約 1,803 件
https://w.atwiki.jp/hanguk/pages/154.html
トップページ 韓国市郡ガイド 五十音別索引(あ行) 五十音別索引 あ行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 あ 牙山市 アサン Asan 忠清南道 安養市 アニャン Anyang 京畿道 安山市 アンサン Ansan 京畿道 安城市 アンソン Anseong 京畿道 安東市 アンドン Andong 慶尚北道 い 礼山郡 イェサン Yesan 忠清南道 醴泉郡 イェチョン Yecheon 慶尚北道 益山市 イクサン Iksan 全羅北道 任実郡 イムシル Imsil 全羅北道 麟蹄郡 インジェ Inje 江原道 仁川広域市 インチョン Incheon う 議政府市 ウィジョンブ Uijeongbu 京畿道 義城郡 ウィソン Uiseong 慶尚北道 宜寧郡 ウィリョン Uijeongbu 京畿道 義王市 ウィワン Uiwang 京畿道 原州市 ウォンジュ Wonju 江原道 陰城郡 ウムソン Eumseong 京畿道 蔚山広域市 ウルサン Ulsan 蔚州郡 ウルジュ Ulju 蔚山広域市 蔚珍郡 ウルジン Uljin 慶尚北道 鬱陵郡 ウルルン Ulleung 慶尚北道 お 沃川郡 オクチョン Okcheon 忠清北道 烏山市 オサン Osan 京畿道 甕津郡 オンジン Ongjin 仁川広域市 か行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 か 加平郡 カピョン Gapyeong 京畿道 康津郡 カンジン Gangjin 全羅南道 江陵市 カンヌン Gangneung 江原道 江華郡 カンファ Ganghwa 仁川広域市 き 機張郡 キジャン Gijang 釜山広域市 金堤市 キムジェ Gimje 全羅北道 金泉市 キムチョン Gimcheon 慶尚北道 金浦市 キムポ Gimpo 京畿道 金海市 キメ Gimhe 慶尚南道 慶山市 キョンサン Gyeongsan 慶尚北道 慶州市 キョンジュ Gyeongju 慶尚北道 く 果川市 クァチョン Gwacheon 京畿道 光州広域市 クァンジュ Gwangju 広州市 クァンジュ Gwangju 京畿道 光明市 クァンミョン Gwangmyeong 京畿道 光陽市 クァンヤン Gwangyang 江原道 軍威郡 クニ Gunwi 慶尚北道 亀尾市 クミ Gumi 慶尚北道 錦山郡 クムサン Geumsan 忠清南道 九里市 クリ Guri 京畿道 求礼郡 クレ Gurye 全羅南道 け 槐山郡 ケサン Goesan 忠清北道 鶏龍市 ケリョン Gyeryong 忠清南道 こ 谷城郡 コクソン Gokseong 全羅南道 巨済市 コジェ Geoje 慶尚南道 高城郡 コソン Goseong 江原道 固城郡 コソン Goseong 全羅南道 居昌郡 コチャン Geochang 慶尚南道 高敞郡 コチャン Gochang 全羅北道 高興郡 コフン Goheung 全羅南道 高陽市 コヤン Goyang 京畿道 高霊郡 コリョン Goryeong 慶尚北道 公州市 コンジュ Gongju 忠清南道 さ行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 さ 泗川市 サチョン Sacheon 慶尚南道 三陟市 サムチョク Samcheok 江原道 尚州市 サンジュ Sangju 慶尚北道 山清郡 サンチョン Sancheong 慶尚南道 し 新安郡 シナン Sinan 全羅南道 始興市 シフン Siheung 京畿道 す 水原市 スウォン Suwon 京畿道 淳昌郡 スンチャン Sunchang 全羅北道 順天市 スンチョン Suncheon 全羅南道 そ ソウル特別市 ソウル Seoul 西帰浦市 ソギポ Seogwipo 済州特別自治道 束草市 ソクチョ Sokcho 江原道 瑞山市 ソサン Seosan 忠清南道 舒川郡 ソチョン Seocheon 忠清南道 星州郡 ソンジュ Seongju 慶尚北道 城南市 ソンナム Seongnam 京畿道 た行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 た 丹陽郡 タニャン Danyang 忠清北道 潭陽郡 タミャン Damyang 全羅南道 達城郡 タルソン Dalseong 大邱広域市 唐津郡 タンジン Dangjin 忠清南道 ち 済州市 チェジュ Jeju 済州特別自治道 堤川市 チェチョン Jecheon 忠清北道 鎮安郡 チナン Jinan 全羅北道 鎮海市 チネ Jinhae 慶尚南道 昌原市 チャンウォン Changwon 慶尚南道 長水郡 チャンス Jangsu 全羅北道 長城郡 チャンソン Jangseong 全羅南道 昌寧郡 チャンニョン Changnyeong 慶尚南道 長興郡 チャンフン Jangheung 全羅南道 忠州市 チュンジュ Chungju 忠清北道 春川市 チュンチョン Chuncheon 江原道 曽坪郡 チュンピョン Jeungpyeong 忠清北道 天安市 チョナン Chonan 忠清南道 鉄原郡 チョロン Cheolwon 江原道 清原郡 チョンウォン Changwon 忠清北道 井邑市 チョンウプ Jeongeup 全羅北道 全州市 チョンジュ Jeonju 全羅北道 清州市 チョンジュ Cheongju 忠清北道 旌善郡 チョンソン Jeongseon 江原道 青松郡 チョンソン Chongsong 慶尚北道 清道郡 チョンド Chongsdo 慶尚北道 青陽郡 チョンヤン Cheongyang 忠清南道 漆谷郡 チルゴク Chilgok 慶尚北道 晋州市 チンジュ Jinju 慶尚南道 鎮川郡 チンチョン Jincheon 忠清北道 珍島郡 チンド Jindo 全羅南道 て 泰安郡 テアン Taean 全羅南道 大邱広域市 テグ Daegu 大田広域市 テジョン Daejeon 太白市 テベク Taebaek 全羅南道 と 東豆川市 トンドゥチョン Dongducheon 京畿道 東海市 トンヘ Donghae 江原道 統営市 トンヨン Tongyeong 慶尚南道 な行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 な 羅州市 ナジュ Naju 全羅南道 南楊州市 ナミャンジュ Namyangju 京畿道 南海市 ナメ Namhae 慶尚南道 南原市 ナモン Namwon 全羅北道 の 論山市 ノンサン Nonsan 忠清南道 は行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 は 坡州市 パジュ Paju 京畿道 河東郡 ハドン Hadong 慶尚南道 河南市 ハナム Hanam 京畿道 陜川郡 ハプチョン Hapcheon 慶尚南道 咸安郡 ハマン Haman 慶尚南道 咸陽郡 ハミャン Hamyang 慶尚南道 咸平郡 ハムピョン Hampyeong 全羅南道 ひ 平昌郡 ピョンチャン Pyeongchang 江原道 平澤市 ピョンテク Pyeongtaek 京畿道 ふ 和順郡 ファスン Hwasun 全羅南道 華城市 ファソン Hwaseong 京畿道 華川市 ファチョン Hwacheon 江原道 扶安郡 プアン Buan 全羅北道 横城郡 フェンソン Hoengseong 江原道 釜山広域市 プサン Busan 富川市 プチョン Bucheon 京畿道 扶余郡 プヨ Buyeo 忠清南道 へ 海南郡 ヘナム Haenam 全羅南道 ほ 報恩郡 ポウン Hwasun 忠清北道 宝城郡 ポソン Hwaseong 全羅南道 抱川市 ポチョン Hwacheon 京畿道 浦項市 ポハン Buan 慶尚北道 保寧市 ポリョン Hoengseong 忠清南道 洪城郡 ホンソン Hongseong 忠清南道 洪川郡 ホンチョン Hongcheon 江原道 奉化郡 ポンファ Bonghwa 慶尚北道 ま行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 ま 馬山市 マサン Masan 慶尚南道 み 密陽市 ミリャン Milyang 慶尚南道 む 務安郡 ムアン Muan 全羅南道 茂朱郡 ムジュ Muju 全羅北道 聞慶市 ムンギョン Mungyeong 慶尚北道 も 木浦市 モクポ Mokpo 全羅南道 や行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 や 楊口郡 ヤング Yanggu 江原道 梁山市 ヤンサン Yangsan 慶尚南道 楊州市 ヤンジュ Yangju 京畿道 楊平郡 ヤンピョン Yangpyeong 京畿道 襄陽郡 ヤンヤン Yangyang 江原道 よ 驪州郡 ヨジュ Yeoju 京畿道 麗水市 ヨス Yeosu 全羅南道 霊岩郡 ヨンアム Yeongam 全羅南道 龍仁市 ヨンイン Yongin 京畿道 燕岐郡 ヨンギ Yeongi 忠清南道 霊光郡 ヨングァン Yeonggwang 全羅南道 栄州市 ヨンジュ Yeongju 慶尚北道 永川市 ヨンチョン Yeongcheon 慶尚北道 漣川郡 ヨンチョン Yeongcheon 京畿道 盈徳郡 ヨンドク Yeongdeok 慶尚北道 永同郡 ヨンドン Yeongdong 忠清北道 英陽郡 ヨンヤン Yeongyang 慶尚北道 わ行 市郡名 カナ ローマ字 所属道or広域市 わ 完州郡 ワンジュ Wangju 全羅北道 莞島郡 ワンド Wando 全羅南道 韓国市郡ガイド|トップページ
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/15660.html
るろうに剣心 第1話複製原稿BOX 剣×心 発売日:12月3日 全79枚の複製原稿が君のものにーーるろうに剣心初!豪華仕様による複製原稿BOXが登場‼ 原稿は原寸大B4サイズ!カラー原稿裏面のにじみからネームシールのディティールまで! 和月伸宏先生の生原稿を完全再現‼さらに直筆の記念描き下ろし! メッセージ原稿封入。第1話複製原稿51枚丸ごと収録! 連載扉・コミックスカバーイラストなど!複製カラー原稿10枚収録! 物語中の闘い、技、名場面など!複製モノクロ原稿18枚収録!受注予約生産! ここを編集 2011年公開。るろうに剣心の新作特別篇。2013年12月25日、廉価版DVD-BOXが発売。 http //www.kenshin-tv.com/shinkyouto/ 監督 古橋一浩 原作 和月伸宏 シリーズ構成 岡田麿里 キャラクターデザイン・総作画監督 萩原弘光 美術監督 内藤健 美術設定 伊東和宏 色彩設計 松本真司 撮影監督 五十嵐慎一 特殊効果 斉藤丈史 3DCG 濱村敏郎、今垣佳奈 作中筆文字制作 岩畑剛一 編集 松村正宏 編集助手 小池祐樹 アフレコ演出 三ツ矢雄二 サウンドデザイン 山田稔、白石唯果 録音調整 はたしょう二 録音助手 藤田直美 音楽 朝倉紀行 アニメーション制作 スタジオディーン 脚本 岡田麿里 絵コンテ 古橋一浩 鏑木ひろ 演出 鏑木ひろ 加藤敏幸 作画監督 萩原弘光 河南正昭 岩井優器 松竹徳幸 小林利充 ■関連タイトル Blu-ray るろうに剣心 新京都編 特別版 るろうに剣心 第1話複製原稿BOX 剣×心 るろうに剣心 新京都編 ORIGINAL SOUNDTRACK Regeneration─再生─ るろうに剣心 DVD-BOX 全集・剣心伝 和月伸宏/るろうに剣心─特筆版─ 上巻 るろうに剣心 Complete Collection DVD付き限定版 小説 和月伸宏・黒碕薫/るろうに剣心 ─銀幕草紙変─ フィギュア・ホビー:るろうに剣心 原作コミック 和月伸宏/るろうに剣心―明治剣客浪漫譚 完全版 01 rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Switch ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom Switch 世界樹の迷宮Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ HD REMASTER Switch ピクミン 4 大友克洋 Animation AKIRA Layouts Key Frames 2 小説 機動戦士ガンダム 水星の魔女 1 ONE PIECE FILM REDデラックス・リミテッド・エディション 4K ULTRA HD Blu-ray Blu-ray 劇場版 ソードアート・オンライン -プログレッシブ- 冥き夕闇のスケルツォ 完全生産限定版 Blu-ray 映画『ゆるキャン△』 Blu-ray 【コレクターズ版】 Blu-ray ウマ娘 プリティーダービー 4th EVENT SPECIAL DREAMERS!! Blu-ray 天地無用!GXP パラダイス始動編 Blu-ray第1巻 特装版 天地無用!魎皇鬼 第伍期 Blu-ray SET 「GS美神」全話いっき見ブルーレイ Blu-ray ソードアート・オンライン -フルダイブ- メーカー特典:「イベントビジュアル使用A3クリアポスター」付 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 5th Live! 虹が咲く場所 Blu-ray Memorial BOX 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち Blu-ray BOX 特装限定版 地球へ… Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 神風怪盗ジャンヌ Complete Blu-ray BOX HUNTER×HUNTER ハンター試験編・ゾルディック家編Blu-ray BOX BLEACH Blu-ray Disc BOX 破面篇セレクション1+過去篇 完全生産限定版 MAZINGER THE MOVIE 1973-1976 4Kリマスター版 アニメ・ゲームのロゴデザイン シン・仮面ライダー 音楽集 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー 完全版 EPISODE No.1~No.98 MOVIE リスアニ!Vol.50.5 ぼっち・ざ・ろっく!号デラックスエディション ヤマノススメ Next Summit アニメガイド おもいでビヨリ アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック 『超時空要塞マクロス』パッケージアート集 CLAMP PREMIUM COLLECTION X 1 トーマの心臓 プレミアムエディション パズル ドラゴンズ 10th Anniversary Art Works はんざわかおり こみっくがーるず画集 ~あばばーさりー!~ あすぱら画集 すいみゃ Art Works trim polka-トリムポルカ- つぐもも裏 超!限界突破イラスト&激!すじ供養漫画集 開田裕治ウルトラマンシリーズ画集 井澤詩織1st写真集 mascotte 鬼頭明里写真集 my pace 内田真礼 1st photobook 「まあやドキ」 進藤あまね1st写真集 翠~Midori~ 声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ 三石琴乃 ことのは 亀田祥倫アートワークス 100% 庵野秀明責任編集 仮面ライダー 資料写真集 1971-1973 金子雄司アニメーション背景美術画集 タローマン・クロニクル ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津~Aqoursのいる風景~ 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版] 梅津泰臣 KISS AND CRY 資料集 安彦良和 マイ・バック・ページズ 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』編 氷川竜介 日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析 Blu-ray THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 10th Anniversary Celebration Animation ETERNITY MEMORIES Blu-ray おいら宇宙の探鉱夫 ブルーレイ版 Blu-ray 映画 バクテン!! 完全生産限定版 アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~ Blu-ray BOX 初回生産限定版 はたらく細胞 Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 Blu-ray 長靴をはいた猫 3作品収録 Blu-ray わんぱく王子の大蛇退治 Blu-ray 魔道祖師 完結編 完全生産限定版 魔道祖師Q Blu-ray Disc BOX 完全生産限定盤 にじよん あにめーしょん Blu-ray BOX 【特装限定版】 Blu-ray 鋼の錬金術師 完結編 プレミアム・エディション Blu-ray付き やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。完 限定版【同梱物】オリジナルアニメ Blu-ray「だから、思春期は終わらずに、青春は続いていく。」
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/22414.html
昭和元禄落語心中 -助六再び篇- Blu-ray BOX(期間限定版) OPテーマ林原めぐみ☓椎名林檎 今際の死神 発売日:6月7日/2月22日 ・DISC6枚組(BD4枚・特典CD2枚) ・雲田はるこ描き下ろしイラストBOX仕様 ・OP EDノンクレジット映像 ・根多解説 ・昭和元禄落語心中関連イベント映像 ・「智一 勝平の落語放浪記」全14話予定 ここを編集 2017年1月放送開始。昭和元禄落語心中の続編。1期のAmazonインスタントビデオが配信開始。 http //rakugo-shinju-anime.jp/ 監督 畠山守 原作 雲田はるこ シリーズ構成 熊谷純 キャラクターデザイン 細居美恵子 落語監修 林家しん平 プロップデザイン 笹嶋啓一 美術監督 黛昌樹 色彩設計 佐野ひとみ 撮影監督 越山麻彦 特殊効果 上原将一 テクスチャーデザイン 秋庭映美 編集 松村正宏 編集助手 石森諒 音響監督 辻谷耕史 音響効果 今野康之、安藤由衣 録音 小原吉男、阿部智佳子 録音助手 南うんじ 音響制作 川添憲五 音楽 澁江夏奈 アニメーション制作 スタジオディーン 脚本 熊谷純 中西やすひろ 待田堂子 柿原優子 絵コンテ 畠山守 わたなべひろし 中村近世 ユキヒロマツシタ 演出 久保太郎 安藤貴史 ボブ白旗 清水一伸 畠山守 わたなべひろし 久保山英一 安部佑二郞 阿部雅司 作画監督 中嶋敦子 森本浩文 ウクレレ善似郎 木村友美 澤村亨 河南正昭 中山由美 加藤真由子 笹嶋啓一 中島美子 伊藤智子 本多みゆき 宮田瑠美 酒井啓史 まい。 伊藤浩 川添亜希子 飯田遥 徳丸めぐみ 岡田雅人 坂由香里 吉田徹 都築裕佳子 大河原晴男 細田沙織 簾畑由実 清水勝祐 小田真弓 野口莉英子 臼井篤史 Amazonインスタントビデオ:昭和元禄落語心中 第一話 再生時間:48分 初公開日/初回放送日:2016年1月8日 ■関連タイトル 昭和元禄落語心中 -助六再び篇- Blu-ray BOX 期間限定版 原作コミック 昭和元禄落語心中 1 OPテーマ 林原めぐみ☓椎名林檎 今際の死神 昭和元禄落語心中音曲噺其の一 昭和元禄落語心中音曲噺其の二 Kindleまとめ買い 昭和元禄落語心中 rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Switch ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom Switch 世界樹の迷宮Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ HD REMASTER Switch ピクミン 4 大友克洋 Animation AKIRA Layouts Key Frames 2 小説 機動戦士ガンダム 水星の魔女 1 ONE PIECE FILM REDデラックス・リミテッド・エディション 4K ULTRA HD Blu-ray Blu-ray 劇場版 ソードアート・オンライン -プログレッシブ- 冥き夕闇のスケルツォ 完全生産限定版 Blu-ray 映画『ゆるキャン△』 Blu-ray 【コレクターズ版】 Blu-ray ウマ娘 プリティーダービー 4th EVENT SPECIAL DREAMERS!! Blu-ray 天地無用!GXP パラダイス始動編 Blu-ray第1巻 特装版 天地無用!魎皇鬼 第伍期 Blu-ray SET 「GS美神」全話いっき見ブルーレイ Blu-ray ソードアート・オンライン -フルダイブ- メーカー特典:「イベントビジュアル使用A3クリアポスター」付 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 5th Live! 虹が咲く場所 Blu-ray Memorial BOX 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち Blu-ray BOX 特装限定版 地球へ… Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 神風怪盗ジャンヌ Complete Blu-ray BOX HUNTER×HUNTER ハンター試験編・ゾルディック家編Blu-ray BOX BLEACH Blu-ray Disc BOX 破面篇セレクション1+過去篇 完全生産限定版 MAZINGER THE MOVIE 1973-1976 4Kリマスター版 アニメ・ゲームのロゴデザイン シン・仮面ライダー 音楽集 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー 完全版 EPISODE No.1~No.98 MOVIE リスアニ!Vol.50.5 ぼっち・ざ・ろっく!号デラックスエディション ヤマノススメ Next Summit アニメガイド おもいでビヨリ アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック 『超時空要塞マクロス』パッケージアート集 CLAMP PREMIUM COLLECTION X 1 トーマの心臓 プレミアムエディション パズル ドラゴンズ 10th Anniversary Art Works はんざわかおり こみっくがーるず画集 ~あばばーさりー!~ あすぱら画集 すいみゃ Art Works trim polka-トリムポルカ- つぐもも裏 超!限界突破イラスト&激!すじ供養漫画集 開田裕治ウルトラマンシリーズ画集 井澤詩織1st写真集 mascotte 鬼頭明里写真集 my pace 内田真礼 1st photobook 「まあやドキ」 進藤あまね1st写真集 翠~Midori~ 声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ 三石琴乃 ことのは 亀田祥倫アートワークス 100% 庵野秀明責任編集 仮面ライダー 資料写真集 1971-1973 金子雄司アニメーション背景美術画集 タローマン・クロニクル ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津~Aqoursのいる風景~ 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版] 梅津泰臣 KISS AND CRY 資料集 安彦良和 マイ・バック・ページズ 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』編 氷川竜介 日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析 Blu-ray THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 10th Anniversary Celebration Animation ETERNITY MEMORIES Blu-ray おいら宇宙の探鉱夫 ブルーレイ版 Blu-ray 映画 バクテン!! 完全生産限定版 アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~ Blu-ray BOX 初回生産限定版 はたらく細胞 Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 Blu-ray 長靴をはいた猫 3作品収録 Blu-ray わんぱく王子の大蛇退治 Blu-ray 魔道祖師 完結編 完全生産限定版 魔道祖師Q Blu-ray Disc BOX 完全生産限定盤 にじよん あにめーしょん Blu-ray BOX 【特装限定版】 Blu-ray 鋼の錬金術師 完結編 プレミアム・エディション Blu-ray付き やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。完 限定版【同梱物】オリジナルアニメ Blu-ray「だから、思春期は終わらずに、青春は続いていく。」
https://w.atwiki.jp/tsugan/pages/140.html
資治通鑑巻第五十九 漢紀五十一 孝靈皇帝下 中平五年(戊辰、一八八) 1.春、正月、丁酉の日、天下に赦令を下した。 2.二月、紫宮(太微)に彗星があらわれた。 3.黄巾賊の残党の郭大らが河西の白波谷で起兵し、太原、河東を攻掠した。 4.三月、屠各胡が并州刺史の張懿を攻め殺した。 5.太常で江夏の劉焉が王室に事件が多いことから、「四方で軍による攻掠を受けるのは、刺史の権威が軽いため、ふせぐことができないのです。なおかつ任用されるのはふさわしい人でないものばかりなため、そのため離叛がおこるのです。ぜひとも牧伯を改めて配置され、清廉な名声ある重臣を選ばれて、その任に当たらせますように」と建議した。劉焉は、内々に交趾牧の位をえたいと願っていた。侍中で広漢の董扶が、「京師はいま乱れようとしており、益州の分野には天子の気があります」とひそかに劉焉にいった。劉焉はそこで態度を変えて益州牧をえようとした。たまたま益州刺史の郤倹の税の取り立てが騒動を引き起こし、世間に流れる噂が遠くまで聞こえてきた。いっぽうでは、耿鄙と張懿がともに盗賊に殺されてしまったので、朝廷はついに劉焉の発議に従って、列卿・尚書を選んで州牧とし、それぞれもとの秩禄で任にあたらせることとなった。劉焉を益州牧とし、太僕の黄琬を予州牧とし、宗正で東海の劉虞を幽州牧とした。州の任に重臣をあてるのは、ここから始まるのである。劉焉は、魯の恭王の後裔であり、劉虞は、東海恭王の五世の孫である。劉虞はかつて幽州刺史をつとめており、民衆や異民族はかれの情愛と信義を慕っていたので、そのためかれを起用したのである。董扶および太倉令の趙韙は、みな官を棄てると、劉焉にしたがって蜀に入った。 6.詔により南匈奴の兵を徴発して劉虞のもとに配属させ、張純を討たせることとされた。単于の羌渠は、左賢王に騎兵を率いさせて派遣し、幽州を訪れさせた。〔匈奴の〕国人たちは兵の徴発がやむことのないことを恐れて、このとき右部[酉兮皿]落がそむき、屠各胡と合流して、あわせて十数万人となると、羌渠を攻め殺した。国人たちがその子の右賢王於扶羅を立てて、持至尸逐侯単于とした。 7.夏、四月、太尉の曹嵩が辞任した。 8.五月、永楽少府で南陽の樊陵を太尉とした。六月、辞任した。 9.益州の賊の馬相・趙祗らが緜竹で起兵し、黄巾と自ら号すると、刺史の郤倹を殺し、巴郡・犍為に進撃した。わずかの間に、三郡を破壊し、数万の人々を集め、天子を自称した。州従事の賈龍が官民を率いて馬相らを攻めると、数日のうちに撃破し敗走させたため、州の領域内はさっぱりと落ち着いた。賈龍はそこで官吏と兵卒を選んで劉焉を迎えさせた。劉焉は治所を緜竹にうつすと、離叛したものたちをなだめて受け入れ、寛容で恵みぶかい行政につとめて、人心を収攬しようとした。 10.郡国七つに大水があった。 11.もと太傅の陳蕃の子の陳逸と術士の襄楷は、冀州刺史の王芬のところで宴会に出席した。襄楷が「天文は宦官に不利であると出ており、黄門・常侍らは間違いなく族滅されるだろう」といったので、陳逸は喜んだ。王芬が「もしそのとおりだというなら、この王芬が駆除したいものだ!」といった。因って豪傑と轉相して招し合うと、上書して言うに黒山賊が郡県を攻め劫しています、因って以って兵を起てたいと欲しますとした。たまたま帝は北へむけて河間の旧宅を巡ろうと欲していたので、王芬らは兵を以って徼劫し、諸常侍・黄門を誅し、因って帝を廃し、合肥侯を立てようと謀った。其の謀を議郎の曹操に告げた。曹操は、「夫れ廃立の事とは、天下の不祥に至ることである。古人が権を有して成敗したなか、軽重を計って而して之を行った者は、伊尹や霍光がこれである。此らの語は、豈に常人が能く及びうる所だろうか哉!伊尹や霍光はみな至忠の誠を懐き、宰輔の勢いに拠り、秉政の重きに因って、衆人の欲と同じくした。故に能く計従い、事に立ったのだ。今諸君は徒らに曩者の易きを見ているが、未だ当今の難を覩ずして、而して非常を造作するにあたり、必ず克たんことを望まんとを欲す。以って危うからざるや乎!」といった。王芬は又平原出身の華歆、陶丘洪を呼んで共に計を定めようとした。陶丘洪は行こうと欲したが、華歆はこれを止めて、「夫れ廃立の大事は、伊尹や霍光が難きとした所です。王芬の性は疏にして而して武ではない、このことは必ず成功しないでしょう」といった。陶丘洪はそこでやめた。たまたま北方で夜半に赤気があり、東西が竟天したため、太史が「北方に陰謀があります。北に行くべきではありません」と上言したので、帝はそこでとりやめた。勅により王芬の兵権が解かれると、俄かにして而して之を徴した。王芬はおそれて、印綬を解いて逃走し、平原にいたって、自殺した。 12.秋、七月、射声校尉の馬日磾を太尉とした。馬日磾は、馬融の族孫である。 13.八月、初めて西園八校尉を置き、小黄門の蹇碩を上軍校尉とし、虎賁中郎将の袁紹を中軍校尉とし、屯騎校尉の鮑鴻を下軍校尉とし、議郎の曹操を典軍校尉とし、趙融を助軍左校尉とし、馮芳を助軍右校尉とし、諫議大夫の夏牟を左校尉とし、淳于瓊を右校尉とした。みな蹇碩に統べさせた。帝は黄巾が起兵してからというもの、軍事に心を配った。蹇碩は心身壮健で軍略をもっていたため、帝はこれを親任し、大将軍でさえ同様に従うことになったである。 14.九月、司徒の許相が辞任した。司空の丁宮を司徒とし、光禄勲で南陽の劉弘を司空とした。 15.衛尉で條侯の董重を票騎将軍とした。董重は、永楽太后の兄の子である。 16.冬、十月、青州・徐州の黄巾が再び起兵して、郡県を攻掠した。 17.望氣者が「京師に大きな兵乱があって、両宮が流血するだろう」といった。帝はこれを避けたいと思って、乃ち大いに四方に兵を発すると、平楽観下に於いて講武した、大壇を起てたが、上は十二重の華蓋を建てた、蓋し高さは十丈。壇の東北に小壇を為し、復た九重の華蓋を建てた、高さは九丈。歩騎数万人を列し、営を結んで陣を為した。甲子の日、帝はみずから出て軍に臨むと、大華蓋下に駐まり、大将軍が小華蓋下に進駐した。帝は擐甲、介馬を躬につけ、「無上将軍」を称すると、行陳三帀而して還り、兵を以って何進に授けた。帝は、「吾が講武すること是の如し、何如か?」と討虜校尉の蓋勳にたずねた。「臣が聞きますに、先王は徳をかがやかせて兵威を示しませんでした。いま敵は遠くにいるのにもかかわらず、近くに陣を設けられるのは、果毅を明らかにするに十分でなく、ただ武をけがすだけでしょう!」と答えた。帝は、「よし!君に会うのが遅かったことが恨めしいぞ。群臣にはかつてこういう発言がなかった」といった。蓋勳は、「お上はたいそう聡明であらせられる。ただ側近たちに蔽われているだけなのだ」と袁紹にいい、袁紹とともに嬖倖を誅そうと謀った。蹇碩はおそれて、蓋勳を京兆尹に出向させた。 18.十一月、王国が陳倉を囲んだ。詔により再び皇甫嵩を任じて左将軍とし、前将軍董卓を従わせて、合わせて兵四万人でこれをはばませた。 19.張純と丘力居は、青・徐・幽・冀の四州で掠奪した。詔により騎都尉の公孫瓚がこれを討伐した。公孫瓚は〔遼東〕属国の石門でこれと戦い、張純らは大敗して、妻子を棄てて、踰塞に逃れた。そこで拉致されていた男女をことごとく奪還した。公孫瓚は深入りしたが、後続の軍がなかったため、かえって丘力居らのために遼西の管子城で包囲された。二百日あまりして、食糧は尽きて軍は壊滅し、士卒の死者は、十人のうち五、六人におよんだ。 20.董卓は、「陳倉は危急にあります。すみやかにこれを救援されるよう願います」と、皇甫嵩にいった。皇甫嵩は「そうではない。百戦百勝するのは、戦わずに人の兵を屈服させるのに及ばない。陳倉は小さいけれども、城の守りが固く備わっているため、そうそうやすやすと抜くことはできない。王国が強いといっても、陳倉を攻めて下すことができなければ、其の軍衆は必ず疲労する。疲労してからこれを撃つのが、勝ちを全うする道というものだ。どうしていま救援することがあろうか!」といった。王国は陳倉を攻めて八十数日したが、抜くことができなかった。 六年(己巳、一八九) 1.春、二月、王国の軍は疲弊し、〔陳倉の〕囲みを解いて立ち去ったので、皇甫嵩は兵を進めてこれを撃とうとした。董卓は、「いけません!兵法には、追いつめられた敵に迫ってはいけない、帰る軍を追ってはいけない、とあります」といった。皇甫嵩は、「そうではない。さきにわたしが攻撃しなかったのは、その鋭鋒を避けたのだ。しかし今これを攻撃するのは、その衰えを待ってのことだ。疲弊した軍を撃つもので、帰る軍を追うのではない。それに王国の軍は逃走中で、闘志をもっているのではない。整然とした軍で乱れた軍を撃つもので、追いつめられた敵ではないのだ」といった。そこで単独で進んで王国の軍を攻撃し、董卓には後詰めをさせ、連戦して、王国の軍を大いに破った。斬首するもの万余級におよんだ。董卓は大いに恥じて恨み、このため皇甫嵩とのあいだが険悪となった。 韓遂らは、ともに王国を見捨てて、もと信都令だった漢陽の閻忠をおどして諸部を監督させた。閻忠が病死すると、韓遂らは権利を少しずつ争っていき、さらには互いに殺害しあい、このため活動が衰えていった。 2.幽州牧の劉虞は、部に到着すると、使者を派遣して鮮卑のうちにいたらせ、張挙・張純の首を送れば、厚く購賞を加えると、利害をもって告げさせた。丘力居らは、劉虞が至ったと聞くと、喜び、各々遣わして譯すと自ら帰順した。張挙・張純は逃れて塞外に出てしまい、残りはみな降散した。劉虞は諸屯兵を罷めるようにと上書し、ただ降虜校尉の公孫瓚のみを留めて、歩兵および騎兵一万人を率いて右北平に駐屯させた。三月、張純の客であった王政が張純を殺し、首を送って劉虞のもとを訪れた。公孫瓚は烏桓を掃滅したいと念願しており、しかるに劉虞は情愛と信義によって招撫し降伏させたいと願っていたので、このため公孫瓚とのあいだが険悪となった。 3.夏、四月、丙子の一日、日食があった。 4.太尉の馬日磾が免官された。使者を派遣して幽州牧の劉虞を任じて太尉とし、容丘侯に封じた。 5.蹇碩は、大将軍の何進を忌んでおり、何進を派遣して西方の韓遂を撃たせるようにと、諸常侍とともに帝に説いた。帝はこれに従った。何進は、ひそかにその謀略を察知し、袁紹を派遣して徐・兗二州の兵を収めさせ、須く袁紹が還ってきてから而して西することとし、稽行を以って期すよう奏上した。 6.かつて、帝はたびたび皇子を失っていた。何皇后が子の劉弁を生むと、道人である史子眇の家で養わせ、号して「史侯」といった。王美人が子の劉協を生むと、董太后が自らこれを養い、号して「董侯」といった。群臣は太子を立てるよう請願した。帝は劉弁が軽薄で威儀がなかったので、劉協を立てたいと思っていたが、猶も預けて未だ決められずにいた。疾篤くなるに会い、劉協を蹇碩に於いて属させた。丙辰の日、帝は嘉徳殿にて崩じられた。蹇碩は時に内に在り、先ず何進を誅して而して劉協を立てようと欲し、人を使って何進を迎えさせるにあたり、これと事を計ろうと欲しているとした。何進は即ち駕で往った。蹇碩の司馬であった潘隱は何進と早くからの旧なじみであったため、迎えるにあたり而して之に目くばせした。何進は驚き、馳せて儳道に従って帰営すると、兵を引きつれて百郡邸に入屯し、因って疾と称して入らなかった。 戊午、皇子劉弁が皇帝に即位した。年は十四。皇后を尊んで皇太后といった。太后が臨朝することとなった。天下に赦令を下し、光熹と改元した。皇弟の劉協を封じて勃海王とした。劉協の年は九歳である。後将軍の袁隗を太傅とし、大将軍の何進とともに録尚書事に参ずることになった。 何進は既に朝政を秉しており、蹇碩が己に図ったことに忿っていたため、陰ながら之を誅さんと規った。袁紹は因って親客の張津を進めて、何進に諸宦官をことごとく誅殺するよう勧めた。何進は、袁氏が累世に貴寵たることと、而して袁紹と従弟で虎賁中郎将の袁術はともに豪傑たちが帰服していたので、信じて而して之を用いた。復た智謀之士として何顒・荀攸および河南の鄭泰ら二十余人を博く徴し、何顒を北軍中候とし、荀攸を黄門侍郎とし、鄭泰を尚書とすると、ともに同じく腹心とした。荀攸は、荀爽の従孫である。 蹇碩は、自安しないことを疑い、「大将軍兄弟は国を秉して朝を専らとしており、今や天下の党人と先帝の左右を誅して、我らを掃滅しようと謀っている。但だこの蹇碩が禁兵を典じていることを以って、故に且つ沈吟しているだけなのだ。今宜しく共に上閤を閉ざし、急いで捕えて之を誅さん。」と、中常侍の趙忠、宋典らに手紙を書いた。中常侍の郭勝は、何進と同郡の人であったので、太后及び何進之貴幸があり、郭勝は有力となっていたことから焉、故に何氏に親しく信じていた。趙忠らと議したが、蹇碩の計には従わず、その手紙を何進に示した。庚午の日、何進は黄門令に蹇碩を収監させると、かれを処刑し、因って其の屯兵を悉く領したのである。 票騎将軍の董重は、何進と権勢を相い害しあい、中官が董重を挟んで以って党の助けと為した。董太后が政事に干(渉)して参じようと欲する毎に、何太后が輒ち相禁じて塞いだため、董后は忿恚して、「汝は今輈張であるのは、汝の兄を怙<たの>むからです耶!吾が票騎に何進の頭を断つよう敕すれば、手を反すが如きもの耳!」とののしって言った。何太后はこれを聞くと、以って何進に告げた。五月、何進は、「孝仁皇后は、もと中常侍の夏惲らに州郡と交通させ、財利を辜較しては、ことごとく西省(永楽宮司)に入れさせました。故事によると、蕃后(平帝の母衛姫)は京師に留まることができませんでした。宮を本国に遷さんことを請います。」と、三公とともに上奏した。上奏は許可された。辛巳、何進は兵を挙げて票騎府を囲むと、董重を収監し、免官したため、〔董重は〕自殺した。六月、辛亥、董太后は憂怖して、にわかに崩じた。民間はこのために何氏に附かなかった。 7.辛酉、孝霊皇帝を文陵に葬った。何進は蹇碩の謀に懲りて、病気と称して、葬礼に陪席せず、また山陵にも送らなかった。 8.大水があった。 9.秋、七月、勃海王劉協を陳留王にうつした。 10.司徒の丁宮が辞任した。 11.袁紹は何進に再び説いて「以前、竇武が宦官を誅殺しようとして、かえって害されることとなったのは、ただ秘密が漏洩してしまっただけです。五営の兵士は、みな宦官に畏服しています。しかし竇氏がかれらを利用しようとしたため、自滅を選んでしまったのです。いま将軍は、兄弟と強兵を領しております。部曲の将軍や官吏たちは、みな英俊の名士でありまして、楽んで力命を尽くしましょう。ことは掌のうちにあります。これは天が助けてくれる時機です。将軍はぜひとも一挙に天下のために憂いを除き、後世に名を残されますように。時機を失うべきではありませんぞ!」といった。何進はそこで「中常侍以下をことごとく罷免し、三署の郎たちでその欠員を補われますように」と皇太后に申し上げ、請願した。太后は聴きいれず、「中官が禁省を統領するのは、いにしえより今に及んでいることで、漢家の故事です。廃すべきではありません。しかも先帝が亡くなられたばかりです。わたしがどうして楚楚として士人とともに事に対せましょうか!」といった。何進は、太后の意と違えること難しく、且つ其の放縱者(のみ)を誅せんと欲した。袁紹は中官が至尊に親近していることを以ってして、号令を出納しているため、今のうちに尽く廃さないでいたなら、後には必ずや患いを為すだとうとみた。而して太后の母である舞陽君及び何苗は何度も諸宦官から賂遺を受けており、何進が之を誅そうと欲していることを知ったため、何度も太后に白して其の障蔽と為っていた。また「大将軍は左右を專殺し、権して以って社稷を弱めています。」といった。太后は疑って以って然りと為した。何進は新たに貴ばれたばかりであり、素より中官を敬い憚っていたため、外では大名を慕うと雖も而して内では能く断じることできなかった。故に事は久しく決まらなかったのである。 袁紹らはまた畫策を為すと、四方から猛将及び諸豪傑を数多召しだし、並んで兵を引きつれて京城に向かわ使め、以って太后を脅そうとした。何進は之に然りとした。主簿で広陵出身の陳琳は諫めて曰く:「諺に『目を瞑って雀を捕らえる』と称しまして、夫れ微物といえど尚も志を得んことを以ってして欺く可からず、況んや国之大事にあって、其が詐を以って立てる可きものでしょうか乎!今将軍は皇威を總められて、兵要を握り、龍驤虎歩するさまには、高きも下も在心しています、此は猶鼓洪爐燎毛髮耳。但だ当に速やかに雷霆を発すべきです、行権立断すれば、則ち天人が之に順うのです。而して反って利器を委ね釈そうとされる、利器とは、兵柄を謂う也。更めて外からの助けを徴して、大兵を聚め会せば、強者が雄を為すもの、所謂<いわゆる>干戈を倒持(逆さに持って)して、柄を以って人に授けるなど、功は必ずや成らずして、祇が乱階を為すだけとなるでしょう耳!」何進は聴きいれなかった。典軍校尉の曹操は聞くと而して笑って曰く:「宦者之官というのは、古今より宜しく有るもの、但だ世主が当に之に権を假すべきでないのに、そうさせ使んだたために此に於けるに至っただけのことだ。既に其の罪を治めて、当に元惡を誅すべし、一獄吏にて足ること矣、何をか紛紛として外より兵を召さんとするに至るのか乎!之を尽く誅さんとすれば、事は必ずや露わに宣べられよう、吾には其の敗れるさまが見えるわ也。」 かつて、霊帝は董卓を召して少府としようとしたが、董卓は上書して言ってきた:「将いる所となっている湟中義従及び秦、胡の兵が皆臣に詣でて言ってくるのです:『牢直不畢、稟賜断絶、妻子飢凍。』臣の車を牽挽して、使って行くを得ません。羌、胡は憋腸にして狗態です、朝廷は制すること能わず。帝が寝疾するに及んで、璽書あって董卓を并州牧に拝すると、令して以って兵を皇甫嵩に属させようとした。董卓は復た上書して言ってきた:「臣は誤って天恩を蒙り、掌戎すること十年、士卒の大小は、相狎れあって彌だ久しく、臣に畜養之恩を恋<こ>い、臣に一旦之命を奮わんことを為そうとしています、乞いますに之を北州に将いて、辺垂に力を效<き>かしたいものです。」皇甫嵩の従子の皇甫酈が皇甫嵩に説いて曰く:「天下の兵柄というのは、大人と董卓に在るだけです。今怨隙が已に結ばれており、勢いからして倶には存せません。董卓は兵を委ねよとの詔を被っておきながら而して上書して自ら請いました、此は命に逆らったということでしょう也。彼は京師の政が乱れているのを度<はか>っています、故に敢えて躊躇して進まないのです、此は姦を懐いているのです也。この二つの者は、刑では赦されない所です。且つ其の凶戻無親、将士不附。大人は今や元帥と為っています、皇甫嵩は王国を討った時に督と為っていた、故に曰く元帥なのである。国威を杖にして以って之を討つ、これは上は忠義を顯らかにし、下は凶害を除くもの、済さないことは無いでしょう也。」皇甫嵩曰く:「命を違えたのは罪であると雖も、誅を専らとすることも亦た責有ることだ也。董卓は釈兵せず命を違えるを為す、皇甫嵩が董卓を討するのは誅を専らとするを為すことである。其の事を奏上して顯らかとし、朝廷に之を裁か使むに如かず。」乃ち以って聞こえたことを上書した。帝は以って董卓に讓らせようとした。董卓も亦た詔を奉らず、兵を河東に駐めて以って時変を観たのである。 何進は董卓を召すと使って兵を将いらせて京師に詣でさせた。侍御史の鄭泰が諫めて曰く:「董卓は忍ぶに強く義に寡く、志は無厭を欲しています、若し之を朝政に借りて、以って大事を授けたなら、将に凶欲を恣にして、必ずや朝廷を危うくするでしょう。明公は親徳之重きを以ってして、阿衡之権に拠って、秉意独断、誠に以って資援を為して董卓に假すは宜しからず也!且つ事が留まれば変が生じることとなります、殷鑒は遠からず、竇武之事を謂って、殷鑒を為す可しとしたのである也。宜しく速決在らんことを。」尚書の盧植も亦た董卓を召すのは宜しくないとしたが、何進は皆<どれ>にも従わなかった。鄭泰は乃ち官を棄てて去ると、荀攸に謂いて曰く:「何公は未だ輔けるに易くないものだ也。」。 何進の府の掾であった王匡、騎都尉の鮑信は、皆泰山の人であった、何進は使って郷里に還すと兵を募らせた。東郡太守の橋瑁を并召して成皋に駐屯させ、使って武猛都尉の丁原に数千人を将いさせて河内を寇させ、孟津を焼かせたところ、火は城中を照らした、皆以って宦官を誅するのだとして言を為した。 董卓は召を聞くと、即時に道に就き、あわせて上書して曰く:「中常侍の張讓らが、倖を窺って寵を承り、海内を濁し乱しました。臣が聞きますには湯を揚げて沸を止めるには、薪を去るに若くは莫しということです。今臣輒鳴鐘鼓如洛陽、張讓らを収めて以って姦穢を清めんことを請います!」太后は猶も従わなかった。何苗は何進に謂いて曰く:「始め共に従って南陽から来てから、倶以貧賤依省内以致富貴、言うに何后が因るに宦官が進めるを得たため、何進兄弟は此を以って富貴を致したのである也。国家之事、亦た何ぞ容易ならん。覆水は収まらないもの、宜しく之を深く思われんことを、水が地に於いて覆されれば、復た収める可からず、言うに事が発せられれば則ち収拾す可からず。且つは省内と和まれるように也。」董卓は澠池に至ると、而して何進は更めて狐疑し、諫議大夫の种卲を使って詔を宣べさせて之を止めようとした。しかし董卓は詔を受けず、遂に前にすすみ河南に至った。河南は、周の王城である、洛陽を去ること遠くない。种卲は之を迎えて労ると、譬令に因って軍を還そうとした。董卓は変が有ったのではと疑い、使其の軍士を使って兵を以って种卲を脅した。种卲は怒り、詔を称えて之を叱したところ、軍士は皆披した。遂に前にでて董卓を質し責めた。董卓は辞して屈すると、乃ち軍を夕陽亭に還した。种卲は、种暠の孫である。 袁紹は何進が計を変えることを懼れて、因って之を脅して曰く:「交構は已に成ったのです、形勢は已に露わになりました、将軍は復た何をか待たんと欲し而して之を早く決しないでいるのです乎?事が久しければ変が生じます、竇氏に為されたことを復すつもりですか矣!」是に於いて何進は袁紹を以って司隸校尉と為すと、節を假すと、命を専らにして撃断できるようにした。漢の司隸校尉は本は持節していた、元帝の時に至って、諸葛豊が司隸と為って、始めて節をとり去ったのである。今袁紹に節を假して、其の権を重くしたのである也。従事中郎の王允が河南尹と為った。袁紹は使洛陽方略武吏司察宦者、而して董卓らに馳驛を使って上奏するよう促し、兵を平楽観に進めようと欲した。太后は乃ち恐れ、中常侍、小黄門を悉く罷めさせると使って里舍に還らせ使ましたが、唯何進など私人とする所を留めて以って省中を守らせた。諸常侍、小黄門は皆何進に詣でて謝罪し、唯だ措置する所のみとした。何進は謂いて曰く:「天下は匈匈として、正しく諸君らに患っている耳。今董卓が垂至した、諸君は何ぞ早く各々国に就かないでいるのか!」袁紹は何進に此に於いて之を決すよう便じるよう勧めたが、勧進於此時悉誅之也。至ること再三においてであった。しかし何進は許さなかった。袁紹は又書を為して諸州郡に告げたが、何進の意を詐して宣べ、使って中官の親属を捕らえて按じさせた。 何進の謀は日を積んでいたため、頗る泄れていた、中官は懼れて而して変を思った。張讓の子婦は、太后之妹であった也、張讓は子婦に向かって叩頭して曰く:「老臣は罪を得ました、当に新婦と倶に私門に帰ろうかとしています。唯だ累世に恩を受けまして、賢曰く:唯、思念也。今は当に遠く宮殿を離れるべくも、情懐くこと恋恋としております、願わくば復た一どだけ直ちに入らせていただき、暫く太后陛下の顔色を望み奉ること得られましたなら、然る後に退いて溝壑に就こうと、死しても恨みません矣!」子婦が舞陽君に於いてそれを言うと、入って太后に白したところ。乃ち諸常侍は皆復して直ちに入るようにとの詔があった。 八月、戊辰、何進は長楽宮に入ると、太后に白して、諸常侍を尽く誅さんことを請うた。中常侍の張讓、段珪は相謂いて曰く:「大将軍は疾と称して、喪に臨まず、葬を送らなかったのに、今欻入省、此の意は何をか為さんとしてのことか?竇氏の事が竟に復た起こったのではないか?」(人を)使って潛み聴かせ、具さに其の語を聞いた。乃ち其の党数十人を率いて持兵させて側闥自り入って窺い、戸下に伏せて省みた、何進が出てくると、因って太后の詔を以ってして詐して何進を召すと、省閤に入坐した。張讓らは何進に詰めよって曰く:「天下が憒憒としているのは、亦た独り我曹の罪に非ず也。先帝は嘗て太后のことを不快におもわれ、幾至成敗(すぐにも成敗せんとしていた)、我らが涕泣して救い解くにあたり、各々家財千万を出して禮を為して、お上の意を和み悦ばせたのだが、但だ卿の門戸に託そうと欲しただけなのだ耳。それなのに今や乃ち我曹の種族を滅ぼそうと欲している、なんと亦た大いに甚だしからざるか乎!」是に於いて尚方監の渠穆が剣を抜いて何進を嘉徳殿前に於いて斬った。とある又衛有渠孔御戎。張譲、段珪らは詔を為すと、故の太尉の樊陵を以って司隸校尉と為し、少府の許相を河南尹と為した。尚書が詔版を得たところ(不審に思い)、之を疑った、曰く:「大将軍を請わん、出たなら共に議しましょう。」そこに中黄門が何進の頭を以って尚書に擲って曰く:「何進は謀反し、已に誅に伏したのだ矣!」 何進の部曲将であった呉匡、張璋は外に在ったが、何進が害を被ったと聞き、兵を引きつれて宮に入ろうと欲したところ、宮門が閉ざされた。虎賁中郎将の袁術は呉匡と共に之を斫りやぶって攻め、中黄門は兵を持って閤を守った。日が暮れなずむに会い、袁術は因って南宮青瑣門を焼き、以って脅して張讓らを出そうと欲した。張讓らは入って太后に白するに、大将軍の兵が反し、宮を焼いて、尚書の闥を攻めていると言い、因って太后、少帝及び陳留王を将いて省内の官属を劫すると、複道に従って北宮に走った。将、如字、攜也、挾也。尚書の盧植が閤道窗下に於いて戈を執って、何度も段珪を仰ぎみた。段珪は懼れると、乃ち太后を釈(放)し、太后は閤に投げこまれ、乃ち免れた。袁紹は叔父の袁隗と詔を矯めて樊陵、許相を召すと、之を斬った。袁紹及び何苗は兵を引きつれて朱雀闕下に駐屯し、趙忠らを捕らえて得ると、之を斬った。呉匡らは素より何苗が何進と心を同じくしないことを怨んでおり、而して又其の宦官と謀を通じているのではないかと疑ったため、乃ち軍中に令して曰く:「大将軍を殺したのは即ち車騎(将軍の何苗)である也、時に何苗は車騎将軍と為っていた。吏士よ能く報讎を為さん乎!」皆流涕して曰く:「願わくば死を致さんことを!」呉匡は遂に兵を引きつれて董卓の弟で奉車都尉であった董旻と何苗を攻め殺すと、其の屍を苑中に於いて棄てた。袁紹は遂に北宮門を閉ざすと、兵を勒して諸宦者を捕らえると、少長(の区別)無く皆之を殺した、それは凡そ二千余人、その中には髭が無いために宦官と誤解されて殺されたものもあった。袁紹は因って兵を進めると宮を排したが、或いはの端門の屋の上などから、以って省内に攻めこんだのである。 庚午、張讓、段珪らは困迫して、遂に帝と陳留王数十人を将いると歩いて穀門を出て、夜に、小平津に至ったが、六璽さえも自ら隨っていないありさまだった、公卿で従うを得ること無かった者は、唯だ尚書の盧植、河南中部掾の閔貢のみであり(彼らは)夜に河上に至った。閔貢は厲声にて張讓らを質し責め、且つ曰く:「今速やかに死なずば、吾が将に汝を殺さん!」因って手づから剣で数人を斬りすてた。張讓らは惶怖すると、叉手再拝し、叩頭して帝に向かって辞して曰く:「臣らは死にます、陛下はご自愛ください!」遂に河に(身を)投げて死んだ。 閔貢は帝と陳留王を扶<たす>けて夜歩き螢光を逐って南に行き、宮に還らんことを欲して、行くこと数里、民家で露車を得たため、露車というのは、上に巾蓋が無く、四旁に帷裳が無いもの、蓋し民家で以って物を載せるためのものである耳。共に之に乗って、雒舍に至って止まった。辛未、帝は独りで一馬に乗り、陳留王は閔貢と共に一馬に乗って、雒舍に従って南に行くと、公卿で稍も至る者が有った。董卓は顯陽苑に至ったところで、顯陽苑は、桓帝の延熹二年に造られた所のもので、洛陽の西に在る。遠くに火が起こるのを見て、変が有ったことを知り、兵を引きつれて急ぎ進んだ。未明、城の西に到って、帝が北に在ることを聞きつけ、因って公卿と往って北芒阪下に於いて奉迎した。帝は董卓が兵卒を将いて至るのを見て、恐怖で涕泣しだした。群公は董卓に謂いて曰く:「有詔卻兵。」董卓曰く:「公ら諸人は国を為す大臣であろうに、王室を匡正すること能わず、国家を播蕩させ使むに至った、東都群臣謂天子為国家。何ぞ卻兵せよなどと有るのか!」董卓は帝と語ってみたものの、語は了すこと不可であった。乃ち更めて陳留王と語って、禍乱が起こった由を問うと、王は、初め自り終りに至るまで答えたが、遺失する所無かった。董卓は大いに喜ぶと、以って王を賢いと為し、且つ董太后が養う所と為っていたことから、董卓は自らをして以って太后と同族であるとして、遂に廃立の意を有すことになった。 是日、帝は宮に還ると、天下に赦した、光熹を改めて昭寧と為した。伝国璽は失われていたが、下に為されているが獻帝の初平二年に孫堅が璽を得た張本。余りの璽は皆之を得た。丁原を以って執金吾と為した。騎都尉の鮑信が泰山自り兵を募って至るに適うと、袁紹に説いて曰く:「董卓は強兵を擁しており、将に異志を有しております、今早く図らなければ、必ずや制される所と為るでしょう。及んで其の新たなものは疲労するに至っていますから、之を襲えば、禽えることも可能です也!」袁紹は董卓を畏れており、敢えて発しなかった。鮑信は乃ち兵を引きつれて泰山に還った。 董卓が入ったときには也、歩騎は三千に過ぎなかったため、自ら兵が少ないことを嫌い、遠近が服する所と為らないことを恐れ、率して四五日すると輒ち夜に軍を潛み出して近くに営し、明くる旦、乃ち大いに旌鼓を陳して而して還らせ、以って為すに西の兵が復た至ったとしたが、雒中では知る者など無かった。俄かに而して何進及び弟の何苗の部曲は皆董卓に於いて帰すこととなった、董卓は又陰ながら丁原の部曲司馬であった五原出身の呂布を使って丁原を殺させると而して并其衆(その兵らを併せたため)、董卓の兵は是に於いて大いに盛んとなった。そこで乃ち朝廷に諷じて、雨が久しいことを以って、策して司空の劉弘を免じると而して之に代わった。 かつて、蔡邕は朔方に徙されていたが、赦にあって還ることができた。五原太守の王智が、蔡邕が朝廷を謗訕していると奏したため、蔡邕は遂に江海に亡命して、積もること十二年となっていたのである。董卓はその名を聞いてかれを召したが、病いと称して就かなかった。董卓は怒り、詈って曰く:「我能族人!」蔡邕は懼れて而して命に応じた、到ると、祭酒に署し、甚だ敬い重んじられるに見え、高第に挙げられ、三日之間に、三台を周歴し、蔡邕は高第に挙げられて、侍御史を補い、又治書御史に転じ、尚書に遷った、三日之間にして、三台を周歴したのである。遷って侍中と為った。 12.董卓は、「天下の主は、宜しく賢明を得るべきである。霊帝のことを思うたびに、令人は憤毒するものである!董侯似可、今之を立てようと欲する、為能勝史侯否?人有小智大癡、亦知復何如為当。且爾、劉氏種不足復遺!」と袁紹にいった。袁紹は「漢家は天下に君たりしこと四百許年、恩澤は深渥でありまして、兆民が之を戴いております。今上富於春秋、未有不宣於天下。公欲廃嫡立庶、恐衆不従公議也!」といった。董卓は剣を按じて袁紹を叱りつけ曰く:「豎子は敢えて然るか!敢然とは、猶も敢えて此の如きことを言うことである也。天下之事、豈に我に在らざるか!我が之を為さんと欲すれば、誰か敢えて従わざるか!爾<なんじ>は董卓の刀は為不利(切れ味が悪い)とでも謂うのか乎!」袁紹は勃然として曰く:「天下の健者は豈に惟だ董公のみなるか!」佩刀を引っさげると、横に揖して、徑出した。董卓は以って新たに至ったばかりであるうえ、袁紹は大家であると見ていたため、故に敢えて害さなかったのである。袁紹は節を上東門に懸けると、司隸に假されていた所の節を懸けたのである。冀州に逃奔した。 九月、癸酉、董卓は百官を集めて宴会すると、「皇帝は暗愚惰弱で、宗廟を奉じ、天下の主となるにふさわしくない。今欲するのは〔殷の〕伊尹や〔漢の〕霍光の故事にならって、陳留王をあらためて〔皇帝に〕立てたいが、どうか?」と頭を振るっていった。公卿以下の人々はみなおそれおののき、あえて答えようとするものがなかった。董卓は、また「むかし霍光が策を定めたおり、延年をばして剣を按じた。あえて大議を邪魔するものがいれば、みな軍法をもって処断したものだ!」と高言した。列席した者たちは戦慄に震えた。尚書の盧植がひとり「むかし〔殷の〕太甲は即位しても愚かであったし、昌邑王の罪過は千余りでありました。このため廃立の事件があったのです。今上はお歳が若く、行いには徳を失ったことがありません。さきの事例の比ではありません」といった。董卓は大いに怒って、列席するのをやめた。将に盧植を殺そうとしたため、蔡邕が之を請うこと為し、議郎の彭伯も亦た董卓を諌めて曰く:「盧尚書は海内の大儒でして、人の望です也。今先ず之を害したなら、天下は震え怖くでしょう。」董卓は乃ち止めて、但だ盧植の官を免じるだけとした、盧植は遂に逃れると上谷に於いて隠れた。董卓が以って廃立の議を太傅の袁隗に示したところ、袁隗は議の如くにと報いた。 甲戌、董卓は復た群僚を崇徳前殿に於いて会すると、遂に太后を脅して少帝を廃するようにとの策をくだした、曰く:「皇帝は喪に在って、人の子であるという心が無く、威儀は人君に類しない、今廃して弘農王と為し、陳留王協を立てて帝と為す。」袁隗が帝の璽綬を解き、以って陳留王に奉ると、弘農王を扶けて下殿させ、北面して臣と称させた。太后は鯁涕し、言不敢出声、但鯁咽而流涕也。群臣は含悲したものの、敢えて言う者とて莫かった。 董卓はまた議した:「太后は永楽宮を踧迫して、令して憂死させるに至った。これは婦姑の礼に逆らうものである。」乃ち太后を永安宮に於いて遷した。天下に赦した、昭寧を改めて永漢と為した。丙子、董卓は何太后を毒殺し、公卿以下は布服しなかった、葬に会っても、素衣にした而已であった。董卓は又何苗の棺を発して、其の尸を出すと、支解節断、道辺に於いて棄てた、何苗の母の舞陽君を殺すと、尸を苑枳落中に於いて棄てた。 13.詔により公卿以下の子弟を郎に任じ、宦官の職を補い、殿上に近侍した。 14.乙酉の日、太尉の劉虞を大司馬とし、襄賁侯に封じた。董卓は自ら太尉となり、前将軍事を兼ね、節伝・斧鉞・虎賁を加えられ、さらに郿侯に封ぜられた。 15.丙戌の日、太中大夫の楊彪を司空とした。 16.甲午の日、予州牧の黄琬を司徒とした。 17.董卓は、諸公を率いて上書し、陳蕃・竇武および諸党人たちについて再審理し、ことごとくその爵位をもとに戻し、使者を派遣してその死を弔わせ、その子孫を選んで任用した。 18.六月からこの月(九月)まで雨が降り続いた。 19.冬、十月、乙巳の日、霊思皇后を葬った。 20.白波賊が河東を攻掠したため、董卓はその部将の牛輔を派遣してこれを撃たせた。 かつて、南単于の於扶羅が立っていた。国人でその父(羌渠)を殺した者がついに叛き、ともに須卜骨都侯を立てて単于とした。於扶羅は闕に詣でて自ら訟した。たまたま霊帝が崩じて、天下が大乱となると、於扶羅は数千騎を率いて白波賊と兵を合わせて郡県を攻掠した。時に民が皆聚を保ったため、鈔掠しても利無く、而して兵は遂に挫け傷ついた。再び帰国しようとしたが、国人が受けいれなかったので、河東の平陽に止まった。須卜骨都侯が単于となって一年して死ぬと、南庭はその位を空位のまま、老王に国事を代行させた。 21.十一月、董卓を相国とし、帝に拝謁するときに名乗らず、入朝するときに小走りせず、剣をつけ靴をはいたまま上殿する特権をゆるした。 22.十二月、戊戌、司徒の黄琬を以って太尉と為し、司空の楊彪が司徒と為り、光禄勳の荀爽が司空と為った。かつて、尚書で武威出身の周毖、城門校尉で汝南出身の伍瓊は、董卓に桓、霊の政を矯めて、天下の名士を擢び用いて以って衆望を収めるようにと説いたため、董卓は之に従い、周毖、伍瓊と尚書の鄭泰、長史の何顒らに穢惡を沙汰し、幽滞を顯拔するよう命じた。是に於いて処士の荀爽、陳紀、韓融、申屠蟠が徴されることになったのである。復た荀爽を拝して平原相に就けたが、(彼が)行って宛陵に至ると、宛陵県は河南尹に属する、洛陽の東に在る。光禄勳に遷され、視事すること三日にして、進んで司空を拝することになった。徴命を被ってから及んで台司に登るまで、凡そ九十三日。また陳紀を五官中郎将とし、韓融を大鴻臚とした。陳紀は、陳寔の子である。韓融は、韓韶の子である也。荀爽らは皆董卓之暴を畏れて、敢えて至らざること無かったのである。独り申屠蟠だけは徴書を得て、人が之に行くよう勧めても、申屠蟠は笑って而して答えなかった、董卓は終に屈させることができず、年七十余、寿を以って終えた。董卓はまた尚書の韓馥を冀州牧とし、侍中の劉岱を兗州刺史とし、陳留出身の孔を豫州刺史とし、東平の張邈を陳留太守とし、潁川の張咨を南陽太守とした。董卓が親愛する所は、そろって顕職につかされず、ただ将校となったのみであった。 23.詔あって光熹、昭寧、永漢の三号を除くこととなった。 24.董卓は性が殘忍であったため、一旦專政すると、国家の甲兵、珍宝を拠有し、天下に威を震わせ、願う所は極まり無かった、賓客に語って曰く:「我が相は、貴きことこの上無い也!」人臣之相に非ずと自ら言うなど、其の悖逆たること此の如し。侍御史の擾龍宗が董卓に詣でて事を白するにあたり、剣を解かなかったため、檛を立てて之を殺した。是時、雒中の貴戚の、室第は、金帛財産を相望み、家家に充ち積もっていたため、董卓は兵士を縦にして放つと、其の廬舍を突き、資物を剽虜し、婦女を略して妻としたが、貴戚を避けなかった。人情は崩れ恐き、朝な夕なにも保たれなかった。 董卓が袁紹を購い求めること急であったため、周毖、伍瓊は董卓に説いて曰く:「夫れ廃立の大事は、常人が及ぶ所に非ずというもの。袁紹は大體に達せずして、恐懼して出奔したのです、他志有るわけではありません。今急いで之を購うなら、勢いからして必ずや変を為しましょう。袁氏は樹恩すること四世にわたっておりまして、袁安の四世が袁紹に至る。門生故吏が天下に於いてあること遍きもの、若し豪桀を収めて以って徒衆を聚め、英雄が之に因って而して起ってしまうなら、則ち山東は公が有するに非ざるところとなるでしょう也。之を赦すに如かずというものです、一郡守を拝したなら、袁紹は罪を免れたことに於いて喜び、必ずや患うこと無いでしょう。」董卓は以って然りと為すと、乃ち袁紹を即座に勃海太守に拝して、邟郷侯に封じた。また袁術を後将軍とし、曹操を驍騎校尉とした。 袁術は董卓を畏れて、南陽に出奔した。曹操は姓名を変易すると、間行して東に帰ったが、中牟を過ぎようとしたおりに、亭長に疑われる所となって、執らわれて県に詣でるはめになった。時に県では已に董卓の書を被っていたが、唯だ功曹のみが心に是は曹操であると知っただけであった、(しかし功曹は)世が乱に方じていることを以って、天下の雄雋を拘束するのは宜しからずとして、因って令に白して之を釈(放)させたのである。中牟令に白したのである也。曹操は陳留に至ると、家財を散じて、兵を合わせて五千人を得た。 このとき、豪傑は多くが兵を起こして董卓を討とうとする者を欲していた、袁紹は勃海に在ったが、冀州牧の韓馥が何人もの部従事を遣わして之を守らせたため、動き搖すること得られなかった。東郡太守の橋瑁は京師にいた三公の移書を詐って作ると州郡に与えて、董卓の罪惡を陳べた、云うに「逼迫に見えるも、以って自らを救うことでき無い、義兵を企望する、国を患難より解きはなってくれ。」韓馥は移を得ると、諸従事を請い問うて曰く:「今当に袁氏を助けるべきか、董氏を助けるべきか?」治中従事の劉子恵が曰く:「今兵を興すのは国の為です、何でまた袁、董と謂うのです!」韓馥は色を有した。子恵は復た言った:「兵というのは凶事です、首と為る可きではありません。今は他州を往視するのが宜しいでしょう、発動する者が有れば、然る後に之に和しましょう。冀州於他州不為弱也、他人功未有在冀州之右者也。」韓馥は之を然りとした。韓馥は乃ち書を作って袁紹に与えると、董卓之惡に道して、其の挙兵を聴きいれるとした。 孝獻皇帝甲 初平元年(庚午、一九〇) 1.春、正月、関東州郡は皆兵を起こして以って董卓を討とうとし、勃海太守の袁紹を推して盟主と為した。袁紹は自ら車騎将軍を号し、諸将は皆官号を板授した。時に董卓は天子を挾んでいた、袁紹らは罔攸稟命、故に権宜板授官号。袁紹と河内太守の王匡は河内に駐屯し、冀州牧の韓馥は鄴に留まって、其の軍糧を給した。豫州刺史の孔は潁川に駐屯し、兗州刺史の劉岱、陳留太守の張邈、張邈の弟で広陵太守の張超、東郡太守の橋瑁、山陽太守の袁遺、済北相の鮑信と曹操は倶に酸棗に駐屯した、酸棗県は陳留郡に属する。後将軍の袁術は魯陽に駐屯した。衆は各数万であった。豪桀多帰心袁紹者。鮑信は独り曹操に謂いて曰く:「夫の略が不世出であって、能く撥乱を正しきに反す者とは、君だろう也。苟しくも其人に非ざれば、強と雖も必ずや斃れるものだ。君こそ殆んど天が啓く所だろう乎!」 2.辛亥、天下に赦した。 3.癸酉、董卓は郎中令の李儒に弘農王辯を酖殺させた。 4.董卓は大いに兵を発して以って山東を討たんとして議した。尚書の鄭泰曰く:「夫れ政とは徳に在るもの、衆に在るのではありません也。」董卓は悦ばず曰く:「卿がした此言の如きは、兵とは無用を為すというのか邪!」鄭泰曰く:「其は然りと謂うには非ず也、以為<おもえらく>山東は大兵を加えるに足るものではないというだけです耳。明公の出自は西州であります、少なきより将帥と為って、軍事を閑習しました。袁本初は公卿の子弟で、生まれた処は京師。張孟卓は東平の長者で、坐して堂を闚さず。張邈は、字を孟卓という。孔公緒の清談高論は、嘘枯吹生するものですが。孔は、字を公緒という。並んで軍旅之才が無く、鋒に望んで敵と決するのは、公之儔に非ざるものです也。兵鋒に臨んで而して敵人と勝負を決することを謂う也。況んや王爵が加えられず、尊卑に序列無い、若恃衆怙力(若し衆を恃み力を怙<たの>んだとしても)、将各峙以観成敗、不肯同心共膽、与斉進退也(心を同じくして共に膽じることを肯んぜず、進退を斉しくすることに与しないことでしょう)。此の数語について、公業は以って董卓に於いて釈言しただけと雖も、然るに関東諸将の情態は實じ此の如きに過ぎなかった。且つ山東は承平して日久しく、民は戦を習っていません。関西は(ちか)頃から羌寇に遭っており、婦女も皆能く弓を挾んで而、天下が畏れる所というのは、并、涼之人と羌、胡義従に若くは無く。而して明公は之を擁して以って爪牙と為していますからには、譬えるなら虎兕に驅して以って犬羊に赴くが猶きです。牛に似ているが一角であり而して青色をしている、身は重さ千斤、角は重さ百斤。烈風に鼓うって以って枯葉を掃かせる、誰が敢えて之を禦ぎえましょう!徴兵の事をおこなって以って天下を驚かせること無かれ、役に患った民に相聚まって非を為させ使むことになります、(そのように)徳を棄てて衆を恃むのは、自ら威重を虧<けが>すこととなりましょう也。」董卓は乃ち悦んだ。 5.董卓は以って山東の兵が盛んであるとして、都を遷して以って之を避けようと欲した、公卿は皆欲しなかったが而して敢えて言うもの莫かった。其の暴を畏れたのである也。董卓は表して河南尹の朱儁を太僕と為して以って己の副と為そうとした、使者が召拜したところ、朱儁は辞して、受けるを肯んじなかった。因って曰く:「国家は西遷せんとしていますが、必ずや天下の望みに(かけはなれて)孤りとなるでしょう。以って山東之釁を成さんとするのについては、臣はその可なるを知りません。」使者は曰く:「召君を召して拝を受けさせようとしたところ而して君は之を拒んだ、徙る事を問うていないのに而して君は之を陳べた、何ゆえにか也?」朱儁は曰く:「相国を副えることは、臣が堪える所に非ざるものです。遷都は計るに非ざるも、事が急である所です也。辞堪えられない所を辞し、其の急なる所を言うのは、臣之宜べるものです也。」是ゆえに止不為副。董卓は公卿を(あつめて)大会すると議した、曰く:「高祖は関中に都して、十有一世、光武が洛陽を宮として、今に於いて亦た十一世たった矣。石包讖から按ずるに、当時は緯書之外に、又石包室讖が有った、蓋し時の人は附益為之、如孔子閉房記之類。宜しく都を長安に徙して、以って天人之意に応じるべし。」百官は皆黙然としてしまった。司徒の楊彪は曰く:「都を移し制を改めるのは、天下の大事であります、故に盤庚が亳に遷ると、殷民は胥怨したのです。書序に曰く:盤庚は五遷し、将に亳を治としようとしたため、殷民は咨に胥怨した。昔関中は王莽の残破に遭ったため、故に光武は都を雒邑に更めたのです。それから暦年して已に久しく、百姓は安楽としておりますからには、楽、音洛。下同。今故無く宗廟を捐なって、園陵を棄てたなら、百姓が驚き動き、必ずや糜沸之乱有らんかと恐れます。石包讖は、妖邪之書です、豈に信用す可きでありましょうか!」董卓曰く:「関中は肥饒である、故に秦は六国を併呑することを得たのだ。且つ隴右は材木が自出していて、杜陵には武帝の陶が有る、并功して之を営めば、一朝にして而して辦ぜ使むるも可である。百姓など何ぞ議に与かるに足るというのだ!若有前卻、我以大兵驅之、可令詣滄海。」賢曰く:敢えて險難を避けないことを言う也。楊彪曰く:「天下は之を動かすのは易きに至るものですが、之を安んぜんとすれば甚だ難いものです、(遷都のことは)惟だ明公のみが慮んばかっているのでしょう焉!」董卓は色を作って曰く:「公は国計を沮さんと欲しているのか邪!」太尉の黄琬が曰く:「此は国之大事です、楊公之言については、得無可思!」董卓は答えなかった。司空の荀爽は董卓の意が壮<さか>んであると見て、楊彪らが害されはしないかと恐れ、因って従容して言った、曰く:「相国は豈に此(現状)を楽しいとしているでしょうか邪!山東には兵が起っており、一日たりとも禁ずる可くも無い、故に当に遷らんとすべきとして以って之を図ったわけです、此は秦、漢之勢というものでしょう也。」秦、漢が関中に都し、山河の形勢に因って以って天下を制したことを謂う。董卓の意は小解した。黄琬は退いて、又駁議を為した。二月、乙亥、董卓は災異を以って黄琬、楊彪らを免じて、以って光禄勳の趙謙を太尉と為し、太僕の王允を司徒と為すよう奏上した。城門校尉の伍瓊、督軍校尉の周毖は遷都を固く諌めたが、董卓は大いに怒って曰く:「この卓が初めて入朝したとき、二君は士を用いるよう勧めた、故にこの卓は相従ったのだ、而しながら諸君が官に到ると、挙兵して相図った、此は二君がこの卓を売ったということか、董卓は何ぞ相負したものを用いるものか!」庚辰、伍瓊、周毖を収めると、之を斬った。楊彪、黄琬は恐懼して、董卓に詣でて謝った、董卓も亦た伍瓊、周毖を殺したことを悔いていたため、乃ち復た楊彪、黄琬が光禄大夫と為るよう表した。 6.董卓は京兆尹の蓋勳を徴して議郎と為した。時に左将軍の皇甫嵩が兵三万を将いて扶風に駐屯していたことから、蓋勳は密かに皇甫嵩とくんで董卓を討とうと謀った。董卓が亦た皇甫嵩を徴して城門校尉と為したことに会ったおり、皇甫嵩の長史であった梁衍が皇甫嵩に説いて曰く:「董卓は京邑を寇掠して、廃立(のこと)は(彼の)意に従ったものでした、今将軍を徴されましたが、大なれば則ち危禍、小なれば則ち困辱となるでしょう。今及ぶに董卓は洛陽に在って、天子が西に来ておりますから、将軍之衆を以って至尊を迎えて接し、討逆する(逆賊董卓を討つ)ようにとの令を奉じられて、徴兵して群帥(帥をつくりましょう)、袁氏が其の東から逼<せま>り、将軍が其の西から迫れば、此は禽えること成るものです也!」皇甫嵩は従わず、遂に徴に就いた。皇甫嵩は前にも兄の子である皇甫酈之言に従うこと能わず、今又梁衍之策に従わなかった、自揣其才不足以制卓故也。蓋勳は以って衆弱であったため独り立つこと能わず、亦た京師に還った。董卓は蓋勳を以って越騎校尉と為した。河南尹の朱儁が董卓に軍事を陳べようと為したところ、董卓は朱儁を折して(朱儁の言葉を途中で遮って)曰く:「我は(これまで)百戦して百勝してきている、之を心に於いて決したからには、卿は妄りに説こうとする(説得しようとする)勿れ、且汙我刀(それともその刀で我を止めようというのか)!」蓋勳は曰く:「昔武丁の明があってさえ、猶も箴諫を求めたというのに、況んや卿の如き者においてや、而して人之口を杜さんと欲するのか!」董卓はそこでかれに謝った。 7.董卓は軍を遣わして陽城に至らせると、値民会於社下、此は二月の事である也。陽城県は潁川郡に属する。悉く就くと之を斬り、駕其車重、其の婦女を載せ、頭を以って車轅に繋ぎ、歌い呼んで洛陽に還ると、賊を攻めて大いに獲たと云った。董卓は其の頭を焚燒し、婦女を以って甲兵に与えて婢妾と為した。甲兵は、甲兵之士のことを謂う。 8.丁亥、車駕が西遷すると、董卓は諸富室を収め、罪惡を以って之を誅すると、其の財物を没収した、(そのことで)死んだ者は不可勝計(数え切れないくらいであった)。其の余民数百万口を長安に於いて悉く驅徙させたが、歩騎は驅蹙し、更めて相い蹈藉しあって、飢え餓えて寇掠することとなり、尸が積まれて路を盈ませた。董卓は自らは畢圭苑中に留屯すると、宮廟、官府、居家を悉く焼いたため、二百里内にあった、室屋は蕩尽してしまい、復た雞犬も無くなった。又呂布を使って諸帝陵及び公卿以下の墓を発掘させ、其の珍宝を収めさせた。董卓は山東の兵を得たところ、膏を以って十余匹に塗布すると、用纏其身(それを用いて捕らえた山東の兵の身体に纏わせてから)、然る後に之を燒いたが、先ず足から起つに従った。 9.三月、乙巳、車駕が長安に入り、後に乃ち稍して宮室を葺して而して之に居した。時に董卓は未だ至らなかったため、朝政の大小は皆之を王允に委ねられた。王允は外は相彌縫しながら、内には王室のことを謀り、甚だ大臣之度を有したため、自ずと天子及び朝中は皆王允に倚すこととなった。王允は意を屈して董卓を承ったため、董卓も亦た雅信したのである焉。 10.董卓は袁紹のことを理由として、戊午、太傅の袁隗、太僕の袁基、及びその家のもので尺口以上の五十余人を殺した。 11.かつて、荊州刺史の王叡は長沙太守の孫堅と共に零、桂の賊を撃った。孫堅が武官であったため、言は頗る之を軽んじた。州郡が挙兵して董卓を討たんとするに及び、王叡と孫堅もまたみな兵を起こした。王叡は素より武陵太守の曹寅とは相能くしなかったため、言を揚げて当に先ず曹寅を殺すべしとした。曹寅は懼れて、按行使者の檄を詐作して孫堅に移すと、王叡の罪過を説き、収めて、刑訖を行うよう令すると、状を以って上した。孫堅は檄を承ると、即ち兵を勒して王叡を襲った。王叡は兵が至ったと聞きて、樓に登って之を望むと、遣わして「何をしようと欲しているのか?」と問うた。孫堅の前部が答えて曰く:「兵は久しく戦って労苦しています、使君に詣でんと欲したのは直ちに資を求めんとしてのことです耳。」王叡は孫堅を見て驚き曰く:「兵が自ら賞を求めているというのに、孫府君が以って其の中に在るのは何でなのか?」孫堅曰く:「使者から君を誅せよとのを被ったのだ!」王叡曰く:「我に何ぞ罪あるというのか?」孫堅曰く:「知る所無いことに坐したのだ!」王叡は窮迫すると、金を刮って之を飲み而して死んだ。孫堅は前にすすんで南陽に至ると、衆は已に数万人となった。南陽太守の張咨が軍糧を給することを肯んじなかったため、孫堅は誘って而して之を斬った。郡中は震え慄き、求めて獲ないこと無かった。前にすすみ魯陽に到って、魯陽県は南陽郡に属する。袁術と兵を合わせた。袁術は是ゆえに南陽に拠ること得たのである、そこで孫堅を行破虜将軍、領豫州刺史にと(上)表した。詔あて北軍中候の劉表を以って荊州刺史と為した。時に寇賊が縦横しており、道路が梗塞していた、劉表は単馬にて宜城に入ると、南郡の名士であった蒯良、蒯越を請うと、之と謀って曰く:「今江南の宗賊は甚だ盛んである、賢曰く:宗党が共に賊と為ったのである。各々が衆を擁して附かないでいる、若し袁術が之に因るなら、禍は必ずや至ることだろう矣。吾は徴兵したいと欲しているが、能く集まらないだろうと恐れている、其れ焉に出す策はあるだろうか?」焉、於虔翻。蒯良曰く:「衆が附かないというのは、仁が不足しているからです也。附いても而して治らないのは、義が不足しているからです也。苟しくも仁義之道が行われるなら、百姓が之に帰すこと水が下に趣くかの如しです、何ぞ徴兵して集まらないことに患うものでしょう乎!」蒯越曰く:「袁術は驕っており而して無謀です、宗賊の帥は多くが貪暴でして、下が患う所と為っています。若し人を使って之に利を以って示すなら、必ずや以って衆来することでしょう。(そこで)使君は其の無道を誅し、撫して而して之を用いるなら、一州之人は楽存之心を有することになるでしょう、君の威徳を聞けば、必ず襁負して而して至ることでしょう矣。兵が集まり帥が附いたなら、南は江陵に拠り、北は襄陽を守る、そうすれば荊州八郡は檄を伝えれば而して定まる可し、公路が至ると雖も、能く為すこと無いでしょう也。」袁術は、字が公路である。劉表曰く:「!」乃ち蒯越を使って宗賊の帥を誘わせたところ、至る者五十五人、皆之を斬って而して其の軍を収めた。遂に治(所)を襄陽に徙し、郡県を鎮撫した、江南は悉く平げられた。 12.董卓が洛陽に在したおりには、袁紹らの諸軍は皆其の強きを畏れて、敢えて先に進もうとするものは莫かった。曹操は曰く:「義兵を挙げたのは以って暴乱を誅せんとしてのことだ、大衛已合(大兵が已に合わさったというのに)、諸君は何で疑うのか!向使董卓倚王室、拠旧京、東向以臨天下、雖以無道行之、猶足為患。今や宮室を焚燒して、天子を劫して遷した、海内は震え動き、帰す所を知らないようである、此は天が之を亡ぼさんとしている時なのだ也、一戦すれば而して天下は定まるだろう矣。」遂に兵を引きつれて西すると、将に成皋に拠らんとした、張邈は将の衛茲に兵を分けて遣わすと之に隨わせた。進んで滎陽の汴水に至ったところで、班志では:汴水は滎陽の西南に在る。董卓の将で玄菟出身の徐栄に遇ったため、これと戦ったところ、曹操の兵は敗れ、(彼は)流矢が中る所と為り、乗馬も創を被る所となった。従弟の曹洪が以って馬を曹操に与えようとしたが、曹操は受けなかった。曹洪曰く:「天下にこの洪が無く可くも、君は無く可からず!」遂に歩いて曹操に従い、夜に遁れ去った。徐栄が見るに曹操が将いる所の兵は少なかったのに、力戦して日を尽くしたため、酸棗は未だ攻めるに易からずと謂うや也、亦た兵を引きつれて還った。曹操が酸棗に到るや、諸軍十余万は、日置酒高会(一日中酒を置いて会合を開き続け)、進取を図ろうとしていなかったため、曹操は之に責讓し、因って謀を為すと曰く:「諸君は能く吾が計を聴きたまえ、使って勃海は河内之兵を引きつれて孟津に臨み、勃海とは、袁紹のことを謂う也。酸棗諸将は成皋を守って、敖倉に拠り、轘轅、太谷を塞いで、其の險を全く制す、(使って)袁将軍には南陽之軍を率いてもらい丹、析に軍して、武関に入り、以って三輔を震えさせる、皆<どれも>壘を高く壁を深くして、戦いに与ること莫れとし、疑兵を益して為すことで、天下の形勢を示す、(このように)順を以って逆を誅すれば、定めを立てることも可能である也。観操之計は、但だ欲形格勢禁、其の変が下に於いて起こるのを待つのみ耳、戦に於けるを主とすることに非ず也。今兵あつめるに義を以って動いたのに、持したまま疑って進まなければ、天下の望みを失うだろう、竊うに諸君は之を恥と為すべきだ!」張邈らは用いること能わなかった。曹操は乃ち司馬で沛国出身の夏侯惇らと揚州に詣でて、兵を募り、千余人を得て、河内に還って駐屯し。袁紹に従った也。頃之(この頃)、酸棗の諸軍は食べ尽くしたため、兵は散りぢりとなった。劉岱と橋瑁は相惡みあっていた、劉岱は橋瑁を殺し、王肱を以ってして東郡太守を領させた。青州刺史の焦和も亦た兵を起こして董卓を討とうとした、務めて諸将に及ばんとして西に行き、務めて兵を進めて酸棗諸将と相及ぼうとした也。不為民人保障、兵始済河(兵は済河に始まって)、黄巾が已に其の境に入りこんでいた。青州は素より殷實であって、甲兵は甚だ盛んであった、焦和は寇を望む毎に北に奔らんとし、未だ嘗て風塵に接しもせず、旗鼓が交わることもなかった也。性は卜筮を好み、鬼神を信じ、入って其の人に見えると、清談は雲を干さんとするほどであったのに、出て其の政を観るや、賞罰は淆乱したため、州は遂に蕭條し、悉く丘墟を為してしまった。頃之、焦和が病没したため、袁紹は広陵出身の臧洪を使って青州を領させるとこれを慰撫させた。 13.夏、四月、幽州牧の劉虞を以って太傅と為したが、道路が壅塞していたため、信命は竟に通じるを得なかった。是より先に、幽部は荒外に応接していたため、資が費されること甚だ広く、歳は常に青、冀の賦調二億有余を割いて以って之に足させていた。時に処処断絶したため、輸を委ねても至らなかった、而して劉虞は敝衣繩屨して、食は肉を兼ねること無く、務めたのは政に存することで、農桑を勧督し、上谷で胡市之利を開き、漁陽に塩鉄之饒を通じさせたため、上谷は旧は関市を有した、胡人との貿易につかわれた。漁陽には旧くは塩官、鉄官が有った。民は年登、穀石三十となることを悦び、青、徐の士で避難して劉虞に帰そうと庶<こいねが>う者が百余万口になった、劉虞は皆収めて温卹に視ると、生業を立てることで安んじようと為したため、流民は皆其の遷徙したことを忘れたほどであった焉。 14.五月、司空の荀爽が薨じた。六月、辛丑、光禄大夫の种拂を以って司空とした。种拂は、种卲之父である。 15.董卓は大鴻臚の韓融、少府の陰脩、執金吾の胡毌班、将作大匠の呉脩、越騎校尉の王を遣わして関東に集を安んじさせ、袁紹らに譬えさせて解かせようとした。胡毌班、呉脩、王が河内に至ると、袁紹は王匡を使って悉く収め撃たせ之を殺した。袁術も亦た陰脩を殺した。惟だ韓融のみが名徳以って免れることできた。 16.董卓は五銖銭を懐くと、更めて小銭を鋳造することとして、洛陽及び長安の銅人、鐘虡、飛廉、銅馬之属を悉く取って以って之を鋳造した、由是ゆえに貨は賤しくなり物は貴ばれて、穀は石数万銭(一石あたり数万銭)に至ったのである。 17.冬、孫堅は官属と魯陽城の東に於いて会飲した、董卓の歩騎数万が猝至したが、孫堅は行酒に方じ、談笑すると、部曲を整頓し、妄りに動きを得ること無かれとした。後に騎が漸益してきたため、孫堅は徐ろに坐を罷めると、城に導き引きつれて入った、乃ち曰く:「この孫堅に向かってきたのに即座に起たなかった所以は、兵が相蹈藉して、諸君らが入ること得ないのを恐れたからだ耳。」董卓の兵は其の整っているさまを見て、敢えて攻めることなく而して還っていった。 18.王匡が河陽津に駐屯したため、董卓は襲撃して、之を大破した。 19.左中郎将の蔡邕が議して「孝和以下の廟号で称宗している者は、皆宜しく省き去り、以って先典を遵ぶことにしましょう。」之に従った。 20.中郎将の徐栄は同じ郡の出身で故の冀州刺史であった公孫度を董卓に於いて薦めた、董卓は以って遼東太守と為した。公孫度は官に到ると、法を以ってして郡中の名豪大姓百余家を誅して滅ぼしたため、郡中は震え慄いた、乃ち東に高句驪を伐し、西に烏桓を撃つと、親しくしている所の吏である柳毅、陽儀らと語って曰く:「漢祚は将に絶えんとしている、当に諸卿とともに正を図ろうとおもう耳。」是に於いて遼東を分けて遼西、中遼郡を為すと、各々に太守を置き、海を越えて東萊諸県を収めると、営州刺史を置いた。自ら立って遼東侯、平州牧と為ると、漢二祖の廟を立てて、承制し、天地に郊祀し、藉田して、鸞路に乗り、旄頭、羽騎を設けた。
https://w.atwiki.jp/earthruinfes/pages/1984.html
日記/2012年05月29日(TUE)/ニュース記事 2012-06-06 中国人書記官 登録証不正入手の疑い NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015442111000.html +記事コピペ収納 中国人書記官 登録証不正入手の疑い 5月29日 7時44分 K10054421111_1205290747_1205290749 東京の在日中国大使館の1等書記官が、4年前、外交官であることを隠して外国人登録証を不正に入手していた疑いがあるとして、警視庁が5月、出頭を要請していたことが分かりました。この書記官は、中国の情報機関に所属し日本では政財界の要人と交流があったということで、警視庁は活動の実態を調べています。 警視庁などによりますと、東京・港区の中国大使館に勤務する45歳の1等書記官は、4年前の平成20年、外交官であることを隠して葛飾区役所に申請書を提出し、外国人登録証を不正に入手した疑いがあるということです。また、外国人登録証を使って銀行口座を不正に開設していて、この口座には都内の会社から顧問料や報酬とみられる現金が振り込まれていたということです。 警視庁などは、外交官の個人的な商業活動を禁じた国際条約に違反する疑いもあるとみています。 警視庁は、5月、外国人登録法違反などの疑いがあるとして、外務省を通じて書記官に出頭を要請しましたが、中国大使館が拒否し、書記官は帰国したということです。書記官は、平成19年に外交官として勤務する以前も、大学の研究員を務めたり、松下政経塾に入塾したりするなど、政財界の要人とも交流があったということです。一方で中国では情報機関の「人民解放軍総参謀部」に所属していたということで、警視庁は、日本での活動の実態を調べています。 中国書記官 数百万円集める NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015448681000.html +記事コピペ収納 中国書記官 数百万円集める 5月29日 12時19分 K10054486811_1205291224_1205291224 東京の在日中国大使館の1等書記官が外交官であることを隠して外国人登録証を不正に入手していた疑いが出ている問題で、この書記官は、中国への進出を計画している複数の企業から合わせて数百万円を集めていたことが分かり、警視庁は、活動資金として使われていた可能性もあるとみて調べています。 この問題で、東京の中国大使館に勤務する45歳の1等書記官は、4年前の平成20年に外交官であることを隠して葛飾区役所に申請書を提出し、外国人登録証を不正に入手した疑いが出ています。 警視庁は、外国人登録法などに違反する疑いがあるとして、今月中旬、書記官に出頭を要請しましたが、中国大使館が拒否し書記官は帰国したということです。 警視庁によりますと、書記官は外国人登録証を悪用して銀行口座を不正に開設していて、この口座には都内の会社から「顧問料」として毎月10万円程度の現金が振り込まれていたということです。また、書記官は中国への進出などを計画している複数の企業からも金を集めていて総額は数百万円に上るということです。 書記官は中国の情報機関の出身で、政界関係者との交流も広げていたということで、警視庁は振り込まれた金が活動資金として使われていた可能性もあるとみて、今後、接触した相手から話を聴くなどして実態を詳しく調べることにしています。 中国大使館“把握していない” これについて、中国大使館の楊宇報道官は、NHKの取材に対し、「1等書記官は今月、任期満了で帰国した。書記官がいわゆるスパイ行為をしていたという報道は全く根拠がない。書記官自身に対する疑いは、中国大使館も状況を把握していない」と話しています。 中国書記官を外登法違反等で送検へ NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015460411000.html +記事コピペ収納 中国書記官を外登法違反等で送検へ 5月29日 18時45分 K10054604111_1205291936_1205291938 東京の在日中国大使館の1等書記官が外国人登録証を不正に入手していた疑いが出ている問題で、警視庁は、近く外国人登録法違反などの疑いで書類送検することにしています。書記官は、中国での事業投資を名目に日本の複数の企業に合わせて数千万円を出資させていた疑いがあるということで、警視庁は資金の流れを調べています。 この問題で、東京の中国大使館に勤務する45歳の1等書記官は、平成20年に外交官であることを隠して葛飾区役所に申請書を提出し、外国人登録証を不正に入手した疑いが出ています。警視庁は、今月中旬、書記官に出頭を要請しましたが、応じずに帰国したということで、近く外国人登録法違反などの疑いで書類送検することにしています。 警視庁によりますと、書記官は中国の農業特区での事業投資の名目で日本の複数の企業に合わせて数千万円を出資させていた疑いがあり、このうち数百万円が外国人登録証を使って不正に開設された銀行口座に振り込まれていたということです。 一方、同じ口座には東京の食品会社から「顧問料」として毎月10万円程度の現金が振り込まれていたということですが、会社側は「書記官の妻が会社で働いた際のアルバイト代で問題はない」としています。 警視庁は、資金の流れを詳しく調べています。 人民解放軍情報機関に所属した経歴 警察当局などによりますと、一等書記官は1989年に中国・河南省にある大学の日本語科を卒業したとされ、その後、人民解放軍の情報機関「総参謀部第2部」に所属したということです。総参謀部第2部は、海外でのスパイ活動に関わっているとされる機関で、警察当局は中国がこうした機関を通じて日本を含む海外の防衛関連企業や大学に研究者や技術者などを派遣し、さまざまなスパイ活動を行っているとみています。 書記官は、その後、河南省洛陽市の職員として平成5年に来日。福島県の須賀川市日中友好協会で国際交流員を務めたり、福島大学の大学院で地方行政学を学んだりしました。 平成9年にいったん帰国し、2年後に再び来日した際には松下政経塾の特別塾生となり、政財界の関係者らと交流を深めていきます。その後、再びの帰国などを挟んで、平成15年からは東京大学に研究員として在籍。4年後の平成19年に在日中国大使館の書記官に着任しました。 警察当局は書記官が「人民解放軍総参謀部」に所属していたという情報を得て、この頃から動向を注視していたといいます。 警視庁公安部が日本での活動の実態を調べる過程で、書記官が外交官であることを隠して外国人登録証を入手していた疑いが発覚しました。しかし、日本の機密情報を不正に入手するなどの具体的な事実は今のところ確認できていないということです。 松下政経塾時代は 中国大使館の一等書記官と平成11年に松下政経塾で一緒に学んでいた民主党の森岡洋一郎衆議院議員は「自己紹介で『中国の研究機関の研究員で、日本の政治を勉強しに来た』と話していた。積極的にみんなの輪に入ってくるタイプではなく、容姿も含めて目立たず、おとなしい印象だった。外国人にしては日本語がうまかったが、情報機関の関係者をうかがわせるような雰囲気は全く感じさせなかった」と話していました。 “紳士的で親しみやすい人” 1等書記官と親交があった浜松市のNPO「浜松日中文化交流会」の山下輝幸理事長は「4,5年前からつきあいがあるが、紳士的で誰もが親しみやすい人だった。中国人留学生のイベントなどで1年に1、2回は浜松市に来ていて、熱心に留学生の世話をしていた。イベントには地元の企業が参加することもあるが、1等書記官が経済活動を行っていたかどうかは分からない。ましてやスパイ活動をするような人とは思わない」と話しています。 ディズニーシー 直前にも緊急停止 NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015448611000.html +記事コピペ収納 ディズニーシー 直前にも緊急停止 5月29日 12時59分 K10054486111_1205291312_1205291313 千葉県浦安市の東京ディズニーシーで、28日、セーフティーバーが降りないままジェットコースターが走り出し、乗客が軽いけがをした事故で、この直前にも別の座席のバーが降りないまま出発して緊急停止していたことが分かり、警察は、スタッフがどのように安全確認を行っていたかなどについて調べています。 28日午後4時すぎ、東京ディズニーシーの「レイジングスピリッツ」というアトラクションで、乗客の34歳の男性の座席にあるセーフティーバーが降りないままジェットコースターが走り出し、危険を感じた男性は乗り場に飛び降りようとした際、右足に軽いけがをしました。 警察の調べによりますと、ジェットコースターは男性など9人の客が乗っていましたが、この事故の直前に男性の後ろの無人の席のバーが上がったままの状態で出発し、緊急停止していたことが新たに分かりました。その後、スタッフが上がったバーを降ろすためにロックを解除したところ、けがをした男性の座席のバーが上がってしまい、そのまま出発したということです。 「レイジングスピリッツ」は、スピードを出したジェットコースターが古代遺跡の発掘現場を走る人気のアトラクションで、上下逆さまになる場面もあります。 2両の車両に12人が乗ることができ、人がいない席も含めたすべての座席のバーが降りていることをスタッフが確認したうえで出発させることになっているということです。 警察は、スタッフがどのように安全確認を行ったかや、機械に不具合がなかったかどうかを調べています。 東京ディズニーシーは29日も開園していますが、施設を運営するオリエンタルランドは「レイジングスピリッツ」については、当面、運休することにしています。 福島知事 政府の避難指示問題あった NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015462261000.html +記事コピペ収納 福島知事 政府の避難指示問題あった 5月29日 19時28分 K10054622611_1205291932_1205291938 福島県の佐藤知事は、国会の原発事故調査委員会で、原発周辺の住民に対する政府の避難指示について、「何ら明確な根拠も示されず矢継ぎ早に出され、私はメディアで知った」と述べ、問題があったと指摘しました。一方で、放射性物質の拡散の予測データを巡る県の情報の取り扱いには落ち度があったことを認め、陳謝しました。 国会の原発事故調査委員会は、28日の菅前総理大臣に続いて、29日は福島市で佐藤福島県知事を参考人として招致して質疑を行いました。 この中で、佐藤知事は、原発周辺の住民に対する政府の避難指示について、「事前の連絡もなく、一方的に何ら明確な根拠も示されず矢継ぎ早に出され、私はメディアで知った」と述べ、政府側の情報提供に問題があったと指摘しました。 さらに、佐藤知事は、政府が出した原子力緊急事態宣言について、「訓練では、発電所からの緊急通報を受けて、政府はおよそ30分後に緊急事態宣言を出すことになっていた。しかし、今回は東京電力からの連絡後、およそ2時間半経過しての緊急事態宣言で、さらに県に連絡が届いたのはその1時間後だった」と述べ、政府の対応の遅れを批判しました。 一方で、佐藤知事は、放射性物質の拡散を予測する「SPEEDI」のデータについて、「県の対策本部に情報が来ていたが、同じ所にたくさん、いろいろな資料が入っていたため、ついつい見逃してしまった。非常に県民のみなさんにご心配をかけたとおわびしたい」と述べ、情報の取り扱いに落ち度があったことを認め、陳謝しました。 また、佐藤知事は「原子炉の建屋の水素爆発直後に情報は県に来ていたが、連絡網が途絶えていて、県民になかなか連絡できる状況ではなかった。ほとんどの市町村がどこかに移るなどしていて、連絡する状況になかったし、連絡しても対応してもらえなかった」と述べました。 そのうえで、佐藤知事は「情報が錯そう、混雑していて、職員の情報共有ができなかった。組織上の問題があったかと思っており、危機管理の組織の在り方の見直しを進めていきたい」と述べました。 “情報開示に疑問残る” 黒川委員長は、委員会のあと記者会見で、「国の県に対する情報開示の在り方や原子力政策の透明性、県の住民に対する情報開示に対して疑問が残った。住民が原子力のリスクとメリットを正確に理解して、みずから判断できる状態ではなかったのではないか。緊急時の国と県の役割分担についても問題があると認識させられる」と述べました。 また、黒川氏は「事故の被害拡大の低減につなげるような報告書を取りまとめていきたい。鋭意努力して、6月中になるべく出したいと思っている。ベストを尽くす」と述べました。 爆発事故 5日間ガスの測定せず NHKニュース ttp //www3.nhk.or.jp/news/html/20120529/k10015446791000.html +記事コピペ収納 爆発事故 5日間ガスの測定せず 5月29日 11時38分 K10054467911_1205291608_1205291614 新潟県南魚沼市の建設中のトンネルで4人が死亡した爆発事故で、作業員が事故の前日までに合わせて5日間、トンネルに入って見回りをした際、ガスを測定していなかったことが新たに分かりました。工事を発注した国土交通省は、建設会社の作業手順に問題がなかったか調べることにしています。 今月24日に南魚沼市の八箇峠トンネルで起きた爆発事故では、作業員4人が死亡し、3人が重軽傷を負いました。 工事を発注した国土交通省北陸地方整備局は、建設を請け負った佐藤工業に聞き取り調査した結果、作業員は先月25日から事故の前日の今月23日までの間に、合わせて5日間、トンネルの中に入って見回りをしていましたが、この際、ガスを測定していなかったことが分かりました。 佐藤工業が国に提出した工事の施工計画書には、可燃性ガスが出るおそれがあるトンネルで工事を行う場合、「作業前に可燃性ガスの濃度を測定する」と記されていて、北陸地方整備局は作業の手順に問題がなかったか、さらに詳しく調べることにしています。 名前 コメント ◇◆前へ/次へ/目次へ
https://w.atwiki.jp/double-b/pages/12.html
最強少女ちゆき カテゴリ:4コマ漫画 作者:だいふく ゲスト:まんがタイムきららキャラット08’12月号 最後の制服 カテゴリ:ストーリー漫画 作者:袴田めら 主掲載誌:まんがタイムきららMAX 主掲載誌:まんがタイムきららキャラット まんがタイムきららMAX分は05’10月号で最終回。 まんがタイムきららキャラット06’11月号で最終回。 西條君といっしょ カテゴリ:4コマ漫画 作者:水井麻紀子 ゲスト:まんがタイムスペシャル07’3月号 サイダースファンクラブ カテゴリ:4コマ漫画 作者:小坂俊史 主掲載誌:まんがライフMOMO まんがライフMOMO07’3月号で最終回。 早乙女寮別館ものがたり カテゴリ:4コマ漫画 作者:小谷あたる 主掲載誌:まんがタイムスペシャル まんがタイムスペシャル10’2月号より連載。 境フリーダム カテゴリ:4コマ漫画 作者:アラタ薫 ゲスト:まんがライフMOMO09’2月号 サカナ&ネコ カテゴリ:4コマ漫画 作者:森井ケンシロウ 主掲載誌:まんがくらぶオリジナル ゲスト:まんがくらぶオリジナル07’2月号 まんがくらぶオリジナル07’6月号より連載。 桜色デイズ カテゴリ:4コマ漫画 作者:高野うい 主掲載誌:まんがくらぶ まんがくらぶ08’12月号より連載。 桜田だもん カテゴリ:4コマ漫画 作者:唯洋一郎 主掲載誌:まんがタウンオリジナル まんがタウンオリジナル06’9月号で最終回。 サクラ町さいず カテゴリ:4コマ漫画 作者:松田円 主掲載誌:まんがタイムオリジナル 主掲載誌:まんがタイムラブリー 2本立て:まんがタイムラブリー08’6月号 まんがタイムオリジナル分は09’3月号で最終回。 サクラ町料理教室 カテゴリ: 作者:松田円 2本立て:まんがタイムオリジナル06’1月号、2月号、7月号 桜姫 カテゴリ:4コマ漫画 作者:仙石寛子 ゲスト:まんがホーム07’4月号 サクラ満開!!あかり組 カテゴリ:4コマ漫画 作者:藤凪かおる 主掲載誌:まんがライフMOMO まんがライフMOMO05’12月号より連載開始 休載:06’10月号 休載:07’5月号 まんがライフMOMO07’9月号で最終回。 さくらりちぇっと カテゴリ:4コマ漫画 作者:月見里中 主掲載誌:まんがタイムきらら まんがタイムきらら07’9月号より連載。 まんがタイムきらら09’10月号で最終回。 さくらリンク カテゴリ:4コマ漫画 作者:河南あすか 主掲載誌:まんが4コマKINGSぱれっとLite まんが4コマKINGSぱれっとLiteVOL.1(08’4月号)より連載。 さくらんぼ。 カテゴリ:4コマ漫画 作者:芳原のぞみ 主掲載誌:まんがホーム ゲスト:まんがホーム06’7月号 まんがホーム06’9月号より連載。 休載:まんがホーム07’11月号~08’10月号 休載:まんがホーム08’12月号 休載:まんがホーム10’2月号 さくらんぼステップ カテゴリ:4コマ漫画 作者:水谷フーカ ゲスト:まんがタイムファミリー08’12月号 ゲスト:まんがタイムファミリー09’1月号、2月号、4月号、5月号、8月号、9月号 さくらんぼほーむ カテゴリ:4コマ漫画 作者:土家千明 ゲスト:まんがホーム07’9月号 CIRCLEサークル カテゴリ:4コマ漫画 作者:榊 主掲載誌:まんがタイムきららキャラット まんがタイムきららキャラット07’2月号より連載 ゲスト:まんがタイムきららMAX07’9月号 ささきまみれ カテゴリ:4コマ漫画 作者:小坂俊史 主掲載誌:まんがタイムオリジナル まんがタイムオリジナル08’7月号より連載。 まんがタイムオリジナル10’2月号で最終回。 さしすせそっ…と カテゴリ:ショートストーリー 作者:橋本正江 ゲスト:まんがタイム05’10月号、12月号、06’1月号、2月号 さすけと殿様 カテゴリ:4コマ漫画 作者:上福忍 ゲスト:まんがくらぶオリジナル08’1月号 ライブドアvs竹書房4コマ漫画交流戦掲載。(企画物) さすらいお銀 カテゴリ:ショートストーリー 作者:上島カンナ ゲスト:まんがタウン07’7月号 ゲスト:まんがタウン08’4月号、11月号 ざっちゃん カテゴリ:4コマ漫画 作者:くろがねぎん 主掲載誌:まんが4コマKINGSぱれっと ゲスト:まんが4コマKINGSぱれっと VOL.2 まんが4コマKINGSぱれっとVOL.5より隔月連載。 (奇数月連載) 掲載:まんが4コマKINGSぱれっと08’6月号 S・Aで会いましょう カテゴリ:4コマ漫画 作者:胡桃ちの 主掲載誌:まんがくらぶオリジナル (S・A=サービス・エリア) まんがくらぶオリジナル07’5月号より連載。 サビちゃんをヨロシク カテゴリ:4コマ漫画 作者:古賀アンナ 主掲載誌:まんがタイムファミリー 主掲載誌:まんがホーム 休載:まんがタイムファミリー06’10月号 まんがホーム分は06’10月号で最終回。 まんがタイムファミリー分は07’1月号で最終回。 さび猫でるでる天国 カテゴリ:4コマ漫画 作者:いわみちさくら ゲスト:まんがライフオリジナル06’8月号 ゲスト:まんがライフオリジナル08’3月号 さむどら カテゴリ:4コマ漫画 作者:こころけ ゲスト:まんがタイムきらら09’10月号 さゆみんドットコム カテゴリ:4コマ漫画 作者:ミキマキ ゲスト:まんがライフオリジナル07’11月号 ゲスト:まんがライフMOMO08’7月号 さゆリン カテゴリ:4コマ漫画 作者:弓長九天 主掲載誌:まんがタイムスペシャル 主掲載誌:まんがタイムジャンボ 休載:まんがタイムスペシャル06’2月号 休載:まんがタイムジャンボ06’3月号、8月号 まんがタイムスペシャル分は06’5月号で最終回。 まんがタイムジャンボ分は07’8月号で最終回。 ゲスト:まんがタイムジャンボ07’9月号(目次横) サラリーマン不動大作 カテゴリ:4コマ漫画 作者:たかまつやよい ゲスト:まんがくらぶ06’12月号 さるばな カテゴリ:4コマ漫画 作者:曙はる ゲスト:まんがライフセレクション06’5月号 サロン・ド・黒川 カテゴリ:4コマ漫画 作者:円山あれん 主掲載誌:まんがタイムラブリー まんがタイムラブリー07’5月号で最終回。 サンキャット カテゴリ:エッセイ漫画 作者:矢直ちなみ ゲスト:まんがホーム09’5月号 SUNSUNサンディ カテゴリ:4コマ漫画 作者:ことぶきまいむ ゲスト:まんがくらぶオリジナル09’11月号 さんサンと! カテゴリ:4コマ漫画 作者:ゆふこ ゲスト:まんがタイムスペシャル09’10月号、12月号 三者三葉 カテゴリ:4コマ漫画 作者:荒井チェリー 主掲載誌:まんがタイムきらら 主掲載誌:まんがタイムきららキャラット 休載:キャラット06’01月号 まんがタイムきららキャラット分は07’1月号で最終回。 三色だんご カテゴリ:4コマ漫画 作者:山田まりお 主掲載誌:まんがタウン さんどういっち カテゴリ:4コマ漫画 作者:刻田門大 主掲載誌:まんがタイムきらら まんがタイムきらら05’11月号より連載開始 まんがタイムきらら06’6月号で最終回。 三人甘女♥ カテゴリ:4コマ漫画 作者:竹林げつ ゲスト:まんがライフMOMO05’08月号、06’01号 3年B組ブラック先生 カテゴリ:4コマ漫画 作者:くずしろ ゲスト:まんがライフ09’8月号
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/729.html
ハンショウ 列伝 呉の武将。 【演義】 孫策の死後、孫権に召集された。208年の黄祖討伐では、蘇飛を捕らえる。その後、赤壁の戦い、南郡攻略戦、合肥(がっぴ)攻防戦に参加。219年、呂蒙の指揮下で荊州に進攻し、関羽父子を捕らえる。夷陵の戦いでは先鋒となって蜀軍を迎撃。緒戦で黄忠を撃退するが、関興に仇討ちを挑まれ、討ち取られた。 【正史】 夷陵の戦い後も戦功を上げ、南郡に進攻した夏侯尚を撃退して右将軍となる。部下の財貨を奪うなど不法行為が多かったが、功に免じて許された。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 76 80 70 28 12 266 156 226 順位 118 82 236 576 655 423 83 66 偏差値 58.4 60.1 55.5 37.1 25.0 46.8 59.7 61.5 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B A A B C S 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 67 64 72 79 68 68 74 61 56 45 80 72 順位 120 155 58 84 33 80 126 139 172 220 17 29 偏差値 58.9 57.4 62.7 61.3 63.9 61.3 59.1 57.7 57.0 54.3 69.3 67.3 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 捕縛 敵部隊撃破時、特技「強運」や名馬の無い武将を必ず捕獲 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 129 兗予 実績 地方統一 無頓着 3/5 4/5 2/3 177 196 222(46歳) 不自然死 剛胆 剛胆 乱暴 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 時節 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 潘璋が親愛する武将 なし 潘璋が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 8歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S2 190年 1月 反董卓連合 14歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S3 194年 6月 群雄割拠 18歳 未登場 呉 - - - 0 - - S4 200年 1月 官渡の戦い 24歳 一般 柴桑 孫策 99 破賊校尉 3000 - - S5 207年 9月 三顧の礼 31歳 一般 廬江 孫権 99 破賊校尉 5000 - - S6 211年 7月 劉備入蜀 35歳 一般 廬江 孫権 99 奮威校尉 7000 - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 未発見 陳留 - - - 0 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 22歳 一般 建業 孫策 99 - 0 - - S10 203年 1月 袁家の戦い 27歳 一般 廬江 孫権 99 破賊校尉 4000 - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 41歳 一般 江夏 孫権 99 平西将軍 12000 - - S12 187年 4月 何進包囲網 11歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S13 191年 7月 序を制する者 15歳 未登場 陳留 - - - 0 - - S14 251年1月 女の戦い - 未発見 長沙 - - - 0 - - 能力研究では出現しない、特技捕縛を持つ割と貴重な武将。 統率・武力・知力が全て70以上あり、育成せずともそこそこ使える。 兵科適性と政治・魅力のイマイチさには目を瞑ろう。 -- (名無しさん) 2010-03-26 23 01 08 あれ?じゃあ俺が能力研究でいつも最初に目指す捕で始まって縛で終わる特技は一体………? -- (名無しさん) 2010-03-26 23 37 54 義理は低くないが野望が高いため相性が悪ければ引き抜かれる危険性がある 長期にわたる戦には注意が必要かも -- (名無しさん) 2010-10-21 21 35 39 捕縛のおかげで功績がかなり貯まる 史実序盤では能力を鍛えていけば優良な主将として活躍してくれます 適正、政治は他の武将で要補填! -- (名無しさん) 2010-11-18 19 40 09 ↑×4さん↑×3さん能力研究で捕縛はでますよ。コイツは猪武者と組んで、兵力が減った舞台をハイエナしてやると良い。 -- (名無しさん) 2011-02-24 19 39 33 部隊www -- (↑補足) 2011-02-24 19 41 54 ネットじゃ誤変換は基本スルーが暗黙の了解です -- (名無しさん) 2011-02-25 00 08 47 ↑いや、自分で補足したのでいいんですよ。それからなんでコイツ野望高いんだろう? -- (名無しさん) 2011-02-27 09 30 49 正史で悪事し放題だからじゃない?(野望が高い理由)内容がセコイのばっかだけど。 -- (名無しさん) 2011-03-18 12 08 23 意外な事に呉の中央市場の取締り役となった時には殺人や盗難が無くなる、と言う実績を残していたりする。 -- (名無しさん) 2011-06-09 19 18 47 ↑それはね、ヤマグチグミ総本部近辺は治安がいいのと同じだよ、うん。 単独での使用はあまりなくて、脳筋率いる撃破専門部隊の副将であることが多いだろうから、 そこそこ高めの知力を上げてやってもいい。 -- (名無しさん) 2011-06-28 12 45 24 呉将だが河南の出身なので、序盤シナリオでは北方の群雄にとって貴重な水軍Sになる -- (名無しさん) 2011-08-13 20 54 20 この人の能力値はともかく寿命はどうにかならないもんか・・・ 演義準拠とはいえ史実より死亡年10年前倒しはひどい・・・ 夷陵で死んだことにされた事にされた朱然はちゃんと史実準拠の寿命になってるのにこの差は何なんだ -- (名無しさん) 2011-12-30 13 23 51 と言っても不自然死設定なので最初から亡くなっているS7以外なら230年までは生きられるが 英雄終結の劉岱軍の貴重な武官であり救世主。 他の捕縛持ちと比べて単独でも戦える程度の適正と能力があり、人材不足の弱小勢力にはありがたい。 戟で前線に出て積極的に将を捕獲していきたい所。 -- (名無しさん) 2013-06-10 09 44 32 貫 禄 の 魅 力 正史でももうちょっと自重してたら、全体的にもう少し能力上がっただろうに・・・ -- (名無しさん) 2017-05-04 18 50 45 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/460.html
シュシュン 列伝 後漢の官僚。 【演義】 張角が黄巾の乱を起こすと、何進の命令で盧植、皇甫嵩と共に乱の鎮圧に当たる。曹操、劉備、孫堅らの加勢を得て張宝を破り、乱の鎮圧に貢献。その功績から車騎将軍、河南尹となるが、宦官への賄賂を拒んだため罷免された。董卓の死後、李傕と郭汜が政権をつかんだ時に招聘され太僕となる。後に仲違いした李傕と郭汜に和睦を勧めるが捕らえられ、釈放された後、病死した。 【正史】 黄巾の乱では孫堅を指揮下に加えて勇戦し、乱平定後、孫堅を昇進させた。董卓の長安遷都には反対した。 能力値 統率 武力 知力 政治 魅力 総合 軍事能力 統+武 統+武+知 素質 78 65 70 71 73 357 143 213 順位 90 316 236 224 163 103 178 123 偏差値 59.3 54.0 55.5 56.5 57.1 60.6 56.8 58.8 成長期 普通 普通 普通 普通 普通 - - - 能力持続 短い 短い 短い 短い 短い - - - 兵種 槍兵 戟兵 弩兵 騎兵 兵器 水軍 適性 B A A B A C 部隊 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 攻撃 防御 値 55 66 59 81 56 70 60 62 59 60 46 52 順位 269 126 158 68 124 63 248 123 125 45 328 166 偏差値 53.8 58.3 56.8 62.1 57.7 62.3 53.7 58.2 58.5 63.5 52.2 56.0 部隊攻撃力/防御力は技巧研究を全て終えた時点での値。兵器は木獣、水軍は闘艦。 特技 火攻 自分より知力の低い部隊への火計が必ず成功 マスクデータ 相性 出身地 起用 戦略傾向 地元執着 義理 野望 漢室 生年 登場 没年 死因 性格 音声 口調 88 揚州 実績 中華統一 重視 4/5 2/5 3/3 149 184 195(47歳) 自然死 冷静 冷静 丁寧 舌戦 得意話題 保有話術 大喝 詭弁 無視 鎮静 逆上 道理 ○ ○ 親愛・嫌悪 状態 武将名 朱儁が親愛する武将 なし 朱儁が嫌悪する武将 なし シナリオ シナリオ 年齢 身分 所在 勢力 忠誠 爵位・官職 功績値 配偶者 義兄弟 S1 184年 1月 黄巾の乱 36歳 一般 洛陽 何進 100 前将軍 20000 - - S2 190年 1月 反董卓連合 42歳 一般 洛陽 董卓 100 謁者僕射 17000 - - S3 194年 6月 群雄割拠 46歳 一般 長安 李傕 94 秘書令 20000 - - S4 200年 1月 官渡の戦い - 死亡 - - - - - - - S5 207年 9月 三顧の礼 - 死亡 - - - - - - - S6 211年 7月 劉備入蜀 - 死亡 - - - - - - - S7 225年 7月 南蛮征伐 - 死亡 - - - - - - - S8 251年 1月 英雄集結 - 一般 長安 何進 100 破賊校尉 2000 - - S9 198年 1月 呂布討伐戦 - 死亡 - - - - - - - S10 203年 1月 袁家の戦い - 死亡 - - - - - - - S11 217年 7月 漢中争奪戦 - 死亡 - - - - - - - S12 187年 4月 何進包囲網 39歳 一般 宛 何進 98 鎮西将軍 29000 - - S13 191年 7月 序を制する者 43歳 一般 長安 董卓 100 謁者僕射 17000 - - S14 251年1月 女の戦い 未発見 長安 - - - 0 - - 能力値は高めの上、特に功績値が高く設定されているため、大軍を指揮できるのが長所。 しかし、寿命は迫っており、適性Sの不在や特技と知力の相性も悪い。 どうしても不遇の色が拭えない老将軍である。 -- (名無しさん) 2010-09-25 06 16 05 皇甫嵩と比べるとかなり劣っている。 政治は高めだが統率では劣るし、 何と言っても適正で大きく溝を空けられてしまっている。 優秀ではあるのだが、序盤のシナリオでは活躍の機会が短く、 英雄集結シナリオでは埋もれていくレベル・・・とやっぱり苦しい立場である。 ほとんどのシナリオで皇甫嵩、盧植と一緒なのがさらに彼の影を薄くさせる要因となっている。 -- (名無しさん) 2011-02-06 08 00 47 ガチで字は○○っていうのやめろ 不快になるんだよ -- (名無しさん) 2011-06-30 21 58 58 なんか↑のコメントが出たらすぐに消えだしたな まあここの列伝はゲーム内の文章だから、勝手に付け加えるのはまずいよね -- (名無しさん) 2011-06-30 22 05 03 俺が消したんだが 続けるのはやめてくれ -- (↑×2) 2011-06-30 22 07 48 S2董卓軍では何気に貴重な戟使いだったりする。 が、やっぱり戟Sの呂布や張遼の影に隠れがち -- (名無しさん) 2011-07-20 22 45 45 せめて女の戦いでは会稽にいてほしかった -- (名無しさん) 2012-05-04 20 12 30 特技は威風あたりに変えるといい -- (名無しさん) 2012-08-24 08 48 43 威風は遺跡でしか修得出来ないので貴重なものをコイツに使うのは一考しても良いのでは? 戦える人材がある程度いれば義理も高いので太守にしとくのが無難かなと思う -- (名無しさん) 2012-08-25 05 31 02 それもそうですね 複数攻撃可能な兵科が得意なことと官職が高いことが多いのでありかなと思いまして -- (名無しさん) 2012-08-25 08 25 12 盧植、皇甫嵩と比べるとなぜか不遇な能力値。 せめて南陽攻めの功績から兵器Sを皇甫嵩でなくこいつにあげても良かった気がする。 盧植、皇甫嵩は英雄集結でも役に立つ程なのに、こいつはイマイチ持て余す。 -- (名無しさん) 2012-08-25 15 04 08 とりあえず「火攻」はいらないし使いどころがないのでチェンジで ○○神・将系特技が出たら変えていきたいが・・・英雄集結では有能な人間が他にも多いので どちらかといえば補佐とか捕縛とかの武力に依存しないのが良いだろうが -- (名無しさん) 2013-05-20 00 25 00 正史だけでなく、演義でも立派な名将のままなのに、なぜか吉川三国志で傲慢な凡将にされてしまった気の毒な人。実は、最期に登場したときは正史同様まともな人物に改善されて、憤死の代わりに柱に叩き付けて自らの頭を打ち砕いて死ぬという、かなり痛ましい死に方をしているのだが、横山三国志などの漫画ではその最期がカットされてるせいで汚名返上できていないという点でも不憫。 -- (名無しさん) 2020-03-27 20 09 10 名前 コメント すべてのコメントを見る
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/1652.html
唐書巻一百六十六 列伝第九十一 賈耽 杜佑 子式方 従郁 孫悰 慆 牧 顗 曾孫裔休 令狐楚 子緒 綯 孫滈 渙 渢 弟定 賈耽は、字は敦詩で、滄州南皮県の人である。天宝年間(742-756)、明経科に推挙され、臨清県の尉に補任された。論事を上書して、太平県に移された。河東節度使の王思礼に任命されて度支判官となった。汾州刺史に累進し、治めることおよそ七年、政務で優秀な成績を修めた。召還されて鴻臚卿、兼左右威遠営使となった。にわかに山南西道節度使となった。梁崇義が東道に叛くと、賈耽は屯谷城に進撃して、均州を奪取した。建中三年(782)、山南東道節度使に遷った。徳宗が梁州に移ると、賈耽は行軍司馬の樊沢に奏上を行わせた。樊沢が帰還すると、賈耽は大宴会を開いて諸将と酌み交わした。にわかに突然詔があって、樊沢を賈耽に代らせることとなり、召還されて工部尚書に任命されることとなった。賈耽は詔を懐に入れて、もとのままに飲んでいた。罷免されるとき、樊沢を呼び寄せて「詔によって君に代らせることとなった。私もただちに命令を遵守しよう」と言った。将や吏を集めて樊沢と合わせた。大将の張献甫は、「天子が巡幸されているとき、行軍(樊沢)は公の命によって行在に天子に拝謁に行き、そこで軍を指揮しようとはかって、公の土地を自分の利にかなうようにしました。これは人に仕えて不忠というべきです。軍中は納得しませんから、公のために行軍を殺させてください」と言ったが、賈耽は「何を言っているのか。朝廷の命があったから、節度使となったのだ。私は今から行在に拝謁しに行くが、君と一緒に行こう」と言って、張献甫とともに行ったから、軍中は平穏となった。 しばらくして東都留守となった。慣例では、東都留守となった者は洛陽に居住し、守って城から出ないこととなっていたが、賈耽は弓をよくしたから、特別に詔があって近郊で狩猟することを許された。義成軍節度使に遷った。淄青節度使の李納は偽王号を取り去ったとはいえ、密かに陰謀を含み、怨みを晴らしたいと思っていた。李納の兵数千は行営より帰還するため、滑州を経由したから、賈耽に向かってある者は野外に宿営させるべきだと言った。賈耽は「私と道を隣り合っているのに、どうして疑おうか。野外で野ざらしにでもさせるというのか」と言い、命じて城中に泊まらせ、役所で宴会を開き、李納や士は皆心服した。賈耽は狩猟をするごとに、数百騎を従え、たびたび李納を境内に入れた。李納は大いに喜んだが、しかし賈耽の徳を恐れて、あえて謀をしなかった。 貞元九年(793)、尚書右僕射同中書門下平章事(宰相)となり、魏国公に封ぜられた。常に節度使の将帥となるべきものが不足しており、賈耽は天子に向かって自らを節度使に任じるべきであると言ったが、もし賈耽が軍中から謀れば、下の者は後ろ向きとなってしまうから、人々に不穏な動きが出るとした。帝はそうでと思い、賈耽の案を用いなかった。順宗が即位すると、検校司空・左僕射に昇進した。当時、王叔文らが実権の握り、賈耽はこれを憎み、しばしば病と称して辞職を求めたが、許されなかった。卒し、年七十六歳であった。太傅を贈られ、諡を元靖という。 賈耽は書物を読むのを嗜み、老いてもますます勤勉で、最も地理に詳しかった。四方に使節に行った人や夷狄の使者を見かけると、必ず風俗を尋ね求め、そのため天下の土地・区域・産物・山川・険阻の地は、必ず究明して知ったのである。吐蕃が盛強になると、隴西に侵入してきたが、以前は州県の遠近を役人に伝えられていなかった。賈耽はそこで布に隴右・山南・九州を描き、かつ河が流れを図に描いて載せ、また洮州・湟州・甘州・涼州の屯鎮や人口・道や里の広狭、山の険阻や水源を『別録』六篇、『河西戎之録』四篇として進上した。詔して宝物・馬・珍器を賜った。また『海内華夷』を描き、広さ三丈、縦三丈三尺にもなり、縮尺は一寸を百里とした。あわせて『古今郡国県道四夷述』を撰し、その中国の基本は「禹貢」で、外夷の基本は班固の『漢書』で、古の郡国を墨で題し、今の州県は朱で題し、漏れ落ちたところは、多く改正した。帝はこれをよしとし、下賜物がさらに加えられた。あるいは図を指してその国の人に尋ねると、すべてその通りであった。また『貞元十道録』を著し、貞観年間(623-649)の天下の十道使、景雲年間(710-712)の按察使、開元年間(713-741)の采訪使、設置・廃止や行き来が備わっていた。陰陽・雑数も通じていないものはなかった。 賈耽の度量は広く、思うに長者であったのであろう。人物のよしあしを批判することを喜ばなかった。宰相となること十三年、安全や危険といった緊急の大事に際して対策を披露することはできなかったとはいえ、身を引き締めて決められたことを実行するのは、自ら得意とするところであった。邸宅に帰るごとに、賓客と面会しても少しも倦むところをみせず、家人や近習は、喜怒をみたことはなかった。世間ではいつも道理に従った人だといっていた。 杜佑は、字は君卿で、京兆万年県の人である。父の杜希望は、いったん引き受けたことは、約束を守って必ず実行し、交際があった者は全員僅かな間に英傑となった。安陵県令となり、都督の宋慶礼はその優れた政務能力を上表した。些細な罪のため連座して官を去った。開元年間(713-741)、交河公主が突騎施(テュルギシュ)に嫁ぐことになると、杜希望に詔して和親判官とした。信安郡王李漪が上表して霊州別駕・関内道度支判官に任命した。代州都督に任じられ、召還されて京師に戻り、辺境の問題について奏上し、玄宗はその才能を優れたものとした。吐蕃が勃律(ギルギット)を攻撃し、勃律は帰順を願ったから、右相の李林甫は隴西節度使となっており、そのため杜希望を鄯州都督に任命し、隴西節度留後とした。駅伝で急ぎ隴州に向かい、烏莽部の軍を破り、千人あまりの首級をあげ、進撃して新城を陥落させ、軍を凱旋させて帰還した。鴻臚卿に抜擢された。これより鎮西軍を設置し、杜希望は軍を引き連れて塞下に分置したから、吐蕃は恐れ、書簡を送って講和を求めた。杜希望は「講和を受けるのは臣下があれこれできることではない」と答え、敵はすべて争って講和の地につこうとした。杜希望は大規模・小規模な戦いをすること数十におよび、その大酋を捕虜とし、莫門に到達して、積載された備蓄物を焼き払い、終わって城に帰還した。功績によって二子に官位を授けられた。当時、戦争がしばしば勃発し、府庫はだんだん少なくなっていったが、杜希望は鎮西軍にあること数年、備蓄された穀物や金絹は余剰が出るほどであった。宦官の牛仙童が辺境にやってきて、ある者は杜希望に誼を結ぶことを勧めたが、「金銭によってこの身を節度使のままでいようとは、私には堪えられない」と答え、牛仙童は戻って杜希望が職務を行っていないと奏上したから、恒州刺史に左遷され、西河に遷った。しかし牛仙童が諸将より金銭を受け取っていたことが漏洩し、その罪は死罪に相当し、金を送った者は全員罪となった。杜希望は文学を愛し、門下で引き立てられた者は崔顥らのように全員有名となって当代に重んじられた。 杜佑は父の蔭位のため済南参軍事・剡県の丞に補任された。かつて潤州刺史の韋元甫のもとを通過すると、韋元甫は友人の子であったから厚遇したが、杜佑自身は韋元甫に礼を加えなかった。他日、韋元甫に疑獄の案件を抱えて結審することができず、試しに杜佑に訊問させると、杜佑が述べるところは、要点がつくされていないところはなかった。韋元甫は優れた人物だと思い、司法参軍に任じ、韋元甫が浙西・淮南節度使となると、上表して幕下に任用した。京師に入って工部郎中となり、江淮青苗使に任命され、再び容管経略使に遷った。楊炎が宰相となると、金部郎中を経て水陸転運使となり、度支兼和糴使に改任された。ここに戦争が起こると、補給のことは杜佑が専決した。戸部侍郎の地位によって判度支となった。建中年間(780-783)初頭、河朔の兵は内乱となり、民は困窮して、賦は出されなかった。杜佑は弊害を救うために用途を省くにこしたことはなく、用途を省けば官員も減員するから、そこで上議して次のように述べた。 「漢の光武帝は建武年間に四百県を廃止し、吏は十分の一しか任命されず、魏の太和年間(227-233)には方々に使者を派遣して吏員を削減し、正始年間(240-249)には郡県を併合し、晋の太元年間(376-396)には官七百を廃止し、隋の開皇年間(581-600)には郡五百を廃止し、貞観年間(623-649)初頭には内官六百人を削減しました。官を設置する根本は、百姓を治めるためであって、だから古は人を数えて吏を設置し、無駄に設置することをよしとしなかったのです。漢から唐まで、戦争で困難のため吏員を削減するのは、実に弊害から救うのに合致したことなのです。 昔、咎繇(皋陶)は士となりましたが、これは今の刑部尚書・大理卿にあたるので、つまりは二人の咎繇がいることになるのです。垂は共工となりましたが、これは今の工部尚書・将作監にあたり、つまりは二人の垂がいることになるのです。契は司徒となりましたが、これは今の司徒・戸部尚書にあたるので、つまりは二人の契がいることになるのです。伯夷は秩宗となりましたが、つまりは今の礼部尚書・礼儀使にあたるので、つまりは二人の伯夷がいることになるのです。伯益は虞となりましたが、これは今の虞部郎中・都水使司にあたるので、つまりは二人の伯益がいることにあるのです。伯冏は太僕となりましたが、これは今の太僕卿・駕部郎中・尚輦奉御・閑厩使にあたるので、つまりは四人の伯冏がいることになるのです。昔、天子は六軍あり、漢は前後左右将軍が四人いましたが、今、十二衛・神策八軍で、だいたい将軍は六十人います。旧名を廃止せず、新たに日々加えられているのです。また漢は別駕を設置し、刺史に従って巡察しましたが、これは今の監察使の副官のようなものです。参軍は、その府軍事に従いますが、これは今の節度判官のようなものです。官名職務は、変化にあたっても同じのままであって、どうして名実一体しておりましょうか。本当に余剰について検討しなければなりません。統治しようとするのならまず名実を正すのです。神龍年間(707-710)、任官は気まま勝手で、役人は大いに集められ選ばれましたが、官職は既に欠員がなく、そこで員外官を二千人設置し、これより常態化したのです。開元・天宝年間(713-756)当時は、国の四方に敵はおらず、戸九百万あまりを数え、財庫は豊かで溢れ、余分な費用がかかったとしても、心配するほどではありませんでした。今耕作地は疲弊し、天下の戸は百三十万、陛下が使者に詔してこれを調査させましたが、わずかに三百万がいただけで、天宝年間(742-756)に比べると三分の一、とりわけ浮浪の者が五分の二おりますから、賦税を出すことができる者は段々減っているのに、禄を食む者はもとのままなのです。どうして改めないままでおれましょうか。 議論する者は、天下なお群雄が跳梁跋扈して朝廷に服していないのだから、ただ官吏を削減すれば、罷免された者が皆群雄のもとに行ってしまうとしています。これは一般的な心情を述べたものであって、正確に述べたものではありません。なおかつ才能ある者を推薦して用いるのですから、不才の者はどうして群雄のもとに行っていなくなったとて心配することがありましょうか。ましてや姻戚・財産をかえりみるでしょうか。建武年間(25-56)に公孫述と隗囂はまだ滅ぼせておらず、太和年間(227-232)・正始年間(240-249)・太元年間(376-396)に魏は呉・蜀と鼎立しており、開皇年間(581-600)に陳はまだ南に割拠しておりましたが、皆英才を捕まえ、人を失って敵に利益をもたらすとは心配しておりませんでした。今、田越のような輩は頻繁に刑罰を用いて重税を課し、軍には目をかけるものの、士人への待遇は奴婢のようで、もとより范睢が秦の遺業をならせたり、賈季(狐射姑)が狄を強くしたような恐れはありません。または長年にわたっているものをにわかに改めるべきではありません。かつ仮に別駕・参軍・司馬を削減し、州県で内官を試験し、戸ごとに尉を設置すべきです。ただちに罷めるべきなのは、行義があるとして在所から上奏されたものの、実際にはそうではなかった場合、推薦者を罪としてしまえば、人のために推薦する者がいなくなるので、常調官に任ずべきです。またどうして心配することありましょうか。魏で柱国を設けた時、当時の宿老の功業は柱国の地位にあったので、第一に尊ばれたのです。周・隋の時代には授けられる者が次第に多くなり、国家はこれをただの勲功とし、わずかに地を三十頃得るだけになったのです。また開府儀同三司・光禄大夫もまた官名でありましたが、非常に多くなったので、かえって位階の一つとなりました。時に従って制度を樹立し、弊害にあえばただちに変えるのであれば、どうして必ず順応して改めるのを憚ることがありましょうか。」 議題に上がったものの、採用されなかった。 盧𣏌が宰相となると、盧𣏌に嫌われたため、京師から出されて蘇州刺史となった。前の刺史の母の喪があけると、杜佑の母は健在であったから、辞退して行かず、饒州刺史に改められた。にわかに嶺南節度使に遷った。杜佑は大きな道路をつくり、間隔をあけた街並みとしたから、大火災にならなくなった。朱厓の民は三代にわたって要衝によって節度使に服しなかったから、杜佑は討って平定した。召還されて尚書右丞を拝命した。にわかに京師から出されて淮南節度使となったが、母の喪のため任を解かれるよう願ったが、詔して許されなかった。 徐州節度使の張建封が卒すると、軍が騒動をおこし、その子張愔を立て、承認を朝廷に願ったが、帝は許さず、そこで杜佑に詔して検校尚書左僕射・同中書門下平章事(宰相)、徐泗節度使として討伐させた。杜佑は軍艦を配備し、部下の将の孟準を派遣して淮河を渡河して徐州を攻撃させたが、勝てずに撤退した。杜佑は軍を出兵させて変乱に対応するのを得意とはしていなかったから、そこで境を固めてあえて進撃せず、張愔に徐州節度使を授け、濠州・泗州の二州を割いて淮南に隷属させた。それより以前、杜佑は雷陂を決壊させて大規模灌溉を実施し、海に近い土地を田とし、収穫された米は五十万斛にもおよび、軍営は三十区をならべ、兵士・馬は整然とし、四隣は恐れさせた。しかし部下に寛容であったため、南宮僔・李亜・鄭元均が権力を争って政治を乱したから、帝は全員を追放した。 貞元十九年(803)、検校司空・同中書門下平章事(宰相)に拝命された。徳宗が崩ずると、詔して摂冢宰とした。検校司徒、兼度支塩鉄使に昇進した。ここに王叔文が度支塩鉄副使となったが、杜佑は既に宰相であったから度支塩鉄使は自ら執り行わず、王叔文が遂に専権した。後に王叔文が母の喪によって家に帰ると、杜佑が審査決定することとしたが、郎中の陳諌が王叔文にさせるよう要請したから、杜佑は「専権させないようにするからなのか」と言い、そこで陳諌を京師から出して河中少尹とした。王叔文は東宮を動かそうとし、杜佑に助けを求めたが、杜佑は応じず、そこで謀して追放しようとしたが、まだ決する前に失脚した。杜佑はさらに李巽を推薦して自らの副官とした。憲宗が諒暗に服すると、再び摂冢宰となり、度支塩鉄使を李巽に譲った。それより以前、度支使は職務にあたっては経費を削減してきたが、職務が増加するにつれて経費が多くなっていったから、吏を任命して百司の暫時の代理とし、繁多な上に決まりがなかった。杜佑は営繕署を将作監に、木炭は司農寺に、染色を少府に帰属させ、職務を簡素化した。翌年、司徒を拝命し、岐国公に封ぜられた。 党項(タングート)が密かに吐蕃を導いて乱をおこし、諸将が功績を得ようと、討伐を請願した。杜佑はよくない辺臣が叛乱をおこすことと思い、そこで上疏して次のように述べた。 「昔、周の宣王が中興したとき、異民族の獫狁が害をなし、これを太原に追いましたが、国境に到達してから追跡を止めました。中国の弊害となることを願わず、遠夷を怒らせることになるからです。秦は兵力をたのんで、北は匈奴を防ぎ、西は諸羌を追い払いましたが、怨みをまねいて乱のきっかけとなり、実際には流謫人からなる守り人を生んだだけであった。思うに聖王が天下を治めるのは、ただ多くの人を安撫させようとすることを願うからで、西は流沙まで、東は海まで、北も南も、天子の名声を聞きその教えを被るのですが、どうして内政が疲弊しているのに外征を行おうというのでしょうか。昔、馮奉世は詔を偽って莎車王を斬り、首を京師に伝送し、威は西域に震わせたので、宣帝は爵位・封土を加えるかどうかを議論させました。蕭望之は一人詔を偽り命令を違えたことを述べて、功績があっても通例としてはならないとし、後世に使者となった者が国家のために夷狄に事件を引き起こさせるような事態を恐れたのです。近年では、突厥の黙啜が中国に侵掠し、開元年間(713-741)初頭に郝霊佺が捕えて黙啜を斬り、自らこの功績は二つと匹敵するものはないと言っていましたが、宋璟は辺境にいる臣下がこのようにして功績を得ようとするのを恐れて、ただ郎将を授けただけでした。これより開元の盛が終わるまで、再び辺境に関する議論はおこらず、中国はついに安泰となったのです。このような事情の戒めは手本とするに遠い過去のことではありません。 党項は小蕃で、中国と雑居しており、時折辺境の将が攻撃しては、その良馬や子女を己に利させ、徭役を苛斂誅求し、遂には謀反させるに到り、北狄と西戎とを互いに誘致して辺境に掠奪させたのです。伝(『論語』季氏篇)に「遠方の人が随わないなら、必ず文化力を高め、そうやって招き寄せる」とあり、管仲は「国家は勇猛の者をして辺境にいさせてはならない」と言っていますが、これは本当に聖哲が兆候を見て、その傾向や問題の本質を知覚できるということなのです。今戎どもは強くなり、辺境の防備は備わっておりません。本当に良将を慎重に選び、防備を完備させ、苛斂誅求を禁止し、真心を示し、来れば防いで懲らしめ、去れば備えるべきです。そうすれば彼らは懐柔し、奸悪の謀をするのを改めるでしょう。どうして必ずしばしば軍役をおこし、座して財力・人材を消耗する方を採用するのでしょうか。」 帝は喜んで受け入れた。 一年あまりして、致仕を願い出たが、聴されず、詔して三・五日に一度、中書・平章政事に入らせた。杜佑は進見するごとに、天子は尊んで礼遇し、呼ぶのに官名を呼んで、名前では呼ばなかった。数年後、固く骸骨(辞職)を乞い、帝はやむを得ず許した。そこで光禄大夫・守太保致仕を拝命し、毎月朔日(一日)・望日(十五日)に朝廷に出席し、宦官を派遣して賜い物は非常に厚かった。元和七年(812)卒した。年七十八歳。冊立して太傅を追贈し、諡を安簡という。 杜佑の性格は学問を嗜み、貴い身分になって、それでも夜分に読書した。これより先、劉秩は百家を拾い上げて、周の六官法を揃え、『政典』三十五篇をつくり、房琯は才能は漢の劉向を超越したと称えた。杜佑は『政典』は未だに尽くされていないと思っていたから、そこでその欠落部分を補い、『開元新礼』を参考にし、二百篇をつくって、自ら『通典』と名付けて奏上し、詔してお褒めの言葉を賜り、儒者はその書物が簡約でありながら詳細であることに感服したのである。 人となりは簡素かつ恭順な人物で、物事に背かなかったから、人は皆敬愛して重んじた。名声は漢と胡に広がり、しかも練達の文章は誰もが及ばないのである。朱坡・樊川の地には、すぐれた東屋・高台・林泉の庭園をつくり、山を穿って泉を掘り、賓客とともに酒を酌み交わすのを楽しみとした。子弟は皆朝廷に供奉することを願い、貴く盛んなことは当時の筆頭であった。能力は吏職に精勤し、統治しても苛斂誅求を行わず、しばしば税務を司り、宰相として民の利害によって差配を決めたから、議論する者は杜佑を統治・行ないに欠点はないと称えた。ただ晚年、妾を夫人としていたが、杜佑の業績からは隠れる程度といわれる。子に杜式方がいる。 杜式方は、字は考元で、父の蔭位によって揚州参軍事を授けられた。再び太常寺主簿に移り、音律を考察して定めたから、太常卿の高郢に称えられた。杜佑が宰相になると、京師から出されて昭応県令となり、太僕卿に遷った。子の杜悰は、公主を娶った。杜式方は宗室の姻戚となったから、たちまち病と称して業務を行わなかった。穆宗が即位すると、桂管観察使を授けられた。弟の杜従郁は長らく重い病に罹っており、自ら薬を与えて食事の介助をし、死ぬと泣いたから、世間ではその真心のこもった行ないを称えた。卒すると礼部尚書を追贈された。 杜従郁は、元和年間(806-820)初頭に左補闕となり、崔群らからは宰相の子であったから嫌われ、再び秘書丞に遷された。駕部員外郎で終わった。子に杜牧がいる。 杜悰は、字は永裕で、一門の蔭位のため三遷して太子司議郎となった。権徳輿が宰相となると、その婿で翰林学士の独孤郁は嫌疑を避けて自らその職を辞するよう申し上げた。憲宗は独孤郁が文章をよくするのを見て、「権徳輿に婿ありというのはまさにそなたのことだな」と歎いた。当時、岐陽公主がおり、帝はこの娘を愛していた。昔の制度では、多くは姻戚や将軍の家より選ばれたが、帝は始め宰相李吉甫に詔して大臣の子より選んだが、皆病と称して辞退し、ただ杜悰だけが選抜によって麟徳殿で召見された。婚礼が終わると、殿中少監・駙馬都尉と授けられた。大和年間(827-835)初頭、澧州刺史より召還されて京兆尹となり、鳳翔忠武節度使に遷った。京師に入って工部尚書、判度支となる。たまたま岐陽公主が薨ずると、杜悰は長らく挨拶せず、文宗は不可解に思った。戸部侍郎の李珏は「この頃駙馬都尉は皆公主の服喪は天子・父同様の斬衰三年で、だから杜悰は挨拶できなかったのです」と述べると、帝は驚き、始めて詔して服喪期間を斉衰杖期の一年とし、法令として明記させた。 会昌年間(841-846)初頭、淮南節度使となった。武宗は揚州監軍に詔して俳優の家の娘十七人を禁中に進上させ、監軍は杜悰に同じく選ばせようとし、また良家に姿形がよい者を見せようとしたから、杜悰は「私は詔を奉っていないのにたちまち共に行うのは罪である」と言ったから監軍は怒り、帝に上表した。帝は杜悰に大臣の体裁があるのを見て、そこで詔して俳優を進上させるのを廃止し、その意は杜悰を宰相にすることにあった。翌年(844)、召還されて検校尚書右僕射・同中書門下平章事(宰相)を拝命し、判度支を兼任した。劉稹が平定されると、左僕射・兼門下侍郎となった。しばらくもしないうちに、宰相を罷免され、京師から出されて剣南東川節度使となり、西川節度使に移り、また淮南節度使となった。当時、旱魃となり、道路に流亡する者が溢れ出て、民は運河で運ばれてくる米を濾して自給するようになり、「聖米」と呼び、湖沼のまぐさや蒲の実を採ってすべて尽き果ててしまったにも関わらず、杜悰は上表して吉祥・災異の前触れと報告した。獄囚は数百人を数えたが、酒色におぼれて安逸に過ごしたから裁決できなかった。罷免されて、兼太子太傅、分司東都となった。翌年、起用されて東都留守となり、再び剣南西川節度使となった。召還されて右僕射、判度支、進兼門下侍郎同平章事(宰相)となった。 それより以前、宣宗の在位中、夔王李滋以下の五王を大明宮の内院に住まわせて、鄆王を十六宅に住まわせた。帝が重病となると、枢密使の王帰長・馬公儒らが遺詔によって夔王を擁立しようとしたが、左軍中尉の王宗実らが殿中に入って、以為王帰長らのために詔が偽られたとし、そこえ鄆王を迎えて即位させた。これが懿宗である。しばらくして、枢密使の楊慶を派遣して中書省にやって来たが、ただ杜悰だけが拝礼し、他の宰相の畢諴・杜審権・蒋伸はあえて進み出なかったから、杜悰に説諭して大臣にふさわしくない者を弾劾させて罪にあてようとした。杜悰はにわかに封を使者に授けて復命し、楊慶に向かって、「お上は践祚されてからまだ日が浅い。君達は権力を手中にして愛憎によって大臣を殺せば、役人の禍いは日を待たないだろう」と述べ、楊慶の顔色を失い、帝の怒りもまた解け、大臣は安泰となった。しばらくもしないうちに、司空となり、邠国公に封ぜられ、検校司徒によって鳳翔・荊南節度使となり、加えて太傅を兼任した。たまたま黔南観察使の秦匡謀は蛮を討伐しようとしたが、兵は敗れ、杜悰のもとに逃げたが、杜悰はこれを逮捕し、節義に殉じなかったことを弾劾したが、詔によって斬られてしまった。杜悰は死んでしまうとは思っていなかったから、驚きのあまり病となって卒した。年八十歳。太師を追贈された。葬送の日、宰相百官に詔して参列させた。 杜悰は大いに議論しては往々として時勢に適うところがあったが、しかし才能は適応しなかった。将軍や宰相の地位を行ったり来たりし、厚く自ら父母を孝養したが、いまだかつて在野に隠れた士を推薦したことがなく、杜佑の素風は衰えたのだった。だから当時の人は「禿角犀(角が禿げたサイ)」と呼んだ。 子の杜裔休は、懿宗の時に翰林学士・給事中を歴任したが、事件に罪とされて端州司馬に貶された。弟の杜孺休は、字は休之である。累進して給事中となった。大順年間(890-891)初頭、銭鏐が弟の銭銶を派遣し、兵を率いて徐約を蘇州で攻撃して破り、海昌都将の沈粲が刺史の業務を執行したが、昭宗が杜孺休に命じて蘇州刺史とし、沈粲を制置指揮使とした。銭鏐は喜ばず、密かに沈粲を遣わして殺害してしまった。杜孺休は攻められると、「私を殺さないでくれ。君に金をあげよう」と言ったが、沈粲は「お前を殺せば、金はどこに行くのかね」と答えた。兄の杜述休も同じく死んだ。 杜悰の弟に杜慆がいる 杜慆は、咸通年間(860-874)に泗州刺史となった。龐勛が反乱を起こすと、城を囲まれ、処士の辛讜が広陵よりやって来て杜慆に面会し、家族を城から出して、ただ身を守るよう勧めた。杜慆は「私が一族全員を逃れさせて生を求めたところで、軍心は動揺するだけだ。将兵と生死を共にするのにこしたことはない」と言い、軍は聞いて皆涙を流した。杜慆は籠城の困難を聞いて、堀を浚って城の防備を固め、籠城の器械で備わっていないものはなかった。 賊将の李円は杜慆が組みやすしとみて、勇士百人を馳せて府庫に入らせようとすると、杜慆は甘言によって礼を厚くして迎えて慰労したから、賊は杜慆の謀であると思わなかった。翌日、兵士三百名を伏兵し、球場で宴して賊を全員殲滅した。李円は怒り、曲輪を攻撃したが、杜慆は数百人を殺したから、李円は撤退して城の西に立てこもった。龐勛はそのことを聞いて、兵を増やして、書簡を城中に射て投降を促した。夜になって、杜慆は鼓を打って城壁の上から大声で叫んだから、李円の士気は削がれ、走って徐州に戻った。しばらくもしないうちに、賊は淮口を焦土とし、昼夜戦ってやむことはなく、辛讜はそこで救援を守将の郭厚本に要請し、賊は包囲を解いて去った。浙西節度使の杜審権は将を派遣して兵千人によって救援させたが、かえって李円の軍に包囲され、一軍もろとも全滅した。杜慆は人を間道によって京師に走らせると、戴可師に詔して沙陀・吐渾の援軍二万によって討伐させた。淮南節度使の令狐綯は牙将の李湘を派兵して淮口に駐屯させ、郭厚本と合流したが、李円の攻撃のため敗北し、李湘らは枕を並べて討ち死にし、ここにおいて援軍は途絶えた。賊はそこで鉄の鎖で淮河の流れを途絶えさせ、梯子と衝角で城を攻撃した。兵糧は尽きて、そのため薄い粥を支給していた。懿宗は使者を派遣して杜慆に検校右散騎常侍に任命し、防衛に努めさせた。龐勛は李円を派遣して城内に入って杜慆に面会して投降を約束させようとしたが、杜慆は怒って李円を殺してしまった。龐勛は再び書簡を送ったが、安禄山・朱泚らがついに滅亡してしまったと答書し、ひそかに龐勛の軍にあてつけた。龐勛はしばしば攻撃したが目的を遂げることができず、たまたま招討使の馬挙が兵を率いてやって来たから、遂に包囲を解いて去った。包囲されることおよそ十か月、杜慆は兵士を慰撫し、全員が命を投げ出し、辛讜は包囲を冒して出入し、援軍を集め、ついに一州を全うさせたから、当時の人は艱難さを称えた。賊が平定されると、杜慆は義成軍節度使、検校兵部尚書に遷り、卒した。 杜牧は、字が牧之で、詩文をつくることが上手であった。進士の試験に合格し、さらに賢良方正科の試験にも合格した。当時江西観察使であった沈伝師が朝廷に届けて、江西団練府巡官とした。それからこんどは牛僧孺の淮南節度府の書記の職につき、監察御史に抜擢されたのち、病気を理由にして東都(洛陽)の分司御史となった。弟の杜顗の病気が悪化したので退官し、再び宣州団練判官の職につき、殿中侍御史内供奉をさずかった。 この頃、劉従諌が沢潞節度使として、また何進滔が魏博節度使として、相当にごうまんで国の法律制度に従わなかった。杜牧は、長慶年間(821-824)初頭から朝廷の処置が方法を誤り、そのためにまたしても山東の地を失い、大きい領域をもった重要な藩鎮の処理は、天下の人が唐の政権を重く視るか軽く視るかに関係することだけに、それを世襲のように受けつかせたり、軽々しく授与したりしてはいけないのに朝廷はこれを許したことを、当時にさかのぼってとがめようとした。が、こうしたことは、すべて朝廷のきめる大事だから、自分がその地位にないのに分をこえたことを言うのは、とがめられるおそれがあり、そういうことはよくない、ということで「罪言」を作った。その文にいう、 「人々は常に戦争の惨劇に苦しみ、戦争は山東で始まって、天下に広がっていきました。山東を占領しなければ、戦争をやめることができません。山東の地は、禹が全国九土を分割して冀州(九州)といい、舜がその中でも非常に大きい部分を分割して幽州とし、并州としました。その自然条件を見てみると、河南と匹敵し、常に全国の十分の二の強さがあり、そのため山東の人は勇猛で力が強く、規律を重んじ、苦労を厭わないのです。魏晋の時代より以降、職人と織機の技術は巧妙で、ありとあらゆるものが流出し、習慣は卑俗となり、人々はますます脆弱となっていったのです。ただ山東だけが五種の穀物を種まき、兵は弓矢の道を根本として、他はゆったりしていて揺らぐことはありません。丈夫な馬を生産し、馬の下位のものでも一日に二百里を移動するから、兵は常に天下と対抗することができるのです。冀州は、その強大さをたのんで摂理に従わず、冀州が必ず弱く弱体化することを期待しましたが、敗れたとはいえ、冀州はまた強大となったのです。并州は、力は併呑するのに充分な能力があります。幽州は、幽陰(奥深く)で厳しい土地柄です。聖人はだからこの名をつけたのです。 黄帝の時、蚩尤は戦争をおこない、それより以後は帝王が多くその地にいることになりました。周が衰えて斉が覇者となりましたが、一世代もたたずに晋が強大となり、常に諸侯を使役しました。秦が三晋より強勢となると、六世代の時を経て韓を占領したため、遂に天下の背骨を折り、また趙を占領して、そこで残る諸侯を拾い上げるように征服したのです。韓信が斉を占領しましたが、だから蒯通は漢と楚のどちらが勝利するかは韓信次第であることを知っていたのです。漢の光武帝は上谷で挙兵し、鄗で帝業をなしとげました。魏の武帝は官渡で勝利して、天下三分のうち、その二が手中にあったのです。晋が乱れて胡が侵攻してくると、宋の武帝が英雄となり、蜀を占領して、関中を手中におさめましたが、黄河以南の地の大半を占領し、天下は十分の八まで得られましたが、しかし一人として黄河を渡って胡に攻め入る者はいませんでした。高斉(北斉)の政治が荒れると、宇文(北周の武帝宇文邕)が占領し、隋の文帝が陳を滅ぼし、五百年で天下が一つ家となったのです。隋の文帝は宋の武帝には敵いませんが、これは宋が山東を占領できず、隋が山東を占領したから、そのため隋は王業をなしとげ、宋は霸となるにとどまったのです。この観点からみてみると、山東は、王者が獲得できなければ王業はならず、霸者が獲得できなれば霸道は得られませんが、狡猾な匪賊でも得られれば、天下を不安にすることが十分にできるのです。 天宝年間(742-756)末、燕州の安禄山は反乱をおこし、成皋・函谷関・潼関の間を無人の地を行くかのように出入りしました。郭子儀・李光弼らは兵五十万を率いていましたが、鄴を越えることができませんでした。それより百あまりの城や、天下が力を尽くしても、尺寸の地すら得られず、人々は元は唐土であったこれらの土地をまるで回鶻や吐蕃を望み見るかのように扱い、あえて攻撃しようとする者はいませんでした。国家はそのため畦や河を阻塞とし、街路を封鎖しました。斉・魯・梁・蔡はそのような影響を蒙り、そのため彼らも叛徒となったのです。裏(河北)を表(河南)の後ろ盾とし、水の流れが旋回するかのように混乱状態となり、五年間常に戦っていない者はいない状態となったのです。人々は日に日に貧しくなり、四方の異民族は日に日に勢いが盛んとなり、天子はそのため陜州に逃れ、漢中に逃れ、じりじりとして七十年あまりとなりました。孝武帝のような時運に遭遇し、古着を着て一日一度だけ肉を食べ、狩猟や音楽をせず、身分の低い中から将軍や宰相を抜擢することおよそ十三年、それでもすべての河南・山西の地を征服し、改革を実行に移すことができなかったのです。山東は服属せず、また二度も攻撃しましたが、すべて勝利には到りませんでした。どうして天は人々にまだ安寧な生活をさせないのでしょうか。どうして人の謀がまだできていないのでしょうか。どうしてそんなに難しいのでしょうか。 今日、天子は聖明であらせられ、古を凌駕し、平和に治めようと努力されています。もし全国の人々を無事に過ごさせたいのなら、戦争を終わらせることが重要です。山東を得られなければ、戦争は終わりません。今、上策は自立して治まるのにこしたことはありません。なぜならば、貞元年間(785-805)に山東で燕・趙・魏の叛乱があり、河南で斉・蔡が叛乱しましたが、梁・徐・陳・汝・白馬津・盟津・襄・鄧・安・黄・寿春はすべて大軍で十箇所以上防衛し、わずかに自ら治所を守るのにたる程度で、実は一人として他所にとどまることはできず、遂に我が力はほどけ勢いは緩み、反逆があっても熟視するだけで、どうすることもできなかったのです。この頃、蜀もまた叛乱をおこし、呉もまた叛乱をおこし、その他まだ叛乱をおこしていない者でも、時勢によっては上下し、信頼を保つことはできなくなりました。元和年間(806-820)初頭より今にいたるまでの二十九年間、蜀・呉・蔡・斉を占領し、郡県を回復すること二百城あまりとなり、まだ回復していないのは、ただ山東の百城だけとなりました。土地・人戸・財物・兵士は、往年の時と比べて、余裕綽々ではありませんか。また自分に統治能力があると思わせるのに充分です。しかし法令制度・条文は果たして自立できるといえるでしょうか。賢才や悪人を探し出して選んだり捨て置いたりしますが、果たして自立できるといえるでしょうか。要塞や鎮守、武器や車馬は、果たして自立できるといえるでしょうか。街や村々、穀物や財物は、果たして自立できるといえるでしょうか。もし自立できなければ、これは敵を助けて敵の為に行っているのと同じなのです。土地の周囲は三千里、叛乱が根付いてから七十年、また天下には密かにそれを支持して助ける者がいるのに、どうして回復できるのでしょうか。ですから上策は自立するにこしたことはないのです。中策は魏州の占領です。魏州は山東で最も重要な地で、河南にとっても最も重要な地です。魏州は山東にあって、趙州の障壁となる地です。朝廷はすでに魏州を越えて趙州を奪取することも、もとより趙州を越えて燕州を奪取することもできませんでした。これは燕州・趙州にとって魏州が常に重要地点であることを意味し、魏州は常に燕州・趙州の命運の握っているのです。そのため魏州は山東で最も重要な地なのです。黎陽は白馬津から三十里離れており、新郷は盟津から百五十里離れており、城塞は互いに向かい合っており、朝から晩ばで戦い、この白馬津・盟津の二津のうち、敵が一つでも破ることができれば、数日もしないうちに成皋に突入することができるのです。そのため魏州は河南で最も重要な地なのです。元和年間(806-820)、天下の兵を動員して蔡・斉を誅伐したので、五年ほどは山東からの攻撃の心配はなくなりましたが、魏州を得られたからです。先日、滄を誅伐し三年ほどは山東の攻撃の心配はなくなりましたが、これまた魏州を得られたからです。長慶年間(821-825)初頭に趙州を誅伐しましたが、一日のうちに五諸侯の軍隊は壊滅し、そのため魏州を失いました。先日、趙州を討伐しましたが、長慶の時のように魏州を失ったので失敗しました。そのため河南・山東の勝敗の要は魏州にあるのです。魏が強大なのではなく、地形がそうさせているのです。そのため魏州を奪取するのが中策なのです。最下策は軽率な作戦で、地勢を計算に入れず、攻守を分析しないことがそうです。兵士と兵糧が多く、人々を戦わせることができれば、それは防衛に有利であり、兵士と兵糧が少なく、人を自発的に戦う必要もなく、攻勢が有利となります。そのため我が軍は常に攻勢で失敗することが多く、敵は防御で悩むことが多くなるのです。山東が叛いて五世代にもなり、後世の人々が見たり聞いたりした行動は、叛乱側ではなく、物事の理はまさにそうあるべきだと思い、なじんで骨髄にまで入っており、そういではないと思わなくなっています。包囲が激しく兵糧が尽きると死体を食べてまで戦っています。これはもはや習慣となっていますが、どうして一勝一負を決することができましょうか。十年あまりにおよそ三度趙州を奪還しましたが、兵糧が尽きて撤退しました。郗士美が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、杜叔良が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻し、李聴が敗れると、趙州は再び勢力を取り戻しました。そのため地勢を計算に入れず、攻守を分析せず、軽率な作戦を行うことは、最下策なのです。」 何度か昇進して左補闕兼史館修撰となり、その後膳部員外郎に転じた。宰相の李徳裕は、かねてより杜牧の才能を、とりわけすぐれたものであると高く評価していた。会昌年間(841-846)のことであるが、黠戛斯(キルギス)が回鶻(ウイグル)を破り、回鶻の部族は負けてばらばらになって漠南(内蒙古)にのがれて来た。その時は、次のように李徳裕に説いてすすめた。「この機をのがさずに討ち取ってしまうほうがよろしい。私が考えますのに、前後漢の匈奴討伐は、いつも秋と冬に行われましたが、この季節は、匈奴の強い弓が、膠の折れる冷気のためにより強くなっており、はらんだ馬が子を産んでじゅうぶん働けるようになっております時期で、ちょうどこの時にはりあったものですから、負けることが多く、勝つことがほとんどなかったのです。ですから、今も夏の中頃に、幽州・并州のよりすぐりの騎兵と酒泉の兵を出動させて、匈奴の意表をつきましたら、一度で殲滅できましょう。これこそ上策と存じます」李徳裕はこの策を高く評価した。ちょうどその頃、劉稹が朝廷の命令を拒否したので、天子は諸鎮の軍に詔を下してこれを討伐させた。その時にも李徳裕に意見をのべた。「私が考えますのに、河陽は、西北の方天井関からは百里(56km)あまりありますが、ここに大勢の人を使ってとりでを築いて、軍の進入口をふさぎ、守りを固めてまともに交戦してはいけません。成徳軍節度使は、代々昭義軍節度使と敵対しております。それで成徳軍節度使の王元逵は、一度仇を報いて自軍の士気を高揚したいと考えています。しかしなにぶんにも遠方のことゆえ遠い道のりを駆けてまっすぐに昭義軍の根拠地の上党を攻撃することができません。そこで、当方のぜひとも狙わねばならぬところは、賊の西の方です。今もし忠武・武寧の両軍に、青州の精鋭五千人と宣州・潤州の弩の名手二千人を加えて、絳州を通って東へ攻め入りましたら、数か月もたたぬうちにきっと敵の本拠を滅ぼすことができましょう。昭義軍の食糧は、その全部を山東に頼っておりまして、ふだん節度使はたいてい邢州に留まって生活しています。山西にいる兵は孤立して少数ですから、敵の手うすにつけこんで不意に襲撃して取るのがよいのです。こういうわけで、戦争には、拙速というのはありますが、およそ巧久(うまくて長びく)というのはまだあったためしがないのです」。まもなく沢潞は平定された。戦略は大体において杜牧のたてた方策の通りであった。黄州・池州・睦州三州刺史を歴任したのち、朝廷に入って司勛員外郎となったが、いつも歴史を編輯する官を兼任した。その後、吏部外郎に転じ、かさねて請願して湖県刺史となった。その翌年、考功郎中に進み兼ねて知制詰となり、つぎの年には中書舎人に昇進した。 杜牧は性格が剛直で、なみなみならぬ節義があり、慎重すぎて小事になずむことはせず、大胆に朝廷の大事を論じ、弊害と利益を指し示して述べたがその指摘は、とりわけ適切でゆきとどいていた。若い時から李甘・李中敏・宋邧と仲がよかった。しかし、杜牧が古代と現代の事柄に精通していて、政治やいくさの成功にも失敗にも十分にうまく処する道を知っていたことは、李甘らの及ぶところではなかった。杜牧はまた歯に衣着せぬ率直な態度がわざわいして、当時彼を助ける者がいなかった。従兄の杜悰は、将軍と宰相を歴任したが、杜牧は、官途に苦しみつまずいて調子よくのびてゆけず、相当にくさくさして不満であった。卒した時、五十歳であった。かつては、ある人が「あなたは畢(おわり)という名にすべきだ」と言った夢を見た。さらにまた自分が「曖昧たる白駒」という字を書いているのを夢見た。ある人が「これは、白馬が戸のすきまの向こうをきっと走り過ぎるということだ。死期が近いことの暗示だ」と言った。まもなく穀物を蒸す蒸し器が破裂した。杜牧は「縁起が悪い」と言った。それから自分の墓誌をつくり、今までに作った詩文をすっかり焚いてしまった。杜牧は詩において、その趣が力強くて雄々しく、人々は彼を「小杜」とよんで、杜甫と区別した。 杜顗は、字は勝之で、幼いころに眼病を患い、母は杜顗に学問することを禁じた。進士に推挙され、礼部侍郎の賈餗が人に向かって「杜顗を得られれば数百人に匹敵する」と語り、秘書省正字を授けられた。李徳裕が奏上して浙西府賓佐とした。李徳裕は尊く勢いは盛んで、賓客はあえて逆らう者はいなかったが、ただ杜顗はしばしば諌めて李徳裕を糾した。袁州に流謫されることとなると、「門下が私を愛するのに全員が杜顗のようであったなら、私は今日のようなことはなかったのに」と歎いた。大和年間(827-835)末に、召還されて咸陽県の尉、直史館となった。常に人に語って、「李訓と鄭註は必ず失脚する」と言っていたが、行って都に到着する前に、彼らが殺害されたのを聞き、上疏し病と称して辞任した。杜顗もまた文章をよくし、杜牧と評判はどちらかが上か下かというほどであった。ついに失明して卒した。 令狐楚は、字は殼士で、令狐徳棻の後裔である。生まれて五歲にして、文章をよくした。加冠の年となると、進士に推薦され、京兆尹の推薦によって第一となろうとしていたが、当時、許正倫は軽薄の士で、長安では有名な人物で、蜚語をなしていたから、令狐楚はそのような人物と争うのを嫌って、譲って自らが下とした。及第すると、桂管観察使の王拱がその才能を愛し、令狐楚を任命しようとしたが、恐れて赴くことはなく、そのためまず奏上してから、後で招いたのであった。王拱の所にいても、父が并州で官職についていて孝養できていないから、宴も楽しむことはできなかった。年季が終わって父のもとに帰った。李説・厳綬・鄭儋が相次いで太原を摂領し、いずれも令狐楚の行業を高潔なものとし、幕府に引き止め、そのため掌書記から判官となった。徳宗は文章を好み、太原からの上奏文を見るたびに、必ず令狐楚の書いた文章について語り、しばしば称賛した。鄭儋がにわかに死ぬと、後の事を行うことができる者がおらず、軍は大騒動となり、軍乱が起ころうとしていた。夜に十数騎が刃を引っ提げて令狐楚を連行し、遺奏を書かせたが、諸将が取り囲んで熟視する中、令狐楚の顔色は変わらず、筆をとるとたちまちに出来上がり、全員に示すと、士は皆感泣し、全軍が平穏となった。これによって名はますます重んじられた。親の喪が明けると召還されて右拾遺を授けられた。 憲宗の時、累進して職方員外郎、知制誥に抜擢された。作成した文章は、とくに上奏・制令が最も優れ、一篇ができるごとに、人々は皆伝え合って暗唱した。皇甫鎛は発言が憲宗の寵幸を得ており、令狐楚・蕭俛とともにかなり親しかったから、そのため帝に推薦した。帝もまた自分自身でも彼らの名声を聞いていたから、召還して翰林学士とし、中書舎人に昇進した。蔡州を討伐しようとし、まだ命令が下される前に、議論する者の多くは出兵を取り止めたいと思っていたが、帝と裴度だけは蔡を赦すことをよしとしなかった。元和十二年(817)、裴度は宰相になり、彰義節度使となり、令狐楚に制書を起草させようとしたが、その文章は趣旨とは合わないところがあり、裴度は令狐楚の心の内を知ることになった。当時、宰相の李逢吉は令狐楚と親しく、皆裴度を助けなかったから、帝は李逢吉を罷免し、令狐楚の翰林学士を停職として、ただ中書舎人のみとした。にわかに京師から出されて華州刺史となった。後に他の学士に書かせた宣旨は誰も趣旨に合わなかったから、帝は令狐楚の草稿を見て、令狐楚の才能を思わずにはいれなかった。 皇甫鎛が宰相となると、令狐楚を河陽懐節度使に抜擢して、烏重胤と交替させた。それより以前、烏重胤は滄州に移り、河陽の兵士三千を従えたが、兵士は不満を持ち、道の途中で規律は崩壊して帰り、北城を根拠とし、転進して旁州を掠奪しようとしていた。令狐楚は中潬に到着すると、数騎で自ら行って労った。軍の兵士は出てきたが、令狐楚は疑う素振りをみせず、そのため全員が降伏した。令狐楚は主犯を斬り、軍はついに平定された。裴度が太原に出されると、皇甫鎛は令狐楚を推薦して中書侍郎・同中書門下平章事(宰相)とした。穆宗が即位すると、門下侍郎に進んだ。皇甫鎛が罪を得ると、当時の人は令狐楚が皇甫鎛との縁によって昇進し、またかつて裴度を追い出したと言い、天下は皇甫鎛と令狐楚の両方を憎んでいたが、たまたま蕭俛が宰相となっていたから、あえて表立って言う者はいなかった。景陵を造営すると、令狐楚に詔して山陵使とし、親吏の韋正牧・奉天令の于翬らは造営のための雇い賃十五万緡を捻出できず、令狐楚が献上したのを羨余であるとし、怨んで訴えを道に掲げた。詔して于翬らを捕らえて獄に下して誅殺し、令狐楚を京師から出して宣歙観察使とした。にわかに衡州刺史に貶され、再び移されて、太子賓客の職を以て東都に分司となった。長慶二年(822)、陜虢観察使に抜擢されたが、諌官が議論して置かれず、令狐楚は陜州に到着して一日で再び罷免され、東都に戻った。 たまたま李逢吉が再び宰相となり、令狐楚を起用しようと奔走したが、李紳が翰林にいて令狐楚の昇進を阻んだから、起用はならなかった。敬宗が即位すると、李紳は追い出され、そこで令狐楚を河南尹とした。宣武節度使に遷った。汴軍は傲慢であるため、韓弘兄弟が職務にあたって厳しい法によって糾し治め、兵士は安逸を楽しんで、心を改めることはなかった。令狐楚が到着すると、厳しさや過酷さをとりやめ、真心をつくして勧戒・説諭したから、人々は喜び、ついに世情は好転した。京師に入って戸部尚書となり、にわかに東都留守を拝命し、天平節度使に遷った。それより以前、汴州・鄆州の藩鎮が赴任するごとに、州の銭二百万を藩鎮に私に納めることになっていたが、令狐楚一人が辞退して受け取らなかった。李師古が園地・欄干と僭称した物を破壊した。しばらくして、河東節度使に遷った。召還されて吏部尚書、検校尚書右僕射となった。慣例では、検校尚書右僕射の官は従二品の重職であり、朝儀ではその班位によることとなっていたが、楚は吏部尚書の相当官は三品であるから固辞したから、詔によってお褒めのお言葉を賜った。にわかに太常卿を兼任し、左僕射・彭陽郡公に進んだ。 李訓が乱をおこすと、将軍や宰相は全員神策軍に捕縛された。文宗は夜に令狐楚と鄭覃を呼んで禁中に入れ、令狐楚は、「外には三司・御史がおり、大臣の指示には従わないことになっているので、宦官は宰相を捕縛する権限はありません」と建言したから、帝は頷いた。詔を起草して、王涯・賈餗は冤罪で、その罪を指すのにそぐわないとしたから、仇士良らは恨んだ。それより以前、帝は令狐楚を宰相とするのを許可していたが、そのため果せず、さらに李石を宰相として、令狐楚を塩鉄転運使とした。これより先、鄭註が榷茶使を創設するよう奏上し、王涯もまた官が茶園を運営することを議したが、人々にとって不便であったから、令狐楚は榷茶使を廃止して旧法のままとすることを請願し、令狐楚の意見に従った。元和年間(806-820)、禁軍から武器を出して左右街使に宰相が入朝するのを建福門まで護衛させていたが、今回の乱のため廃止された。令狐楚は「藩鎮の長は初めて任命されると、必ず戎服で仗を持って尚書省に行って挨拶しました。もとより鄭註には実は乱の兆しとなり、そのため王璠・郭行余は将吏を使役して京師を血まみれにしたのです。停止すべきです」と述べ、詔して裁可された。開成元年(836)上巳、群臣に曲江の宴を賜った。令狐楚は新たに大臣が誅殺され、骸が晒されて回収おらず、怨みや禍いがからみあって解けないから、病と称して行かなかった。そこで衣服・棺の材を給付を願ったから、刑死された者の骨をおさめると、喜びの顔をみせた。当時、政治の実権は宦官にあり、しばしば上疏して位を辞することを求め、山南西道節度使を拝命した。卒したとき、年七十二歳であった。司空を追贈され、諡を文という。 令狐楚の表向きは厳重で犯しがたい雰囲気があったが、その内面は度量がひろく、士を待って礼儀をつくした。客で星歩鬼神のような占いを勧める者がいると、一度も会わなかった。政務を行っては慰撫に優れ、治世に実績があり、人は適材適所であった。病が重くなり、子供達は薬を勧めたが、口に入れるのをよしとせず、「士はもとより命に限りがあるのだ。どうしてこんな物に頼ろうか」と言った。自らの力で天子に最期の奏上をしようと、門人の李商隠を呼び寄せて、「我が魂はすでに尽きた。私を助けて完成させてくれ」と言い、その大まかな内容は、甘露の事変で誅殺された者達への怒りを解き、全員の罪を洗い清めることを願った。文章は委細をつくしたが、錯誤するとことはなかった。書き終わると、子供達に「私の一生は時勢には無益であったから、諡を賜うことを願ってはならず、葬礼用の鼓吹も願わず、ただ葬式用の布車一台で葬り、銘を書いてもらうのに高位の人を選んではならない」と言い、この日の夜、大きな星が寝室の上に落ち、その光が庭を照らした。座って家族と別れ、そこで命を終えた。詔があって行幸をやめ、その志を述べさせた。 子の令狐緒・令狐綯は、当時に名声があらわれた。 令狐緒は蔭位によって出仕し、隋州・寿州・汝州の三州刺史となり、善政があった。汝州の人は石に頌徳を刻むことを願ったが、令狐緒は弟の令狐綯が宰相であったから、固辞した。宣宗はその思いをよしとし、そこで沙汰止みとなった。 令狐綯は、字は子直で、進士に推挙され、左補闕・右司郎中に累進した。京師から出されて湖州刺史となった。 大中年間(847-860)初頭、宣宗が宰相の白敏中に、「憲宗の葬儀のとき、道中で風雨に遭って、六宮の百官は全員退避したのに、一人背が高くて髭の者が梓宮で奉って去らなかったのを見たが、一体あれは誰だったのか」と言い、白敏中は「山陵使の令狐楚です」と言い、帝は「子はいるのか」と尋ねたから、「令狐緒は若い頃から関節痛で、用いるのに堪えられません。令狐綯は今湖州を守っています」と答えたから、「その人となりは宰相の器だな」と言い、そこで召還して考功郎中、知制誥とした。翰林学士となった。ある夜、呼び寄せて共に人間の病苦について論じ、帝は「金鏡」の書を取り出して、「太宗が著したものである。卿は私の為にその概要をあげよ」と言い、令狐綯は語を摘要して「治に到っていまだかつて不肖に任せず、乱に至って未だかつて賢を任ぜず。賢を任ずるは、天下の福をうく。不肖を任ずるは、天下の禍に罹る」と言い、帝は「よろしい。朕はこれを読んだのはかつて二・三回だけだった」と言うと、令狐綯は再拝して「陛下は必ず王業を興されようと願っていますが、これを棄ててどうして先んずることがありましょうか。『詩』に「徳があるからこそ、自分に似る人物を推薦できる」とあります」と述べた。中書舎人に昇進し、彭陽県男を襲封した。御史中丞に遷り、再び兵部侍郎に遷った。また翰林学士承旨となった。夜に禁中で話し合い、燭がつきると、帝は乗輿と金蓮華の松明で送り届けてくれたが、院吏が遠くから見て、天子が来ると思っていたのに、令狐綯がやって来るのを見て、全員が驚いた。にわかに同中書門下平章事(宰相)となり、宰相となること十年であった。懿宗が即位すると、尚書左僕射・門下侍郎によって司空を拝命した。しばらくもしないうちに、検校司徒平章事に任じられ、河中節度使となった。宣武軍節度使となり、また淮南節度副大使となった。安南が平定されると、兵糧運搬の功績によって、涼国公に封ぜられた。 龐勛が桂州より戻ると、浙西白沙を通過して濁河に入り、舟を盗んで遡上した。令狐綯は聞いて、使者を派遣して慰撫し、なおかつ兵糧を送った。部下の将の李湘は「徐州の兵は勝手に帰ってきたのですから、なりゆきとして反乱となるでしょう。まだ討伐の詔が下っていないとはいえ、節度使として任にある以上すべての反乱を制するのは、我々が対処しなければなりません。今その兵は二千足らずで、軍船を展開させ、旗や幟をたて、夥しさを人に示せば、非常に我らを恐れるでしょう。高郵は崖が切り立っていて流れは狭いので、もし草を積んだ舟をその前で火を放させ、精兵をその背後から攻撃させれば、一挙に殲滅できるでしょう。そうでなければ、淮河・泗水を渡らせてしまい、徐州の不逞の徒と合流すれば、禍乱はひどいものになるでしょう」と言ったが、令狐綯は臆病でその提案を採用することができず、また詔が出ていないことを理由として、「彼らは乱暴を働いていないのだから、淮河を渡るのと許してやり、あとは私の知ったことではない」と言ったから、龐勛は戻ると、やはり徐州を掠奪し、その衆は六・七万人となった。徐州は食料が乏しく、兵を分けて滁州・和州・楚州・寿州を攻撃して陥落させ、食料が尽きると、人を食べて腹を満たした。令狐綯に詔して徐州南面招討使とした。賊が泗州を攻撃すると、杜慆は固守し、令狐綯は李湘に命じて兵五千を率いて救援に向かわせた。龐勛は令狐綯に挨拶して「何度も赦免を受けましたが、ただちに降伏できなかった理由は、一・二人の将が反対意見を述べただけであって、ここから去りたいと思っています。一身を以て命令を聞きます」と言ったから、令狐綯は喜び、そこで龐勛を節度使に任命するよう願い、そこで李湘に「賊が降伏したら、君は謹んで淮口を守り、戦ってはならない」と命じ、李湘はそこで警戒をやめて備えを解いたから、その日は龐勛の軍とともに喜んで語っていた。後に賊は隙に乗じて李湘の陣地を襲撃し、すべて捕虜として食べてしまい、李湘および監軍の郭厚本を塩漬けとした。その時、浙西節度使の杜審権が勇将の翟行約に千人の兵を率いて李湘と合流させようとしたが、到着以前に李湘は壊滅しており、賊は偽って淮南節度使の旗幟を立てて誘引し、これもまた全滅させた。 令狐綯の軍が敗北すると、そこで左衛大将軍の馬挙を令狐綯と代わらせた。太子太保となり、東都に分司した。僖宗が即位したばかりの頃、鳳翔節度使を拝命した。しばらくして、同平章事を加えられ、趙国公に移封された。卒し、年七十八歳であった。太尉を追贈された。子に令狐滈・令狐渙・令狐渢がいる。 令狐滈は父令狐綯が宰相であったため進士に挙されなかった。父は宰相の職にあって、令狐滈と鄭顥は姻戚であったから、勢力をたのんで驕慢で、賓客を通じて権勢を招き、四方の財貨を集め、皆側目であえて言うものはなかった。懿宗が即位すると、しばしば人にその事を暴かれたから、そのため令狐綯は宰相を去ることとなった。そこで令狐滈を進士たちとともに役人に試験させることを願い出て、詔して裁可され、この年に及第した。諌議大夫の崔瑄が、令狐綯が十二月に宰相の位を去ったのに、有司の解牒は十月のままで、朝廷が進士を採用する法を令狐滈の家の事に屈したと弾劾奏上し、御史に委ねてその罪の実を取り調べることを願ったが、聴されなかった。令狐滈はそこで長安県の尉の任によって集賢校理となった。しばらくして右拾遺・史館修撰に遷った。詔が下って、左拾遺の劉蛻と起居郎の張雲はそれぞれ上疏してその悪行を指弾した。「李琢を登用して安南都護とし、長となって南方を乱し、賄賂のために害となって人々は涙を流し、天下の兵士は租税を給付されませんでした。李琢は最初から賄賂を令狐滈に送り、令狐滈は人の子の立場でありながら、父の令狐綯を悪行に陥らせました。振り返ってみれば令狐滈は諌臣となるべき人物でしょうか」と述べ、また弾劾して「令狐綯は大臣で、まさに国家と調え守る根本たるべき人物でしたが、大中年間(847-860)、諌議大夫の豆盧籍と刑部侍郎の李鄴を引き立てて夔王李滋らの侍読としましたが、これは長幼の序を乱すもので、先帝の後継者についての謀を陛下に及ばさせなかったのです。かつまた令狐滈は当時にあって、「白衣の宰相」と呼ばれていました。令狐滈はまだ進士に推挙されていなかったのに、すでに理解したとも妄言し、天下をして無解の及第と言わせるような事態になったのは、天下を欺かずにすんでいるといえるでしょうか」と述べた。令狐滈はまた恐れ、他の官に換えるよう求め、詹事府司直に改められた。その当時、令狐綯は淮南節度使であって、上奏して自分への嫌疑を雪ぎ、帝はそのため張雲を興元少尹に、劉蛻を華陰令に貶した。令狐滈もまた不幸にして官職が振るわないまま死んだ。 令狐渙・令狐渢はともに進士に推挙され、令狐渙は中書舎人で終わった。 令狐定は、字は履常で、令狐楚の弟である。進士に及第した。大和年間(827-835)末、駕部郎中の職を以て弘文館直学士となった。李訓の甘露の変で、王遐休がまさにこの日に職に就いたから、令狐定は行って祝ったから、神策軍のために捕らえられ、殺されようとする者がしばしばいたが免れた。桂管観察使で終わった。 賛にいわく、賈耽・杜佑・令狐楚は皆誠実な学者で、大官高官で、廟堂に威儀をただし、古今を導き、政務を処理するのに優れていた。立派な忠節であるのに責めることは、思うに玉のような美しい石の中に玉の表面があるようなものであろうか。杜悰・令狐綯が代々宰相となったのもまた誹謗するのに充分な理由ではない。杜牧が天下の兵を論じて「上策は自立するにこしたことはない」と述べたのは何と賢いことであろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻一百六十五 列伝第九十 『新唐書』巻一百六十六 列伝第九十一 巻一百六十七 列伝第九十二
https://w.atwiki.jp/anime_wiki/pages/10329.html
ここを編集 ■ひみつのアッコちゃん 作画監督 34 36 39 40 ■タイガーマスク 作画監督 3 9 14 18 19 23 25 28 37 41 42 48 56 57 61 63 67 70 74 78 84 92 97 103 ■原始少年リュウ 作画監督 4 9 15 20 ■デビルマン 作画監督 3 6 12 16 20 24 30 36 ■ミクロイドS 作画監督 2 8 14 21 ■ドロロンえん魔くん 作画監督 3 9 13 20 ■ゲッターロボ 作画監督 3 7 ■グレートマジンガー 作画監督 4 10 17 24 29 35 41 46 52 56 ■グレートマジンガー対ゲッターロボ 原画(富永貞義と共同 作監に小松原一男) ■UFOロボ グレンダイザー 作画監督 3 6 10 14 19 23 26 30 33 39 42 45 48 51 53 55 58 61 64 67 69 74 ■マシンハヤブサ 作画監督 3 11 ■ジェッターマルス 作画監督 2 9 13 19 24 26 27 ■アローエンブレム グランプリの鷹 作画監督 3 11 20 25 36 39 42 ■宇宙海賊キャプテンハーロック 作画監督 4 ■がんばれ元気 作画監督 5 12 ■機甲艦隊ダイラガーXV 作画監督 5 10 16 21 27 33 41 ■わが青春のアルカディア 無限軌道SSX 作画監督 8 13 ■キン肉マン キャラクター設計 キャラクター・チェッカー 作画監督 3 5 10 13 17 22 26 33 35 40 53 60 67 73 79 85 92 100 129 133 ■光速電神アルベガス 作画監督 33 ■キン肉マン (劇場版) 作画監督 ■キン肉マン 大暴れ!正義超人 作画監督 ■キン肉マン 正義超人vs古代超人 作画監督 ■キン肉マン 逆襲!宇宙かくれ超人 作画監督 ■キン肉マン 晴れ姿!正義超人 作画監督 ■キン肉マン ニューヨーク危機一髪! 作画監督 ■キン肉マン 正義超人vs戦士超人 作画監督 ■キン肉マン キン肉星王位争奪編 キャラクターデザイン 作画監督 1 3 8 12 17 26 31 37 41 46 ■恐竜惑星 作画監督 8 ■少年サンタの大冒険! 作画監督 4 9 14 ■劇場版 明治東亰恋伽 ~弦月の小夜曲~ 作画監督(相坂ナオキ、松下郁子、山村俊了、岩田芳美、竹本佳子、伊勢昌弘、小林利充、赤澤恵理、鎌田祐輔、河南正昭と共同) ■タイムボカン24 作画監督 17(高・森) ■関連タイトル キン肉マン一挙見Blu-ray キン肉星王位争奪編 1 UFOロボ グレンダイザー VOL.1 rakuten_design= slide ;rakuten_affiliateId= 053df7e0.7c451bd1.0c852203.190c5695 ;rakuten_items= ctsmatch ;rakuten_genreId=0;rakuten_size= 468x160 ;rakuten_target= _blank ;rakuten_theme= gray ;rakuten_border= on ;rakuten_auto_mode= on ;rakuten_genre_title= off ;rakuten_recommend= on ; 随時更新! pixivFANBOX アニメ@wiki ご支援お待ちしています! ムック本&画集新刊/個人画集新刊/新作Blu-ray単巻/新作Blu-ray DVD-BOX アニメ原画集全リスト スタッフインタビューwebリンク集 最新登録アイテム Switch ゼルダの伝説 Tears of the Kingdom Switch 世界樹の迷宮Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ HD REMASTER Switch ピクミン 4 大友克洋 Animation AKIRA Layouts Key Frames 2 小説 機動戦士ガンダム 水星の魔女 1 ONE PIECE FILM REDデラックス・リミテッド・エディション 4K ULTRA HD Blu-ray Blu-ray 劇場版 ソードアート・オンライン -プログレッシブ- 冥き夕闇のスケルツォ 完全生産限定版 Blu-ray 映画『ゆるキャン△』 Blu-ray 【コレクターズ版】 Blu-ray ウマ娘 プリティーダービー 4th EVENT SPECIAL DREAMERS!! Blu-ray 天地無用!GXP パラダイス始動編 Blu-ray第1巻 特装版 天地無用!魎皇鬼 第伍期 Blu-ray SET 「GS美神」全話いっき見ブルーレイ Blu-ray ソードアート・オンライン -フルダイブ- メーカー特典:「イベントビジュアル使用A3クリアポスター」付 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 5th Live! 虹が咲く場所 Blu-ray Memorial BOX 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち Blu-ray BOX 特装限定版 地球へ… Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 神風怪盗ジャンヌ Complete Blu-ray BOX HUNTER×HUNTER ハンター試験編・ゾルディック家編Blu-ray BOX BLEACH Blu-ray Disc BOX 破面篇セレクション1+過去篇 完全生産限定版 MAZINGER THE MOVIE 1973-1976 4Kリマスター版 アニメ・ゲームのロゴデザイン シン・仮面ライダー 音楽集 テレビマガジン特別編集 仮面ライダー 完全版 EPISODE No.1~No.98 MOVIE リスアニ!Vol.50.5 ぼっち・ざ・ろっく!号デラックスエディション ヤマノススメ Next Summit アニメガイド おもいでビヨリ アニメ「魔入りました!入間くん」オフィシャルファンブック 『超時空要塞マクロス』パッケージアート集 CLAMP PREMIUM COLLECTION X 1 トーマの心臓 プレミアムエディション パズル ドラゴンズ 10th Anniversary Art Works はんざわかおり こみっくがーるず画集 ~あばばーさりー!~ あすぱら画集 すいみゃ Art Works trim polka-トリムポルカ- つぐもも裏 超!限界突破イラスト&激!すじ供養漫画集 開田裕治ウルトラマンシリーズ画集 井澤詩織1st写真集 mascotte 鬼頭明里写真集 my pace 内田真礼 1st photobook 「まあやドキ」 進藤あまね1st写真集 翠~Midori~ 声優 宮村優子 対談集 アスカライソジ 三石琴乃 ことのは 亀田祥倫アートワークス 100% 庵野秀明責任編集 仮面ライダー 資料写真集 1971-1973 金子雄司アニメーション背景美術画集 タローマン・クロニクル ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津~Aqoursのいる風景~ 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会[復刻版] 梅津泰臣 KISS AND CRY 資料集 安彦良和 マイ・バック・ページズ 『機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島』編 氷川竜介 日本アニメの革新 歴史の転換点となった変化の構造分析 Blu-ray THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS 10th Anniversary Celebration Animation ETERNITY MEMORIES Blu-ray おいら宇宙の探鉱夫 ブルーレイ版 Blu-ray 映画 バクテン!! 完全生産限定版 アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~ Blu-ray BOX 初回生産限定版 はたらく細胞 Blu-ray Disc BOX 完全生産限定版 Blu-ray 長靴をはいた猫 3作品収録 Blu-ray わんぱく王子の大蛇退治 Blu-ray 魔道祖師 完結編 完全生産限定版 魔道祖師Q Blu-ray Disc BOX 完全生産限定盤 にじよん あにめーしょん Blu-ray BOX 【特装限定版】 Blu-ray 鋼の錬金術師 完結編 プレミアム・エディション Blu-ray付き やはりゲームでも俺の青春ラブコメはまちがっている。完 限定版【同梱物】オリジナルアニメ Blu-ray「だから、思春期は終わらずに、青春は続いていく。」