「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である!」と。 逆に言えば楚の荘王は士会以外に生涯負け無しってことになるな。 561 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 18 42 ID GwbYllVo0 おお、士会推してる人俺のほかにもおった。 しかも文体が熱い!! すぐ淡白に諦めた俺とは偉い違いだわ。 562 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 18 19 44 ID 3jZN/82mO あまり熱すぎると周りは引くから注意 563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 23 55 ID jG5A6EKT0 560 すまん、俺には宮城谷昌光小説の過剰な主人公補正に毒されてるようにしか思えない つかほとんどttp //www2s.biglobe.ne.jp/~ko-ba/rekisi/aki.11.htmのNo.212のコピペだな 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 27 24 ID HsOq6oJZ0 スマン 552の間違いだ 俺は士会より樗里疾を推すよ。 士会の評価を書いたのは別に擁護したんじゃなく、公平な評価を述べただけだし、 判断はみんなにまかせる。 565 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 18 32 12 ID GwbYllVo0 <ttp //www2s.biglobe.ne.jp/~ko-ba/rekisi/aki.11.htmの212のコピペ 見てきた。ホントにまんまやん。同じ人が書いてるとかと違うんかな? 別の人がパクッとったらまずい気がするが。 566 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 18 42 07 ID jwJnnNVX0 563 と同じく またミヤギタニ信者か と思ってしまった やっぱりこぴぺかよ 567 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 07 26 ID xxt+W++A0 残り枠では、楚の荘王と樗里疾が1歩リードってところかな。 もう1名は、士会・司馬錯ってところ? 個人的には、伍子胥を入れたいけどね。評価が難しいから 仕方がないね。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 24 13 ID jG5A6EKT0 途中経過ってこんなもんかな? 確定組 楽毅 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 確定への格上げ有力 楚の荘王 樗里疾 孫武 審査中候補 士会 司馬錯 伍子胥 魏無忌(信陵君) 趙奢 趙の武霊王 ノミネートあり 王賁 蒙武 李信 魏ゼン 秦の繆公 あといつのまにか消えたけど孫ピンは結局落選? 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 50 04 ID Vd7zrGzN0 なんか時代別にスレ分けしたほうが良くない? 570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 19 58 35 ID xxt+W++A0 569 春秋戦国は、もう少しで結論が出そうなので、 その時点で時代別にスレ分けするかを決めても いいかも。 571 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/21(日) 20 08 21 ID GJB0bUMX0 【秦の繆公】 推薦理由は 548を。 それまで西戎の一国に過ぎなかった秦を西方の雄に発展させ、 秦が覇道を邁進する原点となった人物。度量も広けりゃ戦も上手い、 一代にして西方十二国を征服し千里に渡る領土を手に入れたというだけでもかなりの武功。この人はほとんど毎戦親征してるし。 せめて趙の武霊王の対抗馬として候補の端にでも昇格させたいものだが、ノミネートで終わるか? ・・・なんか俺、ここんところ標準語と地元言葉がごっちゃになってるな。なんか変な感じだわ。特に問題ないけど。 572 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 20 48 33 ID nUcG41zMQ 韓信と范蠡 573 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/21(日) 20 58 47 ID gyfAVt37O 士会を推してる人に質問なんだけど春秋紀伝って何? 左氏伝や公羊伝や穀リョウ伝なら知ってるんだけど初めて聞いた資料の名なんで。 決してあげあしをとってるんじゃなくて興味を持っただけなんであしからず。 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 20 59 30 ID jwJnnNVX0 人数少ないせいか一部の人の意見で決まってしまいそうだね・・ そういう趣旨のスレだから仕方ないか 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 21 20 30 ID xxt+W++A0 574 他の時代好きな人に迷惑になるから、早めに結論を 出したいけど、そうすると参加出来る人数が少なくの は自然の理ですからね。 576 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2007/01/21(日) 21 58 34 ID DMPP2ctk0 敗北後の処理が上手いってことで宋の目夷とかダメ? 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 01 39 ID wnmWhe3W0 1-4 中国、チベット、南モンゴル、東トルキスタンの征服者”毛沢東”を追加して下さい。 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 19 50 ID jG5A6EKT0 576 史記世家とか読む限り、名相としてならまだしも、 名将としてはお話にならないかと・・・ 具体的な将軍としての業績って記述できます? 579 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. sage 2007/01/21(日) 22 24 54 ID DMPP2ctk0 578 具体的にできないから取り下げる。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/21(日) 22 41 08 ID QYD6D4jYO 577 定義から外れてるから毛沢東は既に却下されてるけど・・・ 前の方のレス読んだか? 581 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 00 46 43 ID U+5x+ObUO いつになったら漢代の話題に入るの? 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 01 36 01 ID cmKvu9yN0 紀元前、紀元後1000年まで、近代までの3つに分けたほうがいいんじゃない 30人 40人 30人ぐらいな感じで 583 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/22(月) 02 42 23 ID w0A3XmI+0 573 春秋紀伝 24史外編っていうシリーズ内のひとつ。ホントは専攻の宋史新編だけ欲しかったんだけど、 分売不可だから30万出して全158巻まとめ買いした。 春秋紀伝は読んで字のごとく、春秋時代の人物を紀伝体で綴ったもの。史記にはない記述やら人物やら載ってるけど 文体がえらい古い漢語なうえ影印本で字が読みづらかったりする。あとなぜか呉の項に孫武が載ってない。 史料価値はまぁ、中の上ぐらい? もっと読みやすかったら評価上がるんやけど。 レスがずいぶん遅れてすいません。8時ごろから寝てました。 584 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 06 58 31 ID 0KGaXbt90 長期経済予測データ 日本VS●● http //qwe125mn.hp.infoseek.co.jp/11.html 2ちゃんねらーが言ってた事は外れたね。 585 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 10 56 56 ID orV0d1EE0 気になったけど、 538もサイト記事の丸々転載なんじゃ? 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 11 24 49 ID Waw8X6NI0 582 時代ごとの武将数に偏りが無いようにという本スレの趣旨を無視したレスだな。 前スレで時代区分を散々話し合ったのを知らんのか? 587 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 11 48 17 ID RHtWmefzO 585 樗里疾を推薦してる人が詳しい功績を示さないから 功績をサイトから流用して貼っただけじゃない? 援護って書いてるし。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 15 14 52 ID mZfeztZgO 素人に質問させてください 白起と王剪ってどっちが名将としての評価高いの? 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 18 37 01 ID RHtWmefzO 孫武の功績とその後 孫武は楚の需要拠点である舒と六の二都市を占拠。 慌てた楚は勇猛な武将に精兵を率いさせ反撃に出たが、孫武の作戦は一枚上手で逆に殲滅させる。 孫武が呉に凱旋すると占領地は敵に取り返されるが、孫武が出撃すると楚軍はいつも撤退。 そんなことを数年の間に五回以上も繰り返す。 闔廬七年、預章の戦いで孫武は楚の大軍を完膚なきまで打ち破り、楚の都、郢に迫った。 その為に楚の昭王は都を捨て楚の属国である隋に逃亡、呉軍はついに楚の国都、郢に入城。 その二年後楚が水軍を率いて呉領に侵入、それに対し孫武は水軍を編成、 長江で楚の水軍を大破させ楚軍は壊滅、敗残兵を長江北岸へ敗走させた。 次期君主の夫差の早々と器量を見切り、闔廬や伍子胥の説得を退け引退を申し出た。 それを承諾した闔廬はこれまでの功績に対し孫武に富春の領地を与えた。 それ以後、孫氏一族は代々富春で細々と兵法を教え暮らす。 以上、呉越春秋、左伝、戦国策より抜粋。 590 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 19 59 13 ID nlNMNz8o0 どうも 488です。 【確定】 楽毅 魏無忌(信陵君) 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 士会 【候補】 趙奢 ☆伍員(子胥) 夫概 ☆樗里疾 趙無恤 王子成父 先軫 ☆楚の荘王(熊侶) 蒙ゴウ 司馬錯 趙の武霊王 秦の繆公 王賁 蒙武 李信 魏ゼン 魏無忌(信陵君)は、すでに確定です。 自ら率いた兵で秦を2回も敗走させて、その内一回は 候補にも挙がってる蒙ゴウを破っています。 五カ国の兵をまとめるのも大変な統率力だと思いますよ。 孫武と士会を確定に挙げてみました。どうでしょう? 孫武が名将であるということは、比べることは出来ませんが 誰もが認めていることだと思います。 あと士会は推挙されている方の説明通りの功績と、 候補に挙がっている楚の荘王を敗走させています。 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 20 21 57 ID 91PvwxQk0 白起が指揮してたら信良君は脱糞して敗走してたと思う 592 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 20 55 02 ID rttp9XS/0 信陵君が他の確定組と戦って、勝てる気がしないんだよね。 士会も同様。戦績が少ない。 593 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 21 04 57 ID nlNMNz8o0 人にはジャンケンみたいに相性があったりしますからね 実際にどうだったかはわかりませんよ? 白起だって廉頗の長期戦を嫌って謀略で更迭させてますからね。 信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが 秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう? 蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか? 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 21 21 46 ID rttp9XS/0 593 >信陵君が名将じゃないというのなら、信陵君がいようがいまいが >秦は白起で趙や魏を滅ぼしてるはずでしょう? 白起がその凄まじい勝ちっぷりのわりに秦の領土を広げられなかったのは、 上に立つ宰相魏ゼン(この人、将軍としては本当に有能なのだが)の無定見によるところが大きい。 長期的な展望に立って、白起をコントロールできる指導者がいたら、 趙も魏もとっくの昔に滅んでいたと思う。 >蒙ゴウは、候補にも挙がらないということですか? 蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、議論の対象にはなっていない。 荘王、樗里疾らの有力候補とは一緒に考えないほうがいい。 595 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 22 03 28 ID nlNMNz8o0 592 594 士会が外されるとなると、楚の荘王もはずされますよ。 それに、今まで確定に入ってた人を1日や2日で 外してしまうのもどうかと思われます。 白起を対象にしていますが、それは無意味な議論です。 思うのであれば実際に戦わせてみてください。 ifではなく、実際に起こった事象によって選択されるべきです。 蒙ゴウはここの候補に挙がっているんです。 その蒙ゴウに勝ったという事は、ここでの判断は その候補より優秀ということです。 士会も同様だと思います。 確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 18 15 ID jlqAqn7WO 595 つまり周瑜を外すなら曹操は外れ、どちらか一方なら周瑜を優先させる、という事? 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 24 20 ID rttp9XS/0 595 >確定組みと比べるのではなく候補の中で比較するべきです。 確定組と遜色ない人物を選ぶためには、 確定組との比較も重要だと思うが。 あと、あなたは蒙ゴウが候補に挙がっていることに 随分執着しておいでのようだが、 上で述べたとおり、蒙ゴウは名前が挙がっているだけで、 議論の対象にはなっていない。 他の議論の対象になっている候補とは、分けて考えるべき。 598 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 22 26 35 ID nlNMNz8o0 596 じゃあどうやって比較するの? 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 31 58 ID rttp9XS/0 598 打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、 などなど。 信陵君、士会は上記の点において、 荘王、樗里疾に大きく劣っていると思う。 600 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 22 38 07 ID 7uObMFPV0 590 孫武は 589が孫武の功績をバッチリ挙げて来てますから確定でいいと思います。 なんか揉めてますが俺は楚の荘王に一票入れときます。 601 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 22 50 58 ID tkiMh9I3O >>583ありがとう、そんなもんがあったんだ初めて知った。 出来れば著者と制作年代も教えてもらえますか。かねがねすいません。 士会はその功績を見れば十分名将なんですが、領土を広げたわけでもなく、彼の軍事行動が時代を変えたわけじゃないのがつらいですね。 602 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 23 00 56 ID nlNMNz8o0 それでは春秋戦国時代確定は下記の通りでよいですか? 【確定】 楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 士会 樗里疾 今日のところはこんな感じでまとまってますね。 599さんの評価で行けば、魏ゼン 秦の繆公あたりで 異論が出ると思うので数日待ちませんか? 異論が無ければ確定ということで次の時代に進みましょう。 603 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 23 03 04 ID u35ztlRSQ てか孫武はなんで確定じゃないんだ? そうとう凄い戦績だと思うが 604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 06 32 ID rttp9XS/0 602 いいんでない。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 14 38 ID FHy+B08r0 結局士会入ったんだ。うーん・・ 606 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/22(月) 23 35 14 ID nlNMNz8o0 605 一応、推薦人は多いよ。 不公平にならないように、推薦人の多い人物で議論したつもりです。 信陵君は以前確定組、士会は現在のところ推薦される方が複数居る。 ですから、今居る人たちの好みだけで決まったのではいけませんからね。 好みだけで言えば、趙の武霊王を入れたいですよw 当時、騎馬といえば戦車が主流だった時代に本格的な騎馬術を 中華にもたらして異民族の脅威をなくし秦に対抗できる 軍事力を趙に持たせた人ですからね。 だからといって、戦績は楽毅や廉頗に比肩するとは言えません。 その点が残念でならない。 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 52 21 ID 2VzgALeH0 606 「歴史に与えた影響」でいけばまず外せない存在なんですけどねー>武霊王 個人的には、士会を外すのに一票。決して一発屋というわけでもないのだが。 ただ、じゃあ変わりに誰をと言われると推薦に困る。武霊王は悪くない選択 かも。中山国を滅ぼし西北に領土を拡げたという実績もある。 残り9人は賛成。しかし戦国時代に偏ったな。まあ春秋は史料の問題もあるから 仕方ないのかもしれんが。 608 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/22(月) 23 52 37 ID BosB3UtM0 とりあえず、春秋戦国時代は 602で確定で良いんじゃないかね。 次の時代に移る前に、各時代でスレ立てするかを決めないか? 後代の人は大分、待ちぼうけしている模様だし。 609 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 00 05 11 ID RD0UY7LC0 601 春秋紀伝について追記。 清の李鳳雛著。・・・清なんだ、えらく文体が難しいから相当昔の人が書いたもんやと思ってた。 帰ってきたら士会が入選? 推していた身としては嬉しいが推薦人俺一人だと思ってたんでちょっと複雑。 領土拡大してないし歴史を変えた一戦に参加したわけでもないし、そんなに優遇しなくてもいいかな~とか半分諦めてただけに。 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 08 48 ID 6ijFD4ux0 そろそろ次の時代へ移っていいのかな? まっ、俺は元と明が専攻なんで、 まだまだ議論に加われないわけなんだが・・・ 611 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 00 13 13 ID KM4omg4yO 608 変にスレを分散させるとややこしくなると思うんだけど 個人的には現状維持でいいと思う 612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 13 14 ID p+wkYiLJ0 信陵君外れたのかよ、がっかりもいいところだ 5ヶ国の連合軍を率いるなんて相当の名声がなきゃできないことなのに一発屋扱いか 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 18 23 ID 6ijFD4ux0 612 名声≠将器 614 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 23 00 ID p+wkYiLJ0 5ヶ国の連合軍を指揮できたのは紛れもなく 当時信陵君に並び立つ将器を持った者がいないとされたからだろうに 615 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 00 28 59 ID KnZjDsvl0 信陵君の将器ってのは劉邦のそれと似てる気がしないでもない。 実際に兵を指揮するより、将の将たる指揮に長けていたのでは ないかと。 616 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 00 30 10 ID ZbyiMUzQQ 韓信、項羽、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、 617 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 01 02 01 ID OHl5x/oWO 士会を外すなら田単を推す つうか一回も議論の話題に出てないんだな 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 09 37 ID 6ijFD4ux0 折角結論が固まってきたのに、また蒸し返すの? まぁ、納得いかない人がいるのなら、とことんまで話し合ったほうがいいんだろうけど・・・ こりゃ、マジでスレを分散させたほうがいいかもな。 619 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 17 55 ID KnZjDsvl0 春秋戦国で異論がある人は、統一秦~前漢時代が 決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦~前漢 時代が決定した後に、書き込みすれば良いんじゃない? 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 22 48 ID aRk32VPw0 結論案が出たばかりなのに、異論のある人の発言を封じるような趣旨の発言はどうかと・・・ 602から士会のぞいた9人確定で、次候補が順に士会、信陵君、趙の武霊王にしといてはダメか? 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 31 28 ID KnZjDsvl0 620 つまり、現状のまま、とことん結論が出るまで話し合えと 言いたいの? 広く意見を訊くなら、それなりの期間をとらないと無理だ ろうから、 619の発言をしてるんだけど。 622 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 38 13 ID aRk32VPw0 621 わかりにくくてすまんです。 620の前半は 618向け もし 620でいくにしても、決定時期は 619くらいでよろしいかと。 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 01 53 04 ID KnZjDsvl0 そいじゃあ、人数少ない時間でなんだけど。 【確定】 楽毅 楚の荘王 白起 李牧 王翦 呉起 廉頗 孫武 樗里疾 士会がとりあえず10番目の候補 ただし、10番目は他の将に入れ替わる可能性あり 春秋戦国で異論がある人は、統一秦~前漢時代が 決まるまでに、意見をまとめておいて、統一秦~前漢 時代が決定した後に、書き込みする。 ってところで、統一秦~前漢時代にバトンタッチで良い かな? 624 478 sage 2007/01/23(火) 02 50 33 ID e54nKVPx0 私は賛成。 いっそ、田中芳樹の百選で九十九人選出、残り一人は欠番としたみたいに各時代も 九人にして残り一人枠をあけておくというのもいいかも。 …と思ったが、時代によっては10人枠でも足りないなんて意見がでてるし、余計かな。 625 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 04 44 57 ID p+wkYiLJ0 春秋戦国はかなり長い期間だから春秋からまともに名将を選ぼうとすると どうしても10人からあふれてしまう と言ったら決めた枠を今更どうこうと袋叩きにされてしまうかな 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 05 33 09 ID izo+WHiD0 623 賛同します。 では統一秦~前漢にいきますか。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 09 59 39 ID 6W0hBuE60 個人的には春秋は車引きながらヤァヤァやってる時代だから 他の時代でガチで殺し合いしてるのに比べて劣って見える 628 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 10 57 00 ID 6ijFD4ux0 625 まぁ、今更時代区分議論を蒸し返すつもりは無いけど、 一応参考までに名相スレで使用されている このスレの時代区分を更に改良した区分法を載せとくね。 春秋(周の東遷~晋の分裂) BC770年~BC403年 367年間 戦国・秦・楚(晋の分裂~前漢の統一) BC403年~BC202年 201年間 前漢・新(前漢の統一~後漢の全国統一) BC202年~36年 238年間 後漢・三国・西晋(後漢の全国統一~西晋の滅亡) 36年~316年 280年間 東晋・五胡十六国~隋(東晋の建国~隋の滅亡) 317年~618年 301年間 唐(唐の建国~唐の滅亡) 618年~907年 289年間 五代・北宋・遼(唐の滅亡~南宋の建国) 907年~1127年 220年間 南宋・金~元(南宋の建国~元の北走) 1127年~1368年 241年間 明(元の北走~清の入関) 1368年~1644年 276年間 清(清の入関~清の滅亡) 1644年~1912年 268年間 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 12 41 18 ID chwlD3EDO 625 628 春秋戦国がせっかく落ち着ついたんだし、 第一、時代区分はみんなで論議して決めたことだしこのままでいいだろ。 589で孫武の功績を挙げた者だけど自分が一押しの武将を確定させたいなら、 士会・荘王や樗里疾みたいに功績や推薦理由を具体的に述べたほうがいいと思うぞ。 ほぼ結論が出ようとしてる段階に文句いうのはどうかと思うけどな。 孫武は功績があやふやだったからキッチリと功績を挙げたんだし、その方が議論しやすいだろ? とことん論議して落選になっても趙奢、伍子胥、孫ピンを推薦した人は文句は言ってないんだし、 みんなも納得するだろ? どうかなこの意見。 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 17 07 09 ID izo+WHiD0 627 >個人的には春秋は車引きながらヤァヤァやってる時代だから http //www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3816/rekisi/heisei/ss3.htm 631 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 17 38 30 ID r8P8dcGc0 628 思いっきり蒸し返してる件について。 だけどなかなかいい区分だと思うw 632 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 20 10 45 ID KnZjDsvl0 とりあえず一段落ついたんだし、春秋戦国についての書き込みは しばらく自粛しようよ。 633 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 47 47 ID cFdoig8J0 【名前】趙充国 【推薦理由、というか具体的武功】 1/2 武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。 沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。 弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。 趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。 昭帝のとき武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し、西祈王を捕らえた。 中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光とともに宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。本始年間(前73-前70)、 蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、 示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を 無駄に殺したので羌族は叛乱、匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。 前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。 ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国にに諮った。 『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、 『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』 趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、実地の地図を 描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』 前61年、現地入り。目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、 叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、 行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。 このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。 634 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 48 21 ID cFdoig8J0 2/2 彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、 趙充国に彼の部下として働くよう下命した。趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、 同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。 趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。 詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。趙充国は罕羌、幵羌の 地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。 趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、 さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、 一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、 騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、 国庫は以前に比べて大いに潤った。 趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、 黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって 羌族の叛乱は徹底解決を見た。 のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 ・・・《漢書》趙充国列伝を自分なりに訳して削って書き込んだしろものなんで、間違ってるとこもあるかも。そのときはご容赦を。 635 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 20 50 52 ID cFdoig8J0 633 634 一応統一秦~前漢に入ったって事で書き込み。 2つに分けにゃならんとは思わんかった。 まぁ、項羽は俺が挙げんでも誰かが推薦するやろ、っちゅーわけでこの人。 636 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 20 54 12 ID izo+WHiD0 【名前】周亜夫(父) 【時代】前漢 【推薦理由】呉楚七国の乱の時、大尉であった周亜夫は将軍に任命された。 その際何度も反乱軍に攻撃を仕掛けるように景帝に命じたのにも関わらず、反乱軍じは勢い盛んであるが、大儀に背いているため、長くは持たないと見たと判断し、周亜夫は守りの戦略を貫いた。 果たしてそのうちに反乱軍は我慢しきれず、何度も戦いを挑んできたが、 それでも周亜夫が動かず、また奇計で虚を突く戦法をとっ手も、すべて周亜夫に見破られた。 反乱軍が最後に仕方なく撤退したが、この機に乗じて周亜夫は精鋭部隊を率いて追撃し、大勝利を納めた。 文帝は、あの男こそが、真の将軍たる人物だ。」 と、彼を褒め称え、死に際しては皇太子の劉啓(後の景帝)に向かって、 「もし大掛かりな戦争が起こったならば、周亜夫を軍の総帥にして事態を解決せよ。」 と遺言したと言われてるし、実際その通りになった。親の七光りにならないみごとな活躍振りを強く推薦したい。 637 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 13 00 ID KnZjDsvl0 途中で改行入れてくれ それとあまり長くても推薦としては却ってマイナスに なる気がする。適当に要点をまとめてくれ 638 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 21 18 49 ID cFdoig8J0 637 すまん。あれもこれも入れんとなぁ、とか思ってたらえらい長くなった。 あれでも相当削ったんだが。 次回から気をつけるんで今回は大目に見てくれると助かる。 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 19 14 ID 6W0hBuE60 やっぱ戦歴の点で厳しいなぁ>周亞夫 もし周亞夫を入れると、似たような王守仁も入れなきゃならなくなる 640 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 21 35 05 ID KM4omg4yO やっぱり周亜夫は一発屋のイメージが… 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 36 44 ID e54nKVPx0 623 でひとまず確定、次の時代へということでオケ? いちおう区切りとかは入れとこうぜ。あと次の議論時代の候補者リストとか。 642 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 21 40 17 ID cFdoig8J0 忘れてた。 統一秦~前漢 【確定組】 韓信 霍去病 衛青 灌嬰 【候補】 項籍(羽)、周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 とりあえず周亜父と趙充国に一票ずつってことで。 643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 21 43 46 ID KnZjDsvl0 比較のポイント 599から 打ち破った敵の強さ、勝利の数、切り開いた(守り抜いた)領土の大きさ、 などなど。 記載例 589 638 別に責めてる訳じゃない。 台詞的な部分は出来るだけカットすると書きやすくなりそうだね。 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 21 58 52 ID wbPilzaYO なんでスレわけないの? ここを本スレにして時代区分でわけてスレ立てたほうがいいってのが主流だと思ったんだけど あんまり長く待たせると議論したい人がスレから離れていってしまうよ 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 06 08 ID KnZjDsvl0 スレ分けの話は、統一秦~前漢の選考が本格化する前に 話し合って方が良いとは思うけど。 なんか、スルーされてるんだよね。 646 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 07 22 ID P7h0ddan0 644 今のレス数なら、スレ分けする必要もないんじゃないかな。 むしろ、細分化された各スレが共倒れになることを恐れる。 647 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 22 55 54 ID izo+WHiD0 639-640さんより戦歴が厳しい、一発屋との指摘があったので投下。 紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、 文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。 その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、 周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで 軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、 文帝一行を陣内に入れささなかった。 この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、 周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。 文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。 将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。 こんな感じでどうでしょうか? 周亜夫は決してだだの一発屋ではないですよ。 王守仁が入る入らないは別として王守仁を過小評価し過ぎでは? 648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 23 08 31 ID e54nKVPx0 自分の知らない、詳しくない時代のことを説明されるのはそれだけで楽しいと 個人的には思っているので、このままでいいと思う。 変に細分化して衰退してもね。時代スレごとで選定基準が微妙に変化していく 可能性もあるし。 649 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/23(火) 23 12 12 ID cFdoig8J0 煩雑を避けて簡潔にしてみた。 【名前】趙充国 【時代】前漢 【推薦理由】 武、昭、宣帝の三代に仕えた、西漢王朝随一の将軍にして政治家。 ひととなりは沈着にして勇猛。智謀あり、若い頃から将帥の品格と 態度を備え、好んで兵法を学んだ。 天漢2年、副将として匈奴討伐に全身に出征するが逆に囲まれる。 20の創を負いながら李広利を救った。 昭帝のとき武都の氐族を平定、西祈王を擒らえる。 大将軍霍光とともに宣帝を擁立、佐命の勲により営平侯とされる。 本始年間(前73-前70)、匈奴討伐に出征、 大勝して凱旋、ふたたび後将軍となる。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、西漢王朝における 羌族対策の主要人物として活躍、「戦わずして降す」を根本にすえて 敵の首魁、先零羌のみを撃ち、罕羌、幵羌らは不問として投降させた。 屯田策を上奏、財政を潤沢とする12の方策を奉じる。 短い任期の間についに叛羌を感服せしめた。 前60年時点で漢に降伏したもの3万1200人、黄河或いは湟水に 飲まれて死んだもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、 南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の 大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順、 ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。 老齢により致仕。引退しても国家が往年のように少数民族問題に 直面すると、常に請われて謀に参与した。前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 むやみに兵を動かさず、最小限の用兵で敵を威服させる才覚をもって推薦。 ・・・まぁ、一票は一票のままやけど。 650 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/23(火) 23 29 06 ID IJhFtqvx0 とりあえず援護ということで。簡単に紹介。 【名前】 趙充国 【時代】 前漢 【理由】 李広利の失策により城を包囲され窮地に陥ると、 100人余りの決死隊を率いて自らも負傷するが囲みを突破して道を開く。 その後も度々匈奴などを打ち破り武名をとどろかせ、趙充国が軍を率いている という報告を聞いただけで十万の大軍も進攻をやめて引き上げる程だった。 羌族の巡察をしていた安国の失策により反乱がおきると、70歳を過ぎている にもかかわらず戦地に赴き反乱を制圧した。 651 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/23(火) 23 44 30 ID IJhFtqvx0 とりあえず、項羽は確定で良いと思うのだけど、どうでしょう? 史記と漢書を再び読み返し中。復習に丁度いいなやっぱり。 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/23(火) 23 51 31 ID 6W0hBuE60 647 その駐屯の逸話は文帝が誉めたってだけだし、その後一ヶ月先端を開かずにで匈奴6万は撤退してる 文帝を軍紀に従わせて歩かせたりする融通の利かない性格は後年、自身の失脚に起因するし(まあ、軍事とは関係ないけど) 呉楚七国の乱は相手が補給線を無視したり、無策に進軍したりしてしてアホなことしてるので、 周亜夫じゃなくても時間の差はあれ、制圧出来たと俺は思ってる 匈奴撃退の将軍は他の候補組も同じ連中が多いので周亜夫は厳しいと思う 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 00 06 13 ID iEZQ8Ei60 651 前々から主張してるひとりだが、俺も項羽は確定に同意 どうしていまのいままで候補に留まってるのか疑問なくらいだったし 654 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 00 46 19 ID /Yk6FYOf0 メジャーどころには、かえって欠点がクローズアップされてしまう嫌いがあるためからかなぁ。 項羽の将としての武威は、相当なものなのに、戦略的に追い詰められていく過程でマイナス評価されてしまうという感じ? 知名度の低い武将やら将軍やらは、そのマイナスが目立たない、あるいは知られていない、というところか。 655 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 00 54 06 ID nBfhw0zaO 項羽はまあ入れていいと思う 李広と李陵は有名だが活躍は個人的な武勇が主で、全軍は勿論一軍の勝利にもあまり繋がってないので外すべき あと、これは個人的感想だが田横や英布は名将と言うには小粒過ぎないかな 656 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 00 54 22 ID etJ/v/sxO 651 653 俺は逆に項羽がなんで名将なんだと思うけど・・・ パワーとカリスマだけで突っ走る猛将じゃないの? 章邯を降伏させたのは援軍が来なかった所為でもし援軍が来てたら、 勝敗はどうなってたかわからないと思うけど。 斉を攻略するもすぐに彭越に奪い返されてるし、 彭城奪還の際、漢の連合軍56万を3万で打ち破りってるけど、 相手は油断してたし、所詮烏合の衆だろ。 戦略能力は乏しいは、兵站を考えず戦線は延ばすし、人材を使いこなす能力にも欠けてる。 名将と呼ぶには無理があるんじゃないか? 657 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 03 44 45 ID o9ZmT7OGO 656 逆にあれだけインテリジェンスに欠けているくせに、 戦術レベルの優秀さ位である程度何とかなった事がスゴいと思うが (言い過ぎか?) 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 05 33 56 ID ok4go3fR0 657 同意 戦略を欠き、兵站を考えず人材を使いこなせずあそこまで勝ち続けたのが 逆に凄い 勝ち続けるのが名将なら項羽は名将でいいんじゃない? 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 06 51 18 ID YHZuWxr/0 このスレでの将の器量を測る基準は用兵の巧みさや戦術だからね。 戦略性は付加価値的なものと考えたほうがいいんじゃないの? 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 07 29 48 ID etJ/v/sxO 項羽に戦術力などあるか? ただ力で押し捲るだけなようなキガス。 章邯を打ち破りった時に背水の陣と同じこと (項羽の方が先だけどな)やったぐらいしか思い浮かばない・・・ 英布、呂布の大型版=項羽 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 07 49 42 ID Tw8nMV5M0 項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに 戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。 実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の 覇権を握っている。 (と同然だろとの突っ込みもありそう) ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではな く、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。 個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 08 05 06 ID eDoTlNQA0 項羽は名将だろう 最後はアレだが、あそこまで勝ち続けたのは凄い 項羽に反対してるのはひとりだけっぽいし 多数決ならもう確定でもいいのでは 663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 08 50 10 ID 57khU75A0 IDで見る限り、反対してるのは3名以上いる模様だが。 このスレの定義だと、項羽が名将では無いということの 方がおかしい。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 08 57 15 ID nBfhw0zaO 秦末漢初の候補から、俺は劉邦を推す 秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、 相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている 対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、 かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている 敗走しても兵を韓信から吸収したりゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている 統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている 彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う 665 ◆zxnMrUfNeg sage 2007/01/24(水) 08 57 36 ID LOGOTXq10 戦略や君主としての判断能力は欠けていたとしても、 自ら率いて戦った戦闘はほとんどに勝利しています。 いくら烏合の衆だからといっても、そうそう3万程度の勢力で 50万以上の敵を打ち破るなんて芸当できませんよ。 歴史上、大軍を寡兵で打ち破った例は幾つかありますが、 ほとんど防衛戦であったはずです。それを自ら寡兵で臨んで 大軍を打ち破るという芸当はそうは無いと思われます。 これを一人の部将として考えたのなら、これほど心強いものは無いでしょう? 霍去病だって、兵は飢えてるのに自分は平気で豪華な料理を食べ 同僚の境遇を理解し同情しようともしない。 戦術には天才でも、お坊ちゃん武将です。 666 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 09 36 21 ID /Yk6FYOf0 李存勗も、戦術の天才と言われているけど、君主としては落第もいいところ。 そうそう二物も三物も天は与えていない… 与えられているのは、劉秀とか李世民とかほんの一握りのひとだけ。 項羽は陣頭指揮によって、戦闘に勝利しまくっているから名将として評価して間違っていないと考える。 667 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 09 53 52 ID IBmLhJRGO 鉅鹿の戦いにおいて秦軍の主力を打ち破ったのはもっと評価されていいと思うんだよね ただ戦略の面では劉邦(作戦立案したのは張良だけど)に結果的に負けてるのが大きなマイナスかな 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 11 54 59 ID iEZQ8Ei60 項羽の戦い方が力押しだけって、釣りかと思ってしまった 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 15 04 28 ID +jrQ2WIv0 668 急にマンガの話になっちゃった、みたいな?w 670 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 19 38 46 ID 9TSQzzaQ0 項羽を散々困らせ、得意のゲリラ戦で影から劉邦をサポートした彭越なんかどうでしようか? 彭越はたえず各地に出没し、漢の遊軍として楚軍を撹乱、撃破し、 梁では楚軍の後方の糧道を断ってますし、 それにより項羽は何度もあと一歩というところで撤退を余儀なくすることに。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 20 24 46 ID bq+qml0Q0 項羽は確定入りでいいと思う。 もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも 局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれる ものじゃあない。 「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇 の凄みを感じるのみ。 君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝では ないしな。 664 劉邦はむしろ「リーダーに戦術能力は必ずしも必要とは限らない」の好例かと。 無能だとは思いません。英布討伐など劉備個人の将としての功績もあります。 それでも、時代を代表する将とするには格落ちの感は否めません。 672 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 21 27 00 ID iEZQ8Ei60 項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。 個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。 鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと 徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。 不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。 どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後の あがきでなんじゃないかな。 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 21 47 39 ID dBLowdhJ0 項羽は、なんとなく知的に感じないところが「名」将と思わせないんだろうか? たしかに屈指の将ではあるんだけど、名将と言われるといまいち納得できない部分がある・・・ 確定に入れることに異存はないですが。 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 19 08 ID Tw8nMV5M0 逆に項羽は、もの凄い天才で、彼は真に配下の求めることを 理解できず、配下は彼の考えを理解できずに、次第に部下を 失っていったのではないかと想像してみたり。 675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 26 01 ID etJ/v/sxO 項羽が名将と言う意見が多数挙がっているので決定には意義はないけど。 俺が敢えて反対意見を述べたのは 項羽が候補止まりになっているのをなぜかと議論もせずに、 確定入りさせようとしてたからだぞ。 同じ確定させるにしてもみんなが納得する形で確定入りさせた方がいいだろ? 俺のこの意見って変か? 676 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/24(水) 22 29 40 ID /Yk6FYOf0 675 あれ? 逆に、「確定じゃなくて、なぜ候補なのか」、という話で確定要素を話していたんじゃないのかな? 前スレでは、その辺後回しにしたからなぁ。 おれはそれを辛口評価、メジャー叩きと評してはいたが… 677 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 22 33 36 ID nBfhw0zaO 671 劉邦についてその意見には文句はないが、英布や彭越、田横あたりが劉邦より軍事面を総合的に見て上とは思わないので、劉邦が落ちるのであれば彼等も軒並み落ちるということだなあ 678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 22 50 06 ID hB2A0C4P0 田横はともかく英布や彭越とは将としての能力は低いと思う>劉邦 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 10 22 ID 9TSQzzaQ0 英布はどちらかの陣営に引き込み入れれば有利ぐらいかな? 推薦した本人が言うのもなんですが彭越は項羽の行動を散々邪魔をしているよね。 それにより一局集中出来なかったのは事実では? 韓信の働きは桁外れな訳だし。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 36 09 ID nBfhw0zaO 彭越はともかく英布がそれほど優れていたというのはピンとこないなあ いや、優秀だったとは思うが、ここで名将と言われるほどだろうか? 誰か俺に凄さを教えて欲しい 681 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/24(水) 23 48 06 ID NCWSj9l+0 名将というより猛将て感じだな 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/24(水) 23 52 52 ID Tw8nMV5M0 英布 項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に 項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。 以下は戦功と関係ない部分で、秦軍数十万人を殺害 したり、一説によれば、項羽の命で、義帝を殺害したとい う。同時代の梟雄の一人 683 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 00 26 40 ID XAgmHUZR0 >項梁の軍に加わり、秦を滅亡させるまでの戦いの間に項羽から九江王に任じられる程の戦功を挙げた。 これだと、英布と同時に王に封じられた他の諸王と何が異なるのかがわからないよな。 例えば、魏豹は魏の二十余城を攻略。申陽は河南郡を平定。司馬卬は河内を平定。呉芮や 共敖もそれぞれの土地を平定し、また項羽に従って函谷関を攻撃している。 684 682 sage 2007/01/25(木) 00 43 56 ID dIy0ZUor0 他の諸王との差違は、 英布は、項羽と共に咸陽まで行軍し、 項羽の配下で唯一王に任じられている。 言うまでもないけど、項羽の論功表彰は、 自らの身を滅ぼすほどにおかしな基準で あったけど、その項羽が英布の武功は 認めていたということだよね。 まあ、それでも個人的には名将に推薦は したくない類の人だと思う。 685 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 00 54 25 ID EHeoCAvqO 項羽が認めたのは英布の戦功(能力)というより、汚れ仕事を含め項羽の忠実な将として働いたことに対する報酬と言えないかな? 勿論、無能なら忠実でも使われないだろうが、名将に入れるほどの能力の証拠にはならないでしょう 686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 01 08 39 ID XAgmHUZR0 684 魏豹や申陽も咸陽まで従軍してますよ。あと章邯、司馬欣、董翳の降服した秦の三将も。 項羽の配下という立場は、当時の彼らは変わりません。 こうしてみると、項羽によって王に立てられたものは、ほぼ全て項梁や項羽の楚軍に従う 以前に、一勢力のリーダーとして独行していた者といえる(劉邦も含めて)。 単純なエコヒイキという割には、最初から項氏集団に従っていた龍且、鐘離昧、季布という 連中は王にしていない。 まあ言いたいことは、英布は王になった前も後もそれほど優れた功績を挙げた形跡がない、 もしくは見当たらないということです。 687 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 01 19 31 ID EHeoCAvqO 項羽による天下の切り分けは、ちゃんと目的と法則があったよ 旧六国の王族を復活させる一方で、その地に実力で割拠し項羽に従った有力者にも土地を与え、王族の末裔と分割統治させている (自分以外)巨大な勢力が生まれないようにする措置だったのだろう 後の漢王朝のように反乱を監視するシステムと速やかに乱を鎮圧できる圧倒的軍事力があれば問題ないだろうが、項羽にはそれだけの実力が無かったのであっというまに破綻した あの封建の問題点はえこひいきではなく項羽の自分に対する過大評価 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 09 03 24 ID gFjGI32XO 687 要するに項羽のグランドビジョンは時代遅れってこと。 いかにも楚人らしい発想だな。 でもな不公平人事と項一族をえこひいきしてたのは事実だろ? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/25(木) 16 54 50 ID vK+RSSbVQ 項羽、彭越、章邯一票ずつ 章邯はやはり囚人ばかりの軍隊を駆使して勝ち続けたのは並大抵の将ではなかったと思うから 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 18 29 24 ID XAgmHUZR0 ではもう項羽は確定入りってことで 統一秦~前漢 【確定組】 項籍(羽) 韓信 霍去病 衛青 灌嬰 【候補】 周文、蒙恬、章邯、項梁、彭越、英布、田横、 周亜夫 、李広、李陵、趙充国、范明友、陳湯、劉邦 個人的な推薦は章邯、周亜夫、趙充国、范明友、陳湯。 691 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 18 29 24 ID gFjGI32XO 俺も章邯、彭越に一票ずついれとくよ。 章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる反乱軍を撃退してるし、 候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。 援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、 かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。 韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。 彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、 漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。 彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、 決して只のオヤジではないんじゃよな。 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 20 38 14 ID gZi5eZIz0 李広だけ候補にいて程不識がいないのはちょっと哀れ 693 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/25(木) 21 14 56 ID 4EZfoQMx0 この人の推薦者がまだいないようなので自分で書く。 【名前】陳湯 【時代】前漢 【推薦理由】 字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。 貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。 長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。 西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。 建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって 1518人を斬り、145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、 独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。 元帝はその態度を潔しとして嘉したが、 陳湯に鹵獲物着服の罪があったため 恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。 宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。 射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。 太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。 段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、 「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。 従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。 人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、 また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。 しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、 「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」 功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。 没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。 郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。 【ついでに】 楼蘭王・安帰を斬って楼蘭を平定した傳介子 蘇武に随行して匈奴に拘留されたが、 ようやく故国に帰って後将軍・趙充国の後任となった常恵 しばしば西域に出陣して手柄を立て、 車帥を破り匈奴の日逐王を殺して初代西域都護となった鄭吉 らも候補にしてはどうやろ。 前漢には初期以外名将と呼ぶに足る将軍が少ないようなんで。 694 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/25(木) 21 31 28 ID 4EZfoQMx0 693 まちがい。前漢初期以外、というより漢楚争覇時代以降。 李広とか好きやけど当世10選に入るかっていえば難しそうやからね。 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 22 29 10 ID K4t365ol0 【名前】彭越 【時代】前漢 【推薦理由】秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。 劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。 劉邦が項羽と対立するようになった時、 彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。 斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。 討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。 漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、 梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。 その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、 結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。 漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。 漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。 垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。 確かに名将に関しては 694さんの言う通りだと思います。 それは国が動乱から平和へと推移していったので仕方ないことでしょうね。 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/25(木) 23 13 33 ID RFioDuNA0 統一秦~前漢を謳っているんだったら、少なくとも蒙恬、李信、王賁あたりは入れてもいいんじゃねえ? 【名前】王賁 【時代】秦 【推薦理由】 魏、燕、斉攻略の総司令を務める 特に魏の大梁攻略戦では大規模な水攻めを行い、大梁を壊滅させて一気に魏を滅亡させている 国力差とかでケチつきそうだが、それでも軍事的功績では親父に匹敵していると言っても過言じゃない 【名前】蒙恬 【時代】秦 【推薦理由】 30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させ、漠北の遊牧世界と 中華帝国との間に画期的な防衛線、境界線を築く(その是非はともかくとして) でも、本業は明らかに文官だよなあ(実家は軍人一家だが)、最初の頃は対楚戦で負けてるのが マイナスだな 【名前】李信 【時代】秦 【推薦理由】 上記2名とほぼ同じ、秦の統一事業に大きく貢献した点を評価して 対燕戦では、寡兵で燕軍を攻め、太子丹を捕虜にしている でも、この人の場合は、代々の子孫が有名だわな 功績が分散されがちだが、英布や田横あたりよりは上に来ても良いと思う 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 02 30 10 ID 6O3G8+lJ0 696 時代の区切り的に秦の統一後にほとんど事績がない王賁と李信は対象外では? もし実績ご存知でしたらご教示ください あと王賁の実績は優秀だけど親父が前時代で確定してるからやや押しが弱い・・・ 李信は対楚戦での失態が蒙恬以上にマイナスなので苦しい 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 03 21 32 ID DEgs2M5bO 蒙恬も30万の大軍を率いて、匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させた、 斉の討伐と匈奴の押さえ役ぐらいしか功績が思い浮かばないけどな。 凄いと言えば凄いけど・・・ 699 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 12 50 22 ID 2qZgLV6hO 流れが止まってきたしもうこの時代は 韓信 衛青 霍去病 灌嬰 蒙恬 項羽 周亜夫 李広 陳湯 趙充国 の十人で確定ってことにして、次の後漢の選定に入らないか? 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 14 16 46 ID Le3dm7lhO 699 蒙恬と李広に異議あり 劉邦にチェンジ汁 701 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 14 26 01 ID mgfN0Wf2Q 俺もその二人チェンジ 章邯と彭越推し 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 14 30 32 ID 8IXy9T0C0 周亜夫も異議ありな人いるし 章邯推してる人結構いるし 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 15 47 41 ID UJQm6mqR0 李信はヘタレだからいらね 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 16 24 08 ID DEgs2M5bO 701-702に同意 統一後の蒙恬の功績は匈奴からオルドスを奪回、万里の長城を建設させたぐらいだし、 李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 07 26 ID nvlFKfQt0 名将の定義。 1敵にしたくない。 2上司にしたい。 3部下にしたい。 「一発屋である=実力が疑問」というのはおかしい。 大事なのは政権の首脳が司令官に与えた軍隊への政治的要求を、どの程度達成させたかということ。 周亜夫を外して迷子や単なる騎兵隊長を入れるのは理解不能。 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 12 12 ID ZzSFPnm10 項羽が確定に入る前は、灌嬰も項羽と比較してどうかと いう話があったな。 この時代は傑出した存在はいるけど、その数が少ないよう な気がする。 707 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 33 51 ID 8IXy9T0C0 705 一発屋である事じゃなくて 斃した相手が無能であることが外される理由になってるようだが? 708 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/26(金) 17 38 54 ID lsVncBUw0 704 <李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。 に対して陳湯を弁護。 陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、 先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、 それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。 単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。 やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか? まぁ巨星・傑物といえるかどうかで言うとそれは無理やなと思うが、 705の提唱する名将の条件のうち 敵にしたくない 部下にしたい は満たしてると思う。上司にこんな奴おったらたまらんけど。 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 17 49 01 ID vd7E7OfFO 705 その条件、2と3は曖昧な条件すぎないか? 上司は有能すぎる部下を嫌うし、部下は厳しすぎる上司を嫌うものだけど、これは名将の条件と一部重なる 処世術や人心掌握術なんかで回避できるけどそれは+αの部分でもあると思うし 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 18 09 57 ID DEgs2M5bO 708 陳湯をそこまで弁護するなら俺はこれ以上は反対せえへんよ。 ちょっと厳しすぎたか堪忍してやw ちなみに章邯、彭越の評価はどないですか? 711 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/26(金) 18 24 08 ID lsVncBUw0 710章邯、彭越の評価(ただしあくまで個人的意見ね) 章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに 個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。 彭越はみんなが言うとおりゲリラ戦の天才やないかと。とにかく項羽の後方をかきまわして 全力を振るえんようにチクチク刺すやり口はやり手のイジメ(?)に匹敵する。 城もかなりの数落としとるし、明らかに英布より上やと思う。 終わりを全うすればなお良しやったんやけど、まぁ功臣粛清は多かれ少なかれどの王朝でもあるけんね。 ちゅーわけで、蒙恬、李広よりこの二人のほうが十選にはふさわしいかと。李広は個人的には好きなんやが。 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 18 31 36 ID gmMOfOjTO このスレは定期的に俺ルールが発動するなぁ 713 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 19 13 19 ID mgfN0Wf2Q 彭越は確定でいいと思うんだが 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 19 20 44 ID 0jIemonB0 ・上司にしたい が名将の条件ならカクキョヘイは落選だね。 715 696 sage 2007/01/26(金) 19 39 55 ID LY1QBMf80 697 いや、王賁らが斉を滅ぼして秦の天下統一が成ったわけだから、統一秦最大の軍事的功労者に なるんじゃないの 696の三名は 開国の功臣が入らないのは、おかしくねえ? (統一後の軍事行動が伴わないという理由で却下されたら、王朝初期の将軍が落ちるぞ) 少なくとも、王賁の戦績は韓信や項羽に劣るとは言え、周亜夫あたりには匹敵するものだと思うけどね しかし、周亜夫を外そうとする理由もよく分からんな 相手が自滅とか平気で言ってるようだけど(前スレあたりの話だが) 実際の戦場では相手の内部情報や具体的な敵情を判断する方法はほとんどないよ (間者や斥候といった「目」「耳」を出しても、敵情の全容を解明するのは困難だもの) それを的確に状況判断して、最良の行動を選択した点でかなりの名将だと思うんだが 一発屋を擁護させてもらえれば、彼らのような人物さえあらわれない時代においては 靖康の変みたいな状況や、あるいは永楽帝による簒奪が平気で行われてしまうんだろうけど それでも、彼らを評価できないのかなあ 716 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/26(金) 19 52 43 ID ofrlpcLH0 一発で終わらせた、という評価もできる場合があると思う。 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 19 54 04 ID BDe4c61U0 この時代の候補者で一発屋って誰のこと? 一発屋であることを理由に候補から外そうとしてる住人 いるかい? 718 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 00 29 ID DEgs2M5bO 717 周亜夫は一発屋なんだって 理由は相手がヘタレだからだってさ・・・orz 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 03 47 ID BDe4c61U0 周亜夫の一発屋は 640のイメージ発言くらいじゃないか。 イメージを覆すだけの戦功を挙げればよいではないっすか。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 14 58 ID BDe4c61U0 連投スマン 匈奴相手の戦功は評価が低いようだが、騎馬民族相手に 農耕民族が平原や草原などの、騎馬民族の得意とする地 形で勝利を挙げるというのは、割と凄いことですよ。 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 37 19 ID nvlFKfQt0 上司にも部下にも出来ないなら敵にするしかない。 その意味で去病は最悪。対遊牧民族で活躍出来るのは並みの指揮官より一段上のように思う。 また、出自の劣等感からか部下にも上司にも人気が無かったようだが、 個人的に衛青は1~3のすべてを満たしている。 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 20 38 10 ID gmMOfOjTO 他の連中も対匈奴戦のエキスパートという意見も出てる 周亜夫に否定的なのは一発屋だからじゃなくて そういう諸々の理由でしょ? なんか被害妄想じゃね? 723 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 03 21 ID nvlFKfQt0 白頭山の戦い以来続く外患「匈奴問題」は武帝期に衛霍の二人が活躍してある程度納得し得る状況を作った。 一方、呉楚七国の乱はやはり高祖の時代から続く内憂「諸侯王問題」が解決された重要な戦争。 劉氏に政権をくれてやったのが韓信なら、それを磐石にしたのは周亜夫。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/26(金) 21 07 53 ID Le3dm7lhO 秦を占領し漢の基礎を築いた→劉邦 各国を討ち漢を統一に導いた→韓信 反乱諸侯を討ち漢を安定した統一政権に脱皮させた→周亜夫 最強の外敵を討った→衛青・霍去病 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 14 14 ID 8IXy9T0C0 それは歴史的な重要度であって武将としてどーのって話ではなかろう 726 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 14 25 ID LY1QBMf80 719-720 うーん、李広利のような「圧倒的国力差」でゴリ押しして西域遠征を成功させるという力技が 存在するからなあ、というのは冗談 国力的には、河西回廊を漢が獲得した時点で、もう匈奴側の劣勢確定でしょ そういう意味で、以降の対匈奴戦争は意味合いがかなり異なってくるものだと思っているんだが 漢を圧倒する巨大帝国の座から転落し始めた匈奴を漠北へ駆逐する戦争 残念ながら、その程度なら李牧や蒙恬、古くは武霊王が達成しているわけだし (逆に言うと、衛青、霍去病の化け物っぷりが際立つわけだが 彼らと同じレベルは、唐初の対突厥戦争か徐達の北伐ぐらいになるから) 727 719 sage 2007/01/26(金) 21 31 56 ID BDe4c61U0 726 720は、周亜夫に対する援護の意図ではない。 李広、范明友、陳湯あたりの匈奴討伐組の評価が低い感じが 見受けられるので、書いているだけ。 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 42 10 ID +/G783Mb0 まあ確かに国力の(彼我の)差があるという点もあるが、李広と衛青・霍去病とでは やはり差が生じるよなあ。蒙恬は軍事的功績というよりは官僚としての働きが大きい ような。 715 統一の功績を称えるのなら、どう考えても王翦は越えられないでしょ。 729 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 45 42 ID nY/2bV910 【名前】鄭吉 【時代】前漢 【推薦理由】車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。 後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 48 56 ID h7FRmgbv0 715 統一の功績だと春秋戦国に回されるんじゃないの? 731 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 54 33 ID 2qZgLV6hO 729 鄭吉は初めて西域都護に任ぜられたって事で結構有名だけど あんまり具体的な事跡がよく分かんないんだよね 732 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 57 48 ID nY/2bV910 731 漢書の原文を読んで書いたんだが、 功績はこれだけしか載ってなかった。 伝もめちゃくちゃ短かった。 実績不足かなあ? 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 21 59 54 ID Le3dm7lhO 基本的に西域は軍事的には貧弱だかんね 大変なのは遠いこと 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 02 11 ID FY0Hkwmx0 730に同意。自分もそう思います。 あと劉邦を推してる人がいますが劉邦は大して勝った試しがないのでは? 意地の悪い言い方をすれば逃げ上手なだけでは? 秦攻略は張良の策略に因るものが殆どで劉邦はそれに従っただけでは? (採用するしないの判断力も将才には入りますが) 漢統一後の謀反は地方の反乱に過ぎないから 大した功績ではないという意見が以前に出てますし。 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 05 14 ID 2qZgLV6hO 732 自分も昔、初代西域都護はどんな凄い奴なんだろうと漢書を調べてみたら あまりにも素っ気ない記述で驚いたことある さすがに百選にいれるのは厳しいかもね 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 14 05 ID BDe4c61U0 東トルキスタンの地域って、漢・唐(これはごく短い期間)・清代の 3度しか中国の支配下に置かれてないよな。 これって凄いことじゃないのか。 737 715 sage 2007/01/26(金) 22 14 26 ID LY1QBMf80 730 実はスレ区分上、紀元前221年が両方にまたがっていたりする 「統一」秦の解釈次第だな 統一秦~前漢に加えれば、まず章邯と蒙恬より確実に上に来る将軍だ 章邯は隋の張須陀と被ってるな、二人揃って候補どまりは不憫すぎる どっちか入れてやりてえが 韓信 衛青 霍去病 灌嬰 項羽 周亜夫 陳湯 趙充国 個人的には、これに王賁と章邯で十傑、多分無理だろう 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 31 41 ID Le3dm7lhO 734 俺は劉邦を推している 一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、 劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている 打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない 項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが 張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ 実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう 晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか? 結局、劉邦より明らかに軍事的功績のある人物がいないんだよ 敢えて言うなら韓信と項羽だけ 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 22 33 08 ID +/G783Mb0 737 王賁でも李信でも、統一後にもなにか目覚しい功績があるのならいいんですけどね。 少なくとも、 696で出たのは統一前の功績のみ。だったら統一前の人物として、比較 の対象は王翦や白起になります。この二人もしくは他の春秋戦国の確定組の名将達 と比べて差し替えられるほどの功績・将才があったと言えますか? 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/26(金) 23 23 10 ID LY1QBMf80 739 やっぱ、そういう認識になるわな 魏・燕・斉を攻略した彼の軍事手腕、まさしく韓信がそれに趙・西楚覇王撃破加えた戦績を残すまで 春秋戦国期においては、親父王翦に次ぐ領土獲得者と言って何ら問題がないものだ まあ、春秋戦国を再度議論するときに推薦することにするわ 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 13 12 ID gQuqZoXN0 738 一度でも敗走したらって劉邦は何度敗走してるんだよ 負けの多さにもかかわらず命を落とさなかった点はある意味凄いけど 秦を征服するまでに章邯に破られてるし 裏切った雍歯から豊邑を攻め取れなかった 細かいところを見ていけば城邑を攻め取れなかったり敵に敗れてから 兵を集めなおして再度攻撃ってのを何度も繰り返している それはそれで戦略としてはいいけど、秦が一度負けると瓦解して元に戻せない状態になっているから 効果があったわけで対等の条件ではないし 兵を率いた時の能力を考えれば名将とは思わない 数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするという やり方は乱暴すぎて、もしそれが通るなら一々何も語る気にはならんな 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 21 14 ID UBYThCFT0 劉邦ねえ・・・ 名将というイメージはないが、 確かに同時代の連中の中では戦に勝ってるんだよなあ。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 53 46 ID Da4NyyxXO 471 >数々の名臣の作戦戦略戦術を一まとめにして全て劉邦の功にするというやり方 については誤解と言っておく 言葉が足りない俺が悪かったが 献策した臣下や派遣された将の功績を全て主に帰するつもりはないよ ただ、韓信のように独立して行動していたのは別にして、献策を取捨選択したり使う将を選んだりした主を無視は出来ないと言ってる 具体的には劉邦が秦を落とす時の策は、張良やレキ食其にとっての功績であると同時に実行して結果を出した劉邦にとっても立派な功績であり能力の証だということ 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 00 54 11 ID 9W+iq81y0 劉邦の用兵力を考えれば、名将の水準に達してないだろ。 745 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 00 55 44 ID Da4NyyxXO 741だった 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 03 56 ID JF915E0B0 743 でもそれって、用兵の才、劉邦個人の将才じゃあないよね。 部下の意見を聞いた、という点については函谷関の閉鎖など明らかな失敗もある。 これは個人的なイメージにすぎないのだが、劉邦は「AかBか?」でAの方が優れている と思うからこちらを採用という決断を下したというよりは、「Aが優れていると思われる のでこちらを採用すべきです」と言われて「じゃあそうしよう」と決断したように思える。 あくまで、私個人がそういう印象を抱いているというだけですが。 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 12 50 ID BEI74e6z0 「時代区分ごとに”必ず”10人選ばなければならない」 という前提に問題がある。 高祖の単独の指揮で↓の連中と勝負になるか? 韓信、衛青、霍去病、項羽、周亜夫、陳湯、趙充国 ならない。よって失格。 決して「名将じゃない」とは思わない。 けど兵法を極めてるタイプでもないので除外するのが妥当だと思う。 あと灌嬰は猛者だとは思うが名将としては微妙。。。 関張とか秦尉遅のような系統は除外したほうがスッキリする。 項羽だけがその系統でも規格外なのでケチはつけない。 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 44 33 ID eKQFGk/O0 747 灌嬰は文句無く名将でしょう。 灌嬰の戦績は凄いんだし、決して只の猛者ではない。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 01 50 49 ID eKQFGk/O0 連投スマン 彭越についての推薦文 史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、 弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。 韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。 後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。 750 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 05 13 22 ID davQkqlCQ てか彭越が入らないのおかしい 後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/38.html
751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 06 24 32 ID uhB3fX7FO 738 >打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成 ゲリラ的行動は主は彭越だろ? 軍の再編成って韓信から無理矢理兵を奪っているだけじゃ? 再編成の評価は寧ろ韓信に対してするべきだろ? >項羽は劉邦の侵攻があるからこそ 彭越の活動が大きくないか? 劉邦もピンチを救われてるんだし。 752 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 09 23 52 ID kQ/yK4lQ0 747 項羽が関羽や張飛、尉遅恭と同じ系統の猛将? 史記のどこを読めばそう判断できるのか教えてほしいな とても上記の連中に、項羽と同じだけ城を落としたり、大規模な野戦で大軍を指揮している 姿が想像できない、さすがにイメージ先行だろその評価 彭越の場合、旧魏国内での活躍がほとんど(戦略的に重要地域だが) 単純なゲリラ戦術というわけでもないし(斉の田兄弟も似たようなことしている) 功績は大きいが、真正面から韓信、項羽あたりと戦ったら(戦わないわけだが)間違いなく負けるな 逆に、攻城戦の経験が殆どない衛青、霍去病あたりには相性が良いだろうな (特に兵站を平気で無視する霍去病なんかには) 劉邦も同じことが言えると思う 753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 10 37 00 ID fZN5alXM0 >後戦国時代に活躍した武将は入れるべきじゃないと思う 唐突すぎてちょっと意味不明なんだが 754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 11 13 51 ID KN1fevg20 754 後戦国時代って、統一秦後の楚漢戦争を指しているんじゃね? んで、前戦国時代が、統一秦前の一般的に言われる戦国時代。 755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 12 10 13 ID UBYThCFT0 たぶん、「あと、戦国時代に活躍した・・・」 といいたかったんだと思うが。 756 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 12 13 18 ID nC48FSks0 じゃあ白起や李牧や楽殻はアウトか。 757 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 12 53 44 ID davQkqlCQ そうそう 後、戦国・・・ 758 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 14 21 ID fZN5alXM0 誤解した 754には申し訳ないけど、俺は「戦国時代は対象外」なんて意見が 意味不明で訊いたんだけど、やはりそういうことなんだな どちらにしても理解できないことにはかわりないんだが、何で説明するなり 自論を提示するなりせんのだろう 759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 23 00 ID JF915E0B0 758 本人じゃあないがおそらく 「後(=もう一つ)、今の話題である”統一秦・前漢”の時代に戦国時代(秦の統一前)にのみ 活躍がある人はいれるべきではないと思う」 こんな意味だったのではないかと。 王賁・李信・蒙恬の話題に対するレスと思われます。 760 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 13 29 12 ID q5fnZrtHO 759 王賁や李信はともかく、統一後の活躍も目立つ蒙恬はこっちでも良いとは思うがね 761 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 14 03 30 ID davQkqlCQ 759 その通り 762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 15 30 08 ID UBYThCFT0 761 手抜きせず自分で言えよw 763 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 16 51 37 ID BEI74e6z0 紛らわしいがこの候補の中で誰が最強? 漏れは李衛公だと思うが。 764 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/27(土) 17 31 34 ID 0JwtOrU7O 763 まだそれを決めるのは早いんじゃ? 765 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 17 43 29 ID BEI74e6z0 なんでですか? それを決めれば微妙な候補を落としやすくなるはずですけど。 766 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 17 48 03 ID q5fnZrtHO 765 一位が決まったからって、百位前後の比較に役にたつと思うか? 767 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/27(土) 17 50 29 ID E/uaLKWk0 765 たとえば、李靖を最有能将帥として、どういう基準でそれと他とを比較する? 時代や背景が変われば、最強なんて変動するから、こうやって各時代ごとの有能将帥を挙げていっているわけだ。 そこのところをよく理解したほうがいい。 768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 20 11 30 ID 9W+iq81y0 鄭吉の功績について間接的な資料から調べてみた。 車師前国の王城は交河城(ヤルホト) (現在のトゥルファン市街から西に10Kmほど) 前漢王朝時代の西域都護府は、鳥塁(今の輪台県内)に置かれ、 その以東に酒泉、武威、張掖、敦煌郡の河西四郡が設置された。 当時の地図 ttp //www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/as4/j4.jpg 西域回廊 ttp //www.ne.jp/asahi/overland/japan/xinjianghome.htm 鄭吉は、当時の地図からして鳥塁から張掖までの範囲で、匈奴・ 大月氏・大などの勢力と対抗しながら、西域三十六国を武力で統 治し続けたと推測されます。 具体的な戦功や統治した年数が明確になれば、名将に挙げてもよ いかと思います。 769 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/27(土) 21 28 25 ID hbilgZlv0 768 漢書の鄭吉伝を読んでみたんだけど、 むちゃくちゃ短くて具体的な戦功とか、統治した年数とか、 全然書いてないんだよね。 西域を支配した功績は大きいけど、 候補に挙げるには、事跡が少なすぎるかな。 770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 12 16 32 ID NPcfoWB60 現在の状況。 統一秦~前漢 【確定組】 韓信、項羽(籍)、霍去病、衛青、灌嬰 、趙充国、陳湯 【候補】 章邯、彭越 【論争中】 蒙恬、周亜夫 、劉邦、鄭吉 趙充国、陳湯は異論が無ければ確定でいいのでは? 章邯、彭越は推す人が多いので有力候補としました。 蒙恬、周亜夫、劉邦は意見が割れている様なので論争中とさせていただきます。 鄭吉は事跡が分かりにくいということでこれも論争中とさせていただきます。 諸兄こんな感じでどうでしょうか? 771 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 12 24 36 ID l6atc5vN0 よろしいと思います。 蒙恬がオルドス征服で候補に挙げられているので、じゃあ秦のもう一つの外征、 嶺南遠征の司令官はどうなんだと調べてみたらロクな記録がないのな。 772 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 13 21 15 ID CYtxbtC/O 今まで反対意見は出て無いし、推す人も多数いるんだから、 章邯、彭越は確定でいいんじゃないの。 773 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 15 06 13 ID l6atc5vN0 范明友が、候補に挙げられるだけで具体的な功績の紹介もなく 770でもハブられているので ちと調べてみた。といってもググってみるだけだが。 昭帝の時代(前87-前74年)、烏桓は次第に強勢となり、匈奴単于の墓を暴いて冒頓への恨みを報いた。 匈奴は激怒し、東に走って烏桓を撃破した。大将軍の霍光がこれを聞き、度遼将軍の范明友を派遣し、 二万騎を率いて遼東外境の匈奴に出撃したが、匈奴はすでに退去していた。明友は烏桓の新たな敗戦に 乗じて、遂にこれに進擊し、斬首六千余級、三王の首を獲って帰還した。烏桓は再び幽州に侵攻したが、 すぐに明友がこれを撃ち破った。 前73 宣帝、范明友・韓増・趙充国らに匈奴を撃たせる。 …他に見当たらない。あるいは宣帝期の対匈奴戦争にも従軍していたのかもしれないが。 他に功績がないのなら、候補落ちでもいいかと思った。 774 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 15 28 34 ID gLEbnvKt0 章邯は無いんじゃないか? 項羽に敗れるまでは確かに名将、 群雄をある程度淘汰した点は隋末の張須陀とかに似ているかもしれないが… 終わりが良くない所為だろうか 彭越は確定でもかまわない 劉邦は「将の将」の体現者として一応推す 775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 16 21 22 ID CYtxbtC/O 774 >項羽に敗れるまでは確かに名将 確かに破れてはいるけど章邯がいくら有能でも、 援軍が見込めないあの状況では項羽相手に勝つのはまず無理じゃないか? 俺は兵卒の命を救う為に項羽に降ったのは将として立派だと思うけど。 (章邯の考えとは違う結果になったが) 韓信にも破れてるが相手が相手だけになぁ・・・ 劉邦は「将の将」の件は朱元璋の時、揉めに揉めた記憶が・・・ 776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 16 48 04 ID 3rQFp2ZQO 「将の将」は別にしても、 沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている 武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった) 項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい 目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ 777 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 17 14 32 ID l6atc5vN0 朱元璋の時もそうだったが、誰も「無能だから落せ」とは言っていないと思うのだが。 778 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/28(日) 20 21 08 ID d9rsfr9x0 あぁ、朱元璋論争のとき意固地になって朱元璋を確定に残そうとしたの俺やが。 朱元璋の軍事的才能は朱棣に劣らんゆーてね。今となっては恥ずかしい思い出。 当時はまだ標準語モードやったけど、今は博多弁バリバリ。 なんで変わったんやろ。一遍キレたけんかな? さておき、鄭吉についてちょいと調べてみた。 会稽の人。はじめ兵卒として従軍し、しばしば西域に出て郎となる。 宣帝のとき侍郎となって渠黎に屯田し、西域諸国の兵を徴発して車師国を破った。 功により衛司馬とされ、鄯善国以西の南道諸道を管領した。 前60年、匈奴の日逐王が単于に背いて漢に降ろうとしたので、 西域の兵5万を率いてこれを漢土に迎えた。 車師国討伐、日逐王護送その他の功により鄭吉の名は西域を震わす。 都護騎都尉とされ南北二道を併領し、また安遠候に封ぜられた。 西域諸国の中心である烏塁城に幕府を立てて諸国を鎮護し、漢の威徳を遠西まで広めた。 初代西域都護。着任後11年にして現地で没。 ・・・出典はアジア歴史事典。しかしこれだけやと事跡、戦功あんまりわからんな。ま、参考までに。 779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 20 25 49 ID TtaB2GFN0 劉邦の彭城における大敗は、油断以前に大軍を適切に配置する ことさえ出来なかった。また、匈奴の冒頓単于に包囲されて、 やはり大敗しているし、戦術指揮官として名将に推すには欠点 が大きすぎると思う。 鄭吉は西域都護を11年間勤め上げた時点で、個人的には1票を 投じたい。理由は 768と 778から。 780 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 02 40 ID AuIBmNcmQ 章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い 一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ 韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし 悲劇の名将として一票 781 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 13 35 ID ivrSSeOG0 776 ここはあくまでも名将スレだし 劉邦は良将ではあるかもしれないが、名将じゃない 782 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 15 18 ID Yvge6u840 事績が具体的じゃないんだったら、鄭吉は推薦できないだろ むしろ、霍去病による棚ボタ的な河西回廊の獲得によって、匈奴の西方防備が崩壊したことを 考慮すると、西域経営の功績の多くはやはり霍去病に起因するものと言っていいでしょ 全盛期の匈奴を破るのと、斜陽の匈奴の庇護から乖離しつつあるオアシス諸都市の征服を 同列で評価はできないなあ 劉邦を推したい気持ち、分からなくもないが、やっぱ無理じゃねえ? でも、彭越も特殊な功績だ、能力・戦績そのものは劉邦と大差ないだろうし 彭越推してた人たちに二人の優劣をどこで判断したか教えてほしいな 783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 30 56 ID Yvge6u840 780 「万卒は得易く一将は得がたし」はかなり疑問のある格言だね 実際にはよく訓練された兵卒を多数抱えることが勝利への近道だ そういう意味で、章邯は率いてきた兵卒の大部分を項羽に坑殺されたわけで その後、封ぜられた三秦の人民からは逆恨みを買うなんておまけつきで こんな状態で戦力が温存されていた劉邦の精兵と戦えなんて、氏ねと言ってるようなもんだ 項羽が自害したのも同じ理由でしょ 捲土重来を果たすには、あまりにも幕僚や兵卒を失いすぎた 軍略を知り尽くしていて、矜持を抱いていた項羽だからこそ、挫折したと言えなくもない 784 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 36 05 ID l6atc5vN0 彭越の推薦理由がゲリラ戦術で項籍を苦しめたからなら、斉の田栄・田横兄弟なんてどうよ。 彭越と異なる点は、彼が項籍の軍は徹底的に避けたのに対して田栄・田横は項籍本軍相手に ゲリラ戦で苦しめたこと。 書によっては田栄が彭越を梁に派遣してゲリラをやらせたともあるし。 785 779 sage 2007/01/28(日) 21 37 25 ID TtaB2GFN0 782 霍去病や衛青の匈奴戦の功績から西域都護の設置までは 50年前後空いてます。 それとこの二人は前漢が西域経営に乗り出す前に逝去してる と思いますが。 また、私が鄭吉を評価しているのは、オアシス諸都市の征服で はなく、複数の騎馬民族の交通の要所であり、係争地である 異国を、それらの民族と対抗して統治してきたことです。 786 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 21 45 51 ID 3rQFp2ZQO 782 劉邦が選に漏れるのはまあ仕方ないかもしれないけど、彭越よりは劉邦の方が将として総合的には上だと思うので、彭越が入るのはちと疑問 787 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 22 16 41 ID +mk7JmVF0 上:項羽、股夫 中:高祖、黥布、彭越 下:陳余、張耳、韓王信、魏王豹ほか この「上」のランクに灌嬰が入るなら曹参も入ると思うが如何か? 788 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 22 35 27 ID SVjZ+nys0 787 曹参の具体的な戦功をあげてくれ。 あと、曹参が韓信の副将だったことを忘れてはならない。 789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 02 13 ID CYtxbtC/O 784 >彭越の推薦理由がゲリラ戦術で じゃあその田横が候補に名が挙がっているのに誰も推薦しないのはなぜだ? 同じゲリラ活動でも項羽の思惑を悉く打ち砕き、行動を制止させた点、 劉邦に対する貢献度、共に、彭越が果した役割りは大きくないか? それに田横の本拠地である斉の城を落としているしな。 劉邦の場合は個人の器量だけでなくブレーンの策略、弁舌を駆使し戦績を挙げているよな。 彭越は全ての己の器量で戦績を挙げているんだぜ。 (しかも寡兵で) それと田栄、田横の斉攻略以外の功績を挙げてみてくれ。 790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 11 18 ID U62fwxmw0 田栄はあっさり殺されてないか 田横は人物としては素晴らしいけど 軍事的に大きな戦果を挙げてないと思う 791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 19 25 ID +mk7JmVF0 名将の副将は名将ではないのだろうか? まあそこが一番入選に厳しい点だと私も思う。 だが、論功行賞で諸将が灌嬰でも簫何でもなく曹参を首位に推した、という点に注目したい。 股夫はその時点で既に別格の存在だった。(信者が多杉) 戦時ならそのまま前線指揮官の曹参が首相になったはず。 灌嬰が入って曹参が落ちるのでは樊噲、周勃、柴武らが納得しないかと思う。 792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 24 20 ID gLEbnvKt0 787 S 項羽 韓信 A 灌嬰 彭越 章邯 B 曹参 項梁 周文 C 劉邦 黥布 D その他 簡単に分けるとこんなもんじゃないかな 793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/28(日) 23 27 40 ID Yvge6u840 785 じゃあ、名将でなくていいじゃん (前涼の張軌や前秦の呂光ですら選外漏れなのに) 周亜夫を十傑に推したい 彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる 逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している (実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった) そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断 相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破 勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、偏に周亜夫自身の 将器の賜物と言っていいと思う 呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?) 漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう 天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい 794 785 sage 2007/01/28(日) 23 44 28 ID TtaB2GFN0 793 鄭吉が明らかに平和でない異国に武力駐留して、11 年間に渡って、統治してきたのは将としての功績でしょ うよ。 それとも、匈奴、烏桓などの領域外の騎馬民族と政 治的な駆け引きで平和的に西域を保った、非常に優 れた文官であったとでも? それに、前涼や前秦については、未だ決定の作業に 入っていませんよ。この後に推薦者が出てきても不思 議ではありませんね。 795 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 00 42 17 ID 73igenzz0 789 彭越も、劉邦という不撓不屈のサンドバッグいてこその後方攪乱戦なんだが 独立勢力でやってたら、それこそ田斉のごとく項羽に制圧されておしまいだった可能性大 田栄、田横は論功行賞漏れから、一気に全斉をゲリラ的に奪取しているから、凄いと言えば凄いんだよな 逆に彭越は魏一国すら単独で切り取れなかったとも言えるわけで、評価に困るよ (そもそも領土拡大が主目的じゃないから仕方がないと言えば仕方がない) 戦略的には非常に大きな役割を果たしているし、地の利のある彭越でなければできない仕事だったけれど 796 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 01 08 26 ID 3C48d4S+O 792 曹参と劉邦は逆だろ 鄭吉だが、既に大宛や楼欄を征服、進出しており、匈奴も弱体化の一途をたどっている時代 しかも西域の兵は数も装備も漢より劣っていた これらの点も考慮すべきだと思う 797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 01 13 54 ID o6Jf9g770 魏で独立なんかしたら真っ先に東西列強に挟み討ちになると思うけど… 798 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 01 38 31 ID RM1cMq2e0 もう周亜夫は確定でいいと思う。793のいう通り、勝つべき戦いには勝つのは 凄みを感じる。戦略で勝つのも名将。 ただ、自分的には、後は難しいというのが本音。(強いてあげれば、章邯だけど) どれも、春秋戦国の十人には見劣りがするんだよね。 それと後に予定している時代の名将と肩を並べるのも難しい気がする 五胡や隋唐の時とかかなり違う。 ここは八人(七人)で終わらせ、他の時代の人物を増やすか、 (隋唐は300年以上あるので少し譲っていいと思う) 新の時代の武将を候補にいれるかしたらよいのじゃないかな。 新の荘尤や光武帝配下をのぞく群雄を候補にすれば、なんとかバランスとれそう 799 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 01 39 55 ID iqawi9oV0 788曹参の具体的武勲。 【名前】曹参 【時代】前漢 【功績】 沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。 将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。 東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、 ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。 秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。 また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、秦将章邯の車騎を撃破、 その他諸々の戦いで先陣の功があった。 ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。 劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、 秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。 敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。 西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。 再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。 秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。 三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。 項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、 碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。 しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。 高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。 竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。 項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。 英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。 生涯に二百二十二間を降し、 王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。 蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、 無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。 800 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 01 45 53 ID iqawi9oV0 799 訂正。下のほうの“生涯に二百二十二間”は生涯に二百二十二城、の間違い。 801 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/29(月) 02 07 56 ID iqawi9oV0 悪いけども連投。今度は灌嬰の武勲。 二千石のものを擒らえること二人、 城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、 将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。 数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。 まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。 802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 02 11 42 ID P/2Ni0lEO 798 時代の長さと名将の数は必ずしも一致しないから、長いから多くて良いっていうのには賛成しにくい ただ時代ごとに十人挙げるのは偏らないようにする為というのもあるが、決定作業の都合でもある 取り合えず百人選び終わったら調整はしなくちゃならないでしょうね (そうしないと話題が無くなるしw) 803 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 06 29 31 ID o6Jf9g770 799 いや、当方も特に推す訳でもないが、 灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。 しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。 結局灌嬰曹参ともに入れないのが百選の純度を高めるだろう。 余った枠は他の時代にくれてやるのがいいかと。 個人的に章邯は良い線いってると思うけど、項羽にも韓信にも負けている。 「迷ったら除外」というスタンスでやる分には入選は無理。惜しいところだが良将止まりだ。 804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 10 43 30 ID 4EoWw7kPO 803 >灌嬰が入るなら曹参も入れるのが当然。 灌嬰は戦績だけでノミネートされてる訳ではないのを忘れていないか? >しかし秦末漢初では韓信、項羽の二人以外は全部格落ち。 韓信、項羽の化け物二人と比較するのは厳し杉じゃないか? 他の時代の武将で韓信、項羽に勝てる奴なんて何人いるんだよ。 章邯は項羽にも韓信にも負けているがあの悪条件で良く戦ったと思うけどな。 805 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 12 50 47 ID 3SFy6HSnO 灌嬰や曹参も入るとなると、樊會とか周勃も候補になるんじゃない? 806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 18 04 15 ID /rC4wknI0 801 灌嬰の武勲の詳細を簡単に付け加える 楚の本拠である彭城を降し、垓下から逃げた項羽を追跡して斬っている さらに長江を渡って呉・豫章・会稽郡を平定している 後に匈奴とも戦っている 807 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 18 30 35 ID o6Jf9g770 353 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 09 16 31 ID g5gmsaEl0 灌嬰 楚の本拠の彭城を降伏させ、亥下で敗れた項羽を追跡して斬っている 他戦功多数 369 :名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/12/03(日) 23 21 11 (p)ID K3j/CdUKO(3) 368 :名無しさん@お腹いっぱい。 :sage :2006/12/03(日) 23 00 49 (p)ID z0cozBnwO(2) 横山「項羽と劉邦」と「史記」しか読んだことないけど、灌嬰入るのなら曹参、周勃とか入るんじゃないかな~と思ったんだけど、だめ? 368 灌嬰は別格 秦以来の騎兵隊を任され、項羽追撃などの大役を務めた 実力、功績とも随一だろう 808 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 18 50 12 ID N2oaIOq/0 >匈奴とも戦っている。 灌嬰は匈奴と戦い、打ち破っていますし、統一後の謀反討伐にも参加、見事な功績を残しています。 809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 20 54 01 ID r2WaV39L0 灌嬰が入るなら、劉邦の子飼いの中では最大の軍功を 挙げたと評価された曹参が入っても良いだろう。 このスレの基準は戦功が第一なのだからな。 810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 21 07 33 ID 3C48d4S+O 809 戦功第一なら劉邦が先に入る罠 潅嬰も確定と言うには微妙だと思うが、曹参は無いわ 一見記録される実績は多くても、劉邦や韓信の節度を受けたものだし、騎兵を率いて中核となるとか項羽を斬るとかの特筆するような実績には欠ける 811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 21 56 54 ID gq2vDPSNQ 809 同意 812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 22 40 25 ID N2oaIOq/0 810 灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、 別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。 更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。 項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。 呉・予章・会稽の三郡を平定。 匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。 B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。 車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。 こんな感じですが特筆に欠けますか? 813 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/29(月) 22 46 15 ID 3C48d4S+O 812 あわてんぼさんめ 俺が特筆すべき功がないと言ったのは曹参だよ 潅嬰は君の言うとおり 漢の将から韓信以外に一人選ぶなら彼だろう 814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 22 57 53 ID r2WaV39L0 曹参に特筆すべき功がないと言ってもなあ。 当時の関係者達の評価をさしおいて、潅嬰の戦功の方が 上というのも、どんだけ傲慢な話なんだ。 815 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 30 26 ID 3C48d4S+O 814 当時の関係者の評価も功績の分析もしないで愚痴るだけの方が傲mry 816 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 56 09 ID 4EoWw7kPO 814 手柄を多く立てたからといって内容も考察せず、 いくら定義とはいえ戦績の数だけで名将扱いしようとするのは理解不能。 817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 57 06 ID aDgDzH+60 灌嬰が韓心や項羽はもちろん、白起や郭去病や李靖や徐達やらと同列に並べられると思うとニヤリとなる。 818 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/29(月) 23 57 35 ID ujkrBdBv0 つらつら読み返すにID 3C48d4S+Oも十分に傲m(Ry 819 名無しさん@お腹いっぱい。 age 2007/01/30(火) 00 03 20 ID srVf4tNPO これから煽りモードをお楽しみください。 820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 00 46 31 ID cnhfj5780 r 丁´ ̄ ̄ ̄ ̄`7¬‐,-、 / r | | | |/ >、 / ! | | | |レ ´/| | 待 て | | | /\ | |l /⊂う | | | |__∠∠ヽ_\ | リ / j ヽ あ わ て る な |´ ̄ O  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`! 〉 l "´ ̄ ̄ヾ "´ ̄ ̄`ヾ 幵ー{ / こ れ は 孔 明 の 罠 だ ⊥,,,,,_、 ___,,,,,ヾ| l | | lヾ´ f}`7 ヘ´fj ̄フ | l i ⌒i | 819 l ,.ゝ‐イ `‐=ニ、i | l´ ( } ヽ l { U | l 、_ノ ∠ヘ l / ̄ ヽ、 | l ヽ_ \,_________ ! ハ´ ̄ ̄ ̄`ト、 |亅〃/\ ,人 f ´ ̄ ̄ ̄``ヾ j ,!// {_っ )、 // `ト、__iiiii______,レ ‐ // _,/ /スァ-、 ,.イl{ { 々 !/´しllllト、 ̄`ヽ、 // /´,.-、 /彑ゝ-{スァ-、 ,.イ彑l l ゞ く l 〃 l|ハ.lヽ、 ハVゝヽ二ノ/ゝ-{、彑ゝ-{、彑ァ-、 ,.イ彑ゝ- l l ( (,) レシ′ !l `ソァ ´ _ノ7{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑{ ュゝ-{、彑l l ` -イヘ !l // /⌒ヽヾ/_ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、 {、彑ゝ- l l f⌒Yハ , !l/ / ヽ_う ノ /-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ 彑ゝ-{、彑l l{ に!小 ヽ /!l / ,/ /彑ゝ-{、彑ゝ-{、彑ゝ-{、 821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/30(火) 02 13 36 ID caJWhNhE0 iloveme 822 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 02 27 01 ID UG3MyGq00 曹参と潅嬰のどちらか? 個人的には、どちらかに絞ることなく両者を挙げてもいいと思います。それだけの 功績があるのなら。 光武帝劉秀配下から、太祖趙匡胤配下から、洪武帝朱元章配下からそれぞれ数人 づつあげられてますしね。 ただ 814、生前の評判や地位勲功は参考にはなっても比較には使えないと思います。 論功行賞というものには、実際の功績以外のプラスアルファが常に付き纏いますから。 例えば、南宋初期に張俊・韓世忠が枢密使、岳飛が枢密副使に任じられてますが、これ をもって韓世忠の将才・功績は岳飛より上だとは言えないでしょう。 823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 14 20 37 ID VWKnc22z0 統一前は曹参、統一後は灌嬰でどうだろう 灌嬰は韓信が斉王になった後、別行動を取り 車騎将軍として内乱鎮圧や匈奴討伐に駆け回る 文帝の代まで活躍、丞相になり没する 曹参は韓信が垓下向かった後、斉を保持、そのまま次の斉王劉肥の宰相になる 陳豨や黥布を討つが灌嬰より動きは少ない 恵帝の代、丞相になり没する 824 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 16 08 38 ID 3R1cOfekO 823 曹参をエントリーさせるのは別に構わないよ、 只、推すつもりは無いだけ。 825 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 18 29 51 ID 6FKvoo5IQ 曹参、灌嬰は同じようなレベルだと俺も思う この時代は韓信が凄すぎるから小粒に見えるのもしかたない 826 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 19 38 25 ID ZhY/sJVR0 韓信 項羽 霍去病 衛青 趙充国 陳湯 周亜父 章邯 彭越 灌嬰or曹参 といった感じかな 上九人まで確定しちゃっていいなら、残り一枠はおいといて 次の時代へ行くという手もあるが 827 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 39 20 ID 3R1cOfekO 826 灌嬰はともかく曹参はないだろ。 つ 灌嬰は元々確定してたんだし無理に外す意味が分からない。 828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 44 09 ID UG3MyGq00 残り一枠を曹参or彭越で残すというのはどうだろう。 829 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/30(火) 20 46 30 ID +h3ybGLZO もういい加減次の時代の議論に入ったほうがいいのでは? 後漢以降の時代について語りたい人達が待ちくたびれてると思うよ 830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 48 10 ID srVf4tNPO 828 劉邦or彭越or鄭吉ってことで 831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 53 12 ID ZhY/sJVR0 じゃあまとめると 韓信、項羽、霍去病、衛青、趙充国、陳湯、周亜父、章邯、灌嬰 の九人が確定、 残り一枠が劉邦、曹参、彭越、鄭吉といったところだろうか 832 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 20 55 59 ID srVf4tNPO 831 まあいいんじゃないでしょうか 833 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 25 04 ID UT11UfLt0 統一秦~前漢をいったん纏めるなら、 619、 623で言われていた春秋戦国の異議申し立てタイムに入る? 834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 30 39 ID UG3MyGq00 でも、春秋戦国に続いて統一秦前漢も一枠の議論の余地を残しているのだから、 いちいち前代に戻ることもないのでは? この調子で時代を進めて行って、清が終わったらまた戻るでいいんじゃないでしょうか? 835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 45 49 ID caJWhNhE0 outカンエイ inリュウホウ、テイキツ でお願い致します。 元々確定と仰りますが、たいした審査も無く確定にされたのが不思議なレベルでございます。 836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 21 59 40 ID RlqhzTTt0 834 いいんじゃないでしょうか。 どの時代も同じ様な事態が予想されると思いますし、 取り敢えず次の時代に移るのも悪くないかと。 諸兄いかかでしょうか? 837 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/30(火) 22 04 34 ID ruL/ZO9Q0 後漢入るならとりあえずこれ貼っとくわ。 【新・後漢】 劉秀 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 廉范 班超 張奐 虞[言羽] 賈復または馬援 以上十名、確定なし、暫定。 劉秀から呉漢までは確定でもいい気もするけど雲台28将から引っ張りすぎな気もするけんが、 とりあえず事跡・戦功を挙げた上で決めようやってことで。 あと、結局曹操・周瑜の曹丕簒奪前組はどっち扱いにするんかな? こっちに引っ張ると廉范とか張奐あたりは一気に落選しそうやけど。 ・・・とりあえず来てみたけど、きついんでやっぱ寝ますわ。皆さんあとはよろしく。 838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 22 43 00 ID Nki3kEoE0 灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。 自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を 行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる) 大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に 甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる) まあ、後漢に入るなら別にいいけど 839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 41 42 ID 15X9cuKC0 836 今のうちに後腐れなく前漢時代は確定しておいたほうが良いように思う。 でないと、また議論してもグダグダを繰り返すだけになる。 840 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 52 08 ID 7c/EhidG0 後漢の政策課題のひとつに羌族の叛乱が挙げられる これは前漢における対匈奴戦争並みに、国家財政を圧迫しているが その間に多くの将帥を輩出している というわけで、推薦 【名前】馬賢 【時代】後漢(安帝~順帝期) 【理由】 護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに 20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた (皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う) 主な戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している まあ、戦死がマイナスか 841 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/30(火) 23 52 42 ID srVf4tNPO 839 後腐れがなくなるまで相当長期間gdgdな議論をすると思われますがよろしいですか? 842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 02 42 46 ID kTfqkq/20 馬援と賈復を推薦します。推薦理由は以前に俺が 444に示しています。 843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 08 32 16 ID 4rgF15440 賈復は「猛将」の側面が強く、この際はほかのそうでない人に譲るのが良いと考えます。 馬援は… 入れるべき人だわなぁ… 死神呉漢と交替する? そうでないと、光武帝陣営で終わってしまう。まぁそれだけ名将が麾下にいたということではあるけども。 844 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 10 00 55 ID kTfqkq/20 分かりました。賈復は他に譲ります。 個人的には馬援をかなり推したいので、馬援は是非残してほしいです。 先祖の汚名を晴らそうと遮二無二に光武帝の元で活躍した点と、 人物を見抜く優れた識別眼を高く評価したい。 845 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/31(水) 12 23 43 ID KUkdqQ3LO 思いきって光武帝を外してみるのはどうでしょうか? 確かに昆陽の一戦等でみられるように光武帝は優れた将ではありますけど 全国統一の過程における功績は配下の将達の貢献が大きいと思うし 呉漢や馮異等を選出しておけば敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと 846 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 13 13 22 ID kTfqkq/20 845 その案、いいかもしれませんね。 仰る通り、劉秀自身も有能な将なのですが、雲台28将を 上手く使いこなした、名君として扱い、あえて外してみる提示案を みんなで検討してみるのも一つの手だと思います。 847 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 13 21 53 ID 4rgF15440 845 しかしなぁ… 皇帝に即位した後も、賈復や馬武らよりも真っ先に敵陣に斬り込み、敵兵を斬りつつ陣頭指揮するあたり、項羽を彷彿とさせる統帥ぶりを発揮しているしなぁ… これは劉邦や劉備らと違い、紛れもない名将の証明なんだけどなぁぁ 848 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 14 06 37 ID ssdpVric0 光武帝陣営で終わってしまう。 光武帝は外してはどうだろうか? 敢えて光武帝自身をランクインさせる必要も無いかなと 純粋に能力の高い奴を選出するんじゃないのか? 結局自分の好きな武将を捻じ込むだけのスレか 849 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 14 44 17 ID UGano2apO 848 だからみんなで議論しないかと伺ってだろ。 なのに文句ばっかgdgd言ってる奴って… もっと有意義な意見は出せんのかと言いたい。 850 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 16 36 30 ID KXeWokb/0 842 馬援はいらないんじゃないか? 誰の節度も受けずに戦った戦いは二つしかないし、 いずれも反乱平定。 強敵だったことは確かだが、反乱二つ平定では戦績不足。 耿恭や段ケイ、馬賢を入れた方が良い。 851 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/31(水) 16 59 40 ID 0wTpCgQw0 劉秀を入れるか外すか、について。有意義かどうかわからんが2案。 とりあえず、朱元璋あたりと比べてみるってのはどうやろーか? 向こうも惜しいところで候補に落ちた選手(?)やし、 比較して劉秀のほうが明らかに上やったら、文句なしに確定、とか。 もしくは改めて後漢書をひいて、光武帝紀を調べなおす。 で、呉漢、耿弇レベルと比べてどうか対比してみる。 ・・・どっちにしてもちょっと手間かかりそうやが、そんくらいしか思いつかん。 852 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 17 16 17 ID dB2ZjeT80 851 う~む、良い案だとは思うが、 後漢末と元末両方の英雄を比較できるほど 両時代に精通した住人がいったいどれほどいるか・・・ 853 852 sage 2007/01/31(水) 17 17 29 ID dB2ZjeT80 後漢末じゃなくて新末だ、スマソ 854 ◆oOLAqFKRB. 2007/01/31(水) 17 19 17 ID 0wTpCgQw0 連投になるがついでに推薦。この人が落ちることはまず無いと思うが、一応。 【名前】耿弇 【時代】新~後漢初 【功績と推薦理由】 字は伯昭。生来学問を好み、上谷太守にして黄老の学を修めた父・況に学んだ。騎射を 見てこれに傾倒し、将帥の道を歩む。 劉秀が廬奴にいると聞くとはせ参じて拝謁し、「漁陽太守は南陽宛(劉秀の地元)の人、 上谷の太守はわが父です。この二郡から騎兵1万人ずつを発せば、邯鄲なぞ恐るるにたり ません」と進言、劉秀は「君は北道のよき案内役だ」と笑うもたまたま薊で乱が起こり南征。 耿弇は上谷に帰って父に進言、寇恂、景丹らとともにそれぞれ騎兵2千、歩兵1千を率いて 出陣、漁陽の兵と合流して南進し、王郎の大将、九卿、校尉以下4百余を斬り、兵卒3万人の 首級を挙げた。涿郡から河間の22県を平定し、劉秀に再閲。劉秀は大いに喜び、将帥らに 「まさに上谷、漁陽の士大夫とこの大功をともにすべし」と発破をかけて邯鄲を抜いた。 偏将軍を叙す。父・況は大将軍・興義候とされた。 更始帝が劉秀の勢力拡大をおそれ、軍を解除して召し戻そうとしたとき、劉秀に「弇願わくは 幽州に帰り、益々精兵を発して以って大計をなさん」と述べて劉秀自立の覚悟を決めさせた。 劉秀は幽州の全兵力を発して南進し、耿弇は常にその先鋒を務めて銅馬・高湖・赤眉・青犢を 破った。尤来・大槍・五幡を追撃、呉漢ら12将軍とともにこれを追い、ついに平谷でこれを 大破、首級3万余を挙げる。劉秀即位後、建威大将軍とされた。驃騎大将軍景丹・強弩将軍陳俊 らとともに厭新将軍劉茂を破って降す。建武3年(27)、延岑・杜弘の軍と戦って大勝。斬首 三千余、将士50人を生け捕りにし、杜弘を投降させた。5年(29)、呉漢とともに富平、獲索の 賊を討ち、降るもの4万余という大勝を飾る。 詔を受けて張歩を撃ち、虚報と謀略(ホントはここが耿弇伝のキモなんやけど、割愛)とを駆使して 大いにこれを破る。光武帝は自ら車賀でこれをねぎらい、「その功は韓信よりも高い」と絶賛した。 耿弇はさらに張歩を追い、投降させ、ついでに五校の残党も平らげて、斉の地を悉く平定した。 生涯に平らげた郡は46、陥とした城はおよそ300。一度の敗戦すら経験することがなかった。 建武13年(37)、大将軍を辞めて政治顧問となり、“四方の異議あるごとに、すなわち 召し入れて籌策を問われた”らしい。永平元年(58)年、56歳にして没。謚は愍。 情報戦の巧妙さと寡を以って衆を破る精緻な用兵は雲台28将の中でもトップクラス。また、 戦時が終わって文治の時代が来ると剣を書に持ち替えて政治顧問となる適応力の高さも推薦理由として挙げたい。 855 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 17 21 01 ID qyq7a7z30 別の時代と比べる必要ないんじゃないの? 後漢の時代で十人に入るかどうかの問題にすぎないと思うのだが だから単純に同じ時代のほかの候補と比べりゃいいだけのことであって 856 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 18 14 15 ID UGano2apO 851 少なくとも前向きな意見を述べるのは有意義だと思うけど。 857 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 27 21 ID BNI4Ofp30 【名前】樊崇 【時代】新末 【功績と推薦理由】 赤眉軍の実質的な指導者。勇猛で名が知られ、決起後、すぐに数万人の勢力をつくる。 新軍を各地で破り、太師・王匡率いる新の大軍にも勝利をおさめ、新の権威を地に落とした。 その後、緑林の更始帝に降伏するが離反。長安を目指して進軍する。 その過程で更始帝軍に連戦連勝した。兵が集まり、三十万に達する。 ここで読み書き、計算ができない樊崇は劉盆子を立て、自立し、御史大夫となる。 その後、ついに更始帝を降伏させ、長安を占領する。 だが、政務が乱れ、統治ができず、食料が足りなくなり、長安の西を攻める。 略奪を繰り返し、その際、兵を大勢、凍死させる。 その時、光武帝配下の鄧禹が長安に来て、公称百万の大軍で攻めかかるが、これを大破する。 再び、長安を手に入れ、南にいた延岑を討伐させるために、 副将格の逢安に十数万の軍で攻めさせる。 その虚を鄧禹が再び攻めるがまた撃破する。 逢安は敗れて逃げ帰り、長安は食料が全くなかったため、二十数万を率いて東に帰る。 途上、鄧禹にまた襲われるがまた撃破。しかし、馮異に敗れる。 退路を自ら来た光武帝と耿エンに阻まれ、やむを得ず降伏する。後に謀反をおこして処刑される。 858 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 29 13 ID BNI4Ofp30 ポイント ・まだ、有力な山賊に過ぎなかった頃、新の官軍を精鋭をうち破っている。新の与えた打撃は光武帝にも匹敵する。 ・武将としては弱くはなかった(一応、天下はとった) 更始帝陣営の武将たちを破り、更始帝を降伏させている。 更始帝陣営に内紛を起きていたが、その原因を作ったのは赤眉軍自身の勝利である。 ・内政では失敗しているが、『名将』としてなら大きな減点にはならないはず。 それより、光武帝二十八将の筆頭・鄧禹を三度も破っているのは大きい。 鄧禹はこのせいで名将としての評価は低いが、 凡庸ならば、光武帝がここまで重任を担わせるはずはないと思える。 鄧禹は馮異たちの劣らぬ武将であった可能性もありえる。 少ないとも良将ではあったのではないか。 それを不利な状況で三度も破ったのは賞賛に値する。 ・部隊が寄せ集めの雑軍である。これを数十万を統率し、戦いにおいては勝利に導いているのは評価できる。 859 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 20 31 54 ID BNI4Ofp30 あと、曹操・周瑜は三国に含めても、孫堅・孫策・呂布はこちらでいいのかな? なら、孫策を推薦したいのだが。 860 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 21 14 45 ID KUkdqQ3LO 858 トウ禹は赤眉討伐のために光武帝より大軍を任されたにも関わらず、戦況が思うように行かないことに功を焦り 同僚の馮異の諫めも聴かずに無理して出撃したあげく 敵の罠に嵌まって大敗し、たった二十四騎で逃げかえるという大失態を犯しており到底名将とは言い難いと思う ただその後も光武帝からの信任は揺らぐことは無かったけど 後に曹操がこの故事を部下とのやりとりの中で引用したりしてるから この時のトウ禹の敗戦は後世の人達の間でも結構有名な出来事だったようです 861 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/01/31(水) 23 14 55 ID +iBDcbEc0 858 光武帝が鄧禹を重用したのは名将だからとは限らないしねえ。 前スレでも鄧禹が出てきたときも言ったが、彼は曹操における夏侯惇、秦における蒙恬 と同じで政権の重臣であっても必ずしも名将な人物ではない。 むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。 862 ◆RQdk7scN8s sage 2007/01/31(水) 23 21 12 ID 4rgF15440 861 そうなると、その国は亡国の道を歩んでいることになるわなw。 鄧禹は頭脳明晰だけど、諸将の折衝役みたいなところがあるから、その意味で総大将とされたのじゃなかろうか? 「馮異の意見を聞けよ、おまい! いっつもおれに言ってるのにどうした!?」って劉秀は思ったに違いないw(いやウソです) 863 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 11 49 ID Sr9B3q+U0 861 むしろ、実戦における名将が政権でナンバー2の地位を占める例ってあまり見ないような。 つ徐達 864 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 41 47 ID JyljPlLP0 863 軍部のナンバー1もしくは2なら徐達だろうけど、朱元璋政権のナンバー2(臣下のナンバー1)なら李善長じゃない? 865 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 46 43 ID GygXAodR0 んで、曹操は後漢に入れるのか? 866 863 sage 2007/02/01(木) 00 49 34 ID Sr9B3q+U0 864 861さんの基準に合わせるならどう考えても徐達になるんじゃない? なんつっても魏の筆頭に夏侯惇、秦の筆頭に蒙恬挙げてるんだから。 861さんは政権とは言っているけど、事実上は軍部のナンバー1を指してるでしょ。 867 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 00 58 16 ID g9hYksZnO 865 入れないと「後漢はいつまでか」から始まり、各時代の分かれ目を確定する不毛な論争が巻き起こってしまう 曹丕の魏帝即位までを後漢とし、軍事的な活動が主にそれ以前にかかる将は後漢、以後の将は三国とすべきだろ 名将になるかどうか別にして、劉備は後漢で諸葛亮は三国ということだな 868 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 21 58 48 ID g7mxEhmI0 現行の時代区分に従えば220年までだからな 曹操、周瑜は後漢の候補に入れるべきだろう 869 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 29 23 ID Joa3//ke0 前スレで、曹操台頭以降から三国時代としてこのスレでは扱っていく、って流れになったと思うんだが (劉裕登場からが南北朝時代の開始って言うのもそのとき決まった話しだし) まあ、実際後漢は候補があんまり挙げられていないから、曹操、周瑜たちが入ってきてくれれば 結構盛り上がりそうな気もする 870 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/01(木) 22 37 48 ID PVet+kzxO じゃあ後漢末の英雄も入れた案を 劉秀 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 馬援 班超 曹操 孫策 周瑜 ってのはどうだろう? 871 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 38 20 ID 0hqs5m+NO 【名前】馮異 【時代】後漢 【推薦理由】光武帝の挙兵後、潁川で配下に加わり多くの苦労をともにする。 兵士の信頼の厚く、読書家で春秋左氏伝、孫子に通じ兵法に明るく、 温和な性格で、兵士に戦場以外では他の部隊の後ろにいるように命じていた。 また軍の規律が高く、掠奪行為をしなかったため敵にも慕われ、 投降した兵士たちは馮異の部下になりたいと願ったほど。 戦功を立てたが、謙虚な人柄で決して自分から発言せずに 一人離れて大木の木陰に座って休んでいたので、大樹将軍とあだ名された。 戦歴としては偏将軍として河北で戦い、孟津将軍として河内を守っている。 河内にて寇恂らと蘇茂を大破し洛陽に迫り、 陽夏侯に封じられ、七尺の宝剣を賜る。弘農郡を降伏させる。 征西大将軍となり、 禹に代わって赤眉と戦いこれを破る。 延岑と戦いこれを討つ。 公孫述の将軍程焉と戦い破り、その為咸陽王と呼ばれた。 隗囂の将軍行巡と戦いこれを破り、隗囂と隗純を撃退。 公孫述の将軍趙匡と戦い斬るも陣中にて没する。 人柄の良さ、古典・兵法に精通、且つ戦上手、光武帝の腹心中の腹心で軍師格。 馮異こそ名将の鏡だと個人的には思う。。。 あと馬援にも一票。 872 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 48 28 ID JyljPlLP0 光武帝関係で6人ってのはやりすじゃねえの?とはさすがに思う。 対外的にハデなことが無い(少ない)から、建国期と末期に集中してしまうのも 仕方ないのかもしれんが。 873 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 22 59 53 ID KYLnwTRr0 870の案には馬賢、樊崇がはいってないよ。 改めてこんな感じで 劉秀(光武帝) 耿エン 馮異 岑彭 呉漢 馬援 班超 馬賢 樊崇 曹操 孫策 周瑜 874 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/01(木) 23 58 11 ID wmQhDUKh0 関羽は? 875 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 00 00 03 ID GioyAU1BO 874 劉邦の将で言えば柴武くらいの強さ 876 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 00 04 17 ID bvTR+Zg/0 ttp //72.14.253.104/search?q=cache VlxJFcgY2XcJ www.h3.dion.ne.jp/~china/human33a.html+%E6%9F%B4%E6%AD%A6 hl=ja gl=jp ct=clnk cd=3 柴武って選ばれてる韓信に勝ってるじゃん。 877 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 00 09 57 ID GioyAU1BO 876 分かってて言ってるとは思うが別の韓信ですじゃ 878 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 06 40 59 ID EQQRNHqC0 孫策が挙がるなら落選覚悟でこの人も。ただ、曹丕即位後まで生きとるんよね、この人。 【名前】張遼 【時代】後漢末~三国曹魏 【戦歴】 丁原、何進、董卓、呂布に仕え、曹操が下邳で呂布を破ると部下を引き連れて投降、 武勇抜群なのを認められて中郎将に任命された。別将として魯国に派遣され、諸県を平定。 袁譚・袁尚討伐に従軍、功績を立て行中堅将軍となる。楽進とともにみたび鄴を攻め、 これを落とした。また別軍を率いて趙国と常山を攻め陥とし、黒山の賊、孫軽を投降させた。 ふたたび袁譚攻撃に参加、これを破る。別軍を率いて海岸一帯を攻略、遼東の賊・柳毅らを破る。 鄴に帰還すると曹操自らの出迎えを受け、盪冦将軍に任ぜられた。さらに別軍を率いて荊州を攻撃、 江夏の諸県を平定する。 荊州攻略のため長社に駐屯、造反者が屯所に火を放ち、軍が混乱すると冷静に対処してこれを鎮撫、 造反の首謀者を捕らえて斬った。 陳蘭・梅成が氐族の居住地に拠って叛乱を起こすと討伐に派遣され、寡兵で険路をゆき部下が 諌めるのも聞かずに進み、陳蘭・梅成両将を斬った。 赤壁ののち、楽進・李典らとともに合肥に駐屯。孫権が10万の大軍を率いて攻め寄せると 決死隊800人を編成、大会戦に挑み、先頭に立って陣を陥とし、囲まれる都度これを破って、 ついに東呉の兵を潰走させた。追撃に移り、孫権を追ってあわやその命を絶つ寸前までせまるも 大魚を逸す。しかしこの敗戦で孫権は張遼恐怖症とでも言うべきトラウマを抱えることになる。 曹操はこの勝利を大いに喜び、張遼を征東将軍に任命した。 曹丕は王位につくと張遼を前将軍に任命、孫権が背くと再び合肥に駐屯させ、これにあたらせた。 曹丕登極後、晋陽候に封ぜられ、「彼は古代の召虎なり」とたたえられた。 病に伏せると曹丕からは大医の見舞いを受け、道にはかつて孫権を打ち破ったときの虎賁(近衛兵) らが見舞いに訪れてひきもきらなかった。孫権が再び叛くと曹休とともに海陵に赴き、長江沿岸に布陣。 孫権はかつてのトラウマから張遼を過剰に恐れ、諸将に「張遼は病気とはいえ、これを侮るな」と命じた。 諸将とともに東呉の将呂範を破るも、病状が悪化してそのまま江都で没す。謚は剛候。 戦歴・戦功ともに曹操陣営随一。曹操の信頼厚くしばしば別軍を任され、常にその期待にこたえる働きを見せた。 病臥したとき虎賁800人が彼を見舞い、道にあふれんばかりであったということから将士にも人望の厚い名将で あったことがうかがえる。よって推薦。 879 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 06 49 25 ID EQQRNHqC0 追記。 前スレで皇甫崇を推しとる人と祭遵推しとる人がおったから、 このふたりも候補に入れてはどうかと。雲台28将からはすでに 候補多勢出とるのにこれ以上増やしてどげんするとかって感じでも あるけど。これを4~5人に絞って、後漢末からも3~4人とすると、 中期からは一人二人か。しかもその枠にはすでに班超おるし。 俺が暫定候補に挙げた廉范とか張奐あたりは生き残る余地ないですな。 あと、曹操は劉秀を偉い尊敬しとったし、劉秀のほうが帝位についても 陣頭指揮したり戦術的才能には優れとった(しかも実際天下取った)みたい やから、曹操確定=劉秀確定、でいいのでは。あとは推薦文の挙がっとる 耿弇と馮異、それと支援者の多い馬援が一歩リード? しかし俺の推薦文(←耿弇。張遼もそんな感じ)は長すぎなのがいかんやね。 みんな短くまとめるスキルが高くて感服する。 880 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 07 52 36 ID Cf8a6XNu0 879 戦歴の凄いから多少長文になるのは仕方ない。 エピソードを交えるなら必要そうなとこをチョコット入れるのがいいかと。 881 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 10 24 40 ID NT9K+D4vO 張遼は大軍を率いたことがほとんど無いからなぁ… 882 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/02(金) 12 02 43 ID pgBI3Mo20 大軍を率いた経験っつったら袁兄弟討伐後、曹操から数十万の軍隊の全指揮権を任されて 烏丸族を殲滅、蹋頓単于をぶっ殺した。多分これだけやね。まぁ烏丸は少数民族やし、 数十万おったら凡将でも力押しでバッサリできたのかもしれんが、いくら大軍で寡兵を攻めても 勝てんやつは勝てんけんね。寡兵の赤眉に大軍で当たって三度も負けた鄧禹がいい例。 合肥のときは烏丸討伐のときとは真逆で、800人で10万人を潰走させるんやから、 もちろん寡兵での作戦行動も得意。数千~一万人単位とはいえ毎度別軍を任されるのも信頼が厚いことの証。 状況に従ってどっちでもいける万能タイプやと思うんやが、どうやろ。 まぁifは無しやから、大軍を率いての用兵、一回きりでは評価に疑問符がつくなのもしゃーないけど。 あと耿弇の推薦理由に一個追加。 更始帝が劉秀の勢力拡大を恐れて軍隊解除の上帰れと命令したとき、悩む劉秀に「幽州に割拠して自立するべきです」と進言して独立の決意を固めさせた功。 いちおう推薦文にも書いちゃおるけど、長文に隠れてわかりづらいし、これは一つ二つの武勲よりはるかに高い功績やと思うのであえて追加。 昼んなったんでメシ喰ってきます。それではまた。 883 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 14 06 23 ID kt3A+xPYO 882 まあ、もちつけ。 寡兵ながら兵力が倍以上の敵を何度も撃破したり、敵側の思惑を阻止したりしてるなら、 それはそれで十分評価に値するんじゃないかな。 大軍を率いてもヘボい奴だっているんだし。 ( 禹のことじゃないよw) 張遼は知略にも富んでるみたいだし。 数千~一万人単位は張遼が自ら望んで曹操から与えてもらったのではと俺は勝手に推測。 寧ろ寡兵に因る機動性を重視したとも考えらるし。 あと個人の近況報告は別にイランよww 884 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 16 17 56 ID QjzgOT3i0 枠が余ったら別時代に持ち越しでいいと思うけどな 885 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 19 22 08 ID bvTR+Zg/0 だったら後漢は曹操だけでいいよ 886 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 21 35 09 ID yBMgK+U/0 俺あんましこの時代知らないんだけど、 新末群雄(劉秀軍除く)に骨のある奴っておらんの? なんか、全く話題が出てきてないんすけど。 887 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 21 57 42 ID NT9K+D4vO 骨のあるやつといったらカイゴウとか延岑とかかな、個人的には延岑が好きだけど ただやっぱ圧倒的に劉秀軍が強過ぎて他のやつらは霞んでしまうな 888 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 22 00 11 ID GioyAU1BO 荘尤はガチ 889 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/02(金) 22 01 41 ID vMSepamz0 あるにはあるわなぁ… 劉秀初期で言えば、邯鄲の王朗とか(耿弇によってあぼ~ん) 後には徐州の董憲とか(劉秀自らの速攻であぼ~ん) さらにもと故郷でもある南陽での鄧奉の乱(これも劉秀の陣頭指揮であぼ~ん) 荊州の秦豊(岑彭にあぼ~ん) あとは隴西、四川の大物くらいだが、どうも劉秀陣営が強すぎてどうしようもないって感じだなぁ。 反乱や割拠している地点は、どの時代にも通じる要衝でもあるわけだから(鄴や徐州、揚州、荊州、隴西、四川といえば、分裂期にはなんらかの勢力が割拠する)、そう見劣りするわけでもないし、鄧奉は微勢力ながら、劉秀を結構苦しめてはいるんだけど… 890 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/02(金) 22 06 55 ID GioyAU1BO 劉子輿は王郎です 朗だと于禁を推薦した将軍です 891 1 2007/02/02(金) 22 08 46 ID 4PZLSFbn0 【名前】段ケイ 【時代】後漢 【推薦理由】 泰山、琅邪の賊の東郭竇、公孫挙三万余人を 大いに破って斬首すること万余、これを鎮圧した。 焼当、焼何、当煎、勒姐等の八種羌が隴西、金城を侵したため、 一万二千騎を率いてこれを撃破。首二千級を斬り、捕虜数万を得た。 羌が張掖を侵すと、大帥を斬り、千六百人を殺し、さらに首三千余級を斬った。 勒姐、零吾種が允街を囲んだため、救援に向かい、数百人を斬った。 羌五六千人が武威、張掖、酒泉を侵すと、護羌校尉となって三千余戸を降伏させた。 万余の兵を率いて勒姐種を撃破し、その酋長を斬り、四千余級の首を得た。 復た勒姐種を撃ち、四百余級の首と二千人の捕虜を得た。 当煎種を湟中で撃ち、首級数千を得た。 西羌と戦って斬首すること二万三千級、捕虜数万、家畜八百万頭を得て、 万余戸を降伏させた。 892 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/02(金) 22 12 41 ID vMSepamz0 890 あ、ほんとだ。 そういば、前スレで五代のとき別の人に自分も誤字を指摘したけど、最初Why?になるのがわかったw サンクス。 893 2 2007/02/02(金) 22 29 40 ID 4PZLSFbn0 【推薦理由2】 当煎の諸種が反乱を起こして武威を攻めようとしたため、 これを撃って、斬首すること三千余級。 西羌はここにおいて鎮圧された。 征西将軍馬賢を戦死させた東羌先零は何度も三輔を攻め、 朝廷には討つことが出来ず、皇甫規、張奐もこれを鎮圧できなかった。 段ケイは万余人を率いて、先零諸種を逢義山で撃破し、 斬首すること八千、得た家畜は二十八万頭に及んだ。 羌を奢延澤で破り、追撃してさんざんに打ち破った。 羌を討って一万九千級の首を斬り、数え切れないほどの戦利品を得た。 百八十戦して、三万八千六百余級の首を斬り、 牛馬羊騾驢駱駝四十二万七千五百余頭を得た。 段ケイ軍の戦死者は四百余人であった。 後漢後期の最大の外患であった対羌戦争において常勝を誇り、 名将馬賢ですら勝てなかった東羌をも破った。 同時代の名将としては皇甫規、張奐がいるが、 段ケイの武勲はひときわ大きく、頭一つ抜けているように思われる。 戦略眼に優れ、東羌討伐の際には張奐との論争に勝っている。 士卒を手厚く遇し、苦しみを同じくしたため、皆喜んで段ケイのために死戦した。 宦官と手を結んで富貴を得たが、彼の武勲を損なうものではないだろう。 894 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 07 07 48 ID ZDh9khbT0 樊崇を推したものだが、 鄧禹が『へっぽこ』という評価については反論すると http //www2u.biglobe.ne.jp/~dnak/sangoku/touu.htm これを見ると、前半だけを見ると『名将』といっても過言ではない気がする。 光武帝が重任を与えたのもただの調整役ではとどまらないだろう。 鄧禹が無様な姿を見せたのは赤眉との戦いだけ。 そのため、ここまで評価が低いのは不当に思える。 鄧禹が馮異の意見を聞かなかったのも、鄧禹なりの算段があったかも知れない。 (失敗しているにしても) 鄧禹が弱いのではなく、樊崇が異常なまでに強かったと解釈するのが自然な気がするが また、樊崇を推す理由として、鄧禹の参謀として、馮異がいたこともかえってプラスになる。 樊崇は馮異を破ったともいえる。 鄧禹が馮異の意見をきかなかったせいにしても、馮異を野戦で敗走させたことに変わりはない 895 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 07 33 21 ID ZDh9khbT0 自分なりにこの時代の議論をまとめると、 新・後漢 【確定組】 劉秀、馮異、班超、曹操 【候補】 耿エン、岑彭、呉漢、賈復、祭遵、馬援、樊崇、段ケイ、馬賢、張奐、虞[言羽] 皇甫崇、孫策、周瑜、張遼 こんなとこか? 上の四人は確定でいいと思うが 耿エンは後半活躍してない点、岑彭は暗殺された点で議論の余地があると思うので 候補にとどめた 896 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 12 00 05 ID 4JGXh3Gh0 895 多分おちるだろうとは思うが、候補に厳尤も入れておいてくれ。 897 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 15 38 30 ID N3vN9XjlO 895 樊崇、段ケイは確定にしても良さそうだが諸兄どうだでしようか? 樊崇は光武帝には負けているが緑林・更始帝軍を倒し、トウ禹を三度も打ち負かしている。 一応、天下獲っており、欲得抜きの性格で人々から慕われていた点も考慮しました。 段ケイは対羌戦争において数多くの武勲を挙げ、 馬賢ですら勝てなかった東羌をも悉く平定していますし 十分資格を満たしていると思います。 896 取り敢えず厳尤の戦績を挙げていただけないだろうか? 898 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 17 03 46 ID cAAjmUXU0 周瑜確定でいいんじゃない? 孫策時代も戦ってるし、江陵を赤壁の兵力そのままで一年で墜としたのはヤバイと思うんだけど 899 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 18 43 45 ID dptrkRIWO 耿エンは確定でいいと思う あと岑彭に関してだけど、暗殺されたことと名将の資質とはあんま関係無いと思うけどな 900 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 19 51 58 ID y2qYHba00 諸葛孔明が入っていないのはなぜ。 901 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 20 00 14 ID c/Fg+rhNO 900 入れたいんなら三国まで待て 902 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 20 03 47 ID y2qYHba00 ゴメン。 903 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 50 24 ID T/219OKK0 名相ならともかく、どう解釈すれば正史の孔明が名将に入るのか聞きたい・・・ 904 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 55 03 ID E2PKen/O0 903 防御に回って劣るとは思わんが、攻勢に出た場合の戦績は芳しいとは言えないからなあ。 会戦に及んだ時の強さはともかく。 905 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 21 55 40 ID 7YsTVlT/0 一応自分が指揮した戦闘はたいてい勝ってるからな 名将までは行かなくても普通に有能ではある 906 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 00 08 ID E2PKen/O0 まあ本人の言うように 「運籌策於帷幄之中、吾不如子初遠矣。若提枹鼓、會軍門、使百姓喜勇、當與人議之耳」 と言ったところなんだろうな。 907 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 09 05 ID T/219OKK0 904 905 孔明が獲得した領土上げてみるべし(・・・もしあったらだが) 入蜀はホウ統、漢中は法正、南蛮は李恢・張ギョクだから 908 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 21 12 ID E2PKen/O0 907 陳式が武都・陰平を平定できたのは諸葛亮が郭淮を牽制してたから。 南蛮も高定らの反乱の時に南征して平定してる。 この時、李恢は昆明で倍の軍勢に包囲されたが策略を用いて突破という活躍をみせたが、その後諸葛亮に合流してる。 909 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 30 51 ID N3vN9XjlO 905の見解が妥当だろうな。 つ 果てしなく議論が続きそうだし諸葛亮の話はもういいだろ。 他のスレで散々やりやってんじゃん… 910 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 22 37 39 ID E2PKen/O0 じゃあ今すぐにでも諸葛亮の話をしたい人はとりあえず↓でことで。 【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1168572076/ 911 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 22 45 23 ID dptrkRIWO とりあえず後漢を確定させよう その後で好きなだけ諸葛亮について語ればいい 891を改めて読んでみたけど、段ケイは確定としてもいいような気がする 912 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/03(土) 23 56 15 ID 4JGXh3Gh0 後漢は三つに分れるね。 1新末から建国・統一戦(光武帝関係) 2西北の対異民族戦争 3董卓以降の末期 1の代表で劉秀、2の代表で班超、3の代表で曹操は確定でいいでしょう。 それぞれで二番手を出すとすれば1で樊崇か馮異、2で段ケイか皇甫崇、3で孫策か周瑜 となりますかね? 913 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 00 48 30 ID 3I3Pn0e20 樊崇支持者が多くてよかった。ついでにトウ禹の名誉回復も少しできたし (あまりにもトウ禹が無能なら、光武帝の減点材料にもなりかねないし) 自分的には、劉秀、馮異、耿エン、岑彭、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜 の十名。 馬援が抜けたのは、活躍が地方反乱が相手なのと、最後に計略を誤り、 耿エンの弟である武将の耿舒からぼろくそに言われているせい。 悲劇的な最後と人格で高名があり、『勇将』の方がぴたりくる。 それにさすがに光武帝陣営六名は多いと思うので、群雄代表の樊崇をいれた方が バランスがいいような気がする。 段ケイも支持者が多いので入れる。後漢は『戦争が強すぎて滅びた』といわれるほど 異民族には強かった。その代表者として選んだ。 (国力差もあるのでさすがに一人でいいと思う) 自分で推した孫策を抜けたが、これは周瑜が三国に含まれると思っていたから。 南北朝の端をつくり、三国時代の幕開けをつくった周瑜の方がふさわしいと思う。 張遼については、曹仁、夏侯淵、張コウ、徐晃、関羽、呂蒙らと三・戦板や様々なサイト で誰が上か延々とこれからも論争中である。つまりは大きな差はないといえる。 孫策が落ちたのでこれも落とした。 異論があると思うけど、こんなものでどうかな?(次点は馬援ということで) 914 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 01 59 02 ID wCWAbGbP0 913 いい線いってると思う。 個人的には、それでも光武帝関係で五人かよと思うが、じゃあ誰を抜いて代わりに 誰を入れるのかとなるとかなり悩む。 あとは周瑜が悩みどころか。でもここも誰を代わりにするかが難しいな。 915 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 04 24 52 ID 561ANtKWO 913 いいんじゃないかな。 馬援にはまあ涙を飲んでもらうわ。勇将と言ってくれてるし。 光武帝陣営には凄いのが犇めき合ってるので、 個人的には多く入るのは仕方ないんじゃないかと思うけどな。 916 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/04(日) 11 14 00 ID Y86/aXwU0 913 呉漢と岑彭はどっちか落として四人に削るというのはどうやろ? 両者戦歴似とるし。戦功なら呉漢、人格なら岑彭、ぐらいの差やないかな。 で、後漢末に一枠増やして孫策か張遼を入れるという案を提示したい。 張遼挙げたのは俺やから、ここは公平を期して孫策かな。 917 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 11 40 17 ID wCWAbGbP0 916 孫策と周瑜は、入れるならどちらか一人じゃないですかね? 後漢末にもう一枠つくるなら、田中芳樹にならって蜀陣営から一人といきたい ところだが…いないんだよなあ。 918 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/04(日) 11 44 48 ID 74slseESO 個人的には武闘派の代表として呉漢を残して岑彭は次点に回すのでいいんじゃないかなと思う で後漢末から一人入れるなら自分も孫策を推す 919 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 11 52 50 ID RNjeXcsr0 917 じゃあ、間を取って孫瑜で。 920 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 12 12 16 ID K7hVKxJT0 後漢末なら、黄巾平定とか涼州討伐で名をはせた皇甫嵩の方が張遼や孫策よか上だろ 後漢の対羌族の討伐戦のほとんどの原因は、劉秀の洛陽奠都に帰趨するところ大でしょうな どう考えても、関中から河南にまで絶対国防圏を後退させたのは失策だろう 長安はおろか、首都洛陽まで羌族に攻め込まれておいて 913の「戦争に強すぎて滅びた」は ちょっと贔屓の引き倒しじゃないかい? 馬賢と涼州三明の皇甫規、段ケイ、張奐の中から一人選ぶとすると、あとは好みの問題だからな 馬賢の場合は失地回復、戦歴の長さ、何より羌族討伐戦のパイオニアとして 段ケイは東羌を悉く平らげた当たりがポイント高い うーん、馬賢の方を俺は推したいが 921 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 12 31 23 ID eC6DRx970 920 段ケイは確定でいいのでは。 指摘どうり馬賢より功績は上なんですし。 孫策より皇甫嵩の方が俺もいいと思います。 曹操が登場するまで皇甫嵩が黄巾賊を討伐しまくっていたんだしこの功績は大きいと思います。 922 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 13 07 08 ID wCWAbGbP0 たしかに、国家に対する功績では間違いなく皇甫嵩ですな。 923 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 13 42 30 ID zzI2Diy4O 917 敢えて蜀から選ぶなら劉備だろうけど、無理に選ぶ必要もないでしょう 924 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 22 02 54 ID eC6DRx970 【新・後漢】 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、曹操、周瑜、皇甫嵩 呉漢を残して岑彭を外しては?という意見があったので岑彭は次点にしてみました。 残りの一枠は孫策を推す声が多いですが 孫策より皇甫嵩の方が功績が上だと思いますがいかがですかね? 馬賢を推す意見もありますが段ケイは東羌を悉く平らげている点を 考慮して段ケイを確定にしました。 諸兄の意見を参考にして考えてみました。 取り敢えずこんな感じですがどうですかね? 925 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/04(日) 22 05 28 ID bcCeBJrY0 俺もそれでいいと思う 孫策は早死しすぎたね 926 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 01 03 15 ID E8pEgwyL0 推薦 名前:陳規 時代:北宋末期~南宋初期 推薦理由:もとは一地方の県令というしょぼい職ながら、北宋~南宋の過渡期において 現地住民に請われ留まり徳安府を大~中勢力から少なくとも九度の侵攻から守りぬき 鎮撫使(ミニ宣撫使:宣撫使は五大軍閥の主将が歴任した大官)になった。 文官出身で、しかも実績のみでこの大責をまかされたと断言してよいのはこの時代では彼のみ。 本人の武力には疑問符が付くが、火槍(限定的火炎放射機能を持った槍)を開発するなど その活躍は一介の有能な文官では説明がつかない。 「守城録」という防衛戦の専門書としては墨子以来の著作も遺している。 順昌府の戦いで劉錡と共に宗弼の軍を撃破する。 劉錡が岳飛効果の恩恵を受けているため陳規は単に清廉潔白な官僚と思わてる節も多い。 張巡・袁崇カンと共に数少ない守りの名将・・・かもしれないが 撃破した有名どころは所詮順昌府の宗弼一回きりで、その時は皇帝親衛隊を引き連れた 劉錡も一緒だったというネックはある。 しかし劉錡の順昌府以前の戦歴はそれほど振るわないという点と、失策らしい失策は 見られないという手堅い点から推挙する理由は十分だと思う。 こいつを候補から外すくらいなら、同じように劉錡を外しても良いと思う。 ・・・でも知る人ぞのみ知る名将という感じもするし、複雑である 927 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 16 05 25 ID l7X58MU20 924 周瑜を入れるぐらいなら、岑彭を入れて欲しい。 切り取った領土の広さ、撃破した敵の数、 独立した指揮権を有して戦った期間、 いずれも岑彭は周瑜を上回っている。 928 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/05(月) 17 20 18 ID jKij5xHO0 927 戦略構想では周瑜のほうが上では? 益州を取って荊州あたりをそうついとる劉備陣営を潰し、 長江以南を平定して 一足飛びに南北朝時代を確立させようとした戦略眼は 当時の将帥たちの上を行っとると思うんやけど。 まぁ、準備万端整ったところで病死したってのが痛いか。 ともあれ、 孫策に使えてからほぼ一生涯に渡って独立指揮権を任されとったわけやし、 将才では負けてないと思う。戦術活動の成果としては岑彭のが上か知れんけど、 大局を見極める目は周瑜やろ。 それに、前期四人、中期二人、後期三人のバランスもあるけんね。 光武帝の麾下があんまり入りすぎるとバランス崩れるやろ。 他所の時代やったらみんな軽く10傑入りできる将器の持ち主だけに、 斬り捨てるのは実際惜しいけど。 929 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/05(月) 17 23 17 ID jKij5xHO0 928、間違えた。前期四人、中期三人、後期三人やわ。失礼した。 930 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 14 21 ID l7X58MU20 928 実現されなかった戦略構想は実績とは言えない。 また、孫策時代の周瑜は孫策の指揮下や後方支援で動くことが多く、 独立した指揮権を有して戦ったのは孫策死後。 大きな戦いで指揮権を握ったのは、赤壁が初めて。 後漢を代表する名将というには、実績が足りない。 大局を見極める目があるというだけでは、 岑彭の実績には及ばない。 バランスに関しては、実績のある武将を入れられるなら、 崩れてもかまわないと思う。 どうしてもバランスを崩したくないというのなら、 周瑜よりはるかに実績の多い馬賢を入れた方がより釣り合うように思う。 931 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 18 39 56 ID pT1BwXegO 流れからするとバランス重視の方がいいをじゃない? 俺は周瑜を馬賢に替える案に賛成。 932 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 47 00 ID 9qXibB7s0 水軍で陸戦をする無茶をやらかす周瑜 933 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 18 49 15 ID 2S0yxpz10 周瑜は赤壁のお陰で一発屋のイメージが強いし 益州を取って曹操に対抗云々は既に甘寧が提唱しているからな。 それなら寒門出身で一兵卒から出世して 最後は呉軍総司令格までのし上がった呂蒙を入れたい。 934 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 09 32 ID M9KEYhb80 933 周瑜は赤壁で曹操の南下を防ぎ、曹操麾下の猛将曹仁守る江陵を確保。 それに対して呂蒙は2度にわたる荊州侵攻で見せた手腕は鮮やかだが、相手関係を考えれば実績は落ちる気がする。 935 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 18 47 ID 2S0yxpz10 相手関係ねー。 確かに(公称)二十万の曹操軍を破った周瑜と比べると 呂蒙の相手は関羽だからね。 でも名族出身で先祖に太尉を出した周瑜はスタートの時点で恵まれた感がある。 ちなみに虎穴に入らずんば虎子云々の初典は三国志の呂蒙伝。 936 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 31 25 ID IFh09vNV0 935 確か成立時期の古さは三国志のが後漢書より先だったっけ? 呂蒙伝が初典とは知らなかった そういう言葉が班超の時代から残ってたか 後漢書作った范曄が三国志から拝借したのかどっちだろう 937 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 19 31 36 ID ZnAMmgaI0 935 班超じゃないの? 938 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 21 14 35 ID gkuHnGev0 やっぱ周瑜は議論のタネになるか。 ただ、 924の他の人選にはほぼ文句なしってことでいいのかな? ってことは 劉秀、馮異、耿エン、呉漢、樊崇、班超、段ケイ、皇甫嵩、曹操 を確定として、 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜からってことでよろし? 939 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 21 37 51 ID 9qXibB7s0 あえて樊崇を抜くという選択肢もある 時代のバランスも含まれてランクインしてる面もあるし 940 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 22 13 00 ID pT1BwXegO 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいと言う意見が出てるが、 周瑜より岑彭、馬賢の方が功績は上回ってるし、周瑜は外してもいいんじゃない? 光武帝陣営からは4人でいいと思うし、先程も言ったが残りの一枠は馬賢がいいと思う。 あと俺はあえて樊崇を抜くという選択肢には反対だな。 941 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 22 34 54 ID 4mxDS0egO たまにいわれる光武帝陣営から出しすぎ、って意味がよくわからん 実力があるなら、たとえ後漢10傑が劉秀陣営で埋め尽くされてもいいんじゃないの? と素人は思う 942 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 22 35 48 ID Qroz/e/Y0 逆に実力で決まるんなら曹操で全部埋まるだろ 943 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/05(月) 23 04 38 ID Arz6A/GO0 942 曹操が尊敬する光武帝を差し置いてか? なにか強い推薦理由がありそうだが…? 944 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 14 40 ID gkuHnGev0 941 その実力の優劣どうやって量るのか、万人に納得されられる方法があるのならそれでもいいよ。 しかし実際には同時代で敵対対決するとか同陣営で評価や功績や行賞に明確な差がつけられる のならまだしも、同じ王朝でも別の時代に別の戦争でそれぞれ活躍した人物の優劣なぞ付けられ ようがない。 だったら、一つの時期陣営に偏らずまんべんなく選出するようにするというのは一つの解決法。 乱世に一地方の平定に活躍して平和をもたらした人物と、対外戦争に活躍して国難を排除した人物。 どちらを上とするかなんて、功績のどの部分を重視するかによって変わり、結局個人の趣向で選出 するのと大差ない。 945 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 21 05 ID GJXoeUvW0 劉秀って、一端滅亡した国を中国史上で唯一人、復興させた 人じゃなかったっけ。 それだけの偉業をしてる人間の陣営だから、選ばれる人間が多 くなっても妥当でしょうね。 946 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 33 12 ID 1Zj6/ayY0 でもほとんど別物だからな 名目さえ復興ならいいのだろうか、という問題はある 947 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/05(月) 23 34 07 ID 9qXibB7s0 そりゃ名前だけでしょ?>復興 前漢と後漢は別物よ、別物 948 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/05(月) 23 36 42 ID Arz6A/GO0 945 名文的には復興ではあるけど、中身は別の王朝なんだよね。 たまに、漢朝四百年とかいうけど、あれはあまりにもまとめすぎな表現で、正しくはない。 劉秀陣営が非凡なのは、常に相手よりも少数で戦いに勝ち続けたところにある。復興を成功させたことだけではないということ。 でもまぁ、バランスをとる意見には賛成ですな。 949 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/05(月) 23 56 47 ID SAxiv0vUO 【名前】延岑 【時代】新末~後漢初 字は叔牙。新末の混乱に乗じ挙兵する。 赤眉軍との杜陵の戦いに於いて諸戦は破れるものの、その後態勢を立て直し大いに破り、赤眉軍に決定的な打撃を与えた。 その後は劉秀勢力と死闘を繰り返すことになる。 他の群雄が次々と劉秀に殲滅されたり降伏していく中で彼だけは劉秀に決して屈することは無かった。 幾度も劉秀配下の名将に敗れながらも、一度はトウ禹を破る等劉秀を苦しめ続け決して反光武の姿勢を諦めなかった。 結局流れながれて蜀の公孫述の元にたどり着きそこで劉秀に対する最後の抵抗を試みることになる。 成都を大軍に包囲され弱気になった公孫述に対し 「男児たる者正に死中に生を求めるべきです!居ながらに窮してはなりません。 財物は集め易いもの、これを惜しむこと無きように。」と進言し これにより財物を散じて得た敢死の兵五千人を率い、 劉秀軍の先鋒であった呉漢を計略をもって破った。 この時呉漢は落馬して水に落ち危うく死にかけるところであった。 さらにその後ゾウ宮の軍を三度破る等意地を見せるも大勢を覆すことは出来ず 結局態勢を立て直した呉漢の軍に敗れ公孫述と共に族殺された。 950 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 04 19 25 ID x2IBZ7jtO 945 バランスを重視の方がいいって方向で話を進めているのに、 無理に光武帝陣営を増やす必要はないじゃないか? 残り一枠を岑彭、馬賢、周瑜から選べばいいだけだろ?違うのか? 951 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 05 16 26 ID qWNDLA7b0 942 短期間で統一を果たした光武帝陣営と統一できないまま終わった曹操陣営では雲泥の差。 何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。 実力からいえば敗北が多い曹操はトウ禹と同クラスと解釈されてもおかしくない。 武力で政権をとれたのでランクインできただけとも思える。 曹操がこの程度だから、彼を苦戦させた周瑜や劉備の評価も低い。 とにかく、自分は岑彭を落とすことには反対。統一政権下のもとの異民族討伐や傑出した英雄が あらわれず、乱世がえんえんと続いた後漢末と復興を名目とはいえ、新王朝を作った光武帝と では差がでるのは当然。 また、この選出ではバランスや功績と同時に、将としての軍略や戦いの強さも重要と思う。 岑彭の将才は相当なもので外すには相応な理由がいると思う。 自分的には、功績は確かに大きいが、それほど傑出した戦いぶりをしていない皇甫嵩を落とす べきだと思う。腐敗していたとはいえ、後漢の軍の指揮を大部分まかされ、多数の兵で民衆反乱に 過ぎず戦闘経験も浅い黄巾軍と王国を破ったぐらいでは『良将』の域を超えないのではないか。 それがだめなら、周瑜を外すべき。孫策死後、曹操が袁一族と戦っていたころ 劉表や黄祖などを相手ほとんど国力を伸ばせなかった手腕はこのリストにあげる には不足かと思う。曹操がイメージで強いと思うから周瑜が入るわけで、曹操がトウ禹や苻堅と同じ 凡将クラスには勝てても、良将クラスには勝敗を繰り返してなんとか勝ち、名将には負ける レベルと思えば納得がいく。 942が馬鹿なことを言うものだから、感情的になっているかも知れないが 判断そのものは誤ってはいないつもりだ。だから曹操を外せとはいわない。 後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。皇甫嵩か周瑜を外してほしい 952 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 07 45 49 ID 1IZag9DG0 951 いや、充分感情的になりすぎてると思うよ 後漢・三国の連中を不当に貶めてやいないか。 953 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 08 17 17 ID g6tnfLu80 951 >何が実力か。勉強しなおしてこい。馬鹿もの。 >曹操がこの程度だから、 >後漢末・三国の連中は調子に乗りすぎだ。 周瑜や皇甫嵩を外すべき理由には一考に値する物があるのに、感情的になりすぎて台無し。 まずは相手に話を聞いてもらえるように提案しないと、逆方向に行っちゃうよ。 954 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 08 29 34 ID aUi93BeQO 951の考え方で行くと、たった十年程度で亭長から天下統一した劉邦とその将たちの評価が低すぎるな 955 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 10 26 48 ID d+GgwL/rO 周瑜が入らないとなると後漢末~三国志の人物がほとんどランクインしなくなるような… 956 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 10 42 34 ID dM68cmJL0 無理に選出する必要はないと思うのだが 957 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 11 07 18 ID x2IBZ7jtO 多少バランスが崩れても周瑜を外し岑彭を確定にして、 皇甫嵩に反対意見が無ければ現状維持、反対意見がが有れば馬賢を確定入りにすればいいんじゃない? 無理に後漢末~三国志から選出する必要はないと思うのだがと言う意見もあるし。 958 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 11 31 25 ID XFtBaG8O0 956 同意。周瑜はいらないと思うが。 959 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 08 57 ID oWFp0mNu0 951 そうやって評価するのなら、比べるのなら劉秀と曹操、劉秀配下と曹操配下でするべきでしょう。 キッツイことを言えば、天下を統一したのは劉秀であって岑彭たちはその配下。 「相手のレベルが低いからそれに勝っただけの曹操も凡将レベル(あるいはその逆)」 なんて、それこそ程度の低いちゃもんにしか聞こえない。 日本史戦国の方でよく聞かれる「信長は周囲がザコばかりだったから勢力拡大できたんだよ」 同じことだな。 こんな主張がまかり通るのなら、「光武帝の時代には、敵に無能しかいなかったから統一できた んだよ」なんて阿呆ないちゃもんも成立してしまうわな。 念のためいっておきますが、私は信長の周囲も光武帝の時代にも、敵はザコしかいなかった なんて思ってませんよ。もちろん、後漢末もね。ですからそのテの議論はやりません。 960 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 17 20 ID v5lnbEtm0 後漢末は低レベルってのを示さないと、周瑜は外せないような。 961 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 12 20 42 ID d+GgwL/rO 取り敢えず周瑜の事跡と岑彭の事跡を書きだしてみて皆で比較検討してみてはどうだろうか? 962 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 12 45 59 ID aUi93BeQO 逆に考えるんだ 後漢末はどんな優れた人物でも容易には覆せない状況だったんだと 100m走で100m10秒台出した選手と、100mハードルで出した11秒台出した選手を見て、それだけで前者が優れていると断定するようなものではないか? 963 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 13 59 01 ID oWFp0mNu0 962 まあアヘン戦争や義和団事件を個人の将才で覆せたとは思えませんしねえ。 ところで、次スレどうしますか? 964 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/06(火) 16 14 55 ID AYptQ9tP0 963 ですね。 個人の将才だけでかたがつくなんて思ってる人はここにはいないだろうけど、時としてそのときの政治的背景や人々の世論といったものを無視しがちに思う。 劉秀の生きた新の時代は、漢の劉氏が不遇に扱われ、その不満や不安が劉氏擁立というかたちで現れた。 劉秀は後発ながらそれにのり、更始帝にはない公平さでもって部下が働きやすいような環境を与えている。 当時劉氏復興の世論が各地にはあり、劉氏擁立や血統を主張して、それ以外の勢力は大義名分的に弱かったといえる。 こういう流れで後漢末を見てみると結構興味深い。 曹操は後漢王朝の中興の臣だけど、一面では君側の奸ともとれる。これは後漢王朝を保守しようとする人々の世論の後押しがやや弱く、漢朝の臣と曹操独自の臣との結びつきが思うほど強固ではなかったのではないか。 曹操が戦線を延ばした先で負けているのは、そういうところにあると思うし、またその先で曹操を阻み、分裂を決定付けたのは孫権軍閥だということ。 曹操軍閥から離反せしめなおかつ撃退した周瑜という将軍の功績は、戦績以上に大きいのではないか。 自分は五代の流れからも、こういった独立国が誕生する瞬間、それに関わった将や臣たちの功績は高く評価できると思う。 とすると、とーぜん劉備も評価するに値するわけだけど… さて…(個人的には目を見張るほどの将才があるとは思えない。劉秀と違って負けが多いし…) 965 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 17 38 16 ID d+GgwL/rO 新末は王莽の極端な復古政治に対する反発が漢朝の復興を望む声につながり 後漢末では宦官や外戚の専横による政治の腐敗に対して民衆の間に漢朝に対する失望が広がってたんじゃないかな 966 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 18 31 25 ID x2IBZ7jtO つまり 951が偏った知識で物事を判断してるだけだろ。 ただそれだけだ!! それより論議に移らないか。 967 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 18 38 30 ID Nm7SsIX+0 偏った知識というよりは偏った愛 968 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 18 55 32 ID IEjQPnlWO 965 漢朝に対する失望があったと同時に、漢朝や劉氏政権が正統だという意識があったみたいだからややこしい 劉備も劉淵も劉氏だからって王朝の名前を「漢」にしたし (だから纏まらなかったのかねぇ) 969 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 21 13 21 ID oWFp0mNu0 ところで、段ケイの「ケイ」って、「熲」この字でよかったっけ? あとなんで耿エンも漢字じゃないんだ? 970 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 21 58 35 ID snPB2VPW0 969 段ケイのケイは潁の字の水が火になった字。 971 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 22 53 07 ID snPB2VPW0 957 賛成。 955 それではダメなのか?十分な戦績を持った将軍が 曹操しかいない以上、仕方がないのでは。 964 歴史的意義よりは、実績の多寡で選んだほうがいいように思う。 でないと、一発屋がランクインしてしまう恐れがある。 周瑜は戦略家として優れているが、司令官としての実績には乏しい。 独立した指揮権を握ったのは二回だけ、切り取った土地は長江中流域のみ。 荊州を敵軍の三分の一の兵力で攻め取り、 公孫述から長江の制河権を奪い、巴郡を平定し、 蜀を平定する一歩手前で死んだ岑彭の方が、 遥かに一軍の将としての実績は豊富。 972 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 01 27 ID BnbC+3e00 関羽は? 973 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 08 16 ID LcIQFcaZ0 初期の4名、中期の3名は確定でいいと思う。 かわりに呉漢がはいっとるから岑彭には涙を呑んでもらうとして。 で、後漢末では曹操確定、周瑜内定。 馬賢を推す声は多いけども彼はむしろ後漢中期に活躍した人、な気がするし、 寡聞にして俺はこの人の具体的実績を知らん。 皇甫崇は実績十分ながら大兵力をもっての反乱平定は出来て当然、な気もする。 話を蒸し返すようやけども叩かれ覚悟で孫策、張遼を推したい。 まだこの二人引きずってんのかよと言われそうやが、 孫策は夭折ながら僅か2000の寡兵で挙兵して連戦連勝、東呉の礎を造ったし、 (これは弟に同じことやれゆーても絶対できんかったと思う) そのうえ一時曹操をビビらせた。 張遼は烏丸族殲滅やら合肥の対孫権戦で見せた活躍やらで曹魏陣営最高の名将やと思うし、 光武関係で4人出とるわけやから曹魏の将を一人追加てもいいかなと。 実績から言ってもし彼が蜀漢の武将やったら確実にランクインするやろーし。 ついでに、スレ立て技能ない俺がそろそろ次スレの容易せなねーと無責任に言っとく。 974 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 23 13 14 ID snPB2VPW0 973 馬賢の戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している 975 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 20 07 ID LcIQFcaZ0 974 サンクス。前漢の趙充国みたいな人やと思えばいいんかな。 976 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 20 25 ID snPB2VPW0 973 徒手空拳で大勢力を築いた奴は、他の時代にもいくらでもいる。 孫策だけをランクインさせるのは、不公平な気がする。 張遼は単独で指揮権を握った経験に乏しい。 司令官というよりは、司令官の下で働く良将といった感じ。 どうしても後漢末、三国からランクインさせたいという執念には頭が下がるが、 そこまで無理して良将レベルの人間をランクインさせる必要は無いと思う。 孫策や張遼を他の確定組と並べたら、遥かに遜色があるように思う。 977 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/06(火) 23 26 47 ID LcIQFcaZ0 976 そうですな。個人の嗜好でランクインさせるべきでもないしね。 978 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 44 29 ID qWNDLA7b0 確かに感情的になったのは悪かったが、後漢末・三国は知識がかなり知られており こういう企画で優遇されるから警戒しすぎてしまったんだよ。 曹操軍の十位っていったら、曹洪クラスだろ。 他の時代と比較はできないといっても、光武帝や岑彭が曹洪以下といわれて馬鹿らしいと 思わない人がこのスレにいるか?こんなのが論議に入ってくると、スレそのものが 壊されかねないと感じてしまったんだ。悪かったよ 942はただの新手のネタかも知れぬし、忘れることにする。 でも、自分で書いてみて、やっぱり曹操はイメージ先行で強いと思われすぎてると思う。 戦略は良いが、戦術はそれほどでもないのではというのが印象。 また、十六国は創始者全て入っているわけではないので、呉や蜀から無理に出す必要はないと思う ただ、歴史的意義を考えるなら周瑜だが、孫策の方が功績はでかい。だが若死にはいたい 三国で無理にいれるなら、この二人を外して益州を短期間で落とし、漢中を奪い、曹操を撃退した 劉備も検討してほしい。負け戦は多いが実績は大きい。 (逃げ上手も戦術のうちという説もあるし) 赤壁の勝利もこの人の存在が本当に影響を与えた可能性もある。 残り二人の枠は、皇甫崇を外して、岑彭と劉備でどうだろう? (孫策+周瑜が認められるなら別だろうけど) 979 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 23 46 00 ID /ii+IWQG0 961 岑彭 信義を守る義士で、規律高い軍隊を率いて電撃戦を展開、秦豊を滅ぼす、呉漢が隗囂に破れた際には殿軍として奮戦、公孫述討伐に活躍した。 その軍の規律は高く兵士は精鋭、行軍速度が速く、長駆敵の予想しないところにあらわれて攻撃し、数倍の敵を打ち破った。 周瑜 孫策が暗殺され、その遺言で孫家陣営の軍事責任者となる。 赤壁の戦いに於いて曹操の南下を受けると抗戦を主張し、それが決まると全権を委ねられた。 水軍に長けている孫権軍の長所を最大限生かし、曹操軍を完全に押さえ込み、曹操軍の軍船を焼き払う。 この戦いで、初めて曹操を撃退した武将として天下に轟いた。 江陵を攻め曹仁・徐晃らを撃破。牛渚の合戦、呉郡の戦い、黄祖討伐に参戦。 以上Webより抜粋 周瑜より岑彭の方が功績、将才は上だと思いますがいかがですかね? バランス無視なら岑彭、バランス無視なら馬賢のどっちかを確定入りにすればいいのでは? 980 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/06(火) 23 51 05 ID aUi93BeQO 周瑜は曹操に対する完璧な廟勝の策を示したことも評価して良い 981 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 05 56 ID aIaoqkyB0 赤壁の敗戦がなければ曹操が天下を統一していた。 曹操陣営が劉秀陣営より評価が低いのはこれが理由。 もし曹操が天下を統一していたら劉秀陣営との評価は対等となったろう。 それほど周瑜の戦功は大きい。 もし劉秀が曹操の立場であったら天下を統一できなかった可能性もある。 よってここで周瑜を外すのは納得できない。 天下を統一したかどうかは同時代においての評価の物差しとはなっても、異なる時代間の評価の物差しとはなりえない。 と思いっきり周瑜に好意的な評価をしてみる。 982 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 07 15 ID K6Fq4ny8O 978 >逃げ上手も戦術のうちという説もあるし 檀道済ならともかく劉備の逃げ上手は全くの別物。 劉備じゃ話にならないと思うが・・・ >皇甫崇を外して、岑彭と劉備で云々 皇甫崇を外して岑彭と馬賢なら話はわかるがこれ又話にならないと思うが・・・ あと黄巾賊は只の民衆蜂起ではないと思うけどな。 貴方こそ後漢末~三国志をいろんなことイメージ先行で語ってませんか? 983 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 00 11 41 ID JZVX5tASO 皇甫嵩って正しく書いてる人少ないね 984 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 00 20 38 ID jhdIx4wjO あと一人他の誰かを抜いて周瑜と岑彭を二人とも入れるってのは無理かな? 985 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 00 38 45 ID Q6XBSgl40 樊崇抜いたらどうだろう。 986 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 00 40 02 ID km6BbKIv0 現状での確定は初期で4人、中期で三人、末期で1人やから、 抜かんでも入れようと思えば入るんやない? ただ、光武関係が多くなりすぎるのは個人的に歓迎できんわ。 優遇しすぎ、って感あるけんね。 まぁ、その優遇しすぎな叩き台出したのは俺なんやけど。 987 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 01 07 40 ID MJVknA0pO 986 馬鹿は黙ってろ 988 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 02 10 25 ID Ou6gNASC0 971 すべての一発屋とかいうのを、全部肯定する気はないけど、その戦果自体の難度なども考慮しなくては。 一回で戦闘を終らせ態勢を決めた場合、その戦略構想と戦術面での実行力は特筆に価するでしょう。 どういう意図で一発屋と分類しているかは、こちらの得心がいかないところだけど、周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが大きいわけで。 岑彭も神速の用兵を旨とした将で、すごいのは認めているし好きな武将ではあるが、安易に実戦経験が多くて勝ちも多いほうが名将、という判断はしかねる。 勝ち難きに勝ちてというのも名将と思えるわけで、戦績の多寡はむろん考慮はするけど、それをどの場面でも当てはめすぎるテンプレートにしては、悪いけど視野が狭くなると、そう考えるわけだ。 まぁその辺、一考レスということで。 周瑜と岑彭の件は、正直自分でも判断に迷っています。 989 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 07 51 49 ID K6Fq4ny8O >周瑜に関して言えば勢力的に劣っているのに、勝ったというのが でもな曹操側は水上戦が不得意、尚且つ水軍の大半は荊州の降伏兵で自前ではないし、 ホウ統、黄蓋の計略なども絡んでいたり、 いろんな要素が入り交じり決して周瑜一人の力で勝利したとは言えないような気がする。 990 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 09 33 49 ID EmdZipWL0 「名将」っていうイメージだと三国志は小粒な気がする ソウソウも将としては微妙 991 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 09 43 30 ID DSPHlkDY0 三国志の世界には勝ちっぱなしの将軍があまりいないからな ただ逆に全体のレベルは逆に高い気もするが 992 ◆RQdk7scN8s sage 2007/02/07(水) 09 44 11 ID Ou6gNASC0 989 そりゃね。 自分も方々で将帥一人「だけ」の功績なんてない、とふれて回っているから、その点はわかるのだけど… 麾下に入った将をうまく使ったかとか、他軍との連携で主力部隊を統率したかとか、戦況を決定付ける重要なアクションをおこしたとか、そういう視点も必要と思う。 多くの将帥は、ある会戦や決戦で、やはり多くの計略やかけひきなどが介在して、将帥だけの手柄だとはいいきれない部分がある。 しかし、戦術能力には直接関係ないにしても、それを取捨選択し、戦略戦術の優位性に結びつけるのは将としての能力でもある、と。 別に周瑜だけに限ったわけではないけど、いつもいつも特定の臣下に軍事の全権を与えて前線に送るなんてことはないし、あってもそれが継続することも少ない。 一回の起用において、勝利せしめたのに一発屋と言われては不本意な場面も(今後)あるんじゃないかなぁ。 ああ、それと周瑜は外すには「惜しい」と思っているだけで、それを無理に入れろとは考えていないです。 993 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 09 48 47 ID sOfSQEo90 議論が白熱しているのはいい事だと思うが、 そろそろ新スレ立てないとやばくないか? 994 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 41 50 ID sOfSQEo90 スレ立てやるよ。 995 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 10 53 13 ID sOfSQEo90 スレ立て完了です。 【確定は】 中国名将百選 其ノ参 【誰だ!?】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1170812626/ 996 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 13 01 39 ID aIhWbTiK0 987 別にバカ言われるのはいいが、なにをもってバカと? 初期から劉秀、馮異、耿弇、呉漢の4人、 中期から段潁、樊崇、班超の3人、 末期からは曹操1人で皇甫嵩は確定に到ってないんやから、 現状での確定は八人。岑彭、周瑜ともに入る余地ありやと思うが。 雲台28将からの枠入りが増えすぎるのはどうやろって言っただけでバカ扱い? 997 ◆oOLAqFKRB. 2007/02/07(水) 13 22 48 ID JG4hHm9I0 皇甫嵩はまだ候補やと思っとったら、 確定に決まっとったんやね。 それやと二人入るっちゅーた俺が確かにバカタレやな。すまん。 998 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 22 51 ID sOfSQEo90 996 こういう輩の中には反応したりすると喜ぶのが多いから、 基本は無視の姿勢をとった方がいいと思うよ。 ◆oOLAqFKRBさんは過剰な反応を示すから、 ある意味からかわれてるんだと思う。 999 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 28 02 ID sOfSQEo90 それと、新スレに皇甫崇を確定にして、樊崇を候補に落としちゃったけど、 あくまで暫定(確定とは言っているが)的なものだから、 納得行かない人がいるなら議論を重ねる余地はあると思うよ。 1000 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/02/07(水) 13 47 05 ID 4IdRe7Ru0 10000 1001 1001 Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/33.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 02 20 27 ID G6anuSEy0 お前がレスしなければ終わると何故気づかん 502 ◆RQdk7scN8s 2007/03/22(木) 20 04 59 ID BgsEBHfT0 よくはわからないが、冒頓単于はだいぶ違うような気がする。 例えて言うなら、日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。 遼は唐が崩壊してのち、中国内地に新たな統一政権ができる前に、巨大な統一政権(中華政権とは違う根っこ)となっており 晋も後唐も後晋も北宋も、事実上の衛星国家であって(真の衛星国家は後晋だけ)、まぁ中華という由緒あるお国が 頭を押さえつけられていた、苦難の時代だったわけですよ。 その意味では金も元も同じことではありますが、中国内地への干渉の密度というか、期間というか そういったものが遼には足りないかな、と。 この際、匈奴や突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じと考えるのはいかが?(国史は華麗にスルーということで) 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 20 07 58 ID 0wSl8cUL0 502 日本の武将として李舜臣をもってくるくらい違和感ある。 どちらかというとシャクシャイン、アテルイや薩摩藩の支配下に入る前の琉球の人物を上げられる程度の違和感ではなかろうか? 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 10 27 ID agkaWfz50 誰がどの程度の違和感を抱こうが自由ではなかろうか? 505 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/22(木) 21 17 32 ID sKLTOXlHO 正史として遼史、金史、元史、清史稿があるのだから、いっそのこと これらの王朝に属した者は対象とする。 ただし、その業績は万里の長城内の戦いや、対中華王朝との戦役のみをカウントし、 それ以外の戦いは、戦史的に重要なものであっても、一切考慮しない。 鉄木真のモンゴル統一時の戦いは、この場合はずれ、伯顔の伐宋は入る。 こんな感じ。 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 57 22 ID u3kHLofq0 502 冒頓単于はだいぶ違うどころの話ではない。全く別物。 漢代の匈奴は突厥、ウイグル、南詔、吐蕃と同じ扱いにするのが妥当。 南宋で言えばタタル、ナイマン、オイラート的存在。 505の提案なら問題なさそうでは? これでダメならすっぱりと例の人に諦めてもらえばいいだけ!! 507 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 21 58 25 ID VZGb6AWu0 西夏はダメなの? 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22 28 55 ID u3kHLofq0 507 いいとは思うけど候補に挙げるほどの武将いないでしょ? (確か李継遷、李元昊ぐらいしか居なかったキガス ) 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/22(木) 22 42 14 ID 9E/D5ASB0 505 いいと思うが、一点だけ。 「対中華王朝との戦役のみ」は「中華王朝征服の戦役のみ」とすべき。 単に中華王朝との戦いというのでは前述の冒頓単于やエセン・ハンなども入ってしまう。 これだと遼は耶律休哥を含めてほぼ除外(対象になるのは耶律徳光くらいか) 金は靖康の変以降。清は入関以降。 510 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/23(金) 00 19 40 ID XxeR28Vb0 別に遼を諦めるのは問題なしです。 あと、ちょいと謝る必要が出てきたんで一言。 俺答(アルタン)も也先(エセン)も正史の列伝に入ってないんやね。 これは「正史に伝があれば問題なし」という俺のスタンスに反するんで 中国武将ではないなと。 イギリス将校も《清史稿》に名前挙がってないしね。昨日は長々とすんません。 ただ、中国の史書に《遼史》はあって《朝鮮史》、《日本史》はないんやから、 同じく中国的国家作りを目指したからと言って 遼と日本、朝鮮を一緒の俎上に上げるのはちょいとナンセンスではないかと。 ま、言いたいことはそれだけ。 これ以上遼にこだわると前みたいに荒れる原因になる気がするんで、 これでスパッと諦めますわ。もとより遼にはそれほど固執してないし。 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 00 47 08 ID VqdxipuS0 509 505の基準に従うなら冒頓やエセンが入る心配はいらないと思うが。 完全に外部勢力だった匈奴やオイラートと、中国の一部を長期間支配した 遼はかなり違う。 この場合遼は長城内で戦った武将は入ることになる。 512 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 02 20 24 ID 7Om45kvYO 507 名将の選考基準が、すべての時代で一定していたとは思えない。 人間がやることには限界があり、そのつど例外がある。 正史があり、後の王朝から正当な中華王朝である、もしくはそれに準ずる 政権であったと目された遼でさえ紛糾している。 西夏の人物が入るには、 ①名将であることを証明する ②中国の人物であることを立証する 以上の事が必要だと思われる。 例えば西夏の景宗、李元昊は、宋に服従する父、李徳明に対し 英雄に生まれた以上、王者となり覇業を遂げて当然なのです。どうして宋室に媚びる必要がありますか と答えたという。 彼の目指したモノは、制度的・文化的にも宋からの独立であり、 文官・武官に独自の服装を定め、人民に坊主頭にする事を強制している。 彼の本意が宋からの独立ではなく、中華征服なのであれば、入れても良いかもしれないが。 513 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 02 20 45 ID Hm6YJx1f0 PS3でFolding@homeが利用可能になりました! タンパク質解析プロジェクトFolding@homeで病気で苦しむ人達を救えるかも。 PS3をお持ちの方、下記いずれでも構いません、ご参加下さい。 ・2ch全体として参加したい方 チーム名:Team 2ch PS3でFolding@homeしようぜ(Team 2ch) http //ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174030817/ ・PS3所有者として参加したい方 チーム名:2ch@PS3 【PS3】Folding@home総合スレッド1【Cell】 http //ex22.2ch.net/test/read.cgi/ghard/1174557458/ 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20 02 54 ID juGduEuT0 楊師厚(?~915) 潁州斤溝の人。元々は李罕之の部下で、李罕之が李克用に降ると、これに従った。 のちに罪をえて朱全忠のもとに逃れ、宣武軍押衙・曹州刺史となった。 青州の王師範との戦いで偏将八十余人を捕らえる戦功を挙げる。 また襄陽の趙匡凝を破る。 山南東道節度使・同中書門下平章事に任ぜられた。 劉知俊が長安に拠ってそむくと、これを奇兵をもって撃破した。 また晋の周徳威を蒙坑で破り。保義軍節度使に転じた。 朱友珪が立つと、天雄軍節度使に任ぜられ、 末帝が立つと、?王に封ぜられた。 後梁・太祖の遠征時には常に先鋒を務めたともいわれ、 旗下には後梁の精鋭部隊が所属していた。 五代後梁屈指の名将である楊師厚を推薦する。 あと後梁からは王彦章、王景仁を 後唐からは郭崇韜を推薦したい。 遼を入れる入れないの関係の話ばかりなのでここらで少し流れを変える為に投下してみた。 (もちろんその議論も重要なのだが) 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 20 21 19 ID 1Pf0fG5D0 元が入るなら、金も遼も入れるべきだろうと思うが。 匈奴、鮮卑、突厥、回鶻、蒙古や 高句麗、渤海、後金を入れろって訳じゃあないんだから。 516 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 20 58 05 ID 7Om45kvYO 515 ナニをもって中国の武将とするかの問題。 金、遼のいつからを選考に入れるのか? それが問題。 遼将のすべてを対象にしたら、中国の範囲が広くなりすぎる。 基準はその人物、政権に、 517 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/23(金) 21 04 31 ID 7Om45kvYO 中原に覇を唱え、中華征服を狙っていたか、どうか?だと思うが、 それだとティムール入るよね? だから線を引いて、明確な基準を作りましょう。 518 ◆RQdk7scN8s 2007/03/23(金) 21 14 48 ID Vwh02sV40 わ~い、五代の武将キター 「?王」のところは「鄴王」だね。 銀槍効節都は後に李存勗に引き継がれたということで、実は楊師厚を引き立て役程度にしか見ていなかった… 改めて見ると、かなり有能な武将。 郭崇韜 軍政官、常山の重鎮、建国の第一等功臣、前蜀討伐の事実上の総司令官。 ついでに言えば、冤罪による不遇の死。 しかし、こと戦術となるとどうかな、と。 自分も推挙したものの、自らひっこめた過去があります。 よりも、ですよ。 晋~後唐の李存審が縦横無尽ですばらしい。 李存審は李克用の仮子となった人で、元の名を符存審。 李克用の仮子といえば、第一に後唐明宗である李嗣源が有名なわけですが 李存勗時代で言えば、李存審の方がインパクトあるかも、と。 李克用の十三太保の中では、順番としては9番目で、地味なことこの上ないですが。 まぁ、「十三太保」の主役は李存孝と史敬思なわけだから、それはいいとして。 戦史に残す輝かしい勝利を飾った柏郷の戦いで、周徳威が後梁の王景仁を破ったときは、李存審は晋陽の守りでした。 朱温(朱晃)が子の朱友珪に殺され、後梁内に内訌が起こったとき 河中の朱友謙(朱温の子。後、李継麟と改名)は朱友珪の討伐を受けることになった。 後梁軍は康壊貞(岐州の李茂貞を虢県の戦いで破った人)を招討使(総大将)とし攻めさせたが 朱友謙は晋に救いを求めた。李存勗は、李存審を出撃させた。 李存審は胡壁において、後梁軍5万を撃ち破った。 また、敗残兵を立て直そうと平陽に退いた康壊貞は、後詰で出てきていた李存勗と不運にも遭遇してしまい とどめを刺される… さらに後梁では新帝・朱友珪が遊び狂ったので、朱友貞(末帝)によって殺された。 その後すぐに、魏博天雄軍の楊師厚が卒したので、後梁はこれ幸いにと強力な藩鎮の分割を打診した。 決定を嫌がった魏州の兵たちは騒然となった。 そのとき、魏州を牽制に後梁の劉鄩が兵6万とともに黄河を渡って陣を構えたが 魏州が晋の側につき、それを助けるため李存勗は魏州にまで出陣した。 劉鄩はそのまま対晋防衛軍となった。 劉鄩は計略の多い将で、李存勗を疑兵でもって魏州に釘付けにする一方で、自身は本隊を率いて西から晋陽の攻撃へと向かった。 李存勗は動かない劉鄩を奇策があるとして警戒していたが、ついに実は晋陽を狙っているとの報告を受け蒼白となった。 しかし天は劉鄩に味方せず、このときに限ってひどい大雨となりまともに進軍もできないありさまだった。 後手に回っていた周徳威が必死に救援にかけつけ、どうにか晋陽の守りは整えることができたので 劉鄩は大きく貝州にまで退かねばならなかった。 態勢を立て直し、敵の疲れを待つ持久戦を計画したとたん、朝廷から即戦の督促状が届き、あげく 「戦わずに補給の要請とは。将軍、それは敵を破るためか、それとも財を得んがためか?」と詰問された。 さらに彼の周りの将帥も、血気にはやり勝算もなく出撃を主張した。劉鄩は 「ああ、主上は暗愚、臣は阿諛、将は驕慢、兵は怠惰。これでは一体、どんな死に様をさらすのか…」 と有名な嘆きのセリフをこぼしました。 それでもなお、起死回生のチャンスを狙って、どうにか士卒をおさえ、やがてそのチャンスがきた。 李存勗は長帯陣に倦み、自身だけ晋陽に帰ると言って一隊を率いて戦線を離脱した。 これを見てとった劉鄩は、全軍に出撃を命じ、魏州の奪回に乗り出した。 実は伏兵として潜んでいた李存審は、劉鄩が軍を動かすのを見ており、ひそかにそれを追尾した。 魏州には李嗣源がいたが、劉鄩はそれを押し、魏州を手に入れられるかと思いきや 後方から李存審に衝かれ、あまつさえ帰ったはずの李存勗が突如現れたので、完全に包囲殲滅の態勢に落とし込まれた。 後梁軍はここで、実に7万からの歩兵等を殲滅され、劉鄩は数十騎とともに逃げ帰るありさまだった。 以上、我らが不運の名将・劉鄩閣下の不勝伝説。 あれ?誰の説明だったっけ… いったん切ります。 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/23(金) 22 38 54 ID juGduEuT0 ◆RQdk7scN8sさん レス㌧ 楊師厚はなかなかのやり手だと思ってます!! あと熱く語るのはいいのですがちょっと自分にはハードル高杉~w お手柔らかにお願いしますよ(^^; 自分は後唐から周徳威、李嗣源、郭崇韜、霍彦威 後梁から王彦章、後周から王景なんかいいんじゃないかなぁ~と思ってます。 ≫「?王」のところは「4王」だね。 スンマセン、ボロPCなもんでたまに変換出来ないです・・・ 520 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/24(土) 09 18 14 ID JMkQAoJSO すいません以前レスの中に名前が登場した 後梁の康壊貞と寇彦卿、符道昭と後晋の桑維翰について教えてくれませんか? 面倒なら〇〇は××を打ち破ったぐらいでもいいです。 何しろ五代に関しては知識が皆無なものでよろしくお願いします。 521 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00 34 13 ID fhmvZMJPO 範囲は大陸にあった漢字一字の国の武将。でいいじゃん 522 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 00 43 34 ID rM7USuue0 (西)夏も入るのか? 523 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 01 16 53 ID H//pJM0KO 521 つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい? 違うよね? ならば、それまで中国に属してた西夏と、交[足止](ヴェトナム)の扱いは? 一時的か、そうじゃないかの違いで、この時期に共に独立を果たしてる。 号は夏と、越って考えて良いからその判断なら、選考に入れて良い? 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 02 14 07 ID z1cfCt9qO わーい挙げ足取りキター―w 521の意見をじゃ当然挙げ足取られてるがオチだよな 525 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 02 51 45 ID DFe1bYGgO 523 南宋も北宋も国号は宋でしょ。 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。 ただ、五代十国の呉越とかはどうなるの?ってはなるが。 526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 03 10 33 ID 8yYClWNt0 李存勗時代の名将は既に楊師厚、劉鄩、李存審などが挙がっているが ここはあえて意表をついて趙の張処瑾を 921年2月、張処瑾の親父張文礼が「趙王」王鎔を殺した。これを聞いた 李存勗は彼を討とうとするもその余裕がなく、やむなく成徳留後に任命して その支配を認めた。 しかし不安な張文礼は契丹と梁に救援を求めるも、その文書が李存勗の 手に落ちてしまった。8月、遂に李存勗は趙将符習、及び閻宝、史建瑭に 張文礼討伐を命じる。 が、肝心の張文礼は晋軍が侵攻してきた矢先に病死し、息子の張処瑾が鎮州に 立て篭もって戦うこととなる。この後張処瑾と鎮州は約1年に渡って抵抗し、 その間晋は史建瑭・李嗣昭・李存進の3人が戦死するというかつてない損失を 蒙ることになった。 さらに鎮州が滅びれば次は自分たちの番だと思い込んだ定州の王処直・王郁親子 が契丹に通じ、これに乗じて大挙南進してくる契丹と戦うために李存勗が北に 向かえば後梁軍が北上してくるという大騒ぎに発展していく。 最終的に922年9月、鎮州は食糧が尽き内応により降伏するが、晋軍がこれに 手こずっている隙に後梁は衛州を含む澶州の西、相州の南を奪還することに成功 していた。 名将ではないかもしれないが、ある意味李存勗を最も苦しめた人物でないかと 思ったので書いてみました。 527 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 03 37 59 ID DZSn4ljW0 520 自分も完全に正史読めているわけじゃないので、いろいろ間違いあるかもなので、詳しいところはヤバイからぼかしますw それでまず「康壊貞」。 兗州の人で、 475にもチラっと書きましたが 朱温が汴州(開封)に拠ってから敵対した、朱従兄弟のうち兗州節度使・朱瑾の列校として配下にいた。 朱瑾はそのときも書いたけど、勇猛な人であり、康壊貞も驍勇をもって鳴る。 朱温が鄆州(うんしゅう)を平定し、朱温側の主砲のひとり、葛従周が迫ると城をもって降った。 最初は氏叔琮という、これも朱温軍にあっては主砲のひとりの部隊に従軍した。 氏叔琮が、襄州・漢州を攻めているとき、康壊貞は一軍を指揮し、鄧州(新野に近い)を陥とした。 幽州と雲州の藩鎮がそれぞれ、河東(晋陽)の李克用と対立すると、朱温は朝廷に働きかけて李克用を朝敵と認定させる。 それをもっとも熱狂的に支持したのは、宰相の張濬であり、唐昭宗は李克用討伐軍を発した。 張濬は総大将となり、晋州まで出陣し、朱温軍の驍将・葛従周らと李克用を挟撃する態勢をとった。 しかし、李存孝の神速の用兵により、朱温軍の誇る猛将・鄧季筠は一騎討ちにて敗亡し 葛従周もまた敗れて逃走した。 張濬は無謀にも野戦に撃って出たが、惨敗した。 朝廷は李克用の汚名を返上せねばならなかった。 こうして一時、河北は李克用の支配が強盛となったが、李存孝が叛したことにより、李克用勢力は不振となった。 ちょうどその頃、岐王・李茂貞(鳳翔節度使。岐王に封じられていた?)が朝廷の忌避を買い、これまた朝敵とされたが 誰もそれには参加せず、また李茂貞が罪を詫びたので沙汰やみとなった。 その頃朱温は、汴州と滑州と鄆州の三鎮を兼ね大勢力となっており、勢力不振に陥った李克用を攻めた。 しかしそれはうまくいかず、さらに河中(蒲州)を得ると、ふたたび北伐軍を発した。 そのときの主将に、氏叔琮を充て、李克用をして滅亡寸前まで追い詰めた。 (しかし李嗣源、李嗣昭ら仮子たちと、周徳威らの抵抗により止めを刺すには至らなかった) その一方で朱温自身は、李茂貞と戦うため西進していた。 ちょうど、唐昭宗が宦官らに拉致され、鳳翔へと逃げ込んだのであり、それを奪還した宰相ら清流派が朱温の武力を恃んだからだった。 朱温は昭宗を迎えるという名分で軍を動かし、先鋒として康壊貞を起用した。 李茂貞は部将・符道昭に歩騎一万余にて迎撃させた。 符道昭は武功に陣を置いたが、康壊貞はこれをひとつ陣鼓を打ち突撃しただけで大破してのけ 六千余からの捕虜と軍馬二千を奪った。 朱温は「ここは武功という地名か。今まさに敵を討った、これぞ武功なり」(多少表現ちがいますが)と言って、康壊貞の武功を絶賛した。 逃げた符道昭はさらに大軍をもって虢県(かくけん)に至るが、朱温は康壊貞に数千騎のみで迎え撃たせた。 符道昭は康壊貞軍を寡兵とみて挑戦をこころみたが 康壊貞は夜襲、伏兵と駆使してさんざんにこれを打ち破った。 鄜州(ふしゅう)の李周彜が李茂貞の救援のために三原に陣を置くと、康壊貞はこれと戦い 梨園城塞から翟州を抜いた。 李茂貞が奉天に陣を敷くと、康壊貞は東北方面から守りの薄いところを攻めたので、戦わずして李茂貞は退いた。 そのころ、青州の王師範が部将・劉鄩を遣わして、朱温の兗州を攻め落とし、また淮南の楊行密も これを機として宿州を攻めた。 朱温は康壊貞を急遽東進させ、これらを防がせた。 翌年、岐州攻めに戻り、劉知俊を補佐して、李茂貞の所領を削り取っていった。 朱温は康壊貞に「卿は上将の位にあり、勇は三軍に冠せり、敵、向かい来たらば破り…(なんかいいこと書いてますが、訳は??? すまん) と、まぁ岐王・李茂貞をコテンパンにやっつけた張本人。 符道昭は、康壊貞に対するヤラレ役みたいな感じ? そのあとは、河中において晋軍と対するものの、結構負けたりしている(相手が李存勗ではなぁ)。 後梁末帝にはあまり用いられず、終る。 末帝の諱(朱友貞)を避けて、名を康壊英としたため、列伝にはこちらで載っている。 かなり長いな… 相変わらず余計なことも書いてます。 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 06 06 13 ID z1cfCt9qO 527 ◆RQdk7scN8sさん サンクル 康壊貞ってなかなかの強者って感じですな。 いろいろと分かりやすく有難うございました。 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 10 23 44 ID 2qGmGLVT0 521 「大元」「大明」「大順」「大清」は? 530 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 11 11 32 ID H//pJM0KO 525 > 南宋も北宋も国号は宋でしょ。 だから 523で > つまり南宋あたりはoutで、遼はinということかい? > 違うよね? って断りをいれてるでしょ。 あと 東西南北前後などが付く場合は、後世の史家が便宜上付けた通称だし。 いや後年グェン朝が、清朝に冊封を願い出たときの国号は南越だったよ。 それが通らず越南にしたら許可がおり、いまのヴェト(越)ナム(南)の名の元になった。 自分達の領土だって思ってても、中華じゃないよなぁって場所は、結構いい加減につけられてるよ。 って、いつまでたっても話が進まないし、五代の武将の話だけだとアレだから、 とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。 通る、通らないは別問題じゃね? で、耶律休哥を推薦。 505をもって中国の武将として判断した。 この時代は国号は契丹だよな?とか、難しい話はこの際おいとく。 せっかくの宋弱兵の時代、唐代の国土内の王朝を対象にしたら、 それはそれで面白いかな?と。 どうせ無難な選択されるんだから、賑やかしのために 名前や業績ぐらいなら、紹介しても良いんじゃない? その時代の直近の中華を統一した王朝の、その国土内に発生した戦いは、 すべて参考する――なんて大まかな括りをしても、 推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ? 531 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 11 21 52 ID DZSn4ljW0 李存審のつづき。 後梁随一の名将だった劉鄩を魏州で撃破した李存勗は (このときの劉鄩の作戦行動は、『百戦奇略』でも取り上げられている(変戦-臨機応変)。作戦の内容自体は理にかなっているということ。ただそれを上回った李存勗が戦術の天才だっただけ) 邢州・洺州など、河北の要衝を攻め落とし、また滄州(南皮)を取り、李存審をして滄州節度使とした。 晋軍が南征に狂奔しているころ、李克用と兄弟の盟約を結んでいた耶律阿保機が 晋陽の北、振武軍(朔州)に攻め入り、節度使・李嗣本を殺した。 耶律阿保機はさらに雲州を攻撃したが、それは李克用の仮子の一人、李存璋によって阻まれた。 方向を転じた耶律阿保機は東進して新州を攻め 邀撃に出た幽州節度使の名将・周徳威をも軽々と撃破してのけ幽州を包囲した。 李存勗は後梁に優越したとはいえ、未だ戦っている最中にこの腹背攻撃を受け、半狂乱となったが 李嗣源、李存審、閻宝ら諸将と謀り、周徳威の救援を決意した。 李存勗は南面して動けないので、李嗣源と李存審で一軍を指揮し、7万をもって北上した。 李存審は 「契丹は輜重が十分でないので、略奪するものがなくなればおのずと退くだろう。そこを猛追するにしかず」 と言ったが、李嗣源は 「いや、幽州は陥落寸前と聞く。周徳威は社稷の臣ゆえ、もしこれに万一のことがあってはならない。契丹が動くのを待っていては取り返しがつかない。わたし自ら先鋒となって向かおう」 そう言って、李嗣源と李存審らは易州に急行し、幽州を目前とした。 李嗣源は契丹軍は騎兵が多く、味方は歩兵が多いということから 平地ではなく山間に入り密かに軍をすすめて幽州に近づいた。 そうして一気に平地に踊り出、契丹軍の一隊と遭遇するや契丹語で叫びつつ三度突撃し 契丹の将一人を討ち取り、幽州への道を確保した。 一方、李存審は兵に木を切って逆茂木を一本づつ持たせ、平野において戦場で野戦陣をつくり 契丹騎兵の馳突を防ぐとともに、強弩を乱射して契丹騎兵をなぎ倒した(長篠?)。 さらに、幽州の契丹本営に迫ると、陣を構え待ち受けている契丹軍に対し、主力を敵の後方に伏せ 自身は弱兵を統率して火をつけた柴をひっぱり、草原を焼きながら契丹軍に迫った。 契丹軍はその煙幕のために晋軍の兵力がわからず狼狽したので 伏兵となっていた主力軍がそれに踊りかかって、大勝利を挙げた。 幽州はボロクソになったものの、無事救われ、再び晋軍は南征に専念できた。 で、大乱戦である胡柳の戦いへと続くわけですが… また今度w 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12 02 31 ID z1cfCt9qO 530 >とりあえず西夏からでも、ドコからでも良いから名前を出し、推薦してみる。 >通る、通らないは別問題じゃね? >推薦する側も、選考する側も、あからさまな外国は躊躇するでしょ? 五代は専門外だから論議には参加してないけど 530さんの意見は最もだと思います。 清朝が許可云々はただ清朝が国号に関して知識が余り無かった為ではと 個人的には思いますし、そう言うのを反対材料にするのもどうかと思います。 ( 530さんは別に反対材料にしてはいませんが) 個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。 反対してる人の反対材料がイマイチ屁理屈に聞こえるのは気のせいかな? 533 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 12 44 39 ID rM7USuue0 どのあたりが屁理屈に聞こえますかね? 私には逆に、遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を範囲に入れるため に矛盾する定義を持ち出しているように見受けられるのですが? 534 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 12 58 05 ID DZSn4ljW0 527の追記。 康壊貞は後に、かつての上官だった劉知俊が岐王・李茂貞に付き叛し、霊武等を攻略したので その討伐のために大将として出陣した。 最初は寧州・慶州などを奪回し、三水に至っては劉知俊の攻撃を 左軍使・王彦章らの奮戦もあり、撃退したが、どうもそれは誘いの手口だったもよう 劉知俊は昇平に伏兵を置き、康壊貞が勢いに乗って追ってくると、これをさんざんに打ちのめした。 大敗した康壊貞は身一つで逃げる有様だった。 かつての上官ということで、あんまり乗り気しなかったのか、舐めていたのか… ちょっとパッとしませんね、この戦いでは。 さらに、河中の朱友謙が晋と通じると、これを討伐に向かったが 李存審と李存勗のダブルパンチを一身に喰らい昇天した。 あとは、自領の雍州に戻って死ぬまで短い期間、どうにも冴えなかった。 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 13 28 16 ID iuU/Xo9f0 533 同意 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14 11 25 ID VnquViRn0 533 「矛盾する定義」ってのがどの辺を言ってるのかわからんですけど、 遼は最初っから論争の種になって棚上げ状態のまま来てて、 含めるかどうかの明確な基準は合意されたことはないんではないですかね? 自分的には反対派が冒頓やらエセンやらティムールやらを例に挙げてるのが屁理屈に感じますね。 遼については独立の正史が編纂されている点が上記の例とは明確に異なっているので。 505は明確で妥当な案に思えるのだけど、反対派と思われる 533さんや 535さんはどう考えてるんでしょう? 537 535 sage 2007/03/25(日) 14 39 54 ID iuU/Xo9f0 536 21 505 532 の定義で整合性がとれていないことが最大の矛盾 暫定的にせよ 21の定義で選考してきたのに、その後、西夏を入れてい たり、外していたりして中国を定義した意見を出してきても、自分の好きな 武将を入れるために、後出しで定義を変えようとしているように見える。 暫定的な定義の後で、明確な定義を決定していないのであれば、 21 の暫定的な定義に従うべきだろ。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 14 45 46 ID 2qGmGLVT0 清が「中国」の完成形じゃないのか? その原型が元であり、五代以降の遼と北宋、金と南宋だと思うが。 匈奴と漢、五胡と晋、突厥と唐とは関係の性質が違うように思うが。 539 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 14 56 40 ID 4vpp3T0e0 533さん、 535さんへ ・遼や元(モンゴル)のファンが自分の好きな武将を・・・ 俺が書き込むとまた議論になってスレが荒れてしまうかもしれんとか思うんやけど、一応。 俺含め契丹(代表・耶律休哥)とか蒙古(代表・トゥルイ)とか後金(代表・阿巴泰)を入れよう って人たちは、特別その武将(あるいは国家)が好きなわけやないと思うんよ。ただ「そのほうが 面白い」ってことで挙げてるだけで。異民族をシャットダウンしてしまうと 530氏の言うよーに 「無難な(面白みに欠ける)選考」になると思うし。ここは前スレでどなたかが提唱した「中国 本土に根刺した国家およびその国家樹立に貢献した先行政権の武将」は中国の武将として認める (多分こんな感じやった。ちょいと自信ないが)って定義が一番問題ないと思うっちゃけど、 どーやろ。史書にアルタンの名はなくても、耶律休哥の名はあるわけやし。 540 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 13 33 ID VnquViRn0 537 21と 505は矛盾する関係ではなくて、 21を補完して確定させる案が 505って流れと思います。 暫定的なまま棚上げしてきてたけど、まさにその棚上げの原因になっていた、 遼や元の線引きの問題に直面してるので明確な線引きを議論するのは当たり前では? 532の 個人的には遼(契丹)・西夏・元・金はおKでいいのではと思います。 を 21や 505と同レベルの例に挙げるのはおかしいんではないですかね? 定義の案ではなく、明確な根拠付けすらないので、単なる個人的な意見で議論の対象外と思いますが。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15 27 04 ID H//pJM0KO 537 532を入れるのかw ありゃ話が進まないから、中国の定義論争じゃなく、人物をあげようという例だよ。 遼を入れたい人は遼将を推薦してるが、西夏は?って言ってる人がいるわりには、 ぜんぜん推薦する人物の名前が出てこないから言っただけ。 505の基準で文句はないよ。 とりあえず人物をあげて話し進めない? 名将を決めるんであって、ナニをもって中国とするか?じゃないんだろ? 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 34 34 ID iuU/Xo9f0 541 532 533 535の流れなんだから 532が入っていて当然だろ。 前スレから西夏は?って言ってる人は、西夏を入れろと言っているので はなくて、遼(契丹)・西夏・元・金あたりを公平に取り扱えと言いたい のだと思うぞ。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 37 39 ID rM7USuue0 矛盾 21 のような「現在の中華人民共和国領土内」とするなら冒頓やエセンやティムールも含まれる。 しかし遼やモンゴルの武将を入れろと言ってこの定義を持ち出す人は、条件に合致する冒頓やエセン も入れろとは言わない。逆にいろいろと理由を後付で持ち出して否定する。 544 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 15 37 52 ID H//pJM0KO 532は俺の意見じゃないやw スマソ 530で西夏の話したから勘違いしたよ。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 43 51 ID VnquViRn0 543 冒頓もエセンもティムールも「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」に適合したとしても 「支那風の国号を持つ王朝」に属してないので 21の定義に従えば対象外。 反例に挙げること自体がまずおかしい。 それに 21の「現在の中華人民共和国領土内に都を持ち」は 対象があまりに広すぎるので合意がとれた定義ではないと思うけどね。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 15 46 31 ID vULUf26h0 むかし世界史で習った時は、遼・元・金は中国史扱いだった気がするんだけどな。 充分漢化したわけだし、入れないほうが違和感あるんじゃない? 清と扱いは変わらないでしょう。 西夏は……どうかなあ。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17 52 03 ID RS7UDsUr0 金は完璧漢化してたが 遼まで漢化してたっていうのは中国文明の傲慢だろ 548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 17 58 29 ID 2qGmGLVT0 周が漢化してたか? 秦が漢化してたか? 楚が漢化してたか? 中国≠漢族だろ。 549 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 02 34 ID WusCxBU/0 遼は南面北面の二重体制だから一概に言えないよな 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 11 00 ID vULUf26h0 あー漢化はそうだね、考えるの無しにしましょう。 551 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 35 36 ID z1cfCt9qO 548 少なくとも秦・楚・呉・越は最初は蛮夷扱いされてた‥‥ だから中国≠漢族だろとは言い難いのでは? 552 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 18 56 45 ID RS7UDsUr0 当時世界からカラ・キタイと言われてた東の大国を中国と呼ぶのは変ですよ 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 02 49 ID VnquViRn0 552 カラ・キタイは西遼でしょ? 554 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 06 42 ID RS7UDsUr0 カラ抜かして 555 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 10 01 ID rM7USuue0 中国というか支那という地域は、秦の統一によって完成し、その後二千年以上変化はない。 時代によっては、領土を拡大することはあったがそれは政治的な領土のことであり、支那(中国) の範囲が拡大したわけではない。 漢や唐は一時期西域を支配したが、だからってそこが支那になったわけではない。 明は満洲を支配したこともあるが、そこが支那になったわけではない。あくまでそれぞれ の王朝が領土を拡げただけのこと。日本は一時期朝鮮や満洲を支配したが、そこが日本に なったわけではない(正確には、日本化しようとして失敗した)。かつて支配したことがある からといって、そこは日本だなんてほとんどの日本人は認識しないだろう。 現在の中国の行政区画をみても、東北の三省を除けば省としている地域はほぼ秦漢の領域 と重なる。他は自治区扱い。これは唐でも明でも歴代統一王朝でかわらない。 ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。遼を北朝と呼んだり皇帝 の称号を認めたのは、それが中国の外の皇帝であると認めたのであって、中国のもう一人の 皇帝と認めたのではない。 そんな遼に仕えた武将を「中国の武将」とはみなせないでしょう、というのが私の主張です。 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 19 45 41 ID z1cfCt9qO 554 西遼をイスラム史家はカラ・キタイ(黒い契丹)と呼んだのですが‥‥ 557 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 27 28 ID J0K58VTg0 Wikipediaだと遼・元・金、あと西夏も中国の歴史扱いだね。 西遼は入っていない。 http //ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 絶対的な基準にはならないけど、多くの人の認識が遼・元 ・金・西夏を中国としていると考えられるんじゃないかな? 555さんみたいに反対の人が多ければ、修正入っていた だろうし。 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 41 14 ID VnquViRn0 554 キタイ=契丹で、遼は国号を契丹と遼と、時代によって両方使い分けてた訳で、 外国からキタイ(契丹)と呼ばれることがあるのは当たり前なんじゃ? 555 前半部分の領土的な理由は、賛同するかは別として筋が通ってると思うけど、 後半部分の ちなみに遼は当時の宋のひとびとは完全に外国扱いにしている。 については、漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。 遼を除外する理由としてはこちらは不適切と思いますが。 あと 545を無視してるのは 543で言ってることが間違いと認めたってことでよい? 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 20 56 35 ID RS7UDsUr0 国号が契丹なのは中国的国家への否定なんだけど? 560 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 20 57 08 ID H//pJM0KO 558 >漢族からしたら金・元・清も外国(蛮族)扱いなんじゃないか。 いや、それどころか五胡十六国時代、西晋が正統であるとして、わざわざ北から 移住した者もいるぐらいだから、北の王朝はぜんぶ対象外だよ。 たぶんもう一度、選考し直しを提案するはずだよ。 561 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 16 03 ID z1cfCt9qO 多くの人の認識が遼・元・金・西夏を中国としていると考えられるんだから そんなに意地になって外せと言うのはどうなのだろうか? 推進派は的外れな武将を推薦したいなんて 決して言わないと思いますけどいかがですかね? で仮に的外れな武将を推薦してきたらそれは違うだろと指摘したら良いだけじゃない? 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 23 58 ID RS7UDsUr0 多くの人の認識が対象なら 関羽とかが百選に入ってるだろうよ、今頃 563 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 31 32 ID J0K58VTg0 じゃあ多くの人が認めない名将100人選ぶ気なのかい? 後ろ向きなツッコミはやめたほうがいい。 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 34 18 ID 2qGmGLVT0 そうだな。 おまえとかでも知ってるくらいの知名度だからな。 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 21 47 28 ID z1cfCt9qO 562 国としての認識と関羽個人の認知度とでは論点が少しずれてないかい? 566 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 21 54 17 ID DZSn4ljW0 で、入れるとして、結局誰を入れたいんだ? 遼、西夏あたりから、二、三人紹介して候補に入れてみればいいさ。 契丹は中華政権とは関わり無く勃興し、中華政権と干戈を交えつつ、いびつながらも共存し なおかつ、中華政権の良いところを取り入れようとしたが、基本は中華政権とは一線を画した別の国。 西夏は、もと中華政権の一節度使が、独立してやがて国を建てたが、完全に中華政権の支配下を逃れている。 また、中華政権に対抗するため、独自の文化を持つに至り、中国との同化はなかった。 中華文明の亜流であり、当時の制度が中国のそれを深く参考にしていたので、中国の歴史には欠かせない。 遼が国史として編まれたのは、征服王朝時代のさきがけで、正当化をはかるためのものと思われる。 その風俗、習慣などは、中国と呼ぶには同化し切れていない、外国の様相を呈していると考えますよ。 まぁ、入れる入れないにしても、人物を挙げてみましょうよ。 いいかげん人物列伝を読みたいんだが。 567 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 21 59 32 ID H//pJM0KO 565 ID RS7UDsUr0で抽出すると分かるけど、かなり苦しい事いってる人なんだよ。 唯一、反論されてないのが、 559なんだけど、それだと じゃ、国号が契丹の時代は外し、遼の時代は入る――で問題なし。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 08 03 ID rM7USuue0 558 たしかに、漢族からすれば金も元も清も蛮族と見ていたでしょう。しかし私が遼を除外 すべきと主張しているのは、民族を問題としているのではありません。 金も元も中華の中心部というべき中原を支配して、支那の範囲内に都を置いて統治して いますのでもとは外国だが中華を支配する政権とみなせます。その意味では 560が言って いるような南北朝の北を外せなんて言う気ありません。 しかし遼は最後まで関外の外国として終わりました。これを中華の政権だとはとても 言えないと考えます。だから遼の武将は外すべきだと考えているのです。 >あと 545を無視してるのは 543で言ってることが間違いと認めたってことでよい? そうですねたしかに「支那風の国号」という点からすれば冒頓は対象外ですね。 しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人 たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます。これは支那風の国号 になりますね。 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 10 09 ID RS7UDsUr0 耶律休哥でしょ?>入れたい武将 高梁河で趙匡義率いる宋軍を破ってるし でも当人、宋とは和平路線を支持してたよな 民族が独立して国を作る志向を持ってるから宋は宋、遼は遼なんだけど 遼って高句麗、渤海から続く満州一帯らへんの国家だし 渤海人も多く登用されてるし、渤海人は中国とは別の国なんだけどな まあ渤海使を遣唐使扱いしてるから遼も中国扱いする人多いんだろうけど でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが 570 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 18 25 ID RS7UDsUr0 休哥よりは斜軫の方が、南下して中国で戦ってる分中国名将に入りやすいと思うけど(事情アリとはいえ楊業破ってるし 何回か名前も挙がってるが、感じとしては休哥>斜軫な感じ 西夏は……宋側で狄青が頑張ってるしなぁ 中華外の所で国を設立するのに功績のある名将って、それは歴難の世界百選の範囲だ 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 32 13 ID z1cfCt9qO ◆RQdk7scN8sさん >いいかげん人物列伝を読みたいんだが。 まあそう怒らずにw 俺は善意の第三者として前々スレから擁護してるんだけで 小難しいこと抜きにして推薦したいなら推薦させてあげればと言う考え方なんですよ。 だから国号が契丹、遼の時代だろうが挙げてみればいいんじゃないかなと思いますけど。 契丹か遼かは君主の個人的な思想なんだしそんなに拘るほどの事とは思いません。 そんなに重要ですかね? 契丹か遼かで領土の位置が代わる訳でもないし‥‥ 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 35 04 ID 2qGmGLVT0 568 中原というのは河南のことなんだろうが、 俺は燕雲近辺こそ近世中国の中原だと思っている。 だからそれを支配する遼は入選資格有り、というスタンス。 まあ遼の頃はそれほどの重要性はなかっただろうが、金元清の先駆けとして評価している。 そして統一政権は長城以南の支那を全て支配してなければならない。 北宋にはそれが出来ていない。だから俺は北宋を統一政権とは思わん。 遼は北朝だと言わざるを得ないと思うが。 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 39 05 ID RS7UDsUr0 君主の個人的な思想で国名が変わるなんてなんていう独裁国家だw 574 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/25(日) 22 40 36 ID DZSn4ljW0 571 いやいや、怒ってないです。 語気が荒くて申し訳ない。 なんかだんだん、キナ臭くなってきてたので、流れをムリに変えようと… なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。 歴史学として、遼や西夏は中国にとって非常に重要なんだけど、このスレ的にどうか、というのはある。 そういう意味で、いわゆる中国本土、おおかた万里の長城を北端として、という範囲で それほど領地的に影響の少なかった、遼や西夏は外してもいいかとは思っている。 それに防衛戦とかで有能な武将は、あんまり評価しないでしょ? ということは、耶律休哥ではダメなんですよね。耶律徳光でないと。 まぁ、それもケース・バイ・ケースで拘る気はないけど、そういうのどう考えるのだろうか。 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 43 07 ID DQ5mmA020 569 ≫でも建築や官制が中国に倣ってるから中国っていうんなら、昔の日本だってそうなんだが それはちょっと話が違うと思うし、反対材料とするには無理が有るよ・・・ 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 22 54 55 ID z1cfCt9qO ◆RQdk7scN8sさん >なんか自分のレスだけ浮いているのも寂しかったし。 いやいやそんな事ないですよ。 推薦したいなら取り敢えず推薦してみればつーのが 俺の考え方なだけでムキになりほどかな?と思っただけですよ。 573 古代から現代まで中国なんて君主の個人的な思想で物事が代わるれっきとした独裁国家ですよw 577 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/25(日) 23 17 46 ID Vd9KwL440 とりあえず誰やそれ、的なのを二人ほど投下。 陳昭袞 驍勇果敢でしばしば戦功を立てる。聖宗が虎に襲われたときこれを捕殺した豪傑。 耶律(韓)徳威 耶律善補ともに楊業を破る。真っ向勝負で楊家の軍を大破した遼朝唯一の大殊勲者。 こんなもんで。 578 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 23 31 13 ID H//pJM0KO 568 > しかし、エセンを始めとする明代のタタールやオイラートは後世からはともかく、当人 > たちは元が北に移った政権、北元を国家として名目上は立ててます 当人が目指したのは中華の主たる元でなく、 チンギス・ハンの末裔としての北元だと思うんだが。 エセンは山師的な所があるから、明の領土が手にはいるなら、 喜んで奪いに行ったとは思うが、本気で中原に覇をとなえるつもりはないのでは? 574 耶律徳光は名将だよ。 なんだかんだで最後まで遼を入れるのに反対してた人に敬意を込めて、 個人的には、あえて遼と号した時期のみ推薦したいから、 遼の太宗、耶律徳光を推す。 579 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/25(日) 23 37 39 ID rM7USuue0 572 燕雲が中国の中心になったのは少なくとも元以降。たしかに今の北京のあたりは 北方の遊牧文化圏と中華を結ぶ結節点として古代から栄えていたが、だからって 中心にはならない。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 00 21 56 ID /XCFnoouO 正史二十四史、清史稿+αに載ってる人物でいいじゃないか 遼や金外すとかスケール小さくするようなことしなくても 581 558 sage 2007/03/26(月) 01 00 02 ID SnVA8+Cv0 568 レスありがとうございます。 555の前半部、領土的な判断基準の主張まで否定するものではないので、 後半部が切り離されれば案として残すのはよいんじゃないかと思いますよ。 505あたりの案と比較して、どれを定義に採用するかは議論が必要でしょうが。 タタールやオイラトは元を自称してるけど、 578さんの意見に賛同しますね。 北元はフビライの子孫がアリクブケの子孫のイェスデルに殺されて 途絶えたところで別の王朝になってるように思います。 582 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 01 08 53 ID fFHC/Wd9O 580 いいんじゃない。だから俺は昨日 530さんに同意した訳だし。 推薦するだけ推薦してみればいいし、落選してもそれは仕方ないと言うことでおK? ああでもないこうでもないばっか言っても先に進まないよ。 もちろん定義を煮詰めていくのは賛成です。 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 15 09 27 ID hITodSrz0 きっちりした定義も決めず始めたり、100人にはいるとも思われない小物を長文で紹介して 悦に入ったりする奴がいたりともはや混沌としてきてるなwww 特に後者は知名度の低い名将スレでも立ててそっちでオナニーしろやww 584 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 16 04 07 ID 0CwfyWgr0 ↑このスレの住人とは到底思えないアホがいるな。 585 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 16 38 04 ID fFHC/Wd9O 584 ID hITodSrz0みたいなアホが三戦板の某スレ板にいるよ (恐らく同一人物かと) そいつはやたらとwwwを付けたがる精神病患者。 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 17 08 51 ID /AnJjCbS0 スルーも出来ないのか?情けない 587 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 18 07 41 ID XLkRRoMd0 583 そりゃ悪かったねぇ。 マイナーな時期と思ったればこその長文であって 単に、誰ソレが誰々に勝った、でわかってくれるなら説明せんよ。 勝ったはいいけど、その相手ってどうよ? ってなれば、いくらか説明いるしねぇ。 李存審の残りの部分を、簡潔にいきます(言いたいところは済んだから)。 胡柳陂の戦いにおいて、別部隊として奮闘。 最終的な勝利を得るに貢献する(周徳威が戦死したりと、むちゃくちゃの乱戦だった)。 張文礼の乱では、李嗣昭とか李存進とか主な主将が次々と戦死する中、最後に起用されて鎮圧した。 以上。 絡めて、符彦卿のことも書こうかと思ったけど、様子見ます。 588 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 19 10 33 ID XLkRRoMd0 もう一回、確定・候補の磔。 五代~北宋・遼 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【論争中】 耶律休哥 遼は入れん、と言いつつ… 耶律徳光ならおkな無節操w かの戎王を入れるなら、対抗馬として後晋の桑維翰も入れたいところ。 ただし、桑維翰はあくまで軍政官。前線で戦術能力を発揮したことはありません。 かなり有能な戦略家。 桑維翰の作戦指揮のもと、劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)など15節度使が大暴れ。 契丹の侵攻および青州の重鎮・楊光遠の反乱を鎮定する(テロップふうに)。 589 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 19 28 32 ID fFHC/Wd9O 587 ◆RQdk7scN8sさん まあそう怒らずに。 自分は李愬・李存審や符彦卿のこと全く知らないので詳しい人物紹介は大変有り難いです。 (教えて下さいとお願いした張本人だし) 専門外の時代を深く知るのは楽しいですし、寧ろもっと紹介してほしいです。 (恥ずかしながら漢文が全く読めませんつーか羨ましいです。) 石勒が高祖本記を読んで聞かせてもらったり、 朱全忠が耳学問で知識を得た様なつもりで拝見させていただいています。 御迷惑で無ければこれからも人物紹介お願いしたいです。 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 19 45 12 ID fFHC/Wd9O 588 連投で申し訳ないです ありゃwこれ又興味津々な武将たちがww 桑維翰はともかく劉知遠、杜重威、高行周、符彦卿、皇甫大師(皇甫遇)15節度使が大暴れってなんですか?ww 青州の重鎮・楊光遠って人物も凄く気になるんですけどw いい加減にして下さいよ。物凄く知りたくてウズウズしちゃうじゃないですかwww 591 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20 03 50 ID XLkRRoMd0 590 今、その後晋期の契丹南下のときをまとめている関係上、ちょっと他より深く入っているんだけど そのテロップには惑わされないでください。 詳細ではないけど、五代スレにさわりは書いてますんで。 上の中で、皇甫遇はまだ太師になっていないのに、《資治通鑑》ではずっと「皇甫太師」と尊称されb「たりします。 杜重威の腰抜けのせいで、契丹に降らなければならず、羞じて死んだが故に義士とされているわけ。 司馬光さんよwwwwワロスwwww という感じ。 (ちなみに、「太師」の漢字が間違っていましたね。まぁ奥さんは法号を得て大師となりますが) ところで、漢文は読めていません。眺めているだけです。 だから結構、細かいところは誤認していると思われますので、注意してください。 592 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/26(月) 20 29 40 ID XLkRRoMd0 こちらも連投。 李存審を確定不動にしたいため、形容詞を並べます。 《舊五代史》唐書列伝八に引く、最後のほうで 「李存審は若い頃から軍中にあり、臨機応変を知り、法令は厳正、策を練り勝機を制する。功名は周徳威との双璧であり、これ近代の良将である」 多少、中抜きしていますが、概略こんな感じ。 周徳威は胡柳陂で討ち死にしたけど、李存審はまっとうしたから、選ぶとすればこちらかな。 593 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 21 44 11 ID aNjHA8LV0 581 たしかにフビライの子孫である北元皇帝のトクズテムルはイェスデルに殺され、 フビライ流の系統は途絶えました。しかしそのイェスデルもその後継者たちも みな「中国風の国号」である元の皇帝として(北)元皇帝を名乗っているのです。 たしかに彼らは中華皇帝としてではなくチンギスの流れとして皇帝を名乗った のかもしれません。しかしそれは今回は関係ありません。私は「中華風の国号」の 点を問題としていたからこそ、この例を出したのですから。 「中華風の国号を名乗った国じゃないだろ」 ↓ 「いや、名乗っているよ」 ↓ 「でも中華の支配者を目指したとは思えないからダメ」 これが定義の後付でなくてなんだと? 念のためにいっておきますが、私は中華風の国号を名乗ったからと言って、 遼が中国に入るとは思いません。しかし、入るといったのはそちらです。 その理由が「国号」で、その矛盾をついたら前回の論旨では言っていない ことを持ち出して反論とういのはなんでしょう? 594 善意の第三者 sage 2007/03/26(月) 22 08 51 ID fFHC/Wd9O 591 劉知遠は後漢の初代高祖ですよね。しかも在位わずか一年で崩御orz 五代随一の名君と言われる後周の世宗(柴栄) その後周で殿前都点検(近衛軍長官)だった北宋の太祖(趙匡胤)ぐらいなら 隋・唐・五代は専門外ですが陳先生の十八史略などを読んでいますので少しなら分かります。 やはり新五代史や資治通鑑を御愛読なされてるのでしょうか? 593 主張が矛盾してるとお怒りはごもっともですが 支那風元号を名乗っているとは言えやはりタタールやオイラトは 遼などの場合と一緒に考えるのはちと厳しいかと思いますよ。 (自分の器量ではこれ以上貴方を納得させられませんツッコミはご勘弁を) 595 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/26(月) 22 38 37 ID RMVpnz1GO 593 まず、ご自身が遼を外す理由として、漢民族ではないため、正統王朝ではないと 当時から主張されていたと言いましたよね? であれば、五胡十六国、南北朝時代にも同じ考えの人がいたのだから、 異民族が創始した政権は除外しないと、おかしくないですか? そっちはok、遼はNGと言うのは矛盾してませんか? ご自分の矛盾を棚に上げ、他人だけ責めるのは、その論旨に反してると思いますよ。 いかがお考えですか?納得できるご回答をお持ちいたします。 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/26(月) 23 15 52 ID OVLT3XCM0 ご要望?に応えて五代の武将を投下 霍彦威(872~928) 曲周(河北)の出身。字は子重。 梁将霍存に養子とされ、のち朱全忠に仕えて各地を転戦。 後梁が滅ぶと後唐に仕える。 荘宗(李存勗)から李紹真と賜名され、李嗣源に従ってしばしば契丹撃退で功を挙げる。 帷幄にも参画して首都反抗や即位のことを勧め、検校太尉中書令に進んで 明宗(李嗣源)の政権で重権を与えられたが在任中に没する。 ◆RQdk7scN8sさん質問なんですが劉?は劉[尋卩]のことですか? 597 558 sage 2007/03/26(月) 23 39 07 ID HQSEL59z0 593 自分は 505案に賛成なので北元(タタル・オイラト含む)は対象外との考えですが、 議論の流れからすれば不適切ですね、ごめんなさい。 21の定義でいくということで完全に決定すれば、 合致するエセンあたりも対象に入れてよいと思いますよ。(採用されるかはともかく) なんにしても大前提の定義が決まらないことには、遼将が入るかどうかで大違いなんで、 定義の決定を先送りにするなら確定は8~9人で止めて、後で別途議論するって形にせざるをえないのかも。 定義の話がメインじゃないし、いい加減うんざりしてる方々も多数いるようなんで、早めに決められないなら先送りですかね。 595 568の前半が質問の回答になってるんではないですかね? 598 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/27(火) 00 13 27 ID uqsL7maX0 594 五代の流れなら、「馮道」がかなり面白いですね。 ある種、小説として読めますから。 資治通鑑は愛読できないです… 誰か完訳してくれないかな。 三国時代も読みたいし。分裂時代への突入の仕方が三国-五代と似ていて、いろいろ興味あるんですよね。 (三国志は演義くらいしか読んだことがないから) 596 そう。 開封府尹の劉ジンのことです。 この人、戦理に適った軍事行動起こすのに、いつも運に見放されてカワイソスなんですよね。 李存勗との名勝負が好きなんで、対比として出しました。 その李存勗をして「一歩に百計を出す」と言わしめた梁軍きっての名将… なのにね… ちょっと前、世界史板に「劉ジンと苦難を乗り越えるスレ」というのがあって、面白かったんですが その頃は、誰それ? でした。 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 01 14 26 ID KAWFH+dC0 595 「漢民族ではないため、正統王朝ではないと」 言っていませんよ。私は当初から、遼は中華を征服支配したわけでもないのだから、 中国の政権とは言えないと言ってきました。ですから、五胡十六国でも南北朝でも 北は外せなんて言ったことはありません。金や清は歴史的な流れから言って中原征服 を成し遂げた、あるいはそのきっかけとなった靖康の変、呉三桂による入関以降を 対象にすべきだと考えており、「漢民族ではないからダメ」なんてひとっことも言って はおりません。あなたは何を相手にしてきたのですか? 民族がどうこうというのは、遼を入れるべきだ、元や金や清の前政権まで含めるべき と主張する人たちの定義では他の時代に矛盾が生じるという例を説明する場合にのみ、 逆説の意味で言ったことはありますが。 で、あなたが指摘した矛盾とやらについて、私は説明しました。この説明であなたが 納得するのか、受け入れるのかは知りませんがね。また後付で別な論旨を持ち出して の反論はやめて下さい。 600 558 sage 2007/03/27(火) 01 28 33 ID /RU9XVRx0 599 既に 558で指摘したことだけども、 555の後半で言ってることは 「漢民族ではないため、正統王朝ではない」と受け取られるのが普通じゃないかと思いますがね。 568で否定してるつもりなのかもしれないけど、非を認めて発言取り下げたわけでもないし。 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 03 01 04 ID KAWFH+dC0 600 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。 602 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 06 31 12 ID ZgfGS8wEO 600の問いに対しての回答が 601 > 冒頓は認めて取り下げたけど、エセンは間違ってませんから。 となると 555の後半部分は否定しないんですよね? 599の >金や清は歴史的な流れから言って中原征服を成し遂げた。 という部分をもって、あなたの意見を他の時代に当てはめると、 中原征服を成し遂げたとはいえない五胡十六国の異民族政権は 選考に入れるべきじゃないと思うんです。 ご自身はその考えを否定なさってます。だから矛盾してますよ――と指摘したのですが。 私はあなたが言ってるとは、申し上げておりません。 そういう意見にならないので、矛盾してますよ、と主張してるのです。 ご自身の意見にぶれが生じてませんか? みんな武将の確定作業に入りたいと思ってるんです。 複数人から、遼からでも、西夏からでも良いから、 とにかく名前を出してくれという意見が出てます。 とにかく話しを進めませんか?かりに選考に矛盾や無理が出たのなら、 そのつど指摘し、場合によっては、先行時代の選定にまで影響が及び、 確定した人物の落選、昇格もあるかもしれません。 その時は後日改めて話し合う――こんな感じではダメですか? 603 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 06 59 10 ID MYU6zSe40 一連の議論を見てみると、頑なに遼将の審査を主張している人は別に「遼将の誰某を入れろ」って訳じゃなく、 「最初から遼、西夏等を選考外にするな」と言ってるだけだと思われる。 つまり遼、西夏の資格が認められても、 選考議論の過程で振るい落とされて遼や西夏の将は一人もいない、とかあるかもね。 論議の上で落とされるなら強硬派も納得し得るだろうと思われるが、如何か? 604 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 08 08 24 ID MLgwmFSh0 こんなに粘る気と思わなかったんで言わなかったけど、これって「遼は中国か?」スレでも建てて 議論するレベルの話だと思うよ。何かのついでで語るには条件が複雑すぎるでしょ。 そんで遼が中国ではないと結論が出たら、ウィキペディアにも働きかけて、抜いてもらってね。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09 01 06 ID AT0XEXMT0 最後にそうやって無駄な煽りを入れるから終わらないと思うんだが 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 09 32 10 ID aZAw7oJN0 取り敢えず遼も西夏も認めようよと流れになってるんだから もうあれこれ五月蝿なこと言わなくてもいいじゃん 遼も西夏も推薦したい人もこんな状況じゃ躊躇してんじゃないんですか? 第一やり合ってるの二人ぐらいの人でしょ? いい加減ウザイよ!!! 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 11 11 50 ID KAWFH+dC0 たしかに熱くなってムキになっていたようです。この件はここで棚上げして停止、 選定に戻ることにしましょう。 不快な思いをさせてしまった方には申し訳ない。 ただ、中国の武将の定義ははっきりさせておかないと、この先も何度もでてくること になると思います。 608 黒幕 2007/03/27(火) 13 45 48 ID 2EykxZtyO 来て、見て、語れ! このスレを1から丹念に読み込んでみて欲しい。現代のネット世界の光と闇、新しい伝説がここにある。 http //same.u.la/test/r.so/pie.bbspink.com/feti/1162548223/l10 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 16 57 32 ID vtNm/IzHO 598 たびたび㌧です。 自分も馮道はかなり面白いと思います。 (つーか根回し凄杉) あと五代じゃないですが宰相として似た様な境遇?の耶律楚材なんかも。 分裂時代への突入の仕方が五代と似ていてるなら、東晋~五胡十六国や南北朝なんかも比較的近い状態じゃないですかね? いろんな漢族・異民族がぐちゃぐちゃに入り交じって面白いと思いますよ。 以上チラシ裏でしたw 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 19 52 16 ID L8aoC6+2O 592 生き残ったから確定で死んだからランク落ちっておかしくない? 周徳威自身に戦死の原因があるなら話は別だけど 双壁と称されてる周徳威の事績も紹介してその上で優劣つけてくれればありがたいが 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 20 19 49 ID aZAw7oJN0 610 詳しい説明は◆RQdk7scN8sさんに任せますが 楊師厚に周徳威は蒙坑で破れてるのがマイナスポイントじゃないのかな? 612 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23 01 39 ID aZAw7oJN0 611の続き またまた余計なお世話かもしれませんが 盟友(?)◆RQdk7scN8sさんの代わりに投下 (自分は前スレから共に論議に参加しています) 周徳威は李存勗に軽率を諫めたが聞き入れられず胡柳坡で敗れ戦死 耶律阿保機にも撃破されてますし、ここら辺もマイナスポイントと とらえているのではないでしょうか? だから李存勗>周徳威という考え方なんだと思います。 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/27(火) 23 13 15 ID aZAw7oJN0 612 李存勗>周徳威じゃなく李存審>周徳威でしたねスマン ホント大きなお世話だった・・・orz 614 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 03 23 06 ID 3CY9ORIA0 610 おかしくはあると思いますが、このスレでは往々にして主張される事柄と思いましてね。 自分が周徳威を語ると、またまた長くなりますよ?(そりゃもう、大好きな武将ですし) 田中ヨッシの百撰でも、周徳威と王彦章は入っていますので、それなりに知名度はあると信じて その間に夏魯奇などを交えて、ちょっと独り言を言ってみます。 王彦章、あざな賢明(子明。注:欧陽脩《五代史記》) 鄆州の出身で、後梁太祖(朱晃)に仕え、若い頃から驍勇をもってなる。 《五代史記》の列伝によれば(死節伝に収録。劉仁贍が付録…orz)、鉄でできた槍を一本もち 騎上にあって馳突するさまは飛ぶがごとく奮う。軍中は彼をして「王鉄槍」と呼んだ。 猛将でもある。 かの魏州の乱のおり( 518)、劉鄩の麾下に配属されていたけど、魏州が晋に下ったため 彼の妻子(魏州にいた)は、晋の人質となった。 王彦章の勇猛っぷりを欲しがった李存勗は投降を促したが、王彦章は拒否した(後で家族は冷遇された?) その後は各地の節度使を歴任して周辺防備に携わっていった。 晋が、ついに黄河を越えて鄆州を攻め、橋頭堡を得ると、後梁朝廷は震撼した。 宰相で朱全忠時代は、軍政すべての権を一身に担っていた敬翔はこれを危急存亡のときとし 自らの首を縄で縛って後梁末帝に拝謁し 「先帝(朱晃)は臣の進言をよくお取りになりました。今、我が国は累卵の危機にあるにも関わらず、 主上は我が言をお取りあげになられたことがございません。この上は無用の者として先に死を賜りとう存じます」 と言ったので、驚いた後梁末帝は、敬翔の進言を聞くことにした。 「今の状況を打開するのに、王彦章を大将とする以外に道はありません」 現在の後梁では、末帝が左右の奸臣に惑わされており、先に劉鄩が讒言によって死を賜り 胡柳陂の戦いで、どうにか痛み分けに持っていった賀瓌も死んだので まともな将帥は王彦章しか残っていないありさまだった。 その王彦章は、後梁末帝に召され、敵を破るのに幾日かかるか? と諮問され、ただ一言 「三日」 とだけ答えた。 後梁の朝廷は、その大言壮語を笑ったが、敬翔と当の対戦相手である李存勗だけは、それを軽く見ることはなかった。 李存勗は滑州の守将・朱守殷に、「王彦章が来るから、絶対に気を抜くな」と厳命したといいます。 王彦章は滑州に至ると、晋軍を前にして陣を張り、突然将兵を集めて宴会を開いた。 晋将・朱守殷は敵軍が着陣したことを察知したが、雨が降っていることもあり また宴会を開いていると聞いて、その日は特に備えなかった。 王彦章は宴たけなわの頃、ふいに席を立ち、数千の精鋭のみを率いて たちまち徳勝の南城とまわりの拠点を制圧してしまった。 それは、末帝に約束した三日目のことであった。 それから日に数十回戦闘を交えるという混戦が続き、しかしその手柄はすべて同僚の段凝という将と 朝廷の奸臣である、趙巌・張漢傑らの手によって握りつぶされ、段凝の手柄として報告された。 敬翔や李振などは、段凝の害毒を末帝に説くが、末帝は取り上げようとはしなかった。 やがて段凝が王彦章に変わって主将とされると、王彦章は牙兵のみをもって力戦し、ついに捕らえられる。 李存勗が降れと言ったが、王彦章は「豹は死して皮を留め、人は死して名を留める」と拒否し、やむなく斬られた。 以上が後梁の最後の名将・王彦章。 615 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 04 17 13 ID 3CY9ORIA0 周徳威、あざな鎮遠。幼名は陽五。 朔州の人で、李克用の幕下に入り、驍勇と騎射によって武名を挙げる。 後梁の氏叔琮が晋陽へと攻めたとき(この時点ではまだ後梁ではなく汴州軍) 「晋の要は周陽五なり。これを擒えた者には一郡をもって褒美とするぞ!」と言い 陳章という勇名を知られる者が名乗りを上げ、周徳威と一騎討ちするが、あっさり生け捕りにされた。 後梁の康懐貞が潞州を攻めたが、潞州の李嗣昭(李克用の仮子)の堅守のため 持久策を用いようとし、主将を下ろされた戦いで、周徳威は三垂崗に伏せ、翌日一気に敵軍を撃破し 長く包囲下にあった潞州を救った。 朱晃は910年11月、王景仁を大将として潞州を奪還するため編成していた8万の大軍を 趙(趙王・王鎔。鎮州成徳軍)攻略に振り向け、柏郷に陣を置いた。 趙は晋に救援を求めたので、李存勗は周徳威や易定の北平王・王処直らとともに、戦場へ急行した。 晋軍は河を隔てて柏郷の北に着陣した。 梁に比して晋は総兵力が少なく、軍中に動揺が走ったが、周徳威は 「あれは外見は華々しいが、しょせんは町人のせがれどもだ。恐れるにたりず」と言い作戦を披露しようとした。 李存勗は速戦を望んだが、周徳威は否定した。 「梁には歩兵が多く、我が方には騎兵がありますが、ここでは騎兵の戦力は十全には生かせません」 と、李存勗はふてくされて陣幕に帰ったので、周徳威は張承業に今後の作戦を説明して、李存勗を説得してもらおうとした。 張承業が李存勗を訪れると、李存勗の方でも周徳威の意見を吟味しており、その作戦を容れることになった。 梁の王景仁は河に浮橋をかけるべく作業していたが、それを察知した晋は陣を後方の高邑にまで下げた。 周徳威は精騎三千をもって、梁の陣営に近接し罵声を浴びせて挑発した。 好機とみた王景仁は全軍を出撃させ、晋軍を飲み込もうとした。 周徳威は梁軍と戦いつつ数十里後退し、ついに高邑の南にある平原に敵を誘い込むことに成功した。 周徳威は 「敵はまんまと追撃してきたぞ。きっと携帯食も持たずに来たに違いない。昼すぎには撤退を開始するだろう」 と言い、再び速戦は避けた。 やがて正午が過ぎて、梁軍は退却をはじめたので、梁の陣営から土煙があがった。 遠望した周徳威は温存しておいた騎兵に一斉突撃を命じ、梁軍を大破した。 王景仁や李思安はわずかに身をもって逃れたが、捕獲された将校は280人に上った。 梁帝朱晃は嘆いて言った。 「子を持つなら、李亜子のごとくあるべし。我が子など豚犬のみ!」 柏郷の戦いは周徳威を語る上で外せない大戦果です。 ええ、さすがに眠たいので、続きはまた今度。 616 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20 12 51 ID 3CY9ORIA0 夏魯奇、あざな邦傑。賜姓名:李紹奇。 燕が兵を起こし易定を攻め、晋との間に戦端が開いた晋×燕戦役で 夏魯奇は周徳威の麾下に入って、幽州攻めに従軍した。 燕の驍勇をもって自負する、単廷珪(水滸伝じゃないよ)と元行欽は、周徳威の勇名を知っており 彼を戦場で打ち倒すことを目指していた。 周徳威が幽州に向けて軍を発し、攻めかかると二人の燕将は一軍をもって吶喊してくる 夏魯奇はその前面に立ちはだかって、単廷珪、元行欽の二人を相手取って壮絶な一騎討ちを展開した。 その壮観は、周りの兵たちが戦うのを忘れて、思わず見入ってしまうほどだったという。 夏魯奇に阻まれた二人の燕将は軍を引き、燕帝・劉守光は陣を立て直すことにした。 このとき劉守光は朱晃に救援を求めたものの、梁軍は先の柏郷での大敗もあり また李存審らに阻止されて救援できなかった。 朱晃を嘆かせること三度目となり、朱晃は健康を著しく損なったといいます。 龍頭岡においてふたたび周徳威は劉守光軍と対陣する。 単廷珪は「今度こそ、周陽五を擒えて献上いたしましょう」と言って 精騎一万をもって龍頭岡の周徳威本営を奇襲した。 乱戦に持ち込んだ単廷珪は周徳威と遭遇し、勇んで撃ちかかったが 周徳威はわずかに身を反らせただけで、その斬撃をかわし鞭を浴びせかけて単廷珪を生け捕ってしまった。 当然、主将のいない攻撃軍は潰走し、単廷珪を失った劉守光は意気消沈してしまった。 周徳威はさらに軍を進め、李嗣源と李存審の加勢を得て幽州を降すに至る。 魏州の乱のおり、李存勗が梁の劉鄩と向かい合ったとき、李存勗はしばしば百騎程度でもって 敵情視察にでた。この行動は、李存勗が自らの目で戦場を見るという癖のようなものだった。 しかし、劉鄩はそれを見逃さず伏兵を配置させて幾重にも包囲した。 夏魯奇は李存勗と行動をともにしていたので、自らは二十箇所ほど傷を負いながらも 一人で百余人は殺し、力戦して李存勗を逃がすことに成功した。 彼は王彦章とも戦い、これを擒えることに成功している。 最後は、東川で董璋の謀叛により、城中の食が尽きて自刃した。 名将ではなく、猛将? 劉秀の賈復、劉備の趙雲みたいな感じだろうか。 617 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 20 25 04 ID 3CY9ORIA0 おまけ「胡柳陂の戦い」 西暦918年に李存勗は黄河を越えて濮陽の近郊、麻家渡に軍を進めたので、梁軍も北行台村に着陣した。 このときも李存勗は少数での偵察を行い、何度も危機に陥りその都度李紹栄に助けられた。 (李紹栄って誰? 夏魯奇は姓名を与えられて「李紹奇」と名乗ったけど。この時期、紹の輩字をもらった人が多すぎる。わけがわからんw) あんまりの無謀さに、李存審は泣いて李存勗を諫めたが、そのときは神妙な顔していた。 李存審が自陣に戻ったのを確認すると「あの爺がいると人の楽しみを邪魔するからな!」 と言って、李存勗はまたしても軽騎で敵を挑発しに出て行った。 梁将・謝彦章は、これをてぐすね引いて待っており、李存勗はふたたび危機に陥った。 報せを受けた李存審は手勢のみで急行し、ぎりぎり無事保護できたという。 さすがに軽挙を反省した李存勗は(きっと李存審にガミガミ言われたのだろう)、百日ほど行動を起こさなかった。 その長帯陣のうちに、梁軍のほうに異変があった。 総大将・賀瓌は、かつては自分より地位の低かった謝彦章が同列にいることに不満であり さらに、最近つとに武名があがっているのが気に入らなかった。 意見の対立から謝彦章に罪ありとして処断したので、それを知った李存勗は大いに喜んだ。 しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。 李存勗はそれを無視して、全軍を汴州方面へと動かし、敵を誘った。 賀瓌はそれを追尾したので、両軍は胡柳陂に入った。 周徳威は陣営を固守して軽挙を戒めたが、李存勗はそもそも敵を釣りだそうとしていたので 「せっかく敵が後から追いかけてくるのだ、軍を控えてなんとする。その方、臆病風に吹かれたとみえるな」 と退け、輜重隊を前進させ、李存勗は軍を返して賀瓌軍に向かった。 李存勗の近衛軍は、かつて魏州の楊師厚が編成した「銀槍効節都」であり、その勇猛さは梁軍を恐れさせた。 梁軍の一部がそれによって突き崩され敗走していくと、晋軍の輜重隊はそれを敵襲と間違い狼狽して 周徳威の陣営に一斉に逃げ込んだ。 それによって、周徳威の陣営は大混乱し、沈静を試みるが効果は薄かった。 賀瓌は、騎兵を周徳威の陣営に突撃させ、これを蹂躙した。 周徳威はこの乱戦の中戦死した。 李存勗は賀瓌の本営を衝き、数里後退させたものの、賀瓌の陣容は堅固に見えたので 一旦、軍を退いて陣営を整えようと思った。 しかし閻宝、李嗣昭、王建及ら諸将に速戦を主張され、愕然とした。 「公らの意見がなければ、わたしは計を誤るところであった」 小山の斜面を利用して、晋軍の騎兵は賀瓌の陣営に吶喊した。 この戦いで梁は死者三万という大敗を喫したが、晋のほうでも周徳威をはじめ、 掌書記として陣中にあった王緘が戦死していたし、さらに敵軍を追撃する余裕もすでになくなっていた。 王緘は帷幄の臣であり、その補填として巡官の馮道が起用されるようになった。 618 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/28(水) 20 55 01 ID QQ+xWEIM0 ◆RQdk7scN8sさん頑張ってますなぁ。 俺も忙しい時期が一段落したことでもあるし(まだちょっと忙しいが)、 久方ぶりに人物紹介やるかね。五代では初、ってことで、 ◆RQdk7scN8sさんの推す李存審とつながりが深いこの人を。 史建瑭(866-920。字は国宝) 李克用を庇って斬り死にした史敬思の息子。 光化年間、昭徳軍を任され、李嗣昭とともに汾州を攻め、真っ先に城壁を登り、 叛将李瑭を捕らえて李克用の前に突き出した。李思安が上党を囲んだときは総管、 周徳威の先鋒として李思安の包囲軍に穴を開け、上党を救った。また、史建瑭の 守る城を汴軍が挟み撃ちにし、退路を断ったときも、精騎を率いこっそり城を 出て、要所に精兵を埋伏を設置。罠にかかった敵兵から情報を引き出し、綱紀の 緩んだ汴軍の陣営に突っ込んで斬首千余人を挙げた。汴将・王景仁が柏郷に陣営 を築くと周徳威の先鋒として井陘まで出陣した。高邑の戦においては天が黄昏に 染まるまで戦い、汴軍が陣営に還ろうとする心理を見澄まして後背を突く。 史建瑭は自ら麾下の精騎を率いて突撃し、敵陣を陥とし、逃げる汴軍を追って 魏・滑の間を抜け、長躯追撃して、夜、柏郷に突入して俘虜、斬首あわせて数千人 の武勲を挙げた。凱旋すると趙州の留守を任され、汴将氏延賞が趙州の南を侵すと 伏兵をもってこれを破り、氏延賞を擒らえて李克用に献上した。 光化九年、朱温が自ら蓚県を攻めたとき、李克用は唐朝の軍を率いて幽州攻略に 向かっていた。公称50万の軍が陳州、定州を侵す。李存審が史建瑭に訊いた。 「50万の大軍で攻め寄せる敵を前に、我々はなにをなすべきか?」その後史建瑭 と李存審の相談。奇策をもって活路を見出すということに落ち着く。800人の 精騎に汴軍を挑発させつつ信都に移動させ、李存審が下博橋を扼し、史建瑭と 李嗣肱は要所で敵将を擒らえる構え。史建瑭は部下三百を五部隊に分かって要所に 埋伏させ、自らは一隊を率いて梁軍に突入、敵兵を思うさま斬りまくり、梁軍を 下博橋に誘導する。翌日、両軍が下博橋に出揃う。史建瑭は自ら幾十人を斬り、 士卒百余人を捕らえる。そして将兵に「沙陀来たれり!!」と叫ばせる。梁軍は 一気に青ざめた。その翌日、史建瑭と李嗣肱は梁軍の甲冑を着込んで敵将・ 賀徳倫の塞に忍び込み、門衛を殺し、塞に火をつけ、大声を上げて混乱をあおり、 目撃者を殺して帰陣した。朱温はこの晩、陣営を焼き捨てて貝州に逃げ去った。 十二年、魏博が投降し、史建瑭は符存審とともに魏県に駐屯することとなる。 翌年、元城の戦で劉鄩を破った。澶州を取ってその刺史となり、徳勝に駐屯した。 18年、閻宝とともに張文礼を討伐し、馬軍都将とされる。八月には趙州を修復 して刺史王鋋を生け捕った。鎮州攻略の途上、流れ矢に当たって死ぬ。享年46歳。 旧五代史に載っとる武将で一番“寡をもって衆を破”ったのは 李存孝(300とか500とかの寡兵で汴梁軍1万以上を毎回破る。バケモンか) やと思うんやけど、彼は唐末に処刑されとるけん、唐の武将だわなぁ。やから除外。 つーわけで個人的趣味により史建瑭。 李存審の後援があったとはいえ、300+伏兵で50万を破るんやから大したもんやろうと。 619 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 20 56 27 ID QQ+xWEIM0 なんでやろ、名前が消えた。 多分これで大丈夫のはず。 620 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22 25 07 ID LvTTdf2T0 連投やけど問題ない? なんか人少ない感じやし、いいか。 今度は朱温陣営から、史建瑭と同じく流れ矢に当たって死んだ名将を。 郭言(生没年不明) 黄巣を擒らえて朱温に献じ、騎将となる。 性、剛直にして権謀あり、むしろ理知的だが戦場では鬼神のごとく荒れ狂う。 家財はすべて困窮する部下のためになげうち、すこぶる将士の心を得た。しば しば蔡、浚の地攻略に出陣、常に少をもって多を打ち破り、出戦したからには 必ず勝利を得た。朱温はかれの勇敢果断であることを称え、賓客・僚佐たちの 前で「言、すなわち我が虎候なり」と賞賛した。 当時、秦宗権とその徒党が数10万の兵を抱え、朱温の兵はその十分の一に しか過ぎず、常々兵力の減少を遺憾に思いながらもこれを敵に回すことが出来 なかった。ある日、郭言は命を受け、数千の兵を率いて黄河をわたり洛河を越 えて、陝・虢で壮丁を募兵して兵力の充実を図った。夏に出立し冬に帰還した ときには、兵力は1万余を超えていた。朱温はこの兵力をもって蔡討伐に出陣、 郭言もそれに従うも、とめどもなく殺戮と略奪が繰り返される戦場は勝利と呼 べるものではなかった。ともあれ秦宗権は逃走し、朱温は蔡の地を汴梁の版図 に組み入れた。その間、郭言は女性や老人などの社会的弱者を保護するために 奔走する。潼関を陥としたときも奸悪を除き弱者を救い、人々の絶大な信頼を 得る。 光啓年間、日に日に勢力を増す朱温のために、唐の天子は揚州節度使兼を贈る とともに禅譲、汴梁皇帝朱温に位を譲る。得意絶頂の朱温は幕僚の李璠を維揚に 向かわせた。このとき郭言は李璠の先鋒として戦ったものの、民心を得ていない 土地を奪ったところで意味はないとして盱胎を攻め抜いただけで兵を還した。朱 温は郭言に、今度は東伐を命ずる。郭言の出馬となると東の諸将は万人辟易、向 かうところ捷たざるはなく、郭言の存在だけで東人の鋭気は大いに崩れた。朱温 はその戦功を見て大いに喜び、“排陣斬斫”の称號を与えた。景福初年、時溥の 軍と遭遇、郭言は大敵を前に勇躍し、自軍の精鋭を率いて自ら斬首無算という暴 れぶりを見せる。しかし流れ矢に当たって倒れ、その晩陣没した。 621 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 22 38 16 ID LvTTdf2T0 書き忘れ。 郭言は東伐戦で東西千里の領土を切り取っております。 622 611 sage 2007/03/28(水) 22 52 27 ID CpCEcV480 ◆oOLAqFKRBさんお久です。 ◆RQdk7scN8sさんだけじゃなく自分もそれなりに推薦文(楊師厚、霍彦威とか)挙げてるのですが…シュン 以前嫌な思いをしたのでコテもトリも付けてませんが 自分は春秋戦国からずっと◆oOLAqFKRBさんとは推薦合戦を繰り広げている者です。 (長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案した奴と言えばわかるかと) まあ寝言と聞き流して下さいw では自分は後周よりこの人を推薦 王景(889~963) 莱州掖県の人。農家に生まれ、騎射を良くし、生業に就かずに、若くして従軍する。 後梁・後唐に仕え、後晋の天福初年、相州刺史に上る。 開運元年(944)、侍衛馬軍左廂都校に任ぜられる。二年、南下してきた契丹軍を威城で破り、 侍衛馬軍都指揮使に進んだ後、横海軍節度使として、滄州に鎮める。 後漢の乾祐初年、同平章事を加えられ、後周の初年には侍中を兼ね、鳳翔節度使に転じた。 世宗(柴栄)が即位すると、中書令を加えられる。 柴栄は先虚後実・先易後難の作戦方針を考え、向順と王景を派遣して 隴右に進攻させ、半年にわたり堅持させた。 顕徳二年(955)、世宗の命により後蜀を攻め、秦州・鳳州・成州・階州を奪取する。 宋代に入って太原郡王に封ぜられている。 多少はおかしい箇所もあるかと思いますがご勘弁を… 623 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/28(水) 23 23 59 ID LvTTdf2T0 622さん、気付かずにいてすいません。 短く、と気をつけながらどーしても長文になるんですわ。 つづめようとしてもいつのまにかアレ? になってしまうという駄目な俺なのです。 史書からの要点ピックアップにとどめてるつもりなんやけど、上手くいかんのですねー。 ま、そんな俺に仲間意識を感じていただけるのは非常にうれしいです。今後ともよろしく。 と、五代は皆さんに任せて俺は北宋および議論百出の遼を担当しようかなと思っとります。 現在読んでるのは嫌われキャラ、潘美。この人案外結構名将なんですよ。戦術的には曹彬の上。 この人か楊家将の息子たちの中から推薦文出して見よーかなと思っとります。 それでは翻訳に戻りますねー。 624 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/28(水) 23 43 35 ID 3CY9ORIA0 622 前スレで、実は◆oOLAqFKRB氏とID CpCEcV480氏は同一だと思ってたんですよね。 で、前のとき、郭言や、台濛あたりを推挙したのはどちらさまでしたか? 長文をもう少しコンパクトにならないですかと提案 (どきどき…) 618 史建瑭とは… こりゃ盲点でした。オヤジの史敬思については、それなりに知っているところはあったのですが。 中国古典では、李存孝とならんで英雄ですよね、史敬思。 ところで、李存孝の初名も、敬思、安敬思というんですよね。 安も史もソグド系の姓になりますね。 しかも、何かを連想させる姓… そう、安史の乱w 史敬思は、李克用が黄巣を撃破したばかりのとき、朱全忠の「悪辣な」夜討を喰らい ベロベロに酔っ払っている李克用を、身を挺して逃がした忠良の士ですな。 この「上源駅の夜襲」は演劇の題目にも有名だとか。 李存孝は反対に、最終的には李克用に叛しましたね。 その経緯は同じ李克用の義児である李存信との確執にあるわけですが、はるかに年上な(と予想される) 李存信と、李存孝とはいろいろあわないところがあり、両者の不仲が決定的な破局を導きました。 邢州に立て篭もった李存孝は、それでも野戦では李克用には遅れをとらなかった… というより、李克用は勝てなかった。 城の周りに塹壕を作り、李存孝を封じようとすると、李存孝は軽騎をもって出陣し飛ぶようにそれを攻撃したので 包囲軍はどうすることもできなかったという。 で、結局、李克用は弁舌達者な者に、李存孝に「邪魔をするな」と言いくるめさせました。 言いくるめられるな、李存孝よw この辺、戦場においては鬼神もこれを避く、という知略・勇猛ぶりも微塵も感じさせないお人よし感がでています。 痴呆とさえ疑ったほどですwww 結局、城中の食が尽きてどうしようもなくなった李存孝で それを憐れに思った李克用の夫人である劉氏は、単身城中に赴き、降伏するよう説得しました。 李存孝はただ李存信憎しのためだけに叛したと言いましたが、 「我が名誉を損ない罪をきせたのも、李存信の仕業だとでも言うのか!」 と激怒して、晋陽に連れ帰って処断しようとしました。 本心では、誰かそれを止めてくれると期待していたのに、誰も止めてくれず、結局、処断は実行されてしまったのでした。 落胆した李克用は10日引き篭もり、ために晋の兵勢は著しく損なわれることになりました、と。 (あまりの激怒っぷりに、諸将も滅多なことを言うととばっちり受けそう、とか思っていたんじゃなかろうか) 623 潘美 自分もそう思います。 人間性や人格は曹彬のほうが上ですが、こと戦に関しては曹彬、それほどでもないんですよね。 625 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00 23 43 ID vPJ4/UlR0 624 郭言とか台濛とか挙げたの俺ですわ。でも十国からやと呉越の顧全武になる かな。周本にも台濛にも勝っとる。 さて、五代は◆RQdk7scN8sさん、622さんに任せて、 俺は北宋、契丹(入る入らんは別として)の人物を書いたほうがいいやろか。 一応俺、宋が専門(知識は南宋の晩期に傾いとるんやけど)ってことになっとるし。 とりあえず嫌われキャラのこの人でも。 潘美(921-987。字は仲詢) 少年の頃から大志を抱き、度量があり、漢や周の政権交代時における乱世が やってくれば功名を立て富貴を手にしてみせると吹いて回っていた。成人する と後周の世宗の下で将校となり、しばしば戦功を立てる。 後周の頃から趙匡胤と仲がよく、陳橋の変で趙匡胤が皇帝となると僚佐たちに 趙匡胤のいいところを吹聴して信服しない連中を宣撫したのは彼の功による。そ ういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。 湖南平定後、人心いまだ寧まらずという状況下で宣撫に派遣され、恩威両面の 政策をもってこれを定む。乾徳二年、徳裕・尹崇珂・張継勛らとともに郴州を陥 とし、南漢討伐の準備を固めた。 開宝三年、南漢の劉鋹が降伏勧告を拒絶、宋朝は兵を動かすことを決意、その 将校の中に当然、潘美の名もある。南漢軍は賀州に兵力を集中して迎撃の構えを 見せたが、潘美は萌諸嶺を越えて一気に賀州を陥とすという離れ業をやってのけ、 破竹の勢いで南漢の州郡を陥としまくって要地、韶州に迫る。 軍事的要地に迫られた南漢軍は急ぎ10万の兵を韶州に送るが、潘美の猛撃の 前に結局は大敗。潘美率いる北宋軍は俘虜、斬首あわせて数万という大戦果を上 げる。窮地に陥った劉鋹は開宝四年、宋に投降を願い出るものの、(南漢)朝廷 からの「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。 守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は 即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず(物凄くテキトーな訳)。」 劉鋹は絶望したが潘美にはそれを相手にするヒマはなく。南漢の文臣蕭崔らを 開封に送り、自らは大軍をもって南進を続ける。劉鋹は弟・保興に使者を派遣 して宋軍に抵抗せよと命じたが、衆寡敵せず。潘美は士卒を鼓舞し、塹壕を抜け、 各所に設置された防馬柵を破壊し、広州百二十里を踏破した。宋朝は劉鋹の抗戦 姿勢に容赦をなくし、潘美に一気呵成で広州を攻めさせた。 南漢皇帝(王?)劉鋹は甘い考えで自分の失策を認めず、最終的に虎の子の兵士 15万を険阻な地に配備、宋軍を迎え撃つ姿勢を見せた。潘美は一旦兵士たちに 休憩を取らせ、その間に間諜から敵の情報を受け取る。南漢軍が竹木で作った陣営 を構築したと知るや潘美は大いに喜び、火計を仕掛ける。大いに燃える敵陣に潘美 以下宋軍は突撃、急撃して敵軍を大いに破る。ここで劉鋹を捕らえて開封に送り、 南漢は滅ぶ。この戦役で宋は六十州、二百十四県、十七万戸を獲た。 潘美は一連の功績で忠武軍節度使、韓国公に封ぜられたが、のち北漢との戦いに 敗れて官爵を剥奪された。しかしまもなく復権。没後武恵と謚され、鄭王を追贈された。 ・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物とは思えません。まぁ独立した 伝で悪口ばっか書かれてる人もそうはおらんやろーけど。 626 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/29(木) 00 44 27 ID vPJ4/UlR0 「よく戦うはすなわちこれと戦い、戦いてすなわち守るを勧めるあたわず。 守るはすなわちこれを諭して降すあたわず、降りてすなわち死すあたわず。死は 即ち死すあたわず、ここに五者、彼に接受得ずに非ず」 これじゃ意味不明なんで、現代語訳します。 「名将はよく敵と戦い、突然へりくだったりしねーんだよ。守るんなら降伏 なんか考えずに戦い抜けやボケ。降っても守ってもどっちにしても死ぬんだ からもっと必死になれバカ。お前なんかウチに出入りする資格もないわ!!」 大体こんな感じだと思う。 さて、そろそろ寝ますわ。そんじゃ。 627 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 03 38 03 ID 3RygpEsm0 ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんからのお返事キタ━━━(・∀・)━━━ッ!!!!!! まあ長文云々はホント只の寝言ですからお気になさらずw ぶっちゃけ◆oOLAqFKRBさんと◆RQdk7scN8sさんは勝手に盟友だと思っています(ry (特に南北朝で過疎って時は三人で乗り切った感があるし) 御両人これからもヨロ!! ≫・・・采配ミスで楊業を死なせたヘボと同一人物 ホントそうですな楊業好きな者としては憤慨物ですわw 北宋、契丹は◆oOLAqFKRBさんにお任せしますが よかったら五代からも推薦しちゃって下さい。 (自分の知識なんて大したことないですし、契丹、モンゴルなどは容認派ですから) ◆RQdk7scN8sさん自分は前スレから参加していますが 推薦文を挙げ始めたのは春秋戦国の選考からなんですよ。 628 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 04 31 03 ID dq8cE7YkO 625 細かいですが、 > そういう間柄なので太宗・趙匡胤からも信任された。 太宗だと趙匡義ですね。両陛下が草場の陰で哭いてますよ。 629 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 09 53 26 ID 3RygpEsm0 628 馴れ合いとかまた言われたら嫌なので一応言い訳w 確かに太宗・趙匡胤となってますが これは只の打ち間違えか慌ててただけでは? だから敢えてツッコミは入れませんでした。 細かいのは結構ですが>両陛下が草場の陰で哭いてますよ。 せめてwぐらい付けてあげてくださいよ。 その方がマイルドに聞こえますがいかがですかね? 630 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 13 55 48 ID 8987gU1e0 622 後周の王景ですか。 まさに「銀河英雄伝説」のラグナロック作戦を彷彿させる、後周の遠大な戦略の一環を見事に担った人ですよね。 これは、自分が勝手に物語と沿わしているだけで、まんまそういうわけではないけど。 その時期、大規模な伐蜀軍を派遣した後周は、それ以外の軍事行動は当分起こさないだろうと思われた。 王景や向訓らは、秦州で後蜀の李廷珪や王環らに結構粘られて、戦線は一時膠着していた。 そこへ、趙匡胤を督戦に、韓通を援軍として送り 天下の耳目を集めた隙に、枢密使・李穀を大将にして、油断している南唐へ攻撃をしかけた。 前線防備を怠っていた南唐は、やすやすと淮河を越えられ、また禁軍大将の李重進の速攻で 南唐の劉彦貞は敗死した。 清流関に拠った皇甫暉は趙匡胤と一騎討ちするが敗れ、張永徳、韓令坤らによって 淮南は席巻された。あっという間だった。 その中で、一人寿州の劉仁贍だけが、柴栄の本隊を相手に譲らず(30万とかの攻撃軍を寿州に足止め) 雨季まで粘り、南唐の反撃の契機をつくった。 結局、寿州以外の土地で連戦連勝の柴栄も、劉仁贍にだけは勝てなかった。 寿州を取れたのは、劉仁贍が病に倒れたからだった(南唐の首脳部が非協力的だったため、がんばりすぎ)。 柴栄=ラインハルト、劉仁贍=ヤン で、おk。 以上、たわごとでした。 631 国 sage 2007/03/29(木) 17 08 21 ID c9hQ6QdH0 しかし、この時代もハイレベルですねえ。 趙宋を建てた功労者の一人、呼延賛が 十傑候補にも入らないとは(T_T) 632 ◆RQdk7scN8s 2007/03/29(木) 17 15 21 ID 8987gU1e0 再び磔 五代~北宋・遼 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【論争中】 耶律休哥 有力候補として雑感。 514の楊師厚。 618の史建瑭。 補欠(w)枠で、耶律徳光。 王彦章よりは周徳威を推したいが、北宋期が全然出てないないので、保留。 郭言も、戦績を見ると普通に入りそうだけど、有力藩鎮とは戦う前に戦没かぁ… どう評価しようねぇ。 たまに言われるバランスを考慮するなら、ここは十国南方勢力の、最後まで生き残った呉越から それの立ち上げ時期の将として、顧全武を入れるのもいいか。 とすると、顧全武の詳しい事績を調べる必要があるわけだ… 南漢は、荊南、湖南や、もはや弱小国に成り下がった江南(南唐)に比べ、勢力としてかっちりしていたので それを降すのに功績のある潘美は評点高いでしょうね。 633 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 17 35 58 ID 3RygpEsm0 631 呼延賛も確かに名将なのですが何げにボスの趙匡胤(太祖)と楊業が化け物じみてますから… (趙匡胤 大、大、大好き~w) それに後梁、後唐、後周辺りに猛者揃い杉ですからね。 632 ◆RQdk7scN8sさん乙です 自分も十国から誰を推そうか昨日から思案中です。 ところで霍彦威、王景は予選落ち? 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 18 59 02 ID 0z5HJruS0 楊師厚 開平三年、叛逆した劉知俊を劉鄩とともに討つ。長安に至った時、既に城内には岐軍が 入っていた。楊師厚は近傍の南山に急行して西門から侵入し、守将の王建は驚愕して 降伏した。 同じ年に晋が晋州を攻めたため救援に向かう。蒙坑の険で迎撃する周徳威を撃破し 晋軍を撤退させる。 柏郷の大敗の後北面招討使となり、勝ちに乗じて黄河まで進撃してきた晋軍の迎撃に当たる。 包囲された邢・魏州を助けるため前進し、晋軍は魏州から退却。漳水を越えて追撃し 邢州の囲みを解いた。 晋が燕を攻めている隙をついて十万の大軍を率いて北上し趙に侵入する。鎮州を襲ったのち東方 に進み滄・徳州を降して還る。 翌年、幽州を征服した李存勗が王鎔・周徳威・李嗣昭とともに南進して邢州に侵攻。 楊師厚もまた邢州まで進んでこれを退けた。 翌年3月死去。 楊師厚は 514ですでに出ていますが、自分もこの人物を推します。 いけいけ状態の当時の晋軍を3度も押し返したところが高ポイントかと。 635 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 20 40 48 ID eD1wgc/V0 ここの住人の皆様方の知識量は凄いですね。 ほんといつも勉強になります。 だれかまとめサイトとか作ってくれないかなあ。 636 ID CpCEcV480 sage 2007/03/29(木) 22 52 46 ID 3RygpEsm0 617 「胡柳陂の戦い」で >しかし周徳威は、なお速戦を戒めた。 >李存勗はそれを無視して~周徳威はこの乱戦の中戦死した これって街亭の戦いの折り曹魏の歴戦の猛将、張儁乂が司馬懿を諫めたにも関わらず 追撃を命じられ討ち死にした話に合い通じるものを感じますね。 (演義の中では逆に張儁乂が司馬懿の制止を聞かず討ち死にした事になってます) 630 田中ヨッシーの「銀河英雄伝説」ラグナロック作戦に準えた話にデラワロスwww 634 楊師厚の支援㌧ 後梁屈指の名将ですものね。 自分も一押しの武将です。 637 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/29(木) 23 02 07 ID 8987gU1e0 636 そういえば似てるかも。 まぁ、その張郃の戦死について、詳しくは知らないのだけど あれは、相手が諸葛亮という不運だったのじゃないかと思っていたり。 諸葛亮は全中国史を通じても、抜群の統率力を誇っていますからねぇ。 そうおいそれと、追撃など許さないのじゃないかと… 胡柳陂は例えるなら、第四次川中島というところでしょう。 勝つには勝ったが、大事な臣を多く失っていた、というヤツ。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/29(木) 23 10 20 ID AQSbmDXX0 アレ?何時の間に曹彬が候補落ち? 639 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00 37 36 ID bNBcckBn0 顧全武 武粛王に従い常にその左右に侍った。董昌が叛き淮南の将・魏約と ともに嘉興の将兵を囲んだとき、反乱軍の寨二つを陥として西陵に 還る。淮南の安仁義の軍が董昌に攻められると石城を腹し、董昌の 武将徐章をとらえ袁邠を降した。董章が嬰城で帝位を僭称して蘇州・ 淮南を陥とすと、武粛王の命により賊討伐を命じられた。顧全武 曰く、「越州の賊、この根本は克ちて而して棄ておいても蘇を捨て置 けば越が復するにあり。時に昌の真将、兄子、驍勇善戦。全武これを 攻めて年を逾するあたわずなり」そして董昌の裨将・刺羽の隙をついて これを殺し、そして昌の兵を破る。全武は董昌殺害に執念を燃やし、 この戦役において城を囲むと同時に伏兵を設け、自ら真っ先に城壁を 登って陣を陥とし、伏兵を発して逃亡する将兵を悉く捕らえた。 翌年、顧全武は海道から嘉興をの奪われた版図を修復し、淮南の 18営を確保した。淮南の将・魏約を松江で破り、無錫に連行する。 また沿岸を侵す海賊を蹴散らした。また蘇州を攻めて呉の名将 台濛・周本らを相手に向かう所敵なし。遂に蘇州を回復、崑山を 陥としてその将泰裴を降した。裴は崑山に拠して呉越軍を拒んだ ものの、顧全武が万単位の兵を投入して崑山を囲み、しばしば 交戦したのち降伏した。武粛王は千人を選んで泰裴に与えたが泰裴 は頑として固辞し、百人で十分と進言、武粛王は怒り、「軍、弱く かくの如し。何ぞ敢えてこれを拒むや」泰裴はこれを宥めすかし、 このとき居合わせた廷臣たちは揃って泰裴の長厚を褒め称えた。 天復元年、武粛王が呉王の宝を盗んだとの嫌疑により元老・ 李神福が呉越に攻め寄せ、杭州を奪い取るも、顧全武が軍を八寨 に分けて神福と対抗する構えを見せる。形勢不利と見て撤退する 李神福は撤退するが、その退路を的確に読んだ顧全武の伏兵に よって大打撃を蒙ったうえ、李神福自身が擒らえられる。顧全武 は彼を武粛王の前に引き出すが、泣いて訴える李神福の前に武粛 王はこれを国に帰す。はじめ徐綰は呉の後援を得ての自立を考え たが、顧全武の存在ゆえに呉の後援が得られず、結局謀反を諦め た。その後も顧全武は呉越・武粛王時代の重鎮として武功を挙げ、 自宅で平穏に没した。没年・享年ともに不明。 632で◆RQdk7scN8sさんが顧全武の事跡を・・・と仰ったので顧全武。 はっきりいって訳には自身ないですわ。ウチの十国春秋は影印版で写りが悪いうえ、 字が潰れてたりしてて読むのが一苦労。せめて句読点つけろや、と言いたくなるです。 628さん おっしゃるとおり。趙匡胤は太祖ですな。頭ん中では太祖って打ったつもりなんやけど、 まぁここは言い訳すまい。完全に俺のミスです。すんません。 640 ◆oOLAqFKRB. 2007/03/30(金) 00 49 58 ID bNBcckBn0 連投でもいっちょ。今日はこれで打ち止め。 楊延昭(958-1014) 幼い頃から寡黙で沈思黙考するタイプ。軍事教練を遊戯として育ち、 楊業が出征すると常に従軍して戦場の匂いをかいで育った。雍熙三年の 北伐で楊業が応州、朔州などを陥とすとき、先鋒を担った。ときに29歳。 決して早咲きではないが朔州城下で勇戦し、流れ矢に肘を貫かれたながら も平然と戦闘を続け、ついに朔州を陥とした。父が死ぬと抗遼の将軍としての 重責を一身に担う。 咸平二年(999)秋、遼軍が南侵。七月の間に宋朝は間諜を使って鎮州、 定州、高陽関の各部署に命令を通達、8万の兵を動員して抗遼戦の準備を整える。 九月、遼兵二十万が国境を越える。辺境は危急を告げるが間諜は戦える戦力がない と指摘、主戦論を唱える将校は一喝されて停止した。当時、延昭は沿岸沿いの要害・ 遂城を守っていたが、城には武器も糧秣もほとんどなかった。遼軍は鎧袖一触、 楽勝で城を抜こうとして猛攻をかけ、蕭太后みずから督戦して意気あがるものの、 城内も三千の兵士と城中の青年・壮年が手に武器を取って遼軍を食い止めんと悲壮な 決意を固めこちらも士気は高い。遼軍は城を囲むこと数日、突然水がかぶぜられる。 延昭は民間の井戸からといわず酒造所からといわずすべての液体を城壁にぶちまけた のであった。翌日、遂城は冰城と化し、城壁に上ることは不可能になる。 (三国志演義で曹操がやった砂山一夜城のもとネタ) しかたなく撤退する遼軍に今度は延昭たちが反撃する。勢いに乗って襲撃し、遼軍は 武器や鎧を捨てて逃げ去った。この戦以後、遂城は畏敬を込めて“鉄遂城”と呼ばれる ようになる。 遼軍は遂城で敗れたものの、今度は河北定州などの地を掠めとる。宋の真宗は同年12月、 詔を降して親政し、大名で軍馬、代え馬を調達し、遼軍を迎撃する。真宗は延昭が河北で戦い 功あったことを知り、呼びつけて辺事を訪ね、はなはだ賞賛して、「延昭の父楊業は前朝の名将、 而して延昭は兵を治めて辺境を護り、父の風あり。深く嘉すべし!!」言って厚く賞与を与え、 任地に戻らせた。翌年春、遼軍は北に去る。延昭は兵を率いてその後方を衝き、易水の北まで 追いかけてその殿軍を破った。 同年冬、遼の蕭太后は遂城の敗北で受けた恥を忘れず、報復作戦を進行すべく軽騎数千で 延昭の本体を襲った。延昭は遼軍の策謀を見抜き、遂城西北の羊山に伏兵を敷く。まず遼軍 を城攻に引き込み、しかるのちに少数の騎兵で城の北側から遼軍を攻撃、戦い且つまた退き、 羊山まで誘導して伏兵を発し、遼軍を殲滅して主将を斬った。真宗はその報せを喜んで延昭 を莫州団練使に任命した。「楊嗣および延昭、みな嫡系にあらざれど、よく忠勇をもって自らい たす。朝廷の中に彼らを忌み妬むものとても多けれど、朕、力の限り庇護し、ようやくこの地位に 到達す」この報せが届いたとき延昭は辺境にあり、父と同じく不公正(そんなこともないと思うが) な人事を断った。 景徳元年(1004)、詔により将軍・楊延昭の軍隊が加増されて一万人とされた。延昭は本来大いに やりがいを感じるところだったが、この年“澶淵の盟”が結ばれて彼の抗遼の壮志も一旦落ち着く。 こののち顕職を歴任したのち、57歳で没。 延昭は知勇兼ね備え、用兵に優れ、下賜された賞与はすべて部下たちをねぎらって分け与えたが、 しかし公私を混同することはなかった。軍を治めるに号令厳命、士卒と甘苦をともにし、人を待つことを 苦と思わず、敵に遇っては士卒に先んじ、功があれば部下に譲った。それが楊家軍の楊家軍たるゆえんで あり、余人が指揮して本来の強さを発揮できるものではない。河北の辺境を守ること二十余年、 遼人は“楊六郎”と呼んで彼を恐れた。 639 「自信ない」を「自身ない」って打ち間違え。ホント俺は誤字が多いな。 641 ○ sage 2007/03/30(金) 00 59 31 ID TNMRJwdr0 637 おっしる通り孔明が追撃など許すはずがないと張儁乂が強く主張したにも関わらず 調子ぶっこいたアホ司馬懿がイケイケと無理矢理追撃を命じたんですよ… (おかげで死んじゃった可愛そうな張儁乂さん) 確か第四次川中島って霧を抜けたら目の前、武田だ状態wじゃなかったでしたっけ? でしゃあないから戦ったみたいなw (別に状況違うだろって意味じゃないてすよ念の為) 630 曹彬については◆RQdk7scN8sさんが上の方で理由を述べてますよ 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02 01 01 ID frRWcZHP0 いや、遼に負けてるもの判るけど だからといって候補落ち確定になってしまったのか? 643 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 02 03 21 ID G+2zz9/60 候補から落ちたんじゃなくて確定から候補に格下げになったってことじゃない? 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 11 29 57 ID UfTnwbR6O 曹彬は用兵の巧みさだけだと、わりをくってしまっているからです。 諸将を束ね、皇帝の代理人として戦地に赴き、様々な対処を致す。 確かに名将だけども、このスレの主旨に反してると思われてます。 将としての純軍事的な功績と、用兵の巧みさをあらわす逸話があれば、書き込んでください。 645 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16 58 12 ID boXD/C+e0 曹彬、あざなは国華。 後周太祖郭威の夫人である張貴妃の従弟。 ために、鎮州から京師に呼ばれ、柴栄の帳下に配属される。 柴栄が起つと、潼関監軍、上閣門使を歴任し、呉越への使者として立つ。 呉越からの贈り物を一切受け取らず、すべて上納したが柴栄は曹彬に返した。 曹彬はそれを兵士の遺族らに分け与えてしまった。 晋州兵馬都監として北漢への防備軍に赴任。 そのまま陳橋の変が起き、趙匡胤が起った。 曹彬は後周の縁戚ということで中立を望んだが、趙匡胤は曹彬と見知っており、 自ら平陽に出向いて、帰参を説いた。 客省司に任じられ(客省司とは武官の重職で、主に外交や接客を担当する)、王全斌、郭進らと計って 河東(北漢)の楽県を攻めた。 王超、侯覇栄等1800人(兵士もあわせて、だと思う)を下し、1000余人捕獲した(こっちは降伏兵ではなく捕虜だな) そして、賊将(w北漢将のこと)蔚進が来援してくると、三度戦い、みな勝った。 宋の乾徳初年、左神武将軍(近衛)となり、北漢が契丹の助勢を得て6万の大軍を起こすと 李継勲(趙匡胤の義兄弟のひとり)と共に、晋州城下でこれを大いに破った。 その功績あって、枢密承旨を兼ねることになる(枢密院は軍部の作戦本部のような感じ。その属官)。 乾徳二年、王全斌を大将に、曹彬は都監として、宋は伐蜀を開始した。 王全斌は無類の快進撃を続けた。 王全斌はかつて、後周の秦・鳳奪還戦で、大将・王景、向訓らの麾下にあって、後蜀軍と戦った経験があった。 また、柴栄に従い、燕雲十六州奪回のための北伐でも、瓦橋関を抜くという手柄も上げている。 (後周のこの北伐は「一矢も失うことなく捷つ」と形容され、遼兵は武器を捨てて逃げ去るほど圧倒的な進撃ぶりだった) さらに宋建国時、後周の臣たるの道を貫いた潞州節度使・李筠の乱で、これを鎮圧したいう、なかなかの武将ぶり。 その王全斌が後蜀軍相手に、20余の砦を奪い、味方との分進合撃により、相手の主力を撃破し 利州を抜き、剣門をおとし、後蜀将・王昭遠の裏をかいては前後挟撃して撃破した。 そうして王全斌が思うさまに武人としての本領を発揮している一方で、曹彬は手堅く各砦を道々降し 後蜀の領土を宋の色で染め上げていった。 王全斌は調子に乗りすぎ、占領した土地では乱暴狼藉の限りをつくし、自らも子女をさらうという逸脱ぶりだった。 ために、四川には反宋感情が根付き、また新領土政策でも失敗したので(これは朝廷が)、蜀という地域は 宋という国と一体とはなりえなかった(特に貨幣問題が大きく、四川には四川にだけ通用する貨幣を、そのまま採用するしかなかったのである)。 その中で曹彬だけが廉潔を保っていた。 翻って、李継勲とともに北漢討伐に従軍し、野戦でいくどか敵をやぶり、また趙匡胤が親征してくると やはり戦場で勝利を挙げるものの、北漢を攻めきることはできず、契丹軍の襲来で敗北した。 そのあと、潘美を大将とする南漢討伐軍がおこされた。曹彬は従軍していない。 (つづく) 646 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 16 58 58 ID boXD/C+e0 (つづき) 翌年、江南攻めを開始した宋は(かなり無茶な理由で戦端を開いた。李煜カワイソス) 曹彬を昇州西南路行営都統として、潘美らを下に置き、進発させた(昇州は江南国の首都・金陵城のある州。首都州)。 その征旅の前、趙匡胤は曹彬に特に念入りに 「南方のことは一切お前に任せる。人々に暴虐を加えず、かつ威信を示し、おのずと我が軍に降るよう配慮せよ。急な進撃はならんぞ」 と言い含め、御剣を与えて、「お前の命に従わないものは、これで斬り捨てよ!」と言った。 この曹彬の起用は、軍事能力に秀でているというわけではなく、衆の統率と略奪を良としない清廉な人柄を買われてのことだった。 江陵を前進基地とした南征軍は、やがて金陵を包囲したが曹彬は容易に総攻撃をしかけなかった。 1年ほど包囲を続けるうちにも、趙匡胤は小心さながらに「おい、城中の人間を絶対に傷つけるなよ?いいな、わかっているな?」 と、何度も神経質に使者をよこしていた(趙匡胤さん… らぶりー) と、突然曹彬は病と言って臥せってしまった。 血気にはやる軍中は、どうにか速戦を命じて欲しいのに、いきなり司令官が倒れたので驚いた。 見舞いに来た諸将に 「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」 と、言った。 諸将はそれを承諾して、香をたいて誓約したので、曹彬は突然元気になって「治ったぞ!」と言った(おい)。 金陵の城門をぶち破った宋軍は、曹彬の統率のもと整然と隊伍を整え入城した。 江南国主李煜は群臣とともにこれを出迎え降ったのだった。 むろん、略奪暴行は一切なく、四川のときのように民衆が暴動を起こすことはなかったという。 ただし、曹彬はこの征討では昇級することはなかった。 というのも、趙匡胤は 「まだ辺境には敵がいることでもあるし、お前を最高位につけたらもう働かなくなるのではないか?ここはひとまずおあづけにして、ちょっくら太原(北漢)を取ってきてくれんか?」 と言った(そりゃないぜ)。 さすがにしゅんとして帰路についた曹彬は、家に山積みの銭箱があるので驚いて言った。 「やはり出世より、銭もらったほうがよっぽどいいのぉ」 と喜んだという(漫才ですか、この二人は…) しかし趙匡胤はこの翌年死去する。曹彬は枢密使に上がり、軍部の最高幹部となった。 そして、太宗が即位し、北漢への征討となり、遼との戦い、ということになりますね。 647 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/30(金) 17 28 23 ID boXD/C+e0 640 お、楊延昭ですか。 実は、密かにねらっていたんですよ。 楊業よりは息子かな?とか。 影印版 ああ、そういえば自分も注文してたんですが、(8千円くらいだった)なかなか来なかったので、キャンセルしましたよ。 版画のような白文でしょ… 趣があっていいのだけど、読みにくいのは困りますよね。 642 ごめん、候補すらはずれたわけではなく、候補に落ちた、という意味です。 まぁ、一応、遼にボロ負けする前の事績を書いてみましたので、判断してみてください。 648 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 18 02 54 ID BIemegpYO 太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ 649 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 22 31 39 ID UfTnwbR6O 648 > 足利兄弟みたく趙兄弟、軍事と政治に才能別れすぎ 足利兄弟もそうなのですか?? 頼朝、義経の兄弟以外もそんな感じだったん兄弟もいるんですね。 650 ○ sage 2007/03/30(金) 22 58 22 ID TNMRJwdr0 645-646 紹介文を読むと曹彬って南北朝の于謹に近い状態にあるような気がしますね。 このスレでは重鎮とか戦略家な人物は敬遠される傾向にあり、 実際、南北朝の于謹、唐の李建成が落選していますね。 そうなると曹彬は落選確実? >見舞いに来た諸将に >「この病気は薬では治らない。お前たちが敵の城に入城したとき、誰も殺さないと誓うなら、この病気は治るのだ…」 と、言った。 これまた三国志演義の中で孔明が後主(劉禅)の放蕩ぶりを嘆き、 「この病気は後主が態度を改めてくれればこの病気は治るのです」 と、言ったシーンとたぶるのですが… (これが元ネタなのかな?) またまた寝言言ってみましたw 651 ○ sage 2007/03/30(金) 22 59 02 ID TNMRJwdr0 648 >太宗時代に入ってから負けてる宋将大杉だとオモ これは太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。 後に節度使の欠員には文官を充てその権限を弱めていくこととなる。 (趙匡胤自身が宋州節度使であったし、節度使が大きすぎる権力を握り 各地に割拠して国が分裂するのを恐れていたんでしょう) この文治政策が宋の基本路線となり真宗の頃には行き過ぎとなって 後にセン淵の盟を結ぶ遠因となったのでしょう。 その逆に足利尊氏は気前が良すぎて守護大名の力を弱めることが出来ず、 その為に守護大名の権力が大きくなり過ぎ 後に応仁の乱を引き起こす遠因とすらなった訳ですし… 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23 08 34 ID frRWcZHP0 文治制作邁進してるときに遼とやり合う太宗って一体…… 653 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23 25 16 ID UfTnwbR6O 651 > 太祖が政権安定の為、古手の将軍連中を平和裡に引退に導いた為に > 有力武将が根こそぎ居なくなったのが原因じゃないかと考えています。 その説が正しいのなら、洪武帝による粛清後の永楽帝が、 かなり善戦してる理由が不明です。 やはりトップの軍事的才能が影響するんじゃないかと考えます。 654 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/30(金) 23 28 36 ID frRWcZHP0 燕王には燕王の子飼いの部下が居たじゃない 建文帝が善戦したら、そういう反証はできるけど 655 ○ sage 2007/03/30(金) 23 36 42 ID TNMRJwdr0 649 異母弟の直義ですね 後は有能な高師直・師泰兄弟が補佐してますし。(趙晋・コウ準みたいな感じか?) 652 燕雲十六州の回復は太祖・大宗の悲願ですから… 653 文人優遇で優秀な人材はすべて進士をめざしどうしょうもないのが「軍人にでもなるか」 と、軍隊に入ったのも多いに関係有りかと (ごく稀に例外な人物もいますが) それに明代と宋代では事情か違うよ。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 23 40 49 ID UfTnwbR6O 654 じゃ、楊業はたいした事ないんでしょうか? 太宗の時代にろくな武将がいないとは思えないのですが。 永楽帝の子飼いが水準を越えてるとは感じません。 もしそうであるなら太宗時代の武将すべて、名将候補から外してよろしいかと思います。 657 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00 10 02 ID 2/goJBJE0 652 強幹弱枝の政策と文治主義は、唐末五代に起こった武人政治へのアンチテーゼです。 節度使や禁衛に権限を与えすぎたために(与えすぎた背景は、楊国忠等の無責任が多大) かつてない勢いで、良民や貧民層、はては賊徒の類が、政治権力を振るうに至ったわけです。 で、その権限が地方に分散しかつ、それぞれが強大であれば(軍事だけでなく、民政権・徴税権がありましたから) 相対的に皇帝の権力が低くなるわけです。 後唐明宗(李嗣源)、後晋高祖(石敬瑭)、後周太祖(郭威)と、代々受け継がれて 皇帝権力の回復を目指していましたが、郭威はともかく、先の二皇帝は、節度使や武人との間に軋轢を生んでいました。 ために、地方反乱は続発し、王朝が短命に終った次第です。 後周世宗の代に、激烈な禁衛改変が推し進められ、かつ皇帝が最前線で槍を振るって戦うという 類の少ない苛烈さをもって将兵の信望を皇帝に帰すことに、半ば成功していました。 この時点で、中原王朝は節度使の権限がやや低下しており、対して禁軍将の権限が増していました。 柴栄が存命なら、強固な中央集権が早期になったことでしょうが、早世してしまうので趙匡胤が引き継ぐわけです。 趙匡胤も節度使の権限は無視できませんでしたが、まずは自身が所属した禁衛の将軍から 兵権を取り上げました。 で、太宗の時代に節度使は実権を持たない名誉職となります。 で、ここで留意すべきは軍事権が個人に集中せず、分散させることによって恣意的に動かすことができない体制であり その権限は皇帝のみとされたことでした。 つまり、文治主義は皇帝以外の臣に対してのみであり、国内で皇帝以上に軍事権を行使する存在があってはならなかったのでした。 もし、そんな事態が発生するなら、その国は終焉に近いことでしょう。 とにかく、初期の段階で、皇帝親征というのは宋のあるべき姿で、燕雲十六州の奪回は、後周世宗の頃からの悲願でもあり また、長城以南の地というのは、古来からの中国王朝土地、という認識のもと政治的にも 他国に取られたままというわけにはいかないのでした。 思うに、宋朝弱卒というのは、そういった指揮権の分散にあると思われ、文人が統率したからだけ、というわけでもないと思います。 寇準が嫌がる真宗をむりやり親征させた背景は、そういうところでしょう。 656 楊業は、北宋に降る前のほうが、いろいろすごいですよね。 北宋に降ると、すぐに対遼戦線が始まってしまいましたから。 明のことは知らないので、政治背景を比較して検討してみてください。 658 ○ sage 2007/03/31(土) 00 17 59 ID aFKe3hPS0 656 なぜそう言う理論になるのかさっぱりわかりませんがですが?w 誰も楊業などか愚将なんて言うつもりでレスしたわけではなく 五代と比べれば優秀な人材がめっきり少なくなってしまっていてるであろう 理由を自分なりに述べただけなんですけどね… 宋に名将が居ないなんて言ってませんが… 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00 25 48 ID sQC1J0FV0 656 違ってたら失礼。遼将を入れるのに徹底反対してた方ですかね? 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 00 46 55 ID hLbEGSCv0 657 俺も馬鹿じゃないので、そのぐらいの流れは当然知ってる けど、それを一番知ってる当事者である宋太宗は文治政策と中央集権の結果と 遼の軍事力を天秤に架けて、勝てる線で戦争をしなければならない つまり孫子でいうところの「己を知り」という部分で見誤ったから敗北をした そういう宋太宗を総大将に持って敗北した宋将が、いわば宋太宗に引きずられる形で 落選していくのはどうよ?って話 661 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 00 48 34 ID 2/goJBJE0 658 いや、実際制度上、名将が世に現れにくくなってはいます… と思いますw 楊家や狄青は、いわば例外でしょう。 まぁ、それだけ五代という時代が、いかに武人マンセーな時代だったか、というところです。 662 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 01 00 49 ID 2/goJBJE0 660 え? 質問の内容が変化したように思うのは気のせい? 宋太宗の、親征を判断ミスとした疑問のことから、そのせいで大敗を喫し、ために属した将も過少に評価されている に変わったでよろしいか? 曹彬の落選は、彼個人に言うほどの戦績がないからです。 重鎮、優秀な統率者(何度も言いますが、名将とは本来そうあるべき)は、このスレ的に、一段下げて扱う傾向です。 耶律休哥による大敗は決定的であるというだけで、実際、用兵手腕を発揮したのは、王全斌とか潘美らになるわけですよ。 ただ、澶淵の盟以降は、本当に将というのを探すのがやっかいになりますので、 見つければ報告もしますが、今のところ不明というのが正直な話です。 663 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01 27 46 ID sQC1J0FV0 662 脇から割り込んで申し訳ないが、hLbEGSCv0さんが言いたいのは、 文治政策と中央集権を進めすぎて、宋軍の弱体化を招き、遼に負けるようになった。 これは大局の判断を誤った太宗のミスで、遼と戦争するなら軍隊の維持を図るべきだったし、 逆に文治政策を進めるなら遼と戦争しないで和平するべきだった。 そういう状況を斟酌しないで、遼に負けているのを理由に曹彬ら宋将が 減点されてしまうのはいかがなものか、ということじゃないですかね? 652と 660で発言の趣旨は変わってないんじゃないかと思いますが。 (hLbEGSCv0さん、違ってたらごめんなさい) 北宋時代、過度な文治政策のために名将が生まれにくかったという状況は、 西漢文帝が馮唐に「廉頗や李牧がいても使いこなせない」と言われたエピソードと通じるものがあるかも? 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 01 28 03 ID hLbEGSCv0 変わったじゃなくて、はじめからそういう意図で宋太宗を貶めていた 俺は曹彬の戦績が悪いとは思わないし、統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるとも思わない 遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし、他の五代の連中も 主君に恵まれなくて負けてることはあるのに、彼だけ遼に負けたからでは割食ってる 665 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 01 36 31 ID a+k2XnjI0 諸葛良孔明!! 666 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 09 12 57 ID 2/goJBJE0 664 663氏のレスで主旨は了解しました。 しかし、太宗趙匡義は、北漢に対しては勝ってるんですよ。 北漢は、あの柴栄すら潰走させ、また趙匡胤も敗退している。 太宗は潘美を遣わして、契丹の援軍をあらかじめ撃退させ、みずからは前線にたって督戦しました。 これで唐末五代にかけて不落の要害だった太原は陥落したわけです。 両二帝に為しえなかったことを為しえて、調子に乗っていたのはあるでしょうが 殿前司をはじめとする宋の中核部隊は近代無比とされ、とくに遼に対して遅れをとるほど質が悪かったわけではないのですよ。 (質が悪くなりだすのは、もう少し後の時代ですね) ところで、高梁河の大敗は太宗のミスで間違いありませんが、曹彬が耶律休哥にボロ負けしたのは岐溝関の戦いです。 二度目となる幽州攻略戦は、曹彬を総大将、潘美を別将として分進合撃の態勢で望みました。 潘美が道々手柄を上げまくっていることに焦った、本隊の曹彬隊は、必要以上に勇んだのです。 曹彬個人は抑えようとしましたが、抑えきれなかったという。 涿州のまで一気に進軍した曹彬は、そこで補給線が届かなくなり、耶律休哥の少数騎兵に遊ばれてしまったわけです。 統率しきれなかった曹彬に責めがあるでしょう。 ただし、最終的な責任は、むろん皇帝である太宗に帰しますが、それを言うなら功績もそれを取り立てた主君に帰されるものでありましょう。 667 ○ sage 2007/03/31(土) 10 03 16 ID aFKe3hPS0 664 別に曹彬は遼に負けたのだけが落選の理由ではなく 曹彬個人の武功で華々しいものがないから 他の連中より厳しいものがあるんじゃないのかなと思いますけどね… それに統率者がこのスレ的に一段下げる傾向にあるのは事実なんだし、 実際南北朝の于謹、唐の李建成が落選しています。 その時に反論、異論はなかった筈ですが… 出来れば曹彬個人の武功で顕著なものが有れば示していただけませんかね? >遼の敗戦における一番の原因は宋太宗にあるし しかし太宗自身は対遼戦で足を引っ張るような事をしてますか? 例えは徳川慶喜のように自身が敵前逃亡した様に自軍の戦意を喪失させる様な事や対遼戦に消極的な態度を示したり、 してれば話はわかりますがそうではないですよね? (徳川慶喜の話はあくまで一例ですよ) 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 10 30 54 ID EZc6xv770 659 一応答えておきます。違います。 もっとも、 656氏がその点についてはどのような意見なのか、は存じませんが。 669 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 11 11 54 ID 5hE98XacO 私はですね、太宗の時代の負けが多いのは、 太祖の杯酒もて兵権を釈いたことが、原因ではないと言いたいだけです。 その後も王審キや石守信、高懐徳は従軍してますよね。 太宗が負けたら、兵権を取り上げたことを持ち出し、 北漢平定のときには、そのことに言及せず太宗の功績とする。 これで誰かを説得できるなら楽ですよ。 遼が強かっただけなのではないですか? 太宗以後も負け続けたのは、文治主義政策をしていたからだと思います。 ですが太祖の杯酒のエピソードは関係ないです。 670 ◆RQdk7scN8s sage 2007/03/31(土) 13 17 48 ID 2/goJBJE0 669 ええとですね。 太宗が北漢を降したことを書いたのは、太宗個人が特にいくさに弱いというわけではないと言いたかっただけです。 その一方で、先鋒としての潘美に、かなりの功績があります。 そのことはすでに言及していますし、曹彬より上、とはっきり書いています(自分じゃないけど)。 で、調子に乗って高梁河で耶律休哥の電撃戦に負けたのは、太宗の判断ミス(戦場だけでなく、戦略全体において)。 岐溝関の戦いでは、曹彬と潘美という二大柱に軍事執行権を与えて遠征させるが、 曹彬の進撃速度が異常に速いことを危惧した太宗は、伝令でもって止めようとしました。 曹彬はできず、ために耶律休哥に負けます(これは曹彬の責任でしょう)。 臣下の兵権を解いたことで(分散したことで)、宋軍が目に見えて弱くなったのは太宗以降の話です。 和平がなって皇帝が親征しなくなったんですから。 皇帝が親征しなければ、軍は指揮権が分散し、かつベテランがいないということもあり、命令系統の伝達に いくらか遅れがでるのは必然です。 岐溝関の敗戦以降は、太宗は和平に傾きましたが、完全になるのは真宗の代ですね。 遼が強かっただけなのではないですか? まったくそのとおりですね。 戦略的な敗北というのは、突き詰めれば国力・兵勢の強弱ですから、北宋は遼に比べたら、弱小国とさえ言えたでしょう当時では。 なんと言っても、遼はそのときが一番の最盛期だったのですから。 で、文治政策を推し進めたのは、趙匡胤ですよ。 太宗は継承し、より中央集権化させたというだけで。 強幹弱枝の政策で、地方藩鎮の軍事力を低下させ、禁衛を強化し、その最高司令官を都点検ではなく、皇帝のみとした。 軍閥を解体したのは、太宗の時代ですが、武より文に重きを置き、中央軍の強化を急いだのは趙匡胤。 石守信ら古参は中央からさり地方藩鎮へと転出し、かつその藩鎮もまた牙兵が抜かれ、力を弱められた。 ここからは想像ですが 地方藩鎮の強兵を中央軍に引き抜き、兵士の質の向上に成功はしたものの 古参の将個人の裁量により、部隊を動かしていた頃と違い、最前線での現場の直感的判断が、 やはり、古参を抜いたことで鈍くなった面はあると思います。 皇帝親征により、補いはついていましたが、崩れると速いのかもしれません。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 21 35 47 ID O7SpbD8rO 曹彬の評価の是非はともかく、于ケンや李建成扱いはどうかと? 李存恭や李文忠ならわかるけど。 672 ○ sage 2007/03/31(土) 22 46 03 ID aFKe3hPS0 671 于謹・李建成については上の方のレスを読んで貰えばわかるかと (自分で探してみてね…) 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 22 50 57 ID Gs9clL4R0 <開国名将十選> 周:呂尚 秦:王翦 漢:韓信 晋:杜預 隋:楊素 唐:李靖 宋:曹彬 明:徐達 清:呉三桂 赤:朱徳 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/03/31(土) 23 35 11 ID Gs9clL4R0 <亡国名将十選> 戦国:項梁 秦:章邯 漢:皇甫嵩 晋:桓温 六朝:侯景 隋:張須陀 唐:李克用 宋:張世傑 明:袁崇煥 清:李鴻章 675 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 00 03 50 ID 0mbJih4N0 李建成って殆ど語られてないし、そもそも弟に史料抹消されてるから 最初から候補外だったろ。3スレ目にして 351でポッと名前が出ただけ。 于謹は◆oOLAqFKRBの気分で上がって下げられた感じだが。 途中で周瑜に比されてたりするけど、当の周瑜は議論中だし その理由は活躍期間という問題で将の将だからという問題ではない。 内政・戦略も出来る統率者の五胡十六国の王猛は確定入りしてるんだけどなー 676 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 00 14 35 ID hcLr56bQ0 長かった書類との格闘も今日で終わり。南宋からは普通に(8時ごろから)参加できそうです。 で、五代宋初は任せると言った手前、俺も北宋中期の名将探し、一応やっとったよ。 《宋史》より 289巻、高継勛、高瓊の長子。王均の乱を平定、蜀の人々から“神将”と称えられた。 高継宣、継勛の弟。并州で募った“清辺軍”を率いて西夏軍を退けた。 290巻、張玉、狄青の腹心 郭逵、狄青の腹心。のち大将として契丹、西夏と戦う。 300巻、杜杞、農民反乱に転戦、広西の区希范を討つ。 徐的、安化州の蛮族叛乱を平定、その後もさまざまな叛乱を平定した。 301巻、梅詢、河北を侵した契丹軍を督戦して撃退。楊瓊ら反逆者を誅殺した。 303巻、田京、兵法に通暁し李元昊の宋進を撃退した。 323巻、趙振、武力あり弓馬に優れ、智謀に優れ財を軽んじ義を尊んだ。対西夏戦で活躍。 馬懐徳、寡兵をもって西夏の軍を退け、逆撃して西夏の寨10余を陥とす。 向宝、神宗から“薛仁貴の再来”と称えられた驍将。 324巻、石普、性剛強にして胆略あり、頗る兵書に通じ、契丹、西夏との戦いに功を挙げた。 張亢、しばしば西夏と戦い、“虎翼軍”を率いて西夏軍を破った。 郭遵、向かうところ敵なしの驍将。愛馬が矢を受け倒れたところを殺された。 任福、一万八千人を率いて西夏に進軍、伏兵に遇い、力戦するも戦死した。 武英、任福麾下。伏兵の危険を危惧したが皆聞かず、伏兵の前に力戦するも戦死。 334巻、林広、しばしば西夏と戦って戦功あり。蛮族乞弟と戦いこれを破る。 335巻、チュウ師道、西夏の臧底城を破る。金軍の南進にも抗戦して一時これを退けた。 チュウ師中、師道の従弟。しばしば金軍を退けるも、寿陽の戦で金軍に囲まれ、戦死。 349巻、劉昌祚、西夏相手に寡をもって衆を破る。騎射に最も優れ、《射方》を著す。 姚兕、しばしば西夏と戦い向かう所敵なし。西夏の将・鬼章を擒らえる。 姚麟、兕の弟。兄と並んで“二姚”と呼ばれる名将。 劉舜卿、姚兕らの上官。兵書に親しみ、よく敵情を計り、守辺の名将と呼ばれる。 劉紹能、順寧、破羅川の戦いで西夏を破り、戦功一等。47年に渡って辺境を守る。 350巻、曲珍、はじめ郭逵の部下。西夏と戦い勝ったり負けたり。 郭成、財を軽んじ施しを好む。忠勇にして善く戦い、その威名は辺境に轟く。 賈嵓、一矢で西夏軍の大将を討ち取る。驍勇にして善く戦う当世の名将。 王恩、徽宗時代の将。伏兵をもって西夏の大軍を大破した。 趙隆、王韶の部下。西夏の将・鬼章を擒らえ、平夏川の戦いでは軍功一等。 353巻、張叔夜、宋江の乱を平定。金の南進を阻み将軍二人を斬る。 ・・・こんなとこ。詳細に関しては明日まで待ってくだせぇ。今は仕事で目がチカチカしとるんです。眠いし。 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01 19 39 ID OHmyUdqAO そのクラスの将軍なんてどの時代にも幾らでもいるだろ 候補入りすら出来ないような武将はいらん 678 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 01 25 54 ID cjZBgJWe0 知らん人物を紹介してくれるのはありがたいが 詳細については十選に入るだろうというのを選んで書いてくれればいいんじゃない 679 ○ sage 2007/04/01(日) 02 58 26 ID Yep9d0/00 677 まあモチツケw なんか北宋って建国期と一部の例外を除き名将っていないような 印象を受けるのは自分だけか… だから後年は女真族に頼った感は否めないし… 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 04 13 13 ID mZ52tYyA0 遼も推薦可能になったし、この時代であれば外すわけにはいかないこの人を推薦。 列伝を頑張って読んでみましたが、漢文訳は不慣れなので間違いあれば指摘お願いします。 耶律休哥(字は遜寧、938?~998) 若いころから公輔の器量があった。烏古、室韋二部の反乱で戦功をあげ、 応暦年間の末に惕隠(宗正にあたる職?)になった。 979年に宋太宗の北伐に際して、遼の蕭討古らが敗れて燕京で包囲され、 耶律休哥が救援の将に抜擢される。高梁河で宋軍に遭遇して、耶律斜軫と協力して 両側面から攻撃して破り、追撃して1万ほどの首級を得る。耶律休哥は3箇所負傷していて 騎乗できず、軽車を駆って太宗を追撃したが、捕らえることは出来なかった。 その年の冬報復で満城を攻めた際、宋軍が降伏を申し出てきたが、耶律休哥は 罠と見抜いて変事に備えるよう諫言した。主将の韓匡嗣は降伏を信用してしまって聞き入れず 計略にはまって大敗してしまったが、耶律休哥は手勢を率いて迎撃し、宋軍を引き上げさせた。 この功績で北院大王となった。 980年、景宗の親征で瓦橋関を包囲したとき、耶律休哥は宋の援軍に呼応して出撃してきた 守備軍の将を斬って撃退し、さらに騎馬隊の精鋭を率いて渡河して援軍も撃退した。 景宗から「皆が耶律休哥のようであれば何の心配も要らない」と誉めちぎられ、 馬と金杯を下賜されている。 聖宗が即位して承天太后の摂政体制になると、耶律休哥は南面軍の全権与えられて 指揮することになった。耶律休哥は兵卒と同じ生活をし、法律の整備・桑の生産の奨励・ 防衛体制の整備をして辺境の治安を向上させた。 986年、宋の北伐があって潘美、楊業が雲州に、曹彬、米信が雄州・易州に進出し、 岐溝関や固安が陥落した。このとき耶律休哥の兵力は少なかったので正面から戦うことは避け、 夜間は軽騎兵を率いて孤立した部隊を攻撃し、昼間は精鋭を率いて奇襲し、宋軍を攪乱した。 また林や草原に伏兵を置いて糧道を断ったので、曹彬軍は撤退した。1ヶ月ほどして 再度曹彬軍が攻めてきたが、耶律休哥は軽装の部隊で宋軍に近づいて寝食の様子を伺い、 本隊を離れる少数の部隊を変幻自在に攻撃した。承天太后の率いる軍が到着して曹彬軍は 退却したが、耶律休哥に包囲され、曹彬・米信はわずかな側近と逃亡、宋軍は壊滅した。 耶律休哥はさらに追撃して、沙河の辺で駐屯していた宋軍数万を攻撃して撃ち破った。 このとき川が死体で埋まり、流れが堰き止められたという。功績により、宋国王に封じられた。 その秋、承天太后の南征にて、耶律休哥は先鋒となり、宋軍を望都で破った。 このとき宋将の劉廷讓が数万騎を率い、李敬源の軍と連携して燕の占領を狙っていた。 耶律休哥はその動きを察知し、要所に兵を配置しておいた。承天太后の軍が到着し、 宋軍を迎撃して李敬源を殺し、劉廷讓を敗走させた。 989年、宋の劉廷讓軍が攻撃してきた。遼将が皆恐れる中、耶律休哥は単独で精鋭を率いて 沙河の北で迎え撃ち、数万を殺傷し、宋軍の輜重を数え切れないほど鹵獲して献上した。 この功績により免拝不名の特権を与えられた。宋軍はこれ以降北伐を試みることはなかった。 宋では泣く子を黙らせるのに「耶律休哥が来るぞ!」と言うようになったという。 (原文だと「於越至矣!」でいまいち意味不明だったですけどこんな感じであってますかね?) 耶律休哥は燕の民が疲弊していたため、賦役を免除し、孤児や寡婦を援助し、 兵が宋の国境を越えないよう戒め、国境を北へ越えてきた馬や牛といえども全て送り返した。 998年に死去し、詔勅により南京に祠が建てられた。 敵の動きを読み、寡兵でも変幻自在に敵軍を攪乱・撃破しているあたり、やはり名将ですね。 武将としての能力だけでなく民政の面でも有能ですし、「百戦を経て無辜の民を殺したことは 一度もなかった。」と評されるあたりもポイント高いけど、このスレ的には評価対象外かな? 681 ○ sage 2007/04/01(日) 13 26 18 ID Yep9d0/00 680 そうですねこのスレ的には人格面はあまり評価の対象になってませんね。 耶律斜軫は蔚州を攻め破り、宋の潘美の軍を破り、朔州に進んで、 宋の将の楊継業を捕らえてる。 耶律休哥は宋軍を瓦橋関と高梁河で破り、 太宗の親征を始め曹淋・米信・劉廷譲を破り燕雲十六州を確保、 しかし尹継倫に敗れているね。 うーんやはり耶律斜軫>耶律休哥になるのかな? 682 ○ sage 2007/04/01(日) 13 28 26 ID Yep9d0/00 連投スマン 遼に対抗して西夏(夏)からも推薦しないとなw 李継遷(963~1004) 西夏の太祖、光孝皇帝と追尊された。チベット系タングート族拓跋部、銀州無定河の出身。李光儼の子。 李継捧の弟と言われているが族弟とする説もあり。 李徳明(太宗)の父、李元昊(景宗)の祖父 開宝七年(974)、宋の定難軍管内都知蕃落使に任ぜられる。 太平興国七年(982)、族兄の李継捧が夏・綏・銀・宥・静の五州を献じて 宋に内属し、開封に遷ると、 李継遷は夏州の東北三百里の地に移って自立。 宋に抵抗しつつタングート族を糾合して遼に臣従した。 宋に対して叛服を常にして、在地豪族と結んで勢力を蓄えた。 雍煕二年(985)、銀川を根拠地とし、定難軍留後を自称。 後に遼に対して臣を称し、義成公主の降嫁を受け、夏国王に封ぜられる。 タングート族の勢力を結集して、宋・遼に対抗、西夏の礎を築く。 淳化初年には宋に帰順、銀州観察使となり、趙保吉の姓名を賜るがまもなく叛く。 至道二年(996)に、宋軍を浦洛河に迎え撃ち、霊州を囲む。 翌三年(997)、宋の夏州刺史・定難軍節度使となる。 咸平五年(1002)には霊州を陥れて、西平府と改称、国都とする。 景徳元年(1004)、西涼府を攻めて、吐蕃(チベット)の首領、 潘羅支に襲撃を受けて矢に当たり没した。orz 683 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 14 13 18 ID ZrNR2d1m0 北宋中期、太宗以降の名将その一。 賈嵓(字は民瞻。神宗~哲宗期) 若くして騎射に精通、常々“大丈夫としてこの世に生まれたからには、 自ら奮戦し名を揚げたいものだ”と発言し、家出して放浪する。神宗の 武才選考の目に止まり武人となった。 林広の夷狄討伐に先鋒として従軍、西夏の軍を明堂川で破る。ほかにも いろいろ功があって昇進。紹聖年間、西夏の軍が数万の大軍で麟州の 神堂寨を囲むと危急にあって賈嵓は数百騎を率い、“国家が安泰のとき おまえたちに厚い禄を食ませて養育してきたのはまさに一旦このような時 のためである。今力敵わずといえども、私は死をもって国に報いんと誓う!!” と宣言。100騎の兵はみな感動し、速攻で屈野河まで至り、そこから五里の 北欄坡嶺に登った。賈嵓は一箭のもとに敵の酋長を射殺して敵を潰走させる。 哲宗はその戦果を大いに嘉して恩賞を下賜し、威州刺史に任命した。 賈嵓は辺境にあること20年、知略ありよく士卒を御撫し、戦えば必ず 勝って当世の良将と称えられた。濠州団練使にまでなって52歳で没。 雄州防御使を追贈された。 ・・・なんか短いけど中期~徽宗までの武官はほとんど全員2,3ページしか 割かれてないんでこんなもんです。いつもは長すぎるぐらい長いんやけどなー。 684 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 14 29 39 ID mZ52tYyA0 681 耶律休哥が尹継倫に敗れたあたりの記述がどこにあるのか探してるんですけどご存知でしょうか? 尹継倫列伝や宋史本紀には将の名前までは書いてないし、尹継倫が撃退した 989年7月の遼遠征について、遼史本紀では南征したって記述だけで誰が従軍してるかわからないですし、 耶律休哥の名前は989年6月の戦勝記録以降、逝去する998年まで出てこないんですよね・・・ 耶律斜軫は列伝の記述量が耶律休哥に比べて激減するのと、 戦勝はしててもここがすごいっていうのがわかる記述がないんで、 セールスポイントは無理攻めさせられた楊業をラッキーで捕らえたくらいな気がしますが。 遼から入れるとしたら、太宗は確定として、耶律休哥・耶律斜軫はどちらか一人になりますかね。 685 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 14 58 14 ID ERvMR/+10 676 モツカレ。 探してみると、結構武官いるんですね…(つうか、よくみつけましたねw) けど、やっぱ狄青が別格かなぁ。 話の腰を折ってすまんけど、北宋中期以降、武官としてどのあたりの使職についていれば 高位な方なんでしょう? 団練使や防御使って、五代では中堅クラスですもんね… と、唐末~北宋初オンリーの自分が訊いてみる。 686 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15 01 10 ID mZ52tYyA0 中国サイトで同じような企画やってるところを発見(既出だったら失礼) 三国志に異常に偏りすぎだろ!とか突っ込みどころもいっぱいありそうですけど(笑) 細かい説明や、選外になった候補の記述もあっていい感じ。 ttp //big5.hjsm.tom.com/gate/big5/html.hjsm.tom.com/html/book/8/784/875645941,4e01.htm このスレでの選考結果もログと一緒に、こんな感じでまとめサイトになるといいですねぇ。 687 ○ sage 2007/04/01(日) 15 08 44 ID Yep9d0/00 684 Webを見てたら 統和七年(989)、宋の尹継倫に敗れて、ひじに傷を負った。 と記載されてたので参考になればと思いカキコしてみました。 ◆oOLAqFKRBさん チュウ師道は南宋・金~元の候補枠に入ってますがチュウ師道は北宋、南宋のどちらの武将になるんですか? チュウ師道について全く知識がないもので、よかったら詳しくお教えねがえませんか? 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 15 15 22 ID mZ52tYyA0 687 レスありがとうございます。 おそらくそのWeb、枕流亭の人物辞典ですよね。こちらも検索かけて見つけてたんですけど、いざ史書を読んでみると記述がなくて。 686のサイトの耶律休哥の評見てみると尹継倫に敗けて肘に負傷した記述があるんで、見落としてるのかもしれません。どこだろう・・・ 689 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15 28 30 ID ZrNR2d1m0 劉昌祚 父を定川の戦いで亡くす。蛮族の酋長のもとに赴きこれを論破、 ねぎらいの言葉と賞与を賜る。帰国後、対遼戦を想定した神宗の 武才選挙に合格して舎人となった。西夏が劉溝堡に攻め込むと騎兵 2000の増援軍を率いて出陣、黒山に伏せていた遼軍の伏兵1万と遭遇し 交戦、不利な戦況の中で劉昌祚は敵の大将を射殺し、遼軍を潰走させる。 劉溝堡の将帥李師中は劉昌祚の功績を褒めちぎって朝廷に報告、劉昌祚 はそれによって昇進する。 王中正に従って入蜀、羌族を討つ。元豊四年、涇原副都総管となる。 皇帝の西征軍に総管・姚麟とともに従軍、少数民族および漢民族あわせて 5万の兵を率いる。入境後、環慶の高遵裕がはぐれたのを寡兵で探しに 出て、胡盧川で西夏軍10万に出会い、敵が隘路で思うように動けないのを 見て取って突撃、1700人を斬る。敵の食糧を奪いそのまま鳴沙川まで 進軍、霊州に迫る。高遵裕が使者を遣わして劉昌祚の先走りを諌めるが、 劉昌祚は黙れと一喝、夕方、敵軍と交戦した。高遵裕が数千の援軍を送るも、 黎明には劉昌祚の軍が敵を退けていた。翌朝皇帝に謁見、霊州城を前にして 「ひたすら攻めりゃいいんです」と進言、高遵裕が「城を囲んで兵糧攻め すべきです」と言ったものだから劉昌祚は怒りに怒り、上官である姚麟の 兵権を奪うという暴挙に出る。翌日、環慶軍と涇原軍が大喧嘩するという 一幕があったものの一応は兵糧攻めが採択され、18日が過ぎるも降すあたわず。 逆に追い詰められた西夏軍が決死の覚悟で出城、環慶軍を潰走させる。そこで 劉昌祚が出馬し、西夏軍を叩きのめした。これによりまた出世する。 翌年、永楽が陥とされ現地士卒の士気が奮わないということで各軍の武芸を 競わせ、優勝者に名馬を下賜した。また西夏が塞門、安遠門に攻め寄せると 反撃に出て彼らを打ち負かし、総帥・葉悖麻と咩吪埋の二将を殺した。この戦い で永楽の士卒が活躍したので、皇上は大いに喜び、宦官を派遣して慰労した。 哲宗が即位するとさらにさまざまな官職を与えられるが割愛。士卒に弓兵と 2頃の土地を与え、騎兵隊で馬を喪ったものには新しい馬を支給した。隴山の 田地で万頃の収穫があり、その経済力を持って士卒5千人を募兵。これを指揮 統率して剽悍な部隊とする。西夏との戦いに生涯を捧げ、68歳で没。 開府儀同三司を追贈され毅粛と謚された。 685 宮崎市定全集「宋」からの引用で自分でも確証はもてんのやが、多分で。 節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史の順でいいと思うです。 節度使っつーても武官の実権なんぞほとんどないわけですが。 制置使とか都統制はまた別扱いみたいでして、同時に兼ねる武将も結構おったり。 687 チュウ師道は一応北宋でいいかと。ほぼ西夏との戦いで前線に立っとるし、 靖康の変以前に死んでる(多分死んでたはず)から。 でも張叔夜と並んで抗金の名将のはしりみたいな存在ではありますな。 690 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 15 42 55 ID ZrNR2d1m0 連投やけど書き忘れ。 劉昌祚は気力満々の雄偉な偉丈夫で、騎射にかけては当時天下一等、 百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。 著書に《射法》があるが現在散逸。 685さんの質問に答える形で言うとこの人は節度使にまでなってます。 687さんへ。范仲淹、韓琦、チュウ師道の三人は北宋の候補に入れたはずが俺の ミスで南宋になってしまっただけです。チュウ師道はほぼ確実に北宋、ということで。 691 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15 43 35 ID ERvMR/+10 688 《続資治通鑑》の、『宋紀十五』(遼統和七年…)、六月末にそれらしい記事がありました。 休格食未竟,棄匕箸走,爲短兵中其臂,創甚,乘善馬選遁。 休格? 休哥でしょうね(自分のはちょっとアレなヤツですんで…) ちなみに、尹繼倫がらみと思います。 692 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 15 47 43 ID ERvMR/+10 690 節度使、承宣使、観察使、防御使、団練使、州刺史 なるほど、またちょっとその辺の資料探してみようかな。 百歩外れた的を外すことはなく、西夏の兵は彼の射術を神業と畏れたそうな。 李克用伝説とまんま同じですね、ソレ。 韃靼が西夏になっただけという。 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 16 21 53 ID mZ52tYyA0 691 おお、ありがとうございます。 続資治通鑑をネットで読めるところ発見して該当部を確認しました。(いい時代になったなあ・・・) 宋史や遼史に記述がないのは、元が編纂したんで遼よりの記述だったってことなんですかね。 逆に清代に編纂された続資治通鑑だと、宋よりに捏造してないかとか疑いたくなったりしますが(笑) 休格と休哥両方で検索かけてみると、一応両方あってるみたいですね。 細かく見れてないですが、宋朝は休格と呼んでいたってことのようです。 694 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 16 38 20 ID ERvMR/+10 690 あ、そうだ。 チュウ師中の「ちゅう」は种を使ってみてください。 変換できるはずです。 693 耶律休格… ま、たしかにそれで記述されているわけですが いまいちパッとしないイメージが。 ともかく、謎が解けてよかったですね。 695 ○ sage 2007/04/01(日) 19 20 08 ID Yep9d0/00 689ー690 ◆oOLAqFKRBさん ㌧です何度もお手間かけさせて申し訳ないです。 种師中の紹介文(?)是非お願いしたいですね。 張叔夜は済州太守か知州の文官(?)なのに なんか宋江戦では見事な戦術を披露したみたいですね。 あと抗金戦で悲運の死を遂げた人物なんですね。 范仲淹は文官・詩人のイメージが強いので自分的には意外です。 韓世忠は金の宗弼率いる10万の大軍を相手に,わずか8000の手勢で退路に潜み追撃し打ち破ったり、 文武兼備の妻の梁紅玉ともに戦場を駆け巡ったこと人物ですね。 主に活躍したのが南宋期だし、岳飛・張俊と共に抗金の名将として有名ですし、 韓世忠は南宋でいいんじゃないですかね?ダメ? ここでまたいつもの寝言w 韓世忠は奥さんと一緒に戦場を駆け巡ったとこなんて 北魏の楊大眼と妻の潘氏が駄ぶるのですが… 696 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 20 44 23 ID ERvMR/+10 种師道 &は (半角のアンド)で討って… ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。 そういえばうやむやになったけど、曹彬の件、なんか鮮烈な戦勝報告でもないもんかな。 高懐徳とかどうなんだろう。 オヤジの高行周は対契丹戦で勇名を馳せた、ガチの名将ではありますが(10人には入らんでしょうが)。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/01(日) 20 58 50 ID 5sYk0nXe0 695 奥さんとセットでなんぼって感じだからなあ さすがに10人には入れにくいような 698 ○ sage 2007/04/01(日) 21 54 18 ID Yep9d0/00 696 >&は (半角のアンド)で討って… すいません◆RQdk7scN8sさん 种師道これでおK? >ところで、南宋行ってますが、五代・北宋・遼の確定をどうしましょう。 これまたすいません(;^_^" 決してそんなつもりじゃかったんですけど、流れ変えちゃった? 推薦が落ち着いたら確定の方を決めていく方向でいいんじゃないですかね? (西夏も仲間に入れてあげて下さい…) 699 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 22 04 12 ID IbwTPFXu0 今种師道の訳を進めてる最中ですので、五代~北宋はいま少し待っていただけると助かりますが。 ちなみに韓世忠、この人自分に拝礼しない部下(呼延通って言うんやけど)に キレて徹底的にシカトしまくり、自殺に追い込んだ恐るべき男、というイメージ が強くてどうしても好きになれん。まぁ、このスレでは関係ないのか。 700 転載 sage 2007/04/01(日) 22 31 47 ID inohJBGt0 217(北宋時代の軍事費も相当なものだったでしょうな) 相当どころの話ではない。宋はその国初から兵農一致の国民皆兵制を断念し、 傭兵による常備軍を保持していたため、軍事費は財政全体の8~9割を占めた。 人民は兵役を免れたものの、労役は依然として存在したし、 軍事費は主に塩税で調達されたから、結局は別の形で生活を圧迫された訳だ。 王安石が唐代の徴兵制へ回帰をはかったのも、かかる事情が背景に存したためだ。 王安石の兵農一致政策(保甲法という)は、財政面から言えば一応の成功をみた。 なにせ保甲法による軍隊の維持コストは、従来の十分の一程度の試算だったからだ。 実際はそこまで計算どおりには行かなかったにせよ、歳出削減の効果は劇的だった。 ただし、兵制改革のもう一つの重要な目的である軍隊の精鋭化は達成できなかった。 王安石は、軍隊の弱体化は傭兵の士気の低さに原因があるのだから、 外敵から自らの生活を守るという確固たる目的を有した民衆を徴兵することで 士気の高い軍隊を作ろう───と、考えたわけだが、実際そう単純なものではない。 王安石は民衆の国防意識を過大に見積もっていたのだな。 民衆にとっては、いかに農閑期とはいえ、一銭にもならぬ軍事教練などに 駆り出されるのは迷惑であろうし、また、戦争は農閑期を狙って起きるものではない。 加えて、兵士は卑しい身分であり、軍隊はやくざ者の集まりである───という、 中国独特の卑武精神もある。そうした気風は何も士大夫だけが持つものではない。 であるから、巨大な軍隊を抱えつつも、外交で平和を模索するという宋の国家観は、 実情を反映した合理的な考え方であったのだ。宋は弱腰で腑抜けた時代であると 揶揄する者も多いが、近世東アジアの超大国として、それが最も妥当なあり方だった。
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/34.html
701 転載 sage 2007/04/01(日) 22 34 28 ID inohJBGt0 ↑の見解はなりきり(太陽板)の「蔡京 ◆GtkPmKwSp2」氏のもの。 実に面白い。 一応、このスレの住人にも紹介しときたい。 702 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 01 51 ID IbwTPFXu0 狆師道 子供の頃は張戴(知らんけど、多分学者)に学び、試法(科挙)に及第、 熙州の官に推され同谷知県を兼任する。同谷県では田産訴訟が二年にわたって 未判決のままであり、狆師道もこれをおしつけられて難儀したらしい。 文官時代にもいろいろあるが、とりあえずはしょる。なんか蔡京やら童貫 やらに気に入られず不遇だった模様。でも皇帝からは気に入られた。それがまた 奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 西夏が定辺を侵し、仏口城を築城すると狆師道は兵を率いて仏口城を破壊。 兵士たちが喉の渇きを訴えると山の西麓を指し、「水はここにある」といって 井戸を掘らせ、潤沢な水脈を確保した。またいらんこと昇進するが割愛。各路 の兵士たちを督して席葦平に築城、敵が到来すると葫蘆河に退き、川辺に布陣、 戦況を見守る。夜中、偏将の曲充を小道から横嶺に出し、大声で援軍到来を 叫ばせる。敵が驚いて背後を見ると楊可世が後方から敵軍を襲い、さらに姚平仲 が精兵を率いて進撃する。狆師道軍は算を乱した敵を大敗させ、斬首50級を 挙げ、牛、馬、駱駝などの家畜たち数万を獲る。敵の酋長はわずかな供を連れて 逃げ去ったが、自分の城に還ったところで死んだ。 また陝西、河東七路の兵を率いて臧底城を攻め、十日でこれを降せと命ぜられた。 城に近付くと頑強な抵抗を受け、敵の士気の高さが知れる。対するに官軍は怠惰で 将校の中には勝手に休息するものもいる始末。狆師道はそういう輩を斬り捨て、 軍門にさらして「今日この城を抜けなければこうなるぞ」と言って綱紀粛正。 士卒は恐怖にせきたてられてわれ先に城に登り、瞬く間に城を落とした。 八日目のことだった。皇帝に報告するとまたも昇進。割愛。 都統制、保静軍節度使となった童貫は、燕回復の謀を立てる。狆師道以下の 諸将はいかにも嫌がり、狆師道が代表して「それは盗人のやることだ」と反駁、 しかし童貫はそれを黙殺して白溝まで出陣、遼軍に察知されて宋軍は多大な 損害を蒙る。狆師道が自ら身を挺して兵士たちを収容したおかげで大敗には いたらずに済んだ。 遼からの使者が女真族挟撃をもちかける。童貫が返答する前に狆師道が 「そう言うやり方は義にもとります」と諌めたのだが童貫はこれをまた無視、 狆師道の官位を落とし、代わりに劉延慶を起用した。劉延慶は盧溝で大敗、 帝は「やっぱり狆師道じゃのう」とか言ったが実権を蔡京、童貫に握られて いるのでなにも出来なかった。ちなみに貶められた狆師道の官職は憲州刺史、 環州知事、保静軍節度使で、案外高位なままだったりする。文官だからか。 金軍が南下すると朝廷は大慌てで狆師道を呼び、たっぷり官職を授けてから 金と戦ってくれと懇願、狆師道は姚平仲とその麾下7000騎を率いて出陣、洛陽 にいたり、京城に向かうオリブに対峙する。朝廷に「敵の勢い盛ん、今しばらく 汜水に駐屯するのが万全の計かと」と呼びかけつつ、部下たちには「我らは寡兵 といえどもだからといって遅疑し進まぬことのないように。事情がばれれば一気に やられるのだ。鼓を撃って前進し、きゃつめらに我らの虚実を見抜かせないよう にするのが重要なのだ。京城の人、我らを見れば自然と意気振るう。なんぞ 敵人を憂慮することがあろう!!」とアジる。彼は行く先々でビラをまき、 种少保危急と知った人々が集まって100万の大軍となる。汴京に至り汴水の南に 兵を進め、敵の陣営に兵力を直撃させると、金軍は大いに恐れ、戦わずして 北に還った。 当時狆師道といえば“种老”と呼ばれるほどの有名人となり、欽宗皇帝もよく その意見を聞くようになった。欽宗曰く、「今ウチの国ってヤバくない?」 狆師道「女真族なんぞ兵法を知らんイノシシばかりでござる。孤軍他国を侵略 するほどのことは出来申さん」と頼りがいのある返事。欽宗「講和したんよ」 狆師道「軍旅のことは私めにお任せを。しかし講和はまずかったですな」という ほのぼのトーク。ちなみにこの間も狆師道はまたまた出世したんやが、それより 副官の姚平仲が都統制に出世したのが大きい。 703 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 02 45 ID ERvMR/+10 700 転載にレスするのもなんだけど 軍隊の精鋭化 後周の世宗柴栄が、禁軍の改変を大々的に行ったことは有名なことでした。 当時、中原の王朝というのは、後唐から後周に至るまで、同一勢力からの派生ということで 皇帝直属の親軍たる、近衛がほとんど入れ替えられることがなかった。 しかも、後唐荘宗李存勗の親軍というのは、かの楊師厚が編成した銀槍隊であり、 銀槍隊は、楊師厚という節度使の牙軍(節度使に密接に関係した兵)であったので 傭兵的性格を色濃く持っていた。 それは、給金をしぶると不満を抱き、厚遇すればつけあがるという、とんでもないものだった。 しかしその武力に頼らなければ、いくさにも勝てないし、皇帝権力の維持も難しい時代だった。 後唐明宗が、侍衛親軍を創設して、一旦分散はしたものの 後晋、後漢と、侍衛親軍に属する将兵に、大きな異動はなく 良く言えば古強者、悪く言えば老弱兵が多数在籍していた。 後周太祖郭威はそれを慮って、新たに殿前軍を創設するも、改変する前に死去。 後周世宗柴栄は、即位直後の「高平の戦い」において、この不安定な殿前軍と老兵およびつけあがりの侍衛軍を 率いて戦わねばならなかった。 侍衛親軍の馬軍と歩軍の指揮使(大将)が、北漢の猛将張元徽の攻撃にビビり、敵前逃亡を図ったため 後周軍右翼は潰走。 柴栄は中軍本隊の先頭に踊り出て自ら敵兵を切り伏せることで士気を保持させ 張永徳、趙匡胤に命じて、敵の中央突破を成功させた。 北漢には野戦で勝利したものの、太原攻めには失敗し(自身の判断ミスで)、大敗してしまったが それを置いても、敵前逃亡した将兵に腹立ちと改変の必要性を痛感した。 侍衛親軍に属する老兵はすべて解雇され、新たに募った壮丁をもって補充し 殿前軍には趙匡胤に特別審査を行わせ、武芸に秀でた者を登用していった。 これによって、禁衛軍の総兵力は減少したものの、近代無比と言われる後周禁軍が誕生した。 と、何が言いたいかというと、柴栄の言葉にある 「およそ軍隊というものは、数が多ければよいというわけではなく、その質こそ肝要。今、農家百人で一人の兵を養うありさまだ」 ということで、北宋もいつの間にか、そういった根幹を忘れて、軍隊を肥大化させてしまったのだろうか。 ま、建国期と統一状態が何年か続いたときとでは、比較にはできないけどね。 これはチラ裏だけど、一応、柴栄確定の根拠の一つとしてトリビアにでもしてもらえれば幸いです。 704 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 03 34 ID IbwTPFXu0 狆師道の2 ときに狆師道、病を得て、皇帝から拝謁の礼をとる必要なしと赦される。堅物の 狆師道は腰が曲がらんなら膝をついて拝謁しようとしたが、欽宗は笑ってそれも 必要なしと説く。この時期すべての門が閉ざされ、市に新しい野菜が入ることもなし。 狆師道は皇帝に請うて西と南の両門だけを開くよう頼んだ。 金に馬忠という偏将があり、彼の前軍隊が遮ったという罪で6人ほど斬る殺人嗜好者だった。 これに恐れをなした士卒たちが南に流れ、狆師道に附く。彼らは自分勝手な規範を作り再び金と 宋との境界線を越えようとしたので、狆師道は金を支払って彼らを郷里に帰した。黄河を扼守す るために彼らを使おうと言う意見も出たが、狆師道はそれを黙殺した。 种氏、姚氏はともに山西の大族姚平仲の父姚古は熙河軍に入援した。姚平仲は 功名を独占するわけには行かないと父を帰したが、この頃になると士卒が速戦 に向かず命令系統が途中で途絶えるなどの不都合が出るほどの増加傾向にあった。 李綱はそれについての議上で、城下の兵が命令を聞くようになるまで姚平仲の 節度下に置けば宜しいと述べた。欽宗は毎日人を派遣して狆師道に作戦を諮問し、 狆師道は弟の狆師中と兵を分かっての分撃作戦が可能であると上奏。8日後、 金の軍営に襲撃をかけた狆師中はみごとに敗北した。敗戦後、李邦彦に軍権の 3割を奪われたが、狆師道は紛争の種になるとしてなにもいわなかった。 金軍が退いたのち、御史中丞の許翰が狆師道の軍権を解くよう欽宗に上奏した。 理由としては「狆公は老年であり、これ以上の任に堪えられるとは思えない。 陛下は彼を信任しすぎている」とのこと。実際は狆師道と欽宗が太いパイプで 繋がっているのが気に入らないだけなわけだが。狆師道が黙っていると許翰は 嵩にかかって、「国家危急のときに書生なんぞにまかせられぬ」とか言った。 狆師道の反論「彼は少なく我は多く、分担して結営すれば要地を守ることは たやすい。彼の糧道を截ち持久戦に持ち込めば、必ず勝てるのです」許翰は 狆師道に心酔し、狆師道は老年と言えど往年の智謀衰えず、なお用うべきと 上奏したほどの変わり身を見せる。狆師道、太尉に。 金兵再来に際し、狆師道は各地の軍を召集、大敵を捕退すべく出陣するも、 まもなく狆師中が戦死、姚古が敗北し、朝廷は震撼、狆師道に軍を還すよう 要請する。太原が陥とされ、とりもどすべく彼は進軍を決意する。金軍が一挙 攻め寄せてくることを警戒しつつ各個撃破、欽宗より下賜された鉾を振りかざし、 長安までを回復する。大臣たちの怯えるさまに仕方なく京師に軍を還す。京師に たどりついたところで逝去。76歳であった。欽宗は彼を喪い大いに慟哭したと言う。 京城の守りは喪われ、皇帝の胸に穴が開く。「狆師道の謀を用いず、どうやって たたかえというのか!!」そしてその後、靖康の難が起こり徽宗、欽層は北に連れ 去られる。狆師道は建炎年間、少保を追贈され、忠憲と謚された。 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用。すんません。 705 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/01(日) 23 28 54 ID ERvMR/+10 チュウの字が変換できなかったので狆の字で代用 サブでみたら「・」になってる。 メインでは楽勝で見えているのに。 チュウは簡体字にもあって、それは「種」に対応しているんですけど、これでは漢字が違いますよねぇ。 となると、洺州(めいしゅう・シ名州)もだめか? 706 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 50 08 ID IbwTPFXu0 そーなんです。変換できんのですよ。ところどころ“・”になっとるし。 それはさておき、 狆師道も挙げたし、ここいらで五代~北宋の最終選考に移りたいのですがよろしいか? 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、(李存審)、(耶律徳光) 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、顧全武 楊師厚、史建瑭、王景、康壊貞、劉鄩 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 過去最大の候補数。なんといっても魔の定義論含め300レス近くこの時代で 続いたけんね。あと、十国からは顧全武と劉仁贍の二人ぐらいでいいかもと 思うが、いかがか? 707 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/01(日) 23 52 57 ID IbwTPFXu0 あ、楊師厚と劉鄩、すでに挙がっとったね。重複してしまった。すんません。 708 ○ sage 2007/04/01(日) 23 58 04 ID Yep9d0/00 702 704 ◆oOLAqFKRBさん 乙です >奸臣たちには気に入らんかった様子で、西安州の知事とされる(実質的な左遷)。 まあ北宋って左遷とか日常茶飯事なんですよね。 新法派・旧法派なんて互いに足の引っ張り合いしてたぐらいですし、 名前はちょっと思いだせないんですがw 最終的に海南島に左遷された後、朝廷に復帰した人物とかいるぐらいですし… またまた何時もの寝言言ってみましたw 締切もう一日待ってもらってもいいてすか? 郭崇韜の推薦文を挙げたいのですが今日はもう寝たいです。 ダメなら諦めますが… 709 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/02(月) 00 09 58 ID 3SOpQK0D0 勿論OK。つーか俺が決めることじゃないし。 みんなで納得して決めんと、 後々(俺はこいつを挙げるつもりやったぁぁ!! ならば俺はこいつをー!!)みたいな確執が怖いしね。 710 ○ sage 2007/04/02(月) 22 13 03 ID BY7tkA820 郭崇韜(?-926年) 代州雁門の人。字は安時。己を郭子儀の後裔だと自称した。 李克用、李存勗(荘宗)父子に仕えて中門使に至る。 李存勗が皇帝となり後唐を建国した際には、兵部尚書・枢密使とされ重用される。 後梁を滅ぼすと、論功第一に挙げられ、侍中・成徳軍節度使となる。 郭崇韜の位は人臣を極め、権勢を奪われるのを恐れて魏国夫人劉氏を皇后に立てるよう密奏し、 また「時務利害二十五条」を説いて、宦官を排斥。 後唐建国から三年後の同光三年(925)に なかなか飛躍の機会が得られなかった宦官勢力に、絶好のチャンスが到来。 (おいおいw) この年に王衍が割拠する前蜀政権の併合を企図した荘宗は、 太子の魏王李継岌を名目上の総大将として、 実際の指揮を郭崇韜に執らせ遠征軍を派遣。 この前蜀攻めで郭崇韜は東北面行営都招討使を勤めた。 前蜀は後継者争いのために国力が低下、遠征軍は一戦しただけで王衍を降伏させることに成功。 前蜀攻めは領土拡大と同時に 後唐は荘宗が浪費家だったこともあって財政面が苦しく、 豊な四川地方を併合し、財政の回復をさせる第二の目的を含んでいた。 王衍の降伏後に荘宗は、成都からの戦利品を心待ちにしていたが、王衍降伏後の戦後処理に 手間取った郭崇韜は遅々として戦利品を送ることができなかった。 荘宗は期待を裏切られたと苛立ちを見せ始めた。 この事態をチャンスとばかりに宦官勢力は行動を開始。 (全く宦官って奴は悪知恵だけは働くよな) 李継岌にも猜疑を受け、同時に恨みを持っていた宦官達に誣告された。 それを信じた荘宗は激怒し宦官の馬彦珪を蜀に遣わして郭崇韜・廷晦の父子を成都で処刑させた。 (ひでぇ完全に冤罪じゃん) 郭崇韜は政戦両略と王佐の才ありといわれ、郭子儀の再来と評され、 郭崇韜は李克用・李存勗(荘宗)の二代に仕え、後唐建国時に 「第一の功臣」と評されるほどの功績を挙げた彼を推薦。 東はオルドスから西は敦煌まで領土を拡大、 宋軍に勝利し、賀蘭山で遼に勝って、宋・遼・西夏の鼎立の形勢をつくった、 西夏の李元昊も推薦します。 これで自分は推薦打ち止めです。 昨日は流れ止めてごめんなさい。 711 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/03(火) 03 12 00 ID P41V3Neb0 お、郭崇韜ですか。 ○さん乙です。 さて、けちでもつけるかw(いや、冗談です) 軍政官としての力量になんの疑問もない人ですが、急速な領土拡大(河東から華北政権へと) となる過程ということもあるでしょうが、結構蓄財に余念がなかったような面があります。 後唐は荘宗が浪費家 これ、建国以前にも郭崇韜は李存勗を諫めているんですよね。 李存勗としても煙たいところでもあったのだろうか。あまりに軽々に宦官の言を信じたのは 芸能にうつつを抜かしてしまった李存勗の、統治者としての決定的な資質不足でしょう。 いくさでは神がかった強さを発揮するのに、人心掌握や統治では為すところが無い。 なんか項羽を連想させます。 郭崇韜が少しでも金銭を蓄えようとした故事では任圜との確執もあげることができます。 任圜は最初、潞州(上党)の李嗣昭(李克用の仮子)の幕僚だったのですが 胡柳陂の時には李嗣昭隊の一部を率いて果敢に戦ったため、李存勗から「仁者の勇」と絶賛されます。 ただし、根っからの官僚で、荒事は苦手なタイプでした。 鎮州(常山真定)で、張文礼が乱を起こし、討伐に赴いた李嗣昭が戦死すると、その残存兵を見事に統率してのけ また、張文礼の子、張処球をして説得し、降伏にまでこぎつけることに成功していました。 もっとも、そのときは油断した鎮州軍を、李存審が強襲したので、張処球は戦死しましたが。 戦後、鎮州の節度使として郭崇韜が赴任すると、任圜は真定尹としてその幕下に入り この二人の黄金コンビの統治によって、鎮州の傷は癒えていくのでした。 任圜は意外に人を見る目がなく、これは、と思った人物を推官したのですが、 その男が任圜の目の届かないところで、公金横領に耽っていました。 その男は、そのことが発覚するのを恐れ、溜め込んだ私財を郭崇韜に包み隠さず報告しましたが 郭崇韜はそれを受け取って、不問にふしています。 それを知った任圜は、鎮州の行軍司馬職を辞し、工部尚書のみに専念することになります。 やや、郭崇韜との友誼に溝ができた形で。 さて、ここから本題。 前蜀討伐戦の折、郭崇韜は実質上の指揮権を与えられ遠征軍を統率しました。 任圜も、魏王付きの参軍として従軍しました。 そのとき、郭崇韜軍の先鋒を担ったのが、候補にも挙がっている康延孝。 康延孝はもとは後梁の将です。段凝という後梁の将帥の指揮下にいたわけですが、 それを脱して李存勗のもとに降ったのでした。武勇に優れていますので、李存勗は喜び 彼に姓名を与え、李紹琛(りしょうちん)と名乗らせました。 その李紹琛が、李厳という将とともに1万を率い、鳳州、固鎮、興州を陥とし、 前蜀の三招討使、王宗勲、王宗儼、王宗昱ら3万の迎撃軍を三泉の戦いで大破した。 さらに利州を陥とし、督戦に出向いていた蜀帝王衍を遁走させ 蜀軍は撤退するにあたり、民家や義倉を焼き、綿江の橋をも切って落とし、舟も沈めて李紹琛軍の 足止めを図ったが、李紹琛は李厳と相談し 「我らは敵地にあって、速戦しなければならず、橋の修理を待っていては敵に態勢を整える余裕を与える」 と言って、河を強行突破した。そのとき渡河できたもの千人、溺死したもの千人だったと言います。 鹿頭関から漢州を制圧した李紹琛は、ここで蜀の重臣王宗弼から降伏の申し出を受けました。 李厳はこの遠征軍の企画者の一人なので、その処理を行い、ここに前蜀は平らぎました。 李紹琛の功、最も大である、と史書に明記されていますが、 この人、郭崇韜や朱友謙らが冤罪で殺されたことに動揺し(誣告による粛清が相次いだ)、 西川節度使を自称して叛旗を翻します。 その李紹琛を、漢州の戦いで、あっさり撃ち破ったのが、魏王付きの参軍だった任圜。 彼は董璋に弱兵を率いさせ、李紹琛の突出を誘い、自ら精鋭を率いて、その側背を横撃しました。 李紹琛は任圜をただの文官と侮っていましたが、足をすくわれました。 漢州城に逃げ込んだ李紹琛は任圜の火攻めにどうしようもなくなって、ふたたび出陣しましたが 今度は正面から戦って破れ捕らえられました。 一体、誰が一番強いのかわからない状態ですが、前蜀戦かように入り乱れておりました。 712 ○ sage 2007/04/03(火) 05 27 49 ID hLnQoVG30 次スレです 三国志二十四大英雄 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ 713 ○ sage 2007/04/03(火) 06 49 14 ID L/JUw1yu0 712はガチで偽物 ちなみに三戦版にも同じ様なスレたってるけどな… 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 24 01 ID zAFfeCHo0 【みんなで】 選抜 三国志二十四大英雄 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1175545567/ こうしろ 715 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 16 43 23 ID 3AtpUj+u0 ttp //www.geocities.jp/kaysak864/n-mayuan.htm 馬援評伝。 これ面白い。 特に興味深い考察を引用しとく。 >もしも馬援がアスペルガー症候群とするなら、 >光武帝と高祖の比較の言葉も意味が違ってくる。 >そもそも馬援は光武帝と意気投合すること甚だしく、その評価もべた褒めである。 >それをさらに劉邦が上と評するのは極めて不自然であり、隗囂もその言葉についていけなかった。 >これも自閉症者の持つ言語特性と考えることで謎が氷解する。 >自閉症者の言語の特徴は含意を理解できず、言葉のそのままの意味に用いるということである。 >馬援の言葉「不如也。高帝無可無不可;今上好吏事,動如節度,又不喜飲酒。」をその言葉そのままに理解すると >「比べられません。高祖は特別な能力はありませんから。今の皇帝は事務処理にも長け、行動にも節度があり、お酒を好みません」となる。 >劉邦は事務が嫌いで、行動に節度がなく、お酒好きだったから、この3つは光武帝が上回る点をさらにだめ押しで追加したのである。馬援は、高祖劉邦はただの凡人であって、 >光武帝と比較するのも馬鹿馬鹿しいと言いたかったのかもしれない。 716 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 17 07 42 ID EZmiygYlO 715 スレ違い乙 717 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 19 08 57 ID rtGwnu5o0 714 ここじゃなくあっちのスレに陳情しろよwww 718 ◆RQdk7scN8s 2007/04/03(火) 19 58 38 ID P41V3Neb0 前に李晟に相当するのは、五代では誰? という質問があって、自分は良く知りもしないくせに、テキトーに寇彦卿、とか言ったけど これは完全な誤りでした。 似ているのは、お互いに皇帝の腹心であり、親軍の将として信頼されたところだけ。 戦場での洗練さは、李晟のほうが非常に上でした。 つうことで、「五代群雄」スレに怪しい訳とともに紹介しておきましたので、興味ある方は御覧ください。 あと、添削もできれば… 713 なんでいきなりニセモノが現れたんでしょうね? 719 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 20 40 12 ID EZmiygYlO 718 ◆RQdk7scN8sさんご親切に有難うごさいます。 以前に李晟について質問した者です 「五代群雄」スレの方に見に行ってきます 本当に有難うごさいました 720 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/03(火) 21 12 11 ID RlL9Cbtn0 いきなり風邪ひいて昨日からダウンしてた俺ですが、 起きたついでに唐末~宋にかける漢族と異民族間の考察をば開陳します。 中国の歴史においては唐代にいたるまで、漢民族と北方民族の関係は比較的 単純な方式にしたがっていた。まず好戦的な北方民族がはじめは略奪、やがては 制服の意図で中国に対する侵入を繰り返す。もしも中国の社会が健全な組織を 持っているなら、中国は容易にこの侵入を撃退することができる。なぜならば 北方民族が恃みとするのは当時の戦闘に最も大きな威力を発揮する騎馬戦術 であり、遊牧民族はその出自ゆえ生来騎射に優れているので優れた軍人的 素質を持つ。それでもって中国に攻撃を仕掛けるわけだが、漢族と北方民族の 戦力を総体的に比較した場合、数において漢族が圧倒的優勢に立つ。さらには 富力の差だが、これはさらに開きが大きい。だからもし長期戦ということに なれば、北方民族のほうが疲弊して軍を還すということになる。漢代、中国が 匈奴にさんざん苦しまされながらも最終的には反撃し是を屈服させたのはこの 良い例といえる。 しかし、唐末五代~元までの時期にかかるとこの事情が変わってくる。 唐末頃から北方民族と中国との関係は非常に複雑なものとなり、一筋縄では いかなくなってきた。第一には北方遊牧民族の知力が発達したことにある。 彼らは以前よりも中国文化をよく理解し、その長所と短所を同時に見抜く力 を持つようになった。その長所を知ることは彼らに中国人民を利用しようと いう気持ちを起こさせ、その短所を知ることは彼らに中国文化をむやみに崇拝 したり憧憬したりする態度を棄て、中国文化にないかれら自信のうちにある 美点を保存しようと言う希望を起こさせるにいたる。これは中国に対する 異民族の民族的自覚であり、いわゆる国粋保存的な政策が底から生まれる。 その結果、遊牧民族の国家の性質に柔軟性が加わり、従来のように強いばかり で同時にもろいのと違い、弾力を持った耐久性のある国家が現れてきた。 遼およびそれ以後の西夏、金、元などの国はいずれもこの例に当てはまる。 つぎに中国人のほうでも、異民族国家に対する分析が進んでくる。中国人も やはり異民族の弱点を見抜き、それは経済的に微弱であることだと結論した。 そこで以降の対異民族政策には多かれ少なかれ、経済が武器として用いられる。 ときにはそれが濫用されてかえってみずからの首を絞めることになることも あるが、全体的に見て政策の進歩であることは間違いない。 ・・・概ね宮崎市定氏の論に拠りました。まぁこの程度はこのスレ的には常識 で、いちいち言うまでもないとは思うんやけどまぁ、それ以前の匈奴やら柔然に 比べて遼、西夏や金、元が一線を画す存在であるという事を提起したかったわけ です。つーか寝起きの独り言なんでスルーしてください。 で、五代~北宋の空き枠三名には、 五代から劉仁瞻、西夏から李継遷、北宋の劉昌祚を推します。 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 06 27 ID mpJSp2SR0 論に拠ったというより、ところどころ端折ったり言い換えただけでほぼそのまんまと言ってもいいよね 722 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/03(火) 22 52 49 ID 05omaE1q0 独り言ならスレに書き込むなと小一時間 723 ○ sage 2007/04/03(火) 22 56 46 ID L/JUw1yu0 711 718 ◆RQdk7scN8sさん 乙&㌧です。 偽物についてなんですが多分このスレで自分がやたら 五代と三国志の比喩論を述べていたからではないかと推測しています。 711に李厳なんて名前あったら反応しちゃうしw 朝スレ見てたら自分の書いた憶えのないレスが載ってたのにはビックリしましたよw で思わず憤慨しちゃいましたwww あとですね郭崇韜と任圜についてちょっと 自分なりに意見を述べてみようと構想中です。 (◆RQdk7scN8sさんのレスと被る箇所が多々あるかと思いますが) 720 ◆oOLAqFKRBさん風邪の具合は大丈夫ですか? 無理しないで寝ててくださいよ!! 一日も早い復帰、心よりお待ちしてます。 さて自分は西夏なら李継遷より孫の李元昊を推します。 五代なら楊師厚を北宋からは楊延昭(楊六郎)か潘美を推します。 724 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/04(水) 01 40 12 ID 6Y9RtpAAO 723 李元昊を推すなら推すでかまわないですが、 何をもって中国の武将とするか理由を明記してくれませんか? 李元昊が入るならば、大越(現ベトナム)の李常傑、元代の陳興道、 明代からはオイラートのエセンを推す人が出てきたとき、反論できません。 どうじに耶律休哥など国号から遼を外し、契丹のみにしてる時代の人物を推すひとは、 何をもって中国の名将であるとするか書き込むか、時代を戻して、 過去の中華風の国号をしてない北方民族も、選考の対象にするのか意思表示して下さい。 私は遼を選考から外したい人を強引に納得させ、スレを進めた人物です。 最後まで遼をはずそうとした人が、言い放った言葉を思い出して下さい。 私は、遼が中華王朝か否か?の論争はスレ違いだと思いますが その人物が中国の名将か否か?はスレ違いじゃないと思ってます。そうですよね? 誠に申し訳ないですが、お手数をかけますが、理由を書いてもらえませんか? 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 01 47 03 ID 0uxFM+xa0 李元昊 当人がもし生きてこのスレ見たら血吐いて死にそうだよなw 726 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 05 14 00 ID YB6QMW6K0 喉が痛くて眠れやせん。今日は朝一で病院行こう。 さて、 724さんの言う「中国の名将か否か」ですが、 「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 でどーでしょ? 陳興道は赫々たる戦果を上げたがその戦いは元朝の侵略に対する防衛戦やったし、 エセンは明領内に攻め入って大勝したものの結局中国本土にオイラートの領土を広げてない。 よって上二名は「中国の武将」ではないということで。 李常傑は・・・すんません、よく知らんわ。 で、俺の推す李継遷はというと夏州から宋軍を撤退させてその版図を奪い、 さらに霊州を取り、宋軍15万を全滅させるという十分な戦功も立てとるから、 中国の名将で(最後流れ矢に当たって死んだのが間抜けやが)いいのではないかなぁと思うがどうか。 そんで○さんの推す元昊はどーやろ? ウイグルを攻めて甘州を取ったけど、 これは中国本土の土地にカウントされん気がする。でも宋仁宗の時代に陝西地方で37万の精兵を率い、 当時弱体化していた禁軍100万を蹴散らしたけんが武勲は十分。けど韓琦・范仲淹に阻まれて中国の土地は奪えずじまい。 しかも経済封鎖された挙句和睦して、その条件に「西夏は宋に対して臣下の例をとる」ことで調印しとるしなぁ。 敦煌やら西北方面への領土は広げたけど、中国の武将ではないか? つーかそもそもこの人、西夏が漢化するのを嫌っとったし。 ま、俺の意見に納得できん諸兄もおるやろーし、 ここは合議制の場なんやから大勢が両者とも資格なし、となればそれに文句は言いません。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 13 40 32 ID X6a7+FA80 「中国」の中身は長い期間の混血によって変化している。 当然、その範囲も時代によって変化していると考えた方が良さそうだ。 だからこの際、支那≠中国と考えるべきだ。 「文化に漬けられた弱い南人=漢族」で「支那の王朝だから正統な中国」の論理は見飽きた、聞き飽きた。 天命も領土も保ち得ない文弱王朝は元々正統ではないし、そもそも正統の王朝なんてものは最初から存在しない。 正統云々は時の為政者たちの都合次第。 士大夫どもがその宣伝を鵜呑みしてたただけ。 忠義の対象が一つしかなければ、そうせざるを得ない。 極東の島国の俺たちにその論理を盲従する必要性は全く無い。 狂的な漢人イデオロギーを妄信してた宋にしたって沙陀色が濃いし。 728 ◆RQdk7scN8s 2007/04/04(水) 20 57 47 ID PeGUb0ID0 723 ちょっと関係ない雑談なんですけど ○さんは、五代史に関して、どんな資料を参考にしてますか? それは岩城さんにも聞きたいのですが。 自分は基本、《五代史》、《五代史記》、《五代史書彙編》(十国春秋もこの中)、五代絡みの概説書(むろん日本書籍) あと、『五代群雄傳』くらいなんですが。 関連論文も読みたいところですが、そういう機会はなさそうです。 729 ○ sage 2007/04/04(水) 22 45 35 ID rYwHrifH0 728 企業秘密ですw(もちろん冗談ですが) ◆RQdk7scN8sさんの様に五代史、五代史記など読める環境、読解力があればいいのですが なかなかそうもいかないのが現状です… 参考資料としては資治通鑑の注釈本、陳舜臣氏の中国の歴史などですかね。 まあ覚束ない知識ながら語らせて貰ってます。 (ちなみに漢文は大して読めませんし…) あと海南島にまで左遷された人物は蘇軾でした。 訂正 海南島から帰って来た時は朝廷には復帰できず常州で死去してました。 730 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 51 35 ID LTCrPQz60 728 ◆RQdk7scN8sさんへ。 俺は新旧《五代氏》と《十国春秋》のみ。 あとは《続通志》の一部に五代の人物列伝が載ってるのと、 概説書として宮崎市定教授の「五代・宋」ぐらいですか。 あ、《史治通鑑》と《通鑑紀事本末》もその都度時代を敷衍してみるには便利ですね。 偉そうに紹介文挙げたりしてる割に 実は五代は苦手というか、そんな詳しくなかったりします。 資料は喉から手が出るほど欲しいのに、どんな伝手で手に入れるかわからんという。 一応近所に官籍専門輸入書店があることはあるんやけど、ここの品揃えがあんまりよくないのですよ。 731 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/04(水) 22 54 22 ID LTCrPQz60 730 変換ミス。官籍→漢籍で。 732 ○ sage 2007/04/04(水) 23 24 45 ID rYwHrifH0 724 何をもって中国の武将とするかについては 取り敢えず自分 21で示されてる定義に添って推薦しているつもりです。 あと 726で述べられてる>「守勢(中華からの侵略に対する防衛)ではなく積極的に 中国本土に攻め入り、多大な武勲を挙げて自国の版図を広げた(あるいは橋頭堡を作った)」 自分もこの意見に近いですね。 それに西夏も一応認めることで話が進んでますよね? なのに西夏から一人も推薦挙がらなかったら後からただ入れろ入れれと言ってたたけかよと!! と苦情が出るかもしれないし、そう言うのも考慮してます。 李元昊は西夏の建国に前後して三川口・好水川・定川砦において北宋軍に勝利してますし 資格については問題無いと思っています。 西夏(夏)についてですが 李徳明の跡を継ぎ、検校太師・侍中・定難軍節度使となり、西平王に封ぜられた。 西夏と呼ばれてますがこれは北宋が勝手にそう呼んでるだけで本来は夏。 李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定めてる。 唐始に拓跋赤辞は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れれ 慶州(現在の寧夏回族自治区内)に移住し平西公に封じられた。 唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫である拓跋思恭が反乱平定に大きな功績を残し、 それ以降、夏国公として当地の有力な藩鎮勢力としての地位を確立した。 国の成立を見る限り西夏は中華の国として扱ってもいいのではというのが持論です。 もちろん遼・金・元も同様です。 陳興道は陳朝(大越) モンゴル軍の自国への三度に渡る侵攻を全て撃退 李常傑は北宋軍の攻撃が始まる前に10万の大軍をもって中国領土内へ進攻し勝利したんですよね?。 それに大越(李朝)の李常傑はベトナム救国英雄と呼ばれる人物の一人ですよね? さすがに大越(ベトナム)の武将は選外とするべきでしょう。 オイラートのエセンですがモンゴル帝国崩壊後、オイラートはケレイト、ナイマン、バルグトなどを含む部族連合集団に変容し、 後にモンゴル高原のほとんどすべての部族を制するに至ったんですよね?。 いくら元(北元)と称していても部族連合集団であり国家としての様相を呈してないので 選考基準から外れるのではないでしょうか? 以上が自分の持論です。 諸兄が李継遷・李元昊は中華の武将ではないと反対するなら自分は従います。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/04(水) 23 34 51 ID 1tmtmtZF0 李元昊の夏は諸部族連合でなかったと? 諸部族連合だから国家じゃないというのなら遼や元の組織だって変わりはありませんよ? 734 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 00 41 40 ID 0wO0KLdZO 732 西夏を入れるのと、その人物を中国の武将であると見なすのとは違いますよ。 だから、李元昊の名が出てもスルーされていたと感じていましたが。 ヴェトナムは唐代まで、戦乱期の一時的な時代以外は、中国の支配化にあったんですよ。 阿倍仲麻呂が派遣された話とか有名ですよね? この時代、ようやく独立を果たしたにもかかわらず、 朝廷から贈られたのは「安南都護」でした。 李常傑の活躍で、安南国になるんです。彼ら自身は越と称してるんですけどね。 自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられてます。 だから後の中華王朝が度々、征伐に来るのです。 李元昊のように独自の文字を制定したわけでもなく、 独自の文字もなく、制度は中国と変わらなかった安南の 李常傑を外すのは矛盾があると思うのです。 李元昊自身も、中国の武将だと思ってないはずです。 外すのが無難かと。 735 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 00 46 30 ID CWGq96lM0 733 726の定義を提起した博多の岩城ですが、○さんに援護射撃。 西夏も遼・金・オイラートなども諸部族連合によって成立する国家という 点では同根だと思う。ただ、李継遷時代の西夏は自ら夏州・雲州を奪って 陝西地方に橋頭堡を作ったということで中国の王朝でありそこに所属した 武将は中国の将と愚考する次第(元昊はむしろ中華文明からの脱却を 目指したから中国武将とは言いがたいところがある)。で、オイラートは 諸族連合国家ということでは西夏と同じであるものの、南下して中国の 土地に領土を獲得したわけでないので中国の国家ではないと。翻って遼は あらかじめ燕雲16州という橋頭堡を持ち、それを保持するために南下して 北宋に攻勢を仕掛けたこともあるので中国、というか半中原国家という感じ。 金は最初から南進してきて中国の土地を版図に加えたから問題なく中国の国家 だろうし、元というかその前身たる蒙古はチンギス即位後、ムカリあたりが 金に攻めよせて各地を獲り、転戦して橋頭堡を築いたのでこれも中国でいいかと。 これに関して 733さんおよび諸兄の意見を聞きたいと思いますが。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 01 01 23 ID L2DsHe8+0 735 そうですね逆に質問します。 仮の話ですが、琉球が日本に侵攻して九州を占領した過去があったとしたら、その 時に琉球王朝は日本の一部となりますか?その武将は日本の武将と呼びますか? さらに進んで中国・四国地方くらいは征服したが、王は那覇を離れず日本の占領地 へは代官を派遣するくらいの支配で。 現実の例だったら(たとえとしては無理があり適当でないと承知の上ですが)、英仏 百年戦争でパリを含むフランスの半分以上の領土を支配したイングランドはフランスと なるんですかね?エドワード黒太子はフランスの武将になるんですかね? 737 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 31 58 ID CWGq96lM0 736 九州を占領した過去があったら その場合九州の武将たちは琉球の将となるでしょう(好むと好まざると、また 支配の緩急に関わらず)。王が那覇を離れなくても一度支配した土地に派遣 した代官、将軍たちはやはり琉球王朝の臣下となるのでは? また、百年戦争 でフランスの広大な版図を手に入れたエドワード黒大使はやはりイングランド の皇子であると思います。日本の大半を琉球王が支配した場合、やはり彼が 琉球王であるまと同じで。一番顕著な例は蒙古であろうと思いますから蒙古を 引き合いに出しますが、チンギスがムカリを中国路の王として派遣し、自らは 中国に目もくれず西方経略に本腰を入れたとして、ムカリが切り取った金の 国土はやはり蒙古の版図・橋頭堡としていいと思うのですが。 質問の意図を間違って捕らえていたらすいません。なにぶん阿呆なので。 738 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 01 49 34 ID CWGq96lM0 追記。 そして完全に敵国を併呑したところで、あらたな国家を創建する問題が でてくるのだと思います。空想の話ですがエドワード皇子がフランスを 完全支配下に置いたら古い国名からイングランド領ガリアとされたかも しれませんし、蒙古はある程度の領土拡大を果たしてからモンゴルの正統、 元と各ウルスがそれぞれ創建されたわけですから。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 02 55 39 ID sh07ZMUM0 李克用と李存勗は親子で名将なんですね かっこいい! 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 03 08 02 ID H9XH0T7U0 >黒太子の英仏完全併合 その場合、プランタジネット家領仏蘭西で首都は巴里だと思う。 支那だって劉家領支那=漢で李家領支那=唐で愛新覚羅家領支那=清だった。 741 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 11 58 07 ID 16153irr0 740さんへ 首都が遷ったにしても広大な土地を占有したにしても、根本にある国家 精神は変わらんでしょ。仮にイングランドがフランスを制圧したとして 「こっちのほうが土地広いから、今日からウチもフランスを名乗ろう」 とはならんわけで、言ってみれば居心地のいい仮住まいを手に入れた程度。 仮のさらに仮の話になってしまいますがプロイセンとかに英国領フランス の土地が全部奪われたとしても、本当の拠点はあくまでイギリス本土 だからフランス駐留軍と国家上層部さえイングランドに帰還させれば 国家的にさほどのダメージを負う事はないでしょう。翻って中国に 当て嵌めると金だって支那の北半分を獲りながらあくまで金という国家 のままだったわけだし(現地の文化に耽溺した、というのはあるけども)、 蒙古にボロ負けして支那本土の拠点を失っても、下層階級は本来の故地 である満州の方に逃れたから、すっかり支那文化にかぶれた上層部以外は たいした問題なく、女真族そのものは部族をまとめる巨大な統率者を 失った以外、さほど巨大なダメージを被ったわけではなかった(もとの 遊牧騎馬民族に戻っただけ)と思います。実際、数百年の雌伏ののち 新たな統率者が出て、清(最初は後金か)として復活することができた わけだし。 ・・・なんでこの時間にお前がおるんやとか突っ込まれそうやけど、 風邪が悪化して自宅謹慎を命ぜられとるんですわ。やから暇なのです。 742 ○ sage 2007/04/05(木) 14 05 02 ID 0H4+iB4c0 ◆oOLAqFKRBさん 乙&援護射撃㌧です アンタなんでこの時間に居るんや、暇でも安静にしとかんかい と一応突っ込んどきますわw さて李常傑を中国の武将として認めるにしても 726の定義に当てはめた場合、李常傑はどうなんだろう? 李常傑は北宋の進軍をいち早く察知し、逆に北宋領土へ進軍し北宋軍を撃破したんですよね? これは先取防衛の為ではないでしょうか? 諸兄の意見をお聞かせねがえませんか? あと李元昊を外すことに異論はありません。 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 17 23 24 ID VjMOowo3O あんまり深く考えないでさ。歴代中国、若しくそれらと実際矛を交えた国の武将と言うことでもいいんじゃね? せっかく選んだ武将が○○に負けたのに名将かよ。プwとか思われるの嫌だし 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 15 27 ID dy96S1BTO 743 そんなのでよかったら定義とかあれこれ話合ったりした意味ねーな 745 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 18 20 21 ID Qs7ILgkC0 738 百年戦争はイングランド王がフランスの王位継承権を主張したわけだし アキテーヌに領地を持ってたフランスの諸侯だったんだから イングランド領ガリアはないよ 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 19 39 34 ID H9XH0T7U0 0:フランス王 1:ノルマンディー公 2:イングランド王 3:アキテーヌ公⇒3´:ガスコーニュ公 4:アンジュー伯 5:ブルターニュ公 6:ウェールズ公 7:スコットランド王 8:アイルランド卿 所領と爵位を0~8と定義する。 ノルマン朝初代:ウィリアム1世(1、2) ノルマン朝二代:ロベール2世(1)vsウィリアム2世(2) ノルマン朝三代:ヘンリー1世(1、2) ノルマン朝四代:女帝モード&ジョフロワ4世(1、4)vsスティーブン(2) プランタジネット朝初代:ヘンリー2世(1、2、3、4、5、8) プランタジネット朝二代:リチャード1世(1、2、3、4、5) プランタジネット朝三代:ジョン(1、2、3、4)vsアーサー(5) プランタジネット朝四代:ヘンリー3世(2、3´、8) プランタジネット朝五代:エドワード1世(2、3´、6、7、8) プランタジネット朝六代:エドワード2世(2、3´、6、8) プランタジネット朝七代:エドワード3世(2、3、3´、6、8ほか)&エドワード黒太子(3、3´、6) プランタジネット朝八代:リチャード2世(2、6、8ほか) ランカスター朝初代:ヘンリー4世(2、6、8ほか) ランカスター朝二代:ヘンリー5世(2、6、8ほか) ランカスター朝三代:ヘンリー6世(0!、2、6、8ほか) 初期のプランタジネットはフランスのルーアンが事実上の首都。ほぼフランス人。 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 フィリップ2世、シャルル5世&デュゲクラン、シャルル7世&ジャンヌダルクのどれか一つがいなければ、 英仏統一王朝が誕生してた可能性が高い。 特にフィリップ2世はおかしい。なんだコイツ。 …まあスレ違いだが、たまにはいいだろ。 747 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 19 50 31 ID GljYhMi60 745さん うあぁ、西洋史の知識がろくにないことを露呈してしまった。 でもまぁ、“フランスの王権を手に入れたとしても実際重視されるのはあく まで英国”“フランスの肥沃な農場地帯と貴族文化、ヨーロッパ本土への 橋頭堡としての価値は魅力的だが、いざとなったらシッポ切りするのに 問題なし”という部分が言いたかったわけでして。そこが金や元における 中国本土とかぶるかな、と。 ろくな知識もなしにとくとくと偉そうなことを書き込んだこと、謝罪します。 748 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 12 59 ID L2DsHe8+0 やっぱり百年戦争のたとえではずれてしまいますね、すいません。 ちなみに私個人の考えだと 金や元は中国王朝とは言いがたい(特に元)が、中国の征服王朝にはなった。 遼や西夏は中国王朝でもなく、征服王朝にもなれなかった。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 20 33 ID H9XH0T7U0 747 項羽を例に当てはめてみます。 ”秦を手に入れたとしても実際重視したのはあくまで楚” ”関中の肥沃な田地と行き届いた法治支配、政敵の劉邦を四川に押し込めておく拠点としての価値は魅力的だが、他人にくれてやって問題なし” …やはり生活文化が違うので金や元のケースとは違うでしょう。 この場合、対仏政策が破滅に直結するでしょうから。 750 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 20 28 32 ID dy96S1BTO 746 カペー朝に対するプランタジネット朝は後漢末の魏みたいなもの。 カペー家の殻を突き破れなかったのがおかしいくらいだ。 またまたスレ違いな話だがカペー家かどこかの家宰に曹操みたいな奴いなかったっけ? 734 いくら自治権は認めても、領土的には中国本土であると考えられていても やはり大越の李常傑を中国の武将とするのは無理があるんじゃない? 751 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 21 01 17 ID H9XH0T7U0 メロビング朝フランク王国の宮宰カールマルテルだと思う。 トゥールポワチエ間の戦でイスラム軍を虐殺し、カロリング朝フランク王国の基礎を築いた男だろう。 >越南 実態は中原勢力の植民地。風俗も違ったし。朝鮮みたいなもんだと解釈した方がいい。 752 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/05(木) 21 44 37 ID 0wO0KLdZO 750 李常傑はあくまで喩えです。李元昊は入るとしながら、李常傑は入らないというのは 間違っているという例として出しただけです。 今の時代に生きてるから、安南=ヴェトナムだから他国と思うだけで、 中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であるにもかかわらず、 その人物を中国の武将じゃないというのであれば、 当然、その概念はそれ以外の人物にも適用されるんですよね ?中国固有の領土であろうと、なかろうと、外れる場合はあるんですよね? 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 726がそれだと言うのであれば、それはそれで構いませんが、 それだと選定作業をやり直す必要がありませんか? 753 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 14 48 ID dy96S1BTO 751 トンクス そうかカールマルテルだったか 750 それならシンプルに李元昊は外す、李常傑も入らないでいいじゃん たとえ中国の歴史から見たら、間違いなく中国本土であっても 実際ヴェトナムの人々は俺たちの国は中国だと思っていたかな? 俺は違うと思うぞ インドの人々は俺たちの国はイギリスと思ってたかな? 名将の定義は取り敢えず 21にあるのでいいんじゃないかと思うけど プラス遼・金・元は含めるそれでダメなのか? でそりゃあ違うだとという人物は今回の李元昊のように指摘する そんなんじゃダメなのか? 俺はそれ以上思いつかないよ・・・ 754 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 15 41 ID 0zYnzRwq0 752 私が問いたいのは、何をもって中国の名将であるとするか?なのです。 つまり、その条件に当てはまらない場合は、たとえ中華王朝の漢人武将であろうとも、 中国の名将とは認められない――そんな条件なんです。 なんらかの定義はできるでしょう。 しかし万人が異論ない定義が可能だと思ってるわけですか? そもそも、自分自身の案を提示もせずにそういうないものねだりをするのは、 無駄にかき回して議論の収束を妨げてるだけにしかならないですよ。 既に出てる案にそういうものがなく、あくまで賛同できるものがないというのであれば、 ぜひともあなたの理想とするところに近い定義を提案してください。 自分は正史ベースの 505を推します。 中国武将が何たるかなんて定義は、中国とは何かと同様で、 万人に納得できるものを作ることは不可能だと考えるので、 既に評価の確立した正史に習うのが妥当ということで。 あとこのまま収束しないようなら、少人数で定義決定する方式にしたほうがよいと思います。 それに納得できない人は、反論するに値する定義の対案を出さない限りは反論を認めない。 で、少人数を誰にするか、というところは、このスレに多数の名将を紹介して貢献度が高いと思われる、 ◆oOLAqFKRB.さん、◆RQdk7scN8sさん、○さんだったら不満もすくないんじゃないかな・・・と思ったり。 どうですかね? 755 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 22 20 28 ID dy96S1BTO 753 すまん遼・金・元に西夏を含めるの忘れてた 756 ○ sage 2007/04/05(木) 22 57 36 ID 0H4+iB4c0 754 自分はですね正史ベースの 505はいいんじゃないかなと思いますよ。 でこれに西夏(夏)も含め あとは推薦した人物に対し諸兄が納得してくれれば良し、 今回、自分が推薦した李元昊の時みたいに そいつは「ちゃうやん、あかん、あかんてそいつは認められへんで」みたいに指摘してくれたらいいかなと思いますけど こんな感じでとうでしょうか? なんか 754さんに博識な御両人と一緒に指名されてますが 本当に自分なんかでいいんですか? 757 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 15 07 ID HcEYfMrF0 754さん 俺が選定員に推戴されたらムカリ、トゥルイらのモンゴル武将や ヌルハチ、アハタイら後金武将(つまり元、清の建国を担った人々)を 「正史にあるけん」の一言で平然と組み入れてしまうんで、反発派は かなりの数に登るかと。それでいいなら選定員の一翼を担うのも 問題なしですが、「モンゴルは違うだろ」「清は入関後だ」って言う人は 今のうちに俺を潰しといたほうがいいかと。 758 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/05(木) 23 31 45 ID HcEYfMrF0 757に追記 俺としては 505案に自分で出した 726を併せて折衷すると言う 方向で行きたいと思います。これに反対の人は俺の選定員入りを 阻んでくれると後腐れなくてむしろさっぱりします。 ところで◆RQdk7scN8sさんが沈黙を守ってますね。迷ってるんだろーか。 759 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/05(木) 23 47 20 ID H9XH0T7U0 「正史に記載されてれば入選資格有り」 このスタンスでいいだろ。 それで夷狄に椅子を奪われる程度の指揮官が名将なものか。 760 あの~ 2007/04/06(金) 00 12 36 ID Bbv/dSjkO 754 実は私が 505なんですけど。。 トリップつけないと不味いですか? 過大解釈案 この際、正史にのる戦役は全て対象として、 その戦いに参加した人物が名将であるか否かを議論する。 ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 例えば、耶律徳光を推薦した場合、国号は中華風の遼も名乗っており、 少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、 中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。 この推薦文だと、国号が契丹だけの時代の耶律休哥は外れますね。 あと、遼を外すと主張してる人は、遼将を外すならば、誰を入れたいのですか? ただ単に揚げ足取りしたいわけでは、ないですよね? 李元昊の代わりに李継遷を推薦します。 李元昊にくらべ、民族独立色が薄いから。 耶律休哥のかわりに、耶律徳光。理由は先に書いたので、かつあいします。 小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 この人物を好きになりこそしれ、嫌いになれないだけに、 選考の対象外にするのは、非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。 761 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/06(金) 00 40 53 ID 8gXNJR8p0 760さん 同じく李継遷を推す同志と勝手に呼ばせていただきますが、 むしろ元昊のほうが英雄的気概にあふれとるんですよね。 前に書き込みましたが 中華から独立して敦煌以西に自分たちの国家を作ろうとする企画力とか、 弱体化してたとはいえ陝西で禁軍100万を37万の精兵で撃破した用兵とか。 中国からの独立を望んだために中国武将ではない、という一事がなければ 間違いなく俺も継遷よりこちらを推しただろうだけに、元昊は本当に惜しい人物だと思います。 彼を推していた○さんも諦めをつけるのは断腸の思いだったでしょう。 762 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/06(金) 04 36 59 ID iwgs9pHW0 中国の影響力が強すぎたのが全部悪い 763 ○ sage 2007/04/06(金) 06 51 44 ID 4zOHtfGs0 761 >李元昊を諦めたのは断腸の思いだったでしょう。 確かに李元昊を諦めたのは断腸のでした… では自分も◆oOLAqFKRBさん、あの~さんと同じく、 李元昊の祖父である李継遷を推したいと思います。 実際、李元昊を推した時に李継遷と李元昊のどちらにしようかかなり迷いました。 しかし諸兄の賛同を得られなかったのでそれは仕方ないかなと思っております。 (節操ねーなとか言われせうだが…) 764 ○ sage 2007/04/06(金) 13 50 04 ID 4zOHtfGs0 760 あの~さん(勝手に呼んでますがいいのかな?) >小説から、李元昊、耶律休哥に興味を持ち、資料を調べたうえで、 >この人物を好きになり とカキコなされてますが その李元昊、耶律休哥に興味を持つきっかけとなった小説の題名をお教え願えませんか? ちなみに自分は陳舜臣氏の小説十八史略にて李継遷・李元昊を 楊家将にて耶律休哥に興味を持ちました。 誠に厚かましいお願いですがよろしくお願いします。 765 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/06(金) 18 57 30 ID 0u9nFGkN0 ああ、なんかヤボ用で時間費やしている間に、すっかり話題が。 自分は遼を外そうと考えましたが、基本は正史にならうという意見ではありました。 遼を外す理由は古来からある中華政権の支配がおよぶ範囲 制度によって及ぼしていた範囲というものがあるじゃないですか。 温度差(サーモグラフィ)みたいなもので考えるとわかりやすいかな? (京師あたりは色が濃くて、地方になれば薄くなる) そういうところに対する、領土的な影響力というものが、遼(契丹)は薄い、というあたりを論拠としています。 まぁ、政治的な影響力は大きいのだから、別に入れることに頑強に反対はしません。 入れれば、太宗と休哥は確定するのかな? で、李継遷ですが たしかにコヤツが西ではねっ返ったおかげで、宋は遠征し敗れ あまつさえ遼に援助までとりつけて引き入れ、究極的には岐溝関の敗北を招かせたようなもんですので 結構なやり手ではあります。 宗主国から独立を獲得する契機となった、というあたり後漢の周瑜に似ている節はありますが そのあたりはどうでしょう。 と言っても、自分、拓跋思恭はわかりますが、この代になるとほとんどわかりません(をい)。 そうですね、「草原王朝特別枠」とかいって、別に設けてみるとか、そういうのはなしでしょうか。 766 ○ sage 2007/04/06(金) 21 43 35 ID 4zOHtfGs0 765 李継遷に似てるのは李元昊ではないでしょうか? どうでしょうか? 二人共、始めは宋に従ってましたが 後に反旗を翻し幾度となく武力衝突を繰り返したり、遼にも対抗したりしてますし、 吐蕃(チベット)を討ってたりしますよね、 それに李継遷は霊州を陥れて、西平府と改称、国都とし 片や李元昊は河西回廊を占拠し、興慶府に都を置いてます。 ちなみに史書には李元昊が ―英雄の生は当に王覇なるべきのみ。錦綺、何をか為さん。― と興奮した際、李徳明に向って言ったとされています。 (民族独立に対する意気込みなんでしょうね) 767 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/07(土) 12 51 23 ID 8Dz7hZN3O 764 井上靖の敦煌です。 そこから、この時代の異民族国家に興味をもち、図書館で調べはじめて、 耶律休哥の名を知りました。 小説としてはやはり楊家将で、この小説により歴史書の中の人物が、 血の通った人間になった感じです。 768 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 13 00 06 ID pG/HJowa0 このスレにいる人が楊家将読んでてちょっと嬉しいw 769 ○ sage 2007/04/07(土) 14 46 04 ID I3JbP16L0 767さんご丁寧に有難うございます。 >血の通った人間になった感じです。 全くもって同感です。 自分もですね楊家将を読んだ時、耶律休哥及び楊業に非常に人間味を感じました。 768さんもナカマー あと 760の 過大解釈案とその中で推薦文の例題として挙げられている事についてなのですが >ただし、その人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合、 >その人物が中国の名将であると、推薦者が立証する。 >少なくとも本人は、中国に対する憧憬と、中国を支配下に置く意思があったと推測されるから――など。これですと中国を支配下に置く意思があったの部分はいいのですが 中国に対する憧憬のないであろうモンゴル武将や清初期の女真族の武将が 外されてしまう様な気がしますけどいかがですかね? それならその人物が非中華王朝に属してる、もしくは異民族出身者の場合は 王朝樹立の際の戦闘及び樹立以降に功績のある武将は認める しかし明らかに中華の武将として認められるのを本人が明確に表している人物は不可 (ヌル八チとかどうなんだろうか…) 建国後遼は契丹に国号を変更してる時期も認める。 こんな感じでいかがでしょう? おかしな部分があれば手直しして頂ければうれしいです。 770 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 15 31 08 ID isOCtAs70 乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるよ。 順治、康煕、雍正の三代の遺産を食い潰す毒虫ぶりに秦始皇、漢武帝、隋煬帝、唐玄宗の風を見る。 トップの方向性が入選で云々されるなら、 乾隆帝以後の清は確実に歴代中国王朝のエピゴーネンと言えるだろう。 771 ○ sage 2007/04/07(土) 16 03 34 ID I3JbP16L0 770 あのさー乾隆帝以後は完璧にチャイニズムに毒されてるのはわかってるよ。 中華思想に触れて感化されない奴なんて略いないだろう また傍にいる漢人が染め上げようとするし。 それに定義を決めるのって当然、一筋縄じゃいかないのわかってるよね? だからわざわざ手直ししてくれませんか?と付け加えているんだし、 文句言うだけなら誰でもできるじゃないのか!! じゃあどうすればいいか貴方の意見をぜひ聞きたいね。 772 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 16 12 05 ID PaG7IIxw0 ちなみに自分も『楊家将』は読んでます。 記述の少ない楊業を、よくもあそこまで書けたものですよ。 耶律休哥も楊業に会っては、分厚い壁にぶち当たった感じで書いているのは特によかった。 って、小説の話はこのへんで。 遼(契丹)を入れるとして、じゃあ誰が確定になりますかね。 太宗・耶律徳光は、自ら親征して一気に澶州にまで南下しており そこではじめてまともな後晋軍と対峙した。 一応、青州の楊光遠との挟撃という態勢であったが、名将たる高行周(高懐徳の父)が粘り 耶律徳光の南下を容易には許さなかった。 (高行周が出撃すると、耶律徳光は軍を退かせ精騎で中央を狙うと、晋帝石重貴がそれを迎え撃つ… など) 驚いた耶律徳光は、 「楊光遠は晋の兵は半ばが餓死したといっていたが、このように勢い盛んではどうしようもない」 と言って、一旦本国に引き上げた。 悲惨なのは楊光遠で、契丹との挟撃をもくろんでいたのに、それが崩れ取り残される形になった。 契丹は撃退できたものの、主戦論を唱えていた景延広は為すところが無く、かえって醜態だったので 地方に転出され、替わって桑維翰を呼び戻し、中書令兼枢密使として国難に対処させた。 枢密使・桑維翰のもと、河東の劉知遠、恒州(常山)の杜重威、宋州節度使兼禁軍大将となった高行周、 滑州の皇甫遇、徐州の趙在礼、孟州の符彦卿、河中の安審琦など、15節度使を 対契丹用に編成し、その南下に備えた。 桑維翰の軍略、決裁はいささかも遅滞することなく端から流れるようだったので、諸将は心服したという。 桑維翰の軍略のもと、兗州の李守貞が叛将たる楊光遠を討ち、これを敗死させることに成功した。 その年末に、ふたたび耶律徳光は南下し、恒州に本拠を置き、邯鄲まで陣を進めた。 桑維翰はすぐさま、皇甫遇や安審琦らを向かわせたので、戦線は一時膠着した。 皇甫遇が契丹軍の包囲を受け、少数で粘っているのを、張従恩等は「もう手遅れ」としたが 安審琦は「皇甫太師にもしものことがあれば、何のかんばせあって天子にまみえようか」 といって、麾下の兵だけで突撃したので、耶律徳光は晋軍が総攻撃に移ったと勘違いして 即座に恒州まで逃げ出したという。 膠着した戦線を打開するのに、皇帝石重貴は親征を決意し、開封を出発した。 勢いを盛り返した晋軍は、定州より進み、恒州を降し、ついには耶律徳光をちからづくで追い返した。 耶律徳光は幽州まで逃げ帰ると、敗戦に猛り狂い、各将たちを鞭で打ったという。 しかし桑維翰はあくまで講和論者であり、この後すぐに講和を具申するも、耶律徳光の返書に 怒りのこもった文章が見受けられたので、一時見合わせることにした。 戦勝で気が緩んだか、石重貴は桑維翰の諫言や進言を受け付けなくなった。 当時朝廷には、馮玉という奸臣がおり、皇帝の外戚だったが、桑維翰の影響下にあって発言力は低かった。 皇帝が桑維翰を疎んじていることを敏感に察し、李守貞を巻き込んで誣告した。 桑維翰は執政職を追われ、朝廷に出ることはなくなった。 馮玉らは実権を手にすると、燕雲への攻勢を実行したが、それは耶律徳光の自在の駆け引きに翻弄され 攻撃軍を担った杜重威や張彦澤といった有力者が、契丹に寝返るにおよび 契丹の大攻勢の末、開封は陥落した。 寝返った張彦澤は、耶律徳光が桑維翰を憎んでいると勘違いし、許可無く殺してしまったが 耶律徳光は「なぜ殺した」と、その遺族を手厚く遇したという。 耶律徳光の話をしていたはずなのに、また途中から違うのが出てきたな… まぁ、耶律徳光と契丹に拮抗する軍略の持ち主、桑維翰と、それさえいなければ破竹の進撃を誇った耶律徳光 ということで、判断してみてください。 ちなみに、このときの後晋領は石敬瑭の末年から石重貴が契丹に北へ連れ去られる直前くらいまで すさまじくひどい天災に見舞われており、国力は最悪だったということを付け足しておきます。 773 ○ sage 2007/04/07(土) 17 24 35 ID I3JbP16L0 772 耶律徳光(太宗)は石敬塘の後晋建国を助け 後に後晋が遼に背くと、南征するものの、 高行周・桑維翰らの活躍で一時は敗走しましたが最終的には 後晋を滅ぼし、華北一帯を占領してますよね。 たとえ後晋が最悪の状況にあったのを加味しても 耶律徳光の功績は凄いと言わざるえないのかな? (確かに途中で誰のこと推してるのか分からなくなってましたねw) 774 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/07(土) 20 01 14 ID PaG7IIxw0 【確定組】 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青 【候補】 周徳威、郭崇韜、王彦章、郭言、楊師厚、劉鄩、康延孝、 任圜、李神福、臺濛、周本、孟堅、張彦卿、陸孟俊、劉仁贍、張武、 王環、趙季良、蘇章、潘崇徹、銭弘佐、顧全武、張元徽、李瓊 耶律休哥、狆師道、劉昌祚、李継遷、賈嵓、潘美、楊延昭、 史建?、王景、康壊貞、 【候補落ち】 朱温(朱晃)、郭威、曹彬 【確定有力候補】 李存審、顧全武、劉仁贍、耶律徳光、李継遷、劉昌祚、楊延昭、耶律休哥 かなりカオスになってますので、この辺でそろそろ決めたいと思います。 (いい加減、南宋以降の話も聞きたいし) 顧全武はいわゆる地方政権の名将であって、地域が極限定されているので10選に入れるにはためらう部分が大きい。 劉仁贍は10選確定の柴栄や趙匡胤相手に不敗というのが大きいが、いかんせんそれだけ。 耶律徳光は中原制覇を短期間で為した。維持できなかったのは政治力の問題とするならば確定間違いない ただし、遼のことなので、予備枠とする。 耶律休哥も確定予備枠みたいな感じとする。 楊延昭は武勲において、並ぶものなしと思える。 劉昌祚…狆師道のほうがよくはないですか? 自分が考える10選 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊業、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光、耶律休哥 こんなところか。 775 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 39 14 ID isOCtAs70 >○ 771が俺を貶める為か、自らを誇る為のものか判らぬ。 だが、そんなことはどうでもいい。 君子はそのどちらもしないのだから。 二十五史だけでなく四書五経も読んでから来い。 俺を罵倒したことが許せないのではなく、その人柄を自ら損なったことがただ悲しい。 議論を壟断したいのならブログでも開けばよい。 776 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/07(土) 21 42 29 ID neOBtDwl0 ○はスルーするに限る 777 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/07(土) 22 00 07 ID G49b2+p90 774 ◆RQdk7scN8sさんへ。劉昌祚より確かに狆師道のほうが適任と思います。 ただ北宋中期の武将が少なかったので一応名を挙げました。 耶律徳光と耶律休哥は燕雲以南の地を掠取していない守勢の人、休哥より 短期ながら中原を席巻した創業の人、徳光が10選入りの栄誉を受けるべきかと。 (耶律休哥は民衆から契丹最高の名将、と言われとるわけですがここは心を鬼にして) そんでもって以前選定者の一人に選ばれたわけですが、 505と 761の折衷というだけでは具体的な形が見えないのでここに概論を書きます。 ・基本は正史ベース。二次資料から引いてくる場合は典拠を明らかにする。 (資治通鑑より、とか出典・十国春秋、とか) ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外、 中国の領土を犯し、十分な土地を掠取する(あるいは侵略のための橋頭堡を作る)か、 当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 ただし本人が中国からの強い独立意識を持っている場合はこれに該当しても選外とする。 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 ・・・こんなんで。 俺の頭ではこれ以上波風立たせずに全員を納得させる案は立てられんです。 ◆RQdk7scN8sさんや○さんがもっと洗練された定義案を出してくれるのを希望。 778 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 00 45 57 ID z/gk5cja0 2時間ばかり休憩を挟んだから、そろそろ南宋に入っとるかと思ったけど。 進んどらんね。南宋に移行するんは明日からになるんかいな? さておき、誰も間に入らんので、柄にもなく俺が仲裁に入らせていただきます。 775さん、 776さん。 人の一度の過失をそう責めんめーや。俺も前スレで場を荒らしてしまった 経験ありやけど、再度やり直させてもらった事やし。寛容を求めます。 ○さんも落ち着いてカッカした自分を見つめ直そう? 一度自論を否定されたくらいで怒らんで、それこそ丸い心を保ちましょうや。 779 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 00 57 04 ID 4I+oH72ZO 先の話だけど郭侃、伯顔、拡廓帖木児の扱いでまた揉めるんだろうな 780 770 sage 2007/04/08(日) 01 52 22 ID /v/LzJsE0 <紀元前> 11世紀:牧野の戦(周武王)、三監の乱(周公旦) 10世紀: 09世紀: 08世紀:犬戎の乱 07世紀:葵丘の盟(桓公 管仲)、泓水の戦(楚成王)、城濮の戦(晋文公 先軫) 06世紀:邲の戦(楚荘王)、鞍の戦(郤克)、鄢陵の戦(晋厲公 苗賁皇)、呉楚戦争(闔閭 伍子胥) 05世紀:呉越戦争(勾践 范蠡)、晋陽の戦(趙襄子) 04世紀:桂陵の戦(田忌 孫臏)、馬陵の戦(田忌 孫臏) 03世紀:燕斉戦争(楽毅、田単)、長平の戦(白起)、抗秦名将(信陵君、李牧、項燕)、陳勝呉広の乱(章邯)、楚漢戦争(項羽、韓信) 02世紀:白登山の戦(冒頓単于)、呉楚七国の乱(周亜夫)、石に立つ矢桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(李広)、対匈奴戦争(衛青、霍去病)、百聞は一見に如かず(趙充国)、 01世紀: <紀元後> 01世紀:赤眉の乱(樊崇)、緑林の乱(光武帝)、大樹将軍(馮異)、矍鑠たる翁(馬援)、虎穴に入らずんば虎子を得ず(班超) 02世紀:鮮卑大人(檀石槐)、黄巾の乱(皇甫嵩) 03世紀:官渡の戦(曹操)、鳳や鳳や(鄧艾)、破竹の勢い(杜預) 04世紀:(王猛、慕容垂)、淝水の戦(謝玄) 05世紀:最初の可汗(社崙) 06世紀:六鎮の乱(爾朱栄) 07世紀:薩水の戦(乙支文徳)、玄武門の変(唐太宗)、(李靖)、高句麗遠征(李勣) 08世紀:タラス河畔の戦(高仙芝)、安史の乱(郭子儀) 09世紀:黄巣の乱(李克用)、五代名将(李存勗) 10世紀:南唐遠征(柴栄)、陳橋の変(趙匡胤)、千載不決の議(趙匡義) 11世紀:澶淵の盟(遼聖宗) 12世紀:方臘の乱(童貫)、靖康の変(呉乞買)、抗金名将(岳飛 、韓世忠) 13世紀:世界征服(チンギスハーン、ツルイ、スブタイ、ムカリ、モンケ、ウリャンハタイ、バヤン、郭侃)、抗元名将(完顔陳和尚、孟珙、呂文煥)、崖山の戦(張世傑) 14世紀:紅巾の乱、鄱陽湖の戦(洪武帝)、北伐(徐達、ココテムル) 15世紀:靖難の変(永楽帝)、大航海(鄭和)、土木の変(エセン、于謙) 16世紀:庚戌の変(アルタン)、万暦の三征 17世紀:サルフの戦(ヌルハチ)、寧遠の戦(袁崇煥)、李自成の乱(呉三桂)、三藩の乱(康熙帝) 18世紀:十全武功(乾隆帝) 19世紀:阿片戦争(林則徐、関天倍)、太平天国の乱(曽国藩、李鴻章) 11世紀~19世紀に区切って百の天下分け目の決戦(政変含む)を揚げ、 そこから百選を決めようと思ったが戦例を集めるのに飽きた。 「中国(史の)名将」なら二十五史に載ってればおkということで宜しかろう。 「中国(人の)名将」なら先秦以前のは明らかな夷狄以外はゆるく、 漢族成立後は拓跋、慕容、耶律、完顔、愛新覚羅等の連中を一人残らず排除すれば良い。 778 俺は○氏の論の何を 770で否定し、攻撃し、批判したのでしょうか? 「(彼にとって)判りきったことを俺が言ったのが、 彼を無知であるかのように扱うことと同じであり、 それが彼の矜持を傷付けた」と言われても謝る気はありません。理不尽だ。 また俺に対する彼の謝罪をも求めておりません。そもそも争いになるのがおかしい。 彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 781 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 02 25 24 ID BRC5l4KI0 なんか行き違いがあったようだけど、原因は 771のレスですかね。 ○氏は落ち着いてくださいね。 カッカしている理由はいまひとつ忖度できませんが、語気を強めることもないと思いますよ。 前に自分をなだめてくれたのに、らしくないですね。 また異民族枠の議論だから、 770氏もまとめる方向の対案を示せばベターでしたね。 とりあえず、自分が契丹特殊枠入れときましたので、異論ある人はそれを外せば良いし、 また候補からこれは、と思う将を格上げすればよろしかろう。 草原王朝については、各々モチベーションも違うだろうから、よりよい妥協点を探すしかないのでしょう。 できれば、これからも論拠と対案は併せて提示いただけると助かると思います。 特に反対が無ければ、この線で南宋へと突入したいと思います。 五代に長々とつき合わせて申し訳なかったことです。 782 ○ sage 2007/04/08(日) 04 32 23 ID m5io4n1t0 770さん、◆oOLAqFKRBさん、◆RQdk7scN8sさんお手間取らせて申し訳ない。 別に自論を否定されたとは思っていませんよ。 自分は皆でいろいろと前向きに思案すればいいかなと思っていますし。(念のため) 770さんが>彼自身が自分自身に謝ればこの件はそれで終りとして頂きたい。 と仰ってる様に自分はかなり冷静さを欠いていたのはあるかも… 770さん不愉快な思いをさせまして申し訳なかったです。 出来れば最初のレスに 770さんが 定義に対する自論を提示して頂ければ有り難かった部分はあります。 (しつこいとか怒らないでくださいね) 781 五代に長々と~ いやー自分は五代に大した知識の無い方なので◆RQdk7scN8sさんのレスはいい勉強になりました。 雑談もかなり入れちゃいましたけどねw 783 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/08(日) 05 07 40 ID F0HzLaWF0 最近見始めたんだけど、晋の厲公とかも入ってるんだなあ 784 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 18 55 59 ID FOH6MPFEO 777 一応、確認しておきたいのですが、 505案であれば、 金末期の金将の戦いは入りますが、元の外征は外れます。 しかし、この案ならば、異民族の金将による自国内の戦いは入らない。 されども元の漢人武将であれば、一般的な感覚からすると中国領土外での 活躍であっても評価する――と解釈して宜しいんですか? このスレでは基本的に、防衛戦よりも領土拡大を高く評価するので、 守勢云々は外しても変わらないと思います。 元という王朝がなければ征服王朝も含め、中国統一後の領土拡大に貢献した人物は、 戦場が中国本土外であっても、評価に入れるにすれば、 民族に拘る必要がない基準になるのですが…。 785 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/08(日) 19 59 41 ID iqf5zjHk0 784さん 伝わりにくい書き方ですんません。 俺の意図としては中国領土外での活躍は除外、です。 つまり中国本土に攻め入ったトゥルイは入り、バトゥなどは西域で大暴れしてるけどもアウト、という感覚で。 あと郭侃などの両方に戦功がまたがっている人物も、基本的に中国本土での戦果のみ、ということで。 俺は民族の枷は可能なら無視したい派ですが、戦場が中国以外におかれる場合は除外と言う姿勢で書いてます。 ただ、俺なぞの案にとらわれる必要はないですよ。 784さんがこうだと思ったらその武将を推挙して、それについて皆で論ずればいいと思います。 786 ◆RQdk7scN8s 2007/04/08(日) 21 51 00 ID BRC5l4KI0 あらためて読み返していて気がついたので 自分の考える五代~北宋枠の10選を訂正します。 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊業は息子の方がどちらかというとすごい感じ… というか、記録が少なすぎてわかりづらい。 不確定なところがあるので、申し訳ないが息子に譲ってもらうとして かわりに、楊師厚を入れました。 (忘れていたなんて、とても口に出して言えない…ガクブル) 787 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 22 30 43 ID FOH6MPFEO 785 スミマセン、頭の中では次の時代に移っており、そちらに意識が行ってました。 この時代の10選は私個人としては、 786で異存がないです。 漢や唐、宋に明であれば、中国本土外の地域であってもカウントし、 中国本土征服後の清朝であっても、中国本土外の戦い、 (他国との戦い)が外されるのは、可哀想だと思うんです。 元朝の問題がうまく処理されたら、 777案をもって このスレの中国の武将の定義になると思ったまでです。 私としては、少しの修正、補足で、すべての時代で通用する、 定義となりえると感じたので、あえて意見させてもらいました。 788 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/09(月) 00 22 27 ID 7CdWDV6X0 787さん 777を全時代に適応できる汎用定義にすることについてアップデート。 ・中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。 まだまだ完全な定義足りえないのは承知ですが、そこは諸兄に任せます。 本音を言うと他の人が完璧な定義を持ち出してくれると助かるんやけど、怠慢はよくないわな。 786◆RQdk7scN8sさん、 五代・北宋の10選は異議なしです。 次はいよいよ南宋時代、いろいろと各自の自論がぶつかりそうですな。特にモンゴルがらみで。 789 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 00 51 34 ID rTbI/Ux70 <審査条件> 〇、其の人物が名将である。 一、其の人物が中国人である。 二、其の事跡が中国史である。 三、其の場所が中国領である。 <優先順位> 一:審査条件を全てクリア。 二:審査条件を二つクリア。 三:審査条件を一つクリア。 例えば、甲と乙が候補に残り、どちらか一つを決めるとする。 其の場合、審査条件の〇の比較で甲>乙だったとしても、 優先順位のクリアで甲<乙の場合は乙を入選とする。 これで如何だろうか? 790 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/09(月) 19 47 09 ID TnVZNl3/0 楊延昭は名将というには実績が少ないような気がする。 潘美を入れたほうがいいように思う。 791 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/10(火) 21 40 26 ID UAtebvBkO 流れ止まっちゃってるな 792 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 08 25 09 ID 3jvERdIMO どの武将も一長一短で悪く言えば小粒だから 時代もマイナーで語れる人が少ないんだよ 793 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 09 29 51 ID qimM40B0O 792 でも◆oOLAqFKRB.氏の超得意分野だろ南宋とモンゴル武将 794 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 18 50 21 ID FXlcrX3a0 これで 岳飛、韓世忠、孟珙、完顔陳和尚、張弘範、郭侃 成吉思汗、木合黎、速不台、伯顔、拡廓帖木児 この中から一人落として終わりだろ。 795 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/11(水) 20 35 25 ID +N39LNeU0 韓世忠はこの中ではちょっと見劣りするんじゃなかろうか 796 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 04 37 ID 6rx9YgF50 793 まあなんですか。超、というか最も得意とする時代やね。 で、俺的10選を挙げさせていただくと 宗沢 岳飛 完顔宗望(オリブ) 完顔宗弼(ウジュ) 拖雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)もしくは木華黎(ムカリ) 孟珙 伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ)もしくは兀良合台(ウリャンハタイ) こんな感じで。ココテムルは徐達のライバルやし、明朝頭に送るべきと するとだいたいの10人が決まると思うわけやが、どーでしょ。あと韓世忠 入れるんやったらむしろ劉錡を入れたい。正史でウジュの拐子馬を破った のは多分この人一人か・・・あと岳飛も野戦で勝っとるかな。 797 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 21 11 15 ID qimM40B0O 俺は南宋とモンゴル武将が超得意分野な ◆oOLAqFKRB.氏の推薦文とか読みたいし、南宋・金・元のいろいろな話とかも聞いてみたい 折角、定義について話し合ったんだし、みんなで議論しようよ 798 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 18 26 ID 6rx9YgF50 拖雷(トゥルイ) チンギスの第四子、オゴタイの同母弟。チンギスの後継者と目されたが その座を兄・オゴタイに譲った。燕京に盗賊が出るという話を聴きみずから 取り締まりに出馬、賊十六人を斬り捨てる。 巳丑年(って何時?)の夏八月、オゴタイが京城に帰ると即位式を行う。 翌年秋、オゴタイの金朝征伐にトゥルイも兵を率いて従軍、天城堡を破り 蒲城県を抜き、金の完顔合達が西に赴いている隙を突いて黄河を渡り、 鳳翔を撃つ。引き返してきた合達に攻め立てられ不利となるがここで トゥルイが兄を助けて奮戦、合達を斥ける。翌年春、洛陽を落とし 河中の諸城を抜いた。 オゴタイは官山に還ると文武百官、諸侯王を集め、彼らに向かって言った。 「人は言う、国家の損害は実に寇敵によってもたらされると。今、金はいまだ 倒れず。我らの敵なり。諸君、寧ろ謀はないか?」対するにトゥルイが 投降した金人の献策を紹介して強く推した。オゴタイは大いに喜び、 諸王大臣たちを呼び寄せて「(金伐は)かつて父が志し有りながら果たせなかった。 今トゥルイが能くこれを言う、これぞ真に賽因(大いに好ましいこと)なり!!」 オゴタイは即断即決、大軍を発した。 オゴタイは碗子城から南下し、黄河を渡り、洛陽を向けて進発。 斡陳那顔(アッチンナヤン?)率いる左軍を淮南経由で進発させ、 トゥルイの右軍は鳳翔から渭水を超えて宝雞経由で出陣させる。トゥルイは 小潼関を抜き、宋との国境線を通って漢水の下に出た。計画によれば翌年二月、 金の王帥が汴京に遷るはずだった。トゥルイは南宋に部下を派遣して 金朝を挟撃しようと求めたのだが、なにを血迷ったか宋の上層部は使者を 殺してしまう。激怒したトゥルイは「やつらは以前苟夢玉が結んだ同盟関係を どう思っているのか!? 自ら喰らい(多分領土のこと。確証ないが)自ら叛くとは!!」 キレたトゥルイは兵を分かって南宋の諸城堡を攻め下し、長躯漢中まで攻め入って四川を襲い、 閬州を陥とし、南部を打ち据えてようやく軍を還した。そして金の王帥を 房州で補足、武当山で追いついて先鋒部隊三千で金兵十万の中に突撃、 均州まで奔らせる。どれほど激しい戦いぶりだったかは漢水が騎兵の死体で 埋め尽くされたという記述から類推できるかと。トゥルイは部下に千人を つけてオゴタイのもとに派遣、報告し、オゴタイは金の王帥を取り逃したことを 責めたが、部下がいないところでトゥルイを慰労、迅速に京師・官山に引き上げた。 799 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 21 20 00 ID 6rx9YgF50 トゥルイ続き 漢水にとどまったトゥルイは金の大将・合達と鄧州で交戦、金軍の伏兵二十万を 見抜き隘路に拠して敵を待つ。このときトゥルイの兵は四万だったが、 間諜の報告によると金軍も二十万全員が兵士というわけではなく、かなりの 数の輜重部隊が存在することを知って強気の攻めに出る。十二月、禹山で 金軍と交戦、わざと逃げて見せて北に引き寄せる策を使うがこれは失敗。 それならと今度は火計を仕掛け、これが大当たり。合達らは鄧州に奔走し、 トゥルイは三日間の猛攻でこれを撃滅。北に追い立てて部下に三千騎を 与えて追撃させるも、翌朝の霧で視界を遮られた蒙古軍は金軍の奇襲を 受け、珍しい敗戦を経験する。トゥルイは敗戦の部下(札刺)を罷免して 野里知給歹(読めん)に替えた。まもなく金軍を破る。 壬辰(やからそれじゃ分からんのよ)春、トゥルイは陝西・四川・河南の 難路を強行突破して着実に版図を広げる。北に還りつつあるトゥルイに一矢を 報いようと金の合達は歩・騎兵合わせて十五万の大軍で追撃に出た(二十万で三千に負けたくせに)。 このときトゥルイの軍は1万3千。総軍馬から下りて塹壕を掘り、金軍の攻勢を しのぎにしのいで持久戦に持ち込んだ。日暮れ、軍中に「敵の休息したところを撃つ。 夜、鼓を騒がしく鳴らすのがこれだ」と命令。時にオゴタイが黄河を渡り、親王クオンブカら 万騎をつれてやってきた。空に大寒波到来、大雪も降り、金人は凍えて動けず、 顔色も青ざめて到底戦うどころの話ではなくなる。そこを好機と見たトゥルイ(およびオゴタイの援軍)が 襲撃をかけ、曰く「機を失うべからず。やつらは城内に逃げ込んだ。未だ囲むは易からず。 大敵を前に、況や敢えて父君のごとくあれ!!」奮撃して三峰山を抜き、大いに金軍を破る。 さらに十里に渡って追撃し、流血が道を染めざるは無し。金の精鋭はここにおいて尽く失われた。 予衆を狩って雎州まで走り、伏兵が立っても逆に是を潰滅させる。 鈞州に逃げた合達に従うは数百騎。蒲阿は汴に逃走し望京橋に至ったが、蒙古に擒らわれる。まもなくオゴタイが到着、 戦地にとどまって視察し、トゥルイに「はたして汝でなかったなら、この大勝利はなかったであろう」と賞賛した。 諸侯王がオゴタイに進言して曰く「誠に聖愉(?)です。しかるにトゥルイの功、社稷に著しいかと」 それはオゴタイとトゥルイの後継者争い(争ってないけど)でトゥルイを支持したものの言だった。 トゥルイは従容として曰く、「臣に何の功がありましょうや。この天の威、皇帝の福なり」その言には 聞いたものすべてを佩腹させるものがあった。トゥルイはオゴタイに従い、鈞州を抜き、宿敵合達を 殺し移刺蒲阿、完顔陳和尚をも屠る。更に許州を攻め、これも抜く。 オゴタイの先鋒として河南諸郡平定に奔走し、四月、半渡から真定に入り、 中都を過ぎて北口に出る。夏の官山に還った。 五月、オゴタイが身体に変調をきたし、六月、いよいよ病篤くなる。 トゥルイは天地の神々に祈りを捧げ、代われるものならオゴタイと自分の身を代えよと叫んだ。 怪しげなシャーマンを呼びつけて病気治癒の祭祀を執り行わせたりとかなり 必死で兄を心配する。数日が経過してオゴタイがやや回復すると、トゥルイは一緒に北に還り、 阿刺合的思の地にいたる。そこでトゥルイのほうが病魔にやられ、逝去。 本当にオゴタイの代わりに死んだ。享年四十余歳。英武皇帝と諡号を贈られた。廟号は睿宗。 チンギス時代の武功、オゴタイ時代の河北計略における活躍などから人望頗る厚く、 それゆえ以後蒙古の嫡流はトゥルイ家から選出されることとなった。 800 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 45 06 ID oZd1YRNi0 速不台の華々しい戦績は西方遠征ってイメージがあったんで、 777の定義からすると資格なしかと思ってた・・・対金戦でもけっこう功績があるのかな? ◆oOLAqFKRB.さんの推薦文が楽しみですね。 801 ○ sage 2007/04/11(水) 22 46 03 ID t4yNDFjl0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です すいません劉?の?の部分は本来、何となっているのですか? 自分のボロPCでは劉 になっちゃってるもので・・・orz それと韓世忠はなんか嫁さんとセット扱いされてる様な気がしますが… 自分はですね張弘範を推します。あと阿里海牙(アリハイヤ)の評価はどんな感じですか? >最も得意とする時代やね。 いやいや自分の中のイメージでは十分、超が付きますよ。 前々スレから得意な時代と言ってましたし。 あとですね 788で >中国統一政権下における外征で活躍した武将もカウントする。 >唐の李靖の突厥討伐、清の策稜らのジュンガル討伐を認める、ということで。と仰ってますが 郭侃はフラグの西方遠征に従い、ペルシア、バクダード、アッバース朝のカリフを降伏させ、 シリアへ侵入して十字軍と戦った功績も審議の範疇に入れるのでしょうか? 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかなと個人的には思っています。 諸兄、◆oOLAqFKRBさんいかがでしょうか? 802 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 22 55 10 ID oZd1YRNi0 801 脇からですいません。劉キ[金奇]になってます。 803 ○ sage 2007/04/11(水) 23 04 49 ID t4yNDFjl0 802 なるほど劉キ[金奇]ですか。 802さんご親切にありがとうごさいました。 804 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 42 42 ID soE3kzWL0 貼っておきます 南宋・金~元 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、 拡廓帖木児(ココテムル)、 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 、 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範、范仲淹、チュウ師道 張俊、呉?、呉リン、劉錡、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、耶律斜軫、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、張弘範、脱脱(トクト)、呂文煥 796 自分もココムテルは、この次の時代のリストに並べる人物だと思う 時代で区分してるしね 805 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 50 29 ID Bvy9586Q0 李庭芝、候補にも入れなかったっけ?別にいいけど 806 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/11(水) 23 51 02 ID 3jvERdIMO 郭侃は元の武将でしょ。だったらOKでない? 10選入り確定ですな 807 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/11(水) 23 55 30 ID R5Kxdx8b0 速不台 通称スブタイ・バアトル。兄貴・フルコンとともにやたら勇猛、頑強で騎射 を善くした。少年時代、強盗を槍で刺し殺しその一族郎党を遁走させたという 逸話を持つ。 兄貴が将となったので人質の意味でチンギスの傍仕えとなる。壬申(?)年、 金伐戦に参加。恒州攻めで真っ先に城壁を登り、城を落とす。まもなく投降者 滅吉里を部下に加え、蟾河の戦いで一戦にして二将を擒らえる。さらに欽察部 と玉峪で戦いこれを破る。 イスラム討伐から還るとまた欽察討伐を上奏、許される。太和嶺のどてっ原 に工兵を動員して穴を開けさせ、欽察部の予想を超える場所から突撃をかける。 縦横に奮戦するスブタイ軍の前に欽察の軍は潰滅、遁走した。現地の余衆を ことごとく降し、これらの土地を占領下に置き、阿里吉河で斡羅思部の大、小 密赤思老と戦い、一撃のもとに彼らを投降させる。阿速部を獲って帰還。 征西前に東伐戦に参加、撒里畏吾特勤、赤閔ら諸部を倒し、徳順、鎮戎、 蘭州、会州、洮州、河州を抜いて母馬五千を獲て朝廷に献ずる。チンギス 逝去のため第二次征西は一事見合せとなった。 オゴタイが即位すると公主を娶わせられ、皇室の一員に連なる。潼関攻撃 に従軍、利なく、オゴタイが怒った時、勝敗は兵家の常、功を立てて埋め合 わせすればよろしい、とトゥルイに救われた。トゥルイの節度下に入り河南 経営を任される。牛頭関で金将・完顔合達の軍数十万とはちあわせるも、軍 を三峰山に集合させて持久戦の構えを見せる。おりからの大雪と大寒波に乗 じて猛攻をかけ、敵のほとんどを殺しつくすという大戦果をあげる。つーか ここはトゥルイ伝に同じ、でいいんやが。これにより金の対北方戦はまったく 振るわなくなる。翌年夏、トゥルイが官山に帰還するとスブタイが統帥権を 譲渡され、黄河北方に逃れる金主を黄龍岡に追撃、撃破して首級万余を挙げる。 最終的に金軍を蔡州に追い詰め、汴を降し、后妃および珍宝の数々を手に入れ オゴタイに献上、1234年の蔡州の戦いを見届けてのち、バトゥの副将として 征西に出る。これ以降はヨーロッパ戦線での戦いやから必要ないかと。 808 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 00 19 59 ID KgSsk+G50 801 すんません。確かにヨーロッパ遠征組のことを忘れとりました。 征西はモンゴルの仕事やから無視していいか、とか思っとったら郭侃おったし。 788 の定義やと確かにヨーロッパでの戦功も込みになりますわな。 そーすっと郭侃が確定確実に昇格、郭侃を落としたいわけとは違うけど、 やっぱりヨーロッパは違和感あるしなぁ。 ○さんの言うとおり東アジア圏に収めとくほうが無難か。 そこらへん、諸兄の意見はどんな感じなんやろ。 809 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 51 14 ID gfCpSYNA0 1曹操=後漢末 2李克用=唐末 3拡廓帖木児=元末or北元≠明初 4呉三桂=明末or清初 810 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 00 59 00 ID HyfEY1CkO 東アジア圏に収めるとか枠を決めてしまう方が違和感ある。 強すぎてヨーロッパまで届いちゃったってだけで基本的には歴代王朝が行ってきた外征と同じように考えていいのでは。 811 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 09 11 ID PdOk3TRp0 というか、南宋滅ぼす前、フビライによる元朝の成立前のモンゴル帝国は 世界帝国ではあっても中国統一政権という枠には当てはまらないんでは? 元朝以前のモンゴルは 777でいうところの「征服王朝の先行政権」にあたると思われるので、 ・征服王朝の先行政権における武将の場合、中国本土に攻め入って領土を攻め取るか橋頭堡を作り、 そのうえでのちに来る征服王朝の樹立に貢献した武将を資格ありとする。 に適合する、金もしくは南宋攻略での功績に限って評価すべきでは? あと拡廓帖木児について、徐達の遠征を撃退したのって既に北方に逃亡した後ですし、 777の ・異民族武将に関しては守勢(中国からの侵略に対する防衛戦)で高名な武将であっても除外 にあたって候補外になるんではないのでしょうか?詳しい業績まではわかってないんで見当外れかもしれませんが・・・ 812 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 36 49 ID gfCpSYNA0 周 BC1046~BC256 ↓ ● 秦 BC256~BC206 ↓ ● 楚 BC206~BC202 ↓ ● 漢 BC202~8 ↓ ○ 新 8~23 ↓ ● 漢 25~220 ↓ ○ 魏 220~265 ↓ ○ 晋 265~420 ↓ ○ 宋 420~479 ↓ ○ 斉 479~502 ↓ ○ 梁 502~557 ↓ ○ 陳 558~589 ↓ ● 隋 589~618 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 813 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 01 38 08 ID gfCpSYNA0 隋 589~618 ↓ ○ 唐 618~907 ↓ ○ 梁 907~923 ↓ ○ 唐 923~936 ↓ ○ 晋 936~946 ↓ ○ 漢 947~950 ↓ ○ 周 951~960 ↓ ○ 宋 960~1279 ↓ ● 元 1279~1368 ↓ ● 明 1368~1644 ↓ ● 清 1644~1912 ○禅譲による交代 ●放伐による交代 814 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 08 40 10 ID DNpsFED/O 811 それでもモンゴルは東西両方で活躍してる奴多いしなぁ 815 ○ sage 2007/04/12(木) 09 27 23 ID 9MPvgVfh0 【確定組】 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、郭侃 【候補】 李庭芝、忽必烈(フビライ) 、完顔宗弼(ウジュ) 、伯顔(バヤン) 阿朮(アジュ) 、韓世忠、杜杲、張弘範 張俊、呉?、呉リン、劉キ[金奇] 、虞允文、李顕忠、楊存中、僕散忠義 徒単合喜、宗翰(ネメガ)、史天沢、兀良合台(ウリャンハタイ) 劉整、脱脱(トクト)、呂文煥、 孟sル、完顔陳和尚、 bヨ雷(トゥルイ) 速不台(スブタイ)、木華黎(ムカリ) もし候補から抜けてる人物がいる場合は補修お願いします 814 取り敢えずは推薦文挙げて貰ってからアレコレ議論してみては? 816 ○ sage 2007/04/12(木) 09 30 56 ID 9MPvgVfh0 連投ですいません 五代~北宋・遼 李存勗、柴栄、趙匡胤、楊師厚、狄青、李存審、狆師道、楊延昭、李継遷 (契丹枠として)耶律徳光 楊延昭より潘美を入れたほうがいいように思うと言う意見もありますが 取り敢えず以上の十名を確定でということで宜しいですか? 817 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 10 44 17 ID 6PWL2b6B0 バヤンは確定に入っていいと思うんだけどなあ。 818 ○ sage 2007/04/12(木) 14 35 33 ID 9MPvgVfh0 すいません自分が 801で 中国統一政権下における外征は東アジア(ベトナムを含む)に限定するにしてはどうかな? と提案しましたがまだ結論が出ていないのに 815で勝手に 郭侃を確定入りにしちゃってますがよかったのかな? 817さんの仰る様に伯顔(バヤン)は確定入りでいいと思います。 819 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 04 33 ID LWmQ/ydr0 郭侃はオゴタイ時代に百戸長として対金戦争に従事しているし 晩年でもフビライの下で南宋戦に従事しているので 中国の名将扱いにしてもいいと思う。 中近東での戦果は別モノとして考えればいいし。 820 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 17 51 13 ID DNpsFED/O 815 あまり詳しい訳じゃないからなんとも言えないけど、チンギスが居ないのは何故? 彼の頃のモンゴルも 777の「征服王朝の先行政権」として良いんだよね チンギスの中華方面の戦績だと他のモンゴル武将に見劣りするから? 819 郭侃は「征服王朝の先行政権」の「漢人武将」だから、 西方の戦績が考慮されて確定にいたのだと思ったんだが、無しにするの? 821 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 20 53 48 ID agTVIqMpO 820 せめて 784-785、 788を読んでもらえませんか? その上での話なら、それはそれで話し合いをしますが… 822 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 19 22 ID 40NYG0oU0 確定枠の人やけど、孟〔王共〕の紹介文落としていいかいな。 今更いらんなら控えるけども、好きなんでどーせなら開陳したいなーと。 823 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 24 02 ID oljSW7kuO ぜひお願いしやす!! あとチンギスハーンは候補入り可能なの? 824 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 34 08 ID 40NYG0oU0 そんじゃ孟珙の1 曽祖父・孟安、祖父・孟林は岳家軍の将帥として功績を挙げ、父・孟宗政は 制置使・趙方麾下の有力な将帥という武門の家に育つ。若くして優れた才覚 を見せ、團山の戦いで父とはぐれたとき、それを見つけるや単騎金軍の重囲 に突撃、これを破って父を救った。翌日の敵の動きを予測して父に献策、これ を見事的中させて金軍を破るという戦術眼も備える。制置使趙方に謁見し、 一見して只者で無いと直感した趙方より異例の抜擢を受けた。 父が唐・鄧・蔡三州の壮士二万を募って編成した“忠順軍”を受け継ぐ。6年、 金の武仙と5回にわたって交戦、ことごとく捷ち、将校452名、兵士33万余 を俘虜とし、44万の民衆を解放した。功績により顎州江陵府副都統制となる。 端平元年、元軍と連携しての蔡州の役にあたって、元の総帥タチャルのもとに 兵糧2万石を届け、意気投合してタチャルと義兄弟の契りを交わした。忠順軍 を率いて戦役に参加、元の漢人諸侯・張柔が流れ矢に当たって落馬しそうになると 二度に渡ってこれを救った。金軍が老人や稚児を殺して絞った油で放つ“人油砲” を使うと道士を派遣してこれを諭し、人油砲の使用をやめさせた(やめるんかい)。 端平元年正月、蔡州の役で金を滅ぼす。金主・完顔守緒は自ら火をつけて自殺 したので、遺骨をタチャルと分かち、帰国した。功により建康府都統制兼権侍衛馬行事職司。 制置使趙方(この時期は趙葵か?)により襄陽兼鎮北軍の都統制に任命される。 鎮北軍で壮士を募り、兵士一万五千人を獲て隟北、樊城、新野、唐、鄧に配備する。 まもなく枢密院より武器を授かる。 翌年、皇帝に謁見。「卿は名将の子、忠勤に励み国に礼を尽くし、蔡州に金を 滅ぼす。功績昭著なり」との褒め殺しに「これは宗廟社稷の威霊、陛下の聖徳と 三軍の将士の労によるところ。臣はなにほどのこともしておりません。臣、 陛下に願わくは民衆に寛容であり、人材を蓄え、機会を待たれますよう。臣は 所詮武辺の士、戦を望み和議を望まず」と答え、厚い賞与を下賜される。 端平三年、元軍が薪州を攻めると呂文徳とともに現地に急行、囲みを解く。 さらに逆撃して襄陽を攻めるも、江陵の形勢が危急を告げたのでそちらに向かい、 元の寨24個を一夜のうちに覆滅して大勝する。嘉熙元年、顎州諸軍都統制となる。 825 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 36 35 ID 40NYG0oU0 元の大将テモチエ(?)が漢陽から、大将クオンブカが淮甸から南宋領に侵入、 現地の将士は逃亡し、投降し、あるいは敗北する。孟〔王共〕が現地に到着する と民衆は「わが父きたれり」と喜んだ。孟〔王共〕は楼上に帷幕を構え、防衛戦の 指揮をとり、失われた諸州を取り戻した。将士は毎月の苦戦に苦しみ、病人、 けが人が後を断たず。孟〔王共〕は彼らに医師を遣わし、その厚遇に将士は感涙した。 嘉熙二年春、枢密副都承旨、京西湖北路安撫制置使を授かる。郢州、荊門軍を回復し、 十二月、冢頭、樊城、郎神山を攻撃、ことごとく捷つ。翌年正月信陽軍、樊城、 襄陽を回復し、枢密都承旨、制置使となる。光化軍、息州、蔡州を降す。降ったものの 中から百余人を選抜、忠衛軍を創建する。 襄陽がどれだけ重要な地であるかを説明、兵士十万の常駐を請うも認められず。 とりあえず先鋒軍を置く。元のタハイが80万の大軍を擁して蜀土に攻め入ると、 孟〔王共〕は塞を増設し戦艦を分布して防衛ラインを築き上げる。結果元軍は 侵攻できずに撤退、翌年、子爵に封ぜられた。防衛ラインを三層に分けてそれぞれ の州郡に千~一万の精兵を置くことを上奏するも、やはり認められず。王堅、 劉整らを派遣して元の造船所に焼き討ちをかけ、船材と食糧を焼く。淮以下五県から 精兵を359人を募り、“寧武軍”と名付ける。 その後江陵にあって各地の防衛ラインに増援を送ったりいろいろと活躍するも、 孟〔王共〕自身が具体的に戦争の描写があるのはここまで。あとは元軍が攻めて きても孟〔王共〕が守りに出ると向こうから逃げ去るのでほとんど交戦してない。 とにかく上奏するはしから潰されて、武勲の割に相当不遇やった人。死後忠襄と 謚され、吉国公を追贈された。廟号は威愛。 ・・・だいぶ省略、割愛しました。 特に後半の先頭描写がない部分はガリッと削ったけどまあ、いいでしょ。 で、 チンギスは入らんと思う。 「先行政権の武将で、かつ中国本土の領土を切り取るか橋頭堡を作る」 かしてないと資格なしやから。 領土を一時的に取っても引き上げるとまた中国側に取り戻される、を繰り返しよった チンギス時代の蒙古は資格なしっちゅーことになるかなと。 826 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/12(木) 21 40 05 ID 40NYG0oU0 825 変換ミス。先頭描写ってなんや、俺。 戦闘描写です、すんません。 827 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 21 43 29 ID agTVIqMpO 基本的には自分自身が、その人物が中国の武将であると確信し、 名将であると考えるのであれば、推薦するべきだと思います。 鉄木真が中国の名将であると考えるのであれば、推薦文を書き込んで下さい。 その意見が通る、通らないは別問題ですから。 828 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 21 57 32 ID gfCpSYNA0 冒頓単于 拓跋珪 社崙可汗 木杆可汗 耶律阿保機 完顔阿骨打 鉄木真 努爾哈赤 全部outで。 あと、三衒の決めた定義が気に入らないなら終わるまで待つことだな。 829 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 12 51 ID DNpsFED/O 821 失敬 となると、 788の定義で郭侃の西方の戦績は考慮外という事になるのですかね 彼が参加した西方遠征はモンゴルの中華統一(≒南宋滅亡)以前のことだし 830 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 35 49 ID oljSW7kuO 824-825 ◆oOLAqFKRB氏ありが㌧ やっぱチンギスハーンは資格無しですか 831 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 22 48 57 ID 6PWL2b6B0 チンギスはあんまし中国支配に熱心じゃなかった感じだしなあ。 ムカリならともかく。 832 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 02 33 ID agTVIqMpO 830 ですから、鉄木真が中国の名将であると考えるなら、推薦文を書き込んで下さい。 モンゴル統一の為の戦いは入らない、中国本土内の戦闘なら入るも、 その地域を複数年支配し続けてる(短期間ではなく、次の代まで支配する) その条件をクリアしていれば、説得力がますと思いますよ。 833 ○ sage 2007/04/12(木) 23 04 34 ID 9MPvgVfh0 820 テムジン時代のタタル、ケレイト、ナイマン、メルキトの諸部族を破り、 モンゴル高原全体を支配や 金、ホラズム・シャー朝を征服やジャラールッディーンを撃破など 功績はすごいのですが、定義に適合しないと思いましたので候補に入れませんでした。 孟[王共]= 孟sルなんだあまり詳しくないのですいません… 834 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 10 35 ID uB3PX48c0 チンギス・カン 第一次対金戦 内蒙古で金軍を破る 第二次 黄河以北の全域を蹂躙。免れたのは中都を含む十一の 都市のみ。講和成立後、内蒙古に撤退。 第三次 軍を派遣し中都を攻略。 西へ出かける前にかつての燕雲十六州に相当する地域は確保しているから 「中国本土を切り取り橋頭堡を築いた」ことにはなると思うが。 835 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 11 47 ID oljSW7kuO 832 ??? 俺はチンギスハーンを推薦するつもりも中国の名将として 扱うつもりも端からないんだけど… なんか勘違いしてない? 836 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 13 29 ID CZs6aAA10 こら 他人が考えて書いたことを自分が考えたように書くもんじゃない 前にも何度かあったね みっともない 837 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 14 40 ID CZs6aAA10 836は 833 838 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 18 18 ID JPGjroiF0 821 郭侃は最終的に元にいたんだよね? 名将か否か判断するのに○○時はのぞくなんておかしい。途中どこにいようが関係ない、 趙亡命時の楽毅だけをみて燕時代を無視するのと同じだろ 全体を見て判断しないといけないと思う 839 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/12(木) 23 24 08 ID DNpsFED/O 833 まあ、あの定義だとチンギスもありにはなるはずでは、と思っただけでして 確かに完全に遊牧民だし西征で有名だけど、統一王朝の先行政権を開いて中華地域で戦っているのは事実なんで 840 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 23 29 26 ID agTVIqMpO 835 ならばスレ違いですね。ここは中国の名将を選ぶスレなんですから。 841 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/13(金) 20 38 52 ID eTh9VGg00 人がおらんよーなので、人寄せの意味も含めて紹介文落とします。 張弘範(字は仲疇。○さんが推すゆった名将やね) 張柔の第9子。よく馬槊を使い、かつ詩文の才にも長けた。二十歳のとき、 兄が順天路をはなれることになると代行を任され、民吏の諸問題をたちどころ に採決して人々を感服させる。蒙古の軍がやってきて暴力を振るうと弘範は 杖刑をもって彼らを痛めつけた。順天路に彼がいる間、蒙古と言えども非道な 真似はできなかった。 中統三年、行軍総管とされる。合必赤親王が済南の李壇討伐に向かうと副将 として従軍、弘範が城の西に野営地を置くと、李壇が兵を発した。諸将が色めき 立つ中弘範は一人冷静で、「我、険地に営す。壇すなわち我に弱を見せ、必ず 奇兵をもって襲い来る。我の謂わざれども悟るものなり」として準備を進める。 弘範の策を知らずに攻め寄せた李壇の軍はあるものは壕に埋まり、あるものは 伏兵にやられて全滅した。弘範の勝報を聞き、張柔は「真にわが子なり」と喜んだ。 至元元年、兄が出世したことで順天路の守りを任されることとなった。翌年、 洪水で家は流され、到底租税が納められる状態ではない。しかしそれを言って 聞くような朝廷の文人どもでもない。弘範は直接京師に赴き、フビライに面と 向かって説教。フビライも話の分かる人で、「それを問うなかれ」と謝罪した。 至元六年、南宋の襄陽(せっかく孟珙が必死こいて取り戻した要地)を囲む。 万山に回回砲を据え付け、試し撃ちをしようとした瞬間、南宋軍が攻め寄せた。 部下たちは弘範を置いて城に逃げ込む体たらく。「敵を前にしてあえて退くと いうものには死を!!」との叫びに偏将・李庭が飛び出し、他の将がそれに続く。 弘範は二百騎を長く布陣させ、「我の鼓を聞く、すなわち進め。鼓なかりせば 動く勿れ」南宋軍が突出してくるが、弘範の軍は動かず、南宋軍は再び進んだ かと思えば退却した。南宋軍の士気が低下していることを見抜いた弘範は鼓を 鳴らし、弘範の軍千人が一斉に襄陽を襲う。南宋軍は奔潰した。 面倒なので、こっからアジア歴史事典の丸写し。 南宋討伐に参加し、各地に転戦したが、とくに張世傑の水軍を焦山に破り、 戦艦80艘を奪った功が大きい。毫州万戸に任ぜられ、抜都(英雄)の名を 下賜される。南宋の首都、杭州臨安府陥落ののち軍を還すが、翌1278年、張 世傑、陸秀夫らが衛王を立てて皇帝とし、元朝に反抗したので討伐軍の総帥 となり、水陸二万の軍を率いて南進し、まず文天祥を擒らえ、つづいて張世 傑らの水軍を崖山に破った。こうして輝かしい武功を立てて79年凱旋した が、まもなく病没した。謚は献武。 842 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 21 44 40 ID PpLGyfJ60 孟[王共]は全時代の十人でも入るなあ 843 ◆RQdk7scN8s sage 2007/04/13(金) 21 48 39 ID GvRJnFDj0 842 入るでしょうねぇ。 彼に皇帝たるの地位があれば、かなり強固な国家体制を作れたことでしょう。 前線の一司令官は戦略的な視野や構想力より、戦術的な手腕が必要だけど 孟珙はその両方を兼ね備えた稀有な人物といえるから。 844 ○ sage 2007/04/13(金) 23 26 01 ID yKT0Xcnd0 ◆oOLAqFKRBさん 乙です 843 ◆RQdk7scN8sさん古巣での活躍ぶり(?)拝見してますよ。 (もし別人ならごめんなさい) 張弘範は、阿朮(アジュ)、伯顔(バヤン)の元で華々しい活躍を見せ、 更に南宋を滅亡に追いやったのは彼の力に因るものが大きいかと思います。 あと阿里海牙(アリハイヤ)なんかも自分は推したいですね。 845 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/13(金) 23 31 58 ID +sNzR0sV0 この時代区分は、全世界全時代の十人に入るようなのがうろついてますよね 846 ◆oOLAqFKRB. 2007/04/14(土) 00 47 00 ID VTU7cCbT0 842さん、◆RQdk7scN8sさん、 孟珙を高く評価してくれて中国史で一番孟珙が好きな俺としては 嬉しい限りです。本当に、彼が構想しある程度までは完成させた防衛 ライン(完成しなかったのは朝廷の援助を受けられなかったから)が 機能している間は、孟珙死後までモンゴル、元朝も南宋に手を出せん かったわけやし、完全に自由な権限さえ与えられれば南宋長久の策が 実現したかも知れんのですよ。長期戦になったとしたら攻めあぐねる 元朝と対等以上の講和が結べたかも知れんし、後任が軍事の分からん 賈似道のバカでなかったら、と心から思うところです。ちなみに俺の中 で中華史上名将ベスト3は孟珙、李靖、韓信の三人で、奥ゆかしい性格 と優れた教養から孟珙を一位に押し上げたいところ。まぁ俺の中での ランクづけやからそうではない、という意見の諸兄も多々おるやろーけど。 ○さん アリハイヤですか。 彼もアジュの副将格でいろいろ活躍してますね。アジュが襄陽・樊城の 要地を陥として一旦帰還した後も南征を続け、東西58州(56州?) を切り取ったつわもの。しかも性格は温厚で戦場でも無闇な殺戮を戒め、 占領した土地の人々をいたわって租税を軽くして人々から賛美された 広義での名将。張弘範もやけど○さんは人民をいたわる名将が好きなん かなーと個人的に思ったりしますが、どーなんでしょか。 847 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/14(土) 02 44 23 ID h02UpDZjO で、郭侃は確定でいいのかね? 848 ○ sage 2007/04/14(土) 03 22 05 ID YWuWyns60 846 ◆oOLAqFKRBさん レス㌧あんた領土切り取り杉やろ、なんて思っていますアリハイヤ。 845さんのご指摘通り凄いのがゴロゴロし杉なんですけどねw 自分の名将ベスト3は韓信、孫武、岳飛というところですかね。 韓信は頭の中が普通じゃないし、孫武はマルチ杉、岳飛は戦上手なだけでなく忠義の塊ってとこに魅力を感じます。 それに孟sルもかなりのやり手で狄青みたいに上司さえに恵まれていれば 良かったのにそこら辺が悔やまれてならないっていうのが自分の印象です。 >人民をいたわる名将が好きなんかなーと個人的に思ったり~ はいそうです。 自分の場合は基本的に農民など下層出身で尚且つ義理人情に厚いか忠義の人で、 そのくせ戦争には滅法強い(奇策を得意としたり、読書家なら尚良い)という人物が好みのタイプですね。 岳飛、狄青、薛仁貴とか、あと楽毅、徐達なんかも好きです。 849 ○ sage 2007/04/14(土) 03 29 36 ID YWuWyns60 847 諸兄が郭侃の西征での功績を含めるべきというなら確定でいいと思います。 850 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 07 12 11 ID 9iDv5RQB0 「誰某が名将としてどの程度か」と問うならば、 全ての手柄を斟酌してその手腕を量るべきだろう。 一部だけ切り抜いて量ることなど不可能だし意味がない。 そもそも漢人でも戦歴をぶつ切りにされるというのはおかしな話である。 蒙古帝国が中国ではない、というのは判る。 だが彼を選外とするのは「漢人が中国人ではない」と言ってることと同じだ。これはおかしい。 民族の一個人として見れば、その手柄の立てた場所とか相手を区別して云々する必要はない。 それに1127年の靖康の変で宋は南北支那の統一王朝としての面目を完全に失っている。 燕雲十六州を支配したのみの遼を北朝と呼ぶことは難しいかもしれないが、 中原を完全に支配した金はそう呼んで差し支えないだろう。 支那史のお約束通りに考えるならば、 その金は1234年に蒙古の攻撃で滅んでいるので、北朝としての天命は蒙古勢力に移行したのだ。 以後の西征は紛れもなく北半分の統一王朝の遠征であるので除外する必要はない。 その論理は無茶だと言うならば、五胡の蛮兵や、統一した隋以前の北朝の指揮官、唐の外国人の客将は全て除いて頂きたい。
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/25.html
sdfksjd
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/28.html
251 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 12 34 57 ID xwzJOgNP0 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟キョウ、郭侃、伯顔、カイシャン、トゥルイ、、阿朮、チャガンテムル でいいや。俺は ほんと次の時代に行こうや 252 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 12 59 34 ID 5pB+Z/Gd0 251 確かにもう先に進んだ方がいいかもね、又一から語りたいって人もいるだろうし(自分もだけど) 陳和尚は落とすには惜しい人物だがモンゴル系の名将が犇めきあっているこの時代では落選するのも仕方ないことかも 253 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 14 26 19 ID 8TdR/9M6O 251 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟[王共]、郭侃、伯顔、カイシャン、 トゥルイ、アジュ、チャガンテムルor張弘範 なら異論はないけど。 陳和尚は仕方ない諦めるよ。 》ほんと次の時代に行こうや でも話合いをしているのをうやむやにして次の時代にいったら 次の時代でも同じことされるよ。 それでもいいの? 252 》又一から語りたいって人もいるだろうし(自分もだけど) じゃあ今まで決めたり今から決めようとしてることは無駄な作業ということ? 254 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 14 38 16 ID 5pB+Z/Gd0 253 ごめん、そういう意味じゃなくてまだ確定が決まっていない時代について語りたいということです 255 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 15 02 34 ID LNk8M4MQO 251、 253 スブタイが落ちた理由は何? 256 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 15 22 09 ID FZdoa03k0 トゥルイ入ってるからバランスで外したってくらいしか思いつかない 功績からしたら、スブタイ(征西除く)>カイシャンになりそうだけど 257 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/28(土) 17 36 17 ID 8ygMLR39O 敵対する勢力を根こそぎ倒し、フビライ家の威信を高めたカイシャンの功績が、 ここまで評価されないなら、正直、どのぐらいの実績を残したら良いのか分からない。 258 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 18 17 38 ID FZdoa03k0 257 うーん、カイシャンをここまで強烈にプッシュしてるのって、見る限りあなた以外にはいないような・・・ 他にいないならともかく、征服期の最強モンゴルと被っている分、不利になるのは仕方ない 秦を二回撃破してる信陵君も一発屋として選外になってるし、大勢に与えた影響では カイシャン以上の謝玄あたりも一発屋で選外だし、戦績が少なめな人は敬遠される傾向にある カイシャンがそこまで優れていると力説するなら、その優秀なところが他の人にも理解しやすいよう、 具体的な指揮や策略なんかのエピソードを挙げてもらえるとよいのではないかな? ・・・それはそうと、史天沢あたりも長期間活躍してるイメージがあるけど、あまり推す人いないね 259 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 03 14 ID 8TdR/9M6O 255 創業期のモンゴル武将は伯顔、トゥルイ、アジュの三人が入ってればいいだろ? 中期にはカイシャン、あとは残り一枠はチャガンテムルか張弘範。 てな感じでバランス取ってみたんだけど。 張弘範は南宋にとどめを刺したとこだけがクローズアップされてるけど それ以外の功績を考慮すれば落とされるほどでもないと思うけどね。 258 同意 カイシャンは確かに凄いと思うけど、確か簡単な紹介文ぐらいしか挙がってないよね? 俺も含めてみんな余りカイシャンについて知らない部分が多いと思うよ。 ここは合議制で決まる部分が大きいし、 カイシャンの功績などをしっかりアピールしたらいいと思うよ。 260 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 16 42 ID FZdoa03k0 259 バランス云々言うなら、なんで張弘範が残るの?矛盾してない? 261 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 19 50 41 ID FZdoa03k0 現状を整理してみます。トゥルイ、アジュ、チャガン・テムルは特に異論もなさそうなので確定入りで。 バランス考慮するならカイシャン入選で 251でok バランスこだわらないなら、カイシャンを張弘範やスブタイより上に見るかどうか?ですかね。 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望、孟珙(キョウ)、郭侃、伯顔(バヤン)、拖雷(トゥルイ)、阿朮(アジュ)、察罕帖木児(チャガン・テムル) 【有力組?】 海山(カイシャン)、張弘範 速不台(スブタイ)、阿里海牙(アリハイヤ) 【有力だったが惜しくも落選?】 完顔陳和尚 【次の時代候補?】 擴廓帖木児(ココ・テムル) うーん・・・しかしココ・テムルはここで入れないなら、 徐達遠征の撃退の功績は北元での防衛戦になって、資格なしってなりません? 262 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 20 02 42 ID 8TdR/9M6O 260 ごめん、ややこしいんだけど 創業期のモンゴル武将に偏らない様にする部分と時期の部分の 両方考慮して考えてみたからまあ矛盾する部分はあるかも… 多少の矛盾は勘弁してよ。 263 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 20 38 01 ID LNk8M4MQO ここで郭侃落としてスブタイとか言ったらさらにグダグダになる? 264 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 04 25 ID 8TdR/9M6O そりゃなるだろうな 265 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 12 41 ID LLHhsbmL0 261 十区分の時代分でこれまで9人分しかだしてないところもあるんだから ここで11~13人ド~ンと確定出してもいいと思う。 自分は呉カイと張俊を推薦しておく。呉カイは陝西で、張俊は淮東・淮西で 岳飛と同等級の重要性を担った活躍をしたから。 266 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 28 13 ID FZdoa03k0 262 選定の論理に矛盾があると揉める元になりそうなんで確認しときたかったのです・・・ 263 個人的には 47の郭侃の東方の戦績は、この時代では即確定ってほど抜けてるわけではないのに、 推薦文上がって東方の戦績もあるってだけで勢いで確定になったように思ってるので、スブタイin郭侃outには賛成 でも郭侃押しにこだわる人は多くいそうだから揉めるかもね 265 唐のあたりで似たようなこと言い出した人がいてかなり荒れたのを思い出します・・・・ できれば過去スレ読んでください。そうすればそんな発言はできないはず。 あと抗金名将は結局大勢を覆すには至ってないので宗沢・岳飛入ったらもう十分って思いますよ。 267 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 31 50 ID LLHhsbmL0 266 そんなことがあたんですか・・・。 軽はずみな発言、この通り謝します。 でもまあ張俊くらいは推薦してもいい・・・よね? 268 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 21 38 47 ID 8TdR/9M6O 267 あったよ(ry でそりゃあ荒れに荒れた(ry それと張俊じゃ十傑入りは厳しいかと… 269 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/28(土) 22 28 33 ID 9HSuCpNr0 261 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 【有力候補】 海山(カイシャン)、張弘範 郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)、張俊 指摘通り、郭侃の確定入りは勢いの部分が否めないので 取り敢えず有力候補へ入れてみたよ。 一応こんな感じでおK? ココ・テムルについては言いだしっぺの◆oOLAqFKRB.さんの意見を伺いたいのだが 忙しいのか最近顔を出していませんね。 ご登場願えないかな? あとカイシャンの件もあるのだが… 270 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 02 18 10 ID vD14S6sq0 残り1名を、とりあえず置いといて次の時代に進んでみては? 271 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 03 32 46 ID XRa4Mjqz0 カイシャン(海山) 1300年8月に闊別列でカイドゥを破る。 1301年8月、モンゴル高原に大挙侵攻してきたカイドゥを大元ウルスは総力挙げて 迎撃した。カイシャンは迭怯裏古でカイドゥ軍を潰滅させた。二日後、カイドゥは全軍 を合わせて来襲し合剌合塔で交戦。戦況不利となり、カイシャンは自ら出陣して奮戦し カイドゥ軍を大破しその輜重を全て奪った。明日また戦い、カイドゥは元軍が少し後退 したのに乗じたがカイシャンは力戦して突出し敵陣の後ろに出て全軍還った。カイドゥ は優勢な元軍に大敗して目的を達せずに去り、その時の傷がもとで(もしくは病気で) 死んだ。 カイドゥとドゥアはカヤリク市より数日の距離で元軍と交戦し、カイドゥはいつものよう に勝利し大量の戦利品を獲得してそれに満足して帰途についたが、たまたま沙漠で病気に かかって死んだ。(モンゴル帝国史の注にあるワッサーフの記述を要約) カイドゥの死後、その王国はドゥア・チャパル派とオロス派に分かれて内紛が生じた。 そのような状況でカイシャンはアルタイを越えてオゴタイ家の本拠地を占領し、またこの時 アリク・ブケ一族が投降したことにより敵対勢力は消滅し北方は平穏となった。 272 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 04 27 44 ID KEDiawjZ0 明清になるのをじっと待つぜ… 273 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 05 11 10 ID NFfqariJO カイシャンってアピールするほど凄くないように感じるけど… 274 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/29(日) 15 29 05 ID IphoJY+y0 カイシャンと争ったカイドゥについて ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%89%E3%82%A5 カイシャンが越えたアルタイ山脈 ttp //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E5%B1%B1%E8%84%88 凄くないって何が凄くないのよ? 275 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 15 44 48 ID IphoJY+y0 ageてたな。すまん ココテムルに関しては次の時代でいいのでは? 攻守の方向が変わっただけで金の侵攻から国を守った抗金名将たちとやってることは変わらんだろうし 徐達に勝った後も南下して中原回復をめざしたりしてるし 276 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 16 16 58 ID kd3eRFeA0 269 どうもありがとう 残りの有力候補からはアリハイヤを推したいかな 274 史料によってはカイドゥが勝利したとなってるのは、曲筆を少し疑ってしまう カイドゥ破ったのが正しいとしても、元への投降が増えて勢力瓦解の危機になり、 破れかぶれで攻めてきたのを普通に迎撃しただけってイメージを持っちゃうな 総力をあげてとなってるが、勢力比とかどんな感じだったのだろうか? カイドゥ健在のときに積極的に攻め入って破ってたなら文句なしで入選だけど・・・ 山脈越えについてはパミール越えやった高仙芝も外れたからねえ・・・ それに元々遊牧のモンゴルがそういうことやっても、それほど凄いって思えない あと元ネタがwikiでは残念ながらやや説得力弱い 275 異民族政権なので、 69の定義に従えば、元か北元かで、 統一政権の防衛戦として認めるかどうか変わってくるのですよ 277 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 18 45 24 ID NFfqariJO 276 そうだね俺もカラコラムの戦いとタミールの戦いについていろいろと調べてみたが カイシャンがカイドゥを打ち破ったとしか書いてないし、 具体的な記載が見当たらないのでイマイチどう凄いのかピンとこないのだが… 国の存亡を掛けた戦いを制したという感じないがあまりしないのがぶっちゃけた感想。 で 273の様なコメントになった。 パミール越えをやった高仙芝が落選したのはタリム河での敗戦が評価に響いた訳で 山脈越えしたのに落選という訳じゃないんだよ。 張俊はやはり十傑入りは厳しいと思うが… 278 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 22 24 57 ID xVCgEaS10 【確定組】 9名 宗沢、岳飛、完顔宗望(オリブ) 、孟[王共]、伯顔(バヤン)、トゥルイ、阿朮(アジュ)、速不台(スブタイ)、察罕帖木児(チャガン・テムル)、 これまでのに慣例(?)に従って一枠を残し、 海山(カイシャン)、張弘範、郭侃、阿里海牙(アリハイヤ)を有力候補・議論中として、 もう次の時代に行く? 279 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/29(日) 23 54 58 ID xVCgEaS10 明 【確定組】 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥 【候補】 朱元璋、陳友諒、方国珍、湯和、李文忠、藍玉、于謙、兪大猷、 王守仁、拡廓、呉三桂、李自成、鄭成功、馮国勝、張輔、張士徳、馬芳、 【資格あり?】 拡廓帖木児(ココテムル) 取り敢えず貼っとくよ。 280 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 09 49 02 ID /DwM+G9u0 朱元璋が中国史どころか世界史でもナンバーワンとかいう説があるんだが。 281 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 13 54 15 ID 5evbkO/+0 280 出典は? 282 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 14 48 40 ID jSUKrpFa0 んじゃ、もう明代入ってええの? まだ元代で語り足らない方がいらっしゃるなら、もうちょっと我慢するけど。 283 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 15 32 19 ID h1ArJXGGO もういいんじゃない? 流れも止まってた気もするし。 284 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 17 50 23 ID 0o7XXxcXO 281 出典も糞もないよ。最下層からの天下統一だからってのが理由。 名将である論拠じゃない。 285 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 02 10 ID 5evbkO/+0 284 なら取り上げる必要は無いねぇ。 ここ、名将スレだし。 286 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 14 36 ID /DwM+G9u0 朱元璋の仕事量は異常。 一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 部下を殺しすぎだが、これほど働けるなら粛清も手段としては有りだな。 まあ自分の後の馬鹿息子たちにもそれを要求するのは見通しが甘いと言えるが、 当時は目先のことで手一杯だったのだろう。 徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 将之将として元祖の劉邦より上かも。 287 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 18 37 52 ID h1ArJXGGO 286 >朱元璋の仕事量は異常。 >一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 つーか始皇帝は? >徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 つーか自分でやるにしても劉伯温の力が大きそうじゃない? 将の将については以前かなり揉めたのだが… 288 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 19 56 59 ID 2p2qUwGuO ハヨーコでの戦略的失敗と呉王以降は部下功績と理由で確定から落とされた朱元璋だが やはりカムバックを要請する。半生は彼の指揮がもの言ってたし、その後将の将なったからって外されるいわれはない 289 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 21 39 45 ID zq78DjSZ0 このスレは、「兵の将」の能力で選定しているのだと思ったが? 290 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 34 41 ID 8n8s+mbY0 紅巾時代の朱元璋は間違いなく兵の将だったわな。 291 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 39 05 ID h1ArJXGGO 288 だったら朱元璋の半生の指揮がもの言ってた実績をアピールしたらいいんじゃない? 曹彬なんかも用兵に巧みだったことについてエピソードなどを挙げてと頼んだけど、 結局、挙がらず落選したんだし、 確か朱棣の軍事的資質が凄いから朱元璋も凄い筈だみたいな意見が出てたが却下され、 その後、将の将なんだから評価しろみたいな話になったような希ガス。 でも別に将の将なったからって外された訳じゃなかったような記憶が・・・ 劉邦も将の将だからって落ちた訳ではないし。 292 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 22 46 08 ID 8ybH+zNFO すでに確定してる名将の列伝を誰か書いてくれないか? 今までの推薦文だと文量やら個人差が大きかったり、わかりにくかったりする 素人の俺が見ても名将の名将たる所以がわかる文章を誰か頼む 293 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 22 47 57 ID SqQ5Twlw0 286 一日に千件の上奏文、三千件の案件を処理するなんて信じられん。 事務処理能力の凄さは皇帝としてはプラスでもこのスレでは評価対象にならないわな 徐達がいなくても自分で北伐くらいは軽く出来そうな指導力。 北伐の実績はないわけで、仮想・妄想で語られてもアピールにはなりませんよ? 推薦するなら朱元璋が自身が指揮したときの実績を挙げて、その凄さをアピールしないと。 294 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/30(月) 22 52 39 ID 0o7XXxcXO 289 それと 288の主張は矛盾してないよ。 あくまで将軍として兵を率いた時代の実績をもって、推薦してるだけだから。 将の将~は無視して良い。もし、どうしても呉王以降の業績を軍功であるとするならば、 その理由を明確にしない限り、いっさい考慮しなくて良い。 幸いこの時代は、しょせん一発屋だからと、候補止まりにできそうな人物が多いし、 下手な小細工は要らないと思うよ。 295 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/04/30(月) 23 15 49 ID 5evbkO/+0 294 だからこそ事績をつまびらかにせよという主張を 291がしているわけで。 296 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 00 17 51 ID Ulz7nq870 朱元璋の呉国建国までの戦績 徐達、湯和ら二十四人と郭子興の元を去ったとこから始まる。 一三五四、定遠にて民兵集団の首領・驢牌寨を計略を持って倒し、配下三千人を獲得。 その後、黄カン山のビュウ大亨の配下二万を夜襲をもって服属させる。 一三五四、チョウ州を墜とす(この戦は花雲が活躍) 翌年、迎え入れた郭子興と共に和州を攻撃、和州城を攻略。 牛ショ磯・サイ石の元軍と陥落させ、退路を断ち兵を奮い立たせ太平の司令官ナガチュを捕らえる。 しかし元将マンジハイ、アルクゥイらが、朱元璋が去った後のサイ石を奪回。 陳埜先と康茂才の数万と共に二面作戦を展開。 朱元璋は防戦しつつ、奇襲部隊を持って挟み撃ちにし陳埜先を捕らえる。 陳埜先は説得を受けずに解放され、再び集慶の福寿と共に朱元璋を伺う。 朱元璋対峙しつつ、徐達を蕪湖や句容などに向かわせ、南方から集慶を牽制し、 常遇春をサイ石のマンジハイに向かわせ和州と太平の線を回復した後。 集慶を攻め、途中で陳兆先(埜先の子)を破る。降伏者は三万六千。 集慶城を猛攻し、一日で落とす。民兵五十万を摂取。 一三五九、浙東攻撃を開始し、李文忠らがブ州を守備してた石抹厚孫を抜けないので援軍を率いる。 ブ州救援に向かう処州の石抹宜孫(厚孫の兄)に大勝し、ブ州は孤立、降伏する。 陳友諒は艦隊を率い、揚子江を渡り太平を陥落(守将の花雲は殺された) 一三六〇、サイ石に進駐し、徐寿輝を殺して漢を建国した陳友諒は張士誠との朱元璋に対する挟撃作戦を持ちかけるも。 結局は単独で応天攻撃を開始。朱元璋政権は震撼し降伏論や退去論がでる有様。 朱元璋は劉基と意見を共にし、決戦を決意。胡大海を信州を牽制させ、康茂才をして偽内応をしかける。 この戦いに勝利した朱元璋は捕虜七千人、巨戦艦百余隻、戦艦数百隻を得る。 太平を奪回した朱元璋は乗して安慶、信州、浮梁、袁州を攻略する。 翌年、陳友諒が再び安慶を陥れたが、朱元璋は自ら兵を率い奪回、長駆江州を攻め、逆に陳友諒を撤退させる。 ジョウ州、建昌、竜興などと次々と攻め落とし、漢は盛時の半分以下の領土になる。 一三六三、張士誠軍に攻め立てられた小明王の救援に向かう。(劉基は陳友諒の動きを警戒し反対する) 無事、小明王を救出したが、その安豊に向かう間に陳友諒が軍備を整え再び進軍。 ハ陽湖の戦いに至る。(この戦いは有名なので省略) 297 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 10 48 08 ID zzFkThvrO コレで落選ってこの時代、どんだけ凄いんだよw 298 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/01(火) 12 10 44 ID 0C9OK2/a0 ハ陽湖の戦いに至る うおお、そこへ行くまでが奮い立つじゃないですか。 つうか、まだメインイベントじゃないのか。 ところで、まったく関係ないことだけど、この頃の華南とはどんな状態だったのか ヒマがあれば教えてください。 (なにせ自分の時代は南宋の滅亡とともに終ってますので) 299 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 14 03 14 ID Ss8ybL//0 298 ◆RQdk7scN8sさんへ、これぐらいは知っとるかしれんけど当時の概要。 元朝の支配力が弱まった14世紀半ば、苛斂誅求と自然災害によって人心が離れた時期、 人々は農民階級に強く根を張る白蓮教の教えにある救世主到来を強く心待ちにしていた。 しかし南人(旧南宋人)たちは長らく虐げられ続けていたこともあって救世主到来を待てず、 不満を爆発させて武装蜂起。モンゴル打倒を叫んで“紅巾軍”を結成、江南の各地で モンゴル軍や地主を襲い、思いを同じくする農民勢力を取り込んで勢力を拡大していった。 これによりモンゴル貴族階級対漢族農民階層の対決構図が明らかになり、 朱元璋がのちに述懐するように「人を殺すこと麻の如し」という凄惨な状況が長いこと続く。 ちなみに劉福通ら率いる穎州系紅巾賊を東系、徐寿輝ら率いる湖北系紅巾賊を西系と呼び、 朱元璋が身を投じた郭子興は東系紅巾。 (世界歴史体系・中国史・四巻、明・清より) 300 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 14 55 19 ID gKO/jiSL0 朱元璋と毛沢東はイメージがなんか同じだ 301 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 15 15 07 ID Ss8ybL//0 292さん 10行ぐらいで簡潔にまとめりゃいいかいな? いっぺん長文書いた人物やったらつづめられると思う。 例 孟珙(字は璞玉。1195-1246) 名将孟宗政の子。若くして対金戦で非凡な才覚を発揮する。 父の死後、彼の創建した“忠順軍”二万を受け継いだ。 金の武仙と5度に渡って戦い、金兵数万を斬り宋人数十万を解放。 蔡州の戦いに参加。モンゴルの大将タチャルに兵糧二万石を届け、自身も奮戦、金を滅ぼす。 モンゴルとの戦いにおいて常勝無敗、占領された要地・襄陽、樊城を回復した。 襄陽に兵士10万を駐屯させることを乞うが認可されず。ひとまず先鋒軍を置く。 各地に転戦して奪われた版図を取り戻し、子爵とされた。 江陵に屯して四川から襄陽にわたる三層の防衛ラインを構築、各地に一千~一万の兵を駐屯させるを乞うが認められず。 襄陽に兵を募集し朝廷に北伐を進言するも、過去の宗沢同様、聞かれなかった(「三十年余中原の人心、今志あれども実現あたわず」)。 再び江陵に屯してモンゴル軍南下に備える。敵が南宋領内に入るや防衛ラインに兵を送り、事前に牽制して敵を領内に入れなかった。 1246年9月、没。死後吉国公と謚される。忠義に厚く教養があり、仏教と易学に精通し、自ら“無庵居士”と號した。 ・・・こんな感じでどーやろか? 269さん ココテムルの扱いについて。 元朝がまがりなりにも中国の北半分を擁していた時季は統一国家、元の武将として叛徒と戦った名将。 北元に退去したのち中原回復を志して南下してきた時は統一国家・明に戦争を仕掛けた異民族国家の名将、 という扱いで俺の頭ん中では処理されとるんやけど、変かいな? 302 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 15 30 39 ID +OW6jgdx0 301 269さんではないですけど、一点質問です。 北元に退去したのち中原回復を志して南下してきた時は統一国家・明に戦争を仕掛けた異民族国家の名将 の扱いだと、北へ撤退後に攻め込んで大きく領土奪った実績がない場合は、 69の定義からは完全に外れると思うのですけど、その辺はどうなんでしょうか? 303 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 15 49 30 ID Ss8ybL//0 302さん 完全俺のミスです。死角です。 ただまぁ、 「領土を掠取」はできてなくても 「当時の中華国家の人々に恐怖意識を植えつけた」 方でなんとかならんかな~。 当時ココテムルがどれほど恐れられたかによるけども。 304 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 18 41 ID 8XSv3Wv+0 301 ◆oOLAqFKRB.さん、徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥についての説明文を今、作成中なんですが任せてもらえません? で自分は実は 269なんですがココテムルについてはぎりぎりセーフかなつーのが自分の意見なんですが。 それと前の時代枠でも弾かれ、明でも資格無しではココテムルが可愛そ過ぎませんか? (こんなこと言ったらみんなに怒られるかな?)〇 305 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 16 29 51 ID Ss8ybL//0 304さん 本当やったらわざわざ断ってもらう必要ないんやけど、 毎度俺が勝手に紹介文書くケースが多いもんね。もちろん了解、任せます。 ココテムルはどーやろねぇ。「泣く子も黙る」とかそーいう記述があればなんとかなるんやけど、 せいぜいが劉基の「拡廓、未だ軽んずべからずなり」ぐらいしかないんよね。 朝敵としては恐れられたが民衆は大して怖がってなかったってことやろか。 でも才能あるのに弾くのが惜しい・・・って耶律休哥のときもそー言って結局落選したわけやが。 やっぱ定義定めた自分が曲げるのは問題あるよなぁ。誰かココテムルの凄い情報もっとらんかいな。 306 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 33 11 ID +OW6jgdx0 303 304 現定義で考えると、ココ・テムルは元の枠に入れるべきではないかな、と思ったりしてます。 別に前の時代枠でも、明代に入れて徐達とセットにした方がよいってことで先送りになっただけで、 実績不足で弾かれたってわけじゃあなかったですし、残り一枠をカイシャン他と争うのでもいいのでは? 307 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 16 42 10 ID hH1WBaPs0 ある酒宴の席で朱元璋が 「今の世で最も怪傑と呼ぶに相応しい武将は誰か?」 と尋ねると、満座の臣下たちはみな常遇春の名を挙げた。 しかし朱元璋ただ一人が敵であるココテムルを推し、その勇武を賞賛した───という話が野史に見える。 308 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 19 40 59 ID 1dBDNDUw0 常遇春の奥さんは食べられちゃったよね。 309 携帯からで読みづらいかも知れん sage 2007/05/01(火) 20 20 10 ID uRoWrSN0O それからの朱元璋 ハ陽湖における戦いで陳友諒は巨艦数百隻・軍勢六十万を発し、南昌を攻めました。 守備部隊のトウ愈、朱文正は小勢にもかかわらずよく守り、三ヵ月の時間を稼いだので朱元璋は救援に向かうことができました。 陳友諒は朱元璋到来を聞き、東転しハ陽湖に船団を整えました。後世名高いハ陽湖の戦いが始まります。 三日間の戦闘は陳友諒優勢に進んだ為、朱元璋は一計を案じ、近くの漁船と枯草を集め、火薬を乗せて東北からの風を待ちました。 風が吹くやいなや朱元璋は船に火をつけ風上から陳友諒軍に突っ込ませたのです。 陳友諒の戦艦は全て三階立てで、軍馬の小屋すらあり、船体には鉄の裏打ちが施された重船でした。 しかし煌々と燃える炎は船団を食らい付くし、陳友諒は弟の友仁、友貴らを失います。 大型の陳友諒の船に比べ朱元璋の軍団は小型で、燃え盛る陳友諒船団を縫って攻勢に出たのでした。 翌日、乾坤一擲、陳友諒は再び決戦を挑みますが、大敗しハ陽湖からの脱出を試みます。 しかし朱元璋は先んじて出口である湖口を押さえた為、 敗残の陳友諒軍は朱元璋軍との睨み合いを続けなければならなくなります。 数日の内に食料が欠乏し、部下の投降が相次ぐようになった陳友諒軍は 血路を開こうと囲みの突破を計り戦闘が開始されます。 午前八時から始まった戦いは日暮れても決着をみず、勝負は翌日に持ち込まれるかと思われましたが、 船頭で陣頭指揮をとる陳友諒に流れ矢が貫通、一代の梟雄はその生涯をにわかに閉ざしたのです。 勇躍、朱元璋は陳友諒軍を責め立て、総崩れにし、皇太子の陳善児を捕らえます。 明けて一三六四、朱元璋は晴れて呉王の位につくと、武昌に逃れた陳理(友諒の子)を親征、平定します。 さて、残るは朱元璋に先んじて呉王を称していた張士誠です。 彼の勢力範囲は現在の浙江省、江蘇省、山東省、にまたがる大国であり、さらに西に汝州、エン州、濠洲を加えてました。 生産力では当時の全土の租税額の三分の一、塩に至っては六割を賄う巨大国に対し 朱元璋は徐達、常遇春に二十万の軍勢をもたせ制圧させます。 張士誠の呉国を併呑した朱元璋は北伐を計画します。常遇春は一路大都を突く戦略を挙げますが 朱元璋は採用せず、周りの拠点を落とし、孤立させた後に大都を攻めるのを指針とし、 再び徐達、常遇春に兵を預け、一方で湯和らに南征を行なわせ統一を達成したのでした。 顧みるに、朱元璋の戦術は常に相手に先んじて退路や援軍、補給線を断ち 十分に疲労してから叩くという、戦術的奇才というよりはセオリー通りの戦術家と考えられます。 逆をいえば機を見るに敏、兵は拙速を尊ぶの才が高かったといえるでしょう 310 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 21 45 55 ID CvnnNoeq0 307 手元に史料がないので、確認は取れないけど、 朱元璋が王保保を天下第一奇士と評したって話は確か明史にも載っていたはず。 それと、以前、明代の名将を議論していたときにも散々述べたけど、 再び張士誠の弟である張士徳を推す。 江南三強中、最大の生産力を誇る姑蘇の地を張士誠が制し得たのは、 彼の活躍によるところが大きい。 『国初群雄事略』の「周 張士誠伝」は三巻に分かれているけど、 事実上第一巻は張士徳伝と呼んでいいのではないかと思うほど、 その活躍が全文の多くを占めていたように記憶している。 彼が指揮をした戦いで敗北したのは、俺が記憶している限り、 苗族の元将楊完者の守備する杭州を一度は陥落させるも、その後奪い返されたことと、 朱元璋軍に攻撃されていた常州の救援に向かい、 徐達、常遇春等、朱軍の名だたる名将たちと激突し、善戦の末虜になったことぐらいか。 (前述したが、現在GW帰省中で家に帰らないと史料が参照できないので、 ちょっと記憶違いがあるかもしれない。) また、常州での朱元璋と張士徳の攻防戦を『国初~』著者の銭謙益は 明建国過程の重大事と評して、作中でも最長の考証文を書き綴っている。 他にも、これまたずいぶん前にここや元末スレでも述べたことであるが、 張士徳直属の部下に史椿という武将がいて、 彼は張士徳没後、次第に綱紀が弛緩してきた張士誠軍に見切りをつけ、 チャガンテムル(暗殺された後は朱元璋)に投じようとしたという話が伝わっていて、 直接の記述は見つけられなかったものの、 張士徳の軍の綱紀を重要視する姿勢を垣間見ることができる。 また、こっちは軍事とは関係の無い話かもしれないが、 陳基をはじめ、多くの才能ある人物の発掘も行っている。 311 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 03 14 ID 8XSv3Wv+0 292 徐達 紅巾の乱が起こると、その朱元璋の麾下で濠州の蜂起に参加。 集慶(南京)を陥す一翼を担う。 鎮江に進撃、常州・常熟を落し、張士誠の勢力を弱体化させる。 ハ陽湖の戦いでは先鋒を務め、猛火の中を勇戦し敵を撃退。 張士誠を討って江南を平定。 北伐では征虜大将軍に任じられて山東・河南を降す。 大都を陥落させ、河北を平定。 応昌攻略ではココ=テムルに撃退されたが、 先鋒として数多く各地を転戦した彼は明朝開国の功臣の第一とされた。 常遇春 劉聚の蜂起に従う。後に和州で朱元璋に帰順。 采石・太平を奪取、総管府先鋒に任命され、後に総管都督となる。 集慶を攻略従い、最も著しい功績を挙る。 徐達に従って鎮江を責め取り取り、常州を破る。 浙東を攻め、衢州を陥落させる。ハ陽湖の戦いでも功績を挙る。平江で張士誠を滅ぼす。 北伐では徐達の副将として大都を陥落させ、太原にココ=テムルを攻め、全寧にエスを大破させ、李文忠と共に北元軍を撃破し、開平府を攻略した。 勇猛果敢で知られ、集慶攻略や陳友諒・張士誠平定では武勲第一とされた。 朱棣(永楽帝) 燕王時代に北平を鎮し、北伐の際北元の乃児不花を捕らえる。 靖難の変にて耿炳文・李景隆・を打ち破る。 明軍より兵力差などが不利な状況に有りながら(五十万対十万) 最終的には南京を陥落させ建文帝に勝利。 即位後、北元に親征を五度に渡り行いモンゴル族を打ち払い、 また安南にも遠征、これを直轄領とした。 満州も征服している。 戚継光 倭寇及びモンゴルと戦って戦果を挙げた。 浙江南部・福建方面に来襲した倭寇の大軍に連戦、兪大猷・劉顕らと共に数々の功績を挙る。 しかしその名声は他の二人に大きくうわまっていた。 戚継光の活躍により東南の倭寇の害は取り除かれた。 また薊州などを鎮め、規律ある軍制と卓越した指揮により 戚継光は北方に十六年間、侵略を防ぎ続けた。 袁崇煥 進士に及第した後、遼東の守備を志願。寧前兵備僉事に抜擢される。 後金のヌルハチが寧遠を攻撃した際、ポルトガルから輸入した大砲(紅夷砲)を駆使、 清軍を敗北させる。功績により遼東巡撫となった。 ホンタイジを寧錦で破る。 薊遼・登莱・天津の軍務を統括し、寧遠に鎮める。叛将の毛文龍を殺す。 こんな感じですが五名の名将たる所以は分かって頂けましたか? 299 >(世界歴史体系・中国史・四巻、明・清より)ですか、アジア辞典といい羨まし杉・・・〇 312 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 04 18 ID CvnnNoeq0 305 >「泣く子も黙る」とかそーいう記述があればなんとかなるんやけど 確か、ずいぶん昔にどっかの先生が書いた「拡廓帖木児の死について」って論文に、 北元政府はココテムル死後も外交の場においてココテムルは健在であると宣伝し、 そのネームバリューを利用していたって書かれていたから、それなりの威勢はあったんじゃないの? 313 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 06 47 ID 8XSv3Wv+0 連投スマン 309 徐達や劉伯温にばかり目が行っちゃうけど改めてみてみると 朱元璋自身もかなりの戦術・用兵家なんだな。 ちなみに羅貫中がハ陽湖の戦いをモチーフに三国志演義での赤壁の戦いのは描かれていて、 諸葛亮の神掛かりな奇策は劉伯温をモデルにしてるみたいな話があるんだよね。 314 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 22 39 22 ID 3DNBoeHE0 李文忠(あざなは思本。1339-1384) 太祖朱元璋の甥。養子とされ朱姓を下賜される。読書を好み鋭敏であった。 武勇にも優れ勇は三軍に冠たり。青陽、石埭、太平、旌徳を攻め、ことごとく降す。 浦江にて苗族の反乱を平定し降伏した兵士三万を自軍に取り込む。現地で搶掠・放火を厳禁し、 現地の人々に恩沢と誠心を示した。 厳州を守る。張士誠が攻め込んでくると二度に渡ってこれを撃退、以後張士誠は あえて厳州をうかがうことをしなくなった。 呉軍十万が諸全を攻めると徐右丞、邵平章をつれて諸全へ。浮き足立つ呉軍を大いに破る。 張士誠が二十万の大軍をもって新城に攻め寄せると寡兵で迎撃、騎兵の機動力に任せて 縦横に敵軍を切り崩し、向かうところ敵なしの大活躍でついに敵軍を潰走させる。 数十里に渡って追撃し、数万を斬った。 朱元璋の呉攻めに従軍、別将として桐盧、新城、富陽を抜き、杭州まで陥とした。 兵三万と食糧二十万石を得、朱姓から李姓に戻る。建、延、汀の三州を平定。 洪武二年、常遇春の副将として元の上都を攻める。常遇春が死ぬとその軍を引き継ぎ、 大将軍徐達のもとで慶陽、太原を攻め陥とす。 翌年、徐達と別に十万余の兵を率いて北伐、元の平章・チュチェン、シャブチェン、 シャンドゥガンらを斬り、あるいは投降させた。時に元帝が崩じ、太子のアイユチリダラが 新たに立った。李文忠は間者の報告でこれを知ると応昌に走って元の新帝を襲い、 その嫡子と皇后、妃、宮人ら数百人を擒らえ、宋から元にいたる玉璽その他の宝物を奪った。 凱旋し戦利品を献上、奉天門で洪武帝の朝賀を受けて戦功一等とされた。 洪武五年、北伐。馬が流れ矢に当たり落馬するも、元兵から馬を奪い死戦、ついに敵を破り 捕虜万余を獲る。ただし曹良臣以下の名将を失ったため論考は行われなかった。 翌七年、各将道を分かって出陣し、三不刺河で平章・陳安礼を捕らえる。白登で太尉・ブカを擒らえた。 秋、大寧と高州を抜き、宗王ドドチリを斬り、承旨・百家奴を擒らえた。氈帽山で魯王を斬り、その妃 および司徒タンハイを斬った。 洪武十六年冬、病を得、翌年二月、世を去った。享年四十六歳、岐陽王に追封された。謚は武靖。 太祖の陵に倍葬され、建国の功臣第三位とされた。 315 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 43 13 ID wvylm5yGO 演義赤壁はハ陽湖の戦いをモデルにしたかも知れないが ハ陽湖の戦い自体は正史にある赤壁の戦いを参考にしたんでなかろうか 劉基とか頭良くて正史一通り読んでそうな奴もいただろうし 316 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 22 45 02 ID 3DNBoeHE0 連投、つーか反省。 26行ですか・・・やっぱ長いわな、俺の紹介文。 311さんみたいにスパッと行くと気持ちいいんやろーけど上手くいかん。 317 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 22 48 28 ID wvylm5yGO 間に割ってた。済まん 318 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 03 43 ID 8XSv3Wv+0 314 李文忠ですか。自分も目を付けてたんですよ。 自分は鄭和と曹文詔を推します。(推薦文はまた今度ということで) ◆oOLAqFKRB.さん だいぶ前にも言いましたが、〇〇を撃破、××を攻め落とした部分などを強調し、 エピソード的部分は添え程度にしてみてはいかがでしょうか? まあ◆oOLAqFKRB.さんの推薦文を楽しみにしている人も居るかも知れないので あまり要らんこと言えませんが・・・ 〇 319 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 19 39 ID wvylm5yGO 王玄策がスルーされてるこのスレで鄭和の出番あるんだろうか… 詳しくないんで推薦文に期待 320 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 23 43 05 ID zzFkThvrO 315 赤壁の戦いの記録のドコを読んだら、ハ陽湖の戦いに応用できるのか知りたい。 疫病が流行ったんで侵攻した側が火をつけて退却。防御した方は名声を得た。 という経緯じゃないの!? ハ陽湖の戦いは、戦術的には特殊なトコはなく、先行する例はよくあるけど、 赤壁の戦いと共通点があるとは知らなんだ。 ニワカの俺に分かりやすく、咬んで含むように教えてもらえるとありがたい。 321 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/01(火) 23 47 43 ID 8XSv3Wv+0 319 せっかく期待してくれてるのにスマン、鄭和じゃなく湯和だった。 鄭和の功績じゃ無理だ・・・ つーか手持ちの資料じゃ詳しい記載がないんです。 322 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/01(火) 23 53 17 ID zzFkThvrO 319 このスレ的には候補すら入らないけど、軍事的には重要人物ですよって場合には、 推薦文があがることあるよ。 こんな人物だったんだぁ~ 知らなかったよ。㌧クス!!でも無しだな(プ って感じでスルーされるが、それはそれで一興かと。 323 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/01(火) 23 56 23 ID 3DNBoeHE0 これで今日は打ち止め。明で俺の一推しといえばこの人(李文忠も好きやけど)。 馬芳(字は徳馨。?-1579) 十歳のときアルタンに攫われたが隙を見て逃走、帰国。非凡な体力により兵卒に抜擢される。 嘉靖二十九年、威遠で北虜と交戦、敵の伏兵を見抜いて逆撃し、自ら首級九十を挙げた。 嘉靖三十六年、土蛮が十万騎の大軍を擁して界嶺口に迫るも、 馬芳が兜を脱いで素顔をさらすと「げぇ!! 馬大帥やんけ!!」と驚愕して退却。北賊に大いに恐れられる。 宣府の守りを任されたとき、北賊が山西に侵攻すると一夜に五百里を駆けて交戦、七戦七捷して敵を殲滅した。 嘉靖四十五年七月、辛愛率いる十万の騎兵を馬蓮堡で迎撃、謀略と敢闘をもって大いにこれを破る。 馬芳は胆力智謀に優れ、敵情を熟知してその虚実を利用することを得意とした。情報戦を得意とするが戦に臨むとむしろ猛将型であり、 常に士卒に身を先んじて突撃することを旨とした。しばしば出兵して敵の堡塁を破壊。あるときは自ら督戦し、あるときは副将を遣わして戦果を上げた。 大同がアルタンに犯され、宣府の馬芳は現地に急行、アルタンの軍を打ちのめして辺境に安寧をもたらした。 馬芳は行伍(一兵卒)から十余年で大帥となり、膳房堡、朔州、登鷹巣、鴿子堂、龍門、万全右衛、東嶺、孤山、 土木、乾荘、岔道、張家堡、得勝堡、大沙灘などの戦役で活躍、大小百戦以上を経て身に傷を受けること数十、 つねに寡をもって衆を破り、かつて大勝せざるはなし。敵の部長を擒えること数十、斬殺したもの無数、威名は辺境まで轟きわたり、 功績は当世の将帥に冠す。石州城が落ちたとき、防衛軍指揮官の副将・田成威と参将劉宝が死刑に処されるところを、自らの功績に免じて 彼らの一命を助けてくれと上奏した美談が残る。 削りに削って15行。孟珙でも10行ちょっとやったし、こんくらいが俺的ギリギリラインか? 324 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 00 09 18 ID Ilihl0BuO 323 そんなに鬱になるなよw 俺はいつも楽しみにしているし、凄く勉強になる。 程々の長さならそんなに気にしなくてもいいんじゃない? 325 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 09 34 33 ID z559dP//0 代表的な一つの出来事を丹念に書き記した方が面白い 出来事の羅列は見てる方には退屈 326 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 09 51 22 ID HBHBRtZm0 325 どこが面白いかなんて人それぞれだし、推薦文投下する側で判断することじゃない そういう類のわがまま言うなら自分で史書を読むべし 327 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 11 45 47 ID /Zu/GTxd0 325 読み物としてはそうだろうが、実績評価の材料にするぶんには 羅列のほうがわかりやすいと思うよ 史書といえばやっぱりみんな明実録とか読んでるわけか? 328 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 11 53 42 ID JjxXbAi30 自分は今まで大体あんな感じの推薦文投下してきたんだけど 不評なら投下するの止めようか? つーか自分の力量じゃ、あんな感じにしか作成出来ないし・・・ 329 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 12 49 00 ID cVwz+1tH0 あんな感じってどれのこと? 309のようなのだったら、明を知らん自分にはありがたすぎるくらいなのだが。 だいたい、個人の能力を引き比べているこのスレではあれど そのときの勢いとか、世論の方向性とか、開戦にいくまでの経緯とか 知って損はないはず。 というかそこまで分析する必要が実はあるのだけどね。 まぁ、それは冗長になるから、個々の専門スレですればいいが、 ここがオレ的に一押し、みたいな付加的要素は加味すれば、なおよし。 羅列とか箇条書きでは、味気ないというか、すごいのかどうなのか、 わかりにくいところもあると思う。熟知している人にはくどく感じるだろうがね。 330 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 14 08 04 ID JjxXbAi30 329 例えば、◆RQdk7scN8sさんと五代・北宋・遼で推薦合戦しあってた時の推薦文が自分のスタイル。 (楊師厚、霍彦威、郭崇韜などや南宋・金・元の劉整) 311は 292さんが分かりやすくと言っていましたのでシンプルにまとめてみました。 味気ないと言われれば立つ瀬がないわけで・・・ 駄目なら本当に投下止めますが。 331 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 14 47 40 ID OlVm8I7a0 324さんは擁護してくれたけども、どーも書き込んでいいんかどーか悩んでしまうな。 一つの出来事にスポットを当てる、ちゅーことやったら箇条書きやめてエピソード重視の長文に戻したほうが受けいいんやろか。 例えば大同がアルタンに襲われたときのエピソード。 大同が犯され、その害は宣府にまで及んだ。総督・陳其学は恐怖し、大同は混乱に包まれる。代わって趙岢が総兵官となった。 趙岢は紫荊関を扼守したが懐仁、山陰をほしいまま寇賊に略奪され、罪に落とされ俸禄を三級落とされた。 馬芳はその後任を任され、彼から防衛の任を引き継ぐ。アルタンは転戦して威遠に逼り、いくつかの鎮を陥とした。 ちょうど陳其学が胡鎮らを率いて馬芳の陣に合しようとしたが、馬芳は余計な兵力は自らの天才を阻害するものだとして救援を拒む。 そして将兵に告げて曰く 「大同、宣府と比べるにあらず、我との間一墻のみ。時ならず寇、到る。大創もこれをあらざるべからず!!」 (大同の重要度は宣府とは比べ物にならず、しかも彼我の距離は一墻のみ。時ならず賊が襲い来るも、大創を負ったとて退くべからず!!) ここで領軍の右衛を突出させて威寧海子で交戦、大いに敵を打ち破りアルタンを就撫し、辺境には遂に平穏が訪れた。 こーいうの入れたほうがいい? むしろこっちのほうが得意っちゃ得意やけども。 332 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 14 59 42 ID OlVm8I7a0 あとID JjxXbAi30さん、やめるとか言わんでください。 推薦文職人は結構貴重な存在なんやから。 それに 311は推薦文じゃなくて簡潔な紹介、という前提なんやから批判されてもノーカンでしょ。 333 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 16 32 42 ID xaQW0wEP0 まとめサイト作ったほうがいいな 334 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 16 46 22 ID JjxXbAi30 332 ◆oOLAqFKRB.さん ㌧ 正直にぶっちゃけるとコテ(?)はあえて付けてませんが ID JjxXbAi30は貴方のよく知っているアイツな訳で。 丁寧語じゃないのは常時だと正直、精神的にしんどい訳で、砕けた書き方してます。 自分の力量と蔵書じゃいつも投下してる、 推薦文を書くのが限界なんですよ。 あれが受け入れられないなら消えるしか道はない訳で・・・ 335 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 16 48 28 ID cVwz+1tH0 330 実は○さんですか? 自分は文句ないので、続行よろしく。 なんでそんなに悲観的になってるんでしょ。 336 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 17 12 14 ID hUEcqCSmO 中国史素人の俺だけどまとめ作ろうか? 337 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 17 36 10 ID JjxXbAi30 335 はい。自分は〇です。(思うとこがあってコテはずしてますが) 325の>出来事の羅列は見てる方には退屈 329で◆RQdk7scN8sさんの >羅列とか箇条書きでは、味気ないというか、すごいのかどうなのか、 わかりにくいところもあると思う。 このレスにマジで凹んだんですけど・・・ あんなんでよかったら投下しますが他の皆さんいいんでしょうか? 338 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 17 55 32 ID HBHBRtZm0 337 どんな形式であっても、推薦文投下してくださるだけで感謝しますよ おいらは、自分では投下もしないのに、他の人が投下してくれる 推薦文には文句つける輩はこのスレにいる資格なしと思ってます 339 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 18 07 35 ID cJ8fvbR10 俺もオッケー問題なしと思うよ。 受け取り方は十人十色なわけやから、書き込みの文体も千差万別でよかろ? それに、あそこで凹んだゆーたら短文にこだわって箇条書きの紹介文書き連ねた俺も同じ。 なんにせよ需要は十分にあるんやから、知識があるのにそれを隠すのは勿体無いやん? 340 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 18 10 40 ID Ilihl0BuO 338 同感。俺もそう思う。 それとクレクレ言っといてサンクスや㌧も言わない奴って せっかく親切に教えてくれた人にかなり失礼な話じゃない? 341 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 19 55 27 ID cVwz+1tH0 337 それは申し訳なかった。 …でも、今までのアレで味気ないとか思っているとしたら、 ちょっと自己を過小評価気味とおもいますけどねぇ。 自分は朱元璋のくだりや、 311のことを指して、羅列や箇条書きと言ったつもりじゃなかったのだけどね。 特にこれと言ったレスを指したわけじゃなく、広義のつもりだったのだ。 曹彬のときにもあったけど、華南平定に貢献した、とかそんなんじゃどうすごいのかわからんもんね。 しかも、華南平定に功績があったのは曹彬じゃないし… 勘違い等も含め、それを訂正するためにも、多少文章は長い方がいいと思っている。 それがあの、前スレで1000いかずに終った原因なんで、申し訳ないところではありますが。 340 そうですよね、自分も礼を書くのをすっかり失念していましたよ。 299の岩城氏にはいつも感謝しております(ついでにいつも非礼で申し訳ない)。 309 鄱陽湖のくだりもおもしろかったです。こういうの書いてくれると燃えますね。 342 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 20 39 26 ID Ilihl0BuO 341 別に貴方を責めているんじゃないよw 第一、ちゃんと分かってらっしゃるみたいだし。 忘れてたなら仕方ないよ、俺もそこまでは責めるつもりないし。 でも居るよね?明らかにクレクレ言うばっかりの人って…… 343 ○ sage 2007/05/02(水) 21 01 15 ID JjxXbAi30 ID HBHBRtZm0さん ID /Zu/GTxd0さん ◆oOLAqFKRB.さん ◆RQdk7scN8sさん 支援ありがとうごさいます。浅学の自分には勿体ないレスに感謝です。 只今、曹文詔の推薦文を準備中なので仕上がり次第、投下しますね。 でちょっとチラシ裏なんですが、初代スレで◆oOLAqFKRB.さん(?)が叩き台などを投下したりして 孤軍奮闘?してるのを目の当たりにしています。 その中で◆oOLAqFKRB.さん(?)がポツリ愚痴をこぼしたのが頭に有ったのと、 春秋・戦国の時代枠の時に推薦文の件で揉めたことがあったんです。 これをきっかけに自分もちょっと推薦文挙げてみようかと思ったんですよ。 で今日に至ってます。 だから推薦文を挙げる苦労はよく分かるんです。 取り敢えず出来る範囲で頑張ってみますので皆さんお手柔らかにお願いします。 連投スマン 344 ○ sage 2007/05/02(水) 21 02 31 ID JjxXbAi30 連投スマン 341 いやいや◆RQdk7scN8sさんこちらこそ過剰反応してスマン。 話の流れ的に自分の事かなと思った訳で・・・orz で長文の事はあまり気に為さんな。 自分も大変勉強になったし、言わば糧ですよ糧。 345 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 21 34 12 ID O6R8Ym980 俺も今までの分感謝書き込みしとこうかな。 ◆RQdk7scN8sさん、○さん、そしてその他このスレで支えてくださった 皆さんにありがとう。下手すりゃ二代目スレでキレて排除されるとこやった のを容認してくださったみなさんがいなければ今の俺はいません。 本当に感謝。 343、○さん。 確かにありましたよ、その事件。思い出したくない俺の黒歴史やけどね。 あと、後漢から清までの叩き台出したのは俺で合ってます。なんのかんの言って結構楽しんでました。 現在俺は何騰蛟の紹介文を作るべく翻訳中。 こんな名前聞いても「は?」やろーけど、結構剛毅な抗清英雄なのです。 ・・・友達に騙されて攫われたり、あんまり英雄っぽくないけど。 346 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22 14 25 ID Tf5leQ4PO 前スレが1,000いく前に書き込めなくなり、 スレ立てを頼んだりしたわけだ。その件に関しては、どう思ってんの? 住人以外に迷惑かけて、反省や対策も講じず、長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! なら、それはそれで問題では? その辺はどう思ってんの? 長文投稿者および擁護者は、ちゃんとスレ立てするか、長文を諦めるのが筋じゃないの? それを考慮したうえで結論出さない? チョット論点が違いすぎる。 347 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 29 02 ID HBHBRtZm0 346 前スレのスレ立てでのごたごたに関しては反省すべきなのはおっしゃるとおり でも、それは推薦文あげてくれる人だけの責任じゃないだろうに 誰か気づいた人が立てるように心がければ済む話であって、 むしろあなたの言うことの方が論点がずれている ただ、スレ立て失敗も多いんだから依頼するのは2chでは普通のことだし、 1000いかないで終わるの自体はも別に問題ない 348 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 29 44 ID xK4Lal9FO 346 長文・AAが多いスレでは残り容量に注意すべきって基本忘れてたのは問題だが…… 349 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 22 43 20 ID cVwz+1tH0 346 申し訳ないと思っているし、今回の件で初めてそれに気づいたわけだから 今後はないようにするつもりでいる。 書き込めなくなるのは、初の経験だっただけに、新スレをたてるというところまで 気が回らなかったのは事実であり、あれでも謝罪したつもりだったのだけど 気に入らなかったのなら、もう一度謝る。 ただ、長文書くことはそれとはスタンスが違うので、そっちはできればやめないで欲しい。 個人サイトでは、これほどの人たちが集まるとは思えないし、 結局、数人の固定メンバーの牙城になるのがオチですもんね。 無意味なよくわからんコピペ長文ではない、有益な文章を排除してしまうのは あまりに排他的だと思うんだよね。もったいない。 納得いただければ、以下続行よろしく。 350 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 22 49 18 ID xbrb3H6G0 346さん 反省してるし悪いとも重々思ってるし、謝れというなら謝ります。 けども 長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! なんて思ったことは一度もないしね。これはつきつめれば自己満足やし。 で、前スレの反省を踏まえた上で今スレでは出来るだけ短くなるように、 少なくとも1レスで収まるように、出来れば30行以内、と自分に 課しとるんやが、まだ足りんかな? 351 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 50 30 ID CVOSUQDR0 割と歴史好きな一般人だが、 12読んでも知らん人ばっかでへこんだよorz 春秋戦国~前漢までと隋・唐はだいだいわかるけど 後漢なんて特に、知らん名前ばっか 有名な劉秀班超、三国の曹操周瑜はいいとして他は全然わからん 馬援とか入ってないんだな 陳の中国の歴史をちょっと開いてみたら、岑彭くらいしか名前が出てこない 樊崇って名前も複数人に連なって書かれてるだけだった 陳は後漢初期はたいした人物がいない灰色の時代とか書いてるな まあ陳の知識がそれまでなんだろうけど 検索かけてもほとんど出てこない名ばっかだけど、みんな何で知るの? 何か、後漢の連中についてわかりやすく書かれた書籍とか教えて欲しいです あと耶律徳光ってよく知らんけど耶律楚材は入ってないのね・・・わけわからん 歴史の教科書レベルの頭じゃついていけまへーん 352 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 22 58 04 ID Ilihl0BuO 346 >住人以外に迷惑かけて、反省や対策も講じず、 いや長文派はちゃんと反省、謝罪してたぜ。 >長文書いてやったんだから礼の一つもしろ!! そんなこと誰が言ってる?そのレスを示してみてよ。 でスレ立て依頼したのは俺なんだが、スレ立ては何度トライしてもダメだった。 仕方無しに代わりにスレ立てて頂けませんか?と依頼したんだ。 つーか貴方の方が 347の指摘するように論点ずれてるし、それは今出てる話とは別問題。 第一スレ立ての件は誰もいつまでも粘着してないのだが…… 353 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22 59 27 ID Tf5leQ4PO 347 348にある通り、長文、AAが多いスレは、1,000いかずに書き込めなくなるのは常識だ。 それなのに対策たてません。他人に迷惑かけても問題ねぇ、んなこと知るか!! は無責任すぎるだろ。750過ぎたら次スレの準備するなりの ルールを決めようや。よくあることだから無問題。なんて非常識すぎる。 それぐらいも出来ないのか? それ以外の理由で長文をやめる必要はない。長文が嫌なら読まなきゃ良い。見なきゃ良い。 そんなの議論してどうする。馴れ合いたいのか? 〇さん凄いッスと、互いが誉めあいたいのか?キモすぎだよ。 354 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 23 06 36 ID Tf5leQ4PO 長文書いてやったんだから~は 340を読んだから。 じゃ何か?クレクレ君には長文で返さなかったとでもヌカすのか!? 悪いが短い文で返してたとは思えないぞ。 355 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 08 00 ID HBHBRtZm0 353 前スレが容量増えたのは、推薦文よりも定義論争の方が影響してたんじゃないかと思ったり・・・ 早めにスレ立てするのはよいと思うのだけど、この板だと保守しないでも平気なんかね? そしたら500くらいで次スレ立ててしまってもよいのかも 前半部分は正論なんだけど、 それ以外の理由で長文をやめる必要はない。長文が嫌なら読まなきゃ良い。見なきゃ良い。 そんなの議論してどうする。馴れ合いたいのか? 〇さん凄いッスと、互いが誉めあいたいのか?キモすぎだよ。 この記述するなら、キモすぎていづらいだろうから このスレから去るか、もしくは永久にROMっててくれな 356 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 23 21 00 ID Tf5leQ4PO 〇が叩かれたのは、特定の人物におもねり、反対意見はキレたからだろ!? それなのに馴れ合いはデフォだからROMれ!!ほう、反省もしないで居直り上等かいな。 これまた素敵な反論ですこと。人格者は違うな。 357 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 30 14 ID Ilihl0BuO ID Tf5leQ4POは態度最悪!! 長文派のレスちゃんと読んだか? それとクレクレ君の中にはサンクスや㌧のひとつも言わない無い奴がいるから これはどうなんだと言ったたけで長文とは関係ない。オマエは読解力ないのか? このスレが気に入らないなら無理に参加しなくていい。悪態を垂れ流すだけなら甚だ迷惑だ!! つーかID Tf5leQ4POはスルーと言う事で。 358 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 33 26 ID HBHBRtZm0 356 君のいう反省ってのは、君の言うことを全て認めてひれ伏さないと駄目なのか? 君の言う妥当で正しい部分はみんな認めてるでしょうに 改善すべき部分だけ書いて余計な煽り部分入れなけりゃあいいのに、なんでわざわざ煽るのか? そんなだと、いくら正しいことを言ってても大多数の人には聞く耳持ってもらえないよ・・・ 359 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/02(水) 23 39 51 ID cVwz+1tH0 356 つまり、何が言いたいかというと? 長文だめ、単行レスしてきちんと1000までいけ それがダメなら、さっさと次スレたてろ。 ともかく見ててキモイから長文と馴れ合いはやめろ。 ということ? 次スレ云々はすまん、君には常識でも自分にはなかった。 今度からは常識にするけど。 それと、クレクレ言ってたのは誰かは知らんが、礼を入れることはそれほどおかしなことじゃないと思うが。 自分も前に、他スレにまで礼を言われたことがあって、それは励みになった。 まぁ、自分は強要せんがね。 熱いレスを投下してくれればいいと思っている。 ○さんを持ち出す理由はわからんが、特定できる存在を特定できない存在が叩くのはフェアではないでしょ。 そこは控えたほうがいいと思うが、いかが? 351 鬼スルーされそうな勢いなので、答えてみる。 陳って、陳舜臣? たいした人物がいない、というより同一勢力に固まった、とみるべきでしょうね。 後漢初は、日本語で読めるろくな書物がないので、ツラいと思う。 陳センセは「小説・十八史略」書いているけど、あれは正史のおもしろエピソードを抜き出した いってみればオリジナル。本当の「十八史略」とはずいぶん違う。 それなりに参考にはなると思う。 360 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 40 30 ID Ilihl0BuO 358 ID Tf5leQ4POはわざと煽ってるんだよ。 こんな奴いちいち相手しなくていいよ。 相手にするだけ時間の無駄だ。 361 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 45 45 ID HBHBRtZm0 351 検索かけてもほとんど出てこない名ばっかだけど、みんな何で知るの? 推薦文上げてくれてる方々は、だいたいは正史かその他漢籍史料を読んでらっしゃいますな その他、アジア歴史事典とかも元ネタになってました 何か、後漢の連中についてわかりやすく書かれた書籍とか教えて欲しいです 書籍じゃないけど、光武帝関連のこのサイトとかどうですかね? http //www.geocities.jp/kaysak864/ あと耶律徳光ってよく知らんけど耶律楚材は入ってないのね・・・わけわからん 徳光は遼の太宗です。楚材は政治家なんで、名将スレでは対象外です。 362 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 46 40 ID 8Ccz95AL0 陳御大に大した知識がないなんてそんな恐ろしいこと言う人が居るわけがない きっと 351は朕って言おうとしてたんだ。自分のこと皇帝陛下みたいな一人称する人なのさ 363 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/02(水) 23 48 21 ID f1tECAra0 今の話の流れとは全然関係ないんやけど・・・ 何騰蛟の紹介文は明日ってことで。今日はそろそろ眠いのです。 しかも何騰蛟、名将なのか否かがよーわからんくなってきた。 10万余の兵を集めたり李自成を蹴倒したり清軍を斥けたり さらに清軍が立て籠もる永州城を囲んで36戦して これを抜いたりしとるんやけど、なんかパンチ力不足な気がする。 まぁあくまでこんな人もおったよ的な紹介文であって、推薦文じゃないからいいんやけど。 364 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 49 14 ID 6b4VDF7d0 351 最近後漢書の訳本が出てるからそれを直接読んでみたらどうだろう。 あと後漢初期の政治状況について詳しく知りたいなら狩野直禎先生の『後漢政治史の研究』の研究も結構オススメ。 365 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/02(水) 23 55 54 ID Ilihl0BuO 359 >クレクレ言ってたのは誰かは知らんが 元コウの際の司令官って誰の件と 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥が名将中の名将を分かりやすくの件。 俺が言うことじゃないが、礼の一言ぐらいいうのが筋かと。 現に俺は他スレまでお礼を言いに行った。 >自分も前に、他スレにまで礼を言われたことがあって、それは励みになった。 上に書いたがそれは俺。 その節はお世話になりました。 366 ○ sage 2007/05/03(木) 00 00 09 ID 9J993NId0 345 スマンそう言うつもりでは・・・ まあ幸いこのスレの住人の皆さんは良心的な方が多いので安心して参加してますが。 さてココ=テルムについててすが 結局、明では資格有りなのかな? 307さんや310さん、 312さんのレスを考慮してらココ=テルムは 「当時の中華国家の人々に恐怖意識を植えつけた」 とみなしてよいのかな? それと>せいぜいが劉基の「拡廓、未だ軽んずべからずなり」 明の大軍師がそう言い放つと言うことは、 ココ=テルムを国全体で(民衆も含め)かなり脅威な人物と考えてたと見るのは無理がある? それとも 306さんが仰る様に元の枠に入れて残り一枠を カイシャン他と争うのがいいのかな? 367 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 00 31 40 ID uCm0lvZfO 365 わざわざ礼してないレス探してるのか。きもいな。 そうまでしてお礼が欲しいの? 368 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/03(木) 08 48 54 ID Dynep93KO 後漢にえんしょうさんを入れてあげてください。 理由は簡単 369 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/03(木) 09 10 31 ID MBdtF63r0 364 後漢書の訳本が出版されているのですか?欲しい。どこの出版社ですか? 370 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 42 34 ID 36k8H8Wg0 岩波 でもめちゃめちゃ高いんだよなぁ 新品で全部そろえようとすると十二万くらいするよ 371 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 46 25 ID bhpAzAdc0 ちくまで後漢書の文庫はでないのかなぁ 372 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 10 47 04 ID vo88tyvAO 368 袁ショウ程度の実力では候補入りが関の山。 理由は簡単て言われても、、、 373 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 08 01 ID 36k8H8Wg0 汲古書院からも『全訳後漢書』のシリーズが出てるね こっちも高いけど 374 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 24 43 ID tOUIJIwH0 県立図書館とか大学図書館なら結構置いてる所多いんじゃないかな。 375 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 11 36 58 ID Zifjisi70 366 「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」っていう基準はどうなんだろう。 同じ異民族武将なのに北伐を一度阻止しただけのココテムルが入って耶律阿保機、 休哥、チンギスが入らないのは不公平だと思うが。 376 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 13 13 49 ID Culb8Wdr0 見当違いの答えだったんで自分の質問に対するレスだと気づかなかったよ。 知らんかったことなんで勉強になった。お礼遅くなってすまんな。 ありがとね 238,239 377 ○ sage 2007/05/03(木) 13 25 35 ID 9J993NId0 375 今、ちょっと時間がないので返答の方待っていただきたい。 ところで入っての意味はどの様なニュワンスで仰ってるの? 376 レスありが㌧ 見当違いの答えでしたか、それは申し訳なかった。 378 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 13 14 ID Zifjisi70 377 中国の武将のうちに入る、ここで議論される候補の中に入るという意味。 379 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 14 39 ID XXwro7qG0 362 すまんこ。いらん失言してしもたよ。 確かに朕が一番知識ないのになw レスくれた人ありが㌧ あんまり初心者向けの書籍ないみたいですなー。 361のサイトわかりやすそうなので読んでみます。 380 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 21 32 ID XXwro7qG0 無知ついでにもうひとつだけ。 馬賢だけ検索にも出てこないんでわからないんです。 馬援なら知ってるんですが。 381 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/03(木) 14 35 49 ID Y8+ne+8r0 380 過去スレの推薦文を再掲しときます 【名前】馬賢 【時代】後漢(安帝~順帝期) 【理由】 護羌校尉、弘農太守として141年に戦死するまでの間、先零羌の叛乱平定を皮切りに 20年以上にわたって三輔地域から涼州にかけての諸羌の叛乱を討伐し続けた (皇甫規、張奐、段ケイよりも戦績は凄いと思う) 主な戦績 三輔、益州を領有し趙魏に国境を接していた、零昌(シ眞零の子)率いる先零羌の別種を 任尚の指揮下で大いに破り、三輔、益州を快復する 馬賢派遣前に、羌族鎮圧に任じられていた鄧隲、任尚率いる官軍は先零羌に手も足も出ず 河東、河内まで侵入を許してしまう体たらくであったが 馬賢派遣以降は一挙に反撃に転じ、先零羌を遂には瓦解に追い込んでいる またその任期中に、隴西、安定、北地、上など、諸郡を諸羌から快復している まあ、戦死がマイナスか 382 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/03(木) 16 48 30 ID M/QnZMNJ0 23行と長いですがご容赦を。一応、抗清名将の代表です。 何騰蛟(字は商運、?-1649) 天啓元年、郷試に通り、崇禎年間、進士に及第。南陽の知事となる。聡明で四通八達と讃えられた。賊に悩まされるも、 巡撫の将に従って安皋山で賊と戦い、首級四百余を挙げる。その後独力で土寇を平定したことから名を知られるようになった。 巡撫・劉永祚にその賢才を見込まれて引き立てられる。土寇を討ち平らげ、領地に平穏をもたらす。 左良玉の反逆が起こる。何騰蛟と左良玉は好を結んだ中であったから、あっさり騙され誘拐される。漢陽門から長江を目指す漁船に乗せられたが、 地元の漁師に救われた。そこから徒歩で寧州、瀏陽を踏破して長沙に至り、衆を募る。しかし準備万端整ったときには、左良玉は死んでいた。 順治二年五月、唐王・朱韋鍵が福州で即位した。唐王は南陽にあったときから何騰蛟の賢明なことを知っており、彼に大任を任せた。 何騰蛟は兵を率いて李自成討伐に出撃。九宮山でこれを斃し、その武将二人を擒らえて帰順させた。そのまま長沙に駐屯、賊を投降させ、 一挙に十万余の兵力を要するようになる。 李自成の甥で驍勇善戦の武将・李錦が投降、その衆数十万が李錦の寝返りでことごとく何騰蛟に帰順した。 膨大になりすぎた兵たちを部下十三人に分かち、自らは中軍、旧左良玉の部下たちを率いる。 順治三年五月、清の兵が汀州を破り、唐王を捕らえて殺すと、それを聞いた何騰蛟は兵を保全して辺境に退去した。 のち、永明王が即位すると人心はようやく落ち着いた。清軍が迫ると長沙で迎え撃ち、これを斥ける。 順治四年、春。湘陰から物資を掠取した将軍が清軍に怯え、湖北に敵前逃亡。この時期、恐慌をきたしてそのような行為に 及ぶ例が多々あった。何騰蛟は十三鎮を築いて長沙を防衛。六月、白牙に移る。八月、武岡が陥ちて守将が清に降った。 永明王は靖州に走り、また柳州まで逃げた。時に常徳、宝慶はすでに落ち、永州は清軍の手に落ちた。永明王は桂林に戻り、 城に入る。焦璉がこれを攻めたが、何騰蛟および諸侯の援兵によりこれを撃退、桂林は守られる。 十一月、清軍が全州に迫ると、何騰蛟は将軍五人を率いてこれを斥けた。 順治五年正月、桂林にて太師を授かった。清軍が全州を奪い、ほしいままに略奪を繰り返しつつ桂林に迫ると、 永福から出兵、麾下を率いて督戦し桂林の三門を扼守してこれを斥ける。さらに逆撃して全州を襲い、三十六戦。 十一月、ついにこれを抜く。まもなく諸州の将帥たちが宝慶、衡州、常徳を奪回し、失地の多くを回復した。 衡州に常駐。部下の不満や内訌を軽く考えていたため見通しが甘く、 清に寝返った部下により擒らえられる。降伏を勧められるが拒み、擒らわれ、七日七晩絶食して死んだ。 あと 366○さん、 そんなに深刻な話やないから、すまんとかいわんでいいよ。当時の俺がバカやっただけ。 383 ◆oOLAqFKRB. 2007/05/03(木) 16 58 10 ID M/QnZMNJ0 連投すんすません。 「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」 これは無しにしたほうがいいんやろか? 領土は取れんでも攻勢に出て人々をビビらせたら資格あり (ただし中華とは別の独自路線を歩む人物は選外)、と思ってこの一文入れたけど、 そーすると境界線が不明瞭になるし過去の確定人物たちが揺らぎかねんし。 幸いにしてここは合議制の場やから、ありかなしか民主的に決めたいなーとか思うんやが、どーか? 384 ○ sage 2007/05/03(木) 23 45 47 ID 9J993NId0 375 378 耶律阿保機、耶律休哥、チンギスは資格はあると思うよ。 チンギスは一応、推薦文挙がってたし、耶律阿保機は入れろって意見が無かった様な記憶がするし、 あと落選したのは理由が別だよ。 個人的には遼が途中で契丹を名乗っていても、 同一の王朝扱いにすればいいじゃんって思ってます。・・・でも耶律阿保機の痕徳菫可汗の配下時代は先行政権に扱いかな? 誰か詳しい人いませんか? それとにココ=テルムを特別扱いしようとして 366のレスを投下した訳ではないのを 了承してもらえるとありがたいのですが・・・ 基本的には資格ありそうな人物なら挙げてもらって、 もし微妙人物ならみんなでアレコレ議論すればいいんじゃない?と思ってます。 自分なんか自己主張が激しい部分があるので意見ぶつかる事があるかもしれませんがご勘弁を・・・ 383 >「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」 >これは無しにしたほうがいいんやろか? 条文を手直しすればいいんじゃない? 例えば 「中華国家に対し深刻な状況に陥らせるほどの軍事行動を起こした人物及び 脅威の存在と捉えられた人物を資格ありとする」 (ただし中華とは別の独自路線を歩む人物は選外) こんな感じでどうでしょう? 自分の頭じゃこれくらいしか浮かばないし、 もしダメならダメと言って頂ければ幸いです。 あと民主的に決めることにはもちろん賛成します。 385 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 00 12 34 ID TUIwjw9A0 384 前から気になっていたので一言だけ言わせて ココテルムじゃなくてココテムル チャガンテムルやボロテムルもそうだけど、テムルはティムールと一緒でしょ 386 ○ sage 2007/05/04(金) 00 42 13 ID DlaLDUyM0 385 申し訳ない。ココテルムじゃなくてココテムルだねw もし指摘されなかったらずっとココテルムって打ってたよ。 385さんご指導ありが㌧ 387 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 01 02 43 ID XrtRsHHB0 ココテルムって通信会社みたいだな 388 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 05 46 11 ID MqCOYZZMO 靖難の変にて活躍し、たびたび燕軍を破り、朱棣に至っては危うく彼に討ち取られそうになった。 ・・・という平安って人物がいるらしいね。 389 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/04(金) 12 42 07 ID 2flU3/aCO あ~、武道の型にその名を残す平安ね。 390 ○ sage 2007/05/04(金) 13 25 41 ID DlaLDUyM0 曹文詔(?~1635) 山西省大同の人。 当初、熊廷弼・孫承宗らに付き従い遼東で参軍し、游撃に累進していた。 袁崇煥の死後は、馬世龍に従い参将となり、崇禎三年には延綏東路副総兵に任ぜられ、陜西の農民軍と奮戦する。 四年には王嘉胤を滅ぼし、その功により臨 総兵となり、 点燈子・李老柴・一条龍・掃地王などの首領を尽く討伐。 杜三・楊老柴らを捕縛し、紅軍友を斬った。 七年に後金軍が西進し、懐仁・井坪堡・応州を包囲すると、 曹文詔は懐仁を固く守った。 後金軍の包囲が解けたのを好機として、追撃するも敗退する。 山西巡撫呉?の推挙により援剿総兵官となる。洪承疇と合流し、農民軍を追撃、山陽・鎮安から漢中に入った。 さらに商州を経て金嶺川に進撃したが高迎祥・李自成らの伏兵に遭って包囲下に陥り、 その際、重傷を負い止むなく自害して果てた。 391 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/04(金) 15 28 44 ID Bl1uckYw0 383 自分は、他の定義と比較して解釈の分岐点が非常に曖昧なので、削除した方がよいかと思います。 たしか今までの確定で、「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」で資格ありになった人っていなかったような・・・ 392 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 00 58 11 ID uifH9k0v0 390 曹文詔はその戦歴の大半が農民反乱の鎮圧で、 後金には負けてるし、最後は反乱軍相手に敗死してるから、 確定は無理なんじゃないかな。 393 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 21 23 ID /59R1y8k0 ココ・テムルを北元の将軍と考えても、 元の北走以前に中国領域内で、 義父(チャガンテムル)の仇である田豊や王士誠を破ったり、 ボロテムルとの戦いに勝利したりと、 充分すぎるほどの戦績を挙げているって事実は消えるわけじゃないんだから、 69の④の規定を適用して、 別に「中華国家の人々に恐怖意識を植え付けた」って基準は無視して 候補に挙げてもいいんじゃね? 394 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 23 29 ID s2xw9H2n0 恐怖意識は曖昧な言葉だって前にもあったし 395 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 01 26 25 ID Rap+NKCH0 393 その観点で問題ないと思いますが、それだと明の枠に入れるよりは 306のように元の枠に入れるのがよい気がしますな 396 定義厨@これ以外は参加できないんです。 2007/05/05(土) 03 16 33 ID F0bILz9nO 拡廓帖木児は金・南宋、元という時代を代表する人物ではないが、 元末~明初を代表する人物だと思います。 耶律休珂もそうですが、なんか上手い定義の仕方があれば入るであろう名将が、 定義の壁のためだけに確定どころか、候補にもならないのであれば、 その定義ってなんなの!?とは思うんですが、拡廓帖木児を入れるために新たに作った定義のせいで チムールなどの、一般的に『中国』とは思えない人物にまで話がおよぶなら、 本末転倒だとは思います。 確定・候補にならなかった中国史に縁のある名将10選――みたいな、 何らかの救済処置は考慮してもらえませんか? 397 ○ sage 2007/05/05(土) 08 15 52 ID 0wm4GAZe0 396 >拡廓帖木児を入れるために新たに作った定義のせいで その定義ってどれのこと? 耶律休哥は一応、候補入り&論議してなかったかい? 確か耶律徳光か耶律休哥で迷って耶律徳光を選んでた様な希ガス。 定義に云々なら李元昊なんか参加資格すらないんだし、 別に無理に入れろとは思わないし… 398 ◆RQdk7scN8s sage 2007/05/05(土) 10 03 52 ID aIstgZzV0 遼が北宋に比べ、「劣勢」であれば、自分は耶律休哥を推したかもしれない。 劣勢な国が強大な国に勝つというのは、武将好きにはツボでもあるし…w 遼はその当時、最大勢力を誇ったし、耶律休哥の活躍で、 北宋が瓦解、崩壊あるいはそのきっかけとなってないしね。 中国史に縁のある名将10選 とくに草原系の名将、というか強い将の選抜も面白い。 唐末からテュルク、ソグドと入り乱れているし、自分的には大好きだ。 需要があるなら、新スレたててもいいけど、そっち方面に専門な人がいるのだろうか? 399 ○ sage 2007/05/05(土) 10 20 38 ID 0wm4GAZe0 398 >唐末からテュルク、ソグドと入り乱れているし >需要があるなら、新スレたててもいいけど、 ちなみに名将論議じゃないけど世界史板にその手のスレたってたような・・・ ところでココテムルはどっちの時代枠に入れるの? 資格は十分あるみたいだし。 400 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 11 33 23 ID F0bILz9nO 399 拡廓帖木児は元末~明初の時代に活躍しましたが、北元の武将だと思うのです。 明が中華から元を一掃するまでの期間限定しないと、その後に興る北元の後継政権の扱いに矛盾が出ますよ。 もし拡廓帖木児を入れるのであれば、『新しい定義』が必要になると思うんですが。 401 393 sage 2007/05/05(土) 11 44 09 ID /59R1y8k0 400 繰り返しになるが、北元の武将に規定するからといって、 元の北走以前の戦功が全て消え去るという理屈が分からん。 北元の武将になったからといって、 中国領内で戦った事実は事実として、彼の戦跡として評価するべきだろう。 そうすれば、おのずと今の基準でも候補入りは自然なものになってくる。 402 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 11 52 48 ID F0bILz9nO 401 ではエセン・ハーンを推薦されたらどうします? 中国領内であれば良いのであれば、大英帝国の武人たちの扱いはどうなります? これで前スレは揉めたんですよ。 で、エセンが入ると過去の武将のなかでも、確定しそうな武将がいますよ。 どうします? 403 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 12 19 09 ID GxXnbwO40 ココテムルは北元の将軍じゃなくて「元の将軍→追われた後は北元の将軍」だから 元の将軍である時期の功績は入れても何の問題もないと思うが まあそうすると元のほうに移動しなきゃいけないわけだが 404 ○ sage 2007/05/05(土) 13 44 52 ID 0wm4GAZe0 ココテムルはもともと南宋・金・元の時代枠に入れてたのを徐達とセット扱いで 明の時代枠にいれたんだから前の時代でカイシャン達と残りの一枠を争い方が後々遺恨を残さないと思う。 ◆oOLAqFKRB. さんが当時の中華国家の人々に恐怖意識を植え付けるほどの活躍をしたものを資格保持者とする。 の定義で明で資格を与えては?みたいな話から論議が始まった訳だし。 ココテムルだけの為に新たな定義作るのはどうかと思うし、それこそ特別扱いの印象を持たれると思うが。 それにエセンも英国の武人も征服王朝の先行政権や中国統一政権の武将ではないですよね? おのずと答えはでそうですが・・・ 405 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/05(土) 15 23 25 ID F0bILz9nO そうですね。 ただ、同時にこのスレでは守備での功績は評価されづらく、また、時代の趨勢を変えたわけではないので、 南宋・金・元の時代であれば、かなり厳しいかなと思ったまでです。 406 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 20 30 53 ID Dkw61liR0 後漢の奴らはパッとしないな 他の時代に比べて見劣りするというか… 無理に人数上げる必要あるの? 407 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/05(土) 20 38 04 ID Rap+NKCH0 406 枠の見直しをやるとしても、清まで一通り終わった後、 全体を見て議論した上で見直すようにした方がいいかと 途中で変えるのはあまりよくないと思います (自分としては後漢よりも、前漢の方が枠減らしてもよいかと思ってたり・・・) 408 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 01 05 31 ID EUEIvizI0 記念カキコ 409 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 13 13 12 ID llizV6hQO 早く明へ行け、明へ行けとしつこく煽ったのはただ朱元璋を推したいだけだったみたいだな。 流れ止まってるわ、ふざけたレスはあるし。 記念カキコってなにがしたいんだ? 410 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 13 31 08 ID A61GipaM0 なんでさ 411 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/06(日) 17 36 30 ID CqL59uvvO 元のときも明のときも 漢人外武将の話で進んでるのは一緒だし つーかGWに人いないの当たり前 412 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/07(月) 18 27 28 ID CyInkGcw0 【みんなで】 戦国名将二十選 【決めよう】 http //hobby9.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1178529892/ 戦国名将百選が落ちたので、数を限定して立て直してみました。 413 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/08(火) 00 21 34 ID rn4/SGMC0 なんか最近色んな「名将~選」スレを見かけるけど、元祖はこのスレだよね? 414 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/08(火) 00 53 32 ID JRszK/G20 イエス 個人的には日本名将50選も欲しいと思ってたり 415 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 11 21 08 ID 3H5SEvvAO つーかGWに人いないの当たり前とか偉そうに言ってたが、 GW終わっても流れ止まったままじゃんw 406みたいなカキコ見たらやる気もなくなるわな・・・ 416 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 11 40 20 ID K/iLXsf70 たまたま書き込んだ俺が名指しされたよ・・・ すまん悪気はないんだ・・・>>415 417 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 17 00 51 ID 3H5SEvvAO 416 そういうことなら責めたのはお門違いだった・・・ゴメン 418 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/09(水) 20 36 06 ID YdnjbMkn0 明の話を始めたのが 279なんだから ただ朱元璋の話したかっただけとか、それ以外何にもしてないとか見当違い甚だしいだろ ここ100レス以上はなんの話をしてたんだということになる 419 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 04 23 41 ID jveUOWTtO 清に行こうぜ。そんで最初の時代に戻ろう レスが無いってことは、確定の人に文句なし 候補に挙がってる人物。新たな人物について語れる人が今はいないってことでしょ いつ書かれるかわかんないレスなんて待ってらんないだろ 420 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 05 16 45 ID ZVVhI1hP0 419 ならいっそのこと清も飛ばせよ。 清もどうせ明とたいしてレスこないたろ?とっとと一巡したいんだろ? 421 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/10(木) 14 18 36 ID V2THeJ0b0 明清は無駄に長いし時代に魅力がないのは確かだな 繋ぎで殷周を語るか?雑談でいいから 422 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 01 05 30 ID T4WM/85i0 時代に魅力が無いかは知らないが 基本的に国難の時代だったので尚文の国である中国では珍しく名将と呼べる人が多い>明 取りあえず、徐達、常遇春、湯和、李文忠、藍玉、もちろん朱元璋も 明の建国の功臣は徐常が一頭抜けてるとはいえ、甲乙付けがたいが それだけで確定組を埋めるのは色々バランスが悪いかと思う 後漢に樊崇が入ってるのもソレに近い理由だし 徐達、常遇春、朱棣、戚継光、袁崇煥、朱元璋、李文忠、張士徳、馬芳、李自成 でどうだろう。ココテムルが入るなら朱元璋には涙をのんで貰うしかないけど 陳友諒は負けてもあれだけの軍備整えたりしてるけど、将才とは少し別の次元だと思うし 張士誠勢力は良く知らないから、まあ推してる人も居るし士徳で 兪大猷は率いた規模で見劣りすると思うし、于謙や王守仁は加えて戦績が少ないので 423 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 05 12 47 ID JIKiL+M6O どの時代でも魅力はあると思うけどね、好みは人それぞれなんだし。 マイナー、メジャーは関係無いとも思う。 後漢は建国期は光武帝とその配下、末期は曹操がずば抜けてるからじゃない?つーのと 国策としてこじんまりと収めようとした部分もあるしので派手に見えないのでは? 明も武将の偏り方が後漢に似てる様な感じがする。 レスが無い、確定の人に文句がない、語れる人が今は居ないのはどの時代にもあったけどな 流れの止まるが早いか遅いかの違いだけで・・・ 424 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 09 05 04 ID JUPiROMy0 webより転載 陳友諒と張士誠は軍勢が多く、領土が広く、さらに隣接しており、主要な敵となります。 陳友諒と張士誠について言うなら、張士誠は塩商人の出身であり、何事かあるたびに細かく詮議し、 どっちつかずな態度を取り本拠地を守って動かないことが多く、向上しようと努力することが足らず、 遠謀深慮がなく、恐れるに足りませんが、陳友諒は同じではなく、 彼は漁師の出身であり、好戦的であり、危険を冒すのを喜びます。 もしも先に張士誠を攻めたなら、陳友諒は必ず背後から手を出します。もしも先に陳友諒を攻めたなら、 張士誠はまちがいなく山に座って虎の闘いを見るように動かない可能性が大です」 と劉基は進言している。 勢力的には陳友諒の方を脅威と見ていた様だね。 ココテムルは南宋・金~元の時代枠に入れた方がいいんじゃないかな? 425 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 09 42 50 ID YpBVcDWZO 南宋や東晋の武将は良くてなんで北元はいけないの? 426 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 12 39 51 ID JUPiROMy0 北元はモンゴル高原に追いやられた後に出来た亡命政権。 南宋は抗州を臨安と名称を変えて首都に 東晋は建業(建康)を首都とした亡命政権。 同じ亡命政権でも北元は中華王朝として扱わないんじゃねーの? 427 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 13 17 15 ID Cl0K0bWTO 426 モンゴルがモンゴル高原に亡命政権作るってのも変な話だがな 428 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 14 09 11 ID 1Ukz0QKT0 424 この文を読んでも陳友諒>張士誠とはならんなあ。単なる性格分析としか読めないが。 429 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 15 40 05 ID JIKiL+M6O 428 劉基は呉・張士誠と漢・陳友諒の間にあって苦慮していた朱元璋にたいして、 陳友諒の憂いが大きく、陳友諒が滅べば張士誠も亡ぶ と進言したりもしてる。 やはり陳友諒を張士誠より侮りがたい存在と認めていたんじゃない? 430 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 20 02 25 ID i2B/4Map0 君自身が言ってるように 朱元璋は陳と張二人に挟まれて危うかった で、陳漢が好戦的、張呉がノホホン とうぜんながら張呉を責めれば抜け目ない陳漢が責めてくる 国力や軍事能力よりも指導者の性格がそうだから危険視してたんだろ 431 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 20 14 38 ID LH60Rf2H0 北元は、本人達が自分達の国を中華王朝と思っていたかどうか、 周りから見て中華王朝としての形を備えていたかが問題になるんじゃない? 東晋、南宋は間違えなくこの二点を満たしてるけど。 432 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 28 38 ID D7o2NHMi0 張士誠と陳友諒の紹介文 張士誠は元は塩密売商人で弟の張士義らと挙兵し反乱を起こし泰州・興化・高郵を占領。 周を建国し誠王と名乗った。 渡河し蘇州・湖州・松江・常州などを攻め取り、江南で勢力を伸ばした。 平江に本拠を移し官制を整え、紅巾軍と対立するが朱元璋の軍に連敗を喫する。 要所を手に入れるも元のトクト率いる討伐軍に破れ、いったん元に降伏して停戦し、 元の実力者として浙江省紹興まで勢力下とした。 陳友諒と同盟して韓林児・劉福通を攻撃。劉福通は戦死。 やがて再び反逆して呉を建国。呉王を名乗った。 陳友諒の滅亡を放置し、勢力を増した朱元璋に平江を攻め破られ捕虜となるが、自殺した。 璋の軍に平江を攻め破られ、捕らえられて自殺した。 陳友諒は倪文俊の武将で漁師の息子。 反乱に失敗した主君倪文俊を殺して取って代わり、元と交戦して江西・安徽・福建の各地で勝利し、 さらに徐寿輝を殺して漢帝を称した。 安慶・竜興・瑞州・池州を占領し長江中流域を勢力に収め最大の軍事力を誇った。 張士誠と結んで朱元璋に対抗、 朱元璋の拠点である太平を攻め落とし応天府にまで進撃するもするも作戦ミスで惨敗する。 江州が朱元璋軍に破られたため、退いて武昌に遷都した。 後にハン陽湖で朱元璋との決戦に挑も敗北。戦死した。 元末、各地に群雄が割拠しましたたが、 長江流域に置いては上流に陳友諒・中流に朱元璋・下流に張士誠という感じで 三者が鼎立する情勢となっていました。 433 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 30 01 ID D7o2NHMi0 李自成 元の名は鴻基。陝西省米脂の人。 貧農に生まれ、幼少の頃は牧童をしていたとも富農の出身とも言われている。 二十歳のころ、銀川の駅卒となり、崇禎二年、高迎祥の叛乱軍に参加。 崇禎九年、高迎祥が亡くなると、跡を継いで闖王を称した。 十一年には、梓潼において敗れて白水に敗走し、わずか十八騎に討ち減らされて商 山に籠もった。 翌年、再起して河南に移り、ふたたび勢力を拡大。 十四年には洛陽を攻略し、福王・朱常洵を殺した。 翌年には襄陽を占拠。奉天倡義大元帥を称した。 広く人材を集め、軍紀を厳正にし、租税廃止や均田を行った。 十七年、西安で即位し、国号を大順とし、永昌と建元した。 同年三月に北京を陥落させし、明を滅ぼした。 しかし、呉三桂が清と手を結んで軍を南下させたため、敗走し、翌年に湖北省通山にて自殺した。 434 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/11(金) 22 34 04 ID fPwEkZ2v0 何で当たり前のように国家を支配者視点で見るかなー 民衆視点で考えたら一目瞭然 漢民族多数治めてるのが中華王朝だろ 北元などもってのほか 435 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/12(土) 00 38 38 ID 5Af9rmIm0 明末の農民反乱と李自成について 政府の過酷な収奪と干魃による大飢饉が起こり、 飢えた農民による暴動が反政府反乱へと発展した。 反乱軍は規律が厳正で、租税の撤廃というスローガンが大きな支持を得た。 反乱の指導者:王嘉胤 →高迎祥→李自成 当時、叛乱は失業駅卒の大量参加(駅站制の縮小の為)で規模が拡大したが、 相互の連携は殆どなく、陝西・河南に進出すると官軍に各個撃破されていった。 李自成は昇進とともに駅卒を中核として組織化を進め、 高迎祥が敗死した後は闖王を継ぎ、河南・山西・陝西に転戦して十四年に洛陽を占領して福王常洵を殺した。 李軍は軍紀粛正で一切の租税撤廃や均田を標榜していたために各地で支持され、 十五年に襄陽を占拠し、十七年には西安に拠って大順国を建て、太原・大同を攻略し、北京を陥落させて明朝を滅ぼした。 官制整備と並行して山海関の呉三桂を招撫したが、 呉の降を容れた清軍の為に大敗、北京を放棄して西安に後退、 湖広地方の通城付近で土民に殺された。 北京に入城した李自成は減税には言及せずに税糧牛馬を徴発したために 人心を失い、李自成が敗走すると北京の住民は歓呼したと言われている。 李自成については 433とだぶる箇所があるが取り敢えず投下してみた。 436 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/12(土) 02 15 01 ID 5Af9rmIm0 何騰蛟の他に農民叛乱鎮圧・抗清の武将なら史可法、黄得功、 抗清ならの李錦、高一功、李定国、劉文秀、 あと義軍の中では最強と呼び名の高い陳邦彦っていうのもいるな。 437 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/13(日) 16 06 57 ID 2Dz9K71L0 ここらへんの時代ってあんま際立った名将っていうのがいない気がするな 438 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/13(日) 22 55 25 ID ms7Xj0OwO 430 苦境に陥ったとき、最強の敵にあえて戦いを挑み、状況を打開することは戦略上よくあります。 最大のピンチを乗り切ることで勢いがつき、共倒れをもくろんでた周りの相手まで飲み込むことは多々あります。 この進言も、そういったことから出たのかもしれませんよ。 439 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 18 40 20 ID 74CpXrHaO よくあるか? 440 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/14(月) 22 56 34 ID SLq9RJOtO 希にしかない話なら、虎穴に入らずんば虎児を得ずとか、死中に活を求めるいう言葉はないだろ。 劉祐とかも、周りから反対されるような博打に打って出て、栄光を手にしてる。 困難に陥った場合、蛮勇をふるってでも勝負に出ると、案外イイ方に転ぶもの。 要は決断すべき時には決断し、勇気を持って行動に移すこと。 それが勝負の分かれ目だったりする。 441 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 08 53 ID wKigvHXF0 んなこと言ってるから先の大戦で負けたりすんだよ 442 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 14 03 ID 90vl9BGu0 440 「死中に活を見出すべし」と部下に言われて、 乾坤一擲の決戦を挑んだ公孫述は負けたけどな。 443 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/14(月) 23 57 13 ID 74CpXrHaO まれにしかないからこそ発言なり行動なりがクローズアップされるんじゃね? 444 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 01 26 18 ID DJDCB5Xf0 というか、結果が稀にしかないから、その途中経過の言動もクローズアップされるのだと。 445 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 04 48 55 ID sUi1kiA+O 441-442 旧日本軍も公孫述も見通しが甘いというか情報分析を無視してるから負けたんたんじゃねーの? 特に旧日本軍の場合は元から勝てる見込みなんて無かったんだし。 446 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 06 59 23 ID IFXOf2LH0 445 日本軍の勝ち目の無さは…日米戦力比1 10000だもんな orz 447 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/15(火) 07 14 57 ID Vuy4kfYbO 追いつめられて逃げ場が無くなったとき、相手に主導権を穫られた上での行動と、 自ら能動的に選択した場合を混同したら、なんら教訓も得られない。 で、日本軍はどうだったんだ?朱元璋と同じ状況だったのか? 公孫述とは? 448 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 07 46 38 ID HnaA6KJd0 442 乾坤一擲の決戦というか、あれ? すでに成都すぐそばまで敵が来ている、 王手かけられた状況から勝負に出てもな。 449 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 07 57 18 ID B7YL5lmo0 念のため言っておくが日本軍じゃなく旧日本軍な アメリカと戦うべきではないと言う主張も勝つ見込みもないという分析結果も無視して 開戦に踏み切った当時の軍部は話にならんよ。 戦うことを選択肢に入れること自体愚か。 公孫述の場合は自ら招いた部分が大きくないかい? 旧日本軍も公孫述も状況判断出来てないのに無理に開戦に踏み切った感が否めない様な気がするが・・・ 朱元璋の場合は少なくとも状況判断が出来ていて、勝てると見込みがあると考えてたはず。 勝機のあった状況と決して戦うべきでない状況を混同してないかい? 念のため言っておくが日本軍じゃなく旧日本軍な。 450 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 10 08 57 ID +yPJTAyf0 445 道を誤らせた根底にはそんな考えがあったってことだよ 今から振り返って云々するのは岡目八目としか言いようがない。 まあスレ違いだけどね 451 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 12 32 52 ID DJDCB5Xf0 一つ弁護すれば、旧日本軍は戦いたくてはじめたわけじゃあないってことだけどな。 452 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 14 19 40 ID sUi1kiA+O 450 岡目八目つーか山本五十六とかアメリカとの国力差などを ちゃんと認識してる人物はアメリカと戦うべきではないと言ってますが・・・ 451 うーんでも軍部の一部の主戦論者が自分達に都合のいいデータだけを元に、 無理矢理、開戦に踏み切ったのは事実だろ? 昭和天皇もアメリカと戦うのには反対してたんだし。 453 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 19 05 36 ID U5Unx6KUO 451 まあ始めたくもないのに戦争始めないといけない状況になっちゃうのは、もっと問題だと思うがな 454 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 21 17 14 ID DJDCB5Xf0 452 別に主戦派に押し切られて開戦になったわけでもありませんよ。反対派だった山本たちも 最終的に開戦に同意してます。なぜなら、ここで妥協して問題を先送りにしても、未来の 状況はもっと悪くなると予測したからです。 453 そうですね。でもその責任を大きく請負わなくてはならないのは軍部よりも、政府及び 政治家と国民(マスコミ含む)だと思います。戦前の日本は、一応は議会制民主主義だった のだから。 455 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 22 25 56 ID sUi1kiA+O 454 俺の記憶では山本五十六は最高司令官に任命されてしまい 半年なら暴れまわれるがそれ以降は保証出来ないと言って やむなく同意したんじゃなかったっけ? 第一、良識ある人々はギリギリまで開戦を回避しようと努力してたはずだか・・・ 議会制民主主義だったのは事実だが軍部に統制された状況に ほぼ等しくなかったかい>昭和初期 それに陸海空軍の元帥である天皇も反対の意向を御前会議にて述べたが 天皇には承認権しかないのでその意見は無視されたんじゃなかったか? それと国民である祖父もあの戦争は始めるべきではないと思ってたが そんなこと言ったら殺されてたって言ってた。 456 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 22 32 14 ID Hvu8j68L0 スレ違いの話題を延々続けてるのはわざと? 457 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/15(火) 23 02 43 ID Vuy4kfYbO 450 一か八かの勝負に出た旧日本軍と、強敵と弱敵との、いずれかと戦うべきか?を選択できた朱元璋とでは、 状況が違いすぎる。 458 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 03 42 ID B7YL5lmo0 というか明の武将に関するレスなんかほとんど来てないじゃん・・・ スレ違いでもなんか話あってるだけマシだと思うのは俺だけか? 459 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 10 09 ID B7YL5lmo0 458は 456宛ね。念のためカキコしとくよ。 460 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/15(火) 23 27 41 ID gSEUkQR+0 この発端になった 438はさ、複数相手の喧嘩ではまず一番強そうな奴を倒せ みたいな事言いたかったんじゃないの 461 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 01 01 53 ID JiwuMdv00 たしかにスレ違いなんで、これで最後にします。 455 良識かどうかはともかく、最後まで回避できるのなら望んでいました。具体的に言うと アメリカが石油制裁を解くか否かで。真珠湾を目指した南雲艦隊も、この交渉が上手く いったら引き返すという選択肢をもっていたのです。しかし対日開戦を狙うアメリカは 拒絶。制裁が解かれなければ一年後には戦うこともできずに降服するしかなくなる、 ならまだ戦う余力のあるうちに戦おうとなったのです。 それと、軍部の政治介入はたしかに強くなってましたが、それでも政府主導は残って います。東条英機は、軍人であろうと、内閣総理大臣として戦争を指導したのです。 ついでにいえば、どうして軍部が政治介入することになったのかといえば、それを 押えられなかった当時の政治化たちおよび選んだ国民の責任は大きいでしょう。 あなたの祖父については知りませんのでなんとも。 462 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 01 39 38 ID 7AqRVc7g0 当時の人の言葉だからって鵜呑みにするような人間は、考察するコトには向かんだろうなぁ 大抵の人間は、自分だけが知ってる過去を知ってる場合、都合の良い様に語るもんだ 酷い場合には捏造するし。お隣の半島の従軍慰安婦とか。自分の証言と歳が合わねぇw 463 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 02 15 22 ID JklBSJi40 おまえらは何言っても机上の空論だよ 464 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 02 56 33 ID jd4vx3vR0 462 ≫当時の人の言葉だからって鵜呑みにするような人間は、考察するコトには向かんだろうなぁ じゃあおまえは何を参考にして話をしてんた?って言ってたが・・・ 465 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 21 09 07 ID hdZpnGZi0 資料を多角的に組み合わせてだろ 466 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 22 46 13 ID jd4vx3vR0 資料を多角的に組み合わせないで語ってる奴なんているのか? いろんな視点から検討するのは当たり前なんだし。 それに身内云々はネタだろ? 467 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/16(水) 23 28 44 ID EgeAtRErO もう駄目だな。このスレ。 まあこんな過疎板で4スレまで行ったんだから十分かな。 468 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 01 27 55 ID vAuGlejl0 441 元凶は全てこいつのせいだと思う。 469 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 04 53 36 ID v0yeELRw0 おまえら人のこと気にしながらじゃないと書き込めんのか 470 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 17 50 41 ID lDEb7oEI0 良い感じの荒れ具合ですね。 471 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 18 22 16 ID PnFIw8Jn0 433 435 流石に「〓陽大会」はスルーしてますなw まあ、このスレじゃあっても無くても評価に影響は無いか。 呉三桂に勝って新王朝建てたんなら、文句無いんだけど。>李自成 472 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/17(木) 22 48 04 ID xUFIe1Ge0 471 呉三桂だけならまだしもプラス清軍だろ、 それに李自成自身も油断してたのはあるけど、新体制を整えていた段階でもあったという、 点も考慮できないかな? 朱温だって唐を滅ぼし新王朝樹立したっていっても 軍閥に毛の生えた程度の地方政権みたいなものなんだし。 473 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 14 18 40 ID ORZHmzmhO スレが過疎ってるのかこの時代が悪いのか。どっちなんだろな。 474 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 14 47 21 ID JYvlspPJ0 スレが過疎ってるよなどう見ても… トリの人も登場しないし… マイナーな時代でも一応動きはあったんだし。 上のほうでも言ってるが終ったよなこのスレ。 475 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 15 16 50 ID 2KDrlr7Q0 スレつうか板が過疎ってるんだぜ… 476 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 19 32 58 ID AZje37ba0 過疎過疎言わずに自分が書けばいいだろ 周りを気にしなきゃ何も出来ないのか 477 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 20 24 51 ID ORZHmzmhO 歴史書もなんちゃら辞典ももってないから参加しようが無い。 はやくこの時代が終わらないかと願うばかり。 書き込みもないんだから次いこうぜ。次。 478 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 21 05 31 ID AZje37ba0 この時代が苦手なやつばかりなのか?どの時代なら得意なんだ? 479 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 52 14 ID RjyJDnbY0 325とか 346とか、このスレを継続していく上で 一番大事にしないといけないのが何か理解できず、 好き勝手言う輩がいるからこうなったんだろ・・・ 480 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 53 57 ID JYvlspPJ0 477 じゃあ清に移ればおまいはカキコするのか? 472や李自成・陳友諒や農民叛乱について投下したけど、ほとんど反応ねーじゃん。 次へ行っても事態が好転するとはとても思えんが… 481 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/18(金) 23 58 46 ID JYvlspPJ0 479 それは言えるかと… 実際、トリの推薦文職人はさじを投げたと思われ。 俺も一人で語るのは虚しい… 482 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 00 30 13 ID eC5nW3XTO 477は図書館へ逝ってこい!! 483 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 00 43 23 ID xaRQX/3r0 そもそもトリが居なきゃ進まない閉鎖的なスレじゃないし、ココ アジ歴は図書館いけば読めるだろ 十人の候補案だって出てるんだから、反対なり肯定なりすればいい なんの進展も無いような捏造発言は頂けない 484 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 01 26 37 ID hj44a9pU0 483 >なんの進展も無いような捏造発言は頂けない たとえばどの発言よ? さっきも言ったがレスにほとんど反応ない様に思うが… 反応あったのは陳友諒と張士誠の話と 430の意見に対して。他の話題は一人か二人。 それ以外ほとんど動きなんてなかった様な希ガス… 確かにトリが居なきゃ進まない閉鎖的なスレじゃないとは思うが、 トリの推薦文職人が初代スレから結構テコ入れしてたのは事実じゃん。 485 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 13 13 11 ID VUk839tJ0 秦良玉 明末の女将軍。字は貞素。女なのにすごいのである。 486 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 23 17 ID CbkdSf7v0 とりあえず鄭成功を挙げておく。 487 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 52 23 ID hj44a9pU0 六王の一人である湯和を一応紹介しとくよ。 湯和 字は鼎臣。安徽省濠州の人。 謙虚でなおかつ性格は慎重であり、朱元璋からの信任は厚かった。 朱元璋と同郷で少年のころからの旧友で、 至正十二年、郭子興の濠州蜂起に参加し、 朱元璋の下で、定遠・和州などを転戦し、渡江して陳野先を捕らえ、 集慶(南京)を陥す一翼を担った。 また徐達に従い鎮江を制圧、統軍元帥・枢密院僉事に進み常州に鎮めた。 張士誠討滅にも従い、また征南将軍となり方国珍・陳友定を討った。 また北伐に従って、山西・陝西・寧夏を転戦し元の名将ココテムルを破り、 洪武十一年には(1378)、信国公に封じられた。 十八年(1385)、朱元璋が諸将の兵権を解こうとはかったので、先んじて郷里に帰り、 帰国後は中山候に封ぜられたが、 四川の夏討伐、辺境の異民族の討伐などの軍事活動に参加。 朱元璋による粛清を避ける為辞職し、のち倭寇対策のために沿海の築城にあたった。 明建国の功臣である同僚の多くが粛清される中で、二十八年に病没し、 東甌王に追封された。 あとなんちゃら辞典なんていう書籍は知らないけど アジア歴史辞典ぐらいなら図書館にあるだろ?つーか図書館すらないのか? 自分の得意な時代の武将に照らし合わせるか、推薦文を読んで感じた武将に対する 意見でも述べてもらえるだけでも助かるんだけどな。 488 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 14 57 54 ID HOyFd7cU0 湯和って基本的に南の司令官で 北伐には大将じゃなくて部将として付随しるから ちょっと厳しい気がするが 489 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 23 57 ID hj44a9pU0 秦良玉は歴史上、個人の功績で正史に独立した伝を立てられた唯一の女性。 まあ韓世忠の嫁さんの梁夫人なんかも結構女傑として有名だよな。 国姓爺こと鄭成功は抗清を続けたが結局は不運がたたったどちらかというと英雄って感じかな。 490 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 32 48 ID XvdfT6pW0 北伐は司令官が徐達で、副司令官が常遇春と途中から馮勝だっけな 491 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 15 58 51 ID KUdKxXOj0 保守 492 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/19(土) 16 17 47 ID Q+TEiCJj0 徐達と常遇春ならどっちが将帥としての能力が優れてるの? 493 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 16 54 42 ID XvdfT6pW0 戦場では常遇春 それ以外(戦略的思考や諸将の統率など)も含めると徐達 だと思う 494 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 06 54 ID hj44a9pU0 492 徐達>常遇春じゃないかな。 徐達が大将軍、常遇春が副将軍のコンビだし、 大体の場合、常遇春は徐達の指揮下で活躍してたりするし。 493が先に意見を述べてるけど一応投下。 495 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 20 48 ID Q+TEiCJj0 493, 494 なら朱元璋配下の中では徐達は確定かな 常遇春や湯和も有力な候補ではあると思うけど朱元璋配下に偏りすぎるのも問題アリかもね 496 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 27 42 ID XvdfT6pW0 徐達と常遇春は一巡目で確定してるけど 497 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 33 10 ID hj44a9pU0 495 朱元璋も含め徐達、常遇春、李文忠は確定でいいと思うけど。 実力から言ってある程度偏るのはしかたないじゃねーの?>洪武帝陣営 湯和は取り敢えず紹介しただけだよ。別に無理に確定入りさせるつもりもないし。 498 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 17 56 04 ID eC5nW3XTO 495 例えたら徐達と常遇春は李靖と李勣みたいなもんだな。 499 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 18 35 29 ID 5TW7LJps0 柔の徐達、剛の常遇春 技の徐達、力の常遇春 そんなイメージだ 500 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2007/05/19(土) 18 54 13 ID BCQZK9Ge0 「三国演義」(あくまでも「演義」ね)の呂布のモデルと言われているからね。>常遇春
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/22.html
時代別名将一覧 春秋戦国 秦・前漢 新・後漢 三国・両晋十六国 南北朝 隋唐 五代十国・北宋・遼 南宋・金・元 明 清 過去スレデータ 過去スレ1(1~250) 過去スレ1(251~500) 過去スレ1(501~750) 過去スレ1(751~) 過去スレ2(1~250) 過去スレ2(251~500) 過去スレ2(501~750) 過去スレ2(751~) 過去スレ3(1~300) 過去スレ3(301~500) 過去スレ3(501~700) 過去スレ3(701~) 過去スレ4(1~250) 過去スレ4(251~500) 過去スレ4(501~750) 過去スレ4(751~)
https://w.atwiki.jp/aa_hyakusen/pages/2.html
メニュー トップページ メニュー メニュー2
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/13.html
秦・前漢 確定者(9名) ◎韓信 ?-紀元前196年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎項籍(字は羽) 紀元前232年-紀元前202年 項羽は、傑出した個人的な武勇が、特異なまでに戦術的勝利にという結果を出した希有な例でしょ。 実際、秦の命脈を絶ち、一時的にとはいえ中国の覇権を握っている。 (と同然だろとの突っ込みもありそう) ただ、君主としては、その判断基準が理や利ではなく、情であったことが欠点で、最後には滅亡している。 個人的には、珍しい例ての名将で良いと思う。 (其ノ弐 661より) 項羽は確定入りでいいと思う。 もう何人も言っているが、あれだけ欠点・錯誤・失敗を大量に抱えて、それでも 局地戦の勝利で優勢を何年も保たせたという例は、戦史上滅多にお目にかかれるものじゃあない。 「戦術でなく個人的武勇」という意見もあったが、逆に戦術を凌駕する個人的武勇の凄みを感じるのみ。 君主としてリーダーとして落第というのも同意だが、このスレは名君列伝ではないしな。 (其ノ弐 671より) 項羽は武勇ばかりじゃなく、それなりの戦術眼と用兵を心得て戦ってるでしょ。 個人の武勇だけで数倍や数十倍の戦力差を覆せるわけでもないし。 鉅鹿や彭城で顕著だけど、相手の急所を迅速に衝き、強襲をかけて突き崩すと 徹底的に戦果を拡大させて甚大な出血を強いる手法を採ってる。 不利な状況での短期決戦では特に秀でた用兵といってもいい。 どちらかというと武勇ばかりにモノをいわせているのは固陵の戦いとか最後のあがきでなんじゃないかな。 (其ノ弐 672より) ◎霍去病 紀元前140年-紀元前117年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎衛青 ?-紀元前106年 紹介・推薦文上がるまでもなく文句なく確定 ◎趙充国 紀元前137年-紀元前52年 武、昭、宣帝の三代に仕えた西漢王朝随一の将軍にして政治家。 若くして羽林に入り、騎射にすぐれて頭角を現した。沈着にして勇猛。智謀あり、 若い頃から将帥の品格と態度を備え、好んで兵法を学び、周辺少数民族の事情に通暁していた。 弐帥将軍李広利の副軍司馬として匈奴征伐に随行するも匈奴の騎兵隊に包囲された。 食糧は断たれ馬は疲れ果て、死傷者は莫大。趙充国は壮士100余人を率いて囲みに突撃、 身に二十あまりの傷を受けながら道を開き、この奮戦によって李広利は命を拾った。 昭帝の時武都の氐賊が反乱を起こすと、趙充国は大将軍護軍都尉とされて出撃し西祈王を捕らえた。 中郎将、水衝都尉、後将軍を歴職、のち大将軍霍光と共に宣帝を擁立し、功により営平候に封ぜられた。 本始年間(前73-前70)、蒲楼将軍の肩書きを与えられて匈奴征伐に出征、凱旋後再び後将軍、少府。 元康、神爵年間(前65-前58)にかけて、対羌族問題の第一人者として活躍、 基本的に『戦わずして勝つ』を至上とし、示威と慰撫とを使い分けて漢に服属させる策をとった。 ところが義渠安国が羌族の指導者30人と兵士1000人を無駄に殺したので羌族は叛乱、 匈奴と手を組んで侮れない大勢力となる。前61年、匈奴の虚閭権渠単于が10万余の騎兵を率いて 南方をふさぐいだがやってきた将軍が趙充国と知ると戦わずして兵を返した。 ようやくにして朝廷は羌人の脅威を認め、これを鎮定するのが急務とされた。 宣帝は御史大夫邴吉を遣わして趙充国に諮った。『羌族平定の任務には誰を将軍とすべきか?』 趙充国はおのれが高齢であることも連続作戦の辛苦も顧みず、 『老臣以上に適任なものは誰一人としておりません』と自薦した。宣帝はまたこうも問うた。 『反乱平定にはどれほどの軍隊が必要であろうか?』趙充国は答える。『百聞は一見にしかず。 はるか遠くの軍情を推定するのは非常に難しいものです。私は迅速に金城に赴き、 実地の地図を描いたうえで作戦方案を決定し、その上で主上に上奏しようと思います』前61年現地入り。 目の前の軍功を追い求めるものではなく、謀によって辺境の長期安寧を求める策を選んだ。 叛乱の首魁である先零羌だけを攻撃し、叛乱に随従させられた罕羌、幵羌ら諸羌の罪は不問とした。 慰撫工作のみならず戦術的にも意を用い、常々斥候を放って遠く離れた場所を偵察させ、 行軍の際には下士官と同じように戦闘準備をし、宿営を張るときには自分で陣を張った。 自らに勤労を課すことこと謹厳で、士卒を愛護し下士官をいたわった。 このようなので、彼が金城に到着するやたちまち士気は上がり、威望は遠くとどろいた。 彼と一緒に対羌族戦を任されて出戦したもう一人の将軍、辛武賢はこの戦略に不満を持ち、 速決速戦を唱えて出陣、宣帝もこれを許し、趙充国に彼の部下として働くよう下命した。 趙充国は辛武賢の策が危険であることを悟っていたので前後三回にわたって自らの計画を反復説明し、 同時に宣帝の問いにも明快な回答を返した。 毎度書を奏し、宣帝はそれらすべてを公卿・大臣たちの間に諮り、議論を交わした。 趙充国を支持する大臣は最初全体の十分の三にすぎなかったが、後には過半数を数え、 最終的には百人中八十人の大臣が趙充国の戦略に同意した。 詔書を得た趙充国は先零羌を攻撃、大勝をおさめた。 漢軍は羌人が遺棄した馬、牛、羊10万余頭と四千輌の車を手に入れた。 趙充国は罕羌、幵羌の地に兵を進めた。漢軍は軍紀厳明、秋毫も犯さず、 命令に背くものは斬ったので、罕羌、幵羌らは漢軍の威徳に感じ、戦わずして帰服した。 趙充国は奏書の中で屯田による十二の利点と戦における追撃がもたらす十二の危険を列挙し、そのうえで屯田策は軍費を省き労役を軽減し、さらには人民から農業を奪うことなく、また武備を以って『戦わずして勝つ』方策であると強調、一例としては騎兵を養うことの無駄を挙げ、騎兵を解除すれば支出をどれほど節約できるかを説いた。彼の屯田策は実際に成果を上げ、国庫は以前に比べて大いに潤った。 趙充国は屯田策をもって叛羌を威服せしめ、その短い任期において非常に大きな成功を収めた。 前六十年時点で漢に降伏したもの三万一千二百人、黄河あるいは湟水に溺れて死んだもの及び飢餓により餓死したもの五、六千人、斬首されたもの七千六百人、南山に盤踞する叛羌の残党四千人。 この年秋、羌族の若零、离留、且種、児庫らが叛首・先零羌の大豪族、犹非、楊玉らを殺し、残党四千余人を率いて帰順した。ここにいたって羌族の叛乱は徹底解決を見た。 のち老齢をもって致仕するが、異民族問題が持ち上がるとそのつど召されて機密に参与した。 前51年卒。享年86歳。謚は壮侯。 (其ノ弐 633、634より) ◎陳湯 ?~紀元前6年 字は子公、書を好み学問に通達し、文章を作ることに巧みであった。 貧乏で貪欲、郷里では嫌われ者。長安に行き、富平侯・張勃の推挙で官を得る。 西域に出たいと強く望み、甘延寿の副将として西域に出た。 建昭三年、甘延寿とともに再び出陣、知略をもって1518人を斬り、 145人を生け捕って郅支単于を斬ったが、独断専行の行為があったとして自ら弾劾した。 元帝はその態度を潔しとして嘉したが、陳湯に鹵獲物着服の罪があったため恩賞が与えられることはなく、逆に罪に問われた。 宗正・劉向が弁護したので赦され、黄金百斤を賜り関内候とされる。 射声校尉となるが以前の鹵獲物着服の罪が蒸し返され、投獄された。 太中大夫の谷永の上奏により獄から出され、一兵卒に。 段会宗が烏孫の兵に包囲されたとき、 「援軍は不要、まもなく吉報が届くでしょう」と述べ、実際その通りになった。 従事中郎となり、以後軍事に関わることの一切が陳湯の意見で定められるようになる。 人から代価をもらって上奏文を作るアルバイトをし(その中には簒奪者・王莽もいた)、 また、虚言を奉って衆を惑わした罪が露見して、辺境に送られる。 しかし議郎の耿育が陳湯の無実を上奏し、「深きをさぐり遠きをきわめて国威を掲げ、国家積年の恥をそそいだ」功があるとして庇いだて、それにより許されて長安に還った。同地で没す。 没後、王莽が新を建てると、旧恩に報いるため破胡候の爵位を追贈した。 郅支単于を破った天才的用兵家ながら俗欲にもあふれる人間臭さをもって推薦。 (其ノ弐 693より) (李広、范明友、陳湯ら匈奴討伐、遠征組は趙充国に比べるとかなり見劣りな感じがする。) に対して陳湯を弁護。 陳湯は郅支単于を斬っただけと違って段会宗が自ら囲みを解いて勝利することを予見、 先見の明によって元帝期の軍事行動の全権を任されるに到ったわけやし、 それで(軍事的には)ヘマこいたこともない。 単純に現場で戦った李広・范明友ほかとは戦略眼のレベルで格が違う。 やや見劣りするとはいえ趙充国にそれほど水をあけられてるとは思わんのやが、どうか? (其ノ弐 708より) ◎周亜夫(周亜父とも) ?~紀元前143年 紀元前159年冬、匈奴の兵3万が上郡に侵入し、また別に3万が雲中郡に侵入した時、 文帝は軍の駐屯地に向かい、将兵の労をねぎらい、また視察した。 その際、劉礼、徐悍の陣は文帝一行を素通りさせたが、 周亜夫の陣は文帝が割り符を見せ周亜夫の許可があるまで 軍中に置いては皇帝の命令でも将軍の許可があるまで従うことが出来ないと拒否、 文帝一行を陣内に入れささなかった。 この視察を通して、文帝は劉礼、徐悍と比べ、軍令が非常に整っていることを評価し、 周亜夫が優秀な軍事的人材であるとことを認めた。 文帝、景帝の時代、何度も北方の匈奴の侵攻を撃退し、 文帝から「真将軍」と賞賛され、景帝も周亜夫に丞相の位を授けた。 将軍としての胆力、冷静さは呉漢、岳飛と共に高く評価されています。 (其ノ弐 647より) 周亜夫を十傑に推したい 彼が呉楚七国の乱で勝利を収めることができたのは、相手のミスに乗じ続けたことが挙げられる 逆に漢軍の方は、ミスを犯さないようにひたすら防勢に徹していたわけだが ここで、皇族の梁軍をおとりにし続けた根性が凄い、かなりイイ性格している (実質、この戦略を採用したことにより、呉楚の補給線は野放図に拡大・長期化することになった) そして、呉楚の攻勢が限界点に達しても、ひたすら防勢+補給線分断 相手が苦し紛れの決戦を挑んできて、無難に撃破 勝つべくして勝った戦だが、これだけ堅実で失敗を犯さないで戦えたのは、 偏に周亜夫自身の将器の賜物と言っていいと思う 呉楚七国20万+匈奴+南越 VS 漢軍(推定30万以上かな?) 漢軍の動員兵力が不明なんだが、三輔地域メインでの動員だから、そこまで多くはないでしょう 天下分け目の合戦を制している手腕はもっと評価してほしい (其ノ弐 793より) ◎章邯 ?~紀元前205年 章邯は確かに囚人を見事に精鋭に仕立て上げ、周文、田臧、張賀、伍除ら陳勝率いる 反乱軍を撃退してるし、候補に挙がっている項梁をわざと油断させ、夜襲にて見事に撃退してるしな。 援護の要請さえ通っていれば項羽にすんなり降伏しなかっただろうし、 かなりハンデのある状態であれだけ見事な活躍をしたんだから凄いと思うぞ。 韓信には敗れているがそれはまあ仕方ないよな。 (其ノ弐 691より) 章邯はもし援軍が速攻でやってきたら項羽に勝ってしまったかも知れん将才の持ち主だけに 個人的には高評価。まぁ降伏せずに最後まで戦って散ったらもっとかっこよかったんやけど。 (其ノ弐 711より) 章邯が後盾も無く囚人ばかりの軍隊で連戦連勝したのは凄い 一度として万全の体制で戦いに臨めた事は無いからなぁ 韓信に負けたのもそもそも項羽の人心を読まない配置が最大の理由だと思うし 悲劇の名将として一票 (其ノ弐 780より) ◎灌嬰 ?~紀元前176年 今度は灌嬰の武勲。 二千石のものを擒らえること二人、 城を降すこと四十六、国を平定すること一、郡は二、県は五十二、 将軍を擒らえること二人、柱国・相国各一人、二千石以上のもの十人。 数字だけ見ると曹参の方が上やね、明らかに。 まぁ作戦活動の困難さとかいろいろ条件があるけんが、数字だけでは計れんわけやが。 (其ノ弐 801より) 灌嬰は郎中の騎兵を率い 陽の東で楚の騎兵を撃破、 別部隊、別将として項冠、南燕の西で魯で王武、王武の別将桓嬰を白馬の城下で打ち破っている。 更に韓信が斉王となった後、楚将某を魯の北で打ち破る。 項声、薛公、 公を打ち破って傅陽などを平定。 呉・予章・会稽の三郡を平定。 匈奴の騎兵を武泉で燕・趙・斉・梁・楚の車騎をあわせこれを率いて匈奴の騎兵をサ石で撃破。 B.C177辺境の吏騎85000で匈奴を討ち退却させている。 車騎将軍として燕王臧荼を韓王信を代にて討っている。 (其ノ弐 812より) 灌嬰と曹参が本当はどちらが上かは分からないが、灌嬰はまだ当時、年が若く武将として とりたてられるのが遅かったため、統一時の戦功が曹参が上になった可能性がある。 自分なら、どちらを選べといわれたら、北へ南へ各地で勝利を重ね、先見の明で呂氏排除を 行い(名将の条件からは外れるが、的確な判断もプラス要素にはなる) 大軍を率いて、匈奴に引き返させた灌嬰を選ぶ。(無様な指揮ならば、匈奴に破られ、国力に 甚大な被害を与えた可能性もある。戦わずして一応の目的は果たしたということでプラス材料にはなる) (其ノ弐 838より) 候補者(4名) ○劉邦 紀元前247年(または紀元前256年)~紀元前195年 秦末の混乱期に軍事的能力で頭角を表し、項羽と並んで楚懐王より秦攻略を命じられるまでになり、 相手の主力が項羽と戦っている隙だったとはいえ、調略なども駆使して秦本国を落としている。 対楚戦では項羽を抑えながら別の軍が諸国を下すという戦略の一つの核として項羽と対峙を続け、 かなり危険な時も乗り切って抑え役を果たしている。敗走しても兵を韓信から吸収したり ゲリラ活動をしつつ軍を再編成するなど、判断力や行動力は優れている。 統一後も多くの戦いを親征して反乱鎮圧をこなしている。 彭城や白登の大敗が印象的で、負けてばかりなどとも言われるが、 それらを差し引いても充分過ぎる実績じゃないかと思う。 (其ノ弐 664より) 一度でも敗走したら名将と呼べないというなら別だが、 劉邦は敖倉を巡って項羽と対峙し続け、命さえ危険になるギリギリまで粘っている 打ち破られてもゲリラ的行動や速やかな再編成で戦場に戻り、 相手が項羽でなければ楚軍(曹咎など)を圧倒している また、負け続けといっても劉邦は中原への進出を食い止められているだけであり、 項羽は劉邦の侵攻があるからこそ韓信に手が回らなかったのだから、 劉邦自身が項羽にとってかなり脅威だったのは間違いない 項羽の方が上というのは分かるが、負けているからといって能力が無いとは限らない また沛公から頭角を表し秦を征服するまでの実績は否定しようがないと思うのだが 張良の策、レキ食其の策…とか言い出したらキリがないよ 実質的に決定権が劉邦にあったのなら、劉邦の功績でしょう 晩年の反乱鎮圧は確かに国力の差もあるだろうが、 長期化させることなく平定した手腕は認めてもいいんじゃないか? (其ノ弐 738より) 「将の将」は別にしても、沛公になってから劉邦は転戦に転戦を重ねて兵を増やし、 項梁や項羽と共に章邯や三川守李由を破り、楚懐王の下で短期間で項羽に続く地位を得ている 武関から秦を攻める別動隊の将となったのも、彼の「長者」という評判だけでなく、 劉邦なら出来ると思われたからに違いない(そして期待を裏切らなかった) 項羽との戦いの中でも、項羽には苦戦や敗走を重ねてるが、神出鬼没の動きで項羽を翻弄したり、 項羽が去ると守将を破ったりと、かなり嫌らしい 目の覚めるような奇計や猛烈な勢いこそないし敗北も少なくないが、 本人の軍事的な能力も高く評価していいと思うんだがねえ (其ノ弐 776より) ○曹参 ?~紀元前190年 沛の人。劉邦決起当初からそれに従う。 将として胡陵・方与を撃ち、秦の泗水の軍を攻めて大いに破った。 東に進んで薛を降し、泗水軍守の軍を薛の城郭西部で撃ち、 ふたたび胡陵を攻め取り、方与を守った。方与が叛いて魏につくとこれを撃つ。 秦の司馬尼の軍を碭で打ち破り、碭・狐父および祁を獲った。また下邑以西、虞にいたるまでを攻め、 秦将章邯の車騎を撃破、その他諸々の戦いで先陣の功があった。 ふたたび章邯を破り、陣を陥れてこれを追い濮陽に至り、定陶を攻め、臨済をとる。 劉邦に従って東郡の都尉を攻め、これを城武の南で打ち破り、 秦将王離の軍を成陽で撃ち、王離と再戦して再び大敗させた。 敗走する秦軍を追撃して開封にいたり、秦将趙賁を破る。 西のかた秦将楊熊の軍を打ち破り、秦の司馬および御史一人ずつを捕獲した。 再び趙賁を破り、南陽の郡守・齮と戦って陣を落とし、宛を取って齮を生け捕る。 秦の郡を藍田で攻め、夜襲をかけて秦軍を大破させる。 三秦を平定、咸陽を落として新城と名を改める。三秦の将・章平を撃破。 項羽と劉方が袂を分かつと章邯・竜且・項他らをたてつづけに撃破、 碭・蕭・彭城を取る。劉邦の将軍として項羽を撃つが大敗した。 しかし潰滅することなく、外黄の王武、燕の程処が叛くと急行して悉く平定した。 高祖二年、劉邦の別将として韓信の下につき出陣、魏の五十二城を落とす。その他戦功赫々。 竜且と上仮密で戦い、これを大敗させ、竜且を斬って斉を平定、70余県を得る。 項羽死後、天下が平定されると右丞相から斉の相国に任ぜられる。 英布が叛くと車兵騎兵十二万余を率いて劉邦の軍と合流、英布を破る。 生涯に二百二十二間を降し、王二人、相三人、将軍六人、卿・司馬候・御史それぞれ一人を捕らえた。 蕭何死後丞相の位を継ぐ。蕭何の定めた法を曲げず、無為無策とも呼ばれたが天下はよく治まった。 ・・・まぁ、特に推すわけでもないけど。 (其ノ弐 799より) ○彭越 ?~紀元前196年 彭越も得意のゲリラ活動で項羽の思惑をたびたび打ち砕き、軍の命である兵籠を奪い、 漢軍にそれを提供、その為項羽は何度も劉邦を仕留め損なったんだよな。 彭越の活動も韓信と同様、漢王朝樹立に大きく貢献したんだし、 決して只のオヤジではないんじゃよな。 (其ノ弐 691より) 秦末期の戦乱の中で大盗賊として活躍。劉邦の幕下に入ってからは後方撹乱などに戦功を挙げた。 劉邦が秦の首都・咸陽へ向けて進軍する途中で魏の領内にある昌邑を攻め、 彭越はこれに協力して昌邑を攻め落とした。 劉邦が項羽と対立するようになった時、彭越は梁で暴れ周り、都市をいくつも落とした。 斉王田栄が背き使者を送って彭越を将軍に任じ済陰より南下させ楚を撃たせた。 討伐に来た蕭公角率いる楚軍を彭越は大いに撃ち破った。 漢王の三年彭越は常にあちこちと任来し漢の遊軍となり楚を撃ち、 梁の地において楚軍の背後の糧道を断ち切った。 その為に項羽軍には食糧不足が続き、主敵であるはずの劉邦へ全戦力を向けることができず、 結果何度となく劉邦の窮地を救うことになった。 漢王の四年、漢王と項羽がケイヨウで対峙した際に彭越はスイ陽、外黄など十七城邑を攻め落とす。 漢王の五年、彭越はまたも昌邑一帯の20余城を降し、10余万斛の兵籠を入手、これを漢王に供給。 垓下の戦いに参戦楚を打ち破った。 (其ノ弐 695より) 史記には魏豹と共に卑しい身分の出身であったが千里の地を席巻し南面し、 弧と称し敵を殺し勝に乗じて名声は日ごと高まったとある。 韓信にやや劣るものの漢に対する貢献度では負けてはいないはず。 後方での撹乱行動は項羽にとってイジメどころか寧ろ嫌がらせに近いと思うな。 (其ノ弐 749より) ○鄭吉 ?~紀元前55年 車師を破って西域南道を征服し、匈奴の日逐王を降伏させた。 後に西域北道を征服し、初代西域都護に任命された。 (其ノ弐 729より) 鄭吉は、当時の地図からして鳥塁から張掖までの範囲で、匈奴・大月氏 などの勢力と対抗しながら、西域三十六国を武力で統治し続けたと推測されます。 具体的な戦功や統治した年数が明確になれば、名将に挙げてもよいかと思います。 (其ノ弐 768より)
https://w.atwiki.jp/aa_hyakusen/pages/3.html
更新履歴 取得中です。