約 21,878 件
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/227.html
1783年 伊勢神昌丸、アムチトカ島に漂着 1727年、九右衛門(久兵衛とも)、若松村で生まれる。 1737年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ナイシュロット(フィンランド、当時はスウェーデン領)で出生 1742年、幾八(儀八、義八とも)、若松村で生まれる。 1747年?、小市(幸市、本名長右衛門とも)、若松村で生まれる。 1749年、ラジシチェフ、モスクワの貴族の家に生まれる。 1751年、大黒屋光太夫、伊勢国亀山藩領河曲郡若松村 (現,三重県鈴鹿市若松)で生まれる。大黒屋は実家の屋号。長じて 亀屋四郎兵衛道伯の後家の養子となる。兵蔵といったらしいが,父方親戚の家を継ぎ大黒屋光太夫と改めた。木綿商売を営む。 1752年、庄蔵、若松村で生まれる。 1752年ごろ、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)三之助の子としてヤクーツクで生まれる。日本名三八。 1756年、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフ、南部多賀丸漂流民(H1744a)久助の子としてイリムスクで生まれる。測地士となる。 1757年、清七、若松村で生まれる。 1758年、藤吉、美濃国石部郡(岐阜県石津郡か、現養老郡石津町付近)で生まれる。 1758年、新蔵、若松村で生まれる。 1758年、亀屋四郎治(大黒屋光太夫の父)、光太夫8歳のとき死亡。 1759年、藤助(藤七、仁三郎とも)、若松村で生まれる 。 1762年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ロシアに定住。 1763年、磯吉(豊松、豊吉とも)、神昌丸親父三五郎の次男として、若松村北浜で生まれる。 1764年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院通信会員 東部シベリアに出発。 明和1年(1764)、光太夫、このころ江戸小網町にあった母方の木綿商の出店に奉公に出る。 1765年、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、父三之助の請願によりイルクーツク日本語学校に入学。 1766年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、キリル・ラクスマンの次男として生まれる。 1766年、ラジシチェフ、ドイツのライプチヒ大学に留学。 1767年、与惣松、若松村で生まれる。 1776年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、学士院の経済・化学部門の正会員に選任。 1771年、ラジシチェフ、帰国して元老院に勤務。 1773年、ラジシチェフ、軍法会議の法務官に転じた。 1777年、ラジシチェフ、商務省に勤務。 安永7年(1778)、光太夫、亀屋四郎兵衛家の家督相続人として迎えられ故郷に帰る。亀屋四郎兵衛を名乗る。廻船の賄職となる。 安永9年(1780)、光太夫、30歳。一見彦兵衛配下の沖船頭となる。 1780年、ラジシチェフ、ペテルブルグ税関の副長。 安永10年2月(1781)、光太夫の先代が病死。大黒屋光太夫を名乗るようになる。 天明1年(1782)、光太夫、このころから神昌丸船頭。 1782年6月、藤吉、従弟の若松村権右衛門方に来る。 1782年7月、藤吉、神昌丸に乗り組む。 天明2年10月(1782)、光太夫、諫右衛門配下となる。 1782/11/04、アンドレイ・イヴァノヴィチ・タタリノフ、「日本語単語集」を基礎として「レキシコン」と呼ばれる露日辞典を編集し科学アカデミーに提出。 天明2年12月9日(1783/01/11)、船頭大黒屋光太夫ら17人を乗せ、江戸に向かって白子を出帆。積荷は紀州藩廻米500石のほか、江戸大伝馬町の廻船問屋一見屋勘右衛門方に届ける木綿・薬種・紙・什器などであった。その日、鳥羽港に入り風待ち。 大黒屋光太夫 神昌丸船頭。出帆時32歳。 小市 賄(事務長)。出帆時36歳。 磯吉 水主。出帆時21歳。 作次郎 上乗(積荷采領役、紀州藩廻米送方)。伊勢国安芸郡稲生村(鈴鹿市稲生)生まれ。 三五郎 船親父(船頭の次席で取締役。水夫長)。出帆時65歳。 次郎兵衛 楫取(航海士)。伊勢国桑名郡桑名村(三重県桑名市)出身。 安五郎 水主。伊豆国賀茂郡子浦(静岡県賀茂郡南伊豆町子浦)出身。 清七 水主。出帆時29歳。 長次郎 水主。志摩国答志郡小浜村(三重県鳥羽市小浜町)出身。 藤助 水主。出帆時23歳。 与惣松 炊(炊事雑用掛、見習船員)。出帆時15歳。 勘太郎 水主。志摩国小浜村出身。 九右衛門 水主。出帆時55歳。 藤吉 水主。出帆時24歳。 庄蔵 水主。出帆時31歳。 新蔵 水主。出帆時24歳。 幾八 水主。出帆時42歳。 天明2年12月13日(1783/01/15)、西風を受けて鳥羽港を出帆。同夜半、駿河湾に差し掛かったとき、激しく北風が吹き西風とせり合って船は大波にもまれ、楫を折られて遭難した。 天明2年12月14日(1783/01/16)、鳥羽港を出帆。駿河灘で暴風雨に遭い、舵を折られて遭難する。 天明2年12月14日(1783/01/16)、朝、跳荷をする。 天明2年12月15日(1783/01/17)、小市、磯吉(助手役)、三五郎(筈緒の切断役)、帆柱を伐り倒す。昼過ぎ頃まで大島の三原山が見える 。 天明2年12月20日(1783/01/22)、一時的に北西に進むが夜には南東に進む。 天明3年2月(1783/3月)、帆を作り帆走する。北へ流される。 天明3年2月末(1783/3月末)、水が乏しくなり、水桶に錠をおろす。 天明3年3月初旬(1783/4月)、錨を失う。船体に漏水を生じるが修復する。 天明3年5月(1783/6月)、雪が降る。 天明3年7月10日(1783/08/07)、三五郎、昆布が近くを流れているのを見つける。 天明3年7月15日(1783/08/12)、幾八、北太平洋漂流中、船中にて病死。享年43歳。 天明3年7月17日(1783/08/14)、海が荒れ、船の損傷大。新蔵、顔にやけどを負う。 天明3年7月20日(1783/08/17)、アムチトカ島に漂着。小市、磯吉、清七、庄蔵、新蔵は土民に着いていきニビジモフ(モスクワ商人ヴァシリー・ヤコブレヴィチ・ジガレフの使用人)らに会う。清七、庄蔵、新蔵は、ニビジモフらに同行し光太夫のもとへ戻る。 天明3年7月21日(1783/08/18)、船を失う。 天明3年7月22日(1783/08/19)、艀を失う。 天明3年7月23日(1783/08/20)、ニビジモフの集落にて合流。 天明3年8月9日(1783/09/05)、三五郎、アムチトカで病死。享年66歳。宗旨真言宗。菩提寺南若松心海寺。 天明3年8月20日(1783/09/16)、次郎兵衛、アムチトカで病死。 天明3年10月16日(1783/11/10)、安五郎、アムチトカで病死。 天明3年10月23日(1783/11/17)、作次郎、アムチトカで病死。 天明3年12月17日(1784/01/09)、清七、アムチトカで病死。享年26歳。 天明3年12月20日(1784/01/12)、長次郎、アムチトカで病死。 1784/10/11、藤助、アムチトカで病死。享年25歳。 1786年7月、ティエホン・イヴァノヴィチ・サポジニコフ、カムチャツカの基地ニジニ・カムチャツクから24名のロシア人を乗せたアポストル・パヴェル号に乗り組みコマンドルスカ島からアムチトカ島へ来るが座礁。 1787年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、カムチャツカのギジギンスクの警察署長に赴任。 1787年春、大黒屋光太夫ら、ロシア人と協力して船の建造にとりかかる。 1787/07/29、光太夫ら9人は作った船キリル・アレクサンドロスキー号で25人のロシア人とアムチトカを出帆。 1787/09/03、カムチャツカのウスチカムチャツカ港着。 1787/10/05、コノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ少佐とニジネカムチャツカへ。光太夫は、長官のコノン・ダニロヴィチ・オルリョンコフ家に厄介になる。光太夫以外は、秘書のヴァシリー・ドブレニン家に厄介になる。 1788/04/16、与惣松、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年21歳。 1788/04/22、勘太郎、ニジニ・カムチャツクにて病死。 1788/05/19、藤吉、ニジニ・カムチャツクにて病死。享年30歳。 1788/06/26、光太夫ら6人はニジネカムチャツカを発つ。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ隊長以下13名の護送隊がオホーツクまで同行する。南部多賀丸漂流民(H1744a)利八郎の義兄アファナシ・オチェレジン、通訳として光太夫らに同行。 1788/07/12、チギリ着。 1788/08/12、チギリ出帆。 1788/09/12、オホーツク着。 1788/09/23、オホーツク発。軍曹ワシーリイ、光太夫らの輸送隊指揮官として同行。医師ビリュチコフ、オホーツクでの任期を終え、光太夫らに同行。 1788/11/20、ヤクーツク着。 1788/12/24、ヤクーツク発。 1789/02/20、イルクーツク着。光太夫、小市、磯吉、久右衛門は、ホルコルフという蹄鉄工の家に起居。当初は日本語学校で起居との説も。 1789年、庄蔵、凍傷の悪化により足を切断。 1789年、南部多賀丸(H1744a)漂流民の久太郎の子トラペズニコフ、三之助の子タタリーノフが来訪。 1789年4月下旬、大黒屋光太夫、イルクーツクでテモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチと会う。 1789年8月、帰国願いに対し「帰国の儀は思いとまり、この国にて仕官すべき旨」の返答を受ける。 1789年9月の終わり、ホッケヴィチの紹介でキリル・ラックスマンを訪ねる。 1789年冬、庄蔵、受洗。ロシア名フョードル・ステパノヴィチ・シトニコフ。 1789/12/24、ラックスマン邸でアダム・ラックスマン、シェリホフと会う。 1790/01/26、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマンが、磯吉、新蔵とサイの化石を採集する。 1790/02/14、2度目の帰国願いに対し「商人になるなら税金も免除し、家も与えよう。もし仕官するのであれば、だんだんとカピタンにまで取り立てよう」との返答を得る。 1790/02/18、3度目の帰国願いを提出。 1790年5月、ラジシチェフ、「ペテルブルグからモスクワへの旅」を出版。 1790年6月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査に出かける。 1790/07/11、ラジシチェフ、逮捕されペトロパウロフスク要塞に監禁 シベリアのイリムスクに流刑を命じられる。 1790年10月中旬、庄蔵、入院。 1790年10月中旬、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ビリュイ川流域に鉱物の調査から帰る。 1791年、庄蔵、新蔵、イルクーツク日本語学校教師となる。 1791/01/24、九右衛門、イルクーツクにて病死。享年64歳。 1791/01/26、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツクを発つ。 1791年、新蔵、入院。 1791年1月下旬、大黒屋光太夫、トボリスク着。流刑地に赴くラジシチェフと会う。 1791/03/12、大黒屋光太夫、ペテルブルグ着。1791年春、新蔵、受洗。ロシア名ニコライ・ペテロヴィチ・コロトゥイギン。1791/05/07、大黒屋光太夫、ペテルブルグで新蔵と会う。 1791/05/08、大黒屋光太夫、ツァールスコエ・セロ着。 1791/07/09、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/07/21、大黒屋光太夫、2度目の謁見。 1791年8月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、皇太子に伺候。 1791年9月下旬、大黒屋光太夫、ペテルブルグに戻る。 1791/10/10、大黒屋光太夫、アレクサンドル・アンドレエヴィチ・ベズボロドコ邸を訪ね、ウォロンツォーフから帰国を許された旨伝えられる。 1791/10/20、大黒屋光太夫、エカチェリーナ2世に謁見。 1791/11/19、大黒屋光太夫、ウォロンツォーフ邸で勲章を受ける。 1791/12/07、大黒屋光太夫、新蔵、ラクスマン、ペテルブルグを発つ。ツァールスコエ・セロのブシ邸に寄る。 1791/12/08、大黒屋光太夫ら、ツァールスコエ・セロを発つ。 1791/12/10、大黒屋光太夫ら、モスクワの豪商ジガレーフの家に着く。 1791/12/22、大黒屋光太夫ら、モスクワ発。 1791/12/25、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド着。1791/12/31、大黒屋光太夫ら、ニジニ・ノヴゴロド発。 1792/01/16、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ着。 1792/01/17、大黒屋光太夫ら、エカチェルリンブルグ発。 1792/01/21、大黒屋光太夫ら、トボリスク着。エゴル・イバノヴィチ・トゥゴロコフ、ラスクマンの日本遠征隊員を拝命。改めて光太夫に日本語を学ぶ。 1792/01/24、大黒屋光太夫ら、トボリスク発。 1792/02/03、大黒屋光太夫ら、イルクーツク着。 1792/02/17、ラジシチェフ、イリムスクにてヴォロンツォーフ公爵宛てに書簡を書く。ラクスマン教授との対面を心から待ちわびていたことを明らかにしている。 1792/05/31、大黒屋光太夫、ラックスマンとイルクーツク発。テモヘイ・オシポヴィチ・ホッケヴィチ、光太夫らを見送る。 1792/05/31、小市、磯吉、トベズニコフ、トゥゴロコフが光太夫とは別にイルクーツク発。 1792/06/03、大黒屋光太夫ら、カジカ着。 1792/06/04、小市ら、カジカ着。 1792/06/05、大黒屋光太夫、ラックスマン、グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ|Grigorii Ivanovich Shelikhovらとカジカを川舟で発つ。 1792/06/26、大黒屋光太夫ら、ヤクーツク着。 1792/06/28、小市ら、ヤクーツク着。 1792/07/13、大黒屋光太夫、ラクスマン、トラベズニコフ、ヤクーツク発。 1792年夏、航海学校に日本語クラスが創設。庄蔵、新蔵がここの教師となった可能性が高い。 1792/08/14、大黒屋光太夫ら、オホーツク着。 1792/08/19、小市ら、オホーツク着。 1792/09/01、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、オホーツクを発ちイルクーツクに戻る。 1792/09/24、大黒屋光太夫、小市、磯吉、エカチェリーナ号でオホーツク発。ギジギンスクの守備隊長をしていたアダム・キリロヴィッチ・ラクスマンが公使、イヴァン・フィリポヴィチ・トラベズニコフが事務長として乗り込む。 1792/10/07、北海道東岸沖に投錨。寛政4年9月3日(1792/10/18)、バラサン海岸(別海町)に投錨。アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、武装した兵13名と上陸し、近くにアイヌの集落があることを聞き、飲料水を補給して帰船。この日をもって、歴史上、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、公式にロシアを代表して日本に通商をもとめるために、根室に来航。 寛政4年9月4日(1792/10/19)、ラクスマン、光太夫、西別に上陸。 寛政4年9月5日(1792/10/20)、カチェリーナ号根室湾に投錨。ラクスマン、根室に上陸 根室詰めの松前藩士熊谷冨太郎と会見、日本との通商についての直接交渉の斡旋を依頼する。 1792年10月下旬、ラクスマン、上陸して営舎を建てる地を卜した。 寛政4年9月8日(1792/10/23)、ラクスマン、「松前藩主宛来航覚書」「光太夫口書」「赤人通詞口上之趣」を提出。熊谷冨太郎、ロシア船来着の報をラクスマンが差し出した書簡を添え急使をもって松前に届ける。 1792/10/29、営舎が落成し上陸。 1792/11/16、ラクスマン、松前藩士・工藤庄右衛門を訪ね、重ねて使命の趣旨を伝える。 寛政4年10月15日(1792/11/28)、ラクスマン、上陸して越冬宿舎に入る。 寛政4年末、ラクスマンら一行がスケートをする。松前藩士がその様子をスケッチした。 寛政4年11月2日(1792/12/15)、幕府が、ラクスマンとの交渉のため、目付・石川忠房と西丸目付・村上義礼を松前派遣の宣諭使に任命する。 寛政5年1月22日(1793/03/04)、幕府の宣諭使・石川忠房と村上義礼が、ロシア使節来航に関する処置のため江戸を出立し、蝦夷松前に向かう。 寛政5年3月2日(1793/04/12)、宣諭使松前着。 寛政5年4月2日(1793/05/11)、小市、根室で壊血病で死亡。享年51歳。宗旨真言宗、菩提寺若松村宝祥寺、戒名釈転流道友信士。 寛政5年4月23日(1793/05/30)、ラクスマン、ロシア船の砂原(内浦湾西岸、茅部郡砂原町)までの航行を認められ妥協。 寛政5年5月26日(1793/07/04)、箱館湾投錨。 寛政5年6月6日(1793/07/13)、大黒屋光太夫、磯吉、ラクスマン、トラベズニコフらが、箱館上陸。 寛政5年6月18日(1793/07/25)、大黒屋光太夫ら、泉沢村発。 寛政5年6月19日(1793/07/26)、大黒屋光太夫ら、福島泊。 寛政5年6月21日(1793/07/28)、ラクスマン、幕府宣諭使・石川忠房と村上義礼と松前で第1回会見。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、ラクスマン、宣諭使と第2回会談を行い、イルクーツク知事ピーリの「日本政府宛公文書」を提出して、大黒屋光太夫ら漂流民の引取りを要請する。 寛政5年6月24日(1793/07/31)、大黒屋光太夫、磯吉、夕方、幕府に引き渡される。寛政5年6月24日(1793/08/03)、ラクスマン、宣諭使と第3回会談を行い、幕府側が通商に関する国法を伝達して、長崎への回航を要請する。信牌をもらう。 寛政5年6月30日(1793/08/06)、ラクスマンら松前発(陸路)。 寛政5年7月4日(1793/08/10)、ラクスマンら箱館着。 寛政5年7月16日(1793/08/22)、エカチェリーナ号、箱館出帆。大黒屋光太夫、磯吉、松前を出立。石川忠房・村上義礼、松前の要地および津軽・南部藩領の沿岸巡視に出発。 1793/09/19、エカチェリーナ号、オホーツク港入港。 寛政5年8月17日(1793/09/21)、大黒屋光太夫・磯吉、江戸に到着 1793年10月、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、イルクーツクへ発つ。 寛政5年9月18日(1793/10/22)、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉の前で漂流中の話をする。 寛政5年10月7日(1793/11/10)、石川忠房・村上義礼、帰府。 寛政5年10月10日(1793/11/13)、大黒屋光太夫・磯吉、郷里の人々(磯吉兄清吉・光太夫甥彦八)との会見を許される。 寛政5年11月1日、村上義礼、蝦夷地・奥羽巡視の使命を果たし、帰府して将軍・家斉に謁見。 1794年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを訪れて、大路の大官に、新たに日本に使節を送ることを提案。ラックスマンが個人の資格で日本に赴くことが許可される。グレゴリー・イヴァノヴィチ・シェリホフ、ラックスマンが日本に再度使節を送る意見に反対。レザノフと出会う。 寛政6年6月11日(1794/07/07)、大黒屋光太夫・磯吉、番町明地薬草植付場に移されることに決定。 寛政6年7月1日、大黒屋光太夫・磯吉に番町植場に移されることが申し渡される。 寛政6年7月3日、幕府、亀山藩に小市身寄りのものの調査を命ずる。 寛政6年7月21日、亀山藩から幕府に小市の妻けんが家をまもっていると報告する。 寛政6年8月2日、幕府、小市妻けんに銀10枚を下賜。 寛政6年8月5日、幕府、小市妻けんに小市の遺品を下げ渡す。 寛政6年9月6日、小市遺品、若松村に届く 寛政6年9月18日、大黒屋光太夫・磯吉、将軍家斉が謁見。 寛政6年9月18日~22日、若松村宝祥寺で、小市の追善供養が行われた際に、小市の遺品が一般に展覧された。 寛政6年11月1日(1794/11/23)、大黒屋光太夫、大槻玄沢に招かれる。 寛政6年閏11月11日、大黒屋光太夫、蘭学者たちのオランダ正月を祝う席に招かれる。 1795年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、ペテルブルグを出発、シベリア街道を東に向かった。 1795/07/31、シェリホフ没。彼の作った会社を基礎にして彼の死後〈露米会社〉が設立された。この会社の総支配人で遣日使節に任命されたレザノフは彼の女婿である。今日ではオホーツク海北部のシェリホフ湾とコディアク島の北のシェリコフ海峡にその名をとどめている。 寛政7年8月9~27日、小市遺品、名古屋の七寺(ななつじ)(稲園山)境内の一乗院で展観される。 1795年12月、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、シベリア商人に「信牌」を下付し、商船を長崎に派遣することは、ヨーロッパ諸国がフランス革命戦争に煩わされている今こそ、対日通商関係樹立の好機である旨の上申書を提出する。 1796年、キリル・グスタボヴィチ・ラクスマン、トボリスクから約100kmのヴァガイ河(イルトゥイシ河へ注ぐ)の畔で病死。 1796年、庄蔵、イルクーツクで若宮丸儀兵衛(H1793a)と同居する。 1796年夏、庄蔵、イルクーツクで死亡。享年45歳。若宮丸儀兵衛(H1793a)に見とられる。 1796/07/20、ラジシチェフ、イルムスクにてヴォロンツォーフ宛て書簡。ラスクマンの死を確認し、深い哀悼の念にみちている。 寛政9年(1797)、大黒屋光太夫に嗣子、大黒梅陰が生まれる。 寛政10年(1798)10~11月、磯吉、故郷に帰り1ヶ月滞在する。 寛政11年3月13日~4月2日(1799/04/17~05/06)、京都の伏見桃山で小市遺品が展観される。 1802年、ラジシチェフ、自殺。 享和2年4月22日(1802/05/24)、大黒屋光太夫、帰郷を許され、亀山代官所に到着する。 享和2年4月23日(1802/05/25)、大黒屋光太夫、村役人や親類の者たちと同道して若松村に帰る。 享和2年6月、大黒屋光太夫、若松村を離れ江戸に帰る。 1803年、アダム・キリロヴィッチ・ラクスマン、没。 1803/04/28、新蔵、若宮丸漂流民(H1793a)とイルクーツク発。 1803/06/15ごろ、新蔵、ペテルブルグに到着。 文化3年11月27日(1807/01/05)、磯吉、蔵前の札差夏目成美邸の俳席随斎会で漂流話をする(小林一茶証言)。 1810年、新蔵、イルクーツクで死亡。享年52歳。ロシア人の最初の妻マシウエヤ・ムシヘイオナとの間に、男子2人、女子1人、2番目の妻カテリナ・エキムフモオナとの間に女子1人あり。 文政11年4月15日(1828/05/28)、大黒屋光太夫、江戸番町植場内で死亡。享年78歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺。戒名釈道誓信士。若松村墓碑では久味。養家先亀屋の菩提寺は若松の緑芳寺。 天保9年11月15日(1838/12/31)、磯吉、江戸番町植場内で死亡。享年77歳。宗旨真言宗、菩提寺江戸本郷興安寺、南若松心海寺、戒名釈順誓信士。 参考文献 荒川秀俊, 1995. 異国漂流物語. 社会思想社. 木崎良平, 1991. 漂流民とロシア. 中央公論社. 山下恒夫, 2004. 大黒屋光太夫. 岩波書店.
https://w.atwiki.jp/kokodaketasekai/pages/82.html
プロフィール ・名前 セレナ・ウィングロード ・種族 ダークエルフ ・性別 女 ・年齢 外見は20程 ・職業 付与術師/彫師 ・世界 どこかのファンタジー世界 外見 褐色の肌に刻み込まれた刺青、それと対照的な金のポニーテール。 加えて長く、尖った耳が特徴的な小柄の女。 服装は赤と黒のチェック柄のミニスカートと、サスペンダーで固定した黒のチューブトップ。 加えて頭にスカートと同色のハンチング帽と、足に革のブーツを着用している。 ブーツで森の中を駆け抜けるエルフ恐るべし。 ちなみに装備品の弓と矢筒は、常時背負った状態。 キャラクター ダークエルフだが、ダークでないエルフの少女。成人の儀の一環として森林を旅している間に漂流した。 ちなみに成人の儀とは旅そのもの、異種族やその文化に触れ、大人になる、といった意味合いのものである。 商魂逞しく、かといってどこか抜けた感のある普通のエルフとは悪い意味でどこか一千を画す少女。 種族柄なのかこの世界の言葉が上手く発音できず、妙な訛りが存在する。 出た先もまた森だった事から、未だにこの世界の存在に気づいていない模様。 せいぜい未開の地に来たのかなといった程度の認識だが、こちらに来てから経過した時間は長かったりする。 現在の方針はとりあえず町に出て自分の技術で食っていければ良いか、と考える程度。 能力 “印術” 入れ墨や彫金等において魔力をインクで、魔法陣をデザインで賄う魔術。 デザインのモチーフに合わせ、様々な力を彫ったものへと与える。 例えば剣を彫ればインクが刃の形を取るし、稲妻を彫れば帯電する。 使用する度に魔力、つまりインクを消耗していき、デザインが消えた時点で魔術はその力を失う。 性質上、急な状況に即応できないのが弱味。 初期装備としてふくらはぎ全体にトライバル(湾曲した線が絡まりあったもの)風の「風の印」を、 右上腕に「宿り木の印」、左手甲に「盾の印」を装備、こちらのデザインはそのまま、絵である。 所持品 【装備】 「コンポジットボウ」 弾力に富んだ短弓、木と動物の骨から作られており、複数の曲線で構成される。 後述する能力により上下端から刃が飛び出す“刃の印”が彫り込まれている。 「矢筒」 鉄の矢じりを持つ普通の矢、本体の能力により、各種の力を付与可能。 ……を、多数収めた筒。ショルダーベルト付き・ 「小道具入れ」 ノミや針、様々な色のインク等、デザインを彫る為の道具を納めた革のカバン。 形状としてはボストンバッグに近い。 活動履歴 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/mainichi-matome/pages/4928.html
11月19日名古屋版夕刊 2009年11月19日 毎日新聞 大阪版(京都)夕刊 11月19日東京版夕刊(縮刷版) 関連ページ 11月19日名古屋版夕刊 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事171 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1257196188/389 1面題字下:ハルタ製靴(株) 途中:毎日アースデイ新聞(カラー) 下:(株)ウェブクルー(3段) 2面下:毎日小学生新聞(5段) 6面下:(株)大共薬品(5段) 7面下:まいまいクラブ(5段) 8面下:(株)ダリヤ(5段) 9面下:OCAJapan(株) FM-aichi(5段) 10面途中:Bridal Collection SPOSA DI MATSUEDA 2009年11月19日 毎日新聞 大阪版(京都)夕刊 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事172 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1259162836/254 一面:ハルタ製靴株式会社 毎日アースデイ新聞 ”カラー”× 大阪市立美術館 ”2色カラー” かにNAVI kani-navi.com ”カラー”★ 山田養蜂場 ”下5分の1” 四面:お仏壇 墓石の畑中 ”全面”★ 八面:海遊館 ”カラー”★ あさひ司法書士事務所 <加賀屋 www.kagaya.co.jp/ ☆ 安田原製菓株式会社 (白山市) 清香室町 (金沢市本多町) ラブロ恋路 www.lovero-koiji.jp>企画制作・(株)石川毎日広告社 九面:阪急百貨店 ”下3分の1” 十面:くら寿司 ”下3分の2”★ ×→自社広告 ☆→新規企業 ★→広告復活企業 (記憶違いならごめんなさい) くら寿司、海遊館、仏壇 墓石の畑中 11月19日東京版夕刊(縮刷版) 「日本の母は息子の性処理係」毎日新聞が捏造記事174 http //hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/ms/1262964672/364 1面題字下:ハルタ製靴(株) 途中:毎日アースデイ新聞 下:サントリーウエルネス(株)(3段) 2面下:毎日新聞旅行(5段) 3面下:ホテルオークラ東京 (株)ノッツェ結婚情報センター ロート製薬(株)(3段) 10面下:日本大学芸術学部音楽学科 東京フロイデ合唱団 (財)板橋区文化・国際交流財団 (株)毎日新聞東京センター (株)ドクターシーラボ(7段) 11面下:新橋演舞場(5段) 途中:毎日新聞社 12面途中:ローヤル(株) 天ぷらつな八 下:財宝(3分の2) 関連ページ 2009年7月- 12月 毎日新聞に広告を出していた企業
https://w.atwiki.jp/evergreenforest/pages/64.html
遣唐使19 836年(H0836a) 延暦13(794)年、円仁=慈覚大師。下野国都賀郡で生まれる。 808年、円仁、最澄の弟子となる(15歳)。 承和元年1月19日(834/03/06)、藤原常嗣(ふじわらつねつぐ)、遣唐使19の大使に、小野篁(おののたかむら)、副使に任ぜられる。 承和2年(835年)、円仁、入唐の詔を拝する(遣唐使19に参加)。 承和3年5月14日(836/06/05)、遣唐使19、通例に従い、4隻の遣唐船を一団とし、難波津(大阪)を出発(1度目の出発)し、瀬戸内海を通って九州に向かう。出港直後暴風雨に遭うが、大宰府に到着する。 第1回出帆 承和3年7月2日(836/08/21)、遣唐使19、4隻の遣唐使船(651人)が博多津から中国に向かって出発。 承和3年7月6日(836/08/25)、逆風に遭い第1船(大使藤原常嗣乗船)が肥前国に漂廻してくる。 承和3年7月8日(836/08/27)、逆風に遭い第2船(副使小野篁乗船)が肥前国国松浦郡別島に帰着。 承和3年7月9日(836/08/28)、第4船(判官菅原善主乗船)が肥前国に漂廻してくる。 第3船は遭難漂流するうちに飲料水が不足してきたので渇死を恐れて船を壊して筏を作り、乗員140人が散り散りになる。多くは行方不明となったが、筏に乗ったものが16人あるいは9人と対馬や肥前に漂着し、第3船そのものも対馬島上県郡南浦に3人を乗せて漂着した。 第1船・第2船・第4船は大宰府管内で修理。 第2回出帆 承和4年7月22日(837/08/30)以降、五島福江島の旻楽崎(みみらくさき・長崎県南松浦郡福江島三井楽村)から出帆(2度目の出発)するが、また逆風に遭い、第1・4船は壱岐に、第2船は値賀島(平戸島)に漂着。再度の失敗に、朝廷では藤原朝臣助を勘発遣唐使に命じて督励する。 第3回出帆 承和5年6月13日(838/07/12)、正午頃乗船(博多)。第2船は副使小野篁の病故により出発せず。 承和5年6月17日(838/07/16)、3日間停泊後、この日夜半(0時ごろ)第1船・第4船出帆、志賀島東(10時ごろ着)に5日間停泊。 承和5年6月22日(838/07/21)、6時ごろ、東北風を得て出帆。 承和5年6月23日(838/07/22)、10時ごろ有救島(五島列島北端)に至る。18時ごろ同地出帆。 承和5年6月24日(838/07/23)、第4船先行。22時ごろに第4船の火信が見えたが、明け方には見えなくなった。 承和5年6月27日(838/07/26)、山島見えず。(第1船) 承和5年6月28日(838/07/27)、大陸に近づく。黄泥水・漂流物あり。船漂流し神仏に祈る。(第1船) 承和5年6月29日(838/07/28)、帆柱を倒す。火光を見る。(第1船) 同日14時、大使藤原常嗣、はしけで第1船を離れる。 承和5年7月1日(838/07/29)0時、大使藤原常嗣、大江口に漂着。 承和5年7月2日(838/07/30)、第1船に迎船来たる。迎船で江口に到る。14時、第1船乗員、東梁豊村に着く。 承和5年7月3日(838/07/31)、第1船乗員、堀港着。白潮鎮で第1船一行(本隊と藤原常嗣隊)合す。延海村国清寺に停住。 同日、第4船北海に漂着。 承和5年7月5日(838/08/02)、大宰府が遣唐使船第1船第4船の進発を報告。 承和5年7月29日(838/08/26)、大宰府が遣唐使船第2船の進発を報告。 承和5年8月24日(838/09/20)、第4船一行、第1船に合流。 副使小野篁の病気のために出発の遅れた第2船は海州(江蘇省連雲港)に到着。 承和5年10月5日(838/10/30)、大使藤原常嗣以下35人、5隻の官船に乗って揚州を出発。 運河を利用し、承和5年12月3日(838/12/27)長安に到着。 承和6年閏1月4日(839/02/25)、長安を出発、帰路に就く。 承和6年2月12日(839/04/03)、楚州に到着。 帰路 新羅船9隻を購入し、揚州に残留していた人たちと合流して、承和6年3月14日(839/05/04)、楚州を出発、淮河(わいが)を利用しながら、海州東海県東海山(江蘇省連雲港付近)に停泊 承和6年3月24日(839/05/14)、入唐第2船、海州東海県を出発。消息不明となる。 新羅船組、2船団に分かれて承和6年4月3日と5日(839/05/23 25)に出帆。暴風に遭って漂流、再び山東半島赤山浦(山東省靖海衛付近)に集結。 承和6年7月15日(839/08/31)、新羅船第2船、赤山浦を出帆。 承和6年7月22日(839/09/07)、新羅船第2船以外、赤山浦を出帆。黄海を横断して新羅の西岸に沿って南下。円仁、赤山浦で、弟子の惟正(ゆいしょう)、惟暁(ゆいぎょう)と下船。 承和6年8月14日(839/09/29)、新羅船第6船(録事大神宗雄(おおかみのむねお)乗船)の来着が大宰府から報ぜられる。 承和6年8月19日(839/10/04)、新羅船第1船(大使乗船)など7船が肥前国松浦郡生属島(生月島)に来着したことが大宰府から奏上される。 承和7年2月19日(840/03/26)、円仁、赤山浦の法花院を出発。登州にしばらく滞在 承和7年3月12日(840/04/17)、円仁、登州を出発。 承和7年3月15日(840/04/20)、円仁、莱州着。同日出発 承和7年3月21日(840/04/26)、円仁、青州着。12日間滞在 入唐第2船は、はるか南海の裸人国に漂着し、そのうち知乗船事(ちじょうせんじ)菅原梶成(すがわらのかじなり)ら約30人が船を壊して造った1隻の小船に乗って、承和7年4月(840/5月)、大隈国の海浜にたどり着く。 承和7年4月3日(840/05/11)、円仁、青州発 承和7年4月7日(840/05/15)、円仁、章丘着。同日出発 承和7年4月11日(840/05/19)、円仁、薬家口着。同日出発 承和7年4月13日(840/05/21)、円仁、貝州着 承和7年4月16日(840/05/24)、円仁、貝州発 承和7年4月19日(840/05/27)、円仁、趙州着。同日出発 承和7年4月21日(840/05/29)、円仁、鎮州着。同日出発 承和7年4月28日(840/06/05)、円仁、停点普通院(山西省五台山)に到達する 承和7年7月1日(840/08/01)、円仁、大花厳寺(山西省台懐鎮)出発 承和7年7月6日(840/08/06)、円仁、五台県(山西省五台)着。同日出発 承和7年7月13日(840/08/13)、円仁、太原府(山西省太原)着 承和7年7月27日(840/08/27)、円仁、太原府(山西省太原)発 承和7年8月1日(840/08/31)、円仁、汾州着。同日出発 承和7年8月7日(840/09/06)、円仁、普州着。同日出発 承和7年8月11日(840/09/10)、円仁、新橋渡着。同日出発 承和7年8月13日(840/09/12)、円仁、河中府着。同日出発 承和7年8月20日(840/09/19)、円仁、長安着 承和14年(847)9月、円仁、朝鮮船で帰国 参考文献 宇治谷孟,1992. 続日本紀(上)全現代語訳. 講談社. 大林太良編, 1995. 日本の古代3 海をこえての交流. 中央公論社.
https://w.atwiki.jp/futabayukkuriss/pages/2336.html
「ふたば系ゆっくりいじめ 1117 ゆっくり漂流記 漂う命/コメントログ」 素晴しく面白いね。 -- 2010-07-02 05 11 04 「だって、おじさんは!」 このまりさの発言が切り身の大きさの事だってのはわかるんだけど 我侭だったりゲスなゆっくりのこう言う発言は 「だって、おじさんはまりさのどれいだよ!?」 に続きそうで、救命イカダの上で自ら死亡フラグ立てたのかと思ったわ -- 2010-09-18 22 49 20 むぅ、おじさん粘るな。まさか「ゆっくり=食料」の観念の片鱗すらまだ出てこないとは… -- 2010-10-14 05 25 53 面白い。まさかゆっくりと一緒に極限状態のサバイバルとは。 そして信号機の故障はすっっごくよくわかるんだよー! 電池切れはホント勘弁して欲しいんだよー!! -- 2010-12-21 02 54 02 まりさのゲス因子がどんどん発現してきてるな…どうなるか楽しみだ -- 2011-02-24 00 02 49 まさか、ここで南の島のまりさに繋がるとは。 -- 2011-08-07 21 45 21 すごい面白い まさかれいむが叱るなんて思わなかった -- 2011-09-25 14 13 11
https://w.atwiki.jp/retrogamewiki/pages/10820.html
今日 - 合計 - SIMPLE2000シリーズ Vol.34 THE 恋愛ホラーアドベンチャー 漂流少女の攻略ページ 目次 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 基本情報 [部分編集] ストーリー [部分編集] 攻略情報 [部分編集] Tips [部分編集] プチ情報 [部分編集] 関連動画 [部分編集] 参考文献、参考サイト [部分編集] 感想・レビュー 名前 コメント 選択肢 投票 役に立った (0) 2012年10月11日 (木) 11時08分43秒 [部分編集] ページごとのメニューの編集はこちらの部分編集から行ってください [部分編集] 編集に関して
https://w.atwiki.jp/wiki7_eo/pages/85.html
#blognavi 懲りずに行った二度目のアビスレイク。 そこで敏腕美人記者れもんは驚愕の財宝を発見したのであった! あまりの金銀財宝の輝きにトレジャーハンターたちは我をわすれしばし悦楽に酔いしれるのであった。 カテゴリ [りんごblog] - trackback- 2006年07月06日 15 44 07 財宝の中に居ても、輝くれもんさん・・・・・・・・・・・・・・・・・とか、書いてみるテスト。 -- おみそ (2006-07-07 19 31 37) 名前 コメント #blognavi
https://w.atwiki.jp/anozero/pages/5605.html
前ページ次ページドラえもん のび太のパラレル漂流記 「はあぁ……」 と、ルイズは重いため息をついた。 そのため息の原因は、彼女の使い魔……いや、コントラクト・サーヴァントはしていないので 使い魔とは言えないかもしれないが、とにかく彼女が喚び出したモノに原因があった。 見たこともない外見をして、さらに言葉まで話していたので、最初は高位の幻獣を引き当てたか、 と喜びもしたのだ。 ――しかし、実際には大外れだった。 全くもって、使えない。というかもう、使えない以前に言うことを聞かないのだ。 この世界のことはよく知らないだろうと思って、 とりあえず簡単に出来そうな掃除や洗濯を命じると、 「そうじにせんたく? じぶんでやれよ。 こんな子どものうちからひとをたよってばかりだと、しょう来ろくな大人にならないぞ」 と逆に説教をしてくる始末。 それならば、と、 「あんた、未来の秘密道具とやらが使えるんでしょ。 だったらせめて洗濯する道具を出しなさいよ!」 と言ってみれば、 「せんたく板とたらい~」 とか何とかほざいて、それをルイズに押し付けてきた。 「……で、これは何?」 こめかみの血管がピューピュー言いそうになるのを必死で抑えてルイズが聞いてやると、 「なにって見たらわかるだろ。せんたく板とたらいだよ」 悪びれもせずに答えてくる。 「へぇー。それはとても興味ぶかい情報ね。……それで? これでどうやって洗濯するの?」 「ルイズ。きみはほんとうにばかだな。じぶんの手でこすってあらうにきまってるだろ」 「ふぅうん……」 そこでルイズはにこっ、とびっきりの笑顔を見せて、 「ふざっけんじゃないわよこのイカレタヌキィイイイ!!!」 「ぼくはタヌキじゃなぁーい!!」 ――結局、つかみ合いのケンカになった。 「しっかしほんと、どうしたもんかしらね」 しっぽを引っ張って動かなくさせたドラえもんの顔に足を乗せ、ルイズは首をひねった。 使い魔一匹満足に従えられないなんて、このヴァリエール家のルイズ、一生の名折れである。 いや、それでなくてもとにかく、こんな妙ちくりんな顔したタヌキにバカにされるのは 貴族として人として一個の生き物として、どうにもがまんならないのであった。 「それに、ようやく呼び出した使い魔がこんなのだなんて、わたしまたみんなの笑いものに……」 そこでルイズはハッと気づいた。 「しまった! こんなことしてる場合じゃないわ! もう朝食の時間すぎてるじゃない!」 足の下にいるドラえもんを再起動させ、その頬を容赦なくバンバン叩く。 「こらあんた! ドラえもん! 起きなさい、食堂に行くわよ!」 それでぼんやりと目を覚ましたドラえもんだが、 「いいよぼくは。のび太くんのことを思うとかわいそうでかわいそうで、 ごはんなんてのどをとおらないよ」 そう言って本格的に二度寝に入ろうとする。 「あんたが良くてもわたしが困るの! 朝食の後はすぐに授業に行くんだし、 最初の授業に使い魔がいないとわたしの立場が悪くなるでしょうが!」 言いながらヒゲをぎゅうぅ、と引っ張ってやると、ようやく根負けしたのか、 ドラえもんがのっそりと体を起こした。 「めんどくさいなあ。そこまでいうならすこしだけつきあってやるよ」 などと言いながら、扉の方へ向かう。 ルイズは、 (またこいつはこんな生意気な口を……) と思ったが、また機嫌を損ねられでもしたらそれこそ面倒なので、なんとか堪えた。 ご主人様もなかなか楽ではないのである。 二人が廊下に出ると、近くの部屋のドアの一つが、ちょうど開くところだった。 そしてそこから顔をのぞかせた生き物を見て、 「ぎゃー! ネズミー!!」 ドラえもんがすっとんきょうな叫び声をあげる。 「あいたっ!」 突然足を止めたドラえもんにルイズがぶつかって、 「で、でっかいネズミ、ネズミネズミネズミー!」 さらにドラえもんの狂乱は続く。 「ちょ、ちょっとあんた、どこに入って…!」 ドラえもんが錯乱して、ルイズのスカートの中に隠れようとしたのだ。 これにはルイズ、さすがに焦る。 「ちょ、やめなさ…! これは高貴な、きゃぁ! もう、とにかく離れなさいよ! しっぽ引っ張るわよ!」 必死に引きはがそうとするが、半狂乱になったドラえもんの力は存外に強く、 すぐには振り払えない。 しかしそこで、 「ネズミだなんて失礼ね。この子はサラマンダー。火トカゲよ」 ドラえもんが見た生き物と同じ部屋から出てきた赤髪の少女が、 笑いながらドラえもんの勘違いを指摘する。 それでようやく、ドラえもんの暴走は止まった。 「キュルケ! そのサラマンダーもしかしてあなたの…?」 しかし、聞こえてきたその声に、今度は仇敵の姿を認めたルイズが叫び声をあげる。 「ええ。フレイムって言うの。サラマンダー、それもまず間違いなく、火竜山脈の火トカゲね。 うふふ。この子ってば火の系統の使い魔の中でもかなりのものなんじゃないかしら」 動揺するルイズに、ふふん、とルイズとは月と銭亀くらいにサイズの違う胸を張るキュルケ。 そんな中、ようやくドラえもんがわれに返って、 「なんだ、トカゲか。おどかすなよ」 おそるおそるフレイムに近づいていく。 「うんうん。よく見るとなかなかかわいいじゃないか。 ネズミなんかとまちがえてわるかった。 そうだ。ほらおいで。ぼくがおいしいおだんごをあげよう」 ドラえもんはそう言ってフレイムをあやしながら、ポケットから桃の絵が描かれた袋を出して フレイムに食べさせようとしている。 「あら、あんまり変な物を食べさせないでよね。くせにするから」 一方キュルケは一応制止しているが、その態度はおざなりで、本気で困っているようには見えない。 そんなほほえましく見えなくもない自分の使い魔と仇敵の様子を苦々しく見つめながら、ルイズがほえる。 「こらドラえもん! ツェルプストーの使い魔なんかに物をあげるんじゃないわ! で、キュルケ、何の用?! 何も用事がないなら、さっさとどっかに行ってくれる?」 しかし、使い魔の差か、胸の差か、ルイズのとけとげしい態度にも、キュルケは余裕の表情を崩さない。 「あら、そんなにつれないこと言わないでよルイズ。あたしとあんたの仲じゃないの」 笑いを含んだ声でキュルケが言って、 「なにがあたしとあんたの仲よ! 先祖代々から続く仇敵でしょ、あたしたちは!」 ルイズが憤慨する。 まったくいつもの光景であった。 しかし、いつもと違うところがひとつ。 「にしても、これがルイズの使い魔、ねぇ…」 それはサラマンダーに団子を与えながら、よしよしと目を細めているロボットの姿。 キュルケはゆかいそうにそれを眺めている。 ルイズはその視線に侮辱されたと感じて、 「なに見てんのよ! あたしが喚び出した使い魔に文句でもあるわけ?!」 そうキュルケに食ってかかる。 しかしその言葉に、キュルケはさらに嘲りの色を深くして、 「だって、ゼロ――魔法の成功率ゼロパーセントのあんたが召喚した使い魔よ。 やっぱりもう一度じっくり見ておきたいじゃない?」 なんてことを言ってくる。 一瞬ぐっと詰まったルイズだったが、 「ぜ、ゼロじゃないわよ! サモン・サーヴァントは成功させたでしょ!」 出てきたのはこんな役立たずだけど、と心の中だけでつぶやきながら、強気な台詞を吐く。 「あら、そうね」 意外にもキュルケは納得したようにうなずいて、しかし、 「でもだいじょうぶよ、まだ残ってるじゃない」 すぐに悪だくみを思いついたかのようににやりと顔をゆがめ、 「ほら、ゼロのルイズ」 ルイズの絶壁を指差して、そう口にした。 「な、なななななななな…!」 あまりのことに、ルイズはとっさに言葉が出ない。 「それじゃ、失礼。……ほらフレイム。何してるの、置いていくわよ」 使い魔のサラマンダーと共に、悠然と歩き去っていってしまった。 キュルケの姿が見えなくなってから、あふれる悔しさを飲み込んで、 ルイズはしわがれたような声を出す。 「ほら、ドラえもん。そんなとこでぼうっとしてないで、さっさと行くわよ」 しかし、返事がない。 「……ドラえもん?」 いぶかしげにドラえもんの顔を覗き込むと、 「あんなこといわれて、きみはくやしくないのか! みかえしてやろうとはおもわないのか!」 なぜか怒り狂っていた。 急にドラえもんが怒り出した理由はよくわからないが、苛立つ気持ちはルイズも一緒だった。 しかし、 「わたしだって見返してやりたいわよ! ……でも、やっぱり魔法は使えないし、せっかくのチャンスだった使い魔召喚の儀式でも、 出てきたのはあんたみたいなおかしなタヌ…ネコだったし」 いじけた顔でルイズは言う。 その言葉に何か感じるものがあったのか、ドラえもんは自分がバカにされたにも関わらず、 菩薩のような丸顔で同情の言葉を口にする。 「それはきのどくだったなあ」 ガツン! 言われた瞬間、ルイズは思わずドラえもんを殴りつけていた。 「な、なにをするっ!」 当然再び怒り狂うドラえもん。 「いや、その……」 詰め寄られ、ルイズは口ごもる。 ルイズにも何か理由があった訳ではなく、ドラえもんの顔を見た瞬間、 つい衝動的にやってしまったのだった。 「ご、ごめんなさい。なんかあんたの顔見たら、無性に殴りたくなって…」 めったに謝らないルイズだが、ここはさすがに自分の非を認めた。 「そんないいわけがあるか!」 ただ、ドラえもんが怒るのはまあもっともだ。 (だってあんたの顔があんまりにもむかついたんだもん) とはいくらルイズでも口に出来ないし、言ってもまた怒られるに決まっていた。 「それにしても、急に怒り出してどうしたのよ。 今までわたしのことなんてどうでもいい、って感じだったのに」 だからとりあえず、ルイズは全力で話を逸らすことにした。 すると、ドラえもんは急にしゅんとなって、 「ごめんよ。きみのそのどうにもたんじゅんでだまされやすそうなところとか、 なにをやってもだめなところとか、ついのび太くんを思いだしてしまって…」 (……こいつ、一度絞め殺してやろうかしら?) ルイズは一瞬本気でそんなことを思って、すぐにそんな場合でないことを思い出す。 「まずいわ。今のでまた時間を取っちゃった。すぐに朝ごはん。それから授業よ!」 ルイズはそう言って歩き出すが、すぐにドラえもんがついてこないことに気づいた。 振り返ると、まだ扉の近くで立ち止まっている。 「ルイズ。いや、ルイズちゃん。いやいや、ルイズさん。 ぼくはここでるすばんしているから、きにしないでいってきなよ」 気味の悪い笑顔でそんなことを言ってルイズを送り出そうとするが、 「ダメよ。わたしだって不本意だけど、とにかく使い魔を連れてかなくちゃまたバカにされるの。 ていうかあんた、さっきまではわたしがのび太とかいうのに似てるとか言って、 すごくやる気だったじゃない!」 ルイズはそう言って促すが、ドラえもんは一向に動こうとしない。 あいかわらずの気持ちの悪い態度で何か言い始めた。 「いや、なんでもこの学えんにはつかいまがおおくいるそうじゃないか。 そんな中、ぼくがいくとおびえさせてしまうんじゃないかと…」 「そんな訳ないでしょ。あんたを怖がるのなんて、せいぜい小鳥とかネズミとか…ん?」 ネズミ、と口にした途端ドラえもんがびくんと反応して、ルイズは勘付いた。 「あんたまさか、学校の使い魔にネズミがいるかもしれないって思って、それで嫌がってるの?」 「ま、まままさかそんな! ぼくはネコ型ロボットだぞ! ネズミなんて……」 「はいはい。じゃ、行きましょうね」 ルイズは嫌がるドラえもんの手を引いて、問答無用で進んでいく。 (ああ、なんでこんなことになっちゃったんだろう…) 張り切って廊下を進んでいくルイズの背中を見ながら、ドラえもんはため息をつく。 (なんだかのび太くんのきもちがわかるきがするよ。学校って、じつにいやなところだなあ) しかし、それがドラえもんにひらめきをもたらした。 (そうだ。こういうときはのび太くんのまねをして……) 「い、いたい!」 いきなりを大声を出したかと思うと、突然ドラえもんがうずくまっておなかを押さえる。 「イテ、イテテテテテ! きゅうにおなかがいたくなってきた。 はやくトイレにいかないと、イテ、イテテテテ!」 あからさまに怪しいドラえもんの態度に、さすがのルイズも不審な目をする。 「トイレならあっちだけど、あんたまさか仮病を使って…」 しかし、ルイズが何も言い終わらない内に、 「えへへ。ではすぐもどりますので」 急に元気になったドラえもんが不気味ににやけながら駆けていき、 「あ、ちょっと?! そろそろ時間がないんだから、勝手に……ああもう!」 ルイズの制止も聞かずに廊下の角を曲がって、 「オマタセ シマシタ」 なぜかたったの数秒で戻って来た。 「なによ。やけに早かったわね」 今度はどんな駄々をこねるつもりかとルイズはうろんな目つきで身構えるが、 「イヤ ボクハ ドラエモン ダヨ?」 「そんなことわかってるわよ。変なやつね」 おかしな返事が返ってきて、調子を崩された。 「ジャア キョウシツヘ イコウ」 しかしドラエモンは、そんなことお構いなしな様子で先に立って廊下を歩き始める。 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 教室はそっちじゃないから。ああ、もう! 行きたくないって言ったり急に行く気になったり、なんなのよあんたは!」 どんどんと先を行くドラエモンを追いかけるように、ルイズもその後を早足で歩いていく。 ……やがて。 視界からルイズたちの姿が消えたのを確認すると、曲がり角からドラえもんが顔を出した。 「しめしめ。すっかりニセモノにだまされたみたいだな。 ……さて、へやにもどってひるねでもするか」 そうしてドラえもんは来た道を戻り、部屋へと帰っていくのだった。 ――その後、教室ではルイズが錬金に失敗して爆発を起こしたりしたそうだが、 それはドラえもんには全く関係のないお話である。 第二話『ゼロのルイズとドラエモン』 完 前ページ次ページドラえもん のび太のパラレル漂流記
https://w.atwiki.jp/hyoryuki/
漂流記は“不慮の事故により漂着した無人島からいかに生還するか”をテーマにしたサバイバルシミュレーションゲームです。 事故により無人島に漂着してしまったあなたは、同じ事故により漂着した仲間達のリーダーとなり、仲間達と協力して無人島でのサバイバルライフをおくることになります。 そのためにあなたは無人島で生き抜くために必要な食料や水を調達したり、無人島で生活していくために必要なサバイバルアイテムを作成・駆使していかなければばりません。 そして、的確な状況判断で仲間を守りながら無人島を探索・調査してその島から脱出するために必要なアイテムを作成し、仲間とともに危険に満ちた無人島を脱出し、生還することをめざすことになります。 上へ
https://w.atwiki.jp/keitainijiura/pages/42.html
無念 としあきNo.3055 「こんなとき、教授がいてくれたら良かったんだかだなぁ…」と独りごちるとしあき。 無念 としあきNo.3059 とにかくもう一度、暗号に目を通す。 【553355555338888000222999666677721111】 な(5)な(5)し(33)の(55555)…じゃないとしたら…ん? 次の瞬間、俺は気付いた。 どうして俺は"55"の部分を"な(5)な(5)"と切り分けて呼んでたんだ? 「にし…これ、『西』だ!!」 そう、この"5533"を、俺は勘違いして"ななし"と読んでしまっていた。だがこれは本来『西』と読むべきだったのだ…場所を示す暗号なのだ…合点がいく。大体、"の(55555)"が読めてなぜ"に(55)"が読めなかったのか…思い込みって奴は怖い。 「よし、こうなったら簡単だ!いっきに読み解いてやる!」 【553355555338888000222999666677721111】 "にしのしゃんくるへむかえ" つまり…『西のシャンクルへ向かえ』だ!間違いない!!もうそれ読めない! これで父さん'Sコレクションは俺の物だ! 俺はテンションの上昇に身を任せて『シャンクル』を目指して、体を『左の方角』に向け驀進した! …後悔するとも知らずに… 無念 としあきNo.3060 「お~い、ボタン押してないぞ~」 イカ男が呟いた 無念 としあきNo.3062 …ボタンを押してない事に気付いたのは、およそ2時間どこともわからぬ森をさ迷い歩いてからだった。 よく考えれば『シャンクル』が何かもわかってない。 方角だってこの島のどこが北かもわかっていないくせに何故俺は走りだしたのか…。 後悔の念で一杯だった。 さっきまで父さん'Sコレクションの為にさ迷い。 今は、イカ男の所へ戻る為にさ迷っている。 とにかく理屈は簡単だ、来た道を戻ればいい。 問題は、進んで来た道が、"道"じゃないことだけだ…。 もう一度だけ言おうか。 俺は、後悔の念で一杯だった… 無念 としあきNo.3063 突然、公衆電話が現れた! 無念 としあきNo.3068 「しめた!これで外と連絡が取れる!」 しかしこの電話、よく見ると数字のボタンが無い。 「…まあいいや。どこかに繋がってさえくれれば!」 としあきは受話器を取った。 (お電話ありがとうございます。モンローピザでございます。)受話器から聴こえだのは父の声だった。 「って、親父の店かよ!!!」 無念 としあきNo.3069 「もしかしたら…」 俺は、受話器に手をかけた… 無念 としあきNo.3071 俺は一度通話を切り、また違う番号にかけた。 トゥルルルル… ガチャ… (お電話ありがとうございます。モンローピザでございます。) やっぱり…。 またしても父の声だ。 無念 としあきNo.3073 (なんだとしあき、いたずら電話は良くないぞ?) 「あ、いや・・・・まあいいや。それより親父、今森の中にある公衆電話の所にいるんだが、海岸まで戻るにはどうすればいいかわからないか?」 無念 としあきNo.3079 としあき父「ああ。ジャングルにいるのか。」 そこで俺は気がついた。シャンクルとはジャングルのことじゃないか?濁点が書いてなかっただけで。濁点の打ち方は機種によって違う。これは出題者の粋でいなせな心づかいだ。さらに、後半を俺は解いていない。何故前半だけでやめてしまったんだ。ついでに言えば、あの携帯電話はガチでおもちゃだからボタンなんて意味ないぞ! 俺は電話を切り、後半を考えることにした。 無念 としあきNo.3092 としあき父「…ぬ。また切りやがった…どうしたんだ、アイツ。なんか嫌な事でもあったのか?」 無念 としあきNo.3100 俺は、冷静に暗号の紙を確かめる。 何度目だろう。 「携帯電話をつかえ。玩具で十分。 553355555338888000222999666677721111。 2777711335555500333355555833555552255555334。 なお、としあきからの正しい回答がない場合、回答は21日午後に示されます。そしてこの島は火山の噴火により海に沈み、誰も生き残れません。」 もう全文暗記してしまった。 俺がもし小学校低学年だったら、国語の先生から、ご褒美のチュ~でも貰えたろうに… いや、俺は基本ロリコンなんだけどさ…。 無念 としあきNo.3114 その夜、島の火山が爆発した 無念 としあきNo.3121 頭に謎の声が響く… ≪1000年前にも同じ事があった≫ 「え?」 ≪そう、その夜も確かに、この島の火山が爆発したのだ≫ 「だ…誰だ!?」 俺は身構えた。 無念 としあきNo.3148 「俺だよ」 としあきは声のする方を振り向いた。 「親父かよ!!!!」 父だった。 無念 としあきNo.3154 「ていうか親父いくつなんだよ!今年で55じゃなかったのかよ!」 「はっはっは、細かいことは気にするな。」 無念 としあきNo.3155 『かめいしのをせのやしのきのした』。それが暗号の答えだ。どういうことだ?亀石のをせの椰子の木の下?をせのとはなんだ? としあき「父さん、亀石ってどこにある?」 父「はあ?なんだ?」 としあき「かめいしのをせのだよ」 父「ああ、お瀬野のことか?それはこの電話ボックスの横を見てみろ。」 そこには、女の石像があった。題は「亀石瀬野」。石像のすぐ隣に椰子の木がある。 そうか!亀石のをせのとは、亀石のお瀬野のことか! 無念 としあきNo.3156 俺は椰子の木の下を夢中で掘った。 すると宝箱が出てきた。 「おお!これでお宝は俺のものだ!」 としあきは宝箱を開けた。 無念 としあきNo.3157 その椰子の木の下を掘ってみると、何か鉄製の装置が入っていた。 押してみる。バリッ。石像にヒビがはいっていく。みるみる間に石像の表面は壊れた。するとなんと、中から裸の女が出てきた!俺は驚いて着ているTシャツを着せた。 しばらくして。女が目を覚ました。 「ううーん!よく寝た。あ、あたし、亀石瀬野です!はじめまして!助けてくれてありがとう!」 石像として眠っていたところから想像がつかない明るさだ。 「でもあなた、あたしのお乳、見ましたね?スケベ!あたしのお乳、大きいでしょ?90cmあるんですよ!Eカップってやつです!」 笑いながら瀬野が言う。 瀬野「ところで今、明治何年ですか?」 無念 としあきNo.3158 リレー小説真章 第1章『としあき漂流』 終 としあき「じゃあこの島には他にも漂流者が!」 としあき「なんだ…この洞窟…。人工物じゃないか。」 父「…お前が知る必要はない。」 瀬野がシャツを脱ぎながら言う。 瀬野「としあきくん、女の秘密、興味ない?」 第2章『島のひみつ、女のひみつ』 無念 としあきNo.3161 「悪いが俺は三次の女には興味無い」 流石としあきである。 「それより俺のお宝はどこだ!?」 無念 としあきNo.3178 【リレー小説真章第2章へ続く…】